ライゼルの牙 (吉原 昇世)
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第1話

これは、英雄譚でも冒険譚でもなく、ただ一人の少年の成長譚である。

 

 

 今日が待ちに待った『その日』であるという事を、少年は予感していた。

「母ちゃん、俺、行ってくるよ」

 丘の上にただ一本だけ立てられた墓柱(ヴァニタス)の前で少年は呟いた。亡き母の墓前で手を合わせ終わると、母が眠る丘から村の方へと踵を返す。もう少し母に語りたい事もあったが、大人達がここへ訪れる事をあまり快く思わないのを知っている。久方振りに参った訳だが、これ以上は長居せず帰路へ着く。

 母への別れの挨拶は済ませた。もう、しばらくはここに帰るつもりはない。眼前に広がるだだっ広い草原とこの吹き抜ける風。これらをいつか懐かしく思う事があるのだろうか、と漠然と思いながら、来た道を戻る。帰る足は如何ばかりか軽かった。いや、逸る心が止まらなかった。走り出した少年は、転がるように坂道を駆けていく。少年が目指す村の方から鐘の音が聞こえた。

 

 大勢の賑やかな声がする村の広場。各自の都合で無計画に家屋が建てられたが為に、狭かったり広かったりする路地とは違い、この広場は最初からその利用目的の為に設けられた空間だった。周囲を家屋で円形に縁取り、その中心には慎ましやかな釣鐘がある。村の内外を問わずあちこちに花畑があり、開けた広場は景観も映え、手透きの者は自然とここに集まってくる。

 普段は年寄りや幼い子供の憩いの場として利用されている程度だが、今日は村中の人間が集まっていて、それなりの広さを有する場所ではあるが手狭となる。村のほぼ全員が集まるとなると、静かな片田舎も騒がしくなる。

「前の碾臼はもうボロボロでな。粗い粉しかひけなくて困ってたんだ」

「ウチの家にも、ようやく新品の筆が来るんだねぇ。お隣さんのお古じゃ書きづらくってね」

 集まった人間は顔を合わせると、挨拶もそこそこに、嬉々とした様子で世間話を交わす。この村の誰もがこの日を指折り数えて待ち侘びていたのである。大人も子供も期待に胸を膨らませた表情を浮かべている。

 それもそのはず。本日、半年に一度の支給の日。王都よりこのフィオーレ村に生活物資が運搬され、各々に配布されるのだ。生活物資と言っても、農耕の盛んな土地であり自給自足が基本のこのフィオーレ村において、食料品や衣料品の類はそれに含まれない。王都からの使者の手によってもたらされるのは、農耕技術、律令制度、紙束、筆記具、そして貨幣である。先代の王の政策により、教育、経済の普及、発展に必要なものは全て支給されるようになっている。国民が納めた物相応の物資に交換できるという仕組みだ。この王国全土にその施策が敷かれており、辺境に位置するこの村にもその王政は行き渡っていた。この制度が始まったのが、ちょうど十年前、『フロルの悲劇』と同じ年である。

 十年に渡るその成果もあり、他地方に比べ遅れていたフィオーレ村の住人も、全ての人間が文字の読み書きができ、数の加減乗除を自在に操るようになっていた。この国の識字率は九割を超えるとも言われている。

 今や、この村にも近代化の波が押し寄せてきていた。この村に資源がなかったり、産業が発展していなかったりした訳ではない。生産や人員確保が滞っていた為にここまで来るのに十年掛かったが、これから先、他地方の文化水準に追いつくのにさほど時間は掛からない。制度や環境は整った。単に、他の街と比べ王都から距離があったというだけの話だ。

 それに、芸術文化という観点で言えば、この地は服飾文化発祥の地でもある。元来、この国には綿花由来の素材しか一般に出回る生地がなく、市場に出回るのも簡易な拵えの衣服ばかりであった。だが、青天の霹靂、その目立った工夫のない物を着回す人々に衝撃が走る。普段着に意匠を凝らすという概念、草木染の誕生である。この村の出身者、フロルが編み出したこの染色方法により、衣服の色彩や模様を楽しむ文化が生まれた。中でもフィオーレ産の蒲公英の根で染めるダンデリオン染めの-一枚布は、王都を中心に大流行した。淡い黄色のダンデリオン染めは太陽を連想させるとして評判が良く、特にその当時のクティノス女子からは、ダンデリオン染めを着回すのが乙女の嗜み、とまで持て囃された。その功績が見初められ、その染色技術を開発したフロルは、王国に登用された。

 それからと言うもの、この村は単なる過疎地域などではなくなった。美しい花が見られる事を近場の者が知っていただけの頃とは、雲泥の差の知名度となったのだ。フロルのダンデリオン染めを求めフィオーレに訪れる者も増え、草木染が流行し出した事を機に、村人はこれまでに増して草花の生産にも力を入れるようになった。染物と染料となる花の出荷という二枚看板で、フィオーレはベスティア経済に参画していったのだ。おかげで、フィオーレの村は徐々に活気付いていった。

 それもあってか、ダンデリオン染めと共にフロルは、フィオーレ中の皆から愛され続けた。それは彼女が没してからも変わらず、今尚ダンデリオン染めはフィオーレの産業の中心であり、村では彼女に対する尊敬と感謝の念が絶えない。王都では全土開通十周年記念祭も催されているのだが、フィオーレの村民にとっては亡きフロルを悼む十周忌の年でもあるのだ。

 見渡す限りの鮮やかな色の花畑。家々の屋根に張り巡らされている縄に、この村の主な産業である染物の染料が干してあり、行き交う村人達も同じ淡い色の草木染の召物を身に付けているというのは、この村ならではの風景である。男女に関わらず、村民の多くが染物を着こなし、村を訪れた客に対して広告としての効果も高いのだとか。

 王国中心部で主流である石造りの家屋など一切ない田舎の景色。それに似合わない、正午を知らせる鐘の音が村中に鳴り響く。普段なら付近へ畑仕事に出掛けている村人達に食事時を知らせるものだが、今日に限って違う意味合いを持つ。その鐘の音は配給の開始を告げたのだ。広場中にまばらに散らばっていた人々も、物資が運ばれた荷車の方へと自然と足を向ける。

 ここで各家庭に配られるそれらは、事前に役人に申請されている。品名、品数、受取人の名簿は役人が控えており、行儀よく列を作った村人が順序良くそれらを受け取っていく。我先にと列を乱すものは誰一人としていない。国民は与えられる喜びを素直に享受していた。王から与えられたものを有効に活用し、生活をより良くしていく。それがこの国に住む人々の在り方であった。

「氏名と『身分証(ナンバリングリング)』の確認が済み次第、順次配給物資を支給していく」

 定例の文言が述べられた後、手渡し作業が始まる。この地区の担当は、今日来た役人一人である為、如何ばかりか作業には時間が掛かる。ただ、それでも役人が手馴れている事と村の世帯数がそれほど多くない事を鑑みれば、適当と言えたかもしれない。お互いに勝手知ったる役人と村民は、次々に受け取りを済ませていく。

 配給は滞りなく行われ、物資を受け取った者から各々の家へと帰っていく。自前の手押し車に麻袋いっぱいの肥料を載せて帰る者、家まで待ち切れず算術書を広げて読み耽りながら帰る者、他地方の特産品の綿がたくさん詰まった布団に包まりながら帰る者、どの顔にも笑みが見て取れた。

 そして、あれだけ集まっていた人間も徐々に少なくなり、いよいよ列の最後の人間が受け取る段になる。だが、役人は、自らがしたためた名簿と、目の前の人物とを訝りながら交互に見やる。

「ライゼル、ではないな?」

 そう問い掛けられた少女は首肯してみせた。

「はい。代わりの者です。同じ家に住むベニューと申します」

 ベニューと名乗る少女。長く綺麗な黒髪を頭のてっぺんで団子の形に丸くまとめ、楚々とした印象を与える。役人を謀って、他人の配給物を横取りするような人間には見えない。だが、少女の手に何もないのは不自然でもあった。ライゼル名義の物を受け取るつもりらしいが、本人名義の物を先に受け取らないのか。

「自分の物はいいのか? …いや、ベニューという名は、この帳簿にはないが?」

 努めて落ち着いた声音で、少女の名乗る名がその住民録の中にない事を見咎めた。

「はい、私は今回、支給物の申請をしていませんから。今回いただいても、荷物が増えるだけかもしれませんし」

「荷物?」

 何を意図した発言なのか役人には分からなかったが、少女は慎ましく礼儀正しく、それだけを伝えた。

 だが、法を順守する役人としては弱り切ってしまう他なかった。というのも、当人以外に手渡す事は原則認められていなかったし、受取人が現れなかった物に関しては、一旦詰所に持ち帰る規則なのだ。世間には身分証を交付されていない者もいる。不正受給は見逃せない犯罪だ。

 役人が判断しかねている時、役人と同じ年頃の村の女性が声を掛ける。女性もいくつかの書物を手に持っている。

「お役人さん、その子は人を謀るような子ではありませんよ。それに、ライゼルは今朝がた、丘の方に行ったきりだからいつ戻ってくるか」

 そう言われて、先程村への道中に通り過ぎた丘の方を見やる。役人の記憶が定かなら、あそこには墓柱(ヴァニタス)がある。しかも、王都近郊の霊園でなく集落の付近に墓柱を建てるなど、良識ある王国民であれば、嫌悪すべき行いである。加えて、こんな真昼にそんな場所を訪れようと考える人間だ。あまり関わり合いにはなりたくない。

 本音抜きで役人の立場としても、いつ戻るか分からない人間を待つよりかは、代理人に手渡しする方が手も煩わされずに済みそうなのは間違いない。少女の申し出は素直にありがたい。

(受取人の家人なら問題ないか)

 そう判断し、帳簿の項目に目を通す。一応、形式だけの確認を行う。この役人、穢れを嫌悪はしても、仕事を疎かにする事は良しとしない。根っからの真面目なのだ。

「念の為に確認したい。今回ライゼルが申請した支給品を聞き及んでいるか?」

 そう問われた少女は淀みなく、ライゼルの欄に記された品名をすべて読み上げる。それもそのはず、その物資を欲しているのはライゼルに違いないが、申請の手続きをやったのは少女本人である。少女らの家でのお役所仕事は、全て少女が担っている。少女はその家の家長であるのだ。

 すべてを完全に言い当てられては疑いようもなく、ライゼルに割り当てられた備品を改めて確認し、荷台から降ろす。少女の言動も不自然ではあったが、このライゼル宛とされる品々も不思議なものばかりだった。主要都市の書き込まれた大陸地図と、雨風をしのぐ為の高い撥水性の竹炭で編まれた外套、保存食の持ち歩きに便利な食料袋、そして大量の…

「同居人に伝えておけ、これ以上貯えるようなら申請を出すように、と」

 一抱え以上ある麻袋いっぱいに詰められた大量の銀貨。これだけあれば、山小屋一軒を建てて尚余る。それだけの金額を、半年の内にこの「ライゼル」は溜め込んだのだ。フィオーレを含めた地方の村では、労働の対価として支払われるのは、貨幣よりも現物の方が一般的だ。食料、衣料品、すぐ消費できる物が相応しい。それなのに、対価として受け取れる農作物さえも王国に納め、銀貨に替えたというのは、役人が着任して以来これまでに例がない。

というよりも、ベスティア王国全土に貨幣制度が浸透して久しいが、フィオーレ村では貨幣は、飽くまでも村の外とのやり取りで必要とするだけのものである。今回のように銀貨を支給する事は稀である。長距離の移動を予定している者か、商いを生業にしている者くらいしか大量の銀貨を必要としない。

 だが、今回実際に支給されたのは、労働の対価を物資でなく貨幣で求め続け、この村全ての銀貨を集めても支払いきれなかったという経緯からの事である。百姓仕事でこれだけの財産を貯えたのだから相当な働き者に違いないが、同時に相当な変わり者でもある。狙いこそ判明しないものの、このライゼルという者は、村の外へ出て何かを為さんとする為の資金を必要としたのだ。

 とはいえ、財貨を貯えるという事は、その使われない間、経済の活性化に貢献しないのと同義である。それに、銀の産出量も決して潤沢という訳ではない。絶対数が限られている。加えて、個人での大量の所有はあらぬ疑いを掛けられる事がある。その為、一定額以上を保有する場合は、行政への申請が求められる。台帳での管理をしさえすれば、駐在所の役人に預けた貨幣の一部または全部を受け取る事ができる。国としても、貨幣の流れを把握しておきたいのだ。

「はい、私からちゃんと言い聞かせます」

 少女の笑顔には、なにか重要な任務をやり遂げたような達成感が見えた。年の頃は17、18くらいだろうか、その年ならこの程度の御遣いは大した事でもないだろうが。

「それでは、これで失礼します。お勤めご苦労様でした」

 そう言って深々と頭を下げ、礼を告げると、早々と立ち去る少女。しかし、彼女が広場を離れようとした瞬間に、その背中に大きな呼び声が掛けられる。

「ベニュー!」

 そう呼び止められた少女が振り返った先には、ここに来るまで走ってきたのだろう、肩で呼吸を整える少年の姿があった。稲穂のような眩しい黄金色の短髪に、少年と呼ぶには躊躇われる程の精悍な体格。その体躯を包む、片田舎に似つかわしくない上等なダンデリオン染めの衣装。フロル手製の召物に包まれた彼こそが本来の受取人、ライゼルであった。

 一台の荷車を挟んでちょうど広場の入り口の反対から現れた少年は、彼女の手の中に収まるそれらを発見し、鼻息荒くベニューに詰め寄る。それを彼女は笑顔で迎え入れる。

「母さんの所に行ってたんだね。もうお昼だよ、お腹空いたでしょ。ライゼル、何が食べたい?」

「返せ、それは俺が今日の日の為に準備した物だ。ベニューには関係のないものだろ」

 その問いを意に介さず、本来であれば自分が受け取るはずだったそれらを取り返そうと腕を伸ばす。

 しかし、ベニューが身を翻した為に、その五指は待ち望んだそれらを掴めなかった。姉はライゼルの腕を躱した事を知ってか知らずか、無邪気な様子で振り向き様に献立を提示する。

「今朝ライゼルが大急ぎで収穫した豆があるから、汁物にする? それとも炒っちゃう? 麺包に入れても美味しいかも」

 彼女の言う通り、今朝がたライゼルが大急ぎで収穫したのは事実である。彼には午後から『用事』があったのだ。だが、ライゼルとしてもベニューが知っているのは予想外であった。彼が作業に出掛けたのは、まだ日が昇る前だったのだが。

「いやぁ、ライゼルがそんなに労働意欲に湧いてるなんて知らなかったなぁ。こんなに貯金して何を買うつもりなんだか」

 そう白々しい芝居を続けながら少女が自宅へと歩みを進める度に、抱えた麻袋の中の銀貨が揺れ、微かな金属音が聞こえる。その音がライゼルに、(まだ自分が手にした訳ではないが)待ち焦がれた物がようやく届いたのだ、と実感させた。実際に手に持っていたら、顔が綻んでいただろう。俄かに高揚感を覚えつつ、逸る気持ちが彼を突き動かす。

「ふざけてる場合か。早く渡せよ」

 背後で我関せずと言わんばかりに片付けを始める役人をしきりに気にしながら、ベニューに返却を催促するライゼル。ライゼルには思惑があり、このまま役人に帰られては困るのだ。企み通りに事は運んでいる。あとは、最後の障害のみ。

「ちゃんと返してあげる。家に帰ってお昼ご飯を食べ終えたらね」

 飽くまでライゼルの主張は聞き入れられない。もしかしたら、ベニューはライゼルの思惑に気付いていたのかもしれない。頼んでもいないのにライゼルの代わりに受け取りをしているこの事実が、疑惑に確証を与える。

 知らぬ存ぜぬ素振りではぐらかし続けるベニューの言動に焦れてくる。そもそも、ライゼルは気の長い方ではない。

「分かってて邪魔するんだな?」

 両足を前後に開いて体制を低く構えるライゼル。だが、それに対しても特に気にする様子はないベニュー。彼女にとっては、日常茶飯事、よくある事なのだ。身構える事も心構える事も必要ない。

「だったら、どうする?」

 力を抜いた彼女の問いに、ライゼルは力強く答える。

「力づくで奪う!」

 後ろに引いた右足で地面を強く蹴り出し、ライゼルはまるで『獣』のようにベニューに飛びかかる。引っ張った重さ秤の発条(ばね)を放したかのような跳躍で、瞬く間に対象との間合いを詰める。しかし、寸でのところで躱され、その勢いは霧散し、ライゼルは肩透かしを食らったような心持のまま着地する。

「もう聞き分けがないなぁ。仕方ない、お仕置きが必要だね。」

 そう言って、両手で抱えていた没収物を近くにいた女性に預かってもらう。

「あのカトレアさん、持っててもらっていいですか?」

 手渡された女性も苦笑しながら、ベニューの手からそれらを預かる。どうやらベニューが何をせんとするか察しているようだ。カトレア自身が持っていた書物を脇に挟み、ベニューの荷物を抱え直す。

「ほどほどにね」

「はい、ライゼルの事は私が一番よく分かってますから。怪我しないようにちゃんと手加減します」

 ベニューの子ども扱いもそうだが、その付け加えられた一言に、ライゼルのこめかみが疼く。

「手加減とは随分余裕じゃんか!」

 虚を突き、ベニューの肩を捉えようと目掛けて伸びる手刀。だが、ベニューは死角からの攻撃にも即座に反応。するだけでなく、その腕にベニューのか細い腕が絡まる。ライゼルの肘の外側を抑え込み可動範囲を制限し、手首を外側に捻り、腱を極める。純粋な力比べではライゼルに軍配が上がるであろうが、文字通りの搦手を以って、ベニューはライゼルの優勢を許さない。

「・・・今のも見えてんのかよ」

「まぁね。これくらい朝飯前、ううん、昼飯前だよ」

 事もなげに軽口を叩くベニューではあるが、事実、この一連の動作を目で追えたのは当人同士だけである。傍から眺めている者達は、結果を把握するのみだ。どの部位がどう動いているのかは見極められないが、ベニューがライゼルを御しているという事は把握できる。

 不意のライゼルの攻撃に反応したばかりか、その攻撃を利用してライゼルの右腕を極めるという離れ業をやってのける黒髪の少女。その卓越した挙動に、学生の時分に近接格闘術の鍛練を積んでいる役人も、目を見張った。

「なんなんだ、この子は!?」

 王都に登用されて早数年経つが、そんな驚嘆の声をつい漏らしてしまう。例えば治安部隊の人間にも同じ事が出来る者がいるだろうが、彼らはそれを為し得る為に身体を鍛え上げている。目の前の少女に、その兵士達と同じ筋力が備わっているとは考えにくい。故に、役人は立場上冷静を保たねばならないのだが適わず、驚嘆を禁じえない。

 それに反して、先程ベニューからカトレアと呼ばれた女性の応える声は、まるで日常茶飯事と言わんばかりに一切動じない落ち着き払ったものだった。彼女にとっては、特別驚く事でもない。長年に渡り見慣れた風景なのだ。

「ベニュー。名にし負うダンデリオン染め開祖フロルの唯一の後継者であり、六花染めの開発者ですよ」

「染物屋だって!?」

 カトレアの言葉に反応し、紹介された少女を改めて一瞥する。六花染めの名は耳にしたことがある。最近王都でも話題の新作服飾だ。だが、だから何だというのだ。この強さを裏付ける理由にはならない。

 確かに、目の前の少女は、糸を紡ぐようにライゼルの手を取り、機織り機を踏むような足捌きで攻撃を躱す。膝下の柔らかさと、地を踏む脚の力強さ、無駄を省いた肢体の運び。その挙動は、布を断ち、糸を縫い、色を染め、出来上がりを干す動きにも見える。なるほど、確かに服飾の職人であるのは間違いなさそうだが、かと言って、こうもいとも容易くこの体格差を持つ相手をあしらえるものだろうか。

「この姉弟、すごいな…」

 有利に立ち回っているのは少女の方に違いないが、だが、少女の凄さが際立つのは、相対している少年が優れた運動能力を有しているからである。少年の攻撃は未だに一度として少女を捉えていないが、身体能力には目を見張るものがある。攻撃を躱されたその直後にも反転し、少女に追撃を掛けている。まるで本能で反応しているかのように。外せども外せども次の攻撃を繰り出していく。

 少年の挙動を目で追う限り、少年はベニューを視認してから攻撃に移っている訳ではなさそうだ。すれ違いざまに躱された場合は、振り向き様に腕が少女を追尾している。少女が少年の視界から姿を消した所で、少年にとってそれは不都合にならない。ベニューがライゼルの攻撃を予測できるのと同様に、ライゼルもベニューの位置を察知できるのだ。

 その光景に、一つの仮定が役人の頭に浮かぶ。口にしながらも、未だ納得できない事象である事に変わりはない。この異様すぎる光景を異端視しない村の人間へ、答え合わせでも求めるかのように、言葉を紡ぎ出す。

「まさか、予測してるのか…?」

 少年の大振りの攻撃には無駄な動作が多く、動きを予測しやすかった。とはいえ、仕組みに気付けたからと言って、それ自体が常人離れした技能である事には違いない。

 まるで打合せ済みの演武をやっているようにも見えるが、本人は至って真剣だ。手心を加えている様子は一切見受けられない。そうでなければ、ああも激しく呼吸しない。

 本当に素晴らしい素質だと、役人は感じる。惜しむらくは、少年の動きが直線的で、加えて、速度が単調である事。確かに、ただの素早い突進であれば、ある程度の反射神経を持っていれば、回避は適わぬ事ではなさそうだ。少女は、少年の予備動作が起こす風を読んで、回避行動を可能としている。

「少女も少女だが、ライゼルの瞬発力は真似できるものじゃないぞ!?」

 この役人の驚愕も、村の女性には伝わらない。まさかこのカトレアも同じ事ができるのか、と疑ってしまう程に、カトレアは目の前の出来事に心を動かされていない。未知と既知には、これほどの違いがあるのだ。

 そして、聞き流してしまいそうな気安い口調で、とんでもない事を言い放つ始末のカトレア。

「で、ベニューに噛みついてるのが弟のライゼル。この村唯一の【牙】使いなんですよ」

「なぁっ、にぃーーーー!!?」

 聞き捨てならない言葉が耳に入った。役人の視線は、驚愕の声とともに【牙】使いと称されたライゼルに向けられる。視線を向けられたライゼルはと言えば、ベニューただ一人に注視している。

 胴を大きく捻っての横薙ぎの三連撃までも空を斬り、ようやく怒涛の猛攻が止む。少年が肩で息を整えているとは対照的に、少女は至って涼しげな表情だ。あれだけの大立ち回りにも、息一つ、御髪さえも乱していない。

「しつこいぞ、ベニュー」

「ライゼルこそ分からず屋だよ。村を出て何をするの?」

「何度も話しただろ。俺は、誰よりも強くなる! その為に、修行の旅に出るんだ!」

「うん、それは何度も聞いた。だから、その理由を聞いてるの。なんで強くなりたいの?」

「俺が強くなきゃ、みんなを守れない。弱いままじゃ、誰も幸せにならないんだ」

 少年の真に迫る宣言に、ベニューは冷静に切り返す。これまで何度もそうしてきたように、説き伏せる。

「強さって何? 守るって? そんなものはライゼルの『役割』じゃない。ごはんも住む所も仕事だって、全部王様が保証してくれる。誰もが不自由なく生活できる世界がある。これ以上に幸せな事ってある?」

 ベニューが諭す事は正論である。反駁する意志はあれど、言い返す言葉をライゼルは持ち合わせていなかった。故にベニューの説教はまだ続く。

「それにね、この村にはライゼルを必要としてる人達がたくさんいるよ。収穫の手伝いや、屋根の修理を頼まれる事があるでしょ? 物は供給されても人の手はいつだって不足してるの。あなたがいる事で村のみんなは助かってるんだよ。あなたを必要としてるみんなを見捨てて、この村を出ていく事を良しとするの?」

 そう言われて辺りを見回すと、姉弟の周りには野次馬が集まっている。円形の広場の外縁を村人の輪が取り囲んで、姉弟を見守っている。村中の誰もが見慣れた姉弟喧嘩ではあるが、今日はいつもと様子が違うと心配して、荷物を抱えたまま帰る途中で引き返してきていたのだ。

 何人かの見知った顔が目に入る。屋根の修理のついでに煙突掃除をしたら銀貨を大目にくれたおじさん、多く獲れたからと野菜を分けてくれるおばさん、親のいない自分達を可愛がってくれた村のみんな。だが、それでもライゼルの気持ちは変わらない。いや、より意志が固まったと言える。何故なら、ライゼルの守りたいみんなの中に、この人達も含まれているからだ。

「それは誰でも出来る事だろ。そうじゃなくて、俺は、俺にしか出来ない事を見つけたいんだ」

「? ご近所さんの畑を耕して、ウチの庭の野菜を収穫して、染料の材料を集めて、染物を日陰干しして、それをたった一日でこなせるのはライゼルくらいだよ? えらい、すごい!」

「そうじゃない! 俺は【牙】持ちなんだよ。母さん譲りのこの力があるんだよ」

 そう言うと、ライゼルは生まれ持っての『力』を発現させる。それは【牙】と呼ばれる、精神感応性武器具現化能力である。この世界には、この地上で生まれた新生児全員に備わる大地から霊気(ムスヒアニマ)を得る素養『星脈(プラネットパス)』なるものがある。そして、その星脈を持つ者のおよそ一割にしか発現しない能力が存在し、それが彼の持つ【牙】の能力である。

 ライゼルの全身が青白く発光する。彼の皮膚の色が変色している訳でも、周辺の大気が光を屈折させている訳でもない。体内に取り込まれた霊気が、牙使いの求めに応じて変化しているのだ。【牙】発動時の固有の現象であり、特定の『星脈』が霊気を循環させると見られる現象だ。大地から吸い上げた霊気がライゼルの全身を廻り、そして彼の【牙】が、今まさに形取られようとする。その瞬間、

「待て待て、姉弟喧嘩に【牙】なんか持ち出すんじゃない。そもそも、闘技場以外での私闘はご法度なんだぞ。お前達もウォメィナの教えくらい知ってるだろう!」

 二人の言い争いを見兼ねた役人が仲裁に入る。彼の言う通り、この国では暴力の行使は禁じられていたし、それに【牙】を用いるなど言語道断である。加えてウォメイナ教において、万物を無闇に傷つける事は禁忌とされている。人であろうと物であろうと、理由なく傷つける事は道徳に反するのだ。

 役人も口喧嘩の仲裁は経験があるが、【牙】を持つ者を取り押さえた経験などない。彼としても、自分の担当区域で、初の凡例を作るのは好ましくない。もし、そんな事になれば、自分の立場がどれだけ危うくなるか。

 役人の制止に、姉弟も素直に従った。ベニューはライゼルが引き下がるなら狙い通りだし、ライゼルも『相談事』の前に役人の心証を悪くする事を望んでない。お互いに姉弟喧嘩に勝利する事が目的ではない。

 これ以上続ける意思がないと見えて、勤務中の男は密かに安堵した。程度の差こそあれど、【牙】を持つ者を持たぬ者が御する事は、容易な事ではない。有事の際は治安部隊を派遣する事になっているが、それはなんとしても回避したい事態である。常人にとって牙使いはそれ程までの脅威なのだ。

「余計な仕事を増やしてくれるなよ。牙使いが関わる傷害事件なんて、国内随一の重要案件じゃないか」

 不測の事態に不服を漏らしたものの、職務に忠実な男にとっての危機は去った。

 役人の職務は、あとは定例である村長宅でのおもてなしを残すのみ。形式的な食事会ではあるが、村民の感謝の気持ちをしかと受け取るのも円満な関係を築くためには必要な事である。

 昼食をご馳走になり、程よい満腹感で帰りたい。村での諸事を済ませ、早く帰路について、普段の平民に戻ろうと踵を返したその瞬間、

「ねぇ、おじさん!」

 呼び止めたのは、ライゼルだった。呼び止められた役人も歩みを止め、肩越しにライゼルを見やる。少し見下ろす高さにライゼルの顔があった。彼にとっての神妙な面持ちなのだろうか、真っ直ぐにこちらを見やる。

「謝罪ならいいぞ。お姉ちゃんとはこれからも仲良く・・」

 呼び止められたビアンも、決しておじさん呼ばわりされる年齢ではないが、子供相手に腹を立てても仕方あるまい。大人の対応で、最後まで公人として務め、

「俺を王都まで連れてってよ」

 これこそがライゼルが目論んでいた『相談事』の内容である。不意に発せられたライゼルの要求に、ベニューと役人のこめかみに青筋ができる。

「ライゼル、いい加減にしなさい!」

「そうだぞ、クソガキ。お姉ちゃんの言いつけは守るもんだ。それに、俺はオジサンなんかじゃねぇ。かのティグルー閣下と同い年の24歳、コトンの天童ビアンだ。覚えとけ」

 役人と姉に咎められても、少年の意志は揺るがない。更に説得を開始するライゼル。

「わかったよビアン。じゃあ隣のボーネ村まで乗せてってよ。湖までなんて言わないからさ」

 どこまでビアンの説教がライゼルの耳に入ったか、先程ベニューが代理で受け取った新品の地図をカトレアからいつの間にか受け取っていた。それを役人に見せながら、わざと狙いの目的地より遠い湖を引き合いに出し、如何に自分の要求が容易い事かを訴える。湖はここより遥か北東に位置し、王都クティノスに程近い。その遠い場所を比較対象にすれば、ビアンも頷きやすいと踏んだのだ。実を言えば、ライゼルの真の目的地はボーネではないのだが、小さい要求なら飲みやすいと誰かに聞いたことがあった。

「さん、をつけろよ、クソガキライゼル。ふぅん…ボーネか」

 確かにボーネ村は、ビアンの勤務地であるオライザまでの通り道であるし、ここからそれ程離れた場所ではない。途中の湖、おそらくは王都の真南に位置する水上都市ヴェネーシアの事であろうが、そこまでだと最速でも四、五日は掛かる。公的な任務でない限り、そんな面倒な真似をビアンとしてもやりたくはない。ボーネで納得するというのであれば、ビアンも考えてやらないでもなかった。

 ライゼルの押しに、ビアンもつい安請け合いしそうになる。ライゼルの思惑、成功なるか。

 だが、初対面の男がそうだからと言って、弟の勝手をそう簡単に許すベニューではない。

「我侭言わないの。それに、ボーネに行って何するの?」

「何言ってんだよ、ベニュー。ボーネに用があると言ったら豆だろ?」

 ベニューの詰問に、咄嗟の言い訳を口にするライゼル。そうなのだ、真に説得すべき相手はこちらだ。ビアンが親切心で承諾してくれたとしても、この姉が許可しなければ、それも適わない。

「豆なら家の蔵にもあるじゃない?」

「噂で聞いたんだ、ボーネで珍しい豆ができたんだって。それを分けてもらうんだよ。染料の材料になるかもしれないだろ?」

 平素の考え足らずのライゼルとしては、なかなか上等な理由が口をついた。染料の素材と言えば、それで食い扶持を稼いでいるベニューは決して無碍にはしない。事実、それを聞いたベニューの態度が僅かに軟化したように見受けられる。ライゼルの提言は魅力的には違いない。

 実はライゼルの方がベニューよりも噂話に敏いという事はない。もちろん口から出任せである。だが、実際に行ってみなければ、真実かどうか確かめようがない。この時点で、噂話を否定する材料はないのだ。

「確かに噂で聞いたことがあるな。ボーネの村に昔からある巨木から、不思議な豆が取れたとかなんとか。でも、食用にならなかったから相手にされなかったんじゃなかったか?」

 別にライゼルの加勢をするつもりではなかったのだろうが、ビアンも記憶の片隅にあった噂話をぽつりと呟く。ボーネはビアンの管轄ではなかったが、同僚の担当者から世間話程度に新種の豆の話は聞いていた。

 瓢箪から駒とはこの事だ。まさか、嘘から出た実となるとは。お役人様がいう事なら信憑性が高い。それもあってか、ベニューの反応も想像より悪くない。

「新しい染料かぁ」

 口うるさい姉の顔ではなく、いつの間にか二代目フロルの顔を覗かせているベニューに、ライゼルが最後の一押しを掛ける。

「そうだよ、ベニューも一緒に来たらいい。染料だけじゃなくて、生地だって仕入れとかなきゃだろ」

 ベニューにもライゼルの口車とは分かっていたが、なかなかに断りがたい提案だ。フィオーレは花笑う村であり染料の素材には事欠かないが、生地はとなると自前での生産は数が限られる。上等な布を生産するには専門の技能と設備が必要となる。さすがの染物発祥の地であっても、織物の設備まで充実している訳ではない。

 それに、自分がお目付け役として同伴するのであれば、ライゼルを外出させる事は、それ程までに憂う事ではない。自分の目の届く範囲であれば、そこがどこであろうと関係ない。いや、元々ベニューは心の準備はできていた。こうなることは、時間の問題だったのかもしれない。

「わかった、じゃあそうしよっか。でも、その前に」

「なんだよ?」

「お腹が空いたでしょ? お昼ごはんにしよ」

 

 ビアンの故郷コトンと比べると、このフィオーレは随分と田舎に感じられる。

 まず、公共の教育機関がない事。ベスティア王国の各地には、王立の学問所を設立してある。そこでは、職業能力開発であったり、技術、歴史、文化の学習であったりを受ける事が出来る。かくいうビアンもそこの出身者だ。地元の南部学問所を首席で卒業し、史上初の地方出身者からの王国士官となったのだ。そのおかげも少しあったか、故郷コトンに錦を飾る事が出来た。しかし、このフィオーレにはそれがない。

(であれば、ライゼルの発言にも納得できるか)

 次に田舎だと感じる要素として挙げるなら、食器類が全て木製である事。この村に来て数時間と経ってないが、陶器製の物を目にしていない気がする。家屋も家具も、農具に至るまで木製の製品ばかりなのである。この国において、陶器は新しい技術であるが故に、生産数も多くなく、物自体が希少だ。贅沢品の部類に入るそれが、日用品のほとんどを配給で賄っているフィオーレに出回っている訳もないか。木製以外の製品は、土鍋などの土器類もあるが、それも数があまり多くない。

 となれば、ライゼルが『都会』に憧れるのは当然にも思えた。要はこの少年は、村の外を本の中でしか知らず、ただそれに憧れているだけなのだ。故郷を離れたいと思う若者の典型的な動機の一例だ。

 そんな事に思いを巡らせながら、ビアンは先程の姉弟喧嘩に巻き込まれ、今は姉弟の家でご相伴に預かっていた。

 本来であれば、村長宅に招かれる手筈だったが、「一緒に居なきゃ逃げられるかも」とビアンに対し信なきライゼルが、無理やりビアンを自宅に引き入れたのだ。村長も、ベニューの家ならと承諾し、準備していた料理を手土産にと持たせてくれた。この家の家長は、随分信に厚い人物のようだ。

 ビアンが案内された居間には、古めかしい樫の食卓と椅子が三脚。部屋にこもった染料の独特な匂い以外は、割とどこででも見掛けるような一般的な家屋だ。どこか懐かしい土の匂いのする家。

 こじんまりとしているものの、地方ではよくある木製の一軒家。漆喰塗りでも土壁でもない所を見ると、火災事故の危険のない家なのだろう。確かに、土間に少々使い勝手の悪そうな小さな釜土があるだけで、他に火の気があるようには見えない。

 部屋の一角には、染物の工房が誂えられているようで、干してある綿や麻の衣類それ自体が調度品であるかのように、薄紅色や黄色、桃色に薄紫色に藍色と、部屋全体を鮮やかに彩っていた。色とりどりの天井は、生活感よりも芸術性の高さの方が窺えそうである。

 陰干しされている染物は、どれも新しめで、つまりは六花染めだった。六花染めの六花とは、フィオーレ産の椿、芍薬、花菖蒲、朝顔、菊、山茶花の六種の事を差し、そのどれもが花芯が見事であり、花形が一重一文字咲きという特徴がある。鑑賞花としても染料としても評価の高いフィオーレ六花は、このフィオーレにしかない。

 客人の品定めを余所に、六花染めのベニューとして名を馳せる少女が作り終えた料理を食卓に並べ始める。肩書や先の姉弟喧嘩が先行して、常軌から逸した印象を受けるが、こうやって配膳する姿はどこにでもいる少女だ。

 本日の献立は、生地にすり潰した枝豆の練り込まれた麺包と、付け合わせに法蓮草の和え物、胡瓜のお浸し、大根の浅漬け。麺包生地は既に捏ねてあったので、昼食にありつくのにそう時間は掛からなかった。

 待ち侘びた二人と席に着いたベニューの三人、声を揃えて手を合わせる。

「いただきます」

 麺包を一口齧ると、ふわりと焼きたて麺包の香ばしさが口の中に広がる。馴染み深い小麦の甘みがビアンに故郷を懐かしくさせる。食料の豊富な方ではない王国南東のコトンでは、コトン最寄りの町ブレの小麦が主食となっている。離れた土地のフィオーレでそれが食せるようになったのも、交通網の整備のおかげか。

ふるまわれた手料理をいただきながら、ビアンはふと疑問に思った事を口にする。

「家族は二人だけか?」

 椅子は三脚あったが、来客用に常備していたものではないだろう。姉弟とビアンが座って、三つの席は埋まっている。おそらく、この家は三人家族だと推測できる。

 口いっぱいに料理を詰め込んだライゼルに代わって、ベニューがその質問に答える。

「母さんは十年前に亡くなりました。それ以来、ライゼルと二人暮らしなんです」

「…そうか、じゃあ」

「親父は俺が産まれる前に蒸発したって聞いた」

 続けて問おうとしたビアンの問いに、先んじてライゼルが答える。姉弟ともに悲観の色が見えないので、ビアンも特に気を揉む事はなかった。両親が不在の家庭など、特に珍しい話でもない。病に倒れたり、事故で命を落とす者少なくないし、また幼子を捨てる者も決して珍しくないご時世だ。何もこの姉弟だけが特別なのではない。

「そういえば、母親はあのダンデリオン染めのフロルなんだってな。有名人じゃないか。」

 先程、村の女性から仕入れた情報で会話を発展させようと試みる。思えば、一昔前の事とはいえ、フロルがフィオーレの出身者だという話をビアンは聞いた事がない。かの有名なダンデリオン染めの事であれば見知っていたが、その作り手となるとてんで知らなかった。ダンデリオン染めが流行ったのも十数年前の事であるし、フロルの死を悼むのは村民ばかりであるから、四年前に担当となったビアンが知らないのも無理からぬ事。

 とは言え、馴染み深い者達から聞くフロルの話は、これまた印象と違う。

 ライゼルは母の話題になった途端に、俄かに気落ちする。哀愁とは異なる、どちらかと言うなら悪戯を咎められる時の子供の表情。これだけで、ライゼルの母への印象が見て取れる。

「血祭フロルの間違いだろ」

 頬張りながらの母への悪態に、ベニューの指弾がライゼルの額を強襲する。

「母さんの事をそんな風に言わないの」

 母の事となると、普段はお姉さん振るベニューも黙っていられない。ベニューは母を尊敬していたし、敬愛もしていた。ライゼルも嫌っていた訳ではなかったが、ベニュー程には懐いていなかった。ベニューとライゼルの間には、幾ばくか感覚の差異があるようだ。

「ベニューは母ちゃんからボコボコにされた事ないから、そんな事言えるんだよ」

「ライゼルが母さんの仕事道具で遊ぶからでしょ」

 個人の話題であっても、姉弟の雰囲気は暗くならない。十年前に亡くしたとなると、こうも感傷的とは言い難いものになるのかと、と感想を抱くビアン。両親が健在の自分には想像しづらい事ではあるかもしれない。

「ライゼルがボコボコか。この家の女性はみんな強いんだな」

 二人の思い出話から先の姉弟喧嘩を思い出したビアン。弟と姉のやり取りから、母フロルを想像しようとすると、どうしても背筋が薄ら寒くなる。もちろん、当時ライゼルはまだ体の小さな子供ではあっただろうが、【牙】を有している事には違いない。そんな息子をどのように躾けていたのか、ビアンは興味がない訳でもない。もし、牙使いへの対抗策があるなら、ご教授願いたいくらいだ。

「確かに母ちゃんは強かった。なかなか読み書きが覚えられなくて、脱走しようとしたら反省するまで何度もぶん投げられた」

 思い出したくない記憶なのか、ライゼルはそう漏らしながら渋い顔をした。先程まで淀みなく料理を口に運んでいた手が、ぎゅっと恐怖から耐えるように握りしめられている。嫌悪しているのではない、よく躾けられた事を忘れていないのだ。

「余所様の前で、変な事言わないの!」

「いやいや、さっきのベニューもなかなかだったぞ。まるでライゼルの行動を予知しているような動きだった」

 ライゼルを咎めるベニューに、先程の素直な感想を漏らすビアン。だが、それを聞いた姉弟から不思議そうな顔を向けられる。二人に見つめられ、ビアンは気後れする。さも、この場にそぐわない冗談を放ってしまったかのような態度を取られるが、どう考えても心当たりはない。

「なんだよ?」

 問い質すと、姉弟はほぼ同時に同じ答えをビアンに返す。同じ顔で、同じ調子で。

「予知じゃないよ?」「予知じゃないですよ?」

 まるで、ビアンが一般常識から遠い認識をしているかのように錯覚してしまうほどの素っ頓狂な姉弟の顔。予知でなければ何だったのだろうと逡巡するが、あの挙動を可能にしたの正体に気付けずにいるビアン。

 続けて、問おうとした瞬間、ビアンの声を突然甲高い音が遮った。

「キャー!」

 外の方から女性の絹を裂くような悲鳴が聞こえた。姉弟にはすぐに声の主が誰だか判別できる。

「カトレアさんだ!」

 カトレア。先程姉弟喧嘩の際、ベニューから荷物を預かっていた女性だとビアンも思い出す。

「さっきの」

 言った時には既にライゼルは外へ飛び出していた。ビアンも有事の際、真っ先に仕事をしなければならない立場であり、すぐライゼルの後を追い掛ける。

 有事、と言ったものの、思い当たる事案はそう多くない。ビアンは大方事故であろうと見当を付けていた。大きな物が倒れてきただとか重い物が落ちてきただとか、そういう類の事故。教育政策が浸透してからは、落ちぶれて盗みを働いたり暴力沙汰を起こしたりする者も激減し、事件ではないだろうと高を括っていた。自分でも平和ボケしていると自覚してしまえる程に、この時代は天下泰平の世なのである。

 ただ、違和感はあった。あれ程の姉弟喧嘩を目の当たりにして、一切動揺を見せない女性が、ビアン自身が想定できる範囲の事で、悲鳴を上げたりするだろうか、と。ライゼルとベニューの取っ組み合いを見慣れたカトレアにも許容できない程の突発的な事件が起こったとしたら、それこそ本当の非常事態に違いない。

 そう思うと、落ち着かない。早く現場に到着し、事態を把握せねば。逸るビアンは、ライゼルを追い掛け、声の方へ急ぐ。

 一方、先行するライゼルは、ビアンのような憶測は持たない。ただ、悲鳴があったという事は、カトレアが何か困っているかもしれない、とそう思っただけの事である。困っている人がいたら放っておけない性分、それがライゼルの在り方なのだ。

 近隣の住人も、不穏な空気を感じ、表へ飛び出していた。その人波を掻き分け、ライゼルは声の方向へ一目散に駆けていく。何か良くない事が起きた。ライゼルはそう感じたのだ。

ライゼルがカトレアを発見したのは、先の広場であった。広場の脇にはビアンが乗ってきた車が止められている。それはフィオーレの人間からすると、非日常の象徴。だが、それ以上にフィオーレに違和感を添えるものが認められる。悲鳴の主カトレアは、見慣れない何者かによって腕を掴まれ拘束されているようだ。

 鋭い目つきに華奢な体躯で、身の丈は大人のビアンよりもやや高い。カトレアを掴む五指は細く尖っている。纏う衣装は、まったく見覚えのない洒脱な格好で、無垢なる者を想起させるが、男自身から受ける印象とは真逆である。それは、国民の証である『身分証(ナンバリングリング)』と呼ばれる首輪を装着していないからかもしれない。身の上は明らかではないが、おそらく余所者だろうに太々しく粗暴な態度。

 その男と現状を視認した瞬間、ライゼルは見慣れぬ男を倒すべき悪だと判断した。カトレアの表情から、好まざる状況を強いられている事は見て取れる。

「カトレアさんを放せ。痛い目見るぞ」

 一体どういう状況なのかは分からない。普段良くしてもらっている女性が見知らぬ男に腕を掴まれている。そして、村の人間は男に怯えているのか、何人かは物陰に隠れ、何人かは腰を抜かして動けずにいる。

 村のみんなが何に怯えているのかは分からない。男は強面の相貌だが、腕っぷしが強いようには見えない。どちらかと言えば、華奢な方だ。その男以上の力自慢は、この村にだって数人は居るはずなのだが。

 ただ、声を掛ける距離に近付いて気付いた事がある。男が纏う雰囲気は、ライゼルがこれまでに感じた事のないそれだった。的確に表現する言葉を持ち合わせてはいないが、只者ではないと直感的に理解できた。村の外にはこういう人物も少なくないのだろうか? 未知とは本能的に恐れを抱かせるもの。ライゼルは男に対する警戒を一層強めた。

「あぁ? それオレに言ってんのか? 地上の屑が舐めた口利いてんじゃねぇぞ!」

 見慣れぬ男もライゼルに悪態を吐きながら一瞥を向ける。言いながら握った手に力が入ったようで、カトレアの表情が苦痛に歪む。カトレアの柔肌に男の指が食い込み、その跡がくっきりと付けられる。それ程の強力な握力がか弱いカトレアを襲い、痛みから短い呻き声を漏らす。が、男は一切気に掛けていないようだ。ライゼルに対する苛立ちが増々膨れ上がり、余計に腕に力が入っていく。

「放せって言ってんだろ!」

 それを見て、居ても立っても居られず、咄嗟に男に向かって駆け出すライゼル。カトレアは村の中では比較的年の近い方で、ベニュー共々世話になる事が多かった。そんな恩人に暴力が向けられて、黙っていられる程、ライゼルはお人好しではない。周りにいた人間の中から制止の声が聞こえた気がする。だが、それを無視し、男目掛けて突進する。

 ライゼルには勝算があった。他の村人が何を及び腰になっているのか分からないが、ライゼルの経験則によると十分に組み伏せられる相手と見た。身長差こそあるものの、身体能力に優れているようには見受けられない。そもそも、成長して力仕事もこなすようになってからのライゼルが力づくでやり込められないのは、姉のベニューくらいのものだ。

 自慢の脚力を生かし、男との距離を一気に詰める。力強く地を蹴ると、走破するよりも速く、男へ迫れた。男も回避する様子が見られず、この距離なら確実に男を捕える事ができるとライゼルは踏んだ。

「くらえ!」

 と、言ったものの、ライゼルがぶつかり生じるはずだった衝撃は、誰に加えられるでもなく霧散した。物理的な衝撃が緩和されただとか吸収されただとか、そのような複雑な話ではない。ただ単純に当たらなかったのだ。体当たりは回避された。無我夢中に身体を当てに行ったライゼルは、最後の瞬間を見届けておらず、どうなったのかを把握できていない。

「やめろ、ライゼル! あの男は人間じゃない!」

 傍らで見守っていた村人がそう言った。自分と激突するはずだった男の姿を探して前後左右を見渡すが、どこにもその姿はない。どころか、捕えられていたカトレアも同様にいない。この一瞬間の内にこの場を去る事なんて出来るはずがない。群衆の中に紛れた可能性も考えたが、時間の無さがやはりそれを否定する。

「どこだ、どこに隠れた?」

 二人の行方を求めて視線をあちこちに巡らせていると気付く事があった。それは、周りのみんなが一様に固唾を飲んで、ライゼルの『頭上』を見上げていた事だ。ライゼルの死角であったその宙空に、皆の視線が注がれている。そう、探し損ねていた箇所が一ヵ所だけあったのだ。移動可能距離内でこそあるが、無意識の内に選択肢から外してしまっていた場所。

「へ?」

 視線の先を追うと、そこには先の男がいる。より正確に言えば、浮いている。カトレアを片腕で掴んだまま空中に浮かんでいるのだ。

「オレは隠れちゃいねーよ、この地上の屑が」

 宙空を漂う男は不敵な笑みを浮かべ、言葉通りにライゼルを見下した。

「なんじゃこりゃーーーー!」

 遅れて到着したビアンとベニューも同じ光景を目の当たりにする。いや、少し離れた場所から見ていた分、客観的に事態を把握できた。遠目からだとこの異様な位置関係とそれを生じさせた動作を同時に視認できた。

「今、その人『浮いた』よ!?」

 ベニューの言葉の通り、男はライゼルの突進を、空中に移動する事で回避したのだ。万物を縛るはずの重力を無視して、宙に浮遊して見せたのだ。もちろん、男の足元に目に移らない何かがあった訳ではない。

「手品か!」

 ライゼルも本で読んだことがあった、摩訶不思議な奇術で不可思議な芸を見せて客を楽しませる芸人がいると。だが、目の前のそれはそういう類のものでなく、何の仕掛けもなく浮かんでいるのだ。

「おい、どんな手品か知らないが、カトレアさんが痛がってるだろ。放せよ」

 男は人一人の体重を片腕だけで持ち上げていた。先程まで抵抗していたカトレアも、自重が肩に集中し、脱臼しているようだった。苦痛に顔を歪めながら、その痛みに耐えていた。その男が放さない限り、その痛みから解き放たれる事はない。

「さっきから吠えてばかりじゃねぇか。ここまで来てみな、地上の屑!」

 原理は分からないが、相手が手の届かない所にいるのは事実である。このままカトレアをあの状態にしておくのは、非常に良くない。でも、どうしたらいいかライゼルには見当がつかない。

「跳んでみろライゼル。お前の脚力ならあるいは」

 ビアンもそう助言してみたものの、それが有効でない事はすぐに判明した。実際に、ライゼルが屈伸し足を溜めて跳びかかってみたが、相手はそれを見て更に高く浮遊した。

「屑の割には、よく跳ねるじゃねぇか。だが、芸にしては退屈だな」

 ライゼルの伸ばした腕がカトレアの足に触れようとした寸前で、予備動作もなく男は回避した。いくらライゼルが常人離れした身体能力を有していると言っても、身の丈三つ分の高位置を保持した相手には、ライゼルの跳躍力も脅威ではなかったのだ。

「これならどうだ」

 突然、家屋に向かって走り出すライゼル。そして、壁伝いに屋根へ上り始める。跳躍で足りない高さを、家屋の屋根に上る事で補う作戦。お誂え向きに、民家同士は近くに位置し、屋根から屋根へと渡っていける。

 しかし、その様子を見た男は、空中で水平移動し家屋から距離を取る。

「考え足らずか、ライゼル。奇襲でもない限り、その手は通用しないだろ」

 ビアンの指摘を受け、更に一考し、また行動に移る。屋根の端の目一杯まで下がり、そこから男の方の端へ助走を付けて跳躍する。

「どりゃーーー」

「おいおい、地上の屑は脳みそねぇのかよ?」

 カトレア目掛けて屋根の上から跳びかかるライゼル。が、男はカトレアを携えたままライゼルの側面へ迂回し、無謀な少年の背中を蹴り付け地上へ叩き落す。男は空中にあっても、その身に制限を受ける事なく、自由に移動できるようだ。言葉通りに制空権を有している男が、圧倒的に有利だった。

 地に伏したライゼルは、背中の蹴られた痛みと地面に打ち付けた衝撃で、短い呻き声を漏らす。

「ぐっ」

「ニンゲンの癖に空を目指すか? お前ら屑は地を這ってる方が似合いだぜ」

 高圧的な態度に腹を立てずにいられないが、為す術のないライゼルは男を睨んだまま黙り込んでしまう。

「どうした? 威勢がいいだけで何もできやしねぇじゃねぇか。もっと俺を楽しませてみろよ」

「くっそぉ…」

 いろんな可能性を模索した結果、ひとつ可能性が残されていた。だが、それを実行するのは躊躇われた。

 【牙】を使っての戦闘行為は、ご法度であり、役人ビアンの心証を著しく悪化させる恐れもあった。ライゼルの頭の中で、カトレアと、躊躇いの理由とが、天秤の皿に乗っている。針はどちらに傾くでもなく揺れ続けている。思案を続けるも、ただ時間だけが過ぎようとしていた。

 が、その躊躇を吹き飛ばす一声がライゼルの耳に届く。

「ライゼル! 【牙】を使って!」

 それを聞いた途端、ライゼルは無意識の内に『星脈』に霊気を循環させる。瞬間的に全身に熱を帯びていく。

 その様子に、訝しむ宙空の男と、顔を引き攣らせるビアン。そして自信ありげに強かな様子のベニュー。

「はあぁぁぁぁああッ!」

 発せられる雄叫び、腰元まで曲げた右腕、込められる霊気・・・そして、踏み出した左足と共に、力を溜めた掌底を相手に向かって突き出した。

 瞬間、男は自身の体が硬直したように感じた。事実、動けなくなった。これまでに男が感じた事のない力の奔流が、男の体の自由を奪ったのだ。ライゼルが発した膨大な量の霊気ムスヒアニマが、男の体を飲み込んだ。

「なにっ?!」

 十分な距離が保たれているはずだが、ライゼルの腕から生まれ出ずる『何か』が届いた。もちろん、ライゼルの掌底ではない。男に向けて放たれた『それ』は、男の頬を掠め、更に男から血を流れさせた。

「剣圧だと?」

 男は、何故自分の頬を真っ赤な血が伝っているのか理解できなかった。何かが少年の手から投擲され、自分の頬を掠め、鋭い痛みを走らせた。咄嗟に剣圧と口走ったが、本当にそうだったのか? 【牙】の存在を知らぬ男には、何故虚空から武器が現れたのか、理解が及ばなかった。男は未開の土地にて、脅威と出会った。

 男に脅威を与えた物、つまりライゼルが男に向かって放った物。それはライゼルの【牙】が具現化した両刃剣だった。地上の特殊な星脈を持つ者だけが有する刃向かう力、武器具現化能力、【牙】。ライゼルの場合は、両刃の幅広剣を具現化する事ができる。ライゼルは男目掛けて、この幅広剣を投擲し、足りない高さを補ったのだ。

「どうだ、これが俺の力だ」

「やってくれたな、屑野郎」

 一矢報いたライゼルの勝ち誇った顔に、色を失った男の顔。男は怒りに戦慄いていた。先程までの軽口を叩く余裕は一瞬で失われた。

 そして、余裕がないといえば、こちらの役人も然り。

「おいぃぃいいい、投げてどうすんだよーーー!」

 ビアンの指摘は正しかった。そうする他になかったとは言え、唯一の戦力である武器を手放してしまった。これは、ライゼルにとって大きな損失である。

 武器を失ったばかりか、男の慢心を打ち消し、本気を引き出しってしまったようだと、相対したライゼルは察した。男の顔に、先程の薄ら笑いはなかった。

「遊びは終いだ。本気で狩るぜ」

「きゃっ」

 そう言って、掴んでいたカトレアを地面に投げつける。地面に衝突する瞬間に、挙動から察知したビアンが下敷きとなって大怪我は免れた。ビアンはすぐさまカトレアを抱きかかえ、広場の端へ避難する。

「アンタ、大丈夫か?」

「はい、それよりもライゼルが」

 ビアンに抱きかかえられ、痛む肩を庇いながらも、ライゼルを心配するカトレア。ライゼルと相対する男の顔は、ライゼルに対する憎悪に染まっていた。

「屑。テメェはオレを怒らせたな」

「お前、さっきから俺を屑呼ばわりしやがって何なんだよ。カトレアさんに何の用だ?」

「女から『臭い』がすると思って降りてみたが、とびっきり『臭』ぇのはテメェじゃねぇか」

 男の指摘に、ライゼルは困惑する。仕事終わりやお遣い帰りには毎度水浴びをする。体臭がきついとは、これまで指摘された事はなかったのだが。

「臭くないし。なんだよ、臭うからって文句を言いに来たのか?」

 半ば見当違いの問いを投げるライゼルに、男も苛立ちながら返答する。

「俺は『狩り』をしに来た。それでテメェらは獲物。ただそれだけなんだよ」

 行動もそうだが、ライゼルからすると、言っている事も出鱈目で理解が及ばない。ただ、ライゼルが知らない世界の話をしているという事は想像できた。異文化人なのかもしれない、とそう推測した。

「『かり』ってなんだよ? 」

 ライゼルの最後の問いに、男は行動を以って応える。

「おうよ、教えてやらぁ!」

 それまで空中に浮遊していた男は、ライゼル目掛けて滑空する。ライゼルもその動作に合わせて身構えたが、瞬きの間に見失った。敵の姿を。しっかりと目で追っていたはずなのに。

 そして、見失ったと同時にライゼルの脇腹に激痛が走る。痛覚と視覚、どちらが先に機能しただろう、ほぼ同時に鮮血が風と共に舞うのが見えた。

「いてぇーッ!」

「ライゼル!」

 悲鳴にも近いベニューの叫び声。傍から見ていたベニューにも、何が起きたのか分からない。敵が目にも止まらぬ速さでライゼルの横を通過したという事実を、現時点での位置情報から理解させられた。ライゼルが立ちすくんでいる背後の中空に得意げな表情で佇む、特異な能力を持つ男。

 激しい痛みにライゼルの膝は折れる。どうやらすれ違いざまに、爪か何か鋭利な物で切り裂かれたようだ。

 離れた所から見ていたビアンは、男の姿が先と異なる事に気付いた。

「背中に『何か』付いてるぞ?」

 言われて皆が男の背に注目する。確かに、そこには見た事もない、どうやら体の一部分なのであろうものが認められた。だが、それが何であるのか、持ち主である男以外の者には皆目見当もつかない。

 純白の綿を集めて作った旗のようにも見え、それでいて生命力を感じさせる躍動を伴うモノ。誰もこのようなものを目にした事がなかった。田舎村の者だからとかそういう事ではなく、王国に仕官しているビアンも同様だった。どの書物にもあのような特異物は記されていない。

 ただ、ビアンにはなんとなく理解ができた。男の背中に出現したそれが、尋常な運動能力を生み出し、目にも止まらぬ高速移動を可能にせしめたのだろうと。ライゼルの先の一撃が、男を本気にさせた。そして、あの高速移動こそが謎の男の本領なのだろう。

「おい、ライゼル! 何をボサッとしてやがる。逃げろ、嬲り殺されるぞ」

 そう促したものの、敵はそれを許すことなく、高速移動で往復を数度繰り返し、ライゼルを切り刻む。腕を、脚を、背中を、すれ違いざまに何度も何度も切り付けた。

 目で追おうとするも、挑発的な男の笑みが見えたと思った次の瞬間には、男を見失い、代わりに傷を残されていく。目にも止まらぬ速さとは、まさにこの事だと言える。

「せーの、おりゃ」

 ならばと、男を視認できなくなった瞬間に、後方へと飛び退いてみるが、男はしかとライゼルを捕捉し、攻撃を加える。男はその高速移動の能力を過不足なく自在に操っているのだ。加速減速も思いのままで、ライゼルの不意な行動にもすぐ対処して見せる。

 能力を使いこなしている事も見て取れるが、それ以上に戦い慣れている印象を受ける。おそらく男の経験則には、対人戦闘があるのだろう。ライゼルが中途半端に抵抗して見せても物ともしない。自身のような高速移動能力を持たぬ者に対しての嬲る手段に長けているのだ。

 男とライゼルとでは、戦闘能力に大きな開きがある。回避も防御もままならず、ライゼルは嬲られ続けるしかなかった。

「くそ、全然見えねぇ」

 敵は常に高速で移動し続けており、いつ、どの方向から攻撃を仕掛けてくるのか見極める事が出来ない。無鉄砲に腕を伸ばして、移動しているのであろう見えない敵を捕まえようとすると、逆にその腕部を攻撃箇所とされてしまう。対抗策を見出せず、消耗していくしかないライゼル。

「…見てられん。おい、お前、もう許してくれ。頼むこの通りだ」

 小生意気なクソガキだとは思ったが、こうも痛めつけられる姿をまざまざと見せられては、ライゼルに対する同情の方が大きくなる。そもそも、ライゼルにはこの事態に対処しなければならない責任はない。どちらかと言えば、この事態を収めなければならないのは、役人のビアンである。

 傷付いていくライゼルの姿に心を痛め、ビアンが止めに入ろうとするが、歩み出そうとしたところでベニューに止められた。

「きっとライゼルなら。ライゼルなら、なんとかできるかもしれません」

 ビアンはその言葉に正気を疑い、咄嗟に大声で叱りつけようとする。

「なっ、何を」

 が、真っ直ぐにビアンの目を見据えるベニューの瞳には強い意志と、ライゼルへの確かな信頼が見えた瞬間、叱責の言葉を飲み込んだ。無慈悲にこの局面を託しているのではない。

であれば、ライゼルには、この姉弟には、何か状況を打開する策があるというのか?

 半信半疑ではあったが、ビアンにも何か有効な策があった訳ではない為、従わざるを得ない。法に縛られない悪漢相手に、ビアンには為す術がない。この村唯一の【牙】使いの少年に、戦況を任せるしかないのだ。

「だが、このまま防戦一方ではライゼルがやられるぞ?」

 ビアンの戦況分析は正しかった。時間が経過する毎にライゼルは不利な状況に追い込まれていく。

「ライゼルなら相手の行動が読めるはずです」

「どういうことだ?」

 ベニューの真意をビアンは分からない。何故か肝の据わっている少女にもどかしい思いをさせられてしまう。

 ベニューは大きく息を吸い込むと、ライゼルを一喝する。

「ライゼル、いつまでも中途半端な事しないの。母さんのお仕置きはこんなものじゃなかったでしょ?」

 まるで、素行の悪さを咎めるかのような、この場にそぐわない調子でやるものだから、ビアンも肩透かしを喰らった気分になる。

 しかし、檄を飛ばされたライゼルは、先の母との思い出を語っていた時のような渋面を下げている。この局面で、過去の恐怖が思い出されたのだから、ライゼルにとっては堪ったものではない。

「あぁ、思い出した。そっか、いつのもやつをやればいいのか」

 傷だらけで圧倒的窮地に立たされているライゼルは、そう言って脱力して見せた。

「いつものやつ?」

 傍らで見守るビアンは、姉弟が語る事の内容が分からない。が、ビアンの腕の中で抱えられているカトレアは何やら合点のいった様子だ。

「お役人さん、さっき見たじゃないですか。多分、姉弟喧嘩の事です」

「姉弟喧嘩、だと?」

 ますます意味が分からなかった。これは先の姉弟喧嘩とは比較にならない程の危険を帯びたものである。現にライゼルの体中から出血が確認できる。この村の人間の認識はどうなってるのかと、ビアンは疑わしくなる。

「そろそろ飽いたな。テメェはもう死ね」

 ビアンの理解が及ばぬまま、戦闘は再開される。そして、その真意はようやく披露される段となる。男の強襲に合わせ、ベニューがライゼルに助言を告げる。

「ライゼル、上に跳んで!」

 それを聞いたライゼルは、ベニューの方を見る事もなく、その指示通りに従い、屈めていた上体を起こし、常人が届かないフィオーレの中空に体を投げる。

「愚か者が。逃げ場をなくしただけじゃねぇか!」

 ライゼルが宙に逃げた事により、男の水平移動での攻撃は躱された。が、ライゼルは着地するまで重力に引かれ、落ちていくしかない。その無防備な状態は、謎の男にとって絶好の機会だった。

 男は躊躇する事なく、瞬時に上空への攻撃に転じた。例え、この状況で闇雲に抵抗されても、ライゼルを瞬殺できる自負があった。事実、体を空に翻したライゼルは、男の居場所を知覚出来ていない。

「とどめだ、屑野郎!」

 男は突風のように素早く中空のライゼルの背後に迫る。誰にも知覚する事は出来なかったが、まったく手加減のない、男が有する最高速度を発揮している。そして、殺意を帯びたその凶爪がライゼルの命を奪わんとする。その時、フィオーレの花が一斉に笑った。

「咲いたよ、ライゼル」

 ベニューはその場で小さく呟く。離れた場所にいるライゼルにその言葉が届いたとも思えないが、ライゼルもそれが聞こえたかのように小さく応える。

「あぁ、風が吹いた」

 その言葉の通り、ライゼルの背後から一陣の風が吹いた。その風は、幾度も攻撃に晒され、引き裂かれたダンデリオン染めの切れ端を吹き飛ばす。まるで、蒲公英(たんぽぽ)の綿毛がフィオーレの空を吹き渡るかのように。それは、姉弟がこの村で暖かな季節が巡る度に目にしてきた、当たり前の景色。言葉を尽くさずとも、ベニューの意図するところがライゼルには分かるのだ。

 正午の姉弟喧嘩もそうだった。姉弟は、何もお互いの動きを予知して、攻め手を繰り出し、それを躱していたのではない。相手の動きから生じる風を感じて、相手の動きを察していたのだ。

 昔から姉弟は、母親フロルにそれを仕込まれていた。ライゼルが悪戯をする度に、ひょっとしたら虐待とも解釈されかねない教育的指導が始まる。母はライゼルにお仕置きをする時、わざと大振りの動作でげんこつを見舞っていた。それが何度も続けば、その教育的指導から逃れんとするライゼルは、風圧を肌で察する感覚を研ぎ澄ましていった。ベニューも連帯責任と叱られる事があり、フロルの拳圧をその身に覚えさせていたのだ。母が亡くなってからも、討論で解決しない事案が発生した際は、先のように肉体言語で語り合う習慣が身に付き、よりその風を読む力を磨いていった。

 故に、これだけの突風が巻き起これば、方位の特定に限らず、距離の概算も可能なのだ。

空に舞う綿毛は、ライゼルを狙う風の発生源の位置を、彼に知らしめた。今まで捉える事の出来なかった敵の居場所をようやく特定せしめたのだ。

「見つけた」

 まもなくライゼルの体も重力に引かれ落下が始まる。その身を自由落下に任せ、ライゼル自身は星脈に大地の力を流し込む。地に足がついていない状態でも、しっかりと温かい霊気が伝わってくる。その霊気の奔流は手のひらから外界へ放出されていき、物質として顕現していく。それは、ライゼルが頼みとするライゼルの分身。

「その獲物はさっき放り投げたんじゃねぇのかよッ?!」

 半ば怒気を込めた疑問が、高速移動中の男の口から放たれる。

 その通り、先程カトレアを助ける為にライゼルが一投した後、回収してなどいない。だが、再び同じものが少年の手に握られている。何故か? 【牙】の力とは、ムスヒアニマの結晶化。発動者の制御下を離れた霊気の塊は、再び大地の中へと戻っており、ライゼルの呼び掛けに呼応し、再度具現化されたのだ。

 その事実を知る由もない男は、驚愕と共に戦慄する。彼は完全に虚を突いたつもりでいたのだ。視認できない死角から、知覚できない亜高速で。

 だが、それが仇となる。男が仕掛けた強襲は、隙だらけの相手にこそ有効な手段であって、待ち構える相手に対しては愚策の極み。何故なら、己の力を敵の助成として捧げ、自ら討ち取られに行くのだから。最高速度で敗北行き。

 そして、ライゼルの牙が悪漢を待ち構える。ライゼルの全身から滲み出るムスヒアニマが、男の体に纏わりつき、捉えて離さない。

「くそっ、またこの『臭い』か!」

 男が身動きの取れないのはごく僅かな時間であったが、ライゼルにとっては充分な時間だった。

「喰らえ、必殺(とっておき)の」

 腰後方に溜めた幅広剣を横一文字に振り切る。大きく振り抜かれた刀身からは、青白い霊気が漏れ出し、残像のようにその軌道をなぞる。素早い一閃が男を捉えた。ライゼルにも確かな手応えがあった。

「ぐはぁっ!」

 謎の襲撃者もライゼルの剣によって撃ち払われる。厳密に言うと『打』ち払われる。

 ライゼルは空中での反撃後にも関わらず、姿勢制御を行い、着地もばっちりと決めて見せた。

「母ちゃん直伝、花吹(はなふ)「斬撃じゃなくて打撃なのかよーーー!!?」

 思わずビアンも、ライゼルの決め台詞に被ってしまう絶叫を挙げてしまう。当然、斬り払うものであろうと想像されたライゼルの反撃は、刃ではなく刀身の広い面を鈍器として利用され、繰り出された。その為か、襲撃者も高速移動による上乗せで大きな痛手を負ったが、致命傷には程遠かった。これは実践経験のないライゼルの、異能を駆る男に対して大きく劣る弱点とも言える。好機をものにできる能力を持ちながら、出し惜しんでしまう。

 打ち払われた男は、大きく後退し、背中の一対のそれで空中にて姿勢制御を行う。咄嗟に体を庇った右腕全体がひどく腫れていたが、地に伏す事もなく依然として空中にその身を漂わせている。

「地上の屑野郎が。そもそも、なんで武器なんて持ってやがるんだ」

 誰に言うでもなく独り言ちて、男はライゼルを睨みつける。

 ライゼル達が男の異能を初めて目の当たりにしたように、男も【牙】を目撃したのは初めてだった。予想外の戦力を有していたとはいえ、戦闘慣れした自身が、見下していた子供に後れを取るなど、男にとっては許しがたい事である。

 そんな心中を察するでもなく、ライゼルは男に対し、説教する。

「おいお前、これに懲りたらもう二度と悪さなんかするんじゃないぞ? 【牙】使い(タランテム)なら、その力は人の為に使わなきゃだろ?」

 命のやり取りをした相手に対してもライゼルの態度は柔らかい。姉であるベニューの躾の賜物か。いや、ライゼル自身の生まれ持つ『甘さ』だ。敵はまだ戦意も戦力もを失ってなどいないのに。

「『生まれ持つ者』(タランテム)だと? そうか、お前が噂に聞く【牙】使いか」

 痛がる姿をライゼルに見せたくないのか、右腕を庇わずにいる。その姿から男の矜持が見えた。自身が侮辱の言葉を浴びせた相手に、弱みを見せたくないとする意地。

「お前もそうじゃないのか。浮いてるし、すげー早く動けるし」

 害を為す相手を手放しに誉めるライゼル。それを見守るビアンとベニュー。二人は心配で仕方がない。結局、好機を逃し、相手を無力化できなかったのだ。ベニューの算段では、ライゼルは『勝って』いたというのに。

「あいつ、能天気というか、危機感がないというか・・・」

「あとで言い訊かせておきます」

 本人の与り知らぬ所で呆れられているのを余所に、ライゼルは更に男に質問を浴びせる。

「その背中の、なんて言うんだ? それがお前の【牙】なのか?」

 その疑問は、ビアンも抱いた謎だった。この国において異能を扱えるのは【牙】の能力を持つ者だが、【牙】の主な能力は武器の具現化である。あの男の背中から生えているアレは、武器とは思えない。あれはどう見ても体の一部だ。第三、第四の腕とでも呼べばいいのか、一対のそれ。

「『オレ達』は【牙】なんか野蛮な物持ってねぇ。この【翼】はオレ達が『有資格者(ギフテッド)』である証だ」

「ん?」

 初めて耳にする【翼】という言葉。それが、男が称する【牙】に似た能力の名。

 ライゼルは分からないが、国内には教義に背き、【牙】を咎とする者もいない訳ではない。【牙】の能力に対する認識は千差万別。だが、男の口ぶりは、そういうものでもないようだ。

「往来で【牙】を侮蔑し、悪事を働いても悪びれる様子も見せないお前は、このベスティアの人間ではないな?」

 要領を得ない彼らの会話に割って入るビアン。国の役人である彼は、この度の件に対して聴取と取り締まりをしない訳にはいかない。今回の件をビアンは、上に報告するつもりだ。

だが、男はビアンを相手にしない。どころか、凄まじい形相で凄み、覇気で威圧する。

「訊いてんじゃねぇよ、分かりきった事を。それ以上、俺に問いを投げるなら、命を賭けろよ?」

「くっ」

 その一睨みに身震いするビアン。これ以上は使命よりも恐れが上回り、口を挿めなかった。立場や役職など男には関係なかった。彼と言葉を交わせるのは、刃を交えたライゼルのみ。ここでの法は、あの男が決する。

「フィオーレには何の用だよ?」

「さっきも言ったろ。狩りだ。腕試しに地上の屑共を蹴散らしに来た」

 そこまで言葉を紡いで、奥歯を噛みしめ、小さく息を吐く。動作はなかったが、右腕を気にしたように見えた。痛みと悔しさが傷口に疼いたようだ。蹴散らすつもりが、返り討ちにあったからか。

「まさか、地上の屑野郎に噛み付かれるとはな。【牙】使い、名前はなんだ?」

 名前を問われる。実を言えば、ライゼルは初めての経験だ。これまで知り合ってきた村の人間は、幼い頃からライゼルを知っている人間ばかり。問うまでもなく、ライゼルの事を知っている。

 だが、この目の前の男は違う。同郷の人間ばかりの狭い世界に、乱暴な形で現れた闖入者。とても好意的にはなれないが、人の頼みは積極的に応じてきたこの少年だ、答えを返そうと考える。

「俺は…」

 ふと言葉に詰まる。名乗りを憚られた訳ではない。普通に名乗る事を憚られたのだ。母はダンデリオン染めのフロル、姉は六花染めのベニュー、ならば自分は? 自分にはそういう通り名がない。村では頼られるライゼルも、外に対しては無名なのだ。誇れるものと言えば【牙】だが… 【牙】使いのライゼル? いや、【牙】使いなら余所にもごまんといる。それはライゼルを指す二つ名ではない。

 刹那、ライゼルは閃く、ないなら作ればよいではないか。この場で名乗ってしまえば、あとはそれを流布するのみ。それって、つまり、格好いい。言った者勝ちとはよく言ったものだ。

「…俺は!」

「確かライゼルと呼ばれてたな…『巨人の足』(アルゲバル)か」

「えっ、ちが、なにそれ?」

 名乗る間もなく、先を続けられ動揺するライゼル。それを余所に、真っ直ぐにライゼルを見据える男。その瞳で射殺さんばかりに見つめ、改めてライゼルに宣戦布告する。

「その面はもう覚えた。名前も忘れない。どこに逃げようが必ず殺す。この右腕の怪我が癒えた時、その日がテメェの命日だ、覚悟しておけ」

 先とは雰囲気の違う、余りの迫力に生唾を飲んでしまう。ライゼルも緊張した面持ちながら、機会を見計らう。

「『疾風のテペキオン』。それが、テメェの命を枯らし、天空に吹き荒ぶ嵐の名前だ」

 そう言って、予備動作もなく【翼】と称したそれを作動させ、今いた空中よりも更に天高く飛翔していく。

「おい、待て!」

 ライゼルの制止も聞かず、テペキオンと名乗った男は雲の彼方へ姿を消した。

 疾風の二つ名の通り、突然村に現れ、事件を起こし、去っていったテペキオン。まさに台風一過という言葉が相応しい。テペキオンの去った広場に、湿度を帯びた生温い風が吹いていた。

 昼の鐘から久しく訪れた束の間の静寂。そして、咆哮。

「あぁあぁぁぁぁああああ!」

 大声を上げながら頭を抱え、膝を折るライゼル。心配したベニューが慌てて駆け寄る。

「怪我は大丈夫?」

 全身の裂傷から血が流れ出ている。星脈を酷使した為、余計に血の巡りが激しい。すぐに止血しなくてはならない。怪我は穢れの元。早く処置せねば、ライゼルの命は損なわれてしまう。

 しかし、痛みを忘れるほどにライゼルは悔やんでいる。

「くそぉ、逃した~」

「何怒ってるの。カトレアさん脱臼しただけで済んだって。ライゼルのおかげだよ。やったじゃん」

 手持ちの布で傷口を縛り、手当てをしながら弟を宥めるベニューだが、こんなに勝負に執心した弟を見るのは初めてかもしれない。もっと言えば、こんな大立ち回りを演じたのも初めてだ。今日ほど弟の身を案じた事はない。こんな心臓に悪い事は今回限りにしてもらいたい。

「あぁ~、俺も二つ名言いたかった~」

「…ライゼルったら」

 全身怪我だらけでも泣き言を言わなくなったのは、大きな成長かもしれない。思わず呆れて言葉を失ってしまったが、密かに嬉しいベニューであった。

 そこに、カトレアを村の人に任せ、手隙になったビアンがライゼルの傍に来る。

「無事か?」

 その問いに全身怪我だらけのライゼルが明るく応じて見せる。

「うん、大丈夫。それよりさ」

「ん?」

「ビアンはいつ戻る? 今日とは言わないよね?」

 この問いかけにどんな意味があるのだろうとビアンは思案を巡らす。こんなに痛い思いをして知人を救い、難敵を退けた直後のこの状況で、敢えてこの質問をぶつけてきた意図とは何だ?

 答えあぐねているビアンに先んじて、ライゼルが続ける。

「俺、絶対連れて行ってもらうからね。出発はまた明日にしてよ」

 両腕を広げて見せたライゼルにビアンは思った。この少年をこの村に残していく事は無責任な事だと。

 少年の身を案じて、この村に留める事は容易い。結局、村を出たいというのは少年期特有の気の病だ。強くなりたいと語った英雄願望もそうなのだろう。

 だが、論点はそこではない。注目すべきは、その行動原理から為す行いそのものだ。何故その願いを抱いたかは不明だが、今日の様子を見て非常に不安に駆られる。人を助けるという大義名分に嘘はないのだろう。だが、それ以上に戦いたい、強くなりたいという願望が内在する。その行いを他の何かと、例えば危険と天秤に秤る事もしない、どころか疑問にすら思わない。今日の事だって上手くいったからいいものを、下手をすれば命を落としていたかもしれない。彼の正義感は、あまりにも危うく儚すぎる。大人である自分が見守ってあげなければならない。少なくとも、少年を保護してくれる環境が整うまでは。

「あぁ、ちゃんと連れて行ってやる」

「本当? さっすがビアン、話が分かる」

 ホッと胸を撫で下ろしている満身創痍のライゼルと改めて対峙すると、やはり自身の判断は間違いないとビアンは確信する。だから、ビアンはライゼルにこう告げる。

「だが、行き先はボーネじゃない」

「ん?」

「明日には出発する。行き先は王都クティノスだ」

「へ?」

 

 

 

 

to be continued・・・

 

 




第1話如何でしたでしょうか?
まだまだライゼルの物語は始まったばかり。これからのライゼルの活躍をお楽しみに。


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第2話

『ライゼルの牙 第2話』

 

 

 出発の段になると、途端にライゼルは高揚した。それは、これまで待ち侘びた遠出という事ももちろんあったろうが、初めて駆動車に乗れる喜びもあったから余計に、であったのかもしれない。

 駆動車。ベスティアの一般的な運搬手段であり、流通発展の功労者である。踏板による足漕ぎ式の乗用車で、これがまたすごい事に誰にでも運転できてしまうのだ。操縦そのものは、操縦桿を回転させて車輪軸を旋回させるだけだし、足漕ぎ踏板を交互に踏み込む事で車輪に連結した歯車を回転、駆動させ前進させるという優れた代物。

 歴史的な傑作とも持てはやされ爆発的に生産された駆動車ではあるが、フィオーレの村でそれを所有する人間はいない。生産された駆動車のおよそ九割が、官吏と国営の運送業に移譲されており、個人での所有者はほとんどいない。いるとすれば、一部の富豪のみだろうか。故に、姉弟にとっては、単純に物珍しいものなのだ。ビアンにとっては乗り慣れた物ではあるが、こうも物珍しがられると鼻が高い。

 早速、その駆動車に乗り込む三人であったが、さも当然のように運転席に座するライゼルに、ビアンが飛び蹴りを見舞わなければならないのは、これからの道中を暗示しているのだろうか。

「させろよ、運転!」

「させるかよ、クソガキ!」

 渋々ながら運転の任をビアンに譲ったライゼルは、後部座席に先に乗り込んでいたベニューの隣に座る。

 ライゼルが経験もない運転を買って出たのは、興味本位という面もあるが、素直に後部座席に座りに行くのが如何ばかりか躊躇われたからだ。その理由は同伴者にあった。ライゼルは心なしか姉の隣に座る事に抵抗がある様子で、居心地の悪さからぎこちなくなる。後部座席に座る姉弟の間には、奇妙な距離があった。

「よし、乗ったな。道中、大人しくしているように」

 ライゼルが乗り込んだのを確認し、車は目的地クティノスに向かって走り出す。とはいえ、その道中にいくつもの集落を経由しなければならない。そのまず第一が隣村のボーネだ。

 これから数日かけて、目的地まで旅する事となる。辺境の村から王都までの道程となると、それなりの覚悟を要する事となる。先を急ぐのであれば、陸路だけでなく水路も使う事になるだろう。天候に恵まれなければ、そのどちらもまともに機能しない事だって十分想定できる。生半可な心積もりで臨めば痛い目を見るだろう。

 と、やや大袈裟に言ったものの、それがフィオーレ、ボーネ間であれば、そう複雑ではない。ほぼ一直線に伸びた道路をひたすら道なりに進むのみ。帰りも同じ道を歩くだけなので迷子のなり様がない。だだっ広い平原に通された道路を辿るだけだ。

 交通網が単純化されているのは、何もここだけに限った事ではない。各地の都市や村を舗装された道路が結ぶ。これも国が施行した政策の一つである。十年前の戸籍作成が行われた年に、すぐ道路の整備が開始された。単に道路の整備と記したが、範囲はまるごとベスティア王国全土である。王は、各地に住まう臣民の居住状況を把握した途端に、交通網の整備を提言したのだ。

 そして、これこそが前国王を賢王たらしめる手腕なのだが、この歴史的な大規模な工事に、認知したばかりの全国民をすぐさま雇用してしまったのだ。各自治体に道路工事の仕事を斡旋し、現在の制度を浸透させ始めた。王国が仕事を手配し、国民は労働力を提供した見返りに対価をいただく。国に奉仕する事で生活の糧を得るという概念が、道路の舗装が広がるに比例して、全国民の意識に浸透していったのだ。まさしく王の狙い通りで、強引にでもこの仕組みの中に各自治体を組み込む事で、各人に王国民である事の自覚を促したのだ。

 王国全土に及ぶ道路整備は大成功し、物資の流れも人の流れも飛躍的に円滑になり、文化交流や技術革新に大きく貢献した。そのおかげでこうやって集落間の移動も容易く行えてしまう訳なのである。

 中でもボーネ、フィオーレ間の往来は比較的に容易だ。普段のお使いでも半日歩けば着いてしまう距離であり、駆動車なら一時間と掛からない。目的地がボーネだったなら気楽なものだ。手ぶらで出掛ける事だってままある。

 だが、昨日の時点で目的地は変更された。ボーネなんていう近場ではない。先も記した通り、道程は片道だけで数日を要するのだ。それなりの日数、村を離れる事になる。

 だから、訊かずにいれなかった。ライゼルはそっと隣の姉の方を見やる。

「荷物少なくないか?」

 普段見るより少しばかり高くなった車の視点からの景色が珍しいのだろうか、黙して車外を眺めているお目付け役。隣の位置からはその表情も窺えない。仕方なく、できるだけ当たり障りのないように声を掛けた。何故ライゼルがその話題に言及したかというと、ベニューの膝の上には手提げ袋が一つ抱えられているだけであったが為だ。袋の口が閉じているので、傍目では中身は分からない。が、小量なのは明らか。まるで本当に近所にお使いに行く程度の手荷物。

「行き先、分かってるだろ?」

「うん、王都クティノスでしょ?」

 感情のこもらない淡々とした声で返される。というより、生返事に近い返事。だが、正しい返答であるが故に、これ以上は突っ込みづらい。ベニューが勘違いしていないという事は、その手荷物が相応しい量だと判断されたものだという意味を持つ。世間の事には、ライゼルよりよっぽど通じているベニューだ、準備を怠った訳ではないのだろう。

 問うたライゼルの方はと言うと、昨日届いた支給品全部に加え、着替えの六花染めが数着と水筒、そして、昨日収穫した豆を非常食として巾着袋に詰め込められるだけいっぱい。おかげで、脇に置いた背嚢はパンパンに膨れている。それを脇目でちらりと見ながら、咎めるように指摘するベニュー。

「ライゼルの荷物が多すぎるだけでしょ。私達は聴取に出向くだけであって、そんな大荷物は必要ないの。旅に出る訳じゃないんだから」

「…う」

 ベニューは頑としてライゼルの旅立ちを許す気はないらしい。今回の件は、単に出頭でしかなく、ライゼルの外出を許したのも飽くまでビアンの要請があったから。認識としては、ただの数日間の出張。姉弟に行動の自由はなく、ビアンの指示に従う腹積もりだ。

「王様に謁見が適ったら、すぐにフィオーレに帰らなきゃ。おじさん達にずっと畑任せてる訳にもいかないでしょ」

「それはそうだけどさ」

 こうも正論をぶつけられると何も言い返せない。この姉を相手にしていると、どうしても自分が子供なのだと認識させられる。今日こうしてベニューが同伴していなければ、ライゼルは思う存分にはしゃぎ、それをビアンに叱られ、未だ出発できていなかった可能性も否めない。村の人間に迷惑をかけて、それを失念して自身の野心を優先させる自分は、やはり姉に至らないのだと思い知らされる。

 いや、それは思い知らされるまでもなく、骨身に染みた事であった。ライゼルはこれまでの人生において、ベニューに優ったと思い上がった事など、只の一度としてない。どんなに言葉を尽くしても、彼女には勝てる気がしない。それは、彼女に二代目フロルという肩書があるからこそ、余計にそう感じるのかもしれない。

 ただ、劣る事は認めたとしても、服従している訳ではない。そうでなければ、とうの昔にベニューのような聞き分けの良い利発な子供になっている。言い負かせられないとしても、同じ倒れるのでも前のめり。一応は抵抗しておかないと気が済まない。理解はできても飲み込める程に大人ではないのだ。

「でも、元々畑もウチのじゃない、借りてるだけだ。返せば…」

「ライゼル!」

 飽くまで食い下がる減らず口に、ようやくお目付け役がライゼルの方を向く。叱りつけられると覚悟したが、そうはならなかった。ベニューは何かを言い掛けて、飲み込んで、ライゼルを静かに睨みつける。

 自身の反駁に言い負かされた訳ではないというのは、ライゼルも承知だった。呆れたり、愛想を尽かされたりというのもあっただろう。だが、今のベニューに普段のような、例えば昨日ライゼルを説教した時のような威厳はない。それが余計にライゼルを落ち着かせなくする。肩透かしというべきか、予想していた手応えがない。

 ライゼルは、何も姉を困らせたいのではない。本心では、姉の普段と違う様子の理由を確かめたいだけなのだ。しかし、それを難なくこなせる程ライゼルは器用ではない。つい、喧嘩腰になってしまう。

「なんだよ」

 ライゼルには窺い知れない。彼女が何を言おうとしたのか。ただ、自分が咎められる事柄なのだとは理解できる。考える、姉は自分に何と言い訊かすつもりだったのだろう。原因が自分の失言だったことは明白。失言の内容。畑に関連する事柄。土地。

「染物もどこでだってできるだろ」

 それがライゼルのひねり出した答え。姉は畑だけでなく染物の工房の心配をしたのだろう。姉は染物で名を馳せた人物だ。知る人ぞ知る六花染めの先駆者。ならば、関心はそこに向くはずと考えた。事実、昨夜は簡単な片付け程度しか出来ていない。染料となる花も反物の生地も、管理を怠ればすぐに状態を損ね、商品として取り扱えなくなる。そういった点から、染料や反物を心配し、早く戻らんとするのも分かる話だ。

 であれば、姉の気掛かりを減らしてやるのも弟の役割かもしれない。少しでもベニューの気の休まるようにと、言葉を選んで説得する。

「ベニューならどこでだって仕事できるよ。フィオーレにいる理由はないだろ」

 ライゼルには知る由もない事だが、気休めにと思った言葉が、余計にベニューの気に障る。この場で訂正すればいいものを、ベニューも間違いを指摘しないので、知らないライゼルは、見当違いな提案を続ける。

「それに花じゃなくても染料はいくらだってあるだろうし。野菜や木も試してみたら?」

 言葉を飲み込んだ彼女とは違ってライゼルはこうなのだ。続けてしまう。沈黙に耐えられず、言葉を紡いでしまう。頭に浮かんだ事を言わずにいれない。

「工房の話をしたいんじゃないの。ライゼルは」

 そこまで言われて、ベニューもようやく言い返す。ベニューの表情には、我が弟ながら何故こうも分からず屋なのだろう、という呆れの色が見える。僅かに怒気も滲ませているだろうか。

 だが、ベニューの関心はそこにはない。より適した言葉を選ぶなら、目に見えて分かる所に、ベニューの不安材料はない。ライゼルのこういう面を今更口酸っぱく言うつもりは更々ない。では、何を言わんとするのか?

「ライゼルは、もしかして」

 ベニューの心には、とある疑念が渦巻いている。ここ数年のライゼルを見ていたら、沸き起こってきた疑惑。特に昨日のライゼルを見たら、疑念に確証が加えられた気もする。ライゼルの脇に置かれたパンパンの背嚢が、その疑惑をより決定づけている。

 しかし、それを本当に言葉にしていいものかと戸惑ってしまう。もし、疑問を口にして、ライゼルがそれを否定しなかったら。ベニューは心を穏やかに保っていられる自信がない。姉弟喧嘩などでは済まない深い溝が出来上がるのではないかと、強烈な恐怖心に駆られてしまう。姉弟喧嘩は幾度となく繰り返してきたが、それを超えた先を二人は知らない。極端な例だが、母との別れを経験しているが故に、その一線を越える事が恐ろしい。

 で、あればこそ、

「…やっぱりいい」

 この期に及んでも、やはり普段のように説き伏せるような事はせず、言葉を噤む。それを口にするだけの勇気をベニューは持ち合わせていなかった。

 ライゼルには分からない。姉が胸に秘めた想いと、その秘めなければならなかった理由を。少し遡って加えるなら、何故ベニューが窓の外に顔を向けていたのか、残念ながらライゼルには想像できていない。

 そして、咎められるのは何も弟だけという事はない。顔色を窺われたベニューも分かっておらず、心得ていなかった。彼女は我慢するべきでなかった。ベニューもここで叱っておくべきだったのだ。弟同様に言葉を紡ぎ、思いの丈を伝えるべきだった。そうすれば、ライゼルも次の言葉を吐かなかっただろう。

 姉の釈然としない態度にじれったくなったライゼルは、つい要らぬ事を口にしてしまう。

「だいたいベニューは構い過ぎなんだよ。畑や工房が気になるんなら一緒に来なきゃよかっただろ」

 ぶっきらぼうを装い、そう言い捨てて、その直後、

 

―――パシン!

と、無言の平手打ちを頬に見舞われた。

 

「なにすんだよ」

「…そうだね。一緒になんて来なきゃよかったね」

 ライゼルの左頬がじんわりと赤く腫れる。じんと痛む。姉がライゼルに手を挙げたのは初めてだったかもしれない。母からは何度も受けた仕打ちであるが、姉からは一度もない。徒手空拳を交える姉弟喧嘩でも、ベニューは手加減してライゼルに一撃を喰らわす事はなかった。姉からの始めてもらった一発。痛みと驚きと、そんな感想。

 と、そう思ったが、痛むのより先に認識したもの、いや、痛みを忘れるほどの印象を与えるものが目の前にあった。久しく見なくなっていたそれ。母を亡くしてからは、一度も記憶にない。

「ベニュー、泣いてるのか?」

 見逃してしまいそうなくらい、思わず気付かない振りをしてしまいそうなくらいに僅かではあるが、ベニューの目尻には滴が認められた。それを涙だと認識した瞬間、ライゼルの息が詰まる。大失敗したと渋面を晒しているのが自分でも分かる。言うべきでなかったと後悔する。

 ベニューもその問いには答えず、代わりに運転席のビアンを呼ぶのだから、余計に救われないのだ。

「ビアンさん、しばらくしたらボーネですよね。そこで降ろしてください」

 突然の要求にビアンも戸惑う。戸惑いながら、大声を上げ後方に確認を取る。ベニューの大声をビアンは初めて聞いた。何と可愛げのない、大人びた声なのだろうと運転席で一人そう感想を抱く。

「それは構わないが。いいのか、俺が引率できるのはクティノスまでで、フィオーレまで送り届けられないんだぞ?」

 それは、姉弟が昨夜ビアンから聞かされた事。王都で昨日の件を報告し、その後に解放されるのだと。ビアンの保護を受けられるのは王都に着くまで。つまり、ライゼルが王都という大都会で単独の自由行動になるという事。ベニューは、ライゼルを一人で自由にすると不安だから、とお目付け役として同伴しているのだ。

 だが、その任を放棄するとベニューは言う。つまり、こういう事だ。

「構いません。ライゼルの、弟の好きにしたらいいんです」

 ビアンがいる運転席からは、先程の後部座席の会話は聞こえていなかった。だから、ビアンにはこの姉弟に何があったのかは分からない。ただ、様子から察するに、姉は弟の言動に呆れ、愛想を尽かしたのだ。彼らの年頃なら、別段珍しいやり取りでもないか、と疑問も持たず納得した。

「そうか。もうボーネは目の前だ。村の入り口で降ろしてやろう」

 この顛末から行くと、ビアンはただの足代わりに使われただけのような気がしないでもない。が、元々、用があるのは実際に戦闘を行ったライゼルだけだ。目撃情報は、ビアン本人がいるので事足りている。ベニューに出頭してもらう必要はない。もし、王への謁見が適ったとしても、ベニューを列席させるつもりはなかった。

 数分後、後部座席は沈黙を保ったまま、フィオーレ村の隣村、ボーネ村に到着した。フィオーレと違い、柵に囲われたボーネの村。フィオーレと比べると幾分か大きく感じるのは、家屋のすぐ脇にも畑がある事とちらほら商店が並んでいるからだろう。

 ライゼルの目の端に、勿体付ける事もなくあっさりと下車するベニューの後ろ姿が映る。いとも容易く帰宅を選んだベニューであったが、ライゼルにはそれを咎める事は出来ない。そうさせてしまったのは、自分の我儘と、思慮の浅さなのだから。

 フィオーレとさほど変わらない田舎の景色を背景に、軽装のベニューがライゼルとビアンを見送る。こうして見ると、質素な貫頭衣を身に付けたベニューの姿は、この素朴な風景によく馴染んでいる。村の外へ出かけるのに、お気に入りの六花染めを着ていないのは、どういう了見かと疑問にも思ったが、この結果を思うと納得できる。ベニューには、初めからこうなる事が分かっていたのかもしれない。ベニューは住み慣れた村へ留まり、ライゼルは見知らぬ土地へ旅立っていく。田舎町に違和感を与えるのは、駆動車と大荷物を携えたライゼル。その土地に相応しくないのであれば、それに相応しい場所へ行けばいい。ここに長く留まるのも芳しくない。

 ベニューを降ろし駆動車も次の目的地へ向き直る。あとは出発するだけだというのに、ライゼルの多すぎる荷物を決してベニューは預からない。ベニュー自身の言葉通り、ライゼルは飽くまで聴取に出向くだけだ。こんな荷物は不要であり、王都に着くまではビアンが面倒を見てくれる。食料も何も心配要らないのだ。であれば、取り上げて然るべき、加えて、叱るべきなのだ。だが、ベニューは先同様に行動の選択を間違える。為すべきことを為さない。今日のベニューは、彼女らしくない。

「じゃあね、いってらっしゃい」

「…うん、行ってくる」

 弟のライゼルも、らしくない。勝手にしろと言われ、行動の制限を解除された上、自由を許されたのだ。ライゼルとしては願ってもない僥倖。これで存分に自身の野望を叶える事が出来る、十年来の野望を。王都までの御遣いを済ませば、ライゼルを縛るものは何もない。

では、何故少年の顔は浮かないのだろう? 少年がその胸に抱いた望みは、フィオーレの皆と天秤に掛けても叶えたい夢のはずなのだ。今更、喧嘩別れを悔やむ程、ライゼルの意志は弱くない。先日のテペキオンとの戦闘で、大怪我さえも顧みない程の野心家であるというのは既に証明済みだ。

 とは言え、ビアンにとってそれは考慮する懸案ではない。ビアンは職務に忠実に、事態の報告をせねばならない。未知の能力を持った人物が国内で悪事を働くという事態は、看過する訳にはいかない。すぐにでも王国規模で対策を講じなければならない。それに比べ、姉弟喧嘩は無視しても構わない些事だ。役人は民事不介入が原則だと言わんばかりに、一切干渉しない。姉弟喧嘩の仲裁を買って出る程、ビアンも暇を持て余していない。

「では、帰り道には気を付けるように」

 ベニューをボーネに残し、ライゼルを乗せた駆動車は次の経由地へ走り出す。徐々に小さくなっていく姉の姿。思えば、姉と離れて過ごすのは初めてかもしれない。これが何という感情なのかは分からないが、鳩尾の辺りがキュッと締め付けられた気がした。

「何も訊かないの?」

 微かに呟いたライゼルの問いは、彼とは対照的に威勢良く鳴らされる車輪の音に掻き消される。ビアンは一刻も早く王都に辿り着かねばと車を飛ばす為、走行音は大きくなるし、ビアンもライゼルから意識が逸れる。大声を上げればビアンに届くのだろうが、それはそれで気恥ずかしさもあり、さすがに気が引けた。ただでさえ、ビアンには世話になっている。姉弟喧嘩の仲裁を頼むには、ライゼルはもう少し面の皮を厚くしなければならない。だが、そんな鉄面皮を持ち合わせているなら、仲違いする前に不和の原因を姉本人に問うている。

 考えても出ない答えならば、こうやって思案を巡らすのは時間の無駄かもしれない。出来る事は、罪悪感と後悔に苛まれる事くらいである。ライゼルは独りになった後部座席で、一人深いため息をついた。

 

 同じ頃、ライゼルを見送り、ベニューの口からふと溜息が漏れる。ちょっとした罪悪感と、それに対する後悔の念の混じった溜息。心の中にじくじくした膿が溜まっているような感覚。吐き気がするのに嘔吐できない感覚に似ているかもしれない。それなのに、吐瀉物は間違いなく自身の内にあると意識させられるのだから、非常に耐えがたい感覚だ。

「…行っちゃった」

 ああは言ったが、特にボーネに用がある訳でもない。ここに来たくて降りたのではなく、ライゼルと一緒にいるのが精神衛生上よろしくないと判断された為だ。あれ以上一緒に居たら、泣き面を晒すだけでは済まなかっただろうから。これまで必死に装ってきたお姉さん然とした皮が、ボロボロと剥がれ落ちてしまっていた恐れだってあった。その危険性を孕んで同伴するくらいならと思い切って降りたものの、本当にここにいる理由はそれ以外にない。全く用事がない訳でもないが、晴れない心持のまま済ませたいと思う雑用はない。

「違うなぁ」

 思わず口を吐く否定の言葉。本当はそうじゃない。これからどうしようだとか、急に変更してしまった予定の消化などに思う所はない。そんなものはいくらだって取り返しがつく事案だ。今日一日を無駄に費やしたからと言ってなんだというのだ。これまで家の事を一手に引き受けてきたベニューが、雑用程度で後れを取る事はない。例え、一週間家を空けたとしても、三日も本気を出せば、相応の仕事量を終わらせる事くらいできる。

 ベニューが心を痛めているのは、そんな他愛のない事ではない。未だ実感の湧かない弟とのしばしの別れ。こればかりは、しっかり者のベニューであってもどうしようも出来ない。もし今、急いで追い掛ければ、間に合うだろうか。運よく停まっている事だってあるかもしれない。でも、

「間に合うって何だろう?」

 例え、追い掛けたとして、追い付いたとして、ベニューはライゼルに何と言えばいいのだろう。

 結局、ライゼルは王都へ出向かねばならないし、どうしても数日は村を離れなければならない。では、「自分が村に残り、家を守っているから、必ず帰って来るように」と念押しでもすればいいのか? その念押しに果たしてどんな意味があるのだろう? それが本当に自分の本意なのだろうか? 分からない事だらけだ。自分でも心の整理が出来てないと自覚できる。

「ライゼルに帰ってきてほしいのかな、私」

 そう独り言ちて、村の入口の柵の脇に腰かけ、膝の上に置いた手提げ袋の口を開ける。中からふわっとした甘い花の匂いが広がり、優しく鼻孔をくすぐる。常温で香りを発する香料を入れた袋であり、どこへ行くにも手放した事のない匂袋。母から譲り受けた、『フロル』の肩書以上に大切な物。

 手のひら大の匂袋を、やや乱暴なくらいに力を込めて抱きすくめる。同時に、押し付けた胸の辺りから、先より強い匂いが広がる。そのおかげで、少し心が安らいだ。この香りに包まれていると、いつもの自分に戻ってこられる気がするし、事実そうであってほしいとも思う。この匂袋は、亡き母フロルの忘れ形見なのだ。

 弟はこういう物を一切持たない。幼くして母を亡くした子供なら、その思い出に縋りたいという気持ちは、ベニュー以上に強いはずだ。母が没したのが、ベニュー7歳、ライゼル6歳の時である。特にライゼルの場合、母を亡くした経緯を考えると、より顕著なはずなのだ。

 だが、ライゼルは忘れ形見も持たず、更には思い出の詰まった家さえも飛び出そうとしている。姉弟はこれまでの生涯をあのフィオーレの家で過ごした。暑い日も寒い日も、季節が何度巡っても、二人が帰るのはあの家だった。言うなれば、あの家はベニュー達の全てなのだ。これまでの思い出もこれからの生活の糧も、全てはあそこにある。あの家を、あの土地を離れるという事は、それら全てを捨てる事と同義と考えられる。

「ライゼルは、そうなのかな」

 これまで弟と一緒に過ごしてきた。早くに母を亡くした事で、一般より早く大人にならざるを得なかったベニューであったし、弟の母代わりとまではいかなくても面倒を見てきた。ライゼル自身も素直な性格であり、村のみんなの助けもあった事で、本当に自慢の弟に育ったと思う。言葉遣いは母に似てやや乱暴な所もあるが、心根はとても優しい男の子。

 体が大きくなってからは、求められれば嫌な顔一つせず力を貸し、村の誰からも必要とされていた。夕食時にはその日の出来事や村民とのやり取りを嬉しそうに話す事もままあった。銀貨を大目にくれただの、野菜を分けてもらっただの。その時の弟は、決まって笑顔だったことを覚えている。ずっと同じ時間を過ごしてきた弟は、ベニュー同様にフィオーレの村が大好きなのだと思っていた。

 しかし、知らない内にライゼルの興味は外に向き、都会で名を馳せる事を目指すようになっていた。その事自体は決して悪い事だとは思わない。だが、想像していなかった。弟が自分の元を離れ、家を、村を出ていくという事を。まだそういう点では、ベニュー自身も子供だったのかもしれない。昨日の姉弟喧嘩で打ち明けられるまで、弟の抱いている劣等感についぞ気付かなかったのだから。母や姉の存在が、弟を苦しめているという事を。

 自身の想像力不足に気が滅入る。が、どれほど悔いた所で、結果として弟は王都へ向けて出立したのだし、もう手遅れなのだ。次にいつ会えるかも、彼が帰ってくるかどうかさえも分からない。連絡の取り様もないから、ベニューに出来る事は、ただ弟の行く末を祈る事ばかりである。この鬱屈した気持ちを解消する手立ては、今の所はない。

 ただ、だからと言って、自分もいつまでもここにいても仕方ない。我が家のあるフィオーレの村に帰ろう。そう思った矢先の事であった。

「おい、『ライゼル』はどこにいる?」

 立ち上がったベニューの目の前に、いつの間にか見知らぬ大男が仁王立ちしている。身の丈はベニューの倍以上あるだろうか、まるで巨木かと見紛うほどの体躯を有する男。膨れ上がった全身の筋肉がその男の強さを誇示している。見慣れぬ衣装の上からでも、その屈強な肉体は尚主張している。

(見慣れない装い、身分証(みぶんしょう)もない。でも、つい最近どこかで見たような)

 その大男は、顔は正面に向けたまま視線だけを下げて、自身の落とした影の中のベニューを見やる。その大きすぎる体格の影響もあるだろうが、ベニューがその見知らぬ男に畏怖したのはそれだけが理由ではない。男の顔に感情らしいそれが見当たらなかったから。路傍の草でも見るかのような無感動な様子。質問を投げかけているくせに、ベニューをまるで人として認識していないかのような無関心さ。話しかけられているのに、無視されているという矛盾を孕んだ違和感。

 しばし、質問の意図を吟味するベニュー。ライセルはどこにいるのか。素直に文章を捉えれば、居場所を尋ねている事になる。だが恐らく、注目すべき点はそれでなく、本質はそこにはない。

 この男は何故、ライゼルを探しているのか、いや、それ以前に何故知っているのか。村の人間以外に名前を知られているというのは怪しい。ライゼルは、フィオーレでこそ誰からも手伝いを請われるが、隣村にまで名の知れた有名人ではない。ベニューさえ、二代目フロルと呼ばれる事はあっても、本名で呼ばれる事はほとんどない。

 それを踏まえると、この素性の知れぬ巨漢に対し、なんと答えていいのか分からない。反面、素直に答えるべきでないという事は、何となく察する事が出来た。この男は善意や厚意を持ってライゼルを探している訳ではなさそうだ。返答には細心の注意を払わなければならない。

「すみませんが、わかりません」

 虚言だと悟られぬよう、出来るだけ丁寧に存ぜぬ旨を伝える。人は嘘を吐く際に余計に語りすぎるものだ、という事をベニューは心得ている。相手に納得してもらおうと言葉を尽くしてしまう心理が働くのだそうだが、知らぬというなら知らぬのだ。伝える言葉はそれだけでいい。

 男はその返答をどう捉えたのか、相変わらずの無感情の視線をベニューに向ける。その射殺さんばかりの注視は、ベニューに身じろぎ一つ許さない。迂闊な挙動を見せれば、心を見透かされそうな気がした。

 そして、ベニューの返答後、たっぷり間を取ってようやく言葉を紡ぐ。

「何故だ? お前はライゼルを知っているだろう?」

 この問いに、ベニューの直感が危険信号を感知する。男はライゼルとベニューの関係を知っている。あるいは、一緒に居るところを見た事がある。おそらくは後者。しかも、ごく最近。今回、ライゼルと一緒に村の外へ出たのは、久方振りであった。という事は、この男はつい先程までライゼルを尾行して来ていたのではないだろうか? 可能性は十分にある。

 どうしたものかと思案し沈黙を守るベニュー。虚言が見透かされたとなると、相手もどんな対応を取ってくるか知れたものではない。こちらに恭順の意がない事を知れば、大男の取る行動はおそらく、

「どうした? 何故答えない?」

 男はベニューの予想通り、その大きすぎる腕を伸ばし掴み掛ろうとする。が、元々その男に対して警戒を抱いていたベニューは、咄嗟にその動きを察知し回避する。もう問答の余地はない。男は得たい情報の為に実力行使に及んだのだ。

(逃げなきゃ)

 身の危険を感じたベニューは、柵を迂回し村の中に向かって駆け出す。頼れる人間がいる訳でもないが、ベニューを見知った人間くらいは居るだろう。ベニューが二代目フロルだという事は、ボーネの大半の人間が知っている。きっと匿ってもらえる。そう期待して逃げ続ける。ベニューが逃げ出したのを見て、男も村の中へ進入してくる。

「助けてください。追われてるんです」

 そう大声を上げながら、豆の特産地ボーネを駆け回る。

 村の景観はフィオーレのそれとさして変わらない。家屋も同様の建築様式であるし、生活の水準もほとんど差がない。隣村のフィオーレで買い求めたダンデリオン染めを着回す習慣も同じくである。

 ただ、両者の差異について特筆するなら、その最たるものとして豆の木が挙げられる。この地に人々が住み着く以前の大昔から生えていると言われる、村の外からも見える大きな豆の木。ボーネを訪れる人は、この巨大な豆の木を目印にしてボーネを目指すと迷わずに済む。このように、異様な成長を見せる植物は各地にいくつか存在し、土壌の豊かな証と信じられている。そのどれもが縁起物として扱われ、その地へ人々が集まってくる要因とも言われている。

 そして、その豆の木の膝下には、フィオーレの花畑に代わり、豆の木を中心にした広大な豆畑を望む。豆の村に相応しく、ボーネの生活は特産品である豆に根差している。豆がボーネの経済を回しているのだ。

 加えて、大きな違いは、フィオーレにはない商店がある事。近隣の村々からも頻繁に来客がある。それもあって、この周辺では比較的に人口の多い村と言える。人通りは多いので、ベニューの期待するように作用してくれるかもしれない。

 ボーネの人間達は、慌てて走ってくるベニューを見つけて、初めは困惑顔を浮かべる。が、その少女の後ろを追って来る巨漢の男の姿を認めて、ベニューを案じてくれる。何か騒動が起きているのだとすぐに察してくれた。

「こっちへいらっしゃい」

 普段贔屓にしている反物屋のおばさんが家に招いてくれる。この商店は近隣の村に多くの顧客を抱える村一番の大きな商店で、店主であるおばさんも気風のよく、面倒見のいい人物だ。ベニューが暴漢に襲われているとあれば、理由も聞かず匿ってくれる。ありがたい話だ。

 おばさんは、我が身でベニューを庇うようにして目隠しになる。ベニューを引き寄せる力強さが、ベニューに安心感をもたらす。我が子同然に助けてくれる店主に、感謝の念が絶えない。

 おばさんも咄嗟の事でベニューを匿ったものの、事態が分からないでは手助けのしようがない。緊迫した様子は見せつつも、ベニューに優しく尋ねる。

「二代目、あいつは誰だい?」

 その問いにベニューも何と答えていいか。身分証(ナンバリングリング)も身に着けておらず、一切の素性が知れない。ただ、はっきりしているのは目的がライゼルという事だけ。

「私にもよく分からないんですけど、その」

 おばさんの厚意に甘え、客を迎える為の店舗に飛び込み、一安心と安堵したのも束の間。天井が軋み、細かい木片がぱらぱらと二人の頭に降ってくる。気付けば、男の大きな体が間口を塞いでいた。男は止まらない。まるで暖簾を手で避けるような気安さで、商店の軒先をぶち壊す。大きな音を立てて壁が割れたかと思うと、掴んだ先程まで軒先だったものを、ベニュー目掛けて投げつける。

「止してください」

 身軽に躱すベニューに当たらなかったが、壁に架けられた飾り棚に激突し、瓦解。商品棚に並べられたきめ細かい鮮やかな柄の反物が、棚から落ちて地面の泥にまみれる。

「なんて罰当たりな真似をするんだい!」

 おばさんの大声での叱責も耳に届いていないのか、ひたすらベニューだけに迫る。この巨漢には、一般的な良識や罪の意識など備わっていない。ベニュー以外は目に入らないと言わんばかりに、追従の妨げとなる家屋を次々に破壊しながらベニューを追いかける。

「ねぇアンタ。ふざけた真似も大概にしな」

 おばさんがベニューを付け狙う男を引き留めようと腕を引っ張るが、男の猛進は一切緩まない。どころか、歩く際の腕振りだけで、おばさんの制止をいとも容易く振り解く。そうして、巨漢の腕力に引っ張られたおばさんは、体勢を崩し、俯せの状態で地面にその身を打ち付けてしまう。

「あいたっ」

 これではまずい。このままでは、ご厄介になった先が全て倒壊してしまう。それに、親切心で庇ってくれた人達が大怪我を負う羽目になる。それはベニューも望まない事。この異様に大柄な男は、同じく異様な感覚の持ち主なのだ。常識が一切通用しない。止まらない。止まらない。ならば、このままここに身を置くのは得策ではない。

「こっちです」

 せっかく身を隠せた家屋であったが、迷惑を撒き散らす訳にはいかない。店舗奥の居間にいるベニューは、敢えて男を挑発する。正直、何故自分がこのような目に遭うのかは分からない。巨漢がライゼルの所在を調べている以外に情報がない。でも、教えればライゼルに危険が及ぶのは容易に想像できる。それだけは何としてでも回避しなければならない。

「あなたをライゼルに会わせる訳にはいかないんです!」

 面と向かってきっぱりと宣言する。ライゼルを守るのは姉である自分なのだ。望んで旅に出た弟に、災いの火の粉が降りかかってはいけない。

「どこだ、牙使い(タランテム)のライゼル?」

「教えないと言ってます。諦めてください」

 ベニューは反物屋の中を突っ切って、勝手口を出て裏路地まで向かう。男も逃すまいと、先程の商店の勝手口まで追いかけ五指を伸ばすが、ベニューはそれを寸でのところで回避する。狭い戸口であろうが、男は煩わしさを感ずる程度で、その勢いは全く衰えない。ベニューを捉えんと振るわれる腕は、お構いなしに家屋の外壁を貫通する。

 路地裏に出たベニューは、すぐさま村の外に向かって走り出す。店舗と隣の民家との間はそう広くなく、ベニューの体格なら有利に立ち回れる。間仕切りを無視して店舗から一直線に突進してきた男だったが、ここに来てその動きに制限が掛かる。これまで存分に振るってきた怪力であったが、暴れようにも予備動作を取れるだけの空間を確保できない。怪力を生かす為には、密集する家屋を全壊させればいいだろうが、そうしてる間にベニューに逃げられるという事は、男にも理解できているようだ。男は辺り一帯を破壊する事はせず、移動の妨げとなる物だけ押し退けていく。

 狭い中でも男は執拗にベニューを捉えようとする。男の腕はどこまでも伸びてきそうなほどに長いが、ベニューの目はゆうに見切る事が出来る。ライゼルの俊敏な動きをいなす事が出来るベニューだ、そう簡単に掴まったりはしない。男にとって身動きの取りづらい路地裏であれば尚更だ。

 裏路地に積み上げられた木箱の陰に身を潜めたりしながら男の追撃を凌いでいく。その程度の運動能力を有しているという自負がベニューにはある。

 だが、問題はどの程度の期間を逃げ続けなければならないのか、という事。常に相手の行動に注意を払い、神経を張り詰めていれば、これまで通りに逃げ遂せる事は出来るだろう。しかし、その大男を連れてフィオーレに帰る事は出来ない。男は間違いなく、ライゼルの行方を訊き出すまでベニューを追い続ける。先のように形振り構わずに家屋を破壊しながら。

 一旦はボーネで姿を眩ませる事が出来たとしても、フィオーレまでは身を潜める事の適わない開けた一本道。であれば、大男が諦めてボーネを離れるまで帰れない。いや、大男はきっとベニューを見つけるまで、ベニューが潜んでいそうな建物を、居る居ないに関わらず破壊し尽すだろう。それは、最悪の事態に違いない。

 それを踏まえて、ベニューはボーネの村を離れ、外へ逃げる事を決意した。ここに留まる事は決して得策とは思えない。あの男がもたらすであろう被害を考えるといたたまれず、これ以上迷惑を掛けられない。

 と言っても、逃げるばかりという訳でもない。ベニューには、防衛手段の当てがある。国内においての暴力事件は、各地に駐屯している治安維持部隊アードゥルが取り締まっている。平時において国内唯一の武力行使を許された組織であり、こういう事態に備えて訓練を積んでいる。過去の内戦終結を契機に解体された軍隊の代わりに、国家の治安維持を一手に担っている組織、それが治安維持部隊アードゥルである。

 最寄りの駐在所は、このボーネから東へ進み、ソトネ林道、オライザ村を越えたミールの街にある。だから、ベニューは、早く部隊と遭遇できるように、ミールのある東へ向かってひた走る。彼らが駆け付ければ、あの大男も法に基づき、身柄を取り押さえられるだろう。そうなれば、一安心だ。フィオーレに残るベニューも、旅立つライゼルの身も。

 ボーネ村の誰かが上げたのだろう、村に設置された高台から烽火(のろし)が先程から天高く昇っている。ベスティアでは、有事の際に烽火(のろし)を上げ、それを認めた最寄りの治安維持部隊が駆けつけてくれる事になっている。同国最速の連絡手段は、おそらく駐屯地にも届いただろう。あとは、それまで自分の身を何とかして守らなければならない。

 だが、ボーネやフィオーレのような辺境の地には、派遣されるのにも時間が掛かる。辺境の地である故に、比較的に治安も良く、普段からこういった事態にならないのが裏目に出てしまった形だ。ベニューの戦いは、すぐには終わりそうになく、先は長そうだ。

 ボーネの人達が男の怪力に慄き、何もできずに注目している中、ベニューは出来るだけ大男の目に触れるように開けた箇所を走り抜ける。そうすれば、おそらく大男はベニューを追い掛けて、村の外までやってくる。村の外まで誘導できれば、もう人的被害は出ないはず。

 村民の妨害もない為、無表情の男はベニューを見失わず、村の外まで追走する。男も特別に足が速いという事はないが、振り切れるだけの走力がベニューにないのも事実。見渡す限り、ボーネ村と他の集落とを行き来する人もおらず、ボーネ村からしばらく二人だけの追いかけっこが続く。

 村を出てからは、想像通りの開けた平坦路が続く。ここまで来てしまえば、もう策も何もあったものではない。ただひたすらに走り続けて、治安維持部隊の到着を待つのみ。ボーネから先の土地勘に明るい方ではないが、近所同様の一本道の街道を辿る事は承知だ。この道の先できっと治安部隊と遭遇できるはず。

 肩に下げた手提げ袋を揺らしながら、懸命に走り続けるベニュー。数十m後方を着かず離れず男が追う。

 安全圏を確保している事を確認し、手荷物が少なくて助かったと自嘲気味に息を漏らす。これから治安部隊と鉢合わせるまでどれくらい時間が掛かるか分からない。まだしばらくは走れそうだが、それも比較的に身軽な格好だったからと言える。こういう事態を憂慮しての事ではなかったが、軽装はベニューに有利に作用した。

(お守りのおかげかな)

 だが、時として運命は、人を悪戯に翻弄する。先の打算が安心以上に慢心を生んだのは拭えず、僅かに生じた心の隙が、言葉通りにベニューの脇を甘くさせた。

「あっ」

 ベニューの肩に抱えられていた手提げ袋の口が知らぬ間に開いており、そこから母フロルの形見の匂袋が転げ落ちる。落下に気付き目では追うものの、必死に走り続ける脚はそう簡単に止まってくれない。疾走を止め、後方に落としてしまった匂袋へ振り向いた時には、既に男が随分と距離を詰めていた。元々、走り続けていればこそ逃げ遂せたであろう安全圏である。取りに戻れば掴まる事は瞬時に理解できた。

 が、判断は追い付かない。取りに戻るか、匂袋を諦めて逃げ去るか。

 もちろんベニューにも分かっている。今、自分が天秤に架けているのは、形見の匂袋と自分の命である。悩むような問題ではない。世の中は命あっての物種。ここでもし、あの大男の怪力の前にその身を晒せば、絶命もあり得る。それは先程の男の突進振りを見ているから十分に理解できている。

 それに、今は諦めたとしても後から回収する事だって十分可能だ。開けた土地で何の目印もない為に捜索は困難かもしれないが、それでも再発見が不可能という事はないだろう。

そんな事は分かっている。分かっているのだ。

「分かってるよ。だけど!」

 ベニューにとって、家族の思い出が占める比重はあまりにも大きかった。これまで片時も肌身離さずにいた事が仇になったと言うのは大袈裟かもしれないが、それを手放すという事は、ベニューをこの上なく心許無くさせる行為となってしまっていた。彼女にとっての家族とは、彼女の全てと言っても過言ではない。この匂袋以上に、空虚な心を埋められるものをベニューは知らない。これ以外の心の支えを持ち合わせていない。唯一の肉親のライゼルが村を離れ、亡き母の忘れ形見まで手放してしまえば、最後に彼女に残ったものは…

「もう、なくしたくないの! これ以上、家族がいなくなるのは嫌なの!」

 すぐさま匂袋の元へ駆け寄り、拾い上げ土埃を叩き落とす。地面に落として少し汚れてしまったが、それでもなお、お気に入りの花の香りを仄かに放つ。花の香りが、彼女の鼻孔を優しくくすぐり、記憶の彼方へと誘う。瞬間、少女の頭から迫りくる現状への関心が消えた。もはや、男の脅威は心の中にない。

「…ごめん、なさい。母さん、ごめんね。わたし、ライゼルをひとりぼっちにしちゃった」

 少女はその場に頽れ、母の忘れ形見を抱きすくめ、謝罪の言葉を繰り返す。それは約束を違えてしまった事への謝罪。在りし日の親子のやり取りを思い出しながら。

 その約束は、少女がその匂袋を母から譲り受ける時に交わしたものである。

 ベニューが6歳の時分、ちょうど母が他界する一年前のある日。ライゼルが母の言い付けを破り、外へ遊びに出掛けた。母はその日、ダンデリオン染めの出荷に追われており、忙しそうにしていた。というのも、ちょうど市場が賑わう繁忙期であった事に加え、当時はまだ交通網が整備されておらず、その日偶然フィオーレを訪れていた行商への納品をし損じると、一家は路頭に迷う事になってしまう状況だった。その為、母は手が離せなかったのだ。

 故に、母はその事を姉弟に言い含めて、家の中で大人しくしているよう厳命した。姉弟が外出すると、出荷の妨げになるし、運搬作業に巻き込まれる事故の危険性もあったからだ。

 だが、ライゼルは言い付けを守らず、外へ出掛けた。近所の花畑に出掛けたので事故の危険はなかったが、結果的に母の言い付けを守らなかった。母にこっぴどく叱られるだろう事は想像に難くない。

 一方、ベニューはと言うと、しっかり言い付けを守り、家で大人しく留守番をしていた。何なら、その間に土間の掃き掃除も率先してやった。我儘なライゼルと違い、ベニューは幼い頃から自身を律する事ができる利発な子供だった。

 しかし、母の鉄拳制裁が真っ先に向けられたのは、他でもないベニューだった。ベニューは当初、自分が叱られる理由に覚えがなかった。ライゼルが躾けられるというのなら充分納得できる。ライゼルは自分の欲求に従い、約束を反故にし、外へ遊びに出た。しかし、ベニューは母の言う通りにしていたのだ。ベニューはこの理不尽に耐えかねて、大声で泣きじゃくった。

 結局、ライゼルは出荷を終えた母に連れ戻され、もう二度と自分勝手はしまいと猛省する程に説教を受け意気消沈したが、それでもベニューは泣き止まなかった。大好きな母の言う通りにしていたのに、その母から怒られた。それが、ベニューにはどうしても納得できず、悔しかったのだ。

 ライゼルに教育的指導という名の体罰を念入りに施し終えた母は、泣き止まないベニューの元へやってくると、もう一発平手打ちを見舞った。容赦のない乾いた音が響く。

 理解できない仕打ちにベニューの眼は見開かれた。何故、自分が咎められているのか、ベニューには何が何だか、頭がぐちゃぐちゃになった。だが、そんな状態の娘相手にも、母は躾の手を緩めず甘やかさない。

 母曰く、ライゼルは独りぼっちだった、と。母は、その一点を咎めているのだと諭す。運搬作業をしていた広場に居なかったとか、怪我するような遊びではなかったとか、そういう問題ではなく、ライゼルを、加えてベニュー自身を独りぼっちにしたのがいけなかったのだという。

 ベニューとライゼルはお互いが無二の姉弟である。母は女手一つで家計を切り盛りせねばならず、そうなると姉弟は子ども二人だけになる。母としては、二人でいる事は問題視していない。言い換えれば、二人きりの状態を不安視していない。一番いけない事は、姉弟が離れてお互いが独りぼっちになる事だと考えていた。

『誰に似てしまったやら、あのスカタンは何にでも興味を示して、どんどんいろんな所に行っちゃうだろうさ。そうなったらお姉ちゃんのあんたが付いていてあげなきゃ。独りぼっちになるってのは一番いけない事なんだ。あんた達が独りぼっちで寂しい思いしてるのが、母ちゃんは一番悲しいんだよ』

 幼いベニューには、この言葉の真意が伝わらない。それでも、母を悲しませまいとする心は確かに芽生えた。

 それを悟ってか、母は更に力強くベニューを叱咤激励する。

『二人一緒なら何も怖い事なんてない。どんなに大変な事だって、あんた達二人なら乗り越えて行けるんだよ。だからさ』

 そして、つい先程まであれほど厳しく叱り付けたかと思えば、今度はいつもの、ベニューの大好きな優しい笑顔で、ベニューをぎゅっと抱きしめる。

『あんたがライゼルの傍に居てあげて。あの子はどうしようもないワルガキだけど、アタシ達の大事な家族なんだからさ。お姉ちゃんならできるだろ?』

 そう言って、首に下げていた匂袋をベニューに手渡した。フロルがいつも身に付けていた匂袋で、ベニューが何度おねだりしても煙に巻いて与えなかった代物だ。だが、この日を境にフロルからベニューに譲り渡された。

 あれから十余年以来、匂袋はベニューが挫けそうな時に励ましてくれる心の支えであり続けた。この香りを纏っていれば、普段通りの、いつも通りの自分でいられると思っていた。ライゼルのお姉さんでいられると。弟からは悪態を吐かれながらも、心の奥では信頼され尊敬される母フロルのような強い女性でいられると、そう思っていた。

 しかし、本当は違った。心の拠り所にすると言えば聞こえは良いが、実際は縋っていたのだ。母に、そしてずっと傍にいてくれた弟に。母が亡くなってからも、ベニューの傍らにはずっとライゼルがいた。ライゼルがいたから、ここまで頑張り続けてこられた。背伸びをし、強がり、虚勢を張ってこられた。自分より弱く頼りないライゼルこそが、ベニューの心の支えだったのだ。守るべき家族がいたから、姉は自らを律し、強く保とうとしてこられた。

 だが、今のベニューは独りぼっちだ。傍らには誰もいない。母との約束の意味が、永い時を経てようやく理解できた気がする。独りぼっちのベニューは無力だ。もう独力で立ち上がる事すら適わない。

 彼女はただ感情のままに、二代目と言う立場もなく、ありのままに嗚咽を漏らし涙を流す。先日の襲撃事件が弟を奪い、その事実により湛えた涙が光を奪う。これからの展望どころか目の前の景色すら見えない。光の乱反射で景色が歪む。加えて、自分の吃音がうるさくて、自分の周りの状況が一切分からない。無防備極まりない。

 そう彼女が感知していないだけであって、乱暴者は確実に距離を詰めて来ている。男に動揺はなく、彼女の様子が急変した事などお構いなく、その豪腕でベニューの細腰を掴まんとする。

 もし、彼女が大男の姿を視認し続けていたら、迫りくる恐怖に押し潰されそうになりながら、その最期の瞬間を覚悟する事になっていたかもしれない。だが、実際にその覚悟は不要だった。先の、視認していたら、という『もし』があったなら。もう少し早くに、余計に涙を流す事になっただろう。しかしながら、そうなる理由をまだ彼女は知らない。既に感情が思考を支配し、敵との距離の概算が不可能になっており、いつ自分が危険な目に晒されるか、推測すらできないのだ。知る由もない。

 だが、推測は不要。結果から言おう、彼女の捕縛は未然に防がれた。彼女の傍らに立つ、【牙】を携えた弟の手によって。

「ベニュー、大丈夫か?」

「…え?」

 弟の声がする。もう会えないかもしれないと思っていた弟の声。声が聞こえる程の距離に、その人物が確かにいるのだ。

「ライゼル? ライゼルが、いるの?」

 涙を拭い、面を上げて声のする正面を見やると、見慣れたような、懐かしいような、弟の後ろ姿があった。光の乱反射で視界がぼやけるが、自分を庇うようにして立つのは間違いなく、ライゼルだ。

「おう、助けに来たぞ!」

 どこか奇を衒ったような、ぎこちない返答。まだ先の姉弟喧嘩の件を引きずっているのだろう。しかし、ベニューもそこまでは気が回らない。違う、そんな事はもうとっくに忘れてしまった。彼女の心にあるのは、歓喜。またこうして姉弟が再会できた事が、何より嬉しいのだ。

「ライゼ…」

「見つけた。幅広剣の【牙】、『巨人の足(アルゲバル)』!」

 姉弟の再会を喜んでいたのも束の間、大男は目的のライゼルの姿を認めると、標的をそちらに移し、攻撃を仕掛けてくる。そうなのだ、そもそもこの大男はライゼルを探していたのだ。ライゼルとは問答もなく、すぐに戦闘が開始される。

 ライゼルは状況を全く呑み込めていないが、気に障るのはその自身に対する呼称。

「だからなんだよ、そのアルなんとかって。昨日のテペキオンといい、お前といい」

 それを聞いたベニューは、ようやく大男の素性に見当が付く。何故、見知らぬ男がライゼルに執着しているのか。それは、昨日のテペキオンなる人物から聞き及んでいたから。つまり、この常識知らずの乱暴者は、先日の襲撃者の知り合いなのだ。思えば、昨日のテペキオンもこの男も身分を示す首飾りを付けていない。そう考えると合点がいく。

 ライゼルをここまで同乗させ連れてきたビアンは、車から降りるとベニューの傍らに駆け寄り、動けないベニューを抱え起こす。

「無事で何よりだ。にしても、あの桁違いにデカい男は誰だ?」

 ビアンに抱えられたベニューは、小さく会釈して礼を伝えると、すぐさまライゼルについさっき気付いた事を伝える。

「ライゼル、気を付けて。その人、昨日のテペキオンって人の仲間だよ。ライゼルを付け狙ってるみたい」

 姉は、謎の人物をライゼルに会わせたくないと思っていた。だが、それはある意味、勝手な我儘だったのかもしれない。ライゼルの身を案じ、危険な目に遭わせたくないとし、我が身を楯にしようとした事。

 だが、それは間違いだった。真に弟の事を思うなら、彼と共にあり、共に困難に立ち向かう事こそが家族として正しい在り方なのだと。そうだ、母フロルは言っていたではないか、二人一緒なら怖いものは何もないと。

 ならば、ベニューが為す事はただ一つ。ライゼルと協力し、降りかかる災いを祓う事。

「ライゼル、その人はものすごく力が強いの。だから、真っ向から立ち向かっちゃダメだよ」

「おう」

 肩越しにそう応えるや否や、もう直前にまで迫っていた大男の突き出した拳を、幅広剣の両端を両手で支えた構えで受け止める。攻撃に備えたものの、大男が発揮する怪力は、ライゼルを剣の防御ごと吹き飛ばす。衝撃をいなし切れなかったライゼルの体は、宙に浮かんだ。

「うわっ」

 空中で逆上がりの形に一回転し、体制を整え足元から着地する。身軽さを披露したライゼルだが、大男は拳を放った直後にまた右腕を振り回し、ライゼルに迫っていた。直撃すれば、ライゼルも無事では済まない。

 だが、その攻撃力を有しているのは敵だけではない。ライゼルも【牙】の能力を有している。直撃を避けたいのは向こうも変わりない。ならば、勝敗を決するのは何か。

「ライゼル、撃ち逃げだよ」

「あいよ!」

 ライゼル目掛けて大男は拳を振り下ろすが、これは当たらない。回避後、隙だらけの男の側面に回り込み、剣を打ち込む。渾身の一撃。大男は体勢こそ崩さないが、激痛の所為か一瞬だけ眉根が寄せる。回避も危なげなくやれたし、この一発も間違いなく効いている。動作の大きい巨漢相手に、身軽なライゼルの撃ち逃げ戦法は有効だ。

 男は拳を振り下ろしたままで、次の動作に移ろうとしない。それをライゼルは好機と見た。

「遅い、先手を取る!」

 次は先んじて攻撃を仕掛けるライゼル。頭越しに大きく剣を振りかぶって斬りかかる。俊敏な全身の運びは天賦の才の為せる業か、振り上げた剣は体の芯を軸に一直線を模る。重力に乗せて真っ直ぐに振り下ろせば、その切れ味は最大威力を発揮するはずだった。だが、振り掛かる寸前の刃渡りを大男に掴まれる。

「おバカ! 調子に乗るんじゃないの」

 ベニューの叱責通り、ライゼルは失態を犯していた。相手の攻撃以上に先んじてしまえば、相手はもちろん防御に回る。おそらくは、この巨漢もテペキオンに負けず劣らずの戦闘経験を持っているのだろう。巨漢はライゼルの攻撃に的確に対応して見せた。正攻法の正面の打ち合いで、ライゼルが大男を圧倒できる道理はない。飽くまでも、順守すべきは撃ち逃げだ。

「ッなろっ。放せ」

 掴まれてしまった剣を支点に、振り子のように身を投げて跳び蹴りを決める。これは、身軽なライゼルだからこその芸当で、下手をすれば蹴りを放つ前に振り解かれていたかもしれない。

 得物を掴まれたものの瞬時に攻撃に転じて見せ、見事に大男のこめかみに蹴りを直撃させる。その頭部への衝撃で男は掴んだ剣を放し、俄かによろめく。咄嗟に振り子の回転のままに身を翻し着地を決め、真横に一回転し、予備動作に入る。

 予備動作と記したが、動作が始動して終結するまでに、時間は然程要さない。敵との力量差を見極めたライゼルは、とっておきの一撃で勝負を決するつもりでいる。巨漢がよろめいたこの一瞬間を逃す手はない。

「喰らえ!」

 攻撃動作は淀みなく順を追って続く。姿勢制御、着地から、右足を折り曲げて回転の軸、左足を伸脚し回転に勢いを与える為の補助、両手は【牙】へ星脈全開。大男が立ち眩んでいる間に、ライゼルは独楽のようにくるくる回り、その運動は急速に遠心力を帯びていく。

地面すれすれまでに姿勢を低くし、霊気を吸い上げようとしているライゼルの発光現象を、この大男は知覚できていただろうか?

 牙使いは、【牙】を発現させる時、身体中の星脈を解放し、地面から霊気を吸い上げる。霊気には、牙使いの望む武器の形を再現しようと、固有の星脈の特徴に同調しようとする性質がある。地殻に存在する霊気は全て同質だが、星脈に取り込まれた段階で、その者の制御下に置かれる。言ってしまえば、その者が自在に扱える新たな予備動力となる。牙使いは、固有の『設計図』を頭に描く事が出来、それを【牙】として発現できるのだ。

 そして、霊気は変質された際に、激しい発光現象を伴う。一般的にこの輝きが、【牙】を持たぬ者に畏怖を与えていると言われている。発光現象の理由は依然不明だが、本能的には理解できるかもしれない。この輝きは、目を逸らせない。魅入ってしまう。魅せられてしまう。

 ならば、このライゼルを眼前にして目を逸らせる者などいない。当然、真っ直ぐに敵意を向けられているこの大男の瞳には、ライゼルがしかと映っている。

「うおおおぉぉぉぉおおおおお!」

 男は瞬きすら出来ない程に、咆哮すら耳に届かぬほどに、この少年に目を奪われている。

 体格差から見れば、ライゼルがこの大男に勝てる道理はない。体重もおそらく倍以上に違う。一発一発の威力は桁違いだ。あの体躯から繰り出される一撃は、ライゼルを魂諸共に吹き飛ばすだろう。

 だが、違った。ライゼルには【牙】がある。身体能力も十二分に高いが、真に頼みとするのは、母親譲りのこの【牙】なのだ。この力が、ライゼルの夢をぐっと現実まで手繰り寄せる。

「どぉおおおりゃぁあああ!」

 低姿勢からの一回転の後、両腕で掴んだ剣を真上に振り抜き、男の前面部を斬り上げる。

「ぐはっ」

 強烈な迫力を前に身動き出来ない男に、超至近距離の足元から、全力全開の切り上げを見舞う。剣には大量のムスヒアニマが凝縮されており、それが斬撃と共に大男に襲い掛かった。霊気を帯びた衝撃が、太刀筋の軌道をなぞるようにして下から順に男の内部を犯し、徐々に全身を廻り、最後には頭部付近で一気に周囲へ発散される。ライゼルの星脈によって青白い輝きに変質されていた霊気であったが、男の体を通り頭部から爆散される頃には、淡く白い光の粒子に変化していた。その放出された霊気の霧散する様は、まるで蒲公英の綿毛が吹き散らされたかのようだった。この瞬間の巨漢の姿は、根を張り身動き出来ずに、風に種子を散らされる蒲公英そのものに見えたようにも感じられる。

「今のは?」

 これまでの生涯を共にしたベニューさえも初見の剣技。訊ねられたライゼルは自信満々にこう答える。

「へへっ、とっておきの技。さっき思いついた」

 温存していたのか、即席なのか判断に困る言い方だが、物凄い剣技だという事は、既に証明済みだった。

 再度吸い上げたムスヒアニマを剣戟に乗せ、回転の遠心力が内部への突破力を高め、剣戟の威力を何倍にも増幅させてそれを体内に注入、そして体の内側から破壊する。それがライゼルの編み出した技、剣技『蒲公英(ロゼット)』。母のダンデリオン染めと由来を同じくする絆の力だ。

 今まで身じろぎ一つしなかった男が、体内への耐えがたい激痛に、初めて上体を仰け反らせた。変質した霊気によって、体の内側から攻撃されたのだから無理もない。そもそも、霊気を体内に直接流し込まれるなど、前代未聞の出来事である。予想外の攻撃手段に、痛みも余計に感じられたのかもしれない。

「決まったか?」

 皆の視線が大男に向けられる。ビアンが勝ちを焦ったのも分かる。ライゼルの一撃は、間違いなく大男に痛手を負わせてやった。効いてない訳がない。

 だが、大男は一度よろけただけで、またライゼルの前に仁王立ちしてみせた。怪我の箇所こそ確認できるが、男の様子から察するに、戦闘を継続できない程の痛手にはならなかったようだ。

「こいつ、化け物かよ!」

 昨日の襲撃者もそうだが、ライゼルの攻撃は致命傷に至らない。確かにライゼルに殺意はないが、それでも戦闘不能に陥らせるには十分なはずなのだ。なのに、この大男を下す事が出来ない。そもそものライゼルの力量が悪漢連中に劣るというのだろうか。

「だったら、あと何発か、ぶちかましてやる」

 再度、戦闘姿勢に入ったライゼルであったが、対する大男は短く息を吐き、呼吸を整え、そしてゆっくりと言葉を紡ぐ。

「お前の実力は分かった、アルゲバル」

 巨漢の穏やかな口調にライゼルの気勢が削がれ、つい論点のズレた指摘を口にしてしまう。

「だから、その変な呼び名やめろ。俺の名前はライゼルだっつってんだろ!」

 ライゼルの反駁も意に介さない様子の大男は、更に続ける。

「地上の環境と、牙使いと呼ばれる者の様子を確かめに来たが」

 そこで一旦言葉を切る。視線は相変わらずライゼルを射竦めている。この視線に込められた感情に、ライゼルは覚えがある。テペキオンと同じ、復讐に燃える強かな意志。その鋭い眼光を向けられては、ライゼルも視線を逸らせない。

「…いや。次はないと思え、アルゲバル」

「だから、ライゼルだー!」

「…ふん」

 ライゼルの指摘に巨漢は鼻を鳴らしたが、それが何を意味しているのかは、その鉄面皮からは予想できない。表情も何も語らず、事実それ以上は言及せず背を向ける。そして、大男のその背に『とあるもの』が出現していた。

「おい、あれってまさか昨日の」

 驚愕の色を見せるビアン。悪い予感がした。自分達は、ただの暴力事件に巻き込まれたのではない。昨日はただの偶然だったかもしれないが、今日の目的は、他の誰でもないライゼルその人。それを確信させるものが、男の背中にその存在を主張していた。

「おいお前、それは【翼】か!」

 抱きかかえているベニューをそっと地面に降ろし、数歩歩み寄るビアン。その間にも飛び去ろうとする男に、ビアンは僅かに上擦った声で問い掛ける。

「それは、テペキオンが持つ者と同じ物か?」

 テペキオンへの畏怖が思い出されたが、今は怖気づいている場合ではない。問わねばならない事はいくらでもある。巨漢が維持する無言が、余計にビアンに恐怖心を抱かせたとしても、ここは退く訳にはいかない。

「お前はテペキオンの仲間なのか?」

 いくつも質問を浴びせるビアンだったが、昨日のテペキオンのように返答を拒まれるだろうか。テペキオンは、戦闘したライゼル以外は眼中にないといった様子だった。そのテペキオンの仲間と目されるこの男はどうだ? テペキオン程に粗暴な様子は見受けられない。蛮行こそ目に余るが、会話が全く成立しないとは思わない。この男から話を伺えるなら、ビアンとしても聴取に協力願いたい。

「【牙】を持たぬ男よ」

 唐突に巨漢が口を開き、ビアンの緊張感が一気に高まる。名指しされたのは自身だとビアンも自覚している。

「なんだ」

 巨漢は何と言葉を紡ぐだろう? 固唾を飲んで、大男が語るのを待つ。

「先から連呼しているその名、随分気安く口にするが、我らにとってどれ程重いものか知っているのか?」

 初めて感情と呼べる色を見せる巨漢。その凄味に思わずビアンは気圧されてしまう。

「我らにとって、名とは【翼】と並ぶ自身の誉れだ。命と比して尚重い」

「名前が、命より重い、だと?」

 どのような理由からそう認識しているかは窺えない。だが、言外に、それ程犯しがたい名をテペキオンが告げたという事は、ライゼルをそれ相応の対象と見込んだという事を示唆している。

「ゆめゆめ忘れるな。お前達と我らとでは、そもそもの格が違うという事を」

 そう言い残し、背中の【翼】をはためかせる。ひとたびそれが空気を捉えると、大きな風圧を生じさせ、男の巨体を浮かび上がらせる。その大重量を持ちあげる程の浮力、そして、それを可能足らしめる一対の【翼】。もし、その能力が戦闘において行使されていたらと思うと、一同身震いせずにはいられない。空中浮遊の状態で男があの怪力を発揮すれば、制空権は奪われ勝ち筋を封じられ、羽搏きによる煽りで空気圧に押さえ付けられ、行動を大幅に制限されていたに違いなく、圧殺されていただろう。それは、実際に戦ったライゼルには、思考せずとも理解できた。何故、そうしなかったのかまでは推理が及ばないが、そうならずに済んで本当に命拾いしたとも思う。

 ライゼルの戦慄を余所に、男は幾度か宙空で【翼】を羽搏かせ、次の瞬間には、一気に空高く上昇していってしまった。地面から仰ぐと礫ほどの大きさに見える位置まで巨漢が昇ると、男の周囲が急速に明るくなる。かと思えば、眩い光が環を形取り、そのまま男を飲み込んでしまった。

「なっ!?」

 男の行く末を目で追っていた三人だったが、強烈な閃光に視界を奪われ、気が付いた時には、男の姿はどこにもなかった。咄嗟に目を庇って腕で光を遮ったが、程無くして眩い光は収束し、いつも通りの平原の風景が眼前に広がっている。

 追いかける術がないのも事実だが、そもそも追い掛ける理由もない。今回相対して理由も、降り掛かった火の粉を払っただけの事。王都への進度を遅らせてまで、あの男に執着する理由はない。【翼】を所有する脅威をなんとか退け、ビアンは姉弟に悟られぬよう人知れず安堵する。

 しばらく男の姿を消した方角を見つめていたが、突然ライゼルははっと我に帰る。危機も去り、立ち上がれずにいるベニューに駆け寄り、手を差し伸べる。

「ベニュー、無事か?」

 ベニューはその手を取り、ゆっくりと立ち上がる。この頃には、泣き腫らした目元もそう目立たなくなっていた。服のお尻の部分に付いた土埃を叩き、改めて礼を述べるベニュー。

「うん、どこも怪我してないよ。ライゼルが来てくれたからだね。ありがとう、ライゼル」

 その感謝を受けて、先の勇姿はどこへやら。ベニューが起き上がったのを確認して、気取られぬよう視線を逸らしたライゼルは、そっと繋いだ手を離す。ライゼルとしては素直に謝辞を受け取れない。この姉弟は先程、喧嘩別れしたばかりで、まだ仲直りできていないのだ。ライゼルは姉の身を案じて駆けつけたものの、改めてどう接していいか分からない。

「ボーネの方角から烽火(のろし)が見えた。だから、ビアンに頼んで戻ってもらったんだ」

 淡々と事実を述べるライゼル。やはり、その様子はどこかぎこちない。ベニューも特別それを指摘せず、聞き手に徹する。

「そうなんだ。ビアンさんもありがとうございます」

 大男が去ってから顔色が優れず、緊張の面持ちで思案し続けていたビアンも、ベニューに水を向けられ、我に返る。ビアンの思考は、姉弟達とは関わりのない所での心配事に捉われていたのだ。

「緊急信号が上げられては、確認しない訳にはいかないからな。ボーネに戻って聴取をしなければ」

「…そう、ですよね」

 言って表情が暗くなってしまうベニュー。そうなのだ、ライゼルは一時的に引き返しただけに過ぎず、また王都クティノスへ向けて出立してしまうのだ。そうなれば、また姉弟は離れ離れになってしまう。それが頭を過(よ)ぎったベニューは、これ以上先を続けられない。きゅうと胸が締め付けられ、言葉を紡げない。どうしても言いたい事が、言えずにいてしまう。

 姉の様子を受けて、ライゼルも察する。ここで何かを言わなければ、このぎくしゃくした状態のまま王都へ発たねばならない。伝えるべき言葉がある。ライゼルの胸の中には、それがある。だが、どう言っていいか分からない。ただただ、時間が過ぎてしまう。

「さて、行くか」

 それだけ言うと、ビアンは先に車に乗り込んでしまう。飽くまでビアンの職務は、今回の件も含めた一連の事件の調書を上役に上げる事。姉弟の仲直りは業務の管轄にない。姉弟が抱える問題は、飽くまで姉弟で解決せねばならない。

「待ってビアン」

「早く乗れ。ただでさえ、引き返した分遅れているんだ。先を急ぐぞ」

 ビアンの言う事はもっともだ。報告が遅れれば、その分対策も遅れ、更に被害が出る恐れがある。今日みたいな事件が別のどこかで起こる危険性も皆無ではない。そのような事はライゼルも望まない。もっともな正論であるが故に、子供であるライゼルは二の句が継げない。生真面目なベニューなら尚の事。

 言われるがままに後部座席に乗り込むライゼル。そして、同じく引き留める事も出来ず、無事を祈って見送るしかないベニュー。幼い二人には、これ以上どうする事も出来なかった。

 そして、それは、姉弟が別れを覚悟した瞬間だった。運転席の比較的に人生経験のあるビアンはこう告げる。

「ベニュー。お前もいつまでそこに突っ立てるんだ? 早く乗ってくれ」

「「えっ?」」

 姉弟の疑問符が重なる。つい、間の抜けた声が異口同音で漏れる。

「えっ、じゃないだろ。さっきの男の事を、俺は一切知らないんだぞ。今日のボーネの件は、どうやらベニューに聞いた方が手っ取り早そうだしな。王都まで姉弟で同行してもらうが構わないか?」

 見兼ねたビアンは回りくどい言い方こそすれど、恩着せがましい言い回しはしない。飽くまで、任務の態は崩さない。

「はっ、はい!」

 お役人からの急な要請に呆気を取られながらも即答する。ベニューにも、お目付け役以外の気兼ねなく同伴する理由が出来た。また姉弟で一緒に居る事が出来るのだ。

 すぐさまベニューも駆動車の後部座席に乗り込む。心なしか、弾むような足運びで飛び乗った。身軽な格好とは言え、女の子としては、少しはしたなく見られるかもしれない仕草。そこには、今朝黙して外を眺めていた少女と同一人物とは思えない程の陽気さが見受けられる。ベニュー本人も気付かない内に、笑顔がこぼれていたかもしれない。今朝のように外に顔を向け、不安な面持ちを隠す必要ももうなくなった。

「ほら、ライゼル。もうちょっとそっちに詰めて」

「お、おう」

 座席の真ん中に陣取っていたライゼルは、半身ほど体を奥に移動させ、ベニューが座る空間を確保する。お互いに両端へ離れすぎない程よい位置関係。今のベニューからは、今朝の喧嘩別れを気にしている様子は見受けられない。この『距離感』は日常(いつも)のものだ。

車も走り出し、ライゼルの視点からは、景色も姉の様子も今朝とは真逆に映る。

とはいえ、移り行くのは見慣れた野原。それを背景に佇むベニューを意識しながら、ライゼルはしばし思案する。そんなライゼルを知ってか知らずか、ベニューが話を切り出す。

「さっきはごめんね。痛かったでしょ?」

 そう言って、ライゼルの頬を摩る。とっくに痛みなどなかったが、そうされている事がライゼルを懐かしくさせる。幼き頃、怪我をこさえて帰ると、いつも手当てをしてくれていた、自分より少しだけ大人びた女の子。思えば、母のゲンコツの後には、いつもベニューの手の平があった気がする。

「俺もごめん、勝手なことばっかり言って」

「いいよ、私もわがままだったかも、だし」

「どゆこと?」

「ううん、なんでもないよ」

 ライゼルに謝られるまでもなく、ベニューにとって、それはもう解決済みなのだ。ならば、これ以上、拘る必要はない。少しだけ臆病風に吹かれ、不安に駆られただけの事なのだ。それをわざわざライゼルに聞かすつもりはない。

 ベニューがこれ以上何かを言うつもりがないのだと悟り、決心したようにおもむろに口を開くライゼル。

「あのさ、ベニュー」

 不安だった事をそっとしまい込んだベニューと違って、ライゼルには、まだ発散しておかなければならない事案、つまり言っておかなければならない事があった。多分、ライゼルも姉と離れた少しの間に、何か思う事があったのだろう。余裕を取り戻したベニューには、弟の声音からそれが窺い知れた。

「俺、やっぱり村を出たい」

「そっか」

 きっと弟はいろいろ考えて、探して、迷って、やっぱり気持ちが変わらなかった。夢への憧れが揺らがなかった。それを察し、首肯で先を促す。それを受けて、ライゼルもぽつりぽつりと思いの丈を漏らしていく。

「ベニューは母さんから染物を教わったじゃんか?」

「…うん」

 厳密に言えば、ライゼルがそう思っているだけで、ベニューは母フロルから一切の知識も技術も教わっていない。何故なら母は、娘がもっと成長してから教えるつもりであったから。教わったと言えば、精々がライゼルと同じ読み書きくらい。だが今は野暮な事は言わず、その件を伏せて、ライゼルの話に耳を傾ける。

「言い訳かもしれないけど、俺はまだ子供だったからそういうのがない。もう母さんがいないからどうしようもないけど、俺もそういうのが欲しかった」

「そうなんだ」

 これは十数年一緒だったベニューも初耳だった。ライゼルも母との繋がりを望んでいなかった訳ではなかった。

「最近になってようやく畑仕事をやれるようになって、多少は人の為に何かできるようになって。でも、それはなんか違う気がする」

「違うって?」

「そこには『俺』がないんだ。俺じゃなくても出来る―――そうじゃなくて。なんていうか、 やりたい事だとかやらなければならない事だとか、そういうんじゃなくて…」

 上手く言葉に出来ず、もどかしい様子のライゼル。でも、そこにある気持ちは本物なのだろう。不器用ながらも、手探りで、気持ちのままに言葉を吐き出す。

「俺だってベニューみたいに、母さんからもらった何かで活躍したいんだ。俺は母さんから【牙】をもらったから、【牙】を使って母さんみたいにみんなを笑顔にしたいんだよ」

 怒気さえ見えそうな口調でそこまで捲し立ててから、一転、ぽつりと溢す。

「俺、間違ってるかな…」

 きっと弟は、肯定して欲しいのだ。胸の中に芽生えた気持ちを口にしたものの、自信が持てない。今までそれの善し悪しなど気にした事はなかっただろうが、姉から間接的に否定されてしまった。それ故に、気持ちが揺れ動いてしまった。

 ならば、姉の役割があるとするなら、そっと背中を押してあげる事に違いない。

そして、もし、ベニューが姉として掛けてあげられる言葉があるとするなら、例えば、こういう言葉かもしれない。

「ライゼルには、ライゼルのやろうとしてる事が似合ってるのかもしれないなぁって。昨日と今日の事で、少し、そう思ったよ?」

「似合ってる?」

 そう評されたライゼルは、その表現が腑に落ちない。それを察するベニューは更に言葉を続ける。

「うん。昨日はカトレアさんが、今日は私が困っていたら、駆けつけて助けてくれたでしょ?」

「昨日は悲鳴が聞こえたし、今日は烽火(のろし)が見えたから」

「うん、ライゼルは困ってる人がいたら放っておかない。私は、あんまり危ない事はしてほしくないんだけど。ライゼルが誰かの助けになってるのは、誇らしいんだよ」

 これはお世辞でも何でもない。心の底からそう思える。ライゼルが自慢の弟である事に違いない。これまでもそうであったように、これからもきっと。

「だから、私はライゼルがやりたい事を応援する。お遣いが終わって、その後どうするか。王都に着くまで少し時間があるから一緒に考えよ?」

 姉からの提案を咀嚼するように吟味し、しばらくの後、首肯を以ってゆっくり合意を示す。

「うん、わかった。ベニューの言う通りにする」

 ふと車外に目をやると、先程まで遠くに見えていた烽火(のろし)の煙が、すぐそこまで近付いてきていた。風に乗ってけぶる臭いが鼻に届く。もうじきボーネに到着する。迷惑をかけた商店や民家は大丈夫だろうかと考えながら、平原の景色を眺める。

 思わず知る事となった弟の胸の内。なんだか、少し意外だった。ライゼルはそういうものに拘らないのだとばかり思っていた。ライゼルには、家族よりも優先する夢があると思っていたから。

 でも、本当は違った。それはベニューの勘違いだった。ライゼルも、ベニューと変わらないくらい、もしかしたらそれ以上に、家族を大事にしているのだ。ベニューにとっての匂袋が、ライゼルにとっての【牙】なのだ。母さんからもらった、かけがえのない大切なもの。自分だけの心の支え。

 そう思えばこそ、真に想像力が足りなかった事案がもう一つある。先の家族に対する想い以上に、ライゼルの夢に対しての想いに想像が及んでなかったのではないだろうか。ベニューは、ライゼルの夢と家族とは、正反対の位置にあるものだと思っていた。例えるなら天秤に架けられた二つの皿。どちらかにしか針は傾かない。家族を選べば夢が、夢を選べば家族が、彼から失われるものだとばかり思っていた。

「みんなを笑顔に、か」

 ベニューが染物を覚え始めた動機に、ライゼルが考えるような大仰な、別の言葉を用いるなら崇高な、そんなお題目はない。母に甘えたかったとか、精々が食い扶持を稼ぐ程度、生活の糧などである。

 それをライゼルから見れば、ベニューの六花染めや母のダンデリオン染めは、みんなを笑顔にする事が出来ていたと言う。そう感じて、ライゼルは二人の家族に憧れた。言うなれば、二人の背中がライゼルに夢を与えた。

(まったく、ライゼルってば嬉しいこと言ってくれるなぁ)

 ならば、姉であるベニューが応援しない訳にはいかないではないか。皆の笑顔の護り手たらんと宣言した弟の夢。ライゼル本人が拙い言葉ではあるが、衒いもせずにそれを教えてくれたのだ。ならば、そのきっかけとなったベニューとしても、弟の憧れであり続けたい。

 とするなら、こう考える事も出来る。ベニューもライゼルに夢をもらった。ライゼルの自慢の姉であり続ける為に、今以上に六花染めを広めたい。一世を風靡した、かのダンデリオン染めのように。弟の夢に負けないくらいのでっかい夢。

「さぁ、ボーネに着いたぞ」

 運転席からビアンの声がした。駆動車は緩やかな制動の後、村の入り口に止まる。奇しくも先程と同じ場所に反対向きで。

 先に車を降りたベニューが振り返り、ライゼルを見上げる。

「ねぇ、ライゼル」

 少し気取った風に、ライゼルに呼び掛ける。ライゼルのぎこちなさが伝染したのかもしれない。

「なに?」

 そう呼び掛けて、手提げ袋から匂袋を取り出し、手のひらに載せたそれを差し出す。

「この香り、覚えてる?」

 車を降り、ライゼルは差し出された手に鼻先を近付ける。そうして、香りを確認した後、不思議そうな顔をベニューに向ける。

「母さんの好きな南天の花だろ? なんだ、ベニューもその花好きなのか」

 不思議そうな表情の理由は、共通認識である事柄を、改めて確認されたから。

 元々、この花は火災除けのまじないとして、フロルによって家の傍に植えられた木である。が、フロルも特別にこの花を好んでいた訳ではない。ただ、フロルが家族を思ってこの南天の木を世話する姿を幾度となく目にしたベニューが、母はこの花が好きなのだと勝手に勘違いしていたのだ。

 フロルはお守りとしての意味合いで、この匂袋を身に付けていた。家族の安全を願って、自身が家族を守れるようにと。

 だが、ベニューを叱り付けたあの日、母はこれを愛娘に譲り渡した。母に代わり、弟を守ってくれるようにと願いを込めて。そんな強い女性に育つよう、祈りを込めて。

 ベニューさえ知らないこの事実を、やんちゃ盛りだったライゼルが知っている訳もない。であるが、匂袋の存在を知らぬライゼルも、母の思い入れの深い花をちゃんと覚えていたのだ。母がこの花を部屋に飾らなくなって久しいというのに。

 ライゼルもベニューと同じ場面を見ていたのだろうか? 同じ勘違いをしているという事は、そうなのかもしれない。ライゼルにとっては、思い出の中にしかなかったはずの花。それでも、南天の白い花は、まだライゼルの中で咲き続けている。

 だから、ライゼルの質問に、ベニューは笑顔でこう答えるのだ。

「うん、私もだいすきなんだ」

 ベニューのはにかみ交じりの微笑みを見て、ライゼルも俄かに脱力し吊られて笑みを溢す。許しをもらったと判断してもいいのか、まだ釈然とはしない。が、姉の笑顔はただそれだけでライゼルの心を穏やかにさせる。

「先に村の被害の確認をしてくる。お前達は周りに注意しながら、ここで待ってろ」

 車輪に位置止めを噛まし終えたビアンにそう言われて、車の脇でお留守番をする二人。村の中は何やら騒がしい様子だったが、村の入り口に佇む二人の周りは幾分静かだ。

 ベニューが先の件に拘ってないと悟ったライゼルは、気が楽になったからか、ぽつりと溢す。

「ベニューも大変だったな」

「何を他人事みたいに」

 そう言って、ライゼルの肩に軽く握った拳を当てるベニュー。

 今の言葉は、今日の事を指すのか、それともこれまでの事を指すのか。ライゼルの言葉足らずのせいで判別が難しい。ただ、分からないからと言って、もう変に不安に駆られる事はない。手を伸ばす距離にライゼルがいるのだと改めて認識すると、心が楽になった。肩の力が抜け、いつも通りの調子でライゼルに話しかける。

「ねぇ、ライゼル?」

「ん?」

 お互いに目を合わせる事なく、車に背もたれて同じ風景を視界に収めている。おんなじ場所で、おんなじ方向。割と見慣れている隣村の入り口から見える、馴染の風景。だが、今日でこういう景色も見納めなのかもしれない。そう思うと、二人言葉にせずとも哀愁が漂う。

「一人じゃ大変だよ」

「…うん」

 正直、ライゼルにもベニューが何を言わんとしているのか分からなかったが、その言葉には首肯を以って応じた。ベニューの指す一人とは、ライゼル一人では、なのか、ベニュー一人ではなのか。多分、どっちもなのだろう。どちらとも、一人では大変なのだ。

 ベニューを置いていって後部座席に独りでいた時の、何とも言えない喪失感は、もうしばらくはごめんだと思う。あれが喧嘩別れでなければ抱かない感情だったかと問われれば、きっとそういう事でもないのだと思う。どういう形であれ、姉弟が離れ離れになるのは辛い事だ。今回の事で、初めてそれをライゼルは学んだ。ベニューが母から教わった事を、ライゼルは我が身を持って体験する事で学んだのだ。

「だからね、その荷物。半分、私が持つよ」

「荷物?」

 訝るライゼルに、ベニューは手提げ袋の口を開いて見せた。中を覗き込むと、先程の匂い袋以外何も入っていない。ただ、ほんのりと香る南天の花の匂いが籠っていただけ。その虚空を見せられても、いまいちピンと来ない。

「どういうこと?」

「きっとライゼルは途中で、重いよ~って弱音を吐くだろうから、私のは空っぽにして持ってきたの」

 今この場で母との約束を素直に伝えるのは、なんだか気恥ずかしくて気が引けた。そんな理由で、ベニューが少し悪戯っぽく笑って見せるばかりだから、やはりライゼルは合点がいかない。

「なにそれ?」

「だから、半分持ってあげるよ」

 ライゼルの腰に下げられていた銀貨の詰まった麻袋や、着替えの六花染めを取り上げると、自分の手提げ袋に仕舞い込むベニュー。改めて受け取ると、ライゼルの荷物が重かったのだと認識する。これは、ライゼル一人には荷が勝ちすぎる。でも、二人ならなんとか出来るかもしれない。

「ありがとう」

 ライゼルは何と返してよいか分からず、一応はお礼を述べる。多分、それは間違っていない事。少なくとも、今朝のような失態は侵していないはず。

「ううん、いいよ。それより、これからもきっと大変だろうけど。よろしくね、ライゼル」

 姉から改めて告げられると、なんだか照れくさい。だから、ライゼルはつい奇を衒ってしまう。

「おう、任せろってんだ~だぜ」

「ふふっ、何それ」

 ボーネの村に風が吹く。その風に乗って、少し離れた故郷フィオーレから小さく鐘の音が響くのが聞こえた。

 ふたりの耳には鐘の音が届き、目には最愛の家族が映り、そして、鼻には南天の匂いが薫る。お互いの思い違いを解消できた姉弟。言葉を交わせば、想いは伝わる事を知れた。なればいつかは、母がこの南天の木を丹念に育てていた本当の理由を知る事ができるかもしれない。南天の花言葉は、『家族愛』、そして、『私の愛は増すばかり』。

 今はまだ焦らずとも良いのだ。彼らの旅路はまだまだ始まったばかりなのだから。

 

 

 

to be continued・・・

 

 



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第3話

 ああいうのを見た後、どうしてもビアンは拗ねたような心持になってしまうのだが、そればかりは自覚していても治らない。生まれついての性分なのだ。

 ビアンが自分の矮小さを見せつけられたのは、三人で出向いたボーネ村の住人への聴取の際。ベニューが迷惑をかけた人達にお詫びをしたいと言ったので連れて行った訳だ。三人で訪問すると、事件の当事者であるベニューは、反物屋のおばさんから手厚く迎え入れられ、大層心配された。聞けば、その店主は普段ベニューが懇意にしている店で、今回も匿ってもらった店なのだという。

 ダンデリオン染めの手拭いを頭に巻き、小柄な身長に似付かわしくない大きな声。名をデイジーと言うそうだが、名が体を見事に表しており、雛菊の花言葉通りに無邪気でお人好しな様子が見て取れる。ボーネ村一の商売人とあって、話芸巧者という印象を受ける。現にベニューが割って入れない程、のべつ幕無しに喋っている。

「あの乱暴者は追い払えたんだね。そうかい、二代目が無事でよかったよ。あれから心配で心配で。そうだ、あたしが烽火を揚げてくれるようお願いしたんだよ。アードゥルが助けに来たのかい?」

「えと、お役人さんと弟が…」

「そうかい、弟が助けてくれたのかい。それはよかったねぇ」

「おう、俺は【牙】使いだからね」

 姉弟とデイジーおばさんの会話を、半壊した商店を調査している背中越しにビアンは聞いていた。自分でも仏頂面を晒してしまっている事はよく分かっている。役人であるビアンが現場検証している隣で、デイジーおばさんがビアンの問いかけに答えるよりもベニューの心配ばかりするものだから、少し気が立ってきているのだ。この、他を憚らない姿は誰かを思い出す。というより、彷彿される印象の持ち主は、デイジーおばさんのすぐ隣に並んでいる。

(そうか、この反物屋はクソガキライゼルに似ているのか)

 人の話を碌に聞かない所がまさしくライゼルそっくりだ。それがビアンに苦手意識を抱かせ、苛立たせてしまうのだ。公的な規則に従わない者を、ビアンはあまり好ましくは思っていない。

「なぁ、先にこっちの捜査に協力してくれないか?」

 語調の強くなるビアンの要請に、デイジーは不機嫌な様子で応じる。自分の調子を乱されるとあからさまに不服そうにする辺りも、ライゼルに似ているかもしれない。

「役人さんも冷たい人だねぇ。この子は怖い思いをしたんだ。慰めてやろうってのが人の情ってもんじゃないかい」

 感情的な言い方ではあるが、言っている事はもっともだ。だからこそ、ビアンは余計に腹が立つ。役人としての矜持が、言い負かされそうになる事実を認めたがらなくさせる。

「それはそうだが。ベニュー、もう平気だろう?」

 水を向けられたベニューも畏まった様子で返事をする。事実、特に怪我をしている訳でもなく、ベニューの状態は健康そのものだ。

「はい。おばさんにも本当にご迷惑おかけしました」

 とベニューは、デイジーの厚意を失礼のないように遠慮するが、おばさんはそんな事などお構いなしだ。ビアンどころか、ベニューの言葉も遮って、世話を焼く。

「そうだ、二代目。これから王都へ出向くんだろう? まさかその格好で行くなんて言わないだろう?」

 デイジーが訝るのも無理はない。ベニューは、巨漢の【翼】使いの追跡を逃がれるのに、随分な大立ち回りを演じた。その際に、土埃を被ったり、泥に塗れたりと、どう取り繕っても見栄えのいい格好とは言えない。畑仕事を終えてこれから帰ると言うなら納得の出で立ちだが、王都クティノスへ遠出をすると言うのではあまりにも憚られる。

「そうですね、さすがにこの格好では…」

 と、そこまで言い掛けたものの、ベニューはビアンの顔色を窺い、言い淀む。先程からビアンの気が立っており、急いているのは、きっとベニューの気のせいではない。ここで、一旦フィオーレまで戻って着替えたいと申し出るのは、機嫌の優れないビアン相手にはさすがに躊躇われる。

 ビアンも、ベニューがそう感じている事は雰囲気から察したが、先程から無碍に扱われる事もあってか、つい大人げない態度を取ってしまう。

「悪いが、聴取とアードゥルへの引継ぎが終了し次第、直ちに王都へ出立する。着替えは立ち寄った先で都合しよう」

「はい、よろしくお願いします」

 ベニューも急を要する事態だという事はちゃんと理解している。自身の都合で、事を遅らせる訳にはいかない。近隣への警鐘が滞れば、異国人がまた害を為すかもしれない。それは絶対に避けねばならない事だ。物分かりの良いベニューは、ビアンの案に同意を示す。

「何言ってんだい。ここから先の集落にウチより上等な服なんてありゃしないんだよ」

 ベニュー本人が納得し承服したというのに、それでもおばさんは食い下がる。おばさんも防犯対策や注意喚起を軽んじている訳ではないだろうが、飽くまでベニューの事が心配なのだ。

「ちょっと待ってな」

 ベニューの全身をじっくり眺めたかと思うと、半壊した店の奥へ入り、そこから卸すはずであった六花染めを持ってくる。商品棚に並べていた物は、先の件で泥まみれになったが、奥に仕舞っていた分は無事だったようだ。デイジーの手に握られたそれは、彼女の豪語を裏打ちする程に見事な逸品だった。多くの客がこの染物を求めてやってくるであろうに、箪笥の中に隠しておくなど相当の食わせ者だ。

「二代目フロルとあろう者が、そんなみすぼらしい格好で出歩けないだろう? これに着替えて行きな」

 そう言って、一押し商品であるはずの六花染めをベニューに合わせる。途端にどうだ、地味な印象の村娘が瞬く間に、今を時めく洗練されたクティノス女子めいた見た目に変貌する。ライゼルの輝く金髪とは違い、黒髪のそれ程目立たない容姿だが、落ち着いた雰囲気が却って煌びやかな六花染めと調和を取っている。

(そうだよな、六花染めを作ってる本人なんだもんなぁ)

 つい忘れがちになるが、この美しい衣装を仕立てているのは、このベニューなのだ。それを思うと、この少女の内に六花染めを作り得るだけの美的感覚が内包されているという事を改めて思い知らされる。そう感じた直後、ビアンの胸は僅かにチクリと痛んだ。

「そんな。ご迷惑をおかけした上に、これ以上ご厚意に甘える訳にはいきません。それに、お代も持ち合わせがありませんし」

「少しなら俺が貸してあげよっか?」

「そういう事じゃないの」

 ベニューの言う通り、金銭の問題ではない。こうも親切を尽くされては、ベニューとしては気後れするばかりなのだ。おばさんの厚意は嬉しいが、正直に言えば、そこまでしてもらう理由が見当たらない。今回の場合、あまりにも世話焼きが過ぎると、ビアンだけでなくベニューも感じている。

 だが、自分の行いが正しいと信じて疑わないおばさんは、ベニューの謙遜を事もなげに一蹴する。

「遠慮しなさんな、人ってのは助け合って生きていくもんなんだよ。困った時はお互いさまってね。それとも何かい、もう金輪際ウチとは付き合わないのかい?」

 おばさんのそれは意地悪な言い方だが、飽くまでベニューが遠慮しないようにとの気遣いだと分かる。向けられたベニューも、その支え合いを尊いものだと思う。ならば、ありがたく頂戴するのが筋なのだろう。

「本当に感謝の念に堪えません。この御恩は必ずお返しします」

 それはつまり、王都までの遣いを終えたら、再びここに戻ってくることを意味している。おばさんはそれを理解し、満足げに頷いた。

「いいんだよ、二代目。またなんかあったら頼ってくれていいんだからね」

「はい、ありがとうございます」

 ベニューは受け取った六花染めを持って、店の奥へ着替えに向かう。店舗部分は倒壊しているが居住空間はなんとか無事のようで、ベニューはそこを借りて譲ってもらった六花染めに着替える事となった。

 その嬉しそうに屋内へ入っていく後姿を横目で見やりながら、ビアンは舌打ちするのを我慢できなかった。なんだろう、端的に言い表す事は出来ないが、ビアンはこういう、他人とのやり取りが苦手だ。他人が友好関係や信頼関係を示し合っているのを見ていると、あまり気分が優れない。自分に縁遠いものを見せられているからだろうか、自分がそれを持たぬと知っているからこそ、ひどく疎外感を覚えるのだ。多分、子供の頃の環境の影響が大きいのだろう。

 手早く着替えを済ませ、戻ってきたベニューは、色鮮やかな六花染めを見事に着こなしている。その隣に、フィオーレを出立する日を境にダンデリオン染めを脱ぎ、新しく六花染めを着るようになったライゼルがいる。二枚の六花染めが並び立つと、随分と様になって見える。ライゼルの僅かに日焼けした小麦色の肌にも、ベニューの瑞々しい白い肌にもよく映える。六の花から染液を抽出して色を染め上げるから六花染め。他の染物と比べると、色の濃淡だけでなく、六種の色が彩りを魅せる。その艶やかさは、様々な色合いに限らず、ベニューが織りなす絞り染め等の技法によって付けられる模様も相俟って、今代において洒脱の極みとも言える。

 それに比べて、今の自分の姿はどうだ。ビアンは視線を落とし、自分の姿を見ると、支給された制服は日頃の作業で汚れており、例え新品であったとしてもお洒落な身形とは言えない。服飾文化の最先端であるこの地方に勤務していると、服に無頓着なビアンは余計に浮いた存在に感じられる。清潔さを欠く、見た目にさほど気を遣わない男として。

 そんなもんだから、これ以上、姉弟達のやり取りを眺めていると、居た堪れなくなり、結果的にそんな矮小な自分に愛想を尽かしてしまうのだ。

「もう思う存分、お節介を焼いただろう。被害状況の確認に協力してもらうぞ」

「あぁ、そうさね。お次はお役人さんの面倒を見てあげようかね」

 おばさんの無遠慮な言い回しに、ビアンは言い返す気力を失っていた。この人は冗談でもなく、本心からそう思っているのだろう。役人の立場だとか関係なしに、このおばさんにとっては、年若い男でしかないのだ。お役所仕事もデイジーおばさんにとっては、世話焼きの一つに過ぎない。

(何が面倒を見る、だ…)

 管轄外の仕事を請け負ってあげているのだと、ビアンは反駁したい気持ちに駆られる。とはいえ、仕事はしっかりこなさなければならない。他人との関わりを好まざるとも、雑務をこなすのは苦手ではない。しっかりと聴取や事後処理をビアンはこなしてみせた。男手は瓦礫の撤去等を行い、またしてもビアンの制服は汚れていった。ひと仕事を終え、ライゼルは持参した六花染めに着替えるが、ビアンは先日から着続けている制服のまま。

 結局ビアンの目算に反して、アードゥル隊員三十人の増員があったにもかかわらず、終日その作業に追われる事となった。夜も更けて、隊員達は村の周辺で野営し、ライゼル達はボーネ住民の厚意で一宿一飯にも預かる事となった。奇しくもおばさんの宣言通り、ビアンは見事に面倒を見てもらう事となってしまった。

 

 そして翌日、ボーネを出立し、次の経由地を目指す道中。ビアンが運転する駆動車は、順調に平原を走り抜け、王都を目指している。

 開けた高原を過ぎれば、次はソトネ林道を通る事になる。ソトネ林道は、木を伐採し雑木林を開拓し、車が通れる道路を整備した要衝である。突貫工事である為、路面を整地にするには至ってない。平坦な箇所を選りすぐって道を通している所為か、道は決して直線ではなく、湾曲した箇所も多く見通しが芳しくない。細い木、太い樹木、蔓延る蔓と様々な種類の植物が、人の手も加えられないまま勝手に生えているこの林道。特性も用途も違う木々であるが為に、材木の利用としての伐採は今のところ計画されていない。精々、燃料としての利用用途しかなく、長年放置されている現状だ。お世辞にも景観に優れているとは言えず、見通しも悪い為、木陰から人が飛び出してくる可能性も無きにしも非ず。速度は控えて行かなければならない。

 もちろん迂回する事も可能だが、そうなると数日は余計に掛かってしまう。ただでさえ、フィオーレとボーネに二日間も足止めを喰らっているビアンだ。本来であれば、駐在所に戻り、定期連絡を入れていなければならない。下手をすると、ビアンは職務放棄していると同僚から疑われていても仕方がない。そんな不名誉な疑惑は甚だ不愉快だが、駐在所への連絡手段がない今、ただ急ぐしかない。

 しかも、ビアンの仕事はそればかりでない。定時連絡よりなお優先度の高い任務を帯びてしまっている為に、オライザで情報共有した後に、王都クティノスまでの遠征となっている。

先が長いというのも憂鬱の種だが、役人ビアンは、前日の苦労を想うとそれと変わらぬくらい頭が痛かった。改めて思えば、治安維持部隊が到着するまでの苦労と到着してからの苦労と、どちらがより大変だったろうか。

 到着するまでは管轄外のボーネ村民の安否確認。フィオーレと違い、ビアンはここの住民録を持たない。加えて、声の大きな反物屋のご婦人が気を利かせて仲介役を請け負ってくれた訳だが、余計に気を回すものだから、その分余計に時間も掛かってしまった。被害報告だけで十分だったものを、他地方からの納品連絡が滞っているだの、巨漢の暴れっぷりを見て腰を抜かした老人が「あれはアネクスの民が祀る英霊に違いない」と戯言を宣っているだの話すものだから、聴取が全然進まなかったのだ。

 かと思えば、ミールから部隊が到着した以降は、村人と部隊の間に入り、復旧工事を指揮したりと忙しかった。

 治安維持部隊アードゥル、国軍『牙の旗』が解体されて以降の国内の警察機構としての役割を担う組織だ。有事の際に出動要請が掛かり、今回は小隊規模の人員が先遣隊として派遣された。国内最速の連絡手段である烽火が昇った事を受けての対応としては、駐屯地ミールを正午に出発し夕刻にはボーネに到着するのだから、その名に恥じぬ迅速ぶりと言える。隊員の全てが屈強な体格をしており、いざ【翼】持ちの異国人相手に戦闘となったとしても、防衛任務を全うしてくれるであろうという頼もしさすら感じる。

 ただ、その頼もしさは今回に限り発揮されなかった。というのも、命令系統の異なる部署との作業と言うのは、何かと面倒事も多い。王国の徴税制のおかげで物資の手配や入手は容易いのだが、その申請手続きとなると、役人のビアンですら辟易する程に手間が掛かる。

 事務仕事を苦手とするアードゥルの連中は、役人であるビアンにその業務を押し付けようとする。が、ビアンも一刻も早く王都へ馳せ参じなければならない理由を伝え、逆に代行を願い出る。何故なら、命令系統の頂点が王都クティノスにあるアードゥルでは、命令以外の任務を独自に判断する事ができず、ビアンの代わりに姉弟を保護し連れていく事は出来ないからだ。飽くまで彼らは割り当てられた地域を守るのが任務であって、ビアンと違い、勝手に持ち場を離れる事は適わない。アードゥル隊員は、本部にお伺いを立てようにも結局王都まで出向かなければならない。だから、王都への報告を急ぐビアンは、彼らに代わって雑務に時間を割かれている場合ではないのだ。

 隊員達もビアンが帯びた使命の重要性を理解したものの、アードゥルの隊員は肉体労働を得意とするがお役所仕事は苦手らしく、快諾には至らなかった。結局、オライザからの応援が到着してから改めて、ビアンの同僚であるオライザの役人に委託する、という事に落としどころを見つけるまで、業務の押し付け合いは続いた。ビアン達が妥協案を見つけた時には、辺りは暗くなっており、もう既に隊員は撤去作業から撤収し、野営準備をしている頃だった。

 その為、当事者である姉弟からは何も訊き出せていない。そんな状況で、順調に草原を越えたからと言って、この鬱蒼とした雑木林に進入を果たす気にはなれなかったのだ。

 ソトネ林道に進入する直前、ビアンは車を林道入り口の脇に停める。一旦、車から降りて、三人顔を突き合わせている。ビアンは改めてフィオーレ出身の姉弟にいくつかの質問を浴びせる。先日のボーネでの一件は、容疑者を撃退した場面しか満足に見届けていない。ボーネ村でも聴取をしたが、分かった事と言えば、大男が暴れ回った事とその男による家屋の被害状況くらいのものだ。公人の働きとして、それは芳しくない。

「つまり、あの大男はライゼルの事を、フィオーレに現れたテペキオンとかいう男に訊いて探していたという訳だな」

「はい、そうだと思います。フィオーレ以外でライゼルの名前を知る人は、そう多くはありません」

「それに、あのデカ男も俺を『アルゲバル』って呼んでた」

 姉弟の証言から、どうやら連日の襲撃事件は無関係ではなさそうだ。というより、一昨日の件を発端に連続して起こっていると見ていいかもしれない。そうなると、だ。

「…まずいな」

「何が?」

「あいつらの素性や目的も訊き出したいが、それ以上にあいつらの総数が分からん」

「だから、なんでまずいんだよ?」

 ビアンとしては合点のいく話をしているつもりだが、ライゼルは得心が行かない。

「いいか、今までの事を総合するとだな」

 テペキオンの言を信ずるなら、目的は『狩り』と呼ばれる行為を為す事。現状、この言葉がどういう行為を指すものなのかは分からないが、連日の状況を鑑みて、村の人間に危害を加える行為に違いないだろう。しかも、テペキオン本人がライゼルの命を狙うと宣言している。巨漢もライゼルを探していたとなると、三度一行に危険が及ぶ可能性は十分に考えられる。

 次に、彼らが何者かという疑問には、そう多くの推測を持てない。

 まず、ビアンが着目したのは、首飾り(ナンバリングリング)の有無。このベスティアの民は、須らく首飾りを身に着けている。現にライゼル、ベニュー、もちろんビアンも装着している。装着の目的は、首輪の材質や色により、身に着けている人間の身分や職業を明確化させる事だ。よって、その者が王国民であれば、一目でその者の素性が分かる。言ってみれば、身分証明の役割を果たす。配給物資を受け取る際もこれがないと受け取れないし、主要都市への出入りも制限される。王国民の生活に深く根差した制度だ。

 しかし、そのような重要な装具を、あの二人は身に着けていなかった。格好や言動の異様さばかりに気を取られていたが、思ってみれば何よりも身分証に着目すべきだった。彼らは王国に戸籍を持たない者達なのだろう、故にテペキオンは【牙】を冒涜する発言をしていたのだ。と、考えれば、彼らはウォメィナ教とは異なる教義の集団かもしれない。確かに王国東部には合併された部族の集落がある。おそらく、そこの出身者だと推測できる。

 そして、これこそがビアンを悩ます最大の懸案事項なのだが、彼らは揃って、武器具現化能力【牙】に優るとも劣らぬ戦闘能力を有していた。確か、テペキオンはそれを【翼】と称していただろうか。テペキオンのそれは高速移動を可能とし、大男のそれは怪力を発揮させた。一つの推測として、物質的な戦力として顕現するのが【牙】であるなら、身体能力を向上させるのが【翼】なのかもしれない。どちらにせよ、それが戦力として振るわれれば脅威であることに違いはない。

 ウォメィナ教の教義で暴力行為は禁止されており、その事は全国民が心得ている。もちろん法治国家であるが故に法律も制定されているが、何も教義を重く見ての法整備ではない。そもそも地上に住む命達は、過去の愚かな争いを潜在的に、本能的に嫌悪している。故に、法で縛る以前から、取り締まらなければならない程の戦闘は確認されていない。この国に住む彼らの遺伝子に、大昔の厄災に対する恐怖心が植え付けられているのだ。

 が、件の二人がそうなのかは分からない。彼らは法にも道徳心にも縛られていない。実際、二件に及んで、人的被害と物的被害が起こっている。これまで国内で【翼】なる物の報告例が上がってなかったのは、最近発現した能力であるか、あるいは最近になって【翼】を持つ者が国内に侵入してきたからか。おそらく、後者なのだろう。どうも、能力の扱いに長けており、長い期間それを行使しているのだろうと推測できる。

 いや、正直、ビアンにとって彼らの主義主張はどうだっていい、彼らが法の下に照らされさえすれば。ただ、どう見ても国家に恭順の意を示すような人物には到底見えなかった。ならば、武力を以って応じなければならないのだろう。法を守る為の暴力は容認されるとビアンは考える。

 最後にこれが一番の危惧している点なのだが、相手の総数が不明という事。敵が先の二名だけだと断定できれば、今程頭を抱える事態にはなっていない。しかし、もしそれ以上の規模の集団であったなら、今後遭遇する身分証を持たぬ者は、全て敵という可能性もある。全人口の割合から見て、身分証の非装着者はそう多くないが、全くいない訳ではない。危険の恐れがあるのなら、疑って掛かるべきだ。

 しかし、もし本当に敵が相当数いたとして、こちらの現状の戦力は、参考人のライゼルのみ。とはいえ、参考人のライゼルに危険な目に遭わせる訳にはいかない。元々、保護の名目で姉弟の身柄を預かっている。それなのに、ライゼルの【牙】を充てにすると言うのはおかしな話だ。筋が通らない。ならば、実質戦闘要員はおらず、逃げに徹するしかない。

 これらの事を事細かに姉弟に伝え、そして最後にこの言葉で締めた。

「つまり、だ。お前達は今後ああいう輩に出会っても、一切手出しはするな。分かったな?」

「分かんないやい!」

 間髪入れず異議を申し立てたのはライゼルだ。隣で大人しく話を聞いていたベニューも、口答えこそしないが納得していないのは同様のようだ。不服とまでは言わないが、疑念の色は見せている。ビアンの指示に賛同していない。

「あの、どうしてでしょう?」

「どうしてもこうしてもあるか。暴力行為は法律違反で、加えてアナタガタは参考人、ワタクシに身柄を保護されている身なんだ。アナタガタを無事王都に送り届けられなきゃ、ワタクシの責任問題なんだですよ!」

「言葉遣いがおかしいよ、ビアン」

 ライゼルの指摘も、興奮気味のビアンは意に介さない。体裁を取り繕っていられない程に、状況は逼迫しているのだ。目下の者から間違いを指摘される事は、ビアンにとって耐えがたい事であるが、それに拘る事を状況が許さず、その為に無視してしまえる。

「先の二人が通じている事はほぼ確実だ。であれば、あのテペキオンと大男が同時に襲い掛かってくる可能性も無きにしも非ずだ。もしそうなれば、どうする事も出来ない」

 ビアンがいう事はもっともだった。テペキオンも昨日の大男もかろうじて退ける事の出来た強敵だ。複数の【翼】なる脅威への対抗策は今の所ない。ライゼルの【牙】も、流石にあの二人を同時に相手取る事は出来ないだろう。それに、思わぬ伏兵が潜んでいるとも知れないのだ。戦闘は避ける事は最優先事項だ。

「こっちは三人いるよ?」

 ライゼルはあろう事か、【牙】を持たぬベニューとビアンを戦力として勘定している。その考えそのものに説教をしたいが、今はとにかく先を急ぎたい。これ以上の無駄な議論に時間を割かれるのをビアンは望まない。

「とにかく、お前達は事件に巻き込まれた被害者で、重要参考人なんだよ。これ以上、そんな民間人を騒動に巻き込む訳にはいかないんだよ、わかったか!」

「さっぱり!」

「分かれよ!」

 ビアンの言う事はもっともかもしれない。そもそも、ライゼル達が同伴しているのは、非常事態に遭遇してしまったが故の緊急の措置なのだ。決して善意や任意同行などではない。ビアンは法律に則り、姉弟を保護している。ましてや、戦力として同行を要請しているのではない。姉弟が状況をどう捉えているかは知らないが、ビアンにとって、姉弟の心持などは斟酌の対象にならない。状況に対する法的な対処に関しては、間違いなくビアンの言う通りなのだ。

「いいか、これ以上の口答えは許さない。ライゼルは今後一切の【牙】の使用、及び戦闘行為を禁ずる。いいな?」

「なっ!?」

 ライゼルにとって【牙】とは、最も頼みとする個性で、自己同一性である。それを封じられてしまえば、ライゼルの野望は一切叶わない。確かに、元々道中は大人しく保護下にいるつもりではいたが、二件に渡り戦闘行為に発展したというこれまでの経緯を鑑みると、無意識の内に、今後も【牙】を以って難敵を退けるつもりになっていた。だから、不意にそう抑圧されても素直に従う気にはなれないのだ。

 ビアンにもライゼルの不服な様子が見て取れる。だから、ビアンは更に大きな声で、抑止する。

「いいな!」

 その怒鳴り声にも似た言い付けは、ライゼル本人でなく、そのお目付け役であるベニューに向けられる。突然の事に、思わずベニューの身が竦む。そして、仕方なく大人しく引き下がる。

「…はい」

 ビアンの厳格な言い付けは、一切の隙を見せない態度も相まって、ベニューには効果覿面だった。静かに畏まる姉を横目で見て、ライゼルも鳴りを潜める。

「ぐぬぬ」

 ベニューに効果があったという事は、例えビアンの制止がライゼルに対して強制力を持たなくても、ベニューという抑止力が誕生したのだから、結果的に上手くいった事となる。いざとなればベニューがライゼルを、説き伏せるかあるいは物理的に組み伏せるかしてくれるだろうと期待できる。ビアンもここ数日でライゼルの御し方を心得ている。

「敵の総数が分かってないのだから、用心するに越した事はない。それに」

 ここは、見通しの悪い雑木林の中だ。物陰から襲撃される可能性は十分に考えられる。事件の参考人が実行犯に狙われているのだ。否応がなしに、ビアンからどんどん余裕が失われていく。

 その逼迫した様子を察して、ライゼルもビアンの言葉の続きを取る。それ以上は、言われなくても既に心得ている。

「見通しが悪いから気を付けろって言うんだろ。分かったよ」

 渋々ながらも承服したライゼルの態度を確認したビアンは、それ以上は何も言わず車に乗り込む。

「ライゼル、ビアンさんの言い方は厳しいけど、私達の事を想ってなんだよ。ね?」

「それは分かる。でも、納得できない」

 ライゼルの顔は、いまだにぐぬぬと言い続けている。一応は、理解を示して見せたものの、素直にそれを飲み込む事は出来ていない。

「どうして?」

 ベニューも、ライゼルの余りに意固地な様子から、我を通したいが為に反抗的な態度を取っているのではないと察する。ライゼルは単に人を困らせるだけの我儘を言う子供ではない。結果的に迷惑をかける事はあるかもしれないが、それでも何か譲れない理由を持って行動している。今のライゼルの様子からは、それが窺える。おそらく、ライゼルには何か別の言い分があるのだ。

「だって、ビアンが見てるのは」

 ベニューの睨んだ通り、ライゼルも姉の説得を聞かないつもりではない。ただ、それでもライゼルには引っ掛かる何かがあった。それも結局、ビアンによって言葉に出来ずじまいになるのだが。

「おい、早く乗れ。今日の内に林道を抜けたいんだ」

「…わかってるよ」

 渋々、姉弟は後部座席へと速やかに乗り込む。不穏な空気を帯びたまま、三人を乗せた車は林道の中へと突き進んでいく。

 林道に入った途端に、辺りはしんと静かになり薄暗くなる。普段はここを通る者も少ないから、保全の優先度は低く、整備も開発時以降は一切行われていない。薪木の需要が増える冬場ならもう少し視界が開けていただろうが、今の季節は柴刈りする者もほとんどいない為、だいぶ木々が密集している。倒木や通行の邪魔になる枝木以外は撤去されない為、木々は伸び放題の荒れ放題で、ほとんど日も差し込まない。ただでさえ視界が狭いのに、暗がりの中では周囲も路面も更に見えづらい。木の根が道路へはみ出している時は、それを乗り越えなければならない事もしばしばだ。その時の衝撃は、特にお尻に響く。

 この中を、路面状況を見極め選んで走らなければならないビアンを想うと、その辛労は如何ばかりであろうか。加えて、姿なき襲撃者の警戒も怠る訳にはいかない。もちろんいない事を望むが、楽観視している時こそ不測の事態が起こると、ビアンは経験則で知っている。この苦境を一手に担わなければならないビアンに、余裕など一切なかった。

 むしろ、今の彼は極限状態にあった。もし誰かがビアンの傍らにいてその表情を見ていたら、神経をすり減らし鬼気迫るビアンの形相に気付けたかもしれない。しかし、ビアンが努めてその様子を見せようとしなかったのだから、気付けないとしても仕方のない事なのではある。

 ましてや、姉弟にとって、林道より先は未知の世界。他人を慮る余裕のないのは、二人も同じだったろう。初めての景色に、初めての体感。初めて尽くしの姉弟は、心身共に堪えている。

 ビアンも極力揺れの少ない路面を選ぶが、やはり快適な乗り心地ではない。地面の凹凸を車輪が乗り越える度に、車内の一行は振動を受ける。体の丈夫なライゼルでも気分を悪くするのだ、身体の細いベニューは眩暈を起こしかけていた。

「ベニュー、大丈夫か?」

「うん、平気だよ。ライゼルこそ平気?」

 自分が苦しいだろうに弟の心配をするベニュー。ライゼルはそれを見ていられなかった。ベニューは気位こそ強いが、身体はそれほど丈夫ではない。ライゼルがベニューに対して我を通し切れない理由はここにある。

「ねぇ、ビアン。もっとゆっくり走ってよ」

 この姉想いの要請はもちろんビアンのいる運転席まで届いていたが、それに応じる余裕は今のビアンにない。横転しないよう、脱輪しないよう、この悪路を越えねばならないビアンには、姉弟の言葉が煩わしく思えてしまう。職務を遺憾なく全うしたいビアンにとって、必要最低限の配慮以外は度外視できてしまうものだ。

「ビアン、聞こえないの~? ビアン?」

(うるせぇ、静かにしてろ。俺の仕事の邪魔をすんな。俺一人なら、ソトネ林道もなんて事はないんだよ)

 ビアンも、普段は決して他人を疎かにして顧みない人間ではない。ただ、『仕事』となると、それを頭から切り離してしまえる。彼にとっての仕事は、大きな意味がある。ライゼルにとっての夢と同様に、本人の中で大きな割合を占める。職務に忠実である事は、彼の第一義なのだ。

「お~い、ビアン~」

「いいよ、ライゼル。私は大丈夫だから」

 いまだデコボコ道が続き、その段差を越える度に車は大きく揺れるが、ベニューも同乗させてもらっているという負い目があって、あまりビアンに負担を掛けたくない。乗り心地は最悪だが、我慢するしかない。

 運転者の神経をすり減らす林道ももう半分は過ぎた頃だろうか、ビアンはようやく悪路の運転にも慣れてきた。林の中は風の流れさえ感じられず、音のない空間と言うのは何とも気味が悪い。早くこの場を立ち去りたい気持ちは山々だが、急いては事を仕損じる。残りの道程がいよいよ残り半分となった所でふと溜息が漏れるが、それに気付き、また気を引き締める。慣れただけでまだ任務を終えた訳ではないのだ。

 荷を積んでいた往路は迂回していたからよかったものの、最短距離を急がねばならない復路の現在は一時も気が休まらない。普段であれば、荷物の減った復路ほど気が楽な事はない。仕事も終えて、後は帰るばかりだという状況は実に心地よいものだ。達成感は人に幸福感をもたらす。だが、今日は勤務地オライザに戻っても、その更に先の王都まで行かなければならない事が既に決定している。本当の意味での道程はまだまだ長い。今回のような件も、せめて数日前から準備が出来れば、少しは負担も軽減できたろうに。

(予定にない仕事は、苦手だ…)

 どちらかといえば、ビアンは要領のいい方ではない。同時に複数の事を進行させる為に、事前に作業工程を洗い出し、反復して脳と体に叩き込み、心構えを整えていく事を常に心掛けている。能力的に周囲に劣る自分の弱点を工夫で補い、努力に努力を重ねた結果、士官学校を優秀な成績で卒業できた。突発的な事態に弱い自身を自覚していたし、それをおざなりにしたつもりはない。常に万全に対策を立てるのが彼のやり方だ。

「なのに、いつも運が悪いんだよなーッ!」

 彼の身の回りには、常に不測の事態が付いて回る。どんなに注意し、警戒し、対策を講じても、運はビアンの味方をしない。今回もいつも通り、フィオーレ村に配給物資を届けるだけのはずだった。それが謎の異国民の襲撃を受けたり、参考人を匿わなければならなかったり、こんな悪路を大急ぎで飛ばさなければなくなったりと、本当にツイていない。ほとほと自分に愛想が尽きる。-

 それでも、自分がやらねばならない。使命を帯びた公人としての自分が。どんな苦境に追い込まれようと、それだけは決して見失わない。ライゼルが【牙】をそう思っているように、ビアンも仕事に対する自身の姿勢を、自己同一性だと自負している。

「ビアン、道路の脇に人影が見えた気がするんだけど、気のせいかな?」

 不意に後ろからライゼルの指摘が伝えられる。実は、運転席にいるビアンの目の端にも、それと思しき人影が映っていた。だが、こちらに何かを仕掛ける様子もなかったので、見咎めなかった。

 というのも、もうこれ以上誰とも関わり合いになりたくないと、本能的に感じたからだ。今回の配給は、何から何までツイてない事尽くしだ。フィオーレでは、代理人が荷物を受け取りに来たり、その事がきっかけで身内同士が喧嘩を始めたり、村長宅に招かれるはずが急遽変更されたり、異能の力を持った異国人による傷害事件は起こる。その事件から芋蔓式に、ボーネでは烽火が上がる緊急事態に元の道を引き返す羽目になったり、デイジーおばさんから矜持を傷つけられたりと、他人と関わる事で余計な仕事が増えてきた。その蓄積された不満がここに来て臨界点を突破し、完全無視という回答を出すに至らせた。事件に巻き込まれた訳でもない人間に手を煩わされては、ビアンの頭の血管が切れるかもしれない。

「付近の住民だろ。無視しとけ」

 そう言い捨てた瞬間、予想以上の不幸がビアンを襲う。走行する車の目前に、先の見ない振りをした者とは違う人影が、突然飛び出してきたのだ。

「ふっざけん、なっぁああああーーー!」

 操縦桿を咄嗟に急旋回させると、車は大きく左に曲がり、道路脇の樹木に衝突し、ようやく止まる。その衝撃で三人は車外に放り出されてしまう。側面はほぼ剥き出しの駆動車であるから、ふとした事で落下するというのはしばしばある事だ。

「いてて、だから言ったじゃん。誰かいるって」

「向こうが突然、跳び出して…」

 地面に打ち付けた腕を庇いながら上体を起こすと、一行の行く手を遮るようにして、五、六人の少女達が道路上に現れているのに気付く。先程の人影は、この内の一人なのだろう。

 目深に笠を被り、全身を硬そうな麻の外套で包んでいる複数人の女の子達。素顔もほとんど窺えない。砂漠越えして来たかのような出で立ちで、明らかにこの鬱蒼とした密林に相応しくない。まるで、肌を晒す事を厳格に咎められているような印象を受ける。

「旅商人かな?」

「女の子ばかりだよ?」

 ベニューがそう呟くと、一様に三人とも同じ疑問を持った。何故、女だけの行商人が、荷物も持たずにいるのか、と。

 女だけの行商事態はさほど珍しくもない。先のボーネ村にも、女性のみで編成された旅商人が訪れる事はままある。女にも駆動車は扱えるし、それ程物騒な土地柄でもない。女だけという事に関しての不具合はあまりない。

 だが、その女だけの集団が荷物を持ってないとなると話は別になる。

 交通網の整備されたベスティア王国において、都市間の移動は非常に容易だ。身分証(ナンバリングリング)という首飾りが一目で戸籍の照会をしてくれるので、国は行き来を制限していない。臣民は望む土地に自由に移動する事が出来る。人々は好きな土地で店を構えたり、生活を営んだりする事が出来る。

 ただ、何をするにしても先立つ物が必要なのだ。それは貨幣であったり、交易品であったり、他者と経済活動ができる価値あるものを持っていなければならない。

 例えば、出先で食事をするにしても、寝泊りする部屋を借りるにしても、どこで何をするにしても、対価は必要なのだ。ライゼルには旅をする為に貯めた銀貨があるし、ベニューにも、いざとなれば『六花染め』という価値ある商品を生み出す技術がある。

 だが、目の前の少女達は何かを持っているようには見えない。もしかしたら、技術を持っているのかもしれないが、それで納得したくない不気味さが彼女達の静寂さから滲み出ている。そもそも、余所の集落で商売をしようと張り切るような調子でもない。

(いくら何でも不自然だ。こいつらもまさか【翼】を持って…)

 一応警戒して少女達を子細に観察する。したはいいものの、暑苦しい服装以外には、特筆すべき点はない。首に身分証が付けられていたし、背に【翼】が確認されている訳でもない。身分証は平民女性を表しており、一般人の可能性も十分にある。ならば、ビアンは仕事を、彼女らへの指導をしなければならない。

「おいおい、駆動車の接近は分かっていたはずだ。公務執行妨害として厳重注意を…」

「………」

 表情も見えない少女達に一喝し説教を試みたが反応はなく、ビアンの言葉は尻すぼみに小さくなっていく。この距離で聞こえていない訳はないし、どんな胆力の人間でも間近で大声を出されれば、反射するはずだ。

 だが、少女達の様子は、まるで本当に何も聞こえていないように映る。ビアンの大声も彼女らの心を動かさない。意図的にライゼル達の行く手を遮っただろうに、そのライゼル達にすら興味を持っていない。ただ、そこに静かに佇むだけ。醸し出す雰囲気は、ただただ不気味。

「黙っていては何も分からんぞ。説明しないか」

 痺れを切らしたビアンが、そう言って少女たちの一人に詰め寄り、肩を掴もうとした瞬間、

「いってぇえええええ」

 伸ばし掛けていたビアンの右腕部に、ひりつくような痺れが走る。咄嗟に少女達から距離を取り、思いきり尻餅をつくビアン。

 彼女らの中の一人が、ビアンに向かってなにか『液体』らしきものを霧状にして吹き掛けたらしい。それがビアンの腕部の皮膚に塗布され、痛みをもたらした。吹き掛けられたそれは、白色不透明で乳臭い匂いがするもの。ビアンはその匂いに覚えがある。

「この臭い、母乳か?」

「どうしたの、ビアン?」

 苦痛に悲鳴を上げたビアンの様子を心配し、傍に駆け寄るライゼルとベニュー。患部には直接触れず、引き千切った制服の切れ端で、その液体を拭き取る。

「何か母乳らしきものを掛けられた。その掛けられた部分が痺れる。おそらく毒性を持った何かなんだろう」

 拭き取った布切れを道端に投げ捨て、立ち上がろうとする。が、右腕の痺れが激しく、上手く立ち上がれない。ヒリヒリする感覚は、徐々に熱を帯びるような痛みに変化する。

(この神経に障る感覚。まさか、致死性はないだろうな…)

 塗布するだけでこれ程の痛みが走る液体。年の頃を見てもまさか本物の母乳ではあるまいが、もしかしたら先程の液体は、臭いだけ母乳に似た猛毒なのかもしれない。護衛手段にしては比較的に随分物騒なものを持ち歩いているものだ。そう推測してみたものの、残念ながら医学の知識はなく、近くに水辺もないし、現時点で処置の施しようがない。素人が下手に触らない方がいい。

 先程から神経を張り詰め通しのビアンだったが、努めて冷静に分析して見せ、痛みに耐えながら姉弟に現状の危険性を伝える。その間、彼女達からは視線を外さず、注意深く観察する。少女達の挙動を微に入り細に入り見張る。この不気味な少女達が何を仕掛けてくるか知れたものではない。

「今のは明らかな敵対行為だ。こんな人体に悪影響を及ぼすものを躊躇なく使いやがって。しかも、かなりの即効性のある代物だ」

 奇妙な事に、彼女達の様子は先程とほとんど変わってない。用いた自衛手段を構えている様子も見受けられず、相も変わらず棒立ちで佇むだけ。ビアンに何か液体を吹き掛けたのだから、それらしきものを持っていてもおかしくないのだが、それがどこにも見当たらない。すぐさま外套の中へ忍ばせたのだろうか? どんな形状の何を潜ませているのか、ライゼル達には定かではない。

「おい、どういうつもりだよ! 何を掛けたんだ?」

「………」

 ライゼルの問いに対しても、また少女達は無言を貫く。その所為か、先の行為が自衛行為なのか敵意からの行為なのか、判断しづらくなる。とはいえ、ライゼル達一行に何かの意図があって、仕掛けてきているのは間違いない。現に先を急いでいた一行は足止めを喰らっている。

 幸い、先の噴射以降は何も仕掛けて来ず、またその場を佇んでいる。ビアンにとって、姉弟を逃がすなら、今を於いて他にない。

「こいつらは自発的に何かを仕掛けて来ない。おそらく、足止めが目的なんだろう」

「足止め? なんで?」

 危機感がないとは言わないが、自覚が薄いライゼルの物分かりの悪さにビアンは青筋を立てる。それもあって、ライゼルがビアンに肩を貸そうと気を遣うが、ビアンはそれを左手で制し、拒否する。

「ビアン?」

「分からないのか、この子達も【翼】使いの仲間なんだよ。狙いはライゼル、お前だ」

「えっ!?」

「さっきの話を聞いてなかったのか? 見知らぬ男がお前に復讐を宣言していて、現に大男や行商娘が襲撃して来てんだろうが! この間の悪い時に仕掛けてきたって事はそういう事なんだろうが!」

 先日の異国人が手下として放ったのが、この少女達だとしたら、テペキオンや巨漢も近くにいる可能性がある。外部の助けを望めないこの僻地において、それは非常に危険な状況だ。故に、ビアンは姉弟に向けて警鐘を鳴らす。

 だが、ライゼルは一向に指示に理解を示さない。

「じゃあ、俺が戦うよ」

「だから、お前が目当てだって言ってるだろ! この場は俺に任せて、お前は早く逃げろ!」

 そうなのだ、少女達は先程から身動き一つしないのに、どこか離れた場所から物音がするのだ。加えて、その物音はゆっくりではあるが、確実にこちらに迫ってきている。段々と音ははっきりと知覚できるようになり、それが後方からの足音だと判明する。おそらく足音の主は、この一派の一味。このままだと挟み撃ちに遭う事は容易に想像できる。ここに来て、挟撃体制を取る為に、少女達は道を塞いだのだと発覚する。

「林道を抜けて東にずっと行けば、オライザって集落に着く。そこには駐在所があるから、匿ってもらえる。立派な橋とデカい屋敷があるからすぐ分かる」

「ビアンだけ残して行けないだろ」

 上手く立ち上がれないビアンではあるが、無傷の左手でライゼルを押し退けようとする。しかし、筋力に優れたライゼルを片手で突き飛ばす事は適わない。ビアンにとって、それが余計に腹立たしい。

「いい加減にしろ。俺の言うこと聞けよ」

「いやだ、俺もここで戦うよ」

 遂にビアンの我慢に限界が来る。ライゼルの頬に、ビアンの左手による、力の乗らない平手打ちが見舞われる。

「俺にはお前達を守る義務がある。この命に代えても」

 ビアンにこれ程の啖呵を切らせたのは、役人である事からの矜持である。ただ、静かにそう言い放つビアンだったが、ライゼルも引く様子は見せず、抵抗を繰り返す。

「義務とかなんだとか難しい言葉で誤魔化すなよ。守るってどっちのことを言ってるんだよ?」

「お前こそ、何を言ってるんだ?」

 この期に及んで、突拍子もない返事を返すライゼルに、これ以上は何を説いても時間を浪費するだけと判断したビアンは、ベニューに向き直ってこう告げる。

「ベニュー、これは命令だ。ライゼルを連れてオライザを目指せ。お前がライゼルを守るんだ」

 ベニューは事の重大さを、身をもって承知している。このまま居座り続ければ、間違いなく昨日のような事になる。ライゼルが危険な目に遭う。ビアンの身も心配だが、共倒れするよりかは、弟を連れて逃げる方が賢明な判断だ。弟の身の安全の為なら、ベニューは判断を過たない。

「わかりました。行くよ、ライゼル!」

 首肯で承服の意を示すと、ライゼルに逃走を促し、脇道に逸れ木々の中に姿を眩ませる。

「わかったよ。ビアンの分からず屋!」

 精一杯の捨て台詞を吐きながら、ライゼルも渋々応じてベニューに追従し、二枚の六花染めは深い緑の中へ溶け込んでいく。彼らの無事が約束されれば、ビアンの肩の荷が一つ降りる。姉弟が無事逃げ遂せた事を見届けると、ふと息が漏れる。

「どっちがだよ、手ぇ焼かせやがって」

 右手の痛覚が許容範囲を越えたのか、感覚がほぼ無くなってきてしまっている。痛みに耐えずに済むのはありがたいが、その分、動かす事もままならない。逃走を諦め、その場にへたり込むビアン。独力での抵抗や逃走は見込めない。

が、少女達はビアンを拘束するでもない。かと言って、ライゼル達を追い掛けるでもない。先程から微動だにせず、ただその場に居残り続ける。狙いはほぼ確定的というのに、この現状との噛み合わなさは何なのだろう。

(こいつら、状況判断が出来ないのか?)

 ビアンはここで一つ、仮想を立てる。この少女達には意志がない。厳密に言えば、目的に対する積極性がない。

 根拠はいくつかあった。まず、この少女達はこちらの言動に対し、ほとんど反応を見せなかった事。唯一、反応を示したのが、ビアンが体に触れようとした瞬間のみ。おそらく、自衛は自然と働くのだろう。ただ、動き自体は、フィオーレの姉弟やアードゥル隊員のように特別優れた運動神経を有しているようには見受けられなかった。集団という単位で行動しているものの連携しているようには見えず、特殊な訓練を積んでいる訳ではなさそうだ。

 威力偵察を仕掛けておいて、自らの防衛だけは徹底するというのは、情報を持ち帰る事を優先させているからだろうか? 戦闘や作戦行動における技能は皆無と考えても良さそうだ。なんにせよ、この少女達だけで見れば、これまでの【翼】使いと比して脅威度は圧倒的に落ちる。

 次の根拠として、ライゼルとベニューの逃走を易々と許した事があげられる。狙いは間違いなくライゼルのはずなのだ。むしろ、他に心当たりがない。だが、その対象が逃げたというのに何の対応もしない。やはり、この少女達は、あの異国人により放たれた手下なのだろう。密偵として、あるいは尖兵としてこちらの動きを探る為に派遣されたものと考えられる。ただ、現場での独自判断ができる程は訓練されていないのだろう。

 もう一度、彼女達に近付き、彼女達が先と同様に自衛行動を見せれば仮説が立証できるだろうが、もう二度と浴びたくないという本音もある。それに、

(後方の追手もお出ましのようだ)

 徐々に近付いていた足跡は止み、代わりに女の声が聞こえる。

「あら、『あの子』はここにいないのね。逃がしちゃったかしら」

 ビアンが首を擡げそちらを見やると、一人の女がいる。物憂げな瞳で妖しい魅力を帯びた女が、長い黒髪の三つ編みを揺らしながら、ゆったりとした歩調でじわじわとビアンに接近する。

(身分証はない。という事は、この女もあの異国人の…)

 少女達と違い、後から遅れてやってきた女は、首飾りを装着していない。代わりに艶やかな長髪を三つ編みに束ねる、宝石細工をあしらった髪留めが認められる。先の二件では確認できなかったが、異国人にもベスティア王国民同様に装身具を付ける習慣があるのだと、ビアンはふと思った。ただ、それ以外はテペキオンや巨漢と同じ、無垢なる者を想起させる純白の衣装。本当に同じ道を通って来たのかと疑わしいくらいに、滲み一つ付いていない。地に伏し泥汚れを付けているビアンと比較すると、その見た目の印象には随分な差がある。

 姿を見せた追撃者の女は、辺りを一瞥し、落胆の声を漏らす。それに呼応したかのように、不動だった少女達は三つ編み女の周りに群がる。親の帰りを待ち詫びた子供のような姿とでも言えば適当だろうか。隠密行動を命じられた刺客と睨んでいたビアンだが、この様子を見ていると、お遣いを命ぜられた子どものようにも見える。

 その内の一人の少女がひしと三つ編み女に縋りつく。見分けがつく訳ではないが、おそらく位置から推測するに、先程ビアンに対して毒液を吹き掛けた少女だ。女は自分に身を預ける少女の頭を撫でつけ、慈愛の目を向ける。少女は何も発さなかったが、女には何かしら伝わったようで、何やら一人で納得している様子だ。その触れ合いが、まるで何らかの意思伝達手段だったかのように。

「…そう。そうね、私の『愛娘』達に怪我がなくてよかったわ。じゃあ、また『あの子』を追いかけてちょうだい」

 そう言い含めると、少女達は、表情こそは虚ろな目の与える印象通りに不気味だが、どこか弾むような軽やかさで、ライゼル達が去った方向へ走り出す。これによって、指示を受けて改めて行動開始するという推測が正しかった事は確認できた。だが、状況が変わった今、その成果はそれほど大きくない。手下を放っていたのは、面の割れている男二人でなく、この妙齢の女だったのだ。新たな情報を得たと言っても、余計に対策が後手に回ったに過ぎない。未だ、ライゼル達は敵の脅威に晒されている。

「おい、待て」

 少女達の追跡を妨害しようとも、ビアンは上手く動けない。女の命令を遂行せんとする少女達の行動を許してしまう。迂闊な行動で手傷を負ってしまう自分が不甲斐ない。唇を嚙みしめながら、少女達の背中を睨み付ける。

 と、少女達を追っていた視線は途端に遮られる。緩やかな足取りでその間に入ったのは、件の女だ。ライゼル達を追わず、倒れ伏すビアンしかいないこの場に残った三つ編みおさげの女。目的はなんだ? 利用か口封じか、それとも…

 抵抗する術のないビアンは、無防備に寝転がった状態のまま、女に向かって疑問を投げかける。

「お前があの子達の親玉か?」

 問いを向けられた女は、不敵な笑みを浮かべた後、凍てつくような冷たい視線をビアンに向ける。女が纏う妖艶な雰囲気も相俟って、より一層恐怖心を煽られる。安全地帯に居れば免れられた恐怖であるかといえば、そうではない。この女から発せられる迫力は、ビアンの背に汗を滴らせ、やはり先日の異国人を彷彿とさせる。

「ふぅん、アンタが『あの子』を逃がしてくれたってワケかい? 余計な事をしてくれたもんだね」

 問いを投げてもまともに返答がないのは、これまでにも経験がある。テペキオンとの会話がまさしくそうだった。と、いう事は、だ。

「お前、【翼】持ちだな。テペキオンや大男と同じ」

 そこまで言い掛けたところで、無慈悲にも頭を蹴り飛ばされる。女はまるで躊躇する様子は見せず、三つ編みという髪型から受ける大人しい印象とは、随分落差があるように思われる。その見た目との差異による衝撃に不意を突かれ、咄嗟に防御姿勢を取れなかったビアンは、蹴りの勢いのまま身を転がせるしかできない。三つ編みの女は、血を吐くビアンを慮る素振りもなく、更に詰る。

「あの単細胞、天から与えられた名を地上の土埃に塗れさすとはねぇ」

 この反応は予想以上だった。カマを掛けて、テペキオン達との関係性や素性を口走らせる算段だったが、『ギフテッド』という言葉が、想像以上に女の琴線に触れてしまったらしい。この女も先の二人同様に【翼】の存在を知っている。同等の力を持つが故に、その扱いを軽んじた事が気に障ったのか、それとも、【翼】を持たない事による劣等感から来る苛立ちか。どちらにせよ、『有資格者』という言葉の扱いの難しさは、この異国人達と接する時には、念頭に置いておいた方がいいかもしれない。もう少し情報を訊き出したい所だが、口内を切ってしまったらしく、ビアンは上手く話せない。代わりに三つ編みの女が続ける。

「単細胞からどこまで訊いているのかしら?」

(やはり、奴らの同胞。という事は)

 次に予想されるのは口止め。つまり、ビアンや姉弟の抹殺である。これまで影や形やその噂さえも見聞きしたことのない【翼】なるものの存在は、所持者達からすると隠匿したいものなのか。保有者が厳に秘匿していたからこそ、これまでその存在が明るみに出なかったのか。あるいは、目撃者を悉く抹殺していたからか。先の様子を見るに、危害を加える事に躊躇った様子はなかった。おそらく、殺害する事も同様なのだろう。

(知らぬ存ぜぬで通るとは思わないが)

「アイツの能力は見たのかしら?」

「あの高速移動の事か」

 能力という単語を聞いて、まず最初に連想されたのがそれだ。一番の驚きは、重力を無視して空中浮遊してみせた事だが、それは後日の巨漢の男も同じ芸当を披露した。もしかしたら、【翼】を有する者は、皆が浮遊能力を有しているのかもしれないというのが、現状のビアンの推測だ。

「高速移動、ね。『疾風』の通り名に違わぬ能力ってところかしら。それで、他に知っている事は?」

 女は、脅迫し情報を吐くよう強要するばかりで、ビアンを亡きものにしようとする素振りを見せない。どころか、ビアンがこれまでに知り得た情報を訊き出そうとしている。これはどういう事か?

(そういう事なのか?)

 確信は持てないが、ビアンには思う所がある。疑惑の段階を突破し、その解消を試みる。出来るだけ抵抗する素振りは見せず、素直に質問に答えているフリをする。そうすれば、突破口が見出せるかもしれない。

「…見た訳じゃないが、まだ何か隠しているようにも見受けられた」

 抵抗する素振りもなく、淀みなく答えるビアンの態度に満足したのか、先よりかは幾分か形相が和らぐ。それでも自身が上位だとする態度に変化はなく、次を急かす度にビアンの頭部や背中を足蹴にする。

「アンタの推察で構わないわ。話しなさい」

 かなり屈辱的な状況だが、ここで女の機嫌を損ねて作戦が破綻しても面白くない。頭部を土足で踏みつけられる恥辱に耐えながら、女の言葉に応じる。

「あぁ。どうも姿を消す能力を持っているようだ。空中で突然姿を消したんだ」

 証言通りに、テペキオンは空中の一定の高さまで背の【翼】をはためかせると、途端に眩い光に包まれ、瞬き一つの間に行方を眩ませていた。これは、あの大男にも言える事だから、先の浮遊と同様で共通の能力なのかもしれない。

「…そう」

 少し逡巡する素振りを見せたが、この証言にはそれほど興味を示さない。多分、これは、

(既に知っている情報か)

 反応が薄いという事は、既知の情報であると予想される。おそらく、テペキオンと巨漢に共通する事項には関心がない。女が既知の情報に興味がないという事は、ビアンの予想通りだった。導き出される結論として、女はテペキオン個人の情報を訊き出したいのだ。情報漏洩や機密保持の確認がしたいのではなく、女自身がテペキオンの秘密を暴き利用するのが目的なのかもしれない。であれば、口封じに抹殺される事は回避できるかもしれない。

 この目撃者に利用価値があるのだと誤解させるように、ビアンは策謀を巡らす。女が全てを把握している訳ではないのであれば、幾らかやり様はある。例えば、こうだ。

「あとは、手から雷を発生させる事が出来るようだ」

「イカヅチ?」

 虚言を伝えて様子を見る。あからさまに訝し気にビアンの目を見る妙齢の女。山彦のように返したその反応には、どう意味が込められているのだろう? なにか問題があったか。例えば、天候に干渉する特異能力はあり得ないだとか、そもそも能力の数には制限があるだとか、ビアンが口から出任せに言った虚言が、そういった【翼】の制約に触れていただろうか? これだけの要素では分からない。だから、もう少し続けてみる。

「あぁ、雨雲から見える稲光だ。一瞬間で視認はできなかったが、あれに酷似した発光現象を自在に操っていたんだ。光と共に音も轟かせていたから、間違いない」

 作り話だと、どうも変に饒舌になってしまう。怪しまれてしまっただろうか? 妙齢の女の表情は、先と変化がない。ビアンの証言を慎重に吟味しているようだ。

「イカヅチ…そう、雷ね」

 腑に落ちない様子だが、頭の片隅に留めておくように、その虚偽の能力を重ねて口にした。ビアンの吐いた嘘を見抜いていないのであれば、ビアンも策を講じる事ができる。

「もし、テペキオンを出し抜こうと考えているのなら、俺が力になれるかもしれない」

 予想だにしなかったのだろう、突然のビアンからの提案に、これまでと違った反応を見せる三つ編みの女。

「地上の人間風情が?」

 怪訝そうな表情に変化はなかったが、先以上に関心を持ったらしく耳を傾け始めたようだ。女は視線でビアンに先を促す。相手が誘いに乗ってきた事を確認したビアンも、それに素直に従う。

「例えば、俺はヤツの狙いである人物と通じている。そいつと共謀すればテペキオンを出し抜く事が出来るはずだ」

 これは大きな博打だ。そもそも、女の狙いが判明しない内に、両者が対立関係にあるという前提でテペキオン達を相手取る作戦を提案しているのだ。もし、女とテペキオン達が協力関係にあれば、この時点でビアンの負けは確定している。負けという生温い言葉では済まない、ビアンを待つのは死だ。

 だが、ビアンも無策で賭けに出たのではない。これまでのやり取りで確証こそ至らないものの、そう思えるだけの根拠は得た。この女は、テペキオン達と同胞かもしれないが、第一義は同一ではない。テペキオンが口走った『狩り』なるものが狙いでなく、別の個人的な企みがあって行動している。そうビアンは、推理する。

 それに、この三つ編みの女からは、テペキオンに対する対抗意識が見て取れる。そういう他者に対する負い目を感じる感覚に、ビアンは自身の経験則もあって敏い。

 急に下手に出るビアンに、流石に全幅の信頼を寄せる事はないだろうが、それでも利用できる駒という認識は持ったかもしれない。妙齢の女は、身動きできないビアンに対して油断し始めていたし、都合よく踊らんとしている彼に払う警戒を忘れかけていた。

「何が目的だい?」

 自らに恭順の意を示す存在は、女としても面白くない訳ではない。自分の意に添うのであれば、無碍にするつもりもないのだろう。相変わらず見下したままだが、それでも交渉相手として認め始めている。

「何か目的があるとしたら、命乞いかな。ご覧の通り、俺は動けない」

 無事な左手を挙げて、お手上げの格好を見せ、降参の意を示す。無慈悲な人間であっても、無抵抗な者にわざわざ手は挙げまい。口止めの必要がなければ、尚更。

「命乞い? 妙な事を言うのね」

「そうか?」

 相変わらず会話が上手く噛み合わない。この女にとって情報提供と命乞いは斟酌する事ではないのだろうか。どうやら互いの間に、決定的な認識のズレがあるようだ。読み違いの恐れもある、慎重に進めねばならない。

「じゃあ、三下の手並み見せてもらおうじゃないか。天空の疾風をどう料理するのか」

 これで疑惑が確信に変わる。妙齢の女は、テペキオンの存在を知っているが、決して協力関係にある訳ではない。むしろ、相手の内情を探っている。この事から、仲間であるとは考え難く、連絡を取り合っているとも思えない。であれば、女の要望を引き出す事を目的に策を労すのも悪くない考えだ。

(上手くすれば逃げ出せるか?)

「まず、ライゼルを連れ戻したい。あいつがいなくては、テペキオンをおびき寄せる事が出来ない」

「『ライゼル』…それが『あの子』の名前かい?」

 ビアンは肩透かしを食らった思いだ。意外な事に三つ編みの女は、ライゼルの名前を知らなかったのだ。標的の名前を聞かずに追撃していたのか? 容姿の特徴だけを伝え聞いて、ライゼルを追いかけて来たのだろうか。可能性はあるが、腑に落ちない。昨日の巨漢の男は、ライゼルの名前も特徴も知っていたようだった。この三者の間で情報共有が十分になされていないという事なのか。それとも、ビアンが何かを読み誤ったか?

 判断しあぐねるも、こちらの狙いが知られては不都合だ。あまりその点を追求すると、こちらの目論見が明るみになり、機嫌を損ねるかもしれない。特に気に掛けた様子も見せず、策謀を続ける。

「そうだ、テペキオンに痛手を負わせた者はライゼルという」

「…痛手をねぇ。なるほど、単細胞が『あの子』に執心するのはそういう事かい」

 どうやら合点のいった様子の女。女は何やら疑問を解消したようだが、それとは対照的にビアンは先程から抱いている違和感を拭えない。何かが噛み合っておらず、上滑りしているようにも感じる。三つ編みの女が発する重圧からは解放されたが、未だにビアンは額や背中から冷や汗が流れ出ている。一昨日の詳細も聞き及んでいないのに、ライゼルを追い掛けていたのか? というより、そもそも何の狙いがあって、ライゼルを追う? 同胞の仇討ちにしては余りにも悠長であるし、それ以前にテペキオンに対して友好的な態度は一切見せていない点から、テペキオンの為に奔走しているとも考えにくい。まさか、テペキオンへの単なる当て擦りの為の行動か? 様々な可能性を吟味するが、不確定要素が多すぎてやはり不自然だ。

 不審がるビアンをさして気にするようでもなく、更に続ける三つ編みの女。節の長い五指が、女の頬を厭らしく這う。

「だけど、あの単細胞に持って行かれるのは癪だねぇ。アタシも『あの子』を気に入ってるんだ」

 目にする事の適わなかったライゼルに想いを馳せているのだろうか、視線を遠くに向け、恍惚の表情を見せる。先程の少女達へ向けた慈愛の表情そのもの。何を妄想したのだろう、女の口元が僅かに緩む。

 その様子を見て、ビアンは自らの行いが過ちであった事に気付く。

(しまった! この女自身もライゼルが目的だったのか)

 これは痛い失敗だ、ビアン痛恨の失態。何故なら、そもそもの前提を履き違えて、計略を練っていたのだから。女の目的が、テペキオンに対する当てつけと思ったからこそ、ライゼルを囮にするような言い方をしたのだ。

 だが、これではビアンが望む条件での取引にならない。却ってあの姉弟を余計に危険な目に遭わせてしまう事になってしまった。もちろん、連れてくる事を要求したのは欺瞞作戦の内ではあったが、それは隙を見て逃げ出す為の口実。最初からそんな事は望んでいない。それでは、自分を犠牲にし、姉弟を逃がした意味がないではないか。

 慌てて事態の収拾に乗り出す。まだ行動に移っていないのだから、取り返しがつかない事もないだろう。ビアンはそう考えて、作戦の軌道修正に掛かる。

「もちろんテペキオンに引き渡すのは、見せかけだ。テペキオンがライゼルに気を取られた隙に、アンタの手下にでも奇襲を掛けさせれば…」

 そこまで言い掛けて言葉を飲むビアン。これ以上言葉を紡ぐ事は憚られる。何故か? それは、とてもこの世のものとは思えない、怒りに満ちた形相がビアンに向けられていたからである。

「手下? それはまさかアタシの『愛娘』達を指しているんじゃないだろうね?」

 不意に問いを投げられ、言葉に詰まる。どう答えていいか戸惑っていると、妙齢の女は動けないビアンの頬に連続して蹴りを繰り出す。

「臭く汚い男の分際で、アタシの『愛娘』に指図するんじゃないわよ。この土埃が」

 無抵抗なビアンはされるがままに蹴られ続けるしかない。蹴られた目元は腫れあがり、その膨れによって押し上げられた頬肉が視界を遮る。口の中には血の味が広がる。血が喉に絡んで呼吸が苦しく、加えて女が集中的に頭部ばかりを責めるので、痛みと衝撃で気を失いかけていた。

(ふたりとも、ちゃんと逃げきれただろうな)

 嬲られ続け、意識が朦朧とし始めた時、フィオーレの姉弟の顔が頭に浮かんだ。出会って数日しかないが、ビアンにとっては印象深い存在。無遠慮に年長者を呼び捨てにするライゼルと、年齢以上に大人ぶろうとするベニュー。

 思えば、ビアンには友人と呼べる存在がいなかった。それは故郷コトン村の時からそうであった。人口もそう多い集落ではなかったからか、同年代の人間も少なかった。両親は共働きで、暇を持て余す少年期のビアンはいつも本に夢中になっていた。その当時から始まった生活物資配給により各地に広まっていた学習制度。元々、物覚えの良かったビアン少年はどんどん勉学にのめり込んでいった。村一番の秀才と持て囃され、王国が誇る高等学習機関スキエンティアに入学、卒業後は平民初の官吏任官という偉業を成し遂げた。自身の努力の成果を生かすには仕官する事に於いて他にないと考えていたし、平民初の任官された誇りもあった。彼の人生は、とても充実していた。仕官して以降も、職務を全うする事に喜びすら感じていた。

 が、いつの間にかそれは、自身の劣等感を隠す都合のいい言い訳に成り替わっていたのかもしれない。

 幼い頃はそれほどではなかったと思う。大人が構ってくれないのは仕事が忙しいからなのだと理解していたし、聞き分けのない我儘を言った事もない。自分の周りに人がいないのは、状況の所為なのだと、そう思っていた。だが、その環境は劣等感を持ち始めるきっかけにはなっていただろう。

 スキエンティアに入学してからは、自身程度の人間は腐るほどいるのだと思い知らされた。優秀な学生の集まる学園には、本人の資質、家柄共に、ビアンより優れた者ばかりがいた。それまで思い上がっていたつもりもなかったが、あまりの格の違いに打ちのめされてしまった。ビアンは人生で初めての挫折を味わったのだ。

 そんな後ろめたさもあってか、学園ではあまり人付き合いをしなかった。他の学生全てを打倒すべき相手と看做し、距離を置き、ただひたすらに勉学にのめり込んでいった。自身の居場所を勝ち取る術はそれしかないと、ただ盲目的に取り組んだ。

 結果、先述の通り、王国に仕官する誇り高い役職に就けたし、ビアン自身も誰にも恥じる事のない自分になれた。役人の制服は、彼にとって誇りを背負うようなものだったかもしれない。だが、とうとう彼は独りのままだった。辛酸を舐めさせられる事を恐れ続けた彼が一人で勝ち取った成功は彼一人のものでしかなく、喜びを分かつ者も誰もいなかった。

 独りでいる事に慣れてしまったビアンは、職務も単独作業の多い地方監査官に就いていた。確認作業も、搬入作業も、配達作業もいつも独り。思えば、同僚と最後に口を利いたのもいつの事だったろう。

(独りぼっちで、賊に捕えられて嬲られて・・・情けないなぁ、俺は)

 自分の孤独な在り方に失望し、抵抗する気力も失くしかけていく。ビアンはもう生き残る事を諦めかけている。自分を過大評価して、一人で責任を抱え込んだ挙句、その負荷に押し潰される。これまでの人生を思えば、似合いの最期かもしれないと自嘲気味にビアンは笑う。顔は痣だらけ、服は泥まみれ。これ程無様な事はない。

 そう力ない笑いが込みあげると同時に、姉弟の姿が目に浮かぶ。

(六花染めを着たあいつらは、かっこいいんだよなぁ…)

 孤独を受け入れ、誰に取り繕うでもなくなったビアンは、ふとそんなことを思う。

 あの姉弟は、ビアンにないものを持っている。夢に対する直向きさや前向きさ。謙虚さや思い遣り。そんな人から好かれるような個性を持ち合わせているからこそ、きっとあの鮮やかな六花染めがよく似合うのだ。姉弟のように、すぐに他人と打ち解け、心を通わせる事ができたら、どれ程嬉しい事だろう、幸せな事だろう。

 ただ、ビアンにはそれが終ぞ出来なかった。ビアンには、姉弟のように『六花染め』を着こなす自分を、想像する事ができないのだ。

(あれは誰にでも似合うもんじゃない。眩しい奴が着るもんなんだよ・・・)

 混濁する意識の中、姉弟への素直な想いを馳せるビアンだが、地べたに寝転がる彼の眼前に女の爪先が迫っている。次の一撃が、意識と生命を同時に奪うのだろうな、とぼんやり考えていたが、不意にその足の運動を遮るものがあったらしい。虚を突かれた女は、怒気の含まれる口調で問い掛ける。

「誰だい?」

 女は蹴り出した脚を止めた正体に視線を向ける。と同時に、正体不明の何者かは、止めた脚を押しやり、女自身をも押し退ける…のだが、瞼の腫れたビアンはそれを視認できていない。複数人による足音があると判るばかりで、自分の傍で何が起きているのかビアンには分からない。

「ビアン、助けに来たぞ」

 すぐには事態が呑み込めなかった。見舞われるはずの蹴りが未遂に終わり、代わりに第三者に声を掛けられる。そして、そのまま女から引き離され、自身と女の間にその第三者が立ち塞がる。第三者とは誰だ?

「ビアンさん、掴まってください」

 左側面から腕を取り、肩を貸す者がいる。ビアンを背に庇う少年とは別に、ビアンを手助けする少女がいる。第三者は二人連れだった。この声をビアンは知っている。

「はぁぁああああああ?!」

 瀕死の状態でも、情けない声が出てしまうのだから、人間とはつくづく変われない生き物なのだと悟るしかない。そして、変わらないのはビアンに限った事ではない。この姉弟も、だ。

「ライゼル、ベニュー。なぜ戻ってきた?」

 ビアン自身を犠牲にして逃がしたはずの姉弟が、今度はビアンを救出しに舞い戻ってしまったのだ。これでは、骨折り損のくたびれ儲けだ。

「ライゼル。お前がここまで物分かりが悪いとは思わなかった。ベニュー、お前もだ」

 元々、口内が痛くて上手く喋れないが、それ以上に呆れてしまって物が言えない。ぼやけていた視界が、輪郭を捉えられる程度に晴れてくると、ビアンの視線の先にライゼルの不敵な笑みがある。

「そうかな、上等な作戦を考えてきたんだぜ」

「上等な作戦?」

 背中越しにそう言って見せるライゼルは、何故か自信満々な様子。

 押し飛ばされた三つ編みの女は、立ち上がり、尻餅をついた際に付着した服の土埃を払う。無垢なる衣服に泥汚れを擦り付けられたのがそれ程気に食わないのか、女のこめかみが何度も疼く。怒りの形相は先から微塵も和らいでいない。それどころか、更に険しくなっている。

「このクソガキ、アンタはお呼びでないんだよ。失せな」

 その怒号と共に、先の少女達が持っていたような乳白色の液体をライゼルに振りかける。先の少女達の時と同様に、どこから、いつ取り出したのか知覚出来なかったが、女が手を大きく振るとそれは飛び出していた。まるで、女の手に乳白液が既に塗りたくられていたかのように。加えて、先の少女達と比べ物にならない程に、女の動作は素早い。予備動作もほとんど確認できず、ライゼルは完全に後手を踏まされたのだ。

 突如として現れたそれが、ライゼルの前面部を捉える、かに見えた。が、実際にはそうならなかった。

「どうだ、ビアン。いい作戦だろ?」

「大きな葉の外套か」

 ライゼルに掛かるかに見えた乳白色の液体は、ライゼルが戻った時に纏っていた桐の葉で編んだ外套に付着していた。その編まれた葉は、見事にライゼルの体を覆いつくしている。ぼやけた眼で見てみれば、ベニューも同様に大きな葉っぱでその身を包んでいる。素肌を隠し、謎の液体への対策は万全だ。

「ビアンさんもこれを」

 ベニューの手にはもう一枚、二人の外套より一回り大きく編まれたそれがあった。染物屋の本領発揮とばかりにこの短時間でそれを制作してみせたベニューは、ビアン用の外套を彼の肩に掛け、全身を覆い隠す。これなら、これ以上の液体による刺激を負わずに済む。今、三人が身に纏うのは、制服でもなく、六花染めでもなく、三人揃いのこの桐の葉の外套なのだ。

「賢しいガキだね」

「まぁね」

「私の案でしょ!」

 ビアンにしてみれば、姉弟の普段と変わらない様子が頼もしくもあり、苛立たしくもあり。敵を前にしてこの気の抜けた通常仕様振りは何なのだ。危機感に欠けると、ビアンは憂慮せずにいられない。

「まぁ、そっちから出てきたのなら都合がいい。さぁ、早くこちらへいらっしゃい。そんなみすぼらしい物は脱いで、さぁっ」

 一行に向けて手招きする三つ編みの女。それを受け、ライゼルはきっと睨み付け、相対する。

「オバサンこそなんで俺達を付け狙うんだよ。テペキオンに命令されたのか?」

「アタシが? あの単細胞に命令される? ハッ、冗談じゃない。ルクならともかく、アタシはあんな若造と組む気はないね。なにせ、アタシには…」

 そこまで言い掛けて、三つ編みの女はこの状況に違和感を覚える。女としては、失念していたというより、状況を鑑みれば自ずと予定通りになるものと思っていて、さほど危惧していなかった。

 が、実際は思い通りになっていない。ライゼル達が戻れば自然と一緒に戻ってくると思っていた存在、女の言うところの『愛娘』達が戻ってきていないのだ。少女達は、ライゼル達の後を追って脇道の雑木林に入ったきり。

途端に女の顔が青褪める。それは女が初めて見せた動揺だった。少女達の身を案じたのだろうか、開いた瞳孔を剥き出しにし、癇癪を起こした女は絶叫する。

「アタシの『愛娘』達はどうしたんだい?!」

 女の声は先と比べはっきりと分かるほどに凄みがない。対照的にライゼルは自信に満ちた表情で言い返す。

「あの女の子達、オバサンの娘なの? だったら、早く迎えに行ってあげなよ。今頃、木の幹に括り付けられて身動きできずにいるから」

 そう言って先程ライゼル達が行方を眩ませた方角を指し示す。思えば、ライゼル達は逃げた時と同じ方向から帰ってきた。そんな事をすれば、追手の少女達に遭遇してしまう。彼女達には、ビアンを無力化した謎の毒液があるというのに。

「乳液が厄介だったので、対策を用意しました。林の奥には桐の葉があったので、人数分用意するのにそれ程苦労はしませんでした」

 桐の木は、このソトネ林道の中でもとりわけ大きな葉っぱを有する植物だ。その大きな葉を編んで外套を作り、追いかけてきた少女達相手に、その効力を実践したというのだ。ベニューの狙い通り、葉の外套は防衛手段として機能し、彼女達が頼みとする毒液を無力化せしめた。

 その得物さえ封殺できれば、人数の劣勢はあれど、身体能力に優れる姉弟が、少女達に後れを取る事はない。先日の姉弟喧嘩で披露したような体術で少女達を組み伏せ、付近にあった植物の蔓で手足を縛り、大きな木に全身ごと括り付け、放置し舞い戻ってきたのだ。

「自力じゃ抜け出せないように結構きつく縛ったから、オバサンが助けに行ってあげないとね」

「そんな!」

 してやったりのライゼルの指摘を受け、血相を変えて林の中へ形振り構わず駆けていく妙齢の女。道なき道を抜け、枝木がその肌を切り付けるのも厭わず、行方知れずとなった少女達を探す。標的であるライゼルを差し置いて、娘達を優先させる辺り、意外と情が深いのかもしれない。ただ、一度横道に逸れれば目印になる物はなく、土地勘のない者では再びここへ戻ってくるまでに相当の時間を要するだろう。状況を鑑みれば、三つ編みの女の情の深さに救われたとも言える。

 その後ろ姿を見送り、安堵の溜息を漏らす一行。こうして一旦は、危険からは免れる事が出来た。

「まさか、ソトネ林道に桐の木は生えてるなんて思わなかったよ。確か、桐の木材って高級品なんでしょ? ここも捨てたもんじゃないね」

 逃げた先に、大きな葉を茂らせる桐の木があったのは、ライゼル達にとって僥倖とも言える。運はライゼル達に味方した。咄嗟に思いついた対策であったが、思いの外に上出来でライゼルは俄かに機嫌を良くしている。

 だが、ライゼルは忘れていた。ビアンの堪忍袋の緒が既にぶち切れていた事を。

「ライゼル! どういうつもりなんだよ。何度も同じ事を言わせるな、状況を的確に判断しろ!」

 非常に痛々しい程に痛めつけられたという風体の変化はあるが、心情は先と変わりなく、ライゼルの聞き分けの無さに怒れるビアン。が、それを見ても物怖じせず、ライゼルは面と向かって言い返す。

「俺だって何度だって言うよ。わかんないものは、わかんない!」

「言って分からんなら、体で覚えろ」

 そう言って満足に動かせない右腕を振り上げる。ベニューは乾いた音が響くのだろうと覚悟し、堅く目を閉じた。一方、ライゼルはビアンの目を見据えたまま、視線を逸らさない。強い意志をその目に宿し、一切たじろがない。その真摯な眼差しでライゼルは問う。

「ビアンは何と戦ってるんだよ?」

「な、に?」

 ライゼルの言葉に、振り上げた腕から力が抜けるビアン。平手を見舞うでも降ろすでもなく、そのまま固まってしまう。行き場を失くした拳をどうする事も出来ず、ライゼルの言葉に聞き入ってしまう。

「ビアンはすごい人だよ。頭もいいし、大人だし、運転も出来るし、国の仕事もしてる。それに、今日だって俺達を庇って逃がしてくれたし、昨日烽火を見つけた時はベニューを心配して戻ってくれた」

 堰が決壊したように捲し立てる。これほどの勢いを前にして、ビアンに割って入る隙間はない。だから、まだライゼルの言い分は続くのだ。傷だらけの成人男性は、少年の真っ直ぐな思いの丈をぶつけられる。

「だけど、テペキオンやデカ男と戦ったりするのはビアンには出来ないよ。だって、ビアンには【牙】がないんだもん」

 言わずにいれなかったライゼル。きっとビアンも言われるまでもなく承知していた事であった。だが、それでも実際にライゼルに指摘されるまで、目を逸らしてきた事実。もっと言えば、ビアンは【牙】に限らず、ベニューの六花染め等のような突出した技能を持っていない。普通の人間と比べても、その平均を逸する事はない。

 ビアンにとっては目にも耳にもしたくない事実だが、ライゼルは容赦なく浴びせる。

「逃げろってなんだよ。あの人数を相手にどうにかできる訳ないじゃん。しかも、追手が来てたんだぞ。どんどん苦しくなるだけじゃん」

 年下の子供に言われ続け、ようやくビアンも己を取り戻す。振り上げた右手でライゼルの胸倉に掴み掛る。

「他に手段がなかったろうが。あのまま、三人で残ってたら全員捕まってた。あの時はあれが最善の方法だったんだよ!」

「三人で知恵を絞れば」

「一番危険性が低い手段を選択したんだ。いいか、ガキが大人の仕事に口出しするんじゃねぇ。お前達国民を守るのは俺の職務だ」

 思わず言葉と同時に手が出てしまう。感情のままに繰り出された拳が、ライゼルの頬に炸裂する。この時既に、ビアンの感覚の中から、右腕の痺れは消えている。ビアンを突き動かしたのは、感覚じゃない、感情だ。右腕以上に、心が疼いていたのだ。

「俺は官吏で大人なんだ。お前達子供を守る義務があるんだよ! 守らなきゃいけないんだよ!」

 ライゼルに負けじと、年甲斐もなく思いの丈をぶちまける。が、それすらライゼルの気持ちを収める事は、越える事は適わない。

「だからさ!」

 先の御返しだと言わんばかりに、ライゼルもビアンの頬に拳を放つ。既に腫れ上がったビアンの顔面であったが、ライゼルの拳に躊躇はなかった。少年の想いは、それ程までに大きかった。

「俺は何度だって言うぞ。ビアンは何と戦ってて、何を守るって言ってるんだよ! 守るってどっちをさ? 俺達? それとも、規則?」

 ライゼルの拳がビアンを殴り飛ばし、咄嗟に手を付けない彼は背中から地面と激突する事になる。顔の腫れも、腕の痺れも、直前に受けた背中の痛みすら、何もかもがビアンの意識から吹っ飛んで、ライゼルの言葉がビアンの頭の中で反響している。

(そうなのか? 俺は、知らない内に、目的と手段を履き違えていたのか?)

「…もちろん、お前達に決まってるだろ」

 態度の割に返す言葉は弱々しかった。これではライゼルを言い含める事など到底適わない。

「ビアンはもう俺達の事を守ってくれてるじゃん。俺、村の外ってすごい不安だったけど、ビアンがいてくれたからすごい心強かったよ」

 その主張にはベニューも静かに首肯で肯定する。

「ライゼル、ビアンさんの事ものすごく慕ってるんですよ。ビアンさんが手加減せずちゃんと叱ってくれるから」

「俺を? ライゼルが?」

 不意にそう告げられても理解が追い付かない。感情が高ぶっているから余計にかもしれない。大声を荒げた為か肩で大きく息を整えるビアンは、ベニューの言葉を努めて冷静に処理しようとするが、やはり激しい動機がそれを邪魔する。ビアンにはベニューの言っている事の意味が分からない。

 山彦のようにしか返せないビアンに、ベニューは僅かにはにかんだように答えて見せる。

「はい。私も、もしお父さんがいたらこんな感じなのかなって」

 そう言われて思い出す。姉弟の父親はライゼルが産まれる前に蒸発し、母親も十年前に亡くなっている。父親代わりをしていたつもりはなかったが、ビアンの叱りは、姉弟にとっては父親のそれと感じられたのかもしれない。もし、自分達姉弟に父親があれば、こんな風だったのだろうか、と。

「いつものビアンはカッコいいよ。何をしたらいいのかを知ってるし、訊けばその理由も答えてくれる。ビアンはカッコいい兄貴だよ」

 ライゼルの言うそれらは、昨日の事後処理の事であったり、外の世界の一般常識であったり。ビアンがこれまで当然としてきたものばかりであったが、ライゼルにとっては知らない事、適わない事なのだ。ライゼルに出来ない事を、ビアンは当然のようにこなす。それがライゼルからすると『カッコいい兄貴』に見えるのだ。

「俺が、兄貴?」

 もはや、ビアンの脳はちっとも働いていなかった。まるで、自分に関係のない話をされているような違和感。でも間違いなく、少年の瞳は、目の前の『兄貴』の目を見ていた。

「でも、今日のビアンは余裕なさすぎでカッコ悪い。まるで俺達の事が目に入ってないみたいだ」

 言われて、ようやく自分が話の当事者なのだと分かる。ずっとライゼルはビアンに語り掛けていた。しかし、当のビアンはと言うと、別のものを見ていた。ライゼルに気付かされるまで、ライゼルを見ていなかった。

(そっか、俺が必死こいて守ろうとしてたのは、コイツらや、ましてや規則じゃなくて…)

「…自分、だったのか」

 悟ってしまった。長い間ずっと気付かないフリをし続けてきた事を。壊れないように、流されないように、大事に大事に秘め隠し、守ってきたもの。それが、他でもない弱い自分自身だという事。

 だが、今なら言える。その気付きは大きな一歩なのだと。新たなる自分に、誰に怖じるでもない誇れる自分に変わるきっかけを、この小生意気な少年に与えられた。であれば、ビアンのやる事はただ一つ。

「まさか、こんなクソガキに図星を突かれるとは」

 絶体絶命に陥っても悟らなかった真実を、子ども扱いしていた少年に突き付けられたとあっては、これ以上大人ぶって格好つける事はビアンには出来ない。むしろ、弱い自分を自覚できた今だからこそ、自分に信を預けてくれるこの姉弟に真っ直ぐに向き合える。変に斜に構えて拗ねるのはもう止めだ。

「ハハハ、俺はどうしようもないヤツだな、まったく」

 そう思い直す自分が妙に感じられて、ビアンは笑いが込みあげるのを我慢できなかった。

「どうしたの、ビアン? まさかさっきの一発でおかしくなった?」

 先程までの剣幕はどこへやら、突然様子の変わったビアンを心配しだす始末。殴ったのはライゼル自身であるから仕方もないかもしれないが。ベニューも身内がやらかした事に、僅かに動揺したが、ビアンの口元が上がっているのを確認すると、安堵の息を漏らす。どうやら、ライゼルが心配している事は、見当違いであるらしい。

「そうだよ、お前の一発をもらって吹っ切れたんだよ」

「吹っ切れたってどういう事?」

 察しの悪いライゼルが理解できなくても仕方あるまい。どうしても知りたければ、傍らで嬉しそうに微笑むベニューに訊ねればいいのだ。彼女が素直に教えてくれるかは別として。

「うるせぇ。そんだけの口を利いたんだ。お前にもしっかり役目を振るからな」

「お、おう! 任せろ」

 突然、本調子を取り戻したビアンに追いつけないライゼル。まさか、自分の言葉がビアン復活のきっかけになったとは夢にも思わない。もちろん、そんなライゼルだから言えた事なのかもしれない。

 だから、それが誇らしいベニューはつい弟に言葉を掛けずにいられない。

「よかったね、ライゼル」

 何が良くてそう言われたのか、すぐには理解できないライゼル。こういう場合、ライゼルは他者に説明を求める。もし、その事を追及されると、ビアンは気恥ずかしくて仕方ない。戒めの意味を込めて、ベニューにも水を向ける。

「何を他人事みたいに。もちろん、ベニューもな」

「あっ、はい」

 ライゼルだけでなく、しっかりベニューにも釘を刺す。何故ならば、

「俺達は三人で一組の仲間だ。連携は密にしていくぞ」

「おう」「はい」

 こうして、三人は協力し、現状を打破する事となった。打破すべき現状とは、追撃者の女を退け、逃げ遂せる事。時間を食えば、数で劣るこちらは圧倒的に不利だ。必要最低限の接触でこの場を乗り切らなければならない。

 思いの外、ライゼルとビアンの言い争いに時間を食ってしまい、三つ編みの女達が近くまで及んでいるか知れたものではない。すぐにでもこの場を離れて、安全圏に離脱しなければならない。

幸い、車は前部に損傷が見られたものの、走行自体に差し支えはない。運転を担当するビアンも多少の負傷はあったものの、無理をすれば不可能な程ではない。その無理も、虚栄から来るものではない。姉弟の信頼に応えたいという、仲間意識から生まれる原動力に支えられている。弱さを知る事は、強くなる為の最低条件。己と向き合い始めたビアンは、これまで以上に駆動車を快速に飛ばす事ができる。全身の痛みさえも、今のビアンを止める事は適わない。ビアンの駆る駆動車は、順調に雑木林を抜けていく。

「で、あの女の子達はどの辺で撒いたんだ?」

「そうですね、脇道に入って四、五分といったところでしょうか」

 となれば、先回りをされる心配はないはずだ。この林道は、途中多少は曲がりくねっているとはいえ、大まかに言えば東へ一直線に延びている一本道だ。脇道に逸れた徒歩の一派が、乗用車で先行するライゼル一行に追いつけるとは到底思えない。彼女達による危機は脱したはずだ。

「一安心といったところか」

 運転席で独り言ちたビアンは、ようやく肩の力を抜く事が出来た。林道ももうじき出口に差し掛かる。林道を抜ければ、緩やかではあるが下り坂が続く。坂道の力を借りて、一気に速度を増し、距離を空かす事ができるだろう。苦境がようやく改善され、先の劣等感の解消もあって、随分楽になれた気がした。

「ビアン、手の痺れや顔の腫れは大丈夫? なんなら俺が運転しよっか~?」

 前言撤回、こめかみに青筋が走り、思わず操縦桿を握る手に力が入る。

「ふざけろ、お前みたいなクソガキに任せたら車が大破するわ」

「なんだよ、さっきは俺にも役目を振るって言ったじゃんか」

 運転席と後部座席とを跨いで言い合いを続けるライゼルとビアンを余所に、辺りを注意深く監視していたベニュー。鬱蒼と茂る木の枝の隙間から見える上空に、何者かの姿を認めていた。

「空を移動してるのってさっきの」

 それを聞いたビアンも、ベニューが指した上空を腫れぼったい目で見やる。長い黒髪を靡かせ、微かに汚れて見える先程までは純白だった衣服を纏っている女。

「人がいる。テペキオンやデカ男じゃなさそうだけど」

 確かに先の女が宙空を滑空し、その影を駆動車の上に落としている。どうやら既にこちらの駆動車を発見しているらしく、車の真上をぴたりと付けて飛翔している。

「違いない、さっきの女だ。あいつも【翼】持ちとは思ったが」

 その背には、テペキオンやルクと呼ばれた巨漢同様の【翼】が確認できる。先程までは発現させていなかったが、ここに来て三つ編みの【翼】持ちは、本気を出してきた。大きく素早く羽搏かせるそれは、先の二人の異国人との戦闘を経験している一行にとって、脅威の対象なのである。【翼】の能力がこちらに向けられるとなると、ライゼル達もそれ相応の戦力を以って応じなければならない。女の姿を視認したその一瞬の内に、一気に緊張感が高まる。

「すげぇ早い。もう追いついたのかよ」

 ライゼルの言う通り、空を移動する手段があるというのは、想像以上に便利なのかもしれない。陸路を行くライゼル達は悪路に足を取られる為に、どうしても時間が掛かってしまう。しかし、【翼】を有する彼女はお構いなしに障害物のない空を軽々と突き抜けてくる。加えて、切り拓かれた一本道であるので、上空から丸見えで発見しやすいのだ。少女達は撒く事が出来ても、三つ編みの女の追跡は防ぎようがなかった。

「まぁ、それも想定の範囲内だ。あの女一人なら」

「『俺達三人』でなんとかなる、だろ?」

 ビアンの意志を汲み取ってライゼルが先を続ける。

「そうだ、それぞれの役割は分かってるな?」

 役割。その言葉にライゼルは不敵な笑みを浮かべる。この一行の中での彼に与えられた役割、それはしっかりとそれぞれの頭の中に刻み込まれている。

「もちろん!」

 そう言って、後部座席の右側から身を乗り出し、手にムスヒアニマを集中させる。地面からライゼルの体に流れてくる霊気(ムスヒアニマ)が発光し、車が光の線を引いているようだ。それは上空の女からもはっきりと知覚できる。

 そして、いよいよ林道を抜け、開けた野原に出る。坂道を転がるように駆ける一行と上空を舞う女、お互いにその位置を明確に視認できるようになる。走行に制限はなくなったが、先日のベニューの時同様、身を隠せる場所は辺りにない。ならば、直接対決するしかない。

「逃がしゃしないよ」

 女は車の遥か上空から、先の乳白色の液体を振り掛ける。が、その予備動作を見ているベニューがその瞬間を伝え、ビアンが操縦桿を捌き、これを回避する。落下させてからの時間差がある為、回避は容易く行えた。

「ちょこまかと」

 空中を追走する三つ編みの女は、その長い髪を揺らしながら、幾度もその乳白色の液体を振り掛ける。そして、それに応じてベニューは運転席のビアンに合図を送る。ビアンもその指示に合わせ、左右に操縦桿をぶん回す。ビアンの日頃の成果もあり、勢いよく坂道を下っていく中、車を横転させる事なく敵の液体を回避する。

「上手くいきました」

 見事な連携に、ベニューが感嘆の声を上げる。繰り返される敵の攻撃を連続して危なげなく避けたのだ。ビアンの采配は正しかった。

「当然だ。充分な間合いさえ取れば、そう簡単に当たるもんじゃない」

 それは頭上の女も分かっていた事。駆動車の仕組みに気付いた女は、高度を下げ、車と同じ速度で一行に近付いてくる。

「そうかい。前の男を潰せば、車輪は止まるって事だね」

 彼女の考察は正しかった。車全体を狙うより、ビアンを行動不能にすれば、一行の足止めをする事が出来る。女は風を切りながら徐々に車に近付き、運転席の真横に位置付ける。

「愛しい娘達が待ってるんでね。ここらで終わらせてもらうよ」

 運転席のビアンと女を遮るものはなく、女が腕を振るえば、またしてもビアンの体は痙攣に苛まれる事となる。先の麻痺毒の脅威がすぐ傍らに迫ってきているとあって、ビアンの額には汗が噴き出ている。

「あぁ、そうだな。追いかけっこはここで終わりだ」

そう息巻く運転席のビアンは、前方を注視するばかりで、真横を飛んで肉薄する女を一切見ない。もちろん、運転を誤れば事故は免れないが、側面の防御を怠れば、敵の思う壺である事もまた事実。

 それを好機と見た女は、気流に乗りビアンへ急接近し、腕を振りかざす。が、その反対に、【翼】持ちの女の行動を好機と見た者が、ビアンの背後に潜んでいた。

「ビアン、今だ!」

「おう」

 その合図と共にビアンは操縦桿を女の方に切り、幅寄せする。大きな車体をぶつける事ができれば、一発で【翼】持ちの女を無力化できるかもしれない。もちろん、側面方向への引力は搭乗者全員に係る。三人も車から振り落とされないように踏ん張りながらの奇襲。少しでも気を抜けば、地面への落下は免れない。

 決死の反撃を行うも、【翼】を持つ女はその程度で怯みはせず、攻撃の動作を止めない。不意の反撃にも動じない強心臓を発揮し肉薄、一行の頭脳であるビアンを仕留めに掛かる。が、それが三つ編みの女の犯した失敗だとは、この時はまだ本人は気付いていない。

「もらったよ、くたばりな!」

 女の迸らせた液体がビアンに掛かる直前、その攻撃は、またしても桐の葉の外套によって防がれてしまう。大きな手の平形の葉を女にぶつけんばかりの勢いで、前面に押し出す。広い範囲を外套が補う事で、女の謎の液体はビアンに届かない。

「させないさ」

「クソガキ、一度ならず二度までも」

 高速で走り続ける駆動車の側面に身を乗り出し、葉で作った外套でビアンの身を守ったライゼル。このような足場の悪い場所で、不安定な離れ業をやってのけるなど、ライゼルでしか為しえない芸当だ。これは、ライゼルに与えられた役割。ライゼルはその役割をしっかとこなす。

 そして、先の離れ業から間髪入れず、外套を女に被せて目晦ましに使う。

「小癪な」

 もちろん、この程度の事では女は怯みもしない。名を誇りとし隠匿する女は、ライゼル達がどんな策を労そうとも万難を排し、自ら頼みとする乳液で事を為さんとす。それは、ライゼルも予測済みであり、ライゼルも同じ戦法を貫く。

「本命はこっちだ!」

 本命とされたそれ、ライゼルが発現させていた【牙】である。車での激突、外套での目晦ましに次ぐ第三の秘策。前の二つは、この【牙】での攻撃をより確実に成功させる為の布石、いわば、囮だったのだ。本命を悟られぬよう、それぞれの役割を繋ぎ、ついにこの瞬間を迎える。ライゼルの振り抜いた幅広剣が、外套越しに女の脇腹を切り裂くようにして霊気を流し込む。ライゼルの星脈に染められたムスヒアニマは、女の体内に干渉し、身体機能に悪影響を及ぼす。

「がはっ」

 女は、その体内に流し込まれた激痛に【翼】を制御する力を失い、地面にその身を叩きつける事となる。

「やった、決まった」

 女はその場に倒れ伏し、立ち上がり追いかけてくる様子もない。坂道を転がる車の速度を落とす事なくひたすらに走り続けると、女の姿はどんどん小さくなっていく。これだけの距離を離せば、いくら【翼】を以ってしても追いつけまい。秘策に次ぐ秘策を以ってして、ライゼル達はなんとか逃げ遂せる事に成功したのだ。

「ちゃんと出来たね、ライゼル」

「おう、集団連携の勝利ってヤツさ」

 得意げに剣を掲げるライゼル。そうなのだ、ライゼルの言う通り、今回の勝利は三人の連携なくしては勝ち取る事が出来なかった。三人が協力する事が必要不可欠だったのだ。

 無事を見届けたライゼルは、後部座席に戻らず、運転席の外枠を掴みビアンの傍らに居座る。何か言わなければと思っての行動だが、どう切り出していいか分からない。【翼】持ちの三つ編みの女の話題で先の言い争いをお茶を濁すのは、なんだか違う気もする。そうこうしていると、代わりにビアンが口を開く。

「ライゼル、悪かったな」

「俺も…ごめん」

 ビアンがそう切り出したのを聞いて、俄かに萎らしくなるライゼル。ライゼルもさすがに顔面に拳を見舞った事には引け目を感じていたのだ。そして、ビアンは暴力行為に関してもだが、もう一つ言及したい事があった。

「あぁ、それはお互い様だ。そうじゃなくて、な。俺もワケの分からん連中に付け狙われて、お手上げなんだ。【牙】も持たないし、ましてや【翼】がある訳でもない。王都に辿り着くまでにきっと襲撃も続くだろう。その時はまた、お前の力を頼りにしていいか?」

 ライゼルにしてみれば、これまで味わった事のない感覚。自分にないものを持っている人間から、対等と認められる喜び。大人であるビアンから一人前と認めてもらえたのだ。

「なんか気恥ずかしいな」

 別の側面から見れば、ライゼルを認めるという事は、ビアンの成長と言う意味合いもある。それを思うと、ビアンは自身の頬が熱を帯びるのを感じる。

「お前が照れたらこっちが余計に恥ずかしいだろうが」

 二人して初心みたいに照れてみせるものだから、後部座席で仲間外れにされているベニューも、つい意地悪したくなってしまうのだ。

「ライゼルもビアンさんも。それじゃあ、まるで友達みたいですよ」

 傍から見ると本当にそうなのだろうか、それともベニューに何かの意図があっての発言なのか。ただ、悪くない、と二人して思って、その直後に、そういえば、とも思った。先んじて口を開いたのは、ライゼルだ。

「俺、友達って初めてかも」

「へぇ、お前みたいなやつでも、これまで友達がいなかったのか」

 これはビアンからライゼルへの最高の褒め言葉でもあるのだが、ライゼルは気付いただろうか。ビアンの場合と違い、ライゼルの場合は、これまで身の回りにベニュー以外の同年代がいなかった事に起因する。同年代の人間が身近にいれば、間違いなくライゼルはその者と友情を育んだだろう。

 が、事実、これまでライゼルには友と呼べる者がいなかった。ずっと一緒に居たベニューは知っている、父の不在を嘆いた事のないライゼルだが、友達がいない事には寂しさのようなものを覚えていた事を。

「ビアン、俺、友達って初めてかも!」

「聞いたよ、何度も言うな!」

 どうして自分がこうも辱められているように感じるのか。ビアンは体温が上昇するのを二人に感付かれまいとする。が、二人の背後でベニューが吹き出してしまいそうになるのを堪えている辺り、ビアンの努力は実を結ばなさそうだ。

 ビアンを見つめるライゼルの目の輝きが、より一層眩さを増す。輝きの度合いが増す度に、ビアンはライゼルに対し、何か強制力を向けられている錯覚を覚える。ライゼルの視線に乗って期待のようなものがビアンに届く。この期待という感情が膨らみ続ければ、大爆発を起こしそうな予感がするのはビアンの気のせいではないはず。それはよくない。これを逃れるには、ビアンは何か言葉を以って応えねばならんのだろう。では、何と言うのか?

「奇遇だな、実は俺もこれまで友達を作ってこなかったんだ」

 斜に構えず、この少年の気持ちに素直に応えたい想いもあったが、今のビアンにはこれが精一杯。

「そうなの? それじゃあ」

「そうだな、俺がお前の」

 そこまで言い掛けて、ライゼルに続きを強引に引き継がれてしまう。

「なる! 俺、ビアンのはじめての友達になる!」

「こら、妙な言い方をするな。逆だ、俺がお前の初めての友達になってやるんだ!」

 ビアンはそう訂正するが、余程嬉しかったのか、感情の赴くままに駆動車の上を弾むように移動して回るライゼル。

「うへへ、友達だ、友達」

「ライゼル危ないでしょ。もう」

 もう既に聞く耳持たない状態になってしまったライゼルを余所に、思わずベニューは小さく微笑み苦笑する。

「ふふっ」

 その後部座席の少女の声を無視する事も出来たが、どちらにせよ負けた気がしそうで、結局声を掛けてしまうのがビアンという男だ。

「…何か言いたそうだな、ベニュー」

「言っていいんですか?」

 改めてそう言われると、ここでベニューの口を封じる選択肢もあるのかと立ち止まりたくなる。だが、年下の女の子に見透かされている時点で負けたも同じ。言葉にしてもらっておいた方が、今度気が楽かもしれないと思うと、口が軽くなる。

「許そう。話してみろ」

「それでは。さっきライゼルは、自分から友達宣言していましたが、本当はビアンさん、何と言おうとしたんですか?」

 随分と含みのある問い方。ある意味、全てを承知だと宣言しているようなものだが、飽くまでベニューは質問の態を崩さない。

「ベニュー、もう少し遠回しな言い方の方が好ましいぞ?」

「自覚しています」

 この少女に、とりあえず今の所は勝てる気がしないビアンは、観念して告白する。と言っても、どう言っていいかは見つけられていない。自分が語るべき言葉を探していると、孤独な時を迎える覚悟をした際の、あの時の脳裏に浮かんだ事を思い出す。

「フィオーレの人間は着こなしが上手いな」

 どうして突然姉弟を褒め始めたのか、言われたベニューもそうだが、ビアンも何を口走っているか分からない。

「そうですね、特に私とライゼルは自分達用に仕立てていますから」

 なるほど、と納得しつつ、専用という言葉に心惹かれつつある事を実感しているビアン。

「…そうか。それなんだがな」

 そこまで言うと、泥塗れになった貫頭衣を脱ぎ捨て、車の上面で未だ興奮冷めやらぬライゼルに向かって投げつける。

「うわっ、ばっちぃ」

 上半身の裸体を晒しながら運転に従事するビアンは、照れ隠しするように言い捨てる。陽が西に傾きつつあるこの時間帯、素肌に浴びる風はやや肌寒い。その為、無意識の内に急かすような口調になる。

「おい、ライゼル。お前の着替え余ってただろ。それを貸してくれ」

 ともすれば不躾な態度に取れなくもないが、これは気心の知れた『友人』然としたビアンの要望である。役人だとか、そういうお堅い立場ではなく、お互いに頼り頼られる関係であり、立ち位置という事を、ビアンの方から提示する。

「六花染め欲しいの?」

「あぁ、洒落ているよな、それ」

 自分の馴染み深い服を褒められ、もうライゼルは破顔するのを抑えられない。

「だってさ、ベニュー。あげてもいい?」

「うん、ライゼルのだとちょっと小さいかもですけど、今はそれを着ててください。どこかの街で道具を借りられれば、私がとびっきり格好いい六花染めを仕立てます」

 ベニューも職人然とした顔を覗かせ、意気込んでみせるものだから、ビアンは少し気恥しく思う。

「ありがとう、それは楽しみだ」

 その感謝を素直にベニューは受け取る。そして、ライゼルの荷物の中から着替えを取り出し、それを手渡すと、ベニューはライゼルには聞こえないように配慮しつつ、ビアンに問い掛ける。

「ビアンさん、さっきの続きですけど、私が六花染めを用意できたら聞かせてもらえるって捉えていいですか?」

 やや悪戯っぽく囁くベニューに、ビアンもやり返したい気持ちは山々だが、有耶無耶にしようとした事実は確かにある。非があるビアンは強く出られない。

「その件だが。その、なんだ…俺が、ライゼルみたいなヤツの初めての友達だっていうのは…」

 一旦そこで区切り、一呼吸おいて、

「…また今度だ」

「はい、わかりました」

 いつかは心のままに、この気持ちを言葉にする事が出来るのだろうか。そう、ぼんやりと考えながら、進路の向こうで風に揺れる稲の波を眺める。駐在所のあるオライザまでそう時間は掛からない。この景色を見ていると、穏やかな気持ちになり、焦る事が勿体ない事に思えた。しばらく、頬を撫でる風を感じながら、先の余韻に浸るのも悪くない。見慣れた景色に心を溶かしながら。

「友達、ね」

 こうして、旅の途中にて新たに友を得たライゼル。一行の車はビアンの駐在所のあるオライザを目指して走っていくのだった。

 

 

 

To be continued…

雛菊(デイジー)



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第4話

 日が沈む頃には王国の米所オライザへ辿り着けそうだと目算が付いた事は、ビアンにとってありがたい事だった。

 連日のお役所仕事による疲労と先の戦闘における怪我で、ビアンは疲労困憊だった。複数人の少女を連れた【翼】持ちの女の襲撃から辛くも逃れ、ソトネ林道を脱し、川に架けられた橋を渡り、ようやくオライザへ。オライザはビアンの勤務地であるのだが、半年に一度の職務を終えここに帰還するまでに、様々な事件があった。

 まずは、フィオーレでの異国人襲撃事件。ここが今回の一連の事件の発端になった。フィオーレ村の女性カトレアが【翼】なる能力を行使する異国人テペキオンに襲われた。次がボーネ村での暴力事件。フィオーレの姉弟に同行を願った訳だが、その道中ベニューが独りになった所へテペキオンの同胞ルクが現れた。そして、つい先程のソトネ林道での一件。異国人の女は、ベスティア王国の少女達を私兵とし、一行に襲撃を掛けてきた。

 こう簡単に振り返っただけでも、目まぐるしい事態に巻き込まれたと思う。だが、それを乗り越え、徐々に落ち着きを取り戻した今、ライゼルに振り回されたり、ベニューに痛い所突かれたりなビアンでなく、普段通りの職務に忠実なビアンに戻っていた。

「先に言っておくが、この村ではゾアと言う代表者が村を仕切っている」

 辺り一面を水田に囲まれた畦道を駆動車で飛ばしながら、後部座席の姉弟に言って聞かせる。通い慣れた道だからなのか、雑木林の時と比べビアンの運転は随分慣れた印象を受ける。これが本来のビアンなのであろう。

 とは言え、僅かながら緊張感も見え隠れする。若干言いづらそうにしているのは、姉弟の気のせいではないはずだ。接敵した時のような緊迫感でなく、何か大事に臨む際の緊張感を孕んでいる。表情こそ見えないが、声音からそう察する事ができる。勤務地への帰路とはそういうものなのだろうかと姉弟は推測したが、そうではなかった。

「複雑な事情があるんだが、どう話したらいいものか」

「なんだよ、何かあるんだったらちゃんと教えてよ」

 歯切れの悪いビアンの態度に、ライゼルも焦れてくる。ライゼルのように急かさないが、釈然としないのはベニューも同様だ。オライザ村へ来たのは初めての事ではあるが、オライザの代表が厄介者だという話はこれまで聞いた事がない。何を憂慮しているのか、二人はまだ知れない。

「代表者の方に関する事、なんですよね?」

「大雑把に言えば、そういう事になる。お前達も過去の大戦を知らない訳じゃないだろう」

「大戦ってアネクス戦争のこと?」

 宗教戦争とも言われるアネクス戦争がまずライゼルの脳裏を過ったが、それは適当でない。アネクスとは、元々独立した小国であり、近代に入ってベスティア王国に併合された地域の事であるのだが、アネクス戦争の場合、大戦と呼べる程の規模ではなかった。規模だけで言えば、暴動と呼ぶのが適当だろう。現に世間はそう認識している。

「じゃなくて、その後に起きた内乱の事ですよね。ほら、母さんに教えてもらったでしょ?」

 そう言われてようやく思い出す、およそ40年前に国内最大の内乱が起こった事を。

「あー、あれだ。軍師ハボック、闘将オノス、大巨人ゾア!」

 過去の大戦で活躍した偉人の名前を、嬉々として列挙するライゼル。ライゼルは昔話で聞かされていた牙使いの話が大好きだった。大戦自体は、母フロルが生まれる以前の出来事であるが、フロルは度々この話を幼少期の姉弟に聞かせていた。ライゼルが強さに憧れるのは、もしかしたらここに起因するかもしれない。

「詳しいな。その大巨人がオライザの元締めだ。ゾア殿がこの田園地帯一帯を治めている」

 そう言われて、見渡す限りの田園風景を眺める。少し先に見える集落以外は、地平の彼方までと思えるほどに広大な水田のみ。青々と茂る稲は、風を受けて波を打つ。これだけの土地を、更にはその土地で従事する大勢の人間を収める人物となると、それはそれは大した人物に違いない。大巨人ゾア、昔話でしかその存在を知らぬライゼルではあったが、俄かに興奮を覚える。

「と言う事は、いるんだ、オライザの村に大巨人が! すげー!」

 ライゼルの体温が上昇するのも無理からぬ事。大巨人ゾアと言えば、このベスティア王国にその名を知らぬ者はいないと言われる有名人だ。数に押され反乱軍が撤退を余儀なくされたアクロ攻防戦で、王国軍『牙の旗』の追撃を単身で食い止めたという伝説があり、『街道上の大巨人』という名で国軍から恐れられた。その他にも、【牙】の一撃で堅牢なクティノス城塞を崩壊させたとか、国軍の中継基地を瓦解させた地震はゾアの闊歩によるものだとか、ゾアは大きな耳を以って広く情報収集が可能であるとか、真偽不明を含めこのように武勲の逸話に事欠かない人物であり、彼を支持している集団からは英雄視されている程である。その武勇伝の持ち主に会えるかもしれないと考えると、ライゼルは逸る気持ちを抑えられないのだった。

「ビアン、もっと速度を上げてよ。早く大巨人に会いたい!」

 後部座席から外へ身を出し、先を急ぐ事をビアンにやや強引に請う。ビアンとしては、この状況が予想できたからこそ、悩ましいのである。ビアンの歯切れが悪くなる理由はここにある。ベニューは、代表者があのゾアと分かり、ビアンが言い淀む理由を察した。

「よしなさい、ライゼル。ビアンさんが困ってるよ」

「なんで?」

「……」

 ライゼルもわざと困らせようとしているのではないという事が分かるだけに、ビアン本人の口からは言い出しにくい。ならば、とベニューが弟に事態の解説を始める。

「大巨人ゾアはすごく強くて、その活躍は仲間を鼓舞した。それで、その戦った相手は誰だった?」

「戦った相手? 先々代の王様だろ」

 そう口にしながらもライゼルは察しない。ただ、その認識は間違っていない。当時の国王が直接戦場に出向いたかどうかは別にして、対立関係にあった事は理解している。故に、ベニューはもう少し解説を続ける。

「そう。それで、ビアンさんのお仕事は何?」

「物資の配給」

「じゃなくて、職業の話」

「役人だろ? 王国に仕官してる…あっ、まだ仲直りしてないの?」

 我が弟ながら、と溜息を漏らさずにいられないベニュー。同じ話を母から聞かされていたというのに、これ程までに理解に違いが出るものなのだろうかとベニューは嘆く。それを見て、ビアンが苦笑しながら先を引き継いだ。

「そうじゃない、和平は結ばれたし、王国と元反乱軍の関係は悪い訳じゃない」

「じゃあ、問題ないじゃん」

 関係の機微に疎いライゼルは、そう言えてしまう。だが、全ての人間がそう割り切れる訳ではない。その点についてビアンは補足する。

「だがな、和平を結んだと言っても、それはこれから先の関係を改善させる為のものであって、それ以前の犠牲を取り返せる訳じゃない。例えば、テペキオン達がお前と仲直りしようと言って…」

 途中まで言いかけて、突然口を噤むビアン。ここまで説明しながら、もしかしたらライゼルにとっては、そういうしがらみがそもそも念頭にないのかもしれない、とビアンは考えが及ぶ。それを察して、ベニューも目を伏せ、首肯で応じる。

「多分、ライゼルなら仲直りできると思います」

「…そうか」

「何の話?」

 分からない者に言い聞かせても仕方あるまい。その話は一旦そこで打ち切る。そうこうしている内に、ビアンの運転する駆動車は、オライザ村の入り口に到着する。

 王国の米所オライザ。三大穀物の一つである稲の国内供給率の九割を超える、まさにベスティアの米蔵。実質、国民が食する米のほとんどを賄える程の生産数量を誇っている大田園都市。村の軒並みもそうだが、これまで通ってきた水田の区画整理を見れば、ここの統治者がどれだけ有能なのかは一目瞭然だ。枡目状の水田を水路が縁取るかのように整地されているし、大雨対策としての調整池を作られている等、水の引き方にも工夫がなされている。ただ広い土地を有しているだけでなく、生産性の向上を図っている事が見て取れる。

 そのような優れた統治能力を持つ指導者が納める村の入り口には、出入りを取り締まる丸太小屋がある。ビアンがその脇に駆動車を停めると、ライゼルは駐在所の窓に明かりが点いているのに気が付く。

「誰かいるよ?」

 そう言ってライゼルが指さす丸太小屋から、数人の男性が飛び出して来る。急ぎ駆け寄る姿は、まるでビアンの帰りを待ち侘びていたようだった。

「ビアン、無事だったか!?」

 その中の一人がビアンの安否を確認する。見れば、ビアンと同じ身分証(ナンバリングリング)で、つい先程までビアンが着用していた制服を着ている。彼らはビアンの同僚で、ビアンと職場を同じくする役人だった。彼らが出てきた丸太小屋は、オライザに置かれた駐在所である。

「あぁ、すまない。世話を掛けた」

 姉弟に見せる態度とは少し雰囲気の違う、どこか一歩退いた冷静な印象を与えるビアンの口調。これが友人以外に見せる顔なのかもしれない。

「心配したぞ。ボーネの方角から烽火は上がるし、フィオーレへ発ったビアンが帰って来ないしで。何かあったのか?」

「あぁ、厄介な事が起きた。現地に駆けつけたアードゥルにも伝えたが、詳しい事は頭領殿の前で説明する。それで頼みがあるんだが、この子達を預かっていてくれないか?」

 同僚達は姉弟を一瞥し、皆一様に訝しむ。六花染めに身を包んだ少年と少女。フィオーレ出身者の出で立ちをした子供達で、身分証(ナンバリングリング)もフィオーレの平民を表している。そんな二人がビアンに連れられて来たものだから、同僚は目を丸くさせている。

「この子達は?」

 お世辞にも面倒見のいいとは思えないビアンが、子供を二人も同伴させている事がそれ程までに物珍しいようだ。口にこそしないものの態度がそう物語っているのを、ビアンは肌で感じ、釈明する。

「事件の被害者達で、私が保護した。証言の為に同行してもらっている。それより、頭領殿の所へ急ごう」

 ライゼル達の素性を知ったところで、同僚達の姉弟への関心はなくなった。仕事であれば、同伴させている理由としては納得がいく。むしろ、職務に忠実なビアンらしいとさえ言える。

「そうだな。ではリュカ、この子達の面倒を見ててくれ」

「はい」

 そう指示された、役人達の中でも年少の青年リュカ。他の役人と比べ、とりわけ若く見えるのは、顔つきの所為ばかりでないのかもしれない。ライゼルと変わらぬくらいの身の丈は、他の同僚と比べて頭一つ低い。それに、優し気な面持ちと言えば聞こえは良いが、どことなく気弱そうな、頼りなさげな印象を受ける。ただ一ヵ所、常人より少し大きい耳が目を引く以外は、ライゼルの関心を湧き起こさせない。

「ビアン」

 俺も、と言い掛けるが、それを察しているビアンにきっぱり制される。

「ライゼル、ベニューと待ってろ。すぐに戻る。」

 ビアンは役人二名を連れて、集落の最奥に構える屋敷の方へ足早に向かっていく。遠くからでも分かる立派な石垣に囲われた屋敷。そこが大巨人ゾアの住まう住居であった。日も暮れており辺りは薄暗いが、屋敷の中は灯りで随分明るいようだ。焚かれている灯りが屋敷の場所を明確に示している。

「ライゼル、駐在所で待ってよう? お願いします」

「…うん、お願いします」

 大巨人ゾアに会えると期待していた分、少し残念がるライゼル。ここで我を通せば、迷惑をかけてしまうのはライゼルも弁えている。子守を任された青年に、大人しく案内を願う。

「わかりました、どうぞこちらへ」

 招かれるままに、ライゼルとベニューは、リュカと呼ばれた青年の後についていく。

 案内されたのは、先の同僚達が入っていた丸太小屋。彼らの駐在所であり、仕事場である。職務は多岐に渡るが、ここ最近の主だった仕事として配給物資の管理がある。まずここへ各地から集められた配給物資が届けられ、そこから各集落に振り分けられる。数日前の配給の日を過ぎてしまえば、ここの倉庫はほとんど空になる。残っているのは、受け渡しができなかった配給物資だ。多くはないが、全くない訳でもない。

 小屋の裏手には数台の駆動車が駐車してあり、またいくつかの空き地もある。おそらく、空いている部分に、ボーネへ調査に出た役人の駆動車が普段は止められているのだろう。一行とすれ違わなかったという事は、ソトネ林道を迂回してボーネに向かったからだろうか。

 駐在所で待機を命じられたライゼルは、直接の接触は諦めたが、だからと言って、ゾアへの関心は未だにある。世話役として残った青年リュカに声を掛ける。

「ねぇ、リュカ」

「ライゼル、失礼でしょ」

 年長者を呼び捨てる弟の無礼をベニューが窘めるが、リュカはそれ程気にしていない様子だった。見た目通りの優男といった感じ。年少者が礼を欠いても、特別それを咎めたりはしない。

「構わないよ。それで、どうかした?」

「リュカは大巨人ゾアに会った事ある?」

 その質問を受けて、少しはにかんだような困った顔を見せて、答えるリュカ。大巨人という言葉に、大きな耳がピクッと動いた気がした。

「…あぁ、あるよ」

「どんな人? やっぱり強いの?」

 ライゼルの強さへの執着のせいか、関心はそちらへ向く。ライゼルは、これまでにフィオーレの地で『強い』と言われる人物達を見てきた。だが、その人物達はもれなく既に故人だ。今なお衰えぬ、誤解を恐れずに言えば、今尚失われない強さに興味がある。

ただ、ライゼルの質問は、直接的過ぎる分、抽象的だ。問われたリュカも、質問の内容を吟味しながら、言葉を探す。

「強い、か。そうだね、力自慢ではあるね。もう齢六十も越えたというのに、現役を退く様子が見られません」

 リュカは、過去の大戦での逸話などには触れず、ゾアの現役続投について言及する。ただ、過去の英雄に憧れるライゼルにとっては、それもゾアに対する充分な賛辞と受け止められ、より強い興味が掻き立てられる。

「そっかぁ、大巨人はやっぱりすごいんだ!」

 高揚しているライゼルは、リュカが出してくれたお茶も一気に飲み干し、ビアンが戻ってくる前に疲れて寝てしまわないかと言う勢いである。

 反面、姉のベニューは落ち着いている。ベニューは、ライゼルと違い、外の人間と接する機会が多くある。目上の者に対する接し方や、立ち振る舞いはしっかりと弁えている。

「それにしてもこの駐在所、珍しい作りですよね?」

 村一番の屋敷の主に関心が向いて落ち着かないライゼルを余所に、案内された駐在所の建物そのものに関心があるベニュー。

 駐在所の言葉から想像していた簡素な作りではなく、しっかりした作りで居住性も高そうだ。内部からぐるっと見渡しただけだが、この丸太小屋は、材木として加工せずに、木を組んだだけで作られているのが分かる。それに加え、幾つもの部屋や屋根裏、採光の為の出窓と、余所の家屋とは、その建築方法が一線を画している。

「えっ? …そうか、君達は初めてオライザへ来たんだね。じゃあ、不思議に思うのは無理もないか」

「どういう事ですか?」

 どうやらオライザの人間にとっては、この建築技法は珍しくもないようだ。ただ、どこか得意げな様子すら見受けられるのは、ベニューの思い違いだろうか。

有史以来、人間は様々な方法で家屋の居住性を高めてきたが、誰もがその技術を有している訳ではなく、多くの家屋が簡素な作りの家となっているのが実情だ。金属の鋳造技術を持たないベスティア国民において、特に木材の加工は【牙】を用いないと困難である。その為、材料の加工を生業としている【牙】使いが各地に存在している。

「ここオライザは、何も米所というだけで有名になったんじゃないんだ」

「大巨人ゾアがいる!」

 建築関係に興味はないが、ゾアには興味のあるライゼルは横から口を挿む。ただ、当てずっぽうで口走ったゾアの名だが、存外見当違いという事でもなかった。

「そうだね。とう…頭領がいるというのも、ある意味は一因だね」

「ゾア頭領、ですか?」

 思わず山彦のようにリュカの言葉を反復するベニュー。本人の話題のみならず、建築関係の話題においてもその名が出てくるゾアに、既に首ったけのライゼルでなくとも、自然と興味が湧いてくる。

「頭領はオライザの元締めでもあるけど、本業は大工なんだ」

「それってゾア頭領は、ゾア棟梁でもあるってことですか?」

 まるで言葉遊びでもしているような気分になる。しかし、注目すべきはそれでなく、あのゾアが大工の棟梁になっているという点だ。大戦の英雄が手に職を付けているというのは、なんだか意外だった。集落の統治者というなら似合いの役職と思うが、汗水垂らして労働に励むというのは、英雄という言葉からは想像しづらいところがある。ベニューがそう感じたのも無理はない。戦災により多くの民が家を失った事に心を痛めたゾアが、誰もが安心して生活できるようにと大工になった事は、意外と知られていないのだ。

「うん、そういうこと。このオライザ中の家屋を建てたし、十年前の道路工事もウチの職人が主となって施工しているよ」

「建築事業だけでなく、土木事業も?」

「あぁ、君達がオライザに入る前に渡ってきた橋も、オライザ組が架けたものだよ」

 オライザ組の実績を語るリュカはどこか誇らしげだった。管轄している地元民の活躍とは、喜ばしいものなのかもしれない。ただ、リュカの同僚であるビアンは、特別そのような事は言い含めていなかった気がする。オライザに入る直前に言い含めたのは、ここの代表が大巨人ゾアという事だけ。とはいえ、ビアンが仕事人間である事を考えれば、彼は必要事項だけを伝えたのであり、その為に先の件には触れていなかったとしても納得できる。

「すげー! やっぱり大巨人すげー…つかれたかも」

 高まり続ける熱とは裏腹に、突然微睡の中へ片足を突っ込みかけているライゼル。疲労しているのは何もビアンだけではない。ライゼルやベニューも林の中を走り回ったり、【翼】持ちの女と一戦交えたりと、随分と体力を消耗した一日だった。ベニューも失礼の無いよう気を付けてはいるが、疲労の色が見えている。

「フィオーレからだと、だいぶ疲れたでしょう。湯浴みしてきてはどうでしょう」

「オライザには大衆浴場があるんですか?」

 フィオーレにも沐浴の習慣はあるが、大掛かりな浴場施設はない。村の近くを流れる川の水か、釜で沸かして桶に溜めた湯で身体を清める程度。湯船に浸かるという経験を、姉弟はほとんどした事がない。

「ご厚意に甘えて、お風呂をいただきます。ライゼルはどうする?」

「いい。朝になったら貯水池に行くよ」

 穢れを恐れるこのご時世で、風呂嫌いなライゼルは少数派と言える。無類の風呂好きであるフロルから、躾の一環でよく背中を流されたものだったが、未だに苦手意識は払拭できておらず、特別な事がなければライゼルは水の中には浸かろうとしない。本人曰く、濡れるのが好きでないのだとか。

「疲れを取るには入浴はお勧めだよ?」

 リュカがそう説得するものの、ライゼルはなかなか首を縦には振らない。

「何度か風呂に行ったけど、母ちゃんに肩まで浸からなきゃってよく頭まで沈められて、いい思い出がない」

「ライゼルったらまた。余所様の前で変なこと言わないの」

 ベニューの叱責も素知らぬ顔で、風呂への抵抗感を示し続けるライゼル。

「ふん、俺はいいから、さっさとベニューだけで行って来いよ」

「はいはい、じゃあ行ってきます」

 そう言って、ベニューは小屋を後にし、湯屋へ向かった。そして、二人きりになったライゼルとリュカ。リュカは、姉弟の寝床を用意する為に宿直室へ向かい、ライゼルもその後をついていく。

「ところで、リュカは帰らなくていいの?」

 床を敷く様子を脇で眺めているライゼルからのその問いに、リュカは苦笑いを浮かべる。

「あぁ。多分、今日はビアンさんが戻れないだろうからね。代わりに君達を見ていないと」

「ふーん、いいなぁビアンだけ」

 ライゼルが思い違いしているが、声を出して笑うのはライゼルにも、ひいては朝帰りになるであろうビアンに悪いと思い、リュカは笑いを堪える。

「そんなに会いたいかい?」

「うん。すごい気になる。大巨人だし」

「会ってどうするの?」

「いろんな事を聞きたい。どんな【牙】を持ってるかとか、お城の壁壊したのが本当かどうかとか、いっぱいある」

 生まれてこの方オライザで生活し、ゾアに近しいリュカにとって、ゾアに対してそういう興味の持ち方をするライゼルは珍しく、却って新鮮だ。ゾアに纏わる話を知らぬ者は、このオライザにはほとんどいない。例えば、武勲や職業、家族構成という事柄は、皆が周知の事である。

「そっか。もし会う機会があれば聞いてみるといいよ」

 一般人が直接ゾアに会いに行ける可能性はほとんどない。大概が門前払いである為に、リュカの先の発言は社交辞令だ。ライゼルがゾアにお目通りが適うとは思っていない。

 それを知ってか知らずか、布団を敷く為の空間を確保する為に片づけをしているリュカに、ライゼルは更に続ける。

「うん、そうする。ねぇ、リュカ」

「ん?」

「リュカの事も教えて」

「え? 僕?」

 突然そんな事を言われ、一瞬リュカの作業の手が止まる。リュカが手を止めたのを了承の合図と勘違いしたのか、質問を浴びせるライゼル。

「うん。例えば、リュカは【牙】持ってる? 俺は持ってる―――」

「—――出さなくてもいいからね。突然だなぁ。えぇと、持ってるけど、全然使った事がないんだ」

 話の流れで【牙】を現界させてしまいそうな勢いが、今のライゼルの語りにはある。返事の前に制止を入れねば、今ライゼルの右手にはムスヒアニマが収束させられていたかもしれない。

 とはいえ、ライゼルは【牙】を出す事なく、リュカの答えに反応する。リュカは【牙】を有するが、行使した経験がないと話すのだ。その事にライゼルは疑問を持った。

「なんで?」

「僕の【牙】は時代に合わない、壊すだけの【牙】だからね。誰からも必要とされないんだよ」

 リュカの持って回った言い方を借用すれば、現代において必要とされているのは、物作りに生かされる【牙】という事になる。確かに、あらゆる現場で【牙】運用のおかげで生産効率が向上している事が確認されている。ただ、リュカの【牙】はそれに適していないのだと本人は語る。

「壊す【牙】! 何それ、強いの? 俺、見てみたい!」 

「勘弁してよ。むやみに【牙】を使えば、『穢れ』ちゃうだろう? 【牙】で仕事をしている人だって十分な保障があるから使っているんだ。意味もなく【牙】に頼る事はウォメイナの教えに反してしまうから。ましてや、争い事に用いるなんて以ての外だよ」

 リュカが語る事は、世間に広く流布している一般常識だ。争う事は禁忌として認知されている。だが、ライゼルはその事があまりしっくり来ていない。

「戦う事ってそんなにいけないこと?」

「もちろんいけない事だよ。歴史に学べば、争いは何も生まないし、文化的な生活を脅かしてしまうんだ」

「そうなのかな? リュカの言ってる事は難しいよ」

 ライゼルには、リュカの説明がいまいち釈然としない。経験の伴わない知識は、納得を生まないものだ。

「ビアンさんの慌て様から察するに、ライゼル君達も不心得者に襲われたようだけど、何があっても暴力で解決しようと思っちゃダメだ。その為のアードゥルであり、国家なんだから」

 国家の安寧秩序を守る為に組織されたのが、治安維持部隊アードゥルである。役人であるリュカは、これまでライゼルがしてきたような行為を、例え突発的な事態であったとしても思わしくないと考えている。治安維持を目的に設立された組織が存在するのだから、頼ればいいと。

「そっか。でも、いざという時の為にやっぱり訓練は積まなきゃだよ。そうしなきゃ、いつまで経っても母ちゃんに勝てないし」

「お母様? ライゼル君のお母様も【牙】使いなんだ?」

 ここに来て、意外な方向へ話が及んだとリュカは思う。強さの話題に母親が挙がるのもなかなか珍しい。ライゼルの母親に興味を持ってしまっている辺り、リュカも随分と話に乗せられてしまっている。

「おう、めっちゃ強い【牙】を持ってる。皆はダンデリオン染めのフロルなんて呼ぶけど、俺はやっぱり血祭りフロルの方がしっくり来るんだよなぁ」

 丁々発止で展開される話の中で、思いがけない名前を耳にして虚を突かれるリュカ。

「えっ、君達のお母様は、あの『フロル』なのかい?」

「そうだよ。リュカも母ちゃんのこと知ってるの?」

「ダンデリオン染めのフロルとしてはもちろんだけど、昔僕の父上から君のお母様の話を聞かされた事があるよ。そっか、なるほど君を見ていると、確かに父上の話と印象が重なるね」

 本来、フロルの昔話を懐かしく思うのは実子であるライゼルだろうが、何故だかリュカを懐かしくさせる。それは、フロルの話というより、在りし日のリュカ親子の事を思い出しての事かもしれない。

「母ちゃんの話、聞きたい。ねぇ、聞かせて」

 そうせがまれて、リュカは昔聞かされたフロルの話をライゼルに聞かす。その日持ち込んだダンデリオン染め全てを売り捌き、不足分は持ち合わせていた反物を【牙】を用いて断ちその場で縫い上げ、フロルはオライザに居合わせた全ての者を魅了したこと。曲芸の如くその場で新たなダンデリオン染めを生み出す彼女に、近隣住民から行商人までが心奪われた。その中には、リュカの父もいたという。

「父上がフロルさんの実演を大変気に入って、それから親交を深めていったらしいんだ」

「へぇ、リュカの父ちゃんとウチの母ちゃんは知り合いだったのかぁ」

「そうみたいだね」

 もうここまで来たらライゼルの好奇心は止まらない。ライゼルの興味はお互いの親にも及ぶ。

「リュカの父ちゃんも【牙】を持ってる? 持ってたとしたら、どっちが強かったのかな?」

 随分乱暴な発想ではあるが、ここまで話をしていると、自然とライゼルらしい考え方と思えてしまうのだから不思議なものだ。初対面であるはずなのに、永い付き合いのように錯覚してしまえるのは、思わぬ繋がりがあったからかもしれない。親同士は知り合いだと、その子供達も仲良くなるのが速い。その所為か、ついついライゼルの嗜好に対し、リュカは少し突っ込んだ質問をしてしまう。

「二人が【牙】を競わせる事はしなかったと思うけど。ライゼル君は本当にそればっかりだね。どうして強さに拘るんだい?」

 ライゼルは話題の何もかもを強さに結びつける。まさに強さが人を測る尺度だとも言わんばかりに。強さを伴わないリュカにとっては耳が痛いという事もあるが、何故それ程のこだわりを見せるのか分からない。

「だって、強くなきゃ誰も守れないじゃん。だから、俺は強くなりたい。その為にも、一先ずの目標は母ちゃんを越える事」

「お母様を?」

「うん、母ちゃんは【牙】もすごいけど、腕っぷしも強いから。俺もベニューも喧嘩の仕方は母ちゃんに習ったし」

 この場にベニューが居たら叱責が飛びそうなものだが、代わりにリュカはライゼルが言った先の言葉を反芻し、俄かに気落ちする。

「・・・親を越えるか。僕には叶えられそうにない目標だよ」

 ライゼルが言う親を越えるという目標が、リュカにとっては彼以上に困難なものに思えてしまう。それはリュカの家庭の事情が関係しているのだが、ライゼルはもちろんそれを知らない。だから、無責任な事が言えてしまう。

「諦めちゃダメだよ。俺も頑張るし、リュカも頑張ろうよ。あと十年以内には、俺も自分の【牙】を使いこなせるようにならなきゃだし」

「十年?」

 ライゼルが強さに対して執着するのは理解したが、その設けられた期限は何なのだろう。事情を知らぬリュカは小首を傾げる。

「母ちゃんが死んだのは26歳の頃だったから、俺が26になる時までには母ちゃんみたいに【牙】を自在に扱えるようになりたい。母ちゃんより強くならなきゃ母ちゃんは守れない訳だし」

 最後の言葉の意味は図りかねたが、ここに来てようやくリュカはフロルの死を知る。ライゼルが越えたいと言った母は、すでに故人だったのだ。きゅっと胸を締め付けられる思いがした。

「ご健在とばかり。そうか、辛かったね」

「う~ん、悲しかったけど、ベニューも居たし大丈夫。もし母ちゃんが生きてたらもっと強くなってただろうから、一生追いつけなかったかも。それでも、いつかは母ちゃんに勝てるよう鍛えるけどね」

 ライゼルの母の死を気落ちせず姿に、逞しさすら感じてしまう。

「ライゼル君は強いなぁ」

 思わず賞賛の言葉が口を吐いてしまった。いや、どちらかと言えば、自身への諦めの言葉だったかもしれないが。

「ねぇ、リュカ。俺の話、ちゃんと聞いてた? 俺、まだまだ鍛えなきゃって話をしてたんだよ? 俺が強い訳ないじゃんか」

「ううん。そうかもしれないけど、ライゼル君はきっと強くなれるよ」

「そりゃ、もちろんそのつもりだけど…リュカってば変なの」

 リュカも何故溢したのか自分でも分からない独り言だとは思ったが、むしろリュカがその事が気にならないくらいに変だと思ったのは、ライゼル自身だ。

「変って言い方をするライゼルの方が変だよ」

「なにが?」

 聞き逃してしまうそうなくらいの、独白めいた小声のリュカの呟き。ライゼルは自分の何をそう言われたのか分からない。もうとっくに寝床の準備も済んでいるというのに、ライゼルはリュカとの雑談を終わらせない。

「いや、その、なんていうか。さっきまで何の話をしていたか覚えているかい?」

「【牙】だったっけ? なんだっけ?」

 思い出そうとするも、話がいろいろな所へ転々とした為、出発点がどこだったやら。小首を傾げるライゼルに笑って答えるリュカ。

「君が僕の話を聞きたいって言ったんだよ」

「あ~、そうだった気もする。それがどう変なの?」

 真顔でそう返してくるライゼルを見て、リュカは何故ビアンがこの姉弟を保護したのか、合点がいったような気がする。おそらくビアンも、仕事を抜きにしても姉弟達に対する思い入れがあるのだろう。

(きっとほっとけないんだろうなぁ)

 ライゼルは一般人に比べ、様々な事を知らない。その中にはもちろん知り得ぬ事情も含まれているが、区別なくそれらに興味を示し、教授を乞うてくる。好奇心旺盛なのか、知的探求心が旺盛なのか。ライゼルは何でも知りたがる。

(素性も知らずに僕へ興味を示したのは、もしかしたら君が初めてかもしれないね)

 そう思って、それを言葉にするのをリュカは止めた。言えば、またこの話題に興味を持ってしまうだろう。ライゼルの疲れを考えると、これ以上のおしゃべりは体に障る。

「ううん、大した事じゃないんだ。明朝にはビアンさんも帰って来るだろうから、もう今日は早く休んだ方がいいよ」

「うん、そうする。おやすみ、リュカ」

 そうリュカに勧められると、道中に保存食の大豆で空腹を満たしていた為か、途端に急な眠気に襲われるライゼル。寝床に入ったライゼルの興奮は冷めやらぬままであったが、目を瞑ると然程時間を置かずに寝息を立てていた。

 リュカはライゼルが眠ったのを見届けると、宿直室を後にする。先程の広間に戻ると、ベニューが戻ってきていた。

「おかえりなさい、ベニューさん」

「いいお湯でした。フィオーレにもあんな大きな湯屋があればいいのにって思っちゃいます」

 滅多に入れないお風呂にご満悦の様子のベニュー。久しく味わう事のなかった湯加減を思い出して恍惚に浸る。気に入ってもらえたようで、勧めたリュカとしても鼻が高い。

「オライザ組に依頼すれば、建築してもらえるかもね」

「機会があれば是非。そういえば、ライゼルはもう寝ちゃってますか?」

 広間にライゼルの姿がない事に気付き、声を潜めるベニュー。それを受けリュカは、ライゼルの居場所を手で示し、ベニューにも就寝を促す。

「あぁ、その部屋に二組用意してあるから。君ももう休むといいよ」

「何から何までお世話になりました。それでは、おやすみなさい」

「おやすみ」

 ベニューが宿直室に入っていったのを確認し、リュカは灯りを落とし、駐在所を後にする。

 

 翌朝、故郷以外で迎えた朝だったが、存外疲れは残っていない。リュカ以外の役人がいない駐在所は、昨夜からの静寂を保っている。ベニューが目を覚ますと、布団は畳まれておりライゼルはいなかったが、隣の部屋に誰か人の気配を感じた。

 身形(みなり)を整えたベニューは、昨夜の広間に向かう。そこには、既に朝食の支度を終えて、配膳し終えていたリュカがいる。今朝の朝食は、大根の糠漬けと胡瓜の酢の物、茄子のお浸しに法蓮草の胡麻味噌和えと、随分と大盤振る舞いのご馳走だ。起き抜けではあるが、これなら胃もたれする事もなく食べやすそうだ。決して安価ではない胡麻味噌を使った料理を客人に供してくれる辺り、ここの土地は経済的にも豊かなのかもしれない。

 ただ一つ心残りがあるとするなら、主食が米でなく麺包だった事か。確かにこの時間に飯を炊き上げるとなると、洗米したり火を熾したりと支度始めは未明となる。米所で炊き立てのご飯というのも憧れない訳ではなかったが、厄介になっている身で贅沢は言わないくらいの分別は持ち合わせている。

「おはようございます」

「やぁ、おはよう。ライゼル君は?」

 当直用の仮眠室から出てきたのはベニューだけで、ライゼルの姿は見えなかった。問われたベニューは、やや答えにくそうにして口ごもった後、窓の外へちらりと視線を向ける。

「えっ、外にいるの?」

 この日、リュカがオライザにある自宅から駐在所へ来て、二人の朝食を作りに来たのが午前六時のこと。その時には、リュカはライゼルの姿を見ていない。では、それ以前に外へ出かけた事になる。

「習慣なんです。朝一番に体を動かす事が、一番の鍛練だって本人は言ってます」

「鍛練?」

「ライゼルには、夢があるんです。みんなを守れるくらい強くなりたいって」

 昨日会ったばかりではあるが、個人的な話を憚られないのは、リュカの人柄良さからか。人様に話すほどの事ではないとベニュー個人も思っているが、この奇行の理由を説明しておかないと、ライゼルに対する世間の目が痛い。家の者でもないのに、こんな朝早くに外へ出かける者はそうそういない。

「守れるくらい強く?」

「ライゼルは昔からずっと言ってますけど、私にもそれがどういう事なのか分からないんです。多分、家族を失って傷付いたからだと思います」

「家族を」

 リュカは先程から山彦のように耳にした言葉を繰り返すばかり。これ以上込み入った事情を説明するのも野暮と思ったベニューは、出口へ向かう。振り向き様に礼を述べる。

「朝食ありがとうございます。ライゼル呼んできます」

 そう言って、駆け足でライゼルを探しに出かけていくベニューを、リュカは呆然としながら見送った。ライゼルの姿を探して窓の外を向いていたベニューは気付いていなかったが、リュカは僅かに動揺している。

 その理由と言うのも、ライゼルの話が、自分にはまるで当てはまらなかったから。自分の考えとあまりにもかけ離れた所に、ライゼルの存在を感じたから。

昨夜の話を、全く真に受けていなかった訳ではないが、それでも軽い気持ちでリュカは聞いていた。少年期特有の憧れを口にしているのだろうと、そういう可愛らしい者を見るような気持ちで聞き役に徹していた。だが、実際はそうではなかった。あれは妄言でもなく虚言でもなく、心から語る真意だったのだ。

「あんな年下の男の子が、みんなを守る為に鍛練を」

 リュカが独り言ちた時、また駐在所の扉が開く。遠慮なく開けられた所を見ると、姉弟ではなく役人だろう。それを踏まえた上で、出勤時間より幾分早い所を鑑みると、姉弟の心配をした者に違いない。

「あっ、おはようございます、ビアンさん」

「すまんな、朝食まで用意してもらったみたいで。どうだ、ライゼルは面倒を起こさなかったか?」

 卓の上に配膳された小皿を見て、目の下に隈を作ったビアンが礼を述べる。姉弟の前でこそ分かりやすい態度を取らないが、ビアンは一時でも手元を離れた姉弟を心配していたのだ。

「いいえ、いい子にしてましたよ、とても」

「そうか、それならいいんだが」

 と言い、ようやく安堵できたのか、深い溜め息を漏らす。今朝のビアンは、随分お疲れの様子である。

「それにしても、昨日は随分遅くまで屋敷にいたのですね。ずっと明かりがついていたようですけど」

 それを聞いたビアンは、咄嗟に後ろからリュカの首に腕を回し、首を絞めるような仕草で引き寄せる。

「リュカ~! 何を他人事みたいに言ってんだ。お・ま・え・の、親父のせいだろうが~」

「すみません、ご迷惑をおかけします」

 その点を責められると、リュカには弁解の余地もない。そうなれば、ビアンの愚痴を一方的に聞かされる事にも文句は言えない。愛想笑いを浮かべながら、それを大人しく聞かざるを得ないのだ。

「報告に上がれば、その場で人員配置の相談をおっぱじめるわ、終わったかと思えば宴席を開いてどんちゃん騒ぎを始めるわ…ったく、堅物なのか豪快なのかはっきりさせろってんだ」

 と、そこまで一頻り愚痴をこぼしたものの、リュカとゾアの親子関係を知るビアンは、これ以上それをリュカに聞かすのは過ぎた事だとも思ってしまう。リュカがビアンから人伝てに昨夜の事を聞かねばならない現状を思えば、これ以上詰る事は人道に悖るというものだ。

「その、まぁあれだ、相手が大戦の英雄でなくて、更に報告の義務が閣下の命令でなければ、ゾア殿に蹴りの一発も見舞ってやるんだが」

 このベスティア王国全土を統治しているのは、現国家元首ティグルー王に違いないが、地方の統治を任されている役人は、その土地の領民と連携するよう命令が下されている。その事は今更教えられるまでもない周知の事でもあるし、続けられたその言葉が年下の同僚に対する気遣いである事もリュカ自身心得ている。故に、その心遣いを甘んじて受けようと思う次第だ。

「それは無理だと思いますよ。若い衆の誰一人として親父殿には敵わないんですから」

 本人を目の前にしてないからと言っても、ビアンの態度は不遜そのもの。リュカは、他に誰もいなくてよかったと心の底から思う。ゾアの一門は血の気が多い者ばかりと有名で、もし家の者が先程の発言を耳にしていれば、荒事に発展する事は想像に難くない。

「それは…そうだな」

 勝手知ったる二人は必要以上の言葉を紡がない。ビアンの意図した通りにこの話題を終わらせたリュカに、力の抜けた笑みを向ける先輩役人。と、ちょうどそこに、鍛練を終えたライゼルと彼を連れ戻しに行ったベニューが連れ立って帰ってくる。

「ただいま。おっ、ビアンもいる。昨日は何時に帰ったの?」

「やめろライゼル。昨夜の事を思い出させるんじゃない」

「どうして?」

「どうしてもだ。それより」

 無理やり話を中断し、ここへ来た目的を果たさんとライゼルに水を向ける。寝不足のビアンが無理を押して朝早くに駐在所へやって来たのには、姉弟を心配してという理由もあるが、それの他にも要件があった。

「なに?」

 改まったビアンを見て、ライゼルも珍しく畏まる。そして、予想だにしなかった提案に、歓喜する事となるのをライゼルはまだ知らない。

「ライゼル、大巨人に会ってみたくないか?」

 

 昨夜、ビアンがゾアの元で会議をした結果、オライザ組の若い衆の大半が役人と協力し、フィオーレやボーネ等の警護に当たる事となった。幸い、このオライザでは事件は起きていない。元々、力自慢が集まっている集落の為、用心には事欠かないという理由もある。よって、この地から精鋭を派遣しようとゾアが提言してくれた。

 だが、人手を貸す代わりにある条件が提示された。四人はリュカが朝食をいただきながら、今日の段取りを打ち合わせる。

「ダンデリオン染めですか?」

「厳密に言えば、フロルの忘れ形見であるお前達姉弟に一目会いたいそうだ」

 オライザの頭領ゾアは、昨夜保護されたのが名にし負う二代目フロルと聞いて、ベニュー達を屋敷に招きたいと申し出たのだ。

「でも、私、ダンデリオン染めはできませんよ。あれは母だけの技術ですから」

 ダンデオリン染め以来、数多の染物が世に出回るようになったが、独特の色合いを出せるのは故フロルの他には誰一人いないのだ。それは、娘であるベニューも同じ事である。

「そうなのか? まぁいい。何にせよ、頭領殿がお呼びだ。屋敷に向かうぞ」

 手早く朝食を済ませ、ビアンは席を立つ。

「やったー。大巨人ゾアに会える! ごちそうさま!」

 ライゼルも大急ぎで掻っ込み、食後に礼を述べる。

 こうして、ビアンの要請により、ライゼルとベニューは、村の代表者ゾアの屋敷に招かれる事となった。やや緊張した面持ちのベニューと鼻息を荒くするライゼル。彼らに続いてビアンが駐在所を後にしようとした時、ふと彼は中に留まろり食器を片付けていたリュカに声を掛ける。

「そうだ、リュカも同伴させるようにとのお達しだ」

「ゾア頭領が、ですか?」

「そうだ。待たす訳にはいかない。早くしろ」

 ビアンもそれ以上は何も言わず、同伴を促す。何故、ゾアがリュカまでも呼び付けたのか。釈然としないままではあるが、リュカもビアン達に随行する事となった。

 

 本来、家とは居住の為に存在し、その役割を全うする事が求められる。雨風を凌ぎ、日射を防ぎ、生活を安定させる。しかし、ことゾアの屋敷に関しては、それ以外のものも要求される。例えば、豪奢な意匠の瓦、威圧的な門構え、不埒者が迂闊に近付かない為の外堀。即ち、屋敷そのものがゾア本人の威風を纏っていなければならない。家は、その所有者の象徴なのだ。

 そして、一行を迎えるその屋敷の主人も、それに相応しい雄々しい勇壮な人物である。成人男性であるビアンの一回りも二回りも大きい身の丈を有している、大巨人の異名に違わぬ巨躯。そこに座しているだけで、自然とその人物がゾアなのだと察する事ができる威風。

「よくぞ参られた。道中苦労が絶えんかったと聞く。ゆっくりしていくといい」

 二人の若者を傍に従え、座敷の奥に座する大男がゾアその人だ。リュカの評した通り、とても齢六十に届くようには見えない精悍な体つき。その全身に纏った筋肉を見れば、巷に流布される冗談めいた逸話がどれも真実のように思えてくる。体の部位の中でも、耳が比較的大きいように見受けられるが、あまりにも巨大な体躯のせいでほとんど目立たない。ゾアは胡坐をかいているというのに、その視点は直立している姉弟達と同じ高さにあるせいで、ベニューは自分達が大英雄を前にして立ち尽くしてしまっている事にしばらく気が付かなかった程だ。

格別すぎる存在感に気圧されてしまうが、改めて正座し挨拶を述べ、ライゼルもそれに倣う。

「はじめまして、お招きに預かり光栄です。フィオーレから参りました二代目フロルです」

「俺はライゼル! ・・・です!」

 名乗った姉弟を眺め、やや満足げに笑ったかと思うと、思い違いだったのかベニューをまじまじと見つめるゾア。ベニューも、フロルの名を背負う者として、身じろぎ一つせず真正面から受け止める。

「…似とらんな。倅はなるほどフロルの面影があるが、二代目は父親似か」

 ゾアの訝しむ様子も、ベニューにとっては慣れっこだった。この程度の事は気に病む事もない。

「そうかもしれません。父は私達が生まれる前に蒸発したので確かめようもありませんが。私が着ているこの六花染めが、私が二代目である何よりの証とお考え下さい」

 事実、ベニューは母フロルに似ていない。ライゼルは、フロルと同じで、やや釣り目がちな切れ長の目、明るい髪色、そして牙使い。ベニューはと言えば、柔和なたれ目、色を飲み込む漆黒の髪、そして、【牙】を持っていない。

 ベニューの返答に合点がいったのか、改めて姿勢を正すゾア。第一印象では受け取れなかったが、大戦の英雄相手にも物怖じしない態度は間違いなく、『フロル』そのもの。ゾアが知るフロルと、今、目の前の少女ベニューの印象が見事に重なる。

「なるほど、その弁の立つ様を見るに、後継者の教育は儂より上手(うわて)だったと見える」

 その後継者という言葉を発した途端、室内が一瞬にして静かになるのをベニューは感じた。微動だにする事も、息を呑む事さえ憚られる程の緊張感。周囲の人間の表情から察するに、その話題は普段言及されないものなのだろう。それに対する反応は、まるで腫物を扱うような態度。では、周囲が望む通り、あまり触れずにおこうと慎ましいベニューは思い至る。

 そして、ライゼルも同様にその言葉に反応を示し、しかしベニューと違い、関心を示してしまう。

「大巨人にも後継者がいるの?」

 ライゼルの言葉に、側近の男達が立つ。

「子供、頭領に失礼やないか!」

 横から口を挿むライゼルの無礼な振る舞いに、ゾアの傍らに控えていた男二人が物凄い剣幕でライゼルに詰め寄る。大柄な方と小柄な方がいて、小柄な方が既に勇み足を踏み、今にも殴り掛からんとする勢いだ。噂に違わぬ血の気の多さに、空気が一瞬ざわつく。

「愚弟が失礼を…」

ベニューが割って入って庇おうとするが、後ろに控えていたビアンに止められた。ビアンは努めて落ち着いて、小声で耳打ちする。ビアンはいくらか頭領との面識があり、如何な人物かは心得ている。

「大丈夫だ、頭領殿が屋敷の中で荒事を起こす事はない。それは部下も同じだ」

 そう告げられても心中穏やかではいられないが、静かに事の次第を見守るベニュー。ここで動揺を見せては先の名乗りが台無しになる。フロルの肩書に泥を塗る事になってしまう恐れがあるという意識が、ベニューに自制心を働かせさせるのだ。

「エクウス、ベナード、下がれ。儂も久方振りに大巨人などと呼ばれて懐かしいわい」

 ゾアはライゼルの無礼を快活に笑い飛ばす。そもそも、他人の態度などゾアの斟酌にはない。

 頭領に諌められ、二人の側近は改めて傍に控える。どうやら一先ずは事なきを得たようだ。こういう時、ゾアが些事に拘らない豪快な男である事は、ビアンにとってありがたい。ただ、ゾアの性分を承知しているビアンであったが、ゾアがこの村を治めている大人物である事には変わりなく、ライゼルがいつ面倒を起こすか気が気でない。しかも、ライゼルが振った話題は、ゾアの後継者についてだ。この場でそれを語らせる意味を、ビアンは嫌という程に理解している。早くこの場を立ち去り、出立したいビアンはゾアに水を向ける。

「それでは、頭領殿。お目通りも適いましたので、これにて失礼したいと存じ上げます」

 ビアンが恭しく頭を垂れ、それに倣って姉弟は頭を下げる。一行が面を上げると、その正面には険しい顔のゾアの姿があった。ゾアはビアン達の退散を許すつもりはないのだ。

「ならぬ」

 厳しい視線を向けられ、元々小心者のビアンの体は縮み上がる。ゾア一家が決して荒事を起こさないのは知っているが、例えばゾアがすっ転びその巨躯がビアンに圧し掛かれば、意図せず絶命させる事だって十分有り得る。ゾアの威容は、ビアンに恐怖心を抱かせるには十分すぎる。危険性はなるべくなら、排除、回避したい。

 とは言え、許しを得られない理由がさして思い当たらないビアン。努めてゾアの機嫌を損ねぬよう、問い掛ける。

「どういう事でしょう?」

「昨夜、この小童らが悪漢に襲われたという話を聞かせたのは、貴様であろう? それをまた危険に晒すとはどういう了見か?」

「お、お言葉ですが、頭領殿。私は、ティグルー閣下への報告の義務がございます。それには、この姉弟にも同伴してもらわねばなりません」

 昨夜も伝えた役人の事情を再度申し上げる。しかし、ゾアはそれでは首を縦に振らない。得心させるには、それでは不十分なのだ。

「それは貴様の都合であろう。それにこの小童らを付き合わすでない。加えて、これらはフロルの忘れ形見。儂から見れば、孫も同然、言わば家族だ。それを儂から奪うと言うならビアン、貴様それ相応の覚悟が必要となるが如何(いかん)?」

 ゾアの鋭い眼光に睨まれては、ビアンは言い返す事も出来ない。代わりに、ライゼルが口を挿む。何故なら、姉弟にとって聞き捨てならない言葉があったから。

「ゾア頭領も、母ちゃんのこと知ってるの?」

 先のビアンに向けたそれとは違い、ライゼルには柔らかな温かい眼差しで応じる。そのような温和な表情を、ビアンと側近二人は初めて見た事から、家族と呼んだのもあながち嘘ではないのかもしれない。ゾアは本当に姉弟の身を案じているのだ。

「応とも。王都へ上る前はこの村を拠点に商売をして居ったからな」

 思えば、ライゼルもベニューも、母の少女期の話を知らない。自分達が生まれる以前の事を知らないのは当然ではあるが、フロルがダンデリオン染めを完成させるまでの経緯を知らないのだ。姉弟がその事に関心を持つ前に亡くなったのだから無理もないが、フロルも自分の昔話を聞かせるような事はしなかった。ベニューも母の事となれば興味を惹かれる。

「それでは、母はここで修業を?」

「その通り。フロルの染物はこの村で大成したようなもの。二代目が望むなら、母と同じ場所に工房も設えてやろう」

 諸々の事情を鑑みなければ、ベニューにとって、これ程破格の厚遇はない。流通の要衝であるオライザで商いが出来るとなれば、今以上に六花染めを世間に広める事ができる。それは、一世を風靡したダンデリオン染めの母を目標にしてきたベニューには、魅惑的な提言に思える。亡き母や将来を思えば、どれほどありがたい申し出か。まさしく染物屋冥利に尽きるというもの。

 しかし、先に断った通り、それは諸々の事情を鑑みなければの話だ。今は、王国に出向き、事件の概要を報告する事が第一義である。それを怠れば、カトレアやデイジーおばさんのように被害に遭う者が増え続けるだろう。それに、ライゼルとも、これからどうするかは一緒に考えようと約束したばかりだ。ライゼルの意志を無視する事は、ベニューには出来ない。ライゼルもオライザでの商いを反対こそしないだろうが、それは彼の第一義でなくベニューの我侭に過ぎない。辿り着きたい目標ではあるが、ライゼルを裏切ってまで叶えたい事ではない。自分達姉弟を家族と呼んでくれたゾアには悪いが、ベニューの本当の家族はライゼルただ一人である。

「せっかくのお心遣いですが、二代目フロルはまだ名の知れぬ一介の染物屋でございます。ゾア頭領の名に恥じぬ職人に成長して、改めてお話をさせて頂きたく存じます」

 ベニューは二代目フロルとして、毅然な態度で丁寧に断りを申し出る。ゾアもその申し出に不服な様子ではあったが、一応の了承を示す。その態度からは、代表者としての懐の深さが窺い知れる。

「なるほど、二代目の気概、このゾアがしっかと認めよう。だがな、まだ小童らの身の安全が約束された訳ではなかろう。ビアンよ、その件に関して何か申す事はあるか?」

 それを指摘されるとビアンは弱り切ってしまう。これまでの難局を乗り切れたのも、ほとんどライゼルの【牙】を頼っての事。先のように異国民からの襲撃が続けば、危険がないとは断言できないのだ。何かあれば、ライゼルの力を頼りにしなければならない。

 その事はライゼルも認識している。ライゼル自身が言ったのだ、自分を頼るように、と。だから、ここでもライゼルは胸を張って、こう言い切ってしまうのである。

「ゾア頭領、ベニューもビアンも俺が守るよ」

 自信満々に宣言するライゼルを、少し悪戯っぽく嘗め回すゾア。

「ほう、腕に自信あり、と言うところか」

 ゾアの見た所、ライゼルは門下生と比較して、言うほど大した体つきではないが、ただ、言いたくなるのが分かる程度には鍛えられた肉体だ。どうやら、単に虚勢を張っている訳ではなさそうだ。それに、ゾアは全盛期のフロルの【牙】を知っている。それを加味すると、強さの裏付けはあるのかもしれない。

「おう! 俺は【翼】持ち(ギフテッド)を三人も倒したんだぜ」

 この証言にはやや語弊があるが、ライゼルが難敵を退けてきたのは事実。ライゼルには、そう言い切るだけの自信と実力が備わっている。一応の戦闘経験は積んでいるのだ。

「ビアンよりその話は伺っておるが、手前で見聞きしたものでなければどうも信用ならん。フロルの倅、儂の前でその大言、もう一度吐けるか?」

「どういう事?」

 思考の鈍いライゼルでは、ゾアが何を言わんとするのか考えが及ばない。言い換えれば、現状に対する緊張感が足りないとも言える。自分が今どこに身を置いているのかという自覚が薄い。ライゼルには、ゾアの意図するところが分からない。

「貴様にとって『強さ』とは何ぞや、フロルの倅」

 ゾアは、別の言い回しを以ってライゼルの覚悟を確かめる。この問答でライゼルの心根を図らんとしているのだ。

「強くなきゃみんなを守れない。俺は誰よりも強くなって、みんなを守りたいんだ」

 ライゼルにとっては、片時も忘れた事のない第一義。共に暮らしてきたベニューはもちろん、ビアンもその言を耳にした事がある。そして昨夜、リュカもそれを聞かされている。

 ライゼルの答えに、嬉しそうに顎を摩るゾア。その様子を、リュカは神妙な面持ちで見つめている。

「そうか。フィオーレは花摘むだけの女々しい村と思っていたが、なかなかどうして気骨のある小童がいるもんだ」

「それじゃあ、旅を許してくれるの?」

 ライゼルが歓喜したのも束の間、ゾアの表情は大巨人の名に相応しい威厳ある相貌へと変化していた。ゾアは重厚な低い声で、子分に指示を投げる。

「エクウス、ベナード、試合の支度を始めろ」

「へい」「へい」

 命令を受けたエクウスとベナードは、間髪入れず足早に広間を出て、渡り廊下の先の別館へ向かう。屋敷とは別の、厳めしい雰囲気を持つ建物へ、部下二人は入っていった。

 ゾアがこれからライゼルに何をさせんとするか、ライゼル以外には察しがついた。ベニューもビアンも前言撤回するようライゼルに持ち掛けようとした瞬間、二人よりも先に、その決定に異を唱えた者がいた。

「頭領殿、ご無体な仕打ちはお止め下さい。彼はまだ子供。エクウス殿やベナード殿はこのオライザ組切っての実力者でございます。彼が試合うて勝てる道理がございません。どうかご慈悲を」

 リュカはゾアの前で跪き、頭を垂れ、手を着き、床に伏した。一瞬、ライゼルとベニューは、何故彼が誰より先んじて許しを請うているのか分からなかった。が、並んだ二人を見て、徐々に理解が及んでいった。

「ゾア頭領は、リュカさんのお父さん…?」

 並んでみれば、受ける印象こそ全く違うものの、確かに似通った面影がある。暗めの灰色の髪と、頭に対して少し大きめな耳。体つきの違いから思いもよらなかったが、二人は同じ血を通わせる親子なのだ。

「それは、『一役人』である貴様が口出しできる事か、リュカよ?」

 彼らの関係性に気付いた姉弟だったが、ゾアはリュカを我が子として扱わない。険しい表情を保ったまま、リュカが口を挿む事を詰る。低く響く頭領の言葉に、弱々しくあるがリュカも気丈に振る舞って応えて見せる。

「この国には法律がございます。暴力は罪なのでございます。国は新たな道を歩もうとしています。昔とは違うのです」

 頭を伏せたまま、のべつ幕無しに説得に掛かる。が、ゾアは意に介さない。

「新たな道とな…知ったような口を利く。その通り、試合は定められた規則に則って執り行う。王都の武闘大会と全く同じ仕様でな」

 必死のリュカの言葉もゾアには届かず、にべもなく一蹴されてしまう。

「『頭領殿』!」

 普段のリュカに似合わぬ大声を荒げて見せたが、それでもゾアの決定は覆らない。家長の吐く言葉は、移ろわぬ重さを持ったものなのだ。

「一家を背負えぬ貴様が儂と五分の口を利けると思うな。そこまで申すなら、貴様が小童の代わりに試合うてはどうだ? 貴様も牙使いの端くれであろう?」

「……」

 こう切り返されては、リュカは言葉を継げない。ベニューもビアンも、この剣幕に割って入る勇気はない。結局、誰もゾアに異を唱える事は出来なかった。一行は、恭しく礼を取り、一旦屋敷を後にしたのだった。

 

 ゾアの屋敷を後にし一度駐在所に戻ったライゼル達であったが、空気はずんと重かった。

「なんか、俺の所為でごめん」

 自分の軽率な行いが、大事に発展させたとようやく理解したライゼルは、リュカに素直に詫びる。

「気にする事ないよ。それより、今は自分の心配をした方がいい。あの二人は、頭領殿が手元に残した自慢の部下なんだから」

 手元に残されなかった立場のリュカが告げると、言葉に説得力があると感じるのは失礼にあたるが、純然たる事実であった。オライザに集う力自慢達を近隣の集落に派遣できたのは、この広い土地を有するオライザの警備に、その二人で十分という判断があっての事なのである。ゾアの信頼を勝ち得ている二人というのは、相当に腕の立つ人物なのだろう。もちろん、それを弁えたベニューとビアンは、リュカの境遇に触れるような事は口にしない。

「強いの?」

 ライゼルの一番の関心はそこにある。これから、二人と試合し倒さねば、王都への遣いどころか自分の野望もここで潰えるのだ。関心を示さずにはいられない。

「そうだな、戦も起こらず暴力行為も禁じられたご時世だから、ゾア殿ほどの戦上手ではないだろうが。村一番の力自慢である事には変わりない」

 ビアンが彼らの力を知っているのは幾度となく、彼らの活躍を目撃してきたからだ。このオライザでは、ゾア一派による自警団も展開している。国家からの要請があれば、ゾアは私兵を出して助力する事もある。十年前に交通が整備されたとはいえ、地震や台風などの自然災害があれば、十全に機能しているとは言えなくなる。そんな時、彼ら自警団が活躍する。

 その中でも目覚ましい活躍を見せるのが、先のエクウスとベナードである。自然災害が発生後、薙ぎ倒された木が道を防いでしまっていても、彼らが【牙】を振るえば瞬く間に片付いてしまう。経験に裏打ちされた能力でその都度一門の中でも頭一つ跳び抜けた働きを見せ、村民からは技のエクウス、力のベナードと羨望を集めている。

「そういえば俺、母さん以外の牙使い見るの初めてかも」

 ここに来て思わぬ所で経験のなさが重く圧し掛かってくる。【牙】は基本的に武器として発現されるのが大前提である。だが、その形状や用途は発現者の資質により様々である。叩く物、打つ物、突く物、斬る物、投げる物と幾らでも想像できる分、相手の【牙】が如何なる物か絞れない。自分以外の【牙】を知らぬライゼルは、経験則から予想する事すら適わない。

「ビアンは知らないの? エクウスとベナードの【牙】の事」

「俺の場合、事後処理に付き合う程度だから、【牙】そのものは見た事ないんだよ」

「ビアンの役立たず」

「俺は基本的に事務仕事を主にしているんだよ。現場は面倒事も多いし」

「・・・ビアンのもやしっ子」

「なんだと!」

 力仕事では役に立てないビアンは、積極的に現場へ赴く事はしない。それをライゼルに詰られ、ついむきになってしまうが、事実なので然程強く反駁する事は出来ない。

「ライゼル、失礼なこと言わないの。リュカさんはご存知じゃないんですか、お二人の【牙】の事」

 ここで足止めをされては仕事に差し障る一行は、なんとかして攻略の糸口を探す。身内のリュカから助言を得るのは卑怯かもしれないが、背に腹は代えられない。

「お二人がオライザ組に入ったのは僕が家を出た後なので残念ながら。ただ、より強力なのはエクウス殿と聞き及んでいます。なので、警戒すべきは」

「エクウスっていう人か。大きい方の」

 事前に対策を立てる事も儘ならないのに理由なき戦いを強いられるライゼルを想うリュカは、試合を目前にするライゼルに水を差してしまう。

「どうしても戦わなければならない訳じゃないでしょう。あの人達は自分達の理屈を押し付けているだけです。ゾア一家はオライザで強力な発言力を有しますが、法を曲げる事は出来ません。僕達役人の要請があれば、アードゥルも駆けつけてくれます。ねぇ、ライゼル君、そうしないか?」

 もちろん、このリュカの提案も十分危険性を孕んでいる。武力に対して武力を以って応じれば、それは軍事衝突だ、両者の関係悪化は免れない。それを理解しているが故に、ビアンもその手段に踏み切れない。

 が、そもそもライゼルの選択肢にそれはない。いや、選択肢は初めから一つしかなかった。

「しない。あの人達と戦えば、俺は強くなれるかもしれない。だったら、俺は戦いたい」

 リュカの提案をきっぱりと断るライゼル。頭の固い父親や少年に、ついにリュカの堪忍袋の緒が切れた。

「いい加減にしないか。危険を避けられる道があるのに、どうしてそれを選ばない? 愚かだとは思わないか、傷つかずに済む方法があるんだぞ。なのに、どうして?」

 リュカの言う事はもっともである。戦闘行為が禁忌であり、怪我が穢れの元とされるご時世で、ライゼルの考え方は思考放棄した短絡的な解決方法である。回避できる手段があるのであれば、それに越した事はない。

 実を言えば、ベニューもビアンもリュカと同じ意見である。ライゼルの考えには否定的だ。だが、その考えに理解がない訳ではない。ライゼルがそれに従わないであろうことも重々承知していた。故に、リュカの側に回ってライゼルを説得する事はしない。

「逃げたら、絶対に後悔するから」

 リュカの真剣な思いを受け、ライゼルも自身の信念を告げる。

「後悔? 逆じゃないか、試合えば君は打ちのめされ、必ず後悔する事になる」

 またしても山彦のように言葉を反復するリュカ。リュカには、ライゼルの言葉の意味が分からない。どうしても、この姉弟の言葉が中身を伴わないように感じてならないのだ。リュカには挫折し後悔した経験則がある。人生は甘いものではない、夢を見ているばかりでは居られないという事を承知している。

 そんなリュカの認識する世界に、ライゼルのような生き方は存在しない。諦めずに立ち向かっていけば苦境を打開できるなんて考えは一蹴さえしてしまえる。人間にとって、知らないものは存在しないと同義だ。存在するはずのないライゼルの考え方は、リュカによって否定される。

「違うよ、リュカ。負ける事は嫌な気持ちだけで済むけど、逃げる事は怖いんだよ」

 やはりライゼルの言わんとする事は、リュカには分からない。逃げずに立ち向かっていく事の方がよっぽど恐ろしい事であると、リュカはそう思っている。実を言えばリュカには、大きな壁にぶち当たり挫折した経験がある。それが立ち向かう事への抵抗感を覚えさせている。

 しかし、そうは頭がそう否定しつつも、真に迫り想いを語るライゼルが偽りだとも思えない。リュカの価値観がここに来て揺らいでしまう。昨夜ライゼルが語った母を越えたいという目標、そして、それを実現する為の欠かされない早朝からの鍛錬。偽りないそれらを、リュカはもう知ってしまった。折れてしまった自分とは異なる、磨き続けられる【牙】の存在を。

「ライゼル君、おかしいのは僕の方なのかな? ライゼルや父上が正しくて、僕が間違っているのかな?」

「リュカ?」

 完全にライゼルを否定しきれず釈然としないリュカの拳はぎゅっと握り締められる。長い間、背を向けてきた戦いの道だったが、新しい価値観に触れて、リュカの意志は揺らぎ始めてしまう。

「ごめん、ライゼル君。どうしても君の言い分を聞き入れる訳にはいかないんだ!」

 そう言ったきり、これ以上は何も言わず駐在所を飛び出すリュカ。突然駆けていくリュカの背中に問い掛けるライゼル。

「リュカ、どこに行くんだよ?」

 そう問うたものの、リュカからの返事はなく、やや乱暴に駐在所の扉が閉められる。事情を知らぬ姉弟には引き留める事は出来なかった。だからといって、放っておく訳にもいかず、事情に通じているビアンに尋ねる。

「ねぇ、ビアンどういう事?」

「とっくに察しただろうが、リュカはゾア殿の子息だ。加えて言うなら、一人息子だ」

 その言葉に、先のゾアが言った後継者の事を思い出す。ゾアは言った、自分よりフロルの方が後継者の育成に優れていた、と。それはつまり、リュカの後継者としての教育が、振るわなかった事を意味している。

「リュカさんは後継者になれなかったんですか?」

 その質問には、ビアンも答えあぐねる。ここにも、どうやら込み入った事情が介在するようだ。

「正確に言えば、リュカが跡目を継ぐ事を拒否し続けているんだ。それで、勘当されないまでも、オライザの役人見習いとして家を追い出されている次第だ」

 周囲の人間に次期頭領である事を認めさせる資質が、自身に備わっていないとリュカは考えている。それを身に付ける為に、このオライザの地で役人として修業しているのだ。ただ、その資質がどのようなものだと考えているかは公言していない。

「どうしてリュカは後継者にならないの?」

「親父が大戦の英傑とあっては、その後継者に掛かる重圧は想像に難くない。リュカでなくても逃げ出したくなるさ」

 口にこそしないが、自分でもそうするとビアンは思う。この世に生を受けてから生涯逃れる事の出来ない運命を背負わされている。そんな彼の心情を察しているからこそ、ビアン達オライザの役人達はリュカの事を受け入れている。

「そんな事情があったんですね」

 似た立場にあるベニューは、なんとなく察する事も出来る。親の栄光を継ぐ事の重責が、どれ程その双肩に掛かってくるか。二代目フロルの看板を背負っている限り、付いて回る重圧だ。

「まぁ、それは飽くまでゾア一家の問題であって、俺達にはどうする事も出来ん。今はベナードとエクウスとの試合に向けて集中しろ。試合は、ゾア宅別棟の道場で、正午に開始される」

 飛び出していったリュカの事も気になるが、確かに今は試合に集中しなければならない。ベナードとエクウスの二人は、心ここに在らずの状態で倒せるような相手ではない。とはいえ、だ。

「リュカの事は俺に任せろ。お前達は時間まで大人しくしてろ、特にライゼルは」

 そう言い含めた瞬間、ライゼルにぐんと詰め寄られるビアン。その勢いに思わず仰け反ってしまう。

「ビアン、リュカを絶対に連れて来て。俺、この試合をリュカに見てて欲しい」

 少年がどのような想いでそう乞うのか、ビアンは知らない、ライゼルがリュカの同伴に拘る理由を。が、双眸から受け取れるその意志を汲んでやりたいとも思う。旅の存続の賭かった大一番を控えているというのに、それ以上にライゼルの心はリュカに向いている。きっと、何かライゼルにとって譲れない理由があるのだろう、ビアンはそう察する。

「もちろんだ。俺に任せておけ」

 

 駐在所を飛び出したリュカは、村の外れの用水路まで来ていた。昼間のオライザは賑やかで、こんな人気のない場所でなければ、泣き出してしまいそうな情けない顔を見られてしまう。一応はゾアの嫡男である為、人目を避け、誰も用のないここまで逃げて隠れてきたのだ。

(僕に似合いの、人の寄り付かない場所)

 この用水路には年に二回、水を溜める為に閉める時と、水を抜く為に開ける時にしか誰も訪れない。リュカはこの場所に自分を重ねる。この村の人にとって、自分は必要とされていないと、そう感じている。幼い頃はゾアの嫡子として人々に関心を向かられる事も少なくなかったが、一人息子の器量がゾアに遠く及ばないと知れると否や、リュカから人々の関心は離れていった。その事をリュカ自身寂しく思った事もあるが、当然だとも思う。

「こんな僕に、興味なんて誰も」

 水路に足を投げ出し、俯くリュカの顔が水面に映る。他のオライザ組の門下生よりも弱々しく小さい姿。これを見て、誰が大巨人の息子だと想像できるだろう? おそらく、その紐付けは誰も出来ない。息子であるリュカ本人がそうなのだから。

「僕は本当に父上の子供なのだろうか・・・?」

 そう独り言ちた直後、水面の自身の背後にビアンの姿が映る。

「よぉ、お前は本当にここが好きだな」

 そう声を掛け、リュカの傍らに腰を下ろすビアン。こうしてビアンがリュカを探してここへ赴くのは、今回が初めてではない。

「好きという訳では・・・」

「前来た時は、お前がまだ役人見習いになる前だったな」

 そう言いながら、ビアンは水路の向こうの、視界一杯まで広がる田園風景を眺めている。これから数か月の後、青々とした稲は黄金色に実り、収穫の時期を迎える。ただ、それはもうしばらく先の話。

 そして、リュカとビアンが初めて出会ったのは、ちょうど二年前の春頃の事。

 18の誕生日を迎えた少年リュカはその日、父子二人きりの道場で、ゾアから家督を譲る旨を伝えられていた。それ以前から話は聞いていたし、それが仕来たりなのだという事も知っていた。そして、周囲の信を勝ち取る為に、父の前で【牙】を発現させようと試みたリュカであったが、偉大なゾアの【牙】を意識し過ぎる余り、リュカ固有の【牙】の設計図を上手く思い描けなくなってしまっていた。元々、星脈を酷使できる程に身体が強靭ではない為に、18歳までは発現を制限されていた。それもあってか、いざ納得させる為に現界させようとすると、精神的負担が掛かってしまい、星脈の行使に不慣れなリュカは【牙】を出せなかったのだ。そんな、満足に【牙】も振るえない自分が、いざオライザ組の長にならねばならないのだと考えた時、その重圧に押し潰され、ゾアの跡を継ぐ事が恐くなり、逃げ出してしまった。その時、人目を避け訪れたのが、この用水路だった。

「まさかゾア殿自ら御出でなすって捜索願を出すなんて思わなかったぞ」

 ビアンの言う通り、リュカが家を飛び出した直後、ゾアは内密で役人達にリュカ捜索を願い出た。部下を使う事も出来たろうが、もしリュカが逃げた事が門下生に知られれば、ただでさえ高くないリュカへの評価が地に落ちてしまう。そうなってしまえば、本当にリュカはオライザ組の次代を担えなくなってしまう。そう判断したゾアは、秘密裏に役人に接触を図り、リュカの身柄を確保させた。その時、リュカを発見したのがビアンだったのだ。

「その節は、本当にご迷惑をお掛けしました」

「まぁ、お前の気持ちは分からんでもないからな。だからこそ、ゾア殿に猶予を乞うたんだから」

 リュカを連れ帰ったビアンは、当時の上司に嘆願して、ゾアと話をする機会をもらった。そして、ビアンはこう告げた。

「『リュカに大人になる時間をください』、ビアンさんは他人である僕の為に頭を下げてくれましたよね。本当に頭の下がる思いでいっぱいです」

「そんなに感謝されるようなことはやってないさ。ただ、見てられなかったんだよ」

 その当時ビアンもようやく一人で仕事をこなせるようになってきた頃であり、自分より幾分か年下の男の子がある日突然その重責を背負わされるようになったという事が、ある種の暴力のように感じられたのだ。年数を重ねた自分でも辛いと思うのに、何も経験のない少年が自分以上の事を求められる理不尽が、ビアンには見るに忍びなかったのだ。

「おかげで、こうして役人見習いの仕事をやらせてもらう事になりました。初めは大変でしたけど、最近は自分にもできる事があるんだって、充実した日々を過ごせています。本当にビアンさんのおかげです」

 役人見習いとしておよそ二年の月日が経ち、業務も板についてきたリュカ。リュカは法を学び、国家の在り方を知った。その中で、【牙】以外にも自身の能力を証明できるものがあるかもしれないと思うようになった。力を示す事で人々を従えてきたゾアのような既存のやり方ではなく、国家の力を借りる事で、能力に左右されない平等で安定した集落を作りたいと考え始めていた。その考えが下地にあり、国家から支援が受けやすくなるように、国家が定めた法を順守するのが、このオライザの未来の為だと考えている。

 が、ゾアやライゼルはそんな事は露ほども知らず、戦闘行為を執り行おうとしている。そんな事をすれば、危険分子と見做され、放逐されるかもしれない。そうなれば、今は栄えているオライザであっても先細りしていく事は目に見えている。

「ただ、やはり僕には父上がやろうとしている事が認められません。暴力は何も生み出しません。腕力の強さを物事の基準にしてはいけないと思うんです」

ビアンもリュカの言いたい事は充分に理解を示す事ができる。そして、そんな真摯な想いを抱くリュカだからこそ、頼みたい仕事がビアンにはあった。それは、ライゼルからお願いされた事。ビアンはリュカに対し、こう願い出る。

「もし、本当にそう思うんだったら、任されてほしい仕事がある。聞いてくれるか?」

「はい、なんでしょうか?」

 先輩が改まって言うものだから、ついリュカも身構えてしまう。が、ビアンの口から告げられるそれは、リュカにとって意外な事案だった。

「今日の試合、俺に随伴して、ライゼルの事を見てやってくれないか?」

 

 時は正午、場所はゾアの屋敷の別館にある武道場。普段ここは、ゾア一門の門下生が鍛練に励み、活気づく場所である。今は、今回の一件の当事者しかおらず、五十は人の入る空間が、しんと静まり返っている。それもそのはず、これからここで真剣勝負が執り行われるのだ。故に部外者を立ち入らせる事はない。この場に居合わせる当事者達が、自分の要求を、互いに相手に認めさせる事を目的とした試合。ライゼル達は、王都への出立。ゾアは、姉弟がオライザへ留まる事を望む。

 立会人として、ベニューがゾアから指名された。この場において、責任を負えるのは『肩書』を持つ者だけ。公人であるビアンやリュカであってもお呼びでない。今回は、ベニューが二代目フロルの名において、この試合を取り仕切る。法の下で立会人のいない私闘は禁じられている。正当な理由と立会人を以って、初めて試合の開催は認められる。正当な理由なき場合は、立会人が責任を負い、法によって裁かれる。そういう仕組みとなっている。

 こうして、ライゼル対エクウス、ベナードの試合の舞台が整った。

 板張りの床の上に大きく白線で縁取られた真四角。土足厳禁で裸足でのみ入場が許される神聖な場所。その中こそ、彼らが暴力を振るう事を許された聖域なのだ。この定められた空間のみが治外法権と化し、この場からはみ出た者は戦う資格を失い、敗北扱いとなる。自らの意志に関係なく、その包囲から出る事は、戦意喪失と見做されるのだ。

 今回の試合、ゾア一門の人間と比べ、戦い慣れしていないライゼルは様々な不利を強いられる。

 まずは、規則に縛られるという事。これは試合であって、規則無用の殺し合いではない。取り決められた規則の中で、戦わなければならず、ライゼルが難敵を退けた時のような変則的な戦闘ができない。加えて、地形やらの条件が対等である以上、そこに有利不利を期待する事は出来ない。いや、板張りの上を裸足で立つ事に慣れていないライゼルがやや不利だろうか。

更にライゼルに不利に働くのが、ベニューが立会人になってしまった事である。これまでの生涯に於いて、ベニューの助言がどれ程ライゼルを救ってきたか知れない。ライゼルを良く知るベニューが繰り出す適格な指摘は、必ずライゼルに都合よく作用してきた。だが、今回はそれに頼れない。ライゼル自身が試合展開を計算し、窮地に立たされた場合も、自身で打開策を講じなければならない。普段から思考を巡らす事の得意でないライゼルは、想像以上に負担になるかもしれない。

 そして、最大の不安要素が、ライゼルが対する事となった人数である。

「デカい方がベナードで、小さい方がエクウス。合ってる?」

「違うぞ、ライゼル。デカい方がエクウス、小さい方がベナードだ」

「えっ、そうなの? ちびっこいのが力自慢なの? 俺と変わらないくらいの身長なのに?」

 相対する、ゾアが擁する二人の【牙】使い。比較的大柄なエクウスと比較的小柄なベナード。オライザ組切っての実力者と目される二人は、例え子供一人を大人二人で相手取る事になったとしても、慢心を抱かない。エクウスとベナードそれぞれの手には、それぞれの【牙】が握られている。

「不躾なわっぱやの。まっ、悪う思うなや、これはワレが望んだ事でもあるんや」

 落ち着いた低い声でそう語る大柄な男エクウスの手には、しなやかな鞭が握られている。

「せやで、ワイらもオライザ組の看板背負っとる。恨みっこなしや」

 やや勝気な血気逸る小柄なベナードの手には、七つの枝の付いた矛、七支刀が握られている。

 ビアンに人違いを指摘されるも、先のリュカの情報とライゼルの認識とが噛み合わない。より強力だと教えられたエクウスの手に握られた鞭は、柄の先に柔らかそうな紐状の物が取り付けられているだけで、決して高い攻撃力が備わっているとは思えない。左右に幾重にも突起物を付けたベナードの矛の方が、よっぽど脅威に感じる。ライゼルは、直感的にベナードがより攻撃的な牙使いと踏んだ。

 今回の試合は、勝ち抜き戦が採用される。つまり、ライゼルは一人ずつを破り、二連戦を勝ち抜かねばならない。ただでさえ、経験の差があるというのに、人数による不利も背負わなければならない。

ライゼルにとって、ここがまさしく正念場である。ライゼルに圧倒的不利な条件で試合は執り行われる。

「さて、もうじき試合を始めてもらう訳だが、リュカ。貴様が同席しておるのはどういう了見だ? この試合に異を唱えた貴様がおる筋を聞かせい」

 存分に試合観戦を堪能しようと真横に陣取ったゾアの一睨みが、ビアンの隣に控えるリュカを刺す。

「肩書を持たぬ私では立会人にはなれませんが、もし法から外れるような行為が認められるようであれば、すぐさま中断できるよう、私もここで同席させていただきます」

 リュカは、自身がここにいる正統性を主張する。その眼には拒否されても譲らない強い意志が見受けられる。ビアンに同席を依頼され、ビアンの頼みであればリュカには断る理由がない。自分を気に掛けてくれる先輩の願いに報いたいという気持ちがある。

 ただ、その思いが強すぎる余り、リュカのゾアに負けじとする視線は苛烈そのもの。親子の視線の激しいぶつかり合いが火花を散らしている。

(おいおい、俺を挟んで親子喧嘩するんじゃない、頑固親子)

 ゾアとリュカに板挟みされているビアンは、試合結果が心配なのに加えて、左右の険悪な雰囲気に飲まれ、とても所在ない想いだ。その所為か、自然と無口になり押し黙ってしまう。

「・・・ふん、勝手にせえ」

 リュカの同席を了承したゾアは、目配せしてベニューに開始を促す。ベニューもそれを受け、対戦者達の方へ向き直る。

「それでは、ライゼル。人数の不利を考慮して、どちらと先に戦うかの選択権を与えます」

 厳かな調子でベニューがライゼルに問う。普段見慣れぬベニューの立ち振る舞いに緊張感を煽られるが、今は自分自身しか頼る者がない。ライゼルは改めて気を引き締め直す。

「ベナードと先にやる。こっちの【牙】の方が強そう」

「せやな、確かに一理あるわな」

 後回しにされたエクウスは、ライゼルの選択に賛同の意を示しながら、一旦陣の前から退く。

 ライゼルの作戦はこうだ。先に攻撃力の高そうなベナードの矛を全力で破り、残った余力で攻撃力の低そうなエクウスの【牙】を破る。余力の配分が出来ないライゼルにとって、最適の戦い方だ。これが今回、ライゼルが見つけた勝利への道筋なのだ。

「先にやるちゃうわ、ボケ。ワレが選べるんは、どっちにやられたいか、や」

 ベナードもライゼルに劣らず戦意を漲らせている。経験に優れるベナードは、もちろんこの生意気な対戦相手を打ち負かすつもりでいる。ベナードにとってライゼルは、礼儀を知らない年下の小僧でしかない。

「今回の勝負、武闘大会の規則に則り執り行います。よって、どちらかの【牙】が消失した時点で決着とします」

 この試合、勝利条件は相手の命を絶つ事ではもちろんない。【牙】とはつまり戦う意志であり、その【牙】(戦意)を喪失、あるいは【牙】を維持するだけの万全な星脈でなければ、戦う資格を失った事となり、敗北となる。

 故に、相手の身体に痛手を負わす事よりも、相手の【牙】そのものの破壊が優先される。

 【牙】は万物の干渉によって劣化する事はない。だが、唯一【牙】同士の衝突、つまり、性質の異なるムスヒアニマの干渉によってのみ、その形状維持を困難とする。星脈は各人固有の物であり、その星脈を循環した霊気は全てが唯一無二の性質を秘め持つ。

 【牙】と【牙】がぶつかり続ければ、いつかはいずれかの【牙】が『折』れる。負けない為には、【牙】を失わない事が前提条件なのだ。

「それでは、両人、前へ進んでください」

 ベニューが促すと、ベナードは仕切られた陣の中へ進入する。倣ってライゼルも歩み、聖域へと足を踏み入れる。この中は、戦士にのみ許された空間。その認識が、俄かにライゼルを高揚させる。

 両者が定位置まで辿り着き、相対する。

「いつまでも出し惜しみしとらんと、早よ【牙】を出さんかい」

 気の短い性格なのか、ベナードはライゼルを急かし、【牙】の発現を促す。この手の試合では、本来入場前に具現化し、携えて入るのが仕来たりなのだが、ベニューもライゼルもそれを知らなかった為に、まだライゼルの手に【牙】はない。無論、自身の【牙】を誇りに思うライゼルが、出し惜しみなどするはずがない。

「見てろよ、母ちゃん譲りの俺の【牙】!」

 一気に全身の星脈を解放し、霊気を星脈内に循環させる。青白い発光現象が、まさしくこれから【牙】を生み出そうとしているのだという事を物語っている。地面から吸い上げられた余剰霊気が溢れ出し、その光景に対戦相手のベナードは身震いを起こす。例えば、ゾアも強力な牙使いであるが、それとは違う末恐ろしさをライゼルが秘めているように感じられるのだ。

「こんガキ、えげつない星脈持っとるやんけ。デカい口叩くだけの事はあるっちゅーワケやな」

 星脈とは本来、この大地に生きる全ての者が持つ者であるが、霊気の奔流を正確に知覚できるのは牙使いだけである。更に言えば、普段の生活の中で、自身の星脈に霊気が流れている事を自覚している者は、皆無である。誰もが当たり前に生まれ持った素養であるが故に、星脈の流れが意識される事はほとんどない。

 しかし、牙使いは違う。【牙】の設計図を各々が持ち、地面より吸収した霊気を望む形に変質させ、【牙】を形成する。【牙】具現化の際のみ、星脈の存在を意識する。

 霊気の吸収は、呼吸に近いものかもしれない。人間が大声を発する時、その直前に肺は多量の空気を貯える。それと同じで、【牙】を形成するのに大量の霊気が必要となる。

 牙使いが【牙】を所望した段階で、全身の星脈が霊気を要求する。よって、発動者が任意で霊気を体内に吸い込むのでなく、本人の意思に関わらず、星脈が自発的に、地面から霊気を吸収し始めるのである。

 そして、他の牙使いと同じように【牙】を生成するのに、ライゼルだけがこれだけの膨大な量のムスヒアニマを必要とするという事は、生まれ持った星脈という素養が破格という事を示している。

「はっはっは、フロルめ。かようなとんでもない傑物を産み落とすとは、どんな腹をしておるのやら」

 ベニューを形成する諸々の要素が教育で培われたのなら、ライゼルのそれは遺伝という仕損じる事のない伝達方法で、その素養が継承された。フロルから受け継ぐ血統が、この【牙】なのだ。

(あれが、ライゼル君がお母様から受け継いだ【牙】・・・!)

 途轍もない才能の披露に目を奪われているリュカを余所に、青白い光が徐々に収束し、気付けばライゼルの右手には幅広剣が握られている。違えようのないフロルの血統である証。ライゼルの大言がこれに基づくものと言われれば、並大抵の人間であれば頷き押し黙ってしまうだろう。

「どうだ、参ったか」

「ドアホ、【牙】捻り出したくらいで粋がんなや。いくらごっつい星脈持ってたかて、ワレが使いこなせなんだら意味あらへんやろ」

 確かに一度は驚かされたベナードだが、その素養を前にしても、さして身構えている様子でもない。これからライゼルが相手にするのは、百戦錬磨の手練れ達。例え、ライゼルの星脈が規格外でも、それに勝る戦闘経験を持つベナードは物怖じしない。

そして、ついに両者が共に【牙】を現界させた。それはつまり、互いに戦う準備が整ったという事である。

「それでは、試合開始」

 ベニューが勢いよく宣言すると、先手必勝とばかりにベナードが飛び出す。身軽な彼らしい戦い方。繰り出す矛は、真っ直ぐにライゼルの幅広剣を目掛けている。

「もろたで、鈍間(のろま)」

「くっ」

 ライゼルもその一撃を幅広剣の面で受け止めようとするが、それこそがベナードの狙いだった。

「アホか。おどれの身を庇ってどないすんねん。【牙】折れたら負けやねんぞ」

 ベナードの指摘通り。【牙】が損耗し破壊されれば、どんな状況であろうと敗北を突き付けられる。多少の怪我を負ってでも、【牙】の損耗は抑えなければならないのが定石だ。もし、ベニューが今の任を負っていなければ「おバカ」と一喝していただろう。

 そうは言っても、受けてしまったものは仕方がない。先のはまだ取り返せる程度の失態。受けた一撃を弾き返し、ベナードが体勢を崩した隙を付く算段をする。片手握りで攻撃を繰り出してきたベナードに対し、ライゼルは両手で剣を構え受け止めている。制御の不安定な点での攻撃を、ライゼルは面で防御したのだから、安定して押し返す事ができる。

「てやぁ」

「ワイの刺突を受けて【牙】を取りこぼさへんかったんは褒めたんで」

 ライゼルの思惑通り、勢いよく弾かれた矛はベナードの腕ごと後方へ逸れ、ベナード自身も体勢を崩している。ベナードの体は開き、無防備な状態だ。今こそ好機と攻勢に転ずるライゼル。

 と、ライゼルが意気込んだのも束の間、隙だらけに見えたベナードだったが、決して弱みを晒してはいなかった。この不安定な姿勢も、戦い慣れしている彼にとっては、攻撃の為の準備姿勢となってしまう。

「オラオラ、どついたんぞ」

 体勢を崩したように見えたベナードであったが、軸足で踏ん張り踏み止まると、後方に逸らされたその勢いのままに体を軸に一回転し、横一線に矛を振り切る。思わず相手の反撃の間合いに踏み込んでしまったライゼルは、強力な一閃を繰り出されては、またしても剣で防御を取らざるを得ない。ガツンと大きな衝撃がライゼルの【牙】を襲う。見た目にこそ目立った変化はないが、確実にライゼルの幅広剣には、負荷が蓄積されていっている。

「またやっちゃった」

「何度でもやったんで、小僧」

 衝撃を往なし、姿勢制御をすると、場外寸前の後方まで飛び退いてしまったライゼル。範囲限界に近いという事は、それだけ移動に制限が掛かる。その位置計算込みでベナードは攻撃を仕掛けており、明らかに彼の方が戦い慣れしているのが見て取れる。おそらく、ライゼルの反撃も予想の範疇だったのだろう。無策のままでは、ライゼルは迂闊に手を出す事が出来ない。

「こんにゃろー、俺と身長変わらないくせに、すげー強いんじゃん」

「さっきから、ちびちび言いくさりよってからに。ワイに負けたら舎弟にしたんねんボケ」

 ベナードはこの試合の定石は心得ている。範囲の縁にライゼルが追い込まれたという事は、これ以上後方に避けれないという事。そうなると、前後を挟まれており、横方向にしか攻撃を回避できない。

「次の一発はどないもできへんぞ」

 そう言って繰り出してきたのは、試合開始直後と同じ突き。突きというのは構えた姿勢から最短距離で目標を攻撃する事ができる最速の攻撃方法である。要するに、この突きを以って先んじれば、後手に回ったライゼルは、その速度を追い越して反撃する事は適わないのだ。よって、ライゼルは再び受けに回るしかない。

 しかし、ライゼルもやられてばかりではない。この突きは先に一度見た技だ。空気の流れで敵の挙動を察知できるライゼルは、反撃できないまでも回避を行う事は十分に可能なのだ。実際、その突きに対して垂直に回避運動をし、七支刀の枝が六花染めの脇腹部分を僅かに掠めた程度で、攻撃を避ける事ができた。

 次は、全速力で突進して制止もままならないベナードの矛を、自慢の剣で叩き折るだけである。回避動作の際に、既に剣は振りかぶってあった。足運びと同時に幅広剣を振り上げ済みで、その点に抜かりはない。ならばあとは、それを矛目掛けて思いっきり打ち下ろすのみ…のはずだった。

「こん矛の枝が何の為にあるんか、ちっとは考えーや」

 確かにライゼルはベナードの刺突を回避できた。しかし、それさえもベナードにとっては作戦の内だった。

 ここで改めてお互いの位置関係を確認する。ライゼルは、背後に活動限界線がある。ベナードは突進の際に大きくライゼルに詰め寄り、懐への侵入を果たしている。という事は、ライゼルは前後を規則と敵とに挟まれた事になる。後方に退く事も前進する事も出来ず、片方の側面を回避した枝の付いた矛に阻まれ、残るはもう片方の側面しかない。これを理解するのが一瞬間早ければ、ベナードの術中にはまる事はなかったかもしれない。

「判断が遅いんじゃ、ボケ」

 そう呟いたかと思うと、ライゼルに回避の為の予備動作をする隙も与えずに、ベナードは柄を軸に矛を回転させ始める。矛に付いた枝が接触している六花染めに絡みつき、巻き上げる度に衣服がライゼルを締め上げる。枝が衣服に刺さり、しかも絡まっている為、ライゼルは身動きが取れない。衣服と肌の間の隙間が全くなく、腹部を六花染めによって締め上げられている状態になっている。

「なんだこれ、取れない?!」

「がっちり噛んどるから、その上等な服破らん限り逃げられへんで」

「やばいじゃん!」

「まぁ、逃がすつもりはないんやけどな」

 その言葉通り、服を脱ぎ取る隙も、反撃に転じる隙も与えず、ライゼルをうつ伏せにさせ組み伏せる。余りにも鮮やかな手際だった為に、周りの者はもちろん、ライゼル自身もその手並みに惚れ惚れとした。

「すげー、何されたか分かんないや」

「そのまま、分からずじまいで負けてまえ、このスカタン」

 暢気な事を呟くライゼルに構う事なく、ライゼルの左手を背に捻り上げ、それを左手一本で押さえつけ固定し、更に自身の両足で相手の両足を極め上げ、ライゼルの体全体を覆い被さるように抑え込む。圧倒的有利な体制を組み敷いたベナードは、六花染めを引き千切り、自身の矛を回収する。

 そのびりびりに引き裂かれた六花染めを前に、僅かにベニューの心は痛んだが、その分ライゼルが怪我を負っていない事を思えば、幾分気が楽になる。ベナードも悪戯にライゼルに怪我を負わす真似はしない。

 とはいえ、未だライゼルの窮地は続いている。足もベナードの両足によって極められ、動かせるのは右手のみ。しかも、その右手は守るべき【牙】を掴む手なので、弱点を晒しているようなものだ。

「おい、どけよ」

「急かすなや。おどれの【牙】をぶっ壊したら、さっさと離れてやるわい」

 ライゼルに抵抗されないようにしっかりと体を押さえつけながら、無防備な幅広剣に狙いを定める。ベナードにはライゼルの右腕を潰すという選択肢もあったが、その必要はない。組み伏せられた状態では、右腕の可動域などたかが知れている。加えて、この超至近距離であれば、討ち漏らす恐れもない。矛を振り上げ、幅広剣目掛けて打ち下ろそうとした次の瞬間、

「なんのつもりや、ワレ」

 ライゼルは咄嗟に逆手で握った剣を突き立て、矛の一撃を受け止める。ちょうど、矛の枝と枝の間に剣の刀身が挟まり、がっちり噛み合う状態になる。要は【牙】同士の腕相撲の形だ。ベナードが振り解こうとするも、ライゼルが矛の上から剣を押し付けようとする為、噛み合ったまま拮抗している。

「なんや、力比べしたいんか。おもろいやんけ」

「これしか方法がなかったんだよ」

 ベナードの方が体勢的に右腕の可動域が広く、肘を曲げ腕を後方に引く力で剣を折りに掛かる。一方ライゼルは、床とベナードに挟まれ圧倒的に肩の可動域は狭い。剣を立てた時とは握り方を変えて、順手で掴んだ剣を肘を伸ばし、押す力で矛を折りに掛かる。こうなってしまえば、純粋に力比べであり、競い合うのは単純にどちらの【牙】が頑丈かという勝負になる。

「フロルの倅、とんだ傾奇者よな。かような試合は見た事がない」

 ゾアが評したようにライゼルの戦い方は常軌を逸している。定石通りの戦い方を見せるベナードと相対しているからこそ、余計にそう感じるのかもしれない。下手をすれば茶番と一蹴されかねない泥仕合だが、力のベナードと評される彼相手に力比べを挑むというのは、存外見応えがあるとゾアは心躍らせている。

 【牙】の強度は、意志の強さ。どちらかより勝利への執念が強いかが、勝負を分ける。

「ええ根性しとるわ。ワレみたいなおもろいヤツ、絶対ワイの舎弟にしたんねん!」

「じゃあ、俺が勝ったら、その『しゃてい』が何なのか、教えてもらうから!」

 互いに軽口を叩き合った後は、両者とも歯を食い縛り、ただ右腕だけに全力を込める。均衡した力は、互いの【牙】に集中し、直接負荷が加えられる。蓄積した損耗を考慮すれば、ベナードが優勢に思える。しかし、ライゼルには他を圧倒する七光りがある。

「うぉぉおおおおおッ!」

 床に組み伏せられたライゼルは、【牙】を現界させて尚、星脈に霊気を循環させる。より床に密接している為、霊気の吸収がいつもより速い。集めたムスヒアニマを自身の星脈を通し変換させ、更にそれを【牙】に集束させる。

「おどれ程のびっくり人間、見た事ないわ」

 ベナードもライゼルが何をしようとしているのか察しがつく。ライゼルは更にムスヒアニマを注入する事で、【牙】を更に強化しようとしているのだ。これは一般的な牙使いには不可能な荒業である。既に【牙】を発現している状態で自ら意識的に星脈へ霊気を循環させる事は、決して容易な事でない。例えるなら、自律神経の通っていない箇所を意識的に自在に動かすようなもの。それは、そもそも人に備わっていない機能を使おうとしていると言っても過言ではない。

 それに、そもそもこの行いの能う道理がない。大声を出す為に空気を必要とするのであり、それ故に直前に空気を吸う事が条理である。が、今ライゼルがやろうとしている事は、大声を出しながら同時に息継ぎをし、更なる大声を出そうとしているものである。常識的に考えても、それは人の行いではない。けれども、ライゼルは勝利の為にそれを敢行しようとする。

道理を無視して無理やりその手段を取れば、牙使いは体力を激しく消耗し、吐き気や眩暈に襲われる。それに、星脈を酷使すれば星脈そのものを傷つける事となる。命のやり取りが久しく行われなくなった現代では、無謀な行いでしかない。

 だが、それは言い換えれば、ライゼルがこの試合に命懸けで挑んでいる事の表れだった。決して生半可な覚悟で、この勝負に臨んでいるのではない。譲れない信念があって、勝利を捥ぎ取らんとしているのだ。

 損耗と強化を勘定に入れて両者は五分と五分。どちらが勝ってもおかしくない様相を呈す。剣と矛がせめぎ合い、【牙】の軋む音さえ聞こえてくる。体勢の変わらぬままの試合が数分間続き、この両者の根競べには終わりがないように思えた。

 だが、勝負とは勝敗を決するからこそ、そう名付けられているのであり、そしてこの試合も例に違わず遂に雌雄を決する。結果を告げたのは、終始優勢を維持していたベナードの咆哮であった。

「くっそぉー、イカレてもうたーーー!!」

 ライゼルが状況を把握する前に、ベナードの絶叫が武道場に響く。それに続いて、ベニューが試合終了を告げる。

「ベナード側の【牙】の破壊を確認、よって勝者ライゼル!」

 矛から生えた枝が二本程欠けていたのだ。折れた枝はいつの間にか霧散し消失していた。ベナード本人は余力十分でまだ戦闘を継続できただろうが、これはそういう規則に基づいた試合である。戦闘続行可能であっても、頼みとする【牙】が損壊したという事は、その所有者の敗北なのだ。

「へっ、勝った?」

 もちろん勝つつもりで挑んだ勝負であったが、実際に決着してみても勝った実感がライゼルにはない。苦戦に次ぐ苦戦、窮地に次ぐ窮地と、この勝負で気が抜ける瞬間なぞ一時もなかった。終始、試合を優勢に進めていたのは、誰の目から見てもベナードだと言えた。それを覆しライゼルが勝利を収められたのは、時の運によるものだった。

だから、ベナードもその心情を吐露せずにはいられない。

「おどれが勝ったんちゃうわ。ワイが勝たれへんかっただけや。次はこない幸運はあらへんからな」

 そう言い捨てて、仕切られた陣から出ていく。この場は、【牙】を持つ者しか立ち入れない聖域。【牙】を欠いた者は立ち去るのが道理だ。ライゼルは勝ち残り、その場に留まる。

(俺が、勝ったんだ・・・俺の【牙】が)

 ベナードが言った次とは、もちろんエクウスの事を指している。逸る鼓動を深呼吸で抑えながら、ベナード越しに見えるエクウスを見やる。如何な経緯であれ同格と目されるベナードが負けたというのに、奥に控えるエクウスから焦りのようなものは一切窺えない。ライゼルは、エクウスよりもベナードが強敵と踏んで先に勝負を挑んだのだが、その読みが甘かったという事なのだろうか? 現時点で、相手の能力は未知数だ。

 ベナードが陣の外へ控えると、代わりに鞭を携えたエクウスが聖域の中へ進入してくる。

「ええ試合やった。ワイも一戦目やったら、負かされとったかもな」

 淡々とライゼルの実力を評するエクウスの言を言葉通りに取ると、一戦目だったら危うかった、だが二戦目の今はそうではない、という事になる。二戦目として挑む自分は、ライゼルに負けないと、エクウスはそう言っているようである。

「何戦目でも関係ないよ。俺はアンタに勝って、王都へ行くんだ」

 ライゼルは【牙】を取り直し、改めて陣の中央へ向かい、エクウスと相対する。ベナードによって端へ追い詰められていたライゼルは、陣の中心へ戻る合間に呼吸を整え終えている。ふうと息を吐き、これから試合う相手を正面に見据える。見つめる先のエクウスの身の丈は、ライゼルよりもずっと高く、その分手足も長く、間近で見るとその全身が視界の中には収まらない。その全身を見ようとするなら、上下に視線を移動させなければならない。それに、もし両手を広げれば、どこかが必ず死角になってしまいそうだと感じる。加えて、エクウスの【牙】と腕の長さ込みで見て、有効射程はライゼルの剣よりも長そうであり、苦戦を強いられそうだとライゼルは肌で感じている。少年が自身の背中に一筋の汗が走った事を自覚した時から、突如として発生した緊張感がこの場を支配し始めた。

 その二人の姿を、陣の外より座して見物するビアンとゾア。辛くもライゼルが勝利を収めた事に安堵したのも束の間、これまでのエクウスの活躍を知るビアンは気が気でない。相手は、【牙】の扱いに長ける名うての実力者だ。先のような僥倖が二度も続くとは、ビアンも楽観視していない。この二戦目が、真にライゼルの力が試される試金石となる。

「ビアン、ちったあ小僧を信じて落ち着かぬか」

 試合が始まってから、酷く忙しない様子のビアンに、ゾアが一言声を掛ける。

「そう仰いますがね、もしライゼルが負けて、王都へ連れていけないとなると、職務を全うできなかった自分は、閣下よりどんな処罰を下されるか」

 もし、そのような事になれば、昨日までのオライザへ連絡できなかった状況とは比較にならない程の重大事件となる。取り様によっては、王に対する反逆罪だ。

「ふん、この大一番を前にしてそんな下らん事を考えておったのか。なぁに、路頭に迷った時はウチで預かってやろう、安心せい」

「…感謝します」

 ビアンの懸案を笑い飛ばすゾアの視線は、真っ直ぐにライゼルに注がれている。実を言えば、その出で立ちから、最初から見所があるとは思っていた。幸運に助けられたとはいえ、終始ライゼルを圧倒していたベナード相手に逆転劇を演じて見せたのだ。オライザ組二強と目されるベナードを倒したとなれば、期待は余計に膨らむ。フロルを知るゾアだからこそ、ライゼルの【牙】に魅せられてしまうのだ。

「ベナードに競り勝ったのは見事の一言。だが、手の内を知られたエクウスを相手にどう出る?」

「お言葉ですが、ライゼルに策なんかありませんよ。例えあったとしても、小手先だけではエクウスは倒せない」

 ビアンが水を差す事さえ、ゾアにとっては心地よい。ビアンは、ライゼルとエクウスの両者を知りながら、そう言ったのだ。それは、客観的に見てもエクウスに分があるという事を意味している。だが、そうでなければ、この条件を飲ませた、言い換えれば試練を課した意味がない。

「経験も知恵もないなら、また生まれ持った才能に頼るか、それもよし。フロルの倅に課したのは、何よりも勝つ事だ。勝ちを手繰り寄せられるかどうか、見物(みもの)だわい」

 この勝負の前、諸々の取り決めが為される時、ライゼルとゾアの間であるやり取りがあった。

『小僧、儂を頷かせたくば、何よりも勝利し証を立てろ。儂が課すこの試練、見事に乗り越えて見せい』

『もちろん、勝って俺は強くなる、そんで、王都に行く』

 そもそも、二対一の勝負というのは、明らかにライゼルが不利な試合である。本来であれば、人数を合わせゾア一門の戦士を一人減らすのが筋だ。だが、敢えてそうはしなかった。

「前進する為に必要なものが何なのか。気付けぬままなら、『貴様ら』の負けだ」

 不敵な笑みを浮かべるゾアの視線の先では、第二試合目が始まろうとしている。

「それでは、両人、前へ」

 立会人に促され、ライゼル、エクウスは所定の位置に着く。こうして並ぶと、改めて身長差を思い知らされるライゼル。先日戦った大男ルク程ではないにしても、少年期のライゼルと比べるとその差は歴然。加えて、手にしている【牙】の特性を考えれば、陣によって仕切られた事も相まって、射程範囲の広さはエクウスに大きな優位性をもたらす。

「手心は加えへんで」

「いらないよ、俺も本気で行くから」

 両者が啖呵を切り合った所で、試合開始が告げられる。

「これより、始め!」

 合図と共に先んじたのはライゼルだった。ライゼルは試合開始より以前に、先手を打つ利点を見出していた。平素の考え足らずのライゼルにしては珍しく、エクウスの【牙】の特性を見抜いていたのだ。

 持ち手の柄に紐状の物を付けた鞭という武器。これは先端の紐を相手に打ち付けて攻撃するものだが、紐を振るうには遠心力を利用する為に一度反対方向に引かねばならない。そして現在、エクウスは鞭を構えていない。つまり予備動作にまだ入っていない。ライゼルはそこが付け入る隙と見た。

「先手必勝!」

 ライゼルの狙いは、なかなか合理的だった。鞭の攻撃範囲が広いとはいえ、その範囲内であっても至近距離の相手には有効打が繰り出せない。伸びきる際に先端に力が伝達するのが鞭の特性。このままエクウスの懐に入ってしまえば、エクウスと鞭の相性の良さを無視して、畳み掛ける事ができる。ライゼルの本能が、真向に立ち向かっては勝ち味が薄いと悟らせたのだ。

「もらった!」

 走り出しながら振りかぶっていた剣を、エクウス目掛けて振り下ろす。瞬く間に詰め寄り、縦一閃。

「見た目ほどドアホってワケでもないんやな。せやけど、それが通じるんは二流までや」

 ライゼルの意図に気付いたエクウスは、寸前の所で太刀筋を見極め、素早い身のこなしで一刀を避けて見せる。

「なんだよその口ぶり、アンタ一流なのかよ」

「その身でとくと味おうたらええがな」

避けたばかりでなく、ライゼルの右側面からその懐へ急接近、更にその鞭を用いてライゼルの首を締め上げる。利き手側に回られたライゼルは、その至近距離からの搦手に、剣での反撃が出来なかった。

「んぐぐっ」

 首に巻き付けられた鞭を、咄嗟に間へ挟んだ左手で外そうと試みるも、エクウスの締め上げる力が加えられていて、そう簡単に脱出できない。更に、エクウスが締め上げた紐の両端を身の丈一杯に天高く持ち上げるものだから、足の届かないライゼルは首を絞められたまま宙ぶらりんの状態になる。足をばたつかせても、決して地を蹴る事は出来ない。

「どうや、早よその【牙】を捨ててまえ。そしたら、もう終いにしたる。そんで、頭領の世話になって何年か修行せえ。間違いなく強うなるで」

(そしたら、ワイやベナードではどうしようも出来へん程の【牙】使いになれるやろな・・・)

 そう心中で想いを抱きながら、ライゼルに対し慈悲の言葉を掛けてはいるが、エクウスの両腕から力が抜ける事はない。宣言通り、手心を加えるつもりはエクウスには一切ないのだ。自らの勝利が確定するまで、手を抜く事はあり得ない。例え、この少年の行く末が楽しみであっても、ここでそれが大成される訳ではない。一旦、エクウスが引導を渡し、挫折を味わった先にこそ、真の成長があるとエクウスは見込んでいる。ライゼルが対戦前からエクウスを脅威と感じたように、ベナードとの試合を見てエクウスも、ライゼルの底力を認めていたのだ。

 が、そんな事はライゼルには関係ない。その理由では、ライゼルの原動力に制動を掛ける事は適わない。

「勝手なこと、ばっかり…言うな」

「勝手やないわ、ワレの為や。ワレ、けったいな連中から命狙われとるんやろ? ワイらに勝てへんのに、そいつらには勝てます、せやから行かしてくださいっちゅうんは、筋が通ってへんやろ?」

 ライゼルの不利には違いないが、エクウスもこれ以上どうしようもないのは事実である。誰もが知るように鞭は殺傷能力の高い武器ではない。人に痛みを与える事には向いているが、破壊力はほぼ皆無だ。これでは、ライゼルの幅広剣を破壊する事は適わない。であれば、エクウスの勝利条件は、ライゼルの降参、あるいはライゼルの気絶による【牙】の消失である。このまま締め上げ続ければ、ライゼルはその用意されたどちらかの敗北方法を選択せざるを得ない。時間の経過が、エクウスに勝利をもたらす事になる。

「勝てばいいんだろ、勝てば…」

「そうや。ワレがワイに勝てるんやったら何も文句はあらへん。頭領もきっと許してくれるやろ。せやけど、ワイらに勝てへん奴がぎゃあぎゃあ喚く資格はないんや。それがこの試合の決め事や」

 窮地に立たされる弟に対し、何の力にもなってあげられない事を、ベニューは物凄く悔やんだ。もしベニューが立会人の任を受けていなければ、何か助言ができたとも思う。例え、打開策を授けられなくても、声援を送り鼓舞する事は出来たかもしれない。少なくとも、ライゼルの味方でいてあげる事ができた。しかし、飽くまでそれは、もしもの話。今はライゼルを信じて、見守るしかない。

そうベニューが腹を括ったが、これまでにない窮地にビアンは居ても立っても居られない。

「頭領殿、どうかご慈悲をください」

「ならぬ。この条件を飲んだのは他でもない子倅だ。約束を違える事は罷りならん」

「そんな…」

 絶体絶命。この状況を指すに相応しい言葉は、まさしくそれだった。このまま試合に負ければ、ビアンは単身で報告の為に登城し、何故証人を連れて来なかったのか問われる事になるだろう。それを思うと、ビアンの胃はキリキリと痛む。

 だが、未だかつてない窮地に違いないが、八方ふさがりという訳でもなかった。ライゼル一行がゾアに認めさせるには、手はまだ残されていた。それを遠回しにゾアが助言する。

「ここは、戦士のみが立てる聖域。即ち、戦士(きばつかい)がおればいいのであろう?」

「いえ、私は【牙】を持っておりませんし」

 ビアンにはゾアが何を言わんとするのか察する事ができない。切羽詰まった状況になると、どうも思考が鈍くなってしまうのがビアンの悪い癖である。隣の青年は、何を言わんとするか察したが、敢えて助言せず黙したままだ。

「貴様は、あやつらより他に牙使いを知らぬのか?」

「まさか、頭領殿が二人目として参加していただけるのですか?」

 ビアンの頓珍漢な答えに、ゾアが指弾を見舞う。ビアンの頭より大きな掌だ、その指弾となれば常人の拳での殴打に匹敵する。強烈な痛みに耐えるビアンに、ゾアが一喝を喰らわす。

「たわけ。この試合に際し、儂に意見した愚か者がおったであろう?」

「そうか!」

 気付いたと同時に、隣に控えている青年の方へ振り返るビアン。視線を向けられたリュカは、静かにその期待をやんわりと否定する。

「それは有り得ません。僕はこの試合自体を止めさせたいのです。その後の裁定は、頭領殿の判断に従いますので、もう決着でよろしいのではないでしょうか?」

 そう苦々しく表情を歪めるリュカの視線の先には、首を絞められ、もがき苦しむライゼルの姿がある。

「何が良いというのだ?」

「とぼけないでください。どう見てもライゼル君に勝ち目はないでしょう? これ以上続ける理由がどこにありますか?」

 ゾアはリュカの発言を咎めるが、反対にリュカはゾアの態度を窘める。ライゼルはエクウスの鞭に捕らえられ、もう逆転の目はない。試合の続行は、苦しみを長引かせるだけでしかない。

「おい、リュカ。棄権などしたら、姉弟の王都への随伴が適わなくなるだろ?」

 ビアンもリュカの中断させたいという判断には反対意見を示す。が、それでもリュカの反駁は続く。

「いいじゃないですか、彼が傷付くよりよっぽどいい。エクウス殿、もう勝敗は決しました。ライゼル君を降ろしてあげてください」

「すんまへんが、ボン、それは聞けまへんのや。ワイもこの小童にまだ勝ったとは思っとらんのですわ」

 エクウスもリュカをないがしろにしている訳ではないが、それでも彼の話を聞き入れない。保護者であるビアンも、対戦者であるエクウスも、当主であるゾアも、誰もリュカの申し入れを聞き届けようとしない。

「皆さん、何をやっているんですか? ベニューさんも止めてください」

 そう訴えかけてもベニューもそれに応じようとせず、ただ相対する二人を直視し続ける。立会人として、決して目を逸らさず、その決着を見届けるという気位が見て取れる。

「無礼者。互いに信念を掛けた勝負の最中に、横槍を入れる者があるか」

「今すぐ止めさせてください。これ以上続ける事に何の意味もないはずです」

 リュカには、エクウスがライゼルをいたぶっているようにしか見えない。抵抗できない弱者を嬲っているようにしか映らない。エクウスがライゼルに見出した将来性の事など、リュカにとっては念頭にない。

「ライゼル君、降参するんだ。こんな無意味な試合に君が倒れる必要はない」

 外野が応じないのであれば、当人に訴えるしかない。リュカはライゼルに降参を勧める。しかし、ライゼルもそれに応じようとしない。

「…い、やだ」

「どうして? 何故そこまで意固地になるんだ?」

 リュカの必死の説得に対し、ライゼルのか細い声が反論する。

「…にげたら、みちがなくなる」

「えっ?」

「にげたら、だれも、まもれない」

 もう耐える事すら困難な状況なのに、声を出し自分の意志を示そうとするライゼル。呼吸もままならず、脳に酸素がほとんど届いていない。意識も朦朧としている。それでも、強がって見せ、己の信念を貫こうとする。その姿に、リュカは自分の行いを恥じた。

 思えば、リュカのこれまでの人生は、逃げる事の連続だった。大巨人と畏敬される父の嫡子として生まれ、いずれはその父の跡を継ぎ、オライザ一円の頭領を担う事を期待されていた。父と同じ【牙】にも恵まれ、将来を有望視されていた。

 しかし、その重すぎる期待は徐々にリュカを押し潰していった。幼少期から何もかもを父ゾアと比較され、その悉くがゾアに遠く及ばない。体格も比較的小柄で、性格も大人しく、組の精鋭を束ねるにはいささか頼りない。【牙】こそ有しているが、その力を自在に扱う事は適わないどころか、発現させた瞬間に気を失ってしまう貧弱さ。それ故に、周囲のリュカへの関心は次第に薄れ、リュカ自身も父から身を遠ざけるようになった。

 だが、今ライゼルの勇姿を目の当たりにして、思い出した事がある。周囲はゾアと比較し、及ばぬリュカに落胆したが、父自身はそのような態度を見せた事はなかった。逃げる事を詰りはしても、リュカ自身の素養に失望した事は一度もなかった。リュカが勝手に劣等感を覚え、逃げ出していただけなのだ。受け継いだはずの【牙】を頼みとする事が出来なかったからと言って、次の新たな道と見出したものを無理やり周囲に押し付け、あまつさえ高みを目指し邁進する者達の足を引っ張っている。

(そうか、ただ僕が立ち向かっていかなかっただけなんだ)

 リュカの制止も空しく、勝負は決着を迎えようとしていた。時間が経つに連れ、いよいよライゼルの抵抗が弱々しくなってくる。もがきながら蹴りを食らわせていた両足も、今ではほとんど静止している。

「いつまでぶら下がっとんねん。早う落ちてまえ」

 ライゼルの全体重を二本の腕で支え続ける事に疲労を感じてきたエクウスは、とどめと言わんばかりにもう一段階鞭を手繰り寄せ、一気に締めに掛かる。持ち手からの距離が短くなった分、エクウスの力は直接的に伝達される。

 ライゼルも飽くまで負けを認めず、【牙】を放せない右手の代わりに、左手一本で抵抗する。

「ぐっ、ぅう・・・」

 が、しかし、ライゼルの必死の抵抗もここまでだった。強張っていた体から力が抜け、握り締めていた剣も取りこぼす。幅広剣は床に着地した瞬間、ライゼルの意識同様に霧散する。

「…ライゼル君?」

 リュカが窺うように声を掛けるが返事はない。ライゼルは既に気を失っているのだ。気を失うまで戦い続けた勇猛な戦士。だが、結果は少年の執念に報いず、勝利を少年に授けない。その場に残り、立ち続けたのは、

「ライゼルの戦意喪失を確認。よって勝者、エクウス!」

 ベニューは気丈に振る舞いながら、弟の敗北を宣告した。ライゼルの気絶により勝負は決着した。ライゼルは、試合に勝てなかったのだ。

 激闘が終わり、道場の雰囲気はがらりと変わる。取り決めた通りに試合を行い、結果が出たというのに、誰の顔にも納得のいった様子が見受けられない。旅の一行はもちろん、オライザ組にも。

 それでも、勝敗が決した事に変わりはない。ゾアは試合を総括し、この場を閉じようとする。

「稀に見る見事な戦いぶりであった。エクウス、子倅を床の間へ抱えて行ってやれ。二代目も付き添うといい」

「待ってください!」

 ゾアがそう指示して、各人がそれに従おうとした時だった。リュカが、エクウスとベニューを引き留めた。

「エクウス殿もベニューさんもその場にいてください。彼はビアンさんにお願いします」

 試合中のみならず、試合が決しても尚頭領であるゾアに盾突くリュカ。ゾアの憎悪さえ含んでいそうな睨みがリュカを射殺す。

「最後までこの試合を汚そうとするのか。二人を残して何をするつもりだ、リュカよ?」

「試合です。ライゼル君側の二番手は、僕が務めます」

 倒れたライゼルに代わり、試合を買って出るリュカ。これまで戦う事から逃げてきたリュカであったが、ここで背を向ける事は出来なかった。そんな事をすれば、自分を自分で許せない。己を高め続けるライゼルに散々制動を掛けさせるような物言いをしてしまった。もしも適うなら、その償いがしたいとリュカは願う。その為の手段が、ライゼルの望む結果を彼に与える事。自らが背を向けてきたやり方で、それを遂げようと思うのだ。

「それを儂が許すとでも?」

 肉親であるリュカでさえたじろいでしまう程の凄みが、ゾアにはある。あと数年で還暦を迎えるようには思えない精力である。しかし、意を決した今、こんな所で怯んでいられないリュカなのである。

「五分の口が利けないのは、戦う意志のない臆病者だけです。僕にはこの【牙】があります」

「…ふん、言うだけなら易いがな。どうだエクウス、この申し出受けるか?」

 ゾアが水を受けると、エクウスは改めて所定の位置に着く。こうなる事を予見していたのか、まだ【牙】は仕舞わずにいる。維持するだけでも相応の体力を消費する訳だが、その手には戦う意志がまだ残っている。つまり、多少の不利を負ってでも、試合継続をエクウスも望んでいたのだ。

「へい。小僧を倒したのはほとんどベナードの手柄みたいなもんですわ。ワイも頭領の前でカッコつけとうございます」

 もしライゼルが一戦目でのムスヒアニマの継ぎ足しをしていなければ、まだ体力は残っていただろうし、ライゼルに疲労のない状態であれば、そもそも初撃の縦一閃も回避できたかどうか。エクウスは口にこそしないが、そう捉えている。この勝利に満足するには、エクウスは矜持を捨て去らなければならない。エクウスにそんな事はできなかった。

「…相分かった。二代目、そういう事だ」

 ベニューもその決定に首肯で応じる。まだ僅かにでも可能性が与えられるというのなら、ベニューとしても願ってもない展開だ。ここでライゼルの夢が潰えるのは忍びない。

「はい、それでは両者、次の試合の用意をお願いします」

 ベニューに促され、両者は次の試合に備える。エクウスは絞め落としたライゼルをビアンに引き渡す。

「気ぃ失っとるだけや。横に寝かせとったらその内起きるやろ」

「一切手加減しない辺り、エクウスらしいな」

 ライゼルを預かりながら、ビアンはエクウスの強さを称える。今回に限ってはお目溢しをもらいたかった所だが、エクウスの容赦ない強さは、オライザに身を置く者としてはこれ程頼りになるものはない。

 ただ、ビアンは軽口のつもりだったが、エクウスはそうは受け取らなかった。

「アホ言いないなや。このわっぱの一発目、あれを避けられるんはオライザにもそうおらへん。一戦目を見てへんかったら・・・」

 そこまで言い掛けて、急に言葉を噤むエクウスは、ビアンの後方へ視線を向けている。その自身を通り過ぎる視線をビアンが辿ると、そこには陣の外へ控えたベナードがいる。

「それ以上勝手は言わさへんぞ、エクウス」

 どうやら、遠目から凄むベナードの双眸が、ベナードの言葉を遮らせたようだ。確かに、エクウスがそれから先を紡がずとも、言わんとしている事は察する事ができる。先程ライゼル本人に伝えた通りの事なのだろう、自分も一戦目であれば、結果は分からなかった、と。だが、それをベナードは許さない。エクウスのその言葉は、先に戦う事になったベナードに対し、気遣っているようにも受け取れる。それは、見方によっては見下されているようにも受け取れるのだ。少なくともベナードはそう感じた。ベナードは役目を終え退かなければならないのに対して、ベナードは【牙】をその手にした状態で、連戦を務める。勝敗が、同格の戦士の処遇を分けたのだ。

 ベナードは、自分と共にオライザ二強に並び称されるエクウスを、飽くまで競うべき好敵手として見ている。エクウスから先のような下に見られる扱いを受けては、ベナードの矜持がひどく傷付けられてしまう。

「・・・せやな。まぁ、ワイがボンをのしたら続きを聞かせたるわ。覚悟しとけやベナード」

 ベナードからこうもあからさまに噛み付かれては、エクウスもつい言い返してしまう。これから戦うリュカを余所に、身内同士で火花を散らし合うエクウスとベナード。この競争意識がオライザの戦士を育てる要因なのかもしれないが、お互いに敵意を剥き出し合う二人がこのまま加熱してしまう事を懸念したゾアは、ベナードに退場を命じる。

「ベナード、貴様が小僧を連れていってやれ。ビアンにはこの試合を見届けてもらうでな」

「・・・へい」

 エクウスから目を逸らさないままそう返事をし、ビアンから意識を失っているライゼルをぞんざいな扱いで受け取る。自分と然程大差ない体格のライゼルを肩に担ぎ、道場を去っていくベナードの背中からは、この上ない不機嫌な様子が窺えた。これから控える試合を妨げない為のゾアの処置だった訳だが、敗北を喫してしまったベナードにとっては、挽回する機会もなく歯噛みする思いに違いない。この覆らない結果を受け止め、自身を下したライゼルの傍らに居続けなければならないというのは皮肉なものと言えるかもしれない。

「待たせてもうてすんまへん」

 物腰こそは頭領の子息相手という事で幾分柔らかくなるが、それでも先程まで好敵手であるベナードに向けられていた敵意は衰える事なく、そのままの状態でリュカに向けられる。ライゼル相手に本気で挑んだのと同様に、リュカ相手にも手心を加えるつもりは更々ない。

その迸る戦意を正面に受け止めつつ、リュカは戦う『資格(きば)』の準備をする。

「ありがとうございます、エクウス殿。僕の我侭に付き合っていただいて」

 リュカは手に霊気を集中させながら、エクウスに礼を述べる。言われたエクウスは、戦意を維持しつつ努めて冷静に応じる。

「頭領はあないな風にしか言えまへん。せやけど、誰が何と言おうと、跡目はリュカ坊しかおらんのですわ。ボンの本領、今ここで確かめさせてもらいます」

 元々表情が豊かでないエクウスの面長の顔に、更に険しさが宿る。相手がライゼルだろうとリュカであろうと全力で相手する事に変わりはない。彼もオライザ組の看板を背負ってここに立っている。譲れないものがあるのはエクウスも同じ。

 それを察したリュカは、覚悟を決め、星脈を全開に循環させる。リュカの全身を駆け巡ったムスヒアニマは、固有の性質へと変化し、エクウス相手に立ち向かう為に欲する、リュカの望む【牙】へと姿を変える。大地から吸い上げられる霊気は、ゾアにより破格と評されるライゼルにこそ及ばないが、周囲からの頼りないという評価を大きく裏切る膨大な量だ。その意外な素養に、その場に居合わせた者は皆息を吞む。驚かされたのは父であるゾアも、だ。

「ふん、出し惜しみしおってからに・・・」

「これが、あのリュカの【牙】・・・?」

 ここ数年を共にしてきたビアンさえも知らぬ、リュカが現界させたその【牙】を見た途端、相対するエクウスは感嘆の声を漏らす。

「・・・なんや、頭領の【牙】見とるようや」

 先程までほとんど感情を見せなかったエクウスが、初めて動揺の色を見せる。驚きの余り、笑みさえ溢してしまった。頬の筋肉が弛緩し、思わず口角が上がる。何故なら、リュカの発現した【牙】が、ゾアの【牙】と非常に酷似したものだったからである。

 リュカの身の丈程の大きな槌。長い棒を米俵に刺したかのような人間並みの重量を誇る武器。標的を叩き潰す事に特化した打撃系最高威力の大槌がリュカの【牙】だ。ゾアのそれとの唯一の違いは、打ち付ける平面が片側しかなく、もう一方は二股の爪となっている点のみ。ゾアの【牙】を知る者から見れば、それはかの大巨人を彷彿とさせるのだ。

 以前のリュカは、ゾアの【牙】を意識する余りに自分本来の【牙】の設計図を思い描けなかったが、惑う心を振り払い、ついに自らだけの【牙】を現界させる事に成功した。ゾアの血筋を感じさせながら、飽くまでリュカ個人の精神が反映させられた固有の【牙】。これと今からやり合えるのだと思うと、元より全力で臨むつもりだが、俄かに心が滾るのをベナードは感じざるを得ない。

(これや・・・これが見たかったんや。先鋒を張ってくれたベナードには感謝せなアカンな・・・!)

 そして、両者の準備が整ったところで、ベニューは最後の試合の幕開けを告げる。

「それでは、始め!」

 先の二試合と違い、開始の合図が告げられても両者は動かない。エクウスも、誰も味わった事のないリュカの【牙】に気が流行るのを覚えているが、そこは冷静に相手の挙動を見極める。

お互い勝手知ったる仲であり、それぞれの武器の特性は形状から察している。エクウスの鞭は撓りを利用した中距離の攻撃を得意とし、リュカの大槌は慣性を利用した近距離の攻撃を得意とする。有効射程に差異こそあれど、お互い攻撃の始動が予備動作で察知される為に、読み合いの勝負となる。

 初速の素早さは、エクウスに分がある。それを承知しているエクウスは、牽制の為に頭部を狙って一発鞭を振るう。リュカは、上体を仰け反らせるだけでそれを回避し、同時に振りかぶる動作を始める。鞭が伸びきった状態という事は、一旦それを手元まで引き寄せ構え直さなければ、次の攻撃に転じる事は出来ない。いくらエクウスが鞭の扱いに長けているとは言え、その道理は覆せない。この間に、リュカが攻撃に転ずる好機がある。

「はぁッ!」

 リュカの攻撃目標は、エクウスの利き手である右腕。鞭を握れなくなれば、所有者からのムスヒアニマの供給が途絶え、【牙】はその形状を維持できなくなる。勝つ為には非情に徹しなければならないのだと覚悟する。

 振りかぶるリュカは、しっかとエクウスを有効射程に捉えた。例え、ここでどちらかの方向に回避されたとしても、リュカは大槌の頭を押し込む追撃が十分に可能であるし、反対にエクウスは予備動作を必要とし即座に反攻に出られない。あと二発の間、リュカは優勢を維持できるはず。

 衝突の瞬間、エクウスは身を翻し、寸でのところで側面に逃げる。初撃はエクウスを捉えられず、床を強烈に打ち付ける。振り下ろす時の風圧も、間近で感じるとなると恐ろしく、その振動から、その身に受ければどれ程の衝撃を味わう事になるのか見て取れる。リュカの【牙】の威力は、エクウスのそれと比べて桁違いに凄まじい。この一撃を以って、既に次期頭領の資質を証明したといっても過言ではない。

「てい!」

 床を叩いた反動で大槌の頭は床から瞬間的に浮き上がる。その浮き上がった力を利用して、槌を両手で突き出し、エクウスに突進を見舞う。これを回避する事はエクウスもままならず、初めて攻撃が当たった。

「お見事でんな。これは避けられへん」

 腹部にその一撃を喰らったエクウスだったが、槌の頭を脇に抱え込み、リュカの槌捌きを制限する事に成功した。しかも、鞭は次の構えに移っていた。

「ボン、詰めが甘うございます」

 すかさず放った鞭は、リュカの左足首に巻き付く。先端を巻き付かせたままエクウスが鞭を後方に引っ張ると、リュカは体勢を崩され、背中を床に打ち付ける。

「しまった」

 倒れた時の衝撃で、リュカの手から【牙】が離れてしまった。その瞬間をエクウスは見逃さなかった。

「ワイがボンに勝とう思たら、これくらいしか方法がないんですわ!」

 落ち着き払った雰囲気でありながらも、その声には物凄い力を込めている事が分かる。リュカが得物を取りこぼしたのを確認しすぐさましゃがみ込んだエクウスは、リュカの身の丈程の大槌を場外へ投げ飛ばそうとしているのだ。【牙】が聖域から離れたとなれば、戦う資格を失った事になる。即ち、雌雄を決する事なく、リュカは敗北を突き付けられる事となる。これは、ゾア譲りの重撃を喰らわすリュカ相手に正攻法では危ういと判断したエクウスが考え付いた必勝法だ。

 エクウスが槌の頭を抱え投げ飛ばそうとするのを、咄嗟に伸ばした足で柄を踏みつけ妨害する。

「エクウス殿らしくない戦い方ではありませんか」

「ようやっとボンと本気で試合える、こない嬉しい事はないんです。せやけど、ワイは今オライザ組の看板背負って聖域におる。ワイは何があっても負けるワケにはいかんのです!」

「それは、僕だって!」

 エクウスの足元に仰向けで倒れているリュカは、足の親指と人差し指の又で柄を挟み、投げ飛ばさせまいとエクウスの狙いを阻止する。決して力の込め易い姿勢でもなければ、両腕相手には足の指の握力も無力に等しく、とんだ悪あがきだ。しかし、リュカには簡単に諦められない理由がある。

「この試合は、ライゼル君が望んだ試合。ならば、代わりにここに立つ僕はライゼルだ」

「敗北を目前にとち狂ったか、莫迦息子よ」

 リュカがこの試合に臨むのは、何も父親への反抗心からの行動ではない。リュカは昨日今日とライゼルの在り方を見た。目標の為に鍛練を怠らず、どんな相手に対しても怖気づかない。そして、どんな逆境にあっても、最後まで諦めない不屈の精神。

 ライゼルが挑んだエクウスとの試合はほぼ勝ち目がなかった。それなのに、気を失うまで勝負を投げ出さず抗い続けた。その姿に、リュカは自分が目指すべき人物像を見出した。

初めて抱いた印象通り、ライゼルはリュカと全然違った。似通った所はあまりにもなさすぎた。自分は逃げ続ける日々だったのだから、肩を並べようとする事すらおこがましい。いつかは頭領を継ぎたいと思いながらも、自信が持てないからと他の道へ逃げようとした自分は、ライゼルと同じ土俵にすら立てていない。

 だが、だからといって、また下を向くのは間違っている。もうライゼルのような生き方を知らぬリュカではない。新しい生き方を見つけ、遥か彼方の目指すべき自身へと歩み出したリュカなのだ。

「ライゼル君なら、こんな逆境でも諦めない!」

 槌の柄を挟む指に、ぐんと力が込められる。まるで、【牙】がリュカの体の一部だったかと錯覚するほどに、リュカの足と柄は一体化する。これでは、大槌を投げ飛ばそうと考えていたエクウスの思惑が破綻する。エクウスが大槌を聖域の外へ出すには、リュカごと投げ飛ばさねばならない。

「往生際が悪いでんな」

「ライゼル君ならきっとこうするはず!」

 立会人のベニューも、目の前にいるのが自分達の世話をしてくれた親切な青年だとは思えなかった。この不格好で無様で見苦しく、最高に熱い心で戦う様は、まるで弟のライゼルのように見えた。

 必死の抵抗にビクともしない事を悟ったエクウスは、鞭による大槌への直接攻撃へ移行する。

「移動せぇへんなら、ジッとしとき。こんまま、【牙】を絞り切ったりますわ!」

 華麗な鞭捌きで、大槌の頭から柄の部分までを見事に覆い尽すように縛り上げる。等間隔に巻き目があり、大槌の全ての箇所が、エクウスのムスヒアニマの干渉受ける事になる。エクウスは、リュカとの(精神)力比べに出たのだ。

「ボンの執念深さに根負けしましたわ。せやから、最後の策を出させてもらいます!」

 手にしている鞭へ、己が持つ霊気を全て注入する。ライゼル程の膨大な量ではなく絞り粕程度のそれだが、注がれるムスヒアニマは確実にエクウスの【牙】を強化している。青白い光が鞭を伝って大槌へ及び、そして徐々に大槌全体を包み込んでいく。エクウスが槌の頭を放したのを確認したリュカも、体勢を変え、柄を両手で握り直す。

 先に力比べを仕掛けたエクウスのムスヒアニマが、大槌への干渉を、侵略を開始する。【牙】を形作るのは精神の力。一般的に【牙】同士の衝突で勝負を分けるのは、どちらがより強力なムスヒアニマを【牙】に注入できるかに掛かってくる。地殻に内在するムスヒアニマの性質は全て同質だが、各牙使いの星脈に含まれた段階で、固有のムスヒアニマとなる。そして、牙使いの支配下に置かれたムスヒアニマは、所有者が望む【牙】へと姿を変える。この現界した時点で、おおよそ【牙】の優劣というものは決まっている。

 が、事はそれほど単純ではない。これが純粋な殺し合いであれば、勝負を決するのは実力である。生まれ持った星脈という素養と、鍛練という努力の相乗によって高められる実力。だが、今回の根競べの場合、鍛練の成果は僅かにしか作用しない。星脈の過剰行使に慣れていれば、十全に能力を発揮できるという程度だ。もし鍛練だけで勝負の趨勢が決まるというなら、エクウスはとっくに勝利している。

 だが、この力比べは【牙】の本質を問いている。【牙】とは己が精神によって生み出される歯向かう力。より勝利を欲さんとする者が、強力な【牙】を以って相手を下せるのである。素養ではリュカに軍配が上がり、修練による扱いの面ではエクウスが秀でているが、この激しい衝突の前では、それは些末な事。素養も修練も、貪欲な執念によって覆される。

 ただ、【牙】を競おうにも、リュカにはその能力を最大限に発揮できるだけの基礎体力がない。素養こそはゾアから譲り受けた優秀なものを持つが、高次の戦いに身を置くには【牙】に対する慣れがない。これまでほとんど【牙】を発現させたことのないリュカは、不慣れな戦闘の為に消耗が激しい。このままでは【牙】の耐久性云々以前に力尽きてしまう。そうなると、リュカに勝ち目はない。これまで【牙】と向き合ってこなかったリュカでは、逆立ちしたってその理屈は覆せないのだ。

ならば、どうすべきか? 答えは簡単、技の競い合いを放棄したエクウスとは逆に、早期決着に方向転換し、エクウスに有利な勝負に乗らなければいいのだ。リュカは、鞭を巻き付けられた大槌を担ぎ上げ、エクウスの体ごと振り払う。鞭を巻き付けた事で回避運動の取れないエクウスを、諸共に場外へ吹き飛ばそうというのだ。

「なんちゅう荒業でっか!?」

 残る左腕でリュカの一撃を防御したエクウスは、後方に吹き飛ばされる。が、霊気干渉を受け乖離を始めている大槌では十分な破壊力を発揮しなかった。これがゾア程の使い手であれば、一撃で陣の外へ打ち飛ばしていただろうが、エクウスの鞭を握る右腕は、それをしっかり掴んで離さない。

「まだまだァーーー!」

「離れるまで何度だって!」

 数歩下がったリュカは、今度は助走を付け、大きく横薙ぎに振り切る。例え、分解し掛けている【牙】とは言え、殴打されればそれ相応の衝撃を受ける。もちろん、鞭をほどき回避するという手段がエクウスにはあるが、そうなれば結局勝ち筋を失ってしまう。エクウスには、このまま大槌が霧散するまでムスヒアニマでの干渉を続けるしかない。殴打を受ける毎に意識が飛びかけるのを精神力でなんとか堪える。

「結局はお互いの我を通すんが、オライザ者ですわな」

「そうです、エクウス殿が倒れるまで何度でも打ち続けるのみです」

 大槌での全力振りを喰らう度に、エクウスは意識と握力を失いそうになるが、刻一刻とリュカの大槌も崩壊を進めている。もうどちらも決定打を打ち込めない泥仕合。

しかし、勝敗を決するのにもう然程時間を必要としない。その時は、もうすぐそこまで迫っていた。何度も打ち飛ばされ、一歩また一歩と徐々に後退させられたエクウスは、一歩も下がれない状況にある。それと同様に、大槌もリュカの微かな霊気によって、辛うじて現界し続ける危うい状態。二人に残された時間は、あと僅か。

「往生しぃや!」

「勝たせてもらいます!」

 エクウスの最後に振り絞ったムスヒアニマが大槌目掛けて放出され、同時にリュカの全力を込めた一撃がエクウスに打ち込まれる。が、激突の瞬間、リュカの大槌は青白い光へと昇華し、その形を損なった。

「—――しまった!?」

 エクウスも絞り切る対象を失い、ぶつけられた衝撃を抑えきれず、その身を場外へ吹き飛ばされてしまった。

「—――アカン!」

 二人が同時に勝ち目を逸した瞬間、試合の終わりがベニューによって告げられる。

「それまで!」

 聖域に残ったものの【牙】を失ったリュカと、【牙】を駆使し続けたものの聖域に留まれなかったエクウス。

「頭領殿。この場合はどうなるのでしょう?」

 予想外の結末に、事態を飲み込めず困惑するビアン。対照的に、やや満足したような、安堵したような面持ちのゾアは、深く息を吐き、しばらくビアンの問いには答えない。それに答えを出すのは、ゾアではない。

「・・・この試合の審判を下すのは、儂ではない。二代目フロルじゃろうて」

 それを聞いて、ビアンはゆっくりとベニューに視線を送る。その視線の先の少女は、高らかに宣言する。

「この勝負、両者資格喪失により、引き分けとします」

「引き分け…?」

 未だに闘志の衰えない二人の戦士を余所に、外野のビアンが情けない声を漏らす。ビアンの呟きは、結局どういう処遇になるのかを問うているのだが、誰も答えず、ただ戦士達の荒い呼吸だけが道場に響く。

 引き分けるという形で一旦の結末を見せたが、両者はそれぞれ飲ませたい条件があって試合ったのだ。その裁きが下されない限り、資格を失ったとしても闘志までは失えない。事と次第によっては、未だ一戦交える覚悟である。

 こうなってしまうと、これに答えが出せるとしたら、それはこの試合を申し付けたゾアのみであろう。

「そうさな、引き分けという結果は儂も予想だにせんかったわ。だからといって、このまま答えを出さぬ訳にはいかんのだが…」

 そこまで言って、視線をリュカに向ける。リュカも、父であり頭領であるゾアに注視され、どんな顔をして、正確に言えば息子と役人のどちらの自分で接すればいいのか判断に悩む。

「とう…」

「『オライザ組頭領』リュカ、貴様はこの試合にどう審判を下す?」

 ゾアがリュカをそう呼び、それを目の当たりにするここに居合わせる皆が、度肝を抜かれた。その呼称をリュカに対して用いたという事は、ほとんど自ら、裁定を示したようなものである。現時刻を以って、リュカを一家の当主と認め、その新当主の判断に委ねると言ったのと同義であるのだから。

 まだ整わぬ呼吸のまま、その宣言を突き付けられたリュカであったが、妙な興奮を覚えたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。【牙】を喪失させられるまでに星脈を酷使したのだ、疲労感は半端ではない。が、それでもこれをしっかりと述べる責任が、今のリュカにはある。現時点より新たな肩書を背負う事になったリュカには。

「この試合、確かに引き分けました。しかし、細かく見れば、一人だけ純粋な勝利を収めた者がいます。その唯一の勝者であるライゼルの主張を受け入れ、彼らの王都への出立を許可します」

 深い呼吸の中、新たな頭領リュカにより、宣言が為された。今は床の間で休んでいるライゼルが聞いたら、大喜びしたに違いない。

「相分かった。では、彼奴らの支度を…」

 言い掛けて俯き、漏れる声を殺し、黙した。ゾアの目尻には、微かに光る物がある。それが先に続く言葉を遮ったのだ。

「頭領殿?」

 ビアンがゾアの顔色を窺おうとするが、その野暮な役人にリュカが一喝を入れる。

「ビアン殿、頭領は僕です」

「リュカ…頭領」

 気圧され、思わずそう呼んでしまう。つい今朝方まで自分の後輩として共に国に従事していた青年が、この試合を境に集落の長となったのだ。最も両者を知るビアンは、突然の事に一番この事態を飲み込めていない。

「エクウス殿、試合を終えて休む間もなくではありますが、彼らの支度を手配してあげてください」

「へい、リュカ頭領」

 そう返事を返して、どこか満ち足りた様子で【牙】を収め、武道場を後にするエクウス。

「ありがたい。雑務が手付かずでな」

 エクウスの後を追い、ビアンもこの場から姿を消す。ようやく心配事から解放されたのだ、その足取りは幾分軽い。

「ベニューさん、立会人を引き受けて下さり、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ寛大な計らい、痛み入ります」

 リュカがベニューを労い、ベニューもリュカが取り計らった事への感謝を示す。

「事の次第をライゼル君にも伝えたい。先に様子を見て来てくれますか?」

「はい。それでは、お先に失礼します」

 ベニューは、ゾアとリュカに頭を下げると、足早に退出し、ライゼルが休む床の間へ向かった。

 武道場に残ったゾアとリュカ。二人の親子のみ。頭領を退いたゾアと、家督を継承したリュカと。

「リュカよ」

「はい、父上」

 ゾアをそう呼ぶのは久方振りのように思えた。ただそれだけで込み上げてくるものがある。

「勘違いするでないぞ。貴様は戦士としてようやく五分の口が利けるだけで、まだまだ儂と肩を並べられた訳ではない。これまで回り道をしてきた分、貴様を認めぬ者も少なくないだろう。貴様の覚悟が真に問われるのは、これからぞ?」

 そう念を押されるが、これまでの生涯でリュカはずっとゾアの嫡子という事実と向き合ってきた。その上で、他の誰でもない自分自身の【牙】を頼みとする事が出来たリュカは、きっとこれから先の苦難にもぶつかっていける。

「心得ております。そして、私にはこれまでの遠回りの期間に見聞きした事があり、それを今後の運営で試したく存じます。それには父上の協力と教授を願いますが、よろしいでしょうか?」

 その答えに満足し、ゾアは大きく頷く。

「うむ。貴様には手解きせねばならん事が山ほどあるでな・・・よし、下がってよい。フロルの倅の所へ行ってやれ」

「はい、失礼します」

 実を言えば、ゾアは最初からライゼル達の出立を許すつもりでいた。結果はどうであれ、その真向に立ち向かう姿を認めたならば、快く送り出してやろうと。故フロルもゾアの庇護を断り、結局は王都へ上っていったのだ、おそらく同じ道を辿る事になるだろうというのは予想がついていた。

 しかし、リュカが予想外にも父であるゾアに異を唱えてきた。ゾアの目から見て、頭領を継ぐ意思があるのかどうか分からなかった意志薄弱なリュカが。これを受けて、一つ試してみたくなった。これまで争い事を避けてきたリュカが、フロルの忘れ形見であるライゼルからどのような影響を受け、どのような一歩を踏み出すのかと。

 ゾアの目論見は、ほとんどゾアが望んだように事が運んだ。フロルの忘れ形見の成長を見届け、自身の後継者の素質を見定めた。ゾアにもう思い残す事はない。これからは若い彼らの時代であると、そう確信している。

「時代は常に移ろいゆくものよな、フロル」

 誰もいなくなった道場で、大巨人はそう呟く。ふと、道場の外へ目を向ければ、庭の木の花が笑ったような気がした。

 

 ベナードと廊下ですれ違い、目的の床の前赴くと、リュカは大きな声を以って迎えられた。

「リュカ!」

 床の間へリュカが赴いた時には、ライゼルは意識を取り戻しており、その表情には笑みが零れている。

「具合はどうですか? ・・・いや、訊くまでもなさそうだね」

「おう、すっごい元気。そんな事より、リュカが代わりに戦ってくれて、しかも、俺達王都に行けるようにしてくれたんでしょ? ありがとう、リュカ」

 ベニューより伝え聞いたのだろう。というよりは、ベニューの姿を見て、頭領の裁量が気になったライゼルが問い詰めたというところか。先程まで気絶していたとは思えない程、ライゼルは元気だった。

「ううん、僕じゃない。君が諦めなかったからだよ、ライゼル」

 そう返されて、きょとんとした表情でリュカの顔を見つめるライゼル。余りにもライゼルの視線が捉えて離さないもので、リュカにはその理由が見当たらない。何が彼の注目を向けさせているのか?

「どうかした? まだぼーっとするかい?」

 リュカが意識を確認すると、ライゼルは呆けた表情のまま、首を横に振る。

「そうじゃなくて。なんか、リュカ、大巨人みたい」

 そうぽつりと呟く。ライゼルは感じたままの事を、吟味せず口にしただけ。ただ、それは、リュカにとっては最高の褒め言葉である。自分が奮起するきっかけを与えてくれた人物からの賛辞。弛まぬ努力を続け、勝利を諦めない少年から見たリュカは、いつの間にか親の名前に負けない一人前の男に成長していたのだ。

「うん。父上に負けないよう、これから一層気を引き締めていくよ。もちろん君にもね、ライゼル」

 それがどういう意味を込められていたのかは、ライゼルは知らない。ライゼルの代わりに試合を引き受けたリュカの、そのライゼルへの憧憬の念を。だが、知らずともよい。知らずとも、リュカの宣言はライゼルを熱く滾らせる。

「俺も負けない。リュカにも、ゾア頭領にも。ベナードやエクウスにだって、今度は負けない」

 

 試合開始頃には天辺に昇っていた日も、昼下がりとなり西に向かい始めていた。すぐ出立すれば、今日の内にミールに辿り着ける。ビアンとエクウスが二人掛かり支度をしているので、もうじき準備も整うだろう。

 屋敷から少し離れた納屋の前では、ビアンとエクウスが駆動車に必要なものを積載している最中であり、そこへライゼルの介抱から解放されたベナードがやって来る。

「エクウス、あんだけフカシときながら、何が引き分けやねん」

「じゃかしいわい。ワレやったら一発もろただけでポッキリや。ええからワレも手伝わんかい」

 ベナードとエクウスによる罵り合いも、いつも程にキレがない。互いに口ではそう言っているが、今回の一件に関しては納得がいっているのだ。

「二人は良かったのか、リュカが新頭領を継いで?」

 荷を積みながら、ビアンがそう尋ねると、先に答えたのはベナードだった。

「はっ、アホ言うなや。元々、ワイら二人は余所者や、器やない。そもそも、リュカ坊が組の事を思うとるんは、立場は違うてもずっと見てたんや。何も文句はあらへん」

 それに同意するようにエクウスも頷く。

「せやな。それに、ボンの覚悟はしっかと見せてもろた。後はあの方についていくだけや」

 あの頼りなかったリュカが、二強に認められているのが、まるで自分の事のように嬉しいビアン。リュカが自分なりに頭領の器を身に付けようとしているのを、傍に居たビアンはもちろんだが、ベナードとエクウスも知っていたというのが、同僚の事ながら誇らしい。そして、それと同時に寂しくも思うのだ。

「そうか。ただ惜しむらくは、しばらくはリュカの新頭領振りを拝めないという事だな」

 ビアンの軽口に、オライザの実力者二人は、不敵な笑みを浮かべる。

「なんや、せやったらワイらから新頭領に言うたろか、ビアンをオライザに留めてくれって。な、エクウス」

「せやせや。なんやったら、現場仕事もビアンを呼ぶよう頼んでやるさかい」

「・・・冗談だ、勘弁してくれ」

 

 この日、一人の青年が社会的猶予期間を終え、立派な大人となった。奇しくも、そのきっかけをもたらしたのは、一人の夢見る少年だったという事は、あまり知られていない話だ。

 これからオライザは新しい頭領を迎え、これまで以上に大きくなっていく。新頭領リュカが、大巨人の再来と呼ばれるのは、また別の話である。

 

 

 

To be continued・・・

 

 



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第5話

 例えば、ビアンは偏食家という性質を持ち合わせていない。

ビアンの出身地コトンは、綿の名産地である。この国においてほぼ唯一衣服の元となる綿の需要は大きく、かなりの出荷数を誇るコトンの村。田舎町ではあるが、経済的にはそれなりに裕福と言える。

 綿の生産によって大量の銀貨がもたらされ、その銀貨でコトンの人々は余所の地方の食材を求める事が出来た。ボーネの豆、オライザの米、その気になればヴェネーシアの貴重な塩だって取り寄せる事が出来た。その土地で生産せずとも、食材はいくらでも用意できたのだ。いくら綿が取れたとしても、その綿を食べて生きていく事は出来ず、綿は仕事の種でしかない。だから、積極的に外との流通を行う。その結果、コトン出身者は、余所の地方の食文化にも馴染みがある。

 しかし、フィオーレ村出身の姉弟がそうであるとは限らなかった。花の村として有名なフィオーレも根本的にはコトンと変わらない。花を育てて出荷する。が、フィオーレ村の多くの人達は、その傍らで野菜作りもしており、自給自足によって生活している。つまり、その土地でできた物を、自分達で消費する。地産地消が主であり、他に食を求めない。フィオーレの土地で作られる限られた食材で、彼らの食生活は成り立っている。

 すぐ隣にボーネ村があったのも原因の一つかもしれない。ボーネでは、三大穀物である米、小麦、玉蜀黍に次ぐ代表的な食物である豆が豊富に獲れた。遠くの地へ求めずとも、食うに困らない分は近場で用意できたという訳だ。その為に、他の地方で作られる食材を知る機会に恵まれなかったのだ。

 その一例として、ライゼルは玉蜀黍を初めて見たと話す。ベニューも染料としては触れた事があったが、食材としてそれが香ばしく焼かれているのを初めて見たという。曰く、食欲が湧かない、と。だから、ビアンが美味しそうに食べているそれを、自分達も食べたいとは思わなかった。

「なんだか、がっかりだよ」

「どうしてだ?」

「美味いものが食えるって聞いて楽しみにしてたのに、あるのはヘンな物ばっかりじゃんか」

 王国最大の食の街を相手に随分な言い様である。ライゼルの物言いは、この国の美食の全てが集まるミールにいる人間の言葉ではない。確かに食文化は一番生活に根付いている物であり、その差異は俄かに受け入れられないという事はよく分かる。だが、いくらライゼルが世間知らずと言えど、言って良い事と悪い事がある。少なくとも、ビアンはそう感じる。

「バカ言え。焼き玉蜀黍は屋台の定番中の定番だぞ。この香ばしい匂いに鼻孔をくすぐられ、齧れば濃厚な旨味が口の中に流れていくんだ。食わず嫌いしてないで、お前達も食ってみろ」

 食の街ミールの中心地で、黄色い細長い食べ物を勧められる田舎出身の姉弟。ビアンは平気な様子だが、姉弟はどうも落ち着かない。姉弟にとって、これ程の人数がひしめく場所に足を運ぶのは初めての事だった。

 一行がいるのは、ミールのほぼ中央に位置する大通り。車三台は並んで通れるだろう大きな石畳通りの両端に、所狭しに屋台が並ぶ。[[rb:一間 > いっけん]]程の幌の中に人一人が入り、その狭い作業場の中で各々が料理を仕込んでいる。調理場と売り場の空間は共有されており、出される料理も比較的に手間のかからない物が多い。こういう屋台での商売は、どれだけ多く捌けるか、時間との勝負なのかもしれない。

 ベニューも一応は商いを営んでいる者であり、各店舗を観察していて感心させられる事は少なくない。第一に、各店それぞれの商品を、お客と金銭でやり取りしている。ベニューは普段、染物の代価として食料を受け取っている。必要不可欠なものであるが故に、食材を頂けるのをありがたいと思っていたが、同時にかさばり場所を取り、不便だとも感じていた。こういう忙しない場面を見ていると、銅貨の役割についてベニューは考えさせられたりもする。

(村の外で生活するには、お金って大事なんだなぁ)

 ライゼルの腰に下げられた麻袋を横目でちらりと見やり、ふとそんな風に思う。彼が持つ麻袋の中には大量の銀貨がある。用途は誰も聞き及んでいない。安易に買い食いに興じない所を見ると、倹約するだけの目的があるようにも見受けられる。

「食ってみろって言われても、こんなに種類が多いんじゃ、何を選んだらいいか分からないよ」

「そうだね、通りの向こうまでずっとお店があるもんね」

 食の街ミール。そう呼ばれる所以は、この街で振る舞われる品数の豊富さや、そのどれもが永きに渡ってベスティア王国民の舌という振るいに掛けられ続け、今も愛され続けているという確かな味にある。王国中から集った料理人が研鑽に研鑽を積み、その味を芸術の域に昇華していった。その結果が、王国の台所と比喩される、この街の賑わいだ。日中は、全国各地からその味を楽しもうと、大勢の人々がひしめいている。

 どちらを向いても、人、人、人。各露店で焚かれる火に加え、人々の食に対する熱気のせいか、暑苦しさすら覚える。故郷を離れ、数日掛けてやってきた場所は、まるで異国の地のようだった。見た事もない食べ物に舌鼓を打つ彼らは、違う文化圏の人間なのだと認識せざるを得ない。

「食事は文化だ。美味いもんは心を豊かにする。人間が味覚を持って誕生した理由はきっとここにあるんだろうな」

「変なビアン。似合ってないよ」

 美味を食い歩き、ご機嫌なビアンは姉弟が初耳となる持論を提唱するが、ライゼルは不満だった。通りすがる店の前から見える、屋台の奥の釜土を睨みつけながら、ビアンに悪態を吐いた。

 ライゼルも食に関心がない訳ではない。事実、この通りに来るまでは、初めての買い食いと言う事もあり、楽しみにしていた。だが、ライゼルにとって食事とは卓に着いて行う事であり、食べ歩きなる習慣は身に付いていない。

「変なのはお前の方だぞ、ライゼル。フィオーレ以外ではこれが普通なんだよ。意地張ってないで、行ってこいよ」

「いいよ、別に」

 自分ばかり楽しんではビアンも面白くない。ベニューに付き合えと言っても、ライゼルが食べないなら、とやんわり辞退される。大人の自分だけはしゃぐというのも体裁に影響する気がするので、存分に舌鼓を打てない。

 ビアンから言わせれば、ライゼルのそれはただの食わず嫌いなのだが、少年が屋台に対して消極的な理由は他にもあった。何も、行儀よくしないとベニューに叱られるから、という事でない。ベニューはもちろんその理由を承知しているし、ビアンも今は気が回らないだけで知らない訳ではない。本人が頑なに口にしないのは、それを恥じているからなのかもしれない。

「勿体ない。クティノスに着くまで、卓以外の食事を保存食で済ませるつもりか? 俺は付き合わんぞ」

 あまりにもしつこい勧誘に、ライゼルは機嫌を損ね、語気が荒くなる。

「っていうか、ビアンは仕事中だろ。買い食いなんてしてていいのかよ」

 露店と言うものが想像していた雰囲気と違っていて、ライゼルは機嫌が優れない。例えば、これが厨房と客席とで間仕切りしてあれば、自分も楽しめるのに、と恨み言を言いそうになる。楽しめない理由が自分にある事を自覚しているライゼルはそれを飲み込むしかない。が、一人だけ満喫しているビアンを見るとついつい八つ当たりしてしまう。

「何言ってんだ。仕事していようがいまいが誰だってメシは食うんだ。むしろ、鋭意勤務中であるが故にウマいモンを食える、これは役得だ」

「へっ、言ってろ。王都に着いたら王様に言い付けてやる」

 そう言って、屋台の立ち並ぶ大通りを進み、この街の北部にある船着き場を目指していたが、その行く手の途中に二つの人だかりを見つける。大通りに人が大勢いる事は先に記した通りだが、その中でも目立って客が集中し、どちらも屋台の前に人がひしめき合っている。

「あのお店、随分繁盛してますね」

「繁盛だと? 揉め事の匂いがするぞ?」

 ベニューは期待感を込めて、ビアンは怪訝そうな顔で、異なる様子でその人だかりを認めた。というのも、それぞれの反応が違うのは、それぞれ違う人だかりを見つけていたからだ。どちらも喧噪には違いないが、種類が違う。

 手前に見える一つ目の人だかりからは歓声が聞こえる。こちらはベニューが気に留めた繁盛している方の人だかり。商いを生業にしているベニューは自然とそちらに目が行った。

 その少し先に見える二つ目の人だかりからは、先のとは反して怒鳴り声が聞こえる。ビアンは何が起きたか予想が付く上、それを無視できない。法を順守するビアンは、怒声や罵声に耳敏い。

「お前達はそこで待ってろ。俺は向こうの騒ぎを収めてくる」

 駆け足で向かいながら、ベニューが気にした屋台を指し、ライゼル達にそこでの待機を命じていったビアン。所轄の到着を待たず、率先して出向く辺りがビアンらしい。すぐさま怒声の聞こえた方の人だかりに分け入っていく。

 待機を命じられた二人は、言葉通りに待つ事にした。ベニューが見つけたその屋台には、遠目からではあるが調理場のようなものは見当たらず、ライゼルが嫌がる要素はなさそうだった。これなら心置きなく見物できる。

「じゃあ、いってみよっか、ライゼル」

「おう」

 ベニューに連れられて、ライゼルは歓声の上がる人だかりを目指す。ようやく楽しめそうな露店を見つけ、意気揚々と走り出す姉弟。ライゼルを気にして屋台をあまり楽しめなかったベニューも、俄かに気分が盛り上がる。

 屋台自体を初めて見る姉弟は、先程見たような飲食物を売る屋台以外に知らない。ただ、大勢の人が集まるという事は、それだけ魅力的なものを販売しているに違いない。そう思うと、俄かに心が弾んでくる。

隙間なくひしめく人混みを掻き分け、歓声の原因を、その屋台の正体を、姉弟はついに目撃、

「なんもないじゃん?!」

 できなかった。というより、そこには一人の青年と、その周りにいくつかの雑貨があるだけだった。ただ、その雑貨も使い古されている様子で、どうやらそれが売り物である訳でもないらしい。表面処理されていない不細工な木の板を作業台にしており、その上には握り鋏や布切れ、数束の糸と紐と、ベニューの工房の道具と変わり映えしない。食事を供する店でない事には歓迎なのだが、これでは何の店なのか分からない。

「修理屋かなんか?」

 隣にいた中年の見物客に尋ねてみると、そう向けられた見物客が失笑する。何を笑われたのか、ライゼルとベニューには分からない。無知を嘲笑されたのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。どちらかと言えば、言い得て妙だったのだ。

「修理屋か、違いねぇな。ただ、この人が修理するのは人間だ」

「人間!?」

「どういう事ですか?」

 人間の修理という言葉にいまいち実感が湧かない姉弟。親仁も説明しかけて、これ以上の上手い例えが見つからない様子ですぐ諦めた。そして、人差し指で視線の誘導を指示し、姉弟もその方向に視線を送る。

「言って聞かすより、実際に見てみな」

 中年の見物客が指さした先に、年の頃は30くらいでやや短めに刈られた焦げ茶色の髪の青年が、妙齢の女性を手当てする姿がある。幌の中には、ちょっとした作業台とその二人しかない為、他の飲食店と比べ、如何ばかりか広いようにも感じる。この屋台の中に他に見る物もなく、ライゼルはじっとその二人の様子を見ている。

 女性の手の平にかぶれた箇所があり、向かいに座る青年がその患部をじっくりと観察している。しばらく黙って見ていたかと思うと、なにやら植物の名前らしいものを口にして、道具箱の中から小さな瓶を取り出す。青年は患部の状態から原因の見当が付いたらしく、その治療に適した塗り薬を取り出したのだ。

「教会の人?」

 教会は、星脈に流れるムスヒアニマの管理を教育してくれる。気であるムスヒアニマが枯渇し、気枯れ(穢れ)とならぬよう、信者の体調を調整してくれるのだ。穢れとは、体内でのムスヒアニマの活動が適わなくなる状態の事であり、有り体に言えば人間としての機能を損ねている状態の事を指す。体内のムスヒアニマが枯渇してしまえば、著しく身体機能が低下し、酷い状態に陥れば最悪死を覚悟しなければならない。

 故に人々は穢れの元と考えられている怪我や病気をひどく嫌悪しているのだが、日々の生活の中でどうしてもその危険性は完全に排除できるものではない。加えて、一度穢れてしまえば、その穢れを祓う事はできないとされている。穢れは蓄積され、管理を怠れば、身体は蝕まれていってしまう。その為、病魔に負けない体づくりに関心があり、臣民の健康意識は高く、教会の使者の功徳を熱心に聞く。教会の教えは、生活に密接に結びついているのだ。

 姉弟は教会の存在を書物でしか知らない。が、挿絵に記されていた人物は、違った拵えの衣服を身に纏っていたはずと、ベニューは微かな記憶から思い出す。

「そうは見えないけど?」

 実際に目にしている青年の格好はと言えば、処置で汚れたのだろう、黒や赤の滲みが付いた簡易な誂えの作業着を身に付けている。その姿からは、とても穢れを忌避する教会の人間とは思えなかった。汚れの具合に関しては、畑仕事を終えたライゼルのダンデリオン染めにも匹敵しているかもしれない。客商売をする人間の格好には相応しくないように思える。

 そんな印象を抱かれているとは露知らず、三十路男は、患部に植物の葉をすり潰した物を擦り込んでいる。すり潰された植物から、汁が流れ、傷口を浸していく。滲みるのだろうか、女は僅かばかり表情を歪める。

「あれで傷が治るの?」

 問われた中年男性は、自らの腕部を姉弟に見せながら答える。

「不思議なもんでな。つい先日俺も切り傷を見てもらったんだが、もう傷口が塞がっちまっているんだよ」

「結構大きそうな傷だけどもう治ったの?」

 男が見せた傷は、手のひら大の幅に渡って付けられたひっかき傷だったが、治癒してしまったらしくその痕はほとんど見受けられない。

「ありがたい事だよな。どこかの集落には民間療法の類が残っているらしいが、ウォメイナが広まってからは、大っぴらに医術の世話になる事は出来ないもんな」

 教会の教えでは、怪我も病気もその解消は自然治癒に任せるのが奨励されている。人が人の体に加工を施す事は、唾棄すべき事と教えられているのだ。故に、王国全体で医療技術の進展は望まれていない。残っている医術と言えば、各地方に言い伝えられている眉唾物の民間療法くらいだ。なので、こうして施術に預かる事は滅多にない。

「あの人はああやって各地で怪我を治してるそうだ。教会の人間でもないのに、大したもんだよなぁ」

 周りの見物客同様に、ライゼルとベニューも感心している。というのも、この国では医学が発達しておらず、こういう治療が出来るものは、この国に皆無と言って差し支えなかった。今まで退屈続きだったライゼルが、これ程稀有な体験に関心を向けない訳がない。ようやく面白そうな事柄に巡り合えたのだ、喜ばない訳がない。

 興味を覚えたライゼルは、治療を終え立ち去った女性に代わり、男の前の椅子に跨ぐようにして腰掛ける。青年と顔を合わせ、嫌味でない程度に、腰の布袋をちゃりんと鳴らす。代金を持ち合わせている事をさりげなく主張したのだ。ベニューが後ろで眉根を寄せたが、今のライゼルは意に介さない。

「俺も怪我こさえちゃってさ。見てよ」

 男は面食らう様子もなく、早速ライゼルの腕を取り、ライゼルの望み通りに怪我の具合を確認する。鋭利な物で引き裂いたような傷が、六花染めに覆われていない部分に多数窺い知れる。どころか、首には縄か何かで締められたような跡も見受けられる。怪我の具合が相当酷い事に気が付いた男は、手は止めずライゼルに問う。

「喧嘩でできた傷か?」

「喧嘩…っていう訳じゃないんだけど。道中、変な奴らに襲われて。それと試合の分もあるかも」

「…そうか」

 如何ばかりか逡巡した後、短くそう答えただけで、それ以上は追及しない。先の反応もそうだが、まるでライゼルには関心がなく、怪我を治療する事にしか意識が向かないようだった。ただ、薄情そうにも見えるが、無碍にしない辺り、見た目ほど冷たい人物でもないのかもしれない。

 男がライゼルに関心がないからと言って、その逆も成立するとは限らない。ライゼルの方は、その男に関心を持った。少なくとも、他の屋台に並ぶ美味よりも魅力的に映った。

「俺、ライゼル。おじさんは?」

「名前を訊いているのか? イミックだ」

 会話をしながらでも作業の手は止めない。それでも耳は傾け続ける。姉弟よりも一回り以上は年上に見受けられるが、ビアンと違い、おじさん呼ばわりされても訂正しない。人の目にどう映るのかに関心がないのか、年相応と自覚しているのか。無駄話こそしないが、質問には律義に返事をする。変わった人物だとベニューは思った。

「イミックはどこの人? いつもここにいるの?」

「質問が多いな。無駄口叩いていると、傷口を広げるかもしれないぞ?」

 すげなくあしらう事はしないが、それでも絶え間なく浴びせられる質問を煩わしくは思っているようである。ちょっとした脅し文句でライゼルの好奇心を牽制する。だが、ライゼルはさして気にする様子でもない。

「大丈夫、俺は二倍だから」

 イミックの思惑は外れ、ライゼルは得意げに返してくる。ライゼルの返答がどういう意味なのかはイミックには伝わらない。何が二倍であれば、どう大丈夫なのだろう? 自分は熱心に尋ねる割に、相手の質問には正確に応えないライゼル。ベニューは何の事か分かっていただろうが、特別付け加える事もしない。

「そうか、二倍か。それはすごいな」

 イミックも別段追求しない。雑談に煩わされて処置が失敗してはイミックとしても面白くない。そもそも、イミックにとって、ライゼルは通りすがりの一客だ。この処置が終われば、その後顔を合わせる事もないだろう。深く付き合う必要はない。

「イミックはどこでこういうのを習ったの?」

 口数少ないこの男は、見た目通りのいぶし銀な職人ぶりを発揮する。処置は正確かつ迅速で、素人のライゼルの目から見ても手馴れている事が分かる。これまで、多くの人を診てきたのだろう。

 だが、素人と表現したものの、現在この国に医学の専門家など存在しない。過去には医療分野に特化した研究を行う一族が存在したが、約十年前に王都クティノスで起きた『ある事件』以降その活動が制限され、今は衰退の一途を辿っている。

 故に、イミックのように他者の外科手術を専門的に行う者は、このベスティア王国にはいないのだ。怪我は[[rb:霊気 > ムスヒアニマ]]の抜け道と考えられ、穢れの感染経路という認識が一般的だ。穢れに関わる物には近づかない、それが一般論である。それなのに穢れを恐れず処置をするという彼の姿に、ライゼルが疑問を覚えるのも無理はなかった。

「知人に詳しいのがいた…まぁ、直接指導を受けた訳じゃないから独学に近いかもしれないが」

 傍から見てイミックの様子は別段変わったようには見受けられなかったが、イミックのライゼルの腕を握る手からふと力が抜けていた。もしかしたら、その話題の中で触れられた知人に想いを馳せていたのかもしれない。ライゼルがもう少し目敏ければ、その事についても追及していただろうが。

「独学? 教えてもらえなかったの?」

 口にこそしないが、ライゼルが田舎者の世間知らずなのだと、イミックはここに来て理解する。国内で、医学の教育どころか、むしろ制限されているという事を知らないのは、つまり、世間の事情に疎いという事だ。だからこそ、無遠慮に連続で尋ね続ける事が出来る。常人であれば、ライゼルと違った感覚でイミックの在り方に疑問を持つだろう。何故自ら穢れに近付く真似をするのか、そのような事をして何の得があるのだろうか、と。

「イミックはなんでこういう事をやろうと思ったの?」

 だが、ライゼルはその一般的な考え方に当てはまらない。無知であるが故に湧いてくる疑問。常人が抱く疑惑でなく、純粋な興味から生じた疑問がイミックに向けられる。知りたいのは行動の動機。

 例えば、ライゼルは村の外の世界を知りたくて旅立ちを望んでいた。本人しか知らぬ事であるが、ベニューは大好きな母フロルを近くに感じたくて、染物を覚え始めた。では、イミックの行動原理、第一義とは何なのか? ライゼルに他意はなく、純粋にイミックその人の事を知りたいのだ。

 質問を向けられたイミックは、言い淀む事もなく、かと言って志高く言い切るでもなく、静かに溢す。

「誰だって、しかめ面より笑っていた方がいいだろう」

 あまりにも無感情に言い放つものだから、姉弟以外の人間はそれが本心だとは思わなかった。鬱陶しい子供を煙に巻くための適当な口実、周りにいた大人達は誰もがそう思った。他人の穢れを予防する見返りが笑顔だ、などと誰が信用するものか。

「素敵ですね」

「いいね、そういうの好きだよ、俺」

 姉弟はイミックの返答に満足し、二人で見合って笑みを溢す。言葉を交わさずとも二人なら通じ合えた。姉弟の最愛の人物が、同時に脳裏に浮かんだからだ。善を為すのに、何か特別な逸話など、彼らに必要なかった。

「そうか、それはよかったな」

 やはりイミックの態度は連れない。どうにか関心を惹こうと、ライゼルは作業台の端に申し訳程度に置かれた代金置き場に手を伸ばす。儲けを盗られる悪戯をされたら、流石のすげないイミックも反応を示すと見たのだ。

「やめなさい、ライゼル」

 ベニューの咎めるのも聞かず腕を伸ばすライゼルだったが、手に取ったのは貨幣ではない。

「銀貨以外に変なのがある。この黄色い石ころは何?」

 そう語るライゼルの手には、確かに黄色い石が乗っている。銀貨に紛れて、[[rb:笊 > ざる]]の中に入っていたのだ。

「それはグロッタで処置をした時、肩代わりにもらったものだ。風で飛ばされないように重し代わりにちょうど良かったんだ」

「こんな石でも価値があるの?」

 フィオーレを出た事のなかったライゼルには、鉱石に価値がある事が腑に落ちない。無理もない、フィオーレに宝石の類は一つもないのだから。素人目から見ると、鈍い光沢を放っていて綺麗な石だな、程度の感想しか浮かばない。

「当人曰く、雨を降らせるありがたい石なんだそうだ。その手のまじないの話を確かに耳にした事はあるが・・・取れない所から絞っても仕方ないだろう」

 グロッタで採れる鉱石は、地方で信奉されている占いなどに用いられる事もあり多少の需要はあるが、未加工の場合は大した価値がなく、経済活動における換金能力はほとんどない。つまり、イミックはほとんど支払い能力のない人間相手にも、怪我の処置を施している。もちろん、毎回それを認める事は出来ないが、時には無償にも近い施しを与えているのだ。

「イミックは優しいんだね」

「そうは自覚していない。ただ、甘いだけだ」

 ただ、全ての者がこの人に好意的な感情を抱いている訳ではない。穢れと接する以上、どうしても恐れを抱かれてしまう。未知なる領域を恐れるのは、知恵を有する人間の本能である。理解するのが困難であれば、理解を放棄し、距離を置けばいい。彼らの反応は自然な事と言える。

「確かにすごいが、あんまり関わり合いにならない方がいいんじゃないのか?」

「そうだな、加護を受けてない者が穢れを扱うのは、なんだか気味が悪いな」

 医学を探求する一族が起こした不祥事以降、世間一般の医学への信頼や信憑性は驚くほど低い。故に、一人が抱いた不安感は一気に伝播し、物珍しさで集まっていた人達も、徐々にその場から離れていく。それに対して、イミックは弁解もしなければ憤りもしない。物珍しさに群がった客連中も、イミックにとっては関心を惹く対象ではない。ライゼル同様、ただその場限りの付き合いなのだ。

「そんな言い方ないだろ!」

 薄情な態度に義憤するライゼル。散り散りになっていく見物客の背中に鋭い眼差しを向ける。人の厚意を踏みにじるような態度が許せなかった。

「構わん。それが真っ当な反応だ」

 イミックに諌められ、ライゼルもこれ以上は、街の人を非難しない。だが、それで収められる程に人間は出来ていない。興奮し、鼻息が荒くなる。

「納得いかない。イミックはそれでいいの?」

「穢れに対する認識はあれが普通だ。よっぽどお前さんがおかしいくらいさ」

 他人の為に感情を爆発させられる少年を前にして、思わずイミックの口から素直な印象が漏れる。ミールの人々が特別なのではない。どこの集落でも最終的には似たような扱いを受けてきたイミック。

 だが、これ以上はどう言っていいものか悩んでしまう。イミックの中にも穢れに対する本音と建前がある。どちらを伝えるにしても、ライゼルは穢れの知識がなさすぎた。今のライゼルに何を話しても、どちらが正しいのか判断する材料を持ち合わせてない。ただ、イミック自身どっち付かずなのだから、ライゼルと大差ないのかもしれない。

「俺が? さっきの人達じゃなくて?」

 世間との間隔のズレに釈然としないライゼル。ベニューも、自身の本音と姉としての建前の前に立ち往生してしまう。これから外の世界に身を置こうとする彼に、外の常識を伝えておかねばとも思う。が、ライゼルがこういう風に育ったという事は、母がそう教えなかったからでもある。きっと母にも何か意図する事があったのかもしれないと思うと、躊躇ってしまう。結局、身内であっても、イミック同様にライゼルへ掛ける言葉を見つけられない。

 そんなベニューの背後から声を掛ける一人の男がいた。

「どうした? もう店仕舞いだったのか?」

 誰もライゼルを導けないままの所へ、一仕事終えたビアンが戻ってくる。先程まで店の前には人だかりがあったが、今はライゼルとベニューの二人しかいない。そう言ってしまう気持ちも分からないではないが、未だ閉めるつもりのないイミックには随分な嫌味にも取れる。

「ビアンさん、おかえりなさい」

「言い付け通りにしてたな…まさか、お前達が食い尽したのか?」

 ライゼル達の傍へやってきたビアンは、イミックの幌を眺めながら訝しむ。ライゼル達が初めてイミックを見掛けた時と同じ反応を見せる。食の街ミールに出店しているにも拘らず、食材もなければ調理場もないというのはどういう了見か、という顔だ。今更ながら、イミックの露店は他と比べ異質と言える。

「いいえ、この方はイミックさんと言って、『修理屋』をやられているんです」

 咄嗟にごまかすベニュー。何故はぐらかさなければならなかったのか説明はできないが、なんとなくまずいと思ったのだ。法の順守に厳格なビアンがイミックの仕事内容を知れば、取り締まるかもしれない。ならば、イミックの行いを善と判断したベニューは、その事を伏せておこうと考えた。

 自分の手提げ袋を修理してもらったという態で、ライゼルから銀貨を受け取り、作業台の脇に置かれた賃料箱に代金を入れたベニュー。それを見て、ライゼルも黄色い石を笊の中へ戻す。

 ビアンもそれ以上は言及せず、その場で先程取り締まった事案の愚痴を漏らす。

「しかし、まいった。管轄外で無銭飲食を取り締まらなければならんとはな」

「無銭飲食?」

「あぁ、向こうの店先でたらふく飲み食いした後に、代金を持ち合わせない事が発覚したんだ」

 先程ビアンが見咎めた人だかりは、無銭飲食の揉め事を見物する客が群がっていたのだ。

「それでどうなったの?」

 先の件を引きずりながらも、ビアンが体験した話も気になるライゼル。話の流れで、一行はイミックの店先で話し込む。周りに注意を払えば、観光客も露天商もその話で持ちきりだった事が分かるだろう。先のイミックの店の前に群がっていた見物客は、そちらの取り締まっていた現場に移動していたのかもしれない。

「俺が出向いた時には犯人は行方を眩ませていて、これは伝え聞いた話になるが。その犯人は金を持っていなかったんだが、そいつが唯一持っていた水瓶に酒が入っていて、それを代わりに店主に振る舞って事なきを得たという話らしい。気付いた時にはその者は既に立ち去っていたそうだ」

「お酒だけ? たらふく食べたんですよね?」

 商売を生業にしているベニューには聞き捨てならない事だった。物々交換は実際ある事だし、酒も一般的にそれなりの値打ちがあるが、量との釣り合いが取れているとは思えない。製造に手間の掛かる代物ではあるが、それ程高価という訳でもない。

 そう問われたビアン、先程とは打って変わって、まるで自分の事のように誇らしげに語る。

「それが、店主の長患いだった持病が一舐めした途端に治ったんだ。それで気を良くした店主が代金を帳消しにしたんだよ」

 ビアンの聴取を総合すると。無銭飲食が発覚したが、代わりに酒で対価を支払った。すると、酒のおかげか四十肩の解消された店主に、周囲は騒ぎ出す。そして、その混乱に乗じ犯人は逃走。周囲の者が犯人を探し出して捕まえようと怒号を上げていたのが、ビアンが到着した時の事。だが、機嫌を良くした店主はお咎め無しとし、事件は解決したのだった。ビアンは先を急いでいたという事もあり、その一件は駐在している治安維持部隊アードゥルに任せ、こちらに戻ってきた。

「いやぁ、しかし、本当にそんな酒があるのなら俺もお呼ばれしたいものだ」

 冗談半分で言い放つビアン。いつものビアンならその話を真に受けはしないだろうが、到着した瞬間に事件が解決したとあっては何が何やら。被害がなかったというのであれば、美食に舌鼓を打ちご満悦なビアンも真偽にこだわる必要はない。

だが、イミックにとっては、こだわらなければならない理由があった。

「おい、そこのあんた」

 イミックの低い声に呼び止められて我に返るビアン。姉弟も自分達が店先で話し込んでしまっている事に気が付いた。並んだ三人が遮っていては、他の客が近寄れない。再び人が集まるかどうかは別として、無意識の内に営業妨害になっている。

「あぁ、悪かった。じゃあ、行くか」

 ビアンも商売の邪魔をしてしまっていた事に気が回ったらしく、その場を立ち去ろうとする、が。

「待ってくれ」

 却って呼び止められてしまう。困惑する三人。どうやら、追い払う為に声を掛けたのではない。イミックがこだわらなければならなかった理由は、そこにはない。

 では、何が目的なのか。あまり多くに関心を示さないイミックの目的は一つ。

「その話、もう少し詳しく聞かせてくれ」

予想外にもその話題に強い興味を示すイミック。何が彼の琴線に触れたのやら、イミックは前のめりに問い詰める。余りの勢いに、作業台についた手が裁ち鋏や巻糸を押し飛ばしてしまう。

「何から話せばいいやら」

 乞われるままにビアンは先の件を子細に話す。無銭飲食したのは年端もいかぬ少女で、年の頃はベニューと変わらぬくらい。珍しい装いであったから付近の住人ではないのだろうが、素性もラホワという名前以外は分からなかった事。[[rb:身分証 > ナンバリングリング]]を身に付けていなかったから、孤児か浮浪者か。その少女が不似合いな酒瓶を携えて、腹を空かせて屋台を渡り歩いていたという妙な話を、懇々とビアンは説明する。

「事なきを得たのだから文句はない訳だが、主人はこんな話が聞きたかったのか?」

「あぁ」

 イミックは返事も程々に店仕舞いを始めていた。その不思議な酒を持つ少女の特徴を訊いたイミックは、道具を手早く片付け終わると、

「そいつに会いたい。どこに向かった?」

「私が現場へ向かうまでそんな少女を見掛けていないから、この通りから南には行ってないだろう。それなら街の北側の船着き場辺りじゃないだろうか?」

 このミールの街は、大きく分けて四つの区画が存在する。一つはこの大通りのある商業区画。ここには、料理人や商人達が屋台を開いている。次に、街の東側にある居住区。ミールの住人はここの住宅地で生活している。そして、大通りを挟んでその反対側である西側に、食料品などが備蓄されている倉庫街がある。大通りで商いをしている者達の商売道具がここに大量に置いてある。最後に紹介するのが、少女がおそらく向かったであろう、波止場である。その船着き場からは、水の都ヴェネーシア行きの船が出ている。村の出入り口は南の正門とその北の港のみ。

 少女が身分証を身に付けていない所を見ると、住宅街や倉庫街に立ち寄っているとは考えづらく、加えて南側にいたビアンが遭遇していないとなると、残る北側の船着き場に向かったのだろうという公算が高い。

「そうか、ありがとう」

 それだけ伝え、足早に駆けていった。

「変な修理屋だな。そんなに酒が好きなのか?」

 イミックの生業を知らないビアンは、何故彼が慌ててその少女を探しに行ったのか、考えも及ばない。ライゼルとベニューはなんとなく予想が付き、二人で顔を見合わせる。

「病に効くお酒だって。イミックさん、その女の子を見つけられるといいね」

「おう、イミック頑張れ」

 何のことやら分からぬビアンであったが、突発的な事件の処理を終え、ようやく本来の目的を成す為に街の北側を目指す。一行は、航路を利用する為この街に立ち寄っていたのだ。

「さて、これ以上屋台に興味がないようなら、寄り道はおしまいだ。この通りの先に船着き場がある。そこに向かうぞ」

「船! 俺、初めて!」

「私も。船って国内でも数が少ないんですよね?」

 ベニューの言う通り、王国内において船舶は非常に珍しい。駆動車すら見慣れない田舎者には、風を受けて進む帆掛け船など、よっぽど目新しい物に映るだろう。

「そうだ。そもそも、船を渡らせられる程の瀬がある場所が少ない為に、船を走られせられる航路は限られている。ヴェネーシア内の客船を除けば、船を拝めるのはこのミールくらいだろうな」

 これを聞いたライゼルは逸る心を抑えられない。故郷を出て新しいものとの出会いの連続。数日前に初めて駆動車に乗ったばかりでなく、今度は渡し船にも乗れるのだ。外に憧れ続けたライゼルが大人しくしていられる訳がない。

「船ってあれだろ、でっかい水溜りの上を浮くヤツ。本で読んだ事ある。軽いから水に浮くんだけど、重い荷物も載せられるって意味が分からない乗り物!」

「しかも、車輪もないのに前に進むんだって。どうなってるんだろ、楽しみだね」

 実物を見た事がなく、書物でしか知り得ないライゼル達にとって、帆船と言う物はとんでもない代物だ。予備知識を総動員して想像しただけで期待が膨らむ。

「でっかい水溜りってお前な。フィオーレにも溜池くらいあっただろ」

「湖と溜池は別物じゃんか。それに、フィオーレの溜池は流れてないもん」

 姉弟と役人の心持の温度差を知ってか知らずか、正午の空に汽笛が響く。それが何を知らせるものか気付かず、一行は世間話に興じながら、穏やかな歩みを進め、北側の船着き場を目指す。

 

 そのほぼ同時刻、イミックはライゼル達より先にミールの北側にある船着き場で件の少女を探していた。

「行き違いになってなければいいが」

 石を積まれた堤防は、数十艘の船が停泊できる程の広大さで、その先には対岸を遥か向こうに臨む湖が広がっている。その湖面をつい先程出航したばかりの船が走っている。街中央の賑やかさと比べると、やや落ち着いた人通り。貨物船からの物資搬入がない場合は、穏やかな湖面のように静かな時間が流れる。

 役人からもらった情報を元に、噂の少女を求めて堤防を彷徨うイミック。

 もし、役人が話した逸話が真実であれば、イミックは自らの理想に近付けるかもしれない。誰もが怪我や病気からなる死別の確率を減らす事が出来る。自身のような、悲しい想いをする者を減らせるかもしれないのだ。

(もう二度と、ルセーネの二の舞はご免だ)

 およそ十年前に亡くした恋人に想いを馳せながら、辺りに視線を巡らし、例の少女を探す。

 ルセーネ。古くから医学を探求し、王城に召し上げられる程の一族の子女。イミックの幼馴染であり、恋人であり、故人。更に、医学衰退の原因ともなった、十年前に起きた不祥事の主犯として世間に知られる人物。

 イミックは未だに信じられない。誰よりも人々の笑顔を望んでいたルセーネが、王の意向に背き、自身を含む怪我人を数人出させる事件を起こしたなどと。

 イミックがその事件の事を聞かされたのは、ルセーネが王城から実家へ強制送還された後で、その時の彼女は寝台の上から起き上がれない程に衰弱しており、死期が迫っている状況だった。

 そんな姿の彼女を見て、無意識にイミックは問うた、何故こんな事になってしまったのか、と。すると、彼女は横たわったまま、力なく微笑みながら、こう答えたのだった。

『誰だってしかめっ面より笑顔の方がいいじゃない』

 ふと、彼女の最期の光景がイミックの脳裏を過る。それと同時に、先程出会った少年ライゼルの事を思い出していた。

(ルセーネのような少年だったな)

 容姿に面影があった訳ではない。ただ、話している内に、臆面なく相手を見据える彼の目が、亡き恋人ルセーネを彷彿とさせた。

 名門の子女でありながら、平民であるイミックや友人のフェリオとも分け隔てなく接してくれる気さくな人物。それに、自分の関心のある事に関しては、様々な垣根を飛び越えて形振り構わず追及するお転婆振り。

 先のライゼルが、彼女の事を思い出させ、イミックを懐かしくさせた。ただ、彼女の場合、ライゼル程の世間知らずという事はなく、イミックを惹き付けて止まない程の知識と教養を身に付けていたが。

(ライゼルか、本当に変わった少年だった)

 年若いにしても物を知らぬ様子で、身体中に生傷を残した奇妙な少年。付き添っていた少女も、一般の感覚からズレているのだろうか、役人に対しイミックを庇うような態度を見せていた。これまで接してきた誰とも異なり、穢れや延いてはイミックの仕事に対する嫌悪感を表さない二人。知識の無さに起因するものなのか定かではないが、どちらも心根が優しいのだろう。二人揃って不思議な少年少女だったとイミックの記憶の中に印象付いている。

 加えて、その偏見を持たぬ在り様は、イミックに親近感を持たせていた。世の人々が先の少年達のような人間ばかりであれば、イミックはルセーネを失くさずに済んだかもしれない。大怪我を負ったルセーネは、穢れを恐れる周囲の者が処置を躊躇ったが為に手遅れとなり、家族や同門に見捨てられる形でこの世を去ったのだ。もしも、その場に自分あるいはフェリオが居合わせていたらと思うと、悔やんでも悔やみきれない。

 と、俄かに郷愁に駆られたが、過ぎた事を悔やんでも詮無き事。不条理なこの世を儚むよりも、今は有益なやるべき事がある。役人の話が本当であれば、穢れを恐れる事なく、怪我を治療する手段が見つかるかもしれないのだ。

 そう思うと、知らず探し回るイミックの駆け足は、その速度を上げていた。

 しばらく辺りを見渡していると、運が向いているのか、堤防に佇み川面を見つめるそれらしい少女を見つける事が出来た。

 真白な無垢の衣装を纏い、どこか俗世から離れた儚い印象を与える佇まいの少女。身分証を身に着けておらず、件の酒瓶を携えている辺り、役人から聞いた外見と一致している。

 声を掛ければ届く距離まで歩み寄り、ふと逡巡する。こういう時、何と声を掛けたらいいものか。こちらの要望は、その酒の効能を確かめさせてもらう事だが、少女の側からすれば、突然現れた男から頼み事をされて困惑してしまうに違いない。

 もし、彼女が年若い少女でなければ、それほど躊躇わなかっただろうか。役人から聞いた証言と合致するものの、そんな年端も行かない少女が本当にイミックの求める物を所持しているのかと半信半疑になってしまう。

 ふわふわした乳白色の癖毛を肩口で整えた髪型に、光を宿していないような虚ろな瞳の横顔。とても自分が歩んできた苦節の道を経験したとは思えない気の抜けた雰囲気。年相応の、酸いも甘いも知らないのだろうと見受けられる。

 イミックがまじまじと視線を送るものだから、少女もそれに気付き、イミックの方へ振り返る。

「あなたは何の人なの?」

 目的としていた少女の方から声を掛けられ、不意を突かれた形で言葉を探す。

「突然すまない。私はイミックという。その・・・」

 そう言い淀むイミックに、少女は彼が言い切る前に言葉を紡ぐ。

「あなたはラホワにごはんをくれる人なの?」

「なんだ、腹が空いているのか?」

 目の前の少女ラホワが、急に突飛な事を言い出すものだから、思わず力が抜けるイミック。

 イミックの記憶が正しければ、この少女はたらふく食事をした後だと役人が話していたはず。それなのに、ラホワと名乗る少女は、まだ食事を所望しているという。一人称が自身の名という事もあり、その言動が余計に幼く感じる。年の頃は先程のライゼルに同伴していた少女と変わらぬが、口調は随分子供らしい。

「・・・違う人なの?」

 予想外の質問に一瞬面食らったが、イミックは当初の目的を忘れていない。向こうが条件を出してきたのなら、交渉に移るのは容易い。

「食事を望んでいるのなら、私がご馳走しよう。その代わりと言っては何だが、お前さんの腰に下げている酒を少し分けてもらえないか?」

 イミックがそう持ち掛けると、ラホワは少し逡巡した後、酒瓶を下げていた紐を解き、躊躇いなく酒瓶をイミックに差し出す。

「飲む人なの?」

 小首を傾げ、虚ろな瞳をイミックに向けるラホワ。

「あぁ。先の屋台での一見は聞かせてもらった。不躾かもしれないが、その効能を試させてくれ」

 そう言いながら、道具箱から針を取り出し、それで自らの腕にひっかき傷を作る。然程深い傷ではないが、少量の血がその傷口から僅かに流れ出ている。

「では、一口失礼する」

 逸る想いでその酒瓶を受け取り、口を付けるイミック。であったが、ほとんど酒気を覚えず、飲み口も味わいも酒とはまるで程遠い、どちらかと言えば水のようだと感じる。

 加えて、傷の回復も見受けられない。しばらく患部を観察していたが、特別な変化は認められない。半信半疑だったとは言え、何の効果も得られないというのは肩透かしにも程がある。いや、そもそもラホワ自身はそのような奇跡を謳っていないのだから、彼女には何の落ち度もない訳だが。

 イミックがやや気落ちして瓶を返すと、ラホワは再度首を傾げる。

「あなたは怪我を治したい人なの?」

「そうだ。妙な噂を聞いて試してみたが、どうやらただの冗談だったようだ」

 こんな与太話に振り回されるなど、自分も焼きが回ったとイミックは思う。そんな都合のいい話など、ある訳がなかったのだ。得てして人間は、自分の都合の良いように思い込む嫌いがある。今後はそういう真実味に掛ける話には気を付けねばと、イミックは自分を戒める。こんな傷まで付けて、自分は何をしているのだと自嘲気味に笑う。

「妙な事に付き合わせてすまなかった。約束通り、食事をご馳走しよう」

 そう言って懐から銀貨を数枚取り出しラホワに渡そうとするイミックを余所に、ラホワは両手で抱えた酒瓶をイミックの顔前に差し出す。

「いや、もう結構だ」

「ううん、あなたは怪我をしてる人だから、ラホワが治してあげるの」

 言うが早いか、ラホワは一口含むと、イミックの腕を取り、傷口へ含んだそれを吹き掛ける。

「おい、何をするんだ」

 奇妙な雰囲気の子だとは思っていたが、とうとう奇行に出る辺り、自分はとんだ厄介事に足を突っ込んだと反省せざるを得ないイミック。自分から関わりを持ったとはいえ、初対面の人間から酒を浴びせられるとはとんだ災難だ。

 やれやれと作務衣の裾で腕に付いた酒の滴を拭うと、信じられない出来事を目の当たりにする。

「傷が・・・塞がっている!?」

 思いがけない出来事に、握っていた銀貨を取りこぼす。絶句するイミックの足元の石畳に、数枚の銀貨が金属音を鳴らし踊っている。

 イミックの怪我が、その面影すら残さず消えているのだ。酒を吹き掛けられ、その事に対する不快感はあったが、それ以外に傷口が変化する感覚は何もなかった。傷の消失が発覚した時には、痛みも感じられなくなっていた。

 俄かに信じられない話ではあるが、先の役人から伝え聞いた話は真実だったのだ。どのような仕組みで治癒したかは皆目見当も付かないが、この水のような液体は確かに何らかの効能を持っているのだ。当てにしていたとはいえ、まさか本当にかような物が存在するとは。

「あなたは『アムリタ』が効いた人なの?」

 ラホワの質問の意味は図りかねたが、イミックは無意識の内に首肯を返していた。

「これはその酒の効能なのか。何故? 中身はさっきと同じ物だろう? どうしてさっきは効果が出なかった?」

 そもそも、その液体が如何なる類の成分かを問うべきだったかに思えるが、イミックは完全に動揺してしまい、本質を見誤っていた。何故、前回は何の変化もなく、今回は効果を発揮したのか? まるで化かされているようで、未だに治癒した実感がない。だがしかし、イミックの腕の傷口が、雄弁にその酒の成果を証明している。

「口内の唾液と反応して液体の成分が変質したのか? それとも・・・」

 気が動転してしまい、冷静さを欠いているイミック。意識がその酒だけに向き、知らず手を伸ばす。

「これ以上はダメなの」

 手が届く寸での所で、後退(あとずさ)りするラホワ。その反応に、イミックは途端に不安感に襲われる。もしかしたら、ラホワの持つそれは、まことしやかにその存在を囁かれる万能の霊薬かもしれないのだ。ここでその手掛かりを得られれば、自ら抱いた悲願が成就できるかもしれない。故に、これまでにない必死さを露わにする。

「頼む。製法が門外不出であるなら、その原料だけでも教えてくれないか。私は、これまでその万能薬を求めて、この地まで流れてきたんだ」

 ルセーネを失くして約十年、全てを[[rb:擲 > なげう]]って医学の探求に打ち込んできた。もう二度とあの悲劇を繰り返さぬよう、誰もが望まぬ死に怯えずに済むよう。この世から穢れの恐れを払えぬのであれば、せめてその元を対処できるようにと、様々な試行錯誤を繰り返してきた。そして、思わぬ所でその完成形を見つけられた。

「ラホワはそんな事を知らない人なの。ラホワはこれを飲ませる人を探してる人なの」

「では、調べさせてくれ。ほんの少しだけ・・・」

 この機会を逃してはならないと必死に食い下がるイミックだが、ラホワは彼の望みを叶えず首を振る。

「ダメなの。違ったの」

「・・・違ったとは?」

 確かにイミックの申し出は、ラホワにとって傍迷惑な話だとは彼も自覚している。だが、一度は飲ませ、二度目は傷口に塗布してくれたというのに、何故三度目はこうも頑なに拒むのだろうか。自らの望みが受け入れられないとあって、イミックは腑に落ちない。

 そんなイミックに、ラホワは無慈悲に告げる。

「あなたはラホワが探してた人じゃなかったの」

「・・・そうか、お前さんの目的も訊かず。一方的が過ぎたな」

 思えば、これ程の秘薬を持った少女が何の用でこの街に訪れているのか、イミックはちっとも考えが及ばなかった。僅かに自制の心を取り戻し、ラホワの事情を考慮しようとする。が、それでもラホワは首を振り続けるのみ。

「あなたは何も出来ない人で、『アムリタ』はラホワにしか使えないの」

 イミックの伸ばす手から庇うようにして、酒瓶を抱きすくめるラホワ。

「お前さんにしか使えない? どういう事だ?」

 最早、この段階で正常な思考ではない。衝撃的な出来事を目の当たりにした動揺と、悲願の手掛かりが目の前にあるというのに手に入れられないもどかしさから、イミックは自身を見失ってしまっている。その液体がもたらした奇跡は、完全にイミックの許容を越えてしまっている。

「ラホワがこの『アムリタ』を使う役目の人なの。あなたは必要ない人なの」

「—――私は・・・」

 虚ろな瞳で無感情にそう一蹴され、イミックは言葉を失う。

 イミックの執拗な懇願が途絶えた瞬間、その隙にラホワは酒瓶を大事そうに抱えながら、駆け足でその場を立ち去った。

 イミックはその場で頽れ、[[rb:人気 > ひとけ]]の少ない波止場にて、たった独りで虚無感と喪失感に苛まれる事となった。

 

「なんだとーーーーー! どぉうゆぅ訳だ?」

 ライゼル達の旅に順風は吹かなかった。ビアンが船着き場にて次の出航を問い合わせたところ、今日の便は先程の船が最後の便だったらしい。先程の汽笛は、本来正午という時刻を告げるものではなく、本日の最終便を知らせる為のものだったのだ。

「今日はもう出ないのか? 小舟の一艘も出ないのか?」

「ないね。毎日そうなんだもんよ」

 半ば泣き崩れそうなビアンが問い詰めても、桟橋の傍の小屋で片付けをしている管理人の中年男性の反応は変わらない。ゆったりとした動作で接岸時に用いる縄を巻き取っている。

「何故、午後からは一隻も出ない?」

「風だよ、風」

 桟橋小屋の親父は、何もない宙空を指して答えた。ビアンも釣られて、同様に訝しんだ表情のまま空を仰ぐ。強く吹き付けている訳でもないが、確かに空気の流れがそこにあった。

「風が、どうかしたのか?」

 無知なビアンの発言に、親父は溜息を漏らす。ビアンも原理を知ってこそいたが、彼の意にそぐわない状況が彼から推理する思考力を奪っていた。親父は、おそらく何度もいろんな客相手に説明を繰り返したのだろう、船を出せない理由を分かりやすく解説する。

「荷物や人を乗せるんだ、帆船に決まってるだろ。昼間は街に向かって沖つ風が吹く。これじゃあ、下る事はできても上る事はできないね」

「そうか、昼間は陸に向かって風が吹くのか」

「加えてあれだろ?」

 親父の視線を辿ると、街の西の方には大きな黒い影が見えた。

「雨雲か?」

「そうさ、それもとびっきりの。あの積乱雲が見えるんじゃ、命が惜しい奴は船を出さない」

「嵐が来るのか…」

 その事にようやく思い当たり、親父の言い分に納得したビアン。この後、事態を説明すればがっかりするであろうライゼルを納得させられるかどうか、ビアンは更に頭を抱える事となる。

 少し離れた所から様子を窺っていた姉弟は、少し不安な面持ちでビアンを見守っていた。

「なんか、駄目っぽいね」

「ビアンが大声を上げる時は決まって良くない事が起こるだろ。もう慣れっこだよ」

 少しふて腐れた表情で、有能とは言いがたいビアンの仕事ぶりを眺めていると、視界の端に見覚えのある人物を見咎める。汚れの付いた作業着の、短めの茶髪の男。

「イミック!」

 そう声を掛けられた青年は、先程よりも落ち着いた、というより落ち込んだ様子で、とぼとぼと防波堤を迂回した先の桟橋の方へ歩いている。ライゼルの声が耳に届いていないのか、ゆったりとした歩調で桟橋の上を進んでいく。

「どうしたんだろう?」

「なんだか様子が変かも」

 先程、件の少女を探しに行ったはずのイミック。確かにビアンは北側の船着き場にいるかもしれないとは言ったが、流石にイミックが歩いている先に、その求める少女がいるとは思えない。何故なら、その先に待ち受けるのは紺碧の青。地上からはその水底を窺う事も適わない川があるだけだ。意気消沈した様子にも見受けられるが、それが理解できていないとも思えない。イミックの視線はしっかと足元に向けられている。という事は、進先に川しかない事を分かっていながら、彼はそこへ足を運んでいるのだ。

「まさか」

 ライゼルがそう思わず声を上げた瞬間、桟橋の先端へ到達したイミック。一旦立ち止まったかと思うと、意を決したかのように桟橋から飛び降り、その身を投げた。

 姉弟はビアンの言葉を覚えていた、このミールに船着き場がある理由を。全国でもほぼ唯一の航路を有するのがこのミールであり、逆説的に言えば、このミールを流れる川は船を浮かべられる程の背の深さを有しているという事になる。今飛び込んだイミックは衣服を着用したまま水の中に身を投げている。姉弟はイミックの遊泳能力を知らないが、とても無事でいられるとは思えない。下手したら溺れて水底へ沈んでしまうかもしれない。

「ライゼル」

「おう!」

 ベニューがそう呼ぶが早いか、イミックが姿を消した水面目掛けて走り出すライゼル。防波堤を軽々と飛び越え、迂回する事なくそのまま桟橋に着地、到達する。かと、思うと着地したその足で踏み込み、一気に駆け出す。そして躊躇う事なく、大きな音と共に水飛沫を上げながら、イミックが姿を消した川の中へその身を投じる。

 ベニューもその後を追い、桟橋の端へ駆け寄る。両手両膝をつき、真っ青な水の中を覗き込む。二人の姿は見えず、相当に深い事が窺える。ベニューも、ライゼルが一応泳げるのだという事は知っている。だが、それが成人男性を一人抱えて尚可能かどうかは定かではない。心配しながらも、弟の無事を祈るベニュー。

 しばらくすると、水中に人影が見え、それが二人だと分かると、水面が揺れ出し、ライゼルの大きな呼吸が響く。

「ぷっはー」

 溺れたイミックを抱きかかえ水面まで上がってきたライゼルは、ベニューの助けを借りながら、イミックの桟橋の上に押し上げる。

「イミックさん、大丈夫ですか?」

 桟橋の上に仰向けに寝転びながら、咽て咳き込むイミック。溺れていた時に水を飲んだのだろう、苦しそうに呼吸を整えるが、どうやら命に別状はないようだ。

「何やってんだよイミック。どういうつもりだよ?」

 水を吸って重くなった六花染めも気にならないくらいに、力なく横たわるイミックを心配するライゼル。その目は何も映していないのか、イミックの表情は絶望に染まっている。

「知らなければよかった。あんなもの、知りさえしなければ、こんな思い・・・」

 光を宿していないような瞳から一転、潤みを帯び、表情は悔しさを滲ませた苦渋に歪む。

「何のことを言ってるの? わからないよ、イミック」

「・・・・・・」

 ライゼルの問いに答える様子はなく、他の何事かがイミックの心を捉えて離さない。イミックは虚空を見つめるばかりで、その視界にライゼルの姿を収めようとしない。

それでも、しつこく先程の顛末を尋ねるライゼル。

「どうだった? 女の子が見つからなかったの?」

 先の露店でのやり取りでイミックを慕うようになったライゼルは、親身になってそう問い掛ける。が、男は浮かない表情でようやく力なく返事をする。

「…会えた。あぁ、出会ってしまった」

「出会ってしまったとはどういう事ですか?」

 どうも今朝の彼の印象と違った大人しさがある。別段午前中のイミックがご機嫌だったとは言わない。だが、今の彼は生気すら失っているように見受けられる。何か大切なものを失くしたかのような落胆ぶり。

「さっきの役人が言っていた少女には会えた。酒の効能も知る事が出来た」

 自分で傷付けたのだろうか、手の甲に引っ掻いた跡があったが、痕跡のみで傷口はしっかり閉じている。イミックは自身の体を持って、酒の効能を試したのだ。

「よかったじゃん。これで…」

 軽はずみにそう合いの手を打ってしまったライゼルを、イミックは虚ろな目で視界に収める。

「そうだ、よかった。どうでもよかったんだ。俺がこれまでやってきた事は、どうでもいい事だったんだよ」

 イミックは悔し涙を流しながら、そう漏らす。もちろん、姉弟にはどういう事なのか理解できない。

 姉弟が知る限り、イミックは治療を行い、生計を立てている人物だ。無愛想にも見える淡泊さだが、決して他人を拒絶する事なく、求められれば自身の技術で怪我を処置してくれる親切な人物。何よりも、「しかめ面より笑っていた方がいい」とまで言ってのけた、他人の苦しみを悲しみ、笑顔を喜ぶ心優しい人物なのだ。そんなイミックが、自身のこれまでの行い、要するに他人の怪我を治療してきた事を否定したのだ。彼の仕事に好感を持った姉弟は、先の発言を受け、動揺を隠せない。

「どうしたんだよイミック!?」

 生涯初めて目の当たりにした男泣き。その大の大人が何に打ちひしがれているのかを知らなければ、何とも声を掛ける事が出来ない。このような事態に際して、対処できる経験則をライゼルは持ち合わせていない。

「どうしたもこうしたもあるか。あの少女は持ってたんだよ、万能の霊薬を」

「万能の霊薬?」

 初めて耳にする言葉に、ただ山彦のように復唱する事しかできないライゼル。それを察してか、イミックは更に続ける。

「世の中には、人の体に有益な作用をもたらす物がある。葉や木の実や根、野菜や果実様々あるが、目的の効能に特化した物を『薬』と言う。数多く存在するんだろうが、なにぶん独りでやってるもんだから、指で数える程度にしか見つけられていない。体を温めたり、傷口が膿むのを抑えたり、眠気を覚ましたり」

 王国各地には、世間には広まっていないその土地特有の民間療法が存在する。民間療法程度であれば、法の規制に掛からず、今も臣民の健康の手助けとなっている。

 イミックはそのような各地に存在する手法を調べながらこの地まで旅をしてきた。先に列挙した効能はこれまでで得た成果な訳だが、姉弟にはそれが充分誇らしいものに思える。医療の禁止された現代において、これまで誰もそのような手法に思い当たらず、探し求めようと思った事もない偉業。

だが、当の本人は辛酸を舐めたような表情を解かない。彼はその領域では満足していなかった。それ故に、イミックの心は蝕まれるのだ。

「それってすごい事じゃん。もっと見つけられたら、もっと・・・」

「人の話は最後まで聞くものだ。もう必要ないんだよ。いや、そうじゃないな。そもそも、必要なかったんだ」

「どうして?」

「さっきも言っただろ。あったんだよ、全ての効能をただの一舐めで発揮する万能薬が」

「それは…」

 どう反応していいのか、ベニューは挨拶に困る。

おそらく、喜ぶべき事なのだろう。思えば、ビアンも先の一件を誇らしげに語っていた。一口で全快するというのは、証人がいるので虚言ではないのだろう。専門的に研究していたイミック自身がその効能を検証したと話している。その奇跡を実際に見た訳でもなく、その絵空事が腑に落ちないからと言って、効果を疑うのはお門違いだ。真偽を問うなど、それこそ、イミックに向ける言葉ではない。

 では、何と言えばいいのか? 先程のライゼルのように手放しに喜んでは、イミックの心を傷付けてしまうのは火を見るよりも明らか。何故なら彼は、その霊薬の存在に打ちひしがれているのだから。

 おそらく、彼は長い間その研究に時間と労力を費やし、人々の怪我を癒してきたのだろう。だが、その苦労が報われつつある時に、一瞬にして彼の功績を超えるものが現れてしまった。長い時間を掛けても未だ辿り着いてない未知の領域への通行手形。それを不意に見せ付けられてしまったのだ。しかも、その奇跡を見せ付けられただけで、手に入れる事が出来なかったのだろう。事実、イミックは何も得ていない。

 これまで競争とは縁遠い世界に身を置いていたベニューであったが、イミックが心に受けた傷をなんとなく理解する事が出来る。例えば、六花染めで名を知られるベニューだが、もし自身のそれより優れた出来栄えの染物を眼前に晒されたとしたら、胸中穏やかでいられないのは確かである。その完成度が自身では到達できないものと理解できるからこそ、余計に心を乱されてしまうのである。

(そうなれば、私も同じことを言っちゃうのかな…)

 きゅうっと胸が締め付けられる。イミックの心を思えば思うほど、声が詰まり何も言えなくなってしまう。

掛ける言葉を探し、見失っては探す事を幾度か繰り返した後、ただ言い淀んだだけだとベニューが自覚するまでに要した時間はどれくらいあったろうか。

 ベニューが浪費したその時間を、ライゼルは別の事に思いを巡らす時間として使う。幸か不幸か、ライゼルにはベニューのような実感がない。思えば、自身の行動の是非について考えた事は、これまであまり多くなかった。それは、ライゼルが後先考える性格でなかったし、為した行動が結果的に他人から咎められるような事ではあまりなかったから。唯一の例外は、母の仕事道具を玩具代わりにし、鉄拳制裁によって戒められた事くらいだろうか。

 故に、自身の行いを否定するイミックの物の考え方が、ライゼルには理解できなかった。そして、ただ一つ分かった事もあった。

「イミック、悔しいんだ?」

 そう不意に水を向けられたイミックは虚を突かれ、渇いた笑いを漏らすしかなかった。

「ははは、なんだそれは…そうだな、悔しいのかもしれない。どういう経緯であれを手に入れたのかは知らないが、あんな年端もいかない子供に先を越されたのが」

 漏らしこそしなかったが、付け加えるなら「必要ない人」と告げられた事が。あの一言で、自身のこれまでを否定された気がした。だから、自分は心を折られたのかもしれない、とイミックは思い至る。

 無知なライゼルを相手にしていると、イミックは落ち込んでいるのが下らない事に思えた。事実は事実として受け止めなければならないと、年相応に振る舞おうと思えるくらいには、気持ちを持ち直す。

だが、ただそれだけの事だった。それ以上には至らない。持ち直して、持ち上げるまでには届かない。

「そうだな、つまらん事に拘るのは止そう。他に自分にやれる事を見つけるか」

「どういう事? もうあの仕事は辞めるの?」

 目の周りを赤く泣き腫らしたイミックは、自嘲気味に応えて見せる。

「それはそうだろう? 私がやらなくても霊薬は完成しているんだ。怪我をこさえたら、あの少女を頼るといい」

「どうしてそんな言い方するんだよ。それに、その子はここにいないだろ」

「じゃあ、一刻も早く見つけ出す事だ。穢れが恐ろしいなら尚更だ。この街の人間にもそう伝えてやるといい」

「イミック!」

 両腕でイミックの肩を掴み、ライゼルが一喝しようと息を吸い込む。

「怪我が治ったこ「なんだありゃーーー!」

 桟橋の上にいるライゼル達の耳に、波止場の方からビアンのいつもの絶叫が届いた。態度に似合わず小心者なビアンは、不測の事態に直面すると例に漏れず大声を上げる。それが聞こえたという事は、何かがあったという事だ。

 そう察知するが早いか、ライゼルと顔を突き合わせていたイミックが空に昇るそれを見つけ、ライゼルは振り返らずして、その危機的状況を知る事となる。積乱雲よりもっと手前に、黒々としたものが空へ昇っていくのが見える。イミックは目線を逸らさず、こう呟いた。

「…黒煙…火事だ」

 

 悪い事は重なるもので、一行が船着き場で足止めを喰らった途端に、そこからすぐの通りの屋台から火の手が上がった。燃料として用意されていた菜種油に引火し、隣近所の屋台を飲み込み、炎は大きさを増していった。

 本来であれば、このような事態はそうそう起こる事ではなかった。この国では火の取り扱いや管理は徹底されており、安全対策も十分に講じられていた。誰かが意図的に引火させない限り、今回のような偶発的な事故は発生しないはずだった。それは誰もが承知の事。ならば。

「誰かがわざと火を放ったか?」

 ビアンは火災現場に向かいながら、そう独り言ちた。ビアンは先程の無銭飲食を取り締まった際に、治安維持部隊アードゥルを目にしている。火の知識に長けた専門家の彼らがいながら、小火程度で収まらない大事に発展するなど考えられない。世間には穢れと大差ないほどの炎に対する恐れがある。生活の中に畏敬の念があり、火への対処は素早く行われるのが常である。それなのに初動が遅れたという状況を鑑みて、放火が原因であると判断した。

 しかし、今は犯人探しよりも消火活動を一刻も早く始めなければならない。十全な管理が為されていると言ったものの、それは平常時の話。大火災が起きてしまっては、辺りの家屋に燃え広がり、他の油にも引火し大火災を引き起こしかねない。石畳の舗装道路以外は、木材の家屋が多い。ミールの街が火の海になるのに、時間はそう掛からない。事をしでかした犯人も、ずっとその場に留まっているほど間抜けではなかろう。ならば、犯人捜しは後回しにするべきだ。

 そうなっては、多くの命が失われる。ウォメィナ教に、命は地に還る物、という教えがあるが、それは生を全うする事が前提の話だ。道半ばで無意味に散らす事を推奨している訳ではない。

「一人も死なせねぇぞ!」

 一刻も早く現場に駆けつけようと、黒煙が昇る方角へ疾走するビアン。やる事はたくさんある。救助、避難誘導、等々。気合を入れて現場へ向かう。

「あぁ、みんなを助けるんだ!」

 そのビアンの背後から、全速力で迫ってくるライゼルも意気込む。

「なんでお前がいるんだよ?!」

「俺も手伝うよ」

 さも、ビアンと共に現場に駆けつけるのが当然かのような顔をして並走するライゼル。そんなライゼルの助力は、ビアンにとって予想外だった。ビアンにとってライゼルは、人手として勘定されていない。厳密に言えば、今回に限ってライゼルは足手まといでしかないと考えている。

「ライゼル! お前が来ても役に立たないだろ!」

 

 一方、船着き場を含むミールの北部。火の手からは離れているものの、街を飲み込まんとする熱風はここまで届いている。決して危機を脱している訳ではない。

 ベニューとイミックは、取り残された他の町人と一緒に、比較的に安全な防波堤の向こう側へ避難し、遠くから火に包まれる街を見守っていた。立ち昇る黒煙が先程よりも量を増しており、火の範囲が急速に広がっているのが分かる。

「こんな時になんだがな」

 突然イミックがそう切り出して、ベニューはイミックに視線を向ける。イミックは街の中心に向かっていったライゼルに想いを馳せながら、こう続ける。

「誰かに襲われて怪我をしたと言っていたが、ライゼルを見ていると自分から揉め事に首を突っ込んだんじゃないかと思えてくる」

「そうですね、そうかもしれません。ライゼルはいつもああなんです」

 火事だと分かるや否や、一目散に現場に向かったライゼル。付け加えるなら、ついさっき入水を試みた時も危険を顧みず水の中へ飛び込んだ。何かを考えての行動ではない事は、先にも示した通り。災害が起きれば、きっと困っている人がいる。であれば、助けに向かうのは当然の事と、ライゼルはそう考えている。思考の仕組みは至って単純で、それ以外に秤に載せるものがない。

「損な性格だ。いつかきっと痛い目を見る。いや、いつかとは言わない。たった今、後悔しているに違いない」

「本人は困ってる人を放っておけないんだ、って。本当に、目が離せません」

 それはそうなのだろう、とイミックは口にこそしないが、そう感じる。今日だけという短い期間で知らしめられた、ライゼルの裏表のない性格。臆面なく思った通りの事を口にするあの少年なら、言動が一致するのも想像に難くない。亡きルセーネを彷彿とさせる真っ直ぐで、向こう見ずな姿勢。

 だが、だからこそ放っておけない。先は冷たく切り捨てたが、何も望んで怪我を負う事を望んでいる訳ではもちろんない。ライゼルの迂闊な行いは、ルセーネとの思い出を呼び起こし、イミックの心を締め付ける。

「人助けもいいが、大怪我したらどうするんだ」

 イミックは呆れた調子でそう言い捨てるが、それを聞いたベニューは目を丸くしたかと思うと、堪え切れなかった様子で吹き出してしまう。さも気の利いた冗談を聞かされたかのように、ベニューは笑いを堪えられない。

「ふふっ」

「なんだ、私は何か可笑しなことを言ったか?」

 イミックにはこの場で失笑される覚えがない。至極真っ当な指摘をしたつもりだ。それなのに、何故?

「今日の無茶は、イミックさんの所為みたいなものですよ?」

「どういう意味だ?」

 失笑を堪えているものの、意外と察しの悪いイミックに対して、少し悪戯っぽく笑って見せるベニュー。

「だって、イミックさんに出会っちゃったから。多少の無茶は、イミックさんが治療してくれるって、そう思って後先考えずに行ったんだと思います」

 そう告げられ、この二人は姉弟か何かなのだと察しがついた。ライゼル同様、衒いもなくそういう事が言えてしまうこの少女は、きっとライゼルの血縁者か何かだろうと推測できた。

「妙な事を言うな。聞いてなかったのか、私ではなく霊薬を持った少女を頼れと言っただろう?」

 口にする度に、うんざりするくらいに情けない事を言っていると、イミックは自分でも自覚している。だが、そうでもしなければ自分を保てない。子供相手に大人げない態度を取ってしまうのは、予想外の出来事に衝撃を覚えた事よりも、この少女を相手取っている事が大きな要因と考えられる。投げ出したいのに、それはいけない事だと咎められているような錯覚を覚える。それ程までに少女の言葉は真っ直ぐ刺さる。

 そんな引き千切られそうな想いに苦しむイミックに、ベニューは上目遣いで彼の様子を窺う。

「お言葉ですが、イミックさん?」

「どうした?」

「聞いてなかったのか、と仰いましたが。イミックさんこそ、ライゼルの最後に言った言葉、聞こえていなかったんですか?」

 突然この少女は何を言い出すのかと眉を顰めるイミック。おそらく、役人の絶叫で掻き消された言葉の事を指しているのだろう、とイミックは察した。確かにあの時ライゼルは何かを言っていたようだ。だが、それは今更になって、特別勿体ぶって言わなければならないような事なのだろうか?

 しかし、無意識の内に心が続きを知りたがっている。故に、問わずにはいられなかった。

「ライゼルは何と?」

 この直後、イミックは先に抱いた感想を猛烈に訂正したくなる。真っ直ぐなばかりではない。しっかり搦手も使えるのだと。少女の方が一枚上手だったと思い知らされる。

 ベニューは先程のライゼルの一喝を一言一句違えずになぞる。そして、先の台詞をなぞるベニューの唇を注視していると、ライゼルの声がベニューの声に重なってイミックの耳に響いた。

「『怪我が治った事よりも、俺もみんなも、イミックに優しくされた事が嬉しかったんだよ!』って、ライゼルはこう言ったんです」

「…そ、それは」

 頭をガツンと鈍器で打ち付けられたような気分になる。この眩暈さえしそうな衝撃は、恥かしさから来るものか。思考が掻き乱される。平素の冷静な自分を保っていられなくなる。

 本当はあの時、イミックの耳に届いていたようにも思う。だが、心のどこかで拒否してしまって、聞こえなかった振りをしていた。聞こえないふりをすれば、二度も人前で涙を流す羽目になる事はなかったから。

 しかし、彼の姉であるベニューによって、再びイミックの元に届き、イミックの閉じかけていた心をこじ開け始める。

「いい加減にするんだ。優しくされたからってどうだって言うんだ。どんな手当てを受けたって、痛い事に変わりはないんだぞ?」

 嗚咽交じりに反駁するイミック。ベニューはそれを見て尚、申し訳程度に語気を抑えるだけで、言葉を紡ぐ事は止めない。イミックに知っていて欲しい事があるのだ。

「これは余計な事かもしれませんが、ライゼルは【牙】使いなんです」

「なんだって?」

 これを聞いたイミックは驚愕を禁じえない。ベニューが告げた真実と現在の状況が、イミックの常識からすれば余りにもそぐわないのだ。一瞬の驚嘆の後、呆れて物が言えなくなってしまう。開いた口が塞がらない、とはまさにこの事だ。

「冗談だろう? ライゼルは【牙】使いなのに、炎の元へ行ったのか?」

 何かの与太話だと思わなければ、イミックは自分を納得させる事が出来なかった。牙使いが炎に近寄る事。それは一般的な常識を持ち合わせている者には、信じられない事だった。が、ベニューはそれを虚言だと言い改める事はなく、首肯を以って答えとした。

「本当です。底冷えする冬の日だって暖を取ろうとしません」

「そんな奴が、あの大火災に向かって突っ走って行ったというのか?」

 黙したまま首肯を返すベニューに、自身の言葉を脳内で反芻しながら咀嚼していく。どうしても腑に落ちない。

 この国に於いての共通認識、「牙使いは本能的に火を恐れる」という事。牙の所有者は、個人差こそあるものの、遍く全ての者が生まれつき火を恐れる。例えば、オライザでリュカが朝食を用意したが、一切加熱を必要としないものばかりだったところを見ても、その認識は一般的だと言える。他人を凌駕する力を持った代償だと信じられており、牙使いの中には見る事も適わぬ者すら存在する。それが傍に近寄ろうものなら、どんな恐怖に苛まれるか想像すら難しい。

「どうして、どうしてだ?! 怖いんだろう? 痛いんだろう? 自分を傷つけてまで人助けをする事に何の意味がある?」

 牙使いの身でありながら、心底恐怖する対象に望んで立ち向かっていくライゼルを想うと、心が散り散りに引き裂かれそうになる。何があの少年をそこまでさせるのか、理解が及ばない。理解できない者は恐怖の対象へと変貌する。先の見物客達がそうであったように。イミックは、ライゼルの在り方が恐い。

「意味があるかどうか、私には分かりませんし、きっとライゼルも分からないと思うんです」

「だったら!」

 イミックの激しい語気に気圧される事なく、ベニューはなぜか照れくさそうに答えて見せる。

「『誰だって、しかめ面より笑っていた方がいい』、ライゼル、すごい勇気付けられたと思います」

 イミックは、一瞬目の前の少女の言葉を疑い、その直後に自分の心根を恥じた。自分は自ら語った理想さえも、ここぞという時に失念していたのだから。

 願いにも似たこの想いは、イミック自身の言葉ではなく、亡きルセーネからの受け売りだった。ただ、自身から生まれた想いでないからと言って、これを真に願わなかった訳ではない。この想いに心を揺さぶられ、感銘を受けたからこそ、イミックは医学の道を究めんとした。きっかけは、この想いにあったのだ。

「…情けない。情けないなぁ、私は」

 そう言って顔を上げた男の目に、もう既に涙はなかった。あったのは、理想を掲げ、志を持ったあの日と同じ力強い眼差し。苦しむ人達に笑顔をもたらすと誓った、遠い日の純粋な気持ち。

「こうしている場合じゃない、私達も行こう。逃げ遂せた人の中にも怪我を負った人達がいるだろう。助手を頼みたい、一緒に来てくれ」

「はい」

 

 遅ればせながら、イミックとベニューも、ライゼル達の後を追い、中央広場の方へ駆けて行く。

 道すがら、二人は変わり果てたミールの街並みを目撃する事となる。至る所に火の手が及んでおり、沿道に置かれた腰掛けも道路脇に停められた荷車も、あらゆる物が火に飲まれている。その燃焼は昼間のオライザを更に明るく、いやそれに留まらず真紅に染め上げていく。もし、空からこの街を俯瞰視できたなら、中央通りが赤い太線に見えているだろう。

石畳の道も熱を反射し、その場にいるだけで熱気に晒される。呼吸する度に、喉の渇きを覚える。長時間この場に滞在する事は危険行為と思える程に。

 ベニューとイミックが熱気を迂回しながらミールの中央広場に到着した頃、ライゼルとビアンは逃げ遅れた人々を一旦郊外へ避難させた後だった。

「ベニュー、それにイミックも。なんで来たの?」

 船着き場で待っているとばかり思っていたベニュー達が、中央広場へ駆けつけた事に驚いてみせるライゼル。この事態をライゼル自身が全く予想していなかった辺り、イミックに言い返されても文句は言えない。

「ライゼル! 牙使いだと言うのに無茶な真似をするんじゃない」

 この叱責は、もちろんビアンも先にライゼルに向けている。何故、初対面の露天商がライゼルに対し親身になっているのかビアンには分からないが、イミックの言う事にはビアンも同意だ。

が、ベニュー達が合流した時には、ビアンもライゼルの助力を素直に受け取っていた。この状況がそうさせた。余りの火災の規模に、負傷したものが大勢いて人手が全然足りていないのだ。

「いや、最初は叱るつもりだったが、この状況では追い返す事も出来ん」

 駐在していた治安維持部隊アードゥルの隊員のほとんどが、避難民の誘導に人員を割かれ、消火活動が全くの手付かずの状態だ。大通りから端を発したと見られる火の手は、既に西部の倉庫街へ燃え広がっており、ミールのおよそ三分の一が既に火に飲まれている。幸い、現在火の手が回っているのは商業区画である大通りと倉庫街のみ。現状、居住区は難を逃れているが、そちらに火が及ぶのも時間の問題だろう。

「俺達がやらなきゃ、ミールが助からない!」

「どうやら、そのようだな」

 状況を把握した四人は、協力して消火活動に当たる。

 食の街という事もあり、水は大量に用意されていた。これを消火用水に充て、桶や樽に水を汲み、冷却消火を推し進めていく。住民から借りた鍋や桶いっぱいに水を汲み、燃え盛る炎に掛けていく。湯船程の木桶が貯水槽として備え付けられており、そこの水を汲んでは運び、火に振り掛ける。それを繰り返す事、幾度。

 しかし、これでは埒が明かないのは、消火活動を始めてすぐ判明する。火に掛けた水はその瞬間に水蒸気と帰し、天に昇って行くだけである。火の勢いは一向に弱まる気配を見せない。

 打つ手なしの一行の元へ、治安維持部隊アードゥルの隊員がやってきた。ビアンとアードゥルの隊員は、お互いに先の無銭飲食事件の時に素性を明かしている。アードゥル隊員も、有事の際の経験があるであろうビアンの協力を当てにして訪れたのだ。このように有事の際には、役人とアードゥルとが協力関係を結ぶのはままある事だ。

「冷却消火ではとても追いつかない。これから破壊消火に移ろうと思うのだが、人手を貸してくれないか?」

 そう申し出を受けて、ビアンは傍らにいるライゼルをちらりと見やる。破壊の力と言えば、ライゼルの持つ【牙】は打って付けの戦力だ。だが、これ以上劫火に近付くとなれば、牙使いでなくても危険が増す。流石のビアンも判断しかねる。ライゼルを行かせるべきか、否か。

「ビアン、俺行くよ」

「いいのか?」

「おう、俺にしか出来ない事があるなら、俺はそれをやりたいんだ」

 ライゼルの意志を確認したビアンは、ライゼルの参加を承認する。

「よし、じゃあ付いて来い。破壊する家屋は俺とアードゥルで指示する。お前はそれを全力でぶっ壊せ」

「がってんだい!」

 ライゼルは勇んで、居住区の方へ駆けていく。今から作業に移れば、大半の住居を火災から守れるかもしれない。住居は生活の基盤、ここは何としても死守したい。

「そうだな、私も私にやれる事をやらなきゃな。ベニューついてきてくれ」

 自己を犠牲にしてまで誰かを救おうとするライゼルの姿に感化されたイミックは、ベニューを連れて人々が火から逃れた避難地区へ急ぐ。小脇に抱えた道具箱を揺らしながら、懸命に治療を必要としている人達がいる郊外へと懸命に駆けていくイミック。

「ここだな」

 避難地区は、ライゼル達がいた場所からだいぶ離れた、ミール西部の郊外にある。街の外れにあるという事もあり、流石に火の手は及んでいないが、街の方から煤けた臭いが届く。その所為で炎の恐怖が払拭できないのか、逃げ延びた者達の顔に安堵の色はない。

 それもそのはず。彼らは皆一様に避難する際に怪我を負っている。怪我は穢れの元、それがミールの人々から気力を奪ってしまっていた。一度、穢れては今世での生涯を全うする事が適わない、のみならず、来世にも悪影響を及ぼしかねない。

「痛いよぉ。膝、膝がぁ…痛い」

「くっそぉ、水膨れができてやがる・・・俺はもう、だめだ・・・」

 擦り傷や火傷、様々な外傷が皆の心を塞ぎ込ませる。正しい医学知識を持たないベスティア国民は、命の有無に拘らない。それ以上に、穢れを生んでしまったかどうかが最大の懸念なのだ。どんな些細な外傷であっても、それは最大の恐怖をもたらす原因である事に他ならず、その恐れがある限り、ミールの人々の顔色は優れないままだ。

「これは、酷い・・・」

 これまで多くの患者を診てきたイミックだが、これ程の大惨事に立ち会った事はない。明らかに人手も物資も足りておらず、イミックの許容量を超えている。だが、

「それでも、やれる事をやるしかない」

 イミックは、作業着の袖を捲りながら、傷病者達に声を掛けて回る。

「重症の者から診ていく。近くに重度の怪我を負っている者がいれば、私を呼んでくれ」

 携帯している木箱の中から道具を取り出し、次々に手当てしていく。ベニューも助手を務め、補助する。イミックがこれまで研究した薬膳を基礎にして作り上げた特製軟膏を火傷に塗布したり、傷口を消毒したり膿を取り除いたり、治療に手を尽くしていく。完全に治癒する事は適わないが、それでも重症化する事は防げたはずだ。

 だが、周囲の反応は予想したそれと違っていた。傷口が塞がっても彼らの心は晴れない。

「やめときな」

 手当てを続けるイミックに、一人の男が声を掛ける。つい先程、イミックが手当てを施した中年男性で、肘に軟膏を塗布した布を当てながら、イミックに制止を促す。

「どういう事だ?」

 作業の手を止めはしないが、その制止の言葉に後ろ髪を引かれるイミック。

「もうミールは駄目だ」

 俯く男の口から零れるのは諦めの言葉。それ程までにこの大火が与えた影響は大きく、皆一様に打ちひしがれている。これまで培ってきた物が灰に帰していく徒労感と、それを前にして何もできない自分達の無力感。イミックは彼らの姿を前にして、先程までの自身を見せられている気になる。

だからこそ、再び立ち上がれたイミックは彼らを鼓舞する。

「駄目なものか。今、アードゥル隊員達が消火活動をしている。手遅れって事はないだろう」

「そうじゃねぇ。例え、俺達が助かったって、これだけ穢れを生んじまったんだ。あんたには感謝してるが、もうこの街に構う必要はねえよ。そうでなきゃ、あんたまで穢れが感染(うつ)ってしまう」

 穢れへの恐れとは、人々の意識の中からそう簡単に取り除けるものではない。これまでおよそ十年に渡ってイミックが戦い続けてきた、人々に植え付けられた『穢れ』というものへの恐怖。今尚続けられている消火活動の事を知らぬこの人達の認識では、ミールは既に穢れてしまった土地。灰に帰してしまった住まいを目にするなど、それこそ気が病んでしまいそうだと思っている。その想いに囚われてしまっているからこそ、早くここから離れたくて仕方がないのだ。

 だが、それは現在の街の様子を知らぬ住民達の認識、イミックやベニューはそうではない。

「一通り見て回ったが、穢れを孕む程の傷病者はいなかった。あなた方の怪我は充分に治癒できる。それに、まだ終わってなどいない」

「そうは言うが・・・」

「少なくとも! あの少年は、ライゼルは諦めてなどいない!」

 イミックが唐突に語気を荒げるものだから、周囲の者達も面食らってしまう。急にライゼルの名を出されても、ミールの人々は彼を知らないのだ。イミックを再起させた少年の存在を。

「ライゼル? 誰だそいつは?」

「今も尚、火災を食い止めようと必死に消火に当たっている【牙】使いの少年だ。この街の事を知らぬあの子が、まだこの街を守ろうとしているんだ。ここで働くあなた方がとっくに諦めてしまっては、ライゼルの努力が報われない!」

 街を飲み込まんとする炎よりも尚熱いイミックの弁に、ミールの人々は困惑を隠せない。

「何故、そうまでして余所者のあんたらが手を尽くしてくれるんだ?」

 その問いに、今のイミックは衒いもなく、心の底からあの言葉を返す事が出来る。

「そんなの簡単だ。誰だって・・・」

(誰だって・・・なぁ、そうだろう、ルセーネ)

 脳裏に浮かぶのは、その言葉をイミックに聞かせた女性の顔。もう、目的と手段が入れ替わってしまっていたイミックではない。飽くまで医療は手段でしかなく、心から望むのは皆の笑顔。その願いを、もう見失ったりはしない。

 そして、信念とも呼べる想いを、意気消沈している街の人々に聞かせようと思った勇み足を踏んだその時、イミックは足の裏に何かを踏みつけている事に気が付いた。

「これは・・・」

「イミックさん?」

 道具箱から転げ出ていたそれを手に取り、体を震わせるイミックに、その様子を不思議に思ったベニューが声を掛ける。が、耳に届いていないのか、手に取った黄色い石に目を奪われながら、イミックは訥々と言葉を紡ぐ。

「まだだ。まだ諦めるには、早すぎる。この街は、助かるかもしれない!」

 

 時を同じくして、簡単に打ち合わせを済ませたライゼル達は、消火活動を開始する。

 これから始めるのは破壊消火。その名の通り、破壊を伴う消火活動である。燃焼している建造物と隣接する家屋を破壊する事で、それ以上に火の手が伸びるのを阻止できるのだ。火は基本的に上へ上へと燃え広がっていく。付近に燃え移る物がなければ、それ以上は被害が及ばない。

 が、事は一刻を争う。もたもたしている間に火は次々に家屋を飲み込んでいく。壊している間にその家屋に飛び火すれば、それは破壊消火の意味をなさない。それに、天井に火が到達すれば初期消火は失敗したも同然。短時間で家屋を粉砕する必要があり、その為にはライゼルの【牙】が必要なのだ。

「よし、あの通り沿いから三軒目の家をぶっ壊せっ!」

「わかった!」

 指定された家屋目掛けて走るライゼルの右手に、ムスヒアニマが収束していく。周囲の地面から霊気(ムスヒアニマ)が溢れ出し、ライゼルの求めに応じて反応を見せる。熱気の中にあっても、その青白い光はその輝きを色褪せない。ライゼルが求める破壊の力。人を傷つける為でなく人を守る為の破壊の力を、星脈に流れたムスヒアニマは形成していく。そして、ライゼルの全身が霊気(ムスヒアニマ)で満たされた瞬間、気の奔流、意志の発現、若さ爆発、気が高まった瞬間、少年の手には【牙】が握りしめられていた。ライゼルが頼みとする、広げた手の平ほどの幅を持つ幅広剣。

「ごめんよ、あとでリュカに建て直してもらって、ねッ!」

 住居を破壊する事に若干の罪悪感はあるが、それも人命救助には代えられない。オライザ組の存在を知るライゼルは、彼らの建築技術に期待し、力を振り絞り指定された建物を薙ぎ払っていく。壊したなら、また作ればいい。人命と違って、建物はいくらでも代わりが利く。

 ビアンもアードゥルと協力して、ライゼルが砕いた箇所から柱を押し崩したり、壁板を外したりと加勢する。オライザでも力仕事を手伝ってこなかった自分を恨みながら、必死に建物を破壊していく。元々、台風などの自然災害にも耐えられるように建てられた物だ。壊すとなると、非常に手間が掛かる。疲労感もそうだが、貧弱なビアンは自分の両腕の筋肉が悲鳴を上げているのを感じている。

 それと同時に、その時間の猶予のない作業に追われながらも、改めて【牙】の強力さを実感する。

「…すげえな。これが【牙】の力か」

 ビアンは、もう既に何度かライゼルの【牙】を目の当たりにしている。ライゼルがその力を以って、敵対勢力を退ける様子を見届けてきた。のみならず、ビアン自身もその力によって救われた事もあった。

 そして今、その力は、これまで前例にない役割を果たしている。生産活動以外にも、こういった救助活動での【牙】の必要性も今後検討しなければならないのかもしれない。オライザは他の地方を先んじて【牙】を有事の際の解決手段に用いているが、まだまだ職業(やとわれ)牙使い以外の【牙】の使用に、法整備が追い付いていない。今回の場合、「火を恐れない牙使い」という極めて例外的な凡例にはなるが。

 その史上初の例になるかもしれないライゼルが生み出す【牙】。こういう有用性を見出せるのは、【牙】の特性にある。【牙】は安定した霊気(ムスヒアニマ)の供給さえ行われれば、万物よりも硬質な武器となる。木材や紙片は尚の事、石材や陶器を斬っても刃毀れ一つしない。それどころか、使い手の卓越した技量が加われば、両断する事さえ適わぬ事ではない。

 ライゼルはその域にこそ達していないが、他の一般人が費やす半分ほどの時間と労力で、破壊活動をこなしていく。袈裟懸け斬りで一太刀振るえば窓枠が割れ、露構えから一突き繰り出せば階段が崩れ落ちる。みるみる内に、指定された家屋は形を保てなくなる。【牙】を振るわれる衝撃ごとに木片が上部から散っているかと思うと、家屋の外へ避難したライゼルの放った最後の一撃で、ついには全壊に至る。

「どうだ!」

 大きな音を立てて瓦解していく家屋を振り向き様に見つめながら、握力と同時に気が抜けた。自らの為した成果を確認し、大きく肩で呼吸を整える。

 区画整備された街並みの中にぽっかり空いた、元々は居住する家のあったはずの大きな空間。指定された家屋を全て倒壊させ、居住区への延焼は免れた。これまでライゼルが破壊したのは住居四棟。大黒柱も梁も壊しに壊し尽した。作業による疲労に加え、ここまで火の手は及んでいないものの熱風に晒され余計に体力を奪われた。汗を流し、体の水分を失っているライゼルは、酷い喉の渇きを覚えていた。

「これで…終わり?」

 一仕事を終え疲弊したライゼルは、座り込んで黒々と立ち昇る煙を見上げる。こんなに大きな炎をライゼルは見た事がない。突発的に名乗り出たライゼルだったが、改めて火を目の前にしていると、つい体に力が入るのが自分でも分かる。恐怖を完全に克服している訳ではないのだ。

ふぅと大きなため息を吐いた途端、ムスヒアニマの供給の途絶えた【牙】は、音もなく霧散して地に還っていく。武器の形成を維持するだけで、かなりの体力を消耗するのだ。役目を終えた【牙】を、ライゼルは一旦引っ込めた。

とにもかくにも、破壊消火によって、火災規模の拡大は防ぐ事は出来た。ライゼルがいなければ、これ程の成果を上げる事は出来なかっただろう。

 だが、ビアンの顔はそれでも晴れない。渋面なのはアードゥルも同じだ。彼らの芳しくない反応は、まだ危機は回避されていない事を暗示している。

「いや、俺達がやったのは飽くまで応急処置に過ぎない。完全に鎮火できなければ、どれだけ手を尽くしても意味がない」

 燃焼の三要素に、可燃性物質、酸素、温度の三つが上げられる。消火活動とは、これらのどれかを取り除く事で達成される。そして、それらを達成する為の手段として、可燃物を断ち切る除去消火法、酸素を断ち切る窒息消火法、それと温度を下げる冷却消火法がある。

先程まで展開していたのが、破壊手段を用いての除去消火と、放水による冷却消火である。が、試みた結果は被害拡大を食い止めただけ。当然ながら鎮火には至らない。

 アードゥルと連携を図り事に当たっていたビアンは、次の判断を迫られている。一段落付いた現状、共通確認しておきたい事がある。これはアードゥルと擦り合わせるというより、ライゼルに聞かせる意味合いの方が大きい。

「お前に話すべきか迷ったが。この火事は放火によるものだ」

「放火?」

 突然の発表に困惑を隠せないライゼル。アードゥル隊員も首肯でその意見に賛同する。一人だけ分かってない少年の動揺を察して、アードゥルの隊員がビアンの続きを引き継ぐ。

「状況を見ると、そう断定できる。保管庫の油がごっそり盗まれていたそうだ。犯人はそれを使って火を放ったのだ」

「じゃあ、犯人を見つけ出せばいいってこと?」

「いや、見つけた所で一度付いた火の勢いは止められない。少年に頼みたいのはそれではない。もちろん、現在他の隊員が放火犯を探しているが、発見の連絡はない。おそらく、燃料を使い果たした時点で逃亡したのだろうな」

 避難民の中に怪しい者はいなかったと話すアードゥル隊員。避難民のほとんどがミールの人間で、彼らに自分達の生活の場を脅かす動機はない。観光で訪れていた者達も、もれなく命辛々に逃げ遂せた者ばかりで、自ら放火したのであれば、穢れの元である怪我を負う危険性を自らに課す理由はない。となれば、避難民に紛れているとは考えられない。

「私は先の無銭飲食の少女が怪しいと睨んでいるが、あれ以降街中で見かけたという者はいないようだ。現状、取り押さえたとしても・・・」

 それ以上は続けなかったが、隊員が劫火から視線を逸らせないでいる辺り、「あの火に飲まれたものは取り返しがつかない」と語っているようなものだ。諦めてこそいないが、既に失われた物があるという事実は、ここの住民の心に重く圧し掛かっている。

 身分証を身に付けていない、酒瓶を携えた少女が犯人なのかどうか定かではないが、現状で犯人探しが最優先事項ではない事は納得できる。他に出来る事を優先すべきなのは、ライゼルも承知済みだ。

「そっか。じゃあ、次は何をしたらいい?」

 ライゼルがそう問うと、アードゥル隊員は頭の中にこの街の地図を描きながら思案する。

「東の居住区は一先ず安全だろう。次は倉庫街の延焼を食い止めたい。あそこにはこの街の財産である食糧庫がある」

 人命の次は、住民の財産を守るのが治安維持部隊アードゥルの務め。今の段階で完全に鎮火する事が出来れば、まだ再建の目処が立つ。東の居住区と北の波止場さえ無事であれば、倉庫街に多少の被害が出てもやり直しがきく。貿易の要衝でもあるミールには、人材も資材も充実している。街の南にはオライザの職人達もおり、現段階の被害状況で抑える事が出来れば、元の状態に戻すのは不可能な事ではない。

 居住区という生命線を死守できたライゼル達に、微かだが希望が見えてくる。出火原因が住宅地になかったのは不幸中の幸いか。

「よし、次は倉庫街だね」

 だが、アードゥル隊員が狙った通りには事は運ばなかった。ここに来て尚、未だ姿を見せぬ犯人は、飽くまでライゼル達を翻弄する。ライゼルがそう意気込んだ矢先、事態は急変したのだ。

「おいおいおい、冗談だろ・・・!?」

 街の東側を向いているビアンの顔が見る見るうちに青褪めていく。皆がその視線を追ってそちらを見やると、ライゼルが破壊した家屋の向こう側、つまり安全を確保したはずの、住宅街の火の手が及ぶはずのない場所から炎が昇っているのだ。

「どうして!?」

 ビアン達が指示した家屋を破壊すれば、居住区には燃え移らないとライゼルは聞かされていたし、実際そのはずであった。しかし、その予想を裏切りまた新たな火災が起きたという事は・・・

「犯人は、まだこの街に潜んでいやがったんだよ。アードゥルや俺達の意識を遠ざけといて、注意の逸れていた居住区の最奥に火を放ちやがったんだ」

 犯人の狙いは未だ定かではないが、幾重にも張り巡らされた計略を以ってこの街を火に掛けようとしている。突発的な事態にも対応できるよう訓練を積んでいるアードゥルさえも翻弄し、優れた手練手管で南部地方最大のミールの街を陥れようとしている。

「くそ、こんな時に沖つ風か」

「風が、炎を煽っている・・・」

 彼らを襲う悲劇はそれだけではなかった。苦い表情を浮かべるビアンと隊員を嘲笑うかのように、更に状況はライゼル達を追い詰める。間の悪い事に、沖から陸の方へ吹く風が出てきたのだ。ビアンは波止場で聞かされた管理小屋のおやじの話を思い出す。午後からは沖から陸地へ風が吹く為に、船が出せないのだと。

 そのビアン達を足止めした風が、今度は事態を更に悪化させた。吹き付ける風に煽られ、火の勢いは留まる所を知らない。これまで安全とされていた南側にも火の手が及ぶだろう。もしかすると、犯人はこの事も計算尽くだったのかもしれない。

 こうなってしまっては、話が変わってくる。居住区を最低限守れていたからこそ、倉庫街へ赴こうと考えていたが、居住区を挟むようにして東西両端が燃えているとなると、人員の限られている今、対処は困難を極まる。二手に分かれた所で、どうなるものでもないのだ。炎は既に大通りや広場のみに留まらず、倉庫街の方へも燃え広がり始めている。ただ手を拱いているだけで時間を浪費してしまえば、いずれこの街全体に炎が及ぶことになる。犯人の策に、完全に手詰まりの状況に追い込まれたライゼル達。

「ねぇ、ビアンどうしたらいい?」

「・・・・・・」

 ライゼルが問い掛けるが、ビアンは思いつめた面持ちで言葉を返さない。それが一層ライゼルの不安感を煽る。

「アードゥルのおじさん?」

 代わりにアードゥル隊員へ対策を求めるが、ビアンの様子とほとんど変わらない。いや、管轄の隊員という事もあり、より一層に深刻な面持ちをしている。

「ねぇ、俺はどうしたらいいんだよ?」

 焦れるライゼルに、隊員は少し気落ちした様子で、だが、毅然とした態度で宣言する。

「我々は現時点を以ってミールを放棄する」

「えっ?」

 完全な鎮火を諦め、住民を引き連れてこの地を離れるという事。要するに、犯人に敗北を突き付けられてしまったのだ。目的も素性も明かさぬ姿なき悪意に、対抗する手段を失くしてしまったのだ。

 そうは言われても、隊員がやや苦い表情できっぱりと言い切った内容を、ライゼルは許容する事が出来ない。許容できないから、少年は食い下がる。

「どうして!? まだやれることはあるよ」

 ライゼルにとって、ここは特別思い出深い場所ではない。初めて立ち寄っただけであるし、街の特徴である美食も琴線に触れなかった。故郷から離れた地域にある、賑やかな雰囲気の、火の気だらけの少し苦手な印象の街。

が、それでも、この街がこのまま灰になる事は受け入れられない。それを認めれば、ライゼルは自身の夢を否定する事になる。ここで諦めれば、たくさんの笑顔が失われる。つまり、みんなを守る為に強くなるという誓いを果たせなかった事になる。それは、何があっても許せない。

「払う犠牲が多すぎる。これまでは一ヵ所だったからなんとか対処できたが、まだ犯人が潜んでいるかも分からないのだ。今以上に複数個所で火が上がれば、逃げ道の確保すら難しい」

 現在、犯人は、中央の大通りと居住区東端から火を放った。もし、南の入り口に火を放たれてしまっては、居住区の中にいるライゼル達は、避難路を失いこの街と共に心中する事になる。

「でも、これで最後かもしれないじゃん。犯人だってもういなくなってたら・・・」

「不確定な状態で命を危険に晒す真似をする必要はない!」

 アードゥル隊員は正しい見極めをしている。この引き際を誤れば、この場にいる三人は、無為に命を散らす事になる。

「それでも、やれるギリギリまで何かやりたい!」

「私達も同じ気持ちだ。だが、何かしたところで、もう街の半分近くが火に飲まれた事に変わりはない」

「それが何だよ。何度だってやり直せる」

 決して軽い気持ちで言ったのではない。フィオーレという前例を、ライゼルは知っている。十年前、フィオーレはとある脅威に晒された。『フロルの悲劇』として知られる、姉弟から母を奪った事件。が、しかし、村民が一致団結した事でその窮地を脱したのだ。ライゼルは自分の集落を愛する住人の底力をその目にした。だからこそ、やり直せるのだと断言できる。

 そう訴えかけられた隊員は、ライゼルの身分証を見て、頑なに留まろうとするライゼルの言動に得心がいく。フィオーレ生まれの平民を示す首輪、年の頃から十年前の事件を経験しているのだと推察できる。が、それでもライゼルの我儘を聞き入れる訳ではない。

「そうか、その[[rb:身分証 > ナンバリングリング]]はフィオーレの者か。フィオーレの事は我々も聞き及んでいる。だがな、こんな事態となっては、もう誰もこの地に帰って来ようなどと思わんのだ。十年前のフィオーレとは状況が違い、怪我をした者が大勢いる。故に、この土地は『穢』れ、もうこの土地は死んだのだ」

 こういった考えを持つのは、何もこの隊員だけではない。他の隊員もこの土地の者も、そしてビアンもそうだった。おそらく、このまま何も対処できなければ、隊員が言った通りになるだろう。穢れを孕んだ土地から人々が離れ、手付かずとなり荒廃した街は、時と共に人々の記憶から薄れ、荒野となっていくのだろう。

 ビアンも、ライゼルがそれを良しとしない事は分かっている。刻一刻と決断の時が迫っているが、敢えて時間を掛けて、言葉を以ってのライゼルとの意思疎通を図る。

「ライゼル、とりあえず聞け」

「とりあえず聞く」

 感情の高ぶりとは裏腹に、ライゼルは意外と素直にビアンの言い付けを聞く。前々回の件から、徐々にビアンに対する信頼が生まれつつある。ビアンが聞けと言うなら、聞くだけの耳は傾ける。それに従うかは、聞いてから考える。

「アードゥルが言う事も一理ある。むしろ、俺は大賛成だ。人的被害を最小限に抑える事が何よりも優先すべき事だ。それは分かるだろう?」

「・・・ビアン」

 自身の判断の是非は自分にあると強がって見せたものの、ビアンにそう諭されては声高に言い返す事は出来ない。ライゼルが成し遂げたい事の為には、ライゼル一人の力ではどうしようもない。この場のビアンやみんなの力を借りねばならない。それは皆を巻き込み、危険に晒すという事を意味している。ただ、その危険性は十分理解できるが、今なお燃え続ける炎に背を向ける事も、ライゼルには素直に承諾できない事だ。

「だが、俺にもひとつだけ不満がある」

「不満って何?」

 真剣に語るビアンを前に、当惑するライゼル。既に撤退に賛成の意を示しているビアンが、何を言わんとするか分からない。ライゼルと違う思惑があって、この場に留まろうかと悩んでいる様子。どうやら、ライゼルを叱り、説得しようとしている訳でもないという事は見て取れるが。

「心残りと言ってもいい」

「?」

 もうここまで来ると全く見当が付かない。そんなライゼルなど意に介さず、真顔のままビアンは言い切る。

「お前もベニューも、まだここの焼き玉蜀黍を食べていないだろう?」

「ビアン、何言ってんの?」

「カラボキ産の玉蜀黍は、もちろんカラボキに行けば豊富に獲れるだろう。だけどな、それを香ばしく焼き上げた焼き玉蜀黍は、ここミールでしか食す事が出来ない。何故なら、ここにしか腕自慢の料理人は集まらないからな。つまり、今ミールを放棄するという事は、ベスティア王国の食文化を遺棄するという事に他ならない。俺にはそれがどうしても許しがたい!」

「だから、何言ってん・・・」

 それはこの期に及んで拘る事なのだろうか、とライゼルが問おうとした瞬間、

「実は私も、もう少し見て回りたいです。フィオーレ以外で食べる料理は全然知らないから。それに、ライゼルも食べず嫌いしてるだけだろうし」

 突如として現れたベニューがそう言ったかと思うと、

「彼の意見には、私も同意だ。ここの食材には薬膳に適した物も多い。この街がなくなるというのは非常に困る」

 気付けばそこには、救助活動を終えたイミックとベニューがいた。ずっと火の気の近くにいたライゼル達程ではないが、顔が煤に汚れて真っ黒だ。ここへ戻ってくるまでに煙を多量に浴びたのだろう。

「ベニュー、イミックも!」

 先程顔を合わせた時よりも、作務衣が新しい汚れを付着させているように見える。道具も不十分だったのだろう、イミックは衣服で血や煤を拭ったようだ。それはつまり、

「イミック、みんなの様子はどうだった?」

「安心しろ、しかめ面は止めさせたさ」

 その照れの混じった答えは、ライゼルを嬉しくさせた。イミックはイミックの道を再び突き進んでいる。ならば、ライゼルもライゼルの道を進むのみ。

「イミック、消火を手伝って欲しいんだ」

「もちろん、そのつもりで来た。力になれるかもしれない物も持参してきたぞ」

 そう言って取り出したのは、先程イミックの露店の代金置き場にあった黄色い石。イミックはそれに期待し、危険を承知でここへ駆けつけたのだった。

「それがどうしたの?」

 問われるイミックは、得意げにその石を翳して答えてみせる。

「質問をする割には人の話を聞いていないな。この石は雨を降らせるって言わなかったか?」

 きょとんとするライゼル。ベニューはここまでの道中で事前に聞かされており、何を意図するか分かっている様子。ビアンはと言うと、信じられない、と口をパクパク動かすばかりで、何も音声を発さない。

「どうゆうこと? ビアンも変な顔してさ」

 ライゼルが周囲に目をやり答えを求めても、イミックは黄色い石をライゼルに握らせるばかりで、ライゼルの疑問に応えない。ビアンもその石の正体を知っている様子だが、驚きの余り上手く言葉を紡げない。代わりに、ベニューがライゼルの疑問に答える。

「それは雨を降らせる事が出来る石なんだって。向こうに大きな雨雲が見えるでしょ?」

 そう言われて指さされた方向を見やると、確かにベニューの言う通り、大きく発達した積乱雲がある。気付けば、空が今にも泣き出しそうな様子だ。あの積乱雲から生じる集中豪雨がこの街に訪れれば、この危機的状況を回避できるかもしれない。犯人がこれ以上どんな策を弄そうとも、あの雨雲によってもたらされる雨が、大火災を鎮火してくれるかもしれない。

 しかし、如何に無知なライゼルと言えど、それが楽観的に過ぎる考えだとは分かっている。もちろんそうなれば、願ったり叶ったりの状況ではあるが、それは現実的でないとライゼルは思う。今の空の様子では、もうしばらく待つ必要があり、雨が降り出す頃には、街は灰になっている。

「ベニュー、状況分かってるのか? そういう冗談言ってる場合じゃ「まじかあああああああ!」

 いつもとは反対にベニューを窘めようとするライゼルを遮り、本日三度目となるビアンの絶叫がミールの街にこだまする。

「どうしたの、ビアン?」

「マジだぞ、じゃなかった、すごいぞ!」

 先程まで真顔で街を救う意志を示していた姿がまるで想像できない程に、ビアンは動揺し慌てふためいている。しかし、どこか歓喜の色を帯びている声色。逸って飛び出そうとする想いが、上手く言葉にならない様子のビアン。

「何が?」

 ライゼルにはビアンの興奮の理由が分からない。

「簡潔に教えてやる! あの石は雨を誘発する事が出来るんだ!」

 ミュース石とも呼ばれるヨウ化銀の結晶は、水が結晶化するのを手伝う作用がある。それを雲の中に投じると、その石を核として水滴が生じ、局地的な大雨となるのだ。それがこの黄色い石の正体である。

「これで雨を降らせられるの?」

「そうだ、西部の砂漠地帯では実際に昔から使われている物だ。これがあれば、その雨乞いの儀式を再現できるはずだ」

 大変希少な物であるが故、その効能や存在そのものを知る者が少数であり、ビアンも実物を見るのは初めてだった。西部地方の雨乞いのまじないで用いられる以外に、市井の者がそれを知る機会は少ない。

「これならイケるかもしれない! よし、早速打ち上げよう」

 と、嗾けられるも、まだ実感は湧かない。ただ、これが事態を打開する物なのだ、とビアンがそう言うのだから違いないのだろう。ライゼルも半信半疑だが、その石に賭けてみる気になってくる。

「でも、投げたってあの雲までは届かないよ?」

 例え牙使いのライゼルであっても、腕力が他者より遥かに優れる訳ではない。誰が投げ上げたとしても、遥か上空の積乱雲までは届きそうにない。

「安心しろ、方法は昔勉強した。あとは【牙】と触媒があれば」

 そう独り言ちながら、居合わせたアードゥル隊員やイミックに何やら相談を持ち掛けるビアン。どうやら触媒なる物を持ち合わせていないかを問い合わせているようだ。姉弟を余所に段取りを組み始める大人達の会話に、ライゼルは付いていけない。

「むー、何を話してんのか分かんないや。ベニューは分かる?」

「触媒って物を使えば【牙】が浮かんでいくみたい」

「触媒?」

「私も分からない。とりあえず、【牙】があればいいのかな?」

 不謹慎な考えかもしれないが、こういう時に【翼】の能力を有していれば、とも夢想する。そうすれば、手っ取り早く済みそうだとライゼルは黙したまま空を見上げる。

 そんなライゼルを余所に、イミックと隊員の両名が偶然持ち合わせていた「輝星石」なる物の粉塵を手に入れたビアン。これで、西部地方の雨乞いの儀式が再現できる。あとは【牙】を用意するのみ。

 だが、撤退するつもりのアードゥル隊員にとっては、要救助者が二人増えてしまった形となっている。身の安全が一切保証されていない今、一刻も早くこの場を去らねばならない。

「何を試みようとしているかは知らんが、そろそろ撤退しないと焼け死ぬぞ」

 ミュース石の効能に懐疑的なアードゥル隊員は、皆に撤退を促す。左右から火が迫っているのだ、時間を無為に費やしている場合ではない。

 そう急かされビアンも、宥めるような口調で説得に掛かる。

「まぁまぁそう焦らないでくれ。もうここまで来れば、八割がた成功したようなものだ」

 石の効果を知るビアンは、俄かに余裕を取り戻している。ビアンの脳内では、事態解決までの道筋が見えているようだ。

「まずはこのヨウ化銀を【牙】に括り付ける。途中で離れたりしなければ方法は何でもいい、とにかく一緒くたに出来ればいい。そこに、アンタらからもらったこの輝星石の粉塵を掛ける」

 得意げに語るビアンに、ライゼルはずずいと詰め寄る。

「そうすると、どうなるの?」

「単純に言えば、【牙】が穢れる」

「はぁ!? なんだよそれ!」

 予想外の返答に大声を上げるライゼル。

「話は最後まで聞け。【牙】のムスヒアニマがこの粉塵に吸収されて枯渇するだけだ。お前には何の害もない」

「でも、そうなったら【牙】がなくなるだけじゃん?」

 【牙】を維持できるだけの霊気がなくなれば、【牙】は霧散するというのが一般的な認識だ。だが、厳密にはそうではない。消滅までにはいくつかの段階がある。

「一気に失えばそうなるが、ものすごい遅い速度で徐々に減らせば、面白い現象が見られるぞ」

「?」

 そうは言われても、ライゼルにはこれまでの経験則で面白い現象というものに心当たりがない。

「おい、勿体付けるな。何が起こる?」

 これからやろうとする事に確証が持てていない隊員は、どうも居心地が悪い。もし、この作戦が失敗すれば五人揃って心中だ。

「【牙】は穢れると、浮力を得るそうだ」

「初めて聞いた! それ見たい!」

 状況にそぐわない歓喜の声がライゼルから上がる。如何な状況にあっても、未知は常にライゼルの好奇心を刺激する。

「十年以上前の知識だが、確かに学園都市でそういう論文を目にした事がある」

 六年前に首席卒業したビアン同様、実は学園都市スキエンティアの出身であるイミックからも確証が得られた。ここまで来たら、疑うよりも実践してみようという気になってくる。案ずるより産むが易しという事だ。

 だが、機運が盛り上がってきたその矢先、隊員から素朴な疑問が告げられる。

「やらんとする事は理解できたが、誰が【牙】を発現する? その青年か少女かが牙使い(タランテム)なのか?」

「・・・あ」

 すがるような目でビアンはイミックを見やるが、イミックは静かに首を振る。イミックは牙使いではない。視線を向けられたイミックもベニューを見やるが、ベニューもその期待を否定する。

 得意げだったビアンの顔は凍り付き、文字通り頭を抱える。余りの動揺に、思わず粉塵の入った袋を足元に落としてしまった。

「万策尽きたか・・・」

 せっかくのお膳立てにも関わらず、ここに来て手詰まりとなったらしい。状況から察するに、ビアン達はライゼル以外の牙使いを探しているらしい。雨を降らせる黄色い石と、反応を促進させる触媒が揃っているというのに、あと一つ【牙】が揃わないというのだ。

 が、ライゼルはまだそこまで理解が及んでいない。今ようやく、何らかの理由で【牙】が浮遊するのだ、という所まで呑み込めてきたライゼルが、存在を忘れられているのかと不安になりながらも、おずおずとぽつりと漏らす。

「俺の【牙】で…打ち上げればいいんじゃないかな?」

 ライゼルは【牙】を発現できるのはもちろんの事、剣技『蒲公英(ロゼット)』を使える。遠心力を利用した投擲であれば、より早く石を天に届ける事が出来るかもしれない。考え足らずのライゼルにしては、冴えた妙案に思える。むしろ、現状一番の適任だ。

「・・・ねっ、どう?」

「この間の『蒲公英』をやるんだね。名案だよ、ライゼル」

 この作戦は、一見この上ない上等な手段に思える。立候補したライゼルとそれを聞いたベニューは、実際妙案だと思った。そして、その成功の期待感により俄かに高揚している。

「だろ?」

「よし、やってみよう。ライゼル頑張って」

「おう、任せろ」

 張り切るライゼルと応援するベニュー。それに反して、ビアンは少し呆れたように溜息をついて見せる。両者の間でどうしてこうも温度差があるのか、姉弟には分からない。

「ビアンさん、どうされたんですか?」

 ベニューが問うと、「そういえば、ベニューはその場にいなかったな」とかぶりを振るビアン。

「ライゼル、お前に任せたいのは山々だが、お前は既に一度【牙】を発現させているだろう?」

「おう」

 そこまで言っても、お互いの認識は共有されない。ビアンが言いたいのは、【牙】の発動制限の事。一般的に、【牙】を生成するのに全身を漲る霊気(ムスヒアニマ)が必要となる。それは、生成に必要な霊気(ムスヒアニマ)を充填させるのに、全身の星脈を使わなければならないという事でもある。一度【牙】を顕現させるだけで、星脈をだいぶ酷使する事になるのだ。星脈を酷使する事は、それ自体が穢れに繋がるだけでなく、星脈を傷付け、身体の機能を著しく低下させる。正常な星脈とは、言わば健康指標なのである。

 今のライゼルのように、短時間の内に何度も【牙】を発現させる事は、星脈を傷付ける事に他ならない。というより、大抵の牙使いは、そもそも二度目の【牙】を発現させようとした時点で、過労で倒れてしまう。【牙】はそう気安く連続で出せるものではないのだ。

「おう、じゃない。お前もただでさえ【牙】使用に加え、長時間熱風に晒されている。これ以上は」

「おう?」

 ビアンが説教を聞かすが、どうもライゼルは合点がいっていない様子。危機感に乏しいのは以前からも知っていたが、こうも自覚が薄いとビアンは頭が痛くなる。

「お言葉ですが、それはライゼルも分かっています。それでもライゼルは」

 それどころか、ベニューもビアンに対し反駁する始末。この姉弟には、一般的な【牙】の、正確に言うなら一般的な星脈の認識がないのだ。

 大人に盾突こうとするベニューの姿に、イミックは憤慨する。無知故の過ちであるのだと察するが、それで済ませられる事態ではない。逆転の手を持ち出した者として、無茶は止めさせなければいけない。

「これ以上、ライゼルが傷付く必要はない。この街にだって他に一人くらい牙使いはいるだろう。全てをライゼルに背負わせるのは、お前さんも望む事ではないだろう?」

 余りの剣幕に気圧されてしまうベニュー。ベニューとしても、ライゼルを心配してくれるのはありがたいが、大人達から理解を得られないのはもどかしい。

「イミック、それは違うよ」

「ライゼル?」

 イミックの言葉に答えたのは、ベニューではなくライゼルだった。ビアンの足元に落ちている袋を取り上げ、更に続ける。

「俺は、別に痛い想いをしたくてやってるんじゃないんだ。俺にやれる事なら、誰かの為にやれる事なら、俺はそれをやりたいんだよ」

 イミックの説得はライゼルに届かない。いや、届いてはいるが、それでは止められない。自身の行動を咎められる経験は、イミックも決して少なくない。怪我の手当てをすれば、感謝されると同時に畏怖される。穢れに近付く行為は忌避される世界で、イミックの行いは世間的には異端だ。だがそれでも、いや、だからこそイミックは、孤独に戦ってきた辛さを知る者として、ライゼルの無茶を止めたいと思うのだ。

 イミックは、石と粉塵を手にしたライゼルの腕を強く握り、熱心に語りかける。食い込む程に込められたその力強さから如何ほどの真剣さか伝わってくる。

「ライゼル、この街を救いたいと思うお前の気持ちはよく分かる。だからと言って、その無謀を許す訳にはいかない。ここでお前が倒れる事に、何の意味がある?」

 イミックは、知らぬ間にライゼルに情が移ってしまっている。自らの願いを体現するこの少年が、とても他人とは思えないのだ。誰かの笑顔を守りたいとするライゼルが、故人であるルセーネと印象が重なって仕方ない。イミックは、そんなライゼルがこれ以上傷付く姿を見たくない。心からそう思うからこそ、この少年の手を離してはいけないと思い、余計に力が入る。放せば、二人目のルセーネになり兼ねない。

 背中越しに掛けられる言葉に、ライゼルも思う事があったのか、少し思案するように宙空を仰ぐ。

「意味かぁ…うん、じゃあ、理由はそれだ。あったよ、俺がこれをやる意味」

「・・・?」

 何のことを言っているのかイミックが分からずにいると、ライゼルは肩越しに後ろのイミックへこう告げる。

「無駄じゃなかったってみんなに証明したい。火を消そうとした事もそうだけど、イミックが今まで一人で頑張ってきた事が無駄じゃなかったんだって証明したいんだ」

 ベニューは、ライゼルらしい、と感じてつい口元を綻ばせてしまう。その言葉を向けられたイミックも、つい先程似たような事を口にしていた。「諦めてしまっては、ライゼルの努力が報われない」と。似た者同士の思いやり合い。ならばその軍配は、臆せず本人を前にして堂々と告げられるライゼルに上がるのだろう。

「イミックがこれまで頑張って来たから、いろんな人が笑顔になれた訳だし、こうやってその巡り合わせで雨を降らせる石が今ここにある」

 そう言って、ライゼルは先程握らされたヨウ化銀をイミックの目の前に出す。イミックも自然とそれに視線が移り、その石をもらった時の事が思い出される。グロッタの町の炭鉱夫からの感謝の印。情けは人の為ならず、という事なのだろうか。それが何の因果かここにあるという事は、それはイミックの功績という事に他ならない。

「もし、イミックが何もして来なかったら、本当に駄目だったかもしれない。でも、俺の賭けが上手くいけば、イミックがやってきた事には意味があったんだって証明できると思うんだけど、どうかな?」

 自分の行いを顧みる事の少ないライゼルは、先程の波止場でのイミックの言を撤回させたいのだ。自らの理想を他者に見せ付けられ、打ちひしがれ漏らした弱音。ライゼルはそれを是が非でも認めたくない。ライゼルは、イミックの仕事を尊敬している。そのような人物が自身を否定しているのを見ていると、居ても立ってもいられなくなる。もはや、イミックはそう嘆いた事を半ば忘れかけていたが、ライゼルには心残りとして確かにあり、解消されていない。

「・・・ライゼル」

 イミックが答えあぐねていると、ライゼルは気の逸れたイミックの手を振り解き、左手に黄色いヨウ化銀の結晶を握り締め、右手に再びムスヒアニマを集中させる。

「おいっ、人の話を聞いてなかったのか!?」

 ビアンの制止を振り切り、大地からムスヒアニマを吸収しながら、雨雲の中心真下に向かって走り出す。

「おい、待て」

 ライゼルを引き留めようとするイミックを、ベニューが腕を掴んで引き留める。実力行使にでも出なければ、話を聞いてもらえないと思ったからだ。

「待ってください、イミックさんは誤解してるんです」

「誤解?」

 ベニューにそう諌められ、訝し気に首を捻るイミック。若干、部外者扱いを受けている気がしないでもないビアンも、違う意味で首を捻る。その言い方では、ビアンは分かっており、誤解しているのはイミックだけ、とも解釈できるのだが。現にベニューはビアンを引き留めてはいない。

「ライゼルには、二人分の星脈があるんです。二倍なんです」

 そういえばどこかで聞いたな、とイミックは肩の力が抜ける。半信半疑ではあるが、何故だか納得できた。ライゼルの言葉を違えぬ態度が、自然とイミックにその事を信じ込ませさせた。

「二倍…そうか!」

 ここにきて、ビアンにもようやく合点がいった。ベニューも意地悪でビアンに説明しなかったのではない。ビアンは既にライゼルの『二倍』を目の当たりにしている。

「初めて会った日の、テペキオンの時がそうなのか?」

「はい」

 ビアンが言った通り、テペキオンとの初戦闘の際、短時間の内に二回【牙】を発動させている。一回目は[[rb:投擲 > とうてき]]武器に利用し、二回目は不意打ちによる反撃に利用した。付け加えるなら、ベナードとの試合の際も、一度生成した【牙】に更に循環させたムスヒアニマを注入した。これも言い換えれば、二回に渡り星脈を酷使した事になる。それらの事を、ビアンは他の印象があまりにも強かった為に忘れてしまっていたのだ。

「まさか、二倍の星脈とはな。そうか、ライゼルは自棄を起こしたんじゃなかったんだな」

 緊張が解け、安堵するイミック。考えなしと思わせる言動ばかりだった為に、要らぬ心配までしてしまった。

(ライゼルは、ルセーネの二の舞にならずに済んだのか・・・)

 霊気(ムスヒアニマ)の奔流を纏いながら全速力で駆けていくライゼルの背中。三人は手を抜くという事を知らぬ少年を、少し離れた所で見守っている。

「なぁ、ベニューといったか?」

「はい」

 何かを語らんとするイミックの声に、ライゼルの背中を見つめながらベニューは耳を傾ける。

「ライゼルは止まらないんだろうな」

 信じた道をひたすらに突き進むライゼルを、道半ばで挫けそうになったイミックは、心の底から尊敬している。天秤に乗っているはずの我が身も、まるで目に入ってないかのように邁進するライゼルは、本当に眩しく見えた。

「どうでしょう。まだ壁にぶつかってないだけで、ライゼルもいつかは立ち止まる日が来るかもしれません」

「その時は…その時、ベニューはどうする?」

 唐突な問い掛けに少し面食らったが、その青年が何を言わんとしているのか分かるが故に、心から思う事を口にする。

「そうですね、ずっと傍にいてあげられたら、と思います」

 自分にも、ライゼルにとってのベニューのような存在がいてくれたら、とイミックは思い掛けて、やっぱり止めた。それは言っても詮無い事。むしろ、今日知り合った少年が、自分と同じ道を歩まない事を願うばかりである。

「是非、そうしてあげてくれ。ライゼルを、見守ってあげてくれ」

 そう願ってイミックが目を細めた先に、雨雲の中心部真下に到達したライゼルの姿があった。そして、ライゼルの手には、本日二度目となる求めに応じて現界した幅広剣があった。代わりに、左手に握り締めていたはずのヨウ化銀の結晶は消失している。厳密に言えば、ライゼルが発生させた霊気(ムスヒアニマ)の奔流に飲まれ溶け込み、ライゼルの【牙】に吸収されたのだ。

 地上にある万物は、大なり小なりムスヒアニマを内包している。石の中にあった霊気が【牙】生成に巻き込まれ、形状を維持できず石は分解。そして、具現化の際に【牙】を形成する一部と化した。言わば、今回の【牙】は、雨雲誘発の性質を持った【牙】なのだ。

 イミックや隊員が持ち合わせていた輝星石の粉塵を、自らの【牙】に振りかける。事前に説明を受けていた通り穢れが生まれつつあるのか、通常は青白い光を放つ【牙】が、濃い紅の光を帯びていく。ライゼルは穢れと化した悪性ムスヒアニマの可視化を初めて経験した。決して見ていて心地いいものではない。

 とはいえ、その異質な情景に僅かに身震いを起こすが、今はこれだけが頼りなのだ。見慣れぬ現象を毛嫌いしている場合ではない。

「よし、これなら…!」

 深く腰を落とし、剣を構える。ライゼルの得意技『蒲公英(ロゼット)』の体勢を取り、頭上に漂う雨雲を見つめる。普段なら不安を覚える暗雲だが、今はこれに望みを託すしかないのだ。作戦の成否はライゼルの双肩に掛かっている。

 ロゼットの型の始動、地面すれすれの位置から、自身を軸に剣を振り回し回転させる。一周、二週、三周と幾度となく回り続ける。回転運動は、地上に漂う霊気を帯びて渦を生む。霊気の渦は、周りの熱気さえも飲み込み、その求心力を増大させ、天を目指し伸びていく。気流は、一回転で屋根の高さを越え、更に一回転で人の手には及ばぬ高さへと昇る。熱気を帯びて押し上げられた気流は、徐々に徐々に青白い光から真紅に染まった光へ変質しながら天高く昇り、とうとう黒雲の漂う上空に赤い光の筋が届く。すると、深い紅色の気流となったムスヒアニマが、徐々に積乱雲内部に触れ、冷却され、水滴を生み出す。

「雨が降れば、ミールはまだ」

 渦を発生させたのがライゼルと言う事は、ライゼルは渦の中心におり、酸素の薄い場所に居続けているという事になる。上昇気流に剣を乗せ、空へ到達させる最後の瞬間まで、この回転状態を維持しなければならない。それを遂行できなければ、火を消すだけの雨は望めない。

 苦しい事には違いない。呼吸が出来ないのに運動は続けなくてはならない。心肺に掛かる負担も、肉体への負担も尋常ではない。心肺が、筋肉が悲鳴を上げる。剣を振るい続けた腕の筋肉は腫れ上がり、呼吸もほとんどまともに息継ぎが出来ていない。

 だが、これは乗り越えられる苦しみだ。もうライゼルには、この無茶が向かう到達点が見えている。

「いっけぇぇぇええええ!」

 遠心力に晒され続けた幅広剣は、ついにライゼルの手から解き放たれ、遥か高くにそびえる暗雲を目指し邁進する。大渦に飲み込まれるようにして、触媒により浮遊能力を付与された剣は、物凄い速さで暗雲を貫いていく。

「いけ」

 ベニューは、渦の中心にいるライゼルの無事を祈る。

「行け」

 ビアンは、この雲がもたらす雨が火災を鎮火させる事を願った。

「頼む」

 イミックは―――イミックは、まるで彼自身の心情を表すかのように泣き出した空を見て、何を思っただろうか。空から一滴が頬に落ち、それが目尻から零れた涙と混じったかと思うと、途端にその涙は大粒の激しい雨に紛れてしまった。しわくちゃに歪んだ顔に当たる雨を感じながら、イミックはライゼルを祝福した。

「よかったな、本当に・・・よかった」

 その日、激しい夕立がミールの街に降る。程なくして雨は止み、例にない大火災は、名も無き者達の活躍によって鎮火したのであった。

 

 治安維持部隊アードゥルの迅速な避難誘導、ビアンやライゼルの消火活動、そしてイミック達の活躍もあり、火事による人的被害は最小限に抑える事が出来た。数名が擦り傷や軽度の火傷を負った程度で、奇跡的に死人や重傷者は出なかった。後にミール大火として知られる今回の事件だが、下手人も不明であれば、犠牲者が出なかった要因も不明のままだった。一説には、イミック以外にも、治療をして回る身元不明の何者かの姿を見たという証言があるが、それは公的記録には残っていない。その協力者も含めて、この件に関与したと思われる者達は、今尚捜索されている。ビアン達の協力以外は、この街で何があったのか分からない事だらけなのだ。

 と言ったものの、公的記録にこそ残っていないが皆が知る所となった事がある。それは、イミックの腕が確かだったという事。穢れに対して嫌悪感を持ち、イミックにあまり好意的でなかった人達も、犠牲を顧みず救助に尽力する彼の姿を見て、僅かながら態度が軟化したという。雨が火事を鎮火させると、イミックの元に、感謝を伝えようとする多くの者が訪れた。

 そして、あらかたの事が片付いた今、イミックは険しい表情をライゼルに向けている。

「いてててて」

 結局ライゼルは、ベニューが仕立ててくれた六花染めを黒焦げにし、本人も所々に怪我を負った状態で戻ってきた。それから、燻ぶる街の中から、ビアン達が力尽きたライゼルを抱え避難所まで運び出し、今に至る。

「二度とあんな無謀な真似はするんじゃない。自分を大切にする事を覚えるんだ」

 同じ日に同じ患者を手当てするのは初めてだ、と悪態を吐きながら、ライゼルの腕の傷口に植物をすり潰して作った汁を浸していく。これもイミックが地方で知り得た治療法だ。

「痛い! すごい沁みるよ!」

「効いている証拠だ。これに懲りたら、自分から余計な事に首を突っ込まないようにするんだ、いいな」

「おう、分かってるって」

 痛い痛いと喚きながらも、自分の体に出来た怪我を見て、何故か嬉しそうに口元を緩ませるライゼル。それを見咎めたイミックは怪訝そうな目をライゼルに向ける。

「頭でも打ったのか? 私は、内科は専門外なのだが」

 そう皮肉を言われてもライゼルは機嫌を損ねない。ミール放棄を回避できた事が余程嬉しい事だったのだろうか、それとも別の理由があるのか。何故そんなにご機嫌なのかイミックには分からない。

「まさか、この怪我は勲章だ、なんて言わないだろうな?」

 一通りの処置が終わり、焦げ色の付いた木製の道具箱の蓋を閉じた。願わくば、この蓋を開ける事はしばらく控えたいと思うほど、今日は大勢の患者を診た。

 もし、ライゼルが蛮勇を誇るようなら、金輪際手当てしない方がいいのかもしれないと、ふとそんな考えがイミックの脳裏を過る。ベニューは勇気付けられたなどと言っていたが、それはまるでイミックに責任があるような言い方だ。後始末が出来るからと言って、進んで状況を取り散らかすような真似は勘弁願いたい。

 溜息が漏れそうになるのを堪えながらイミックがライゼルの方へ向き直ると、彼の少しはにかんだ顔が見えた。

「言わないけどさ。この怪我が俺の勲章なんかじゃなくて、この怪我が治った時の元気な俺が、イミックの勲章だから。それが、なんだか嬉しいんだよ」

「そうか」

 特に顔色を変えず、ただ一言そう返した。この一日でライゼルの物言いには慣れた。いちいち動揺していては、みっともないとイミックは思う。そう思う反面、

「—――私も、私もライゼルみたいな向こう見ずな人間がいてくれると、自分は誰かの為に優しくなれるんだと認識できて、その、なんだ…嬉しいよ」

「おう」

 丁度そこへ現地調査を終えたビアンが戻ってきた。それに気付いたベニューは声を掛ける。

「おかえりなさい。船の予定、どうでしたか?」

「駄目だ。船着き場自体に被害はなかったが、復興に人手を割かれて、しばらくは出せないそうだ」

「そうですか、仕方ないですね」

 王都までの最短経路である航路が断たれた今、改めて陸路でクティノスまで向かわねばならなくなったライゼル達。

「船で行けないとなると、鎮守の森を東へ迂回しなければならんな」

 ここに来て予定が狂い、ビアンとしても弱り切ってしまう他ない。ミールの北側へ川を渡れれば、王都の南に位置するヴェネーシアまで行けずとも時間は短縮できる。が、ミールより北に集落はない。補給もなく王都まで辿り着くのは不可能であり、進路を誤ればベスティア王国最大の砂漠地帯、ワスティータス砂漠に迷い込む恐れもある。急がば回れとは、まさにこの事だ。

「いいよ、船は帰り道に乗るよ。なっ、ベニュー」

「えっ、あ、うん。そうだね」

 あれ程楽しみにしていた船旅を潔く諦め、物分かりの良さを見せるライゼル。ベニューは弟の反応を意外だと感じた。帰り道という事は、いつかフィオーレに帰るつもりでいるのだろうか。

 ともかく、これまで通り、いくつかの集落を経由して王都を目指す。改めて進路は決まった。そうなれば、ここに長く留まる理由はない。

「次の経由地は、ムーランだ。さぁ、出発するぞ」

「おう!」

次の経由地であるムーランへ向け、早速出発しようとする一行。歩き出す一行の背中を見送るイミック。

「ライゼル」

 イミックに呼び止められ、ライゼルは慌てて振り返る。

「そうだ、お代だ。忘れてた」

 腰に下げた布袋から銀貨を取り出そうと、ごそごそ中身をまさぐる。しかし、イミックはやんわりと受け取りを拒否する。イミックが言いたいのは、そんな野暮な話ではない。

「代金ならおつりが出るくらい貰った。それより、これから王都へ行くのか?」

「うん、王様に会って伝えなきゃいけない話があるんだ」

 王様、と。その言葉を耳にした途端、僅かにイミックの表情が曇ったように見えたが、ライゼルは気付かず続ける。

「もしかしたら王国のみんなが危ないかもしれなくって、それを王様に知らせなきゃなんだ」

 漠然とした話ではあるが、そう言えば先刻何者かに襲われたとライゼルが話していたのをイミックは思い出す。つまり、今後の道中もライゼルはこれまで同様に、今回の火事のように危険に晒されるのだと示唆している。イミックにとって、それは心痛める懸案事項だった。知らぬ間に情が移ってしまったこの少年の身に危険が及ぶのは、イミックにとって望ましくない事だ。余りにも危なげで、心配で仕方がない。

「それはライゼルがやらなければならない事なのか?」

 イミックにとって、今の仕事は理想の為に必要な事であり、自分がやりたい事だ。苦労も多いが、きっとこれからも続けられる。では、ライゼルは? ライゼルのそれは、ライゼルのやりたい事なのか、やらなければならない事なのか。もし、そのどちらでもなければ、イミックはライゼルを故郷に帰したいと思う。

 イミックの視界に、ライゼル越しから役人であるビアンと、ライゼルの身内であるベニューの顔が映る。役人は先を急ぎたそうにしており、イミックによる足止めを煙たがっている。少女は、『どちら』とも言えない表情をしており、もしかしたら、イミックと同じ想いだったかもしれない。応援したい気持ちと止めたい気持ち。その二つが混在している様子。

「うん、巻き込まれたからってのもあるんだけど、困ってる人がいるんだったら力になりたい。だって」

 行きずりのイミックが少年の歩みを止める事は適わない。出来る事があるとするなら、少年の前途に幸多からん事を、と祈る事くらいだろうか。ならば、掛ける言葉はこれしかない。

「そうだな。だって」

 二人は声を揃えて、

「「誰だって、しかめ面より笑っていた方がいい」」

 異口同音にそう宣誓し合って、ライゼルとイミックはお互いそれぞれの旅路へ歩き出す。ライゼルは次の経由地へ、イミックはこの土地で注目を集めている薬膳を学びに。

街に煤けた臭いを乗せた渇いた風が吹く。この街は復興に向けて歩んでいくだろう。それは、通りがかりの少年と、行きずりの青年の姿勢に感化された住民達の姿が証明している。街の人達は諦めていない、この街がまたあの活気を取り戻す事を。

 何故なら青年に誓ったのだ。ライゼルにとびっきりのご馳走を振る舞うと。

 その約束の日に向けて、ミールの人々はまた一層食へ拘り続けていくのだった。

 

 

 

to be continued・・・



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第6話

 数十年前に、ベスティア王国では現在国内最後となる内乱が起きたという事は、多くの民が周知の事実である。

 当時、王都クティノスを中心としたベスティア王国は、既に千年王国として栄華を誇っていた。政権は何代にも渡り一族が継承し、その仕組みが変えられる事は一度もなかった。

 とは言え、統治が今程は徹底されておらず、王国軍『牙の旗』に反抗する部族もいない訳ではなかった。隣接する小国や、王国内でも独自の考えを持つ集団など、全てが王の下に服従している訳ではなかった。

 その最大勢力が、当時まだ他国と見做されていたアネクスである。政治的目的で併合しようとするベスティア王国を敵視したアネクスの民は、王国に対して戦争を仕掛けた。戦争自体は数か月程度の王国軍遠征によって鎮圧され、アネクスはベスティア王国に併合された。

 だが、これを契機に、国内で王に対する不満が爆発。武力による支配を良しとする王国の態勢を疑問視する国民は少なくなかったのだ。そして、遂に各地の力を持った部族が、王家転覆を図り反抗作戦に出た。王家による治世に不満を持っていた最大派のゾアを中心に、各地の【牙】が王家に向けられた。

 王国側も、王族に仕える【牙】使いによる武装集団『牙の旗』を動員し、これに当たった。王国随一の軍略家の策謀が見事に嵌まり、戦局は王国軍優勢とされていた。

 ただ、鎮圧が目的の国軍は、徹底抗戦に移られてしまうと頭を抱えるしかない。このままでは、併合に成功したアネクスの民までもが再び暴動を起こしかねないと判断した首脳陣。大臣が早期決着を狙って焦土作戦を提言したが、不必要な血を流す事を許さないとした当時の国王によって、反乱軍の若き頭領ゾアとの間で和平交渉が為された。ゾアは和平の条件として、国軍『牙の旗』の解体を、当時の王に飲ませた。

 こうした歴史を持つ王国民は、戦いを忌避とし、新たに即位した前王レオンの治世を享受していった。

 が、全てが良い方向に進んでいった訳ではない。焦土作戦は行われなかったものの、負傷した者は少なくない。中でも、反乱軍の一人として戦争に参加していたオノスは、二度と【牙】を発現出来ない体となってしまっていた。

 彼は反乱軍の中でも指折りの実力者で、強力な【牙】を持っていた。その【牙】は二対の片手剣として具現化し、その二振りの双剣に襲われた相手は、どちらを避ける事も選べずに切り刻まれる。絶え間なく繰り出される連撃を前に、『牙の旗』の兵士はバッタバッタと斬り伏せられるばかりだった。

 だが、闘将オノスの勇名が戦場に轟くに連れ、彼の星脈を加速度的に傷ついていった。当時は、まだウォメィナの教えもそれ程広まっておらず、星脈のムスヒアニマが枯渇する事による気枯れの概念は、あまり知られていなかった。怪我による穢れにこそ注意を払っていたものの、星脈の酷使にまでは気が回らず、結果的にムスヒアニマを満足に循環させる事も適わず、【牙】を二度と振るう事が出来なくなった。

 オノスがそれに気付いたのが終戦を迎えてからであった。これまで必要とされていた舞台を失い、仲間の意識は新たな国づくりに向き、オノスへの関心は薄れていった。これまで身を粉にして仲間の為に奮戦してきたというのに、この手の平返しの仕打ちを受け、オノスは打ちひしがれた。

 あれから四十年近い年月が経ち、オノスは還暦間近の年齢となっていた。異常を来たした星脈では、十全に身体を動かす事もままならず、力仕事などは適わなかった。十年前に戸籍を編成され、新たに斡旋されるまでは、まともな職にも就けず、その日を何とか暮らしていった。同世代のゾアと比べると、ゾアは集落の長、オノスは浮浪者。随分差が開いたものである。王国から仕事の斡旋が始まった以降は定職には就けたものの、星脈の消失を知られると首輪(ナンバリングリング)を没収され配給制度にも制限を設けられるようになり、結局以前の苦しい生活と大差なく、不自由な生活を強いられていた。一日一日を生き延びる事さえ困難だったのだ。

 そんなある日、オノスの元へ来訪者が現れる。

「えっ、私を雇いたい?」

 訪問者は名をドミトルと言った。ドミトルは、風車の村ムーランでは名の知れた富豪で、ムーラン一帯の風車全ての所有者であった。風車を用いて穀物を粉末状にして、食文化の発展に貢献したとして、ムーラン一帯を任され取り仕切っている。元は一介の商人だったドミトルだが、今は各地に顔の利くムーラン代表にまで成り上がったという。

 そのような人物が、何故今更オノスを必要とするのか、本人にも全く察しがつかない。

「お恥ずかしながらこの老骨、もう何の役にも立ちませぬ。せっかくですが」

 そうやって断ろうとしたが、ドミトルは話半分に強引にオノスを説得に掛かる。

「またまたご謙遜を。先の大戦の闘将オノスと言えば、知らぬ者の居らぬ有名人ではありませんか。そのような英雄殿に、私のお抱えの用心棒になっていただきたいのです。如何でしょう、報奨はたんまりと弾ませていただきますが?」

 人の話をまともに聞かない、加えて、身形からこちらの足元を見てくる不躾な人物だとは思ったが、ドミトルの提案はオノスにとって魅力的に映った。富豪ドミトルに雇用されるという事は、不自由ない生活が約束されたも同然だ。これまでのようにその日の食い扶持に困る事もなくなるはず。今の生活を続けるよりもずっといい。

 オノスには打算があった。用心棒とは、外敵から主人を守る役割の事。だが、このご時世、暴力沙汰はご法度であり、おいそれと荒事に発展するとは思えない。雇い主が過去の戦歴を買ってくれているのであれば、別段虚偽の契約とはならないと踏んだ。両者両得であるなら、オノスにとっても断る理由はなかった。

「では、その役目拝命いたします」

 この時は、まだオノス自身も浅はかな決断をしたとは思っていなかった。

 最初の数日は、屋敷の警護を卒なくこなし、約束通りに村の宿屋にて食事と寝床が提供された。オノスの予想通り、仕事は屋敷の近辺で時間を潰すだけの楽な作業であり、この先もこのまま無難に生活できればそれでよいと考えていた。

 しかし、実際にはそうはならなかった。その数週間後、オノスは屋敷から失踪する事となる。それは、ライゼル達がミールを発ち、このムーランへ訪れる前日の事であった。

 

 オノスが屋敷から姿を消した翌日、ライゼル達は風車の村ムーランに到着していた。先日の夕立を引き摺ってか、今日はどんよりとした空模様だ。天気に恵まれず、自然と周囲も静かになり、不気味な景色に見える。

 ミールから見て南東に位置し、風車と製粉業で有名な村。河川敷沿いの土手の上に家々が並び、街の並びが川の流れのようにうねりを帯びている。集落の形成に当たって水場の確保は重要な要素であるが、ここはまさしく人々の生活に水が密接に結びついている。何基もの水車が川に隣接する小屋に取り付けられている。少ない人員で多くの労働力を得る工夫がなされているのだ。

 先日のミールと比べ露店などは全くないが、何もない分だけ広けた景色をより遠くまで見渡す事が出来る。

 そんな遮蔽物の少ない景色の向こう側に、土手の上の道を走る駆動車から、ライゼルは見慣れぬ物を見咎める。

「あれが風車?」

 ライゼルが初めて目にするもの。幾つもの石を積み重ねて築かれた塔の上に、塔と変わらぬ大きさの木組みに布を張り付けた装置。十字に並んだ骨組みに貼られた四枚の帆布が、風を受けて十字の中心を軸に回転するらしい。帆掛け船に利用される仕組みと、絡繰り仕掛けを組み合わせて作られた設備。ライゼルは、初めて見るそれを、不細工な花のようだと思った。

「そうだ。お前は本当に知らない物だらけだな」

「うん、知らない。なんであれを回してるの?」

 無知を指摘されても、ライゼルは別段機嫌を損ねない。事実、ライゼルには知らない事が多い。それなのに見栄を張ったとしてもその虚栄はすぐにバレてしまう。それよりも、目の前の未知に興味がある。素直に聞けば、ビアンは親切に教えてくれる。知識としてはライゼルと大差ないベニューも、運転席と後部座席間で行われる勉強会の聞き役に回る。

「あれは動力を得る為に回っているんだ」

「動力?」

 理屈や理論と縁遠い生活をしているライゼルは、この手の話があまり得意ではない。興味はあるが、理解するのに人より多く時間を要する。ただ、移動時間は往々にして暇を持て余している。ビアンもライゼルのお勉強に付き合ってあげる。

「例えばこの車は、俺が踏板を脚で押す事によって走るだろ?」

「うん、見た」

「風車の場合、風が脚の代わりに力を加えて回転させる。風は俺とは違って疲れないから、半永久的に動力を得られるんだよ」

 と、ビアンは得意げに語って見せたものの、今現在、目の前に見えている一基の風車は、沈黙し回転していない。風が吹いていないのか、それとも他に不具合があるのか。ほぼ毎日無休で回り続けている風車であるが、せっかく立ち寄った今日に限って回っていないというのも運が悪い。別にビアンに非がある為に回っていない訳ではないが、なんというか跋が悪いし、いまいち決まらない。

「…今日は凪なのかもな」

「・・・そうなんだ」

 言ってみるが、ライゼルの反応もこれまた薄い。挽回を図るべく、風車の役割について言及する。ビアンはまだ風車の全てを語り尽くした訳ではない。

「風車にも休む日だってあるさ。なにせ、いつもは住民の生活に欠かせないくらいに大活躍なんだからな。例えば、このムーランでは製粉機や灌漑に利用されている。近隣に米所オライザと食の街ミールがあるから、風力で製粉が出来るというのは経済的にも強みなんだよ」

 農耕に不向きな土地であるが故に、人もそう多くは住み着いていないこのムーラン。その少ない人手を補うのがこの風車。この大きな動力とミールへの通り道という利が重なり、人手が然程多くない割にはそれなりの経済力を有している。

 ビアンの説明は、ライゼルに十分に伝わっている。実際に見聞きしたものであれば、ライゼルの理解も早い。オライザもミールもその目で豊かさを実感している。あの豊かさがこの風車の恩恵を受けていると聞かされれば、印象もまた変わってくる。

「へぇ、すごいじゃん。風の使い道って洗濯物を乾かすだけじゃないんだ。思いついた人、頭いいね」

 ライゼルも興味を取り戻し、ビアンも自分の事のように少し鼻が高い。俄かに機嫌のよくなったビアンは、更に知識自慢を続ける。

「風車を開発したのが誰かは知らんが、この風車の所有者ドミトルはちょっとした有名人だぞ」

 有名人と聞くと、どうしても心が逸ってしまうライゼルはつい口を挿む。

「会ってみたい!」

「無茶言わないの」

 興味のある単語を耳にしたライゼルはすぐさま欲求を口にするが、ベニューに咎められてしまう。ただでさえ、王都までの道中で迂回を強いられ、遅れが生じているのだ。寄り道をしている場合ではない。

 そういった事情はあるものの、柄にもなく、ビアンもいつものように一蹴したりはしない。

「そうだな、屋敷の前を通るくらいなら」

「風車の中も見てみたい!」

 ビアンが少しでも譲歩しようものなら、ライゼルの欲求はさらに膨れ上がり、間髪を入れず伝えられる。

それは、先日のミールで十分に満喫できなかったから、という事情もあったかもしれない。それに、ライゼルの活躍がなかったら、と思うとゾッとしないのも確かである。多少は気持ちを汲んでやりたいと思える程の働きをした事には違いない。それを思うと、ビアンもライゼルの要望を無碍には出来ない。

「会うだけで済まないのかよ。噂じゃ所有者のムーラン伯ドミトルが風車小屋の鍵を持っているらしいが」

「お願いしたら、開けてくれないかな?」

 ベニューに窘められた事もあり、一旦は謙虚な振りを装う好奇心の化身。だが、飽くまで振りでしかなく、目は爛々と輝き、その高ぶる感情を隠せていない。折を見て、自分から抉じ開けそうだから、油断も隙もあったものではない。

「どうだろうな。ムーランの人間でも立ち入った事はないって話だ。それに、ドミトルですら機械仕掛けが故障して風車が止まった時にしか立ち入らないらしい」

「ご自身で修理されるんですか?」

 爵位を有する程の人物が自ら作業をする者なのだろうか、とふとベニューは疑問に思った。姉弟の抱く裕福な人物の印象からは、想像しづらい絵面だ。労働力が必要になったとして、潤沢な資金で雇用すればいいのだ。わざわざ自ら骨を折らなければならない理由はない。

「仕組み自体は簡単な作りなんだそうだ。摩耗した部品を取り換えれば済むんだよ」

 風を受けて作動し続けていれば、機械仕掛けを構成する歯車が摩耗し消耗してくる。役割を終えた部品は代替品と交換され、破棄される。その繰り返しで、日々風車は十全と回り続ける事が出来る。

「じゃあ、俺が取り換えるって言えば、入れるかな?」

 何かに付けて内部への侵入を試みようとするライゼル。その所為か、ビアンはライゼルをドミトル邸に連れて行く事にあまり気乗りしない。ライゼルを同伴させていて問題に巻き込まれなかった試しがないのだから仕方ない。ミールの件は巻き込まれたと言っても差し支えないが、それ以前の巨漢、三つ編み女、ゾア頭領の件はライゼルを同伴させていたから起きた事件と言っても過言ではない。ライゼルを王都まで連れて行くのが最低条件である為に多少は諦めも付くが、それでも回避できる面倒事は最低限にしていきたいビアン。

「強情な奴め。だが、残念ながら無理だぞ」

「どうして?」

「中はほとんど機械仕掛けで、人が入る空間がほとんどない。装置が止まってなきゃ、中には入れないんだよ」

「今は止まって―――」

「凪かもしれないと言ったはずだ。何かの拍子に回り始めたら、お前はぺしゃんこになるんだぞ」

 ここまで言えば、ライゼルも素直に諦めるだろうか。そう思い、止めを刺したつもりが、ビアンは思わぬ返しで質問される。

「ビアンはどうしてそんなに風車について詳しいの?」

 これまで熱弁を振るってきたビアンな訳だが、何故ビアンはそこまで風車に関して、更に言えばドミトルについて。

「俺の故郷にも風車があるんだよ。ドミトル公については同僚から聞いた」

 目の前に風車がなければ、ライゼルの興味もビアンの故郷に向いたかもしれないが、今は風車への関心が高い。

「そうなんだ。じゃあ、駄目元で行ってみようよ」

 こうも自然にさらりと躱されると、何を言い含めてもライゼルは諦めないだろうと、ビアンは観念する。ならば、気の済むまで連れて行って、ムーラン伯に咎められれば、強情なライゼルも渋々ながら諦めざるを得ないだろう。

 村の商店脇で車を降りた一行は、主たる目的である買い物を済ませ、車に荷物を置く。この先の経由地グロッタにもここより充実した商店があるが、物価の関係という事情でこのムーランで済ませる事にしたのだ。

 その後、風車富豪と呼ばれるドミトルの屋敷の方へ足を運ぶライゼル達。

 村の商店より更に集落の奥へ進むこと数分。突如として景色の中に現れる、川沿いの本道から逸れた一本道。林に囲われたその道をしばらく歩いた先にある、ムーラン伯ドミトルの屋敷。他の家屋と異なり、唯一奥まった場所にひっそりと佇む寂し気な屋敷。いくつもある窓も全部閉められており、遠目から見てどの部屋も暗そうだ。

 林の中を通された一本道を進んでいくと、何やら人の声がする。その方向に何者かがいるのを認めるベニュー。

「人だかりが見えますね」

 ビアンが案内する先に、遠くからでも目立つ二階建ての大きな屋敷とその門前に群がるに人だかりを発見する。寂し気な風景に不似合いな喧噪がそこにあり、つい先日も同じような事があった気がする、とビアンは眉根を寄せる。騒動に首を突っ込むのはあまり気乗りしないが、事件であれば無視できない。事態を把握する為、人だかりに近付き声を掛ける。

「何かあったのか?」

 ビアンに声を掛けられた者達はムーランの住民らしく、ビアンの首輪(ナンバリングリング)が役人のそれだと気付くと、渋る事なく事情を説明し始める。

「お役人さん、誘拐事件だそうですよ」

「誘拐だと?」

 数人いた住民の中で一番おしゃべり好きそうなおばさんが、説明を始める。おばさんが言うには、こうだ。

 先日、屋敷の主人ドミトルの姿を見えない事に、そこで仕える唯一の使用人が気付いた。屋敷内や村中を探し回ったが、どこにもいなかった。その時、門前を警護していた者がいたはずなのだが、その者もドミトル同様に行方知れずであった。

 屋敷の使用人の推測では、身代金目的の誘拐であり、門番は犯人侵入時に無力化されたのであろうと。死体も見つかっていない為に生死は不明だが、生かしておけば足が付くのは常識であるし、殺した方が合理的だ。お誂え向きに、屋敷の周囲は鬱蒼とした林だ。死体を隠すにはうってつけである。

「いなくなったのは、その二人だけか?」

「えぇ、そうらしいわ」

 聴取を続けながら、ビアンは奇妙な違和感を覚えていた。経験則がそう感じさせるのか、おばさんの話はどうも胡散臭い。信憑性が低く感じるのは、おそらく噂話に使用人かおばさんの主観が混じっているから。ビアンはそれを伏せたまま、聴衆を退散するよう指示する。

「これから捜査を開始する。無関係の者は現場から離れていてくれ」

 元々興味本位で集まった住人は、役人であるビアンに逆らって罰則を科されては堪らないと、一行が歩いてきた道を戻り、素直にその場を立ち去っていく。特に不満もない様子で、盾突く者は一人もいない。つまり、この件には無関係の人間と言う事。

 そんな人々の小さくなっていく姿を見つめながら、ライゼルはポツリと溢す。

「そっけない態度だね」

「ん? 何の事だ?」

 ライゼルの呟きが何を意図するか分からないビアン。もしこれがフィオーレで起きた事であれば、こうはなっていない。村の人間総出で捜索に当たる。十年前の事件の時もそうであった事を、ふと思い出し黙するライゼル。

 無言のまま立ち尽くすライゼルに代わり、ベニューが答える。

「この屋敷の人ってムーランの代表者だったんですよね? 同郷の方が行方知れずになって、無関係でいられるものなんですか?」

 今回の一件は、姉弟からすれば、カトレアや村長がかどわかされたようなものだ。放っておける話ではない。ムーランの人々の連れない態度が、姉弟には信じられないのだ。

「そうだな、日頃から関わりが薄かったのか。隣人との付き合いなんて得てしてそんなものだろ。フィオーレが、特別付き合いが深いだけだ。まぁ、役人に従順である事は望ましい事だ。さぁ、中へ行こう」

 庭先を通り過ぎ、屋敷の門戸を叩くと中から一人の女性が屋敷から出てくる。すらっとした細身で、やややつれたような目の下に隈のある女。綺麗にまとめてはいるが、ややボサボサしている黒髪。村人とは違った設えの給仕用の召物を身に纏っている辺り、どうやらこの屋敷の使用人のようだ。今の今も捜索を続けていたのか、くたびれている様子が見受けられる。

「誘拐事件があると聞いた。治安維持部隊アードゥルへの通報は済んでいるか?」

 女性は役人の[[rb:首輪 > ナンバリングリング]]を確認すると、背後の扉を静かに閉め、首を横に振る。

「いえ、それがまだなんです」

「何故?」

 ビアンの疑問は至極真っ当と言える。家人が行方を眩ませたとなれば、急を要する場合がほとんどだ。なのに、女性は余程暢気なのか、まだ治安維持部隊に連絡を入れていないという。

 女はその理由をおずおずとビアンに告げる。

「わたくし、命じられております。旦那様の許可なく、外部の人間を屋敷にお迎えしてはならない、と」

 瞬間、ビアンの表情は険しくなる。この女性のように、上の命令に従うばかりで、自発的に行動できない者は確かに少なくない。が、それとは対極に位置するビアンはそれが歯痒くて仕方がない。これまでビアンは現場の判断で、様々な事態に対処してきた。ビアンにとって、女の考え方は思考停止も同然に思えて仕方がない。

  故に、やや詰問するような口調になってしまうビアン。

「そのムーラン伯ドミトル公が行方不明となっているのだろう? そのような些事に拘っている場合か」

 役人の配されていないムーランに於いて調査権限を持つビアンは、自分の正統性を主張する。ビアンの管轄外ではあるが、役人であるビアンには許されている権利だ。しかし、女はそれでも食い下がる。

「些事などではございません。わたくしにとって旦那様の命令は絶対にございます。もし言い付けに背けば、どんなお叱りを受けるか」

 ただならぬ様子の使用人に、違和感を覚える三人。法的な拘束力以上に、別の何かに対し怯えている様子を女は見せる。何かを恐れているのか。この屋敷に住まう者は女性以外の皆が姿を消しているのだから、不安に思う事もあるとは推測できる。もしかしたら、役人であるビアンにさえも怯えているのかもしれない。洒脱な服装の六花染めに身を包んだ少年少女をさも当然のように同伴させている辺り、怪しまれる要因とも言えるかもしれないが。

 故にこの女性は、先の住民達と違い関係者なのだと確信できた。自らの身を案じるという事は、無関係でいられないからだ。事件現場で雇われているので、当然と言えば当然か。

「では、屋敷の中には立ち入らない。だが、聴取は受けてもらうぞ。ドミトル公の安否が心配だ」

 女性側の事情を考慮し、譲歩し屋敷内の調査は一旦保留する。それでも得られる情報は全て吐いてもらうつもりだ。ビアンも手ぶらでここを離れる訳にはいかない。

「ビアン、門番の人もいなくなったって言ってたよ?」

 ライゼルにはもう一人の行方不明者、門番の事も気掛かりだった。ライゼルの心根を鑑みれば、心配するのも想像に難くない。もしその番人も被害者であれば、安否が心配される。

 が、ビアンはそうは考えていない様子だ。

「いや、もしかしたら、その門番が誘拐事件の犯人かもしれない」

「どういう事?」

 ライゼルにそう問われるがビアンは答えず、逆に女性に水を向ける。

「まずは、この人の話を聞いてからだ。それで貴女、名前は?」

 こうして、始まったビアンによる事情聴取。だが、手に入った情報はそう多くない。

 突然留守を任される事となったこの女性は、つい最近雇われたアスターといい、数か月前から働き出したばかりだが、アスター一人でこの屋敷の管理から主人の世話までを仰せつかっているという。人間一人の労働量を超えている事を指摘すると、ドミトルは人見知りが激しく、複数人を雇う事はしないのだと。アスターも労働の対価に見合うだけの報酬を得ていたので、その事には不満はなかったそうだ。この説明には無理こそあるが矛盾は見受けられない。一応、説明として聞き受ける。

「では、その門番について話を聞かせてもらいたい」

 門番の男は、数週間前にドミトルに連れられてきたオノスという名だと、アスターは話す。その名前を耳にしたライゼルは、俄かに興奮する。

「オノスって、もしかして大戦のオノス?」

「さぁ? 旦那様からは優秀な牙使いとしか聞かされておりません。その方はずっと屋外におられたようで、わたくしはお見かけした事がありません」

「ただの一度もか?」

「初めて訪れた日に、遠くから後ろ姿を一度だけ。お顔を見た事はありません。」

 同じ屋敷で働くのに面識もないというのは不自然だが、ドミトルの人員配置に難癖を付けても仕方がない。訊かなければならない事は他にもある。

「何か特徴はなかったか?」

 そう問われると、ビアンから目を逸らし、ゆっくりと言葉を紡ぐ。不自然な視線移動は、その一度だけ見たという面影を記憶から思い起こそうとしているからなのか。

「そういえば、私もどんな人物なのか気になりましたので、[[rb:首輪 > ナンバリングリング]]を確かめようとしたんです。そうしたら…」

「—――なかったんだな?」

「はい、さようでございます」

 半ば食い気味にビアンが口を挿むと、アスターは頷いてみせた。その返答に、ビアンは何やら合点のいった様子で、それ以上は門番について追求しなかった。

「では、屋敷の中で変わった事は? 何かが無くなったとか、壊されていたとか」

「いえ、旦那様をお探しする際に、屋敷中を見回りましたが、特に何か盗まれたという事はありません」

 と言う事は、犯人が物盗りでない。あるいは、室内に侵入する事なく、外にいた主人を誘拐したという事だろうか? 実際にビアン自身が目にした訳ではないので、判断するには情報が少ない。

「なるほど、それで貴方は身代金目的の誘拐だと判断した訳だ」

「はい、大変言い難いのですが、私はそのオノスという方と面識がなく、何と言いますか」

 言い難そうにはしているが、口以上にその態度がはっきりと物語っている。目を逸らしつつも、何度もちらちらとビアンの反応を窺い見る。

「信用できないのだろう? それで、オノスが誘拐した犯人だと」

 一旦、ビアンの目を見て、逸らした後、アスターは静かに告げる。

「…はい」

 アスターも渋らず素直に白状する。元々、庇い立てする仲ではないのだから、当然と言える。体裁を取り繕ってはいるが、明らかな疑惑の念を素性の知れぬオノスという人物に向けている。

「状況を鑑みれば、最も怪しいのがその人物だな。他に何か手掛かりになるようなものはなかったか? 主人がいなくなる前にどこで何をしていたかとか」

 問われてアスターは逡巡し、はっきりしない口調で切り出す。

「その、手掛かりになるかどうかは分かりませんが」

 アスターはそこまで言い掛けて言い淀む。ちらりと視線を送り、また逸らす。先から似たような仕草をする事はあったが、今度のそれは『自然』に見えた。つまり、これまでと違い、違和感がなかったという事。意図的でなく、無意識の内にそちらに視線を送ったのだ。

「どうかしたか?」

「いえ、代わりに見覚えのない石像が。石像が旦那様の部屋にありました」

「石像だと?」

「はい」

 アスター本人は気付かぬ様子であったが、ビアンにははっきりと分かった。アスターは二階中央の部屋をしきりに気にしている事が。それが何かの手掛かりになるかも、と判断したビアンは、それ以上の追及をしなかった。

 一度、この辺りで状況を整理した方がいいのかもしれない。

「…そうか。一先ず烽火を上げる。近辺に犯人が潜んでいるかもしれないからな、警護の要請をしておく。それと、用心の為、アスターさんは屋敷からは出ないように」

 そう言い含めて、アスターは素直にその指示に従った。

 ビアンは屋敷から拝借した着火装置一式を用いて、慣れた手つきで烽火を上げた。

「さて、アードゥルが到着するまで、知恵を絞るか…」

 

 先日のミールの件もあり、周辺警戒していた隊員が、ムーランへすぐさま駆けつけた。一通りの事情を説明し、屋敷の警護と周辺の捜査を引き継ぐと、ビアンは物思いに耽りながら河川敷を歩き、姉弟はその後をついていく。アスターが知り得る限りの情報を訊き出し、一行は一旦屋敷を離れたのだった。

 これまでのビアンであれば、治安維持部隊アードゥルに引き継いだ段階で、この件から手を引いていただろう。

 だが、今回はそうはいかない。嘘か真か、あの闘将オノスが事件に関与している可能性がある。それはつまり、最悪の場合、【牙】を用いての傷害事件かもしれないという危惧がある。オノスが加害者か被害者か、いずれにせよ、【牙】を使用した恐れがあるのだ。それが平和な国内において随一の重要案件という事もあり、無視する事は出来なかったのだ。

 それに、本日の予定の点からも、これ以上先を急ぐ事は出来なかった。というのも、今後の行程を考慮すると、とある装備を用意しなければならないのだが、それは次の経由地グロッタにしかない。しかも、その装備を受領する為には面倒な手続きを終えなければならず、申請が通るのは日を跨いで翌日となり、どうしても足止めを喰らってしまう。

 故に、本日の夕刻までを期限とし、可能な限り調査する事にしたのだ。

 そして現在、正午を回ったばかりで、日没までにはまだたっぷり時間がある。ムーランの河川敷を歩きながら、これまでに得た情報を整理する。

「最近雇われた門番、不審な挙動の使用人、謎の石像…」

 ビアンは独り言のように繰り返しながら、思考をまとめる。推理に夢中なのか、その間ひたすら歩き続け、気付けば風車の立ち並ぶ郊外にまで歩いてきていた。

 そして、その後ろを姉弟は大人しく追従している。ライゼルもこの件をこのまま捨ておいて、次の経由地へ行こうとは思っていない。もし、これが本当に誘拐事件であれば、誘拐されたドミトルを助けてあげたいと考えている。誘拐とは、意思を無視して無理やり連れ去る事。それは、人の笑顔を奪う事に他ならない。そんな非道を黙って見過ごせる程、ライゼルは自分を律する事が出来ない。

 姉のベニューも、そう考えているであろう事はお見通しで、ライゼルの意志を尊重したいと思っている。

 各々がそんな事を考えながら辿り着いた風車群。村の入り口付近で見かけた一基の風車と違い、ここの風車群は緩やかにではあるが風を受け回転している。時間が経ち、風が出てきたのだろうか。先日のミールの熱気が懐かしい程に、頬を撫でる風が涼しい。いや、日の当たらない天気だから僅かに肌寒い。

「どう、何か分かりそう?」

 この手の頭を使う作業はてんでお手上げのライゼルは、ビアンの顔色を窺いながら尋ねる。しかし、ビアンの思考も今回は冴えない。

「目星は付いている、と言いたいが、決定的な証拠がない。印象だけで言えば、犯人はアスターだ」

「えっ? さっきは門番が犯人だって」

 ライゼルが声高に追及するが、ビアンはやんわりとそれを否定する。

「あれは使用人から話を訊き出す為の口実だ。アスターは、門番が犯人だと主張している。ならば、それに合わせた方が話も訊き出しやすいって寸法だ。わかったか」

 役人であるビアンは聴取の経験は何度でもある。素直に証言しない人間相手の対応にも長けているのだ。そして、御多分に漏れず、アスターもその類の人間だと、ビアンは睨んでいる。

「ビアンさんは、初めからスターさんを疑っていたんですか?」

「周辺住民に対して情報操作をしている点で、心証を損ねていたな。加えて、アードゥルに通報していなかったというのが、どことなく怪しい」

「門番の方が怪しいんじゃない? オノスって名前も嘘かもしれないじゃん」

 ビアンに倣ってライゼルもそう主張してみるものの、どこかぎこちなくなってしまう感は否めない。そもそも人を疑う事のないライゼルでは、この程度の参加が関の山だろう。それはベニューもお見通しだ。

「本当はそんなこと思ってもいないくせに」

「うっ…」

「むしろ、その門番さんが大戦のオノスだったら会いたいって思ってるくせに」

「ううっ…」

 ベニューの指摘は、次々とライゼルの心を抉る。ライゼルの内心は、見事にベニューに見抜かれている。こうも見事に看破されては、推理に一枚噛みたかっただけのライゼルは、しばらく大人しくなる他ない。

「でも、ライゼルの意見には私も賛成です。どうして門番を犯人から除外したんですか?」

 ベニューの疑問に、やや意地になっているような物言いでビアンは返答する。その表情はあまり優れない様子。理屈よりも感情が優先されている感じにも見受けられる。

「考えたくない可能性だからだ。ドミトル曰く、優秀な牙使いなんだろう? もし、そんな奴と一戦交える事になれば、危険に晒されるのは目に見えているじゃないか。俺は言霊を信じる主義なんだ」

 大人且つ役人であるビアンが自信満々にそう断言するのであれば、ベニューにはこれ以上言葉はない。口にした事が現実になってしまうなど迷信にも程があるが。ただベニューとしても、門番が犯人と断定できる材料を持ち合わせていない。言霊の件はさておき、暴力沙汰にならなければいいな、とは思う。とにもかくにも、今の所、全てが不確定なのだ。

「それで、アスターさんを犯人と仮定するんですね?」

「そうだ」

「でも、断言は出来ないんですよね?」

 ベニューに痛い所を突かれ、ビアンもそれには素直に首肯で応じる。

「そうなんだよなぁ。印象で犯人が決まるなら、苦労はしない。アスターを問い詰めようにも、狙いが分からなきゃなぁ」

 その気苦労が周知の事と言わんばかりに、手詰まりの現状を儚んで見せるビアン。

「説明要求!」

 すかさず挙手し、話の中身が理解できていない事を主張するライゼル。悪事を憎む心はあっても、ライゼルにはもはや何が何だか分からない。ビアンがアスターの何に対して頭を悩ませているのか、さっぱり理解できていないのだ。憎む悪の対象が定かでないと、ライゼルも義憤しようにもやりきれない。

 事態を先入観なく整理すると、屋敷の主人と門番が行方不明になった。代わりに見慣れない石像が主人の部屋にあった、と言う事。しかし、これだけでは真相には辿り着かない。

「つまりだ、今回の事件で誰が得をしたのかを考えれば犯人が分かると踏んだが…別段誰も得なんかしていないんだよ」

「騒ぎを起こすだけの動機があるって事ですよね」

 こういう理屈っぽい事に関して、ベニューは理解が速い。誰が犯人で、何が起きているにせよ、それを実行する動機は必ずあるはずなのだ。そこから推理すれば、事件の真相に辿り着けるかもしれないとビアンは考えていた。

「得かぁ」

 ライゼルも一生懸命に首を捻っているが、無欲なライゼルではおそらく選択肢の候補がほとんどない。

ライゼルの行動指針は、誰かの笑顔を守る事。守るという行為は、得てして先んじて行えるものではない。何か害が発生して初めて対処できる後手の行為。これまで自発的に利を得ようと考えた事の少ないライゼル。そもそも自身の危険さえ顧みない少年に、損得勘定など出来ようはずもない。

「得かどうか分かりませんが、ドミトルさんが責任逃れをしたかった、という事は有り得ませんか?」

 とりあえず思いついた事を口にしてみるベニュー。だが、ビアンによってあっさり棄却される。

「ふーむ、ムーランの代表から降りたかったという訳だな。だが、それなら別の候補者を推薦すればいい」

「え?」

 単純に政治に疎いベニューは、代表の仕組みに詳しくない。専門であるビアンは、姉弟にそれを説明する。

「代表者ってのは、お前達も知っての通り、役人との連絡役だったり、集落のまとめ役だったりする訳だが、別に強制されてなるものでもないんだ。だから、それが理由ならわざわざ行方を眩ませる必要はないんだよ」

「そうなんですね」

 ビアンの説明は、ベニューも十分納得できた。試しに言ってはみたが、動機として弱いとは最初から分かっていた事でもあった。もし、今回の件がドミトル自身の企てた失踪であるなら、他に姿を眩ませる理由があるはずだ。

「ねぇ、もしかしたら買い物に出掛けただけなんじゃないの?」

 ライゼルの一つの可能性を提示するが、ビアンはやんわりと否定する。

「絶対にないとは否定できないが、おそらく違うだろうな。ドミトル氏は何故アスターを雇っている?」

「人見知り…そっか!」

 ライゼルもドミトルの人となりを思い出す。彼は極度の人見知りで、最低限の使用人以外を傍に置こうとしないという。許可なく何人たりとも屋敷に入れるなという命令の徹底ぶりから、村民ともアスターを介してでしかやり取りを行っていないのだろうと推測できる。

 そんな人物が、わざわざ自らの足で出向く用事があるとは考えにくい。もちろん、余程の大事であれば例外なのかもしれないが。

「そういう事だ。それに留守にするんだったら、アスターに一言あってもいいだろう」

「そうでしょうか? 例えば、アスターさんにも知らせる事が出来ないような秘密の用事があったとしたら?」

 ビアンが切り捨てた可能性、余程の大事だったかもしれない可能性に、敢えてベニューは言及する。

「食い下がるじゃないか、ベニュー」

「飽くまで可能性の話です。ですが、そう考えれば、何故アスターさんがわざわざ石像に言及したのか、説明できるかもしれません」

「…石像か。確かに、気にはなっていたが、今回の件に関係があるようには思えないぞ?」

「本当に誘拐事件であれば、関係は薄いかもしれません。ですが、自発的な理由があっての失踪であれば、その石像は意味を持ってくるかもしれません」

「おもしろい、話してみてくれ」

 先の仮説と違い、どうやら根拠があっての推察らしい事を察したビアンは、ベニューの推理に耳を傾ける。

「はい、例えばその石像が大変高価な物で、ドミトルさんはどうしてもそれが欲しかったんです。そして、いざ購入してみたけど、あまりにも高額でアスターさんやオノスさんの御給金が支払えない状況になってしまったとします」

「何が言いたいか、大体わかったぞ。ドミトル公は金を工面しに、アスターには内密で外へ出たと、そう言いたいんだな?」

「はい、どうでしょう?」

 この場でその推理の正誤を確かめる事は出来ないが、捜査の方向性を示す事くらいなら出来るかもしれない。もし、ビアンの言うように言霊が本当にあるなら、できれば誘拐という線は考えたくないのがベニューの本音だ。

 だが、そのか細い希望はビアンの遠回しな説法によって否定される。

「ベニュー、大人の俺から一つ忠告しといてやろう。推理というのは想像を頼りにやるものではない。物的証拠と状況証拠を基に論理立てて組み立てるものだ」

「どこか決定的な間違いがありましたか?」

「発想は悪くない。だが、動機が金銭でない事は断言できる」

「なんで?」

 あっさりと誤りと断じられる姉の意見に、その理由をビアンに問うたライゼル。

「そもそも、ドミトル公が何故ムーランの代表を任されていると思っている? 風車群の所有者で、一財産を築いているからだ。もし、金に困っているのなら、その所有権なり何なりを代わりに譲渡すればいい。だが、今の今まで風車群が競売に掛かっているなんて話は耳にしていない。ドミトル公が金策に走っているなんて事は、考えづらいんだよ」

 ドミトルは利益を生み出す装置を有している、そしてそれを手放さなければならない程の買い物となると、それこそ想像しづらい事案だ。

「確かにそうですね。誘拐でなければいいな、と思っていろいろ頭を使ってみましたが」

 素直に非を認めるベニューに、ビアンは付け加えて説教する。

「よし、もう一つ忠告だ。必要以上に他人を思いやるな。お前達姉弟は他人の事となると限度を超えて心配し過ぎるきらいが見受けられる。お前達の博愛の精神は美徳には違いないが、それでも手の届く範囲にしておけ。度を越えた優しさは身を滅ぼすからな」

 教訓めいたビアンの言葉を、ベニューは素直に聞き入れる。

「はい、肝に銘じておきます」

 こうして、ベニューの主張は、ここで一旦保留となる。金銭に限らずとも、他の理由も結局は想像の域を出ない。

 他に自発的に失踪する理由が見当たらないとなると、任意で屋敷を離れた訳ではない、と言う事になる。つまり、ベニューが考えたくなかった可能性、誘拐という訳だ。

「人を疑いたくない気持ちは分からんでもないがな。ただ、世の中には人の善意を平気で裏切る悪意が存在する事も覚えておかなくてはいけないんだよ」

 実感を伴わない真実は、なかなか腑に落ちて来ない。ライゼルにはビアンが伝えようとした事の半分も飲み込めていない。

 だが、だからと言って何も考えていなかった訳ではない。分からないなりにも、任意での失踪説が否定された事は、ビアンとベニューのやり取りから察する事が出来る。

「じゃあ、ビアンは誘拐だって考えてるの?」

「誘拐、というよりも幽閉だな」

「幽閉?」

 これまで一度も出てこなかった単語に耳聡く反応するライゼル。幽閉とは、屋内に閉じ込めその身柄を拘束する事。今回の場合、それに利用されたのは、あの屋敷という事になるのだろう。

「あの使用人が犯人であれば、色々と説明が付くのも事実なんだよ」

「犯人はあの人なの?」

 理解が追い付かないライゼルは、答えを焦る。よって、ビアンは順を追って説明する。

「アスターが犯人だと仮定すれば、例えば、頑なに屋敷に入れない理由が分かる」

「どうして? あの人は言い付けだって言ってたよ」

 これまで騙された経験のない善良なる民であるライゼルなら、そう思ったとしても不思議でない。だが、ビアンは違う。ビアンは、嘘も偽りもこの世に当たり前のようにありふれている事を知っている。

「それが嘘で、アスターがあの屋敷にドミトルとオノスを幽閉しているとしたら?」

「えっ?」

 思いもしなかった線に、虚を突かれるライゼル。アスター以外の誰の捜査も及んでいない秘匿された空間の存在。

「そう考えれば、行方不明の説明も、侵入を拒む理由も付く」

 そうは言うものの、ビアンは全てに納得のいく説明をしてはいない。ベニューはそこを突いた。

「じゃあ、村の人に知らせた理由は?」

 もしアスターが幽閉を企てたとして、何故主人不在を周知させたのか? 自分から事件の発生を知らしめなければならなかった理由とは何なのか?

 しかし、ビアンも考えなしに推理を披露していたのではない。様々な可能性を吟味した結果、最も可能性の高い説を選択したのだ。

「それは、注意を屋敷から逸らす為だ。失踪したと嘘を吹き込む事で、外へ意識を向けさせた。そうしなければ、仮に幽閉に成功したとして、いずれはドミトルも代表としての仕事をしなければならないだろ。その時になって主人不在の理由を取り繕うよりも、既に居ない事にして新しい代表を立てれば、もう何の憂いもなく屋敷を自由にできるって算段だ。捜索範囲が屋敷以外という広大な範囲で、村民のムーラン伯に対する関心の薄さから、捜索が早期に打ち切られる事は容易に想像できるしな」

 ビアンが推理を披露すると、ライゼルは一瞬表情が明るくなるが、すぐに難しい顔に戻る。

「じゃあ、石像ってのは何だったの?」

 確かに、先程もベニューがその事に言及していた。一つだけ合致しない奇妙な要素。しかし、ビアンはかぶりを振り、取り合わない。

「いいか、ライゼル。この世の全てに意味があるだなんて思ったら大間違いだ。石像はきっとドミトルが取り寄せたんだよ。この先には鉱物の町グロッタがあるからな。そこの職人に設えさせたんだろう。それがたまたま今回の時期に届いたってだけだ。納得したか?」

 ライゼルもその説明では不十分と感じたが、理屈でビアンには勝てない。代わりに、ベニューが更なる疑問を投げかける。

「じゃあ、何故アスターさんは石像について、あんな言い方をしたんでしょうか?」

「勿体ぶるじゃないか。何が言いたい?」

「もしその石像が届けられた物だとしたら、アスターさんが受け取るはずじゃないですか? あの屋敷の雑務をこなしていたのはアスターさんです。ですが、アスターさんは、ドミトルさん失踪後に発見したと言っています」

 思わぬ所から正論をぶつけられ、ビアンも咄嗟に反論しようと試みるが、上等な案が思い浮かばない。

「むむむ、石像はドミトル公が作ったもので、完成させその後失踪した、とか?」

「そうだとしても、材料なんかはやっぱりアスターさんが手配したはずです。その為に雇われているんですから。となると、わざわざ石像について言及するでしょうか? あの言い方は、そもそも石像があるとは思いもよらなかった人の反応でした」

 ベニューの指摘は的を射ている。アスターは、最後の最後に石像の存在を明らかにした。もし、無関係であればその意図は何なのか?

「捜査を撹乱させる為の虚言だったにしては、効果が薄い、か」

 もし撹乱が目的だったとして、やはりそれを調べる為に立ち入りを求められるだろう。そうなれば、アスターの目論見は外れる事になる。

 その石像が実際に事件に関わるのか定かではないが、この場にいても埒が明かないのは間違いない。

「…となると、この事件の鍵は、その突然現れた石像か」

 そうなると、一度その石像について捜査せねば話は進まない。価値のある物であれば、ベニュー案の再検討も必要だろう。

一行は、再度ドミトル邸に赴く為、風車群を後にする。

 

 改めてドミトルの屋敷を訪れた一行。玄関まで出てきたアスターは、先同様に後ろの扉を閉めて応対する。アードゥル隊員にも同様の対応をしたらしく、彼らは先に周囲の林の中の捜索、並行して近隣の警護を開始したようだ。厳密には捜査権限を持たぬアードゥル隊員では、立ち入りが適わなかったのだろう。事件と断定されなければ、無闇に敷地へ進入する事は法によって禁じられている。

 ただ、ここまで頑なに侵入を阻むとなると、余計に疑わしくなってくる。故にビアンの語調は若干強くなる。

「単刀直入に言う。屋敷の中の石像を見せてもらいたい」

 アスターは怯えた様子で、それを拒否する。

「ですから、旦那様の言い付けで何人たりとも通す訳には参りません」

 飽くまでも承諾しないその姿勢に、気の長い方ではないビアンは声を荒げる。

「そのドミトル公が行方不明なんだろう! いい加減にしろ!」

「お役人様こそご勘弁ください。言い付けを破れば、旦那様からどんな仕打ちを受けるやら」

 尋常でない様子に一瞬怯みそうになるが、こうなっては強行突破を試みるしかない。

「ベニュー、その人を頼む」

「きゃっ」

 ビアンとライゼルは、アスターを押し退け、強引に屋敷の中に侵入する。アスターは短い悲鳴を上げ、ベニューの身体に凭れ掛かる。

「お待ちください、お役人様方!」

 アスターの制止を振り切り、扉を潜り抜ける二人。

 扉の向こうには、風車富豪の名に恥じない見事な誂えの広間があった。同じような豪邸のゾア宅とは一線を画す、豪奢な装飾品や調度品が、品よく並べられている。陶器の壷や鉱石を用いて作られた家財の数々。中でも天上に吊られたガス灯はこの辺りではほとんどお目に掛かれない代物だ。

興味を惹かれる物はたくさんあるが、今は物珍しい物に目移りしている場合ではない。探すべきは幽閉されているかもしれないドミトル、あるいはオノスという門番。

 その二人の行方を捜し、二人は一階の各部屋は無視して、屋敷中央の階段へ一目散に走っていく。

 屋敷の中は広く、初めて入る場所である為に間取りには明るくない。だが、ドミトルの話をする時、アスターがしきりに気にしていたのは二回の中央の部屋だと、ビアンは気付いていた。ライゼルもそれに倣い、脇目も振らず、階段を駆け上がり、大きな両扉に辿り着くとそれを二人掛かりで引き開く。

 ギィとやや甲高い音を立てながら開かれる大扉。その先に、ビアンは何かを認めた。

「これが、そうなのか?」

 扉を開けたすぐ目の前に、件のそれらしい人の形を模した石像があった。それを一瞬人影かと思って警戒したが、そんな事はなかった。ビアンの予想に反して、ドミトルもオノスもこの部屋にはいない。特に身を隠せる場所もなく、他にどこか人が身を潜ませている様子でもない。この部屋には、石像が置かれているばかりで、人の気配は一切ない。

 壁一面に配された書棚や、人見知りの主人が誰と囲むつもりだったのか十人掛けの大きな卓と椅子。それ以外にこれと言って目を引く物はない。そう、入り口付近に配された、その不自然な石像以外は。

 やはり一番に目に入るのは、扉に対して背中を向けて置かれていたそれ。調度品にしては随分いい加減な配置の方法だ。一階の広間は整然と並べられていたというのに、それに比べて随分と杜撰な配置だ。こんなところに人物大の置物があっては、邪魔で仕方がないだろう。やはり、アスターでなく、ドミトル本人が設置したのだろうか?

「なんか期待してたのと違うよ。かっこわるい」

 ライゼルの感想を聞いて、ビアンも子細に観察する。美術品に通じている訳ではないが、一般的な感性を以ってして、それを評価されるものではないと断じる事ができる。

「これは、あまり趣味がいいとは言えないなぁ」

 その石像は、恐怖によるものか苦痛だろうか、怯え切った様子で歪んだ表情は、この世の終わりを目撃したかのような醜い形相をしている。姿勢も腰が引け、前方より迫る何かから自身を庇うようにして、両手で前面を隠しているように見受けられる。その男の醜態を全て晒し尽したかのような作品。これが意図的に作られたものだとしたら、随分前衛的な作品だ。一般的に石像に付与されるはずの威容が全く感じられない。

 加えて、この石像には衣服が着せられている。衣服を模って掘ってあるのではなく、石像その物に実際に人間が着用するような服を着せているのだ。ビアンは何度か目にした事がある、上等な誂えの衣装。王族や貴族がよく着用している、刺繍が幾重にも施された綺麗な模様の服。

 彫刻に対する造詣は深くない二人だが、これが珍妙な作品だという事は見て取れた。人形に染物を着せる文化はあるが、それが彫刻となると聞いた事がない。しかも、染物ではなく、立派な衣服を、だ。まだ世間に理解されない独特の感性の持ち主が、時代を先んじて完成させた傑作なのだろうか。二人には判断しかねる事案だ。

「芸術家ってのは、何を考えているか分からんな」

 ビアンがそう愚痴を溢すと、アスターを任されたベニューと、彼女に支えられているアスターがそこまで来ていた。アスターは部屋の入り口で立ち止まり、呆然とした様子で佇んでいる。部屋の入り口手前までやってきたものの、それ以上は近付こうとしない。大変な事をしでかしてしまったと青褪めている。

「わたくしに責はございません事、何卒ご理解くださいませ」

 追いついて第一声がこれだ。ここまで自分の無責任を主張されると、正論であってもビアンは辟易してしまう。

「分かっている。これは我々が勝手にした事。ドミトル公にもちゃんと説明する」

 そう宥めるが、アスターは先以上に恐れおののき、ビアンの方を見ようとしない。というよりも、アスターは部屋に向かって頭を垂れたままで、目を向けようとしない。

「なんだ、無礼者とは目も合わさないか」

 無理を通してこの部屋まで侵入したビアンは、自身に非がある事を自覚している為、多少気遣って悪びれてみせる。しかし、アスターの身震いが治まる様子はない。先の挙動不審とは訳が違う。癖から生じるものでなく、心からの怯えが身体に表れているのだ。

「いえ、畏れ多いのです」

「何がだ?」

 不自然な言動の多いアスターであるが、今のはとりわけ奇妙だ。不在の主に、正確にはその主の部屋に対して畏敬の念を持つ事も、ドミトルの教育なのだろうか?

 しかし、そうではなかった。主人の所有物などにではなく、ドミトル本人に対して正しく畏敬の念を抱いているからこそ、このような不自然な反応を示し続けているのだ。この場にいるドミトル本人に。

「そこに、『旦那様の御姿』があります故、畏れ多くて頭を垂れているのです」

 アスターが恭しく礼を取る対象に視線を送ると、そこにはまごう事なく、やはり石像がいるのだ。

「これがドミトル公を模した石像だと?」

 アスターの言動に直感めいたものを覚えたビアン。遅れてライゼルとベニューも悪寒を感じた。

(もし、これが『ドミトル公本人』だとしたら・・・)

 ビアンは咄嗟に石像の服をまさぐりながら、『ある物』の所在を探る。丹念に触れて回るが、どこにもそれが見当たらない。ドミトル本人が肌身離さず持っているという噂のそれが、だ。

 青褪めたビアンは、自分の推理を確かめるように、アスターに問いを投げる。

「貴女はずっと屋敷にいたが、ドミトル公が外出するのを見ていない。そうだな?」

「はい」

「もう一つ質問だ。村の入り口の風車、昨日から回っていなかったんじゃないか?」

「はい、さようでございます。一基だけ止まっている事に気が付かれた住民の通報がありまして、ご報告に上がろうとしたら、旦那様の姿が見当たらず」

 アスターの返答は、ビアンの予測を裏切らない。おそらく、当主不在はその時に村人に告げたのだろう。アスターに、何かを隠し立てしようとするつもりなど、最初からなかったのだ。アスターは巻き込まれた側の人物。

 それにしても、これは、偶然にしてはあまりにも出来過ぎている。風車の不具合と当主の不在が、意図せず同時に重なる訳がない。つまり、ドミトル達が行方不明なった時に、何者かによってあの風車一基は停止させられたのだ。それが意味する事象を理解できた時、ビアンは例のごとく絶叫する。

「なんてこったああああああぁぁ!」

 手遅れになるまいかと危惧しながら、部屋を飛び出し階段を駆け下りるビアン。それを見て、ライゼルとベニューも追従する。ビアンが大声を張り上げたという事は、何か不測の事態が起きたという事。それを察した姉弟にも、緊張感が走る。

「二人は中にいるんじゃなかったの? 説明要求!」

 屋敷を出た辺りですぐさま追いついたライゼルは、何がどうなっているのかビアンに説明を求める。ビアンも完全に把握した訳ではないが、慎重に言葉を探しながら、推論を立てる。

「自分でも信じられないが。犯人の正体に見当が付いた」

「本当ですか?」

 遅れてベニューも並走する。石像を観察していないベニューでは、ビアンが閃いた真相に辿り着かない。

「おそらく、犯人はオノス。そして、そいつは【翼】使いだ」

「えっ、どうしてわかったの?」

「いや、正直言えば、何がどうなればこうなるのか分からんが、あの石像はドミトル公本人で、犯人は空を移動して窓から逃走した。多分、間違っていない」

 そう言い切ると、何故かビアン自身も納得できた。【翼】使いという要素を推理に組み込む事で、驚くくらいそれが違和感なく成立してしまう。

「石像がドミトル?」

「そういう【翼】の能力があっても驚きはしない。詳細を知らなかったドミトルは、それを【牙】の能力だと勘違いしたんだろう」

 ドミトルは、オノスを名乗る人物の能力を【牙】だと勘違いしており、異国民とも知らず【翼】の能力によって石化されたのだろう、と推測する。これまで高速移動を可能にしたり、麻痺を生じさせる【翼】を目にしてきた。石化させる能力があっても不思議ではない。

「[[rb:身分証 > ナンバリングリング]]を身に付けていないのも、これまでの【翼】使いの特徴と符合する」

 そこまで説明されても、ベニューは未だに釈然としない。まだ解消できていない疑問が残っている。

「名前は? どうして犯人は大戦の英雄の名を騙ったのでしょう?」

「おそらく偽名だ。首輪を持たない異国人がドミトルに近付く為には、信用が必要になる。それで有名人の名を騙ったのだろう。オノス程の有名人であれば、異国人でも知り得ていただろうし、それに他人の名前を利用すれば、異国人が大事にする名前を告げなくていいからな」

 そこまで理由を付けられると、そうなのかもとベニューも納得する。これ程まで状況に即した推理であれば、大間違いという事もないだろう。一般的な考えからすれば、筋が通っている。

 でも、違和感はある。例えば、フィオーレを襲ったテペキオンや、ルクと呼ばれていた巨漢、そして三つ編みおさげの女を、一般的な尺度で測っていいものか、と。

 ベニューがこれ以上の追及を止めると、ライゼルは自分達の目的地を気にする。ビアンに追従するものの、その行き先をまだ聞かされてはいない。

「それで、どこに向かってるの?」

「風車小屋だ」

「風車小屋?」

 言われて村の入り口あった一基だけ止まっていた風車をライゼルも思い出す。先のアスターとの問答で、ビアンが稼働状況を確認していた風車がそれだと判明し、ライゼルにもビアンの考えが分かる。

「そっか、そういう事か」

「そうだ。あそこにオノスが、翼使いが身を潜めているはずだ」

 犯行が昨夜から今朝にかけて行われたとして、目覚め始めた人々の目を避ける為に、一旦姿を隠す為に風車小屋に身を潜ませていたと考えれば、辻褄が合う。村入り口の風車一基は、その時に停止させられたのだろう。ドミトルが風車小屋の鍵を身に着けていなかった事からも、状況証拠は固まっている。

 商店通りを突き抜けると、目指す風車小屋が見えてくる。現在も稼働はしていないが、未だに止まっているからといって、その中にまだ犯人オノスが潜んでいるとも限らない。もう抜けてしまった後という可能性は、大いにあり得る。

 取り逃すまいと、土手を下り、灌漑地特有のぬかるんだ路面を走破し、風車小屋の出入り口へやってくる。泥に足を取られながらも辿り着くと、鍵は鍵穴に挿したままで、扉は開け放たれていた。その中には、歯車数個を取り外し空間を確保し、身を潜めている老人の姿があった。年の頃は、ゾアと同年代といったところか。

「おい、お前がオノスの名を騙った異国人だな?」

 男の姿に注視すると、まず、みすぼらしい衣服が目に入る。これまでの異国人が着ていた洒脱な純白の衣装ではない。それに、闘将オノスの風体を知らぬビアンではあるが、年の頃も数十年前の戦役を経験したであろう年齢と言っても説得力がある。

 そして、首元には確かに首輪が付けられていなかった。これまで出会った首輪を付けていない者達の共通項、それは【牙】に匹敵する異能の能力【翼】を持っているという事。つまり、今回の事件の首謀者である可能性が高い。

「こんなところで何をしている、【翼】使い!」

 犯人らしき男を取り押さえようと、ビアンが小屋の中へ侵入する。が、男は逃げるでもなく、かと言って観念した様子でもなく、ビアンに怪訝そうな目を向ける。

「リカートじゃないのか?」

「リカート?」

 知らぬ名前と間違えられて、ビアンは歩みを止めた。そして、後方に控えていたベニューの発する大声を聞く。ベニューは付近の何者かの存在に気付いていた。

「ビアンさん、後ろです。後ろの空に【翼】を持った人がいます」

 ベニューが指さす方向へライゼルとビアンが視線を送ると、確かに風車小屋を背にした眼前の中空に、テペキオン等と同じ物を背にした男がいる。

 長い赤毛の、金属の仮面で容貌を隠した細身の男。ベスティア王国民の証である首輪は見当たらず、テペキオン達同様に見慣れぬ純白の衣装を身に纏っている。最も確信させるものが、男を重力から解き放ち、空中浮遊を可能足らしめているそれである。

「その出で立ち、その異能、お前はテペキオン達の仲間か?」

 そう問われる男は、仮面の奥の瞳を静かに光らせた。中性的とも思える澄んだ声でビアンを刺す。

「下らん問いを投げるな、下郎。貴様らこそ、あの外道の使いであろう。オノスを取り返しに来たか」

「なに?」

 男の言動から何かを察したベニューは、ビアンに耳打ちする。

「今回の事件、誘拐事件で間違いなかったんですよ。ただ、犯人があの人で、誘拐されたのが何故かオノスさんだったという違いはありますけど」

 ベニューの助言を聞いたビアンはなるほど合点がいった。物盗りでなく、誘拐が目当て。ならば、この状況に一応の説明が付く。何故、その対象がオノスという老人なのかはさておき。

「オノスはこれ以上、この土地にいてはならぬ。さぁ、オノスを返してもらおう」

 そう言って、仮面の男はふわりと降下し、地上へ降り立つ。無防備に歩み寄る様は、ライゼル達の反抗を警戒していないように見える。

「いい機会だ。お前を捕えて、お前達異国民が何を企んでいるか、余すところなく吐いてもらうぞ」

 これで都合四人目となる異国人との遭遇に、ビアンの鼻息も荒くなる。

 そして、その傍らで静かに闘志を燃やす牙使いの少年、ライゼル。

「あいつがドミトルを石にしてオノスってじいちゃんをさらった犯人…!」

 現状ドミトルの生死は定かではないが、害を為した事には変わりはない。それはドミトルの笑顔を奪ったも同義。フィオーレでの一件も、もしライゼルが対抗しなければ、同じようにカトレアがその魔手に脅かされていたかもしれない。大柄な男ルクの時も、三つ編みおさげの女の時も、戦わなければベニューやビアンが傷付けられる事になったはずだ。

 そう思うと、ここでもこれ以上の犠牲を出さない為にも、この仮面の異国人を討たねばならない。幸いな事に、偶然にもオノスの身柄を確保する事は出来た。あとは、目の前の敵を退けるのみ。

「ビアン。俺、戦うよ!」

「あぁ。ライゼル、任されてくれるか?」

「おうよ」

 笑顔を守りたいライゼルと法を守りたいビアンは、揃って戦う意志を示す。その様子をベニューも確認し、首肯で応じる。ここで下手人を捉えられれば、今後起きるかもしれない事件を未然に防ぐ事に繋がる。この戦いの意義は決して小さくない。

「よし、行くぞ」

 ビアンの合図で、ライゼルは仮面の男へ詰め寄り、ベニューはオノスを庇うようにして風車小屋へ籠り、扉を閉めた。ビアンは扉を背に陣取り、ライゼルへの指示を出す。それぞれが即座に自らの役割を察し、行動に移ったのだ。

 飛び出したライゼルは、即座に霊気を集め、【牙】を形成させ、仮面の男目掛けて斬りかかる。

「油断してると怪我するよ!」

 仮面の男がライゼルの幅広剣の出現を知覚した時には、ライゼルは既に間合いに入っていた。持ち前の瞬発力で一気に距離を詰めていたのだ。

 この一撃で、仮面の男を無力化できる、ライゼルがそう確信した瞬間だった。

「これは、ペルロやガトと同じ力か」

 悠長な調子で【牙】への感想を溢した挙句、避けようともせず、ライゼルの振り掛かる幅広剣に手を掛ける。

「知っているぞ。【牙】とやらも、私の【翼】で石榑に帰す事ができるとな」

 仮面の男が何を言っているのか分からなかったが、仮面の男の言う事が、次の瞬間には眼前で起こった現象として思い知らされる。

「【牙】が、石になった!?」

 言うが早いか、ライゼルがムスヒアニマを集中させ具現化させた【牙】が、その形を維持する事が適わず、ぼろぼろと砕け散っていく。乾燥した土塊のように、いとも容易くその形を崩壊させる。

これまで幾度となく【牙】を生成してきたライゼルであったが、このような現象は見た事がなかった。霊気の供給を断ち【牙】を霧散させる事はあるが、物質化したまま崩壊するのはこれが史上初めての経験となる。

「うわっ、俺の【牙】が壊れちゃった」

 突然の出来事に面食らうライゼルを見て、仮面の奥の瞳が怪しい光を帯びて、男は不敵な笑みを浮かべる。

「慢心は貴様だったな、ライゼルとやら」

 

 その頃、風車小屋の中では、歯車の取り外された狭い隙間に、ベニューとオノスが身を寄せ合っていた。風車小屋内の比較的に大きな歯車を取り外していたようで、女の子であるベニューが押し入る事は然程難しい事ではなかった。

 絡繰り仕掛けの中へ進入したベニューは、何故この風車一基だけが止まっていたのか得心が行った。駆動部に連結する部品を取り除かれ、その部品を風車の回転軸に噛ませてあるのをベニューは発見した。その為に、ここの風車だけ風を受けても回転していなかったのだ。

 ただ、それだけの作業を目の前の老人一人がこなしたとは、とても考えづらくはあるが。比較的大きな部品も大人が両手を広げたくらいの巨大さがある。おそらく、オノス以外の誰かが取り外したのだと推察できる。

 それはともかくとして、だ。こうして、行方知れずとなっていたオノスの身柄を確保できた事は僥倖である。オノスから犯人に関する証言を得られれば、事件はほとんど解決したようなものだ。あとは、外の実行犯らしき人物を取り押さえる事ができるかどうか。

 ただ、老人はまだ心許無いのか、少し浮かない表情をしている。

「安心してください。ウチの弟、ああ見えても強いんですから」

 ベニューがオノスを気遣って声を掛けるが、老人は静かに首を振るばかり。

「あなた方は誤解しておられる。リカートは私を助けてくれたのです」

「どういう事ですか?」

 状況から、先の仮面の翼使いの名をリカートと言うのだろう。そのリカートは敵ではないと、被害者であるはずのオノスは話すのだ。これまで何度か【翼】を有する異国人と衝突してきたベニューにはにわかに信じられないが、どうやら、自分達はまだ全容を理解できていないらしい。ベニュー達とオノスとの間には、認識の隔たりがあった。

「私は数週間前、あの屋敷に招かれたのですが」

 歯切れの悪い語り口で、オノスは屋敷に招かれてからの数週間の出来事を語り始める。

 二日目の勤務に就こうとした日の朝の事、オノスはドミトルから書斎まで来るよう指示された。まだアスターは出勤していなかった様子で、ドミトル本人がオノスを玄関で待ち受けた。

『【牙】をね、見せてもらいたいんです』

 突然のドミトルの要望に、オノスは弱り切った。もうオノスは【牙】を発現する事は出来ない。星脈も消失し、霊気を体に取り込む事も出来ない。有り体に言えば、【牙】を持たぬ普通の人間にも劣る状態である。

 オノスは正直にその事を話した。が、ドミトルは別段驚く様子もなく、事実を事実のままに受け止めた。

『なるほど。であれば、門番を任せる訳にはいきませんね』

『そう仰らず、私を使ってください。家事でも何でも致します』

 オノスが咄嗟に懇願し宣誓を述べると、それを耳にしたドミトルは厭らしい笑みを浮かべた。気味の悪い関心を向けられた、とオノスは感じた。

「どうやらドミトルは、何やら賭け事の為に強力な牙使いを探していたらしいのですが、私は【牙】を失って幾久しく…」

 オノスが【牙】を持たぬ事が知れると、それからというもの、オノスは番兵の役から解き放たれた代わりに、ひたすらに拷問を受ける日々となった。

 書斎に幽閉されたオノスは脱出も適わず、ある時は溶けた蝋をその身に垂らされ、ある時は水瓶一杯の氷水の中に浸からせられ、ある時は目隠しされた状態の耳元で何度も破裂音を聞かされ、かと思えば摩擦音を一日中聞かされ、ある時は香辛料の多量に含まれた料理を無理やり食わされ、ある時は喉が枯れるまで歌い踊らされ、毎日のように責め苦を味わわされ続けた。

 自力で逃げ出す事も適わず、ただただその苦痛に耐えるしかなかったオノス。助けを呼ぼうにも、ドミトルの操り人形となっているアスターは頼れないし、屋敷への人の出入りはほとんどない為、部外者も頼れなかった。

 一通り話し終えると、オノスは僅かに身震いした後、外にいる仮面の男を想った。

「昨夜、リカートは突然屋敷へ押し入り、私を解放してくれたんですよ」

「じゃあ、アスターさんの言動が不自然だったのも」

「おそらく、彼女も同様に虐待を受けていたのでしょう。私より以前にいたが為に、心まで壊されてしまったのでしょうな」

 オノスは自分が受けた仕打ちを身に染みて分かっている為に、アスターの心がどのように蝕まれていったのか、想像に難くない。きっと教育とは名ばかりの、酷い仕打ちを受けたのだろうと推測できる。

「あのリカートという人は、オノスさんを誘拐した悪い人ではないんですか?」

「まさか。私にとっては命の恩人ですよ。共に戦場を駆け抜けた戦友ですら私を見向きもしなくなったというのに、彼は私の身を案じ、今も治療薬を探しに出掛けてくれていた所です」

 確かに、オノスの全身の至る所に虐待の跡が見受けられる。その傷を治す為に異国人が労しているのだと、オノスはそう言ったのか? ベニューは自分の耳を疑った。

「でも、あのリカートという人は異国民なんですよね? 何故そのような事を?」

 オノスは少し間を空けて言葉を探し、かぶりを振る。

「彼が異国民だろうが、私はその事をどうとも思いません。彼は私を救い、新しい場所へ連れて行ってくれると約束してくれた。身寄りのない私には、その言葉が何より嬉しいのですよ、お嬢さん」

 それを聞いたベニューは、何とも言えない焦燥感に駆られた。このままでは取り返しのつかない事になってしまうのではないかと。自分達は、とんでもない思い違いをしてしまっているのだと、今更ながら気付く事となった。

 

 事件の真相に迫りつつあるベニューを余所に、得物を失ったライゼルは、一気に劣勢を強いられる事となっている。

 これまで死線を交わしてきた【翼】使いとは異なる不可視の能力。その手で触れた物を瞬時に石化させてしまう破格の力。それが人体にも有効だという事は、先のドミトルの件から明らかである。という事は、その能力からも、先の事件の下手人はこの仮面の男に違いない。

 俄然優位に立っているリカートは、落ち着いた足取りで一歩一歩ライゼルに迫る。なにしろ、触れるだけで相手を無力化できるのだ。リカートは攻め手を工夫する必要もない。手の届く距離まで接近するだけで良いのだ。

「一旦離れろ。安全圏を確保しつつ、打開策を検討する」

 ビアンの指示通りに真っ直ぐ見据え相対しながら、ライゼルは後退りしながらリカートと距離を取る。ビアンは相変わらず風車小屋の前に陣取り、ライゼルはそこから如何ばかりか離れた泥濘の中にいる。

 それを見てリカートは方向転換し、両者に対して注意を払う。余程用心深いのか、どちらに対しても隙を見せない。二方向の敵から反撃があっても、即座に漏らさず対応できる構え。リカートは決して慢心しない。自分の能力の特性を深く理解し、弱点も熟知している。ライゼルとビアンが二手に分かれ、どちらかが背後を取り、自身の両腕を封じれば、形勢が逆転する事をリカートは理解しているのだ。

「言葉を交わさずに互いの意志を図るか。外道の遣いにしては侮りがたい」

 一応は二人に賛辞を向けながらも、現に二人が試みようとしたその策を、即座にそれを看破し、牽制している。両者に睨みを利かせ、迂闊な接近を許さない。

 更に、その動作の最中に何かに気が付いたらしいリカート。風車小屋の扉を庇うようにして立つビアンに、リカートは一瞥を向ける。

「貴様は臭いがしない。【牙】を持っているのは子供の方だけか」

「なに?」

 リカートは【牙】を有しているかどうかを見極める事ができるらしく、無能力のビアンを優先的にその異能の被害に掛けようとする。

「まずは貴様から石に変えてくれよう」

 仮面の男は、対象をビアンに変えて再び歩き出す。焦りを一切感じさせない、ゆったりとした歩調。じわりじわりと精神的圧力を掛けていく。

 無意識の内にビアンの視線もリカートの両手に奪われている。あの必殺の能力を目の前で見せつけられては、警戒せざるを得ない。その動揺はリカートにも見透かされている。

 その一方、仮面の男は、その素顔を隠しているように、己が胸中も透けさせない。窺い知れない男の素性同様、迂闊な動作は一切見せない。

 そう対処されれば、ビアンは敵と距離を取るしかなく、ライゼルも迂闊に近寄れない。肝心なのは、二人同時に襲撃できるかどうか。ライゼルだけでは先程の二の舞だ。

「さぁ、これで分かったろう、貴様らでは私を阻む事は適わぬと。潔くオノスを渡せ。これ以上、戯れに付き合わすな」

 脅威的な異能を見せ付けられた今、ビアンもその申し出に応じたい気持ちは山々だった。リカートの能力に対する絶対の攻略法は未だ見出せず、このまま硬直状態が長引けばテペキオン達に居場所を察知される可能性もあった。おそらくリカートの同胞であろうテペキオン達は、ライゼルを付け狙っている。もし、リカートとテペキオン達を繋ぐ連絡手段があれば、一気に絶対的窮地に追い詰められる。

 そもそもの狙いは、下手人の容姿を確認する事。もちろん、身柄を確保できるに越した事はないが、払う犠牲が大きすぎる。失敗すれば、石化し絶命だ。冷静に天秤の針を見極めるなら、[[rb:身分証 > ナンバリングリング]]も持たない社会的に死んでいるも同然のオノス一人の犠牲で現状を打破できるなら、悪くない取引だとビアンは思う。

 しかし、ライゼルはそう思わない。他人の笑顔の為にその力を振るわんとするライゼルは、誰かが目の前で犠牲になる事を決して許しはしないだろう。例え、自分が傷付いてでもオノスを守ろうとする。

(ライゼルが聞き分けがいいとも思えないし、一か八かの賭けに出てみるか)

 ビアンには、決して分は良くないが、一応の勝算があった。弱点とも言えない不確定な要素ではあるのだが、リカートの能力は触れた物しか石化できないという点。改めて言うまでもないが、触れられなければ石化を免れる。

 実は、この事はドミトルの姿に暗示されていた。ドミトル自身は全身石化していたが、気障な衣服は触れられなかったのだろう、そのままの状態だった。衣服を残しドミトルだけ石化していたのは、リカートにとって衣服まで石化させる必要がなかったから。当然のことと言える。しかし、それが攻略の糸口となる。

 ビアンは、その頼りない急所を突く作戦をライゼルに提示する。

「ライゼル、服を脱げ。脱いだ服でヤツの腕を封じ込める」

 ビアンは、ライゼルから借り受けている六花染めを脱ぎながら、ライゼルに今回の必勝法を伝える。が、どうもライゼルには、それがどうしたら勝利に結びつくのか想像できない。

「ねぇ、手を覆えばいいって事?」

「そうだ、いいからやってみろ」

 出来れば具体的に説明して欲しいが、目の前には敵もいる。攻略法を相手に知られてしまうと、それの対策を考案されてしまうかもしれない。今はビアンを信じて実践あるのみ、とライゼルはすぐさま六花染めを脱いだ。

 上半身をさらけ出したライゼルとビアン。程よく鍛えられたライゼルの裸身と、貧相を絵に描いたようなビアンの華奢な裸身。これで、もしリカートに生身を触れられれば、石化しドミトルと同じ運命を辿る事となる。それは決して避けねばならない。

「いっせぇのせ、だ」

 脱いだ服を両手に持って広げながらリカート目掛けて走り出すライゼルとビアン。

 狙いは、リカートの腕を封じ込める事。縛り上げる事も選択肢の一つだが、一番効率的なのは手を覆った布を石化させ、より強固に両腕を封じる事。これを成功させる為には、リカートが石化能力を発動させる瞬間を見極めなければならない。リカートもただ被されたからといって、その布を石化させる間抜けではあるまい。リカートの反撃の瞬間こそが、二人にとっての絶好の機会なのだ。

「言葉通りの搦手か」

 リカートも二人の意図に気付き、一層警戒を強める。

 ライゼルとビアンは、ほぼ同時に二方向からリカートに迫り、あとは脱いだ服を巻き付けるだけ。ライゼルもビアンも相手の反撃を警戒しながら、腕を取りに走る。

「愚か」

 リカートもこれに対し、黙って待ち構えていた訳ではない。彼は【翼】を有しており、空へ退避する事ができる。寸でのところで、二人の追撃を躱し、反撃に転じる算段である。相手にない移動手段を有しているリカートの方が、この戦況では優位に立てる。重力に縛られない仮面の男が見せる余裕の理由はそれだ。

 ライゼルとビアンの跳びかかる瞬間を見極め、一度両者に対して牽制動作を見せ、相手の注意を凶器である手の動きに集中させた所で飛翔する。そこまでは、リカートは隙のない完璧な動作だった。

 しかし、予想外の事象がリカートの策謀を阻む。【翼】を展開する直前、意識を掻き乱されるような感覚に襲われる。それが何という現象なのか解明には至らないが、迫る一方の敵ライゼルが[[rb:霊気 > ムスヒアニマ]]を地面から吸い上げていたのをリカートは察する。

「この『臭い』、まさか【牙】か・・・!」

 急激に倦怠感を与える謎の現象に抗ったものの、意識は散漫になり、リカートの動きは鈍重となる。十全でない仮面の男の左腕は、ビアンによって捕縛されてしまった。

「片腕はもらった。ライゼル」

「おう!」

 充満する地上の臭いに中てられ、満足に回避運動を取れないリカート。彼の残った右腕を抑え込む事は、別段難しい事ではなかった。ベニューが誂えた六花染めでリカートの腕をぐるぐる巻きにしたライゼル。二人が両方向から衣服を引っ張る事で、大幅にリカートの動きを制限する。ライゼルとビアンに挟まれた中央の位置で固定されるリカート。

「形勢逆転だな、仮面の誘拐犯」

 無防備の状態のリカートは、特に抵抗する様子も見せない。このまま身柄を拘束できれば、一連の事件の詳細が一気に掴めるかもしれない。そう思うと、これは気の抜けない作戦だ、とビアンはいつも以上に張り切ってしまう。

「これが地上の霊気というものか。確かに体に障る毒だ」

 意味ありげな独り言を溢し、捕えられるままのリカート。その視線の先には、二度目の【牙】発動を終えたライゼルがいる。本来、日に一度程度の行使しか許されない星脈の酷使だが、この連続使用は破格の星脈を持つライゼルだからこそ可能な芸当である。

「もう逃げられないぞ。大人しく逮捕されろよ」

 ライゼルが観念するよう勧告するが、この状況に至ってもリカートは冷静さを一切欠かない。現状を打破できる策を、まだリカートは秘め持っているのだ。

「これで捕らえたつもりなら片腹痛し」

 しかし、それは本人しか知り得ぬ事。リカート以外には、この状況は圧倒的にリカート不利に映る。それは、風車小屋から這い出てきたベニューとオノスも同様であった。

「リカート」

 オノスが表に出た瞬間、命の恩人が二人の人間に捕らわれている。しかも、一人はその右手に【牙】を出現させている。命を救ってもらった立場のオノスにとっては、より絶望的な状況に思えた。【牙】も失い、誰からも相手にされなかった自分に、手を差し伸べてくれた無二の人物。そのような人が、身動きの取れない状況で【牙】を有する少年に迫られているのだ。心配しない訳がない。

 居ても立ってもいられぬオノスは、リカートを解放せんと走り出す。元々、灌漑工事が必要なムーランの地面はぬかるんでおり、決して走りやすい地面ではない。自由の利かぬ体でリカートの傍へ走り寄るオノスの姿は、年寄りの冷や水とも言える。

 その様子は、ライゼル達からも見えていた。

「駄目だよ、じいちゃん」

「これ以上近づくと、罰するぞ」

 ライゼルとビアンの制止も耳に届かぬのか、荒い呼吸のまま三人の元へ迫る。

「オノス、要らぬ気遣いを…フンッ!」

 その瞬間、二人の敵の注意が自身から逸れるのをリカートは見逃さなかった。肩を軸にし両腕を大きく回し、ぐんと更に手繰り寄せ、二人の姿勢を崩す事に成功する。力の均衡が崩れ、半ば無防備な状態で、二人はリカートの間合いへ踏み入ってしまった。ライゼルも敵の狙いを察し瞬時に手を放したが、その時には地に足が付いていなかった。

「やばっ!」

「ぬかった!」

 リカートはすかさず両腕の着物を石化させ、自身の腕に融合装着させた鈍器へと変形させた。ライゼル、ビアン共に上半身に引力を加えられ、前のめりの体勢になっている。このまま岩石を纏った両腕を二人の頭部にでも見舞えば、その時点でリカートの勝利が決定される。

「こうなりゃ、自棄だ」

 やぶれかぶれにライゼルも手にした幅広剣をリカート目掛けて突き立てる。さすがにリカートもこれには両手で防御の構えを取らざるを得ず、リカートの両腕が防御に回された事で、両者の頭部への打撃攻撃は阻止された。

「あでっ」

 しかし、依然窮地に立たされている事には変わらない。ビアンは受け身を取る事も儘ならず、地面に突っ伏してしまったし、ライゼルの方もやぶれかぶれの攻撃を防がれ、次の手を繰り出さねばならない。引き寄せられ近付いたリカートとの間合い。この距離は剣を振るう間合いではない。拳を振るう距離だ。なんとか踏み止まり、地に伏せずに済んだライゼルも、この至近距離では攻撃に移れない。ビアンに至っては、寝転がった状態だ。

「似合いの姿だ」

 それを十分理解しているリカートは、この好機を逃すまいと、横たわるビアンを踏みつけにし、右左の連撃でライゼルを追い詰める。右から左からと絶え間なく浴びせられる石の拳は、この場にいる誰もが知り得ぬ事だが、全盛期のオノスを彷彿とさせる冴えを見せる。時を越えて異国人によって再現される闘将の猛攻。リカートは、ライゼルを無力化できれば、残りのビアンとベニューを組み伏せる事は容易いと踏んだのだ。

「【牙】を棄てれば、見逃してやろうぞ?」

「へっ、冗談ポイッだね!」

 ライゼルの剣に決定打を阻まれながらも、リカートの岩石を纏った腕は、常にライゼルの頭部を捕捉している。防戦一方のライゼルは、泥の上では満足に足捌きも出来ず、距離を取る事も儘ならない。ライゼルを追い詰めるのは、あとは時間の問題だった。

 と、リカートはそう思っていた。しかし、そうはならなかった。リカートの計算に含まれていなかった要素が、彼の足を引っ張った。そう複数の誤算が、リカートの足を引っ張った。

 一つ目は、足場の泥濘(ぬかるみ)。これまでリカートが決して急ぎ足にならなかった理由がこれだった。リカートには【翼】での空中移動が可能で、足場の条件を本来なら無視できた。しかし、何故か飛行能力と石化能力とを同時に発動する事ができなかったのだ。故に、交互に能力を行使し、ライゼル達を相手取ってきた。だが、ライゼルの必死の抵抗に、リカートもその事を失念してしまい、ついに躓いてしまった。

 続いて、この二つ目がなければ、おそらくリカートはそれ程まで窮地には立たなかった。その二つ目とは、ライゼルから放出されるムスヒアニマの奔流。リカートは、牙使いが短時間に一度しかムスヒアニマを充填できない事を知っていた。ペルロとガトという牙使いから、事前にその情報を得ていたのだ。だから、この二回目の【牙】はそもそも予想外たったが、そこまではなんとか対処できた。

 しかし、この『臭い』には集中を掻き乱される。普段は微量でそれ程制限を受けないが、【牙】発動時には常時とは比べ物にならない量のムスヒアニマが周囲に充満する。脂肪や脂質が酸化したような、深いな大量の『臭い』が、冷静なリカートの意識を散漫にさせ、判断を誤らせた。誤った判断により、仮面の男は攻撃を焦ってしまった。

「リカートぉおお」

 そして、これが最大の誤算。リカートの身を案じて駆けつけようとするオノス。間髪なく打ち合いを繰り広げる両者に割って入ろうとする、老いぼれた過去の戦士。情けを掛けたばかりに、今度は情けを掛けられる事となった。

 出会いは偶然だった。地上に漂う不愉快な臭いを追って、二日前にリカートはこのムーランを訪れていた。そして、ドミトルの屋敷で拷問を受けていた所を目撃し、オノスを救い上げた。ドミトルを葬ったのも、オノスへの同情心というよりも、単純にドミトルの蛮行が気に食わなかった事の方が比重として大きい。リカートにとって、オノスはついででしかなかった。目的の物を求めてさすらった結果、ただそこに居合わせただけの存在。

 だが、リカートも知らぬ間にオノスに情が移っていた。それ以前に同じような境遇から救い出したペルロやガトと共に、オノスも連れて行こうと考えるようになっていた。

 先程も、周辺を彷徨っていた同胞ラホワの元へ、万能薬『アムリタ』を貰い受けに出向いていた所だった。それ程、オノスの身を案じるようになっていた。

「リカート、この子らは勘違いを…」

 そのオノスが恩返しとでも言わんばかりに、自らを犠牲にし盾代わりとなり、ライゼルの剣からリカートを庇ったのだから、リカートは如何ともしがたい激情に駆られる。

「—――オノス・・・!」

「じいちゃん!」

 リカートを狙ったライゼルの【牙】は、その軌道に割って入ったオノスの肩を斬り付ける。ライゼルが咄嗟に切っ先を逸らした為に深い傷にはならなかったが、それでもオノスの体に痛みが走る。

「っうぐぅ」

 【牙】の所有者ライゼルにも、人を斬るその嫌な手応えが感じられた。目の前の老人に苦痛を与えたのは、他でもないライゼルの剣だ。ライゼルの幅広剣にはオノスの血が付着している。

「じいちゃん、大丈夫!?」

「おい、ライゼル。防御を解くな」

 言われるまで気付かなかったが、確かにライゼルはオノスを傷つけた事に動揺し、がら空きの状態を作っていた。地面に伏せているビアンと、剣を構えていないライゼル。近距離攻撃を得意とするリカート相手に、二人とも無防備な状態を晒してしまっていた。

 ビアンは頭上を、ライゼルは正面を見やり、リカートからの殴打を覚悟した。が、待てど暮らせど、次の一撃は見舞われなかった。

「どういう事だ?」

 ぎゅっと瞑った両目をビアンがゆっくり開けると、どうやら失神したらしいオノスを担いだリカートは、その背に【翼】を展開し、宙空に浮かび上がっている。【翼】を発動させた時に石化能力を解除させたのか、腕に巻き付かれた布は一度得た頑丈さを失い、本来の六花染めに戻っていた。左手のビアンの六花染めは取り外されていたが、ライゼルが巻き付けた六花染めはまだリカートの右腕にあった。

「じいちゃんを返せ」

 改めて幅広剣を構え直す。しかし、リカートはまともに取り合わない。目的のオノスを確保したのだから、これ以上ここに留まる理由はない。

「妙な事をぬかすな。この者は私の『仲間』だ」

「仲間?」

 そう言ったきり、オノスを抱えたまま、そして右腕に鮮やかな着物を巻き付けたまま、天高くへ浮かび上がっていく。

「おい、お前待てよ―――そうだ、リカート! おい、降りてこいリカート! や~い、俺が怖いのか~?」

 ライゼルは咄嗟に思い出す、【翼】を持つ天上人は自身の名を尊んでいる、と。よって、オノスを連れて行こうとするリカートの名前を連呼するという方法に出る。リカートが無視できないくらいに侮辱の色を込めて。

 何故だか必死に呼び止めようとするライゼル。今、彼にこのまま去られる事は、ライゼルの心をひどく落ち着かなくさせる。どうして、そうなのかは分からない。だが、呼び止めずにはいられないのだ。リカートを見上げるライゼルは、その異国人の名を叫び続ける。

「リカート、どうした、聞こえていないのか? こら、返事したらどうなんだ、リカート!」

 その甲斐もあってか、ひたすら名を呼ばれたリカートは、空中で制止する。背の【翼】をはためかせながら、ライゼルの姿をじっと見下ろす。

「小僧、それは挑発のつもりか?」

「だったら、どうする?」

 握り締めている【牙】を中空のリカート目掛けて突き付ける。その姿は、リカートの問いに対して肯定を示したようなものだ。彼我の戦力差を見れば、リカートに分があるが、それでも敢えて仮面の男を同じ土俵に戻さんとするライゼル。

「図に乗るなよ、小僧。貴様を黙らせる事など造作もないのだぞ?」

 その言葉を聞かされると、否応がなしに先の石化能力が思い出される。有機物、無機物問わずに石榑へと帰す逃れられない脅威。

「戦い方次第じゃまだ分かんないだろ、リカート」

 威勢よく啖呵を切ってみせるが、もちろんライゼルに策などない。あくまで虚勢でしかない。

 そんなライゼルの意図を見透かしたのか、リカートは仮面の奥の瞳を光らせる。

「そうか、いやに私の名を呼び捨てると思えば、その意味を知っておるのだな。それを利用し足止めを目論んだという訳か」

「うっ…」

 ライゼルが何を企てようと、リカートはすぐさま看破する。戦術も然り、今回の意図も然り。

気心の知れたベニューならいざ知らず、初対面のリカートにそれを可能足らしめるのは、鋭い観察眼なのかもしれない。リカートは驕らず、侮らず、事実を在りのままに直視し、それに込められた意志を見透かす。

「かような小僧に知られるとは。そのような粗忽者は疾風か不死の彼奴らしか思い浮かばぬが」

 そこで一旦言葉を切りつつ、仮面から覗かせる双眸で、ライゼルを射竦める。ライゼルの意図を見抜くリカートが、その目に宿らせた眼光。

「私の名を仲間以外が口にするのは、酷く心を掻き乱されるが。今はオノスの手当てを急がねばならない」

 そう言ってオノスに移した視線は、伏せてしまったが為にライゼルからは窺えなかったが、地に伏しているビアンからは僅かに見えた。とても穏やかな瞳を、気を失い抱きかかえられているオノスに向けている事が。

「知ってるんだぞ、お前達は『狩り』ってのをやる為にベスティアに来たんだろ! じいちゃんに酷い事をするつもりなんだろ!」

 何故か。何故だか、ライゼルは縋るような目で、リカートに向けてそう提案する。そうすれば、何かを失わずに済むような気がした。いや、むしろその反対。何かに気付かずに済むと思った。

 だが、リカートはそれを受け入れない。ライゼルの脆さを見抜いたリカートにとって、優先すべきはライゼルのそれを考慮する事ではない。オノスに対する心配の方が、それを遥かに上回る。

「戯言は聞かぬ。オノスに対して働いた外道を悔い改めぬその態度、誠に許しがたい。いずれその身に裁きが下るものと知れ」

 ライゼルの言葉を切り捨て、一度大きく【翼】をはためかせると、そのまま東の空へ向かって飛翔する。

逃すまいとビアンが起き上がり追いかけるも、ぬかるんだ路面を走る彼では到底間に合わない。そもそも、天を駆ける翼使いには届かない。

 徐々に小さくなっていく二人の姿に、一連の件の終結を見た。危機が去り、一気に力が抜けるライゼルとビアン。その姿を風車小屋の前から見つめるベニュー。残された一行は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

「くそ、逃げられた」

 泥に塗れたビアンは、悔しさに吠える。一旦は安全策と秤にかけた確保だったが、それでも、殺人と誘拐の実行犯に逃げられたというのは、手痛い仕打ちだ。もし捕える事ができていれば、一連の異国人の情報を聞き出せる可能性もあっただけに、悔しさを一入(ひとしお)だ。

 一方、ビアンと違い、ライゼルに取り逃がした悔しさは微塵もない。悔しさではなく、ライゼルの心を支配しているのは虚無感だった。呆然自失となったライゼルの耳に、リカートが口にした言葉がこびり付いて離れない。

「・・・アイツ、仲間って言ってた」

 徒労感に襲われ沈黙するライゼルと、真相を知ってライゼルの心中を察するベニュー。だが、事件の概要が知れた今、早急に治安維持部隊に連絡を入れねばならない。一行に呆けている暇はなかった。

「ライゼル、ベニュー、屋敷に戻るぞ。犯人の面も割れた、アードゥルに通報だ」

 

 しばらくして、オノスは空を駆けるリカートの腕の中で目を覚ました。宙空を高速で移動する際の顔に受ける風は、これで二度目の経験となったオノス。違うのは、気付いた時には体から痛みがなくなっていた事。リカートがラホワから譲ってもらった『アムリタ』によって、先程のライゼルによって付けられた傷も完治していた。

 どういう理屈かはオノスには分からないが、リカートがしてくれた事なのだろうと察する。この年まで生きていれば不思議な事はいくらだってある。それに、そんな事が些細な事と思える程に、オノスの心はリカートへの感謝の念で満たされている。

「また迷惑をかけてしまったね」

 謝辞を受け、仮面の男はくすぐったそうに笑みを溢し、赤い髪を揺らすようにかぶりを振る。

「気にせずとも良い。オノスには私の仲間として協力してもらいたい事があるのだ。存分に働いてもらうぞ?」

「あぁ、この年寄りに出来る事なら何なりと、だ」

 先日知り合ったばかりではあるが、もう既に絆のようなものを結びつつあるベスティアから見捨てられた牙使いと、その者に手を差し伸べた【翼】を持つ[[rb:有資格者 > ギフテッド]]の異国民。

 こうして、絆を確かめ合った二人は、他の仲間であるガトとペルロの待つ場所へ急ぐのだった。

 

 こうして、今回のムーラン伯殺害事件の概要は、下手人リカート発覚を以って明らかになった。

 ただ、ドミトルは事件唯一の犠牲者ではあったが、素直に同情できる人柄ではなかった事も知られた。加えて、ドミトルがオノスに拷問を行っていた事がベニューによって証言され、新たな代表選抜の前に、この代表制度に対する疑問符を浮かび上がらせる事態にも発展したのだった。

 その他にも、石像と化したドミトルと主人を失くした屋敷は、国によって接収される事となり、自動的にアスターも解雇という処分が下った。ドミトル死亡の報を受けたアスターは、しばらく事態が受け入れられず呆けていたが、段々解放された事が実感できたのか、突然大声を上げて泣き始めた。これまで余程の我慢を強いられていたのだろう、ドミトルの死によって解き放たれ、ようやく本来の感情を取り戻せたようだった。

 大方の事は一段落し目処が立ったが、これからもしばらくはこの村も忙しなさが続きそうだ。

 それは下手人確保に尽力したライゼルも同じく。リカートが為した行いは、ライゼルにも大きな影響を及ぼしており、もう一波乱を呼んでいた。

 アードゥルと今後の事を相談するビアンを待つ間、ライゼルとベニューは屋敷の応接間で待たされていた訳だが、ライゼルは気持ちが抑えられないのか、忙しなく部屋の中を歩き回りながらベニューに質問を浴びせている。

「ベニュー、じいちゃんはどうしてリカートを庇ったの?」

「オノスさん、ここでドミトルさんにひどい目に合わされてたんだって」

 ドミトルやアスターが受けていた仕打ちをベニューから聞いて、確かにライゼルもアスターの不自然な挙動に納得がいった。だが、オノスの行動に関しては理解できなかった。

 これまで出会った【翼】を持つ者はどれも、他者を嬲り、害を為す存在だった。だから、ライゼルは【翼】を持つ異国民を、討つべき外敵と認識していた。しかし、オノスはそうは思っていなかった。そして、リカート側もオノスを仲間だと呼んだ。お互いに友好的な態度を示していたのだ。

「ドミトルが悪い奴だってのも、オノスやアスターが可哀想だったって事も分かる。じゃあ、リカートはいい奴だったの?」

 ドミトルを始末した事は、当然だが法に問われる事になる。誘拐も右に同じく。だが、結果的にアスターは虐待から解放され、一方オノスはリカートに感謝していたという。悪事も働いたが、同時に善行も積んだ。ライゼルには、この辺りの矛盾がどうしても消化しきれない。

 ライゼルの問いに、今自分が明確な答えを与えるより、本人の心のままの言葉を聞いてみたいとベニューは思った。おそらく、自分が諭せば一時的には弟の留飲を上げる事が出来るかもしれない。だが、それはその場しのぎに過ぎず、また同じような事に遭遇すれば、またライゼルは自身の良心を疑わなければならなくなってしまう。

「ライゼルはどう思う?」

 ベニューがそう問うと、ライゼルは脚を止めて逡巡する仕草を見せる。

「わかんない。でも、人を殺すのは悪い事だと思う」

 ベニューは、ライゼルがどうしたいのか、なんとなく察する事ができる。この問答で確かめたいのだ、自分の行いが正しかったのか、それとも間違っていたのか。

 ベニューは、ライゼルが決して間違っていたとは思わない。ただ、結果的にオノスがライゼルの助力を必要としなかっただけ。オノスにとっては、ライゼルの行いは歓迎されず、リカートを是とした。その事を本人の口から聞いていたベニューは、オノスの心情をライゼルに教えてあげる事ができる。

「命を奪う事は、いけないことだよ。でも、もし母さんが同じようにひどい目に遭ってたらライゼルはどう思う?」

「絶対に許せない」

 亡き母を想い、俯くライゼルの表情が険しくなる。が、次の瞬間には寄せた眉根を解き、椅子に掛けるベニューの元へ駆け寄り、上目遣いに改めて問い直す。

「ねぇ、それってリカートにとってオノスは大切な人だったってこと?」

 ベニューが引き合いに母を出した事が、ライゼルにとっては思いの外驚愕だった。ベニューにとって家族はかけがえのない特別な存在だ。それを例え話に出すという事は、そういう認識だったからなのか。

「リカートって人がどう思っていたのか分からないけど、あの人はずっとオノスさんの身を案じているように見えたよ」

 ベニューの言う通りかもしれない。思えば、リカートはドミトルにこそ裁きを下したが、それ以外は悪事を働いていない。結果的にオノスを連れ去った形となったが、もしかしたらオノスは自分の意志でリカートに同行していたのかもしれない。

「じゃあ、俺、どうすればよかったのかな?」

 痛い所を突く質問だ。ベニュー本人がライゼルに非がないと説いたところで、ただそれだけではライゼルはきっと納得しない。目にした物事や実感を伴う出来事であれば理解の早いライゼルだが、今回彼は初めての経験をした。良かれと思った事が、良い結果を生まなかったという体験。

 少し想像力が足りなかったと窘める、あるいは運がなかったと励ませば、傷付きもするだろうが、立ち直りも早いだろう。

 だが、かといって、困っている人の為に力になろうとしたライゼルを責めたくない。母を亡くした直後のライゼルを知っているベニューには、彼の行いを否定したくないのだ。今でこそ何事にも前向きに取り組むライゼルだが、一時期ひどく落ち込み、塞ぎ込んでいた時期があった。母を目の前で亡くし、迫る脅威に対し何も出来なかった事への後悔に苛まれた、思い出したくない後ろ暗い過去。

 ライゼルは自身の行いの是非が見出せず、ベニューは姉としての規範を見失っている。応接間にしばし沈黙が流れる。

「何をつまらん事で頭を抱えているんだ?」

 声がする方へ姉弟は視線を向ける。そこにいたのは、一仕事終えて一息つこうとしていたビアンだった。

「ビアンさん、ライゼルは真剣に考えて・・・」

 ベニューの言葉を遮り、彼女の正面の椅子に腰掛けながら、ビアンは言葉を紡ぐ。

「あのリカートとかいう異国民が罪を犯した事に変わりはない。そして、俺はヤツの身柄を確保する責務を負っていた」

 こういう平素のビアンは有事の際と違って、どうしようもないくらいに頭が固い。自分の正義に一切の疑いの目を向けない。彼の正義はどのような事態でも揺らがない。

「それはそうですが」

 だが、そういうビアンだからこそ、掛けてあげられる言葉がある。ビアンは、姉弟と違って人生経験が豊富で、自らの核とする信ずるものを、行動規範を持っている。

「職務を全うするには、ライゼルの助力が必要だった。そして、ライゼルは俺の仕事を手伝ってくれた。これからも協力頼むぞ」

 背中越しにそう言われるライゼルだったが、未だ釈然としない表情のままだ。

「いいの?」

 ビアンがそうは言っても、ライゼルはすぐには割り切れない。ライゼルにビアンのような明確な判断基準はないのだ。思わずビアンへ振り向き、聞き返してしまうライゼル。

 不意に疑問符を向けられ、ビアンも問い返す。言葉足らずなのはいつもの事だが、その問いの真意が伝わらない。

「どういう意味だ?」

「俺、間違ってたかもしれない。オノスは迷惑がってたかもしれない」

 そこまで聞いた上で、ビアンは怪訝な表情をライゼルに向ける。先の言葉通り、ビアンにはライゼルが何故そこまで拘っているのか、腑に落ちないのだ。

「それがどうした?」

 ややつっけんどんにビアンが返すものだから、ライゼルも感情的にならざるを得ない。立ち上がり、自分の悩みを訴える。

「もしそうだったら、俺はやっちゃいけない事をしたんじゃないかって…」

「—――ライゼル。勘違いするなよ」

 ぴしゃりとライゼルを断じるビアン。ライゼルは思わず、ビアンに目を奪われる。

「えっ?」

「俺達役人は、事情を考慮する事はあっても、当事者の感情は斟酌しない。そもそも、何の為に取り締まっていると思っている? この国に住む皆が安心して暮らせるように、だ。お前も掲げる、みんなを守る為というお題目が国家にはあるからだ。その為に法律が施行され、そのお陰で俺達は法の下で保障された生活を送っている。だが、あいつらは法を破った。だから、身柄を確保し、更生させる必要があった。オノスが好むと好まざるに関わらず、聴取の必要はあるんだよ」

 この言葉に偽りはない。こうやって規則が守られてきたからこそ、安寧の時代を生きる事ができるのだ。故に、ビアンは法を信じて職務を全うするのだ。臣民の安全を保障してくれる法の順守こそが、ビアンの行動規範。

「・・・ビアン」

「世の中にはいろんな考え方の人間がいて、これからの人生でお前達はそれらに触れていく事だってあるだろう。だがな、それ全部を理解できる訳でもなければ、理解する必要もないんだ。今回みたいに、結果的に何にも出来ない事の方が圧倒的に多い」

「・・・ビアンさん」

 ビアンの言葉は、ベニューの胸も打っていた。余りにも正論過ぎて、子供を慮らない大人の理屈過ぎて、ベニューは自身も咎められている気分になる。先の推理合戦で、無理にアスターを庇おうとしたことが思い出される。これまで努めて大人ぶってきたベニューは、遠回しに否定された錯覚に陥る。

 そんなベニューを余所に、ビアンの叱責は続く。

「大体な、お前は今回の件を勝手に落ち込んでいるみたいだが、思い上がるのもいい加減にしろ!」

「思い上がってなんか・・・」

 咄嗟に反駁するが、ビアンはそれを許さない。

「思い上がっているんだよ。他人の為に力を貸すというお題目は、立派だと思うし、宣言に違わずお前は実際よくやっている。だからってな、自分が何でもやれると思うなよ」

「なんだよ、その言い方!」

「思ってんだろ、二倍のムスヒアニマの牙使い」

 これは流石にビアンも言いすぎた節がある。ただ、ビアンも牙使いに対して劣等感がない訳ではない。つい口を滑らせて、ライゼル自身が鼻に掛けた訳でもない彼の素養を非難してしまう。

 そして、ビアンがそんな態度を取るものだから、ライゼルもそれ相応の侮辱をビアンに投げかける。

「いい加減にしろ、俺がいなきゃ石になってたかもしんない癖に」

 期せずして、自身の能力をひけらかす形となってしまったが、冷静さを失ったライゼルが自身を制御できる訳がない。とにもかくにも、ビアンに文句の一つでも言わなければ気が済まなかったのだ。

「ほら見ろ、これで自信家だって自覚がなきゃ大問題だな」

「虚仮にしやがって、ビアンの癖に」

 これ以上ない程に煽られたライゼルは、頭に血が上り、ついビアンの頬を殴りつけてしまう。

 拳の勢いに負け、椅子ごと背中から転倒するビアン。だが、床に倒れた体勢のままでも、ライゼルを詰るのを止めない。

「手を出すって事は、言い返せないからだ。言い返せないのは図星だからだろ。お前は他人をどうこうする以前に自分を律する事も出来ないクソガキなんだよ。自分の未熟さを思い知れ」

「ふん!」

 ビアンの指摘は言葉通りに図星だったらしく、反駁できないライゼルは屋敷の外に飛び出してしまう。開かれたままの扉の向こうには、部屋を飛び出し走り去るライゼルの姿に驚いたアードゥル隊員の話し声が聞こえる。

「待って、ライゼル」

「放っておけ」

「あの言い方では、ライゼルは」

 自身もひどく傷付いただろうが、そんな様子はおくびにも出さないベニュー。ベニューはまだ自分に言い訊かす事ができる。

 しかし、ライゼルはそうではない。ベニューが諭してあげねば、立ち直る事も出来ない。フィオーレの者しか知らぬ過去がライゼルにはある。

 『フロルの悲劇』により激変した姉弟の生活、そして、家計を担う為に奮闘したベニューと、自らの無力さに打ちひしがれ塞ぎ込んでいったライゼル。ベニューが必死に染物を覚えていく事に比例して、何の才能もなくベニューの力になれないライゼルは無力感の沼に堕ちていく。この頃から、ライゼルは母や姉に後ろめたい想いを抱き始め、劣等感を覚えるようになったのだ。

 それを知らぬビアンは、やや見当違いな慰めの言葉を掛ける。

「ひどく傷付いただろう。だが、それが必要な時もある。ライゼルは、ついこないだ村を出たばかりだ。これまでの人生がどうだったにせよ、自分に出来ないだってあるという事を思い知るべきなんだ。挫折を覚えるのは早い方がいい、その分、立ち直りも早い」

 ビアンは、何もライゼルを傷つけたくて、感情に任せ罵った訳ではない。リカートを取り逃がした時の様子から、何を考えているのかは大体予想がついている。妙な思いに囚われぬよう、発破を掛けたのだ。

 ただ、その言葉は、自分は何者にもなれないと絶望した経験を持つライゼルには、あまりにも堪え過ぎた。

「・・・そう、ですね」

 それを聞いたベニューは、腹を括り覚悟を決める。若干事情とは異なるとはいえ、ビアンの助言を受け止める。挫折した事ない訳ではないライゼルだが、それを乗り越えられるかは、ビアンの言う通り本人次第。こうなっては、ベニューは慮るより、支えてあげようと思う。

「荷物を積み次第、出発する。しばらくしたら連れて来てくれ」

「はい」

 首肯で応えたベニューは、屋敷の外にいるであろうライゼルを探しに赴く。

 ビアンは事態をそれ程深刻に受け止めていないが、ライゼルに初めて悩むという心理が生まれた事の意味を分かっていない。これまで一心不乱に前だけを見て邁進していた時とは違う。足を止めてしまったが為に、急に視野が広くなり、これまで思いもしなかった生き方を知り得てしまった。

 知らずにいれば良かった訳でもないが、経験の仕方が良くなかった。今まで、良かれと思って、人の為にと思って、いろんな事に首を突っ込んできたが、それが間違いではなかったのかと思うようになってしまった。

 他者の物の考え方を慮らず、自分勝手な考えを押し付けてしまっていた事に、ようやく気が回ってしまった。心根の優しいライゼルは、自分が知らず知らずの内に誰かを傷付けていたと知れば、深く反省し、落ち込むのは明らかだった。

 ライゼルの信念とも言える、誰かの為の行動が、ついに揺らいでしまった。そうなれば、今後ライゼルは何を指針にして行動すればいいのか?

 自分の行いの是非を見出せないまま、ライゼルは次の経由地グロッタへ向けて発つ事となった。

 

 

 

to be continued・・・



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第7話

 一行が夕刻にムーランを出立し、数時間を掛けて次の経由地の鉱物の町グロッタを目指す道中.。車内はとても静かだった。

 それは、ムーランから見て南東に位置するグロッタまでの道程では、さして目新しい物を発見できなかったからという理由もあったかもしれない。

 実を言えば二つの集落を結ぶ街道は、それ程景観に優れているという事もない。整備された平坦路がしばらく伸びているばかりで、特に変わり映えしない景色が続くのだ。ミールの喧騒やムーランの風車群を目にした一行なら、特に退屈に思えるかもしれない。

 というのも、先日滞在していたミールや、これから向かうグロッタは、各地の都市に比べても大勢の人が暮らす大都市で発達している為、その中間のムーラン周辺の道路は飽くまで経由地でしかなく、賑やかな両集落から取り残されている感は否めない。食の街ミールと鉱物の町グロッタを結ぶ直線上の間に位置するムーランであり、中継地点として一定の役割を果たしているが、特にミール・グロッタ間は駆動車を用いれば半日で往復できる身近な距離であり、皆が必ず立ち寄る要衝という事でもなかったのだ。

(ムーランでは余計に時間を食われたな。リカートとの遭遇を吉と見るか凶と見るか)

 テペキオン達の同胞であろうリカートの存在を知れた事は、ベスティア王国側からすれば利となるだろう。国内に侵入している異国民の素性が知れない今、少しでも異国民に関する情報は多い方がいい。身分証を付けていないという事以外の共通項を発見できれば、未然に事件を防ぐ事に繋がるはずだ。

 その為に掛けた多少の時間だと思えば、それ程痛手を負ってはいないと、ビアンは割り切れる。

(いや、ちっとは気に掛けてやらんでもないか)

 ビアンが気に留めていたのは、ライゼルの変調だ。きっかけも原因も分かっているし、気にするなとも一応は声を掛けたが、ライゼルからすれば事は余程重大だったらしい。

 ビアンからすれば、自身の行動を悔いるライゼルの精神を素晴らしいと褒めてあげたいくらいだ。自分がその時分だった頃、他人を慮ってしょげたりする事などなかったからだ。

 ただ、だからこそ、優しすぎるライゼルにやはり「気にするな」と何度でも言ってあげたいと思う。ライゼルが実践する人助けには、場当たり的な部分が少なからずある。つまり、治安維持部隊アードゥルが普段やっている事を、行く先々の集落で独力でやろうとしている事に他ならない。

 ビアンはライゼルのそれを驕りと評したが、実際はライゼルの優しさに起因しているのだと、ムーランからの数時間で気付くに至る。

 そう思えば、ライゼルが自分から首を突っ込みたがる性格とはいえ、無理をさせているのは自分の采配かもしれないと少し反省するビアン。そもそもビアンは、ライゼルが【牙】を用いる事に否定的であった。だったが、そうも言ってられない事態が、つまり異国民による連続した襲撃があった為に、緊急措置としてライゼルの助力を要請していた。

 しかし、今後のライゼルの状態次第では、現状の体制を改めなければならないかもしれない。本来であれば、単なる参考人として同行してもらっている少年に、これ以上の肉体的かつ精神的な負担を強いるのは、あまりにも酷な話だと思うのだ。

 ただ、飽くまでそれは一役人として思う事であり、ライゼルの友人としてのビアンは密かに少年の復調を願っている。

(これまでの窮地で見せたお前の面は、そんな湿気た面じゃなかっただろうが、このクソガキライゼル)

 ビアンが人知れず、いつもの六花染めの似合うライゼルに戻る事を願っているのを余所に、ライゼルは後部座席にて、俯くように顔を伏せていた。

 隣に座る姉にも今の自分を見られたくないという想いからか、ライゼルは伏して沈黙を貫き通す。ベニューもそれを察して、必要以上に声を掛ける事はしていない。

 そんな風にしばらくの間誰も言葉を発さぬ時間を過ごしている内に、いつの間にかライゼルは眠ってしまっていた。

 その間、ライゼルは夢を見ていたような気がする。いや、正確には昔の事を思い出していたのだろうか。今と同じように膝を抱き、気落ちしていた在りし日の自分を。

 その時の事は今でもしっかと覚えている。そんな遠い昔の事でもない、まだ十年と経っていない程度の昔の話。

 母を亡くして以来、姉のベニューは、家族を養う為に染物を始めた。元々は母の職業であった染物屋であり、幸いな事に道具や材料は揃っていた事もあり、葬儀から然程日を空けずにダンデリオン染めを再開する事が出来た。

 始めたばかりの頃は四苦八苦している様子も見受けられたが、季節が一巡する頃にはベニューは子供ながらに目を見張る才能を開花させていた。母のダンデリオン染めを完全に再現するには至らないものの、それでもベニュー独自の染物として見れば、商店に並ぶそれとして見ても決して遜色ない仕上がりとなっていたのだ。村の職人達も、その出来栄えを手放しに称賛したものだった。

 とはいえ、まだ当時の子供時分のベニューでは、丁寧に良質な製品を作る事が出来ても、数を用意する事が出来なかった。他の職人達が分業して作業するのとは違い、染料を作るのも、染めるのも、干すのも全てベニュー独りでやっているのだ。とてもではないが、供給量は他と比較して格段に落ちる。子供が独りでやるには、流石に限界があった。

 そんなある日、その様子を見ていたライゼルは、自分にも何かできないかとお手伝いを申し出た。母を失って辛いのはベニューも変わらないのに、自分達の食い扶持を稼ぐ為、懸命に仕事に励んでいる。そんな姿を見せら

れては、自分も力になりたいと思うのがライゼルの性分だ。

「ねえちゃん、おれもやる!」

 だが、姉の手助けをしたいという想いはあっても、必ずしも結果が伴うとは限らなかった。ベニューは天性の素質を開花させたが、残念ながらライゼルはフロルの才能を受け継がなかった。どころか、人並み外れて手先が不器用であり、雑用をこなす事もままならなかった。牙使いの宿命か火を恐れる為に釜を沸かす事は適わず、染液に浸した布を絞ろうにも力加減が上手く出来ずに製品を傷めたり、染料となる花を集めようにも幼いライゼルにはどの花のどの部分が必要なのか分からなかったり。結局、ライゼルは姉の役に立つ事ができなかった。

 その事を別に姉は咎めなかったが、奮闘する姉の力になれなかったライゼルは、ひどく落ち込んだ。役に立たないどころか、後片付けの手間まで増やしてしまい、申し訳なさで胸が潰れそうだった。

(おれは、かあちゃんやねえちゃんみたいにできなかった)

 それからというもの、毎日のように母の墓柱(ヴァニタス)へ行き、特に何をする訳でもなく、たった一人で時間を潰すのが日課となった。

 広すぎる空の下で、膝を抱え佇む幼少期のライゼル。同年代の友人など、この村にはおらず、唯一の遊び相手だったベニューもライゼル一人にかまけている場合ではなくなった。

 とある一件を機にライゼルが立ち直るまで、この鬱屈した日々は続くのだったが、それ語るのは別の機会に譲ろう。

「ライゼル、起きてる?」

 後部座席の隣にいるベニューから声を掛けられ、うつらうつらとしながらも意識を取り戻すライゼル。

 ふと車の外に視線を向けると、辺りはすっかり日も暮れ暗くなっていた。宵闇の進路の先に、いくつもの明かりが見える。そこが今夜の宿なのだろう。

 ムーランから見て鉱物の町グロッタの手前にある宿場町。グロッタも鉱物の町と謳ってはいるが、住民皆が住めるだけの居住区がある訳ではない。グロッタの大部分が採掘場であり、そこで仕事に従事する者達の共同宿泊施設群が町の外れに設けてある。グロッタで生活する者のほとんどが、その宿場町で寝泊まりしているのだ。

 採掘場は人の住める環境ではなく、元々この土地に住んでいた者はほぼいない。多くが職を求めて各地から移り住んできた者ばかりだ。

 輝星石の産出する事が知られるようになってからは、より多くの人が移り住むようになっており、宿場町は夜も更けつつあると言うのに、建物から漏れるたくさんの明かりのおかげで町の外からでもはっきりとその場所が認識できる。

 眩しい町の明かりから目を逸らしつつ、座席からずり落ちかけていた体を持ち上げ、座り直す。

「…もう夜だったのか」

 そう独り言ちて、先程まで思い出していた過去に思いを馳せる。

 何故その頃の事を夢で見たのか、心当たりがないではない。おそらく、先のリカートの一件で、当時抱いていた感情が蘇ったのだろう。何をどうしていいか分からなかった、標を見出せなかった頃の、もがくような感情が。

 先の一件で、ライゼルは大きな壁にぶち当たっていた。良かれと思った行動が、望んだ結果を及ぼさない、それどころか、他人の迷惑になってしまうかもしれないという恐れに。

 ビアンはオノスの件をあれで良かったと言ってくれたが、それでもライゼルは素直に呑み込めない。リカートの否定を受けては、自分がやろうとした事は間違っていたのかもしれないと恐れてしまう。自信を失ってしまうのだ。

「うん、もうすぐ宿場町に着くって」

 そんなライゼルの心中を察しているベニューも、彼にどう言葉を掛けていいか悩んでいた。

 ライゼルと一緒に暮らしてきたベニューは、ライゼルの払拭したい過去の事ももちろん知っている。当時の自分にライゼルの事を慮る余裕などなかったが、今は違う。母との約束を果たそうと、これまでずっと一番近くでライゼルを見守ってきた。そして、これからも誰より近くでライゼルを支えてあげたいと思う。

 だが、いや、だからこそ、ベニューは安易な言葉でライゼルを励ます事が出来ない。ライゼルの落ち込んでいる理由が分かるからこそ、もう自分には何もしてあげられない事を察してしまえるのだ。生きる為に仕方なかったとはいえ、ライゼルに劣等感を与え続けていたという事実を持つベニューでは、弟の劣等感を解消する事は適わない。

 ライゼルがこれまで挨拶のように毎日毎日繰り返して口にしてきた事。それは、みんなの笑顔を守りたいという事。

 その事をビアンはどのように評したろうか、ベニューは思い起こす。確か、お題目は立派だが思い上がるのも大概にしろとかなんとか言っていたような気がする。そう言ったという事は、ビアンからはそう見えたのだろうが、ライゼルには思い上がりなど心当たりがない。軽口や大口は叩くが、慢心したり自惚れたりした事はない。自信を持つのは、経験則に支えられている物事のみでしかない。

 何も、ビアンもライゼルの行いを否定しているのではない。先も言ったように認め、褒めてすらいる。ただ、高望みして変に気落ちする事を止めるよう注意しているだけだ。なのだが、ライゼルは拘らずにいられないのだから、これ以上気休めを言っても詮無き事なのかもしれない。

 結局、誰も解決の糸口を見つけられないまま、一行を乗せた車は、今夜の目的地グロッタの宿場町を目指し走る。

 もうすぐ到着するグロッタの町の全景は、至って単純な並びだ。巨大な採掘場の北側に位置する宿場町なのだが、採掘場の搬出口から真っ直ぐ北へ伸びる街道沿いに並ぶ建造物群がそれにあたる。

 ミールの大通りにも匹敵する幅の道に沿って、青果店や衣料店、食事処に宿屋が軒を連ねている。採掘作業従事者の多いこの町は、夜の食事を楽しむ者達が大勢おり、日が暮れた今頃から労働者達は自らを労う為に町に繰り出してくる。出稼ぎの町であるが故に子供の姿はほとんどなく、仕事盛りの男や給仕の女達の姿があちこちで散見する。

 そんな光景を横目で見やりながら、しばらく車を走らせ比較的小さな宿の前まで来ると、ビアンは適当な場所に車を停め、宿の手配に向かった。

「戻ったらすぐ飯に行く。それまでにはその陰気な顔を何とかしておくんだぞ。その顔を見ながらの飯なんて俺はまっぴら御免だからな」

 そうライゼルに言い含めて、ビアンは通りを歩いていき、車を脇に止めた宿の中へ入っていった。

 その姿を後部座席から見送るベニューと、その隣で黙したままのライゼル。

「今日の晩ごはんは何だろうね。楽しみだね、ライゼル」

「……」

 弟を気遣いベニューがそう声を掛けるが、ライゼルはこれといった返事をしない。先のムーランの件が頭から離れないのだ。

 ライゼルの無反応を見たベニューはこれ以上言葉が紡げず、二人の間に気まずい沈黙が流れる。町は賑やかなのに、まるで二人だけが世界から切り取られたような不思議な静寂。周囲の人々の明るさにライゼルが何の関心も持たないというのも、それまたベニューに違和感を与え、不安を煽るのだ。

 と、その時だった。ベニューは微かな空気の流れを感じたかと思った瞬間、突然二人の男女が駆動車の中へ乗り込んでくる。気付いて振り向いた時には、既に後部座席に上がり込んでいた。

「えっ? どなたですか?」

「自己紹介は後で。匿ってほしいんだ」

 端的に自らの要求を伝えると、ライゼルが座る奥の方へと無理やり体を押し込めていく年若い男女。男は古びた身なりで、女は洒脱な装い。どちらも、ベニューより年上で、ビアンよりも年下ぐらいの年齢に見える。

 何か事情があるのだろうという事は察する事が出来たが、いまいち状況が呑み込めていないベニュー。

 すると、通りの向こうから掛けてくる一人の年若い男性が、車の脇に止まり、ベニューに声を掛けてくる。

「そこの少女。私はザングと申す者で、ある女性を探している。名をグレトナ様と言い、背丈はこればかり、衣服はこの辺りでは見かけぬような上等な召し物を纏っておられる。薄汚い身なりの男にかどわかされてしまった。見覚えはないだろうか?」

 身振り手振りを交えて説明する20歳前後の男の話を聞きながら、なんとなくベニューは状況を理解した。目の前のザングと名乗るきちっとした身なりの男性は、今自分の背で身を潜めている美貌の女性を探しているのだと。ザングの口振りから女性が高貴な身分なのだという事は、容易に察する事ができる。

 では、女性は誘拐されて今駆動車の中に身を潜めているのか? それは否。おそらく、望んで行方を眩ませている。その証拠に、女性は何一つ声を挙げない、具体的に言えばザングに対し助けを求めない。もし、共にいた男性に望まない同行を強要されているのであれば、ここで大声の一つも上げるだろう。

 それにベニューには、他にもグレトナと呼ばれた女性の気持ちを量る材料がある。それは、男女二人が決して広くはない後部座席で身を寄せ合わせている時に見た。グレトナは、共にいる男性の手をぎゅっと握りしめていたのだ。

 それを思い出し、ベニューは素知らぬ顔で、ザングに対し、こう答える。

「はっきりとは見ていませんが、おそらく北の方へ駆けていった二人がそうかもしれません。お力になれず、すみません」

 この詫びは演技でもあるのだが、半分は騙してしまう事への謝辞でもある。二人の男女だけに肩入れするのは、僅かに心苦しいとも思うのだ。

 そうとは知らないザングは、年下であろうベニューに礼儀正しく頭を垂れ、礼を告げる。

「そうか、協力感謝する。では、失礼」

 ザングはそう言って、ベニューの教えた噓を信じて、北の方へ向かって駆けて行った。

 ベニューはその姿を見届けて、ゆっくりと背後へ振り向き声を掛ける。

「行ったみたいです」

 それを聞いて、車から身を乗り出し、ザングが去った事を確認すると、男女二人はベニューに礼を述べる。

「突然、面倒な事に巻き飲んでしまってすまなかったね」

「いえ、困った時はお互い様です。何やら事情があったようですし」

 一旦、事態が収まった事で、一息ついたベニューと二人。

「それでね、自己紹介をしようと思うのだけれど、その前にもう一つ謝らなければならないみたいなの」

「謝る事、ですか?」

 先程から慌ただしく事態が動いていった訳だが、今度こそ何の事やら察しがつかないベニューに、グレトナは申し訳なさそうにこう続けた。

「無理やり押し入ったせいで、男の子が気を失っているみたいなの…」

 と、グレトナが視線を促した先に、二人に押し潰され気絶しているライゼルの姿があった。

「ライゼル~!?」

 

 かくして、ビアンが手配した宿屋まで男女二人も付いてくる事となった。

 ライゼルが気絶した事をビアンに話すと、始めは面食らったが、加害者が異国民などではなく、訳ありの若い男女という事を説明したら、いつもの職務の時の顔を覗かせていた。

 二人から聞き出した話を簡潔に説明するとこうだ。

 男は名をフウガと言い、彼はどこぞの農家の息子で、親の勝手で他の女性と婚約させられていた。しかし、彼には想い人グレトナがおり、二人は駆け落ちしてきたのだと。二人とも年の頃は、19歳という。

 そして、先の男がグレトナの家に仕えているザングであり、連れ戻しに追い掛けて来たという訳だ。

「それで、ベニューがフウガとグレトナを匿って、その結果ライゼルが気絶した、という訳か」

 呆れ顔のビアンは、事の次第を聴取すると、溜息をついて見せる。確かに、ライゼルに対し辛気臭い顔は止めろとは言ったが、無防備な寝顔を晒せとは言っていないのだ。よくよく面倒事を連れてくる子供だと、ビアンは頭が痛くなってくる。

 が、幸いな事に外傷が見受けられる訳でもなく、ただ眠っているだけのようで、それ程心配する必要もなかった。寝ている方が余計な事は考えずに済むだろうし、ライゼルの為にもちょうど良かったかもしれない。

 そして、寝台に横たわるライゼルを余所に、話を切り出すベニュー。

「それで、この後どうするんですか?」

 ベニューがビアンに質問を投げた意図。それは、この事態を役人であるビアンがどう裁きを下すかという事。

 既にビアンが役人である事は、フウガとグレトナも承知である。詳しい事情を訊いた上で、法によってどのように処理されるのか。彼らはその事が気が気でなく、耐えかねてベニューが代わりに問うたのだ。

 問われたビアンは、一瞬拍子抜けした顔をした後、怪訝そうな顔をベニュー含めた三人に向ける。

「おいおい、勘違いしてくれるなよ、ベニュー。俺は違法行為に対しては捜査権限を持っているが、個人の事情に関しては何も口出しするつもりはないぞ?」

「…そうなんですか?」

「原則的に民事不介入なんだよ。そこのグレトナっていうお嬢さんが無理やり連れられているというなら誘拐行為だが、自身の意志で同伴しているのなら犯罪でも何でもないだろう。二人とも身分証(ナンバリングリング)を身に着けているから都市間の移動は制限されていない。であるなら、家の問題は別として、法的にはお咎めなしなんだよ」

 役人ビアンからのお目こぼしをもらい、俄かに安堵するフウガとグレトナ。せっかくここまで逃げてきたというのに、匿ってもらった相手が役人の関係者であると知った時は、二人も観念しかけていた。それだけに、ザングの追跡を逃れ、逃避行の妨害をする者がいなくなったのは、二人にとって僥倖であった。

「という訳だ。二人はもう行っても構わんぞ?」

 ビアンがそう二人に水を向けるが、二人は一度お互いを見やった後、各々小さくかぶりを振った。

「いえ、ライゼル君にまだお詫びができていないので、また明朝伺わせてもらいます」

「そうか。こちらは昼には採掘場へ向かう予定だ。来るなら、その前に来てくれ」

 ビアンがそう伝えると、二人は揃って頭を下げ、部屋を退室した。

 眠るライゼルと、ベニューとビアンだけになり、二人は出来るだけ物音を立てぬよう、備え付けの腰掛けにゆっくりと座る。

「それにしても、よく寝ている。俺達の声で目を覚ますかと思ったが、起きないのであればこのまま寝かせてやろう」

「はい、そうですね」

 きっとライゼルは、悩むなんていう不慣れな事をした為に余計に疲れたのだろう。気を失った事は驚いたが、すやすやと寝息を立てているライゼルの顔に、先程のような眉間の皴はない。今は余計な事を考えずに、しっかりと休んでもらいたい。傍らの二人は、そう考えた。

 しばらくの静寂の後、ビアンはライゼルの寝顔を眺めながら、呟くように話す。

「ライゼルが黙っているだけでこんなに静かになるのなら、しばらくはこのままでも構わんがな」

 ビアンのぼやきに、ベニューは苦笑しながら答える。

「ビアンさんはそうかもしれませんね。ライゼルは何かあればすぐにビアンさんに質問するから、休んでる暇がないですよね」

 思えば、ライゼルを介さず、この二人が会話をするのも珍しい事なのかも、とベニューは思ったが、それは口には出さない。それを言ってしまえば、やはり騒動の中心にいるのはライゼル、という印象を強固にしかねないからだ。事実には違いないが、ベニューがそれを認めてしまうのもライゼルに気の毒だ。

 ベニューが思い付きを自重した代わりに、ベニューの先の言葉で気になった点について、ビアンが言及する。

「その言い方だと、ベニューはそうじゃないのか?」

 そう問われ、少しはにかんで見せた後にベニューは答える。

「ライゼルがいつもの調子じゃなきゃ落ち着かないんです」

「確かにな。あいつは騒がしくしていようが大人しくしていようが、状態問わず面倒事を連れてくる。同じ面倒なら、陽気なライゼルの方が好ましい、か」

「…はい」

 ベニューはそれだけ告げると、それから先は紡がず黙したままになる。

 やや溜息交じりの語調を見るに、弟の事が気掛かりで心休まらないのだろう。その様子は、ビアンの目からも見て取れた。

 少しでも気を紛らわせてやろうと、ビアンは話題を変え、話を振る。

「それにしてもだ。本調子でないライゼルに代わって、ベニューがお節介を焼くとはな。それとも、ベニューもライゼルに劣らずの世話焼きなのか?」

 ベニューも、ビアンがフウガとグレトナの件を指しているのだと気付いた。二人の男女を庇った事を、ビアンはお節介だと言っているのだ。

「ライゼル程ではないと自覚していますが、どうなんでしょう?」

 ライゼルにかまけてつい口煩くしてしまうベニューであるが、他の人間に対してそのような態度を取った事はない。故に、フィオーレにいた頃も、世話焼きと評された事はなかったはずだ。

「ライゼルと比べてしまっては、誰だって当て嵌まらなくなるだろう。今回、ほんの一時匿っただけではあるが、別に真実を従者に告げて引き渡してしまっても構わなかったんじゃないか?」

「そうかもしれませんが、ライゼルの夢を応援したい私が、あの場でグレトナさん達を悲しませる事はできませんよ」

「夢ってのは強くなる、ってやつの事か?」

「いえ、それは飽くまで夢を叶える為の方法です。ライゼルの夢はそれとは別にあるんです」

「そうなのか? だが、意地悪い言い方をすれば、あの二人を庇った為に、更に多くの人間を悲しませる事になる恐れだってあるんだぞ?」

 例えば、家族が、従者が、二人が行方を眩ませた事で心を痛める恐れだって十分考えられる。

 だが、それでもベニューはビアンの問いに対して首肯を以って返す事はしない。

「本当にいじわるですね。でも、やっぱり目の前で困っている人は見捨てられないです」

 これまでの経験則から、その答えを導き出すのはそう困難な事ではない。ライゼルの人としての在り方を見ていれば、容易に想像できる。これまでの生涯を共に過ごしたベニューはもちろん、出会って数日のビアンですら想像に難くない。

「ライゼルならそう言う、という事か」

「はい、ライゼルならきっと」

 

 夜が明けて翌朝。いつものように朝早く起き、外へ鍛錬に出かけたライゼルだったが、いまいち身が入らなかった。習慣ではあるが、本調子でないのだから無理もない事か。

 そしてしばらくの後、宿屋の食堂にてベニューは、鍛錬を終えたばかりのライゼルに昨夜の事のあらましを説明した。内容は昨夜ビアンに聞かせた事と然程変わらない。一つ念を押したのが、フウガ達が駆け落ちをしている点。ベニューはその点だけは、印象に残るように話して聞かせた。

 ただ、何かの意図があっての念押しだろうが、ライゼルはほとんど興味を示さなかった。彼の頭の中は、別の考え事で占められている。他の事を留めておく余裕は残されていない。鍛錬の間もずっとそうだった。

 そう、昨夜の二人の件は、ライゼルの中では済んだ事なのだ。ライゼルとしては、今回の件で迷惑を被ったというより、昨夜の心持で皆と夕食を共にせずに済んで、どちらかといえば都合がよかったとさえ感じている。現にムーランを発って以降、いつムーランの件を蒸し返されるか、未だに身構え過ぎて気が滅入っている程だ。ライゼルの関心事は、未だに上書きされていない。

 ただ、不幸中の幸いか、昨夜のフウガとグレトナなる二人組の一件に巻き込まれたおかげで、今の所はムーランの話題には触れられていない。ビアンも同様で、昨日の件に特に言及する様子もなく、姉弟を連れて食堂へ向かっている。

 このまま、ライゼルが変に拘らなければ、自然と忘れられていく話題なのかもしれない、ライゼルにはそう思えた。

 そのおかげで、ベニューがフウガ達の事しか話さないのだと察したライゼルは、態度を軟化させ、変に警戒する事なく自然にベニューの話に耳を傾けられるようになっていた。

 食堂内では大勢の人間が食事を摂っていたが、それでも隅の一角に席が空いているのを見つけた一行。窓際の朝日が差し込む四人掛けの卓。三人しかおらぬ一行は、そこに座る事にした。

 その席へ腰掛けながら、ライゼルはベニューに問い掛ける。

「それで、そのフウガとグレトナって人達が来るんだ?」

「そう。グレトナさんはとても綺麗な召し物を着てて、グレトナさん本人もすごい美人な人だったよ。立派な身分証を付けてたから、もしかしたら王都の人かもしれないね。面白い話がたくさん聞けるかもよ?」

「なるほど、思えばあの身分証はクティノスを示していたな。立ち振舞いから見るに、グレトナはクティノスの、しかも身分の高い家の箱入り娘なんだろう」

 姉弟の会話にビアンが口を挟むと、ベニューは更に話題を膨らませる。

「王都では駆け落ちってよくあるものなんですか?」

 そう問われて一瞬逡巡するが、かぶりを振ってビアンはそれを否定する。

「珍しい例だと思うがな。昨日も話した通り、行き来こそ自由だが国から生活の保障が受けられるのは飽くまで労働の成果を国に献上している者だけだ」

 駆け落ちという行為自体があまり思わしくないのだろう。説明するビアンの調子はやや重たい。彼の役職を考えれば、それもそうか。

「国家へ貢献していないと、配給物資に頼れない、という事でしょうか?」

 端的な理解を示したベニューに、ビアンは大きな頷きを以って応える。

「その通りだ。あの二人がどこで何をするつもりか訊いていないが、親も頼れない人間が見知らぬ土地ですぐに職に就けるかと言うとそうじゃない。どこへ行くのも勝手だが、その土地の人間からすれば、何もできない人間に用は無いんだよ」

 ビアンらしいもっともな意見だったが、それを聞いたライゼルは自分の事を責められたような気がして、わずかに胸が痛んだ。何の役にも立たない人間とは、まさしく先日の自分がそうだったのではないか、と。

 酷い仕打ちを受けていたアスターやオノスは、決してライゼルには助けを求めていない。結果的に二人はドミトルの悪行から逃れる事が出来たが、それはライゼルのおかげではない、異国民リカートの手柄だ。

 そして、そのリカートは、オノスを救う善を為したと同時に、ドミトルを葬る悪を為した。一つの行いで、相反する結果を生み出したのだ。救われたオノスはその行いを是とし、法に忠実なビアンは非として断じた。

 こんな奇妙な事が起こってしまっては、ライゼルにはもう訳が分からない。その矛盾は、少年から行動の指針を奪ってしまっていた。

 これまでその想いを口にしてこなかったライゼルだったが、思わずぽつりと漏らしてしまう。

「それはいけない事なの?」

 唐突に疑問をビアンにぶつけるライゼル。昨日から様子のおかしいライゼルであったが、今のそれは実に彼らしい反応だった。脳裏に浮かんだ疑問を問わずにいられない、好奇心の化身、いや、今は真実の追求者と呼んだ方が適切だろう。

 ビアンは昨日振りに投げかけられる問いに、いつも通りの調子で答える。それが、ライゼルに対してのビアン自身の役割だと思っているからだ。

「合理的だとは思わない。だが、良いも悪いもなく、行動するのも結果を受け入れるのも結局は自分なんだ。どんなに苦しい目に遭おうとも、自分の責任なんだという事を失念してはいけないと、俺はそう言いたいな」

 ビアンの持論を嚙み砕くように、受け止めるライゼル。先の内容を反芻させ、自分の中に落とし込んでいく。その言葉の本質を見誤らず、理解するように。

「自分の責任、か…」

 そう呟いたきり、自問自答しているのか静かになったライゼルの様子を、復調の兆しと捉えたベニュー。 

(ライゼルは今、答えを見つけようと精一杯考えている。がんばれ、ライゼル…!)

 ベニューがそう胸の中でライゼルを激励した時、ちょうど給仕の女性が両手に皿を抱え、一行の傍らに現れる。

「お待たせしました、朝定食四人前で~す」

 彼らの注文していた料理が、次々に四人掛けの卓に配膳されていく。

 四人が囲んで座れる程度の卓であったが、やや手狭となっているのは、姉弟の空腹加減が影響しているからだろう。気を失ったまま一晩を寝て過ごしたライゼルと、ずっと付き添っていたベニューの前には、一人分が追加された朝食が並んでいる。姉弟は昨日の昼食から何も食べずにいたので、普段より多めに食事を用意してもらったのだ。

 その所為か、姉弟の口数は自然と少なくなるが、もう先のような気まずさはない。

 ライゼルは必死に思考を巡らせ、答えを導き出そうとしている。ベニューも、母との約束を守る為に弟の傍らでずっと見守っている。ビアンも、大人しいライゼルに多少の違和感を覚えているが、昨日の言いつけ通り、辛気臭い顔はもう見せていない。むしろ、前を向こうと、立ち上がろうとしているのが、ライゼルが瞳に宿した強い意志から察する事が出来た。

(今の方がお前らしいぞ。六花染めの似合う、良い面構えだ)

 それから三人は黙々と朝食を摂り続け、しばらくして、姉弟は朝食にしては多めの量をぺろりと平らげた。

「ごちそうさま」

「ご馳走様でした」

 姉弟が手を合わせ、感謝の念を唱和すると、機会を見計らっていたかのように、約束通りに昨夜の二人がライゼル達の元へやってきた。古びた衣服に身を包んだ男性フウガと、それに不釣り合いなくらいに綺麗な姿の女性グレトナ。

 食堂内のライゼル達の姿を認めると、卓の傍まで来て、フウガは昨夜の事を詫びる。

「昨日はすまなかったね」

「えぇと、フウガとグレトナ…だっけ? いいよ、別に気にしてないし」

 若干らしくない態度で、ライゼルは彼らの謝罪をやり過ごす。普段なら何気なく受け取る謝辞だが、今はまだそういうものを耳にしたくない。復調の兆しを見せているとはいえ、良い事も悪い事も、今のライゼルにはまだ判断がつかない。

 実を言えば、ムーランの件で頭を悩ませるようになっていたライゼルには、ベニューがフウガ達を庇った事さえも懐疑的なのだ。あの行いをベニューがどういう想いでしたのかは分からない。それでも、確実に恩恵に預かった者と迷惑を被った者がいる。前者は言うまでもなくフウガとグレトナ、後者はグレトナを連れ戻す任を帯びていたザングだ。

 ベニューから聞かされた話だと、ビアンはその件を不問にしたという。不問という事は、褒めるでもなく咎めるでもなく、ただ見逃し、許したのだ。それは先程ビアンが話した、自分の責任という事なのだろう。

「何かお詫びをさせてくれないかしら? 例えば、朝食のお代を私達が持つとか」

 そうグレトナが提案するが、ビアンは毅然とその申し出を断る。

「それには及ばない。この子達は私が職務で預かっている。二人の事で余計な気を遣わなくていい」

「そうですか、では他に」

 それでもと食い下がるグレトナに、何か物言いたげな、厳密に言えば問いたげなライゼルの代わりに、ベニューが勢いよく立ち上がり、連動して右手を挙げ、皆の注目を集める。

「あの、グレトナさん、フウガさん」

 ライゼルの隣の席に座っていたベニューが、急に二人に呼び掛けるものだから、ライゼルもビアンも何事かとそっちを見やる。

 突然立ち上がり手を挙げたベニューが、四人に注目されながら紡いだ言葉。それは、

「服を、お二人の服を新調しませんか?」

 

 初めは、急に何を言い出すのかと呆気に取られたが、ベニューが語るその理由は実に理に適っていた。

 フウガの服は市井の民として見てもみすぼらしく、反対にグレトナは上等な衣服を纏っており、この組み合わせが連れ添って逃避行を続けているとなると、目立って仕方がない。例えば、何も事情を知らない者が、昨夜のようにザングに声を掛けられたら、きっとこの二人組を思い出すだろう。実際に、食堂内で二人を見かけた宿泊客は、二人を気にしている様子でちらちらと視線を送っていた。

 しかし、揃いの身なりであれば、似合いの連れ合いとして町中に溶け込む事ができる。そうすれば、目撃情報も減り、二人の逃避行の難度は幾分か軽くなるだろう、とベニューは話す。

「確かに、その恰好では土地の風俗にも合わないだろうなぁ」

 ビアンが同意を示した事により、始めは困惑していたフウガとグレトナも次第にその気になっていた。

 そして、ビアンがこの先のグロッタ採掘場への立ち入り許可を役所に申請している間だけという条件で、ベニューは二人の服選びに付き合う事が許された。それに伴い、その間手持ち無沙汰になってしまうライゼルも、気乗りこそしないものの同伴する運びとなった。

 かくして、ビアンはグロッタの役所へ行き、姉弟とフウガ、グレトナは宿場町の商店街へ向かった。

 ここグロッタの商店街は、先のミール程は賑わっていないが、それでもグロッタ洞窟へ出稼ぎに来る大勢の労働者を商売相手にする店舗が多数構えられている。衣食住を取り扱う店舗は、他の都市にも引けを取らず、フウガ達が気に入る服もきっと見つかるだろう、とは、先の給仕の女性の談。

 以前ライゼル達が立ち寄ったミールは、街の特色故に食に特化しており、それ程衣料品を扱う店は多くなかった。フウガ達のこれまでの道中でも、充実した店はあるにはあったが、追手から逃れようと必死で買い物を楽しむ余裕などなかった。

 故に女性二人は期待感もあって、高い声を挙げながら店舗の方へ入っていく。

 一方で、嬉々としてこの時間を楽しもうとしている女性二人とは対照的に、男性陣はライゼルが鬱々とした様子なので盛り上がる事はない。

「悪いね、君まで付き合わせてしまって」

「いいよ、どうせビアンを待たなきゃだったし」

 本来のライゼルであれば、この程度の事を面倒事だなんて思わない。むしろ、自ら率先して世話を焼く性分だ。姉ほどではないにしても、ライゼルもフィオーレ村の人間であり、服飾の知識は人並み程度にはある。適当な物を見繕ってあげるくらいの事は出来る。故に、いつもであれば、女性陣と変わらぬ明るさで盛り上がれたはずなのだ。

 だが、今回はその代わりに、ライゼルに似つかわしくない調子で、フウガに対し問いを投げる。

「ねぇ、フウガ」

「ん、何かな?」

「フウガはなんでグレトナを連れて逃げてるの?」

 その質問を受けて、フウガは少し困ったように笑って見せた。ライゼルとは初対面であり、ライゼルが物怖じする事なく真っ直ぐに相手に向かう事など知らないフウガは、やや責められていると錯覚いてしまうような、虚を突かれた形となったのだ。

 だが、唐突に投げられた問いだったが、フウガはそれに対する明確な答えを持っている。少し照れくさそうに、遠い故郷に思いを馳せるように目を細める。

「それじゃあ、まずは僕の事から話さなきゃいけないかな」

 女性陣が入店していった衣料店の軒先にある長椅子に、二人は示し合わせたように同時に腰掛ける。本来であれば、グレトナ達のように服を見繕わねばならないが、得てして男の服選びとはそう時間が掛からないものだ。だったら、少しの時間をおしゃべりに使っても構わないとフウガは考えたのだった。

 ライゼルは、自分の中の名も形もない感情をどうにかしたい。そう思っている最中、フウガ達と知り合った。そして、彼らが駆け落ちなる行為に及んだ事を知った。

 彼らの行動は、法的に罰せられるものでこそないが、それでも誰かしらに、例えばザングに迷惑を掛けている。その点は、先日のミールでの一件と類似する点がある。

 ただ、今回の件でライゼルがまだ知り得ていない事がある。それは、フウガ達がどのように考え、その行動に至ったのか、という事だ。自分が、良かれと思ってオノスを助けようとした時のような、行動を起こす為の動機がフウガ達にもあるはずなのだ。それを、ライゼルは訊き出したい。何か行動を起こす時、自分以外の人間は何を思うのだろうという事を、参考意見として知っておきたいのだ。

 故に、フウガの言葉にじっくりと耳を傾ける。フウガもそれを知ってか知らずか、ゆっくりと語り始める。

「僕の家は、カラボキにある農場を経営しているんだ」

「カラボキの農場? ミールで売ってた焼き玉蜀黍の?」

 以前立ち寄ったミールでビアンが食していたそれが、カラボキ産と言っていた事をライゼルは記憶していた。

「そうそう。食べた事はあるかい?」

「ううん。でも、また今度食べさせてくれるってミールのおじさん達が約束してくれた」

 ミール大火の件は、治安維持部隊アードゥルが近隣集落に注意喚起して回ったおかげで、フウガも知り得ていた。実家の家業の大きな取引先に損害が出た事に心を痛めていたが、それを当事者ぶってライゼルに聞かすつもりは更々ない。そんな資格はないと承知しているのだ。

 代わりに別の話題を、と思い、フウガは不自然でないように会話を続けようとする。

「そっかぁ、ぜひ食べて欲しいよ。なんたって、ウチのは…」

 そこまで誇らしげな表情で語ってみせたが、不意に言い淀んでしまうフウガ。心掛けていたはずの事であったが、長年の習慣はすぐには止められない。

 フウガが言い淀んだ理由。それは、飛び出して不義理を働いた家の事を『ウチ』と呼ぶ事に躊躇いを覚えてしまったからだ。家とのしがらみを断とうとする気持ちと、家業そのものは誇らしく思っている気持ちが、フウガの心の中で混在している。言い聞かせていても、咄嗟の事となると不意に言い慣れた呼称が出てきてしまうものだ。

 その様子に気付き、ライゼルは隣に座るフウガの顔を覗き込む。

「どうしたの?」

「ううん、何でもない。それより、何で駆け落ちしたのかっていう理由が聞きたいんだったね」

「うん、知りたい」

「そうだね、どこから話したものか。僕の家はさっきも言ったように、農園をしていて、僕はそこの跡取り息子なんだ」

「跡取り息子?」

「跡取り息子ってのは、お父さんやお母さんがやっている家業を継ぐ予定になっている子供の事を言うんだ」

「それなら分かる」

 そう言って、聴き手ライゼルは少し胸が苦しくなる。ライゼルが知る跡取りとは、もちろん姉ベニューの事。フロルの名を継ぐ者は、役立たずな自分でなく、才に溢れるベニューという事実が脳裏を過り、またライゼルの表情が曇る。

 ただ、これはライゼルの勘違いも因る所も多分にあったのだが、本人はそれを知らない。厳密に言えば、初代フロルの技術はフロルの代で既に途絶えており、ベニューですら正式に継承していないという事を。

 フロルの件に一切関わりのないフウガに、ライゼルの複雑な心情を察する事ができる訳もなく。共通認識を確認できたと思ったフウガは、更に話を進める。

「それで、僕は生まれついてその農園の領主になる事が定められていた。その家に産まれたという、ただそれだけの理由で、僕の人生は勝手に決められてしまっていたんだ」

 定められた宿命というものは、いまいちライゼルには理解できない。そのような事に、これまで想いを巡らす事がなかったから。もし宿命があったとして、フロルを継げない自分に気が滅入るだけに違いないのだろうが。

 フウガの覇気のない様子に、ライゼルは更に問い掛ける。

「それは、フウガにとって嫌なこと?」

「あぁ。僕には農園を大きくする事なんかどうでもいいと思えるくらいの、叶えたい夢があるんだ」

「叶えたい夢…?」

 

 一方、店内で服を選んでいる女子二人はと言うと、ちゃんと民衆に溶け込める衣服を選びつつも、おしゃべりに興じている。話題は、二人の馴れ初めの事であった。

「グレトナさんは、どうしてフウガさんを選んだんですか?」

 こういう時のベニューの物言いは、若干ライゼルに近いかもしれない。ベニューも年頃の女の子であり、恋愛事には強い関心がある。そして、興味のある事柄に関しては、持って回った言い方をせず、直接的に質問をぶつける事もあるのだ。

 好奇心に満ちた表情のベニューの問いに、グレトナは俄かに頬を紅潮させる。

「ふふふ、気になる?」

「はい、ものすごく!」

 グレトナもその件を根掘り葉掘り聞かれる事に特に抵抗はなく、むしろ嬉々として語り出す。

「えとね、彼は私と約束してくれたの」

「約束ですか?」

「そう。私に一面に広がる花畑を見せてくれるって。遠いフィオーレに連れて行ってくれるって」

 それを聞いて、ベニューは感嘆の声を上げる。

「お二人の行き先はフィーオーレなんですか? 私とライゼルはフィオーレの出身なんです」

「そうなの?! じゃあ、ベニューちゃん達と知り合えたのは何かの巡り合せなのかもしれないわ!」

 巡り合せ。グレトナが語るその言葉が、ベニューに予感めいたものを感じさせてくれる。グレトナ達と知り合えた事は、何か意味があったに違いない。昨夜、二人をとっさに庇ったのは、ただの気紛れではなかったのだ。きっと今のライゼルにとって、良い作用をもたらすとベニューは密かに信じている。

「そうかもしれませんね。でも、フィオーレには花畑と染物があるくらいで、他に目新しいものはありませんよ?」

 ベニューがそう言うと、グレトナは少し恥ずかしそうに俯いて見せた後、ぽつりと呟く。

「私ね、つい最近までクティノス以外の景色を知らなかったのよ」

「クティノス以外の景色、ですか?」

 ベニューの山彦のような反復に首肯で応じたグレトナ。そして、彼女は自身の出生を、照れがあるのか訥々と語り出す。

 グレトナは、王家の歴史書を編纂する極めて特殊な職業を代々生業としている家柄だった。

 千年王国と謳われるベスティア王国の歴史は、その謳い文句に違わず悠久の時を経て未だ途切れず語り継がれている。記録に残る原初の事象である未曽有の大洪水から、復興を旗印に興ったのがベスティア王国の始まり。そして、それから千余年が過ぎた、当代国家元首ティグルー王の治世までが、グレトナの一族がしたためた歴史書に全て記されている。

 その為、王族からの信頼も厚く、誉れ高い地位と名誉を与えられているのが、グレトナの一族なのだ。グレトナも幼い頃より、職務に必要な知識や教養を身に着けるべく教育を受け、今となってはどこに出しても恥ずかしくない淑女へと成長した。ゆくゆくは、夫を迎え新たな家庭に入り、父の跡を継ぎ、家を盛り立てていく事になるのだろう。

 グレトナもその事は十分理解しているし、父の期待に応えられるよう努力を積んできた。一人娘であり、自分がその家業を継ぐのは当然の事など疑う事をしなかった。

 が、しかしだ。グレトナは、家督を継ぐ為の勉学を続ける生活の中で、何処か満たされない心が存在する事に気付きつつあった。

「嫌だったんですか? 編纂の仕事を継ぐ事が」

「ううん。親に決められた事だけど、継ぐ事自体には不満はないのよ。ただ、ただ…」

 言葉を探すようにして言い淀むグレトナの声が徐々に小さくなる。

「その、ね…ずっと憧れてたの。絵画に描かれるいろんな景色に」

「絵画ですか?」

 グレトナの照れを含んだ告白に、ベニューはいまいち要領を得なかった。その理由というのは、ベニューには絵画というものを見た事がなかったからだ。

 この時代、ベスティア王国では絵画はあまり普及していない。

 というのも、王国各地に学習機関が敷設されており、王国内の識字率は九割を超えている。つまり、文字による情報共有が主流の手段として認識されているのだ。その背景もあり、壁画等の図や絵を以って情報を伝達する文化が然程発達しなかったのだ。絵画は情報量は多いものの、したためるのに多分に時間を要してしまう。交通網の発達により、各地の情報を得られるようになるに連れ、多くの情報を必要とするようになった国民達からは必要とされず、絵画の文化は廃れていっていた。

 その為、ベニューは絵画に馴染みがなく、グレトナの告白の真意を汲み取りかねている。

「…そうよね。今時、絵なんて流行らないわよね」

「いえ、私の不勉強で。田舎の生まれだから見た事がなかったもので」

 ベニューがそう謙遜するものの、グレトナは小さくかぶりを振る。

「それでも、あなたは本物を見た事があるわ。絵画の景色は誰かの目を通して映した景色。私が見たいのは、ベニューちゃん達が見てきた本物の景色なのよ」

 先程から繰り返し、外の世界に強いこだわりを見せるグレトナ。その様子からベニューは、先程のグレトナの答えに合点がいったような気がした。

「だから、フウガさんと駆け落ちをしたんですか?」

「えぇ、そうなの」

 ベニューの問いに優しい微笑みを以って応えるグレトナ。

 決して、誇りある職業の一家に生まれた事が不満なのではない。この国のあらゆる出来事を記録する仕事自体は、グレトナも生涯を通してやり続けたいと思っている。

 だが、今その職に就いてしまっては永遠に叶わない夢がある。多忙を極める職務故に、望む土地へ自由に行き来ができる訳ではない。仮に外へ出掛ける事があっても、新たな出来事の調査へ出向くのが精々だ。それでは、行けない。『フロルの悲劇』以降、重大事件の起きていないフィオーレには、これより先で足を延ばす機会はないだろう。家業を通じてでしかクティノスより外へ外出を許されていないグレトナは、憧れ焦がれ続けたフィオーレの花畑をその目で拝む事はおそらく適わない。

 そのように半ば諦めかけていた頃、グレトナは運命の出会いを果たす。

 それは、月に一度の礼拝の日の事。ウォメィナ教を信奉するグレトナの家では、他の信者と同様に月の初めに教会へ出向き、祈りを捧げるのが習わしであった。

 グレトナは毎月この日を楽しみにしていた。治安のいい昨今ではあるが、名家の一人娘という事もあり、両親が娘の身を案じ、その日以外の外出を禁じていたのだ。その為に、グレトナがクティノスの城下町を歩けるのは、従者ザングを同伴しての教会への往復路だけであったのだ。

 自由に王都を歩き回れる訳ではないが、それでも屋敷の外へ出る事を許された数少ない機会。グレトナは教会までの道中、いろんなものに目を向ける。商店の賑わい、広場へ憩う子供達、劇場へ赴く大人達、普段見慣れない景色を見て、心を弾ませる。市井の者からすればありふれた当然の光景であるが、箱入り娘であるグレトナにとっては、童心に帰らせてくれる、正確に言えば経験できなかった一般的な子供時代を体験させてくれる景色なのだ。

 それらの全てが目新しく、中でも、大通りから外れた路地裏にいくつかの画布を広げた露天商は、特段珍しく思えた。他のものは、使用人などから聞く事もあったが、油絵を施した画布はお目に掛った事もなければ話にも聞いた事はない。

『あれは何かしら?』

『どうやら絵画のようですね。見慣れぬ代物ではありますが、有難がる物でもありません。寄り道をしていると、礼拝の時間に遅れてしまいますので』

 そう同伴しているザングに窘められ、往路では横目でそれを見やりながら、通り過ぎて行ったグレトナ。何故そのような人通りの少ない場所に店を構えなければならなかったのか、その理由に考えが至らぬグレトナであったが、ザングが快く思っていない事は察する事が出来たので、渋らず聞き分けの良い振りをしたのだ。

 かと言って、完全に興味を失った訳ではない。飽くまでも、ザングから要らぬお小言を受けぬよう、延いてはザングから父に告げ口されては堪らぬと考えての芝居。徐々に想いは膨らみ続け、あまりにも先の画布を並べる露店の事が気になってしまい、ウォメイナの教えもほとんど耳に入って来なかった程だ。帰り道にもう一度見掛けるだろうかと期待していたが、礼拝を終えて帰る頃には、その露店は店じまいしたのか先の裏路地にはいなかった。

 ただ、翌月もその露店は開かれており、先日は見かけなかった青年がそこで店番をしていた。

 絵画に強い関心のあるグレトナは、ここで策を弄した。その青年の前を通り過ぎる瞬間に、首に着けた身分証をわざと落として見せた。すると、グレトナの狙い通りに、青年は彼女が落とした、錦の身分証を拾い上げる。精巧に編まれた絹織物で、持ち主がクティノス出身の子女である事を証明している。

『落としましたよ』

『あら、親切にありがとうございますわ』

 素知らぬ振りをしてそれを受け取り、それから今初めて目に留まったと言わんばかりの調子で、グレトナは気さくに青年に声を掛ける。

『これは、絵画ですか?』

 じっくり眺めるよりも先にそう尋ねるグレトナ。どこか妙な言い方になっていなかっただろうか、上擦ってしまってなかっただろうか。初めて触れる絵画という文化の前に、若干の緊張を帯びている。

 そのように、先日初めて知ったばかりのくせに知った風な態で箱入り娘が話しかけると、そんな心中などお構いなしに、青年は嬉しそうに絵画の説明を始める。

 青年の故郷カラボキ村の玉蜀黍畑や、たまに出掛けるアクロの丘の風景を、どのような天気のどのような日に描いたのを熱心に説く青年。中でも一際熱のこもった調子で語ったのが、一枚の花畑の景色だった。

 画布の下半分を花畑が埋め尽くし、上部には何物にも遮られない澄み渡る空が描いてある。椿、芍薬、花菖蒲、朝顔、菊、山茶花が一堂に会するという、他の土地では拝む事の出来ない、花の村フィオーレならではの景色が、その画布に鮮明に切り取られている。まるでその画角の向こうが本当にその場所に通じているかのように錯覚してしまう程に、初めて見るその景色にグレトナは本物を見出した。

 どの画布に描かれた景色も、グレトナは目にした事がなくもちろん興味を惹かれたが、その一枚だけには完全に心を奪われてしまったのだ。それを一目見た時、グレトナは言葉を失ってしまった。

 それからグレトナは、毎月の礼拝の日に、青年の元へ通うのが習慣になっていた。ザングも渋い顔はしていたが、絵の出来そのものは目を見張るものがあり、子女の教養になればと考え、咎めるような事はしなかった。

 こうして、絵描きの青年フウガは、令嬢グレトナと親交を深めていくのであった。月に一度の逢瀬を幾度か重ね、二人は互いの夢を語るようになっていた。

「その夢が、フィオーレの花畑を見る事なんですね」

「そうよ。彼と出会っていなければ、考えもしなかった事。本当に、本当に彼と出会えて、私は幸運だと思っているわ」

「素敵ですよね、夢をくれる相手がいる事って」

 そう言って、ベニューは唯一の肉親に想いを馳せる。ボーネ村にて勘違いによりすれ違う事もあったが、ライゼルも母や故郷を大事に想っていると知って以来、ベニューはその弟から夢を与えてもらった。母のように、ライゼルから誇ってもらえるような姉になりたい。それがベニューの夢。その為にも自身の代名詞である六花染めをもっと広めたい。

 そう思わせてくれたのは、今現在は故有って鳴りを潜めている、ライゼル自身の夢への飽くなき向上心だ。今回のグレトナ達との出会いが、ライゼルにそれを取り戻させる機会になればと、ベニューは切に願っている。

 

 姉が弟の再起を願う一方で、ライゼルはその予兆を見せ始めていた。

「フウガの夢って何?」

 叶えたい夢があるのだと、目の前の青年フウガは言った。それを聞いたライゼルは、思わず身を乗り出し、それが何なのかを訊き出そうとする。

 長椅子の隣に腰掛けるライゼルに詰め寄られるフウガ。少しの間言おうか言うまいか逡巡した後、一度照れ笑いを見せた後、面をやや上げて勇ましく宣言する。

「僕は画家になる。そして、グレトナを連れて王国全土を旅して回るんだ」

 それに対し、ライゼルは真顔のまま小首を傾げる。

「画家って何する人?」

 ベニュー同様に、絵画の文化に触れた事のないライゼルは、画家が如何な職業か知らない。

「画家ってのは絵を描く仕事をする人さ。僕は、王国中のいろんな景色をグレトナと一緒に見て、そしてそれを画布にしたためたい。グレトナが僕の絵を喜んでくれて、絵描きもやっぱり捨てたもんじゃないって思えたんだ。そして、改めて気付かされた、僕は絵が描きたいんだってね」

「それがフウガの夢…」

「おかしいかな?」

 フウガがライゼルの顔を窺いながら問い返すが、ライゼルはしばらく呆けたまま返事をしない。

 ライゼルの胸の中に、何かが見つかった気がした。これまでずっとそれを為す為に日々の鍛錬を積んでいた訳だが、ライゼルにとってあまりにも当たり前のこと過ぎて、疑う事すらしなかった行動指針であるそれ。

 そして、脳裏に在りし日の母の言葉が蘇る。ベニューが五つ、ライゼルが四つくらいの頃だったろうか。

『夢ってのは、ないと困るもんだ。これがなきゃ誰も生きていけない。だから、ベニューもライゼルも夢を見つけるんだよ。なんたって、夢は人を元気にしたり、笑顔にしたりしてくれるんだからね』

 それに対しベニューは言う、自分は母の夢を叶える手伝いをする、と。曰く、母をもっと笑顔にしたいのだと。

『嬉しいこと言ってくれるねぇ。でも、それは必要ないよ、ベニュー。母ちゃんの夢はね、もう叶っちまったんだ』

 そう笑って見せる母にライゼルは問うた、では母の夢は何なのか、と。すると、母は得意げに答えた。

『教えてあげてもいいけど、夢の一つもないような子には聞かせてあげないさ』

 そう切り返され、姉弟は必死に考える、自分の夢は何なのか。

 先にベニューが、母のようになりたいと言い、母は嬉しそうに顔を綻ばせベニューを抱き寄せた。その後にライゼルは、確かこう言ったはずだ。

「俺は…俺は、みんなの笑顔を守る。俺は母ちゃんにそう言ったんだ」

 呆けて俯いたままのライゼルが突然そう呟くものだから、隣にいたフウガは一瞬戸惑ったが、すぐ表情を和らげライゼルに声を掛ける。

「それがライゼル君の夢なんだ?」

「…うん」

「いい夢だね」

 そう返すフウガを余所に、ライゼルは堰が決壊したような勢いで語り出す。

「ねぇ、フウガ。俺、分かったよ。フウガは夢を叶える為にグレトナといるんでしょ。じゃあ、もう一つだけ聞かせて」

「うん、何かな?」

「自分のやりたい事が誰かの迷惑になるって分かった時、フウガならどうする?」

「僕は、もしそうだったとしても夢を叶えたい。僕にとって絵を描く事もグレトナと一緒にいる事も、どっちもやらずにはいられない事なんだ」

「やらずにいられない、か」

 ライゼルがフウガの言葉を反芻した直後、ベニューとグレトナが店から出てくる。

 先程までの衣服は店舗に引き取ってもらい、新たな庶民的な装いになったグレトナ。店を出てすぐに愛しのフウガの姿を認める。

「あら、フウガ。随分早かったのね」

「あ、いや」

 言い淀むフウガ越しに見えるライゼルを見たベニューは、ライゼルに問い詰める。

「ライゼルがフウガさんを引き留めてたんでしょ? お話を聞きたいのは分かるけど、あんまり時間がないんだから」

 グレトナと違い、フウガの服は先程と変わっていない。それはおそらく同伴のライゼルが原因なのであろう事は、ベニューをして容易に推察できる。

 我儘に付き合わせていた事を咎められたライゼルだったが、渋らず素直にベニューの言葉に従うつもりだ。

「分かってるよ。ビアンが戻ってくるまでに終わらせたらいいんだろ」

 姉弟がフウガ達と共に過ごせるのは限られた時間のみだ。だが、確かに僅かな時間であったが、ベニューがもしかしたらと淡い期待を抱いた通りに、ライゼルはフウガ達の生き方から何かしらの答えを得ようとしている。ライゼルはこの出会いを機に何かを掴みかけている、ムーランの件で見失った自信のようなものを。ここでそれが手に入ったら、またこれまで通りのライゼルに戻れるかもしれない。

「終わらせたらだなんて、また面倒事みたいな言い方して」

「そんな風に思ってないよ。さぁ、俺達も行こうフウガ」

 フウガを促し、ライゼルは新たな服を探しに店内へ入っていく。その足取りに昨日の沈鬱な様子は見受けられない。

(ライゼルの周りにいつもの『風』が吹いてる)

 ライゼルの纏う雰囲気が普段通りになりつつあるのを感じ、一安心のベニュー。

すると、そこへ手続きを終えたビアンが戻ってくる。

「待たせたな。手続きは済んだが、そっちはどうだ?」

「今、ライゼルがフウガさんの服選びを手伝っています。そんなに時間は掛からないと思いますが」

 それを聞き、ライゼルがこの場にいないと知ったビアンは、声を潜めベニューに更に問い掛ける。

「それで、ライゼルの様子はどうだ? まだ落ち込んでいるのか?」

 ビアンの問いに、ベニューは小さくかぶりを振って答えてみせる。

「いいえ、もう大丈夫だと思いますよ。自分なりの答えを見つけかけているみたいですから」

「そうか。厄介事に巻き込まれたかと思っていたが、存外悪い事ばかりでもなかったみたいだな」

「はい」

 二人が会話を終えたところで、ベニューの傍らにいたグレトナが、ビアンに向かって尋ねる。

「あの、お役人様。ベニューちゃんに見繕ってもらった衣服なのですが、違和感はないでしょうか?」

 そう問われて、改めてグレトナをじっくりと眺めるビアン。ベニューが上手く合わせたのだろう、元々持ち合わせていた上品さは素朴な清楚さへと変わっていた。

「違和感を感じるどころか、よく似合っている。その束ねた髪が村娘っぽいな」

 ビアンが差したグレトナの一つ結び。それを結んでる装身具は先程までは認められなかった物であり、衣服と一緒に購入したのだろうとビアンは推測していた。だが、実際には違っていた。

 褒められたのだと感じたグレトナは、嬉々としてその装身具について説明を始める。

「これは幼い頃より父から持たされていたものだったのですが、根付紐の長さがわたくしの髪を束ねます事に丁度いい具合でしたので、ベニューちゃんに教わって結んでみたのです」

 そう言いながら、髪留め代わりにした装飾品を見せびらかすグレトナ。その根付紐の先端には、輝星石が認められた。

「へぇ、輝星石の装身具とは珍しいな。確か、輝星石の加工は難しく、値の張る代物だと聞いた事がある」

「輝星石って原石のままでしか見た事がなかったので、なんだか新鮮です」

 一般的には、照明として世間に認知されているそれであるが、加工されて意匠を凝らされている製品も、数こそ少ないが全くない訳ではない。

「そういえば、まだ話していなかったか。今回グロッタに立ち寄るのは、その輝星石を手に入れる為なんだが。そうだな、王都まで行けば、輝星石の細工物を扱ってる商品もあるだろう。遣いを終えたら城下を見て回るといい」

 早口にそう言い切るビアンを見て、先を急ぎたいのだと察したベニューは、これ以上口を挟まない。

「そうなんですね、楽しみにしておきます」

 グレトナの結わえた明るい髪色の中に映える、微かな輝きを放つ輝星石をあしらった髪留め。年頃の女の子であるベニューは、それに俄然興味が湧いてきた。ビアンが高価な物だと言っていたが、実際はどれくらいのものなのだろう。ベニューは、言葉通りに輝星石の細工物を拝むのが楽しみになっていた。

 と、その時であった。突然強烈な勢いの突風が吹いて、ベニューとビアンはその身を地に伏せた。

「おわっ」

「きゃっ」

 更に、二人が短い悲鳴を漏らした直後、グレトナの悲鳴が朝の宿場町にこだまする。

「きゃああああああ、放してください」

 地面に倒れたベニューとビアンは、悲鳴を挙げたグレトナの行方を探すが、すぐには見当たらない。周囲を見回しても、同様に悲鳴の主を探す町人達が映るのみ。通りにいた人達は何が起きているのかさっぱり分かっていない様子だ。

 と、思った瞬間、経験則からベニューとビアンは、ほぼ同時に上空に視線を向ける。すると、そこにグレトナを抱きかかえる見覚えのある男が一人、『浮』いている。

「お前は、テペキオン!?」

 以前フィオーレを襲撃し、ライゼルに復讐を宣言した、異能【翼】を有する異国民の姿をベニュー達は認める。周囲の通行人や店主達も、ベニュー達の視線の先に空中浮遊している男の姿を発見し、当惑している。

 突如としてベニュー達の前に姿を現したテペキオン。宣言に違わず、ライゼルへの復讐を果たしに来たのだろうか?

「人間、何故オレの名前を知ってやがる?」

 ビアンの呼び掛けに対し、怪訝そうな表情を浮かべるテペキオン。フィオーレにて一度面識があるはずなのだが、どうやらテペキオンには覚えがないようだ。おそらく、ベニューに関しても同様に記憶していないのだろう。

 そうだ、確かにテペキオンはフィオーレでも言っていた、他の者は眼中にない、と。あるのは、ただ一人。

「あなたはライゼルを追ってここまで来たんですか?!」

 ベニューが真っ先に心配したのは、その点だった。テペキオンはライゼルをつけ狙ってここまで追い掛けて来たのではないだろうか。その為に、グレトナという人質を確保した。グレトナが知り合いだと分かっての事なのか、それともライゼルの性格を見越してなのか判別は付かないが、ライゼルをおびき出す為の手段と考えれば、今の状況と符合する。

 だが、テペキオンはベニューの問いには答えず、代わりに怪訝な表情を怒りに満ちた形相に変貌させる。

「なんだと、人間。この『臭い』はアルゲバルのものなのか?」

「えっ?」

 予想外の反応に、思わず驚きの声を上げてしまうベニュー。今の反応からすれば、テペキオンはライゼルがここにいるとは知らずに来た事になる。とすれば、テペキオンはフィオーレの時同様『狩り』なる行為を為しにここへやってきたという事になる。

 思いがけず不測の事態に陥ってしまったベニュー達。ライゼルの居場所を教えれば、ライゼルと戦闘になるのは必至だが、拒否しようにもグレトナが捕らわれている。今は彼女を何とかして取り返さねば。

 どうしたものかとベニューとビアンが思案している内に、いつのまにかベニュー達を囲むようにして事態を見物していた群衆を掻き分け、グレトナの悲鳴を聞きつけたライゼルとフウガが、商店から飛び出してくる。

「グレトナ!?」

「あっ、お前はあの時の異国民。また悪さをするつもりなのかよ!」

 体ごと持ち抱えられたグレトナと彼女を空中で捕縛するテペキオンの姿を、その目に捉えるライゼルとフウガ。ライゼルはもちろんテペキオンを覚えているし、フウガもその男がザングのような追手でない事はすぐに察する事が出来た。いつも以上の危機がグレトナに迫っているのだと、二人は瞬時に理解した。

 テペキオンも、聞き覚えのある声に振り向けば、過去に因縁を持ったライゼルがいるではないか。

「そこにいたのか、アルゲバル!」

「また妙ちくりんな呼び方しやがって。俺はライゼルだ!」

 再びの邂逅。次に相まみえた時は、命を奪うと宣言していたテペキオン。思わぬ所で標的であるライゼルを発見し、テペキオンのグレトナを掴む腕に力が入る。

「微かな臭いを辿ってみれば、『獣擬き』を二匹も狩れるとはな」

「『ケモノモドキ』ってなんだよ?」

 ライゼルがテペキオンの発言の意図を捉えかねている傍らで、フウガが体を小さく震わせ、力強く拳を握っている。愛する女性が、見知らぬ男にかどわかされ、苦痛の表情を浮かべている。ここで黙っていられるフウガではない。

「どこの誰かは知らないけど、グレトナを放せ」

 そうテペキオンに告げるが、例の如くライゼル以外を取り合わないテペキオン。他の者の囀りなど耳にすら届いていない。

「返す気がないのなら…!」

 フウガは、グレトナの解放に応じない様子を確認すると、テペキオン目掛けて路傍から拾い上げた石を投げつける。フウガの右手から投擲された石は、見事にテペキオンの左肩に命中する。

 何やら自らに仇を為そうとしている者がいると、テペキオンはようやくフウガの事を気にし始めた。煩わしさを感じたのだろう、フウガに対し、一睨みする。

「オレの邪魔をするんじゃねぇよ、屑」

 そう言うが早いか、テペキオンはグレトナを掴んだまま、【翼】を発現させる。そして、それを誰にも知覚できない内に高速で飛翔し、ライゼルの傍にいたフウガに接近、直後にフウガの腹部に膝蹴りを見舞う。

「ぅぐっ」

「フウガ!?」

 一度の戦闘経験があるライゼルであったが、またもテペキオンの高速移動を視認する事は出来なかった。隣にいるフウガが呻き声をあげ、崩れ落ちる様を見て、ようやくテペキオンが攻撃を繰り出してきた事を認識できた。それは、ベニューやビアンも見物人達も同様で、誰もテペキオンが移動する姿をその目で捉える事は出来なかったのだ。特に、突然の早業に理解が及ばず、自分達にも危害が及ぶ事を恐れた見物人達は、悲鳴を上げあげながら散り散りにその場を去っていく。

 しかし、そんな事などお構いなしに、ライゼル一行やフウガ以外がいなくなった大通りで、テペキオンは自らに仇を為したフウガに続けざまに攻撃する。

「欲しいんなら受け止めろよ?」

 あろうことかグレトナその人を片腕一本で軽々と振り回し、頽れるフウガにぶつけようとするテペキオン。体を動かす習慣のほとんどないグレトナが抵抗できる筈もなく、されるがまま。

「させるかよ」

 それをすんでの所で両者の間に割って入ったライゼルが、大きく両手を広げてその身で庇う。捕らえられ身動きの出来ないグレトナは背中からライゼルの胸部ににぶつけられたが、彼女自身は大した痛手を負わなかった。

 が、身を挺して庇ったライゼルは、その衝撃により後方に仰け反り、背後にいたフウガの背中の上を乗り越え一回転する。

「ライゼル!?」

 その様子を少し離れた所から見ていたベニューは、すぐさまライゼルの傍に駆け寄ろうとする。

 が、すぐ傍にいるテペキオンが間髪入れずに、再度グレトナを振り回し、ライゼルとフウガどちらにというでもなく襲い掛かる。

 故に、離れた場所にいたベニューでは、その攻撃を庇えない。ライゼルも吹き飛ばされた直後で、庇うどころか体勢を立て直す事さえ間に合っていない。このまま直撃すれば、フウガもグレトナも大きな痛手を負う事は間違いない。

「まずは手始めにテメェからだ!」

 そして、いよいよテペキオンのグレトナごと腕を振るい、大打撃を見舞おうとした瞬間、

「これ以上グレトナを乱暴に扱う事は、僕が許さない!」

 フウガは自らに迫るグレトナの体を全身で受け止め、大きく身を捩る事で抱きかかえたグレトナをテペキオンの腕から見事取り返した。両者がぶつかった時の衝撃に堪えられず、フウガはグレトナを抱きかかえたまま数歩後退りをし、その後尻餅をつく。

「フウガ。私、あなたを信じて本当に良かった」

「おかえり、グレトナ」

 二人はそのまま熱い抱擁を交わす。守りたい人を取り戻したフウガと、愛する人の元へ帰って来られたグレトナ。改めて二人は思うのだ、目の前にいるこの人がいる事が自分にとっての最大の幸福なのだと。

「おい、屑。その獣擬きを渡せ」

 攻撃をフウガに防がれ、更に『狩り』の得物を奪われ、機嫌を損ねたテペキオンは、鋭い眼光でフウガを差す。

「もう二度とグレトナを放したりしない。それがどんな困難にぶち当たったとしても、だ!」

 愛する者を守る為なら、フウガは異能力者相手にも怖気付いたりしない。勇ましくテペキオンに抵抗を示す。

 その様子が気に入らないテペキオンは、改めてフウガに狙いを定め直す。

「じゃあ、テメェの両腕を切り離してやるぜ」

 そう溢した次の瞬間には、勿体付ける事なく実行しようとするテペキオン。愛する者の腕の中で怯えるグレトナごと切り裂いてしまわん勢いで、五指の爪が二人を薙いだ。

 かに思えたが、側面から何者かに腕を掴まれた事により、フウガの始末は未遂に終わる。

「またテメェか、アルゲバル…!」

「そうだよ、テペキオン。お前の『狩り』は、俺が何度だって邪魔するからな!」

 またしてもライゼルに攻撃を阻まれ、元々厳めしいテペキオンの形相は更に険しくなる。

 未だに『狩り』なる行為がどのようなものなのか定かではないが、前回のカトレアの際同様に、誰かを傷付け悲しませる行為なのだと、そうライゼルは確信した。

 であるならば、ライゼルが何も行動しない訳がない。夢の護り手足らんとするライゼルは、目の前で起ころうとしている悲劇を防ぐ為、勇気を持って立ち上がるのだ。

 またも『狩り』を妨害せんと突っ掛かってくるライゼルを、怒りの形相で睨み付けるテペキオン。

「やはりテメェを先に始末するべきだったな」

「やれるもんなら、やってみな!」

 啖呵を切ると同時に、ライゼルはテペキオンの腹部辺りに横蹴りを仕掛ける。が、テペキオンは背の【翼】を瞬時にはためかせ、飛び退くように後方へ回避し、距離を取る。

「ライゼル、大丈夫?」

 テペキオンが離れたその隙に、ベニューはライゼルの元へ駆け寄る。寄り添うようにして肩にそっと手を乗せる。

 ベニューの危惧していた事が現実となってしまった。テペキオンは改めてライゼルを標的とし、攻撃を仕掛けてくる。このまま王都まで逃げ遂せられるとも思っていなかったが、実際に事が起こってしまうと不安で仕方がない。

 しかも、先の件で迷いを抱えたライゼルでは荷が勝ち過ぎるのではないかとも、姉の身としては思うのだ。ただでさえ敵は未知の能力を駆使する手練れ。そんな『有資格者(ギフテッド)』を相手に、迷いを持ったままのライゼルが太刀打ちできるだろうか。迷いで剣が鈍ってしまえば、たちどころに嬲られ殺されてしまうだろう。あのテペキオンという男に容赦する様子はない。ライゼルが万全であろうとなかろうと、お構いなしに復讐を遂げに掛かって来るはずだ。そう思うと、ベニューは急に恐ろしくなってきた、たった一人の弟までも失ってしまうのではないかと。

 だったが、ライゼルはその想いを知ってか知らずか、肩に乗せたベニューの手をそっと外し、片手でベニューの身体をゆっくりと押し退ける。

「ベニュー、二人を連れて離れてて」

 ベニューの心配を余所に、ライゼルは単身でテペキオンを迎え撃つつもりでいる。

「ライゼル、本当に大丈夫?」

 先のように、体の具合を心配して言っているのではないという事は、ライゼルにもちゃんと伝わっている。姉は、弟の脆さを帯びてしまった心を心配してくれている。ベニューの瞳に、この戦いを望まぬ意思が見え隠れしている。これまでのような、衆目を気にする意味でではない。戦う理由を見失った弟が、何も得られないまま壊れてしまわないか。いや、それ以上に、命を落としてしまわないか、ただただ弟の身の安全を気に掛けているのだ。

 だが、ライゼルには、これ以上ベニューに心配を掛けるつもりは更々ない。

「違うんだ、ベニュー」

「ライゼル?」

「俺、みんなの笑顔を守りたい。それが、俺の夢で、やらずにいられない事なんだ」

「ライゼル」

「だから俺、戦うよ」

 自分は何を失念していたのだろうと、ベニューは弟を前にして恥じ入った。

 母を亡くし、一度は母を笑顔にするという夢を失ったベニューだったが、つい先日ボーネにて夢をもらった。大きな夢を掲げる弟に自慢してもらえるような姉になると、そう心に誓ったではないか。それなのに、自分は弟を信じてあげられず、あまつさえ逃げる方へ促そうとしてしまった。

(違うでしょ、ベニュー! そうじゃないでしょ、二代目フロル!)

 この無鉄砲で一生懸命な弟を支えると、ずっと傍にいるのだと誓ったばかりではないか。それなのに、臆病風に吹かれ、ライゼルの力になってあげる事をしようとしなかったのか。恥ずかしい、こんな心の弱い自分が恥ずかしい。

(ライゼルが逃げずに戦おうとしているのに、私が逃げてどうする!? 私のしなきゃいけない事は、そんな事じゃないでしょう?)

 分かっている。自分以上に、ライゼルだって本当は怖いのだという事を。傷付く事への恐れもそうだが、それ以上に誰かを傷付けてしまうかもしれない恐怖が、ライゼルの心に生まれてしまった事を。そして、そんな恐怖心さえも飲み込んで、目の前の困っている人を助けたいと願う弟の優しさを。

(じゃあ、そんなライゼルに何と言ってあげるの? どうやって背中を押してあげる?)

 自分の不甲斐なさへの悔しさや怒りを飲み込み、ベニューはいつも通りの姉の姿でライゼルに言葉を掛ける。

「…うん、そうだね。そうだよ、ライゼル。ライゼルはその為にずっとずっと頑張ってきたんだもん」

「おう」

「ライゼル、夢を叶えるよ!」

 何の為に自分がいるのだ。弟が迷った時、くじけそうな時でも傍にいて、応援してあげる為だろう。

(ライゼルが本調子じゃないと、本当に調子狂っちゃうなぁ)

 ベニューの激励を受け、ライゼルも更に気合を入れる。

「おう。俺は夢を叶えて、母ちゃんに自慢できるような、ううん違う、母ちゃんに自慢の息子なんだって言ってもらえるような、そんな男に俺はなるんだ!」

 ライゼルはベニューの前で、笑顔の護り手足らん事を宣言し、己が右手に霊気(ムスヒアニマ)を集中させ始める。霊気が地面からライゼルの体へ纏わり付くように集まっていく。今朝まで及び腰になっていたライゼルに対し、その星脈が渇きを覚えていたかのようで、ぐんぐんと物凄い勢いで霊気を取り込んでいく。

 ライゼルの強い意志の具現化、それがライゼルが母から譲り受けた力【牙】だ。意志なき者には【牙】を発現する事は適わない。何かを為そうとする強力な意志を以って初めて星脈はその求めに応じるのだ。

 つまり、今のライゼルは先程までのような意志薄弱な彼ではない。目の前の困っている誰かを放っておけない心優しさを持ち、守る物の為に【牙】を以って戦う姿勢を示す、本来のライゼルの姿がそこにはあるのだ。

 一方、ベニューがフウガとグレトナを連れて離れようとすると、ビアンはベニューに耳打ちする。

「結局戦う事になってしまうんだな…まぁ、避けられない事態だったから仕方あるまい。それより、俺はこれからアードゥルに連絡しに向かう。お前達も避難を…」

 ビアンがそう言いかけたが、ベニューはかぶりを振って応じない。

「いいえ、私はここでライゼルを見守っています」

 それに便乗して、フウガとグレトナも賛同する。

「この子達には二度も助けてもらった。僕達ももしもの時は助けになりたい」

「えぇ。ライゼルさんだけを独りになんて出来ませんわ」

 正直、ベニュー達が留まる事に否定的なビアンだったが、説得するのも骨が折れそうで、ベニュー達の残留を許し通報を急ぐ事にした。

「アードゥルの到着まで持ち堪えてくれ。それと、もしもの時はライゼルを連れて絶対に逃げるんだぞ、いいな?」

「はい」

 走り去るビアンの背中に両省の返事を掛けるが、ベニューの視線は既にライゼルの方へと向けられている。

 【牙】を手にしたライゼルの表情は、闘志に満ちている。先程の弱気は完全に払拭した。リカートの同胞であろうテペキオンと対峙しても、自らの夢を前に悩む様子はない。

「いいか、テペキオン。お前なんかにフウガ達の夢を邪魔させない!」

 勇ましく言い切ったライゼルの手に握られる広刃剣。収束させられた霊気によって形を得た、ライゼルが頼みとする彼の分身である【牙】。

 ライゼルが手にした得物を目にしたテペキオンは、やや血気に逸っている様子である。初めての『狩り』の最中に、自らの自尊心を傷付けた憎き剣が再び目の前に現れたのだ。復讐を誓ったテペキオンとしては感情的にならざるを得ない。

「そうだ、ソイツを折りてぇんだ。とうとう出しやがったなアルゲバル」

 言うが早いか、一目散にライゼル目掛けてテペキオンが急襲を仕掛ける。【翼】の能力で風に乗り、滑空する。

 それを風読みの能力により察知した姉弟。ベニューは足手纏いにならぬよう戦闘区域を離脱しており、フウガ達と共に距離を置いて見守っている。そして真っ向から相対するライゼルは、迫るテペキオンとの間合いを図る。

「次は手加減しないからな」

 前回の戦闘の際は、ライゼルは斬撃でなく打撃として横一閃をテペキオンに見舞った。今回は一撃で無力化できるよう、全力の大振りで切り伏せるつもりだ。風の流れからテペキオンの軌道を把握し、反撃の機会を窺い待ち構える。

「手加減だぁ? テメェは何も出来ずに死ぬんだよ。加減も抵抗も出来ずになァーッ!」

 通り名に違わず疾風の勢いで、加えてライゼルの読み通りに、ライゼルの左側面を通り過ぎていくテペキオン。何故か風圧の先端はライゼルからやや外れたところを向いていた。

 それを察知できていたライゼルは、初撃は敢えて外し、自分が迂闊に反撃し空振りした隙をテペキオンは突こうとしたのだろう、と推測した。

 しかし、そうではなかった。直撃しないと判断し警戒を緩めていたライゼルだったが、このテペキオンによる先制攻撃は、実は通過した時点で既に完了していたのだ。現に、ライゼルの左半身には無数の切り傷が確認される。

「ぐぅううっ!」

 ライゼルには、何故自分が痛みを覚えているのか、理解が及ばなかった。テペキオンの飛翔する軌道は、確実に逸れていたはずなのだ。至近距離を掠めていった訳でもない。ライゼルの読んだ軌道でも、実際にテペキオンが通過した軌跡でも、そこからではテペキオンがいくら手を伸ばしてもライゼルに届くはずはないのだ。

「どうして?!」

 傍から見ていたベニューにも、何故その攻撃が結果として表れているのか理解できない。ベニューはテペキオンが発生させた風を読んだ訳ではなかったが、目で追えた限りではテペキオンがライゼルに触れた様子はない。

 ただ唯一、その理由を知るテペキオンは、不敵に笑う。

「オイオイ、まだ死ぬんじゃねぇぞ。オレの鬱憤は一切晴れちゃいねぇんだからな!」

 自らの攻撃が見事に決まった上、それを食らったライゼルは傷を付けた事象の正体をまだ見破っていない。その事実が、テペキオンを悦に浸らせ、いつもよりも饒舌にさせる。

「まさかあの時みてぇな生ッチョロイやり方で済ます訳ねぇだろうが! 今日はとことんまで切り刻んで、オレに歯向かった事を後悔し尽くさせてからぶっ殺してやるぜ!」

「たった一回、たまたま上手くいっただけで偉そうにすんな!」

 ライゼルも言われっぱなしの性分ではない。未だ打開策は見出せていないが、精一杯の虚勢を張って言い返す。

 が、それがしたり顔のテペキオンのこめかみに青筋を作らせる。

「上等だァ。お望み通り何遍でも味わわせてやろうじゃねぇか!」

 テペキオンの意に沿わないライゼルの強がった態度に、疾風と渾名される異能を有する男の堪忍袋の緒が切れる。それは、相対するライゼルはもちろん、離れた所から見守っているベニューやフウガ達にも見て取れる。

「ライゼル君はああ言っているけど、勝算があるのかい?」

「いえ、何も手は浮かんでないと思います。ですが」

 ベニューは最後まで告げる事はなかったが、彼女の弟に向ける眼差しを横目で見たフウガ達は、弱気な考えを払拭させる。

「うん、ライゼル君なら、きっと何とかしてくれそうな気がするよ」

 三人は、その場から離れる事なく、テペキオン相手に一歩も退かないライゼルをじっと見守る。

 その視線の先のライゼルも、真っ向からテペキオンの強襲を待ち受ける。

「来いよ、テペキオン!」

 緒戦を優勢で進めるのはテペキオンのはずなのに、あまりにもライゼルが状況にそぐわない態度を取るものだから、テペキオンの方が気が急いてくる。

「テメェ口塞げよ、この屑野郎」

 大きく【翼】を一度だけはためかせたかと思うと、その背中の【翼】で周囲の空気をグッと掴み、そこから生まれた抵抗を利用して、次の瞬間には自らで気流を生み出せる程の突進力でライゼルに迫る。

 テペキオンが生み出す気流は、瞬時にライゼルまで届く。ライゼルもそれを察知するが、またしてもテペキオンがなぞらんとしている軌道は、ライゼルの位置から僅かに逸れている。

 ただ、そうであっても今回は油断せず、未知の攻撃に対して備えるライゼル。読んだ気流に向けて広刃剣を以って防御の構えを取る。これなら、目測の誤差でテペキオンの腕が届いていたとしても、自らの身を庇えるとライゼルは考えた。

「何だ、そりゃあ? それで防いだつもりかよ?」

 テペキオンの追撃に対し警戒を怠らなかったライゼルだが、そんな彼を見て尚テペキオンは自らの優位性を疑わない。僅かに眉を顰めたのは、ライゼルが見当外れな対策を講じているからだ。

 そして、そうとは知らないライゼルを、無慈悲なまでに謎の攻撃が襲う。高速移動するテペキオンがライゼルの周囲を通過し、その風圧が届く瞬間、触れてはいないはずなのにライゼルの着る六花染めは切り裂かれ、彼自身も傷付けられている。広刃剣を彼我の間に挟んだというのに、何ら障害などなかったかのように擦り抜けて痛手を負わせている。

「どうなってんのか、さっぱりだ」

 そうライゼルが独り言ちてみても、解決策は一向に浮かばない。完全に間合いを取り、突進を避けているにも関わらず、ライゼルの体にはテペキオンが通過する度に傷が増えていく。この拭い切れない違和感に、ライゼルはやや焦りを覚え始める。

 その様子を察してベニューは、ライゼルの思考の手伝いをする。

「ライゼル、風の流れはちゃんと読めてる?」

「おう。これほど分かりやすい風はないだろ。でも、避けてんだけど、駄目みたい」

 風の勢いが増せば増す程、姉弟にとっては読みやすいものとなる。あれだけの高速移動をしているのだから、ライゼルにも十分に知覚できているはずだ。本人が避けたと言うのなら、その通りなのだろう。

「風は全部避けてる?」

「いや、全部じゃない。一番大きいやつ、だからテペキオンの来るのだけか。それは避けてる」

 ライゼルの妙な言い方に違和感を覚えたベニューは、次の攻撃までそれ程猶予もないが更に問い掛ける。

「もしかして、通り過ぎた後の風圧に攻撃力があるんじゃない?」

「…あっ、それっぽい!」

 ベニューの気付きに、ライゼルも不可視の攻撃の正体に見当が付いた様子。

 一方、何やら思いついた様子のライゼルを見ても、テペキオンは特に調子を変えない。それは自分の能力への信頼から生まれるものなのか。

「そろそろ終いにするぜ、アルゲバル」

 姉弟の会話の最中も、姿勢制御と次の攻撃の予備動作を行っていたテペキオンは、三度ライゼルを亡き者にせんと攻撃を開始する。

「お前の攻撃は見切ったぞ、テペキオン!」

「吠えてろ、屑野郎!」

 背の【翼】で周囲の空気を大きく後方へ扇ぎ、瞬発力を得たテペキオンは、最短距離を翔け抜けライゼルを捉える。

「オレの全速力から生み出される烈風に切り刻まれて息絶えろ、アルゲバル!」

 テペキオンが直線攻撃を仕掛けてくるのに対し、ライゼルも真っ向から立ち向かうべく剣を構える。テペキオンの高速移動を見極め、至近距離まで接近したと同時に、上段に構えていた己が剣を勢いよく振り下ろす。

「てぇええやあぁッ!」

 掛け声とともに振り下ろした剣は、テペキオンを捉える事なく空を切る。

「外した?!」

「いいえ、元々ライゼルはあの異国民を斬るつもりはありませんでした」

 フウガやグレトナが見ている限りでは、返り討ちにしようとしていたライゼルの反撃が失敗しただけのように見えた。テペキオンもライゼルの一振りを悠々と回避し、次の攻撃に備えてか再び一定の距離を保っている。

 だが、ベニューはそう思っていない。今の一瞬間のやり取りを制したのは、実を言えばライゼルの方だった。

「ベニュー、見えない攻撃の正体が分かったぞ。テペキオンの【翼】は風を操れるんだ」

 先程のテペキオンの接近に合わせて見舞った袈裟懸け斬りは、ただ空振りをしたのではなく、文字通り空を、テペキオンの【翼】が生じさせていた真空波を斬り裂いたのだ。

「やっぱり。高速移動中に向こうの手が届いている訳じゃない。移動によって生まれた風の波が攻撃に変化していたんだ」

 不可視の攻撃の絡繰りは、ベニューの指摘通り。高速移動は予備動作あるいは見せ掛けでしかなく、本命は【翼】が起こす気圧差によって生じた真空波であり、それがライゼルの身体に裂傷をもたらしていたのだった。

 理屈こそ分からなかったが、その現象に勘付いたライゼルは、テペキオンの追撃を待ち、その正体を確かめた。

「へへん、ついに破ったぞお前の技。次は俺の番だ」

 そう勇んでテペキオンに向かって駆け出すライゼル。

 これまでの戦闘で、ライゼルはテペキオンの高速移動と真空波を見破っている。風読みの技能と【牙】での斬り払いを以って、ライゼルはテペキオンの攻撃手段は封殺できると踏んだ。

 【翼】を用いて逃げに徹されたならば太刀打ちできないが、それはテペキオンの性格を考えれば選択肢にないだろう。であれば、きっとテペキオンはライゼルを惨殺しようと向かってくるはず。

 この状況から導き出されるのは、ライゼルに逆転の目があるという事。むしろ、ライゼルが油断なく徹底してテペキオンの攻撃に対処していけば、打倒する事だって不可能ではない。【翼】を使いこなす異国民の圧倒的な攻撃を耐えに耐え抜いたライゼルが呼び寄せた最大の好機。

 これらの事はベニューも重々承知だ。お調子者の弟がこの土壇場で大しくじりを仕出かさないよう戒める。

「ライゼル、調子に乗らないの」

 姉の苦言を話半分に聞き流し、反攻に転じる。

 テペキオン側としても能力の正体を隠匿する意図はなかったらしく、ライゼルが見破ったからと言って、さして気にしている様子でもない。それは、テペキオンの技の行使する頻度から窺える。【牙】を携えたライゼルを近付けまいと、両腕を交互に振るい真空波をライゼルに向かって何発も放ち続ける。

 テペキオンが下段から空気の塊を掬い上げるような形で大きく腕を振り上げると、腕で斬り裂いた所から衝撃波が発生しライゼル目掛けて迫っていく。

 ライゼルもその衝撃波を【牙】で薙ぎ払いながら、徐々に近付いていく。ベニューの言い付けを守るように、風の流れを正確に読み、的確に衝撃波を粉砕する。

 そして、ライゼルも何度か真空波を無効化する毎にある実感を得ていく。それは、【翼】の能力に対抗出来得るのは、【牙】だからなのだろうという事。それは、自らの広刃剣とテペキオンの衝撃波が接触する時の感触から、そう感じる事が出来た。例えば、ライゼルの剣技『蒲公英』を【翼】持ちの大男ルクに放った際の感覚に似ている。霊気を流し込む事でルクに痛撃を与えられた訳だが、その直前に見舞った蹴りはほとんど効果がなかった。【翼】を有する異国民に有効的な対抗手段は、本能的に【牙】こそが最たる物だと理解できる。

 この【牙】による一撃を見舞わなければ、あの悪漢を下す事は出来ないと、ライゼルはそう感じている。だが、逆説的に言えば、剣技『ロゼット』を食らわせさえすれば、このテペキオンを退ける事ができるという確信がライゼルにはある。

「いつまでも食い下がってんじゃねぇ、アルゲバル」

「しつこいのはお前だろ。降参したらどうだ?」

 テペキオンがライゼルを狩らんと真空波を放ち、その都度ライゼルは風を読み不可視のそれを【牙】で無力化させる。テペキオンも矜持からか退く事をしないので、徐々にその距離は詰まりつつある。

 幾度かのその攻防を繰り返し、いよいよあと数歩の所までテペキオンを追い詰めるライゼル。この距離を必殺の間合いと見たライゼルは、右手に握った【牙】に更に霊気を込める。常人の二倍の霊気を扱える星脈を持ったライゼルならではの芸当。この生まれ持った力で、幾度か敵を退けてきた。今回も大量のムスヒアニマを帯びた必殺剣で、テペキオンを打倒する。フウガ達の笑顔を守る為、そして自分の夢を叶える為に。

 地面から大量の霊気がライゼルの身体に流れ込み青白く発光する。特に両手で固く握り締める広刃剣が一際激しく輝き出した。

 その眩い輝きはテペキオンにも覚えがある。フィオーレの村で初めてライゼルと対峙した時に、この青白い光が及ぼす激しい脱力感と徒労感によって、思うように体が動かせずに初めて傷付けられたのだ。このままライゼルの接近を許しては、またあの屈辱に苛まれる日々を送る事になる。見下していた相手に噛み付かれたとあっては、テペキオンと同じく【翼】を与えられている『有資格者』達からの嘲りを受ける事になる。

 そのような侮辱を甘んじて受けるテペキオンではない。咄嗟に追撃の予備動作に入る。

「獣臭ぇ体で寄って来てんじゃねえぞ、アルゲバル!」

 迫るライゼルを振り払おうと真空波を発生させようとしたが、不意にテペキオンの手が後方に引いた状態で止まった。それと同時に、テペキオンは舌打ちを鳴らしていた。

「チッ、賢しい屑が」

「この近さならもう撃てないだろ、テペキオン」

 そうなのだ、ライゼルはテペキオンが攻撃動作をしている間にも、既に懐の中へ飛び込んでいる。剣を振るう距離で真空波を放てば、テペキオン自身もその空気の刃に切り刻まれる恐れがあった。ライゼルはそこまで想定した上で、この好機を掴んでいたのだ。これ以上の反撃を許さず、回避する以外には逃れようのない攻撃を見舞うべく。

 誰の目から見ても、この勝負はライゼルに軍配が上がるものと、そう映った。ベニューもフウガもグレトナも、ライゼルがこの勝負を制したと期待に満ちた瞳をしている。

 が、しかし。通常に二倍の霊気を帯びた広刃剣がテペキオンを捉えんとした瞬間、テペキオンは咆哮を挙げながら、自らの【翼】が秘め持つ真なる能力を披露する。

「やってくれたな、屑野郎がぁああああああーーーッ!!!」

 ライゼルの【牙】がとうとうテペキオンを斬るという寸前に、テペキオンの身体から膨大な量の圧縮された空気が放出され、空気の層で壁を作り、ライゼル最大の好機を無に帰したのだ。

 突然の出来事に身構える事すら適わず、空気の壁に押し退けられてしまうライゼル。テペキオンの体内で炸裂させるはずだった衝撃もその壁を突破できず霧散していく中、ライゼルは一つの事実を知る。何故、これまでテペキオンが一歩も退かずに真空波を繰り出し続けていたか。テペキオンは、高速移動、真空波に続き更なる隠し玉を持っていたのだ。ライゼルが如何な対策を講じようとも、自身の優勢が揺るがない事を確信していたのだ。

 真空波はとどのつまり、風流操作の副産物に過ぎず、テペキオンが頼みとする【翼】の真価は、ライゼルが手の内を出し尽くしたたった今、それまでの徒労を嘲笑うかのようにようやく発揮されたのだった。

 言ってしまえばこれまでの戦闘はテペキオンにとっては児戯に等しく、ライゼルはテペキオンの掌の上で転がされていたのだ。揺るがない戦力差の前に弄ばれていたに過ぎない。

「虚仮にしやがって」

 今更ながら、圧倒的な実力差を思い知らされ、歯噛みする想いのライゼル。それに、絶好の機会を不意にされ、傍から見守るベニュー達の表情も一瞬にして曇ってしまう。

 彼らは、テペキオンがたった一度だけ発動させたその風流操作の恐ろしさを、身を以って思い知った。ライゼルの渾身の一撃を無力化するどころか、押し返してしまう程の風圧を発生させる事ができる。しかも、ほぼ予備動作なしで、特に疲労の色が濃くなった様子も見受けられない。テペキオンにとっては文字通りに造作もない事であるが、もたらされる結果はライゼルを圧倒するのに十分すぎる程なのだから、彼我の戦力差に心が折れそうになる。

 このようにしてライゼルは、攻略の糸口を掴んでの逆転劇から一転して窮地に追いやられてしまった。

「どうしたらいいんだ、これ?」

 グレトナの為に必死に戦うフウガの姿に背中を押され、再び夢に向かって進む意志を取り戻したライゼルであったが、実力が拮抗していると思っていたばっかりに、この状況はそう易々と打破できる気がしない。ライゼルに訪れる最大の窮地。

 であったが、ライゼル達同様に気落ちしている者が、いやその場の誰よりも鬱屈した表情をしている者がもう一人いた。他の誰でもない、反撃の芽を摘んだテペキオンだった。

「屑の分際でぇえええッ!」

 眉間に寄せた皴が筋肉であるかのように存在を主張し、こめかみには大きな血管が浮かび上がり、持ち主の怒りをこの上ない視覚的な判りやすさで伝えている。

 ただ分からないのは、何故、圧倒的戦闘力を見せつけたはずのテペキオンが怒りに戦慄いているのか。相対したライゼルも、傍から見ているベニュー達も皆目見当が付かない。

「あの奇妙な男は、何をあんなに怒っているんだい?」

「さぁ? 実はライゼルさんの剣が届いていたのではないかしら?」

 フウガとグレトナが各々の想いを漏らすが、ベニューはそのいずれにも得心が行っていない。もし、自分の持ち得る限りの情報の中から答えを導き出すとするなら。

「また矜持を傷付けられた、から?」

 そう答え合わせをするように独り言ちてみたものの、先程の攻防のどれがそれに当てはまるのか合点がいかない。衝撃波を【牙】で粉砕された時も、特に感情を露にしている様子はなかった。突然激昂したのは、空気の壁でライゼルの必殺剣を退けた直後。であれば、そこがテペキオンの沸点であったのだろうが、そこまで推察できた上でも敵の心情が理解できない。

 まるで先のベニューの独り言に応えるかのように、テペキオンは収まらない怒りをライゼルに向けて爆発させる。

「名を汚すだけに飽き足らず、オレに全力を引き出させやがったな、地上の人間風情がッ!」

 その一言に、危機的状況を忘れ、思わず怪訝な表情を向けてしまうライゼル。

「お前、俺と戦うのに全力を出さないつもりだったのかよ?」

 別にライゼルもテペキオンとの真剣勝負を望んでいた訳ではない。ライゼルがこの勝負に臨む理由は、グレトナを無理やり連れて行こうとしたテペキオンを阻止する為。

 ただ、テペキオンの『狩り』に賭ける彼自身の信念のようなものが、対決の最中にずっと感じられていた。ライゼルを本気で殺そうとしていたし、実際に手加減などしていないし、手心を加えていない。

 それなのに、テペキオンは先程の風流操作をライゼル相手に使う気がなかったと語る。つまり、本来は出し惜しんだままにしておきたかったのだ。それを使わずして、ライゼルを下したかったというのが、テペキオンなりの矜持だったのだ。本気を出さずして勝利する、それがテペキオン自身に課した制約。

「テメェみてぇな地上の屑相手に、オレはこの誇り高い力を使ったのか…? 許されねぇ、許す訳がねぇだろ、アルゲバル!」

 手の内を隠す事に執心していたのではない。飽くまでも手加減をした上でなお実力差がある事を示したかったのだ。

 だが、その制約を守れなかった自分に、そして、禁を破らせたライゼルに激しい怒りを顕わにするテペキオン。

「何故だ? 何故こうも上手くいかねぇんだぁッ?!」

 またも天高く上昇し、【翼】を大きく広げ、何やら精神を集中させているらしい様子のテペキオン。テペキオンの感情に呼応して、周囲の空気が振動している。まるでライゼルに対するテペキオンの殺意が、大気に物的な干渉を及ぼしているかのように。

 その様子から、テペキオンが大技を繰り出そうとしている事を、ライゼルとベニューは察知する。ライゼルの得意とする剣技『ロゼット』を放つ前のムスヒアニマを吸収させる時の雰囲気と、今のテペキオンの気迫がどことなく似ているように感じられたのだ。

「デカいのが来るってのは、なんとなく分かるぞ。ベニュー達はもっと離れてろ」

「無理はしないでね、ライゼル」

 どれ程の規模の大技を放つのか定かではないが、逃げ得る限りの場所までの避難を促すライゼル。ベニューも、この土壇場では気休めしか言えず、身を案じながらもフウガとグレトナを連れて、逃げるしか出来ない。如何な攻撃を繰り出してくるにせよ、テペキオンに対抗できるのは【牙】を持ったライゼルだけだ。弟が周囲に気兼ねなく力を振るって戦えるようにしてあげる事が、今のベニューに出来る最大の支援なのだ。

 ベニュー達の小さくなっていく後ろ姿を確認すると、ライゼルは再び相対するテペキオンの方へ視線を送る。

 すると、禍々しい気配を帯び、凄まじい形相をしたテペキオンと目が合う。じっとライゼルを睨み付け、気を高めている。その纏う覇気は、赤黒い色味を帯びている。青白いムスヒアニマとは異なる性質の、異国人が操る異質な霊気。

「オレの本気を前にして逃げ出さなかった事は褒めてやるぞ、アルゲバル」

「それなら、お前の技を撥ね退けてやるから、もう一回俺を褒める心の準備をしておけよ」

 両者は真っ向から相対し、それぞれ得意技の発動姿勢に入る。

 先に動いたのは、既に堪忍袋の緒が切れて気が急いているテペキオンだった。これまで同様に目にも止まらぬ高速移動を開始するが、一直線にライゼルを目指さず、最高速度で標的の周囲を旋回する。その縦横無尽な軌道は幾重にも重なり、まるで球を描いているかのようで、ライゼルから一定距離を保ったまま風の檻を形成していく。

 加えて、テペキオンは先程同様に、移動に伴い真空波を発生させている。しかも、今度の物は赤黒い光を内包している。おそらく、これまで加減していた為に放出されなかったが、この赤黒い霊気の出現こそテペキオンが本気である証なのだろう。

 ライゼルの周囲を覆うようにしてテペキオンがなぞる球状の軌道には、漏れなく真空波の攻撃性を帯びさせてあるのだ。真空波の壁は【牙】によって十分突破可能であったろうが、その真空波を粉砕しようとした瞬間に隙を見せてしまう事になり、テペキオンの直接攻撃を回避できない。この手段は有効的ではない。

 しかも、散々ライゼルを傷付けた真空波は、テペキオンが触れても彼には何の痛手も及ぼさない。となると、彼は檻の内外へ自由に行き来できる。自身の【翼】が発生源だからなのだろうが、何とも都合のいい技だ。

 ともかく、これにてライゼルは完全にその檻の内部に閉じ込められた事になる。テペキオンは隠匿し続けた大技を確実に命中させる為、ライゼルを不可避の状態に追い込む事に成功した。

「もうテメェは死ぬ。これ以上テメェに掛ける言葉はねぇ!」

「こんな回りくどい事しなくても、俺は逃げたりしないぞ。掛かって来いよ、テペキオン」

 もちろん、テペキオンが真空波の檻を形成している間、ライゼルもただ手をこまねいていた訳ではない。ライゼルの得意技『蒲公英(ロゼット)』を発動せんと、始動していたのだ。

 自身の身体を軸にし、側面を薙ぐようにして剣を回転させ続ける。地面すれすれの低位置から徐々に剣先が上がっていくのが通常の『蒲公英』だが、今回はいつテペキオンが仕掛けてくるか機会が窺いづらい為、いつ来ても対応できるように低位置での回転を持続させる。テペキオンが間合いに飛び込んできた瞬間に、それに合わせて振り上げ、剣戟と共に大量の霊気を炸裂させる腹積もりだ。

 互いの予備動作が臨界を超え、外周を覆うように展開されたテペキオンの赤黒い霊気と、内部から渦状に膨れ上がっていくライゼルの青白い霊気が衝突する。

「逃がしゃしねぇ、押し潰れろ!」

「逃げないって言ってんだろ。お前こそぶっ飛ばしてやるからな!」

 両者の全身から放出される霊気が、蝕み合うように干渉し合う。どういう現象かはライゼルにもテペキオンにも知れぬ事だが、青と赤の境界線に透明な狭間の空間が生まれている。霊気同士が相殺し合い、そこに無が誕生しているのだ。これまでの人類史で初めて起きた稀有な現象。真に【牙】と【翼】が力を衝突させた歴史の転換点。

 だが、そこに居合わせる者には、歴史的事件など眼中にない。他者が与える表象など、外の人間が勝手に決めればいい。この戦いに望む事は、相手を下し自らの目的を為すというただ一つの事。テペキオンはライゼルを殺し、存分に『狩り』を継続させる事を望み、ライゼルは他者を苦しめるテペキオンの悪行を阻止しみんなの笑顔を守る事を望む。ただその為に、自分が持ち得る限りの力の全てをぶつけるのだ。

「アルゲバルーーー!!!」

 完全にライゼルを包囲しきり、自身の霊気も最高潮に高まったテペキオンは、満を持して全力の風流操作を仕掛ける。

 球状の軌道のみを移動していたテペキオンがそこから逸れて、ライゼルに狙いを定めて手を振りかざす。疾風を冠するテペキオンの本領、瞬時に掌の中で視覚的歪みが生じる程の風圧を発生させる。歪められた空気は次々に周囲の空気を飲み込み、強烈な渦を生み出す。

 そう、テペキオンがライゼルを屠らんと放つ大技は、奇しくもライゼルの『ロゼット』と同じ螺旋の技。ライゼルは、戦闘力不足を補う為に回転の助力を得た。それに対し、テペキオンは一々相手するのが煩わしいと言わんばかりに、近付くもの全てを飲み込むべく、自らを象徴する風で螺旋を描いた。

 テペキオンの渦の発生を視認したと同時に、ライゼルは低空で留めていた回転の高度を上昇させる。一回転、二回転と円を描く度に、膝から腰、腰から肩へと剣の切っ先が徐々に上がっていく。ライゼル自身も回転しテペキオンの姿を視認できていないが、風読みの技術により迫る渦との距離の概算は出来ている。ライゼルを貫かんと迫る渦の接近に合わせ、最も力の込めた大振りを決める。

「ハァアアーーーー!」

「うぉぉ、ッおおりゃああああぁぁぁ!!!」

 テペキオンが閉ざした逃げ場のない檻の中、赤と青の双つの螺旋が激突する。どうやら相反する性質を持っているらしい二つの霊気だが、先とは違い相殺しない。命が溶け出したかのような高濃度の霊気が後方から送り込まれ続ける為に、所有者の狙う役割を果たすべく、存在を主張し続けぶつかり続ける。

 先の相殺は、単なる性質が起こした現象。今尚繰り広げられている激突は、互いに飲まれないようにせんとする強力な意志同士の衝突。もしかすると、【牙】同様に【翼】も強力な意志による発現物なのかもしれない。ライゼルの勝利への渇望が、テペキオンの復讐への執念が、【牙】や【翼】へと昇華している。

 もしこの場にベニューが残っていたら、目の前の状況を拮抗と判断しただろう。だが、その危うい均衡は案外あっさりと崩れた。

「ウソだろ?!」

 ライゼルの切り上げた広刃剣が丁度半分の辺りから真っ二つに折れる。何の前触れもなく、その雄姿を損ねる【牙】。これまで幾度か戦いの場でライゼルの為さん事を助けてきたそれが、初めて役割を全うできなかった。

 【牙】とは強い意志の具現化と表現したが、決してライゼルの闘志が失われた訳ではない。圧倒的な攻撃力の前に、形を保てなかったのだ。【牙】以外の万物に干渉を受けない【牙】だが、強力な【翼】の前には、太刀打ちできなかった。

「オレの勝ちだ、死ねェッ!」

 ライゼルの広刃剣を砕いた事で勝利を確信したテペキオンは、更に力を込め、所有者であるライゼルまでも【牙】同様に両断せんとする。

 だが、【牙】は折れても、ライゼル自身は抗い続ける意志が残っている。残り半分の僅かに残った刃と柄の部分で、風流を防ぐライゼル。残りのムスヒアニマ全てを集中させ、折れた【牙】を強化する。

「くそぉ。負けんなよ、俺の【牙】ァーッ!」

 体内のムスヒアニマを追加投入しても、何とか持ち堪えるのが精いっぱいで、弾き返す事は適わない。上方から風流を押し込まれる為、耐えるライゼルの足元は徐々にめり込んでいく。テペキオンの攻撃の勢いが増す毎に、ライゼルの足は地面の中へ沈んでしまう。

 ついにライゼルの周囲の足場が崩落し、ライゼルは踏ん張り切れず安定を失い体勢を崩す。

 どこに力を掛ける事も適わず、直感的に自身の身体が落ちると察したライゼルであったが、状況はすぐに急転する。

「なんだこれ、揺れてる?」

 足場が崩れたと思った瞬間に、町の景色が大きく揺れ始めたのだ。人間も建物さえも振動し、大きく揺さぶられる。そう、突如として二人の対決に水を差すかのように、グロッタの町を地震が襲ったのだ。ライゼルも仰向けに倒れたまま横揺れに耐える。

 そして、地震がもたらした変化にいち早く気付いたのは、勝利を目前にしてたにも拘らず妨害されてしまったテペキオンだった。

「割れ目から漏れ出てんのは『獣擬き』の素か!?」

 以前、フィオーレでムスヒアニマの臭いに中てられ、身動きの取れなくなった経験を持つテペキオンは、すぐさま上空に回避し、地上に溢れ出てきたムスヒアニマから距離を取る。今ここで行動を制限されては、ライゼルに逆転の機会を与えるも同然。それだけは避けねばならない。

 と、咄嗟に回避したテペキオンだったが、現在地上のムスヒアニマは臭いもしなければ青白い発光もしていない事に気が付いた。獣臭くないという事は、そのムスヒアニマが牙使い(タランテム)の星脈をまだ通っていないという訳だが、テペキオンはその原理を知らない。なのに、今目の前で溢れ出た物を地上にありふれている霊気と本能的に理解できた。

 だが、そのような些事はテペキオンの意識の中にない。あるのは、絶好の機会を不意にされた悔しさと、現状に対する冷静な分析だ。

(あの屑野郎が集めた霊気とでも言うのかよ? オレはほとんどプラナヴリルが残っちゃいねぇってのに…)

 眼下の、足場を失い倒れ伏すライゼルを見下ろしながら、テペキオンは舌打ちをした。

 実際は先の地震はライゼルに何の所縁もない事象であったが、テペキオンはライゼルが引き起こしたものだと勘違いしている。土壇場でテペキオンの猛攻を防ぐ為に講じた策だと。そして、それだけの秘策を隠し持っていたのだと。

 自身にこれ以上の戦闘を継続する余力がないと悟ったテペキオンは、憎々しげにライゼルを睨み付け、天高く上昇する。【牙】を折られたライゼルとは対照的に、テペキオンの【翼】は、まだ十全と機能しており、その所有者の意に従い、その人をぐんぐんと空の彼方へ連れていく。

「次こそは必ずテメェの息の根を止めてやるぜ!」

 それだけを言い残し、再びライゼルの前から去ろうとするテペキオン。捨て台詞の途中から、いくつかの眩い輝きが彼を包み込み、光が収まった時には元居た位置にはテペキオンの姿はなかった。

 以前も同様の光がテペキオンやルクの去り際に発生していたが、誰もその事に関心を向ける者はいなかった。

 その場にいる者の関心事は、幸運にも難敵を退ける事が出来たライゼルの安否だ。

 テペキオンが去った事により、離れた場所に避難していたベニューやフウガ、グレトナがライゼルの傍へ駆け寄る。

「ライゼル、ちゃんと生きてる?」

「おう、さすがに死ぬかと思ったけど、なんとか無事だった」

 これ程の手傷を追って尚無事と言ってのけてしまえるライゼルを、ベニューは誇らしくあると同時に心配にも思う。テペキオンは、またライゼルの前に必ず現れる。今回は本当に一巻の終わりと思える程危うかったというのに、もし次に命を狙われたらと思うと、ベニューは気が気でない。テペキオンが既に去ったというのに、まだ僅かに手が震える。

「でも、ライゼルが生き残ってて本当に良かった」

「当然だろ。夢を叶える前に死んでたまるかよ」

 満身創痍の状態で強がってみせるライゼルに、フウガは深々と頭を下げる。

「君には何とお礼を言っていいやら。ライゼル君のおかげで、僕はグレトナを失わずに済んだ。グレトナを守ってくれて本当にありがとう」

 再びフウガに頭を下げられたライゼルだったが、先とは違い悪い気はしなかった。今のライゼルに、他人からの謝辞を無碍にするつもりはない。

「いいよ、別に。ほっとけなかったし、テペキオンとはどうせ戦う事になってただろうし。そうだ、俺もフウガにお礼言わなきゃ」

 むしろ、ライゼルの方こそ、フウガに対し感謝を伝えたかった。だが、突然そう言われても、フウガには心当たりがなく、小首を傾げるしかない。

「僕に、お礼?」

「うん。俺、フウガのおかげで吹っ切れた」

 その辺の事情がよく分かっていないフウガは、どうとも声を掛ける事が出来ない。代わりに、ライゼルが更に続ける。

「俺もさ、やれずにいられない事をやる。いろいろ難しい事とか考えなきゃなんだろうけど、俺は困ってる人がいたらその人の助けになりたい。だって、みんなの笑顔を守るのが俺の夢だから」

 もし、本当にライゼルが言うように、フウガの言葉がライゼルの力になれたというなら。フウガにとっても、自身の行いを、夢を肯定してもらえたようなものだ。見知らぬ者同士ではあったが、互いに励まし励まされる、両者にとって有難い出会いとなった。

「難しい夢だろうけど、ライゼル君ならきっと叶えられるよ。うん、僕もグレトナと二人で夢を叶えるよ」

「おう、お互い頑張ろう」

 そう誓い合う二人を見ながら、ベニューは、あの時二人を庇う決断をした自分を、褒めてあげたいと心の底から思うのだ。ただの偶然だったのかもしれないが、いつものライゼルを倣って施した善意が、結果的にライゼルに還ってきた。情けは人の為ならず。誰かを真剣に想うライゼルを、また他の誰かが思ってくれるのだと思うと、胸が熱くなるのをベニューは抑えずにはいられない。

(ライゼルはひとりじゃないよ。私や、みんなが見守っているからね)

 そうこう話している内に、辺りに人の声がするようになっていた。地震も収まり悪漢も立ち去った事で、現場を見に戻って来たのだろう。

 であるなら、フウガとグレトナは、すぐにでもここを発たねばならない。このまま留まり聴取を受ければ、二人の身分は明かされ、各々の家に連絡が行くだろう。そうなってしまっては、迎えを遣され、二人の旅はここで潰えてしまう。

 それを承知しているフウガは、名残惜しくはあったが、姉弟に別れを切り出す。

「ライゼル君、ベニューさん、君達の事は決して忘れないよ」

「俺も。フウガやグレトナの笑顔はこれからも俺が守るから」

 脈絡のないライゼルの返答に、時間に余裕のないフウガであったが思わず聞き返してしまう。

「えっ、またいつ会えるか分からないんだよ?」

 そんなフウガの動揺を知ってか知らずか、ライゼルは自信たっぷりにこう答える。

「うん。どこにいても安心して過ごせるように、俺が妙な異国民をみんな捕まえる」

 迫る脅威は、現在確認できるだけでも最低四人。巨漢の男ルク、少女達を連れた三つ編みの女、仮面の男リカート、そして疾風のテペキオン。いずれも劣らぬ実力者であり、そのどれもがライゼルよりも高い戦闘能力を有している。ライゼルはその全てを取り押さえると豪語してみせたのだ。

 今回のテペキオンの件しか知らぬフウガとグレトナであったが、その宣誓を決して疑ったりしない。

「うん。きっと君なら、夢を叶えてみんなの笑顔を守れるよ」

「ベニューちゃんも夢を叶えてね」

 そう言い残して、グロッタの町を後にする二人。

「またね~」「お元気で」

 手を取り合った二人の姿がどんどん小さくなっていくのを、姉弟は大きく手を振りながら見送る。

「また会えるといいね」

「おう。その時は、今より強い俺になってる!」

 フウガとグレトナのフィオーレ村までの旅は、これからもしばらく続くのだった。

 

 程なくして、ビアンの救援要請を受けたアードゥルの隊員達が到着した。

 協議の結果、ミールの放火犯に加え、要警戒人物としてテペキオンを指名手配犯に指定した。が、彼の名を不用意に呼ぶ事は更なる騒動を呼び起こすとして、名前を伏せ『疾風の異国民』として、広く周知させる運びとなった。

 幸いな事に、地震の規模は、ここ数年で頻発していた地震と比べ然程大きくなく、経験則や教訓を得ていた町人やアードゥル隊員の迅速な対応もあり、被害は最小限に留められた。せいぜいが、屋内の戸棚が倒れたり水瓶が転げて割れたりした程度で、家屋の梁や柱が倒壊したという報告は一件も上がっていない。

 あらかたの現場検証を終えたビアンは、戦闘を繰り広げた場所から少し離れた陥没していない通りまで姉弟を連れ出す。

「そうか、あの二人はグロッタを発ったか。本来であれば当事者からの話を聞きたかったが」

 二人がそれを選んだのならば、と付け足し、ビアンはそれ以上追求しなかった。発生時をビアンも目撃していたし、事の顛末は姉弟が見届けている。確認したい事と言えば、テペキオンに狙われる理由に心当たりがあるかどうかだが、ライゼルにすぐに興味が移った所を見るに、テペキオン側も計画的な犯行ではなかったのだろう。これといった接点はなく、カトレア同様に、たまたま巻き込まれたと考えていいだろう。

 それよりも、だ。諸々の事は追々確認するとして、改めてライゼルから事態が決着した時の事を尋ねる。

「地震が発生した直後にテペキオンは撤退した、という事か? 何か他に変わった様子はなかったか?」

 問われたライゼルも無我夢中でその時の事をはっきりとは覚えていない。正直に言えば、地震が起きた事さえまともに記憶していない。

 ただ一つライゼルが覚えているのは、自分の【牙】が折られた事。それだけは確かにライゼルの心に刻まれている。

「テペキオンは強かった。戦ってる最中も、どうやれば勝てるか考えたけど、全然思いつかなかった。地震が起きてなかったら、俺は本当に殺されてたかも」

 ビアンはテペキオンの様子に関して質問したのだが、ライゼルは若干的外れな答えを返す。それだけライゼルの関心が敗北を喫した事に向いている事の表れなのだが、ビアンもわざわざ本人を前にして口にする程に野暮ではない。

「まぁ、お前が無事で何よりだ。向こうが退散してくれる分には、今のところ問題はないからな」

「地震が何か関係するんでしょうか?」

「今回の件だけでは何とも言えないな。関連性も含め、調査が必要だろう」

 そのビアンの言にライゼルは耳聡く反応する。

「調査? てっきりビアンはもう懲り懲りだって言うと思ったのに」

 そう、これまでのビアンであれば、ライゼルの述べたような事を口にしていただろう。飽くまで巻き込まれてしまっただけで、回避できるものなら避けて通る、と。

 だが、ビアンも無意識の内に先のように発言してしまったようで、若干バツの悪そうな表情を浮かべる。

「そ、そうだ。今回の件で改めて思い知らされた、お前がいるとどうやっても面倒事に巻き込まれてしまうのだと。ならば、こちらも気構えを持っていなくては突発的事態に対処できんからな」

 それは遠回しに、ライゼルの人助けという行為を肯定する旨の発言に他ならない。自ら首を突っ込んでいく事を許すかはさておき、非常事態に遭遇した場合、今回のように【牙】を振るい、問題解決に尽力してもいいと、言外にビアンは言ってしまったようなものだ。

 そう、ややつっけんどんに言い放つビアンだが、その意図を汲み取り、ライゼルは表情をぱぁっと明るくする。

「任せろ。その時は俺の出番だ。俺がテペキオン達『有資格者(ギフテッド)』を取り押さえてやるよ」

「おい、今朝まで落ち込んでたヤツが何言ってんだ。それに、お前はテペキオンに押されてたんだろう?」

 戦闘の結果には触れまいと思っていたビアンだったが、ライゼルがどうも図に乗っているようなので釘を刺しておかねばと思い、指摘する。

 が、ライゼルはそれすら意に介さない。

「ビアンこそ何言ってんだよ。俺、わかったんだよ」

「分かったって、何がだ?」

 唐突にそう言われても、ビアンは何の事だか察す事ができない。

 そんなビアンを余所に、ライゼルは雄弁に語る、自らの行動指針を。

「俺の夢は、誰が相手だろうと、どんな場合だろうと、止められないんだよ。困ってる人がいたら助けるし、テペキオン達が悪さをしてたらやめさせる。俺は、俺のやらずにいられない事を全力でやるよ。もちろん、自分がした事の責任は自分で取るよ。それならビアンも文句はないだろ?」

 のべつ幕なしに言い立てるライゼルの言葉を聞いたビアンは、昨夜ベニューが話していた事を思い出す。

(強くなるのは飽くまで手段で、本当の夢は別にある、か)

 みんなの笑顔を守ると豪語する少年を前にして、触発されたビアンも思わずこう答えてしまう。

「当然だ。次、情けないこと言ってみろ。その時は、叩いてでも俺がお前を立ち直らせてやるからな」

「安心しなよ、ビアン。そんな心配はもう必要ないから。っていうか俺、情けないこと言ったっけ?」

 本当に覚えていないかの素振りで白を切るライゼルに、ベニューもビアンもようやく一安心した。揺らがぬ指針を取り戻したライゼルは、敗北寸前に追い詰められた経験さえも己の糧にしてしまえる。

「言ってろ。だが、実際問題お前がどんなに強がってみせた所で、『有資格者(ギフテッド)』は桁外れの戦力を有している。今後、どう立ち向かう?」

 さすがにこの問いには、大口を叩きたがるライゼルでも、二つ返事には答えない。これまで四人の『有資格者(ギフテッド)』と戦ったが、どれも負けなかっただけだ。ライゼルが相手を圧倒した事は一度たりともない。ルクや三つ編みの女に関しては、【翼】の能力も使用していないというのに、だ。

 ベスティア王国に迫りつつある脅威に対し、彼我の戦力差を埋める為の術を考えるライゼル。

「う~ん、そうだなぁ。星詠様だったら強くなる方法を知っているかも?」

 ぽつりと漏らしたその案にベニューも賛同の意を示す。

「そうだね、星詠様なら何かいい知恵を授けてくれるかもしれないね」

 姉弟間で当たり前のように語られる『星詠様』なる人物だが、国内の著名人にも詳しいビアンもその名に心当たりがなかった。どうやら公に知られる人物ではないようだが。

「ホシヨミサマ、とは誰だ?」

 その問いを投げられ、姉弟もやや逡巡する素振りを見せる。

「星詠様は、俺達の母ちゃんの…なんだっけ?」

「正確な関係性は分かりませんが、母は自分の師に当たると話していました」

 その言葉に、俄かに興味を覚えずにはいられないビアン。今、ベニューは、誰の何だと言ったか?

「ダンデリオン染めのフロルの『師匠』だと? まさかとは思うが」

 ビアンがおずおずとそこで言い淀んで、ベニューもビアンが何を言わんとするか察する。フロルはダンデリオン染めの開祖として有名であり、誰かの手解きを受けた事はないというのは誰もが知る話だ。であるならば。

「はい、【牙】の使い方は星詠様から指導してもらったと話していました。」

 ビアンは、これまでに知り得たフロル一家の情報を簡潔に纏める。息子ライゼルは【牙】と常人の二倍の霊気を蓄えられる星脈を持ち、娘ベニューは【牙】こそないが先のライゼルを御するだけの体術を有する。加えて、姉弟は風読みの能力なんていう稀有な技能を持っている。そして、そんな二人に格闘術のいろはを手解きしたと言われる母フロル。あのライゼルをして、敵わないと言わしめ、大巨人ゾアさえも認める傑物。

「お前達を育てたフロルの更に上がいるってのか?!」

 言外に、「お前達のようなとんでもない技能を持った姉弟」という意味合いも込められていたかもしれないが、姉弟にそんな自覚はなく、気にせず聞き流す。

「はい。私達も幼い頃に一度しかあった事はありませんが。確か、鎮護の森に住んでいるとか」

「鎮護の森、ならばリエースの事だろうな。あそこは普段人の立ち入らない場所のはずだが、人なんて住んでいるのか?」

 鎮護の森リエースは、堅牢なクティノス城塞並みに要塞化されていて、侵入する事は容易ではないと噂される不可侵の領域のはずだ。先の情報も真実かどうか定かではないが、そんな所に人が住み着いているとはとても考えづらい。

「母の言っていた鎮護の森がリエースという土地を指しているかは分かりませんが、母は星詠様を厚く信頼しているようでした」

 そう言われてしまっては、ビアンも無碍にする訳にもいくまい。選択肢の一つとして考慮しておいてもいいかもしれない。

「あまり寄り道はしたくないが、もし本当に何か知恵を授けてもらえるならあやかりたい…」

 姉弟の話も幼い頃に母から伝え聞いた事ばかりで、信憑性が高いとは言えない。『星詠様』なる人物については、充分な調査が必要なようだ。

「ここグロッタで輝星石を受領した後、リエース付近のアバンドに立ち寄るつもりだ。その人物については、またその時に聞き込みして情報を集めよう」

 何はともあれ、今は確定している事柄を進めていこう。ビアンが朝から手続きを済ませておいた、輝星石の受け取り。目下の予定はこれだ。

「わかった。じゃあ、まずは採掘場に向かうんだね」

「そうだ。通りを南に進んでいった先に採掘場はある。俺達も先を急ごう」

 こうして、宿場町での出会いを経た一行は、南側にある採掘場へと向かう。

 

 鉱山窟の入口へと至る数分の間、ライゼルは在りし日の事を思い出している。

『みんなの笑顔を守る、か。あんたにしちゃ随分上出来な夢じゃないか、ライゼル』

 母は息子の答えに破顔して見せ、ライゼルの頭を乱暴なくらいに撫で回した。

『母ちゃんの口癖がうつっちまったかねぇ。まぁ、私のそれは大層なもんじゃなかったけど』

 母は、珍しく穏やかな笑みを浮かべると、ライゼルの手を取り、祈るように両手を合わせた。母が包んだ手の中には、ライゼルの手が。

『でも、あんたは遂げるんだよ。あんたが守る笑顔が、そうやって叶え続ける夢が、きっとあんたの力になるから』

 あの日の母の願いは、今もライゼルの胸の中で輝き続けている。

(母ちゃん、俺やるよ。ずっとずっと、みんなの笑顔を守り続けてみせる)

 そう心に誓うのは、叶えても叶えても終わる事のない、途方もない願いだったかもしれない。

 だが、それはつまり、ライゼルはその夢をずっと失わない。常にその夢を抱いて前に進める事を意味している。

「ベニュー。俺、もっともっと強くなるぞ!」

「どうしたの、突然…ううん、突然じゃないね、いつもの事だね。そうだよ、ライゼル。夢に向かって私達はこれからも進まなきゃ」

「おう!」

 グロッタの空は晴れ渡り、太陽も天高く昇る。一行が再び歩み始めたその頃、ちょうど日盛りを迎えようとしていた。



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