走れセリヌンティウス (せりぬん)
しおりを挟む

前編『野郎、帰ってこねえ』

※汚いです。食事中の方はご注意ください。


 セリヌンティウスは激怒した。

 

 ――野郎、帰ってこねえ。

 

 

     ※

 

 

 俺の名前はセリヌンティウス。シラクスの市でしがない石工をしている男だ。

 そう、あの《セリヌンティウス》である。

 前世の記憶を持つ俺は、俺と同じ立場の人間ならきっと誰もが知っている名作文学――あの『走れメロス』の世界に転生を果たした。

 自分でも何を言っているのかよくわからないが、事実なので仕方がない。もう明らかに俺のいた時代より過去になっているのだが、そうなんだからどうしようもなかった。

 

 まあ、とはいえ、しかし。

 なんの因果か、いや時代的にもう因も果もない感じなのだが、ともあれ俺はこうして、古代の時代でも上手いことやっている。せっかくの第二の人生だ、楽しまなければ損だろう。

 そんな風に思っていた。

 

 ――さて。

 そんな俺にはひとりの友がいた。

 

 メロスだ。

 

 そりゃそうだ。だって俺、セリヌンティウスだし。

 彼はここから離れた村の出身なのだが、幼い頃から長い時間を共にした無二の――竹馬の友である。羊と仲がいい。

 善良な男だ。羊と仲がよく、村では羊と遊んで暮らしながら、けれど邪悪には人一倍に敏感で……あと羊と仲がいい。半ば羊だ。

 このところ会っていないのだが、元気にしているだろうか。

 

 ――いや、わかっている。

 もちろん俺は、『走れメロス』の筋書きを承知だ。いつかはわからないが、やがて俺は王城に連れ出され、縛られることを知っている。

 とはいえそれを理由に、メロスと関わりを断つのは申し訳ない。何より俺は自分が助かることを知っている。

 メロスは、俺――つまりセリヌンティウスにとって友人だ。

 最近では評判の悪い王が、この一件を機に改心することだって初めから知っている。そのためならば三日三晩縛られるくらいのことは、まあ我慢してやろうという気持ちだった。

 

 繰り返すがメロスは善良な男だ。

 羊と仲がいい。

 かつて俺がジンギスカンを祝いの場に出した際に思わず喧嘩となったほどだ。

 原作『走れメロス』の開始がいつになるのかわからないが、きっとそろそろだろう。俺があの名作の一シーンを演じることになると思うと、感動もひとしおである。

 イメージプレイは欠かしていない俺だ。

 原作通り、友情に篤い男として振る舞うことができるだろう。

 

 ――その夜、王城から兵が派遣されてきた。

 

「セリヌンティウスだな?」

 

 俺は叫んだ。

 

「ひえっ」

「王がお呼びである。ついて来い」

「え、あ、え……今日?」

「何をしている、早くしろ!」

 

 兵はとても怖かった。

 

 

     ※

 

 

 王城で、俺はメロスと抱き合った。

 

「――つまり私が三日目の日没までに返ってこなかったら、身代わりとして君が絞め殺されることになったのだ」

 

 冷静に考えるととんでもねえこと言いやがる。

 俺は思ったが、ここは無言でメロスをひしと抱き締めるシーンである。余計なことは言わないでおいた。

 俺はその場で縄打たれ、メロスはすぐに出発することとなった。

 王が言う。

 

「はは、身代わりよ。おまえはきっと死ぬぞ。おそろしくはないか」

 

 俺は答える。

 

「王よ。人の心を疑うでない。メロシュはきっと帰ってくる」

「声が上ずっておるぞ」

「…………」

「しかも噛んだ」

「……それは王の心が見せた幻影的なアレみたいな」

 

 王は笑って帰っていった。

 ちくしょう。グッド・バイ。

 

 

     ※

 

 

 セリヌンティウスの縛られ生活一日目。

 昼。

 

 ――つらい。

 もうすでにつらいしやばいし、あとつらい。マジきっつい。

 俺は磔にされるということのつらさをなんにも理解していなかった。腕とかめっちゃ疲れるし、ぜんぜん寝れる気しない。お腹空いた。たすけて。

 そういえば縛られる特訓とかあんまりしなかった。

 

「クッソ邪智暴虐の王め……あいつマジで邪智暴虐だよ。やばい。もう腕とか蒼くない? やばくない? これ鬱血してない? 大丈夫、ねえ?」

 

 独り言がものすごく増えた。

 見張りの兵は怪訝な顔で俺を睨んでくる。

 そんな目で見るな。

 

 磔刑で晒されているのは非常につらい。

 身体もそうだが、心もつらい。気分はキリストである。今ならメロスとの再会のとき、左の頬を殴った上で、抉り込む形で右のコンボへと繋げる自信があった。つまり超イエス。

 

 そんなことを思う俺の頬に、強烈な一撃が加えられた。

 

「ぶぇあ」

 

 俺は呻いた。痛かった。泣いちゃいたかった。

 すわ天の裁きかと辺りを見渡すと、近場に住むガキンチョどもが見えた。

 俺に向かって石を放ったのだ。

 

「やい、罪人め!」

 

 ガキンチョが言う。

 

「王様に逆らうからそんな目に遭うんだぞ!」

 

 俺は叫ぶ。

 

「ああテッメざけんじゃねえぞコラ、顔覚えたからな! おまっ、あとで見とけよ!」

「うるさい罪人!」

「いたっ! 痛いちょやめっ、唇切れたテメ許さねえ覚えてろこのマジこのっ」

 

 ボキャブラリーが死んだ。

 アイツらあとで見とけよマジでお前ホント、メロスさん帰ってきたらヤベーからなこの。メロスさんマジ走るからなクッソ。クッソ!

 

 

     ※

 

 

 午後。弟子のフィロストラトスが訪ねてきた。

 石工の弟子であるフィロ(愛称)は、とても真面目な男だ。真面目さではメロスと張る部分があるくらいだが、それでもメロスよりはまあ融通が利く。

 

「セリヌンティウス様!」

 

 フィロストラトスが言った。

 

「ああ。よう、フィロ」

「フィロではございません。フィロストラトスです、セリヌンティウス様」

「長いじゃん。俺のこともセリヌンとかでいいよ」

「セリヌンティウス様!」

 

 フィロストラトスが顔を覆う。聞いちゃいない。

 

「おいたわしや……どうしてセリヌンティウス様が縛られているのです!」

「ん、ああ。実は――」

 

 俺は状況を語って聞かせた。

 聞いているうち、次第にヒートアップし始めたフィロストラトスは瞳に涙を滲ませる。

 

「どうしてそのような危険なことを!」

「いや、ほら……」

 

 どうしても訊かれても。

 ……どうしてだろう。

 

「まあ、友のためだからな。俺はメロスを信頼している」

 

 美談っぽく俺は言う。

 実際には、帰ってくるとわかっているからなのだが。そりゃ普通なら断るっつーの。

 これで王が改心するのなら、三日くらい縛られてやろうと思っただけだ。

 

「おお、なんという心意気でしょう!」

 

 フィロストラトスは感激のあまり滂沱の涙を流す。

 一方、俺は手首がめっちゃ痛い。

 

「なあフィロ」

「フィロではございません、セリヌンティウス様!」

「やっぱ融通利かんな、お前」

 

 と、そこで俺にあるアイディアが浮かぶ。

 そうだ。頼めばちょっと縄とか緩めてくれるんじゃない?

 

「うん……あのさ、ところでフィロストラト、」

「感激いたしました! お任せください、皆には私からわけを話しておきましょう」

「え、あ、ああ。ありがとう。それはそれとしてフィロストラ、」

「私にできることがあればなんでも言ってくださいませ、セリヌンティウス様!」

「うん。だからね、あの、フィロスト、」

「まったくあの邪智暴虐の王と来たら! なんたる非道! なんたる無軌道!」

「すげえこと言うな。ところで話聞いてね? あの、フィロス、」

「場合によっては、私がメロス様の元まで向かうことも厭いませぬ!」

「おい。おい、聞けや、おい。おい、フィロ」

「フィロではございません。フィロストラトスです、セリヌンティウス様」

「そこは聞いてんのかよ」

「ヒトの名前を間違うのはよくありませんぞ、セリヌンティヌス様」

「間違ってる。間違ってるよ、フィロ」

「フィロではございません」

「ティロ・フィ○ーレしてやろうか畜生が」

「ティロでもございません」

 

 では私はこれにて、とフィロストラトスは去っていった。

 嘘だろ。

 

 

     ※

 

 

 縛られ生活、夜の帖。

 そんなこんなで一日目の夜が来た。当然、俺は野晒しである。

 

 ……寒い。

 

 身体っつーか心が。なんで俺は磔刑に処されているというのだろう。

 これが本当の富岳百刑ということか。何がだ。

 右腕の痺れはすでによくわからないところまで来ている。やばい。俺の右大臣が実朝している。もうこれはダメですね。腕じゃなくて頭が。

 

 眠い。だから寝たい。だが寝られない。どうやら俺はそこまで図太くないらしい。

 俺は羊を数えた。早く眠るには、やはりこれに限る。

 メロスに一発、メロスに二発、メロスに三発、メロスに四発……これは俺の分! これも俺の分! そしてこれがセリヌンティウスの分だ――っ!

 

 それ俺っ! きゃはっ!

 

 

     ※

 

 

 ――そしてメロスと八十八夜(意味不明)。

 

 新しい朝が来た。絶望の朝だ。

 だって二日目だぜオイ。まだ二日目。まだ半分も行ってない。マジかよ。

 眠れなかった。それはもうぜんぜん眠れなかった。

 考えてみれば数えていたのは羊ではなく、メロスの横っ面に何発の拳を打ち込めるかだったため、気を休めるどころかむしろ昂らせてしまった勢いがある。むしろ勢いしかない。

 

 吊るされ、縛り上げられた状態の俺は――ああ見なくても自覚している。

 眼球がギラッギラに血走っている。

 だって、道行く人間が皆、こちらを一瞥してはさっと目を逸らして去っていくからだ。

 見張りの兵すら俺を見ていない。それ見張りじゃなくない? 見張ってなくない?

 

 しかし、眠れなかったことが逆に功を奏したのか。

 曇りなきセリヌン・アイは、このとき世界の真実をその双眸に映すことに成功していた。

 

 世界には絶望しかない。

 謂われなき罪によって無辜の民が苦しめられ、一部の特権階級だけが甘美な蜜を搾取するのだ。嗚呼、世界とはかくも美しく、ゆえに残酷である――。

 

 邪智暴虐のセリヌンティウスが爆誕した。

 

「あああああああ! もうヤダ、ヤダヤダヤダ! おうち帰りたいー!」

 

 俺は駄々を捏ねた。それはもう捏ねっ捏ねに捏ねた。一笑。

 ああ、私のなんとあさましきものであることか。

 友と交わした約束を、こうもあっさり疑うとは――自分で自分が笑えてくる。

 

「――あ、あの!」

 

 声をかけられたのはそんなときだった。

 俺は答える。誰でもいい、とにかく誰かと話したい。

 そんな気分だった。

 

「だ、大丈夫ですか……? ずいぶんとご気分が優れない様子ですが……」

 

 今の俺の醜態を、《ご気分が優れない》程度で流すとかどんだけ心が広いのか。

 俺は驚きながらも答える。それは知らない娘さんだった。可愛かった。

 

「いえ。この程度、いかほどのものでもありません。どうかなさいましたか、可愛いお嬢さん? 何か私にご用ですかな?」

 

 豹変した俺に、可愛い娘さんはだいぶ引いている様子だった。

 あっれー。おかしいなー、今かなり決まったと思ったんだけどなー。

 

「あ、いえ……お話を伺いまして、それで……」

「お話?」

「セリヌンティウス様、ですよね?」

「いかにも私がセリヌンティウス。そういう可愛い娘さん、あなたは?」

 

 ここに長く暮らしていると、喋り方が徐々にこうなってきてしまうのだ、自然と。

 

「わたしは、その、この近くに住んでいる者で……その」

 

 娘は顔を赤らめている。

 ははん? さては俺に惚れてますねこれ?

 

「あの……、セリヌンティウス様」

「――何かな?」

 

 キメ声で言った。

 キメ声で言ったが、キメ声の俺は状態が磔獄門なうなので、決まっているというよりキマっている。

 

「その……これを」

 

 と、少女は俺に何かを差し出す。

 それは布――いや、どうやらマントのようだった。緋のマントだ。

 俺ははっとする。

 

「も、もしかして君は――」

「は――はい?」

「――あの可愛い娘さんっ!?」

「はい!?」

「あ、いやそうじゃなくってね?」

 

 ――この子、あの、あれだ。あのほら、名前わかんないけど!

 ラストシーンでメロスに緋のマントを渡した子! 駄目だ、可愛い娘さんとしか覚えてない! 名前出てたっけ?

 気づく前から可愛い娘さんって呼んでたのに気づいたあとも可愛い娘さんとしか呼べない辺り可愛い娘さんすごく可愛い娘さん。

 

 は?

 

「その……さきほど、その、ずいぶんと荒れていらっしゃったご様子だったので」

 

 可愛い娘さんが言う。

 荒れていたというか完全に狂っていた気がするが。まあ気のせいだ。もしくはメロスのせいだ。

 しかしめっちゃ可愛い。メロスの野郎、俺を人質にしておいてこんな可愛い娘さんとフラグ立てるとかどうなってんだよ。ふざけんなよ。ぶっ飛ばすぞ。

 馬鹿げたことを考える俺の前で、顔を真っ赤にして娘さんは言う。やっぱ惚れてる?

 

「その……セリヌンティウス様」

「はは、何かな?」

「…………前、が……」

「うん?」

 

 俺は下を見た。

 そこには、肌着が肌蹴て完全に露わになった逞しいセリヌンのティウスが地獄変。

 ……なんか泣けてきた。

 瞳を流るる芥川。これは裸生門ですね。

 

「……違うんだよ!?」

「いえ、その……わかっておりますので。あの、お召し物を、と……」

 

 いい子だった。わざわざセリヌンのティウスを隠すものを持ってきてくれたのだ。そりゃ顔も赤くなるよ。道理でみんな目を逸らすわけだよ。走ってるメロスと同じことを走ってないセリヌンティウスがやってどうするというのか。

 ぐい、と手渡される緋のマント。

 それを受取ろうとして、はたと俺は気がついた。

 

「……あの」

 

 俺は言う。娘さんは可愛らしく首を傾げた可愛い。

 

「はい?」

「えっと、その……私その、手を繋がれているわけでありまして」

「あっ」

「できれば、恐縮なのですが、えっと……腰に巻いてくださったりとか、その」

「えっ」

 

 一瞬、かなりやばい表情を見せてくれる、可愛い娘さんだった。可愛くなくなってた。

 もうアレだもの。「えっ」に完全に濁点がついてたもの。引いてるもの。俺だって引いてるよ、貧乏くじを。

 

 その後、優しい娘さんは、それでも俺に布を巻いてくれた。女神か。

 下半身を露わにして磔にされている男の腰に、いたいけな少女が布を巻くという極限の羞恥プレイ。いろいろとやばかった。

 危うくセリヌンのティウスが邪智暴虐の王になりかけていたが、その場合おそらく激怒した娘さんに邪智暴虐の王を除かれてしまうため、それだけは死ぬ気で堪えた。覗かれるのはいい、だが除かれるのはダメだ。俺は何を言っているんだろう。

 ともあれ俺は、なんとか全裸の磔男から、半裸の磔男にまで回復した。

 心が雪国。目から川端。

 

 ドン引きの娘さんは、おそらくもうメロスにマントを持ってきてくれないだろう。

 俺は人間としての尊厳と引き換えに、メロスのフラグを叩き折ることに成功した。

 代わりに人生を失敗している、というか人間を失格している風味があったが、気にしたら負けである。気にしなくても負けである。

 どちらでも同じということは、論理的に考えて俺はもう何も気にしなくていいということだ。

 ところで論理ってなんでしたっけね。

 

 

     ※

 

 

 夕方が近づいてきた。

 この頃になると、俺はもうなんか一周回って頭が冴えてきていた。

 むしろ全身が冷えてきたまである。

 冷静だ。とてもクールである。クールセリヌン。

 冷静になると、だんたん縛られているのが少し気持ちよくなってきていることがわかる。

 おそらく長期間のストレスに曝されたことで、脳が防衛機能を働かせたのだろう。それがわかる辺り超クール。もう少しキツめでもいいのよ?

 

 というか、やることが何もなさすぎて考える以外にないのだ。

 おそらく俺は《可愛い娘さんに恥部を曝け出して辱めたクソ野郎》としてすでに名が通っているはずなので、……どうしようねこれマジで。解放されても行くとこなくない?

 職場に復帰しても言われるんだぜ、セリヌンのティウスがティンって。

 本当に言われたら死のう。

 

 というわけで、俺は現実逃避も兼ねて思索に耽った。

 しかし、なんだろう。考えてみるとアレだ。

 

 ――なぜ俺はメロスの妹の結婚式に呼ばれていないんだろう?

 

 妹さんとは二、三回しか会ったことがないとはいえ――なんなら名前も覚えていないとはいえ――それでも俺だよ? セリヌンティウスだよ?

 メロスの竹馬の友。英語で言うとバンブーホースフレンド。いや絶対違うけれども。

 普通、こう、呼ばない? 二、三回しか会ったことないとはいえ、逆を言えば二、三回は顔を合わせる機会があった、兄の大親友だよ? それは呼ぼうよ。

 呼ばれていれば、俺は今頃、きちんとメロスの住む村のほうにいたはずだ。 

 そうなれば、俺がこうして縛られることもなかったということになる。

 

 ……まあよく考えればこの時代はそんなものなので、よく考えるまでもなくあり得ない仮定だとはわかっていたのだが。

 

 よくない傾向だ。頭が冴えすぎて、現実逃避が逆に上手くいかない。

 このまま行くと世界の真理みたいなものに到達してしまいかねない気がする。

 涅槃だ。

 ニルヴァーナだ。

 解脱する。

 だが俺は仏教徒ではなかった。

 

 結局、耐えきれなかった命の水は、そのまま地面へと垂れ流すことになった。

 

 寒さで体が震えた。ぶるぶるってなった。

 せっかく貰った緋のマントが今や卑のマントになっている。

 いやむしろよく耐えたでしょ。

 褒められていいくらいの勢いあるでしょコレ。

 すげえ寒い。

 

 

     ※

 

 

 ――そして。

 縛られ生活最後の日――三日目が訪れた。

 

 やはり一睡もしていない俺は、無我の境地で最後の一日を過ごした。ぼくもうなにもわからない。

 知性を棄てたのだ。

 それから、どれほど経った頃だろう。

 王城側から近づいてくる足音に気がついた(知性復帰)。

 そちらから、わざわざ俺の元にやって来る存在など限られる。磔にされている俺は当然、そちらに目を向けることはできない。だが、相手が誰かなどわかりきっていた。

 しかし終わりが近づいてくると、この生活もそう悪くないものだったような気がしてくるわけねえだろ畜生。

 どれだけのものを、俺が失ったと思っているんだ。

 

 だが、それも今日で終わり。

 近づいてきた足音に、俺はせいぜいニヒルに、声だけで言った。

 

「――王よ。今日が約束の日だ」

「は?」

「え?」

 

 なんか声が違った。

 ……アレだなコレ王じゃねえな。

 

「何か口にしたかね、罪人」

 

 兵士のひとりだった。やっべえなこれ、見張りの交代とかだったんじゃねえのこれ。

 前を向いたまま《後ろから来た人に気づいて話しかけるヤツ》をやろうとしたのだが、盛大に失敗してしまった。まずい。恥ずかしい。誤魔化さなければ。

 どうする。これ以上の恥の上塗りは、本格的に俺の今後の人生に響く。

 

 だが今さら舌が漏らしたものはもう戻らない。

 下に漏らしたものが戻らないように。

 濡れるのはもう、瞳だけで充分だった。

 

 お手洗いくらい行かせてくれてもよかったじゃないですか……。

 

 しかし、ここで俺は妙案を思いついた。

 今さらひとつやふたつ恥が増えたところで困らない。だが開き直るのも何かが違う。

 だいたい恥ずかしさの種類が違うではないか。

 ほかの恥はこう、なんていうか、俺ではもうどうしようもないところの恥だったとしか言いようがない。

 

 だってそうだろう?

 娘さんに恥部を晒したのは俺が悪いのか?

 違う、俺を磔にした王が悪い。

 耐えきれない液を(涙とか)流したのは俺の責任か?

 否だ、俺を人質にしたメロスの責だ。

 なら翻って今し方、格好つけて盛大に外したのは誰の問題か。

 

 ……これはまあ俺ですね。

 ほかもなんなら俺ですね認めないけど。

 

 古来より、こんな格言がある。

 曰く――木を隠すには森の中だと。

 いやまあ下手したらその言葉が生まれるより過去にいる可能性に若干の否めなさを残しているが、その点はもういい。知ったことではない。

 重要なのはあくまで内容だ。

 似たものの中に埋没させてしまえば、そのうちのひとつが目立つことはなくなる。

 つまりだ。

 

 恥を隠すには恥の中ということではなかろうか?

 

「はっはっは。王よ、せっかく人質となった我が話しかけているのだ、答えくらい返してくれても構わないだろう」

 

 だから俺は言った。

 目の前に、仮想の王を用意して。

 

「――何言ってんだコイツ?」

 

 兵が言う。そう、俺はもはや兵に話しかけていない。

 ということにしてしまった。

 彼に声をかけたのではなく虚空に向かって話しかけたことにしてしまえばいい。

 なんという発想だろう。

 自分で自分が恐ろしくなってくる。

 マジで。

 マジで戦慄する。

 大脳に重大な支障をきたしているとしか思えない。

 大脳(オーノー)!

 懊悩しちゃうねっ!

 

 ……。

 

 話を続けた。

 

「もうじきメロスが帰ってくる。そうなったら王よ、貴方はこれまでの行いを心より悔い、再びかつてのような賢き王として君臨してくれたまえ」

 

 もうなんか不敬の極みみたいなことを言っている気がする。

 

「っと、ほら、見てみるがよい! こちらへ駆けてくるあの男を! そう、メロスだ! メロスが帰ってきたのだ! おおいメロスよ、我が竹馬の友よ! 君の友、セリヌンティウスはここにいるぞ! はは、王よ! これで我々の約束は果たされた! さあ今度は貴方の番だぞ王よ! 約定通りメロスを殺すか! それもいいだろう! だが見たまえ、我々の友情を、その輝きを! これを見てなお王よ、貴方の心はまだヒトを信じられぬと叫ぶのか! そこにいったいどんなぶえっふぉ、えっほ……やべえ喉痛い、風邪引いたかも……」

 

 途中で喉が耐えられなくなってしまった。こう、あれだよね。喉乾いてるからね。もう俺の中に水分とか存在してないからね。半ばミイラ。

 やはり自分で思っている以上に、いろいろなところに負担がかかっていたのだろう。

 だが俺の思惑通りなら、これでさきほどの失態は誤魔化せたはず。

 俺は口を閉じ、しばし兵たちの声に耳を傾けた。

 

「おお、なんたることか!」

 

 兵のひとりが言う。

 

「心が耐えられなかったのだろう。ついに触れてしまった……!」

 

 ……あ、あれれぇー?

 

「うむ……前々からおかしい奴とは思っていたが、ついにその瞳が光を映さなくなったか」

「いや、彼を悪く言うのはやめるべきだ。彼は友のためにその身を投げ出した。その勇気に我々は称賛を送るべきではないだろうか」

「なるほど、それは確かに!」

「しかしかの邪智暴虐の王の前には、ついに若き勇者も折れざるを得なかったか……!」

 

 なんか。

 想定と違うんですけど。

 

 どうやら俺は、死への恐怖から完全に頭が冷えてしまったと思われたらしい。

 恥の中に恥を隠した結果、空間飽和羞恥分量を超えて恥がビッグバン。抑えきれぬ恥は周囲に溢れ出し全てを覆った。

 これを端的に《恥の上塗り》と言います。

 

「……俺はもう、元の生活には戻れそうにないな……」

 

 小さく、そう呟く俺だった。

 おかしいな。心のポッケを叩いたら、心臓がふたつに割れちゃったみたいな感じだな。

 まあ中になんも入ってないからね。

 増えるものなんてない。

 

「やはり世界とは残酷なものであるらしい……嗚呼、なぜ人の世から争いはなくならないというのでしょう……」

 

 そんな俺の呟きを、いったいどのように解釈したのだろう。

 兵たちが、どこか色めき立って叫ぶのが聞こえた。

 

「おお……これは」

「よもや彼を哀れに思われた天上にましますの神々が、彼の魂を救い給うたのか!」

「彼の精神は今や神の域に達している!」

「おお……」

「神よ……」

 

 神よじゃねーよ……。

 同情するなら紙をくれ……。

 尻を拭くから。

 ビッグバンの後始末するから。

 世界を創生するから。

 

 涙が止まらない。

 涙以外は止まったというのに涙だけが涸れない。

 このまま鼓動も止まんないかなあ……。

 

 ――王が現れたのは、ちょうど、そんなときだった。

 

 

     ※

 

 

「哀れだな」

 

 王が言った。

 言ってから少し目を伏せ、

 

「……いや、うん。本当に哀れだな……哀れっていうか、もうそれ通り越してなんかこう……ごめん」

 

 謝るんじゃねえよ!

 お前は邪智暴虐ってろよ!

 どうすんだよ! 俺もう立場がねえよ!!

 

「だが約束は約束――もうすぐ日暮れだ。わかっているな!」

 

 王は言う。

 だが俺は不安ではなかった。

 なぜなら俺は、ことの顛末を全て知っているからだ。

 メロスはギリギリできちんと帰ってくる。オリ主転生憑依原作知識アリの強みはこういうところで活かすべきなのだ。……オリ主?

 だから俺は言った。

 

「――ふふん。今に見ているがいい、王よ! メロスは必ず帰ってくる。そのとき、自らの振る舞いを後悔するのだな!」

「その余裕、いつまで続くか見せてもらおう!」

「ははははは!」

「ふはははは!」

 

 一国の王と、一介の石工の哄笑が、夕暮れの空に高く響いていく。

 裸なのは俺のほうだったが。

 

 ――そして。

 約束の時間になった。

 

 

 

 

 

 ――野郎、帰ってこねえ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後編『野郎、ぶっ飛ばしてやる』

 ――待って?

 え、いや……え? ごめん。ごめん待って。ちょっと待って。

 

 あっれえー!?

 

 いや、え? おかしくない? え? いや……え? なんで? なんでそうなったの?

 なんで来ないの? もう時間過ぎちゃったんですけど!?

 ちょちょちょちょちょっと待って待って待っておかしいおかしいおかしい。

 死ぬじゃん。

 え、これ俺死ぬじゃん。

 

「……時間だな」

 

 王が言う。どこか物悲しそうに。

 いや物悲しそうにじゃねーよ。

 俺のほうが悲しいわ。何ちょっと実は帰ってくることを期待していた人を信じたかった的なオーラ出してんだよ。そもそもお前のせいでこうなってんだよ。

 

「馬鹿な……!?」

 

 何が起きたというんだ。

 何が起きたというんだ(一秒振り二回目)。

 メロスの気が変わった……? やはり死ぬのが惜しくなって俺を見捨てたというのか……!?

 いや、でもメロスだぞ――あのメロスだぞ?

 心優しい、曲がったことを許せない正義感を持つ羊飼い。羊を喰うか喰わぬかで何度喧嘩になったことか知れぬ。そんな奴が俺を見捨てるとは――あれ? もしかしてフラグ立てるのに失敗した? メロスとセリヌンティウスはズッ友でも、メロスと俺はfriendの後半三文字だった的な!? 混乱しすぎて何言ってんのか自分でもわかんねえ!

 

 そのときだった。

 広間に、ひとりの男が飛び込んできたのである。

 

「――メロスか!」

「メロスではございません」

 

 なんとかストラトスさんだった。

 

「お前かよ! なんでだよ! それは違うだろうが!!」

 

 ぬか喜び!!

 俺は叫んだが、なんとス(省略形)も叫んだ。

 

「それどころではございませんぞ、セロリ様!」

「野菜!」

「大変ですぞ!」

「知ってるけどね!?」

「――メロス様が!」

 

 奴は言う。

 

「メロスなら来てねえよ、あの野郎! 裏切りやがった!」

「違います! メロス様は街道で山賊に襲われ、捕らえられているのです!」

「な、なんだって――!?」

 

 まさか嘘だろ待って待ってウェイト。

 リトルタイムモアプリーズ(めちゃくちゃ)。

 

「メロスが山賊如きにやられるとは思えん! 何かの間違いではないのか!」

「事実です! 私はメロス様に助けられことづけを授かったのです!」

「おいテメーお前のせいでメロス捕まったんじゃねえだろうな!」

「違います。数十にも上ろうという山賊、いくらメロス様でも多勢に無勢だったのです」

「多くないですぅ!?」

 

 なんで!? なんで増えてんのホワイ!?

 こんなこともあろうかと、メロスの障害になりそうな一帯の山賊はあらかじめぶっ飛ばしておいたというのに! この念の入れようでどうして――

 

「なんでも近頃、山賊を薙ぎ倒して回る男が出没するようになったそうで。この辺りの族は徒党を組むようになったそうなのです」

 

 ――あああ俺のせいだったー!

 自業自得だったー!

 

「これがバタフライエフェクトというヤツか……っ!」

「わけのわからないことを言っている場合ではございませぬぞ!」

「わけわかんねーのはこっちですけどねえ!?」

「メロス様からの言伝をお伝えします。私が最後に預かったのです」

 

 どんな状況だったの!?

 お前あれだろ、それ隠れて見てたろ!

 

「まあいい、なんだ! 言え!」

「――『なんかすまん』」

「…………」

「『向こうで食おう』」

「……………………」

「『ジンギスカン』」

「…………………………………………」

「以上です」

「異常じゃなくて!?」

 

 一句読んでんじゃねーよ!

 辞世の句か!? 何あっさり諦めちゃってんの!?

 なんかすまんとジンギスカンをかけたつもりなのか!?

 せめて向こうで会おうって言えよ!

 羊喰ってんじゃねーよ!!

 

「――赦せぬ……っ!」

 

 不意に。俺の中に怒りが湧き出てきた。

 ――なぜこうなる。

 俺がいったい何をしたというんだ。

 友を信じ、愛に殉じた――そんな俺がこんなあっさり命を散らすなど許されていいものだろうか。いや違う。

 

「赦せぬ! 赦せぬのだ、そんなことは!」

 

 ざわりと周囲がにわかに湧き立つ。

 だがもはや、俺はそんなことは気にしていられなかった。

 

「――王よ! お話があります、王よ!!」

「な、なんだ……?」

 

 ちょっと狼狽えたように王が言う。

 だがもはや、その姿すら俺の視界には入らない。

 

「命乞いなら聞かぬぞ!」

「違うのです!」

 

 そうだ。それは違う。

 俺はそんなことを求めていない。

 

「約束のため、友のために捧げたこの命! 今さら惜しもうとは思いませぬ!」

「ならば――」

「ですが!」

 

 ただ。

 

「ですがあまりに! あまりに悔しいではありませぬか! 友をために駆け抜けたメロスと、その友を信じ待ち続けた私たちが! こんな運命の悪戯に引き裂かれるなど、あまりに無体というもの!」

 

 まあ。

 

「もちろん約を違えようとは思いまえぬ! 私の命はもう要らない! ですが! このまま友を喪うのはあまりに口惜しい――私に、私に友を救いに行かせてください!」

 

 言い方変えただけで。

 

「私は死ぬことでしょう。メロスも死ぬことでしょう。ですが、山賊如きのために友の命が散らされるのはあまりに惨い!」

 

 命乞いなんですけどね、これ。

 

「そんなこと――聞けるわけがないだろう!」

 

 王は言う。

 うるせえ知ったことかボケェ!

 

「どうか、どうか私がメロスを連れてくるのを待っていただきたい! 友の命を、山賊如きの手で散らされないようにしていただきたい!」

 

 だって!

 殺すなら!

 

 ――俺がやるわあ!!

 

「むぅ……なんという潔さ。命を捨ててでも友を救おうというのか……」

 

 言ってないけど、そんなこと!

 俺が! 奴を! ぶっ飛ばさなければ気が済まないというだけだ!!

 

「しかし約束は約束……それに、そんなことを言って逃げるかもしれぬ。やはり貴様はここで死ななければ」

 

 王はまだそんなことを言う。

 ええい、邪智暴虐ではなく無知凡骨の間違いではないか!?

 

「今さら私が命を惜しむとお思いか!?」

「だが――」

「見ろ! 私を――私のこの姿を見よ、王よ!」

 

 俺の叫びに。

 王が、一歩を後ずさった。

 俺は言う。

 

「――――これが生きていると言えるのか!?」

「……!!」

「もう死んでいるとは思わぬかっ!!」

 

 社会的にネ!

 駄目だよ。

 もう駄目だって。

 俺もうシラクスでは生きてけねえよ実際。

 

「我が血脈はすでに尽きた!」

 

 糞尿も尽きた!

 

「王よ、見るがいい。あるいはこの姿が王の行く末かもしれぬ(根拠はない)。さあ、目を背けず、この糞尿撒き散らして無様に半裸っている哀れな俺の最期を目に焼きつけよッ!!」

 

 人質云々というより。

 もう単純に、不敬罪で処刑されてもおかしくないレベルだった。

 

「むぅ……」

 

 だが王は、どうやら場の空気に呑まれたのだろう、一理ある的な表情で呻く。

 同時に周りで声が上がった。

 

「た、確かに……王よ、彼はもう死んでいるのかもしれませぬ」

「なんだと……」

「そうだ! 私も見たぞ! さきほど彼は何もない空間に話しかけていた! きっと神を見たに違いない!!」

 

 流れが、なんだろう。風……そう、風が来てる。

 着実にセリヌンベクトルに流れてきている。

 今ならなんかデカいことができそうな気がしてくる。山賊潰すとか。

 

「友を救い、王に処刑されようというその心意気を認めてやるべきでは!」

「そいつはたぶんもう駄目なんだ! 人としての心を喪い、代わりに神の視点を手に入れたのです!」

「王よ! これこそが天祐かもしれませぬぞ!!」

 

 民衆たちの声が力になる。

 友情が。

 努力が。

 ここで勝利を呼んでくるのだ――!

 

「ふん……ぬぅ……っ!」

 

 全身に力を籠め、肉体の限界値を超える。

 俺はセリヌンティウス。

 シラクスの市の石工セリヌンティウス!

 

 その生き様を!

 最後の輝きを目に焼きつけるがいい!

 

「ファイト……いっぱああああああああああああああああああああつっ!!」

 

 俺を磔刑にしていた十字架が、根元から抜けた。

 背にクロスを担ぎ、俺は自由を再びこの手中にする。

 

「おお……!」

「奇跡だ……!」

 

 民衆の声がした。

 

「王よ。我がただなんの理由もなく糞尿を撒き散らしたと思ったか……?」

「まさか……木の根元を腐らせるために……っ!?」

 

 ぜんぜん違う。

 なんの理由もなく撒き散らした。

 でもまあ今はいい。

 

「王よ――」

 

 俺は言う。

 両手を十字に縛られ、まっすぐ横に伸ばしたままのかなり無理のある姿勢で。

 

「――しかと、その目に焼きつけれよ。セリヌンティウス、一世一代の最終疾走(ラストラン)を――!」

 

 俺は横合いに視線を向けた。

 向けようとして割と無理だったので、腕横ピーンのまま体ごと捩じった。

 

「ティロストラトスよ」

「ひっ!?」

 

 訂正が入らなかった。

 ……あの。もしかして引かれてる……?

 うん、まあいいや。たぶんあってたってことだろう。きっと。

 つーかもう今、すごい世界の全てがなんでもいい感じになってる。

 

「後は任せた」

 

 友の頬を力いっぱいに殴るため。

 今、命を賭して駆け出す男の名前を覚えておけ……!

 

「行ってくるぞ、テロストラトス」

「……フィロストラトスです」

 

 果たして、フィロストラトスは言った。

 どちらかと言えば、テロをしているのは俺だった。

 倫理的テロリストだった。

 

「セリヌンティウス様、これを」

 

 と、件の娘さんが、俺に布を与えてくれる。

 生憎と手が塞がっていて受け取れなかったのだが、彼女は俺の背の十字架にそっと、赤い布を結びつけてくれる。

 赤いマント。

 なるほど――実にヒーローらしいではないか。

 

「――行ってらっしゃいませ、セリヌンティウス様」

 

 フィロストラトスの言葉に頷いて答える。

 そうだ。

 

 ――走れ、セリヌンティウス!!

 

 

     ※

 

 

 俺は駆けた。

 野を駆け、山を駆け、夜を駆け、闇を駆け――命を懸けて駆けていた。

 相変わらず背中は十字架が重いため、腕は真横のまま走った。

 

 言うなれば江崎グ○コだった。

 背中に赤も負ってるしね!

 

 ふっ、構うものか!

 一粒三千里! メロスを訪ねて!

 

「俺は行く――!」

 

 駆けて、駆けて、駆け抜けて――俺は山賊のアジトへと辿り着く。

 クソ、壊滅させたと思ったんだが……あくまで元日本人としての良識が殺しを躊躇わせたのがよくなかった。あのクソどもは滅ぼしておくべきだったのだ。

 クソ野郎は滅ぼしていい。

 俺も(ある意味)クソ野郎だからわかる。

 もういいって。

 

「見つけたぞゴルァ出て来いや山賊どもがオルァ――!!」

 

 叫ぶ。その声に反応してだろう、慌てたように武器を持った山賊たちが小屋から躍り出てきた。夜だからだろう、松明を持った者もいる。

 その輝きに、俺の痴態が照らし出された。

 そして俺を見て、狂乱したように山賊たちは慌てふためく。

 

「いやなんだあの変態!?」

 

 そうだね!

 そうなるよね!

 知るか!!

 

「おらおらどけどけ討ち入りじゃゴルァ――!!」

「ひぃ!?」

「や――奴は!!」

「知っているのか!?」

「山賊をその身ひとつで殴り倒して回ったという伝説の石工――」

「名前は!?」

「忘れた!」

「忘れてんじゃねえぞゴルァ――ッ!!」

 

 叫ぶと同時、屈強な男たちが怯えたように「ひぃ」と呻く

 

「えーと、えーと。なんだっけ!? セ、セ――」

「セロ?」

「それゴーシュぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」

 

 叫びながら、いちばん近かったひとりを跳ね飛ばす。

 十字架の重量が乗った突進に、男は錐揉みしながら吹き飛ばされた。

 

「……ぜえ、はあ。お、覚えておけ。俺の名は……セロ」

 

 あ。

 噛んだ。

 誤魔化さなきゃ。

 えーと。

 

「……人轢きのセロだ。覚えておけ」

 

 誤魔化せなかった。

 

「やっぱセロじゃん……」

「セロであってんじゃん……!」

「人轢きのセロ……!?」

「アレが噂の人轢きのセロ……」

「セロヌンティウス……!」

「――知ってる奴いるじゃねえかクソがあ!!」

 

 そいつを弾き飛ばし、俺はそのまま小屋へと突貫する。

 ぶっちゃけ山賊とかどうでもいい。

 

 小屋に入ると、そこには――メロスがいた。

 メロスが。

 あれほど焦がれ、待ち続けた、竹馬の友がそこにはいた。

 磔になって。

 俺と同じように。

 ……スペース取りすぎでは?

 

「セ――セリヌンティウス!?」

 

 メロスが叫ぶ。

 俺は笑顔を浮かべた。

 

「友よ!」

「君は……まさか。僕のためにこんなところまで!?」

「当たり前だろう!!」

 

 俺はメロスに駆け寄っていく。

 メロスもまた、両手を(十字架にくっついているから)大きく広げ、俺を待ちかまえるように慈愛の笑みを浮かべていた。

 だから。

 俺は。

 その胸に。

 

 ――ではなく頬に。

 

「捕まってんじゃ――ねえええええええええええええええええええええええええええっ!!」

 

 盛大に。

 ドロップキックをぶちかました。

 

「セリごばっ!?」

 

 いいのが入って、メロスの顔が壁にめり込む。

 というか木製の小屋を首から先が突き破って向こう側に挨拶に行った。

 

「あ? うるせえ何がセリごばだボケ、どいつもこいつも俺の名前間違いやがってぶっ飛ばすぞゴラ、あァ?」

 

 俺は言う。

 本当は殴ろうと思ったのだが、相変わらず十字架に腕が繋がれていて無理だった。

 そのためのドロップキックだったのだが、当然すっ転んでしまって。

 まあ、なんだ。

 

 起きられなくなった。

 

「野郎、いったい何を……いったい何を!?」

 

 戻ってきた盗賊たちが口々に言う。

 ……なんだろうね。

 俺も、もう、よくわかんねえ。

 

「しかしチャンスだぞ! 今ならこいつをぶっ殺せる!」

「ああ……メロスとかいう羊飼いは暴れてなかなか殺せなかったが、今なら両方やるチャンスだぜ!」

「しかもご丁寧にメロスは気絶している!」

「覚悟しろ、セロ!」

 

 集まってくる山賊たち。

 近づいて、そしてなんか臭えと一度戻って、鼻をつまんで再び俺を囲う。

 俺も、もうこれ以上抵抗しようとは思わなかった。

 メロ轢きのセロは目的を達成した。

 これ以上は望まない。

 ていうか、もう生きていける場所が存在しない。山賊にすら嫌われてるから、本格的に人生終了のお知らせだ。アウトローですら居場所がないとか逆にすげえな俺。

 しかし。

 しかしだ。

 

「――待て」

 

 そこで、静止の声がかかった。

 メロスだった。

 

「いい蹴りだった……お陰で自由になったぞ、セリヌンティウス」

 

 壁が破れたお陰だろう。

 メロスは、壁の十字架から解放され自由を取り戻していた。

 

「さすがはセリヌンティウスだ……スゴイ作戦を考え出したんだな」

「……あ、当たり前だろう? お前さえ自由になれば、こちとら百人力よ」

 

 違うけど……。

 なんかすまん……。

 帰ったら喰おう、ジンギスカン。

 

「さあ、覚悟はいいか賊ども」

「くっ……!」

 

 こきこきと拳骨を鳴らす屈強なメロスの姿に、男たちは目に見えて狼狽えた。

 

「だから殺しておくべきだったんだ!」

「仕方ないだろう、あんだけ強かったんだぞ、あの男」

「誰だよ、十字架に張っとけとか言った奴!」

「だってお前、シラクスでそれはもう頭のおかしい男が磔にされている噂があったから……」

「余興で笑い者にしてやろうって言った奴のせいだろ……!」

 

 ……ええー。誰だろーう?

 俺が縛られている間に、まさかそんな奴が現れて噂になっていたのかー。

 ていうか。

 

「どう考えても俺だあ――!?」

 

 くっそ! なんならワンチャン、あそこ以外でなら生きていけるかもとか思ってたのに。

 噂が走るの早すぎだろ! もうどこ行っても「頭のおかしい十字架の人」じゃねえか俺!

 ただ、そんな事実が山賊たちに衝撃を与えていた。

 山賊たちが後ずさっていく。

 

「奴が……」

「あの……」

「国家反逆罪で磔刑に処されていたという……」

 

 違えよ! 処されてねえから生きてんだよ! あと罪状もおかしい!

 

「さあ、立つんだセリヌンティウス。我が竹馬の友よ」

 

 と、メロスが片腕で、ぐいと俺を引き上げて起こす。

 片腕で。

 筋骨隆々な偉丈夫の羊飼いは、それはもう鍛え上げられた身体をしている。

 

「……懐かしいな、セリヌンティウス」

 

 メロスは言った。

 俺は応える。

 

「そうだな――確かに。ガキの頃を思い出すぜ」

「あのときは荒れてたからな、俺も。お前も」

「……盗んだお馬で走り出してたからな」

「ああ。だが今、俺のテンションは暴走族時代まで戻っている!」

 

 ――ふしゅうぅぅぅぅ……。

 こおぉぉぉ……ほおおぉぉぉぉぉぉぉ……!

 

 メロスの呼吸の音。

 肉体がめりめりと膨れ上がっていく。

 代々、羊飼いの家系で、自然と一体化するために受け継がれてきた特殊な呼吸法。

 これがあるからメロスは長い道のりを走り続け、山賊たちを薙ぎ倒すことができるわけだ。

 

「ふ――セリヌンティウス。長旅の疲れと、君の友を庇うために捕まっていたが」

「やっぱアイツのせいじゃねえかよ……」

「だが今、横には君がいる――なら、負ける気はしないね」

「――俺もだぜ、竹馬の友」

 

 ファイティングポーズを取るメロス。

 水平グ○コポーズを取る俺。

 背中合わせに立った俺とメロス。かつては互いに賊を率い、ヘッドとして争った時期もあったが……何、あの頃は若かった。

 そして今、俺とお前が揃っているならば。

 

「――倒せない敵はない。そうだろ、メロス?」

「ああ、もちろん――遅れるなよ、セリヌンティウス? 君の獲物の石の鈍器、今は手元にないだろう?」

「誰に向かって言ってやがる。お前こそ、羊がいなきゃ自慢のライディングテクニックを披露できないぜ?」

「まあ、その程度は――」

「ああ。その程度は――」

 

 俺とメロスの声が。

 息が。

 ぴったりと、重なって山に響き渡った――。

 

「――ハンデにもならねえさ」

 

 そして。

 かつて伝説の族として、シラクスを震撼させたふたりの伝説が。

 

 一夜限りの復活を果たしたのである。

 

 

     ※

 

 

 数十にも及んだ山賊たちを、バッタバッタと薙ぎ倒し、俺たちは無双の活躍を見せた。

 原作主人公とオリ主がコンビを組んだのだ。大勝利以外はあり得まい。

 

「馬鹿、な……っ!」

 

 最後のひとりを倒したことで、場は静寂に包まれた。

 こうなってみれば、森閑としたいい雰囲気の夜山でしかないのだが。

 ぱんぱん、と手の汚れを払ってメロスが言う。

 

「ふう。片がついたな。さすがセリヌンティウス――腕は鈍っていないようだな」

「……ああ。最後にお前と戦えて、俺も嬉しかったぜ、メロス」

 

 俺の言葉に、メロスは「へへ」と人懐こい笑みを見せた。

 ……本当はコイツ殴りに来ただけなんだけど。

 まあ、いいか。なんかいい話風に収まった感じだし。細かいことは気にするまい。

 物語も、どうやらここでお終いのようだ。

 

「さて――メロス。このあとどうする? 王が、シラクスで待っているが」

「それはもちろん――」

 

 言いかけて。

 そこで、メロスが口を噤んだ。

 首を傾げる俺に、メロスが驚きの表情で告げる。

 

「セ、セリヌンティウス――後ろ! 後ろだ!」

「はあ?」

 

 俺は背後を振り返った。

 だが何も見えない。

 見えるのは、ぶっ倒した山賊が取り落とした松明が、煌々と輝いているっていうか山小屋を炎上させているところだけえええええええええええええええええええええ!?

 

「コヤガモエテルゥ!」

 

 思わず片言で叫んでしまった。

 

「道理で熱いと思った!」

 

 だがメロスは「そうじゃないぞ!」と叫ぶ。

 

「何がだ!?」

「燃えているのはセリヌンティウス、君のほうだ!」

「ふぁ?」

「君の背中の十字架に、火が移って炎上しているんだァ!」

「道理で熱いと思った二回目!!」

 

 見れば確かに、めらめらと背中が炎上している。

 なんかもうかちかち山みたいになってる。

 

 それを見て。

 思わず――俺は笑ってしまった。

 

「あ、あは、あはは……ははははははははははははははははっ!!」

「どうしたセリヌンティウス! おかしくなったのか!? 早く火を消さなければ!」

「――いいんだ」

 

 俺は首を振った。

 この火は、どうせ消せないだろう。

 よく燃えているのには理由があるのだから。

 あの娘さんに貰った布に、連中が武器にしていた酒瓶からアルコールが移って染み込んだのを俺は知っている。鎮火は難しい――いや、そんなのは言い訳だ。消そうと思えば消せないことはない。

 だが俺は、どうせ戻ったところで死ぬだろう。

 

 もはや原作とは違うのだ。

 メロスは戻ってくることができず。

 俺は結局――友を信じることができなかった。

 王は改心などするまい。

 あるいはそれが、俺と本物のセリヌンティウスとの違いだったのだ。違いだったに違いなかったのだ。

 

「――帰ろう」

 

 だから、俺は言った。

 

「か、帰るって……どこに?」

 

 狼狽えるメロス。

 俺は笑って、友に答える。

 

「決まってるだろう。俺たちが帰る場所はひとつ――あのシラクス以外にない。死ぬなら、俺はそこがいい。あの場所が、今の俺の故郷だからな」

「セリヌンティウス……」

「行こうぜ。背中に火がついてちょうどいい。あとひと走り、最後の燃えるトリカルパレードと洒落込もうぜ」

「何言ってるかわかんないんだが……」

「うるせえな」

「あと、別に私はシラクスに住んでるわけじゃ」

「いいから走るんだよォ!!」

 

 

     ※

 

 

 そして。俺は走った。

 セリヌンティウスが走った。

 メロスも走った。

 背に輝かんばかりの光を燃やして。いや、あるいはこれこそが、俺にとって最後の魂の輝きなのだと信じて。

 水平グ○コポーズで俺は駆ける。

 炎を掲げながら俺は走る。

 

 ところで道中、メロスは私にこんなことを言った。

 

「セリヌンティウス! 私に火を移すのだ!」

「メロス?」

「交互に燃えることで火をリレーし、時間を稼ぐのだ!」

「お前天才かよ!?」

 

 被害が拡大した(ふたりとも燃えた)。

 

 やがて、シラクスの市が見えてくる。

 ……もう、ゴールしても、いいだろ……?

 民衆が口々に「帰ってきた! メロスとセリヌンティウスが帰ってきたぞ!」と叫ぶのが聞こえていた。

 

「ていうかなんか燃えてるぞ!?」

「何考えてんだあいつマジで! アホじゃないのか!」

「ほら、やっぱりおかしくなってたんだ!」

「いやいや、お前があいつを神の使いとかなんとか言ったんだろ!?」

 

 なんかものすごいこと言われているが、もう気にしない。

 俺は燃える。燃え上がれ。魂ごと、そう、天の星座になるレベルで燃えればいい。

 シラクスの入口。門の前まで辿り着くことができた。

 待っている人々の姿が見える。

 市民が。

 同僚が。

 フィロストラトスが。

 娘さんが。

 兵士が。

 王が。

 俺の生き様を、文字通り目に焼きつけることだろう――。

 

「はは、はは――ははははははははは!」

 

 燃える炎。両手を真横に広げて走る俺。

 この姿を忘れるな。

 だから。

 俺は――最後の気力を振り絞り。

 

 叫んだ。

 

「――ゴー……ルっ!!」

 

 

 

 

 

     ※

 

 

 

 

 

 ――その後、伝説となったセリヌンティウスがどうなったのか、詳しい事情を記した文献はない。

 ただ、炎を纏い、神にその身を捧げたとだけ言われている。

 メロスの行く末もまた同様だ。

 

 けれどひとつ。

 以来、おおよそ四年に一度、ある祭りが開催されることになったとだけ追記しておこう。

 それはセリヌンティウスの魂を鎮めるためとも、あるいは神の座に列した彼の偉業を盛大に祝うためとも言われている。

 聖なる火を持ち、長き距離を民草のために走るという行為。

 それは以来、長らく人類の歴史に刻まれる競技へと姿を変えた。

 

 

 

 

 

 ――現在のオリンピックの起源と言われている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。