ニャル様のいうとおり (時雨オオカミ)
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未来の章【ムラサキ鏡の降霊術】
皮肉屋な赤いちゃんちゃんこ


 カツ、カツ、カツ

 

 放課後、教室から出て行く少女に数名の生徒が挨拶をする。

 それらを手を振るのみで応えた少女は、急いで校門へと向かった。

 

 ――ねえ、知ってる? 赤いちゃんちゃんこの噂。

 ――知ってる! 知ってる! この学校の七不思議だよね! 

 ――そうよ。なんでも、話を聞いた人のところに来るタイプの怪異なんだとか。

 

 噂好きの女子高生達を通り過ぎざまにその紅い瞳で見遣りながら、少女は黒いポニーテールを揺らして歩き去る。

 

 噂好きの少女達は一瞬その姿に見惚れて、それから話を再開する。

 通り過ぎていった少女はクールな美少女優等生として有名であった。ミステリアスで、口数の少ない彼女に話しかけようとするほどの勇気があるものは少ないのである。

 

 ――それがね、この学校の七不思議は普通の赤いちゃんちゃんことは違うんだって。

 ――「赤いちゃんちゃんこ着せましょうか」って問いかけられて、イエスって答えると殺されちゃうのは変わらないんだけど……その子は少し変わってるの。

 ――その赤いちゃんちゃんこは夢の中に現れるのよ。そしてこう言うの。

 

 

 

 

 

「アタシを殺した凶器を探してよ」

 

 

 

 

 

 校門へと向かうブレザー姿の少女は、黒髪を飾る菫色のリボンを揺らしながら時計を確認した。

 彼女が待ち合わせた人物は、まだ現れない。

 

 ◆

 

 急ぎ足で夕暮れの街角を走る。

 目的の場所はもうすぐ。約束の時間を五分だけ遅れて、俺はそこに着いた。

 

 いた。彼女だ。つまらなそうに校門に背をかけた彼女はポニーテールのてっぺんにある大きな菫色のリボンを揺らしながら、キョロキョロと辺りを見回している。

 

 私立七彩(しちさい)高等学校。この町で一番のその高校に彼女――赤座(あかざ)紅子(べにこ)は通っているのだ。

 

 そして彼女は俺の存在に気がつくと微笑んで手を振る。

 春先でまだ夕方は肌寒いからか、ブレザーの下に赤いカーディガンを着ているようだ。本当に、赤色がよく似合う女の子だな。

 

 それから彼女は「たったったっ」と小走りになりながら鞄を胸に抱いてこちらに向かってきた。

 

 自分よりもいくらか小柄な、しかし容姿が並みの自分にはもったいないくらいの美少女がこちらに向かってくるのだ。

 下校していく生徒達はそんな彼女を珍しいものを見たとばかりに注目していて、ほんの少しだけの優越感。

 

 そうして、綺麗な笑顔のまま彼女は俺のところまで来ると、開口一番にその形のいい唇から甘い睦言を……

 

「遅い、不合格」

 

 言わなかった。

 うん、いつも通りの紅子さんだな。安心した。

 

「まったく、お兄さんはいつも遅刻してくるね。アタシは授業が終わってすぐにこうして待っていたっていうのに」

 

 綺麗な微笑みは既にニヒルで皮肉気な笑みに変わっている。

 遠くから見ているとただの美少女なんだが、その実態は皮肉屋でクールな少女。

 

 そして――

 

「さあ、行こうか。今夜は眠らせないよ?」

 

 妖しげに笑う彼女に腕を引かれて学校から離れていく。

 

 やがて、人通りの少ない場所へとやってくると、彼女はくるりとその場で回転した。瞬間、その姿が揺らいで、服装がガラリと変化していく。

 

 ブレザーの制服から赤いセーラー服に、そしてその上から着た真っ赤なマントを翻す。頭にちょこんと乗ったベレー帽も赤色。

 

 なにもかもが紅い少女の首元には包帯が巻かれている。

 

「ふふ、さっきの文句でナニを考えたのかな? まったくキミは、そんなんだからモテないんだよ」

「俺は紅子さんに引かれなければそれでいいんだよ。君はそんなんじゃ引かないだろ? それとも、期待しちゃダメか?」

「……」

「照れてる?」

「照れてない」

 

 ふいっとそっぽを向く彼女の耳は赤い。

 下ネタでからかってくるわりには、逆襲されると弱いのが彼女。紅子さんである。

 

「……そんなことよりも、今夜もお仕事頑張ろうね、令一(れいいち)お兄さん」

 

 わざとらしく本題に入った彼女に合わせて俺も頷き、共に歩き出した。

 

「これからはアタシ達怪異が闊歩する時間だね」

 

 ふわりと、彼女の両脇に橙色の火の玉が浮かび、紅子さんのその赤い、紅い瞳を妖しくぼうっと照らす。

 

 彼女の姿は質量を伴い、誰にでも見ることができる。

 

 ともすれば普通の人間にさえ見えるし、実際に彼女は〝卒業できなかった〟高校に通い直している。元は別の高校にいた流れ者だったらしいが……

 

「どうしたのかな、そんなに見ちゃって。ま、見るだけならタダなんだし、別に構わないけれどね……」

 

 横目にこちらを見遣る視線が絡み合い、彼女はあどけない仕草で首を傾げた。

 

「おにーさん?」

「あ、ああ、ごめん。行こうか」

「ビックリした。ボケちゃったのかと思ったよ。そうしたら置いていったのに」

「悪かったから置いていくのはやめてくれ……成人男性が高校の前でウロウロしてるなんてやばいだろ」

「そう? アタシを連れ回してる時点でだいぶ犯罪的だよねぇ。見た目は女子高生なんだし」

 

 変わった女子高生? 違うな。

 ただの不思議ちゃん? そんなことはない。

 幽霊? 間違ってはいないが、厳密には少し違う。

 

 改めて上から下まで紅子さんの姿を見やる。

 

 夕陽を吸い込むような黒髪。黄昏の中に俺を見つめる紅い瞳。紅い上着。首に巻かれた包帯。斜めに乗せられたベレー帽。浮遊する橙色の火の玉。

 

 コスプレじみたその装い全てが、彼女の本来の姿であり、彼女が巷で噂の〝赤いちゃんちゃんこ〟であることを表していた。

 

「さあ、二人っきりのお仕事(デート)に行こうか、お兄さん?」

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ――そう、彼女はどうしようもなく「怪異 赤いちゃんちゃんこ」そのものなのであった。




 改稿版第1話。
 時間軸は現在更新中の「ひとはしらのかみさま」の手前となります。
 少しだけ恋愛色を強めにしております。
 両片想い。ただし、どれだけフラグが立っていてもとあるイベントで告白しない限り紅子は行方をくらまします。

 本編のイラストは「ひとはしらのかみさま①」のとき、友人に描いていただいたもの。
 同じ友人に本格的に挿絵を依頼したので、出来上がったらそちらに差し替えます。

 自分絵紅子さん


【挿絵表示】


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紅い衣の少女の問答

「ふあ……」

 

 ぐいっと腕を伸ばして隣を歩く紅子さんは随分と活き活きとしている。

 三年前にはとっくに死んでるはずなのに、もしかしたら俺よりも生きている人間っぽいかもしれないのは皮肉だろうか。

 

 学校ではどうしているか分からないが、少なくとも彼女と待ち合わせる俺が大注目を受けるくらいには有名なのかもしれない。なんせ、美少女だし。

 

 しかし紅子さんは幽霊だ。普通の人に見えたり聞こえたり触れたりできても、幽霊なんだ。

 

 そう、幽霊の身にして怪異。

 

 怪異は、噂が大きくなりすぎるとそのカケラが本体から離れて、噂通りに行動するだけの〝分け身〟の怪異を作り出すらしい。

 本来それに理性や知性はないけれど、近くに似た死因を持つ魂があればそれを吸収して怪異となる。それが彼女。

 要するに、紅子さんは「赤いちゃんちゃんこ」という職業の幽霊なのだ。

 

「うーん、やっと過ごしやすい時間になったねぇ」

「ああ、やっぱり怪異的には昼間って過ごしにくいのか? 幽霊って光には弱そうだもんな」

「いや? 授業が退屈で眠っちゃうだけだよ。高校の勉強は〝復習〟でしかないから」

 

 軽口で返すと、斜め上の答えが打ち返されてきた。

 知ったかぶりをしたみたいになった俺は返答に困りながら「内容覚えてるんだな、すごいな」なんて頭の悪そうな言葉を絞り出す。

 

「キミとは違って成績は優秀だったものでね」

「俺の成績なんて知らないだろ」

「知らないよ? でも、少なくともアタシは今ので動揺したりしない。それだけだよ」

「性格的な問題だろ、それ」

「そうとも言う」

 

 やっぱり成績なんて関係ないだろう。

 というか、今は大人になっているし勉学は関係ないぞ。

 

「まあ、それはともかくとして……れーいちお兄さん、今どこに向かっているのか、分かっているのかな」

「……分かんないな」

「安心してほしい。アタシも分からない」

 

 分かんないのかよ。

 

「正確には、目的地と呼べるものがないと言うべきかな。お仕事の内容は覚えてるよね」

 

 彼女が立ち止まったので俺も立ち止まる。

 ここから近くて、休憩できそうな場所は紫陽花公園くらいか。

 

 この町は彩色(いろどり)町。七つの色に因んだ区画に分かれていて、今いる場所は紫の名前を冠する場所だ。

 

 彼女のマントをちょいと掴んで公園に行こうと誘導する。

 それから確認された言葉を心の中で反復して答えを出した。

 

「えっと、またオカルトブームが来てて、紫鏡が最近のハイライトって話は聞いたぞ」

「よろしい。なら、紫の鏡の概要を述べよ」

 

 問題文を読み上げる教師みたいに人差し指を立てながら紅子さんが言う。

 いつもはそんな言い方しない癖に、今日に限って妙に格好つけたことを言うなぁ。

 

「紫鏡って言えば、確か20歳までに覚えていると不幸になるとか死ぬとか……まあそういう話だろ?」

「せぇかぁい。他にも、異界に連れて行かれるとか、対処法としてなにかの言葉を合わせて覚えているといいとか。色々あるけれど概要はそれでいいかな」

 

「よくある話だよねぇ」なんて口にしながら紅子さんはベンチに腰掛ける。

 俺も少し間を開けて座ってから、「でも仕事はあるんだろ?」と返した。

 

「そうそう、普通なら放っておけばいいんだよね。紫の鏡は形を持たない、噂だけの……いわゆる概念かな? ……そういうやつだから。〝同盟〟が出るような話じゃない」

 

 同盟。

 

 俺が紅子さんに連れ出され、紹介された〝人間以外〟の組織。

 人間に合わせて生きるために、人間に紛れている人外達の組織だ。

 弱い人外に人間に紛れる術を教えたり、自分で食べる分以外の人間の狩猟を禁じたりするところだな。

 

 つまり、〝取り締まれない〟から〝形のない〟紫鏡の噂は、普通なら仕事になるわけがないということだ。

 

 それなのにこうして俺達に仕事が回ってきているということは、〝なにかが起こる〟と同盟側が確信しているから、ということになる。

 

 同盟でも例外的に〝人間〟が出入りすることがある。

 

 それは俺のような……普通の人間として生きていけなくなった者だったり、神と恋をした人間だったり、そもそも怪異事件に巻き込まれる体質の人間を守るためだったり、理由は様々だ。

 

 俺は邪神に呪われている。

 この呪いがある間俺は暗躍して犯罪紛いのことをし続ける邪神の手駒という立場からは逃れられない。復讐したくても復讐することができない。この刃が届くことは決してない。

 

 そんなときに俺は紅子さんに出会い、この組織を紹介されたんだ。

 

 それは邪神の呪いを解くのを諦めきっていた俺の唯一の希望になった。

 だから彼女は俺にとって心の恩人で、そして……いつのまにか好きになっていた人……幽霊だ。

 

 こうやって彼女とバディになって怪異を斬って、そしていつかは強くなり、今度は邪神に牙を剥く。

 そのために俺は……我慢して小間使いを続けながらこうして同盟からの依頼を受けるのだ。

 

「噂はね、横行すればそれだけ力になるものだけれど、形がなければ意味がない。いくら水を注いでもそこに受け皿になる物がなければ溜まらないだろう?」

 

 ああ、それは前に教えてもらった。他ならない、彼女自身に。

 

「でもね、たとえば紫の鏡を知っている人間が20歳になるときも覚えていたとして、本当に不幸になったと考える人はどれくらいいるだろうね?」

「普通はいない……んじゃないか?」

「それがね、これが結構いるんだよ。不思議かな?」

 

 どちらかというとそんなことを知ってる紅子さんのほうに疑問が湧くが、黙って頷く。

 

「確率としてはそんなに高くはないよ。でもね、〝不幸になった〟定義なんて人それぞれなんだよ。不幸になると言われてる以上、〝怪我をした。もしかしてあのときの? 〟とか、〝遅刻した。あれのせいだ〟なんて理不尽な責任の押し付けみたいに、それこそピンからキリまで〝不幸〟とやらの定義がある」

「ああ」

 

 確かに人間の定義ほど曖昧なものはないよな、なんて考えながら彼女に相槌を打つ。余計な口出しは無用だ。

 

「チリも積もればなんとやら。そういう〝不幸になった〟という積み重ねで、人はいとも容易く信じ込んじゃうんだよ」

「だからこそ成り立つ怪異ってことか」

「うんうん。お兄さんもようやくこの仕事に慣れてきたようだし、アタシの言うことにも理解を示せるようになってくれてなによりだよ」

「案外紅子さんってオカルト好きだよな」

「別に? 特別好きではないよ。必要に迫られて覚えた受け売りが大半かな」

 

 なんだか闇を感じる言い方だ。

 あんまり深く考えたり訊いたりするとダメなやつなんじゃないかと思ってそこは聞き流す。

 彼女はこういうことを突っ込んで訊かれるのが嫌いだ。それくらい一年も一緒にいれば分かる。

 

「ところで、どうして紫の鏡が不幸になるなんて言われてるか、その発想がどこからなのかは分かるかな?」

「さ、さあ……それはさすがに分からないな」

「うんうん、そうだろうねぇ」

 

 赤い瞳で流し見るようにこちらに向いた彼女はニヤリと笑った。

 

「紫はね、あの世に通じる色なんだよ。本来の意味は高貴で手の届かないところの色ってことなんだけれどね。だからこそ、手の届かない〝あの世〟の色となり得るわけだ」

「冠位十二階とかの最高位だもんな」

「そんな小学生レベルの返事をされてもね……」

 

 呆れられてしまった。

 

「……はあ、ところでお兄さん。今日ではないけれど、ここ最近に学友達がね、少しだけ気になることを話していたんだよね」

「気になること?」

「うん、この辺で黒い三つ編みの男を何度も見かけたって話をだよ」

「ま、まあそりゃあ……あいつの屋敷があるのはこの紫紺地区だからな」

 

 黒い三つ編みの男。

 それは俺を無理矢理人とは違う世界に引っ張り込んだ元凶。現在、俺はあいつの眷属であり、オモチャであり、道具である。不本意ではあるが。

 

 その男の名前を。神内(じんない)千夜(せんや)

 本当の名を……這い寄る混沌。ニャルラトホテプという。

 

 正確には、怪異と同じく人々の想像と認識、そして信仰から生まれたニャルラトホテプという概念だ。そして、奴はその数多(あまた)存在する化身の一人ということらしいが、あいつが邪神であるのには変わらない。

 

 あいつ絡みの事件は数え切れないほどにあるが、そのどれもが後味の悪い結末になっている。暗躍しながら人間を悪い方向へ突き落とす最悪な愉快犯野郎だ。

 

「そんなに憎しみのこもった顔をしないでくれるかな。ただでさえ目つきが悪いんだから、怖いよ。おにーさん」

「あ、ごめん……つい」

「憎むのは仕方ないけれどね……とまあ、邪神が関わっているわけだ。内容がろくでもないことになるのは間違いないよ」

「なら、まずはあいつがなにをしていたのかを聞き込みするべきか」

「そうだね、じゃあ手分けをしようかな」

「……ああ」

 

 人付き合いが苦手な俺は憂鬱になりつつも紅子さんと別れ、必死に聞き込みを始めるのだった。

 



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【推理】事件が起こるのは何処?

 

 

「さて、調査で分かったことは二つだね。神内さんは大切な人を亡くしている人……特別心を病んでる人をターゲットに声をかけ、死んだ人間に会える方法とやらを説いている。それが紫の鏡だね」

「で、もう一つは……その声をかけられた人間が紫色の塗料を買い占めてるってことだな」

 

 鏡は別に買い占められてるわけじゃないし、それぞれの家庭でそれぞれの鏡を使うってことでいいんだろうか。紫色の塗料はともかく、鏡なんてどこの家にも当然のことながらあるものだからな。

 鏡がないとしたら、よほど自分の顔を嫌っているか、鏡の中の自分に取って代わられるなんて思っているような変わり者くらいだろう。

 後者の話は実のところ、この街においては全くありえないわけではないのだが。

 

「っていうか、紫の鏡を20歳までに覚えてると不幸になるとか、死ぬとかの話は結局関係ないじゃないか」

「別の側面を利用しているみたいだね。学生の間で流行っている紫の鏡はスタンダードなやつだったから、てっきりそっちの意味だと思っていたよ」

 

 紫の鏡に「思い出しちゃった!」なんてわーきゃー言うくらいなら、害はないからな。不幸の概念が大きくなりすぎて目に見えるくらいになった、とかそういう事例にでも行き遭うのかと思った。

 

「でもねぇ、確かに大勢の人間が一斉に紫鏡を実行したら、あの世との繋がりが少しだけ濃くなるだろうけれど……さすがに普通の鏡じゃあ、死んだ人に会えるほどじゃないかな。精々ブラッディ・マリーに行き遭う程度だよ」

 

 ブラッディ・マリー? カクテルか? いや、さすがにそれはないか。俺はそれしか分からないんだが。

 

「なにかな、その顔……もしかしてブラッディ・マリーを知らない?」

「いや、ブラッディ・マリーって言えばカクテルの名前だろ? 分かるよ」

「分かってないじゃないか」

 

 紅子さんはあちゃーとでも言うように顔を手で覆って溜め息を吐いた。

 

「ブラッディ・マリーっていうのは、アメリカの都市伝説だよ。ロウソクを灯しながらとか、その場で三回回るとか、そういう手順を踏んでから、鏡に向かって三回その名前を言うんだ。すると、鏡の中に血塗れの女性の幽霊が現れるってお話だね」

「ああ、なるほど。日本(こっち)で言う花子さんみたいなもんか。だから鏡の中で行き遭う……ね。いや、死んだ人に会えるんじゃないか」

 

 それならあの世の繋がりは濃いだろ。

 

「〝特定の人物〟に会えるわけじゃないって言いたいんだよ。ねえ、お兄さん。人に説明するジョークほど虚しいものってないものだよ?」

 

 責めるような視線から逃げるように俺は目線を逸らし、話を無理矢理元に戻すために、「普通の鏡じゃ特定の死者との対面なんてできないんだよな。ならなんであいつはそんな噂をばらまいてるんだろう」と続けた。

 

 邪神ニャルラトホテプこと、神内千夜は無意味な工作なんてしない。あいつは必ず人間の絶望が見られるような、そういう暗躍しかしないのだ。

 それにはある種の確信というか、悪い意味での信頼が積まれているわけだ。

 つまり、裏がある。どこかに必ずだ。

 

「カクテルなんていうちょっとお洒落なものに憧れて大人ぶってるのは悪いとは言わないけれど……」

「ちょっと不憫そうに言うなよ。というか、俺は23歳なんだから大人だ。偏見にもほどがあるだろ!」

「ねえ、お兄さん。精神年齢って体とは必ずしも比例しないんだよ」

「子供っぽくて悪かったな!」

 

 閑話休題。

 話題を逸らすことに失敗して更に別方向にハンドルを切るところだった。

 

「……話を整理しよう、紅子さん」

「はいはい、いくらでも付き合いますよ。アタシもまだ分からないからね。あの神様についてはキミが一番よく知ってるだろうし……不本意だろうけれど」

「俺の不幸が役に立つんなら、それに越したことはない。今は紅子さんがいるから、苦じゃないしな」

「……それはなにより。おだててもなぁんにも出やしないよ」

「照れてる?」

「照れてない」

 

 照れてるな。

 実際、俺は紅子さんの存在にかなり救われているから、本当のことしか言ってないわけだけれど。

 

「お兄さん、お洒落な赤い上着はいかがかなぁ」

「おいおい、殺人予告をするなよ」

 

 〝赤いちゃんちゃんこ〟の由来は、首を引き裂かれて服が真っ赤なちゃんちゃんこを着たようにさせられるからだ。脅し文句としては最上級に怖いぞ。

 

「……というか、人殺しはしない主義の癖に。照れ隠しがバレバレなんだよ」

「あのね、アタシは今怒ってるの。空気の読めない残念なお兄さんにね。深追いすればするほどアタシはお兄さんが嫌いになっていくだけだよ。分かる?いつも言ってるよねぇ。アタシ、おにーさんのそういうところが大っ嫌い」

「わ、ごめん。本当にごめん」

 

 さっき突っ込んで訊くのはダメだと考えていたくせにこの有様だ。

 23歳の俺が歳下の子に甘えるとかどうなんだ。ダメだろ。もっとちゃんとしていないと……実年齢でも紅子さんは20歳で歳下なんだからさ。

 いやしかし、紅子さんが塩対応をするのは俺にだけだと思うと満更でもないんだが……

 

「なにそのにやけ顔……お兄さん、余計なこと考えてるでしょう」

「ん、い、いや、ごめん」

「おにーさんのスケベ」

「いや! それは違うからな? 決して変なことは考えてないから! ごめんって紅子さん!」

「謝るってことは肯定してるも同然なんだよ。分かるかな? ……はあ、で、結局情報の整理をするんじゃなかったのかな」

 

 呆れ顔で話を戻す紅子さんに弁明するのをやめ、そういえばそうだったなと一つ咳払いをする。

 今日は何回彼女の呆れ顔を見ることになるのだろうか……本気で軽蔑されないだけ、まだマシではあるはずなんだが。

 

「まずは、神内のやつが〝死者と会って会話することができる方法〟として紫鏡を噂で広めていたんだったな」

「そう。それで、間に受けた人々が紫色の塗料を買い占めている」

「鏡は特に買い占められたりはしていない」

 

 紅子さんが頷く。

 首を傾げながらだったために、さらりと流れるように前髪が揺れた。

 俺の方が遥かに身長も座高も高いために、座っていても自然と上目遣いをされる形になってしまう。恋を自覚したばかりの俺には色々と心臓に悪い。

 

「でも、大勢が手鏡で紫鏡をするくらいじゃあの世との繋がりはそれほど濃くはならない……と」

「そう、詐欺師みたいなことになるよね。これで神内さんが得られるのは人々の〝絶望〟じゃなくて、精々〝落胆〟くらいだし」

「あいつなら、そんなぬるい結末で満足するはずがないな」

「そこで、まだ裏があるはずなんだけど……」

「なあ、姿見を使ったとしてもそこまであの世との繋がりは濃くならないんだろ?」

「恐らくね……そっか、もっと大きな鏡じゃないと死者とご対面できるほどの繋がりはできない。なら、そのもっと大きな鏡を探せばいいのかな」

 

 鏡。

 でもそんなに大きな鏡なんてあるか? 

 姿見以上の、大きな鏡。昔は学校の体育館とか、武道場なんかに大きな鏡が設置してあったりしたが……その、とうの学校に通っている紅子さんがなにも言わないということはそういうのはないんだろうしな。

 

 あとはダンス教室の鏡とか? 

 しかし、それでも足りるかどうかは分からないしな。大きな鏡に使うために塗料を買い占めているのだとしたら、もっともっと大きななにかが必要になるはず。

 

「鏡……」

「鏡、映すもの……うーん、アタシ達も鏡を使って異界に移動しているから、普通思いつきそうなものなんだけれど」

 

 紅子さんの住居は高校生の一人暮らしの都合上、〝こちら側〟にはないからな。こちらと同じくらい広い、鏡の世界が怪異達が住んでいる場所だ。

 だからここまで思い浮かばないとは思っていなかった。

 

 息抜きに、こめかみを押さえつつ紫陽花公園をぐるりと見渡す。

 まだ時期じゃないから紫陽花は咲いていないが、景色はいい。近くにある川からときおり鯉かなにかが跳ねる音が聴こえて……

 

「そうだ!」

「え、なに。分かったのお兄さん」

「池だ。池だよ紅子さん! 大きな水の塊……池ならこちら側を映す鏡になるだろ!」

「池、か。うん、そうだね……思いつかなかったのがちょっと悔しいな。大きな池なら公園にいくらでもあるからね……」

「でも、場所は分からないよな。彩色町って公園も多いし、川も池もたくさんあるから……儀式的に利用するなら一箇所だけだと思うんだが」

 

 俺の言葉で考えるように黙り込んでいた紅子さんは、自分のスマホを取り出すとなにごとか操作し始めた。

 

「なにか分かったのか?」

「ちょっと、この街の地図をね……だって〝紫鏡〟なんだよ? あの世に繋げるために紫鏡を利用するというのなら……最も繋がりの強い場所にするはずだからね」

 

 紫。色の名前から名付けられることの多いこの街には、該当箇所が多い。

 特に今、俺達がいるのは……〝紫紺(しこん)〟地区だ。

 

「紫紺地区内で、特に大きな池のある紫の名前を持つ公園。紫の名前を持つ池。そうやって絞れば……ほら、出た」

 

 スマホに映し出されていた場所の名前は──紫紺地区、紫雲公園、紫苑池。

 

 間違いない、ここだ。



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あの世の色を冠する場所

「紫雲は極楽浄土を表すから、御誂(おあつら)え向きだね」

 

 見事に紫塗れだな。

 当たり前だが、紫を冠する地区と言っても全部に紫の名前がついているわけではない。じゃないと一箇所に絞れなかっただろうな。

 

「しかしあの世の紫なあ……なんか釣れそうで嫌だな」

「発想があまりにも貧困かな。まあ、釣れたとしても……化け物しか釣れないだろうけれど」

「化け物?」

 

 ベンチに座ったまま首を傾ける。

 紅子さんは仕方がないなとでも言うように微笑んで、話を続けた。

 

「そう、化け物。池があの世に繋がっているということは、その先は水場なわけだよ。さて、お兄さん。あの世の水場と言えば?」

「さ、三途の川……とか」

 

 それしかない、よな? 

 

「正解。三途の川にいる生き物は大昔に滅びた水生生物とか、川に落ちた罪人を食べるやばい化け物しかいないよ」

「へえ……たとえば、なにがいるんだろうな」

 

 彼女は目を瞬かせてすぐに答えた。

 

「海王類とか?」

「こわっ、いや、ねーよ。架空の奴じゃないか」

 

 そんなものが現実にいてたまるか。

 

「冗談だよ、冗談。精々海竜とか……クラーケンとか……ジョーズとか……」

「余計怖いわ! っていうか、海竜とかクラーケンはいそうだからともかく、ジョーズは架空の話だろ」

「海竜もクラーケンも、ほとんどの人はいないと思ってるだろうけれどね。アタシ達はドラゴンもリヴァイアサンも見たことがあるから、そう信じられるだけで」

 

 ドラゴンもリヴァイアサンも見たことがあるっていう嘘みたいな事実も、残念ながら肯定するしかないんだよな。どっちも人型に化けてたけれど。

 

「えっとね、ジョーズみたいに1匹のサメが複数の人を襲った話はないけれど、あの映画の元となった小説には、更に元にしたサメの事件というものがあるんだよ。ま、それは自分で調べてほしいかな」

「うわ……ってことは、本当に化け物が釣れるかもしれないってことか」

「うん、だから紫鏡中に釣り糸なんて垂らさないようにね」

「やるわけないだろ。例えばの話だよ」

 

 そもそも釣り糸なんて持ってないからな。

 

「知ってる。さて、ちょうど暗くなってきたことだし……頃合いかな」

「そうだな」

 

 現在時刻は午後7時。比較的明るい黄昏時から春宵(しゅんしょう)に変わる頃だ。儀式めいたものが始まるならば、よりあの世に近くなる時間帯……逢魔が刻か、丑三つ時か。直近なら、今がちょうど逢魔が刻くらいだ。

 

「紅子さん、寒くないか?」

 

 昼間は日差しが強すぎるくらいだったが、今は風が少し冷たいくらいだ。

 紅子さんは半袖のセーラー服姿ではあるが、長めの赤いマントのような、ポンチョのような上着を羽織っている。冬場も本来の姿は変わらなかったが、後からマフラーをしたり、コートを更に羽織ったりしていたから、寒いものは寒いのだろう。

 

「春にはなったものの、まだ夜は涼しいよねぇ。どう? アタシは寒いのかな」

 

 ベンチの空白を詰めた彼女の手が、そっと俺の頬に押し当てられる。

 およそ体温というものが感じにくい、真っ白な手。体温がないわけではないのだろう。でも、普通の女子高生よりもずっと低いだろうその手。

 本来は幽霊なのだから当然ではあるが、少しだけ寂しくなった。

 

 頬に当てられた手に自分の手を重ねて「……寒いんじゃないかな。こんなに手、冷たいし」と呟くと、おかしそうに笑って紅子さんは手をするりと抜いてしまう。

 

「お触り禁止かな」

「自分から触れてきたくせになに言ってるんだよ」

 

 悪戯気な表情で「そうだったね」なんて言う彼女は、見間違いでなければほんの少しだけ頬が紅潮しているように思えた。

 自分でやっておいて恥ずかしくなったのかもしれない。とんだ自爆だが、そんなところが俺は好きなんだよなあ。

 

「このあと、どうしようかな」

「移動……しておくか」

「そうだね、いつ始まってもおかしくないから……もしかして、既に始まっていたりして」

「気の早い人がいたら、そうかもしれないな」

 

 紅子さんの授業終わりに待ち合わせをして、二人で紫陽花公園までやってきて、聞き込みをして、議論を交わし合った。

 結論が出てからも軽い雑談をしていたために、結構な時間が経ってしまっている。行かなくては。

 

 自然に紅子さんの手に自身の手を伸ばすが、彼女はそれに気がつくと、またもやするりと幽霊のように抜け出て一歩、二歩と離れてしまう。

 

「〝おにさん〟こちら、てのなるほうへ……お兄さんだけに」

「なに上手いこと言ったみたいな顔してんだよ」

 

 ちろり、と舌を出して悪戯気に笑う。

 こういうところだけは見た目相応なんだか、子供っぽいんだか……

 

「ふふふ、さっきも言ったけれど、お触り禁止。手を繋ぐ行為は有料コンテンツだよ」

「あー、はいはい。で、いくらなんです?」

「……んん、冗談だよ。分かってるだろうに、意地悪だなぁ。そう真顔で財布を探し始めるのやめてくれないかな。変態みたいだよ」

「いつもからかってくるのは紅子さんのほうだろ。意趣返しくらい少しはさせてくれ」

 

 それに、俺が財布探す素ぶりしたのもポーズに決まってるだろ。一緒にいるときの八割くらいはいいようにからかわれるこっちの身にもなってくれ。

 

 あと、一言余計だ。変態じゃない。ポーズなんだから本気で金を出してでも手を繋ぎたいとか思ったわけではない。たとえそれで手を繋げるとしても、そんなものに価値なんてあるものか。

 

「はあ、(じゃ)れあいはこれくらいにしておこうか。これはお仕事なんだからね」

「分かってるよ」

 

 どちらかというと紅子さんが変な絡みかたをしてくるから、それに対応しているうちに足止めされているような状態になるんだ。

 口の回る紅子さんと言葉遊びをしていると、いつのまにか時間が過ぎていってしまう。

 

「紫雲公園はこっちの方面だね」

「迷わないでくれよ」

「そう思うならお兄さんも地図アプリ起動しなよ。アタシにだけ任せてお兄さんはついて歩くだけだなんて恥ずかしくないの? ついて歩くだけだなんて、そんなの生まれたばかりのヒヨコでもできるよ」

 

 黙ってアプリを開いた。

 別に傷ついてなんかない。本当のことだしな。

 しかし、まあ、年下の子に先導させて任せっきりだなんて普通はしないよな。恥ずかしい大人になるところだった。心の片隅で忠告に感謝する。

 

「紅子さん、こっちだ」

「あれ?」

 

 方向音痴か。

 

「……えっと、細かいことは」

「苦手、なんだろ」

「…………うん」

 

 恥ずかしそうにしゅんとした彼女のマントを引っ張り、誘導する。

 手を繋ごうとしないのは先程逃げられてしまったから、その気遣いだ。彼女の意に添わぬなら、俺は普通に我慢するだけだ。

 

 だって、まだ告白すらしたこともないしな。

 恋を自覚してからそれなりに時間は経っているが、今のままでは……拒絶されるのがオチだ。

 

 彼女はどこか気安く、下ネタでからかってきたり、思わせぶりなことをしたりと俺を散々弄んでくれているが、その実深く切り込もうとすると強固な壁で阻まれる。

 いや、違うな。掴もうと思っても、そこに彼女はもういない。

 

 〝幽霊〟

 

 まさにそんな感じなのだ。

 性急にしてもいいことはない。焦るあまりに俺が行動すれば、二度と彼女は顔を見せてくれなくなるだろうな。そんな漠然とした、しかしはっきりとした予感がする。矛盾しているが、気持ち的にそうとしか言い表せないのだから仕方ない。

 

 たまにスマホの地図を見ながら二人で歩き、30分程の徒歩の時間。

 軽口を叩いてばかりの彼女は、一言も。そして俺自身も、一言も喋らなかった。



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浮遊霊千本ノック

 紫雲公園は砂場とブランコと滑り台くらいしかない紫陽花公園とは違い、結構大きなところのようだった。

 この地区で一番大きくて、子供達に人気のアスレチックのある公園らしい。

 

 公園脇の花壇には矢車菊が見事に開花している。菊、か。これはまた……偶然か、そうでないのかは分からないが、〝あの世〟が近くなる条件を満たしている。菊と言えば墓前に添える花だからな。

 

 これが彼岸の時期とかなら、もっとそれっぽくなっただろうか? 

 ……いや、彼岸花は赤色の〝梅重(うめがさね)〟地区のほうが恐ろしいほどに生える。あの世を連想する花とはいえ、今回の〝紫鏡〟には関係ないな。

 

「もう8時か……」

「長くなったら嫌だねぇ」

 

 俺の言葉に反応し、紅子さんは呟く。

 そういえば、公園で話していただけだから夕飯もまだだな。

 お腹は空いているが……今まで気づかなかった。いや、気にならなかったといえばいいのか? 紅子さんと一緒だと時間が経つのもあっという間だな。

 

「こんな時間に人がいる……やっぱりここで当たりか?」

 

 公園の中を池を目指して歩いて行くと、ときおり人とすれ違ったり、遠くに人影が見えたりする。こんな時間だと普通は弾き語りや、楽器の練習をしている極少数の人しか見ないものだけれど、今日はやたらと人が多いらしい。

 ……いや、ここの公園に来たことなんてないのだが。一般論として。

 

「正解といえば正解だけれどね、その認識は不正解とも言えるかな」

「つまり、どっちだ?」

「あれ、浮遊霊だよ。分かんない? 見えすぎるのもちょっと問題かな」

「えっ、今までの人全部がか!?」

「そうだよ。今のところアタシが把握してる、生きて正気の人間は下土井(しもどい)令一(れいいち)さん……キミだけ」

 

 そういえば、公園の中に入ってから肌寒さが増したような気がする。気がするだけかもしれないが、こういうのは気持ちから侵食されていくものだ。〝気をつけて〟おこう。

 

「これだけ浮遊霊が引き寄せられてるってことは当たりだね。もう始まっている。時間が経つにつれて異界に近づいていってしまうから、天然の結界が出来上がる前に人間の避難と、浮遊霊を彼岸に返す作業だ」

「彼岸に返すって……どうやって?」

 

 俺達は浄霊なんてできないだろ。

 

「通り道になってる池に叩き込む。それだけ」

「……紅子さんって、意外と脳筋思考だよな」

「細かいことをやるのは苦手かな」

 

 やるべきことはとりあえず把握した。

 叩き込むだけなら俺でもできそうだ。

 

「リン、リン、起きろ」

「きゅ……」

 

 俺は鞄を前に持ち、そっと開いて中で寝ていた影に声をかける。

 くあぁ、と大口を開けてあくびをしてからくりくりとした黄色い爬虫類の瞳がこちらを見上げた。

 

「リン、もうすぐ出番だ」

「んきゅい」

 

 鞄から文字通り飛び出てきたのは手のひらサイズの赤いドラゴン。

 同盟の創設者に赤い竜がいるのだが、この小さなドラゴンはその鱗の一枚だ。

 

(こいつ)は、俺がニャルラトホテプをぶった切った刀に打ち直し、今では刀に宿った赤い竜の分け御霊(みたま)……という少しややこしい存在になっている。

 俺の武器そのものであるわけだし、本番が近い今のうちに起きてもらうのが一番だろう。

 

 普段はどこぞのカードをキャプチャーする小学生のマスコットのように鞄の中にぬいぐるみよろしく入って過ごしてもらっている。

 今日は中に入れていたお菓子も全部食べてしまったようだ。太るぞ。

 

「紅子さん、人気(ひとけ)は完全にないんだな?」

「うん、生きて正気を保っているのはお兄さんだけ。あとは浮遊霊に脅かされて逃げ帰ろうとしてる人だとか、盲目的すぎて既に正気じゃない人とか、まあそんな感じみたいだね」

「なら、いいか」

 

 リンが手のひらの中に収まり、緋色の刀身の打刀(うちがたな)に変化する。刀身には爬虫類の鱗のような模様が走り、まるで手に吸い付くように重さを感じさせない。

 

 〝赤竜刀(せきりゅうとう)

 

 それがこいつの(なまえ)だ。

 銃刀法違反? 既に周囲には人気がないのも確認したし、オカルト的異常が起きている現場では磁場が狂って電子機器は大体おかしくなる。監視カメラがあったとしても、砂嵐しか残らないだろうな。

 

 もし、超常的ななにか映ってたとしてもまともに受け取る人間はそういないだろうし、赤竜刀のことがバレても普段はミニドラゴンの姿なので刀が見つかることはない。問題なんてないな。

 

「……見事に紫色の池になっているね」

 

 池の周囲に辿り着き、紅子さんは静かに言った。

 

「これ、どうやって後始末するんだよ」

「初めから後始末の心配? そんなこと言ってるから女性を楽しませることができないんだよ」

「は? なにがだよ」

「だからおにーさんはいつまで経っても、20歳すぎても筋金入りの童貞だってこと」

「余計なお世話だよ!」

「ああ、違うね。失礼、相手がいないんじゃあ、そのシミュレートも意味がないね」

「ええ、謝るのはそっちなのか……」

 

 成人してから初めて恋をした女の子に、手酷く下ネタでからかわれる。俺が一体なにをしたっていうんだ。

 

「相手に、なってあげようか?」

「え」

 

 一瞬、脳裏をいろんな妄想が過っていったが、それを必死に追い出して顔を覆う。

 

「冗談だよ」

 

 知ってた。現実は非情だ。

 

「嘘は嫌いなんじゃなかったか?」

「嘘は言うのも言われるのも嫌いだよ? ま、冗談は言うけどね」

 

 未練がましく深追いするつもりは、ない。

 

「ねえ、お兄さん」

「ん? なんだよ」

「ちょっと水面、触ってみてくれないかな」

「なんで俺が?」

「キミじゃないと……ダメなんだよ」

 

 言い方があまりにも卑怯だった。

 反射的に伸びた左の手のひらが水の中に……沈まずに硬いものに触れる。

 まるで水面全体が薄氷のように固まっている。そう、〝紫色の鏡〟のように。

 

「アタシはほら……すり抜けちゃうでしょ?」

「わっ、本当だ」

 

 俺の隣にしゃがみこみ、紅子さんも水面に手を伸ばす。その結果は、普通に水の中に手が沈むだけだった。

 隣の俺が、水中に手を差し入れられずにいるのに、彼女は実にあっさりと手を水に浸している。

 理由は訊かなくてもなんとなくわかった。

 

 〝幽霊〟

 

 つまり、あの世の者だから。

 紫の鏡を通してあの世の者が来るんだったら、紅子さんがその中に入ることができるというのも自明の理だ。

 俺に鏡のように固まった水面を触らせたのも、彼女だとすり抜けてしまうからだろう。

 

 水の中の俺は紫がかった黒い瞳でこちらを見つめる。ゆらり、ゆらりと風もないのに波立つ水面が不気味だった。

 

「なあに、お兄さん。鏡の自分と向き合っちゃって。ナルシストなのかな?それとも鏡の向こうの自分と入れ替わりたいの?」

「い、いや…… なんでもない」

 

 べ、別に水面からなにか飛び出すかもなんて考えてないぞ。こんなの今更だし、怖いとか思ってないからな。

 

「あー、さっさと終わらせて夕飯にでもしような」

 

 精一杯の話題逸らし。しかし、紅子さんは「仕方ないねぇ」とでも言うような顔をして話を合わせてくる。

 

「遅い夕飯だけれどね。どこに行くの? 外食?」

「俺が作るよ。キッチン、借りるからな」

 

 俺がそう言うと紅子さんはきょとりと目を瞬いて、「……ふうん、そう。ありがとう」と言葉を零し、そのまま背を向けてたったったっと浮遊霊達が集まっている方へ向かった。

 照れている……のだろうか。そうだったらいいな。

 

 俺も池の端から立ち上がり、刀を構え直す。

 それから近くに寄ってきた高齢の男性の姿をした浮遊霊を峰で池の中に叩き落とす。

 

『な、なんてことするんだぁ! これだから若いもんはぁ』

「あ、あんた! あんた! あたしの夫になにするのよぉ!」

 

 なんだろう、この罪悪感。

 

 紅子さんはいつものように手のひらサイズの〝ガラス片〟を持ち、闇の中から突然現れてみたり、人魂に変化して不意打ちしたりで浮遊霊をあちら側に戻す作業をしている。飛んだり跳ねたり、浮遊できるわけでもなく、完全に身体能力で行なっているはずなのにすごいな。しかも闇夜に紛れて不意打(ふいう)っているからか、あまり生身の人間には見られていないみたいだ。

 

 それに比べて俺は……発狂しているとはいえ、刀でこの場にいる人間の大切な幽霊を打ちのめしながら池に落としている男になっている……そんなの、見ている側からすれば悪魔の所業じゃないか。

 罪悪感が酷い。

 

 そうやって罪悪感と戦いながらも黙って浮遊霊をバッティングしているのだが、次から次へと浮遊霊が周囲に集まってきてしまってまるでキリがない。

 

 なんせ池から出てくるのもいれば、この場のあの世に近づいた雰囲気に引き寄せられて街から集まってくる浮遊霊もいるのだ。

 普段見えないやつや、隠れているタイプのやつ、それに動物霊まで引き寄せているから、二人で〝お引き取り〟作業をやっていると追いつかない。

 

 このままじゃ夕飯どころではなく、夜明けまでやっていても終わらなさそうだ。

 こうなったら、あの鏡をどうにかするしかないだろう。

 しかし、鏡になっているとはいえ、池に撒かれた紫色の塗料を回収するなんて到底できやしないことだろうし……一体どうすればこの無意味な〝千本ノック〟が終わるのやら。

 

「お兄さん、赤竜刀であの鏡を割ってきてくれるかな。多分それならできるはずだよ。その刀は〝無謀〟を斬るんでしょ」

「水に溶けた塗料を取り除く無謀さ……ね。いけるかな」

「やってみるしかないかな。そうやってできるわけがないって思うものほど斬ってみる価値はあると思うよ」

「分かった。やってみる」

 

 千本ノック開始から一時間ほどだろうか……いや、もっとか。

 現在時刻は23時、深夜。あの世との繋がりが濃くなる時間帯。

 そして、着実に〝なにかが起こる〟だろう時間帯でもあった。

 

 ゆうらり、と風もないのに水面が凪ぐ。

 俺が池に刀を突き立ててやろうと向かい始めた、そのときだった。

 まず、水面から巨大な甲殻類の(あし)のようなものが突き出た。それから、空中を漂っていた浮遊霊に向けてその脚が鋭く伸ばされる。

 浮遊霊が跳ね上がるように飛ばされるのを見て、水面から出てきた脚に殴られたのだと初めて理解した。

 

 脚が、突き出たような複眼が、蛇腹のような甲殻が、池の中から顔を出す。

 その姿はまるで地面に掘った巣穴から顔を出しているようで、それが自然の姿だと言わんばかりに紫色の水面全体を覆ってしまっている。

 

「お兄さん!」

「な、なんだあれ……エビ?」

 

 間抜けな声が出てくるのも仕方がないだろう。

 俺は、そんな生き物見たことがなかった。いや、もしかしたらあったのかもしれないが、少なくともすぐに思いつくような身近な存在ではなかった。

 

「釣れちゃったねぇ……」

「え、あ?そ、そうなるのか……?」

「もう、お兄さんがフラグになるようなこと言うから」

「俺のせいではないだろ!」

 

池から顔を出しているのはまさに〝化け物〟だ。

サメとかクラーケンとか、さっき想像していたようなものではなかったが、どんな生物でも見上げるような大きさがあれば立派な化け物だろう。

 

そいつは……シャコ。

10メートル以上はありそうな、巨大な化け物シャコだった。



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魂喰らいの化け物

「お兄さん、絶対に生身であの前脚の近くにいっちゃダメだよ」

「あ、ああ」

 

 先程そのパンチの威力を見たから、当然当たりそうな場所に立とうとは思えない。普段の俺じゃあ、反射で避けることすらできないだろう。

 

「あっ」

 

 思わず、声が漏れた。

 巨大な、10メートルはありそうなその生き物は先程ぶちのめした浮遊霊が浮力を無くして下に落ちると、素早く池の中から体を余すことなく全て出してその上に覆いかぶさり……10秒ほどで、実にあっさりと〝巣〟に戻る。

 

 奴が体を退かして戻れば、浮遊霊は跡形もなくどこにもなくなっていた。

 

「浮遊霊を食ってる……」

「魂を食べるシャコだね……場が出来すぎていたから、ここを巣にしようと出てきたのかな」

 

 シャコ。

 そう、あれは巨大なシャコの化け物だ。

 あまりにも巨大すぎて、エビのフォルムが少し苦手な俺はシャコのあの形も気持ち悪くて仕方がない。

 

 おまけに魂を食べるとかいう厄介な生態をしているようだし、生理的に受け付けないという体験を始めてしたかもしれない。

 ……嘘だ。〝生理的に無理〟初体験は俺の雇い主のクソ野郎(ニャルラトホテプ)だった。

 

 悲鳴が上がる。

 逃げ出す人々は、あの世に近づきすぎたこの公園の中を縦横無尽に走り回ったり隠れたりするが、この公園から出ることはできない。

 天然の結界。無理矢理外に出ようとすれば元の場所ではなく、異界に落ちていくことになるだろうな。

 余程変なことをしない限り、公園の中を延々とループし続けるくらいだろうが……

 

「なんでシャコが、魂を食うんだよ」

「確か……シャコって雑食故に、沈んだ死体も食べるって言うよね」

「うっ、やめろよ……シャコが食えなくなるだろ……」

「雑食の水生生物なんてそんなものだよ。気にするだけ無駄だよ、無駄。さて、あれをどうやって殺そうか」

 

 やっぱりあれは殺すしかないのか。

 

「浮遊霊を食べるだけなら、食性のひとつだからいいんだけれど……ノックアウトしたまま放置してるのもいるし、なによりあれが力をつけて〝こちら側〟に来れるようになっちゃったら怪獣映画の始まり始まりってなるからね」

 

 殺戮はご法度。そんな同盟のルールに抵触する。そういうことか。

 あれには理性も知性もないだろうし、食い散らかすだけの怪物は交渉も説得もできない。なら、殺すしかない、と。

 

「異界で巣を張ってるだけなら見逃せたんだけれど、こうやって現世に出てこられちゃうとさ、餌場として覚えちゃうからねぇ」

 

 撃退しても、何度でもやってくるというわけか。

 

「さて、やろうか」

「待て、紅子さん。君は手を出さないで人間の避難誘導をしてほしい」

「……それは、アタシの選択肢を奪おうってこと?」

 

 紅子さんの赤い瞳が鋭さを増す。

 

「違うよ。紅子さんが幽霊だからだ」

 

 そう、彼女もあの巨大シャコの標的の一人になりかねない。

 俺としては、それだけは勘弁願いたい。

 初恋の人だからとか、俺の恩人だからとか、色々と理由はあるが…… なにより、身近な人が俺の側から離れていく経験はもう二度としたくないからだ。

 

「アタシは怪異だから、死んでも噂の力でまた復活するよ?」

「あれは魂を食べるんだろ。紅子さんの身体はいつも復活するかもしれない。でも紅子さんの魂はそこにある、ひとつだけだろ」

「……しょうがないなぁ。相性が悪いのは確かだね。アタシじゃあ、シャコの殻を破れるほどの攻撃はできないだろうし。でも、囮は必要じゃないかな」

 

 どうしてこの人はこう……危ない橋を積極的に渡ろうとするのか。

 

「囮なんていらねーよ」

「でも、さっき見たでしょ? あのシャコ、巣から出てるところは甲殻で覆われてるけれど、お尻の方はほとんど肉の塊だったじゃない。そっちを襲ったほうがダメージ通るよ、きっと」

「だから、いらないっての」

「強情だねぇ」

「紅子さんこそ。俺は絶対に譲らないからな。浮遊霊もこれ以上食わせないし、紅子さんを囮にもしない」

「そうしたら、アレが尻尾を出す瞬間なんてなくなるじゃないか」

「甲殻ごと俺がぶち破る。そう言ってるんだよ!」

 

 口論気味になり、そして最後はだいぶ声を荒げてしまって後悔した。

 彼女を怒鳴るようなつもりはなかったのだ。自己犠牲よりももっとタチの悪い、自らを〝復活するから死んでも大丈夫〟なんて思っている紅子さんに対して、怒りが先行してしまった。

 俺はただ、そんなこと言って欲しくないだけなんだけれど……怒鳴ったら意味なんてないな。

 

「ごめん、紅子さん」

「いや、いいよ。お兄さんの言いたいことは分かった。びっくりした。お兄さんってアタシに怒ることができたんだね」

「そりゃ、俺だって思うところはなくもないし」

「そう、アタシが大丈夫だって言ってても嫌なんだね?」

「ああ、こういうのは役割分担って言うんだよ。お願いだからさ、俺の気持ちも少しは汲んでくれ」

「……そういうことなら分かったよ。そういえば、いつもは一緒にやってるから、キミの勇姿ををしっかりと見たことがなかったね。だから、今回はしっかりと見させてもらう。キミのことを、しっかりとね」

 

 やはり、言い方が卑怯な紅子さんだった。

 

「行ってくる」

「行ってらっしゃい、令一さん」

 

 普段呼ばれない名前を呼んでくれるだけで俺は頑張れるよ。ありがとう、紅子さん。

 

 背を向けて、シャコの元へ走る。

 赤い刀身の刀を構えて、集中。

 

 この赤竜刀はニャルラトホテプの触手を斬ったときから〝無貌(むぼう)斬り〟にもなったが、その起源は〝無謀(むぼう)を斬り、勇猛に変える刀〟だ。

 

 挑む相手が巨大なほど、強いほど、心理的、物理的に勝てそうもない相手であればあるほど、その一撃の威力が増す刀。

 使い手の俺が人間だからこそ実力を最大限に発揮する。そういう刀だ。

 

 相手の巨大さに対する恐怖や、本当に斬れるのか? という迷い。それをこの刀は吸い取り、力にしている。

 故に、俺の中から迷いは断たれ、前に進みあいつを斬ると決意した勇気だけが残る。

 

 長期戦は無しだ。避難誘導中の紅子さんに目をつけられたら役割分担をした意味がない。なにより啖呵を切った以上、彼女に近づけさせるなんて失態は許されないし、俺自身が許せない。

 

 

 ――「一撃でやってやる!」

 

 

 前脚の伸びてくる速度は人間の目玉では到底見えはしない。

 けれど、赤竜刀を手にしている今、このときはこの刀が……リンが俺の体に働きかけ、補正をかけてくれている。

 目の前に集中すれば、いつもよりもよく視える目が巨大シャコが攻撃する前兆を捉えた。

 

 構えたまま正面から近づき、前脚が伸びてくる直前に横へずれて刀を前脚の伸びてくる軌道上に滑らせる。

 縦に斬られた脚が真横に落ちるのを横目に、もう片方の前脚が伸びてくる前に跳躍。

 俺のいた場所を通り過ぎる前脚に着地し、ツルツルと滑るその脚の上を駆け上がっていく。

 

 背中まで移動すればあとはこっちのものだ。

 

 硬い甲殻に通用しないかもしれない? 一瞬だけ(よぎ)った迷いは最後の一押しとなって、更に赤竜刀の斬れ味が増していく。

 俺は迷いなく、一直線に、甲殻と甲殻の隙間に滑らせるように、全体重を乗せてぶち抜いた。

 

 金属を何個も何個も打ち鳴らすような、そんな不快な悲鳴をあげてシャコの体が仰け反る。

 

 更に両手に力を込めれば、シャコは鮮やかな紫色の煙となってその場から霧散した。

 

「え」

 

 およそ10メートル以上の高さから刀を構えたまま落下するその姿は、客観的に見ても、主観的に見てもカッコ悪かった。

 下に向けていた刀が、落下と同時に池に張られていた鏡も同時に割り砕く。

 

 要するに、俺は見事に池ぽちゃを成したのだった。

 

「ちょっと……お兄さん大丈夫?」

「なんで……俺は……最後まで格好良くできないんだ……」

 

 手を差し伸べてくれる紅子さんの手を取って池を出る。

 

 振り返れば、そこには水面に揺らぐ自分の姿だけが映っている。紅子さんは幽霊だからというよりも、位置的に映らないだけだろうな。

 

 水面に映った俺の瞳も、リンと同じ黄色い爬虫類の瞳からいつもの紫がかった黒へと戻っていく。今まではまるで自覚がなかったが、リンと同調しているときはこんな風に瞳の色まで変わるんだな。

 

 改めて覗き込んでみても、触ってみても池はなんの変哲も無い水の塊に戻っている。

 

 池にはもう、あの世の色は残っていなかった。

 

「あのシャコが全部持っていったみたいだね」

「後始末がなくて助かるよ。それにしても……紅子さん、手を繋ぐのは有料じゃなかったのか?」

「だって、お夕飯。作ってくれるんでしょう? ならそれでチャラだよ」

 

 しれっと言う彼女に「そっか」と返す。

 今回は浮遊霊の犠牲もそんなに出る前に倒せたから、霊を呼び出していた人々もあんまり〝絶望〟はしなかっただろう。

 

 俺達が律儀に丑三つ時なんかに来ていたら、もしかしたら死に別れた大切な人の霊が目の前で食われるところを見る……なんて絶望を味わった人が出ていたかもしれない。

 もしそうなっていたら、きっとどこかで経過を眺めていただろう邪神の思うツボだったんだろうな。ざまーみろこのヤローめ。

 

「ああそうだ、お兄さん。お風呂もうちで入るかな?」

「……えっと」

 

 脳内に様々な煩悩が過っていく。

 確かに今の俺は池ぽちゃして酷いことになっているが。

 

「ど、同盟施設のほうで……服を借りるよ。10分だけ待ってくれればすぐに終わらせる」

「……そう、なら待ってるよ」

 

 俺はヘタレだった。

 

「おにーさんのご飯は美味しいから、毎日食べたいくらいだよねぇ。こればっかりはあの神様が羨ましいかな」

「俺もどうせ作るんならあいつじゃなくて紅子さん相手がいいよ……」

「それはどうも。嬉しいことを言ってくれるね」

 

 そんな告白紛いの軽口を叩きながら、帰路に着く。

 まだこのままで。この関係を、壊したくはないのだから。

 

「なあ、紅子さん。俺、強くなってるかな」

「邪神に噛みつきたいならまだまだだろうね。その呪い、解きたいんでしょ。なら、今は…… 我慢のときだよ。いつか、キミが自由になるためにも」

「そうだな。そのためにはもっと強くならないと」

「その努力だけは認めてあげる。キミのその無謀さは、好きだよ」

「そ、そっか…… ありがとう」

 

 二人して笑う。今は、まだ。

 

 いつかもっと未来、自由になった身で紅子さんへ恩返しするために。そして、この想いをいつか伝えられるように。

 

 そう願いながら。

 

 ◆

 

「くふふ、どんどん仲良くなるといいよ。そうしたほうが、れーいちくんの〝イイ〟お顔が見れるかもしれないからね」

 

 帰路に着く二人を見守り、男は笑う。

 

「反抗的なお前の、その心が折れるときはどんな顔をするんだろう? 今から楽しみだなあ」

 

 長い黒髪を三つ編みにしたその邪神は、ひどく愉しそうに、可笑しそうに、笑っていた。

 

「守るものが多くなればなるほど、人間は強くなるものでしょ?」

 

 誰に言うでもなく、男は呟く。

 

「私を斬ったときのような、あの目。あの強さ。どれだけのことをすればもう一度見られるんだろうね。まあ、まだ十年も経っていないし、気長にやろうかな」

 

 もっともっと足りないと。

 経験も、場も、状況もまだまだ足りないと邪神は暗躍する。

 長い長い年月を生きる邪神の、ほんのひととき。趣味の時間。愉快な日々。

 

「れーいちくん、お前は知らないだろうね。隣にいるその子の存在が揺らいでいるだなんて」

 

 目を細め、男は下僕の隣にいる少女をじっと見つめる。

 彼女の後ろ手に組んだ手は、ほんの少しだけノイズがかかるように揺らぐことがある。

 それに、下土井令一は気づかない。

 

「赤いちゃんちゃんこっていうのは人間を害する怪異なのに、その子は怪異となってから、一度も人を殺していない。その事実をもっと重く受け止めるべきなんだけれど、令一くんったら能天気な子だよねぇ」

 

 もしかしたら、彼女が上手く誤魔化しているのかもしれないけれど……そんな風に独りごちて神内は笑みを深める。

 そのほうが、己の下僕とした男の絶望が、いつか観れるはずだからと。

 

 赤いちゃんちゃんこという怪異は、トイレで突然「赤いちゃんちゃんこ着せましょうか?」と問いかけてくる怪異である。

 

 この質問にNOと答えれば難を逃れ、YES、または「着せれるものなら着せてみろ」などと肯定と取れる返事をすると首を斬り裂かれ、血で真っ赤なちゃんちゃんこを着たような姿で殺される怪異。

 

 紅子は、どちらを答えられても害する幻覚や夢を見せるだけで済ませ、一度も人を殺したことがなかった。

 

「理性がある分、本能を押さえつけるのは大変なはずなのに、あの子の精神力は賞賛に値するよ。壊れるときが楽しみだね」

 

 そのためには実りを待つ必要があるのだと、邪神は未だ彼女には手を出さない。仲良くなればなるほど、恋心が強くなればなるほど、失ったときの絶望は計り知れないのだとほくそ笑みながら。

 

「……それはそれとして、私の小間使いの癖に夕飯を用意しておかないところは減点だよね。あとでどうしてやろうかな」

 

 

 

 

 

 下土井(しもどい)令一(れいいち)の災難は、まだまだ続く。

 五年も前から始まり、絶望し、紅子と出会い、様々なケースの事件に巻き込まれた彼の人生。

 

 そう、彼らが過ごした今夜の出来事は未来の話。

 物語の始まりは、これより一年前。

 

 下土井令一が数年の監禁生活を終え、外出を許可されたことから始まるのだった。



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始の章【彼女と出会う前】
最悪な日常


 始まりは些細なことであった筈だった。

 

 18歳のとき、クラスメイトとの修学旅行で泊まった旅館。そこで起こった恐ろしい出来事。

 俺はそのとき、仲間達と共に真相を目の当たりにし、旅館を持っているとある企業の人間の正体を見ることとなった。

 

神内(じんない)千夜(せんや)』、それがそいつの名前だった。

 真っ黒なスーツを着て、ネクタイまで黒いその姿はまるで喪服のようで。黒髪を長い三つ編みにした、やたらと低身長の男だった。

 

 そいつが黒幕だと気付いたときにはもう既に遅く、俺達は取り返しのつかないところまで来てしまっていたんだ。

 奴が空を見上げる。

 

 追って空を見上げると、美しい旅館に相応しい満月であった。

 そんな景色に溶け込み、美しい男が月光を浴びながら月を見上げる風景。

 一種の絵画の中の世界のような非現実的な光景は俺たちを釘付けにし、そしてその恐ろしい変化の最中でさえも目を逸らすことは許されなかった。

 

 どこか胡散臭い笑みを浮かべた男が――裂けた。

 

 そうとしか表現することはできず、まして俺の少ない語彙ではその恐ろしさを誰かに伝えたところで意味をなさないだろう。

 

 だから率直な感想しかもはや出てこない。

 

 それは貌のない肉塊だった。流動し続ける触腕。時折垣間見える鉤爪。顔がないくせに悍ましくこちらを嘲っているようにも見える肉の動き。

 自身の身体が総毛立つのを感じた。しかし、それを直視してもなお俺は壊れることができなかった。

 聞こえる悲鳴、怒号、己の胸を搔きむしりながら自害しようとする者、目玉を潰してそれを見ないようにしようとする者、巨大過ぎるが故に溢れ出た触手を噛みちぎろうとする者。

 残った皆の奇行が目に入って正気に戻ることができた俺は床の間から借り受けて来た刀を握り直す。

 汗で滑ってしまわぬようにしっかりと両手で握り、あれの触手に噛みついた同級生が顎から真っ二つになっていくのをどうにか見送ってから走り出した。

 吐き気を押し殺し、頭を振り、泡を吹いたまま終わりを待つだけの同級生を守るために走る。

 あいつらの精神を守りきれなかったのだとしても、その命だけはどうにか繋ぎたいと、〝 無謀 〟だと理解しておきながら走る。

 正気でありながら狂気の沙汰を起こすという矛盾した状態になりながらも食いしばる。

 この無駄に高い悪運は仲間を救うためにあったのだと、ただ愚直に信じていたのだ。

 

 そして俺は全力で、向かってくるそいつの腕に刀を振り下ろした──

 

 ◆

 

 紫鏡事件より一年前――

【12月24日 AM 06:00 下土井(しもどい)令一(れいいち) 21歳】

 

「れーいちくん。れーいーちーくーん?」

 

 ふと…… 耳元をくすぐる低い声と、全身に立った鳥肌に反射的な嫌悪感から身体を跳ね起こした。

 

「っ…… お、ま…… !」

「あー、惜しいね。もう少しでお前の首を落とせたのに」

 

 語尾にハートマークでもつきそうな恍惚とした表情を貼り付けて片目を瞑って見せた奴は、変態臭い 「くふふ」 というくぐもった笑い声を漏らしながら俺を見つめる。

 別に刃物を突きつけられているとか、そういうわけではない。

 俺の首には加護とは名ばかりの首輪が嵌められているのだ。こいつの思うままに焼きゴテにも首吊り縄にも変化する最悪なプレゼントだ。

 役立たずになればこれで殺される。それはここで生活しているうちに思い知らされたことである。

 

 そう、俺はこんな地獄に身を置かされているのだった。俺の修学旅行は、俺の学生生活はもうどこにも存在しない。俺のことなんて誰も覚えていない。俺は皆の記憶からなかったことにされ、どこにも居場所を失くしてこの地獄に突き落とされたのだ。

 

 あのとき、俺は死ぬと思っていた。そう思いたかった。だのに、なぜこんなことになっているのか。なぜ俺は死んでいないのか。

 …… あいつらのように、いっそ死んでしまいたかったと言うのに。

 役立たずなら殺される……それなら、あいつらと同じ場所へ行けると分かっていながらなにもしないのは、俺が自分の命を惜しんでいるということ。

 逆らうこともできる。最初のうちはそうした。

 でも、致命的なことをしようとするたびクラスメイト達の死に様を思い出し、足を止めることになる。

 単純に怖いのだ。こいつが。だからなんとか小間使いをやっていられる。

 こいつが神と呼ばれる頂上の存在でなければとっくに逃げてるのだから。

 勿論、機会があればすぐにでも逃げ出したい。逃げ出したいが……俺には、そこまでの力はないのだ。

 

「ねー、早く朝ご飯作ってよ。お前は私のために馬車馬のように働かなきゃいけないんだからね」

 

 あーあ、どうしてこんな奴に気に入られてしまったのだろうか。

 苦しみから解放されたので無意識に握り込まれた拳を開き、そばに掛けられたエプロンへと手を伸ばす。

 

「……」

「ここまでされて折れない精神は尊敬に値するよねぇ…… まあ人間基準だけれど」

 

 俺が嫌がると知っていて、わざとねっとりとした口調で話すこの男は正直気持ち悪い。

 

「そんなお前の絶望する顔を見られたらどんなに楽しいだろうね……まあ、そう簡単に見せられてもつまらないけど」

「はあ、作ります。作りますから大人しく席に着いて待ってやがりくださいませっ!」

 

 やけくそ気味に言った言葉に、奴は面白そうに眉を下げて再び 「くふふ」 と変態チックな笑いを零した。

 そのまま手を振りながら俺の部屋を出て行く。さっさと行け。

 しかし出る直前に奴は振り返って言った。

 

「あ、お腹すいたから10分以内ね?」

「無理に決まってんだろ馬鹿が!」

 

 反射的に飛び出した言葉は額に直撃した得体の知れない物体で返された。小さく触肢を動かすその物体を手早く踏み潰し、処理する。

 面倒ごとを増やされて10分以内とか無理に決まっている。

 しかも敬語なんて慣れていない上、にあいつ相手には意識して使おうと思わないからこうして痛めつけられる。

 最悪。最悪だ。

 

「さーて、今日はどんな無理難題を出してくるのかね」

 

 あのとき、肉塊が収縮し人型を取り、やがて神内千夜の姿に戻ったあいつは自らをニャルラトホテプという神であると名乗った。

 肉塊が収縮する際の余波で轢き殺されたりすり潰された友人達の姿は血飛沫となって消えてしまっていて、守ろうと意気込んでいた俺はそれに悉く打ちのめされてしまっていた。

 そんな俺の目の前に立ち、薄ら笑いを浮かべた奴が告げたのは日常から非日常への転換。

 

 〝お前の名は、「下土井(しもどい) 令一(れいいち)」だったかな? 〟

 

 すぐさま再生でもできそうなのに左腕に刻まれた刀傷を嬉しそうにさすり、奴が言う。

 それに思考停止した状態だった俺は安易にも頷きを返してしまったのだ。それが始まりだった。

 

 〝くふふっ、ああ…… 人間なんて、なんてツマラナイ生き物なのだろうと思っていたけれどなるほど、この私に傷をつけるだなんて面白い子だね〟

 

 傷つけられて嬉しそうに笑うそいつのことなんて一欠片も理解できずに俺は黙した。

 

 〝お前はどこまで私を楽しませてくれるだろうね? 〟

 

 首にかけられた手が熱を持つ。

 焼ごてのようなその手は俺の首を徐々に締め上げ、そして恍惚とした表情をしたそいつは冷笑を浮かべてべろり、と舌なめずりをした。

 ああ、あいつらと同じところに行けますように。

 そう願って委ねた自身の身体は奴の馬鹿みたいに強い力で宙に吊り上げられ、死を覚悟した。しかし、苦しいだけで、痛みが長引くだけで一向に意識が遠のくことはなかった。

 

 〝「お前に呪いをあげよう」〟

 

 薄ら笑いを浮かべたまま呟かれたその言葉に俺は目を見開いた。

 俺とそいつのいる地面がほの青く光り輝き、その場に刻まれるように円周を描いて複雑な紋様を形作っていく。

 

 嫌だ。

 

 反射的にそれは良くないものだと判断して、俺は精一杯もがいた。

 力を込めて奴の手を引っ掻き、抵抗しても……しかし、今度は傷一つつけることもできなかった。

 そして頭が焼き切れるような激痛が走り、次に目を覚ましたときには馬鹿でかい屋敷で、既に俺は人ではなくなってしまっていた。

 いや、人ではあるのだろうか。奴は人間に拘っているようだから、奴にとってきっとまだ俺は人なんだろう。

 

 例え病気も怪我も俺を死に至らしめることがなくても。それでも殺せば死ぬ体だ。そう説明された。

 そして説明のために近くにいたペットの巨大な馬のような翼の生えたものが実験台にされた。

 シャンタク鳥とかいうそいつも奴の配下だというのに、なんのためらいもなく隷属の呪いを使い、そして殺した。

 奴は眷属がいないと語った。しかしそんなものは嘘だ。ただ長持ちしないだけなのだ。奴が興味を失えば俺の命なんて容易く吹き飛ばされるだろう。

 …… 奴はクラスメイト達の仇だ。でも俺は殺されることに怯えてしまっている。

 そしてその2つの気持ちの、どちらかが勝っているかだなんて…… 今の俺を見れば一目瞭然だ。

 

 友達と死後会えるかも分からない。家族とも引き離され、記憶も改竄され、俺はいない存在となった。それらは残酷な優しさによって身をもって知らされ、俺の心を徐々に徐々に蝕んで行っているのだと思う。

 

 大きな屋敷に見合う和食の朝ご飯を作りながら考える。

 仇を打つこともできず、なんの因果かこうして俺は奴の眷属とやらになってしまった。

 変態で、なぜか傷つけられると喜ぶドMなくせに人間(おれ)を見下していて本質的な部分はサディストな、そんな多くの矛盾を抱えた破綻者。いや、混沌そのものは何故かバレもせず人間の振りをして暮らしている。

 

「うんうん、最近はちゃんと膳の盛り付けも覚えたんだね」

 

 朝食を出せば奴は嬉しそうにそれを見た。

 褒められてもまったく嬉しくはない。

 一高校生であった昔は料理なぞできるはずもなかったが、これは必要に駆られて覚えたことだ。

 なんせ、ちゃんとしたものを出さなければこの馬鹿でかい屋敷に閉じ込められたままだし、なにもできない。

 外出くらいはしたいし、こいつと四六時中一緒とか怖気しか湧いてこない。

 こいつが言うには過去の人間関係はリセットされたが、これからの人間関係は余程でない限り放置するつもりらしい。

 つまり、また友人を作れれば俺の心の平穏は少しは保たれるわけだ。

 このサディストの狙いは、きっと再び友人を失った俺の絶望がどうのこうのってことなんだろうがそうはいかない。今度こそ友達は殺させない…… と言ってもまだ1人も友達なんていないのだが。

 それに最大の理由として、未だに俺が付けた傷を大事そうに消していないこの変態の側にはいたくない。

 

 つまり……紛れもなくこいつは一人SM男で、俺はその眷属(どれい)なのだ。

 

 怪異に巻き込まれたり、人を救おうとして絶望したり…… これはそんな俺の、非日常の一部。

 

 言わば日常の裏側、オカルトな世界を生きる経験譚。

 ちょっと不思議で。救いようのない人間が足掻く様を見る…… 邪神の箱庭の話だった。

 

 そう、〝彼女〟に出会うまでは。

 

 邂逅まで、あと――。




 ニャル様の化身
神内(じんない) 千夜(せんや)
 ニャル様なので内の字は入れ、神の字も一緒に使った。名前は夜の名を関することもあるからと、千の化身を持つことから千夜。
 普通に人間として生きている化身もいる、ということでこんな感じに。周囲の人間には両親を失ったそこそこのお坊ちゃんという設定になっている。旅館もこいつの経営する会社の系列ということになっていたらしい。

 隷属させられた人間
下土井(しもどい) 令一(れいいち)
 令の字は神のお告げやら命令やらの意味があり、さらに隷属の隷ともかけられることからの名付け。鋼メンタルとある程度の腕力はある。刀を使ったことから恐らく元剣道部だと思われる。

2018/3/6 加筆修正


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夜が這い降りてくる

 純和風な日本家屋にまったくもって相応しくない、ひどく高級そうな革張りのソファに沈み込んだそいつは気怠げに欠伸をした。

 

 長い黒髪を外出するときのように結うわけでもなく、見るだけでも鬱陶しいそれをソファの端から垂らし、なにやら物憂げに目を細めて手のひらを額に乗せている。

 

 本人にとっては美しい人間が扇情的なポーズをとっているつもりなのだろうがアレが男よりの、それも本体をデフォルメしたってどう足掻いても可愛くならない触手生物だと知っているこちらとしては余計な想像を働かせて勝手に吐きそうになっている。

 

「いっ……!?」

 

 そして首元が焼ごてに当てられたように熱くなる。

 

「なーんか、失礼なこと考えてたでしょ」

「……」

 

 火傷が痛くて答えられる状態じゃありません。

 そんな風に装いながら目を逸らす。多分バレているが、おしおきは終わったので良しとする。

 

「…… ねえれーいちくん、れーいちくん。カレンダー持って来てよ」

 

 ソファに寝転がったままのあいつが目を瞑ったまま言った。

 

「はあ? そこから見えるでしょうが。とうとうアンタも盲目白痴にっと!?」

 

 最近、漸く料理スキルも上がって文句を言われなくなったので世に伝わる神話群を調べていたのだが、得意気にそのネタで反抗しようとした瞬間背後に一本のナイフがビィィンという恐ろしい音を立てて刺さった。視界の端で数本の髪の毛が散っていくのが見える。

 

「令一くんなんて将来禿げればいいのに」

「ああ、今その未来がチラッと見えましたよっ! 頭皮ごとずるっといく未来がね!」

 

 首輪は熱くならない。

 だいぶこの生活にも慣れて来て混乱していた意識も落ち着き、ついでにあいつもやたらめったらおしおきをすることはなくなった。さっきみたいに思考を読まれたときや、敬語がぽろっと取れると熱くなったり絞まったりバリエーションを増やしたおしおきをしてくるがそれだけだ。リアクションも単調なものしか出てこない。多分あっちも見飽きたんだろう。俺ももう慣れてしまった。

 人、それを諦めと言う。

 

「カレンダー」

「はい、どーぞ」

 

 目の前に壁から取ったカレンダーをチラつかせる。

 するとどこか楽しげににやりと口を歪めた邪神は 「くふふ」 とまた気持ち悪くくぐもった笑い声を漏らした。

 

「れーいちくん、ちょこっとおつかいに行って来てよ」

 

 随分と唐突だな。

 こういうとき相手が母さんだったりしたら特売日なのかなと思うのだが、こいつの場合そうはいかない。厄介ごとの匂いがする。

 だが、俺に選択肢などない。

 

「場所はどこです?」

 

 投げやりに了承の意を込めて訊く。

 いつもノーヒントの奴だが流石に場所くらいは吐くだろう。

 

「ここいらで一番小さくて黴臭くて煤けててボロい神社があるんだけどね?」

 

 ひどい言い様だ。

 いくら元々敵対していたからといって笑顔で言うことか? 

 

「そこに夜中の二時ピッタリに入るんだよ…… ああ、鳥居はくぐっちゃだめだよ」

 

 そう言われて奴が手を振るうと俺の首に嵌った、冒涜的なチョーカーのようなものが逆十字のネックレスへと姿を変える。

 外出の許可が降りたときはいつもこうだ。首になにか付けていることと逆十字は変わらずにころころと呪いの外装を変えてくる。

 

「オカルト関係、ですね。なら刀も持ってったほうがいいか」

 

 こいつが行けと言って平和に終わった試しがない。

 それは悲しいほど俺が知っている。

 

赤竜刀(せきりゅうとう)持っていくんだね」

 

 その言葉にピタリと竹刀袋に刀を入れる手が止まる。

 

「これに名前なんてあったんですか?」

「そうだよ。ああ、由来が知りたければますますおつかいに行ったほうがいいね。多分それをあの旅館に置いた私の友も来ているだろうし」

 

 その言葉に衝撃が走った。

 

「え、あんた友達なんかいるの?」

「激おこスティックファイナリアリティおしおきドリーム!」

 

 首絞めと火傷が同時に襲いその後一時間ほど俺は気絶した。

 

「ま、そういうことで頑張ってね」

 

 そう言って手をフラフラと振りながら再びソファに沈み込んだあいつはつまらなそうに欠伸をする。

 

「その友とやらのヒントはないんですか?」

「はあ?」

 

 勿体ぶったように、心底可哀想なものを見る目で奴は 「私にそんなサービス精神があると思うの?」 とのたまいやがった。

 

「いや、全然」

 

 イラッときたので即答してやるといつの間にか背後に立った奴からヘッドロックを食らう。

 

「それはやめろ! 死ぬっ!」

 

 奴が紛れもない人外だと嫌な実感の仕方をしてから息を整えた。

 

「とりあえず、適当に探して来なよ。聞き込みでもすれば大丈夫でしょ」

「は、はい……分かっ、りました。で、なにを買ってくれば?」

 

 冗談みたいなやりとりばかりだが俺にとってはわりとマジで死に瀕していることが多い。あやふやな話題逸らしで目的のおつかいを忘れたらそれを各目になにを命令されるか分からないのでちゃんと訊いておかなければならない。

 

「お酒」

「は?」

 

 聞き間違いか? 

 

「お酒だってば」

「分かりましたよ…… 行けばいいんでしょう。行けば」

 

 コンビニで買えよ。なんでわざわざ……

 

 ◆

 

 そこはボロボロの神社だった。

 特定の場所や名前を言われたわけではないので確証はないが、名前さえ掠れてしまって読めないこの神社のことだろうと当たりを付けた。

 

 午前二時まであと一分。

 

 深呼吸して腕時計を見つめる。

 足はすぐさま神社内に入れるようにと敷地の前に踏み出しておく。

 ピッタリと言っていたのだからピッタリでないとダメなのだろう。

 妖怪や神話生物相手に立ち回るときに飛び出さないようにと財布はウエストポーチの奥底にしまってある。

 動きやすい服装だ。いざというときのためにポーチの中には小さなナイフも入っている。

 まったく、ナイフに刀とは銃刀法違反もいいところだ。

 しかし、幸いにも周りには人っ子一人いないし、決して狭苦しいわけでない道路には車一台通らない。…… そう、不自然なくらいに。

 

「二時…… !」

 

 一歩踏み出した時、世界が変わった。

 古ぼけた神社は消え、目の前には車が二台くらい十分通れる広さの石畳が直線上に続いている。その両脇には祭りの出店のようなものが延々と続いていき、真っ暗闇だった雰囲気はどこへやら明るく賑わっている。

 

「目玉焼きー! 目玉焼きだよー!」

「専門書売ってるぜー! 人間に混じって暮らしたい奴には入り用だぞー!」

「骸金魚救いだー! どうだー? 挑戦する奴はいないかー!」

 

 陽気な声。物騒な言葉。

 目玉焼きの言葉に、そんな出店があるものなのかと目を向ければ〝 言葉通りの商品 〟が見えて顔が青ざめていく。

 金魚掬いの方へ視線を向けるとそこには想像していたものとはまったく違う光景が広がっている。

 人間ほどもあるでかい金魚の目は白く濁り、鱗は乾いて魚とは思えない様相をしている。さらにそれが背ビレで空を泳いでいるのだ。挑戦者らしき三つ目の男が柄杓で水を掛けようとしている。それが「骸金魚救い(・・)」なのだろう。

 

 人間がこの場にいることで誘拐されるかもしれないと身構えたが、立ち止まった俺を追い越していく人外達は迷惑そうに俺を避けて祭りへと繰り出していく。

 それを繰り返してようやく詰まった息を吐き出して頬を叩いた。

 

「お酒…… だっけ」

 

 歩き出そうとしたとき、背後から声がかかった。

 

「おんやあ? 人間が〝 あやかし夜市(よいち) 〟に迷い込むなんて久し振りだねぇ!」

 

 硬直し、身構える。竹刀袋にかけた手は慌てて 「や、やめておくれよ。アタイはなんにもできないんだから!」 と言った女性にそっと押さえられた。

 

 黄色い着物に橙色の紅葉模様の着物の女性だ。

 しかしその短い茶髪から覗く丸い耳と腰の辺りから大きく垂れ下がる太い尻尾が彼女が人でないことを教えてくれる。

 ますます警戒して今度はポーチの中のナイフに手を添えようとして、また止められる。

 

「だ、だからやめておくれ! ここの夜市じゃあ人間に手を出すのはご法度なんだよぉ! ただでさえアタイは弱いってのになにもできはしないよ!」

 

 その必死さに手を添えたままだが一応話は聴くことにした。

 

「…… 俺はおつかいに来たんですけど、ここはどこなんでしょう? あと、あんたは?」

「よかった。話を聴いてくれるんだね? アタイは絹狸(きぬたぬき)さ。今日は特別な日だからこの先に出張呉服店を開いているんだよ」

 

 きぬたぬき? 逆から読んでもきぬたぬき…… 冗談だろうか。

 

「だからその手を下ろしてくれって…… 分からないなら調べてみておくれよ。ここは一応電波も入るようになってるからさ」

 

 遠慮なく端末で調べることにした。

 出てきた情報は鳥山石燕の創作妖怪であるとされる話。さらにその名前が布を打って柔らかくする(きぬた)から来ていることが分かる。確かに、一応そんな妖怪は存在するようだ。

 

「創作妖怪なんじゃないのか?」

 

 そんな失礼な言葉にはあ、とため息をついた絹狸は自嘲するように笑う。

 

「今の世は妖怪にとっちゃ生きづらいもんだよ。畏れと信仰で生きるのはもう限界を迎えちまったから皆人間の中に混じって、〝 そういう奴がいる 〟だとか〝 そういうお話がある 〟って知られることで生きてるんだ。認知度が高ければ高いほど力は強くなるし、旧神もみーんなその方針をとってる。だから作られた都市伝説やら怖い話やらに出てくる奴らも嘘から出た誠になるのさ。創作妖怪とはいえ、アタイの生みの親は有名だからこうしてアタイがいるってわけ」

 

 絹狸が言うには神も妖怪も本来は同じものなのだとか。

 それが善に傾いているか悪に傾いているのかの違いであり、どちらも知られていなければ消滅してしまう存在だという。

 そして、それら全てを引っくるめて〝怪異〟と呼ぶとか。

 ただ、旧支配者や元から存在した太古からの生物は別に信仰や認識がなくても生きていける、と。

 

「で、アンタはおつかいだっけ? 誰の遣いなの?」

 

 彼女の営む呉服屋を放っておくことはできないため、一緒に向かいながら話をする。

 道行く妖怪達は人間が珍しいのかチラチラとこちらを覗き見ている。うすらぼんやりと暗闇に浮かぶ提灯代わりの鬼灯が道を照らしていた。

 

「神内千夜って、知ってますか?」

「じんない?」

 

 不思議そうに首を傾げていた彼女は思い当たる節があったのか硬直した。

 

「あー、アンタあれかい。厄介者に気に入られちまった哀れな子羊二号ってアンタのことかい」

 

 なんだそのいらない称号!? 

 

「それってどういう?」

「まあそれはそれとして、酒を買いに来たって言ってたよね」

 

 露骨に話を逸らされたが皆あんな奴に関わりたくないのだろう。その気持ちはすごくよく分かる。

 

「今日は古椿から香りの高い良い酒が取れる年に二度のうち一度目の日さ。最初の方に採れば採るほど香りは強くて度数も高い高級なものになるんだよ。今日のは強すぎて人が飲めるような代物は採れないけど、アンタの主人に届けるなら最初の方を狙った方がいいね」

 

 そう言って椿の柄が入ったガラス瓶を手渡してくる。

 

「あ、ありがとうございます」

「いいってもんさ。ここはあやかし夜市。 『同盟』 所属の元締めが支配する安全な百鬼夜行なんだからね。ここでは人間に害を加えたら罰則が待ってる。人間が迷い込んでも比較的安全だし、いつでもおいで」

 

 これは嬉しい誘いだった。

 握手をしてぱたり、と揺れる尻尾を見て癒される。

 今度からあいつから逃げるときがあったらここに来よう。

 

「ところで、その椿とやらはどこにあるんです?」

「あー、この道をずーっと行ったところに神社がある。そこでお願いすれば貰えるよ。アタイは店があるから案内できないけど、大丈夫さね」

「あ、それと…… 千夜さ、ま…… の友が来ているはずだって聴いたんですけど、分かりますか?」

 

 顎に手を当てて少し考えた素振りを見せた絹狸がまた尻尾をぱたり、と振った。

 

「ふむ、アタイにゃさっぱりだね。そもそもここは旧神の縄張りだから旧支配者側の人で無しのことはよく分からないんだ。それだったらここの元締めに訊いてみるのが一番だと思う」

「そうか…… いろいろ助けてくれてありがとうございます」

「いいってもんさ。それじゃあね」

 

 彼女の店を出て、真っ直ぐ神社の方面を目指した。

 

 すれ違う人外達にはすぐに慣れた。

 比較的人間の姿に近かったり動物の姿だったり、あいつやクトゥルフ神話の生物と違って旧神側の生物達は心臓に悪くない健全な姿形をしているようだ。

 勿論伝承には気持ち悪い姿形のものもいるようだが、そういうのは人型をとったり化身になったりして人間に害がないように配慮しているらしい。

 服のデザインから蜘蛛であることが分かる女の子や帯が蛇のように蠢いている女性。たまに突撃してくるすねこすり。

 沢山の妖怪達を横目に神社を目指していると、俺を追い越して行こうとした女性からその豪華な帽子がはらりと落ちた。

 

「あらいけない」

「大丈夫ですか?」

 

 帽子を拾って手渡そうとして硬直。

 あまりにも、美しすぎたのだ。

 

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「うふふ、人間が迷い込むだなんてとっても珍しいことですわね。拾ってくださってありがとうございます」

 

 あいつも大概美しすぎる容姿をしているが、その性格のせいで魅力は半減どころか最低値まで落ちる。それでも見た目だけはいいあいつと同じくらいか、それ以上にその女性は美しかった。

 

 つばの広い帽子には月を象った飾りとリボンがついており、服装は深い藍色の肩出しワンピース。スカートの端には月とそれを覆う雲の模様が刺繍され手には白い手袋。藍色のリボンを使って腰の辺りで一括りにされた金色の髪に、月のような金の瞳。帽子が落ちて見えた側頭部から生える彩度の低い黄色の美しい二本の巻き角。

 

 人でないことがありありと分かるその美しすぎる容姿に、硬直した体をなんとか動かして帽子を手渡す。

 

「どこかに向かおうとしていたようですけれど、貴方も椿のお酒を頂きにいくのかしら? 今宵の美酒は人間には強すぎると思うのだけれど」

「は、はい…… でも俺が飲むわけじゃありませんから…… あ、それとここの元締めも探しているんです」

 

 詰まりつつ答えると微笑を漏らしながら女性が 「うふふ」 と笑う。

 

「そう、貴方がそうなのですね…… 元締めなら奥の方にいるでしょうけれど…… そうね、特別にわたくしが案内してあげますわ。どうかしら、ご一緒しませんこと?」

 

 目を細め、面白いものを見るような目に少々の既視感を覚えつつも了承の意を伝える。

 彼女は月の模様が描かれた扇子で口元を覆って小さく笑った。

 

 相変わらず奇妙な出店の多いこと。

 しかし食べ物関係の店が多くなってきたところで俺の腹が少しばかりきゅう、と情けない音をあげた。夕飯は食べたとはいえ深夜までずっと活動して歩いているのだ。小腹も減るものだ。

 

「あらあら可愛らしいわね。そうねぇ、これなんてどうかしら? とっても、とっても美味しいわよ?」

 

 どこか粘つくような絡みついてくるような声に自然と手が伸びる。

 辺りは不思議と静寂に支配されていた。

 にやにやとどこか覚えのある笑みを扇子で隠し、こちらを観察する彼女に違和感を覚えつつも俺の体は自然と動かされる。

 そして普通のイカ焼きに見えるそれを手にした瞬間、辺りに喧騒が戻った。

 

「それを食べてはいけません、人間」

 

 口に入れる直前で鋭い声が飛び、びくりと震えてイカ焼きを取り落とす。 「あ」 と言って追った視線に映ったそれはイカ焼きなどではなく、何かの大きなタコかイカの足を焼いたような、もしくは触手のような得体の知れないものに焼き目のついた物体だった。

 

「それは…… いえ、詳しく言う必要はありませんね。そんな趣味の悪いものを食べてはいけません。それ以上人をやめたくないならば妖怪の跋扈する世界で食事をしてはいけませんよ」

 

 俺を止めたのは女の子だった。

 見た目は高校生くらいで、ショートにした黒髪に鈴のリボンがついている。

 髪から覗いた耳には、目玉のような不思議な模様のイヤリングが揺れている。服装は少々幼いように見えるが先ほどの女性と同じようにフリルが沢山ついた格好をしている。しかし上がドレスのような外見をしているのに対し履いているのは下駄というちょっとチグハグな格好だ。

 そして彼女は完全に人型だった。どこにも妖怪の特徴らしきものは見えない。

 だけれど、人をやめたくないならとは一体どういうことだろう? 

 

「マヨヒガというお話はご存知ですか? その場所にあるものを持ち帰ると幸福になれますが、そこで食事すると二度と帰れないという伝承です。その話以外にもイザナミ様は黄泉の食べ物を食べて地上には帰れなくなられてしまいましたし、人外の世界のものを食べると人の世に戻れなくなる話というものは多くあるでしょう。ここもその例外ではありません。食べるならもっとまともな見た目のやつを持ち帰ってから食べてください。持ち帰って食べるならば問題はありませんからね」

 

 一気に喋った彼女がりんご飴の出店を指差す。

 そこでようやっと先ほどの女性がその場からいなくなっていることに気がついた。

 

「…… またあの人の仕業ですか。まったく性格の悪い」

 

 呆れ笑いを浮かべている女の子だが、俺はなにも言っていないはずだ。

 

「分かりますよ。だって私はさとり妖怪ですから。さて、お初にお目にかかります厄介者に気に入られた哀れな子羊二号さん。私はこのあやかし夜市の元締め…… 『同盟』 所属の鈴里(すずさと)しらべと申しますわ」

 

 ちょん、とスカートの裾を軽く抓んでお辞儀をする鈴里さん。

 さとり妖怪といえば心を読むことで有名だ。なるほど、納得した。

 しかしこんなところで元締めに会えるとはラッキーだ。

 絹狸も言っていた 『同盟』 について軽く疑問に思いながら答えようとすると見事に先回りされた。

 

「同盟というのはつまり、〝 恐怖による存在ではなく、認知による存在の方法で人間と共存しましょう 〟という考えの元に集まった旧神を中心とした集まりのことです。今はこちらが主流で、それを犯す知性や理性のない妖怪や、人類を脅かす旧支配者側の者を取り締まったりしている、ようは警察みたいなものですね。キチンと規則が決まっていて、全ての人外に対応しています。勿論、人を食べることでしか生きられない者も存在しますので〝 食べる分だけ取ること 〟なんてルールもありますが」

 

 それじゃあ、あいつはその同盟と敵対していることになるのだろうか。

 

「いえ、かの邪神は弱った旧神を匿ったり、規則の一線を超えぬように知識を与えるだけでことを起こすのは人間だったりとルールの穴を付いて行動しているので取り締まりはできません。こちらとしても派手に動いてくれさえすれば旧神総出で嬉々として封印してやるんですが、そんな隙は見せてくれませんから……」

 

 嫌そうな顔で言う彼女に同意する。

 確かにあいつはそんな簡単にボロなんて出さないだろう。

 早く封印してくれないかな。

 

「そうしたいのは山々ですがこちらも規則を作った各目上、規則違反していない者には手を出せないんですよね…… ところで、貴方みたいな警戒心の強そうな方が彼岸のものを口にするとは考えられません。一体誰に(そそのか)されたんですか?」

 

 唆された、のだろうか。

 でも親切にしてくれたあの女性のことはあまり疑いたくはない。

 

「はあ…… 貴方が捜しているのはその女性ですよ、残念ながら。かの邪神とほぼ同類です。初恋は叶わないんですよ、諦めてください」

 

 いやいやいや別に恋なんてしてないから! 

 確かに人間離れした美貌だったからついつい心を許していた気がするけど! 

 

「さて」

 

 鈴里さんが背後を振り向いた。

 

「見ているのでしょう。出てきなさいよ、夜刀神(やとのがみ)

 

 強い口調で言われたその名称に周囲の空気が凍りつくように冷えていき、悍ましい雰囲気へと変わっていく。

 まるでなにかに睨まれているような、絡みつくようなねっとりとした視線。それが俺を捉えて離さない。

 しかし、それも次第に落ち着いていく。

 視線を落とすと、ネックレスが自己主張するように仄かに光っていた。

 

「え? え?」

 

 空間が捻じれ曲がっていき、そこに巨大な目玉が現れる。

 縦長の瞳孔で、ギョロギョロと瞳を動かしてはこちらにピッタリと目を向け、止まる。空間に走るように入った鱗模様の罅に俺が連想したのは巨大な〝 蛇 〟の目玉。

 目玉が動き出し、俺の背後へ回る。

 

「っひ!?」

 

 突然のことに悲鳴を上げて逃げようとするが、それよりも早く瞳孔がぐわっと開き、そこから俺の背後から抱きしめるように白い手袋を嵌めた手が伸ばされる。

 肩や頬にかかった金色の髪がくすぐり、その形の良い唇が耳元で囁くように開かれた。

 

「あなたの側に降り立つ夜太刀…… 夜刀神(やとのがみ)縛縁(はくえん)真宵(まよい)、と申しますわ。よろしくしてくださいね? 無貌の愛し子」

 

 耳に息が吹きかかりぞわぞわと肌が泡立っていく。

 その感覚は、そのねっとりとした感じは、あいつにそっくりだった。

 

「離れなさい。人間をからかうのも大概にしないとあの子に怒られますよ」

「仕方ありませんわね…… うふふ、わたくしが人で無しで奇人な邪神の友ですわ」

 

 あいつにどんな友達がいるかと思ったら同類かよ。だが納得はした。

 この粘つく感じは間違いなく性格の悪いあいつの友だ。

 そんな俺の思考を読んだのか、くすくす笑っている鈴里さんが見えた。

 

「夜刀神…… ってことは神様、なんですか?」

「ええ神様ですわ。ですが、千夜には遠く及ばぬ知名度しかありませんの。わたくしなんてとってもマイナーな、ただの祟り神ですもの」

 

 ただのじゃない!? この人もやっぱりろくでもなかった! 

 

「ところで、わたくしを探していたようだけれどなにか御用なのかしら?」

 

 やっと離れてくれた夜刀神さんが扇子で口元を隠す。

 

「あ、そうだ赤竜刀! …… あれをあの旅館に置いたのはあなただとあいつに聴きました。あれについて教えて欲しいんです」

「赤竜、ですか」

 

 竹刀袋から刀を取り出して見せるとそれをまじまじと見た鈴里さんが呟いた。

 

「それは〝 無謀(むぼう)断ちの刀 〟ですわ。号はあなたが言った通り…… 赤竜刀ね」

「無謀…… 断ち?」

 

 俺が繰り返すと 「うふふ」 と笑った彼女が続ける。

 

「そう、無謀を勇猛へと変化させるという、人間にピッタリな刀ですわ。うふふ、そう、あれをあなたが使ったのね。可哀想に」

「は、はあ?」

 

 別に哀れまれる筋合いはないんだが。

 

「だってそうじゃない。あれを使う機会がなければ今頃あなたはお仲間と一緒の場所に行けたのだから…… 精神が強くて幸運だというのも残酷なものですわね」

 

 その言葉に頭の中が沸騰するように様々な思いが駆け抜けた。

 それの大部分は怒りで、焼き切れるようなその感覚に思わず握りしめた刀をそのまま彼女に振り下ろす。

 お前に何が分かる。

 あの惨状で、どうすればよかったというんだ。

 胸の中に渦巻く気持ち悪さに気分は最悪だ。

 

「あら怖い」

 

 軽く避けられた一撃は地面に吸い込まれるように当たり、地響きが起こる。それだけ威力の乗った一撃だった。

 鈴里さんが顔を顰める。

 

「その威力があればアレを喜ばせるのも当然ですわね。ともかく、確かに〝 むぼう 〟を断ち切ったのでしょう。アレを切ったのだから〝 無貌(むぼう)断ち 〟にもなりましたわ。素敵よね」

「〝 アレ 〟って…… 友達じゃないんですか?」

 

 絞り出した言葉に彼女はさも当然のように続けた。

 

「友達ですわ。ただ、アレは人間の絶望が間近で見たくて行動していて、わたくしは人間の味方をしているという違いはありますけれど。だから救済処置としてその刀を無断で置かせて頂きましたの。じゃないと愛しい人間の死ぬ数が増えてしまいますから」

 

 胡散臭い。

 本当にそんなことを思っているのだろうか、この人は。

 今更ながらに帽子の下から覗く二本の巻き角が悪魔の角に見えてきた。

 

「それで、その刀のことですわよね。わたくしは号と由来を気に入って購入しただけですから、詳しい効果は存じ上げませんわ。詳しいところを知りたいのならそれを作った赤い竜に会うことね」

 

 想像したのは巨大な竜が火を吐き出す場面だ。

 

「安心しなさいな。別にそのまま竜が構えているわけではありませんわ。化身が店を構えていますから、会ってくればよろしいのではなくて?」

 

 また、化身の話か。神様ってやつはそうポンポンと分身できるものなのか?

 

「…… ってことは、あなたも化身ってやつなんですか?」

「ええ」

 

 その割には角が隠れていないけど。

 

「本体を見た人間は血縁が絶えるまで祟られるらしいですよ。気をつけてください」

 

 鈴里さんがさらりと言った。なにそれ怖い。

 

「てことは、あいつも化身…… ?」

「ええ…… そうだわ、良いことを教えてあげましょう。千夜はマゾなんですの」

 

 存じておりますが。

 そういった目線で見つめると怪しげな笑みを浮かべて楽しそうに彼女は言う。

 

「そのために、自宅以外では魔法は一切使わないし自身の怪我も治さないだなんていう制約を設けていますわ。あなたのその首輪は魔法の一部です。自宅以外の場所ならばオシオキをされることもありませんし、その刀を使えば簡単に立場が逆転しますわよ」

 

 つまり、外では敬語を外しても謀反しても魔法の反撃はされない…… ? 

 

「情報感謝致します」

 

 実に綺麗なお辞儀だった。

 

 ◆

 

 無事幻想的な光景の中で古椿の酒を受け取り、ついでに赤い竜の居場所の情報を貰い、俺は大きな収穫にほくほくとしながらあやかし夜市の敷地内から出た。

 

 そこにいたのは鳥居に寄りかかって十六夜の月を見上げる我が主人。

 絵になる光景だが、俺は無言で斬りかかった。

 

「っちょ、令一くん!?」

 

 ぎりぎりと真剣白刃取りの状態で手を血塗れにしながら奴が焦る。

 腕がぷるぷると震えているが、その頬はどこか薄っすらと染まり、口元は笑みを浮かべて喜悦すら浮かんでいる。本当、気持ち悪い奴だ。

 

「待って待って! それ以上いけない!」

「……」

 

 無言で力を込める。

 

「ダメだって! 中身出ちゃう! 死んだら中身出ちゃうからぁ! 無差別テロでも起こす気なのお前は!?」

 

 幸いにもこの神社周辺には人避けがなされているようなのでいくらこいつが叫んだところで警察は来ないし、俺はストレス発散できて満足できる。最高の気分だな。

 

「たんまっ、たんまぁぁぁ!」

「うふふ、情けないお姿ですわねお友達」

 

 俺達の頭上の木に腰掛けた優雅な二角の蛇神が言う。

 それを聞いて体良く利用されたことに気がついたがそれでも構わない。

 俺は更に力を込めた。

 

「ック、お前の仕業ですか夜刀神!」

 

 俺以外に奴が敬語キャラで通していることなど、知りたくもなかった。




・人無奇人
 じんないあやと。人で無しの奇人。ニャルラトホテプが人間以外に使っている名前。本人は今回5ダメージ程受けてご満悦。

・絹狸
 種族 九十九神。(きぬた)の九十九神。面倒見が良いお姉さん。見た目は普通でも装甲の高い服を作ってくれる。出番はほぼない。

・縛縁真宵
 種族 夜刀神(やとのがみ)境界を守る蛇神。ウィキ先生だと弱小的な感じで書いてあるが一応祟り神。二角の巻き角を持った巨大な蛇の姿が本体。蛇の瞳で移動するのは 〝 カカメ 〟 光を反射する鏡のような場所であればどこでも移動可能。

イラスト描きました。


【挿絵表示】


・鈴里しらべ
 種族 さとり。どうでもいいけど苗字を逆にしてみるとさとりんと読めるとか読めないとか。規則違反をしたら筒抜けになるので夜市は安全を保たれている。普段は普通の高校生として過ごしているがいじめなどの悪感情を食事にしているわりと性質の悪い妖怪。元締めモードのときは優しい。
 都市伝説や七不思議と関わりがあるらしい。


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壱の怪【脳残し鳥に御用心】
脳吸い鳥のウワサ


 

―― 彼女はそれを望んでいる。

 

「令一くん、ちょっと遠出しようか」

 

 珍しく怠惰でなくきっちりとスーツとボルサリーノハットをかぶった奴が言った。

 

「なんの冗談です?」

 

 俺が軽い口調で言うと、珍しく真面目ぶった顔でネクタイを締めた姿見越しの奴と目が合う。奴の格好はあの日と同じ喪服のようなスーツである。

 

「仕事だよ、表向きの。旅行会社としての下見と個人経営旅館の買収に行かなきゃ行けないんだ」

「…… で、本音は?」

「さとり妖怪がね、言ってたんだ」

 

 さとり妖怪の鈴里さん曰く、 「自身の通っている高校のグループが廃墟探索のために旅行する」 のだという。

 なんでもその周辺には 「脳吸い鳥」 とかいう物騒な名前の鳥に関する噂話があり、夏休み中の肝試しに最適なのだとか。

 

「で、面白そうだから見に行くと?」

「…… まあね。それを聴いた夜刀神にも〝 面白いものを見たら教えて。無かったとしても教えて頂戴ね、面白がってあげるから 〟なんて言われてるし」

 

 彼女なら如何にも言いそうなことだが、奴がそんな簡単な挑発に乗るのだろうか? 疑問に思っていると、 「くふふ」 と笑った奴が簡易的なお泊りセットをキャリーケースに入れて立ち上がる。

 

「言ったでしょ? 仕事だって。ちょうど重なったからついでに見物でもしようと思ってね」

 

 嘘だろう。奴のことだから仕事の方をわざと合わせて来ている。でないと表向きの職業とはいえ若社長自ら下見と買収の交渉に行くはずがない。

 

「鈴里さんは行かないんですね」

 

 彼女なら自分で行動しそうなものだが、それとも百鬼夜行の元締めがそう簡単に移動するわけにはいかないのか。

 

「ああそれね。もうすぐ仕上げの準備をするからグループの行動に合わせて行くことができないんだってさ」

「仕上げ?」

 

 俺が復唱すると奴はつまらなそうに笑って言った。

 

「被害者ぶってるいじめの首謀者の心の声をだだ漏れにさせて、絶望のどん底に落としてやるんだってさ。そのための前準備。使うのは彼女の能力だね…… まったく悪趣味だ」

 

 お前だけには言われたくないだろう。

 しかし彼女にそんな一面があるとは思わなかった。姿見に映った俺の頬は引き攣り、なんとも言えない表情をしている。

 祭りでは親切にしてもらったこともあり、人間に友好的な妖怪だと思っていたのだが、実はそうでもなかったのだろうか。

 

「さとり妖怪としての食事だよ。だから〝 同盟 〟の規約には触れてない。こういう大きいのを一回すれば数年は持つから高校、大学、何十年か経ったらまた戻って中学から高校って繰り返してるらしい。絶望が好物らしいけど…… 私はあのやり方が好きじゃない」

 

 自分で全部お膳立てするなんてツマラナイし、と呟く奴。

 一応この邪神にも矜持というものがあったのかとなんとなく感心したが、それもすぐにぶち壊されることになった。

 

「用意だけして後は流れに任せた方が気持ちいい…… じゃなくて面白いからね」

 

 取り繕ったようだがもう遅い。このド変態が。

 

「あれですね、地雷だけこっそり用意して誰かが設置したあとにその上でタップダンスをするようなものでしょう? このドM変態ド畜生ご主人野郎……」

「なんかすごい罵倒の仕方をするようになったよね、れーいちくん」

 

 一応ご主人扱いしているからかおしおきは執行されないようだ。

 むしろ指を一、二、と四本立てて 「豪華盛りだね」 だなんて頬を染めて言ってやがる。気持ち悪い。

 

「それじゃあお一人様で楽しんでくればいいじゃないですか」

 

 悪意を込めて言うと奴はチッチッ、と指を振ってそばに置いてあるキャリーケースを指し示した。

 

「れーいちくんは荷物持ちに決まってるでしょ?」

「…… それは命令ですか?」

「もちろん」

 

 語尾にハートマークでもつきそうなほどむかつく笑顔で奴は肯定した。ゆえに、俺に拒否権などなかった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 駅からタクシーで一時間程の田舎道に、俺の持つキャリーケースのガラガラという濁った砂利音が響いていた。

 

「例のグループが目的にしてるのは山の奥にある孤児院跡で、旅館はそこからそう離れていない高所にある民宿だよ」

 

 地図を渡されている俺は、その言葉を聴きながら目的地の場所を探す。

 奴は場所が分かっているかのように話しているが、案内する気はないらしい。

 暢気に欠伸をしながら俺の横に並び、小高い山を見つめている。多分、あそこなんだろう。そう注意深く奴の表情を横目で確認すると、前を向いていたその色素の薄い目がぎょろりと俺を捉えた。

 

「っ……」

 

 普通はなんでもないはずのその仕草。それに少しだけ気圧された俺はすぐさま目を逸らし、早足になる。

 人間に擬態しているはずなのに異形を感じさせるその瞳は空っぽだった。なにも見ていない。なにも興味がない…… そんな目。故に俺は奴の意図を少しも読めずに歩くしかなかった。

 

「なんか、カエル多くないですか?」

「そう? そうでもないと思うけど」

 

 周囲から響くカエルの大合唱と、時折跳ねるそれらを見て言ったのだが、奴は上を見上げて大きく伸びをしながら否定する。

 俺は東京産まれ東京育ちだったから、こういう自然の中にカエルがこんなにいるものなのかは知らない。中学の頃にあったキャンプは骨折していて参加できなかったし林間学校はインフルエンザを患っていた。

 今思えば酷い不運だが、高校の修学旅行でこいつに遭いクラスメイトは惨殺され、俺は隷属させられている。その上俺のことは誰も覚えていないから外も出歩きにくい。まともな自然というものを知らないのだから、もしかしたらこのうるささが普通なのかもしれない。

 

 反響する合唱に、カエルとは木の上にもいるものだったか? と、ふと思った。

 そして山中に入ってから三十分程し、崖の横をちょうど通り過ぎた時だった。

 

「き、君たち避けてくれ!」

 

 ガリガリと、十メートルいかないくらいの崖から誰かが滑り落ちて来たのだった。

 

「あっ、だ、大丈夫ですがぶぇっ!?」

 

 ちゃっかり避けてつまらなそうにしている奴とは違い、咄嗟に受け止めようとした俺は動きやすい服装をしたその女性の下敷きとなる。

 

「す、すまない!」

 

 背中の上に柔らかいなにかが動く感触。幸いだったのは彼女がスカートでないことか。ひどくボーイッシュな格好をしている。キャスケット帽を被った彼女は慌てて俺の上から退いて、ついでよろけながら近くの木を掴んだ。

 彼女と一緒に落ちてきたのであろうバッグからはこの付近のパンフレットと、ネットから拾ったらしい廃墟の情報をプリントアウトした書類がはみ出している。

 身長は俺より20センチ以上低く、神内よりも10センチは高い。160後半くらいだろうか。

 

「いっつつつ…… いやぁ本当にすまない。しかし助かったよ、ありがとう。まさか崖があるとは……」

 

 木に寄りかかったまま左足を休ませているところを見るに捻挫だろうか。俺がクッションになったとはいえ随分と痛々しい。

 

(しずめ)ちゃーん、大丈夫ー!?」

「なぁに馬鹿やってんだ、さっさと上がってこいよ!」

「み、緑川さん、あんまり崖下を覗き込んだらあぶないよ……」

 

 崖の上から聞こえてくる賑やかな声。

 女子一名、男子二名のその声に反応した彼女はちらりとこちらを見てから崖上に声をかけた。

 

「私は大丈夫だ! すぐに戻る!」

 

 雄々しく、と言ったら失礼か。

 凛々しい表情のまま声をあげた彼女に崖上の三人は安心したように静かになった。

 

「こほん、失礼。貴方達はこの先の民宿に用ですか?」

 

 スーツの奴がいるからか、それとも混乱が落ち着いたからか、丁寧に崖の上を指差しながら彼女が質問する。

 俺がそれに答えようとすると、すぐ横から奴か答えるように口を開いた。

 

「ええ、そうですよ。少しばかり古いものに興味がありまして、今日はそこを拠点にして泊まろうと思っているのですよ。もしや、貴女もそうですか?」

 

 気持ち悪い。

 なにがって、奴が敬語を使っていることだ。

 いつもと違い過ぎて鳥肌さえ立ってくる。そんな俺に気づいているのか、さりげなく足を踏まれる。彼女の見ていないところで思い切り踏み返してやったら睨みつけてきた。今度はその目を見ても、得体の知れない恐怖が襲ってくることはなかった。

 

「ええ、私は青凪(あおなぎ)(しずめ)という。よろしければ宿までご一緒しませんか?」

「私は神内千夜と申します。勿論、ご一緒させていただいますね」

「俺は下土井令一って言います。よろしく」

「神内さんと下土井さん…… よろしくお願いします」

 

 そう言ってひょこひょこと覚束ない足取りで歩き出す彼女に気づき 「あ、ちょっと待ってください」 と引き止める。

 

「…… なにか?」

 

 不思議そうな顔をする彼女の足を指して 「挫いてますよね? 青凪さんがよければですけど、背負って行きましょうか?」 と言う。流石に不躾だったかと言ってから後悔したが彼女は可笑しそうに 「ふふ」 とニヒルに笑った。

 

「女子高生のEにやられたかい? お兄さん」

 

 顔が真っ赤になった。

 

「い、いやそういう意味ではなくてだな!?」

 

 こういうからかいは神内に腐るほど受けているが女性から受けるのは初めてのことである。正直気恥ずかしい。

 

「私の下僕(ツレ)がすみません。ですが歩くのもお辛そうですし、せめて肩をお貸しますよ。ああ、男二人ですし、信用がないのでしたら仕方ないですけれど」

「いや、助かりますよ。こちらこそからかったりしてすまないね。いやぁ、どうしても癖でやっちゃうんです」

 

 俺と奴とで彼女の態度が違うのは、スーツを着ているかいないかだろうか。正直身長の関係で奴の方が年下に見えるはずなのだが、不思議と俺への態度の方が気安い。

 

「じゃ、しっかり背負ってくださいね、おにーさん」

 

 女子高生って怖い。俺はそう認識した。

 

「あ、やっと来た! おーい鎮ちゃーん! って、あれ?」

「お前なにやってんだよ……」

「え、だ、誰ですかこの人達!」

 

 崖上まで来ると、先程の声の主らしい三人組が近寄ってくる。

 最初に、大きく手を振って元気に声をあげる女性が鞄についたゾンビ犬のぬいぐるみを揺らしながらやって来て、俺達に気がつくと疑問符を浮かべた。

 次の呆れた声は金髪に染めてピアスまでしている不良っぽい男だ。廃墟探索なんてするようなノリではなさそうだけど、オカルト好きなのだろうか。

 最後に臆病そうな男。一番身長が高い割に細くて白い。その割に女性の近くを陣取ろうとしていたり、むっつりなのかもしれない。

 

「崖から落ちた時に助けてくれたんだ。この通り捻挫してしまったけど、多分湿布を貼って一日もすれば歩けるようになるだろう。この二人は目的も同じみたいだし、寄り道はここまでにして宿へ向かおう」

 

 青凪さんの言い方から察するに、彼女はこのグループのリーダーらしい。オカルト関係のグループか部活だろうか。不良がいるのが謎だけど。

 

「神内千夜と申します。短い間ですが、よろしくお願いしますね」

「俺は下土井令一です。よろしく」

「私はさっき自己紹介したけれど……青凪(あおなぎ)(しずめ)と言う。特技は怪異譚を集めることと、動物の鳴き真似、かな。お化け屋敷で好評なんだよ」

 

 ああ、いるよな。クラスに一人は無駄に鳴き真似が得意な奴。

 彼女がそうだと言うのは少し以外だったが、オカルトサークルなら怖がらせるための手法として手を出すのも、まあおかしくはないのかな。

 

「さて、次は(がい)から行こうか」

「は? 僕から?」

 

 青凪さんに指定され、金髪の不良が嫌そうに言った。

 

黄菜崎(きなさき)(がい)。鎮に無理矢理部活に入れさせられた哀れな不良だぜ」

 

 彼はヤケクソ気味に自嘲してから 「次は孝一な」 と臆病な男の肩に手をポンと置いた。

 

「あっと、紫堂(しどう)孝一(こういち)です……」

「孝ちゃんそんなんじゃあ聞こえないよ! あ、あたしは緑川(みどりかわ)(るい)。趣味はスプラッター映画とキモカワがいっぱい出るパニックホラー映画を見ることだよ!」

 

 ばばん! とゾンビ犬のぬいぐるみを手に掲げた元気っ子が自己紹介を終える。

 それを待ってから青凪さんが 「終わったかい? なら、行こうか」 と先導を始め、俺達は何事もなく旅館に到着した。

 

 草木がぼうぼうと生い茂り、宿の外壁には平気でツタが張り巡らされ、所々へこんでいたり罅が入っていたりと地震でもあれば一発で崩れそうな場所だ。

 お世辞にも綺麗な宿とはとても言えそうにない。むしろボロくていくら安くてもあまり泊まりたくない。そんな〝 旅館 〟という言葉を使うのもはばかられる雰囲気だった。

 

「え、こ、ここに入るんですか……」

 

 臆病そうな男、紫堂が目を泳がせながら言った。

 

「うん、なかなかいい雰囲気だな。オカルトの匂いがするぞ」

「鎮、まーたそんなこと言ってるのかよ」

「だって涯! オカルトこそロマンだ! そうは思わないか!?」

「へいへい」

「あたしはキモカワが見られればそれでー」

 

 興奮した様子の青凪さんをたしなめるのは黄菜崎君だ。

 不良がオカルトの好きな彼女と一緒にいるのが不思議だったが、慣れたその様子にどうやら昔からの仲なのかもしれないと思い至る。

 幼馴染とかだろうか。

 

「いらっしゃい。予約していたグループ様だねぇ…… あれ、二人増えたのかい?」

「いえ、私達は予約していません。このグループとは偶然そこで知り合ったのです」

 

 宿内に入り、四座(よつざ)と名乗る主人に案内されて宿泊する部屋を決めることになったが、ちょうど六人であり、部屋は五つ。

 女性陣がペアで泊まろうかと申し出てくれたのだが、すぐさま 「私達は予約客じゃありませんし、皆さんはどうぞシングルでお部屋をとってください」 ともっともらしいことをのたまった奴により、俺は旅行先でもこいつから逃れられないことが決定した。

 

「さすがホラースポットだね。見たまえよ、これ」

 

 そう言って青凪さんが指差したのは画用紙かなにかに鉛筆でガリガリと書いたのであろう手書きのポスターだ。

 

脳吸い鳥に注意! 

 

 おきまりの警戒色で囲まれたその字は清書もされず、頑張って擦れば消えてしまいそうだ。消しゴムを持っていたら尚のこと。

 まるで 『スズメバチに注意!』 というようなありふれた注意書きだというのにその内容とポスターの外装のせいで異様さが際立っているようだ。

 

「おお! これが噂のなんだね!」

「へ、へぇー…… これが緑川さんが楽しみにしてたやつなんだね?」

 

 緑川さんはその異様な文字群だけが踊るポスターを見つめて興奮し、それに続いた紫堂君は無理をするように引きつった笑みを浮かべ、彼女に質問する。

 臆病なわりにオカルトグループにいるのは、もしかしたら彼女が目的なのかもしれない。だが、グロテスクな物が平気な彼女相手に、彼は果たして耐えられるのだろうか。付き合ったりなんてしたら毎日スプラッター映画をリレーすることになりそうだ。

 だけど、今の所気弱過ぎる彼のことは全く眼中にないようだし余計な心配かもしれないな。

 

「そう! 首はネギみたいに細くひょろひょろで禿げた頭は玉ねぎ大くらい。嘴は鋭利で細長い。胴体だけがずんぐりむっくりで毛むくじゃら。足は短くって羽音はあんまりしない。細口の花瓶みたいなシルエット! 極め付けに醜いカエルみたいな鳴き声! っくー! 想像するだけで可愛いよね! ね!」

 

 緑川さんは楽しみにしていたためか、引くくらいにテンションが高い。

 

「そんなに具体的な情報があるんですね。目撃者でもいるんですか?」

 

 俺がそう言うと話が長くなるとでも判断したのか、さっさと奴は二人部屋へと引っ込んで行った。荷物は俺が持ったままだが。

 

「うんにゃ、あくまで噂話の範疇でしかないんだよ下土井さん。まあ、オカルト大好きな私が言うのもなんだけれど大体は尾ひれ胸ビレ…… いや、尾羽鳩胸? がついて独り飛びしてるようなものだろう。創作されたものにせよ、具体的な姿が決まっているとなると楽しみも倍増さ」

 

 意外だった。

 彼女はオカルト好きな怪しい女子高生だと判断していたけど、どうやら思ったよりも現実主義だったようだ。

 こういう話を聴くと絹狸に説明してもらった、現代における人外のあり方を思い出す。確か昔は信仰心か畏れで、今は認知度の多さで生まれたり強くなったりするのだったか。

 その脳吸い鳥とやらが昔から存在する噂話…… つまり都市伝説のような物なのなら一匹や二匹いても別に可笑しくないわけか。

 そう考えるとこのカエルだらけの山林は一気に不気味なイメージになる。なにせ、噂の脳吸い鳥の声はカエルに似ているみたいだし。

 

「あー、それよりもよ…… なんか人数が増えて食材が足りないから夕食が作れないらしいぜ。買い出しに行くことになるけどどーする?」

 

 不良君は 「客にんなことさせんじゃねぇよ」 と文句を言いつつ青凪さんとこちらを見る。決定権はどうやら彼女と俺にあるらしい。

 

「俺が行きましょうか?」

「ああ、いや…… そうだな、コンビニまでは三十分はかかるし私は行けない…… となると貴方に任せるしかなくなりそうだね。でも、神内って人のお付きなんじゃないのかい?」

「あー……」

 

 奴はどうせ買い物になんて行かない。

 

「いや、宿内にいてくれたほうが楽ができるので」

「そうかい? しかし、明日の朝の足りない分まで買わないといけないから荷物が多くなってしまう」

「あー、じゃあこうすりゃあいいだろ? 僕と紫堂がついて行く。そーすれば男手三人。仲良く買い物してくりゃあいいし、女子は先に風呂にでも入ってればいいだろ。一応露天風呂あるらしいぞ、ここ」

 

 その言葉が決め手だった。

 

「頼んだよ、涯」

「おんせーん!」

「温泉……」

「おいおい、即答かよ…… あと、一応言っとくけど露天なだけで温泉じゃないし、紫堂は買い物だぞ」

 

 仲が良くて宜しいことで。

 ああ、帰ってこい俺の青春時代…… あいつが背後で嘲笑っている気がしてならない。考えるのはやめよう。

 

「風呂は西側に面してるってさ。さっさと堪能して来いよ」

「わーい!」

「ふふふ、楽しみだね」

 

 女性陣は勢いよくその場から飛び出して行った。

 

 俺達は男三人寂しく歩きにくい山道を行き来し、重たい荷物を持って地面を踏みしめる。コンビニからの帰りで、少しだけ打ち解けて来た頃だった。

 ゲッ、ゲッ、と相変わらず鳴くカエルに居心地の悪さを感じながら早歩きになっていく。

 そして、最後尾で俺達よりも軽い荷物を持っていた紫堂君が悲鳴をあげた。

 

「ッヒィ!」

 

 パキッと、朝ご飯になるはずだった卵の割れる不吉な音がする。

 

「おまっ、なにやってんだよ!」

 

 尻もちをついて上を見上げる彼は震えながら指を指し示す。

 しかし、いくらその方向を見ても木々と暗くなってきた空があるだけで異常は感じられない。

 

「の、のの脳吸い鳥だよ! 本当だって! いたんだよ! く、嘴が真っ赤で、首だけひょろ長くて胴が丸々太ってる!」

「それ、お前のことじゃねーの?」

「ふざけてるわけじゃないよ!」

 

 相当に憤慨し、尚且つ怯えている。

 このままでは埒があかないので早めに帰ることになった。卵は予備の分も買っておいて本当によかった。買いに戻らなくて済む。

 彼は宿に帰ってからもしきりに脳吸い鳥の存在を訴えていたが、それを切って捨てた青凪さんによって一旦落ち着かせるために部屋へ戻された。緑川さんは残念そうにしていたが、廃墟探索は明日の昼と夜、二回決行するらしい。

 宿の主人が自分のついでに作ったような、ひどく家庭的なカレーを食べてそれぞれが部屋に戻る。

 

「脳吸い鳥は見れた?」

「いいや? 俺は見てないです」

「そう、相変わらず運がいいね」

「は、はあ? でも見たらしい紫堂君はなんともなかったみたいですけど」

「ふーん、どの辺で見たの?」

 

 なんで奴はこんなにも質問を重ねてくるんだろう。

 

「ちょうど西側の、廃墟周辺…… か?」

 

 確か紫堂君が悲鳴をあげる前はどこに廃墟があるとかをあの不良君に教えて貰ったんだ。

 

「そう」

 

 それきり、奴はごろんときっちり窓側のベッドを取って寝る態勢に入っている。

 物騒な名前なのだからきっと本物も物騒なのだろう。奴も心配、しているのだろうか。こんな奴が。

 なんとなく奴に見捨てられることはないんだろう、と信用してしまっている自分に舌打ちを一つ打って不貞寝することにした。気持ち悪い。俺も、奴も。

 

 本当、気持ち悪い。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 朝は激しいノックの音で目が覚めた。

 

「朝からごめんなさい! 緊急事態なんです! 助けてください!」

 

 そこにいたのは緑川さんだった。

 説明を求めても早く来てくれと腕を掴まれ、引っ張られていくだけでなにも話してはくれない。

 

「だって唐突にあんなこと言ったって信じてくれないもん!」

「い、いやなにがあったか分からないと心の準備が」

「紫堂孝一の部屋、ですか」

 

 いつの間にか目の前には紫堂君の部屋。

 無遠慮にも扉を開ける神内の後に、押し込まれるように部屋の中へ入ると俯いた黄菜崎君と、耳から血を流している紫堂君を抱え、歯を食い縛る青凪さんの姿があった。しかしその表情の細かいところまでは見えない。

 

「なにが、あった、んですか……」

 

 俺は掠れた声しか出せなかった。

 

「私は応急処置の心得を持っているが、なにをやっても、どんなに声をかけても反応はないし、瞳孔が開いているように思える…… 耳から血を流しているから不注意の事故かとも思ったがその痕跡はない。つまり……」

 

 瞳孔が開いている? それってつまり、死んでいるってことか? 

 嘘だろう? そんな、また旅館で事件に巻き込まれるだなんて。

 

「脳吸い鳥、だよ! 脳吸い鳥がいるんだ! だって鎮ちゃん軽すぎるって言ってたもん! 脳って重いんでしょ!? だからだからだから!?」

「ひとまず、宿のご主人を呼びましょう」

 

 奴が行動指針を与えて来なかったら俺達は永遠にこの場で硬直していたかもしれない。それくらい、ショックだったのだ。

 

 ゲッゲッゲッ

 ギッギッギッ

 ゲッゲッゲッ

 ギャッギッギッ

 

 早朝、外では嘲笑うようにカエルの大合唱(・・・・・・・)が響き渡っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・身長差
 神内は157㎝程度。令一は180㎝程度。主人公はダイス目を恨んでくれ。

青凪(あおなぎ)(しずめ)
 学者風な喋り方。大人っぽいが大のオカルト好き。

黄菜崎(きなさき)(がい)
 青凪の幼馴染で振り回され気味な不良。わりと善人。

紫堂(しどう)孝一《こういち》
 臆病。緑川が好きだけど告白する勇気はない。一泊目の犠牲者。

・緑川(るい)
 キモカワ好きな女子。ハイテンションだけど異常事態に弱い。


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バードパニック!

※この小説では残酷な描写、ホラー、脳内グロ画像(ニャル)、グロ(BLっぽい描写)、後味の悪さなどが配合されています。苦手な方はご注意くださいませ。



「は……?」

 

 ゲッゲッゲッ、と鳴く無数の声。反響する音。

 それらは明らかにこの宿を囲んでいる。さながら包囲網。出たら最後、どうなるのかは分からない。

 

「………… 紫堂は恐らく、もう駄目だろう」

 

 俯いたまま沈黙を守っていた青凪さんが言った。絞り出すような声だった。

 

「……」

 

 あいつはそれを冷めた目で見下ろしている。

 しかし、それを怒る程の元気は俺になかった。

 

「あの…… 本当に、脳吸い鳥が……?」

 

 俺がそう尋ねると、緑川さんが 「た、多分……」 と言って、助けを求めるように青凪さんへと視線を向けた。

 その視線はどこか、信じられないといったような感情が混じっている気がしたが、それよりも青凪さんへの信頼が勝っているように感じる。

 創作物としての化け物が好きだと言っても、実際にパニックホラーのような状況に巻き込まれてしまっては混乱するしかないらしい。

 

「最初は耳かきでもしながら転んだのかと思ったが…… 凶器は落ちていないし、それにしては血痕と離れすぎているだろう? 壁にまでべったりついているところを見るに、抵抗した跡だと思ったほうがいいだろう」

 

 彼女が指差した先の壁には、確かに血痕がついている。

 それに、耳から血が流れているわりには服にはあまり血が跳んでいない。事故によって倒れたのならば床と接している服に血がついていてもおかしくない。しかし、青凪さんの膝に乗っている彼を見てみてもそんな跡は見受けられないようだ。

 改めて死体、と思われる彼を観察して気持ち悪くなってくる。失礼だとは分かっているが、さすがに気分にいいものではない。

 彼女はよく、平気で膝枕できるものだ。

 

「でも、脳吸い鳥だと断定するのは……」

 

 信じることができない俺が苦言を漏らすと、僅かに青凪さんの眉が寄った。

 

「私の言葉が信じられないと?」

 

 現実主義の彼女がここまで言うとなると、なにか理由があるのだろうか。

 

「あ、いや…… すまない。実はだな、第一発見者は私なのだけれど……」

 

 言いすぎたと思ったのだろうか、さすがに死人が出てしまえば余裕を保てなくなるだろう。言い方は強かったが、さすがにそこを責めることはできない。

 

「私達は早朝に一度廃墟探索することになっていたから、なかなか起きてこない彼を起こしに来たんだよ。そのときに、扉越しではあるが…… 無数の羽音が聞こえたんだ」

 

 それは、確かに決定的かもしれない。

 室内に鳥なんているわけがないのだし。

 

「皆それを聞いたのか?」

「いや、鎮だけだよ。僕は流の準備を手伝ってやれ、って押し付けられてたしな」

「いつもは廃工場とかで、山の中の廃墟に入ったことはないから……それなりの装備が必要だって鎮ちゃんが言ってたけど、あたしはそれを忘れちゃって……」

 

 しゅん、とした様子の彼女は泣きそうだった。

 彼の死に一番悲しんでいるようで、実は相思相愛だったんじゃないかとさえ思えてくる。

 

「よく無事だったね」

「まあね、部屋を破ったのは崖を呼んでからだし、その間にどこかへ行ったんだろう」

 

 こともなげに青凪さんが言う。

 

「それに、流も鳥を見ているようだしね」

 

 一番冷静な彼女は、さらに決定的となる証拠を提示した。

 

「さ、さっき、下土井さん達を呼びに行くとき……玄関前から見たら、い、一杯鳥がいて、だから信じるしかなくてっ」

 

 とうとう涙腺が決壊した緑川さんが崩れ落ちる。

 ここまで言われてしまえばもう、鳥の存在を信じるしかないだろう。

 

「だから安易に外には出れねーんだよ。同時に探したけど宿の主人もいないみたいだしさ」

 

 そういえば奴が主人を探したほうがいいなんて言っていたが、それも無意味だということか。

 

「僕こういうの苦手なんだけど…… 宿内を回りながらなるべく鳥共に見つからない脱出ルートを探すしかねーな」

「…… っなんで、そんなに冷静でいられるの? 鎮ちゃんだってそうだよ…… 怖くないの!? あたし、あたしもう嫌だよ! なんで危険に飛び込むようなことしなくちゃいけないの!? あたし、こんなこと求めてたわけじゃないのに! こんなの嫌だよぉ!」

 

 錯乱した緑川さんが黄菜崎に掴みかかるけど、彼はそれで黙っているわけじゃない。

 

「あのな、僕達が無事に外に出ないとこのことも警察に伝えられないだろ! 皆仲良くここで殺されたら埋葬してやることもできないし鳥共も野放しだ! 保健所でも自衛隊でもなんでも、伝えないともっと人が死ぬんだぞ!?」

「でも、でも…… ! 割り切れるわけ…… ないよぅ……」

 

 それきり緑川さんは話さなくなってしまった。

 しゃがんで緑川さんは青凪さんに代わり、紫堂君の蒼白になった顔を撫でる。苦しみに歪められていた顔はその指で皺が伸ばされ、穏やかな顔へと戻っていく。

 

「調査は皆で進めててよ……」

「流、気持ちは分かるが人手が必要なんだ」

 

 立ち上がった青凪さんがいっそ冷酷なほどに言うが、彼女はいやいやと首を振る。

 

「お願い鎮ちゃん…… ひとりにして」

「…… 分かった。ここを動くなよ」

 

 話がひと段落したことを確認し、そういえば奴が静かだと気づく。

 

「お前はどうす……って、え?」

 

 ついでにこれからどうしようかと開きかけた口はしかし、続きを言う相手がそこにいなかったせいで閉ざされた。

 そう、つまらなそうにしていた奴は、いつの間にか姿を消していたのだ。

 

「あ、あいつどこに…… !?」

「ん、神内さんか? まずいな、一人では危ない……」

 

 妙に冷静な彼女の横顔を眺める。

 そして同時に彼女をじっと見つめていた黄菜崎君が目を見開いたと思うと苦々しげに顔を逸らし、扉へ向かっていく。

 

「…… 僕が探すよ。僕は玄関と西側を探す…… 鎮は念のため大人と一緒にいろ」

 

 吐き捨てるように言われた言葉に傷つく様子も見せずに青凪さんは頷いた。

 

「さて下土井さん、どこから探せばいいと思う?」

「え、そう言われてもなぁ……」

 

 結論が出るのはすぐだった。

 

「手当たり次第……」

「しらみ潰しかい?」

 

 適当に言った言葉に肯定の返事があって、少しだけ驚く。

 半月のように目を歪めて笑う彼女に少しだけ違和感を感じながら頷いた。

 この宿はそんなに広いわけではないから客室を除けば重要そうな部屋はごく僅か。更に宿のご主人の部屋もあるのだからそこへ向かっていけばいいのだと思う。

 きっと黄菜崎君もそうするだろう。

 この宿は南側の玄関と共有スペースを中心にし、廊下が東西北に別れている。東側は俺達が泊まっていた客室が固まっており、西側にも同じく客室と露天風呂付きの大浴場。ご主人の一室は宿の奥、北側にある。

 

 だから奴を捜してくれている彼がこちら側に戻ってくる前に一つ一つ客室を調べることにした。調べると言っても客室は扉をどんどん開けていくだけ。

 こうしていれば俺達がどこを調べたか分かるからだ。

 そして緑川さんと青凪さんの部屋に近づいた時、ふと思い出すことがあった。

 

「青凪さん」

「なんだい? おにーさん」

 

 からかうようにケタケタ笑う彼女はまるでこの怪異そのものを楽しんでいるようで、先程見せていた悲しみはもう見られなかった。

 彼女は女子高生だ。なのに友達が死んで、こんな風でいられるだろうか? いくらオカルトマニアだからと言って現実主義の彼女が。

 羽音を聞いたとはいえ、脳吸い鳥の存在を簡単に肯定しているところだって違和感を覚える。

 ただ単に気がおかしくなっているだけかもしれないが、ちゃんと見ていてあげたほうがいいかもしれない。

 これじゃあいつ壊れてしまうか分からない。

 

「君達って脳吸い鳥に関する書類を持ってたよね? あれの内容って詳しく覚えてますか?」

「なんだいそんなことか」

 

 目を細めて彼女は嘆息する。

 

「見たいなら見ていけばいい」

 

 そういって彼女は緑川さんの部屋を指差した。

 

「え、でも書類って青凪さんが持ってきてたんですよね?」

「…… 昨日は露天風呂に入ったあと彼女の部屋で少し話をしていてね。そのとき忘れてしまったんだよ」

 

 バツが悪そうに眉を寄せてそう言った彼女に続いて部屋に入る。

 俺達の部屋と殆ど同じ和室だ。違うところがあるとすれば端の方でバスタオルが干してあることや布団がきちんと仕舞われていることだ。

 荷物の方へ目を向けると幾つかの紙がバッグから溢れ出ているのが分かる。

 確かにそこには資料が置きっぱなしになっていた。

 

「これですか?」

「ああ」

 

 紙束を拾い、横目で彼女に確認してから目を通す。

 カエルのような声、黄色く細長い嘴、醜く膨らんだ腹に小さな頭部。集団で行動し、知性はあるが理性がない。あと、幾らか派生した噂話があるようだ。

 

 曰く、脳吸い鳥には脳がないので人の脳を代わりとする。

 曰く、餌を効率よく確保するために集団で行動する。

 曰く、食った脳の持ち主の声を真似る。

 

「……」

 

 妖怪である鈴里さんは、嘘が本当になると言っていた。

 人でないものは人間の認識こそが命であり、噂話こそが妖怪の存在証明でなければならない。

 そこに存在しなかった怪異は噂が広がれば広がるほどに形を得て一つの生命となる。空想が現実になる。幻想が具現化する。

 

 ならば脳吸い鳥はどうだ? 

 

 いかにもな名前に加え、こんなに物騒な話が沢山ある。

 さらに、共通した話では知性を持つが理性はないとされている。

 決定的だ。危険すぎる。

 

「青凪さん、合言葉を決めておきましょう」

「合言葉? なぜだい?」

 

 怪談にありがちでもっとも危険な事項。それは〝 誰かの声を真似る 〟ということだ。これをされてしまったら滅多なことでは判断がつかないし自分から罠にかかりにいくようなものになる。

 

「声を真似られたら危険だし、本人確認のための合言葉を決めておこうってことですよ」

「なるほどなぁ」

 

 青凪さんが感心したように頷き 「どうしようか」 と呟いてからなにか思いついたように顔を明るくした。

 

「ふむ、じゃあこうしよう。〝 七不思議の七番目は 〟と言ったら〝 おしらせさん 〟だ」

 

 七不思議。いかにも彼女が好きそうな分野だ。

 

「なんですか? それ」

「そこの資料にも書いてあると思うけど、我が校の七不思議さ。赤いちゃんちゃんことかずるずるさんとか都市伝説と混じって色々とあるけれど、七番目のおしらせさんは何十年も前から変わっていないらしい。他の学校合わせて八番目を知ったり、七番目を二つ知ると異界に連れて行かれる、なんてくだらないお話もあるけど、まあ今は関係ないね」

「個人的に思い入れがある…… ってことですね」

「まあそんなところだよ」

 

 そう言って資料を渡される。

 そこには彼女の言った話と、七つ全てが揃った学校の怪談が載っていた。

 

「おしらせさん、ですね」

「ああ。さあ、もう行こう。あまり長居するのは……」

 

 

 そのときだった。

 

「ああああああああ!」

 

 絶叫するような、苦しむような悲鳴が聴こえてきたのは。

 

「し、下土井さん!」

「走れ!」

 

 走る、走る。

 場所は絶叫が鳴り止まないために明確だ。北側の廊下、ご主人の部屋がある方向から聞こえてくる。

 

「くそっ」

 

 舌を打って背中に背負った竹刀袋を手に持ち、紐を緩める。

 

「こっちの部屋だ!」

 

 青凪さんに続いて何かの影とすれ違い、その部屋に入るとそこには衝撃的な光景が広がっていた。

 

「ぅ、あ、し、しず、め、なん、あああああ!」

 

 だらしなく開いた口からピンと張るように舌が覗き、目は極限にまで開かれてグルンと上を向いている。

 ガクガクと、隣にいる彼女を認識したのか涙を浮かべたのは、黄菜崎君だった。

 

「涯!」

 

 彼の左肩に食い込ませるように長い爪を立て、その耳の中に真っ赤に染まったストローのように細長い嘴を突っ込んでいる鳥と言うのにも悍ましい怪物がそこにいた。

 醜く膨らんだ腹は次第にもっと膨れていき、ぎょろぎょろと魚のように動く目玉が新たな獲物(こちら)に気づく。

 

「ゲッゲッ、ゲッ」

 

 鳥は喜ぶように鳴き声をあげる。

 嘴は未だ彼の耳の中なのだが、そのくぐもった音が喉から鳴っていることに気づいて戦慄した。気持ち悪い。生理的嫌悪感が先立って鳥肌が立っているが、これは俺がやるしかない。

 

「黄菜崎君から……」

 

 竹刀袋から赤竜刀を取り出す。

 背後で青凪さんが息を飲む音が聞こえた。

 

「おにーさん、それ」

「離れろぉぉぉぉぉ!」

 

 狙うのは腹。

 首を斬るにしても細すぎて当てられる確率が下がるから大きくて当てやすい箇所を斬るのが一番なのだ。

 踏み込み、彼の耳からずるりと嘴を抜き出した鳥目掛けて振る。

 

「ゲッゲッ」

 

 真っ赤に染まった嘴が彼から離れるとその体が崩れ落ちるようにぐらりと傾いた。

 

「黄菜崎君!?」

 

 空振らせた刀を牽制で鳥の目の前に振ってから倒れる体を受け止める。

 その体は高校生の男とは思えないほどに軽く、腰に入れていた力が拍子抜けするようにがくりと抜けた。

 

「ゲッ、ゲッ、ギャア!」

 

 嘴から真っ赤なストローのような舌を垂れ下げて嘲笑うように鳴く鳥がこちらに向かってくる。

 今度こそ当ててやる! 

 横たわる彼の体をそっと床に下ろして鳥を迎え撃つべく準備する。

 チャンスは俺の近くへ鳥が来たときだ。そのときに醜く膨れ上がった腹を叩っ斬ってしまえばいい。

 

「おらぁっ!」

「ギッ」

 

 短い悲鳴を上げて腹を深く裂かれた鳥が落ちていく。

 

「はあ……」

 

 

 切れた息を整え、顎に伝う汗を拭う。

 緊張と正義感が途切れ、恐怖と不安によって震え始めた腕のせいで刀がカタカタと音を立てた。

 後ろに庇った彼女に鳥の死体を見せないようにしながら振り返る。刀がカタリ、とまた音を立てた。

 

「お、おにーさん、後ろ!」

「え?」

 

 ガンッ、と後頭部が強く揺さぶられる。

 視界の端にちらちらと舞う羽根が見えた。

 

「っ!?」

「っわ、ちょっと下土井さん!?」

 

 俺は潜んでいたもう一匹の鳥に不意を打たれ、バランスを崩して彼女の方向に倒れこんだ。

 支えようと突き立てた刀が彼女の真横に刺さるが、俺の体重は支えきることができず、彼女の上に倒れてしまう。

 

「っ、やばい! ごめん、青凪さん、早く立って逃げてくれ!」

 

 まだ鳥が一匹残っているのだ。

 すぐさま体を起こし、同時に彼女の手を引っ張ってすぐに起こす。

 女性はやはり軽いものと相場が決まっているようで、すぐに助けることができた。

 しかし、立ったその場で迷いを見せた彼女ではすぐに狙われてしまう。

 

「ギャア!」

 

 嘲笑うように、俺へ(・・)と突っ込んできた鳥の体当たりを避け、すれ違うように刀の一線を叩き込む。

 

「ギッ」

 

 短い悲鳴をあげて、二匹目の鳥が翼を断たれて墜落した。

 他の鳥よりもほっそりとしているそいつを視界に収めながら、周囲を油断なく見渡す。

 そうして三分ほど経っただろうか、もう鳥はいないと判断して刀を下ろす。

 

「……終わった、かな?」

 

 俺がそう言って彼女に目を向けると目を泳がせながら一歩下がった。

 先ほど刀を真横に刺してしまったためか、少し怯えられているようだ。

 

「あ、さっきはごめん……」

「まったく…… 銃刀法違反ですよ、おにーさん? 今は緊急事態で助かったけれど…… 次はないと思ってくれ」

 

 そりゃそうだ。

 俺は再び謝って彼女から一歩引いた位置をキープして黄菜崎君を観察する。

 

「崖は…… ダメ、か……」

 

 顔を歪め、青凪さんは彼から目を逸らす。

 そして何気なく部屋を観察しているとなにかを発見したようだった。

 

「下土井さん、そこにあるのは宿の主人の日記じゃないかい?」

 

 書類や日記を視界に入れる。確かにそこには〝 四座(よつざ) 〟の文字があった。

 しかし、いくらなんでも切り替えが早すぎやしないか? 

 

「さっきからご主人の姿も見えないし、それを見ればなにか分かるかもしれないな」

「………… そうですね」

 

 僅かに抱いた不信感は一旦しまいこみ、パラリと日記を捲る。

 どうやらこれは日記であると同時に、妻と宿の経営をする現状を記録するためのものでもあったようだ。

 妻と二人三脚で始めた宿。露天風呂の増設により資金が危なくなったこと。借金の返済。付近の孤児院が地震で倒壊したこと。不便な生活に、たまに訪れる理不尽な客。そして思わず見惚れてしまうような艶やかな黒髪の美女と、高校生位のボーイッシュな女の子の来訪。

 このあと妻に怒られた旨が愚痴と共に綴られており、同時に変な客が増えたことが書かれている。

 ここから先は廃墟となった孤児院に肝試しをしに来る輩が絶えないことと、脳吸い鳥などという眉唾もいいところな噂が流れていることが書かれ、段々と不穏な内容になっていっている。

 

ある日、妻がおかしくなった

 

 その一文から先は失意と後悔の念で埋められている。

 ご主人がなにかを察してどうすれば妻を救えるのかと色々と考察して書き殴ってある。

 

 

とうとう脳吸い鳥が私の前に現れた。

そいつは妻の声で言うのだ。ここを餌場にしろと。勿論抵抗したし、奴を殺そうとした。

だが、私にはできなかった。不器用な私が奴に攻撃しようとすると、これ見よがしに腹を突き出して来るのだ。私には妻を殺すことができない。かといって都合よく首を刎ねる器用さなんて持ち合わせてはいない。

いずれ私もあの腹の中に収まるのだろうか。都合よくこの記憶が利用されるのは不幸なことだ。

だけれど、私だけで生きるのはもういやだ。

せめて妻に殺されることを祈る

 

 

 そこで日記は締めくくられている。

 

「まるで鳥が妻みたいな書き方だけど…… あれ?」

 

 先程まで背後で一緒に日記を読んでいた青凪さんがいなくなっている。

 

「青凪さん!? どこに……」

 

 そして再び聞こえる悲鳴。

 今度は緑川さんの声だ。紫堂君の部屋の方向から聞こえるため、日記を乱暴に懐に仕舞って刀を持つ。柄に竹刀袋を結え付けて抜き身のまま走った。

 

 深く考える時間はなかったのだ。

 黄菜崎君があの日記を読んでいたのだと、気づけていたらまた違った結果になったのかもしれない。

 だけれどそんな時間的猶予は与えられず、俺はただ目先の緊急事態を解決するために、愚直に走るしかなかった。

 

「緑川さん!」

 

 扉を勢いよく開けて入ると緑川さんは既に倒れ伏していた。

 そして、ある意味衝撃的な光景が俺の目の前に広がっていた。

 

「くふふ、弱い弱い。もっとずずいっといってくれないと」

 

 あいつが無抵抗で鳥に嘴を突っ込まれて頬を染めている。

 

「馬鹿だろあんた!」

「あれ、れーいちくんおひさー」

 

 やっと俺に気がついたらしいあいつは手を振った後、スッと目を細めて肩に留まった鳥に目線を向ける。

 

「はぁ、シャンだってもっと上手いよ?」

 

 軽口を叩きつつ、その目は半月のように歪められ、口元が釣りあがっていく。

 異変を感じ取ったらしい鳥が逃げ出そうとするが奴のほうが幾分か素早く、鳥の腹を鷲掴む。

 

「おつかれさま。それじゃあ、さようなら」

「ゲッ、ギャッ、ブッ」

 

 非力なはずのあいつが鷲掴んだ手をギリギリと締め上げ、鳥はその口からゴポゴポと赤い汁と白い液を垂れ流し、そして最期には腹がぐちゃりと握りつぶされた。

 ビチャ、と破裂した肉片が四方八方に飛び散る。

 

「え……」

 

 なにか温かいものが頬にべったりと付いたことに気がつき思わず手が伸びる。

 掬い取った手のひらには赤黒い肉片が乗っていた。

 

「なっ、あっ!?」

「あー、ぐらぐらするね。くふふ」

 

 俺が混乱しているうちにあいつは手に付いた肉片を舐めとり、二、三度瞬きする。

 

「…… 足りない? ああ、れーいちくんが持ってるんだね」

 

 唐突に、こちらへやってきた奴が動けない俺の手を取る。

 そして手の平に乗ったままのそれに口をつけて啜り始め、極め付けにとそれがついていた頬をべろりと、生温かくぬめっとしたものが滑っていった。

 

「っひ!?」

「おっと」

 

 その衝撃で正気に戻り、反射的に殴りかかっていたがすぐさま離れた奴に当たることはなかった。

 

「なっ、なななっ、なにするんだよ!」

 

 頬はべっとりと汚れている。

 気持ち悪くて吐きそうになりながらも服の袖でそれを拭って生理的嫌悪感から流れる雫を振り払った。

 

「なにって、私の脳がちょっと取られちゃったから元に戻しただけだけど?」

 

 は? 

 

「…… 今なんて?」

 

 俺が現実を受け入れられないままに訊き返すと、嘲るように 「くふふ」 と笑いながら鳥の死体を指差す。

 

「こいつらは人間の脳を自分の脳の代わりにするんだよ。だから食べた脳はお腹に溜まって、記憶や常識を抽出しながら振舞って人間を騙すんだ」

「じゃ、じゃあ緑川さんは助かるのか!?」

 

 俺が希望を持って言った言葉は嗜虐的な笑みを浮かべ、俺に指を突きつけた奴が否定する。

 

「無理だよ?」

 

 語尾にハートマークでも付きそうなほどの言い方で、その残酷な事実を言う。

 

「なんでだよ! だってお前は……」

「いくら人間スペックまで落としててもね、私は人ではないし、全部奪われたわけじゃないから食べれば元に戻る。けど、人間は無理だねぇ? れーいちくんはああなった脳を元に戻せると思うの?」

 

 奴が示したのは散らばった肉片。あれが全て彼女の脳ならば? 

 無理だ…… と悟った。

 そして同時に奴が腹を潰した光景が蘇る。

 こいつ、知っていながらあんなことをしたのか!? 

 

「お前っ、お前わざと腹を潰しただろ!」

 

 刀で斬りかかるがこちらも避けられる。

 

「くふふ、受けてもいいけれどそれじゃあ中身出ちゃうし、即ゲームオーバーだ。ほらほら、まだ一人残ってるんじゃなかったっけ?」

 

 ますます意味ありげに笑みを深める奴に仕方なく刀を下ろす。

 

「そうだな…… 青凪さんを探さないと」

 

 心のどこかでは分かっていた。

 奴が言っていた〝 記憶や常識を抽出して人間を騙す 〟という言葉。

 〝 黄菜崎君が絶望したように叫んだ 〟その名前。彼が言いたかったこと。

 伝聞には黄色い嘴と書かれているのに、〝 紫堂君が見た鳥の嘴は赤かった 〟こと。

 俺が扉を開けたときに飛び出た影と、〝 彼女の言葉 〟との矛盾。

 そして〝 まるで鳥が妻であるかのように書かれた日記 〟の一文。

 

 全ては揃っていた。正答に辿り着ける欠片は全てあったのだ。

 ただそれを信じたくなかっただけ。

 意味深に笑う奴の思惑を正確に理解しながらわざと踊らされた。信じたくはなかったから。

 

 だから。

 

「青凪さん!」

 

 ご主人の部屋の近くから見つかった地下道への入り口。

 恐らく昔は防空壕だったのだろう、その奥に佇む影。

 

「ああ…… 勝手にいなくなってすまない下土井さん。あのとき、鳥が一羽接近していてね。邪魔になるといけないと思って頑張って撒いていたんだよ」

 

 嘘だ。

 あの日記は程のいい時間稼ぎだったのだ。

 

「青凪さん、緑川さんも鳥にやられてしまいました」

「そう、か…… 折角安全に出られそうな出口を見つけられたのに、ダメだったのか……」

 

 俯く彼女。

 隠された地下道で、〝安全な、唯一の出口〟の前で彼女は待っていた。

 

 つまり、ここで全て終わる。

 笑みを浮かべたまま俺の後ろにいる奴は恐らく手を出す気はない。こういうのは人間だけで解決してほしいのだろう。

 

「ねえ、青凪さん。あの書類に、鳥の噂に〝 人を乗っ取る 〟って、ありましたっけ?」

「…… いいや、そんな記述はなかったと思うけれど?」

 

 素知らぬふりの彼女。

 

「……なら、〝 扉をすり抜ける 〟って、ありましたっけ?」

「そんなこと、できるわけないじゃないか。生物なんだよ?」

 

 ははは、と軽く笑って首を傾げる彼女に、さらに質問を続ける。

 

「…… あなた、誰ですか?」

 

 ここでようやく、彼女は動揺したように肩を揺らした。

 

「な、なにを言ってるんだいおにーさん。もしかして気でも違っちゃったのかい? あれだけ死体を見ればそうもなるかもしれないけれど……」

 

 刀を構える。

 それにびくりと震えた彼女は一歩下がり、出口を塞いで顔を引きつらせる。

 

「どうして? …… ねえ下土井さん。どうして私が乗っ取られてるなんて思うんだい?」

 

 どうして? 

 …… そんなの決まってる。

 

「だってあんたっ、宿に来るまで背負った時と全然重さが違ったじゃないか!」

 

 決定的な言葉。確信した事柄。

 たとえ手で引っ張り起こしただけと言っても、あんなに重さが変わっているわけはないのだ。

 確かに、彼女は元々も軽かった。けれど、倒れた人間を頭を揺らされたばかりの俺が簡単に引っ張りあげられる道理はない。

 気づくのに随分と時間がかかってしまった。そのせいで、緑川さんも、黄菜崎君も、死んだ。

 俺に責任がないとは、とてもではないが言えない。

 だから、せめて彼女だけは、青凪さんだけは救ってみせる。そう覚悟して刀を構えた。

 

 そして、それを俯きながら聴いていた彼女の口元が、半月のように歪む様が、見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・脳吸い鳥
 実は脳を吸う前なら細みの体をしている。

・グロ描写(ニャル)
 「気持ち悪い」は褒め言葉。

・日記に書かれた美女と女子高生
 今までで登場している人物ではありません。

2016/11/7
足りなかった描写や説明などを加筆



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彼女はそれを望んでいる

 脳残し鳥はこれにて終幕。

 ※ 本文中に誰かを誹謗中傷・差別するような意図はございません。ご留意くださいませ。


「そうか…… そういえば、そんな記憶もあったね……」

 

 俯いたままの彼女が、そう言った。

 

「認めるんですね」

 

 俺はなるべく刺激しないように、慎重に言った。

 

「ああ認めるよ。〝 私達 〟は餌場を作るために昨夜来たお前達を利用した。それだけのことだ」

 

 彼女は動かない。

 顔も上げず、髪の下から覗く弧を描いた口元だけが怪しげに動いていた。

 そもそも、彼女は閉じた扉の内側から羽音が聞こえたと言っていたが、その後扉を開けたときには鳥がいたという証言はしていない。

 つまり、扉を開けたときには鳥はいなかったわけだ。

 しかし、黄菜崎君が襲われている現場に居合わせたときは、俺が扉を開いてから影がどこかへと逃げて行った。扉をすり抜ける術がない証拠に他ならない。

 それに、彼女はやけに〝脳吸い鳥〟の存在に肯定的で、それしかないというような発言をしている。

 思えば、紫堂君が事故死でなく鳥の仕業だと示したのも彼女。

 俺が鳥の存在を否定したとき、僅かに怒ったのも彼女。

 妙に冷静だったのも、仲間の死を置いて調査を強行しようとしたのも、悲しむ緑川に苦言を漏らしたのも彼女だった。

 矛盾もあったが、その様々な違和感の積み重ねによって、俺は彼女がクロだと判断した。

 さすがに僅かな体重の変化だけでは見逃していたかもしれない。それくらいに、僅かな違和感だった。

 しかし、小さな違和感も降り積もれば大きな疑惑となり得る。

「この宿には四座さんも、その奥さんもいたはずだろ? その人達はどうなったんだよ」

 

 もはや彼女が人でないことが分かり、敬語はかなぐり捨てる。

 あいつは俺の背後でまたつまらなそうに欠伸をしているようだ。盛大な音が聞こえたので間違いない。俺はそんな雑音に一瞬彼女から目を離して怒鳴りつけようとしたが、今はそんなことをしている場合でないと自身を叱咤する。

 彼女から目を逸らしてはいけない。危険な生物の依り代なのだから何をしてくるか分からないのだ。

 

「彼はよく働いてくれたよ…… 私達のことをしっかりと秘匿しておきながら噂を広めてくれていたからね」

 

 眉間を揉みながら沈んだフリをする彼女は、唐突に顔を上げると 「だから」 と、とても美しい笑顔で俺を見た。

 微笑みしか浮かべなかった彼女の、満面の笑顔だった。たとえどちらも偽物の彼女だったとしても。

 

「今は愛しい妻の腹の中さ」

 

 そう、その言葉がどれだけ凄惨でも。それが初めて見る、彼女の笑顔だった。

 

「やっぱり鳥に…… ?」

「そう、私達は人間の脳を腹に収め、そこから記憶と常識を学習し、人間のフリをする」

 

 つかつかと、その場を四歩歩いては方向転換をしてまた四歩、と歩きながら彼女は説明していく。

 

「脳がこちらにあるのだから当然、脳を失った人間の体を操ることも造作ないよ。だがあの老人は脳を失った自分の妻を縛って監禁してしまったんだ。そうすれば妻の体も死ぬっていうのに、馬鹿だね。でも、おかげであの人間を操って餌場を作ることはできないし、私達の殺し方も何故だか知っていたようだった」

 

 見た目だけは可愛らしく首を傾げて眉を顰める。

 

「なら、四座さんを襲わなかったのはなんでだ? 妻を操れないなら残った主人を操ろうとすればいいんじゃないか?」

「…… 煙草は好かないのさ」

 

 それだけで理由は完結した。

 そういう伝承では〝 煙草を嫌う 〟っていう話はよくあることだし、創作された存在であろう彼女に弱点があるのもまた必然かもしれない。

 もしかしたら、その弱点は〝 四座さんによる最大の抵抗 〟だったのかもしれない。

 宿にやって来る客は廃墟探索を目的にする人ばかり。なら怪談ものも好きだろう。そうやって脳吸い鳥の話を広めながらこっそりと対策を仕込んでいたのかもしれない。

 彼女は分からないようだが、俺にはなんとなくそう思えた。

 

「…… わざわざ俺を足止めした理由は?」

「そのまんまだね。おにーさんを〝 人間() 〟が足止めしておいて、〝 () 〟が声真似で油断した人間を仲間に襲わせる。そのためさ」

 

 よくよく考えれば鳥と対峙しているときも俺ばかり狙って彼女は狙われることがなかった。それもこれも、彼女を襲う必要がなかったからだ。

 思えば、あのとき決めた合言葉も意味がなかったということか。

 口元が引きつる。もう刀から手を離せなくなっている。

 そうして、彼女は淡々と告げてから両腕を広げた。

 

「〝 皆 〟自分の脳が欲しいんだからね」

 

 その言葉と共に、彼女の広げた腕いっぱいに見るも悍ましい鳥が四方八方から集まってくる。そのどれもが濁ったギョロ目をしていたが、二羽だけ知性の宿った瞳を持った他より少しだけマシな鳥が肩と頭に留まる。

 当然、その二羽だけは腹が異様に膨らんでいた。

 

『ふふ』

 

 頭に留まった鳥が、羽をまるで扇子でも口元に置くように動かして笑い声を響かせる。

 その声は間違いなく青凪さんのものだった。

 

『そろそろ前座は終わりでいいかしら?』

 

 肩に留まった鳥が老女特有の声を響かせた。

 その嘴は、真っ赤に染まっている。

 

「煙草は嫌いなんじゃなかったんですか?」

 

 相手が老女なので思わず敬語になる。

 

『教えてあげるわ、少年…… 愛は全てにおいて勝るのよ』

 

 俺は少年なんて言われるような歳ではもうないけれど。

 チラリと背後を窺い見ても奴はやる気なさげ。そもそも参加する気は最初からないと分かっていたはずだ。

 だってあいつは、人間が無様に生き汚く足掻く姿が好きなのだから。

 少しだけ期待を込めて見てしまった奴の目は、冷たくこちらを見下しているようだった。

 

「さあ、キミ達で最後だよ!」

 

 そして、計十羽の鳥が、飛び立った。

 

「ぁっ、ぶね!」

 

 それはまさに混戦。

 思い思いに飛んでいる目の濁った鳥共をギリギリで回避し、腹からバッサリと切り落としながら着地点を一瞬で見極めなければならないのだ。

 それも何羽もいる鳥を一羽ずつ確実に殺していかなければならない。一回でもミスをすればすぐに組みつかれてあの長い嘴が耳の中に入ってくるのだ。末恐ろしい。

 

「……」

 

 脳である鳥が動き回っているせいか人間の体である彼女の方は沈黙を守っている。

 バタバタと音を立てながら頭の周りを飛び回る鬱陶しい鳥をまた一匹、かち割った。

 

「青凪さん!」

 

 脳を守ってあの鳥を仕留めれば青凪さんは助かるだろうか。

 そんな皮算用が脳裏を掠めてあいつの隣まで一旦下がる。

 

「おや、いいのかな? こんなことしてて」

 

 握りつぶした鳥の死骸を捨てて奴は手をはたく。

 

「うるさい。お前は握りつぶしてないで精々変態プレイしてろよ」

「え、いいの?」

「は!?」

 

 無抵抗になってしまった奴の姿を見て 「しまった」 と思ったがもう遅い。

 まあ、馬鹿のことは後回しにして…… というよりあいつが死ぬよりも先に鳥共を片付けなければならない。しかし、奴が手を出さないのは好都合なのかもしれない。

 それはつまり、彼女の脳を持ったあの鳥を、腹を潰さず殺すことができるかもしれないということだ。奴がいればうっかり彼女の脳ごと殺しかねない。

 

「はぁっ!」

 

 脳を宿しているわけでもない鳥は愚かにも分かりやすく突っ込んで来るから軌道が読みやすい。だからと言って当たるわけでもないが、相手は必ず俺かあいつの肩に留まろうとするので飛んで逃げる相手を無理に追う必要はない。

 

 ゲッゲッギャギャ! 

 

 奥に引っ込んでいた四座妻の鳥が飛び立った。

 どうやら戦況を不利と見て加勢しに来たようだ。

 なぜあの二羽が戦闘に加わらないのか考えたが、ようは脳があるかないかの違いなのだろうと結論付ける。脳を既に持っているあの二羽は俺を襲っても食事になるだけで意味はない。

 だから他の鳥に襲わせているのだろうが、全滅しては意味がない。

 加勢しに来た四座妻はその細長い嘴で俺の目玉を抉ろうとしてきたり、鋭い鉤爪で傷をつけようとしてくる。

 弱らせてから俺を乗っ取るつもりか。

 

「いっつ…… !」

 

 咄嗟に弾いた鉤爪。しかしいつの間にか視界から外れていた青凪さんの鳥が俺の後頭部を思い切り殴打して上空に舞い上がった。

 

『キミは少々厄介なようだ』

 

 俺の身長と刀を合わせても届かない上空で彼女が嘲るように言う。

 俺はぬるりと首筋を濡らす感触に、眩暈を覚えながら思わず頭を片手で押さえた。

 しかしそれがいけなかった。刀は両手で扱わなければ満足に振るえない。

 ひゅっ、と接近した鳥が再び頭に激突してきてぐらぐらと頭が揺さぶられる。

 次いで、両膝の裏から鳥が突進してしてバランスを崩した。

 

「っが!?」

 

 駄目押しに青凪さんの鳥が腹を圧し潰すようにどすんと降ってきて腹の空気が無理矢理押し出されていく。

 

 ギャア! 

 

 そして、残った最後の一匹が諸手を挙げて喜ぶように俺の顔に留まった。

 

「やめっ」

 

 目を開けていると鉤爪が抉ってきそうな至近距離。伸びる赤々とした舌。左耳がぬるりとした感触を感じ取ったときには既に奥の方で何かが裂ける音が聞こえた。

 

「あああああ!」

 

 一瞬で行われたチームワークに、もう二度とさせてなるものかと握って離さなかった刀を滅茶苦茶に振る。

 すぐ側にいた、俺に組み付いた鳥はそれで首を断ち切った。

 

「はあ…… うぅ、ふっ」

 

 奪われてはいない、はずだ。

 あいつならともかく俺みたいな人間が脳を少しでも奪われたら動けなくなるだろう。

 俺が組み敷かれていても欠片も動かず、端の方で鳥を追い払いながら冷たい目で見るだけだったあいつの黄色い目に期待するのはもうやめた。

 そもそも、あいつは人外。俺は人間。あいつにとって俺はお気に入りのおもちゃでしかない。おもちゃが壊れたところでその程度だったのかと捨て去るだけなのだ。

 

「ぅ……」

 

 泣いてなんかない。

 鼓膜が破られて聞き取りづらくなった羽音を追う。

 

「ここだぁ!」

 

 空振り。やはり片方の鼓膜が僅かでも破られると距離感が掴みにくくなるみたいだ。

 白濁した目の鳥はあと三羽。

 何度もチームワークを使ってどうにか俺を倒せないかとやっているが、もうその手にはかからないぞ。

 背後にまで気を使って上空にいる二羽を視界から外さぬように回避、斬、回避、斬、回避……

 

 残りの鳥が一羽になったタイミングで上空の二羽が怒ったようにこちらへ向かってきた。

 ここまできたら普通諦めるものだと思うのだが……

 

 ―― 鳥には知性はあるが理性がない。

 

 つまり、諦めて次の機会にだなんて判断するような理性は持ち合わせていないということか。

 

 目玉に向かってきて押さえ込もうとする四座妻を怯えないようしっかりと凝視し、目を掴み出される寸前で首を断つ。

 

 ギッ

 

 物言わぬ屍となった鳥を踏まないように避けてから最後の脳無し鳥を刺し貫く。

 いつの間にか赤竜刀は鳥の血だけでなく、自らその刀身を鮮やかな赤色に染めていた。

 

「…… っ」

 

 これが号の由来だろうか…… と余裕が出てきて考えながら上空に逃げようとする鳥の翼を斬り落とす。

 それだけでショック症状が起きたのだろうか、青凪さんの鳥は呆気なく墜落し、そして息絶えた。

 

「っはぁ、はぁ……」

 

 一気に疲れが体を襲い、跪く。

 脳の指令が切れたからか、青凪さんの体はゆっくりと崩れ落ちてコンクリートの床に倒れていく。

 

「あお、なぎさん!」

 

 あれでは怪我をしてしまう。

 そう判断し、彼女の脳が入った鳥の死骸を掴んで駆け寄った。

 彼女の脳は生きている。生きているのだ。怪異に攫われてしまったが、どうにか元に戻すことはできないだろうか。

 しかし、俺には手術なんてできないし魔法が使えるわけでもない。

 あいつに縋るような目線をやっても面白そうにこちらを見て…… 近づいて、きた? 

 

「私なら、彼女の脳を元に戻すことができるけれど…… お前はどうしたい?」

 

 目を猫のように細めて奴が言うのは、ひどく甘美な誘いだった。

 

「お、れは……」

 

 彼女の青味がかった黒髪をそっと触れる。

 紫堂君も、黄菜崎君も、緑川さんも助けることができなかった。

 それならばせめて彼女だけでも。そう心の中で呟く。

 

「ほらほら、時間がないよ?」

 

 にやにやとした笑みを浮かべる奴の誘いは、怪しすぎる。

 だけれど、それでも助けられる命があるのに放っておくなんてこと、したくないと俺の良心が叫んでいるのだ。

 

「…… ぅ」

「え?」

 

 俺が迷いながら拳を握りしめると、彼女の瞼が震えて薄っすらと開かれる。

 その黒い目に光はなく、どこか虚ろで暫く視線を彷徨わせたかと思うとこちらを捉えた。

 

「なんで……」

「ははっ、鳥の機能が少し…… 残って、いるらしい……」

 

 自嘲するように彼女が枯れた声を出す。

 

「鳥の意識は、死んでる、から…… 私、の意識が表に、出てこれたみたいだよ」

 

 その言葉に少しだけ希望を持って、女の子だとか年下だとか考えもせずにその手を両手で持ち上げ、握り込む。

 

「ぜ、絶対に助けてみせるから! だからもう少し辛抱しててくれ! だからさ!」

 

 その状態のままあいつの顔を窺い見る。

 あいつはそんな俺の表情を面白そうに見つめてから 「お前が望むならやってあげてもいいよ?」 と相変わらず蕩けるような笑みで言った。

 しかし、その言葉を聞いて僅かに眉を顰めた彼女が 「いや、待て」 と制止する。

 

「待てって言われても、早くしないと死んじゃうんだぞ!?」

 

 俺の言葉に目を見開き、そして伏せた彼女は言いにくそうに唇を震わせてその言葉を絞り出す。

 

「ねえおにーさん……」

「な、なんだ?」

 

 悲痛な表情の彼女に嫌な予感を感じつつ握った手を更にぎゅっと、握りしめて声を聞き取りやすいように少し身を屈めた。

 

「お願いだよ…… そんなことを言わずに…… 私を、殺してくれ」

 

 頭が真っ白になった。

 

「ど、どうしてだ? やけになってるんだったら……」

「そんなこと、ない…… 予感が、するんだ。なあ、神内さん…… 私が助かったら…… 私は、どうなる? 知って、いるんだろう?」

 

 虚ろな目に涙が溜まっていく。

 それを動かせない体で拭えるわけもなく、彼女の頬に雫が滑った。

 

「…… くふふ、お前の予感は当たっているだろうね」

 

 その不吉な笑い声に、彼女は 「そうだろうね」 と返す。

 分かっていないのはどうやら俺だけだ。

 

「どういうことだよ! 説明してくれなきゃ分かんないだろ!」

 

 叫ぶ俺にあいつは 「くふふ」 と嘲るように笑って親切そうに言葉を紡いでいく。

 

「脳を元に戻しても、一生目覚めないかもしれないし、目覚めたとしても重度の障害と波のある発狂症状が起こり続けるだろうね。そうしたら意識なんてなく、周りの人に危害を加えるだろう。くふふ、植物状態が一番マシだけれど、それでも親族の負担にはなるだろうね? 一生目覚めるかも分からない娘のためにお金をかけて、そして精神的に疲弊していく。目覚めたとしても発狂する娘に絶望して自殺しちゃうかもね?」

 

 絶句。その一言だった。

 こいつはそれを隠したまま彼女の蘇生を俺に判断させるつもりだったのか。

 

「で、でも、死ぬよりはマシだろ!?」

 

 俺の言葉に奴は冷めた目で見るばかり。

 彼女は 「ふふ」 と笑って目を伏せた。

 

「なら、やはり、死んだほうが…… マシさ」

「そんなこと言わないでくれよ、青凪さん……」

 

 俺はどこかで昔のクラスメイトのことを思っていたのかもしれない。

 助けることのできなかったあいつら。馬鹿やって、楽しかった学生生活。一瞬で崩れた信頼関係。正気を失ったあいつらの表情、行動…… そして、絶望。

 

 救いたかった。助けたかった。

 

 それを、彼女で代用しようとしてるんじゃないか? あいつの冷たい目はそうやって俺を責め立てているように見えた。

 

「くふふ、無理矢理生かされるのってそんなにいいことなのかな?

 誰かの迷惑になるくらいならいっそ死んだほうがどちらも幸せになれるんじゃない?」

 

 甘言は手の平を返し、俺の心を揺さぶる言葉に。

 そして、青凪さんの決意を固めていくようにあいつは言葉を選んで誘導していく。

 

「以前と同じ行動も思考も出来ずにただ暴れるだけだなんて、それって生きてるって言うのかな? それこそ殺してあげたほうが親切なくらいだ」

 

 彼女が目覚めることがなければ、きっとあいつは真実も告げず蘇生したに違いない。

 奴が説得している相手は俺じゃない。彼女だ。

 

〝 彼女はそれを望んでいる 〟お前に望んでいるよ」

 

 沈んでいく。彼女の瞳は深海のように黒く、深くなっていく。

 それは、きっと深い絶望。

 

「お前の手で殺されることを、望んでいるよ」

 

 彼女の目が懇願するようにこちらへ向く。

 やめてくれ。そんな目で見ないでくれ。

 

「ねえ、お前はどっちを選ぶの…… ?」

 

 優しく語りかけられる言葉がかえって怖い。

 呼吸が荒く、息が苦しい。

 そんなものを俺に選べというのか? 無理だ。俺にはできない。

 俺はきっぱり選べるほど強くなんかないし、酷いことを言うがそんな責任なんて、とりたくない。俺は弱い人間だ。無理に決まっている。

 

「おにーさん……」

 

 嫌だ、嫌だ、嫌だ! 

 

「俺は…… 、俺は、それでも、できねぇよ!」

 

 握っていた手を離して床を叩く。

 ゴリッ、と鈍い音がして拳から血が流れた。

 

「そう…… くふふ、優しさってときに残酷だよね」

 

 バタバタ、と耳元で羽音が聞こえた気がして振り返る。

 なにもいない。

 

 ギャア! 

 

 再び、耳元で聞こえた。

 

「ぅ、わ、ああああああ!?」

 

 手元に置いていた赤竜刀を防御のために咄嗟に構える。

 そうして刀に自らぶつかってきたそれは、赤い血を撒き散らしながら〝 再び 〟倒れていく。

 ばっさりと切れた青味がかった黒髪が宙を舞ってひらひらと落ちていくのが視界の端に映った。

 

「あ……」

 

 首元を斬り裂かれて彼女の服が首かけエプロンのように真っ赤に染まっていき、ピチャン、と何かの雫が滴り落ちていく。

 

「ばかだなぁ、おにーさん…… は」

 

 ぎゃあ、と鳥の声を真似るように呟いて彼女は笑う。

 

 

 ―― 特技は、怪異譚を集めることと、動物の鳴き真似、かな。

 

「あ、な、なんで……」

 

 自ら構えられた刀に首を滑らせて彼女は崩れ落ちていく。

 その身を真っ赤に染めて。その顔に笑みを浮かべて。

 まるで満足そうに、嬉しそうに…… 〝 ありがとう 〟とでも言うように。

 

「おにー、さん、のせい…… じゃ、ない…… よ」

 

 その鮮やかな飛沫が目の前を過ぎ去ってビチャリと音を立てた。

 その行方を辿り、頬を触ればどろりとした〝 それ 〟が手についたのが分かる。

 

「う、嘘だ……」

 

 彼女はもう動かない。

 

「嘘だ」

 

 彼女はもう話さない。

 

「うそだ」

 

 彼女はもう目を開けない。

 

「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 倒れた彼女から血溜まりが広がっていく。

 そして満足そうに俺の頬を撫で、哄笑するあいつの声を背景に、ぷつりと、俺の意識は途切れた。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「さてと、れーいちくんの可愛い顔も見れたことだし、帰ろっか」

 

 気絶した彼を担いでそいつ…… 神内が独り言を呟いた。

 

「脳は置いといてっと」

 

 鳥の死骸だけを一箇所に集め、神内は満足そうに頷く。

 するとずるり、と床の一部から巨大な顎が現れて鳥の群れを一飲みに口の中へと収めていった。

 その口はばぐん、と閉じて暫く骨を砕くような凄惨な音を口の中で響かせると次第にその姿を床から生やしていき、ついには大きな狼の姿をとる。

 その姿は巨大で、背に生えたタテガミのような蛇がうねうねと蠢いた。

 

「後始末ご苦労様」

 

 神内が携帯電話を片手に言うとその巨大な狼は鋭い目線を彼へと向け、眉を顰めるようにグルルと唸り声をあげる。

 

『ああ? なんでてめぇがいるんだよ。仕事の依頼があったと思ったらキチガイと遭遇するとか俺様ついてねーな』

 

 器用に狼の口から発せられた言葉に神内が 「これこれ」 と携帯電話を指差してにっこりと笑う。

 それに狼は 『あの依頼お前かよ』 とげんなりとした表情になる。

 

「そうそう、そこの脳は置いていってよ」

『あー? …… ああ、神隠し扱いになるよかマシな処理か』

 

 どこか納得したように狼は呟くと、その場に残った女性の遺体を優しく咥えてまた足元からずぶずぶと床に沈んでいく。

 

『じゃーなヒトデナシ。もう呼ぶなよ』

「じゃあね番犬。またよろしくね」

 

 ―― その狼の頭は、三つあった。

 

 

 

 

 

「さて、これで仕上げだね」

 

 嬉しそうな声で玄関に貼ってあったポスターに、見つけたマジックペンで書き直しながら神内は妖しげに笑う。

 

脳残し鳥に御用心

 

 

 書き換えられたポスターは、風によって悪戯に揺れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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エピローグ「さとり妖怪のとりしらべ」

 ―― めでたしめでたし




結局終幕とエピローグを分けました。


《神奈川県○○市山中の民宿にて臓器売買の痕跡が……》

 

 ソファに深く沈み込んだまま俺はニュースを見ていた。

 そのニュースであの事件は臓器売買ということになっていて、遺体が見つからないご主人を犯人として捜索しているという内容だった。

 脳のない妻を縛って監禁していたことでさらに凶悪な犯罪として処理され、現在も行方を追っているらしい。

 しかし俺は知っている。あの事件は迷宮入りで終わる。

 なんせ犯人など既にいないのだから。

 

 無気力のままに、なにもする気も起きず立てかけてある赤竜刀を見る。

 あいつがしっかりと血拭きをしたためか刀身は銀色に戻っている。しかし、しばらくあれを使う気にはなれなかった。

 

 俺は、人を殺した。

 

 あれが自殺だったなどと言えるような心の強さは生憎持ち合わせてはいない。

 

 俺が殺したのだ、彼女を。

 

 今でも残ったあの感触が忘れられない。

 包丁を握るたびに手が震える。

 最近では失敗続きで屋敷から出してもらうことさえない。

 なぜだかおしおきはされないが、それはきっと俺がツマラナイからだろう。女々しくも割り切ることができずにこうして俺は生かされている。

 

 ―― 彼女はそれを望んでいる。お前に望んでいるよ。

 

 ねっとりとした、記憶にこびれつく言葉に吐き気を覚える。

 

「ねーぇー、最近のれーいちくん鬱陶しいんだけど」

 

 こいつの我が儘にも反応する気は起きない。

 

「まったく、陰気すぎてつまんないな」

 

 ソファに沈みこんだ俺の襟元を奴が掴む。

 

「っぐぇ」

 

 猫のように襟を掴まれたまま持ち上げられる。当然のように首が絞まった。

 

「ちょっとはその陰鬱な気分直して来てよ」

 

 そのまま屋敷の外にぽい、と捨てられる。

 今まで閉じ込めていたのはあちらだというのにまったく理不尽だ。

 

 そうして、一人で沈んだ気分のまま歩いていると、反対側の道から歩いてくる見覚えのある少女を見つけた。

 既視感を覚え、一瞬考える。誰だろう? 

 

「あら、下土井さんじゃないですか」

 

 その声には聞き覚えがあった。

 

「…… 鈴里さん?」

 

 ゴスロリ服でなく、高校の制服と思しき服装の彼女はどこか雰囲気が違ってすぐには分からなかったのだ。

 そう、彼女は祭りで出会った、そして今回の旅行の切っ掛けとなったさとり妖怪。鈴里しらべさんだった。

 

 俺から出てきたのは、そんな彼女に対する弱音と愚痴。そして、なぜ巻き込んだのかという、理不尽な怒りだ。

 しかし彼女はそれを怒ることもなく静かに聞くと、俺の話が終わった頃を見計らって口を開いた。

 

「そう、彼女達は駄目だったんですね…… それで? あなたは満足なんですか。一方的に吐き散らしてまったく、わざわざ言わなくとも私には聞こえているのにおかしな人ですね」

 

 不満そうに口を膨らます彼女に、思わずあの絶望的な状況を思い出してしまって俯く。

 

「ふふ、あなたを邪神が手元に置いている理由がやっと分かりましたよ」

 

 どこか喜ばしげに笑う彼女が分からない。

 人外と人間ではこんなにも違うものなのかと心の中で諦観ににも似た思いを抱いた。

 そんな俺にお構いなく彼女は淡々と話し続けていく。

 

「正義感が強いのに無力で、迷ってばかりで、決断力もなくて、踏み出す勇気もなく、なのに残酷なまでに優しい…… 実に人間らしいと言えるでしょう」

 

 まったく褒められている気がしないのだが。

 

「しかし単純な恐怖の感情よりもなお魅力的なものですから、私達のように悪意のある者にとってはいい餌食ですね」

 

 そういえば彼女は絶望の感情が好物なのだったか。

 目を細め、ぱちぱちと暫し瞬きをしてから彼女が目を開くと以前会ったときのような優しげな目をしていた。

 心なしか雰囲気も変わっている気がする。

 

「さて下土井さん。同盟の者としての視点で忠告させてもらいますが…… 利用されたくないならば迷いを捨てなさい。全てを救えるなどと思い上がらないことです。生き残ることが全てだと思わないことです。生が失われることで救われる者も確かにいるのです」

 

 それは今の俺には辛い警告で、なによりも傷に塩を塗りこむような酷い説教だった。

 

「ただの人間には限界があるのだと知りなさい。あなたが与えた優しさは覚悟した人間の矜持を踏みにじる残虐な行為だったと、思い知りなさい。さあ打ちのめされている暇があるなら、最善を考えられるように意識を変えるのですよ」

 

 冷徹なまでに優しい忠告をして、彼女は足りない身長を一生懸命背伸びするように俺の頬を撫でた。頭には届かなかったらしい。

 そして一歩下がって笑みを浮かべる。

 

「人間と共存する私として言えるのはこれだけです」

 

 彼女もなにか、打ちのめされるようなことがあるのだろうか。そんな優しさに身を震わせて出てきそうになる涙をぐしぐしと拳で拭った。

 

「ではさようなら。下校時間がとっくに過ぎてるので早く帰らないといけません」

 

 背を向けた彼女に終始無言だった反省も込めて 「ありがとう、鈴里さん」 と声をかける。

 

「ふふ、どういたしまして。ああ、最後に……」

 

 少し離れた彼女がピタリと止まり妖怪としての笑みを向ける。

 それに気圧され、俺は背筋に寒気が走るのを感じた。

 

「あなたの絶望は、とっても美味しかったとだけ言っておきましょうか」

 

 意地の悪い笑みを浮かべる彼女に俺は何も言えないし、動けない。

 

「ごちそうさまでした」

 

 帽子を取って怪しげな顔をする彼女に、再び俺はショックで動けなくなってしまったのだった。

 

「妖怪って、みんな、こんななのかよ……」

 

 この世界でやっていけるか今更不安になる、そんな夏の出来事。

 どこかの田んぼで、カエルの声が暢気に響いていた。

 

 

 



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弐の怪【紅いちゃんちゃんこ】
紅子さん


 カチ、コチ、カチ、コチ……

 そんな音が静かに響いている。

 

「あ、あれ?」

 

 気がつくと俺は見知らぬ場所に立っていた。

 周囲を見渡してみても、本の収まったボロボロの本棚や、小さなタンスなどが横倒しになっている有様が分かるだけだ。

 薄暗いその部屋は、確かに知らない場所だった。

 また奴がなにかしたのだろうか? そう思い巡らせてみても心当たりはない。

 奴がなにかするときは基本的にだが、俺を使って事前に準備しているので突然なにかされるということはない…… はずだ。多分。こんなに自信がないあたり、奴の性格が分かるというものだろう。

 

 さて、では気がつく前のことを考えてみようか。

 俺はテレビのニュースを見ながら生姜焼きを作り、 『血痕だけが残る被害者なき殺人』 がわりと近所で起こっていることに物騒だなと思っていた。それから風呂の支度をして、青凪さんが所持していた書類を纏め、そして………… 寝た、のだ。

 

「ってことは、夢か?」

 

 そう思うしかないだろう。

 夢だと分かり、奴か、別の何かに誘拐されたのではないかという懸念は一応なくなった。まだ油断はできないが、周辺を調べることくらいには意識を向けられるようになったのだ。

 薄暗くて分かりづらいが、どうやら奥の方に扉のようなものが見える。しかし、まだ進もうとは思わない。こういう夢はあまり進まない方がいいと相場が決まっている。どんな恐ろしい目に遭うか分からないからだ。

 手近にあるものから本を抜き取り、開いて見る。

 所詮夢は夢。あまり細部は作り込まれていないだろう。白紙か、はたまた読めないかのどちらかだと思っていたが、開いただけで理解する。これは危険な方の夢なのだ。

 あまりに鮮明に映ったその文字は、きちんと意味の通った言葉になっていた。

 

Do you want the red jacket(あかい うわぎは いかが)? 】

 

 ページに浮かび上がるように薄い黒から濃い黒になっていく文字。そのままじっと見つめていただけで、その文字は次第にインクの黒から赤黒い別の色に変わっていく。

 まるで血のような、そんな文字。

 こういうのには否定を返した方が良いだろうか。赤い上着など嫌な予感しかしないからな。

 

「いらねーよ」

 

 俺が呟くと文字が薄まっていき、そして消えた端からまた文字が浮かび上がってくる。

 

【だっしゅつげぇむ、しましょう。アタシはこの扉の先に】

 

「いやだ」

 

 そう言っても文字は消えていかない。どころか、薄暗い先に見える鉄の扉からカチリ、と鍵が開くような音がするじゃないか。つまり、こちらに拒否権はないということか。

 しかし、どうにも進みたくない。

 これが夢だとして、ただの夢でないことは確かだ。奴の悪戯か、はたまた別の怪異の仕業か、どちらにせよ確認するには進むしかないのだが、まずは周囲の確認だ。

 脱出ゲームだというのなら一つ一つの部屋をきちんと隅々まで調べる方が良いだろう。

 目についた本からは、メモ用紙のようなものが飛び出しているようだ。

 

【北は武器の部屋。東はパズルの部屋。西は見守る神様の部屋。南はヒントの部屋。中央の彼女は、探し物をしている】

 

 そんな内容が紙一杯に大きく書かれている。

 この場所は一体どこなのだろうか。パズルのようなものはないし、武器なんてものは見る限りどこにもない。神様の部屋だったらまず俺が無事で済むわけがないし〝 彼女 〟とやらがいないのだから、中央でもない。なら、ヒントの部屋だろうか? 現にこうしてヒントらしきメモがあるし。

 本へとメモ用紙を戻すとき、ふと翻った紙の裏に何かが書かれていることに気がついた。

 

【彼女は嘘を決して吐かないが、本当のことを言うとも限らない】

 

 言葉を濁して、曖昧な答えしか返してこないということか。どうやら奴と似たような、面倒臭い部類の怪異らしい。

 この部屋に扉は一つだけ。あの向こうは確実に中央の部屋だ。行く前に、怪異に会う覚悟はしておいたほうがいいだろう。

 皆、絹狸のような陽気な人外(ヒト)だったらいいのに。

 

「次はっと、ええと、タンスの中は…… これだけかぁ」

 

 横倒しになったタンスをなんとか起こし、引き出しを一段ずつ開けていく。上二段はなにもなかったのだが、下から二段目に蓋付きのガラス瓶が入っていた。一番下に入っていた瓶は残念ながら割れてしまっている。

 

「…… 覚えとけばいいか?」

 

 こういう道具は持っていくのが普通だろうが、今は特に必要だと感じない。それに持ち出してなにかあっても、困る。

 脱出ゲームだというなら部屋は行き来できるだろうし、必要に駆られたとき、取りに来ればいいだろう。

 …… なんで俺、こんな現象に慣れちまってんだろうなぁ。間違いなく奴のせいだよなぁ…… 全く、悲しくなるぞ。

 ギイ、と軋む扉を開けて一歩踏み出す。

 

「まぶしっ……」

 

 そして開けた視界に映ったのは、夥しい数の武器が山積みになった場所に座る、赤いセーラー服姿の少女だった。

 

「……」

「……」

 

 暫し沈黙。

 積み上がった武器の山に座り込んで、足をぷらぷらつまらなそうに動かしている彼女は、その紅い瞳をこちらに向けた。

 赤い襟元のセーラー服だが、胸の部分まで真っ赤に染まっている。

 

「っ……」

 

 彼女の首元には横一文字に赤い線が走り、現在進行形で大量の血液が流れ出続けている。

 痛々しいそれに、思わず目をそらす。

 彼女が足を揺らすたびに、紫がかった黒髪のポニーテールも一緒に揺れている。頭の上で斜めに乗せられたベレー帽が、体が揺れるたびにずり落ちてしまいそうになっているが、不思議なことに落ちることはない。

 

 意を決して俺が再び目を合わせると、口元だけが三日月のように吊り上がった。

 

「う、こ、こんにちは?」

 

 言いようのない不安感に思わず声をかけると、彼女はくぐもったような笑い声を漏らしてからにこやかに返事をする。

 

「ふふ、こんなところじゃあ〝 おはよう 〟なのか、〝 こんばんは 〟なのか、それとも〝 こんにちは 〟なのかも分からないけれど、一般的な挨拶という意味ならば、〝 こんにちは 〟なんだろうね?」

 

 やっぱ面倒臭いなこの子! 

 

「まあどちらにせよ、おはようできるかはキミ次第だけど」

「それって、どういう意味だ?」

 

 不穏な言葉を告げる彼女に質問する。

 すると、俺が向けた睨むような視線を意に介さずに笑う。

 

「さっきの部屋で見ただろう? これは脱出ゲームだ。暇で暇で仕方ないアタシの相手をしてちょうだいな」

 

 小首を傾げたりなんかしているが、目が笑っていないから怖くて仕方ない。つまり、脱出できなければ、身に危険が迫るようなことが起こるのだろうか。

 

「ここはどこなんだ? 夢の中ってことで、合ってるのか?」

「そうだね、夢の中だ。そしてここはアタシの部屋。今の、だけれどね」

「今の?」

「ああそうさ、アタシの部屋は本来ならトイレなんだけど、今は暇潰しのためにここを借りてるんだよ……」

 

 誰に? 

 そんな質問は喉の奥で飲み込まれた。

 西側の部屋、〝 見守る神様の部屋 〟とやらにいる何者かしかいないだろう。

 

「で、だ。脱出ゲームの説明だけど」

 

 そう言って話を続けようとする彼女に、割り込んで 「待った!」 と言う。

 すると彼女はどこか不愉快そうに眉を顰めてから 「なにかな?」 と、淡白な声で続きを促してくる。

 いつもにやにやとしているニャルラトホテプ(くそご主人)よりは感情表現が豊からしい。

 

「名前を訊いてないだろ? 俺は下土井令一。君は?」

「…… ああ、なんだそういうことか。トイレの紅子(べにこ)さん、とでも呼んでくれればいいよ」

 

 花子さんじゃなくてか? 

 そんな疑問が透けて見えたのか、彼女はからからと肩を揺らして笑う。

 

「トイレの怪異が花子さんだけだなんて、そんなわけないだろう?」

 

 トイレ。トイレの怪異? 

 そういえば、青凪さんの書類にそんな怪異が書いてあった気がするな。

 ええと、七不思議の一番目 『赤いちゃんちゃんこ』 だったかな。都市伝説の一部でもあるらしいけど、青凪さんの学校では七不思議に数えられているらしい。

 確かに彼女のセーラー服は、真っ赤なカーディガンでも着たように流れ続ける血で汚れている。

 しかし、あの傷は大丈夫なのだろうか? ついたばかりのように血が流れているが、血は止まらないのかな。

 

「ふうん、その様子だとアタシを知ってるのか。なら失敗すればどうなるか、分かるよね?」

「さっき〝 その質問 〟には否定したけど?」

 

 赤いちゃんちゃんこという存在は、 「赤いちゃんちゃんこ着せましょうか?」 とトイレで質問してくる怪異だ。そして、その質問にYESと取れるような言葉を返すと首を切り裂かれて殺されてしまう。

 

 ―― そう、切り裂かれた血で、まるで赤いちゃんちゃんこを着せられたようになって。

 

 先程の紙に書いてあった【Do you want the red jacket? 】という言葉がまさにそれだ。否定を返しておいて良かった。本当に良かった。あれにYESと答えていたらきっと彼女のように、首を切り裂かれて殺されてしまうだろうし。

 

「あはは、よく分かってるじゃないか…… なら、本題だよ。アタシは探してるものがある」

 

 それから一拍置いてから、彼女は自身の治らぬ傷を指し示した。

 

「アタシを殺した凶器を探してよ」

 

 自然と、吸い込まれるように俺はその傷口に目を向ける。

 

「凶器?」

「そう、凶器。探してアタシに見せてくれれば無事に帰してあげる…… ああ、安心してよ。質問にはちゃんと答えてあげるから。アタシは嘘が嫌いだから、真面目にね」

 

 質問に答えてくれるというのは確かにありがたいが、どうにも胡散臭い。紙に書いてあったとおり、嘘は吐かないが本当のことも言わないのだろう。捻くれた正直者といったところだろうか。

 

「この夢の世界のどこかに、絶対にあるんだな?」

「…… ああ、あるよ」

 

 彼女はどこか冷めた目で言った。

 

「君は自分を殺した凶器を知ってる?」

「ああ、勿論知ってるよ。でも今、それはアタシの視界には入っていない」

 

 真っ直ぐと、武器の山の頂上から、俺を見つめてそう言った。

 質問できると分かって質問しすぎただろうか? なんだか訊いてばかりで不愉快にさせている気がする。

 しかし、そうしないと俺も分からないのだから、仕方ないだろう。

 

「死因は教えてもらえるか?」

「なんか…… ぐいぐいくるねぇ、お兄さん。そういう強引なの嫌いじゃないけど、もう少しアタシのこと配慮してくれてもいいんじゃないの?」

「ご、ごめん…… つい」

 

 雰囲気が青凪さんに似ているものだから、少し気安く接しすぎているかもしれない。助けられなかったから、やっぱり俺は後悔、してるんだろうな。

 この子…… 紅子さんに青凪さんを重ねて見てるんだろう。

 怪異というものは、さとり妖怪でなくとも大体聡いものだ。俺が別の人と重ねて見ているのを、察しているのかもしれない。

 

「これが致命傷なのは確かだよ。まったく、間抜けなものだよね」

 

 それきり、彼女は沈黙した。

 未だに足をぶらぶらとしているが、下に降りてくる気はないようだ。

 あまり背を向けるのはよろしくないだろうが仕方ない。これ以上は質問しても機嫌を悪くするだけだろうし、別の部屋も調べるしかないだろう。

 彼女が座っている武器の山の他には、特になにもない。

 四方には扉が四つ。俺が最初にいた部屋が後ろにあり、正面に木の扉。右に真っ白な扉。左に小窓付きの鉄製扉だ。

 

 まずは正面、木の扉から行ってみるか。

 紅子さんの視線を受けながら機関銃の山を迂回し、扉に手をかける。特に鍵はかかっておらず、普通に開くことができたのだが…… そのドアノブに触った瞬間に背筋を冷たいものが滑るように寒気が襲った。

 この感覚はなんだろう。なんだか、気持ち悪い。

 警戒をしながら意を決して扉を押し開け、軽く覗き込む。

 そこにあったのは部屋一面に真っ赤な血がついた、凄惨な光景だった。

 

「うわっ」

 

 思わず口を押さえ、目だけを動かしてその光景を観察する。

 どうやら部屋中に刃物やら拳銃やら…… 有り体に言って〝 凶器 〟となるものが溢れるように散らばっていた。そして、そのどれもがまるでカモフラージュするように血に塗れている。

 彼女を殺した凶器を探すのも、これでは時間がかかってしまいそうだ。彼女が座っている武器の山も大概数があるが、こっちにもあるとなると探すのは苦労しそうだ。

 扉は開けたままに後ろを振り返る。

 紅子さんも肩越しに振り返ってこちらを見ていた。にやにやと貼り付けたような笑みを浮かべ、部屋の中に驚いた俺を面白そうに観察しているのだ。

 

「なにかな?質問は受け付けるよ」

 

 先程まで不機嫌になっていたのか嘘のようだ。

 

「ああ、でもキミが怖いからってお願いしてきても、アタシは同行できないよ? そういうルールだからね」

 

 でも、できれば扉は開けっ放しにしていてほしいなぁ? 

 その言葉を聴いて、彼女の 『アタシの視界には入っていない』 という話を思い出した。そうだ、ならこっちを向いている内に質問してみればいいのだ。

 

「今、君の視界に凶器はある?」

「ふうん、そうくるんだ。…… いっぱいあるねぇ」

 

 いっぱい? どういうことだろう。

 考えが纏まる前に彼女が 「でも……」 と続ける。

 

「アタシを殺した凶器は、視界に入っていないよ」

 

 本当に面倒な子だな。

 確かに紅子さんを殺した凶器とは言わなかったけれど、普通はなんのことを尋ねられているか分かるだろうに。

 

「ふふふ、騙された?」

 

 だけれど、その悪戯っ子のような表情に毒気を抜かれてしまう。

 女子高生くらいの歳だろうし、まだまだ幼気な部分があってもいいか。

 

「アタシはおにーさんより歳上かもしれないよ?」

 

 わざとかそうでないのか、舌足らずな感じで話した彼女に心を読まれた気がして目を逸らした。

 なんで人外はこうもこちらの心を見透かしてくるのだろうか。

 

「調べないの? まさかまさか怖いのかな? 大丈夫? 赤いちゃんちゃんこ着る?」

「だからいらないって……」

 

 〝 赤いちゃんちゃんこ 〟って基本的に解決不可能な話が多いらしいから嫌になる。でも、まさかこんな風に都市伝説と話をすることになろうとは。高校生だった頃には考えもしなかったな。

 

「あはは、アタシこれでも良心的な方なんだよ? いじめ殺されちゃった同族なんかは人間を憎んで凄いことになってる子もいるらしいし、アタシにこうやって理性があるのはほとんど憎しみがないからかもね」

「って、赤いちゃんちゃんこって一人じゃないのか?」

「噂話は語られるだけで力を持つ…… だから、それに相応しい死に方をした死者は、それになぞらえて此岸に戻ってくることがあるんだよ。怪異の分け身としてね」

 

 彼女が下を指差し、そして上を指差し、くすくすと笑う。

 なんだかんだで教えてくれる紅子さんは、確かに面倒見が良いようだ。

 

「無理矢理彼岸から此岸に〝 脱獄 〟するとこわ〜い狼が追ってきて食べられちゃうけど、都市伝説だとか、七不思議だとか、概念的なものに選ばれれば話は違う。ある意味生まれ変わるようなものだからね。でも、その代わり噂と違いすぎたりすると消滅しちゃうんだ。どちらにせよ、死者の世界も生者の世界も難儀なものだよ」

 

 そんな彼女の言葉を背に北の部屋へと踏み込む。

 扉はお望み通り開けたままなので、ここまで彼女の声が届く。きっとこのまま会話しながら調べることも可能だろう。

 

「なあ、凶器って一つだけなのか?」

「うーんと…… 一つだね」

「判断し辛いものってことか」

 

 辺りを見回すと包丁、ナイフ、拳銃、機関銃、はたまた大砲やらチェーンソーやら…… ホームセンターで手に入るゾンビ対策グッズのごとく沢山の物が散らばっていて、そしてその上にはべったりと赤い液体が降り注いでいた。

 …… というか、なんで大砲みたいな大きな凶器があるんだ。カモフラージュにしても、もっといいラインナップがあったろうに。

 

 俺はその中の、一本のナイフを手に取る。

 よく見れば地面についていた裏の部分には血がついていないようだ。つまり、これであの子の首を切り裂いたわけではない。誰かを傷つけた凶器なら、刃全体に血がつくはずだ。これは、武器をばらまいて上から大量の血をぶちまけただけなんだろう。

 しかし、百以上ありそうなこれらを全部調べなければならないのか? そもそも、時間制限はあるのか? ないのなら地道に調べてもいいが、あるのなら全部調べている時間なんてないだろう。

 随分と彼女とお喋りしているし、俺が尻込みしていたせいで調査は全く進んでいないのだから。

 

「…… 時間制限かな?」

「さっきから、なんで分かるんだよ」

「まあまあ、それはそれとして、時間なら…… アタシの首の血が武器の山の下に届くまで。大体、一時間ほどだよ」

 

 彼女が自身の首をつう、と辿ってある一点を指差す。

 そこには、様々な武器を伝って下に流れていく赤い血があった。

 わりとゆっくり進んでいるが、もう半分近くの部分まで血が侵食している。のんびりしていられないのが、よく分かった。

 

「部屋の確認だけ先にしてくか」

 

「独り言はぼっちの証だよ?」 なんてからかってくる彼女を無視してそう呟く。

 ひとまず、西の部屋から調べてみよう。

 

【奴は生き血が欲しい】

 

 やめておこう。

 扉に刻みつけてあった言葉を視界に入れた瞬間、俺は回れ右をした。

 そういえば北の扉にはなにか書いてあったのだろうか。

 確認してみると、薄く木の扉に文字が書いてあった。

 

【持ち出し禁止】

 

 持ち出したらどうせなにか起こるんだろ? 知ってる。つまり神様の部屋とやらに行くときは丸腰になるわけだな。

 しっかりと答えを出してから行った方が良さそうだ。

 で、次。東だ。

 

【斬りましょうか斬りましょうか?】

 

 なぜこんなにも不穏な扉ばかりなんだ。怖いだろうが。

 今は一人だからニャルラトホテプ(あんちくしょう)を盾にできないし、迂闊な行動が取れない。

 仕方ない。全部怖いならば、とりあえずここを開けてみることにしよう。

 

「臆病なことだね……」

「うるさいぞ」

 

 これは慎重と言うんだ。

 ガチャリ、扉を開くとそこにあったのは割れた窓ガラスと、辺りに飛び散った、転々と続く赤い跡だ。

 割れた窓に近づいてみると、昼夜が確認…… できることもなく、その後ろは壁になっていた。ご丁寧に赤い線がパズルのように走っていて、特徴的な線の形と、眼下に散らばっているガラス片が一致する場所がある。

 

「これ」

 

 勘でしかないが、これはとても重要そうだ。

 手でガラス片を拾って、ぴったりとその形に合うよう壁に触れさせる。すると、不思議なことにガラス片はパチリと音を鳴らしてその場に止まった。

 手を離してみても落ちる様子はなく、どうやらパズルになっているらしい。

 確か…… ヒントの部屋にあった紙にもパズルがあるとかなんとか書いてあった気がするし、きっとこれのことだろうな。

 ヒントに書かれるくらいなのだから重要な部分だろう。そう考えてよく観察してみると、散らばったガラス片はありがちな粉々になった部分などなく、大きな欠片ばかりが落ちていることが分かる。パズルにしても、細かすぎるとそもそも見つけられない可能性だってあるからな。ありがたいことだ。

 ツルツルしたガラスのパズルは、全部真っ白なミルクパズル並に難しい。しかし、一つ一つ素早く形に当てはめていけばなんとかなるものだ。パズルに自信のない俺でもわりと簡単に終えることができた。

 …… しかし。

 

「一枚だけ、足りない?」

 

 そう、最後の一枚がどこにも見当たらない。

 血の枠を見る限りこぶしよりも大きなガラス片となるのだが、かなりの大きさのわりに見つけることができない。これくらい大きいのならば見つからないほうがおかしいぞ。

 

「なあ紅子さん。ガラス片ってどこにあるか知らないか?」

「うん? ああ…… その部屋にないのなら、別の部屋にあるんじゃないかなぁ?」

 

 何を言われているのか分からない、といった様子で少しの間沈黙した彼女はひどく適当そうに言った。

 答えにくそうにしていたのは気のせいじゃあないだろう。

 メタ的に予想するのはあまりよくないのだろうが、彼女の反応からするとこのパズルと、見つからないガラス片は重要な物なんだろう。

 

「まあ、そういう推理方法もあるから別に構わないよ。褒められたことじゃあないけれど、ね?」

 

 地味に責めてくる彼女の声を無視して部屋を見渡す。やはり、どこにもない。窓しかない上に散らばったガラス片を拾ったので、むしろ妙にすっきりしている気さえする。

 探しているのは彼女を殺した凶器だ。

 だが、凶器というのは包丁とか、そんなありきたりな刃物とは限らない。脱出ゲームの鍵となっているのだから、見つかりづらい物のはずだ。だから武器庫のようなあの部屋にその凶器があるとはとても思えない。

 彼女は自身の死因をはっきりとは口にしなかった。 「間抜け」 という言葉さえ出てきた。ならば、彼女の死因は〝 事故死 〟なんじゃないのか? 

 ガラス窓にぶつかり、そしてその破片で首を切って死んでしまった。きっとそうなのだ。

 

 なら、どこに凶器があるかなのだが……

 

「うん? ヒントは全部見たわけじゃないのかな?」

「分からないから確認しに行くんだよ」

「そうかそうか」

 

 再びヒントの部屋でメモを探す。

 しかし、あるのは既に見つけたヒントと、そして割れたガラス瓶に無事なガラス瓶だ。

 割れたガラス瓶の破片に混じってやしないかと確認してみたが、こぶし大程の破片はない。組み合わせてそれくらいの大きさにしてみても形がどうにも合いそうにない。

 

「この瓶、なにに使うんだ?」

 

 独り言を呟き、 「やーいぼっちー」 と聞こえてくる声を無視する。

 この部屋にないとすると、残りは見守る神様の部屋とやらしかない。生き血を欲するなにかがいるということで絶対に行きたくないが、仕方ないか。

 しかし、生き血? 生き血ね。

 

「紅子さんって、今生きてる?」

「なにかな、その質問……」

 

 中央の部屋に戻って言うと、目を丸くして呆れたように彼女が笑った。

 

「哲学だね? どこから生きているのか、どこから死んでいるのか…… アタシが思うに、生きてるってマグロみたいなもんだと思うんだよね」

 

 いちいち回りくどいが、さすがに慣れてきた。

 

「じゃあ紅子さんはマグロか?」

「乙女にそんな質問するとはいい度胸してるね。アタシはマグロだけど、マグロじゃない…… ああ、キミには通じないか」

「?」

 

 なぜマグロかと訊かれて呆れるのかが分からない。

 

「童貞め……」

 

 それが今、なんの関係があるというのか。傷つくからやめてくれ。

 

「さて、他に質問は?」

「…… 紅子さんの血って、なんで止まらないんだ?」

「そりゃあ、死の直前の光景を表しているわけだからね」

 

 つまり、紅子さん自体は死んでいるけど、あの首回りだけは〝 死の直前 〟…… 生きている? 

 生き血と言われて真っ先に思い浮かぶのは、この場で生きている俺の血だが、俺がそのまま神様の部屋に行くと何かに食われるような気がしてならない。生きのいい餌ならば人間ごと食べないといけないのだろうが、今この場に生きているのは俺だけだ。

 それに、脱出ゲームなのに確定で詰む場所があるのはおかしい。

 ニャルラトホテプ(くそやろう)ならそういう鬼畜難易度にしていてもおかしくないが、彼女は俺を殺そうとしてきているわけではないし、なにかしら解決方法があると思ったのだ。

 しかし、あの傷から垂れる血を、手に入れた瓶に入れなくちゃいけないのかよ……

 

「よっ、と」

 

 ひとまず彼女の近くまで行こうと武器の山を崩さぬよう、登っていく。

 

「おっと、いらっしゃい」

 

 それをにこやかに黙認して、己の隣をポンポンと叩く紅子さん。

 こういうところは怪異と思えないほど可愛らしいのだが。いや、俺は成人男性。この子は生前とはいえ高校生くらいの姿だ。普通にアウトだよなぁ、この思考。いや、可愛いと思うくらいはセーフなんだろうか? 青凪さんも飄々としていたけれど、可愛かったし。

 

「紅子さん、血をもらうよ」

「なんだか危ない台詞だね? ふふ、アタシはこの場においては、たとえ押し倒されても抵抗なんてしない。お兄さんにそんな度胸があれば、の話だけどね」

「そ、そんなことしないっての!」

 

 からかわないでほしい。恥ずかしいから、切実に。

 微笑んだまま目を瞑る彼女の首に瓶を押し当て、流れていく血を受け止める。傷の付近からカチリと音が鳴り、瓶が擦れ…… なんで、そんな音がするんだ? 

 

 今まで失礼だとか、俺が見たくないからだとかの理由で彼女の傷口はよく見ていなかったのだが、改めて観察すると赤色に染まった傷口になにかが挟まっているのが分かった。

 生々しい肉の間にある、その〝透明な物体〟は、止血するのを阻害しているようで、そして、彼女の血を生かしているそのものだった。

 

「…… 凶器は紅子さんが隠したのか?」

 

 そういえば訊いていなかったな、と確認も兼ねて質問する。

 すると、目を瞑ったまま彼女は笑みを深くして、ガラス瓶を持っていない方の俺の手に左手を重ねてくる。

 

「ある意味正解で、不正解かな」

「確認だ。目を開けて、あっちを見てくれ」

 

 うっすらと目を開け、西の方を向いてもらう。

 

「今、君の視界に凶器の在り処はある?」

「ないよ」

 

 その後も全方位を確認して、確信する。

 どの方向を見ても彼女の視界に入らない場所…… そんなの、彼女自身に他ならないじゃないか。

 

「もしかして、君の言う凶器って…… まだその傷口にある、それのこと?」

「…… だいせぇかぁい。でも、アタシの目の前に取り出して見せてくれないとゲームクリアにはならないよ?」

 

 なんて意地悪なんだろう。

 あの傷口に手を突っ込むしかないだなんて、そんなの、できるわけがないじゃないか。

 

「おやおや? なにを迷ってるのかな。アタシは押し倒されたって抵抗しない…… そう言ったはずだよ」

「触れて、痛くないのか?」

「痛い? そんなわけないじゃないか。アタシは死んでるんだから」

 

 じくじくと、動くたびに血を溢れさせるその傷口。

 手を伸ばそうとしても、途中でどうしても硬直してしまう。

 俺には、俺は、そんななこと……

 

「はっきり言いなよ」

「でき、ない……」

 

 俺が手を下ろして俯くと、彼女は不機嫌そうに舌を打つ。

 

「できないじゃあない。〝 やりたくない 〟んだろう?」

 

 そうなのかも、しれない。

 

「アタシに痛くないか確認したのは、〝 痛いのは可哀想だからできない 〟って言い訳を言えるから。気遣うフリをするだけだなんて、呆れるよ」

「フリじゃない」

「嘘だね」

 

 振り絞るように言っても、彼女はそれをいとも容易く両断した。

 

「キミの優しさは偽善でしかない。…… 〝 優しいだけ 〟は罪だよ。キミは逃げているだけ。アタシはね、嘘と偽善者が心底嫌いなんだよねぇ」

 

 彼女はそうして視線を下に向け、にやりと笑う。

 

「いつか、その〝 逃げ 〟がお兄さん自身に牙を剥くだろう。〝優しさ〟なんて、ズル賢い連中に体良く利用されるだけだよ。よかったねぇ、今回の相手がアタシで」

 

 言うが早いか、彼女は自らの首に手を突っ込み、その大きなガラス片を取り出す。

 もしかしたら帰してくれるのか、そんな淡い思いは、それを投げ捨てた彼女によって砕かれる。

 

「時間がなくなっちゃったね」

 

 その言葉を聴いて慌てて武器の下を見る。

 彼女の血液は、いつの間にか山の下まで達していて、ピチャンと床を濡らしていた。

 

「ゲームオーバー…… だよ」

 

 硬直し、動けない俺にゆっくりと抱きついてきて彼女はそう言った。

 体が動かない。まずい。このままでは、死ぬんじゃないか? 

 だが、見た目よりも遥かに強い力で押さえつけられ、抜け出すことなんてできなかった。

 キスができるほど顔を近づけて、動けない俺にのしかかってくる彼女は怪しく笑う。

 

「さようなら、邪神の愛し子。やっぱりアタシは、キミの弱さが好きになれそうにない……」

 

 彼女の鋭い爪が頬を撫で、赤い血の線でバッテン印を作る。ピリリとした痛みが走るが、やはり逃げ出すことは叶わない。そして、ついには俺の首を捉え、一本の線を描くように真っ赤な爪を滑らしてくる。

 今度は痛みがない。しかし、徐々に真っ白になっていく視界に彼女の姿が分からなくなっていく。

 

「そうそう、それと…… アタシの死因は事故じゃなくて―― だよ」

 

 聞き取りずらくなる耳。

 完全に彼女が見えなくなった。

 意識も段々と薄れていく。

 

「事故死なんかじゃあ、怪異に選ばれるわけ、ないでしょ?」

 

 俺は死んでしまうのだろうか。

 でも、それはそれで、神内から解放されるということなのだから、いいのかもしれない。

 

 そうして、静かに、俺は意識を手放した。

 

 ◆

 

 意識が浮上していく。

 俺がベッドから飛び起きると、大量の汗をかいていることが分かった。服が張り付いて気持ち悪い。

 

「おはようできてよかったね」

 

 そんな言葉にぞくりと背筋を撫でられたように感じて、声が聞こえてきた方を向くと、奴が呑気にソファに座ってコーヒーを啜っている。

 分かってて放置していたのか、こいつは。

 

「あーあ、お前に所有印をつけてもいいのは私だけなのに」

 

 所有印と言っても男女のあれやそれじゃなくて、こいつの場合は〝 傷 〟のことだけどな。

 奴がなぞるように触ってきた頬が痛む。しかし、すぐさまその手を打ち払い、顔を洗いに行くことにした。

 手をさすりながら嬉しそうにしている奴は無視をする。最近では少々の反抗はスパイスだとか言っておしおきはされないし、いつものことだ。

 

「夢じゃ…… ない?」

 

 洗面所で鏡に映ったのは、頬に刻まれたバッテン印。

 血は止まっているが、どう見ても鋭く細いなにかで傷つけられた跡だ。

 痛みながらも顔を洗い、適当に着替えて部屋に戻る。

 そのタイミングで、玄関チャイムが鳴り響いた。

 

「おっと、いいタイミングだな」

 

 着替え終わった後でよかった。

 

「はーい」

 

 一応使用人としての体裁を整えてから玄関を開ける。

 しかし、そこにいた人物を見て俺は息を詰まらせた。

 

「お久しぶりです、下土井さん。どうやら部下が迷惑をかけたようでして」

「……」

 

 そこにいたのは制服を着たさとり妖怪、鈴里さんと……

 

「ほら、自己紹介なさい」

「…… 赤座(あかざ)紅子(べにこ)だよ。昨日は否定しまくって悪かったね、おにーさん」

 

 昨夜散々からかってくれた紅子さんがそこにいた。それも、鈴里さんと同じブレザーの制服を着て。

 首には包帯が巻いてある。どうやら血は流れていないようだが、傷口を隠すためのものだろうか。

 

「どういうことだ?」

 

 俺が困惑して言うと、紅子さんが前に出て言う。

 

「アタシの遊びって無差別なんだよ。まさか、キミみたいなのが引っかかるとは思ってなくてね…… 前はうまく行ったんだけど、さすがに七番目サマにバレちゃった」

「改めまして、学校の七不思議が七番目…… 〝 おしらせさん 〟を兼任しているさとり妖怪の鈴里しらべです。〝 一番 〟の悪戯をどうか許してやってください」

 

 別に死んだわけじゃないし、多少からかわれたりしたが気にしてはいない。なぜわざわざ謝りになんて来たんだ? 

 しかし、そんな疑問は彼女達の言葉で打ち切られる。

 

「じゃ、お兄さん。また道端であったらよろしくね」

「これで私も失礼します」

 

 結局、最後までなぜ謝られたのかは分からなかった。

 だけれど、一つだけ分かったことがある。

 

「…… この街、人外多すぎないか?」

 

 今更な感想は誰にも聞かれることなく、空気に溶けていった。

 

 ◆

 

 俺は運命と出会った。

 ありきたりな言葉でしか言い表せないが、彼女とは出会うべくして出会ったのだと思う。

 

 ともかく、俺の日常が劇的に変化したのはこのあと。彼女と出会ってから変化していく。

 奪われた日常が戻ってくる。言葉が通じて、友達として振舞ってくれるヒトがいる。それだけで俺は救われたのだ。

 

 とある夏の、暑い、暑い八月八日の朝。

 その日、俺は赤いちゃんちゃんこの少女と行き逢った――




・紅子さん
 種族 赤いちゃんちゃんこ。軽くてクールっぽい皮肉屋。からかい癖がある本作ヒロイン。

・謝罪
 人の所有物で勝手に遊んだら謝らないといけませんからね。持ち主が怖い人なら特に。


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主要キャラプロフィール【其の壱】

 これは「怪異×少女×事件」〜「紅子さん」までのキャラクタープロフィールです。

 ここまでで出てきていない情報は伏せられるか、記載されません。ご了承くださいませ。

 

 

 

下土井(しもどい) 令一(れいいち)

 

【分類】 人間 【種族】 人間

【身長】 180㎝ 【体重】 67kg

【誕生日】1月23日

【年齢】21歳(魔道書サンタクロース時点)

【好き】煮魚、「  」

【嫌い】ニャルラトホテプ

 

【身体的特徴】 茶髪、紫がかった黒い瞳。目つきが悪く、不良っぽい。

 

【概要】

 主人公。下の名前で呼ばれることが多い。

 18歳の修学旅行で神内千夜と出会い、世間から完全に忘れ去られてしまった。その後は三年程屋敷内に軟禁状態となり、炊事洗濯などの細々とした仕事を全て押し付けられて過ごしていた。

 三年後の「魔道書サンタクロース」時点で21歳。その後1月23日を通過し22歳の状態で「夜が這い降りてくる」に入る。

 

 人間ではあるが、神内の呪いにより「殺せば死ぬが病気では死なない」状態になっている。寿命で死ぬかどうかは不明。

 

【性格】

 お人好しの苦労人。優しいけれど優しいだけと言われがち。

 見た目は不良だが、ヘタレ気質なので女性の尻に敷かれるタイプ。

 短い時間ではあるが、5〜10分程度の遅刻癖がある。

 

 神内のことは心底憎んでいるし、いつか絶対倒してやると思っている。

 同時にどうしてじぶんだけ生き残ったのかとも思っているが、自殺するほどの勇気はない。

 「脳残し鳥に御用心」に登場した青凪(あおなぎ)(しずめ)の件がかなりのトラウマとなっている。

 

【恋を自覚したときの情報は開示されていません】

 

 

神内(じんない)千夜(せんや)

 

【分類】 神霊?【種族】 邪神

【身長】 157㎝【体重】 52kg

【誕生日】不明

【年齢】不明

【好き】混沌、絶望

【嫌い】無反応、無関心

 

【身体的特徴】黒髪、金眼。人で無しの奇人。黒い三つ編みの男と呼ばれる。

 

【概要】

 邪神ニャルラトホテプの化身の一人。

 人間としての彼は旅行会社の若社長らしいが、詳細不明。

 元々邪神だったのか、それとも元は人間だったのか、それも不明。

 はっきりしているのは、彼が愉悦部であることくらい。

 

【性格】

 尊大で上から目線。面倒くさがりなのでいろんなことを令一に押し付けている。普段は慇懃無礼な敬語を使うが、気に入ったものには令一と同じ態度を取るようになる。

 

赤座(あかざ)紅子(べにこ)

 

【分類】 幽霊【種族】 赤いちゃんちゃんこ

【身長】 165㎝【体重】 51kg

【誕生日】2月8日

【命日】【情報が開示されません】

【享年】17歳

【年齢】19歳(9話初登場時)

【好き】洋菓子、努力、勇気

【嫌い】言い訳、嘘、優しさ

 

【身体的特徴】紫がかった黒髪に赤眼。赤い上着。首に包帯を巻いている。

 

【概要】

 赤いちゃんちゃんこの噂の渦に巻き込まれた人間の魂が、分け身となった怪異の一人。

 首の包帯で補助しながら人間に化け、見える、聞こえる、触れられる存在になっているが、根本的には幽霊なので異常に体温が低い。

 武器のガラス片は自身を殺した凶器である。

 死因はどうやら事故死ではないようだが……

 

 左右に2つある人魂は噂の塊であり、実は彼女自身の魂ではない。魂は普段体の中にあるようだ。

 人魂状態でなければ浮いたり壁をすり抜けたりすることはできない。

 

【性格】

 非常に皮肉屋で、からかい癖がある。言葉遊びが好きなのかもしれない。

 〝奪われる〟という事柄に敏感だが、なぜそうなのかは不明。

 嘘や言い訳が嫌いであり、優しいだけの人間も嫌いらしい。こちらもなぜそうなのかは現在では詳細不明。

 女の子にはある程度優しいが、意識している相手には特別辛辣な態度になるとかなんとか。

 しかし基本的に世話焼きなので、なにか頼まれれば余程のことがない限り断らない。

 

 

・赤竜刀(リン)

 

【分類】 武器【種族】 精霊刀

【刀種】 打刀

【性別】 オス寄り

【好き】お菓子、辛い食べ物、勇気

【嫌い】???

 

【概要】

 刀身に赤い鱗の模様が浮き出る打刀。

 詳細はキャラプロフィール其の弐にて。

 

 



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参の怪【絶望に至る病】
赤き竜の萬屋


 ◇

 ――ただそれだけを伝えたくて。

 ◇

 

「っう……」

 

 ベッドから起き上がり、頭を抱える。なんか変な夢を見た気がする。

 ほとんど覚えていないが、あれは中学時代の夢…… ? 弟の令二が出てきたような気がするが……もうあいつは俺のこと、覚えてないからなあ。

 

「れーいちくん」

「っうわぁ!?」

 

 突然耳元で聞こえた気色悪い声に驚きベッドから転げ落ちた。

 

「もう、そんなに嫌がられると興奮しちゃうなぁ」

「やめろ気持ち悪い!」

 

 尚も覗き込んでくる奴に反射的な拳が出るが、するりと避けられてバランスを崩す。慌てすぎて前のめりになっていたらしい。

 

「ああ、もうっ…… ムカつく」

 

 時計を確認するとまだ朝の6時。

 こいつは基本屋敷にいる上に仕事があっても重役出勤なのでまだ時間はたっぷりある。

 それに今日は仕事の話もなかったはずだし、なぜこんなにも早く起こされないといけないのか。

 怒りを押し殺して自室として充てがわれた部屋を出る。

 

「まあまあそう言わずにさ」

 

 俺の後からついてきた奴は胡散臭い笑顔でにやにやとしている。

 起きてしまったのは仕方ないので素早く顔を洗い、リビングとしている部屋でテレビをつけて天気を確認。

 一日晴れているならシーツの洗濯も同時にやるか…… なんて考えていると唐突に嫌な予感が俺を襲った。

 

「った!?」

 

 予感に従って顔を手で覆ったところに飛来する赤い物体。

 きちんと掴み取ったものの握った拍子にゴリっと嫌な音を立てて手の平が擦れた。

 ったく、一体なんなんだ? これは。

 

「…… ? 鱗、か?」

 

 それは巨大な板のような、三角形に近い形状をしていた。少しだけ丸みを帯びていて艶やかな赤色をしている。

 手のひらほどとは言わないが、15センチはありそうな巨大な鱗のようなものだ。これだけでかい爬虫類などいるわけがないので恐らくは幻獣かなにかの鱗だろう。

 真っ赤ではあるのだが、なんとなく血のような赤という感じはなく、どちらかというと薔薇の赤のような、物騒さのない優しい赤色をしている。

 

「私は今日、人と会う用事があるからね。お前には私の代わりにお使いしてもらうよ」

「で、これがなんの関係があるんですか?」

 

 手の中で鱗を玩びながら訊く。

 

「今日行ってもらうのはお前の刀…… 赤竜刀を作ったヒトのところだよ。あそこには色々と便利な物があるからね…… お使いの金銭が余ったら好きに買ってきてもいいよ」

「はっ!?」

 

 さらっと話を逸らされたのはいつものことだとして、俺が驚いたのは赤竜刀の下りではない。

 

「お釣りは使っていいなんて…… これは夢ですか? それとも頭でも打ちました? 変なもの拾い食いしてないですよね、いくらマゾでも自ら腹を下すのは良くないのではないかと……」

「くっ、ふふ…… 令一くんって結構私に対して失礼だよね」

 

 呆れた声で言う奴に撤回の言葉はない。

 つまり本当に好きに買っていいと言っているのか? この、ニャルラトホテプ様は。

 

「で、場所はどこです?」

「神奈川の中華街で適当に練り歩いてれば辿り着けるよ。その鱗はちゃんと持っていくように」

 

 またオカルト染みた行き方しかないのか……

 ま、つまりこれは道しるべだってことだよな。ならありがたく頂戴しておこう。

 

「あと、ここ最近の彩色(いろどり)町は物騒だから気をつけて行くよーに」

 

 確かに、ここ一週間程度で二件も大量血痕だけを残した殺人事件なんてあるが…… それのことだろうか? 

 奴がこんな風に忠告してくるときは首を突っ込んで欲しいときである確率が高いが、素直に首を突っ込んでやる謂れもない。

 そもそもそうでないと俺を心配するようなことを言うはずがない。本当に心配している可能性? ないない。

 そんなオカルトが関わっていますって言っているような事件はこちらから願い下げだ。

 いや、まてよ。まさか奴がその件に関わっていたりしないだろうな? …… 考えるのは止そう。嫌な予感がする。

 考えたってどうにかなるわけじゃないし、考えていなくても巻き込まれるときは容赦なく巻き込まれるのだ。

 要するに考えるだけ無駄。ある程度流れに身を任せていればどうにかなるだろう。

 そして俺は簡単な朝食を作って食事し、昼食のために大量のおにぎりとサンドウィッチ、それにサラダを作って冷蔵庫へ。

 わざわざお使いになど行かせるのだから、いくらリッチな奴でもこれを食べるだろう。レストランにでも行かれたらこの昼食が俺の夕食になるだけなので問題はないな。

 買い出しは必要なさそうだが、せっかく中華街まで行くのだし、観光ついでに食材も買って帰るかな…… と、いくつか電車を乗り継いでいる間に考えて移動する。

 買うものは奴も教えてくれたので抜かりはない。

 

 とりあえず着いた駅から観光ガイド片手に練り歩くことにした。

 鱗はカバンの中だが、道しるべだというのならばなんかしらの反応を示すだろう。

 気にせず歩き、買い物をしながら午後に差し掛かるあたりでふと、周りに人気がなくなっていることに気がついた。

 祝日でもない平日とはいえ、先ほどまでは賑やかだった場所が店から出た途端に閑散とした状態になっているのは明らかにおかしい。

 思わず振り返って店に戻ろうとしてみるが、自動ドアだったはずのその場所は開くこともなく、店内も無人にしか見えない。

 つい数分前は確かに人がいたのに、だ。

 

「なんだ…… ?」

 

 戸惑って歩き出そうとしたときだ。バッグが突然ふわりと浮き、なにかが外に出ようともがくように布の壁面を押している。

 心当たりといえば一つしかないので、素早くバッグの口を開けてやるとそこから赤いなにかが飛び出してきた。

 

「きゅおぅ!」

「はっ? え、ど…… ドラゴン?」

 

 それは鱗と同じくらいの大きさをした15センチ程度の小さな小さなドラゴンだった。

 西洋竜のように四肢があり、大きくて太い尻尾と背中に一対の骨ばった翼が生えている。タテガミまで薔薇色をしたそいつはまさにレッドドラゴンと言えるような形をしていた…… 体の大きさ以外は。

 そいつがドラゴンというより、哺乳類動物のようなやたらと可愛げのある鳴き声をあげて俺の周りをくるくると飛んでいる。

 淡く赤い光に包まれている姿はドラゴンの姿をした妖精のような…… そんなイメージが湧いてくる。

 

 くるくるくるくる。

 

「きゅっ!」

 

 くるくるくるくる。

 

「きゅ〜っお!」

 

 くるくるくるくる。

 

「…… きゅうっ!」

「いたっ!?」

 

 さっきからくるくる回りながらこちらを振り向くドラゴンに一体なにがしたいんだと見守っていたら噛み付かれた。解せない。

 どうやら怒っているようで、きゅうきゅう鳴く喉から猫のようなグルグルという唸りも僅かに聞こえてくる。

 

「きゅっ! きゅっ!」

 

 とうとうバランスを崩しつつもそいつが翼で 「あっち!」 とでもいうように指し示し、やっと俺には意味が分かった。

 そういえばこのドラゴン…… というより鱗は道しるべ的な役割を持つのだったか。察しが悪くてすまんな。

 

 頷いてふよふよと浮かぶドラゴンの後をついていく。

 ときおりちゃんとついて来ているかと確認するように振り返るのがやたらと可愛らしい仕草だ。女子なら 「可愛い!」 と騒ぎ立ててもおかしくないくらいか。

 いくつか路地を抜け、人っ子一人いない道を突き進んでいくとやがてぼんやりとした提灯の浮かぶ道に出る。

 不思議と薄暗くはないのだが、提灯の灯りがやけに綺麗に見えた。赤いドラゴンの描かれた提灯というのが珍しいからかもしれないが。

 そう、赤いドラゴン。

 そして、これから会う奴が作ったらしいのが、現在俺が持っている赤竜刀。この先になにが待っているのか確定しているようなものだろう。

 

 歪んだ道を歩き、上なのか下なのか、右なのか左なのかといつの間にか方向感覚がおかしくなってきた頃、そこへ辿り着いた。

 薄らぼんやりと浮かび上がる、煉瓦造りの骨董店のような雰囲気。その後ろにそびえ立つホール付のアパートらしきものがなければ、幻想的な異空間にでも紛れ込んでしまったかのような場所だった。

 骨董店らしき店の看板には〝 (よろず) 〟とだけ書かれており、ガラスの押し扉には呼び鈴の代わりに風鈴がついている。

 よく見ると店の軒下にはどこかの国の国旗らしきものもぶら下がっている。真ん中に、赤い竜。どこの国だったか……

 奥にある道案内の看板を見ると、アパートの方へ向いた矢印に〝 幻想アパート 〟の文字がある。

 明らかに人外専門のアパートだ。

 そういえばさとり妖怪の鈴里さんや、赤いちゃんちゃんこの紅子さんはどこに住んでいるのだろう? 訊いたことなかったな。普通に家があるのだろうか。

 そんな疑問を浮かべていると、チリーン…… と控えめな音を立てて扉から160センチあるかないかのヒトが出てくる。

 

「きゅっきゅう!」

「あ、ニャル君のところに貸した鱗だ! おかえりー! ってことはお客さんかな?」

 

 俺の方を見てミニドラゴンを抱きしめているそのヒトは人好きのする笑みで 「いらっしゃいませ!」 と声をあげた。

 

「ニャル君のとこの子かな? よろしくね、オレは〝 アルフォード・D・ゴッホ 〟。日本で活動してる時は〝 赤羽アリア 〟なんて名前も使ってるよ。気軽にアル君って呼んでね!」

 

 腰まで伸びた薔薇色の髪は、その天辺に元気よく跳ねるくせ毛のようなものが一房くるんと伸びている。所謂アホ毛というやつだろうか。

 それから色素の薄い金色の目は、爬虫類を想起させるわりにあまり怖さを感じさせない優しい色をしている。

 服装は上にポンチョ。首元に赤いリボン。ポンチョの下はクリーム色のベストと、シンプルなスラックス。

 一見女のように見えるが声はわりと低く、どちらかというと恐らく男だろう。自分でオレって言ってるし。

 特徴と、その赤を前面に押し出した色素を考えればこのヒトが鱗の持ち主だろうと分かるが、女顔な上に身長も然程高くないし、ドラゴンっぽさは皆無だ。どんな姿になるのかまったく想像がつかない。

 

「あ、えっと俺は下土井令一です」

「れーいち…… ?」

「あの、なにか?」

「…… ううん、なんでもないや。よし、令一ちゃんね。ほら、ニャル君のお使いでしょ? 入って入って!」

「俺、男なんですが……」

「分かってて言ってるんだよ! オレは基本的にちゃん付けしかしないからね!」

 

 なら、ニャルラトホテプ(クソヤロー)に君付けしているのは一体なんでだ? 

 

「オレ、嫌いなヒトにはちゃん付けしないことにしてるんだよねぇ」

 

 答えはすぐさま返ってきた。俺はなにも言っていないが。

 

「聞こえてるよー? 心の声がね!」

「え…… ?」

 

 心を読むのはさとり妖怪の特権じゃないのか? 

 

「その心は…… これ! 〝 ココロのイヤリング 〟! さとり妖怪のしらべちゃんに協力してもらって、ココロの声を聞く機能が付与してあるんだよ。この店にも売ってるからどう?」

 

 なるほど、不思議アイテムを買える店なんだなここは。

 しかし、ここでも鈴里さんの名前が出てくるとは思わなかった。

 

「そっか、しらべちゃんって今は彩色(いろどり)町に住んでるんだっけ。お互いに知り合いなんだね」

 

 話しながら店に招き入れられ、高そうな木の椅子、木のテーブルに案内される。売り物と書いてあるがいいのだろうか? 

 笑顔のまま手慣れた手つきで紅茶を淹れるアルフォードさんに促されて座ると、どこからか取り出されたスコーンと、二種類のジャムが入った透明な瓶がテーブルに置かれた。

 紫のはブルベリージャムで、赤いのはイチゴジャムかな。

 

「しらべちゃんのことを知ってるのは…… オレが〝 同盟 〟創始者のヒトリだからだよ。百鬼夜行は文字通り団体だし、そのトップくらいは把握してなくちゃねー」

 

 間延びしたその声に、フリーズ。

 

「えっ!?」

「あれー? ニャル君から聞いてないんだ。あっはっはまったく相変わらずクソみたいに自由奔放なヤツだね」

 

 笑顔でなんて口の悪い…… あ、いや、聞こえてるんだったか。

 

「いいよいいよ、口が悪いのは本当だしね。えーっと、会話はスムーズになるけどこれじゃあ話しづらいか……」

 

 そう言ってアルフォードさんは薔薇型のイヤリングを外し、丁寧に箱へとしまった。

 よく見るとアンティークの高そうな箱だ。他にも様々なイヤリングが入っていて、男の俺でも思わず目が奪われてしまう。

 

「これ、全部ココロのイヤリングなんだよね…… っと、用事は別だったね。なんだっけ?」

「あ、あのその前に、アルフォードさんが〝 同盟 〟の創始者ってのは?」

「あ、そのこと?」

 

 アルフォードさんは朗らかに笑って俺の向かい側に座る。

 話も長丁場になると判断したのか、テーブルの上がケーキやらマカロンやらでとても豪華なことになった。

 指一つ鳴らしているだけなのにこれは一体なんなんだ? 魔法だとでもいうのだろうか。俺が知っている魔法はニャルラトホテプの邪悪なものや魔道書に載っているようなものだけだ。

 こんな童話やファンタジーに出てくるような魔法なんて、知らない。

 

「オレ、甘いものは苦手なんだけど従業員の子が勘違いしててね…… 余ってるから存分に食べてってよ」

 

 まずはと言った風に苦笑気味に語る。

 従業員なんかもいるのか、と新情報が出たが保留で。口振りからすると今日はいないようだし。

 

 甘いものが苦手なのは本当のようで、さきほど出てきたスコーンに赤いジャムをつけようとしたら阻止された。

「これはオレ専用」 といって嗅がされた匂いは完全にトウガラシだった。それをたっぷりとスコーンに塗りたくって食べていたアルフォードさんの気が知れない。

 

「〝 同盟 〟が人間と共存して生きていくことを目的としてるってのは知ってるよね?」

「ええ、そうですね」

 

 故人を知る人がいなくなれば二度目の死が訪れるように、人が知らなければ幻想は消えてしまう。

 知名度が命の、人でないものたちはそれ以外の生き方も模索しているらしい。

 人の中に生き、ときに噂を流し、寿命を繋ぐ。その考え方に賛同した者たちが集まったのが〝 同盟 〟だ。

 

「同盟。通称はアライアンス。まあ、そのまんまだけどさ…… これは総称みたいなもので本当はもっと細かく区分されてるんだよ。例えば、しらべちゃんがトップ張ってるのは〝 市場 〟これもまんまだね」

 

 そのまま言葉が続いていく。

 

「覚えなくてもいいけど、ニャル君は教えてくれないだろうし最初に言っちゃっとこうか」

 

 同盟。アライアンス。そのメンバーは多岐に渡り、それぞれ組織として動いていることもあるし、神話が別だとかはおかまいなしに横の繋がりも広いらしいとはアルフォードさん曰くだ。

 

「まずはさっき言った通りしらべちゃんとこの〝 市場 〟基本妖怪が出入りしてるけど人も普通に行けちゃう不思議な場所。人が迷い込んでも、しらべちゃんが市場を練り歩きながら監視してるから妖怪も手を出してこないよ。心を読まれたら簡単にバレちゃうからね! だから襲われることはないから安心だよ。してる活動は古くなった道具の買い手を探したり、才能を売ったりなんかもしてるらしいね。とにかくなんでも買える不思議体験ツアーな場所ってとこだね」

「ああ、それは分かります。確かに、俺が入っていっても襲われたりはしませんでしたね」

 

 そうでしょ! と嬉しげに笑んだ彼は目を半月のように歪めて指を一つずつ折るように数えていく。

 

「人間の助手と一緒にヒーロー業〝 手助け屋 〟のシムルグちゃん。

 傷病を自分に移して地獄へ持ち帰る〝 引き受け屋 〟のカラドリウスちゃん。

 匂いと依頼があればどこまでも追いかける〝 追跡者 〟のフェンリル一族

 どんな物も運ぶ地獄からの宅急便〝 運び屋 〟のムシュフシュちゃんたち。

 技術と呼べるものならなんでも売る〝 技術屋 〟のグレムリンちゃん。

 復讐、報復、呪いなんでも御座れな〝 怨み屋 〟のグローツラングちゃん。

 首一つ一つが分身で不死身な〝 殺され屋 〟のヒドラちゃん。

 人間の良き隣人にて隠れ蓑〝 市場 〟取締役のさとりちゃん。

 最近台頭してきてる都市伝説〝 預言者 〟の怪人アンサーちゃん。

 

 …… そして、摩訶不思議な道具で人間の願いを叶えるオレ、〝 萬屋 〟だよ」

 

「今のところはね」 なんて注釈が入るところを見るに、もしかしたら新しく増えたりするのかもしれない。怪人アンサーは最近入ったような言い方だし。

 

「萬屋……」

「そ、というわけでご贔屓に。対価は〝 キミの一番大切なものです 〟なんて別に言わないし、普通にお金だよ。物々交換でも可。それが形のないものとの交換でもね…… まあ、基本的にはただのアンティーク店と変わらないよ。不思議な効果が付いてたりするだけ」

 

 そう締めくくり、 「今はオレのことだけ覚えてくれればいいや」 と真っ赤なマカロンを口に放り込んだアルフォードさんは立ち上がる。

 

「ニャル君に頼まれた商品はなにかな?」

「あ、えーっと。確か、匂いのしない香水…… ? を小瓶に一週間分だって言ってました」

 

 随分と矛盾した物だなと思ったからそんな感じの名前だったはずだ。

 

「無香水だね。一週間分ならちゃんとあるし、小瓶もお洒落なのがあるからそれにしようか。まー、アイツのことだから自分で使うんじゃないと思うけどね」

「…… 分かってて売るんですか?」

「まあね。アイツに売られた人間が不幸になるとしても、本人が満足できればオレはいいんだよ。ひと時でも幸せだったならね。それに、ニャル君は規約違反だけはしないからなぁ…… 叩いて埃は出るんだけど捨てるほどではないっていうか……」

 

 なんとなく歪んだ関係のような気もするが、人外同士だとこんなモンなのだろうか? 

 

「そうそう、無香水はつけた対象の匂いを完全に消すことができる優れものなんだよ。腐ったものとかドリアンとか、臭いのきついものに使うと便利だよ。材料に変なのは入ってないから、臭いのキツイ食べ物に使ってもいいし、台所で消臭剤として使うこともできるよ。お試しでも構わないし、キミも買ってかない?」

 

 オススメなのだったら買ってみようか。

 そもそも中華街でも買い物していく予定だったしな。

 

「一週間分のは三百円で、一ヶ月ものはひと瓶千円だよ。あと、ついでにサービスでその子の手入れもしてあげる」

 

 思ったよりも安かった買い物に満足して財布を出すが、その子と言われて背中を見る。

 椅子に立てかけておいた竹刀袋がそこにはある。つまり、刀のメンテナンスをしてくれるということだろうか。それはありがたい。俺は竹刀しか扱ったことがないので手入れの仕方はよく分からず、血拭きくらいしかできていないのだ。この際教えてもらおう。マニュアルでもいい。

 

「あと、今度からこの店に来るのにいちいち普通の鱗を持って来るのは面倒だよね。これあげるから普段持つ物につけといてよ」

 

 取り出されたのは〝 通行手形 〟と書かれたお守り袋。赤い竜の翼がロゴマークとして描かれている。財布にでもつけておけばいいか。

 そのあとすぐに赤竜刀を持ってバックヤードへと引っ込んで行くアルフォードさん。俺が持ってきた鱗も持っていたが、あのミニドラゴンともお別れか…… もう少し見てたかったな。

 

「んっきゅ!」

「あれ!?」

 

 なんでまだこいつは出てきているんだ? 

 

「きゅおん?」

「お前、いいのか? 戻らなくて」

「きゅいぃぃ!」

 

 全力で首を振られる。

 これは、案外懐かれたのか? そんな馬鹿な。俺はなにもしてないぞ。

 

「はい、終了。鱗もキミが気に入ったみたいだから連れてってあげてね」

「は、え、でも鱗はどこに?」

 

 さっきから浮いているミニドラゴンは半透明だ。肝心の鱗はどこに行ったのか。

 

「なに言ってるの? 刀身に鱗を使ったからそれを持ってればいつでも呼び出せるよ」

 

 言葉と同時に半透明のほうが消えて刀から実体化したらしきミニドラゴンが飛んでくる。

 

「きゅふんっ」

 

 むふん、とでも言いたげに俺の肩に収まるミニドラゴン。

 いや、しかしなにからなにまで申し訳ないぐらいだ。

 

「ありがとうございます」

「お使い以外でもたまに来てくれたらいいよ。人間の常連さんって中々いないからさ」

「分かりました」

 

 ミニドラゴンの名前は後で考えないとな。

 

「あ、あとさ、これお土産に持って行ってよ」

「これは、なんですか?」

「甘〜いイチゴタルトだよ。彩色町は物騒だし、オレからの気持ち」

 

 町が物騒なこととなんの関係があるか分からないがとにかく、ありがたいので受け取っておく。

 

「それじゃあお帰りはあっち、またねー」

「では、また」

 

 チリーン、と風鈴が鳴る。するとそこは既に喧騒の戻った中華街だった。

 

「…… 帰るか」

 

 なんだか一気に疲れた気がして真っ直ぐ駅に向かう。

 後は帰って奴にするミニドラゴンの説明と、夕食作りだ。

 

「………………」

 

 最寄駅には何事もなく着き十数分経った頃、なんとなく声が聞こえたような気がして周囲を確認した。

 紅子さんや鈴里さんが通っている七彩高等学校からほど近い場所の、路地。どうやらそこから湿っぽい音が聞こえてくるような気がするのだ。

 普段は見に行こうだとか、そんなことは考えない。

 しかし、俺は奴以外のまともな人外と話して夢の体験をしたような気分だった。刀の手入れ方法もマニュアルをもらってきたし、まさに気分が良かったのだ。

 

 だから覗いてしまった。

 

「あぁ? ……」

「っ!?」

 

 そこには、男が立っていた。

 迷彩柄のタンクトップに、暑苦しい紫色のロングコート。首には真っ黒な首輪がついていて、その真ん中から千切れたような鎖が揺れている。

 紫かかった黒髪は両端で跳ねてまるで犬耳のような形状。金色に光る目玉はアルフォードさんとは違い、冷たく鋭い。

 そしてなによりも目を惹くのが、口元に付着した赤い液体と…… 手に乗っているなにかの肉の塊。

 男の背後となる路地裏の壁にはなにかが叩きつけられたあとのように血と肉が滴り落ちていた。

 それは、まさに殺人現場。それも恐らく人外によるものだ。でないと肉を食べるだなんて、そんなこと……

 

 ギョロリとこちらに向けられた瞳に肩を震わせる。

 ……脳裏には〝 血痕だけ残った凄惨な殺人事件 〟の文字が浮かぶ。

 

「ッチ……」

 

 男と、目が合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・アルフォード・D・ゴッホ
 察しの良い方にはバレバレなドラゴン。
 ウェールズに本店があり、各国に本店へと続く特殊な道が存在する。日本の場合はそれが中華街だっただけ。しかしある方法でどこからでも店には辿り着くことができる。
 来た国によって店の装いや文字も変わるように魔法がかけられているらしい。アパートも同じく。
 とんでもなく辛いものが好物。


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番犬からの依頼

「ッチ……」

 

 男が明らかに俺を目視して舌打ちを発した。

 逃げられない? いや、駄目だ。俺が逃げるわけにはいかない。こいつがこの惨状の犯人なら、ここで逃したりなんてしたらまだまだ被害者は出続けるだろう。

 〝 血痕だけ残った凄惨な殺人事件 〟は普通にニュースになっているし、ここら辺に住んでいる一般人がいつこいつを見つけるかも分からない。もし万が一、一般人が現場を目撃なんかしたら絶対に助からない。それに比べて俺は今、武器を持っている。体は小さくともドラゴンが味方についている。これで逃げたらとんだ臆病者だ。

 正義感? そうなのかもしれないし、違うかもしれない。慢心はしていない。

 そんなものニャルラトホテプにとっくに踏み躙られている。

 

「っ、リン頼む!」

 

 名前は今決めた。ウロコじゃ名前とも言えないしな。もし鱗に通じてなかったら赤っ恥どころか俺の死亡率が跳ね上がるだけんだけど! 

 

「きゅうい!」

 

 赤い燐光と共に現れた小さな小さなドラゴンが駆ける。俺もそれに併せて地面を蹴った。抜刀術なんてものはできるわけがないので刀は既に抜き身だ。

 勿論こんな場面を一般人が見たら…… とか、目の前のこの人が一般人だったら…… なんて危惧はある。しかし、俺の勘が告げている。これは人間以外の生き物だ、と。様々な怪異に出会ってきたせいか人型をした誰かであってもなんとなく違和感があるものだ。そもそもこんな格好をして血肉を啜る男なんて一般人だとは思いたくない。人間だったとしてもそんな狂ったことをしている人間だ。ドラゴンだなんだと騒いでも嘘つき扱いをされるだけだ。

 

「きゅっ!」

 

 男は向かってくる俺達を見て驚くでもなく、恐怖するでもなく、ただその口の端をにんまりと吊り上げた。

 

「ちょっとはおもしれーじゃねーか」

 

 男はそのままリンの牙を服の袖を使って受け流す。ガギンと硬い音が聞こえたと思ったら、その手首に嵌った手枷のような物が少しだけ見えた。あれで受けたのだろう。リンも噛みつくことができなかったせいでそのまま振り払われてしまった。

 けれど男の視線は少しだけ逸れた。

 

「はあああ!」

 

 その間に叩き斬ってしまおうと踏み込んだが途中で刀がなにか見えないものに阻まれる。金属と金属のかち合う音が響いて、空間が揺れた。そして、赤竜刀に当たった物の正体が明らかになったとき、俺の視界は反転し路地から僅かに見えるくすんだ空だけが映されていた。

 

「っぐ」

「きゅっ! きゅっ! ぐるるるる!」

「ふうん、アルフォードの差し金か? …… 違うな。この匂いは邪神野郎か。てことは人間、お前は噂に聞くニャルラトホテプの下僕か。そういえばその顔、見た気がするな」

 

 仰向けに倒れた俺の腹に男の分厚いブーツが食い込む。

 それを見て再び突進してきたリンが空中で翼を摘ままれぶらりと垂れ下げられる。

 そのすぐ隣には、巨大な鎌。紫がかった黒の死神が持つような大鎌が立てかけられている。どうやらあれに刀が当たって跳ね飛ばされたようだった。

 最初はそんなものは見当たらなかったはずなのに、だ。

 

「下僕……」

「あー? 違わねえだろ」

 

 だが、この男が俺のことを知っているのならば殺される確率は低い。普通ならあんな邪神の所有物に手を出したりしないだろ。

 

「この惨状は、あんたがやったのか?」

「惨状…… ?」

 

 嘘だろ。まさか分かってないのか? 

 

「あんたが食ってた、その血と肉のことだよ」

「ああ、これか。クッソ不味いんだよな…… ったく勘弁してほしいぐらいだ」

「…… ?」

 

 殺したのか、そうじゃないのか、できればはっきり言ってくれよ! 

 

「人間、お前の心配は徒労に終わる。良かったな?」

 

 そう言って男はさらにぐりぐりと俺の腹を踏みつける。そしてその足を退けて血の海から少しだけ離れた場所に移動すると、リンを投げて寄越して 「起き上がれよ、人間」 と命令してきた。

 仕方なく俺が体を起こして立ち上がると、丁度踏みつけられていた場所が盛大に血で汚れていた。あの野郎、俺を雑巾代わりにしただろ。

 

「ふんっ、お前はあいつの下僕だからな…… こないだの駄賃代わりに働いてもらおうか」

「なに…… ?」

 

 駄賃? 働く? なんのことだ。

 

「ああ、お前はあのとき、確か呑気におねんねしてたんだったか。なら自己紹介からだな」

 

 男は大鎌を構え、格好つけたようにゴホンと一回咳払いすると、大きく息を吸い込んだ。

 

「俺様は地獄の番狼ケルベロスである! 地獄から逃げ出した死者や各地に散った怪異共の被害、死体を回収する、中立にして誇り高い〝 掃除屋 〟だ! 人間、お前とは〝 脳吸い鳥 〟の事件で会っているぞ! ただし、お前が気絶した後だがな」

「地獄の番犬…… ケルベロス……」

 

 それなら流石に知っている。有名すぎるからだ。

 俺が呆然としながら呟くと、ケルベロスは怒ったように眉を吊り上げグルルと唸り声を上げた。

 

「俺様は犬じゃない!」

「は?」

「犬って言うんじゃねぇ! 狼だ! オオカミ! 二度と間違えるな!」

 

 そういえば自分でも番狼って名乗ってたな。

 

「でも伝承だと番犬」

「俺様を犬扱いするんじゃねぇ!」

 

 話が進まない。疑問はいくつもあるがとりあえず置いておこう。

 

「おいアルフォードの鱗! お前もドラゴンじゃなくて真っ赤なトカゲなんて言われたくねーだろ!」

 

 リンもそれを聞いて、俺の腕の中できゅいきゅい言いながら頷いている。そういうもんか? 

 俺が未だ分かっていないのに気付いたのか、その小さな手で俺の頬をペチペチ叩いてくる。こいつらにとってはそんなに大事なことか。

 

「俺様にとっちゃ聞き分けが良けりゃ猿でも人間でも変わらねぇ。これでも分からねぇか?」

 

 猿扱いされるのは確かに心外だ。なるほど理解した。

 

「悪かった」

「分かりゃいいんだよ」

 

 問答無用で殺しにこないだけでも十分優しい気がしてきたぞ。

 本当にケルベロスさんがこの現場の犯人か? いや、さっきの口上からするとこの人は死体処理に来ただけなのか? 

 

「……」

 

 あれ、黙ってしまったぞ。どうしたんだ? 

 

「じゃあ、あんたはここの死体を処理しにきただけで、事件には関与していない…… ?」

「…… ああそうだ。俺様はただこの事件を起こした死者を追っているだけだ。そこで人間、お前には〝 脳吸い鳥事件 〟の駄賃代わりに働いてもらう。あのクソ邪神がよりにもよって俺様にツケを要求してきやがったのさ。だからお前が払え」

 

 あいつのとばっちりかよ…… という最悪な気分ではあるが、仕方ないか。

 

「で、なにをすればいいんだ?」

「…… 人間」

「なんだ?」

「人間」

「だからなんだよ」

 

 ケルベロスが苛々したように貧乏揺すりをしている。これでは威厳も台無しだな。

 

「んきゅう……」

 

 リンまでどうしたんだ? 

 

「なあ人間、自己紹介された相手にされっぱなしで放置するのが人間のマナーってやつか? それはそれは……ご立派なもんだな?」

「あっ」

 

 そういえば、こちらの名前は教えてなかった。完全に忘れていた。

 

「はあーあ、主人が主人なら下僕も下僕だなー?」

「わ、悪かったって! 俺は下土井令一。不本意ながら邪神ニャルラトホテプの眷属なんかをやってる。だからあいつと一緒にしないでくれ」

「俺様のことはケルベロスでもいいが、普通の人間には警察関係者のケルヴェアートと名乗っている。アートかアーティか、好きなように呼べ」

「警察関係者?」

「おら、手帳だよ。偽造だけどな」

 

 そう言ってアートさんが取り出したのは、確かにこの辺の警察署の警察手帳だ。というか初めて見たので偽造と言われてもなにが違うのかもさっぱりだ。

 せめて探偵とかだったらまだ分かるのだが、ロングコートとか首輪とか奇抜なファッションをしているこの人が警察を名乗るのは少し無理があるんじゃないかな。

 

「探偵より警察のほうが人間の信頼は得られやすいんだよ。都合がいいのさ」

 

 血肉を貪っているのを見られたら完全にアウトだけどな。

 

「ん? ああ、食ってるときは普通の人間には見つからねーように結界を張ってるから問題はねぇよ。お前が特殊だっただけだ」

「結界……」

 

 血拭きされて汚れた服をなんとか上着で覆い隠すと、なにが面白いのかリンが服の中をもそもそと移動しながら冒険している。ああ、お前だけが俺の癒しだよ。家に帰っても待っているのはクソヤローだけだからな。

 

「人間じゃねーものは皆自分の領域ってやつを持ってるんだよ。それを使って人間を逃げられなくしたり、人間を観察したり、ゲームしたりいろんなパターンがあるな。勿論人間を食うために結界を張ることもある。食う目的で結界を使うのは基本的にそうしないと生きていけない奴だが、それ以外の奴が娯楽で虐殺するために使うと事件が発覚、同盟の奴らのブラックリスト入りだ。所謂指名手配犯になる。人間に寄り添って生きてる奴らだからな、人間風に言うなら〝 討伐クエスト 〟みたいなもんだぜ」

 

 逃げられなくする…… のは覚えがあるな。ニャルラトホテプの遊戯には精神的な誘導がされてその現場…… 神話生物の出現する町や村から逃げ帰るという選択肢を消してしまうらしい。正規の手段であいつの“シナリオ”を終わらせないと生還できない鬼畜使用になっている。基本的にどんな手段でもシナリオクリアがされればあいつは満足するが、例えば現場への招待チケットを他人に譲ったり、売ったり、そもそも使わなかったりして現場に〝 行かない 〟という手段は無意識下に働きかけて選択肢を抹消してしまう。

 辺境の村への旅行チケットが当たりました。行きますか? 〝 はい 〟か〝 yes 〟で答えてね、となるわけだ。

 また、脳吸い鳥の事件は鳥達が包囲していて外に出られなくなる物理的な結界だったな。

 

 そして人間の観察やゲーム。これは紅子さんのパターンか。

 人間にゲームを仕掛けて楽しんだり、恐怖や混乱などの感情を食べる人外が使う手段。

 

「今回の事件は、その討伐クエストとやらなのか?」

「そのうちそうなるかもな。俺様はなんらかの目的のために地獄から脱走してきた死者を追っている。これはそいつが起こした事件だ。大方復讐でもしてるんだろーよ。いつもいつも後手に回ってんのは、そいつが俺様の鼻を誤魔化す手段を持ってるからだ。臭いで追うのは俺様対策がバッチリでどうも上手く行かねえ。だからお前は別の手段で調べろ。ターゲットは一週間前に死んだ女子高生だ。いいな?」

 

 調べろって言われてもな。

 それにこの辺の高校だって一か所しか知らないし。

 

「名前は分からないのか?」

「知らねー。確認せずに飛び出して来たからな!」

 

 あれ、この人意外とポンコツなんじゃあ……

 そもそも地獄の門番なのに門放ってこんなところに調査に来ていて大丈夫なのか? 他にも仕事してるみたいだし、もしかして交代制門番とか? 

 日本にいる理由も分からないし、日本の死神やら門番やらはどうしたんだ? この人ギリシア神話の冥界出身だろ? アルフォードさんみたいなドラゴンも日本をちゃんと認識してるみたいだし、実は有名な観光スポットになってるとか、もしくは人外の被害率何位みたいな物騒な理由で派遣されてきていたり? うーん謎だ。

 いや、俺が気にしても仕方ないか。できれば駄賃は俺のクソ主人に払ってもらいたかったが、やるしかないな。

 

「これは俺様の番号だ、それっぽい奴を見つけたら場所を教えろ。五分で駆けつける。それまでに逃げられそうならなんとしてでも時間を稼げ。分かったか、人間?」

「当てつけみたいに人間って呼ぶなよ……」

「まあいい、俺様はもう行く」

「分かった」

 

 肉片を全て片づけたらしいアートさんはそのまま軽く地面を蹴っただけで建物の上へと跳躍していった。流石地獄の番犬ケルベロス。人間の身体能力じゃないな。

 

 視線をビルの上から戻し、路地裏で一人立ち尽くす。

 

「帰るか」

 

 服の中でぴすぴすと鼻息を漏らしながら寝ているリンをそのまま支え、なんとか刀を鞘に納めた。もうすぐ夜が降りてくる。早く帰らなけらば盛大に怒られるだろう。折檻さえあるかもしれない。リンは刀に宿っているから大丈夫だと思うが、なるべく痛い目には遭わせたくないから後で刀に戻ってもらわないと。

 

 ◆

 

「おそーい!」

「いろいろあったんですよ……」

「まったく令一くんは仕方ないなあ。そんなにおいたばっかしてるとドMなのかと疑っちゃうよ。それとも…… してほしい?」

「んなわけねーだろですよ! 首絞められたり焼きゴテ当てられたりするので喜ぶのはあんただけだ!」

「ええ! なんで知ってるの!?」

「脳吸われるのに恍惚としてた奴がなに言ってるんですか!」

 

 疲れた…… もう嫌だこの邪神。

 毎日毎日バリエーション豊富に拷問を勧めてくるの本当嫌だ。夜刀神さん助けて……

 

「へえ、アーティに会ったんだ…… まあ、お使いはちゃんとできたみたいだし、そっちの手伝いに行ってもいいよ。どちらにせよ、くふふふ」

 

 突っ込まないぞ。そもそも処理代払わなかったクソご主人の所為だからな。

 

「そうそう、私は明日図書館に行くからお前は好きにしてていいよ」

 

 待ち合わせがあるんだ、きゃっ! なんてくねくねした気持ち悪い動きで言い出したので無視して寝よう。ああいや、朝早くから主人が出かけるなら朝ご飯を用意しておかなくちゃいけないのか? 簡単な物でいいよな。おにぎりとか、でもこいつがそんな庶民食を好んで食って行くのか? 気まぐれすぎて未だによく分からない。

 一応サンドイッチとおにぎり両方用意して冷蔵庫に入れておくか。エプロン、エプロンっと。

 

「主婦みたい」

 

 俺はなにも言わないぞ。これで怒鳴ったら折檻されるのが目に見えてるからな。もうそんな挑発には乗らん。

 

 ◆

 

 朝起きると、いつの間にか奴がいなくなっていた。しっかりサンドイッチが減っていたのでまあ食べたのだろう。俺も昨日作ったおにぎりをもそもそと食べつつ、リンにミルクティーを進呈する。どうやら食べる必要もないが嗜好品を食べて楽しむことはできるらしい。最初に差し出した肉よりも俺の飲もうと思っていた紅茶に興味を示したので甘めにしてテーブルに置いた。俺が想像した犬猫のような飲み方ではなく、案外上品に飲んでいる。

 昨日の夜、気になって赤い竜を調べたところアルフォードさんの正体らしきものが分かった。とある国の赤い竜。国旗に描かれたア・ドライグ・ゴッホだ。アルフォード・ドライグ・ゴッホと名乗っていたし確定だろうな。つまりはお国を守護するドラゴン。すごいヒトと知り合いになってしまった。俺、大丈夫かな……

 しかし、国を守っているドラゴンなら人間の味方しててもおかしくはないな。だからリンもその特性は持っているだろうし、頼りにしてるよ。

 

「きゅうい?」

 

 例えドラゴンっぽさが皆無だとしても。

 

「もっと飲むか?」

「きゅう!」

 

 可愛い。今のところ唯一の癒しだ。

 

「さて、昨日ネットで調べた限りだと、ここ一週間の事件は全て七彩高等学校の生徒が被害者みたいだな」

「きゅっきゅうーい」

 

 行方不明になっていた生徒とDNAが一致してる…… みたいだな、記事の書き方を見た推測でしかないが。遺族は悲惨だな。しかしなんでアートさんは遺体を食ったりしているんだろう。そこだけが謎だな。死者を追うのに死体処理っていっても食う必要はないと思うが。もしかして昨日、体よく誤魔化されたのか? 

 

「七彩って…… 鈴里さんと紅子さんが通ってる所じゃないか」

 

 さとり妖怪の鈴里しらべさんに、赤いちゃんちゃんこの赤座紅子さんが所属していて、それに加えてこの事件って…… 災難だなあの高校。来年受験する中学生が減りそうだ。

 一週間前のいじめによる自殺騒ぎなんかも少しだけ記事に載っていたし、もっと詳しいことを知るなら直接聞き込みに行かなくちゃいけないか。なんで俺がこんな探偵みたいなことやるはめになってるんだ。聞き込みとか怪しまれるから苦手なんだよ……もういい、全部ニャルラトホテプのせいだ。

 

 …… 今度から事件に放り込まれたときは探偵でも名乗ってみるか? 資格とか…… 特にいらないよな。勉強だけはしておくか。巻き込まれた一般人Aだと迷惑を被ることも多いし、なんらかの身分証明ができたほうが動きやすくなるかもしれない。検討はしておくかな。

 閑話休題。紅子さんに連絡してみよう。今の時間ならまだ連絡はとれるはずだ。

 

「もしもし」

『もしもし、アタシメリー。今、あなたの後ろにいるの』

「紅子さんだよな?」

 

 メリーさんが出るとか実際にありそうな悪戯はやめてくれ。

 …… 悪戯だよな? 

 

『おやおや、女子高生にこんな朝早くから連絡するだなんてどんな用事かな? 援助交際の申し込みならアタシじゃなくてキミの血が流れることになるよ』

「からかうのはやめてくれ」

『ふふ、可愛い冗談だよ。許してよお兄さん』

 

 クソご主人とは別の意味で疲れる子だ。

 

「君にここ一週間の事件のことで訊きたいことがあるんだ。高校内部のことは君のほうがよく知ってるだろ?」

『最近の事件のことだよね。アタシが犯人だとは思わないんだ? それともなにか理由でもあるのかな? お兄さんはそういう事件に首を突っ込むような野暮な性格はしてないだろう?』

「ああ、ちょっと協力を頼まれちゃってさ。紅子さんこそ、そういう性格はしてなさそうだからだよ。なんとなくね。それで、放課後にでも話を訊きたいんだけど」

『うんうん、そっか。それは嬉しいことを言ってくれるねぇ。なんなら今からでも会えるよ。アタシもお兄さんに会いたいなあ』

 

 ねっとりとした猫撫で声で言われても全然嬉しくならないのは何故だろう。あからさますぎるからか。からかわれるのが目に見えているからか。

 

「いいのか? 学校あるだろ」

『何年通ってると思ってるのかな。 高校の授業くらい少し飛ばしても問題ないよ』

「…… 何年通ってるんだ?」

『死んでから二年かな』

「普通の高校生じゃないか……」

 

 もったいぶるから何十年も通ってるのかとばかり。

 

『それじゃあ、近くの公園で待ってるよ。一時間後くらいに紫紺地区の紫陽花公園でよろしく』

「分かった」

 

 電話を切って荷物を纏める。

 

「なあリン」

「きゅ?」

「お前って刀に宿ってるんだろ? お前だけ連れて行ったらどうなるんだ?」

「きゅきゅうきゅっきゅっ!」

 

 リンは身振り手振りでなんとか伝えようとしてくれているがさっぱり分からん。

 

「呼べば刀もワープしてきたりとか」

「きゅーうう」

 

 首を振られた。無理なのか。

 

「きゅっ!」

「わ!?」

 

 違うと言いたげにしていたリンが大きな翼で自分を覆うと次の瞬間にはそこに赤竜刀があった。しかし、部屋に置いてある刀はまだそこにある。二本の刀が今目の前にあるわけだが、どういうことだ? 

 

「普段より軽い…… ?」

「きゅうーう」

 

 刀から声がする。化けてるって言えばいいのか? いつもよりも軽いし、リン一匹分ということは本物よりも劣るが一応刀としても使えるとか? 

 よかった。いつも持ち歩いているわけにもいかないからな。そんなことしてたらいつか俺が銃刀法違反で捕まるし。

 

「戻っていいぞ」

「んきゅ!」

 

 リンには鞄の中で待機してもらおう。

 一緒にクッキーやビスケットを鞄に入れ、袋の上で食べるように注意だけする。食べかすで鞄の中が汚れるのは流石に掃除が面倒だからな。でも退屈させるのはかわいそうだし、食べるのが好きみたいだから遊ばせておこう。

 それからスマホに対応した手袋の先を切り取ってリンの尻尾や腕に調整して縫い、身に着けさせる。簡単に取り外せるように調整し、リンに少しだけスマホの使い方を教える。動画ではなく、文字を読むだけなら構わないとだけ言っていくつか俺が所持している電子書籍なんかの開き方を伝授し、鞄は広めのスペースを空けてやる。これでアニメや漫画にありがちなバレそうになって 「ぬいぐるみですー」 なんて言うイベントは回避できるだろう。

 少々過保護かと思ったが、俺の唯一の癒しだ。これくらい待遇を良くするべきだ。うん。課金はパスワードを教えていないため、どうあってもできないようになってるから安心だ。

 

「きゅうい」

 

 楽しんでいるようでなにより。

 それじゃあ時間だし、そろそろ行くか。

 

「誰もいないな…… 時間は過ぎてるが、まだ来てないか?」

 

 七彩高等学校の近く、梅雨には紫陽花が咲き誇る公園へとやってきた。

 この町は七色に準えて区画によって彩りの違う花を楽しむことができる美しい町だ。ここは紫や青の花が多くを占める。七彩高校はその名の通り季節ごとに花壇の花が植え替えられ、桜や藤、椛に銀杏などそこに通っているだけで四季が楽しめる高校…… らしい。

 妖怪であってもそういう美しい場所は好まれるみたいだ。ずっとあそこの生徒をやっている鈴里さんが語っていたのを聞いたことがある。まあ、女の子だしな。

 

 時間よりほんの少しだけ遅れてしまったが、とりあえずベンチにでも座ろうと公園の中程まで進む。そばには一年中葉がついている常緑樹が佇み、静かな雰囲気だ。

 その下を通ったとき、俺の耳は僅かな葉の擦れる音を拾った。

 

「わっ!」

「っべ、紅子、さん?」

 

 目の前の木の枝から逆さ吊りになった紅子さんが降ってきた。

 音には気付いたというのに思い切り吃驚してしまった。ちょっと悔しい。

 

「はろはろお兄さん。待ちくたびれたよ!  待ち合わせには十分前行動だって習わなかったの? それで、今日はどこまで連れてってくれるの? 極楽? 快楽?」

 

 遅刻についてはなにも言えないのだが。

 

「遅れてごめん。でも、だからってからかうのはやめてくれよ。それ、本当にタチ悪いぞ」

「安心してよ、冗談を言ってるときはきちんと周りに人がいないか確認してるからさ」

 

 言っていい冗談と悪い冗談があるぞ。俺は職質なんてされたくないからな。

 

「それで、確か血痕だけ残った殺人事件についてだったっけ。確かにアタシの学年の話だよ。クラスは違うけどね。皆怯えちゃって学級閉鎖寸前だし、アタシが休もうがなんの問題もないよ。それに、妙な噂も聞くしね」

「妙な噂?」

 

 紅子さんは俺の疑問に悪戯気に笑うと、口元に指を添えて 「それはね?」 ともったいぶるように一旦沈黙する。

 

「一週間前に自殺した子を、高架下で目撃した人間がいるんだってさ?」

 

 それは、明確な手がかりだった。




・リンのデザイン画

【挿絵表示】


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図書館デート

「お前はどうしたい? なんのためにそうしたい?」

「…… を、………… を、たえ………… く………… に、…… たい」

「くふふ、それは面白いね。おっと怒らないでよお嬢さん。お前の願いを叶えてあげようって言っているのだから」

「………… ? …… ?」

「これが君のタイムリミット。それまでになんとか果たすんだよ。代金は………… 『    』いいね?」

「…… ! …… !」

「さようなら、お嬢さん。精々私を暇にさせないでおくれ」

 

 零れ落ちた水滴が波紋を作り、そして消えていく。それを眺めて彼はつまらなそうに笑った。

 

 ◆

 

「…… 高架下」

「そうだよ。確か目撃証言は三日前だったかな? 死んだはずの青水香織がボーッと立っているのを見たんだって。それも生前のままの姿で、だよ」

 

 女子高生…… 青水香織は自殺だったと新聞の記事では読んだ。けれど生前のままの姿で現れている。つまり、幽霊か妖怪か、それとも別のなにかになったのか。駄目だ。候補が多すぎる。これじゃあ調査の役には立たない。

 死んでいることはアートさんからの話で確かだと分かる。あの人が嘘を吐くメリットは思い当たらない。あの人は地獄の番犬だから脱走したらしい死者も恐らくは地獄行きの人物だろう。

 俺が知る限り自殺は地獄行きのはずだ。筋は通る。

 

「あとはそうだね…… こっちはただの推測になるけれど…… お兄さん。キミの飼い主はここ一週間なにをしていたか分かるかな?」

 

 一週間程前に俺が紅子さんと出会って…… その後は幾日か家を空けている。今日も朝早くからどこかへと出かけているし、なにかをしようと動いている…… ? それがもし、この事件へと繋がるのなら…… またあいつが裏で糸を引いているのかよとしか言えないのだが。

 

「俺の知らないところで動いている可能性はあるな。まあいつものことだよ」

 

 脳吸い鳥のときのように、俺が知覚している状態で奴が動くことは珍しいのだ。大体は俺が知らない間に裏で糸を引いてマリオネットにされている。事件の関わりがないところで俺を傍観させておきながら、その事件の原因となるように仕向けられていたことさえあるのだ。

 具体的には、以前やっていた魔道書サンタクロースとか。バラされるまではそれが魔道書だとは知らなかったし、その後巻き込まれた事件でその本が原因になっていることを知った俺がどれだけ冷や汗をかいたか……

 事件解決に動いている人物には、幸い気づかれることなく毎回終わるけれど居合せると心臓に悪い。

 

「そういえば、図書館に行くとか言っていたな」

「そっか…… なら先にそっちを確認してみようか。情報の交換は図書館でもできるし、その用事とやらがこれからも続くかどうかは分からないよね? もしかしたらもう既に用事が終わってしまっている可能性もあるけれど」

 

 朝早くから出ていることを考えるにその可能性は高い。しかし確認せずに諦めるのもどうかと思う。

 

「駄目でもともとってやつだよな」

「そうだね、ならすぐにでも向かおうか」

 

 紅子さんと急ぎ足で図書館に向かう。その道中に例の高架下とやらがあったのでチラッと見たが特にその死者とやらは見つけることができなかった。

 血がこびれついていたであろう場所もあるが臭いは消えている。近くにゴミ捨て場もあるのだが、臭い管理がきっちりされているのか驚くほどの無臭であった。時間が経っているとはいえ、ここで自殺者が出たという痕跡は消えている。花束が置いてあるからそこが現場だったのだなと分かるくらいだ。

 警察の調査もここまで徹底的なのだろうか? 近隣住民にとっては良いことなんだろうが。

 手がかりがあの場所に残っていないのは明白だ。もうすぐ午前10時で丁度図書館が開く頃合いだ。平日とはいえ最近の事件があるから学級閉鎖に陥った生徒が利用するかもしれない。人が多くなる前に情報収集を済ませたいし、急ごう。

 

「あれ、まだ図書館は開いてないのに…… 奴はどうして朝早くからいなくなってたんだ…… ?」

「お兄さん気付いてなかったの? まあいいや。混沌そのものなんだから矛盾していても本人は大丈夫とかなんじゃないかな」

 

 矛盾そのものが矛盾に行動を阻まれるわけがないって? なんだよその無茶苦茶な理論。頭が痛いね。

 

「よし、利用時間開始してるな」

「うん。じゃ、探そうか」

 

 開いたばかりでガラガラの図書館内を二人で本を探す振りをして歩き回る。一週間分の新聞もあれば完璧なんだが、先に探し人だ。

 いつしか効率良く二手に分かれ、お互いに目的の人物が見つからなければ資料探しを優先させるように約束をした。

 

 俺がその人を見つけたのは、町内の歴史が置いてあるような奥まった場所だった。青みがかった黒髪の前髪を揃え、長く伸ばした人形のような大人しそうな女の子が困ったようにきょろきょろと辺りを見渡している。制服は紅子さんと同じ七彩高校のもので間違いない。彼女は暫くそわそわと見渡していたが、俺に気が付くと花が綻ぶようにふんわりと笑ってトテトテと近寄ってきた。

 

「えっと、じっと見てごめん。なにか用かな?」

「あなたが香水屋さんですか?」

「え…… ?」

 

 香水? あ、そういえば昨日奴に頼まれていた香水を渡すの忘れたな。

 

「君は?」

「えっと、えっと、あの、神内さんから香水屋を寄越すからここで待っているように言われて…… 図書館が開いたらすぐに渡しに行かせるから待っていてって…… あの、もしかして人違い…… でしょうか?」

 

 俺を見上げる彼女の黒い瞳が深い深い色に落ち込んでいく。

 最後の方は萎むように元気さが失われていき、自信がなさそうに目を伏せた。その後すぐに 「ご、ごめんなさいごめんなさい人違いですよねごめんなさい!」 と怯えたように謝る姿勢を見せる。

 神内。それは奴の、ニャルラトホテプの表向きの名前だ。嫌な予感が高まっていく。

 図書館が開いてすぐに来ると予測されていた? また知らぬうちに駒として動かされていることに僅かな苛立ちが湧くが、それは彼女には関係ない。つまり俺が購入してきた香水を売れということだろう。シナリオに逆らってもいいが、奴がどんな方法で修正を入れてくるか分かったもんじゃないので素直に与えられた役割を全うしよう。

 

「いや、ごめん。俺、誰に売るか知らされてなくって気付かなかったんだよ。君が買いたいのは 『無香水』 だよな? 」

「あっ…… はい! そうですそれです! は、早く…… あっと、ごめんなさい! お金、お金……」

 

 彼女が取り出したピカピカに磨かれたような硬貨を受け取ろうとすると、現在チョーカーとなっている首輪が思い切り締まった。

 俺が突然苦しみだしたことに彼女は目を丸くして自分がなにか粗相をしたのかと再び謝り始める。

 

「い、いや、大丈夫だから…… ちょっと待っててくれ」

 

 手をおろすとチョーカーが締め付けるのをやめた。

 その隙に鞄の中で寛いでいるリンからスマホを受け取って訳の分からないことをしやがったクソヤローに電話をかける。

 

「おそよう、もう10時だよ?」

「はい、おはようごさいます。香水を売る際の値段を訊いていなかったためにお電話いたしました……」

「うわっ、令一君のカッチカチな丁寧語気持ち悪いね」

「……おいくらで売ればいいのでしょうね?」

 

 怒鳴りつけたい自分を必死に抑え、奴の挑発と煽りは極力スルーに努める。

 それを聞いて奴はつまらなそうに溜息を吐き、 「タダでいいんだよ。その子からは事前に払ってもらってるからね……」 と適当そうに言ってから電話を切った。

 なるほど、以前会ったときにでも先払いしたということか。そのわりに彼女はお金を出して来たのだが。もしかして忘れているのか? 

 

「えっと、お金は払わなくていいそうだ」

「え…… ?」

 

 やっぱりこれは忘れているんだろうな。

 

「先払いされたと言っていたぞ」

「…… ? わたし、お金は払ってないです」

「あれ、そうなのか? …… まあ奴がいいって言ってるし、いいんだと思う。どうぞ」

「あ、ありがとうございます!」

 

 ペコペコと頭を下げる彼女に 「いいよいいよ」 といちいち注意するのも疲れてきた頃、彼女が 「あの、図々しいと思うんですけど…… お願いがあるんです」 と案外強く提案してくる。

 拒否する理由も特にないし、追っているターゲットである可能性が高いのでどんな頼み事をしてくるかを見届けることにした。行動理由も知りたいし、この子があんな殺害現場を作り出すというのもいささか信じがたい。

 

「聞くだけ聞くよ」

「あの…… 人を、人を探しているんです」

 

 この子も人探し、か。

 

「名前は?」

押野(おしの)(いたる)っていう男の子なのですが……」

「同じ学校の子だよね? なら学校で探すほうが早いんじゃないのか?」

「………… えっと、彼…… は、そう、あまり学校に来ないんです。だから幼馴染のわたしが学校に連れて行かないと」

 

 言い淀みながら彼女が口にした内容は、どもり以外は一見しておかしいところはなさそうだが、その彼女自身が平日にここにいるんだもんなあ。

 

「見つけたら君に教えたらいいの?」

「っはい!」

 

 嬉しそうに笑う彼女に悪意らしきものは感じられない。満面の笑みにしか見えない。仕方ない、さっきから本棚の隙間から覗き見て観察している紅子さんに期待しよう。どうも俺は人の悪意を読み取るのが苦手だ。青凪さんのときもそうだ。違和感があっても彼女を信じて最後の方まで結局気付けなかったからな。

 

「分かった。なら見つけたらここに来るよ」

「待っています」

 

 彼女と別れ、十分離れたところで隣の本棚の向こうから紅子さんがひょっこりと顔を出す。

 

「出会ったのがアタシじゃなくて良かったよ」

「それはなんでだ?」

「あの子…… 例の、一週間前に死んだはずの青水香織さんだったよ。お兄さんは気付けなかったと思うけど、あの子が喜んでいたのは多分悪い意味で」

 

 なんとなくそんな気はしてた。

 本来なら、見つけたとしてすぐに通報…… アートさんへの連絡を済ますべきなのだ。けれど俺は迷っていた。

 彼女は 『無香水』 でなにをしているんだ? 本当に彼女が殺人事件の犯人なのか? だとしたら目的は復讐だろう。紅子さんの渡してきた資料にも踊るいじめによる自殺の文字。いじめが原因ならば復讐したくなるのも分かる。だが、地獄から脱走するくらいの強い憎しみを彼女が持ち合わせているように見えないのだ。

 

 イメージの問題でしかないが、そんなに強い憎しみを持っていたら悪霊とか妖怪みたいになって町中をふらふら彷徨っていてもおかしくない。しかし彼女はそんなことをせず冷静に意識を保って知恵を巡らせている。その上で地獄の番犬という追っ手まで振り切って目的を着実に遂行しようとしている。

 なにが、引っかかっているんだろう? 

 

「紅子さん、押野至って知ってる?」

「さっきの様子を見る限り、青水さんが探していたのかな? 隣のクラスの子だね。最近は彼女の家に毎日通ってお供えと線香をあげて帰るらしいよ」

「紅子さん、なんか妙に詳しくないか?」

「七不思議ネットワークってやつさ。あと、ただ単純に噂好きな生徒が近くの席でね」

「そうか」

 

 七不思議ネットワークってなんだよ、とは突っ込まなかった。

 

「その押野って子の住所とか分からないか?」

「さすがにそれは…… いや、今から調べればいいかな?」

 

 紅子さんはそう言うとどこからか取り出したガラス片を放り投げる。するとガラス片は落ちてくる際に燃え上がり、赤い、紅い、蝶々のような姿になった。

 さっきのガラス片は彼女の首の傷跡に挟まっていたものと全く同じものだったように見えた。それが綺麗な蝶々に変化する様子は幻想的だが、なんだか物騒にも感じる。

 

「これでちょっと住所を訊いてくるよ。その間はデートにしようか、お兄さん」

「訊くって、誰に?」

 

 からかうのはやめてくれと言っているだろうが。

 

「七番目…… しらべさんに」

 

 ああ、さとり妖怪だもんな。学校中の個人情報やら秘密やらを網羅していてもおかしくないか。

 それを了承して、図書館の端の方へ移動する。目をしぱしぱと瞬かせる紅子さんを椅子に座らせ、適当な資料に目を通す。図書館の中で待っているほうが楽だろう。その間に調べものもできることだし。

 

「図書館デート、だねぇ」

 

 のんびりと言う彼女に内心いい加減にしてくれよと思いながら「そうかもしれないな」と返事をする。

 鞄の中のリンもお昼寝タイムに入っていることだし、もうすぐ昼だ。二人で昼ご飯を食べる場合俺が奢らなければいけないのだろうか。というか俺が紅子さんとランチして通報とかされないのか。大丈夫だと信じたい。そもそもこの子怪異だし。夢の中で出会ったときはセーラー服で、ここら辺では見たことがないから多分七彩高校の旧制服だったんだろうか。ってことは俺より年上なんじゃないかと思うんだが…… でも高校に通って二年とか言ってるもんなあ。

 

「復讐ねえ……」

 

 紅子さんが呟く。

 そういえば彼女は死因が 『赤いちゃんちゃんこ』 に類似していたから都市伝説として生まれ変わったのだったか。しかしなぜ彼女がこんな若さで死んだのかも分からないし、事故だったとしてもそれなりの未練を持っていそうだけれど、そんな話は全然聞かない。未練がないのか、それとも忘れているのか、もしくは未練があるのになにもしていないのか。まだ彼女のことをよく知らないから判断はつかない。

 紅子さんは、あの青水さんのことをどう思っているのだろうか。

 そうして過ごしている間に、窓から紅い蝶々が帰ってきて紅子さんの指に留まる。それから、蝶々は溶けるように彼女の体に入っていった。

 

「ん、住所が分かったよ、お兄さん。ついでに青水さんの住所も割れた」

「それは良かったよ…… ところで、紅子さん」

「んん? どうしたんだい? 気が変わってラブラブデートでもしたくなったのかな?」

「家で昼ご飯でも食べていかない?」

 

 その瞬間彼女は眠たげにしていた目をいっぱいに開いて椅子から転げ落ちた。

 今までの意趣返しのつもりだったのだが、少しやりすぎたみたいだ。なんか、ごめん。

 

「……」

「悪かったって。どうせ学校が終わる時間はまだだし、デザートもつけるからさ」

「そういう問題ではないと思うよ? お兄さん」

 

 はい、承知しております。知り合いじゃなければ普通に犯罪者扱いされていてもおかしくない。

 いつも際どいネタでからかってくるわりに自分が振られるのは苦手とか予想外だろう。

 

「まあまあ、店に行っても目立つだけだしさ」

「怒ってはいないよ。ただ…… ね」

 

 今はクソご主人も留守だから怯えなくても大丈夫だぞ。バレても折檻されるのは俺だけだし。

 

「分かったよ、行けばいいんでしょう」

「ちゃんと持て成すから安心してくれ」

「不味かったらどうしてやろうかなぁ」

「自信はあるぞ。食べて驚いてくれ」

「ふうん、それならお手並み拝見……かな」

 

 ◆

 

「美味しい……」

「そうだろう、そうだろう」

「んん、悔しいけれど文句ひとつ出てこないよ。お兄さんって家庭的なんだね」

 

 その言葉はあんまり嬉しくないな。

 

「お兄さんのお嫁さんになる人は、世の中の主婦に共通してる半分くらいの悩みが解決しそうだね」

「つまり、どういうことだ?」

「これで通じないの? ええと……家事に理解のある男性は貴重だってことだよ。苦労を知ってるんだから、お嫁さんに押し付けたりしないでしょ?」

「ああ、なるほどそういうことか」

 

 というか。

 

「そんなこと言うってことは、紅子さんも花嫁とかには憧れたりするのか?」

「んー、よく分からないかな。ドレスも白無垢も着付けが大変そうとしか思えないからねぇ」

「まるで夢がないな」

「それに……」

「それに?」

 

 相槌を打ちながら皿を片付け始める。しっかりと最後まで綺麗に食べてくれたので作ったほうとしても嬉しい限りだ。こういうところは育ちの良さを感じるな。

 

「アタシ、幽霊だよ? 死んじゃってるのに夢もなにもないんじゃないかな。アタシは消滅する気なんてさらさらないから、置いていかれるって分かってるのに恋なんてするわけないって」

「……そう、か」

 

 思わず手が止まる。

 そうだよな、紅子さんって死んでるんだよな。夢での出来事とか、人魂だとか、そういう部分を何度も見ているのに、妙に人間臭くて忘れそうになってしまう。

 そうか、そうだよな。

 

「……紅子さん、甘いものは好きか?」

「好きか嫌いかって聞かれたら、嫌いじゃないよ」

「素直に好きって言えばいいのに……」

 

 シチューを食べ終わった後は、先日アルファードさんからもらったイチゴタルトをひときれ出して食洗器を起動する。ふたきれ食べたら流石に俺が両方食べたとは言い張れないし、紅子さんに出す一切れだけだ。

 食器は洗えば誤魔化すのが簡単だが減ったものは増やせないからな。

 

「おにーさんはいらないの?」

「ああ、俺はいいよ」

「ふうん、そう。なら遠慮なく貰っちゃうね」

 

 紅子さんが美味しく食べた後の食器を再び食洗器にかけて昼休憩を終了する。

 

 それから、彼女の案内に従って押野至の家へ着いた頃にはおやつ時になっていた。

 リンは、家で紅子さんに存在がバレた後散々遊ばれたので再び鞄の中で眠っている。時折起きているようで徐々におやつは減っていっているが、その中にある綺麗に包装されたクッキーには手を出さないように言ってある。押野家、青水家、共に調べる際必要になったら、お供えとして渡すのだ。

 

「紅子さん、人が中にいるかは分かる?」

「うーん、いないみたいだね。スニーキングミッションかな、おにーさん?」

「やるしかないのか? いや、でもその押野至って子が狙われてるのなら調べておくべきなのか…… ?」

 

 下手したら住居不法侵入だぞ? 

 どうしよう。

 

「まったくお兄さんは優柔不断だね。こんなところでもたもたしててもタイムリミットが迫るだけだよ? アタシは幽霊だからね。一応頑張ればなんとかなるし……これはちょっと苦手なんだけど。お兄さんはできないだろうし、壁をすり抜けて鍵を開けてくるよ」

「ごめん……」

「まったく、そんなんだから飼い主の食い物にされるんだよ? もっと自分の意見を前面に押し出すべきだよ、お兄さんは」

 

 呆れたように手をふらりと振って彼女が紅い蝶々と二つの橙色の人魂に変化した。それから壁の中にすうっと消えて行き、数分待つと玄関が内側から開いた。

 

「多分押野の部屋はこっちだと思うよ」

 

 紅子さんの先導でいくつかの部屋を通り過ぎる。辿り着いたのはいかにも男子高校生の部屋といった感じの場所だ。漫画がずらっと並んだ本棚に使われた形跡がない勉強机。しかしよく見ると一部の引き出しだけ埃が取れている状態だ。何度も開け閉めしている証拠だよな。

 他のところは、よく使うだろう勉強机以外のテーブルや椅子の付近がかろうじて掃除されているくらいか。自分で掃除をしているんだろう。手抜き感満載だ。

 俺が気になった勉強机の引き出しを開けると、おあつらえ向きに日記らしきものが入っている。こういう細かいことは部屋の状態からしてやらなそうな性格だと思うのだが、ありがちといえばありがちだよな。

 

 一応用意しておいた手袋をして日記を捲ると、思った通り内容は飛び飛びで短いものばかりだ。この様子だとスマホでスクショすることもなく、すぐに読み終わりそうだ。念のため最初から読んでみることにする。日付はおよそ二年程前からだ。

 

 

【押野至の日記】

 

 五年も会ってなかったのに相変わらず口下手な奴。

 喋るのが苦手だからって日記帳を渡されても困る。そもそも立派な不良になったオレに構ってくるのは一体どういうことだよ。

 吹奏楽バカなのも相変わらずだけど、喋るより日記帳。日記帳よりトランペットのほうが伝わりやすいとかホントにバカだな。

(二年程前の日付)

 

 

 そういや最近あいつがケガばっかりしてるな、ドジめ。

 オレが保健委員でよかったな。感謝しろよ。

 ああいや、そんなこと言ったら謝り倒されてうぜーからいいや。言わねー。

(半年前の日付)

 

 

 なんか女子がたむろって香織のこと呼んでたな。明日教えてやるか。

 最近なんか視線がうぜー。香織はケガばっかのくせにオレの治療は拒否るしなんなんだよ。イライラする。

(二週間前の日付)

 

 

 なんなんだよなんなんだよなんなんだよ

 知らなかったとか許されるわけないだろ

 なんで気付いてやれなかったんだ

 あいつはオレを憎んでるか? 当たり前だよな

 オレはなにもしてやれなかった

 

 ごめん

 

(一週間前の日付)

 

 

 あいつを見たなんてふざけた噂だ。胸糞悪ぃ。

 今日も線香をあげに行った。おばさんは噂にやられてるみたいだ。

 あいつを見たとかいう噂を流してんのは誰だよ、許さねぇ。

(二日前の日付)

 

 

 昨日、あいつを追い詰めた最後の女が死んだらしい。

 噂が本当なら次はオレの番か? 

 最後に会えるならいいや。

 別に噂なんて信じてないけど、会えたなら 「味方になれなくてごめん」 って謝って、それから今まで言えなかったことを言ってやるんだ。

(昨日の日付)

 

 

「…… 愛だねぇ」

「本人も恨まれてることは覚悟してるんだな」

 

 やっぱりスクショは撮っておこう。

 青水さんはまだ理性的だったし、もしかしたら説得が効くかもしれない。

 

「次は、青水さんの家だな」

 

 この感じなら彼女も日記を書いているだろう。

 問題は…… その中身だ。

 

 俺は紅子さんに押野家の施錠を頼んだ後、この後どう動くか少しだけ考えることにした……

 

 

 

 

 

 




 この絶望に至る病はシナリオに直すと、まず最初の導入は青水香織からの人探し依頼から始まります。
 なので既にケルベロスと接触し、彼女が死者だと知っている令一君は裏ルートを進んでいるようなものですね。


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ただそれだけを伝えたくて

【青水香織の日記】

 

 

 今日、引っ越してきた。いや、帰ってきたって言ったほうがいいのかな? 至は元気かな。また会うのが楽しみ! 

 

 まさか不良になってるとは思ってなかったけど、でも至は至だったみたい。なーんにも変わってない。ちょっとぶっきらぼうだけど、不器用なだけでやっぱり優しい。

 

 口下手なわたしじゃクラスに馴染めるか心配だなあ。

 なにか得意なことで話せるようになればいいな。

 

 吹奏楽はやっぱり楽しい。選んで良かった。

(二年程前の日付から抜粋)

 

 

 先生からトランペットを買ってもらってしまった。まさかそんなことまでしてくれるなんて…… わたしはただ楽しくてやってるだけなのに、そんなに期待されても困るな

(一年程前の日付から抜粋)

 

 

 ちゃんと馴染めたと思ってたのに

 どうして? どうして? 

 

 ひどい、私の楽器……

 

 中庭に呼び出されて怪我をした。痛い、けど、至が手当をしてくれた。彼はなにも知らないけど、黙って労ってくれた。

 あたたかい

 

 至も知ったらわたしをいじめるのかな? 怖いよ。

 先生までどうして。

 言えない。怖くて言えない。知られたら、どうなるの? 

(半年程前の日付から抜粋)

 

 

 なんでわたしがこんな目に。

 

 至は悪くない。知らなかったんだから。

 わたしが殺される結果になったとしても、至は悪くないよ。憎みたくない。憎みたくなんてないよ。

 

 ねえなんで、たすけてくれないの

 

 きらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらい

(二週間程前の日付)

 

 

 みんなしんじゃえばいいのに

(一週間前の日付)

 

 

 日記はここで途切れている……

 

 青水さんの家では同じように紅子さんが内側から鍵を開け、日記を見つけた。

 その内容は結構悲惨なものだった。事前にいじめがあったと知っていなければ、読んでいる途中で俺は投げ出していたと思う。

 しかし、いじめの事実はこれが証拠になったが、この内容からして押野至君が狙われる謂れはないだろう。むしろ青水さんは押野君の存在で少なからず救われていたはずだ。

 理由があるとすれば、〝 助けてくれなかったから 〟か。知らなかったとはいえ、気付くこともなかった。それを恨んでいるのだろうか。なら逆恨み…… としか言えないのだが。それは押野君の日記でも〝 気付けなかったこと 〟を悔やんで殺されても仕方ないなんて言っていたから両方が分かっていることか。

 

 結局理由はあるがそれも逆恨みに近いって結論でいいのか? 

 

「あっ」

「どうした? 紅子さん」

「人が来ちゃったみたいだよ。一旦隠れよう、お兄さん」

「分かった」

 

 日記は元通りにして近くにあった押し入れに二人で入る。少し狭いがなんとかなるだろう。

 

「ちょっと、どこ触ってるの?」

「触ってないだろ。はったりかますなよ」

 

 こそこそと会話しながら少しだけ押し入れの扉を開けて覗き見てみれば、チャイムが押されたのか独特な音が響き渡る。しかしそれを無視してしばらくした後に玄関の方からカチリと鍵の開く音がした。チャイムを押してから入っていたところを見るにこの家の住民ではなさそうだ。住人ならすぐに鍵を使うだろうしな。なら玄関外のどこかに鍵を保管する場所でもあったのだろうか。仲の良い友達ならそういうのを知っている場合もある。

 普通は留守のときに勝手に入るなんてことはないが…… もしかして空き巣とか? もしそうなら出て行って止めなければならないが。

 

足音が近づいてくる。真っ直ぐとこの部屋へ向かっているようだ。

 この部屋……青水さんの部屋には遺影が置いてある。

 そこには 「じゃがりー」 やら 「ポテチ」 が置いてあった…… いや供えられていたのかな? とにかく、いろいろ置いてあった。その中には遺品と思わしきキーホルダーなんかも置いてあった。ピンクのウサギの可愛いキーホルダーだ。

 目の前の隙間から見えた男の子は紅子さんと同じ制服を着ていた。七彩高校の生徒で間違いないだろう。

 ぎゅうぎゅう詰めになりながらも紅子さんを振り返ると彼女は静かに頷いた。彼が押野至か。

 

 少し長めの髪を茶色く染めていて片耳にピアスをつけている。背はそんなに高くないが目つきが鋭くていかにもスレてますって見た目だ。

 そんな彼が持っている鞄には似つかわしくない青色のウサギのキーホルダーがぶら下がっている。遺品らしきピンクのウサギとデザインが似ているし、もしかしたら青水さんからのプレゼントなのかもしれない。

 

 これは重大な説得材料だ。もしも彼が襲われたとしても俺たちが割り込んで説得することができるかもしれない。説得まではいかずともケルベロスさんを呼ぶまでの時間稼ぎには十分だ。こちらには怪異の紅子さんだっているし、俺には赤竜刀がある。これ以上殺人なんてさせてやるもんか。

 

 彼は遺影の前で手を合わせるとその前にお菓子を置いて去っていく。

 玄関が閉まった音と共に俺達は押し入れから脱出した。

 

「ちょっとお兄さんアタシを触りたいならもっと広いところで……」

 

まだ言うか。

 

「……えい」

「わっ、わっ!」

 

 エロネタを振られるのが苦手なら振ってこなければいいのにな。

 腰をほんの少しだけくすぐってやればすぐに逃げていった。対処法は知れたがなんだかいたたまれない気分になってくる。

 

「汚されてしまったよう……」

 

 おい、顔が笑ってるのが見えるぞ。案外楽しんでないか? この子。

 やめてくれよ、そういう反応されるとクソラトホテプを思い出しちゃうじゃないか。

 そうやってからかいながら遊んでいる紅子さんは放置し、ピンク色のウサギのキーホルダーを回収する。

 すると背後で息を飲む音が聞こえ、彼女が立ったのであろう音がした。振り返ってみると、紅子さんは先程とは打って変わって真剣な表情でどこかを見つめていた。

 

「お兄さん、外行くよ」

「なんかあったか?」

「見つかった」

 

 見つかった…… 俺達がか? 

 いや、違うな。この言い方だと押野君が、か? 

 

「あの少年じゃあなす術もなく…… いや、喜んで殺されるだろうね。そうなれば彼女の罪が更に重くのしかかるだろう。彼女を救うことはできない。でも、心が復讐に染まったまま裁定されるのはかわいそうじゃないか。そう思わないかな? お兄さん」

 

 真顔から笑顔へと変わった紅子さんはこてん、と首を傾げるように俺を見上げた。

 その瞳は笑みとは程遠い悲哀に似ていたが、彼女の言うことはもっともだ。復讐に捕らわれたままかつての友人に手をかけるのは悲しいことだと思う。

 ケルベロスであるアートさんはどうあっても仕事を全うし、青水さんを捕らえて連れて行くだろう。ならせめて心だけでも救えたのならば。

 

「分かった。行こう」

 

 キーホルダーを握りしめ、俺はスマホを取り出すと地獄の番犬に電話をかける。

 

「紅子さん、少しだけ時間を稼いでもらえるか?」

「いいよいいよぉ、ただし人間でできる範囲しかアタシはやらないからね。押野にバレたくないからね」

「それでいい。宜しく頼む」

「まったく、怪異使いが荒いことで」

 

 紅子さんはガラスの破片を取り出し、走り出す。

 ガラスの破片は、彼女の手から放たれた炎のようなものを纏い、ゆっくりと吸収していく。

 あれが本気モードなのかもしれない。怪異である彼女がどうしてそこまで協力的なのかは分からないが、今は頼もしい仲間だ。

 

「俺様だぜー! どーしたクソガキ? 獲物でも見つけてくれたのか? ホウレンソウは俺様達の世界でも重要だぜー!」

 

 とにかく、先にこの人のお呼び出しだ。

 場所をおおまかに伝えて電話を切る。まだ向こう側で喚いている声が聞こえたが、あまり詳しく話している時間はない。アートさんが辿り着く前に青水さんの説得をしなければならないからだ。

 

「な、なんなんだよなんなんだよこれはぁ!?」

 

 俺が外に出ると、押野君を背後に庇って青水さんと対峙する紅子さんがいた。

 押野君はどうやら目撃した今でも青水さんが立って動いていることに混乱しているようだ。頭を抱えて 「嘘だこんなの、こんなの、で、でも…… !?」 と呟き続けている。

 

「至、わたし会いたかったよ……」

 

 ふらふらと近づいていく青水さんは、あのとき渡した香水の小瓶が丁度入るくらいの袋を首から下げている。鞄は持っておらず、図書館で会ったときよりも制服が破れているように思う。

 彼女が近づくたび紅子さんが押野君を庇いながら一歩一歩下がって行く。

 

「あいつらに協力してたんじゃないの? だからわたしに教えたんでしょう? ねえ、至。ねえ、ねえ、ねえ、ねえねえねえねえねえ!」

「おやおや情熱的だね。青水さん、君はそれを知ってどうするつもりなのかな?」

 

 ふらふらと歩いていた彼女は紅子さんの質問でようやく押野君以外の人間がそこにいることに気が付いたようだった。

 

「ふふ、ふふふふ、分かるでしょう? なんで邪魔するの?」

「このままじゃ説得なんてできそうもないよ、お兄さん」

 

 分かっている。

 彼女は今自分の目的以外のものが見えていない。

 

「ふふふ」

 

 青水さんが指をすっと上げる。

 その瞬間に紅子さんが押野君を思い切り突き飛ばしその場に伏せた。

 

「残念」

 

 青水さんが指さした箇所はコンクリートであろうとも抉れ、まるで強い衝撃が加えられたかのように砕け散った。視界に紅い蝶が翻る。

 その直線状にいた紅子さんも巻き込まれ、そこには昨日見た裏路地の惨劇が繰り返されたかのような……

 

「まるでアタシがグチャグチャのミンチになる姿を目撃してしまったみたいな顔をして、どうしたのかな?」

 

 肩を叩かれ振り返ると、いつのまにか背後には無傷のままにやにやと笑っている紅子さんがいた。

 

「はっ!? えっ、紅子さん無事!? どこにも怪我はないか!?」

「おにーさん慌てすぎ……」

 

 苦笑して彼女は再び押野君の所へ行く。押野君も現実が上手く受け止められないようで紅子さんのことを何度も見直しながら 「あ、赤座?」 と呟いている。

 彼は一般人だからな。こんな展開にはついていけないだろう。

 紅子さんは先程までより近い位置にいる青水さんと対峙して顔をしかめ、 「鼻がおかしくなりそうだよ」 と悪態をついている。

 

 鼻…… ? と疑問に思った俺が横目で時計を確認しつつ、その場の空気をいっぱいに吸い込むとなんとも生臭い臭いが鼻腔に入り込んできたではないか。

 臭いの元を辿ると興奮しているのか、悪辣な顔になっている青水さんに辿り着く。

 

 腐った臭い…… 彼女に売った香水。その先に導き出される答えは……

 

「死体が…… 動いてる…… ?」

 

 あの香水は臭いを消す作用がある。対象を無臭にしてしまうのだ。

 それならばケルベロスであるアートさんがすぐに捕まえられなかったのも、あの高架下のゴミ捨て場や現場の無臭さも説明がついてしまう。

 やはり裏にクソ邪神の影ありか。

 

「至…… 君が憎いの。憎くて憎くてたまらなくて…… 最後までずっとずっとずっと憎かった。だからわたしをいじめ殺したやつと、君も一緒なんだよ」

「で、でもお前…… 自殺で…… !?」

「ああそうだね自殺だね…… あいつらも落とそうとは思ってなかったんじゃないかなぁ? それを利用して死んでやったのにどうして〝 自殺 〟ってことになっているのかわたしにはさっぱり分からないよぉ! やっぱり殺したのは君達…… だから死んで? ねえ? そのためにわたし、戻ってきて…… うう?」

 

 殺されそうになって自ら自殺か…… 悲惨だな。そんなにも憎んでいたのか。

 

「……」

 

 紅子さんは彼女の話を聞いてじっとガラス片を見つめていた。

 そして不服そうに、そして複雑そうな顔をしながら 「おにーさん」 とか細い声で呼んだ。

 

「どうした?」

「時間がないんじゃないの? 早く説得してあげなよ」

「分かった」

 

 俺は押野君の方へ歩み寄り、尻餅をついたまま呆然としている彼を起こした。

 その間にも、なぜか先程の攻撃を行おうとはせずに包丁を取り出した青水さんが紅子さんに受け流されている。

 ガラス片のあの短いリーチで包丁を器用に巻き込み、彼女を転ばせる。どうやらできるだけ傷をつけないように対応しているみたいだ。

 

「押野君、そのキーホルダー借りてもいいかな?」

「はあ? あんた誰だよ…… いや、それであいつは満足してくれると思うのか?」

「…… もちろん」

「なら、頼む。俺は…… あいつに恨まれてるのは当然だと思ってたけど…… あんな顔は、見たくねーよ」

 

 般若のように恐ろしい顔をしている青水さんは、まっすぐと押野君をつけ狙っている。今は上手く紅子さんが近づけないようにしてくれているが時間の問題だ。それに、もうすぐ電話してから五分以上経つ。

 

「青水さん聞いてくれ! このキーホルダーに見覚えがないか!? 押野君がいじめた奴らと共謀してたなら、君とお揃いのキーホルダーを持ち続けているわけがないだろ!? よく考えてくれ!」

 

 青とピンクのキーホルダーを掲げたまま彼女達に近づいていく。

 青水さんは包丁をピタリと止めたまま視線を俺の手元に向けた。殺意は収まっていないだろう。そんなまさか、そんなことがあるわけない。半信半疑のまま迷いを見せている。鞄の中から彼女の日記をゆっくりと取り出す。その間も彼女は動かない。

 

「さっき、君の日記を見させてもらったんだ。勝手に見たりしてごめんな。でも……」

 

 俺は日記の目的のページを開くと声に出して読み上げた。

 

 

 〝 至は悪くない。知らなかったんだから。

 わたしが殺される結果になったとしても、至は悪くないよ。憎みたくない。憎みたくなんてないよ 〟

 

 

「君は、彼のこと憎みたくないんじゃなかったのか? 悪くないって、思っていたんじゃないか? よく思い出してみてくれよ」

「わたし、が…… ?」

 

 青水さんの暗く濁った目に少しだけ光が戻ったような気がした。

 

「それにさっき君の家に入って分かったんだけど、押野君は毎日君の遺影にお供えを持ってきているみたいだ。そんな彼が君を裏切るはずがない。そうだろ?」

 

 青水さんの手から包丁が滑り落ち、地面に当たって軽い音を立てた。

 もう彼女の瞳から暗い感情が見えることはなかった。説得、成功だ。

膝から崩れ落ち、彼女は嗚咽を漏らしながら押野君の名前を何度も、何度も繰り返しながら謝る。

 

「そっか…… そうだったんだ…… わ、わたし憎んでたんじゃなくって…… ただ〝 ありがとう 〟って、ただそれだけを伝えたくて…… それなのに! なんで、なんで忘れてたんだろう…… ? ごめん、ごめんね至…… わたし、わたしっ!」

 

 紅子さんはその様子を見ながら静かにガラス片をいずこかへしまいこんだ。一件落着だと思ったのだろう。これで青水さんの心は救われた。

 

「お、オレは…… なあ、香織、気付いてやれなくて、ごめん」

 

 彼…… 押野君もよろよろと、おぼつかない足取りで彼女に歩み寄る。

 なんだ、いい子じゃないか。不良みたいな恰好をしていても日記の通り優しい子なんだな。

 

「ごめん、ごめんな。ずっとずっと、言えなかったんだ。オレ、やっぱりお前といたときが一番楽しかった。だから、また会えて、こうやって、話ができるのが…… 夢みたいだ」

 

 泣いたまま二人が抱き合い、笑う。

 それを見ながら、横目で確認した紅子さんはとても複雑そうな顔をしていた。

 そういえば彼女の死については俺もよく知らないんだったな。もしかしたら、似たような境遇だったのかも、なんて。そうだったらなんだか悲しいな。紅子さんは怪異だから地獄に連れ戻されるなんてことはないだろうが。

 

「おーおー、これだけ待ってやったんだ。もういいだろ?」

 

 そのとき、俺の背後から声がした。

 もう電話から十五分以上は経っている。大分待たせたようだ。

 

「空気読んでくれ」

「俺様は十分読んだぞ! 空気読んでてやったからお供え寄越せ」

 

 そう言いながらお土産用に用意していたクッキーが鞄からひょいと持って行かれる。

 アートさんはそのまま袋を破ると犬耳のように跳ねた紫の髪をふよふよと反応させながら一気に食べてしまった。

 

「これの甘い匂いがしなかったらもっと前に終わらせてたんだ。少しは感謝しろよ」

 

 嬉しそうにお菓子を食べ進みながら今も泣き止まない二人を見守っている。

 お菓子がある間は見逃してくれるのか。地獄の番犬なんていうから戦闘して止めないといけないかと思っていたが、案外有情だったようだ。

 

「アートさん、彼女に殺された生徒はどうなったんだ?」

「犠牲者のことか? そりゃいじめのことを含めても地獄行きとまではなんねーよ。冥界で順番待ちしてそのまま転生コースだ。順番待ちしている間に生前の記憶もなくなるだろうよ」

「そうか…… なら、青水さんは…… どうなる?」

 

 俺がそう言うと、アートさんは 「あー」 だとか 「うー」 と言い淀みつつ言葉を選んで答えてくれた。

 

「元々地獄行きだったところに脱獄したあげく怨霊になって寿命の残っていた人間を殺してる。つまりだ、あー…… どう足掻いても暫く転生はできねーな。人間とは投獄される年数の桁が違う」

「……」

「……」

 

 そうか、そうだよな。

 〝 ありがとう 〟を伝える為だけに脱獄して、人を殺してしまったあげく何千年も何万年も地獄で苦しめられることになるのか。

 …… いや、待てよ? なんで彼女は憎しみに囚われてしまったんだ? 元々強い想いを抱いて、〝 感謝を伝える 〟ことを目的に逃げ出してきたのになぜ彼女はその真逆のことをしたんだ? 

 目的がすり替えられた? それとも〝 なんらかの原因で忘れさせられていた 〟 ? 

 なんだ? なにが原因だ? 嫌な予感がする。

 

「あ、ああ…… やめてっ! やめて!」

 

 青水さんの叫び声で思考を中断し、そちらへ目を向ける。

 するといつの間にか彼女の使っていた包丁が浮かび上がり、彼女に狙いをつけて飛び回っているではないか。

 

「香織!」

「至、危ない、危ないって!」

 

 押野君が彼女を押し倒したことで包丁は青水さんの首から下げた袋だけを切り裂き、そのまま力を失って再び地面に落下した。

 次いで落下した袋の中からカチャンとガラスの割れる音が響き、残っていた香水が溢れ出した。

 

「い、いやぁ! 香水が! 香水が! これがないとわたしっ、わたし!」

 

 香水は気化したように溢れた先から消えていく。

 それによって、香水の効果で幾分か消えた臭いは、パニックを起こしたように髪を振り乱す青水さんによってかき消された。

 ぶわり、と彼女から凄まじい腐臭が漂いはじめ、傍にいた押野君は咳をしながら青水さんに突き飛ばされてしまう。

 

「こないでぇ! 見ないでよぉ!」

「ッチ、あいつの仕業かよ。ホントにタチ悪ぃな」

 

 アートさんはそう言って彼女に歩み寄ると、そのまま腕を掴んでどこかへと連れて行こうとする。

 

「ま、待ってくれ! 香織を連れて行かないでくれ! やっと、やっと会えたのに。やっと言えるって…… クソッ」

 

 既に彼女はアートさんに担ぎ上げられ、離れた場所に連れて行かれている。泣きじゃくるその声で居場所は分かるが、彼女を救うことはできない。

 けれど、押野君は諦めきれないのか震える足でそのまま走り出す。どんどん距離が開いていき、止める間もなかった。

 

「どーする? お兄さん」

 

 静観していた紅子さんが俺を見上げた。

 

「追うぞ」

「りょーかい」

 

 腐臭と泣き声のせいで、居場所はすぐに分かった。

 

「人外の物に手を出した末路なんて大抵はこんなモンだぜ…… どうして追ってきた」

 

 追わないわけにはいかないだろ! …… なんて叫ぶことはできなかった。

 そこには、身を震わせながらボロボロと崩れ果てていく身体をかき集める青水さんがいた。

 

「な、なんだよ、これ!?」

「あの香水の原理はな、普通に臭いを消すだけじゃねぇ。臭いが出ねぇように〝 腐らないように時間を止める 〟効果があるんだよ。この一週間。こいつはそれを使い続けた。一週間もありゃぁ人間の身体が腐るのに十分だ」

 

 つまり、今まで抑えていた腐蝕が香水が切れた今、一気に彼女を蝕んでいるというのか? 

 

「ああ、ああ…… いやぁ……」

「香織! 香織!」

 

 そんな彼女をそっと彼が抱きしめるたび、彼女の身体はボロボロと崩れ塵のように散って行ってしまう。それをいくら集めても元の形になることはない。

 それが分かっているのに、二人は泣きながら塵を集める。俺は、なにもできずにその光景を見ているしかできなかった。

 

「今度こそ、今度こそ助けてやるから…… 行かないでくれ!」

「いた…… る…… たす………… け————」

 

 彼がその場に倒れこみ、塵が舞う。もうそこには塵しか残っていなかった。

 彼女は最後まで、瞳に絶望を映したままだった。俺達は、俺達は彼女の心だけでも救いたかった。なのに、なのになんでこうなってしまうんだ。

 

「なあ、紅子さん…… どうしたら、助けられたんだろうな……」

「…… 青水さんは、押野がいただけまだマシだと、そうは思わないかな?」

 

 そういうものなのか? 俺には分からないよ。

 

「あああああああああ!!」

 

 叫んで、そして次に顔をあげたとき、彼は〝 壊れて 〟しまっていた。

 

「な、なあお前達誰だ? オレ、オレ、幼馴染待たせてるんだよ」

「…… その幼馴染とはどういう関係だ?」

「二年ぶりに再会するんだ。ちょっと照れ臭いけど、こんな不良になったオレでもあいつは分かってくれるのかな」

 

 アートさんはいくつか彼に質問をすると、目を伏せて首を振った。

 彼は忘れてしまったのか、この二年間の記憶を。絶望に至ったその結末に、忘却を選んでしまった。

 

「あーあ、こういうもんは覗かないのが定番なんだがな…… でもこうなっちまったのは仕方ねーし、これは精神病院案件だ。知り合いに連絡して始末は俺様がつけておく。お前らは帰りな」

 

 しっし、と追い出されて帰途に就く。

 遅れてやってきた紅子さんは制服のリボンを外していた。その手が塵に汚れていることで俺はなんとなく察し、彼のところへ置いてきたのだろうと結論付ける。小瓶は割れてしまったから塵を入れるものがなにもなかったのだろう。

 

「お兄さん、お兄さんは悪い奴だ」

「…… ああ、そうだな」

 

 あの香水を最初に売りつけたのはきっと俺の主人ニャルラトホテプだろう。けれど、俺自身も彼女に香水を渡しているのだ。それだけで、共犯だ。

 恨まれても仕方ない。それだけの、結末だった。

 

「でも憎むべきはお兄さんじゃない」

「ん?」

「いつか、飼い主に噛みつけるときがくればいいね?」

「…… そうだな」

 

 彼女と別れてもう一度考える。

 なぜ、彼女の目的が変わってしまったのか。でもいくら考えても結論はでなくて…… そのうち家についてしまった。

 

「くふふふ、溢れた塵を捕まえ損ねたみたいな顔をしてどうしたのかな? ねえ、れーいちくん」

 

 その瞬間、抑えていたものが一気に溢れ出た。

 

「おやおや泣いてるの? くふふふふ…… かわいそうに。彼女をあんなゴミにしてしまったのは君なのに?」

「クソッ、クソッ、クソォォォォォォ!」

 

 首輪が絞められ、手首に魔法らしきものが当たり刀を取り落とす。

完全に頭に血が上った俺を、奴は一歩も動くことなく封じてみせている。

実力差は明白だった。

 

「ああああああ!」

 

 筋肉が萎んでいくような激痛で立っていられず、俺は無様に床へと転がりまわる。

 

「料理してくれないと困るからあとでそれは治してあげるけど、暫くはまた二人っきりで遊ぼうか」

 

 薄れゆく意識の中で見たものは、恐ろしいほどの笑みを浮かべながら 「れーいちくんが悪いんだから」 と、俺の精神を徹底的に踏み躙っていく奴の姿だった。

 

「タルトを盗んだのはハートのジャックちゃんかな? くふ、くふふふ、くふふふふふ……」

 

 ◆

 

「お前はどうしたい? なんのためにそうしたい?」

「感謝を、ただ感謝を伝えたくて。至に、至君にありがとうって」

「くふふ、それは面白いね。おっと怒らないでよお嬢さん。お前の願いを叶えてあげようって言っているのだから」

「本当? 本当に?」

「これが君のタイムリミット。それまでになんとか果たすんだよ。代金は…… 『感謝の記憶』 いいね?」

「え! そんな、それをあげたらわたしは!」

「さようなら、お嬢さん。精々私を暇にさせないでおくれ」

 

 覆水は盆に返れない。

 目的を奪われた少女は 『感謝』 を忘れ、そこに残った 『憎悪』 に絡め捕られた。

 それもこれも全ては…… 這い寄る混沌の掌の上……

 

「永遠にさようなら」

 

 相変わらず彼は、つまらなそうに笑った。

 

 




 絶望に至る病はこれにて終了。
 ちょっと名前負けしてるか、と悩みつつもこのままで。


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雨音の声

「と、言うわけなんだよお兄さん」

「なにが、というわけなんだよ!」

 

 紫陽花公園で待ち合わせた紅子さんは説明もなしに唐突だった。

 こうなった経緯は、前日の夕方まで遡ることとなる。

 

 ◆

 

「寒い、寒い、五月蝿い……雨の音が、やまない」

 

 未だかんかん照りの朝、男子生徒がぶつぶつと呟いた。

 

「……へえ」

 

 七彩高等学校のブレザーを羽織りながら、彼女――赤座紅子は目を細める。

 雨も降っていないのに傘を差し、目の下に隈をこさえた男の子を視界に捉えながら。

 

 ――ねえ、知ってる? 一年生の村雨君の話。

 ――知ってる。雨も降ってないのに傘をさして歩いてるんだってね。

 ――そうそう、しかもね。ずっと呟いてるんだって。雨が降ってるって。

 ――怪異調査部の部室だったところに行くところを見たって人もいるって。

 ――へえ、もう怪異調査部なんてないのにね。

 ――うん、だって。

 

「怪異調査部のメンバーは全員、今年の夏休みに死んじゃったもの」

 

 噂が蔓延った。

 そんな噂が。一人で過ごしている紅子にもその噂は飽きもせずに届き、段々と歪んだ伝言ゲームとなっていく。それをただ聞いているだけの紅子ではない。

 

 人の噂も七十五日とは言うものの、実際には違う。

 確かに全く同じ内容の噂が流れ続けることはないだろう。しかし、人の噂とは変化するものだ。形を変え、姿を変え、そうして曖昧だったものが明確に力を持って渦巻き、怪異として生まれ落ちる。

 そういうものなのだ。

 だから紅子は向かう。

 以前、怪異調査部と呼ばれていたその部室のある場所へ。

 

「部長の青凪(あおなぎ)(しずめ)、副部長の黄菜崎(きなさき)(がい)、メンバーの緑川(るい)に、紫堂(しどう)孝一。いずれも夏休み中に〝脳吸い鳥〟の噂を追って行方不明に。それから、人身売買の犠牲になったとして報道がされた……」

 

 紅子が(そら)んじる。

 夏休み明けに爆発的に広まった話は未だに消えることなく続いている。

 曰く、怪異調査部の面々は本当に脳吸い鳥に殺された。

 曰く、怪異と決めつけて挑んだから社会の闇に捕まってしまった。

 曰く、実は青凪と黄菜崎。そして緑川と紫堂の駆け落ちである。

 複数人に渡って噂好きな人間達が囁きかける話。

 死人に口はなく、好き勝手に捏造される噂。

 それらを知っているはずなのに、かつて怪異調査部の部室だった場所へ行くという男子生徒の話。

 

 それらを統合して彼女は動いた。

 

「お仕事のニオイがするねぇ」

 

 カタカタ、カタン。

 古い古いパソコンを叩きながら。

 

 そうして、紅子は〝怪異調査部の部室〟から外へ出た。

 後には、電源のつけられた古いパソコンだけが残される。

 

 暗い部室の中に光るその画面に映っているのは……

 

「こ、これって……」

 

 そうして、今日も今日とて希望を捨てきれずにこの部室にやってきた男子生徒は、縋り付くようにパソコンに打ち込んだ。

 

 

【同盟が】怪奇現象の悩みを打ち明けるスレ【解決】

 

 

 265 秋の夜長に名無しさんが行く

 助けてください

 

 266 秋の夜長に名無しさんが行く

 お、久しぶり

 コテっていうか、名前の変え方分かる? 

 分かるなら名前を自分で固定して相談してくれ

 

 227 秋の夜長に雨音さんが行く

 これでいいのかな

 

 お願いです助けてください

 雨の音が聞こえるんです

 ずっとずっとずっと

 みんなは雨なんて降ってないって言うんです

 実際に空を見れば雨なんて降ってません

 でも僕が外に出るとき傘を差していないとずぶ濡れになるし、ずっと雨の降る音が聞こえ続けているんです

 日を追うごとに雨の音が強くなってて、小さな声だと間近にいても言葉が聞こえないくらい雨の音が五月蝿いんです

 助けてください

 

 228 秋の夜長にBe25が行く

 正式な依頼は下のところからメールを送ってね

 大丈夫、アニメとか漫画は見たことあるだろう? 妖怪ポストみたいなもんだとでも思って、送ってごらん

 ちゃんと待ち合わせる場所と時間を指定してくれればちゃんと行くよ

 

 229 秋の夜長に雨音さんが行く

 

 …………

 

 

 紅子は更新ボタンを押しながら、依頼が出るのを待った。

 そう、彼女の仕事はこういう現象を解決することも含まれる。令一がまだ知らない、彼女達の活動。

 

「きた」

 

 同盟。

 彼女達、人に友好的な怪異が集まる組織。

 そこでは人間の悩みを解決する真似事もしていた。

 そこでは、必要最低限人間を襲うことは許可されているが、殺戮などの行為は禁止されている。禁を破れば同盟メンバーによる〝討伐クエスト〟が組まれることとなる。

 人間のゲームを真似たその内部構造。

 怪異にしか見ることのできないネット回線で普段使われている掲示板。彼女達は悩みのありそうな人間をそこに誘導することもできたし、怪異現象に悩まされている人間は自然にそこへ辿り着くことができるようになっていた。

 

 今回、雨音に悩まされている人間は紅子が見つけた依頼者だ。

 そうして待ち合わせる場所と指定された時間をメモして彼女はスマホで電話をかける。

 

「もしもし、アタシメリーさん。今ちょっと困ってるの」

「何度やれば済むんだよそれ!」

 

 気持ちの良いツッコミが電話口の向こう側から返ってきて紅子は言葉を続ける。ああなんて、いじりがいのある人なんだろうとほくそ笑んで。

 

「なに言ってるの? まだ二回目だよ」

「あのあとも、やれ買い物に付き合ってほしいだの、墓場に調査に行こうだの似たような電話かけてきただろ!」

「そうだったっけ? お兄さんといると楽しいけれどあっという間に時間が過ぎちゃうねぇ」

「誤魔化されないからな!」

 

 打てば響くように返ってくる言葉に、紅子はその赤い目を愉快そうに歪ませる。そして、本題となる言葉を笑みを浮かべたその口から紡ぎ出した。

 

「ねえ、お兄さん。アタシとデートしない?」

「……はい?」

 

 慌てる彼に対してクスクスと笑いながら待ち合わせる場所と、依頼者の指定の時間より三十分程早い時間を彼に告げる。

 さすがにこれくらい早ければ大丈夫だろう、と思って。

 紅子にとっては待ち合わせの時間よりも一〇分は早く行動するのが当たり前なので、ついこの前に行動を共にした令一のように遅れてくる人間の気持ちが分からない。

 

 そして、時間は翌日の夕刻まで進むのだ。

 紅子にとっての授業のやり直しが終わり、彼女は足早に帰宅を開始する。

 

「赤座、もう帰るの?」

「……うん、まあね」

「じゃあねー」

「また明日」

 

 こうして冒頭に戻るのであった。

 

 ◆

 

「つまり、紅子さん達はその、鬼太ろ」

「それ以上はだめだよ? お兄さん。けれど、それを考えると日本の文化って偉大だよねぇ。いや、人間の文化がってことになるのかな。ネットが普及してから劇的に動きやすくなったって聞くからね」

「ふうん」

「ネットには嘘も混じっているけれど、アタシ達からすれば本当に怪異に悩まされている人の書き込みにはそれ相応の怪異の気配ってやつが漂っているものなんだよ。だからね、そこから辿って同盟の連中が勝手に解決しちゃうわけ」

 

 公園の中を歩きながら紅子さんは説明してくれる。彼女の姿は既に人間としての制服姿ではなく、いつもの赤いマントの姿になっている。学校に通っているときとは服装が違うし、彼女はあんまり人付き合いをする性格じゃないようなので、同じく学校に通っている生徒だとは依頼者にも気づかれることはないだろう。

 

 それにしても、彼女は学校の七不思議やっていたんじゃなかったっけ。いや、同盟とやらは人を驚かすのは容認されているのか。

 まだまだ知らないことも沢山あるんだな。

 

「それで、なんで俺なんだよ」

「アタシだけでもいいんだけど、オカルト専門家の大人って建前の人がいるほうがいろいろやりやすいからねぇ。だからお兄さんには協力してほしいんだよ。ダメかな?」

 

 おかしいな。疑問形のはずなのに有無を言わさないなにかを感じる。

 

「分かった。分かった。やればいいんだろ」

 

 紅子さんも面倒くさい性格をしているとはいえ、神内のいる屋敷にこもっているよりはいくらかマシだろう。

 あいつを相手にしているより、紅子さんのほうがまだ可愛げがある。人に危害を加えることはないし、彼女は人間の味方。

 それに怪異の解決っていうのもちょっと興味が湧かないでもない。

 

「ありがとう、お兄さん。でも今回も遅刻したことは忘れないからね」

「それは忘れてください」

「やーだね。まったく、どうやったら遅刻なんてするんだか」

「それは俺が知りたい」

 

 神内の奴を相手していたら時間がギリギリだったり、忘れ物をしたり……毎回気をつけていれば済む話なのになぜか遅刻をしてしまう。幸い、数分の遅刻くらいしかしないが、こうも遅れる場面だけ紅子さんに目撃されているといたたまれなくなるな。

 

「さて、そろそろ時間だよ。準備はいい? お兄さん」

「ああ、事情は分かった。怪異の専門家みたいなフリをしとけばいいんだろ?」

「うん、大体はアタシが話を進めるから合わせてね」

 

 時間ピッタリ。夕刻の時間だ。

 公園の外からひた、ひた、と足音が聞こえてくる。

 歩くのも億劫だと言わんばかりの、ゆっくりとした足取りの音だ。

 同じく音に気がついた彼女と二人、目を合わせて頷く。

 

 足音の主がやってくるまで公園の入り口を睨んでいると、曲がり角から傘を差した人物がやってきた。

 この晴れ渡った夕空の中雨なんて降っていないのに、しっかりと抱き込むように身を縮めながらブレザーの男子生徒が歩いてくる。

 こうして見るだけだと、彼がお化けだと言われても納得しちゃうだろうな。

 

「あの……あなた達が?」

「こんばんは。キミの悩みを解決するために来た専門家だよ」

「話を聞かせてほしいんだ」

 

 皮肉気ないつもの笑みではなく、にっこりと微笑んだ紅子さんに男子生徒が安心したように息をつく。

 大きくハッキリとした声で話しかけているため、ヒソヒソ話なんてできやしないが、人通りが少なくなっているので問題はないはずだ。

 

「あの……スレッドに書いた通りなんですけど。僕、どうすればいいんでしょうか」

「お兄さん」

「え? あ、うん。えっと、その、君の中で雨が降るようになったきっかけとかはあるかな? なにか心当たりとか」

 

 俺が尋ねると、男子生徒は大きめの声で「あります」と言った。

 大きな雨音の中で声を出していると意識しているせいなのだろうか。大音量の音源の中で人と話そうとすれば自然と出てくる声が大きくなる。そういう感じで、彼は話していた。

 

「もう、鼓膜が破れてしまいそうで……参ってたんです。話をするのに、僕の家に来てもらう必要があるのですが、いいですか?」

「原因が家にあるならそのほうがいいね。行こうか」

「親は大丈夫なのかな?」

「夜まで帰ってきません。大丈夫です」

 

 道すがらに話を聞いた。

 彼によると、雨が降って欲しくておまじないを試したとのことだった。

 

「僕、強制参加の体育祭が嫌で……」

 

 ああ、それは嫌だな。

 俺も強制的に参加させられる体育祭は苦手だった覚えがある。なにせ、背が高いからいろんな種目に出させられるのだ。単純に走るだけならいいんだが、特にバスケットボールみたいな小手先の器用さが必要になってくる競技は苦手だった。しかし、180㎝の身長で一番推されるのもバスケットボールなのである。気持ちは分かる。

 

「雨が降ればいいって思って。ネットでおまじないを調べて、信憑性がありそうなのを試したんです」

「どんなおまじないなんだ?」

「えっと、天気を変えるおまじないってやつで……近所にある廃れた神社で、リンゴをお供えして変えたい天気を三回お願いしながら唱えるんです」

 

 ポツポツと、彼が語るおまじないの内容はこうだ。

 

 まず、特定の神社に行き、お天気岩という平たい岩にリンゴを供える。

 それから変えたい天気の願い事を三回、目を瞑って唱える。

 この場合、彼は「雨が降りますように」と三回唱えた。

 それが終わったらリンゴを回収して家へ持ち帰る。このときに喋ってはいけない。

 家に帰ったら、これまた喋らずに粘土と布を使っててるてる坊主を作る。

 彼の場合、晴れではなく雨にするためのおまじないなので逆さまのてるてる坊主を作る。供えたリンゴを一口齧るごとに逆さのてるてる坊主を作り、吊るす。それを繰り返すのだ。必ず、喋ることなくこれを行わなくてはならない。

 そうして繰り返すごとにポツポツと雨が降り出し、彼は成功したことに喜んだ。

 けれど、おまじないには喋ってもよいタイミングなどは書いていなかったようだ。

 リンゴを食べきり、その分の逆さまてるてる坊主を作り上げ、雨が降り出して彼は声を上げて喜んでしまったのだ。

 

「きっと、あれでおまじないが失敗したんです。だから僕にだけ雨に囚われてるんです。きっとそう」

「ううん、でもおかしいねぇ。アタシ達には本当に雨が降っているようには見えないし、キミも濡れているようには見えない」

「本当なんです。ほら……」

 

 紅子さんの言葉に彼が傘を下ろす。

 

「ほら、こんなに濡れて……寒い、寒い、寒いんだ」

「……お兄さん。アタシの目がおかしいんじゃないよね?」

「ああ、紅子さんはおかしくなんてないよ」

 

 多分、見えている光景は一緒だろう。

 彼は少しもずぶ濡れてになんかなっていない。

 けれど、彼には自分がずぶ濡れになっているように見えているし、感覚もそうなっているということだ。俺達には異常なんてないように見えているのに、彼だけが異常を感知している。これは一体どういうことなのか。

 

「傘、差してていいよ」

「ありがとうございます……これがないと外は寒くて」

 

 俺達には濡れているようには見えない……が、彼の寒がりようと脅えようは真に迫っているので、今は真実を伝えずに好きにさせておくことにした。

 無理に言って、不安にさせる必要はない。

 

「ここが、僕の家です」

「ここが、ねぇ……けれど気配が薄い気がする。キミからも怪異の気配みたいなのは感じるけれど、それも薄いからなあ……そんなに強い怪異じゃないと思うんだけれど」

 

 気配が感じない……強い怪異じゃないっていうのは、なんとなく分かるな。

 俺達には影響が及ばないわけだし、影響を受けているのはこの男子生徒だけ。

 怪異だとしても限定的な性質を持ったやつだろうな。

 

「家に怪異の気配はなし」

「家に憑いてるわけじゃないみたいだな。やっぱり本人か?」

「ぼ、僕に……ですか?」

 

 弱気な彼を見る。

 彼にしか聞こえない。分からない現象。

 なら、どうやってそれを見せているのか? 

 

「……ねえキミ、神社でお願いしたって言ったね?」

 

 紅子さんがつかつかと彼の前に歩み寄り、その顔を覗き込んだ。

 

「わ、わあ! そ、そう、です!」

「……なあるほど」

 

 彼の顔を覗き込んでいた彼女はそうして俺のほうへと振り返ると、その口元を三日月に持ち上げる。

 

「ねえ、確かキミ。村雨君だったよね」

「は、はい!」

「……着せましょうか、着せましょうか。赤い赤いちゃんちゃんこに興味はないかな?」

「え? 今なんて」

「紅子さん!?」

 

 囁きかけるように彼へ〝キーワード〟を言わせようとする彼女にストップをかける。

 彼女は赤いちゃんちゃんこだ。彼女のその問いかけにYESと答えてしまえば殺されてしまう! 彼女がそんなことをするとも思いないが、紅子さんも怪異の一人だ。万が一があるかもしれない! 

 

「解決してもいい? って聞いてるんだよ」

「え、そのためにお願いしてるんですから、いいに決まってるじゃないですか!」

「言ったね? 許可したね? アタシに、許可をしたねぇ?」

「紅子さんダメだ!」

 

 彼女の赤い瞳の瞳孔が縦長になっていく。

 怪異らしいその顔。怪異らしく歪んだ口元。彼の背後に瞬間的に移動した彼女は彼の首を裂いてやろうとガラス片を首元に当て、そして……

 

「わっ!」

「は、は? な、なにが……」

 

 彼の耳の中から出てきたなにかに弾き飛ばされていた。

 

「いったた……ビックリした」

「村雨をいじめるな!」

 

 彼女を突き飛ばしたそのなにかは、カタツムリのような姿をして地面にベシャリと落ちる。そして、声を張り上げた。

 

「なんだこいつ?」

「わー、わー! 無礼者! 摘まみ上げるな! 縮むだろうが!」

 

 耳から出てきた時点で俺のトラウマを直撃しているため、とても優しくしようとは思えないそのカタツムリを観察する。

 普通のカタツムリにしか見えない……周りに人魂っぽいのが漂っているから、怪異なんだなって分かるくらいで。

 

「はあ、酷い目に遭った。でも、原因は引っ張り出せたから結果オーライ、かな?」

「紅子さん、もしかしてわざと襲おうとしたのか?」

「うん、彼にしか影響を及ぼせないなら、彼の視覚か聴覚か、そういうところに干渉してるんだと思って瞳を覗いたらそいつが見えたんだよ。だから、宿主の身に危険が及べば出てくるだろうって」

「だからってあんな……」

 

 本気で殺すつもりなのかと思ったぞ。

 

「っていうか、紅子さん! 大丈夫なのかそれ!」

「ああー、本当に酷い目に遭った」

 

 カタツムリの突進を受けただけのはずなのに、紅子さんはほぼ全身びしょ濡れになっている。赤いマントがあるからまだ致命的なことにはなっていないが、正直目のやり場に困る状態だ。

 そっぽを向きながら彼女に向けて手を伸ばし、パシリと俺の手を取って立ち上がる彼女はひたひたと足を鳴らしながら「ローファーの中まで濡れてるんだけれど」と呟いた。

 

「も、もしかして僕を苦しめていたのはこのカタツムリなんですか?」

「そうだよ、そいつがキミに雨が降ってると思わせてたんだ」

「な、なら早く退治してください! 僕もうあんなの嫌なんです!」

「む、村雨! そんなあ!」

「なんで苦しめてたお前が、そんな悲壮な顔してんだよ」

 

 カタツムリの顔なんてよく分かんないけれど。

 

「退治しないよ。アタシが助けてくれって頼まれたのは、キミの〝雨降り〟の錯覚を治すことだけ。それに、そいつはキミの願い事を叶えようとしてああしてたんだよ。あれは善意だったんだ。だからアタシはなにもしない」

「ぜ、善意!? どういうことですか!?」

「わ、わしはただ、ちっさな頃から神社に来てくれる村雨のお願いを叶えてやりたかっただけじゃ。でも、もうわしには雨を降らせるほどの信仰もないし、体も小さい。神からただの怪異に成り果ててしまった。それでも、願いごとを叶えてやりたくて……」

 

 まさか、それで取った手段が雨が降ってるように見せかけるってことだったのか? 

 彼の願い事は確かに雨を降らすことだったが、体育祭が嫌だから雨を降らせたかったんだし……彼だけ雨が見えていても意味なんてないのに。

 

「もしかして、あの神社の神様?」

「今はもう、ただの怪異じゃよ」

 

 神が怪異になることなんて、あるんだな。

 

「神も怪異も本質は一緒。力の源が人の信仰か、それとも畏れかって違いしかないよ。分かった? お兄さん」

「あ、ああ、なんとなく」

 

 意味は分からないでもない。

 

「そ、それじゃあもしかして雨降らしさ……ま……」

 

 彼が目を輝かせながらなにかを言おうとした瞬間、紅子さんは剣呑な顔をしてなにかのスプレーを顔面に噴射した。

 

「村雨!」

「わわっ、紅子さんなにするんだよ!」

 

 目をトロンとさせて倒れる彼を支えて彼女を睨む。

 紅子さんは涼しげな顔で、膝を折って彼を受け止めた俺を見下ろした。

 

「そいつには名前がない。昔はあったんだろうけれど、今はもうね。怪異に名前をつけるなんてご法度、許すわけにはいかないかな」

「なんでだよ。名前くらい」

「名前くらい? 怪異に名前をつけるというのは、とっても危険なんだよお兄さん。姿カタチの曖昧なものを型にはめれば、弱体化することもあるし、手がつけられないほど強くなることだってあるんだ。今、そこの村雨君はカタツムリの怪異を神様として名前を呼ぼうとした。それを認めるわけにはいかないよ。短期間で神から怪異になったり、怪異から神になったりなんてしたら、体が耐えきれずに崩壊するだけだからね」

 

 体が崩壊? そんなことが起こるのか。

 更に紅子さんは語った。怪異に名前をつけるということは、親や恋人のようになることを指す。怪異を一番にその名前で呼び、畏れ、信仰する第一の人間。そんなものになってしまえば、怪異を見捨てる選択をしない限り、一生その怪異が付いて回ることになる。子供にそれは酷だ、と。

 

「まったく、お兄さんはこっち側の世界について知らなさすぎる。そんなんじゃ本当に危ないよ」

「そりゃ……」

 

 ずっと軟禁されていて、人付き合いだって再開したのは最近だからな。

 怪異達の世界を勉強する機会なんてなかったんだ。仕方ないだろ。

 

「そうか、そうじゃな……わしがいては村雨に迷惑か」

「キミも、神社に来る彼を見守るくらいならいいだろうけれど、取り憑くのはやめてあげなよ。結構参ってたみたいだからね。優しさが仇になることもあるんだよ」

「…………」

 

 紅子さんのその言葉に、俺は言葉が出なくなった。

 思い出すのは、救おうとして、そして結局それが残酷な優しさとなってしまった青凪さんのことだ。

 

 そういえば、夢の中でも紅子さんは「優しさは利用されるだけ」って言ってたっけ。でも、俺はそんなことを言うのは寂しいと思うんだよな。確かに間違えるときもあるが、彼女みたいに「優しさが罪」とまではどうしても思えない。

 

「さて、キミも帰りな」

「ああ……村雨には悪いことをしたよ」

「じゃあね」

 

 紅子さんが手を振るが、所詮相手はカタツムリ。全然動かない。

 

「……紅子さん、神社まで連れてってやらないか?」

「この、お人好し」

「お人好しで結構だ」

 

 カタツムリを手のひらに乗せて神社に向かう。

 カタツムリ本人。本人? に任せておけば場所は分かるからな。

 

「村雨君はどうすればいいんだ?」

「家の中に入れてあげようか」

 

 紅子さんは言いながら、また前みたいに紅い蝶々に変化して壁をすり抜けていく。内側から、鍵の開く音がした。

 

 そうして同じように鍵を閉め、彼女が壁をすり抜けて帰ってくる。

 

「さっきのスプレーには記憶を混乱させる作用もあるから、もう何事もなく過ごせると思うよ」

「記憶の混乱? それはなんでだ?」

「……アタシ達のことを覚えられても困るから、かな。お兄さんみたいな特殊な人間はともかく、下手な人間に存在がバレて晒されたらたまったものじゃないからねぇ」

「……そうか。怪異の世界も肖像権はあるよな」

「そんなところ。それに、軽いノリで依頼を出されても困るからね。情報精査してるグレムリン達が過労死しちゃうよ」

「そういうものか」

 

 歩きながら考える。

 俺もまだまだ知らないことがある。

 だから〝こちらの世界〟の常識を、ルールを、覚えなければならないと。

 

「へっくしゅ」

「大丈夫か?」

「いくら濡れ透けだからって欲情はしないでね」

「誰がするか!」

 

 紅子さんは先輩であると同時に、やっぱり厄介な幽霊だ。

 俺はそんなに軽薄じゃないぞ。

 

「あー、それにしても……お兄さん。彼がやったのが晴れのおまじないじゃなくて良かったね」

「……? なんで晴れだとダメなんだ?」

「だって、雨で耳が壊れそうになったんだから……」

 

 

 ――晴れなんて願ったら、すぐに失明しちゃうよ

 

 

 その言葉に、俺は今日で一番ゾッとしたのだった。

 

 

 

 

 

 



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肆の怪【嗚呼、麗しき一途の華よ】
冬に咲く桜


 一途な想いというものは、ときに恐ろしいものとなる。


―― だから、お前の全てを受け入れよう。

 

 今年の冬はとても暖かい。

 しまいには、〝 狂い咲きの桜 〟が現れてしまうくらいには。

 俺が住んでいる邪神の屋敷から何駅か離れた丘の上に、一本だけ冬になってから咲き出した桜があるのだという。まあ、まだ11月ではあるのだが…… 冬と言ってもいいだろう。どちらにせよ、件の桜はこんな時期に咲く種類ではないのだ。

 そんな少しだけ不思議な非日常に、俺が好き好んで首を突っ込むわけがない。

 

「レジャーシートはこれくらいか…… ?」

 

 だから俺がその桜の下で花見の準備をしているのは、それを命令した邪神のせいだ。不本意極まりない出来事だ。

 おまけにこの桜がある丘は、噂が一人歩きして一種の観光スポットみたいになっている。冬とはいえ、少しだけまだ暖かいこの桜の下に集まる人間は数多くいるみたいだ。

 こんなトチ狂った花見をする人間が俺達だけじゃないところに、悪い意味での日本人魂を感じる。

 ちょっと寄っただけの人間までスイーツをコンビニで購入して座り込んでる始末だ。

 

 こんなカオスな空間…… つまり俺の飼い主が喜ぶような空間で桜が無事であるわけもなく、幾人かの不良が景気良く枝を折る姿も見える。ブランド物のピアスや指輪をつけて悪ぶっている連中だ。

 これもまた、観光地にありがちな悪い習慣だと思う。

 そして、それを明るい髪の大人しそうな女の子一人で止めようとしているのも無謀だし、他に止めようとする大人もいない状況は少し気分が悪かった。

 

「いいよいいよ? 私はここでお酒でも飲んでるから行ってくればいいじゃないか」

「…… いいんです?」

「くふふ、そんなことまで束縛したりはしないよ」

 

 手をひらひらと振りながら奴…… 神内千夜(ニャルラトホテプ)が言う。

 つまりは思うままにしろということか。俺が枝を折る不良達に怒りを感じ、それを止めようとして揶揄われている女の子を助けようと思っていることが筒抜けというわけだ。

 それはそれで癪に障るが、周囲の大人が誰一人として女の子を助けない状況にイラついているのも事実だ。

 

「あんたは勝手に酒でも嗜んでいてください!」

「いってらっしゃーい」

 

 上機嫌で俺を送り出す奴の顔に、そこはかとなく嫌な予感を覚えるが気持ちは変わらなかった。

 目の前に困っている子供がいるのに助けないのはなんだか気持ち悪い。

 

「おい、桜の枝を折るのはやめてくれ。マナー悪いぞ」

「はあ?」

 

 不良は改めるつもりがなさそうだったが、大人に介入されて萎えてしまったのか、折るか折らないかのところで止めていた腕を振り抜き、一本の枝を取るとそのまま枝をグチャグチャに折って去っていく。

 しまいには足で踏みつけ、唾を吐きかけ、ものすごく大きな溜め息を吐きながら……

 俺が止めた意味もなく、桜の枝は折られてしまった。

 

「あの…… 止められなくてごめんな」

「いえ、いいんだよ」

 

 桃色の短い髪を揺らして女の子がぽつりと言う。

 しかし、落ち込んでいるのは明白だ。

 

「見て、彼お土産に桜の花びらを乗っけてる」

 

 顔を上げた彼女は悲しそうにケラケラと笑った。

 強がっているような彼女にどう言葉をかけてやればいいのか、俺は分からなくて 「そうか」 なんて生返事しか返せない。

 

「助けてくれようとしたのは嬉しかったよ」

 

 ほぼ無表情で目を細める彼女はそっと桜の木を見上げる。

 

「桜に思い入れがあるのかな?」

「…… まあね。ここにはとてもいい思い出があるんだよ」

 

 彼女の身長は中学生入ったくらいの女の子だが、不思議と落ち着いているようにも思う。なんというか、大人っぽい。

 最近の子供って皆こんな感じなのか? 

 

「…… 雨だ」

 

 女の子がふと呟くと、頬にぽつりと雫が落ちてきた。

 周りを見ると、急な雨にレジャーシートを敷いていた人達が皆慌てて片づけしている姿が目に入った。

 コンビニが近くにあるので、折りたたみ傘を常備しているでもない人間は駆け込むはめになるだろう。

 そうだ、俺も急いで片づけないと…… と思って奴が酒を飲んでいた場所を見るがそこにはレジャーシートの後もなにも残っていなかった。どこぞに避難したのか? でもそんな気配欠片もなかったけどな。

 

「あなたも濡れてしまうよ。ボクについてきて。雨宿りできる場所があるんだ」

「あ、ああ、ありがとう」

 

 俺の袖を引っ張りながら女の子が桜の木の下に入る。

 それに合わせて幹の近くまで行くとすっかりと雨を遮っているのか、俺が濡れることはなかった。

 女の子も濡れた様子が一切なく、そのまま桜の幹に寄り掛かるようにして手を擦り合わせている。確かに、雨が降ったからか少し肌寒くなっているような気がする。

 

「助けてくれてありがとう。ボクは青葉。あなたの名前は?」

 

 目を開けた彼女はまだ少し寒そうにしながらこちらを見上げた。

 薄い色の目玉が俺を探るように上から下まで見渡し、微笑むさまはどこか知り合いのさとり妖怪を思い起こさせた。

 

「…… どういたしまして。俺は下土井令一だよ」

「下土井さん……」

 

 反芻するように呟いてから青葉ちゃんは 「桜を見に来たんだよね?」 と疑問を投げかけてくる。

 俺が来たいと言い出したわけではないが、目的はその通りだ。狂い咲きの桜を見に来たので間違いない。

 

「そうだよ。冬に桜が咲くだなんてって、知り合いに頼まれて一緒に来たんだ」

「綺麗だと思う?」

「うん、そうなんじゃないかな?」

 

 そう返すと青葉ちゃんは俯いて 「そう見えるなら良かった」 と寂しそうに言った。

 そして、「ボクは昔からここのことを知っているんだけどね」と前置きしてから話し始めた。

 

「この桜、昔は庭師の人が手入れしてくれていたんだ」

「庭師? …… でもここ人の敷地ではないよな」

 

 人の敷地ならあんな風に大勢が押しかけて花見することにはならなかっただろうし。町営で手入れしていたにしてもこの子の口振りだと今は手入れされていないみたいだ。

 

「うん、完全にボランティアだよ。桜が好きだからって剪定してくれたり、花が綺麗に見えるようにしてくれたり色々してくれていたんだ。でも、見て」

 

 彼女が指さしたところを見れば枝と枝の隙間が極僅かしかなく、花が擦れている箇所があった。なるほど、言われてみれば手入れが行き届いていないように見える。

 

「剪定されてないから窮屈だし、花付きも昔より大分悪くなってしまっているんだ。できれば手入れをしてほしい。けれどボクはあの庭師の居場所が分からないんだ。また彼にお願いしたいんだけど、あまり出歩ける身じゃないから…… その、片手間でいいんだ。彼に桜の手入れをするように依頼してほしいんだ。報酬はちゃんと出すから」

 

 彼女のお願いを蹴る理由はない。しかし、一つ気になることがある。

 

「君って、人間じゃないだろ?」

「え……」

 

 青葉ちゃんはその目を大きく開き、驚いている。

 だが、すぐに俺をもう一度観察してから 「なるほど」 と頷いた。

 

「人外の気配がすると思ったら、あなたは加護持ちなんだね。なら早いよ。ボク、いい加減待つのに疲れちゃったんだ。でもボク自身はここから大きく離れることはできないし、人間を頼るしかないんだよ」

 

 俺を見上げてくる彼女の瞳孔は桜の花弁のようにも見えてくる。

 本性を隠すこともなく、桃色の瞳が俺を捉えていて断ったらどうなるのか分からない得体の知れなさを醸し出していた。

 それだけ必死だということか。人外に関わることなんて珍しいことじゃないし、彼女のお願いは前回の青水さんと違い目的がはっきりとしている。

 

 なら、迷うことはないのでは? 

 

 だが、なんとなく嫌な予感がするのも確かだ。

 なぜだろう。この子の目的は 「桜の手入れをしてほしい」 だけなのに、なぜこんなにも不安に駆られるのだろうか。

 いや、そんなことは後で考えればいいことか。なにか不穏な動きを感じたらすぐに対処すればいい。

 

「お返事は?」

 

 しゅるしゅると俺の周りに枝が寄り集まって来る。

 断ったら…… なんて考えたくもない。

 

「探すのはいいけど、相手の名前は分からないのか?」

「敦盛春樹。おかしなことに桜に話しかけるような人間だったからボクでも知ってるんだ」

「分かった。探して、お前の手入れを依頼すればいいんだろ?」

「うん」

 

 了承すれば、密かに俺を捕らえようとしていた枝は全て元通りの位置に戻った。

 やっぱり断ったらYESと言うまで離してもらえなかっただろう。もしくは拷問でもされていただろうか? 

 こんな少女がそんなことまでするとは思いたくないけど、きっと遥かに年上なんだ。見た目の年相応な対応なんてしてくれるわけがない。

 

「そうだ。報酬は前払いで明日払うよ」

 

 前払いなら普通今渡すべきでは? なんて思ったが、俺はなにも言わずにその場を去った。

 

「やあ」

 

 桜の木から離れると、すっかり雨は上がっていた。

 いや、もしかしたら雨はこの周辺にしか降らなかったのかもしれない。暫く離れた場所には道が濡れた跡さえなかったのだから。

 

「あんたはどこに行ってたんですか」

「最近のコンビニスイーツって素敵だよねぇ。エクレアなんていいと思うよ」

「作れってことですかね?」

「さあね」

 

 結局屋敷ではエクレアを作るはめになった。

 ついでに何個か余らせて取っておくつもりだ。どうせこの飼い主は首を突っ込まないし、ニヤニヤと外野で騒いでいるだけだ。

 だけど俺だけではなにかあったときに対処しきれないだろうし、なにより不安に押し潰されそうになってくる。

 だから、誰かに相談する際エクレアを渡すのだ。人外連中は俺の知る限り甘いもの好きが多いからな。アルフォードさんは別にして。

 

 このまま突き進んで行ったら、いつもの感じだと確実に悪い方向に向かいそうだからな。

 あの悲劇がいつものことだとか…… 慣れちゃいけないんだけどな。そうでも思わないとやってられねえよ。

 だからなるべく最悪の事態にならないように色々してるんだけど。

 

「ってことで明日外出するんで、なにかあったら今のうちに言ってくれ」

「朝ご飯はフレンチトースト。コーンスープは自家製でサラダと熱々の目玉焼きもつけてね」

 

 なんとまあ無駄に時間のかかる朝食をご希望で。

 熱々の目玉焼きということは、つまりサンドイッチやおにぎりなんかと一緒に事前に作って置いていくことは許されないわけだ。

 ていうか自家製のコーンスープとか作れるわけないだろ! 

 

「ちゃんと作るから自家製コーンスープは勘弁してくれ」

「じゃあパンプキンパイ作ってよ。そういう季節だろう?」

「秋はとっくに過ぎてるでしょうが!」

 

 奴の要求はキリがないのでこの辺で折れておくことにした。

 この有様を見られたら紅子さんあたりに 「そんなんだから飼い主に嚙みつけないんだよ」 とでも言われそうだ。

 

 まあ、あれだ…… 紅子さんに相談だ。

 

 

 

「で、アタシに電話してきたと?」

「ああ、そうなんだ」

 

 電話越しに少し不機嫌そうな声が聞こえる。

 自宅にいるのか、コツコツと指でなにか硬いものを叩くような音がするし、夜なので学校にいるということはないだろう。

 

「まあ、キミのことだ。どうせ厄介なことになるに決まっている。その青葉って桜の木も、元々彼女はただの人間に依頼する気だったんだろう? 嫌な予感がするのも仕方のないことだと思うよ」

 

 はあ、と溜め息を吐いた紅子さんは電話に入らないようにか、話の区切りのためにか 「こほん」 とわざとらしく咳き込んで再び応答する。

 

「だから、まあ…… キミに協力するのもやぶさかではないよ。お花見デートと洒落込もうじゃないか」

「そうしてもらえると助かるな。エクレアやパンプキンパイも用意してあるから楽しもう」

「おやおや、女子高生とのデートなんてレアイベに必死なことだね…… エクレアだけに?」

「……」

 

 この子は本当に女子高生なのだろうか? 

 俺ははなはだ疑問で仕方ない。

 

「わ、悪かったよ。可愛い冗談じゃないか、ねえ? あの、おにーさん? お兄さーん?」

 

 今度はこちらが溜め息を吐いて 「ああ、うん」 なんて素っ気ない返事をする。ぶすくれたように言われた 「笑ってくれてもいいんだよ?」 なんて言葉はスルーして続けた。

 

「じゃあ、明日よろしく頼むよ」

「いいけれどね…… 学校は昼に早退してくるから、キミは先に桜の所に行って前払いを受け取ってきなよ。アタシはまた図書館に行ってるからさ」

 

 まあ、図書館が一番分かりやすい待ち合わせ場所か。

 この屋敷から遠いわけでもないし、丘からもそんなに時間がかからない。紅子さんが遅くなりそうなら先にネットや歴史で調べていればいいだろうしな。

 先に着いたらメールすればいい。幸い、紅子さんの連絡先は電話番号は勿論、メールアドレスも知っている。

 

「ああ、それじゃあまた明日」

「またね、お兄さん」

 

 電話を終えてケータイを置く。

 さて、後は洗濯物か…… これに関してはさすがのニャルラトホテプも任せてこないし、俺は俺で洗濯することになっている。

 あいつの洗濯物はいつの間にか新品のようになっているので、もしかしたら魔法のひとつでも使っているのかもしれないな。

 一人で全部やってくれたら楽でいいんだが…… まあいい。奴は明日表向きの仕事があるからちょっかい出してくるようなことはないだろう。

 他には…… 奴に食べられてしまわないようにエクレアとパイを切り分けて取って置くくらいか。

 

「なになに? 一人でシコシコなにを考えているのかなぁ?」

「っうわぁ!?」

 

 座っていたソファから転げ落ちた。

 どうやら奴は風呂上がりなようで、ただでさえ鬱陶しい髪が全て下ろされもっと鬱陶しいことになっている。毛量多すぎだろ。女みたいに三つ編みにせずばっさり切ってくればいいのにな。

 

「って、あんた…… その口は………… !?」

「ん? ああ、美味しくいただいたよ…… 君の、お・か・し」

 

 うわぁぁ! だから先に取り置こうとしてたのに! 

 

「夕食後に食べただろ!? 残してた分まで食ったんですか!?」

「勿論、だって〝 私のため 〟にあんなにたくさん作ってくれたんだろう? 下僕の好意はありがたくいただいておかないと、ね?」

 

 くそっ、こいつ絶対にわざとだ! 

 なるべく奥の方に隠しておいた大量のデザートなんて普通完食しないだろ!? しかも風呂上がりに! わざわざっ、俺に食った痕跡を見せつけに来るなんて悪意以外のなにものでもないぞ! 

 

「くふふふふ。それじゃおやすみ、れーいちくん」

「くっそ……」

 

 完全にしてやられた。

 紅子さんには約束してしまったし、エクレアとパイを今からなんとか作るしかない。約束を破るのは忍びないし、なにより俺が嫌なんだよ。

 多分言えば 「あー、えっと…… それは、なんというか…… 仕方ないね」 なんて言い澱みつつも許されるだろうが、甘いもの楽しみにしてる女の子に 「ごめん、やっぱりないよ」 なんて言えないからな。

 

 深夜に空いてるスーパーなんてないぞ? 

 残った材料で作れるか? いや、やるんだ。やってやるぞ! 

 

 

 このあとめちゃくちゃ料理した。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「おおそれはそれは…… お兄さんも頑張ったんだねぇ。最近キミに付き合ってまったくゲームできないのも許してあげるよ」

 

 図書館で合流した彼女にお土産を渡すと、それはそれは哀れそうな声色でやれやれと言った。

 ゲームというのは例の、夢の中で行う凶器探しのことだろうか。

 彼女のゲームは失敗しても死なない親切設計だが、あんな悪夢拡散させるのもどうかと思うぞ。

 俺がそう言うと不満を込めて紅子さんが溜め息を吐く。

 

「アタシほどアフターケアに優れた怪異はいないと断言できるね。夢で出会った人間が心底怯えていたならアタシとしても満足だし、場合によっては記憶も消してあげるのにさ」

 

 でも精神的ダメージはなかったことになんてできないだろう。

 

「それがアタシ達怪異なんだから仕方ないだろう? こっちだって怖がってくれなくちゃ生きてけないんだから」

「…… そっか、そうだよな」

 

 彼女達はあまりにも人間に近いから、忘れていた。

 怪異が生きるためには〝 噂 〟や〝 伝承 〟が必要不可欠。それがなくなれば、人間が忘れてしまえば彼女達は消えてしまうのだ。

 

「ところで、その…… 前払い報酬とやらはちゃんと受け取れたの?」

 

 紅子さんが話を変え、今朝方桜の木まで行っていた俺を見る。

 相変わらず、いや昨日以上に美しく咲き誇っていた桜の花の下で青葉は待っていた。だから、勿論受け取っている。

 なんと、報酬は精霊が持っているのには違和感があるブランド物のアクセサリーだったのだ。

 生憎と俺はピアスなんてつけないし、お高いブランド物の指輪だって恐れ多くてつけられたものじゃない。精々売り払うくらいしか使い道なんてないが、正直人外に貰った代物なのでそんなことできるはずがない。

 そう愚痴りながら俺が指輪とピアスを見せると、紅子さんは一瞬だけ眉を跳ね上げてそれが乗った手の平を見つめた。

 そして、そのまま俺を見上げて怪異らしく胡散臭げに微笑んだ。

 

「お兄さん、アタシにこの指輪とピアスくれない?」

「別にいいけど…… 紅子さんでもブランド物を欲しがったりするもんなんだな」

「まあね、アタシだって女の子だから? 貢ぎ物の一つや二つ欲しくもなるんだよ。いいだろう? 元手はタダなんだから」

 

 煙に巻くように言葉を選んではいるが、やはり彼女も女の子だ。アクセサリーに興味があるのだろう。

 この二つのアクセサリーは男向けの少々無骨なものだが、それでも学生の身には眩しく映るのかもしれない。

 

「うん、お兄さんにはもう特別な首輪がついてるからね。新しいの貰ったって知られたらどうなるか分からないよ? キミも少しは自分の身を案じた方がいい」

「あー……」

 

 そういえばそうか。

 他人からのアクセサリーなんてつけていたらニャルラトホテプ(クソヤロー)になに言われるか分かったもんじゃない。

 紅子さんに言われなかったら一晩拷問コースだった可能性すらある。

 彼女は命の恩人だ。

 

「ありがとう、紅子さん」

「ふふ、どういたしまして。遊んでくれる人がいなくなるとアタシも寂しいからねぇ」

 

 やれやれ、と微笑みながら首を振る彼女に感謝する。

 俺だって、一人じゃここまでやってこれなかったかもしれないからだ。心を折られるつもりもないが、やはり身近に相談できる相手がいるのといないのとじゃ随分違うからな。

 

「さて、先に調べておこうか」

「ああ、この図書館はネットサーフィンもできるからそっちでもよろしく頼む」

「…… えっと、ごめんお兄さん。アタシあんまり機械得意じゃなくて…… 代わりに地元の話とか桜のこと調べてみるから、庭師さんのことについてはそっちに任せていいかな?」

「そうなのか、分かった。じゃあ資料の方はよろしくな」

「…… うん、任されたよ」

 

 機械音痴について突っ込まれなかったことに安心したのか、紅子さんは俺から指輪とピアスを受け取ると、ゆっくり図書館内を歩き始めた。

 

「ええと、確か〝 敦盛 〟…… はるき? 晴樹か? とにかく調べてみるしかないか」

 

 簡単に検索をかけ、ついでに庭師というキーワードも入力する。

 すると出て来たのは〝 敦盛春樹 〟という庭師の名前と、そのホームページらしきもの。

 しかし、ホームページを覗いてみたはいいが日付が結構古い。凡そ10年以上は前の日付が最終更新日となっているようだ。これでは良い情報とは言えない。だけれども、ここが公式ホームページであろう以上無視することはできないだろう。

 そう思って一通り見て回った。本人の写真は20代の若々しいものであり、背後には〝 あの桜の木 〟が美しいままにある光景だ。

 この頃はまだ手入れをしていたということだろうか。日付からしても相当前のことだ。

 事務所の住所も勿論書いてあるし、電話番号も載っているのでメモを取る。本人の誕生日を確認したところ、20代の写真は相当前のもので間違いない。なんせ今や40代だ。

 それからホームページを後にし、通常検索でもう一度彼について調べた。

 

 どうやら現在でも庭師として仕事をしているようだが、評判を見ると大分偏屈で厄介な性格の人物らしいことが分かる。

 クズだとかクソジジイだとか最悪な奴だとか、先程のホームページから今は40代のはずだが随分な評価だ。

 桜と共に写っていた好青年は偏屈ジジイになってしまったということだろうか。

 しかし、ネットの評判は誇張されていたりするものだ。会ってみないことにはなんとも言えないだろう。

 通常検索した結果でも住所は変わっていないようなので、直接事務所に行ってみるのもいいかもしれない。

 電話番号も控えているから、あとでアポをとってみればいいや。

 

「…… このぐらいか」

 

 パソコンから顔を上げ、電源を落とす。

 俺が収穫を手に図書館をうろつき始めれば、すぐに目立つ大きなリボンが視界に入った。

 菫色の大きなリボンでポニーテールを作っている紅子さんは、真剣に資料を見比べながら唸っている。

 テーブルの上には、先程譲ったアクセサリー類も並べられていた。

 おいおい、それ一応ブランドなんだからもう少し気を遣った方がいいぞと思いつつも、様子を見る。

 

「…… ?」

 

 やがて、背後に立つ俺に気がついたのか紅子さんがこちらを振り向く。

 

「っちょ、お兄さん!?」

 

 椅子から転げ落ちた。

 突然のことでびっくりしたんだろう。怪異もこんなことで吃驚するもんなんだな、と別のところで俺は感心してしまった。

 

「あ、あのね…… 人間が怪異を驚かせたってなにも良いことはないだろ? そういうのはやめてよね……」

「良いこと? うーんと、紅子さんの可愛い反応が見られたとか?」

「キミ、ふざけてるの?」

 

 おっと、いつも揶揄われているからその逆襲のつもりだったんだが怒らせてしまった。

 

「あーもう、キミには驚かされてばかりだ…… アタシ驚かす方なのに………… 存在意義が問われるよ」

「紅子さんは紅子さんだろ? 俺にとっては〝 赤いちゃんちゃんこ 〟ってイメージよりも、もう〝 トイレの紅子さん 〟ってイメージが強いよ」

「それ、ちっとも嬉しくないよ。アタシは赤いちゃんちゃんこだ。忘れないでよ…… ? お願いだからさ」

「分かったよ。分かってる。忘れないよ、絶対に」

「それならいいんだよ…… ねえ? お兄さん」

 

 暫しの問答を終え、彼女の見ていた資料を覗き込む。

 恥ずかしそうに髪をいじる彼女はそっとしておき、ひらがなでルビの振られた一冊の本を手に取った。絵本、だろうか? こんなもの見たこともなかったが、どうやらこの街特有の手作り絵本らしい。

 装丁も古く、少し紙が傷んでいるように思える。

 

(なが)(ばな)

 

 流れ星を想起するその言葉。

 桜と、人間を包み込む程の大きな花が表紙に描かれている。

 空を流れる花の伝説。それにそこはかとなくニャルラトホテプ(クソヤロー)と同じ気配を感じ、俺の肩は強張ってしまった。

 本能レベルで嫌な予感が支配する。

 

「読みたくないなら、アタシが概要だけでも説明するよ?」

「いや、いい。大丈夫だよ」

「…… そっか、ならキミの好きにすればいい」

 

 きっと内容は大したことがない。

 けれど、あいつと同じ予感がするということは、ただの妖怪や精霊などが関わる問題ではないはずだ。

 

 俺は、逃げない。

 いつまでも逃げていたら、いつかは袋小路に追い詰められてしまうだろう。そうしたら、壊れた玩具としてポイ捨てされるか…… 最悪、奴の〝 シナリオ 〟で踊らされる捨て駒にされるかだ。

 

「昔々……」

 

 そんなありきたりな出だしの絵本を、俺はゆっくりと読み始めた。

 

 

 

 

 



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祓い屋と悪霊

昔々、草花が元気をなくしてしまう時期がありました。

 それは寒い寒い、冬と呼ばれる時期です。

 冬は作物が育ちません。

 人々はこの時期になる前に食糧を溜め込み、備えました。

 けれどそう上手く行かない時もあるのです。

 作物が育たず、人々は危機に陥りました。

そんなとき、まるで流れ星のように大きな花が空を流れて行ったのです。

 花から撒かれる花粉が萎れた草花に降り注ぐと、不思議なことにその元気を取り戻しました。

 草花は人々と共に大きな花へ祈りを捧げ、寒い冬に負けじと育っていきました。

 あるとき、その中の一輪の花が大きなお花の神様と同じような姿になり、人々は神様が誕生したことに大喜びしました。

 大きな花の神様は沢山の人々に囲まれて幸せです。

 そして人々は神様が寂しくならないようにと、神様のために管理する者を選びました。

その管理者は神様の夫と呼ばれ、その役目は代々受け継がれていき、神様が眠る際には一緒に眠り、平和を願うのです。

 神様は千年眠り、起きた際にそれまで蓄えた力で、冬の間草花達が元気でいられるように守ります。

 繰り返し、繰り返し。永遠に。けれど夫がいる限り、きっと神様は寂しくないでしょう。

 今でも花の神様はこの地のどこかで、静かに暮らしています。

 めでたしめでたし。

 

 

 

 挿し絵には大きな花の中心に妖精のような女性らしき姿が描かれている。

 花の形がありふれたものなので確信は持てないが、これが桜の精霊…… 青葉の正体なのかもしれない。

 表紙に桜が描かれているくらいだし、きっとそうだろう。

 

 それにしても、空を流れていく花か。

 明らかに普通ではない。ただの怪異の類なのか、それともニャルラトホテプ(あいつ)と同じ神話生物の類なのか…… 勘でしかないが、後者な気はしている。

 

「とりあえず、青葉ちゃんのことはなんとなく分かったな」

「良かった。どうやらキミに悪い影響はないみたいだね」

「え」

 

 紅子さんが神妙な顔で頷くものだから、俺はなにかまずかったかと絵本の内容を思い返す。

 けれど、特に変なところはなかったように感じるが……

 

「ほら、読む前にお兄さんったら怯えていただろう? それで気になっていたんだよ」

 

 ああ、確かに。

 読む前はなんとなく嫌な予感がしていて、それは悪寒にも近かった気がする。原因は掴めてるけどな。

 この絵本に出てくる〝 大きな花 〟は奴の…… ニャルラトホテプに関係するなにかか、または同じ分類に存在するものだろう。

 要するに都市伝説とか怪異とかのローカル的なものじゃなくて、もっと大きな規模で厄介な神様とかそういうものってことだろう。

 見ただけでアウトな生物。それが俺の思うところの神様とやらだ。

 神様だって悪に堕ちているものがいたり、善とされていたり様々だ。善と悪。その性質が人間にとって有益か、有害か、その程度の違いしかないのだろう。

 この絵本に出てくる神様は、有益なことをした。だからいい神様。

 しかし、神話だとそうとも言い切れないのが悲しいことだ。

 

「ま、アタシなんて可愛いくらいの相手だね…… お兄さんの話からすると、青葉って子はこの大きな花に影響された桜の神様なんだろう。いいのかな? 下手したら結構おっかないことになるよ、これ」

「でも人探しを引き受けたのは俺だからな……」

 

 脅し混じりだったが。

 

「アタシも……一 回相談を受けちゃったからにはやるけれどね」

「助かるよ」

「どういたしまして?」

 

 念のため絵本を借りることにして、紅子さんには敦盛春樹の事務所に行くことを告げた。

 何回かアポを取ろうと電話してみたものの、繋がらないのだ。

 人外が関わっているわけだし、もし万が一危ない目に遭っていたら困る。だからさっさと直接会おうというわけだ。

 

「場所は駅二つ離れてるだけだな」

「いやあ、それにしてもお兄さんと一緒に電車に乗ることになるとはね。ご近所以外のデートは初めてだね。ドキドキするなぁ」

「やめてくれ、通報されたらどうしてくれるんだ」

「大丈夫、大丈夫。アタシがちゃんと証言してあげるから。〝 ダーリンです 〟って」

「やめてくれ……」

 

 ニヤニヤしながらからかってくる彼女と、周りの痛い視線から流れるように移動し、数十分後電車から降りた。

 その間にもわざとなのか知らないが腕を絡めてくる彼女を突き飛ばすことなんてとてもできるはずがなく、されるがままになっていた。

 両腕が空いていたらまず間違いなく顔を覆っていただろう。

 

「そういう反応をするからアタシも調子に乗っちゃうんだよ?」

「分かってる……」

 

 理解はしてるんだけどな…… どうしようもないんだよ、こればっかりは。

 

「さて、場所はどこ? お兄さん」

「ちょっと待ってくれ。ナビを見てみる」

 

 スマホを鞄から取り出し、ナビを起動する。

 そのとき、鞄の中でグースカ眠っているリンの頭を撫でてやると 「きゅ……」 と寝惚けながら人差し指の腹にすり寄って来た。

 起こしてごめんな、まだ寝てていいんだぞ。

 

「ふふ……」

「なんだ?」

「いや、なんでもないよ」

 

 紅子さんがなにか優しい目で見て来ている気がするが、本人がなんでもないというならそうなんだろう。きっと訊いても教えてくれないだろうし。

 ナビを見ながら歩き、ふと周りを見渡すと掲示板が目に入った。

 

『○○大学の生徒が行方不明となっています』

『見かけた方は下記までご連絡ください』

『〒○○○−○○○ ○県 彩色(いろどり)町 ○○−○』

『電話番号……』

 

 顔写真付きのそれを見て、俺は思わず足を止めた。

 

「どうしたの? お兄さん」

「この人……」

 

 その写真に写っている人は、先日あの桜の枝を折ろうとしていた男だった。なんだか見覚えのあるブランドのアクセサリーをジャラジャラと付けた状態の写真で、いかにもスレていそうな人物。

 そしてなにより……

 

「なあ、紅子さん」

「…… なにかな?」

「紅子さんがあのアクセサリーを欲しがったのは、なんでだ?」

「気づかなくてもいいことってのは案外あるものだよ、おにーさん」

 

 青葉から受け取ったブランド物のピアスと、指輪。

 先日見たとき、この大学生はなにをつけていたっけ? 

 こんなピアスと指輪ではなかったか? 

 桜を害そうとした男は…… ? 仮にも神様と呼ばれる存在を害して、無事でいられるものなのか? 

 

 

 

「見て、彼お土産に桜の花びらを乗っけてる」

 

顔を上げた彼女は悲しそうにケラケラと笑った。

 

 

 

「まさか……」

「はあ、せっかくなにも言わないであげたのにねぇ」

 

 紅子さんは困ったように髪をかきあげると、ポケットに入れていたアクセサリーを取り出す。

 

「呪われてる」

 

 息を飲む。

 

「でも、これの元の持ち主が呪われていただけで、譲渡されたキミやアタシには影響を及ぼさないから大丈夫。人間のお兄さんに持っていてほしくないのは、アタシの気持ちの問題だよ……」

 

 人間の俺より、妖怪の自分が持っていた方が万が一がなくていいっていうことか? なんだよ、それ。

 そんなこと聞かされたら、 「なんで言わなかったんだ」 なんて怒れないじゃないか。

 心配してくれるのは嬉しいんだけど、それで紅子さんが危険に晒されるのは違うんじゃないのか? 

 言ってくれれば廃棄くらいしたのに。

 

「たらればの話はこれでお終い。さっ、早く事務所に行こうよ」

「…… ごめん、紅子さん」

「謝罪は嬉しくないかなあ……」

「ありがとう、紅子さん」

「それでよし」

 

 辿り着いた事務所には、やはりというか誰もいなかった。

 見るからに真っ暗で僅かな電気もつけられておらず、接客するだろうカウンターには薄っすらと埃がついていて暫く営業していないことがわかる。

 

「これはこれは」

 

 言いながら紅子さんがスタスタと中に入り、電気をつける。

 やはり妖怪だからか夜目が効くらしい。俺には暗くて見えなかったので、正直ありがたかった。

 

「ひどいな……」

 

 明るくなってもやはり、事務所内は酷い有様だ。

 高枝鋏やら庭師としての道具はある程度手入れしてあるようだが、その他の場所には乱雑に書類が置いてある。

 

「暫く帰ってないのか?」

「…… かも、しれないねぇ」

 

 紅子さんはそう言うと足取り軽く中を物色し始める。

 

「ちょ、紅子さん! あんまり荒らしちゃまずいだろ!」

「大丈夫だよ。だいぶ杜撰(ずさん)なお人らしいね。これなんか三ヶ月も前の書類だよ?」

 

 彼女がピラッとこちらに向けた書類には確かに三ヶ月前の日付と判子が押されている。どうやら仕事の依頼だったようで、この辺にある大きな公園の名前が書いてあり、その書類の近くには公園の全体図やら時間配分やらが書かれた書類があった。

 仕事の書類だろうに、いいのだろうか。

 

「さあて、お楽しみはこれからだよ。夜にはまだ早いけど、おっ始めようか」

「ちょっと、さすがに奥は行っちゃ駄目だよ。そっちって住居スペースだろ?」

 

 紅子さんの際どい言葉は置いといて、彼女がカウンターの奥へ行ってしまう前に引き止める。すると彼女は不満そうにこちらを見て、それからニヤッと笑ったと思うと 「据え膳、据え膳」 と言いながら奥に消えて行ってしまった。

 

「だから、ああもうっ!」

 

 仕方ないので紅子さんを追いかける。

 決して不法侵入ではない。もしかしたら奥で人が倒れているかもしれないし? …… なんて言い訳を頭の中に並べながら早足で部屋に入る。

 すると入ってすぐの場所に紅子さんが立ち止まっていたため、彼女にぶつかりそうになってから一歩引いた。

 こちらの部屋も真っ暗だ。何も見えない。

 

「どうしたんだよ、紅子さん」

「…… あー、っと、これは…… どう、うーん……」

 

 珍しく紅子さんは困惑しているらしい。

 歯切れの悪いその様子に俺が彼女の肩に手をかけると、 「わっ」 と小さく驚いてからこちらを向く。

 事務所の明かりで照らされた彼女の顔色は良いとは言えない状態になっていた。

 

「えっ、どうしたんだよ!?」

「えーっと…… お兄さん……」

 

 心底言いにくそうに彼女が口を開閉し、まさか死体でも転がっているんじゃないかという予想が頭の中に過ぎる。

 怪異である彼女がここまで余裕を無くすというか、動揺するのはあんまりないから余計に不安感が増した。

 

「なにがあったのか、教えてくれるか?」

「…… 見た方が早い、というか………… 人間の業は深いねぇ」

 

 本当になにがあったんだよ。

 

「電気、つけるよ」

「ああ」

 

 覚悟して、真っ暗闇の中を睨みつける。

 やがて部屋にも入りたくないと言いたげな様子で紅子さんが電気をつけると、その衝撃的な光景が目に飛び込んできた。

 

 部屋には壁の色が分からなくなるほどの写真が飾られていた。

 どれもこれも、同じ女性の写真。それも目線が微妙に外れていたり、後ろ姿を撮っていたり、本人の許可を取っていない撮影であることは間違いない。

 その中には制服を着ている写真もあり、その制服は紅子さんと同じ七彩高等学校の物だ。

 ドン引きしながら少し大人っぽい私服の写真を手にとって裏返すと、先月の日付と時間、七彩高等学校から多くの入学者を出す七彩大学の名前が載っている。

 高校生のときからずっと撮影をしているのかもしれない。

 女性は珍しい薄い色の髪に、泣きぼくろ。それに羽根飾りのついたヘアバンドをしている。大人っぽい笑みが似合う人だな。

 その視線はことごとく外れているが。

 

 つまりこれは……

 

「ストーカー、か」

「さすがにこれは気持ち悪いよねぇ……」

 

 あの紅子さんが顔色を悪くするほどの気持ち悪さらしい。

 

「あーっと、日記? 日誌? とにかく観察記録的なのがあるみたいだから見てみようか」

「帰ってきたりしないか?」

「平気平気。ほら見てよお兄さん。どの写真も、真夜中に撮ったらしいものはないけど、少し暗くなった時間までの写真はあるだろう? つまりストーカーの彼は夜まで帰って来やしないんだ」

 

 確かに深夜の写真はないし、薄暗い写真の裏を見ても時間は遅くて 午後7時までのものしかない。

 

「じゃあ、観察記録だ」

 

 

 

 

 

 ◯月◯日

 

 昔のことを書く。

 俺ん家は代々庭師をやってるらしいが、それはとある桜のためなんだと。

 ご神木だから大切にするようにと念入りに教えられてたし、桜の下で会う子供を紹介されて 「将来きみのお嫁さんになるんだ」 とベタなことを言われて調子に乗ったっけな。

 えらく可愛い女だったが、年の差が酷すぎてロリコン疑惑がかけられちまうし、さすがに無理だっての。

 そんなこと言ってもちっとも撤回しやがらねー変な子供だったな。

 

 ◯月◯日

 

 変なのが見える。

 

 ◯月◯日

 

 赤い糸みたいなのが俺の小指を捕まえてて、あの女はすぐ俺のことを見つけ出しちまう。あの女、十年以上経ってるのにちっとも姿が変わらねえ。気持ち悪い。逃げたくても赤い糸とかいうふざけたモンのせいで無理だ。

 あの桜の手入れはきっぱりやめた。両親はとっくに死んでるし、文句は言われねえ。気持ち悪い。

 

 ◯月◯日

 

 ずっと変なものが見える。

 最近だと追ってくるし、良いことなんかねえ。

 仕事も手につかねえし、最悪だ。

 

 ◯月◯日

 

 追われてるときに声が聞こえた。

 女の声だった。見たら、学生の女が俺を追ってきていたやつを見ながら俯いていやがる。

 寝覚めが悪くなりそうで近寄ったんだが、その前に追ってきてたやつは花になって散った。

 女の手元を見たら追ってきてたやつを描いたスケッチブックと、それに突き立てるカッターナイフがあった。

 助けられたのは俺の方だった。

 女は俺に見られたことに目を丸くして驚くと、 「今のは忘れてください」 っつって、逃げ出した。

 あれなら助けてくれるんじゃないかと思った。

 

 ◯月◯日

 

 二度目の接触で赤い糸を切ってもらった。

 そしたら、あの子供はもう俺を追えなくなったみたいだった。

 やった! やった! やったぞ! 助かった! 

 忠告的なものを受けたが今はいい。

 気分がいいから景気良く一杯飲もう。

 

 

 ◯月◯日

 

 あの花吹雪は綺麗だった。

 もっと見たい。

 

 ◯月◯日

 

 あの気高さを保存しないのはもったいない。

 もっと見ていたい。

 桜なんかより、ずっといい。

 

 ◯月◯日

 

 いっそあの花吹雪になれればいいのに。

 

 

 

 

 

「うっわ」

 

 俺の言葉は見事に紅子さんとシンクロした。

 

「青葉って子、きっと本気だったんだろうねぇ。絵本のことも考えると……」

「庭師の敦盛さんは管理者ってことか」

 

 管理者は桜の夫とも呼ばれる。そして、桜が眠るときは一緒に眠る。桜の神様へ捧げられた生け贄みたいなものなのか。

 それを代々受け継いでいて、一族は疑問もなく桜の世話をしていたのか? 他にも桜の放棄をしている人がいてもおかしくないのに、青葉が庭師のおっさんに執着しているのはなんでだ? 

 まさか、眠る時が近づいているとか…… ? それなら焦るのも分かるんだが。それとも、本気で惚れていたとでも言うのか。

 

「考えていても答えは出ないね。そこは本人に訊かないと意味がない。想像したくても、アタシはそういうのと無縁だからねぇ」

「可愛いからモテそうだけどな」

「…… そんなことはないんだよ」

 

 少し俯いた紅子さんは首を振るとこちらに顔を向け、笑う。

 

「お兄さんも褒め上手だね。アタシ大好きになっちゃうかもー」

「棒読みすぎるぞ、紅子さん」

「ふふっ、まあ、褒め言葉は素直に受け取っておくよ。ところで、これからどうするのかな?」

 

 事務所には結局誰もいなかったし、むしろ問題しか見つかっていないしな。

 どこにいるかも分からない、ましてや顔もろくに知らないおっさんを探すよりも、この大学生を探して周辺を調べた方が早く見つかる気がする。

 でも、そうなるとストーカーのストーカーをするというか…… その大学生には悪いことをすると思う。

 こちらには紅子さんがいるので俺一人よりは警戒されない気がするが、一体どうやって話しかけるか。

 

「もう夕方だし、もしかしたら大学にこの〝 いろは〟って子がいるかもしれないんだよねぇ。なら張ってみて考えればいいんじゃないかな。ほら、いなければ明日に回してもいいだろう?」

 

 〝秘色(ひそく)いろは〟

 写真の裏に載っていた名前だ。恐らくストーカーされている女性の名前だろう。

 日記を見る限り、不思議な力を持っていそうな子だ。

 俺みたいに刀を振り回すだけじゃない。ちゃんとした霊能力みたいな、そんな感じの。

 そちらの切り口からなら、自然に声がかけられるかもしれない。

 同じオカルトに携わる人間として……

 

 よく考えてみれば、俺は妖怪やら神様やらには会ってきたが同じような立場の人間には会ったことがない。

 周りの連中が皆限りなく人間に近い見た目をしているせいで気づいていなかったが、〝 見えて、対処する 〟ことかできる仲間はいなかったな。

 青凪さん達は対処のできない人間だったし、青水さんは綺麗に見せかけているだけの…… 悪くいえば死体だった。

 押野君も対処のできない人間だ。

 

 俺と深く関わって共にオカルトを乗り越えた人間というのは、実はいない。

 邪神は邪神だし、紅子さんは人間らしいが赤いちゃんちゃんこというれっきとした都市伝説だ。人間ではない。

 ケルヴェアートさんは地獄の番犬。しらべさんもさとり妖怪。アルフォードさんも本性は赤いドラゴンだ。

 

 なんてことだ、俺は人外共に囲まれすぎてぼっちになっていた。

 

 …… っていうか、そうだ。俺はニャルラトホテプに強制ぼっちにさせられてしまっていたんだった。忘れていた。

 

 あまりにも皆が人間くさくて、忘れてしまっていた。

 俺と紅子さん達は、根本的に違う生き物のようなものなんだって。

 

「どうしたのかな? お兄さん」

「いや、その…… オカルトに対応できる人間の仲間って、今までいなかったんだなあと」

「ああ、そういえばそうだね」

 

 紅子さんは包帯で覆われた自分の首を撫でながら、言う。

 

「お兄さんは、寂しい?」

 

 寂しくないといえば、嘘になる。

 ニャルラトホテプ(あいつ)と二人きりだったときと比べれば随分と心に余裕ができた。

 それはひとえに、すぐに連絡がついて気遣ってもくれる紅子さんみたいな相談相手ができたからだろう。

 だから感謝している。俺が沢山の物を失い、地獄にいるという認識を忘れさせてくれて。

 

「今は、そんなに寂しくないな」

「そっか」

 

 真っ赤な柘榴のような瞳はこちらからふい、と逸らされて瞼を落とす。

 紅子さんはそれ以上聞いてこなかった。

 

「お兄さん、急がないと大学の辺り探しに行けないよ」

「ああ、もう行こうか」

 

 黙したまま自然に隣を歩き、電車に乗る。

 大学に着く頃にはもう暗くなり始めていた。

 

「夜はアタシ達の時間だねぇ。今夜はどこまで行こうか?」

「家に帰るまでが調査だな」

「つれないねぇ」

 

 言いながら人を探す。

 けれど写真を見たとはいえ、いつ出てくるか、もしくは既に出ている一人の人間を探すのは難しい。

 そもそも、大学の授業は全員同じ時間に始まるわけでも、終わるわけでもないのでこの行動はもはや賭けに近い。

 雑踏の中二人だけで立ち止まり道行く人を観察していると、周囲の大学生の視線が自分達にちらほら向けられていることにも気づいてしまう。

 こちらがあちらを観察しているのと同じで、女子高生と大人の組み合わせに不審な目を向けてきているのだ。

 さっきから、からかいまじりに紅子さんが話しかけてくるのもその大きな要因になっているだろう。

 

「うん?」

「どうした? 紅子さん」

 

 そうやって視線を忙しなく動かしていると、紅子さんがなにかに気がついたように首を傾げ、ある一点を見つめて目を細めた。

 

「みいつけた」

 

 ねっとりと、そう呟く彼女に少しだけ背筋がゾッとする。

 だが、そのすぐあとに同じ方向へ目線を移動させた。

 そこには確かに写真通りの女の子がいた。空のような明るい髪に海外の海のようなエメラルドグリーンの瞳。写真とはまた別の私服らしき格好だが、頭につけた羽根飾り付きのヘアバンドは特徴的だ。間違いなく彼女が〝 秘色いろは 〟さんだろう。

 さて、どうやって話しかけようか。そう思って見ていると、彼女がこちらを…… いや、正確には紅子さんを見て目を丸くした。

 そして紅子さんが彼女に向かって歩き出すと同時に、あちらも進行方向を変える。

 俺がそこはかとなく嫌な予感を覚えながら紅子さんの後を追うと、二人はさっそく会話を始めた。

 会話の切っ掛けを必死に考えた俺の努力は一体……

 

「こんばんは、お姉さん。寒くないかな? 赤い衣は必要ない?」

「こんばんは、妖怪さん。寂しくはない? 手助けは必要ない?」

 

 紅子さんの発言に俺が慌てて間に入ると、秘色いろはさんは言葉遊びのように同じ調子で別の言葉を続けた。

 少々殺伐とした雰囲気に滅入りそうになりながらも紅子さんを庇う。

 秘色いろはさんはなんらかの手段で怪異を祓えるはずだ。紅子さんを祓われてしまうわけにはいかない。

 俺の貴重な相談相手にいなくなってほしくはない。

 

「あなたは…… そう、普通の幽霊じゃないんだ。桜子さんと、同じ?」

「アタシのことは〝 トイレの紅子さん 〟とでも呼んでくれればいいよ。キミが秘色いろはであっているかな?」

「ええ、合ってる」

 

 紅子さんの確認の言葉に続ける。

 

「その、俺達とある人を探しててさ。協力してほしいんだけど……」

「誰…… ?」

「あ、俺は下土井令一です」

「そうじゃなくて…… 探しているのは、誰ですか?」

 

 表情はわりと変わるのに、声に抑揚が一切乗せられていないため少し違和感がある。

 

「敦盛春樹っていう庭師の人なんだけど…… その、あー……」

 

 なんと言えばいいのか。

 

「ああ、そうだね…… 桜子さん。それって、もしかしてわたしのこと尾け回してる人のことでしょうか?」

「あ、ああそうなんだ…… でもなんで分かったんだ? あと桜子さんって…… ?」

 

 俺達以外には誰もいないはずだけど。

 

「ストーカーがいるのは、知ってました。害が特にないので…… 気にしてませんでしたけど」

 

 ストーカーしている時点で害はあるだろうに。

 

「桜子さんは…… こっちです……」

 

 そう言って彼女が取り出したのは、一本のカッターナイフだ。

 なんだろう、付喪神でも宿っているとか? 

 

「お兄さん付喪神じゃないよ、これ。量産品に魂は宿らない。むしろこいつはアタシと同じ……」

 

 言い終わる前に、カッターナイフから桃色の炎が燃え上がった。

 そしてそれは秘色いろはさんの隣に人型の炎を作ると、ゆっくりと鎮火していく。最後に残ったのは先程までいなかった人物と、桃色の人魂一つだけだった。

 

「ごきげんよう。ぼくは元七彩高等学校七不思議が六番目…… 〝 家庭科室の桜子さん 〟だ。よろしく、後輩ちゃん」

 

 その人は、栗色の髪の毛をハーフアップにし、桜の髪ゴムで束ねて桃色のセーラー服を着ていた。校章は七彩高等学校のもので、両手首、両足首に包帯が巻かれている。

 目は珊瑚のような薄い色で、石榴のような紅子さんとは対照的に淡い印象を受ける。

 青葉ちゃんには悪いけど、こちらの方がよほど桜の精霊っぽい印象を受ける。

 だが、七彩の七不思議には〝 家庭科室の桜子さん 〟なんてなかったはずなんだけど……

 

「キミ、もしかして前任の七不思議なのかな…… ?」

「そうだって言っているだろう? その耳は飾りなのかな? 後輩ちゃん」

 

 前任? 七不思議に前任も後任もあるのか? 

 俺の疑問気な顔に気がついたんだろう。紅子さんは秘色いろはさんを警戒するように見つめながら俺の服の裾を掴む。

 

「アタシは放浪してたのを腰を落ち着けて七不思議になった口なんだよね。なんでも…… しらべさん以外の七不思議は皆、たった一人の学生に成仏させられてしまったとかなんとか…… まだ残ってるのがいるとは聞いてなかったけどねぇ…… もしかして、その学生ってキミのこと?」

「…… 懐かしい」

 

 秘色いろはさんは、本当に懐かしそうに目を細めた。

 それは明確な肯定の返事でしかなく、俺には脅威に思えて仕方なかった。

 

「どこか、喫茶店にでも入りましょうか」

 

 この緊張した空気の中のんきにそう言う彼女は、確かにオカルトと相性が良さそうだ。

 




秘色(ひそく)いろはと桜子さん
 オリジナル小説 「シムルグの雛鳥」 主人公と、彼女に封印された六番目の七不思議。シムルグという神鳥の養子となり、庇護を受けている。
 「シムルグの雛鳥」は読まなくても分かるように書いています。

桜子さん


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秘色いろは(友人製)
友人が一途の華セッション後に描いてくれたものです。


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だから、お前の全てを受け入れよう

 

 

 カラン、カラン、と喫茶店のベルが鳴る。

 俺達はそのまま喫茶店の中に入り、窓際の席へ二人ずつ座った。

 俺の前には秘色(ひそく)いろはさん。そして紅子さんの前には桜子さんだ。

 

「それで…… あの人を誘い出したいって言っていましたけど、協力は構いません。ただ、経緯はちゃんと教えてくださいね」

「いろはは〝 同盟 〟の人間だから人外のことを話すのに躊躇いはいらないよ。むしろ、詳しく聞かせてほしいくらいだね」

 

 同盟の人間? 

 いや、同盟は人間と共に暮らしたい人外達の集まりじゃなかったのか。そこに人間が入っているというのはおかしいんじゃないか? 

 

「わたしが同盟に入ってるんじゃなくて、わたしの保護者が同盟の関係者なんです」

 

 なにか察したようにそう言った秘色さんに、俺は言葉を詰まらせた。

 それって、つまり俺と同じ…… 人外と住む人間ってことなのか。

 辛くは、ないのか。俺でさえこんなにも嫌で嫌で仕方ないのに。

 

「わたしは幸せですよ。わたしの、望んだことですから」

 

 優しい目で言った彼女の言葉は、抑揚なんてないのに確かに嬉しそうだった。

 

「そっか、俺とは違うんだな」

 

 女の人が無理矢理従属されていたりなんかしたら、それこそ事案というか…… そいつを叩き斬りに行きたくなる。

 

「それよりも、経緯をお願いします。同盟の仕事は〝 やりすぎた人外の捕縛や討伐 〟もあるので、力になりますよ」

 

 それはつまり、実績もあると考えていいのだろうか。

 青葉ちゃんが敦盛春樹さんを呼び寄せてなにをしたいのかは分からないが、良いことではないと思う。

 これがただ仲直りしたいだけとか、愛の告白だとか、そういうのならまだなんとか説得の余地があるし、あるいは想いを伝えて満足するなんてこともあり得るが…… 彼女は俺が人外と関わりがあると分かって脅し混じりのお願い事をしてきたんだ。

 拒否権なぞない。そんな威圧感を出しながらされた〝 お願い 〟が平穏無事に済むとはとても思えないのだ。

 

 だから、俺は秘色さんに最初から経緯を話した。

 最近流行りの冬に咲く桜。その精の青葉ちゃんのこと。

 彼女から自分の世話をしていた庭師を探してくれと言われたこと。

 その庭師が秘色さんのストーカーをしている人物であるということ。

 図書館で発見した〝 花の神様と夫と呼ばれる管理者 〟のこと。

 

 夫と呼ばれる花の神の管理者は、花が長い長い眠りにつく際に一緒に眠りにつく。花の神が寂しくならないように夫として。

 それはきっと、花の神の恩恵をずっと受けていられるようにするためだったのだと思う。

 そんな考察も混ぜ、自分の不安を打ち明ける。

 

 もしかしたら、青葉ちゃんは眠りにつくために管理者を探しているのではないか? 

 それならば管理者の、庭師の敦盛さんはどうなってしまうのだろう。

 彼は周りからすれば体のいい生贄とさほど変わらない立場なんじゃないか。

 それを分かっていて、放っておくのもどうかと思うんだ。

 

「お兄さんは本当にまあ、お人好しだねぇ…… そういう無責任なところ嫌いだよ」

「うっ」

 

 黙って喫茶店のワッフルをつついていた紅子さんが牽制する。

 横目でこちらを見る真っ赤な瞳は責めているようでいて、呆れているようでもあった。

 人間の俺に深入りさせないようにしているようでも、あった。

 

「ひとまず、桜の下に連れて行くのは決定なんですよね」

 

 秘色さんが確認してくるようにこちらを見る。

 俺がそれに頷くと彼女は 「そうですか……」 と呟いてからふと視線を移動させた。

 

「なら、もうここに用はありませんね」

「作戦実行しようか」

 

 桜子さんも同意の返答をする。

 

「え、今からか?」

「気づいていなかったんですね、もう来てます」

 

 秘色さんの言葉に俺はビビってカツン、とケーキの皿を強く突きすぎた。

 

「……」

 

 秘色さんが窓を指差す。

 俺も後ろを振り返ることなく視線を窓に移すと、二、三席離れた後方に敦盛春樹が新聞を読む振りをしながらこちらを睨んでいた。

 

「おっと、好きな子が知らない男といてお怒りのようで」

「紅子さん、茶化さないでくれよ」

「…… ということです」

 

 なるほど、これならすぐに移動するだけでついて来そうだ。

 俺たちは目配せをしてその場から立ち上がる。

 秘色さんに先に行っていてもらっても良かったが、そうなると俺が絡まれる可能性が高くなる。そんなの勘弁だ。

 それなら一緒に桜まで誘導していった方が良い。

 俺が全員分の支払いをして出ると、秘色さんはさっそく駅の方へと向かっていく。俺も紅子さんと追い、ときおり彼女に確認すれば 「しっかりついてきてるよ」 と後方確認してくれる。

 このまま普通に目的地へ向かってもついてきそうだ。

 

 途中で桜に向かっていると気づかれそうだが、秘色さんに夢中になっているようだし、最近は青葉ちゃんからの追っ手も消えているからそのまま来るだろう。

 

「準備はしておいた方が良さそうですね」

「ぼくに任せてくれよ、いろは」

「絵を描いている間だけね」

 

 青葉ちゃんは元の花の神とは別物だが、ちゃんと神格を持っているはずだ。

 そんな存在を相手に彼女がどこまでできるかは知らないが、本当になんとかなるのか…… ? 

 

 丘の上にある桜は怪しく揺らめき、その薄紅色の花をまるでイルミネーションのように同じ色の光がぼんやりと覆っている。

 この近辺に来た途端、急激に日が沈んでいった。

 もしかしたらそれだけ時間が経ったのかもしれない。だが、俺たちの目には急に夜の幕が降りてきたように感じられた。

 神、というよりも妖怪と言った方がそれらしい木の下に、桃色の髪を揺らした青葉ちゃんがいた。

 俺はそこでようやく気がつく。普通ならいくらか桜が散ってピンク色の絨毯が出来ていてもおかしくないのに、地面に落ちた桜の花は一切見当たらなかった。

 

 こちらに背を向けるように経っている彼女は〝 自分自身 〟を見上げていたようだが、ゆっくりとこちらへ振り返る。花が綻ぶような、そんな笑みを浮かべて。

 

「やあ、人間。やっと来たね…… ボク待ちくたびれちゃったよ」

「まだ数日しか経ってないだろ」

 

 妙な圧迫感を醸し出す彼女に怖気づきながらも言い返す。

 何年も待っていたんだろう。それなら追加で数日くらい待てるだろうが。

 

「時間がないんだよ。人間並みにね」

「へえ、一時間刻みでのスケジュールでもあるのかな?」

「おや、人間並みの基準を履き違えていたみたいだね。最近の人間は生き急ぎすぎている。ああ、キミはもう死んでるんだっけ」

 

 言い返した紅子さんは青葉ちゃんの言葉に少しムッとしたように眉を吊り上げた。

 

「死んでても良いことはある。例えば妙なお兄さんが遊び相手になってくれたりね。神様じゃあ恐れ多くて誰も相手してくれないだろう?」

「言うね、亡霊のカケラ程度が」

「おっと、まさか神様のカケラがこんなにキレやすいなんて予想外だよ」

 

 ニヤニヤと煽りに煽る紅子さんの肩に手を置いて宥める。

 

「ちょっとした仕返しくらいいいだろう?」

「怒らせてどうするんだよ」

「アタシが貶されるのはいいのかな?」

「よくない」

 

 即答すると、彼女は驚いたように目を丸くしてから黙った。おまけに溜め息つきだ。

 

「いいよいいよ、ぼくはこういう戦い前の煽り合い好きだから」

「桜子さんは参加しないで」

「ちぇー」

 

 そもそも戦うと決まったわけじゃないんだけどな……

 秘色さんを最後にして丘に上がると、その数秒後には桜から同じ色の蝶が一斉に飛び立った。

 

「なんだあれ……」

 

 蝶は四方八方に散っていき、一定の距離まで到達すると溶けるように消えていく。目を細めると、この辺り一帯を僅かに薄いピンク色の膜のようなものが覆っているのが見える。

 俺の呟きには秘色さんが反応して 「一種の結界、です」 と答えた。

 さすがの神様といったところなのだろうか。

 

「あのね、お兄さん。人外連中は皆違えど固有の空間みたいのものは持ってるんだよ。アタシの場合は夢の中、キミのご主人様はあの家そのもの。多分もっと大きいのを作れるけどしてないだけだ。近所に一定の時間で妖怪市場に繋がる神社もあっただろう?」

 

 確かにあったな。

 なら、これは桜の結界か。いったいなんのために……

 

「もちろん、獲物を逃さないためだろう? ぼくもそうしていろはを殺そうとしたからね!」

「懐かしい……」

 

 その経験を懐かしいで済ませるのはどうかと思うけどな! 

 獲物、この場合の獲物といったら俺達じゃなくて……

 

「な、なんだ!? なにが起こって…… ここは、もしかして!」

「いろはに釣られて来た獲物が一匹…… ご案内だね」

 

 桜子さんが愉快そうに笑う。

 元々の気質が残酷なのか、それとも人間に対する憎悪が強いのか、本人も自称していた通り、実に〝 悪霊 〟らしい笑い方だった。

 

「ああ待っていた! 待っていたよ春樹…… 覚えてるかい? ボクだよ、青葉だよ! 前に約束しただろう? キミはボクの許婚なんだから、もう逃げちゃダメだよ?」

 

 そう言って走り寄っていく青葉を彼は…… 拒絶した。

 

「嫌だ! なんでテメーがここにいる!? な んでテメーは歳を取らねぇんだ!? 気持ち悪い、こっちに来るな!」

 

 全力の抱擁をしようとした彼女は、彼が避けたことによってその場で転んだ。

 そのときに俺は反射的に動こうとしたが、それは紅子さんの腕で静止させられる。

 

「桜子さん、敦盛さんの確保を」

「いろは、もう遅いよ」

「え、もう…… ?」

 

 二人が動こうとしたが、一歩遅かったみたいだ。

 敦盛さんは更に怒鳴り散らそうとしたところを後ろ向きに倒れた。

 いや、違う。彼は、地面から突き出てきた桜の根っこに足を取られ、そのまま結界内の空に吊り上げられたんだ。

 根から桜の枝へと受け渡された彼は空中でその胴と、股下から伸ばされた太い枝で拘束され、動けない。

 股下を通った枝で体勢的には吊り上げられるよりマシだろうが、相手は神様だ。この状況はヤバすぎる。あまり怒らせているとあの人が絞め殺されそうだ。

 

「なんで?」

 

 地面に四つん這いになったまま呟いた青葉ちゃんの言葉に怖気が走る。

 

「ボクはこんなにも好きなのに。どんなにキミが歳をとっても、好きなのに」

 

 桜が騒めく。

 彼女の心を表すように枝がどんどん増え、触手のようにムチ打ちながら桜が攻撃性を増していった。

 しばらく締め付けられていたらしい敦盛さんが呻きながら、声を小さくしていく。あれは、本当にやばい。下手したら命の危機だ。

 青葉ちゃんはきっと怒りで力加減を誤っているんだ。落ち着かせれば……

 

「ひどいよぉ……」

 

 顔を上げた彼女はポロポロとその目から涙を流していた。

 けれど、敦盛さんが気絶するように脱力するとそのまま空を泳ぐように飛んで、彼の元へ向かう。

 

「まだ、死んでないよ」

 

 幽霊の紅子さんが言うなら、そうなんだろう。

 

「下土井さん、戦闘はできますか?」

 

 近くにいた秘色さんが俺を見上げた。

 

「問題ない」

「最優先事項は敦盛さんを拘束している枝の破壊及び、救出です。怪我をしていてもある程度なら回復手段があります」

「話し合いは……」

「…… 不可能でしょう。わたし達には彼女相手に切れる交渉材料がありません」

 

 断言され、俺の希望は絶たれた。

 

「ボクはね、それでも好きなんだ」

 

 語りかけるように、言い聞かせるように青葉ちゃんが言う。

 

「たとえキミがボクを見ていなくてもいい。ボク〝 が 〟好きだから、それでいい。それで全ては完結する。だから」

 

 

── だから、お前の全てを受け入れよう

 

 

 目を細めて青葉ちゃんは彼を抱き込むようにしたあと、そばを離れる。

 

「ボクを嫌いなままのキミをそのまま受け入れよう。なあに、100年も一緒に地下で眠ればまた昔のように仲良くなれるさ」

 

 にっこりと、それはもう嬉しそうに。

 

「けど、その前にやることはやらなくちゃ」

 

 彼女は枝を伝いながら降りて来ると、笑顔で木の根元に座った。

 

「人の恋路を邪魔する人は、馬に蹴られて死んじゃうんだってさ」

 

 その言葉を合図にしたように、その場で蠢くだけだった枝が一斉にこちらへ向かってきた。

 その様子に少しだけ、〝 あのとき 〟の光景がフラッシュバックする。

 ニャルラトホテプの触手に腹を貫かれる友人、真っ二つに裂ける親友。血飛沫、狂気の渦巻いた光景……

 

「桜子さん、右」

「はいはい」

 

 だが、その悪夢も目の前で枝を切り裂くカッターナイフなんて見てしまったら霧散した。

 

「お兄さん、なにもできないなら下がってな!」

「いや、やるよ」

 

 紅子さんは上から叩きつけられる枝を素早くガラス片で受け流す。

 彼女を殺した凶器でもあるそれは、彼女の武器でもあるのだ。

 人魂を纏わせるように紅く仄かに光るガラス片は耐久力なんて無視して切り裂き、枝をときおり炎上させている。

 

「きゅう!」

 

 カバンから自主的に出てきた赤く小さなドラゴン…… 鱗のリンに 「頼む」 と言うと、手のひらの上に乗っていたリンがみるみるうちに赤い刀身の刀へ変貌していく。

 

 振るえば、すっぱりと枝が切れた。

 無謀断ちであり、無貌断ちになったらしいこの刀。格上が相手であればそれだけ力も強くなるだろう。

 相手は外から来たニャルラトホテプ(あいつ)とは違い、地球で産まれた比較的浅い神。

 だが神は神。格上なことに変わりはない。

 目的は討伐ではなくて敦盛さんを救出することだけだ。どうにか近づかないと。

 

 けれど、結界があるのに秘色さんはどうやって逃げようというのだろうか。

 

「あっぶな!?」

 

 俺のすぐ横の地面に枝が突き刺さる。

 考え事をするのは後だ。今は目の前のことに集中しないと。

 

 右、左と避け、正面から突き刺してやろうと迫って来る枝に合わせて刀を持ち、勝手に裂けていく道を走る。

 今度は桜の花が視界を覆うように飛ばされて来る。横から来た枝を受け流す要領で舞う桜の梅雨払いに利用し、結界に利用されていた光の蝶を切り裂く。

 次に来た巨大な桜の蕾を切り払えば、ぶわりとピンク色の煙が広がった。桜の香りを凝縮したような、春先に日向ぼっこしたときのような暖かさに一瞬思考が曇る。

 

「お兄さんはバカなのかな!?」

 

 幻惑され、足を止めたところに下から突き上げられた桜の根を見上げる。

 突き飛ばされた俺は、さっきまでいた場所へ代わりに残った紅子さんの行方を追った。

 

「紅子、さん…… ?」

 

 上空には、桜の根に腹を直撃され串刺しとなった紅子さんがいた。

 友人達が死んだときと、全く同じ光景に俺はその場で混乱した。

 不思議と血が降ってこないのは彼女が幽霊だからか、とか、紅子さんが死ぬのかとか、頭の中を様々なことが巡って一時停止する。

 ぎゃあ、と鳥の真似をして俺に殺された青凪さんと、紅子さんの姿が重なる。フラッシュバックする。

 

「う、そ、だ」

 

 あのときとまったく同じ反射。

 そして、棒立ちになり無防備になる。

 

 これを好機とばかりに枝が、迫って来た。

 

「ぅあ……」

 

 しかし、首元のネックレスがまるで意思があるかのように俺を締め上げ、次の瞬間には迫り来る枝を刀で受け流していた。

 発狂寸前の身を無理矢理鎮静させられ戸惑うが、厄介なご主人様のおかげで正気に引き戻されたのは事実。今だけは感謝する。

 

「紅子さん!」

 

 根が地中に戻っていくと、ピクリとも動かない紅子さんはそのまま地面に横たわった。

 完全に腹はおろか心臓の位置まで風穴が空いている。普通なら助からないが、さっき秘色さんが回復手段があるとか言っていたか…… これをどうにかできるかは分からないが、彼女を連れて…… ? 

 

「わっ、な、なんだ?」

 

 紅子さんを姫抱きにして枝を右に左に避けていると、彼女の体が突然紅い煙となって霧散する。その光景に、俺は今度こそ愕然として立ち尽くした。

 彼女を抱いていた手の中に擦り寄るような一匹の紅い蝶が溜まる。

 

 紅い燐光を纏ったその蝶はまるで──

 

 その蝶を見つめていると、突然結界の外から真っ黒い煙が流れ込んで俺の周りで渦巻き始めた。

 あれは怪異だと感じとり、追い払おうとしても徐々にそれは近づき、紅い蝶々へと絡みつくように吸い込まれていく。

 蝶を中心点に支えていた手が極端に冷え込んだようにかじかむが、まさか手を引くわけにはいかない。だって、そうしたら彼女がどこかへ行ってしまいそうで。

 そして、数秒程ですぐに黒い煙は消えた。

 

「は!?」

 

 俺の腕の中には、姫抱きにされた紅子さんが再び収まっていた。

 

「…… わ、お兄さんもう大丈夫だから降ろして!」

「べ、紅子、さん」

 

 罪悪感が込み上げ、腕の中で暴れる彼女を思わず抱きしめていた。

 

「俺、のせいで……」

「ああそうだね。〝 お兄さんのせいで 〟痛い目に遭っちゃった。ミスなんてもうしないでよ?」

 

――「おにー、さん、のせい…… じゃ、ない…… よ」

 

 ああ、そっか。そうだった。

 

 〝 お兄さんのせいで 〟

 

 彼女は…… 紅子さんは、青凪さんとは違う。

 まったく別の子なんだ。違う人間なんだ。分かっていたのに。やっと、俺は〝 理解 〟できた。

 

「ああ、もうミスはしない。ごめん」

「アタシとしては謝られるより、感謝されたいんだけどねぇ」

「うん、ありがとう」

「ふふ、どういたしまして」

「ちょっとそこの二人! 早く捌くの手伝ってよ!」

 

 桜子さんが周りの枝を代わりに処理してくれている間に、俺は紅子さんを降ろす。紅子さんはほんの少しだけしおらしくして俺の服を掴んでたが、すぐに離れた。

 

「…… 不思議? アタシ達の体は噂でできてるから、心配しなくてもすぐ復活できるんだ。ほら、いつまでもここにいないでさっさと行った!」

「あ、ああ」

 

 釈然としない気持ちと、すっきりした気持ちを持ちながら先へ進む。

 

 …… 黒い煙が噂の塊だと言うのなら、あの赤い、紅い蝶々はもしかしてと思いを巡らせながら。

 青葉ちゃんはこちらを睨みながら、随分とご機嫌斜めな様子を見せていた。

 

「なんでボクの邪魔をするの?」

「そりゃあ……」

 

 俺が言う前に、紅子さんが答えた。

 

「ほら、お兄さん前払いはもらったけどちゃんと報酬もらってないでしょ? タダ働きは誰だって嫌なもの、だよ!」

 

 その途端、枝の動きがピタリと止まった。完全に予想外という顔を青葉ちゃんがする。

 依然、警戒するようにこちらに枝は向いたままだが、完全に攻撃はやめたようだ。

 

「そうか、そうだったね。ごめんね、ボクとしたことが忘れてたよ」

「うおっ!?」

 

 言ってすぐ目の前に現れた青葉ちゃんに一歩後ずさる。

 

「報酬はなにがいいかな。前払いみたいなのはダメだよね。ボクができること…… ううーん」

「あの人を解放してやるのは……」

「ボクのできることって言ってるでしょ?」

 

 有無を言わさぬ威圧感で黙らされた。

 

「キミの眠り、とかどうかな?」

 

 声が聞こえた、すぐそばで。

 俺のズボンのポケットから飛び出した鋭いガラス片は素早く青葉ちゃんの首筋を切り裂いた。

 

 なにが起きたか、分からなかった。

 

「あ、あ……」

 

 ポタリ、なんて音じゃ収拾がつかないほどの量の血が首から流れ落ちては桜の花に変わっていく。

 俺が紅子さんを抱き上げていたときに、いつの間にかガラス片を持たされていたのか。

 …… 不意打ちは怪異の得意技か。

 

「あなたはやりすぎた」

 

 ざくりと背後から紙を切り裂く音が響くと、その分だけ彼女の顔に亀裂が入っていく。

 

「木を傷つけても無意味、本体は桜だけど、意思はあなたが持っている。眠るのはあなただけ」

 

 秘色さんが近づいて来る。

 青葉ちゃんは枝を動かして敦盛さんに触れに行こうとするが、彼は巨大な枝を切り落とした桜子さんによって既に救出されていた。

 

「待て、待ってよ! その人を連れて行かないで! ボクの、ボクの……」

 

 崩れながら、ただの木の人形のようになりながら、青葉ちゃんが彼に手を伸ばす。

 けど、その手が握られることは……なかった。

 

「キミは寂しさを紛らわせる生け贄が欲しいだけで、本当は誰でも良かったんだよ。そうは思わないかな?」

 

 紅子さんが皮肉気に言った言葉に、彼女は絶望したようにその手を胸に当てた。思い当たる節があったのかもしれない。

 

「独りで眠れよ、桜の精」

 

 神とは言ってやらないんだな。

 まあ、元は神様じゃなくて花に宿った精霊だったからか。

 

「…… はあ、やっと終わった」

「おつかれさまです」

 

 秘色さんにおつかれ、と返してその場に座る。

 見ると結界は頭上から地面に向かって解けるように消えていく。

 人間の敦盛さんは無事だし、なんとかなったかな……

 できれば青葉ちゃんも、なんて言ったら紅子さんにまた偽善だとたしなめられてしまうだろうが。

 

「…… ああ?」

 

 おっと、敦盛さんが起きたけど…… 秘色さんどこにいったんだ? 

 

「え、そっち?」

 

 紅子さんの目配せに従って視線を移動させると、桜の裏から振られる手が見えた。

 敦盛さんが彼女を見ると面倒なことになるからだろう。仕方ないか。

 

「怪我はありませんか?」

「……」

 

 俺の言葉に返事もせずにキョロキョロと辺りを見回していた敦盛さんは、最後にすっかり花が散った桜を見上げて呟いた。

 

「距離を取るだけじゃ効果ねぇのかよ…… ッチ」

「ちょ、ちょっとなにするんですか!?」

 

 そして起き上がると、なんと桜の幹に蹴りを入れて唾を吐いた。

 さすがにこんな仕打ちじゃあ青葉ちゃんが可哀想すぎる! 

 

「ああいうのには関わっちゃダメだよ、お兄さん」

 

 そのまま去っていく彼を引きとめようとして、紅子さんに注意される。

 

「それと、人間のクセに神様のことを可哀想だなんて思うべきじゃない」

「えっ、俺口に出てたか?」

「いいや、キミの考えそうなことなんてお見通しだよ。人外に同情なんてご法度だ。そんなんだから厄介なのに執着されるんだよ」

 

 這い寄る混沌とか、なんて冗談めかして言った彼女に苦笑いを返す。確かにそうだ。

 

「さて、俺達も帰るか」

「帰りましょう。ああ、連絡先だけ渡しておきますね。同盟でもよろしくお願いします」

「あ、紅子。ちょっといい?」

「なに、桜子」

 

 俺達が連絡先を交換している傍でなにやら幽霊二人が話し合っている。

 

「キミ、最近〝 遊び 〟してるの?」

「……」

「ああ、そう…… しばらくあのお兄さんといるのはやめたほうがいいと思うけどね、ぼくは」

「そうだね、復活が遅い…… 〝 赤いちゃんちゃんこ 〟って認められにくくなってるかもしれない」

「ちゃーんと〝 らしい 〟ことしてないとダメだよ? ぼく達は怪異なんだから」

 

 そうして俺達は、それぞれの家路についた。




 ヤンデレボクっ娘青葉。
 気がついている方もいるかもしれませんが、当小説の登場人物で〝青〟の名前が入った人物は要注意でございます。

 青凪さんと紅子さん
青凪さんの件は令一にとっての立派なトラウマ。


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エピローグ「心臓から咲く紫陽花」

「ああ、見てよれーいちくん。あの桜切り倒されちゃったんだってさ。かわいそうに…… くふふふふ」

「はあ!?」

 

 急いでネットの海に潜れば、すぐにそれは見つかった。

 噂の狂い咲き桜が一晩で散り、さらに大量の花が地面に落ちることもなく文字通り消えていたことから、それを怪奇現象だと騒ぎ立てた人間が現れたらしい。

 それらは全員庭木に関わる業者達で、代表の敦盛春樹が桜の木を伐採、掘り起こしてあの丘を公園にする企画が進んでいるとか。

 もしかしなくとも、敦盛春樹その人の策略だろう。

 

「うっわ」

 

 それしか言えなかった。

 これでは青葉ちゃんは……

 

「依り代の桜の木が壊されたんじゃもうだめだろうね。植え替えなら死ななかっただろうけど……まあ、ヴルトゥーム君のカケラもカケラだし不老ではあっても不死性なんかないよ」

 

 そうか、やっぱりそうなんだな。

 ちょっと気になることはあるが、青葉ちゃんがもうこの世にいないというのは事実だ。

 

「お前が殺したのさ」

 

 なんでこいつはこうも、俺を責め立てようとするのか。

 だが、俺が殺したようなものなのは変わらないか。いや俺達が、かな。

 

「そんなこと言ってるとおやつ作りませんよ」

「そんな話で引き下がるとでも思うのかな? お前は」

「じゃあ今日はデザートなしですね」

「その首輪でお前を助けてやっただろう?」

「う、それは……」

 

 やっぱりあれ、こいつだったのか。

 

「はい、私の勝ちー」

「神の威厳もクソもない勝利宣言はやめてください」

「くふふ、だって最近れーいちくんの絶望する顔観れてないしー」

 

 ごくごく最近見たばっかりだろ。それもお前が全ての元凶で! 

 

「さーて、次はなにしてもらおうかな」

「しばらくはやめろください!」

 

 俺が必死に休暇を求めていると、窓の外で雨が降り始めた。

 

「あ、洗濯物!?」

「すっかり主夫だね」

「うるさい!」

 

 結構雨が強い。洗濯物は部屋干しにするしかないな。

 取り込んだときには既にびしょ濡れになっていて、もう一度洗濯し直すはめになった。

 今日はテンションが下がることが多い。

 

「大雨になるな……」

「天気予報は晴れだったのにね」

 

 空模様を見ながら言った俺に、ニャルラトホテプ(やつ)がそう返した。

 ところでさっきこいつが言っていたヴルトゥームとは誰のことだ。絵本にあった〝空を流れていった花の神様〟がそれか? 

 あとで調べておこう。

 

 

 

 翌日、俺が朝起きて朝食をヤツの元へ運んでいると、ちょうどニュースが流れていた。昨日の大雨のニュースだ。

 川の決壊などでだいぶ被害が出たらしい。

 

 ―― 次のニュースです。◯◯町の洪水により…… 造園業を営む敦盛春樹さん(46)の工房が倒壊し、家主の敦盛春樹さんが遺体で発見され ――

 

「はあ!?」

「くふふふ、死んでも道連れにするなんて、神様は怖いね」

 

 お前が言うな! なんてツッこむ暇もなく再びネットの海に潜ると、詳しい情報が載っていた。

 オカルト掲示板でもどうやら取り沙汰されているみたいだ。

 

「れーいちくん、電話来てるみたいだけど?」

「ん? あ、ああ…… もしもし」

 

 電話の相手は秘色(ひそく)さんだった。

 

「こんにちは、ニュース見ましたか?」

「ああ、見たよ。敦盛さんが……」

「ええ、桜子さんに現場まで行って確認してもらいましたけど、すごく奇妙なことになっていたようですよ」

「奇妙…… ?」

「オカルト掲示板にも書き込まれていますけど、今から話しますね」

 

 どうやら、電話に出る直前に見つけた掲示板にも情報があるようだ。

 

「桜子さんが見たときには、敦盛さん…… 胃の中から紫陽花が生えて死んでしまっていたそうで」

 

 本日一番の衝撃だった。

 

「正確には心臓を根が覆っていて、そこから胃を貫通して口から紫陽花が出ていたそうです」

 

 声すら出ず、一拍置いてから生返事気味に言葉を絞り出す。

 

「そう、か」

「桜でないことに違和感がありますよね?」

 

 いや、状況があまりに異様でそれどころじゃないんだが。

 

「紫陽花の花言葉には〝 移り気 〟があるんですよ。きっと、浮気に怒ったんでしょう」

「そういう問題か?」

 

 せっかく守ったはずの人が死んだなんて、俺達がやったことはいったいなんだったんだよ。そんな思いがぐるぐると巡る。

 

「と、言われましても…… 元凶の青葉さんももういませんし、呪いだけ残されていたようなものです。神様が相手ですし、無傷で終われる方が珍しいですから……」

「慣れてる…… のか?」

「ええ、まあ」

「そっか」

 

 大学生の彼女が慣れてしまうほど、そんなことに関わっているのか。

 それも問題だが、俺もどうにか乗り越えるしかない…… か。

 

「やりきれないな……」

「人間関係でもやりきれない出来事なんてザラにあるじゃないですか。それと変わりません。あちらも、こちらも、根本ではなにも変わらないんですよ」

 

 どちらも欲があるし、嘘もつくし、できることが多いか少ないかだけで根本的には同じもの……

 

「だって、〝 人でないもの 〟は人間の信仰が産み出したんですから。人間くさいのは当たり前でしょう? 下土井さんの所のヒトは、外来のヒトだから違うかもしれませんけれど」

 

 〝 同盟 〟の理念は、自分達が存在するために人に認識され、寄り添うこと。そうか、そうだよな。そんなに大それて考えることはないのか。

 

「人外との諍いは毎回が初めての経験なんです。初めから上手く行くことなんてありませんよ」

 

 次に活かせばいい。彼女の言葉はそう続けられた。

 もちろん悲しくないわけじゃない。

 だけど、秘色さんと話していると少しだけ心が救われる気がした。

 歳下の女の子に励まされてしまうとは、情けないことだけど。

 

 通話しながら退屈しているだろうニャルラトホテプ(あいつ)の方を見ると、ソファから少しだけ覗いた黄色い目玉がスッ、と細められた。

 

「おもしろくない」

 

 その黄色い目玉の持ち主はは立ち直りかけている俺に、心底嫌そうな顔をして言った。

 無造作に纏められた黒く、長い三つ編みがゆらゆらとソファからはみ出て揺れている。

 

「おもしろくなくて結構だ」

「お役に立てたなら良かったです」

「ありがとう、秘色さん」

 

 人間の友達がいるって、いいな。

 

 …… そして俺は通話を切った。

 

 

 

 

 

 

 



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【幕間】紅子さんと赤い竜

 とある場所、この世ともあの世ともいえないどこかのお店。

 真っ赤な長い髪を揺らしながら〝 万能 〟な道具を売る赤い竜。

 

 その名を、『アルフォード・ドライグ・ゴッホ』という。

 

 〝 彼 〟の店の奥には、実は大きな大きな空間がある。

 赤煉瓦でできた古い大きな屋敷。しかし、中は仕切られ人外達の集合住宅となっている〝 同盟 〟組織だ。

 人間が好きな人外達は人間と共に生きるために自分で生活をしている。しかし、外見年齢や見た目で普通の住宅に住むことができない存在も確かにいるのだ。

 この赤煉瓦屋敷は、そんな人外達のために用意された居場所である。

 

 その中の一室、ドアプレートに 「赤いちゃんちゃんこ」 と書いてある部屋を覗けばそこには長い黒髪をベッドに投げ出して眠っている少女がいる。プレートの下に小さく書き足された 「赤座紅子」 という言葉は、その少女の名前だ。

 

 

 

―― 赤いちゃんちゃんこ、着せましょうか? 

 

 

 

 眠っている彼女が口にしたあと、パチリと目を開ける。

 

「うーん、ゲームオーバーだね。残念、残念」

 

 紫がかった黒い髪をかきあげながら呟く彼女の脳裏には、先程までの夢の光景が過っていた。

 彼女の脱出ゲームに誘われた哀れな人間。

 借りた夢の空間で、彼女はいつもの通りに 「アタシを殺した凶器を探して」 とスタートの合図を言った。

 制限時間は1時間。四つの、いや五つの部屋の中から彼女を殺した〝 ガラス片 〟を探すゲーム。

 

「今回の人は中々に情熱的だったねぇ」

 

 確かになにをしても抵抗はしないよとは言ったけれどね? 

 などと言いながら、彼女は自分の衣服を握りしめる。無意識に行われたそれに彼女…… 赤座紅子はハッとして手を離し、溜め息を吐いた。

 

「あーあ、〝 なにをしても 〟って言うのはやっぱり失敗なのかな」

 

 〝 そう 〟なってしまいそうなときはすぐさまタイムアップにし、逃走するがとてもいいゲームだったとは言えない。

 恐怖の感情をそれなりに食べなければいけない彼女は、中途半端にゲームが終わってしまうと食料供給にならないのだ。

 

 憂いを帯びた瞳を細め、立ち上がり身支度をする。

 本質が幽霊である彼女は思考さえすれば着替えも指パッチンどころか、瞬きひとつで済ませることができるのだが、そこは気持ちの問題である。

 生前の生活習慣というものは、幽霊が本質である彼女にとってとても重要だ。やらなくなってしまえば段々と人間らしさが失われていくのが明白だからだ。

 魂と理性がはっきりしている彼女はそうして自分自身が〝 都市伝説 〟としての本質に近づきすぎないようにしている。

 

 そも、彼女は〝 赤いちゃんちゃんこ 〟ではあるが、赤いちゃんちゃんこという怪異の本体ではない。

 元となった怪異がどんな人物だったのか、それとも創作話からの発祥なのか、それすら彼女は知らない。

 言わば、彼女は〝 赤いちゃんちゃんこ 〟という職業に就いた幽霊なのだ。

 

「アタシはレア物なんだし、しっかり生きてなくちゃねー」

 

 ま、もう死んでるんだけど…… と冗談を口ずさみながら彼女は部屋から出る。

 

 都市伝説というものの成り立ちは、まず噂がたち、それを知る人間が多くなることで引き起こる。

 きっかけとなる怪異一人では抱えきれなくなった〝 畏れ 〟が溢れ出し、渦巻き、そして怪異の体を作り出す。

 そこに怪異の元となった〝 噂 〟や〝 話 〟と酷似した経歴を持つ魂が偶然近くにあることで〝 理性のある怪異 〟が初めて成立するのだ。

 これを怪異の分け身と呼ぶ。

 

 彼女の場合、赤いちゃんちゃんこの〝 首を切られて真っ赤な上着を着たように死んだ 〟という記述の通りに死んだ。

 そして偶然近くに赤いちゃんちゃんこの分け身ができていたために引きずられ、都市伝説として生まれ直した。

 このプロセスを通しているために、彼女は自身を〝 レア物 〟と呼称したのだ。

 

 各地で異変を引き起こし、ときに人間を死に誘う怪異は理性や魂のない噂の塊であり、噂の通りに行動することしかできない分霊のようなものであり、始まりの怪異のイミテーションでしかない。

 それを潰して回るのも〝 同盟 〟の仕事だ。

 霧散した同じ存在の噂の力はそのまま彼女に蓄積し、彼女の体が壊れても再生可能にするストックとなっている。

 だから、桜の木の下で殺されたときも無事でいられたのだ。

 …… そして、感謝を伝えたくてあの世から逃亡した青水香織に攻撃されたときも。

 下土井令一は気づいていなかったが、桜の木の下で殺されたときが最初ではなかったのだ。

 

「あの世には行きたくないからねぇ」

 

 都市伝説として生まれ変わった彼女はあの世に行くことを免除されている。都市伝説はもはやただの幽霊ではなく、都市伝説と言う名の概念であり、元の人物とは別人になったと数えられるからだ。

 

 妖怪となった元人間も同様。

 だからあの世の住民は彼女のような〝 成り上がり 〟とも取れる存在を基本的に嫌っている。

 

「よお、紅子」

「おや、ケルベロスさん。おはようございます」

 

 紅子がそう挨拶すると、あの世の住民であるケルベロスは眉を跳ね上げて彼女を睨む。どこにも例外はあるもので、彼は特に彼女への当たりはきつくなく、むしろ親しみを持っている方だ。

 

「ああ? あのなあ、俺様がテメーの名前で呼んでやってるんだ。テメーも種族名で呼ばれてーのか?」

「ふふ、そうだね。分かってるよ。おはようございます、アートさん」

「…… それでいい」

 

 気に入らないはずの彼女に紫色の番犬は目を細めて答える。

 

「ところで…… キミは地獄の門を守る狼だよね? こちらにいてもいいのかな?」

 

 それを言われた瞬間、ケルベロスは再び険しい顔をした。

 そして口をひき結んでグルルと低く唸る。

 

「うるっせぇ! 死んだあいつが門番を任されて、兄の俺様が外周り? 脱獄者の討伐周り? あんなクソまずいモンばっか食うはめになるとか…… あの冥王この野郎!」

「兄弟にでも取られたのかな?」

「ッチ、嫌なこと思い出させんなよ。ああー、甘いもんでも食わなきゃやってらんねー」

 

 そう言いながら、ケルベロスは去っていく。

 残された彼女は 「ふうん、兄弟ねぇ」 と呟いて階下に行く。

 彼女は三階の部屋から下まで降りる際、ケルベロス以外にも沢山の人でないモノにすれ違った。

 ドアの前を通る度にドアプレートを確認してみれば 「文車(ふぐるま)妖妃(ようひ)」 「フェンリル」 「キマイラ」 「グリフォン」 「吸血鬼」 「グレムリン」 「獏」「白い竜」などなど、実に様々な人外達の存在が示唆されている。それも、古今東西雑多な種族達が。

 そして、そこを管理している西洋のとある国を守護する赤い竜…… 万屋の店主アルフォード。

 

 彼の鱗さえ持っていれば辿り着けるこの異空間は、どこからでも繋がる。そして、大体どこにでも行くことができる。

 

「土曜日か…… どうしようかねぇ。お兄さんでもからかいに行く? うーん、最近会いすぎてストックがなくなりそうだからねぇ」

 

 ストックがなくなれば、魂ごとの消滅が待っている。

 都市伝説となった彼女はあの世に行くことは、もうできない。

 行きたくないとは言ったが、実際にはもう行きたくても行けないが正しい。

 

「あれれ、紅子ちゃんもしかして今日は暇ー?」

 

 彼女が一階に辿り着くと、そこには真っ赤な髪を靡かせてダンボールを抱えたアルフォードがいた。

 

「ああ、管理人。今日は現世の学校も休みだしね…… 特に用事はないよ」

「そっか、そっか、それなら少し手伝ってくれないかな? 報酬ならちゃんと出すからさ!」

「それってキミの激辛お菓子のことかな? それなら遠慮するけれど」

「ルルちゃんのケーキをつけるよー。オレはあんまり食べられないからね。甘いものも美味しく食べてあげられる人に食べてもらったほうがいいだろうし」

 

 随分と年上の、そして格上の、国ひとつを守護する竜に彼女が砕けて話しているのは初対面時のことがきっかけだった。

 彼、アルフォード自身が畏まって対応されるのを嫌うことから彼女もそのように接している。なにより人外というものは自身のあり方をアイデンティティとしているものが多い。

 そのため基本的に彼らは言葉を崩すことが少ないものだ。

 彼女がときおり丁寧になるのは人間性が強いためである。

 余談だが、ルルというのはピンク色をしたグリフォンの従業員の愛称である。

 

「ルルフィードさんか。それは楽しみだね。でも、アートさんには分けないのかな?」

「アーティーちゃんは自棄(やけ)で食べるんだもん! 怒ってばっかりいると美味しいものも美味しく食べられないよねー。だからあげないんだよ」

 

 まるで子供のように頬を膨らませるアルフォードだが、その表情はダンボールに隠れて彼女からはよく見えていない。

 けれど、彼女にもその言い方によって大体どんな顔をしているのかは想像ができていた。

 

「あー、腐肉ばっかりだって文句を言っていたけれど」

「仕事だもんね。脱獄した死者は食い殺してでも連れ帰る。それがアーティーちゃんだから」

「ゲームなら毒でも食らいそうなところだね」

「死者を食らってるだけに?」

「既に死んでるのに食い殺してでもとは…… ってツッコミが入らないのは気にならないのかな」

「だって本当のことだからね。仕方ないよ」

 

 やれやれと首を振るアルフォードに、やっと紅子が動いて彼の腕の中に積まれた段ボールから一つ受け取る。

 

「これをいくつも持てるだなんて、さすがドラゴン。すごいね」

「まあね、そんなに誉めなくってもいいんだよ? だってオレすごいから」

「はいはい、そのお強い守護竜様はこれをどこまで運ぶので?」

「店まで行こう。まだ誰も来てないみたいだから品出ししとかないと」

「品出しするほど売れているわけじゃないだろうに」

「気分の問題だよ、大体はね。勇気と埃とほんの少しのスパイスでできてるオレ達には心の病が一番の大敵だよ」

「そんなマザーグースみたいなことを…… 概念と噂と信仰でできている、だろう」

 

 マザーグース曰く、女の子はお砂糖とスパイスとたくさんのステキでできていて、男の子はカエルとカタツムリと子犬のシッポでできている…… と(そら)んじてみせてから紅子は首を傾げた。

 

「あれ、順番が逆なのかな?」

「どちらでもいいんじゃない? 完璧に諳んじることができなくてもふわっと覚えていれば大体合ってるよ。そのふわっとでも存在できるのがオレ達だからね」

 

 ふわふわと笑いながらアルフォードは言葉を流す。

 

「さて、と。手伝ってくれてありがとう紅子ちゃん」

 

 アンティーク調の店の中に入り、その奥に彼はダンボールを置く。

 続けて入れ替わるように紅子がダンボールを置くと、その拍子にコロリとなにかが溢れ出した。

 

「おっと…… アルファードさん、これは?」

 

 彼女が咄嗟に手を出し、掴み上げたそれを元に戻さず尋ねる。

 その指先に摘まれていたのは真っ黒な球体だ。ビー玉のようなそれを一通り眺めながら彼女は手で弄ぶ。

 どうせここでお茶をするならと話のタネにする気なのだろう。

 

「うーん、なんていうか…… 恐怖の感情を詰め込んだ怪異向けの緊急食料…… みたいな?」

「なんだそれ」

 

 呆れたような顔で言うが、彼女の手は速やかにその球体を元の場所に戻す。

 長く触れていたくないとでもいうようにさっさと立ち上がって首を振る。

 

「ほら、定期的に人を食べないと生きていけない怪異もいるでしょ? 〝 自分が必要な分だけ襲う 〟ことは許可してるけど、同盟所属の子って大体お人好しばかりだからね。人食いなのに人に恋しちゃったとか、そういう子向けの携帯食だよ。飢え死にされたら困るからね」

 

 人工物に近いから美味しくはないんだけど、と続けるアルフォードに紅子は微妙そうな表情をする。

 理解はできるが実感はしたくない。そんな表情だ。

 

「キミだって赤いちゃんちゃんこに沿った脅かし方で恐怖した人間の心を食べるでしょ? それすらしたくない子は定期的にこれを食べてもらうんだ。よく漫画とかで吸血鬼がトマトジュース飲むのと似たようなものだよ」

「詳しいねぇ……」

「管理人だもん」

「そりゃそうか…… ま、否定はしないよ」

 

 自己否定するほど彼女は切羽詰まっているわけではないのだ。

 それに、彼女が知る限りこの異空間の屋敷で生活する吸血鬼はそういう存在だった。紅子は過去になにがあったのか知らないが、かの吸血鬼が完全草食主義者ということは知っている。それと、ヴァンパイアハンターを恐れているということも。

 そういう存在もいるのだから必要な処置なのだろうと納得する。

 

「確か、二階の彼女がそうだったね?」

「ああ、オーラルちゃんのこと? そうだね。彼女はかの吸血鬼カーミラに魅入られ、そして生存した…… はずが吸血鬼になっちゃってた、娘みたいな存在なんだ。自分を吸血鬼にしたカーミラちゃんがハンターに殺されちゃったから、それで怖がってここに拠点を置いてるんだよ」

「そういうものか」

 

 確かに、恐ろしいかもしれない。

 そう思って紅子は目を細める。ついこの前出会ったばかりの秘色(ひそく)いろはは自分と同じか、それ以上に力の強い怪異の桜子を封印し、使役している。それに先代七不思議達は桜子と、おそらく七番目のさとり妖怪…… しらべを除いていろはに全て祓われている。

 仮にも七不思議だったのだからそれなりに力はあっただろうに、それがあっさりと一人の人間に祓われているという事実が異常だ。

 下土井令一もアルフォードの鱗で鍛えられた刀があるのでそれらに対処できるだろうが、それはあくまで武器に頼って得られる強さだ。

 元々霊力が強くなければ〝 絵を描く 〟だけで祓えたりなどしない。

 なぜ普通に祓うのではなく絵を描くことに拘るかは紅子には分からないが、むしろその方が安堵できるというものである。

 彼女が本気で自分を祓おうとしてきたのなら、それはそれは恐ろしいだろうと紅子は思う。

 

 いろはは絵を描くことのできない環境では無力化されるという弱点があるが、彼女程の霊力があるなら本来はそんなことをしなくても祓えるはずなのだ。

 彼女は自らの人生ごと縛りプレイをしているようなものだが…… なぜそんなことをしているのか知らない紅子にとって、どうでもいいことだ。

 強い力を持った彼女が襲ってきたら恐ろしい。ただそれだけ。

 

「オレの店にはいろいろあるよ。恨みをある程度のところに押し留めておく薬とかも」

「それを飲んでまで同盟に所属するもの好きなやつなんているの?」

「これがいるんだよねー。一人の人間を好きになって、幸せに暮らしたいけど周りに恨みを晴らしに行きたい自分もいる…… そんな悩める乙女に、とか」

「恋わずらいはすごいねぇ」

 

 女性の怪異はしばしば人間と共に暮らすうちに恋をすることがある。

 男性怪異はビジネスライクな者が多いので滅多にそういう報告は聞かないが、女性怪異は情が移りやすいのでそうなることが多いのだ。

 

「紅子ちゃんはいいのー?」

「必要ないねぇ」

「よもぎちゃんが恋愛相談大募集って言ってたよ?」

「ああ、そっちのことなんだね」

「うん、令一ちゃんに随分ご執心だし」

「なっ」

 

 お茶を用意するアルフォードを頬づえをついて見ていた紅子はその態勢を崩した。

 

「図星かな?」

「アタシはああいう偽善者は嫌いなんだよ。正義感ぶってるっていうのかな、とにかく、協力してるのは成り行きでそれ以上の意図はないから」

「ふうん、今度よもぎちゃんに言っておくよ。キミが恋愛模様に悩む乙女だって」

「その服、髪の色と同じにされたいのかな?」

「ふふ、怖い怖い。冗談だよ」

 

 アルフォードは長く鮮やかな赤い髪を揺らしながら今度はお菓子をテーブルに置く。

 彼女もまさか神格を有するドラゴン相手に〝 お前の首掻き切るぞ 〟と本気で言うわけはない。両者共に冗談である。

 

 アルフォードが言っていた〝 よもぎ 〟というは文車(ふぐるま)妖妃(ようひ)という付喪神のことだ。

 彼女は文車と名がついているが実際には文車の付喪神ではなく、文車で運ばれていた報われない恋文達の集合意識である。

 失恋した女達の託した恋文なので、恋愛経験はお察しである。

 そもそもそんな恋文の集合意識である彼女になんの恋愛相談ができるというのか、紅子は甚だ疑問に思ったが飲み込んだ。

 

「というか、彼女に相談する意味ってあるのかな?」

 

 飲み込めなかったようだ。

 

「ちゃんと勉強はしたって言ってたよ?」

「なにで?」

「えーっと、フラワー&ドリームとか、なかよくとか、別冊フレンズとか……」

「漫画じゃないか」

 

 やはり失恋しか見たことのない乙女には、恋愛相談で建設的な意見が言えるとは思えない。

 

「で、結局どうなの?」

「だから、アタシには必要ないよ」

 

 なぜ上司のような存在の彼相手に恋バナをしなければならないのか、と紅子は溜め息を吐く。

 

「キミに恨みの発散は、必要ないのかな?」

「……」

 

 からかうように恋バナを振ってきていたアルフォードが、急に表情を消して彼女を睨め付ける。

 トカゲのような、人外めいた黄色い瞳に見つめられ紅子の背筋に怖気が走った。

 だが、彼女は意識してリアクションを抑え、彼を見つめ返す。

 

「……」

「……」

 

 先程話題に上がったのは、恨みを抑えるための薬。

 赤いちゃんちゃんこという七不思議は首を掻き切られ、血で濡れた部分がまるで赤いちゃんちゃんこを着たかのように見えるということから来ている。

 勿論なぜそうなったのかは諸説あるが、大体は〝 殺された 〟や〝 いじめによる自殺 〟が挙げられる。

 怪異に遭った人間が〝 問答にYESで答える 〟ことで怪異と同じ姿に切り裂いてしまう、という話からも〝 恨み 〟を持っていることが明らかだ。普通ならば。

 

 しかし彼女は理性のある怪異である。

 彼女は通常の赤いちゃんちゃんことは違い、トイレではなく夢の中で活動する。それも、自身の死因であるガラス片を探させ、時間制限ありの脱出ゲームとして。

 適所適所に 「赤いちゃんちゃんこ着せましょうか?」 という質問はするものの、それに 「YES」 と答えない限りすぐさま危害は加えず、ゲームに失敗しても精神的ダメージを与えるだけに留まり対象を安全に現実へ返す。

 トイレで質問し、YESなら危害を、NOなら無害で終わるだけの怪異でなく、似通った性質を有するのみでもっと複雑なプロセスを踏んで彼女は遊んでいる。

 そして、彼女と同じ姿にして殺してしまったことはこれまでに一度も確認されていない。

 赤座紅子という少女は赤いちゃんちゃんことしてはかなり異質なのだ。

 そもそも、彼女は自身のことを自ら進んで〝 赤いちゃんちゃんこ 〟と呼称することは少ない。大体は〝 トイレの紅子さん 〟と呼んでくれと発言する。

 

「恨んでないわけでは、ないよ」

「…… そうなんだ」

 

 彼女は慎重に言葉を選ぶように口を開く。

 アルフォードは拍子抜けだとばかりに首を傾げる。

 

「ただ、復讐するという発想には至らないね、どうしても。アタシが殺された人間じゃないからなのかも」

「それも人間性なのかな? 興味あるけど、キミってレアものだもんねぇ…… あれ、キミってトイレの窓からガラスを突き破って、墜落したんだよね。さすがにうっかりじゃないでしょ? 他殺じゃないの?」

 

 紅子は 「よく知ってることだね」 と苦虫を噛み潰したように言うと、彼の言葉にきちんと答える。

 

「自殺だよ、アタシはね。分かりにくいだろうけれど、自殺だ」

 

 真剣に、彼を見つめて。

 

 

―― キラリと光る破片が、視界に映る。

―― 上の方に、あいつらの笑い声が聞こえる。

 

 

「アタシは、自分の手で、ガラス片を手に取った」

 

 

―― あいつらに殺されるくらいならば、アタシが。

 

 

「ただそれだけだよ」

 

 

―― あいつらにアタシのなにをも奪わせない、絶対に。

 

 

「だからね、恨みがないとは言わないけれど…… どうでもいいというか…… アタシがこうして怪異になって過ごすうちに、そのうちに誰もが死ぬのさ。アタシが手を下さなくても死んで地獄に行くんだろうから、別にいいんだよ」

「なるほどね、そういう考えなんだ」

「そう、噂が供給される限りアタシが消滅することはないからね」

 

 嘆息するように目を伏せ、紅子はそこで言葉を切る。

 

「ところで、仕事はないの?」

「仕事? うーん、今の所は特にないかなぁ…… 気になるなら屋敷の掲示板でクエスト確認してね」

「ゲームみたいだよね」

「そりゃ、好きだもん。ドラゴンだって人間のゲームは楽しい」

「それはなにより」

 

 お茶の追加はもうない。

 紅子は立ち上がり、 「お邪魔したね」 とアルフォードに言い放つ。

 彼はにこにこと笑顔を保ったまま彼女に向かって手を振る。

 

「紅子ちゃん」

「なんだ?」

 

 背を向けた彼女に向かって、アルフォードは真剣な声色で言う。

 

「令一ちゃんに付き合うなら、リヴァイアサンに気をつけてね」

「……」

 

 彼女は言葉を返さない。

 分かっているからだ。

 かの問題児が下土井令一という玩具(にんげん)に目をつけないはずがない。

 

「邪神と大怪物の2人に目をつけられるとか、とことん運がないねぇ…… お兄さんは」

 

 やれやれ、と首を振った彼女は今日も現世へ出かけていく。

 

「ああいうタイプは嫌いなのにねぇ」

 

 果たしてそれは彼に会うためか、それとも暇潰しか。

 それは彼女にしか分からない。

 

 

 

 




 紅子さんの掘り下げをちょこっとしてみました。
 ただしこれらの情報は主人公は現在知りません。


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混沌と理不尽を運ぶ渦潮

「着せましょうか、着せましょうか」

 

 赤いセーラー服が翻る。

 

「まだらの血化粧がキミには良く似合いそうだ」

 

 金切り声の響かせるそれにおぶさるようにして、彼女は囁く。

 

「地べたに這いつくばって、吠えればいい」

 

 真っ赤な斑点がポタリ、ポタリと地面に落ちてはできていく。

 そして一層大きな悲鳴をあげて真っ赤な影が薄れ、収縮し、真っ黒な人魂のような形になる。

 

 するとセーラー服の彼女…… 紅子さんの横から橙色の人魂が飛んでいき真っ黒な炎を包み込む。

 黒い炎はやがて人魂の中に溶けて消えていき、少しだけ色を濃くした人魂が残るが、その色もしばらく経てば元の鮮やかな橙色に戻っていた。

 

「紅子さん……」

「お兄さん、こんなところで奇遇だね」

 

 時刻は深夜。

 俺は普通にコンビニへ行こうとしていたのだが、それは彼女が近所の小学校から飛び出して来るまでだった。

 塀の上を飛び越え、彼女は赤い影としか言いようがないそれを追いかけていた。そして俺の目の前でそいつを仕留めると、一仕事終わったとばかりに改めて挨拶して来たわけである。

 

「一体なにしてたんだ?」

「同盟のお仕事だよ。この小学校に赤いちゃんちゃんこが出るっていうから退治しに」

「え…… ?」

 

 赤いちゃんちゃんこが赤いちゃんちゃんこを退治するとはこれいかに。

 

「お仲間って言っても中身(たましい)のない害悪だから同盟のメンバーとしては退治対象なんだよ。それに、同じ赤いちゃんちゃんこだからアタシの力も強くなる。一石二鳥だね」

「紅子さんがそれでいいならいいのかな……」

 

 赤い影のようにしか見えなかったから退治するときも躊躇なくできそうではある。

 だからといって自分と同じ存在を殺すのは理解できないが。

 

「同盟ってそんな仕事もあるんだな」

「うん、あれ…… そういえばお兄さんって掲示板知らないんだっけ? …… あ、そうかそうか、お兄さんは同盟所属じゃないからか!」

 

 掲示板? と訊き返すと勝手に疑問を解決しながら彼女が頷く。

 話に出してもらわないとなにに悩んでなにに納得しているのかさっぱりなので教えてほしい。

 

「なにかあるのか?」

「えっとね、キミはアルフォードさんの万屋には行ったことあるんだっけ?」

「ああ、あるな」

「あの人の店の奥に大っきな屋敷があるんだよ。アタシみたいな見た目が未成年の妖怪は現実で一人暮らししづらくてね。そこが集合住宅みたいになってて、拠点にしてるんだ」

 

 紅子さんはいったいどこに住んでいるのだろうと思ってたが、そんなところがあったのか。人外達の集合住宅…… 少し気になる。

 

「そこにね、同盟のメンバー向けにお仕事の依頼書が打ち付けられた掲示板があるんだよ。ほら、ゲームでありがちなクエスト掲示板っていうの? それを想像すれば大体合ってる」

 

 なるほど、そんな風になってたのか。

 

「…… お兄さん、スマホ借りていい?」

「え? あ、ああ」

 

 なんの躊躇いもなくすぐさま渡すと、紅子さんは一瞬驚いたように目を見張ってため息を吐く。

 

「あのね、そう簡単に自分のスマホを人に渡すもんじゃないよ?」

「紅子さんなら平気だろ」

 

 より一層大きなため息をわざとらしく吐き、紅子さんは前髪を耳にかける。

 そして改めて俺のスマホをしばらくいじり、こちらに見せて来る。

 そこには〝 アルフォードの同盟記録 〟というホームページが表示されていた。

 

「はっ!? ホームページ!?」

「当たり前だけど、普通の人には辿り着けないよ。これは一度でもあの人に会ったことのある人じゃないと見られないからね」

 

 なんらかの魔法が使われているのかどうなのかは分からないが、これもありがちといえばありがちか。必要な人以外には見えない店やホームページ。

 なんだか人外らしい部分が見えて少しだけ面白い。

 

「これ、アプリなんだけどさ。ここにも電子掲示板として依頼書が載ってるからお兄さんもどうかな?」

「俺が?」

「うん、お兄さんってあの人のせいで事件に巻き込まれることがほとんどでしょ? まだ刀を振り慣れてないみたいだから、こういうので練習すればいい。それと……」

 

 紅子さんはその赤い目で俺をまっすぐと見つめる。

 

「相談できる友達もできるよ、きっと。アタシ以外にもね」

 

 こんなところを覗くのは人外ばかりだけどね、などと付け加えているが俺にはちゃんと分かる。

 心配されているのだ。秘色さんに会って、同じ人間の仲間ができて安堵したことを見抜かれている。

 たとえ相手が人間じゃなくとも、紅子さんは邪神によって終わらせられた俺のコミュニティを再び作るための場を示してくれている。

 

「諦めてばっかいないで多少は自立しなよ、人間」

 

 厳しい目線。

 いつも楽しそうに細められた赤い瞳が俺を睨め付ける。

 初めて彼女から言われた 「人間」 という呼称。そこには呆れや侮蔑も含まれていたが、確かに激励だった。

 ここまで言われてなにもしなかったら、それこそ馬鹿な奴だ。

 そもそも、言われるまで分からなかったなんて駄目駄目だ。

 これは忠告。彼女なりの気遣い。人間に近い視線を持っている彼女だからこその、優しさ。

 

「なら、今から行くか」

「…… そうこなくっちゃね」

 

 満足そうに頷いた彼女のそばに近づき、「リン」と呼ぶ。

 鞄の中で眠っていた小さな小さな赤い竜がひょこっと顔を出し、きゅわっと鳴いた。

 

「こっちだよ」

 

 鱗があれば中華街から道が繋がるが、リンがいることでどこからでも繋がるようになっているらしい。意思を持っているからか、それとも紅子さんもなにかしているのかは分からないが。

 ともかく、紅子さんの先導で歩き出す。

 

 一歩踏み出せばなにかを突き抜けたような感覚がして雰囲気がガラリと変化する。

 周りには人魂や行灯が照らす道が続き、曲りくねり上へ行ったり下に行ったりとにかく変な道筋を辿っていく。

 赤いコウモリが頭上を飛んでいき、横を魔女の帽子を被った少女が駆けていく。

 ガラガラと本で一杯になった牛車のようなものを曳きながらすれ違う少女がいる。

 尻尾と胸元だけ黒い真っ白な小鳥が弧を描いて飛んでいる。

 黄金に輝く巨大な鳥が優雅に羽ばたいている。

 

 人外達の通り道。

 どこにでも繋がっている脇道。

 幻想がすぐそばにある世界。

 

 思わず見惚れていた。

 そして、その中に見覚えのある姿を見つけてしまった。

 桜色の髪、桜をモチーフにした可愛らしいドレス。

 

「青葉ちゃん…… ?」

 

 思わず立ち止まり、そちらへ駆けた。

 

「あいつ…… お兄さんダメだ!」

 

 追いかける、追いかける。

 桜の木が伐り倒され、もうこの世にないはずの少女を求める。

 

 脳裏に蘇るのは、今まで救えなかった人達の姿。

 ぎゃあぎゃあと化け物の鳴き真似をしてまで死に救いを求めた青凪さんの、満足そうな顔。

 嫌だ、もっと生きていたかったと叫びながら愛する人の目の前で塵となった青水さんの泣きそうな顔。

 そして、愛する人に拒絶され癇癪を起こす桜色の精霊。

 

 青凪さんも、青水さんもどうしようもなかった。

 青葉ちゃんは精霊だからまだ生きているのか? いやいや、もしかしたら、他人の空似かもしれないぞ、なんて疑問を積み上げながら横道に逸れていく。

 紅子さんの肩に留まっていたリンも置いて来て、道案内は途絶えた。

 

「あ、あのっ!」

 

 桜色の精霊が振り返る。

 以前の威圧的な雰囲気も、少女らしい雰囲気もなくどこか別人のような妖艶さで。

 

「…… ああ、この間ぶりだね」

 

 どこかちぐはぐな雰囲気はそのままに、しかし俺と知り合いであることを否定しない青葉ちゃんに困惑する。

 彼女の恋路を邪魔したのだからすぐさま攻撃されてもおかしくないというのに、その表情にはなにも浮かんでいない。

 些細な違和感が積み重なる。どこか楽しんでいるような表情。優雅な仕草。なんとなく、そんな素振りを見せる奴を俺は知っている。

 

「どうしたの? ボクを殺したのはキミなのに」

 

 息が詰まる。

 指摘されてなにも言えずにいた。

 

「よく言うよ、死の責任はその当人にしかあり得ない。そもそも、あなたは青葉ではないだろう」

 

 後ろから聞こえた声に我に帰る。

 

「青葉ちゃんじゃない…… ?」

 

 薄々そうなんじゃないかとは思っていたが、それにしたってなぜ彼女の姿を取っているのかが分からない。なにせ姿はそのまま青葉ちゃんだ。

 彼女は現実のあの桜の木周辺にしかいられないはずだった。知り合いも少ないだろう。なぜ彼女の姿をしている? 

 

 俺が紅子さんの言葉を信じたことで、目の前にいた少女がクスリと笑う。

 

「バレちゃいました」

 

 語尾にハートマークでもつきそうなわざとらしいその口調。

 なにかに雰囲気が似ていると思っていたが、思い出した。この胡散臭い雰囲気、ニャルラトホテプ(あいつ)とそっくりだ。

 

「まさか忠告を受けて真っ先に出会うとは思ってなかったよ…… お兄さん、そいつは要注意人外だから近づかないでね」

「ひっどーい! わたくしはただ挨拶に来ただけですのに!」

 

 ボーイッシュな子だった青葉ちゃんの顔でそう言われるとものすごく違和感がある。

 というか要注意人物ならぬ要注意人外ね。いるんだ、そういう人。

 

「青葉ちゃんじゃないなら、あなたは?」

「…… 訊いてくださいましたね?」

「ちょ、お兄さん」

「わたくしはリタ。リタ・メルビレイと申します。お見知り置きを」

 

 リタ、と言葉を心の中で呟いて覚える。

 日本名じゃないということは外国の妖怪か神か、それらの類だろうな。

 紅子さんが止めようとしたということは、ちょっとまずいことをしたかもしれない。せっかくフォローしてくれている彼女にこの仕打ちはまずい。そろそろ見捨てられるんじゃなかろうか、と思ったが呆れた顔をしているだけで別に怒っている素振りは見せていない。こればっかりは俺の自己責任ということか。

 

「…… ところで、なぜあなたは青葉ちゃんの姿をしているんですか?」

「あらー、名乗ってくださらないの?」

 

 さすがに邪神かもしれない相手に名前を明かすわけにはいかない。

 いつもは普通に名乗っているが、相手が相手だ。用心するに越したことはない。

 

「わたくし、とーっても有名なんです。リヴァイアサンって、ほら分かるでしょう?」

「…… ええ」

 

 とんでもない大物が出て来たな。

 ゲームでもお馴染みの怪物。あと嫉妬の悪魔でもあるんだったか? 四大召喚獣の水担当ってイメージだが、要注意人外である。

 有名ということはそれだけ力が強いってことだろうし。

 

「わたくし、他人の嫉妬が大好物なの。特に美貌や恋に関わる嫉妬…… 素敵ですよね。わたくしは嫉妬に苦しむ乙女の味方ですわ」

「…… ほう」

 

 嫉妬の悪魔という点で嫌な予感しかしない。

 

「だからね、いつも言ってあげるの。〝 わたくしが嫉妬する相手を見返すくらい綺麗にしてさしあげます 〟って」

 

 優雅に手と手を合わせ、しなを作りながらリタは言う。

 いい笑顔だ。邪気のない綺麗な笑顔だ。でもそれならなぜこんなにも怖気が走るのだろうか。そんな必要、ないというのに。

 

「それを心の中で承諾したなら契約成立です」

「一方的な、だけどね」

 

 紅子さんの注釈に嫌な顔ひとつせずにリタは続ける。

 

「わたくしはただ美を望む乙女に力添えをしているだけ…… 嫉妬相手に復讐して願いを叶えたあかつきには、嫉妬される程の美しさを得るの。そう、嫉妬される側…… つまり〝 わたくし 〟になるんです」

 

 ぞっとした。

 願いを叶えるだとか言っているが、つまりその人の心を食い潰して成り替わるということなのだ。なんて詐欺だ。こんなことをするのでは要注意人外というのも頷ける。

 

「青葉ちゃんとも契約してたのか?」

「いいえ、愚かにも人間なんかに嫉妬していた心の隙があったので、勝手に入り込んじゃいました」

 

 契約云々も関係なし、タチが悪い。

 

「ちょっと魂の断片を逃しましたけど、雨を降らせて助けを求められた男性ごと美味しくいただきましたわ」

 

 なぜ、なぜそんなことができるのか。

 ふつふつと湧いてくる怒りを拳に閉じ込める。

 こいつは〝 あいつ 〟と同じだ。人間も、人外も関係なく玩具としか思っていない。

 楽しければそれでいい。そんな邪神……

 

 青葉ちゃんは最期まで敦盛さんに助けを求めたのだ。

 愛しい人を信じて、縋り付いて、そして、踏みにじられた。

 

 許せない。

 

「お兄さん、お兄さん!」

 

 握りしめていた拳をそっと紅子さんに包み込まれてハッとする。

 目の前の大怪物はそんな俺を無邪気な笑顔で観察していた。

 

「やっぱり、あなたを八番目に選んでよかったわ〝 令一 〟君」

「なん、で名前……」

 

 俺が有名になりすぎたのか、いや、それよりも以前からこいつは俺のことを知っていた? 

 どこかで、出会ったことがあるのか? 

 

「あなたの押し付けがましい正義(やさしさ)はとても素敵ですね。その優しさがわたくし達とどう違うのか、教えてくださるかしら? どちらもただ〝 己の為 〟でしかないのに」

「……」

 

 違い? そんなの、違うはずだ。こいつらのやっていることが俺の弱さと同じだなんて、そんなことあるはずないんだ。

 

「お兄さん、お兄さん! しっかりしてよ、もう!」

 

 呑まれかけて、目の前に巨大ななにかが落ちて来たことに気を取られ迷いが霧散する。

 

 見上げれば巨大な黄金の鳥の姿。目の前で揺れる金色の羽毛一枚一枚が風もないのにそよそよと揺れて震える。

 

「そこまでだ、リタ」

 

 巨鳥から発せられた低い声は怒りを孕んでいるようだった。

 なぜ、俺を。そう思った直後頭上から声がかけられる。

 

「下土井さん、大丈夫ですか?」

 

 声の主を探して視線を彷徨わせれば、紅子さんが巨鳥の背中を指さす。

 そこにはついこの間知り合った秘色いろはさんと桜子さんが乗っていた。

 

「今、行きますね」

「あ、ちょっ、いろは! 危ないって!」

 

 秘色さんは黄金の羽毛の波を滑り降りて、俺の目の前に着地する。

 桜子さんも追って滑り降りてくるが、少しだけ浮いていた。多分着地の衝撃を逃すためだろう。

 

「秘色さん、どうしてここに?」

「下土井さんが危ないなって、先生が教えてくれたんです。わたしだと下にいる人なんて見えないから気づかないところでした」

「先生?」

「いろはの保護者のこと」

 

 桜子さんが付け加える。

 例の同盟所属の保護者さん…… ということはこの巨鳥ってもしかして。

 

「あらー、いいところでしたのに。残念ですね」

「さっさと去りなさい。君は同盟所属ではないだろう」

「そうですね、仕方ありません。それじゃあばいばーい!」

 

 地面から水が渦巻き、リヴァイアサンを乗せる。

 

「ああ、そうでした。伝えるのを忘れてましたね。脳吸い鳥の噂、あれを流したのってわたくしなんです。面白い見世物だったでしょう? あなたのご主人様に負けないくらいのとびっきりだったんです」

 

 最後にとんでもない爆弾を置いて怪物は去る。

 その視線はずっとこちらを向いていた。

 

「お兄さん、ごめん。アタシの力不足でなにもできなかった」

「…… ううん、紅子さんは悪くなんてない。謝らなくていいよ。俺を、見捨てないでいてくれてありがとう」

「…… いいようにされちゃってさ。やっぱりお兄さんってああいう胡散臭い美人のほうがお好みなのかな?」

「そんなわけないだろ」

「即答か」

 

 俺と紅子さんで笑う。

 冗談を振って気を紛らわせてくれた彼女に感謝しないとな。

 

「秘色さん、それと保護者さん、助けてくださってありがとうございます」

「アタシからもありがとう。アタシだけじゃどうにもならなかったから」

 

 巨鳥は俺達の言葉を聞いて、こちらにクチバシを寄せて来る。

 そうして、秘色さんに頬ずりするとその巨体を翼で包み込み、開いたときには巨体はもうなく、その中心に30代くらいの男性が立っていた。

 

「私はシムルグの〝 ナヴィド・カシミール 〟だ。よろしくね。あれじゃあ話しづらいだろうから、こっちでいることにする。急いでいるわけでもないしね。君達も同盟の屋敷に向かってたんだろう? 歩きながら話そう」

 

 ナヴィドさんが提案し、紅子さんが頷く。

 よって俺も一緒だ。

 

 ナヴィドさん、秘色さん、桜子さん、そして紅子さんと俺。

 五人で本来の目的である屋敷を目指す。

 夜中だということも忘れ、改めて人外が跋扈する世界へ。

 今度は呑み込まれてしまわないように。

 

 …… 俺は思い出していた。

 脳吸い鳥と対峙した、あの日見た宿の主人が書いた日記を。

 

 妻と二人三脚で始めた宿のこと。様々な苦労話…… それは思わず見惚れてしまうような艶やかな黒髪の美女と、高校生位のボーイッシュな女の子の来訪からガラリと話が変わる。

 そこから先の日記には廃墟となった孤児院に肝試しをしに来る輩が絶えないことと、脳吸い鳥などという眉唾もいいところな噂が流れていることが書かれていた。

 

 〝 二人の客が訪れてから脳吸い鳥の噂が始まった 〟

 

 リヴァイアサンが言っていたことは、限りなく真実に近いだろう。

 もしリヴァイアサンがいつも二人組で行動しているというのなら、ますます現実味が増して来ることになる。

 

 

 俺は彼女を、許せそうにない。

 

 

 

 

 




・秘色いろは
 絵で描いて浄霊できる大学生。シムルグの養子になったため雛鳥と称される。

・桜子さん
 家庭科室の元七不思議。いろはに封印されている。

・ナヴィド・カシミール
 シムルグという神鳥。人間の味方した個体もいれば邪悪とされた個体もいるらしい。美術教師をやりながら滞在している。

・リタ・メルビレイ
 リヴァイアサン。嫉妬する側ではなく、基本的にされる側の悪魔。大怪物。
 メルビレイというのは実在するリヴァイアサンの名前を冠せられたリヴィアタン・メルビレイというクジラがモデル。
 自分に関する名前だから採用したのか、それともクジラにつけられた名前が彼女と偶然同じだったのかは誰にも分からない。



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伍の怪【サテツの国の女王】
文車妖妃の大図書館


――かえして。

 

 

「なるほど、それで君はこちら側に来ようとしていたんだね」

「は、はい」

「そう堅くならなくても良いよ。私はただのいち教師だから」

 

 人ではないけどね、と付け加えて笑うこのヒトはナヴィドさん。

 イラン出身のシムルグという神なる鳥…… というやつらしい。要するに神様。

 秘色(ひそく)いろはさんの保護者が人間じゃない、同盟所属のヒトということは知らされていたけど、まさか相手が神様だとは……

 

「下土井さんの同居相手も神様でしょう?」

 

 秘色さんにツッコミを入れられたが、確かにあいつも神様だ。邪神だけどな。

 ナヴィドさんは金髪の長い髪を肩の横で三つ編みにして、青空みたいな綺麗な青色の瞳をしている。赤縁メガネは知的な印象を与えてくるし、お洒落な外国人といった風貌だ。巨鳥のときも金色の太陽に輝く羽毛で、青い瞳だったし、本来の姿と人型の容姿はかなりリンクしているみたいだ。

 あいつも同じくらいの黒髪に三つ編みと爬虫類みたいな不気味な黄色い瞳をしているが…… あいつに比べてこのヒトは人称が同じ 「私」 だけど、雰囲気は真反対だ。あいつの話し方は胡散臭さしかないが、このヒトはどこか安心感を与えられる。優しそうな紳士って感じがする。

 

 秘色さんは自ら庇護下に入ったと言っていたが、このヒトならなにも問題ないように思う。俺みたいに理不尽な扱いをされてはいないかと心配していたから、会ってみてそれが杞憂だと思い知らされた。

 

「ね、知り合いも増えるでしょ。おにーさん」

「ああ、ありがとう紅子さん」

「知り合っちゃいけないやつにも知り合っちゃったけどねぇ」

 

 さっき会ったリヴァイアサンのことか。

 まあそうだな。

 

「ま、ちょくちょくこっちに来るといいよ。お兄さんの経験値にもなるだろうし、息抜きにもなるだろうから」

 

 本当にありがとう。

 ちょっと気が滅入っていたかもしれないな。

 

「見えてきましたよ」

 

 秘色さんがぽつりと呟くと、前方に赤い縁の鏡が現れた。

 その鏡は俺たちを映し出すと蛇の目のようなものが真ん中に浮かび上がり、こちらを観察する。

 目は俺をじっと見つめていたが、鞄の中から飛び出してきた小さな赤い竜を認めてその目を閉じる。

 すると、鏡の中にはなにも映らなくなった。

 

「さ、入るよ」

「鏡はいろんなところにありますから、慣れておいたほうがいいです」

 

 そう言ってナヴィドさんと秘色さんが鏡の中に足を踏み入れていく。

 

「さっきのは、お兄さんがここを通ったことがないから見られていたんだよ。検問されていたようなものだね。ただ、アルフォードさんの化身を借りてるから許可が下りた…… ってことだ」

「なるほどなあ……」

 

 随分と厳重な警備だ。

 一般人が魔境に迷い込まないようにしているのだろうか。

 紅子さんたちの話を聞いてると、あちら側には友好的とはいえ人外パラダイスになっているようだし。

 

 そして、鏡を抜けると一気に視界が開けた。

 真っ赤な煉瓦でできた巨大な屋敷がそこにはあった。

 ただ、赤いと言っても目に痛いわけではなく、優しい色合いのものだ。ツタがところどころ張っていて、赤と緑のコントラストが綺麗だ。レトロな貴族の屋敷といった雰囲気だな。

 

 頭上には抜けるような青空に白い雲。空では優雅に泳ぐ美しい妖怪。

 地上にはウサギの耳を生やした少女やら、行きに見かけた魔女帽子の女の子、大きな旅行鞄のようなものを軽々持ったツノの生えた男の子、工具類を持ち歩いている男の子など、様々だ。

 

 人外達が闊歩する中に、俺と秘色さん…… 人間が二人だけ。

 ちょっと新鮮な気もする。

 俺達が談笑しながら歩いていると、雑踏の中の一人…… 魔女帽子の子がこちらに気がついてやってくる。

 

「よお、学者先生!」

「やあ、ペティちゃん」

 

 白地に黒のリボンや、緑色のクローバー、灰色の猫の模様が散ったエプロンドレスを身につけている少女は魔女の格好そのものだ。

 それにしては白いし、周りに浮かぶ人魂が気になるが。

 

「なあ、師匠がどこにいるか知らないか? 待ち合わせしてたはずなんだが、時間になっても来なくて」

「ケルベロスさんは見ていないよ。部屋には尋ねてみたかい?」

「あー? 部屋に行ったことはなかったな。よし、ちょっと行ってくるよ…… ところでそっちの奴は? お雛以外にも見慣れない奴がいるな」

 

 魔女っ子が俺のほうを見る。

 紅子さんはここを住居にしてるらしいし、多分〝 お雛 〟っていうのは秘色さんのことだろう。神鳥シムルグの庇護下にあるから雛…… ってことか。

 だから初めて見る俺に対して自己紹介しろと? 普通に興味があるだけかもしれないが。

 

「俺は下土井令一です。えっと…… ニャルラトホテプにこき使われてます」

「ああ、例の哀れな奴って噂の…… はー、苦労してそうな顔してんな」

 

 そんなに苦労人みたいな顔してるのか? 

 それにしても、会う人会う人に〝 噂の奴 〟って言われるんだが、どんな噂が広まってるんだ。不本意すぎる。

 

「俺様はPetunia(ペチュニア)Crooks(クルックス)。亡霊の魔女だ。魔女の亡霊じゃないぜ。亡霊の、魔女だ。よろしくなレーイチ」

 

 それのどこに違いがあるのかと疑問が顔に出ていたんだろう。

 ペチュニアは 「まあそうだよな」 と言ってから改めて説明を始める。

 

「俺様は死んでから魔女になったんだよ。魔女の亡霊って言うと、まるで生前から魔女だったみたいだろ? だから〝 亡霊の魔女 〟だ。生前のペットがな、俺様が死んだことで暴走を起こしてやらかしてるらしい…… だからそれを止めるために魔女になったんだ。ただ、まだ解決に向かわせて貰えてないけどな。実力不足だからってさ」

「事情があるんだな…… さっき師匠がアートさんみたいなことを言ってたけど、それって魔法の師匠があのヒトってことか?」

 

 俺が尋ねると、知り合いなんだなと笑顔で彼女は頷いた。

 なるほど、一人称についてはスルーを決めていたがもしかしてアートさんの影響か…… ? あのヒトも一人称〝 俺様 〟だしな。

 

「で、お前達は……」

 

 ペチュニアさんが言い終わるより前に彼女の側から電子音が響く。

 それは誰かからの着信だったようで、なにかを取り出すこともなく彼女は帽子のツバの内側を押した。

 そして暫く小声で問答していると、突然大声をあげた。

 

「はっ!?」

 

 俺達がそれに注目していると、彼女はバツが悪そうに眉をひそめて右の手のひらを垂直に立て、片目を瞑る。その表情から 「すまん」 と言いたいのだということがすぐに理解できた。

 そして、また暫く会話した後に溜め息を吐いた。

 

「ケルベロスさんからかい?」

「ああ、なんか仕事が入ったらしくてな。あー、また迎えに行くのが遅くなる……」

 

 俺が疑問を顔に浮かべていると、紅子さんが小声で「ペティさんは悪さするペットを迎えに行きたいんだそうだ」と教えてくれた。

 さっき自己紹介のときに言っていた、解決に向かわせてもらえないというのがこれだろうか。

 

「学者先生とイロハは依頼を受けに来たんだよな?」

「まあ、一応見に来ただけだけどね」

「ええ、最近は色々あるみたいだし……」

 

 確認するようにペチュニアさんが言うと、二人は少しだけ答えに窮したようだった。

 

「レーイチはこの屋敷に来るのも初めてだろ? ベニコだけでもいいだろうが、なんなら今暇になった俺様が代わりにこの中案内するぜ。もちろん、お前達がよければだけどな」

 

 彼女は明るくウインクしてポーズを決める。

 こういうところに、ナルシストっぽいアートさんの影響が強いんだろうなあと実感が湧いてくる。ペチュニアさんがやると微笑ましいだけでそんなに痛くないが。

 

 

「ああ、なら頼めるかな? 君達もそれで大丈夫?」

「すみません…… こっちも用事があるので」

「ああ、構わないよ。元々紅子さんに教えてもらう予定だったから。えっと、助けてくれてありがとうございました」

「ああ、残念。せっかくお兄さんと二人でデートできると思ったのにねぇ」

「また冗談を言うなよ」

「…… 邪魔して悪いな、ベニコ」

 

 ペチュニアさんは少し考えてそう言った。

 茶化したような口調だが、言葉を出す前に眉を跳ねあげていたのが気になるな。なにか驚くような発言でもあったか? 

 

「本気のクセにな。無意識か」

「は?」

「いーや、なんでもないぜ」

 

 笑顔で彼女は帽子を取ると、胸の前で持つ。

 そして随分と優雅な仕草でお辞儀をすると 「改めて、亡霊の魔女〝 Petunia(ペチュニア)Crooks(クルックス) 〟だ」 と自己紹介を繰り返す。

 

「ペチュニアだと長いから、Pety(ペティ)って呼んでくれよな。得意分野は〝 嘘を見抜くこと 〟と、薬草学研究だな。民間療法とか、魔法薬には精通してるぜ。あとは結界の看破にすり抜け…… まあ、普通に想像する魔女らしくはないな。他人を傷つけることよりも癒すことの方が得意だよ」

「アタシのことはもう知ってる…… よねぇ。赤いちゃんちゃんこの紅子。最近は外で活動することのほうが多いね」

「改めて下土井令一。邪神のせいで人間関係が希薄でな。こっちには知り合いを増やしに来たんだ。あいつに対抗するには一人じゃなにもできないからな」

「ふうん、なるほどなるほど。ま、俺様も邪神には興味がある。関わりたくはないけどな。こっちの都合もあるが、相談くらいは乗ってもいいぜ。ほれ、連絡先だ」

 

 さすが、理解が早い。

 ペティさんからトンボのようなものが飛び立ち、ふわりと俺の手のひらに着地するとそれは連絡先が書かれたメモに変化した。

 続いて彼女のエプロンドレスの中から取り出されたのは普通に最新式の携帯電話だった。

 どうだ、と言いたげな顔でウインクしている。あの格好でどうやって買っているんだろうか。

 現代に行くときは普通に着替えてるのか? 

 ああいう人ってプライドが邪魔して質素な服を着る発想がなさそうなんだが。

 

「それじゃ…… 掲示板は遠目にも見えるな? あと、アプリはもう入れたか?」

「まだだねぇ。ここならすぐダウンロードできるから、すぐやっちゃいなよお兄さん」

「ああ……」

 

 スマホを起動すると、WiFiを選択するときのように勝手に通知が出る。

 

 [アルフォードの同盟記録ver4.3.1をダウンロードしますか? ]

 

 YESをタップするとすぐさまダウンロードが開始され、数秒で完了する。開いてみれば依頼掲示板の他に某青い鳥のような機能やチャット機能、現代で言う6ch掲示板みたいなものまで備えてある。

 同盟全体の情報網になっているのかもしれない。

 

「当たり前だが、普通の奴にはそれは見えないし、辿り着けない代物だっていうことを覚えておけよ。グレムリンの奴らが現実の電波を一部ジャックして開設した人外専用のネットワークだからな。外ではそのネットワークの存在は認識されないし、意識されない認識障害みたいなのが起こってる。存在を知ればその認識障害の影響は受けなくなるが……」

 

 彼女が言いたいのは、つまり使ってるところを見られるなということだろう。

 普通の人間に認識できないということは、俺がこれを見ているときに覗き込まれたら〝別のなにかを見ているように見せかける〟ようにしなければならないわけだ。

 相手になにが見えているのかも分からないのに誤魔化すのは難易度が高い。気軽に使うなら人外の前でってことだな。

 

「よろしい。問題ないぜ。よし、なら他にも案内するぜ。掲示板はいつでもそれで見られるからな。お前達は知り合いを作りに来たんだろ?」

「まあ、そういうことになるねぇ」

 

 心なしか紅子さんがつまらなそうな顔をしている気がする。

 

「なあ、なにか食べるところとかないのか? もしくはお土産とか」

「あー? 突然どうした……」

 

 ペティさんは紅子さんを見てすごく面白そうな顔をした後、納得したように頷く。

 紅子さんは無意識なようで、その様子になぜ自分を見るのかと首を傾げている。

 

「紅子さん、お腹空いたのか?」

「は、は? なに言ってるのお兄さん」

「不機嫌そうな顔してるぞ」

「……」

 

 愕然としたように戸惑った彼女は頭に乗せたベレー帽を取って顔を隠し、 「このっ、馬鹿」 と呟いた。

 困ってペティさんの方を見れば、こちらも呆れたように俺を見つめて 「あーあ、乙女ってのが分かってねーなぁ」 と苦笑する。

 

「乙女? いや、は、え?」

 

 いやそんなはずないだろ、と可能性を切り捨て俺は困惑する。

 だってあの紅子さんだぞ。常々俺みたいな奴は嫌いだって言ってるような子だ。優柔不断だし、彼女の脱出ゲームは文句なしの不合格だ。優しさと弱さを履き違えている俺を彼女は嫌ってるとまではいかなくとも、少なくとも苦手なはずだ。

 ありえないって。

 

「うーん、今お前達にピッタリなスポットは図書館だな。間違いないぜ」

 

 断言したペティさんは俺達二人の手をそれぞれ取るとそのまま駆け出す。俺達は戸惑ったまま、手を引かれて走った。

 けれど、向かう場所は図書館と言っていたのに外だ。赤煉瓦のお屋敷から抜け出し、奥へ奥へと走っていく。

 きょろきょろと辺りを見回している紅子さんも、ここまで来たことはなかったんだろう。

 そして迷路のようになっている赤い薔薇園を更に奥へ。

 薔薇園の垣根は自動販売機と同じくらいの高さがあって、周りが見えなくなる。

 そして、長い長い薔薇園を抜け出すとそこにはこじんまりとした建物があった。

 

 ちょっとした小屋くらいの大きさしかないのに、図書館? とは思うが、女の子が好きそうな場所なのは確かだろう。

 トランプの模様に合わせてハート、クローバー、スペード、ダイヤの意匠と、まるでお菓子の家のようなメルヘンな雰囲気の漂う建物だ。

 

「こ、ここが図書館…… ?」

 

 やっと手を離され、ゼエハアと息を乱しながら休憩する。

 そんな俺に比べて紅子さんは普通に辺りを見回しながら 「こんなところあったんだねぇ」 と呟く。

 やっぱり彼女も人外だ。体力が違いすぎる。

 

「悪い、構わず走っちまった」

「いや、大丈夫。俺が貧弱なだけだ」

 

 息を落ち着かせて改めて建物を見る。

 俺一人だとすごく入りづらい少女趣味っぷりだ。

 なんとなく不思議な国のアリスを彷彿とさせるな。

 

「きっと驚くぜ」

 

 ペティさんが通常よりもずっと大きい、小さな小屋に似つかわしくない両開き扉を開けはなつ。

 すると、その先に見えた光景に俺は言葉をなくしてしまった。

 

 先に見える本、本、本、本の山。

 小屋の中には到底収まりきらないようなだだっ広い空間が広がり、この世の全ての本が集まっているんじゃないかと思うくらいの本の量がその中に収納されている。

 天井はもはやどこにあるのか分からないくらいで、螺旋階段とエレベーターがどこまでも続いている。

 明らかに小屋より大きなその空間に俺も、紅子さんも驚きで押し黙った。

 

「にしし、驚いたか? 驚いたな?」

 

 すごく楽しそうにこちらの反応を伺ってくるペティさんに生返事をすると、建物の中に引っ張り込まれる。

 図書館の中央には、両面開き扉を全開にしてちょうど通れそうなくらいの手引き車というのか? そういうのが置いてある。

 

「あれは文車(ふぐるま)って言うんだよ、お兄さん」

「へえ」

 

 紅子さんが訂正してくれて助かった。

 とにかく、そのくらいの大きさの文車が図書館中央にある。

 それに向かって手を振ったペティさんは入り口から少し入った場所に立ち止まる。歩いて行こうにも中央まで随分と距離があるようだ。

 

「行かないのか?」

「ああ、待ってれば分かるぜ」

 

 数秒後、足元にある石のタイルが矢印のタイルに変化する。

 それは中央に向けた矢印で、俺達がそれを確認した直後、滑るように俺の体が引っ張られた。床が滑るわけではないらしい。

 

「おや、よく来るお客さんかと思ったら、新顔二人もいるのだね」

 

 その少女はしいて言うのなら、緑…… だった。短い茶髪によもぎ色のベレー帽をしっかり被り、コートはアシンメトリーの黄緑と濃い緑のものだ。スカートは茶色で、真ん中に葉っぱの模様が入っている。

 本を開いたまま、こちらを向いた少女は幼い容貌には似つかわしくない知的な雰囲気が漂っている。

 

「ちょうど良かった、ペティ。解決してもらいたい問題があったのだよ…… っと、君達はなにか用かな」

「アタシ達はペチュニアに案内されて来たんだ。もしかして、キミが例の…… 文車妖妃(ふぐるまようひ)かな?」

「おや、私のことを知っているのだね。如何にも。私は文車妖妃の字乗(あざのり)よもぎと言う。私を知っているということは……」

 

 神妙な顔をした字乗さんは顔を伏せる。

 俺達がごくり、と息を飲んで彼女の言葉を待っていると、視界の端にペティさんが呆れているのが見えた。

 

「恋愛相談をしにきたのだな!?」

「は?」

「いやいやいや」

 

 紅子さんがすかさず否定する。

 

「なに? 違うのか…… お前、赤いちゃんちゃんこだろう? アルフォードから聞いているぞ。恋愛相談をさせてやれとかなんとか」

「アルフォードさんの言うことを間に受けないでくれ。アタシはちゃんと否定したからね」

「ふむ、そうか……」

 

 ペティさんは相変わらず俺達を面白そうに観察していたが、区切りのいいところで 「ところで」 と口を出す。

 

「ヨモギ、なんか用があるんじゃないのか?」

「…… ああ、そうだった。ちょっと厄介なことになっていてだね。掲示板まで行くのは面倒だし、機械の操作は得意でないし、誰も来ないようならそこの扉を現実に繋げて適当な一般人に解決させようと思っていたところだよ」

 

 それってだいぶ問題があるんじゃないか? 

 一般人にって…… 同盟はそれでいいのか。

 

「で、その依頼って?」

「ああ、これを見てほしい」

 

 字乗さんが文車から取り出したのは一冊の本だった。

 

「これ、不思議の国のアリス…… か?」

 

 俺が彼女の手の中を覗き込むと、そこには見覚えのある本があった。

 確かここ一週間でニャルラトホテプ(あいつ)の部屋に置いてあったのを見た気がするな。

 あいつは最近水槽を買って中でなにか変なものを育てていたようだし。不穏な動きが多い。この本があれと同一だったりするならこれにもあいつが関わっている可能性がある。

 

「ああ、だけれど…… 中を見てくれ」

 

 ページを開くと、右側に文字が浮かび上がり、左のページにイラスト…… のはずなのだが、イラストは動き出し、右の文章と連動して話を進めていくようだ。

 

 ―― 白いウサギがチョッキの中から懐中時計を出して 「大変だ! 遅刻しちゃうぞ!」 とひとりごとを言いながらなにやら大急ぎです。

 

 ―― アリスはまるで待ち望んでいたかのようにウサギを追いかけました。

 

 ―― アリスは持っていた包丁でウサギを刺して真っ赤になりました。

 

 ―― 「女王様は赤いものがお好きなのよね。遅刻を許してもらうなら、お好きなものを用意しなくちゃいけないわ。これであなたも許してもらえるわ。よかったわね」

 

 ―― そしてアリスは、白いウサギが目指していた木のウロにある大穴に飛び込んでいきました。

 

「なんか物騒だな」

「あー、スプラッタだねぇ」

 

 赤頭巾といい、アリスといい、なぜこうも改編されがちなのか…… 俺は困惑しながらも読み進めた。

 

 すると、とあるページにしおりが挟んであった。

 そのページの挿絵は、他のページとは違って同じ場面を繰り返しているようだった。

 たっぷりとした金髪に王冠を乗せ、真っ赤なドレスを身に纏った少女がドレスをたくし上げながら必死に走り、その後ろから同じく赤く染まった黒いエプロンドレスを身に纏ったアリスが追いかける。

 アリスの手には包丁が握られ、赤の女王と思しき少女はこちらに向かって手を伸ばす。

 しかし、それは叶わず地面に転び、追いかけられるのを繰り返している。

 まるでGIF画像のようだが、紅子さんやペティさんはそうは思っていないようだった。

 

「しおりの効果だな」

「ああ、そういうことなんだね。しおりがあるから、このページの先に進めない。だから、赤の女王も襲われる前にループする。嫌なループだねぇ」

 

 先のページを見ようとしても、ページは捲れない。

 たとえ捲れたとしてもその先は白紙だろう。

 

「なら、このしおりを…… この人が手を伸ばしたときに外せば?」

「…… お兄さん」

「ほう? いいだろう、やってみるといい。私はこの本の異変をお前達に解決してほしい。お前達の決定に任せてみるとするよ」

 

 俺は息を飲む。

 そして、赤の女王がこちら側に手を伸ばしたその瞬間…… しおりを外した。

 

 その途端挿絵のページが眩しく光り、魔法陣が浮かび上がる。

 

「きゃあぁ!?」

 

 そして、手を伸ばした状態の少女が本から飛び出し、俺達の前にどさりと落ちた。

 

「レーイチ、しおりを戻せ!」

「え? わ、分かった!」

 

 慌てて見れば、魔法陣の端にもう一人の…… アリスの手がかけられるところだった。

 しおりを元の通りに挟み込み、本を閉じる。

 

 光が収まると…… 図書館に現れた新たな人物がむくりと起き上がった。

 

「礼を言うぞお前達! よくぞ私様を救ったな!」

 

 べしゃっとみっともなく地面に落下していた女王は、コスプレじみた格好のスカートを払って宣言する。

 

「私様は赤の女王、Lacie(レイシー)。特別にお前達はレイシーちゃん様と呼んでも良いぞ!」

 

 あるはずのカリスマは、前後の行動で台無しだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・ペチュニア・クルックス
 ファンタジーより現実よりの魔女。猫と幸運の亡霊魔女である。エプロンドレスは白の割合が多くて肉球柄だとか。

字乗(あざのり)よもぎ
 文車(ふぐるま)妖妃(ようひ)。恋破れた女達の文の集合意識的付喪神。文車の付喪神でもある。成就した恋を知らないが、少女漫画を読んで勉強し、人にアドバイスするのが生き甲斐。現実を知っているはずなのに知らない残念知的少女。結構すごい仕事してるのはあまり知られていない。

・レイシー
 赤の女王。のじゃロリ私様系残念少女。カリスマブレイク!


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砂鉄の国の女王

 

 そのとき甲高いブレーキ音が、響いた

 

「ああ、ジェシュ! ジェシュ! やっと見つけたのに!」

 

 少女が道路の真ん中で横たわる黒い影を抱き起す。

 彼を轢いた車は猛スピードで曲がり角を走行していったが、少女の目にそんな姿は入っていない。

 そう、たとえそんなスピードで曲がり切れるはずがないことも、その先が行き止まりになっていることを知っていても、少女にとっては目の前のことが全てだったのだ。

 腕の中で体を無理な方向へ曲げられ、血塗れになっている黒猫はもう動かない。

 

「ごめんね、ごめんね、私がドアを開けっ放しにしちゃったから…… お外は怖かったよね。ごめんね、ごめんね、早く見つけられなくてごめんね……」

 

 泣きじゃくる金髪の少女は道路の真ん中から動くこともせずに留まり続けている。

 

「お姉ちゃん! ジェシュ見つけ…… ジェシュ!? そんなっ」

 

 長い金髪の少女に短い金髪の少女が駆け寄ると、その腕の中にいる黒猫に悲痛な声をあげた。

 

「お姉ちゃん、ジェシュを連れて行こう? お父様とお母様に言わないと」

「いや、いやだ! ジェシュはまだ大丈夫……」

「お姉ちゃん……」

 

 妹らしき少女が何度言おうとも姉は動かない。

 しまいには雨まで降り出したが、少女は構わず泣き続けていた。

 

「お姉ちゃん、あたしお母様達を呼んで来るわ。だから、ちゃんと待ってるのよ。風邪ひかないように、せめて端に避けて……」

 

 妹の進言も構わず猫を抱きしめる少女は答えない。

 

「待ってるのよ?」

 

 悲痛な面持ちで妹が去ると、再びその場所は少女の泣き声だけが響くようになった。

 けれど、そんなタイミングを計るように彼女に影が忍び寄る。

 

「どうしましたか、お嬢さん?」

 

 泣き続ける彼女の頭上に影が指す。

 降りしきる雨が、背後から現れた男の傘によって遮られたのだ。

 

「ジェシュが、大切な猫が事故で……」

 

 やっとのことでその言葉を口にした彼女はなおも泣き続けている。

 

「そうですか、それはそれは残念なことです。ところでお嬢さん? その猫、とても大切な子なんですか?」

 

 とても残念だと思っているとは思えないような口調で続ける男に、少女は 「当たり前です!」 と返した。

 

「それは、あなたの命よりも?」

「それは…… そうよ! だって初めてのペットだったんだから……」

「そうですか、それはそれは大切な猫ちゃんなんですね…… くふふ、では、その猫を失わずに済む方法があると言ったらどうしますか?」

 

 胡散臭い笑みを浮かべ、からかうように質問する男を彼女はキッ、と睨み口にした。

 

「そんなのっ、できるならいくらでも実行しますよ!」

「…… あなたの命に代えても?」

 

 男の質問に少女は僅かな不信を滲ませるが、少女はどうしようもなく幼かった。勢いで一生のお願いを使ってしまうような、そんな軽い気持ちで〝 その言葉 〟を口にする。

 

「ええ、もちろん!」

 

 黒い三つ編みの男はその言葉に 「くふふ」 と笑みを浮かべ、 「約束ですよ」 と念押しする。

 まるでこれだけ忠告したのだから、これ以降文句は受付けぬとでもいうように。

 

「〝 約束 〟するわ!」

「…… 契約、成立です。では、この液体をその子の口の中に垂らしてみてください。みるみるうちに回復するでしょう。今、やってください。お金は取りませんよ」

 

 少女は差し出された赤い小瓶に戸惑いを示した。

 けれど、お金は必要ないと言われて迷いを捨てることにしたようだった。

 猫の口を上向きにさせ、開く。その中に件の小瓶に入った赤い液体を少しずつ、少しずつ流し込む。

 最初は猫が飲み込まないため口の外に溢れていた粘度のある液体は、少し経つと今度はまるで猫が飲み込むように口の中へと消えていった。

 

「え!?」

 

 猫の体はいつの間にか彼女の知る愛らしい姿へと戻っていた。

 怪我もしていない。あれだけ滲んでいた血もどこにもついていない。曲がった体は正常に戻っている。

 

「ね、大丈夫だったでしょう? それでは、私はこれで失礼します」

「あ、ま、待って!」

 

 彼女が呆然としている間に男は踵を返す。

 

「くふふふふふふ」

 

 長く黒い三つ編みが楽しそうに揺れていた。

 

 それは、ずっと前のこと。

 序章はとっくに始まっていたのだ。

 

 

 目の前で腰に手を置きこちらをピンと伸ばした指で指し示してくる女の子は、一見してコスプレじみた格好をしている。

 赤と黒と白のトランプのような豪奢なドレスと、ハートが乗っかった王冠。ティアラじゃないのは女王だからなのか。

 レイシーと名乗った彼女は恐らく〝 ハートの女王 〟のはずだ。

 

「……」

 

 誰もなにも言わない。

 女王…… と言っても身長は紅子さんよりも低くて140㎝くらいか。中学生くらいの年頃だろう。

 彼女は精一杯胸を張って格好良くポーズを決めてるが、背が低いのと、先程べしゃっと地面に落ちていたのが相まってカリスマ性など微塵も感じられない。

 ただただ可愛いだけだ。

 

「…… なにか言わんか。女王だぞ? お前達とは格が違うのじゃ」

「……」

 

 ペティさんが猫の飾りがついた魔女帽子を深く被り、咳払いをする。

 明らかに笑いを堪えている様子に女王の指先がプルプルと震え始めた。

 

「あー、えっと、御機嫌よう? 女王サマ」

 

 苦い顔をしながら紅子さんが言うと、女王はすぐさま顔をそちらに向けた。ものすごく素早かった。

 

「めちゃくちゃ御機嫌斜めじゃ!」

「そ、そうかぁ……」

 

 紅子さんもまさかこんなにも素直に返されるとは思ってなかったんだろう。たじたじだ。

 ペティさんは笑えが堪え切れなくなって身体が震えてきている。勘弁してあげてくれ。女王はもう涙目だ。

 

「うう、なんじゃお前ら! 私様は赤の女王ぞ!? 敬え! 敬えよ! さもないとチェシャに泣きつくぞ!?」

 

 いや、そこは言いつけるんじゃないのかよ。

 

「チェシャ。チェシャ猫か? 女王は親しいのか?」

「なに言うておる。チェシャ以外の住人は皆私様に無関心じゃ。私様にはあやつがいれば…… いや、別に一人でも寂しくはないぞ? あやつが心配性なだけじゃ」

 

 ぶつぶつと話し始めた彼女を放っておき、俺達は文車妖妃(ふぐるまようひ)字乗(あざのり)さんに視線を向ける。

 彼女はなにかの本に没頭していたかと思うとそれを閉じ、顔をあげた。

 閉じる前に見たところ、分厚い辞書の中がくり抜かれていて、少女漫画が入っていた。

 図書館司書がそれでいいのか、とかいろいろ言いたいことはあるがとりあえず見なかったことにしておくかな。

 

「それで、レイシーちゃん。君の国で一体何が起きているのかね? こちら側はもちろん君の国ではないのだから、君の法律は通用しない。そのことだけは覚えておいてくれたまえ」

「私様が他国の女王とて、必要な礼儀くらいあろうが! 首をちょん切られたいのか!」

 

 女王は興奮したようにまくし立て、椅子に座って踏ん反り返る字乗さんに詰め寄る。

 字乗さんのその姿も彼女をイラつかせることになっているのだと思う。それがわざとなのかは分からないが、字乗さんは女王に対してかなり挑発的な態度を取っているように見えるな。

 

「wait、wait、wait…… 落ち着きたまえよ、お嬢さん?」

 

 そんなこと言っても怒らせるだけだろうに。

 

「私達は君の国がめちゃくちゃになっている…… その原因を特定し、解決してやりたいと考えているのだよ。だからだね、手っ取り早く君から内情を聞かせてほしいのさ。勿論、言わないことがあったっていい。それは君のプライベートだ。それに、隠されたってそれを暴く術はこちらにはないんだ。遠慮は必要ない」

 

 回りくどい。普通になにがあったんだ? でいいじゃないか。

 

「は? え、は?」

 

 ほら、女王も混乱してる。

 

「…… ふむ、なにも一日における化粧室の利用回数なんてことを聞いているわけではないぞ。あの物騒な小娘に追われている理由を簡潔かつ明快に答えてくれればいいんだ」

「じょ、女王は麗しくて美しくてすごいからトイレになんて行かんのじゃ!」

 

 で、内容で拾うのはそこだけなんだな。

 ペティさんはそんな二人の会話を聞きながらお腹を押さえてテーブルを控えめに叩いている。この噛み合わない会話のどこが面白いのかちょっと理解できそうもない。

 

「あー、女王サマ? なんで追われていたのかは分かるかな? アタシ達はそれを解決したいんだ。キミが唯一の手がかりなんだよ。ね?」

「わ、私様が唯一……」

 

 女王はちょっと照れたように視線を逸らして、それからまたない胸を張った。あ、いや、ごめん。だってほら、中学生くらいだしな……

 

「よかろう! よかろう! で、なにが聞きたい? えーと、そこの赤マントちゃん!」

「あー、アタシのことだね。自己紹介してなかったもんねぇ。女王サマ相手じゃ失礼だったね。アタシは紅子。ベニコだ」

「ベニコ…… ベニちゃん! よろしくね! …… なのじゃ!」

 

 取って付けたように付け加えた言葉で、今のは女王の素の部分だったのだと推測できた。

 どうやら紅子さんは僅かな敬意と分かりやすい説明をすることで彼女と親しくなることができたみたいだ。

 

「俺は令一。レイイチだ。俺も君の国を平和にする手助けがしたいんだ。よろしく」

「む…… よろしく、レーイチ」

 

 一応、自己紹介をすれば受け入れてくれるみたいだな。

 

「…… 俺様はペチュニア。ペティってな」

「お前の名前はイカれ帽子で十分じゃ!」

 

 ウインクしたペティさんに噛みつくように女王が叫んだ。

 ペティさんは 「…… もしかして怒ってるか?」 と今更なことを言う。

 さっきからかなりお怒りだと思うが。

 

「良かったねぇ、ペティ。キミも童話のお仲間に入れてもらってるよ」

「俺様はマッドハッターじゃねぇよ。あそこまでイカれてねーの!」

「少しばかりは心当たりがあるようだ」

「よもぎ! 余計なこと言うんじゃねぇ!」

「こうして見るとキミもお師匠に似てるんじゃないかな? 良かったね。憧れだろう?」

「誰があんなヘタレ狼!」

 

 ヘタレ狼…… ? 

 ケルベロスをヘタレ…… ? 

 疑問しかないんだが、弟子のペティさんが言うってことはなにかあるのか。

 前に会ったときは、確かに俺様だし迷彩Tシャツにコートとかいう変な格好はしてるし、怖い雰囲気なのに甘いものが好きらしいし…… ギャップはいろいろあったけど、ヘタレと言われるような場面はなかったんじゃないか? 

 

「話が脱線していないかい? ああ、私のことは知らなくても良い。勝手に司書でもなんでも呼べばいいからね。ほら、早く君の悲劇を聞かせておくれ」

「言い方が気に食わんが…… まあいい。まず前提ではあるが、私様の国は元々の童話とは違うらしい。らしいというのは、チェシャに聞いたからだがな。それで…… 私様は、私は、最初はアリスだったのだ」

 

 そこから女王レイシーが語ったのは、衝撃的な童話世界のルールだった。

 彼女曰く、いや、彼女にとってはチェシャ猫曰く、この童話の中ではアリスとなった人間が物語の最後までなぞり、辿り着くことで物語が終着を迎えて〝女王〟が交代する。

 アリスの物語は明確な終わりがあるわけではなく、最後にはアリスが現実で目を覚ますことになるわけだが…… この目覚めるアリスと、夢の中で冒険していたアリスはイコールで結ばれないということを彼女は説明した。

 アリスが冒険し、物語を裁判まで進めるとそこでアリスが女王になり、元女王は現実世界で目を覚ます。

 そういうルールの基に成り立った世界。それがこの本だと彼女は教えられたそうだ。

 

「だ、だから、最初はアリスがやって来たと聞いて嬉しかったんじゃ」

 

 豪奢なドレスの袖をぎゅっと握りしめ、女王は悔しそうな表情をした。

 

「レイシー」

「…… なんじゃ、マッドハッター」

「とうとうマッドハッター呼びに…… まあいいや。なあ、レイシー。お前ってアリスだった頃の記憶とかないのか?」

 

 ああ、そういえばペティさんが言うように、彼女はずっと 「チェシャから聞いた」 と言っているが。

 

「ない」

 

 彼女の答えは単純だった。

 

「そうか、ならなぜ次代のアリスが暴れまわっているのかも分からないんだな?」

「分かるわけないじゃろ」

「あー…… 最後にもう一つ、外にいたときの自分を知らないのに、なぜ外へ出たいと思ってるんだ? あの世界はお前の支配下にある世界なんだろ?」

「…… そうじゃな、漠然と〝 帰らなければならない 〟という思いがあるのじゃ。それがなぜだかは分からないのじゃが、なにか大切なことがあったはずなのじゃ」

 

 ペティさんはその言葉に帽子の端を握って考え込んでいる。

 女王…… レイシーになにかありそうなのは確かだが、今は考えても分からないことばかりだ。

 俺だって、彼女のことはどうにかしてやりたいと思ってるけど…… 今は不思議な国で暴れている血塗れアリスをどうにかしなければならない。

 

「でも、どうすればいいんだ? 本の中の世界だろ」

「おやおや、ちっぽけな人間様はこれまでの体験を踏まえても想像がつかないらしい。ここはどこで、私は誰だい?」

 

 ここは図書館で、字乗さんは図書館の司書だが。

 

「私は本の専門家。ダンタリアン様から管理を任されたこの世界中の本が集まる場所の管理者だよ。本の世界へ入る方法なんて何通りも挙げることができるのさ」

 

 両手をあげて自慢気に言う彼女へ紅子さんがじとりとした目を向ける。

 

「ならさっさと教えてほしいねぇ。つまりはあれだ、本の中に入ってアリスを追い出すか倒すかすればいいんだろう?」

「お前って意外と脳筋だよなぁ」

「…… それが手っ取り早いということだよ」

「否定はしないんだな?」

 

 ペティさんのからかうような口調に反論せず紅子さんは肩をすくめる。自覚はあるらしい。結構思慮深い印象があると俺は思っているんだが。

 

「結構考えて動いてるほうだろ、いつも。今回はまず会ってみないことには分からないからな」

「キミね…… 変なフォローしなくていいから。ほら、さっさと教えて」

「ふむぅ、なら本の中を食い荒らす魚…… はダメだね。それとも一対の本立て…… も戻ってこられなくなったら大変だね」

 

 おいおい、大丈夫か? 

 

「ううむ、ま、普通に私が手を加えればいいだけだな。本に〝 奇妙な三人組が女王と出会う 〟といった一文を追加する。そうすれば本は内容に沿ろうとしてお前たちを引き込もうとするだろう。君達はそれに逆らわなければ良い」

 

「文を加えるだけなのか?」

「ああ、もちろん特別なペンを用意しているよ。安心したまえ、こういった類のオモチャは山程持っているのでね」

 

 それは安心だ。安心か? まあいい、相手は専門家なのだから大丈夫なんだろう。分からない俺がああだこうだ言うことはできない。

 

「それじゃあ、ほらそこに集まって。一気に行かないと物語の中ではぐれてしまうよ。中で冒険するのは面倒だろう」

「むむ、できればチェシャのいる場所に出たいぞ。あの子ならアリスには捕まっていないはずじゃ! なにより私様が会いたいし!」

「女王様はなんとも素直なことで」

 

 ペティさんがやれやれと首を振って言うが、彼女はそれを無視して字乗さんだけを見ている。相手にするのはやめたらしい。すごい嫌われようだ。

 

「善処しよう…… ま、チェシャ猫なら場所がズレてもすぐに君らを見つけるだろうさ」

 

 字乗さんが本にペンを走らせると、その場に光の帯のようなものが現れ、俺達へ向かって伸びてくる。どうやらこれに従って進むか待つかすればいいみたいだ。

 

「ああ、そうだ忘れていた。帰るにはあちらでも同じ本を見つける必要があるから、図書館かなにかを道すがら探すといい。帰るときは本の中にある挿し絵に触れるだけでいいから、覚えておくように」

 

 こともなげに言う字乗さんに 「言うのが遅いよ!」 とか、 「見つけられなかったら帰れないのかよ!」 とか、いろいろ言いたいことはあったが、時間はそう長くないようですぐさま視界が真っ白に染まり上がる。それに声が出せなくなるおまけつきだ。

 はぐれないようにと咄嗟に紅子さんの手を掴んだが、彼女が驚いて腕を揺らす感触が伝わってくるのみでその表情は拝めない。

 

 そして、視界が回復するとそこは森の中だった。

 周りにいるのは紅子さんだけで、女王とペティさんは見当たらない。案の定はぐれたのか? 

 

「いつまで手を取ってるつもりなのかな?」

「え、あ、ごめん!」

 

 心なしか呆れたようにジト目になって言う紅子さんに、慌てて謝罪してから手を離す。

 彼女はそっと掴んでいた場所に触れてそっぽを向くと、 「見事にはぐれたね」 と呟いた。

 

「ああ、どうしようか? あんまり動かない方がいいのか?」

「アタシに訊かれてもねぇ…… あの女王がアタシ達を探してくれるかにかかっているかもね」

 

 ああ、それなら問題ないだろう。

 なにせレイシーさんはペティさんのことを毛嫌いしているのだ。2人きりでいることになんて耐えられずに俺達のことを探し始めるに違いない。

 チェシャ猫が見つかったら…… 探してもらえないかもしれないが。

 

「現在地点はどこだろうね。森の中…… いや、あっちになにか見えるね」

 

 紅子さんが指差した方向へ目を向けると、大きな木々に阻まれて天辺しか見えないが、城と思われるものが見えた。

 赤と黒と白のコントラスト…… 女王の城だろうな。ひとまずあちらに向かえば間違いはないだろう。

 紅子さんと目を合わせてそちらに向かおうとしたとき…… 背後の木々が揺れたような気がした。

 

「見つけたー!」

 

 そして、そいつは俺の目の前に空中からくるくると回って着地した。

 恐らく木の上を走って、そしてこちらに向かって跳躍したんだろうと思う。

 だが、俺は思わずそいつに向けて所持していた刀を振りかざしていた。

 

「なんでお前がここにいるんだ!」

 

 首輪代わりのチョーカーが疼く。

 こいつは間違いなく俺のご主人様(クソヤロー)だ…… と、思ったのだが、そいつはビックリしたように再び跳躍して俺の横に着地した。

 

「いきなりなにさ、もう! せっかくボクが探してあげたっていうのにー!」

 

 ボク? 

 奴とはまったく違う一人称に疑問を覚えてそいつをよく見ると、似ている部分は長い黒髪を三つ編みにして前に垂らしているという部分と、不気味な黄色い瞳だけだ。

 頭には黒っぽい猫耳らしきものがあるし、腰から下がった尻尾はイラついているように左右に振れている。

 チェシャ猫特有の不気味な笑みは浮かべておらず、代わりに笑みを象った模様のある長いストールで口元を隠している。

 ピンクと紫の縞模様とトランプ柄のケープに明るい服装。式神の型みたいな、人型をした鈴つきリボンが尻尾の先でリンと音を鳴らす。

 片腕だけ獣のような異形になっているそいつは、見た目こそニャルラトホテプ(神内千夜)にそっくりだが、雰囲気はガラリと違う無邪気なものだ。

 おかしい、確かに奴だと思ったんだが……

 

「悪い、大っ嫌いな知り合いに似ててな」

「あー、悪いと思ってないでしょ!? ボク怪我なんて嫌だからね! 女王様のためにせっかく探してあげたのにこんな対応されたらボク悲しいんだけどー!」

「ごめんね。キミがチェシャ猫かな? レイシーはアタシ達を探してくれていたんだね。良かったよ」

「むう、今回は許してあげるよ。でもレイシーに同じようなことしようとしたらボクがキミ達を殺しちゃうからね!」

 

 物騒なことを言うチェシャ猫に苦笑を返して 「本当にごめん、レイシー達はどこにいるんだ?」 と質問する。

 

「もう仕方ないんだから! ボクいいネコだからキミのことも許してあげるー。さあさあ、こっちだよ。ついてきてね! …… 次はないけど」

 

 シシッ、と不気味に笑うチェシャ猫の後ろ姿を見ながら移動する。

 今でも彼のことを〝 奴 〟だと感じる自分がいる。

 これは勘というより、本能だ。チョーカーを通じて俺を拘束しているクソ野郎と同じ気配を感じている。

 

 どういうことだ? 

 俺はどうするべきか悩みつつも、とにかく今は合流が先だと判断する。

 俺の感覚がおかしくなったのか…… ? 

 

 横目に普段通りにする紅子さんを見て、真っ先に自分自身を疑った。

 

 

 



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「大切なもの」を奪う魚

 この間、あの子が大きくて怖い動物に連れ去られそうになった。

 アリシアが言うには、あれは 『車』 という生き物らしい。

 ボクはあの子が心配で心配でしょうがなかった。

 病院とかいう怖い場所にあの子も行かなくちゃならなかった。いつもボクを病院に連れて行くあの子が病院に。病院に行くのは嫌だし、ちょっとはボクの気持ちも分かってくれないかなと思ったけど、木を登ってあの子のいる場所を眺めてみたら、随分といい扱いを受けてた。

 アリシアはボクを見つけて、窓を開けてくれた。

 入るのはダメだと言われたけど、間近にあの子を見られて嬉しかった。

 でも、アリシアは怖い顔をして言った。

 

「これ、ジェシュと同じ……」

 

 ボクとなにが同じなんだろう? 

 病院に行ったこと? 少なくとも、ボクは滅多に怪我なんてしないし、あんな大怪我したこともない。

 迷子になったときも、途中で居眠りしてたらあの子が大泣きしながらボクを鷲掴んだっけ。あれは痛かったな。

 でもあの子のほうが年上だから、我慢。ボクは弟なんだってさ。

 正直あの子といるより家でゴロゴロしてるほうが好きだし、外で歩くのも一回しかしたことないけど好きだ。

 

 ああ、でも、あの子が病院に住むならボクは誰からご飯を貰えるんだろう? 

 アリシア? それともママさん? パパさん? 

 うーん、でも…… やっぱりご飯係はあの子がいいなあ。

 

 家が寂しい。

 家は好きだけど、ボクが好きだったのは、きっとこの家じゃない。

 ボクが好きだったのは、多分あの子のいる家なんだろう。

 早く治さなくちゃ。

 

 ボクは日が沈んでまた登って…… 10回目の日、また病院の木に登ってあの子を眺めてた。

 日に日に暗い顔をして、自分の怪我した場所を見ながら怯えているみたいだ。

 

 なんとかしてあげたいな。

 早く帰って来てほしいな。

 

 そうやって一日中…… たまにスズメを追いかけながら病院のいつもの木の上にいたら、カラスが隣に来た。

 カラスは嫌な奴だ。嫌味を言ってきたり、人間の悪口を言う。

 でも今日やって来たそいつは、なんか他とは違った。

 変な笑い方だし、なんか気持ち悪い。

 でもそいつが話したことには興味があった。

 

「あなたは化け猫になっていますよ、子猫さん」

「子猫じゃない。ボクはもう二歳だ。立派な大人だよ」

「くふふ、なら私はおじいちゃんでしょうか。けれど、あなたは若くにしてすでに化けられるようになっています。突然のことで驚くと思いますけど、ほら、尻尾をご覧なさい」

 

 ボクの尻尾は一本だけ。そんなの当たり前だろう? 

 なのに、そいつが言うように見たら、隣にもう一本…… うねうねと似たような尻尾が生えているのが見えた。

 それを見てボクは 「うわっ、ばっちぃ」 と前足で二本目の尻尾を叩く。

 カラスは 「ばっちぃ…… そうですか、汚いですか、傷つきますね」 と変なことを言っていた。なんでお前が落ち込むんだよ。

 

「…… ごほん、ところであなたのご主人様のことですが」

 

 その話題は聞き捨てならなかった。

 あの子が、なに? 

 

「時期に、死ぬでしょう」

「えっ…… ?」

 

 ボクが理解してないと思ったんだろう。

 カラスは溜め息を吐いて 「いなくなるということですよ」 と訂正した。

 

「それを止めることはできません。一度、入れ替えてしまいましたからね」

「なに言ってんの?」

 

 変なことを言うのはよしてほしくて、ボクはカラスを引っかこうとした。

 でも一段高い枝に飛び移られて逃しちゃった。

 

「そういう、運命ですからね。ただ、あの少女を生かし続ける方法がないわけではありません。ずっと一緒にいたいでしょう? あの子でなければ、満たされないでしょう?」

「…… ずっと一緒」

 

 ずっと一緒にいられたらな。

 あの子のいない家は、ボクの家じゃない。

 アリシアは優しいけど、ボクのためじゃなくてあの子のためにボクをお世話してくれている。

 なんだかそれは寂しくて、嫌だった。

 

「それ、本当?」

「ええ、本当です」

「教えてくれるの?」

「ええ、もちろん。私は親切なカラスですからね」

 

 カラスは言った。

 

「夢の中に閉じ込めてしまえばいいんです。そうして、あなたも夢の中に飛び込んで行けば、ずっと一緒ですよ」

 

 そう言われた途端に、頭の中がぐちゃぐちゃになって、まるで…… そう、まるで作り変えられるように整理され、思考がクリアになり、ボクは二度目の生まれ変わりを経験したようだった。

 

 二つ目の魂は人語を理解させ、三つ目の魂は夢に入る術を教えてくれた。ボクの中で暴れる赤い赤い触腕がそれすらも食い荒らし、四つ目の魂で制御の方法を学習する。

 五つ目の魂になると、ボクはあの子と同じような人間の姿をになれると確信し、気づいたときには侵食が停止していた。

 

「お前は、誰なの?」

「親切なカラスですよ。ただの、ね」

 

 あの子を死なせないためには、現実の体をこの大学病院に固定しなければならない。理解した。

 そして、夢の世界へあの子を連れて行って、永遠に二人で過ごすのだ。

 そうだな、あの子が好きだった絵本があった。あれだ。あれにしよう。

 

 死ぬよりも、ボクとずっと一緒のほうが幸せでしょ? 

 ねえ、そうだよね…… レイシー。

 

 

 猫がその場で眠る。深く、深く。

 それを見届けたカラスは口から赤い触手を吐き出し、木から真っ逆さまに落ちる。

 後には、カラスの死体だけが残っていた。

 

 

「こっちだよ」

 

 俺達はしっかりとチェシャ猫について歩く。

 彼が本当にチェシャ猫かどうかなんて猫耳と尻尾を見れば一目瞭然だし、レイシーの名前を知っていたのだから信用はできるはずだ。

 こちらには紅子さんだっているし、俺も戦闘はある程度できる。万が一があっても十分対処できるだろう。

 そもそも、チェシャ猫は俺達の前を歩いているので奇襲できるのはこちらのほうだが。

 

「いやー、まさか女王様が助っ人を連れて来るとは思ってなかったなー」

「チェシャ猫が無事でなによりだよ。レイシーは心配しなくても大丈夫って思ってるみたいだったが」

「あー、ボク愛されてるねー! さっすがボクの大好きな女王様! えへへへ」

 

 チェシャ猫は横目にこちらを見ながら、その異形の左手で頭をかいた。こう見ると普通に人懐っこい猫のようだが、チェシャ猫のイメージとはどうしても逸れている気がする。もっと食えないやつとか、飄々としているやつだと思っていた。物語のイメージ的に。

 

「なあ、チェシャはアリスが暴走した理由は分かるか?」

「うーん…… 分かんない」

 

 今度はこちらに振り返ることもなくチェシャ猫は言う。

 そうか、まあこいつも物語の登場人物だし、外部要因で物語が狂っているならメタ要素の強いチェシャ猫でもさすがに感知できないだろう。

 

「訳も分からず襲われる…… か。嫌なものだねぇ」

「ボクとしては女王様が無事ならなんでもいいよ」

 

 あまりにもあっけらかんと言うものだから一瞬なにを言っているのか分からなかった。他の仲間達はいいのだろうか。

 チェシャ猫ってどちらかというとアリスとセットのイメージがあるか、こいつはレイシー…… 女王のほうを溺愛しているな。

 レイシーがアリスだった頃に仲良くなったとかか? 

 彼女はアリス時代の記憶がないみたいだし、友達が突然記憶を失くしたようなものだろうか。それでもそばにいるってことは、よほど仲が良かったんだな。なんか切ない話だ。

 

「おおう、チェシャ! 待っておったぞ!」

「はあい、女王様。ボクお使いできたよー」

「うむうむ、良い子じゃのう!」

「もしもーし、おーい、レイシー」

 

 森の開けた場所に出ると、切り株に座るレイシーとそのすぐそばでなにやら不審な動きをするペティさんと合流した。

 レイシーはチェシャ猫を見つけると勢いよく立ち上がって歓迎するし、そんな彼女にちょっかいをかけていたペティさんはがっくりと肩を落とす。

 

「無視かよー、酷いぜ」

 

 安定の嫌われようだな。

 少しのからかいでここまで腹を立てるとは…… ペティさんはどちらかというと字乗さんの巻き添えを食らったようなもののはずだが、笑うのもアウトだと少々判定が厳しいな。

 一緒になって笑ったりせずに良かった。心底そう思う。俺まで嫌われていたら非常に話が進めづらいからだ。

 

「ごめん、レイシー。ペティさんのことは最低限返事してくれないか? 最低限で構わないからさ。いつアリスが来るか分からないし、声をかけて返事をしてくれないと無事かどうか分からなくなるだろ?」

「最低限で良いのだな? 私様はチェシャが守ってくれるから心配無用だが、そうだな。そこの帽子が滅多刺しにされる可能性を考えておらんかったようだ」

「それは俺様が殺される前提の話か? 言っておくけど俺様は強いからな。こっちこそ心配ご無用だぜ。そこの猫ちゃんがちゃんとボディガードになるかどうかは知らないけどな」

「ペティさん……」

「ボクもこいつ気に入らない……」

 

 皮肉に皮肉で返すものだからいつまでたっても和解できない。

 ペティさんもだいぶ捻くれているようだ。一言余計とも言う。前半までの言葉だったらまだ良かったのに…… この人は連携する気があるのかないのか…… 先が思いやられるメンバーだな。

 

「もうアタシ達で話を進めるしかないねぇ…… 頭脳労働は疲れるんだ。帰ったらお兄さんの作るアップルパイでも食べたいね」

「ああ、精神的にも疲れそうだからな。いくらでも作ってやるよ」

「それはそれは楽しみだ。楽しみだから少し頑張ろう」

 

 微笑む紅子さんと約束して笑う。

 帰ったら云々はフラグになりやすいが、紅子さんは死ぬことがないみたいだから少しは安心しててもいい…… よな? 

 

 まだまだ言い争い続ける三人を放置してどうしようか? と思考する。

 城は遠くに見えるが、チェシャ猫かレイシーの案内はほしい。

 特にレイシーがいればこの国の住民に聞き込みしやすくなるだろう。

 外部から来たアリスが荒らしているのだから、俺達も彼女がいなければ警戒されるかもしれないのだ。もしかしたら攻撃だってされるかもしれない。そうなると解決するのに時間がかかってしまうから、疲れもするだろうし…… なにより朝までに戻らないと我がクソッタレご主人様になにされるか分からない。

 

―― 「私を差し置いて朝帰りとは、そんなに元気が余っているのなら、私の相手になってくれるかな? もう、れーいちくんの…… イ・ケ・ズ」

 

 想像が簡単につく。

 いつもの三倍くらい気持ち悪さが増すに違いない。殴りたいあの笑顔。

 ただしあの屋敷の中では俺の力じゃ敵わないので、なんとしてでも外に誘き出す必要があるのだが。そうしたらいくらでもぶった斬ることができるのに……

 

「にゃ? なにか来るよ」

 

 チェシャ猫の黒い耳がピクリと動く。

 反射的に彼が顔を向けた方を見ると、その木々の隙間から大きなトカゲが一匹。走り抜けてきたところだった。

 

「おやおやこれは女王! ご機嫌麗しゅう」

「うん? お主はもしかしてビルか? トカゲのビルなのか?」

「はい、ビルにございます!」

「はあ? キミが!?」

 

 喋り出したトカゲにレイシーとチェシャ猫が信じられないものを見るような目で声をあげた。

 トカゲのビル? なんだっけか…… アリスの物語っていうと白い兎と帽子屋とチェシャ猫とトランプの兵隊ってイメージしかなくてな…… うーん、分からない。そんなのいたか? 

 

「あの頭の弱いビルがどうしてこんなに紳士然としているのじゃ!? 意味が分からんぞ! 逆に恐ろしいわ!」

「ついさっきアリスから隠れたときはまだ馬鹿トカゲのままだったのに、いったいどうしちゃったんだキミ!」

「失礼な。わたくしは目を覚ましたのです。女王様に礼を尽くすのは当たり前のことですし、馬鹿なトカゲなんてもういません。皆だってそうですよ! アリスから逃れる恐怖のあまり、皆抑圧していた本来の可能性を引き出されている! ああなんて気分がいい! 最高だ! 頭がいいってサイコー!」

「あ、今のは前のビルっぽいね。その調子で元に戻ってよ。ボク猫はだが立っちゃう!」

 

 猫肌…… ? 

 いや、それにしてもチェシャ猫は結構辛辣な物言いをするな。

 なんだか性格も子供っぽいし、やっぱりどう考えてもニャルラトホテプである奴とは違うな。雰囲気が似ていただけ、なんだよな。きっと。

 

「前のわたくし…… ? 前の、前の、前の? 前の…… 馬鹿だったわたくし? 前、前、マエ、まえ…… わたくしは、どんな、性格で、どんなことを言って、ましたっけ…… ? わたくし、わたくし、ぼく、ぼ、く…… は…… ? なにをすれば、いいのでしたっけ…… ?」

 

 おっと、なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ。

 トカゲのビルはチェシャ猫に指摘されるとすぐに取り乱し始めた。

 完全に様子がおかしいぞ。これは、アリスと会ってなにかあったのだろうか? 

 

「ビルがアリスから逃げ切ってる時点でおかしいとは思ってたけど…… なにこれ。ボク、こんなの知らない」

「臆病で愚図な奴じゃからな。アリスに会ったのならとっくに殺されておるはずじゃ」

 

 仲間にこれだけボロクソ言われるなんて、可哀想になってきたぞ。

 

「わたくし、ぼく、わたくし、ぼく、わたくし、ぼく、ぼく、わたくし…… ああ、あ、〝 トカゲのビル 〟に大切なものは……」

 

 ビルが頭を抱えてその場にうずくまる。

 レイシーは心配したのか、それに近づこうとして即チェシャ猫に止められていた。

 

「まさかと思ったが…… こいつのおかげでアリスが狂った原因が分かったぜ」

 

 ビルの周りに、不可視のなにかがいる…… 透明ななにかが。

 ビルを中心にとぐろを巻くように大きな体をグルリと囲んだそれは、シルエットだけなら魚のように見えた。

 俺は重要なことを呟いているペティさんを横目で捉え、そしてまたビルへと視線を戻す。

 紅子さんは既に戦闘するき気になっているのか、周りに浮かんだ人魂から自身を殺した凶器であるガラス片を取り出し、油断なく彼を見つめている。

 

「ペティさん、これっていったい…… ?」

「まだ推測だぜ。この件を片付けたら教えてやるよ。先に言うことは、トカゲは傷つけるなってことだけだな」

 

 彼女はそう言ってニヒルな笑みを浮かべると、トカゲのビルの背後を指差す。

 

「さあ、お馬鹿なビルを〝 返して 〟もらうぜ」

 

 そしてペティさんがそう言った途端、ベリベリとなにかが剥がれるような、そんな不快な音が響いた。

 

「――」

 

 紙の擦れるような音、キチキチと虫の鳴くような音。

 そして空気を切るように進む魚のような、虫のようななにか。

 レイシーと同じくらいの大きさの、しかしトカゲのビルよりは遥かに大きなそいつが口を開けて鳴く。紙を切り裂いたときの音と、虫の声を混ぜたような、耳障りな鳴き声だった。

 一見して折り紙で複雑な魚を折って顔を虫に似せたような見た目をしている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「レイシー、チェシャ、あの魚を殺せばお馬鹿なビルが返ってくるはずだぜ!」

「ふ、ふんっ、わ、わ、分かったから早く片付けるのじゃ!」

「おいおい足が震えてるぜ? お嬢ちゃんにはそんなに怖い見た目をしているかな?」

「ふ、ふりゅえっ、震えてにゃいもん!」

「おーおー、あざといねー」

「ボクのレイシーをイジメないでよ!」

 

 また喧嘩してる場合じゃないぞ!? 

 そうこうしているうちに魚が三人のところへ突進していく。

 場所が近いわけじゃないから間に合わないぞ!? 紅子さんが素早く跳躍しながら撃墜に向かっているが、あの三人が喧嘩をやめないことには危険度は変わらない。

 

「おっと、アタシがケルベロスの弟子ってこと、忘れてないだろうな!」

 

 そう言って飛び出してきた魚に向かって、なにかを投げつける。

 …… 投げつける? 

 

「お師匠様が珍しく寝てるときにこっそり採取したケルベロスの毒だ! 貴重な研究資料をたっぷり食らいやがれこの贅沢者めー!」

「あっぶなっ」

 

 ああ、ケルベロスの弟子ってそういう……

 彼女の投げたビンは魚の目の前で仄暗く光って爆散し、その中身を勢いよく浴びた魚がその場で停止する。目の部分が焼け落ちてしまったようで、地面の上でなすすべもなくのたうち回っているが……

 それより、魚を狙っていた紅子さんまでもう少しで毒薬がかかるところだったぞ。ペティさん、もしかして分かっててやってないか? 

 

「なーにが魔女じゃ! 道具投げてるだけじゃろ!」

「俺様は魔法薬専門なんですー! コモンマジックも使えるけどな、あれは詠唱がいるんだよ! 咄嗟の判断で守ってやったんだから感謝しろよな!」

「チェシャに任せれば私様は助かったわ! そもそもお主が喧嘩をふっかけてくるのが悪いんじゃろ!?」

「いちいち反応して噛みついてくるから延々と口喧嘩するはめになるんだろうが!」

 

 そうこうしている間に呆れた紅子さんがトドメを刺してこちらに戻ってくる。

 なんとなく頭に手を置くと、ムッとした顔で睨まれた。

 …… こう、気疲れした顔してたからつい。

 

「まったく、見た目通りの年齢じゃないんだよ? アタシ」

「お疲れ様」

「早く甘いものが食べたいねぇ」

 

 魚はピクリとも動かなくなったが……

 

「いーや、まだ生きてるぜこいつ。こいつらは死んだら空気に溶けて消えるんだよ。また誰かに取り憑いて栄養補給する隙を伺ってるだけだ」

「そうなの? ボクには死んでるようにしか見えないけど」

「猫ちゃん、お魚を食べたいのは分かるけどあんまり近づくなよな」

「ボク子供じゃない!」

「ひどいのじゃひどいのじゃ!」

「ペティ、大人気ないよ」

「はいはい、ベニコの言う通りかもなっと」

 

 ペティさんは俺達を魚に近づかせないよう牽制しながら歩みを進め、魚の頭を踏みつける。

 それから、帽子を外して手を入れる。まさかマジックのようになにか出すのか? と思っていたら、本当になにかのビンを取り出した。

 多分さっきのビンもどこかに隠し持ってたんだろう。危なすぎる。

 

 ビンの中には花? みたいなものが入っている。

 彼女はそのビンの中に、これまた取り出した別のビンからなにかの液体を一滴注ぎ、そして自身の髪の毛を一本抜いて入れる。

 それから、大きく息を吸った。

 

「〝 松明を掲げろ、火を灯し燃やせ―― 髪を、紙を、神をも燃やせ 〟」

 

 ビンを逆さまにし、植物が魚の背中へ落ちる。

 その途端あり得ないほどの勢いで轟々と燃え出した植物に、紙で出来た魚は堪らない。

 再びのたうち回り、最後には小さくなって全てチリになって空気中に消えていく。

 その光景に少しだけ、ケルベロスのアートさんと出会ったときの事件を思い出した。

 あんな気持ち悪い魚の姿だったというのに、なぜか切ない。

 

「これで〝 お馬鹿じゃないビル 〟の事件は解決だぜ。さあ帰るかー」

「アリスの件は終わってないだろ!」

「おっと、そうだった忘れるとこだったぜ。なんせ誰かさんが俺様を倦厭(けんえん)にするものだから、目的もすっぽ抜けてたな。いやー、説明してくれるやつがいると違うね! なあ、レーイチ」

 

 お願いだから返事に困ることを言わないでくれ。

 レイシー達からの視線を適当に誤魔化して、本題に入る。

 

「なあ、ペティ。さっきのやつはなんだ?」

「ああ、あれはな〝 妖紙魚(シミ) 〟だ。本を食っちまう虫にシミっているだろ? それの妖怪バージョンってやつだな」

 

 だから魚と虫が合体したような見た目だったのか。

 ということは、あの頭の部分は実在するシミと似た形なのだろうか。

 

「それで、そいつはどんな妖怪なのかな? アタシもそいつは知らないよ」

 

 彼女がそう言うなら、紅子さんが見たことない妖怪ってことか。

 

「虫のシミは本を食うが、妖怪のシミは本の登場人物の目に見えない大事な物を食っちまうのさ。大事な物と言っても色々あるぜ。目的とか、感情とか、あとアイデンティティとかな」

「つ、つまり、さっきのビルは…… アイデンティティを食われていたということなんじゃろうか?」

「この国のビルがお馬鹿で通っていたなら、そういうことだろうぜ」

 

 ペティさんがそう締めくくる。

 本の中の登場人物の大事な物を食う…… なら俺達は問題なく近づけたんじゃないか? 

 

「おっとレーイチ。変なこと考えてるだろ。言っとくけど俺様達にも影響するぜ」

 

 心を読んできたのはひとまず置いておいて……

 

「なんでだ?」

「そりゃあ、ここが本の中だからだよ。この中にいる時点で、俺様達はもうこの本の登場人物だ。だから俺様達もやつらの対象内なんだよ…… ちなみに、よもぎのやつも一瞬こいつを使おうか迷って、結局俺様達を本の中に入れる方法には採用しなかった。分かるだろ?」

 

 油断していれば、俺達自身もレイシー達の敵になりかねなかったから…… か。

 つまり、この妖怪には現実にいる人間を本の中に入れる作用もあるってことだよな。

 

 そこから導き出される結論は……

 

「アリスに接触したかもしれないビルがシミに取り憑かれていた…… ということになるね?」

「それじゃあ、ボクらをアリスが襲おうとしてくるのもこいつが原因だったってこと?」

「今仕留めたということは…… これで全部解決じゃな!? 祝勝会じゃ!」

「いや、そんなわけないだろ」

 

 早とちりして喜ぶレイシーにペティさんが呆れた声を出した。

 

「なんじゃ! こいつが原因でアリスが狂っておったんじゃろ! ならもう解決ではないか!」

 

 レイシーが素早くペティさんに噛み付く。

 まったく、本当に仲が悪いな。

 

「こいつ一匹だけと思うのは楽観的すぎるぜ、女王サマ? こいつらは栄養を摂れば摂るほど膨らんで分裂する。そして分裂した魚がまた栄養を求めて本の中を荒らす…… つまり、アリスに憑いているデカイやつが少なくとも一匹はいるってことだ。奪われた物はシミを殺せば元に戻るのが幸いだがな……」

 

 これで元に戻らなかったらどうしようかと思った。

 しかし、俺達がするべきことはこれでハッキリした。

 城に行く道すがらに不思議な国のアリスの住民を少しずつ訪ね、おかしくなっていないかを確かめていけばいい。そしてシミが取り憑いていたらすぐに潰す。

 うん、シンプルだ。下手な謎解きで疲れるよりよっぽどいいな。

 

「やつらは普段透明になっているから、引きずり出す必要があるぜ。そのための最適な呪文は〝 本当のそいつを返せ 〟だ。いいな?」

「そ、それが呪文じゃと…… ?」

「シンプルなのがいいんだよ。物は言いようだぜ。実際、さっきも俺様が〝 返せ 〟って言った途端見えるようになっただろ?」

「ふうん……」

 

 むむっ、と悩むレイシーを横目にしてチェシャ猫が考え込む。

 そういえば、さっきこいつもアリスに会ったようなニュアンスのことを言ってなかったか…… ? 

 それにレイシーも、最初はアリスに追われていたみたいだし…… いや、疑心暗鬼になっても仕方ないか。

 チェシャ猫もレイシーも、俺達を襲おうと思えば襲えるタイミングはいくらでもあっただろう。

 

「さあ虫退治だぜ! 焚書(ふんしょ)だ焚書!」

「いやっ、それはダメだろ!?」

 

 荘厳な森の中に、俺の全力のツッコミが虚しく響いた……

 

 

 

 

 ,




 これで三人全員の経緯が揃いましたね。
 これからが本番。ドロッドロです。

・焚書
 書物を焼いて処分すること。中にいる自分達も危ない手段。

・ペティの魔法
 完全オリジナル詠唱。格好良いやつを考えようとするとなぜか頭が痛くなるので、魔法使いの嫁的雰囲気の詠唱で留めておきました。
 ちなみにペティが使っている植物はベルガモットであり、和名は松明花であることを挙げておきます。密かなこだわり。

 この小説を書くきっかけになった友人と一晩議論し、ようやく主人公の容姿が決定いたしました。拙いイラストですが、よろしくお願いします。

 普段と神話生物相手の時と差があるということで二種類+α。

・通常立ち絵

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・対ニャル・対神話生物など

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・対脳残し鳥戦イメージイラスト

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・絶望顔ver (ダンガンロンパみたいな絶望顔苦手な人はご注意)

【挿絵表示】




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【番外編】ハロウィンの安全を守れ!

令一が同盟入り後のハロウィン、という設定。ちょこっと未来の話かもしれません


「っらぁ!」

 

 赤竜刀を大上段から振り下ろし、目の前にいた悪魔が真っ二つになる。それから、悪魔が黒い塵になって公園の上空に消えていくのを確認した。

 確認する間にも既に目線を流し、次の目標へと据える。今度は犬の頭のすばしっこそうな奴だ。

 

「オラッ!」

 

 刀を下ろした態勢から足を踏み込み今度は斬りあげる。

 大丈夫、多少の無茶はリンがカバーしてくれる。

 血飛沫とも言えぬ黒い油のような液体が散った直後、犬頭の悪魔の後ろから同族だろうもう一匹が飛びかかってきた。

 

「っく」

 

 間に合わない。

 そう思ったが、そいつのさらに背後へ現れた橙色の人魂を見て安心する。

 人魂が一層燃え上がり、その中からガラス片を握り込んだ手が伸ばされる。そして、俺に飛びかかってきていた犬頭の首元でスライドさせる。

 

「ばあ」

 

 にやりと笑みを浮かべた紅子さんはそのまま組み付き、真一文字の傷跡をつけるとタールのような血液を被らないよう飛び退いた。

 

「まだまだいるな」

「そうだねぇ、まったくはっちゃけすぎだよ…… 人間も悪魔もね」

「あー、すまない。ハロウィンだけじゃなくてもイベントごとになるとすごいからな」

「別にお兄さんか謝る必要ないんじゃない? ま、今の格好見るとはっちゃけているようにも見えるけどさ」

「いやいや、これはアルフォードさんが用意したやつで……」

 

 少しだけ敵の勢いが落ち着いたので、自分の格好を改めて見下ろす。

 オレンジと黒のハロウィンカラーで構成されたファー付きコートに、邪魔にならない程度のオレンジと黒の付け爪。それと、神内千夜(あいつ)の策略で〝 ハロウィンらしく〟されてしまった。

 つまり、今俺の頭にある狼の耳と尾骨から伸びている尻尾は本物なのだ。人狼の仮装…… 仮装という範疇ではないけれど。

 ともかくこれを見てハロウィンっぽい衣装を貸し出してくれたアルフォードさんには感謝しなければならない。尻尾穴のある服なんてさすがに持ってない。というか持っているほうがおかしい。

 しかし耳が四つあるのは落ち着かないな。音を拾いすぎて気持ち悪くなってくる。今日という日が終われば元に戻るとはいうが、本当に大丈夫なのかが心配だ。

 

「おっと、来たよお兄さん!」

「おう、紅子さんは左のを頼む」

「りょーかい。さーて、鬼さんこちら」

 

 散開して敵に当たる。

 俺達がこんなことをしているのは、朝紅子さんが訪ねてきたことから始まった。

 

 

 

 ……

 …………

 

「んん…… って、あれ、はっ!? 目覚まし!」

 

 朝目が覚めて、目の前にある目覚まし時計を見ればいつもよりも大幅に寝坊していて焦りながら布団を跳ね上げる。

 

「…… ? うわあっ!?」

 

 しかし絶妙な違和感があって隣を見て、更に俺は驚きすぎてベッドから落ちた。

 

「くふふ、おはようれーいちくん」

 

 なぜなら布団の中にしっかりと出かける準備をした神内(あいつ)がいたからだ。

 鳥肌がびっしりと覆う腕をさすりながら睨みつける。こっそりと自分の寝間着も確認したがなにもない…… なにもないよな? 

 

「さあて、れーいちくん。わかめにする? 昆布にする? それとも、も・ず・く? …… ああ、勿論味噌汁のこ」

「死ね」

 

 食い気味に言い放ち立ち上がる。

 普段は俺が用意している朝食だが、察するにこれをやりたいがためにこいつが用意したんだろう。食材が勿体無いからちゃんと食うけど。

 

「本当に用意してあるよ……」

「口先だけではないんだよ。ほらお食べ。せっかくお前のためを思って誠心誠意作ったんだから」

「嘘つけ」

「ああ酷い。私の真心を疑うんだね?」

「信用できる部分が微塵も見当たりませんねぇ?」

「そのとってつけたような敬語、結構好きだよ」

「さいですか」

 

 仕方なく食卓につく。うわっ、本当に味噌汁が三種類ある。

 

「食材の無駄遣いはやめてくださいよ」

「味噌汁なんだから何日かに分けて食べればいいんだよ。作ったからには全部食べるって」

「言いましたね? これから毎日あんたに出すんで全部食べきるまで汁物は他に作りませんよ」

「うんうん、たとえ腐っていても食べてあげるよ。無理矢理そんなものを食べさせられるのもまた一興」

 

 そうだった。こいつ超のつくドMだったんだ。いや、普通のドMに失礼かもしれない。腐ったもん食わされるの想像して喜ぶとか頭がどうかしてる。

 

「じゃ、私は今夜の準備があるから出るよ」

「今夜?」

「そう、今夜」

 

 そういえば今日はハロウィンだったかと納得しつつ、今度はなにをするんだと怒鳴りつけようとしたところまでは覚えている。

 恐らく原因は味噌汁ではなく、おかずの卵焼きのほうだったんだろう。

 すっかり冷めた食卓で目を覚ました俺の頭には犬のような耳がついていて、尾骨のあたりからスラックスを破いてふさふさの尻尾が生えていたのだから。

 

「あんの野郎っ! 出かけられないじゃないか!」

 

 それからは意味もなくただ屋敷の中を掃除したり、尻尾や耳がどうにならないかと試行錯誤してみたりもしたが、やがて諦めた。

 そして紅子さんが訪ねて来て、情けなくも助けを求めた結果アルフォードさんのところへ案内されて、衣装の用意をしてくれた。その代わり、ハロウィンの大きな掃討作戦に参加するよう通達されたわけだが。

 

「それぞれの地区で迎え撃つから、キミ達は自分の街を守ってよね。あ、でもいろはちゃんはナヴィと一緒にフランスへ依頼解決しに向かっちゃったから、今回のハロウィンイベントには参加できないんだ。2人で頑張ってね」

 

 運が悪い。

 というか、秘色(ひそく)さんすごいな。海外遠征までしてるのか。

 

「オレ達も各自ことに当たるからね、よろしく。一応、危ない場所には助っ人を送るから安心してね」

「助っ人?」

「来てからのお楽しみだね。気にしないで。報酬は…… 要相談にしとこうか。そっちの希望があれば汲むよ」

「えっと…… なら、終わってから考えます」

「うんうん、それでもいいよ。こういうことはしっかり考えたほうがいい。赤竜刀のメンテナンスは大丈夫?」

「一応見てもらえますか? リン、おいで」

 

 竹刀袋から刀を取り出し、リンを鞄の中から呼び寄せる。

 アルフォードさんは鞘から刀身を出して見たり、リンの体に触れて調子の悪いところがないか確認すると笑顔で頷いた。

 

「うんうん、大切に使ってくれてるね。手入れも行き届いてるみたいだし、これはよく切れると思うよ。リンも懐いてるし神気も充分。穢れもないし、可愛がってもらってるのがよく分かるよ。ありがとね」

「いえ、その…… 大切な相棒なので」

「きゅう!」

 

 嬉しそうにひと鳴きしたリンが俺の肩に乗って頬を擦り寄せてくる。

 俺は、そんな小さなドラゴンの顎の下をこちょこちょと撫でて顔を背けた。褒められ慣れていないからか、照れが前面に出てしまう。

 

「お兄さん、耳でバレバレだよ」

「うう、指摘しないでくれ」

 

 からかうような紅子さんの声に反応して耳が動く。

 両手で押さえてみても耳は喋っている人物の声を聞いてピクリピクリと動いてしまうんだ。

 早くハロウィンなんか終わってしまえ。毎年なんとも思っていない俺でも初めてそう思った。

 これも全部あのクソみたいな邪神のせいだ。恥ずかしくてしょうがない。

 

「じゃ、説明はもういいかな。いってらっしゃい」

「はい」

「はいはい、全部首を掻き切ってくればいいんだろう?」

 

 物騒なことを言う紅子さんの隣で赤竜刀を帯刀するべく四苦八苦していたが、ようやく上手くつけることができてため息を吐く。

 今夜、ハロウィンにはっちゃけてしまった傍迷惑な悪魔達が自分の分身を大量に派遣して子供を攫おうとしてくるらしい。

 元々ハロウィンで仮装するのは〝 あちら側 〟の仲間だと思わせて子供を攫われないように、守るために行うものなのだそうだ。

 昔は本当に攫われる子供もいたんだとか。

 同盟側としては、糧にするでもなく、必要に駆られてでもなく、ただただやりたいからやっている悪魔連中の行動理由は攻撃するに値することなのだ。

 

 同盟はかなり幅を利かせているから、そうやって無用な犠牲を抑えるためにあの手この手でオカルト的案件を解決していっている。

 今回の、いや毎年のハロウィンもその一つであるらしい。ゲームなんかでいう所謂イベント期間だ。ただし、開催するのは一日だけだが。

 

 現世チャレンジしに来る若いはっちゃけ悪魔達を倒す。そして地区ごとに〝あちら〟と無理矢理繋げられた場所を発見し、その場所を悪魔の巣として叩く。それが俺達のやることだ。

 出てくる悪魔は分身であり、本体ではないため殺してしまっていいそうだ。証拠に、完全に殺せば死体も血液も残らず塵になってあちらの世界へ戻っていくのだ。

 だから俺達は、まず街中を仮装している体で歩きながら結界が張られていないかを探した。

 神隠しみたいなもので、人外達は皆なにか人間に対して行動を起こす際自分の領域に引きずり込んで、周りからの干渉がない世界で人間を襲う。逆に言えば結界のある場所に犠牲者がいるので、俺達はそれを探して叩き、塵の帰る方向で巣を特定。一気に掃討作戦に出るというわけだ。

 

「紅子さんは仮装しなくていいのか? いつも通りだけど」

「アタシのこれは赤いちゃんちゃんことしての正装だよ。これでいいんだよ。というか、おばけがおばけの仮装してどうするのさ」

「それもそうか」

 

 そうだ、紅子さんもおばけの一種だった。

 

「ありがとうおねえちゃん、おにいちゃん」

「うん、怖かったかな? 仮装も本格的でやりすぎちゃったみたいだからねぇ…… これは特別だよ」

「飴玉だ!」

「飲み込まないように気をつけるんだよ。ほら、最初に嚙み砕いちゃいな」

「ん!」

「よくできたねぇ……」

 

 救助した子供を明るい場所まで連れて行って別れる。

 飴玉は怖いことを忘れさせる、アルフォード印の特別製だ。

 こうして犠牲者のアフターケアもしつつ塵を追っていたら、すっかり真夜中になっていた。満月ではないのが救いか。本当に人狼になっているのなら、満月はフラグだからな。

 

 そうして無事巣を発見、思ったよりも多い悪魔の分身達を斬り伏せていき冒頭に至る。

 

「浅い! 浅いなぁ!」

 

 悪魔のかぎ爪が俺の髪をほんの少しだけ切り取っていく。

 内心はひやりとしたが、口では煽りながら打刀サイズの赤竜刀を振るう。

 たまに赤竜刀からにゅっと飛び出してくるリンの牽制と、その口から吐き出される炎で相手の目を眩ませてみたり、焼いてみたり、砂場の砂を蹴り上げて目潰ししたりと搦め手を加えながらの戦闘。

 犠牲を気にせずに済む戦闘をどこか楽しんでいる自分もいて、笑う。

 

「噛み付いてやろうか! ああ!?」

「着せましょか着せましょか…… お兄さんガラ悪いよ!」

「っとぉ、あぶね! しょ、しょうがないだろ…… !」

 

 いつもはもっと切羽詰まってるから真剣にならざるをえないし。

 

「男の子だねぇ。おっと、さあ首の皮一枚貰おうか? でも、それだけで死んじゃうよねぇ!」

「紅子さんだって人のこと言えないだろ」

「違いない。おやおや必死だねぇ? 当たってなんてあげないよ」

 

 二人で立ち位置をくるくる変えながら迎え撃つ。

 そのうち距離が開いても声を張り上げながらお互いの位置を確認しながら。

 

「お兄さん、上!」

 

 反射的に腕を振り上げていた。

 ズブリと刀が柔らかいものに刺さる感触と、頭に被ったタールのような血液が一瞬で蒸発するのを見ながら視線で刀の先を追う。

 すると、ちょうど目玉にコウモリのような翼を生やした、これまたありがちな悪魔が塵となって消えていくところだった。

 

「真っ赤なおべべを仕立ててあげよう!」

「ありがとう紅子さん!」

「例には及ばないよ!」

 

 声を張り上げて礼を言う。

 それから少し彼女の戦闘を見てみると、普通のナイフよりも尚短いガラス片で敵の懐に入りながら仕留めていく。

 あんな短い武器で敵を目の前に戦うなんて俺には到底できそうもない。勇気あるなあ。

 

「お兄さん、上!」

 

 またもや反射的に腕を上げて…… 俺はごわごわとしたなにかに腕ごと刀を掴まれたのが分かった。微動だにしないそれに焦り、刀を手放す発想も咄嗟には出ず硬直。

 そして踊らされるようにぐるっとそいつの方へ体を回され、そのまま重い拳が腹に叩きつけられる。

 

「っ……」

 

 言葉に出ないとはこのことだろうか。

 肺の空気が瞬間的に押し出され、衝撃と共に一瞬意識が飛ぶ。ぐらぐらと揺れる頭と、チカチカする視界。えづいて吐きそうになり、しかし口から出てくるのは真っ赤な血だけ。

 大きな怪我もしたことがない俺は、確実に何本か骨が折れているだろう激痛と、後から後から口から溢れ出てくる血に溺れ呼吸すら上手くできない。

 完全に力が抜け、サイズの大きい悪魔に腕だけ掴まれだらりと宙ぶらりんの状態に。

 

「お兄さん!?」

 

 近くには 「お兄さん、上!」 と紅子さんそっくりの声で鳴き続ける口だけの悪魔がいる。

 身軽で妖怪である紅子さんよりも行動パターンが単調な俺の方をどうやら狙い撃ちしてきたらしい。

 それに、俺だって人間だ。人間なんだ、まだ。

 ふと、あいつの言っていた 「殺せば死ぬ」 という俺の状態を思い出した。

 

 声が出ない。

 助けも呼べない。

 紅子さんが走ってこちらにやってくる。

 紅子さんの武器はリーチの短いガラス片だから、短刀程の長さもない。心臓に突き立てようとしても長さが足りない。彼女の場合、首を搔き切るしかない。そんな彼女が他のやつらをいなしながらこちらに近づいてくる。

 

 体が宙を浮く。

 肩が鈍い音を立てる。関節が外れたのかもしれない。

 もう痛みのことしか考えられない。

 

「ッチ、テメーには戦闘訓練が必要らしいな」

 

 突如、支えを失い落ちる。

 が、落ちた先で受け止められる。

 紫色のコート。派手な迷彩柄のシャツ。巨大な死神のような鎌。

 

「おら、これを食いな」

 

 ぎゅむっと押し込まれたマカロンらしきものを、血の味が充満する口内でなんとか食べきる。絶対これ美味しいやつだろ。こんな状態で食べたくなかったな。

 

「アートさん」

「アルの奴から聞いてんだろ? 助っ人だよ助っ人。この、俺様がな」

 

 支えられて立つ。そして紅子さんがそばに来た頃には口内にキリがないくらい溢れてきていた吐血が止まっていた。

 想像以上だった激痛もほんの少し収まっている。

 

「俺様特製の回復マカロンだ。俺様の手作りを食えること、感謝しろよな」

 

 直後、ケルヴェアートさんが吠える。人の姿をとっているのに、そこに化け物がいるような恐怖を伝染させる吠え声だ。

 けれど不思議と俺達には影響が少なく、そして悪魔の分身達には効果が絶大だった。

 

「死者の魂を勝手に連れ去るわ、分身を憑依させるわ好き勝手してくれるなぁ? 若い悪魔だか知らねーが、上下関係くらいは理解しろよ。今からテメーらの親御さんに代わって躾直してやるよ」

 

 ああ、これは怒っているな。

 そう思わせる声量だった。

 

「仕事増やしてんじゃねー!」

 

 こっちが本音だな、とも思った。

 

「既に死んでようが関係ねぇ。改めて食い殺してやる」

 

 アートさんが言いながら宙返りすると、その場に地響きのようなものが起こった。

 いいや、地響きなどではない。

 それはただの着地音だった。宙返りしている間に体を変化させたアートさんの。

 

「地獄に堕ちる覚悟はいいか」

 

 そこにいたのは紫色の大狼だ。黄色く鋭い瞳で睨め上げ、口から垂れ落ちる唾液は地面に落ちるたびにジュッと焼けたような音を出す。

 明らかな毒…… だろう。

 

「ケルベロスっていうのは、暴食の悪魔でもあるらしいからねぇ……」

 

 大罪の悪魔か。地獄の番犬でもあるわけだし、冥界でもかなりの幹部なんだろうな。ただ、一つ気になるのは首が一つしかないことだ。

 

「あれ、お兄さん知らなかったっけ。アートさんはケルベロスの真ん中の首で、あと二匹、左右の首がいるんだよ。まだ会ったことなかったかあ」

「まだないな。そうか、だから」

 

 人化しているケルベロスなら三つ首のイメージがどこかしらにあるもんだと思っていたが、ないから気になっていたんだ。

 そうか、あのヒトだけじゃないのか。

 

 …… それからはあっという間だった。

 アートさんが飛んだり跳ねたりしながら悪魔を噛み砕いて捨てていく。ドスンと足を振り下ろせば支えきれず悪魔も潰される。

 あれが分身体ということは、本体の悪魔も経験を共有していたり、この光景を見ているのだろうか。この、血飛沫が飛んでは蒸発していく光景を…… トラウマ必須だな。

 

「クソ不味いもん食わせやがって! テメーで最後だ!」

 

 最後の悪魔が悲鳴すらあげることもなく口腔に消えていく。

 バチッと音を立ててその口から塵を吐き出し、心底嫌そうな顔をした彼はその場で縮こまり、人型に戻る。

 

「あの、ありがとうございました」

「俺様の仕事だ、気にするな。しかしこの街は妙に多かったな。最近怪異事件が多いからかもしれねぇが……」

 

 アートさんの言葉に緊張する。そうか、確かに事件は多い。

 

「まあいい、治療はするか?」

「…… いいんですか?」

「構わねぇよ。その状態であのクソ野郎のとこ戻したらどうなるか分かったもんじゃねぇ。そしたら寝覚めが悪りぃ。さっさと来い」

「あれ、アタシもいいのかな?」

「テメーも疲れてんだろ。休んでけ。アルんとこじゃなくて俺様達の住居だから、帰るときは言えよ」

 

 なんだかんだ面倒見がいいヒトだ。

 さっきのマカロンも手作りと言っていたしな。

 

 こうして深夜も深夜、俺達のハロウィンは幕を閉じた。

 

 

 

 ……

 

 

 

「うーん、れーいちくんの無謀な一撃は見れなかったなあ…… 私を斬ったときみたいにピンチにでもなればまた見れると思ったんだけど、まあいいか。また今度があるし。さてと、れーいちくんが帰ってくるまでなにしてるかな……」

 

 

 

 

 

 




赤竜刀設定イラスト
打刀。アナログ写真パシャーで申し訳ない。


【挿絵表示】




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トランプ兵の墓場

 

 

 

 あたし達が家に帰ってきたとき、いつものように気をつけて入ったのにジェシュが外に飛び出した。お姉ちゃんが大きな荷物を入れるためにドアを開けたまま四苦八苦していたからだ。

 猫がすり抜ける隙間なんていくらでもあった。初めての外にワクワクしていたのかもしれない。黒猫はすぐに道路へと飛び出して行き、見えなくなった。

 そして、お姉ちゃんもそのあとすぐに飛び出した。大荷物を放り出して、すごい音がするのも気にせずに。あたしも当然あとを追いかけた。ジェシュは小さな頃からお姉ちゃんが面倒を見ている大切な家族だから、当然だった。

 あたしには全然懐いてくれないからちょっと嫉妬していた部分もあったけれど、あたしにとっても弟のようなものだから、ただ純粋に心配だった。

 今までは気をつけていたとはいえ、今回はあたしとお姉ちゃんの不注意だったのだから。

 

 足の速いお姉ちゃんと、猫のジェシュにはさすがに追いつけない。

 あたしはすぐに見失ってしまったけれど、お姉ちゃんの悲痛な声で居場所がすぐに分かった。

 悲鳴を聞いた時点でなんとなく想像はついていたけれど、ジェシュは黒いツヤツヤの毛皮を真っ赤に染めてお姉ちゃんに抱き抱えられていた。

 

「お姉ちゃん! ジェシュ見つけ…… ジェシュ!? そんなっ」

 

 腕も変な方向に曲がっていて、お腹の中がぐちゃぐちゃで、切り傷のような箇所も多くて、正直直視するのはおろか、抱き抱えるなんて信じられないくらい酷い状態だった。

 そんなジェシュを抱えて泣いているお姉ちゃんは精神的にどうにかしていたんだと思う。

 あたしはゆっくりと言い聞かせるように、年上のお姉ちゃん相手に話しかけた。

 

「お姉ちゃん、ジェシュを連れて行こう? お父様とお母様に言わないと」

「いや、いやだ! ジェシュはまだ大丈夫……」

「お姉ちゃん……」

 

 やっぱりお姉ちゃんはどうにかしている。

 大事な弟の非常事態にものすごく混乱しているんだ。

 あたしがしっかりしなくちゃ。両親を呼んで居場所を伝えないと。

 

「お姉ちゃん、あたしお母様達を呼んで来るわ。だから、ちゃんと待ってるのよ。風邪ひかないように、せめて端に避けて……」

 

 雨まで降り出してきた。

 でもあたし達は当然傘なんて持ってきていない。このままではずぶ濡れになってしまうからと、お姉ちゃんに言い聞かせたけれど、多分効果はないだろうな。

 

「待ってるのよ?」

 

 こんな状態のお姉ちゃんを置いていくのは気が引けたが、両親もあたし達を探しているはずだ。早く報せないといけない。

 

 …… 両親を連れて帰ってきたとき、真っ赤な色なんて見当たらないジェシュを抱えたお姉ちゃんがいた。

 

「見てアリシア! ジェシュが見つかったのよ!」

 

 信じられなかった。

 お腹の中身まで出ていた黒猫は一切の傷もなく、お姉ちゃんの腕に収まっていたのだから。

 すうすうと寝息を立てている彼に恐る恐る手を伸ばす。

 温かく、ふにふにと柔らかい。確かに生きていると感じる。

 

「うそ……」

 

 あたしは両親にこっ酷く叱られた。

 ジェシュが死んでしまったなんて、酷い嘘を吐いたのだと糾弾されたのだ。嘘なんてついていない。でも、あの惨状を見ていないのなら信じられなくても仕方がなかった。だって、あたしが1番信じられなかったんだから。

 

 それからジェシュは何事もなかったかのように毎日を過ごした。

 対して、お姉ちゃんは…… 怪我をすることがすごく増えた。

 それも、あたしが覚えている限り…… ジェシュが負った小さな傷と全く同じ場所を。ジェシュの大怪我した部分はお腹と左腕。そして左目だ。他は細かい擦過傷や打ち身、それに骨折して骨が突き出していたというもの。

 そのうちの、小さな傷をお姉ちゃんは彼と全く同じ位置に受けるようになった。

 これはあたしの勘違いなんかじゃない。勘違いで片付けたら、取り返しのつかないことになると、なんとなく気づいていた。

 

 日に日に傷が増えて行くし、日に日にその傷の規模が大きくなっていく。

 そんなときに、今回の轢き逃げ未遂だ。もう少しでお姉ちゃんは車に轢かれるところだった。あたしが手を引かなければ、あのときのジェシュのようにお腹の中身をぶちまけていたのかもしれない。

 あたしは、もうあの黒猫のことを愛せない。

 きっとジェシュはもう既に死んでいて、別のなにか…… たとえば悪魔とかに成り代わられているのだ。

 悪魔はお姉ちゃんを連れ去ろうとしている。防がないと。お姉ちゃんは渡さない。お姉ちゃんを死なせてたまるものか。

 

 悪魔はお姉ちゃんのいる病院にまでやってきた。

 どうしよう。どうしよう。追い払いたくても、ジェシュが近くにいるとお姉ちゃんが喜ぶからできない。お姉ちゃんに嫌われたくはない。

 

 そして、前日まで元気だったお姉ちゃんが眠りから目覚めなくなってしまった。原因は不明だという話だけれど、きっとジェシュだ。あの悪魔がお姉ちゃんを捕らえているのだ。

 でもあたしにはどうすることもできない。それが悔しくて、悔しくて、何度も泣いた。

 毎日お見舞いに行った。学校なんかどうでもよかった。お姉ちゃんが戻ってきてくれるなら、他にはなんにもいらなかった。

 

 そしてその日もあたしはお見舞いに来ていた。

 そんなときだった。長い黒髪で、スーツを着た男に会ったのは。あたしの他にもお見舞いに来ている人がいたのだ。

 

「おや、ご家族ですか?」

「…… ええ、あなたは? 知り合いにあなたみたいな人、いないと思うんですけど」

「諸事情により彼女とは知り合いなのですよ。黒猫関連でね」

「ジェシュの?」

「ええ、その黒猫の」

 

 あたしは詳しく話を聞くことにした。

 この人がジェシュのことについてなにか知っているのは間違いなかったから。

 

「ふむ、ではその黒猫に悪魔が憑いていると? にわかには信じがたい話ですが」

「でも、そうじゃないとおかしいのよ。そうじゃなかったらあたしが見たものは一体なんなの? 幻覚とでもいうつもり? お姉ちゃんの服はジェシュの血で真っ赤だったのに! あたし達が愛してた弟はもういないのよ! あなたもあたしが嘘つきだって言うの!?」

「いいえ、そうですねぇ…… 嘘つきついでに、こんな戯言はどうでしょうか。私はオカルトな方面にも精通しておりましてね。あなたが望むのならば、その悪魔を退治することもできるかもしれません」

「それ、本当なの?」

「1人の男の、ただの戯言ですけどね」

「本当かどうかを聞いているの!」

 

 オカルトだろうとなんだろうと、おかしな事態に対処するならおかしな手段を取るしかない。この胡散臭い占い師のような男を選んだのは、藁にもすがる思いだったのだ。

 多分、もっとまともな見た目の占い師がいたら同じインチキだったとしてもそっちを頼っていただろうし。

 

「私の言うことを信じるならば、お姉さんの部屋を探してみるといい。不思議な本が、そこにあるはずですから。見つけて、それでなおお姉さんを助けたいならば、この指定した場所に来てください。いいですね? ご両親には知らせないように。知らせたら方法なんてお教えしませんよ」

 

 怪しさ満載の悪魔の誘い。きっとこれも、悪魔の仕業なのかもしれない。

 けれどもう、縋るものはこれしかなかった。

 

「誰にも話さないわ」

「くふふ、お利口さんですね」

 

 すぐさま家に帰って部屋を探した。探して、探して、そしてそれを見つけた。

 

「お姉ちゃん…… ?」

 

 不思議の国のアリスの本。

 お姉ちゃんがあたしのことをアリスとニックネームで呼ぶ原因になったほど大切にしていた本。

 その本の中に、確かにお姉ちゃんの姿があった。女王様として、平和に暮らしている内容だった。

 

「見つけたわ。誰にも話してない。それで、どうすればいいの?」

 

 一週間後に男…… 神内(じんない)千夜(せんや)の指定した公園にやってきた。

 護身用の折りたたみナイフと催涙スプレーを持ってきたけれど、油断はできない。距離を保って話し合いに踏み切った。

 

「上出来です。褒めてさしあげますよ。それではご褒美です」

 

 男は一枚のメモ帳を取り出した。

 

「これは〝 妖紙魚(しみ) 〟妖怪の紙魚です。こいつは本の中の登場人物達の心を汚し、食い荒らす厄介者ですが、現実の人間には干渉できません。そして、こいつに掴まっていれば本の中に入ることも容易です。お姉さんを助けたいのなら、ご自身でどうぞ」

 

 信じられない話だった。

 けれど紙面で自由自在に蠢く不気味な魚を見て、本物だと確信した。

 

「本当に、あたしには影響しないの?」

「現実にいる人間に干渉することなんて、できませんよ」

 

 あたしはそいつの手を取った。

 あたし自身の手でお姉ちゃんを助ける。そうするしかないのなら、オカルトでもなんでも頼る。

 そして、紙面から飛び跳ねるようにして空中に浮かんだ妖紙魚がアリスの本に入る直前に、その尻尾を掴む。

 

 とぷん、と本の中への侵入はプールに飛び込んだときよりも優しい感触で行われた。

 

「ここが本の中……」

 

 あたしが辺りを見回すとそこは大きな木のある丘で、本の1番最初にある白い兎の出る場所だと気づく。

 

 そういえば、さっきの魚はどこに? 

 そう思って背後を振り返った瞬間、魚のヒゲがあたしの目を覆い隠し、そして…… 意識が吸われていくような感覚と共に、目の前が真っ暗になった。

 

「くふふ、現実の人間には影響を及ぼしません。現実にいる人間には、ね。本の中に入ればそれはもう登場人物と変わらない。そうですよね? くふふふ、くふふふふふふ……」

 

 悪魔よりもっと性質の悪い、邪神は嘲笑うようにその場を後にした。

 

 

「はい、燃えろー。ふぁいあー!」

「適当かよ!?」

 

 俺達は順調に国の住民を解放していた。

 その代わり、回を増すごとにペティさんの魔法が適当になっていったのだが。

 

「そんな適当でいいのか?」

「最初に形式張ってやったのはお前らのためだよ言わせんな恥ずかしい。俺様はもうベテラン魔女だからな。思念さえこもってればどんな文句でも魔法は発動するぜ」

 

 ペティさんはなぜそんなにも胸を張っているのか。それも腰に手まで置いて。

 ほんの少しでも格好良いな、頼れるなとか思った数十分程前の俺を全力で殴り倒したい。

 

「んな顔するなって。チベットスナギツネみたいだぞ」

 

 なにを言っているんだこの人は。

 

「キミは少し、現代に染まりすぎじゃないか? 命日はもっと昔だろう」

「そう言って、ネタが分かってるベニコも大概だろ。まあ、確かに俺様が死んだのは相当前だな。なんせ魔女狩りが終わるくらいの時期に死んでるし。勘違いではあったが、死後魔女になったから未来予知だったんだと思えば当たりなのかもしれないなあ」

「…… 墓穴を掘ってしまったねぇ。死んでるだけに」

 

 自虐ネタが過ぎるぞ。亡霊ジョークはやめてくれ。

 さらっと思い出話みたいに重い過去を語らないでほしいぞ。胃が痛くなってくるじゃないか。

 

「ま、そんなことはどうでもいいんだよ。過去は過去。今は今。マイナスなことはすぐ忘れるに限るってな。それが、辛くない生き方なんだぜ」

「あー、そうできたらそうしてるよ。とっくにさ」

 

 よくもそれだけ明るくいられるものだ。俺には到底できやしない。ジメジメといつまで経っても失敗を忘れることができないし、割り切ることもできない。あのときああすればなんて思ったのは何度目だ? 数えきれない。

 

「性格それぞれだしなあ。相談相手にならいつでもなるぜ、レーイチ。そういうときは誰かに話すといいもんだ。ところで、さっきの魔法の話だが、お前は数字得意か?」

 

 話題転換が唐突すぎて、一瞬なにを言われたのか理解できていなかった。頭の中で噛み砕き、一泊置いて答える。

 

「え? あ、いや…… 高校で習うものが途中までと、他に少しだけあいつに仕込まれた分があるけどな…… 得意というわけではない」

「そう難しい話じゃないぜ。数字の問題ってやつは式と、答えを書く必要があるだろ? あー、合ってるよな? 師匠から出される問題は現代に沿ってたらしいから、そういうもんだと思ってたんだが」

「合ってるぞ。式を書かないと点がもらえないなんてことはよくある」

 

 ペティさんは安心するようににかっと笑うと、胸の前で人差し指をピンと立てた。

 さっきからチェシャ猫とレイシーが静かだが…… 脇を見ると紅子さんが無言で首を振り、指差す。近くの切り株でチェシャ猫に抱きかかえられたレイシーが寝ている。2人ともどうやら疲れて眠ってしまったようだった。

 妖紙魚もこれで5体目。まあ、小休憩にはちょうどいいだろう。

 ペティさんの魔法講座をちゃんと聞いておこう。魔法ってやっぱり憧れるし、俺にできるかは分からないが、知っていて損はないだろう。

 

「で、だな。これを魔法に例えると、式が詠唱で、答えが詠唱によって起きる魔法そのものだ。数字の問題なんてそのうち暗算でなんとかできるようになるだろ? 簡単な問題なら尚更だ。1+1=2。まあ、他にもパターンはあるだろうが、まず最初にこの答えが出てくるよな? 魔法も一緒だ。式を書かなくても、暗算…… 無詠唱でなんとかなる。俺様のはちょっとした遊び心だからな、答えを早々に書いてさらに図まで描いてるようなものか」

「おお、そう言われると分かりやすいな」

 

 ペティさんにとって、この火を灯す魔法はそれだけ簡単な問題なのだろう。ベテラン魔女って言ってたし、多分もっと複雑な魔法でも詠唱なしでできるんだろうな。思っていたよりもすごい人だったか。

 いや、ケルベロスの弟子なんだからすごくて当たり前か。あのヒト条件厳しそうだし、有望株でもないと門前払いしそうだ。

 となると、ペティさんって意外とすごい人なんだなあ。

 

「おいおい、なんか失礼なこと考えてないか?」

 

 頭の後ろで手を組んで意地悪気に笑う彼女にドキリと心臓が跳ねる。勿論ラブロマンスとは一切関係ない、後ろめたさでだ。

 

「えっ、す、すみません」

 

 思わず声に出て、 「あ」 と思う。顔にそれがありありと出ていたのか、ペティさんは魔女帽子のリボンを指で手遊びしながら苦笑した。

 隣の紅子さんも呆れたように溜息を吐いている。

 

「おっと、本当に考えていたのか。あっさりと騙されてくれて助かるぜ。レーイチは単純だなあ」

「くっ…… 馬鹿正直で悪いな」

 

 悔し紛れに声を絞り出すと、更に隣から追い討ちがかけられる。

 

「やれやれ、お兄さん遊ばれてるねぇ。アタシで慣れておかないからこうなるんだよ」

「慣れるって言ってもな…… 別に疑うことを知らないわけじゃないんだからいいだろ」

 

 疑うべきやつのことはちゃんと疑うし、脳吸い鳥のときだって、それとこれとは別に考えてちゃんと真相を突き止めたしな。

 俺だって疑うときは疑うんだよ。今は必要ないだけだ。仲間なんだから。

 もし裏切られるようなことがあっても、ちゃんとなにがあったのかを突き止める努力はするさ。それで納得できる理由ならなにも言わないし。

 

「…… お兄さんも、ほどほどにね」

 

 なにかを察したように紅子さんが呟く。

 出会ってから一緒に行動することが多いとはいえ、ちょっと察しが良すぎなんじゃないか? なんて少し恐ろしくも思う。

 まあ、この感情(おそれ)が彼女達の食事にもなるというのなら、構いやしないか。

 

「っと、レーイチを揶揄うのはここまでにしようか。お姫様が起きたみたいだぜ」

 

 ペティさんの声に促されてレイシー達が寝ていた場所を見ると、欠伸をしながら伸びをしている場面だった。

 チェシャ猫のほうも四つ足ついてグイッと腕を伸ばしている。こうして見ていると本当に猫なんだな。

 

「姫ではない…… 女王様じゃ…… んむ、姫も良いものじゃが」

「ふわわ、寝ちゃったー。レイシーの懐があったかいからだね!」

 

 むしろレイシーがチェシャ猫の懐に収まって寝ていたが、猫的には逆の構図なのだろうか。

 実に猫らしい動きでチェシャ猫が起き上がり、はっとしたように顔を手で覆った。人の姿を取っているのに猫っぽいことをしたせいか? 

 

「それじゃあ、そろそろ目的地に行くか」

「やっと城に帰れるんじゃなあ……」

 

 少し遠い目をしたレイシーが言った。

 そりゃそうだ。城に向かいながら妖怪魚を対処するはずが、乗っ取られているだろう登場人物達が目に入る度追って移動していたら疲れもするし、道からどうしても外れてしまう。

 

 割れなかったハンプティダンプティが、魚を引っぺがした途端時間が早巻きにされたように割れてしまい少し心にきたり…… 公爵夫人が赤ん坊を殺そうとするのを止めたり、あろうことかレイシーにそっくりな女の子―― メアリーアンに出会ったりした。

 メアリーアンは白ウサギがアリスと見間違える人物のはずだが、物語に明確に登場する場面はないはずだ。

 メアリーアン自体が召使いの俗語らしいから、アリスをその場限りの召使いに任命したのか、それとも本当にアリスにそっくりな召使いがいたのかも不明だ。

 ハンプティダンプティと同じように、彼女も魚を引き剥がしたことにより空気中に溶けて消えていった。

 この場合、きっと物語中に出てきていないことが彼女の取り上げられてしまったアイデンティティだったんだろうな。

 せっかく体を手に入れることができた彼女は、泣きながら透明になって消えた。正しいことをしているはずなのに、なんだか心苦しくなる。

 

 その心苦しさも、一定の割合を超えるとニャルラトホテプ(あいつ)に付けられたネックレスとチョーカーが光って霧散していく。

 俺の精神を壊さず、それでいて長く玩具として楽しもうという意気込みを感じるな。いらん加護だ。いっそ狂ってしまえたら楽だったんだがな。

 俺はそうすることを〝 許されていない 〟のだと、あいつがいないときにまで自覚させられる。

 

「なあ、アリスは移動してないんだよな?」

「ああ、あちらもアタシ達…… レイシーを探している可能性があるんだよねぇ。あれだけ執心していたんだ。探し回っていてもおかしくないけれど」

「移動してないよ。アリスはずっと城のてっぺんで動かない。お昼寝中かもねぇ」

「待てチェシャ。なんでんなこと分かるんだ?」

「この箱庭のことならボクに任せなさーい! ってことだよ。なんてったってチェシャ猫だもの」

 

 チェシャ猫と言えばなんでもお見通しな不思議な奴ってイメージはあるよな。そういうことだろうか。だが、なぜそんなに客観的に自分のことを言うのか。

 ざくざくと土を踏みしめながら森を抜けると、今度は一面の薔薇園が目に飛び込んできた。

 ところどころ白薔薇が混ざっているが、その上から塗料が被せられていたり、どくどくと真っ赤な血液を出すフラミンゴが逆さに吊るされていたりして軒並み赤く染め上げられているとち狂った光景が俺達を出迎える。

 今すぐ回れ右をして帰りたい。

 

 よく見ると薔薇園の道に点々とトランプの兵隊が横たわっている。

 まるでトランプ柄のカーペットでも敷かれているみたいに。

 道なりにそれらが続いているのだが、本当にトランプだけのものと、頭がついた兵隊とあるものだからややこしい。

 

「お前達…… ひどい、ひどいぞこれは」

「たくさんの兵隊が死んだのか」

「…… いや、違うよ。トランプになってしまった子は死んでいて、それ以外はまだ生きてるんだよ」

 

 チェシャ猫の返答に目が見開かれていくのが理解できた。

 そして次の瞬間には頭で考えるよりも早く体が動き、頭がくっついている兵隊を抱き起こしに行く。

 

「もう、お兄さんったら猪突猛進なんだからっ」

 

 後から紅子さんが走って追いかけてくる。

 ペティさんはまだ知り合って関係が浅いせいか、横目で驚いた顔で 「おい」 と言うのが見えた。

 言葉を置いてけぼりにして薔薇園の中に入り、上から滴ってくる血を軽く避けながら一番近い兵隊のそばにしゃがむ。それから兵隊の背を軽くつついて意識があるかを確認した。

 

「おい、まだ生きてるんだろ。意識は」

 

 言いかけて、勢いよく後ろに飛び退る。

 しゃがんだ状態からだったためかなり足にきた上転びそうになったが、手で支えて態勢を整える。

 俺が先程までいた場所にはなにかが刺さり、そしてそれが透明になって空気に溶け込んでいくのを目撃する。

 あれは何度も見た。あれは妖紙魚のヒゲだ。

 

「ってことは」

 

 もしかして、この生き残った兵隊全部が。

 

「ちょっと、お兄さん! 少しでも罠だとは思わなかったのかなぁ!?」

「悪い…… なんも考えずに飛び出してた」

「馬鹿だね! そういうとこ大っ嫌いだよ!」

 

 こういうときは、と背負っていた竹刀袋から刀を取り出す。

 仲間が多いのは良いことだ。俺がもたもたしてても牽制してくれるから、ゆっくりと赤竜刀を取り出すことができる。

 

「リン」

「きゅうい」

 

 赤竜刀から抜け出た赤い光が徐々に小さなドラゴンの形を作り、返事をするようにくるりと円を描いて鳴く。

 それから俺の肩にふわりと着地し、首元をこしょこしょとくすぐった。

 

「まだまだいるみたいだな、相棒」

「きゅ! きゅうい!」

 

 過去五度の戦闘でリンも見慣れた相手だからか戦意は充分。

 こいつはレイシーに可愛いだのなんだといじくり回され、子供相手の通過儀礼のような目にあってからずっと刀の中で休んで省エネモードになっていた。

 今は離れているし、数が多いからチェシャ猫も爪をギラつかせ戦闘モードっぽい仕草をしている。多分チェシャ猫自身はレイシーから一切離れる気がないだろう。

 だから討ち漏らしのないように、紅子さんと俺で食い止める。

 援護でペティさんも砲撃してくれるわけだしな。

 

 陣形はこうだ。

 俺達が敵の闊歩する薔薇園の中。チェシャ猫は後方でレイシーの前に立ち、異形の手を地面につくほど前屈みになって降ろしている。前を見据えていつでも飛びかかれるような姿勢だ。あの猫はレイシーを守ることにしか興味がない。放置。

 ペティさんはその二人の少し前。多分、こちらへ投擲物が届くくらいの位置取りなんだろう。彼女の戦い方は物理ではなく魔法や道具中心だからまあ当たり前か。

 

「紅子さんはどうする?」

「アタシは隠れながらやるのが得意だねぇ。大丈夫、危なくなったら援護しに来てあげるよ」

「自分が危なくなることはまったく想定してないな?」

「誰にものを言ってるんだよ、おにーさん。アタシは赤いちゃんちゃんこだ。首をかっ切るのもお手のもの…… だろう? だってアタシは」

 

 ―― そういう怪異なんだからさ。

 

 背中越しに顔を向けて話していた彼女は、少しだけ寂しげに目を細めた。

 

「紅子さ」

「じゃ、少し働いてこようか」

 

 俺がなにか言う前に紅子さんは一息で跳躍し、薔薇園の中に消えていく。周りには垣根のようになってしきりのような低木の薔薇もあるが、物語の中のように背の高い木々に薔薇が咲いている箇所もある。そんな品種は現実にはないんだろうけど、隠れ場所は沢山ある。

 

 さて、俺も集中しよう。

 まずは呼びかけから。

 

「兵士達を〝 返して 〟もらおうか」

 

 ベリベリとくっついた紙が剥がれるような不快な音があちこちから響き、一斉に浮かんだ魚が俺に視線を寄越す。いや、あいつらは番号のようなものを布か紙切れかなにかで顔を見えなくしているから断定できないが、確かに視線を感じる。

 

 空中に浮かぶそれを突き上げ、叩き落とし、リンが炎で炙る。

 炎が弱点なのは先の出来事も含め明白なので、リンの火力で仕留め切ることもできる。あんな手のひらサイズの体からよくもそれだけの火力が出ると思う。

 紙だから刃物も弱点かと思っていたが、実際刀で斬るとなるとなかなか難しい。ハサミや裁断用の刃とは違うからなあ。

 だからかどうしても叩っ斬るよりも突き破る方が中心になってしまう。あいつら飛んでるし。

 

「こんにちはかな? 死ね」

 

 頭上から紅子さんが落ちてきて、俺の背後に迫っていたらしい魚をビリビリに引き裂いた。

 

「わっと、ごめん紅子さん」

「乱戦素人に期待なんてしてないよ。でも守られてるのは性に合わないだろうし、仕方ないお人だよねぇ」

 

 なにもしてないのってなんか嫌なんだよな。

 それなら体を動かしていたいし。俺が直接立ち向かう方がリンの力も底上げされるし…… 言い訳か。

 邪神この野郎になにか仕掛けられたとき、戦いの経験も活かせるかもしれないし…… やらない選択肢はない。

 

「こいつに首ってあるのかな…… まあいいか。赤いちゃんちゃんこらしく紅白目出度い柄にでもしてあげればいいよねぇ!」

 

 紅子さん楽しそうだなあ。

 木々から木々へ、ときに薔薇の生垣を隠れ蓑に飛び出したり、人魂になって移動したり、臨機応変に対応している。見つからないうちに仕留めているのでなかなかエグい。

 

「あと何匹だ? っていうか燃やさなくちゃダメなんじゃなかったか?」

 

 リンがいくらか燃やしてお焚き上げしてるが圧倒的に手数が足りない。追いつけない。特に紅子さんが仕留めたやつは燃やさない限りトドメを刺さないから。

 …… と思って蠢くヒゲやらを受け流しつつ後始末に駆ける。

 

「リン、俺のほうはいいから燃やしてくれ」

「きゅううー」

 

 何匹かを燃やしてからリンが首を振る。

 

「なんだ?」

「きゅ! きゅきゅきゅ!」

 

 俺の周りを幾らか飛び回ってリンが首を振る。

 

「一定以上遠くに行けない、とか?」

「んきゅ……」

 

 落ち込むリンの頭を人差し指で撫で、慰める。

 

「無理言って悪かったな。さて、どうすっうおわぁ!?」

 

 俺がまた動き出しそうになった魚を斬りつけに行こうとしたら、背後から勢いよく炎の塊が飛んできて危うく転ぶところだった。

 

「ペティさん!?」

「悪い! 思わず炎魔法が出ちまったよ! ちゃんと避けないと危ないぞ!」

 

 遠目に見える彼女の手にはさっき使ってた種火の魔法と、もう片方の手に持ったなにかの缶。特徴的な柄からして害虫駆除のあれだ。

 それにしたって射程距離がおかしいだろ。どんだけ離れてると思ってんだ。

 

 スプレーと種火…… 魔法とは? 

 

「というか危ないぞって言われてもな」

 

 後方支援はいいんだけど、怖いんだが。

 これは倒れたこいつらを気にせず浮いてるやつをばったばったとやればいいということか。

 なにも心配せずにやるだけならまあ嬉しいが。

 

 さて、そうして危なげなく合計五十程の魚をなぎ倒し続け、最後の一匹がお焚き上げされた。

 紙だから体液が出ないのは楽でいい。血を被るのは勘弁したいし。

 ただ、無理矢理紙を斬ってたせいか切れ味が落ちてないかが心配か。

 

「よしよし、帰ったらちゃんと手入れするからな」

「きゅうん」

 

 嬉しそうなリンの首元をこしょこしょとくすぐる。

 取り敢えず紙屑がついていたらいけないので、綺麗なハンカチで軽く吹いてから納刀する。居合とかやってみたいけどなあ…… そっちはまったく分からないから、今のところ力任せの脳筋思考で振るっているし、振るわれるリンには本当に申し訳ない。剣道と実戦は違うんだ。いろいろ勉強しないと大した戦力になれないよ。

 同盟では討伐とかもあるようだし、慣れとかないとなあ。

 

「よーしこれで最後だな」

「お、終わったのか? 終わったんじゃな?」

「終わったみたいだよレイシー! 大丈夫? もう怖くないよ。あ、でもボクにくっついててもいいからね」

 

 ぴるぴると震えながら猫に抱きつくレイシーに、満更でもなさそうな猫が終わったことを確認して薔薇園へと歩いてくる。

 

「誰か意識のあるやつは……」

 

 ざっと倒れた兵隊達を見渡していくが、望みは薄そうだ。

 今までのやつらは怪我もなく無事だったが、こいつらは殺されかけ、そして放置されてから憑依されたのだろう。残らず気絶しているし、辛うじて生きていたやつが一枚、また一枚とただのトランプに変化していく姿さえある。

 

「こりゃあトランプの墓場だねぇ」

「ジョーカー抜いたワンセット分はいるな。魚の数もそれぐらいだったし…… こいつらもお焚き上げしてやったほうがいいんじゃねーの? その辺どうなのよ、女王サマ」

「このままにしておくのも哀れじゃが…… なんとかならんのか?」

「なんとかって?」

 

 悲しそうなレイシーが珍しく突っかからずにペティさんへ質問する。

 それに対してペティさんは心なしか眉を顰めながら返した。

 

「元に戻したりはできないのじゃろうか……」

「無理だぜ、おチビさん。いやー、ガキだねぇ。いくら魔法使いでもな、やっていいことと悪いことがあるぜ」

「できるのではないか!? あとチビ(すけ)ではない!」

「チビ助とまでは言ってないんだがなあ…… だーかーらー、倫理的に無理だ。っていうか嫌だぜそんなの。生き返らせたいならあいつらと同じだけの命と寿命を誰かから奪う必要があるんだ。お前さんの命を使ったとしてもトランプ兵一枚分にしかならないぜ」

「…… っそれは、お主がポンコツ魔法使いなだけじゃ! 私様は、私様は知っているぞ! それができるやつを! お主なんかに一瞬でも憧れた私様がバカだったようじゃ! 行くぞチェシャ」

「はーい」

 

 素直に返事をしたチェシャ猫がこちらを向く。

 レイシーに向ける物とはまったく違う冷たく、無機質な相貌だ。

 

「…… あんまりふざけたこと言わないでよね。レイシーを傷つけるならこの手で引っ掻いてやる」

 

 あまりにも大きな爪のある異形の手を、チェシャ猫は脅すようにこちらに向ける。けれど、すぐにレイシーが彼を呼ぶと素直に返事をしなから彼女に侍りに行くのだ。

 ペティさんは、その反応を訝しげに見つめながら飲み込めないなにかがあるような顔をして首を振る。

 

「まだ断定はできねーからなあ…… あーあ、シラベがいれば一発なのによぉ」

 

 そんな一言を残して。

 

「シラベ…… ?」

「アタシの保護者。ほら、さとり妖怪の鈴里しらべだよ」

 

 ペティさんの代わりに紅子さんが答える。

 

「ああ、鈴里さんか」

 

 脳吸い取りの後会ったっきりだったか? 

 あの人にはいい思い出はないな。しかしさとり妖怪なら、確かに事件の解明は早そうだ。

 

 チェシャ猫と、レイシー。

 どちらも、なんだか怪しい。レイシーはただただ無邪気なだけかもしれないが、特にチェシャ猫はあいつと似ているから…… 余計に警戒心を持ってしまう。

 心を読めれば分かるんだろうが…… うん、必要ないな。

 今まで死んでいった人達…… その全ての心の内が分かったらと思うとゾッとする。知りたくない。きっと、知らない方がいい。

 

 わだかまりを抱きつつ、俺達はようやく城の中へと一歩踏み出す。

 …… 城門に引っかかった奇抜な帽子が、手を振るように揺れていた。

 




・リンの行動範囲
 本体から20メートル以上離れると微妙にステータスが落ちる。
 魚を燃やし尽くすだけの火力が出ないので難色を示した。


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鏡に住み着くチェシャ猫

 ふわふわとしてなんだか気持ちいい。

 頬に触れる案外柔らかな紙の感触が心地良い。

 夢見心地で進む。進む。スキップでもするように。

 女王様に会うの。女王様に会わなくちゃいけないの。

 そうして、みんなみんな壊すの。

 白いウサギさんは女王様のご機嫌が不安みたいだったから、女王様が好きなのだという真紅で塗ってあげた。イモムシは裏切り者。だって中身は女王様の好きな赤色じゃなくて青色だったから。きっと別の人に傾倒してたのね。

 薔薇を塗っている兵隊はどうあってもペンキの量を増やせないから、心配事をもうしなくていいようにしてあげた。

 あたしを見つけて逃げてく人はお魚さんが追って行った。

 帽子屋はお城の前で問答をしてきたけれど、あたしはそういうのは得意だからすぐにデタラメに答えてあげた。

 ああいう問いにはデタラメで返すのが礼儀なのよ。

 お城の中にあった厨房で、一切れだけなくなったタルトを食べた。

 誰かの残り物かな。残したなら冷蔵庫に入れておかないとだめなの。じゃないと怒られちゃうから。

 …… 誰に? 

 まあいいか。

 

 お城のてっぺんに女王様のお部屋があった。

 すぐそこにいたトランプの兵隊さんに訊いたからすぐに分かったわ。

 でも留守みたい。ここで待ちましょう。謁見をしなくてはならないから。

 …… えっと、なんで謁見しなくちゃいけないんだっけ。

 まあいいか。

 

 頭を撫でる紙でできた尾が考えることを後回しにさせて、あたしはその部屋の大きなベッドにごろんと横になった。

 

 女王様のお部屋は赤とピンクの派手な場所ね。目に痛くならないのかな。ハート模様とダイヤ模様ばかりの女の子らしいお部屋。

 馬鹿みたいに子供っぽいお部屋。

 すん、とベッドで息を大きく吸ったら、なんだかとても懐かしい気がして考える。

 

 ふわりふわり、尾で撫でられる。

 どうでもいいか。

 

 でも、なんだかとてもとても愛しいの。

 お魚さんがあたしの上に覆いかぶさってくる。

 

 うん、分かってる。

 壊さなくちゃ。

 壊さなくちゃ。

 壊さなくちゃ。

 全部、全部。

 なんで壊さなくちゃいけないのかなんて忘れた。

 どうして壊さなくちゃいけなくなったのかなんて忘れた。

 とにかく、壊さなくちゃいけない。この世界の全てを。それに都合がいいのが、多分このお城の女王様を最初に殺すこと。

 

 でも、このベッドに沈んでいると、そんな気持ちも少しずつ、少しずつ薄れていく。

 魚のヒゲが頬に触れた。

 ありがとう、お魚さん。あたしの憎しみを忘れさせないようにしてくれて。

 

 でも、矛盾したふたつの気持ちが重なり合って、すごく気持ち悪くなってきてしまうから。

 だから、あたしはほんの少しだけお昼寝することにしよう。

 

 次に目が覚めるときはきっと女王様の前ね。

 早く会わなきゃ。早く会って…… 壊すの。

 

 

 そこはまるで、子供の想像する理想の城のようだった。

 ポップな色、トランプ模様の調度品に内装、真っ赤なカーペットに螺旋階段。

 子供の…… レイシーの夢が詰まったような印象を受ける場所だ。

 なぜだろうか、彼女の性格が幼いからかもしれない。彼女はこの本の中で過ごし、そしてこれからも新たなアリスと交代するまで住むのだろう。

 内装が女王の交代によって変わるのかどうかは分からないが、少なくともこの城はレイシーの趣味に適っているんじゃないかと感じた。

 

 うん、さっきから紅子さんに向かって自慢しているからな。

 紅子さんは一生懸命話すレイシーに困り顔をしながらも顔を向け、うんうんと話を聞いてやっている。なんだかんだ彼女も面倒見がいい。俺のことも放っておけないとばかりに毎回助けてもらっているし、基本的に性根がいいんだろう。普段はからかってくるが、こうやってお姉ちゃんしている姿を見ると年相応…… いや、見た目相応? に見える。いつもはもっと大人びて斜めに構えている節があるからな。

 それでも真面目っぽいところが拭えないあたり彼女の〝 からかい癖 〟はいいアクセントになっているのかもしれない。

 高校生で死んで人じゃなくなってから二年だったか? 今ちょうど二十歳ぐらいなのだろうか。それなら俺とそんなに年の差はないんだよな。

 …… 紅子さんのほうが俺より幾分か大人っぽい気がする。だからといってめちゃくちゃ年上ってわけじゃないし純粋に精神年齢が高いのか。

 俺が短気なだけってわけじゃ…… ないよな。ないよね? 不安になってきた。

 

「さってと、まずはヨモギに言われた通り図書館から探さないとな!」

「む、そういえばそんなこと言っておったな」

「そうなの? レイシー。なんで?」

 

 ああ、チェシャ猫はここで合流したから知らないのか。

 

「俺達が帰るために必要なんだよ。帰り道を確保してないといけないんだ」

「ふうん」

「ここ…… 不思議の国のアリスと同じ本を探すんだったねぇ。じゃないとアタシ達はこのまま本の住民にクラスチェンジだ」

「へえ、ならちゃんと探さないとね! 図書館だよね? ボク分かるよ、こっちこっち!」

 

 おっと…… 俺が言ったときは消極的な感じだったのになんで紅子さんが言うと態度を変えるんだよ。

 

「ほー? なるほど、なるほど、なるほどなあ」

「ペティさん」

 

 紅子さんは意味ありげに声をあげたペティさんへ近づいていって何事かを会話する。俺や、前を行くレイシー達より後ろの位置だったので残念ながら内容は聞こえないが。

 

「おにーさん」

「どうした?」

 

 そしてやがて話し終えた紅子さんが隣に戻ってくる。

 

「チェシャ猫はアタシらがここに留まるのを嫌がっているみたいだよ」

「ペティさんと話してたのはそれか?」

「うん、アタシの言葉で張り切ったのはそのせいかもしれないって結論になった。まあ、あのチェシャ猫はレイシーのことが好きでたまらないみたいだからねぇ…… 猫にも独占欲があるんだろう。お盛んだよねぇ…… お兄さんもそういうときが来るのかな?」

「……」

 

 その台詞を聞いてから足を止める。

 

「ん、お兄さん?」

 

 それから、彼女の両肩にそっと手を乗せてなるべく真剣な表情のまま俺は口を開いた。

 

「そうなったら俺が選ぶのは紅子さんだな」

 

 一瞬なにを言われたのか理解していないように呆然とした彼女は、そのまま 「んんっ」 と声を出してしゃがみこんだ。

 故に俺の手が自然と彼女から外れる。

 

「なんて、な」

 

 お返しだ、と言いながら歩き出す。

 ちょっとやりすぎたかもしれないが、いつもしてやられてるんだからこれくらいはいいだろう。本当は、 「大胆な告白だねぇ」 とか言って躱されるかと思っていたんだが…… 意外だ。いや、でも少し意地悪だったかもしれない。

 

「おにーさん、嫌い」

「はいはい」

 

 髪の間から少しだけ色づいた耳が見えて目を逸らした。

 彼女もなんだかんだ乙女だし年相応だ。からかってくるのに自分が返されると苦手なところとか本当に憎めないよな。まさかここまで照れるとは思ってなかったが。

 まあ、たとえ本当にそうだったとしても、俺が受けるわけにはいかないけれど。

 

 …… だってそうなったら、あの邪神野郎が面白がって手出ししてきそうだし。

 

 友達を失うのはもうごめんだよな。

 

「おーおー、見せつけてくるよなー」

「ペティ、それより図書館の場所まで早く行くんだろう。置いていかれるよ」

 

 そう言いながら足早に紅子さんはレイシーとチェシャ猫の側に行く。

 やっぱりやりすぎたな。あとで謝っておこう…… 無視されなければ。

 彼女が無視するような態度をとるとは思ってないが、嫌がるようならしばらくそっとしておくしかない。

 共同戦線中に慣れないことをするもんじゃないなあ。

 

「なにやってんのー? ほら、ここが図書館。レイシーのお城なんだからあんまり荒らさないでよね」

 

 揺るぎないチェシャ猫に案内されながら図書館に入る。

 大きな入り口を通ってそこにあったのは学校にありそうな、図書館というより図書室という光景だ。それでもこの中から一冊だけの本を探すとなると時間がかかるだろうか。

 ちゃんとジャンル分けされてれば探すのにも苦労はないと思うのだが…… ざっと見回したところ整理整頓なんてされているはずもなく、これはしらみつぶしに探すしかないやつだなと溜息を吐いた。

 

「アリスの本を探せばいいんだね……」

 

 紅子さんが呟きながら俺の横から本の群れの元へ離れていく。

 

「お兄さんは、別のものを探しておいてね? 頼んだよ」

 

 小さな囁きを残して。

 

「レイシー、心当たりはないかな? ここはキミの城だろう? キミの案内が頼りなんだ」

「むむ! 私様のきょーりょくが必要なようだな! よいぞよいぞ! 紅子は一番良い奴じゃ!」

「チェシャー、お前もなんか知らないか? ほらほら行くぞ」

「ちょっ、まっ、れ、レイシー! ボクはレイシーのそばから離れたくなんてないからな!」

「仕方ねぇなー。なら近いとこで一緒に探すぞ。ほらほらこっち」

 

 別のもの? と疑問に思う暇もなく紅子さんはレイシーと。ペティさんはチェシャ猫と図書室の奥へ向かう。

 ただ一人取り残された俺はそれに困惑しつつ、彼女達の思惑を推理する。

 

 まるで俺を一人にするのが目的だったみたいだな……

 ああ、そういえば今までは一人で行動することはなかったか? 

 それにチェシャ猫の目がないからか、自由に動ける。

 今のところ一番怪しいのはあの猫だし、あいつに見られていないところでなにか手がかりを探せということか。

 納得して俺は奥ではなく、手前の…… 向こうからは見えにくい位置で探索を開始した。

 

 書籍の種類はさまざまだが、子供向けの絵本などが多いように感じる。

 あとは洋書なのか英語タイトルのものだったり、あとどうあっても読めない単語で構成された本とか。ドイツ語とかフランス語とかなのかもしれない。俺は最低限の英語くらいしか分からないので、なにが書いてあっても理解できない。

 ペティさんなら読めるかもしれないが、俺と紅子さんは多分無理なやつだ。

 ペティさんって英語圏出身かな。どこの生まれなのか拒絶さえされなければ訊いてみてもいいかもしれない。

 もしかして俺よりペティさんを協力してチェシャ猫から引き離したほうがよかったんじゃないか…… ? 

 いやいや、でもあのとき俺は二人の意図を読めなかったわけだし、ペティさんは特にチェシャ猫とレイシーからの警戒が強いからすぐにバレたかもしれない。

 そう思うと俺はちょうどいい位置なのか。

 

 目線を滑らせて本棚を上から下へ。

 ピンと来るものがないか探していく。

 

「ん」

 

 ふと気になった一冊を手に取る。

 これだけノートのように薄く、そして普通の書籍ではない。

 

「歴代女王記録……」

 

 この世界に関する本だ。

 他の書籍類が全て幼い女王の好みそうなものであるのに対し、これだけ世界に関する本だというのは違和感がある。

 なにか大切なものに違いない。

 だが時間ロスになりかねないほど熟読するわけにもいかないし、見るのは最低限。斜め読みでもしながら…… と開いてみてその必要性がまったくなかったことに驚く。

 書いてある言葉は一行にも満たない。

 

 第1代目女王 レイシー

 

 ただそれだけだった。

 レイシーの名前しかそこには存在しなかった。

 いくら薄いとはいえ、冊子ではなく本だ。他のページを開いてみても白紙だけが残るばかりでどう頑張ってもレイシーの名前しか見つからない。

 

「どういうことだ…… ?」

 

 これではレイシーの言っていたことがおかしくなる。

 あの子は自分が元アリスであり、アリスは物語の最後に辿り着くと女王に取って代わると言っていた。そして女王になったアリスは次のアリスが来れば元の世界に戻り、白昼夢を見ていたように元の生活に戻れるとも。

 物語序盤のアリスは最後に目覚めるアリスとイコールでは繋がらない。別々の人物だ、と。あの言葉は一体なんだったんだ? 

 あの子が嘘をついていた? 

 けれど、あの子は嘘をさらりと吐けるような性格をしていない。

 それすらも演技だったのだ、と言われてしまえば俺にはなにも言えないが……

 

 いや、そういえばレイシーはアリスのときの記憶がないんだったか。

 そして、女王とアリスの関係をチェシャ猫に聞かされたのだったか? 

 

 …… そうなると、やはり怪しいのはチェシャ猫か。

 

 なにを調べても、チェシャ猫に行き着く。

 これはどうするべきか……

 

 奥の方に耳をすますとどうやらペティさんがお菓子のレシピを見つけたとかでレイシーにキッチンの場所を聞いているようだ。

 あれは後々俺に話が持って来られるやつだな。紅子さんが俺の作る菓子が美味しいよなんて談笑に加わってるのも聞こえる。

 ちくしょう、そんなこと言われたら絶対に断れないじゃないか……

 

 だがその前にもう少し情報を探らなければ。

 

 歴代記録の本を棚に戻そうとして、その近くに〝 不思議の国のアリス 〟があることに気がついた。

 今度はそれを手に取り、開く。

 挿し絵とかに触れなければ勝手に戻ったりしないよな? と注意しながら最後までパラパラと捲る。

 本をぐいっと開きながら勢いに任せて捲っていれば、その途中でなにか硬いものが挟まっているように停止した。

 そこにあったのは白紙のページと、その中央に挟まっている手鏡だった。

 

「鏡?」

 

 鏡の国でもないのに手鏡があるのは変だ。

 それともこれが現実へ帰るための道しるべなのか。文車妖妃の字乗(あざのり)さんがいない今、それを聞く相手もいない。そもそもあのヒト本を探すだけでいいとか言ってたしな。具体的なことは何一つ聞いてないから、帰り方も分からない。

 とりあえず触らないほうがいいんじゃないか? そう思って観察していると、唐突に気づいた。

 

「あれ、俺写ってなくないか…… ?」

 

 そう、俺が覗き込んでいるのに鏡には何一つ写っていない。

 いや、違うな。透過するように、まるでそこが鏡ではなくガラスでもはまっているように向こう側が見える。

 本の他のページすら透過して本棚がそこに写っていた。

 そして、本棚の本を一つずつ、一つずつ退かすナニカが見えた。

 

 俺が慌てて鏡を通さずに目の前にある本棚を見ると、確かに本が退かされているのが見える。

 しかし退かすシマシマ模様のナニカは俺には見えない。

 本が勝手に動き、別の本棚に無理矢理入っていっているようにしか見えない。

 それから、その様子を危機感すら抱かず眺めているとコンコン、となにかを叩く音が聴こえて手元に視線を戻した。

 

「騒がしい動物や執着心のイカれたやつ、それに泥棒や覗き魔はさぞかし透明になりたいだろうね。このボクのように。ああいや、キミがそうだとは言っていないよ? どこ見てんだか分からない陸上の魚みたいな顔してると自覚したほうがいいぜ」

「は? え、は?」

 

 そこにはレイシーに付き纏うチェシャ猫とは似ても似つかぬ、シマシマ模様の毛皮で不気味に笑う本来のチェシャ猫が映し出されていた。

 

「優れたるものが奇妙な出来事に関わると理性は腐り、溶け出していく。キミは自分の脳みそがちゃんとそこに収まってるか確認したことはある?」

 

 わけのわからないことを続けざまに喋る猫を黙らせようと本を閉じかけるが、そういえば大事な手がかりなんじゃないかと思い直してもう一度開く。

 それにこの猫からは神内千夜のような気配が感じられない。

 ただただ奇妙な猫。それに尽きる。あのチェシャ猫よりもよほどそれらしい、というべきか。

 

「そんなことしたら死ぬだろ」

「わざわざ面倒な遠回りをしてると馬鹿にされるぞ。ボクにね」

「…… お前はチェシャ猫なのか? なら、レイシーの近くにいるチェシャ猫は誰だ? この世界は、どうなってるんだ」

「よろしい。物事の正しい順序なんて永遠の謎にかかりきりになるより、欲望に素直になるのがより近道だ」

 

 変な言い回しばかりで混乱しそうだ。

 なんなんだよ、こいつ。

 

「で、答えは?」

「端的に示せば我々は乗っ取られた…… ということになるだろうね。ミルフィーユの層を重ねるように上に乗せられたやつらのせいでこうやって押し込められて〝 ペタンコ 〟になっているのさ。帽子屋やボクはある程度それを免れた。友は既に無に帰してしまったようだが、ボクはここに潜み、待ちの姿勢のまま全てを眺めてきた。全てをだよ」

「つまり、本来この世界のチェシャ猫はお前ってことなのか?」

「鏡に映ったもののほうが実物よりも現実に近い場合があるのだよ。ボクがチェシャ猫なのは間違いないさ。そして、ヤツもチェシャ猫さ。だからかもしれないが、ボクには彼や彼女の記憶を覗くことができるようだ。彼らは外の世界からやってきて、そして乗っ取った。この世界にその体を埋めたのだから世界に記憶が投影されるというのも、いたしかないことだね」

 

 つまり? 

 もしかして事情が分かるってことか? 

 レイシーは憶えていないって言ってるし、チェシャ猫はどうあっても教えてくれないだろうしな。

 この状況をなにか知ってそうなチェシャ猫は分かってて隠している感じがするからな。

 

「見るかい? 深淵を覗くときはなんとやら、だがね」

 

 深淵もまたこちらを見つめている…… ってやつか。

 まあ見るしかないだろ。

 これは間違いなく重要な手がかりだ。

 

「ふむ、よろしい。実によろしいことだ。なら、よおくこの鏡を見ていてご覧」

 

 言われるがままに鏡を覗き込む。

 そこに映ったのは道路に飛び出す黒猫。そしてそれを抱いて泣くレイシーに似た少女。泣く少女に近づき、赤い液体の入った小瓶を見せる〝 あいつ 〟…… 不服ながら俺の上司。

 

「飼い主、もしくはご主人様ではなくて?」

「なんだってお前らみたいなやつは心を読んでくるんだよ」

「キミの精神に直接鏡を通して見せているものだからさ。鏡と精神を直結させている。そりゃあ見放題だろうね」

 

 うっわ。

 先に言ってくれよ。今は仕方ないけど。

 

 映像は続く。

 死んだ黒猫の怪我が繕われるように修復されていき、不気味に笑うあいつ。

 そして次に映ったのは少女が怪我をする多数の場面。それも黒猫の傷があった場所と同じ場所に。

 次第に怪我の頻度は増え、重くなっていき、最後には病院生活が待ち受けていた。

 それを眺める黒猫に、余計な知恵を授ける真っ黒な烏。

 …… あの烏からはあいつと同じ感じがした。

 そして、その感覚は赤い液体を飲まされ、復活した黒猫からも。

 

 黒猫は烏の助言を受けて文字通り、体が〝 作り変えられて 〟いった。

 体内から飛び出た真っ赤な尻尾…… いや、あれは触手のようなものだった。明らかに黒猫とは別の生き物に成ってしまっている。

 

 黒猫の原動力は、独占欲。

 死んだ黒猫と、同じ場所に怪我をするレイシー。

 怪我をしなくなった黒猫。

 どちらも同じ場所に〝 あいつ 〟の姿あり。

 

「…… なるほどな?」

「今のを見て、なにか分かったかい?」

 

 ああ、分かった。

 あいつは俺から見て後味の悪い物語を演出するのが好きだ。

 そんなこと今までの経験で理解している。

 それを鑑みて今ある状況を整理してみれば…… ? 

 

 元の黒猫には嫌な感じがしなかった。

 あの液体を飲まされてから黒猫はあいつと同じ感じがするようになった。

 

 黒猫が飲まされたのは? 

 赤い液体。

 あいつと同じに。

 

 あれは、邪神ニャルラトホテプの血液だ。

 黒猫はあいつの眷属ないし化身へと作り変えられた。

 

 …… あの野郎ちゃっかりしやがって。

 

 それから、レイシーと黒猫の怪我の問題だな。

 単純に、黒猫が負った傷をレイシー自身が肩代わりしているように見えた。

 つまり、レイシーはあのまま行けば黒猫と同じ怪我を負って死んでいたと推測できる。

 烏はそれを黒猫に伝えた。黒猫が生きたからこそ、レイシーが死ぬということは伏せて。

 

 そして用意されたのがこの本の中の世界だ。

 現実世界でなければレイシーは命を永らえられる…… そんな都合の良いことあるのかは分からないが、黒猫はそのためにいくつもの嘘をレイシーに吐いている。

 

 猫はレイシーのためだけに行動している。

 ならば、多分アリスを撃退したらそのあと俺達はお役御免だろう。

 別にレイシーを助け出せなんて依頼は受けてないわけだし、俺達にあの子を助ける義務もない。黒猫と一緒にいるのがあの子の幸せならそれでいいかもしれないからなあ。俺がなにかしても一人と一匹にとって余計なことかもしれないわけだ。

 

 ううん、やっぱり全員に話すのは少し待とう。

 ある程度の仮説はできたが、本命ではない。もしかしたら違う事実が隠れてるかもしれないし、他の皆にはまだ話すべきではない。

 そもそも、あのチェシャ猫がいる限り話すわけにはいかないからなあ。

 

 必要になったら話す。これが一番だな。

 

「流れに身を任せるんだね。浮くものはちゃんと浮くものだ」

「お、おう……」

 

 困惑しているうちに鏡の中の猫が徐々に消えていく。

 最後の方は顔が残り、そして不気味な微笑みを浮かべた口元だけが取り残されて、霞のように消え去る。

 俺も引き止めようとしたが、それは叶わず、突然肩を叩かれたことで驚き変な声が出た。

 

「っふぁ!?」

「え、どうしたのお兄さん……」

 

 気がつくと、俺の周りには紅子さんを含めて全員が集まっていたようだ。

 

「ねえねえ、キミなに見てたの?」

 

 チェシャ猫が俺の手元を覗き込むようにして、それから首を傾げた。

 俺は見られたらまずいと思って本を閉じようとしたものの、そこにあったのが手鏡ではなくチェシャ猫の挿し絵だったことで手が止まる。

 いつのまにか集まっていた皆といい、まるで白昼夢でも見ていたような心地だ。

 あのチェシャ猫は一体どこにいったのか。そして、なんだったのか…… 本来のチェシャ猫だったらしいが…… 他の住民達はどうだったんだろうな。

 ほとんどアリスにやられてしまっているが…… 帽子屋もやられたって言っていたし、あの猫はこれから一匹で過ごすのか…… ? 

 …… あんまり余計なことを考えるのはよそう。

 

「…… アリスの本を見つけたから、これで帰りは大丈夫なんだろ?」

「ん、ああ。それがあれば問題ないぜ。ヨモギの言いつけも守ったし、もう城のてっぺんにいっても大丈夫だ」

「ふむ、いよいよアリスに会うのか…… 緊張するのう」

「よーし! さっさと追い出そうね! レイシー!」

「う、うむ」

 

 こいつらがいると賑やかだなあと思いつつ、レイシーが好きそうな螺旋階段を登る。

 途中特になにか起こることもなく、最上階に着いた。

 どうでもいいが、偉そうだからという理由で最上階を選ぶと自分で上がるのが大変すぎないか? と思わなくもない。

 レイシーはどうなのだろうか。チェシャ猫に抱えられながら登ってきたりするんだろうか…… 今みたいに。

 そうなんだろうなぁ。なんせ、 「レイシー! いつものように抱っこしてあげるよ!」 「や、やめるのじゃ! こやつらが見ておるだろうが! 私様にも恥というものはある!」 「恥なんかじゃないよ! だって可愛いからね!」 なんてやり取りをしていたからな。

 

「ははっ、賑やかでいいな」

 

 ペティさんが笑うと、レイシーは抱き上げられたままむくれて俯いた。

 あーあ、からかうような口調で言うから嫌われるんだぞ……

 

「妬けるねぇ…… と、さあ、目的地についたみたいだよ」

「ああ」

 

 紅子さんに促されて大扉を前にレイシーとチェシャ猫を見る。

 チェシャ猫が軽い首肯して扉を見つめたので、俺が前に出て代表して開く。

 ギイ、と重厚な音を立てて開いていくその扉の奥は、ピンクと白と赤と…… とりあえずレイシーが好きそうな色やファンシーな雰囲気の部屋だった。

 

 その中心のベッドに沈む黒いエプロンドレスの女の子が、ゆっくりと起き上がる。

 その真っ赤に染まったような瞳が、こちらをぼうっと見つめて、そしてレイシーと彼女を抱えたチェシャ猫でピタリと止まった。

 

「あ……」

 

 少女、アリスがベッドから降りてふらふらと、心配になるほどの足取りでこちらへ歩み、言った。

 

「お、ねえ…… ちゃ……」

 

 俺が目を見開くのと同時にアリスへ覆いかぶさるように泳ぐ妖紙魚が現れる。

 

「あ…… うん、そ、だね…… 殺さなきゃ、女王さま」

 

 言いかけた言葉を遮るように。

 アリスから理性を奪い去るように。

 

「なんで、だっけ」

 

 呟いた声は、悲痛で。

 でも彼女が構えたナイフは紛れもなくこちらに向けられていて。

 

「許せないねぇ…… うん、頑張ろっかお兄さん」

「そう、だな」

 

 紅子さんは本当に揺るぎないなあ。

 いつもクールな彼女の瞳には燃え上がるような怒りが見える。

 ああ、頑張らないとな。

 

「狙うは魚だけだぜ、いいな?」

「もちろんだ!」

 

 ペティさんのその言葉が、開戦の合図だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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【幕間】聖夜の宴会

 こちらはクリスマスの番外編となります。
 時間軸は砂鉄の国の女王の後となりますが、先の展開のネタバレはありません。

 今年中に本編を更新できるかどうかは分からないため、もしかしたらこれが今年最後の更新かもしれません。
 それでは皆様、良いお年を。


 ぶつり、と首に這わせたガラス片が肉を切る音が響く。

「今宵のお相手様は貴方でしょうか」 と言わんばかりの態度で艶めかしく誘ってやれば、こうも簡単に行くものなのだなと彼女―― 紅子は独り不愉快そうに息を吐く。

 勿論、本日の夢の行方は彼女の勝利で幕を閉じていた。

 

 ゲームをするにも解答はひとつだけ。

 すなわち精神をすり減らしながらも彼女の首に埋まったガラス片を取り出し、差し出すこと。これに気づけば重畳。

 

 ゲームを始めた頃に出会い、これをクリアした上で彼女に 「痛くはないのか」 などと問うてきた男は良い。自分をなにかに投影することもなく、比較するでもなく、紅子自身の状況を見て、それでも気遣ってきた本物のお人好しだ。

 その心に偽りはなく、文句なしの合格者だった。

 少々オカルトに傾倒し過ぎているきらいがあるので、こちら側に近づき過ぎないよう彼女なりに気を遣っていたのだが…… どうやら引き寄せる体質も持っているらしく、下手に遠ざけるより引き込んでしまったほうが早いと先日人間ながらに同盟メンバーとなったばかりの者だ。

 引き寄せる体質を持つ者は案外そこかしこにいるもので、得てして彼らは好奇心が強い。生まれ持つ才なのだろうが、彼らが巻き込まれてしまわないようにと気を張っていなければならない身としてはいいのやらよくないのやら。

 仕事が繁盛するのは良いことではあるのだけれど…… と紅子は思い巡らせる。

 

 最近彼女が気にかけている目つきが残念な男は、怖気付いていることを〝 可哀想だから 〟と言い換えて誤魔化した最低な奴だと認識している。

 紅子のことは恐るべき怪異であり、怪異慣れしているからこそさっさとゲームを終わらせようとしていたというのは構わない。

 しかし、〝 嘘はつかない 〟と明言している彼女に対して上っ面だけだけの同情を寄越してきたのがいけなかった。

 紅子の首の傷口に手を入れる。これは試練のようなものなので、これができても、できていなくても、そうすることを嫌悪されても彼女は構わない。

 だが、〝 自分が嫌 〟だから嫌と言うのではなく、〝 君が痛そうだから嫌 〟と彼女自身の心を勝手に代弁しようとした。その小さな〝 嘘 〟がなにより気に食わなかったのだ。

 だからこそ、紅子は彼…… 下土井(しもどい)令一(れいいち)を嫌いだと評する。

 他人のためと言っておきながら、その実自分のために〝 善行 〟をする彼が、とにかく気に食わない。

 それは〝 自分からなにかを奪われるのが嫌い 〟な彼女にとって、他人のチャンスや責任を奪い取るようなそんな行為が地雷であるからこそだ。

 

 しかし、常日頃嫌いだ嫌いだと言ってはいるものの元来の性格故か、紅子には彼を見捨てるという選択肢はない。

 からかい癖はあるものの根は真面目だからか、一度やると決めたことはやり通すことにしているのだ。

 なんだかんだで行動を共にすることも多い。知らぬ存ぜぬよりも、身近で監視していたほうがまだ安心できるというものだ…… と彼女は結論付ける。

 

 毎夜夢の中で行うゲームのせいで寝た気がしないと愚痴りつつ紅子は長い黒髪を櫛で梳き、頭の上の方でいつものようにポニーテールに…… と、ここまで来て彼女は少し考える。

 

「お兄さん、クリスマスはろくな思い出がないとか言ってた気がするなぁ……」

 

 困ったことがあればたまに電話をする仲ではあるので、世間話に興じることもままある。彼のご主人様についての愚痴をうんうん聴いてやっているときに、一度言っていた気がするような? …… と、記憶を辿る。

 

「ああ、そうだった。確か魔道書をばら撒く羽目になったとか、なんとか…… 本の管理者だし、字乗(あざのり)さんが嫌がりそうなことだなぁって思ったんだったかな」

 

 思い出したので満足した紅子は、止めた動きを再開する。

 今日は頭の上のサイドで三つ編みでも編んでみようか、などと鏡を見ながら丁寧に髪を梳く。たまには髪を下ろしたままにしてみるのも面白いだろう。

 驚くだろうか? と脳裏に浮かぶのは同じ怪異仲間や学校のクラスメイトなどではなく……

 

「ううん、なんでだろうねぇ……」

 

 そんな考えを頭を振って払い除け、紅子は黙々と朝の準備を進めていった。

 本日はクリスマス。お祭り好きな人外達が騒ぎに騒ぐ日である。

 普段遠方に住んでいて、鏡界にある屋敷へはやって来ないような者も集まってくることとなる。

 人外というものはどうにも長命故にか、刺激を求める生き物だ。あと酒好きが異様に多い。

 紅子は実年齢で言うと、あと二ヶ月で20歳になるのでギリギリ酒を嗜んではいけない年齢だ。世間では20歳前にも手を出す人間がいるが、彼女は未だに手を出したことはない。まさか正気を失うまで飲むということはないだろうが、自分がどうなるか分からない以上醜態を晒したくないので飲もうという気にもならないのだ。

 だが、人外達は人に勧めるのも大好きである。並みの人付き合いくらいしかしない紅子にはアルハラもいいところだ。

 相手が神であったりするので、無下に断るというのも自ら人間の意識に寄せている紅子にとってはやりづらい。

 良い情報交換の場にはなるのだが、いかんせんデメリットも多い。

 

「ああ、なら盾にでもなってもらおうかなぁ……」

 

 先程まで誘ってやろうかと検討していた顔を思い浮かべる。

 彼…… 下土井令一ならば年齢も22歳と自分とそう変わらないし、紅子に酒を勧めてくる輩を防ぐ盾くらいにはなるだろうと判断する。

 彼が潰されたら潰されたで、後で盛大に面白がってやればいい。

 うん、そうしよう。

 結論を下して紅子は部屋を出る。

 

 部屋の外では既にクリスマスパーティーという名の宴会の準備が始まっているようだ。

 妖怪の癖に朝から大はしゃぎでご苦労なことだねぇ、とそれらを横目に彼女は玄関から外へ出て急ぎ足で現世への門を目指す。

 

「よぉー、ベニコ! 今日もあいつんとこか?」

「おやおや? デートのお誘いだね? そうなんだね? 是非とも私にもお話を聞かせてほしいね! 恋文が必要なときはきちんと〝 れくちゃあ 〟するから教えてもらえるかな?」

 

 通り過ぎざまに亡霊の魔女と文車妖妃に出会い、苦笑をこぼす。

 

「必要になるときは永遠に来ないから安心してくれていいよ? やるなら紙切れに託すのではなくて、自分でやるだろうからねぇ。いや、ありえないけれど」

「むう、恋文に残すのは良いことなんだよ? 先の世にも語り継がれるのだから」

「語り継がれたりなんてしたらとんだ恥だよ…… 少なくともアタシはね。キミを否定するわけではないけれど、アタシはそういうの好きじゃないんだよ」

 

 気まずくなる前にと足早に立ち去る。

 終始仲の良い亡霊魔女と付喪神はその様子を微笑ましげに見送って互いに顔を合わせた。

 長く退屈な生の中で、人外というものは刺激を求める。

 それは他人の色恋沙汰でも同様のことなのだ。滅多にない〝 イベント 〟が喜劇に終わるか悲劇に終わるか。そんな予測を立てながら下世話に楽しむのが常である。

 短い生を生き肉体を主体とした人間とは違い、人でないものは精神に重きを置いて生きる者達である。

 人外にとっての〝 長い退屈 〟は致死毒にもなり得る恐ろしい概念なのだ。

 

「…… あれ、アルフォードさん…… が、2人?」

 

 そうして門へ向かっている途中で、飛びながら樹木の飾り付けをする影が2つあることに気づく。

 それも、その影はどちらも赤く長い髪を揺らし、頭上に突き出た大きなアホ毛がくるりと揺れるアルフォードのものである。

 ただし、片方は本来のアルフォードよりもかなり小さい。

 分霊でも出して協力して飾り付けているのだろうか…… と紅子が疑問に思って近づくとその会話が漏れ聴こえてくる。防音用の結界すら張られていないので、特に聞かれても困る内容ではないのだろう。

 そう判断して聞き耳を立てると…… 小さいほうが随分と幼気な話し方をしているのが分かった。

 

「そっかぁ、お前が楽しくやってるみたいでよかったよ。いじめられでもしてたらオレが令一ちゃんを捌きに行くところだった」

「れーちゃんはそんなことしないからだいじょうぶだよ」

 

 …… 捌く? いや、お兄さんの話なのか? 

 そう思って紅子が近づいていくとぱきりと小枝を踏み、一斉に2人の爬虫類のような黄色い瞳が向けられ、背筋を駆け抜けるような怖気に襲われた。

 隠れたり足音を抑えて幽霊のように気配を消すことが得意な彼女ではあったが、今回ばかりは少し動揺していたらしい。

 けれど、彼女はまるで動じていないというように振る舞いながら、いつもと同じように薄く笑みを浮かべて彼らに向かい合う。

 

「アルフォードさん、なにをしてるのかな? それと、そっちのアルフォードさんは…… ?」

 

 一瞬の沈黙。しかし、彼らは相手が紅子だと分かると途端にその顔をふにゃりと笑みに変えて何事もなかったように 「なんだー、紅子ちゃんか! えっと、こっちの小さいオレのこと? 紅子ちゃんもいつも見てるはずだよ? 分からない?」 と明るい声で応える。

 

「べにちゃん、わかんない? たしかに、いつもはあんまりかおをあわせたりしないかもだけど……」

 

 そこまで言われて紅子は 「もしかして」 と呟く。

 

「赤竜刀…… リン、なのかな?」

「わー、すごい! だいせいかい! いつもあるじちゃんがおせわになってまぁす!」

「リン…… ってキミの分霊だろう? なんでこんなに違うのかな」

 

 困惑しつつも確認のために紅子がアルフォードに問うと、彼は 「名前をつけてもらったからだよ」 と非常に嬉しそうに答える。

 

「名前…… リン、だね。鱗だからリン、なんて聞いてるけれど…… そんな単純なものでもいいのかな?」

「そりゃあね! オレ達にとっては名前ってとても大事だからさ。元はオレの分霊。でも、今は赤竜刀になって名付けもされた。だから今のこの子は分霊としての意識と刀剣としての意識が半分ずつくらいなんだよね。ねー?」

「ねー?」

 

 大きなアルフォードと小さなリンが目を合わせながら 「ねー?」 と言って笑い合う。まったく同じ顔のようで、少しだけ凛々しいような気もするリンは心底嬉しそうにしている。紅子も令一と仲良くしている姿を見ていたが、神の分け御霊のカケラとはいえ、ここまで慕っているとはと驚いた。

 

(…… 案外お兄さんってすごいのかねぇ)

 

 神妖に好かれるのはその優しさ故か。

 それとも、彼がどうしようもなく愚かで人間らしい傲慢さを持つからか。

 …… 紅子には、神妖の言う 「愚かしく醜いからこそ愛おしい」 という感覚が理解できない。嫌いなものは嫌いだし、苦手なのだ。

 

「あ、でもオレのことはれーちゃんにはないしょにしてほしいんだよね!」

「ううんと、何故か聴いてもいいかな?」

 

 身長120㎝程しかないリンが紅子を見上げる。口元に人差し指を立て、ご丁寧に 「しいー」 のポーズだ。その仕草のひとつひとつがどことなく幼いように見えるが、中身はアルフォードと同じ年齢のはずだ。刀剣のほうの意識に体が引っ張られているのかもしれない。

 

「だってさ、れーちゃんはオレがひとがたになれることしったら…… いままでみたいにかわいがってくれなくなっちゃうでしょ?」

 

 少なくとも令一は人型になれることを知ったくらいで態度を変えたり邪険にするような人間ではない。

 紅子が訝しんでいると、リンは 「ぺっとかんかくでさ、なでなでしてくれなくなっちゃわない?」 と弁解する。言い方が悪かったのだと思ったのだろうか。

 

 思い返してみれば確かに、令一はリンのことを四六時中鞄の中に娯楽用品やおやつまで入れて連れ歩き、顎の下を撫で回したり頭をこちょこちょとくすぐったりと猫可愛がりしている。

 その小さな小さなドラゴンが人型になれる上にアルフォードと同一の知識を持つ存在であることを自覚すれば、子供扱いやペット扱いはしなくなるのかもしれない。そういう意味であれば、確かに対応が変わってしまうだろう。

 

「べにちゃんはあるじちゃんにこのこと、いう?」

 

 蛇が睨むような、そんな目をしなくとも当然そんなことはしない。

 紅子は困ったように微笑みリンの頭に手を乗せる。

 

「言わないよ、誓ってね。アタシは嘘なんてつかないよ。知ってるだろう?」

「うん! しってるよ! ありがと、べにちゃん!」

 

 幼い笑顔に釣られて彼女もにっこりと笑みを浮かべる。

 クールぶってる彼女も子供の笑顔には弱いのだ。

 

「っと、そうだ。アルフォードさん、今回の宴会って人間の参加はありなのかな」

「れーちゃんつれてきてくれるの!?」

「ありだよ。好きにしていい…… あ、そうだ。令一ちゃんって料理できるんだよね? なら、参加費ってことで令一ちゃんに料理かお菓子作ってきてもらってよ。紅子ちゃんはこっちのメンバーだからなくてもいいけど、夜まで時間はあるし…… ……ゆっくりしてきたらいいよ」

「下世話だよねぇ……」

 

 嫌そうな顔をしながら言う紅子を見て 「ごめんごめん、でもほら…… 色恋沙汰は最高の娯楽だから」 とアルフォードが笑う。

 他人の感情の浮き沈みを娯楽と言い切るところはやはり人外なのだなぁ、などと改めて認識して紅子は溜め息をついた。

 これはさっさと退散したほうがいいらしい。ずっと会話を続けていたらもっと気疲れしそうだと歩みを再開する。

 

「それじゃあ、夜にまた来るよ」

「うんうん、またねー紅子ちゃん」

「あるじちゃんのてりょうり、ちゃんとさいそくしておいてね!」

「はいはい、伝えとくよ」

 

 随分と長く立ち話をしてしまったなあ、と彼女は自然急ぎ足になる。

 門を抜けると、そこは学校の女子トイレの中だ。

 赤いちゃんちゃんこのルーツを持っているので当然、選ぶのはそことなるわけだが…… 人目を気にしなければならない部分については彼女も失敗したと思っている。

 幽霊の括りではあるので人から見えなくなることもできるし、なんなら隠れたり隠したりすることは得意なので不自由はないが…… いろはのような〝 視える 〟生徒がいないとも限らない。どちらにせよ、気を張らなければならないのである。

 

 普段はない、頭のサイドで揺れる小さな三つ編みが首元をくすぐり、下ろした髪が寒空の下風に吹かれる。リボンはもちろん、いつもと同じ薄紫のものだ。

 赤と白のチェック模様のマフラーで包帯ごと首元を隠し、幽霊とはいっても寒いものは寒いので赤いセーラー服の下に黒いインナーとタイツを履いている。

 それからえんじ色のダッフルコートを羽織れば、そこらにいる普通の女子高生となんら変わりない少女となる。

 いつもよりお洒落な風体で木枯らしの中を駆ける。

 目指すはいつも苦労させられている男が不本意に住んでいる大きな屋敷だ。

 

 途中、忘れていたとばかりに懐からスマホを取り出し、コールする。

 これから会おうというのに、連絡も寄こさずに行くのは親しい仲だとしても失礼である。なによりあの邪神がいるかどうかで彼女の行動は少し変わるのだ。

 

「もしもし…… 紅子さんか?」

 

 歩くスピードを下げ、向こう側から聞こえてくる声に返事をするべく声をかける。

 

「ああ、お兄さん? 寂しくなったから来ちゃったよ。屋敷についたら上がってもいいかな?」

「どうしたんだよ、いったい。紅子さんが? 寂しい?」

「失礼だよねぇ……。アタシだって人肌恋しくなることくらいはあるよ。だからね、ほら、恋人のいない〝 寂しい 〟クリスマスを互いに埋めてしまおうじゃないかって提案してるんだよ」

「もっと素直な誘い文句はないのかよ」

 

 含み笑いが小さな板切れの向こう側から響いてくるのが分かり、紅子も他愛のない言葉遊びを中断する。

 

「アタシと2人きりでクリスマスデート…… とはいかないけれど、ちょうど〝 こちら側 〟で宴会があるんだ。キミもどうかな? いろんな神妖が集まるから、挨拶的な意味でも、コネクション的な意味でも参加して損はないと思うよ」

「ああ、なるほどな。いつも俺の為にありがとう、紅子さん」

「…… 別に。ええと、参加費代わりに料理かお菓子を用意して来いってアルフォードさんが言ってたから、キッチンの用意でもしておいてね」

「そうか、了解。なあ、紅子さんはなにか食べたいものあるか?」

「アタシ?」

「参考までに、な」

 

 少しだけ思考を巡らせて、放棄する。

 

「小腹を満たせるものならなんでもいいと思うけれどねぇ」

「あえて食べたいと答えるなら?」

 

 しつこいぞ、とは口に出さず仕方なく紅子は今思い浮かぶものを答えた。

 

「ううん、えっと…… 温かい、ミートパイでも食べたいかなぁ」

「よし、じゃあそれにするか」

「いいの? 材料とか大丈夫なのかな? それは」

 

 心配になって訊けば、令一から軽い返事が送られてくる。

 

「足りないものはなさそうだから問題なしだぞ。ついでにケーキも焼けるくらいの材料はある。あいつがホールを二つは作れって言ってたからな」

 

 うわあ、と言いたい言葉を飲み込んでから紅子は口にした。

 

「それは大変だねぇ。手伝うよ」

「お、助かる」

「なら、もうすぐ着くから待っててね。おにーさん」

「ああ、あいつは今日仕事があるらしいから気兼ねなく来てくれ」

「おっと、それは朗報だね」

 

 彼の邪神が居ては都合が悪い。

 だというのに、事前に連絡を取らなかったのは今回の一件が思いつきの行動だったからだろう。決して気を急いていたわけではない。決してだ。

 

 それから間もなく、屋敷に到着した紅子はキッチンの準備をしていた令一に招き入れられたのだった。

 

「あれ、今日は髪おろしてるんだな」

「うん、まあ…… 別に毎日一緒ってわけではないよ」

「ああ、そうだよな。女の子だもんな。髪長いからそういうのも似合うな」

「…… ふうん、童貞のお兄さんでも良し悪しを褒めるくらいはできるんだねぇ」

「それ関係なくないか…… ? 久しぶりだな、その文句」

「そうだったかな……」

 

 目線を逸らし、 「早く準備をしないといけないんじゃないのかな?」 と彼を急かす。宴会は夜からだが、来る神妖の数は多い。参加費といっても全員分用意するわけではないが、せめて多目に持っていくべきだろうと提案する。

 それと、アルフォード用に特別辛いミートパイを作るように注釈を加えながら。

 

「アルフォードさんって辛いもの好きなのか?」

「そうだよ。甘いのはダメなんだよ、あのヒト」

 

 ドラゴンで火を噴くからだろうか、なんてくだらない考察をしている彼を突っつき、急いでミートパイとケーキ作りの下準備を始める。

 紅子は凝ったものが作れないため彼の指示を所々仰ぎながらの調理となったが、2人で行った為か下準備やらはすぐに終わり、あとは本格的に仕上げるだけとなった。

 ついでにお昼ご飯をいただき、舌鼓を打ってから調理も再開。

 夕方、妖怪が大手を振って歩き出す時間帯には全ての支度が終わり、温かいミートパイ複数とケーキがホールで一つ。それからアルフォード用にと用意した特別製ミートパイが一つだ。

 ついでに、紅子が 「リンもアルフォードさんの分霊だから辛いものが好きだと思うよ」 と教えたため、小さな辛口ミートパイも用意されている。

 これでどちらも喜ぶこと間違いなしだろう。

 

「よし、行こうか」

「ま、待ってくれ。リンがいないのにどうやって行くんだ?」

 

 令一に呼び止められてそういえば、と紅子は思う。

 彼は道案内なしでの行き方を知らないのだったか、と。

 

「せっかくだから今登録しちゃおうか」

「登録?」

「うん、同盟の者は皆この行き方を知ってると思うよ。勿論、秘色(ひそく)さんも。個人識別みたいなのができるようになってる門があるんだよ」

「別の行き方があったのか」

「ああ、リンについてったほうが早いのは確かだよ。でも皆に分霊を貸すわけにはいかない…… そう思わないかな?」

「アルフォードさんが大変になっちゃうな」

「その通り。お兄さん、この屋敷に大きな鏡はあるかな?」

「姿見か? ある。こっちだ」

 

 令一に案内された先で紅子は頷く。

 姿見ならばなにも問題はない。

 

「メモしてもいいけれど、なるべく覚えるようにするんだよ」

 

 紅子はそう言って手の中にいつものガラス片を呼び出し、鏡に触れさせる。

 それから、令一をもう片方の手で手招きして隣に来るように促した。

 

「一緒に通るだけでも登録はされるけれど、手順はしっかり覚えた方がいいからねぇ。アタシはこのガラス片だけれど、お兄さんは手形を取るようにべったりと利き手をくっつけてごらん。ああ、アタシの右側にね。利き手はアタシと同じだろう?」

「えっと…… これでいいのか?」

「よろしい。それから、ノックをする」

 

 紅子は右手でガラス片を鏡に触れさせながら、もう片方の手で独特なノックのリズムを刻み、呼びかけとなる言葉を紡ぐ。

 

葦原(あしはら)(やつ)の神」

 

 視線で令一に復唱要求をすれば、すぐに理解し彼女の言葉をなぞるように同じ言葉を繰り返す。

 

「あ、葦原の谷の神」

 

 令一の復唱を聞いてから続ける。

 

(しるし)(つえ)侵さず」

「標のツエ侵さず……」

「飛び越えるその(すべ)で錠を開け」

「飛び越えるその術で、錠を開け」

「開門」

「開門」

 

 その言葉を言った途端、鏡の中に映っていた二人の姿が溶けて混ざるように渦巻き、真っ黒に塗りつぶされていく。

 

「これでよし。もう手を離してもいいよ」

「ああ…… すごいな」

 

 鏡を食い入るように見つめながら令一が言う。

 それになんだか面白くなった紅子は 「そうだろう?」 と得意気に口にする。

 

「今のでお兄さんの霊波が登録されたから、今度からはノックと〝 開門 〟って文句だけであちらに繋がるよ」

「へえ、どうなってるんだ?」

「夜刀神って神様がセキュリティを作ってるんだってさ。指紋認証みたいなものだよ。それの霊的、オカルト的なバージョンだよね」

「へえ、あのヒトがね」

「あれ、夜刀神に会ったことあるの?」

「前に、夜市でな」

「そっか。なら話が早いねぇ。とにかく、リンがいないときにあちらへ行きたくなったらこれを使うといいよ。アタシも一応鱗は持ってるけど、こっちを覚えておいて損はないからね」

 

 水の膜を抜けるように鏡の中に足を踏み入れた。

 令一もその不思議な感覚に目を白黒させていたが、紅子が早くしろと言わんばかりに腕を掴んで歩き出せば慌てて着いて来る。

 

「一応看板はあるから、それに沿って行けば着くよ。お兄さんのことだから滅多なことにはならないはずだけど、念のためここを通るときは足早に。声をかけられても知り合い以外には返事しちゃだめだよ」

「分かった」

 

 つい先日、青葉の姿をしたリヴァイアサンに騙されたばかりなのだ。

 本人に警戒してもらわねば、紅子のいらん苦労が増えるばかりなのである。

 

 次第に灯りが増え、古今東西の提灯やらランタンやらの合間にイルミネーションが入り乱れて飾り付けられている。

 節操なしなその雰囲気はさすがいろんな国出身の神妖が一堂に会するお祭り…… といった雰囲気だ。

 宗教、国の違いなど関係ないとばかりに並べ立てられた様々な物は実に日本らしい装いではないか。

 中間に位置しどこにでもある万屋だが、今回はどうやら日本寄りの飾り付けをしたようだ。もしかしたら令一が来るからなのかもしれない。皆に引き合わせるのならばこういうイベント時が一番だから、本日の主役にされたのだ。つまりは。

 

「ついたよ」

 

 同じような鏡の扉を抜ければ、そこかしこに雪が降り積もった万屋と、その奥に見える屋敷がある。

 庭木にもイルミネーションが飾り付けられ、全体的に赤と緑と白で構成されたクリスマスカラーが派手派手しく主張している。

 

「あら、こんばんは紅子。それと、人間さん」

 

 大きな耳あてをした少女が振り返ると、その顔に見覚えがあった令一が 「鈴里さん」 と声を漏らす。

 夜市を取り仕切るさとり妖怪も今日、この場は挨拶回りに来ているようだ。

 

「こんばんは…… 言っておくけれど、お酒は飲まないからね」

「分かっているわ。無理には誘いません」

 

 このさとり妖怪はいくら飲んでも潰れない、所謂〝 ワク 〟というやつである。酒好きな鬼相手でも平気で飲み交わすので、実はとんでもなく長命なのかもしれない。紅子も令一も他人に年齢を尋ねるような性格ではないので、真相は闇の中だ。

 

「お、来たな! 本日の主役だぜ!」

「待っていたよ二人共」

 

 今朝も紅子に絡んできた亡霊魔女のペチュニアと文車妖妃の字乗(あざのり)よもぎが玄関をそれぞれ開き、迎え入れて来る。

 これでは本当に主役のようだ。今更ながら他人のフリをしたくなった紅子だが、それをぐっと堪えて溜め息をつく。

 

「溜め息なんかついてると幸せが逃げるぞ」

「やかましいよ」

 

 誰のせいだと思っているんだ誰の、と眉間を揉むように顔を手で隠す。

 

「んきゅー!」

 

 と、そこへ全力で飛び込んでくる赤くて小さな塊が一匹。

 

「リン! ここにいたのか」

「きゅいきゅい、きゅうん!」

「どこいったのかと思ったよ。里帰りか?」

「きゅうん」

「そうか、よかったな」

 

 側から見れば話が通じているのではないかと思うくらいの会話だ。

 リンが直接話さなくともニュアンスで理解できれば、まあなんの問題もないのだろうなと遠い目をする。きゅうきゅう言っているドラゴンと今朝の姿は幼気な雰囲気は変わらないが、態度にギャップが存在する。

 多分、ここまで甘えるのは令一にだけなのだろう。

 

「やあ、令一ちゃん! 今日はオレ達の宴会に来てくれてありがとうね。ゆっくり楽しんで行ってよ」

「ああ、そうするよ。そうだ、これ参加費なんだけど…… あ、アルフォードさんはこっちな。辛いのが好きって聞いて分けて作ったんだよ」

「わー! 令一ちゃんありがとう! できる主夫は違うね!」

「主夫じゃねーから!」

「うんうん、いいツッコミだね。これは美味しくいただくね! それじゃあごゆっくりー」

 

 万屋としての主催だからか、アルフォードはそのまま流れるように会場内を練り歩き始める。そこかしこでテーブルに着いている者がいたり、ゴザを敷いて樽から一気飲みをしている鬼連中がいたりとなかなか混沌としている。

 這い寄る混沌も喜びそうな宴だが、生憎と彼は招待さえされないのでこの場にはいない。

 ざまーみろとでも思っているのか、少しだけ剣呑な表情になってその光景を眺めていた令一は隣の紅子の視線に気がつくとへらりと笑って手を引いて歩き出す。

 

「っとと、お兄さんどこいくの?」

「適当に座ろうよ。ほら、リンにも辛いミートパイあるからなー」

「きゅーい!!」

 

 リンの喜びように微笑ましく思いながら紅子は取られた手を振り払い 、「一人で歩けるよ」 と肩をすくめてみせる。

 子供じゃあるまいし、迷子になるわけはないのだ。むしろ迷子になるとしたら屋敷内に慣れていない令一のほうである。

 

 あちらこちらに人のようで人でない者達がいる中、唯一の人間である令一がテーブルを探していると手招きする人物がいた。

 

「こっち空いてるぜ」

 

 その人物は長い癖毛気味の黒髪を後ろで一本に束ね、同じく真っ黒な翼を背もたれで圧迫しないよう横に広げてスペースを取っていた。それでも窮屈そうだが、それが精一杯の譲歩なのだろうことが伺える。人好きのする笑みで手招きする彼に、紅子と令一はお互いに目配せしてから問題ないと判断してテーブルに近づいていく。どうやら、他に同席している者はいないようだった。

 

「えっと、確か新聞記者の烏天狗…… だったかな」

「御名答。俺は烏楽(うがく)刹那っつーんだ。ただ、他の烏天狗とはちょっと違うがね…… まあそれはいい。俺もあんたには興味があったんだよ。参考までに取材させちゃくれないか?」

「え、俺か?」

「そ、あんただあんた。正確には俺の新聞は副業なんだが…… 最近はこっちのがメイン収入になっちまってるしな。名もそっちで知られてるし、新聞記者の烏天狗として覚えておいてくれ」

 

 印象はとくに悪くなく、新聞記者にありがちな強引な態度や鼻持ちならない態度は見当たらないようだ。紅子は横目に会話する二人を眺めながら席を立ち、三人分の飲み物を持ってくる。

 刹那の分もカップに残っていた色から勝手に判断して同じものを用意してくると、二人して 「ありがとう紅子さん」 「お、悪ぃな」 と感謝の言葉が返ってくる。

 

 刹那がする取材は言いたくないことは言わなくても良いと前置きしてから始まった。

 彼の主人に関する真面目ないくつかの質問と、そうなった簡単な経緯。それから好きな食べ物や好みの女性のイメージのような必要あるのか分からない質問まで様々だった。

 特に好みの女性の質問に関しては紅子が 「キミもか」 という視線を向けると 「ちっと下世話か」 と中断してみせた。空気の読める記者で助かる限りである。どこかの亡霊や付喪神とは大違いだ。

 

「…… さて、次で最後の質問だな。なあ、あんた。今までどっかで逸れの烏天狗なんかを見たりしなかったか? 金目の烏天狗なんだが」

「…… いや、烏天狗にあったのは烏楽さんで始めてのはずだ」

「アタシもないねぇ」

「そうかい…… 変なこと訊いて悪かったな。ただ、どっかで見つけたら俺に知らせてほしい。探しカラスなんだよ」

 

 冗談かなにかを言うように軽い口調で言って刹那は話を締めくくる。

 男であり、気安い口調であるからか、令一も自然と会話が弾む。たまに噛み合わないこともあるが、それは人とそうでないものの価値観故のことなのでお互い気にしていない。

 

 そのうち令一との知り合いがこちらのテーブルにやって来てはミートパイやらケーキやらを持っていき、作ってきたものは残り僅かとなる。

 様々な種族が入れ替わり立ち代わりでやってきては、やはり酒を勧めてくるがそのことごとくを紅子は受け流し、令一は断りきれなくなって飲まされている。そのせいか、段々と夢見心地になってきているようだ。普段は猫のようなつり目だが、今は見事に半分蕩けてまるでマタタビに頭の八割を占め切られた猫のような表情に変化している。

 

 大分刹那が酒を引き受けてくれたものの、令一はどうやら存外酒に弱いようでぐでんぐでんだ。

 対して刹那はまだまだ平気である。天狗と鬼は基本酒に強いらしいと言うので、種族特性だろう。あちらこちらで樽のままイッキしている鬼がいる時点でさもありなん。

 

「だ、だいたいなぁ…… 俺だって有能なほうなんだぞ…… あいつの無茶ぶりに対応できてるしぃ、料理だって覚えたんだぞ…… 死なないためにこちとら必死でさぁ…… なのにあの野郎、なにが絶望だよ。そんなものなくても生きてける癖によぉ、んぅ、いつか殺す……」

「あー、見事に出来上がっちまってるなこりゃ」

「お兄さんは延々と愚痴を垂れ流すタイプなんだねぇ……」

 

 せっかくの宴会だというのに愚痴大会に発展していて紅子は苦笑いを零す。

 現在進行形で醜態を晒す令一を微笑ましげに見守る刹那は止める気など毛頭無いようで、ただ頬杖をついてときおり相槌を打ってやっている。

 とことんまで付き合ってくれるようだ。紅子だけでは気苦労が増えていたのでありがたいことだった。

 

「俺…… あの頃はこんな風になれるなんて思ってなかったよ」

「んん? どうしたの、お兄さん」

 

 静観する態勢に入っていた紅子の肩に両手を置き、真正面から見つめてくる彼は自分の代わりに酒を飲んでいたのだ。

「この酔っ払い」 などと悪態をつくわけにもいかず、ただ紅子はどうしようかと悩むばかりで令一の真意を探る。

 なにか言いたいことがあるのなら聞くべきだ。ただ、ギャラリーが増えている気がするのが気になってしようがない。

 

「こんな風にさ、大勢で騒ぐなんてもう二度とないんだって思ってた。皆、皆、あいつに殺されて…… なにもかも取りあげられて…… なんにもなくなって…… ずっと一人で耐えてあいつに一矢報いる覚悟はあったけど、きっといつか気力が尽きて死んでたかもしれないからさ」

 

 寂しげな顔でふにゃりと笑う。

 

「紅子さんに会わなかったら、きっと俺はここにいなかったんだと思う」

 

 確かに、彼を同盟に誘ったのは紅子だけだ。

 

「だからさ、ありがとな。紅子さん」

 

 純粋な感謝の気持ちが真っ直ぐに紅子へ向けられる。

 まさかただの愚痴りから、こんな展開になるなどと思っていなかった彼女は肩をすくめ、無意識に長い黒髪を手遊びしながら 「どういたしまして。お兄さんのことは嫌いだけど、役に立てたならなによりだよ」 と返した。

 目線は不思議と合わせられなかった。

 

「俺、どうしようもないけどさ…… 紅子さんは恩人だと思ってるから…… んぇ、ねむ……」

「ちょっ、お兄さん!?」

 

 そのまま倒れこむように意識を失った令一を、刹那が受け止めるより先に紅子がそのまま支えるように肩を掴む。

 

「あのねぇ…… 相変わらず世話の焼ける……」

「ははっ、目出度いねぇ」

「え?」

「ん? ほら、周り見てみなよ。俺が新聞に書かなくてもこりゃあっという間に広まるぜ」

 

 紅子が令一を支えながら周囲を見渡せば一斉に目を逸らされる。

 そういえばここは宴会の場だったなと自覚すれば、一気に恥ずかしさがこみ上げてきて 「お兄さんなんか嫌いだ、ほんと嫌いだよっ」 と言いながら縮こまる。

 彼女も実年齢が19歳と、かなり年若い怪異である。イレギュラーや予想外の出来事には殊更に弱い。

 眠ってしまった令一を突き飛ばすわけにもいかない真面目さで、その場から逃げ出すこともできずに全力で見ないふりするしかないのだ。

 

「ほらほら! あんまり注目しないの! 宴会に戻った戻った!」

 

 アルフォードの声が鶴の一声のように響き渡り、そこからまた波紋を広げるようにガヤガヤと喧騒が戻ってくる。

 紅子はアルフォードに感謝しながら、顔の熱を冷ますように冷たいジュースを一気に呷った。

 

「もう…… なんなの…… 喜んでくれたなら、良かったけれどね……」

 

 なるべく先程のことを触れぬよう接する刹那と会話に興じながら、紅子自身も再び喧騒の一つとなって宴会は続いていく。

 早々にダウンしてしまった令一を起こしたら、なにか文句の一つでも言ってやろうと心に決めてからも夜は深まっていくのだ。

 

 

「お兄さんへのクリスマスプレゼントに、なったのかな……」

 

 相手は年上だと言うのに、自分がサンタになる羽目になるとは思いもよらなかった。

 ただ、まあ、紅子にとっても感謝されること自体は満更でもないのである。

 

 そうして、クリスマスの夜は騒がしくも楽しく、過ぎ去っていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 




 今回の髪を下ろした冬着の紅子さんを描いてみました。
 アナログ写真パシャーなのでご注意。


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 そしてティファさんより、冬着紅子さんのイラストをいただきました!
 可愛らしいイラストをありがとうございます!!!


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蹉跌の国の女王

 妖紙魚(しみ)達を片付けるのは、案外楽なことだった。

 そりゃそうだ。体力は他の奴の3倍はあったのだろうが、所詮紙でできた魚。刃と炎には殊更に弱く攻撃が通りやすい…… まあ、当たればだけれど。

 

 ひとつだけ厄介だった点はその素早さだけか。当てれば確実に大ダメージを与えることができるが、まず魚に当てることが難しかったのだ。

 あちらからの攻撃は不可視になったとしても、直前で風切り音がするため避けることはできる。リンが視えているようなので、警告してくれるのも理由の一つだ。だが、まずこちらの攻撃が当たらない。

 

 そこで俺達がとった行動はレイシーとチェシャ猫の目の前に陣取るというものだった。

 アリスの攻撃も、魚の攻撃も俺達ではなく後ろにいるレイシー達を狙ってくる。アリスの攻撃はナイフで行われるが、こっちも狙いはチェシャ猫だから紅子さんがわざわざ接近して一人でいなしてくれていた。だからアリスの動きを加味する必要はない。

 

 魚が体を透けさせようと、いくら回避能力が高かろうと、狙っている場所が一点しかないならばそこで待ち伏せすればいい。追いかけようとするから当てられないわけだしな。

 だからか、決着は思っていたよりもずうっと早いものとなった。

 

 風切り音が前方からした。

 その瞬間、静かに構えていた赤竜刀を下から上に向かって振り上げる。

 

「っらぁぁぁぁぁぁ!」

 

 ビリビリと紙を裂くような音がして、ふっとその感触が軽くなる。

 頭上を鑑みると刀から抜け出たリンが赤くチラチラとした炎で魚を炙っているところだった。

 

「ってリン! それお前も燃えないか!?」

「きゅっ!?」

 

 リンは 「しまった!」 とでも言いそうな顔で驚いたあと、ぐいぐいと魚を咥えて飛び立とうとする。

 体の大きさ的に相手が紙でも難しいみたいで、まるでできてないが。

 かと言ってごうごうと燃え盛っているので俺は手を出せない。一体どうすれば…… このままではリンが燃えて溶けてしまうんじゃ…… !? 

 

「レーイチ、そいつ自体炎を操るドラゴンなんだから平気だって。本体は刀かもしれねーけどドラゴンの分霊だぞ? 炎に強くないわけないだろ。なんでリンまで驚いてんだよ……」

「え、そうなのか?」

「きゅあー……」

 

 ペティさんの説明に困惑しながらリンを見ると、 「あっ」 って顔をしながらそっぽを向いた。俺にあてられて慌てたものの、そういえばそうだったねなんて思っていそうな顔だ。思い当たらなかった俺も俺だが、こいつめ…… 許すけどさ。

 

「リン、そうなら先に言ってくれよ」

「んきゅい」

 

 そうだな、話せないもんな。ごめん。

 ぷんすこ怒ったように俺の額にグリグリと鱗の張った額を押し付けてくるリンを、そっと手のひらで覆って引き剥がす。

 手のひらの上が少し重いが、それでも翼で少しばかり浮遊して重さを軽減してくれていることを知っているのでなにも言わずに頭を指先で撫でる。

 

「ごめんって」

「きゅー」

 

 仕方ないなあとばかりに首を回したリンが俺の肩に乗り…… そしてすぐさま紅子さんの肩に渡っていった。傷ついた。傷ついたぞリンなんて思いながら振り返るとレイシーを羽交い締めにして押さえているペティさんの姿が……

 

「私様も撫でるのじゃ! ええい離せ!」

「ダメだって言ってんだろ。空気読めよ女王サマ」

「ちょっと! レイシーになにするんだよ!」

「引っ掻くなこの馬鹿猫!」

「侮辱するな! このっ」

 

 カオスだった。

 多分リンは安全と思われる紅子さんのところに行ったんだろうな…… 俺の肩じゃ気付かれないうちに攫われそうと判断したか。そこらへんシビアだな。

 

「ええっと…… リンはいいけどねぇ。レイシー? あの、アリスのことはいいのかな?」

 

 困ったように微笑みながら紅子さんは倒れているアリスを指差す。

 待て、アリスは傷つけないんじゃなかったか!? 

 

「ああ、あの子なら魚が消滅したときに倒れちゃったんだよ。取り憑いてたやつが剥がされた衝撃を受けたんだろうねぇ。そのうち目覚めるよ。で、どうするの? あの子」

 

 紅子さんはまっすぐとレイシーを見つめている。

 すると、それにレイシーが気がつく前にチェシャ猫が視線の間に立ち、威嚇するように吠えた。

 

「そいつに用なんてない! さっさとそいつを連れてけ!」

 

 アリスは勿論物語通りに進んでなんかいないので、チェシャ猫が言っていた女王交代の条件も揃っていない。

 彼の言ってることに間違いはない。けれど、どこかに潜む違和感。そして、先程知った真実を照らし合わせると…… そもそも女王交代の話自体がフェイクだろうことが分かっている。

 レイシーにとっては知らぬが仏。知らずにいることで守られる心もあるのだ。

 

 だけど、そう。そうだ、さっきあの子は、アリスはレイシーを見つめて 「お姉ちゃん」 と言っていたんだ。

 あの記憶にもしっかりと妹さんの姿が見えていた。あの姿は紛れもなくアリスの姿そのもので……

 

 死者と生きるか、それとも未来へ引っ張り出されるか…… その分岐点に今、レイシーは立っている。

 

 そして、それにレイシー自身は気がついていない。

 これを知ったのは、俺だけ。紅子さんだって知らない。ペティさんだって知らない。俺だけ…… どうする? 

 

「…… ここ」

「おや、起きたかな? 大丈夫?」

 

 そして、タイムリミットを迎える。

 やっぱり俺は優柔不断だ。真実は、確実にこちらへ歩み寄ってくるっていうのに。

 

「……っ、お姉ちゃん! お姉ちゃん! やっと見つけた! お姉ちゃん!」

「レイシーに触るな!」

 

 赤い目から狂気が失われ、正気を取り戻したアリスが二人に近づいていくものの、チェシャ猫が接触を拒むようにその異形の手で制する…… レイシーを守るようにして。

 

「あなた…… ジェシュ?」

「なんのことかな。ボクはチェシャ猫。お前なんて知らない」

「違う、絶対ジェシュよ! お姉ちゃんを返して! 返してよ! なんで逃げるの!?」

「お前から漂う血の匂い。この本の仲間達の血の匂いが教えてくれる。お前は危険。レイシーには近づけさせない! そんな物騒なもん持ったままだし!」

「え…… ? あれ、ナイフ…… 護身用の、でも、どうしてこんなに赤く…… 」

 

 チェシャ猫は動揺しない。ただただ純粋に血塗れの彼女を威嚇するように振舞っている。

 対してアリスのほうは自分の手の中にある真っ赤なナイフと、真っ赤に汚れた黒白のエプロンドレスに呆然としながら呟く。

 

「あたし、なに…… してた…… ? あたし、お姉ちゃんを取り返すために確か…… 本の中に…… どうしてこんな……」

 

 だんだんと小さくなる声。小刻みに震える体。カチカチと、こちらにまで聞こえてくる歯が震えて鳴る音。瞳は信じられないものを見るようにすぼまり、自分の汚れたエプロンドレスを引き寄せて 「嘘、嘘、嘘」 と繰り返す言葉。

 息が荒くなってきた彼女にとうとう限界が来ようとしているのを察したのか、紅子さんが近づいていき、少し悩んだようにしてから彼女の顔目掛けてなにやらスプレーをひと吹きさせた。

 

「ぶぇっ!?」

 

 唐突な行動にアリスが反射的に悲鳴をあげながら顔を覆う。

 

「ちょっ、紅子さん!?」

 

 俺が素っ頓狂な声で彼女に視線を向ければ、実にバツの悪そうな顔で彼女は口を開く。

 

「あー、こういうときに言葉でなんとかできればいいんだけどねぇ…… お生憎様、脳筋なものでさ。そういう器用なことはできないんだよ」

 

 紅子さんは流し目で困ったように言い訳を述べてから、ふいと目を逸らす。

 もしかして脳筋扱いされたのを根に持ってたりするのか。自虐ネタよろしくそんなこと言われてもなあ。

 

「害のあるやつじゃないよな?」

「あれはアルフォードさんから買ったやつだよ。興奮状態にあって話が通じないときとかに段階的に落ち着かせる御神水なんだって。強制的に落ち着かせるやつもあるけど、そっちは副作用あるから敵専用。こっちは味方用だねぇ」

 

 敵用と味方用ね…… 副作用ってなんだよ。間違えて使ったら大惨事すぎる。

 

「あ、あたし…… そうだお姉ちゃん!」

「さ、さっきからなにを言ってるんじゃ…… ? 怖すぎるんじゃが」

 

 レイシーが静かだと思っていたら、そうか覚えていないから分からないのか。

 

「お姉ちゃん? 分かんないの? あたし妹のアリシアだよ? お姉ちゃんは今病院で」

「うるさい!」

 

 遮るように、チェシャ猫が叫ぶ。

 彼はどうしても真実を知られたくないようだ。当たり前か。自分がレイシーの記憶を奪ってこの世界に閉じ込めている元凶だもんな。知られれば今までと同じように信頼を向けてくれるとは限らない。それが分かっていながら黙っているわけがないよな。きっと、想像するだけで怖いだろう。レイシーが自分を拒絶するのが。

 

「チェシャ…… ? どうしたのじゃ」

「あ、ご、ごめんレイシー。その、あ、あんな危険なやつはほら、さっさと叩き出さないと! 今回はレイシーが外に出る機会にならなくて残念だけどさ…… ね?」

「チェシャ…… 私になにか隠してる?」

「違うよレイシー! それよりほら、カッコいい喋り方が崩れてるよ! そっちはやめるって言ってたよね?」

 

 酷い焦りだ。

 あたふたしているチェシャ猫を睨みつけるのは、アリスだ。

 ペティさんは余計な口出しをしないようにか、目を細めて辺りを探っている。

 そうだ、これを仕掛けたのはあいつ…… ニャルラトホテプだ。どこかでこの一部始終を見ていてもおかしくはない。俺も警戒はしておかないと。

 

「ねえ、チェシャ。お願いだから教えて。いつも教えてくれたでしょ? あの子は誰? なんで私のことお姉ちゃんって呼ぶの? ねえ!」

「れ、レイシーは外で少し危ない目にあったんだよ。だから、たまたまアリスとしてやってきたレイシーを女王様にして引き止めたんだよ。そのままじゃレイシーが危ないから!」

「危ない…… ? 外の世界は危ないの?」

「そう! そうだよレイシー! でもここにいればずっとずっと安全なんだよ。ずっとボクら二人、楽しく過ごしていただろ? もっともっと楽しませてあげる! だからここにいよう? ね?」

「違うわお姉ちゃん! お姉ちゃんはそいつに閉じ込められてるの! あたしはお姉ちゃんを助けにきたんだから!」

「私様…… 私、は」

 

 まるで板挟みだ。

 どちらが正しいのかが分からない。中学生くらいにしては幼いレイシーは、余計に混乱してしまうのだろう。

 正直、今俺が話し出してもよくはならない。これはあの子達の問題だけらだ。余計な大人が口出しするべき場面じゃない。たとえ、ほとんどのことに察しがついていたとしてもだ。言い訳でもなく、これは本気でそういう状況なんだ。

 …… 多分、紅子さん達と共有するなら記憶を覗いてすぐ、レイシー達と離れてするべきだったんだろう。

 

「外には…… 出たいと思ってたのじゃ…… ずっと。アリスと交代なら出られると、言ってくれたから、ずっと待ってたのに…… どういうことなのか、もう分からん!」

「レイシー、ボクとずっと一緒にいてくれるんじゃないの!?」

「な、ならお姉ちゃん。あたしと一緒に帰りましょう? ね、いい子だから」

「子供扱いはやめてくれ!」

 

 紅子さんも、ペティさんも静観する方針みたいだからなあ。

 こういうことには基本手出ししないスタンスなのか。

 そう言う俺も出せる手なんてないんだけどな。

 

「やめて、やめてよ…… 分かんないもん…… どうすればいいかなんて、分かんないもん!」

「ね、ねえレイシー。レイシー…… ねえ、ボク。キミに必要とされなくなったら、ボクはどうすればいいのか分かんなくなっちゃうよ。ボクはレイシーに死んでほしくないからこうしてるのに…… アリスはなにも分かっちゃいないしさぁ」

「へ、お姉ちゃんが死ぬ…… ?」

 

 アリスが、目を見開いた。

 自分の中にあった前提をひっくり返されたような顔だった。

 多分、捕まった姉を救うために来た感じだろうし、現実に引き戻されればいずれレイシーが死ぬことを避けられないってことは知らないだろう。

 黒猫さえどうにかすればいいと思っていたのかもしれない。

 

「な、なあ〝 帰り道 〟を持ってるのは誰だ?」

「何度か持ち替えてるけれど…… 今のところはペティさんが持ってるねぇ」

 

 こそこそと紅子さんと話しつつ、ペティさんと距離を詰める。

 チェシャ猫達は寄ってきたアリスと口論してるからその後ろを抜けて合流。

 なんか、無性に嫌な予感がするのだ。できればアリスも回収しておきたいけれど、渦中にいるからな。

 

「…… 二人共、黄泉返り…… なんて普通は無理なんだろ?」

「俺様に喧嘩売ってんのか? 黄泉返りなんかできてたらとっくにして、置いて来ちまった子を迎えに行くぜ」

「あー、まあ、普通なら命ひとつ分の代償が必要になるよねぇ。ずっと一緒にいたいと思うなら亡霊になるなりなんなりするしかないし…… それだって冥界の方で許可もらわないといけないからねぇ」

 

 むしろ冥界で許可とか取れるのか…… なら青水さんも焦らなければ夢枕に立ってお礼を言うくらいできたんじゃないか…… ? 

 そんな後悔が少し滲むが、今はそんなことを考えている場合ではない。

 

「 俺、さっき図書館で本当のチェシャ猫に会ったんだよ。それで、この世界に染みついたレイシーと黒猫の記憶を覗いたんだ。黒猫は黄泉返った。あいつの化身としてだ。でもそれで代償がないなんてことはありえないだろ? レイシーは外の世界で黒猫が過去に負った傷を追体験している。つまり、外の世界にいれば、レイシーはいずれ死ぬことになる」

「お兄さん、それもう少し早めに言ってほしかったかなあ……」

「ロクなことにはならねーとは思ってたが、予想以上にまずいぜそれ」

 

 え、確かにあいつが関わってる以上、やばいことに変わりはないが……この二人がそこまで言うほど…… なのか? もしかして俺、あいつに慣れすぎて大分感覚が麻痺してるのかな。

 

「邪神が関わってるってことは、今も見てるってこった。つまり、最悪な場面で介入してくる可能性が高いってことだ」

「今すぐ終わらせよう。アリスを連れて帰るんだよ、お兄さん。恨まれようとなんだろうと、それが最善手だからね。キミのご主人様に介入されたらもっと酷いことになる」

 

 そうか、嫌な予感はそれか……

 やはり感覚が麻痺してるな。素直に二人の言うことを聞こう。そして、チェシャ猫とレイシーについては…… 可哀想だが現状維持するしかないだろうな。

 

「外にいたら、お姉ちゃん死んじゃうの?」

「そうだよ。だからこそボクが一緒にいるんだから。そうレイシーも望んでくれるでしょ?」

「わたくしさま…… は」

 

 けれど、タイムリミットは突然の終わりを告げるのだ。

 

「おやおや、元凶がよくもそんな都合の良いことを言えますねぇ」

 

 頭上から降ってきた神内(あいつ)目掛けてペティさんがなにやら薬品を投げて魔法を発動させるが、それが届く前にあいつの手によって壁のようなものが現れ、爆発が防がれる。

 いつの間にか移動していた紅子さんはアリスを引っ掴んでこちらに連れてくることに成功したが、その表情はひどく苦々しい。

 

「やっぱ見られてたんだねぇ。ストーカーはお断りだよ」

「くふふ、なんのことでしょう? 私はただ女王様と妹様を助けに来ただけですよ。お可哀想に。あの黒猫が全ての元凶だとも知らずに心からの信頼を預けて…… そして裏切られてしまったのですから」

「余計なことを喋るんじゃねぇ!」

「当たってあげてもいいですけど、屈辱に歪む顔も見たいので今回は防ぐほうで」

 

 激昂したペティさんが突っ込んでいくが、やはりいなされる。

 人間体でも邪神モードだからか魔法もどんどん使ってくるだろう。俺がどれだけ奴を傷つけられるか分からないが、やってみるしかないか。

 

 リンは赤竜刀。無謀断ちの刀。俺が無謀なことをしようとすればそれだけ力を発揮し、手助けしてくれる相棒。

 そして奴を一度斬ってからは無貌特効能力付きでもある。

 今、奴を対処できる可能性があるのは俺だけだ。

 

「お前、あのときの烏…… ? なんで、ボクにアドバイスしてくれたのはお前で」

「なんのことでしょうねぇ。私がアドバイスしたのは妹様だけですよ。女王様の為に力も貸しましたが、それは彼女の意思。私に非などありません。私は親切な神さまですから、ついつい人のお願いは聞いてあげたくなっちゃうんですよ」

 

 実に胡散臭い笑みを浮かべている。なにが神様だ。お前は神は神でも邪神だろうが。

 

「そ、それよりさっきのはどういう意味なのだ! チェ、チェシャが元凶とはどう意味じゃと訊いておる!」

「知らないほうが幸せとも言いますが、仕方ありませんね。貴女はあの黒猫と運命を仲良く交換したのですよ。死んだ黒猫と。ですから、死ぬ運命が貴女に押し付けられました。貴女が死ぬ運命にあるのは、元々黒猫のせいなのです」

 

 唇を食いしばり、走り込んで奴を叩っ斬る。

 しかし、確かに首元を狙ったし、感触があったはずなのにどこも切れていない。しかも、あまり赤竜刀の効果が出ていないように感じる、なぜ、なぜだ。

 いくら状況改善の為には必要なことだとはいえ、この不気味なほどにこちらに関心を寄せない邪神に斬り込んでしまって本当にいいのか? 

 嫌な予感がする。これ以上斬り込んだらロクなことにならないぞ。

 

「チェシャの…… せい?」

「れ、レイシー。やめて。それはやめて……」

 

 チェシャ猫のほうはなにかに怯え、そして竦んでいる。

 まるで、なにが起こるか分からないのに本能的に怯えるような…… そんな反応。

 

「私、死にたくなんてない。チェシャが私を騙してたのなら、あなたなんていらない」

 

 幼いその心で、残酷な一言を平気で口に出す。

 

「ボク、キミに望まれたからここにいるのに? キミが願ってくれたから、こうしてレイシーの為に、頑張って…… なのにそんなこと、言われたらボクは……ボクは、ねえ、〝 なに 〟になればいいの?」

 

 そして、その心の内に眠っていたはずの…… 付与された本性が表に顔を出すことになってしまうのだ。

 

「…… ねえ、ボク。ボクって〝 なに 〟? どうして、ショックなはずなのに、なんだか変だよ…… ボク、どうなっちゃうの」

「くふふ、答えは出ているだろう? ねえ、私。お前も私だよ。邪神の目玉代わり。人間にとってはきっと怖ーい化け物だろうね」

「…… ふうん、なんか絶望的だなあ。レイシーのこと、大好きなのに…… 否定されて喜んでるボクもいる。変なの」

「そういうものだからね。そのうち慣れるよ」

 

 不穏な会話をする二人に、息を飲む。

 これまではレイシー達の飼い猫としての役割を与えられていたから安定していた精神が、どうもそれすら否定されて化身としての自覚を得てしまったらしい。まずい、まずいぞ。

 

「や、やっぱり悪魔だったんじゃない! あんた達二人共騙してたんでしょう! お姉ちゃんを解放しなさいよ! 運命をお姉ちゃんに返して! そして、あたし達の可愛いジェシュも返しなさいよ!」

「知りたくなかった…… チェシャを返すのじゃ! どうせ乗っ取っておるんじゃろう!」

「ああ、悲しい。すっごく悲しいよ。でも嬉しいんだ! よく分かんないけど、なんとなく納得したよ。ボクはまだキミ達の飼い猫でありたい気もするし、自由気ままな猫でありたい気もするんだ。ねえ、ご主人様。どっちがいい?」

 

 今まではまだなんとか意思の疎通ができた。けれど、これではまるで会話がめちゃくちゃで成立していない。ズレすぎた回答は独りよがりに姉妹へと向けられている。俺達のことなんて気にしちゃいないんだ。

 

「だから! お姉ちゃんの運命を返して! それで、あたし達の弟を! ジェシュも返して!」

「うーん、そう言われてもなあ…… 運命の交換はできるんだけど」

 

 言いつつチェシャ猫がその尻尾の鈴を鳴らせば不思議な光が溢れ出し、レイシーに向かう。対してレイシーからはどす黒く、酸化した血の塊のようなものが溢れ出て浮遊する。そして、光の玉と血の玉はお互いの体に吸収されていった。

 

「これでレイシーはもう死なないね。良かった良かった。でもなあ、ボクはボクだし…… あ、もしかしてこうすればいいのかなあ。ねえ、ボク。お願いしてもいい?」

「構わないよ、新たに生まれた私の門出くらいは手伝ってあげよう」

 

 そう言ってあいつが…… 邪神が、その手を振るう。

 その瞬間に空間が蜃気楼のように捻れたかと思うと、チェシャ猫の首が宙を舞っていた。

 

 ボトリ、頭が落ちる。

 

 そして、立ったままだったチェシャ猫の体がふるりと震え、その首の断面からおぞましいほどの触手がずるりずるりと、溢れ出てきた。

 まるで、宿主を食らって外に出てくる寄生虫のように。全てが抜け出て神内の隣に溜まる。

 

 後には首のない、小さな黒猫の本来の体だけが残っていた。

 …… そう、中身のない空っぽな、皮だけとなったその体が。

 

 悲鳴を最初にあげたのは、誰だったか。

 レイシーだったかもしれないし、アリスだったかもしれない。

 もしかしたら、俺だった可能性もある。

 

 そして、駆け寄るレイシーの姿は記憶で見た光景に不思議と重なって見えた。

 

「チェシャ…… なんで」

「ち、違う、あたし、こんなこと望んでない…… 返してって言ったのは、こんな形じゃ……」

「あれ、返してって言われたからせめて外身だけでもって思ったんだけど…… これじゃダメだった? …… でも、ボクはボクだもの。中身はなあんにも変わらないよ? むしろ古い体から脱皮していい気分かな」

 

 触手の塊が蠢き、そして人の形を成していく。

 それは先程まで立っていたチェシャ猫と寸分違わぬ姿であり、気持ち悪い肉塊が変容する様はこちらの常識や正気を削り取っていくおぞましい光景に違いない。

 アリスは紅子さんのマントに掴まり、小刻みに震えながら 「違う、そんなつもりじゃ」 とうわごとのように繰り返している。紅子さんには先程のスプレーがあるが、この状況で正気に戻すのはあまりにむごい。

 俺だってひどく気分が悪くなるのに、初めて見るこの子達なら尚更だ。

 レイシーは悲鳴をあげたきり沈黙している。恐らく気を失ってしまったんだろう。心から信頼していたチェシャ猫が突然変貌したのだ。ショックを受けるのも仕方ない。

 

「かえして」

「返して? 帰ってきたよ? 黄泉から! 忌々しいことに! 喜ばしいことに! 引きずり戻されたんだよ! レイシーに!」

 

 満面の笑みを浮かべながらチェシャ猫が言う。

 けれど、その後に続いた言葉はひどく冷静で、冷徹だった。

 

「…… なのにいらないなんて言うんだもん。引きずり戻したのはそっちなのにポイ捨てなんて酷いよね。それでもレイシーのことは好きだけど…… 今傍にいると切り刻んで絶望に咽び泣きたくなるからダメだね。ちょっと思考が引っ張られてるみたい。だから、しばらくはこの体に慣れたいから身を引くよ。良かったね、アリシア」

「あなた……」

 

 アリスだけは意識を保っている。そして、その最後の姿を目に焼き付けるようにじっと見つめていた。

 

「ジェシュ……」

「うん、なあに?」

「あなたはもう死んだ」

「うん」

「だから、さよなら」

「…… うん、ばいばいアリシアお姉ちゃん」

 

 そうして、チェシャ猫はあいつと共にどこかへ消えて行った。

 俺達も、なんとも言えない状態のまま帰りの準備を始める。

 

 アリスは紅子さんが支え、レイシーはペティさんがおんぶして運ぶこととなった。

 レイシーはもう運命を取り戻しているので、死ぬ運命からは逃れることができただろう。チェシャ猫はさっきの首()ねで死ぬ運命を清算しただろうし、二人の関係は元に戻った。

 

 …… 帰ったらあいつを殴りに行こう。返り討ちにあってもいい。黒猫がどうなったかを問い詰めなければ。

 

「あー胸糞悪ぃー。これから俺様も迎えに行こうってときに嫌な結末見ちまったな……」

「ごめん、俺がもっと早く言ってれば」

「早く言ってても結末はそう変わらなかったと思うよ。お兄さんのせいではないから安心しなよ。どうせどこかであの人は見ていたんだから」

 

 本を潜り抜けると、そこは再び図書館だった。

 

「おやおやお帰り。このよもぎちゃんが待っててやったんだ。結末は…… まあその顔を見れば分かるね。それで、どうするんだい? その子達」

 

 文車妖妃(ふぐるまようひ)字乗(あざのり)よもぎさんは今の今まで別の本を読んでいたようだった。

 そこは俺達を見守ってくれていたわけじゃないのか、と少し残念に思う。そうしたらなにかが変わっていたかもしれない…… なんて、他人任せすぎるな。やめよう。

 

「よもぎちゃーん、こっちに令一ちゃん来てるー? あれ、なんか大所帯」

 

 そして、タイミングよく大図書館の扉を開けて入ってきたのはアルフォードさんだった。まさか分かっていて来たんじゃないだろうな? なんて疑心が頭を過る。

 いやいや、彼は竜神。どこぞの邪神とは違うのだと首を振る。

 

「なにか用ですか?」

「うーん…… 今は疲れてるみたいだし、今度でいいかな。ホントは図書館に臨時手伝いをしに来てくれてる人間がいるから、朝になったら紹介しようと思ってたんだけど…… もうすぐ夜も明けるし、そんなにやつれてるんじゃやめたほうが良さそうだね」

 

 それは俺にとって、衝撃的な事実だった。

 

「人間が出入りしてるんですか!?」

「うん、巻き込まれ体質だから家族ごと保護してるよ。興味あるみたいだから図書館で手伝ってもらってるんだ。今度会わせてあげるよ。今日はもう帰って寝るんだよ? 人間はちゃんと睡眠をとらないと」

 

 そうか、人間。秘色さんもいるが、やっと二人目の人間の友達ができるかもしれないぞ。素直に嬉しい。

 

「ところでアルフォードさん。この子達を……」

「ここは、どこじゃ?」

「お姉ちゃん!」

「な、なにを…… 私様にはあやつが…… あれ、なにを言いかけたのじゃったか」

 

 この反応に、少し覚えがあった。

 

「レイシー。アタシのことは覚えてるかな?」

「紅子じゃろ」

 

 紅子さんの確認の後に、俺も訊く。

 

「…… 五人での冒険か、なかなかないよな」

「んん? 四人じゃろ。私様と、お主ら三人! ああ、アリスを数えておるのか?」

 

 やっぱり、そうだ。

 

「……………… お姉ちゃん、あたしアリシア。お姉ちゃんの妹なんだよ。お姉ちゃんが戻って来ないから心配して駆けつけたの」

 

 レイシーの中から、すっぽりとチェシャ猫の記憶だけが抜けている。

 香水の効果が切れた青水さんが塵となり、正気を失った末に記憶を失った押野君と、まるっきり同じだった。

 アリス…… アリシアもそれを察したのだろう。まずは自己紹介からと始めている。

 

 

「大丈夫よ、お姉ちゃん。忘れちゃってもまたはじめましてからにすればいいんだから」

「そうか、アリシア。あまり過激なことはするでないぞ!」

「うん、そうするよ」

 

 アリシアの言葉はチェシャ猫のことを言っているのか、それとも自身のことを言っているのかは分からない。

 だけれど、なんだか悲しいやりとりだった。

 

「えっと、アリシアちゃんだね?」

「はい、あの、なんですか?」

 

 その二人にアルフォードさんが近づき、眉を顰める。まさか人間がいるなんて〜ということにはならないだろうから、なにか気になることでもあるのか。

 

「あのね、よく聴いて。レイシーちゃんの縁はキミとの糸しか結ばれてない。現世に帰っても、アリシアちゃんはともかく、レイシーちゃんの居場所はきっとなくなってるよ」

「え!? そんな、嘘よ!」

「嘘じゃないよ。神様だもん。でもね、どうしても納得できないなら、見てくるといいよ。ちゃんとね。それで納得したら、またこっちにおいで。レイシーちゃんはこちらの住民に限りなく近いから、住む場所も用意できる。アリシアちゃんが会いたいのなら、頼もしい護衛をつけるから会いにくればいい。いいかな?」

 

 アルフォードさんは終始穏やかな口調で告げた。

 それがかえって信憑性を増しているらしく、アリシアの瞳が揺らぐ。

 

「分かりました。帰って、確かめます」

「うん。そしたら、これをあげるよ。これを持ってこちらに来たいと強く思えば来れるように道を開けておくからね」

「じゃあ俺様が送ってくぜ。なんなら護衛も引き受けるよ。じゃーな、お二人共」

 

 アリシアとレイシーは手を繋ぎ、ペティさんの後をついていく。

 アルフォードさんの言うことだから、きっと本当のことなんだろう。あの二人には、これから残酷な真実が直面する。

 それを真正面から受け止めに行くのだから、あの子達は強いな。

 …… 俺にはない強さだ。

 

 レイシーの縁が切れているのは、長く異界に留まっていたからだとアルフォードさんが言う。アリシアの縁が彼女と離れなかったのは、今回同じく異界に入って真実を見たからだそうだ。逆に言えばそれ以外の人間はレイシーのことを覚えていない。

 

 …… 俺と、同じ末路だ。違うのは、近くにいるのが邪神でないところ。

 その違いは致命的だ。ああ、なんだか虚しい。

 俺も嫌な奴だな。同じ境遇になった子がいて安心さえしている。

 嫌な、奴だ。

 

「おにーさん、帰ろう。朝になっちゃうよ」

「ああ、そうだな」

 

 終わってしまったことは仕方ない。仕方ないのだけれど、やり切れない。

 一人の女の子の将来が潰されたのだ。あいつを許すわけにはいかない。

 邪神を殴りたい回数が増えてしまったな。

 

「感傷に浸るのもいいけれど、隣の女の子のことも気にしてほしいな? あんまり落ち込んでると幽霊が上にお邪魔ぷよみたいに積み重なっていくよ」

「うわ、なんだそれ嫌だな…… お腹すいたな。コンビニでも寄るか」

「いいねぇ、こんな時間だけどまだ肉まんはあるかな」

「奢れって?」

「え、そんなこと言ってないよ。自意識過剰なんじゃないの? お兄さんはさ」

「あー、そうだな。そうかもしれない」

「変なお人だねぇ」

 

 結局二人共肉まんを購入して食べる。

 そして、屋敷の前まで来た時紅子さんが手を振って、その場で解散した。

 彼女は異界の屋敷のほうに帰ったんだろう。

 

 帰った後、やはり邪神には一発きついのを入れるどころか返り討ちにあったので割愛。黒猫はどこに行ったのか、訊いてもやはりはぐらかされてしまった。教える気なんてないだろうな。

 

 …… それから、後日。バラ園の奥にあるの大図書館で見習いとして働くレイシーと、その手伝いに来るアリシアのいる光景が見られるようになった。

 字乗さんも可愛がってるみたいだし、からかわれてることもあるが関係は良好。

 レイシーの再出発は平和に始まった。

 不幸で終わったこの不思議の国の事件だが、それだけでは終わらなかった。

 今、彼女達が苦労していないならいいだろう。

 

 少なくとも、不幸で終わりきってしまうより、また幸せが掴める機会に恵まれている。あの子達は多分大丈夫だ。

 

 だから俺は邪神野郎の知り合い全てに年賀状を書くように押し付けられようが気分良く終わらせることができた。どうだ、してほしかった反応と違うだろ。ざまーみろ。

 

 その前にクリスマス、クリスマスはあいつも仕事があるらしいしのんびりできるな。

 レイシー達に会うついでにケーキでも作っていこうか。

 そんなことを考える、今日この頃であった。

 

 ,




・時間軸
 前回のクリスマス小話の前の話です。

蹉跌(さてつ)
 物事が上手くいかず、しくじること。挫折や失敗を表す。

・効かない赤竜刀
 ニャルを狙っていた太刀筋はニャルが利用し、チェシャ猫の首を斬る斬撃となりました。さらっと時間操作。

 新年明けましておめでとうございます。
 これにて不思議の国のアリスシナリオは終了となりました。如何でしたでしょうか。少しでも皆様が楽しめていたら幸いです。
 それでは読者の皆様方ら今年度も本作をどうかよろしくお願いいたします。

 振袖紅子さん

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 こちら、砂鉄/蹉跌の国の女王エンドカードとなります。


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主要キャラプロフィール【其の弐】

 これは「ムラサキ鏡の降霊術編」〜「サテツの国の女王編」までのキャラクタープロフィールです。

 ここまでで出てきていない情報は伏せられるか、記載されません。ご了承くださいませ。

 

 

 

 ・下土井(しもどい) 令一(れいいち)

 

【分類】 人間 【種族】 人間

【身長】 180㎝ 【体重】 67kg

【誕生日】1月23日

【年齢】21歳「魔道書サンタクロース時点」

【好き】煮魚、紅子「現在無自覚」

【嫌い】ニャルラトホテプ

 

【身体的特徴】 茶髪、紫がかった黒い瞳。目つきが悪く、不良っぽい。

 

【概要】

 主人公。下の名前で呼ばれることが多い。

 18歳の修学旅行で神内千夜と出会い、世間から完全に忘れ去られてしまった。その後は三年程屋敷内に軟禁状態となり、炊事洗濯などの細々とした仕事を全て押し付けられて過ごしていた。

 三年後の「魔道書サンタクロース」時点で21歳。その後1月23日を通過し22歳の状態で「夜が這い降りてくる」に入る。

 

 人間ではあるが、神内の呪いにより「殺せば死ぬが病気では死なない」状態になっている。寿命で死ぬかどうかは不明。

 

【性格】

 お人好しの苦労人。優しいけれど優しいだけと言われがち。

 見た目は不良だが、ヘタレ気質なので女性の尻に敷かれるタイプ。

 短い時間ではあるが、5〜10分程度の遅刻癖がある。

 

 神内のことは心底憎んでいるし、いつか絶対倒してやると思っている。

 同時にどうしてじぶんだけ生き残ったのかとも思っているが、自殺するほどの勇気はない。

「脳残し鳥に御用心」に登場した青凪(あおなぎ)(しずめ)の件がかなりのトラウマとなっている。

 

【恋を自覚したときの情報は次章、「紅い蝶ひとひら」にて解禁】

 

 

 

 ピギョの人にもらった主人公イラスト

 

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 ・神内(じんない)千夜(せんや)

 

【分類】 神霊? 【種族】 邪神

【身長】 157㎝【体重】 52kg

【誕生日】不明

【年齢】不明

【好き】混沌、絶望

【嫌い】無反応、無関心

 

【身体的特徴】黒髪、金眼。人で無しの奇人。黒い三つ編みの男と呼ばれる。

 

【概要】

 邪神ニャルラトホテプの化身の一人。

 人間としての彼は旅行会社の若社長らしいが、詳細不明。

 元々邪神だったのか、それとも元は人間だったのか、それも不明。

 はっきりしているのは、彼が愉悦部であることくらい。

 

【性格】

 尊大で上から目線。面倒くさがりなのでいろんなことを令一に押し付けている。普段は慇懃無礼な敬語を使うが、気に入ったものには令一と同じ態度を取るようになる。

 

 

 自分絵ニャル様

 

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 ・赤座(あかざ)紅子(べにこ)

 

【分類】 幽霊【種族】 赤いちゃんちゃんこ

【身長】 165㎝【体重】 51kg

【誕生日】2月8日

【命日】【情報が開示されません】

【享年】17歳

【年齢】19歳「9話初登場時」

【好き】洋菓子、努力、勇気

【嫌い】言い訳、嘘、優しさ、奪われること

 

【身体的特徴】紫がかった黒髪に赤眼。赤い上着。首に包帯を巻いている。

 

【概要】

 赤いちゃんちゃんこの噂の渦に巻き込まれた人間の魂が、分け身となった怪異の一人。

 首の包帯で補助しながら人間に化け、見える、聞こえる、触れられる存在になっているが、根本的には幽霊なので異常に体温が低い。

 学校に通い直してはいるが、七彩(しちさい)高等学校は彼女が死ぬ前に通っていた学校ではない模様。

 

 武器のガラス片は自身を殺した凶器である。

 死因は自殺「紅子さんと赤い竜にて開示」

 突き飛ばされ、窓から落ちた際にガラスの破片で自らの首を切り裂いて死んだ。

 それは「奪われる」ことが大嫌いな彼女が、「自身の生死の自由」を奪われることを嫌った為である。

 左右に2つある人魂は噂の塊であり、実は彼女自身の魂ではない。魂は普段体の中にあり、それは紅い蝶々の姿をしている。

 人魂状態、もしくは紅い蝶々の状態でなければ浮いたり壁をすり抜けたりすることはできない。

 

【性格】

 非常に皮肉屋で、からかい癖がある。言葉遊びが好きなのかもしれない。

 〝奪われる〟という事柄に敏感だが、なぜそうなのかは不明。

 嘘や言い訳が嫌いであり、優しいだけの人間も嫌いらしい。こちらもなぜそうなのかは現在では詳細不明。

 女の子にはある程度優しいが、意識している相手には特別辛辣な態度になるとかなんとか。

 しかし基本的に世話焼きなので、なにか頼まれれば余程のことがない限り断らない。

 ツンデレタイプ。

 

 

 ピギョの人にもらった紅子さん

 

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 ・赤竜刀(リン)

 

【分類】 武器【種族】 精霊刀

【刀種】 打刀

【性別】 オス寄り

【好き】お菓子、辛い食べ物、勇気、あるじちゃん

【嫌い】??? 

 

【概要】

 刀身に赤い鱗の模様が浮き出る打刀。

 赤い竜、アルフォードの分霊が宿った刀剣で、「無謀を斬り、勇猛に変換させる刀剣」である。

 同時に使い手の成長点を伸ばし、才能を開かせる役目も実はあるのだとか。

 意思を持っているため、令一と赤竜刀自身が認めた人物しか扱うことはできない。

 刀剣自体を持ち歩かなくとも、分霊さえ連れていれば本来の半分ほどの力となった赤竜刀を顕現させることができる。

 もちろん、ちゃんと持ち歩いていないと本来の力は出せない。

 

 令一に「名付け」を行われたため、刀剣意識と分霊意識の割合が3:5から5:5に変化している。そのため、他の分霊とは違い、リンという個体として存在が確定した。

 

【性格】

 アルフォードと同様、明るく人間が好きな性格。

 辛いものが好きだが、令一が笑顔で甘いものを差し出してくるので断れない。

 実は人化することもできるが、とある理由により令一の前ですることはない。

 

 自分絵リンちゃん「ツイッターアイコン」

 

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赤竜刀イメージイラスト

 

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 ・秘色(ひそく)いろは

 

【分類】 人間【種族】 人間

【身長】 162㎝【体重】 49kg

【誕生日】11月12日

【年齢】21歳「大学3年生」

【好き】先生、絵を描くこと

【嫌い】特になし

 

【身体的特徴】秘色の髪、緑眼。霊感のない人間には茶髪茶色目に見える。

 

【概要】

 同盟所属、絵描きの祓い屋。

 霊力が非常に強く祓い屋に適しているが、絵を描くことでしか霊力の行使をしたことがないため、他の方法では上手くいかない。故に、祓い屋としての仕事をする際には五分程の時間を稼がなければならない。

 修行で直る癖だが、本人に直す気は毛頭ないようだ。

 除霊よりも浄霊に特化している。霊の絵を描いて、死を自覚させることによる成仏や説得による導きなどによる解決を得意としている。

 

【性格】

 感情の起伏が非常に薄く、声は「死んでいる」と言われるほど抑揚がなく、棒読み気味。しかし表情は豊かで、自身を救ったナヴィドに対する恋心は熱い。

 慈悲深いが基本的に霊的存在に興味が割かれているので、生きている人間に対しての対応は柔らかいものの、知っている者から見れば興味のカケラもないことがすぐに分かってしまう。

 桜子とは数年の付き合いとなるので、仲の良い友達のような関係を築いている。

 

友人より

 

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 ・家庭科室の桜子さん「苗字不明」

 

【分類】 幽霊【種族】 悪霊

【身長】 153㎝【体重】 不明

【誕生日】不明

【年齢・享年】不明

【好き】甘いもの、料理、裁縫

【嫌い】向上心のない人

 

【身体的特徴】ウェーブがかった亜麻色の髪。色素の薄い桜色の目。

 

【概要】

 秘色いろはが高校二年生だったときに七彩(しちさい)高等学校にて七不思議をしていた少女。

 紅子とは違い七彩高等学校出身で、何十年も悪霊のまま過ごしていた。

 今はいろはに封印され、契約により人間に危害を加えることはできない。

 諦観しているわけではないが、どうやらいろはを気に入っているようで既に彼女の体を乗っ取ろうという気はなくしている。

 現在はいろはの持つカッターナイフに封印されているようだ。

 

【性格】

 横暴な考えや力技で物事を解決しようとしがちである。

 一度キレると強制的に封印具に戻さない限り暴走し続けるくらいには戦闘狂。

 だが家庭科室の幽霊なので、何十年も培った家庭科の知識が豊富だったりもする。

 粗暴な性格に似合わず、料理や裁縫、刺繍など細かいことをするのが好き。

 

自分絵

 

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 ・Navid(ナヴィド)Kashmir(カシミール)

 

【分類】 神霊【種族】 シムルグ

【身長】 177㎝【体重】 67kg

【誕生日】不明

【年齢】200歳以上

【好き】正義、勇気、いろは

【嫌い】鶏肉

 

【身体的特徴】長い金髪に青目。赤縁眼鏡。

 

【概要】

 イランに伝わる神なる鳥シームルグの一羽。

 シムルグは彼固有の種族ではなくたくさんいるらしい。

 彼はイランよりも「渡り」をして居住したフランスのほうが歳を重ねた数が多く、人化した際の姿はそちらに引きずられている。

 彼の羽根を燃やせば彼がすぐさま駆けつけ、彼の羽根で怪我人の傷口を撫でればあっという間に傷がなくなるのだという。

 

【性格】

 ちょっと押しに弱い優男。正義のヒーローに憧れているため、同盟ではそう名乗っている。

 いろはのことは本当に大切にしているが、彼女に「同じツガイにして」と頼まれると困惑してしまう。彼はできるだけいろはには人間のまま過ごしてほしいのだ。

 

 

 ・Cerbeart(ケルヴェアート)

 

【分類】悪魔 【種族】 ケルベロス「中央の首」

【身長】 187㎝【体重】 77kg

【誕生日】不明

【年齢】不明

【好き】美しい音楽、甘いもの

【嫌い】腐肉、脱走者

 

【身体的特徴】狼の耳のように跳ねた、紫がかった黒髪。黄色の目。

 

【概要】

 言わずもがな、地獄の番犬ケルベロス。その中央のリーダー役の首が彼。アートである。弟のオルトロスに門番の仕事を取られているので、彼らケルベロスへ外回りと同盟の監視を任されている。人間に対しては中立的立場。

 

【性格】

 俺様。ただし論理や常識は破綻していないのでかなりまともな性格をしている。故に、ぶっ飛んだ連中の多い場所では不憫な扱いになるとかなんとか。

 甘党で音楽が好き。伝承の弱点はそのままだが、音楽に関しては自身もピアノを弾いて練習しており、自身の理想よりも上手い演奏でない限りアートは眠らない。

 

 

 ・Alford(アルフォード) Ddraig (ドライグ) Goch(ゴッホ)

 

【分類】 神霊【種族】 竜

【身長】 152㎝【体重】 46kg

【誕生日】不明

【年齢】不明

【好き】人間、辛いもの

【嫌い】ニャルラトホテプ

 

【身体的特徴】腰まである赤い薔薇色の髪に、爬虫類のような黄色い瞳。女顔。

 

【概要】

 ウェールズ国旗に描かれている赤い竜そのひと。

 本体は本国におり、萬屋にいるのは力の強い分霊である。

 人間が大好きで、異常なまでに尽くそうとするタイプ。ただし、人間と同じ思考の元行動するわけではないので、たまに倫理感が破綻していることがある。

 

【性格】

 明るく、常にテンションが高め。無邪気とさえ思えるほどに人懐っこいが、計算高いので人間に騙されることはない。

 他はまだ出ていない情報……

 

自分絵

 

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 ・Petunia(ペチュニア) Crooks(クルックス)

 

【分類】 幽霊【種族】 魔女

【身長】 143㎝【体重】 秘密

【誕生日】不明

【享年】14歳

【好き】猫、四つ葉のクローバー

【嫌い】無知

 

【身体的特徴】長い金髪をまとめあげ、白黒ツートンでアシンメトリーなエプロンドレス。

 

【概要】

 亡霊の魔女。生前から魔女だったわけではなく、死んでからケルベロスに弟子入りして魔女となったためこう呼ばれる。

 ケルベロスとの契約はかなり破格だったため、ほとんど失うものもなく魔法を扱えるようになった。

 イメージ上の魔女とは違い、嘘を見抜いたり、薬を調合したり、医者として動くことの多い魔女。

 暴走中の飼い猫を鎮めるため、修行中。

 

【性格】

 竹を割ったような豪快でさっぱりとした性格をしている。ヨーロッパ出身のため、日本の名前は基本「カタカナ」呼びになる。

 ケルベロスに憧れて一人称を俺様に変え、喋り方も真似て数十年。後悔しているらしいが、生きていた頃よりも俺様喋りを始めてからのほうが年数が長く、矯正不可能となっている。

 

 

ピギョの人より

 

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 ・字乗(あざのり)よもぎ

 

【分類】 付喪神【種族】 文車妖妃(ふぐるまようひ)

【身長】 154㎝【体重】 手紙に込められた愛情の重さを想像したまえ

【誕生日】不明

【年齢】235歳 鳥山石燕著「百器徒然袋」が1784年刊行

【好き】本、恋愛

【嫌い】湿気、火、薬品など

 

【身体的特徴】緑の髪に片目隠れ。モノクルとそばかす。よもぎ色の和装ドレス。

 

【概要】

 文車妖妃という怪異。その正体は文車の付喪神ではなく、失恋した恋文の集合意識的付喪神である。

 同盟の敷地内にある図書館を管理しており、その図書館には日本中の本が全てあるのだという。それどころか、人間一人ひとりの人生がリアルタイムでわ書き足されていく本まであるのだとか。

 実はとーっても偉い怪異。

 

【性格】

 固く、である調の学者のような口調が特徴的。

 しかし、自身の出自が悲劇であるためか、恋バナが大好きで恋愛少女漫画を参考書にしながらアドバイスしたがる困ったヒトでもある。

 面倒見はいいが、こちらもわざと長ったらしく説明したりとらからかい癖がある。

 失恋妖怪の自身が恋愛できるとは、はなから考えていないようだ。

 

 

ピギョの人より

 

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 ・Lacie(レイシー)Lewis(ルイス)

 

【分類】 童話【種族】 精神生命体

【身長】151㎝ 【体重】 44kg

【誕生日】1月23日

【年齢】14歳

【好き】ジェシュ、アリシア、おもしろいもの

【嫌い】訳の分からないもの

 

【身体的特徴】長い金髪を後ろで四つに結び、それぞれトランプモチーフの髪ゴムで留めている。赤の女王モチーフの赤いエプロンドレスが特徴的。

 

【概要】

「サテツの国の女王編」にて人間から、童話の存在。精神生命体となってしまった少女。長く異界に留まりすぎたのが原因である。

 現在よもぎの指導の元、身を守るために魔法の勉強中。

 ペチュニアの部屋に(渋々)寝泊まりしている。

 

【性格】

 ワガママな、のじゃロリ女王様。かなり子供っぽく、単純。騙されやすいので周囲の人間が警戒するほど。けれど人格はいいので、エセカリスマと懐の広さ、そして一生懸命背伸びする姿に彼女を庇護対象として見る者は多いようだ。

 

 

 ・Alicia(アリシア)Lewis(ルイス)

 

【分類】 人間【種族】 人間

【身長】 147㎝【体重】 42kg

【誕生日】1月25日

【年齢】12歳

【好き】お姉ちゃん、ジェシュ、ゴスロリ

【嫌い】弱い自分、ピーマン

 

【身体的特徴】金の短髪に、ヘアバンド。普段からゴスロリ服を着るのが好き。

 

【概要】

「サテツの国の女王編」にて神内に騙され、怪異に操られていたアリスの少女。

 現在は正気に戻り、世間から忘れ去られてしまった姉に寄り添って過ごしている。

 現実世界で日中過ごし、夜はよもぎの図書館通いをしている。

 あまりに頻繁にくるため、よもぎに直通の許可証をもらっているとか。

 

【性格】

 ハッキリとしていて、物事に白黒つけて判断するタイプ。

 実はかなりの毒舌家で、きつめの性格なので人に好かれるかというと微妙なところ。圧倒的シスコンにより、姉を守るための努力が欠かせない。

 令一と並んで、人間のまま強くなろうとしている。今後の成長に期待である。

 

 ・Jaesh(ジェシュ)Lewis(ルイス)

 

【分類】動物→神霊【種族】 猫→邪神

【身長】164㎝

【体重】 不明

【誕生日】不明

【年齢】2歳くらい

【好き】レイシー、アリシア

【嫌い】ひとりになること

 

【身体的特徴】邪神となったためか、神内と同じく黒い三つ編み。チェシャ猫特有の笑みを浮かべるストールを巻いていて、目隠れ属性。左手だけ獣のような異形の手になっている。

 

【概要】

 邪神の血を飲まされ、邪神の化身として復活した黒猫。

 無自覚なままレイシーを追い詰めていたが、自分が原因とは知らず、レイシーを助けるために本の世界へと誘った。

 捨てられたため現在は野良猫邪神。どこかに消えていったが……そのうち戻ってくるかも? 

 

【性格】

 明るく無邪気。いい意味でも悪い意味でも思考が幼い。

 今回中途半端に邪神化したので性格は上書きされずに残ったが、幼い思考のまま知識を得て更に残酷になっているかもしれない。

 レイシー全肯定botだけど、さすがに捨てられちゃったら悲しいよね。

 アリシアのことも嫌いではない。

 

自分絵な三人のエンドカード

 

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おまけ

「同盟組織のロゴマーク」

 

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想の章【紅い蝶に恋をした】
妖怪退治、見学


 

 あれから一週間、二週間と過ぎて年を無事に越すことができた。

 新年前に年賀状を書かされたり、大掃除をやらされたりしたがそれも終わり、〝年を越す瞬間に地球上にいない人物が異界に飛ばされる〟多数の事故を紅子さんや秘色さん達と処理して回った。概ね間に合ったので、新年早々神隠しに遭う人々は極小数で済んだようだ。

 精神的に弱かったり、異界のものを口にしたり、長時間異界に留まったりした人間は変異してしまうので救出もスピードが命なのだ。

 そして、救出の際には記憶をぼかす効果のあるらしい録音機器を俺達が耳栓をしてから再生させる。

 この音声は同盟の者ではなく、なんとアートさんと同じケルベロスの一体が話しているものであるらしい。そいつは声で他者の波長を乱し、混乱させて情報を刷り込むとかなんとか…… とにかく、余計な記憶は消せるし上書きもできるのだ。当然、敵対はしたくないな。

 

 変異してしまった手遅れの極小数はどうやら、人肉食の同盟メンバーが手配されるとのこと。最初は俺も苦言を呈したが、そうしないと生きていけない妖が同盟メンバーであること自体が貴重で、良いことだというので口を噤んだ。

 必要なことを制限したらそれはそいつらの飢え死にを意味する。健常な人間を襲うより、神隠しに遭った哀れな人間。それも死を待つのみである手遅れレベルのものを襲うほうが…… まあ、納得はできる。見たいとは思わないが。

 

 ともかくそんな一幕もあったが、同盟側の仕事を手伝うのにも慣れてきた。

 と、言ってもまだ今回のような大規模かつ全員で手分けして行う仕事しか参加できてないけれど。

 紅子さんとコンビで動いたり、秘色さん、桜子さんコンビと行動したりいろいろだ。

 前にアルフォードさんが言っていた〝 人間のメンバー 〟はどうやら年末年始に忙しかったらしく、まだ会えていない。現実世界の図書館勤務らしいが、年末もやってるものなのか? 別の用事かもしれないが、まあ、俺みたいなのが特殊なのだ。仕方ない。

 

 レイシーとアリシアは順調に図書館での手伝いを覚えていっているようだ。字乗さんのいうことも、たまに反発するがよく聞くらしい。

 字乗さん本人に言わせれば 「可愛らしい反抗期じゃないか」 などと嬉しそうに笑っていた。元が恋文の集合意識だからか、女性的な面が強く、母性本能でもくすぐられたのかもしれない。

 

 そして、レイシーの外での居場所はやはり…… なくなっていたようだ。

 今でも泣き腫らしたアリシアの顔が思い出される。

 彼女がいた病室には今、別人が居座っていた。自分は一人娘だと言われた。嗚咽と悔しさでアリシアは、そう言いだすのにも時間がかかっていた。

 勿論、アルフォードさんをはじめとして、その場にいた全員が根気よく話を聞き、そしてきちんと自分自身の目で真実を見つめてきた少女を穏やかに受け入れた。

 特にペティさんは姉妹を気に入ったらしく、自身の近くにレイシーの部屋を配置するようアルフォードさんに要請していた。多分、彼女が世話をするなら問題はないだろう。

 

「よもぎ! どうしてこの本は読んじゃいけないのじゃ!」

「それは魔道書なのだよ。まだ君には幾分か早い」

「魔法…… ! よもぎ、私様は魔法が使ってみたいぞ!」

「ふむ、興味があるのだね。いいだろう、だけれどそれはまだ早いからこっちの本にしようか。順番に覚えていこうじゃないか」

 

 図書館に様子を見に来てみれば、字乗さんにレイシーがお願い事をしているところだった。

 元は中学二年生だったとのことだが、そういうものに憧れる年頃か……

 

「お姉ちゃん……あんまり危ないことはしないでよね」

「大丈夫じゃアリシア! よもぎだけじゃなくてペティにも頼むからな! 私様の師匠達になってもらうのじゃ!」

 

 アリシアは積まれた本を字乗さんのところへ持って行ったり、必要なくなった本を棚に戻しに行ったりしている。レイシーも同じような仕事をしていたようだが、どうやら今はサボりを兼ねて字乗さんに話しかけているらしい。

 

「…… あ、下土井さん。あなたも来てたんですね。その、赤座さんは?」

 

 アリシアがこちらに気づいてパタパタと小走りでやってくる。

 もうすっかり落ち込んだ様子はなくなっているが、自由奔放な姉に苦労しているみたいだ。

 赤座…… 紅子さんは今日一緒に来ているわけではない。リンに案内してもらって一人でこちらに来る練習をしているから、お願いするわけにもいかなかった。そもそも、彼女は昼間学校に行っている。日中暇な俺がおかしいということを忘れてはいけない。

 朝、奴が仕事に行くまでに屋敷のことを終わらせているので昼間はふらふらとするのみだ。

 

「紅子さんは学校だよ。なにか用でもあった? メールしておくこともできるよ」

「あたし…… 強くなりたいんです。お姉ちゃんって無鉄砲だから。だから赤座さんにご指導願えないかなって」

「ああ、なるほどね。アリシアちゃんは本の中でナイフを使ってたから、近い武器を使ってる紅子さんに教えてもらいたいのか」

「ええ、そうです。下土井さんは長ものを使っていますし、ご指導をお願いするのはあの人かな、と」

「おんやあ? アリシア。修行したいのかい?」

 

 二人で話していると、レイシーの相手をしていた字乗さんがいかにも面白いものを見つけたと言わんばかりの顔でこちらへやってきた。

 

「…… 否定はしないわ。あたしは人間だから、少しでも強くならないと足手纏いになるもの。そんなんじゃお姉ちゃんと一緒にいられない」

「ほう、そう考えているのだね。レイシーは気にしないだろうが…… うん、そういうことなら、紅子を見習うのもいいけれど、いろはや桜子に師事をするのもいいと思うよ。紅子はどうしても捨て身なきらいがあるからね。君に適用するには危険すぎる」

 

 ああ、言われてみれば確かにそうだな。

 桜子さんもカッターナイフで戦うから参考になるだろう。

 そして、紅子さんは幽霊であることを前面に利用して暗殺や一撃必殺に秀でている一方、噂の力で復活することを前提に立ち回っている感じがするから、アリシアちゃんが参考するには少し向かないかもしれないというのも理解できるな。

 簡単にやられるつもりもないが、やられたらそれはそれで復活際に奇襲ができる、紅子さんはそう考えてる節があると思う。

 

「どんな人なんですか?」

「人間の中では異常な霊力を持っている子、かな。方向は限定されるけれど、優秀な霊能力者だよ。そして、〝 シムルグの雛鳥 〟…… 神格の庇護を受けている人間になる。つまり、後ろ盾もバッチリな君達の先輩、だね」

 

 その〝 君達 〟ってもしかして俺も含まれてる? 

 

「小姓君も殆ど独学だろう? このよもぎちゃんから依頼してあげるから、アリシアと共に学んできたらどうだい? 私はレイシーへ基礎魔術を教える必要があるから。身を守る術は本人も得ていて損はないだろう?」

「お願いするわ。あたしもあんたのからかいにとやかく言っている場合じゃないの。本気なんだから」

「おやおや」

 

 ニヤニヤとしながら彼女の態度を見守る字乗さんに 「そういうところが反感持たれるんですよ」 と言葉を投げかける。

 なんでこうも人外は人を面白がるのだろうか。軽く見ているわけでないことは護身を教えることからして分かることだが。

 というか俺を奴の小姓扱いするな! 

 

「さて、雛鳥の予定はどうなっていたかな…… 依頼掲示板を見ればいいのだけれど、私は電子の海は得意でなくてね」

「よもぎ! これ読めないのだが?」

「それは……」

 

 字乗さんが少し困ったように呟いた後だった。

 レイシーに魔道書の説明をしながら考えている彼女の肩が揺れ、図書館の入り口に視線が動く。

 

烏楽(うがく)の烏か。ちょうどよかった、いろはが今どこでなんの依頼を受けているかの情報はあるかい?」

 

 図書館の扉が開けられたのと、その言葉は同時だった。

 

「おっと、相変わらず反応が早いな。ほれ、いつもの新聞と、こっちは前に頼まれてた情報だ…… 俺の新聞を頼りにしてくれるのは有り難ぇが、篭りっきりになってると干物になるぜ? …… さて、質問はナヴィド殿の娘さんのことかい?」

「ああ、そうだよ。いろはの仕事をこの子達に見学させてやろうと思ってね。許可はとってないから、あくまで提案だけれど。それと、本や文は涼しくて暗い場所に保管するものだ。たまには日干しも必要だがね。干物になりやしないさ」

「あー、例えが間違っていたようだ。カビが生えるぜ? 司書さんよ。そんで、雛鳥ちゃんなら今は日本にいるはずだよ。確か、福岡で起きてる〝 足売り婆さん 〟の行方を追っている最中だったか」

「福岡……」

 

 おいおい、彩色(いろどり)(ちょう)は東京だぞ…… 大学に通いつつそんな遠くまで依頼の為に出歩いてるのか。すごいな、彼女。

 

「ふうん、それならこの図書館から転移できるよ。このよもぎちゃんが特定してあげよう。それから、彼女に見学させてもらえるように頼むといい」

 

 字乗さんは喜色満面で乗り出して来ている。ノリノリだ。

 つまり、決定事項なんだろう…… 俺に選択肢はない。というか、秘色さんのやりかたは興味がある。彼女達と行動したのも、冬に咲いた桜のときと、それ以降ちょこちょこと同行したくらい。

 ただ、別行動も多かったので詳しい活躍を見れたことはない。

 かえっていい機会かもしれない。

 

「じゃ、俺は次のとこに行くから。頑張れよ」

 

 爽やかに彼は手を振って去っていく。

 カア、カアと多くの烏の声が響く。烏天狗の烏楽さんは翼を広げて窓からその集団の中に飛びこんで行った。

 

「分かった。妖怪退治系ならどうせ長引くんだろ…… それなら屋敷に留守電入れとくから、ちょっと待っててくれ」

 

 そう言いながらスマホを取り出して連絡を取る。

 奴は仕事中だろうから、屋敷のほうにだけ留守電を残しておく。

 最近こればっかりだが…… 怒られない、よな? 前はかなり拘束されていたが、今は案外そういう自由だけはあって、かえって不気味さが増している。

 なにを考えてるんだか。

 

「連絡はした。行ってみようか、アリシアちゃん」

「ええ。あたしも護身用のナイフ持ってくけど、下土井さんは?」

「俺は……」

 

 言いかけて、鞄の中から赤い影が飛び出してくる。

 

「きゅい!」

 

 それはペロペロキャンディを抱えたまま浮遊する手のひらサイズのドラゴン…… リンだった。

 

「俺には相棒がいるからな」

「きゅきゅーい!」

「わっ、可愛い…… あの、この子は?」

 

 おお、そういえばアリシアが正気に戻ったとき、ずっとリンは刀の状態だったからな。

 

「リンはアルフォードさんの分身で、俺の刀なんだよ」

「んきゅ、きゅう〜」

 

 あれは喜んでる顔だな。声だけでも分かるが。相棒扱いがよほど嬉しかったのか、空中で小躍りしている。

 

「あのときの…… あの、撫でても…… ?」

「リン?」

「んん、きゅい」

「いいってさ」

「あーっ! なぜじゃ! なぜ私様には触らせてくれんのにアリシアは良いのじゃ!」

「乱暴に撫でるからさ。そこも少しは学ぶといいよレイシー」

 

 そうそう、注意しておいてくれ。リンも撫でられるのは吝かじゃないはずだからな。

 ただ乱暴にグリグリされると痛がるだけで。あと、動物を触りたいときは保護者にまず許可を得ること。これは大事だよな。

 

「さて、雑談はここまででいいかな。扉を開けるから行っておいで」

「はい!」

「ああ、行ってきます」

「それから、アリシア」

「なに?」

「少し、手を握ってくれないかい?」

「え……」

 

 唐突に照れたような顔を浮かべた字乗さんに、アリシアがドン引きしたように身を引いた。それを見て字乗さんはキョトンとした顔になったあと、笑う。

 

「別に変な意味ではないのだよ。無事帰ってくるよう私の加護をやろうと言うのだから、遠慮なく受け取ってほしい」

「あ、な、なによ。それを早く言ってほしかったわ…… はい、これでいい?」

「ああ、構わない。それにしても……」

 

 握手したまま字乗さんはその手を持ち上げアリシアに向かって悪戯気に微笑むと 「君の手はちっこいなぁ」 とからかい始めた。

 

「そんなこと言ってるとお願い聞いてやらないわよ」

「おっとそれは困る。ふふん、さて、今度こそいってらっしゃいだ」

 

 彼女が指をパチンと弾けば図書館の扉がひとりでに開き、俺達の足元に緑色の矢印マークが浮かび上がる。

 

「さあ行ってこい」

「わっ!?」

「ひゃっ!」

 

 そして、矢印マークに足が触れた途端体が勝手に滑って扉へと突進を開始した。随分と強引な出発だ。なんでこうも人外は唐突だったり強引だったりするんだ。

 

 俺はバランスを崩して倒れそうになったアリシアを支えつつ、諦念を浮かべながら図書館の扉を潜っていくのだった。

 

 

 

 

 

 ―― 静かになった図書館で、ぱらりぱらりと本を捲る音が響く。

 時折レイシーの質問が響く以外に、静かなものだった。

 

「なあ、紅子。そこにいるだろう? なぜ、出てこなかったんだい?」

「む? 紅子がいるのか?」

「……」

 

 かつ、かつ、と靴音を立てて黒髪をポニーテールにした少女が姿を現わす。

 その赤い目は平坦なようでいて、鋭く真っ直ぐに図書館の扉を見つめている。

 

「アタシが行っても、お兄さんのためにはならない。それに…… アタシもやることやらないと、ちょっとまずいかもしれないからね」

「そうかい。なら一日中夢の中で励むのかい?」

「…… そうだよ。それが、赤いちゃんちゃんこという怪異の…… やることなんだから」

 

 後ろで手を組み、俯く彼女の表情は字乗よもぎには見えない。レイシーにも見えない。けれど、想像することはできるのだ。

 

「ああ、そうだ…… 紅子。1月23日は、下土井令一の誕生日だそうだよ」

「っえ?」

「ふふん、ほら暗い顔なんてするもんじゃない。君なら大丈夫さ。このよもぎちゃんを信じなさい。鬼が笑おうがなんだろうがいいじゃないか。未来のことを語っても。さあ、なにをして祝ってあげようか?」

「…… そうだね。話を聞いたからには、祝ってあげようかな」

 

 隣で 「あいつの誕生日なのか! 私様も祝ってやろう! そのためには魔法を覚えるのじゃ!」 と騒ぐレイシーを撫で、字乗よもぎは微笑む。

 年長者らしいその振る舞いに紅子は扉を見つめるのをやめ、彼女らに近づいていく。

 

「それ、反則じゃないのかな」

「なに、攻略本は司書の嗜みさ」

 

 字乗よもぎの手にある本の表紙には〝 下土井 令一の人生 〟と書かれている。

 この図書館には、日本全ての人間の生きている間の記録と、そして死して転生するまでの記録本が納められている。

 普通の人間には見ることの叶わない、文字通りそれを任された司書の彼女は重役なのだ。

 

「でも、知られて良かったろう?」

「…… うん。それじゃあアタシはもう行く。今日一日頑張らないと」

「おやすみ」

「ああ、おやすみ」

「寝るのか? おやすみなのじゃ!」

 

 図書館から紅子が出て行き、パタンと扉が閉まる。

 

「今日は来客の多い日だな」

「よもぎ! 次はこれじゃ!」

「はいはい。さあて、アリシアと小姓君は上手くやってるかな」

 

 膨大な量の棚を見上げ、字乗よもぎは溜息を吐くとレイシーの指導に戻る。

 

「ペティでも呼ぼうかね」

 

 二人だけの場所に、少しだけの喧騒を求める。それは悪いことではないが、彼女の変化の表れだった。ペティも紅子も彼女にとっては〝 最近 〟できた友達である。令一も、アリシアとレイシーもついこの間。

 長らく一人で図書館勤めをしてきた彼女に喧騒は煩わしいものだった。

 しかし、今はそれを求めてさえいる。

 

「変化とは目まぐるしいものである。しかしそれも悪くない」

 

 字乗よもぎはそうして、感慨深げに目を伏せた。

 

 



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足売り婆さんの対処法

 ―― それは、秘色いろはが中学一年生だったときのこと。

 

 ギイ、ギイとブランコが揺れる音が、夕方の公園に響いていた。

 ブランコを漕ぐ音など珍しくもない。しかし、なぜだかそれが気になった少女の足は引き寄せられるように公園内に入った。

 寂れた公園だ。遊具も少なく、普段からあまり使われることのない場所で、近道に利用する者がたまにいるくらいの人気のない場所である。

 そんな公園に人がいることに興味を持ったのだろうか? 少女はふらりと立ち寄り、そして落ち込んだようにブランコに座っている女性に出会ったのだ。

 

「お姉さん、どうしたんですか?」

 

 声をかけたのも偶然だった。

 見知らぬ人に声をかけるような気概も本来はなかったのだが、そのときだけは少女もなぜだか声をかけてしまっていたのである。

 

「め……」

「?」

 

 ぶつぶつと呟いているらしい女性に近づき、その隣にあるブランコに座る。そうして、耳を澄ませる。

 

「めだ…… ま…… めだ、ま…… がほし、い」

 

 少女はよくある怪談だ、と納得して尚その場に居続ける。

 そのままでは目玉を取られてしまうのでは? という不安も僅かに彼女にはあったが、それでも動く気にはなれなかったようだ。

 

「目玉はあげられませんけど、飴玉ならありますよ」

 

 そう言って彼女の傷だらけの手に飴玉を握らせて少女はにっこりと微笑む。

 そして傍に置いたバッグからスケッチブックと鉛筆を取り出して彼女の正面に立った。

 

「あなたの目の色はなんでしょう?」

「く、ろ…… めだ、ま……」

「わたしは緑色なのであげられませんね」

「め…… がないと……」

 

 苦しむ様子の彼女を哀れむように少女は見つめ、そこに少女がいることを示すように会話を続ける。

 その間にも少女は目以外の部分を中心に女性を描いていった。

 

「どうしてそんなに目がほしいのでしょう?」

「あの…… ひと、みつけ、られ…… い」

「なるほど、会いたい人がいるんですね」

「どこ、にも…… いけな……」

「あなたは、ただ迷子になってしまっただけなんですね……」

 

 少女には元々霊能力などなかった。

 しかし、とある出来事が起きたことでこうしてあの世の存在を見るようになっていた。それは幸いなのか、不幸なことなのか、それは少女にしか分からないことである。

 

「あなたは、目がなくても綺麗ですね。きっと、目があったら…… こんな感じなんでしょうか……」

 

 他意はなかった。

 しかし、女性のことを思って描いたその絵は不思議と彼女に似合っているような気がして思わず彼女に見せていた。

 目がないのだから見えないはずなのだと気づいたのはその後だ。しかし、顔を伏せて呻いていた女性が顔を上げると、無残に切り裂かれていた顔の傷は薄まり瞼を震わせていた。

 

「ああ…… ああ…… !」

「えっ、うそ……」

 

 瞼を開いたその下には黒真珠のような瞳。

 ボロボロになっていた服は整えられ、信じられないといった風に少女を見つめていた。

 

「目…… 私の目…… ! ありがとう、ありがとうっ!」

 

 女性が笑う。

 少女が自身の持った紙を見ると、今度は絵の目玉が消えていた。

 それは先ほどの彼女の姿に他ならない。

 

「あ、えっと……」

「ありがとう、これであの人のところへ行ける…… その絵、貰ってもいいかしら」

「あー、えっと、どうぞ?」

 

 スケッチブックから破り取り、女性へと渡す。

 女性がその真実の姿を己の目で確認し、大事そうに抱える。

 すると、みるみるうちに絵は引き裂かれ、花弁となり女性の手を取るように渦巻いた。行く先には眩い程の光に溢れ、彼女を安らぎに導いている。よく見れば、他にも透明な人物や動物達が集まってその中へと入って行くのが見えた。

 

「ありがとう、ありがとう…… 優しいお嬢さん。ねえ、これからも私のような迷子に道を教えてあげて………… けれど、きっとあなたの描いた私達の絵を誰かが見てしまったら、きっとあなたが一人になってしまう。だから、決してその絵を人に見せてはいけないわ…… いいわね」

 

 女性はそう言って手の中にある飴玉を頬張った。

 コロコロと転がる音はどこか鈍い鈴のようで、彼女の新たな旅立ちを祝っているかのよう。

 どこかで慣らされた鈴の音が響く。光は大きくなっていき、女性は少女に背を向けて歩んでいく。

 

「さようなら、ありがとう」

 

 彼女の行く先には同じくらいの歳であろう男性が手を振っている。

 そこに飛び込んで行った彼女の結末は、途中で光が収まってしまったため少女には分からなかったが、きっと幸せだろうと彼女は思った。

 

( なんだろう、あたたかい…… )

 

 それ以来、いろはは〝 迷子 〟を見つけるとちょっとした手助けをするのである。

 行くべき場所へと行けるように、その切っ掛けができるように……

 

 そうして(よすが)となる似顔絵を描き、彼女は死者の(はなむけ)として贈るのだ。

 

 

 

 

 

「ここは……」

「繋げてくれるのは嬉しいけど、放り出すのはどうかしてるわよ……」

 

 俺とアリシアはどこかの道路に立っていた。

 

「あれ、下土井さん?」

 

 けれどそこはドンピシャだったようで、背後から聞き覚えのある抑揚のない声がかけられる。

 

「秘色さん」

「あの人が秘色…… いろはさん?」

 

 空色のようで、そうでない秘色(ひそく)の髪の色。翡翠の瞳。赤と黄色のヘアバンドに黄金の羽飾り…… 紛うことなく秘色いろはさんだ。

 

「あんな明るい茶髪の人っているんですね。いや、大学生なら染めてるんでしょうか」

「え?」

 

 アリシアの言った言葉に耳を疑った。

 思わず聞き返してしまったが、アリシアもこちらを見上げて 「あたし、なにかおかしいこと言いました?」 と尋ねてくる。

 

「えっと、彼女の髪色って茶色?」

「ええ、鳶色と言うのでしょうか。あまりにも綺麗なので地毛なのかなあ、と」

「……」

 

 おかしい。俺には明るい水色系の髪に見えているのに。何故だ? 

 普通に考えれば彼女の髪色ってかなり異端なのは分かるんだが、俺とアリシアの見え方が違うことに意味はあるのか。

 

「…… ああ、わたしの髪のこと」

 

 秘色さんは俺達の間を二、三度視線を往復させると納得したように言って首を傾げた。

 

「先生が言ってた…… んですけど、わたしの髪は名前と同じ、秘色。でも、それは霊力が髪に宿っているから、そうなっているんだそうです。だから、霊的なものが分からない人は、わたしの髪が茶色に見える…… みたいです」

「へえ」

「ということは、あたしには霊的な力がない…… !? そ、そんな! それならお姉ちゃんを守れないのに!」

 

 悲観したように叫ぶアリシアを 「まあまあ」 と宥めて本題に入る。

 

「そのために見学に来たんだから、な?」

「見学…… ?」

「そう。この子アリシアちゃんって言うんだけど、お姉さんがあちらの住人になっちゃって…… 唯一記憶があるんだよ。だからお姉さんを守るために強くなりたいんだって。そこで字乗さんから提案があったんだよ。先輩の秘色さん達の見学に行ってみたらどうかって。勿論、秘色さんが嫌なら無理にとは言わないよ」

「そう…… 今回の仕事は下調べだけ大変だったけど、解決は簡単。見ていきたいなら、好きにすればいいです」

「ありがとう」

 

 許可を得たので安心する。

 福岡県だろ? 秘色さんの許可が得られなかったらどうやって帰るんだよと。

 

「それと、アリシアちゃん」

「は、はい? なんですか」

「わたしの髪が茶色に見えてても、霊的な力が一切ないってことにはならない…… あなたは、お姉さんのことも見えるし、あちらに行くこともできてる。関わる力はちゃんとある。安心して。でも、対処する力は今のところなさそうだから、気をつけて」

「は、はい! ありがとう秘色さん!」

「名前で呼んでもいい。敬語もいい。呼びづらい?」

「んんっ、分かったわ。いろはお姉さんって呼んでいい?」

「もちろん」

 

 秘色さんは子供の扱いが上手だな。

 俺はあんな風にできない。

 

「いろは! …… と、後輩ちゃんとよく一緒にいる男と、誰?」

「ああ、おかえり桜子さん」

 

 秘色さんが首を巡らせ、やって来た桜色のセーラー服の少女を迎える。冬なのにセーラー服と同じ色のマフラーを巻いているだけでコートなどは一切着ていない。寒くはないのだろうか。

 

「下土井令一だよ。令一。こっちは……」

「アリシアです」

「ふうん、そっちの子は初めてだから自己紹介しようか。ぼくは彩色町、七彩高等学校の元七不思議。家庭科室の桜子さん、だよ。今はいろはに取り憑いている…… 悪霊さ」

「悪霊……?」

「名前ばかりの悪霊」

「いろは!」

「ふふ、だってそうでしょう」

 

 格好つけたようにポーズを取る桜子さんに秘色さんがからかうように声をかけた。

 へえ、秘色さんってからかったりするんだなあ。自分のストーカーさえ害がないからって放っておくような人だし、声も平坦だし、表情も怪異と対峙してるときは平静だし、あちら側の住民と近い性質があるんだと思っていたな。

 もしかしたら、紅子さんよりもよほど幽霊っぽいとか失礼なことを考えていたのだが、案外そうでもないのか? 

 

「桜子さん、調査どうだった?」

「うん、上手くいってるみたいだよ。いろはの流した対処法の噂がちゃんと広まってる」

「でもいいの? 桜子さんが大変」

「ぼくを誰だと思ってるの? きみに取り憑いた悪霊。きみがやっとのことで封印した悪霊。きみが血で絵を描いたのに浄化されなかった悪霊。家庭科室で両手両足を包丁で磔にされ、衰弱して死んでいった悪霊。このぼくが、本体でもない噂の塊に負けるわけないだろう?」

 

 さっぱり話が見えないのだが、桜子さんがだいぶやばい悪霊であることはなんとなく分かった。

 他の皆から聴いてる限り秘色さんはかなりの霊能力者で、霊の絵を描くことで浄霊ができるらしい。それも結構強い霊能力に分類されるようだから、そんな彼女が血を使って絵を描いても浄化できなかったというのはものすごいことなんじゃないか? 

 

「ぼくが怖い? アリシアちゃん」

「…… 悪霊なんでしょ」

「ざーんねんながら、ぼくはいろはとの契約で人を殺せないんだ。いろはからの一方的な契約だったから随分縛られてしまってさあ…… 窮屈でたまんない。でも、元々いろはの体を乗っ取って復讐しに行く予定だったから問題はないけれど」

 

 おい、それ問題発言じゃないのか? 秘色さんはこの人を封印してるとはいえ放置してて本当にいいのか? 

 

「そんなこと言って、そんな気はもうない癖にね」

「うっさいぞ、いろは」

 

 …… いや、すごく仲が良さそうだ。これなら問題なさそう。二人は友達と言っていい関係に見えるぞ。

 

「さて、きみたちはなにしに来たんだい? 偶然会うにしては遠いところだけれど」

「見学させてほしいって」

「へえ、まあ構わないけれど。決めるのはいろはだからね」

 

 そこで桜子さんが 「じゃあ」 と続ける。

 

「経緯と、ぼくたちがやった対処をきみらにも話す必要があるようだね」

 

 もちろん、見学するのにそれは必要だろう。じゃないと今後の参考にもなりやしない。

 桜子さんは歩きながらにしようと秘色さんの背を押しながら進み始める。

 ここで、経緯がやっと分かった。

 

 ここらで蔓延している足売り婆さんの噂のことからだ。

 放課後、とある少年が帰り道を歩いていると前方から大きな風呂敷を背負った婆さんが歩いてくる。そして少年に 「ぼうや、足はいらんかね?」 と尋ねるのだそうだ。

 少年は疑問に思いながら、風呂敷を見て驚愕する。風呂敷の中から人間の足が覗いていたからだ。

 そこで少年が 「いらない」 と叫びながら逃げ出すと婆さんはありえない速さで少年に近づき、足を引き抜いて風呂敷に加えてどこかに去ったという。

 足を「いる」と答えた場合は三本目の足を無理矢理くっつけられるらしい。

 こいつの通常の対処法は、 「自分は分からないが誰々が足をほしがっているらしい」 と自分以外の誰かに押し付ける必要があるのだ。

 これを秘色さん達は利用することにしたらしい。

 

「成果は…… まあ聴いてみれば分かるさ。あとはぼくが頑張るだけなのも、ね」

 

 意味深に笑った桜子さんと、秘色さんが喫茶店に入る。

 その喫茶店は中学生など、学生の集まる場所だったらしい。耳を澄ませてみれば…… いや、澄ませなくともその言葉はあっさりと俺達の耳にも届いた。

 

 

 

 ―― ねえ、家庭科室の桜子さんって知ってる? 

 ―― なあに、それ

 ―― とある学校に、いじめっ子のお嬢様がいたの。その子はいろんな子をいじめていたんですって。でもあるとき、あまりに大人数をいじめていたものだから、その全員に復讐されてしまったんですって

 ―― いじめっ子なら別にいいじゃない。いい気味よ

 ―― それが、その桜子さんは家庭科室の床に、両手両足を包丁で刺されて磔にされてしまったの。その時期はね、冬休みだったのよ。教職員も鍵の確認をするだけで、中までは見ないの。桜子さんはそのまま血を流して、苦しんで、そして衰弱して死んでいった…… ね、いくらなんでもやりすぎでしょう? 今でも桜子さんは自分に復讐した子達を探しているんですって。そして、似た子を見つけたのなら、その両手両足を自分と同じように滅多刺しにしてしまうんですって

 

 ―― 両手両足を? 

 ―― 両手両足をよ。それでね、使えなくなった両手両足を治すために人のものを取ろうとするんだって

 ―― 両手両足…… それって、足売り婆さんとなにか関係あったりする? 

 ―― 足売り婆さんって誰かをイケニエにしないと逃げられないでしょう? そこでね…… 誰かが言ったの。 「私はいらないけれど……」

 

 

「〝 家庭科室の桜子さん 〟が欲しいと言ってました」

 

 

 ―― そう、答えればいいって

 

 

 

「それって……」

「わたしたちの作戦、分かってくれました?」

 

 秘色さんが向かいの席で微笑む。

 俺とアリシアは隣に座り、秘色さんと桜子さんが向かい側。けれど、常人には桜子さんは視えないようで、彼女がキャラメルフラペチーノを飲んでいても誰も気づかないし、先程噂で盛り上がっていた少女達のドーナツを一つ摘み上げても気づかない。というか盗みはやめなさい。

 

「つまり、あの噂が流れてれば桜子さんのところに足売り婆さんが来るってことか?」

「探し回るより、効率的。最初はわたしが引き受けるつもりだったんですけれど、桜子さんがダメだって言うから……」

「絵を描く必要があるのに自ら誘き寄せようなんて、はっきり言って馬鹿のやることだね」

「馬鹿じゃない」

「ばーか」

 

 秘色さんはむっとしたようにしているが、これは桜子さんが全面的に正しいな。向かってきた婆さんの足がめちゃくちゃ早かったり問答無用で足を捥ぎにくるやつだったらどうするんだよ。

 

「答えなければ猶予はあると思ってたから……」

「だんまりでもNOと捉えられるよ。当たり前だろ?」

 

 しかし、こうして二人が話しているのを見ると本当に仲がいいな。

 桜子さんはどうやら秘色さんのことをかなり大切にしてるみたいだ。多分、本人は認めないんだろうけれど。自称悪霊…… だし。

 

「下調べと調査ってつまりこの噂の操作のことだったのか。それは時間がかかるだろうな……」

 

 そもそも信じてくれる人は少ないだろうし、何日前からやっているかは知らないが、それなりに時間がかかるだろう。噂の伝播なんてまちまちだろうしな。

 そんな爆発的に広がるものでもなし…… 桜子さんは実体化してない紛うことなき幽霊のようだし、実質噂を広げられるのは秘色さんだけなのだ。重労働だったろう。

 

「それで、結局いつ頃から始めるんですか?」

 

 アリシアがショートケーキの苺を頬張りながら秘色さんに尋ねる。

 おいおい、噂の確認のために入った喫茶店なのに満喫してるよ…… ま、なにも買わずに去るのは店に失礼だからいいんだけど。

 

「夕方。川沿いに人気のない公園がある。そこなら目撃もされにくいし、対処しやすい。時間も噂にある夕方にらなってからが本番だと思う」

「…… もうすぐ午後4時になるね」

「いろはー、それちょっと貰ってもいい?」

「はい、どうぞ」

「んむっ」

 

 桜子さんの言葉に、予想していたのか秘色さんが切り取ったガトーショコラをその口の中に押し込む。

 ナチュラルに分け合いっこをしている上にフォークは秘色さんのなのだが…… 仲の良い女の子ってそういうところあるよな。

 

「美味しい?」

「濃厚なチョコレートで大変美味しゅうございますとでも言えばいい? やっすい味しかしないけど」

「お嬢様だったのに一人称はそれでいいの?」

「ぼくはぼくなんですー。ぼく、人に指図されるの嫌ーい」

 

 ふい、とそっぽを向いてケーキを完食。

 彼女が視えない人にとっては秘色さんが二つもケーキを食べたように見えたかもしれない。

 

「さて、いっちょお仕事しますかー。いろは、会計ー」

「はいはい、外で待ってて」

「い、いくらだったっけ……」

 

 慌てて財布を取り出すアリシアを制して自分の財布を出す。

 秘色さんは既に会計を終えてるから、中学生で後輩のアリシアには奢ることにする。これくらいなら懐は痛まないし…… 姉の為に頑張ってるんだから応援してあげたいからな。

 

「俺が出すよ。お小遣いは大事にしたほうがいい」

「か、借りは返しますからね……」

 

 受けてはくれるのか…… 年上から奢るって言われるとちょっと気を遣わせちゃうかな。悩みどころだ。

 

「そうだ、桜子さんの戦い方を見たいって言ってないよな?」

「う、あの人苦手です…… 悪霊っぽくはないけど、なんとなく。でも話してみます」

 

 小走りで桜子さんのところまで行くアリシアを見送りながら会計を済ませ、外に出る。

 そこでは桜子さんがふわふわと浮きながら幽霊らしく手を垂らしてアリシアをからかっていた。ぷんすこ怒るアリシアを秘色さんは微笑ましく見ているが、周囲の通行人は二度見している。そりゃあ、桜子さんは普通の人に見えていないだろうし驚くよな。

 様子を見るに桜子さんはアリシアをわりと気に入ってるみたいだし、戦いを見せてもらう件についても話してあるんだろうな。姉の為に人に習う。そしてその向上心。そんなところを見て桜子さんはあんな態度をとってるんだろう…… 多分。

 

「公園で待ち伏せするんだったっけ?」

「ええ、そこなら人の目を気にする必要がありませんから。人避けをしなくても済みます」

「普通は人避けするのか? その、結界張ったり?」

「そうですよ…… ああ、そういえば下土井さんはまだ大規模依頼しか受けたことないんでしたっけ。それなら分からないのも無理ないです。異界なら必要ないですし、大規模なときは他の人がやってくれてますから。それと、敵となる〝 人でないもの 〟が獲物を捕まえる為に結界を張っている場合もあります」

 

 冬桜のときに青葉ちゃんが確かやっていたな。

 桜の木から無数の蝶が飛び出して行って結界が張られていたんだったか。

 なんとも幻想的な光景だったが、あれが獲物を絡めとる蜘蛛の巣のようなものだと考えると少しゾッとする。使っているのは蝶々なのにな。

 

「それと、結界がそこにあるか否かは霊的なものに鈍感な人は気付きにくいです。ある程度訓練すれば才覚も開きますが、生まれつきで対策を学んできた人とは違っていきなり霊的なものが視えるようになってしまうので、精神的に無防備になりやすい。ですから、アリシアちゃんは慣れるまでアルフォードさんのところの道具に頼るといいと思います」

 

 視えるようになる道具があるのか。まあ、あそこならあるだろうな。なんせ腐臭さえ隠せる香水が堂々と商品として並べられてるくらいだし。

 

「霊的感覚が一切ない人はごく僅かです。殆どの人は、意識をしていないから見えない、聞こえない、触れられないだけです。そこになにかがある。なにかがいる。そんな雰囲気に飲まれたときなら、あるいは視える人に意識を誘導されれば自然とそこにいるものも視えるようになりますよ。桜子さんのことも、わたしが声をかけてから気づいたでしょう?」

 

 秘色さんの言葉にアリシアが頷く。

 そうか、俺には初めから見えてたけど、アリシアには見えてなかったのか。

 

「初めから視える人は意識していなくても視えてしまうので、まず人でないものを無視する訓練から始まりますね。どうしても意識が向いてしまう人は幼い頃に襲われて亡くなる可能性も非常に高くなります。対処法か、目をつけられにくくする方法を学ばないとまともに生きていけないのだそうですよ。わたしは、後天的に視えるようになったのでそこまで大きな苦労はしてませんけれど」

「あれ、そうなんだな。てっきり秘色さんは初めから視える人だったんだと思ってたよ」

「わたしは、中学生の頃怪異事件に巻き込まれて助けてもらったことがあったんです。その後から才覚が開いたらしくて…… 自然と視えるようになりました。だからアリシアちゃんも、そのうち視えるようになると思います」

「分かった。お姉ちゃんのためにもあたし、たくさん頑張ればいいのね」

「うん、無理しない程度にね」

 

 秘色さんが微笑んでアリシアの頭にぽふぽふと手を乗せる。

 そうして彼女から霊やそれに類することについて細々としたレクチャーを受けながら目的地に到着した。

 川沿いの随分と大きな公園だが、今は夕方で尚且つ平日だからか人通りが少ない。いるとしても、犬の散歩をしている人がときおり通るくらいだ。

 

「林の中なら目立たない。こっち」

「随分と詳しいな。秘色さん、ここに来たことあるのか?」

「昨日、散々歩いて噂を広げたから…… その成果」

「あ、ごめん」

 

 一人で噂を広げるのにどれだけかかったのか。考えるだけでも恐ろしい。

 人と協力したとしても相当時間がかかるだろうに。

 

「ここで、待つ…… 噂が本当なら、もうそろそろ活動開始時間」

「来なかったらどうするんだ?」

「それはありえない。この手の怪異は、知ってる人にしか見えないし、聞こえない。怪異のほうも、狙わない。だから桜子さんの噂と一緒に流しておけば必ずここに来る」

 

 噂をした人、聴いた人のところにやってくる。そういう怪異って多いけど、足売り婆さんもそういう類なのか。

 

「ここの怪異は意思のない噂の塊だから、反応も対応も単純。下準備の噂広げるほうがよほど大変だった」

 

 だからあとは仕上げるだけ…… か。

 

「ふふん、ようく見てなよおチビちゃん。ぼくは後輩ちゃんとは違って後のない戦い方なんてしないんだ。後がないってことは、死に直結する。きみが参考にできないやりかただからね。ぼくはいろはがいる以上、やられるわけにはいかないのさ」

「分かったわ」

 

 なるほど。桜子さんがやられると秘色さんも危険に晒されるから、彼女は紅子さんのように捨て身で行かないのか。自称悪霊なのに随分と秘色さんのことを気にかけてるんだな。本当に悪霊なのか、少し疑ってしまいそうになる。

 

「さて、夕刻から随分経ったし…… お出ましみたいだよ」

 

 ぴた、ひたり、ひた、ひた、ひた、ずる、べしゃり。

 そんな湿ったような足音を立ててひと抱えもある風呂敷を担いだお婆さんがこちらへやって来る。

 夕日が空の向こうへ落ちていく。藍色の夜と夕日のオレンジが混ざったその狭間の時間に、後ろの景色を僅かに透けさせたお婆さんがまっすぐと、桜子さんへと向かっていった。

 透けたお婆さんとは違い、人間のようにはっきりと佇んだ桜子さんはそれを堂々と迎えた。

 

「お嬢ちゃん、足はいらんかね。足はいらんかね……」

 

 ぶつぶつと落ち窪んだ瞳で呟くお婆さんに、桜子さんは 「ああ、憎い憎い。人のものを取ろうとする奴が憎い」 とちっとも恨めしそうじゃない声色で返答する。あくまで彼女は悪霊として振舞っているようだった。

 

「足はいらんかね。足は、足は、足は」

「なら、お前の足をもらおうか」

 

 桜子さんが持っているのはカッターナイフではなく、包丁。

 桃色の人魂から取り出したそれで彼女は身を低くし、お婆さんの抱擁を避けるように足元をすり抜けると背後から心臓の位置をひと突きにする。

 途端に真っ黒な煙がその場で破裂したように広がり…… そして大気中に消えていった。

 本人達が言う通り、退治はとてもあっさりとしたものになったな。まるで苦戦することなく、桜子さんはお婆さんを躊躇いなく殺した。いや、消滅させた? どちらでもいいが、人の仕事ぶりを見るのは少なからず参考にはなる。

 噂を広めるなんて絡め手のようなやり方は初めて知ったからな。

 

「うーん、あんまり参考にならないかね、これは。ごめんねー、チビっこ」

 

 桜子さんは軽い調子で言いながらこちらに戻ってくると、途中で秘色さんと控えめなハイタッチ。 「おつかれー」 とまるでバイト終わりの学生のように続けた。それに対するアリシアはというと……

 

「いいえ、見ることも経験だもの。あなたみたいにあたしは嫌味なんて言いませんよーだ」

「んふふ、言うなあ。いろはと仕事してるとき以外は暇だし、うん。修行にちゃんと付き合ってあげるよ。退屈はしなさそうだし」

 

 無事、アリシアは桜子さんに気に入られたみたいだった。

 これで参考にできる相手ができたな。

 俺も秘色さんの霊感講座が参考になったし、学ぶことは多そうだ。

 ハロウィンのときは声真似に惑わされて紅子さんの足手纏いになってしまったし、二人で行動しながら仕事をこなす見本を見れるのは貴重な体験だ。

 

「いろはー、帰ろうか」

「うん。二人も一緒にどうぞ」

「ありがとう」

「助かるわ」

 

 もう少し、このメンバーで仕事を見せてもらおう。

 鏡の門を潜りながら、俺はそう決意したのだった。

 



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紅い蝶ひとひら

 ,

 

 

 

 

 ── パチン、となにかが弾けた。

 

 

 

 

 

 

 アラーム音が鳴っている。

 ああ、起きなければ。起きなければ怒られる。

 もしかしたらまたあいつが布団の中に潜り込んで朝チュンごっこをしてくるかもしれない。それは防ぎたい。

 それでもまだ眠っていたくて頑なに布団を手放さずにいると、頬を誰かに軽く突かれた。催促か、催促だな。たまには休ませろよ。

 そう文句を言おうとしても、言葉は出てこなかった。

 

「ちょっとー、兄ちゃん。今日は寝坊しないようにするって言ってたじゃん。赤座さんが待ってるよー?」

 

 聞き覚えのない声…… いや、もう聞かなくなったはずの、声。

 一気に目が覚めて、勢いよく布団から体を起こすとゴツッと鈍い音が響いて額に衝撃が走った。

 

「いっ、た」

「いってぇぇぇ! 兄ちゃん石頭なんだから勘弁してよぉ!」

 

 暫くお互いに頭を抱えて呻いていたが、確かに聞こえる。

 現実に、今、弟の…… 俺を忘れてしまったはずの弟の声が。

 

令二(れいじ)…… ?」

「なんでそんな変な顔してるんだよ。起きない兄ちゃんが悪いんだろ。今日も赤座さんが迎えに来てるよ。大学の同じ講義に出てるんでしょ。早く支度しろよ」

 

 赤座さんて、紅子さんのことか? 

 大学? 紅子さんと? どういうことだ。

 

「なに言って、紅子さんは幽霊で…… 俺は高校のときに、修学旅行で…… もう父さんも母さんも俺のことなんて覚えてなくて……」

「はあ? なに言ってんだよ。つーか赤座さんそんなこと言ったら怒るだろ。告白したのは兄ちゃんのほうなんだからさあ…… なに、悪い夢でも見てたの?」

 

 夢…… ? そんなはずはない。あれは、邪神に殺されたクラスメイト達は夢なんかじゃ。

 それに、紅子さんだって高校生で死んでいるんだ。間違っても俺と同じ大学に通ってるなんてありえない。俺だって、あれから大学に通ったりなんてしていない。

 夢なんて、あれが夢なんてそんなはずは。

 俺が三年間ひたすら苦しんだのも、救いたい人を救えなかったのも、人じゃないあちらの世界の住民と交流したのも、全部全部…… 夢なんかじゃないはずで…………

 

「っそうだ」

「兄ちゃん、だから早くしてって」

 

 ハッとしたように俺は立ち上がり、見覚えのある部屋の中をガサガサと家探しし始める。いや、かつての自分の部屋なんだから当たり前の光景なのだが、気分的に。

 そうして見つけたのは高校の卒業アルバム。

 

 俺は高校を卒業することもできなかったというのに、そこにあるアルバム。

 ページを捲っていけば、そこには修学旅行で楽しむ写真もあるし、無事帰りのバスに乗っている写真さえある。

 その後も他愛のない日常や文化祭やらの写真が続いていて…… その中には死んだはずのクラスメイトの姿もあった。

 それを見た途端、俺の頬に止めることのできない涙が流れ落ちていく。男が泣くなんて情けないな、とか、そんなこと考えている暇はなかった。

 

「えっ、えっ、兄ちゃんなに泣いてんだよ。さすがにここまでくると気持ち悪いって。夢と現実の区別もつかないなんてさすがにないよ。そんな悪夢だったの?」

「…… ああ、えっと、紅子さんが、待ってるんだっけ」

 

 困惑する弟に、俺のほうがおかしいのかもしれないと思い直して肯定だけ返す。

 

「そうだよ。早く準備しろって」

「…… 分かった」

 

 あまりにもあの不幸や生活が生々しくて、あまりにも印象に残っていて、リンを撫でた感触も、紅子さんが俺の目の前で一度死んで、また復活したときの光景も、アリシアやレイシーの顛末も、なにもかもがリアルな感覚で…… 記憶からこびりついて離れない。

 でも、落ち着いて思い出していけば心の奥底から俺の本来の生活が顔を覗かせる。

 そうだ、そうだ。こっちが俺の、俺があのとき失ったはずの日常。なによりも尊い、〝 普通 〟の生活なんだ。

 

 記憶にある通りパパッと支度をして、〝 いつもの 〟約束の時間を15分も過ぎてから玄関へ向かう。

 そこでは弟がなにやら騒いでいて、誰かに謝っているように見えた。

 

「遅いよ、令一さん」

 

 ひとつ、違和感。

 

「あ、ああ、遅れてごめん。紅子さん」

「いいけどね。講義に遅れて困るのはキミだし。深夜までナニをしてたのかなぁ?」

「な、なにも。悪い夢を見て混乱しただけだよ」

「おやおや、悪夢を見て泣いちゃうなんて令一さんも可愛いところがあるんだねぇ」

「え、え?」

「さっきまで泣いていたんじゃないかな? 跡が残ってるよ、お寝坊さん」

 

 紅子さんに指摘されて慌てて頬を拭うが、その手をそっと抑えられる。

 

「ああ、ほら…… そんなに乱暴にしちゃダメだよ」

「っわ」

 

 彼女のハンカチが顔に当てられて、間近に迫る顔に思わず仰け反る。

 

「なにかな。アタシがあまりにも可愛くて照れちゃう?」

「え、っと」

 

 間違ってはいないが間違いだ。なんだそれ。

 いや、混乱しているな。夢での紅子さんとあまりにも違うものだから、少し違和感がある。おかしいな。こっちが現実のはずなのに。

 

「ごめん、まだ混乱してるみたいだ」

「そう。別にいいけれどねぇ…… 大丈夫、アタシがちゃんと見ててあげるからさ」

「ほらー、兄ちゃんも赤座さんもイチャイチャしてないで早く行ってってば! 困るのは二人だよ?」

「…… 行こうか」

「そうだねぇ。アタシまで講義に出られなかったらどうしよ。責任、とってくれるんだよねぇ?」

「からかうなって」

「ふふ、いつものことでしょうに」

 

 弟に急かされて二人揃って歩き出す。行き先は聞かなくとも理解しているし、歩き慣れている道だ。間違えることはない。

 やはり夢でのことなんてすぐに忘れるものだ。現実でさえ忘れさせるような凄惨な夢だったとしても。

 

「きゅう」

「ん?」

「どうしたの、令一さん」

 

 なにかが聞こえたような気がして、立ち止まる。

 けれど、捨て猫でもなし。なにもないことを確認してまた歩き出す。

 

 大学でも日々と変わりない。

 ちょっと俺が変な夢を見たってくらいで、そうなにも。

 

 紅子さんと一緒に受ける講義も、そうでない講義も、話題は何気ないこと。ちょっとした噂。どこそこの店のクレープが美味しいとか、そんな普通のことばかり。

 

 ── ねえ知ってる? 

 ── 自分のドッペルゲンガーを見てしまうと死んじゃうんだってね

 

 だけれど、自然と耳に入ってくる。

 そんな話が気になって仕方がないのだ。あんな夢を見ていたからだろうか。不思議な不思議な怪異譚。周囲は人外だらけで…… そんな世界に踏み込む切っ掛けとなった紅子さんとの夢での脱出ゲーム。いつもいつでも彼女が近くにいて、絶望に飲み込まれそうになっていた俺の新たな〝 相談相手(ゆうじん) 〟になってくれた幽霊。

 壮大で救いのないような夢の中で、初めて俺の心を掬い上げてくれたからかい癖のある都市伝説。

 その姿がどうしても重なって、ここにいるはずの紅子さんに失礼なのが分かっているはずなのに影を追う。

 

 大学には秘色さんだっているし、彼女は年上の男性と付き合うことに成功している。親友の桜子さんとはお互いに手作りマフラーまで送る程の仲だ。

 桜子さんは料理や裁縫が得意なようで、ハンドクラフターとしてネットにショップを開設している。結構売れているらしい。

 

 そう、そこかしこに知っている姿がある。

 夢の中で救うことができなかった者。人ではなかった者。不幸に終わった者。それらが皆、この町の中で幸せに暮らしている。

 まるで夢の中ではこの世の全ての幸福を反転してしまったかのような、そんなキラキラ輝いている世界。

 

 この彩色(いろどり)町には自然が溢れかえり、街中を歩けば花壇や公園などがすぐに見つかる。

 季節外れの蝶々まで飛んでいるのを見かけるほど、この町はとても美しい。

 

 そう、望んだままの。

 願ったままの美しい世界。

 

 紅子さんと大学から帰る途中、いつものようにからかわれながら寄り道をし、評判のクレープを奢る。

 無邪気にとはいかないが、僅かに微笑む彼女の顔をもっと見ていたいから。

 夢の中では決して見られぬような心底幸せですと表すような、その姿を。

 

「令一さん?」

「…… っえ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

「また? まあいいけどねぇ。そんなに夢のことが気になるのかな。いいよ、相談に乗ってあげるからそこの公園に入ろうか」

 

 情けないな。心配をかけてばかりだ。

 弟が言うように、告白したのは俺からなのだ。呆れて嫌われてしまわないためにもあんまり弱いところを見せたくないよなあ。

 それでも、いち早く気がついて彼女は世話を焼いてくれてしまうのだが。

 

 公園にひらりひらりと蝶が舞う。

 鮮やかな紅色の蝶々が、視界を掠めて飛んでいく。

 

「きゅ」

 

 いつもいつも聞いていたその声を引き連れて。

 そうして、

 

「紅子さん?」

「…… 令一さん、走って」

 

 私服の彼女に手を取られ、そのまま公園を抜けて駆けていく。

 焦ったように俺の手を引く紅子さんはまるで紅色の蝶から逃れるように、俺を連れて駆けていく。

 なぜか、ひどく胸騒ぎがした。

 

 俺達二人の息遣いだけが空気に溶けていく。

 もういいんじゃないかと後ろを振り向いてみても、まだ俺達を追うように紅色の蝶がひらひらと舞い踊る。

 おかしい。蝶々なんて人間が走れば簡単に振り切れるはずなのに。絶対におかしい。

 冷や汗が流れる。この感じ、夢の中で何度も体感した…… そう、怪異の気配。

 

 そうして街角を走って、走って、走って……

 

 ふと、抜け落ちていた考えが頭の中を過ぎった。

 

 ── そういえば、なんであいつが。神内千夜がいないのだろう

 

 夢の中ではしつこく俺を虐げていた、あいつが。

 知り合いが夢の中に出てきていたというのなら、俺はあいつに出会ったことがあるか? そんなことはない。今日、俺はあいつの姿を見なかった。記憶の中にもない。まったくの知らない人間……

 

 ぞわりと、得体の知れない怖気が背筋に走る。

 

 嫌な予感がする。でもそれがなにかは分からない。

 なんだか、このままではいけないような…… そういえば、なんで紅子さんはあの紅色の蝶から逃げるのだろう。

 鮮やかな紅の蝶なんて、確かに不気味ではあるけれど。必死になって逃げるほどでは……

 

「な、なあ紅子さん」

「な、なにかな?」

 

 走りながらで息がきれる。でも、どうしても聞いておかなければならなかった。上手く言葉にはできない。けれど、絶対に言わなくてはならないこと。

 

「あの蝶はなんだ? どうして逃げるんだ?」

 

 確かに感じる妖しい気配。でも、なぜだか嫌な感じはしないんだ。ただの勘でしかないけれど。逃げなければならないほど悪いものでは、ないのではと……

 

「ね、ねえ令一さん。アタシ怖いんだよ。分かんないけど、あれを見てると、すごく怖いんだ。おかしいかな」

 

 泣きそうな横顔に、らしくないと思った。

 弱音を吐くなんて、紅子さんらしくない。

 あの人は、こんなにか弱い女の子ではないはずなのだ。

 俺の、俺の知ってる彼女とは……

 

「違う」

 

 ピタリと、彼女が立ち止まった。

 そして、彼女の背にぶつかるようにして紅い蝶が溶け消えていく。

 強い衝撃を受けたかのように紅子さんの体が前方に傾いだ。

 

「どう、して」

 

 絞り出すようにそう言った途端、彼女の姿からバタバタと夥しい量の紅色の蝶が飛び出して行き、その姿が見えなくなる。

 蝶に埋もれるようなその光景に心臓が跳ねる。繋いでいた手は、自然に彼女の方から離されてしまっていた。

 

「……ああ、そうだね。アタシはこんなにか弱くなんてない。弱音をキミなんかに話してやらない。アタシは生きてなんかいない。怪異だ。これは、お兄さんが見ていた〝 理想の赤座紅子 〟の幻想にすぎないんだよ」

 

 そうして、紅色の蝶が全て周りに散っていくと、そこに立っていたのは…… 果たして、夢の中と全く同じ姿。

 女の子らしい私服ではない、赤いセーラー服の上に真っ赤なマントを羽織った怪異の紅子さん。

 

「紅子、さん」

「ここはお兄さんの理想の世界なんだね」

 

 目を細めて俺を真っ直ぐに射抜くその赤い瞳に、蛇に睨まれた蛙のように竦みあがる。なぜだが彼女が酷く恐ろしいように思えてしまって、後ずさる。

 

「でもねお兄さん。これは、悪い夢なんだ。お兄さんは悪い夢に囚われている。そりゃあ、理想の世界で生きたいっていうのは悪いことじゃないけれどね…… 戻ってこられなくなったらいけないよ」

 

 本当に? 

 ずっとずっと夢の中の世界が不幸で、現実が幸福だと信じ込もうとした。

 それが俺の理想だったから。文字通り、夢にまで見た世界だったから。浸ろうとした。慣れようとした。嫌なことも、不幸なことも、なにもかも無かった世界があってほしくて。

 それが俺の望みだったから。

 

「戻ってきなよ。そのためになら……」

 

 紅子さんは、いつの間にか握っていたガラス片をその首に当てる。

 

「ちょ、ちょっと紅子さんそれはっ……」

「そのためになら…… アタシは、何度だってキミの理想を殺してあげるよ」

 

 ニヒルな笑みを浮かべたまま、その手をすいっと横にズラす。

 それだけで彼女の首は横一文字に裂かれて事切れる。

 彼女のいた場所から、大量の紅い蝶がバラバラに散っていく…… それらを捕まえようと手を伸ばしても一匹も捕まることなく、スルリと俺の手の中から消えていくのだ。

 まるで、本当に紅子さんみたいだ。掴んだと思っても掴めない。そんな彼女。

 

「きゅう」

 

 呆然としていれば、また聞き覚えのある声で我に帰った。

 

「リン…… 、リン、なのか?」

「きゅうう」

 

 一匹の紅色の蝶と、赤色の小さな竜。

 それらが俺の目の前をはたはたと舞っていた。

 

「…… 分かったよ」

 

 道しるべのように俺を待っている〝 二人 〟をゆっくりと追いかける。

 理想の、決してありえない世界から別れを告げるように。

 

「…… 分かってたよ」

 

 情けなくも涙が落ちていく。

 蝶と竜を追っていけば、俺の意識は急速に遠のいて行き…… そして。

 

 

 

 

 ── パチンと、なにかが弾けた。

 

 

 

 

 

 目を開く。

 ふらりと体が傾げそうになるのを両足で踏ん張る。どうやら、立ったままあの世界に旅立っていたようだな。

 そうして、俺は真っ直ぐとその元凶を見つめた。

 

「おはよう、れーいちくん。愉しい夢は見れた?」

「起きてすぐにお前を見るなんて、最悪な目覚めだよ」

「うんうん、いつもの通りだね。なによりだよ」

 

 ムカつくその顔。夢の中で一切出てこなかった奴。俺が理想の世界からいらないと判断した、大嫌いな奴。神内千夜(ニャルラトホテプ)だった。

 

「おそよう、お兄さん。体にどっか変なところはない? 無事かな?」

「ああ、お陰様で。それより紅子さんのほうこそ大丈夫なのか? 首…… 切ってたけど」

「え? …… あー、ごめんねぇ。アタシの意識のカケラをリンに渡して連れ戻しに行ってもらってたんだけど…… 小さなやつだから、記録は見れないんだよねぇ…… なに、アタシ自殺でもした?」

 

 そうか、覚えてないのか。そうか……

 

「うん、まあそうだな」

「へえ…… まあいいや。さて、〝 枕返し 〟の捕獲だけれど、もう済んだよ。案外あっさりね……」

「なあ、結局なんで俺は寝てたんだよ」

 

 ああ、そういえば無差別テロのように枕返しがやらかしまくるから捕獲しに来たんだったか。そこになぜ神内がいるのかが分からないが。

 

「覚えてない? お兄さん、バクの風船を割っちゃったんだ」

「バク?」

「うん。本人はいないけれど、邪神が使った。バクは夢の詰まった風船を販売してるらしいから入手経路はそれだろうね。お兄さんが乱入してきた邪神を斬ろうとしたときに、盾にされた風船を割って飲み込まれちゃったんだ」

 

 あー、つまり、また俺のミスか…… それであんな目に。

 俺達の会話を聞きながら、憎らしい邪神が小首を傾げながら 「でも、心地の良い夢だったろう?」 と聞いてくる。

 

「…… ああ。こちらを現実と思いたくないほどには、居心地が良かったよ」

「くふふ、良かった」

 

 心底嬉しそうに奴が笑った。

 

「良かったって…… なにがだよ」

「なにって、誕生日プレゼントだよ。居心地の良い夢を選ぶのにも苦労したんだよ? 苦労に見合う出来だったみたいでなによりだよ。たまには眷属も労わないとね」

 

 と、そんなふざけたことを抜かす奴にもう一度斬りかかろうとして紅子さんに制される。

 

「邪神…… 本気で善意でやったって言いたいのかな」

「それ以外にないだろう? 誕生日くらいいい思いをさせてあげないとね」

「…… あっ、そう。なんというか、性質(たち)が悪いよねぇ」

 

 あれで善意? 嘘だろ。悪意しかないだろ。

 なに言ってんだこの邪神。それを本気で言っているあたり、終わってるな。

 

 紅子さんがあのことを覚えていないのは少し残念だし、とんだ誕生日になってしまったが…… まあいい。いや、よくはないが…… 過ぎたことだ。

 

「それじゃ、私は先に戻ってるからね。あとで感想を聞かせてよれーいちくん」

「さっき最悪だって言ったばかりだろーが!」

 

 この数年。邪神野郎はずっと祝ってくれたことなんてなかったのに、どんな心境の変化があったんだよ……

 

「散々だったねぇ」

「ああ、そうだな」

 

 ジタバタと暴れる無差別テロ枕返しを俵抱きにして一息つく。

 あとはこいつを引き渡すだけだ。それだけで終わりだ。

 

「ああ、そうだ。誕生日おめでとう、お兄さん」

「うん。ありがとう紅子さん」

 

 せめて来年は普通の誕生日になってほしいところだ。

 そんなことを思いながら、隣の彼女を覗き見る。

 同じくこちらを見ていた彼女は不敵に笑って、「どうしたの? アタシに見惚れちゃった?」なんていつものように軽口を叩く。

 俺はそれに同じく軽口を返そうとして……立ち止まる。

 

 なにも出てこなかった。

 彼女に見惚れていた? 俺が。そうだ、見惚れていたのは本当だ。なにも言い返せない。

 

「お兄さん?」

 

 なにも言い返さない俺に対して、紅子さんがどことなく不安気に声をかけてくる。

 そんな姿に、不安な顔はしないでほしいだとか、心配かけたくないだとか、どうしようもなく胸の奥がギュッとするような、熱くなるような感覚に陥って混乱する。

 

 あれ、俺。

 

「ねえ、お兄さんったら」

「ごめん、なんでもない。紅子さんに見惚れてたのは図星だったから」

「……そ、そう。そっか。そう言われて嬉しくないなんて言うほど、アタシは意地悪じゃないよ」

「知ってるよ」

 

 そっぽを向いて照れる彼女がどうしようもなく可愛らしくて、愛しくて、そうして俺は気づいてしまったんだ。

 

 ああ、俺。きっと紅子さんのことが好きだったんだなって。

 

 今更気がついた。

 今更知ってしまった。

 今更自覚してしまった。

 

 こうなってしまえば、もう自覚する前には戻れない。

 

「紅子さん、どっかご飯食べに行かないか?」

「アタシはお兄さんの手作りがいいなぁ」

「っ……分かった」

 

 甘えるように言う彼女に、いつもなら少しの動揺で済んだはずの心が動く。

 店に食べに行くよりも、俺の手料理がいいだなんて……そんな殺し文句卑怯だ。

 

「さ、行こ」

「ああ」

 

 すぐ隣、肩が触れ合ってしまうほど近くで並んで歩く。

 今日は人生で最高の誕生日になった。

 

 やっぱり来年は、普通の誕生日なんかじゃなく、もっともっと人生で最高の誕生日の記録を更新していきたいなと……そんなことを思ったのだった。

 

 

 




 1月23日は主人公、下土井令一の誕生日でしたとさ。


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テケテケになった少女

 人身事故。それは防げぬ事象。

 いくら気をつけていたとして、起きるときは起きてしまう。そんな悲しい出来事。

 

 電車の人身事故で連想する怪異とはなんだろうか。

 世の中電車に纏わる怪異は数知れず存在するが、人身事故となると8割くらいの人間は〝 てけてけ 〟を連想するのではないか…… と少女は思う。

 赤いマントに似た服を翻し、少女―― 紅子は令一と共に生まれたての〝 てけてけ 〟を追っていた。

 

 その依頼が電子掲示板に張り出されたのは朝方のことだった。

 同盟の特殊なネット回線で表示される掲示板には古今東西の怪異による人間の被害が張り出され、視察や調査、最終的に辿り着く討伐の依頼などが書かれているのだ。

 基本的には人間を狩りつくす勢いで殺戮をしなければ討伐対象にはならないが、理性を失った怪異は限度を超える危険性があるため監視がつくこととなる。

 今回、紅子と令一が追っている生まれたての〝 てけてけ 〟は理性を失った者。

 いや、〝 本能に負けつつある者 〟である。

 

「今回の仕事、お兄さんには少し酷かも」

 

 唐突に紅子が言った。

 

「いつもひどいのばっかだろ。今更だよ」

「それもそうかもねぇ…… きついのは、アタシのほうかもしれない」

「え、紅子さんが?」

 

 あのねぇ、と呆れた風に紅子が声を漏らす。

 

「アタシは完璧超人なんかじゃないよ。きついものはきつい…… どうやら、あのてけてけはアタシと同じようだし」

 

 顔だけは涼しげに、なんでもないように彼女は答える。

 

「同じって?」

「…… 怪異のできるときに、噂の塊が渦巻いて妖力が形成され、器ができる。その器は基本的に噂通りにしか動かない。人を殺す怪異なら人を殺そうとする理性も知性もない概念だけの存在だよね。でも、そこに怪異と似た境遇の魂が引き寄せられれば…… アタシのように、知性も理性も得た怪異の分身となる。分かるかな?」

 

 令一はしばし黙ってから、 「つまり、あのてけてけには人身事故で死んだ人の魂が入っているってことか?」 と答えた。

 

「正解。だけど、あの子はアタシと同じようで、同じではない」

「えっと…… ?」

 

 令一は次に出現すると思われる駅へ足を向け、紅子と共に歩く。

 現場に着くまでに答え合せを終わらせるつもりなのか、紅子は「分からない?」と答えを急かした。勝手に答えを言うつもりがないのは、もしかしたら彼女が〝奪われる〟ことが嫌いなせいなのかもしれない。

 答えを探しているときに勝手に答えを言われてしまったら腹が立つのだろう。だから、彼女は自分がされたら嫌なことをしようとしない。

 

「魂が入ってるはずなのに、理性が飛んでる…… とかか?」

「ご名答、概ね正解だよ。あれはね…… 並大抵の精神力じゃ到底理性を保てるようなものじゃない。元は普通の人だよね。死にたいから死んだ場合だってある。なのに、体を持って存在している。しかも恨みつらみで誰かを殺してしまいたいくらいの衝動に駆られてしまうんだ。普通の人間なら殺人に忌避を感じるだろう?」

 

 淡々と事実を話す紅子の横顔は凪いでいて、令一には感情の機敏を読むことはできない。

 

「この世から消えてしまいたかったのに、その機会すら奪われて…… やりたくもない殺人衝動に駆られ続けるんだよ。人なんて殺したくない。でも殺したい。殺さなければならない。そんな葛藤が頭の中でグルグルと続くんだよ。怪異としての(さが)と、人間の魂の理性がせめぎ合うんだ…… 気が狂ってしまいそうになるのは仕方ないことだよねぇ」

 

 令一は、まるで体験談のように言うんだなと思ったが、それを口から漏らすことはなく 「そうか」とだけ答える。

 きっとそれを訊いてしまえば紅子の地雷を踏むと思ったのだろう。

 実際、それを訊かれたら紅子のと令一の距離はもっと離れていたことだろう。深く自身の領域に踏み入られるのを彼女は好まない。

 あまり根掘り葉掘り訊いてしまえばまず間違いなく紅子は嫌悪し、二度とそれをした人物の前に現れないだろう。人間の意識が同居しているにも関わらず怪異より怪異らしい…… そういう気難しい少女なのだ。

 

「あのてけてけは理性が本能に押し負けつつあるんだ。それだけだよ」

 

 実のところ、紅子はこの情報を令一に伝えるかどうかを迷っていた。

 彼にこの話をすれば必ず理性を取り戻してやろうと尽力し始めるからだ。

 故に話さない選択肢もあったのだが、彼女はそれをせずに素直に語る。

 そのほうが令一の心の成長に必要なのではないかと思ったからだ。

 彼は他人に甘い。実に甘い。それはもう弱点であり、彼女が嫌っている部分でもある。少しはシビアな状況を体験してみるのが彼がこの世界で生きていくうえで、最も傷つけない方法なのだと判断した。

 今回の件については状況自体はシビアであるが対象の理性の度合いによって結果が変わるので、令一にとってもいい経験になるだろう。てけてけが思いのほか理性を獲得しているようなら紅子自身も手を差し伸べるつもりではあるのだ。

 …… 最終的にどう思うかは彼の心次第となるが、紅子にはそこまで縛るつもりがない。

 元々奪われるのが嫌いなのである。他人に対しても選択肢を取り上げるようなことはしない。

 ただ、取捨選択するにも情報は多いだろうと思っただけで。決して彼を想ってのことではない。決して。

 そんな風に自身の心に言い聞かせながら紅子はガラス片を自身の人魂から取り出す。臨戦態勢だ。

 

「そろそろ駅だよ、きっと、すぐに来る」

「ああ」

 

 その日、雪が降っていた。

 さくさくと彼らは浅い雪を踏み込みながら現場に訪れる。

 てけてけはその名を呼べば来る。雪の日ならば特に。

 

 てけてけの伝説は有名だ。

 人身事故で亡くなった女性の下半身もしくは足だけが発見されなかったというもの。

 電車によって上下の体を切断された女性は雪の降る日、あまりの寒さに傷口が凍りつきなかなか死ぬことができず、数分間苦しみ悶えながら死んでいったのだという。

 

 断頭台で首を落としても数分生きることがあるというので、恐らくあまりに早い切断が行われると、体の電気信号が途絶えるまでに少し間が空くのだろう。

 余計に残酷なその死に様に多くの者が同情することだろう。けれども、

 

「死人に同情なんて、しちゃいけないんだよ」

 

 キッと前を見据える紅子に、令一が眉を下げて答える。

 分かっては、いる。そんな表情。

 

「道端で死んだ猫でもなんでも、よく言うだろう? 同情なんてしてはいけない。同情すれば心の隙に入り込まれ、取り憑かれてしまうんだよ。だから、死人には決して同情してはいけない」

 

 それはまるで自分のことも含めたように。

 令一は彼女に同情と憐憫を寄せていたこともあるので、責められているように感じたかもしれない。実際、彼はそうして誰かに同情し、何度も酷い目に遭っているのだ。

 

「てけてけ、いるなら出ておいで」

 

 雪に赤が混じる。

 赤く染まった粉雪がまるで桜吹雪のように舞う。

 それは合図。てけてけが現れる合図なのだった。

 

「足を、私の足を知りませんか。足を、足を足を足を」

 

 声に濁りはなく、ただ憂鬱そうに発せられる言葉。

 声だけ聞けば人間とそう変わらぬが、その姿はまるで違う。

 黒髪ショートで、コートを着た女の子だ。普通と違う点を挙げるとするならば、やはり地面に這いつくばったその下半身がついていないことか。

 長かったろうコートは腰から先が千切れ、裾が真っ赤に染まっている。

 移動するたびに這う腕は傷だらけで、爪は無残に割れ血が滲んでいた。

 擦り傷だらけで、千切れた体を引きずる女。コートの下からチラチラと赤黒い色をした細長いものが見え隠れしており、令一はその姿に思わず口元を押さえた。

 

「少しお兄さんには刺激が強かったかな? ああそっか、お兄さんは体を取り繕った怪異しか見たことないからね、仕方ないか。まあ…… 残念だけど、アタシはこういうの見慣れてるからねぇ……」

 

 紅子は冷静にてけてけを見やる。

 てけてけはどうやら少しだけ理性が残っているようで、そこに佇んでいるだけでなかなか手を出してこようとはしない。まだ、頭の中で本能と理性が争っているのかもしれなかった。

 

「寒い、寒い、寒いの、足が痛い、痛い、痛い、痛いの。聞こえる? 聞こえているなら教えてください。私の足はどこ? お願い、お願い。助けて。なくなってしまったはずなのに、痛いんです。足が痛いんです。助けて、助けて、助けて…… お願いです。私と同じ苦しみを、痛みを、分かってください。お願いです、哀れに思うならあなたの足をください。痛いんです、痛いんです。私は、私は、私は殺したくなんて…… ないんです。でもやらなければいけないんです。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、なんで、どうして、死んでしまいたかったのにどうして私はまだ苦しまなければならないの…… どうか、どうか教えてください、教えて、ねえ…… 教えてよ」

 

 ぶつぶつと呟き続ける女に令一は絶句する。

 その様子に紅子は 「社会勉強の一環かねぇ」 と考えを巡らせながらその様子を眺める。手は出さない。まだ女が堕ちきったとは言えないからだ。

 更生の余地はあるが…… さて、自分に手を差し伸べてくれたあのさとり妖怪のように上手くできるだろうか、と紅子は悩む。

 しかし、手遅れになる前に打てる手は打っておかなければならない。

 ここに秘色いろはが派遣されてこなかった理由はこれにあるのだ。

 

 いろはが来れば、必ず浄霊することが可能だ。

 しかし彼女にこの仕事が割り当てられなかった。つまり、紅子達はこのてけてけの理性を取り戻させることができるだろうと期待を持たれているのだ。

 できなかったとしても批判はされない。しかし、それはそれで気にくわない。

 そんな裏の事情を一人だけ把握している紅子はツカツカと女に近づき、しゃがみこむ。

 

 今回ばかりは令一の甘さを羨ましく思うのだ。

 彼女は同情なんてできない。まるで昔の自分を見ているようで心底同族嫌悪が浮かぶくらいだ。

 近づいたためにありえないほどの力で紅子の足が掴まれる。

 令一の慌てた声が響いたが、彼女は気にせず女を見つめた。

 

「楽になりたいかな? 死にたいかな? それとも、苦しみをなくしたい?」

 

 同じようで、違う言葉を彼女に問いかける。

 カウンセリングなんて器用なことは不得意だと自覚している彼女ではあるが、やってみるしかないのだ。挑戦しろと、きっとそういう指示なのだろうと思っているから。

 

「ねえ、真っ当な人生を歩めていたならやってみたかったことってあるかな? 美味しいもの食べたりとか、遊園地を友達と行ったりとか、そういうの。ああ、自分が誰にも嫌われていなくて、幸せだったならっていう仮定の話だよ。境遇のことなんて考えずに、素直な欲を言ってごらん」

「痛いのは嫌です。寒いのは嫌です。死にたかった。今は、死ぬのが怖い、です。殺したい。でも、殺すのも怖い、です。人を傷つけるのは怖いんです。でもやらなくちゃ、やらなくちゃ私はずっと苦しいままで」

「うん」

 

 てけてけに掴まれた紅子の足から、嫌な音が鳴る。

 そこで令一が彼女の肩を掴み引き離そうとするが、それを彼女は手で制すると笑う。

 

「アタシは死なないから大丈夫。これくらいいつものことだよ。慣れないことしてるから大変だけどねぇ」

「温かいものが飲みたい、食べたい。みんなと一緒にお昼を食べたかった。少しでいいから、お話したかった。馬鹿騒ぎしてみたかった。一緒にカラオケに行ってみたかった。からかわれてもいいから、仲間に入れてほしかった。修学旅行にも行きたかった。卒業写真に映りたかった。やりたかったことなんて、もっともっともっとあります…… でも叶わないんです。足が痛いの。なくなったはずの足が。もう立てない、走れない。だめなんです」

 

 悲観するようにてけてけが言う。

 襲いかかるのを踏みとどまっているのは、紅子が理性の部分へ会話をさせているからなのかもしれない。

 

「だめじゃないよ。キミは怪異、テケテケとなったけれど、アタシ達のところならその足を補強できる。また歩けるし、走れる。アタシだって首を切って死んだんだよ。でも、そうは見えないだろう? 生前の姿に見えるように、この包帯には術がかかってる。こういうのがまだまだたくさんあるよ。キミもまた、普通に生きられるかもしれない。賭けてみる気はあるかな?」

「でも、でも、でも…… 私嫌われる。また、嫌われるわ」

「そんなことはないはずだよ。アタシだって人から嫌われてたんだからね」

「人を殺したいの。同じ姿にしてやりたいの。苦しみを共有したいの。この苦しみはどうすればいいの」

「アタシと同じだよ。代用を見つけようか。そうだなあ…… 夢の中で謎かけをしよう。私の名前は? 私の足はどこにある? 私の足はいつ見つかる? そんな謎かけを。そして不正解したやつの足を取る幻覚を見せるんだ。それでキミを形成する畏れは手に入る」

「本当に?」

 

 慎重な人だな、と多少面倒に思いつつも紅子は頷いた。

 

「名前はなんていうのか、教えてもらっていいかな?」

茅嶋(かやしま)麗子(れいこ)

「おっと、これではテケテケというよりも」

 

 カシマレイコに近い名前か、と紅子は笑いながらその名前を復唱した。

 

「茅嶋麗子さん。キミはその殺人衝動を振り切りたいね?」

「…… はい」

「なら、契約だ。キミを同盟へ連れて行く。そこでならその足もどうにかなるだろう。それまで、キミを一時的に捕縛させてもらうよ。許可をくれるかな」

「はい、お願い…… します。すぐに、お願いします。もう、限界で……」

「分かったよ」

 

 捕縛用の術がかかったカチューシャを紅子は彼女の頭につけ、眠るように目を閉じたその体を確認してから息を吐く。

 

「…… はあ、終わった。お兄さん、勉強になったかな?」

「ああ、とても。手伝えなくて悪い…… でも自分の足を犠牲にするのは良くないんじゃないか?」

「どうせ治るんだからいいんだよ」

 

 令一が 「そういうところだよ」 とでも言いたげな顔で彼女を見つめるが、紅子はどこ吹く風で無視をする。

 

「あー、でもその子を担ぐのはお願いしてもいいかな。申し訳ないんだけどさ。この場で直接アルフォードさんの店まで行くから、そこまで」

「ああ、それくらいなら喜んでやるよ。この人のことも気になるしな」

「はあー、疲れた。慣れないことなんてするもんじゃないねぇ」

 

 ゲートとなる鏡を近場で探し、リンの導きですぐさま異界の店へと足を踏み入れる。

 アルフォードにてけてけ…… もとい茅嶋麗子を引き渡せばひとまず依頼達成だ。

 

 

 

 

 ……

 

 

 

 

 

「うんうん、紅子ちゃんだったらやってくれると思ってたよ! この子の処置が終わったらもう一度教育係としてキミに来てもらうけど、とりあえず明日になると思うから今日はゆっくりしてきてね〜」

「え、教育係?」

「キミがこの世界に馴染むまでしらべちゃんも付き合ってくれてたでしょ? それと一緒だよ。先輩になるってことだね、頑張ってね!」

 

 紅子もさとり妖怪の鈴里しらべに拾われた口である。

 そう言われてしまったら辞退などとてもできないではないか。苦々しい顔で 「そういうの苦手なんだよねぇ」 と言う紅子はいつもより少しだけ見た目相応に見えた。

 

「紅子さん、このあと暇ならその辺散歩しないか?」

「いいけれど、この雪の中にかな?」

「いい喫茶店見つけたんだよ。今日は仕事の疲れもあるだろうし、そこでケーキでも食べないか?」

「ケーキ……」

 

 その単語を聴いてわりと乗り気になった紅子は了承の意を返し、令一の隣へ歩いていく。

 

「あれ、そういえば紅子ちゃん今日誕生日なんじゃないの? 丁度いいから奢って貰えばいいんじゃない?」

「………… 今日って何日かな?」

「2月8日だね?」

「あー……」

 

 紅子は明後日の方向を見ながら声を出す。

 

「忘れてたのか?」

「…… うん。そうだねぇ」

「そうか、紅子さん誕生日か…… 俺も祝ってもらったしな………… アルフォードさん、確かこの裏の屋敷に紅子さんの部屋もあるんですよね?」

「そうだよー、なんならキッチンもあるよ?」

「よし」

「よしって、なに。どうしたのかな?」

「紅子さん、なんのケーキ食べたい? 俺作るよ」

「えっ」

 

 令一の料理は何度も食べたことがあり、なおかつ美味しいと彼女は知っている。疲れてあまり出歩きたいと思っていなかった紅子にとって、喫茶店でいいよなんて言葉はとても口に出せなかった。

 外堀を埋められて行っている気分になりながら紅子はしばし考える。

 

「その、チョコレートケーキ…… かな」

「よしっ、待っててくれ。すぐ作る」

「手伝うよ。待ってるのも暇だし」

「疲れてるだろ? 休んでていいって。足も怪我してるんだし」

「そうだ紅子ちゃん、怪我のための薬はいいの?」

「いい、自力で治すよ。分かった。待ってるから、入るときはノックするように。いいね? 場所は二階だから」

「りょーかい。誕生日おめでとう、紅子さん」

「…… 死んでるのに誕生日祝ってもねぇ」

 

 目を逸らしながら、紅子はそう言った。

 

「祝うのはこの前のお返しだよ」

「アタシは口でしかおめでとうなんて言ってないけれどいいのかな?」

「祝う祝わないは俺の勝手だろ?」

「あー、はいはい。分かったよ」

 

 紅子はそんなやりとりの後に自室に戻ると、ボフンとベッドの中に倒れる。

 ケーキ作りなど、いくら急いでも時間がかかるだろう。

 少しの間だけ寝てしまおう。そう判断して。

 

 夢の中で畏れのためのゲームもせず、ひとときの休息。

 起きたときには令一が返事がないからと部屋に入ってきていて、盛大に慌てたのはご愛嬌。

 そうして、彼女の誕生日は瞬く間に過ぎて行った。

 

 

 

 




 2月8日は紅子さんの誕生日でしたとさ。

 ルイナさんより支援イラストを2枚いただいております!
 もう本当、本当に可愛くて100回保存しました。
 支援イラストをいただけるの本当に嬉しくて舞い上がってしまいます!
 ありがとうございました!

令一&リン

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紅子さん

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ゆっくりのおまじない

 電話が、鳴った。

 

「はい、もしもし……」

 

 沈黙。男は訝しげに首を傾げて電話を切ろうとして……その小さな声に手を止めた。

 

「もしもし、あたしメリーさん。今都ノ鳥(みやこのとり)町駅にいるの。待っていてね」

 

 電話が切られ、再びその場所に沈黙が落ちる。

 男は非常に煩わしそうに電話を置くと、そばにあった小瓶を盛大に倒して慌ただしくそれを片付け始めた。誰もいない教室内。その教卓から落ちたにも関わらず、僅かにしか零れ落ちなかった中身を回収して小瓶に戻す。

 

 そうこうしているうちに、再び電話が鳴った。

 

「なんだよ、おれは眠いんだ……早く終わらせなきゃいけねーのに……」

「もしもし、あたしメリーさん。今角のタバコ屋さんのところにいるの。絶対に待っていてね」

 

 ガチャン。電話が切れる。

 教室内の机を借りて顔を伏せた男は、眠たげに瞼を落とし……そして目を瞑り……再び、着信音で目を覚ました。

 

「いい加減にしろよ!」

「もしもし、あたしメリーさん。今都ノ(みやこの)四高等学校の前にいるの。必ず待っていてね」

 

 五分と経たずに迫ってくる何者か。

 それに対して苛立つ男は己のスマホを叩きつける気力も出ずにダラリと腕を垂れ下がる。もう眠気は限界に達していた。

 今にも目を瞑りそうになる男のスマホが震える。

 

 男は着信に反応することができずに視線を落とすことしかできない。

 怠くて、眠くて、そして気力もなく、彼は机から起き上がることもできずに微睡みの中にいた。

 

 すると勝手に電話が繋がり、突然大音量の別の男性の声らしき絶叫が響き渡る。

 これには微睡んでいた男もハッと目を覚ましてしまい、起き上がって「うるせー!」と文句を言った。

 不思議と、現実でも絶叫があったように彼の頭はワンワンと頭痛を訴える。

 

「もしもし、あたしメリーさん。今職員室の前にいるの。もうすぐよ、待っていてね」

 

 そして一方的に繋がった電話は、また一方的に切れた。

 

「なんなんだよ」

 

 数分の間が空き、すっかりと目を覚ましていた男は再び眠気に襲われていた。

 誰もいない教室内、静かな教室内。そんな静けさを壊すように着信音が鳴る。

 

「なんで、電話とかしてくるんだよ。お願いだからもうやめてくれ」

「もしもし、あたしメリーさん。今あなたの後ろにいるの」

 

 声は、電話口と背後から同時に聞こえていた。

 

「なっ」

 

 男が振り返る。

 そこには、小学生くらいの女の子がにっこりと微笑んで浮かんでいた。

 四月でまだ早いと思われる麦わら帽子を被り、淡い青色のワンピースを着た少女が、微笑んで彼の懐へ、そっと入り込む。

 

「待っていてくれて、ありがとう先生。あたし、先生を呪いに来たの」

「なんだよ……なんでお前までおれのことをそんな風に言うんだ……! おれはなにも悪くない、悪くないだろう!? どうして責められなくちゃいけないんだ! どうしておれが教員をやめなくちゃいけないんだ……! お前までおれを恨むのか……!?」

 

 男は少女を引き離そうとするが、少女は離れない。

 少女――メリーさんは儚く微笑んで、彼に擦り寄るとその額に小さな小さな唇を押し付けて囁いた。

 

「せんせーは、ゆっくりゆっくり死ぬ呪いにかかりました。ゆっくり、ゆっくり、いつ来るかも分からない死に怯えて、まだまだ生き続けるよーに!」

 

 男は目を見開き、少女を見つめる。

 

「お前……」

「先生、眠っちゃいそうだったの。だからあたしが起こしてあげたの。寝坊助さんな先生はもっともっと苦しむべきなの。だからまだまだこっちに来ちゃダメなの」

 

 男が驚愕に後退る。

 腕が机に当たり、また小瓶が床に落ちた。

 

 今度は小瓶ごと割れて中身が散らばる。

 

 

 ――そう、残り少なくなった睡眠薬が。

 

 

「先生、笑って? あたしにしてくれたみたいに」

「……こうか?」

「へったくそー」

「ごめん、ごめん……ごめんな」

「いーの、あたしメリーさん。先生が大好きなメリーさん。懲りずに変なことし始めたら、きっとまた起こしに行ってあげる」

 

 男はすっかりと目が覚めていた。

 そんな彼の前で、徐々に少女の姿が薄れていく。

 最後に手を振って、「バイバイ」と声をかけて。

 彼はそんな少女に手を伸ばそうとするが、すり抜けてしまい虚しく差し伸べられた手は空を切った。

 

「おれは、おれは……っ」

 

 学校で自殺を図ろうとしていた教師は一人教室に佇み、涙を流す。

 登ってきた朝日が、窓から差し込んで彼を照らしていた――。

 

 ◆

 

「これでよかったのかな? メリー」

「うん、満足」

「……」

「お兄さんなに泣いてるの?」

 

 俺達は経過を見守ったあと、高校の裏手側に回って話していた。

 俺自身といえば、さっき見た光景のせいで涙が次から次へと溢れ出てきてしまい、紅子さんに呆れた目を向けられている。

 

「だ、だってさ。健気なんだなって、思ったら……」

「まあ、今回はちょっと特殊な依頼だったかもねぇ。〝やりたいことを見守っていてほしい。もしかしたらお手伝いをしてもらうかもしれない〟だなんて」

 

 そう、今回の依頼は目の前の青いワンピースを着た少女こと、メリーさんからの仕事の依頼だったんだ。

 内容はさっきの通り。

 

『自殺を図ろうとしている恩師を助けたい』

 

 と、いうことだった。

 方法は彼女、メリーさんの分け身である芽衣(めい)ちゃんのポリシーに則って本来のメリーさんと同じように電話をかけてワープして急いで現場に向かうというものだった。

 睡眠薬を大量に飲んで死のうとしている恩師を、そうして目を覚まさせながら時間を稼ぎ、最終的には死ぬ気をなくすために呪いという名前のお願いをするというものである。

 最後のほうで電話に出なくなった彼に焦り、芽衣ちゃんにスピーカーに向かって全力で叫べなんて言われたときはどうしようかと思ったが、上手く彼が目を覚ましてくれたようでなによりだ。

 

「じゃあ、アタシ達はもう行くよ」

「今日はありがとなの」

「いやいや、こちらも勉強になったよ」

 

 会話を切り上げると、メリーさんはそのまますうっと透けて消え、いなくなってしまう。救った彼の様子を見に行ったのかもしれない。

 

「紅子さん、なに見てるんだ?」

「ん? ああ、いや……ちょっとね」

 

 高校を目の前にして、紅子さんはどことなく懐かしそうに目を細めて眺めていたと思うと、首を振って手を自身の首に触れさせる。

 

 包帯越しにあるであろう、その傷跡。

 

 無意識なのだろう、その行動に俺は目を惹かれていた。

 

「どうしたの? お兄さん。早く帰るよ?」

「……あ、そうだ。忘れてた。ちょっと待ってくれ紅子さん」

 

 俺はそう言って鞄から駅前で事前に買っていた小さな花束を高校の前にそっと置いた。

 

「なにやってるの?」

「なにって、ここで亡くなった人がいるんだろ? あの芽衣ちゃんは違うけどさ、そう聞いたからにはこれをしとかないとって思って」

 

 俺は依頼を受ける際に、アルフォードさんからこの高校で亡くなった人がいると聞かされていたんだ。花を手向けろなんてことは別に言われていないが、なんとなくやっておくべきだと思ったのだ。

 

「誰が亡くなったのかは調べたの?」

「いや、調べてないよ。なんとなくそうしたほうがいいと思ったから花束を買ってきただけだ。なんというか……勘? みたいな」

「変なおにーさんだねぇ」

 

 紅子さんはどことなく嬉しそうに微笑んで、俺に並んだと思うと、一緒に手を合わせた。俺ももちろん、手を合わせて目を瞑る。

 

 ここで死んだ人が、安らかに眠れますように。

 もしくは、死後どうか幸せになれますように。

 

 それは細やかな願い。

 

 目を瞑って祈っていた俺には、紅子さんのどこか切ないような、儚いような、そんな風に紅い瞳を細める彼女を見ることなど、とうとうなかった。

 

 

 それは早朝――四月二日の出来事であった。

 




紅子さんのとある設定をまだ開示していないので伏線として。


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紅子さんの浴衣が見たいんだ!(直球)

.

 

「頼む、紅子さん!」

「ねえお兄さん、常日頃嫌いって言ってる人とアタシが旅行に行くと思うの?」

 

 俺は今、最近よく訪れる字乗(あざのり)さんの図書館で紅子さんに頭を下げていた。紅子さんが座っている席の、その向かい側の席について手を合わせ、全力でお願いをしているのだ。

 そして、その様子を文車妖妃(ふぐるまようひ)である字乗さんと亡霊魔女のペティさんがニヤニヤと酒の肴にでもするように観戦しているのである。

 

 俺が紅子さんに頼んでいるのは一言で、「一緒に温泉旅行に行ってほしい」だ。彼女に親がいたらぶん殴られそうな頼みごとだ。

 けれど、これは必要なことなんだ。

 

「アルフォードさんが言ってたんだよ。この山の中に景色のいい秘湯があって、そういう特別な場所ならアリシアちゃんの霊力も上がるかもしれないって」

「それで、アタシも誘おうって? ふうん、アタシはおまけか。おにーさんのいけずー」

「ちがっ」

「まあ、それはそれとして…… なんでアタシなのかな」

 

 だって、俺とアリシアちゃんで行ったら事案でしかないだろ! 

 23歳と12歳だぞ!? 事案だ事案! 

 それを切々と訴えると、紅子さんはへにゃりと眉を困らせて溜息を吐いた。

 

「それを言うなら、アタシがついていっても犯罪臭が増すだけとは思わないのかな。これでも見た目は高校生なんだよ?」

「うっ」

 

 それは、そうだけども。

 

「おにーさん、アタシは嘘が嫌いなんだよ。正直に言ってごらん? なにが目的なのかな? 女子高生との温泉旅行デートかな? それとも……」

 

 言葉に詰まる。

 彼女にそんなことを言われて思い起こされるのは、この前の誕生日での出来事だ。神内千夜(ニャルラトホテプ)の気まぐれで理想の夢を見せられたことを思い出してしまう。

 

 ―― 令一さん

 

 そうやって、普段よりもずっと柔らかく笑う紅子さん。

 あの、俺の思い描いた理想の世界では、俺の彼女だと言われた紅子さん…… あんな夢見せられて、意識しないほうがどうかしてる。

 あんなのありえないし、そもそも紅子さんは俺の優柔不断さとか、言い訳をして逃げる癖を嫌っている。望みは…… そりゃ少しはあるかもしれないが。彼女が弱みを見せてくれるようになる想像なんてつかないし、見せてくれたとしたら、それは紅子さんらしくないわけで…… まあつまりは、ただ単純に彼女とどこかに出かけたいだけ、なのかもしれない。

 

「そ、それは」

「うんうん、それは?」

 

 なんだかんだ面倒見のいい彼女が断りきれないだろうことを分かってて俺は頼んでいる。卑怯も卑怯。でも、今の今まで彼女なんてできたことないんだから恋愛の仕方だって分かるわけないだろ。

 

「べ、紅子さんの浴衣姿が見たい…………」

「…………」

 

 遠くで大笑いする亡霊魔女の姿と、呆れた顔のアリシア。そしてなにかを綴り始めた字乗さんが見えたが、気にしない気にしない。俺は真剣だ。真剣にやらかしてしまった。

 紅子さんは困ったような、驚いたような、呆れているような、そんな感情をごちゃ混ぜにしたような表情で笑った。

 

「ふっ、なにそれ。女子高生の浴衣姿が見たいって、それこそ事案じゃない? 大丈夫? おにーさん。犯罪に走ったりしないでよね」

「紅子さん相手だから言ってるんだけど……」

「…… あのね、おだててもなにも出ないよ。そもそもそんな誘い文句で女が引っかかるとでも思ってるのかな? デートのお誘いならもう少しロマンチックにできないの? まったく、これだからお兄さんはモテないんだよ」

「的確に傷つくことを言うのはやめてくれ!」

 

 俯き気味にくすくすと笑っていた紅子さんは笑い涙さえも浮かべてこちらをまっすぐに見る。ほんの少しだけ紅潮しているように見えるのは俺の妄想かもしれないけど、照れてくれてるのなら嬉しいな……とか。

 

「不合格も不合格。相変わらずダメダメだよね。まあ、でも…… おやつにキミの作るエクレアがついてくるなら付き合ってもいいよ。前に食べたやつが美味しかったからね」

「そ、それだけでいいのか?」

「もっとふっかけてもいいのかな? それとも、ふっかけてほしいの? んー、なら、クッキーとか…… ワッフルとか…… まあ、そういうのだよ」

 

 拍子抜けする。もっと無理難題でも提示してくるかと思ってたのに。

 

「エクレア……か」

「そう、エクレア。あ、ふんわりしたやつじゃなくてサクサクのやつがいいなあ。前にくれたやつもサクサクしたのだったよね。あれが美味しかったんだ」

 

 あんまりにも彼女が幸せそうに言うものだから、思わず見惚れてしまう。

 こんなにも喜んでくれていたなんて、知らなかった。あのときはただお裾分けできればと思っていただけだったのに。

 

「もしかして、好物だったりするのか?」

「まあ、そんな感じかな」

 

 妙な確信と共に訊いてみれば、曖昧に肯定を返される。少しだけ恥ずかしそうに目線を逸らしたりなんてして。

 そういえば、俺は紅子さんの好物も知らなかったんだな。

 結構長い付き合いになってるはずなのに、気づかなかった…… 今度からちょっと味の好みとかリサーチしてみようか。料理するのは俺だし。

 

「元から好きだったんだけど…… おにーさんのエクレアはお店のよりも美味しかったから、ね。もう令一お兄さんなしで生きられない体にされちゃったかも…… ?」

 

 わざとらしく擦り寄ってきた彼女の、上目遣いになったその赤い瞳と視線が合う。

 いつものからかい癖だと分かっていつつも、無意識下で心臓が強く打つ。

 そんな俺をお見通しと言わんばかりに紅子さんは口元を三日月に釣り上げ、悪戯気に「…… なんてね」と付け足した。

 

 俺が始めて彼女にあげたお菓子。

 それが偶然、彼女にとっての好物だったというだけ…… なのに、なんでこんなにも嬉しいんだろうな。

 

「絶対美味しく作ってくるよ。だから、楽しみにしててほしい」

「そういうところだけは、嫌いじゃない…… かな」

 

 は、初めて嫌い以外の答えを聞いた…… か? 

 ぶわりと、歓喜の感情が心の奥底から湧き上がってくる。

 

「そ、そんな情けない顔をしないでくれるかな。いたたまれなくなるだろう」

「いや、嬉しくって…… あ、そうだ」

「うん? どうしたのかな」

「アリシアちゃんもなにかリクエストあるか?」

 

 目を合わせて答えてから、アリシアのいる方向を見て問いかけた。

 

「く、空気読んでくださいよ…… ! なんであたしに振ってくるんですかぁ…… ! え、えっと…… お、おはぎ!」

 

 おっと、案外渋い趣味だったのか。そういやアリシアが日本生まれなのかは知らないな。この調子だと日本生まれ日本育ちなのかもしれない。

 視線を紅子さんに戻すと、さっきまで柔らかい雰囲気だったというのに、今は目の笑っていない紅子さんがお目見えだ。

 やっちまった。

 

「いいねぇ、おはぎ。おにーさんの空気の読めなさ具合はともかくとして、おやつが増えるのは歓迎するよ。アリシアちゃんに罪はないからねぇ」

「ご、ごめん」

「やっぱりアタシはおにーさんが嫌いだよ。再確認した」

 

 溜め息を吐いて言う紅子さんの表情は〝 呆れ 〟だ。

 まずい、なんで真っ先にあんなことを訊いたんだよ俺! 

 

「はあ…… でも、これでアタシが行くって言ってもアリシアちゃんの親御さんは納得するのかな」

「保護者役で俺が行けばいいんだろ?」

「おにーさんが? 保護者? …… うーん、ちょっと難しいかな」

 

 まじまじと俺の顔を見て首を振る彼女に肩を落とす。

 なにげに俺、貶されてないか? いや、仕方ないか。俺がダメダメな奴なのは再確認されてしまったからな……

 

「だって、今お兄さんは職業主夫じゃないか。いや、使用人かな? どちらにせよ、アリシアちゃんの親は納得しないだろう」

「うっ」

 

 感情とかを抜きにした納得の根拠だ。

 そこなんだよなぁ。アリシアは同盟入りしているとはいえ、半分は日常の中に生きているわけだし…… だが、あちらで完全に忘れ去られてしまったレイシーを支えるために力をつけようとしていることを否定はできない。こういうチャンスは掴めるほうがいいからな。

 俺みたいに後悔することのないように、その手伝いくらいはやってやりたい。

 

「うーん、パンケーキのように甘いひとときをお過ごしの二人には悪いけれど…… 私からは鳥の王様に名前を貸してもらえるよう頼むのがいいとアドバイスしておこう」

 

 先程までなにかを書き殴っていた字乗さんがにやついた顔のままそう言った。

 

「何度も下世話だって言ってるだろうに」

「まあまあ、このよもぎちゃんに任せなさい。恋愛相談なら一番だからね」

「おにーさん、話が通じないよ」

「…… まあ、少女漫画を教科書に出してくる人はちょっと。それはともかく、ナヴィドさん?」

 

 失恋した恋文の付喪神なのに恋愛相談に乗れると、なぜ思っているのか。理解に苦しい。

 しかし、ナヴィドさんか。秘色(ひそく)いろはさんの保護者で、鳥の王様『シムルグ』だったか。ついでに秘色さんの高校生のときに美術教師をしていたとかなんとか。

 …… なるほど、保護者役としてはぴったりか。

 

 まずは秘色さんに連絡してみて、そこから話をしてみて、お願いしてもらえばいいかな。彼女達に予定がないことを祈るしかないわけだが……

 

 ということで、秘色いろはさんに連絡をとってみたわけだが。

 

「すみません、わたしたちは今ベルギーのほうに来ていて…… 先生に乗っていけばすぐに帰れますけど、案件も終わりそうにないですし…… ご協力はできそうにありません」

 

 結果はこれだ。

 嘘だろ…… 最後の希望が。

 

「仕方ないかな…… うーんと、お兄さん。やっぱり男女半々の人数のほうがいいんだよね」

「そのほうがバランスはいいだろうな。それに、俺一人だと事案だが二人なら親戚とかそういうので通せそうだし……」

「そっか。なら、いい機会だしアタシからいい人を紹介してあげようかな」

「いい人?」

「そ、お兄さん待望の同性で人間の友人ができるよ。やったね?」

 

 それは…… 願ったり叶ったりではあるんだが、紅子さんから紹介されるというのが少しだけ心に引っかかる。

 いや、それはまあ、俺以外にも友人がいるのなんて普通だし、なんなら俺が紅子さんと出会ったのはそんなに前じゃないし…… ずっと前から知り合いだった人がいても不思議じゃないんだけど。

 …… 今まではそういう話を一切してこなかったから、期待してたのかもしれないな。俺が特別だって。

 

 あー、もう…… なんでこんな恋愛脳みたいになってるんだよ。

 嫉妬か? ああ、嫉妬だ。まだ会ったこともない人に俺は一丁前に嫉妬してるんだ。

 俺ってこんなに面倒臭いやつだったっけ。確実に、そして着実に俺も狂っていっているのかもしれない…… あいつに見せられた理想の夢。それが俺を蝕んで変えていってしまう気がする。

 あいつの目的は、これだったのだろうか…… 俺には分からない。

 

「…… ああ、嬉しいよ」

「嘘かな」

 

 ドキリと、心臓が跳ねた。

 

「アタシが分からないわけがないよね。なにかな? もしかして嫉妬なのかな。おにーさんが? あの人に?」

「本当に鋭いな、紅子さんは」

「当たり前だろうに。ちゃあんと、よく見てるよ。キミのことは、ね」

 

 静かに、囁くような声が染み渡る。

 ほんの一言、二言でこんなに一喜一憂するだなんて…… 前の俺では考えられないな。

 

「言っておくけれどね、あの人はアタシにとって兄…… みたいなものだよ。あの人もアタシのこと二人目の妹みたいに思っているようだし、それに甘えてるだけ。他意はないよ。キミとは違ってね」

「うぐっ…… いちいち一言余計じゃないかな? 紅子さん」

「アタシの浴衣姿が見たいとか言ったり、いちいちスケベなお兄さんが悪い。とにかく、あの人はアルフォードさんもキミに会わせようとしてた人だよ。何回か話は聞いてるよね」

 

 ああ! 以前からこの字乗さんの図書館に時々手伝いに来るっていう人か…… なるほどな。それは楽しみだ。

 

「もう…… 早とちりばっかりして。お兄さんは世話がかかるね。今日会うんじゃタイミングも悪いし、こんなことがあった後じゃあねぇ…… アタシから連絡を入れておくから、後日彩色町(いろどりちょう)内で待ち合わせをしようか」

「時間が空いてるかは訊かなくていいのか?」

「あの人はアタシから連絡すればなにがなんでも休みをもぎ取ってくると思うよ。今回はオカルト案件にもなりそうだからね。あの人はオカルトオタクなんだよ」

「え」

 

 紅子さんの言葉に思わず声が漏れる。

 

「…… 理解に苦しいんだけれど、もしかして普通の温泉旅行だと思っていたのかな」

 

 全くその通りだ。

 

「あのね、お兄さん。覚えておいて損はないからよく聞いてね。アルフォードさんからなにか提案されたときは、大抵裏になんらかのオカルト案件が潜んでることが多い。分かった?」

「お、覚えておく」

 

 そうだったのか……

 

「言っておくけれどね、アルフォードさんもキミが思うほど真っ当じゃないよ。あの人だって人間じゃないんだから。神さまってのは大なり小なりどこか計算的だよ」

「あ、あんなに無邪気な人なのに?」

「見た目に騙されちゃダメだよ、おにーさん」

 

 思わず本読み中の字乗さんやペティさんの方へ向いて見れば、神妙な顔で頷いていた。そういうものらしい…… というかあんた達もその中に入るだろ。

 

「みんなキミのとこの邪神みたいとは言わないけれど、一癖も二癖もあるからね。年長者なら尚更だよ。覚えておくといい」

 

 そう聞くと不安を覚えるが、どんな相手だってあいつよりは遥かにマシなはずだ。人間と共存することを目指しているアルフォードさん達なら尚更まだ理解できる範囲…… と思いたい。

 

「帽子屋ー、どこじゃー。ここが難解でわけわからんぞー!」

 

 と、そこで奥の本棚からレイシーの声が聞こえてきた。

 声色からするにどうやらこちらにだんだんと近寄ってきているようだな。

 

「おっと、弟子がお呼びだな」

「ふふふ、君はいつから弟子を取れるようになったんだい? ケルベロスからの卒業もまだだろうペチュニア。ほらほらレイシー。このよもぎちゃんに見せてごらん? この私に分かりやすく解説をさせてくれたまえ」

「お前は難解に難解を重ねるから嫌じゃ!」

「がーん」

 

 真顔のまま言われてもなあ、ちっとも傷ついたようには見えないんだよなあ。

 

「アリシアちゃんは4人で旅行行くので問題ないか?」

「あ、あたしのために行こうとしてくれてるわけですし…… 反対する理由なんてありませんよ」

 

 アリシアちゃんは少し肩身が狭そうにしながらこちらにやって来た。

 うーん、もう少し気を遣ってあげたほうがいいかもしれない。まだまだ緊張が抜けないみたいだしなぁ。

 キリッと背筋を伸ばして俺に受け答えしていたアリシアに紅子さんが少し前屈みになって目線を合わせる。

 

「アリシアちゃん、旅行のための荷物は大丈夫かな? なんならアタシと一緒にお買い物デートにでも行く?」

 

 紅子さんからの提案にアリシアはパッと顔を明るくして「いいんですか?」と早口に言った。

 

「構わないよ。女二人のほうが物選びもしやすいからね」

「えへへ、なら赤座さんとご一緒したいです」

「んん、呼び方は自由だけれど…… アタシは下の名前でも歓迎するよ」

「えーっと、なら紅子お姉さん!」

「…… 満点の合格かな。花丸をあげたいくらいだよ」

 

 お姉さん扱いされて満更でもなさそうな紅子さんは可愛らしい。

 俺も合格もらったことないのになあ……

 

「それじゃあ、お兄さん。今日は解散しようか。待ち合わせ日はあとで連絡するよ。アリシアちゃんとのデートもあることだし、アタシはこれで行くよ。アリシアちゃんはどこか美味しい喫茶店知らないかな? あと、入り用なものを……」

「えっとですね駅前の……」

 

 手を振りながら図書館から出て行こうとする二人を見送る。

 最後に、紅子さんがこちらに振り返って微笑んだ。

 

「それじゃあ、楽しみにしてるよ。令一お兄さん?」

 

 

 

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 そんな、素直な微笑みを向けられて俺が無事でいられるわけがなかった。

 意識し始めの俺には少し刺激が強すぎるよ紅子さん……

 

「あっはっは、レーイチ、頑張れよ? 脈がないわけじゃないんだ」

 

 ペティさんが愉快そうにしながらカツカツと靴音を響かせて近づいてくる。

 そんなこと分かってるって……

 

「ほら、分かるだろ? ベニコは意識してる相手ほど素直になれない可愛い奴なんだよ。まったく、難儀な性格だが…… あいつは幸せになるべきだよ。ユーレイでも人生は満喫できるんだからな!」

 

 俺はその言葉にしっかりと頷いた。

 紅子さんの言葉は皮肉とからかいばっかりだけれど、いつも嘘はすぐにバラすし、本当に俺を傷つけるような、過去の傷を引きずり出すような言葉を選ぶことはない。

 紅子さんに出会えたのは今の生活があるから…… なんて夢を見るつもりも、うちでくつろいでる邪神に感謝するつもりも毛頭ないが、今は今。前だけ見ていればいい。

 

 さて、約束の日が来るまでにもっと料理の腕を磨いておかなくちゃな。

 特にエクレアはサックサクのシューと、ふわふわのクリーム。それに美味しいチョコレートを用意しておかないと。

 邪神にせっつかれて料理を覚えたが…… こうやって誰かが喜んでくれると思うと、惰性だった料理がすごく楽しみに思えてくる。

 

 仕方ないからおやつの試作は神内(邪神)に全部やるか。

 そうすれば本命、当日のおやつが奪われることはないだろう…… 多分。

 

 俺は背後からの下世話な視線に見送られながら、練習用の材料費と数を頭で計算して帰路に着いたのだった。

 

 

 

 




 小説中の挿絵はリアルで同じ卓を囲む友人に描いていただきました!
 神絵師すぎて震える…… 理想がすぎる。感謝しかないので何度でも美味しいものを奢らせていただく所存です…… むしろお代を支払わせて……


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図書館司書さんはオカルトマニア

「それじゃあ、明日」

 

 電話口の向こう側からくすりと笑う声と「またね、お兄さん」という言葉と共に通話終了の無機的な音が鳴った。電話をかけてきたのは紅子さんのほうなので、当然切るのは向こうだ。

 

「明日か」

 

 現在時刻午後4時。

 買い物も今から行けばいいし、神内は既に帰宅している。夕飯のメニューも決めていなかったことだし、明日のおやつが神内の奴に食われないよう、今から嫌と言うほどたらふく食わせてやるとしよう。

 

「よしっ」

 

 買い物だ。

 

「ふっふっふ……」

 

 俺は大変満足である。

 

 買い物から帰ってきてから時間をかけてじっくりと手軽なものから作り始め、性懲りも無くつまみ食いをしに来た神内の口にクッキーを一枚捻り込む。

 

「あむ……ん、れーいちくん、そんなに急かさなくても私は逃げないよ?」

「わざとらしく声に出すな。黙って食え。そして感想を言え。あんたは味の向上に貢献しろ!」

 

 リップ音。

 いくら綺麗な顔をしていても、相手がこいつだと思うだけで鳥肌ものだ。

 明日の分まで食われたらたまったものじゃないからな。今のうちに詰め込むだけ詰め込んで暫く甘い味が口の中にしつこく残留するようにしてやる。

 

「警戒してる猫みたいだよ? 可愛いね」

「黙れっつーの!」

「感想を言えって言ってるのに黙れだなんて、私にどうしろというの?」

「余計なことを言うなって言ってるんだよ」

「余計なこと? 余計なことってどんなことかな。人間の定義って曖昧で分からないなあ」

「こういうときだけ分からないフリするんじゃねーよ!」

「人間の定義って曖昧で理解できないなあ」

「言い直してもダメだ」

 

 そんな言い合いをしながらお菓子を作り始めて数時間。

 延々と神内の口に作ったものを捻じ込んでいたら、さすがの邪神もホットケーキ連続30枚はキツかったらしい。微妙に苦しげな表情になってきた。

 

「ううん、甘味という娯楽でもやはり度が過ぎれば拷問になるんだね……人間の体って興味深いなあ。必死になって私を潰そうとしてるところもなんだか面白いし、いいよ。私をもっと苦しめてごらん!」

 

 いや違うな。

 変態臭さに磨きがかかっただけだった。

 俺は黙らせる為にまたドーナツを奴の口に突っ込み、そんな調子で夜が明けていくのだった。

 

 ◆

 

 街中をふらふらと歩きながら目指すべき場所を目指す。

 片手には冷凍バッグ。そして、貴重品の入ったショルダーバッグ。

 旅行用の荷物は駅前のコインロッカーに100円をねじ込み、預けてきている。

 これから待ち合わせの喫茶店に行くというのにあまり荷物を持ち込むべきではないだろう。

 現時点で既に五分ほど約束の時間を過ぎているため、今から紅子さんの口からどんな皮肉が飛び出してくるのだろうかと少し楽しみにしている自分がいる。

 

 ――れーいちくん

 

 違う。

 俺はドMなんかではない。あいつとは違う。あのクソ邪神野郎の変態臭さとは全く違う。

 好きな子から出てくる言葉には総じてフィルターがかかって見えるものなのだ。いや、これも変態臭いな。違う、違うぞ。俺は変態なんかじゃない! 

 

「確か……喫茶店はこっちか」

 

 地図アプリを確認しながら道を行く。

 冷凍バッグには勿論約束の通り、気合いを入れたエクレアにおはぎ。ついでに人数分の減塩クッキーやら手製のポテトチップスやらと、甘いものに飽きたときに向けたお菓子も用意してある。

 喜んで……くれるだろうか。

 神内には散々試作品を食わせて珍しく美味しいとお墨付きをもらえたことだし、自信作ばかりが入っている。見た目にもこだわっているし、食が進むように甘すぎない程度の調整もした。リンのために辛いお菓子も用意した。

 もはや旅行の準備よりもお菓子の準備に時間をかけたくらいだ。

 

「っと、こっちか。紅子さん、迷わなかったのかな」

 

 紅子さんは案外抜けている……というか、細かいことが苦手なんだよな。

 方向感覚も紅子さんにおいては〝細かいこと〟に分類されるらしいし、ちょっと前にペアで行動したときはさらっと間違った方向に行こうとしていた。

 

「アリシアちゃんと一緒に来ているならなにも問題がないんだが」

 

 喫茶店『シメール』

 金髪美人の女店主と、その姉妹だというおっとり美人とクール美人が切り盛りしていると噂の、スイーツ店だ。

 アリシアや紅子さんが好きそうなのはともかくとして……とても入りづらい。男一人でどうやってこんなところに入れというんだ。

 

「リン……これ、無謀カウントにならないか?」

「んきゅっ、きゅっ」

 

 俺は、店の前でぬいぐるみっぽい生き物に話しかける情けない男だった。

 しかも心なしか呆れた目でリンに首を振られる。虚しい。

 

 大人しく、黙って入ることにした。

 カランコロンと鈴が鳴り、店内の注目が一斉に集まる。

 これだけで心が折れそうになったが、眉を下げて周囲を見回すことにする。

 そうすれば、すぐにあの大きな菫色のリボンが目に入る。

 しかし、今日はいつもの菫色のリボンに真っ白なレース付きだ。

 白のブラウスの上から朱色のカーディガンを着て、いつもより長い赤スカートをはき、赤の中折れ帽。

 彼女の向かいにはこちらもロリータファッションに身を包んだ可愛らしいアリシアが座っている。

 ああ、気合い……入れてきてんのかな。

 俺も素早く自身の身なりを確認しながら席まで近づく。

 おかしくは……ないはずだ。多分。

 男友達もいないから、どれくらいが年相応なのかとか、似合うのかとか、そういうのがよく分からないんだよなあ。

 

「二人とも」

「あ、下土井さん」

「遅い」

 

 声をかければ、アリシアからは今気がついたような声が。

 紅子さんからは、極寒とも言うべき冷たい言葉が飛び出してきた。

 

「お兄さん、今が何時で、約束の時間が何時か、答えられるかな?」

「十分……遅れました。ごめんなさい」

「まあいいけれどねぇ。お兄さんの払う額が遅れるだけ増えていくだけだからさ」

「え、え?」

「ほらアリシアちゃん。もう一品頼もうか」

「え、紅子お姉さん。いいんですか?」

「いいよいいよ。どうせ払うのは令一さんだから」

 

 ――令一さん

 

 その言葉に、ドキリとする。

 いつものからかいの言葉のひとつ。そのはずだ。

 なのに、理想の夢と同じ言葉だというだけで、こんなにも動揺する。

 

「ま、冗談だよ。アタシが払うから……」

「いいや、俺が払うよ。元々そのつもりだったし、待たせたのは俺だからな」

「冗談だって言ったよね? 別に頑なになる必要はないよ」

「俺がしたいからするんだよ。紅子さん達じゃなければ払わないけどな」

「そうやって断言するのもどうなのかな」

 

 困り眉になりつつ、こめかみを押さえる紅子さん。

 目線を露骨に逸らしたり、髪をいじってみたり、俯いたり……彼女がそうするときは決まって照れているときのはずだ。今までのパターン的に。

 分かっていることを悟られると困るのは俺だから、絶対にその癖を指摘したりしないが。

 

「知ってます、これ。あたし、お邪魔虫ってやつですね。あなたみたいなボンクラにお姉ちゃんは渡しませんって言うところですか? それともあたし、退散しましょうか?」

「お願いだアリシアちゃん。君まで言葉で遊び始めないでくれ」

 

 アリシアだけは俺をからかったりなんてしないって思っていたのに。

 思わぬところで裏切られた気分だ。

 

「アリシアちゃん。おにーさんみたいなのはボンクラじゃなくて、〝ヘタレ〟って言うんだよ」

「そうなんですか」

 

 女性二人からの皮肉と毒舌が冴え渡る。

 ヘタレなのは悲しいことに事実だ。そしてモテないことも経験がないことも残酷な程に事実だ。だが、それをなぜこうしてなじられないといけないのかと。

 俺ならいじめてもいいってもんじゃねーぞ。

 

「あのな、俺でも傷つくんだからな? 分かってるか? 事実ほど言われたくないものってあるんだよ」

「……」

 

 黙るなよ。

 

「ごめん」

 

 途端にシュンとしてしまった彼女に驚く。

 まさかこんな素直に謝ってくるとは思っていなかったからだ。

 

「い、いいよ。俺もその分言い返させてもらうし……にしても紅子さんも、アリシアちゃんも、今日はすごい可愛い格好してるな」

「そういう下土井さんこそー、気合い入ってるじゃないですか? これには紅子お姉さんもドッキドキのワックワクです」

「どこぞのダミ声のクマみたいな台詞を言うんじゃない。負のイメージがつくだろうが」

「照れるよね、まったく。おにーさんだって今日は珍しくゆったり目じゃない服なんだね。雑誌でも見たの?」

 

 見事に俺の行動が理解されている。

 その通り、雑誌を参考にして用意した服装だ。

 

「けど、二人とも可愛い服でいいのか? 行くのは山の中の秘湯だぞ」

「乙女心の分からない下土井さんはオトメイト作品でもプレイして人生やり直してきてください」

「アリシアちゃん、オトメイト作品は対象が男性だからこの場合は不適格じゃないかな?」

 

 違う、そうじゃない。

 

「そうですね。では、乙女心の分からない下土井さんはギャルゲーでもプレイして人生やり直してきてください」

 

 

 アリシアの切れ味が鋭すぎて、俺はもうなにを言っていいのか分からなかった。

 

「口が鯉みたいになってるよ。はい」

「んぐっ」

 

 なにも言葉が出てこないままに口をぱくぱくと動かしていたら、おもむろに紅子さんがフォークを突き出した。

 その先に乗っかったショートケーキの一欠片が口の中に押し込められる。

 

「べ、べべべ、紅子さん……」

「なにかな? フォークは新しいやつだからなんの問題もないね」

 

 間接キスではなかった、だと。用意が良すぎる。

 しかし人生ではじめての「あーん」体験だった。我が生涯に一片の悔いなし。完。みたいな気持ちになりながら「うまい」と呟く。

 ここのケーキがこれだけ美味しいとなると、俺の手作りお菓子のハードルが俄然高くなっていってしまう。

 

「まあ、でも安心してほしい。動きやすい服なら持ってきているよ。心配してくれるのはいいけれど、褒めてからすぐにそういうことを言うのは分かってないねぇ。上げて落とされて喜ぶのはキミか、キミのとこの神様くらいだよ」

 

 だから俺はドMじゃないっての。偏見だ。風評被害だ! 

 

「なにかな。ああ、もしかしてクリームでもついてる?」

 

 紅子さんはなにを勘違いしたのか、首を傾げて自分の口元を紙ナプキンで拭う。

 

「俺にお手製エクレアを所望しておきながら、そうやって鼻の頭にクリームつけてまで美味しく別のものを食べるのは妬けちゃうってことだよ」

「え、鼻? 嘘、ちょっとお兄さんっ、早く言ってよね」

 

 珍しく慌てる姿なんて見れたので心のアルバムにしまう。これはSレア紅子さんだな。

 

「……下土井さん、嘘ですよね」

 

 アリシアのジト目が刺さる。

 

「ああ、嘘だ」

「お兄さん!」

「日頃のお返しだよ」

「もう、意地悪だねぇ」

 

 ちょっと顔を赤くしてぷんすか怒る姿も、普段皮肉屋で斜めに構えている節のある彼女には珍しい。珍しいづくしだ。今日はいい日になるだろうな。

 

「で、だ。噂の司書さんはまだ来てないのか?」

 

 ここには紅子さんとアリシアと俺だけ。紅子さんが呼ぶと言っていた男性がまだ来ていないのだ。まさか俺よりも遅刻してくるとは、なんて奴だ。

 自分自身も遅刻常習犯だということを棚に上げながら、俺は周囲をキョロリと見回した。

 見事に女性客ばかりの中、俺が黒一点と化している。

 

「お兄さんも座ってなにか頼みなよ」

「ああ、そうするよ」

 

 四人席ではあるが、積極的に紅子さんの隣に座ろうだなんて勇気は出てこない。かといってアリシアの隣に座るのもなんだか犯罪臭がする。

 迷った末、二人の座っている席の隣が空席になっていたので、俺はそちらに座った。

 

「なに遠慮してるのかな。隣、おいでよ」

「いいのか?」

「緊張しちゃって変なおにーさん。なになに? アタシを意識しちゃってヨコシマな気持ちになっちゃう? 言ったでしょ? 〝アタシはたとえ押し倒されたとしても抵抗しない〟って」

 

 半分合っていて、半分間違えている。

 というか、その文句は夢の中の脱出ゲーム限定の話だろうに。からかうのはよしてくれ。

 

「じゃあ、隣座るからな」

「甘酸っぱーいですね。紅子お姉さんも下土井さんも見せつけないでくれますか? あたしの前に砂場ができちゃいそうですよ」

 

 甘すぎて砂を吐くってか。

 成就してないわけだし、俺は絵に描いただけの甘さなんて認めないぞ。

 

「それにしても遅いな」

「ああ、多分もうすぐかな。キミが来る前に連絡があったから」

 

 カラン、コロン、と鈴のなる音がしてそちらを向く。

 そこにはいかにも真面目そうな見た目の男がいた。なんとなく委員長を連想するような、少し近寄りがたい感じの男が辺りを見回す。まさかとは思うが、あの人か? 紅子さんがオカルトマニアだって言っていたから、もっと奇抜な……ルーン文字のマントでも付けているような男のイメージがあった。

 これを聞かれたら怒られそうな内容だ。聞き耳ピアスはさすがに……つけてきてないよな。

 さとり妖怪の加護を受けた〝聞き耳ピアス〟があれば俺の思考なんて筒抜けになってしまうだろうが、普段からそんなものを付けるはずもない。無駄なことを心配するより、確認が先だな。

 

「もしかして、あれが」

 

 俺が全部言い終わらないうちに男がこちらに気がついた。

 

「あ、紅子さん! 久しぶり、元気してた? えっと、君にこういうのは失礼にならないんだっけ」

 

 一見真面目で堅物そうな顔が、ふにゃりと笑顔に歪む。

 これが本当の破顔というやつだろうか。今までの人生の中で十分学んできたと思っていたが、どうやら俺が知っている〝破顔〟は本物の三割にも満たなかったらしい。仏頂面やポーカーフェイスのほうがよほどお似合いだと思った彼のギャップには、それほどの衝撃があった。

 

「久しぶり、(とおる)お兄さん。ご覧の通り、アタシは〝活き活き〟としているよ?」

 

 言外に、既に死んだ身である紅子さんのことを彼は問うた。

 そしてそれに紅子さんが頬づえをついたまま軽く手を振って答える。

 問題ない。そういうことだろうな。周りの客に聞かれても不振に思われない程度の会話だった。

 

「ごめんね、待たせて」

「いや? 大丈夫だよ。透さんもほら、座って座って。まだバスの時間も問題ないし、軽食でも摂っていくといいよ」

「うん、ありがとう」

「待って。俺のときと対応が違いすぎないか? 紅子さん」

 

 俺には代金をふっかけようとしていたくせになんて人だ。

 

「令一お兄さんは特別かな」

 

 どんなことを言われようと、文句をつけてやると思っていた俺はしかし、見事に撃沈した。

 

「えっと、タマゴサンド単品で……飲み物は水でいいです」

「あ、あたし紅茶のおかわりをいただきたいです」

「そうだね、アタシも追加でストレートティー」

「俺は……」

 

 お菓子作りに没頭してほとんど寝てないんだよな。

 眠気覚ましにコーヒーでも飲むか。

 

「アイスコーヒーで」

 

 注文を取っていた女性が席を離れる。手持ち無沙汰な時間ができたので、ここで自己紹介タイムだ。

 

「俺は下土井(しもどい)令一(れいいち)です。紅子さんとは一年くらいの付き合いで……」

「ちょっとお兄さん」

 

 呆れ顔の紅子さんを見て正気に戻る。

 待て待て待て。なんで俺はこんな牽制もどきをしているんだ。この人は紅子さんにとっては兄みたいなもので他意はないって言ってたじゃないか。

 〝何年付き合ってます〟なんて言いかたで様子見だなんて……いや、そもそもあの人のほうが付き合いが長いって分かってるのに俺はなに言っているんだ。

 

「うん?どうしたの?」

「あ、ああ、なんでもないです」

 

 彼には気づかれてない……? なら好都合だし、そのまま自己紹介の続きをするか。危うく黒歴史が誕生するところだったな。

 多分、紅子さんにはバレバレなんだろうけれど。

 

「ええと、今は23歳で……非常に不本意ですが、邪神の、小間使いやらされてます」

「うんうん、噂はかねがね。紅子さんがよく電話で話してくれるから会えて嬉しいな。俺は古矢(ふるや)(とおる)。よろしく、下土井くん」

「え、電話で話って……一体なにを聞かされてるんです? 俺の情けない話でもしてるんですか?」

 

 彼女だったらやりかねない。

 方々で貶されてるかと思うと悲しくなるが……いや、さすがにそんなことはしないか。なんだかんだ、紅子さんも性格が悪いわけではないし。

 

「きみとペアで事件を解決した、とか。きみが危なっかしくて離れられない、とか。こないだなんて、紅子さんのために一人ででっかい化け物に立ち向かったとか、そういうお話を聞かせてくれるんだよ。俺はオカルトな話を聞くのが好きだからね。昔は彼女の体験した話とかが多かったけれど、最近はもっぱらきみのことばかりで……」

「透さん、そこまで」

「うん」

「まあ、キミの失敗談を面白おかしく語ると楽しんでくれるものだからね。ついつい話しちゃうんだよ」

 

 誤魔化したな。

 そうかそうか、なるほどね。ふうん。

 

「なにその顔」

「別に? よろしく、古矢さん」

「俺は25ではあるけど、きみとは仲良くしたいし、いろんな話も聴きたいし、令一くんって呼んでいいかな?」

「いいですよ。なら、俺も透さんって呼びます」

「んー、じゃあ敬語もなしでどうかな?」

「……分かった。透さんもそれでいいよな」

「うん、よろしく」

 

 よく考えれば同性で、人間の友達ができるのはこの生活が始まって以来初めてだぞ……快挙だ。天を仰いで俺は顔を覆った。感動で前が見えない。

 秘色(ひそく)さんのときも勿論嬉しかったが、この喜びはまさに別格だ。

 

「あたしはアリシア・ルイス。お姉ちゃんがあっちの住民になっちゃったから、お姉ちゃんを守るために色々学んでるところですね」

「ああ、こないだからお手伝いしてくれるレイシーちゃんの妹さん? よろしくね」

「よろしくお願いします! 古矢さん」

 

 アリシアとは顔見知りじゃなかったようだが、透さんはレイシーのことは知っていたみたいだな。

 

「自己紹介、する必要はないと思うけれどね。アタシは赤座紅子。キミらを引き合わせることができて喜ばしいよ」

 

 そう言って紅子さんは自己紹介の締めを行う。

 それからは軽食を摂りながらの雑談が始まった。

 

「透さんって司書なんだよな。字乗(あざのり)さんのところでバイトしてるって聞いたけど、どんなことしてるんだ? 俺も結構あそこに行くんだけど、透さんとはいつも会えなくて」

「ああ、俺も令一くんのことは聞いてたんだけどね。バイトに行くのも休日の合間にとかだから、なかなか会えなかったよ。内容は、字乗さんの指定する本を探したり、整理整頓したり、そんな感じだよ。たまに魔道書みたいのが混じっててびっくりするけど」

 

 一般人になんてもの見せてるんだあの付喪神。

 

「そ、そうなんだな。怖くなったりはしないのか?」

「初めて見たときに多少はね。でも、それよりも好奇心が勝っちゃって……もっと読みたいってなっているうちに時間が過ぎて行っちゃったりして、たまにバイト時間いっぱい本を読んでるときもあるんだよね」

 

 わあ、これは筋金入りのオカルトマニアだ。

 

「え、あたしがそんなことしたら怒られるんですけど」

「アリシアちゃんはまだ早いってことじゃないかな」

「えっ、古矢さんもパンピーのはずじゃないですか」

「うーん、手厳しい。でも字乗さんのことだし、アリシアちゃんも頼めば教えてくれると思うんだけどな」

「あたし、向いてないって言われてるんですよ。魔法や魔術の適性はないって」

 

 ああ、一応お願いはしたことがあるんだな。

 でもレイシーは魔法を教わってるだろ。姉妹で得意不得意が真逆なのか? 

 

「紅子さんや桜子さんを参考にしろってことは、体を動かす方が向いてるってことだもんな」

「ええ、でも武器もないのにどうしろって言うんでしょうね」

 

 紅子さんも、桜子さんも武器ははっきりしてるもんなあ。

 学べと言っても今のままじゃやりたくてもできないだろう。

 

 カランコロン。

 

 再び店の鈴が鳴り、なんとなく音の出所に目を向ける。

 

「お、いたいた。アリシア!」

 

 一瞬、自分の目を疑った。

 店に入ってきたのは、完全に私服のペティさんだったのだ。

 

「え、ペティさん? なんであんたがここにいるんです? 呼ばれてないはずですよね」

 

 アリシアの辛辣な歓迎を受けてもペティさんは笑顔のままこちらにやってくる。

 

「今日の俺様は郵便配達員だ。ほれほれ、よもぎのやつからアリシアにプレゼントだ。間に合って良かったぜ」

「あたしにプレゼント? 嫌がらせですか?」

 

 嫌そうな顔をしながらアリシアが小包を受け取る。

 

「開けてみろよ」

「分かりました」

 

 渋々ながらにアリシアが小包を開ける。

 中には手のひら大の十字架が収まっていた。クロスしている部分には宝石かなにかを嵌めるような窪みが空いているが、中身はない。装飾品としては未完成もいいところだ。

 

「これは、なんですか?」

「お前の武器だよ」

「え?」

 

 アリシアは勿論、俺まで目を白黒とさせてしまった。

 どう見ても十字架なんだが。

 

「グリップはお前の手に合わせてオーダーされてるぜ。こっちの窪みはお前の努力次第だ。使い方は、ここを押すだけ」

 

 ペティさんが十字架の裏部分を押すと、なんと十字架がナイフになった。

 確かに、アリシアは〝アリス〟になっている間ナイフを扱っていた。

 

「あたしの手に合わせてって……うわあ、ぴったり。どういうことですかこれ怖い」

「こないださ、よもぎのやつが握手を求めてきただろ? あのときにお前の手のサイズを測ったんだよ」

「ええ、怖いんですけど……」

 

 ああ、足売り婆のときか。

 しかし、握手だけで手のサイズを測るとかあの付喪神すごいな。恐怖さえ感じる。しかもぴったりときた。

 

「製作者は赤い竜の旦那だ。赤竜刀以来の武器作りで楽しかったってよ」

「アルフォードさんが作ったなら安心だな」

 

 ん、ということはなにか宿っていたりするのか? 

 

「ねえペティさん。こちらの窪みはアリシアちゃん次第っていうのはどういうことなのかな? なにか秘密があるの?」

 

 ワクワクとした顔で透さんが言った。

 真面目そうな人がこうして好奇心の塊のようなことをしているとギャップがあるな。

 

「アリシアは人間だ。一人で行動するのは向いてないんだよな。だから、〝友達〟を作れ。仲良くなったりだとか、契約を交わした奴らから力を借りろ。その窪みはそのためのものなんだと。力ある奴らは自分の力を結晶にすることができるからな」

 

 それはつまり、召喚術みたいなことをしろってことか? 

 なんだかよりファンタジーな感じになってきたな。

 アリシアも目を白黒とさせてその話を聴いている。

 

「えっと、じゃあ紅子お姉さんとか……?」

「アタシはやりかたなんて知らないよ」

 

 紅子さんも困惑している。

 幽霊が力の結晶化なんてできるのか疑問だが、紅子さんだとできてしまいそうなのがなあ。

 

「ベニコは根本的に無理だな」

「ええっ、なんでですか! 頼りは紅子お姉さんしかいないのに!」

「頼りにしてくれるのは嬉しいけれど……ペティさん。なんでか教えてもらっても? アタシが幽霊だから?」

「いんや、お前の性格が問題なんだよ」

「これほど性格も器量もいい女を捕まえてなにを言うのかな」

 

 軽口を叩く紅子さんにペティさんが真面目に答える。

 

「ほんの一部でも、自分が損なわれる。奪われる。そんなの嫌だろ?」

「……参ったねぇ」

 

 紅子さんは〝奪われる〟ことが嫌いだ。

 アリシアを助けたくとも、無意識のうちにそう思っていたら上手くいかない。

 そういうことなのだと、ペティさんは言った。

 

「だからさ、アリシア。頑張れよ。いろんな経験をして、そんでお前が〝ほしい〟と思ったやつを、信頼できると思ったやつを勧誘するんだな。それまではただの相性抜群なナイフだ。精々お姉ちゃんのために努力しろよ。じゃあな」

 

 ペティさんはそう言って、沈んだ様子のアリシアを置いて去っていった。

 

「あたしに、できますかね」

「ごめんね、アリシアちゃん」

「いえ、紅子お姉さんが嫌なら仕方ないですし、お姉ちゃんのために努力するのは当たり前のことです。その、これからもよろしくお願いします」

 

 しおらしく、けれど決意を秘めた目でアリシアは言い切った。

 努力は〝当たり前〟のことだと。

 これなら、きっとこの先も大丈夫だろう。

 

「うん、俺も、みんなも相談に乗るからさ。なにかあったら一人で抱え込まないで相談してほしいな」

 

 慈しむように透さんがアリシアに声をかける。

 そしてちゃっかりと「みんなで電話番号とメッセージ用のIDを交換しておこうね」と連絡先を手に入れている。

 これから向かうのはオカルト案件の疑惑がある場所だし、連絡を取り合うのに必要だろうな。堅実だ。

 

 

「さて、もうすぐバスの時間だよ。お勘定は俺がやるから、先に行っててね」

 

 透さんの一言で俺達は店から引き上げる。

 

「え、でも」

「いいからいいから。俺が一番遅かったんだから払うよ。そのかわり、なにか不思議なことがあったら真っ先に俺に教えてね?」

 

 茶目っ気たっぷりにそんなことを言われてしまっては、納得するしかないじゃないか。

 そうして、俺達はようやく山奥の村へ向かい始めたのだった。

 

 村の名前は『神中(じんちゅう)村』

 秘湯のある、桜の隠れた名所なのだという――

 

 




古矢(ふるや)(とおる)
 しがない図書館司書。
 紅子さんシナリオのテストプレイで友人が使用した探索者。友人本人に許可は貰ってあります。
 別に3つの顔とかは持っていない。名前は偶然らしい。

・アリシア・ルイス
 妖怪に取り憑かれていたとはいえ、お姉ちゃんを助けなくちゃ→みんな殺さなきゃ(使命感)になるような思考の子なので元から毒舌。


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【番外編】カラスが鳴いたら、おうちへ帰ろう

「売り上げが伸びるねぇー」

 

 夕暮れ、木の上に立っている人影が言う。

 腰元にある新聞の残り部数もあと僅か。あとは彼のお得意様にお届けするだけとなっているようだった。

 

「俺ぁ、もうちっと自由に動きたいんだが……アル殿の頼みじゃしょうがねぇからな」

 

 そうぼやきながら、影が上を向く。人型に見える影は、その次の瞬間ばさりと翼を広げ、飛び立っていった。

 風で尻尾のように揺れる黒く長い髪、漆黒の翼。金色の鋭い瞳。山伏のような服装。

 彼……烏楽(うがく)刹那(せつな)は烏天狗である。

 そして、〝同盟〟きっての情報通……彼は新聞記者なのだった。

 

「金眼の烏天狗……見つからねぇ……いったいあいつはどこにいっちまったんだろうなぁ」

 

 刹那は飛行しつつも思案する。

 それは自らの探し人……探し烏天狗についてだった。

 

「一番最近あった、存在が消える事案はあのレイシーとかいう娘だけだな」

 

 彼は図書館に居着いた一人の少女の姿を思い出す。

 あの少女の存在が消えてしまったのは、長く異界にいたことともう一つ。彼女自身が現実世界のことを覚えておらず、そう望んだからだった。

 そのパターンで起こる〝存在の消失〟は多い。しかし、刹那が求める情報はその先……消失し、誰からも忘れ去られたはずの者を〝探す〟ための情報だった。

 

 刹那には酷く朧げな記憶がある。

 夕日の中、すぐそばで談笑していたはずの友。

 けれど夕日に溶けるように、まるで初めから存在しなかったように消えてしまった親友の姿。

 彼自身、親友の名前はおろか姿も声も覚えておらず、ただただ親友がいたはずなのに消えたという事実しか覚えていなかった。

 隠れ里となっている〝烏楽の里〟でも、親友の住んでいたはずの場所は物置に変わり、誰一羽として親友が存在していたことすら覚えていなかった。

 里の烏天狗は自分達は神様の末裔たる一族なのだと高らかに宣言し、他の天狗達を見下している。天狗の中でもとびっきり排他的な部類である。

 そんな里に生まれ育ちつつも、刹那は外と交流を持つべきだと論じた。

 そうして、そんな彼を支えてくれる親友が一羽いたはずである。

 けれど、その親友の存在が消えてしまった後、刹那は同時に唯一の里の繋がりも失い、村八分のような状態に陥ってしまった。

 彼が里を捨て、自分だけが覚えている親友の行方を探すのに不思議はなかったと言えよう。

 

 そこで先日のレイシーの件だ。

 レイシーは表の世界で忘れ去られたが、唯一の妹だけは存在を忘れることなく、現在も仲睦まじく図書館へと会いに来る。

 これは、レイシーの選んだ先の世界が単純に〝こちら側〟だったからこそ、起きたことだ。

 刹那の親友が見舞われたのがこれと似たパターンとなると……親友は個別の、〝此岸と彼岸〟では説明のつかぬ完全なる別世界を選んで……そこまで思案して、彼は首を振る。

 ただ、見つけるだけだ。そう、それだけでいいのだと。

 

 カア、カア

 

 新聞の最後の届け先へと向かう最中、数羽のカラスが彼の元へ向かってくる。

 刹那は、飛行スピードを普通のカラスでも追いつけるくらいまで緩やかにすると、声をかけた。

 

「よお、兄弟。どうした?」

 

 カア、カア、カア

 カア、カア、カア

 

 常人には意味の通じないカラスの言葉も、烏天狗たる彼には勿論理解ができる。

 

「迷子だ? そうか、ちっと気になるな。なあ兄弟、案内しちゃくれないか?」

 

 カア、カア

 

 カラスが数羽、まとまって移動する。

 それを追いかけながら、刹那は苦笑してぼやいた。

 

「ま、アル殿は多少遅れても許してくれるさ」

 

 アルフォードならば、理由を話せばきっと「せっちゃんは仕方ないなぁ」と笑って許すだろう。それを知っている刹那は困っている人を助けるべく飛行する。

 

「迷子が、二人ね。なるほどなぁ、こりゃアル殿に要報告だ」

 

 彼が向かった先には、てるてる坊主のように白いフードを被った年少の男の子と、その子と手を繋いでいる女性の姿があった。

 

「なあ兄弟達。この周辺を探しといてほしいんだが、いいかい?」

 

 カア

 

 答えが返ってくる。

 

「そうかい、よろしく頼んだぜ」

 

 そう言って、刹那は目的地付近で一旦翼をたたみ、アルフォードから買った道具で翼を不可視にする。今日は既に、人間に化けて飛行していたのでビジュアルは問題なかった。

 それから、ゆっくりと歩みを進めて女性と男の子の組み合わせの元へいく。

 

「迷子だって聞いたんだが、案内(あない)はいるかい?」

「え?」

 

 女性のほうが無理に男の子の手を引いて逃げ出そうとするが、刹那はやんわりとそれを止める。

 

「別に人攫いってわけじゃねぇよ。ただの親切心だ。話聞くぜ」

「この子が、一人でいたので……」

 

 女性がおどおどと言う。

 

「あんない、してもらってたの」

 

 男の子がにこにこと、疑いもせず女性と手を繋いだまま答える。

 

「じゃ、目的の場所に着くまで散歩でもすっか」

 

 刹那は、そんな二人と一緒に歩き出すのだった。

 

 

 ◆

 

「ぼく、もっとあそびたい」

「ええ、もっと遊びましょうね」

 

 仲良く歩く二人を眺めながら刹那は歩く。

 ともすれば、親子にさえ見える女性と、白いパーカーのフードを被った男の子。

 刹那は連絡を入れたアルフォードや、使いにやったカラス達を待ちながら、この二人と共に彩色町内を練り歩く。

 

「あ、チョウチョ!」

「こらこら、どこへ行くの」

 

 子供の手を女性が引っ張る。

 子供はふくれっ面をしながらそれに従う。随分と聞き分けのよい子供だ。そんな感想を抱きながら、刹那はひとつ提案した。

 

「お二人さん、祭りに興味はねぇか?」

「ある!」

「え、でも……」

 

 女性は少しだけ躊躇うようにしていたが、刹那がしゃがんで子供に目線を合わせ「なら坊主だけ行くか?」と訊くと、「私も行きます」と強気に答える。

 その返答に刹那は、苦笑いをしながら「案内するぜ」と二人の間に入った。

 

「カラスのお兄さんがアタシたちを呼ぶなんて、珍しいね」

 

 夕暮れを背にして大小の影が二つ、並んでいる。

 赤と茶色の影はやがて刹那達のいる場所へと近づき、刹那の連れた二人組にも挨拶をする。

 

「えっと、こんばんは?」

 

 一人……令一は戸惑いながらも挨拶をするが、紅子は素早く刹那の連れた二人組を見やると訳知りげに頷いた。

 

「……なるほど。刹那さん、まだ〝目的〟は見つかってないのかな」

「ああ、俺の兄弟が探してくれてるんだけどな。どうも難航してるらしい」

「え、どういうことだ?」

「おにーさんは女の人の相手でもしてれば? それで鼻の下でも伸ばしてればいいよ」

「ちょっと、紅子さん! なんてこと言うんだよ! 誤解だ! 誤解だから引かないでください! 俺はそんなことしないし、紅子さん一筋……いや、なんでもないぞ。今のは聞かなかったことに!」

 

 紅子は令一の言う通りに聞かなかったフリをすると、刹那に視線で訴える。もっと相応しい人選があったのではないかと。

 

「絵描きの子には、多分アル殿が連絡してくれるだろうさ」

「行き当たりばったりなの? まったく、カラスのお兄さんも大概お人好しだねぇ。あー、カラスが好い? いや、違うか」

「形容に迷うんなら人間基準でもいいぜ? 俺としちゃあ〝爪を立てないカラス〟って言われるほうが嬉しいが」

「妖怪によってそのへんの例え話って違うもんだねぇ」

 

 一人と一羽で会話していると、いよいよ日が沈み始める。

 令一はやっと誤解を解けたようで、男の子にリンを使って腹話術もどきを披露している。

 

「ありゃ、おにーさん。女の人はいいの?」

「しまいには怒るぞ紅子さん!」

「……」

 

 紅子からの「どうにかしてくれ」という視線が、刹那に突き刺さる。

 刹那は静かに首を振った。諦めろ、と。

 

 カア

 

 一羽のカラスが刹那の元へやってくる。

 

「お、見つけたか」

「時間を稼げたようでなにより」

「え? どういうことだよ」

 

 一人だけなにも分かっていないらしい令一を置いて、刹那と紅子だけで話が進んでいく。

 

「さて坊主、祭りだ。祭りの会場は少し遠いらしくてな。こっちにおいで」

「ま、待ってください。やっぱりお祭りなんて……そんな、危ないわ」

「へーきだよへーき。これだけ大人がいるんだから、問題はねぇさ。ちゃんと見てりゃいいんだろ?」

「お姉さん、アタシも見てるからさ。大丈夫だよ」

 

 僅かに抵抗の意思を見せる女性を刹那が説得するように言い含め、同性のよしみで紅子も女性へ声をかける。

 

「そ、そうかしら」

 

 どうやら、紅子の声かけが功を制したようで、女性はおどおどと心配そうにしながらもついていく様子を見せた。

 どうやらこの女性は〝お祭り〟を危ないものだと思っているようだが、刹那は「ま、最近は祭りでの事故もあるっていうしな」と一羽納得している。

 綿菓子を持ったまま走るなど以ての外だ。

 

「さ、アタシと手を繋ごうか」

「うん!」

 

 紅子と男の子が手を繋ぎ、刹那は女性の隣を歩く。

 令一はがくりと項垂れながら、手を繋いだ紅子に合わせて子供を挟むように歩くことにしたようだった。空気を読んだというより、ヘタレただけともとれるその行動だが、紅子は今回ばかりは満足そうに目を細めた。

 刹那、女性。そして紅子、子供、令一の組み合わせである。

 

 カア、カア、カア

 

 カラスが先導するようにくるくると回る。

 刹那と女性が先を行き、子供を挟んだ紅子と令一がその後ろを歩く。

 

 やがて、あぜ道に差し掛かったあたりで子供がなにかに気がついたように紅子の手を引く。

 

「いや、あっち、いや」

「目的地はあっちなんだよ」

「おい、この子どうしたんだよ」

「気にせず行くよ、令一さん」

「はい」

「ついでに、キミもこの子と手を繋いでね。令一さん」

「分かった」

「いや!」

「嫌がられても手を繋いでね、令一さん」

「ぐうっ、滅多に呼んでくれないのにこういうときばっかり名前で呼ばないでくれよ……やるけど!」

 

 扱いやすいことこの上ない令一に指示を出しながら紅子は溜め息を吐く。

 この期に及んでお兄さんはまだ気づかないのか、と呆れながら。

 

「せっちゃん!」

「お待ちしていました」

 

 遠くに大きく手を振る赤髪の人影と、スケッチブックを持ってこちらを見やる女性の姿があった。

 羽飾りのついたカチューシャを揺らし、最後の仕上げに入ったのかしゃがみこむ女性……秘色いろは。彼女は挨拶もそこそこに背を向けてまたスケッチブックに描き込み始める。

 

「え……」

 

 大きくなった子供の抵抗に四苦八苦しながら令一が声を漏らす。

 秘色いろはがこの場にいる意味。そして、アルフォードがこの場にいる意味を知って。

 

「いやー! やだー!」

 

 いよいよもって子供が逃れようとする力が増していく。

 ぐずりだし、子供らしくジタバタと足を踏みならしながら。

 

「あ、れ……?」

 

 刹那に連れられて女性がその場所に連れて行かれる。

 あぜ道の、その奥には……血痕が広がっていた。

 

 カラスが導くその場所に、あるもの。

 

 それは、子供の遺体――

 

 

 

 

 

「わ、たし……?」

 

 ――ではなく、女性と全く同じ姿をした人間の遺体だった。

 

「はなせー! はーなーせー!」

「ど、どうなって」

「おにいさん、絶対離さないでよ? もしかしたらアタシも狙われちゃうかもしれないからね」

 

 令一が両手で子供を押さえつけにかかったのは、その言葉がかかってから秒の世界だった。

 

「せ、刹那さん! 紅子さん! これ、いってぇ! 噛むな! 噛むな! 危ないって! 狂犬じゃねぇんだから! くそっ、これ、どういうことなんだ!?」

 

 手に噛みつかれた令一は歯を食いしばりながら耐えている。しかし、その噛みつかれた場所に穴が開くほどの力で噛みつく子供の勢いは止まらない。

 その視線は既に人のそれではなく、白目が反転して黒く染まり上がり、黄色い眼が怪しく光っている。

 そんな子供を、もはや気合いと根性だけで押さえつける令一は傷だらけだ。

 しかし、いくらアルフォード達が近くにいるとはいえ、紅子に「狙われてしまうかも」などと言われていては、令一にこの子供を離して他に任せるなんていう選択肢はなかった。

 未だ混乱の極みにある令一の元へ、アルフォードが近づいていく。

 

「せっちゃん、お疲れ様! 災難だったね? あ、せっちゃんにとっては人助けだから災難ではないのかな。でも、お疲れ様。令一ちゃんもね!わざわざ押さえてくれてありがとう!あとでちゃんと治療するからね」

「困ってなくても、連れてかれそうな魂を見たら気になっちまうからな。報酬は情報で頼むぜ、アル殿」

「ブレないなぁ。分かった。もっと広範囲で探してみるよ……わあ、令一ちゃんは凄いなあ。そいつの力は強いだろうに」

 

 そこで、やっと子供がアルフォードを見据えた。

 

「げっ」

 

 子供らしからぬほどに表情を歪めて。

 

「ジャック・オー・ランタン。悪魔との契約で地獄に落ちないことが確約されたものの、悪行が過ぎて天国に行くこともできず、地上を彷徨い続ける灯火。道案内と称して善良な人を道に迷わせる妖精、だね」

「……」

 

「考えたね。人の命が潰える時、あの世への道が開かれる。善人が死ねば天国への道がほんの僅かに見える。そのときに、お前は本来逝くべき人間を押し退けて無理矢理その道に入ろうと思ったんだね」

 

 淡々とアルフォードが告げる罪状。

 その背後では、いろはに遺体を弔うように描かれて逝くべき場所へ導かれる女性の姿があった。

 令一の手を穴だらけにしながら噛みつき、女性のいる場所へ向かおうとするその姿は醜悪そのものである。

 

「で、でもジャックランタンって言ってもカボチャ頭なんじゃないのか?」

 

 令一が涙目で痛みに悶えながら、言葉を絞り出す。

 紅子はとっくに手を離していた。

 幽霊である紅子が最初に手を繋いだのも、女性ではなく子供を相手して、令一に女性の相手をさせようとしたのも、全て自身を囮に使ってのことだった。

 勿論、刹那はその意図をきちんと理解していた。

 知らぬは令一ばかりなり、ということだ。

 

「今はカボチャのランタンが主流だけど、昔はカブでランタンを作ってたんだよ。知らない?」

 

 アルフォードが優しく問いかけるが、令一はあいにくそんな知識を持ち合わせていない。

 もはや子供と呼べないその存在は、暴れるだけ暴れてもやはり……〝白いフード〟でてるてる坊主のように見えた。

 

「カブ……なるほどな。というか紅子さん! また無茶してるんじゃないか!」

「気づかないおにーさんが悪い。せっかくアタシがこいつから遠ざけようとしてあげたのに、気づかないんだもん。このニブチン」

「それは……悪かったけどさ……」

「刹那さんは気づいてたのにねぇ」

「おっと、こっちに飛び火するのはよしてくれないか?」

 

 苦笑いしながら刹那は行方を見守る。

 女性は無事に一人で成仏できたようだった。

 

「お逝きなさい……終わりました」

「いろはちゃんもありがとね! いやあ、突然呼び出してごめんね!」

「いえ、仕事ですし」

 

 いろはは淡白に答えてスケッチブックを仕舞う。

 

「じゃ、あとはオレが処理するよ。お疲れ様。解散! あ、せっちゃんは報告書と新聞持って後で店のほうに来てね!」

「承知した、アル殿」

「さ、行こうかお兄さん。傷の手当て、してあげる」

「いいのか? ……ありがとう、紅子さん」

「いいよいいよ、アタシだって先に逃げたし」

「あ、それなら店においでよ。店の治療薬勝手に使っていいからさ。その傷はちゃんと処理しないとあとで大変だよ」

「助かるよ、アルフォードさん。じゃあ、お兄さん、一緒に行こうか」

「ああ、ありがとう」

 

 ズルズルとジャックランタンを引きずっていくアルフォードと、距離を開けて彼に着いていく二人を見送りながら。刹那は飛び立つ。数時間は遅れてしまった新聞を届けに。ついでに報告書を店で書こうと思いながら。

 

「よお、兄弟。今日はありがとな!」

 

 カア、カア

 

 迷子は帰るべきところへ。逝くべき場所へ。

 そう、カラスが鳴いたならば……それは〝帰宅〟の時間なのだから

 




 本編でなくてすみません。先にできたのでこちらをあげます。
 というわけで、烏天狗の烏楽刹那くん紹介のお話です。
 叙述トリックが書きたくて書いたのですが上手く書けたでしょうか…… 少しでも騙されてくれたら幸いですね。


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陸の怪【ひとはしらのかみさま】
心とは何処にあるのでしょうか?


――忘れないで。

 

 駅から駅へ移動し、俺達は山を登るバスへと乗った。

 バス内ではおやつにと用意したお菓子を広げて、親交を深めるように雑談をする。

 

「……お兄さん、やっぱり料理上手いよね」

 

 隣に座っている紅子さんが、エクレアを幸せそうに頬張りながら言う。

 神内を無理矢理付き合わせて一生懸命作った甲斐がある。これだけ嬉しいことはないな。

 あとなんか……いや、女の子が口いっぱいにスイーツを頬張って食べる姿って癒されるよな。視線に困りつつ、俺も自作クッキーを摘む。

 すると、紅子さんの言葉を聞きつけたらしいアリシアが、前の席からひょっこりと顔を出して興奮気味に口を開く。

 

「ええ、意外な特技でした。下土井さんってなんか不良っぽいですし。あ、でもそういう人が意外とオトメンだったりしてギャップ萌えーなんですかね? 乙女ゲームの王道パターンです」

「あー、いるよね。そういうキャラクター。見た目は怖いけど実は優しいとか、ど近眼だっただけとか……」

 

 アリシアの隣に座っている透さんが相槌を打つ。

 真面目な委員長みたいな雰囲気なのにそんなことまで知っているのか。とことんイメージを裏切ってくる人だな……古矢(ふるや)(とおる)さん。

 別にそれが悪いってわけじゃないが、意外なものは意外だ。

 

「後者のはちょっと分かりませんが、ありますね。現実の下土井さんはただのヘタレですけれど」

「一言余計だよ!」

 

 思わず声をあげた。

 

「ふふ、みんな思うことは同じだね」

「ま、まさか透さんも!?」

「んー、俺はまだ令一くんのことよく知らないし……でも誠実な子なんだなっていうのは分かるよ」

「と、透さん……」

 

 そんなことを言われたのは初めてだった。

 やっぱり同性の友達がいるのっていいな。いくら口で負け越していても、俺を肯定してくれる人がいるってだけでなんか頑張れるし。

 

「うーん、秘湯があるのは確かみたいだけど……今の季節桜は散り始めてるかもね」

「ん、透さん。なに見てるんだ?」

「パンフレットだよ。なかなか見つからなかったけど、紅子さんから連絡があったその日に探しておいたんだ。ほら」

 

 前の席から差し出されたパンフレットを手に取り、広げる。

 紅子さんもエクレアを食べ終わったのか、手をウェットティッシュで拭きながら、俺の肩に寄りかかるようにして覗き込んできた。

 わざとだな、この人はもう。

 

「ふうん、随分とまあ……子供っぽいパンフレットだねぇ。企画を通したちゃんとしたやつじゃなくて、この分だと個人で制作したパンフレットなんじゃないかな」

 

 文字のフォントも、イラストも、見出しも、なにもかも見やすさが皆無なパンフレットを読みながら彼女が言う。多分、公式のものじゃないんだろうな。

 むしろそれを手に入れてきた透さんがすごいのか。

 

「あ、でもこのキャッチコピーだけは真剣そのものじゃないですか? ほら、この〝心の在り処を知れる場所〟って文句です」

「景色には自信があるようだし、心が洗われるような場所なんだろうねぇ。まあ、アタシの場合は魂が洗われる……っていうのかな」

 

 どっちもそんなに変わらないだろ。

 いい景色を見れば自然と心が豊かになるからな。

 

「あー、でも心が洗われるような景色は見れないかもですね」

「どうした? アリシアちゃん」

 

 俺が声をかけると、窓の外を見ていたアリシアは「気づかないんですか?」と呟き、バスの行く先を指差す。

 

「霧が出てきちゃいました」

「本当だ。盆地にでもなってるのかな」

 

 透さんが地図を眺めるものの、事実行く先に霧が広がっている。

 細い山道を走っているのに、果たしてこのバスは大丈夫なのかと心配になってくる。

 

 ガタガタ、ガタン。

 

 道が悪いのだろう。車酔いするような人にとっては地獄とも言える車内で、俺達は自然とバスの行く先へと目を凝らす。

 

「えー、本日はご乗車ありがとうございます。えー、まもなく〝神中(じんちゅう)村〟付近へ到着します。停車までシートベルトを外さないようにしてください。本日の案内はこの青雉(あおきじ)が務めました。お疲れ様です」

 

 バス内にいるのは勿論、俺達だけである。辺境の村にやってくる人なんて滅多にいないということだろう。このバスだって、本来は山を越えた先の温泉地へと向かう線なのだから。

 俺達に向けて運転手さんがマイクをオンにしてアナウンスする。

 しかし、霧がどんどん濃くなっていっているが大丈夫なのか? 

 

「えー、霧が非常に濃くなってきたため、バスごと村内へ一旦避難いたします。ご了承ください」

 

 ああ、やっぱり。

 納得しかなかった。

 

「お、見てよ令一くん。あれあれ」

 

 透さんが指差す方向を見れば、なにか小さな木の板の看板があった。

 目を凝らす。しかし、バス内から霧の中を、それも遠くを見るのはさすがに無理があったようでなにが書いてあるかは分からない。

 

「紅子さん、あれ見えるか?」

「え? ああ……ただ村の名前が書いてあるだけだよ。うーん、なにか、上から書き直した後みたいになってるのは分かるんだけど……それ以上はちょっと分からないかな」

 

 怪異の紅子さんでも、さすがにそこまでは分からないか。

 霧の中を見通すことなんて普通はできないからな。なにが書いてあるか分かっただけ十分すごい。

 

「わっ、洞窟ですか……?」

 

 気がつけば、前方の壁に穴が広がっていた。

 洞窟というにはあまりにも短く、まるでゲートのように開いたその穴をバスは潜っていく。

 

「お、あんなところに注連縄(しめなわ)

 

 透さんが呟いたときには、既に短い洞窟を通りすぎるところだった。

 

「注連縄? どこにあったんだ?」

「洞窟の入り口だよ。かなり太い注連縄が上のほうにぶら下がってたんだ」

「オカルトの匂いですね」

 

 村の入り口に注連縄ね。普通なら変わってるとか、信心深いんじゃないかとか、そんなことしか思わないだろうが……あいにく俺達はなにかオカルト的なことが起こると確信してここ訪れている。

 それを加味すれば、村の入り口みたいなところに存在する注連縄なんて、怪しいことこの上ない。覚えておこう。

 

「………………」

「どうした? 紅子さん」

「いいや、なんでもないよ……」

 

 ぶるりと、体を震わすように紅子さんは自身の腕で体を抱き込んでいる。

 洞窟を抜けたからかほんの少しだけ肌寒くなってきているし、体温の低い彼女には辛いのかもしれない。

 

「もう、なんでもないって言ってるのに」

 

 上着を脱いで彼女の膝に被せる。

 紅子さんは少しだけ不満そうに言っていたが、最終的には上着をしっかりと掴んで俯く。怪異とはいえ、一応生身なんだ。冷やしてしまったら風邪をひくかもしれない。

 ……いや、怪異が風邪をひくかどうかは知らないけれど。念のため。

 

 

「……心の在り処なんて、誰も分からないものだよ」

「紅子さん?」

「ああ、なんでもない。ねえ、赤いちゃんちゃんこはいかが?」

「いらないよ。どうしたんだ? 脈絡もなく」

「ううん、なんでもないよ。本当に。たまになんでもないときに言えばYESって言ってくれるかなって思っただけ」

「肯定しても危害は加えないのに?」

「怪異にとっては噂のプロセスを踏むことこそが大事なんだよ。噂の段階さえ踏まなければ人間にとっても問題なく終わる。それだけのこと」

 

 紅子さんは人を殺さないために一工夫しているからか、もしくは自分が生きるために必要だからか、そういうことにも詳しいな。自分自身のことだからだろうか。

 

「あと、4日ね」

「あれ、そんなに泊まるっけ?」

「ああ、うん。怪異調査なんだから、長引けばそのくらいいる必要があるかもね」

「温泉もあるみたいですし、ちょっとくらいは長居したいです。でも一週間とかになると大変ですから、あたしは三日くらいがベストですね」

 

 ちゃっかりアリシアが自分の希望を言う。

 俺としては邪神野郎から離れられて、紅子さんといられるなら何日でも問題ないのだが……透さんは仕事もあることだし、本当は短く済んだほうがいいんだろうなあ。

 

「俺は三日分は休みを取ってるけど……一応有給も残ってるし、いざとなったら職場に連絡するよ」

「いざとなるような場面がなければいいんですけどね」

 

 アリシアが手元の十字架を眺めながら言う。そのときなんて来ないほうがいい、それは当たり前だ。不足の事態に陥ってしまうということは、この村の〝なにか〟を俺達だけで対処できなかったってことになるからな。

 

「まもなく停車します。村の方にバスの滞在許可をいただいてくるので、ご乗車の皆様は車内でお待ちください」

 

 霧はいよいよ濃くなっていて、バスが村の中に入るまで一歩前も見えないような状態になっていたから、運転手さんも一旦ここで休憩するのだろう。このまま霧が晴れなければ、もしかしたら彼も泊まるのかもしれない。

 けれど、このまま外に出て霧の中、細い崖道をバスで帰っていくよりも村に泊まるほうが何倍もいいだろう。前も後ろも見えないのにバスで帰ったりなんてしたら命の危機だ。

 

「村の中は少しはマシみたいですね……紅子お姉さん? 大丈夫? どうしたんですか? 体調が悪いんですか? それとも下土井さんにセクハラでもされました? ダメですよ。ちゃんと爪で引っ掻いてやらなくちゃ」

「……お兄さんのせいじゃないよ。単純に車酔いかな」

 

 ――お兄さんのせいじゃないよ

 

 その言葉に、一瞬だけ言葉が詰まった。その言葉が、明確に俺の心の奥底に残ってしまっているからだ。

 彼女の……一年前の夏。亡くなった青凪鎮の最期の言葉。それが俺の中に根強くこびりつき、消えない痕となって深く、深く、刻み込まれていた。

 

「おにーさん?」

「いや、大丈夫。ちょっと思い出に浸ってただけだ」

 

 まさか彼女にトラウマを刺激するからその言葉を言わないでくれ、なんて言えるわけがないだろう。紅子さんはあの件に全く関係ないどころか、知りもしないのだから。

 

「紅子さん。車酔いしたなら薬でも飲むかい? あ、いや、市販薬って怪異に効くのかな……」

 

 透さんが薬を取り出して困ったように言った。

 確かに、人の体とは違うだろうし、効くかは分からない。むしろなにか余計なことをしたほうが悪化させてしまう原因になるかもしれない。

 なら、安静にしててもらうしかないか。

 そうして運転手の青雉さんとやらが交渉しにいった場所を見ると……

 

「このガキ!」

 

 窓の外には、運転手が子供を引っ叩く衝撃の場面が広がっていた。

 

「はあ!? なにやってるんだあのおっさん!」

 

 そんな光景を見て、さすがに大人しく席で待っていろだなんて俺には無理な話だった。

 俺は素早く席を立つと、バスの出口に向かう。

 

「待って、お兄さん」

「紅子さんは安静にしててくれ。アリシアちゃん、紅子さんが無茶しないように見張っててくれないか?」

「珍しく意見が合いましたね。がってん承知です」

「アリシアちゃん、アタシは大丈夫だって」

「いいえ、だめです。ダメダメです。大人しく休んでてください」

「俺も行ってくるよ。ちゃんと待っててね」

 

 同じく席を立った透さんと急いでバスから降り、尚も怒りに震える運転手を引き剥がす。いったいなにがあったのかは知らないが、中学生くらいの子相手に手をあげるなんてどうかしてる! 

 

「なにやってるんですか!」

「ああ、お客さん。だめですよ、バスで待っててください。私ならまだしも、泊まりの予定のお客さんまで受け入れられないって……」

 

 興奮した様子で捲したてる運転手の言葉を、アリシアと同じくらいの年頃の……巫女服を纏った少女が甲高い声で遮った。

 

「うるさいわね! 帰りなさいったら帰りなさいよ! 余所者なんか泊めないんだから!」

「だーかーらー、お嬢ちゃん、あの霧が見えないんか? あんなんじゃあどこにも行けねぇよ。バスごと崖下に落ちて俺らに死ねって言ってんのか? あ?」

 

 俺達に対する態度と180°変えて運転手が少女に詰め寄っていく。

 

「それより、さっきの、謝りなさいよ。あんたのためよ! わたしに手をあげるなんて大人のやることじゃないもの!」

「そうだろうなぁ。でもこっちも仕事でさ」

 

 二人の睨み合いは続く。

 しかし、これはいったいなにがあったんだ? なんでこんなに交渉が拗れているんだ。少女にとっては俺達を泊めたくないみたいだが……ちゃんと宿の予約は取ってあるはずなのに、なにかおかしいな。

 

「ほら、カノちゃん。落ち着いて。いいじゃないか泊めても。資料館がダメなら村のみんなのうちに泊めるのでもいいからさあ」

「……それはだめ! 泊めるならうちの資料館しかないわよ。あんた達のボロ家に都会の人を泊めるなんて鳥肌が立つわ! 礼儀知らずじゃない!」

 

 初対面の大人相手に「あんた」とか言っちゃう時点で礼儀を語るのは間違っているが、もしかしたら複雑な事情を持っているのかもしれない。

 日和見主義っぽい他の村人達は遠巻きにして運転手と彼女の言い争いを見ているだけだし、口出しだけじゃなくて俺達がちゃんと止めないと。

 

「運転手さん落ち着いて! 手をあげるなんて以ての外ですよ!」

「お客さん! なにするんですか!」

「えっと、口の中切ったりしてないかな。怪我は?」

 

 俺が運転手さんを羽交い締めにして、透さんが少女に怪我の有無を聞く。

 少女は申し訳なさそうな顔をすると、「平気よ。わたしが強く言っちゃったせいだからいいの」と返事する。

 

「この霧だとバスで道を行くのは危ないし、俺達は予約を取ってここに泊まりに来たんだけど……それは知らなかったかな?」

「え、予約? そんな話聞いてないわよ……ちょっと! 誰よ、予約なんて受け入れたの!」

 

 ギャラリーからの返事はない。

 少女はその沈黙に少し気圧されたように怯むと、透さんに「嘘じゃないわよね?」と確認した。

 

「うん、嘘じゃないよ。ちゃんと予約は取ったはず」

「……そう、それなら仕方がないわね。分かった。それなら資料館しか泊まる場所がないの。そっちに来てちょうだい」

「俺はガキなんかの世話にはならねぇからな!」

「ちょっと運転手さん落ち着けってば!」

 

 なんだよこの運転手。 とんだ地雷じゃないか……

 

「いたっ」

「ふんっ、さっき泊めてくれるって言ってましたね? お願いしてもいいですか?」

 

 運転手は俺を思い切り振り払うと、先程声を上げていた村人に声をかけにいく。なにがなんでもあの少女の言うことには従いたくないようだ。あれだけ慇懃無礼な態度だと大人を怒らせるのは分かるが、こっちはこっちで大人げがない。

 

「行っちゃったね」

「フラグってやつじゃないよな……?」

「うーん、それはどうかなあ」

 

 オカルト的事案が起きるかもしれないのに孤立するのはマズイ気がするんだが……だとしても二手に分かれるわけにもいかないし、ほぼ一般人の透さんやアリシアを派遣するわけにもいかない。

 俺がいければ一番いいのだろうが、体調が著しく悪そうな紅子さんに二人を任せてしまうわけにもいかない。万が一があったとき、あの体調の悪そうな紅子さんに戦わせるような真似をさせたくないからな。

 俺が、今一番元気があって戦力にもなるのだ。離れるわけにはいかない。

 

「様子を見るしかないな」

「一応気にかけてはおくよ。今日は資料館ってところに行ってみようか」

「ああ……」

 

 後ろ髪を引かれつつも、俺と透さんはバスに戻る。

 紅子さんとアリシアを呼んで資料館に行くという少女に案内してもらうことにしたからだ。

 

「アリシアちゃん、紅子さんはどう?」

「〝どう〟ってことないよ。言ったよね、ただの車酔いだって」

 

 答えたのはアリシアではなく、席に座ったまま不機嫌そうにしている紅子さんだった。回復したようでなによりだ。

 

「よかった。ならもう動けるかな? あの女の子が泊まる場所まで案内してくれるっていうから、荷物を持って行こう」

「紅子さん、確かに予約を入れたんだよな? なんか話が通ってないみたいだったけど」

 

 彼女を責めるわけではないが、確認は必要だ。アルフォードさんにおススメされたのは俺とアリシアなのに、情けないが予約を入れたのは紅子さんなのだ。

 

「確かにこの村の番号を渡されたよ。アルフォードさんから直接もらったメモだったから、間違えようがないはず。出たのは若い女の子だったみたいだけど……さっきの大声を聞く限り、多分あの子ではなさそうかな」

 

 ということは巫女服の女の子に話が通っていないだけなのか、それとも予約の電話から既に怪奇現象が起きていたのか、だな。

 

「深く考えるのは後にしましょうよぉ。道が悪すぎてバスはガタガタでしたしお尻が痛くなっちゃいます。よくあれでパンクしませんよね」

「一応定期的に山道を走ってるみたいだし、対策はされてるんだろうな」

「アリシアちゃん、辛いなら俺が持つよ」

 

 透さんは泣き言を漏らすアリシアから荷物を預かって、先にバスから出て行った。その後ろをお礼を言いながらロリータ服のアリシアがついていく。目立たなければいいんだけれど。

 

「…………」

「紅子さん?」

「ねえ、お兄さん」

「どうしたんだ? そんな神妙に」

 

 紅子さんはなにかを言いたげにして、それから誤魔化すように首を振って「荷物持ち、よろしくね」とのたまった。

 

「はいはい、お姫様」

「ありがと。でもお兄さん……恐ろしく似合わないね、そのセリフ」

「一言余計だ」

 

 紅子さんはなにを言おうとしたのだろうか。

 気にはなるが、俺は彼女の隠したいことにはあまり深く触れないことにしている。それが気遣いってやつだ。

 

「そうだ、運転手の人はどうしたのかな?」

「巫女服の子には世話になりたくないって言って、村の人のところに泊まるみたいだ」

「え、それなら二手に分かれたりとかするべきじゃないのかな?」

「透さんも、アリシアも、言ってしまえば一般人の枠から飛び出してはいないだろ? あの二人だけにしておくのもできないし、体調が悪そうな紅子さん一人に背負わせるのも……ほら、俺が嫌だし」

「なあに、そんなにアタシが心配?」

「うん、心配だ。できるなら今すぐ帰っちゃいたいくらいには。復活できるとはいえ、紅子さんが怪我したり死んだりしたら俺は嫌だ。だから、なにかあったらすぐに言ってほしいんだけど……」

 

 チラリと、様子を見る。

 紅子さんは小さく唇を噛むようにして首を振った。

 なにか、あるんだろうなと思ってしまうのは俺が気にしすぎなのだろうか。

 けれど、気にし過ぎなくらいじゃないとこの人はすぐに無茶をする。

 俺に対して無責任な優しさはやめろとかなんとか言うくせに、紅子さんはいつも自分を囮にする。

 今回もちゃんと見ていておかないと、一人で突っ走る可能性がある。

 気にしておかないと。

 

「行こっか、お兄さん」

「うん」

 

 前を歩き出す紅子さんについて歩きながら、バスの外で待っている二人と、女の子のところへ向かう。

 

「会議は終わりましたかー?」

「こらこらアリシアちゃん。野暮だよ」

「そういう古矢さんも興味津々でバス内覗こうとしてましたよね?」

「俺は紅子さんが困ってないか見てただけ」

「……古矢さんって妹萌えーなんです?」

「違うよ。シスコンでは断じてないよ。多分」

「あたし、シスコンとは言っていないのですが」

「……」

 

 賑やかでなにより。

 透さんも誤魔化しきれなかったようだ。お互い女の子に弱いようで苦労するな。こんなところでも親近感が湧く。共感できる男友達っていいな、本当に。

 

「話は終わったかしら? わたしの話し方についてはあんまり詮索しないで頂戴ね。こうしてないと無礼(なめ)られるの。あんた達にじゃなくて、他の大人に」

 

 事情があるのなら気にすることはないだろう。

 この子も多分苦労してるんだろうな。

 

「はい、こっちよ。霧で見えにくいでしょうけど、外よりは幾らかマシだから見えるでしょ? ほら、あそこ。あの資料館が一番大きい建物なの」

 

 浅葱袴の巫女装束を着た少女は俺達をときおり振り返りながら、村の奥へ導いていく。白い霧の中ではあるが外の一歩先も見えないような濃霧とは違い、この村の中では遠くも一応見渡すことができる。

 確かに、辺境の村には似つかわしくない洋館が森になっている手前に建っていた。

 

「そうだ。君の名前は? なんて呼べばいいかな」

「カノ……藤代(ふじしろ)華野(かの)よ」

 

 剣呑な表情で少女……華野が言う。

 

「えっと俺は――」

「言わないで」

「え?」

 

 自己紹介しようとした言葉は、途中で遮られて続かなかった。

 

「ひとつ、質問があるの。あんた達の名前は、聞けば漢字まで分かっちゃう名前?」

 

 脈絡のない質問に目を白黒とさせながら「いや、俺は……間違えられることのほうが多いな」と答える。下土井(しもどい)なんて苗字は珍しいし、伝えたとしても下戸井と間違えられることがある。令一という名前も、玲一やら零一やら、パターンが多いから間違えられることもある。いや、あった。昔の話だ。

 

「アタシは分かっちゃうだろうね」

 

 紅子さんは分かりやすいからな。

 

「俺は多分分からないよ」

 

 古矢は古谷と間違えられそうだし、「とおる」という名前もパターンは多いからな。

 

「あたしは……綴りまでは正解する人がいませんね」

 

 うん、カタカナなら分からないわけがないが、綴りとなるとちょっと怪しいかもしれないな。こう考えると、初めて聞いて分かりやすいのは紅子さんくらいか? 

 

「なら、あんた。名乗るのも呼ばれるのも苗字か名前、どっちかに固定しなさい。この村では絶対に両方の名前を漢字まで教えてはいけないわ。いいわね? これはルールよ」

「アタシは、元々名前でしか呼ばれてないから大丈夫だね。分かったよ、華野ちゃん」

 

 皆、紅子さんのことは紅子さんか紅子お姉さんと呼んでるし、そこは大丈夫だな。

 それにしても漢字を含めた両方の名前を教えてはいけない、か。

 名前。真の名前ってやつかな。怪異や神に対して本当の名前を知られると、魂を握られたも同然だとかなんとか。そういう話があったはずだ。

 あれ、でも同盟でその辺を注意されたことはないな。人間に友好的だからか? それともなにかもっと条件が揃わないと危険にはならないとか。

 はっ、まさか俺が紅子さんに〝令一さん〟と呼ばれるときは否が応でも従ってしまうのは……いや、俺が名前呼びに耐性がないだけだな。分かりきっていたことだ。

 

「キーワード式の怪異、かな」

 

 紅子さんがぽつりと呟いた。

 それに反応したのは透さんだ。

 

「そうだね。キーワード式っていうと紅子さんもそうだし、あとは名前を呼ばれたら振り返ってはいけないとか……そういう感じかもしれないね。漢字まで知られちゃいけないってことは、もっと限定的な……」

 

 小声でやり取りをする二人はまるでオカルト専門家のようだ。

 俺は又聞きするくらいでそこまでオカルト方面に明るくないから、参考になる。

 ……もっと勉強するべきかもしれない。そうしたら紅子さんの知識にだけ頼らずに済むからな。

 

「ああ、そうだ。自己紹介の途中だったね。忠告通りアタシは名前だけ。紅子って呼んでくれればいいよ」

「あたしはアリシアです。別に苗字まで名乗る必要はありませんよね」

「そうだね、みんなお揃いで名前だけ言っちゃおうか。俺は透って名前だよ。よろしく」

「俺の名前は令一だよ。宿泊の話が通ってないところ悪いんだが、よろしく」

 

 アリシアが俺達を苗字で呼ぶかもしれないのは慣れてないから仕方ないとして、一応ここは皆に倣って名前だけ名乗っておくことにする。

 俺達の自己紹介を聞いた華野ちゃんは気にした風もなく「そう、よろしく」と言ってスタスタ歩いていった。

 

「宿泊に関しては……しょうがないわ。あんた達はなにが目的でここに来たの? 観光? こんな辺境に」

「あー、景色が綺麗で温泉があるって聞いたからだな」

「温泉地なら山を越えた場所にもあるじゃないの」

 

 俺が答えると、華野ちゃんは剣呑な表情でこちらを振り返った。

 嘘ではないぞ。アリシアのために秘湯に浸かりに来たわけだし。ついでにオカルト的事件があったら対処するだけで。

 そうしたら紅子さんが一拍おいて話に入る。

 

「混んでいる場所が苦手でね。アタシが提案したんだよ」

「そ、そうそう。俺も混沌としたものは嫌いだし」

 

 合わせて発言すれば、脳裏に神内の姿が浮かび上がってきて米神を揉んだ。

 混沌なんて言うからだ。俺は馬鹿か。同盟ではそういうのを引っくるめて忘れて活動したいのに。

 今の仕事には慣れてきたし、信頼も得てる。そのうち、アルフォードさんあたりにこの呪いを解く方法も聞きたいな。

 

「そうなの……着いたわ。客間の準備なんてしてないからちょっと埃が積もってるかもしれないけど、掃除は定期的にしてるから汚くはないはずよ。気になるならわたしに言って。掃除するから」

「ううん、道具さえ用意してくれれば勝手にやるよ」

 

 透さんが答えた。

 しかし、この大きな洋館を放置せずにちゃんと掃除してるのか。アリシアと同じくらいなのに、凄いな。だが……親の話題が出ないあたり、もしかしたら一人で住んでいるのかもしれないな。そこはあまり踏み込まないようにしておかないと。

 

「そう。あと、食事はどうするの? 幸い、昨日食糧搬入車が来たばっかりだから余裕はあるのよ」

「食材があれば俺が作ろうか? これでも料理は得意なんだよ」

 

 今度は俺が答える。

 こういうときこそ役立つのが、磨かれた家事スキルだよな。

 

「なら、お手伝いだけお願いするわね。みんな一緒でいいんでしょ? あ、こっちのほうは全部空き部屋だから好きに使っていいわよ。ちゃんと一人一部屋あるわ。あんまり騒がしくはしないように」

「分かった。ありがとう華野ちゃん」

「いいえ、知らなかったとはいえお客様だもの」

 

 紅子さんの礼に当然と言った様子で華野ちゃんが答える。

 すごくしっかりした子じゃないか。なんであんなに「帰れ」と食ってかかっていたんだろう……やっぱりこの村になにかあるのかな。だから帰したかったとか。思いつく理由はそれぐらいか。

 

「館内図を見て。わたしはここ、この部屋がわたしの部屋。なにかあったら来て。ノックはちゃんとすること。キッチンはこっち。食堂はここ。室内シャワーはこっちよ。分かった?」

「ああ、なにからなにまでありがとうな」

「温泉の場所は食事のときに言うから、とりあえず荷物を置いてくるといいわ。手伝ってくれる……えっと」

「令一だ」

「レーイチさんは一通り荷物置き終わったらキッチンに来てね」

「分かった」

 

 華野ちゃんからの説明を受けて指定された部屋のある廊下を四人で歩く。

 

「一人一部屋ですね」

「え? ああ、そうなるか」

「どうしたのかな。もしかしてアタシと同室になりたい? 騒がしくするなって言われたのに、お兄さんったら大胆だね」

「違う! 防犯上の問題で男女に分かれるのかと思ってただけだ!」

 

 ここぞとばかりにからかってくるんだから、この人はもう。

 

「うーん、それもそうだけれど……お兄さん、電波は生きてるよね?」

「ああ、普通にネットも電話もできるな」

「なら、お互いの部屋に行くときとかはグループチャットで連絡すればいい。そうすれば万が一はないよ。あとはちゃんと鍵を閉めておけばいい」

「オカルトな現象には対処できないんじゃないか?」

「それはそれ、なにかあったら扉を蹴破ればいい」

 

 出た。紅子さんの意外に脳筋なところ。

 ここまで食い下がるということは多分、紅子さんは一人になりたいんだろうな。ならそれを汲むか。

 

「分かった。じゃあそうしよう。紅子さん、アリシア、俺、透さんの順でどうだ?」

「それならいいよ」

「じゃあ、あたしはこの部屋ですねー」

「うん、そういうことならそれでいいよ。じゃあ荷物置いて来ちゃうね」

 

 こうして俺達は資料館の一室を間借りして宿泊することになったのだった。



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令一のトラウマ

「えーと、華野ちゃん。よろしく」

 

 紅子さん達と別れて俺はキッチンに来ていた。

 さすがの紅子さんでも館内図があるから迷わないと思うが、アリシアや透さんと一緒に来るように言ってある。さすがにそこまでの方向音痴だと思っているわけではないんだけど……念のためだ。

 

「ええ、よろしく。食材ならここと、ここにあるわ。好きなの使っていいわよ。なにが食べたい?」

「うーん……人が多いし、あんまり食材使わせていただくのもなんだし、カレーにでもするか」

「構わないわ。なら野菜切るのよろしく」

「おう」

 

 カレーだけなら二人で五人分作るのくらいわけないな。

 あとで余った分をリンに食べてもらうためにもらおう。あの子も普通に人間の食事を食べられるからな。

 

「手慣れてるわね。本当に家事なんてできるんだ」

 

 嘘だと思われていたのか……

 

「まあ、意外だとはよく言われるよ」

 

 昼頃にもアリシアに言われたばかりだからな。

 見た目が不良とも言われるから、やっぱ似合わないんだなあ。

 

「ええ、でも助かるわ。許可してない客人がいきなりやってくるなんて青天の霹靂だったもの。それで料理まで押し付けられたらどうしてやろうかと思ってたわ」

 

 俺が料理できる人でよかった……そうだよな。ここまで来ても華野ちゃんの両親はやっぱり出てこないし、彼女は十中八九一人暮らしだろう。一人で気ままに暮らしてるところにいきなり客を持て成せなんて言われても不満しかない。俺だってそう思うだろうし。

 それに食糧搬入車が昨日来たとかなんとか言っていたから、食材にも限りがあるはずだ。いつも計算して食材を消費してるなら、俺達がやってきてしまったことでその計算も狂うことになるだろうし、本当に申し訳ないくらいだ。

 少しでも手伝って負担を減らす努力をしておかないとな。

 

「……ここまでできたらもう大丈夫よ。そこに食器があるから出してきて頂戴。ご飯のほうももう少しで炊けると思うわ」

「りょーかい。ありがとな」

 

 食器を取り出し、華野ちゃんの前に並べておく。

 他に必要な食器類も軽く探しながら取り出し隣の食堂へ並べに行くと、ポケットに入れていたスマホが震える。料理中もずっと震えていたのだが、あの三人がわざわざチャットで話すということは俺にも伝えたいことなんだろう。

 ちょうど皆を呼ぼうと思っていたところだからちょうどいい。

 履歴を辿ってなにを話していたか見てみるか。

 

 

 

 アリシア

「運転手さんの騒動のときですけど、森のほうで誰かが見てたみたいなんですよ。さっきは言いそびれちゃったのでこっちに送っておきますね」

 

 ベニコ

「そんなことがあったの? アタシに言ってくれればよかったのに」

 

 アリシア

「ベニコお姉さんは具合悪そうでしたから、あんまり心労かけたくなかったんですよ!」

 

 トオル

「森ってこの資料館の裏にある森? 気づかなかったなあ。どんな人だったかって見えた?」

 

 アリシア

「真っ白な女の子だと思います。すごく怖い感じがしたので、睨んでいたのかもしれません」

 

 ベニコ

「あの騒動のときならお兄さん達が気づかないのも無理はないよ。そっか、ちょっと気になるね」

 

 トオル

「まだ時間もあるし、俺が見てきてもいいかな?」

 

 ベニコ

「一人で?」

 

 トオル

「一人で。ほら、俺はこういうの慣れてるけど、アリシアちゃんはまだ慣れてないでしょ? ベニコさんは俺よりもアリシアちゃんについていてあげてほしいんだ。なにかあったら呼ぶから、待機してて」

 

 アリシア

「悔しいですけど、あたしはまだズブの素人ですからね……ごめんなさい」

 

 ベニコ

「いや、アリシアちゃんは悪くないよ。慣れてる方が異常なんだからね。気をつけてよ、トオルさん」

 

 トオル

「じゃ、ちょっと行ってくる」

 

 

 

 へえ、白い人影ね。

 俺も気づかなかったなあ。

 というか透さん、一人で調査しに行ったのか。アクティブだなあ。

 この会話が30分程前の出来事だな。で、その後の会話がないってことは上手くいったのだろうか。

 

 レイイチ

「夕飯はカレーだ。もうすぐできるから、戻ってきたなら食堂まで来てくれ」

 

 と送る。

 すぐさま三人共に返信が来たので何事もなく済んだようだ。よかった。

 スマホをしまってキッチンに戻る。

 あとはもう一度手を洗って、綺麗に盛られたカレーの皿を食堂に運んで行くだけだな。

 

「皆にはこっちに来るように言ったから、すぐに来ると思う」

「そう、ならそれまでの間先に洗い物でもするわ」

「お、なら手伝うよ。二人のほうが早いし」

「ありがと、案外気が効くわね」

 

 一言余計だ。

 いつものようにその言葉を口から出しそうになって寸前で飲み込み、洗い物を手伝う。

 サクッと洗い物が終わった頃には廊下から軽めの足音が聞こえてきた。

 全員一緒のようだ。無事もこれで確認できたことだし、あとは夜になにも起こらなければいいな。

 

「わ、カレーですね!」

 

 目を輝かせたアリシアが開口一番、そう言った。

 真っ先に席に座ったと思うと、期待の視線が俺に突き刺さる。早く食べたいという気持ちが痛いほど伝わってくるようだ。

 もうちょっと待ってくれ。

 

「お疲れ様、ありがとう華野ちゃん。お兄さん」

「うわあ、美味しそうだね」

 

 続いて紅子さんと透さんが席に着き、俺はちゃっかり空けられた紅子さんの隣へ。

 アリシアや透さんに気遣われている気がする。いや、気がするじゃなくて気遣われているな。なんだよ、俺ってそんなに分かりやすいか……? 

 

「集まったわね。ええと、わざわざ訪れようと思ってくれたことは感謝するわ。迷惑だけど」

 

 明け透けで歯に衣着せぬ物言いだが、ここまでくるとかえって好感を覚えるな。

 

「でも予約入れたっていうあんた達に罪はないし、精一杯持て成させてもらうわ。じゃ、ご自由に」

「いただきます」

 

 全員が挨拶をしてカレーを食べる。

 うん、なかなか。華野ちゃんとも連携して作れたし、明日の朝も手伝おうかな。

 

「受け入れてくれてありがとう、華野ちゃん」

「し、仕方なくよ仕方なく!」

 

 透さんの言葉に華野ちゃんがツンデレっぽく返す。

 

「いや、初対面で一緒に料理するのに連携できたからびっくりしたな。華野ちゃんのおかげで早くて美味しいカレーができたよ」

「うんうん、美味しいよねぇ。二人の努力の賜物かな」

「おかわりです!」

「アリシアちゃんはっやいな!」

 

 勢いよくお皿を突き出すアリシアちゃんから食器を受け取り、おかわりを用意しに行く。

 

「そう……ありがと。偉そうにしてごめんなさいね」

 

 華野ちゃんの近くを通れば、そんな独白が聞こえた。

 なんだ、やっぱりいい子じゃないか。これなら仲良くできそうだ。

 

「温泉の場所だけど、ここの裏に森があるでしょ? そこの東のほうね。露天だから気をつけて入るようにしたほうがいいわ」

「わーい、です! 露天風呂とか最高じゃないですか!」

「ふうん、でもそれなら見張りが必要かもねぇ」

 

 そのやり取りに、俺は既視感を覚えて硬直する。

 

 

 

 ――「風呂は西側に面してるってさ。さっさと堪能して来いよ」

 ――「わーい!」

 ――「ふふふ、楽しみだね」

 

 ――女性陣は勢いよくその場から飛び出して行った。

 

 

 

「な、なあ。華野ちゃん。この辺に変な鳥が出るとか、そんな話はないよな?」

「鳥……? 別に、都会の人からすれば珍しいのがいるかもってくらいじゃないかしら」

「露天風呂で動物に襲われるとか、そんなこともないよな? ないってことでいいんだよな?」

「なによ、信じられないっていうなら入らなければいいじゃない。少なくともわたしはあそこで襲われたことはないわよ」

「クマが出たりとか、人喰いの鳥とか……」

「ちょっとお兄さんストップストップ」

 

 隣の紅子さんに肩を叩かれ、我に帰る。

 思い出すことが多いからか、それとも脳吸い鳥のときと似た状況だからか、恐慌状態に近い形になっていたようだった。

 華野ちゃんへの詰問はさすがにやりすぎだ。詰め寄られた彼女は怪訝そうな、不安そうな顔で俺を見ている。

 

「ご、ごめん。ケチをつけるつもりはなかったんだ」

 

 慌てて弁解するものの、もう遅い。

 何事かを考えるように紅子さんは俺に視線を寄越し、目を細める。

 

「……お兄さんは心配性だねぇ。霧の中で露天風呂に入るのがそんなに怖いのかな。仕方ないなあ……そこまで言うなら、今日は内湯だけにしておこうか?」

「そーですね。なんか怖いですし」

「令一くん、大丈夫?」

「あ、いえ……本当にごめん。水を差しちまった」

「いいよいいよ。霧が出ていると景色も充分楽しめないだろうからね」

 

 皆からのフォローにいたたまれなくなりながら眉を寄せる。

 俺のせいでせっかくの楽しい雰囲気が台無しになってしまった。もう、忘れないといけないのに。もう、過ぎたことなのに。一年近く前のことだというのに、未だにあの夏の出来事が俺の中にこびりついて離れない。

 あんな風に後悔をしたくないからと努力しているつもりではあるのだが、まだまだ精神的に強くなれていないということだろうな。

 皆にフォローさせてしまうことになって、罪悪感に襲われた。いっそ茶化したり責められるほうが楽だったかもしれないが……いつもはここぞとばかりに責めてくる紅子さんがそれをしないということは、彼女の場合俺に対する罰なんだろうな。責められるほうがかえって気持ちが楽になると分かっているから、あえてそれをしない。彼女はそういう人だ。分かっている。

 考えていても仕方ない。霧の中で露天風呂に入るというのも足元が見えにくくて危ないかもしれないから、これでいいんだ。

 

「それで? 今日は内風呂にするのかしら」

「うん、そうさせてもらうよ」

 

 華野ちゃんの問いかけには、俺の代わりに透さんが答えた。

 

「そう、なら順番を決めることね。わたしはこのあとすぐに入っちゃうから、30分後くらいに入りにくればいいわ。内風呂は鍵があるけど、一応扉の外に〝使用中〟と〝空き〟の木札を下げておくわね」

「ありがとう。それじゃあ、あとで入らせてもらうよ」

「女性陣が先ですよね! 当たり前ですけど!」

「そうなるな」

 

 気持ちを立て直して俺が頷くと、紅子さんが嫌な笑いを浮かべて俺に寄りかかる。いくら席が隣だからといっても、椅子がくっついてるわけじゃないんだから滑り落ちても知らないぞ。

 

「女性の入ったあとの残り湯、堪能できてよかったねぇ」

「おい、俺が変態みたいなこと言うなよ。こういうときはシャワーしか浴びないから安心してくれ」

「なあんだ、つまんないの」

「紅子さん、それを言うと俺まで変態みたいなことになっちゃうから……」

「俺までってどういうことだ透さん!? 俺は変態で確定みたいなことを言わないでくれ!」

「あ、ごめん。つい」

 

 悪意のまったく篭っていない、その自然に出た言葉に傷ついた。

 天然ってタチが悪い。

 

「……さて、と。冗談はここまでにして、透さん。人影の件はどうだったのかな」

 

 華野ちゃんが食堂からいなくなり、話題を変えるように紅子さんが言った。

 変な話題にしたのは自分のくせになんて人だ。

 

「えーと、結論から言うと……幽霊がいた」

「え! 幽霊ですか?」

 

 透さんは頷いてスマホを取り出す。

 

「肝心の子はやっぱり写せなかったけど、場所だけ写真を撮ってきたから見てほしい。ここなんだけど」

 

 スマホの画面に写った写真は、散り始めている大きな桜の樹の下に子供が一人か二人は入れそうな大きさの祠が立っているものだった。

 

「祠……?」

「そう、祠。ちょうどこの資料館の裏辺りにある場所なんだけど、ここの扉が開いてて、そこに真っ白な女の子が座ってたんだ」

 

 ちょうど資料館の裏と言っても、透さんが地図上で指差したのは資料館の端のほうだ。森から顔を出すこともできそうな場所である。東にある温泉とは反対方向だが、そこからなら確かに俺達のことを観察できそうな位置だった。

 

「アリシアちゃん、人影を目撃したのはどこかな」

「ちょうど今、透さんが言った辺りですね」

 

 紅子さんの質問にアリシアが即座に答える。

 なら、アリシアが睨まれていると感じたのも、透さんが会った幽霊とやらと同一人物である可能性が高いな。

 

「透さん、どんな子だったんだ? 写真には写らなかったんだよな」

 

 紅子さんなら写真にも写るが、それは彼女が同盟所属で実体化できるような道具を身につけているからだ。前に質問したとき、答えてくれたことがあるから知っている。

 普通の幽霊ならそんな便利な物を所持していないし、触れられたり写真に写ったりすることもないだろう。どこぞのゲームの射影機のように霊を写せる代物であれば別だが。

 

「うーん、クールな子だったよ。華野ちゃんと同じくらいの背丈で、多分年頃もそのくらいなんじゃないかな。紅子さんも大人っぽいけれど、負けないくらいに大人っぽい子だったなあ」

 

 そう言いながら透さんが語るのは、その白い幽霊と出会ったときの話だった。

 

 ◆

 

 ――俺がそこに足を止めたのは、桜が綺麗だったのと、それとすごく儚い感じの女の子が祠の扉を開けて中に座っていたからだったよ。

 

「こんにちは」

 

 そう声をかけたら、女の子はびっくりしたみたいにこっちを見て「君、私が見えるのか?」って言ったんだ。だからすぐに幽霊なのかな? って思った。

 それと、ちょっとテンションが上がった。紅子さん以外で幽霊を見ることもあるけど、やっぱりお話しできるのとできないのとじゃ違うからね。

 

「君は……村の人ではないな? もしかして、外の人か。珍しいこともあるのだね。いつもならこっちにまで来やしないんだが」

「うん、外から来たんだ。いつもならっていうのは?」

「なんでも、食料を運搬する……あー、でっかいくるま? とやらが来るらしいね。昔とは違って煙はほとんどでないんだよね。今は石炭で動かしてるわけじゃないんだろう?」

 

 ここでおや? って思ったんだよ。石炭で動かすとか、煙が出るとか、結構昔の話だからね。実はすごく年齢が高い子なのかなって思って、質問した。

 

「随分と昔の話を知ってるんだね」

「なにせ私は幽霊なものでね」

 

 これで、彼女が幽霊だと確認が取れたんだ。

 

「すごくハッキリ見えてるけど、幽霊なんだ?」

「ふうん、そうは見えない? それは光栄だが、本当のことだよ。私のことは華野にしか見えない。村の人たちは私のことが見えないんだ。ああ、華野っていうのはそこの資料館の娘だよ。代々私が見える家系なんだ。この奥の神社を祀る巫女でもあるらしい」

 

 って言ってたから、多分華野ちゃんもあの子のことは知ってるんだと思う。華野ちゃんの性格からして、言う必要がないし信じられないだろうから言わないって感じなのかもしれないね。

 

「俺はトオル。えっと、きみは?」

「私のことかい。名前は……確か白瀬(しらせ)詩子(うたこ)。他は……ううん、ごめんね。あまり昔のことは覚えていないんだ。そうだね、五十年以上は幽霊をやっているはずなんだが……まあ細かいことはいいじゃないか。見える人も少ないわけだし」

 

 なんと五十年物の幽霊だよ! そんなに長い間を幽霊でいるのは、俺が知ってる人だとペチュニアさんくらいだからちょっと感動した。本人には失礼かもしれないから、態度には出さないけどね。

 

「言っておくけれど、華野に手を出したりするんじゃないぞ。私がこわーい祟りを起こしてやるからな」

 

 俺が色々考えていると、詩子ちゃんが怖い顔をしながら言ってきた。

 そこで、俺はアリシアちゃんの言っていたことを思い出して「さっき俺達を睨んでたのはきみかな?」って直球で聞いてみたんだ。

 

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。少なくとも、君はその場面を見ていないだろう?」

 

 確かに俺自身は見ていないから、彼女の言う通りだったんだよね。

 

「おや、黙ってしまったね。図星だろう? んふふ、そんなことくらいお見通しさ。ま、君たちはどうやら悪い大人ではなさそうだし、私は祟ったりしないよ。安心したまえ」

 

 悪い大人は祟られちゃうんだろうなとは思ったんだけど、あんまり深く突っ込むのはよくないし、紅子さんだったらそういうの嫌うでしょ? 

 ……うん、そうだろうね。だから話題を変えたんだ。

 

「えっと……詩子ちゃんは、華野ちゃんが俺達を帰そうとした理由は知ってる?」

「君たちを帰そうとしたのは紛れもなく、あの子の好意さ。それだけは真実だよ。まったく、それをあんな風に無下にして……酷いよねぇ。これだから大人なんて嫌いなんだ。君らも、自分の行動には責任を持つように気をつけるんだね。まあ、今のところは大丈夫だろうけれども」

 

 そんな彼女の語調は強くて、大人が嫌いっていうのがよく分かる言い方だった。それと、帰そうとした理由を言うつもりがないのもね。

 

「ま、あの子の言う通りすぐに逃げ帰らなかったことを後悔することになるだろうさ。大人に〝お知らせ〟してやる義務なんぞないから、私は知らないけれどね」

「お知らせって?」

「んふふ、それはあとのお楽しみさ」

 

 意味深なことを言ってくる彼女だけど、やっぱりハッキリとしたことは言うつもりがないみたいだった。

 どちらかというと、俺を……というか、大人をかな? 

 とにかく、大人を困らせてやろうって思って悪戯してるみたいな……そんな雰囲気だったよ。

 

「きみはここの祠に住んでるの?」

「そうだよ。幽霊だからね」

「ここって景色が綺麗だよね。ほら、この桜も見事だし」

「ああ、見事な桜だろう? 私はここの景色が一等好きなのさ。霧が多いのが難点だけれど。それはそれで幻想的なんだ」

 

 本当に綺麗だったんだよ。ほら、この写真のここね。でしょ? 

 詩子ちゃんは随分と機嫌良さげに自慢してくれたよ。

 

「寂しくないの? あー、違うか。華野ちゃんが見えるんだっけ」

「そう、私はここに住んでるんだ。ずっと、ずうっと昔からこの祠にね。暗くて寒いことを除けば案外快適だよ。雨風さえ凌げれば……って、幽霊が言うことではないね。まあ、なんだ……ここが一番落ち着くんだ。なぜだかね。華野も来てくれることだし」

 

 そんな風に俺達が和やかに会話してると、村の方から声がかかったんだよ。

 

「おー、あんた! こんなところでどーした……と、また祠が開いてるのか? 華野ちゃんも管理がずさんだねぇ。かんぬきが緩んでるんじゃねーか?」

 

 村の人には当然、詩子ちゃんが見えていないようだったし、多分祠の扉だけ開け放ってるのが見えたんだと思う。

 俺が開けたって疑われなかったのは、多分何回も似たようなことがあったんだと思うよ。詩子ちゃんはずっとそこに住んでるみたいだし。

 

 村の人がこっちにまで来て、扉を閉めようと手を伸ばしたんだ。

 目の前には祠の前に立ってる詩子ちゃんもいたから、ちょっと心配だったんだけど……村の人は全然気にせずに手を伸ばして、それで、避けない詩子ちゃんの体をすり抜けて扉を閉めたんだ。

 信じてないわけじゃなかったけど、それで更に詩子ちゃんが幽霊なんだなって自覚した。

 怖かったか? 別に……だって幽霊の友達って結構いるし。

 

 それで、このお話はおしまい。さっき夕食前にあったことだよ。

 ああでも最後に彼女――「それじゃあ、またね。まれびとさん」って言ってたんだよ。

 

 ◆

 

「あははは! 透さん図太すぎ!」

 

 紅子さんは珍しく大笑いをしながらそう言った。

 確かに、実際に人の手が体をすり抜ける光景なんて見たら、ちょっと驚くものだろう。慣れてたとしても、いきなりだと多分びっくりはする。

 なにも知らない一般人なら、それこそ本物の幽霊だったと知って恐怖心でいっぱいになるだろうな。

 それを考えると、知ったのが俺達で良かったと言える。

 

「にしても、〝またね〟ですかー」

「え、なにか変か?」

 

 アリシアが食堂のテーブルに頬杖をつきながらぼやいた言葉に、俺は首を傾げる。

 

「紅子お姉さんはどう思います?」

「アタシの言葉遊びと同じかもねぇ……つまり、その詩子って幽霊は〝また〟透お兄さんに会えるって確信してるわけだ」

「偶然じゃないのか?」

「偶然かもしれないねぇ。でも、偶然じゃないかもしれない。答えが知れるのは結果が出るまで分からないと思うよ」

 

 50年以上も幽霊をやっている以上、ただの子供ではないだろうし、なにか含むものがあってもおかしくはない。

 けれど、やはり結果が出てからじゃないと、偶然か必然かどちらなのかも分からないのだろう。

 

「さて、害がないならいいよ。お風呂に入って寝ちゃおうか」

「はーい! あ、紅子お姉さん……不安なので一緒に入っていただけませんか? あたし、やっぱり素人ですし、怖いんです」

「え、ええ? そうかな。怖いなら……別に一緒でもいいよ。頼られるのは嫌じゃないからね」

「やった! 紅子お姉さん大好きー!」

 

 思わぬ展開に俺は開いた口が塞がらず、アリシアからの意味深な視線にがっくりと膝をつく。

 なんてうらやま、じゃなくて……アリシアめ。本当は怖くなんてないだろ! 

 確かに素人のアリシアが一人でいるのはよくない。よくないんだが……それにしたって複雑な気持ちになるのは止められなかった。

 嫉妬とかそういうのではなく、なんだか見せつけてきているようなその態度にモヤモヤする。嫌がらせかよ! 

 

「えっと、それじゃアリシアちゃん。一旦部屋に戻ってお風呂セットを取ってこようか」

「はい!」

 

 優しい笑みで先導する紅子さんと、足取り軽くそのあとに続くアリシア。

 まるで姉妹のような微笑ましい光景のはずなのに、素直に認められない自分の心があまりにも貧しすぎて自己嫌悪に陥った。

 

「令一くん、部屋に戻ろうか」

「うう……情けないところを見せてしまってすみません」

「大丈夫だよ。恋心って複雑だっていうし……それに、令一くんは自覚してるから変なことしないだろうしさ。これで八つ当たりするような人だったら、俺にも思うところがあったけどね。紅子さんは妹とも仲がいいし、俺も気にかけてるから……ちょっと」

 

 妹のように思っているとは言っていたが、まさかそこまでとは。

 これってつまり、うちの第二の妹を幸せにできなさそうな男はお断りってことか? 兄というより、どちらかというと父親の目線みたいだな。

 中学生くらいの女の子にまで嫉妬みたいなことをしている情けない俺に、どうしてここまで温情をかけてくれるのかが分からない。

 我ながら、こんなヘタレに紅子さんは任せられない! なんてことを思われても仕方ない行いしかしていないはずなんだが。

 

「なんで、俺を応援してくれるんですか。俺って自分で言うのもなんですけど、ダメダメじゃないですか」

「令一くん、一途みたいだし……あと、紅子さんのお話聞いてるとね。応援したくなっちゃうんだよ。いつも彼女のことを尊重して、その上で守ろうとしてるよね? 大丈夫、普段が格好悪くてもいざというとき格好良ければ問題ないよ」

「なんですか、それ」

 

 俺は泣き笑いしているみたいな気持ちになって、言葉を漏らした。

 

「ほら、ギャップ萌えーってやつ。それと、俺には敬語はいらないってば。そんなにかしこまらないでほしいな」

「……ありがとう、透さん」

「どういたしまして。応援してるよ。だから」

「うん」

 

 俺がなんていい人なんだと感動していると、透さんは輝くような笑顔で話を続ける。

 

「二人で解決したオカルトなお話、聞かせてほしいなって! どんなことがあったとか、どんな怪異にあったとか、是非とも聞かせてほしいんだよ!」

「オカルトマニアだ……!」

 

 歪みないオカルトマニア具合だった。

 感動してた俺の気持ちを返してくれ! 

 

 

 

 

 

 



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深夜の密会、夜這いと温泉

 コンコン、とノックの音が響いた。

 

「あー……?」

 

 枕元のスマホを手に取って見れば深夜2時。丑三つ時というやつだ。

 

「こんな時間に……?」

 

 コンコン。さらにノックが重ねられる。

 一体誰が? そう思って、身を起こす。

 そもそも、俺達は誰かを訪ねるときにはチャットのほうで連絡を入れると決めたはずだ。つまり、その扉の向こう側には得体の知れない誰かがいるということになる。

 狙われたのが俺で幸いだったな。俺なら対抗手段はいくらでもある。ただし……油断しなければ、と付くが。

 リンと赤竜刀があれば大抵のことはなんとかなるはずだ。

 赤竜刀を鞘ごと持って、摺り足で扉に近づく。それから、扉に手をかけて……

 

「え……」

 

 するりと、扉をすり抜けて赤い、紅い蝶々が部屋に入ってきた。

 その蝶々には見覚えがある。これは彼女の、紅子さんの魂の形そのもののはずだが。

 

「紅子さん?」

 

 俺が声をかけると、紅い蝶々は宙で紅子さんの姿へと変化する。

 ふわり、と俯いたままの彼女が落ちてくる。髪の隙間から覗く表情は、なんだか不安に揺れているようだった。そんな不安そうに濡れた赤い瞳は見たことがなかった。

 そんな彼女に、同じく不安になった俺は、思わず腕を広げて彼女を抱きとめた。どうしたんだ? 着地ミスなんて彼女らしくもない。

 

「あ、あの、紅子さん?」

 

 それから彼女は困惑する俺の懐へと顔を埋め、ぐりぐりと猫のように額を押しつけてきた。

 

「紅子さん。どうしたんだ?」

「お兄さん、女が夜中に訪ねてくる理由なんて……野暮なことは言わないでよ」

 

 ほんの少し、いつもよりも細い声に心臓が跳ね上がるような心持ちになる。

 いや、からかってるんだろ? 分かってるんだからな。いつもみたいにエロネタを仕掛けてきて面白がってるんだ。そうじゃないと説明がつかないぞ。

 

「せっかくアタシが夜這いに来たっていうのに、お兄さんは喜んでくれないのかな」

 

 嬉しくないわけがない。

 が、それが真実だとも思っていない。少しは普段の行いを考えてくれよ。

 

「ふふふ、喜んでないわけがなかったね。ドキドキしてるでしょう。聞こえるもの」

「そ、そりゃあ……仕方ないだろ」

 

 なおも彼女は俺の懐で猫のように甘えているので、恐らく心臓の音も聞こえているんだろう。なんでこんなことをしているのかが分からないが、とにかく役得ではあるので、素直に騙されておこうかなと流されてしまいそうになる。

 

「紅子さん、なにも本当に夜這いしに来たわけじゃないだろ?」

「据え膳だというのになにもしないの? お兄さんってば本当に意気地なしだよねぇ」

「ぐっ、な、なじられるいわれはないぞ。紅子さんだって、俺が本気にしたら逃げるんだろ? 夢のゲームではいつもそうしてるって言ってたし」

「まあね。そんなことになる前に逃げるよ。今日はアタシはちょっとおかしい……ただそれだけ。急に寂しくなっちゃった猫ちゃんなのかも」

 

 体調を崩していたから、精神的に少し弱っている……とか? 

 あの紅子さんが? 冗談だろ。

 びっくりした態勢のまま彷徨わせていた手を、そっと彼女の頭に乗せた。頭一つ分ほど低い位置にある彼女のポニーテールがほんの少しだけサラリと動く。

 

「ふふふ、大サービスでしょう」

「いつもはこういうの、逃げるからな」

 

 クスクスと笑う彼女に困惑しながら、間近にいるその姿を堪能する。

 風呂上がりというわけでもないのに、やはり女の子だからかシャンプーのいい香りが漂っていた。

 

「ねえ、お兄さん」

「なんだ?」

「このまま、二人で深夜のお散歩でも行こうよ」

「今からか」

「うん、だって……令一さん、露天風呂が怖いんでしょ? 安全確認、しに行こうよ」

 

 その言葉にハッとする。

 彼女は、俺が華野ちゃんに詰問した理由を聞いてくることがなかった。

 けれど、なにかあるということはきちんと理解していたのだろう。あのとき俺に理由を問わなかったのは、多分俺の精神的なところを気遣ってのことなんじゃないか? 

 だからわざわざ、他の二人に聞かれない深夜に尋ねてきたんだ。

 

「分かった」

「ついでに一緒に入っちゃう?」

 

 悪戯気に笑う彼女に苦笑する。

 混浴できるものならしたいが、生憎と水着なんて持ってないし、タオルだけじゃいくらなんでもダメだろうと思ってだ。

 それと、多分俺が乗り気になっても紅子さんは一緒に入るなんてことしてくれないだろうし。

 

「アタシは入りたいから荷物を持っていくけどね。お兄さんは見張り番よろしく」

「って、え? 本当に入るつもりなのか?」

「うん。安全確認をするなら、入って確かめるのが一番だよ。覗きが出ないかって問題もあるけれど。その点、お兄さんなら大丈夫かなって」

 

 信頼されているようでなによりだ。

 

「だってお兄さんヘタレだし、覗きなんて大胆なことできないでしょ?」

 

 悲しい信頼だった。

 

「俺にとって残酷だとは思わないのか? 紅子さん」

「え……ほら、お兄さんって無理強いしないでしょう? そういうところだけは嫌いじゃないよ。だから甘えちゃうのかな」

「……そうか」

 

 嫌いじゃないよの言葉ひとつで懐柔される俺ってものすごくチョロいんじゃないかと思うが、まあそれなら信頼に応えるべきだろうと納得してしまうんだよな。紅子さんの言うことには弱いんだ。仕方ない。

 

「それじゃあ、行こうか」

「ああ」

 

 突然繋がれた手に驚きつつも、引っ張られるままに部屋を出る。

 手を繋ぐのは有料コンテンツだとかなんとか言ってた癖に調子のいいことだ。

 手を繋ぐと言っても、彼女が俺の腕を掴んでいるだけだが。それでも嬉しいものだ。

 

「ついでに祠の幽霊ってやつは見に行くのか?」

「ううん、だって真夜中のお散歩〝デート〟なんだよ? 二人っきりじゃないと意味ないんだよ。分かってないなあ、お兄さんは」

「それ、本気で言ってるのか?」

「さあてね。お兄さんが解釈したいほうに解釈すればいいんじゃない?」

 

 そんなことを言われると夢を見たくなってしまう。

 まったく、紅子さんはズルいなあ。

 

「アタシはある程度夜目が効くけれど、お兄さんは足元気をつけてね」

 

 ああ、なるほど。だから手を繋いでくれているのか。

 まったく、素直じゃないよな。そんな些細な気遣いがあるから、俺は彼女のことが好きなんだろう。ましてや、嫌いになることなんてできるはずがない。

 初めて会ったときなんかは面倒臭い子だなあなんて思っていたのが、遥か昔のように感じさえする。

 

「ありがとう、紅子さん」

「早く行って、早く温泉に入って寝たいだけだよ。お兄さんが転んだりしたら時間が勿体無いからね」

 

 そんな、ツンデレのテンプレートのような言葉を言い放って紅子さんは先を行く。俺は繋がれた手の温度と、その後ろ姿を見ることしかできないが、髪の隙間から覗く耳がほんのりと赤く染まっていることに気がつくことはできる。

 決して指摘をすることはないが、無視することも俺はできない。

 彼女の手で掴まれた腕を緩くほどき、行き場を失ったように彷徨った彼女の手をしっかりと握り直す。

 今度は彼女が俺の腕を掴むのではなく、ちゃんとした手の握りかただ。恋人繋ぎとも言う。

 紅子さんの手はほんの少しだけ逃げる素振りを見せたが、自分が言い出した手前か、結局諦めてされるがままだった。

 

「照れてる?」

「照れてない」

 

 ついこの前もしたやり取り。

 変わらず、彼女は前を進んで顔を見せてくれないが、あのときと同じように顔を赤くしているだろうことが手に取るように分かる。

 さっきよりもずっと耳に差した赤みが強い気がするからだ。

 

「お兄さんは卑怯だよねぇ」

「なんの話だ?」

「そういうところだよ」

 

 すっとぼければ呆れたように彼女が続ける。

 紅子さんだって俺をからかってばかりなのだから、俺がそれをしたっていいだろう。その指摘はお互い様だ。

 

「見えたよ。あれが露天風呂ってやつかな?」

 

 紅子さんの指差す方向を見てみると、霧とはまた違う湯気のようなものが見えた。

 確かに、あれは温泉だろうな。それにしても、こんなところに天然温泉か。改めて考えるとすごいことだよな。普通なら、企業とかが管理してそうなものだが。

 

「近くにある小屋が脱衣所……ってことになるねぇ。一応看板がある。温泉周りは低いけれど衝立もあるし、覗き対策の努力をした後なのかな」

「だろうな。紅子さん、入るんだろ? 俺は外で待ってるよ。なにかあったらかけつけるから、ちゃんとタオルを巻いておいてくれ」

「それはあわよくば覗いてやろうってことなのかな?」

「そういうことじゃない。心配して言ってるんだよ」

「分かってるよ。じゃあ、見張りよろしくねぇ」

 

 繋いでいた手を離し、彼女は脱衣所へと向かう。

 

「俺はここにいるからな」

「はいはい」

 

 衝立になっている木の板を背にして、座り込む。

 スマホで時間を確認すれば深夜3時だ。少しだけ眠い。

 数分ほどだろうか、小屋の扉が軋んで開く音がすると、衝立の向こう側でバシャリとお湯を打ちかける音が聞こえてくる。

 

「……」

 

 なんか、覗いているわけでもないのに顔が熱くなってくるな。

 音だけが聞こえるというのも、なんというか、その……いろいろと想像してしまって心臓に悪い。

 目を瞑って衝立に寄りかかるとなお、変な想像が膨らみそうになる。

 

「ぬるいのかと思っていたけれど、結構丁度いい温度だよお兄さん」

 

 頭を振って、妄想を追い出す。

 わりと間近で声をかけてきた彼女に返事をするべく、声をあげる。

 

「寒くないか?」

「うん、これなら上がっても湯冷めする前に帰れそうかな。もしかしたら、源泉はかなり熱いのかも」

 

 外にあって、しかも管理がされていないのに丁度いい温度になっているということは、そういうことだろうな。ますます企業が嗅ぎつけないのが不思議になる場所だ。霧はあるが景観もいいし、天然温泉まで湧き出ている。土地は広いし、旅館のひとつでもあっておかしくないと思うのだが……やはり観光地にできない特別な理由でもあるのだろうか。

 

「ねえ、お兄さん」

「わっ、紅子さん?」

 

 寄りかかっている衝立の、すぐ向こう側から声がした。

 どうやら、今俺達は衝立を境に背中合わせのような状態になっているらしい。

 

「露天風呂でなにか嫌な思い出でもあるのかな」

 

 その言葉で、俺は目を見開いた。

 いや、あんなあからさまな反応をしてしまったら分かるか。

 紅子さんは聡い人だ。あのとき、強迫観念のようなものに襲われていた俺を窘めて、内湯に入るように誘導してくれた。

 俺がおかしくなっているのが分かっていたからだ。そして、その理由を問わずにあのときは収めてくれた。

 

「前にさ、神内に連れられて脳吸い鳥が出るっていう旅館に行ったことがあるんだ」

「うん」

 

 彼女は軽い相槌を打って促してくれる。

 これはいい機会なのかもしれない。俺の中にはあの出来事がしこりとなって残り続けている。なんとかできたんじゃないかとか、助けられたんじゃないかとか。所謂、トラウマというやつなんだろう。

 

「そのときに、会ったグループがいてさ。紅子さんなら知ってるか? 確か七彩のオカルトサークルだって話だったし」

「うん、知ってるよ。どうなったのかも、一応ね」

 

 そうか、知ってるのか。なら話は早い。

 

「本当に脳吸い鳥が出たんだ。それで全員、殺された」

「うん」

「最初に犠牲になった子は、脳を取られた状態で操られて……俺達を罠に嵌めていった。彼女は、青凪さんは……露天風呂に入ったときに襲われて、操られてしまったんだよ」

「青凪……確か、怪異調査部の部長だったかな。そっか」

 

 初日の夜、俺達が買い出しに行ったときだ。

 紫堂君が見たと言っていた脳吸い鳥はクチバシが真っ赤に染まっていたらしい。元の脳吸い鳥はクチバシが黄色い。そのとき既に、露天風呂にいた青凪さんが襲われた後だったんだ。

 

「全部の鳥を殺して、青凪さんの脳も取り戻すことができたけど、彼女は俺に殺してくれって言ったんだよ」

「うん」

「俺、できなかった。あのときは、そんなことできないって言ったけど、紅子さんに言わせると俺はただ、人殺しになるっていう責任から逃げたかっただけだったんだ。彼女は、脳吸い鳥の鳴き真似をして、警戒して刀を構えた俺に当たってきて自殺した。あのときの感触はまだ覚えてるんだ。あんなことがまた起きたら嫌だって、怖くて、それで恐慌状態になっちまった。アリシアちゃんたちには悪いことをしたよ、本当に。楽しい気分を潰しちゃって」

「人の言葉を代弁するつもりはないよ。でも、アタシだったら、お兄さんに重いものを背負わせることになるからちょっと申し訳なく思うかも。普通の自殺じゃないし」

 

 言葉を選ぶように俺の話に相槌を打つ彼女の表情は分からない。

 衝立の向こう側でどんな顔をしているのかとか、不安になってもうかがい知ることはできないのだ。

 

「青凪先輩は最期になにか言ってた?」

「……お兄さんは、悪くないって」

「そう」

 

 紅子さんはそこで一旦話を切ると、また言葉を選ぶように言った。

 

「本人に許されてるから、余計やりきれないんでしょ? 責められたほうが自分の気持ちが楽だからってさ」

「それは……」

 

 事実だ。俺は、許されたくなんてなかった。

 俺自身が俺を許せていないのに、被害者の彼女が許してしまったら、俺はなにも言えなくなってしまうからだ。

 

「お兄さんはズルイよ。でも、それでいいと思うよ。お兄さんが責任感強くて自分を責め続けるのは別にいいと思う。救えたかどうかのIFの話をするのはナンセンスだけれど」

 

 彼女はそれに「でもね」と続ける。

 

「お兄さんはね、ちゃんと成長してるよ。その出来事があって、青水さんのことも、青葉ちゃんのこともあってさ、お兄さんはどんなときも……最善を取ろうと頑張ってた。だからこそ、今アリシアちゃんとレイシーが離れ離れにならずに済んでるんじゃないかな。きっと昔のままのキミなら、あり得なかったことなんだと思うよ。お兄さんのそういう未熟だけれど、努力して変わろうとしてるところは嫌いじゃないかな」

 

 胸にストンと落ちるような心地というのは、こういうことを言うのかな。

 そうだ。アリシアとレイシーは離れ離れにならずに済んだ。チェシャ猫のジェシュはいなくなってしまったが、それは紛れもなく一歩前進していることの証だった。

 俺は、成長できてるのかな。

 

「ありがとう、紅子さん」

「どういたしまして。アタシだって、そういうところは認めてるんだよ? お兄さんは、初めて会ったときとはもう違う。今、アタシが首のガラス片を取ってって言ったら、お兄さんはどうする?」

 

 もし、今またあの夢のときのようにガラス片に手を伸ばせた言われたら……? そんなの、決まってる。

 

「……手に取れるよ、今は」

「そうでしょう? なら、そのまま成長していけばいい。人間っていうのは失敗しながら進んでいくものだからね。それは人間の美徳だと思うよ」

 

 パシャリ、とお湯の跳ねる音がする。

 

「スッキリした?」

「ああ、ありがとう」

「うん、それにアタシ達は黙ってやられるほど弱くもないよ……そうだ、アタシもお兄さんにちょっと相談したいことが……わっ!?」

「紅子さん!? 今行く!」

 

 バシャンと、なにかがお湯の中に倒れた音がして俺はすぐさま助走をつけて跳躍し、衝立を掴んで向こう側へと降りる。刀を構えたまま周囲を見回してみても、なにも見えないが油断はできない。

 

「紅子さん、大丈夫か? 紅子さん?」

「……わっわっ、こっち見ないでよ! それに靴のまま入ってくるなんて非常識……し、心配してくれて嬉しいけれどね? アタシは大丈夫だよ」

「ご、ごめん! すぐ上がる!」

 

 見てしまった……振り返ったときに、タオル姿の紅子さん。

 いつもはポニーテールにしている長い黒髪がお湯に浮いて、顔を真っ赤にしながらタオルを押さえる紅子さん。しっかり、見てしまった。

 すぐさま隠れるように後ろを向いた彼女の姿。その背中に赤い痣のようなものが見えてしまい、俺は首を振る。

 ……痣なんてあったんだな。

 いやいやいや! 考えるな……考えるな……彼女の魂のように鮮やかな赤い蝶々のような形の痣。気にはなるが、それの追求なんてしたら不機嫌になるどころの話じゃない! 

 それに今は彼女になにがあったのかを訊かないと。

 

「もう、いきなり黒猫が降ってきてビックリしただけだよ」

「そ、そうか。黒猫? どこに行ったんだ?」

「上から降って来たんだよね。ほら、木の上から落ちてきたんじゃないかな。お湯に濡れて飛び上がって、温泉の淵を走ってあっちのほうに行ったよ」

 

 そのまま温泉から上がり、探してみるが黒猫の姿は見えない。

 後ろから同じく温泉を上がってきて隣に並んだ紅子さんも探しているようだが、もう見つけられなくなってしまったみたいだ。夜目の効く彼女が見つけられないのなら、もう近くにはいないんだろうな。

 

「ねえ、お兄さん」

「な、なんだよ?」

「すけべ」

「わざとじゃないから!」

 

 慌てて弁解すれば、紅子さんはクスクスと笑って「心配してくれて嬉しかったよ」と言う。

 だから落としてから上げるのは卑怯だって! 

 

「あ」

 

 紅子さんが言葉を漏らして、手を前に出す。

 

「雨、降ってきちゃった」

「紅子さん、早く着替えてきたほうがいい。湯冷めしちゃうぞ」

「うん。あ、でもお兄さんも濡れちゃうし、ここの軒下で待ってて。すぐ着替えるから」

「わ、分かった」

 

 軒下って……すぐ真後ろで紅子さんが着替えるってことじゃないか。

 拷問かなにかか? 好きな子が真後ろで着替えているのを音だけ聞くなんて生殺しもいいところなんだが。

 精神統一、精神統一……

 

「お兄さん、終わったよ。早く行こう」

「ああ、分かっ……!?」

 

 紅子さんは、浴衣姿になっていた。

 桜色の浴衣に金色の刺繍で桜の柄が入った可愛らしい浴衣だ。多分、あの資料館で貸し出してくれたやつなのだろう。

 髪は当然乾いていないから下ろしたままだし、直前まで温泉に入っていたからなんだか色っぽいというかなんというか……とにかく、彼女に恋をしている俺の心が重傷になるような姿だった。

 

「この旅の目的は達成した? おにーさん」

「今達成した。でもまた別の目的ができたよ」

「ふうん、それは?」

「紅子さんともっと仲良くなりたいってことだよ」

「そ、そっか。えっと……雨が強くなる前に早く帰ろう、お兄さん」

「そうだな」

 

 どちらともなく手を繋いで資料館へと帰る。

 無事に部屋に着く頃には、外は大雨になっていた。

 

「うわあ、これは明日大変かもねぇ。いや、今日か」

「古い建物だから音が凄いな。眠れるかな」

「寝るしかないよ。それとも、徹夜でお話でもする?」

「いや、俺はともかく紅子さんは髪を乾かして早く寝たほうがいいよ。徹夜は美の大敵って話だし」

「よく分かってるねぇ。じゃ、おやすみ。令一さん」

「おやすみ、紅子さん」

 

 紅子さんと別れて部屋に戻る。

 雨は、ますます強くなっているようだった。

 

「この村、大丈夫かな」

 

 俺は着替えてすぐにベッドに入る。

 

「そういえば……紅子さんの相談ってなんだったんだろう」

 

 考えながら、目を瞑る。

 微睡みの中で、どこかで鈍い音が響いていた気がした。

 

 ◆

 

 なんだか、騒がしい。

 外が、騒がしい。うるさい。

 ……いや、悲鳴か? 

 

「悲鳴!?」

 

 布団から飛び出して急いで準備し、駆け出す。

 尚も資料館の外からは悲鳴と怒号が響き渡っていた。

 紅子さんやアリシア、ましてや透さんの声ではない。それに一旦は安心して、しかし朝から悲鳴が上がる状況は異常だとリンを伴いながら思考する。

 

 外に出てみれば、果たして〝現場〟が広がっていた。

 

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。

 

 そして、村人達の悲鳴。

 なすすべもなく、その状況を見守るしかない者達は視線を逸らすことすらもできず立ち尽くす。

 助けようなんて行動は無意味に終わると脳に直接叩き込むような、そんな光景。

 

「べ、紅子さん……この状況はいったい」

「お兄さん、起きたんだね」

「よかった! しも……令一さんは無事ですね!」

「起こしに行かなくてごめんね。悲鳴が聴こえて焦っちゃって」

 

 紅子さん、アリシア、透さんに近づいて状況を確認すればそんな言葉が返ってくる。

 

「あれは……?」

「運転手さんだよ」

「え……」

 

 紅子さんの言葉に声を漏らす。

 

「アリシアちゃん、見ちゃだめだよ」

「は、はい……すみません透さん」

 

 透さんが背後からアリシアの目と耳を塞ぐ。

 そうだな、俺だって気分が悪いんだ。子供が見ていいものではない。

 

 そこでは――運転手の青雉さんの首が捻れていく光景がただただ展開されていた。

 

 無理矢理なにか力の強いものに首を捻じ曲げられているように、体を動かせずに彼は〝曲がって〟いく。

 首が後ろに向かって捻れ曲がっていく。

 180°の回転をしてもなお、首は捻れていき、白い泡を吹いた彼は事切れる。

 そして、頭が一回転、二回転、三回転とオーバーキル気味にしたあと、その体が崩れ落ちていく。

 まるでなにかの力から解放されたように。

 

「……」

「お兄さん、あれはどうしようもないよ」

「ああ」

 

 そうだ、俺がなんとかしようとしても、きっと青雉さんの回転を止めることはできなかった。分かっている。けれど、だからこそ無力感に苛まれた。

 

「祟りじゃ!」

「おしら様の祟りだー! 彼はおしら様の怒りに触れたんだ!」

 

 村人達が水を打ったように静まり返ったと思ったら、次々と声が上がっていく。

 

「おしら様?」

「うーん、知らない名前だな。あとで調べておくよ」

「アタシもその名前は知らないねぇ」

「神様でしょうか」

 

 俺が呟いてから透さんが提案する。

 あんな光景を見てすぐにその発想が出てくるあたりがすごいな。

 俺なら混乱してなにも言えなくなるからな。辛うじてみんながいるから、今は冷静でいられるのだが。

 

「あんた達、悪いお知らせがあるわ」

 

 そのとき、村の入り口の方から華野ちゃんが歩いてきた。

 彼女も冷静な表情で、青雉さんの遺体を横目に俺達のほうへとまっすぐとやってくる。

 

「どうしたんだ?」

 

 代表して俺が問うと、華野ちゃんは困ったような顔で言った。

 

「昨日の大雨で、入り口の洞窟が土砂で埋まってるわ。残念だけれど、閉じ込められちゃったみたい」

 

 その言葉に頭が真っ白になる。

 外に出られない……? いや、俺達は怪異事件が起きると踏んでここに来ていたのだから、構わないはずなんだが。

 

「……あの幽霊の子に、〝また会える〟ね」

 

 ハッとする。

 

 ――またね。

 

 透さんによれば、白い幽霊はそう言ったのだという。

 つまり、最初からこの状況になるのが分かっていた? 

 

 おしら様とやらの祟り、白い幽霊の言葉、この状況。

 どうやらこの村……一筋縄ではいかなそうだ。

 

 

 

 

 

『一柱の神様』――開幕。

 

 

 

 

 



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告白紛いの決意表明を

「わたしは警察に電話してくるわ。外の土砂をなんとかしないといけないもの。遺体は……保管するしかないわね。ちょっと誰か、手伝ってくれる?」

「あ、なら俺が手伝うよ」

 

 透さんが名乗りを上げて、華野ちゃんに近づいていく。

 透さん、心が強いな。首が三度も捻れたあの遺体を見てなお、ほんの少しだけ顔色が悪くなっているだけだ。

 怖いという感情や、遺体を見て気持ち悪いと思うような気持ち、それらを彼の責任感というやつが抑え込んでいるように見える。

 正義感というやつだろうか? いや、彼はそうするのを当たり前のようにしている。心の弱い俺が当たり前にできないことを、彼は当たり前にしている。

 そんな違いにほんの少しだけ羨ましく思った。

 そういうところが、俺と透さんの違いなのだろう。

 紅子さんにとって俺が不合格で、透さんが合格した違いなのだろう。

 そして、そうやって悔しく思っている情けなさを自覚しながら思考を振り払う。

 

「アリシアちゃん、資料館に戻ろうか」

「そうですね……すみません。血が、いっぱい……」

「アタシは現場をちょっと見ておくよ。あとで資料館に戻るから、お兄さんはアリシアちゃんについていてほしい」

「分かった。なんかあったら連絡しろよ」

「もちろん。アタシ一人でどうにかしようだなんて思ってないよ。これでも、お兄さんのこと信頼してるんだから」

 

 嘘でも嬉しい言葉だ。

 そして、彼女は嘘を言うのも言われるのも嫌いである。

 つまり、これは彼女の心からの本心である。

 

「俺も、紅子さんのことは信頼してるよ。でも心配もしてる。だから早く帰ってきてくれ」

「はいはい、ありがとうね」

 

 短いやり取りを終え、俺はアリシアの背を押して資料館に向かう。

 視界の端で透さんがブルーシートを運んできて運転手の青雉さんにかけるのが見えた。

 どこへ保管するのかは……後で訊けばいいだろう。

 今はとにかく、気丈に振る舞っているものの顔色が最悪なことになっているアリシアが優先だ。

 人が死ぬところを見てしまったんだ。大人の俺達が彼女の心を守らないと。

 

「アリシアちゃんは紅茶派? コーヒー派?」

「紅茶派です。アールグレイでお砂糖は一つでお願いします」

「アールグレイがあればな」

「やっぱり、ロイヤルミルクティーがいいです」

「あったら作るよ。というか、結構元気だろ」

「バレちゃいました? ハチミツも入れてください」

 

 顔色が悪いのに冗談なんてよく言うよ。

 かなり精神的にキツイくせに。

 

「はいはい、華野ちゃんに迷惑にならない程度の注文にしてくれ」

「そうでした。ならココアでも可です」

「ココアなら見かけた気がするな」

「ならそれで」

 

 アリシアを伴って資料館に戻り、キッチンを借りて温かいココアを用意する。

 マシュマロがあったので聞いてみれば、入れて欲しいとのリクエストだ。甘い甘いマシュマロ入りココアを飲めば精神的にも落ち着くことだろう。

 

「ありがとうございます」

「いいや……あー、違うな。どういたしまして。落ち着いたか?」

 

 そうだ、紅子さんにも謝ったり謙遜するより素直に受け取るべきだと言われたことがあるな。

 

「ええ、落ち着きました。まだちょっとあの光景がチラつきますけれど……ダメですね、あたし。こんなんじゃ強くなれっこないです」

「そんなことはないぞ。俺を見てみろよ。女の子に頼ってばっかりで情けないったらないだろ。こんな俺でも少しずつ前には進めてるんだから、レイシーのために頑張ってるアリシアちゃんも強くなれるよ。誰だって人が死ぬところなんて見たら気分が悪くなるもんだ。俺だってそうだよ。透さんみたいに、すぐさま行動なんてできない。あの人が羨ましいくらいだよ」

 

 本音には本音を。

 俺だってまだまだ弱い。

 できることなら、紅子さんが無茶をせずにいられるように、俺が強くなりたい。彼女を守れるくらいまで、強くなりたい。今のままじゃ、紅子さんに救われっぱなしなままじゃ、とても彼女を守れるとは言えない。

 

「なら、お互いに頑張りましょうね。あたしもお姉ちゃんを守るためなら、いくらでも頑張れますから」

「そうだな、お互いに頑張ろう。アリシアちゃんと俺はお互いに守りたい人がいる同士だよ」

「ええ。さて、そうと決まったらどうしましょうか。やる気が出てきました。美味しいマシュマロココア、ありがとうございます。ごちそうさまでした」

「お粗末様です。ささっと洗ったらチャットのほうに居場所を流すけれど……なにか見たいところとか、あるか?」

 

 飲み終わったカップを片付けてアリシアに尋ねる。

 二人でいるうちに調べたいことがあるのなら手伝おうと思ってだ。

 透さんが来てくれたらアリシアを任せることができるが、紅子さんが現場を調べている今は俺がそばにいないといけない。

 この一件で透さんが怪異事件に慣れていることはなんとなく察することができた。彼なら、ある程度の危険があってもなんとか潜り抜けることができるんじゃないか。そんな安心感があるのだ。

 

「そうですね。資料館ですし、例のおしら様って神様? のことは調べられるんじゃないですか?」

「そうだな。なら資料室か」

「ええ……あ、でも資料室って言ってもふた部屋ありますよね。どうします?」

 

 館内地図を見てみれば、なるほど確かに資料室はふた部屋存在することが分かる。どうやら、比較的新しい文献を置いている場所と、古い文献を置いてある場所で別れているようだ。

 

「古いってことは古文か? それとも崩し字か? 程度によっては俺も読めないぞ」

「なら、新しいほうから行ってみます?」

「そうしようか」

 

 あんまり解読に時間がかかってもいけないだろう。

 チャットのほうへ『第一資料室に行っている』と連絡を入れ、二人で連れ立って移動する。

 第一資料室は埃一つなく、華野ちゃんがきっちり掃除してあることが分かる状態だ。

 

「おしら様について、だな」

「そうですね。それじゃあ、手分けしましょう」

「お互いが見える位置にいるように。いいか?」

「ええ、当然ですね。ご心配ありがとうございます」

 

 お互いが見えないうちになにかあっても困るからな。

 怪異ってやつは、ほんの少し目を離した隙に手を出してくるものだからな。

 アリシアはこちら側に一歩踏み出してきたとはいえ、まだ一般人。怪異に対処する武器を貰ったばかりの、中学生の女の子だ。

 俺は、仮にも保護者としてここにいる。

 アリシアちゃんには親御さんもいるし、帰りを待っている人がいる。

 彼女は、俺達がきちんと家に送り届けないといけないんだ。

 

「なにかあったら言えよ?」

「うん……はい。あなたこそ、なにかあったら言うべきですよ」

「はは、そうだな」

 

 一番言って欲しいのは紅子さんだけどな。

 

「なにかあるかー? アリシアちゃん」

「まだ探し始めたばっかりですし、無茶言わないでくださいよー。あっ」

 

 本棚の上の方に手を伸ばしたアリシアが声をあげる。

 

「あった!」

「取れるか?」

「届かないです」

「りょーかい」

 

 場所を示された俺が本を手に取り、彼女に渡す。

 

「なんであたしなんですか。あなたが見てくださいよ」

「あ、ああ、そうだよな。ごめん」

 

 俺は本の表紙を指でなぞり、読み上げる。

 

「おしら神信仰についての資料……ね」

 

 内容はこうだった。

 

『普通、おしら神は女と男、女と馬など二体一対の神であるが、この村のおしら神はひと柱だけである』

『養蚕、農業、女子どもの治癒、そして予知などの神様だが、一度祀り上げたらその後ずっと続けなければならない』

『祭りの日に、最奥の神社にある自身の名前を刻んだ板を入れた人形に一枚上から服を着せるのがお祀りのしかたである。祀ることを一度でもやめると酷く祟られる』

『おしら様は祟りの神なので、必ず信仰を続けること』

『また、おしら神は大人を嫌っており、子をさいなみ、虐げれば祟りを受けるだろう』

『この祟りを一世紀以上も昔の文献では〝顔が曲がる〟と呼称していた』

 

「顔が曲がる、です?」

 

 アリシアが呟いた。

 顔が曲がる。運転手の青雉さんの死に様がまさにそれだったようにも思う。

 あの人は首が三回転もして殺された。〝曲がる〟と言えば、曲がって死んだと言える。

 

「おしら様の祟り……な」

「続きがありますよ」

「ああ」

 

 続きを読む。

 先程の文献は、どうやら広義の意味でのおしら神の話らしい。

 これからの文献は、この村のおしら神の話だ。

 

 

『神社に(おわ)すおしら神の祀りかた』

 

 其の一

 村で生まれた赤子は、名前を書いた板切れをへその緒と共に人形の腹に埋め込み、神社へと納めること。

 名を預けた人形を作ることによって、神からその姿を隠し、神罰を肩代わりさせる身代わりとするのである。

 

 其の二

 おしら神に捧げた形代(かたしろ)となる人形は、年に二度の祭りの日に新たな衣を重ね着させること。これを完遂しない者は身代わりの効力が切れ、神罰が下るとされている。

 

 其の三

 藤代の名を持つ者は名前を預けてはならない。

 神のお姿を見て、神のお声を唯一授かることのできる神主となるべし。

 

 其の四

 藤代の当主は、おしら神の声を聞き、第一の予知を伝え、祠を守るべし。

 

 

「ん、ここからはもっと新しいな」

「あー、確かにそうですね。付け加えたんでしょうか」

 

 文献のページを捲る。

 

 

『神社の神による予知について』

 

 この村では、予知された人物にしか聞こえない囁き声が聞こえてくる。

 これをおしら神の第二の予知と呼ぶ。

 

「心とは何処(いずこ)にあるのでしょうか」

 

 この囁き声に答えれば、この村の未来に起きる災厄がひとつ予知される。

 この予知は絶対のものであり、災厄そのものは不可避の出来事である。

 しかし、避難勧告を出し、犠牲を抑えることは可能である。

 予知を受けた者はこれを周りに伝え、予知の日が来ることを待つべし。

 この第二の予知が藤代家に現れた前例はない。

 藤代家の当主は第一の予知を伝え、選ばれし者は第二の予知を伝えるべし。

 

 

 ここまで読んだところでスマホに連絡が入った。

 

「っと、アリシア。透さんと紅子さんからだ」

「そうみたいですね。終わったようです」

 

 彼女達からの連絡には、警察や消防による土砂の復興には最低でも四日はかかってしまうことと、村内に張り巡らされた注連縄についてだ。

 どうやら、この村の外は地盤が弱いらしく、ちょっとずつしか復興作業が進められないらしい。

 

 ……なんて御誂え向きのクローズドサークルなんだろうか。

 まるで誰かの意思が働いているような……もしかしたら、これもまた、あいつの仕業なのかもしれないな。

 黒い三つ編みの男……神内千夜。また、俺達をどこからか見ているのか? 

 だとしても、俺はもうあんなやつに踊らされたりしない。負けたくない。紅子さん達を、みんなを、これから会うこの村の人だって、なるべく犠牲なんか出したくない。

 既に死人が出ている今言っても滑稽かもしれない。

 それでも俺は、俺が手を伸ばせる範囲にいる人達を守りたいんだ。

 

「合流しようか、アリシアちゃん」

「はい。本はどうします?」

「持っててもらってもいいか?」

「分かりました。紅子お姉さんにも文献が見つかったこと言っておきますね」

「頼む」

 

 本を渡して、食堂に向かう。

 そこには既に紅子さんと透さんが揃っていた。

 

「あれ、華野ちゃんは?」

「お清めがあるから帰れって言われちゃってさ。手伝うよって言ったんだけど、頑なで……さすがに食い下がるのもどうかと思って」

 

 透さんが苦笑しながら言う。

 あの華野ちゃんのことだ。よほどキツイ言い方をされたんだろうと理解できた。

 

「ねえ、透お兄さん。遺体の保管はどこに?」

「えっとね、昨日俺が行った祠から真っ直ぐ森の奥に進むと、少し開けた場所になっていて、崖があったんだ」

「崖!?」

 

 まさかそこから落としたとか……いや、保管って言ってるだろ。どんな発想だ。落ち着け、俺。

 

「崖から向こう側へ吊り橋がかかってて、そこに大きな神社があってさ。その手前に置いてきたんだよね。本当にここでいいのか? って聞いたんだけど、神前のほうが見守ってくれるからって華野ちゃんが」

 

 そこで区切り、透さんは「そういえば」と顎に手を当てながら思い出すように呟く。

 

「霧の出ているときは、絶対に吊り橋を渡っちゃいけないって言ってたかな」

「霧、ですか」

 

 アリシアが素早く反応する。

 

「朝は雨のあとで霧っぽくなってましたけど、今は晴れてますもんね」

「そうだな。天気が関係あるのか」

「天気に関係する怪異っていうと、(しん)とかかな? ほら、蜃気楼って言葉の元になった怪異なんだけど」

 

 さすが透さん。すぐさま候補が出てくるあたり完全にオカルトマニアだ。

 俺にはさっぱりと分からない名前なのだが。

 

「〝蜃〟が〝気〟を吐いて〝楼閣(ろうかく)〟が立つ……だよ。だから蜃気楼。幻を見せる怪異だよ。確か、ハマグリが本体だっていう説と、龍の一種だって説があるんだよね」

「透さんは本当に詳しいな」

「合ってるかは分からないけれどね。ほら、違う可能性のほうがあるし。紅子さんはなにか分かった?」

 

 やはり俺も怪異について勉強しよう。

 その決意が更に固まった。

 

「アタシが分かったのは、村中に注連縄があるってことかな」

 

 紅子さんの話によると、村の家屋には必ず注連縄がかけられていて、高い高い崖となっている村の周りの壁にも高い位置にぐるっと注連縄が巻かれているらしい。それから、紅子さんが村の人に執拗に名前を聞かれたっていうことも。

 

「華野ちゃんが言ってたのはこのことだな」

「そうみたいですね。あたし達が見つけた文献にも、名前についてが載ってました。でも、この文献だとあたし達の名前を取ろうとする意味は分からないんですよね」

 

 俺とアリシアちゃんで見つけた『神社の神による予知について』だな。

 あれには赤子の名前を人形に入れて納めるって記述があった。それは神様からの神罰を人形に肩代わりさせるためだという話だったが、それならば俺達の名前を盗ろうとする理由にはならない。

 

「ねえ、これ続きがあるんじゃないかな」

「あ、そういえば途中だったな」

 

 紅子さんに指摘されて本を開く。

 確か、予知について書かれた本には続きがあったはずだ。

 

 

「心とは何処(いずこ)にあるのでしょうか」

 

 その言葉を聞いた者は第二の予知を伝える役目を課される。

 そのお役目を果たすための期間もおしら神からのお告げとしてその者に告げられる。

 そして、その者は第二の予知を果たす、果たさないに関係なく期日となると、己が「心」だと答えた部位を神に捧げることとなるのだ。

 これをおしら神の第二の予知とする。

 また、「心とは何処(いずこ)にあるのでしょうか」の問答に応えなかった者は、期日にまるで「心」を探されたようにその身を解体されてしまう。

 己の身が惜しくば、己の最期が美しいものとなるために選ばれた者は速やかに問答に答えるべし。

 それ即ち、「心臓」と。

 

 

 

「なっ」

 

 そこに書かれていた内容は、救いなどなかった。

 予知を聞いてしまった人間は、自分が心だと思う場所を神様に対して答えなければならない。しかし、答えたら答えたで殺されてしまう。

 応えなくても同じく、結末は悲惨なものだ。

 

「……お兄さん」

 

 紅子さんが俺の服の裾を引っ張った。

 

「どうした?」

「…………なんでも、ないよ。酷いね」

「あ、ああ、そうだけど……」

 

 ひどく顔色を悪くした彼女に、俺の不安がうず高く積まれていく。

 まさか。

 

「……なあ、紅子さん。相談したいことがあるんだけど、いいかな?」

「いいよ。どうしたの? そんなの昨日でもできたでしょうに」

「できれば二人っきりがいいな。祠の幽霊も気になるし……なあ、二人で散歩しようよ」

「え、二人を置いていくつもりなのかな? それはちょっと」

「紅子お姉さん」

 

 渋る彼女にアリシアが声をかける。

 透さんも、なにか気がついたように微笑んでいた。

 

「『心とは何処(いずこ)にあるのでしょうか』」

 

 アリシアが声の色を消して問いかければ、俺の服を掴んでいた紅子さんの手が大きな反応を示した。

 顔色は、昨日と同様に青い。

 幽霊の彼女は元から白い肌をしているが、もしかしたら昨日よりも体調が悪そうな見た目だ。これを放っておくわけにはいかないだろ。

 

「紅子お姉さん。隠し事はメッ、ですよ?」

「隠し事、なんて」

 

 唇を噛んで苦々しそうに紅子さんが言う。

 らしくない。

 ああ、こんなの〝彼女らしくない〟よな。

 

 でも――

 

 

「……ああ、そうだね。アタシはこんなにか弱くなんてない。弱音をキミなんかに話してやらない。アタシは生きてなんかいない。怪異だ。これは、お兄さんが見ていた〝 理想の赤座紅子 〟の幻想にすぎないんだよ」

 

 

 俺の誕生日。

 あの日見た普通の大学生として生きていた紅子さん。

 あれは、虚像なんかじゃない。

 ただの理想なんかでもない。

 等身大の、普通の女の子として生きていたはずの紅子さんだった。

 たとえ俺の妄想でも、理想でも。

 

 そうだ、紅子さんはまだ20歳なんだぞ。

 実年齢でさえ俺よりも歳下なんだ。

 そんな子が、そんな人間が、ここまで気丈に振る舞えること自体が。ここまでなんでもないように振る舞うしかないこと自体が。

 

 ……おかしいんだ。

 

 20歳なんて俺はまだウジウジしてたろうが。

 絶望して、諦めていただろうが。

 

 自分を押し殺して、自分の理想を演じたってなんらおかしくない。

 20歳っていうのはそういう年頃だろ。

 紅子さんは特に意固地で、負けず嫌いで、奪われるのが嫌いで、嘘が嫌いで……そして。

 

 ――きっと、弱い自分自身を一番に嫌っている。

 

「そうだ」

 

 分かっていたはずじゃないか。

 

「紅子さんは辛辣で、皮肉屋で、格好良くて、俺を救ってくれた」

 

 そんな彼女を俺は好きになったんだ。

 

「でも、それがいつもじゃなくてもいいんだよ」

 

 いつも格好いいところばっかり見せてたら、疲れちゃうだろ。

 

「弱音だって吐いてくれなくちゃ分からない。俺なんかいつも紅子さんに弱音ばっかり言ってるんだぞ。少しは弱音を見せてくれよ。俺ばっかりが君に頼るなんて、フェアじゃない。そうだろ?」

 

 だって、俺はいつも紅子さんのことを見ている。

 

「もう目を逸らさない」

 

 等身大の彼女を、紅子さんの真実を見るんだ。

 呆然と俺の言葉を聞く彼女の両腕を取って、告げる。

 

「どんな紅子さんも、紅子さんだよ。弱音を吐いたって、泣いたって、怯えたって、いいんだ。お願いだから、一人で全部解決しようとしないでくれ……俺は頼りないかもしれないけれど。それでもさ、一人分の頭より、二人のほうが解決策も思い浮かぶかもしれないだろ?」

 

 俯いた彼女は、喋らない。

 

「……」

 

 喋らない。

 

「……」

 

 喋らない。

 

「……っ」

 

 喋らない。

 

「……それって、さ……告白、なのかな?」

「……違う。まだ、違う。俺は、紅子さんの隣に立てるほど、強くはないから。まだ、これは違う。これは……俺が紅子さんに貰った分の恩返しだ」

「そう」

 

 彼女は、告白には答えてくれない。応えてはくれない。そんなの分かりきっている。だから、まだこれは、告白なんて高尚なものじゃない。

 そう、恩返し。借りた分を返すだけの、フェアな関係。それだけだ。

 

「はーっ、令一さん。あなたって本当に意気地なしですね! でもあなたの言うことには賛成しますよ。令一さんと紅子お姉さんだけじゃありません。あたし達二人もいるんですから、忘れないでくださいね? 四人分の頭脳があればなんとかなるかもしれないじゃないですか」

「そうそう、みんなで考えればなんとかなるよ」

 

 ここまで来て、少し恥ずかしくなってきた。

 普通なら完全に告白だもんな、あれ。

 

「ふふ」

 

 紅子さんが俯いたまま笑いだす。

 それはやがて、大きな大きな笑い声となってその場に響いた。

 

「あははは! まさかお兄さんに励まされる日が来るなんて! もしかして明日は霧じゃなくて槍でも降るのかな?」

「なっ、勇気を振り絞ったんだぞ! そんな失礼な! 少しくらい照れてくれたって……」

 

 ポタリ。

 雫が落ちる。

 

「あははは……本当に、本当に、お人好しばっかり。そういう優しいところ大っ嫌いだって何度も言ってるのに……どうして、キミはいつもそうなの?」

 

 泣いていた。

 

「そんなに言われたら、突き放せなくなっちゃうのに。ズルイよね、お兄さんは」

 

 あの、紅子さんが。

 

「いつかキミはアタシを置いていくのに」

 

 泣いたところなんて、想像もつかなかった彼女が。

 

「嫌いでいさせてくれないなんて、本当にひどい人だよ。ひどい、ひどい人……」

 

 目に涙を溜めて、頬に雫を伝わせながら、笑っていた。

 

「でも、そうだね。これで貸し借りなしだよ」

「ああ、それで頼む」

 

 きっと、ここで告白をしていたら彼女は俺の前からいなくなっていただろう。

 彼女はそういう人だ。だから、俺はズルをした。

 告白紛いのことをしておきながら、まだ側にいられるための方便を用意したんだ。

 

「しょうがないなあ、これなら話すしかなくなっちゃったね。ねえ、令一さん……キミの想うアタシじゃなくても、キミはアタシを助けてくれるんでしょう?」

「ああ、もちろん」

 

 頷く。

 それは決定事項だったからだ。

 

「……助けて、令一さん」

「うん、助けるよ。絶対に助けてみせる」

 

 俺の言葉に彼女は目を伏せ、その涙を拭った。

「ふふ」と、いつものように。いや、いつもよりも嬉しそうに。

 

 泣いて、笑っていた。

 

「……それじゃあ、話すね」

 

 泣いていたからか、声が少し震えている。

 そんな彼女の手を引いて、抱きとめた。

 

 ……抵抗はなかった。

 

 昨夜のように、ただただ猫が甘えるように、紅子さんはその額を俺の胸に埋めているだけで。グリグリと顔を上げずに、まるで泣き顔を見せないように、けれど縋るように、俺を受け入れてくれていた。

 ほんの少しだけ髪の隙間から覗いた耳が朱に染まっていて、俺の中に言い知れない気持ちが湧き上がってくる。きっとこれが愛しいってことなんだろうと思いつつも、俺はそれに気がつかないふりをしたまま、ただ彼女の背に手を添えていた。

 そう、今は踏み込むべきじゃないから。

 

「あのね、アタシ……この村に近づいたときから、声が聞こえていたんだよ。さっきの文献に載ってた、あの問答。あのときは気にしてなかった。でも、心を魂って答える形になってからね、あと四日って言われたんだよ」

 

 その言葉に俺は息を詰まらせた。

 

 

 ――「あ、でもこのキャッチコピーだけは真剣そのものじゃないですか? ほら、この〝心の在り処を知れる場所〟って文句です」

 ――「景色には自信があるようだし、心が洗われるような場所なんだろうねぇ。まあ、アタシの場合は魂が洗われる……っていうのかな」

 

 

 まさか。

 

 ――「あと、四日ね」

 ――「あれ、そんなに泊まるっけ?」

 

 

 まさか。まさか。まさか。

 

 

 ――「ああ、うん。怪異調査なんだから、長引けばそのくらいいる必要があるかもね」

 ――「温泉もあるみたいですし、ちょっとくらいは長居したいです。でも一週間とかになると大変ですから、あたしは三日くらいがベストですね」

 

 

 行きのバスの、あのやりとりの最中に? 

 そんなときから、紅子さんは狙われていたというのか? 

 

 

 ――「うん、それにアタシ達は黙ってやられるほど弱くもないよ……そうだ、アタシもお兄さんにちょっと相談したいことが……わっ!?」

 

 

 昨日のやりとりを想起する。

 あのとき、もしかして紅子さんは俺にこのことを相談しようとしていた? 

 それじゃあ、俺は不安に揺れる彼女に気づかず一晩明かしたっていうのか? 

 なにが守りたいだよ。なにが強くなりたいだよ。

 

 ……気づけないんじゃ、意味がないじゃないか! 

 

「分かった。ありがとう、紅子さん。話してくれて」

「多分、あと三日だね。魂って答えちゃってるから、結構まずいんだよねぇ。名前なんて教えてないのに、変だよね。だから、アタシはその文献とは違う例外なのかも」

「ああ。それを含めて、どうするのか会議しよう」

 

 一歩だけ、彼女に近づけた日。

 彼女の真実に触れた日。

 

 けれど、それは放っておけばあと三日で終わる関係なのだという。

 そんなのは許せない。そんなの俺は認めない。

 

 絶対に諦めない。諦めたくない。

 紅子さんを失ってたまるもんか。

 

 ボウ、と心のどこかでなにかが燃え上がる音が響いた。

 

「きゅう」

 

 リンが応えるように鳴く。

 神に対する無謀な挑戦を、後押しするように。

 

 紅子さんが狙われる期日まで――あと三日。



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白い蝶と、紅い蝶

「そうと決まれば、あとはこの三日間でできることをするだけだな」

 

 結論を出す。

 そして何をするかだが……

 

「あ、ならあたしは華野に頼んで一緒に資料室を調べてみたいです。紅子お姉さんは村に入る前から目をつけられていて、しかも名前を渡したりしてないのに狙われてますから……あの子に聞いてみるのが一番ですよ」

「なら、俺は祠を経由して奥の神社を調べてこようかな。昼間の、霧の出ていないときなら大丈夫らしいし」

 

 俺が指示しなくても、二人ともやれることをやってくれるか。

 ありがたい。

 

「分かった。俺達は祠の幽霊に会いに行こうかな。透さんには悪いんだけれど、俺は紅子さんについていたいから、神社は会話が終わり次第向かうよ」

「単独行動はダメだよ、お兄さん」

「俺なら大丈夫だよ。こういうのは一応慣れてるからね。それに、狙いが定まっているなら、むやみに別の人を襲ってきたりしないと思うし」

 

 透さんの言葉にはなぜかものすごく説得力がある。

 それに、紅子さんが狙われている以上複数人が狙われるということも考えにくい。文献には〝選ばれた人間〟と書いてあったことだし、複数人にお告げが行くとはとても思えない。

 あとは紅子さんが狙われてしまった理由なのだが……それは分からない。祠の幽霊とやらに会えばなにか手がかりが掴めるだろうか。長年この村にいるのだし、色々と見てきているだろう。

 それに、幽霊の紅子さんが狙われているのに祠の白い幽霊が五十年も無事であることが不思議だ。

 紅子さんが狙われるなら白い幽霊だって安全ってわけではないはずなのに。

 

「紅子さんはおれと一緒だからな」

「そんなに囲い込もうとしなくてもアタシは弱くはないよ?」

「どの口でそんなこと言うんだよ。さっきまで怯えていたくせに」

「悪いのはこのお口かな? 調子に乗らないでよ、お兄さん」

「いたい、いたい、いたいって」

 

 頬を両側から引っ張られて降参する。

 せっかく格好いいところを見せたんだから、ちょっとは調子に乗らせてくれてもいいじゃないか。

 

「もう、アタシだって怯えるのは不本意なんだから。でも、相手がキーワード式の神様みたいだからアタシの首にはもう鋏の刃がかけられているのと同じ。キーワード式の怪異や神様っていうのは、その条件が満たされると手がつけられない〝必殺〟になるからね。アタシが同じように」

 

 ゾッとした。

 その赤い目を伏せる彼女の首に、巨大な鋏が挟み込まれているような錯覚を起こした。期日が来ればその鋏は容赦なく閉じていき、そして彼女の魂を喰らう。それが分かってしまったからだ。

 首に縄がかけられたような、崖の上で拘束されたまま立たされているような、そんな状況。

 彼女の背後は既に取られていて、俺が手を伸ばしても間に合うかどうかなんて分からない……そんな状態。

 

 いや、間に合わせるんだろ。間に合わせるんだ。

 この手が斬りつけられようと彼女を助けると決意しただろ。

 勇気を出せよ、下土井令一! 

 

「まずは、会話からだ」

「うん、じゃあ行こうか」

 

 紅子さんが一歩踏み出して、それから思い出したように振り返った。

 

「そうだ、アリシアちゃん」

「はい?」

「昨日の夜、アタシは黒猫を見かけたんだ」

「え……?」

「華野ちゃんに、この辺に猫が住んでるかとか、聞いてみたほうがいいよ」

 

 黒猫。

 昨日紅子さんが、俺に相談をしようとしたときに現れたというやつだな。

 俺は姿を見ていないが……紅子さんがいたというならいたんだろう。

 

「ねえ、お兄さん。キミの飼い主の気配とかは、する?」

「飼い主って……いつか噛み付く相手のことは飼い主なんて言わないって。で、あいつの気配? ずっと、この村には関わってるんじゃないかとは思ってるけれど」

「紅子さんがそう言うってことは、もしかして、もしかします?」

 

 アリシアがなにかに気がついたように口元を手で覆う。

 

 黒猫。

 

 黒猫といえば、アリシアとレイシーとは決別したチェシャ猫の姿を思い出すが。まさか、そんなことあるのか? 

 

「黒猫……っていうと、もしかしてこの前字乗(あざのり)さんの図書館であった事件の?」

「そう、その黒猫だよ。透さんも知ってたんだ」

「うん、字乗さんのお手伝いをしてるときにちょっと聞いたんだ」

「それなら話が早いねぇ」

 

 透さんは俺とはよくすれ違うが、あの大図書館でバイトしている。

 話を聞くこともなくはないだろう。

 

「ジェシュが、この村に……いるんですね?」

「確信はできないよ。でも、可能性はある」

「そうですか、でも、可能性だけでも嬉しいです。分かりました。華野にもその辺のことを訊いてみます」

 

 アリシアはそう言うと、パタパタと小走りになりながら食堂を出て行った。

 多分華野ちゃんの部屋だろう。

 

「行くか」

「うん」

「途中までは俺も一緒だね」

 

 紅子さんと、透さんと、俺の三人で資料館の裏にある森へ入る。

 頭上に広がる空は、この村に渦巻く状況とはまるで似つかわしくない蒼天と呼べるものだった。

 

 サクサクと地面を踏みしめながら数分。

 少し開けたその場所には大きな桜が咲き誇っていた。遅咲きの桜か、はたまた桜の樹の下に幽霊がいるからなのか、青空のもと、その光景は圧巻だった。

 そして、その桜色の海の下に古ぼけた木製の祠があり、その前には真っ白な少女が立っている。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 少女がこちらに気がついて振り向くと、俺は目を見開いた。

 

「紅子……さん?」

 

 いや、違う。

 祠の前にいる少女の髪は白く、その瞳は紫がかった黒。

 紫色の高級そうな着物の上から、真っ白な白装束を袖も通さずに羽織っている。

 紅子さんとは対照的で、似ても似つかない。

 

 なのにどうしてか、俺は直感的に〝似ている〟と感じていた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「やあ、トオル。また会ったね。今度は新顔さんも一緒か。災難だったねぇ。いや、実に災難だ。かわいそうに」

 

 リン、リン、と白い少女がこちらに歩みを向けると鈴のなるような音がした。

 よく見てみれば、どうやら右腕に組紐で繋がった鈴の飾りをつけているようだった。それが歩くたびに音を鳴らしているのだろう。

 

「……あれ? ……私?」

「奇遇だねぇ……どこかで会ったことはあったかな?」

 

 白い少女も同様に、紅子さんを視界に捉えると首を傾げた。

 紅子さんもどうやら少女に感じるものがあるらしく、困ったように声を出す。

 

「驚いた。もしかして君も幽霊かい? 私以外の幽霊なんて初めて見たよ。幽霊同士、シンパシーでも感じてるのかな?」

「アタシは他にも幽霊は知っているけれど、こんな不思議な気持ちになったのは初めてだよ。なんでだろう……?」

「ふうん、そうなんだ。なら私にも分からないね。なんせ、初めて同じ幽霊に会うのだから」

 

 俺も二人は似ていると感じている。

 口調こそ近いものがあるかもしれないが、見た目も紅白で対照的。なのになぜ。

 目を凝らす。いったいどこが似ているのか、と。

 

「きゅう」

 

 カバンの中のリンが鳴いた。

 急速に集中し、ボヤけたものが俺の目に映る。

 俺は紅子さん曰く〝視えすぎる〟らしいから、なにか視えるのではないかと思った試みだった。

 力を入れて二人を見比べてみる。

 先ほどよりもボンヤリとしたものがハッキリと視えるようになって、そうしてようやく気づいた。

 

「そうか」

「令一くん、大丈夫?」

「え? あ、大丈夫だよ透さん」

 

 肩を叩かれて集中が切れる。

 先程見えていたものは、もう見えなくなっていた。

 けれど、俺が二人を似ていると感じた理由は分かった。

 

「目が……」

「目? 俺の目がどうかしたか?」

「いや、違和感がないならいいけど。リンちゃんみたいになってたから」

 

 ああ、なるほど。

 さっきのはリンと無意識に同調していたのか。だから普段視えないものも視ることができたんだな。

 目の色が同調して変化するのは赤竜刀を使うときはいつもそうだし、問題はない。

 

「透さん、神社に行くんじゃ?」

「うん、そうだよね。じゃ、二人とも。後でね」

「おや、奥に行くのかい? なら、不用意に声を出さないように。大丈夫だとは思うが、気づかれないにこしたことはないからね」

「ご忠告ありがとう、詩子ちゃん」

「どういたしまして」

 

 物騒な言葉に引き止めかけた手は、透さんの手によって押さえられる。

 

「大丈夫だよ」

 

 安心させるような微笑み。

 それに俺は頷いて彼を見送った。

 

「お兄さん、なにが視えたの?」

「あ、気づいてたか」

「まあね。で、アタシ達が似ている理由は分かった?」

「ああ」

 

 俺が二人を似ていると感じたのは当たり前だった。

 色こそ違う。雰囲気こそ違う。きっと死因だって違う。性格だって違う。なにもかも対照的で紅白な二人。

 なのに似ていると思ったのは……魂の形が似ていたからだ。

 

「紅子さんは紅い蝶々。そっちの白い子は、真っ白な蝶々。魂の形が似ている……って言えばいいのかな」

「へえ、蝶々ね。たしかに、人それぞれ魂の形というものがあるよ。色が似ていることはあっても、形がそっくりそのまま同じっていうのはなかなかない。蝶々の種類も似ているのかな? 同じ蝶々でも、それぞれ差異があるものだよ」

「まったく一緒だ。だから似ている」

 

 リンのお陰だな。

 じゃないと二人が似ている理由なんて気がつくことすらできなかった。

 

「それにしても……」

 

 紅子さんが顔を伏せる。

 

「どうした?」

「令一さんの、スケベ」

「えっ」

 

 なぜ。

 

「だって、魂なんて裸も裸。着飾るものもなんにもないアタシ自身なんだよ? これ以上ないっていうくらい奥の奥まで視られちゃうだなんて……お兄さんのスケベ。しかもアタシだけじゃなくて初対面の彼女にまで……!」

 

 真っ赤、だった。

 いや、そこで恥ずかしがるのはなんでだよ! 

 言われてみればそうなのかもしれないけれど! 

 心外だ! 

 というか、いつも蝶々の魂姿で壁をすり抜けたりしてるだろ! 

 昨夜だってそれで俺のところに夜這いという名のナニカを仕掛けてきただろうが! 

 

 ……あれ? そういえば、紅子さんって俺にしかアレを見せたことが……ない? 

 

「あ、あのごめん……」

「いいよ……冗談に決まってるでしょうに」

 

 彼女の顔が赤いのは真実なんだよな。

 言わないけれど。

 

「魂なんて無防備な姿……信頼してないと見せたりなんてしないよ」

「そ、そうか」

「君ら、それをやるなら私のいないところでやってくれないかい?」

 

 祠に座りながら呆れ顔で言う白い幽霊に、俺達は互いにハッとして距離をとった。いつもより距離が近いままにやり取りしていたため、互いに顔が赤い……のだと思う。

 

「馬に蹴られてしまいたくはないけれど、君らは一応私を訪ねに来たんだろう?」

「そうです、ごめんなさい」

「あー、えっと、そういうことで、アタシは幽霊なんだけれど……」

 

 紅子さんは気を取り直すように咳払いをする。

 彼女の顔は赤いままだったが、俺も素知らぬふりをしながら白い少女に向き合う。

 なんだこれ、なんだこれ。さっきのやり取りからずっと、いつもの紅子さんらしくなくて緊張する。いや、これが本来あるべき姿なんだと思えば良いことなんだけれど、こんなに素直だと調子が狂うというか、いつもと違った顔を見れて直視できないというか……。

 

「キミは、この奥の神社の神様とやらがどんな神様なのかは知っているかな」

「ああ、知っているよ。確かおしら様って呼ばれているやつだろう。実際に見ると蜘蛛みたいな見た目の気持ち悪い神様なんだけれど、あれの予知とやらは本物らしくてね。年に一度とか、外から人が来たときだとかによく獲物を探して舌舐めずりしているのさ」

 

 蜘蛛。

 神様なのに? 

 いや、確かおしら神って馬か女、それか養蚕の神なんだから蚕とか、あとは伝承で馬に恋した女が殺されて蝶々になったとか、そういうやつじゃないのか? なのに蜘蛛? 

 そのイメージの違いから疑問が次々と浮かんでくるが、今は保留だ。

 話は最後まで聞いて考えるべきだよな。

 

「その神様が幽霊を標的にしたことってあるかな」

「ない。それは私がここにいることが証明だけれど……もしかして君、声が聞こえたのかい?」

「村の外で、なんだけれど」

「そりゃあ、おかしいね。あの神様はこの村でしか猛威を振るえないはずだ。注連縄で囲まれたこの村の中でしか……」

「そ、それに紅子さんは名前を全部この村では言ってないぞ。バスの中でだってそうだ。なのになぜか狙われている。これって前例のないことなのか?」

 

 俺が問えば、少女は剣呑な顔をして「今まではなかったことだ」と言う。

 なにもかもが前例のないことだったということだ。

 なにか……なにか狙われた理由があると踏んでいたんだが、少女にも分からないのでは手がかりはないに等しい。

 

「俺、レーイチ。また来てもいいか? 俺は紅子さんを失いたくないんだ」

「アタシはベニコ。一応こう言ってくれているわけだし、アタシも魂を取られちゃったらおしまいだからねぇ。調べ物をしているから、たまに話を聞きにくるかもしれない」

「私と似ているという君。まあ、君に罪はない。大人は嫌いだけれど、君達は華野を蔑ろにしなかった。だからある程度の協力はしよう。なにか話があれば遠慮なくここへ来るといい。それから私のほうも、思い出せることがあれば伝えよう。それと、私のことは詩子と呼べばいい」

「ありがとう、詩子ちゃん」

「ちゃん……? まあいいだろう」

 

 協力は確約できた。

 今は自己紹介に留めておいて、透さんを追って神社に行ってみるか? 

 ……いや、神社ってつまり敵の本拠地だよな。紅子さんを連れて行くわけにはいかないだろ。かと言って、本当に詩子が味方なのかどうかも分からない。

 ここに置いて行くわけにはいかないが……。

 

「紅子さんは詩子ちゃんと一緒に待っていてくれないか?」

「……お兄さん」

「おや、こう言ってはなんだが……そう簡単に私を信頼していいのかい?」

 

 愉快そうに詩子が言った。

 

「華野ちゃんのことを話してる君は優しい目をしてる。あれは……守る立場の目だろう。俺はそう見えた。そんな人が、〝俺が守ろうとしている女の子〟を危険に晒すわけがない」

 

 言い切ると、詩子は痛快そうに笑った。

 

「んふふ、そうかい、そうかい。なら預かってやろうではないか。この数十年、狙われた試しのない私ならばこの子を隠してやることもできるだろう。安心して行ってきたまえ、レーイチ」

「ありがとう」

「お兄さん……なんか、雰囲気変わった」

「紅子さんのためなら、いくらでも俺は変われるよ」

「そう……恥ずかしげもなくよくそんなこと言えるねぇ。まったく、いってらっしゃい。迎えに来るのを待ってるよ」

「言うなよ。恥ずかしくなるだろ、いってきます」

 

 気前よく許してくれた詩子に紅子さんを預け、手を振る。

 彼女はどこか複雑そうな顔をしながら、白い少女の隣で同じく手を振った。

 

 後ろ髪を引かれるような思いをしつつ、俺は森の奥へ進んでいく。

 大丈夫、きっと大丈夫。俺の勘を信じろ。

 あの詩子という少女なら――大丈夫だ。

 



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黒猫とアリシアの覚悟

 ある程度歩いていくと森を抜け、目の前には拓けた場所と、頼りない吊り橋が現れた。

 下は何十メートルもありそうな崖になっていて、向こう岸には巨大な鳥居とそれに似合わないこじんまりとした神社が鎮座している。

 

「透さんは中か?」

 

 俺はおっかなびっくりで吊り橋を渡りきり、神社まで歩み寄る。

 吊り橋は大人が数人走ったら壊れてしまいそうなほどにボロボロだ。もし、みんなでここに来ることがあったら慎重に渡り切らないといけないだろう。

 

「うわっ、こわ……」

 

 神社の境内にはありとあらゆる場所に人形やヌイグルミが落ちている。

 いや、落ちているというより安置されているといったほうが良いのだろうか。

 人形供養の神社などではズラッとありえないほどの人形が並んでいるらしいが、ここは綺麗に整列しているわけでもなく、あちこちに立っていたり倒れていたり……管理されているとはとても思えない状態だ。

 

「わっと」

 

 神社の内部へ入るべきなのかと歩き回っていたら、足元にあったヌイグルミを一つ蹴ってしまった。

 まずいんじゃないかと直感して抱え上げ「す、すみません」と言いながら裏表とひっくり返して壊していないかを調べる。

 すると、お腹のあたりがほつれてなにか木の板のようなものが飛び出していた。

 

「やべっ、俺のせいか!?」

 

 木の板をヌイグルミの中に押し込もうと手をかけ、俺はその板になにかが書かれていることに気がついた。

 

「加賀村……青磁(せいじ)……? 人の名前、か?」

 

 ヌイグルミに入った板切れに名前。

 確か、この村では生まれた人間の名前を人形に込めて身代わりにするのだったか。ということは、この神社に納められた人形やヌイグルミ達は全て身代わりなのだろうか。

 現在村の住民がどれだけいるかは分からないが、この神社にある人形達はあまりにも多い。もしかしたら、昔の人物のものまで安置されているのかもしれないな。

 そうなると、神社の表側にあるこの人形達は比較的新しいもので、奥に進めば進むほど古い人形やヌイグルミがあるのかもしれない。

 

 この加賀村という人物が今村にいるかどうかを尋ねれば、この仮説が正しいかどうかも分かるな。

 

「あれ、令一くん」

 

 俺が外側から神社の分析をしていると、内部から聞き覚えのある声がかけられた。

 

「透さん、もしかしてもう終わったのか?」

「うん、じっくり見てきたよ」

 

 彼はそう言うが、詩子ちゃんのところで話していた時間はそう長いものじゃなかったぞ。小さいとはいえ、神社の中を隅々まで見て回るのにそんな短時間で済むなんて、透さんには本当に驚くことばかりだ。

 

「なにがあったか教えてもらっても?」

「うん、えっとね。まずは、奥に行くほど大きな人形が多いね。あとヌイグルミも。そっちは伝承通りに服が重ね着されていってるみたいだったから、多分その分大きく見えるようになってるんだと思うよ」

 

 祭りの日に人形を重ね着させる。

 それが本来のおしら神の祀り方だ。気になってスマホで調べてみたが、村のおしら神とそこまで大きく違いがあるわけではなさそうだった。

 この村では、その重ね着させる人形は自分の名前入りのもの限定であるということになる。まさか全員、祭りの度に重ね着用の服を作っているのだろうか。

 

「それから、壁に火気厳禁ってポスターがあったよ。まあ、神社の中だからね」

「あー、それはそうだろうな。俺のほうはこの……名前の板が飛び出してるヌイグルミを見つけたんだけど、この人が実際にいるかどうか村で聞いてみようかと思って」

「うーん、名前を言ってはいけないって言われてるんだし、いきなり俺達が名前を知ってたら警戒されちゃわないかなぁ」

「あ、それもそうか……」

「みんなで話し合ってみて、それから考えようか」

「そうだな、そうしましょう」

 

 二人で決めて頷く。

 それから帰ろうと一歩踏み出したとき、二人分のスマホが通知の音を出す。

 チャットのほうだ。

 

「あれ、アリシアちゃんから?」

 

 透さんが素早く確認し、俺も確認する。

 通知内容は「見つけました」だ。

 

「黒猫を見つけたのかな?」

「多分。ジェシュ……だっけ。アリシアちゃん、どうするんだろうな」

 

 透さんの言葉に返して、歩き出す。

 俺がここに来て間もないとはいえ、少し紅子さんが心配だ。

 勿論、詩子ちゃんを信用していないわけではないが、万が一というものがある。あの紅子さんでさえ怯えるような神。50年以上無事だったとはいえ、そいつが詩子ちゃんに手出しできないとは限らないのだ。

 

 さく、さく、と歩みを進めるうちに段々と歩くペースが早くなっていく。

 そして、俺は祠のところで白い影と話し込む紅い姿を見つけると、自然と駆け出していた。

 

「紅子さん!」

「ん? なんだお兄さん、随分と早かったねぇ」

 

 俺に気がついて微笑む彼女に向かって飛び込んでいく。

 ……というのは途中までただの妄想だ。飛び込んだりなんてしない。そんなことしたら怒られるからな。だから駆け込んで手を握り、無事をあちこち確認するだけにとどめる。

 

「あのねぇ、アタシは平気だって」

「さては君、私を信用していないだろう。このように、彼女は無事さ」

「ご、ごめん。ついつい、心配で」

「心配してくれるのは、悪い気はしないけれど……小っ恥ずかしいからやめてくれないかな?」

「やだ」

 

 紅子さんが溜め息を吐く。

 そこでやっと歩いてきた透さんが合流した。

 

「本当に仲が良いね。これなら俺も兄として安心だ」

「透お兄さん、あのねぇ」

 

 二人は兄妹ではないし、そもそも血が繋がっていない。が、兄貴分というやつなんだろう。透さんは俺と彼女のやりとりを見ながらうんうんと頷いて笑顔になる。

 笑顔なのが逆に怖いのだが……俺、彼に認められてるって思っていいのかなあ。

 

「それで、ベニコ。なにやら連絡があったのではなかったかい?」

「あ、そうだったねぇ。ありがとう詩子ちゃん。脱線するところだったよ。ほら、お兄さん達も行くよ」

「あ、ああ、そうだな。詩子ちゃん、彼女を見ててくれてありがとう」

「ありがとう、助かったよ」

 

 俺と透さん、二人で礼を言うと詩子ちゃんは儚く微笑んで「なんのなんの。これくらいなら頼ってくれて良い。私も久々に賑やかで楽しいから、また来るといい」なんて返してくれた。

 なんていい子なんだ……必ずまた来よう。

 

「また来るよ」

「……またね」

 

 約束を交わし、手を振って別れる。

 それから三人で資料館まで戻ると、アリシアからまた連絡が入っていることに気がついた。

 

『あたしの部屋に来てください』

 

 それを見て三人で彼女の部屋へと向かい、チャットで着いたことを伝える。

 すると、恐る恐るとアリシアが扉を内側から開いた。

 

「入ってください」

 

 頷いて入ると、窓の近くに澄ました顔で黒猫が座っていた。

 

「話を聞き入れるつもりはないよ、アリシア」

「いいえ、あたしも本気なんだから!」

 

 俺達が入った途端に言い争いを始める一人と一匹。

 その様子に困惑しながら歩み寄り、話を訊く。

 

「アリシアちゃん、いったいどうしたんだ? なんで言い争いをしてるんだ?」

「あたし、ペティさんから……いえ、よもぎさんからナイフを貰いましたよね。協力してくれる怪異を探せって、そう言われました。それでいくら考えても……やっぱり思い浮かぶのはジェシュの顔だったんです」

 

 紅子さんは断っているし、彼女が知っている怪異は少ない。しかし消去法で選んでいるわけではないだろう。なんせ、あいつは元アリシア達の飼い猫だ。

 これ以上ないというくらいの組み合わせだろう。

 ……この黒猫が邪神となってしまっている。それだけが気がかりだが。

 

「今ここでチャンスを逃したら、もう二度とジェシュに会えなくなる気がして……ずっと引き止めてたんです」

 

 その言葉にハッとする。

 今このときを逃したら次はない。それはきっと彼女の勘なのだろうが、俺もときおりそんな気持ちになることがある。紅子さんへ告白するのは今じゃない、今告白したらきっと彼女は俺の前からいなくなってしまう。そんな予感を俺も抱くことがあった。

 だからアリシアの言葉も、きっとそういうことなのだろう。

 彼女達がなにかをするなら、今しかないんだ。

 

「だから、ボクは嫌だよ」

「どうして? お願い、戻ってきてよジェシュ」

「アリシアったら身勝手だよね。ねえ、分かってるの?」

 

 黒猫はパタリ、パタリと尻尾を振りながら剣呑な声で尋ねる。

 

「キミはボクを捨てたんだ」

 

 俺と透さんは、その言葉に息を飲んだ。

 紅子さんはどうやらこの展開を予想していたようで、黙ったままそっと目を伏せる。しかし、彼女が口出しをすることはない。

 

「……それは」

「そうでしょ? キミらはボクを捨てた。どの口で一緒にいてほしいって言うのさ?」

 

 黒猫から残酷な話が飛び出し、アリシアは泣きそうな顔で俯く。

 アリシアとレイシーは黒猫……ジェシュに対して否定を繰り返した。もうお前はジェシュじゃない。可愛い飼い猫を返せ、と。それは無数の顔を持つ邪神へと成ってしまった黒猫の存在意義を奪うには十分な言葉だった、

 彼女達が黒猫は黒猫だと認識し、そうあれと望んでいたからこそ自分自身を見失うことのなかった黒猫は、そうして最後の柱を壊され、本物の邪神へと堕ちてしまった。

 そんな彼をアリシアはもう一度〝手に入れよう〟としている。手繰り寄せようとしている。

 猫はもう既に可愛らしい彼女達の飼い猫ではなく、邪神となってしまっているのに。

 

「それでもよ! あたしにはあんたしかいないっ、きっと他に誰かが立候補してきても、違和感があるわ! 確かにね、あたしは一度紅子お姉さんにだって頼もうとした! それは認めるわ! でも、きっと、ダメだった。あんたを見つけたとき……そう思ったの」

「そんなこと言われても、ボクは靡いたりしないよ? そんなこと言ってまたキミらはボクを捨てるかもしれない。都合のいいときだけ使ってポイッて捨てるかもしれない。そんなことを思っちゃうんだ。だから嫌だ。ボクだけが辛い思いをするなんて絶対に嫌だ!」

 

 また捨てられるかもしれない。

 一度捨てられた黒猫は不安になってしまうんだろう。

 求められても、すぐに捨てられる。そんな意識がずっとついて回ることになってしまう。

 一種のトラウマのようなものだ。黒猫は性格自体は前と変わっていないみたいだし、邪神であるというだけで害があるのかどうかは微妙なところ。勿論、神内みたいな変な性癖もない。だが、邪神だ。

 俺達自身もそんな色眼鏡で見てしまう可能性は高い。

 

「……それでもよ! もう捨てたりしない、もう見失わない、もう離さない! だからもう一度だけあたしにチャンスがほしいの! ジェシュ……お姉ちゃんを守るために、一緒に強くなりたいの! お願い、お願い!」

「やだ、嫌だよ! そんなの一人でやればいいだろ!」

「あなたじゃないとダメなの!」

 

 言い争いはなおも続く。

 けれど、俺達が口出しをするわけにもいかない。これはアリシアと黒猫の問題だからだ。俺達ができるのはただ、行く末を見守ることだけ。

 

「でもね、アリシア。ボクはもうキミのことが信じられない。信じられないんだよ」

「……っ、もう一度信じさせてみせる! だからジェシュ、お願い! あたしに力を貸して!」

 

 黒猫が俯く。

 アリシアの必死な様子に、少なくとも俺は心を動かされている。

 アリシアはそれだけ後悔しているし、ジェシュを求めていた。

 けれど、現実はそう簡単にはいかない。

 

「……なら、示して見せてよ。このボクに、キミの覚悟」

「覚悟……? 言って、なにをすればいいの?」

 

 即答するアリシアに黒猫は俯いたままニヤリと口元を歪ませる。

 

「対価だよ。古今東西、神や怪異と約束事を取り決めるなら、対価を渡すものだからね。まさかタダでボクに協力してもらえると思ってないよね?」

「あたしに払えるものならいいわ。でも、お姉ちゃんを守るために強くなりたいんだから、命だけはあげられない。それだけ先に言っておくわよ」

 

 こちらも即答。

 いよいよ不穏になってきた会話に俺は苦言を漏らしそうになるが、隣で様子を見守っている紅子さんによって太ももがつねりあげられる。

 あげそうになった悲鳴を飲み込んで、黙っていろと示された通りにしていると、黒猫は哄笑した。

 

「いいよいいよ。別にボクだって命がほしいわけじゃないんだ。ボクがほしいのは、保険。ボクを間違っても捨てられないように、キミに枷をつける」

「……内容を言ってちょうだい」

 

 アリシアは真剣な顔で黒猫と向き合ったまま、言う。

 

「ボクに、キミの肺をひとつ食らわせてほしいんだ?」

 

 ひゅっ、と息を飲む。

 背筋を冷たいなにかが這い回るような感覚。

 後ろで待機している俺がここまで恐ろしく感じるんだ。アリシアはもっともっと黒猫からの重圧がかかっているだろう。

 それに、肺をひとつ食らうだと? そんなことしたら死んじゃうじゃないか! 

 

「おい、さすがにそれは見逃せないぞ。そんなことしたらアリシアちゃんは死ぬだろうが! 命は取らないってさっき言ってただろ!」

「もちろん、命は取らない。肺を食べたあとはボクが体の一部を残して、アリシアの失った肺の代わりをしよう。大丈夫、知識なんてなくてもなんとかなるよ。ボクは邪神だ。知識を〝みんな〟からもらってくる。どうとでもなるよ」

 

 信用できるのか? 正直、胡散臭さしかないのだが。

 

「でもね、ひとつだけ注意があるんだ」

「聞くわ」

「食べさせてくれるなら、ボクほキミの体の中を通り抜ける。それは数秒の出来事だよ。でも、ボクがキミの肺を食べているほんの数秒の間、キミは自分の臓器が喰らわれる痛みを感じることになる。もしかしたらあまりの痛みにショック死しちゃうかもしれない。そんな痛みだよ」

 

 数秒間。されど、数秒だ。

 臓器を喰われる痛みなんて想像もつかないが、きっと数秒でも何時間もの責め苦を受けるような、地獄の苦しみに苛まれるだろう。

 

「もちろん、食べ終わったらすぐに痛みはなくなるし、ボクが肺の代わりを置いていってあげるから、通常通りに戻るよ。でも、ショック死の可能性はある。そんな苦しみを受けてまで、キミはボクがほしいの?」

「受けるわ」

 

 即答……だった。

 アリシアは悩むことすらなく、黒猫を真っ直ぐに見据えて答えたのである。

 

「正気?」

「正気も正気よ。それだけあたしは本気なの。耐えてみせるわ。絶対にあたしは死んだりしない。だから、ジェシュ。やれるもんならやってみなさいよ!」

「はは、アリシアって馬鹿だなあ。そこまで言われちゃったらやらないわけにはいかないね」

 

 黒猫は愉快そうに笑うと、もう一度確認するように「本当にいいんだね?」と繰り返す。

 アリシアは深く深く頷いて「来て」と言った。

 

「あなたがいないと不自由な体にする。そうやって、捨てられないようにしたいんでしょう? それでジェシュが安心するなら、あたしは耐えてみせるだけよ」

「……分かってたんだ。そう、それなら、アリシアの覚悟。見せてよ」

 

 黒猫が動く。

 足音もなく、ひたすらまっすぐにアリシアへと向かい、跳躍。

 アリシアの胸に目がけて飛び込んでいった猫は、ぶつかることなくそのまま彼女の体をすり抜けた。

 その瞬間、アリシアがくわっと目を見開き血を吐き出した。

 そして体を折り曲げ、床に倒れ臥す。

 

「アリシアちゃん!」

「アリシアちゃん、大丈夫!?」

「……アリシアちゃん、大丈夫。生きているよ」

 

 紅子さんの言葉でハッとする。

 倒れながらもアリシアの手は、痛みの余韻に手を震わせていた。

 

「生き残って……やった、わよ」

「驚いた。アリシア、すごいよ。これで、文句なしにボクはキミの物に戻ったことになる。仕方がないから、協力してあげるよ」

「そ、う……」

 

 アリシアは黒猫の言葉を聞くと、嬉しそうに頷いた。

 そして、胸の部分をギュッと手で押さえつけながら身体を起こす。歯を食いしばり、まだ荒い息を吐きながら彼女は笑顔を浮かべた。

 

「よかった」

「うん、仕方ない。ここまで愛されちゃったら、ボクも応えないといけないよね。ねえ、アリシア」

「なあに?」

「もう一度、ボクに名前をちょうだい」

 

 首を傾げるように黒猫が呼びかける。

 

「名前……」

 

 そこで、紅子さんがこの場で初めて口を開いた。

 

「一応言っておくよ。アリシアちゃん、怪異に固有の名前をつけるということは……その怪異の親や恋人のような存在になることを意味する。キミだけの信仰で成り立つ存在。キミだけの畏れで成り立つ存在。だけれど、だからこそキミが信じれば信じるほど彼の力は強くなる。そういう怪異になるんだ。彼は邪神だからなおのこと。でも、キミがいることで邪神を一人抑えられることも意味するんだ。よく、考えてね」

 

 それは、以前雨音の怪異の際に言っていたことだ。

 怪異に名前をつけるということは、責任を伴う。へたしたら一生を共に過ごすことになるかもしれない。そんな重い関係になることを意味する。

 けれどアリシアは、紅子さんの警告に対して目を瞬かせると「この子となら平気です」と断言していた。

 

「あたしとこの子は、共通の目的を持った〝同盟者〟ですよ。そう、みなさんと同じ同盟です。お姉ちゃんを守るためにこの子と一緒に、あたしは強くなりたい。だからね」

 

 そこで区切ってアリシアは黒猫ともう一度真っ正面から向き合う。

 それから、黒猫をそっと抱き上げて額と額をくっつけて目を瞑った。

 

「あなたの名前は、〝ジェシュ〟……もう一度同じ名前で、やり直そう? あたしは、あなたと一緒に強くなっていきたい。お姉ちゃんを、誰かを守れるようになりたい。だから、協力して」

「……承ったよ、アリシア。ボクの(あるじ)はキミだ」

 

 淡く優しい、水色の光が二人を包み込む。

 そうして、気がつくとアリシアと額を合わせていた黒猫は人型に変化していて、二人は額を合わせたまま笑い始めた。

 

「もう一度、よろしく」

「こんなに愛されちゃったら仕方ないね。アリシア、よろしくね」

 

 二人の間に、黒猫の瞳のような明るい黄色の石が現れる。

 それは宝石のようで、そして彼女達の信頼の証のように俺には見えた。

 

 ちょうどアリシアの十字架ナイフに合いそうなその石を、二人の手でゆっくりと窪みに嵌めた。

 

「これでボクはもう、キミのもの」

「そして、あたしはもう、あなたがいないと生きられないほどに不自由な体になった。もう、離れられないわ」

 

 ある意味での呪い。

 呪いのような、関係。

 けれど、俺にはどうにも眩しく思えてならなかった。

 究極の信頼で結ばれた関係。彼女達の言う〝同盟者〟。切っても切れない関係。

 

 チラリと紅子さんを盗み見れば、彼女はどこか優しい瞳で二人を見つめていた。

 そして透さんがパチパチと拍手を始めると、釣られて俺と紅子さんも二人を祝福する。

 

 笑い合う一人と一匹に、ほんの少しだけ羨ましいと――そう、俺は眩しいものを見るように彼女達を見つめていた。

 

 

 



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紅い蝶の願い事【七夕】

「紅子、どうしました?」

「……しらべさん」

 

 七彩高等学校、その放課後のことだ。

 二学年の赤座紅子が放課後の教室で黄昏ていると、三学年の鈴里しらべが顔を出し、尋ねる。

 紅子の見つめる手のひらは夕日に透けている。しかし、それも時間が経てば元に戻った。

 

「いいや、タイムリミットはどのくらいなのかなって気になっただけだよ」

「そうですか。確かに今のあなたでは、消滅は免れられないでしょう。私が教えた方法では、あなたの怪異としての寿命を少し伸ばすことしかできませんから」

「アタシを拾ってくれたことは感謝してるよ? キミに拾ってもらわなくちゃ、きっとアタシは二年前に消えていただろうからね」

「……無理矢理あなたを生かそうとしたのは私の我儘ですよ。ですが、今度はそうもいきません。私は二度は助けない主義なんです」

「そう、それなら別にいいよ。アタシはね、人を殺さないと怪異でいられないって言うのなら……それしか選択肢がないのなら、一人でひっそりと消えていったほうがまだマシだ。アタシが死んだときみたいに、アタシは自分で自分の最後を決めたい」

 

 目を細め、紅子は笑う。自嘲的なそれに、しらべは眉を顰めて会話を続けた。

 

「下土井さんが悲しみますよ」

「ど、どうしてそこでお兄さんの名前が出てくるのかな」

 

 動揺したように声を震わす彼女にしらべはいっそ残酷なまでに優しく言葉を紡ぐ。

 

「あなたは、興味のない人には優しい。彼には、興味があるからこそ、厳しく当たる。皆、そう知っていますよ。あなたのことをよく見ていますから」

「あはは、お節介で下世話だなんて怪異も人も変わんないよね」

「ええ、その〝人間〟から生まれてくるのが私達ですから」

 

 嫌味に対しても眉ひとつ動かさずに言うしらべは、そっと目を伏せる。

 紅子の強情さに。その本音を心の奥底まで見透かしていながら、吐き出させてやろうと少なからず黒い思いと共に行動に移して。

 

「下土井さんは、あなたのことが好きですよ。これは誰も、気づいていることです。でもあなたは素っ気ない。それはなぜですか?」

「さとり妖怪の癖に口から聞こうって言うの? 趣味悪いよ、それ」

 

 嫌そうにしながら紅子は言う。

 

「デートにくらい、行ってあげたらどうですか? 誘われているでしょう、七夕祭り」

「まあね……でも、お兄さんと一緒にいればいるほど、アタシ自身も決心が鈍ってくるからあんまり一緒にいたくないんだよ」

「決心、ですか。消える決心のことです?」

「そうだよ」

 

 当たり前のように紅子が答えた。

 

「アタシは人を殺したくない。でも赤いちゃんちゃんこはYESと答えられたら殺さなければならない。アタシは何度もYESを聞いていながら、幻覚だけで見過ごしている。アタシは赤いちゃんちゃんこ失格の幽霊だ。いつかは消える」

 

 区切って、彼女は眉をハの字にして唇を噛む。

 

「いつかは消える。アタシにはタイムリミットが僅かにしかない。なのに、お兄さんの想いに応えてあげられるわけ、ない。そうじゃないかな? だって、アタシはいなくなる。そう分かっておきながら想いに応えたりなんてしたら、余計残していくお兄さんが辛いだけだよ。それなら、潔く断る方を選ぶよ、アタシは」

「ですが、あなたは未だに彼と行動を共にしています。そのほうが余程辛いのでは?」

「……そうだね、そうだよ」

 

 苦笑いを浮かべて紅子は答えた。

 

「令一さんと一緒にいればいるほど、アタシは弱くなる。決心が鈍る。未練がどんどん積み重なっていって、その重さに潰されそうになるよ。でも、自分から離れることも、もうできなくて。せめて告白でもしてきてくれれば断って行方をくらますこともできるのにね。どうやらお兄さんはそういうところだけは鋭いみたい」

 

 しらべの耳で目玉のピアスが揺れる。

 彼女が覗く紅子の心の中はぐちゃぐちゃで、矛盾だらけで、奥底にある願い事に無理矢理蓋をしている状態だった。

 それを言語化している間にしらべには既に伝わりきっている。

 しかし、そんな想いこそを言葉に出してぶちまけることが大事なのだと、長年人間に携わっているしらべは知っていた。

 

「一人で消えていきたいって思ってたのに、信念を貫き通すためには消滅するのも、たとえ祓い屋に退治されるのだって怖くなかったはずなのに、アタシは今すごく怖いよ」

「人間らしい、ですね。あなたはずっと、人間らしい。羨ましいくらいに」

「そう? アタシとしてはこんなに複雑な気持ち、いらないのにねぇ」

「美徳ですよ、それは」

 

 しらべの言葉に溜め息を吐いて、紅子は目を伏せたまま自分に言い聞かせるように呟く。

 

「お兄さんが……嫌い。お兄さんの優しいところが嫌い。お兄さんの偽善的なところが大嫌い。アタシの選択肢を奪うところが嫌い。アタシは奪われるのが嫌いなんだ」

 

 それは、心を奪われるということさえも。

 

「あの人のせいでアタシは余計なことまで考えなくちゃいけなくなった。それが嫌だ。嫌い、嫌い、嫌い……それでも、令一さんは笑ってアタシを許すから、嫌い。縋りたくなっちゃうから、嫌い。助けてって言いたくなっちゃうから、嫌い。消えたくないって願うようになっちゃったアタシも嫌い……こんなことなら、関わらなきゃよかったよ」

「願い事くらいはいいじゃないですか。願うという行為にはなんの罪もありませんよ」

「……今日はやけに優しいね」

「七夕ですから、お願い事くらい彼の隣で書いてきなさい」

「……行かなくちゃダメ?」

「楽しみにしていたのでしょう」

「うん、まあ」

 

 日が落ちていく。

 下校時刻はとっくのとうに過ぎ去っていた。

 

「分かった、分かったよ……行けばいいんでしょう」

「ええ」

 

 不服そうな顔で荷物を持ち、教室から出て行く紅子をしらべは見送り、微笑む。

 

「あの子は心が強いだけに、その〝絶望〟は良質ですね……これも食べられなくなるのは惜しいですけれど、幸せになるならなるでいいです。私は人間の味方の、さとり妖怪ですから」

 

 しらべが薄く微笑む。

 校門のところで合流する彼女らを眺めながら。

 

「お待たせ」

「紅子さんのほうが遅いのってなんだか新鮮だな」

「お兄さんが時間ぴったりに来ている……明日は槍の雨でも降るのかな」

「遅刻魔でごめんなさい! でも遅刻しなかったんだから少しくらい褒めてほしい!」

「キミは当たり前のことをして褒めてもらいたいの? なら、普段のアタシのことも褒めてくれたっていいんじゃない? じゃないとフェアじゃないでしょ」

「それもそうだな。いつも時間通りに来る紅子さんはすごい!」

「……雑だねぇ」

 

 笑い合いながら二人は町の中へと消えていく。

 その日の願い事は。

 

 ――来年も、また一緒に祭りに来られますように。

 ――紅子さんとずっと一緒にいられますように。

 

 同じようで違う言葉。

 その願い事が聞き届けられるのかは……彼ら次第である。

 

 

 

 




紅子さんの片想い描写を中々書けないので、こちらで書くことにしました。

ひとまず季節ネタ。「ひとはしらのかみさま」編が春なので、これはほんの少しだけ未来の話となります。


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認められるということ

「……アリシアちゃんは、もう大丈夫だね」

 

 寄り添い合い、疲れ果てて眠ってしまった二人に毛布をかけながら紅子さんが言う。

 アリシアは瞬間的にとはいえ、死ぬ程の痛みを経験している。ジェシュのほうはどうやらそんな主人の彼女に引きずられているらしく、アリシアが気絶するように眠るとすぐにその体を抱きしめながら眠り始めた。

 

「ああ、どうする? まだ昼前だし、もう少しなんか調べられると思うけれど」

 

 俺が提案すると、二人も頷く。

 

「あ、そうだ。俺とアリシアが資料室調べたときにさ、古いほうの部屋は調べられなかったんだよな。透さん古文とか分かったりしないか?」

 

 図書館司書なんだし、という理不尽な期待を持ちながら彼のほうへ目線を移動させると、透さんは苦笑いをしながら「尽力するよ」と答えた。

 どうやら挑戦してみてくれるらしい。

 

「それじゃあ、俺は華野ちゃんを誘って古いほうの資料室かな。彼女もここの管理をしているわけだし、内容を知ってるかもしれない。あとは、紅子さんが狙われていることも一応言っておいたほうがいい。考える頭は多ければ多いほど力になるからね」

 

 透さんが資料室なら、俺と紅子さんはどうしようかな。

 他に調べられることか。もう一度詩子ちゃんのところへ行ってみるか? それか、村の中を歩き回ってみるとか……ん、そういえば神社に行ったときは気にしてなかったけれど、今思えばおかしな事実があったな。

 

「なあ、透さん」

「ん、どうしたの?」

「運転手の遺体って神社の前に置いたんだよな」

「そうだね……あ」

 

 そう、運転手の遺体は華野ちゃんと透さんが神社の前に安置していたはずだ。

 なのにさっき見に行ったときはなくなっていた。これってかなり変だろ? 

 まさか、神社にいるおしら様とやらが遺体を食べた……とか。そんな想像ばかりが頭の中を支配している。

 蜘蛛っぽい見た目で神様ってことは大きいのだろうし、蜘蛛が人の頭をバクッと食べる場面なんかホラー映画とかホラーゲームで散々見るだろ。簡単に想像できる。

 

「それも含めて、華野ちゃんに訊いてくるよ」

「ごめん、ありがとう透さん」

 

 華野ちゃんがなにかを知っているとするのなら、多分神社の前に遺体を安置したのも意図があるだろう。今のところ、彼女がなにを知っているのかも分からないが、あの子は詩子ちゃんを視ることができているわけだし、なにか察していてもおかしくない。話を訊く価値はあるはずだ。

 

「俺達は……詩子ちゃんに祠の中を見せてもらうことってできるかな」

「うーん……彼女が地縛霊なら、場所に思い入れがあったりするからそう簡単にはいかないと思うけれど……どうやら大人が嫌いなようだし、アリシアちゃんならすぐに話がついただろうけれど、二人はこのままにしてあげたいからねぇ」

 

 心地良さげに眠る二人の邪魔はしたくないものである。

 

「高校生のアタシでも大丈夫かな」

 

 紅子さんが独り言を言うように首を傾げた。

 さらりと揺れるポニーテールが肩にかかり、その隙間から真っ白い肌の頸が覗く。幽霊らしく白く透き通るような肌だ。そして同時に昨夜の温泉で恥ずかしがる彼女の姿まで思い起こさせ……って、俺はなにを見てるんだ! 煩悩退散! 煩悩退散! 今は真面目な話をしているんだぞ! 馬鹿か俺は! 

 

「紅子さんなら大丈夫だと思う」

「なにを見ているのかなあ、お兄さんは」

「うっ、なんでもない。なんでもないぞ」

「すぐに視線に気がつく紅子さんも大概だと思うよ?」

 

 透さんが口元に手を添えて笑う。

 その言葉に紅子さんはその紅い瞳を目一杯に見開くと、その次の瞬間には声にならない様子で口元を金魚のようにハクハクと動かした。

 真っ白い肌の彼女は照れればすぐに分かる。

 

「そ、その話は今は関係ないかな! それより調べに行くんだよね、早く行くよお兄さん!」

「え、あ、え? 紅子さん……?」

 

 ごく自然に俺の腕を掴んで立ち上がる彼女に、釣られて俺も立ち上がる。

 透さんはそんな俺達を微笑ましいものを見るような目で笑い、手を振った。

 

「いってらっしゃーい」

「べ、紅子さん!」

「ほらほら、足を動かしてよお兄さん」

 

 透さん、応援してくれるのはいいんだけれど強引すぎやしないか? 

 

「紅子さん」

「なにかな?」

「手、繋ぐのはいいのか?」

 

 ちょっとした悪戯心だった。

 最近はわりと頻繁に手を繋いだり、彼女のほうから甘えてきたりとしてきてくれているから、以前聞いた〝手を繋ぐのは有料コンテンツ〟という言葉は無効になっているのだと思う。

 それでも、そんなことを言っていた彼女へと問いかけるのは俺自身の好奇心だとか、いつもからかわれることからの意趣返しに他ならないのだ。

 

「アタシと手を繋ぐのにお金を払うほどの価値なんてないでしょ。あれは冗談で言ったんだから、お兄さんも真剣に考えないでよ」

 

 自嘲気味に笑った紅子さんに、俺は反射的に「そんなことはない!」と叫んでいた。

 

「……お兄さん、恥ずかしいからあんまり大声出さないでよ」

「ごめん、つい。でもさ」

 

 そこで区切る。

 いつも自信に満ち溢れて余裕な彼女は、どうも狙われ始めてからというものの弱気だ。それはそれでいい。だって、それが彼女の本音なんだから。

 怖いものは怖いと言ってくれていい。不安になるのも分かる。

 

 でも、自分自身を否定してほしくはなかった。

 彼女は多分、自分自身も嫌っているんだろう。それはなんとなく分かっている。

 

 それでも、俺が好きな人を否定してほしくはなかった。

 たとえそれが本人であっても、だ。

 

「紅子さん、自己否定はしないでほしい。たとえ君が自分に価値がないと思っていても、俺はそんなことないって思うからさ。俺の気持ちまで否定してほしくないというか……うん、俺の我儘……なんだけどさ」

「…………お兄さんってさあ、どうしてこうも恥ずかしげもなくそんなことを言えるの? どうかしてるよ」

 

 俯く彼女は誰がどう見ても多分、照れている。

 この村に来てから、少々不謹慎ではあるものの、彼女の素直に照れた姿をたくさん見れて少し得した気分になるな。

 

「でも、俺の本音だよ。嘘をつくよりいいじゃないか」

「うん、アタシは」

「嘘が嫌い……だろ?」

「……よくお分かりで」

 

 続きのセリフを取られて紅子さんが苦笑する。

 そりゃそうだ、もう一年近くの付き合いになるんだぞ。それくらい分かるよ。

 ほんの少しだけ拗ねたようにする彼女は、それでも俺の手を離そうとはしない。

 随分と頼ってくれるようになった。これが俗に言うデレ期というやつなのだろうか。正直心臓が持ちそうにないからいつも通りの彼女に戻ってほしいような、このままでいたいような……複雑だ。

 

「さて、さて、そんなことより詩子ちゃんのところへ行くんだってば」

「あ、ああそうだったな」

 

 さくさくと土を踏みしめ、手を繋いだままに村の中を歩き回る。お互いになんとなく視線を合わせることができずにそっぽを向いていると、穏やかな田舎の風景が眼前に広がっていた。

 現在は昼前。村の中は家々から煙がもくもくと上がって良い香りが漂っていて、そんな香りを嗅ぐたびにお腹が空いてくる。

 昼食は俺自身も手伝って作る予定なので、なににしようか少し考えて気を紛らわせつつ、周りを眺めた。

 

 村の中央付近では、未来ある子供達が元気に走り回り、遊んでいる光景が目に入る。

 そう、俺達は二人して資料館前で仲良く言い争いをしていたのだった。すぐ後ろの森に入るだけなのにな。

 

「注連縄が多いねぇ……」

「そうだな。でも、なんだろう。微妙に違和感があるような……」

 

 家々には玄関先に注連縄がつけられ、そして遠くに見える断崖の壁にも上の方に太い注連縄が張り巡らされている。

 その二つを見比べて、俺はなんとなく違和感を覚えていた。なぜだろう? どこに違和感があるんだろう? 

 頭の中で引っかかった場所の正体が分からなくて、首を傾げる。

 

 おしら様を信仰している村なんだし、注連縄があること自体におかしいところなんてないはずだ。違和感があるのは――

 

「うーん、結び方が、違う……かな?」

「あ、それだ! 多分それ!」

 

 俺の疑問に付き合って注連縄を観察していた彼女が声をあげた。

 その言葉に、俺も合点が言って肯定する。

 

 そしてすぐにスマホを取り出して検索を始めた。

 

「こういうときは調べるのが一番だな」

「違和感の正体は分かっても、意味は分からないからねぇ」

 

 検索、検索と。

 

「結び方……これか?」

 

 注連縄の結び方にはどうやら二種類あるらしい。

 普通の結び方と、それを逆にした逆さ注連縄というものだ。

 

「紅子さん、家のやつ見えるか?」

「待って……うん、見えるよ」

 

 彼女は紅い瞳を細めて家々を観察し、俺のスマホに視線を下げる。

 俺よりも幽霊の彼女のほうが遠くまで見渡せるから、見分けられるだろうと思ってのことだった。

 

「家に取り付けられている注連縄は普通のやつだね。でも、崖にあるやつは……多分逆さ注連縄……だと思う。ちょっと近付かないと確信できないけれど」

「今はそれで十分だよ」

 

 検索で分かったことといえば、普通の注連縄が悪いものを神社などの神域に入れないものであることに対し、逆さ注連縄は逆に外へと出さないためのものであるということだな。

 家についているものが普通の注連縄で、崖についているのが逆さ注連縄ということは、つまり家に入れたくないものがいて、そしてそれは村の外に出してはならないものがいるということだ。

 

 それがきっと〝おしら様〟なのだと、俺は結論づける。

 既に村の外にいた紅子さんに干渉してきた時点で、ちゃんと機能しているのかどうかも怪しいわけだが。

 

「なるほどねぇ。でも、アルフォードさんがお兄さんにここへ来るように言ってきたということは、多分アタシ達で解決できる問題だと判断したからなんだよ」

 

 繋いだ手を上に持ち上げて、彼女の指が絡められる。

 そして、もう片方の手で紅子さんは俺の手を包み込み、強い瞳でこちらを見上げた。

 

 視線が合う。

 

 赤く、紅く、宝石みたいな瞳は真剣さを帯びていて、力強く、泣きたくなるほどに俺を、俺だけを真っ直ぐと見つめていた。

 

「アルフォードさんが言うなら、きっとできる。お兄さんなら大丈夫」

 

 彼女の言葉がかけられるたびに、無意識下で張り詰めていた緊張が解されていくような気がする。

 まるでおまじないのように、魔法のように、その言葉が俺の中に染み渡っていく。

 

「でもね、それ以上にアタシが知ってるから」

 

 そっと目を伏せる彼女の睫毛が震える。

 ほんの少しだけの怯えを振り払うように。

 俺はそんな姿に息を飲んだ。

 

「お兄さんはやるときはやる人だってこと」

 

 それは、認められるということ。

 

「無謀すぎることにも、キミはいつも全力で向かっていって、いつも一生懸命に悲しいことが起こらないように努力している。それが叶わないことのほうが多いけれど、キミが諦めようとしたことはずっとなかったよね。アタシはそれを知っているよ」

 

 それは、彼女の信頼の証。

 

「悔しくても、悲しくても、キミは頑張ってるよね。いつか飼い主のやつに噛み付いてやろうと努力してるのも知ってる。一年くらい一緒にいて、理解しているのはお兄さんだけじゃないんだよ? アタシだって、ちゃんとキミの努力してるところくらい見てる」

 

 それは、この一年で築かれた絆の言葉。

 

「だからね」

 

 紡がれる言葉。載せられた感情の色。

 その全てを聞き逃さないように、俺は泣きそうになりながらも俯いた。

 

「アルフォードさんが言わなくたって、アタシはキミのことを信じられるよ」

 

 両手で包み込んだ俺の手に、彼女が目を瞑って頬を寄せる。

 

「きっと助けてくれるって、信じられるよ」

 

 それは、彼女なりの信頼の証。

 いつもいつも俺のことを嫌いだと言いつつも、ずっと彼女は俺と一緒にいてくれていた。

 俺の努力は、俺の無謀な足掻きは無駄じゃなかったんだと教えてくれる。

 

 他ならない、紅子さんが。

 

「いつもはこんなこと言わないけれど、アタシはね。アタシ自身のことを任せられるのはキミしかいないと思ってる。キミだから……」

 

 微笑む彼女に、俺は黙って流れ出しそうになる涙をまだ出て行ってくれるなと上を向いた。

 

「令一さんだからこそ、アタシは助けてくれるって信じられるんだよ」

「……そ……それって告白ってとってもいいのか?」

 

 冗談混じり言えば、「ふふふ」と笑った紅子さんがパッと手を離して踵を返す。

 

「違うよ、お兄さんの言葉が嬉しかったから、アタシもお返しがしたくなっただけ」

 

 そのまま歩いて森の中へ進む彼女を追いながら、俺は笑った。

 素直じゃないのは相変わらず。それに、アリシアやジェシュとは違って、俺達の〝そのとき〟は今じゃない。そんなの分かっている。

 

「ありがとう、紅子さん。俺、救われてばっかりだよ」

「お互い様かな」

 

 軽く言ってくるが、その言葉も始めて出てきた彼女なりの好意だ。

 だって、俺は一方的に紅子さんに救われていると思っていたから。

 

 彼女の過去は知らない。

 彼女の死んだときのことも、死因も知らない。

 どんな未練があるのかも、死ぬことになったキッカケを恨んでいるのかも俺は知らない。

 

 なにもかも知らない。

 

 それでも、彼女が俺と一緒にいて〝救われている〟と示してくれた。

 だから俺はまだまだ頑張れる。

 

 紅子さんのために。

 

 今、改めて誓いたい。

 彼女を絶対に守ってみせる。

 

 紅子さんを俺から奪わせはしない。

 彼女を失ってたまるもんか。

 

 彼女を脅かす全てのものから守ってみせる。

 紅子さんを守るためなら、俺は神様にだってこの(キバ)を剥く。

 

 紅子さんを守るためなら、俺は神様だって殺してやる! 

 

 そんな決意を胸に、今度は俺から手を繋ぐ。

 

 

 ――抵抗は、なかった。

 

 



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先見の娘、生きても報わず、死しても報わず

 ,

 

「詩子ちゃん、来たよー」

「おっと、いないね?」

 

 俺達が祠へやってくると、そこには誰もいなかった。

 てっきり詩子ちゃんはずっとここにいる地縛霊だとばかり思っていたから、少し意外だったのである。

 

「地縛霊だと思ってたよ」

「アタシもてっきり……霊が場所に囚われてるかっていうのは見分けがつかないからねぇ」

「紅子さんでも見分けがつかないのか?」

「アタシでもっていうか……霊が地縛霊だったり浮遊霊だったりするのは見た目で分からないものなんだよ。魂でも視えない限りは普通は分からないものだよ」

「そ、そうなんだな……」

 

 まだまだ知らないこともあるなあ。

 紅子さんもよく知ってるなと毎回思う。前に必要だったから覚えた知識だと言っていたが、それも鈴里さんに教わったことなんだろうか? 

 てけてけの分け身を保護したときに、確かアルフォードさんが鈴里さんのように先輩として色々と教えるように言っていたはずだ。

 

「どうする? お兄さん。今なら調べ放題だけれど」

 

 つい、と彼女の紅い瞳がこちらに向けられる。

 その瞳は、こちらをまるで試すかのような冷静さを帯びていた。

 本来なら俺は躊躇うだろう。俺は人の住処を荒らすような真似はしたくない。いつもならそうだ。

 けれど、俺は青水香織さんのときにも不法侵入をしているわけだし、今は紅子さんの命運がかかっている。手がかりは少しでも多いほうがいい。

 詩子ちゃんを探して許可を得るのもいいが、ここはとりあえずチャンスだと思って祠の中を見させてもらおう。

 

「……調べよう」

「おーけー、分かったよお兄さん。この祠は身長の高いお兄さんには辛そうだから、アタシが見てこようかな」

 

 祠は小さくて子供なら余裕で入り込めるだろうが、160㎝以上ある人間には中に入って身を隠すなどできそうもない大きさだった。

 子供達のかくれんぼには大活躍しそうだが、俺達では覗き込んだり身を縮めて中を探るくらいが精一杯だろうな。

 紅子さんでも165㎝はあるので、少し辛そうだが身を乗り出して頭から祠の中に入る。

 暗い祠の中に上半身を侵入させ、彼女は探索している。俺はそれを見ていることしかできないわけだが、ひらひらと動くスカートと身を乗り出して片方の足が地を離れ、揺れる。奥に手を伸ばしているのだろうその様子で目のやり場に困った。いかんせん上半身が見えないので、変な想像が掻き立てられてしまう。

 

 視線が吸い込まれるようだ。いやいやいや、だから変なことを想像するなよと。すごく大事な探索なのに煩悩丸出しなんて格好悪いどころか恥だろ俺。

 

「ちょっと、どこ見てるのお兄さん」

 

 依然、祠の中に体を突っ込んだままに彼女が顔だけをこちらに向ける。

 

「……ごめん」

「そこ、素直に謝るところなの? 言い訳のひとつでもすると思ったら……まあ、素直に謝れたわけだし許してあげるよ。劣情を煽るような格好になっちゃうのは仕方ないことだよねぇ。わざとじゃないよ?」

「……分かってる」

「まったく、お兄さんはしょうがない人だねぇ」

 

 そう思うなら俺のためにも早くなにか見つけて戻ってきてくれ。

 このまま眺めているのはあまりに心臓に悪い。

 

「中は詩子ちゃんが縮こまって入れる程度の広さだね。それと……ん、床の色が少し違う……かな?」

「床下があるのか?」

「ちょっと待ってて。外してみるよ」

 

 ガタガタと祠の中から彼女の四苦八苦する音と、なにかを外す音が聞こえる。

 俺は詩子ちゃんが帰ってきたときすぐ分かるようにと周囲を見回しながら、彼女の続報を待った。

 決して視線に困るから目を逸らしていたわけではない。決して。

 最初からやっておけばよかったのにって? なにも言えない……。

 

「これは……」

「なにか見つかったか? 紅子さん」

「うん、ちょっと待ってね」

 

 祠から紅子さんが上半身を出し、伸ばしていた手に掴んだものを取り出す。

 それは組紐に付けられた鈴と、布で作られた古そうな人形だった。黒髪だが、紫色の着物に白い着物を羽織らされたその姿はどことなく詩子ちゃんに似ている気がする。

 彼女の生まれたときの人形だろうか? しかしそれならば神社にないのはおかしい。なんでこんなところにあるんだろうか。

 

「ねえお兄さん、この鈴に見覚えはないかな」

「鈴? 古そうだし組紐も土まみれで……これって」

 

 手を伸ばし、鈴を掴む。

 組紐の土埃を払って落とせば、その色が露わになった。

 その鈴と組紐には見覚えがある。詩子ちゃんが腕につけていたものとまったく同じものだったからだ。

 

「ってことは、もしかしてこの祠の中に詩子ちゃんの遺体があったり……?」

 

 憶測でしかないことだが、ありえないことでもない。

 じっと鈴を見つめながら考えていると、唐突に視線が吸い込まれるように鈴へと向かった。

 

 ――こわい。

 

 周りから音が消え失せる。

 

 ――いやだ。

 

 そうして、視線が釘付けになる。

 視界の端で、紅子さんが訝しげに俺を覗き込んでいるのが見えた。

 けれど、俺の視線は動かない。動かせない。

 

 ぐん、と引っ張られるような感覚と共に目元が熱くなり、どんどん視界が明瞭になっていくのを感じた。

 リンと同調しているときと似た現象。そして、朝紅子さんと詩子ちゃんの魂を視たときと似た感覚が俺を支配する。

 

 そしてフラッシュバックするように視界が白に塗りつぶされた。

 

 ◆

 

 痛い、辛い、苦しい。

 痛い、辛い、苦しい。

 痛い、辛い、苦しい。

 

 ああ、どうして私がこんな目に遭わないといけないんだ。

 

 憎い、憎い、憎い。

 妬ましい、妬ましい、妬ましい。

 

 私じゃなくて、あいつらが死んでしまえばよかったのに。

 死の直前の恐怖で祠の扉を引っ掻く。

 

 出して、出して、出してくれ。

 

 チリチリと鳴る鈴が落ちていきそうな思考をつなぎとめる。

 

 出して、出して、出して。

 このまま手遅れになる前に。

 

 きっとお前達を恨んでしまう。妬んでしまう。害してしまう! 

 そんなことがないように、お願いだから開けてくれ。

 

 私は――

 

 ◆

 

「……さん!」

 

 声が聞こえる。

 

「令……さん!」

 

 大切な、声。

 ちょっと低めの、芯の強そうな声だ。大好きな、彼女の声。

 

「令一さん!」

「あ……れ……?」

 

 気がつけば、俺は立ったまま泣いていた。

 

「お兄さん、いったいどうしたの?」

「今のは……分からない。すごく悲しくて、苦しくて、辛くて、妬ましく思っているのに恨みたくもなくて……ごちゃまぜなそんな気持ちがこう……一気にブワッと俺の中に入り混んできたような……そんな感じで」

 

 抽象的な説明になってしまうのは仕方がないだろう。俺でもよく分からないのだから。

 組紐と鈴を握った途端に変な感覚に陥って、引っ張り込まれたような……そんな感じだった。

 視界は暗くて、目の前に木の扉があって、床に視線を落とせば血まみれで、凍えるように体を抱きしめる白い腕があって……その腕はすごく華奢で、あれは、俺のものではなかった。

 俺じゃない目線。俺の知らない光景。俺の知らない感覚……あれは、もしかして別の誰かの目線だったのか? 

 

「多分、別の誰かの……記憶、か? 暗くて、目の前に木の扉があって、そこから出たくても出れなくて……恨みたくないけど苦しくて恨んでしまいそうで……そういう記憶、だ」

「お兄さん、それ多分」

 

 紅子さんの言葉に頷く。

 俺も別に現実逃避しているわけではない。信じたくなかったが、多分俺は視たのだ。

 

「詩子ちゃんの死んだときの記憶……なんだろうな」

「そんなものが視えるだなんて、お兄さんったら本当に〝見鬼の才能〟が強いんだね。前々から視る力が強いなとは思っていたけれど、さっきの日向視(ひなたみ)に加えて月夜視(つくよみ)までできるんだ。アタシはそういうのできないからなあ」

 

 紅子さんから初耳な情報があって俺は目を瞬かせて首を傾げた。

 

「待ってくれ、その日向視とか月夜視ってなんだ? それに見鬼の才能って……?」

「あれ、知らない? ああそっか、前々からアタシが言ってたのは〝視る力が強いね〟って言葉だけだったっけ」

 

 そうだな。何度も紅子さんには〝お兄さんは視えすぎる〟って言われていた。

 でも、それに具体的な名称があるとは全く思っていなかったから、いきなり言われて驚いてしまった。そんな格好いい名前がついているとは。

 

「日向視っていうのは、生き物の魂を視る力のこと。さっきお兄さんがアタシや詩子ちゃんにやってみせていたよね」

「リンの補助付きだったんだが」

「……アルフォードさんの分霊に、人に全くない能力を使わせるだけの力はないはずだよ。だから、多分リンちゃんはキミの才能を後押ししているだけ、なんじゃないかな。お兄さんの目がいいのは前からだし……」

 

 紅子さんはイマイチ自信がなさそうに言う。

 彼女でもよく分からないなら、ここから帰ったあとにアルフォードさんに訊くなりすればいいだけの話だな。頼るべくは間近な神様である。

 

「それで、月夜視っていうのはもっと奥の奥。魂の断片に触れることで過去を視たり、記憶を覗く力のことだよ。魂は見えないだけで隠しているわけではないから、視るための光の当てかたを知っていれば、できないこともない。でも、その場にない記憶(もの)や、わざわざ隠しているものを視ようと思っても普通は視えないから、月夜視はよほど視る力が強くないとできないことだよ。お兄さんは誇っていいと思う」

 

 視えないものを視る力と、その場になかったり、隠したものを視る力ね。

 そうくると見鬼の才能ってやつは普通に幽霊を見たりとか、怪異を視ることのできる才能のことかな。

 よく考えたらアニメとか漫画で聞いたことがあるような気がする。

 確か、霊能力の言い換えみたいなものだったような……それが、俺に備わっているということか。

 

「なるほど……あんまり実感がないんだけれど。紅子さんがそう言うなら、そうなんだろうな。才能ね……でも、やっぱり実感はないや」

「あのね、アタシが嘘でもついていたらどうするの? 人の言うことを鵜呑みにしてもいいことはないよ」

「信じてるから……あー、これじゃ納得しないよな? 根拠は、紅子さんは嘘が嫌いってこと。それに、俺を騙して君にメリットはないってことだ。だから俺は疑いもせず君の言うことを呑み下すことができる。これでいいか?」

「……合格」

 

 目を見開く。

 

「紅子さん、今」

「二度は言わないよ」

 

 言いようのない気持ちに俯いて拳を握る。

 初めて合格判定なんてもらったぞ。快挙だ、これは快挙だ! 

 

「見鬼の才能は単純に霊能力のこと。アリシアちゃんも多少はこれがあるから、桜子や詩子が視えるし、レイシーのことを忘れることもなかった。

 これで説明はおしまい。分かった?」

「ああ、理解した」

「そう、それなら良かった。で、続きだよ。こっちの紙はまだ見ていないからね」

 

 そう言って彼女はもうひとつ、握っていた古い紙を広げる。

 

「え、いつの間に……? どうしたんだそれ」

「この人形の背中にね、ほつれがあって紙が少し覗いていたんだよ。さっきお兄さんが月夜視しているときに見つけて取り出したんだけれど、お兄さん反応してくれないから」

 

 俺が詩子ちゃんの記憶らしきものを見ているときに、紅子さんも手がかりを見つけていたってことか。

 長らく地面の上に人形が置いてあったせいか、紙もひどく古ぼけていて黄ばんだ上に、滲んだような読みにくい文字が紙面いっぱいに散らばっていた。

 

「えーと」

「お兄さん、読める?」

「……なんとか」

 

 内容は詩のようなもので、墨が所々滲んでいるが、かね内容を読むことができた。

 

 

 

『先見の娘、止まらぬ災禍を鎮め、幽明境を分かつ。

 その魂、地に縛られ永久に栄えを齎すだろう』

 

 ――ひと柱 果ての地で 花散らす 生きて報わず 死しても報わず。

 

 

 

 それから、書きなぐったような小さな文字を追う。

 

 

 

『おねえさま、おねえさま。止められなかったわたくしを、どうか許さないでください。わたくしは、きっと忘れません。きっと。絶対に』

 

 

 

 息を飲んだ。

 

「これは……」

「ちょっと、前提に誤りがあった可能性があるねぇ」

 

 紅子さんの言葉に俺も頷く。

 これを見た以上、透さんの調べている古い資料も気になってきてしまった。

 

「戻るか」

「写真は撮ったよ。アタシは元に戻してくる。一応ね」

「ああ、よろしく頼む」

 

 そうして、鈴と古い紙の入った人形を元の位置に戻し、俺達は急いで道を引き返すのだった。

 

 




プレオープン中のノベルアップ+ 様にて新しい話なども加えながら投稿しております。真剣に書籍化を目指し始めたので、どうか応援してくださると幸いでございます。


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白い幽霊と古き資料

 森から出ると、遠くに白い影が見えた。

 

「あれ、詩子ちゃんじゃないか?」

「うん? あ、本当だね」

 

 詩子ちゃんは白装束をなびかせながら村の中を見回るように歩いているようだった。

 子供達が花一匁(はないちもんめ)をしている中に勝手に入り込んで遊ぼうとしたり、かくれんぼに混ざろうとしたり、本当に子供が好きなんだろうな。

 不思議な話だが、子供達に混ざろうとする彼女はすり抜けることなく遊びに参加している。

 いつの間にか遊んでいる人数が増える現象というのは、きっとこういうことなんだろうな。そう思わせる姿だった。

 子供達にも視えている……のか? いや、子供達も生まれたときに納めた身代わりがあるはずだから、無意識に遊んでいるだけで気がついていない可能性のほうが高いか。

 

「あっ」

 

 子供が転んで、思わず声に出てしまった。

 けれど、その子供に駆け寄る詩子ちゃんの姿に釘付けになる。

 太陽は既に天辺まで登っているから、早く資料館に戻って合流と、お昼ご飯作りを手伝わないといけないのに……不思議と目が吸い込まれるように白い幽霊へと向けられる。

 

「……」

 

 紅い瞳が責めるように俺を見つめる。

 けれど、どうしても気になってしまって「ごめん」と口に出した。

 

「――」

 

 遠くのほうで、子供の泣く声が聞こえる。どうやら怪我をしたようで、膝を抱えて大声で泣く。ああ、あんな時代もあったっけなあなんて思いつつも様子を見守っていると、詩子ちゃんが子供の傷に手のひらを触れさせ、目を伏せる。

 彼女の声は聞こえないが、きっと優しく声をかけているのだろうことは分かった。

 

 そして、子供が突然泣き止む。

 詩子ちゃんが触れさせていた手を離し、身を翻す。

 目を白黒とさせながら怪我をしていた子供は膝を見るが、もう既にそこには傷跡がなかった。

 遠目にそれを確認して、俺も資料館に帰ろうと歩き出した。

 なぜ、あんなにも目が惹かれたのか……それは分からなかったが、詩子ちゃんが優しい顔で子供の傷を治すところを目撃できたのは幸いだったろう。

 ……あんなことができるなんて知らなかったけれど、あの心優しい幽霊ならば紅子さんを害することもないだろうと確信できた。

 だからこれはこれで良い収穫となったと言えるな。

 

「治癒の力だねぇ……普通はあんなことできないし、あれも彼女の才能かもしれないよ」

「才能か……詩子ちゃんが死んだことにもなにか関係がありそうだけれど……本人に訊くわけにはいかないからなあ」

「それに、彼女ってここ50年くらいの記憶しかないって言っていたんだよね。なら、死んだときの記憶も、生前のことも多分覚えていないと思うよ」

 

 だから、あの治癒の力が彼女の死に関係があるかどうかも分からない……と。

 今一番謎なのはこの村の神様のこともそうだが、詩子ちゃん自身もかなりの謎だ。そこらへんのことが資料館で分かればいいんだが。

 

「それじゃあ、アタシは一応さっきのことを透お兄さんやアリシアちゃんに共有しておくよ。確か透お兄さんは古いほうの資料室だったよね」

「よろしく。俺は華野ちゃんとお昼ご飯作ってくるから……なにかリクエストあるか?」

「昨日のカレーが残っていたりとかするんじゃないの?」

「……それもそうだな。あとはサラダくらいか。なら、夜のリクエストとか」

「夕飯ねぇ……えっと、クリームシチューとかどうかな? また汁物になっちゃうけれど。ダメかな」

 

 遠慮がちに聞いてくる彼女に頷かない俺がいるわけがないだろ。

 

「食料を使わせてもらってる身だし、少ない材料でたくさん作れる汁物のほうが負担は少ないと思うし……華野ちゃんに提案してみるよ」

 

 二つ返事で了承することは決まっていたが、一応ちゃんとした理由もあるのだ。あくまで俺達は想定外のお客さんだからな。

 

「そ、そっか。楽しみにしているよ。それじゃあ」

 

 廊下で分かれて、ほんの少しの間だけ思い出す。

 自分から訊いてなんだが、リクエストをしてきたときの紅子さんは目線を逸らしていて頬をかいていた。ちょっと恥ずかしかったのかもしれない。

 これだけ楽しみにしてくれているとなると腕がなるな! 

 

「さて、手伝いに行かないと」

 

 そうして俺は、華野ちゃんと一緒に余ったカレーに乗せる小さなハンバーグを作ってハンバーグカレーにしたり、サラダを作ったりしてお昼にしたのであった。

 夕飯をシチューにする許可はもちろんもらえた。その代わりに、ホットケーキミックスがあったので3時のおやつにホットケーキを作る約束を華野ちゃんとしてみたりとか。

 

 それから、再び俺達はアリシアの自室に集まって会議を開くことにしたのだった。

 

「寝ちゃってごめんなさい……」

「いやいや、急な激痛に襲われた後だったし、体力が持たないのも仕方ないよ。元気になった?」

 

 シュンとするアリシアに透さんが尋ねる。

 アリシアはその膝の上に黒猫を抱きながら、するりと背を撫ぜた。

 黒猫……ジェシュは気持ちが良いのか、彼女の膝の上で足を体の下に畳み、所謂(いわゆる)香箱(こうばこ)座りの状態でくありと欠伸をこぼす。

 すっかりと関係の修復は済んだようだった。

 

「もう大丈夫です。あのときは疲れちゃっただけですから。それより、紅子お姉さんは変わりありませんか? どこか怪我したりとか」

「おにーさんが心配性なくらい守ってくれいるから、アタシは問題ないよ」

 

 ふっと微笑んで言う紅子さんに、俺のほうが照れてしまった。

 こう、なんだかくすぐったい気持ちになるのである。

 

「それなら良かったです。それで、ええと、あたしはあのあと起きてジェシュとお話しをしながら、できることを確認してみていたんですよ。もしかしたら、神様に立ち向かうことになるかもですし……というより、あたしが見てるだけなのが気に食わないだけですね。紅子お姉さんのことは、あたしだって好きですもん」

「……」

 

 紅子さんは俺の隣に座ったまま、そっと目を明後日の方向へ向ける。

 ポニーテールの隙間から見える肌はやはり、赤くなっていた。最近の紅子さんはよく照れる。

 素直に感情を表してくれるようになったのだと思うと感慨深いな。

 前は不敵で、どこか掴み所のない感じが常だったからだ。

 ひらひらと風に舞いながら常に飛び続けていた蝶々が、翅を休めて花に止まっているような……少々詩的だがそんな違いを感じている。

 休むべく止まり木のようなものだと俺達が認識されているのなら、それはそれで嬉しいものだ。

 

「ジェシュは猫であって邪神でもありますから、全てはあたしの心次第……らしいです。だからあたしが大きくなってって願えば……」

 

 アリシアが宝石を嵌めた十字架を手に目を瞑る。

 するとジェシュの姿は見る見るうちに大きくなり、やがてしなやかな黒豹のような姿に変化した。

 

「い、今はこれで限界ですけど……これならあたしもジェシュに乗って移動できますし、ジェシュがそばにいるからなんとか逃げることもできます。足手纏いにはならないはずです」

 

 額に汗をかきながらアリシアが言う。この状態でもだいぶ無茶をしているのがよく分かる。けれど、俺達と一緒に紅子さんを守りたいという意思は十分すぎるほど伝わってきた。

 黒豹のようにしなやかな黒猫は、黙ってアリシアの頬にその頭をゴツリとぶつけるとみるみるうちに元の大きさまで戻る。

 あのサイズの猫に頭突きをされると痛いんじゃないだろうか。

 

「ジェシュ、おっきくなってるときはそれしないでって言ったじゃない」

「そんなのボクの勝手でしょ?」

 

 やはり痛かったみたいだ。猫にとっての愛情表現の一種なのは分かるが、あれは絶対に痛い。

 

 ともかく、アリシアは十分に彼と語り合い、強くなるための一歩を踏み出したのだろう。そんなアリシアの想いを無下にすることはとてもではないが、できないな。

 

「無茶だけはしないようにね」

「紅子お姉さんにだけは言われたくありません!」

 

 澄ました顔をしていた紅子さんの口元が、見事に引きつった。

 いいぞ、もっと言ってやってくれ。俺からだといつものことすぎてあんまり忠告を聞いてもらえないんだ。

 

「……善処する、かな」

「むう、あたしの目を見て言えます? それ」

 

 紅子さんの目が泳ぎだす。

 自分でも分かっているだろうに、彼女は魂が狙われている此の期に及んでもまだ、無茶をする気だったのか。それとも、いつもはなにも考えずに突っ走るから自分でも止まれるかどうか分からない……とか? 

 思慮深い癖に脳筋という厄介な性格をしているこの人には、透さんもただただ苦笑いを浮かべるしかないようだった。

 

「いやあ、こうしてると紅子さんも若いね」

「……今、それ言う必要あったかな? 透お兄さん」

「というか、透さんもそれほど俺と離れてないだろ。そんなこと言える立場か? あんた25歳でしょう」

「あはは、細かいことは気にしないで」

 

 誤魔化したなこの人。

 

「こほん、ともかくです! あたしも紅子お姉さんのことは大好きですから、守りに入らせてもらいますからね、透さんは調べるほうをよろしくお願いします」

「うん、そういうのは得意だよ。あ、それと資料室で気になるものを見つけたんだよね。見てほしいんだ」

 

 これ幸いとばかりに透さんが古そうな本を取り出した。どうやら読むときに痛まないように透明なシートで覆ってあるらしい。

 これは多分、元々なんだろうな。華野ちゃんがどれだけ資料を大事にしているかが分かるというものだ。

 

「まずはこれ〝お宮参りの歴史〟について書かれているよ」

 

 透さんがパラパラとページを捲りながら該当の場所を開く。

 俺達はそろって書物を覗き込むが、黒猫のジェシュだけはやはりアリシアの膝の上でくありと欠伸をしていた。

 

 ◇

 

 災害を予知せしおしら神を利用するべし。

 

 かの神を祀り上げ祟りを鎮むと共に、自らの名を記しし身代わり人形を納め、年ごろ祭りの日に一枚願ひを織り込みし衣を重ね着さすることとす。

 

 名を人形に貸し与へ、おしら神の罰を一度ばかり肩代わりさするもの。これをお宮の身代わり雛と呼ぶ。

 

 身代わり雛は生まれし子が7歳になる年に作り、名を入る。

 さることに祟りを受けてぬやうにするなり。

 

 身代わり雛は神社に納め、それを模せし写しを家屋に飾る。

 

 家屋に飾りし守り雛が壊れば、祟りを受けとめ役割を果たししためしとなれば、我が身が美しくばいま一度雛を作り神社へ納めるべし。

 

 ◇

 

「つ、つまりどういう意味ですか?」

 

 アリシアがギブアップした。俺も同感だ。なんとなく分からないでもないが、細かいところが合っているかちょっと自信がない。

 

「えっと、要約すると……祟り神であるおしら様に災害を予知してもらうためには、名前を預けた身代わり人形を必ず納めて、お祭りのときに願いを込めて重ね着させる。この身代わりのことを〝お宮の身代わり雛〟って言うんだって」

 

 ここまではなんとなく分かった。

 おしら様の祀りかたはネットで調べたりしたものと大体は一緒だな。

 やはりイレギュラーなのは名前を預けて身代わりにするっていうことくらいか。

 

「それで、お宮の身代わり雛は子供が七歳になったら作ることって書いてある。多分、七歳までは神のうちってことで見逃されていたとか……そういう事情があったのかな? 今は生まれたときに身代わりを作るみたいだから、ちょっとだけ祀りかたが変化してるんだね」

 

 子供のうちは見逃されていた……か。

 その辺を聴くと、詩子ちゃんの大人嫌いを思い出すな。あの子は関係ないはずなのに。なぜだろう。

 

「で、本物の身代わり雛は神社に納めて、もう一つそっくりな雛を作って家に飾るんだって。家にあった身代わりが壊れたら、神社の物も壊れたことになるから、自分の身が可愛かったらもう一度身代わりを作って神社に納めなさいって書いてあるんだ」

「なるほど」

 

 身代わりが壊れることもあったのか。

 

「それから、身代わり雛関連でこっちの資料も見てほしい。資料というより、ちょっとした怪談みたいなものらしいけれど、この村特有のフォークロアだね」

 

 フォークロア……この村に伝わる伝承のこと、だよな? 

 確か都市伝説のことはネットロアと呼んだりするって聞いたことがあったような……? 

 

「記述はどれかな?」

「ここだよ」

 

 紅子さんの質問に透さんがもう一冊本を取り出して開く。

 俺もそれを覗き込んだ。

 

 

 ◇

 

 神社へ参りし際ひとがたとみに罵り始め、我が身に縋り咽び泣くを目撃す

 

「我らも生けり! 我らも生けるなり! 死ぬまじき、死ぬまじきぞ」と人形等が懇願しきけり

 

 こは夢かと目を見張れど、目の前の景色は消えず

 もしかしてこれこそを付喪神と言ふかもしれぬ

 げに奇々怪界なり

 

 ◇

 

「えっと……?」

 

 アリシアが目をグルグルと回し始めた。

 彼女には古語が難しすぎたらしい。

 

「要約するとこうなるよ……」

 

 透さんは目を瞑り、(そら)んじるように低い声で語り出した。

 

 ◇

 

 神社へとお参りしたとき人形達が私を罵りはじめ、私に泣きついてきた。

 

「我らも生きている! 生きているのだぞ! 死にたくない、死にたくないのだ!」

 

 ……と、人形達がしきりに懇願した。

 これは夢なのだろうかと目を見開いたが、目の前の光景は変わらない。

 もしかしたら、これこそが付喪神というやつなのだろうか。

 まことに不思議で奇怪である。

 

 ◇

 

「付喪神ねぇ」

 

 思案するように紅子さんが呟く。

 そうか、身代わり人形が付喪神なんかになったら大変だよな。死ぬのがお役目みたいなところがあるわけだし……けれど、人形が付喪神になったところでなにをできるでもないだろうし、謎は深まるばかりだ。

 



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藤代の血筋

「そうだ、お兄さん。さっき鈴で視たことを共有しておかないと」

「あ、そうだったな」

 

 資料を一通り見終えた俺達は小休止に入っていたんだが、紅子さんからの提案で思い出す。

 そうして二人には、俺が鈴を持ったときに視えた光景を説明した。

 

 暗闇、そして苦痛。死への、恐怖。許したい気持ち。それら全てがないまぜになった人間の……恐らく、生前の詩子ちゃんの心だ。

 

「すごいね令一くん。そんなことできるんだ」

「へえ、案外役に立ちますねー。しも……令一さんも」

 

 苗字を呼びそうになるアリシアに苦笑を返して説明を終える。

 詩子ちゃんの謎がますます深まってしまったが、正直なところ神様をどうにかする方法や、紅子さんを助けるための方法に行き詰まってしまった俺達にとってはいい活路なのかもしれない。

 

 詩子ちゃんはここ50年以上は〝おしら様〟に狙われることもなく、過ごしているという。彼女の過去のことや、どうして狙われないかを調べてみる価値はあるはずだ。

 

「華野ちゃんに訊きに行くことにするか」

「あ、それならあたし達は資料室をもう少し見てみます。昔のことですし、なにかお話が残っているかもしれません」

「アリシアちゃん、手伝ってくれるんだ?」

「とーぜんです。あたしも紅子お姉さんのこと大好きですから。協力しないわけがありません!」

 

 隣の紅子さんがそっとアリシアから目を逸らす。満更でもないみたいで、ちょっと嬉しそうだった。

 紅子さんも大概、女の子に弱いよな。いや、俺以外には比較的優しいと言うべきか……うん、ポジティブに考えよう。俺だけ特別なんだ。そうなんだ。そう思っておこう。

 

「それじゃ、行ってくる」

「いってらっしゃーい」

「俺達のことは気にしないで、しっかり調べてくるんだよ令一くん」

「なにかな……この複雑な気持ち」

 

 二人に見送られて部屋を出る。

 まるでデートに出かけるカップルを見るような生温かい視線だった。多分それのせいだと思うよ紅子さん。

 でも、これ以上彼女を困らせるわけにもいかないので黙っておく。俺は空気が読める男だ。

 

 コンコン。コンコン。

 ノックを四回して華野ちゃんの部屋を訪ねると、中から「入っていいわよ」という言葉が聞こえてきた。

 本当に中に入って大丈夫なのか? 女の子の部屋なのに? 

 

 紅子さんに視線を向けると、彼女が頷いて扉に手をかける。

 なるほど、俺じゃなくて紅子さんなら確かに抵抗は少ないよな。

 

「入るよ」

 

 部屋の中は、女の子の部屋にしては随分と物が少なかった。

 山奥の村なのだし、あまり物を買えないのかもしれないがそれにしても少ない。あるのは机と椅子。それから本棚くらいである。

 

「で、なんの用かしら? もしかして、アリシアがわたしに相談してきたあんたのこと?」

 

 華野ちゃんの黒い瞳が紅子さんへと向けられる。

 確か、黒猫を見つける前にアリシアは華野ちゃんに相談ついでに資料を見に行っていたんだっけ。その関係で偶然黒猫を見つけて、俺達が到着するまで自分の泊まっている部屋に一緒にいた……と。

 話が通っているなら早いな。

 

「そうだよ。紅子さんは行きのバスの中でも苗字を出していない。俺達だって呼んでいない。なのに声が聞こえて、狙われている……こんなこと、前はなかったんだろ?」

「なかったわね。レアケースどころか始めてのことよ。ったく、面倒なことになっちゃったわね……協力はしてあげるけど、わたしは神様をどうこうするほどの力なんてないわ。ただ神社を管理してるだけの巫女だから」

 

 紫がかった黒髪を揺らしながら華野ちゃんは紅子さんを観察している。

 ……そういえば、彼女には紅子さんのことは詳しく話していなかったかな。

 

「なあ、華野ちゃん。大事なことなんだけどさ」

「なによ?」

「紅子さんは、幽霊だ」

「ちょっ、お兄さん」

「え?」

 

 ここは単刀直入に行こう。

 華野ちゃんは詩子ちゃんを受け入れているようだし、紅子さんのことだって教えても大丈夫なはずだ。

 

「紅子さん」

「……分かったよ」

 

 俺が視線で促せば、彼女は諦めたように目を瞑ってその場でくるりと回る。

 すると見る見るうちに私服の姿から、いつもの赤いちゃんちゃんこの姿へと変化していき、おまけに人魂がぼうっと二つ浮かび上がる。

 これにはさすがの華野ちゃんも驚いたようにしていた。

 

「なるほど……それでわたしに相談してきたわけか」

「ああ、彼女は幽霊。問答には偶然魂って答えちゃってるから、幽霊でもまずい。詩子ちゃんは幽霊のままこの村に留まり続けているんだろう? なのに詩子ちゃんは狙われることなく、ずっと無事なまま……だから、彼女のことも知りたくてさ。なにかおしら様から紅子さんを守る方法がないかなって。なにか心当たりはないか?」

 

 華野ちゃんは暫く悩んだあとに俺達二人を見比べる。

 それから、「わたし自身はあの子のこともよく知らないんだけど」と前置きをして話し始めた。

 

「詩子はわたしの小さいときからずっと面倒を見てくれてたお姉さんみたいなものなのよ。でも、あの子昔の記憶がないみたいだから、なにも言ってくれないでしょう?」

「本人に分からないものは、そりゃ言えないよな……」

 

 華野ちゃんは頷いて続ける。

 

「でもね、わたしあの子のことが知りたくて色々調べたことがあったの。そうしたら、家系図を見つけたのよ」

 

 華野ちゃんは俺達に背を向けて棚を漁り始た。

 心当たりを探しているんだろう。俺達にはこれ以上の手がかりがなかったから、ありがたい話だ。

 

「ほら、これ。60年くらい前まで家系図を遡っていくと、この家の苗字は〝藤代(ふじしろ)〟じゃなかったことが分かるの」

 

 彼女のいうとおりに家系図を遡っていく。

 藤代は名家のようで、先祖代々続いていたようだが、確かにこの苗字に変化したのは60年前が境となっているらしかった。

 

 藤代の苗字に変わる前。

 その名前は。

 

「……白瀬」

 

 紅子さんが呟く。

 そう、藤代家の前は白瀬の苗字だったのだ。

 白瀬とは、つまり詩子ちゃんと同じ苗字である。

 その代からは夫側の苗字を使うことになったということだ。

 

「血筋……なんだな」

「ええ、それに見て。藤代に名前が変わったところ」

 

 続いて見てみると、そこに書いてあったのは。

 

 

 

 

 白瀬八重子=深瀬耕平

 |

 |――――――――――――

 |            |

 白瀬詠子=藤代樹貴   白瀬詩子

 

 

 

「あった、詩子ちゃんの名前」

「白瀬詠子(えいこ)……この人は詩子ちゃんの妹か姉か?」

「お兄さん、家系図は右側が長子になるから、この詠子って人は多分妹だと思うよ」

「ええ、そう。あんたのいうとおりよ。わたし達藤代家は祠のあの子……詩子の妹の血筋なの」

 

 華野ちゃんは冷静にそう言うと、家系図をしまってまたなにかを探し始める。

 

「それでね、わたし達藤代家は先祖代々、詩子から受け継がれたっていう開かずの箱を持っているのよ。今持ってくるから待っていてちょうだい。あるのはこの部屋じゃないわね」

 

 それから、華野ちゃんは10分程で戻ってきた。

 

「これよ」

 

 渡された箱は木でできていて、表面に一枚鏡がついている。

 しかし開ける場所はどこにも見当たらず、受け取った俺は困惑した。

 なにやら奇妙な模様が描かれているが……これはなんだろう。

 

「え、お兄さんそれ」

「どうした? 紅子さん」

 

 赤や黄色の派手な模様を指差して、紅子さんは困ったように眉を下げた。

 

「この模様、同盟のロゴマークだよ」

 

 俺はその言葉に、目を見開いた。

 

 




ノベルアップ+ に掲載しているニャルいうが追いつくまでしばらく書き溜め期間といたします。
ノベプラが追いつき次第、文字数を抑えて毎日投稿できるようにしたいと思います。よろしくお願いします。


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薔薇色のウロコ

「それ、どういう意味だ紅子さん」

 

 俺が尋ねると、彼女は自身の首に手をかけてほんの少しだけ包帯を緩める。

 すると彼女の姿がブレるように薄くなり、普段見えて、聞こえて、触れられるような存在感が希薄に、そして儚げに変化した。

 

「包帯の端……これ。同盟のロゴマークだよ。アルフォードさんが作った道具だから、この包帯にもロゴマークが入っているんだ」

 

 そこには、確かに木箱に刻まれた鮮やかな模様と同じ模様が浮かんでいる。

 それは、赤い〝つ〟の形に近い囲みの中に五つの色とりどりな三角形が風車のように円形になるよう並べられたものだ。

 

 俺がそれを確認すると紅子さんは手早く緩めた包帯を巻き直して、ツンと前を向く。

 初めて包帯を緩めるのを見たな。昨夜の露天風呂のときだって外していなかったのに。

 特別な呪具になっているとは聞いていたが、まさかロゴマークつきだとは。

 

「ええと、家紋? みたいなものだよな」

 

 軽くスマホで調べたところによると、この五つの三角形は〝五つ鱗車〟という種類の家紋のようだが……

 

「同盟が関わってるのか……」

「ほら、やっぱり分かっていてアルフォードさんはアタシ達を寄越してるんだよ。まったく、事前に教えてくれればいいのにさ」

 

 この村に来る前、紅子さんが言ったようにアルフォードさんも神様であるということだな。普通教えてくれるだろ。これじゃあ愉快犯の神内とそう変わらないぞ。

 

「それで? あんた達にはこれを開けることができるの?」

 

 華野ちゃんは会話の流れで察したんだろう。もちろん、俺達のほうがまだ可能性はあるだろうな。ここまで来たのはアルフォードさんからの勧めだし。

 

「きゅう」

 

 眠っていたリンが顔を出す。

 

「おー、そうだ。リン、なにか知らないかー?」

「もうなにも突っ込まないわよ」

 

 華野ちゃんはリンを見て驚いたあとにそっぽを向いた。

 ああ、うん。情報量が多いよな。ごめん。内心で謝ってリンの頭を撫でると、リンはふわりと浮かび上がり、木箱の表面につけられた鏡を指差した。

 

「ここか?」

「んきゅい」

 

 リンに従って手を鏡に触れる。

 すると、まるで水面に手を入れたときのように波紋が広がっていき俺の手が沈み込む。

 

「えっ」

 

 さすがにこれは予想していなかった。

 

「多分、同盟所属者を認識する結界だね。ほら、いつもあちらに行くときと同じように認証システムになっているんだよ」

「紅子さんは驚かないんだな」

「同盟はなんでもありだから、驚いていたらキリがないかな」

「わたし、巫女になってからも詩子しか見たことなかったのに……!」

 

 頭を抱える華野ちゃんには申し訳ないが、これで手がかりが手に入る。

 俺はゆっくりと手を鏡から抜く。

 

 そこにあったのは、鱗だった。

 リンと同じアルフォードさんの……赤い、薔薇色の鱗だ。

 

「ウロコ?」

 

 疑問を呟く紅子さんの声が聞こえる。

 だが、俺は昼間と同じく引っ張られるような感覚に視線が鱗に引きずられていく。

 

「また……」

「お兄さん?」

「視線が引っ張られる。ちょっと、ごめん」

 

 それだけを伝えるのが精一杯で、視界が暗くなっていく。

 物の記憶を視る力――月夜視がまた、勝手に発動したのだ。

 

 ◆

 

「このままじゃあ、キミいつか死んじゃうんじゃないかな」

 

 俺の口から漏れる声。

 いや、この声は俺ではない。その声は聞き覚えがある、明るい声だ。

 視界の端で赤い髪が揺れている のが見えて、やっと俺はアルフォードさんの視点になっているのだと気がついた。

 

「いきなり不躾な予言をいう君は誰だい?」

 

 アルフォードさんはどうやら高いところにいるらしい。見おろすと、そこには黒髪で紫色の着物を着た少女が立っていた。

 

 昼間とは違い、情報量と感情の雪崩に押し潰されるような感覚はなかった。

 記憶を見ている。ただそれくらいで。

 アルフォードさんは少女を見下ろしながら笑うように視界が動く。

 

「キミも大概だろうに」

「私はいいのだよ。みんなから感謝されるからね。じゃないとこんなに目立つことしないさ」

「へえ、尊大な子なのかなと思っていたら、違ったんだね。意外だなあ。現人神(あらひとがみ)ってチヤホヤされていい気になってるとばかり」

「そうやって尊大に私を見下す君は誰なのかな。ふむ、人でないことだけは分かるのだけれど」

 

 現人神ってなんだ? ……まあ、あとで調べることができるから、いいか。

 

「はじめまして。オレはアルフォード・D・ゴッホ。うーん、キミ達には呼びづらいかな? 〝 アル 〟って呼んでね。キミの予想通り、オレは人じゃない。神様さ」

「そうかいそうかい。どうやら本物の神様がマガイモノの私をからかいに来たわけだ。それも外つ国の? んふふ、それは愉快だね」

 

 紛い物? 

 少女は得体の知れないはずのアルフォードさんを前にしても、動揺ひとつしない。そんな彼女に、アルフォードさんは言った。

 

「キミのその予言、それに他人を治癒する力。それは普通の人にはできない芸当だね。オレはね、そんな…… いわゆる〝 まともじゃない 〟人間を保護したりとか、まあそんな活動をしてるわけだ。そういう人間って同族に殺されちゃったりするからさ」

「うさんくさいね。予言をする私が言うことではないけれど。それに、余計なお世話だ」

「まあ、キミは今のところ愛されてるからね」

 

 皮肉気に言うアルフォードさんに、少女は首を振る。

 

「私はこの村を離れるつもりはないよ」

「いつか、裏切られてしまうかもしれないのに? キミだって分かってるんじゃないかな。村の人たちから、怖がられてるって」

「分かっているよ。それでも、私の居場所はここだけさ。妹もいることだし」

「ふうん…… 人間のキミがそうやって覚悟を決めてるなら、オレは止めるつもりないけど」

「なんだ、話が分かるじゃないか。最初からそうしてくれ」

「一応意思確認だよ。じゃないと職務怠慢になっちゃうからね」

 

 そこまで聞いて、やっと俺はあの少女が詩子ちゃんなのだと気がついた。

 妹がいるってことは、多分そのはずだ。

 紫色の着物を着ているのは変わらないけれど、幽霊になった彼女は白髪なのに、今俺が見ている彼女は黒髪だから気づけなかった。

 

「でも、もし気が変わったら……これに呼びかけてみてよ。助けてほしいって言われれば、オレも助けてあげられるからね」

 

 アルフォードさんがなにかを投げる。

 少女……詩子ちゃんが受け取ったそれは赤い、薔薇色の鱗だった。

 

「ふふ、その日はきっと永遠に来ないよ…… ある殿とやら、また合わないことを祈るよ」

「そうだったらいいね。ばいばい、ウタコちゃん」

 

 ◆

 

 意識が浮上していく。

 そして、俺は鱗を持って棒立ちになった状態に戻っていた。

 

「お兄さん、なにか見えたかな?」

「……ああ、いろいろと。調べたいことも増えたし、華野ちゃんのおかげで進展しそうだ」

「そ、そう? ならいいわ」

 

 褒められ慣れていないのか、華野ちゃんは少しだけ動揺して、それから踏ん反り返るように胸を張った。張れる胸は……

 

「お に い さ ん ?」

 

 あー、なんでもない。

 俺の考えていることってなんで紅子さんには筒抜けなんだろうな? さとり妖怪でもないのに。

 

「えーっと、それで……あとはなんだっけ」

「もう、お兄さん……華野ちゃん、神社の前に運転手さんの遺体を置いたのはなぜか、訊いてもいいかな?」

 

 あ、それだ! 

 訊こうと思っていてすっかり忘れていた。記憶のフラッシュバックもあったから、頭から質問内容が飛んでいた。

 

「ああ、それ。いつも、そうなのよ……昔から。警察に届け出てもロクに捜査されないし、原因不明の死亡ってことになるからかえって処理が面倒なの。ああしてると、神社の神様が引き取ってくれるから」

「分かっていて、あそこに置いていたのか」

「……昔から、そうだもの」

 

 華野ちゃんが視線を逸らす。

 まあ、これ以上追求しても仕方ない……か。カッとなって子供に暴力を振るうような運転手さんではあったが、できるならきっちりと埋葬してあげたかった。それに、あの人にだって家族はいるはずだし……けれど、この感じだと行方不明って処理になりそうだな。

 

「分かった。理由が知りたかっただけだから……嫌なこと訊いたな」

「いいえ、これが悪いことだっていうのは知っているもの」

「華野ちゃん、ひとつだけ確認してもいいかな」

「なにかしら?」

「キミは、あの神社の神様を見たことがあるのかな?」

「……ある」

 

 唇を噛んで、華野ちゃんが言った。

 

「もういいでしょ。早く帰んなさい」

「うん、協力ありがとう」

 

 紅子さんもそれ以上は訊かずに引き下がる。

 嫌そうな彼女に根掘り葉掘り質問を続けるのもよくないだろう。

 

「そ、それじゃあそろそろ……夕方にもなるし行くか」

「……一応、なんかあったらまた来なさい。さすがに今回の件は看過できないもの」

 

 未確認の事例だから、彼女も警戒しているんだろう。

 協力的になってくれているから心強い。味方は多い方がいいからな。

 

「さて、夜を超したらあと2日か」

「そうなるね」

 

 華野ちゃんと別れて資料館内の廊下を二人で歩く。

 一階の窓からは、暗くなり始めた村の景色が見えた。

 




今回から毎日投稿でございます!
ノベルアップ+様でメイン連載し、朝7時に先行公開しております。
そちらでは大賞応募中です!感想などいただけたら嬉しいです!


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八ツ目の視線

 茜色の日が差し込む廊下で、俺達は自室に帰るべく並んで歩いていた。

 

「紅子さん、おしら様ってやつの声はもう聞こえない?」

「うん、今のところは……たまに、そうたまに視線を感じるくらいかな」

「視線?」

 

 それは初耳だぞ。

 

「だから、なにか変なことがあったら言ってくれって」

「あ、えっと……ごめん。アタシもそんなに気にしてなかったから、言ってなかったんだよ」

 

 バツの悪そうな顔をする紅子さんに、これ以上責めるのもどうかと思ってこっちも同じように「ごめん」と言ってから尋ねる。

 

「視線を感じるときって、どんなときだ?」

「外にいるとき……かな。特に森の中だね。感じる視線もひとつじゃなくて、複数で、いろんなところから観察されているような……そんな感じ。視線に嫌な感じはしないから、あまり気にしていなかったんだけれど……でも、お兄さんのことを怖い目で見ている気がするから、放ってもおけないし……」

「俺のことを?」

「うん、なんとなくだけれど。あまりあてにしないでよ? アタシ個人の感覚なんだし、そういう感覚はお兄さんのほうが鋭いと思っていたんだけれど……」

 

 俺は特に異変は感じないな。紅子さんにだけ分かるなにかがあるのか? 

 

「まあ、あまり気にするものでも……っ」

 

 彼女の足がピタリと止まり、辺りを見回す。

 もしかして、視線を感じたのか? 

 そう思い至ってすぐに紅子さんの肩を引き、庇うようにしながら俺も周囲を観察する。

 しかし、相変わらず廊下には夕暮れの光が差し込むばかりで異変は見られなかった。

 普段と違っているとしたら、窓が開いているくらいか。

 

「窓、開けっ放しか……いたっ」

 

 手を伸ばし、窓を閉める。そのときに、なにかチクリとした痛みが手の甲に走った。

 

「蜘蛛……?」

「噛まれたの!?」

「え」

 

 なんだ蜘蛛かなんて思っていた俺は、彼女の剣幕に驚いて口を開く。

 

「もうっ、お兄さんは今日の出来事すら覚えていられない鳥頭なの?」

 

 腕に閉じ込められて、庇われた状態のまま彼女は俺の手を取り、蜘蛛に噛まれたらしい手の甲にそっと顔を近づけて……って!? 

 

「あの、紅子さん?」

「お兄さんは黙ってて!」

 

 そして、彼女は俺の傷口に口をつける。

 ここまでくれば、さすがの俺も毒があったら困るから吸い出してくれようとしているのは分かる。分かるのだが、状況が状況だけに頭が混乱してくる。

 いつも皮肉気な笑みを浮かべている小さな口。柔らかい感触。なぜか犯罪に手を染めてしまったような感覚になってくる。

 数分か、それとも数秒なのか、長くて短い時間が終わると、彼女は開いた窓から吸い出したのであろう毒を吐き捨てる。口を手で拭い、そして視線を彷徨わせると女子トイレに入ってすぐに出てくる。多分、吐き捨てるだけじゃ不安で口をゆすぎに行ったんだろうな。

 

 帰って来た紅子さんは僅かに頬を染めたまま、自分の唇を人差し指で触れ、目を伏せる。どうやら自分のやったことに、今更ながら恥ずかしくなってしまったらしい。

 

 そんないじらしい仕草に、どうしても俺は惹かれる。

 

 けれど、彼女がそれを隠して首を振るのなら俺は特になにも言わず、見ないフリをするしかないんだ。

 

 紅子さんは暫くそうして余韻に浸るように目を伏せていたが、口をキュッと結んでへの字にすると、振り切れたのか俺を真っ直ぐと強い瞳で睨んだ。

 

「……あのね、ここの神様は蜘蛛のカタチをしているって詩子ちゃんも言っていたよね? 覚えていないのかな? ボケちゃったの?」

「いや、さっき思い出した」

 

 あまりにも衝撃的な体験すぎて知識からすっぽ抜けそうになったが。

 

「さっきの蜘蛛は?」

「……もういないね。それに視線も感じない。やっぱり視線の主は蜘蛛かもしれない」

「蜘蛛、か」

 

 紅子さんは蝶々だ。こうして考えると、非常にまずい関係だと思う。相性が単純に悪い。なにせ、食うものと食われるものだ。今の状況と少し似ている。

 

「でも、なんで俺だったんだろうな。それに、監視してるならいつでも襲いに来れるはずなのに」

 

 窓を閉めながら振り返れば、彼女は考え込みながら首を傾げていた。

 

「期日を守っている……とかかな。それとも、なにか別の原因があるのか。いずれにせよ、蜘蛛には注意だね」

「蜘蛛を追っていけば……」

「お兄さんも変なことは考えないように」

「はい」

 

 すぐにでも決着をつけて安心したいわけだが、まあダメだよな。

 

「アタシのことを心配して注意するぐらいなんだから、自分も徹底してくれないと困るよ」

「まったくの正論です……」

 

 ぐうの音も出ない。

 

「ん、通知が」

 

 紅子さんの言葉に反応して俺もスマホを取り出す。

 資料室に行っていた二人からの連絡事項だった。

 なんでも、重要な文献を見つけたから俺の部屋に集合だとか……って、俺の部屋? 

 

「順番に部屋を変えて会議しているんだからいいんじゃないかな?」

「ま、まあそうか」

 

 ということで、俺達は歩みを再開して部屋へと向かうのだった。



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人柱の神様

「来ましたね! ……あれ、どうしたんですか?」

 

 キリッとした顔で出迎えたアリシアは、俺達二人を交互に見ると首を傾げた。

 さっきの蜘蛛のことで少し緊張していたからかもしれない。いや、それとも紅子さんが毒を吸い出すためとはいえ手に口づけたことで俺のテンションがおかしくなっているのか? 

 

「なにかあったの?」

「あー……と、さっき視線を感じてねぇ。その主だった蜘蛛にお兄さんが噛まれちゃって、少しわたわたしていたんだよ」

「蜘蛛! 大丈夫ですかしも……令一さん! 噛まれた部分ごと削ぎ落とせば解決しますか!?」

「いや物騒だな!?」

 

 紅子さんのフォローに混乱したアリシアがとんでもないことを言い出した。

 なんだこれ。

 

「ダメだよアリシア。やるならボクがこの爪で綺麗に剃り落として……」

「物理的に取り除く方法しかないのかこのペットと飼い主!」

「えっと、もう毒はなんとかしたから、心配しなくて大丈夫かな……それより重要な文献って?」

 

 ナイス紅子さん。助かった。

 

「あはは、アリシアちゃんって面白いよね。でも冗談にしても、あんまり無茶言っちゃダメだよ?」

「面白いで片付けていい問題じゃ……」

 

 まあ、注意してくれるならそれはそれでいい。

 

「はーい」

 

 アリシアはいちいち考えが極端だ。それを悪いことだと言うつもりはないが、たまに怖くなることがある。下手したらレイシーよりも赤の女王様っぽいかもしれない。血塗れのアリスだったわけだし。

 

「それで、文献だね? これこれ。大昔の記録帳……みたいな感じらしいんだよね」

 

 透さんが取り出したのは、やはりビニールで保護された書籍だ。

 文字が書いてあるのは分かるのだが、さすがに古い上に崩し字なので俺には読めない。

 

「これは序文を読む限り、どうやら予知についての文献らしいよ。村で起きる災厄についての記録と、予知をした人物について、それから神様について」

 

 ここ一、二時間で解読したにしてはやけに詳しいその情報が彼の口から飛び出していく。

 

「読んだっていっても、流し読みしただけだからね。最後のほうの、重要そうなところだけピックアップして解読してみたんだ」

「いや、十分にすごいよ」

「そうかな? ありがとう」

 

 俺が褒めれば透さんは朗らかに笑う。

 やっぱり見た目と雰囲気が決定的に違っている人だな。

 こんなにフレンドリーなのに、初対面では近寄りがたさまで感じるような真面目っぽい見た目だし。

 初対面で不良だと思われる俺とは真逆だろうか。

 

「それじゃあ、まずはそのまま読むよ。あ、でも……覚悟はしておいて」

「どんな内容かさくっと聞かせてもらえるかな?」

「一言で言うなら……残酷な話、だね。ちょっと特別な女の子を神様にするために、酷い目に合わせるんだ」

 

 それで、察した。

 そして同時に疑問が湧き上がる。この村の神様像はなにかがおかしい。

 村の人達は神社の問答をする神様を「おしら様」だと言っている。華野ちゃん自身も、詩子ちゃんはただの幽霊であって神様とは関係ないように語っているんだ。

 なのに文献の中では、俺の見た記憶の中では、まるで詩子ちゃんが「予知」をする神様のように扱われている。

 

 神社の神様と、神様扱いされた白い少女。

 いったい、どちらが本当の「神様」なのか。それともどちらも「神様」なのか、判断がつかない。

 これは……かなり複雑な事情が絡んでいそうだ。

 

「……分かりました。聴きます」

 

 ごくりと喉を鳴らしてからアリシアは言う。

 透さんが忠告していたのは多分彼女に向けたものだろうから、これで文献の内容を全て聴くことができるだろうな。

 アリシアも覚悟を持ってこの問題に向き合っている。聴く権利はあるだろう。

 

「それじゃあ、読み上げるよ。あとで翻訳してまた言うから、とりあえず雰囲気だけでも感じ取ってほしいな」

「分かりました」

 

 全員頷いて、彼の言葉に耳を傾けた。

 

 

 大雨と土砂崩れが相次ぎき。

 それら全てを「たこ」予知せり。

 もしやたこが引き驚かしたればはと不安わたりき。

 

 ある日黒づえくみの法師がやりきて、山の神がお怒りなりと言ひき。

 かくて、たこの持つ力と村人の不安を結びつけ、いづれたこは人として死ぬるかな。かくて、それ以降山の神の怒りが続かば被害は今の比ならずなることを告ぐ。

 それより提案せり。たこを山の神の巫女として捧げ、永遠にその力を奮ってもらふことを。

 

 舌を切り、足を折りてたこを祠にさし込め、何日もその前に代はる代はるに祈祷を捧げき。

 

 唯一手首に括り付けし鈴の音がきこえずなりて3日経りし頃、祠の戸を開きその地下に白装束を羽織らせたたこの体を埋み捧げものとす。

 

 それより祠にたこを模せし人形を祀り、年ごろ祭りの際に祝詞と願ひを書きし装束を重ね着させゆくこととせり。

 

 これをお報せ様と言ふ。

 

 

 

「……」

 

 沈黙、だった。

 古語とはいえ、なんとなくどんな内容かは想像することができる。

 とはいえ、これはあまりにも悲惨なんじゃないかと首を巡らせ、ぐるりと皆の様子を伺う。

 

「……訳さなくても大丈夫?」

「いや、お願いしてもいいかな。アリシアちゃんは聞きたくなかったら耳を塞いでおくけれど……」

 

 アリシアは何度か目を瞬いて答える。

 

「聞きます」

 

 俺も頷けば、透さんは困ったようにはにかんで話を再開した。

 

 

 

 昔々、大雨と土砂崩れが相次ぎました。

 それら災害を、「たこ」という子供が予知していました。

 村の人達は、「たこ」こそが災害を起こしているのではないかと、皆不安を抱えていました。

 

 ある日、真っ黒い法師が村にやってきて、山の神様がお怒りだと言いました。

 そして、「たこ」の持つ予知の力は不滅ではなく、いづれ「たこ」が人として死ねばなくなってしまい、それ以降も神の怒りが続くならば今の比ではない被害が出ることを話しました。

 

 そこで法師は提案しました。

「たこ」を山の巫女として人柱とし、祀りあげて「神様」として永遠にその予知の恩恵にあやかろうと。

 

 舌を切り、足を折って祠に「たこ」の身を閉じ込め、何日もその前で代わる代わるに祈祷を捧げます。

 

 儀式を行う際につけた手首の鈴が鳴らなくなって3日経った頃、つまり確実に「たこ」が死んだあと、祠の扉を開いて「たこ」の遺体に白装束を羽織らせます。そしてそれから、その体を祠の地下に埋めて、山の神様への捧げものにするのです。

 

 以降は祠に「たこ」にそっくりな人形を置いて祀り、お祭りの際に祝詞と願いを込めた装束を織り、新たに人形に羽織らせていくようになりました。

 

 これを御知らせ様と呼ぶ。

 

 

 

「……と、これが現在まで続くお祭りなんだろうけれど」

 

 透さんが苦く笑った。

 そうだな。やっぱりおしら神は元々詩子ちゃんの肩書きだったんだ。

 白い神様でもなく、災害を予知して御知らせする神様だから「おしら様」。それがこの村の神様の語源になっている。

 

 なのに今は祠ではなく、なぜか神社にいる「ナニカ」をおしら様としてこの村の人達は扱っている。いつの間にか入れ替わってしまったのだろうか。

 

 詩子ちゃん自身も、自分のことをただの幽霊だと思っているようだし……自分が神様だったことなんて覚えていない。

 

「多分、これに関わっているのは『人形の付喪神』だね。確か、身代わりにされて死にたくないと言っていたんだよね? なら、なんらかの手段で詩子ちゃんの信仰を奪い……そして邪悪な神様に成り代わったんだと思う。神様は信仰を奪われれば存在意義を失ってしまうから、彼女がほとんどそのことを覚えていないのも無理はないよ」

 

 紅子さんが自身の見解を述べて文献を手に取る。

 ……が、すぐに透さんへと手渡した。

 

「うん、アタシにはさっぱり読めないや」

「適材適所だよ、紅子さん」

「そうだね。所詮アタシも高校生だし。こういうのは透さんに任せる」

 

 自信満々に文献を手に取った手前、ちょっと恥ずかしそうだった。

 読めるフリをして見栄を張らないあたりが彼女らしい。

 

「こほん、えーっとだね。まず、神社のナニカをどうかするには、その神格を剥奪するのが一番確実な方法かな。けれど、一番現実的じゃない方法でもある。村中の人間がアレを神様だと思っている今は信仰を傾けさせるのはほぼ不可能に近い」

 

 人差し指を立てた彼女がひとつひとつ、解決法になりそうなことや疑問点を述べていく。神社のナニカ。アレから彼女を守るためには知らなければならないことがいっぱいだ。

 正攻法で正面突破……といきたいが、俺一人で神様を殺そうと思えるほど自信があるわけでもないし、青葉ちゃんのときのように相手に理性があるかどうかも不明だ。

 青葉ちゃんのときも、彼女の気持ちにつけ込んで不意を打ってやっと無力化することができたのだから。

 

「なぜ、アレは『心』を探しているのか、そこも疑問かな。その理由さえ分かれば攻略法も浮かぶと思うんだけれど……意思疎通は図れそうにないからねぇ」

 

 ソイツからのメッセージは一方的なもののようだし、相手は蜘蛛型だから話せるか? というと疑問が生じるな。

 

「それに、どうして蜘蛛なんでしょう。元は身代わり人形のはずですよね?」

「そこも謎だねぇ。目的がどうも噛み合っていない気がする。壊れたく(しにたく)ないのと、心を探していることになんの関係があるのか……」

「人間になりたーい……とか?」

 

 透さんがおどけたように言うが、それはどうなんだろうな。

 安易に否定できる仮定でもないし。

 

「うーん、ひとまず今日はここまでにしておこうか」

「いいのか? 紅子さん。狙われてるのはキミなのに」

「お兄さんが守ってくれるから、アタシはなーんにも心配していないよ」

「そ、そっか」

 

 隣にいる彼女から預けられる絶対の信頼に、俺は動揺しつつも応えなければと決意をどんどん固めていく。

 こんなに信頼してくれているんだ。俺が守らなくちゃ。

 

「もう夜か……」

「令一くん」

「ん、なんだ?」

 

 帰り仕度をするように立ち上がった透さんがにっこりと人好きのする笑みを浮かべる。

 

「蜘蛛のこともあるし、疲れてるでしょ? 華野ちゃんのお手伝いは俺がするから、ゆっくり休んでほしい」

「あ、ならあたしもいきます! 三人で準備しましょう!」

「えー」

 

 静かだった黒猫をぶらーんと腕にだきながらアリシアが提案し、透さんが「それはいいね」と乗っかる。黒猫の意見は黙殺されていた。哀れジェシュ。

 

「……」

「紅子さん?」

「ん? ああ、そうだね。お願いしようかな……」

 

 少々反応がよろしくない紅子さんを心配して覗き込むが、目がトロンとしているだけで特におかしなところはない。もしかして眠いのか? 

 

「それじゃあ、あたし達行ってきますね」

「ごめん、よろしく」

「夕飯まで二人でゆっくり休むんだよ」

 

 そんな兄のようなセリフを言って透さんはアリシアと一緒に部屋を出て行く。

 俺の泊まっている部屋の中には俺と、俺の肩に寄りかかってきている紅子さんだけが残された。

 

「それにしても、案外早くいろんなことが分かったな。みんなのおかげだ」

「……」

「これでやっと、俺も紅子さんのことを守れるよ。頼りにしてくれて嬉しい」

「……」

「紅子さん?」

「……」

 

 慌てて彼女の顔を覗き込む。

 

「……ん」

 

 なんと、彼女は俺の肩に寄りかかったまま眠ってしまっていた。

 もしや魂が奪われたのか? なんて不安になって目を凝らして見ても、その胸の中に紅い蝶が視えるから問題はない。

 

「……役得だけど、どうしよう」

 

 ヘタレには辛い状況だった。

 



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紅い記憶

 うとうとと、彼女の低い体温を隣に感じながら微睡む。

 ほんの少しだけ。ほんの少しだけ。そう思いつつも、肩に乗る少女の頭を撫でる。こんなときくらいしか、それは許されないから。

 

 願うならば、彼女のことをもっと知りたい。

 いつもクールで、皮肉や気丈さで着飾った彼女も等身大の高校生であったのだと知ってから、その気持ちがどんどん強くなっていく。

 

 彼女を守るために、できれば全てを知りたい。

 そんな傲慢な考えが鎌首をもたげて心にのしかかってくる。

 

 そう思うたびに、手を伸ばそうとするたびにするりと逃げていく紅い蝶。

 この指に留まってくれないかと、そんなことを願いながら目を閉じる。

 

 目頭が熱い。

 頭がぼうっとする。

 心臓がドクンと強く脈を打つ。

 

 そうして、俺は夢を視た。

 

 ◆

 

「……」

 

 目を開くと、そこには教室が広がっていた。

 一瞬、また誕生日のときのように理想の夢が広がっているのかと思ったが、それも勘違いだと気づく。

 

「おはよー!」

 

 ガラリ。

 俺の背後で教室の扉が開く開き、一人の女子高生が入ってくる。

 慌てて避けようとした俺は、その子が構わず俺に向かって歩き、すり抜けていくのを呆然として見守っていた。

 

「夢? 記憶、か?」

 

 まだ判断はつかない。

 けれど、ここが現実ではないのは確かだった。

 

 ガラリ。

 今度は教室の反対側。後方の扉が開くと、教室は一瞬だけ静まり返った。

 教室にいた生徒達が一斉にそちらを向く。俺も目を向けて、そして息を飲んだ。

 

 赤いセーラー服の上に、えんじ色のカーディガンを着た少女。

 黒髪をポニーテールにして頭上でまとめあげ、菫色のリボンで着飾っている見覚えのある少女。

 彼女は、その紅い瞳でクラスの生徒達を一瞥(いちべつ)すると、ふっと微笑む。優しい視線だった。

 

 それだけで、彼女が『紅子さん』本人なのだと確信する。

 

「あの、おはよう赤座さん」

「うん、おはよう」

 

 声をかける生徒に紅子さんはクールに微笑んだまま、返事をしていく。

 それから窓際の一番後ろの席まで優雅に歩いていき、カバンを置いて席に着いた。

 

 

 声をかける人間こそあれど、彼女の元へは誰一人寄っていくことはない。

 遠巻きに挨拶をされて、そして見られて、教室は徐々に喧騒を取り戻していく。

 

 そんな中でただ一人、紅子さんは頬づえをつきながら窓の外を眺めていた。

 

 ここは――紅子さんの記憶の中だ。

 それに気がつくのに、そう時間はかからなかった。

 

 そうして観察しているうちに、俺はこのクラスにイジメが起きていることを知った。一人の女子生徒が複数の女子生徒に強く当たられ、イジメを受けていたのである。

 

 それをいつもつまらなそうに、紅子さんは見て見ぬ振りをしていた。

 彼女はいつも、窓際の一番後ろの席で本を開き、ただ一人黙々と読書に励んでいたのである。

 

 どうやら紅子さんは一人でいるのが好きなようで、遊びに誘われてもなにか理由をつけて断ることのほうが圧倒的に多い。

 それはイジメに関しても変わらず、無干渉。

 

 ただ、当たり障りなく他人と接しているため顔は広く、周りとの輪を乱すことはなかったようだ。

 

 教師に言いつけられたことも守り、成績優秀。

 

 寡黙でクールな優等生。それが周囲からの紅子さんの印象だった。

 

 幾度目かの授業の風景を眺めていると、急速に視界が明滅する。

 

「な、なんだ?」

 

 押し出されるような感覚。

 追い出されるような感覚。

 

 それと同時に、場面は次々と移り変わっていく。

 

 

 ――余計なこと、しないでよ。

 

 

 紅子さんとはまた違う女性の声が聞こえたことをキッカケに、ガラガラと教室が崩れていく。当たり前の日常が崩壊していく。

 

 黒板の端は鋭い刃物で切り裂かれたように切り落とされ、床に落ちる。

 床に落ちた破片は、なぜだか黒い髪へと変化する。

 

 教室が壊れていく。

 当たり前が壊されていく。

 その中でも、唯一変わりのなかった紅子さんの席が段々と薄汚れていく。穢されていく。

 

「な、なんだなんだ!?」

 

 

 ――やめて。

 

 

 今度は紅子さんの声と同時に、頭の痛みと共に場所がトイレの風景へと切り替わる。

 

「ごめんなさい」

 

 一人の少女が紅子さんに謝っている一場面。その少女はイジメを受けていた子だった。

 

 トイレの中で、一対一の話し合いが行われている。

 その雰囲気は、お世辞にも良いと言えるものではなく、険悪極まりないものだ。

 

「それで? アタシがキミを許せばはい終わり。ハッピーエンドってなる魂胆かな。その謝罪ってさ、〝謝りたい〟んじゃなくて〝許してほしい〟んだろう」

 

 優しい笑みを消し、俺の知っている皮肉気な、馬鹿にするような、そんな表情で彼女が言う。

 

「え、一緒でしょ……」

「ううん、違うねぇ。結局アタシの意思は関係ないんだよ。キミが、キミの自己満足で謝りたいだけ。アタシを言い訳に使わないでくれるかな? そういうのは嫌いなんだよ」

 

 目を瞬く少女に紅子さんは呆れたように首を振る。

 覚えのある理論だった。俺がいつか彼女から言われたことだった。

 

 曰く「アタシを言い訳にして逃げるな」と、そういう意味の言葉。

 

 そうして紅子さんは少女に背を向けてやれやれと手をあげた。

 トイレの入り口は少女が陣取っているため、紅子さんはそれに背を向けた形になった。

 

 トイレに入るのかもしれない。

 今更ながら、ここは女子トイレだよな? 

 

 しかし、身動きしようとしても緩慢にしか動けない。

 それに、すごく嫌な予感がしたんだ。目が離せなかった。

 

 

 ――見るな。

 

 

 頭の中で声が聞こえてくる。

 それでも、俺は目を逸らさない。

 

「っ……」

 

 俯いていた少女が顔を上げると、その顔はまさに鬼と言えるほどに歪んでいて、どれほど人を憎んだらそんな顔ができるんだと言うほどに……殺意に溢れていた。

 

「なっ」

 

 そして強く強く、両手で紅子さんの背を突き飛ばす。殺意すら込めているように。

 そうして、たたらを踏んだ彼女はあまりに強く背を押されたせいで頭からその『窓』へとぶつかった。

 

 キラキラと、破片が飛び散る。

 

 

 ――見ないで。

 

 

「紅子さん!」

 

 緩慢な動きしかできず、ひどく苛立ちながら俺は窓を覗き込む。

 その下では、紅子さんが諦念さえ浮かべた顔で笑っていた。

 

 ……笑って、いた。

 

 そして近くにあったガラスの破片を手に取って――

 

 

「勝手に見るなんて、最低だよ」

 

 

 視界がブレる。

 押し戻される。

 

 そうして俺は、頬に受けた衝撃で目が覚めた。

 

「…………」

「べに、こ……さん?」

 

 俺が目を覚ますと、紅子さんは膝立ちになって俺をその強くて紅い瞳で睨んでいた。

 その手は振り切ったままに停止している。頬の痛みに、ああ俺は引っ叩かれたのかとやっと理解した。

 

「最低……だよ。最低、人の記憶を勝手に見るなんて、キミはどこまでアタシを侮辱すれば気がすむの?」

「え、俺、そんなつもりは」

「うるさいっ……油断してた。キミのことだからって、アタシは油断していたんだよ。それでも、キミのしたことは最低極まりない。人には見られたくないものだってあるんだよ。そんなことも分からないのかな!?」

「……ごめん」

 

 謝っても、当たり前だが彼女の怒りは冷めやらない。

 

「信頼した、アタシが馬鹿だった」

 

 吐き捨てるように。

 泣きそうになりながら、彼女は俯いたまま部屋を飛び出していく。

 

 明らかに、紅子さんは冷静じゃなかった。

 それだけ、見てはならないものを見てしまったということなんだろう。

 

 俺はまだ、この力を制御しきれいない。

 そんなのは紅子さんだって分かっているはずだ。それでも、それを分かっていても彼女は俺の所業を許せなかった。そういうことなんだ。

 

「知りたいと、思っちゃったからか」

 

 ひとりごちる。

 彼女を守るためにその全てを知りたいと、そう願ってしまったのがいけなかったのか。

 

 じくじくと痛む胸に、彼女を追いかける勇気も湧かずに俯く。

 

 ――その心まで、守りたいと思った。

 

「なのに、傷つけてばっかりだ」

 

 人によっては彼女の行いは理不尽だと言うだろう。

 だって俺はこの月夜視の制御ができていない。まだできるようになったばかりで、暴走してしまっても仕方ないと言えるほどに未熟だ。

 

 けれど、俺が彼女を傷つけてしまった事実は変わらない。

 俺が「全て知りたい」なんて傲慢なことさえ思わなければ、あの記憶を覗き見ることもなかったんじゃないか? 

 

 そう思えてならない。

 

 それから夕食のときも、就寝前も、彼女は一言も俺と言葉を交わしてはくれなかった。

 



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触れてはいけないところ

 あの後結局俺も夕食作りに参加したのだが、とても役に立ったとは言えなかった。

 

 その夜はリクエストされたシチューも、彼女からの一言もなく完食された。

 さすがに食べ物を粗末にするほどのことを彼女はしない。

 だが、いつものように美味しいと前面に出したような微笑みを向けてくれなかった。無表情で、まるで砂でも噛むようにただただ口に運んでいくだけの食事。

 

 気まずい食事。

 おまけに俺自身も、いつもより料理が上手く作れなかった自覚がある。

 不味くはないが、昨日気合を入れて華野ちゃんと一緒に作ったカレー程ではない。いたって普通の家庭料理レベル。

 

 目線も合わず、声もかけられず、紅子さんはさっさと自室に閉じこもり、俺は俺でせっかく食器を貸してくれているというのに、資料館の皿を一枚割った。

 

 分かっている。

 動揺で判断が鈍っていたことも、透さんやアリシアから訝しげに見られていたのも。

 

 それでも、一人で眠るしかなかったんだ。

 泊まっている部屋、布団の中でぎゅっと目を瞑る。

 

「……」

 

 そうだ、目を瞑れ。寝ることに集中しろ。なにも考えるな。

 明日になればきっと、冷静さをなくしていた彼女も元に……。

 

 本当に、元に戻るなんて思っているのか? 

 散々言い訳をするな。逃げるなと言っていた彼女が、許してくれるとでも思っているのか、俺は。

 

 そんなこと、ありえるはずがないのに……! 

 

 また、俺は逃げている。

 こんなんじゃ、いつまで経っても成長したって言えないじゃないか。紅子さんの嫌う俺のままじゃないか。

 

 でも、謝りたいと思っているのに、声が出なくなるんだ。体が震えるんだ。

 本気で彼女に嫌われて、拒絶されたらと思うと行動に移すのが、恐ろしく怖い。

 

 いつものように軽口だからと言い訳に逃げて、好意を真っ直ぐ伝えることだってできない。

 このままでいいわけがないのに、俺は一歩も踏み出せない。とんだ情けなさだ。

 

「令一くん、ちょっといいかな」

 

 目が冴えて眠れずにいると、外から透さんの声がした。

 スマホを確認すると、いつのまにか個別チャットに部屋に行くからという連絡が入っている。

 だからあれは多分本人だ。

 

 布団から這い出して念のため眠たげなリンを肩に乗せ、扉を開ける。

 そこにはちゃんと透さん本人がいた。

 

「こんな時間にどうしたんだ?」

「夜、きみ達の様子がおかしかったからね。事情を聞きに」

「そっか……」

 

 彼を招き入れて電気を点ける。

 落ち着くために部屋に持ってきていたマグカップにお茶を淹れ、テーブルはないので床に置く。泊まっている部屋といっても客室ではないから、布団があるだけまだましなのだ。

 

「喧嘩でもしたの?」

「喧嘩……というより、俺が悪いんだ。今日、俺は色々と視えるようになったって話しただろ?」

「うん、それで詩子ちゃんの記憶を見たって」

 

 目が泳ぐ。

 でも言わないと。これで許されるわけではないし、吐き出して自分が楽になりたいというわけでもない。それでも、事情を説明しておかないといけない。

 夕方までなんともなかったのに、いきなり仲違いをしているなんて状況的におかしすぎるからな。

 

「透さん達が部屋から出たあと、紅子さんが寄りかかってきてうたた寝してさ。俺も動けないからそのまま寝ちゃったんだけれど、そのときに……紅子さんの記憶を少し覗いちゃったんだよ」

 

 それだけ言えば、透さんは把握したようだった。

 そして困ったような顔をして、「どちらも悪くはないけれど、気持ちでは納得できないよね」と呟く。

 

 そうだ。紅子さんだって不可抗力だったのは知っているし、俺だって変なことさえ思わなければ……制御がしっかりとできていれば彼女の地雷に触れることはなかったはずなんだよ。

 

 お互いに理解はしている。でも、理屈じゃなくて気持ちが納得できない。

 心ってやつは複雑だから。

 

「……俺もさ、紅子さんは生前のことを話してはくれないし、それは見られたくない、聞かれたくない、触れられたくないものだっていうのは前から分かってたんだよ。だからずっと見ないふりしてきてた。紅子さんと軽口言い合ってさ……お互いに素直に好意を向けられないから軽口で誤魔化しながら、ずっと一緒にいた。これって結構歪な関係だとは思っていたんだ」

 

 吐き出すように。

 俯いて、泣きたくなるほど飲み込んでいた想いを零す。

 

「うん」

「でも、触れたら今の関係が壊れちゃいそうで……それでずっと先延ばしにしてた。多分、今その先延ばしにしていたツケが来てるんだと思う。向き合ってこなかったことに、最悪な形で向き合わされることになってさ。紅子さんのこと、心まで守りたいって思ってたのに逆に傷つけて……俺、馬鹿みたいだ」

「うん、馬鹿だね」

「ちょっ、そこ肯定するのか」

 

 爽やかな笑顔でそんなことを言うものだから、思わず俺は顔を上げていた。

 

「だって、否定されても嬉しくないでしょ? 令一くん」

「まあ、そうだな……」

「きみは許されたくない。けれど、紅子さんのことが好きだから知りたい、受け入れたい、前に進みたいとも思ってる。好きな子のことをなんでも知りたいって思っちゃうのは男の(さが)かな。でもね、好きな人にこそ暗い部分を見せたくないって思っちゃうのも、女の子の(さが)なんだよ。ほら、彼女は特に強がりさんだから」

 

 透さんは、聞き上手だ。

 彼は優しい声で俺に言い聞かせるように、ひとつひとつ言葉を丁寧に選びながら話していく。

 

 紅子さんのことも、そして出会ったばかりの俺のことも理解して彼は真剣に話を聞いてくれていた。

 

「多分きみ達の関係が進むためには必要なことだったんだと思うよ。多少強引すぎるのはよくないんだけれど、こうでもしないと彼女は絶対に話したりしないし。今回のことはタイミングが最悪だよ。でも避けられない事態でもあった。それは俺が断言しておく。こういうのって早い段階にやらないと拗れに拗れちゃうよね。だから、その罪悪感と苦い気持ちは甘んじて受けておくこと」

「……分かった」

「うん、忘れちゃダメだよ。その気持ち」

「はい……」

「恋っていうのはさ、お互いに傷つけあいながらもゆっくり手探りで進んで行くものだよ。もちろん、一目惚れなんていうのもあるけれど、きみ達の場合は前者。距離をお互いに推し量りながら、たまにぶつかりあって、共に進んで行く……ずっと、一緒にね。令一くんは今、紅子さんの背中を見ているだけじゃなくて、隣に並ぶための努力をしている最中だ。そのために、まずはやることがあると思うんだけど、分かるかな?」

 

 やること。

 そんなのひとつに決まっている。

 

「ちゃんと、謝らなくちゃ。許されなくてもいい。避けて通れないなら、嫌われてもいい。俺は……俺の気持ちに真っ直ぐに向き合って、紅子さんを守る。それだけは変わらない」

「うんうん、辛くなったら相談に乗るからね」

 

 マグカップが空になり、透さんが立ち上がる。

 

「ちゃんと寝て備えること。令一くんも、十分頑張ってるよ。きみのその真っ直ぐな気持ちがある限り、俺は応援する。紅子さんを不幸にするのだけは俺も許さないけど……頑張ってる令一くんなら、任せてもいいかなって思ってるからさ」

「ありがとう、透さん。でも、透さんって別に紅子さんと兄妹なわけじゃ」

「妹みたいなものだからね。幸せになってくれないと俺、嫌だよ」

「あっ、うん。そうか」

 

 笑顔の中に無言の圧を感じた。

 この人、意外と紅子さんに過保護だよな……

 

「それじゃあおやすみ。アリシアちゃんにはそれとなく言っておくから、気にせずに行動していいからね」

「なにからなにまでごめん……ありがとう」

 

 手を振って、扉が閉まる。

 夜の静けさに包まれた室内で、俺は窓から空を見上げた。

 

「彼女にどう思われようとも、俺の決意は変わらない……そう、変わらないんだ」

 

 恋焦がれるのがこんなにも辛くて、苦しいものだとは知らなかった。

 それでも俺は進みたいから。彼女の真実から逃げ出したくはないから。

 

 怖くて震える足を叱咤して、前を向く。

 この村に来てから泣いてばかりの彼女に、俺をいつも救ってくれていた彼女に、今度こそ報いるために。

 

「寝て、備えとかないと」

 

 今なら、ちゃんと眠れそうだ。



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讃えよ雪花、訴えよ胡蝶、生まれ出ずるは報せ神

 リイン、リインと、鈴の鳴る音がした。

 心の中に、何者かの思考が入り込んでくるような、そんな感覚。

 押し流そうとしてもどうにもできずに、意識が遠のいていく。

 

 そして、俺自身の意識すら食い潰されて、〝彼女〟自身の記憶としてそれを体験することとなるのだ。

 

 リイン、リイン。

 

 記憶を蘇らせるような鈴の音が。

 しかし、彼女自身ではなく俺の中にその記憶を呼び起こす。

 

 ――そう、それは白い蝶の記憶。

 

 沈み込んでゆくように。思い出に浸るように。

 思考が、煙る。

 

 ――夢を、夢を見たんだ。予知夢を。防げない、未来の記憶を。

 

 詩子ちゃんの声が頭の中に響き渡る。

 そうして、俺の意識は思い出の中に溶けていく……。

 

 ◆

 

 夢を、夢を見たんだ。予知夢を。防げない、未来の記憶を。

 

 山々の窪地にあるこの土地の北のほうが崩れる夢だ。

 ああ、いつものかと、こ綺麗な布団から身を起こして枕元の鈴を鳴らす。

 

「はい、ねえさま。おはようございます。いかがなさいましたか?」

「いつものやつさ、詠子(えいこ)。北の崖のところ、青ケ谷さんのとこの坊ちゃんが足を踏み入れ、崩れた崖と共に川へ落ちるだろう。準備したまえ」

「はい」

「それと、もっと話し方を柔らかくすることを要求するよ。姉妹なんだから」

「う……ごめんなさい、ねえさま」

「家の中でならいいだろう?」

「ええ、そうね」

 

 彼女――詠子は私の唯一の家族。なによりも尊い、我が妹。

 村の人達は予知を見ることのできる私をどうやら神聖視しているようで、妹のこの子でさえ気安く接することを制限しようとする。それ、全ては私のためだとうそぶいているが、ただの他人様が私の心を勝手に語ろうなどというその態度がそもそも気に入らない。

 私は神なんかではないのだ。奴ら大人にはそれが分からんらしい。素直に私を頼り、はにかむ年下の子供達のほうが余程私の気持ちというものを分かっているだろうさ。

 

 私の予知は決して覆らないということを理解しきれていない子供達は、私を責めない。

 たとえば、今日という日に亡くなるだろう男の子も。その子と親しい子供達も、私を責めることはない。

 どうしようもないからだ。私だって、叶うのならこの身を持ってあの子達を守ってあげたい。身を削って傷を癒すことができようとも、死者を蘇らせることはできないのだ。

 

「ねえさま」

「ああ、今行くよ」

 

 リン、と鈴が鳴る。

 訪問する際に持つようにと渡された鈴。そして、その鈴を私の手首に結ぶのは我が自慢の妹が編んだ組紐だ。肌身離さず、いつも身につけている。

 

 さて、今日も仕事を始めよう。

 

 ――

 

 

 ある日、黒ずくめの旅の法師だと名乗る男が現れた。

 明らかに怪しい風態。以前出会った真っ赤なおかしな男と似た人間とはまた違った気配に、すぐさま村の人間には相手にしないようにと通達した。

 いずれは消えるだろう。村の人間が私の指示に従わないことなどないのだから。

 

 それから、また夢を見た。

 

 今度は、村全体が揺れる夜の夢。村の多くの人間が、そして詠子が崩れる家屋に巻き込まれてゆく予知。

 それを見て、私は恐怖というものを思い出してしまった。

 揺るがぬと信じていた妹の未来と、潰える運命にあると知った絶望を。

 

 私は、詳細を黙っていた。

 村の人間にはただ、大きな災害に備えよとだけ命じるだけ。

 

 そして、自室で布の人形を作る妹と村の様子を鑑みて……とっくに気づいていた。そして放置していた問題が間近に迫っていることを悟った。

 

 黒ずくめの法師は既にいなくなっていたが、村全体に大きなヒビを入れて去っていったことは知っていた。

 そして、あの赤い男の忠告が現実のものとなりかけていることが理解できていた。

 

 けれど、私は止まるつもりがない。

 いくら現人神(あらひとがみ)と言われようが、私にはできないことが多すぎる。

 予知は揺るがないからと、死にゆく者をはなから気にかけず、見捨てていた。助けようとする努力も、予防しようとする努力もとっくに諦めてしまっていた。そんな私の「罪」は必ず罰せられる。そうでなければならない。

 

「もしかしたら、本当に神様になれたら……守りたいものを、全部守れるのかもしれないね」

「どうしましたか? ねえさま」

「いいや、詠子。君の白無垢姿を見るまで私はいなくなるわけにはいかないな、と思っただけさ」

「……そう、ですね。そんなときがくればいいのに」

「そんな暗い顔はおやめ。大丈夫だよ、君のことは私が守るから。きっと、きっとね。君の未来は明るい。予知のできる私が言うのだから、本当のことだよ」

 

 ひとつ、嘘をついて微笑む。

 ああ……本当に、神様になれば運命とやらを覆すことができるのだろうか。

 

 だから、私は知っていてなお、罠に足を踏み入れた。

 きっと痛い目に遭うだろう。苦しいだろう。死ぬとはそういうことだからだ。

 

「ねえ、ねえさま。いかないで」

「……」

 

 その日、一度だけあの子は私を引き止めた。

 ずっと作り続けていた、私と、あの子にどこか似ている人形を胸に抱いて。

 私は、全てを知っていた。

 これから、私は死ぬだろう。この子や、村の人達のために、永遠に予知を続ける神さまとなる。外から持ち込まれた儀式。本当に効果を成すかも分からぬその儀式を信じた者達の手によって死んでゆく。

 

「詠子、なにを泣いているんだい?」

「…………だって」

「いいかい、詠子。どこへ行ったって、見えなくたって、私はお前のお姉ちゃんだよ。お姉ちゃんは妹を守るものだ」

「でも、見えなかったら、分かりません」

「そうだね、そうしたら、心に思い浮かべてごらん? 私の顔を、声を、言葉を。お前の心の中を覗いてごらん? そこに、必ずあるはずだよ」

 

 静かに頷いて、目を瞑る詠子の髪に触れる。

 

「詠子は心配症だね。ただちょっとお祈りをしてくるだけだよ。今までとほとんど変わらない。そうだろう?」

「……うん」

 

 素直に頷いた詠子を抱きしめて、離す。

 

「ずっと、君を守るよ。私が、ずっと。だから安心おし」

「うん……うん」

「約束だよ。私を、忘れないでくれ」

「うん、約束する。ねえさまを、私は忘れない」

 

 次の日には、あの子はもう引き止めなかった。

 

 

 

 白い雪が桜のように積もる森の中。やがて、その純白の花は紅梅の色へと姿を変える。

 雪の届かない暗い祠は、けれど外よりも凍えるように冷たかった。

 

 外界とこの身を繋ぐ唯一の絆の証がチリリと音を鳴らす。

 呻き声すら出せぬ灼熱の痛みに息を漏らし、床板をギギギと爪で引っ掻いた。

 

 痛い、辛い、苦しい。

 でも、神様になれば、あの子達をきっと救うことができるから。

 痛い、辛い、苦しい。

 こんな苦しみ、あの子を失うだろう絶望に比べれば、なんて易いもの。

 痛い、辛い、苦しい。

 ああうるさいな。祈りの声なんて聞きたくない。あの子の声を聞かせてくれ。

 痛い、辛い、苦しい。

 私がいなくともあの子は歓迎されるのだろうか。寂しくはないだろうか。

 痛い、辛い、苦しい。

 まさかいじめられてなんかいないだろうな。そうしたら許さないぞ。

 痛い、辛い、苦しい。

 痛い、辛い、苦しい。

 痛い、辛い、苦しい。

 

 

 ――ああ、どうして私がこんな目に遭わないといけないんだ。

 

 

「っ……」

 

 私は今なにを思った……? 

 そんなの、いけない。そんなことを思ってはダメだ。

 私は、私は神様に、なるんだ。そうして、運命を変えるんだ。

 

 でも、嫌だ。

 嫌だ、嫌なんだ。あの子を守るなんていうちっぽけな約束ひとつ、守れそうにないことが。あの子の晴れ姿をこの目で見られないだろうことが。

 

 あの子は寂しくないか、なんて……違うだろう。私が寂しいだけなんだ。

 

 寂しい、寂しい、寒い、寒い、みんなのため、あの子のために、頑張りたいけれど、気持ちが抑えられない。真っ暗な気持ちが、この期に及んでどくどくと内側から溢れ出てくるのだ。

 

 嫌だ嫌だ。寂しい。痛いのは嫌だ。辛いのも嫌だ。苦しいのが嫌なんだ。

 

 私は死にたくない。

 当たり前だろ。誰が喜んで死ぬものか! 

 地の底から湧き上がり、体を這い回るような絶望と恐怖に唇を噛みしめる。

 

 せめて美しく死にたい、なんて馬鹿なことを思っていた。

 なんて、なんて醜い。私はこんなにも醜い人間だったのか。

 大人が憎い、あの子が妬ましい、どうして私がこんな目に! 

 

 嫌だ嫌だ嫌だ、あの子に合わせてくれ! どうかこの黒い気持ちを抑えつける術をくれ! 

 憎い、憎い、憎い。

 妬ましい、妬ましい、妬ましい。

 

 私じゃなくて、あいつらが死んでしまえばよかったのに。

 死の直前の恐怖で祠の扉を引っ掻く。

 

 出して、出して、出してくれ。

 

 チリチリと鳴る鈴が落ちていきそうな思考をつなぎとめる。

 

 出して、出して、出して。

 このまま手遅れになる前に。

 

 きっとお前達を恨んでしまう。妬んでしまう。害してしまう! 

 そんなことがないように、お願いだから開けてくれ。

 

 私は――

 

 

 

 

 

 ……

 

 

 

 ガラガラと崩れ去る家屋の中、なにかを探すあの子の手に触れて引っ張り、外へと連れ出す。

 

 家屋は、あの子を連れて私が出てくればすぐに崩れ落ちた。

 目的は達成した。やりたかったことを、できるようになった。

 守るという約束を果たせた。

 

 けれどなぜだろう。

 ちっとも嬉しくなく、私を置いて村の人間の中に紛れていくあの子を見送った。

 どうしよう、誰もが似たような顔に見えてくる。視界がブレる。

 

 神様になって、運命を変えた。

 なのに、黒い感情が沸き立つようにふつふつとこみ上げてきて、それを直前で抑え込む。

 

 ああ、でも、守らなければ。

 こんな状態でも、あの子だけは、守るんだ。

 

 降り積もった雪のように溶けて消えていく記憶を、必死に繋ぎ止めながら……

 

 おしら神として、私は此処へ永遠に足止めなのだ。

 

 

 

 

 ◆

 

 寂しげなその少女の背中を、俺はなにもできずに見ることしかできなかった。



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霧中の蜘蛛糸

 朝、俺はまた叫び声で目を覚ました。

 

 素早く身を起こし、リンを肩に乗せて扉を開く。

 すると、近くの部屋から同じく飛び出してきた紅子さんと視線がかち合う。

 紅く、鋭い。温度のない瞳が俺を一瞥(いちべつ)してから、すぐさまふいっと逸らされる。

 そして彼女は無言のまま、ポニーテールを揺らしながら駆け出して行った。

 

 なにも、言葉が出なかった。

 なにも言えなかった。

 

 いつもと違って、温度のない瞳。

 興味のないものを見たような、そんな冷たい視線。

 

 視界の端で、紅子さんの菫色のリボンが角を回ってひらりと翻るのが見えて、口を閉じる。そして、俺も無言のまま走り出した。

 

 恋煩い。

 俺と彼女の関係も大切で間違いない。

 

 しかし、人の悲鳴が聞こえたのだ。優先順位を違えてはいけない。

 恋煩いは所詮、俺達個人の問題。今、どこかで誰かが犠牲になっているのかもしれないのだ。それを助けようともしないで悩むだけだなんて、同盟の……人間と寄り添い守る組織に属する人間として、あってはならないことだ! 

 

 リンを肩に乗せたまま、外へ。

 

 ――霧だ。

 

 視界が白い。

 狭い範囲しか周囲を伺い見ることはできないが、声の聞こえた方向へと走って近づいていく。

 

「ぶわっ、なんだこれ」

 

 なにか顔にかかった気がして手を振って拭う。

 おかしいな、確かになにかふわりとした感触がしたはずなんだが……なにもない。

 

「……いや、これ蜘蛛の巣か」

 

 どうりで見えないはずだ。霧が深くて、余計見えにくくなっているのかもしれない。

 しかし、周囲には特に樹木もなく、村の中心に向かって開けた場所にいるというのに普通、蜘蛛の巣なんかに引っかかるか? 

 

 なにかがおかしい。

 なにかが。

 

 足を止め、走るのではなくゆっくりと中心地へと向かう。

 よくよく目を凝らして集中すれば、極細の糸がいくつも張り巡らされているのが分かった。それに、この糸にはどこか禍々しいドス黒い雰囲気が漂っている。

 集中さえしていれば避けて通ることもできそうだった。

 

「紅子さんはどこに……?」

 

 蜘蛛。

 この際、候補はひとつしかない。

 そうだ、これはこの村のおしら神によるもので間違いないだろう。

 それならば、紅子さんの身が危ない。まだ2日も期日は残っているはずなのに、なぜ今日になってこうなっているのかはさっぱり分からないが、村の人間が誰一人として外に出ていない様子から見るに、村の人間はこうなることを知っていたのかもしれない。

 

 しまった、その辺華野ちゃんに訊いていれば分かったかもしれないのに。

 

 シュルルル、と細いものが空を切る音が響く。

 悲鳴はすっかりと止んでいて、居場所が掴みづらくなってしまった。

 こうなると、声を上げていた誰かがどうなったかなんて想像に難くない。

 

「……なんだあれっ」

 

 ある家屋。

 その屋根に無数の丸い影があった。

 

 霧の中近づいていき、右手を掲げてリンを呼ぶ。

 すぐさま俺の手の中で変化した赤竜刀を握り込み、浅く、そしてゆっくりと呼吸する。

 

 動揺するな。ちゃんと真っ直ぐと見据えろ。正体を見極めろ。アレはなんだ? 

 

 ――キチチチチ

 

 屋根の上から、一体の〝それ〟が落ちてくる。

 

「……こいつらっ、人間の…………!」

 

 肉の塊のようなシルエットの前方に、上向きの花のように開かれた人間の手がある。

 

 正確には、両手のひらを合わせた状態で手首から上が開いているため、花のように見えるのだ。しかし、その手の大きさは異様に大きく、まるで水ぶくれしたように分厚い。全体のシルエットがバスケットボール大になるほどに、その手は張り詰めているのだ。

 

 そしてその中心には頭頂部のみが砕かれた頭蓋骨が収まっており、無数の蜘蛛達はその中に心臓や脳みそを収納していた。

 それから、頭蓋骨から下向きに肩口からの腕が8本、まるで蜘蛛の脚のように伸びている。地面についた指先の鋭い爪は泥が詰まり、痛々しく割れていた。

 

 手の中に収まった頭蓋骨のその眼窩には、ぼうっと人魂のように揺れる妖しい無数の光。

 

 ……瞳、だろうか。

 

 ちょうど8つ分のそれに想起するのは――化け蜘蛛。

 しかし、こいつについた名前は『おしら神』である。

 

 肉塊の腹に、花のように重なった手首と頭蓋骨。人間の肩口からの腕が8本蜘蛛足の代わりに生えているその姿。

 

 おいおい、こんな化け物のどこが神様だよ。冗談じゃない。

 

 ――キチチチチ

 

 笑うように八つの光が歪む。

 やはりあれが目玉なのだろうか。

 

 ちいさな蜘蛛を一匹残して、一斉に化け物蜘蛛が屋根から降ってくる。

 

「嘘だろ……」

 

 そして屋根に取り残されたのは、無残にも内腑が取り出され、律儀に並べられた見知らぬ男性と、他よりも一回り小さな一匹の蜘蛛。

 

 蜘蛛は男性の体にその前腕を遠慮なく突っ込み、かき回すと心臓を取り出す。

 それから頭蓋骨の空いた頭頂部にすっかりと心臓を収める。

 

 途端に蜘蛛は他の蜘蛛達と同等の大きさにまで成長し、屋根から降りて俺の前に立ち塞がった。

 

「残念ながら、逃すわけにはいかない」

 

 赤竜刀を構えて呟く。

 そうだ、こいつらがおしら様だと言うなら、紅子さんはどこにいるんだ? 

 そんな漠然とした不安が付き纏ってくる。

 

 万が一がある前に俺がこの場で仕留める! そうすれば紅子さんも安全だし、この村の脅威は去るだろう。そう、この蜘蛛の群れ()()倒せば……! 

 

 そうして俺は、脅威はこれだけと断じて斬りかかる。

 

 ……これ以上の親玉がいることなんて、俺は知りもしなかったのだから。



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忍び寄る蜘蛛の意図

 屋根から降りて来た蜘蛛も含めて10、20、いやもっといるな。

 すごい数の蜘蛛のようなバケモノが散開していく。

 

 だからといって俺を襲ってこないわけでもなく、赤竜刀を構えたまま目で追おうにも霧が深いせいで大半の蜘蛛は姿を消した。

 

 ――キチチチチチチ。

 

 笑うように反響する音。

 そこかしこから響いてくる音に首を巡らせながら集中する。

 

 どこだ。どこから来る? 

 いや、俺から動かなければ紅子さんを狙いに行く可能性だってあるんだ。

 しかし、彼女がどこに行ったのかすら分からない状態では闇雲に動いても仕方ない。

 

 ……仕方ない? 

 また、俺は逃げているんじゃないか。

 

 唇を噛んで、踏み込む。

 

「そこだぁ!」

 

 バケモノの頭の部分、その頭蓋骨を上から突き刺して深く握りこむ。

 

 ――ギイッ。

 

 頭骨が割れ、中からなにかが転がり出てくる。

 それを避け、バックステップ。今度はキリキリと軋んで音を立てながらこちらに向かってくる細い糸を断ち切って、振り向きざまに一閃。

 狙いを定めていなかったので脚を落とすだけに留まったが、視界の端で動いた蜘蛛に向かうため、殺した蜘蛛の頭骨を足蹴にして跳躍した。

 

 空中から赤竜刀を振り下ろして斬り払い、耳を澄ませる。

 

「リン、感知」

「きゅう」

 

 目が焼け付くように熱い。

 視界から色素が引いていき、霧の中に動く〝温度のあるもの〟を識別する。

 竜の瞳。爬虫類特有のそれ。不思議とできると思った。リンにいつも力を貸してもらっているが、今回は自然と言葉が出ていた。

 

「……」

 

 焦るな。ひとつひとつ解決していけ。

 判断を迷うな。駆けろ。

 

「こっち!」

 

 伸ばされた、さっきよりも太い糸に赤竜刀が弾かれる。

 視認できるほどの粘着質の蜘蛛の糸は鋼鉄よりも硬く、しかして柔らかく刀に纏わり付いて離れない。

 

「ッチ」

 

 舌を打って腕を振り上げる。

 糸がくっついていて重たい。しかし、これを今の実力で斬れないというのなら、逆に利用するまでだ。

 

 糸が巻きついているのなら、それを手繰ってしまえば良い。

 刀を振り上げた状態で、その場で釣り竿のリールを巻くように糸を手繰る。

 

 ――キチチチチ。

 

 重い。纏わりつく糸が斬れない。

 いかんせん相手がバスケットボール大しかない大きさの蜘蛛でしかないので、俺の意識に余裕が生じているからだ。

 

 俺が〝無謀〟だと思って挑む相手にしか、赤竜刀は力を貸してくれない。

 これが今の俺の実力で、そして弱さだった。

 

 ――キチチチチ。

 

 笑うような声が背後で響く。

 感知して動こうにも、刀は巻き上げられたまま振り下ろせない。

 

「残念だったな!」

 

 刀を離して、腰を低く保ち足払いをかけるように蹴りを入れる。

 それから叫んだ。

 

「リン、こっちに来い!」

「きゅいっ」

 

 刀剣の姿からコンパクトなドラゴンの姿に変化して緩んだ糸を振り払い、リンが再び俺の手の中に戻る。

 

「次!」

 

 頭蓋骨を突き刺して、先程糸を放っていた蜘蛛の元へ走る。

 糸を放ってきても、今度は糸に触れないよう受け流して一直線に向かい、通り過ぎざまに片手で薙ぎ払う。

 相手の位置が低いために地面へついたもう片方の手で体を跳ね上げ、次へ向かった。

 

「感知」

 

 目を細めればまだまだ湧いて出てくるバケモノ蜘蛛達。

 その数は資料館裏の林に近づくにつれ多くなっていくようだった。

 

「どこだっ紅子さん! 紅子さん!」

 

 この際、透さんやアリシアは大丈夫だろう。

 透さんはこういう事件は初めてではないようだったし、身を守る程度の術はあるはずだ。それにアリシアには猫とはいえ邪神がそばについている。蜘蛛如きが猫に勝てるとは到底思えない。

 猫は蜘蛛を弄び、殺す天敵でもあるからだ。

 

 問題は狙われている本人である紅子さんただ一人。

 蜘蛛に蝶々。最悪な組み合わせでしかない。

 

 彼女はきっと守られたくなんてないんだろう。昨日までは俺の決意を享受してくれていたが、本来の彼女は負けず嫌いで、弱い自分をなによりも嫌っているから。

 

 それでも俺は、せめて隣に立ちたいと願う。

 背中合わせに守りあえるほどに、近づきたいと願った。

 

「邪魔をしないでくれ!」

 

 飛びかかってきた蜘蛛を一太刀に両断して踏み越える。

 林に一歩踏み入れれば、一気に頭上に気をつけなければならなくなった。

 

「蜘蛛の巣が……」

 

 深い、深い霧で温度もほとんど存在せず、目を凝らすことでしか判断できない極細の糸がそこかしこに張り巡らされている。

 散らすことは簡単だが、これでは相手に居場所がバレバレなのとそんなに変わらない。

 

「あっ」

 

 赤竜刀を振り下ろすが、蜘蛛が避けたために樹木へ突き刺さる。

 単純すぎるミスとリンへの申し訳なさで一瞬思考が烟る。が、また手を離してから背後に回った蜘蛛を回し蹴りで迎え撃つ。

 

「リン、鞘」

「きゅ」

 

 ドラゴンの姿に変化してまた刀剣に戻るリンに要求し、左手に真っ赤な拵えの鞘が現れる。

 そして、頭上から落ちてきた蜘蛛の腕を左手の鞘で弾きあげてから、右手の赤竜刀で斬り下ろす。

 

 集中したまま奥へ、奥へ。蜘蛛を処理しながらだから非常に進みが遅い。

 これで万が一があったら本当にどうしてくれるんだ……! 

 

 詩子ちゃんの祠に近くなった頃、幼い泣き声が聞こえてきた。

 

「まさか、子供がこんなところに……?」

 

 聞き覚えのない声だ。

 しかし、俺達は華野ちゃんや詩子ちゃん以外とはろくに交流していないから、たとえ村の子供だったとしても俺には分からない。

 

「大丈夫かな?」

 

 そして、その側から紅子さんの声が聞こえた。

 ああ、やっぱり彼女は優しい。

 

 どうして優しさは罪だなんて言うのかと思うほど、それほどまでに彼女は人想いなんだ。

 

 だが、今は霧の深い林の中。

 いつ蜘蛛が降ってくるかも分からない場所だ。

 それに、その子供が本当に人間の子供である保証がどこにある? 

 

「紅子さん!」

 

 躊躇いは、ほんの少しだけ。

 けれど、踏み出した直後に俺は飛び退るはめになった。

 

「なんだよ、いきなり」

 

 頭上から蜘蛛が大挙して押し寄せてきたからだ。

 鞘を使っても押し返せない程の量に、さすがに避けるしか道はなかった。

 

 が……

 

「前に飛び込めば良かったとか、今更な後悔だよな」

 

 目の前にいる蜘蛛共のせいで紅子さんのところへ近づいていけない。

 おまけに、どんどん彼女へと続く道が蜘蛛糸で埋められていく。

 

 焦りからか、額に汗が滴り落ちていく。

 この状況はまずい。本気でまずい。どうして紅子さんは気づいていないんだ。

 彼女はこちらに見向きもしない。

 

 ……これは俺を無視しているというよりも、本気で気づいていない。いや、見えていない……のか? 

 

「紅子さん! 紅子さん!」

 

 聞こえていない。

 気づけ、気づいてくれ! 

 

 ――キチチチチ。

 

「くそっ」

 

 斬り払い、蹴り上げ、鞘で受けて弾き飛ばす。

 その繰り返しでキリがない。

 

「くそっ、くそくそくそっ!」

 

 ――キチチチチ。

 

 こいつら、本当に笑っていやがる。

 俺が踏み込めないのをいいことに、どんどん彼女から引き離されていくようだった。

 

「……」

「……」

 

 紅子さんが子供と話しながら笑顔を向けている。

 

「なんとか……しないとっ」

 

 首を逸らす。

 背後でベチャリとなにか粘着質なものが樹木にくっつくのが見えた。

 

「毒液まであるのかよこいつらっ」

 

 どうやら毒を持っているのは一部の蜘蛛だけのようだが、それでも厄介なことに変わりなかった。

 囲まれてジリ貧になったまま、紅子さんのことが気になって集中もできずに仕留めきれない。

 

 完全に戦況が停滞していた。

 

「……」

「……」

 

 視界の端で紅子さんが中腰になり、子供に顔を向けているのが見える。

 いや、おかしい。その状態のまま彼女は動かない。

 

 その顔色は明らかに、焦りの表情だ。

 動きたくても動けない。そんな恐怖を感じている彼女の姿。

 

 まずい! 

 

「こんのっ」

 

 斬れないかもしれない? そんなのどうでもいい! 

 鋼鉄よりも硬い蜘蛛の糸を斬らなければ彼女が危険だ。

 斬れないんじゃなくて、斬るしかないんだよ! 無謀だとしても! 

 

 そう思ったら、体が勝手に動き出していた。

 

「っく、オラァッ!」

 

 紅子さんのいる位置を中心に、繭のように張り巡らされていた糸を両断する。

 地面まで斬り裂いたその一撃の勢いのままに、地を蹴り彼女の元まで突っ込んでいく。

 

 よく見れば、動けない彼女の目の前にいる子供からは糸が伸びている。

 蜘蛛の巣状になったその糸が向かう先は、彼女の魂。

 

 ――そう、そこには彼女の魂である紅い蝶を捕らえた、蜘蛛の巣が張り巡らされていたのだ。

 



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無謀な一撃

 キチキチと樹木が軋む音がする。集中したまま赤竜刀を右側面に上げ、両手で握り込み、霞の構え。狙うは得体の知れない子供だ。

 

 前傾姿勢のままに地面を蹴り上げる。

 

 祠の中からドンドンと扉を叩く音がした。

 いないと思ったら、詩子ちゃんはどうやら祠の中に閉じ込められているようだった。

 

 助けは期待できない。

 

 子供の腕や腹から鋭い爪のようなものが8本現れ、紅子さんをゆっくりと囲い込もうとしている。させない。絶対にそんなことはさせない! 

 

「紅子さんから離れろぉぉぉぉ!」

 

 側面から襲いかかり、頭を狙う。

 が、腕のような爪で斬撃は防がれて火花が散った。

 鍔迫り合いとなったせいで赤竜刀から嫌な音が鳴る。

 

「リン、変化!」

「きゅいっ」

 

 手を離してバックステップ。鍔迫り合いをしていた巨大な爪が地面に突き刺さり、その隙を持ってリンを再び手の中に呼び戻し、赤竜刀に変化させてから袈裟斬りに斬りかかる。

 

 地面に刺さった腕を一本斬り飛ばし、返す刀で下から上へ斬りあげる。

 またもや爪が防ごうと動いたが、今度は身を低くして爪を掻い潜り、節の部分を斬りあげて腕を落とした。

 その場で赤竜刀を振るい、血振りをして油断のないように視線を背後に移す。

 

「……」

「お兄、さん……? ど、して……ここ、に」

 

 拘束は既に殆ど意味を成していない。けれど、なおも紅子さんはその場から動けない。

 蜘蛛の巣に魂が囚われ、動きたくても動けないのだ。

 息をすることさえ苦しそうに喘ぐ彼女に、俺の中の怒りが頂点にまで達する。

 

 目の前の黒髪の少女から伸ばされた腕はあと6本。

 虚ろな瞳は俺を一瞥して、それから紅子さんへと向けられる。

 

「邪魔、しないで」

 

 細い声。

 俺に向けられた僅かな敵意。

 紅子さんを見る目には一切敵意が感じられないのに、俺に向けられた瞳は冷たい。

 

 それに、この子供……詩子ちゃんの記憶で見た妹さんと……似ている? 

 

「っふ」

 

 息を切って、上段で袈裟斬りの構え。

 ……迷っている暇はない。斬るだけだ。

 

「どうしてだなんて、ひとつしかないだろ。紅子さん」

 

 怒りと恐怖と、不甲斐なさと悔しさでないまぜになった彼女に笑いかける。

 

「――約束を、守りに来た」

 

 踏み込む。

 虚ろな瞳でこちらを睨む少女の肩口から袈裟斬りにするように赤竜刀を振り下ろす。

 

「……くそっ!」

 

 硬い。

 せめて口元から伸びる糸を断ち切ってやろうと標的を変える。

 が、滑らせた刀が強靭な糸に阻まれ鈍い音を出す。

 

「焼き切れ! リン!」

 

 赤竜刀にちらちらと燃え上がる薔薇色の炎が宿る。

 それは神の炎。赤竜の息吹。焼き切るように糸を侵食し、蜘蛛の少女をも飲み込まんと燃え上がる。

 

「約束はっ、違えない!」

 

 守ると誓った。

 助けると誓った。

 力を込める。

 誓いと決意。歯を食いしばってそれを思い出すだけで赤竜刀に宿った炎が大きく純度の高いものとなっていく。

 

「嫌われてもいい! 嫌いになられてもいい! それでも俺は、紅子さんを助けるんだ!」

 

 情けないくらいに裏返った声に、涙が滲む。

 赤竜刀が完全なる力押しで押し返されて腕が震える。

 

「……もう遅いのに」

「は……?」

 

 ぞわりと、空気が震える。

 嫌な予感がした。直感的に糸を焼き切ることを中断し、地面を蹴る。

 背後の紅子さんに抱きつくように、覆いかぶさるように飛びかかった。

 

 頭上からは、今までの比にならない程の巨大な蜘蛛が爪を振り下ろしてくるのが見えていた。

 

 ――ダメだ。覆いかぶさっても、守れない! 

 

 咄嗟の判断だった。

 

「……っ」

 

 全力で、その場から彼女を突き飛ばす。

 

「リィィィン!」

 

 地面に激突してすぐさま体を跳ね上げ、赤竜刀を後ろ向きに斬りあげた。

 ザックリと断ち切られた爪が一本、その場に切れた組紐と鈴の音と共に落ちる。

 真っ直ぐと俺の心臓へ向けて突き出された爪が、次の瞬間にはグニャリと視界がブレ、狙い逸れて左肩を刺し貫く。

 

「あ……ぐぅ……」

 

 地面に縫いつけられ、肺から空気が押し出されるような苦痛に、思わず言葉にもならない唸り声をあげた。

 

「令一さん!」

 

 悲鳴のように俺を呼ぶ声。

 応えることもできずに、口から出るのは浅い呼吸だけ。

 

 左肩から先が動かない。

 散々地面に転がって腹が痛い。さっきの衝撃で骨が折れたかもしれない。

 咳き込めば、その場に赤色が散った。

 

 血が込み上げてきて、息ができない。

 

 あのとき――青葉ちゃんの攻撃から紅子さんが俺を庇ってくれたときの光景を思い出す。

 

 ああ、きっとあのときも、紅子さんはこんな気持ちだったのかな。

 

「きゅうっ、きゅいいぃ!」

「ごめん、リン。動け、な……い」

 

 爪が肩から抜かれていく。

 体が持ち上がり、ゴミのように捨てられてまた血を吐き出す。

 

 駆け寄ってくる紅子さんを静止しようとしても、血が喉に絡まって声が出ない。

 

「嫌だ……やだよ、やめてよ令一さん……! アタシが、アタシのせいで……!」

 

 泣きじゃくる彼女に苦痛に歪んだ顔を見せたくなくて、笑いかける。

 

「――」

 

 声は出ない。けれど「紅子さんのせいじゃないよ」と。

 目が霞む。彼女の姿がブレる。くしゃくしゃに歪んだ泣き顔に唯一上げることのできる右腕で涙を拭って一言だけ。

 

「逃げろ」

 

 狙いが逸らされて彼女を捉えていた蜘蛛の巣に穴が空いている。今のうちなら、きっと今度は逃げられるはずだ。

 

「嫌だ!」

「わがま、ま……言うなよ……」

 

 巨大な蜘蛛がすぐそこに迫っているんだ。

 少女だって、まだ君を狙っている。だから逃げてと言っているのに、どうしてか彼女はイヤイヤと子供のように首を振る。

 

 いつもは理性的な彼女が、感情で暴走している。

 そのほうがいいと分かっているはずなのに、紅子さんは滑り落ちそうになる俺の右手を握って祈るようにその紅い瞳を閉じた。

 

 情けなさと、不甲斐なさと、俺に対する僅かな怒りと、失うことへの恐怖。

 そんなものが混ざり合って子供のように泣く紅子さんに、俺はどうすればいいのか分からなくてなってしまった。

 

 周囲を蜘蛛が取り囲む。巨大な一匹の蜘蛛と、少女がジリジリと俺達二人に近寄ってくる。確実に仕留めるために。

 

 このまま紅子さんと一緒なら怖くないかな。

 

 そんなことを思っていたとき、辺りが雷鳴でも落ちたときのように轟音と目が潰れる程の光が広がった。

 

 

「なん……」

「なにこれ……」

 

 二人して困惑していると、頭上から声が聞こえた。

 

「奴らの目は潰したぜ! 旦那方、今のうちに資料館のほうへ逃げるんだ! いいかい!」

 

 その声は、どこか聞き覚えのある男性の声だ。

 

刹那(せつな)さん?」

 

 紅子さんの言葉でやっと理解する。

 その声は鴉天狗の新聞記者。烏楽(うがく)刹那さんのものだったんだ。

 

 なんにせよ、逃げ出す時間が取れたということ。

 けれど、どうあっても俺の体は動かない。

 

「……ん、じん、な……とき、に……」

 

 意識が混濁する。

 

「あるじちゃんはオレがはこぶ。いくよ、せっちゃん」

 

 そんな言葉を最後に、俺は意識を手放した。



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鴉の監視役

「俺ァ、荒事は苦手なんだよなぁ」

 

 上空で鴉が呟いた。

 そうして懐から取り出した光の球を放り投げる。

 〝雷獣の足音〟を込められたその道具は、彼――刹那が萬屋店主から直々に渡されていたものだ。

 

 刹那は鴉天狗ではあるものの、彼の出身の里は草食主義で里全体が戦闘能力皆無であった。幻術やら上手く飛ぶための風向き操作などはお手の物だが、それはとても殺傷力があるとは言えない。

 

 彼自身は里の中でも幻術が得意なほうだった。

 そのために令一の心臓を狙う爪を逸らしたのも、彼の咄嗟に行った幻術が巨大な蜘蛛に作用したからであった。

 逸らすと言っても、咄嗟の出来事だったためにそこまで強く作用したわけではなかった。故に令一は左肩を刺し貫かれて大怪我を負っている。

 

 早めに救助にいかなければならなかった。

 バサリ、バサリと羽ばたいて一直線に彼らの元へ。

 

「奴らの目は潰したぜ! 旦那方、今のうちに資料館のほうへ逃げるんだ! いいかい!」

 

 もって数分。

 焦りを感じながらも刹那は、彼らの場所から少しズレた上空から声を上げた。

 目は潰していても声で居場所がバレてしまったら意味がないのである。

 

 しかし、見るからに令一は気絶しているし、紅子はそんな彼から離れはしない。事前に透やアリシアを資料館に誘導していたのが仇となり、救援に来るのが遅れた結果であった。

 

「あるじちゃんはオレがはこぶ。いくよ、せっちゃん」

 

 焦れったい状況に刹那が悩んでいると、人型に変化したリンから声がかかる。

 令一が気絶して見ていない状況だからこそできることだった。

 リンの黄色い向日葵のような瞳は、静かな怒りを載せるように細められている。今すぐにでも蜘蛛共をめちゃくちゃに屠りに行きたい。

 

 ……そんな瞳をしながら、感情を抑えて令一をその小さな体で軽々と抱えた。

 

「ああ、小さいアル殿……じゃなくってリン殿。頼むぜ。あんたもこっち来な! あとの二人が資料館でお前さんらが無事に帰ってくんのを待ってるぜ!」

 

 こうして令一と紅子は、霧に沈む森の中から一時退却するのであった。

 

 

 ◆

 

「鴉のお兄さん、いつから見ていたの?」

 

 資料館に辿り着き、ひと息ついたところで紅子が呟いた。

 

「俺かい? 最初っからだよ。アル殿に頼まれたんでね。なにかあったら手助けに行けってさ。俺ァ、荒事に向かねぇのに、まったく無茶言ってくれるぜ」

 

 やれやれと首を振る彼に「そっか」と紅子が俯く。

 令一は気絶したまま、未だに目を覚まさない。そんな彼を涙を乗せた瞳で見ながら、紅子は悔しげに唇を噛んだ。

 

「アタシのせい。アタシが外に出るなんて〝余計なこと〟をしたから……っ」

「それは違うぜ、昨日も似たようなことがあった以上、ここにいる全員が同じ行動をしただろうよ。だからな、迂闊だとは思っちゃいねぇさ」

「令一ちゃんもね、てひどくやられちゃったけどさ、いままでいじょうにがんばってたよ」

 

 令一の負担にならないように姫抱きにしたリンが朗らかに笑う。

 まるで紅子を責める様子のない彼に、紅子は眉間に皺を寄せる。

 

「せめてほしいの?」

「……いや、それはアタシの自己満足にしかならない」

「わかってるなら、だいじょうぶだね」

 

 いつも紅子が令一に言っていることである。

 今ここで責任を問われたとしても、令一が許している以上、彼女にとって〝責めてもらう〟ことは自己満足の逃げにしかならないのだ。

 

「令一くん!」

「紅子お姉さん!」

 

 廊下の奥から透と、黒猫を抱いたアリシアが姿を見せる。

 二人はそれぞれの無事を確認すると、ひとまず安堵したように息をついた。

 

「酷い怪我だね……」

「悪ぃな。幻術で狙いを逸らしたはいいが、回避させられるほど上手くはいかなかったんだ」

「いえ、十分ですよ。左肩……ということは狙われたのは心臓、ですよね?」

「ああ、どうやら(やっこ)さん、旦那のことが目障りだったみたいでな」

「なら、命があるだけ儲けもの……だね」

 

 透が眉を下げて言った。

 そうして、一同は令一の泊まっていた部屋を目指す。

 

「それと、奴さんの落としたこれも回収しといたぜ」

 

 刹那が懐を探り、令一が最後の一撃を放った際に落ちた組紐と鈴を見せる。

 それは詩子のつけているものと似ているが、異なるものであった。

 

「そうだ、詩子ちゃんはこんな状況で無事なの?」

「ああ、あの白い子は、奴さんが大手を振って歩き回っているときにゃ祠の外に出てこれなくなるみてぇだなぁ」

 

 上空から観察していた鴉の見立てである。

 気配を消してさまざまなところへ情報を集めに行く彼には、観察癖がついていた。故に、推測は可能である。

 

「今日は霧が晴れそうにもねぇな。というより、奴らがまだあんたを探している」

 

 刹那の視線の先には、紅子。

 姿を見られた以上、蜘蛛の標的となった彼女は期日関係なしに狙われる立場となったのだ。

 彼女はそんな視線を受けて俯く。

 

「この、資料館は安全なのかな?」

「うん、窓さえ空いていなければ蜘蛛がここに入ってくることはないって華野ちゃんも保証してくれたよ。他の家屋もそう。〝注連縄〟があるからだって」

 

 代わりに答えたのは透だ。

 侵入を阻む注連縄がある場所には、おしら神は入ってこれない。

 先日の夕方、令一が蜘蛛に噛まれたのは窓が開いていたからであった。

 

「そっか……」

「お姉さん……」

 

 明らかに落ち込んでいる紅子を、アリシアが心配そうに見上げる。

 彼女の瞳には重傷を負った令一のみが映されていた。

 

「ところで、アルフォードさんみたいなその子ってもしかしてリンちゃん?」

「あ、あたしがなにも言わなかったことを……」

 

 透が我慢できずにリンを見遣る。すると彼は令一を抱えたまま笑顔で返事をする。

 

「そう、オレだよぉ。あるじちゃんが、いつもおせわになってるね。でも、れーちゃんにはないしょ。ないしょなんだからね? わかった?」

「なにか事情があるんだね……そっか。今度令一くんがいないときにお話するのは可能かな?」

 

 どうしても好奇心を抑えきれない彼に、リンは苦笑いをしながら快く返事をする。アリシアはそんな二人のやり取りを見ながら、小さく「重たい空気が変わりました」と呟いていた。

 

 令一が泊まっている部屋に辿り着くと、リンがベッドに彼を横たえる。

 隣で透が救急セットで応急処置をしながら令一の容態を見るが、彼は起きる様子がない。

 

「ちょっと熱も出ているね。蜘蛛の毒でも回っているのかも……? 爪で刺されたんだよね? そっちにも毒があったのかも。俺ができるのは応急処置だけだから……腕を固定して薬を塗るくらいしかできないんだけど……」

「きれいにかんつうしてるね。ほねはさいわい、ぶじみたいだけど」

 

 リンが眉を顰める。

 これでは両手で赤竜刀を握って戦うことができない。

 

「せっちゃん、ちょっとひとっとびして、オレのところから、ちりょうようのどうぐを持ってきてくれない?」

「ったく、無茶言いやがる。だが、リン殿の頼みなら仕方あるめぇな。分かったよ。ちょっくらひとっ飛びしてくるぜ」

「ボクが一時的に憑依するっていうのは?」

「ジェシュはだめ。れーちゃんをこれいじょう、にんげんからはずさせるわけにはいかない」

 

 黒猫が含み笑いと共に提案した策はリンによって一蹴される。

 それに素直に引き下がり、ジェシュは「ちょっとした親切心だから怒らないでよ」と不貞腐れた。

 

「ナチュラルにじゃしんっぽいことを、いわないでよ」

 

 怒ったように睨むリンに、ジェシュはふいっとそっぽを向いて黙りこむ。

 アリシアはそんな彼を困ったように見ながら「ごめんなさい」と謝った。ペットの不始末は彼女の責任になるのである。

 

「あの、さ」

 

 ベッドに横たわった彼の手を握りながら、紅子が声を出した。

 

「しばらく、二人にしてもらっても、いいかな?」

 

 つっかえるように言う彼女にリンは刹那と目を合わせる。

 

「俺はどっちにしろ今から出かけるからなぁ」

「じゃ、オレは赤竜刀のじょうたいでいようかな。まんがいちがあるから、よこにたてかけておいてよ」

 

 リンにとっては、そこが妥協点だった。

 

「俺達は隣の部屋にいるよ。華野ちゃんに言って、あったかいココアを作って待ってるよ」

「あたしもですね。刹那さんが拾ってきた組紐と鈴について、なにか分からないか調べてみます」

 

 快く紅子の願い事を受け入れ、透とアリシアが部屋を出る。

 

「なにかあったら教えてね?」

「お姉さんも、あんまり思い詰めちゃだめですよ。そんなことしてたら令一お兄さんに心配されちゃいますから」

 

 部屋の扉が閉まる。

 

「それじゃあ、オレはねてるからね。なにかあったらよんで」

 

 ベッドの横に赤竜刀が立てかけられる。

 

「そばにいてやんな。そのほうが早く目を覚ますだろうからな。あと、俺が出たら窓を閉めてくれよ」

 

 そして鴉が一羽、窓から霧の空へと飛び立っていった。

 

「分かってるよ、アタシのせいだって。分かってるよ、令一さんならそうするって。でも、アタシはなんにもできなかった。体が動かないことに、恐怖で押し潰されそうになって……思い浮かんだのは令一さんの顔だった」

 

 窓を閉めて、一人涙を落としながら紅子が言う。

 ベッドに眠る令一の腕を握り、額に押し当てながら彼女は懇願するように、祈るように、次から次へと溢れ出る玉のような涙をそのままに泣く。

 

「ごめん、昨日は、アタシもどうかしてた。キミにだけは見られたくなかった。キミにだけは知られたくなかったことを見られて、感情的になってた」

 

 静かな部屋で、彼女の贖罪だけが響き渡る。

 

「……謝らせてよ。起きて、謝らせてよ。お願いだから。ねえ、令一さん……っ、お願い、生きて。アタシを独りにしないでよ……我儘だなんてっ分かってる。都合がいいことなんて、分かってる。でも、キミには、キミにだけは生きていてほしいんだよ!」

 

 嫌われたくない。

 令一にだけは、嫌われたくない。

 

 そんな想いがぐるぐると巡りながら紅子は泣きじゃくる。

 

「どうして、アタシはこんなに弱いの。キミのことになると、まるでダメなんだ。アタシ、こんなに泣くような人間じゃなかったのに……っ!」

 

 そこに佇むのは、一人の泣き虫。

 長年抑え込んできた感情を発露した、ただの一人の少女であった。

 

 彼はまだ、目を覚まさない。

 



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此岸と彼岸の境で

 さざ波の音が響いている。

 気持ちの良い風が俺を撫ぜていく。

 

 ゆるりと目を開くと、そこは暗い、暗い場所だった。

 

「ここ……どこだ?」

 

 さわりと耳元をクローバーが擽ぐる。

 体を起こせば、俺が横たわっていた場所にはクローバーが群生していた。

 俺の周囲だけにあるクローバーに優しく触れて、周囲を見回す。

 

「川……」

 

 眠っていたときに感じたものとは違い、今度は生温い風が頬を撫でる。

 近くの川からはなにかが泳ぐようなさざ波が立っており、遥か天から落ちてくる雫によって小さな波紋が広がっていた。

 

 遠くを見れば、一本だけ灰色の枝垂れ桜が揺れている。

 

「まさかとは思うが、三途の河……か?」

 

 薄暗い世界。しかし不思議と視界は開けていて、暗闇の中で目が見えない不自由を感じるわけでもない。

 こんな不思議な場所で川といえば、思い当たるのは三途の河くらいだ。

 そう、前に紅子さんと話していた三途の河である。

 

 もしかしたらジョーズとかやばい魚がうようよいるかもしれない、あの三途の河だ。

 

「……俺、死んだのか?」

 

 呆然として結論を呟いた。

 三途の河にいる理由と言えばそれくらいしか思いつかない。

 せめて瀕死の重傷程度であってほしいが……いや、それもそれでどうなんだという話だが。

 

「左肩……痛くない」

 

 それはそうだ。ここは現実ではない。

 左肩を思い切り刺し貫かれた傷痕も、苦しみも、なにもかも失われている。

 

 

 ――嫌だ……やだよ、やめてよ令一さん……! アタシが、アタシのせいで……! 

 

 

 いや……失われてなんか、いない。

 泣きじゃくる彼女の姿が目に焼き付いている。

 悲しんで、心配して、どうしてそんなことをしたのかと怒りを乗せた声が、表情が、その全てが心に情景として刻み付けられて忘れられない。

 

 嫌われたと思っていた。

 もう、嫌われてもいいから守りたいと願った。

 

「守れたかな」

「守れてなんか、いないさ」

「っ誰だ!?」

 

 突然聞こえた声に振り返る。

 そして息を飲む。

 

「あお……なぎさん?」

 

 信じられないものを見るように、死者になったはずの彼女を――青凪(あおなぎ)(しずめ)の名前を呼ぶ。

 

 青みがかった黒髪。見覚えのある顔。忘れられるはずもない顔だった。

 あのときと違うことと言えば、彼女が真っ白な着物を着てトレードマークだったキャスケット帽を被っていないことだろうか。

 

「貴方は守れてなんかいない。そうだろう? お兄さん」

 

 あのときのままに、青凪さんが笑う。

 しかし彼女が死者であることはその着物の合わせが逆であることで示されていた。

 

「そうだな……俺は紅子さんの心までは守れてなんていない」

 

 頷いて、自嘲する。

 まさか、ここで彼女が出てくるとは思っていなかった。

 もしかしたら俺の都合の良い妄想かもしれないが、向き合うべくして向き合うものなのだろうと、正面から真っ直ぐと彼女を見つめる。

 

「君がいるってことは、やっぱりここは三途の河なんだね。でも、どうして君はあっち側に行っていないんだ? もう……随分と前のことなのに」

 

 そう、青凪さんが死んだのは、一年近くも前なのだから。

 

「誰かさんがいつまで経っても悔やみ続けているから、私も安心して遊覧船に乗ることができなかったのだよ」

 

 皮肉。いや、事実か。

 やはり彼女は紅子さんと似ている。おかしいな……前は青凪さんに紅子さんが似ていると感じていたはずなのに。こうして向き合うと、印象が逆転している。それだけ紅子さんのことを俺は……。

 

「さっさと(がい)達の元へ行こうと思っていたのだけれど、私だけはどうやら行き先が違うらしいからね。少しだけ死神に待たせてもらっていたんだ。河を渡り始めなければ、後戻りさえしなければここに佇んでいても罪には問われないという話だったから」

 

 穏やかに凪いだ瞳。

 彼女が他のメンバーとは行き先が違うとするのならば、それは彼女が自殺だったからか。俺が潔く介錯していれば、彼女も天へと昇れたはずなのに。

 俺の覚悟不足でこうして彼女は地に落ちている。仲間と共に行けずに。

 

「悔やんでくれるのは嬉しいがね、そればっかりで貴方が前を向けないとなると私も心苦しいんだ」

 

 ああ、どこまでも彼女は優しい。

 あのときからずっと、彼女は俺の情けない行動を見ていたわけか。

 

「心配させて、ごめん」

 

 俺がそう言うと、青凪さんはゆっくりと灰色の枝垂れ桜の元へ歩き出す。

 俺もそれに着いて歩いて、彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「ああそうだ、いつまで経っても私のことを引きずってウジウジしているから気になって落ち落ち眠れやしない。さっさと安心させておくれよ、お兄さん。このままじゃあ、私はいつになったらあの世に行けるかも分からないじゃないか」

「ごめん。そうだな、もう心配かけないようにするよ。見ず知らずの……あの日会っただけの俺なんかに、こんなに心配してくれるなんて青凪さんは優しいな」

 

 2日も一緒にいたわけではない。

 なのに、こんなにも彼女は俺を心配して、あの世に行くこともせずに待っていてくれた。そして、俺の背を押すためだけに、こうして話している。

 

 ――そんなの分かっていた。

 

「もちろんだよ。はあ、まさか我が高校に本物が混ざっているとは……できることならば生きている間に出会いたかったな。あの出来事さえなければ、私もそこにいたのかもしれないのに……」

「ごめん」

「謝ってばかりだね。すっきりしたかい?」

「ああ」

 

 泣きそうだった。

 トラウマと化していた出来事が、彼女の言葉ひとつひとつで解かされて行く気がしたんだ。

 

「貴方達の旅路はずっとずっと見ていた。ここで。だから、私ができるのは貴方の背中を押すことだけだ」

 

 灰色の枝垂れ桜は風もないのに揺れている。

 その下に立って、青凪さんは笑う。

 

「私はもう退場するべきだ。むしろ、そうしてほしい。さっさと船旅に出たいんだよ。未練を残させるような物語を見せるんじゃない」

「ああ」

 

 強い瞳で見上げられて頷く。

 

「ほら、まだ彼女は泣いている。好いている人が泣いているんだ。抱きしめに行かないでどうする? そんなの男じゃないだろう」

 

 虚空を見つめながら彼女が言う。そこになにが見えているのか、俺には分からない。

 

「青凪さんって結構言うな」

「何ヶ月この退屈な河原で待たされたと思っているんだ。なんにもないんだぞ? この地獄の退屈さを早く終わらせたいんだ」

「……そっか」

 

 わざと強く言いながら、彼女は俺の背を少しずつ押していく。

 

「この枝垂れ桜の下に湖があるだろう。ご覧、さっき言った通りだ」

 

 灰紫色の水面を覗く。

 そこには、子供のように泣き声をあげる紅子さんの姿があった。

 

 ――分かってるよ、アタシのせいだって。分かってるよ、令一さんならそうするって。でも、アタシはなんにもできなかった。体が動かないことに、恐怖で押し潰されそうになって……思い浮かんだのは令一さんの顔だった。

 

 俺の腕を額に押し当てて泣きじゃくる。

 そんな、いつもならありえない光景。しかし、それこそが彼女の真実で。

 

 ――ごめん、昨日は、アタシもどうかしてた。キミにだけは見られたくなかった。キミにだけは知られたくなかったことを見られて、感情的になってた。

 

 いろんな感情が複雑に絡み合い、ぽろぽろと涙を零しながら震える声で言っている言葉。

 

 ――……謝らせてよ。起きて、謝らせてよ。お願いだから。ねえ、令一さん……っ、お願い、生きて。アタシを独りにしないでよ……我儘だなんてっ、分かってる。都合がいいことなんて、分かってる。でも、キミには、キミにだけは生きていてほしいんだよ! 

 

 俺の無事を祈る紅子さんの姿。

 誰も聞いていないからと、素直に、そして早口に本音をぶちまける彼女に眼を見張る。

 

 ――どうして、アタシはこんなに弱いの。キミのことになると、まるでダメなんだ。アタシ、こんなに泣くような人間じゃなかったのに……っ! 

 

 ああ、抱きしめに行かないと。

 泣かないでくれと、言いに行かないと。

 泣くならば、どうか悲しみではなく嬉しさであってほしいと、じわりじわりと彼女への想いが込み上げていく。

 

 今すぐにでもあの子を、愛しいあの子を安心させてあげたい。

 どうか泣かないでと。俺は大丈夫だからと。

 

 戻らなくては。

 今すぐに戻らないと。

 

 そんな気持ちばかりが込み上げて水面に手を伸ばした。

 

「わっ」

「それじゃあ、さようならお兄さん。貴方はゆっくり、ゆっくりと、そうだな、あと最低でも80年くらいはゆっくりと楽しんで、それから死ねばいいんだ」

 

 背中を押された。

 水面に顔が近づいていく。

 

 その背後で、青凪さんの強い声が響いていた。

 

「むしろ、二度と来ることもないかもしれないね」

 

 最後に青凪さんがどんな顔をしていたのかは分からない。

 けれど、きっと彼女も無事に船旅に出ることができるだろう。

 

 そのために、俺は更に強い決意と共に水の中へと手を伸ばした――

 



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奇しくも、それは同じ形で

 ――声が聞こえる。

 

 俺を呼ぶ声。俺を呼び戻そうとする声。誰にも聞かれていないからと素直に感情を表す紅い蝶の願い事が。

 

 体が熱い。目眩がする。左肩の感覚が熱いを通り越して、ほとんどない。

 それでも温もりを感じる右手を震わせ、やっとのことでぎゅっと握り込んだ。

 

「れ、令一さん?」

 

 震えたその声に応えようとしても、声が出ない。喉の奥で血が固まって息もし辛くて、このままいけば窒息していたんじゃないかと思案しながら咳き込む。

 

「ぐっ、げほっ……ぇ、こさん」

「い、いいよ喋らなくて! ちょっと待っていてね」

 

 紅子さんが慌てて俺の口元を拭う。ハンカチには乾きかけた血が付着してしまった。それが申し訳なくて、情けなくて、そしてなにより満足に動かせることのできない体に苛立って首を振る。

 

「水、入れてきてもらうから」

 

 そうして、顔を伏せて逃げるように部屋を出ようとする彼女の腕を咄嗟に掴んだ。

 

「ど、どうしたのかな?」

 

 彼女は顔を逸らしてこちらを見ない。

 多分、泣き顔を見られたくない……とか、そういう理由だろう。彼女らしい。

 だから、俺は動く右手で思い切り紅子さんの腕を引っ張った。

 

「な、なに? どうしたの、令一さん!」

 

 バランスを崩して倒れてきた彼女を、起こした体で受け止める。それから肩に埋められた紅子さんの頭に手を添えて、ぎゅうっと抱きしめた。泣き顔を、見ないで済むように。泣き顔を彼女が見られたくないと思うのなら、俺はそれを尊重するだけだ。

 

「れ、令一さん、あの」

 

 戸惑う紅子さんに構うことなく、そのまま呟く。

 

「俺さ、紅子さんがいなくなったらと思ったら、すごく怖かったんだ。だから、嫌われてもいいから、約束だけは守りたかった」

 

 それに紅子さんが怒ったのは、必然だった。

 

「キミねっ、それで死んだら元も子もないとは思わないのかな!? キミはアタシと違って生きてるんだから、あとがないんだよ? キミが肩を怪我したとき……本当に、本当に死んじゃったのかと思って、アタシは……!」

「それは、青葉ちゃんのときに俺が経験した気持ちと、多分一緒だ」

「え……」

「あのとき、紅子さんが俺を庇って一度死んだとき……ヒヤリとした。君が死んじゃったらどうしようって、もう二度と笑ってくれなくなったらどうしようって、どうしようもなく混乱して、喚いてた」

 

 だから、これでお相子だよなって言いながら、抱きしめていた腕を緩めて笑いかける。

 正面から見た紅子さんの目尻は泣き腫らしたために真っ赤になっていて、眉はいつもよりもずっと下がり弱気な表情をしていた。それが、彼女が絶対に俺に見せたくなかったものだと知りながら、頬に手を添えて「もう、一方的に守られるのは嫌だったんだ」と言う。

 

 あのときは、俺を突き飛ばして紅子さんが一度殺された。

 今度は、俺が紅子さんを突き飛ばして生死の境を彷徨った。

 

 奇しくも同じ形で庇いあった俺達は、ほんの少しだけ似た者同士なのかもしれなかった。

 

「令一さん、死んじゃったかと思って……」

「うん」

「昨日のこと、謝りたいのに、謝れなくて」

「うん」

「キミにだけは、あんなの見て欲しくなかったから。キミにだけは、アタシの弱いところを知られたくなかったから……」

「うん」

「だからっ、あんな酷いこと言って……」

「……うん」

「ご、ごめん……ごめんね……アタシが、アタシのせいでっ」

「ううん、俺のほうこそ。いきなり触れてほしくないところに踏み込んじゃったから、紅子さんを傷つけた」

 

 涙で濡れた睫毛が震える。

 紅い瞳は、反応を怖がるように揺れていて、でも真っ直ぐと俺を見つめていた。

 

「知られる、のが怖いよ」

「大丈夫だよ。俺は逃げたりなんか、もうしない」

「軽蔑、されたくない」

「そんなことにはならない。どんな紅子さんも、紅子さんだろ? いつだって、俺は受け入れて来たよ。知ってるだろ? だから今度も、同じだ」

 

 目を彷徨わせて、それから彼女は目を瞑る。

 不思議となにをすればいいのか分かっていた。

 

 ……ほんの少しだけ動いた悪戯心で彼女の唇に指で触れると、びっくりしたように紅子さんは目を開いて、次いで真っ赤になって腰から逃げていく。

 

「冗談、だ」

「それって、すごくタチの悪い冗談だって分かっているのかな?」

「いつも焦らす紅子さんが悪い」

「い、今はまだ早いかな……」

「いつかは許してくれるつもりがあるのか?」

「…………」

 

 これ以上は怒られそうだ。

 笑って、そっと額を合わせる。アリシアやジェシュと同じ動作。きっとこうだと直感が告げていた。

 

 意識が引き込まれていく。

 そう、受け入れられたからこそ、彼女の赤い、紅い記憶の中に沈んで行く。

 

 ――そのつもりは、あるよ。

 

 意識が完全に沈む前に囁くように言って、紅子さんは目を瞑った。

 



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呪い

 一年生の頃である。その高校にはいじめが存在していた。

 と言っても、いじめられている生徒は見も知らぬ人間で、一人読書をして有意義な時間を送る紅子には対岸の火事。関係のないことだった。

 

 二年生の折、未だ続くいじめに暇な奴らだななどと感想を抱くくらいで、やはり紅子の日常には関係がなかった。

 彼女自身が一人を好むこともあり、ほどほどの付き合い程度しかなくとも、クラスでは成績優秀の生徒だ。挨拶をされれば微笑みを返し、話しかけられれば会話する。普段は読書趣味で一人を好む地味な優等生。

 

 ――それが紅子の称号だった。

 

 その日常が変化したのは、高校二年生の生活も半ばになった頃。

 彼女は始めて、いじめの現場に遭遇したのである。

 

「少しはやめたらどうかな? まったく、その暇を分け与えてほしいくらいだよ」

 

 ほんの少しだけの正義感。

 ほんの少しだけの出来心。

 ほんの少しだけの優しさ。

 

「……余計なこと、しないでよ」

 

 ただそれだけだったのに。

 

 いじめられっ子は助けられたのにもかかわらず、彼女を酷く拒絶した。

 

「……そう」

 

 慰めに伸ばしかけた彼女の腕は降ろされ、ぎゅっと握られる。

 

「それは、悪かったね」

 

 表情を削ぎ落として、紅子は素っ気なく言い。そこを去る。

 

「紅子……さん」

 

 その背中をただ一人、透明な青年が見つめている。

 この記憶の中の世界で、彼――令一は眉を顰めてその姿を見守っていた。

 

 ――親切心なんて、出すんじゃなかった。悲しかった。でも、それを隠した。

 

 紅子の声が響き渡る。

 悲痛なその声に、令一はなにもできずに唇を噛んだ。

 

 場面が切り替わる。

 

 次の日から、いじめのターゲットが紅子に移っていた。

 助けられた少女からは礼もなく、むしろ煙たげにされる始末。

 

 しかし、もしや件のいじめられっ子はマゾヒズムを楽しむ人種だったのかと考察する余裕があるくらいには、彼女はいじめのターゲットにされていても余裕綽々でいた。

 

 一人でいることはむしろ歓迎し、陰口には堂々と皮肉り、荷物は常に持ち歩き、替えを毎日準備し、まるで意にも介さぬという態度を貫いた。

 多少傷ついたとしても、彼女はあまり顔に出す方ではないために気づかれない。

 なにより、元から精神面が強かったのだ。

 

 ――でも、傷つかないわけじゃない。

 

「うん、そうだな。紅子さんは意外と泣き虫だからさ」

 

 ――全部、全部、隠して強がった。そうしたら、状況は余計に悪化していた。

 

 そう、その強さこそが加害者達を煽り、本格的な火をつける原因となってしまったのは必然だっただろう。

 

 場面が切り替わる。

 

「っく、やめっ、やめて!」

 

 珍しく声を荒げる紅子は髪の毛を掴まれ、引き倒され、そうして複数の人間に鋏を向けられている。

 普段は隠された、その怒気を含んだ声に面白がった生徒達が笑う。

 

 そうして、とうとう、彼女を押さえつけて無理矢理髪を切るだなんて事件まで起こった。

 

「……あ」

 

 片方の前髪が切られる。無理矢理に。

 落ちていく黒髪を見つめながら彼女は呆然と呟いた。

 しかし、それも一瞬の出来事である。次の瞬間には表情を消してなにも言わずに走り去る。

 

 そんな事件があった翌日も、そして翌々日も彼女は気丈に振る舞い、まるで気にしていないかのように振る舞った。

 

 ――本当は、泣き出したかった。誰かに、助けてほしかった。でも、そんな〝余計なこと〟をしてくれる人なんて、いなかった。

 

「……」

 

 歯を食いしばり、令一は拳を握りしめてその光景を見守り続ける。

 これは記憶の光景にしか過ぎない。彼女を助けることなど、できるはずがなかった。

 

 助けようと手を伸ばしても、その手はすり抜けてしまって助けを求める彼女に届かない。

 

 誰もいないところで泣きじゃくる彼女を、触れられないと分かっていながら彼はただ空気を抱きしめるように、抱いた。

 彼のことを紅子が知覚することなどないと、分かっていながら。

 

 ――分かっている。分かっているんだよ。

 

 声を上げて泣く彼女に、令一は血が出るほどに手を握りこみながらなにもできぬ己を悔いた。

 

 ――優しさは、罪なんだって。

 

「違う、違うよ紅子さん。優しさは罪なんかじゃない」

 

 ――優しくしても、それは利用されるだけなんだって。

 

「そんなことはない。優しいことに罪はない。紅子さんはなにも悪くなんてないのに!」

 

 ――だから、〝優しい〟なんて大っ嫌い。

 

「紅子、さん……」

 

 ――〝優しい〟は嫌い。縋りたくなってしまうから。利用したくなってしまうから。泣きつきたくなってしまうから。だから、だから嫌いなんだ。

 

「誰かに縋ることは悪いことじゃない。泣くことは悪いことなんかじゃない。お願いだから……そんな悲しいこと言わないでくれよ……」

 

 悲痛な彼の想いは、目の前の少女には届かない。

 

 場面が切り替わる。

 

「あ、あのね。赤座さんすごいね。全然めげないんだもん。だからね、謝ろうと思って……その、他の子に見られると私まで、その、またいじめられちゃうし……私弱いから。赤座さんみたいに受け流すのなんて無理だからさ……」

「で、選んだのがトイレねぇ。それこそ人が来るかもしれないけれどいいのかな?」

 

 不敵な笑みを顔に貼り付けた彼女の、その目の前に立っているのはかつて彼女が〝助けた〟いじめられっ子であった。

 

「だ、大丈夫……大丈夫、大丈夫」

「なにか文句でも言われるのかと思ったけれど……謝罪、ねぇ」

「そ、そう! ごめんなさい。助けてくれたのに、無視なんかしたりして」

「それで? アタシがキミを許せばはい終わり。ハッピーエンドってなる魂胆かな。その謝罪ってさ、〝謝りたい〟んじゃなくて〝許してほしい〟んだろう」

「え、一緒でしょ……」

「ううん、違うねぇ。結局アタシの意思は関係ないんだよ。キミが、キミの自己満足で謝りたいだけ。アタシを言い訳に使わないでくれるかな? そういうのは嫌いなんだよ」

 

 いつもの持論。彼女なりの譲れない一線。

 皮肉を交えて強がる紅子が背を向けた。その顔を、悲しげな顔を見せないようにと。誰にも知られぬようにと。

 

 そうして背を向けたのが間違いだったのだろうか。

 鬼のような形相をしたそのいじめられっ子は、反射的に彼女の背を突き飛ばした。

 

 強く、強く、強く。

 

 ――殺意すら込めて。

 

「なっ」

 

 ぐんっ、と勢いのままに紅子は窓を割りながら落ちていく。

 

 そんな様子を見ていたらしい他の女子生徒がいじめられっ子に駆け寄り、よくやったと励まそうとしていた。

 

 ――ああ、そっか。そんなに嫌われていたんだ。アタシは、いらないんだ。

 

 落ちていきながら、少女は目を瞑る。

 

 ――アタシはあの子が踏ん張る機会を〝奪ってしまった〟から、よくなかったんだ。なら、もう一つくらい奪ってもいいかな? 

 

 奪われるのが嫌いだと。普段から言っている彼女が、死の間際だというのにうっすらと笑う。今際の時にまで強がってみせる紅子に、令一は自分のことも構わずに窓から飛び降りて追いすがった。

 

 たとえ記憶でも、たとえ幻でも。彼女を一人にしたくないからと、その手を伸ばす。

 

 それに気づくことのない紅子は、頭上の割れた窓を見つめながら自嘲した。そう、〝生〟ですらも、他人に奪われたくない。自分の手で。だからこそ、彼女はガラス片を手に取る。

 

 同時に──

 

「キミの罪もアタシが奪ってあげよう。精々後悔して泣けばいいんだ」

 

 〝赤座紅子を殺した〟という、その罪を奪い去った。

 

 ――自殺という形で。

 

 永遠に本当のことも言えず、贖罪することもできず。そうして生きていくようにと呪いをかけた。

 

 故に紅子は他人に選択肢を与える。

 その選択肢を奪って〝余計なこと〟をしないために。

 

 ――余計なこと、しないでよ。

 

 それこそが彼女を縛る鎖。彼女を蝕み続ける呪い。

 優しさを罪だと断ずる彼女の……心に刻み付けられた傷痕なのであった。

 



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指切りげんまん

「ずっと、ずっと、不思議だったんだ。紅子さんは奪われるのが大嫌いで、優しさが大嫌いで、俺はいつだって君にとっては不合格。なんでなんだろうって思ってた。今までは、知らないままでもいいって思っていたことだよ。傷つけるくらいなら見ないふりをしようと思ってた」

 

 額を合わせ、目を瞑ったままに呟く。

 すると、すぐ間近で彼女の細い声が独白するように囁いた。

 

「ずっと知られたくなかった。そう、キミにだけは。アタシはか弱い女の子なんかじゃないって思っていてほしかった。弱いアタシなんて、見てほしくなかった。他の誰よりも、キミにだけは……それは多分、受け入れられなかったらどうしようっていう不安があったから」

 

 目を瞑ったまま。一番近くにいるはずなのに、遠く、遠い位置から歩み寄るように言葉を交わし合う。

 

「君を受け入れる決意なんてとっくにしていた。でも、踏み込むのが怖かった。俺が踏み込んだら最後、紅子さんの心まで傷つけて、それでこれまで通りの関係でいられないのかと思ったら、一歩も進めなくなった」

 

 他愛ないことで笑って、からかわれて、からかい返して……好意を真っ直ぐとではなく、回りくどく曲げて伝える関係。そんないつも通りの関係が崩れてしまうことを俺は恐れていた。

 

「キミは優しいから、きっとアタシを拒絶しないことなんて分かっていたよ。でも、あいつらのようにキミの優しさにつけ込んで、縋り付きたくなるアタシ自身が許せなかった」

「それはな、優しさにつけ込む……とは言わないよ紅子さん。それは、甘えるって言うんだ。利用する、しないは関係ない。信頼の証だ。人は一人で生きていくことはできない。だからこそ支え合うんだって言うだろ? そして、それはきっと間違いなんかじゃないんだ」

 

 目を開く。

 紅子さんは瞼を震わせて、しかしその美しい紅色を見せずに歯を食いしばっている。嗚咽を堪えるような仕草、目尻から僅かに流れる雫。

 ああ、また泣かせてしまったなんて思いながら彼女を見つめる。

 

 目を瞑ったまま、座っていても俺を見上げるような形になる彼女の表情。

 どうしようもなくその頬や額に口を寄せたくなる気持ちをグッと押さえつけ、右手を頬に添える。

 ピクリ、とほんの少しだけ震えた彼女は覚悟を決めたように目をぎゅっと瞑っている。

 でも、でも……だ。そういうのはさ、やっぱり許可を得てからというか……覚悟を決めている紅子さんには悪いが、ここは俺が我慢するべき場面だと思うんだよな。

 

 だから――。

 

「んっ」

 

 頬から右手を離し、人差し指と中指をくっつけて彼女の唇に触れてその上から口を寄せる。

 そしてバッチリとその紅い目を開いた紅子さんと目が合い、みるみるうちにその顔が朱に染まっていく。

 

「れ、令一さん……このっ、意気地なし……っ」

「ごめん、ほら、まだ付き合ってもいないし……そのときは、まだなんだろ?」

「こんのっ、童貞! 夢を見過ぎなんじゃないかな!?」

「紅子さんだって経験ないくせに。いつもは夢で襲われても逃げてるんだろ?」

「――っ、赤いちゃんちゃんこっ、着せてやろうかなぁ!?」

「先に下ネタ言ってきたのは紅子さんだろ!」

「うるさいっ、くそっ、もうっ、こんなのアタシじゃないっ!」

 

 グルグルと目を回して頭を抱える彼女に苦笑する。

 俺達も随分と進歩したなあ……なんて思いながら。

 相変わらず左肩は動かないが処置してくれた人がいたのか、極端に動かそうとしなければ不思議と我慢できる痛みだし、紅子さんもその辺は配慮してくれているようで言葉で遊ぶだけに留まっている。

 元々口だけで暴力に走るような子ではないが、俺も散々に煽っているため一回引っ叩かれるくらいは覚悟していたわけだが……彼女のその自制心はさすがと言える。

 

「どうせ応えてはくれないだろ?」

「……うん」

 

 視線を逸らす。

 分かっている。だから、肝心なことは後に残しておくべきだ。

 彼女を完全に囲い込んで逃げられないようにしてからでないと、告白した途端に手の中から逃げ出してしまうから。

 ……そう考えると、俺も中々にひどいことをしている。やっていることはもしかしてあの蜘蛛達と変わらないんじゃあ……いやいやいや、そんなことはない、よな? 

 

「とにかく、俺はちゃんと約束を守るよ。君を守りたい。守らせてほしい」

「本当にクサい台詞。よくもそんな言葉を恥ずかしげもなく言えるねぇ……」

 

 ふいっと顔を背けて、そしてくすりと笑った紅子さんがふわりと、軽く軽く、正面から俺に身を預けてくる。

 痛みが走らないようにと、本当に軽く。顔を寄せて擦り寄るように。

 

「こんなに愛されちゃったんじゃあ、仕方がないかな」

 

 どこかの誰かさんが言った言葉を借りて彼女が微笑む。

 彼女自身の言葉ではなく、他人の言葉を借りたそれにもどかしさを感じつつも俺は受け入れる。

 

「だから、紅子さんも無茶しないように」

「約束してもいいけれど、ひとつ付け加えさせてもらうよ」

「なにがお望みかな?」

 

 目を閉じて猫のように甘える彼女に尋ねる。

 

「令一さんも、もう無茶をしないように。キミが死んじゃったら、きっとアタシはもう生きていけない」

 

 ――もう、死んでるんだけれどね。

 

 そんな風に自嘲する紅子さんに「分かった」と返事をする。

 

「約束だ。俺は君を守るよ。そして、もう無茶をしないし、死んだりしない」

「約束。アタシは守られて、大人しくしている。無茶もしない」

 

 俺の懐の中から身を起こして、紅子さんは小指だけを伸ばして右手を差し出す。それに俺の右手の小指を絡めて指切りげんまん。

 

「怪異との明確な約束は絶対だよ? いいの?」

「分かっていてやってるんだよ」

 

 それは一種の契約のようなもので、破れば怪異は誓いを破った相手を害することができる。悪魔の契約と一緒だ。

 でも、破っても紅子さんなら精々一発殴られるくらいかな。

 

「残念、破ったりなんてしたら恥も外聞もなく、人前で泣き喚いてやるんだから」

「あー、それは絶対に破れないな」

 

 紅子さんの他人に見()られた()くない()表情()は、俺だけが知っていればいいんだ。

 



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作戦会議、開始!

「……その、落ち着いた?」

 

 涙は……とは言わずとも分かったのか、紅子さんは頷いた。

 目元がほんの少しだけ赤くなっているが、それを手で拭って彼女は立ち上がる。切り替えが早いことで。

 

「お兄さん、隣の部屋で透さんとアリシアちゃんが待ってる。アタシ、呼んでくるよ」

「ああ、それなら俺も……いったっ!?」

「お兄さん!?」

 

 さっきまではずっと「令一さん」と呼んでくれていたので、呼び方が元に戻ってちょっとだけ残念に思いつつも俺も立ち上がり……かけて、ベッドに逆戻りした。

 さすがに立ち上がったりなんかしたら、ものすごい痛みが走るか。

 これは絶対に(あばら)が折れている。左肩は鋭く太い爪で貫通して穴が空いている状態だし、何メートルも上から振り落とされたんだ。今失血死していないのがおかしいくらいの大怪我をしているのである。

 

「アタシが呼んでくるって」

「いや、いくら資料館の中でも紅子さんを一人にするわけにはっ、いったたたた!」

「鴉のお兄さんはここなら安全だって言っていたけれど……」

「俺の気持ちの問題なの!」

 

 そこだけは譲れない。万が一があるのだから、そこだけはもう譲れないんだ。

 

「きゅーきゅいー」

 

 俺達が言い争っていると、見かねたのか刀剣の状態から変化したリンが呆れたように鳴き声をあげた。

 そしてふわりふわりと俺達に近づいてくると、ベッド下に置いていた荷物からスマホを持って浮かび上がる。

 

 

「きゅうー」

「その手があったか」

「……あー、忘れていたよ」

 

 俺達が行くんじゃなくて、チャットで呼べば良かったのだ。

 紅子さんは視線を逸らして気まずそうに声を漏らす。二人して焦っていたせいか、その可能性に思い至らなかったことで恥ずかしくなってしまったらしい。

 

「待ってね、アタシが打つ」

「頼む」

 

 リンがふんすっ、と得意気に鼻を鳴らして俺の右隣に降りてくる。

 

「ありがとうな」

 

 顎の下を指先でくすぐれば、リンは気持ちよさそうに目を細めて俺の手にその頭を押し付けた。もっと撫でろとアピールする猫みたいだ。役に立てて嬉しいのか、それとも俺を心配してくれていたからなのか……多分どっちも、かな? 

 

「すぐに来るって。あと、華野ちゃんも一緒にいるみたいだから呼ぶよ」

「うん。華野ちゃんにも訊きたいことはあるし、それに俺も言いたいことがある」

「うん? なにかあったっけ」

「村の皆は閉じこもって外に出てこなかった。もしかしたら、こうなるのが分かっていたんじゃないかと思ってさ。紅子さん以前に予知されてる人がいたのかもしれない。それと、昨日の夜……あのあと、詩子ちゃんの記憶を完全に視た」

 

 紅子さんが目を見開く。

 

「全部視た……って、どういうこと?」

「キッカケは分からない。鈴の記憶とウロコの記憶を視たからなのか……それとも詩子ちゃんが無意識のうちに見せてきたのか……俺にも分からないんだけど、夢で見たんだよ」

「……なるほど、詳しくは全員が集まってからだね」

「ああ、この村の真相にも大分近づいているはずだ。だから、だからきっと守ってみせる」

「そんなに何度も言わなくても分かっているよ。約束を忘れたりなんてしないって」

「……そうだよな。うん、分かってる」

 

 コンコン。ノックの音が響いた。

 すると紅子さんがリンを肩に乗せ、扉を開けに行く。リンは自主的に彼女のところに行ったから、多分俺が心配しないように護衛のつもりでついて行ってくれたんだろう。

 扉が開けば、心配そうな顔をした透さんやアリシアが顔を覗かせた。

 それから俺達の様子を見て安堵したような表情になる。

 

「心配かけて、すみません」

「ううん、無事なら問題ないよ。紅子さんを悲しませる人はたとえ死人でも俺は許さないからね」

 

 なんてことを言うんだこの人は。

 しかし透さんの言葉で張り詰めていた空気が少しだけ緩和したのも事実である。これを天然でやっているから末恐ろしいなこの人は。

 

 華野ちゃんも間の抜けたような……複雑な顔をして部屋に入ってくる。

 

「紅子さん、彼はまだ帰って来てない?」

「うん、まだだね。まあ、帰ってくるまでにお兄さんが手に入れた情報を聞こうか。どうやら、また詩子ちゃんの記憶を視たらしい」

 

 彼? ……、まあいいや。あとでそれは訊くことにして、今は詩子ちゃんの記憶についてだな。

 

「あ、ホットココアあるので飲んでくださいね」

「……それ、わたしの役目」

「いいじゃないですかー」

 

 アリシアがジト目をする華野ちゃんに笑いかけつつマグカップを配る。

 そして一息ついてから俺は口を開いた。

 

「これから、作戦会議といこう」

 

 こうして、俺達は大蜘蛛の神様攻略法を話し合い始めるのだった。



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偽物のおしら神

「まずは結論から言わせてもらうぞ」

 

 全員をぐるりと見回し、俺は言う。

 

「神社の神様は、偽物のおしら神だ。そして、本物のおしら神は……」

「詩子ちゃん、だね」

 

 透さんが俺の言葉を受け継いで頷く。

 

「詩子が?」

 

 それを受け、華野ちゃんが目を丸くして驚いていた。

 無理もないと思う。俺達は外からやってきて思い込みが強くなる前に白い幽霊と神社のナニカについて紐解くことができたが、華野ちゃんには長年で染み付いた思い込みというものがあった。それはある意味で信仰のようなものである。だからこそ、あの神社のナニカは力をつけて厄介になっているのだ。

 

「昨日……俺は詩子ちゃんの記憶を視た。多分、鈴の記憶と薔薇色のウロコの記憶を視たから……それがきっかけだったのかもしれないが、ともかくなにがあったのかを視た」

 

 そうして説明するのは、詩子ちゃんには元々予知する力と人を治癒する力があったこと。予知の内容は覆すことのできないものだったこと。そして、ある日妹が予知で亡くなることを知ってしまったこと。

 アルフォードさんと出会い忠告されたものの、それを聞かずにいた彼女は黒い法師の入れ知恵によって『神様』として祀り上げられることになってしまったこと。

 そして『神様』になれば予知を覆せるかもしれないという希望を持って、自ら罠だと知りつつも死地へと向かったこと。

 それでも、痛みと苦しみで祟り神となってしまったこと。

 

 剥がれ落ちていく記憶を繋ぎとめながらも、妹の命を救い、予知を覆したこと。

 

 それら全てを……語った。

 

「それで本当に神様になってしまうのだから、人間ってすごいねぇ」

「ふっふっ、どんな聖人でも死ぬときは怖いし、神を呪うものなのさ」

 

 目を細めた黒猫が嗤う。

 

「こらっ、あなたはジェシュでしょう。引き摺られないの」

「……うむぅ、ごめんアリシア」

 

 しかし不快気な表情をした華野ちゃんにいち早く気づいたアリシアが、膝に乗せたジェシュの頭を軽く小突いて叱った。

 どうやら今の言葉は邪神としての心が動いて出たものらしい。普段と殆ど変わらない黒猫だからこそ、たまにこうして邪神らしい場面を見ると緊張するな。

 気配は神内と同じものだから、俺としても落ち着かない。

 

「なら、あのおしら神様はいったいなんなのかしら?」

「あれは恐らく……身代わり雛の付喪神と、詠子さんだと思う。紅子さんを襲いに来ていた女の子が、夢で見た詠子さんとそっくりだったからな。それに、詩子ちゃんとも似ているし、ちょうど髪の色が華野ちゃんとも似ていた」

 

 菫を想起させる黒髪。矛盾しているようだが、そんな髪がこの子達の特徴だ。血筋なだけによく似ている。

 

「詩子の妹さんが……? どうして偽物の神様なんかに」

「それに、まだ彼女達が〝心〟を欲する理由もはっきりしないね。令一くんが頑張ってくれているから、手がかりはかなり多いと思うんだけど……」

 

 本当にな。

 俺が月夜視をできるようにならなかったら、訳もわからず神殺しを成し得る必要があったかもしれない。

 それを考えると、アルフォードさんは俺が才能を開花させることを分かっていて派遣したとしか思えない。あのヒト、一体どこまで見透かして行動しているんだ。

 今回、初めてアルフォードさんのことを俺は怖いと思った。神様だというのは理解していたが、あまりにも人間臭いから実感は湧いていなかったのだ。

 まだまだあのヒトのことを知らなさすぎた……ということみたいだ。

 

「俺達じゃなかったら、詰み……か」

「ま、それだけ信頼してくれてるってことだよね。ここの神様は範囲が限定的だからまだなんとかなってるけれど、祟り神だから街に行ったりしたら大変だし……多分最善手として令一くんを選んだんだよ」

 

 そう言われると照れるが、現段階で大怪我をしている俺がこれ以上役に立てるかどうかは微妙だな。

 

「付喪神のほうの目的は〝死にたくない〟ってことだから、自分達が本物に成り代わってやろうって思っていても……まあ所詮知識の浅い付喪神だからありえなくはないかな。狭い世界で生きていたから、持ち主に成り代わったりなんてしたら存在意義の損失で消滅しかねないってことは知らないかもしれないよ。普通は本能で分かるはずなのだけれど」

 

 紅子さんが解説代わりに推測を話す。

 しかし、そうなるとますます〝心〟を求める理由が不明瞭だな。

 

「っていうことは、心を欲しがっているのは人形じゃなくて詠子って人になるんじゃないですか?」

「……ああ、なるほど。そうなるね」

 

 透さんが頷く。

 俺達も納得してアリシアの推測を受け入れた。

 

「それぞれ別の目的があるのかしら……それとも重なり合っているのか」

 

 悩ましげに華野ちゃんが唸る。

 もう彼女の中では詩子ちゃんこそが神様だという認識に切り替わっているだろう。元々詩子ちゃんとは交流があったわけだし、姉のように慕っていたのならその信仰は大きく作用する。詩子ちゃんの力になってあげられるはずだ。

 これが全て終わったあと、詩子ちゃんは彼女を拠り所にするだろうし……そうしたら同盟で保護することになるのかな。

 

「手っ取り早いのは、レーイチがエーコを月夜視することだよね? 神社にエーコの人形があればできるんじゃないのー?」

 

 ジェシュが口を開いて、そんなことを言う。

 

「お兄さんが最後の一撃を食らわせたときに鈴と組紐が落ちたと思うんだけれど、それは?」

「今、ここにあるか?」

「うん、これ」

 

 シャラン。鈴が鳴る。組紐は確かに、詩子ちゃんのものとそっくりだった。

 紅子さんから受け取って集中してみる……が。

 

「……視えない、な。なんというか、空っぽ……っていうのか? 中身がないみたいに、なにも視えない」

 

 まるで中身がどこかに移されているような、そんな感じだった。

 

「そっか……なら、やっぱり神社の人形なのかな」

「これの記憶が視えない以上、それが一番だとは思うけれど……俺、歩くのも今はきついから役に立てそうもないんだが」

「そのためにカラスを使いに出してるんじゃないの?」

 

 ジェシュの言葉に目を丸くする。

 

「カラス?」

「あ、言ってなかったね。前に会った鴉天狗のお兄さん、いるでしょ? あのヒトがキミの怪我をなんとかするための薬を萬屋に取りに行っている最中なんだよ。どうやら最初から監視されていたみたい」

 

 紅子さんの言葉に納得する。

 そうか、そりゃそうだよな。俺もまだまだ未熟だし、本当にこの村の問題を解決できるかアルフォードさんが見張っていないわけがないか。

 ということは、俺や紅子さんがこうして無事に資料館に戻って来れたのも彼……刹那さんのおかげか。助かった安堵で、誰が助けてくれたのかという点をすっかり失念していた。

 

 確かに意識を失う前、彼の声を聞いた気がしたな。

 

「あれ、でもアルフォードさんの声も聞こえたような……?」

「あー、なに言ってるの? 助けてくれたのは鴉のお兄さんだけだよ。萬屋の道具で蜘蛛達を目潰ししてアタシ達を資料館まで誘導してくれたんだ」

 

 紅子さんの目が泳ぐ。なにかまた隠していそうだが……そう思って視線を透さんやアリシアに向けてみるが、透さんはホケホケと笑っているだけだし、アリシアも目をサッと逸らしてくるし……皆でなにかを俺に隠していることは一目瞭然というかな……まあ、言えないことならそれはそれで仕方ない。

 少なくとも知らなくて不味いことを隠しているわけではなさそうだし。

 

「そういうことにしておく。なら、あとは刹那さん待ちをして、俺が回復したらもう一度攻めに出る……と。そういうことでいいのか?」

「そのときはあたしも行きます。神社に行って詠子さん本人か、詠子さんの人形を探せばいいんですよね」

「そうだね。アタシは――」

「約束」

「……うん、約束は守るよ。無茶しない」

 

 バツが悪そうに紅子さんが目を逸らす。

 紅色の瞳は自分自身の不甲斐なさを責めているように揺れていた。

 

「役割分担だよ。紅子さんは俺が無事に帰ってくるように祈っていてくれよ。君に応援されたら俺も力が出る。それでもなにかやりたいって言うならそうだな……えっと、華野ちゃんと一緒にさ、紅子さんの作った料理が食べたいなって」

 

 待っているだけでは絶対に納得しないであろう彼女に提案する。

 こういう、後に続けるための会話は死亡フラグってやつなんだろうが、そうはさせない。

 紅子さんは俺の提案にびっくりしたように目を見開くと、不安そうな表情をした。

 

「いいの? アタシ、そんなに得意じゃないよ。だってお兄さんのほうが料理上手いのに」

「なに言ってるんだよ。好きな人が作った料理はどんな店のよりも美味いに決まって……」

「……」

 

 俯いてしまった。

 

「しまった、今のなし。まだ告白なんかじゃないからな。口を滑らせただけで」

「……分かってる、よ…………この卑怯者」

「と、とにかく……紅子さんの手料理が食べたいから作って待っててくれ」

「これ、わたしいらないんじゃないの?」

「待って華野ちゃん。アタシ本当に不器用だから、ほんの少しでいいからやり方を教えて……この際、みっともない料理なんて出したくないから」

「あ、あたしも紅子お姉さんの料理は食べたいですからね! 楽しみにしてるんですから!」

「ありがと、アリシアちゃん……」

「はわっ、紅子お姉さん可愛いすぎます……恋する乙女が綺麗になるってこういうことなんですね……」

 

 呟くアリシアに、ますます紅子さんは縮こまって首を振った。

 もう赤いところがないんじゃないかってくらいに照れて俺達の輪から外れて壁に向かってしゃがみこんでいる。

 

「こんなのアタシじゃない……っ!」

「そっとしておいてあげようね」

 

 透さんの言葉に苦笑する。誉め殺しにしすぎたかもしれない。全員本音でことを言っているからこそタチが悪いな。

 

「透さんはどうする?」

「俺が一番奥まで神社を見ていることだし……多分詩子ちゃんに似ている人形にも心当たりがあるよ。詩子ちゃんの人形が祠にあったのなら、神社にあったのはきっと妹の詠子さんの物だと思う。案内するよ」

「えっ、大丈夫なのか? あの蜘蛛……結構厄介というか」

「うん、いけるいける。君たちの邪魔にならないように立ち回ればいいんだよね? 自分に降りかかる火の粉くらいはちゃんと払うよ」

 

 一般人、とは。

 この人本当に一般人なんだよな? そうなんだよな? 慣れすぎじゃないか? 

 

「まあ、なんとかなるよ」

「そ、そうか」

 

 断れないなにかを感じる。

 ……と、ここまでで作戦はある程度決まったな。

 

 紅子さんと華野ちゃんはお留守番。

 俺とアリシアとジェシュ、それに透さんで神社に特攻。

 

「月夜視のために人形を手に入れたら、あとはすぐに戻ろう。万全な状態で偽物のおしら神には挑むんだ。いいな?」

「分かりました。目的のものを入手したらすぐに蚊トンボ返りですね」

「アリシアちゃん、蚊トンボじゃなくてトンボだけでいいんだよ」

 

 そこ、今気にするところだったか? 

 

「ああそうだ、華野ちゃん。聞きたいことがあったんだけど」

「なにかしら?」

「その……今日、霧が出てあの神様が出張ってくるのって前から分かっていたのかなってさ」

 

 村人達が外に出ていなかったことといい、タイミングが良すぎる。もしかしたら霧が出ている日は外に出てはいけないなんていうルールがあるのかもしれないが、華野ちゃんから注意されたのは霧が出ている間は吊橋を渡ってはいけないという話だけだし、辻褄が合わないんだ。

 

「知ってたわ」

 

 息を飲む。

 

「土砂崩れの予知が、詩子とおしら様、どちらからもあったから」

「……ちなみに、予知を受けた人の名前は?」

「名前? えっと確か……加賀村(かがむら)青磁(せいじ)だったかしら」

 

 その名前は、あの人形神社でぬいぐるみの背中から飛び出していた木の板に書いてあったものと同じだった。

 辻褄が……合ったのである。

 

「そうか」

 

 ということは、屋根の上で解体されていた人は……いや、気にしても仕方ない。華野ちゃんだって、悪意を持って隠していたわけじゃないだろうし。

 

「じゃあ、後は刹那さん待ち――」

 

 そこで、窓がコツコツと叩かれた。

 それに反応して窓を見ると、そこには一羽の鴉天狗。大丈夫、本物だ。

 窓を開けて招き入れ、すぐさま閉めきる。

 華野ちゃんがますます頭が痛そうにしていたが、もう慣れてくれとしか言えない。

 

「お、旦那もお目覚めか! 良かった良かった、薬届けに来たぜ」

 

 そう言って刹那さんはにこやかに手に持ったカゴから桃を取り出したのだった。



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仙果の効能

「おう、旦那。起きてていいのかい?」

 

 桃らしきものを持ったまま、刹那さんが言った。

 

「もう一度寝ようとしたらそれはそれで痛いっていうかな……」

 

 一度起き上がらせてしまったので、下手に身をよじろうとするときつい。

 

「おー、そうか。アル殿からキッチリと薬は貰ってきた。それと、終わったあとの救援も頼んで来たが……まあ多分、すぐには寄越されないだろうなあ……」

「え、なんでですか?」

 

 刹那さんが目を逸らす。

 説明しあぐねるように彼はあー、だとかうーだとか言うと、チラリと俺の肩に乗ったリンに視線を移してため息をついた。

 

「あんたの成長のためには救援は余計なんだと」

「でも、それで紅子さんが危ない目に遭ったらどうしてくれるんですか!」

「……悪ぃな。俺も色々言ってみたんだが、『今のままじゃニャルくんの呪いに太刀打ちなんてできないけど、いいの?』って言われちゃあ、あんたもなんにも言えないだろ?」

「……それは」

 

 言い淀む俺に刹那さんは苦笑して言葉を続ける。

 

「これは伝言なんだが、あんたは守るべきものがあるときのほうが伸びがいい。普段の鍛錬じゃ、その刀剣の力を引き出せねぇだろ。なんせ、格上相手にこそ効果がある武器だからな。心当たり、あるんじゃないかい?」

 

 思い出すのは、先での戦い。

 俺は直感に従いながらリンと視覚を共有するようになり、温度を見ることで霧に紛れた蜘蛛を見分けた。それにリンの刀剣化と竜化で使い分けたり、決意を炎に変えて蜘蛛の糸を焼き切ろうとしたのだって初めて行ったことだった。

 それらは全て戦いの中での思いつきで行動し、そして実現させたことである。

 普段鍛錬していたとしても、きっとその発想の一端も出てこなかったに違いない。

 

「……一理ある」

「だろ? ま、やれるだけやっておけばいいんだ。俺はまるで役に立たんからな。また空で様子を見ながら道具を使って支援してやるさ」

 

 彼が言うには、烏楽(うがく)の鴉天狗は総じて戦闘能力と言えるものがないらしい。その代わり他者を惑わす術に長けているが、害することができない。

 だから彼は情報を集める新聞屋をしながらいくらかの監視役も担っているんだとか。

 

「それで、鴉のお兄さん。薬は? もしかしてその桃が?」

「そう焦んなって。まずは忠告だ」

 

 刹那さんは桃のような果物を手にしたまま俺に差し出すと、指を一本立てて口を開く。

 

「これは仙果。豊穣神の神使(しんし)が大切に、大切に育てた霊力たっぷりの果物だ。そう、これを食えば豊富な霊力が循環して体の痛みなんて気にならなくなるほどな」

「……それって薬と言うより、なんだかドーピングみたいだね」

 

 透さんが困ったように言う。まさにその通りだ。

 刹那さんが忠告するということはつまり、デメリットがあるということなのである。

 

「普通はこれをすり潰してジュースにするなり加工するなりして痛み止めにしてるらしいんだが、あんたの症状を話したらこれをそのまま持っていけと言われちまってな。これを食えば二日くらいは痛みと無縁になれる。が、その後は痛みが三倍になって帰ってくる代物だ。効果はテキメン。だが使い続けないと意味はねぇ。元々は神々の食いもんだからな。貰えたのは一つだけだ」

 

 刹那さんの金色の目は俺に「それでも食うか?」と問いかけている。

 確かにデメリットが重い。

 

 ……けれど、それがなんだ。この場にいるアリシアは肺を貪り食われる痛みを耐えきった。俺だって、覚悟を決めることくらいできるんだ。

 

「貰おう」

「お兄さん、安心して。お兄さんが反動の痛みで動けなくなったらアタシが付きっ切りで看病してあげるから。そう言えば、頑張れるかな?」

「あはは、もちろん」

 

 これは俄然やる気が出るな。

 こんな紅子さんは今のうちだけだ。堪能しておかなくちゃ損だ損。

 

「ま、旦那ならそう言うと思ったよ」

「いただきます」

 

 受け取って、どう見ても桃にしか見えない果物をかじる。

 いや、桃じゃん。味も普通に桃だった。育てかたが特殊だとか、そういうことなのだろうか? 

 

 でも、一口かじるたびに体の痛みが引いていくのを実感する。

 半分ほど食べ終えれば、既に折れていたはずの(あばら)の痛みも、貫通していた左手も動けるようになっていた。

 

「すっご……」

「痛みがねぇだけで大怪我なことは変わらねぇからな。それだけは忘れるんじゃねーぞ、旦那」

「ありがとう、刹那さん」

「痛みがないからって触覚がなくなったわけじゃねぇ。今の大怪我が緩和されてるだけだ。これから受ける怪我や痛みは緩和されないのを覚えておけよ。桃一個じゃ既にある怪我の部分に霊力を回すのにやっとのはずだからな」

「それでもありがたいよ……これでリンとまた戦える」

「きゅう」

 

 肩に乗ったリンが嬉しそうに鳴いた。

 

「それじゃ、そろそろかしら?」

 

 華野ちゃんが言う。

 俺は左手を握ったり開いたりして違和感がないことを確認し、立ち上がった。

 

「そうだな、そろそろ行くか」

「それじゃあベニコ。あんたはこっち。料理教えて欲しいんでしょ」

「あ、うん。ありがとう華野ちゃん」

「ふんっ、村の不始末を他所(よそ)のあんた達に任せるんだもの。これくらいは当前よ」

 

 華野ちゃんもまったく、素直じゃない。

 出て行こうとする紅子さんと目が合う。その瞳は心配そうに揺れていたが、俺は笑って軽く手を振る。

 すると彼女ははにかんで同様に手を振った。

 

「行ってくるよ」

「行ってらっしゃい」

 

 俺達のやり取りを眺めていた透さんとアリシアが立ち上がる。

 そして、二人がいなくなったあとの部屋で三人揃って真剣な瞳で意思を確認しあった。誰一人として怯えを滲ませた人物はいない。

 ただあるのは闘志。そして、守りたいという意志。

 

「作戦……開始ですね」

「ああ」

「頑張ろうね」

 

 アリシアの言葉とともに歩き出す。

 刹那さんはそんな俺達を一瞥してから、窓から外へ出ていく。しっかりと閉じられたそれに鍵をかけ、俺達も外へ向かう。

 

 作戦はただひとつ。

 蜘蛛を蹴散らしながら神社を目指し、詠子さん本人か、彼女の人形を探すこと……だ。

 



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曇りのない刃

「アリシア、ジェシュとの連携は大丈夫か?」

「もちろんですよ。玄関に来る前、華野ちゃんにチョコレートもらってきました。ジェシュが言うにはこういうのも霊力の回復に繋がるらしいですし、大きくなったジェシュに乗って走ることなら30分くらい維持できるようになりました」

 

 得意気に胸を張るアリシア。

 

「それ、本当か。すごいなこの短時間で」

 

 まだジェシュとの和解からそれほど時間は経っていない。

 なのにジェシュの黒豹化をしてすぐへばっていた彼女は、既に30分もの維持ができると豪語しているじゃないか。これは本当にすごいことだぞ。

 

「俺のことは気にしないでね。一応、靴は安全靴だし……刹那さんに少しだけ萬屋の道具を分けてもらったんだよね。俺は令一くん達の後方から向かって行くから、気にせず走り抜けて行ってほしいな」

 

 一番心配なのはもちろん透さんなのだが、なんかこの人がやられる想像はつかないんだよなあ。対処法もなにも持っていないはずなのに、おかしいな。

 

「神社に入ってからは案内するけど、それまでは別行動で」

「分かったよ、透さん」

 

 謎の安心感があるよな、彼。まさに兄って感じ。

 

「リン、準備はいいか?」

「きゅううん」

 

 刹那さんが言っていたように、リンは俺と共に成長していく刀剣なんだ。俺が望めば、できることが増えていく。俺の発想次第で、リンは成長していく。

 だから俺は直感のままにリンへと指示を送ればいい。

 

 リンの竜化と刀剣化、竜の口から吐き出される炎を纏った赤竜刀、そして鞘の実体化。きっとまだまだやれることはあるはずだ。それを少しずつ試しながら進んで行こう。

 

「行くぞ」

「はい」

「うん」

 

 タイムリミットは最低でも30分くらい。

 アリシアがジェシュを黒豹化させていられる時間がそのくらいだというし、やはり逃げる手段は必要だからな。行きはジェシュも人型状態で彼女を守ってくれるはずだが、帰り道は黒豹化で一気に駆け抜けて行ってくれたほうがいい。

 

 そして、三人と一匹で駆け出していく。

 黒猫が足元で黒い煙に覆われていき、白い霧を吹き飛ばして人型に変化する。

 片手でアリシアを抱え上げ、異形の片手で襲い来る蜘蛛を爪で切り裂いていく。

 

「リン」

「きゅー」

 

 地面を蹴る。

 目が熱い。

 

「感知」

 

 言葉のスイッチで視界が切り替わる。

 リンとの同調で目が冴えているのだ。霧の中、無数の熱源反応を確認。

 けれど、こちらに向かってくるもの以外を無視して、正面の道を開けることを優先する。透さんが通れる道を作ることだけを考えろ。

 

 シュルルル、と音と同時に横っ飛びして糸を引っ掴む。

 それから自身の方へと力いっぱいに引っ張り、引きずられて木の上から落ちてきた蜘蛛の頭蓋を砕いた。中から人形らしきものが転がり出てきて、霧となって散っていく。

 

 人形なんて入っていたのか。

 そんな感想を置き去りに、前へ進んだ。

 

「鞘」

「きゅいっ」

 

 前方から飛び交ってくる蜘蛛を左手の鞘で防ぎ、右手で斬りあげる。

 それから背後に目をやって、ぐるりと体を回転させて赤竜刀を投げた。

 

「あ、ごめんねありがとう令一くん!」

 

 赤竜刀が一匹の蜘蛛に刺さり、次いで竜化したリンが俺の手元に戻ってくる。

 追ってきていた透さんは踵落としで一匹の蜘蛛の頭蓋を割りながら、こちらに手を振った。彼の元に複数匹集まっていたから、さすがに対処しきれないだろうと思って赤竜刀を投げたのだった。

 

 いや、それにしても足技で対処できる透さんはやっぱり色々とおかしい。

 委員長的なその見た目で爽やかな笑顔を浮かべている。

 もっと蜘蛛の見た目で怖がったりさ、ほら、しないの? 俺はめちゃくちゃビビったよ? 

 

「遅くてごめんね!」

 

 謝るのそこじゃないから! というか謝らなくていいから! 

 普通は守られていないと安全に移動できないような中で平然と突き進んでくる透さんがおかしいんだからな! 

 

「やあ!」

「上手い上手い、すごいよアリシア! 一撃必殺だ!」

 

 ジェシュが激しく動いて片手で迎撃する中、アリシアは背後から襲い来る蜘蛛の眼窩に十字架ナイフを突き刺して対処する。

 すると頭蓋が壊されていないのにも関わらず蜘蛛がひっくり返って霧になった。ジェシュの言う通り、まさに一撃必殺の技であった。

 

「令一さん! 透さん! どうやら頭蓋骨の中身が本体のようです! そこが狙い目ですよ!」

 

 中身。つまり人形か? 

 そうか、本体は人形で、あくまで周りの肉塊やら頭蓋骨やらは鎧のようなものなんだな。ということは……この蜘蛛を構成している体は犠牲者達の体から成っている可能性があるということで。

 

「はあっ!」

 

 頭蓋を叩き割ることよりも、眼窩に突きを食らわす方針に切り替える。

 すると今まで硬いものを砕いて軋んでいた赤竜刀は、あっさりと中身を刺し貫いて力をそれほど入れずに対処できるようになった。

 

「糸っ、同じ手は食らわねぇよ!」

 

 斬れるか? 

 そんな一瞬の迷いを力に変えてリンに呼びかける。

 

「焼き切れぇ!」

 

 ぶわりと、薔薇色の炎が揺れる。

 不思議と熱を感じないのに、刀剣に纏ったその炎は前回と違い、実にあっさりと蜘蛛糸を焼き切った。

 

 あのときの俺には迷いがあった。

 紅子さんに拒絶されるのではないか、彼女に嫌われてもいいから我武者羅にならなくては、そんな雑念が思考を支配していて、決意に陰りが見えていた。

 

 だからこそ、今の俺は違う! 

 

 もう迷わない、もう躊躇わない。

 この霧の中でさえ、思考に曇りはない。

 

 約束を果たす! 

 

 ただそれだけを胸に俺は赤竜刀を振り上げた。

 

 ――吊橋まであともう少し。



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霧満ちる人形神社

 流れてゆく景色の中、いよいよ吊橋まで辿り着く。

 

「……気持ち悪い」

 

 吊橋は沢山の蜘蛛達によって様子が一変していた。

 木の板でできた橋は全体が蜘蛛糸に覆われ、どう頑張ってもあそこを通る際に足を絡め取られる未来が見える。

 

「ここで、諦められるかよ」

 

 研ぎ澄ませ。決意を。

 俺の心と呼応するようにチラチラと燃え上がる薔薇色の炎が勢いを増す。

 そして、ありったけの決意を込めて全力で赤竜刀を投げた。

 

 橋の手前に突き刺さった赤竜刀は、吊橋を覆い隠す蜘蛛の糸の端から勢いよく燃え上がり、薔薇色の炎が吊橋全体を覆い隠すほどまでに膨れ上がってその糸を、そして周囲の白霧さえも焼き尽くす。

 もちろん、霊的にできた炎なので建造物である吊橋には影響を及ぼさないが、橋全体が透明度の高い炎で燃え上がる光景は圧巻で、なによりも美しかった。

 

 そして吊橋から糸を一掃している間に俺の元へ飛び交ってくる蜘蛛は鞘で叩き落とし、回し蹴りで蹴り飛ばし、糸は体を逸らして半身になって回避する。

 それから、同時に来たやつから身を躱そうとしたとき、頭上を黒い影が駆けた。

 

「グルルルルァ!」

「えいっ!」

 

 ジェシュに乗ったアリシアだった。

 蜘蛛をその前足で押し潰して圧殺する黒豹と、複数の蜘蛛の眼窩を狙いすましたように集中して突きを繰り出すアリシア。完全なる素人のはずなのにこの子の戦闘センスは正直おかしい。透さんといい、アリシアといい、仲間になった人間は皆頼もしいな。

 

「リン、戻れ」

「きゅいんっ」

 

 吊橋の蜘蛛糸を焼き尽くして来たリンが手元に収まる。

 それから背後を確認してから吊橋をすぐに渡りきった。黒豹化したジェシュは広い崖を軽やかに跳躍して一息に着地する。

 透さんも決して遅いということはなく、吊橋を渡りきって今度は先行し始めた。

 

「奥に行くにはこっちから回った方が早いよ!」

「ああ、分かった!」

 

 勿論神社の中も、そしてその外観も蜘蛛の巣だらけだ。晴れた日に見た様子とまるで違う有様に鳥肌が立ってくる。

 外側からぐるりと中央へと向かおうとする彼の隣、障子に映った影に俺は動き出そうとして、しかし同じように神社の中から伸びて来た蜘蛛の腕にバランスを崩されてそちらの対処にかかりきりになってしまった。

 

「透さんっ! 右!」

「おっと」

 

 透さんが飛びすさり、そのすぐあとに黒豹が宙を舞い、そこから飛び降りたアリシアが障子越しに十字架ナイフを突き立てた。

 

「あたしにだって、できるんですよ!」

 

 暴れていた蜘蛛の足が動きを止め、霧になる。

 

「ふふっ、中身までぶっ刺してやりました」

 

 目を見開いてともあれば狂気的な赤い瞳をする彼女に、少しだけゾッとする。

 ああ、そう言えば彼女は血塗れのアリスだったな。戦闘狂の気でもあるのか、アリシアは笑ってナイフ片手に次の標的を目で探す。

 

「ありがとう、アリシアちゃん」

「どうってことないですよ! あたしは強くなるんです。お姉ちゃんを守るために、紅子お姉さんも守れるように!」

「主、背に乗って」

「うん!」

 

 ジェシュはその牙と爪で、アリシアは彼を踏み台にするように跳躍し、足りない筋力を落下速度で補い蜘蛛を串刺しにしていく。

 空中に糸で吊るされた蜘蛛も彼女はそうやって滞空し、十字架ナイフで急所の眼窩を貫いてから落下する。絶対に地面に激突してしまわないよう、ジェシュが迎えに来ると分かっていての行動だ。

 

「格好悪くちゃだめだよね、うん」

 

 透さんも先行しながら、段々と大柄になっていく蜘蛛を蹴り飛ばす。眼前に迫りくるそれになにかのスプレーを噴射して目を潰し、動きを封じて足技で対処する。

 

 頼もしい二人と共に俺は神社の最奥へ。

 人形だらけのはずな神社は、ほとんどその人形が消えている。歩きやすいといえば歩きやすいが、あれら全てが今蜘蛛になっているのだと考えるとゾッとした。

 それに、蜘蛛の体を構成するのは犠牲者達の腕や頭蓋骨、心臓に脳みそ。そして肉塊。そういうものだ。

 

「いったい、どれだけの人が……!」

 

 そう思わずにはいられなかった。

 

「土足でごめんなさい!」

「透さん、そこ気にするとこじゃない!」

「いいんですよ! あっちが先に襲って来て無礼してくるんですから!」

 

 無礼する、とは。

 

「あっはっはっ、俺達はみんなこんなときでも変わらないね!」

「それ、あんたが言うことじゃないと思うんだが!」

 

 一番マイペースなのは透さんで間違いないだろ! 

 ツッコミを入れつつ視線を巡らせて神社の中へ。その中央には、いっそう大きな……大型犬よりもなお大きい蜘蛛が一体。

 

「多分あれだね」

「中の人形は壊しちゃダメなんだよな……どうするか」

「刹那さんから封印札? ってやつはもらってるよ」

「準備がよろしいことですね」

「話の流れくらいは想定してたんじゃない?」

 

 アリシアと透さんのやりとりで天井を見上げる。

 室内戦か。アリシアは機動力が削がれるし、俺も二人がいたのでは満足に赤竜刀を振るえない。

 

「ここは、俺に任せてもらってもいいか?」

 

 二人が視線を合わせて頷く。

 

「俺が人形を取り出す。だから透さん達は隙を伺って封印札を貼ってくれ」

「分かったよ。俺達は邪魔にならないようにしておく」

「任せましたよ!」

 

 会話をすぐに切って、前に進む。

 

 ――キチチチチ

 

 蜘蛛が嗤い、そしてゆっくりとその体を起き上がらせていく。

 蜘蛛の足2本で立ち上がり、残り6本を上げて腹を見せる。

 しかして、巨大蜘蛛はその頭蓋骨からシュルシュルと糸を吐き出して自らを覆っていく。

 

「守りに入った……? 逃すかよ!」

 

 踏み込み、赤竜刀で袈裟斬りに。

 

「なっ」

 

 繭のように覆われたそれを斬り捨てれば、その中から尖った爪のようなものが伸びて来て咄嗟に首を逸らした。

 俺の頬を掠めていった鋭い鉤爪が繭を破り、そして俺達の前にその姿を現わす。

 

「君は……」

「こころを、あつめるのです」

 

 菫色を帯びた黒髪、虚ろな瞳。そして、夢で見た詩子ちゃんの妹さんと似た顔立ちに広がる青い隈取り。真っ白な着物の側面は破れ、腹にあたるそこから4本の異形の鉤爪が広がっている。

 本来の腕に抱えているのは大きな人形。

 

 足元は裸足で、その頭には片側だけ伸びた鬼のようなツノとが生えている。

 着物の上には、蜘蛛の残りの6つの目を想起させる赤くて丸い飾り紐がついていた。

 

「詠子……さん」

 

 虚ろな瞳のままに、彼女はその口を開ける。

 

「こころを、あつめなければなりません」

 

 鋭く尖った牙からは紫色のヤバそうな液体が滴り、床をジュッと音を立てて溶かす。

 

「ねえさまのことを、わすれないために」

 

 そうして、詠子さんは俺を真っ直ぐと見つめていた。



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白蜘蛛の鬼

「なんであんたは心を集めるんだ!?」

 

 涼しげな目元をそのままに、白い蜘蛛の鬼は4本の鉤爪で赤竜刀を防ぐ。

 揺らぎもせず、体幹もブレず、圧し斬ろうとしている俺のほうが力負けして刀を弾かれた。

 

「っく」

 

 赤竜刀は打刀とはいえ、周りを気にしていないと柱に当たってしまいそうで慎重に刀を構えるしかない。俺がもっとこいつの扱いに慣れていれば手足のように動かして室内戦も物ともせずに対処できるんだろうが、長物武器の扱いはまだまだ慣れていない。

 いつもは外で思う存分に振るうことができるからこそ、なにも気にせず力押しができるのだ。

 技巧で攻められるほど俺は刀剣の扱いに長けていない。

 だからこそ二人には下がってもらったのだ。

 

「こころをあつめるのです」

「どうしてこころがほしいんだ。どうして!」

 

 答えてほしいと願いながら斬りかかる。

 しかし、白蜘蛛の鬼は答えない。

 

 一歩一歩詰めてくる彼女と鍔迫り合いを何度か交わし合いながら、俺は逆に押し戻されて部屋の隅まで追い詰められていく。

 そうはさせてなるものかと目線を泳がせ、なるべく端には寄らないように立ち回るが、力は圧倒的にあの鬼のほうが上だ。

 

「……」

 

 シュルルルと、糸が空を駆ける音を捉えて飛び退る。それから、鬼の手のひらから伸びている糸を掴んで引き寄せてやろうとしてみるが、みるみるうちに糸が紫色に染まっていき慌てて手を離す。毒液が滴り、木板の床に穴が空いた。

 

「ッチ」

 

 近づけない。届かない。届いたとしても力負けする。

 どうすればいい。

 

「……ふっ」

 

 攻めあぐねる俺に、チャンスと見たか鬼が駆けた。

 

「っぐ、こんのっ!」

 

 鉤爪と刀剣の鍔迫り合い。赤竜刀は軋みはするものの、折れることがない。

 けれど俺が支えきれないのでは意味がない! 

 

「おらぁっ!」

 

 鍔迫り合いをそのままに腰を低くして足払いをかける。

 蜘蛛鬼の少女が虚ろな目のままよろけ、均衡が崩れたことで彼女の鉤爪が一本、俺の横に突き刺さった。

 

 手を床に。

 そこを支点によろけた彼女の懐に向けて起き上がりながら思い切り赤竜刀を斬りあげる。

 

「……いたい」

 

 腹部の鉤爪を一本、二本と斬り飛ばしてから悪寒を感じて横に転がった。

 先程まで俺がいた場所に毒液による風穴が開けられている。ヒヤリとしたものが背中を流れていく。

 

「ねえさまは、どこ」

 

 首を傾げる少女に色々と疑問はあるが、今はあの子の持っている人形をどうにか確保しなければならない。

 

「いつも、あなたといっしょにいた。あなたはねえさまをしっているの」

「……は? どういうことだ。詩子ちゃんとは別に」

 

 そこまで答えてからハッとする。

 白い蝶と、赤い蝶。この俺でさえ一瞬同一人物かと見紛うほど魂が似ている二人。

 そういえば蜘蛛ってやつは色の識別ができないんだったか? しかし、白と赤ではさすがに識別くらいできると思うのだが……。

 もしかして、本当にもしかするのか? しかし、それならなぜ今まで詩子ちゃんは無事だったんだ。そこが分からない。

 彼女が祠に閉じ込められていることとなにか関係があるのか。

 

「ねえさまをかえして、おもいださないと」

 

 揺らぎもしない、平坦な声の蜘蛛鬼少女が向かってくる。

 今度は様子見もなにもない、本気で俺を殺しにくる動きだ。単純に早い。

 

「リンっ」

 

 視角と反射神経に集中する。

 

「あぐっ、くううぅ!」

 

 それからひと息に振り下ろされた残り二本の鉤爪を峰で受け、力負けしたせいで壁に向かって空中に押し出された。トドメとばかりに毒液が混ざった糸が伸びてくる。

 

「リン、右手に噴射っ!」

「きゅおー!」

 

 刀剣の状態で右手側に炎が噴射され、なんとか身を捻って糸を躱し、壁に足をつく。

 

「脚力強化!」

 

 今なら蜘蛛鬼は油断している。

 壁を踏み込み、その勢いを利用してリターン。空中で炎を噴射し、身軽に回転するように勢いを更につけて上段からの振り下ろし。

 防ごうとした蜘蛛鬼の鉤爪が二本とも両断され、始めて彼女は動揺を見せた。

 

「こうだっ!」

 

 着地して痺れる足を意識から外し、振り下ろした状態から赤竜刀の柄の部分で少女が左手に握っていた人形を弾き飛ばす。

 

「あ……」

「そっちに行ったぞ!」

 

 蜘蛛鬼が呆然とした表情で手を伸ばす。それを鞘で叩き落としてから横薙ぎに赤竜刀を一閃。

 

「わた、くし、は」

 

 不思議と虚ろだった少女の瞳に感情の色が浮かび上がる。

 絶望に彩られたそれに一瞬だけ俺は躊躇った。刃が鈍り、少女の体を両断しようとしていた赤竜刀の動きが止まる。

 

「っく、リン」

「きゅっ」

 

 竜化して少女から離れるリンを再び握り直し、距離を取る。

 今のが最大のチャンスだった。けれど、今回の目的は人形を確保することである。殺しきれなくても問題はない。

 

「こっちは大丈夫だよ!」

「封印札貼り付けましたー!」

 

 遠くに聞こえる二人の声にひとまずは安堵し、半分胴体が切れかかった少女の動きを観察する。見た目が美しい少女なので、夥しい量の血を流しながら絶望するその姿に、どうしても同情を寄せそうになってしまう。慈悲をかけてやりたくなってしまう。しかし、彼女は紅子さんを狙っているのだ。油断するわけにはいかなかった。

 

 昔の俺ならば、きっと女の子の姿をしたこの蜘蛛鬼を斬り刻むことなんてできなかっただろう。

 

「ねえさま、ねえさま、どこ。ねえさま、おもいだせないのです。どうしたら、おもいだせるのねえさま。どうしたら、こころをのぞくことができるのですか」

 

 大きな瞳からボロボロと涙を零す姿に痛ましい気持ちになる。

 人形が離れて、まるで自意識を取り戻したかのような少女に向けて赤竜刀を構える。

 

 目を伏せる。

 助けるだけが優しさではない。

 その命を繫ぎ止めることだけが優しさではない。

 

 死が救いとなることもある。

 ここで斬ってやることこそが、彼女への手向けになるというのなら。

 

「っ」

 

 その場で刀を振るって血を払う。

 それから構え直して、地を蹴った。

 

「きゅういっ!」

「なんだっ!?」

 

 リンの警告に足を止める。

 白蜘蛛の鬼の頭上から膨大な量の糸が降り注ぎ、絶望した鬼の少女を取り囲んで行く。まるで弱いものを食らうかのような、その仕草。

 咄嗟に手を伸ばそうとするが、リンにはたき落とされた。

 

 隣の竜は(たしな)めるような視線で俺を制する。

 今からでも薔薇色の炎で斬り払えないか、と思案するが首を振ったリンによって否定される。

 

 あんなにも悲壮な顔をした女の子が取り込まれていくのを、ただ見ているだけしかできないだなんて……! 

 

「令一くん! きっとあとでまた助けられるときがくるはずだよ! だから今は撤退するんだ!」

「目的は達成したんですからね! 引き際を見誤る男の人はサイコーに格好悪いですよ!」

「わ、分かったよ!」

 

 そうこうしているうちに神社全体が軋み始める。

 この神社の上に「ナニカ」がいるのだ。神社を、建物を軋ませるほどの巨大なナニカが。それはきっと蜘蛛。この偽物のおしら神の親玉である。

 

 走り出す。

 視界の端で天井を突き破るようにして超弩級の鉤爪が一本、振り下ろされてくるのが見える。

 

 ――いや、あれは鉤爪なんかじゃない。無数の、人の腕と肉塊が重なりあって鉤爪に見えるだけだ。

 

「透さん先に渡って!」

「ありがとう!」

 

 黒豹モードのジェシュは行きと同じく軽々と崖を渡っていく。

 万が一があるために先に透さんに渡ってもらって俺も吊橋を駆ける。

 背後からは瓦礫の崩れる音となにかが擦れるような蜘蛛のくぐもった声。そして、「死にたくない」と断続的に呟き続ける無数の人間の、呪詛にも似た声が響き渡ってきた。

 

「しまっ」

 

 踏み抜いた吊橋の板がズレる。

 そして蜘蛛の糸によって切断された縄が、吊橋が、落ちる。

 

 手を伸ばして離れていく縄を掴もうとするが、もう少しのところで俺の腕は空を切った。

 

「くっそ、ここで、終わるわけには……!」

 

 歯を食いしばる。

 血が滲むほどの必死さで手を伸ばす。

 

 脳裏に浮かぶのは一人の少女。

 今も俺の帰りを、無事を祈りながら待ってくれているはずの、恋い焦がれた少女の姿。

 

 ――約束。

 

 約束を破るわけには、いかない! 

 ゴリっと、肩の外れる音がする。それでも俺は縄を掴んだ。

 

「おうおう、旦那も無茶するねぇ」

 

 どうやって崖の上に上がるかを全く考えていなかった俺は、その声に安堵した。

 

「刹那さん」

「資料館で肩をはめ直してから再出陣かい。ったく、本当に無茶をしなさんな。あの子が泣くぜ」

「俺が死んだら、そのほうが泣かせちゃいますから」

 

 俺は「違いねぇな」とカラカラと笑いながら飛翔する刹那さんに抱えられ、助けられていた。崖のところまで戻ると透さんとアリシア達が心配そうな顔で俺を待っていた。

 

「ごめん、心配かけたな」

「そうですよ! あなたが死んだら紅子お姉さんになんて説明すればいいんですか! あたしそんなことするの嫌ですからね!」

「いろいろ面倒だもん」

 

 アリシアが苛烈に俺を叱り飛ばし、ジェシュはつまらなそうに顔を背けた。

 

「ごめんって」

「ほらほら、追って来ちゃうから早く安全地帯に行こう」

「透さん、乗ってください。ジェシュ、嫌がらないでね」

「……主の思うままにー」

 

 透さんが黒豹モードのジェシュに乗り、俺は刹那さんに抱えられたまま低空飛行で林の中を移動する。

 

 そうして、やっと俺達は資料館に帰ってくることができたのだった。

 玄関を開けて転がり込む。すると、玄関からすぐ、時計がある位置で行ったり来たりと歩き回っていた少女が反応してこちらを見る。

 

「令一さん!」

 

 そしてその大きな紅い瞳をいっぱいに開いて泣きそうな表情をすると、一目散に俺の元に駆けてきた。

 

「紅子さん」

 

 怪我をして立っている俺の胸に、遠慮するように彼女が柔らかく頭を預けてくる。そんなことをされてしまっては、痛みも吹き飛んでいくというものだ。

 

「おかえりなさい」

「うん、ただいま」

 

 なんだかくすぐったいやりとりにはにかんで、紅子さんをそっと抱き寄せる。

 抵抗されることなんてもはやなく、幸せな時間に笑った。

 

 ……ああ、生き足掻いて良かった。

 

 そう思える時間だ。

 

「ご飯を作ってあるから、しっかりと休憩してほしい……かな」

「うん、楽しみにしてたよ」

 

 儚く笑う紅子さんと寄り添いあって、笑い合う。

 さあ、最後の決戦に向けて……ちょっとした休憩と、詠子さんの想いを覗くお仕事。そして、食事だ。

 

 俺達は、注連縄の結界で守られた資料館の中で、そうしてひとときの平和を噛みしめるのだった。

 



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不器用な手料理

 食堂となっている場所にぞろぞろと移動し、俺達はもはやお昼とも言える時間に朝食を食べることとなった。

 

 まさか仲間外れにするわけにもいかないので、刹那さんも同行している。監視役とはいえ、もう顔を見ているんだしいいだろう。

 会う前はどうしていたのか訊いてみたら、山の中で木ノ実や果実を採って食べていたとか。普通のカラスならいざ知らず、果たして彼程の大きな体はそんな食物で賄えるのか、疑問に思ったが深くは突っ込まないことにした。

 

 朝から資料館を飛び出して、そして大怪我をして何時間も寝ていて、起きたら起きたで人形神社に向かい、人形の奪還に行っていたのだ。気が抜けたら途端にお腹が空いてきてしまった。

 

「いや、楽しみだな」

「……そんなに期待しないでほしい、かな」

 

 紅子さんが気まずそうに顔を逸らして言う。この様子だと焦がしでもしたか? 彼女は不器用だから、料理もそれほど得意ではないだろう。

 けれど、だからこそ俺のために一生懸命作ってくれたという事実が、ただただ愛おしいんだよな。彼女が困ってしまうから、口に出しては言わないけれど。

 緩みそうになる顔をなんとか制して彼女の隣を歩く。

 

「準備してくるから、ここで待っていて」

「手伝わなくて大丈夫か?」

「もてなされる側が手伝ってどうするのかな?」

「あー、それもそうか」

 

 ぎこちないやりとり。

 お互い、いつものような軽口がなかなか出てこないようだ。それだけ俺達は二人ともに緊張しているということで……。

 

「華野! メニューはなんですか?」

「和食よ。白米とサバの味噌煮。そっちの人が洋食だから、自分は和食に挑戦したいってベニコが言って」

「ちょっと、華野ちゃん! 言わないって約束したのを覚えていないのかな!?」

「ふん、知らないわよ」

 

 華野ちゃんは澄まし顔で受け答える。慌てる紅子さんなんて珍しいなあ。

 そうかあ、俺が洋食だから紅子さんは和食ね……そんな風に考えてくれていたんだなあ。

 

「令一さん、顔がにやけてますよ。緩んだその口ちゃんと引き締めてください」

「うーん、アリシアちゃん。このシチュエーションだと令一くんがそうなっちゃうのは、さすがにしょうがないと思うけどなあ」

 

 二人の言葉で口元を引き締める。格好悪いのはごめんだ。

 透さんは否定しないでいてくれるが、俺としてもあんまりにもだらしない顔を彼女に見せるわけにはいかない。

 さっきは緩まないように意識していたのにただの一言で表情筋が勝手に働いてしまうなんて、俺は浮かれ過ぎているのかもしれない。

 

「はい、あんた達はこっち」

 

 華野ちゃんが次々と料理を運んでいく。

 透さんにアリシア、それに資料館内に入ってきている刹那さん。

 

 一向に戻ってこない紅子さんに、俺はそわそわと辺りを見回しながら待つ。

 もしかしてなにかあったか? そんな不安が頭をもたげてきて、立ち上がろうとしたときに、キッチンの方向へと華野ちゃんが声をかけた。

 

「気にしてる暇があったら早く持ってきなさいよ。少なくとも怒られやしないわ」

「……わ、分かったよ。おにーさん、その、期待しないで。本当に期待しないでね?」

 

 控えめに言いながら紅子さんが姿を現わす。

 その手にはミトンがはめられ、鍋ごとこちらにやってくる。

 

「あの、お兄さんは怪我をしてるからお粥と一緒に作ったんだけれどね? その……サバの味噌煮、あんまり上手くいかなくて」

 

 目を泳がせながら彼女が鍋の蓋を開ける。

 そこにはふわっとしたお粥と、その上に申し訳程度に「ちょん」と乗っかったサバの身がほぐされ、散りばめられていた。

 明らかに透さん達に分けられたサバよりも量が少ないことが見てとれる。

 やはりどこか失敗してしまったんだろう。彼女は申し訳なさそうに眉を寄せている。

 それから鍋をテーブルに置いて、両手が空いた彼女は胸の前で祈るように手を組んだ。

 

「あのっ、本当に……いらなかったらアタシが自分で食べるから」

「いや、食べるよ。俺が怪我してるから、お粥にしてくれたんだよな。それに、好きな子が作った手料理を食べないなんて選択肢あるわけないだろ」

「…………」

 

 口元を震わせて紅子さんがなにかを堪えるように頬を両手で押さえる。

 朱に染まったその表情に、隠さずにもう少し見ていたいと思った。

 

「紅子さん」

「なっ、なにかな」

 

 紅子さんの正面に立ち、頬っぺたを押さえて照れる彼女に呼びかけた。

 それから片手をやんわりと頬から離れさせ、手を当てる。体温が低い彼女にしてはほんのりと温かい。照れている証拠だった。

 

「んん、あの、令一さん?」

 

 そしてそのまま頬から耳元を辿り、くすぐったそうにする彼女の頭にポンと手を乗せる。そして少しだけ屈んで目の前で一言。

 

「いただきます」

「え、あのっ、えっと……」

 

 流れ的になにか勘違いしたような紅子さんに、悪戯気な笑みを浮かべて「紅子さんの手料理を」と付け加える。

 

「このっ、卑怯者っ……本当に、キミは……! 違う、こんなのアタシじゃない……っ!」

「どんな紅子さんも紅子さんだろ?」

「キミのそういうところ大っ嫌いなんだよ……っ!」

「いつもからかってくるくせに」

「最近は逆転してないかな!?」

「かもな。ほら、座って座って」

 

 おもしろいくらい動揺する彼女に、気を取り直して俺の隣の席に誘導する。

 いつのまにか華野ちゃんが紅子さんの分まで食事を配膳し終わっていた。

 

「ねえ、わたしなに見せられてんの?」

「紅子お姉さんったら乙女ですねぇー」

「あんまりいじめないようにね?」

「気にせず続けてくんな」

 

 呆れる華野ちゃんに、うっとりと紅子さんを見つめるアリシア。興味のなさそうにあくびしているジェシュに、爽やかな笑顔で圧をかけてくる透さん。おもしろいものを見るように好奇心を向けてくる刹那さん。

 三者三様の反応に、俺はここまでにしておこうと苦笑した。

 

 それぞれに「いただきます」と作ってくれた二人と食材に感謝し、食事を始める。お粥はどろっとしているわけでもなく、食べやすく出汁で煮たのか薄く味がついていて非常に美味しい。この感じだと、ただサバを煮るときに失敗しただけなのかもしれなかった。

 

「なんだ、美味しいじゃないか」

「……そう? それなら、いいんだけれど」

 

 不安気だった表情を俺の一言だけでパッと変え、喜色を露わにする彼女にこちらまで嬉しくなってくる。

 

 ああ、今更ながらに実感が湧いてきた。俺、紅子さんの手料理を食べてるんだ。なんだこれ、なんだこの気持ち。嬉しくて仕方がない。

 

「あんた達婚約でもしてるわけ? 人間と幽霊で成立するもんなのね」

 

 そう言った華野ちゃんに俺達二人は、同時に動きを止めた。

 紅い瞳と瞬間的に目が合って、すぐ互いに逸らす。

 

「付き合っては、いないな」

「は?」

 

 華野ちゃんが大口を開けて声をあげた。

 ああ、うん。そう思うよな。でもこれ以上、明確に距離を縮めるわけにもいかないんだよ。そうしたら、きっかけを与えてしまったら紅子さんはどこかへと飛んで行って、もう二度と戻ってこないだろうから。

 

「友達以上恋人未満ってやつかねぇ……ま、応援はするぜ。俺もこんぐらい進展できればいいんだがなぁ」

「せ、刹那さんも誰か好きなヒトがいるのか?」

 

 ぼやくように言った刹那さんに話題を向ける。

 あんまり深く突っ込まれると俺も、紅子さんも困るからだ。

 

「ちっとばかり懸想しててな。ただ、まあお相手が頑ななもんでね。あんたらを見てると羨ましくなってくんのよ。まあ、あれだ。俺なんかみたいな鴉のことは気にすんな」

 

 へえ、刹那さんも誰か想い人がいるわけか。誰だろうな。彼のことはよく知らないし、会ったのもクリスマスのときとアリシアのときに少しだけだし、接点のある人が分からない。

 ちょっと興味が湧いたが、突っ込んでほしくはなさそうにしていたので別の話題を出す。

 

 そうして雑談をしながら昼食の時間は過ぎていくのだった。

 

 俺も、紅子さんも、あまりお付き合い云々の話に持っていかれてしまうと互いに照れてぎこちなくなってしまうのでこれくらいがちょうどいい。

 

 紅子さんに「ほら、口開けてよ」と理想のシチュエーションなんかもされて喜んでから、皆の視線に気がついて二人で照れる。

 そんなことの繰り返しの午後だった。



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勿忘草の呪い

 昼食後、俺達は食堂に集まったまま人形を取り囲んだ。

 

「……やろう」

 

 静かに俺は手を伸ばす。そして、人形に触れて目を閉じる。深く、深く、闇よりもなお深く。その深層に沈み込むように。とろりとした感情の中に入り込むように。

 

 そうして、俺は人形の中に二つの感情と記憶が渦巻いていることを知った。

 手を伸ばす。触れる、そして受け入れて視線を向けた。

 

 暗い月夜でも全てを見透すように。隠された真実を、そっと見つめた。

 

 沈んでいく、どこまでも。まずは詠子さんの想い、それから詩子ちゃんの想いを視るために。

 

 そして――

 

 ◆

 

「ねえ、ねえさま。いかないで」

「……」

 

 その日、わたくしは一度だけ弱気になってしまいました。

 姉様はツンと冷えたような瞳を柔らかくして、わたくしを見つめてくださいます。なにもかもを、未来さえも見透かしたその瞳に、わたくしはどうしようもないほどの畏れを抱いておりました。

 

 わたくしだけに向けるその優しい瞳に、縋り付きたくなってしまったのです。

 姉様とわたくしに似せて作ったお人形が、抱いた胸の中で軋みました。

 それはまるで、わたくしの心そのものが悲鳴をあげているようでもございました。

 

「詠子、なにを泣いているんだい?」

「…………だって」

「いいかい、詠子。どこへ行ったって、見えなくたって、私はお前のお姉ちゃんだよ。お姉ちゃんは妹を守るものだ」

 

 優しいお言葉。優しいお声。

 その全てがこれから失われていくのです。

 神様然とした姉様は、本当の神様に成られるのです。

 けれど、わたくしは我儘な女でした。姉様のお着物の裾を掴んで、無遠慮にも程がないほど、みっともなく声をかけました。

 

「でも、見えなかったら、分かりません」

「そうだね、そうしたら、心に思い浮かべてごらん? 私の顔を、声を、言葉を。お前の心の中を覗いてごらん? そこに、必ずあるはずだよ」

 

 姉様の言うことなら、そうなのでしょうか。

 ただ頷いて、わたくしは目を伏せました。

 

「詠子は心配症だね。ただちょっとお祈りをしてくるだけだよ。今までとほとんど変わらない。そうだろう?」

「……うん」

 

 姉様は未来を見据えることのできる唯一のお人です。人の肉体を得てしまった、神様なのです。窮屈なその立場を続けさせるのはあまりにも酷だとみんなが言いました。だから、わたくしもそれに従うより他はなかったのです。

 

「ずっと、君を守るよ。私が、ずっと。だから安心おし」

「うん……うん」

「約束だよ。私を、忘れないでくれ」

「うん、約束する。ねえさまを、わたくしは忘れない」

 

 忘れません。決して忘れません。貴女のことを、わたくしは忘れたくありませんでした。だから、祠の前で耳を塞ぎたくても、目を逸らしたくても、ずっとずっと貴女の最期まで見届けたのです。

 

 わたくしは、ねえさまの妹だから。

 

 ――もしかしたら、本当に神様になれたら……守りたいものを、全部守れるのかもしれないね

 ――どうしましたか? ねえさま

 ――いいや、詠子。君の白無垢姿を見るまで私はいなくなるわけにはいかないな、と思っただけさ

 ――……そう、ですね。そんなときがくればいいのに

 ――そんな暗い顔はおやめ。大丈夫だよ、君のことは私が守るから。きっと、きっとね。君の未来は明るい。予知のできる私が言うのだから、本当のことだよ

 

 思い出が、あの人との思い出が頭の中を駆け巡りわたくしを苛んでいても、決して忘れることはないと、そう思っておりました。

 

 ずっとずっと忘れることはないと、そう思っていたのに。

 

 それが、わたくし「詠子」の、願いだったというのに――! 

 

 ◆

 

 ……あの子には、「私」が見えない。

 人形があるからだ。村の人に教えられて作った人形が。私はあの子が見えるけれど、本当の意味で干渉することはできない。

 

「私は、白瀬詩子。あの子の姉。そして、神様だ」

 

 言い聞かせるようにしてその言葉を唱える。

 

 もうほとんど融けて消えてしまった記憶だけれど、大切に思っていたあの子の手を取って助け出したことには、自分自身でも驚いた。

 あのとき以来、あの子にもう一度触れることはできなかった。

 でも、それでいい。きっと、それが前の私の望みだったはずから。

 

「ねえ、心って、どこにあるのでしょうか」

 

 あの子は祠に来て、よくそう言っていた。

 私が見えないくせに、私に語りかけるように。

 

「心とは、いったいどこにあるのでしょうか、ねえさま」

 

 泣きそうな顔で、いつも同じことを言うものだ。

 私を見ることも、私の声を聞くこともできないくせに。

 

「心とは、どこにあるのでしょうか」

「なぜ、あなたは心のありかを知りたいのでしょう」

「え……」

 

 思えば、あの子にその理由を尋ねる者などいなかった。

 それが新鮮だったのだろう。あの子はとても、とても驚いていた。

 

「私、わたくし……ねえさまと、約束したんです。忘れないって」

 

 その言葉に、目を見開く。

 もう、私は覚えていないことだったから。

 

「忘れないって、言ったのに。どんどん溢れ落ちていくんです。触れてくれたときの温かさも、ねえさまの声も、わたくしが年を重ねるたびに剥がれ落ちていくんです。それが怖くて、怖くて仕方ないんです。心の中にあるはずなのに、それが分からない。だから、心はどこにあるのでしょうかと、わたくしは人に聞かずにはいられないのです」

 

 男は、それを聞いてあの子を抱きしめた。

 

「心なら、一緒に探せます。きっと、だから、諦めないでください。だから、おれにもそのお手伝いをさせてほしい。あなたのそばで、ずっと探すお手伝いを」

「なにそれ……告白、ですか?」

「そうかも、しれません」

「ふ、ふふ……あなたが初めて、理由を聞いてくれた人ですよ…………あなたとなら、探せるかもしれない。ええ、ええ、藤代(ふじしろ)……樹貴(たつき)さん……でしたよね。その、わたくしのお手伝いを、してくれますか」

「おれがこれを言うんですか? はは、いや……はい、よろこんで」

 

 嬉しかった。

 悩むあの子にやっと幸せの時間がやってきたのだと思えたから。

 欲を言うのなら、私のことなど忘れてしまえばいいと……思っていたけれど。

 

「結局、わたくしは忘れてしまった」

「あなたは悪くなんてない」

「あなたと同じ時を過ごして、あなたとの思い出が多すぎた」

 

 それは降り積もる花弁のように。静かに、ゆっくり、ゆっくりと雪を溶かしながら積み重なった愛情。それは確かにあの子にとっては、心に染み渡っていく甘美な毒だったかもしれない。

 

 生前、欲が出て言うことのできなかっただろう「わすれて」を言わずに済んだ安堵と、ほんの少しの寂しさ。

 それもやがて消えるだろう。生きている者の記憶は降り積もるもの。

 そして、私の記憶はいつか融けてなくなる雪のようなものだ。

 

 だからだろうか、祠の頭上にある桜に憧れていた。

 ずっと、ずっと。ひとりで村の顔ぶれが変わっていくのを眺めながら。

 

「樹貴さん、わたくし、この子には人形を作らないことにしたの」

「そうか」

「村の子がね、まだ人形を納めていない子がねえさまを見たと言っていた。だから、この子にはしがらみなんてなくしたい。そして、わたくしの我儘だとは分かっているけれど、ねえさまをひとりにしたくないから」

「構わないよ。あなたの好きにしておくれ。俺は、そんなあなたを好きになったのだから」

「未だに心がどこにあるのか、分からない。でも、わたくしは後悔だけはしたくないから」

 

 妹の子供が私を見つけるのに、そう時間はかからなかった。

 子が、私と遊ぶところをあの子はずっと見ていた。眩しそうに目を細めながら。

 

 やがて、あの子が果てるときが来た。

 すっかりと姿の変わったあの子をそれでも私は愛している。

 子の未来も、そしてその子孫も、ずっとずっと私は見守り、そして伝えていく。この予知の力を使って。きっと守ってみせる。

 

「こわい、です。樹貴さん」

「俺が、ずっと覚えてる」

 

 まるであのときのような約束を交わして果てるあの子を見送る。

 その魂は僅かな陰りを見せながら、神社へと向かっていく。

 思わず伸ばした手をすり抜けて、あの子はその中へ。

 

 ――わすれてしまう

 ――わすれてしまうのがこわい

 ――わすれられてしまうのがこわいの

 ――ねえ、こころって、どこにあるの

 

 迷いを抱えたそれを、あの子自身が作った人形が掴んだ。

 

「なっ」

 

 神社の中で手を伸ばした私の体が押し戻されていく。弾き出されていく。あの子を置いて、ひとりだけ置いて。

 

 ――わすれたくない

 

「……っ――」

 

 あの子の名前を叫ぼうとして、愕然とする。もはや名前さえ思い出せなくなっていた己に。

 

 ――こころを、さがさないと

 ――さいしょは、こころを、みつけてくれるといったあのひとのからだ

 

 あの子の愛した人が崩れ落ちる。あの子の手によって。

 

 ――おもいださなくては

 ――そのためには、あつめなくては

 

 親しかったものから、順々に。

 

 ――ねえさまのこえをきいた、そのみみを

 ――ねえさまのすがたをみた、そのめを

 ――ねえさまにふれたことのある、そのてを

 

 やがて村の人々が神社に逆さまの縄を張るまでそれは治ることはなく。

 あの子自身が甚大な災害となってしまった。

 

 ――おもいだせない

 ――まだたりない

 ――こころをあつめないと

 ――あなたは、こころがいずこにあるのかしりませんか? 

 

 そして、あの子自身が私の存在を喰らい始めた。

 

 〝災害の予知をお知らせする神さま〟から〝心を知らぬ神さま〟へと信仰が移り変わっていく。

 人々は、より恐怖の強いものを鎮めるために、私の存在に穴を開けた。

 もはや私にあの子を止める術はなく、剥がれ落ちる記憶は雪解けよりも早く、焼かれるように消えていく。

 

 神さまであったことすら忘れてしまったとしたら、私はどうなるだろう。

 分からないからこそ、怖い。

 あの子を守ると約束したのに、私にそれが成せそうにないことが怖い。

 

 いつか同じ感情を抱いた気がする。

 その感情。

 

 剥がれていく。燃え尽きていく。

 

「忘れないでくれ」という私の願い自体が、あの子の鎖となり、楔となり、しがらみとなって絡めとっていく。

 

 ……それはまるで呪いのようで。

 

「やめてくれ――。やめて、お前がお前でなくなってしまう」

 

 名前を呼べたら、違ったのだろうか。

 名前を私が思い出せたら、あの子を救えたのだろうか。

 

 忘れたくない。

 忘れたくないよ。私だって。

 

 いつか、いつか、あの子を救うことができるのならば、そんなときがくることがあるならば、私は……

 

 そんな願いを抱きながらも、私は己を食い尽くすあの子の力を振り払うことなんてできなかった。

 

 

 いつか、いつかそのときがきたならば。

 どうか私の願い、叶えてください。

 

 どうか、かみさま。



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おしら神の正体

「なんて、説明したらいいのか……」

 

 俺は順に、ゆっくりと言葉を選びながら人形の記憶についてを語っていった。

 

「あの白蜘蛛の鬼……詠子さんが心を探す理由は詩子ちゃんのことを忘れたくないからってことだな」

「でも、もうなんのために集めていたのかもほとんど分からなくなっているんですね」

 

 ああ、そうだ。多分目的自体は覚えているだろう。忘れたくないとずっと呟いていたのだから。でも、詩子ちゃんのことを知らない無関係の人間にまで手を出しているわけだから、多分細かいことを覚えているわけでもないんだろう。かなり無差別的だからな。

 

「うーん、話の整理をしようか。まず、人形の付喪神と詩子ちゃんが別々なのは確定していて、人形の付喪神に詠子さんが取り込まれているか、協力しているのか、どちらかは確定かな」

 

 紅子さんは指折り数えつつ、そう言った。

 

「わたし、メモ用紙でも持ってきたほうがいいかしら?」

「うん、そうしてもらえると助かるかも」

 

 透さんが答えて、華野ちゃんは一旦席を離れる。人形、詠子さんとの関係を表にしようとしているのだ。

 そして、それを見た刹那さんは腕を組んで「あともう一つだな」と真剣に言った。

 

「まだあったっけ」

「いんや、おしら神が生まれたときにはなかった要素だな。つまり、犠牲者達の無念さだ。人形達は死にたくないって主張してるんだったな? それは犠牲者も一緒だぜ。そして、生者を妬んで手を下そうとする。延々とそういうのが続いて膨れ上がった生への執着心が、あれを動かしてるんだろうよ。私見だが、ずっと様子を見てきたんだ。信憑性はあるはずだぜ」

 

 彼の言葉に頷く。犠牲者達の思い……いや怨念か? 盲点だった。

 それらが混ざり合ってできている存在。それがあの偽おしら神だということなのかな。

 

 詠子さんは利用されているだけ、か? 

 しかし、紅子さんを一度食われそうになった手前、俺があの人を許すわけにはいかない。詩子ちゃんのためにも、できれば偽物の神から分離させて魂だけでも真っ当に逝かせてやりたいんだが……。

 

 考える。どうするべきか。

 きっと一番簡単なのは詠子さんの取り込まれているだろう魂ごと、神殺しを成すことだろう。そして、それはきっと俺にしかできないことだ。この赤竜刀で、格上である祟り神を殺す。無謀にも思えるが、俺にしかできないことだ。

 

「……」

 

 紅子さんが目を伏せる。

 それからそっと手を挙げた。

 

「詠子さんを引き剥がして、詩子ちゃんに会わせてあげられたらいいねぇ」

「え」

「いいのかい、そいつはあんたを食おうとした怨霊だぜ?」

 

 刹那さんが嘆息と共に問いかける。

 俺は、自分から提案できなかったことを紅子さんが代弁してくれたおかげで助かった。多分彼女は俺が言いたかったことを察して提案している。いつも紅子さんは俺の心を読んでいるんじゃないかってくらい的確に気を回してくれるのだ。

 

 そう、いつもいつも。

 俺はそんなことできずに、彼女の気持ちひとつ汲み取れず失敗してばっかりなのに。ああ、もっとよく見ていないとななんて反省して彼女の反応を待つ。

 アリシアや透さんは特に反対する様子でもない。紅子さんの言っていることも、けれど試すように言う刹那さんの監視役としての立場も、二人ともちゃんと分かっているからだ。

 

「……アタシは詩子ちゃんの気持ちを優先しているだけだよ。別に詠子さんのことを思ってそう言っているわけじゃない。ねえ、お兄さん。詩子ちゃんも思い出したがっていたんだよね?」

「ああ、もし詠子さんのことを覚えていたら、その名前を呼べたのならば、結末は変わっていたかもしれないと後悔する気持ちが伝わってきた」

「なら、ひとつだよ。アタシは詩子ちゃんの未練のためにそう言っている。ただそれだけ」

 

 あくまで詠子さんのためではないと言い訳を並べ、彼女の嫌うやりかたで誤魔化してみせる。素直じゃないのはいつものことだが、これはどちらかというと俺に秘密を知られて開き直った状態に近いのかな。

 

「そうかいそうかい。あんたがいいなら俺もそれでいいけどねぇ」

「心配ご無用かな」

「うん、令一くんも助けてあげたいだろうし」

「あたしもできれば避けたいところですね。姉妹が離れ離れになっちゃうのは嫌です」

「アリシア、自分と重ねてる?」

「うん、そうかも」

 

 アリシアとジェシュの会話にハッとした。

 そうだ、彼女達も姉妹で事件に巻き込まれ、そして危うく離れ離れになるところだったのだ。そんなアリシアが詩子ちゃん達姉妹に報われてほしいと願うのは、ごく自然なことだろう。当たり前だ。

 

「で、どうするのよ。わたしとしては、いい加減この因習を終わりにしたいの。もう人が死ぬのを見るのはこりごりよ」

 

 華野ちゃんは、メモ用紙を持って戻ってきて早々に言った。

 そして紅子さんにメモを渡してから席に着く。生まれたときからこの村の神様とやらに関わってきた彼女の、切実な願いだ。

 ただ、取りに行ってくれていた華野ちゃんには悪いが、もうメモは必要ない気もする。

 

「なら、まずはこの人形を壊すことからか? この人形、詠子さんのだろ。この身代わりがあるからこそ、あの子は詩子ちゃんを認識できないんだろうし」

「いんや、それはもう少し後だな」

 

 否定する刹那さんに目を向けると、透さんが引き継ぐように「その人形を使えば、詩子ちゃんも思い出せるんじゃないかな」と言う。

 封印されてなお、不穏な気配を漂わせるその人形は長時間所持していたいようなものではないのだが、確かに一理あった。

 

「そうだぜ。あの娘は予知っていう、ある意味で見鬼の上を行く才能があるんだ。見鬼は見気でもある。旦那が過去を視ることができるように、あの子は未来が視えてるんだ。なら、ベクトルが違うだけでやってることは似たようなモンだ。方向性を教えてやればあの子にも記憶が視えるかもしれねぇ。再会したときに名前を呼べないんじゃあ、昔の繰り返しってやつだろ?」

 

 それって、なんとかベクトルを変えれば俺にも未来視ができるって言っているように聞こえるんだが……まあいい。視るつもりもないし、視たくもない。未来なんて視えても気分のいいものじゃないのは明白だ。もちろん、詩子ちゃんのことがなくても俺はそう思っていただろう。

 

「それじゃあ俺達で周りをなんとかしているうちに詩子ちゃんを祠から出して、記憶を視てもらうと」

「なるほど、腕が鳴りますね」

 

 自信満々にアリシアが言う。いや、本当に頼もしくなったな。

 

「……刹那さん、魂を誤魔化すような道具って持ってないかな?」

「して、その心は?」

「……足手纏いは、嫌かなって」

「紅子さん、約束が」

「分かってるよ。でも、ただ祈って待つだけなのも、結構堪えるんだよ。アタシはか弱い女の子でいたくなんてない。キミの、背中におんぶに抱っこはやっぱり嫌なんだ」

 

 申し訳なさそうに、でも強い瞳で言う彼女に否定の言葉なんて返せない。

 俺だって、彼女の隣に立つことを、彼女と背中を預け合うことを望んだのだから。

 

「あー、ならお守りを渡しとくぜ。あんたにゃ向かないと思ってたが、今のあんたなら変な無茶はしないだろうしな」

 

 困ったように刹那さんが同盟の印がついたお守り袋を手渡してくる。

 

「これは?」

「これも、身代わりだよ。それも対神様専用の。先に渡してたら調子に乗って危ないことしただろ? だからこれがあんのは黙ってたんだ」

「そうだね、前までのアタシだったら、きっと無茶していた」

 

 自嘲気味に微笑んで紅子さんがお守りを受け取る。そして、懐に身につけた。

 

「わたしも行くわ」

「華野、危ないわよ?」

「そんなことは百も承知。でもわたしは詩子の真実を見届けたいの。巫女だもの」

 

 そしてこちらでも一悶着。

 アリシアは控えめに説得していたが、華野ちゃんは頑なだ。引き下がりそうもなかった。仮に置いて行ったとしても、勝手についてきてしまいそうな勢いである。

 

「分かったわ。なら、一緒にジェシュに乗って行きましょう。いいわね、ジェシュ」

「主のおおせのままにー」

 

 黒猫は不満そうだが、アリシアは気にせずにっこりと笑う。

 華野はそんな二人に困ったように眉を寄せていたが、「ありがと」と小さく呟いた。

 

「俺も露払いくらいなら役に立てるはずだよ」

「ありがとう、透さん」

 

 結局、全員名乗りをあげてしまったな。

 

「ま、総力戦と行こうじゃないの。俺は戦力外だから、道具で援護したり、幻術で攻撃を逸らすことくらいしかできねぇが」

「十分ですよ。できれば、これで最後にしたいな」

 

 刹那さんの言葉に頷く。

 俺と紅子さん、それに透さんは走って。刹那さんは上空から。そしてアリシアと華野ちゃんはジェシュに乗って。まずは詩子ちゃんの閉じ込められた祠へ。

 

 そして――神殺しを成すための、最後の出陣が今始まるのだった。



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ただ一人の姉として

「お兄さん、そっち行ったよ」

「はいよ!」

 

 自身に襲いかかってくる蜘蛛を、回し蹴りでこちらに飛ばしてきた紅子さんに返事をして走りつつも一閃。

 ひらりと翻るスカートを気にしないようにしながら、紅子さんと並走して林の中へ向かった。

 さすがに蜘蛛の数が少なくなってきた。犠牲者はこの何十年かで随分と出ていたのだろうが、3桁を超えることは恐らくない。そんな数の犠牲がこの村から出ていたら、多分この村の規模はもっと大きかったはずだし。

 

 それにしても、100も行かないとはいえ、これだけの犠牲が出ているとヤマタノオロチとか、軽率だがそういう神話を思い出すな。

 ……そして、悪い怪物は人間に倒されるのがお決まりのパターンということも。

 

「っふ、弱点が分かっていれば、アタシにだってなんとかなるものだよね」

 

 ガラス片を蜘蛛の眼窩に刺し、紅子さんがすぐさまその場から離れる。軽やかに踊るような彼女は、その身軽さを利用してひらひらと舞う蝶のように蜘蛛を退治していく。もう二度と捕まらないようにと、油断せず。

 掴み所のないその仕草はしかし、俺の動きと合わせて連携している。

 紅い瞳と視線が絡み合い、どちらが言うでもなく互いに獲物を仕留めていく。ときには協力し、ときには互いにトドメを任せて。

 互いが対処しきれないときはカバーに入り、しかし決して自分の身を晒して庇うことはない。

 

 そんな信頼関係。

 いつか憧れた彼女と、背中合わせに共闘する。

 その喜びに俺の中でチラチラと燃える炎が大きくなるのを感じた。

 

「おっと」

「紅子さんっ」

 

 紅子さんの目の前に普通よりも大きい蜘蛛か落ちてくる。

 それを見て反射的に赤竜刀を投げ、落ちてきた蜘蛛はあっさりと刺し貫かれて絶命する。

 

「ありがと、令一さん」

「狙われやすいから仕方ないよ。だから任せてくれ、紅子さんが無傷で生還できるようにな。リン、戻ってこい」

「きゅっきゅい!」

 

 木の陰に隠れた蜘蛛を手元に帰ってきたリンを変化させて斬り払う。

 黒豹に乗ったアリシア達に先行してもらっているが、取りこぼしがあるのはまあ仕方がないな。なるべく早く祠に辿り着くのを優先させているのだし。

 

「ありがたいけれど、キミもこれ以上怪我しないでほしいかな」

「ああ、ほら。終わったら看病してくれるんだろ? そのときに紅子さんまで怪我してたら申し訳ないからな。だから、余計に……だよ」

「そっか、それじゃあ怪我ひとつできないねぇ」

 

 笑いながら走る。

 刹那さんも上空に少し見えるし、透さんも走って追いついて来ている。

 そして二人で共闘を重ねながら、俺達は祠に辿り着いた。

 相変わらず扉は閉ざされている。今はもう、中から開けようとする音は聞こえなかった。

 

「蜘蛛の巣が邪魔だねぇ」

「下がっていてくれ、俺が焼き斬る」

「……うん」

 

 彼女がそこにいることを確認し、上段に構える。

 上段とは剣道においては『火の構え』と言う。相性はいいはず。まあ、相性が良い悪い関係なくぶった斬るだけなんだがな。

 

「――ふ」

 

 息を短く吐いて目の前の蜘蛛の巣を捉え、力を込める。

 するとリンに呼びかけることもなく剣先に薔薇色の炎がチラチラと宿り始めた。決意を固めるたびにその炎は強くなり、守る為の刃を強靭で鋭いものにしていく。

 

 そして、上から下へ。全力の斬りおろし。

 

「お兄さん、いつのまにこんな……」

 

 後ろで呟く彼女の声にほんの少しだけ笑みを浮かべた。

 どうだ、俺だって強くなっているんだぞ。もう君に守られてばっかりの情けない男じゃないんだ。

 

 蜘蛛の巣が焼き切れていき、地面に辿り着いた赤竜刀が重い音を立てる。

 容赦なく振り下ろした一撃はしかし、祠に傷一つつけることなく蜘蛛の巣を焼き尽くしてみせた。

 

「開けるよ」

「ああ」

 

 俺が周囲を確認し、紅子さんが祠に手をかける。

 遠くから閃光のようなものが見えた。それと、上空に舞う黒い鴉の姿も。

 刹那さんは道具で撹乱しながら、そして……。

 

「華野、ここで降ろしますよ!」

「ええ、ありがとう」

 

 ストン、と黒豹が舞い降りてくる。

 そしてその一瞬で人形を抱えた華野ちゃんをジェシュの背中から下ろし、アリシアはすぐさま林の中へと消えていく。笑ったまま、蜘蛛の眼窩に十字架ナイフを突き刺しに行く。なんという戦闘狂だ。

 

 ギイ、と祠の扉が開く。

 その中には横向きに倒れた詩子ちゃんの姿。

 

「詩子!」

 

 すぐさま華野ちゃんが彼女に縋り付き、揺さぶる。

 すると詩子ちゃんは眠っていただけだったのか、その白い睫毛を揺らしてゆっくりと目を覚ました。

 

「……華野」

「詩子、聞いて。やっと、やっとあのおしら様を……ううん、あなたに取って代わっていた偽物の神様をどうにかできるのよ」

「……なにを」

 

 詩子ちゃんが起き上がり、目眩を起こしたように額を押さえる。

 それから俺達を視界に入れて、ようやく状況に気がついたようだった。

 

「祠が開いている……君達が?」

「ああ、詩子ちゃん。紅子さんが狙われていることは話したよな」

「聞いたよ。それがどうした。もしかして、彼女をここに匿いたいのかい? それなら構わないが、ここは狭くて冷たくて、中々に怖いぞ」

 

 祠が開いたことに気を取られているのか……いや、詩子ちゃんは事情をなにも覚えていないのだったか。

 

「今から俺達はあの偽物の神を討つ。でも、その前に助けなくちゃいけない人がいるんだ」

「討つって……まあ、君達がその子を助けるためにはそうしなければならないのだろうが……しかし、先程からなにを言っている? 偽物とはどういうことだ」

「詩子、詩子、あんたが本当の神様だったのよ。わたし達は、藤代家があんたとこの祠を守ってきたのは間違いなんかじゃなかったの!」

 

 詩子ちゃんの薄い瞳が驚きに開かれる。そして「まさか」と口にした。

 

「詩子ちゃん、よく聞いてほしい。あの神様の中には……キミの妹さんがいる。キミのことを忘れたくなくて、そして人形の付喪神達に飲み込まれて利用されてしまった、キミの妹さんが」

「私の……妹」

 

 目を泳がせて、しかし彼女は紅子さんの言葉をしっかりと復唱して胸に手を当てる。

 

「思い出せない、な。悪いね、私の記憶は雪のようなものだ。積み上げても無意味。長い時を生きているのだから、当たり前だが」

「いいや、思い出せるはずなんだ。君は未来を視ることができた。それなら、きっとこの人形に込められた過去も視ることができるはずだ……俺達は、そう思っている」

「そんな荒唐無稽なことを」

 

 そうやって苦笑する詩子ちゃんに焦れたのか、華野ちゃんは彼女の前に立って人形をその胸にに押し付けた。

 

「やってみなきゃ分かんないじゃないの! だからさっさと試してみるの!」

「華野……全く、君はいつまで経っても子供っぽいな」

「いいから触れてみなさいよ!」

「もう」

 

 押し付けられた人形を驚きながらも詩子ちゃんは受け取った。そして、その姿をマジマジと眺めて「覚えがある……ような気がする」と呟いた。手応えはあるようだ。

 

「……えっと、額を合わせて集中してみてくれ。そうしたら、多分引っ張られるような感触と一緒に記憶が見られるはずだ」

「おにーさん、説明が下手くそだねぇ」

「しかたないだろ、ほとんど無意識に使ってるんだから」

 

 詩子ちゃんは目を瞬かせてから、そっとその瞳を隠して人形に寄り添う。

 彼女にとって、記憶は雪のようなものだと言う。

 

 そう、降り積もった雪は溶けて、記憶は忘却へと流されていくものだ。

 けれど、そこにある雪解け水の水面に映った光景を、見つけられたのならば? 

 

 白い睫毛が震える。

 そして、「つう」と彼女の頬に透明な雫が垂れていった。

 

「やっと、見つけた」

 

 震えた声で呟かれた言葉に、俺達はこの試みが成功したことを確信する。

 そして、その色素の薄い瞳が再び現れたとき、詩子ちゃんは前よりもずっと綺麗に、ふわりと笑った。

 

「私は神様だが、それ以上にただ一人の姉として責務を果たしたかった。だからあの子の魂を救えなかったとき、私は絶望の波に飲まれるように記憶を押し流されてしまった……それでもこうして幽霊として、存続していたのはきっと今日このときのためだったんだろう」

 

 穏やかに微笑んで白い幽霊が、否。お報せ様が言霊を紡いでいく。

 

「なあ、君達。本当に詠子を助けてくれるのかい?」

「うん、必ず」

「最初からそのつもりでここに来たんだからな」

「あんたの妹をあんたが助けてあげなくてどうするのよ」

 

 紅子さん、俺、そして華野ちゃんと続いて言霊が折り重なって力を増すように。全員分の想いが信仰となって詩子ちゃんに集まっていく。

 彼女ならできる、という信仰が。

 

「……ありがとう、私はもう大丈夫だ。あとはあの子を、迎えに行くだけ。そうしたら……全てが終わったら、隠居して華野の守護霊でもやろうかな」

「え、いいの?」

「ああ、神様だからね。あの子とは違って、私に成仏の選択肢はないのさ」

 

 白い神様に紅子さんが複雑そうな顔をする。

 しかし、なにも言わずに彼女は背を向けた。

 

「さあ、この人形を壊そう。そしてあの子に私の姿を思い出させるんだ」

 

 ここからが、本番だ。

 白き神と、偽物の神。その信仰の行方がこれから決まる。

 

 俺はそして、赤竜刀を人形に向けて構えた。

 

 ――しにたくない。

 

「ごめん」

 

 人形から聞こえてくる小さな意思に目を伏せて、貫く。

 青白い炎と共に、悲鳴が轟く。そして、後に残った人形の中には、真っ二つに割れた木札だけが静かに横たわっていた。



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浄化の炎で長年の因習を叩き斬れ!

 シャラン、シャランと鈴が鳴る。

 詩子ちゃんの右手に付けられた組紐と鈴がその動きに合わせて鳴らされている。まるで神に捧ぐ舞のように、彼女は白装束をはためかせた。

 冬の早朝のような肌寒い風が彼女に纏わりつき、鈴を鳴らす。

 シャラン、シャランと。降り積もる雪のように、俺達の元から淡い光が浮かび上がり、祠の前で舞う彼女の元へ。

 

「……」

 

 浅い呼吸。

 目を瞑ったままに。そうして、千切れた組紐を華野ちゃんの左腕にむすびつけた。

 

「私は神、報せの神。君達の信仰に応え、私は先見の目を持って、かの偽物の神を討つ手助けすることを誓おう。華野、君は私の巫女として同じ光景を共有することとなる、それでもいいかい?」

「望むところよ」

「そうかい」

 

 詩子ちゃんが微笑む。

 光……信仰を受け入れた彼女はこれまでと比べ物にならないほどの存在感をその場に刻みつけたのだ。そうして、ただの白い幽霊から、信仰を持った白き神に。

 

「私の名前を呼んでくれないか、華野。藤代、華野」

「ええ……私、藤代華野は報せ神、白瀬詩子の巫女として、その予知を他方に伝えることを誓いましょう」

 

 シャランと鈴が鳴って、二人の間を冷たい風が吹き抜けていった。

 しばらく見つめあって、二人は頷く。

 

「行こうか」

 

 ほんの少しだけ眉を寄せて詩子ちゃんが言った。

 その様子に、俺は以前紅子さんが言っていたことを思い出して、口に出す。

 

「幽霊に堕ちて、そこからまた神格を持ってって、きつくないか? 詩子ちゃん」

 

 雨音の怪異のときに、カタツムリの神様に対して紅子さんが言っていた。堕ちて、また神に戻ってを繰り返すと体が耐えきれないと。だからこそ、俺は詩子ちゃんに尋ねたのだ。

 

「これくらい、耐えてみせるさ。少しの間は上手く視ることができないかもしれないけれど、そのうち馴染む。心配はご無用さ」

 

 彼女がそこまで言うのならいいのだが。

 

「無理はしないでくれよ」

 

 それだけ言って、誰が言うということもなく走りだす。華野ちゃんの隣に詩子ちゃんが並走し、俺達は先頭を駆け抜ける。

 態勢を低く保ち、加速しながら赤竜刀を振るって露払いを成す。ロケットのように突っ込んでいきながら、俺は神社の方向へと向かった。

 

「無茶をするなというのは、君もだ」

 

 赤竜刀を振るうタイミングが遅れ、蜘蛛に噛みつかれそうになったそのとき、空中で蜘蛛の動きが止まる。

 

「曲がってしまえ」

 

 そして、見えない手によって腹と頭に当たる部分が捻り切られた。

 おしら様の「顔が曲がる」と言われる祟りの力である。

 

 こうして俺達は協力しながらも神社の手前まで辿り着いたのだった。

 

「でかい……」

 

 思わず呟く。

 落ちた吊橋の向こう側に、神社を踏みにじるように巨大な蜘蛛の姿を確認する。

 その蜘蛛の体は人間の死体で構成されたかのようにデコボコとしていて、ときおり崩れるように蜘蛛の足に当たる部分からパーツが剥がれ落ちる。

 実に醜い有様の、こんなものを神と言うことすら憚られる。そんな巨大なバケモノ蜘蛛だった。

 

 大勢の呻き声を()り合わせたような、そんな声が大音量で響き渡る。

 

「けど、これじゃあ……」

 

 詠子さんの姿は見えない。

 これでは、彼女を救うことすらできないぞ。

 取り込まれた場所が分からなければ、へたをすると詠子さんを傷つけてしまうかもしれない。

 

 崖を挟むようにして俺達と大蜘蛛は対峙している。

 

 ――こころを。

 

 無数の恨み言の中に混ざった女の子の声。

 いくら集中しても、どこからその声がするのかが分からない。

 

「向こう側には行けそうにないね」

 

 透さんが困ったように言う。

 そうだ、神社から逃げるときに吊橋は落ちてしまった。どうすれば……。

 

「俺が運んでやろうかい?」

「いや……」

 

 詩子ちゃんが目を瞑り、そして隣の華野ちゃんを見た。

 

「トオルさん、あなたはここにいて。わたし達では辿り着けないわ」

「え、どうして?」

「詩子からイメージが送られてくるの……あそこに行けるのは一人だけ。そして、それはそこのあんたじゃないといけない」

 

 華野ちゃんが俺を指差した。

 もちろん。相手は蜘蛛とはいえ神だ。格上に届かせることのできる、この赤竜刀でなければトドメはきっと刺せないだろう。

 

「……そう、またお兄さんに任せないといけないんだね」

 

 苦い顔をして紅子さんが言った。

 

「大丈夫ですよ、声援を送れば実に単純に令一お兄さんは舞い上がりますからね」

「アリシア、言い方」

 

 今度はアリシアちゃんのあんまりにもあんまりな言い分にジェシュがツッコミを入れる。間違ってはいないあたり、よく俺のことを分かっていると言えるだろう。

 

「そういうわけだ、紅子さん。俺が行ってる間は外の小蜘蛛達をよろしく頼む。邪魔されたらたまらないからな」

 

 毒液もあるわけだし、大蜘蛛と大立ち回りをしている最中に横から攻撃されたんじゃたまらない。だからこその役割だ。

 

「……透、耳を澄ませていてくれないか」

「詩子ちゃん……うん、ちょっと頑張ってみるよ」

 

 詩子ちゃん、華野ちゃん、そして紅子さんの前に透さんが立ち耳に手を当てる。

 

 そうこうしているうちに大蜘蛛がこちらに気がついたのか、白い蜘蛛糸が吐き出されてこちら側に迫ってきた。

 

「はっ!」

 

 細いそれを斬り払って、背後を守る。

 どうやら狙いは俺のようで、なおも向かってくるそれを受け流してから走り出した。俺を追いかけるように糸が吐き出される。

 彼らの側にいるとかえって危険な目に遭わせてしまいかねない。

 俺は、俺だけで。詩子ちゃんの予知通りに一人で向かった。

 

 細い糸では斬られるということを学習したらしい大蜘蛛は、今度は波のように大量の蜘蛛糸を吐き出してきた。あまりにも多いそれを焼ききるのは時間の無駄だと断じて回避に専念し、どう攻略しようかと崖上を走り続ける。

 

「リンッ!」

 

 正直今止まってしまえば、気が抜けて息がきれてしまいそうだ。走り続け、そしてたまに紅と白の蝶へと向かう蜘蛛糸だけを焼き斬っていく。

 チラチラと燃え盛る薔薇色の炎が蜘蛛糸を辿っていくものの、途中で糸が切れて大蜘蛛までは届かない。

 単純な大きさと、そして場所のアドバンテージ。俺では崖を超えられない。

 

 ……どうすればいい。

 

「令一くん! 蜘蛛の糸は二種類あるんだ。くっつく糸と、くっつかない糸だよ! それをなんとか見極めればきっと……!」

 

 透さんが声を上げる。

 俺は未だに霧が視界を覆う中、目を細めて向かってくる糸を見るが……ダメだっ、対処することに精一杯で詳しく見ている暇がない! 

 

「旦那! 灰色の蜘蛛糸だ! 大量の糸の中に一本だけ違うのが入ってやがる! 多分それだぜ!」

「……って言われても、見えないんだよ!」

 

 白い波が迫り来る。

 そして、いよいよ大蜘蛛が足を動かした。

 長い長いその足が振り上げられ、崖のこちら側に向かって降ろされる。

 

 そのとき、白装束を羽織った少女がこちらにやってきて言った。

 

「右に回転斬り」

 

 踏み込んで、反射的に動いた。

 すると赤竜刀が食い込んだ蜘蛛の巨大な足から、纏わり付いていた肉塊が剥がれ落ちて魂が一つ、二つと解放されて天へと登っていく。

 

「これは……」

「問題ない、私が見極めよう。この先見の目を持って、君を全力で支援する」

 

 詩子ちゃんがゆっくりと微笑んだ。

 

「なるほど、それは心強い」

「次、左から討ち漏らされた小蜘蛛」

「ごめん!」

 

 言われた方向に向かって突きを繰り出し、「大丈夫!」と声に出す。

 

 ――こころを。

 

 再び詠子さんの声が聞こえたとき、背後から透さんの声が響いた。

 

「令一くん! 口だ、口の中から声がする!」

「分かった!」

 

 耳を澄ませていた彼のおかげで、詠子さんの居場所が分かった。これで攻勢に出られる! 

 

「上から糸」

 

 ハッとして飛び退る。

 俺のいた場所に糸が叩きつけられた。

 

「その上を走れ」

 

 言われたとおりに前傾姿勢になって、糸に足を延ばす。

 

「旦那! 右端だ! 右端に灰色の糸があるぜ!」

 

 崖から刹那さんの指示に従って、蜘蛛糸の上に。詩子ちゃんはこちらまでやってこずに崖上で足を止めたままだが、今度は頭の中に直接響くような声がし始めて、俺はつき動かされるように足を運んだ。

 

「毒液が来る。跳べ」

「っふ……!」

 

 目の前に迫る紫色の毒液を上空に回避し、灰色の糸に着地したまま加速する。

 頭の中に響く詩子ちゃんの〝予知〟を頼りに、俺は糸を駆け上がり大蜘蛛の顔の部分へと向かう。

 それは信頼。神としての彼女を信仰した、俺なりの信頼だった。

 こうしていればなんとかなるという、無条件の、無意識の行動。

 

 皆の言葉に従って、俺は動く。

 皆が開けた道を俺は行く。

 

 そして大蜘蛛がその口を開け、俺を取り込もうとする。

 そして、その奥に俺は見た。糸に囚われた少女。虚ろな瞳でこちらを睨み、〝心〟を求め続ける少女を。

 

 ――どこにいるの。

 

「詠子、私だ。詠子、私はここにいる。お前の〝心〟はここにあるぞ!」

 

 崖の上で詩子ちゃんが叫ぶ。両腕を広げ、その腕の鈴がシャランと涼やかな音を鳴らした。

 それを見て、少女の目が見開く。そして蜘蛛の口の動きが、一時的に止まった。

 

「そこだぁ!」

 

 開いた口の中に飛び込む。

 そして閉じきる前に少女の元へ。

 

 薔薇色の炎を纏い、横薙ぎの一閃。

 少女を捕らえた糸を焼き斬り背後の肉の塊ごと抉り取る。

 その動きのまま、両手で持ち直し、真上に赤竜刀を突き刺す。

 

「うっぐっ……!」

 

 両腕は上顎を貫く動作にかかりっきりで詠子さんを逃すことが叶わない。

 だから、申し訳ないと思いつつも、彼女を足で払って蜘蛛の口の中から蹴り落とす。

 閉じていく口の向こう側で、刹那さんが落ちた詠子さんを抱えて飛んでいくのが見えた。

 

 よかった。しかしそんな安堵が油断となる。

 

「しまっ」

 

 そうしてバランスを崩した俺は閉じた上顎に飲み込まれた。

 手が滑り、赤竜刀を上手く握れない。絶体絶命。普通なら詰みの状況。

 だめなのか……そう思考に霧がかかったとき、外から小さく声が聞こえた。

 

 

「令一さん!」

 

 悲鳴のような声。

 

 ――約束。

 

 その言葉が頭の中を過ぎり、目を見開いた。

 

「いや、まだだ!」

 

 足元を踏ん張る。押し潰してくる肉塊から滴った液体に触れた箇所が焼け爛れていく。靴が溶けていく。糸が身体中に巻きついてくる。

 喉の奥からは大勢の人々の生者を妬む声と、無念の声が反響して俺を取り巻く。まるで諦めさせるかのようなその声に、声を張り上げて腕を無茶苦茶に振るった。

 

 ――お前には、この場にいる全員の願いが聞こえるかい? 

 

 詩子ちゃんの声が頭の中に響く。

 集中すれば、確かにそう遠くから皆の声が聞こえてきた。

 

「このっ! 口を開けなさい!」

「アリシア、一旦離脱するよ」

「あ、待ちなさいよジェシュ! ちょっと!」

 

 アリシアとジェシュの声。

 

「ッチ、幻術で糸の狙いを逸らすのはいいが、さすがにこう何度も続くとなると……ちときついな」

 

 刹那さんの声。

 

「トオルさん、小蜘蛛が来るわ。右側」

「うん、任せて!」

 

 華野ちゃんと透さんの声。

 

「お願いだから、無事に帰ってきてよ!」

 

 紅子さんの、声。

 

「……そうだ、俺はここで終われないっ。約束を守るんだ!」

 

 ――お前についているのは、聖なる竜の化身。その火焔は浄化の炎。

 

 詩子ちゃんの声が響く。彼女の予知が流れ込んでくる。

 頭に浮かび上がったイメージは、赤竜刀から巻き起こる浄化の炎。邪悪なる神を殺すための刃。

 死体達に宿った、未練ある魂がこの大蜘蛛の体を結び付けていると言うならば、それをどうにかしないとこいつを殺すことはできない。

 

 ならば――浄化の一太刀を今、この場でっ! 

 

 口が閉じていった恐怖を、前を見据える目に。

 死ぬかもしれないという恐れを勇気に。

 できないかもしれないという不安を決意に。

 神を殺すという無謀な挑戦を現実に。

 

 それらが合わさって、紅子さんを守りたいという願いを力に変換する。

 神への一手を、格上へ食らいつく刃を。

 手が消化液で滑りそうになる中、赤竜刀の柄をしっかりと握り込む。

 

 諦めては、いけない。

 

 思い出すのは、俺が成すすべもなく神内に殺されていった友人達の姿。

 俺が救えなかった青凪さんの姿。目的を見失って塵になってしまった黄泉返りの青水さん。失恋の末に散っていった冬の桜の姿。

 

 もう、あのときの俺とは違う。

 今の俺ならば、この牙が届く! 

 

 ひゅっと息を短く吐き、それら全ての想いを乗せて自ら肉の地面を蹴り、喉奥へと突っ込む。

 

 この大蜘蛛に囚われた全ての魂をここで今、解放する! 

 

「はあっ!」

 

 斬り裂いた軌跡が薔薇色の炎で彩られる。

 たとえ再生能力があったとしても、常に燃え盛り続ける神の炎に焼かれて大蜘蛛は抵抗ができないはずだ。そして、大蜘蛛の体の中、その中心に集まった人形達に刃の先を向ける。

 

 ――しにたくない。

 ――しにたくないよ。

 

「だからといって、人の命を無差別に奪っていい理由にはならない!」

 

 容赦は捨てた。

 胃袋の中に飛び降り、空中で回転する。力が足りなければ体重と勢いで斬ってみせる! 

 

「俺は、約束を絶対に、違えない!」

 

 回転に決意と祈りを乗せ、浄化の炎を纏った剣先で人形達の中心を突き刺す。

 一瞬の静まり、そしてその場から全ての人形を斬るように振るう。トドメを刺され、一斉に割れる人形達を横目に俺はそっと目を瞑って深く息を吸う。

 

「次はどうか、報われますように」

 

 祈るように。

 神殺しを経て、俺は血振りをして鞘に赤竜刀を納める。

 

「やっ……た……?」

 

 シャラン。涼やかな鈴の音が耳の奥で聞こえる。

 薔薇色の炎が縦横無尽に大蜘蛛の体の中を駆け抜けるたびに、その部分から青白い魂達が立ち登り、解放されていく。

 魂達が天へと向かっていくたびに、蜘蛛の体から死体が剥がれ落ち、薄れて消えていく。

 

 そんな光景を見ながら、俺はだんだんと見えてくる夕空を見上げた。

 霧が薄れていく。やはりあの真っ白な霧は大蜘蛛の、偽物の神様によるものだったらしい。

 

 目の前で消えていく大蜘蛛には、もはや大勢の魂を結びつけるだけの核もなく、無理矢理集めていた意思もなく、ただただ消えていくだけだった。

 

「終わった……」

 

 神殺しを。否、祟り神殺しを俺は成したんだ。

 呆然とその場で呟いて座り込む。神社の瓦礫が沈む跡地となったその場所で、俺は気が抜けてしまったのか動けなくなってしまった。

 

「膝が笑ってる……情けないな」

 

 今更ながらに襲ってきた恐怖が体を駆け抜けて、鞘に収まった赤竜刀を手に握ったまま笑う。

 本当に、最後まで格好良くできないな、俺は。

 

「令一さん!」

 

 ふと愛しい声がして顔を上げた。

 そこには、崖を超えて俺の元へと飛び込んでくる紅い少女の姿。

 鴉天狗の刹那さんが上空にいるので、きっと彼に運んでもらったのだろう。

 そんな彼女が俺の元へ蝶々のようにひらひらと紅いマントをはためかせて飛んできた。

 

 受け止めようとした手は空を切り、俺の手前に着地した紅子さんが、優しく懐に飛び込んでくる。怪我を労わるその仕草に、そして俺に抱きついて無事を喜ぶ彼女が、そんな彼女があまりにも綺麗に泣くもんだから、俺はその頬に流れる雫を拭う。

 

「約束……破ったも同然じゃないかな、こんなの、こんなに怪我して!」

「ごめん、やっぱり俺、最後まで上手くいかないな」

「まったくもう、そんなんだから、いつまで経ってもキミは不合格なんだよ」

 

 涙声の紅子さんと額を合わせて頭を撫でる。

 もしかしたらキスをするよりも近いかもしれない距離に、俺達は全てが終わったことを、そして俺が紅子さんを守りきったことを実感する。

 

「守ったよ、ちゃんと」

「……うん、助けてくれた。キミは初めて、アタシを助けてくれた人かな」

 

 その言葉にどれだけの想いが込められていたのだろうか。

 それは、紅子さんにしか分からないことだ。けれどそれでいい。

 全てを知らなくたって、紅子さんはこの腕の中にいる。それだけで十分だった。

 

「お二人さーん! こっちに渡って来れますかー?」

 

 アリシアの声が対岸の崖から聴こえて、二人で顔を逸らす。

 ……みんなが見ているのを忘れていた。

 

「ごめん! ちょっとこの距離はジャンプできない!」

 

 声を張り上げて伝える。

 

「ジェシュに乗って戻ってきてください!」

 

 アリシアが言うと、ジェシュがすぐさまこちらへやってくる。

 

「おめでとー」

 

 適当そうに言うジェシュに苦笑して、二人でその背中に乗る。

 対岸には詠子さんを抱きかかえた詩子ちゃんの姿も見えた。

 無事に救出することはできたようだった。それを見て、俺も安堵する。

 蝶々達と華野ちゃんの周りには無数の骸骨がサラサラと崩れていく光景が広がっている。どうやら透さんが退治した小蜘蛛達も天へと登って行っているみたいだな。

 

 辺りには迫る夕闇と、静けさが取り戻されている。

 これが何十年も猛威を振るっていた神様……祟り神の最期だった。



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六十年目の巡り合わせ

「詠子、詠子。起きておくれ、詠子」

 

 皆のいる場所へと戻ると、詩子ちゃんが詠子さんの体を優しく揺すって声をかけているところだった。

 片側に鬼のツノが生え、青い隈取りをしたその姿は変わらずに詠子さんは目を震わせる。

 

「……どうだ?」

「さっきからあの子が呼びかけてはいるんだがねぇ」

 

 刹那さんはそう言うが、別に心配をしているような雰囲気でもない。目を覚ますと確信しているのか、それとも興味がないとか、そういう理由なのかは分からないが……ともかく、彼は事実だけを述べている。

 

「詠子、私はここだ。お前の心はここにある。どうか、どうか目を開けてくれ」

 

 ピクリと、少女の睫毛が震える。

 

「ど……こ……に」

「私はここだ。私はここにいる」

 

 詠子さんの手を握って、詩子ちゃんが声をかけ続ける。

 そうしている彼女を全員で見守っていると、詠子さんはゆっくりとその瞼を押し上げた。

 虚ろな瞳は虚空を映し、しかしその中に真っ白な蝶を捉えると、その瞳を大きくして起き上がった。

 

「ねえさま」

「ああ、そうだよ詠子。私だ、詩子だ」

「ねえさま、おあいしとう、ございました」

「うん、私もお前と会えて嬉しいよ。何年振りだろうか……もう六十年にもなるのか?」

 

 穏やかに微笑む詩子ちゃんに、詠子さんは瞳を潤ませて声をあげる。

 

「わすれたく、なかったのに……ねえさまをわすれたくなかったのに、わたくしは」

「いいんだよ、いいんだ。私は、本当はお前が幸せに生きてくれればいいと、そう思っていた。あのとき、お前と別れるとき、〝忘れてくれ〟と言えなかったのは、他ならぬ私の(ごう)だ。そしてお前を縛り付けてしまった。お前に呪いをかけてしまった」

 

 贖罪(しょくざい)するように、白い神様が言葉を紡いでいく。

 言葉。それはそうと思っていなくとも、人を縛り付けることのできる原初の呪いなのだからと、詩子ちゃんは舌で転がすように、詠子さんをあやすように、穏やかな声で想いを伝える。

 

「あなたがもういないことも、わすれなくてはいけないことも、わかっていました。けれど、それでも、もとめてしまいました。たとえまぼろしでも、あなたと、もういちどあいたくて」

「詠子……」

「あなたにこえがとどけられるなら、あなたをひとめみることができたのならば、このこえも、このひとみもすてたってかまいませんでした」

 

 焦がれて、焦がれて、自分のなにもかもを投げ出しても忘却を遠ざけたくて、そうして詠子さんは苦しんでいた。

 そこには、きっと詩子ちゃんを見捨てた自分自身への罪の意識があったに違いない。だからこそ、彼女は異常に忘れることを恐れて、そうして少しずつ、少しずつ心が蝕まれていった。

 

「あなたのこえが、だれかのこえにまじってきえていくのです。あなたのすがたが、だれかのすがたとかさなって、おもいだせなくなるのです」

 

 必死に言葉を紡ぎながら、詠子さんは詩子ちゃんの胸に抱かれて虚ろな瞳から涙を流す。その瞳の中には、もう詩子ちゃんしか映っていない。

 俺達はそんな様子をそれぞれに痛ましく思いながら、霧が晴れていく空を見上げる。まだ僅かに残った霧と、重苦しい空気が村全体にのしかかっているようだった。

 

「……きぎのざわめきに、かきけされていくのです。おもいでをかさねるごとに、あなたをみつけられなくなる。それが、とても、とてもおそろしかったのです」

「うん、うん、私もね、お前に見つけてもらえないことが、お前に忘れ去られていくことが怖かった。だから呪いをかけてしまっていた。お前の幸せを、一番に願っていたはずなのに。私は、お姉ちゃん失格だ」

「ねえさまは……わたしにとって、さいこうの、おねえさま……ですよ」

 

 泣き笑いのように微笑む詠子さんに、詩子ちゃんは唇をぎゅっと引き結ぶようにする。そして、立ち上がるほどの力はない彼女を抱き上げた。

 

「ねえ、詠子。もう、怖くはないかい? もう、寂しくはないかい?」

「……ええ、とても、とても、おだやかな、きもちです」

 

 詩子ちゃんに抱かれたまま、詠子さんは目尻に涙を溜めて頷く。

 

 

「一人で、眠れるかい?」

「ええ、だって、ねえさまは、かみさまですものね」

「ああ、私にはまだやることがある。きっと、きっとまた会えるからね。またもう一度生まれておいで。そうしたら、きっと私はお前を見つけるよ」

「うれ、しい……です」

「愛している、詠子。我が妹。私は神様だから、いくらでも、そういくらでもお前を待つよ」

「ねえさま、ありがとう。だいすき、です」

「……」

 

 そして詩子ちゃんは、見守っていた俺のほうに視線を向け、真っ直ぐと見上げてきた。

 

「君、君のその浄化の炎で、この子をどうか天まで見送ってほしい。君の愚直なほどの優しさならば、この子をきっと穏やかに送ってくれるだろうから」

「………………」

 

 ああ、そうか。そうだな。そうだよな。

 この二人は、この姉妹は、今生で救うことはできない。

 ただ、未来を覗ける詩子ちゃんが言っているのだ。彼女は何年でも、何十年でも、何百年でも妹が再びこの世に生まれ落ちる日を待つ。

 

 それはまた、呪いとなるだろう。

 けれど信頼を向けて、妹が無事にあの世へと旅立てるように俺を頼ってくれている。

 

 ――俺の、この愚かなほどの優しさ(よわさ)を必要としているんだ。

 

「分かった」

 

 だから、俺は肯定して赤竜刀を抜く。

 集中して決意を込めるように、祈る。

 

 この姉妹の〝来世でまた会う〟という無謀なほどの約束を想って、俺は祈る。

 俺もまた、そんな二人の願いが叶うことを(こいねが)う。

 

 希望を持って、未来へと託すために。

 

 じわり、じわりと薔薇色の炎が赤竜刀へと宿る。

 しかしそれは、大蜘蛛を斬ったときのような苛烈なものではなかった。

 とろ火で包み込むような、そんな優しく温かい、太陽の温かさを込めたような炎。

 

「いいんだな」

「ねえさま……のろいをかけるわたくしを、おゆるしください」

「いいよ、言いなさい」

「――わすれないで」

「ああ……約束だ。いいね、詠子」

「は、い……かならず、しょくざいをして、もどってまいります。おねがい、します」

 

 抱きかかえられた少女に視線を集中させる。

 その胸の中に宿る魂は、蜘蛛。姉の蝶に対して、蜘蛛。

 自らの巣に絡まってしまった、哀れな蜘蛛の魂がそこにはあった。

 

「どうか、安らかに」

 

 言葉にして、赤竜刀を静かに彼女の体へと突きつける。

 不思議と赤竜刀は彼女の体を傷つけることなく、撫でるようにその身の内へと沈ませていった。

 

 俺のやることは、なんとなく分かっている。

 

 だから俺は、この目に視えている蜘蛛の巣だけを斬り裂いて、雁字搦めとなった魂を解放した。

 

「あ、あ……」

 

 薔薇色の炎が燃え上がる。

 

「たつ、き……さん……まっていて……くださった、のです、か……?」

 

 詠子さんが虚ろな瞳で手を伸ばす。

 その先に俺には誰も視えなかったけれど、彼女のその手に一枚の桜の葉が落ちていく。

 

 ゆらゆらと、ふらふらと炎が揺れて、同じく薔薇色の糸を天へと昇らせるように、詠子さんの胸から一直線に天へと伸びていく。それを辿って小さな蜘蛛が天へと自ら昇って行く。

 

 後に残った詠子さんの体は、ゆっくり、ゆっくりと時間を早回しするように端から砂のように崩れ落ちて行くのみだった。

 

「ゆっくりおやすみ。愛しい妹、詠子」

 

 崩れ去った一握の砂を手に、詩子ちゃんは天へと静かに昇っていく薔薇色の糸を見つめていた。

 やがて、浄化の炎が収まると俺は動かさずにいた赤竜刀を納刀する。

 

「……忘れない、忘れないよ。けれど、今は、無様に泣き崩れる……お姉ちゃんを許しておくれ」

 

 詩子ちゃんはその場でしゃがみこむと、子供のように、歳相応に涙を流し始める。そんな彼女に華野ちゃんが慌てて寄り添い、俺が見送りをしている間にいつの間にか道具を持ってきたのか、刹那さんがガラスの瓶に詠子さんだった砂を集め、蓋をした。

 

「詩子ちゃん……」

 

 なんとも言えないような痛ましい表情で(とおる)さんが呟く。

 しかし、それ以上はなにも言えないようだった。

 

 アリシアも、ジェシュも、なにか思うところがあるようにずっと黙ったまま寄り添いあっている。

 

「お兄さん、大丈夫?」

「うん」

「お兄さん、泣いてるよ」

「……え」

 

 手を伸ばしてみれば、確かに俺の頬は濡れていた。

 

「はは、情けないな」

「今ので気持ちが動かないほうがおかしいよ……令一さんは、頑張った。ちゃんと、頑張ったから、キミもこのあとはしっかり休んでね」

「そうだった、反動が来るんだっけ。そうしたら紅子さん、本格的に看病、よろしくな」

「アタシがつきっきりでいてあげるから、覚悟しておいたほうがいいよ」

「それは頼もしいな」

 

 笑って、一人また一人と崖から離れていく。

 まだこの村の入り口は土砂で封鎖されているだろうが、どうしようか。

 あとの日程はここで、湯治に頼るのもいいかもしれない。

 まだまだ祟り神が謳歌していた影響で重苦しい雰囲気が漂っているが、それくらいなら滞在していても問題はないはずだし。

 

 そうして村まで戻ると、見知らぬ人物が二人。道端で言い争っているのが見えた。

 

「……両方、人間じゃない」

 

 紅子さんの言葉にハッとして集中する。

 確かにその二つの人影からは人外の雰囲気が漂っていた。

 

「だーかーらー! 僕はもう帰りたいんですよう! 分かりますか!? いいじゃないですかぁ! 同盟のメンバーがここに来てるんですから! 僕がいなくてもなんとかなりますって!」

「ダメだ、仕事だからな」

「無理ーっ! この雰囲気がもう無理なんですよう! 閑静な村ってだけでもう無理ですし邪気漂いすぎですし蜘蛛の気配濃すぎますしなにもかも無理無理の無理なんですーっ! 僕、虫もダメなんですよ? 無理無理のポンポンペインなので実家に帰らせていただきます!」

「いい加減にしろ、主。家で待っているあに様とついでにお師様も困るぞ」

「僕の父さんをついでにしないでくださいよー! あなたの上司でしょうがー!」

「すまん、口が滑った」

 

 言い争っているのは銀髪和服の男と、白に桃色の混じった独特の髪をした和服美丈夫であった。

 一見二人とも女の子のように整った顔をしているが、声で男だと分かる。

 

「なんだあれ」

「さあ?」

 

 俺と紅子さんは、そうして首を傾げながら言い争う二人の元へと歩み寄って行くのだった。



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穢れた地に科戸の風が吹く

「無理ですってばー!」

「やめてくれ、引っ張るな主。ほら、見られてるぞ」

「んひぃっ!? にゃにゃにゃ、にゃんですかー!?」

 

 俺達が近づいていくと、派手な着物を着た男が悲鳴をあげた。両腕を斜め上に伸ばして大袈裟に驚く仕草だ。

 

 男は薄い水色に大きな椿の柄の入った単衣と、右側が歌舞伎とか舞台なんかで見る三色の定式幕柄。左が桃色に金の稲わら模様の、左右半々で模様の違う着物を着崩している。

 

 髪は白に桃色のメッシュが入っていて、頭の後ろで輪になるように結い、椿の髪飾りで留められており、頭の横には、紅白の紐で留められた桃色の狐面がちょこんと乗せられていた。

 その腰には神社でよく見かける大幣らしきものが差してある。曲がってしまっているが、あれ使えるのだろうか。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 もう一人の男は、長い銀髪を頭の右側でサイドテールにしている。

 こちらは青い単衣に、銀に金の稲穂が揺れる着物を重ね、そして金色の羽織を肩からかけている。

 右耳には大きな耳飾りがついていて腰には俺と同様、刀らしきものを下げていた。あれは太刀サイズだろうな。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 二人とも明らかに普通の人間でもないし、怪異とも少し違う気がする。初めて視るタイプの「人ではないもの」だ。なんとなく神様っぽい雰囲気もあるが、厳密に言えば違うだろうし、よく分からないな。

 

「あの、あなた達は?」

「さっき同盟って言っていたけれど、もしかして関係者なのかな」

 

 もう事態は解決したが、来てくれて嬉しくないわけではない。

 まだまだこの村は重苦しい雰囲気に包み込まれ、なんとなく居心地が悪い。

 さっき叫んでいたように邪気みたいなものがまだ残っているのかもしれないな。

 

「うぇ……うっ、ずびばぜん……お、お見苦しいところを見せてっ、うぇ、しまって……」

 

 派手な男のほうが銀髪の男の指摘で驚いたあと、こちらに気づいたらしく振り返って声をあげる。

 涙と鼻水で整った顔が色々と大変なことになっているが、大丈夫か? このヒト。

 

「えっと……俺は下土井令一って言います。アルフォードさんに言われてここに来ていて、さっき事態が終息したところなんですけど」

「赤座紅子。同盟メンバーだよ」

「あっ、これはご丁寧に。僕は宇受迦(うつかの)春国(はるくに)と申します。ど、同盟メンバーではありますけれど、僕らは普段は中立と言いますか……えっと、場の祓いとか、事件が起きたところの浄化だけ請け負う仕事をしているのです」

 

 泣き止んではいないが、しっかりと受け答えする彼に少しだけ認識を改める。

 場の浄化だけをする祓い屋……みたいなものか? 

 秘色さんとはまた違った毛色のやりかたなんだろうな。

 

「そっちのキミは?」

「オレは銀狐の銀魏(ぎんぎ)。妖狐に堕ちかけてはいるが、一応これでも稲荷神様の神使だ。そして、こいつ……主のお守りもしている」

「こいつって言いましたね!? 仮にも自分の主をこいつ扱いしましたねぇー!」

「うるさい」

 

 なんだこの二人。

 困惑しつつも俺は疑問に思ったことを口にしてみた。

 

「あの、つかぬ事を訊きますが……あなたは神様? それとも怪異? なんですか?」

「びぇっ、か、怪異とか言わないでください……そっか、僕みたいな交ざり物は初めて視るんです? えと、僕は神の使いである白狐の父さんと、椿の精霊の母さんの間の子なんです。だから人間でもないし、オバケでもありません。もちろん神様でもないので、半分精霊……みたいな感じなのでしょうね」

 

 なるほど精霊。

 青葉ちゃんがそれに近かったが、あの子は仮にも神様だったからなあ。

 それに、狐との間の子と考えると、確かに不思議な雰囲気がするのも頷ける。見たことがないはずだ。

 

「僕らは刹那さんに協力をお願いされて派遣されてきたんです。えっと、あの、もしかして貴方が僕らの桃を食べた人ですか? すごい大怪我していますし、霊力の巡りに稲荷神様のお力を感じます」

「え、確かに仙果とやらを食べたのは俺だけれど……もしかして」

「ええ、あれは僕らが育て、販売しているものですよ。どうぞご贔屓に」

「へえ、ちょっと興味があるかな。アタシみたいな幽霊でも入れるような場所なのかな?」

 

 段々と落ち着いてきたのか、宇受迦君は微笑んで話していたのだが、紅子さんの言葉に顔を明らかに引きつらせた。

 

「あ、神域だからダメって言うのなら、仕方ないけれど」

 

 ちょっと傷ついたようにシュンとする紅子さんに、色々と言いたいことはあるが我慢だ我慢。稲荷神の使いの息子ってことなんだし、事情くらいあるだろう。もう少し表情を抑えるくらいしてほしかったが……

 

「ゆっ」

「ゆ?」

 

 再び宇受迦さんがじわりじわりと涙目になっていき、ギョッとする。

 その後ろで銀魏さんが「やれやれまたか」なんてことを言っていて、なにか地雷でも踏んでしまったのかと俺は慌てる。

 

「幽霊って単語を、使わないでくださいっ! 怖いじゃないですかぁ! せめてオバケって言って!」

「……一緒じゃないかな」

「気持ちの問題なんです〜!」

 

 いや、なんだこの、なに? 

 なんだこのヒト。

 

 本日何度目かにもなる困惑が俺を支配していた。

 なんか、大蜘蛛退治のときの疲れがドッと押し寄せてきた感じがあるぞ……。

 

「……それで、アタシみたいなのが入っても大丈夫なのかな?」

「い、一応同盟の印を持っていればっ、見学は可能ですっ。それに、僕らの神社の表層を〝あやかし市場〟として解放していますから……!」

 

 その言葉で思い出す。

 もしかして、昔行ったことのあるあの古い神社か? 

 さとり妖怪のしらべさんや夜刀神(やとのがみ)と出会ったあの神社。

 そういえば、あのときは〝椿から採れる酒〟をもらってこいとお使いに出されていたんだっけ。

 

 なんという偶然。世間って狭いな。

 

「えとえと、それで、この村には神様がいるはずだと伺っているのですが……」

「ああ、今ちょっと取り込み中で」

「構わない、私はもう大丈夫だ」

 

 背後から声をかけられて俺が振り向くと、そこには泣き腫らした跡を残した詩子ちゃんが立っていた。華野ちゃんや、俺達が資料館に帰って来ないことを心配した透さんやアリシア、ジェシュまで。

 

「よっ、坊ちゃん」

「あ、せっちゃんさん。この村にいるオバケはこれでみんなですか?」

「ああ、これで全員だ」

 

 知り合いらしい刹那さんが挨拶を交わす。そして色々と聞きたそうにしている透さんを、アリシアちゃんが服の裾を掴んで制止しているのを横目に宇受迦君がこちらに歩み寄ってきた。

 

「あの、一応、これを持っていてください。これからやることに、巻き込まれないように」

「アタシに?」

「はい、僕の浄化って無差別なのものですから……」

 

 無差別……少しゾッとする言葉だな。

 紅子さんは反射的に受け取った巾着を眺めると「椿の香りがする」と言って俺に見せてきた。鼻を軽く近づけてみると、確かに椿の香りがしている。

 

「貴女がここの神様ですね。僕は豊穣神、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の神使の息子です。この度は、この地に満ちた穢れを浄化する任を担って参りましたことを申し上げます。僕の霊力により、この地を浄化することをお許しください」

「許可する。私は祟り神だ。そういうのは向かない」

「感謝申し上げます」

 

 詩子ちゃんへ許可を取った彼はそうして、刹那さんにも目を向ける。

 

「せっちゃんさんも、香り袋持っていますか?」

「あるぜ」

「それと……そこの黒猫も、一応」

 

 非常に嫌そうに宇受迦君がジェシュに巾着を渡す。

 純粋な神様と邪神ではやはり相性というものがあるのだろうか。

 着物の袖からほんの少し覗く腕に、鳥肌が立っている。どんだけ嫌なんだ。

 

「ひぅっ……緊張で胃が潰れそうなのですが……」

「ほら主、もう少しだ頑張れ」

 

 先程までの凛々しさはどこに行ったというくらいに彼はその場でお腹を抑え、情けない声を上げる。大丈夫か? このヒト。何度思っただろうか、この考え。

 

「銀……やっぱり帰っちゃダメですか」

「この地の神に許可取っておいてなにナマ抜かしてんだこの主様は」

「控えめに言って無理、銀魏が怖い……」

「ほら、しっかりと切り替えて」

 

 ヒヨる宇受迦君に、銀の男が手を伸ばし、彼の頭に飾っていた狐面を滑らせ、被らせる。すると、途端に宇受迦君はスッと立ち上がり、腰に差していた大幣を取り出した。

 

 大きく湾曲した大幣はとてもではないが、まともとは言えない。あれを使った儀式なんてしたらバチが当たりそうなものだが……

 

 宇受迦君はゆっくりと二回、礼をすると、彼はその大幣を手に持って前に掲げた。

 あれ、普通大幣って振って使うものじゃ……? なんて疑問はすぐさま解消されることになった。

 

 大幣を彼が前に掲げたまま、すり足と独特な足の運びを持ってその場でゆっくり、回転する。それから、大幣の先端についた神楽鈴をシャンッと一度鳴らした。

 

 すると、目に見えるほどにその場の雰囲気が変わった。

 まるで神楽鈴が鳴らされたその場所だけが音を伝って清浄な空気に変えていくように。

 

浄破理(じょうはり)ノ弓〝科戸(しなと)ノ風〟」

 

 静かに彼がその言葉を紡ぐと、曲がった大幣の端と端の間を通すように白いような、薄い桃色が乗ったような淡い光の線が張られる。

 

 そう、まるで弓の弦が張られるように。

 弓を構えたまま、彼はゆったりとした所作で弦に手を触れる。

 そして細く白い指で弦を掴み、引く。

 

大祓(おおはらえ)、風流しの儀――弦打ち」

 

 掴んだ指をするりと離せば、弦が揺れ、パチンッという涼やかな音が鳴り響いていく。それと同時に、ゴウッと風が吹いた。

 

「……」

 

 息を飲んだ。声を出せなかった。

 彼が弦打ちをするたびに音が風に乗って波のように広がっていき、その範囲が清浄なる空気に変わっていくのが分かった。

 村全体を……いや、もしかしたら山全体にまで広がっていっているかもしれない清浄な空気。

 

 これが、浄化を生業にしている半精霊の力か。

 音が届く範囲全てが浄化対象だ。これだと無関係な紅子さん達も、彼からもらった香り袋がなければ問答無用で祓われていたかもしれない。それほどに影響力の強い浄化の力だった。

 

 やがて、三度弦を打ち鳴らした彼は大きく息を吐いて大幣に張っていた霊力の弦を消失させる。

 そうしてもう一度、二回礼をして、手を打ち鳴らし、最後に一礼。

 いわゆる神社などで行う二拝二拍手一拝だな。

 

 それから被っていた狐面を顔から外し、頭の横に付け直すと宇受迦くんは安堵したようにほうっと息を吐いた。

 

「これで、この他の浄化は終わりました。もう、偽物の神による穢れは残っていません。これからは貴女が治めるのですよね?」

「ああ、そのことだが……私はここを出て行こうと思っている」

「んぇっ!?」

 

 詩子ちゃんの衝撃の一言に、宇受迦君もそうだが、その場にいた華野ちゃんや俺達全員が驚きの声をあげるのであった。



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二人と、村の行く末

「ああ、そのことだが……私はここを出て行こうと思っている」

「んぇっ!?」

 

 詩子ちゃんの衝撃の一言に、宇受迦(うつか)君もそうだが、その場にいた華野ちゃんや俺達全員が驚きの声をあげた。

 

 いやいやいや、確かに華野ちゃんの守護霊になりたいなんてことは言っていたが、それは初耳だぞ。どういうことだ。

 

「そ、それはどういう了見で? 白い神さん」

「文字通りだ。華野を疎むような連中がいる場所に、華野を置いたままにはしておけない」

「わたしの、ため?」

 

 刹那さんからの質問に毅然として答えた彼女は、当惑する華野ちゃんの頭に手を乗せる。華野ちゃんはくすぐったそうに、けれどツンケンした態度を崩して本当の姉妹に甘えるように目を細めた。満更でもないようで、少し照れつつも疑問を返す。

 

「そうだよ、資料館だって閉館して民宿にしろだとか、工事して山林を開発しようだとか、お前一人に寄ってたかって散々言われているじゃないか。人形がなかったら、あの大人達を全員捻り切ってやったのに」

 

 華野ちゃんが顔をひきつらせる。これは見事な祟り神っぷりだ。

 そういえば、偽物のおしら様は〝顔が曲がる〟権脳使ってこなかったな。いや、そんなものがあったら回避不可能だし、俺が太刀打ちできる相手ではなくなっていたんだが。

 

 こう言うってことは、運転手さんを捩じ切って殺したのは詩子ちゃんということになる。

 運転手さんについて訊いたときは、「おしら様とやらがやったんだろう」と言っていたからしいが、それはただの誤魔化しだったのか、それとも本気で知らず、無意識に華野ちゃんを守っていただけなのか……この様子だと、後者かな。

 

 しかし、神様としての力を失っていたというのにそれができたということは、信仰関係なく彼女は『予知、治癒、湾曲』が使えるということになる。

 生前、現人神と評されていただけはあるな。どれだけの霊力があったんだろうか。心が挫けてしまったとはいえ、神様にまで成ったのだ。それだけの力があり、そして想いがあったからこそ至ったんだろう。素直に尊敬している。

 

「そっか、山林開発かあ……それは俺達だとどうしようもないからね」

「うむむむ、このステキな場所がなくなってしまうのは嫌です」

 

 透さんとアリシアが言った。

 散々な目に遭ったとはいえ、この場所の立地と景色は素晴らしいと思っている。秘湯もあることだし、隠れた名所としてはいいかもしれないが、開発とまでいくとちょっと躊躇うな。

 しかし俺達にはそれを止めるだけの権力も財力もないし、不便な村から出て行くだろう若者達を止めることもできない。ますます過疎化が進むだけだ。

 

「えっと……僕達は単純に土地神様だから、ここに居続けると思っていたんですけれど……そういうことなら仕方ない、んですかね」

「ここから出て行くと言っても住居はどうするんだ。行くあてもない癖に、口だけで語らないほうがいいぞ、白き神」

 

 宇受迦君、銀魏さんと言葉が続いて詩子ちゃんの表情が不快気に歪む。

 しかし彼女はグッと我慢するように眉を顰めると、「確かに、少し軽率だった。すまない」と返した。

 他所の神に仕える神使。銀魏さんに横柄な態度を取られても彼女はなんとか耐えきったのだ。

 神様である詩子ちゃんは、神使である銀魏さんより格が上だ。無礼をされているのに、大人の対応で返すあたり人間ができている。

 同時に、少しだけ銀魏さんへの印象が下がってしまった。

 

「だけれど、私は華野をあんな連中の中に捨て置けない。私が紅子のように実態を持っているのなら守ってやれるが、残念ながら能無しの連中に私の姿は見えないものでね」

「……それなら、同盟に助けを求めればいいんですよ」

「同盟……? あの赤い男、か」

 

 詩子ちゃんは全てを思い出している。

 故にアルフォードさんからの言葉も、はっきりと思い出すことができたのだろう。

 

「ある殿とやら、助けておくれ」

 

 そう、詩子ちゃんが呟いたときだった。

 

「いやまさかそんな簡単に……」

「呼ばれて飛び出てー、きゅきゅいのきゅいーっと! オレを呼んでくれたかなー?」

 

 近くの民家の窓から、赤くて長い髪の男がひょいっと姿を現したのだった。

 そんな簡単に来るか? と否定しようとしていた俺は度肝を抜かれて少し後ろに後退する。

 

「あ、アルフォードさん? いったいどこから」

「鏡だよ! だってオレの店はどこからでも通じるからね! 光を反射する物体ならなんでも鏡と認識して移動できるよ! あ、初めて来る日本人は、横浜からじゃないと来れないようになってるけどね!」

 

 マシンガンのように次々と喋り倒してアルフォードさんが笑う。

 今回の件でちょっと怖いと思ってしまっていたが、やっぱりこのヒトの笑顔は安心できる明るさがあった。

 

「やっほー、詩子ちゃんおひさ!」

「ああ、何十年ぶりかだね」

「それで、なんとなく話は分かってるよ。キミのことだからそこの子孫のことを気にしてるんでしょ?」

「相変わらず不気味なくらい見抜いてくる男だな」

「当然! キミも何百年、何千年と神様やってればこうなるよ」

「それはそれは、怖いな」

 

 軽いやり取りの後に、アルフォードさんが朗らかに言う。

 

「ねえ、詩子ちゃん、子孫ちゃん。キミ達が同盟に入るなら、ここを温泉地としてオレ達が責任を持って賑わせてみせるよ。もちろん、権力もお金もどうにかなるよ。オレが後ろ盾になって主導すれば子孫ちゃんの待遇も変わるはず。どう? いい話じゃない?」

 

 それは、過疎化した村を復興するための提案だった。

 

 ◆

 

 あれから、アルフォードさんと詩子ちゃんの話し合いは場所を移してからも長時間続いた。

 

「華野ちゃんは旅館の話、どうなんだ?」

「従業員をちゃんと斡旋してくれるなら別にいいわよ。わたしの負担が増えるなら反対ね。面倒くさいもの」

 

 俺達はその間に資料館へと戻って夕飯を作ったり、事後処理のために華野ちゃんにどうしたいかヒアリングしてみたりと様々なことをしていた。

 

 彼女はどうやら、俺達が来たときと同じく持て成す側となるのは嫌がっている様子だ。華野ちゃんがこの様子だと、アルフォードさんも詩子ちゃんへの説得に苦戦していそうだ。

 一度お茶を淹れて彼らの様子を見に行ってみたのだが、一見穏やかに笑いながら会話しているようで、その場の空気は重たく重圧がこちらにまでかかってくるような雰囲気だった。即座に俺が退散したのは言うまでもない。

 正直あの二人怖すぎる。

 

「給料も出せないし……わたしに経営なんて向いてないわよ」

 

 ぼやく華野ちゃんに心の中でだけ同意する。

 基本的に口調が刺々しいうえ、こんな幼い子に経営を持ちかけるのは間違っているからな。

 アルフォードさんのことは尊敬してはいるが、今回の提案はちょっと無茶なんじゃないかと思っている。温泉旅館化はいいなあと感じているが、実現できるかっていうとそうじゃないからな。

 

 現在俺達がいるのは食堂だ。

 華野ちゃんが僅かな菓子類を出したり、紅子さんと一緒にパンケーキを焼いてくれたりしていたので暇にはならないが……アルフォードさん達は夕方から話し合いをしているのにもうすぐ夜10時にもなる。

 

 宇受迦くんと銀魏さんは既に帰ってしまっているので、今この場にいるのは俺達と、刹那さんくらいだな。

 

「もう一度様子を見に行ってみるか……?」

 

 気は重たいが、様子をチラッと見に行く程度なら……そう思って立とうとすると、腕を軽く引かれてそちらに顔を向ける。

 

「お兄さん、あと一日経ったら反動が来るのを忘れちゃダメだって分かっているのかな。大人しく座っていて」

「そっか、そうだよな。ごめん紅子さん」

 

 心配そうに言われてしまっては逆らえるはずもなく、俺は席に着く。

 それからまた数十分程だろうか、テーブルでアリシアが居眠りを始めて人型になったジェシュが毛布を取りに行き、俺が勉強にと透さんに頼んでオカルトトークをしてもらっているときだった。

 

 部屋の扉が開く。

 そこには穏やかな顔をした詩子ちゃんと、相変わらずの笑みを浮かべたアルフォードさんがいた。

 もしかして話がいい方向に纏まったのか? 

 

「華野、結論から言うと交渉は成立した」

 

 詩子ちゃんが言う。

 

「どういうことよ。わたし、疲れるの嫌よ?」

「問題はない。従業員の話も、それに経営をどうするかの話も纏まったよ」

「うんうん、オレとしても現世勉強に行きたくても行けない子達を派遣できるし、華野ちゃんの負担になりにくいようにすることができるし、いい話だと思うんだよねー」

 

 アルフォードさんの話はこうだ。

 どうやら萬屋やよもぎさんの大図書館がある鏡の中の異界……「鏡界」には弱い怪異や行き場をなくした精霊、神などが一時避難所のようにして利用している側面もあるらしい。

 紅子さんは単純に一人暮らしするには年齢的な不安があるからと鏡界の屋敷に住んでいるが、本来あそこは一時的な住宅になっているようなのだ。

 

 そこに住む怪異や精霊は現世に赴き、仕事や学校への編入などを通じて人間と共存し、「名」を覚えてもらうことで現世への繋がりを強くする目的がある。

 そうすることで誰からも忘れ去られても、人間として生きていけるようになるからだ。

 

 しかし、どうしても怪異や精霊としての特性でその派遣が難しい種族がいるというのも現実である。

 特に樹木や花などを本体とする精霊はこの問題に直面しやすく、現世に行きたくても行けない者が多かったらしい。

 

 今回は、その中の一団を従業員として雇ってやればいいんじゃないかという提案だった。

 

「キミの名前にも〝藤〟が入っているし、藤花(とうか)の精霊達を藤棚と一緒にこの村に移設して働いてもらうのがいいんじゃないかなと思ってねー。彼女達は藤棚と一緒じゃないと弱っちゃうし、中々いい物件がなかったんだよ! この村なら静かだし、自然も豊かだし、桜も綺麗だし、あそこの桜の精霊も性格良さそうだったし」

「待ってちょうだい……桜に精霊がいるの?」

 

 これには俺達も驚いた。もしかしなくても詩子ちゃんが住んでいた祠のところにある、大きな桜のことだよな。

 

「いるよ? 祟り神に押さえつけられて成長できずにいたみたいだから、まだほんの少し意思を持ってるくらいなんだけどね。あの子にも挨拶して藤花の精霊達のお引越しがちゃんとできたら、旅館の従業員……女将さんとして働いてもらえるよ。子孫ちゃんと詩子ちゃんは経営に不安なこととかあったらオレに相談してくれればいいからさ」

 

 そうか、桜の精霊……いや、なにも言うまい。

 

「給料はどうするのよ」

「ここの土地は肥沃だし、彼女達は根付ければしばらくはそれでいいって雇用の希望条件を出してるよ。しばらくは美味しいご飯を食べさせてあげるなりすれば不満も出ないかな。ちゃんとしたお給料は旅館が軌道に乗ってからあげれば問題ないよ。あ、でもちゃんと意見は聞いてあげてほしいね。その辺はオレもしばらく監視をつけるから安心してほしい」

「……胡散臭いのだけれど」

「信じてほしいなーとしか言えないなあ」

 

 困ったようにアルフォードさんが苦笑する。

 こればっかりは俺達から意見しても仕方ないし、見守るしかないな。

 

「詩子」

「なに、なにかあれば私が捻じ切ってやるだけさ」

「詩子ちゃん、物騒になったね」

「透さん、シッ」

 

 ほけほけと感想を呟く彼に短く注意の言葉を投げかけてみるが、どうやら効果はないようだ……。

 

「ってことは、俺がしばらくは監視かい?」

「うん、せっちゃんには苦労をかけるねぇ」

「なに、それは言わない約束だぜアル殿」

 

 本当に俗世に染まってるな、この神様と鴉天狗。なんで知ってるんだ。

 古すぎて知らない人のほうが絶対多いぞ。ほら、アリシアなんて寝ぼけながらも目を白黒させて首を傾げている。

 

「カラスのお兄さんは義理堅いんだねぇ」

 

 あ、これは紅子さんも知らないんだな。

 半数にネタが伝わらなかったわけだが、竜と鴉はそのままに話題を続ける。

 

「なら俺はしばらくここに泊まりだな。頼むぜあんた達」

「滞在するだけなら構わないわ。分かったわよ、やってみればいいんでしょう?」

「あんなに気持ちの良い露天風呂があるのに、知られていないのはもったいないかな……。だからアタシもいい試みなんじゃないかなって思うよ。それで、そのお引越しってやつはどうするの? アルフォードさん」

「お引越し自体なら鏡界から場所を決めてドーンって藤棚を移すだけだからすぐ終わるし問題ないよー」

 

 随分とダイナミックな引越しだなおい。

 

「あとは場所だよね」

「それならば、露天風呂周りや神社の辺りはどうだい? 私の神社として復興工事してくれるなら場所くらい提供しようじゃないか」

 

 詩子ちゃんが提案する。

 確かに露天風呂に満開の藤棚とかすごく景観が良さそうだし、神社の近くに藤が咲き誇っているのも綺麗かもしれない。

 この村は桜も綺麗だし、上手くいけば春は本当に千客万来になるかもしれないぞ。

 

「よしよし、じゃあその方向で進めようか。子孫ちゃんもそれでいいかな?」

「やってみて、ダメそうならわたしは物申すわよ。それでもいいなら受けるわ」

「うん、構わないよ。こういうところがあれば現世勉強しに来る怪異達の一時拠点にもなるだろうし、人間とそれ以外、みんなが共存して利用できる旅館になればいいねぇ」

 

 ほんわかと笑いながらアルフォードさんが言う。

 なるほど、そういう思惑もあったのか。やっぱりいろいろと考えてるんだな、このヒトも。

 

「それじゃあ、お引越しと工事は明日やりに来るよ。それと、村の人にはオレから説明しておくね。ちょっとした権力を使うから、華野ちゃんのほうにまで文句は届かないと思う。だから安心してね」

 

 そういえばそんなこと言ってましたね! 

 

「あとこれは詩子ちゃん用だね。その髪飾りのリボン、これと交換してみて」

「ありがたくいただこう」

 

 アルフォードさんが彼女に渡したのは内側に同盟のロゴマークが入った赤いリボンだ。それを稲わらで作られたカチューシャに詩子ちゃんが結び、身につける。すると、紅子さんと同様に幽霊然としていた彼女の姿がはっきりと現れる。これで彼女も生身で動けるようになったというわけだ。

 

「それからこの鏡を置いていくから、なにかあったらオレを呼んで話しかけてみてね。オレが移動するのもここからにするよ……あ、もうこんな時間かあ」

 

 その言葉に時計を見てみれば、既に午後11時過ぎだ。アリシアなんかは完全にテーブルの上で熟睡している。

 

「うん、それじゃあ人間の健康にも悪いし、オレはまた明日来るよ。村の人には朝に説明して、お昼頃にお引越しかな?」

「ああ、よろしく頼む」

「……お願いするわ」

 

 華野ちゃんも眠そうだ。

 

「それじゃ、おやすみ!」

 

 そうしてアルフォードさんは小さな鏡にどうやってか吸い込まれるように消えていった。どうなってんだ本当に。

 

「華野、もう寝ようか」

「悪いわね、詩子」

 

 話し合いを終えて二人が立ち上がる。

 

「ここで私達は失礼するよ。良い夢を」

「もう限界よ。おやすみ……」

 

 二人に挨拶を返した俺達も、顔を見合わせて立ち上がった。

 

「アリシア、寝てていいからね」

「う……ん」

 

 ジェシュが毛布にくるんでアリシアを抱き上げる。それから「じゃーね」と言って泊まっている部屋に帰っていった。

 

「それじゃ、俺も休むね。令一くんも紅子さんもちゃんと休むように。おやすみ」

「ああ、透さんこそおやすみなさい」

「……ありがとう、透お兄さん。おやすみ」

 

 紅子さんもなんだか眠たそうだ。

 透さんが出て行って、俺は同じく立ち上がった紅子さんの手を引いて廊下を歩く。

 

「ねえ、お兄さん」

「なんだ?」

 

 眠たそうに目を擦る彼女に返事をして、歩きながら軽く振り返る。

 

「助けてくれて、ありがとう」

「……どういたしまして」

 

 穏やかに微笑んで、改めて言われた礼に気恥ずかしくなってくる。

 俺はやりきった。そう……初めて、悲劇を回避することができたんだ。

 

「れーいち、さん」

「どうした紅子さん」

 

 やはり眠たいのだろう。紅子さんは舌足らずな口調で俺を呼んで、引かれた手を抱きしめるように胸に抱き、俺の横にぴったりと体をくっつけて擦り寄ってきた。

 

 あの……、俺の心が持たないからそれはちょっと。

 

「一緒に、寝よ」

「え?」

 

 それは拷問かなにかか? 

 しかし、わりと欲望に忠実な俺は断ることができず、かといって手を出せるほど勇気があるわけでもなく……甘えてくる彼女に抱き枕かなにかと勘違いされたまま翌朝を迎えたのだった。

 

 煩悩と戦っていてほとんど眠れなかったのは余談である。

 それは、大蜘蛛戦よりもよほど長く苦しい戦いなのであった……。

 



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桜と藤の香る里『神中村』へようこそ

 翌日の引越し作業に関してはすぐに済んでしまった。

 

 議員の一人だという意外な権力者を伴ってアルフォードさんが訪れ、俺達と華野ちゃん、それから詩子ちゃんへの挨拶に来た。

 驚くことにその正体は化け狸だったわけだが……人間の世界できちんと正規のやりかたで権力を持った類の怪異なので、彼に協力を求めることになったんだとか。

 

 それからは二人がかりで村人達への説明を行なっていた。

 要約すると村に残って村興しをするか、それかいくらかの引越し資金を貸りて都会に引っ越すかの二択だったんだが、二人の巧みな話術による言いくるめじみた説得により、村人の過半数はここに残ることにしたようだった。

 

 そうして同意を得て、資料館はいったんそのままに藤棚の移設が真っ先に行われたのである。

 

 ◆

 

 あれから――大蜘蛛退治からは実に二日は経っていた。

 窓から吹き込む風がそよそよと俺の頬をくすぐっていく。

 視線だけを窓に向ければ桜の花弁が一枚、風に乗って流されて来たところだった。

 

「お待たせ」

 

 と、そこで扉を開けて紅子さんが部屋に入ってくる。

 その手に持っているのは土鍋だ。ここ数日で華野ちゃんに料理を教えてもらっていたようで、すっかりと失敗が少なくなっていた。

 彼女が来たので体を起き上がらせようとするが、気が急いてしまっていたようで身体中に激痛が走る。

 

「いっ……!」

「もう、お兄さん。あんまり無茶な起き方しないでよ」

 

 呆れたような、心配そうな、そんな複雑な表情で紅子さんは言って、俺の背中をさする。

 

 仙果の効果が切れたことによる三倍の痛みは昨日嫌という程味わったのだが……実は今も普通に痛みの後遺症が続いている。ただでさえ大怪我だったので、反動が酷い。

 三倍期間も紅子さんはお世話をしてくれようとしていたんだが、さすがにベッドから一歩も動けなくなった俺の世話をさせるわけにはいかず、ちょっとだけ刹那さんや透さんに助けてもらった。トイレにも行けなくなったのはわりとマジでヤバイと思った。最終的にアルフォードさんからの手助けで、一時的に痛みを抑える点滴をもらい、なんとかなったのが幸いか。二人には今度お礼をしなければ……。

 

 だから、こうして痛み三倍期間が終わったあともしばらくはあまり激しく動けないのだ。

 

 ギリギリで俺が持ち直したあと、刹那さんは新聞配達があるからと帰ってしまったし、透さんも有給休暇は三日分しかないからと言って、渋々帰っていった。

 唯一、アリシアだけはご実家に連絡を入れて華野ちゃんや詩子ちゃんと村の復興の手伝いをしている。

 

 そして俺は療養しながら、紅子さんと今まで以上に戯れのような会話を重ねて距離を縮めていっている。

 俺個人としては蜜月なんじゃないかってレベルで満足しているんだが、ときおりアリシアと華野ちゃんから厳しい視線が飛んでくるので調子には乗れない。まだ付き合ってもいないのに、なにやってるんだってそのうち文句言われそうだ。

 

「はい、食べられる?」

「あ、えっと、自分で食べられるよ、紅子さん」

「あのね、こういうときくらい欲望に忠実になってみてもいいんだよ? ま、その童貞臭さがお兄さんらしいところだけれど」

「せめて誠実と言ってくれないか?」

「このヘタレ」

「あまりにも正論すぎてなにも言えない」

 

 やっぱり彼女には口で敵わない俺なのだった。

 

「この資料館以外は随分と工事や移設が進んだみたいだよ。藤花の精霊達も人間に上手く化けて挨拶周りをしているようだし、あの森の中はすっかりと様変わりしているんだって。アリシアちゃんが言っていたよ」

「あれ、紅子さんは見にいかないのか?」

「……アタシ一人で行っても、ねぇ」

 

 視線を逸らしていた彼女が流し目でこちらを見る。

 その仕草に心臓が跳ねて、その真意を理解した。もしかして、一緒に行きたい……とか。自惚れかもしれないが、そういうことだろうか。

 

「痛みも引いてきてるし、散歩してもいいか?」

「え? あ、別に催促したわけじゃないかな……どうしても生まれ変わったこの村を見て回りたいって言うなら、アタシは止めないけれど」

 

 だんだんとか細くなっていく紅子さんの声に微笑ましくなって、ベッドの横に座っている彼女の手を握る。

 

「一緒に行ってくれないか? 俺は紅子さんと、もっと仲良くなりたいよ」

 

 前よりも積極的に。じゃないと逃げられてしまいそうで、言葉で繫ぎ止める。卑怯かもしれないが、そうすれば彼女には効果覿面だから。

 

「……そんなに言うなら、やぶさかじゃないけれど」

「うん、それじゃ散歩に行こう!」

 

 そう言って立ち上がろうとして、停止する。

 

「ごめん、紅子さん。ちょっと立つのだけ手伝ってもらってもいいかな」

「本当に大丈夫なのかな?」

「一回立てば大丈夫だから」

 

 ああもう、本当に肝心な時に恰好がつかない。

 

「ふふ、そういう情けないところがお兄さんらしいよね」

「もっと格好いいところを見てほしいんだけどなあ」

「それは十分見たから、しばらくはいつも通りのキミを見ていたい気分かな」

「……」

 

 顔を覆った。それは反則だよ紅子さん。

 

「あははっ、やっぱりこうでなくっちゃね。いつまでもやられっぱなしのアタシじゃないんだよ」

 

 悪戯が成功した子供のように彼女は笑って喜ぶ。

 ここしばらくは俺が彼女をからかっていたから、逆襲されてしまったようだった。

 

「はい、それじゃあ行こうか」

「ああ」

 

 手を取ってもらい、支えられて立ち上がる。

 それから二人で、すっかりと様変わりした村の中へ踏み出していく。

 

 資料館の裏の森……というより林は桜の木がより一層花を咲かせ、村中に藤棚を用いた休憩所が設けられている。

 さわさわと揺れる(こずえ)に、風に乗って舞う桜と藤の花弁。

 

 注連縄と霧で覆われていた神中村は、風花が舞う穏やかな雰囲気の村にすっかりと生まれ変わったのだ。

 

「風が気持ちいいね」

「ああ。新鮮で、花の香りが運ばれてくる。いい景色だよ、本当に」

「……この景色を作ったのは、お兄さんだよ」

 

 その言葉に、俺は思わず隣を見る。

 穏やかな表情をした紅子さんは、自身の胸に手を添えて尚も続ける。

 

「アタシが今キミの隣にいられるのも、詩子ちゃんが華野ちゃんの守護霊になれたのも、この村がこんなにも清々しくて美しい場所になったのも、全部、キミの努力が実を結んだ証なんだよ」

 

 俺は……その言葉を聞いて、不思議と目頭が熱くなってきてしまった。

 

「全部、キミが守ったものだ。キミの愚かなほどの優しさが、守り通したものだよ」

 

 胸の内で渦巻くその気持ちはただ一つ。

 

 ――報われた。

 

 そう、そのただ一つだけだった。

 

「ありがとう、紅子さん」

「どういたしまして。怪我で気が滅入っているみたいだったからね」

 

 そうだ、俺は守れた。

 犠牲になった人もいたけれど、大事なものは全て、守りきった。

 救いたいと思っても救えなかった、今までとは決定的に違う結末。

 

 俺が望んだ結末だ。

 俺が、(こいねが)った未来。

 

 この、美しい光景の全てが! 

 

「ねえ、令一さん」

「なんだ?」

「怪我が治ったら、一緒に藤棚の綺麗な露天風呂に入りに行こうか」

「えっ」

 

 彼女の言葉に思考が停止する。

 いや、きっと今度も俺は見張りとかで……。

 

「一緒に、だよ。混浴。今ならできるらしいから。それとも、童貞君には辛いシチュエーションかな?」

 

 挑発的に笑う彼女に、俺も笑って返す。

 

「そこまで言うなら、覚悟はあるんだろうな? 言っとくけど、俺そこまでされて理性が持つ気がしないからな」

「できないよ、令一さんは。だってヘタレだもの」

「本当にそう思うか?」

「誠実な令一さんなら、お付き合いもしていない女子相手にそんなことをしない。そう分かっていて、言っているんだよ」

「……あー、そう言われちゃうとなあ」

 

 俺の負けだ。

 誠実さを買われていると宣言されてしまうと、裏切るわけにはいかなくなってしまう。精々俺は無心で風呂に入るように注意しよう。

 

「それじゃ、一旦資料館に戻ろうか」

「ああ、しばらくはここにお世話になることだし……その間はいっぱい話そうな」

「もちろん」

 

 こうして生まれ変わった神中村を見守りながら、俺は怪我が回復するまで療養することとなった。

 神内からはアルフォードさんから連絡が行っていたらしく、珍しく了承の意をもらって俺の滞在が決定したのだ。

 

 風花舞う桜と藤の里。

 そんな村の再スタートは、始まったばかりであった。



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捌の怪【ようこそ、妖しき鏡界へ】
連理の道


 微睡みの中、違和感を覚える。

 視界に黒い三つ編みを認めたとき、俺は飛び起きた。

 

「わーっ!?」

「くふふ、おはようれーいちくん」

 

 なぜなら布団の中にしっかりと出かける準備をした神内がいたからだ。

 鳥肌がびっしりと覆う腕をさすりながら睨みつける。こっそりと自分の寝間着も確認したがなにもない…… なにもないよな? 

 

「さあて、れーいちくん。わかめにする? 昆布にする? それとも、も・ず・く? …… ああ、勿論味噌汁のこ」

「死ね」

 

 食い気味に言い放ち立ち上がる。

 普段は俺が用意している朝食だが、察するにこれをやりたいがためにこいつが用意したんだろう。食材が勿体無いからちゃんと食うけどな。

 そうして部屋に向かえば、ほかほかと用意された白米が自己主張しているのが見えた。

 

「……本当に用意してある」

「口先だけではないんだよ。ほらお食べ。せっかくお前のためを思って誠心誠意作ったんだから」

「嘘つけ」

「ああ酷い。私の真心を疑うんだね?」

「信用できる部分が微塵も見当たりませんねぇ?」

「そのとってつけたような敬語、結構好きだよ」

「さいですか」

 

 仕方なく食卓につく。うわっ、本当に味噌汁が三種類ある。

 

「食材の無駄遣いはやめてくださいよ」

「味噌汁なんだから何日かに分けて食べればいいんだよ。作ったからには全部食べるって」

「言いましたね? これから毎日あんたに出すんで全部食べきるまで汁物は他に作りませんよ」

「うんうん、たとえ腐っていても食べてあげるよ。無理矢理そんなものを食べさせられるのもまた一興」

 

 そうだった。こいつ超のつくドMだったんだ。いや、普通のドMに失礼かもしれない。腐ったもん食わされるの想像して喜ぶとか頭がどうかしてる。

 

「そうだ、あんた今回のことにも関与してただろ」

 

 目を細めて睨みつける。分かっているんだぞ、詩子ちゃんの記憶だとはっきり視ることができなかったが、〝おしら様〟の伝承に書かれていた〝村に訪れた黒い法師〟は絶対にこいつだと確信できる。

 

「くふふ、でも今回は直接出向かなかったでしょ? 私はお前が調子に乗るのを見ていてとっても愉しいよ」

 

 妖しい笑みを浮かべる神内に鳥肌がポツポツと立っていくのを感じる。

 絶対こいつ、いつ絶望のどん底に落としてやろうかとか考えてるだろ。勘弁してくれ。俺はもう昔とは違うんだ。こいつにだって、噛みついてみせる。

 

 ただ、今は様子を伺っているだけだ。互いに手を出してやろうと睨み合いながら、詰めの一手のために俺は今もこうして我慢しているのだから。

 

「きゅう」

「うん? なにかな、アルフォード」

「んんん……きゅうい」

 

 テーブルの上で器用に和食を食べていたリンが不満の声をあげる。

 

「こいつはリンだって言ってるだろ」

「ああ、そうだったね。うん、そうだった」

 

 神内は、睨むリンに視線を合わせてなにやら目だけで意思のやり取りをしていたようだが、ふと嘲るように笑ってリンの頭に手を伸ばし――。

 

「ぎゃうっ!」

「いてっ」

 

 噛まれた。

 ざまあみろ。

 

「リン、変なものを食べちゃダメだ。口をゆすごう」

「きゅっ!」

「くふ、くふふふふ……最近私の扱いが雑じゃないかな?」

「安心してください、元からです」

 

 不気味に笑い続ける神内を置いて食事を終え、食器を片付ける。

 それから俺は出かけるために準備を始めた。

 

 ◆

 

 本日――5月2日の早朝、俺はリンを肩に乗せた状態で屋敷を出る。

 雀がチュンチュンと元気に鳴いていて、ほんの少し涼しい空気に身を竦ませる。春とはいえ、まだまだ夜間から早朝にかけては寒いのである。

 

「きゅうい?」

「ん? どうしたリン……ああ、もう大丈夫だよ。心配してくれてありがとな」

「んきゅっきゅ」

 

 リンが肩から俺の顔を覗き込んで見てきたので、そう答える。

 さっきは神内に気を取られて気がつかなかったが、ずっとリンは気遣わしげな目を向けていてくれていたようだ。

 

 俺の怪我は、宇受迦(うつか)君のところから宅配されるあの仙果を使用したデザートと、河童の扱う軟膏、それとペティさんの魔法薬など色々と手を尽くされて早々に回復させてもらっていた。

 あの仙果も丸ごと食べれば反動が凄まじいが、加工して少しずつ使う分には回復力を促進する食物となるらしい。おかげさまで二週間程で折れていた骨まで綺麗に治ってしまったので、あちらの技術はすごいなと感心する。

 

 まあ、紅子さんは早くに完治した俺に嬉しいような、ちょっと寂しいような、そんな矛盾した気持ちを向けて来ていたのだが。

 俺も世話されているうちに距離が縮まったので、もう少しあのままでも良かったかななんて思ったりもして……。

 

 

 ――そう、『神中村』の事件から二週間あまり経ち、俺は順調に紅子さんとの仲を進めていっていた……と言っても、告白はまだなんだけど。

 

 告白をして付き合っていないだけで、もうほとんど蜜月といっていいほどに俺達は交流している。

 

 紅子さん自体がそこまで電話やメールを好むほうじゃないので、待ち合わせの約束だけしてあそこに行ってみようだとか、俺の料理が食べたいだとか、仕事(デート)に行こうだとか、そういうのだけだけれど。

 

 好き合っている男女にしてはそこまで濃い時間を過ごしていないんだと思う。俺の中だと、女性側は結構連絡をしてきて、電話が好きってイメージがあったから新鮮だ。俺もそこまで頻繁に電話したりするのは得意じゃないので、そのほうが気が楽でいいのだが。

 

 本日、俺はリンと共に鏡を通して「連理(れんり)の道」へと足を踏み入れた。

 

「きゅうっ」

「この感覚にも慣れてきたな」

 

 鏡を通り抜ける際に、たぷんとまるで薄い水の膜を通り抜けるような感覚になる。

 

 この鏡の世界は「この世」の鏡写しの世界。裏側、そして隣り合った世界。重なり合っていて見えないだけで、本当はすぐそばにある世界である。

 この世界を支配しているのが、一年ほど前に出会った境界を守る「夜刀神」であり、境界から転じて鏡界にまで手を伸ばし、怪異達が住む場所を創り上げた「同盟」の創設者のヒトリだ。

 

 連理という言葉は、普通は仲の良い夫婦とかの例えに使うらしい。

 連理とは、一本の枝に別の枝が重なり、それが一つの枝に見えることを指すんだとか。そしてその枝があちらと、こちら。触れ合った部分がこの道。「連理の道」というわけだ。

 

 一本の枝にしか見えていなければ、触れ合った部分も見えないからな。

 

「にしてもここは本当に綺麗だ……」

「きゅ?」

「ああ、なんだかこういうの、慣れてもワクワクするよ」

「きゅいん」

 

 心なしかリンが嬉しそうに鳴き声をあげる。

 この子もアルフォードさんだからか、自分の造り上げた世界を褒められて嬉しいのかもな。

 まあ、造ったといっても、この鏡界は元々あったものを改造しているらしいから、飾り立てのセンスが褒められて嬉しい……ってことになるのか。

 

 薄らぼんやりと照らされた赤煉瓦の道を歩きながら俺は辺りを見渡す。

 

 この連理の道は和洋折衷様々な怪異や幻獣などが集うせいか、その景色も和洋折衷だ。

 

 油で灯る街灯が立ち並んでいるかと思えば、所々に舌をペロリと出した提灯が灯りを提供しながら隣同士で雑談していたり、ロウソク立てに乗せられたロウソクががゆらゆらと炎を妖しく揺らしていたり、青い炎を閉じ込めたランプが暗闇の中吊るされていたり、かと思えば煌びやかな電光掲示板に「そこうよ」と逆さ文字で書かれていたり……古今東西の灯りという灯りがそこかしこに存在している。

 

 赤煉瓦の道も後ろを振り返れば曲がりくねって一回転していたりと、一体俺はどうやって歩いて来たんだと不安になるような道がそこにある。

 

 しかしこんな道もリンがいれば安心だ。

 案内人……案内竜? たるリンさえいれば迷うことなく、俺は萬屋へ、ひいてはその奥にあるアパートへと赴くことができた。

 そうして紅子さんの部屋に尋ねに行くことができるのである。

 

「あちこちに看板があるが……」

「きゅっきゅう」

「そうか」

 

 別にリンとの意思疎通が図れているわけではないのだが、なんとなく視線とか仕草で言いたいことは分かる。

 俺が指差したあちこちを指し示す地名が書かれているだろう看板や標識、それらは信用してはいけないということなのだろう。

 

「あれらは流れ、流れゆくこの連理の道を定義付ける、文字通りの道標なのですわ」

「わっ!?」

 

 ふわりと、背中を包み込むように誰かが〝降りてきた〟のだ。

 それに驚いて飛び退くと、そこには豪奢なドレスを着た巻きヅノの貴婦人。いつか出会った「夜刀神」がそこにいた。

 

「えーっと……」

縛縁(はくえん)真宵(まよい)ですわ」

「縛縁さん、いったい俺になんの用です?」

「真宵さんと呼んでくださいまし。わたくし、でないととてもとても寂しいのですわ」

 

 妖しく艶やかな笑みを浮かべる彼女に俺は顔を引攣らせる。

 やはりどこか神内と雰囲気が似ていて、このヒトは苦手だ。これ以上ないほどの美貌だが、もう俺が問答無用で惹かれることもない。なんせ、好きな人がいるからな。

 

「……真宵さん、なんの用ですか?」

「ただの暇潰しですわ。それと、疑問があるようでしたのでお答えしてさしあげようかと」

「それはどうも」

「素っ気ないわねぇ」

「俺、好きな子がいるんで」

「うふふ、それは重畳ですわね。人とアヤカシの恋は悲恋が多けれど、結ばれる価値のあるものですわ。わたくしはそれを知っていますの。だから貴方のことも応援しておりますのよ?」

 

 鈴を転がすような美しい声で真宵さんが笑う。

 人とそうでないものの恋ってやつは前途多難だと思っていたのに、案外皆歓迎してくれていて毎度驚いてしまう。そんなに他人の恋路が面白いのだろうか。

 

「さて、この標識について説明いたします。本来こちらの連理の道は閉じられ、流されていく世界なのですわ。本来は常に流れていく濁流のようなものなのです。清流とは似ても似つかない、そんな穢れた場所なのですわ」

 

 常に流れていく……ね。それが標識となにか関係があるのか? 

 

「常に流されていくということは、足跡をつけてもすぐさまかき消えてしまうことを意味しますの。いくらヒトが通る場所が道になると言っても、その跡が跡形もなく消えてしまえばいつまで経っても道にはならないでしょう?」

 

 雪が降っているときの雪道みたいなものを想像すればいいのだろうか。

 

「そこで、流されていく場所の道標として標識や看板を立てたのです。流されていようとも、その流れの上に常に留まる道標があれば迷うことはないでしょう。ですから、決してこの標識や看板を壊してはいけないのですわ。これもよく覚えていくと良いでしょう」

「リン、本当か?」

 

 思わず肩に乗ったリンに尋ねる。

 するとリンは明るい声で「きゅう」と肯定した。

 

「そうか、本当のことなんだな」

「ひどいじゃないですか。わたくしのお話、信用してくださらないのね」

「いや、だって……」

 

 前に俺を騙して変なものを食わせようとしたこと、忘れてないからな。

 それに神内と雰囲気が似てるし、胡散臭すぎるんだよ。そう簡単に信用できるか! 

 

「ひどい、ひどいですわあ」

 

 さめざめと泣きはじめてしまったが、口元が笑っているので絶対にわざとだ。

 反応なんてしないぞ。

 

「まあ、それはそれとして……貴方はまだ鏡界についてはあまり知らないのでしたね」

「ま、まあ……いつも行く場所と言えば」

 

 萬屋と、大図書館と……紅子さんの部屋、くらいだし。

 

「それなら、わたくしが案内してさしあげましょう。鏡界の隅々までわたくしが支配する領域です。安全性は保証いたしますわ。もちろん、あの子も連れて行きたいのならご自由に。わたくしはツアーガイドさんにでも徹しますもの」

「……」

 

 話を受けるか、受けないか。

 夜色の妖艶な笑みを浮かべた夜刀神。彼女が同盟創設メンバーであることは確かなのだ。ならば人間を愛し、傷つけるつもりがないのであろうことも多分保証される。紅子さんを誘う許可も出ている。

 

 リンを横目で見ると、頷く姿が映る。

 信用はできる。だから俺の気持ち次第でどちらでもいいよということだろうな……多分。

 

「紅子さんの部屋に行って、訊いてみます。彼女の許可も欲しいですし」

「ええ、とても懸命ね。分かりました。それまで待ってさしあげましょう。準備ができたらわたくしの名前をお近くの鏡に向かって呼びかけてくださいな。貴方からの呼びかけを、わたくしは待っていますわ」

 

 そう言って真宵さんが闇の中に溶けるように消えていった。

 

「先延ばしにしちゃったが……今日は特にすることもなくて、紅子さんに逢いに来ただけだしな……案内してもらえるなら嬉しいし」

 

 ちょっと心配なことがあるとするならば、紅子さんがこの話をどう思うかなんだよなあ。

 

 そうして俺は止めていた足を動かし、薄らぼんやりと照らされる煉瓦道を再び歩き出すのだった。

 



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幻想アパート

 連理の道を抜け、ぶわりと風が強く吹く。

 

 見上げれば蒼天が広がり、太陽が西から昇って来ているのが見て取れた。おかしな話だ。本来太陽は東から昇るというのに、この世界では西から昇っている。それもこれも、この場所が「鏡界」だからだ。

 

 現実との鏡写しの世界。実はこの鏡界、現実とかなりリンクしていて、それぞれの場所は対応した現実の場所が存在するらしい。見た目や建物などは改築したりしていて、現実とリンクしているのは建物の種類や場所だけと言ってもいいくらいなのだけれど。

 

 視線を元に戻し、前を向く。

 煉瓦道はそのままアンティーク店のような装いをした薔薇色の店へと続いている。とある国の旗が飾られたその店こそがアルフォードさんの「萬屋」だ。

 

 しかし、今日はそちらに用があって来たわけではない。アルフォードさんに挨拶してもいいのだが、俺はわりと急いでいた。

 なにせ真宵さんと話していて結構時間に遅れが出ているからだ。

 

 そう、なにも俺は突然紅子さんの部屋に押しかけようとしているわけではない。ちゃんと今から行ってもいいかと許可を取ってここに来ているのだ。

 特に約束の時間というものは決めていなかったが、「神内の屋敷を出たよ」という連絡をしてから、いつも着く時間よりも大幅に遅れているため焦っているんだ。

 

 煉瓦道から外れて、「萬屋」の裏道に入る。

 するとそこには、こちらも薔薇色の煉瓦が特徴的な大きな屋敷が建っていた。

 所々ツタが張り巡らされていて、古びた装いを気取っている風な建物。前に一度紅子さんに尋ねたら、この屋敷……「幻想アパート」は住民の趣味によって古風な建築物に見せかけているだけで、本当はごく最近建て直したばかりだったらしい。

 

 住民が古風なものを好むのは怪異だからなのだろうか? 

 平日の朝だからかあまり出入りするヒトはいないようで、木漏れ日の影が落とされた玄関口だけがその場にデンと構えている。

 

 そして、俺は静かに両開きの扉を開いた。

 ギギギとこれまた古そうな音を立てて扉が開き、屋敷内に入る。

 玄関先のホールは床がステンドグラスのように美しい模様が描かれている。赤い竜と白い竜が絡み合うようなその模様は恐らく、アルフォードさんの趣味だろうな。

 けれどもこの床の模様、来るたびに変化しているので、これも恐らく毎日変化している(たぐい)のものだと思われる。前は薔薇模様だったりとか、海の一部を上から覗き込んだような、美しい水面だったりとかを見たことがある。あれは綺麗だったな。だから住民の趣味が毎日ランダムで反映されているタイプなんじゃないかと推測する。今日は往来も少ないし、アルフォードさん自身の趣味なんだろう。

 

 ホールの奥には飾り立てられた電光掲示板のようなものが設置され、両脇に二階へと上がる城のような階段が続いている。

 掲示板のほうはネットで監視している怪異絡みの事件をピックアップしたり、ゲームのように依頼書としてまとめて映し出されたり、遊び心満載の仕様になっていた。多分プログラムを組んでいる怪異かなにかがゲーム好きなんだろうな。

 

 それから階段を上がって二階へ。本当はエレベーターもあるのだが、紅子さんの部屋はそこまで高い位置にはないので普通に歩きで向かう。

 たまにすれ違う怪異と挨拶をしつつ、その部屋を目指す。

 

 いつものことだが、なんだかドキドキするな。

 何回かドアプレートの名前を見て合っていることを確認し、三回ノックする。

 すると返事より先に待ち構えていたかのように扉が開いた。

 

「遅い」

 

 一言、眉を寄せて紅子さんが言う。

 

「ああごめん、ちょっと途中で――」

「わたくしと逢い引き、していたのですから仕方がありませんわね」

 

 ふわりと、背中にまたもや柔らかい感触。

 被せられた夜色の声に、目の前の紅子さんの表情が驚きからどんどん冷え切ったものに変化していくのを見て、瞬間的に「まずい」と思った。

 

「真宵さん! なんてことするんですか!?」

「名前……」

 

 目の前で呟く紅子さんに、更なる嫌な予感が俺の脳内を支配する。警鐘が鳴る。まずい、まずいまずいまずい! 

 いや、嫉妬している紅子さんは可愛いし嬉しいんだけど、勘違いされたらたまったものではない! 

 

「やめてください! タチが悪いですよ!」

「あらごめんなさい? そっちの子の反応があまりにも可愛らしいものだからついつい意地悪したくなってしまうのですわ」

 

 やっぱりこのヒト、愉快犯だ。性格が非常に悪い。

 

「おにーさん」

 

 冷たい言葉に、俺の背筋が凍る。

 

「弁明だけさせてください」

「続けて」

 

 それから必死に説明して、紅子さんの誤解がようやく解けたのは10分以上経ってのことであった。



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夜太刀の蛇と赤い竜

「事情は分かったよ。けれど、一言くらい連絡は入れて欲しかったかな」

 

 俺の必死な弁明でようやく怒りを収めてくれた紅子さんは、ベッドに腰かけたまま俺の背後を見遣る。

 そこには藍色のドレスに金色の月を(かたど)った模様と飾りをつけた巻きヅノの貴婦人……真宵さんが「うふふ」と蕩けるような笑みを浮かべて軽く手を振っていた。

 

 明らかに俺達をからかっている。

 

「ごめん、急がなくちゃと思ってさ。それにこのヒト、着いたら呼んでって言ってたから……まさかこうなるとは思ってなくて」

「いい? お兄さん。神様の言葉はね、話半分くらいで理解しておいたほうがいいんだよ。裏になにがあるか分かったものじゃないからねぇ」

「酷いですわぁ……この美しい鏡界を眺めていってほしいと思って、せっかくわたくしが案内を買って出て差し上げていますのに」

 

「よよよ」とその長い袖でわざとらしく泣く振りをしているが、このヒトはただ遊んでいるだけだ。

 

「それはありがたいんですけど、紅子さんに前は頼もうと思ってましたし……」

 

 そういえば前も、秘色(ひそく)さん達にリヴァイアサンから助けられたとき、案内をしてくれたのはペティさんだったわけだし、紅子さんと二人きりでこの世界を散歩したことはなかったな。いつも二人きりになれるのは彼女の部屋だけだ。

 神中村で療養を終えてからは、彼女の部屋で料理やお菓子作りを教えるようになったからである。私服姿や部屋着姿の彼女と過ごすようになって、まるで本物の恋人のようだが……告白、してないんだよなあ。

 

 でも、まだそのときじゃないから。

 予感に従って俺は黙する。確信を持って、言うべきではないと。

 

 それに、神中村から帰る前にこのことをこっそりと詩子ちゃんに相談してみたんだが……そのときも、予感に従ったほうがいいと言われたからな。

 

 

 ――「君のその予感は正しい。予知をする私が過去視をできたように、君もまた一番大切なことを未来視しているんだ。それは失敗しないために。君が大切なものを失わないためにと、自分の力で『予感』として伝えているんだ……そのときは、もうすぐやってくる。だから、それまで君は君のできることをやればいい。そうすれば、きっと失うことはないから」

 

 

 その言葉を、俺は信じた。

 祟り神を殺したときに協力してくれたように、詩子ちゃんは信仰に応えてくれる神様だからと、信じたのである。

 

 でも、そのことは紅子さんには言っていない。

 あとは俺が手探りながらも、紅子さんの隣にいつまでも、これからも、ずうっも一緒にいられるようにと、歩く道を選び続けなければならないから。

 

「まあでも、アタシはそこまでこの世界のことは詳しくないし、こうやって観光に誘ってくれるのはいい機会かもしれないかな。お兄さん?」

「……そうだな。色々と見て回りたいし、真宵さん。よろしくお願いします」

「ええ、お二人のデートを邪魔してしまってすみません。ですけれど、わたくしも少しは貴方達に関わりたかったの。うちの子達のように、人とそうでない者が結ばれるかもしれない……それが楽しみなのです」

「べ、別にまだ決まったわけじゃないかな……」

 

 あまりにも真っ直ぐに指摘されてしまって、紅子さんが頬をその両手で抑える。白い肌に咲いた薄い朱が愛しくて、少しだけ苦笑いをする。

 

「あんまりからかわないであげてくださいよ」

「ごめんなさいね、お節介なお姉さんで」

「うわきっつー。真宵ちゃんいくつだと思ってるのー?」

「あ?」

 

 途中で部屋の外から聞こえた声に、真宵さんがドスの効いた声をあげる。怖い。俺達まで睨むのをやめてください。蛇に睨まれた蛙のように竦んでしまう。今のは俺達じゃないですから! 

 

「やっほー紅子ちゃんに、令一ちゃん。令一ちゃんが店の前を通ってからタチの悪い邪神の気配を感じたから来てみたんだけど。どうしたのー?」

 

 部屋の扉を開けて顔を覗かせたのはアルフォードさんだった。

 満面の笑みで真宵さんを煽る彼に、俺はそっと目を逸らすことしかできない。

 彼の言葉を聞いて真宵さんはますます笑顔を深めると口元に手を添えて「うふふ」と笑う。怖い。

 

「わたくしは邪神ではなく蛇神ですよ、トカゲ。貴方も丸呑みにして差し上げましょうか? それと、さっきのは訂正してくださいな。わたくしはまだ四桁しかいっておりません。それを言うのなら、二世紀から生きている貴方のほうがお爺ちゃんではなくて?」

「キミだって千歳は超えてるんだから十分お婆ちゃんでしょ?」

「祟り殺してほしいのですか?」

「オレに勝てるとでも思ってんの?」

「は?」

「え?」

 

 

 あの……俺達の前で喧嘩し始めるのはやめていただけませんか……? 

 待ってくれ、このヒト達って同盟の創設者同士だよな。そのはずだよな? なんでこんなに仲が悪いんだ。

 

「あの……」

「お兄さん、やぶ蛇になっちゃうよ」

「わたくしが蛇だけに?」

「……」

「ちょっと、紅子さんをいじめないでくださいよ」

「あら、いじめようだなんて思っていませんわ?」

 

 いや、格上の神様からジョークを言われてもどう反応すればいいのかなんて、分からないだろうに。へたに反応して機嫌を損ねたくもないし……紅子さんの困惑は正当なものだ。

 

「あの……お二人とも創設者……ですよね?」

「ええ、もちろん」

「真宵ちゃんったら仕事をほとんどオレに丸投げしてくるけどね」

「この鏡界を提供して、セキュリティチェックをしているのが誰だと思っておりますの?」

「日がな一日神社で寝てるだけじゃん」

「頭脳労働をしているのです。貴方のような、道楽で店を開いている者とは違うのですわ」

「オレが店をやらなくちゃ野垂れ死んじゃう怪異もたくさんいるっていうのに、道楽だなんてひどいよねぇ?」

 

 こっちに答えを振らないでくれ頼むから。

 

「まあいいや、とりあえず真宵ちゃんがいるってことは観光にでも行くんだよね? その前にオレの店に寄っていかない? 前はちゃんと説明してなかったもんね」

「呪具や魔法のこもった道具が売られている萬屋。それと、それぞれの怪異や神が人に紛れるための力を抑える装飾品や姿を人に近づけるための装飾品などがある場所ですわ。さ、これで行く必要はなくなりましたね」

「真白ちゃんに言いつけられたいの? 真宵ちゃん」

「……」

 

 だから目の前で喧嘩するのはやめてくれ。

 そうして俺と紅子さんは目の前で起こる喧嘩に辟易としつつも、なんとか話をつけていったん萬屋へと向かうことになったのだった。



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鏡界の萬屋

「はい、紅茶でいい?」

「抹茶はないのですか」

「お砂糖とミルクはいる?」

「無視しないでくださいます?」

 

 気まずい。

 圧倒的に気まずい。

 なんでこの二人、こんなに仲が悪いんだ。

 

「……ミルクティーにしてくれると嬉しいかな」

「あ、じゃあ俺もそれで」

 

 アンティーク店らしくお洒落で温かい雰囲気の場所だというのに、極寒の風が吹いている錯覚に襲われるくらいだ。

 隣に座っている紅子さんから控えめに裾を引かれ、距離が縮まる。左隣にいる彼女の分だけ、極寒の雰囲気が暖かく緩和されているようだった。さながら雪山で遭難して身を寄せ合うような……いや、これ甘い雰囲気もなにもないな? 

 

 彼女は幽霊だからか、格上同士の争いを俺よりも敏感に、肌で感じ取ってしまうらしい。だから俺を頼ってきてくれているのだ。

 そういう変化には敏感なんだろう。敏感……いやいやいや。煩悩を追い払って首を振る。

 

「おにーさん、ちょっと」

「え?」

 

 紅子さんが上目で俺を見つめてくるので、思わず顔を向ける。目の前で繰り広げられる神様同士の皮肉り合いよりも、よほど彼女のほうが大切だからだ。現実逃避とも言う。

 

「なあに、鼻の下伸ばしてるの」

「……」

 

 つい、と彼女の人差し指が俺の鼻の下に寄せられる。

 いや、その、そんなことされるとますます煩悩が押し寄せて来るんだが……紅子さんは分かっていてこんなことをしているのか? 俺の気持ちを小悪魔のように煽ってきているようにしか思えないのだが。

 

「あ、ほらまた」

 

 助けてアルフォードさん、真宵さん! 

 

「あらあら、赤いトカゲさん。ストレートティーをお願いするわね」

「コーヒーもあるよ?」

「わたくしはストレートティーがいいの。貴方が珈琲(コーヒー)を飲めばいいでしょう」

 

 一瞬俺達の行いで緩和されかかった喧嘩が続行される。なんなんだよこの神様達。

 

「それで、えっと萬屋の説明をしてくれるんじゃ?」

「ああそうだったね! ごめんね、二人とも! クレーマーにかかりきりになって本来のお客様を持て成さないなんて最悪な店主だよね! よし、この話はここまでにしよう」

「そうですわね。トカゲとの問答なんて戯言以外の何物でもありませんもの。もっと有意義なお話をいたしましょう」

 

 ……胃が痛い。紅子さん、癒しをくれ。

 そんな目線を彼女に送ってみると、俺の手と自分の手を目線で見比べて、視線を逸らしたまま手を絡めてきた。いわゆる恋人繋ぎというやつである。

 ちょっと恥ずかしそうにしていて、決して俺と目線を合わせようとせずに手だけを伸ばしてきてくれているんだ。しかも無言で。

 そんな仕草のひとつひとつに、彼女の羞恥と甘えたい気持ちへの葛藤が現れている。

 これが……俗に言う「尊い」ってやつか……? 

 

「順調なようでなによりだねー」

「ええ、本当に」

 

 なんでこういうときだけ息ぴったりなんだよ!? 

 

「話を戻してくれ……!」

「あ、そうそう。この店のことだよねー。ここは外見も内装も見ての通り、アンティーク店とかそういう雰囲気に近いよね」

 

 鏡界の萬屋。そこは連理の道の中途に存在している全ての中間地点。鏡界のどこに行くのでもこの店の前を通過していく必要があるらしい。幻想アパートもそうだが、鏡界内で最も神妖が訪れる場所となっているそうだ。

 そのわりには閑古鳥が鳴いているようにしか見えないが。

 

「そこはほら、みんな夜に来るからねー。朝のうちに来るのは紅子ちゃんみたいな元人間とか、令一ちゃんみたいな人間とか、あとは迷い込んできた人間とかくらいだからさ」

「なるほど、ほぼ人間」

 

 そしてこの萬屋にはどうやら、迷いを抱えている人間を誘い込む性質もあるのだとか。例えば特別な才能が開花してしまい、周囲に相談することもできずに力の制御に困っている人だったり、怪異の被害に悩まされている人だったり、その内訳は様々なんだとか。

 

「あと特徴と言えば、見るヒトによって言語とか外装がちょっと変化して見えてるってことかなあ」

 

 ああ、前にそう言っていた気がする。

 本来、アルフォードさんはウェールズの守護竜なんだし……本体も本国にいるとかなんとか。萬屋も本当はそっちにあるんだろうが、こうして他者が訪れる際はその客に対応した言語や外装に見えるらしい。俺達は日本人だから、こうしてファンタジーに出てくるような洋風のアンティーク店に見えているんだろう。

 

「前にも売った無香水とか、しらべちゃん協力の心の声が聞こえるようになるイヤリングとか、天邪鬼用に作ったリップとか……まあいろいろあるよ」

 

「無香水」はかけた対象の匂いをなくすことができるメリットがある反面、使い続けていないと時間経過分の臭いが一気に襲ってくるデメリットもある。これはもう学んだ。

「心のイヤリング」はたまにアルフォードさんがつけてるな。どうやってそんな能力を付与しているのかは分からないが、多分すごいものだろう。

 

 それから説明があったものを椅子から眺めながら考える。

 

「真心リップ」。天邪鬼な性根の者の為に作られたものだそうで、これをつけると本音しか言えなくなるという代物らしい。可愛らしく色付きリップもあってバリエーションが富んでいる。こっそり紅子さんに贈ってみたい悪戯心が湧き上がるが、いつか道具を使わずに本音を聞かせて欲しいのでそれはしない。

 

 それから単純に「壊れないティーカップ」。これは今俺達が飲んでいる紅茶にも使われているみたいだ。どうやら淹れたお茶の品質をほんの少しあげて美味しくさせる効果があるのだとか。

 

「真っ赤な一巻きの毛糸」は言わずもがな、運命の赤い糸みたいな効果があるようで、同一の糸を別々の人間に結びつけることで少しずつ惹かれ合うことになるらしい。しかし、そもそもどうやって結びつけるのかという問題があるのであまり売れ行きはよろしくないとか。そりゃそうだ。

 

「望みの香」はそのまま。望んだものが香を焚いている間だけ手に入る代物だ。マッチ売りの少女の、あのマッチみたいなもんらしい。中毒性があるからほぼ失敗作だとアルフォードさんが言っている。なぜ店に置いたままなのかを問いたい。

 

「比翼のイヤリング」と「再会の鈴」はそれぞれ対になる存在があり、たとえこれの持ち主同士が引き裂かれてしまっても、必ずどこかで出会うことができるようになるというものだ。大切な人に渡すことを推奨されていて、女性に人気らしい。デザインもシンプルなものから可愛いものまであるので、俺もプレゼントするならこれかなあ。

 

「心霊コンパクト」というのは、どうやら鏡に映し出した相手を封じ込めたりすることのできる、その場しのぎ用のアイテムみたいだ。もちろん相手が強ければ強いほど失敗の確率が上がる。なんだかモンスターをボールに閉じ込めるあれみたいだ。これは、アルフォードさんが秘色(ひそく)さんの経験を聴いてから作ってみたはいいけれど、成功率も低いし同盟の身内からも、こちら側の者を拘束してしまう裏切り者が出たらどうするんだと怒られて販売停止したとか。

 だからなんでまだ店に置いてあるんだよ。

 

 あとは見せた対象を精神的に混乱させることのできる「くねくねの筒」……シンプルにヤバくないか? これ。人間相手だと発狂するだろ。

 

 それから人間用に「銀の弾丸」と人外に自然と照準が合う「的撃ち拳銃」。使い手がノーコンでも使えるらしい。問題があるとすれば敵味方の区別がつかないところか。ダメじゃん。

 それから「聖水鉄砲」。海で遊ぶときに使うとスリリングでいいとアンデッドからの評判がいいとか……ツッコミ待ちか? 

 

「あ、あとはこれ。アクセサリー類なんだけど、これは同盟印の人間に化けるのが苦手な子に配ってるやつだよ」

 

 彼が取り出したのはどこか見覚えのある勾玉のついた首飾りだった。

 首を傾げて考える。どこで見たんだったか……。

 

「見たことあるよね? だってせっちゃんが付けてるやつと一緒だし」

「ああ、刹那さんの」

 

 確かに、鴉天狗の新聞記者――刹那さんが首につけていたな。

 ということはあのヒト、人間に化けるのそんなに得意じゃないのか? 今までずっと人間の姿に鴉の翼を生やして飛んでいる場面しか見ていないんだが。

 

「そうそう、ヘッタクソでさあ。ちょうどいい機会だったし、見兼ねてオーダーメイドしてあげたんだよね。それからはネックレス型しかなかったのがアクセサリー作りにはまって指輪とかピアスとかバリエーションも増えたんだよ」

 

 なんでも、本来の自分を偽装するためのカラーコンタクトや染髪シャンプーまであるとか。凝りすぎだろ。

 

 全部まとめて人化の術がかかった「人心地のアクセサリー」という名前がついているようだ。

 

 ……とまあ、いろんなものがあった。

 アルフォードさんのどこかズレた説明を聴いているうちにカップの中身が空になり、それを機に真宵さんが立ち上がった。

 

「貴方のお話を聞かせていると日が暮れてしまいますわ。さあ、そろそろ観光に行きましょう?」

「わ、分かりました」

 

 俺が慌てて立ち上がると、紅子さんも立ち上がって綺麗にお辞儀をする。

 

「アルフォードさん、紅茶ありがとう。美味しかったよ」

「うんうん、喋りすぎちゃってごめんね! じゃ、真宵ちゃん、変なことはしないようにね?」

「言われなくとも、しませんわ」

「またねー」

 

 挨拶を済ませて俺達は店の外に出る。

 それから真宵さんに尋ねた。

 

「どこから案内してくれるんですか?」

「ええ、そうですね……近いところからということであそこにしましょう」

 

 そう言って彼女が指定したのは初めて聞く名前。

 

「ルルフィードのスイーツパーラーよ。紅茶も美味しくいただきましたし、ひとつここは甘いものでも食べましょう」

 

 普通は逆なのでは? という俺のツッコミは心の中にしまわれるのだった。



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グリフォンのスイーツパーラー

 萬屋から出て、真宵さんについていくこと体感10分程。

 

 萬屋から伸びた赤煉瓦の道を辿っていくと、薄い桃色のファンシーな喫茶店が見えてきた。可愛らしい外装に、木製のテラス席もある。扉も両開きの木製で、その中心にロゴマークなのかドーナツの絵の真ん中の穴に、ピンク色の鳥の羽根が一枚描かれている。

 

 スイーツパーラーと言っていただけあって女性向けのお洒落で可愛いお店という感じだな。

 ガラスケースが表まで見えていて、中には可愛らしい見た目の一口ケーキやマカロンなどが並べられている。

 フルーツも取り揃えてあるようで、美味しそうな果実が並んでいる。

 

「開店準備中ですわね」

「え、そんなときに来て良かったんですか?」

「話を訊くだけなら問題ないのですよ。それに、手伝いに来ているかたもいるようですし」

 

 真宵さんの視線の先を辿ると、そこには真っ黒な翼を窮屈そうに折りたたんだ刹那さんの姿があった。

 

「あ」

「お、旦那。先日ぶりだなあ。さっそくデートかい?」

 

 俺に気がついた刹那さんが笑顔を見せるが、その笑顔は真宵さんを見たことで凍りついた。やはりこのヒトは創設者だけあって畏れられているのだろうか。

 アルフォードさんがかなりフレンドリーなだけに、この反応が新鮮だ。

 

「い、いったいなにがあったんだ?」

「えっと、鏡界を案内してくれているだけ……ですよ」

「貴方も熱心ですわねぇ」

「そ、そうかい。あー、話があるのか? なら、ルルフィード嬢は中だぜ」

 

 髪をまとめるためか、それとも食品を扱う店だからか、刹那さんは頭にバンダナを巻いている。

 いつもは肩のあたりで緩く結んでいる藍色がかった黒髪を、今日はポニーテールにしていた。そのせいか、前は気がつかなかったが、耳元に太陽の形をした地味な色合いのイヤリングをつけていることに気がついた。

 しゃらりと揺れるそれに既視感を覚えて考える。多分、アルフォードさんの店でも似たアクセサリーがあったんだな。ということは、あれも姿形を人に近づけるためのものなんだろう。

 

「なら、中に入らせてもらいますね」

 

 真宵さんは胸の前で手を合わせてニッコリと笑った。

 有無を言わさない雰囲気をビシバシと感じる。強引だなあ。

 

「俺があんたを止められるわけがねぇからなあ」

「本来、鴉は蛇もつついて食べてしまうでしょうに」

「俺ぁ草食派なんだよ。生肉は勘弁願いてぇな」

 

 ああ、確か神中村で俺達の監視役をやっている間は木の実を食べてたとか言っていたっけ……。鴉って雑食でなんでも食べるもんだと思っていたが、鴉天狗の彼がそうなら、案外動物の鴉と鴉天狗って違うものなのかも? 

 

 カランと乾いたベルの音が鳴り響き、木製の扉を引いて店内に入る。

 すると奥から「たったったっ」と慌てるような、しかし軽い足音が近づいて来た。

 

「刹那さん、今はまだ開店準備中ですわ! お客様はまだ……あら?」

 

 カウンターの向こうからやってきたのは女の子だった。

 真っ白な長い髪をしているのだが、毛先のほうだけが濃い赤色をしていて、その紅玉のような瞳をパチクリと瞬いて真宵さんを見ている。

 服装はふんわりとした可愛いエプロンドレスで、その白い髪を纏めるためなのか、レースでできたベールのようなものを被っていた。

 

「鏡の神様ですわー!?」

「わたくしは一応、境界の神様なのだけれど」

 

 困ったような真宵さんのツッコミが入る。

 すごいなこの子、真宵さんにツッコミをさせるとかなかなかないだろ。

 

 閑話休題。

 

「あの、失礼いたしましたわ。ワタシはLulufeed(ルルフィード)Adrasteia(アドラステイア)と申します。昔のことではありますけれど、女神ネメシス様のお車を()いていた漆黒のグリフォンの一族の出身でしたの」

 

「そちらの方々ははじめましてですわね」とルルフィードさんがふんわりと笑う。お嬢様然とした雰囲気のいいヒトだ。

 

「えっと、はじめまして。俺は――」

 

 俺と紅子さんも挨拶を返してお辞儀をする。

 すると彼女はスカートの裾を両手でつまみあげての礼をした。

 ……こういうのなんて言うんだっけ。外国の淑女がする礼の仕方だよな。

 

「ああいうのは、カーテシーって言うんだよ」

「あ、それだそれ」

 

 紅子さんの補足でやっと思い出した。

 にしても女神ネメシスの車を曳くグリフォンね。ネメシスって言葉は聞いたことがあるような気がする。結構有名な女神だよな……? 

 そんなすごい役職に就いているはずのグリフォンがなんでこんなところでスイーツ店なんて開いているんだろう。それに、漆黒のグリフォンの一族って言っていたのに彼女は真っ白だし。

 ……そこの事情は多分、初対面で訊くようなことじゃないよな。気にしないようにしよう。

 

「わたくしはこの子達の案内をしているのです。おもてなしをしてあげてちょうだいね」

「分かりましたわ、真宵様。今お菓子をお出しいたしますわね」

「開店前なのにごめんね」

「いいえ、大丈夫ですわ。早朝にいらっしゃるお客様もたまにいますし、手伝ってお菓子や果物を代わりに持っていく刹那さんのような方もおられますの」

「あー、まあ、そうだな」

 

 突然話を振られて刹那さんがバツの悪そうな顔をする。

 それを見て、やっぱりふんわりと笑ったルルフィードさんは「応援していますからね」と続けた。応援……? 

 

「甘さ控えめのパイといつものように果物を用意させていただきますわ」

 

 そう言って彼女が店の奥へと引っ込んでいく。

 その背中には小ぶりな白い翼と、翼の根元に付けられたリングが見えていた。

 尻尾はないのか、それともロングスカートの下に隠れているのか分からないが、髪だけでなく翼まで白いとグリフォンというよりも、どこか天使みたいだなんて印象を受ける。物腰柔らかで口調も優しいから余計そう思える。

 

 俺達は店内の席に着いて、彼女が帰ってくるのを待った。

 

「彼女、里が滅んでいるのよ」

「え」

 

 唐突に言った真宵さんに紅子さんが声をあげた。

 俺は声すらあげられなかった。いきなりなんてことを言うんだ、このヒトは。

 たとえそれが本当のことでも言っていいことと悪いことがあるぞ。本人の過去なんて本人が語りたがらない限り言うべきことではない! 

 

「貴方達はまだ知らないでしょうから、覚えていてちょうだいね。同盟にも『敵』はいるのですわ」

「おいおい、せっかくアル殿が伏せていることを言うこたぁないんじゃねぇか? 神さん」

「そろそろ言うべきでしょう。あのトカゲは慎重すぎるのです。この子達にも危機感を持って、身を守ってもらわなければなりませんのよ?」

「あー、多分そりゃ分霊がいるから安心してるんだろうが……」

 

 目の前で進行していく話題について行けず、疑問符が頭の中を埋め尽くす。

 同盟に敵……? こんなにいいところなのに。

 

「彼女の里を襲ったのは人間ですわよ」

 

 その言葉に、更に俺は息を詰めた。

 

「ネメシスのグリフォン……アドラステイアの一族は日に透かすと虹色に輝く漆黒の翼と体毛が特徴的なグリフォンなのです。それに加えて、グリフォンという種族は金や宝石などの宝を抱えて護ると言われていますわ。欲目に眩んだ人間が血眼になって探していてもおかしくないくらいの、価値のあるものです」

「俺達みたいな幻想の連中は珍しい特徴があったり、人間が欲しがるようなお宝を持っていたりするもんだ。だからこそ、こうして同盟に身を寄せたり、その特徴を隠すためにアル殿から特別な装飾品を貰っていたりするんだぜ」

 

 

 人間は人魚や河童のミイラで喜ぶような種だ。価値のあるもの、珍しいもの、知らないもの。知識や蒐集(しゅうしゅう)欲には非常に貪欲である。

 

 ……だからこそ、狙われた。

 

 それはきっと人間社会で問題になっている象牙の問題や、密猟の問題と同じなのだろう。その目が幻想的な生物に向けられているという一点だけを除けば。

 

「彼らはそれぞれ目的も違い、狙っているものも、蒐集しているもの種類だって違いますわ。けれどそいつらは皆、同じ単語を使って自身を名乗るのです」

 

 それは――。

 

「コレクター、ですわ」

 

 真宵さんの言葉に重なるように言ったのは、焼きたてのパイを持って戻ってきたルルフィードさんだった。

 

 



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コレクター

「コレクター……」

 

 そのままズバリな名前だな。

 しかし、同盟にも敵対しているものがあって、それがしかも人間とは……共存を図っている皆にとってはかなり心苦しい問題になっていそうだ。

 

「そう、それに同盟の理念に反発する子もいますし、そもそも同盟はわたくし達創設者が弱い者を守るために作り上げた組織なのです。人間に頼って生きることを良しとしない強い怪異や幻獣は単純に同盟に所属していませんし、わたくし達を『弱虫』であると評するのですよ」

 

 真宵さんは憂いを込めて瞳を潤ませる。

 

「そ、俺もボロボロになってたところをアル殿に拾われた口だからな」

「ワタシもアルフォード様に拾っていただいた一匹ですのよ」

 

 続けて刹那さんとルルフィードさんが言った。

 なるほど、俺はずっと同盟が人外全体に浸透している組織だと思っていたが、それもほんの一部で本当はもっと多くの人でないものが日常のちょっとしたところに潜んでいたり、悪意を持って人間を襲っていたりするわけだ。

 

「てことは、同盟は民間自治組織……みたいなものってことなんですか?」

「ええ、そうよ。寄せ集めの自治組織。幅は効かせていますが、わたくし達が絶対正義というわけではありませんわ。あくまで勝手に行なっていることですから、もちろん方々から恨みを買いますし……貴方達も気をつけておいたほうがいいわ。女の子の幽霊をコレクションする好事家もいるでしょうし」

 

 真宵さんの言葉にゾッとした。

 そして自然ととなりにいる紅子さんを引き寄せる。

 

「俺が絶対に守ってみせますよ」

 

 彼女は驚いたようにしていたが、大人しく俺の肩に寄りかかって「精々気をつけるけれど、そのときは守られてあげようかな」と答えた。

 

「あらあら、特異な能力を持つ〝人間〟を蒐集しているコレクターもいますのよ? それに、ほんの少し前には子供を集めて人工的な〝怪異〟を作ろうとしていた物好きもいたって話ですし……貴方も気をつけたほうがいいのは変わりませんわ」

「……アタシだって、お兄さんを守ることはできるよ」

 

 今度は紅子さんがはりきって答えた。ちょっと気恥ずかしいな……しかし、人工的な怪異。そんなもの作れるのか? 

 

「その、人工的な怪異ってのは」

「過酷な環境に人間を閉じ込め、追い詰めることで心の爆発による突然変異を狙っていたのでしょう。たまになにかが突き抜けると生きたまま怪異になってしまう人間もいますから、それを目指していたのでしょう……ああ、もう心配はいりませんわ」

 

 俺が不安気な顔をしていたからだろうか、真宵さんは口元を袖で隠して優雅に笑う。

 

「当時、事件の担当をしていた(ぬえ)が研究所を潰したので、あとは残党を追うだけですの。被害者達もある程度は捕捉しているようですし、要監視状態ですわね」

「そうか、そっちに関してはもう大丈夫なんだな」

「ええ、しかし残党がなにかやらないとも限りませんし、気をつけるに越したことはありませんわ。それに……わたくしの大事な大事な巫女の娘が行方不明になっておりますの。そういう意味でも、要注意ですわ」

 

 一瞬、彼女の瞳が蛇のように変化してぞくりと背筋を悪寒が走り抜けていった。これはかなり怒っているな。キレていると言い換えてもいい。

 このヒトは神様だ。その巫女はとても大切な人間だろう。もしかしたら娘のように思っているかもしれない。更にその娘とあれば真宵さんにとっては孫のようなものか。そんな存在が行方不明になっているわけだから、そりゃあ、キレるのも当たり前だよな。

 

「行方不明になっている人の名前はなにかな?」

「なぜそれを?」

「……ほら、もしどこかで見かけたときに名前も知らなくちゃ認識できないからね」

 

 紅子さんは気圧されるように息を詰めたが、そのまま真宵さんに話を続けた。あの視線を受けて冷静に返せるその胆力はすごい。俺なんて唇が震えてきていたのに。

 刹那さんはそっと席を離しているし、ルルフィードさんにいたっては笑顔のまま固まっているくらいだ。

 こういうときに紅子さんは頼り甲斐がある……って、俺がそんなこと思ってちゃダメだろ! そんな葛藤をしつつ、真宵さんの言葉を待った。

 

「ツバメ……というのよ。灰鳩(はいばと)ツバメ。その娘のほうは見つかっているのだけれど、母親のツバメちゃんは見つかっていないのですわ」

「ふうん……うん、さすがに知らない名前だねぇ」

 

 俺も知らない名前だ。というか、俺より顔の広い紅子さんが知らないんじゃ、俺が知るわけもない。しかし記憶はしたので、どこかでその名前が出ればピンとくるだろう。

 

「これもコレクターってやつの仕業なんですか?」

「暫定的に考えればそうなる……というただの推測ですわね」

「ああ、確かその人の娘はさっき言ってた潰された研究施設にいたって話だからなぁ。コレクター関連だとは思うぜ」

「ワタシの里を襲った方々とはまた別のコレクターですわ」

 

 それを聞いてふと疑問に思った。

 こうやって聴いていると一個人を指す言葉ではないみたいだ。

 

「あの、コレクターって種類があるんですか?」

 

 それに答えたのは、すっかりとなくなってしまったお茶を注ぎ直すルルフィードさんである。

 

「コレクターというのは、俗称であって、個人を表すものではないそうなのです。なにかを蒐集する者がこのコレクターを名乗っているというだけで、連携を取っているわけでもありませんわ。個人プレイによる集団……と言ったところでしょうか」

「あー、あれだ。たとえば同じ職業でも全部が全部同じグループじゃねえだろ? 俺だって新聞記者だが、人間の記者とは違うし属する会社も違う……つっても俺はアル殿に雇われているだけのフリーライターなんだが」

 

 なるほど、随分と分かりやすい喩えかただった。

 

「人工的な怪異を作ろうとしていたコレクターは芸術家(デザイナー)と名乗っていましたの。けれど、グリフォンの里を襲ったのは幻獣狩り(ハンター)ですわね。それぞれ趣味趣向が異なりますわ」

 

 話を聴きながら、漠然と怖いなと思った。

 変な感想だが、最初は正直遠いところの話だと思っていたが、こうして身近に被害者がいるとなると話は違ってくる。

 なにより紅子さんにも危険が及ぶかもしれないと思うと怖くなってきてしまう。

 

「話をしてくれてありがとう、真宵さん」

「いいのです。アルフォードは見せず、聞かせず周りから守ってやればいいと思っているようでしたけれど、そうして掻い潜られたらどうすると言うのかしら……? そうしてツバメちゃんがいなくなってしまったというのに、だからわたくしはあのトカゲが嫌いなのですよ。日和見主義の真っ赤なトカゲが」

 

 乾いた笑いしか出てこなかった。

 止めていた手を動かして甘いパイ生地を頬張る。不思議と甘さを知覚する前に飲み込んでしまう。あんな話を聞いたあとだから、美味しく食べられなくなってしまったみたいだ。もったいない。

 今度またスイーツパーラーにやってきて、しっかり客として味わうことを誓った。もちろん、紅子さんと一緒に。

 

「ごちそうさまでした」

 

 すっかりと中身のなくなったカップを置いてルルフィードさんに言う。

 

「お粗末さまですわ。またいらしてくださいな」

「ああ、そうさせてもらうよ」

 

 真宵さんも立ち上がる。

 

「お茶会には無粋な話題でしたわね。ごめんなさい。次の場所へ行きましょうか」

「いえ、大事な話でしたし」

「聞けてよかったよ」

 

 俺と紅子さんの返事を聞いて、真宵さんは弱ったように笑う。今度は胡散臭くない、恐らくは素の笑顔だった。



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誘掖の水晶柱

「次はハーブ店に行きますわ」

 

 真宵さんの言葉に頷いてついて歩く。

 

 前を歩く真宵さんは、背筋を伸ばして歩き方も隅々まで美しい。大人の色気と淑女としての振る舞いがマッチしているせいか、本当に見惚れるほどの美女だ。

 

 思わず視線で追う。

 

 シャラシャラと動くレースが白い足と藍色のヒールを際立たせている。

 藍色の肩出しドレスに、桜色のつば広帽子。それにちょこんと乗った赤い椿の花とそこから伸びる白いリボンが、どことなく鶴を連想させた。

 しかし、帽子の下にチラリと覗く大きな二本の巻き角が、彼女の美しさを〝人外の妖艶さ〟に近づけていて、ほんの少しだけ異様な雰囲気を漂わせている。

 

「……」

 

 くい、と襟元を引かれて横を見る。一番間近にいるリンと目が合ったあと、並んで歩く彼女と一瞬だけ目が合った。

 さっと逸らされた顔に、少しだけ口元が緩む。

 確かに真宵さんは美女だけど、俺にとって一番は紅子さんだよ。分かってるくせに。

 

「それで、ハーブ店っていうのは?」

「亡霊の魔女、Petunia(ペチュニア)Crooks(クルックス)が開いている薬屋さんのようなものですわね。彼女はハーブや薬草に精通していますから、好意で薬を調合して振舞っているようです」

 

 ペティさんのお店か。初対面のときに人を癒すほうが得意って言っていたし、彼女の口調と第一印象からは感じられない知的な一面である。俺も彼女の魔法薬にはお世話になったが、お店まであったんだな。

 

「……と言っても、求められる薬はほとんどが酔い覚ましや胃薬、それから眠気覚ましくらいですわ。アヤカシなんて、そんなものです」

「は、はあ」

 

 乾いた笑いしか出てこなかった。

 酔いどれがそれだけ多いってことか? 

 

 調薬した魔法薬を俺に渡してくれるとき妙にテンションが高かったのは、もしかして普段あんまり本格的な薬を作れないからだろうか。

 

「この中ですわ」

 

 道に打ちつけられた看板をいくつか通り過ぎた頃、真宵さんが立ち止まった。

 そこには道の真ん中に生えた巨大な水晶柱が立っている。人の大きさほどのその大きな水晶柱はほのかに光を帯びていて、ふんわりとした優しい光はオーロラのようにときおり変化していく。

 覗き込んでみると、まるで水晶の中に風景が溶け込んでいるようにどこかの景色が映し出されている。

 その景色は水晶柱の光の色が変わるたびに変化していくようだった。

 

「これは誘掖(ゆうえき)の水晶柱ですの。わたくしの鏡界移動と同じく、この中に見える景色のところへ、素早く移動するための魔法がかけられたものなのです」

「魔法……」

 

 紅子さんが目を丸くして水晶を覗き込んでいる。

 見た目も綺麗だし、興味津々みたいだな。女の子はやっぱり、魔法というものに憧れがあるのかもしれない。指で触れたらどこかに飛ばされてしまいそうだし、彼女は触れずに四方から水晶を眺めて楽しんでいる。

 無邪気なその姿にほっこりしつつ、俺は真宵さんに尋ねた。

 

「もしかしてペティさんが?」

「いいえ、彼女の専門は別の魔法ですもの。これはアルフォードの知己(ちき)によるものです。なんだったかしら……確か海のような名前だったわね」

 

 ……もしやそれって魔術師マーリンだったりするのでは? 

 そういえば赤い竜とマーリンは関わりがあるのだったか。アルフォードさんについて前に調べたとき、少しだけ出てきていた記述があった気がするぞ。

 

 そんな有名な魔術師がこれを作ったって言うのか……俺は恐る恐る水晶を覗き込んだ。相変わらず一定の時間を置いて信号のように見える景色と、纏う色が変化していく。美しい魔法だ。

 俺でも知ってるくらいの人だ。ちょっと会ってみたい気もするが、今はペティさんの店に行く途中だしお願いするのはやめておこう。同盟所属ならそのうち会えるだろうし。

 

「存分に眺められたかしら? それでは行きましょうか。金色の光、水晶が多く点在する森が映し出されたときにこの水晶に触れてください。そうすれば移動できますわ」

 

 この水晶はテレポーターなのか、それとも真宵さんの鏡界移動のように人には見えない隙間の道を行っているだけなのか……非常に好奇心が擽られる。これは今度透さんに話さないとな。あの人もこちら側の世界を全部見て回っているわけじゃないだろうし、喜ぶぞ。

 

「お兄さん、行こう」

「うん」

「はぐれないように手を繋いでおくといいですわよ」

 

 真宵さんに言われて紅子さんと視線が交差する。

 そしてすぐに視線を逸らした彼女が遠慮がちに手を差し出してきたので、俺は遠慮なく指を絡めて恋人繋ぎを実行した。

 少しだけ引き抜かれそうになったが、やがて彼女も諦めたのか俯いて「遠慮がなくなったよね、キミ」とか細い声で言ってくる。

 付き合っていない手前、そうでもしないと彼女はするすると逃げ続けると分かっているから、どうしても俺が積極的にならざるを得ないのである。少しは許してくれ。

 

「あらあら……それじゃあ行きましょうか」

 

 トン、と背中を押されて金色に輝く水晶に触れる。

 次の瞬間、俺達は薄暗い森の目の前に立っていた。

 

 木々の隙間に、洞窟で見られるような鍾乳石のようなものが垂れ下がり、いたるところに水晶が存在している。そのどれもがほのかに光っていて、薄暗い森の中を点々と誘蛾灯のように照らし出していた。

 

「あの鍾乳石のようなものは、この森に充満する魔力を木々が吸い込み、その魔力を水に変化させて排出することで少しずつ溜まり、できたものですの。本当の鍾乳石よりは短い時間でできるものですけれど、原理は似たようなものですわ。水晶は単純に渦巻く魔力が重く、大きくなったときに生まれるものです。怪異の分け身と少し似ていますわね」

 

 紅子さんを見て言われた言葉に、反射的に皮肉かなにかかと文句を言いそうになったが、真宵さんの表情を見る限りそうだと意図して言ったものではなさそうだった。

 紅子さんも、複雑そうな顔はしているが、なにも言わない。

 

「綺麗だねぇ」

「そうでしょう? この森の奥にペチュニアは住んでおりますのよ。この鍾乳石のようなもの……魔石や水晶が薬の材料になるのだとか」

「へえ」

 

 これまた紅子さんは興味津々に森を眺めている。

 ぼんやりと道を照らしだす水晶の明かりが幻想的で、まさに別の世界のように見えてくる。こんなところが、現実の裏側。鏡の世界……か。

 

「本当に、綺麗だな」

「かつてはこの世界にあったものですわ。貴方達の現実では、今は見えないだけですの。ここは鏡の中ですもの。表にないものは映しだせませんわ」

「そっか……」

 

 この幻想的な光景が、俺達の世界にもあるというのか。そうか。

 そうして、俺達はペティさんのお店を目指して幻想的な森の中へと足を踏み出すのであった。

 



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水晶柱の森

 さくさくと地面を踏みしめる。

 水晶がぼんやりと暗闇に浮かび上がり、岩にはりついたコケもほのかに光っている。あれらの光は全て魔力という本来目に見えない力が、目に見えるほどに強く、重くそこにあることを表しているとは真宵さんの言葉だ。

 

 俺達の中にも魔力というものはあるという話だが……あんまり実感はないな。人間には必ず霊力が備わっていて、魔力はその精神性の強さに比例して備わるものらしい。精神力が強ければ強いほど、魔法の適正が高くなるらしい。

 

 ということは、アリシアはあんまり精神的に強くないってことだよな……字乗さんに魔法を学ぶのを断られたということは、そういうことなのだろう。逆にレイシーは精神的に強いのか。あんなに子供っぽいのに、結構意外な話だった。

 

「この森では大きな水晶を目印にするといいですわ。ほら、ここをご覧ください」

「あ、傷がついているんだねぇ」

 

 紅子さんの言った通り、真宵さんが示した水晶には大きな傷がついていた。なんだかもったいない。

 

「これは目印になっているのかな」

「ええ、これはペチュニアさんによるものですわ。彼女の店までの道のりにはこうして、左右にある大きな水晶に傷がつけられているのです。慣れれば問題はありませんが、この森では水晶や魔石が次々と生えてきますし、彼女が次々と採集していくので、外部から来た者のために一部だけを残してあるのですわ」

「親切だねぇ」

「そりゃお客さんが来れなくちゃ意味がねーからな!」

「おっと」

 

 気がつくと、脇の道にもなっていない場所からペティさんが姿を現した。その背中にはパンパンに膨らんだ大きなリュックを背負っていて、腕にも植物が一杯に収まった籠を持っていた。まるで重さを感じさせることなく手を振った彼女に、手を振り返す。

 

「久しぶり……と言っても三週間も経ってないかな」

「よう、ベニコ。そうだぜ、俺様にとっちゃ久しぶりってほどじゃねえな。そういうところは相変わらず、人間臭いのな、お前は」

「アタシはまだ死んでから二年と半年くらいなんだから、そう簡単には時間感覚まで変わったりしないよ」

 

 憂いを乗せた瞳で、そしてどこか頑なに紅子さんが言う。

 彼女は幽霊ではあるが、誰よりも……きっと俺よりも人間であることにこだわっている。その力は怪異に相応しく、強いものだがあまり怪異らしくしている場面には遭遇しない印象があるくらいだ。

 俺が彼女の怪異らしさを垣間見たのなんて、初対面のときと雨音の怪異のときくらいじゃないか? 

 

「幽霊なんだから着替えも一瞬だし、寝なくても問題ないのにな。俺様なんて研究に夢中ですぐにそんな習慣忘れちまったし……あとはお師匠様のせいで魔法を扱えるようになるまで、一睡もしなかったからなあ。ま、そういうところは好感持てるから、頑張れよ」

「うん、そうするよ。ありがとう、ペティさん」

 

 紅子さんと一通り話し終えてから、ペティさんが真宵さんに視線を向ける。

 

「……と、放っておいちまってすまない。俺様になにか用か? 創設者サマ」

「わたくしはこの子達を案内しているだけですわ。そう警戒なさらないでくださいな」

 

 ……真宵さんってどこに行っても警戒されてるな。

 やはりこの胡散臭い雰囲気が原因なのだろうか。

 

「そうかそうか、なら今度は俺様の店ってことだな。いいぜ、じゃあ適当に森の案内でもしながら向かうか。ちょうど帰るところだしな」

 

 そう言いながらペティさんについて行くことになったのだが……。

 

「で、あれが甘草(かんぞう)って言ってな。ほら、よくのど飴なんかに使われてるんだが、知らないか?」

「聞いたことはある……かな」

 

 困惑しながら紅子さんが返事をする。

 こんな調子で延々と森を歩きながら植物の解説をしていっている。それもいちいち植物を採取して見せてくるものだから、道を進むのも遅くなっている気がするぞ……そう、ペティさんはなんと薬草オタクだったのだ。

 

「あ、そうだった、そうだった。アリシアはあのナイフうまく扱えてるか?」

「ああ、かなり使いこなしているよ。もうほとんど戦闘狂なんじゃないかってくらいだな」

「そうか、それは良かったぜ。あれの刀身にこの森の水晶が混ざってんだよ。アルフォードさんに協力した甲斐があったってもんだ」

 

 そう言うってことは、あの十字架ナイフの製作にも関わっていたということだよな……。なるほど、ペティさんって結構アリシアのこと気にかけてたんだなあ。

 

「レイシーちゃんの魔法の腕はどうかな?」

「ああ、レイシーは使役系の魔法に適性があるよなあ。それと、空間系。不思議の国のアリス症候群って知ってるか?」

「ええと……」

 

 知らないな。そんな病名あるのか。

 

「アリス症候群ってのは、ようするに視覚に障害はないはずなのに、周りのものが大きく見えたり、小さく見えたりする症状が出る病気のことだが……」

 

 なるほど、それは確かにアリスか。あれは薬で大きくなったり小さくなったりするわけだが、それが現実で起きているように感じると。

 

「あいつの魔法は他者に影響させることができる……幻覚に近い空間魔法だな。だから、更にあの図書館がでかくなったぜ。ヨモギのやつが大喜びしてた」

「えっ、現実的に大きくなるものなのか?」

 

 幻覚なら実際には大きくなったりしないだろう。

 

「だから言っただろ。他者に影響させるって。その他者ってのは意思を持った生き物だけじゃない。あいつ以外の全てが対象なんだよ。あいつにとっての幻覚症状が、周り全てに影響する。そしてそれをコントロールして対象を絞ることができるようになったから、魔法として実用的になったんだ」

「現実改変能力……ですわね。とんでもない逸材じゃないの」

「ああ、まったくだ」

 

 静観していた真宵さんが口を開いたと思ったら、とんでもない単語が出てきた。現実改変とか……そんな大それたことなのか。

 

「でもな、レーイチ」

「え?」

「レイシーはレイシーだ。のじゃロリ我儘女王様のままなんだぜ。それと、アリシアの姉だ」

「あ、ああ、分かってるけど」

「怖がらないでやってくれよ。あいつはあいつだからさ」

 

 さくさく、さく。

 足が止まる。けれどすぐに歩みを再開して彼女達に追いついた。

 そっか、そうだよな。

 

「ああ、もちろんだよ」

「むしろおめでたいことだよねぇ」

 

 今度会ったときにプレゼントをあげよう。そんな風に紅子さんが微笑む。

 プレゼントをしたら、アリシアに喜びながら報告するんだろうな。そんな姿が容易に思い浮かぶ。

 

「っと、ここが俺様の店兼家だぜ」

 

 足を止める。

 そこには、想像していたよりもずっと今時の家が建っていた。

 表側は本物の薬局のような見た目だし、自動扉っぽいものも備えられている。

 森の中にあるには違和感しかない建造物だった。

 

「ようこそ、水晶の森薬局店へ。魔女のハーブ店でもあるぜ。さあ、入った入った!」

 

 店を指したペティさんがカーテシーでこちらに挨拶をして、それからスタスタと建物に向かっていった。

 道のりは会話しながらもちゃんと覚えたし、そのうち必要になったらまたここに来ることができるだろう。

 

「ペチュニアの願いが叶うのも、あともう少しですわね。貴女の〝そのとき〟はもうすぐですわ」

 

 背後から聞こえた言葉に振り向きそうになって、紅子さんに袖を引っ張られる。

 そのとき……? ペティさんにもなにか……ああ、そういえば彼女は悪さをする飼い猫を迎えに行きたいのだったか。それのことだろうか? 

 

「お兄さん、触らぬ神に祟りなしだよ」

「文字通りだな」

 

 苦笑いをして紅子さんについていく。

 俺達はそうして、目を合わせてから店の中に入ったのだった。



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薬草の魔女と悪魔の猫

 近代的なデザインの外装とは違い、ペティさんのお店の中は想像するような魔女の工房のようになっていた。なぜ外装だけ普通の病院っぽくなっているんだ。これなら外装も魔女っぽくしたらいいのに。

 

「現世っぽくするのもいいんだけどな、薬の保管をするとなると魔法の通りが良い木製のほうがやりやすいんだよ」

 

 バツが悪そうにペティさんが言った。

 

「ここの棚の木材は全部この森の木を切り出して作ってるんだ。魔力が豊富だから、電池みたいに使えるんだよ。だから一度魔法をかけておけば、持続時間がかなり長いんだ。数十年は持つんだぜ。俺様も楽できるところは楽したいからな……それに、修行して早く迎えに行きたいし」

「そういえば、アタシも何度かその話を聞いたけれど、いったいどういう経緯なのかは訊いても大丈夫なのかな?」

 

 恐る恐る紅子さんが言った。

 彼女自身も人に過去を探られるのが苦手であるからだろうか。遠慮がちに、けれどペティさんにはっきりとその旨を伝えている。

 

「聴くか?」

 

 気にはなっていた。

 彼女は無言を肯定と受け取ったのだろう。

 待合室にあたるだろうこの場の……入口のすぐそばにある木でできた丸テーブルを指し示す。そして俺達が座ると頬に手を当てて、懐かしそうに目を細めた。

 

 それから、彼女の過去が紡がれていく。

 その語り口はまるで御伽噺を読み聞かせるかのように穏やかで、そして客観的だった。

 いや、実際に客観的だったのだろう。まるで本を読むかのように。目を瞑って彼女は言葉をひとつひとつ選びながら語りきかせていく。

 

 ――それは、一人の村娘と猫の物語。

 

「……あるとき、金と金の猫の間に、全く色味の違う灰色の猫が生まれました」

 

 そしてそれは、魔女と悪魔と言われた猫の物語だった。

 

 ◆

 

 多くの金色の兄弟達に紛れて、灰色の猫が一匹だけ混ざって産まれたため、その猫は悪魔だと言われてしまいました。

 その猫が産まれたのは村一番の権力者の家でしたが、家の人間も皆猫を不気味に思い、更には村人に後ろ指を指されて責められたため、早々に灰色の猫を道端に捨てました。

 

「なんだ、埃みたいな灰色だって言うから見に来てみれば。綺麗な銀色じゃないか。私はお前のこと、好きだよ」

 

 しかし、それをその家で最も変わり者であった娘が拾いました。

 娘は知識のない村人達の中で、唯一知識があり、薬草を使って怪我や病気を治していました。

 そして娘は知っていました。先祖に灰色の猫がいたのなら、もしかしたら灰色の猫が産まれるのは自然なことなのかもしれないということを。それらを村の人達に伝えても、思い込みはなかなか払拭されません。

 

 娘は親にねだり、森の中に小さな小屋を建ててもらって薬草を集めていたので、その場所に猫を連れて行きました。そうして猫は彼女の飼い猫となったのです。

 

 それから二年、娘は育った猫と一緒に野山を駆け回り、薬草を探して過ごしていました。

 

 猫は娘に名付けられて賢く素早く育ち、彼女の薬草探しを次第に手伝えるほどの嗅覚を発揮しました。娘はますます薬の研究に勤しみ、そして村の外から来た薬学の本を読み耽りました。

 この頃にはもう、誰一人変わり者の彼女を構う人間はおりませんでした。

 訳の分からない技術を研究するその姿を不気味に思っていたのでしょう。けれど、娘の薬を頼ることだけは取りやめませんでした。その薬が有用であることは、村の誰もが知っていたからです。

 とても身勝手なその扱いに、しかし娘は不満を口にしませんでした。

 なぜなら、娘には薬草の研究する場所と材料、そして猫がいればそれだけで幸せだったからです。

 

 しかし、そんな幸せは長くは続きません。

 ある時、風の噂で魔女狩りの情報が回ってきました。

 

 彼女は良家の娘と言えど、村人からすれば怪しいことばかりする娘です。そして、そんな彼女を慕う銀色の猫は村人達にとっては、娘を誑《たぶら》かす悪魔に他ならないのでした。

 

 村人は再三娘に猫を殺すように申し出ます。

 けれど彼女は決して首を縦には振りません。

 そんなやりとりが数十も積み重なれば、村人達の対応は自ずと知れてきます。

 

 とうとう、心まで悪魔に染め上げられた娘として、娘を『魔女』として村人達は糾弾することに決めたのでした。

 

 二人に隠れて村人はひっそりと処刑の計画を立てていましたが、これを偶然耳にした娘は己の末路を悟りました。

 数日、彼女は悩みました。しかしその処刑が確定事項となったあとで、その憂いを捨てると行動に移ります。

 なんと、娘は逃げも隠れもしないことにしたのです。

 

 そして次の日には己の処刑が告げられる。そんなときに、娘は帰る場所となった小屋に戻り、笑顔で猫に提案しました。

 

「隣の山に足りない薬草があるから、探して来てくれないか? 後から私も出発する。向こうの山で合流しよう」

 

 猫は彼女を信じ、小屋を出発しました。

 

「いいか、決して振り返ってはいけないぞ。私が怒るからな」

「なあう」

 

 なにも知らない猫は振り返りませんでした。

 そしてすっかりと日が落ちた頃、娘は尋ねて来た村人に薬を執拗に勧め、とうとうその身を捕らえられてしまいました。

 

 それから、娘は死以上の侮辱を受けないためにと一芝居演じます。狂人の振りをして、誰一人としてその清らかな身に近づけさせなかったのです。

 

 思惑通り、娘はすぐさま火あぶりの刑に処されました。

 ただひとつ、猫のことを心配しながらも事切れていきました。

 

「ここからは伝聞なんだがな」

 

 猫は、すっかりと日が沈んだあと、だいぶ山を登ったところで振り返りました。

 

 ……家の方向が燃えていました。

 それを見て、慌てて猫は引き返します。

 

 家は燃え盛り、猫は焦って娘を探しました。

 けれどどこにも娘の姿は見当たりません。

 

 危険を冒し、村の中へ入り込み、彼女の姿を探します。

 どこにも彼女は見当たりません。

 いつもと違っていることと言えば、村の広場がほんの少し焼け焦げ、火の臭いがしていたことくらいでしょうか。

 

 そこに――ヒラリと一枚の布が猫の元に飛んできました。

 

 それからは、彼女の匂いがしていました。

 火の臭いに紛れて、しかし確かに彼女の香りが。

 

 猫は布を持ち、焼け落ちた家へと帰ります。

 娘が帰ってくると信じて。

 

 何年、何十年、何百年と待ち続けます。

 

 やがて村が荒廃してくると猫は危機意識を持ちました。

 村がなくなってしまったら、娘が帰って来た時故郷がなくなって悲しむと思ったからです。

 

 そして猫は結界を用いて村を囲み、かつての村人の血縁達を誘い込み、閉じ込めました。

 

 それから、ここに入り込んだ人間を捕らえ問いかけるのです

 

 

 1人できたらお友達。

 2人で来たら片方だけお友達。

 3人で来れば1人だけ。

 何人で来ても同じこと。

 

 あの子のお友達になってくれるかしら。

 帰って来たときに、友達何人できるかしら。

 

 そう語りかけながら――猫は今も人間を呼び込み続けているのです。

 

 ◆

 

「……これが、今俺様が解決しなくちゃいけないことだ」

 

 気がつくと、俺は涙を流していた。

 目の前のこの人は、この亡霊の魔女は、道を踏み外した猫を迎えにいくために努力しているのだ。

 ただの村娘だったペティさんは、かつてそう呼ばれたように、本物の魔女となってまで、猫を救おうとしている。

 

「いやー、あの世で悠々自適に暮らしてたらかつての飼い猫が自由を謳歌するどころか、俺様の存在に縛られて人間を襲っているなんて聞いてさ、居ても立っても居られなくなっちまって……それでアートさんに弟子入りして魔法を教えてもらっているわけだ」

「……そっか、そのときが、すぐ来るといいね」

「ああ」

 

 紅子さんの言葉にペティさんが笑顔で頷く。

 

「もうすぐですわ。もうすぐ訪れます。ですから、それまで精々修行に励みなさいな」

 

 それまで口出しをしていなかった真宵さんが言った。

 その言葉に目を丸くしたペティさんは嬉しそうに「そうか、もうすぐか」と噛みしめるように微笑んだ。

 

「レーイチ、怪我はもう平気か?」

「ああ、大丈夫。もうほとんど治ってるよ」

「なら、俺様はもうお役御免だな……精力がつく薬なら作ってやれるが……まだお前らには早そうだしなあ」

 

 下世話なその言葉に、二人して俺達はぼふんと赤くなってしまった。

 いやいやいや、あまりにも下世話すぎる。なんて人だ。

 

「この魔女め……」

「亡霊だけど魔女だからな」

 

 にかっと笑う彼女は、ちっとも不幸そうなんかじゃなかった。



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鶴羽織の巫女

「あの、真宵さん。次はどこへ?」

 

 薄暗かった森から水晶を通じて再び場所を移し、今度は山の中である。

 せめてどこへ向かっているのかくらいは教えてほしかったが、真宵さんは妖しげな笑みを浮かべて口元をドレスの裾で隠すばかりだ。

 

 さく、さく、と歩きながら黙っている彼女についていく。

 先ほどまで喋っていたヒトがこうまで黙るとなると、なんだか不安になってくるぞ。

 神内とも悪友のような、そんな関係のようだし……同盟の創設者だからといっても少し警戒してしまうというか。

 

「紅子さんはこの山、知ってるか?」

「ううん、さすがにアタシも知らないよ。それに、アタシが活動拠点にしているのはあくまであのアパートくらいで、あとはずっと表にいるんだから、探検もしたことなかったし」

「そっか……そういえば大図書館もアリス事件のときに初めて行ったんだっけ?」

「そうだね、あっちのほうも知らなかった」

 

 万能で、なんでも知っていて、格好いい。

 紅子さんのことをそう思い込んでいた俺は反省する。

 

 神中村の件でその辺も理解したし彼女の弱い部分も知ることができたが、なかなか最初に抱いた思い込みというものはなくならないものだ。

 彼女に夢で出会ったときは、今みたいに照れたりふんわりと笑ったりせず、かなりドライなイメージで、次に会ったときは高校生らしく悪戯好きで、からかい好きで……俺を皮肉りながらも気にかけてくれていて。

 初めて振る舞ったシチューを美味しそうに頬張ったり、俺の作るエクレアを初めてプレゼントしたときも素直に喜んでくれたり……。

 

 守られてばっかりいた俺が、ようやく彼女に頼ってもらえるようになって、彼女の過去を全て受け入れて、そして初めて守りたいと思ったものを守ることができて……そして、今こうして穏やかに笑っている彼女が隣にいる。

 

 思えばもう出会ってから9ヶ月も経っているのか。1年近く一緒にいる自覚はあったが、そうか。もうそんなに。

 

「……かつて、最悪な出会いをした男女がおりましたの」

 

 前を歩く真宵さんが、ぽつりと言葉を漏らした。

 俺は、なにか必要な話なのだろうと耳を傾ける。

 

「曰く――我が子を孕め、と。最悪な告白をした大馬鹿者がいたのです」

 

 率直に、うわっという気持ちが強い。

 デリカシーというものがまるでない告白だな。

 こういう言い方だけは絶対にしないぞと心に刻み込んでおく。

 

「その男女は竜と、人でした。人のほうはわたくしの巫女ですの。ですから、わたくしはトカゲが大嫌いなのですけれど」

 

 なんとなく「わたくしの」というところが強調されている気がする。

 ということは、真宵さんも人間と一緒に暮らしている神妖のうちのひとりなのか。

 

 それで、とどのつまり、自分を祀る大事な巫女に言い寄った男が竜だったと。だから同じ竜であるアルフォードさんも嫌いなのかな。

 少しだけ、あの仲の悪さの深淵を垣間見た気がした。

 

「さて、もうそろそろ――」

 

 真宵さんが言いかけたときだった。彼女のつば広帽子が風に攫われるように地面へと落ちていく。いや、実際に彼女の頭から離れて地面へ急降下していた。

 

 そして帽子と共に地面になにかが突き刺さり……遅れるようにして、風を切り裂く音がした。

 

 紅子さんを咄嗟に庇った体勢のまま、俺は視線を地面に刺さったなにかへと向ける。

 そこにあったのは、真宵さんのつば広帽子を地面に縫い止めるように刺さった、椿の花が象られた簪であった。

 

「あらあらあら、お怒りね。わたくし、なにかしたかしら」

 

 足を止めた真宵さんが頬に手を触れる。その横顔は笑みを浮かべていたが、よく見ると薄く左頬に血が滲んでいる。帽子を縫い止めている簪で、頬が切れてしまったのだろう。しかし彼女は慌てることもなく頭上を見上げた。

 

 釣られて俺も空を見上げる。

 青空に、まだまだ真上に上りきらない太陽。そして……太陽に重なるようにして落ちてくる、誰かがいた。

 

「な、なんだ!?」

 

 白。ただただ白い。そんな印象を受けた。

 ばたばたと風をはらんで舞い上がる、白い着物。それに翼のように風を受ける白黒の鶴のような羽織。まるで本当に鶴が空を舞い、こちらに向かってくるように錯覚する。

 

「はあ!」

 

 鶴が――いや、鶴のような女性が前方に回転する。

 そうして、真宵さんに向かって鋭い蹴りを繰り出した。

 

「ごめんなさいねぇ、真白(ましろ)ちゃん。わたくし、なにかしたかしら」

 

 さらっと女性の蹴りを扇子で受け流した真宵さんが、こてんと首を傾げる。やたらと幼げな仕草だったが、やっているのが大人っぽい貴婦人だからなあ……。

 そんな真宵さんに、鶴のような女性は地面にしっかりと降り立ち、簪を拾ってから怒りの声をあげた。

 

「なにって……、御神体で寝るって言っておいていなくなっているわ、誰にも行き先は告げないわ、洗濯物もしないわ……私が楽しみにしていた〝かっぷけえき〟がなくなってるわ、なにもかも!」

「あら、なぜバレたのかしら……」

 

 恥ずかしげもなく、他人様のカップケーキを食べた事実を認める神様がいるらしい。

 俺と紅子さんは呆れた目を合わせて、そのやりとりを見守る。

 

優梅(ようめい)が吐いたの。あんたが犯人だって」

「あの子の嘘かもしれないじゃない」

「あの子は私に嘘をつかないわ。ほらね、信用の差よ」

「ああ、わたくしを母のように慕っていた可愛らしい真白ちゃんはどこへ行ったのかしら」

「数百年も昔のことを言うのはやめて」

 

 その言葉で気がつく。

 鶴のような女性の周りには、紅子さんと同じように二つの人魂が浮かんでいた。白く、氷のように冷たい印象を受けるその人魂を目で追っていると、こちらに気がついたらしい女性が「あっ」と声を漏らした。

 

「なに、お客さんを連れてきたの?」

「ええ、この子達にこの素晴らしい鏡界を案内している最中なのですわ」

「ふうん、それで次は神社……と。……人選間違っているんじゃないかしら。貴方達、本当に真宵に頼って良かったの?」

「あー……っと、案内は真宵さんが買って出てくれたので……」

 

 非常に言いづらいが、別に俺が頼んだわけじゃないからなあ。

 

「そ、そんな……わたくしはただのお節介オバサンだったということなのね……悲しいわ」

「ねえ、真宵。そうやって否定させようとするのやめなさいよ。困ってるじゃないの」

 

 アルフォードさんに年齢をネタにされたときの怒りっぷりはすごかったのに、自分で言うのはいいのか。そんな疑問を口に出せるはずもなく。

 

「えっと、俺下土井令一って言います。あー、ニャルラトホテプの所で大変不本意ながら暮らしている……」

「あー、噂の……失礼。小耳に挟んだくらいだけれど、噂は嫌よね」

 

 だからどんな噂が流れているんだよ。

 気にはなるが、知るのも怖いので訊くのはやめておく。

 

「アタシは赤座紅子。赤いちゃんちゃんこの怪異だよ。お兄さんの付き添いで……」

「お付き合い9ヶ月、よね」

 

 真宵さんの言葉に俺達二人は揃って「付き合ってはいない」と声を重ねた。

 互いに目が合って、すぐに逸らす。こういうときばかり声がハモったりするんだから……複雑だ。

 

「なるほど、そういうことね」

 

 女性は訳知り顔で頷く。

 

「適任でしょう?」

「悔しいけれど、あのヒトと夫婦である以上……そういう相談にはもってこいよね。仕方ない、か」

 

 女性の歳の頃は20代くらい……だろうか。若い。けれど夫がいるという。それも、このやりとりを聞く限り相手は人じゃない。

 なるほど、真宵さんが俺達を引き合わせようとしたのは、そういう理由か。

 真宵さんも俺達のことについては応援してくれているようだし、踏ん切りがつくようにいろんなケースを見せてくれようとしているのだろう。

 

「さて、お客様をこんな山中に立たせたままにするのもよくないし、さっさと神社へ向かいましょうか」

 

 彼女は鶴のような模様の羽織を払い、居住まいを正す。

 

「私の名前は灰鳩(はいばと)真白。この先の、夜刀神社の巫女です……2代前の、だけれどね」

 

 ふわりと笑って彼女――真白さんが言った。

 

「山越えさせるのも申し訳ないし、ちょっと待っていてね」

 

 そして彼女は、手にした簪を天へと向ける。

 シャラリと揺れる椿の花と、雷を象った飾りがその先で揺れていた。

 

「来て、破月(はづき)

 

 霊力の流れが視えた。

 彼女の霊力が簪に流れ込み、そして雷の形をした飾りから抜けてどこかへと消えていく。

 

 突如、山の上から咆哮が響いた。

 真宵さんがうるさそうに眉をしかめる。

 

「な、なんだ!?」

「安心して。ただ夫を呼んだだけだから」

「夫って……」

 

 俺の叫びに穏やかに笑って真白さんが言う。

 そして紅子さんが呟いたそのとき、比喩ではなく雷が落ちた。

 

「我を呼ぶのは誰ぞ?」

「知っているくせに」

 

 真白さんの隣に落ちてきた雷から、人が現れる。

 その人は、背中に黄金の鱗で覆われた皮膜の翼を持っていた。

 

「さ、破月に乗っていいから、さっさと神社まで行きましょう」

「わ、我は『たくしい』代わりなのか真白よ!?」

「頼りにしてるのよ」

「なら、良い!」

 

 いいのかよ。

 そんなこんなで、俺達は神社へと向かうことになったのだった。



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雷鳴竜「破月」

 頬に当たる風が心地好い。

 俺と紅子さん、そして真宵さんは今、その三人を乗せてもまだあまりある巨大なドラゴンの背中の上にいた。

 そんなドラゴンの鼻先を、白い羽織を鶴のようにはためかせた真白さんが〝空を飛んで〟並走している。いや、並飛翔? 

 空を飛ぶ巫女なんてゲームの世界だけじゃなかったんだな……なんて感慨深く思う。怪我の療養中、(とおる)さんにオススメされたいくつかのゲームや漫画を読んでいたのだが、その中に確かそんな設定の話があったはずだ。

 

「……破月さんって、西洋竜だよねぇ」

 

 紅子さんが呟く。

 ドラゴンの上に乗っているため、俺が背中の棘を腕で捕まえ、彼女がそんな俺の腰に腕を回して振り落とされないようにしていたときだった。

 ちなみに、真宵さんは慣れているのか尻尾のほうで横に腰掛け、景色を眺めている。

 

「そうだな、背中に翼があるタイプのやつ」

「アルフォードさんと一緒だよね。なにか関わりがあったりするのかな」

「我は……」

 

 低く、しかし心地好い声が響く。

 あ、聞こえていたのか? 風を切って飛んでいる上に、俺達の乗っている背中と頭までには結構距離があるのに。普通は風の音で聞こえないはずだ。

 

「聞こえてましたか」

「ああ。本来ならば我の背中にいようとも、風の勢いでお前達が飛ばされてしまいかねないからなぁ。風の流れを少し緩やかにしている。それに、我は竜ぞ?」

「そうだったね。普通は人間基準じゃ推し量れないかな」

 

 俺より怪異である紅子さんのほうが身体能力も、視覚や聴覚も優れているのだが、彼女は生前からの癖や生活をとても大切にしている。基準が人間から逸脱していないので、竜と人間の感覚がかなり違うことを失念していたんだろう。

 それはもちろん、俺自身もそうだが。ついつい人というのは自分基準で考えてしまいがちなのだ。

 

「我は雷鳴竜、破月。月を引き裂かんとばかりに轟く神立(かんだち)なり。我は苛烈な雷そのものの権化なのだ……我が嫁にはこてんぱんに負けてしまうがなあ」

 

 含み笑いをする音が聞こえてくる。

 真白さんのほうが強い、と言うべき言葉はにわかには信じがたい。けれど、本人……本竜? がそう言っているわけだし、真白さんも彼に対してはかなり強気というかなんというか……ツンデレみたいな態度をとっているし、どこか既視感を覚える。

 

 ……主に俺の腰に手を回している後ろの子とか。

 

「いてっ」

「なにか変なことを考えているよねぇ。お兄さん、そういうときは急に黙るから分かるんだよ?」

 

 後ろから回された腕に力がこもる。苦しくて思わず声が出たが、彼女は怪我から復帰したばかりの俺に遠慮してそこまで強く締め付けてきていない。

 それとなにより、あんまり腕で締め付けられると背中に当たるというかなんというか。痛みよりご褒美的な感覚が強くてそれどころじゃない……! 

 

「ご、ごめんって」

「ほらまた変なこと考えてる。こんなところで欲情するのはやめてほしいかな、この童貞」

「だったら締め付けるのはやめてくれって」

「どうしてかな、どうしてやめてほしいのかな? ふふふ」

 

 ここまで来て気がついた。

 この子、わざと胸を当ててきているな? 

 いつも思うが誘い受けするのもいい加減にしてくれよ! そのうち本気で俺の理性がブチ切れたらどうするんだこの子は! 

 

「胸が当たってると変なこと考えちゃうからやめてくれ!」

「……まさかそんなに素直に言われると思ってなかったよ」

 

 お互いに大ダメージじゃないか……! なにやってるんだ! 

 

「はっはっはっ、よきかなよきかな。なるほど、真宵殿がお前達を連れて来た理由が分かった。これは我らが適任だなあ」

 

 破月さんが豪快に笑った。

 さっきから真白さんも自分達が適任だとか言っていたが、どういう意味だ? 

 いや、本当はなんとなく分かっている。この二人が、人間と竜という異種族の夫婦だからなのだろう。つまりは、俺達にとっての人生の先輩というやつだ。真宵さんはだからこそ、二人の話を俺達に聞かせようとしているのだろう。

 

 ……思えば、絵描きの祓い屋である秘色(ひそく)さんに話を聞かせてもらったときも紅子さんはどこか複雑そうな顔をしていた。異種族恋愛の、その成功例を聞いて自分の気持ちのことを考えていたのかもしれない。

 あのとき既に彼女が俺に対してそういう気持ちを持っていたかどうかは分からない。しかし、その体験に少なからず思うところがあったはずなのだから。

 

「あの、破月さんは西洋竜ですよね。だったら、その、名前は……」

 

 俺は質問しかけて言い淀む。

 これ、言ってもいい質問か? 

 

「我の名前か。西洋よりこちらに住み着いた際に名を改めてなあ……この国の言の葉は誠に美しい。女も……こうして、美しいからなあ。我もお気に入りだぞ」

 

 遠くに見える竜の瞳がこちらをぎょろりと見つめた。明らかに紅子さんを見ているそれに、思わず俺は視線を塞ぐように体をズラす。

 見かねたのか、真白さんが破月さんの耳元に向かった。

 

「破月、それセクハラよ。人の想い人にまで変なことしたら承知しないわよ」

「分かっている。なに、我が組み敷くのは真白だけ……」

「そういうところだって言っているでしょう!」

 

 真白さんの(かかと)落としが綺麗に脳天に入る。

 俺はそれを見て溜飲を下げるのと同時に、ほんの少し痛ましい気持ちになった。

 あんなことを他人に言うつもりはないが、紅子さんにセクハラをしてしまわないよう俺も気をつけないと……。多分紅子さんなら暴力で訴えてくるんじゃなくて、言葉責めされることになるんだろうが。

 

 まあ紅子さんに言葉で負かされるくらいはいつものことだし……じゃなくて、だから、俺はドMじゃないってば! 神内とは違う、俺は神内とは違うんだ……。そう、ただ好きな女の子からかけられる言葉ならなんでも受け入れられるっていうだけだ! ……あれ? 

 

「お兄さん……」

 

 呆れたような声が聞こえる。

 紅子さんからの視線が突き刺さっている気がするぞ。

 

「と、ともかくだ。破月さん達の話を聞けるわけだ」

「まあ、そういうことになるかしら。ゆっくりしていってくださいね」

「ありがとうございます」

 

 やがて、山間を超えて山頂へ。

 

 大袈裟に雲の上まで飛翔した破月さんに、息を飲む。

 耳が詰まるような感覚がするのは飛行機と一緒である。しかし、それ以上に生身で体感する雲の上の景色というものは美しかった。

 

「術がかかっていますから、飛行機に乗るより楽でしょう?」

 

 いつのまにか俺達のそばにまでやってきていた真宵さんが言う。

 なるほど、雲の上に生身でいるのに少ししんどいくらいで済んでいるのは術のおかげなのか。

 

 見渡す限りの雲海、そして頭上に輝く反対になった太陽。

 太陽で目が焼きつかないのも、術のおかげだろう。不思議と快適な温度で、風景写真を見るくらいの気持ちで眺めることができていた。

 

「では、行くぞ」

「はい?」

 

 そして――急降下。

 背中の棘に捕まったまま、俺達は命綱のないジェットコースターを楽しむハメになるのだった。

 

「普通分かるわよ! いつもいつも調子に乗ってばっかりで……!」

「す、すまなんだ真白」

 

 そして現在は、先程から懇々とドラゴンと人間の違いについて説教をしている真白さんと、されている破月さんを眺めている。

 

「お茶をどうぞです」

「ありがとう」

 

 小さな子供が縁側に座る俺達に抹茶を持ってきてくれて、大人しく受け取った。

 あとでちゃんと名前を聞こう。

 

「そっちの子達に謝りなさい!」

「すまない、お前達」

 

 破月さんや真白さんも、多分落ちそうになったら助けてくれたんだろうが、本気で怖かったので首を横に振る。

 

「許せません」

「なぜだぁ!?」

 

 神社に着いてからも、このヒト達は非常に賑やかなのであった。



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鏡界の夜刀神社

 まあ、そんなこんなで全員が縁側に集まることとなったのだった。

 真白さんや破月さんの他にも、白い着物を着た幼い女の子と、頭からふわふわの垂れ耳を生やした、こちらも幼い女の子が忙しなく動いてお茶とお茶菓子を用意してくれていた。

 耳を生やした子は、様子からするとウサギっぽい気がするな。ウサギの怪異か? 

 

「ねえ、真宵。今まではどこを巡っていたのかしら?」

「幻想アパートからルルフィードさんのスイーツパーラー、それからペチュニアさんの自宅ですわね。どこも歓迎してくださるものですから、太ってしまいますわ」

 

 困ったように笑う真宵さん。

 そういえば、彼女もずっと黙々と出されたお菓子を食べてたからなあ。しかし、嬉々として食べていた気もするけれど。

 

「なら、あんたには出さなくていいようね。二人とも、下げちゃって」

 

 その言葉を聞いてウサギの女の子がさっと煎餅を下げ、もう一人の女の子が困ったように真宵さんと真白さんを見比べた。

 真宵さんは下げられた煎餅を名残惜しそうに見つめながら声を上げる。

 

「わたくしは祭神ですのよ!? 巫女としてそれは酷いと思わないの真白ちゃん!」

「祭神様は人のおやつを盗んだりしないわ」

「ウサギの証言だけでしょう! 証拠はありませんわ!」

「あんたよりよほど信用できるって言ったじゃない。いいわ、証拠を並べてあげましょう」

 

 瞳を猛禽類のように細めて真白さんが指を立てる。

 腰に手を当てて話すその姿はさながら探偵のようだった。

 

「まず、私のかっぷけえきに破月が手を出すのはありえないわ。私が楽しみにしていることを知っていたし、手を出したらとんでもないことになるのは分かっているもの。そして、かっぷけえきは棚の高いところにこっそり入れておいたのだから、背の低い優梅(ようめい)遊幸(ゆゆき)が手を出すこともできないの。あゆるは早朝からお店に出ているし、その頃にはまだあったのを私が確認しているわ……状況証拠からしてあんたしかいないのよ」

 

 だいぶ無理矢理感があるが、確かに状況だけ見るなら真宵さんが怪しいのだろう。

 

「うう、酷いですわ。よってたかってそんな視線を……」

「お前はそこまでダメージを受けていないだろうに。少しは神様らしくしたらどうなのだ」

「あら、姑イジメかしらあ」

「当たり前のことを申しているだけぞ。年甲斐もないぞ、夜太刀殿」

 

 あ、怒ってる。これ明らかに真宵さん怒ってるぞ。

 俺達二人はそんなやりとりを眺めながらお茶を啜る。触らぬ神に祟りなしだ。

 

「はあ、まあいいわ。ごめんなさいね、うるさくて」

「あー、いえ、仲がいいんだなって」

 

 真宵さんと破月さんからの視線を感じる……仲は良くないって言いたいのか。いや、仲いいだろ絶対。

 

「あーっと、それより、アタシはそっちの子達が気になるかな。怪異だよね?」

 

 誤魔化すように紅子さんが話題を変える。

 そう、着物の女の子とウサギ耳の女の子の自己紹介がまだなのだ。

 俺も気になっていたから、二人に目を向ける。

 

「わたしは玉章(たまずさ)遊幸(ゆゆき)なのです。座敷童をやらせていただいております」

 

 まずは、真白さんと似た白い着物を着た女の子がお辞儀をした。なるほど、幼い見た目だと思ったら座敷童だったのか。なんとなく真面目で素直そうな子供、という印象が強いな。

 

「うちは優梅(ようめい)という。犰狳(きゅうよ)という怪異なのじゃよ。ああもちろん、迷惑にはならんようにしておる」

 

 そして、次いでウサギ耳の女の子。

 聞いたこともない怪異の名前だな。それに、名前の発音からするに中国のほうの怪異だろうか……? 

 

「あの、犰狳って?」

「アタシも分かんないねぇ」

 

 さすがの紅子さんも知らないらしい。

 優梅さんはハッとした顔をして「うちは有名じゃないからのう」と落ち込んだ。なんかごめん。

 真白さんはそんな優梅さんの頭をポンと撫でると、説明を始める。

 わしわしと撫で回されて、優梅さんはくすぐったそうに笑った。

 

「犰狳は鳥のクチバシにハイタカの目と蛇の尻尾を持ったウサギの怪異よ。こいつが現れるとイナゴの大群までやってきて、穀物の生産に大損害を与えたと言うわ。ま、真相は大したことなかったんだけれど」

「真相ってなにかな?」

 

 紅子さんの問いに、これも真白さんが答える。

 

「因幡の白兎と一緒よ。イナゴは数が多くても自分達ウサギには勝てないだろうって煽って追いかけ回されて、行く先々で迷惑をかけていたってわけ」

「全てのイナゴを真白の結界に閉じ込め、我が雷を落として退治たのが遥かに昔のことのように感じるなあ」

「実際、かなり昔よ」

 

 確か真白さんには娘がいて、そして更にその娘さんもいるんだったか。

 二世代重ねているということは、かなり昔の話だ。

 

「あともう一人いるけれど……今はお店を開いているはずだから、またあとで真宵に案内してもらってくださいね」

「任せてくださいな」

「ええ、任せます」

 

 そちらも楽しみにしておこう。

 

「それで、あの……アタシ達をここに連れてきたのは、話を聞かせるため……だよね? そっちのほうは」

 

 紅子さんが遠慮がちに声をかける。

 そうだった。人と竜の恋物語……俺達の参考になるだろうと真宵さんが連れてきてくれたんだったよな。

 

 自然と居住まいを正して彼女達に向き合う。

 真白さんがどこからか持ってきた蜜柑を剥いて、破月さんの口に中身を丸ごと押し付けている光景がそこにあった。

 

「……」

「あ、ごめんなさいね」

 

 俺達の生温かい視線に気がついたのか、ハッと顔をあげた真白さんが恥ずかしそうにパタパタと手を振る。

 

「もっと食べさせておくれ、真白」

「自分でやって。小鳥の雛じゃないんだから」

 

 今更照れてしまったのか、迫る破月さんの顔をグイグイと押し返しながら真白さんが嫌そうな表情を浮かべる。

 この光景を見るだけでもうお腹いっぱいなんだが……もしかして、いつも俺達を見ている皆はこんな気持ちになっているんだろうか……? 

 

「はあ、まあ掻い摘んで話すだけでいいかしら」

 

 そうして、真白さんは破月さんをたしなめながら話し始めるのだった。



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唯一の合格者

「……と言っても、あんまり話すこともないのよ」

「なにを言う! 我と真白の思い出はたくさんあるだろう!」

「破月くんが話すと長くなっちゃうじゃない」

「んぐっ……〝くん〟付けは卑怯ぞ真白!」

「はいはい」

 

 破月さんをあしらうように真白さんが手を振る。

 白に藤の散った着物がその度に衣擦れの音を立て、彼女の簪が揺れた。

 なんだこの……なんだろう。俺達っていつもこんな思いを皆にさせていたのか……? いざ見せつけられるほうとなるとすごく気恥ずかしいな、これ。

 これを微笑ましげに見守ってくれていた透さんってすごいんだな。

 

「この子達の本題は、もし人とそうでないものが結ばれたらどうなるのか……よね。まあ、まだあなた達はその一歩も踏み出せていないようだけれど」

「うぐっ」

 

 はい、その通りです。ヘタレですみません。

 

「ねえ、真宵さん。本当にこの話、聞かないとだめかな?」

「だーめ」

「……」

 

 笑顔の威圧で紅子さんが押し黙った。

 どうやら逃げることは許されないらしい。なんの罰ゲームだよ。

 

「そうねぇ、まずは恋愛に関してはなんの問題もないと思うわよ。私が破月の変態っぷりに苦労したくらいで、あなた達はそういう変な性癖とかなさそうだし」

 

 平然と下ネタギリギリのラインを攻めてくるな!? 

 涼しい顔をしながらなんてことを言うんだこの人! 

 言いたいことを八割くらい喉の奥に押しやって、頷く。多分心境が顔に出ているだろうが、それくらいは許してほしい。

 紅子さんだって口元がかなり引きつっているからな。

 

「まあ、色々あるのよ。その点あなた達は両方人型だから苦労はないでしょう。お付き合いも、そのあとも」

「いや、真白には悪いことをしたなあ! 本性でするのはさすがに」

「黙りなさい」

「ふぐぉっ!?」

 

 真白さんの裏拳が破月さんの懐に綺麗に入った。

 

 いや、なんだこれ、なんだこれセクハラか? パワハラか? アルフォードさんあたりに言いつければこの状況をなんとかしてくれるか? いや、だめだ。それだとアルフォードさんと真宵さんの喧嘩が始まって更なるカオスに包まれるだけだ……カオス、嫌な響きだ。

 

「あの、そっちの話はあんまり……」

「ごめんなさい。このバカドラが」

 

 紅子さんが遠慮がちに言い出すと、真白さんが申し訳なさそうにする。

 いや、あなたも大概です。

 

「えっと、紅子ちゃんだっけ」

「え? あ、えっと、はい……そうです、けど」

 

 珍しい。紅子さんが敬語だ。

 それだけ雰囲気に気圧されているというか、怖がっている状態に近いか。上司の友人夫婦から下ネタ含めた恋愛指南をされるとか……逃げられないだけに本当にパワハラじみている。本気でやめてほしい。これが社会の縮図か……? 

 

「おいおい、あんまりそういう話を長引かせてやるでない。巫女さん、そういうのは簡潔にするのじゃ」

「あの……お二人とも、困っています」

 

 助かった! 

 ウサギ耳を揺らした優梅(ようめい)さんと、困った顔をした遊幸(ゆゆき)ちゃんから助け舟が出されたのである。

 縋るように視線を向けると、優梅さんはにかっと笑って口を開いた。

 

「大丈夫じゃ。赤い竜の包帯を巻いて、肉体を得ていれば幽霊でもやれるからのう」

「わー! 優梅! なんてことを!」

 

 笑顔で聴いていた遊幸ちゃんが途中で止めに入るも、色々と裏切られた形になる俺達は俯いた。き、気まずい……! 

 

「あの、そういう話は」

「いじめすぎちゃったかしら」

 

 さらっと真宵さんが言う。

 やめてやってくれ。紅子さんは自分でわ下ネタを言うのはいいが、言われるのは苦手なんだよ。この子をこれ以上困らせないでくれ。

 俺も無駄な煩悩が顔を出してきそうになるから! 変な想像をしそうになるから! せっかくここまでずっと耐えてきているのに……! 

 

「や、やめましょう。この話はやめましょう」

「あら? 子供を持つって大事な話だと思っていたけれど……そうよね、時代は変わっているし、子供のいない夫婦も普通になっているんだっけ」

「そうさなあ。それを選ぶ若者も少なくないと聞くぞ。我らの時代ではあまりなかったことだ」

 

 ズレている。この二人、圧倒的に俺達の認識とはズレている。

 俺達にとってセクハラになっていることも多分意識になさそうだ。

 

「その、ちゃんとお付き合いするまでそういうのは……」

「お、お兄さん……あの、えっと……ごめんね。ちょっと、席を外したいかな」

「……ゆ、遊幸ちゃん。ちょっと付き添ってあげてくれ。頼む」

「はい、かしこまりましたです」

 

 紅子さん……恥ずかしさで泣きそうな顔になっていた。

 せめて彼女だけでも逃がそうと、この場で一番まともそうな遊幸ちゃんに付き添いを頼んだが、大丈夫かな。

 

「あの、そういう話題をまだお付き合いもしていない俺達に出すのは、現代ではセクハラって言うんですよ。紅子さんなんて相当恥ずかしそうにしてましたし、俺だって、今その話をされるのは嫌です。ちゃんとそのときになったら二人で話し合うものなんですから、これ以上は結構です」

 

 思ったよりも怒りの声が強くなってしまった。俯いて、膝の上で拳を握り込む。そうしなければ、殴りかかってしまいそうだった。

 このヒト達は俺よりもずっとずっと年上で、しかも格上で、強いのに。

 それでも、言葉で思わず噛みついた。紅子さんをちょっとでも傷つけようものなら、たとえそれが言葉によるものだとしても俺は許さない。

 いじめるのも大概にしてくれ……! 

 

「……そうね。貞操観念がしっかりしていてなによりよ。これであなたもこいつみたいにケダモノだったら彼女が可哀想だもの。もしそうなら逃してあげようと思っていたけれど……これなら大丈夫かしら」

「え」

 

 真白さんの言葉に顔を上げる。

 

「相思相愛。それで結構。けれど、私達のような人とそれ以外の恋には〝そのとき〟というものがあるわ。運命……いえ、こう言う言葉を使うのは、自分の意思がないみたいでなんだか嫌ね。とにかく、必然としてやってくる〝そのとき〟があるのよ。この浮き世では 『合うも不思議、合わぬも不思議』ひとえに全てはその蝴蝶の夢。そしてそれは無数にある選択次第でどのようなものにでも変わるわ……って、これの半分はただの受け売りだけれど」

 

 儚く微笑むその白い鶴のような女性は、袂で口元を隠しながら笑った。

 気の強そうな、いや、実際に気の強い人であるのにどこか儚いのは彼女がその名前のように真っ白だからか。

 

「カマをかけてごめんなさい。あなたなら、彼女を不幸にすることはないでしょう。あなたの様子を見て心の動きを少し観察させてもらったけれど、推察するまでもなかったわね」

「えっと……?」

 

 聞き耳のイヤリングでも所持していたのか、と観察してみても彼女にはそれらしきものがない。

 目を白黒とさせている俺に、真白さんは「仕草で心の機微を感じ取ることくらいはできるわ」とウインクしてみせる。

 そんな、ほんの少しの茶目っ気に毒気をすっかりと抜かれてしまった俺は脱力する。

 

「いじめたかったわけじゃ、ないんですね……」

 

 なによりも、俺の観察をしたかっただけ……と。

 

「ええ、あの子は特別なの。あやかし夜市の鈴里しらべに唯一認められている元人間だものね」

「……? それってどういう」

「あのさとり妖怪は意地が悪くてなあ。己が見つけた元人間の怪異を同盟に入れる際に、ちょっとした〝試験〟を受けさせるのだ」

 

 真白さんの言葉を受け継ぐように、破月さんが言った。

 

「そして、その試験に合格したのは……赤座紅子。あの子が始めてだったのよ」

 

 息を飲む。

 

「い、いつからそんな試験……を?」

「何百年と前から」

 

 その試験というものは、それほど過酷なものなのか? 

 それを……紅子さんが? 

 

「ひとつだけ訂正しましょう。しらべは同盟に所属させるために試験を受けさせるわけではありませんわ」

 

 真宵さんが嫌らしい笑みを浮かべて指を立てる。

 

「では、どういった意味、で……?」

「食事のためよ」

 

 その言葉を聞いて、俺は思い出した。鈴里さんの好物を。

 彼女は、殊更〝絶望〟という感情を食べることが好きなのだ。同盟に所属していながら、非常にさとり妖怪らしいその二面性。

 その食事のために試験を……? ということは、はじめから合格させる気もない試験であるということで……。紅子さんはそれに合格しているということで? 

 

「うふふ、混乱しているわねぇ」

 

 そして、そんな俺を愉快そうに真宵さんが笑って見つめていた。

 

「あなたは〝月夜視〟に目覚めていると聴いているわ。気になるなら、見てみるかしら? あの試験にはわたくしも協力しているの。ここに鏡があるわ。これに触れればその記憶に触れることができるでしょう。訓練代わりに覗くことをわたくしが許可いたしますわ……さあ、どうしますか?」

 

 試すように、真宵さんが蛇のように俺を見つめる。

 その瞳に捉えられて動けない。

 

 目の前に差し出された鏡を見つめて……俺は。



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対等な関係

「俺は……視ません」

 

 目の前に差し出された鏡から目を逸らし、断言する。

 それに目を丸くた真宵さんは「あら、どうして?」と至極当たり前のことを訊いてきた。俺にとって、当たり前のことを。

 

「俺は、もう二度と、紅子さんの意に沿わないことをしない」

 

 それは、神中村で彼女の過去を覗いてしまったときに決めたこと。

 

「だから、俺は彼女の許可がない限り、勝手にその心を覗いて踏み荒すようなことだけは、絶対にしない!」

 

 たとえこの場にいる全員が俺よりも強くてすごい人であろうと、俺はそれだけを曲げるわけにはいかなかった。もう二度と、紅子さんに嫌われたくなかった。嫌がられたくなかった。彼女の、人に見せたくないだろう部分を勝手に見るなんて裏切りをしたくなかった。

 

「うふふ、ふふふふ……」

 

 真宵さんが笑う。

 

「はあ、本当に問題なさそうね」

「そうだなあ、ここまで鋼のような意思を見せつけられると、少し羨ましいくらいだぞ」

「雷竜サマはそのへん、理性がゆるゆるじゃからのう」

「おい、ウサギ」

「事実じゃろ」

 

 真白さん、破月さん、優梅(ようめい)さんと反応を見て「あれ?」と思う。

 まるで、また俺が試されていたみたいな雰囲気に困惑した。

 

「らしいわよ、紅子」

「え」

 

 真宵さんの言葉に焦る。

 どこかに紅子さんがいたのか? そんな風に辺りを見渡して見るが、その姿は見えない。

 しかしよく視ていると、廊下側になにやら違和感があるような……? 

 

 そうして目を凝らしていると、違和感のあった場所がまるで蛇の目が開かれるようにぐぱりと割れる。空間に鱗のようなヒビが入り、蛇の目玉がギョロリとそこに出現すると、その中から困った顔をした紅子さんと遊幸(ゆゆき)ちゃんが現れた。

 

「わたくしが境界の神なのに鏡界を渡り歩く理由をご存知かしら」

 

 真宵さんのほうへと目を向ける。

 視界の端で、紅子さんと遊幸ちゃんの背後で蛇の目玉が瞬きをするように、ゆっくりとその瞬膜を閉じるように、空間の割れ目が閉じていくのが見えた。

 

「蛇の目……〝カカメ〟は鏡という名称の起源のひとつですのよ。蛇というものは多くの信仰に関わりが深いのですわ。蛇の姿を象徴として名付けられた多くの植物、そこから生まれた多くの加工品……蛇は祖霊のひとつですの。赤いトカゲやそこの黄色いトカゲなんて目じゃありませんのよ」

「おい、蛇の。一言余計ではないか?」

「特に現在では蒲葵(びろう)と呼ばれている扇状の植物。わたくしの世代ではアジマサと呼ばれていましたが、この蒲葵の葉の代わりに扇が作られ、蒲葵の代用繊維として(すが)そして(わら)が扱われ、それらから製作された加工品……蓑や笠、そして縄、転じてしめ縄も蛇を象徴するものとして扱われました」

「無視をするでない!」

 

 破月さんと真宵さんのやりとりを見ながら困った顔で紅子さんが俺の隣に座る。そして遊幸ちゃんは「タタタッ」と軽い足取りで真白さんの元へ行くと、座った彼女の腰にダイブするように抱きついた。

 一瞬羨ましそうな顔をした破月さんは、同じく隣から腕で閉じ込めようとして、再び彼女の拳に沈んでいった。なんというか、残念なヒトだな。

 

「はいはい、真宵の自慢話は置いておいて……」

 

 真白さんが遊幸ちゃんの頭を撫でながら話し始める。

 

「それで、許可がなければ見ないんだったわね。話は聞いていたでしょう、紅子ちゃん」

「ああ、うん……一応ね」

 

 複雑そうな顔をした紅子さんは俺を横目に見て……それから目を瞑る。

 

「ひとつ、条件があるんだ。お兄さん」

「うん」

「だって、アタシばっかり見られるなんて不公平だよ。筒抜けはさすがに恥ずかしいかな。だからね」

 

 区切る。

 そして紅子さんはまっすぐと俺を見た。

 

「キミにあったことも、洗いざらい話して、そして見せてよ。そうしてやっとアタシ達はフェアになる。キミがアタシのことを受け入れてくれるのは……その、嫌ではないよ? でもね、キミのことを知らないままじゃあ、キミのことが不鮮明じゃあ、アタシは少し怖い」

「うん」

「アタシは全部見られているのに、キミだけなにも見せないのは怖いよ」

「うん、そうだよな」

 

 至極もっともな話だ。

 俺だけなんにも話さないんじゃ、紅子さんが不安になるのも仕方ない。なら、俺のほうも昔の出来事をちゃんと語るべきだ。

 

「ふむ、女のほうが素っ裸で、男のほうだけ着込んでいるのは恐怖よな」

「ちょっと破月くんは黙っていてくれないかしら?」

「んぐっ」

 

 だんだん分かってきた。このドラゴン(ヒト)、めちゃくちゃ空気が読めない。読めないというか、読まない。俺達とは根本的に認識がズレているし、デリカシーというもののカケラもない。こんな恵まれた顔をしていて、本当に残念な性格をしている。脳みそまで下ネタに支配でもされてんのか。

 

「分かった。それなら、前は紅子さんの過去を勝手に覗いちゃったわけだし、俺から話すよ。えっと、神内のやつに攫われる前のことのほうがいいよな。そして、それからのことも」

「……うん、聴くよ」

 

 こうして、互いに対等になるための打ち明け合いをすることになった。

 ギャラリーはいるものの、そんなこと知るもんか。この人達なら茶々は入れないだろうし、俺達二人きりだとしてもきっと話し合うきっかけなんて巡っては来なかった。

 だから、これがいい機会だ。

 

 そして俺から話を切り出していく。

 

「あれは……何年前だったっけかな。とにかく、俺が神内に攫われたのは、高校最後の修学旅行のときだった」

 

 そうして紡いでいく。

 思い出したくもない思い出を。

 

 しかし、それを整理するためにもいつか必要なことだったのだと思う。

 

 だから語る。俺がまだなんにも知らなかった頃の話を。

 俺がまだ、幻想を幻想だと信じていた頃の話を。

 俺がこの世の裏側を知る前の話を……。



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過去の怪【最悪な修学旅行】
最悪な修学旅行「序」


 俺が修学旅行でやってきたのは、京都。

 そして、きっかけはただの「音」だった。

 

「なあ、下土井。この旅館変な音聞こえねぇ?」

「音? なんだそれ」

「幻聴じゃねーの?」

 

 布団に寝転がった同室の奴がそう言ったのがきっかけだった。

 旅館の一部屋に男が五人。クラス内で決めた、旅行先で一緒に行動するグループがそのまま同室にされていたのである。

 

 普通なら常に同じグループにしたりはしないはずだし、班だって男女混合にするのが普通なのだが、このときは教師が面倒臭がったのか、俺のクラスは常に仲のいい奴が集まって班が組まれていた。

 

 とはいえ、広めの部屋ではあるが男子が五人。

 正直なところむさ苦しいことこの上ない。友達とは言えど、同じ和室に五人並べて寝るのは虚しくもなる。人数的に一人だけ布団の並びがぼっちになるが、むしろこの布団を巡って壮絶なじゃんけんに発展したりなど、まあまあ高校生男子っぽいことをしていたような気がする。

 

 あとは無難に枕投げしてみたり、トランプを出してくる奴がいたり、女子の部屋に突撃しようとする奴がいたり……それから、寝る直前にこの話をした奴がいたのだ。ちょうどおとなしいタイプの男で、旅館内を歩いているときもどこか上の空だった気がするな。このときまではそんなに気にしていなかったから、あまり覚えていない。

 

 なんせこの事件も五年以上は前になるわけだし。そこまで細かいところは言えないかもしれないな……俺も記憶を直接見せるくらいできればよかったんだが。

 

「ああ、なんか口笛的な音がどこからか聞こえる気がして」

「口笛ねぇ。そんな音してたか?」

 

 俺が言うと、周囲の奴らも否定を返す。

 

「誰かがふざけてるとか?」

「それか、お前の幻聴だったりして」

「や、やめろよ。おれおかしくなんてないよ」

「で、今も聞こえんの?」

「いや、今は聞こえないかなあ……聞こえたときも、遠くから微かに聞こえてくる感じだったし」

「じゃ、女子あたりが口笛で歌ってたとか?」

 

 女子は男子とは部屋のある場所が正反対であったために、そいつはそう推測したらしい。実際、俺達にはなんにも聞こえなかったので、気のせいか、本当に僅かな音だったかくらいしか選択肢がなかったわけだ。

 

「いや女子だったらどんだけでかい口笛だよ」

 

 半笑いになったクラスメイトが言う。

 確かにそうだ。

 

「じゃあ幻聴だげんちょー! 大丈夫かあ?」

「大丈夫だよ。おかしいな、おれが変なの……? いやでも聞こえたしなあ」

「なになに気になるの?」

「本当に女子なら突撃してみるか?」

「ああ、それもいいけど」

「え、マジで言ってんの? 冗談だったんだけど」

「え」

 

 そんな軽いからかいに発展するくらいで、その話はそれで終わった。

 

 みんな修学旅行初日で疲れていたのだ。

 起きていようとしても、自然と寝落ちする奴が続出していたのだ。わりと皆真面目な性質の奴らだったからか、あまり夜更かしが得意ではなかったみたいだな。

 それは俺も例外ではなく、徹夜しようと言っておきながら見事に寝落ちしていたのである。

 

 そして翌日、口笛を聞いたというやつはいなくなった。

 

 最初は誰もが早起きして朝風呂でもしてるんじゃないかと思っていたのだが、いつまで経っても帰ってこないし、朝食にも出てこない。さすがにおかしいとなって教師に報告してみれば、旅館内を先生方で探し回ってもどこにも見当たらない。

 

 口笛をきいたそいつは、見事に行方不明となってしまったのである。

 

「な、なあ、下土井。なんか聞こえないか……?」

「え?」

 

 それは、京都市中から旅館に帰ったあと、中庭の近くを通ったときの出来事だった。同室ではない友人がそう言った。

 

「ほら、なんか口笛? みたいな音」

「く、口笛……?」

 

 行方不明になった奴との会話は、勿論同室の俺達しか知らない。

 それに、俺達は別に口笛が原因だとは特に考えていなかったから、このときに心底ゾッとした。

 まるで関係ない奴までもが口笛を聞いたと言っている状況。そこになんだかホラー映画の前触れのような、そんな僅かな恐怖感が煽られたのである。

 

「……」

 

 恐る恐る耳を澄ませてみれば、確かに聞こえてくる。

 本当にごく僅かだが、どこからか口笛の「ピイーッ」と細く細く伸ばすような音が。それも強くなったり、弱くなったり、しかし絶え間なく口笛のような音が聞こえている。

 

「嘘だろ……」

「おー、本当だ。聞こえる」

 

 その場にいた同室の奴らも聞き耳を立てた結果、その音が聞こえたようだった。そしてその中の一人が好奇心を覗かせて言った。

 

「……なあ、確かめてみないか?」

 

 確か、そいつは俺達のグループの中でもわりとオカルト方面に明るい奴だった気がする。だからこそ、この現象に目を輝かせて提案したのだ。

 

「なんで確かめたいんだよ」

「オカルトかもしれないじゃん? 見たいんだよ、そういうの。気にならないか?」

「おい、行方不明者が出てんのにそれは不謹慎だろ」

 

 俺が窘めてみても、そいつは好奇心をそのまま顔に出して食い下がった。

 

「もしかしたらあいつも見つかるかもしれないじゃんか。なら俺達で探そーよ。見つけたら英雄になれるぜ?」

「先生達が探してんだろメンドクサイ」

「そうか、怖いなら仕方ないなー。俺だけで探す!」

「怖くねーし! しょ、しょうがねぇなあ! 行くよ! 行けばいいんだろ!」

 

 と、軽率なクラスメイトの判断により、俺も自然と巻き込まれていったわけだ。

 

「今夜中に見つけよーぜ! 探検だ探検!」

 

 こうして、俺と同室の奴四人。そして別の部屋に泊まっている奴一人で夜の旅館を徘徊して回ることとなったのだった。

 



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最悪な修学旅行「床の間」

 結局、皆が寝静まった頃に俺達は布団を抜け出した。

 そして旅館内を練り歩き、耳を澄ませながら口笛の音を探していく。

 

 昼間は気づかなかったが、この旅館内は本当に微かな口笛の音が響き続けていたのだ。

 

 その音は歌のような綺麗なものではなく、例えるならば――風を切るような、息継ぎもなしに口笛を吹き続けるような、一番近い音として挙げられるのが口笛くらいしかない。そんな音である。

 

 耳を頼りに口笛の音を辿る者、旅館の地図を眺めながらナビゲートする者、そして誰かが来ないか見張る者に分かれてゆっくりと進んでいく。

 

「こっちだ」

「待って、誰か来る……一旦この部屋に隠れよう」

 

 クラスメイトの一人が言って、全員で空室になっている和室に入り込む。

 この旅館は、空室と客のいる部屋とでプレートの色が違う。恐らく、旅館側が把握するためのものだろうが、こうして練り歩いている俺達は自分達の客室とそうではない客室を何度も見ていて、その違いに気がついていたのだ。

 

 ひっそりと襖を閉めて、緊張した面持ちでクラスメイトが襖に耳を当てる。

 俺も例外なく息を潜めていたが、ふとそのとき、視界の端に映ったものに興味を惹かれてクラスメイト達から目を逸らす。

 

 ギッギッ、と木造の廊下を歩いていく音が近づいてくる。

 

「あ、おい」

 

 友人達の小さな声が聞こえてきて、俺は一人離れた場所から振り返った。

 そこでは、襖をほんの少しだけ開けて廊下を通る誰かを見ようとする一人の友人の姿。

 そして、ちょうど振り返った際にその襖の向こうを通過する人影を見た。

 

 長い――長い黒髪を三つ編みにして垂らした人物だった。

 スーツ姿だったがタイトスカートは履いておらず、一瞬だけ見えたその相貌はどんなモデルよりも美しく目を惹かれるようなものだった。

 女性だろうか、とそのときまで俺は信じて疑っていなかったように思う。

 

「あんな人いたっけ」

「いーや、見てないな」

「めちゃくちゃ美人だったんだけど!」

「いいなあ、あんな美人と付き合いたいわ」

「ヤりたいの間違いだろ」

「言うな」

 

 今思えばありえないことだが、声さえ聞かなければ本当に女性にしか見えなかったのだから、まあ男子高校生としては間違っていない反応だろう。

 

 今となってはありえないけどな。ありえないけどな! 

 アレをそういう目で見るとか鳥肌もんだし想像するだけで吐きそうに……。

 

 閑話休題。

 

 とりあえず、このとき俺は美人……だと思っていたやつに気を取られたが、それよりももっと重要なものを見つけて移動していたんだ。

 

「下土井ー、なにしてんだ?」

「あ、ああ。ほら、この床の間に……」

 

 そこにあったのは、刀だ。

 よく見ればその部屋は客室と似通っているようで、違った。

 恐らく一般には解放していないタイプの場所だったんだろうな。

 

 真っ赤な下地に白と黄色のド派手な拵えの、ともすれば玩具なんじゃないかと思うほどのポップな見た目の刀剣が、その床の間に飾られていた。

 俺は妙に心が惹かれてしまって、そのまま床の間の刀掛けからその拵えを手に取った。普段なら旅館の備品なんだから素手で触ったらいけないとか、むしろ触っちゃダメだろとか、そういうことも気にするんだが、このときは不思議とそんな気持ちは湧いてこずに持ち上げていた。

 

「おー、すげぇ。それ本物?」

「えっと……」

 

 クラスメイトの言葉に反応して、鞘から刀を抜く。

 目の覚めるような銀色の刀身。光に透かしてキラリと輝くその刃に見惚れていた。

 すっと指を這わせてみれば、ほんの少しだけ指を切ってしまい眉を顰める。

 切れないように気をつけていたのにもかかわらず傷を作ってしまったので、それほど鋭く、薄い刃だったということだろう。

 切れたところもそれほど痛みがなく、本当に切れ味の鋭いもので切ってしまったのだと知って衝撃を受けた。

 

 ……それと、美術品を血で汚してしまったことにも気がついて。

 

「本物……どうしよう、汚しちゃったんだけど」

「はあー、すごいな。やっぱなんか、刃物ってわくわくするなあ」

「これ、拭いたら大丈夫か……?」

「んー、それでいいんじゃね?」

 

 本来はダメだ。

 今はもうそんなことは分かっている。

 しかしこのときの俺達に刀剣の手入れの仕方なんて分かるはずもなく、結局ハンカチで血を拭って鞘に戻し、そのまま元の場所に置くことにした。

 

「んじゃ、口笛を辿る旅再開だな」

「ああ」

 

 耳を澄ませて、その上でナビゲートしてくれる友人についていく……。

 これが、本当に本当の、俺とまだ刀身が赤くなかった赤竜刀との出会いだった。

 

「なあ……そういえばさ」

 

 廊下を歩いている際に、隣の友人が言葉を漏らす。

 

「ん? どうした」

「いや……ちょっとした疑問なんだけど……」

 

 友人の顔色は、心なしか青い。

 てっきり俺は、この行方不明事件を不安がっているものだと考えていたが、それは違った。

 

「あのさ、襖しかなかったから鍵がないのはまだ分かるんだけどさあ、なんであの部屋……明かりがついてたんだろうな?」

 

 立ち止まって、振り返る。

 誰もいないはずなのに明かりだけがついていた部屋。

 

 その事実に、俺は心底ゾッとした。

 



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最悪な修学旅行「不可視の化け物」

「だんだん音が近くなってきた気がするな」

 

 廊下を歩きながら、友人が声に出す。

 確かに、ここまで来るともう耳を澄ませなくても口笛の音が聞こえるようになっていた。

 

「ここ、どこだ?」

「えーっと、旅館の裏のほう……だね。どちらかというと従業員とかが出入りしてるところじゃね?」

「ええ、でもそのわりには人がいないよな」

 

 その通り。いくら深夜と言えど、旅館で働く従業員の少しは夜勤でいるはずなのだ。なのに、裏側に近いこの場所で見回りの一人とも出会いやしない。

 先程、部屋に隠れて見送った黒い三つ編みの人物はスタッフの制服を着ていなかったし、旅館とは無関係。ただの客のはずだった。

 

 だからこそ、一度も見つかりそうにすらならない事実に不気味さを感じている。

 

「外に出るみたいだな……」

「いよいよ怪談っぽくなってきたなあ」

「それ以後、俺達の姿を見たものは誰もいなかった……」

「変なナレーションつけんな!」

「それ、俺らが死ぬ前提じゃんよ」

「いや、ごめん。なんかつい」

 

 友人達の雑談を後ろから眺めながら、俺は耳を澄ませてついていく。

 

「下土井ー、いざとなったら助けてくれよー?」

「え、なんで俺なんだよ」

「だってお前剣道部だろー?」

「いや、だからって強いわけでもないしな」

「そういや試合に出てるところは見たことないな」

「なに!? 俺達を騙したのか!?」

「別に騙してないし。実力不足で出てないだけだから」

 

 ふざける友人に合わせて受け答えをしながら、ナビゲートしている友人の指示に従い俺達はついに旅館の裏側から外に出た。

 外と言っても渡り廊下を渡った先であるため、旅館用に用意して履いている内履きのままで進むことができる。

 

 そして、俺達はついにそこを発見した。

 口笛の音だけが響く中、誰かがごくりと喉を鳴らす。

 

「地下への、階段……」

「おいおい、本格的になんかの陰謀にでも巻き込まれてるんじゃね?」

「見てはいけないものを見ちゃってる感じがあるな」

 

 心なしかおどろおどろしい集中線と一緒に「オオオオ」と階段を中心に文字が足されそうな雰囲気がある。一昔前の怪談漫画みたいな、そういうイメージだ。ここだけなんだか気温が低い気がするし、雰囲気に飲まれているのか、自然と鳥肌が立っている。

 

「この中から口笛の音が聞こえるな」

「なあ、本当に行くのか?」

 

 なにか予感めいたものを感じていたのかもしれない。

 肌をさすりながら俺は「引き返さないか」と口に出そうとして、結局口を閉じた。そのかわりに、疑問を投げかける。しかし、他の皆は思っていたよりも乗り気のようで、俺の言葉が聞き入れられることはなかった。

 

「ここまで来ていかないわけないだろー」

「そうそう、これも旅の思い出ってやつだよ」

「その思い出が血みどろにならなければいいねー」

「おい、物騒なこと言うなよ」

 

 口々に感想を述べて、階段を見下ろす。

 わざわざ渡り廊下の先にあった空間。そして、その屋根の下に意味深な階段。

 しかも階段の手前側、その上部にはシャッターのようなものがあるのが見える。しかし、それも今は空いているようだった。

 階段を降りる手前のところにスイッチのようなものがあり、それを友人が試しにいじってみればシャッターがガラガラと閉まっていくのが見えた。

 どうやらシャッターを閉めるための操作盤らしい。

 

 ――そういえば、さっき見た黒い三つ編みの人はこっち側から来たんだっけ? 

 

 そんな風に思ったが、ただの偶然だと考え直して首を振る。

 それから、止まりそうもない皆を追いかけて俺も階段を降りていく。

 

 そのたびに段々と体が冷えていくようで、恐ろしさに身震いした。

 階段の奥は更に暗い一本道が続いていて、漠然とどこにも隠れられる場所もなにもないなと思ったのを覚えている。

 

 いよいよ近くなった口笛の音。

 しかし、口笛の発生源はどこにも見当たらず、更に先なのかと友人達と顔を見合わせて一本道を進む。

 

 そして俺が最後尾を歩いていると、突然肩を叩かれた。

 

「うわぁ!?」

 

 思わず腰を抜かしてその場に倒れこむ。

 他の皆も驚いて声をあげたり、俺を残して慌てて走り出そうとしたり、色々な反応を見せていたけれど、数秒して誰かが「なんだ、先生か」と安心したように言った。

 

「なんだ、じゃなーい! お前達、消灯時間はとっくに過ぎている上になんでこんなところにいるんだ! 深夜なんだぞ!」

 

 安心したのも束の間。耳がキンとなるほどの怒鳴り声に「先生のほうがうるさいじゃん。深夜だよ?」なんて文句を言う友人の一人。

 

 どっと疲れたような気がして、俺は溜め息を吐く。

 腰を抜かして尻餅までついて情けないったらありはしない。

 皆にからかわれる前にとなんとか立ち上がり、説教をし始めた男性教師に頭を下げる。

 

 ここまでは良かった。

 そう、ここまでは。

 

「で、口笛が聞こえたからここまで来たんすけど」

「口笛ぇ?」

 

 先生が訝しげな顔をしながら俺達を通り過ぎて、一本道の先へ行く。

 

「ほら、行方不明の子がここにいるかもしれないじゃん」

「確かにこんなところは初めて知ったがなあ」

 

 そして、一本道の先。開けているだろうその場所。

 その小部屋に、先生が辿り着いたと思うと真っ青になってこちらを振り向いた。

 

 自然とついて行く形になった俺達は先生が「帰れよ」と制止する前にその光景を見てしまった。

 

 暗い、暗い小部屋の中。ぶわりと鼻につく濃い臭気が漂っている。

 それがなんだか分からなくて、思わず鼻をつまんだ。

 目はとっくに暗闇に慣れて来ていたが、それでもやはりその正体は掴めない。

 俺達は誰にも見つからないようにと明かりを点けずに練り歩いていたわけだが、もう見つかってしまっているしいいだろうと友人の一人がスマホの明かりを点けた。

 

 光が彷徨い、赤い斑点を照らし出す。

 そこには、赤色しかなかった。

 

 赤色の水溜まり。いや、赤黒い水溜りと言えばいいのだろうか。

 一瞬、理解を拒否して思考が曇る。

 

「血だ」

 

 誰かの呟きで、いやが応にもその正体を理解してしまって目を逸らす。

 

「おい、警察を――」

 

 先生が俺達に指示を出そうとして……その言葉を途中で切った。

 いや、その言葉は最後まで紡がれることなく、途切れたというほうが正しいだろう。

 

 ――口笛が、口笛の音がすぐそばで響いた。

 

「ヒッ」

 

 短い悲鳴が反響する。

 ……突然先生の首から上が消え失せて、力なくその場に首なし死体が崩れ落ちる。

 

 ゴリ、ゴリ、グシャリ。クチャクチャ……と、そんな音が口笛のような音と混じって聞こえてくる。

 口笛の音はその場をなにかが浮遊しているかのように近くなったり、遠くなったりしながら響いていた。まるで、先生の死体の上をなにかが円を描くように飛んでいるかのような……そんな音の仕方。

 

 理解できなかった。

 理解したくなかった。

 

 ヒュウと風を切る音がして、先生の死体がなにかに貪られるように少しずつなにもない空間に消えていくのを目撃して、そこでようやく思考停止していた俺達は我に返った。

 

「に、逃げろ! 逃げるんだ!」

 

 誰かが叫んだ。

 

「見えないなんかがいる!」

「おいおいまじでホラーじゃん! 嘘だろやめろよ!」

「大きな声を出すなよ! こっちに来られたらどうすんだ!」

「下土井なんとかしろぉ!」

「無理に決まってんだろ! 無茶振りすんな! 逃げろ、逃げて上に行くんだ!」

 

 グチャグチャと、汚らしく音を立てて咀嚼する音を背にして走り出す。

 段々と、絶えず響いていた口笛の音が遠ざかり……しかし、あと一歩で階段というところで再び音が近づいてくる。

 

「来てる来てる! 早く上に行け!」

「待って転びそう……! 押すなって!」

「早く上がれぇ!」

「せ、先生はどうすんだよ!」

「もう無理に決まってんだろ! とにかく上がって警察を呼ばないと……!」

 

 全員で階段を駆け上がり、背後に迫ってくる口笛の音に戦慄した。

 

「シャッターを下ろせぇ!」

「わ、分かった!」

 

 焦りながら指示をして、ガラガラとシャッターの落ちる音が響く。

 数秒おいて、ドオンとシャッターになにかがぶつかる音がした。

 

「な、なんなんだよ……」

 

 誰かの呟きに、泣きそうになりながら頷いた。

 こうして俺達は命からがら〝見えない化け物〟から逃れることができたのである。

 

 けれど、翌朝先生方に訴えても、旅館の人間に訴えても、信じてくれる人はいなかった。

 

「旅館の人から聞きましたよ。君達がナニカを見た……と。私に詳しいお話を聞かせていただけませんか?」

 

 ――そう、黒い三つ編みの男。ただ一人だけを除いて。

 



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最悪な修学旅行「契約」

「あの、あなたは?」

 

 俺の言葉に、そいつ――黒い三つ編みの人は「くふふ」と怪しく笑った。

 

 このとき、ようやく俺達はこの人物が男性であることを知ったのである。黒く長い髪を三つ編みにしているそこらのモデルも真っ青な美人が、まさか男だとは普通思わないだろう。だから、声を聞いてものすごい衝撃を受けたのだった。そして約数名がガッカリしていた。

 

「私は、この旅館のオーナー……と言えばいいでしょうか。ここの経営者のいわゆる上司ですね。旅行会社ではありますが、複数の旅館を持っていて、ここはそのうちの一つです。視察に来ていたのですが、なにやら物騒な話を小耳に挟んだので、その事実確認をと」

 

 旅館の管理をしている人の更に上司……という認識でいいのだろうか。

 まだ20代だろうに、若社長かなにかか? と俺達は顔を見合わせて考える。

 

 それから、藁にもすがる思いで〝その人〟に事の顛末を話したのだった。

 

「ふむ、なるほど……見えない化け物、ですか。俄かには信じがたい話ですが、興味深いですねぇ。それに口笛のような音、と。今は……聞こえないようですが」

 

 彼は「今は」と言ったあとに耳を澄ませていたようだが、結局なにも聞こえなかったようで、残念そうに首を振る。

 朝になってからは、あのしつこいくらいに聞こえてきていた口笛のような音は聞こえなくなっていたのだ。

 

 昨夜、シャッターを閉めて逃げてから、旅館の人や先生方に報告をして信じてもらえず、そして大人しく俺達は眠りに就くことしかできなかったわけだが……そんな状態で眠れるはずもなく、眠れたとしてもなにかに頭をかじられる悪夢を見る始末。

 当然のことながら俺達は寝不足で、しかし修学旅行の日程はこなさなければならなくて、辟易としながら朝食を食べていたところにこの男性が現れて俺達に問うてきたのである。

 

 前日も朝の時点では口笛の音なんて聞こえなかったし、その前の日だって気にならなかった。

 もしかしたら、夜にならないとあの口笛の音は聞こえてこないのかもしれないと結論づけて、俺達はその事実を彼に話してみることにした。

 

 今のところ、信じてくれている大人は彼だけだったからだ。

 ただ、今思うと直感を信じて話すべきではなかったとしか思えない。なにせ、この人物は今でも俺を苛むドM野郎だったわけだからな。

 

 まあ、その辺の恨み節は置いておいて……このときの俺達はこの人のことを信じきっていたんだ。仕方ない。昨夜見たことを誰にも信じてもらえなかったから、不安で縋りたくなってしまったんだ。

 

「なるほど、夜にしか……それなら、今は安全かもしれませんよね。私が許可を取りますから、その場所に行ってみましょうか」

「えっ」

「マジで言ってるんすか?」

 

 そりゃそうだろう。あんな恐怖体験をしたところに好き好んで行こうとするやつは誰もいない。

 しかし、事実確認のためにも行ってみないことには始まらないのだ。

 警察はなにも調べずに行方不明扱いで旅館周辺を捜索をしているだけ。

 俺達以外の生徒の間では、どちらも歓楽街に行って夜明かしでもしていたんだろうなんて噂がまことしやかに囁かれている。だからそのうち帰ってくるだろうと。

 

 実際にはどちらも死体になっているのに。

 ……いや、ただの血溜まりしか残っていないのに、が正しいか。

 

 昼間に行って無事に済む保証はどこにもない。

 しかし、確認しないといつまで経っても事件は解決しないままだ。

 

「……俺は、見にいくだけなら付き合います」

「お、おい下土井マジで言ってんの?」

「マジだよマジ。そうでもしないと怖いし。もし、昨日みたいにシャッターが開きっぱなしで、俺らが寝ている間にあの見えない化け物が出てきたらどうするんだ? 行って確かめないと」

 

 ほんのちょっとした正義感。それを胸に、黒い三つ編みの男と共に地下を確認しに行くことを決意したのだ。

 そして、俺の言葉を受けて少々調子に乗りやすく、そして流されやすい仲間達が「それなら」と頷いていく。皆、実に単純なやつらだった。

 

「俺らがヒーローになれるかな?」

「証拠がないと信じてもらえないんだし、現場を確認するくらいはしないとダメだよな。うん」

「そもそも俺達が見た集団悪夢だって可能性も残っているわけだし、確認はしないと」

「でも、もし万が一化け物がいたらどうするんだ?」

「見えないんだから口笛が聞こえない限りいるのかも分かんないな」

「でも、移動してるときにあの口笛っぽい音が鳴るなら、それが鳴ってない間は安全ってことじゃね?」

「お前天才かよ!」

 

 そんな風に盛り上がりつつ、俺達は乗り気になるのであった。

 実に単純な学生である。

 

「この旅館で不祥事が起きたとなれば私も困りますし、協力しますよ。それと、もし本当にそんな怪物がいるのなら、退治してくだされば報奨金も出しましょうか……勇敢な〝探索者〟へのご褒美ですよ」

 

 黒い三つ編みの男が言う。

 条件がついて一気に胡散臭くなったが、それでも男子高校生にとってお金の話は魅力的だった。皆それぞれバイトはしていたが、小遣いが増えるとなればやる気も増すというものである。

 たとえそこに命がかかっていたとしても、なんとなく皆まだ、ゲーム感覚だったのかもしれない。

 人の死を見て24時間も経っていないというのに、我ながら随分と図太い神経をしていたな。

 

 ただ、恐らく普段の俺達ならこんな話を受けようとは思わなかったはずだ。

 なぜだか、そいつに話を提案されていると、「受けなければ」という気持ちが緩やかに働いて、断るという選択肢が思考から除外されていたように思う。

 

 それこそがやつの狙いだと、ただの学生だった俺達には分からなかったのだ。

 

「君達はこの修学旅行が終わるまでに化け物を退治してください。そうすれば私から報奨金を出します。今から検証に向かいます。私から、君達は精神的な不安で休みが必要だと進言しておきましょう。そうすれば、自由に動けますよ」

「ありがとうございます」

 

 旅行は楽しみにしていたが、こうなってしまうと昼間に遊び回れるような気持ちではなくなってしまったし、日程を休めるのは願ったり叶ったりである。

 

「ああ、そうだ。自己紹介がまだでしたね。私は、神内(じんない)千夜(せんや)。くふふ、契約成立ですよ。よろしくお願いしますね、小さな勇者達」

 

 そうして、神内は嘲笑(わら)って手を差し伸べ――俺達は、その裏側の思惑に気がつくことなく、手を取った。

 

 



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最悪な修学旅行「反発精神」

 他の生徒が全員旅館の外へ出かけている間。

 俺達は具合を悪くしていたという手前で篭っていた、それぞれの部屋からそっと抜け出した。

 といっても、友人の一人以外は皆俺と同じ部屋で寝泊まりしているわけなのだが。

 

 俺を含めた五人と、外で偶然会ったまま現場に一緒に行った一人。計六人で旅館内を巡る。先生方は数人残っているが、昨夜忍び歩きで隠れながら現場まで辿り着いた俺達にとっては、居場所がある程度割れているだけあって問題にはならない。

 

「俺らもう、かくれんぼ最強じゃね?」

「泥棒みたいなスキルばっか磨かれるな」

「あんま大きい声出すなよ、バレるだろ」

「あ、そうだった。俺らは今寝てまーす」

「……」

「どーしたー、下土井ー?」

 

 視線が吸い込まれるように、とある部屋へ向いてしまう。

 昨夜隠れた、妙に心惹かれる刀剣のある部屋だ。

 

「いや、なんでもないよ」

 

 答えて、止めた足を再び動かして皆についていく。

 武器になるかもしれないし、一応覚えておこうとは思うが……使わないならそれに越したことはない。それにあれ、この旅館の美術品なんだろうし……化け物相手に使ったらどれだけ弁償させられるか分かったもんじゃない。

 

「あの刀がほしいわけ?」

「いや、なんとなく気になっただけでさ」

「無理無理、俺らの小遣いじゃ土産物屋の木刀が精々だって!」

「いやだから、買いたいわけではないし」

 

 否定しながら歩む。

 ものすごく心惹かれるのは確かな事実だが、その理由が俺は分からなかった。剣道はやっているものの、別に刀剣類が大好きでファンってわけでもないし、俺が知ってる刀なんてたまに聞く菊一文字とか妖刀村正くらいで特に興味が強く惹かれているわけでもない。

 ただなんとなく、野球やサッカーはそんなに得意でなくて、身長が高いからバスケには誘われるが、それも飽きていて……それで剣道を始めただけだったのだから。

 あと、剣道男子はモテるかも……なんて下心もあったりしたくらい。

 現実? 俺に彼女がいない時点で分かるだろ。

 

「ここ、だよな」

 

 友人の一人が言う。

 昨夜のことも全員で見た夢か幻だったら一番良かったのだが、残念ながら記憶通りの場所にその渡り廊下はあった。

 

「お待ちしていましたよ。ここのことですよね?」

 

 そして、そこで待っていたのは神内千夜。

 約束通り、一緒にこの場所の地下を見てくれるということだろう。

 一見すると女のようにも見える神内に、友人の一人が喉を鳴らした。あれが男じゃなくて、更に場所が町の駅とか公園だったら彼女のいない俺達にとっては理想のシチュエーションかもしれないが、現実は非情である。

 

「この、下です。あの、本当に行くんですか?」

「ここまで来ておいて、まさか引き返すのですか? 男の子でしょう?」

 

 まるで嘲笑うような言い方に、俺はムッとして友人を庇う。

 

「俺達は、目の前で死ぬ人を見たんですよ? 普通の人間なら怖気付きます。信じてくれたのは嬉しいですけれどね、こっちは真剣なんです。面白半分に首を突っ込んでいるあなたとはわけが違う」

 

 こんなことを言えばもしかしたら俺達に協力するのをやめてしまうかもしれないのに、淡々と俺は言いきった。

 

「くふふふふふ」

「なんだよ」

 

 妙にイラつく笑い方だなと内心で呟きつつも、俺は口を閉じる。

 いくら協力してくれているからといって、俺の仲間を嘲笑うなんてことは許さなかった。

 

「あちゃ、下土井またやってるよ」

「正義厨だよなあ」

「庇ってやってるのに随分と酷くないか……?」

「褒め言葉だよ褒め言葉!」

「そうそう、よくやるよなあ」

 

 絶対褒めてないだろ! 

 友人とはいったい……。

 

「いえ、これは失礼しましたね。訂正しましょう。逃げるのならご勝手に。私もこれから死体を見るかもしれないのです。覚悟くらいはしておきますよ」

「言い方ってもんが……!」

「ま、まあまあ。いいじゃん。どっちにしろ俺らも怖いのは事実だし」

 

 丁寧な言葉に見せかけてとんでもなくこちらを見下してくる神内千夜。

 どうしても反発してしまう気持ちを抑えきれずに荒い言葉を吐き、仲間に(たしな)められてしまう。

 

 あー、ダメだな。これではまたキレやすい若者と言われてしまいかねない。

 しかし、どうしてもこいつにだけはへりくだりたくない自分がいた。

 普段教師になにか言われても、どうにか我慢できるようになったというのにこれじゃあ台無しだ。

 

「……」

「くふふ、そんなに怖い目で睨まないでください」

「ほ、ほら下土井。行くんだろ? 庇ってくれてありがとな」

「……ごめん」

「謝んなよ。気持ちは嬉しかったからさ」

「ああ、うん。はあ、俺のこの癖、なんとかならないかなあ」

「結構猪突猛進だよな」

 

 半笑いでそう言ってくる友人に「それだよ、それ」と返す。

 学生時代の俺はわりとやさぐれていたというか、嫌なことがあるとよく反発していた。

 今では考えられない? ちょっと許容量が増えて言葉を考えるようになっただけであんまり変わってないぞ。あと、そういうところを見せてないだけだ。

 

 ……紅子さんにそんなみっともないところを見せられるわけないだろ。

 

 

 と、まあこうして俺は、神内にかなり思うところがありつつも一応のところ信用して、一緒に地下室へと向かったのだった。

 

 



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最悪な修学旅行「昼間の地下室」

 渡り廊下を進み、屋根の下にある地下室の入り口を見つめる。

 今はシャッターが閉められたそこは、まるで昨日のことがなかったかのようにヘコみすらなく、ただただそこにあった。

 

「あ、開けるぞ」

「おう」

 

 一人が操作盤を動かし、シャッターを開ける。

 閉まるときとは違い、ゆっくりと開いていくそれを緊張した面持ちで見つめていると、機械的な音を立ててシャッターが開ききる。

 

 ごう、と風が地下に向かって入り込んでいく。

 それと同時に地下室特有の湿った臭いと、それに混じった鉄のような……血の臭いが広がった。半日経って蒸れたような、そんな凝縮された臭いに俺達は思わず仰け反り、鼻をそれぞれの袖で覆った。

 

 けれども、口笛の音はやはり……聞こえない。

 

「……はあ」

 

 詰めていた息を吐く。

 しかしあまりに大きく呼吸をすると、濃い血の臭いで頭がどうにかなりそうだった。

 

「酷い臭いですね……」

「そうっすね」

 

 投げやりに返事をして、ギョッとする。

 ハンカチで鼻を押さえている神内千夜は眉を顰めていながら、どこか薄っすらと笑うように目元を歪ませていた。その頬に朱が乗っている錯覚すら覚えるほどのその様子に、俺は薄気味悪くなってすぐに目を逸らす。

 見てはいけないものを見てしまった気分になって、そして血の臭気と合わせて気持ち悪くなってきてしまったからだ。

 

 ここまで酷い拒否反応が出るなんて、俺はこの人のことが嫌いなのか……? と疑問になって自問自答する。

 ……正解は「生理的に無理」だった。他人に抱く印象としては最悪な部類である。初対面なのにここまで嫌いになるのも珍しかった。

 

 もしかしたらこの時点で既に、霊的な感覚でろくでもない奴だと認識していたのかもしれないな。なんせ邪神だし。

 

「じ、神内さん。大人なんだし前行ってくださいよ」

「ええ、構いませんよ」

 

 友人の一人に言われ、神内千夜が階段を降りて行く。

 それから俺達は、足取りを重くしながらゆっくりと降りていこうとしたのだが……一度立ち止まり、一番怯えていた二人の名前を呼ぶ。

 

「な、なんだ?」

「二人とも、上に残っていてくれ。間違ってシャッターを閉められたらたまったものじゃないし、昨日みたいになんかあったとき、万が一のときは残って待機していた誰かがこのシャッターを閉める必要がある」

 

 昨日みたいにギリギリになるのは避けたい。

 それと、俺達が全員中に入ってから、旅館の人がここに来てシャッターを閉めてしまうかもしれない。中からはシャッターを開けられないので、それだけは避けたかった。

 

「マジかよ……いや、確かにそうだけどさあ」

「だから二人を指定してんだろ。二人ならサボれないだろうし」

「そんなこと言って、俺ら二人ともサボったらどうするんだよ」

「そこはそれ。信頼してるからな」

「恥ずかしげもなくよく言うぜ」

 

 それに、一人だと裏切って俺達を閉じ込める可能性がなくもないが、二人ならなんとかなるだろうという打算も含めている。恐らくオカルトみたいなものが関わっているようだし、そうなってくると怖いのは入れ替わりとか、誰かが乗っ取られてるとか……そういう王道パターンだよな。

 そんな漫画みたいなことあるわけないとは頭の片隅で思いつつも、念には念を入れておく。

 

「分かった分かった。だから早く帰って来いよ」

「ああ、なるべく早く帰れるようにする。さっと見て、戻ってくるよ」

 

 そうして地下室への歩みを再開した。

 長い一本道の廊下を歩き、ひらけた場所へ。

 

 そこには……やはりというか、血溜まりだけが残されていた。

 二箇所ある血溜まりを見て、神内千夜が「これはこれは」と呟く。

 

 昨日死体を見て知っていた俺達でさえまだ慣れず、吐き気を覚えるというのに。なのにこの人は平然としているどころか、笑みさえ浮かべている。

 その異様さに、俺はそっと距離を置いた。

 

「今は使っていないようですが、倉庫なのでしょうね。古い寝具に、道具。少々荒れていますし、こうして……血溜まりが放置されていますから、きっと管理も良くて数日に一度。悪くて週に一度くらいしか人の手が入っていないのでしょうね。これはトップとして、見過ごせません」

 

 なるほど、最もな評価である。

 ちゃんと会社のトップらしいこともできるんだな。そこはちょっとだけ認めようと思えた。

 

「観察眼は鍛えて損はありませんよ」

 

 笑み。

 その、向けられる笑顔から逃げたくて、俺は目を逸らした。

 それから、部屋の奥へと集中する。感覚を研ぎ澄ませる。なにかを見つけようと、辺りを見渡す。きっと、なにかがあるはずだと。

 

「……そこ、そこのでっかい掛け軸。今、動いたか?」

 

 俺は、自分で言った言葉にゾッとした。

 口笛の音は相変わらず聞こえない。しかし、警戒しながらその掛け軸に近寄って行き……そっと捲る。

 

「……壁に、穴が」

「うわ、まじかよ」

 

 掛け軸と言っても横幅もある大きなものが3枚、並べられていた。

 そこを捲って見つけたのがこの、大きな壁の割れ目である。壁が崩れてできたようなその割れ目からはほんの少しだけ風が吹いてくる。

 そして、本当に微かだが、口笛の音が反響してここまで届いて来ていた。

 

「……更に地下に、繋がっている?」

 

 地震で崩れたのだろうか。

 そうして、こんなにも大きな穴ができてしまったのだろうか。

 化け物は、ここからやってくるのか? 

 

 血溜まりを見ても未だに信じきれずにいた心が、やはり夢なんかじゃなかったんだと告げている。現実逃避をしたかったが、穴から微かに聞こえてくるその口笛の音が、俺に目を逸らさせないように現実を突きつけてくる。

 

「なるほど、この音ですか」

「は、はい」

「ここからその化け物とやらが来るのなら、ひとまずはシャッターを閉めておけば問題はありませんね。しかし、見えないんでしたっけ」

「ええ」

 

 神内千夜は考え込むようにしていたが、やがて首を振った。

 

「契約したことの条件は変わりません。もし、あなた達が修学旅行から帰るまでにこの件を解決できたら報酬を与えましょう。私は一応これでもトップですから、直接対峙することはできません。いいですね?」

「お前、逃げるのか……?」

 

 思わず怒りの声が漏れた。

 

「お、おい下土井」

 

 肩を掴まれる。それでいくらか冷静になって、溜め息を吐いた。

 

「私は変えの効かない者でして。上の者が行方不明になるわけにはいきませんからねぇ。解決しなくても別に構いませんよ? 別の者を寄越すだけですから」

「……」

 

 普通に考えれば、ここは引き下がるべきだ。

 分かっている。そんなこと、分かっている。それに、奴の言うことも最もではあった。

 

「……一旦出ましょうか」

 

 無言のまま、俺は納得しきらずに地下室を後にするのだった。

 



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最悪な修学旅行「作戦会議」

「それで、だ。本当に、やるんだな?」

 

 地下室から出た後、俺達は一つの部屋に集まって話し合っていた。

 いくら正義感が働いているとはいえ、危険に飛び込むことになるのである。

 普通なら身を引くものだろう。

 けれど、全員怯えつつもその瞳に浮かべるのは「好奇心」という知識欲であった。それは俺も変わらない。

 

 怖い。けれど、このままわけもわからぬままに放置するのはもっと怖いのだ。自分の知らないうちにあの化け物か旅館内を浮遊し、パニックホラー(さなが)らの光景が広がることになるかもしれない。知らぬ間に俺達の部屋に来て、いきなりばっくりと頭から食われてしまうかもしれない。

 

 ……そう思うと怖くて仕方がなかった。

 

 だから、自分達の安全を明確にするためにも、化け物を退治しなければならない。そうでなければならない。

 

「で、でもどうするんだ? 相手は見えないんだろ」

「音でなんとか場所は分かるんじゃね?」

「耳元で聞こえたときにはもう頭と胴体がオサラバしてるっつーの!」

 

 それもそうだ。

 

「な、なら見えるようにする……?」

「方法は?」

「それが分かんないから聞いてるんじゃないか!」

 

 

 冷静に一人が返し、見えるようにすると言った一人が激昂する。そりゃ、そんな切り替えしかたされたらキレたくもなるよな。

 

「そもそも見えたとしても、それでなんだって言うんだよ。幽霊みたいなもんなら俺らが倒そうとしたって通じないんじゃないのか……? もう、どうしようもないんじゃ」

「そう悲観するなよ。俺達しかこれを知らないんだ。俺達じゃないと、他のやつらを助けられないだろ」

 

 ネガティブな方向へと流されていくクラスメイトを俺がそう言って諭すと、またもや皆に「出たよ正義厨」とツッコミを入れられる。

 いいだろそれぐらい。実際、怖いから立ち向かうなんて矛盾したことをやろうとしているんだ。多少それにまともな理由を求めてもいいだろうに。

 

「で、どうする」

 

 堂々巡りだった。

 

「待て待て。ひとまず化け物を退治する方法は置いといて、状況の整理から始めよう」

 

 声をあげて、議題を決める。

 できもしないことや、明確に分かっているわけではないことを考え続けても無意味だ。それなら、なにか糸口を掴めないか、ときには周りから攻めることも大事なのだと思う。

 

「状況の整理って言われてもさあ」

「お前ら文句ばっかりだな? いいから話を聞け」

 

 我が友人ながら文句ばかりである。頑張って対策を立てようとしているのは自分だけなんじゃないかとか、こいつらに頼ってもしょうがないんじゃないかとか、そんな独り善がりの思考が脳裏を掠める。

 

 しかしそれを振り払って俺は話し合いを続行した。

 

「まず最初に、あの化け物は飛んでいると思われる。足音がないのに口笛の音が動くからだ。もしかしたら、ものすごく足音が小さいだけという可能性もあるにはあるが、十中八九飛行しているだろう。信じられないが……」

「飛んでる化け物ってだけでもうヤバイよな」

「口笛の音は? 結局あれはなんなんだよ」

 

 少し考えて、口にする。

 

「飛んでるときの……風を切る音がそう聞こえる……とか?」

「なんだよ、はっきりしないなあ」

「そう言うんならお前も考えろよ」

「そういうのはなあ、ネットで調べるのに限るって」

「ネットて……」

「オカルトもんはネットにあるだろ。多分」

 

 言いながら、友人の一人がスマホで検索し始める。

 まあこいつは放置して、あとはなんだろうか。

 

「明らかな肉食だよなあ」

「二人も食われてるわけだし、そうだろ」

「あとはー、そうだな。あの地下室にあったものとか思い出せるか?」

 

 最終決戦があそこになるのなら、少しでも有利になるようなものがないか把握しておく必要があるからな。生憎、俺は掛け軸とその裏の穴にかかりきりで正直周りを十分見れていたとは言えない。

 だからこそ、こいつらに訊いてみたわけだが……。

 

「神内さんが言ってただろ。古い倉庫で、寝具とか棚とか、要らなくなったものがまとめてあったっぽいって。あと懐中電灯とか?」

「あの中スッカスカだったもんなあー」

 

 それもそうか。

 

「なあなあ、それならこんなのはどうよ。あの部屋に火を放って部屋ごと化け物を蒸し焼きに……」

「いやいやいや」

 

 先生、ここに放火魔がいます。

 

「さすがにそれはまずいって」

「それならまだ、下土井が床の間の刀取ってきて斬りつけるほうが現実的だろ」

「えー、いい考えだと思ったんだけどなあ」

 

 物騒すぎる。

 あと、旅館の美術品をそう簡単に使えるかよ。弁償が怖いわ。

 

「そもそもの話あの割れ目から化け物が来てるんなら、放火してもそっちに逃げるだけで倒せないだろ」

「それもそうか」

「そうそう、それに蒸し焼きにするどころかスプリンクラーが無駄に起動するだけで終わりそうだし」

 

 火事になったら大変だし、普通はあるよな。スプリンクラー。

 ……まてよ? 

 

「そうか、そうだよ。その手があったか!」

「え、なんだよ下土井。放火はだめだぞ?」

「いやそれは分かってるけど」

 

 見えない相手なら、見えるようにすればいい。

 それが真理だ。当たり前だよな、でもその方法が問題だった。

 しかし、今その答えが見えた気がした。

 

「神内さんか旅館の人に、貯水槽がどこにあるか訊こう。もし、スプリンクラー用の貯水槽があれば万々歳。なければ、ペンキを探すんだ」

 

 浮遊し、見えないとはいえ相手は人間をバリボリ頭から食っている。

 つまりそれは、実体があるということだ。

 

 それならば、スプリンクラーを利用すればある程度の位置が〝視える〟はずだ。不自然に水滴が弾かれる場所。そこに口笛の主がいるはず。

 そして、そのスプリンクラーの水に色をつけられたのならもっと最適だ。透明な水よりも、居場所が分かりやすくなる。

 けれど、飲み水と併用してスプリンクラー用の水が調達されているならこの作戦は使えない。だからこそのペンキだ。

 

 スプリンクラーである程度の場所を特定し、ペンキをぶちまけて見えない化け物にかかれば、その位置は完全にこちらにも知れるようになる! 

 まあ、これは化け物に質量があるという前提が必要になるわけだが。そういう細かいところは後にして、現状一番現実的なこの対抗策で行くしかない。

 

「なるほど」

「とりあえず、旅館の人に聞きに行くぞ!」

「俺はもう少し調べ物しとくよ」

「いや、待て。もうすぐ昼じゃないか?」

「そういえばそうか」

 

 地下室に行って、それから話し合っているうちに随分と時間が経っていたようだ。

 しかしそのおかげで攻略の糸口は掴めた。

 あとは準備をして……実行するだけである。



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最悪な修学旅行「化け物の正体」

 作戦会議を終えると、ちょうど昼時になっていた。

 

「先日よりお出での神内様から追加料金をいただいておりますので、お昼はお作りいたします。こちらで召し上がりますか? それとも食堂のほうで……」

 

 部屋にやってきた女将さんに驚いて思わず誰かが声をあげてしまったが、さすが客の対応に慣れているのか、女将さんは気にせず用件を伝えてくる。

 この旅館は……というよりほとんどの旅館は朝夕の食事がついていても、昼の食事はサービスにつかないことの方が多い。

 しかし俺達は体調不良という理由で旅館内に留まっていたので、昼が必要になる。先生方からの差し入れでもあるかと思っていたが、どうやら神内千夜からの計らいで旅館側に昼を作ってもらえることになったらしい。

 

「あ、あの……」

「どういたしましたか?」

 

 女将さんが去る前に声をかける。

 

「ここって貯水タンクとか、あるんでしょうか? えっと、先生から、外に行けないなら旅館の歴史について調べなさいって、課題が出されているんです」

 

 咄嗟について出た嘘としては、多分上出来だったと思う。

 実際に、先生方から後でなんらかの課題が出されることは分かりきっていた。学校というのはそういうものである。

 

「貯水タンク……ですか。あとで旅館の詳細な地図をお持ちいたしましょうか」

「それと、旅館の歴史が分かるようなものがあれば……」

「かしこまりました」

 

 わりと無茶を言っているのは分かっているが、女将さんは疑問を飲み込んで納得してくれたようだった。

 これで恐らく、求めていた情報は手に入るだろう。

 実際に見に行くのはお昼の後にするとして……今は部屋で少し考えることにしようかな。

 

「あ、それと」

「はい?」

 

 女将さんが部屋から去る前に声をかける。

 

「神内さんってどこに泊まっているか分かりますか? お礼を言いたくて」

「神内千夜様なら、二日前より千寿菊の間に宿泊されております。地図をご参考にしてくださいませ」

「ありがとうございます」

 

 頭を下げて女将さんが去っていく。

 これで一応あの人の居場所も分かったことだし、人の足音も遠ざかっていったので、聞かれたくない話もまだできる。

 しばらく昼飯が来るまで暇になってしまったし、かといって外に出るほどの時間はないだろうから、まだ話し合いを続けよう。

 

「それでさ、もし工夫して見えるようになったとして、化け物相手に武器って通じると思うか?」

「やってみないと結論なんて出ないだろ。つーか、下土井がやろうって言ってんのに、蒸し返すなよ」

「いやまあ、そうなんだけどさ」

 

 返す言葉もない。

 

「でも、素手でなんかやろうとするのはやっぱり危ないし、武器は探しておかないと」

「下土井はあの刀で決定だろー。俺らを守って! れーいちくん!」

 

 ふざけたように言う友人に、苦笑いをして言う。

 

「分かった。分かったから。やればいいんだろやれば。実行するときは持っていくよ」

「ひゅう! 格好いい! 頑張れ剣道部!」

「うるせー、期待すんな」

 

 俺を茶化すなんて余裕が出てきたことに、ほんの少しだけ安心する。

 緊張しっぱなしも、恐怖で固まりっぱなしになるのも、よくはないからな。

 

「まあ、でも、武器は探しとかないとなあ」

「厨房に入り込んで包丁とか?」

「ばっか、お前そんな短い刃物で例の奴とやりあうのを想像しろよ」

 

 包丁で、と言った友人が顔をさっと青ざめさせる。

 リーチの短い武器で得体の知れない化け物を相手にするなんて自殺行為だからな。本来なら、接近することすら危険かも知れないし、どれくらいの大きさがあるかも分からないのに。

 あの地下室にあった穴の大きさからすると、そんなに全長は大きくないかもしれないが……それでも人間よりは絶対にでかいだろうし。

 

「あっ」

 

 そうやって俺達が化け物について話し合っていると、先程の作戦会議のときからなにやらネットで調べていた友人が声をあげた。

 

「どうした? なんか分かったか?」

 

 化け物のことなんてとてもネットに載っているとは思えなかったが、この様子だと調べることができたのだろうか? 

 

「えっと、お前らってさ、神話とか興味ある?」

「なんだその言い方。正直言って、神話とかどうでもいいけれど……もしかして例の化け物が神話に出てくる神様だったりすんの?」

 

 もしそうなら、とんだ醜い神様がいるもんだ。

 不信心者の俺はそんなことを思いながら質問した。

 

「クトゥルフ神話って、知ってるか?」

「知らねー」

 

 次々と知らないという声があがる。

 そりゃそうだろ。そんなものに興味はないし、知っているとしても、アニメや漫画によく出てくるギリシャ神話とか北欧神話をほんの少しだけの偏った知識がある程度だ。ケルベロスとか、フェンリルとか、魔神ロキとかそういうのだけ。そんな神話の名前は聞いたこともなかった。

 

「なんか、昔人が作った創作神話らしいんだけど……」

「創作? 創作ってことはただの物語だよね。それがなんだよー」

 

 気の早い奴が結論を急がせる。

 しかしスマホで調べ物をしていた友人は勿体つけるように……いや、勿体つけるというよりも、心の中で整理しながら話していると言ったほうが正しいかもしれない。多分本人もまだ、納得していないんだろう。

 

「それがさあ、口笛の音と見えない化け物ってキーワードで探すとヒットするのが、その神話の化け物だけでさあ」

「いや、でも創作じゃん」

 

 昼飯がまだでイラついているのだろう。別の友人が切って捨てるように言う。

 

「そ、そうだよなあ」

 

 その言葉に、調べていた友人が押し切られそうになっていたため、一応興味が湧いた俺はフォローに回ることにした。

 

「まあまあ、名前を聞くくらいはいいだろ。で、その化け物に名前はあるのか?」

「名前って言っていいのかな。一応、呼び名みたいなのはあるみたいだけど」

「へえ、なんて名前なんだ?」

「名前って言っていいのかなあ……」

 

 そいつは悩みつつも、しかしその言葉を口にした。

 

「飛行するポリプ、だってさ」

 

 一瞬、意味が分からなかった。

 名前が出ると思っていたのに、出てきた言葉は到底名前とは思えないものだったからだ。

 

「ポリプってなんだっけ?」

「腫瘍?」

「いや、それはポリープだろ。発音が違う」

「待って調べる」

 

 友人は再びスマホに視線を落とし、それから数分で答えを口に出す。

 

「なんか……円筒形状のイソギンチャクみたいな、触手があって岩とかにくっついてるやつの形のこと……? らしいぞ」

「……ってことは、それが空飛んでるってことだよな」

「そうなるな」

 

 想像してみても、うねうねしたイソギンチャクが空を飛んでいる場面しか思い浮かばなかった。思っていたよりも気持ち悪くてシュールだ。

 

「本当にそいつなんだな?」

「ああ、口笛みたいな音の声、不可視で、しかも地下に住んでいるって共通点があった。それに似たような話の怪物なんて他になかったし」

「そいつが実際にいる……と」

 

 あまり実感が湧かない。直接その姿を目で見たわけではないからかもしれない。その気持ち悪い姿を実際に見たら、もう少し実感も持てたのだろうが、目の前で死人が出たとはいえ見えていたわけではないから、いくら想像してもシュールで滑稽な想像しかできなかった。

 

「失礼します」

 

 襖の向こうから声がかかり、ゆっくりと開く。

 

「お昼をお持ちしました」

「ありがとうございます」

 

 化け物の正体は知ることができたが、それはそれとして……まずは昼飯だ。

 腹が減っては戦ができぬ。動く前に、ちゃんと食べておかなければならない。

 

 そうして俺達は、いったん話を中断して旅館の昼飯を堪能するのであった。



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最悪な修学旅行「武器の調達」

 昼飯を食べ終え、食器を下げてもらった俺達は行動を開始した。

 昼飯と一緒に持ってきてもらった旅館の詳細な地図を片手に、友人の一人がナビゲートしながら貯水タンクを目指す。

 

 できればスプリンクラーの水は旅館内の水道とはまた別であってほしいのだが……見てみないと分からないよな。

 水に色をつけてスプリンクラーを起動すれば、より見えない化け物が見えやすくなるだろうという魂胆と作戦。成功すれば化け物退治も現実的になるだろう。

 

 まあこの化け物にちゃんと質量があれば……の話だが。そもそも、この作戦は水を相手が幽霊みたいにすり抜けないことを前提にしているのだし、それのアテが外れたら俺達は一気にゲームオーバーになってしまう。

 だがこの作戦が一番現実的なのも確かだ。他に見えない化け物を相手にどうしろっていうんだ。

 

「なあなあ、ガスバーナーとスプレー缶で火炎放射器作るのは?」

「危ないからやめろ」

「でも、スプリンクラー起動するのに熱源か煙が必要なんじゃ?」

「……」

 

 不本意だがそれもそうだった。

 

「スプリンクラー起動するときだけ使えよ」

「はーい、下土井せんせー」

「お前なあ……」

 

 ふざける余裕が出てきたのはいいことなのか、悪いことなのか……いいことだと思っておこう。

 あんまりからかわれるのは好きじゃないんだけれども。

 

「なあ、下土井はあの刀使うのか?」

「……どうしようかなあ」

 

 ここは京都だ。外に出て、土産物屋にでも行けばきっと木刀くらいは余裕で買えるだろう。もしくは、外に出ている他の友人が木刀を買ってきたときにでも借り受けるとか、そういうこともできる。

 しかし、ただの木刀が化け物相手に効くとも考えづらい。やはり相手が未知数なだけに、刃物は欲しかった。

 

「夜、地下に行くときに一緒に借りていくよ」

「ええー、今すぐ借りてこいよ。郷土資料だって言えば見せてくれるんじゃないか?」

「刀だぞ? そんなに軽々しく貸してくれるわけないだろ。それに、あれはよく切れるし、本物の刃物をいち学生に渡すわけないだろ」

「あー、それもそうか」

 

 学生なんかに渡して事件でも起こされたら、旅館側もたまったものではないだろう。そんな危ない橋を渡るわけがない。だから借りるとするならば、使う直前。今夜、化け物退治に赴くときだ。

 まあ、無人の部屋に飾り付けて放置するような旅館だから、貸してくれる可能性もなくはないが、念のためだな。

 

「タイムリミットもあるわけだし、今夜中に片をつけないと……」

「タイムリミット?」

「いや、だって明日の夜になる頃は俺ら帰ることになるし」

「あー、そっか。なら本当に今夜までに化け物退治しないといけないのか……」

 

 そういうことである。

 

「でもさあ、あんな大穴空いててよく気がつかなかったなあ」

「……たしかに」

 

 普通は気がつく。というより、気がついていて、修繕が面倒だから掛け軸でカモフラージュしているみたいな有様であった。

 

「そういや、ここに来て初日は特に口笛がーって話なんてなかったし、いつからあの化け物が出てきていたんだろうな」

 

 ふとした疑問を呟くように、友人が言った言葉に顔を向ける。

 そういえば、不思議な話だ。俺達がここに泊まり始めた初日は特にそんな騒動はなかった。2日目の夜に男子生徒が一人消え、そして昨日先生が一人殺された。

 

「地下室にあった血の染みは二人分だけ……だよな?」

「俺らの見間違えじゃなきゃそうだろうな」

 

 犠牲になったのは二人だけという事実。

 そして今朝神内さんが言っていた言葉を加味すると、旅館の従業員は数日に一度、もしくは週に一度程度の頻度で地下室を掃除しているだろうことが伺える。

 従業員に犠牲が出ておらず、犠牲が出たのが男子生徒と先生だけとなると、あの化け物も二日前に始めて現れたこととなるのだろうか。

 

 男子生徒は、あいつは気になるからと言って自分から調べに行った可能性が高いし、まあ納得ではある。自分から餌になりに行くようなものだったわけだ……そして。

 

「なんかでっかい武器になるものがあればいいんだけどな」

 

 そこまで考えてから、思考を中断する。

 周囲が緊張とは無縁な雰囲気でいるから、真面目に考えるのがバカらしくなってきたのだ。

 

「丸太はいいぞ」

「あれができんのは漫画の世界だけだ馬鹿」

「分かってるよ。今が言うチャンスって思っただけだって!」

 

 改めて言うが、ふざけている余裕があるならまあ大丈夫なんだろう。

 俺も大概だが、こいつらもわりと精神的に強いよなあ。

 

「棍棒みたいな、無難に長くて扱いやすいのを探すとかは?」

「あるかなあ、そんなの」

「文句ばっか言ってないでお前もなんか意見を言えよ意見を!」

「そういうの苦手だよねー」

「なら文句を言うな!」

 

 若干険悪になってきたところで待ったをかける。

 地図の通りに、貯水タンクのある場所に到着したのだ。

 

「ほうほう、スプリンクラーの水と旅館内の水は一緒だな。まあ、普通は分けたりしないか」

 

 ちょっと残念に思いながら、一応建前として写真を撮っておく。

 旅館の歴史の記録を課題に出されていると嘘をついてしまったから、その証拠にするのだ。

 

 これで水に色をつける作戦はできなくなったが、あとはペンキという選択肢が残っているのでそちらに期待することにしよう。

 

「そうだ、あの穴って人一人は普通に入れる大きさだったよな。あの奥って行くの?」

 

 一人が言った言葉に、全員が嫌そうな顔をした。

 俺も例外なくそんな顔をしたに違いない。そいつは「そんな一斉に顔を(しか)めなくてもいいじゃん」と不満そうに声をあげ、「まあ、そうだよなあー」と納得した。

 

「だって、あの先に行くとか自殺しに行くようなものでしょ」

「そうそう、飛行するポリプだっけ? こっちに出てきたそいつを一匹殺せば終わるんだし、それだけでも命がけなのに敵地に踏み込むとかそんなことしないって!」

「だよなあ」

 

 なんだろう、この不安は。

 完全に同意しかないというのに、なぜか俺はその会話に不安を感じていた。

 しかし、そのモヤモヤの正体が分からず、言葉も出ない。

 そうこうしているうちに、皆の話はどの女将さんに話を訊くかどうかになっていた。できるだけ若くて美人なお姉さんに話しかけたいらしい。こいつらはまったく……しかしまあ、それにも俺は同意なのでなにも言えないんだが。

 

 そして俺達は仕事中の女将さんにペンキがあるかどうかを聞き込み、無事ペンキの調達をすることができた。

 胸元にぶら下げて使うタイプの懐中電灯も人数分手に入れて、地下室の暗闇でもこれでバッチリだ。もしかしたら懐中電灯のせいで化け物に居場所が割れたりするかもしれないが、そのときはそのときだろう。

 

 あの地下室の頼りない蛍光灯では心許ないし、ペンキをぶっかけても見えないんじゃ意味がないからな。

 

 それから、別の倉庫にあったクワ、スコップ、角材など各自使いやすい物を発見して場所を覚え、夜に回収する手筈となる。

 

 俺はあの刀を使うことになっているから夕方になる前に一度皆と別れ、一人だけであの部屋にやってきた。

 

「やっぱり、綺麗だな」

 

 やはり誰にも見つからず、刀を手に持つ。

 すらりと抜きはなってみれば、白刃が煌めくように光を反射する。

 見れば見るほど薄く美しい刀身に、刀に興味のない俺も心惹かれるのを感じた。妙に気になってしまって、それでいて手にピッタリと吸い付くような柄の感触。本物の鉄なのだからずっしりと重たいはずなのに、どうしてか軽々と振るうことができそうだった。

 

「静かに飾られているところ、悪いが……俺は化け物を退治して、あいつらも、クラスメイトの皆も守りたい。勿論そんなこと、無謀なのは分かってるけどさ。正義厨だなんだと言われようと、クサい台詞だろうと、そうやってヒーローになるのって憧れるだろ」

 

 独り言のように言って、そして独りで笑った。

 刀を相手に語り始めてしまうなんて、側から見れば変人でしかない。

 

「今夜は、よろしく頼むよ」

 

 それでも、言わざるをえなかった。

 どうか、力を貸してくれますようにと。

 

 夕暮れの中、ただ一人で刀を持って頷く。

 陽が沈んでいくその光が刀身にあたり、銀色のはずのその刀身が赤く、薔薇色に輝いたような気がした。



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最悪な修学旅行「決戦へ」

 夜だ。

 満月ではないが、肥え太った月は我が物顔で煌々と輝いている。

 紺色の明るいこの月夜に、俺達は緊張を表情に乗せて旅館内を歩いていた。

 

 明日の夜には、俺達はバスでこの旅館から帰ってしまう。

 そうなると、明日の夜は化け物とやり合う時間なんてとてもとれそうにない。

 だからこそ、今夜中に決着をつける必要があった。

 

 俺達以外の全てが死んだように静まり返った中、微かに聞こえる口笛の音を頼りに進む。目的地などとっくに分かっているが、それでも耳は無意識に口笛の音を拾って先へ先へと心を急かしていた。

 

 木の廊下が軋む音。さすがにふざけることもできなくなった俺達の、緊張した息遣い。静かすぎて逆に耳がツンと痛くなる空気。

 

 月明かりの綺麗な夜なのに、どうしてかその明るさが逆に不気味に感じられた。まるで、大きな月が俺達を覗き込んでいるような、夜の闇がそのまま俺達を囲んで包み込んでくるような、そんな圧迫感。

 

 そんなの錯覚だと分かっているのに、どうしても不安が付き纏う。

 

「下土井。刀、取ってこいよ」

「ああ」

 

 途中の廊下で、部屋にするりと入り込む。

 中にあった派手な拵えの刀は、まるで俺を迎えるかのように床の間に鎮座していた。

 

 迷うことなく手に取り、ほんの少しだけ鞘から引き抜く。

 銀色の美しい刀身が俺の顔を鏡のように反射して映し出し、その表情が険しいものになっていることを言外に伝えている。緊張した顔が映し出されてしまい、ほんのひとときだけ目を瞑る。

 

「よろしく頼む」

 

 声をかけたのは、なんとなくだった。

 無断で実戦に使うということもあって、ほんの少しの罪悪感が胸の内に広がる。

 はたしてこの刀は実戦に使われることを良しとしてくれるだろうか。飾られているだけのほうが良かったのだろうか。そんな疑問が次々と浮かんでは、消えていく。勿論、他人の物なのだから、そんなことに使わないほうがいいのだろう。しかし、刀としては、どうなのだろうか? 

 そんな、人目線になって考えてみるなんておかしな話だ。ただの刀なのに。

 

 それでも、頼りはこいつだけだ。

 きっと俺が一番あいつらに期待されているんだろうし、やらなければバクバクと頭から食われて終わりなのである。

 ならば精一杯抵抗してやる。この、名前も分からない刀で。

 

 カチン、と少しだけ引き抜いていた刀身を鞘に戻す。

 それから、刀を持ったままに廊下へ出る。

 

「準備はいいか?」

「おー、結構様になってるじゃん」

 

 外に出れば、友人から声がかかった。わざとらしく明るい声を出して、沈んでいる気分をなんとか盛り上げようとしているらしい。

 

「腰につけないのか? 侍みたいに」

「つけかたなんて分かんないって」

 

 つけられたら格好良かったのだが、生憎とやりかたなんて知らないし、素人の俺では邪魔になるだけだ。

 

「こう、紐でベルトにグルグルーっと」

「鞘が腰にぶら下がってたら多分上手く動けないだろうし、鞘は誰かに預けるよ。美術品なんだから丁寧に扱えよ」

「今からその美術品を振り回そうとしてる人間の言うことじゃねーな」

「それもそうだ」

 

 笑って、誰が言うでもなく歩き出す。

 俺達の装備はスプレー缶とチャッカマンを持っている奴が一人。スコップを持っている奴が二人。クワを持っている奴が一人。どこからか爆竹を買ってきた奴が一人。いや本当にどこで買ってきたんだそれ。

 

 それと、最後に刀を持った俺の計六人で地下室へと向かう。

 渡り廊下を歩ききり、シャッターの開閉スイッチを入れた。

 

 ガラガラとゆっくりシャッターが上がっていくその様子を見ながら、同時に「始まってしまうんだ」という鈍い実感がじわり、じわりと湧いてくる。

 そのシャッターの隙間からどんどん恐怖というものが滲み出て這い寄ってくるように、俺達の背筋を薄ら寒いものが撫で上げた。

 

 いよいよだと実感が湧いてしまったために、全員の顔が険しいものとなる。

 足が震えている奴だっている。

 目の前で頭から食われた教師の末路がどうしても目に焼き付いて離れてくれず、竦んでしまいそうだった。恐怖がのしかかってきて、どうやって足を動かし、そして歩いていたのかさえ、分からなくなってしまいそうなほどの圧迫感。

 

 シャッターが開ききるのにそれほど時間はかからなかったはずなのに、それが何時間もかけて開いたような気分にさえなってくる。

 

 恐怖は感覚を鈍磨させてしまう。

 首を振って、片手で頬を叩く。そして気合いを入れて、恐怖を意識の外に追い出した。

 

「行くぞ」

「ああ」

「怖い奴は、ここで待っていてもいい」

「なに言ってんだよ。行くよ」

「そーそー、怖いけど、一人で待ってるのもそれはそれでこえーじゃん」

「だよなあ」

 

 最後通告のように言ってみたのだが、全員どうやら決戦の場へと向かうようだ。

 

 俺を先頭に地下へと階段で降りる。

 それから、まっすぐの廊下をゆっくりと忍び歩きで進み、広い部屋の、火災報知器を目視する。

 

 さすがに火災報知器に火を当てている間に、殺されてしまうことは理解できる。そういえばその辺のことはなんにも考えていなかったなと反省した。

 

「爆竹をあの辺に投げるんだ」

「お、さっそく役に立つな」

 

 小声でやりとりをしてから爆竹に火をつけ、口笛の音がしている辺りに投げつける。

 

 狙うは一匹の怪物のみ。

 爆竹の軽い爆発音が鬨の音となって、地下に響き渡った。



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最悪な修学旅行「地下の深淵より来たる恐怖」

 火花が散る。

 

 ボゴリ、ボゴリと濁った沼の泡が弾けるような、そんな奇妙な音が部屋に反響した。それは、もしかしたらそいつの声だったのかもしれないし、違うかもしれない。

 

 地面に焼きついた残り火がチラチラと燃え盛り、煙がもくもくと上がっていく。

 そうして火災報知器が反応して、甲高い音を何度も何度も鳴らした。

 

 電灯がチカリ、チカリと瞬く。

 そこに、そいつはいた。視えなかったはずの、その姿が光の下に現れる。

 絶え間なく口笛のような音を出しながら、その醜い体が不規則に視えたり、視えなくなったりとを繰り返す。

 

 ぶよぶよのポリプ状の体はさながら蛇のように太く、長い。楕円のその体躯の先端には丸い口のような穴がぽっかりと空いている。もちろんその口には円形の端に牙がぐるりと取り囲むように配置されていて、あれで人間の頭を齧り切断したのだと思うとどうしようもない恐怖と寒気が背筋を駆け上がっていく。

 

 その見た目に一番近いのは、ウナギだろうか? 

 しかし、スポンジのようにも見えるデコボコとした体は酷く醜く、そして形状を自在に変えるように伸びたり、縮んだりしながらこちらにその口を向けた。

 

 人が二人分くらいの大きさはあるだろうか。

 体のその周りには何本もの触手が唸っており、明らかに見たことのない生物であることを、そもそもこの地球の生物であるのかも信じがたいその姿に嫌な想像が膨らみかけて……そして頭を振って自身を奮い立たせる。

 

 奴……飛行するポリプの姿がすうっと消えていく。

 そこでようやく、頭上から水のシャワーが降り注いだ。

 

「ほら、今だよペンキを投げろ!」

「あ、ああ!」

 

 不自然にシャワーが避けて通っているように見える場所に向かい、ペンキが投げられる。

 一部は明後日の方向へと飛んでいって、そいつのノーコントロールっぷりを口々にからかうが、目線は化け物からは決して外さずに見据える。

 ペンキをかけられていても、缶が当たっても、化け物は意に解さぬようにしていたが、しっかりとペンキで濡れてぬらぬらと光るその体躯がより一層不気味に(うごめ)いた。

 

 地下室にも関わらず、なぜか温くまとわりつくような風が動き出す。

 シャワーが注ぎ込まれる中、まず友人の一人がその長い触手の一本にスコップを叩きつけた。平らな部分ではなく、鋭利な部分で殴りつけたために、すっぱりと触手が切れ――なかった。

 

 化け物は、彼の全力の攻撃をなんでもないようなものとして受け止め、そして攻撃を返すように触手を鞭のようにしならせる。

 

「あっぶね!」

 

 それを間一髪、縄跳びのように避けた彼は慌ててこちらに戻ってくる。

 それを追ってくる触手の一本を、今度は俺が思い切り刀を振りかぶって斬りつける。今度は実にあっさりと斬ることができていた。

 

「おー! さすが!」

「な、なんでだ? スコップは人外相手に最強だって映画で学んだのに!」

 

 なんの映画だよ。ゾンビ映画か? それともサメ映画か? 

 

「サメが相手なら木の棒が最強なんだが、ウナギ相手じゃあなあ」

「いやいやいや」

 

 こいつら、実は案外余裕だな? 

 俺だけが恐怖と緊張で胃を痛めていると思うとなんだか腹が立ってくるな。

 

「だあー! うまくいかねぇ!」

 

 びいい、と間延びするように絶え間なく続いていく口笛の音。

 やはり視覚で捉えているからか、今のところは皆奴からの攻撃も避け続けている。しかし、いつ当たるかも分からず、そして一度攻撃を許してしまえば容易く捕食されてしまうことは明らかだった。

 

 緊張の汗が背中に伝う。

 皆も口ではふざけつつも、真剣な眼差しで化け物の攻撃を見切り、回避していく。しかし、攻撃が全くと言っていいほどに当たらない。

 いや、当たっても効いていないと言えばいいのか? 

 

 足の速い友人達がスコップでいくら叩いても、ああ今のは腰が入っていていい一撃だったろうなという攻撃でさえも、一番最初の爆竹のときに見せたような苦痛の声をあげたり体を震わせるようなことをしないのだ。

 あれが一番効いているような素振りを見せていたから、もしたら打撃はあんまり効かないのか……? 化け物が相手だし、そういうこともあるかもしれない。人間の常識で測れる範疇ではないのだと思う。

 

「あ、やべ」

 

 様子を見ていた俺は、スコップを振り下ろした友人に伸びる触手を見て動き出す。あれだけ豪語していたのに、真っ先に刀を振り下ろしに行かなかったのは、こういう事態が起こるだろうことを見越してだ。

 友人のフォローに入って、触手を上から一気に叩き――やはり実にあっさりと、それは切断された。

 

「切れたぁ!? ズルくね? なんで下土井は切れるんだよ!」

「突っ立ってるな! いいから元の位置まで逃げろ!」

「あ、悪ぃ! ありがとうな!」

 

 触手の周りを巡るように渦巻いていた風が、ぶわりと纏わりつくように吹き上がる。まるでそれが精一杯の抵抗だったかのように思えた。

 

 粘着質な液体が泡となって弾けるような、そんな不気味な音が化け物の口から漏れ出ている。やはりあれが鳴き声なのか。

 

「お前、よくあんなの斬れるな! くっそ硬かったんだけど!」

「え……?」

 

 そんなことはない。この刀で斬ったときはかなり柔らかく感じたのだが。一番最初に斬りこんだときだってそうだ。豆腐を切るみたいにあっさりといったぞ。こいつらと俺に力の差なんてほとんどないだろうに、なぜだ? 

 

「ええい! 我慢できないね! 俺はこれを使う!」

「あっ、おい待てバカ!」

 

 全員が後ろに下がった状態で、友人がスプレー缶とチャッカマンを構える。

 化け物は怒ったように声をボゴボゴと漏らしていたが、やがて標的を俺にしたのかゆっくりと口笛のような飛行音を撒き散らしながらこちらに向かってきた。

 

「オラァ! 食らいやがれぇ!」

 

 迫ってくる化け物に炎が放たれる。

 すると、見るからに化け物は避けようとする素振りを見せ、そしてその場で炎で包まれてのたうち回った。

 

「お、効いてるんじゃね?」

「……そうだな」

 

 スコップは効かない。クワで攻撃したやつもいたが、これも抉り出しそうないい一撃だったのに、ついた傷は一本の筋だけだった。

 

 なのに俺の使った刀は触手を切断し、炎に化け物は苦しんでいる。

 もしかしたら、あまり物理的な攻撃が効かない……とか? 

 でも、それだとこの刀が効く理由が分からない。

 

「よーし、このまま刀と炎で一点集中したほうが良さそうだな! 俺らは万が一のときのために、いつでも動けるようにして待機してるぞ」

「分かった!」

 

 まだまだ分からないことも多いが……ひとまず、俺は両手で刀を構え直すのであった。



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最悪な修学旅行「化け物との攻防戦」

 奴には物理的な攻撃が効かない。

 しかしなぜか俺の持つこの刀の一撃は奴に通るようだから、あいつを殺せるのは俺と、スプレーとチャッカマンを構えた友人のみ。

 しかし炎をまた吹き上げさせたからか、火災報知器が鳴り響いていてスプリンクラーが起動してしまう。そうなればびしょ濡れになって炎なんか効かなくなってしまう。

 炎が効かなければ対処できるのは俺だけ。

 友人達を食われないように立ち回りながら俺だけが、奴と戦うことができる。そんなの……無謀だ。

 

「下土井、頼むよ。俺らもなんかできないか、ちょっと考えるから」

「分かった」

 

 それでもあいつらは諦めない。

 俺が時間を稼いでいる間になにかできることがないかと模索し始めた。

 なら、俺がするのは化け物を叩きまくって注意を引くこと。あいつらに狙いを定めないように突き回すことだ。

 

「こっちだ化け物!」

 

 踏み込み、口の周りに漂う触手を切り落とす。

 化け物は危機を感じ取ったのか、その口をぐぱりと広げて俺を威嚇した。

 声は出ず、やはり粘着質な気泡が割れるような音が響くのみだが、その注意が俺に引かれてきているのは間違いない。

 

「うっ」

 

 風が。俺の顔に突風じみた風が叩きつけられる。

 距離が近いからか、痛いくらいだ。ぐっと唇を噛んで、閉じてしまわないように目を細める。一瞬でも目を離してしまったら、化け物に食われると思え。

 そう念じながら、集中した。

 

「くそっ」

「大丈夫かー?」

「声かけんな、そっちに行ったらどうするんだ!」

 

 風が叩きつけられる。

 これはなんだ。地下室だぞ? いや、風は化け物のほうから流れてきている。

 あの化け物は飛行しているわけだし、風を操ってその巨体を浮かび上がらせているのか? そんなことが可能なのか。

 考えてみても仕方ないのは分かるが、あまりにもズルすぎやしないか? 

 やはり地球外生命体とかなのかもしれない。あんな異様な姿は映画で見たエイリアンとかそっち系に近いわけだし。

 案外、人の想像ってやつも的を射ているんだな、なんて余計なことを考えつつ、動き出す。

 

 近づけば近づくほど、奴の周りで渦巻く強い風でダメージを受ける。頬が裂け、刀を握る腕にビシリと入る細い傷。触手を叩きつけてきたり、俺に巻きついてやろうとしてくる歪な巨体を躱して一太刀入れてみせた。

 

 奴の体は仰け反り、ポリプ状のその体が流動して変形する。

 うわっ、気持ち悪っ。

 

「下土井ー! どけー!」

「っ……分かった!」

 

 横っ飛びしてから友人達のほうへと引き返す。

 追いかけてくる触手を刀を振り回して切断し走って戻れば、俺の横を大きなペットボトルが通り過ぎていく。

 その中に入った爆竹に、俄然顔色を変えて俺は叫んだ。

 

「なに危ないことしてくれてんだ! 早く隠れろ! 隠れろー!」

「分かってるって!」

 

 走って倉庫内の物陰に滑り込み、一瞬の間を置いて爆発音。

 物陰に隠れた俺の足元にプラスチックの破片が飛散して突き刺さり、顔を青ざめさせる。

 爆発でペットボトルが破壊され、その破片が凶器となってあたり一面に散らばったのだ。ただ爆竹を投げるだけよりも考えたなとも思ったが、俺が巻き添えを食らいそうになったので笑えない。あいつら勝手かよ。

 

「でもほら、結構効いてるじゃん!」

 

 別の物陰に隠れていた一人に、引きつった笑いを返す。

 確かに上手くいったが、上手くいったから良かったものの……あと少しで俺にも被害が出ていたぞ、今のは。走って物陰に隠れるのが遅れていたら、俺もペットボトルの破片で針のむしろになっていたぞ。

 

「あのなあ……!?」

 

 いない。

 ひゅるるるる、と風の音はする。

 しかし口笛の音もないのに、化け物は姿を消していた。

 

「おっ、吹き飛ばすのに成功したかー?」

 

 友人が物陰から出てきて現場を見渡す。

 いや、そんなはず……あれだけ物理攻撃が効かなかった奴が、たったそれだけで跡形もなく吹き飛ぶなんてことありえるのか? 

 

 それになにより……未だに地下室の中にはそよ風が吹いている。

 あの化け物がいなければ地下室に風なんて吹くはずがない。

 

 それなら……口笛の音もなしに一体どこへ……? 

 

 視界の端が歪む。

 警鐘が頭の中で打ち鳴らされる。

 奴は一体どこへ。奴が動けば口笛の音がするはずなのに。

 俺達の仮説が間違っていたのか……? 首を巡らせて地下室内を見渡す。

 

 そして風が顔に当たり……? 

 

「っ……!」

 

 恐怖心と咄嗟の判断力で、目の前に向かって刀を突き出した。

 なにか硬いものに当たったように刀の動きが止まる。それが意味するのは……。

 

「あ、あぶっ、危なっ……!?」

 

 目の前の空間が揺らぎ、不可視の化け物が姿を現わす。

 口を大きく開けて、円状にずらりと並んだ歯が気持ち悪い動きをしながら、中心に突き刺さった刀に当たり、カチカチと音を鳴らしている。

 

 ペンキがついていたんじゃなかったのか……? 今はどこにもペンキのついていた跡がなくなっている。スプリンクラーの雨と、さっきの爆発で全部目印が吹っ飛んだのかもしれない。

 

 俺の目の前にいたそいつは、今は地面に五本の触手を垂らして〝立っている〟ようだ。これで歩いて移動したのだろうか。

 飛行しているときは絶えず音を鳴らしていたから、こいつは空を飛んでいることしかできないと勘違いしていた。そこを上手く突かれたのである。

 こいつに知性があるのは明らかだった。

 

 ゴボゴボと音を鳴らし、一旦身を引いた化け物が刀から口を離して鎌首をもたげる。

 

「下土井、後ろ! 後ろぉ!」

「え……?」

 

 咄嗟に避けようとして、気づく。

 背後から俺を包み込むように、尻尾の触手が絡みついてくる。

 足から、上へ這い上がり、胴体を斜めにぐるりと一周した触手のせいで身動きが一切取れなくなる。体がその場に固定され、走って避けることは叶わない。

 刀を取り落とさないようにしながら抵抗してみても、がっちりと掴まれてしまって動けない。動かせるのは腕だけ……だが。

 

 見上げると、透明な液体を口の端から流した円形の口が目の前に迫って来ていた。



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最悪の修学旅行「精一杯の無謀な抵抗を」

 目の前に迫るのはぞろりとサメのように鋭い歯が並んだ円形の口。

 あんなもので齧られたらひとたまりもない。

 

 ……死ぬ? 

 

 脳裏に過るのは、先生の頭が見えない化け物に千切られた光景。

 このまま、俺の頭も齧られて胴体から離れるのか……? それとも、このままこの化け物に丸呑みにされてしまうのか? 

 

 圧倒的な捕食者への恐怖で身が竦む。

 自分はなんて矮小な存在だったのかと、心に刻みつけられる。

 真に狙われ、捕捉された獲物というのはその圧倒的な〝死〟を目の前にして、動けなくなってしまうらしい。

 

「下土井ー!」

 

 友人の声でハッとする。なに諦めたんだよ、俺! 

 硬直し、思考停止していた脳を働かせて視線を動かす。

 この圧倒的な死を突きつけてくる化け物は、どうやら俺を散々怖がらせてから喰らおうとしているようで、ゆっくり、ゆっくりとその口を近づけてきている。

 

 太く、長い尻尾の触手に組み付かれたまま力を入れて対抗してみるものの、力が強すぎて動けない。

 何度も、何度も抵抗し続けて……いよいよ目の前にぞろりと並んだ歯が迫る。それから、口から這い出てきた触手のような舌が俺の頬を撫で上げ、ぞわりとした恐怖心が心の奥底から湧き上がってきた。

 

「く……っそ!」

 

 直感したのは、こいつは怖がる俺で遊んでいやがるという事実。

 なんの嫌がらせだ? 散々俺が刀で斬りつけたから、その復讐かなにかか? 

 

 しかし、その余裕と侮りのお陰でまだ俺が生きているのだ。

 こいつが変な気を起こす前に、なんとかしないと……! 

 

 声を張り上げて硬直した己の心を律する。

 そんな俺の心に呼応するようにカタリ、と……刀が震えた。

 

「死んでたまるかぁ!」

 

 そして、ついに押さえつけられていた刀を振り上げることに成功する。

 

「――ッ」

 

 ウナギのようなその体を下から上へ。

 刀がズブリと突き刺さり、ぶよぶよの感触が手に伝わってくる。

 

 それでも化け物は死に切らない。

 頬を撫でていた触手が、我慢ならなくなったのか、俺の首を絞めるように巻きつき、固定してくる。そのままガブリと頭から食うために、抵抗させないようにとしているのだ。肌に直接触れてくるざらざらとした感触に鳥肌が立っている。このままじゃ、まずい。

 俺の胴体を捉えている尻尾の触手が動き出し、体が空中に持ち上がる。

 いよいよ抵抗がしづらくなった。

 

「……くそっ、くそっ、くそっ!」

 

 悲鳴をあげつつも、俺を固定している化け物にスコップやクワで攻撃しながら「離れろ!」と助けてくれようとしている友人達を横目に、俺と化け物は見つめ合う。いや、この化け物に目なんてないけれども。

 

 首を固定され、視線が目の前の並んだ歯に固定される。

 今自分の腕が、刀が、どこを刺しているのかも分からない。

 肩に落ちてきた透明な粘液が流れ、シャツの内側に入り込む。

 

 でも諦めるなんてことだけはしたくなくて、尚も声を張り上げて気合いを入れた。

 絶対に死んでやるものか! たとえ、この絶体絶命の状況下でも、俺は諦めない……! 

 

 カタリ。

 もう一度、刀が鳴った。

 

「ふっ」

 

 息を詰めて、腹に力を込める。

 それからぶよぶよの体に突き刺さった刀を全力で斬り裂くように、上へ上へと持ち上げる。

 

「おらあああああ!」

 

 俺の頭はいよいよもって化け物の口の中に入り込む。歯が下顎に当たり、臭い腐臭が鼻を刺激し、見開いた目に舌のような触手が舐め上げるように迫った。

 

 それでも、俺は手を動かすのをやめない。最後まで、抵抗しきるように、相打ち覚悟で歯を食いしばりそして……口が閉じる直前、化け物は動きを停止した。

 

 ――俺の首筋からたらりと血が流れていく。

 

 動きを止めた化け物が、後ろ向きに仰け反りながら……静かに地下室の地面にぶっ倒れた。

 それと同時に尻尾の触手が緩んで、立ったままだった体勢から、俺もその場に座り込む。

 舌の触手に撫でられそうになった目を手のひらで覆い、未遂で済んで良かったと心底息を吐き出す。

 

 息が乱れて、恐怖と達成感とで全身が震えていた。

 なんせ、もう少しで食われるところだったのだ。本気の本気で死ぬかと思った。

 

「おわっ……」

「下土井ー!」

 

 呆然とする俺に、友人達が飛び込んでくる。

 男友達のそんな歓迎、いつもなら「暑苦しいわ」で受け入れないのだが……今回ばっかりは、その体温を感じて生きている実感を得られたからされるがままになっておく。

 

「死ぬかと……」

「俺らだってヒヤヒヤしたってーの!」

「だよなあ……」

「ね、ねえこいつもう死んでるよね?」

「念のためもう一回刀で刺しとこうぜ」

「おっけー、おっけー」

 

 俺から刀を受け取った友人の一人が化け物の頭と思われる場所を脳天から突き刺す。

 化け物の死体は消えることなくその場に留まっていたが、もう二度と動くことはなかった。

 

「やったんだな……」

「ああ! 大手柄だぜ!」

「ヒーローになれたよね、俺達」

「でも割に合わねーよこの仕事」

「それはたしかに」

 

 それは俺が一番言いたいことだ。死にかけたんだから。

 

「さあー、あとはこの火災報知器どうするかだな!」

「意外と人って来ないもんなんだなあ」

「いや、パトカーの音が……」

「げっ」

 

 慌ただしいな。

 

「逃げよーぜ」

「おっけー」

 

 報知器が鳴ってから、実際にはそれほど時間が経っているわけではない。

 しかし、見つかるのも時間の問題だったのでさっさと退散することにした。

 

 刀も持ち出し、自身の服で血のようなどろりとした液体を拭き取って部屋に戻す。絶対に刀の手入れはこれだけじゃ不十分だが、これ以上出歩いていたらヤバそうだったので、すぐに部屋へと戻った。

 

 服は着替え、あとでこっそり風呂場ででも洗うことにする。

 

「終わったな」

「ああ、これで明日の夜は安心して帰れる」

「バイト代ふっかけよーぜ」

「いいねいいね、こんだけ危ない目に遭ったんだからいっぱいもらわねーと」

「それは俺の台詞なんだけれども」

「そりゃそーだ!」

 

 心の底から安心する。

 そして、疲れと緊張、そして恐怖でガチガチになった体が、布団に横になった瞬間休息を求めた。

 

 これで、終わりのはず。終わりの……はずである。

 そうして、俺達の化け物退治は幕を閉じるのだった。



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最悪な修学旅行「絶望」

「はあー、終わった終わった」

「あとはもう帰るだけだなー」

「そうそう」

 

 友人達の話を聞きながら、俺は考えていた。

 どことなく不安がよぎっていたからである。なぜか、安心しているはずなのに、妙に心がざわついていた。後ろ髪が引かれるように旅館を振り返る。

 

 バスが旅館の前に止まり、あと30分もすれば帰還のために動き出すというところだ。旅館の中では、今も荷物の整理を怠っていた人物達が慌ただしく歩き回っている。

 

 化け物退治から一夜明け、普通に修学旅行のカリキュラムに参加した俺達はいよいよ帰るときが迫っていたのだ。

 

「それにしても、なんであんな化け物が出たんだろーなあ」

「そう、だな」

 

 友人の言葉に生返事をする。

 ずっとずっと引っかかっていたことを、頭の中で整理しながら探っていく。

 

 そうだ、確か昨日……皆で貯水タンクを目指しているときにモヤモヤとしていたのだったか。

 

 だから思い返す。そのときのやりとりを。

 詳細に、そのモヤモヤの正体を探り出す。

 

 ◆

 

「そういや、ここに来て初日は特に口笛がーって話なんてなかったし、いつからあの化け物が出てきていたんだろうな」

 

 ふとした疑問を呟くように、友人が言った言葉に顔を向ける。

 そういえば、不思議な話だ。俺達がここに泊まり始めた初日は特にそんな騒動はなかった。2日目の夜に男子生徒が一人消え、そして昨日先生が一人殺された。

 

「地下室にあった血の染みは二人分だけ……だよな?」

「俺らの見間違えじゃなきゃそうだろうな」

 

 犠牲になったのは二人だけという事実。

 そして今朝神内さんが言っていた言葉を加味すると、旅館の従業員は数日に一度、もしくは週に一度程度の頻度で地下室を掃除しているだろうことが伺える。

 従業員に犠牲が出ておらず、犠牲が出たのが男子生徒と先生だけとなると、あの化け物も二日前に始めて現れたこととなるのだろうか。

 

 男子生徒は、あいつは気になるからと言って自分から調べに行った可能性が高いし、まあ納得ではある。自分から餌になりに行くようなものだったわけだ……そして。

 

 ◆

 

 そのあと思考停止してしまったが、今度こそ考えを巡らせる。

 あのときの会話に感じたモヤモヤを。その正体を。考えつきそうになった思考を、点と点を繋げていく。

 

 化け物が出始めたのは、恐らく二日前。

 そして、そして? そして。

 

 ――「神内千夜様なら、二日前より千寿菊の間に宿泊されております。地図をご参考にしてくださいませ」

 

 

 二日、前。ハッとする。

 そして急いで、もっと前の記憶をも探り出した。

 そうだ、そうだ、確か先生が犠牲になったあの日、あいつは……「神内千夜」は地下室のある方向から俺達の隠れている部屋の目の前を通って行ったのである。

 

 ぞわり、と背筋を悪寒が這い上がる。

 本当に、本当にこれで良かったのか? あいつの依頼を受けて、化け物を退治して、たとえマッチポンプだろうと化け物がいなくなれば全て解決すればいいはずだった。でも、本当にそれだけでいいのか? 

 

「なあ、ちょっと聞いてくれ」

 

 あのとき関わった友人達全員に俺の懸念を話す。

 すると血気盛んなこいつらはすぐさま答えを叩き出した。

 

「黒幕がいるってんなら、それを突きつけるまでがこういう漫画とかにありがちな物語じゃね?」

「……勘のいいガキは嫌いだよ」

「似てねーし!」

 

 漫画の台詞をふざけて言い合いながら、そっと俺達はバスから離れる。きっと旅館の中に、まだあいつがいると確信して。

 

 それから探し回り、もうすぐ出発の時間というときに……あの部屋の前を通る。そして俺は予感に従って、再び刀を手に取った。

 もしかしたらこれを脅しに使って、なぜそんなマッチポンプじみたことをしたのか聞きだすことすらできるかもしれない。そんな期待を抱いて。

 

 もしかしたら、ただの暇潰しだったのかもしれない。

 もしかしたら、ただ嗜虐的な自分の趣味を満たすためのものだったのかもしれない。

 

 神内千夜という男を俺達は知らなすぎた。

 黒髪三つ編みの、美しい男。地下室のあるあの庭で、あいつはそこにいた。

 

「くっふっふっふっ」

 

 美しい顔に似合わない、胡散臭い笑い声が響き渡る。

 男は、俺達の姿を認めると、まるで俺達のことなんて気にせずに空を見上げる。

 

 今日は――満月だ。

 

 そんな景色に溶け込み、美しい男が月光を浴びながら月を見上げる風景。

 一種の絵画の中の世界のような非現実的な光景は俺たちを釘付けにし、そしてその恐ろしい変化の最中でさえも、決して目を逸らすことはできなかった……いや、許されなかった。

 

「タイムアップですよ。あなた達は失敗しました」

「一体、それはどういう……!?」

「な、なあ、あれ……」

 

 友人の怯えた声が聴こえて、そちらに視線を向ける。

 そこには、開け放たれた地下室へのシャッター。

 

 そして、旅館中で悲鳴が上がった。

 

「なんっ」

 

 なんだ、なにが起こった。

 そう言おうとして、絶句する。

 

 ――口笛が、口笛の音が、そこら中でしていた。

 

 月光に照らされて視えたり視えなくなったりするその姿。

 それが首を巡らせれば、そこかしこに、いたるところに浮遊しながら旅館の中や外へ向かって飛んでいく。

 

「どういう……」

 

 俺達には目もくれずに飛行するポリプが、『複数』の化け物が、京都の街に放たれていく。

 

「誰が一匹しかいないなどと言いましたか? あなた達は失敗したのですよ。あなた達は、せめてあの穴を塞がなければならなかったのです」

 

 失敗。

 その二文字が脳裏に刻みつけられる。

 既に絶叫や断末魔が旅館のあちこちであがっていた。

 

「そんな、ことって……!」

「お前っ!」

 

 怒りの声をあげる。

 そして、その黒幕に対して一番血気盛んな友人が殴りかかりに行く……、瞬間笑っていた男が、頂点から裂けた。

 

 そうとしか表現することはできず、まして俺の少ない語彙ではその恐ろしさを誰かに伝えたところで意味をなさないだろう。

 遅れて、不可視だったポリプ状の体がそのそばを通ったことを認識し、神内千夜という男が、黒幕が自らの放った化け物に殺されたのだと思った。

 

 しかし……それは違った。

 もっと恐ろしいものを、俺達は目にしてしまったのである。

 

 だから率直な感想しか、もはや出てこない。

 

 それは貌のない肉塊だった。流動し続ける触腕。時折垣間見える鉤爪。顔がないくせに悍ましくこちらを嘲っているようにも見える肉の動き。

 自身の身体が総毛立つのを感じた。しかし、それを直視してもなお俺は壊れることができなかった。

 

 そう、〝俺だけ〟は壊れることが叶わなかった。

 

 悲鳴があがる。

 悍ましいものを、気持ち悪いものを、そして自身の価値観もなにもかもを捻じ曲げるような冒涜的なものを見た皆は――一瞬で壊れてしまった。

 

 この日、俺は出会ってしまった。

 侮っていた俺は、俺達は、自ら餌になりにいったクラスメイトと同様に、自ら罠に足を踏み入れていたのだと気づけなかった。

 

 交通事故に遭うように、自然災害に遭うように、避けたくで避けられない悲しい結末。理不尽の権化。

 

『絶望』という災害に、俺達は遭遇したのである。



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最悪な修学旅行「無貌と無謀」

「お、おい、大丈夫か!?」

 

 大丈夫だなんて……そんなわけはなかった。

 友人達の誰もかも気が狂ったように笑ったり、泣いたり、逃げ出したり、逆にその肉塊に向かっていったりと阿鼻叫喚の地獄絵図と化していたのである。

 

 聞こえる悲鳴、怒号、己の胸を搔きむしりながら自害しようとする者。自らの目玉を潰して、それを見ないようにしようとする者。巨大過ぎるが故に溢れ出た触手を、自ら近づいて噛みちぎろうとする者。

 

 それら全てを止めようとしてみても、友人達は止まらない。

 まるで正気じゃなく、言うなれば〝発狂〟してしまったようなその状況。

 皆の奇行を目の当たりにして、かえって冷静になったその頭で考えを巡らせる。

 

 どうする、どうすればいい? 

 

 俺にできるのは……この状況を、犠牲が少ないうちに少しでも早く終わらせることだけだった。

 

 足を踏み鳴らし、臆するように震える自身の体を叱咤する。

 それから唇を噛んで、巨大なその怪物に向かっていく。

 

 そいつの姿を見たのであろう、飛行するポリプ達の数体があっさりと墜落し、触手に捕まり、引き千切られていく。まるで玩具でも弄ぶかのようなその光景に、ぞわぞわと静かな恐怖が纏わりついてきた。

 あの浮遊している化け物でさえ簡単に嬲り殺せてしまうこの巨大な『神内千夜』だったナニかに、俺は当然のことながら敵うはずがない。絶対に敵うわけがないと心のどこかで理解はしている。

 

 けれども、それでも立ち向かわねば、犠牲が増え続けるだけなのだ。

 この怪物に。この邪悪なナニカに。立ち向かえるのは俺しかいないのだから。

 

 無謀だ。

 そんなこと分かっている。

 

 無理だ。

 やるしかない。

 

 怖い。

 ああ、そうだな。でもやるんだ。

 

 目を瞑って自問自答し、勇気を振り絞る。

 その搾りかすのような、ほんの少しだけの勇気さえあればこの足を動かすことはできた。ゆっくりの歩みから、だんだんと早く。

 

 発狂した友人の一人がスコップで強大な怪物の触手を叩く。

 しかし、あの飛行するポリプにさえ効かなかったそれが通用するわけもなく、振るわれた触手に当たったその友人の体が、血袋が弾けるようにあっさりと破裂した。

 

「っ……」

 

 あげそうになる悲鳴を押し殺して、その横を通り過ぎる。

 大切な友人達。くだらない雑談や、(いさか)い。その全ての思い出が脳裏を巡っていく。

 

 思い出が壊されるようにひとつひとつ、触手が友人を手にかけていく。

 せめて、壊れた心を救うことができなかったとしても、生き残らせてやりたいから。死なせたくはないから。

 誰か一人でもいい。救うことができたらと願って、滑りそうになる刀の柄を握り込んだ。

 

「ああああ――っ!」

 

 気合いを入れて一閃。

 無謀なようにも思えるその挑戦。丸太のように太い触手に向かって振り下ろした。

 

 そして……轟音。

 

「斬っ、た……?」

 

 月光に照らされ仄かに光る刀身。

 その先に付着した、ぬらぬらとした液体。俺の横に落ちてくる触手の先端。

 

 その瞬間、世界の全てから音が置き去りにされたように無音になった。

 触手が一斉に動きを止めたと思えば、顔のない怪物の頭部と思われる部分がこちらを向いた。目なんてどこにもないのに、確かに俺に向けられていると分かる視線。

 

 死ぬ。殺されると思った。

 なのに、肉塊は動きを止めたまま収縮していくように体を震わせる。人型へと戻っていく。事態が怪物自身によって終わりを迎えた。

 

 旅館は既に、静けさを取り戻していた。

 他の皆はどうなっただろう? 他の教師は? 生徒は? 旅館の人は? 京都に放たれた化け物はどうなった? そんな疑問が後から後から湧いてくる。

 しかし、ついに俺がその答えを目にすることはなかった。

 

「くふふふ」

 

 黒い三つ編みの男、神内が俺の目の前にツカツカと歩みを進める。

 俺は咄嗟に刀を構えてそいつに突きつけてやろうとした。しかし、その前にその手を捻り上げられ刀を取落す。

 

「ぐっ、このっ、ふざけるな!」

「ふざけてなどいませんよ。くふふふ、すごいですねぇ。この私に傷をつけるだなんて……実に素晴らしいことです。腰の入ったイイ一撃でした。それはもう、惚れ惚れするくらいに。気持ちいいくらいに素晴らしい一撃でした」

 

 早口で捲したてるそいつに、俺は口を閉じる。

 素直に気持ち悪い。話しかけることすらしたくなかった。

 

「私は、ニャルラトホテプ……ニャルラトテップ、ナイアーラトテップ。どれでもいいですけれど、あなた達の言う、神様という奴ですね」

 

 こんな邪悪な神がいてたまるか。

 吐き捨ててやりたかったが、口を利くのだって嫌だったので黙ったまま顔を逸らす。

 

「いっ、ぐっ……!? テメー、なにすっ」

「人が話しているときは、目を見て話を聞きましょうね?」

「誰がっ、いっ……!?」

 

 捻り上げられた腕がギシギシと音を立てて無理な方向に負荷がかけられ、ついには鈍い音を立てる。そのりあまりの激痛に、俺は無様な悲鳴をあげながら体の力を抜いた。

 無理矢理折られた腕が、なおも掴まれたままぶら下げられる。

 俺よりも随分と低い位置に頭があるはずの、その男に大の男である俺が屈している。その事実は覆らない。

 痛みで滲んでくる涙を頭を振って払いながら、奴を睨みつけた。

 

 打ちのめされてなにも言えない俺に向かって、薄ら笑いを浮かべた奴が告げたのは日常から非日常への転換。決定的な失敗と敗北の末に辿り着いた、最悪な結末。

 

「お前の名は、下土井令一だったかな?」

 

 すぐさま再生でもできそうなのに左腕に刻まれた刀傷を嬉しそうにさすり、神内が言う。

 

「くふふっ、ああ…… 人間なんて、なんてツマラナイ生き物なのだろうと思っていたけれどなるほど、この私に傷をつけるだなんて面白い子だね」

 

 傷つけられて嬉しそうに笑うそいつのことなんて一欠片も理解できずに、やはり俺は黙したままだった。痛みと苦しみでなにも言えなかったというのが正しいかもしれない。

 

「お前はどこまで私を楽しませてくれるだろうね?」

 

 抵抗もできない俺の首に、奴の白い腕が伸びてくる。俺はそれを避けることもできずに、そのまま持ち上げられる。そして、首にかけられた手が熱を持つ。

 焼ごてのようなその手は俺の首を徐々に締め上げ、そして恍惚とした表情をしたそいつは冷笑を浮かべてべろり、と舌なめずりをした。

 

 ああ、あいつらと同じところに行けますように。

 そう願って委ねた自身の身体は奴の馬鹿みたいに強い力で宙に吊り上げられ、やっと死を覚悟した。しかし、苦しいだけで、痛みが長引くだけで一向に意識が遠のくことはなかった。

 

「お前に呪いをあげよう」

 

 薄ら笑いを浮かべたまま呟かれたその言葉に俺は目を見開いた。

 俺とそいつのいる地面がほの青く光り輝き、その場に刻まれるように円周を描いて複雑な紋様を形作っていく。

 

 嫌だ。

 

 反射的にそれは良くないものだと判断して、俺は精一杯もがいた。

 力を込めて奴の手を引っ掻き、抵抗しても……しかし、今度は傷一つつけることもできなかった。

 

 そして頭が焼き切れるような激痛が走り――。

 

 

 次に目を覚ましたときには馬鹿でかい屋敷で、既に俺は人ではなくなってしまっていた。

 いや、人ではあるのだろうか。奴は人間に拘っているようだから、奴にとってきっとまだ俺は人なんだろう。

 

 俺は未だ人間のままだ。

 しかし、俺は奴の呪いによって「殺す以外で死なない」人間となり、「奴の言うことを聞かなければ容易に破棄される玩具」となった。

 

 呪いは今も俺の体に刻まれたまま、消えずに残されている。

 それは目には見えないが、鎖となって確実に俺を縛り付けている事実は変わらない。

 

 なに、死なないならデメリットなんかないだろうって? 

 そんなことはない。死ぬほど大嫌いな奴に100年どころかずっと永遠に玩具扱いなんて勘弁してくれというものだ。

 

 自由恋愛だってろくにできやしない。

 それにこんな立場じゃあ、きっとまた俺は守れない。

 

 そう、君に会ったから。

 紅子さんに会ったことで、俺の絶望の日々は変わった。

 君という相談できる存在ができたからこそ、確かに俺は救われた。

 

 だから、今度はもう失いたくないって思うのも、仕方ないだろう? 

 

 俺は決意したんだ。

 もう二度と、大切なものをあの邪神に奪われてなるものかと。

 

 そして今も、俺は足掻き続けている。

 いつか、この努力が身を結ぶと信じて。



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語りを終えて

「……っと、俺の話はこれでおしまいだな」

 

 居間になんとも言えない雰囲気が漂う。

 紅子さんは悲しいような、怒っているような、複雑な表情をしていて、どこか神中村で見たときの様子に似ていた。俺が、彼女にとって嫌なことをしたときの様子に似ていたのだ。

 

「あー、重い、よな。ごめん」

「……いいや。なにを勘違いしてきるのかは知らないけれど、アタシが怒っているのは、アタシ自身にだよ。早く強くなろうって思っているキミの気持ちを、一欠片も理解していなかった、自分自身に」

「紅子さん……」

 

 目を伏せて悔しそうに彼女は言う。

 そりゃあ、いつも神内とのやりとりを彼女に言っていたわけではないし、最近の奴とのやりとりは少し緩い。昔は俺が虐待で訴えれば勝てたんじゃないかと思うほど、扱いが雑だったし、多分料理を早々に覚えなければ俺なんかとっくに破棄されていたと思うが……それも昔のことだ。

 最近の付き合いは放任気味ですごく緩い。紅子さんがそこまで真剣に助けてやろうと思えるほど、危機は迫っていなかったのだ。

 

「正直舐めてたんだよねぇ。ゆっくりキミが成長していけば、それでなんとかなるだろうって。だから今後は少し見直すことにするよ。神中村で劇的に成長したと言っても、まだキミは発展途上だし」

 

 そういえば、まだ紅子さんは直接神内に会ったことがなかったか。

 いや、絶対に会わせるつもりはないんだが。あいつなんかに会ったらなんらかのフラグ立つに決まっているからな。そんなのは嫌だ。

 

「修行ならうちか、もしくは宇受迦(うつか)神社でやるといいわよ。ここでやるなら私や破月が霊力の修行つけてあげられるし、刀の扱いなら狐のところでやるのが一番ね」

 

 そうして二人で確認しあっていると、真白さんが卓袱台に頬杖をついてそう言った。ありがたい申し出だ。

 

「でも、今日は見物旅行中ですから……また今度、道は覚えていますわね?」

「ええ、覚えました」

 

 真宵さんの言葉に頷く。

 

「そういえば、その……キミが攫われたあと、京都は大丈夫だったのかな? 飛行するポリプってやつがたくさん放たれたんだよね」

「……どうなったのか、俺も知らないな。あのあとは屋敷に軟禁状態だったし。俺が仕留められたのは結局一匹だけで、神内の本性にやられたやつも複数いたが、大体は外に出ていただろうし……」

 

 今更不安になってきた。

 あのあと、京都は大丈夫だったのか……? あんな目に見えない化け物。普通の人間ならばひとたまりもない。それこそ俺の目の前で殺されたのか教師のように。

 

「ああ、それならわたくし達が対処したから大丈夫でしたわ」

「え……?」

 

 当然のように言ってのけた真宵さんに困惑する。

 ああ、そういえば真宵さんが赤竜刀をあの旅館に置いたって言っていたような気がするが……それにしても、まさかあの場にいたっていうのか? 

 

「なにせ、あの時期は神在月でしたもの。会議という名の宴会をしていた面々で対処に当たりましたわ。逆に京都で良かったと言うべきでしたわね」

「神在月……? 神無月じゃあ」

「お兄さん、聞いたことはない? 10月を神無月って言うのは、神様がみんな京都に集まって会議をしているからだって。だからその京都では神無月じゃなくて、神在月(かみありつき)って言うんだ」

 

 そうか、修学旅行は10月だった。

 紅子さんが言うように、神様が京都で会議をする10月。

 たとえ化け物が方々に出たとしても、京都市内ならば被害を最小限に抑えて対処することができたということ。俺が撃ち漏らした全ての化け物を真宵さん達がなんとかしてくれたのか。それなら……よかった。余計な犠牲が出ていたらやりきれないからな。

 

「……アタシの話をする前に、神在月の京都でどんな会議をしているのかって訊いてみても大丈夫かな?」

 

 控えめに紅子さんが手を挙げる。興味を惹かれたようだ。

 それを眺めながら真白さんは延々と蜜柑を剥いては食べ、破月さんや小さい座敷童の子やウサギの子に渡したりしている。完全にくつろいでいて、聴く態勢に入っているみたいだな。

 破月さんは飽きてきたのか、真白さんをわざわざ胡座をかいた自分の懐の中に抱いてニコニコとこちらを見ている。真白さんの目がだんだんと剣呑な雰囲気になってきているが、俺はなにも言うまい。

 

「そうねぇ……身近にあった事件を肴にお酒を嗜んだり、果物を食べたり、最近流行りの物を話題に話してみたり……それから新しく神格を得た子の歓迎会と顔合わせも兼ねていますわね。お酌をしながら上位の神々に挨拶に回るのですわ」

「それただの宴会では!?」

 

 思わず口をついてツッコミが飛び出す。

 神様の会議って言うものだからもっとこう、神聖なこう……! こうっ、なんかあるだろ! もっと厳かな雰囲気で進む会議を想像するだろ! 

 

「あとは身内自慢が多いですわね。かく言うわたくしも、真白ちゃんについて存分に惚気(のろけ)ることができますし、写真などを肴に飲み交わしますわ。時間が経てば酔って踊り出したり、一芸を披露し出したりもしますわよ」

 

 神聖さはどこにいった! 

 俺の神様へのイメージを返せ! 

 

「それはまた……賑やかで大変そうだねぇ」

「ええ、これが一ヶ月続きますわ」

「一日中宴会するだけでも大変なのに、それが一ヶ月……?」

 

 もっとこう、ないのか? 書類仕事みたいな。

 それもそれで人間臭いが、ずっと飲み交わしているよりずっと仕事している感じがあっていいからさ。

 

「書類系は神使のお仕事ですもの。神様はそんなことしないの」

「あんたは神使いないじゃない」

「真白ちゃんと破月さんがやってくれるもの。ね?」

 

 なるほど、この夫婦が神使の代わりを務めているのか。

 

「あとはそうね……それから、要注意組織や、人物の動向の確認などもいたしますわ」

「なるほどねぇ」

 

 よかった、まともだ……! 

 

「だいたいにおいて会議は踊りますし、一ヶ月宴会状態なのは変わりませんけれど……ここまでにしましょうか。小休止は済んだかしら?」

 

 真宵さんの真剣な表情が紅子さんに向けられる。

 どうやら、今までのは紅子さんの心の準備が整うまでの雑談だったらしい。

 彼女のほうを向いて、その紅い目を見つめる。

 

「……記憶を覗いてもらったほうがいいのかな?」

「口頭でもいいですわよ。わたくし達に聞かれても構わないのなら、ですが」

「……お兄さんには、直接見てもらおうか」

 

 真宵さんの言葉に首を振って、彼女は手を差し出す。

 俺は頷いて無言でその手のひらに、自身の手のひらを重ねる。

 

 すると、それだけでグンッと彼女のほうへ引き込まれるような感覚が襲ってきた。彼女の記憶を、彼女自身が見せてくれようとしてくれているから簡単だった。

 

 ――そして、トプンと水の中に沈んでいくような感触。

 

 俺の意識は、そこで途切れた。



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過去の怪【さとり妖怪の試練】
二者択一の問答


 ざあざあと雨が降っていた。

 アスファルトの地面を叩くように雨が跳ね返る。

 けれど、現状記憶を見ているだけにすぎない俺に雨が当たることはなく、ただただ自身をすり抜けていく水を眺めるだけになっている。

 当たらないのはいいが、視界を塞ぐようにしとどに降り続けている雨が少し鬱陶しい。

 

 どことなく見覚えのある風景に俺は立っていた。

 ここはどこだろうか。なぜ見覚えがあるのか? 

 考えて、周囲を見渡す。

 

「そうか、ここは……」

 

 都ノ鳥町(みやこのとりまち)。以前、メリーさんこと芽衣ちゃんが恩師にゆっくりのおまじないをかけに行くため、訪れた町。俺達も同行したその町の風景、それもあのとき通ったその場所であった。

 

 ――確か、紅子さんと一緒に〝誰か〟の冥福を祈った場所。

 

 そう思いを巡らせていると、高校の裏門と思われる場所から誰かが出てくるのが見えた。

 

「……はっはっ、なんで」

 

 ざあざあと降りしきる雨で、聞き取りづらい声。

 しかし、それが紅子さんの声だとすぐに気がついて、俺は小走りに移動した。

 

「なんで、アタシ、生きて……」

 

 普段は綺麗に整えられているポニーテールはぐしゃぐしゃで、いつもつけている菫色の大きなリボンが傾いている。

 いつもいつも俺に向けてくる紅い、気の強い瞳はどこか虚ろで、まるでこの世に絶望しているかのように唇は震えていた。

 ぶつぶつと、しきりに「なんでアタシは生きてるの」と繰り返しながら、紅子さんは一歩ずつ、壁伝いに高校から出る。

 

 雨に打たれて赤いセーラー服はびしょびしょで、なにもかもが透けてしまっているが、彼女の実に〝幽霊らしい〟有様に、俺は一人言葉を失っていた。

 

「紅子、さん」

 

 記憶の最初のほうで既に泣きそうになってしまった俺は、触れられないのが分かっていながら手を伸ばす。

 

「ど……して、どう、して」

 

 ぱしゃんと、水たまりに足をとられて彼女の体が傾ぐ。壁伝いに体を支えながら歩いていた彼女は、とうとうバランスを崩して倒れ込んでしまった。

 咄嗟に伸ばした腕がすり抜けて、俺の体を通過して紅子さんがアスファルトの上に叩きつけられてしまう。

 

 記憶だと分かっているのに、触れられないと分かっているのに、どうしても俺は歯がゆく思いながら、この手を伸ばしてしまう。手を彷徨わせてしまう。

 しゃがみこんで倒れた彼女に近づけば、「どうして」と繰り返していた言葉の本当の意味を知ることとなった。

 

「どうして、だれも、きがつかない……のかな。アタシ、いっかげつも、がっこうに……いた、のに」

 

 今度こそ、言葉を失う。

 いや、既になにも言えなくなっていたが、なおさらに。

 

 一ヶ月も学校を彷徨っていたっていうのか? 紅子さんが? 

 

「おかしい、よね……うん、そうだよね。だってアタシは……」

 

 あのときから、窓から突き落とされてから……彼女はずっとずっと、学校の中でなにを思っていたんだろう。なにを思って、一ヶ月も自覚のないままに、過ごしていたんだろう。

 

「だってアタシは――死んでるはずなんだから」

 

 アスファルトに倒れ伏したままの彼女の頬を、一筋の水滴が滑り落ちていく。

 それは雨粒のようでいて、しかし決定的に違う水滴。

 弱り切ったように、絞り出すように震えた声で、紅子さんは泣きながら独白していた。

 そうでもしないと、心が壊れてしまいそうだったのかもしれない。誰も聞いていないのに、誰も見ていないのに、そうやって言葉にするのは、紅子さん自身が自分を見失わないためにしていたことなのだろうと思う。

 

 彼女のそんな痛ましい姿に俺は、なにもできずに佇むしかない。

 それがとても悔しかった。

 

 ざあざあと雨が彼女を容赦なく濡らしていく。

 幽霊なのだとしても、とてもとても寒いだろう。凍えるほどに、寒いのだろう。同盟の道具を身につけず、完全に幽霊の状態の紅子さんでは雨の影響があるかどうかは分からない。

 

 けれど、気温の寒さを感じなかったとしても――心が、きっと寒い。

 

「アタシ、は……自分で死んだはずなのに、どうして、終われない……のかな」

 

 ほんの少しだけ怒りの載せられた声。

 選択肢を奪われることを殊更嫌う彼女には、望んでもいないのに延命させられたようなこの状況が気に食わなかったのかもしれない。

 

「おなか、すいた。おなか、すいてないはず、なのに」

 

 息を荒く、アスファルトの上で立ち上がる気力もなく、そうして紅子さんは呟き続ける。そんなとき、ぱしゃぱしゃと雨の中、歩く足音が近づいて来た。

 

 俺が顔をあげると、そこにいたのはさとり妖怪。鈴里しらべさんだった。

 可愛らしいピンクの傘を差して、ほんの少し驚いた風で口元に手を当てると、小走りで紅子さんに近づいていく。

 そして、紅子さんの目の前でしゃがみこむとその傘を紅子さんの頭上に移動させる。

 陰となって顔に雨が当たらなくなった紅子さんは、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳に載せられていたのは、ほんの僅かな希望。自分が見えるだろう鈴里さんへと寄せる、期待だ。

 

「アタシが、見えるのかな?」

「ええ、でも、もうすぐあなたは消滅するでしょう。分かっているはずです、本能で」

 

 つっかえつっかえに喋る紅子さんに、無情な現実を突きつける鈴里さん。

 そんな彼女に文句の一つでも言いたくなったが、そういえば届かないんだったと思い至り、口を噤む。

 

「消滅……」

「あなたの名前は赤いちゃんちゃんこ。怪異として相応しい行動をしなければ、あなたは飢え続け、そしてやがて静かに飢え死にするように消滅するでしょう」

 

 やはり鈴里さんは無慈悲だ。

 

「アタシの名前は、紅子、だよ」

「そうですか。でもそれは生前の名前でしょう? 今のあなたを構成している〝名前〟は赤座紅子ではなく、赤いちゃんちゃんこのほうですよ」

「どう、いう」

「名前は体を表す。あなたはもう、紅子ではなく赤いちゃんちゃんこです。ああ、苗字を知っている理由ですか? それは、私がさとり妖怪だからです。思考を読んでいるから、生前の名前くらい分かります」

 

 早口で言い聞かせるように、捲したてるように鈴里さんが話す。

 弱っている紅子さんに対してあんまりにあんまりな対応で、今度あったらちょっと文句を言ってやろうと決めた。今決めた。

 

「飢え死には、嫌ですか?」

「……」

「あなたは自身の矜持故に自殺した。消滅するのも怖いですか。しかし、本能に従うのも嫌だと……なるほど、随分と我儘ですね」

「勝手に」

「読むなと言われても、そういう性分ですから」

「……」

「性格が悪くて結構です。そうでもないとさとり妖怪はやっていられませんよ。すぐに心が壊れて野垂れ死ぬだけです」

 

 次々に紅子さんの言いたいことを先読みして封じ込めてしまうそのいやらしさに、俺はやっぱり文句を言おうと決める。自分でも言っているが、性格が悪いぞこの人。

 

「なるほど、あなたは人を殺したくないんですね」

「……んなの、当たり前でしょう」

「そうですか? 普通の自殺者は復讐したがるものですが」

「一緒にしないで、くれるかな」

「これは失礼しました」

 

 ちっとも反省の篭っていない言葉で返し、鈴里さんは首を傾げる。

 

「人を殺さずに済む方法を、教えて差し上げましょうか?」

「……」

「『そんなのあるのかな?』ですか。ありますよ、ちゃんと。私が所属している人外しかいない同盟では、その衝動を誤魔化し、抑える道具を売っている者もいます。買うためには同盟に入らないといけませんが」

「話を」

「分かりました」

 

 そして鈴里さんが語るのは、同盟について。

 曰く、人間と共存するための組織。

 曰く、弱い怪異を守るための後ろ盾でもあること。

 曰く、共存のために力を抑える訓練をすることになるということ。それには道具や薬という手段もあるということ。

 

 それらの説明をして、再び鈴里さんは言った。

 

「赤いちゃんちゃんこ、あなたはどちらを選びますか? このまま怪異として飢え死にするか、我々の組織に入って怪異として生きるか。二つに一つです」

「アタシ、は」

 

 紅子さんはそう言って、後者を――選んだ。



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同盟入り試験へ

「そうですか、それは重畳。では、お手を」

 

 冷たい声色で鈴里さんは、しゃがんだまま手を差し出す。

 アスファルトに倒れたままだった紅子さんはその手を迷いなくとった。

 

「アタシの道は、アタシが決める。今こうして意思があるのなら、諦めはしないよ」

 

 その燃えるような紅い瞳の中にあるのは生きるための意思。そして、どうしようもないほどの意地だ。

 

「良いでしょう。それでは一つ……あなたには試験を受けてもらいます」

「試験?」

 

 やはり冷たい声で、鈴里さんは言葉を紡ぐ。

 俺がその表情を確認したくて正面に回って覗いてみれば、彼女の瞳は氷のように酷く冷たい物だった。鈴里さんのこんな表情は見たことがない。俺を叱咤しに来たときだって、もっと優しい表情をしていた。こんな、こんな冷酷無比なヒトではなかったはずだ。なぜ。

 

「はい、これより移動するのは『鏡界』……鏡の中の世界です。私達の生活する場。同盟組織の、その本拠地です。そこへ行くためには、あなたのことを認めてもらわねばなりません。あなたが本当に人間を害さぬ覚悟を持つかどうか、それを示してもらわなければなりません」

「……なるほど」

 

 人外達の組織。人間を慈しむ人でない者達の総本山。

 そこに行くだけで、そんなことを試されるというのか。

 俺は人間だからその試験がなかっただけなのか? そう思考を巡らせてみるが、人間だって裏切る可能性がある以上、そう簡単に同盟入りなんてできないだろう。そういえば、この試験とやらは鈴里さんの意地悪だなんだと言っていたっけ。

 ……ということは、はなから鈴里さんは紅子さんを受け入れる気はさらさらなかったということか? もしそうなら、最悪じゃないか。第一印象はそれほど悪くなかったはずだが、最近になって彼女の印象が落ち続けている気がする。

 考えれば考えるほど、見れば見るほど、実にさとり妖怪らしいヒトなんだな。

 

「大丈夫です。鏡の中に入って、少し問答をするだけですよ」

「面接……みたいなものかな? 分かった」

 

 ボロボロなままではあるが、どうやら気力が持ち直して少しだけ余裕が出たらしい。紅子さんは自分よりも少しだけ背の低い鈴里さんに手を引かれて、雨の中を歩いていく。鈴里さんはピンク色の傘をくるくると回しながら、そんな紅子さんを傘の中に収めて二人寄り添い合い、そして道端のサイドミラーに目を止めて歩みを止める。

 

「あの……?」

「ここなら、すぐに行けますね」

 

 困惑する紅子さんに対し、鈴里さんはその背中をトンと押す。

 

「え」

「それでは、いってらっしゃい」

 

 背中を押される。

 それは紅子さんのトラウマそのものの行動。

 俺は驚きつつも、素早く紅子さんを追って同じく水溜りの中に入った。支えられないとは分かっていても、そばにいたい。ただそれだけの思いで。

 彼女に寄り添い後ろを振り返ってみれば、無表情なままの鈴里さん。

 

「ご武運を」

 

 その言葉と共にゆっくりと薄ら笑いを浮かべた彼女に、隣を見れば紅子さんが酷く傷ついたような顔をした。

 

 そしてたたらを踏んで紅子さんが踏み入れたのは水溜り。サイドミラーの中に写された場所。その水溜りは光を反射しながら、まるでサイドミラーと鏡合わせになるように、紅子さんを写していた。

 

「耐えられなくてもいいですよ。それが普通ですからね」

 

 鈴里さんが髪を払うと、覗いたのは耳についた目玉のようなイヤリング。

 そのイヤリングがじっと紅子さんを見つめるようにして……瞬きをする。

 

 その瞬間、水溜りの中に紅子さんの足が引き込まれるように、沈んだ。

 

「やっ、なっ、なにこれ……!」

 

 怯えるように声を上げる紅子さんに、俺はどんどん怒りが募っていくのを感じていた。やっぱり鈴里さんに文句言ってやる。これはあまりにも性格が悪すぎる。

 

 そして、紅子さんと一緒に俺も水溜りの中に沈んでいく。

 ふと下を見れば、ただの水溜りだと思っていたその水の中に、巨大な蛇が口を開ける光景が映っていた。大きな巻き角を持った、鱗が藍色にツヤツヤと光る蛇。それはきっと、真宵さんの本性そのもので、捕食されるようなその光景に言葉を失った。

 

 そして、肩まで沈む。

 次に、首、次に顎。丸呑みにされていくように、水溜りの中に沈み込んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。恐怖を限界になるまで与えるように。わざとらしく、ゆっくりと。

 

「さあ、見せてくださいね。あなたの覚悟を」

 

 途中まで怯えていた紅子さんはしかし、その言葉を聞くと彼女を睨みあげた。

 

「意地でも帰ってくるからね。そうしたら、その綺麗な顔、一回つねらせてもらおうかな!」

 

 鈴里さんはここで初めて驚いたような、面白いものを見たような表情をした。

 

「どうぞご自由に。できたらのお話ですけれど」

 

 これだけのことをされてつねるだけで済まそうだなんて、紅子さんは控えめだなあ。そんなどうでもいい思考をしつつも、馬鹿にするような態度の鈴里さんの姿が誰かさんと被って見えて、怒りがどんどん湧き上がってくるのを感じる。

 

「アタシのやりたいことは、アタシが決める! 絶対に帰ってきてやるから!」

 

 意地っ張りな紅子さんは叫んで、俺と共に完全に水溜りの中へ。

 深く深く、黒く黒く、鏡写しの世界へ。

 

 最後に見た鈴里さんの瞳は、ほんの少しだけ期待が滲んでいた。

 



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怪異の本能

 そこは暗闇だった。

 暗く、暗く、闇よりもなお暗い。そんな、ドロドロとした場所で、困惑しきった紅子さんの姿が傍にある。

 意地を張っても、やはり怖いものは怖いんだろう。俺だって、今こうして紅子さんがそばにいると分かっているから怖くないだけで、きっと一人だけでこの場所に叩き落とされていたら、怖くて一歩も動けなくなっていたかもしれない。

 

「試験って、一体なにをすればいいのかな」

 

 赤い、ボロボロになったセーラー服。首の傷は血が止まっているものの、深く深く切れたままで、長い黒髪をまとめたポニーテールは直されることなく曲がっている。そんな悲惨な状態の彼女は、周囲を伺いながら歩き出し始める。

 

「わっ、なにこれ……」

 

 彼女が一歩一歩歩くたびに、その足跡が真っ赤な血に染まっていく。

 彼女が歩いた場所は血の足跡となって背後に残り、それを彼女はひどく不気味そうな表情で振り返る。

 ついて歩くと俺の足跡は別におかしなところなんてなにもないから、なおさら不気味だ。

 

「おなか、すいたな」

 

 そうしてしばらく歩き回っていると、ふとした瞬間に紅子さんが呟いた。

 

「おかしいよね、幽霊なのに。なんでかな」

 

 紅子さんはその理由が分からずに首を傾げている。けれど、俺には分かった。

 幽霊や怪異はお腹が空かないし、睡眠も必要がない。なにかを食べるのも、眠るのも、やらなくてもいいけれどやりたいヒトはやればいいという趣味嗜好の範囲なのだと、聞いたことがある。たとえば、魔女のペティさんなんかは寝ずに研究を続けているが、お菓子は食べるといったような。

 その辺、紅子さんは人間としての自分を忘れないように、ずっと人間らしく生活することを心がけているみたいだが……食欲と睡眠欲の欲求は著しく低いらしい。

 

 そんな彼女のお腹が空くとしたら、それは本能から来るもの。

 怪異として、『畏れ』を求める欲求に他ならない。

 

「光……?」

 

 どれくらい歩いたかも分からない時間歩き続けて、辿り着いたのは胸の上くらいに位置する複数の窓のようなもの。その奥に見えるのはどこかのトイレのようだった。

 

「洗面台の……鏡、かな?」

 

 紅子さんが言うように、きっとその窓は鏡なんだろう。

 鏡の世界から、表にある世界が見えているだけなのだ。

 

「……なに」

 

 鏡の外に、女の子の姿が映る。

 その子は鏡の外で、ただ一人個室に入っていく。

 紅子さんがその光景を見た途端、両手で胸を押さえてうずくまった。

 

「紅子さん!?」

「なに、これ……どうして……」

 

 頭を抱えるように紅子さんが苦しむ声をあげる。

 そして、なにかを拒むように首を振るが、彼女の苦しそうな声は治らない。

 俺は触れられないなりにその背中をさするように腕を動かす。気休めどころか、記憶の中の彼女には届かないが、そうしないと落ち着いていられなかったからだ。

 

「はっ……赤……赤、い……ちゃんちゃんこは……」

 

 漏れ出るその言葉に、俺は手を止める。

 

「赤い、ちゃんちゃんこは、いらない……かなぁ?」

 

 生気の感じられない虚ろな声。

 合間に混じる「言葉がっ、勝手に」という紅子さんの訴え。

 彼女の中でなにが起きているのか、俺には分からなかった。

 

「きゃっ、なに今の声……?」

 

 女の子の悲鳴で、鏡の外を見る。

 個室から慌てて出てきた女の子は「怖っ、いらないよそんなの」と言いながらトイレから出て行った。

 

「はっ、はっ、はっ、うう……」

 

 荒い呼吸、なにかに耐えるかのようにぎゅっと自身の体を抱きしめ、紅子さんが立ち上がる。

 

「アタシは、アタシの名前は『赤いちゃんちゃんこ』……」

 

 鈴里さんに言われたことを思い出したのか、紅子さんは額に汗を滲ませながら震えた声で呟いた。

 

「アタシは、化け物になっちゃったの……?」

 

 そんなことないと、伝えてあげたかった。

 けれど、それはできない。伝えるとするならば、きっとこの記憶を見終わったあと、本人にするのが一番なのだろう。

 

 先程の出来事がきっかけとなったのか、見ているだけで辛い場面の繰り返しが始まった。

 

「赤いちゃんちゃんこはいらないかなぁ?」

「いやぁ! いらないいらない!」

「赤いちゃんちゃんこ着せましょうかぁ?」

「本当に出たー! いやぁぁ! いらない!」

「着せましょうか、着せましょうか、赤いちゃんちゃんこ」

「いりません!」

 

 心霊スポットとして人気になってしまったのか、次々と鏡の外にやってくる人間達。問答をするたびに、その瞳に諦めが滲んでいく紅子さん。 そんな姿を見ていられなくて、でも目を逸らすわけにもいかなくて、俺は泣きそうになりながらただ見ているだけ。

 

 

「お腹が空いた感覚が、随分と楽になったかな」

 

 淡々と呟く彼女に、ちょっとした危機感を覚える。

 怪異らしく瞳孔を開ききり食い入るように鏡を覗く彼女は、俺の知っている紅子さんとは似ても似つかない恐ろしい表情をしている。

 

 ――これでは本当に怪異そのものだ。

 

 彼女は怪異なのに。そんな思考が頭の中を過ぎる。

 普段の紅子さんがあまりにも人間臭かったから、今の異様な姿が信じられなかった。

 

 鏡の外に気の弱そうな女の子と、気の強そうな女の子。二人が映る。

 

「………………二人とも」

 

 紅子さんの冷たい声が漏れる。

 それは、紅子さんを突き落とした女子生徒と、いじめの主犯をしていた女子生徒の二人組だった。

 

「ねえ、やめようよ……」

「ふんっ、問題ないわ。紅子が出ようとなんだろうと、あたしたちはあいつに勝ってるんだから!」

「ふ、不謹慎だよぉ」

「なによ、またいじめられたいの?」

「そ、それは、嫌だけど……」

 

 とうとう紅子さんの瞳から光が消え失せる。

 まずい。直感した。

 けれど、俺にはなにもできない。紅子さんの今の結果を知っている俺でも、この状況はまずいとしか言いようがなかった。どうやって、こんな状況を乗り越えたというのか、さっぱり分からなかった。

 

 あんなことを言われているんだ。

 復讐心が芽生えていてもおかしくない。たとえ自殺することで彼女らに消えない傷を残してやったのだとしても、こうして反省の欠片もしていない姿を見せ付けられれば、抑え込んでいたはずの黒い気持ちが溢れ出しても無理はないのだから。

 

「ほら、入って入って!」

「うう……」

 

 弱気なほうがトイレに入る。

 

「……せましょうか、着せましょうか、赤いちゃんちゃんこ」

 

 紅子さんはその光景を食い入るように見つめながら、言葉を紡ぐ。

 

「で、出たー!!!」

 

 そしてすぐに弱気なほうがトイレから出てくる。

 

「ちょっと! 答えてきなさいよ!」

「無理無理無理ですー! 怖いもん! ホントに紅子の声だよこれぇ!」

「なによ、この弱虫!」

 

 問答に答えないまま出てきた女子生徒は、気の強いほうがトイレの個室に入るとそのまま付き合っていられないとばかりにトイレを飛び出して行った。

 

「ふんっ、なにがお化けよ」

 

 トイレの個室に入った主犯はそのまま待つように腕を組む。

 踏ん反り返っていっそトイレの床に倒れちまえばいいのになんて感想が思い浮かぶが、きっと紅子さんはその比じゃないほどの怒りと復讐心に駆られているはずだ。

 ちらりと隣の彼女の様子を見る。その瞳は、まるでガラス玉のようで、なにも映していなかった。

 

「着せましょうか、着せましょうか、赤い、まだらの、ちゃんちゃんこ」

「来たわね……おら紅子! 出てきなさいよ! 着せられるもんなら着せてみなさい!」

 

 まずい。

 思った瞬間だった。

 

「っは、うっ、うううう……!」

 

 紅子さんが自分の喉からガラス片を引き抜き、鏡の枠に手をかける。

 しかし、そこから先は動かない。歯を食いしばり、目を見開き、ようやく生気の宿った瞳は耐え忍ぶように細められ、苦しみの声をあげていた。

 

「くそっ、アタシは……自分で決めるんだ。人は殺さない、復讐なんてしないっ、絶対に、絶対に、絶対に!」

 

 そして手に持ったガラス片を、鏡の枠に手をかけた自身の手へと突き立てる。

 嫌だ嫌だと首を振るその額には、脂汗が滲んでいた。

 

「なによ、来ないじゃない。ほらほら! 着せられるもんなら着せてみなさいよ!」

「やめてっ、くれるかなぁ!? 本当に、あの子は……!」

 

 なおもあげられる声に紅子さんが悲鳴のような叫びをあげる。

 ガラス片を手に持ったその手のひらにも、握りしめすぎて血が滲んできていた。体を乗り出すように、鏡を通り抜けるその手前で止まった彼女は、耐え続けている。

 

「くっ…………うぅっ……」

 

 その心に反して動こうとする体を必死にその場に縫い止めて、紅子さんは目を大きく見開く。

 

「やっちゃえばいいのに。ねえ、アタシ」

 

 その場に、紅子さんの声が響き渡る。

 しかし、その声は彼女自身の口から漏れ出たものではなかった。なぜなら、紅子さんは唇をひき結んで本能から来る衝動に耐え続けていたからだ。

 どこからか聞こえたその言葉に、冷や水を浴びせかけられたかのように、紅子さんは視線を背後に移した。

 そこにいるのは俺……ではなく、紅子さんの背中から飛び出した……あの、赤い蝶のような形をした痣。

 

 その痣が形を変え、ふわりと彼女の背中に覆い被さる。

 それは、鏡合わせになった影のようなもの。

 

 ――もう一人の紅子さんだった。

 



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「不殺」の誓い

「ねえ、憎いのは自分でも分かってるよね。どうしてアタシに任せてくれないのかな?」

「アタシは、自分で決めた。人は殺さない。アタシは、まだ人間でありたいから」

 

 それはまるで自問自答の具現化。

 瞳から光をなくしたもう一人の紅子さんが、問いかけ続ける。

 

「アタシも、またキミ。キミの中に憎しみがなければ、アタシはここに存在しない。それは分かっているかな? それでも?」

「それでもだよ。アタシは、アタシの矜持のために、自分の我儘のために殺したくないって言っているんだ」

「へえ、アタシを拒絶するんだ。それじゃあ苦しいだけなのに」

「違う」

 

 背中に覆い被さるもう一人の紅子さんに、彼女は断言する。

 すると、もう一人の紅子さん……いや、影紅子さんって言えばいいのかな。影紅子さんは驚いたように目を丸くした。

 

「アタシは別に、キミを否定したいわけじゃない」

「でも、殺したくはないんでしょう? どうして? 否定はしないのに、アタシのやりたいことに口出しするの? アタシはキミなんだよ、選択肢を奪われるのは大っ嫌い」

 

 不満そうに影紅子さんが言う。

 それに対して、紅子さんは自嘲気味に笑った。

 

「アタシだって、嫌だって言っているのにやらされるのは嫌だよ。アタシも選択肢を奪われるのが大っ嫌い」

「心の中で正反対のことを思っているだなんて、変だねぇ」

「そうだね、変だよ。でもそれが人ってものじゃないかな?」

「そうなの?」

「そうだよ」

 

 子供のように首をかしげる影紅子さんに、彼女は優しい声色で諭していく。

 恐らく本能の具現化と思われるその影紅子さんは、理性で押し留められることに不満があるんだろう。

 

「アタシは憎い。殺したいほど、憎い。確かにそうだよ。でもね、いつかはアタシを殺そうとしたあの子達も、幽霊になったアタシよりも先に地獄へ堕ちる。そのとき思う存分に笑ってやればいいんじゃないかな? そう思っているんだよ」

「うわー、性格悪ーい」

「……アタシと同じ声で随分とまあ、幼い」

「だって生まれたてだからね。そっか、ふうん、そっか。アタシを拒絶したいわけじゃあ、ないんだ。変なの」

「この負の感情も、全部、全部受け入れた上で、アタシは殺さない道を選ぶ。ただそれだけだよ。キミもアタシ、受け入れないわけが、ないよね」

「……受け入れた上で、ねぇ」

「最初はアタシだって、この気持ちを認めたくなかった。でも、ここに来てから、人間、なにかを憎まずに清廉潔白なままで生きることはできないって思い知ったよ」

 

 自嘲するように紅子さんが笑う。

 

「死んでるのに?」

「死んでるのに、かな」

「そう」

「認めた上で、受け入れた上で、選ぶ。アタシは意地でも人殺しなんてしてやるものか。そんなことをするくらいなら、このまま消滅してしまったっていい。この矜持を曲げるくらいなら、死んだほうがマシだよ」

「死んでるのに?」

「死んでるけど!」

 

 からかうような口調の影紅子さんも笑う。からからと、鈴を転がすように大笑いしている。まるで笑いのツボに入った子供のように。

 

「あれを聞いていても、まだそう思えるだなんて、我ながらすごいねぇ」

 

 鏡の外では、いじめの主犯がなおも叫び続けていたが、やがて飽きたのか、トイレから出て行く。紅子さんは、怪異としての本能に耐え切ったのだ。

 

「アタシは殺さない。怪異として生きても、誰も殺さない。アタシは人として、ここに存在()りたい。怪異失格でもいい。アタシはそれだけは絶対に曲げない」

「……分かったよ。拒絶されたらどうしようと思っていたけれど、そうやって受け入れた上で誓うっていうのなら、仕方がないよねぇ。キミがその誓いを守る限りは、アタシは眠っていてあげる」

 

 影紅子さんが目を瞑り、紅子さんを抱きしめる。

 そして、ゆっくりと溶けるようにしてその中へ消えていった。

 

「……これで、いいのかな?」

 

 紅子さんが振り返る。その瞳には、もう迷いや戸惑いは見られなかった。

 それから俺も彼女に倣って振り返ると、そこには鈴里さんがいた。

 鈴里さんはパチパチと拍手をしながら、こちらへ歩み寄ってくる。

 

「すごい、すごいです。私の『試験』に耐え切ったのは、あなたが始めてですよ。本当は、『本能に抗えずに堕ちていくあなたの絶望』を食べるつもりでしたが、これはこれで重畳です。文句なしの合格ですね」

 

 鈴里さんの言葉に思わず握り拳を作る。

 いや、いやいや、これはただの記憶だ。殴れるはずがない。

 そもそも、いくら凶悪でも女の子の姿をした鈴里さんを殴るのは憚られた。

 でも絶対次に会ったら文句を言う。絶対にだ。

 神内も大概だが、このさとり妖怪性格が悪すぎる。

 

「一ヶ月の飢餓に加え、怪異としてのやり方を学んだ上で一週間、あなたは耐え切りました」

 

 まさか一週間も経っていたとは。体感はそれほど経っていないのだが、もしかして時間の流れでも違ったんだろうか? 

 本能をわざと刺激して試すとか、これが同盟の試験だと考えると鬼畜すぎる。

 確か、鈴里さんの試験に合格できたヒトは紅子さんだけなんだったか……ということは、正式な試験ではないよな。こんなのが正式な試験だったら畜生すぎるし。

 

「そうですね……気分がいいので特別に、あなたは私が教育することにしましょう」

「……チェンジで」

「えっ」

 

 ここで初めて鈴里さんが焦りを見せた。

 

「酷いことをしたのは確かですが」

「チェンジで」

「紅子」

「気安く名前を呼ばないでくれるかな?」

 

 剣呑な表情でやりとりをする紅子さんに、若干焦っている鈴里さん。

 紅子さんの対応は至極当然だと思う。だってそれだけのことをされたんだから。鈴里さんをそう簡単に信用するわけがないし、こんなことをされた相手に教育してもらうとか恐ろしすぎる。

 

「ごめんなさい、許してくださいよ」

「やだね」

 

 そう簡単に許されることじゃないと思います。

 

「ほ、ほら、今度こそ同盟の本部に連れて行きますから」

「……」

「なんですかその疑いの目は!」

 

 当たり前だと思います。

 

 ジト目で鈴里さんを猫のように威嚇する紅子さんと、頑張って距離を縮めようとする鈴里さん。まるで警戒する野良猫に近寄って行こうとするようなその光景に、思わず笑いが漏れた。

 

 ――と、そこに鱗のような紋様が空間いっぱいに広がった。

 

「ちょっとしらべちゃん! 新入りを連れてくるって言って一週間経ってるよ! どういうこ……なにこの状況?」

 

 真宵さんの鏡界移動で蛇の瞳のような裂け目から出てきたのは、薔薇色の髪をたなびかせるアルフォードさんだった。

 困惑したように首を傾げている。そりゃそうだ、鈴里さんは無表情のまま手をわきわきして紅子さんににじり寄り、紅子さんはじりじりと後退していく。

 いきなりそんな光景を見たら困惑もする。

 

「ちょっと、もしかしてしらべちゃん。またやらかしたの!? もう、貴重な怪異の分け身で遊ばないでよ!」

「すみません、つい」

「つい、で何回怪異の心を壊せば済むの!? 同盟から除名されたいの!?」

「うっ……それは勘弁を」

「もう!」

 

 ぷんすかと怒りながら、アルフォードさんが紅子さんの手前に近づく。

 彼女はそんなやりとりを見てアルフォードさんが鈴里さんよりも上の立場だと認識したのだろう。疑いの眼差しを向けつつも逃げることはなかった。

 

「ごめんね、この子が性悪で」

「ちょっと、アルフォードさん、ちょっと」

「しらべちゃんは余計なこと言わない! 反省して!」

「……はい」

 

 そして、アルフォードさんが頭を下げる。

 

「不信感を植え付けちゃったよね。ごめんね。オレはアルフォード。人と共存し、寄り添いながら生きることを選んだ神妖大同盟の代表だよ。キミがキミである限り、オレ達はキミを歓迎する……ええと」

「紅子。赤いちゃんちゃんこの、赤座紅子です」

 

 紅子さんが名乗ると、アルフォードさんはパッと顔を明るくして「よろしくね、紅子ちゃん!」と声をあげる。

 

「……アルフォードさん、彼女は『不殺の誓い』を立て、私の試験に打ち勝ちました。間違いなく信用できますよ」

「しらべちゃんの試験に受かったってことはそういうことだよね、うん。初めての合格者がこんな可愛い子だなんてなあ……すごいすごい!」

「あの……ありがとう、ございます?」

「あ、敬語はいらないよ。オレ達は人じゃないんだから、自分のあるがままでいるべきだからね!」

「そ、そっか……? 分かりまし、分かったよ」

 

 ちょっと言いにくそうにしながら、紅子さんが頷く。

 

「それじゃあ行こうか。キミが怪異であり、人であれるようにできる場所へ」

「……アタシのこと、見ていたわけじゃない……んだよね?」

「うん。でもしらべちゃんとのやりとりを見ていたらなんとなく分かるよ」

 

 紅子さんの心を見透かすようにアルフォードさんが笑う。

 それから手を差し出した。

 

「ようこそ赤いちゃんちゃんこ。神妖(しんよう)大同盟へ!」

「私が言うはずだったのですが……」

「しらべちゃんは反省して」

「……」

 

 そんな二人のやりとりに紅子さんが思わずと言った様子で笑う。

 

「よろしくお願いします」

 

 そうして彼女はアルフォードさんについて行くように足を踏み出した。

 

「いやあ、面白いことになったなあ」

 

 上機嫌なアルフォードさんが笑って、そうして……俺を見た。

 

「え」

 

 その視線は一瞬。

 けれど、視線を余所に向けただけにしては不自然な動きで、確実に俺を見ていたとしか思えない行動だった。

 

「これからが楽しみだねぇ」

 

 そこで、俺の意識は浮上していくのだった。



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決意と意地

 意識が浮上する。

 そして、目の前の紅子さんと目が合った。

 

「おはよう、お兄さん」

「あ、うん、おはよう」

 

 挨拶をされて反射的に返す。

 周囲に目を向けると真白さんや破月さんは未だに蜜柑を食べていて、その場にはいつのまにか羊羹の皿が増えていた。どうやら、少しだけ時間が経っているらしい。

 

「誓い、か」

「うん、誓い。アタシはあれから二年、ずっとキーワードを言われても人は見逃し続けているんだよね」

 

 二年、二年か。それは、とんでもないことだ。

 一ヶ月の飢えであんなにもボロボロですぐにでも消えてしまいそうだった紅子さんが、二年も耐え続けている。

 

「あのあとは、しらべさんに夢の中で疑似的に畏れを得るためのやり方を教えてもらって、それで今のアタシのやり方があるんだよ。畏れは手に入るようになったから、一応今のところ問題はないよ」

「え、でもあんた」

 

 真白さんの言葉に紅子さんが視線を向ける。

 やめろと、そういう視線だった。

 けれども、それでもなお真白さんは容赦なく続けた。

 

「誤魔化しきれなくなっているのは自分でも分かっているんじゃないかしら? あなた、そのままなんの対策もせずに同じことを繰り返していると、そのうち本当に消滅しちゃうわよ。もう既に、結構危ないところまで来ているでしょう?」

 

 その言葉に、俺は言葉を失った。

 

「紅子、さん?」

「……大丈夫だよ、まだ。でも、お兄さん。覚えていてほしいんだ。アタシはアタシが選んだ結果からは逃げも隠れもするつもりはないってことを」

 

 それはつまり、足掻いた結果消滅するとしても、受け入れるということだ。俺を置いて行くことになっても、いいということだった。

 

 ……そんなの。

 

「嫌だよ、俺。嫌だ」

「これはアタシの矜持。それを曲げることはありえない」

「それは分かってるけど……」

「お兄さんだって、アタシに人殺しはしてほしくないでしょ」

「そうだけど、紅子さんがいなくなるのは嫌だ」

「まだそうと決まったわけじゃないよ」

「でも」

 

 俺がなおも食い下がろうとすると、紅子さんは睨むようにしておれを見上げる。

 

「これはアタシの意地だ」

「……」

 

 ほんの少しだけ目を瞑り、考える。

 それでもやっぱり、俺は首を振った。

 

「それなら、俺が君を守ろうと決意するのも、俺の意地だよ」

「……あのねぇ、たとえお兄さんでもアタシの矜持を曲げさせようとするなら許さないかな」

 

 分かっている。そんなことは分かっている。彼女が頑固で意地っ張りなのは今に始まったことじゃないんだから。

 

「なら」

 

 言葉を紡ぐ。

 

「なら、紅子さんの矜持を曲げずに、どうにかする方法を探すよ」

「……今まで、アタシが散々探して見つからなかったのに?」

「人それぞれ視点が違うんだ。俺も探してみれば、なにか見つかるかもしれない。一人より、二人だよ」

 

 そこで彼女が大きくため息を吐く。

 それは、彼女がなにを言っても無駄だと判断して諦めた証拠だった。

 

「大事な話し合いはできたかしら?」

「ええ、ちゃんと」

 

 優雅に微笑む真宵さんに、そう答えた。

 このために、このヒトはきっと俺達をこの神社に誘ったのだろう。まったく本当に食えない祟り神様だ。

 

「意地の張り合いとはまさにこのことよなあ。はっはっはっ」

「ひとまず、私はその子が危ないことを伝えられたからそれでいいわ。ここに来なければ、そっちの人はまず間違い無く、その子が消滅の危機にあることに気がつかなかったでしょうし」

「不甲斐ない……」

「ま、それだけその子が隠すのが上手ってことだもの。知れたんだから、あとは頑張んなさいな」

 

 真白さんからの激励を受けて頷く。

 

「さて、お昼の時間だけれど、ここで食べて行く? どうするのかしら?」

 

 真白さんの言葉を受けて縁側のほうを向けば、すっかり太陽が頂点に達しているのが分かった。

 

「次はあやかし夜市に行こうと思っているのよ。軽食だけ済まして行きましょう」

「えっ、あそこの食べ物は食べちゃいけないんじゃ……」

 

 昔、あやかし夜市に行ったときの光景を思い出す。

 そう、確か鈴里さんに黄泉竈食(よもつへぐい)になるから食べてはいけないと咎められたのだった。

 

「食べちゃいけないものと、大丈夫なものがあるのですわ。あの世のもので作られた食材は黄泉竈食にあたりますが、現世で作られた食材を使った料理なら、なんの問題もありませんの」

 

 なるほど。

 つまりあの触手のようなイカ焼きはそういう食べちゃダメな類だったと。

 一年越しにやっと理解できた。

 

「軽いものねぇ……素麺が余っていたかしら……ちょっと待っていてくださいね。ほら破月、行くわよ」

「我もか?」

「お客様にお出しするんだからあんたも手伝いなさいよ! 手早く作るわ」

「ふむ、あい分かった」

 

 そうして部屋から出て行く真白さんに破月さん。それから「ててて」とついて行く座敷童とウサギ耳の少女。多分あの子達も手伝いだろう。

 

 俺はそれを見送って、息を吐く。

 なんだか色々と話してすっきりした感じがするな。それと同時にほんの少しだけ疲れた。

 

「きゅう」

 

 鞄の中で寝ていたリンが「お昼」の単語に反応したのか、ふわりと飛んで俺の肩に乗る。

 ……そういえば、記憶の中でアルフォードさんがこっちを向いたことは伝え忘れていたな。紅子さんも多分気づいていないことだろうし、どうしよう。

 

「今度、訊けばいいか」

「どうしたの? お兄さん」

「いや、ちょっとアルフォードさんに訊きたいことができただけだよ」

「そっか」

 

 チリーンと、縁側の風鈴が揺れ涼やかな音が鳴る。

 こうして、鏡界で迎えるお昼は過ぎて行くのであった。

 



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玖の怪【蛇神様のいうとおり】
黄泉中有の道


 真白さん達と別れて、俺達は再び鏡界を巡る旅に出ていた。

 

「さて、お次はあやかし夜市ですわ」

「助かります」

 

 真宵さんの言葉にちょうどいいなと思いつつ、返事をする。

 過去のこととはいえ、鈴里さんに会って文句のひとつやふたつつけてやらないと気がすまないのだ。

 

「その前に、あやかし夜市へと向かうために雨垂れ小道へと向かいますわ。そこを通るのが一番の近道なのです」

「雨垂れ……」

 

 いかにも雨が降っていますと言いたげな道の名前だ。

 大丈夫だろうか? 傘なんて持っていないが。

 

「こちらです。この山の中腹に『繋ぎ目』があるのよ」

 

 真宵さんは軽装なのにどんどんと道を進んでいく。

 俺達は顔を見合わせてから慌ててそのあとを追い始めた。

 

「繋ぎ目ですか?」

「ええ、あの世とこの世の」

「えっ」

 

 さすがにその答えは予想していなかった。

 

「あら、あやかし夜市は限りなくあの世に近い場所にあるのよ。その境界(さかい)で開催されている縁日は永遠に続く……あそこに迷い込むのは本来、暗い気持ちを持った人間や、わたくしどもに呼ばれた人間だけなのですわ。そう、死に近い、わたくしどもに求められる人間が迷い込む場所なのです」

「それって」

 

 真宵さんの黄色い眼が蛇のように細められる。横顔に影のようにかかる、禍々しい巻き角が恐ろしい蛇のような様相を醸し出していた。

 いや、実際にこのヒトは蛇神なのだった。それも新米のおしら神である詩子ちゃんよりもずっとずっと年季の入った祟り神なのである。そりゃ恐ろしくて当然だ。

 

「……故に、あやかし夜市は『黄泉中有(よみちゅうう)の旅の道程(どうてい)』であり、『再び生きることを思い出させる道』であり、『再会の道』でもあるのですわ」

「どういうことかな?」

「難しかったかしら?」

 

 質問を質問で返された紅子さんが複雑そうな顔をする。

 オカルトなことを随分と知っている彼女でも、元々はそう考えることが得意じゃないんだと思う。分からないから訊いているんだと言いたげな表情だった。

 俺にもさっぱりだから詳しい説明はほしい。一年前はそんな大それた場所だとは思っていなかったわけだし……ああ、でも、あやかし夜市で作られる特定の食べ物が黄泉竈食(よもつへぐい)に当たるなら、確かにあの世の一種なのか? 

 

「中有とは、死してから次の生へと至るまでの期間を指しますわ。そして、黄泉中有の旅とは、霊魂が中有を彷徨うことを……つまり、冥土への旅を表します。あやかし夜市はその旅の道すがらにある最後の縁日。そこで誰かを待つのも良し、ほんの少し留まって人生を振り返るもよしな所謂……中間地点と言えば良いのでしょうか」

 

 その説明を聞いていて、少し疑問に思った。

 確か青凪さんは三途の川のほとりで留まり、俺を見ていたはずだ。あやかし夜市が最後っていうのはなんとなく違和感がある。

 それを問えば、真宵さんは驚いたように「あら」と言葉を漏らした。

 紅子さんも初めて聞いたからか責めるように俺をその紅い瞳で見つめてくる。結局、生死の境を彷徨っているときにあったことを誰にも言っていなかったからだ。

 

「三途の川という大きな大きな境目。そこに続く道がひとつしかないと思いますか?」

「なるほど」

 

 つまりあやかし夜市はそのひとつにしか過ぎないと。

 しかし最後の縁日というのは……? 

 

「言いましたように、あやかし夜市には死に近い人間も迷い込みます。そこが他の道と違うところですわね。行きはよいよい、縁日を過ぎてあの世に一歩踏み込めば余程のことがない限り戻ることは叶わない……そういうことですわ」

 

 その言葉でやっと理解する。

 縁日で引き返せば死ぬことはなく、そのまま進み続ければ生死を彷徨った人間は本当に死ぬということだろう。

 

「故に、『再び生きることを思い出させる道』なのですわ。お祭りの楽しい雰囲気で沈んだ心が浮かび上がればそれで良し、そうでないなら、死出の旅路へと誘われるだけですのよ」

 

 そこまで来て、俺って結構危ない橋を渡されていたんじゃないかと気づいてしまった。あの野郎……! 

 

「あなたのような生き生きとした人間は万が一にもあの世側へ踏み出すことはないから安心してちょうだいな。それに、ちゃんとわたくしが案内してさしあげたでしょう?」

 

 そういえばそうだ。

 俺はあの夜市で、真宵さんについていった。その結果変なものを食わされそうになったが、今の話を聴くと一応俺が変な道に行かないようにしてくれていたのだと知る。あのとき抱いた印象とはまるで真逆な心の変化に戸惑う。まさかあれも親切の一環だったとは。

 

「余程のことがない限りはしらべが巡回して元の世界に返していますが、それでも強く死を願っているものはその先へと進んでしまうものです。しかし、わたくしどもがあの道を見張るようになってからは魂を食べる怪異の類や生きている人間を誘い込み食い物にしてしまう……そんな悪意のある者達が寄り付かなくなったので平和が保たれているのですわ」

「それで、再会の道っていうのはなにかな? そこで待っていた霊と、後からやってきた待ち人との再会?」

 

 紅子さんが尋ねると、真宵さんは優雅に扇子で口元を隠して「それもありますが」と言葉を紡ぐ。

 

「あそこには『九十九(つくも)のお宿』があります。打ち捨てられ、あるいは持ち主に忘れ去られて集った未熟な付喪神達の住まいです。そこに迷い込んだ人間はお宿側から一人、お付きの子が充てがわれその夜を過ごすこととなりますの。といっても、お喋りをしながら夜を明かすだけですが……」

 

 真宵さんの視線が俺を向く。

 いやいやいや、別に変なことは考えてませんよ。なんで意味深に笑うんですか!? 俺のことをなんだと思ってるんだ! 

 

「そして、夜が明けて帰る際、お宿に泊まった人間にひとつだけお土産が渡されます。ただそれだけの場所ですが……」

「再会……ってことは、その渡されるお土産っていうのが付喪神入りの品物なのかな?」

 

 紅子さんの回答に満足気な表情で真宵さんが頷く。

 どうやら正解らしい。

 

「お宿に泊まった人間には、縁のある道具しか視えません。本来はおびただしいほどの品物がそこら中にあるのですが、その人間に縁ある品物しか目に映らないようになっているのですわ」

「……ということは、そのお付きの子っていうのが」

「その、付喪神ですわ」

 

 なるほど。確かにそれは『再会』の名前を冠するだけはある内容だ。

 

「あやかし夜市の元締めはしらべですが、創設者としてはわたくしの管轄ですの。場所こそ狐に借りていますが」

 

 言われてみれば、なんで夜刀神社でやらないんだ? 

 道がその場所にしかなかったというのならまだ分かるが、この口ぶりだと別にそんなことはないよな。

 

「真白ちゃんが、賑やかなのを嫌うのよ」

 

 ただの親バカ……いや、祭神バカ? だったみたいだ。

 

「元は縛縁(はくえん)の夜市と呼んでいたのですわ。今は、分かりやすくあやかし夜市と呼んでおりますが」

 

 縛縁。それは真宵さんの苗字になっていたと記憶している。つまり、彼女が主となったあの世とこの世の境目。境界。夜刀神は境界の神様だったな。

 

「八とは完全を意味し、九は永遠を意味する数字なのです。故に八九縁(はくえん)。あの世に縁が繋げられ、縛られることとなる前の、最後の道。故に縛縁(はくえん)の名前を冠するのですわ」

 

 全てが繋がって、感嘆の息が漏れる。名前とはそんなに重要なものだったかと改めて認識したからだ。

 

此岸(しがん)彼岸(ひがん)も、名で全ては縛られているのです。上位の力ある存在は己に名付けをして、他方に縛られることを防ぎますが……それができるのは一握りの神や大妖怪のみ。名付けとは、その者の魂や命を握るようなものです。この世では、名前というものはそれほどに重要な情報なのですよ」

 

 意味深に紅子さんと俺とを交互に流し見た彼女はピタリと足を止めて、閉じた扇子をスッと肩よりも上へ掲げる。

 それからとある方向を扇子で指し示して「あれが、目指していた『雨垂れ小道』ですわ」と言う。

 

 しかし俺達は唖然とそれを見ることしかできなかった。

 

「滝じゃないか」

 

 ざあざあと遥か頭上から降り注ぐ水、水、水。そしてその下を通れば体がバラバラになるんじゃないかというくらいの轟音。

 ああ、マイナスイオンが出てそうな気持ちのいい場所だなあ……なんて言えるか!? 雨垂れと言える規模じゃないんだけれども! 

 

「真宵さん、雨垂れの意味をちょっと検索してみてくださいよ」

「アタシもあれはちょっと……」

「ちょっと派手なだけですわ」

 

 あなたのちょっとは俺達にとっては大分です。

 

「大丈夫ですわよ? ほら、そこにある傘を手にとってご覧なさい」

 

 彼女が再び扇子で指し示した方向を見る。

 巨大なフキの葉みたいなものがあった。その下に木の板でなにか書いてある。

 

「おひとつ、お使いください」

 

 いやいやいや。

 

「フキの葉で滝が防げるのか!?」

 

 俺の全力の叫び声は山間に響き渡って行くのであった。

 



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相合い傘の雨垂れ小道

 カツン、カツンと反響するように靴音が響いていた。

 現在、俺達はあの滝の裏……洞窟になっていたその場所を共に歩いている最中である。

 洞窟の中も水が染み出してきているのか、まるで雨が降るように雫が垂れて来ており、もし傘もなくここを歩くことになっていたら、ずぶ濡れになっていたことだろう。

 ところどころにある鍾乳石を避けながら、冷える洞窟内を進んでいく。

 

「まさか本当にフキの葉で滝を通り抜けられるだなんて……」

「アタシも同盟のことについては結構慣れたと思っていたけれど、まだまだ知らないことがあるって思い知っているよ」

 

 隣にいる紅子さんが、半目になって前を見据えている。

 そこには軽い足取りで日傘のようなものをくるくると回しながら歩く真宵さんがいた。

 

「あなたはアパート周辺でしか活動していなかったものねぇ。仕方がないわ。冒険でもしようと思わなければ、鏡界はあまりにも広すぎますから」

 

 鏡界の広さは折り紙つきだ。なんせ、現実の世界と表裏一体になっている世界なのだ。それだけこちらも広いということである。ところどころにショートカットやワープできるような魔法の道具があるが、それにしたって歩く時間も長い。俺達も今日一日だけで靴がボロボロになるんじゃないかっていうくらい歩き回っていた。

 休憩が所々で挟まれるとはいえ、足が疲れるものは疲れるのである。

 

「こちらの世界では現実世界での概念、イメージがとても重要になりますの。ですから、大きなフキの葉っぱで雨を防ぐことも可能になる、ということです」

「それが滝の水でもですか?」

「ええ、〝そういうもの〟なのですわ」

 

 確かに妖精とかコロポックル的な存在が葉っぱを傘にしているイメージはある。けれどもまさか滝の水まで防げるとは思わないだろう。

 しかも……しかもこの状態で。

 

「ちょっと、くすぐったいよお兄さん」

「あっ、その、ごめん」

 

 横を見れば、視線を下げたすぐ間近に紅子さんの頭がある。

 

「あの、真宵さん。どうして取っていいフキの葉は一本だけなんですか」

 

 そう尋ねると、真宵さんは愉快そうに笑っていた。もしやわざとか? なにか騙されているのか? そんな気持ちが否めないのだ。

 なぜなら今、俺と紅子さんはたった一本の大きなフキの葉で相合い傘をしているのだから。

 

「注意書きを見たでしょう?」

 

 それはあの、「おひとつ、お使いください」ってやつか。

 いやいやいや、普通は一人一本だろ。どうして三人いるのに一本なんだよ。

 確かに真宵さん自身もフキの葉を使わず日傘のような物を差している。俺と紅子さんで一本のフキの葉を使って雨を防いでいる。でも、さすがにそれはおかしくないか? 

 

「〝そういうもの〟なのですわ。反対側に出ればそれを返す場所がありますから、持ち帰ってはいけませんわよ。怒られてしまいますわ」

「それくらい分かりますって」

 

 返事をしてやはり隣を見る。

 身長が高い分、俺がフキの葉を高く持って紅子さんに雨垂れがかからないようにしている。その代わり俺の肩が少しはみ出てしまうが、不思議と濡れることはなかった。それは滝の下を通ることになったときも同様である。完全に葉の外に出ているのに、なぜか俺の肩が滝の水で打たれることもなかった。

 どうやら〝葉を差している〟という概念が働いているらしい……とのことだが、やっぱりよく分からない。

 

「雨垂れは三途の川ということわざもありますように、場所と場所の境には十分に注意をする必要がありますわ。そして、現世でのことわざもこちらの世界では〝概念〟として具現化しております」

 

 嫌な予感がする。

 

「つ、つまり?」

「この雨垂れは実際に三途の川の水でできているということですわね」

 

 そんなことだろうと思ったよ! 

 足元にピチャンと落ちて来た雫を思わずといった風に避ける。

 先程から湿った洞窟内をずっと歩いてはいるが、今更ながら恐ろしくなって来た。三途の川の水なんて、触っても大丈夫なものなのか? 

 そして、なによりも三途の川の水がここに通っているということはつまり、俺達は今あの世に向かわされているんじゃ……? 

 

「なにを考えているのかが聞こえなくとも、手に取るように分かるようですわ」

 

 くすくすと笑う真宵さんを見る。いや、怖いって。

 

「この洞窟は三途の川の真下を通っていますからね」

 

 トドメを刺しに来たぞ!? 

 

「あの、俺生きてるんですけど」

「アタシだってまだ渡るつもりなんてさらさらないよ?」

「大丈夫ですわぁ。ただ単に、あやかし夜市へ向かうための近道をしているだけですもの」

 

 三途の川の下を通っていく近道とはこれいかに。

 

「直線距離ならこちらのほうが早いんですもの。そんなに嫌でした? そうなると三日は歩き続けることになってしまいますが……まさか苦行を自ら望むだなんて、令一君は随分と熱心ですわね」

「違う!」

 

 胡散臭い笑い声を漏らしながら先を行く真宵さんは、きっとわざと俺達をからかってきている。なんてヒトだよ。こんなのばっかじゃないか。

 

「そもそも、キミの鏡界移動を使ったりはしないのかな」

「……? 旅行なのに反則技を使うのはよくありませんわ」

 

 そういうところは律儀なんですね。

 

「三途の川ねぇ」

 

 紅子さんのつぶやきに反応して横を見る。

 

「三途の川っていうと、紫鏡の件を思い出すな。ほら、あのときに出てきた巨大シャコって確か、三途の川で罠を張ってる怪異なんだろ?」

「って聞いたけれどね、アタシは」

 

 俺達がそんな思い出話をしていると、真宵さんが振り返った。

 その先には枝分かれした洞窟が続いている。

 

「あら、言っていませんでしたね」

 

 再び嫌な予感がした。

 

「この洞窟は、その冥土に住まうシャコが掘り進めて作ったものなのですわ」

 

 地響きが聞こえてくる。

 やっぱりこのヒトも性格が悪い。人と寄り添う同盟のはずなのに、なぜこんなにも愉快犯が多いのか、俺は胃が痛くなるように感じた。

 

「ですから、こうして遭遇することもありますわね」

 

 彼女がひらりと避けた場所に硬質なシャコの拳が叩きつけられる。

 そこにいたのは、紫鏡のときに出会ったあの、魂喰らいの化け物だった。



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三途の川底に住まうもの

「ど、どうなってるんですかこれ!?」

「きゅうい〜」

 

 慌てつつも鞄の口を開け、リンが手のひらの上に乗る。それからぎゅっと握って赤竜刀に変化したそれを油断なく構えた。フキの葉は隣の紅子さんに渡したので問題はない。魂を喰らうアレと対峙するなら、紅子さんには下がっていてもらわないといけない。

 

 大声を出しているし、足音が反響しているのでシャコは既にこちらに気がついている。戦闘は避けられないのである。

 

 しかし真宵さんはのんびりとした口調で、ただ笑ってみせていた。

 

「シャコというのは、川底に穴を掘って餌を待ち構える性質を持っているのですわ。つまり、この三途の川底にある洞窟はたくさんのシャコ達が掘り進めてできたものだということです」

「つまり?」

 

 紅子さんが話を促す。

 

「この洞窟全体が、あのシャコの住処なのです」

「自分から餌になりに来たようなものじゃないか!?」

 

 結論、やっぱりこのヒトは胡散臭いし簡単に信用しちゃダメだと思った。

 

「っち」

 

 舌を打って飛び出していく。先手必勝、いつぞやのシャコと同様なら普通に倒せるはずだからだ。

 

「あらあら、神様に向かって舌打ちだなんて酷い子ですこと」

 

 わざとらしく溜め息を吐く音が聞こえたが、ひとまず無視して化け物退治だ。確かに真宵さんには感謝もしているし、同盟の神様としてある程度の信用は置いているが、人となりのほうはあんまり信用できていない。それに、そういう言い方をされるとどこぞの邪神を思い出してしまってどうにも落ち着かない。

 

 ごめんなさい、心の中でだけ謝った。

 

「リン、行くぞ」

「きゅっ、きゅい」

 

 リンとの同調を開始。動体視力を上げてシャコの動きを見る。

 引き絞られるように腕が構えられるのを視認してから余裕を持って回避。スレスレの地面を叩いた腕を横目に、ステップを踏むように助走をつける。

 

 ……なんとなく以前に対峙したときよりもやりやすい気がするな。もしかして神中村の件で正真正銘のヤバイ神様を相手取ったからか? 

 戦闘センスのほうもなんとか実戦内で鍛えられていっているのかもしれない。

 赤竜刀が俺の〝勇気ある無謀〟に反応する以上、訓練をしたとしてもなかなか成長できないというのは難儀だが、こうして同じような奴を相手取ったときに前と違うのが分かると嬉しいな。

 

 そうして地面にめり込んだ腕に登ろうと足をかけたとき、反射的に後ろへと飛び退っていた。

 

 洞窟の天井から降ってくる水がシャコの腕に思いっきりバシャバシャと流れてきていたのだ。あのままでは多分、ずぶ濡れになっていただろう。

 さっきの衝撃で天井にヒビでも入ったのか? そんな思考に冷や汗が流れる。

 

「ま、真宵さん!」

「あら……大変ですわね。仕方がありません」

 

 焦って真宵さんに振り返ると、彼女は朗らかに笑って扇子を振った。すると、天井の割れ目の真下にぐわりと鱗状の空間が広がり、流れてくる水はどこかへと消えて行く。

 

「一時的な応急処置ですわ。あとで専門の者を派遣しましょうね」

 

 呑気に言いながら彼女はスマホをいじる……って持ってるのかよ! 神様とは一体。まあいいや、連絡してくれるならそれはそれでいいんだ。俺はこいつをどうにかするほうを頑張ろう。

 

「ありがとうございます!」

 

 礼を言って、天井を見上げる。相変わらず洞窟の天井からは断続的にポツリとポツリと水滴が降ってきていた。フキの葉から出たせいか服が少し濡れ、重たく感じる。けれど身体能力自体はリンのお陰で上がっているせいか、そこまで極端に不便には感じない。

 

 だがこうも洞窟が脆いと非常にやりずらいな。

 洞窟を壊されないように立ち回らないといけない。シャコのほうは水棲生物だから別に構わないんだろうが、俺達はこの洞窟内が水で満たされるなんてことになったら非常にまずい。動きも鈍くなるし、逃げづらくもなる。そもそも水に沈んだあと、洞窟から出られなければ普通に死ぬ。

 

「言っておきますけれど……三途の川は落ちたら最後、この川で生まれ、適応している生き物以外は絶対に浮かび上がれません。生きとし生けるものは少なからず罪を持つもの。僅かな罪の重さでもあれば、この水の中では浮かび上がらないのです。泳ぐことも不可能ですわ。お気をつけてくださいな」

 

 などという物騒な説明を後から投げかけてくる蛇神様がいるらしい。

 

「は!?」

 

 最初に思っていたよりも状況はずっとずっとヤバイ。

 シャコってあれだろ? あのあと調べたが、カニとか貝の殻を余裕で割り砕いたり、分厚いガラスの水槽をぶち抜くくらい腕力が強いんだろ? 

 小さいサイズでそれができるシャコが、この自動車サイズ。避けなければ大怪我どころか血煙になって全部消えてなくなりそうだ。想像だけでもゾッとする。

 なのに避ければ洞窟はどんどん崩壊していって、真宵さんの鏡界操作で水の処理が間に合わなければ溺れて死ぬ……と。状況が最悪すぎないか? 

 

 あと、シャコの特徴といえば背中の殻が硬いってことくらい。

 赤竜刀ははたしてあれを防げるのだろうか。折れたり……しないよな? 

 

「くっそ、リン耐えてくれ!」

 

 シャコが拳を振り抜くタイミングに合わせ、受け流すように赤竜刀を滑らせる。ギャリギャリと硬いもの同士が擦れ合う嫌な音を立てながら、しかし両者共に傷がつくことなく、受け流しに成功する。

 受け流しただけじゃあやっぱりシャコの殻に傷をつけることはできないか。

 

 幸い後ろの紅子さんや、見守っている真宵さんへは矛先が向いていない。

 しかし、真宵さんは洞窟の応急処置には参加してくれるようだが、俺に力を貸す気はさらさらないようだ。多分自分でどうにかしろということなんだろう。

 ここに連れて来たのも、実は近道云々よりもこれが目的だったんじゃないか……? そう思ってしまうほどの偶然の一致だった。

 

 相手は一体の化け物シャコ。

 それは紫鏡のときに相手取ったやつと同じ種類の化け物。

 けれど、環境は圧倒的に不利だ。

 

 ……さて、どうする? 



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シャコ妖怪のあなぐら

「くっそ……!」

 

 赤竜刀で何度か受け流し続けるものの、このままではジリ貧だ。受け流すのだって簡単じゃないんだぞ。赤竜刀だから大丈夫であるものの、相手から伝わってくる衝撃に腕が痺れてくるほどだ。随分とリンのおかげで軽減されているんだと思うが、それでもキツいものはキツい。

 

 この化け物、いや一応妖怪の類なのか? 紅子さん達みたいに噂と伝承で存在する怪異とは違い、普通の生き物のように生まれ落ちて存在する化け物。妖怪の類。伝承がなければ力も落ちるがこいつらは消滅するなんてことはない。三途の川がある限りその川底で生き続ける。そういう類の生き物だ。

 妖怪の特徴は……。

 

「いってぇな……くそっ」

 

 怪力が多いこと、そして肉体的に丈夫なこと。

 こいつは知性も理性もないようだが、その代わりに力と防御方面が強いと見た。足の速さはどうやら巨体故にないようだが、シャコ特有のパンチの素早さは普通では視認できないほど。それこそ、リンの支援がなければ俺なんて押し潰されて終わりだ。

 

 こんなやつ、無防備な背中まで辿りつければあとは刺し貫くだけなのに、ほんの僅かな時間で終わるはずの戦いなのに、俺はこうして苦戦している。

 それがとても悔しかった。

 地力の無さがはっきりと分かってしまって、あまりにも悔しい。

 俺はまだまだ弱い。リンがいなければ、その力を十全に発揮できなければこんなにも苦戦してしまうのだから。

 

「考えろ、考えろ……」

 

 奴が洞窟を壊さず対処できる方法は、なにかないか? 

 硬質な背中の殻、同じく硬質で振り抜けば一撃必殺の脚、鮮やかな体色、前面に飛び出した目玉、ぞろぞろと蠢く脚……正直見てるだけで鳥肌が立つし気持ち悪い見た目だし、虫とか黒い悪魔とかを思い出すから対峙するのも、あれに触れるのも嫌すぎる。

 だがそんなことは言っていられない。

 

 後ろで見守っている蛇神は俺の成長のためにここへ連れてきたんだろう。

 ならばなにかできることがあるはずだ。なにか、俺にもできることが。

 

 考えろ……! 元来、知恵を働かせて困難に立ち向かうのが人間のはずだろ! 

 

「くっ」

 

 シャコが動きを止め、なにをするかと思ったらその巨体を持ち上げて俺に向かってのしかかってきた。動きが大振りなので随分と余裕で避けられたが、その代わりに脚がぞろぞろと蠢く腹部を直視してしまい、気分が悪くなる。

 

 いや待てよ。腹部? 

 ああ、そういえばこういう硬い敵は腹を叩くっていうのが定石だったか。

 リアルで対峙しているとそういう知識って忘れがちだよな。ゲームとかしてるときならすぐに思いつくもんだが。

 

 しかし腹部か。

 足元に向かえばいいんだろうが、そうなるとシャコの攻撃を避ける必要が出てくる。攻撃を避ければ洞窟にダメージが行って水が流れてくる可能性が高くなる……が、やるしかないか。その辺のサポートは素直に真宵さんを頼ろう。

 

 振り返って真宵さんの表情を確認する。

 彼女は微笑んだまま、こちらを見ている。うーん、分からない。さっきサポートしてくれることは言ってくれていたし、まあ大丈夫だろう。

 

「今っ!」

 

 地面が揺れる。

 シャコの捕脚が地面を割り砕き、その隙に走り出す。

 滑り込むようにシャコの真下に潜り込み、回転。赤竜刀を扱い、一気に硬い脚を斬った。

 

「おらぁっ!」

 

 バランスを崩して落ちてくるシャコの体を真下から気合を入れて貫く。

 その途端――シャコが弾けた。

 

「ぶっ!?」

 

 そうとしか形容できない。

 赤竜刀で貫いた途端にシャコの体がぶくぶくと膨らんでいき、そして破裂した。俺はその余波を受けて尻餅をついたうえ、体液なのか真っ黒なドロドロとした液体をもろに被ってしまった。服が汚れて目も当てられないような状態だ。紅子さんにとても見せられないような無様な状態である。

 

「大丈夫かな? 随分と酷いありさまになってるけれど……」

「あ、あはは……どろっどろだ。でもやったぞ!」

「うん、おめでとう」

 

 複雑そうな顔で俺を上から下まで眺めながら紅子さんが言う。

 それからなにかを思いついたようにニヤッと笑った。こういうとき、紅子さんはなにか余計なことを考えている。そうだな、例えば俺をからかうときのような。

 

「よかったねぇ、お兄さん。その液体がタールみたいな黒で。白かったら絵面が危なかったかもしれないよ?」

「そうかそうか、紅子さんもナワバリバトルに参加したいのか。よく分かった。その綺麗な顔にたっぷり塗りつけてやるよ」

「えっ、あー……それは遠慮しておくよ」

 

 据わった目のまま言ってやれば、紅子さんは困ったように頬をかいた。自分が嫌ならからかうのはやめましょう。まったく、しかしこの体液らしきもの、べたべたしているうえになんとなく脱力感が襲ってくるような気がする。

 妖怪の体液だからなんかやばい効能でもあるのかもしれない。

 赤竜刀にもべったりとついてしまっているので、急いで血振りの要領で液体を振り払う。それから「大丈夫か、リン」と声をかければ刀から困ったような声で「きゅういー」と聞こえてきた。

 

「あれ、刀のままでいいのか? リン」

「きゅうん!」

「そっか」

 

 いつもならリンはすぐにミニドラゴンの姿に戻って、俺の肩か鞄の中へと戻る。いつもと違う行動に、ほんの少しだけ嫌な予感がした。

 

「まあ、危機は去ったわけだし……早くここから抜けよう、紅子さん。真宵さん」

 

 そう言ったときだった。今から向かおうとしている方面から、再び一体のシャコがざかざかと足音を立てながら向かってきたのは。

 

「げっ、まあいいや先手必勝で腹部を……」

 

 地響き。

 下から突き上げてくるようなそれに、俺は思わずたたらを踏んだ。

 そして地面が割れ、そいつが顔を出した。

 

「待て待て待て、嘘だろ」

 

 奥からやってきたシャコと、そして目の前の地面を割って出てきたシャコ。

 

「あ、ごめんなさい。二人とも……わたくしは水を受け止めるだけで精一杯ですわぁ」

 

 そして……洞窟の岩肌に三角のなにかが浮かび上がりこちらへと向かってくる。

 

「はあ!?」

 

 まるで岩肌の中を泳ぐようにして〝そいつ〟が現れ、そして嫌な予感がして飛び退ったところでそいつが目の前に飛び込んできた。

 

「サメ!?」

 

 岩肌から岩肌の中へと、まるで水の中を泳ぐようにしている存在。

 ジャンプしてこちらに噛みついてこようとしたその姿はサメそのものだった。

 

「なんで岩肌の中にサメ!?」

「最近の映画では空を飛ぶサメや、雪の中を泳ぐサメがいるそうですわ。岩肌の中を泳ぐサメがいても不思議ではありませんわよ」

「そんな馬鹿な!?」

 

 いよいよ逃げ場がなくなって、複数の化け物により前へ進むことも戻ることもできなくなってしまった。

 これを、紅子さんを守りながら戦うなんて……俺にできるか? いや、やるしかない。

 

「紅子さんは下がっていてくれ」

「……」

 

 不満そうな顔をする彼女に、チクリと胸が痛くなる。

 けれど、魂を食べる相手に対して彼女を向かわせるわけにもいかない。

 

 ――そうして、守りながらの第二ラウンドが始まるのだった。

 



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今一度の大喧嘩

 前方には地面を踏み締めるシャコ、そして地面の穴の中に下半身をそのままに頭をこちらに向けるシャコ。岩肌には縦横無尽に泳ぎ回るサメ。

 

 なんだこの混沌とした空間は。

 

「真宵さん、もういっそ鏡界移動で一気にあやかし夜市まで行きませんか!?」

「わたくしは今、洞窟の天井を保護するので精一杯ですわぁ」

 

 絶対に嘘だ! 

 

「そんなこと言ってる場合じゃあ……!」

「うふふふ、大声を出しているとまだまだ集まって来ますわよ。いいのかしら? ここは〝シャコのあなぐら〟ですのよ?」

 

 そんなことを言われてしまえば黙るしかなかった。

 ここはあなぐら。あの妖怪達が住処として拡張されてきた洞窟なんだ。俺達はそこにノコノコとやってきた獲物にすぎない。

 俺の成長を促すためだろうとはいえ、酷いことをする蛇神もいたものですね! 

 神内(あいつ)と悪友じみた関係だということは一年前に既に分かっていたが、蛇神と邪神、同じ音なのは伊達じゃないんだな! 

 

「真宵さん!」

「はあい、なにかしら?」

「あとで斬りかかっていいですか!」

「錯乱しているようですわね。叩けば治るかしら」

 

 あらあらと困った風なことを言っているが、声がなんとなく笑っているのは背中を向けていても分かるぞ。

 こっちはいちいちシャコやサメの動きを見たり、受け流したりしながら声を張り上げてるんだ。からかうのもいい加減にしてくれ! 

 

 ぶくぶくと、岩肌を滑るように泳いでいるサメがそんな真宵さんと紅子さんの方へと向かう。

 

「行かせるか!」

 

 地面を蹴って加速。二人の目の前に飛び込んで振り向き様に刀を振った。

 

 ――! 

 

 目元を斬りつけられたサメが驚いたようにして体を反転させる。

 

「いっ、ぐぅ……!」

「令一さん!」

 

 その勢いで刀を振り抜いたばかりの俺の顔面にザラザラとした尻尾が叩きつけられた。たまらなく真後ろによろけた俺を、紅子さんが倒れてしまわないようにと受け止めようとして、そして一緒に倒れ込んだ。

 

「あ、ごめ」

「いいよ、アタシのことより令一さんの怪我のほうがすごいって」

 

 大丈夫、そう言おうとしてぬるりとしたものが舌に落ちてくる。

 驚いて目を開けば、目の前が真っ赤に染まっていた。

 

 サメ特有の肌はザラザラとしていて触れたものを傷つける。いわゆる鮫肌と呼ばれるそれで顔を殴られる形になったせいで、出血しているようだった。

 細かい切り傷が無数についたうえ、額から流れてくる血がなおも目に入りそうになる。顔は細い血管が多くて血の出方も派手になるから、余計に酷い。地面にはポタリ、ポタリと血が滴っていた。

 

「ねえ、真宵さん。もういいじゃないか。もう移動しようよ」

「もし」

 

 紅子さんの言葉に真宵さんは笑顔を向ける。

 再び飛び込んできたサメが、すっと差し向けられた真宵さんの扇子の先に現れた裂け目に消え、別の場所に現れる。鏡界移動によって移動させられたサメは訳が分からないというように首を振って岩肌に潜り込んだ。

 そしてまた、俺達の周囲を旋回し始める。

 シャコはこちらをジッと見ているものの、積極的に動き回って捕獲しにくるほどのアクティブさはないようだった。

 

 どうやら真宵さんは、この話が終わるまではあいつらを近づけさせないようにするらしい。サメがこちらに来ようとしては鏡界移動を用いて受け流されている。

 

「……もし、わたくしがこの場にいなければどうするつもりだったのかしら?」

「それは……!」

 

 紅子さんが押し黙る。

 

「いや、連れてきたのはあんただろうが。なにを責任すげ替えようとしてやがる。普通なら」

「普通ならこんな危ない場所へ飛び込んだりしない……と?」

 

 先回りされた言葉に「そうだ」と頷く。

 今回は彼女に連れてこられたからここを通っただけで、普段なら危険に自分から飛び込むようなことなんてしない。それをもし自分がいなかったらどうなっていたでしょうなんて言い方で責任を問うてくるのは間違っている。

 

「けれど、令一くん。あなたはきっと、危険に飛び込んで行きますわ。それは以前の祟り神の件と同様。そんなとき、あなた達二人だった場合、あなたはどうするというのかしら」

 

 否定は、できなかった。

 事実俺達はアルフォードさんに遣わされて危ない目に遭った。紅子さんは狙われ、祟り神殺しなんていう案件に関わってしまった。きっと資料館の中でジッとしているだけで俺達は無事に帰れただろう。積極的に祟り神のことについて調べ始めたのは、他ならない俺達である。

 そして、最終的に大怪我をしながらもなんとか成し遂げた。あれだって、きっと二人だけじゃどうにもならなかった。

 

「……守るって誓ったんだ。約束もしている。あの約束はまだ続いているんだ。頼る相手がいなくたって、俺が強くなればいい!」

「そう、そうですか。そう思っているのですね」

 

 真宵さんはどこか悲しそうに俺を見つめた。

 俺は間違ってはいない。いないはずだ。なのにどうしてそんな顔をされないといけないんだ……? だって、そうするしかないのに。

 

「ねえ、紅子ちゃん。あなたはこれを聴いてどう思うのかしら。聞かせてくださいな」

 

 口を挟もうとして……けれど俺は紅子さんの表情を見て、口を噤んだ。そしてなにも言葉が出てこなくなってしまう。

 なぜなら、紅子さんは悔しそうな、怒っているような、悲しんでいるような、そんな〝神中村のとき〟のように泣き出してしまいそうな顔をしていたからだ。

 

「ねえ、令一さん。アタシは守られるのは嫌だって言ったよね。ちゃんと、分かってくれなかったのかな?」

「でも、あいつらは魂を食べる化け物で」

「アタシが不利だって?」

「そうだよ、だから」

「役割分担だって、前に言っていたよね」

 

 納得していない顔で紅子さんが言う。

 そう、前にシャコを相手にしたときだって、そうして紅子さんには引き下がってもらった。

 

「でもね、違うよ。キミが一人でなんでもやろうとするのは、酷い傲慢だよ。そんなことも、分からないかな? キミはアタシのことをか弱い女の子だと思って、一人相撲をしている。キミ自身が、アタシを役立たずだって言っているのとなにも変わらない!」

「それ、は……」

 

 そんなこと、考えもしなかった。

 俺が一人で守らなきゃと思っていること自体が、まさか彼女にそんな風に思われているだなんて。

 

「違う、俺はそんなつもりで言っているわけじゃ」

「そんなつもりでなくても! ……アタシにはそう思われているようで、嫌なんだよ。キミが本当にそう思っていなくてもね、多分無意識の領域に……女の子はただ守られてろって心があるんだよ。アタシは、それが嫌だ」

「違う、そんなこと思っていない! どうして分かってくれないんだ!」

 

 とうとう、俺は叫び出していた。

 彼女のためにやっていることが裏目に出ていただなんて、きっと信じたくなくて。きっと、俺は間違っていないと思いたくて。

 

「アタシはキミの足手纏いにはなりたくないんだよ。そんなの対等とは言わない! 守りたいって思ってるのはキミだけじゃない。どうしてかな、どうしてアタシのことを分かってくれないんだよ!」

 

 顔を伏せた紅子さんは声を震わせながら、そう言った。

 その下の表情なんて、想像は容易について……俺は愕然とした。

 

 いつのまに、こんなに傲慢になっていたんだろう。

 いつのまに、俺は彼女を傷つけていたんだろう。

 いつのまに、俺は調子に乗っていたんだろう。

 

 もはや、彼女を泣かせてしまったことに後悔しかない。

 

「俺は……」

「紅子ちゃん、力がほしいかしら? 力といっても乱暴なものではなく、あなたが身を守り、彼に心配されないための力……ですわ。わたくしはあなたのことを結構気に入っているのです。彼にとってのリンのように、わたくしからあなたに力を授けることもできますわ」

 

 真宵さんは、まるで蛇のように胡散臭く笑ってみせた。

 



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宵護の扇子

「ちょっと真宵さん!」

「わたくしは、紅子ちゃんに訊いているのよ」

 

 切れ長なその瞳で流し見られ、俺は背筋にゾクリとしたものが駆け上がった。

 相変わらず真宵さんは手先に持った扇子で飛び込んでくるサメを受け流し続けているが、その横目は蛇の祟り神らしいそれだ。

 紅子さんになにかをしようとしている……というより、本当に言葉通り気に入っているんだろう。そして、俺にとってのリンのようにということは、きっと紅子さんの力になるような物を渡すだけだ。

 分かってはいても、この怖いヒトに彼女を任せるのがなんとなく恐ろしいような気がしてしまって仕方がない。本能的なものだろうか。

 

「アタシの武器はコレだけ。武器ならいらない。でも、アタシはお兄さんに心配されて守られるのも嫌だ。そのための力は、ほしい」

 

 躊躇うように、しかし言葉を選ぶようにして彼女が言う。

 すると真宵さんは薄く笑みを浮かべたまま「わがままな子ですこと」と優しく言った。小馬鹿にするようでもなく、本当に優しく。紅子さんのことを気に入っているのは本当のようだ。

 

「いいでしょう。紅子ちゃん、あなたにはこちらを」

 

 真宵さんはそう言いながら扇子を振るう。

 すると紅子さんの目の前に切れ込みが入り、いつものように空間に鱗が広がっていった。そして、その奥にギョロリと黄色い蛇の目玉が現れ彼女を見つめると空間に張り巡らされた鱗が一枚、ポロリと剥がれ落ちる。

 

「わっ」

 

 紅子さんが慌ててそれを手のひらで受け取ろうとすると、鱗の姿が揺らぎ……次の瞬間には鮮やかな藍色に橙の色合いが重なり合った美しい扇子となっていた。

 

「こ、これは?」

 

 疑問気にする紅子さんの頭に、真宵さんの手が添えられる。

 それから真宵さんは、普段とは真逆の荘厳な……神様らしい雰囲気で言葉をゆっくりと紡ぎ出した。

 

 不思議と静かになった空間で、その神聖ささえ感じられる声があげられる。

 

「……げに美しきは昼と夜の境にあり。それ即ちは〝宵〟の(とき)。怪異蠢き闊歩する刻なりや。我、夜に身を置きて谷地(やち)を守護する者。民をば守らんとす盟約により、お前に力を貸し与えましょう」

「え、え?」

 

 真宵さんはそこで言葉を区切ると、「赤いちゃんちゃんこ」と彼女の名前を口にした。

 

「はい」

「あなたが人を害さない限り、わたくしはあなたに力を貸します。これは盟約です。これを破ればあなたはわたくしの祟りを受けるでしょう」

 

 紅子さんは真剣な様子でその言葉に頷いた。

 不殺を誓っている彼女には願ってもいない条件なのだろう。誰かを害してしまうくらいなら消滅の道を選ぶと断言しているくらいなのだから。

 

「そしてその代わり、日に三度、あなたが自由に鏡界移動をする権利を差し上げます。妖力をその〝宵護(よいご)の扇子〟に込め入れば扱いかたは自然と分かるはずです。懐に入れているだけでも効果はありますので、上手く扱いなさい」

 

 鱗……恐らく真宵さん自身のものだろう。アルフォードさんの鱗と遜色ないくらいの巨大な鱗は見目麗しい扇子に生まれ変わり、紅子さんの手元に収まっている。なるほど、確かにこれは武器ではない。彼女の条件を聴いた上での効果なのだろう。

 

「なるほど、これなら緊急回避にも使えるし、アタシの戦いかたにも合ってるわけだ」

 

 紅子さんの戦いかたは隠れたり忍んだりして相手に近づき、弱点を一気に突く暗殺者みたいなやり方だ。この扇子なら、〝忍んで近づかないといけない〟弱点をどうにかカバーできる。緊急回避にも扱えるなら、あの化け物相手にも立ち向かえる。そういうことだった。

 

「ありがとう、夜刀神さま」

「構いませんわ。大いに喜んでくださいな。好きな子に投資したくなっちゃうのは、ちょっと俗世に染まっている証になってしまいますけれど、それが同盟ですものね」

 

 お茶目に笑いながら、真宵さんは彼女の背中を押す。

 

「さ、結界は解いちゃいますから、お二人で頑張ってくださいな」

「いつのまに……?」

「儀式をする際に必要でしたから」

 

 そういえば、静かだなと思ったら……そういうことだったのか。

 ということは、本格的に俺達の試練のためにあのシャコやサメが出てくる場を用意されただけってことになる。ただ通り抜けるだけなら常に結界を張りながら行けばいいだけなのだし。

 

「さて、お兄さん。ちょっとアタシ、やりたいことがあるんだよね」

「なんだ?」

「そのためには、サメのほうだけ先に対処してもらわないといけないんだけど」

「いいよ、やるから作戦を話してくれ」

 

 紅子さんは協力してことに当たれるようになったからか、ほんの少しテンションが高い。そんな姿に、こんなときなのに可愛いと思ってしまう自分もいて、心の中で反省する。

 

「キミがサメさえ倒してくれれば、後はシャコだけ。でも一匹は弱点が地面の中。それに普通のやつも腹は見せない。でも、もう一つ柔らかいところがあるよね?」

 

 ああ、なるほど。

 つまり彼女はこう言いたいのか。

 

「目玉、か」

「そう、目玉。あれが潰れればパンチは迂闊に出せなくなるんじゃないかな」

「無差別に振り回す可能性は?」

「パニックになる可能性はあるよ。でもお兄さんを狙っているときみたいに天井とか地面に直接当たる確率は減るんじゃないかな」

 

 なるほど。まあ本当にそうなるかどうかは分からないが、やってみる価値はあるか。それに、紅子さんからの提案なんだ。絶対に蹴りたくない。

 

「せっかくなら鏡界移動を使って驚かせてやりたいよねぇ。生き物の弱点をひと刺ししてやるんだ」

「分かった。じゃあそうしよう。まずはサメから。それからシャコ……それでいんだな?」

「うん、やろうやろう!」

 

 はしゃいでいる紅子さんが可愛い。

 そんな俺達の様子を見て、真宵さんが手をパチンと打ち鳴らす。

 

「作戦会議は終わったわね。それじゃあ行ってらっしゃい。御武運を」

 

 そしてようやく、ちゃんとした意味でのはじめての共闘が実現したのだった。

 

 



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状況をひっくり返せ!

「お兄さん、頼むよ」

「分かってるよ!」

 

 結界が解けていく。

 しゅるしゅると辺りが鮮明になり、岩肌を泳ぐ三角のヒレが真っ先に目に入ってくる。いくらか傷のついたその姿に若干の疑問が過ぎるが、その後の行動を見て納得した。

 サメは俺達が見えなくなっている間にシャコを襲いに行っていたみたいだ。岩肌から飛び出していったサメがシャコの殻に齧りつくが、滑ってそのまま反対側に飛び出し、岩肌に戻っていく。それの繰り返し。

 

 しかしそんなサメも結界が完全に解ければこちらに気がつく。

 なんせ俺は血塗れだ。奴の鮫肌に傷付けられた俺の顔は流血こそ治っているが、血の匂いは誤魔化しきれない。サメは血に反応するものなのだ。

 

「こっちに来い!」

 

 声に呼応してサメが飛び出してくる。

 その目元は横一文字に斬られた刀傷がついていて、もう既に視覚によって移動できている状態ではないことが分かる。完全に匂いと嗅覚で飛び出す場所を決めている。そして、目が見えないからか一番最初よりもいくらか泳いだり、飛び出してくるときの速度が劣っていた。

 

 飛び込んで来るサメに向かって赤竜刀を構える。

 

「巨大なサメとか、怖いに決まってんだろ」

 

 柄を握り込み、サメの突進に合わせて足を踏み込む。

 怖い。しかし、怖ければ怖いほど赤竜刀は威力を発揮するのだ。

 

「ぶった斬る!」

 

 そして口を開けたサメの、そのぞろりと並ぶ牙に向かって横一線。気合を入れて、口の中に刃を突っ込んで上顎と下顎を真っ二つにお別れさせることに成功した。

 下顎と下半分は滑りながら地面にどさりと落ち、上顎から上は慣性の法則に倣って俺の頭上を血を撒き散らしながら飛び越えていく。残念ながら三枚におろすような器用なことはできないが、これで十分だろう。

 

「行くぞ紅子さん!」

「じゃあ、作戦通りにね」

 

 走り出す。

 と、同時に紅子さんの懐が淡い藍色に光り、その姿を一瞬で鏡界の蛇の目の中に落とし込んだ。

 少しのラグもなく、紅子さんの姿が地面に埋まっているほうのシャコの頭上に現れる。そして、その飛び出した目玉目掛けて思いっきりいつものガラス片を突き刺した。

 

 ――!! 

 

 シャコのものと思わしき悲鳴があがる。

 くぐもったような、硬い殻が軋むような、そんな曖昧な音だ。

 

「まだ片方だけじゃないか。さ、もう片方も見えなくしてあげるよ」

 

 パンチを振りかぶるシャコに、ダメ押しとばかりにふわっと移動した紅子さんがもう片方の目玉も潰す。

 かなりの痛みだったのかシャコは身動ぎし、震える。そこにもう片方のシャコがチャンスと見たのか、パンチのために捕脚を振り絞る場面が見えた。

 

「紅子さん!」

「はいはい」

 

 もう一匹のシャコがパンチを繰り出す。

 その間際に紅子さんは鏡界移動をして、すぐにこちらに戻ってきていた。

 故にシャコの攻撃は目玉を斬りつけられて手負いのシャコに叩き込まれることとなる。

 頭の部分を思いっきり攻撃され、硬い殻が細かいガラスのようになって飛び立っていく。たまらず地面に穴を掘って埋まっていたシャコはそこから飛び出した。

 

「足元通りますよっと」

 

 俺はその瞬間を待っていたのだ。

 飛び出していく尻尾の部分を叩き、空中でバランスを崩させる。

 そしてドシンと大きな音を立てて墜落したシャコは……お腹を天井に向け、仰向けの状態に〝ひっくり返って〟いた。

 

 これではなにもできないだろう。

 邪魔が入らないようにと、もう一匹のシャコに向かう。こちらのシャコも鏡界移動で目玉付近に転移してきた紅子さんが視覚を封じ込める。

 

「リン、ジャンプ!」

 

 そこを俺は脚力に(リン)の補正を加えてもらい、ジャンプしてその背中に飛び乗る。あとは以前と同じ、その殻を割り砕くだけだ。

 

「はあ!」

 

 振り被って叩きつける。しかし以前のように一撃で殻を割って中身を斬り裂けるわけではない。分かっている。こいつは一度倒したことのある相手。

 赤竜刀は俺に〝無謀と思う気持ちがあるとき〟に呼応して威力が何倍にも膨れ上がるのだ。一度倒した相手だからか、心のどこかで必ず倒せると確信している自分がいる。そのせいで、赤竜刀の力が増幅されることはない。

 

 しかしそれでも効いてはいるんだ。

 一度でダメなら何度でも斬りつけてやればいいだけ! 

 

「知性のない相手に効くかは分からないけれど、やる価値はあるよねぇ」

 

 そして俺が力を込めて三度目、シャコの殻をぶち破ってトドメを刺した直後のことだった。紅子さんが蝶々の姿で仰向けになって(もが)いているシャコの上に現れ、ニヤリと笑った。

 

「着せましょうか、着せましょうか。赤い赤いちゃんちゃんこ」

 

 シャコの呻き声が響く。

 それは多分、なんの意味にもならない声だろう。言葉にすらならない音だろう。けれど紅子さんはニヤリと笑って「そう言うなら着せてあげようか」と言った。

 

 その紅い瞳から光が消えていき、瞳孔が開く。そして不気味なほどに静かに笑った彼女はシャコの首に当たるだろう部分にそのガラス片を埋め込んだ。

 

 ――ギイッ

 

 悲鳴のような音をあげてシャコの無数の足が蠢き、そしてやがて痙攣したように震えると……静かになった。

 シャコの鳴き声を勝手に問答の受け答えだと解釈し、そして自ら赤いちゃんちゃんことしての一撃必殺を引き出したのだろう。正直それをやると相手がなにを言っていようと問答無用で「YES」扱いにできてしまうので、多分あれは怪異の概念が具現化するこの鏡界じゃないと容易にできないはずだ。

 ぶっつけ本番だと言うのによくやるよ。

 

「っと」

 

 トドメを刺したシャコが破裂し、俺は地面に落ちる。なんとか受け身を取ったはいいものの、下はタールのような黒い液体でぐっちゃぐちゃの泥溜まりだ。これ以上ないくらいに汚れてしまったが、それは紅子さんも同様。トドメを刺されたシャコが弾けていなくなり、ふわりと着地しようとした彼女は……鏡界移動用の蛇の目玉に飲み込まれて真宵さんの隣に立っていた。

 

「女の子を汚すわけにはいきませんものね」

「あ、ありがとう。真宵さん」

「俺は……?」

「令一くんは後で着替えましょうね」

 

 どうやら紅子さんに配慮した真宵さんが汚れないようにしてくれたようだが、え、俺は? 散々俺は汚れているのに? それは酷くないか? 

 贔屓がすぎる……! 

 

「きゅっきゅい!」

 

 俺の手の中にあった赤竜刀が変化し、リンの姿に戻る。

 それから俺の頭を浮かびながらよしよしと、その小さい手で撫でてからリンは紅子さんの元へ向かう。ありがとう、癒された。

 

「どうした、リン?」

「なにかな、リンちゃん?」

 

 そしてリンが指し示したのは紅子さんの懐。

 そこは、彼女が宵護の扇子を収納していた場所だった。

 

「きゅっきゅい、きゅう!」

「え……?」

 

 紅子さんが服を押さえる。

 顔を赤くして「なにこれ、くすぐった……なに?」と言いながらポケットを探る。そして大きく目を開いて驚いた彼女は〝それ〟を取り出した。

 

「この子……は?」

 

 その手のひらの上に乗っていたのは、一言で言うならば蛇だった。

 羊のような巻き角に、藍色の鱗。角に取り付けて外れないようにしてある鳥居と目玉が描かれた面布。胴体に取り付けられたしめ縄と紙垂れ。そして「界」と書かれた布。

 

「リンちゃんに姿があるのだから、わたくしの扇子にも姿があるのは道理ですわよ」

 

 それは――見たら祟られると言われる「夜刀神」の姿だった。

 

 



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小さな小さな蛇神さま

「って、これ! 真宵さん、見ても平気なんですかこれ!? 祟られる!?」

 

 俺がパニックのようになりながら真宵さんを振り返れば、彼女はただただ面白がるようにころころと笑っていた。

 

「大丈夫ですわ。面布としめ縄をしているでしょう? それがあれば祟ったりしませんの」

「なるほど、この面布で目隠しをしているからなのかな? 鳥居の中に目玉の模様か……これで面布をしていても見えるって寸法なのかな」

 

 紅子さんは恐る恐る小さな夜刀神の頭に指先を乗せると、ゆっくりとそのすべすべした頭を撫で始めた。抵抗もないようで、むしろ小さな夜刀神はその短い体をぐぐっと伸ばして彼女の手のひらに頭を押し付けるようにして甘えだした。

 小動物然としたその仕草は非常に可愛らしい。

 リンもそんな化身に手を上げて「きゅっきゅうー」と挨拶をしている。

 

「面布としめ縄が封印になってる……ってことか?」

「違いますわよ」

 

 あれ? 違うんだ。てっきりそうだと思ったんだが。

 

「わたくしが本体を見られて祟るのは、裸を見られるのが嫌だからですわ。面布としめ縄、それと前掛け……体を隠すものがあれば祟ったりしませんのよ」

「今なんて?」

 

 言葉を理解するのに数秒を要した。

 びっくりした。まさか言葉の意味は分かるのに言っている意味が理解できない事態に遭遇するとは。

 

「裸を見られるのが恥ずかしくて思わず祟ってしまうのです……」

「いやそんな神妙な顔されても」

 

 確かこのヒト、祟るときは血縁が絶えるまで祟るんじゃなかったか? 

 蛇体を? 裸を見られて? 血縁が絶えるまで祟り続けるの? 女のヒトだからそりゃあ裸を見られるのは嫌なんだろうが、それにしたって理不尽すぎるだろ。見た人間以外部外者じゃないか。あんまり関係ないじゃないか。それで殺されるのはあまりに可哀想すぎる。

 

「ですから、こうしてちゃんと対策をですね」

「さいですか」

 

 思わず変な言い方になってしまった。いや、だって。

 

「きゅいー」

「どうした、リン?」

 

 リンが興味津々に小さな夜刀神に手を伸ばす。

 あっと思ったときには既に、リンは小さな夜刀神に触れていた。

 

 思い出す。この子達の本体であるアルフォードさんと真宵さんの仲は著しく悪い。まずいのでは? と思った矢先の出来事だった。

 

「あれ?」

 

 しかし、心配は杞憂に終わる。

 

「きゅい?」

「……」

 

 親しげにするリンと、しゅるしゅると舌を動かしながら首を傾げる小さな夜刀神。やがて二匹は仲良く身を寄せて額を擦り付け合っている。

 

「まあまあまあ、なにをしているのよわたくし! やめてちょうだいな、わたくしはあのトカゲと仲良くするなんて嫌ですわよ……! そんなこと望んでなんていませんわ! やめなさい……! やめなさいったら!」

 

 そしてそれを見て目の色を変えた真宵さんが焦りだしてしまった。

 二匹は挨拶したり、尻尾でハイタッチしてみたり、そしてなにやら俺達には分からない言葉でやりとりをしているのか意気投合しているようにも見える。

 おや、これはもしや……? 

 

「もしかして真宵さんって、結構アルフォードさんのことす」

「そんなことはありませんわ! バグかしら……それともわたくしから切り離したことでなにか突然変異が……」

 

 と、彼女は現実逃避を続けている。

 あれは深層心理でも影響しているんじゃないかと、なんとなく微笑ましくなってきてしまった。素直じゃないのはこのヒトもだったらしい。その好きがライクかラブかどうかは別として。

 

「ちょっと紅子ちゃん、その扇子()を返してくださる? 大丈夫、新しいのをあげますから」

「嫌だよ」

 

 紅子さんは、そんな二匹を手のひらの上に乗せたまま断言した。

 紅子さんは紅子さんでこの二匹に癒されているようで、胸に抱くようにして死守している。リンからも不満気な鳴き声が真宵さんに向けられ、真宵さんは本心っぽいものを漏らす宵護の扇子を処分することが叶わないことを知るのだった。

 

 そんな悲壮な様子を醸し出す真宵さんを尻目にリンと小さな夜刀神は交流を満足に終えたのか、それぞれの主人の懐に戻ってきた。

 リンは俺の肩の上、小さな夜刀神は紅子さんの胸ポケットの中だ。

 

(ちい)神様、よろしく」

 

 紅子さんがそう言って微笑めば、蛇はしゅるりと上機嫌そうに舌を突き出した。

 

「ところで、真宵さん。急いでこの道を通ったほうがいいんじゃないのかな? またシャコとかサメが来るんじゃない?」

 

 未だに落ち込み続けていた真宵さんに、紅子さんが尋ねる。

 すると思い出したように一瞬で立ち直った真宵さんは頬に手を当てて遠くを見つめるように洞窟の先を覗き込む。

 

「ああそうでした。もうシャコの心配はありませんが、サメは血の匂いで来るかもしれませんわ。急ぎましょう、こちらですわ」

 

 歩き出す彼女につられて俺達も歩き出すが、待てよ。シャコの心配はない? どうしてだろうか。だってここはシャコの掘り進めた洞窟なんだろう? その主があの三体だけとはとても思えない。

 

「あの、シャコの心配がないのはどうしてですか?」

「あらあら、あなたは同族の血にまみれたものに近寄ろうと思うのかしら?」

「……思わないですけど」

「そういうことですの。普通の生き物は本能で危ないと感じたら近寄らないものですわ」

「まあ、そうだよね」

 

 彼女の言葉に納得した風に紅子さんが頷く。けれど俺はどこかモヤモヤしていた。それは多分、脳吸い鳥が仲間の大量死を見てもなお俺に向かってきたという記憶があるからだ。

 

「知性があるのに、集団がやられてもまだ向かってくる生き物っていうのはどうなんですか?」

「知性……理性がない類の生き物でしたら、ありえる話ですわよ。知性がなければ本能に忠実になりますが、中途半端に知性があると本能的恐怖を理解していても欲望に負けて突撃を繰り返すことがありますの。それではないかしら?」

「なるほど」

 

 疑問は氷解した。つまり、理性を持って抑えるべき部分を知性があるからこそ無視してしまうことがあるということか。

 

「もうすぐ着きますわよ」

「お、本当だ」

 

 歩いているうちに、洞窟の先に光が見えた。

 そして三人でそこを抜ければ広がっていたのは常夜(とこよ)の世界。まだ夕方程度のはずなのに、その場所は深夜のように暗い。

 

 あたり一面に提灯がずらりと立ち並び、縁日かのように屋台がそこかしこに出されている。前に見た金魚救いの店や、アクセサリーらしきものを売っている店。呼び込みをする角が生えた着物姿の男性など、そこは非日常に彩られていた。

 

 そんな景色の中、真宵さんが一歩二歩と先へ進みこちらに振り返る。

 そして帽子を手に取って胸の前に持ち、優雅にお辞儀をした。

 さらりと肩から落ちる金色の髪が夜空に浮かぶ金色の月のように、この夜の世界に映えている。

 

 それから彼女は柔らかな仕草でつば広帽子を被り、ふっと微笑む。

 その金色の美しい髪から覗かせる羊のような巻き角が、より一層おどろおどろしく、しかし美しく見えた。

 

「それでは改めまして――ようこそ、あやかし夜市(よいち)へ」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 凛とした表情。その夜市の創設者らしい振る舞い。

 そして真宵さんは己の創ったその世界を、とても愛おしいものを見るような優しい瞳で見つめ、俺達を常夜の世界へと連れ出した。



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あやかし夜市の元締め

「それでは行きましょうか」

 

 真宵さんがそう言って一歩踏み出したとき、カランコロンと音を立てながらやってくる人影が見えた。

 その人影は走ってこちらに向かい来るようで、真宵さんが「あら」と声をあげる。

 

「あれは」

「アタシの先輩、だね」

 

 和装ドレスに下駄というチグハグな服装で走ってきた彼女――鈴里しらべさんは真宵さんに挨拶するように「こんにちは、いらしていたんですね」と声をかける。あやかし夜市の総元締めを鈴里さんが担っているわけだが、真宵さんは更にその上司ということになるか。

 こうして真宵さんが畏まられているのを見ると、やっと彼女がすごい人なんだなと実感するなあ。

 

「鈴里さんこんにちは。デコピンしてもいいですか?」

「なにを言っているんですかあなたは」

 

 開口一番、俺が言った言葉に彼女は眉を寄せる。

 紅子さんにとんでもない試験を課した恨みは、化け物退治をしても忘れていないからな。

 

「ああ、なるほど。あれを見たのですか」

 

 俺の心を読んだのか、彼女は納得するような表情になる。

 

「過ぎたことでは?」

「それは紅子さんなら言える台詞であって、あなたの言っていいことではありません」

 

 加害者側が言うべき台詞ではない。頭が固かろうがなんだろうが、そういうものだ。そこは譲らない。

 

「いいですよ、デコピンくらい安いものですから」

「え、いいんですか?」

「あなたから言い出しておいてなにを今更」

 

 それもそうだが、こうもあっさり承諾を貰えるとは思っていなかったな。

 このヒト、デコピンなんてされたらどんな反応するんだろうか……未知だ。

 

「ちょっとお兄さん、アタシは別にいいから」

「いいや、俺がムカついたからデコピンする。絶対にする。文句の一言でも言おうと思ってたが、よく考えれば思ってることは伝わるわけだしな」

「ええ、心の中で文句をたらたら言っているのがよく分かります」

 

 こいつ……。

 そう思った瞬間に鈴里さんは無表情のまま舌をぺろっと出した。いわゆるてへぺろってやつだな。なんだよこのヒトめちゃくちゃ煽ってくるんだけど……! 

 

「反応が面白くてついですね」

「あら、その気持ちなら分かりますわね」

 

 真宵さんが同意する。お願いだから分からないでください。

 

「それではやります」

「はい」

 

 指を構える。

 鈴里さんはのんびりとそれを眺めて、俺の反応を待った。

 指を折ってなるべく威力が乗るように力を込める。女の人相手だとか、お世話になってるしとか、恥も外聞ももう関係あるか。そもそもこのヒト妖怪だから俺ごときのデコピンとか本気でもダメージはあんまりないだろうしな。

 

「せいっ」

「あううっ」

 

 デコピンした瞬間、鈴里さんが目をぎゅっと閉じて痛そうに頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。

 

「え? あ、え? ごめんなさい!」

「お兄さん……」

「あらあらやっちゃったかしら?」

 

 呆れた顔の紅子さんと胡散臭く笑っている真宵さんに、オロオロとしながら「いや大丈夫だと思って」と言い訳にもならない言い訳をする。

 そして俺は鈴里さんと同じ目線になるようにしゃがみ込んで……。

 

 ……ニヤッと笑う彼女と目が合った。

 

「あなたの心の予想の中で一番面白そうなのを選んでみました。楽しめました?」

 

 こいつ。

 イラッと来たのが分かっている鈴里さんは愉快そうに笑って立ち上がり、スカートをはたく。

 

「道のど真ん中ですし、脇に避けましょうか」

「あっ」

 

 よく考えればここはあやかし夜市。

 さっきのやりとりも道行く無数の人ではないヒト達に見られていたというわけで……急に恥ずかしくなってきたぞ。

 

「あなたが愉快だというのは皆さん知っていますから、今更ですよ」

 

 知りたくなかった、その事実。

 がっくりと肩を落として俺は言われるままに道の脇に移動した。

 

「本来なら九十九のお宿か鈴鹿御前(すずかごぜん)の酒場あたりでパーっと一杯引っかけたいところですが、あなた達がこれから行くのは豊穣神社でしょう? あやかしの酒は浴びないほうがいいですね」

 

 無表情で「パーっと一杯引っかけたい」とか言われると違和感しかないな。

 

「すみませんね、いつもはスマイルも取り扱っているんですが、今日は品切れです」

「そうですか……」

 

 なんて反応すればいいんだよこれ。

 

「あら、違反者でも出たのかしら?」

「少々、面倒な新参者に絡まれまして……疲れました」

 

 真宵さんの言葉に、鈴里さんは心なしかげっそりとした様子で答えた。

 ああ、なんかあったんだな。総元締めはこういうのがあるから大変なんだろうが……なにもかも心の中をお見通しなさとり妖怪の元締め相手に、よく変な絡みかたをしにいけるなあ。精神的な報復をされそうだ。

 

「あながち間違いではありません」

 

 また読まれてる……。

 

「私に無闇矢鱈に反抗する行為は自殺志願者と同義ですね。精神的な」

 

 多分こうして徹底しているから百鬼夜行の元締めとしてやっていけるんだろう。強かだし、自分に向けられる負の感情は慣れっこだろうし、受け皿としてはきっと最高な人材なんだろうな。いや、妖材? 

 性格がものすごく悪いのは別として、上に立つ者としての責任はあるんだし、紅子さんもあんなことされたのに嫌っているわけでもない。先輩としてもそれなりにいいヒトなんだろう。不本意だが。

 

「正当な評価ですよ。ありがとうございます。嫌ってくれて構いませんよ。へたに信頼されてもなんとなく違和感ありますし、そのほうが私も精神衛生上安心できます」

 

 嫌われて安心するって一体……。

 

「アタシはもう許しちゃったから嫌わないよ、なんだかんだお世話になった先輩だしねぇ」

「ほら、こういう子。あまりにも純粋に慕ってくれるので私が浄化されてしまいます。心の目があまりの光属性に潰れてしまいます。滅びの呪文を叫んだ後と同等にみっともなく転げ回りますよ。やめてください、本当に」

「やめないよーだ」

 

 なんだかんだちょっと楽しそうだ。

 毒気を抜かれてしまったことだし、俺のイライラに関してはこれでおしまいにしよう。

 

 鈴里さんはそうやって紅子さんと戯れていると、「なにやらひとつ分霊が増えていますね。真宵さんのですか?」と口にした。

 その言葉に反応したのか、蛇が小さな鏡界移動を経てひょっこりと紅子さんの肩に現れる。鈴里さんは「珍しいですね」と言いながらその蛇に顔を近づけるが……思いっきり口を開いて威嚇する蛇にたじろぐように「嫌われているようです」と言った。

 

「そうそう、こっちは宵護の扇子っていう真宵さんから紅子さんが貰った扇子の……なあ、そういえば名前ってつけないのか?」

 

 紹介しかけて俺が紅子さんに訊くと、彼女は瞳を目一杯に開いて「アタシが? このかたに?」と驚きの声をあげた。

 

「え、だって宵護の扇子じゃあ、呼びづらいだろ」

「ねえ、お兄さん。薄々気がついてはいたけれど、キミって名付けの重要さにちっとも気づいてないよね? 何度も説明しているはずなんだけれど?」

「えっ」

 

 困ったような、それでいて怒ったように紅子さんはそう言った。



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八千代を共に歩む

「お兄さん、この世界で名前をつけるってことは相手を縛るってことになるんだよ。特に怪異とか、神様とか、そういう類にとってはね。前にも言ったよね?」

 

 ああ、聞いた。

 確か雨音の怪異のときも、ジェシュがアリシアと契約したときにも、そう言っていた。一生を共にする。その覚悟を持って名付けして契約をするのだとか。

 

 その重さを俺はよく分かっていなかったのかもしれない。紅子さんがこう言うってことは、軽率にリンに名前をつけたのはあんまりよくないことだったのかもしれないな。でも、あのときは咄嗟だったし、しょうがないと思うんだけど……言い訳だな。俺が迂闊すぎるんだ。

 

「さすがに真宵さんの分霊に名前をつけるのは畏れおおいんだよねぇ。お兄さんはアルフォードさんが喜んでたし、心の広いかただったから……」

「あら、構いませんわよ。あなたがどんな名前をつけるのか少し興味がありますもの。それに、あなたなら変なネーミングにはならないでしょうし」

 

 紅子さんの言葉の途中で真宵さんが提案した。

 これ、タイミング的にアルフォードさんへの対抗心的ななにかを感じるのだが、俺の気のせいか? 

 

「いいの……? その、アタシもそんなにネーミングとか得意じゃないんだけれど」

「いいのよ、紅子ちゃんならその子も喜ぶでしょう」

 

 思わぬところで許可が出てしまったため、紅子さんが難しい顔をしながら考え込む。当の分霊はそんな彼女の頬っぺたにすりすりと頭……というより額か。(ツノ)が当たりすぎてしまわないようにすり寄っている。多分名前を貰うのが楽しみなんだろう。多分。

 

 リンはデフォルメされた竜の姿だから表情が分かりやすいけれども、この蛇は面布もしているし、蛇だから鳴き声もあげない。結果的にどんなことを思っているのか分かりにくいんだが……意外とアクティブに紅子さんに触れているから好意はあるだろうな。

 

 

「えと、それじゃあ『やち』で……」

「やち?」

 

 真宵さんがきょとんとする。

 

「真宵さんが谷地(やち)を守護する……って言っていたところからだけれど、ちょっと変えて、長く一緒にいられるように八千(はっせん)と書いて『八千(やち)さま』って呼ぶことにしようかなって」

 

 俺よりもよほどしっかりとした名付けだな。

 そうして紅子さんが「八千さま」と蛇を読んだときだった。

 

「…………」

 

 宵護の扇子である蛇の姿が揺らぐ。

 そして、まずは面布に「八千」という紅色の文字が浮かび上がり、そして溶けるように消えていった。

 それに合わせて面布に描かれていた鳥居と目の模様が元の朱色よりも濃くなっていき、蛇の体に巻かれたしめ縄の色が通常の縄の色から、赤く、紅く染まっていく。

 

 ――それはまるで、紅子さんの影響を如実に表すような変化で。

 

 藍色の蛇が紅色を纏い、そして藍と紅が隣り合わせになる。

 

 ――それはまるで、彼女とずっと共にあろうとするような意思表示で。

 

 変化が止まってからは、八千は紅子さんの肩から腕に這い降りて喜ぶようにその腕に自身の蛇体を絡めた。

 

「八千……素敵なお名前をいただきましたわね。感謝いたしますわ、紅子ちゃん」

「えっ、でもこんなに単純でいいのかな? 喜んでくれるのは嬉しいんだけれど」

 

 紅子さんが困惑しながら訊くと、真宵さんは嬉々としてその言葉の「意味」について語り始めた。

 

「少し前に、私の苗字。縛縁(はくえん)から転じて八九縁(はくえん)の八は永遠の一歩手前。完全を表すことを言いましたわね?」

 

 あ、これは長くなるやつだなと察して聞きの態勢に入る。

 鈴里さんは横目でそんな俺を見てふっと笑った。読まれてる、読まれてるぞ。このヒト言い出したりしないだろうな? 

 

「しません」

「あら、どうしたの? しらべちゃん」

「いいえ、なにも」

 

 そこで俺を見た真宵さんに、慌てて首を振って否定した。

 変なことを考えてるわけじゃないので! 

 

「そう、まあいいわ。八は完全を表し、千は扇子の扇とかかっておりますし、千代に八千代に……長い間を共にしたいという願いがあります。そして千は古来では人という意味の文字に横棒を加えたものだったのですよ。この横棒をこの子……蛇に見立てると、千は『人と共にある蛇』という意味にもなるのです。故に、『八千』という名は『人と共にあるための、完全な姿の蛇』を表しますわ。ですからこの子はわたくし夜刀神から逸脱し、あなただけの小さな小さな守り神になったのです」

 

 説明を終えた真宵さんに、紅子さんは「アタシそこまで考えてたわけじゃ」と言いかけるが、真宵さん自身がその細い指を持って紅子さんの唇に触れ、言葉を封じる。

 

 突然指で口元を押さえられた紅子さんはなにか言いたげだったが、びっくりしたように、そして恥ずかしそうに視線を下げた。

 

「本来、分霊というものは本霊の力を写しとった同じ存在。けれど、名付けをされたことによって楔がかけられ、あなた達の霊力がその身に混じり、そして本来はありえない『個体差』というものが生まれるようになりますわ」

 

 思い返すのは、リンと蛇……今は八千か。この二匹が仲良くできていたことである。あのときはまだ八千の名前はつけられていなかったが、リンのほうに個体差があると思えばそれも納得できる。

 今も紅子さんの腕に巻きつきながら、ご機嫌そうに舌をしゅるしゅる出している八千がこの真宵さんと同一の存在というのはちょっと違う気がするし。

 

「名付けられた名前の影響や、名付けたときの状況による人の願いを通じて、分霊は成長の方向性が定められるのです。神様であるわたくしどもはこれ以上の成長はありえません。けれど、人の因子が混じった分霊は人の『成長する力』を得ることができるのですわ」

「アタシは幽霊なんだけれど……」

 

 自信がなさそうに紅子さんが言う。けれど真宵さんは間髪入れずに、彼女が落ち込まないようにと説明を重ねた。

 

「あなたは誰よりも、それこそ令一くんよりも人らしくあろうと努力しているでしょう。その心、その魂が『人』を形作るのですよ。その心が悪鬼や悪意に染まりきってしまえば『人』とは言えなくなるでしょう。そういうものですわ」

 

 ひと息ついて、真宵さんは神様らしい佇まいで凛と言葉を紡ぐ。

 

「その心こそが、『人』を『人』たらしめるのですから」

 

 微笑みを乗せ、少し前屈みになって紅子さんの頭を撫でる。

 その手は祟り神や邪神と思えないほどに、優しかった。

 



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捨の怪【コレクターの試作品】
よびねこ


「カア、カア」

 

 電信柱の上で鴉が鳴いた。

 

 5月2日。夕暮れの街並みに一台のトラックが影を落とす。

 エンジン音を立てて猛スピードでカーブを曲がったトラックから、ポオンと放り出される一つの鉢植えがあった。

 

 町外れの植え込み。人の滅多に通らないそこに落ちた鉢植えは割れてその中身が露出する。

 

 それを眺めていた猫が一匹、毛を逆立てて「にゃあん」と鳴いた。

 鉢植えの中から転がり出たなにかはその場に留まり、夕日を浴びながらメキメキと軋むような音を立ててその体を大きく、太くさせていく。

 

「にゃあん!?」

「にゃあん」

 

 その場から逃げ出そうとする猫の悲鳴に、同じ音で「にゃあん」と言う声が重なった。

 

「にゃあん!」

「にゃあん」

「にゃあぁぁぁん!」

「にゃあん」

 

 それを繰り返し、ついぞその場に木霊するのは「にゃあん」という平坦な音だけとなったのであった。

 

「にゃあん、にゃあん」

「ねえママ、子猫の声がするよ!」

「あら、本当」

「ワウッ、ワンッ」

 

 広がる声に、反応する影が三つ。

 滅多に人の通らないこの場所にやってきたのは、母親と共に犬の散歩をする少年であった。

 

「ねえ、子猫にはママがいないのかな」

「どうかな、見てくる? うちはこれ以上いらないってわけでもないし」

「いい? 拾ってもいいの?」

「いいわよ」

「やった!」

 

 そう言って駆け出す少年は、葛の葉で覆われた一本の樹木の下にしゃがみこむ。その声は喜色が乗せられ、「いたー! 猫ちゃん!」と言いかけて――途切れた。

 

「え? リク?」

 

 よそ見をしていた母親は子供の声が途切れたことに驚き、飼い犬を連れたまま息子がいた場所へと向かう。

 しかしそのどこにも息子の姿は見えず、母親は困惑する。

 

「リク? リク、どこにいったの?」

「ワンッ! ワンワンワンワンッ!」

「ど、どうしたのチロちゃん。そんなに吠えて……」

 

 ガサリと草木が揺れる。

 犬は母親の前に立って目の前の木を噛みつくんじゃないかという勢いで吠えている。しかし、その尻尾はくるりと腹の下で巻かれ、怯えていることは明らかであった。

 その異常な様子に、さすがの母親も不安気な表情になる。

 

「リク……どこ?」

「にゃあん」

 

 母親のすぐそばから、その声はした。

 それも、耳元から。

 

「ひっ」

 

 そんなはずはない。

 子猫の鳴き声が耳元でするわけがない。

 瞬時に理解した母親は一歩足を後退させ、ぶるりと震え上がりながら体を抱いた。

 

「にゃあん」

 

 またもや声がして、振り返る。

 ……そこには、赤くヌメヌメとした舌を覗かせる葛の葉としか思えない物体があったのだ。

 

「イヤァァァァァァァッ!」

 

 葛のツタに絡まった子供の靴が地面に落ちる。

 大量の葛の葉は、さわさわと風に揺らされながらその身をよじらせ、「獲物」を取り合うように無数の口が口内の牙の音を、カチカチと鳴らす。

 

 赤い雨が降り続くその樹木の下には、食い荒らされた一匹の猫の死体だけが残っていた。

 

「カア、カア」

 

 一羽の鴉が夕暮れの空を飛んでいき、そしてカーブミラーの中へと吸い込まれていったのであった……。



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カラスの緊急依頼

 しばらく真宵さんに撫でまわされていた紅子さんは、恥ずかしそうな、照れ臭そうな、くすぐったそうな、そんな表情で目を瞑っていた。

 

 まるで猫のような……いや、むしろお姉さんに可愛がられている妹さんみたいな状況かな。紅子さんは気が強くて誰がどう見ても一人っ子、もしくは長女って感じだが、年上のお姉さんからの慣れない可愛がりに戸惑いつつも嫌ではない……みたいな。

 

 目の保養になるので俺としては一向に構わない。

 

「本当ですか?」

 

 と、わざわざ心の声にまで鈴里さんからの横槍が入ってきた。

 正直なところ、紅子さんが頼るのは俺だけがいいとか、ちょっとした嫉妬ぐらいはある。でもそれを表に出さないのが誠実な心ってもんだろう。

 

「それはそうですね。本当に、真面目ですね……見た目に反して」

「一言余計ですよ」

 

 不良っぽい見た目を変えるにはやっぱり髪を黒く染めるしかないのか? いや、でもそんなことをしたら「誰?」って紅子さんに言われかねないし、そんなこと言われた日には落ち込みすぎて地獄まで真っ逆さまに落っこちてしまいそうだ。

 

 真宵さんが撫で回していた手を離すと、目をぎゅっと瞑っていた紅子さんが薄らと目蓋を押し上げ、彼女を見上げる。なんとなく物足りなさそうな表情。微妙な嫉妬が心の中に燻っているが、そこに分け入るのはなんとなく違う気がして目を逸らした。

 

「さて、こうしているのもいいのですが、往来の最中(さなか)ですわ。移動いたしましょう」

「あ、ああ、うん。そうだよねぇ」

 

 道の端に避けているとはいえ、ここは外だ。室内ではない。よって彼女達のやりとりもしっかりと色んな妖怪やら神様やらに微笑ましく眺められていたというわけである。

 よくよく周りを見渡せば、そうあからさまに野次馬をされているわけではないが、屋台で買ったのであろう食べ物を持って立ち止まり、こちらを眺めるということをしている姿がちらほらと見受けられる。緩く見世物になっているというかなんというか……これはすぐに移動するべきだろう。

 

「それでは豊穣神社のほうへ……」

 

 真宵さんが言いかけたときだった。

 

 ――カア、カア。

 

 声が、聞こえた。

 いや、カラスなんてどこにでもいるだろうと。そう思いかけて、刹那さんのことを思い出した。そういえば彼は新聞配達を自分でやっているが、遠方にはカラスに運んでもらっているんだったか? そりゃ大勢いる同盟メンバーに配るならそうなるだろう。

 

 そして、この夜市に妖怪や神様以外の存在が極端に少ないことにも気がついた。屋台の掛け声で聞こえていないだけだと思っていたが、虫の声も聞こえない。完全に怪異だけの世界と化しているのだ。

 

 つまり、ここに普通のカラスはいない。

 空を見上げた。けれど、声はすれども姿が見えない。いったいどこにカラスがいるのかと見渡していれば、真宵さんが俺の袖を引いて「あちらですわ」と指を向ける。

 

 そこにあったのは、にょっきりと立っているガス灯。

 しかし、よく見ればその灯火の中に不自然に揺らぐ炎があることに気がついた。いや、あれはガス灯の中身が揺れているのではなく。

 

 ――カア、カア。

 

 ガス灯のその表面、そのガラスが宵闇の中光を反射してピカピカの鏡のように光る。その中心に揺らぐ炎の枝を咥えたカラスの姿が映った。

 

 ――カア。

 

 そして次の瞬間、ガス灯の表面からカラスが飛び出てくる。

 それが鏡界移動だと気がついたのは少し前。多分、鏡界のどこかや外と繋がっていたのだろう。

 カラスは炎が揺らめく木の枝を咥えながらも、器用に濁った鳴き声をあげてこちらに向かってきた。それから真宵さんの周囲をくるくると回ってカアと鳴く。

 

「こちらへ」

 

 ――カア、カア。

 

 カラスは差し出された真宵さんの腕に降り立ち、礼をするように頭を下げる。

 この分だと、喋れないだけで知性はしっかりとあるようだな。

 

「このカラスは……?」

「ペンタチコロオヤシですわ」

「ペン……なんですか?」

 

 真宵さんはカラスの咥えた枝と紫色の炎を見て眉を顰める。

 

「アイヌ……北海道の妖怪ですわね。松明をかざして飛ぶカラスの妖怪です。一説にはこの妖怪についていくと怪異に出会うとか……ワタリガラスが変化したものなのでほとんど普通のカラスとなんら変わりはありませんが、確か烏楽の子が同胞として交流を持っていたかと」

 

 北海道……。カラスの妖怪なんて俺は鴉天狗しか知らなかったぞ。

 まさかそんな妖怪までいるとは。

 

 こいつが怪異じゃなくて妖怪と呼ばれているのは、元が普通のカラスだからだろうな。信仰や認識がなくなっても元のカラスとして生きていけるから、消滅してしまう怪異の類とは違う妖怪。

 しかし本当にたくさん種類があるんだな。

 

「この松明の色は、緊急かな」

「え」

 

 なにやら訳知り顔で紅子さんが呟いた。

 どうやらこのカラスの怪異が現れるのは珍しいわけではないらしい。

 

「あなたは知らないですね。ペンタチコロオヤシは緊急性を表した事件の依頼書を運びます。松明の色はその緊急性が低いか、高いかを表し、紫色は緊急性が高いことを表しているんです。炎の中を見つめてみてください」

 

 鈴里さんに言われるがままに、真宵さんの腕の上にいるカラスの口元を覗き込む。紫色に燃えるその松明は不思議と熱くはなかった。

 

 炎を見つめれば、その姿が揺らめきうずらぼんやりとなにかが炎の中に浮かび上がる。

 

「にゃあん」

 

「にゃあん」

 

「にゃあん」

 

「にゃあん」

 

 猫の鳴き声、そして悲鳴。

 子供がツタのようなもので持ち上げられ、血の雨になって降り注ぐ。母親が頭からかじりつかれていく。

 横倒しになった鉢植えから木々を伝って伸びに伸びたその葉がまるで蛇のように、人間の体を四方八方から啄み、欠かさせていく……そんな光景を見て俺は思わず「うわあ!」と情けない声をあげながら後ずさっていた。

 

 一瞬思考が飛びそうになるも、なんとか待ち構えて息を飲み込む。

 

「真宵さん、これは」

「今し方起きたばかりの事件ですわ。これを放置していては、甚大な被害が出るでしょう」

 

 夜市の中ではずっと夜だから気づかなかったが、今の時間は外では夕方くらい。つまり、夕暮れ時のこの光景は、本当に今まさに起こったことということになるのだろう。そう、今まさに起きたばかり。こんな凄惨な事件が。

 

「人食い植物ですか……もしかしてアレの仕業ですかね」

「かも、しれないわね」

 

 なにか知っているのだろうか。

 鈴里さんと真宵さんはほんの少しの間話していたが、俺と紅子さんへと向き直る。

 

「この案件を今すぐに処理するべき緊急性の高いものだと断定いたしますわ。令一くん、紅子ちゃん。わたくし、縛縁真宵が同盟創設者としてこの事件の速やかな解決をお二人に命じます。バディを組み、現場に急行してこの怪異を見事退治してみせなさい」

 

 手近にいるのは俺達二人だけ。

 依頼を持ったカラスがここに来たのは恐らく偶然か、それか真宵さんを頼りに来たのかは分からないが……ともかく依頼書を作って、掲示板に張り出してなんて作業をやっている暇もない緊急性の高いものだということは分かる。

 

 そして、これを良い機会とばかりに真宵さんが俺達に依頼をしてきたというのも分かってしまった。分かってしまったから、俺はただ承諾するだけ。

 

「分かりました、行ってきます」

「それと、こいつの退治が終わったあとのことですが……炎の映像を見ているときに鉢植えが映っていたでしょう。アレを回収してきてくださいな」

「ちょっと思い当たる節があるので、念のためですよ。それを見れば私達が思い浮かべているものが原因かどうか、全て分かりますから」

 

 真宵さん、鈴里さん二人からの言葉に頷く。

 ひとまず先に葛の葉の怪異を退治するところからだな。帰りに忘れず鉢植えを持ち帰ればいい。

 

「それじゃあ行こっか、お兄さん。さっきは成り行きだったけれど、これがバディとしての初陣だよ」

「バディね。なんか今更って感じがするが」

 

 今までもずっとそうしてきたわけだし。

 

「そうだね、でも『名前』は大切かな」

「それもそうか」

 

 俺の肩の上にはリンが、紅子さんの肩の上には八千が。

 それぞれ前を見据えて次なる仕事へと向き合う。

 

 

「それでは、あなた達に宵闇の加護があらんことを」

「その心の内が平穏でありますよう」

 

 真宵さんと鈴里さんが歌うように言葉を紡ぐ。

 その言葉ひとつひとつが俺の中に染み入るようで、直感的に「加護」をくれたのだと気づく。前から加護は受けていたのだろうが、ここに来て直接的に預けられたのだと心の内が喜色に染まった。

 

 ――カア。

 

 カラスがふわりと飛び上がり、ひと鳴き。

 すると松明にゆらゆらと揺れていた紫色色の炎が、まるで狐火のように無数に分かれて空でくるくると規則正しく円を描いて浮かび上がった。

 

「『円により縁を繋ぎ、(さかい)を越えよ』人間、そして赤いちゃんちゃんこ。行け」

 

 言葉に力が宿り、人に影響する。それを言霊(ことだま)と呼ぶと言うが、これはなるほど力が沸いてくるようだ。

 

 真宵さんの言葉を受け、俺達は二人揃ってその炎の輪の中に一歩踏み出す。

 さあさあ、凄惨な事件をこれ以上の犠牲を出さないよう、すぐに終わらせに行こうか。

 




章整理のため、「ようこそ妖しき鏡界へ」の冒頭にあった「よびねこ」をこの話の前話に移動してきております。


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に ゃ あ ん

           にゃあん

 

        にゃあん

 

                     にゃあん

 

    にゃあん

 

            にゃあん

 

 にゃあん

 

                    にゃあん

 

       にゃあん

 

 

「子猫の声?」

 

 夕暮れ時、道を通りかかった女性がその声に振り返る。

 しかしそこには僅かな茂みとツタのような植物がいくらか幹の表面に巻きついている常緑樹のみがあるばかり。しかし、確かにその常緑樹の根本から子猫の鳴き声がしていた。

 

 寂しそうな、哀愁漂う鳴き声。まるで誰かが自分を拾ってくれないかと、同情を誘うような声。

 

「巡り合わせってあるものなのね」

 

 女性は長年連れ添った猫を亡くしたばかりである。

 世の中には猫を亡くした人間の元にこそ、子猫が目の前に現れると言ったようなジンクスが存在する。

 

「これが俗に言う『ニャニャニャネットワーク』ってやつかしらね」

 

 そのジンクスの名を口にし、女性は頬に手を添えて嬉しそうに笑った。

 

『ニャニャニャネットワーク』とは、世の中には猫で構成された裏組織があり、日夜猫を預けるに相応しい人間をリストアップして猫を派遣すると言われている猫好きの間でまことしやかに語られる噂話である。

 その噂は猫を亡くした直後に亡くした猫とそっくりな子猫と出会ったり、猫好きに限って子猫を拾う。そんな偶然の話がネット上で散見されることから広まったものなのだ。

 猫好きであり、ネットでまとめサイトなどを見ることのある女性はそれを知っていた。故に運命だなんだと冗談を言いつつ、しかし確かに沈んだその気持ちが持ち上がったのである。

 

「あの子が新しい体を手に入れて帰ってきてくれたのかもしれないわ」

 

 喜色の浮かぶ声をあげて、女性は常緑樹に近づいていく。

 

「どこかしら? 猫ちゃ〜ん」

 

 飼い猫のために普段から持ち歩いていたポシェット。その中には未だに捨てられぬまま数日が経過した猫用の煮干しが収まっている。賞味期限は全く問題ないため、必要がなくなってしまったあとも女性はなんとなく持ち歩いていたのだが、もしやこのために無意識に持ち歩いていたのかと浮かれた気持ちで歩み寄った。

 

 そして、樹木の真下を覗き込む。

 

「ここかしら? 茂みの中かな」

 

 にゃあん

 

 頭上で声がした。

 

「あら、もしかして木に登っちゃって降りられなく……」

 

 にゃあああああん

 

 そこには、葛の葉が垂れ下がっていた。

 いや、正確には葛の葉のようなものである。

 

 何故なら、その葛の葉の先端がサボテンのような分厚い多肉植物のようになっており、さらに上下に割れて中から真っ赤な舌のようなものが出ていたからだ。

 

 にゃあああん

 

「ひっ」

 

 彼女の頭上には、樹木に張り付いて枝から垂れ下がる無数の葛の葉が目に入った。そして、その全てが女性に向かってメリメリと葉の先端を上下に……まるで蛇の口のように開き、抑揚のない声を漏らす。

 

 

           にゃあん

 

        にゃあん

 

                     にゃあん

 

    にゃあん

 

            にゃあん

 

 にゃあん

 

                    にゃあん

 

       にゃあん

 

 

 口々に、そして交互に鳴き声を漏らす葉に、女性が後退る。

 しかし、なにかに躓いた彼女はその場に大きく尻餅をついた。

 

「あ、いやっ、ひっ!?」

 

 躓いたものの正体に気がついた女性が大きな悲鳴をあげる。

 そこには、葛の葉のツタに覆われた小さな小さな白い棒。そして真っ赤に濡れた小さな頭蓋骨。

 

 女性はそれを知っている。

 何故なら、数日前に自身の猫を弔うために目の前で焼いてもらい……そしてその目で見た遺骨と大きさがとてもよく似ていたからだ。

 赤に塗れたその細く、白い棒。いや、骨が猫のものであると女性は直感し、声にもならぬ悲鳴をあげる。

 

 そして涎を垂らしながら焦点の合わない瞳で目の前にずらりと()()()()()光景を見ながら大声で笑い始めた。

 

「あはっ、あはははははっ!」

 

 精神的に追い詰められた女性は身動きもせずに笑い続ける。

 それに合わせてか目の前で揺らめく葛の葉達がその鎌首(ツタ)をもたげ、鳴き声を輪唱させていく。

 

 

           にゃあん

 

        にゃあん

 

                     にゃあん

 

    にゃあん

 

            にゃあん

 

 にゃあん

 

                    にゃあん

 

       にゃあん

 

 

「あははははは!」

 

 にゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあんにゃあん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 にゃあん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、女性に向かって一斉に襲い掛かった葛の葉は、一陣の風と共にその()が散らされた。

 

「紅子さん! その人の避難を」

「はいはい、とりあえず安全なところまで運んでくるよ。発狂もしちゃってるし、寝かせておけば夢だとでも思ってくれるかな」

 

 その場に現れたのは二人の人影。

 

 一人は薔薇色に輝く打刀を構える青年。

 もう一人は紅色のマントを翻した少女。

 

 ツタのいくつかが斬り伏せられ、葛の葉の蛇は戸惑うようにゆらゆらと身を揺らしながら鳴き声を漏らす。

 

 

               にゃあん

 

        にゃあん

 

                     にゃあん

 

    にゃあん

 

            にゃあん

 

 にゃあん

 

                    にゃあん

 

       にゃあん

 

 

「失礼するよ」

「あは、あはははは」

 

 狂気に染まった女性の瞳には、まるでヒーローが助けに現れたかのようにその光景が映っていた。

 



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呼び根こ

 松明を咥えたカラスに導かれ、紫色の炎の輪を抜けた先では今まさに襲われそうになっている女性が座り込んでいた。

 

 俺はその光景を見て反射的に動き、地面に足を踏み込んで駆ける。

 そして女性を狙っていたツタ植物の頭だと思われる葉の部分をいくらか斬り裂き、紅子さんに言って女性を避難させてもらう。

 

 俺が円を描くように斬り払うと、頭になっていた葉が切れて力を失ったようにだらりと垂れ下がる。ポタポタと赤色の血のような……いや、実際に血なのだろうか。犠牲者の血肉を自らの体に取り込んでいるのか、ツタの断面からは血が滴っている。

 

 相手はあくまで植物。斬ってしまえば無力化できる。そう思っていたのだが、ことはそう上手くはいかないようだ。

 

 血を垂らしながら揺れていたツタが持ち上がる。

 

 そしてまるで早送り再生をするように、切れたツタの断面から新しい芽が出るとあっという間に小さな葉になり、そして成長していった。

 

「再生能力持ちかよ……」

 

 ひとつ舌を打って樹木の下から脱出する。俺を追ってきていた蔦葉は十mほどでビンッとその体を伸ばしきり、樹木のほうへ振り返った。

 あまり遠くへは攻撃できないのだろう。

 

 そう思っていたときだった。

 

 

     にゃあん

 

            にゃあん

 

   にゃあん

 

         にゃあん

 

                  にゃあん

 

 

 ゆらゆら揺れる葉が近くにある同じ葉のツタ(くび)を噛みちぎる。

 ぼたぼたと落ちる液体は赤色。そして、今度はそこから葉ではなくツタを長くするようににょきにょきと成長していった。

 

「おいおい」

 

 このまま逃げ続ければツタも伸び続け、しまいには避難したはずの女性のところまで届いてしまうかもしれない。それに周辺住民の住宅に入り込むことさえできてしまうかもしれないじゃないか。

 

 俺は慌てて赤竜刀を構えながら樹木の下に戻り、もう一度斬り払う。

 

「ここでやるしかないか」

 

 ぐっと赤竜刀の柄を握りしめ、集中する。

 

「……まあそうだよな」

 

 だが、簡単に斬り払えてしまうことからか、赤竜刀に薔薇色の浄化の炎が宿らない。多分俺が「無謀」だと思う気持ちが薄いからだ。

 その代わり赤竜刀が僅かに赤熱しているが、やはりいくら力を込めようと神中村のときのように、無謀を燃料として燃える決意の炎ほど、強い力は出てこない。

 

「でも、熱があるなら……!」

 

 背後から寄ってたかって噛み付いてこようとする葛の葉を斬り払った。

 今度は……再生しない! 

 

「どうだ、これで再生できないだろ」

 

 赤竜刀は浄化の炎を纏う。今は赤熱しているだけだが、条件は同じ。赤竜刀で斬られたツタの表面がコゲつき、じりじりと浄化の熱で燃やし続けているからかツタは再生しない。

 これでなら対処できるだろう。

 

「お兄さん、戦況はどう?」

 

 そこで紅子さんが、避難を終わらせたのか戻ってきた。

 

「再生能力持ちだ。斬った断面を焼くとかしないと再生されるみたいだ」

「なるほどねぇ」

 

 こいつらはどうやら知性も理性もないらしいが、シャコのように逃げを選ぶことはないらしい。完全に俺達を食らうことしか頭にないようだ。そもそもこの葉っぱの頭のどこに脳味噌があるのか分からないが。

 

「八千さま、アタシに力を貸してくれるかな?」

 

 紅子さんの肩に乗った八千が、しゅるしゅると舌を出して答えた。

 

「そうだね、意地でも斬ってやろうか」

 

 そう言った途端、紅子さんが取り出したガラス片に藍色の炎のようなものが揺らめいた。

 

「紅子さん、それ」

「キミのやつ、ちょっと憧れてたんだよねぇ。格好いいことしちゃってさ。アタシだってこういうのしてみたかったんだ」

 

 無邪気に、しかし好戦的に笑いながら紅子さんが迫るツタを斬る。

 

 でも、これは蛇神の祟りの力みたいだからあんまりいいものでもないけれど……今一緒に戦う分には充分だよね」

「そうだな、よし、一緒にやろう!」

「頼むよおにーさん」

 

 二人で頷く。

 それぞれの手の中で藍色の「意地」の炎と、薔薇色の「決意」の炎がチラチラと燃えていた――。



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葛の葉ヒュドラ

「はあ!」

 

 気合いを入れて一閃。

 束になって襲い来る植物のツタ部分を斬り払っていくが、やはりすぐにニョキニョキと再生してしまう。

 一本のツタから二本の芽が出て伸びていき、最終的には斬り払った分だけ枝分かれして増えていく始末だ。

 

「にゃあん」

 

     「にゃあん」

 

「にゃあん」

 

 うるさい鳴き声に気を取られそうになるが、前方に集中。

 背中合わせに紅子さんと対処をする。

 

「やっぱり傷口を焼かないとダメか?」

「だろうねぇ。それでも再生されるってことは……ないはずだけれど」

 

 先程からの挙動を見る限り、斬ったあとの傷口を赤熱した赤竜刀で撫でれば、焼きついてそれ以上芽が増えることはなかった。

 だから対処法はこれで合っているはずなのである。

 

 葛が伸びているのは、真宵さんが回収して来いと言っていた壺だ。根元の方は十ほどの蔦が伸びるばかりだが、葛の葉自身が己のツタを噛み切って首をどんどん増やしていくのと、俺が最初の方で斬りまくってしまったことのせいで目の前の緑の群れは大量である。

 正直引くくらいの緑の海だ。

 

 葛の葉の口元……という意味の分からないものから覗く舌のような器官の先が蛇のように割れているのは確認済みだ。

 蛇と植物を掛け合わせたようなその怪物に……「名前の分からないもの」に俺は「名前を当てはめてみる」ことにした。

 

「なあ、紅子さん。前に言ってたよな。『名前』は怪異を強くすることもあれば、弱くすることもあるって」

「言ったね。名前がないからこそ、『分からない』からこそ、『正体不明』だからこそ力が強くなることもあるよ。『名前を定義付ける』っていうのは、その怪異にとっての方向性を決めることに他ならない」

 

 ――アタシが、一人の人間として、赤座紅子としてではなく、『赤いちゃんちゃんこ』としてでしか動けないのと同じように。

 

「そうか」

「もし、アレを正体不明の怪植物としてではなく、なにかに当てはめるのなら……ちゃんと性質が似てるものじゃないと失敗するよ」

「分かってる」

 

 単なる思いつき。

 神中村で決意の炎を宿したあのときと同じ『できる』という感覚。

 それに従ってあの呼び声を上げ続ける植物の怪異を定義付けることにした。

 

「これって、名付けには含まれないよな?」

「もちろん、名付けと定義付けは違うよ」

「それを聞いて安心した」

 

 あんなのがペットになったら嫌だからな。

 

 引き続き背中合わせに赤熱する赤竜刀で斬り払い、傷口を焼き、それ以上「頭」が増えるのを防いだ。紅子さんも同様に「意地」を宿した藍色の炎で斬り裂いた後傷口を焼いていく。

 

 俺は、紅子さんが女性を避難させている間にこいつらの特性をなんとなく推測していた。

 見た目こそただの蔦植物だが、蛇のように口があること、舌があること、蔦を首のように見立てていると……とある怪物をまず思い浮かべた。

 

 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)だ。

 

 しかしそれにしては首の数が多くて、おまけに首は斬っても斬っても再生する。どころか切れた箇所から二本の芽が出て成長していく場面もあった。

 八岐大蛇は酒に酔わせて首を斬って退治された大蛇だが、再生能力なんてものは確かなかったはずである。

 

 そこで次に思いついたのは、まあ、なんというかフィクションの王様ギドラだったわけだけど。それから首が沢山ある怪物を順に脳内検索していって思い出したのは「ヒュドラ」だ。

 

 あいつ……神内(ニャル)を調べる際にいくつか有名な神話なんかを調べていたことがあるのだが、今回はその記憶が役に立ったと言えるだろう。

 

 ヒュドラは、ギリシア神話に登場する九つから百に渡るまで首があると言われている毒蛇の怪物である。ヘラクレスが行う十二の功業の一つで、こいつを倒すために戦ったが、首が傷口から二本生えてきて次々と増えていくため、かなりの苦戦を強いられたというやつだ。

 最終的にヘラクレスは他人の力を借りて潰した後の首を焼いてもらっていたため、この功業は達成を認められなかった。故に最終的に達成されたのは十の功業のみなのだそうだ。

 おまけの話だが、このヒュドラは現在のうみへび座になっているらしい。

 

 神話の中のヒュドラは真ん中に一本だけ不死身の首があり、そいつ以外はいくら斬っても再生するという話だな。そして決して癒えない毒を持つらしい。

 

 少し危険かもしれない。

 しかし、今のこいつを……名無しの怪異であるこの怪植物を表す『定義付け』をするなら、これしかない。今のままじゃあ焼いて対処ができても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()からだ。

 その点、ヒュドラならば対処法が分かっていて、神話の中で倒されていることが確定している。

 

 そんな存在に定義付けをしたならば――俺達が神話を再現し、アレを倒せるのもまた自明の理だろう。

 

「紅子さん、あれはヒュドラを模した蛇の怪異だ。毒があるかもしれないが、傷口を焼きながら真ん中にある首をなんとかすれば『絶対に倒せる』ぞ!」

 

 言葉に力を込めるように叫んだ。

 言い聞かせるように。あれはヒュドラモドキだ。だから『倒せないわけがない』と。

 

 途端に、空気が変わった。

 舞台装置は整えた。あとは俺達が英雄を演じて、『絶対に倒せる』という事象になぞらえて動くだけ。

 

 最初に動いたのは、紅子さんだった。

 

「着せましょうか、着せましょうか……」

 

 いつもの口上を呟きながら紅子さんがガラス片を滑らせる。

 斬れ味のいいそれでスパッと切れたツタに、一瞬の間をおいて藍色の炎が吹き上がり焼き続けるように消えずに残る。

 俺が赤熱した赤竜刀を振るえばツタの根元のほうから広範囲を斬り裂き、傷口の表面が薔薇色の炎で燃え上がった。

 

 次々と二人で背中合わせになるようにして周囲の植物を無力化していくと、後に残った薔薇色と藍色の炎が夕暮れの中火の玉のようにゆらゆらと辺りを明るくしていく。

 

 夕暮れから夕闇へ。

 橙色の美しい空から藍色の空の、「宵」の時間がやってくる。

 

 藍色の暗い炎と薔薇色の明るい炎は俺達の殺陣(タテ)を飾り付けるイルミネーションのように、消して消えることなく道を照らし出し、俺の目にも暗闇がはっきりと見渡すことができるようになっている。

 お互いの背後はなんとかなんとかなるが、四方八方から迫りくる植物の猛攻は止まない。リンも赤竜刀から抜け出てドラゴンの姿に顕現し、薔薇色の炎を吐いて対処しているが、元凶であろう壺のほうからどんどんと植物が溢れ出てくる。

 恐らくあそこに核のようなものが……たとえば本物のヒュドラと同じように不死身の首があるのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……よし」

 

 紅子さんが壺のほうへと向く。

 それからすぐにその姿が宵闇の中に溶けて消え――。

 

「ここだよねぇ!」

 

 次の瞬間には、壺のすぐそばに彼女は転移していた。

 鏡界移動だ。しかし、これで三回目。もう彼女は緊急回避にも移動を使えない。

 

 植物が溢れ出る壺を足払いで宙に打ち上げる。

 壺の口は大量の植物で埋まっており、浮かんだのはごく僅か。しかし根っこの部分を攻撃された植物が驚いたのかほんの少しだけ動きを止めた。

 

 そして、彼女は呼んだ。

 

「お兄さん! 斬り払って!」

「ああ!」

 

 反射的に体は動いた。

 まとまって紅子さんに向かおうとする植物達をまとめてぶった斬り、躍り出るようにその中心に分け入る。

 

「えっと、八千さま!」

 

 そして、次に自らに寄り添う蛇の名を彼女が呼ぶ。

 

 ――シュルルル。

 

 紅子さんの肩にいた八千が応えるように声を出し、腕の先に滑るように移動してガラス片に絡みつく。

 

 壺は大半の植物が斬られたことにより、反撃に出ようとするものが少なくなった。さらに、先の方が切れているために壺の口の中がいくらか見えやすくなっている……故に、彼女がやることは一つ。

 

「ここかな!?」

 

 言って、紅子さんが腕を振り抜く。ガラス片には小さな小さな夜刀神が取り憑き、空を切って壺の中心に吸い込まれていった。

 

 風を切り、ゆらゆらと揺れるその面布がほんの僅かだけど捲れ上がる。その瞳を見たのは、きっと壺の中心にいた不死身のツタだけだっただろう。

 けれどそれだけで充分。なぜなら……。

 

 ――夜刀神を見てしまった者は、血縁が絶えるまで祟られるからだ。

 

 にゃあん

 

 にゃあ

 

 にゃ

 

 ……

 

 壺の中心から燃え広がるように藍色の炎が広がっていく。

 見た者が完全に滅ぶまで決して消えることのない蛇神の炎。それがあっという間に植物全体に広がり、そして塵になるまで焼き尽くしていく。まだ時間はかかるだろうが、いずれ全て燃え尽きるだろう。

 

 ……後に残ったのは、葛の葉ヒュドラに寄生されていた常緑樹の姿と、その根本にある白い動物の骨。そして、中心に藍色の炎に包まれた小さな芽が存在する古めかしい壺だけであった。

 

「終わった、かな?」

「ああ、見事だったよ。すごいな紅子さん!」

「それ、ちゃんと褒めてる?」

「当たり前だろ。今回は、リンの〝浄化〟よりも八千の〝祟り〟のほうが効果的だったみたいだし」

 

 手放しで褒めたのだが、俺へ疑いの視線を向ける紅子さん。

 いや、そんなに捻くれなくてもいいじゃないか。格好良かったんだからいいだろ。

 

「八千さま、ありがとうございます」

 

 紅子さんがその頭を恐る恐る指の腹で撫でると、八千は舌をしゅるしゅると出しながら機嫌よさそうに自ら頭を押し付けた。

 

「きゅうい」

「ん? そっか、リンも頑張ったもんな」

「きゅうー」

 

 そんな光景を見たからか、リンは俺の肩に乗ったまま頬に頭をごつりとぶつけてきた。そんな訴えでようやく褒めてほしいんだなと気づくことができた俺も、リンの頭を腹の指でくすぐってやる。

 

「きゅう、きゅういー」

「……しゅー」

 

 その場で少しの間だけ、相棒達のご褒美タイムとなったのであった。




2019/10/22
前半部、大幅に加筆修正。


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事件の後始末

「しかし……」

 

 相棒達が満足するまで撫で回し、落ち着いたあたりで周囲を見回した。

 幸い誰も通りがかる人はいなかったため、後処理に関しては特に問題なく済むだろう。襲われていた女性は発狂したせいで記憶が混濁しているだろうし、蛇神の藍色の炎も、リンと俺の決意の炎も、敵と認識しているもの以外には危害を加えない。葛の葉ヒュドラの不死身の芽以外を燃やし尽くした後は、速やかに鎮火するだろう。後少しだ。

 

 けれど、そうして僅かな炎ばかりが残った状況で改めて周囲を見ると、その酷さが浮き彫りになって見えた。

 

「ひどいな……」

 

 思わず声に出る。

 未だチラチラと燃える明るい二色の炎で彩られた常緑樹は、クリスマスのイルミネーションのように美しい。巻きついたツタがずっと燃えているからだ。だがやはり、ツタだけを燃やしていて常緑樹に炎が燃え移ることはない。

 

 これもやがて鎮火するだろうが……

 

 俺は常緑樹を見上げる。その枝の一部にはまだ「食いかけ」と思われる、辛うじて人の形をした大小のなにかが二つ、ぶら下がっていた。

 ペンタチコロオヤシというカラスの妖怪が見せてくれた、松明の炎の中に見た親子の変わり果てた姿なのだろう。

 

 小さな葛の葉の口に何度も何度も啄まれたように、その体は人の形よりもずっとほっそりとして、いくつもいくつも大事な部分が欠けていた。

 特に腹だったろう部分は大幅に欠けている。そんな気が狂いそうな光景に、俺は俯いた。

 

 可哀想というよりも、惨さのほうが目立ってしまって、なんとも言えない気持ちになる。

 

「あとは、壺を持ち帰ればいいんだったね」

 

 どうしてそこまで冷静になれるのだろうかと、俺は紅子さんを見遣る。

 が、彼女もひどく悔しそうな、悲しそうな表情をしていることに気がついてしまった。

 

「弔ってやりたいが」

「……無念を持った遺体の前で知り合い以外が悲しんだりしたらだめだよ、取り憑かれるから」

「紅子さんこそ、悲しそうな顔してるじゃないか」

「……うん」

 

 しばらく樹上の遺体を見ていた彼女は目線を落とし、未だ中心が燃え続ける壺を拾い上げた。

 

「大丈夫なのか?」

「壺自体にはなんにもないと思うよ。それにほら」

 

 彼女が壺を持ち直し、こちらに口を向けてくる。

 そこには、藍色の炎で包まれた植物の芽と、その中心にはめ込まれるように小さな目玉が収まり、ギョロリとこちらを睨みつけていた。

 

「生きてる」

「うん、でも、もう手出しはできないよ」

「分かってはいるけれど、不気味だなあ」

 

 祟りの炎は相手が潰えるまで消えることはない。

 つまり相手が不死身であれば燃やし続け、封印することができるということだ。本当に頼もしい仲間が増えたな。紅子さんもさっきの戦いを見る限り、既に連携は充分なようだし。

 

「そろそろ、鏡界に帰らないと……」

 

 そう言っていたときだった。

 

 道路に紫色の火花が散る。

 

「なんだ!?」

 

 慌てて紅子さんの手を取って下がり、リンにお願いして赤竜刀を構える。紅子さんも突然のことで驚いていたが、しっかりと片手で壺を抱えたまま俺の後ろに下がった。

 

「もしかしてこの壺を回収しに来たなにかとか……紅子さんはそれを守ってくれ」

「え、うん。でもお兄さん、多分あれ……」

 

 なにがあってもいいようにその火花が散った場所を見つめる。

 すると、火花は中心に向かって星の形……五芒星の模様を描きながら移動していった。しかし、それになんとなく違和感を覚えて口に出す。

 

「五芒星……だけど、逆さま?」

「逆さまの五芒星はね、お兄さん。悪魔の象徴なんだよ」

 

 なぜか落ち着き払った紅子さんに、俺はますます警戒の色を上げた。

 悪魔。出会ったことはまだないはずだ。どんな恐ろしい奴が出てくるのか――。

 

「はあー」

 

 盛大な溜め息を吐き、どこかやる気がなさそうに表情が憂いを帯びている。

 耳のように跳ねた紫色の髪。世の中の男の子が一度は憧れるようなロングコート。その中に着た迷彩柄のシャツ。瞳は獰猛な獣のそれ。

 

「なんで俺様なんだよぉ」

 

 そこに立っていたのは、ケルヴェアートさんそのヒトだった。

 

「へ?」

 

 思わず素っ頓狂な声を上げると、紅子さんが背後でくすりと笑う音がする。

 あ、そういえばケルベロスって『暴食の悪魔』としても数えられるんだったっけ……? すっかりと忘れてしまっていた。

 

「え、紅子さん知ってた?」

「うん、知ってたよ。同盟のお仕事関係で、死者が出ている事件の後始末には彼らが来るんだ。本当は中立なんだけど、死者を送るついでにこっちの手伝いもしてくれてるんだって」

 

 毎回紫色の逆さ五芒星で訪問してくるから、紅子さん達同盟の仕事を多数こなしているヒトには当たり前の光景だったらしい。だからこそ新鮮で面白かったとかなんとか……言ってくれよ! 一人で警戒して馬鹿みたいだろ! 

 

「だって、ねえ?」

「紅子さん……」

 

 また、俺はからかわれていたらしい。

 

「あー、お前らいたんだな。さっき俺様が出てきたときのことは忘れろ」

 

 つかつかと歩み寄ってきたケルヴェアートさんが俺の肩を掴む。

 さっきって、もしかして「なんで俺様なんだよぉ」って言ってたアレか? なんでだ。

 

「忘れろ、いいな?」

 

 ミシミシと肩に段々と力が入っていく。

 俺は首振り人形のようにただ黙って頷くことしかできなかった。

 

「んな、情けねーもん見られたとあっちゃあなあ……いや、そんな恥晒してねーぞ。いいな?」

「はい」

 

 圧力がすごい。

 

「んじゃ、俺様はアレを回収していく。お前らも緊急依頼ご苦労だったな。俺様は中立だからあんま会うことはねーが、まあなんだ……頑張れよ」

 

 そう言って俺を一瞥(いちべつ)してから、ケルヴェアートさんは樹上の遺体を下ろし始めた。常緑樹の下に立って、一度、二度、と木の幹を蹴って駆け上がり、遺体を抱えて戻ってくる。

 あれ、日本人の遺体なのにケルベロスが回収しに来るのはなんでだ……? 

 そんなちょっとした疑問を言うことすら(はばか)られて、ケルヴェアートさんの行動を見守る。

 

「ありがとう、アートさん」

「あー、閻魔のお使いもハデス様の派遣のうちだ。問題ねーよ。それと、安心しろ。こいつらは地獄に連れて行くわけじゃねぇ。三途にある裁定の為の待機所に突っ込んでくるだけだ。あとは自力で閻魔のとこまで行く必要があるからな」

 

 その言葉に少なからずほっとする。この人達が即地獄行きなんかになっていたら、さすがに無念だろう。あんな化け物に命を散らされてしまったのだから。

 

 だが、またもや気になる言葉があった。『閻魔のお使いもハデス様の派遣のうち』とは一体……? なんだか苦々しそうな口調だったので、やはり本人。本狼? に言うのは躊躇われた。

 

 ……後で真宵さんに訊こう。

 

「っと、胸糞悪いモン持ってるな」

 

 アートさんの視線が自然と紅子さんの持っている壺に注がれる。

 その顔は唾棄(だき)するべきものを見たような、汚いものを見るような目だった。

 

「俺様の兄弟のモドキを作ろうとは、なかなかコレクター共も気に触るようなことしてくるじゃねーか」

 

 あれ、ヒュドラってケルベロスと兄弟だったか? 

 さすがにそこまでは覚えていない。ギリシア神話って兄弟関係が膨大すぎてそんなに詳しく覚えられないんだよ。

 

「え、ていうか……コレクター?」

「あん? ああ、気づいてねーのか。お前らは夜刀神に言われてここに来たんだろ? 俺様はまだ『お仕事中』だ。そっちに訊くんだな」

「あ、はい」

 

 そう言ってアートさんは俺達に向かい手をひらりと振ると、地面に焼き付くように再び現れた逆さ五芒星の中心に沈んで行く。

 

「それじゃあな、頑張れよお二人さん」

 

 激励の言葉に「ありがとうございます!」と言いながら手を振れば、もう一度手を振り直して、今度は親指を立てるサムズアップをしながらニッと笑った。

 

 あの、でもその状態で地面に沈んでいかれると……溶鉱炉に沈んで行くどっかの映像を思い出すから……と思いつつ複雑な気持ちで消えていったアートさんを見送る。

 

 それから俺達は、どちらともなく苦い表情のまま顔を見合わせた。

 

「帰るか」

「うん」

 

 近くにあるサイドミラーを見上げる。

 あそこから出入りできるはずだ。そう思ってリンに案内を願うと、するとそこはすぐさま連理の道へと繋がった。

 

 あとはリンの案内に従いながら、元の場所に繋がる道を行くだけである。

 そうして俺達は一仕事終え、再びあやかし夜市を目指すのであった。



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金色のお狐様

 俺達が連理の道を抜けてあやかし夜市に戻ってくると、そこは出発した地点と寸分違わない場所だった。リンの案内が正確であることを実感し、あとでご褒美になにか作ってやろうと心に決める。

 

「あれ、真宵さん達は……?」

「えーっと」

 

 しかし戻ってきたところには真宵さんや鈴里さんの姿が見えない。

 紅子も辺りを見回していたが……。

 

「あら、終わったのですね」

「お疲れ様です」

 

 背後からの声かけに振り返ると、そこにはものすごい光景が広がっていた。

 ものすごいと言っても、別に真宵さん達があられもない姿でーなんてことはない。

 

 真宵さん達は――片手にお団子、腰に酒瓶、腕にかけた袋の中からは焼きそばだろうか? 空腹をくすぐるような香りが漂ってきていた。

 

「なにしてるんだあんたら」

「相変わらず、結構言いますわね」

「その軽蔑するような目、なかなか神様相手にそんなことできる人はいませんよ。誇ってください」

 

 いや、だって人に緊急依頼任せておいて、自分達は屋台で遊び歩いてましたみたいな格好で出迎えるのはどうだよ? それでも上司か? 

 

「ちなみに、ラーメンも一杯食べてきました」

 

 無表情でピースサインをする鈴里さんに、もう一回デコピンしても許されるかどうかを考え始める。いや、わりと許される気がするな、うん。

 

「ダメだよ、おにーさん。なんか変なこと考えているでしょ」

「……」

「お兄さん?」

 

 紅子さんの肩から八千までもがジッとこちらを睨みつけてきている気がする。面布をしているのに、不思議と睨まれているのが分かってしまう。

 

「ごめん」

「よろしい」

「あらあら、さっそく尻に敷かれちゃって」

「真宵さんが原因であることを忘れないでほしいかな?」

「……ごめんなさいね、紅子ちゃん」

 

 紅子さんの目が据わっていた。

 さすがにお気に入りから責められるのは堪えたらしい。真宵さんが困った顔をしながら両手を合わせて謝り、事の次第は終息した。

 

「あの……」

 

 そこで、ようやく俺は真宵さん達の後ろに誰かがいることに気がついた。

 

「あなたは……?」

「あの、えっとね、壺の封印を先に済ませてしまおうか」

 

 柔らかい口調でそう言った人物……いや、人じゃないな。

 長い金髪を左手側の髪をサイドテールにし、その両眼は包帯で塞がれ、見ることができない。銀色の着物……多分打ち掛けかな? 稲穂の柄が入った銀の打ち掛けの内側に、赤色と金色の導師服のような、中華風と言えばいいのだろうか? そんな服装をしている優男だ。

 声もいくらか高いが、男だとしっかりと分かる声音である。

 

「僕は金輝(きんき)。以前、弟の銀魏(ぎんぎ)と弟君が仕える春国君には会っていると思うんだけれど」

 

 春国と、銀魏……。

 思い出したのは、神中村で言い争いをしていた敬語の男の子と、銀色の狐だった。確か最後の最後に全体を浄化してくれた二人である。

 

「ああ!」

 

 思い出して合点が行く。

 あの銀狐を弟と呼ぶと言うことは、きっと兄なんだろう。

 

「これから豊穣神社へと向かって、この壺についてを話すつもりでしたの。でも、その壺をそのまま持っていくことはできないのですよ」

 

 真宵さんが扇子で壺を指し示す。

 未だこちらを睨み付けているこんなやばそうな壺と植物だ。確かに神社という神聖な場所に持っていくことはできないだろう。俺がその神社の神様だったら何事だ! って思うだろうし。

 

「だから、封印術の得意な僕が案内狐として来たんだよ。さくさくーっと封印しちゃおうねぇ」

 

 やけにのんびりとした口調で金色のお狐様が言う。

 しかし、狐か。

 

「あれ? 僕みたいなの珍しい? 僕も、銀魏も化けるのは上手だからねー」

 

 言いながら金輝さんの姿が揺らめく。

 すると次の瞬間には、その頭上に片耳だけ少し折れた金色の狐耳と、その背後に豊かな金色の波が揺れるようになった。どうやら見えないだけで、ちゃんと尻尾も耳もあったらしい。

 

 無意識にゆらゆらと揺れる尻尾の数を数えてみたら、金の尻尾が五本。

 九尾、というわけではないらしい。

 

「僕が五尾、弟が四尾で、二匹揃って九尾の狐(大霊狐)って呼ばれてるんだよー」

 

 なるほど。なんかそういうニコイチみたいな関係は憧れるものがあるな。格好良い。

 

「それじゃあ、ペターッと」

 

 言いながら金輝さんはお札のような物を壺に貼る。

 するとみるみるうちに壺の上部に透明な膜が出来上がり、中にある芽にくっついた目玉が目を閉じる。炎は相変わらず揺らめいているが、確かに封印されたと言えるだろう。

 

「それでは、私は仕事もあるのでここら辺でお暇しますよ」

「ええ、しらべ。頑張ってね」

「はい、あとで胃薬送ってください」

「もう、遠慮なくおねだりしてくるんですから……分かりましたわ」

 

 鈴里さんが手を振って、その場から離脱する。

 あやかし夜市の元締めだし、忙しいんだろう。真宵さんも言っている言葉こそ愚痴っぽくなっているが、その声音は優しい。部下を労う良い上司……なのだろうか? 

 

「それじゃあ、行きましょうか。そこでこれの説明をして差し上げますわ」

「あ、それと後で訊きたいことがあるんですけど」

「ご遠慮なさらずにどうぞ。けれど、今は移動しましょう」

「はい」

「分かったよ」

 

 訊きたいこととは、もちろんケルヴェアートさんのことである。

 ギリシア神話の冥界の番犬がなぜ、中立なのにこちらの国の冥界の手伝いをしているのか……正直ずっと気になってたからな。

 

「紅子さん、それ俺が持つよ」

「あ、うん。ありがとう、お兄さん」

 

 封印された壺(にもつ)を俺が持つ。意外と重いぞこれ。紅子さんには悪いことをしたな。女の子に重い荷物を持たせっぱなしにしちゃって、嫌われないだろうか。

 

 ……いや、対等な関係。対等な関係を忘れちゃいけない。

 そうやってか弱く思われるのは、絶対に嫌がる。そんなことを思ってはいけない。うん、そうだ。これは交代で持ったということになるから多分大丈夫だろう。紅子さんだって俺のプライドとかもろもろを気遣ってくれているんだから、俺も同じようにしないとな。

 

 そうして、俺が密かな反省会をしている間に、どんどんとあやかし夜市の奥へと進んでいくのだった。



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灯籠の金、萌ゆる銀の木々、そして月影の白

 石段を一段ずつ登っていく。長い長いそれを登るにも関わらず、不思議と疲労感には襲われなかった。

 

 一度は来たことのある場所だ。

 一度……去年の夏、あやかし夜市にはじめて訪れたときに「椿の酒」を持って帰るように神内から言いつけられていた。あのときだ。

 椿の酒はこの神社で配られていたものなのである。

 

 思い起こすと、昨日のことのように鮮やかな光景が脳裏に浮かぶ。

 美しい神社だった。あやかし達の跋扈(ばっこ)する場所にあるとは思えないほど、美しい景色だった。

 

 石段を登るごとに思い出しながら、胸の内でワクワクを覚える。

 先頭を慣れたように金輝さんが行き、その後ろを俺と紅子さんが歩く。そして真宵さんは、まるで俺達を見守るように最後尾で階段を上がってきていた。

 

 金輝さんが歩くたび、石段の両脇にある石灯籠がぼんやりと白金の光を灯す。

 横目にそれを見れば、石灯籠の中に灯っている炎が狐火のようにゆらゆらと揺れているのが確認できた。

 金輝さんの尻尾は再び見えなくなっているが、もしかしたら見えないだけで石段を登りながら灯りを点けて行っているのかもしれない。

 もしくは、彼が通るだけで白金の狐火が灯るようになっているのか。

 

 ぼわり、ぼわり、と道標のように狐火が揺れる。

 そして鳥居のある頂上まで登り切れば、その鳥居の両端に金と銀、それぞれの狐火が灯り、真ん中に一際大きく聖火のように燃え立つ真っ白な炎が上がる。

 

 鳥居全体が白い炎で細く細く覆われていて、まるで朱色の鳥居が光り輝いているようにすら見えた。

 あやかし夜市の宵闇を照らす、白く輝く朱色の鳥居……その真ん中にある額のようなものに入っている名前は『稲荷大神』である。

 

「君達なら大丈夫だと思うけど、真ん中は御倉(みくら)様の通る道だから、端っこを通ってくれるかい?」

 

 神社のマナーだな。俺達も一応知っていたから、石段を登っているときから端を通っていた。このまま鳥居の端を通ればいいだけだ。

 

 金輝さんは目を包帯で完全に覆っているのに、まるでこちらが見えているように振り返ると「お疲れ様」と声をかけてきた。

 

 それから手のひらを上に向け、鳥居の向こうを指し示すようにすると、その口元を緩めた。

 

「ようこそ、豊穣神社へ」

 

 ぶわりと、風が吹き抜ける。

 隣にいる紅子さんのポニーテールが風になびいてふわりと舞い上がった。

 

 奥にある拝殿は、遠目から見ても派手ではなく、しかし美しい装飾がなされている。

 稲穂の揺れるような金色の飾りに、朱漆(しゅうるし)塗りの柱。周りにある木々も、どこか神聖な雰囲気で、不思議なことにその影が銀色に見えた。

 

 鳥居から少し入った場所の右手に手水舎(ちょうずしゃ)があり、奥に目をやれば本来狛犬があるべき場所にそれぞれ巻物と玉を持った狐の石像が置かれている。稲荷神は狐を神の遣いにしているというし、狛犬は合わないのだろう。

 

 参道の端を歩いて拝殿まで辿り着けば、そこには大きな賽銭箱と、鈴。通常の神社にあるものは全て揃っているようだった。

 

 その後ろは本殿に繋がっているようだが、この神社に住まう神様は現れない……とナチュラルに神様に会えることを前提にしていたが、普通は会えるわけないんだよな。俺もいつのまにか常識が日常とズレてきていたみたいだ。

 

 金輝さんは「ご挨拶だけして行ってくれれば問題ないよ」と言って手水舎で手を洗ってからスタスタと参道を歩いて行ってしまった。

 

「紅子さん、手順覚えてるか?」

「えっと……」

 

 細かいことは覚えていないようだ。

 若干焦りながら、ひとまず二人で手水舎まで歩く。

 

「わっ、すごいよお兄さん。ほら、これ!」

「椿……だな」

 

 珍しく紅子さんがはしゃいで俺の袖を引っ張る。

 まあ無理もない。俺もその光景には息を飲んで「綺麗」だと思ったからだ。

 

 手水舎の水面には、たくさんの椿の花が浮かべられていたからである。ほんの少しだけ枯れている部分もあるにはあるが、どれも美しく、たまにネットで見かける「紫陽花が浮かべられた手水舎」を思い出した。

 きっとあんな感じの試みなんだろう。

 俺でさえ、風流だとか、雅やかだなあなんて感想を抱くくらい、その光景は美しかった。

 

「お二人とも、手洗いの順は分かるかしら?」

 

 扇子で口元を隠しながら、真宵さんが尋ねてくる。

 そうだった、覚えていない。どうしよう? 

 

「わたくしは他所の神ですから、この場で術で身を清めてしまいます。お二人は今から言う手順を実行してくださいな」

「あ、ありがとうございます!」

 

 そうして真宵さんの指示の元手洗いを済ませていくことにした。

 

 まず右手に柄杓を持って、左手に水をかける。

 次に柄杓を左手に持ち替えて同様に右手を清める。

 それから、また右手に柄杓を持ち替えて、左手をお椀の形にして水を溜め口を(ゆす)ぐ。

 

 真宵さんによると、現代の手水舎ではこの左手に溜めた水は唇をつけるだけでいいところもあるそうだ。衛生面的に。

 ただし、この鏡界においては常に清浄な水が手水舎の中に溜めてあるらしいので、本来の通りに俺達は口を濯いだ。

 

 最後に、柄杓を両手で持って水をすくい、そのまま立てるようにして手で持った部分を洗い流す。そして柄杓を元の位置に戻せば完了である。

 

 椿の浮かぶ美しい手水舎で二人して手を清め、いよいよ参道を通って拝殿へ。

 そこで待っていた金輝さんが「それじゃあ、ご挨拶だけするんだよ」と優しく言う。

 

 これはさすがに知っている。『二拝二拍手一拝』ってやつだ。

 

「えっと、お賽銭……」

「あ、待ってくれ。確か細かいのが」

 

 紅子さんも財布を探り出したが、俺は財布の小銭入れがぱんぱんになっていることを思い出して、そこから五円玉を二枚取り出す。

 

「使ってくれ。どうせ自販機じゃ使わないし」

「いいの?」

「こんくらいならいいだろ」

「うん、じゃあお言葉に甘えようかな」

 

 ちょっとワタワタしながら賽銭を用意し、紅子さんに五円玉を一枚握らせてから俺が前に出る。

 

 まずは一礼。それから賽銭を投げて、ガラガラと鈴を鳴らした。

 そして一歩下がって今度は二回礼をし、二回手を打ち鳴らす。手を合わせたまま目を閉じ、心の中で「俺は下土井令一と申します。本日はご挨拶に伺いました」と念じる。

 

 ええと、あと言わなくちゃいけないことは……「これからこの神社の中で、皆でお話をさせてもらうことになります。お邪魔してしまいますが、えーっと」

 

「ちょっとお兄さん、なに悩んでるのかな?」

「ご挨拶っても、なに言っていいのかいまいち……」

「シンプルで大丈夫だよ? 肩の力抜いてリラックスしちゃってよ」

 

 近くから金輝さんの声が聞こえた。

 うーん、シンプル……「えっと、よろしくお願いします」と。

 

 目を開けて、最後に一礼。

 紅子さんに交代すると、彼女は数分とかからずにテキパキと参拝を終えた。

 俺が悩みすぎただけか。

 

「それじゃあ、本殿はお師匠様が仕事してるかもしれないし、離れに行こうか」

 

 そう、金輝さんが言ったときだった。

 拝殿の裏……つまり本殿のほうから足音が聞こえてきたのは。

 

「不浄の気配がすると思えば……貴様か、夜刀神」

「あら、わたくしも神様ですのよ」

 

 そこにいたのは、白――だった。

 

 白い短髪に、神社の神主のような装束を着ていた。白袴には白金の稲穂の紋様が入っていて、見るからに身分の高い者だということが分かる。

 なによりも、その背後に揺れる真っ白な尻尾が九本。頭の天辺にはピンと立った白い狐の耳。

 

 平たく言うと、それは真っ白な九尾の狐だった。

 

「客人か。幽霊の客まであるとは、貴様。連絡をしろとあれほど言っただろう」

「ごめんなさい、緊急依頼が入っちゃって連絡しそびれちゃったの」

 

 いやいや、あんた屋台で遊び呆けてただけじゃないか。

 そんなツッコミはグッと押さえて二人の邪魔をしないようにする。絶対あの九尾は偉いヒトだし、真宵さんは仮にも神様だし……。

 

「九尾の狐……」

 

 しかし、紅子さんが思わずといった風に呟いた言葉に、白い狐の視線がこちらに向けられる。

 そしてすぐそばにいた金輝さんがくすくすと笑って否定した。

 

「違うよ、お師匠様は九尾の狐じゃないんだー」

(しか)り」

 

 そして居住まいを正した白い狐が威厳たっぷりに告げる。

 

「俺こそは十八(・・)の尾を蓄えし神霊、空狐(くうこ)。そして、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)様より二つの字を授かった、名誉ある第一の神使『宇受迦(うつかの)豊国(とよくに)』である!」

 

 月影に白く輝くその(ヒト)は、まさに神にも届きそうな姿だった。

 



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稲荷の側仕え

「お師匠さまー、離れをお借りしますよ」

「……コレクター関連か、仕方ない。許そう。しかし、本殿にそれを近づけるなよ。御倉《みくら》様はお優しい。そのような姿になった植物を見たら、豊穣神としてその御心を痛めるだろう。いいな?」

「はい、分かっていますよ」

 

 金色狐の金輝さんと、白狐の豊国さんのやりとりを見守る。

 豊国さんは「宇受迦《うつか》」と名乗っていたし、神中村で出会った春国さんの父親……だろうか。確か、狐と椿の精霊のあいの子だって言っていたよな。名前も似ているし、多分親子なのだろう。

 

 春国さんや銀狐の銀魏さんの姿が見えないのは、どこかへ出かけているのだろうか? 

 

「それじゃあ許可も出たし、こっちだよー」

 

 神社内は不思議と葉が一枚も落ちていない。

 土を踏み締めるように前を行く金色の彼の案内で、そんな景色の中を歩いた。

 

「ウカノミタマノカミは豊穣神ですわ。この神社の中では、どのような植物も時期に関わらず生い茂り、咲き誇ると言いますわね。そして決して枯れることはない、と。感じないかしら? この領域では、ウカノミタマノカミの神力が満ち満ちているの。その神力が植物を元気にしているのですよ」

 

 いや、感じろと言われても……。アニメや漫画みたいに、そう簡単に気配とか力とか力とかが物理的に感じられるようになったら苦労しないってば。

 若干の理不尽にそう言いそうになるが、自制する。

 

 人間が生きている限り少なからず持っている霊力、怪異が持つ妖力。それと同じように神様しか持っていないのが神力……だろうか。

 ちなみに例外は魔力である。これは精神力をそのまま表すので、どんな生物も必ず漏れることなく持っているものらしい。それに気づいて使えるかどうかはまた別ということだが。

 

「……」

 

 うん、分からない。幻想的な神社だなあ、くらいしか感想が出てこないぞ。

 

「ところで、金輝さん。アタシは九尾の狐くらいしか知らないんだけど、さっきの……豊国さん? は、十八って言っていたよね。あれってどういうことなのかな?」

「ああ、お師匠様の言葉かい? 正確には九以上には増えないんだよね。見た目には、ってつくけれども」

 

 金輝さんが案内してくれた離れに入り、そのまま和室に通されたのでそこに座る。離れといってもかなり大きい。拝殿や本殿のすぐそばではなかったが、神社の敷地内にあったのでもしかしたら金輝さん達の住居スペースなのかもしれない。

 

「見た目には?」

「そ、見た目には。まず、狐は善行か悪行を積んでいくと一本ずつ尻尾が増えていくんだけれどねえ。その上限が九本なんだよ。で、それ以降もずっと〝やるべきこと〟をやっていれば、力はつくんだけれど……今度は一本ずつ尻尾が減っていくんだね」

 

 金輝さんの説明に目を丸くする。せっかく増えたのに、減っちゃうのか。

 

「減っていくっていうとアレだけど、うーん、なんていうか……尻尾がより強い力を持って霊体化するんだよ。だから、目には見えない。けれど、確かに強くなっていくんだねー。そうして九本全てが霊体化したのがお師匠様。神の領域にまで達した〝空狐〟って言うんだよ」

「空狐……」

 

 電波は、通るな。さらっと狐について調べてみる。

 まず、狐には二種類ある。人には害をなさない善狐(ぜんこ)と、人に害をなす野狐(やこ)だ。神社の狐なので金輝さんや豊国さんは善狐だな。

 

 それで、狐にも階級があると。

 千年程度で九尾にはなるようだが、野狐からなる妖狐は階級の一定より上にはいけないとかなんとか。

 

 下から阿紫霊狐(あしれいこ)地狐(ちこ)気狐(きこ)または仙狐(せんこ)、空狐、天狐だ。

 

 空狐は三千年以上生き、神社に仕えていたものが引退したものであり、(くらい)としては神に仕える天狐が上だが、その力は空狐のほうが上である……って結果が出たわけだが。どう見てもさっきの豊国さんは現役だったよな。

 

「お師匠様は神使としてはもう引退しておられるよ。ただ、御倉様の側仕えをずっと続けているだけで、神使のお役目は僕らに譲ってくれているんだよね」

「尻尾が九本出ていたのは?」

「霊体化している尻尾を顕現させているだけさ。省エネモードだよ」

「なんて?」

「省エネモード」

 

 いきなり俗っぽい言葉が出てきて思わず聞き返してしまった。

 

「尻尾を全部霊体にしていると空狐相応の威圧感が出ちゃうから、自分の力を抑えて九尾程度に見えるようにしているだけだよ。お師匠様が空狐だって知らなかったら、勘違いするくらいには自然な力の落とし方なんだよねえ」

「なるほど気遣い」

 

 嬉しいといえば嬉しいが、ちょっと尻尾のない姿も見てみたかったな。

 

「それじゃあ、金輝さんは五本尻尾だし……」

 

 あれ、どのへんの位なんだろう。

 

「僕自身は八百年くらい生きているからねえ、一応仙狐の端くれとは言えるかな? 弟は七百くらいだよ。まだ妖狐に片足入れてるから地狐だけどね」

 

 随分と若く見えるが、これで八百歳以上……か。人外って本当に年齢が分からないな。

 

「銀魏さんが妖狐って……確か本人も妖狐に堕ちかけているって言ってましたけど、それはどういう?」

 

 確か、神中村で出会ったときに言っていたはずだ。

 

 ―― 「オレは銀狐の銀魏(ぎんぎ)。妖狐に堕ちかけてはいるが、一応これでも稲荷神様の神使だ。そして、こいつ……主のお守りもしている」

 

 そう、あのときの自己紹介でそう言っていたのを思い出す。

 

「僕らはね、元々はただの野狐でねえ。善狐になるためにこっそりと人の手助けをしたりして、二匹で旅してたんだ。そのときに、ほら、銀狐って珍しいだろう? 毛皮が狙われちゃってね……銀魏を庇って僕がこうして……」

 

 金輝さんが自分自身の、包帯に覆われた目に触れた。

 つまり、庇った際に視力を失うような大怪我を負った……ということだろうか。

 

「銃で撃たれて、僕が怪我をしたんだ。弟がそれに怒って、〝逆上〟した。ううん、激情に身を任せた……のほうが分かりやすいかもね。善狐になるためには、やってはいけない戒めがあるんだ。それを破って、僕を害した人間を噛み殺しちゃったんだ」

「……なるほど」

 

 殺人をすれば神様の遣いから遠ざかるのは当然のことだろうな。

 

「二つの悪行を犯した銀魏は、その場で人を殺して魂も食い殺しちゃったんだよね。だから、瘴気(しょうき)っていう、周りを(けが)す気を纏った妖狐になっちゃったんだ。触れると善狐に成り掛けだった僕を傷つけるような、そんな気を纏っちゃってたんだよねえ」

 

 凄惨な話が語られているというのに、とうの本人が呑気に喋っているものだから、不思議と暗い気持ちにはならない。銀魏さんが今も春国さんにくっついて生きていることが分かっているからこそ、なのかもしれないが。

 

「僕の怪我を治すために銀魏は、この神社までやってきた。でも、お師匠様は顔を顰めて妖狐になった銀魏に『なにをしに来たんだ』と言った。あの子は僕の怪我をどうにかできればそれでいいって言ったけれどね、僕が一緒じゃないと嫌だって我儘を言ったんだ。その結果、お師匠様が折れて銀魏は妖狐から善狐に戻るために、人を殺した穢れなんかを浄化しながら修行中ってわけ」

 

 それで未だに修行中か。人殺しをしてしまった分、罪が重かったんだろうな……恐らく。

 

「まったく、九尾になるのも、天狐を目指すのも〝成すべきこと〟があるから大変なんだよねえ。ひとつでも罪を犯すと銀魏みたいにすっごく大変だし」

「真宵さん、もう少し話を聴いていてもいいかな?」

「わっ、そうだ、ごめんなさい」

「構いませんわ。こちらのことに興味を持ってくださるのは、こちらとしても嬉しいことですもの」

 

 紅子さんのお伺いでやっと真宵さんを放置していたことに気がついた。

 慌てて謝罪するが、にこにことしながら金輝さんが用意したお茶を飲んでいる。静観モードだ。

 

「えーと、まだ僕に聞きたいことがあるのかな?」

「うん、さっきから言ってる〝成すべきこと〟ってなにかなって」

「あ、それかあ。それじゃあそのお話をしたら、僕ら(きつね)のお話はお終いってことにしようね。お仕事の話もしなくちゃ」

「うん、よろしくお願いするよ」

 

 本当は葛の葉ヒュドラの入っている壺の話をするべきなんだろうが、いつもは俺を急かす側の紅子さんが興味津々だ。これは、もう少し付き合ってあげたいところだな。真宵さんもああ言ってくれているし、狐の成すべきことってやつだけ聞くことにしよう。

 

「僕ら善狐が成すべきことっていうのは、『狐の九善(くぜん)九業(くぎょう)』って言うんだ」

 

 そうして、あともうしばらく話を聞くことになったのであった。



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狐の九善九業

「狐の九善(くぜん)九業(くぎょう)っていうのは、善狐(ぜんこ)野狐(やこ)問わずに行うと力が増していく修行のようなものって言えばいいかなあ」

 

 金輝さんが語るのは修行法のようなものだ。

 ひとつひとつ言葉を選ぶように、「うーん」とときおり言葉を出し辛そうにしている。説明が難しい話なんだろう。わざわざそんな話をさせてしまって本当に申し訳ない。

 

「僕も詳しくは知らないんだけどね、昔は歳を重ねれば自然と九尾になれるものだって言われてたんだよ。それが変わったのは、多分お師匠様の時代か……もっと前か……とにかく、他の国から渡ってきた尻尾のない狐が他国の女神様からの言葉を伝えに来たんだって。その結果で、お師匠様がこの日本で初めての天狐へ至った狐になったことは確かみたいだねぇ」

 

 

「他国の女神?」

「今でいう中国だよねぇ」

 

 ああ、狐の妖怪の元祖といえば中国か。なるほど。日本では玉藻前がやたら有名だが、確か王朝を傾けた美女、妲己(だっき)が九尾の狐なんだったよな。その辺はわりと有名だし、この世界に無理矢理入れられてから必死に調べたりしているときに、ある程度知った。有名なのだけは分かるんだが、紅子さんが当たり前に知っているような細かい妖怪やら怪異やらは結構知らないことがあるが……今日は俺の知識も一応役に立つな。

 

「そこの女神…… 泰山(たいざん)娘娘(にゃんにゃん)っていう女神があちらでは、仙狐を取り纏めているんだって。だから中国だと、地狐から気狐や仙狐になるために女神の元で修行するのが普通なんだとか?」

「泰山……」

 

 調べてみるものの、どうやらあまり詳しくは載っていないようだ。調べ方が悪いのか、狐に関することが出てこず、どれが正しい情報なのかちょっと分からない。

 

「あ、僕らは泰山娘娘って呼んでるけど、普通は碧霞元君(へきがけんくん)の名前のほうで知られていると思うよー」

 

 紅子さんと二人で端末を覗き込みつつ、後ろから漢字を教えてくれる真宵さんの指示に従って検索。すると出てきたのは、中国でもかなり人気な女神様の名前。七天女の一人で、どんなに信仰が薄い者相手でも願いを聴いてくれるという、最も優しい女神様の情報だ。神格としてのご利益も「出世」や「商売繁盛」「結婚」「子宝祈願」や「夫婦円満」に、「豊作祈願」まで幅が広い。

 確かに、豊作祈願のご利益もあるので日本の稲荷と近い性質はあるように思う。

 

「狐達はみんな、御倉(みくら)様のお役に立ちたかったんだ。善狐としてあちらに伝わる修行をすればもっと霊格(さいのう)を上げてお支えできると考えたんだね。そこで、中国から伝来した空狐のお狐様に教わった修行法が『狐の九善九業』なんだ」

 

 そこから説明されたのは、修行法「狐の九善九業」について。

 修行法というより、やはり金輝さん達にとってはやるべきこと、なすべきことって意識が強いようで、順にその内容を教えてくれた。

 

 狐の九善(くぜん)とは九つの善行を表す。

 

 不殺。

 感謝。

 誠実。

 純潔。

 謙虚。

 忍耐。

 慈善。

 節制。

 勤勉。

 

 これを九善と呼ぶ。

 

 無闇な殺しをせず、感謝を持ち、嘘をつかず、清らかで、傲ることなく辛抱強く、他者へ手を貸し、己を律し、よく学ぶ。

 それこそを善なる狐として行うべき九つの善い行いである、と。

 

 そしてその真逆となる行いを九つの(つみ)と悪行を表す。

 

 殺生。

 嫉妬。

 邪見。

 邪婬。

 高慢。

 逆上。

 貪欲。

 過食。

 堕落。

 

 他者を無闇に殺害し、羨望による妬みを持ち、誤った見解で決めつけ、みだらで己に自惚れており、ひとときの激情に支配され、際限なく飽くなき欲を持ち、必要ないほどに食を求め続け、自らを高めることをやめてしまう。

 これこそを九つの悪とし、戒めることと表す。

 

 金輝さんが語ったのはこれらのことだった。

 

「狐の九善九業は善狐も、野狐も執り行うことになるんだよねー。ただ、同じ名前なのに意味合いは全くの逆になるんだよ。不思議だろう?」

 

 金輝さん曰く、善なる狐にとっての「九善九業」は、この九つの善を徹底しながら、三百年余りの間悪行に染まらず人間の助けとなり、善行を積むことで達成される。これが達成されれば尻尾の数が九つに及ばずとも、仙狐へと霊格が上がるらしい。

 

 そして、尻尾が九本になってからは、それぞれの悪に染まった魂を持つもの九人に自らが取り憑いて、悪因に染まった心を善因へと導いて行かなければならない。(すなわ)ち、嫉妬に狂っていた者は感謝を持って自制ができる人間となるよう導いていく。そうして善人に転じたまま一生を終えたその魂を、神使の一匹として見事天上へと送り届けることができれば、ようやっと九尾から折り返して霊格の上がった八尾になるのだという。

 

 悪行に堕ちた人間を善行を体現する人間にすることこそが善狐の九善九業の、「九業」にあたるんだな。

 

 〝九つの善を成し、九人の業を持つ者を善へと導く〟

 

 それこそが天狐へと至る道なんだとか。

 

 そして、その真逆が野狐における妖力を上げていくための「九善九業」となるらしい。

 

「野狐の九善九業」とは、九つの悪行を成し、九人の善人の心をそれぞれ対応した九つの業に導き、魂を穢すことをいう。

 

 そうして穢されたまま、最高……いや、最悪の状態のまま、九つの罪の一つを最大限にまで引き出した人間を自らが取り殺し、魂を喰らう。

 

 そうすることで霊格を上げることはできないが、自らの妖力を何倍にも引き出し膨れ上がらせ、そして強大な絵に描いたような大妖怪〝九尾の狐〟となっていく……と。

 

「なるほど真逆だな」

「でも、どっちも同じ九善九業なんだよね。意味は違うけど」

「そうやって意味は違うながらも、力を高めて行くんだねぇ」

「うん、でも今は同盟もあるし、僕ら神様に仕える狐は昔から妖狐陣営が強くならないように見張ったり、悪因に穢された人を逆に新米の修行に利用して善人にさせたり、妨害はたくさんしているからやばばーな大妖怪は中々生まれないよ」

 

 その口ぶりだと、お互いに妨害し合っているから新たに天狐に至る狐もまた少ないってことだろうな。この感じだと、それのせいで金輝さん自身も困っていそうだ。

 

「人の心は千差万別ですわ。その心は元は白にも黒にも属しません。中立そのもの……その心を盤上で白と黒にひっくり返す陣取りゲームのようなものですわね」

 

 それではまるで。

 

「ええ、オセロみたいなものですわね」

 

 にっこりと笑う真宵さんの姿に、俺がせっかく口に出さなかったことを当てられて狼狽(うろたえ)る。

 生きている人間をオセロという盤上遊戯に見立てるのは、少し抵抗があったからなんだが、彼女ら神様はこういうとき、嫌に明け透けに物事を語ってくるよな。

 

 言葉を飾らず、オブラートに包むこともなく、ずばりと真実を語る。

 神様らしいといえば、らしい……のだろうか。

 

「あの、金輝さん」

「なあに?」

 

 紅子さんがなんとなくそわそわとしているような気がする。

 もしかして……と思いかけて、そういえば彼女は幽霊だったなということを思い出した。いや、もしかしたらそういう衝動もあるのだろうか。四六時中一緒にいるわけではないから、そういう場面に出会したことはないんだよなあ。

 

「金輝さんは五尾なんだよね?」

「そうだよー、ほらほら」

 

 ……と、俺がやたらと下世話な想像をしている間に金輝さんの背中の方から押し上げるように金色の尾がふわりと持ち上がった。数はやはり五本。

 

 たっぷりとした艶々の金の毛は、ふっさふっさと動くたびにそのふわふわな毛が流れるようにさらさらと動く。筆先のような形に整ったその尻尾は五本もあるのにどれもが手入れが行き届いていて、部屋の灯りに照らされ、美しく輝いていた。

 まさに「金輝」という名前に相応しい装いの立派な尻尾である。

 紅子さんは、その尻尾を目で追いながら俯いた。どうしたんだ? 

 

「あの、その……金輝さんが悪くなかったらでいいんだけれど、えっと」

 

 やけに言い淀む彼女に首を傾げる。

 紅子さんがこんなに恥ずかしそうにするなんて、なんだろう? 

 

「尻尾……さ、触ってみても……いいかな?」

 

 顔を上げた紅子さんの紅の瞳は、彼のふっさふっさと優雅に揺れ動く尻尾に釘付けであった。

 

「紅子さん。もしかして、ああいう動物のぬいぐるみとか、好きだったりする?」

「ちょ、ちょっとした好奇心だよ。他意はないかな……」

「ふんふん、なるほどねぇ。いいよ、僕の自慢の尻尾を堪能させてあげるからこっちにおいで」

「あ、ありがとう……ございます……」

「あらあら、紅子ちゃんも女の子ねぇ」

 

 金輝さんに遠慮がちに近寄り、そっと金色の海に埋もれるように包み込まれた彼女は、控えめだが非常に幸せそうにはにかんでいた。

 

 乙女な姿を見せるのが恥ずかしいのか、首筋やら耳まで真っ赤になっていたけれど、そんな彼女のことがより可愛く、より愛おしくなってしまったので俺にとっては悪くない時間である。

 

 難しい話を終えた後のそんな癒しタイムは、彼女が生温かい目で見られる限界に達するまでの数分間続いていくのだった。

 



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祟りを統べる一柱の蛇神として

「ごめん、みっともない姿を見せたよ……」

「可愛くていいと思うけどな。俺もちょっと触らせてもらったけど、あのさわり心地は最高だった」

 

 彼の尻尾から離れられなくなった紅子さんを、俺がそのもふもふの中に救出しに行くことになったのだ。足で踏まないように金輝さんの隣に移動したのだが、足元をふわりふわりと誘うように金の艶めかしい尾が埋め込んで、危うく俺まで陥落しそうになった。ミイラ取りがミイラになるだなんて笑えない。

 

 それくらい、金輝さんの尻尾は人をダメにする作用があるようだった。あの尻尾のすごさはそれだけで「文字通り狐に化かされている」のでは? と疑うほどだったのである。もちろん、彼は別に変な術で魅了みたいなことはしていない。ただただ、尻尾の毛並みが素晴らしかっただけだ。

 

「うんうん、気に入ってくれて嬉しいよ。毎日お手入れしてるからねー、弟が」

「銀魏さんが!?」

「僕が自分でやるよって言っても『あに様は目が見えないのだから、俺が代わりに! いや、むしろやらせてくれ! あに様!』ってうるさいからねえ」

 

 金輝さんはまったく過保護なものだと笑っているが、俺達にとってはその話自体が驚きだった。銀魏さんって堅物そうだし、主人の春国君にも慇懃無礼な感じだったし、そんな風に懐くヒトだったんだなあ……と。

 

 兄弟ってやっぱり特別なもんだよな。ああ、そういえば俺の弟も結構慕ってくれてたっけ。まずい、思い出すと会いたくなってくる。もう令二(れいじ)は俺のこと忘れているし……会いに行っても辛くなってくるだけだ。

 

「さて、休憩も挟んだことですし……本題と行きましょうか」

 

 その場に、扇子を閉じる「パチン」という音が響いた。

 

「真宵さん、持ってきた壺はここに」

「上に置いてくださいな」

「はい」

 

 俺が座布団の横に置いていた壺を机上に置く。

 ゴトリと重い、重い音を立てて置かれたそれを見て真宵さんはジッとそれを観察するように眺めまわした。

 

「……狐、下がりなさい」

「うーん、ただの浄化ではどうにもならない?」

「ならないわ。これは蠱毒(こどく)が扱われていますの。それも、蛇が」

 

 真宵さんの口調は変わらず優雅なものだったが、しかし明らかにその瞳は怒りを乗せていた。

 

 蛇。

 

 それは彼女の眷属に他ならない。

 自分自身と同じ蛇がこのような姿にされたとあっては、神として憤りを覚えて当然だろう。

 

「浄化するなら、あなたの師匠かそれ以上の神格が必要よ。それほどに〝この子〟は穢されている。恨み辛みで主体性もなく、植物に絡まれ、土に塗れた〝根〟の国に囚われている。あの世の向こう側しか目に映せない〝この子〟には、もう救いの道は残されていないわ」

 

 ひどく静かに。

 そう告げて彼女は目を伏せた。

 

「狐、行燈(あんどん)を」

「えー、僕を手足みたいに使っていいのはお師匠様と御倉様だけなのに」

「お願いするわ」

「しょうがないなあ」

 

 金輝さんが腰を浮かせ、目が見えないというのにスタスタと部屋の中を横断して、一旦外に出て行く。

 

 そして彼が行燈を抱えて戻って来るまでも、それからも、真宵さんは身動ぎひとつせずに壺の前で静かに佇んでいた。

 

「はい、それじゃあ灯りをつけて、照明は消すよ」

 

 彼が「ふう」と口を尖らせて行燈に向かって息を吐くと、その中に金色の美しい炎が灯る。それと同時に彼の尻尾が一本動き、器用に部屋の照明を落とす。

 

 行燈の灯りのみで暗くなった部屋。

 その場の雰囲気に呑まれそうになっていると、金輝さんが俺の手を引いてきて、部屋の隅へと誘導される。俺も紅子さんの手を掴んで一緒に移動し、真宵さんの行いをただただ見守ることにした。

 

「わたくしができるのは、これだけ」

 

 

 ぽつり、蛇神様が言葉を紡ぐ。

 

 彼女は扇子を口に咥え、その右手を壺の上に(かざ)すと、スッと息を吐く。その音はまるで蛇の鳴くような「シュルル」といった掠れた音だった。

 

 目を伏せる真宵さんと、壺の上にある腕。

 その腕が握り拳から開かれる。

 

 気がつけば、行燈の灯りに照らされたその行動が、奥の壁に「影」となって映り込む。その影はまるで、壺を前にした蛇が口を開いているような光景。

 

 壺の中の藍色の炎がぼわりと燃え上がる。

 

 その様相は影にして見ると、まるで壺の中からなにかが這い出て来るようにも見えた。そうして真宵さんが、その白い手を炎ごと壺の中に押し入れる。

 

 影で見たそれは、まさに壺の中身を喰らおうと躍り出る蛇のような姿だった。

 

「……」

 

 彼女の腕を伝い、壺から藍色の炎が這い上がる。行き着く先は、彼女の口に咥えられた扇子である。

 扇子の端からしゅるり、しゅるりと藍色の炎が収束していき、その口の中に次々と消えて行く。

 本来ならば「祟り」を本人が回収しているだけだろうに、どうしてか真宵さんは少し眉を顰めているような気がした。

 

 真宵さんがその目蓋を押し上げ、伏せていた瞳を覗かせる。

 横顔だけでも蛇そのものの瞳であることが分かるほど、恐ろしく妖艶で、そして神様らしい冷たい美貌であった。

 

 壺から這い上がって来る炎がなくなる頃、優雅な所作で壺に翳していない左手を口元にやり、彼女が扇子を手に持って抜き取る。

 

 カチン。

 

 静かな場に、真宵さんが鋭い歯を噛み合わせる音が柏手(かしわで)のように響いた。

 

 そして、嚥下(えんげ)

 ごくりと、その白くあらわにされている喉元が動く。

 ペロリと(なまめ)かしく口元をなぞる舌は二つに分かれており、その仕草の際にはほんの少しだけチロチロと藍色の炎が漏れ出ていた。

 

 しかし、それも全て彼女の口の中に(しま)われる。そう、()()()()

 

「ご馳走様ですわ」

 

 そのほんの一瞬だけ、彼女の姿が仄かな藍色に光ったような気がした。

 

「終わった?」

「ええ」

 

 呑気な金輝さんの声と、静かな真宵さんの言葉。

 その二人の会話に、隣にいる紅子さんが詰めていた息をようやく吐き出せると言わんばかりに「ほう」と溜め息を吐いた。

 

「今の、は」

 

 絞り出すような声を出すと、真宵さんがこちらを向く。

 まだ蛇の瞳孔のままだったので短く悲鳴をあげると、「あら、ごめんなさい」と言って妖艶な美女の瞳へとすぐさま戻った。怯えてしまって非常に申し訳ない。

 

「壺の中にいたものは、〝呪い〟なのです。それも蛇の呪い。ですから、わたくしがすっかりと全て取り込みました」

 

 淡々と告げられる事実に唖然とする。いや、そんなに簡単に言われても。

 

「その恨み、辛み……この子が(もたら)すその全ての〝祟り〟を、祟り神として喰い尽くし、そして取り込んだにすぎません。通常最後の蠱毒を喰らえば蠱毒は継承されますが、わたくしはその手の頂点……神様、ですから」

 

 蠱毒……は知らないが、なんとなく意味は分かる。

 しかし、真宵さんが一匹の蛇の末路に対して思うところがあったのだろうことは、その表情から窺い知ることができた。

 

「……壺にはもうなにもいませんわよ」

 

 彼女に言われて覗いて見ると、確かに壺の中にはもうなにも残って……あれ? 

 

「真宵さん、なんか底のほうに書かれてるものが……」

「あら、やっぱりあるのね」

 

 やっぱり? なにか書かれていることが、事前に彼女は分かっていたのか? 

 

「だって、コレクターは自己顕示欲の塊ですもの。その〝品物〟には製作元の名前が刻まれていて然るべきものでしょう」

 

 その話に、俺は言葉を失うしかなかった。

 



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植物研究誌『蘭葉樹稿』

「壺の底をご覧なさい」

 

 真宵さんに言われるがままに壺の底を覗き込むが、なにかが書いてあることは分かるものの、それがなにかはちょっとよく見えない。

 

「あ、ごめんね。今照明を点けるよ」

 

 金輝さんが立ち上がり、部屋のスイッチを押す。

 すると揺らいでいた行燈の中の狐火がかき消え、パッと明るくなった。

 それでも壺の中は暗い。明かりを取り込みながら工夫して見なければならないほどだ。懐中電灯でもあればまた違っただろうが、まあ仕方ないことだ。

 

「えーっと」

 

 なんか、漢字で構成されてるっぽいな。

 

「ひとつずつ教えてちょうだいな」

「はい、えっと……植物の植に、研究の研。それから蘭の花の蘭と、葉っぱの葉ですね。その名前が刻まれていて……」

「やはりそうですか」

 

 真宵さんは納得したように頷いた。

 

「うんうん、やっぱり植物コレクターのだよね」

「ええ」

 

 同じく頷いた金輝さんに、訳知り顔で真宵さんが返事をする。

 なにやら二人ともに知っているようだ。

 ちらりと紅子さんに視線を移してみるが、黙って彼女の頭が横に振られる。紅子さんは知らないみたいだな。

 

「これってなんて読むのかな? それに植物コレクターって?」

 

 紅子さんが手を差し出したので壺を渡す。そして俺と同じように覗き込んだ彼女が疑問を口にした。

 片目を瞑って壺の中を(あらた)めている姿さえ可愛らしさを感じてしまって、俺はそっと視線を真宵さんに移す。紅子さんにデレデレするより、今は本題だ。

 

「植物コレクターの作っている雑誌型のカタログの名前ですわね。コレクター間や、呪いを扱う術士などの家系のものが購読している場合がありますわ。研究している内容なども広く書かれています。ただ、カタログのほうはどう流通しているのか……謎に包まれていますの。購読している者が同盟にはおらず、また手に入れようとしてもあちらから避けて来ているようですから」

 

 カタログ。コレクターというくらいだから、ただ収集するだけかと思っていたんだが、この分だと違うんだな。同盟の神妖(じんよう)達に渡らないということは、同盟とは相容れない存在なのだろうし。なんだか話を聞くだけで嫌な

 感じがする。それに、あんなところに壺を放置して人に仇をなそうとしているようにしか思えないし。

 

「このカタログの名を、正式には『植物研究誌の「蘭葉(らんよう)樹稿(じゅこう)」』と言います。そしてこれを略した名前が壺に刻まれている……」

植研蘭葉(しょっけんらんよう)って言うんだよ」

 

 一瞬、脳が理解を拒否した。

 

「今なんて?」

 

 最近こう聞き返すことが多くなってきたな。なぜだろう……このヒト達のネーミングセンスの問題だろうか? そうだろうなあ。だってとんでもないのが多いし。植研蘭葉ってなんだよ。職権濫用だろ。なんだその名前。ふざけてんのか? 

 

「植研蘭葉ですわ」

「夢じゃなかったか」

「あー、個性的な名前だね」

 

 俺が現実逃避している間に紅子さんが困ったように言う。

 それから俺の方を向いて「夢じゃないよ。ほっぺたつねってあげようか?」なんてことを悪戯気に言い始めた。是非やってみてほしいところだが、ここは我慢だ。

 

「大丈夫だよ」

「そっか」

 

 心なしか残念そうな彼女に、やっぱりお願いしておけばよかったかなんてくだらないことを考えつつ、気が抜けてしまった体勢を直す。

 

「それで、その植研蘭葉が作ったのがあの葛の葉ヒュドラだったと」

「ええ、そうね。でもあの子には二つの気質の〝呪い〟を感じたの。通常、呪術というものは人間の癖が出るわ。人間の霊力には個性があって、痕跡さえあれば個人特定が容易なのです」

 

「ここまではいいわね?」と首を傾げる真宵さんに、俺達は顔を見合わせて頷く。魂の色や形もそれぞれ違うってことがこの前の事件で分かったことだし、それと同じことだろう。

 

「そうね……指紋や瞳の虹彩のように、霊力にも霊派というものがあるわ。指紋認証って言うでしょう? それと同じなのです。同盟のあるこの鏡界に出入りするのにも、まず最初は同盟の者が付き添って〝登録〟するのよ。覚えているでしょう? 令一くん」

「はい、そんなこともしましたね」

 

 リンに案内されてはじめて萬屋に行ったときは、リン自身が通行証だと言われたし……確かアリシア達の不思議な国の事件があったときは鏡を通り抜けるのに手順を踏んだ。それをすることで顔パスできるようになったはずだ。

 同盟に厄介なやつが紛れ込まないように、夜刀神である真宵さんがそういうシステムを組んでいるとかなんとか聞いていたが……それが霊力という、ある意味指紋認証よりも正確なものによる基準だったということだろう。

 

「霊派認証は同盟専用のネットの掲示板でも使われているよ。見たことはあるかい?」

「す、少しなら」

 

 金輝さんに問われて答えるが、本当に少しだけだ。

 ずっと文字を見ているのはそこまで得意じゃないので、楽しそうに雑談しているのを少し眺めただけだが。あれも文字を打っている手から霊派とやらを感じ取っているらしい。

 画面の向こう側の霊派なんて読み取れるものなのかと疑問に思ったが、にっこりと笑みを浮かべながら「いけないことをしたらすぐ分かりますのよ」なんて真宵さんが言うものだから、きっとできるんだろう。

 

 あれを使ったらこの蛇神様にはお見通しというわけだ。

 

「情報収集感覚で眺めるのは悪くないことですわ。とまあ、雑談を挟んでしまいましたが、要するにこの壺の中身には二種類の霊派を感じたのです。普段、証拠品を押さえることが中々できませんから、こうしてコレクターの痕跡を見つけられたのは幸運でしたわ」

 

 彼女は付け加えて「もちろん、犠牲が出てしまったのはよくないのですけれど」と言った。幸運と言ったことに対してのものだろう。

 別にそんなことで不謹慎だなんだと騒ぐつもりはないので、ただ黙って首を縦に振った。

 

「このヒュドラモドキはあなた達が〝定義付け〟をして倒したことにより不死属性が付与されていたようです。元は超高速再生の能力しかなかったはずですわ」

 

 なるほど、要するに自分達で自分の首を絞めていたと。

 ヒュドラという定義付けをしなくとも、一応倒せはしたのか。

 

「定義付けされたおかげで中心の芽が残り、そして呪いの解析ができるのですから問題ありませんわ」

「そっか、そうじゃないと全部燃えていたからね」

「ええ」

 

 紅子さんの言葉に真宵さんが頷く。

 燃やしたのは俺達だが、そうしないと再生し続けたわけだし、どちらにせよ事態を終息させるためにはそうするしかなかっただろう。そうなっていたら証拠も失い、コレクターが作ったものだということも分からなかったわけだ。

 俺達はやらかしてもいたが、結果オーライでもある。

 

「多分、不死属性をつけたかったんだろうけれど、そうすると証拠隠滅できないからねえ。それか、不死属性をつける研究の失敗作とかかなあ」

 

 金輝さんが自分の考察を述べると、真宵さんは頷いて話を続ける。

 

「ええ、その可能性が高いわ。そして、呪いの種類は二つ。蠱毒と、自己再生……恐らく、この自己再生はヒュドラモドキ自身で行っているものではないわ」

 

 ひと息入れて、真宵さんのその金色の瞳が憂いを帯びた。

 あの蛇を哀れに想う、そんな頂点としての姿で告げる。

 

「あの子は、再生と成長に全ての栄養が取られて、常に飢える状態だったのよ」

 

 だからこそ、人を襲ったのだと。

 

「対処したのが令一くんと紅子ちゃんで良かったわ。あの子の苦しみを終わらせてくれて、ありがとう」

 

 切なげに、心優しい神様が微笑んでいた。




「葛の葉ヒュドラ」の改稿に合わせた内容です。「定義付け」が分からなかった場合は一度改稿した葛の葉ヒュドラ回を見てきてね(・ω・`)


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蠱毒の呪い

「あの、蠱毒(こどく)って……? 聞いたことはあるような気がするんですけど、あんまり知らなくて」

 

 切なげな真宵さんに遠慮がちに話しかける。

 すると彼女は「そうね」と一度強く目を瞑って、気を取り直すように居住まいを正した。

 

「蠱毒というのは、壺などの容器に毒虫や毒蛇などの、毒を持つ生き物を閉じ込めて、最後の一匹になるまで殺し合わせて、そうして残った最後の一匹を呪いとして扱う術ですわ」

「最後の一匹は確か、強力な毒を持った呪いに育つって聞いたことがあるかな」

「ええ、その通り。そして、蠱毒を殺したとしても、殺したものが次の蠱毒となり果ててしまうだけですわ。そうして次々と力をつけていって、強力な呪いとなるのです」

 

 なるほど……ってことは、それこそヒュドラとして定義づけて封じていなければ、俺達のどちらかに蠱毒が継承されたのかもしれないのか……? 本当に危険だったんだなというか……説明不足にもほどがないか。しかもこのヒト、呑気に屋台で遊び歩いてたし。

 さっきの幻想的な光景に少しばかり尊敬の念が積み重なっていたんだが、またなんとなく疑念も積み上がって行く。

 このヒトは本当に……印象が二転三転する神様だな。

 

「コレクターは数が多いのですわ。今回のは、植研蘭葉のコレクターと、恐らくこれは呪術を専門としたコレクターの仕業でしょう。そこらに放り出されていたということは、試作品か……失敗作……ということでしょうね」

 

 悲しそうに彼女が言う。

 

「うんうん、作るだけ作ってポイするのはいただけないよね」

「生き物の責任くらいとってほしいところですわ」

 

 いつだって問題になるものってのがあるもんだな。動物の責任問題なんて現実でも普通にあることだ。まさかそれを、この鏡界でも聴くことになろうとは。

 

「でも、真宵さんは大丈夫なんですか?」

 

 俺が言うと彼女は扇子で口元を隠し、憂いを乗せた声色を響かせた。

 

「わたくしが蠱毒にならないのは、祟りを扱う神だからですの。本当はわたくしよりも適した創設者の一匹がいるのだけれど……あの子は放浪していますから」

 

 苦い笑いを溢し……そしてパチンと扇子を閉じると、真宵さんは頬に手を当てる。困ったようなその姿を意外に思い、その創設者について尋ねようとしたときだった。

 

「ーーーーーっ!!」

 

 表からなにやら絶叫が轟いて来ていた。

 

「な、なんだなんだ!?」

「あー、あれはねぇ……」

 

 俺がなにが起こったんだと立ち上がると、静かに静観していた金輝さんの唇が「つう」と吊り上がる。包帯で瞳が見えない分、やたらと蠱惑的な彼の表情に驚きながら話を聴く。

 

「春国だよ。お師匠の息子さんが帰って来たんだ」

 

 のんびりとした口調で言われ、先程の叫び声を思い出す。

 確かに神中村で聞いた絶叫と似ていたかもしれない。しかし、そんな絶叫をあげるなんてなにかがあったとしか思えないんだが、心配しなくていいのだろうか? 

 

「ふふっ、またなんか連れて帰ったんだと思うよ? ぱっぱとお清めして成仏させてあげないとねえ」

「えっと、それはどういうことかな?」

 

 俺と紅子さんの疑問は多分一緒だ。

 

「春国ったら、心が優しいからすーぐに幽霊くっつけて帰って来ちゃうんだよ。自分で祓えるのに、なるべく未練を晴らしてあげたいからって、どんなに姿がひどくても怯えて泣きながら祓わずに、さ」

「あー、それは……お人好しだねぇ」

「なんで俺を見る」

「理由なら分かるでしょ? おにーさん」

 

 それは、まあ。俺も散々お人好しだなんだと言われているし、優しいだけでは罪だと何度も責められているわけだからな。似ているといえば似ているのだろうか? 

 ということは、紅子さんにとって春国さんはわりと苦手な部類の人になるのかな。俺が全部受け止めたとはいえ、そう簡単にトラウマが癒えるわけがないし、トラウマのせいで形成された人格がそう簡単に変わるわけでもなし。

 その辺りのことで俺も未だ、彼女によく怒られる。

 

「狐、行かなくていいの?」

「ああ、用があったら直接呼びに来るからねえ。仙狐の僕が勝手に手を出して、春国のためになると思うかい?」

「そう、ならいいですわ」

 

 一応訊いたのだろう真宵さんは、金輝さんがお茶のお代わりを入れた湯のみを手に取る。洋装の金髪美人なのに妙に湯のみが似合う。日本の神様なんだから当たり前なんだろうけれど。

 

「そういえば、真宵さんが洋装なのはなんでなんですか?」

 

 金髪なのは、紅子さんの膝の上で丸くなっている八千(やち)の配色を見れば納得がいくが、藍色の鱗ならドレスじゃなくても和装でもおかしくないのに。だって日本の神様だし。

 

「おしゃれですわ」

「さいですか……」

 

 即答だった。

 そんな雑談をしているときだった。廊下から一定のリズムで歩く足音が聞こえてくる。

 

「あに様、いらっしゃるか?」

「うん、いるよ。どうしたの? 銀」

「っと、客人もいるのか。しかも別の神まで……これは失礼した」

 

 襖を開けたのはもう一匹の狐。金輝さんの弟である銀魏(ぎんぎ)さんである。春国さんもいるかと思ったが、なぜかいないようだ。そういえば絶叫はもう聞こえない。

 しかし、銀魏さんはチラッと俺から真宵さんまでを見遣ると仏頂面でそう言っただけである。金輝さんに対する丁寧な物言いと柔らかい表情が一変する様はいっそ清々しいくらいギャップがあった。

 兄とその他に対しての態度が違いすぎないか? 

 

(あるじ)が少々厄介な物について来られてしまってな。あに様、ご助力願いたい」

「うんうん、分かったよ。それじゃあ見に行こうか。ここには来れないんだよね?」

「ああ、そうだ」

「じゃ、ちょっと行ってくるからー」

 

 立ち上がった金輝さんに、さりげなく銀魏さんが腕を差し出す。

 金輝さんはその腕に手をかけ、うっすらと微笑んだ。どうやら歩くときの支えとして銀魏さんが差し出したらしいが、金輝さんはその前からずっとスタスタと歩いていた。本来は見えなくとも普通に過ごせている様子だったが……これは弟の好意を無碍にしないためなのかもしれない。

 

「お兄さん、アタシ達も行こうよ」

「ここで待つのもなんだしな……」

「ええ、どうせなら次の場所へ行きましょうか。まだ案内する場所はたくさんありますもの」

 

 そう言って俺達も一緒に大移動する。

 そして神社の鳥居のところにやってきたところだった。

 

「うわああああん! どうして僕がこんな目にいいいいい!」

「あ、あの、泣きやんでくだしゃい。えっと、困りましゅ」

「あ、ごめんなさい。僕が頼りないばっかりに……君はなんにも悪くないですから……」

「ありがとうございましゅ」

「おああああ!? ごめんなさい! 触らないでくださいいいいい!」

「ご、ごめんなさいでしゅ……うっうっ、あちしが悪いでしゅ」

「あああ違うんですよおおおお! 僕が全部悪いんですからあああ!」

「な、泣かないでくだしゃ……うっ、ひっく、うええええええん!」

 

 阿鼻叫喚だった。

 

「あちゃあ」

「ご覧の有様だ、あに様」

「うん、僕あそこに行くのやだなあ」

「そう言わずに、あに様」

「銀の主様でしょ?」

「そうではあるが」

 

 こっちはこっちで色々ひどいぞ。

 

「……蠱毒」

 

 真宵さんがポツリと言葉を漏らす。

 俺はその言葉にバッと振り返った。

 

「……の、(えさ)、ですわね」

「餌……?」

 

 隣の紅子さんが駆け出す。

 鳥居の向こう側……つまり、神社に入らないギリギリの位置で春国さんと一人の……強いて言うなら幼い女の子(ようじょ)がそこにいた。

 紅子さんはその場所に駆け寄り、そして女の子の前で屈むとその頭を撫でる。泣き止ませるために優しく声をかけに行ったのだ。

 

 女の子は耳の下でゆるく巻いたようなショートヘアで、濃い紺色のような着物を着ていた。歳は七つくらいか、それよりも下か、それくらいなのにも関わらず、随分と大人っぽい着物である。

 

「綺麗な朱色の髪に、花紺青(はなこんじょう)の着物ですわね。髪色からすると、霊力が高い子供なのでしょう。歳の頃は……見たところ、まだ六つですわね。とっても愛しく感じますもの。七つまでは神のうちですから」

 

 そう、その子供は着物こそ大人っぽいが、随分と派手だった。

 朱色の髪は恐らく、秘色(ひそく)いろはさんのように普通の人間には普通の髪色に見えるタイプのものだろう。霊力が高いとそれだけ髪に溜め込み、変色して見えるそうだからな。それにしても六つくらいか。幼いな……なのにあんな姿なのか。

 

 女の子は――その首に獣の咬み傷のようなものがあった。

 

 明らかな致命傷。幼い身でそうなってしまったらしい女の子は、春国さんと一緒になって延々と泣き続けている。

 

「穢れが強すぎて神社に入れないのです。これではゆっくりできませんし、表の神社へ行くべきですわね」

「表?」

「ここは鏡界の神社。表は表ですわ」

「なるほど、それじゃあ移動する提案をするんですね」

「ええ」

 

 提案を伝えるために現場に近づく。

 幼い女の子は、紅子さんが慰めていることによって少し落ち着いてきたようだ。

 

 なお、春国さんは紅子さんが駆け寄ったことで再び大絶叫をした。

 連鎖して、せっかく泣きやんだ女の子まで再び泣き始める。

 

「ええ……」

 

 そこは正しく地獄の様相を醸し出していた。



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春国の災難

「ねえ、春国。この女の子はどうしたの?」

 

 金輝さんが優しく尋ねる。

 幼女と共に泣き声の合唱をしていた春国さんは、彼に涙でぐっしゃぐしゃになった顔を向けると話し出す。

 

「うっ、えっぐ、ぐすっ、ふううう……ずびばぜん……ふぐうう……その、お仕事の都合で、電車に乗って遠出していたのですけれど、そのとき、人に押し付けられてしまったようで……」

 

 泣いていたからか、声が震えていてところどころ聞きづらい。

 しかし、事情はそれでなんとなく知れた。前に会ったときの春国さんは着物姿だったが、今はスーツ姿である。それも電車を使って浄化の仕事を受けに行っていたからなのだろう。

 銀魏さんのほうも、前に会ったときは着物だったがスーツに太刀を引っ提げている。いや、これで電車に乗ったのか? 大丈夫なのかこれ? 

 

「抜かりはないぞ。この『南風丸(はえまる)』は幻術で普通の持ち物に見えるよう、なっている」

「へえ、幻術ですか」

 

 狐の幻術……是非見てみたいな。

 

「見せてもらってもいいですか?」

「いいだろう、しかと見よ」

 

 腰に提げている刀剣に銀色の狐火が灯り、下から順にその姿を劇的に変化させていく。ただでさえ美しい銀色の狐火だ。変化していくその様はそれはそれは圧巻だった。

 大きな太刀がほっそりとしたフォルムに変化し、少しばかり短く、そして上の方まで狐火が辿り着けば、その姿は今度は太くなり、完全に姿が変わったとき、俺はその姿に訳もわからず息を飲んだ。

 

 ……ハエ叩きだった。

 

「んうっ」

 

 近くで噴き出す紅子さんの姿を見て、そして次に自信満々にドヤ顔を決める銀魏さんを見て、最後にうっすら微笑んでいる金輝さんを見る。

 

「どうだ、見事だろう。南風丸(はえまる)だからハエ(・・)叩きはどうかと、我があに様からの遊び心溢れる提案があってな」

「銀ったら、すぐに僕の言うこと聞いちゃうんだからー」

「良い名ではないか!」

 

 金輝さんのせいか! 

 待て、これは笑うなってほうが無理じゃないか? そんなドヤ顔決められて、真剣に見られてもろくな反応はできないぞ? どうしろって言うんだこの状況! 

 

「相変わらず、金の狐の言うことは全肯定bot(ぼっと)になりますわね」

「ぶっふっ」

 

 その一言でもうダメだった。

 ひとしきり笑って、思いっきり不機嫌になった銀魏さんと、俺達の妙なやりとりですっかり泣き止んだ大小の子供二人。ツボに入ったのか、俯いて肩を震わせ続ける紅子さん。

 そして、俺の懐から抜け出したかと思うと、銀魏さんの太刀に物憂げな鳴き声をあげながらポンと小さな手を置くリン。

 

「きゅうい」

 

「元気出してよ」と、そんな言葉が聞こえてきそうなほど、リンの声は哀れみに満ちていた。

 

 閑話休題。

 

 なんやかんやあり、落ちついた幼女と一緒に全員で鏡界移動し、現実世界の神社に出てきた。

 若干古いものの社務所があり、そこの管理者は基本的に春国さんになっているらしく、鍵を取り出して中に入れてもらった。普段の管理は最低限になっているようで、少々埃が舞うが文句は言っていられない。

 奥の部屋に案内され、そして腰を落ち着ける。豊穣神社の本拠地は鏡界にあるので、表のこちらならば管理をしている春国さんの許可さえあればこの小さな女の子も入れるようになっているらしい。招かれなければ入れないだなんて、まるで吸血鬼みたいだがこの子は普通の子供だ……子供の、幽霊だ。

 

「あちしは『青宮(あおみや)誘理(ゆうり)』でしゅ。早くあちしを手放したほうがいいでしゅよ」

「でもそれはできません」

 

 幼女、誘理に言われた春国さんはとても困った顔をした。

 あれだけ怖がっていたのに、それでも彼女を浄化してしまおうとは考えられないようだ。

 

「あの、さっき真宵さんが言ってた……犬神の餌って……?」

「それも大事ですけれど、春国くん。この子を拾ったときのことをお教えくださいな」

「はひっ」

 

 身を乗り出した真宵さんに、彼はびっくりしたように後ずさった。

 

「ご、ご、ごめんなさい。おばけダメなんです……」

「あら、わたくしが美女の幽霊にでも見えて?」

 

 あ、これは怒っているな。

 

「そうそう、仮にも神様相手なんだからー」

「ちょっと狐、仮にもとはどういうことですか?」

「言葉通りだけれど、気に障ったかい?」

 

 なんでこうも、皆さんは真宵さんを煽るようなことを言うんだろうか。

 近くにいるだけで怖いから、正直やめてほしい。

 

「えっとですね……電車に乗ってるときに、変な男の人がいたんですよ。呪いの気配がしていて……それで、その人に」

 

 ぶるりと身を震わせて春国さんが語る。

 

 ――「お前、人じゃないな?」

 

「そう言われて、いつもみたいに誤魔化したんですけれど……いきなり小さな箱を鞄に押し込まれて……その場で返そうとしたときに、アレが現れたんです」

 

 そう言って一拍置き、春国さんは「まず、アレが来たにしては腐臭がしませんでした」と疑問を口にした。

 

「アレって?」

「時空を駆ける犬のようななにか……です。こちらでは『ティンダロスの猟犬』と呼ばれるもの、だったと思います。でも変なんですよ」

 

 それは知らない名前だ。あとで調べておく必要があるな。

 

「変とは?」

「えっと、まず電車の鋭角から空間が開いて出てきたのは、そういうものだから分かるんですけれど……高校生くらいの女の子が一緒に出てきたんです。それに、猟犬自体も丸いボーダーコリーの可愛らしいぬいぐるみに押し込まれていたようで、でも女の子が背中のチャックを開けて……それで」

 

 彼は怯えるように目を瞑った。

 

「それで、僕に箱を押し付けた人をその場で猟犬が殺しました」

 

 人が死んだ、のか。しかも目の前で。

 

「それで、女の子が『持ってない、どこにやったの』って言っていて……咄嗟に箱を僕の霊力で包み込んで隠しました。それで、殺人事件になってしまったので、銀魏と一緒にそっとその場から逃げて……道中で箱を開けてみたら、この子が」

 

 出てきたと? 

 それは、なんというか……完全になにかの事件に巻き込まれているな。

 

「箱の中にあったのはなにかしら?」

「これです」

 

 春国さんが取り出したのは、真ん中に大きな瑠璃色の宝石がついた真っ白なつげ櫛だった。




この章はここまで。導入も済ませたので、お次の章「コドクの犬神編」へと続いて行きます。
しかしその前に、以前神話生物クイズの正解者にいただいたリクエストを順番に達成していこうと思います。
今後少しの間、リクエスト集となりますがご了承くださいませ!


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リクエスト特集
リクエスト「紅子とルイス姉妹」


ノベルアップ+ 様にて、「最悪な修学旅行」編で行った新話生物クイズの正解者へ向けてのリクエスト番外編でございます。
次の章まではこのリクエストを消化していくのでご了承くださいませ。


「もう、信じらんないっ」

 

 現実世界と隣り合った場所に存在する鏡界。その一角……幻想の住民達が住む洋館にて、その声は響いていた。

「たったったっ」と足音を高らかに響かせながら、ゴシックロリータ姿の金髪少女が肩を怒らせ、その場所へと向かう。

 そして扉前のネームプレートをしっかり確認してノックをした彼女は、ひととおり息を整えると、真っ直ぐとその扉から出てきた人物を見据えた。

 

「アリシアちゃん、久しぶりだね。電話があったから待っていたけれど、アタシのところに突然来てどうしたのかな?」

 

 優しく問いかける、年上の真紅の少女。

 彼女に向かってアリシアは言った。

 

「赤座さん! お願いです、あたしのお姉ちゃんになってください!」

「……えっと?」

 

 真紅の少女――紅子が聞き返したのも、仕方のないことであった。

 

 ◇

 

 それは、令一と紅子が不思議の国の冒険を経験してから少しの出来事である。まだアリシアが鏡界への行き来に慣れていなかった……そんな頃のお話なのであった。

 

 アリシアがこんな風に、紅子へ無茶を言う。そんなきっかけはその日の早朝にまで遡る。

 

「お姉ちゃんのバカ! あたしは心配して言っているのに……!」

「しかしなあ、アリシア。私様もあのキラキラをやってみたいのじゃ。魔法の教えを受けるくらい良いだろう!」

 

 鏡界の大図書館にて。つい先日解決し、大図書館に住み着き始めたレイシーと、その妹アリシアが言い争いをしていた。

 

「どんな危ないことがあるか分からないのよ! お姉ちゃんは堪え性がないんだから続くわけないわ!」

 

 図書館の主、文車妖妃(ふぐるまようひ)字乗(あざのり)よもぎより、レイシーは魔導書の読み解き方を教わり、一人で勉強をする日々を送っていた。それを気に入らなかったのが妹のアリシアである。彼女は姉に危ないことをしてほしくはなかったのだ。

 しかし、そんな切実な思いも言い方が悪ければ伝わらない。

 特にレイシーは、先日の事件による影響で実の姉妹だったことすら忘れてしまっているのである。それでは伝わるものも、伝わるわけがない。

 

「堪え性がないだと……? 決めつけるでない! 私様のなにを分かると言うのじゃ!」

「分かるわよ、妹だもの!」

「妹なあ。お主がそう言っておるだけではないか! 私様はアリシアなんぞ知らん!」

「っ……」

 

 アリシアはその赤に近い瞳を大きく見開き、そして口をわなわなと震わせる。

 事実、レイシーにとってアリシアという少女は、『見知らぬ自称妹』にすぎないのだから。

 

「もう知らない! お姉ちゃんなんか知らない!」

 

 癇癪を起こし、泣きながら飛び出していくアリシアはその足で紅子の元へと向かい、そして道中で連絡を寄越し……「お姉ちゃんになってください!」と言う台詞に繋がるのであった。

 

「事情は把握したけれど……まあ、とりあえず入ってよ」

「はい……」

 

 しゅんとして落ち込んだアリシアを招き入れ、紅子はマグカップをひとつ食器棚から取り出すと、ココアを作る。それからアリシアを椅子に座らせ、その前に温かい湯気をあげるココアを置いた。

 

「アリシアちゃんは、本当にレイシーちゃんが好きだねぇ」

「はい……だって、たった一人のお姉ちゃんですし……でも、お姉ちゃんはあたし達が本当に姉妹だったことも、忘れてしまっています」

 

 ココアの入ったマグカップを両手で抱え、ポツポツとアリシアが話しだす。

 そんな様子を、紅子は頬杖をついて聞いていた。

 

「お姉ちゃんはジェシュのことは完全に忘れていて、それであたしのことも、怖いアリスということしか覚えていませんでした……お姉ちゃんの記憶は、あの本の中から始まっていて……それで、あたしだけが覚えて、独りよがりで……」

 

 泣きそうな顔で続ける少女の頬に、滴がひとつ流れていく。

 それを紅子はすくいあげると、そのまま彼女の金の髪に白い手をぽすんと乗せる。

 

「寂しかったんだねぇ」

「うっ、はい……お姉ちゃんは、雰囲気は前となにも変わりません。でも、決定的に違うところがあって、それで余計に……もうお姉ちゃんは帰ってこないって、思っちゃって……」

 

 テーブルに落ちる涙に視線を落とし、紅子は優しくアリシアを撫で続ける。

 しかし堰を切って溢れ出す彼女の思いは止まらない。

 

「アリスって、呼んでくれないんです」

「うん」

「アリシアだから、アリスだねって笑っていつも言っていたんです。でも、もうアリスとは、呼んでくれないんです。もう二度と、あたしのことをお姉ちゃんはアリスって呼んでくれない……! アリシアって呼ばれるたびに、それを思い知って……あたし、お姉ちゃんを守るって決めたのに、こんなことでその決心も揺らいで……最低です」

 

 言い切るアリシアに、紅子が返す。

 

「最低なんかじゃないよ。そうやって、前と決定的に違うことが分っちゃって、平気でいられる人なんていないはずだよ? その気持ちは変なんかじゃないから、そう気に病まないでほしいかな」

 

 真剣にアリシアの話を聞きながら、紅子は言葉をひとつひとつ選んで柔らかく笑う。その姿に、アリシアは泣きながらはにかんで「やっぱり、赤座さんは優しいです。お姉ちゃんみたい」と言った。

 

「光栄だけれど、アタシはキミのお姉ちゃんにはなれないよ。キミのお姉ちゃんは、レイシーちゃんだけだから」

「はい、分かっています……落ち着きました。ありがとうございます」

「落ち着いたのならよかったよ」

 

 照れ臭そうに撫でられた場所をそっと押さえ、アリシアはそっと涙を拭う。

 

「赤座さんは頼りになりますね」

「頼られて悪い気はしないからね」

「そうですか、助かりました」

「レイシーちゃんとは、話せそうかな?」

 

 紅子が立ち上がり、棚から袋に包まれたたくさんの飴玉を取り出すと、アリシアの前に置く。もてなしかたが年か幼子に対するそれだが、アリシアは特に気にせず礼を言った。

 

「飴、いただきますね……お姉ちゃんとは、もう少し冷静に話し合ってきます。あたし、やっぱり独りよがりでした。お姉ちゃんもやりたいことはあるでしょうから」

「そうだね、お互い尊重し合って、少しずつ距離を詰めればいいと思うよ」

「ありがとうございます」

 

 袋に包まれた飴玉をいくつか懐にしまい、アリシアが立ち上がる。

 

「今日はありがとうございました」

「お役に立てて嬉しいよ。今度は姉妹揃って遊びに来てほしいかな?」

「はい、必ず!」

 

 ひらひらと手を振る紅子に、アリシアはにかっと笑う。

 眩しいそんな笑顔に、紅子は微笑んで「待ってるよ」と告げた。

 

 そして去り際、アリシアが振り返って紅子に大きく手を振ると、弾んだ声で彼女に疑問を投げかける。

 

「あたしのお姉ちゃんはお姉ちゃんだけです。でも、赤座さんも、とっても素敵なお姉さんだと思いました! あの、紅子お姉さんって呼んでも、いいですか?」

 

 恥ずかしそうで、そして控えめな提案に、紅子はくすりと笑って「断るわけないよ」と肯定の言葉を返す。

 するとアリシアはますます嬉しそうに笑って「ありがとうございます! 紅子お姉さん!」と、帰ろうとしていた足を逆方向に向け、勢いつけて紅子の元へと飛び込んできた。

 

「っと、アリシアちゃん?」

「えへへへ」

 

 中学生のアリシアにとっては、紅子は年上の面倒見がよくて格好いいお姉さんなのだ。紅子のお腹の辺りでぐりぐりと頭を擦り付け、抱きつきながらアリシアは幸せそうな声を出す。

 

 そんな彼女の様子に困惑しきりだった紅子だが、遠慮がちにその背に腕を回し、甘える彼女に応える。こんな風に甘える少女を無碍にできるほど、紅子は冷徹ではないのである。

 むしろ、面倒見はかなりいいほうなので満更でもなさそうにしていた。

 

「紅子お姉さん、大好きです」

「あ、ありがとう。アリシアちゃん」

「充電できました! これでますます勇気も湧いて来ますね、お姉ちゃんともきちんと話し合いできそうです!」

「それは良かった」

「……むむむ、名残惜しいですがここまでにしておきます」

 

 紅子にハグしていたアリシアが離れ、頬をかく。

 それから「紅子お姉さん! また今度一緒にショッピングしましょうね!」と言ってから、くるりと背を向け、慌ただしく大図書館のほうへと去って行ったのだった。

 

「……妹も、悪くはないかな」

 

 残された部屋には、そんなことを言う紅子がいたそうな。

 それからは、紅子はアリシアを存分に甘やかすようになったのだが……それはまた別の話である。

 



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正義

 トントントントン、そんな音が静かに響いている。

 玩具のようなプラスチック製の包丁。ときおり濁るように、もたつくようにその音は途切れ、また再開される。

 

 イライラしながらも、俺はその作業に没頭するしかない……わけだが。

 振り返る。にこにこと気持ち悪い笑みを浮かべたままの大嫌いな奴の顔が見える。俺はその顔を見て、思い切り包丁を振り上げて――

 

「いっ」

「ほらほら、ダメだよ。手を止めたらいけないよ? 私はお前の料理を楽しみにしているのだからね」

 

 首にかけられたチョーカーからバチリと音がして、背を逸らしながら声をあげてしまう。電流が流れたような一瞬の痛み、しかしそのせいで包丁を取り落とし、手は数分間痺れたままだった。

 

 あれから……この邪神に無理矢理攫われて以降、俺は監禁されている。

 いや、屋敷内では自由にさせられているから監禁というより、軟禁に近いのかもしれないが、奴の見ていないときに外に出ようにも、屋敷の外には見えないなにかがいて外に出られない。そのうえ、屋敷の内部構造自体がときおり変わっているようにさえ感じられる。外に出ようとした瞬間に床が柔らかくなって舌で押されるように自室に運ばれたり、この屋敷自体がなんらかの化け物なんじゃないかと思うくらいだ。

 

「なんで、こんなこと」

「お前は私のお世話係(どれい)だからね。屋敷で雇っているのだから、しっかり働いてもらわないと。技術もさっさと身につけて、役に立ってほしいものだね」

 

 こっちは高校生だぞ。少しくらいは両親の手伝いをしていたが、そんなに料理は得意じゃない。野菜を切るのだって不格好、味も濃いものばかり、量も調整が難しくてなかなかうまくいかない。洗濯物ならまだしも……って、なんでこんなこと思ってるんだよ! 毒されすぎているようだ。逃げられないからと諦めが混じってきているのかもしれない。

 

 だめだ、俺はここから逃げるんだ。せめてあの刀さえあればなんとかなるかもしれないのに……! 

 

「ほらほら早く」

「お前がやれよ」

「敬語、やり直し」

「うっぐっ」

 

 バチッと音が鳴り、頭が真っ白になる。

 ふざけるなよ、こう何度もバチバチと電流なんか食らったたら脳味噌が沸騰して死ぬっつーの。

 ふらふらとしながら、よろめいてキッチンの壁に手をつく。

 

「おや、電流では脳が固まってしまうかな? ごめんね、配慮が足りなかったよ。下僕にも多少の配慮はしてあげないとね」

 

 息を吐き出しながら休憩していたところに、今度はチョーカーがぐんっと締まり出す。いや、まっ、窒息させるともりかこの野郎! 殺したいなら殺せばいいのになんなんだよっ、このっ、くそ野郎が! 

 

「……!」

 

 文句を言いたくても、残念ながら声が出てこない。出てくるのは苦しくて思わず出てきてしまう吐息と小さな喘ぎだけ。

 窒息で目の前がチカチカし始めた辺りでやっと解放され、膝から崩れ落ちる。

 すると、いつのまにか近くにやってきていた奴……神内に体を支えられて座り込むことすらできなかった。

 

「ほらほら、料理の技術はやらないと上がらないよ? 一定水準のものができるようになったら外にも出してあげようって言っているじゃないか」

「分かっ……くそっ、離せ」

「ほらほら、興奮しないでゆっくり息を吸おうね? 苦しかったでしょ」

「お前がやったことだろ誤魔化すなよ、この――」

「自分じゃ立てない癖に。おかしなれーいちくん。あと、放送禁止になりそうな罵声はダメだよ?」

 

 自力で立てるくらい回復してからはさっさと奴は定位置のソファーに戻り、俺は料理の続きをすることとなる。一旦中断していたから、もちろん奴の言う一定水準なんかには届くはずがない。またも失敗作だ。そんなことを言うと「まるでお前みたいだね」なんてグッサリと人の心を突き刺す台詞を吐いてくるのだから最悪もいいところだ。

 

 こいつとの生活は最悪。そうとしか言いようがない。

 

 そんな日々が続いて半年くらいのとき、ほんの少しの間屋敷の警備が薄くなったことがあった。それは、奴が屋敷の周りに置いていたなんらかの生物を一体連れて行き、更に動く屋敷自体も大人しいものだった、そんなとき。

 

 そんなことありえるわけがないと、そんなの罠でしかないと、そう思わなかったのは、まだ俺が楽観的だったからかもしれない。

 

 走って、走って、走って、そして自分のかつての家に向かって身一つで飛び出した。

 もちろん、この彩色町から実家が近い位置にあったからこそできたことだ。二時間、三時間と歩いて、ときおり走って、そして家に辿り着いたときに俺は見てしまった。

 

「令二、この私をいつまで待たせるつもりだ。行くぞ」

「わ、分かったよ凛ちゃん! 待ってってば!」

「早くしろ」

 

 家から出てきたのは弟で、家の前にいたのは見知らぬ女の子。

 紺色のセーラー服の上になぜか学ランを着ていて、横柄な態度のまま俺の弟……令二を連れて行こうとする。弟の交友関係にあんな子いたかな? そんな疑問と共に声をかけた。

 

「令二!」

「んえ?」

 

 間抜けな声と共に振り返った弟は、俺を見て目を見開いた。

 そうだよな、行方不明になっていた俺がこんな……いきなり目の前に現れたら驚いて当然だ。

 

「令二、兄ちゃんだぞ? ひさしぶ」

「誰だお前は」

「えっ」

 

 弟の代わりに声をあげたのは、隣の女の子だった。

 いやむしろ俺が誰だ君って言いたいんだが。

 

「令二、〝お前に兄はいた〟か?」

 

 妙に力強い言葉で女の子が言うと、令二は目を瞬いてから、一転困惑した表情になった。

 

「うーん、いないはず、なんだけど」

 

 その言葉に、俺は目の前が真っ暗になっていくようだった。

 なぜ? 

 

「おれ、〝兄がいたことなんてない〟はずだよ。だって一人っ子だし。人違いじゃないかな? ごめんね、おにーさん」

 

 兄はいたか? と言う言葉に、まるで正反対になるように答えて令二は首を傾げる。本気で知らない風であり、俺はその分混乱した。あまりの出来事に、言葉が出てくることすらなかった。

 

「ふむ、もしかしたら記憶に混乱が生じている人かもしれん。令二、あんまり関わると面倒だから早く行くぞ」

「あ、うん、リタさんが待ってるもんね。怒られちゃうから、早く行かなくちゃ!」

「その場合怒られるのは私ではなくお前だがな。別に、お前が怒られようとなんだろうが構わんが、早く行くに越したことはないだろう」

「もー、凛ちゃんったら天邪鬼(あまのじゃく)なんだからー」

「否定はしない」

 

 そんな俺を置いて二人が歩き出す。

 あまりのショックに引き止めることすらできずに、俺はその場に立ち尽くしたままであった。

 

「嘘だ」

 

 ぽつりと呟いて、表札を確認した。

 確か俺の家は無用心にも、家族全員の名前が載っていたはずだ。泥棒に目をつけられやすくなるからそろそろ変えようと言っていたのを思い出す。

 しかし、名前があるのは両親と弟の名前だけ。俺の名前はそもそも存在しなかったかのように、書かれていた形跡すらなかった。

 

「そんなことっ」

 

 玄関の横にあるインターフォンを押す。

 来客を知らせる音が響いて、インターフォンから「はい、どちら様ですか」と母さんの声がする。懐かしくて泣きそうになりながら、俺は「令一だよ」と声をかける。

 

 ――けれど。

 

「うちにはそんな名前の子はいません」

 

 インターフォンの声が途切れる。

 家の中からは、早くに帰って来ているだろう父さんの声と、慌てる母さんの声が響いていた。

 

「ねえ、令一ですって言ってたわよ。令二のこと中途半端に知った詐欺かしら? だから表札変えたほうがいいって言ったのに!」

「待て、まだ外にいるんだったら通報したほうがいいんじゃないか?」

「でも、本当に詐欺か分からないし……」

「なら、見回り強化してもらうか」

 

 そんな言葉に、呆然と立ち尽くす。

 

「みんな、俺のこと……覚えてない、のか……?」

 

 次に、近場の公衆電話を探して友人に電話をかける。神内に与えられている一応の給金があるから、それを屋敷から持ち出して来ていたのだ。

 友人、学校、知り合い、親戚、覚えている限りの電話番号にかけ続けて、とうとう全員に「人違いだろう」と言われてしまった。

 そのうえ、あの修学旅行で死んだ友人のことをその友人の家に電話をかけて訊いても、知らないと言われてしまった。

 

 あのとき、死んだ皆。そして攫われた俺自身。

 

 誰も彼もが、俺達のことを綺麗さっぱりと忘れていた。

 脱力して、電話ボックスの中で膝を抱えてしゃがみ込む。全てが、なにもかもが、徒労に終わった。俺があの邪神の元から逃げ出しても、もうどこにも居場所がない。そんな鬱屈とした絶望感に、立ち上がる気力さえもうなかった。

 

「くふふ、だから言ったろう? お前は私の世話係(どれい)だって」

 

 電話ボックスの扉を開けて、俺よりも随分と低身長な……しかしやたらと態度のでかい、長い黒髪を三つ編みにした男が立っていた。体格では俺が勝てそうなものなのに、こいつには一切通じず、俺は復讐も反抗もままならない。そんな絶望が、迎えに来たのだ。

 

「奴隷の存在なんて誰も見ないんだよ。でも私は優しい主人だから、こうして迎えに来てあげたというわけだ。くふふ、お前の現状は把握できただろう? 無駄な希望は捨てて従順になったほうがいいよ」

 

 言いながら、男が俺に向かって手を差し伸べてくる。

 ぐるぐると絶望感に支配された頭の中で、無意識に差し出された手を――。

 

「おや」

 

 思い切り、(はじ)いた。

 

「誰がお前なんかの手を取るかよ。俺は諦めない、絶対にいつかお前を殺してやる」

 

 燃え上がる反抗心に忠実に、そして(たの)しそうな顔をした男に向かって睨みつける。格闘でも、武器ありでもこいつにはまだ敵わない。だからこその精一杯の反抗。

 

「くふ、ふふふふ、それはそれは楽しみだなあ」

 

 恍惚とした表情で蕩けるような笑みを浮かべるそいつに、心底吐き気がして、弾かれたまま空で彷徨わせている奴の手に唾を吐きかける。

 

「ああ、いけないよ? 道端で唾なんて吐いたら」

 

 奴はそう言うと、手についた唾を眺めて俺に近づいてくる。

 

「やめろっ、来るな!」

「やーだよ、ほら、吐きかけたらだめだよ?」

「んぐっ」

 

 そして、そのまましゃがみこんだままの俺の口に、思い切りその手を突っ込んだ。

 

「元の場所に戻さなくちゃ……ね?」

 

 髪の毛をもう片方の手で掴み上げられ、苦しみの声を漏らす。

 わけがわからなくなって、噛みつく気力さえも奪われて、ただ口の中をその手で蹂躙されるのを受けるしかなくて、喉の奥を突くような動きにえづきながら耐え続けた。いや、耐えるしかなかった。口内を弄ばれて力が入らなくなってしまったからだ。「やめろ」という言葉も発せず、ただ舌を掴まれたり、歯列をなぞられたり、意味もなく遊ばれて息ができなくなる。

 

 その後のことは正直覚えていない。

「お前を知っている人は、もういない。可哀想に。哀れだね」なんて言葉を、それこそ何度も何度も何度も、刷り込ませるように浴びせかけられ、目の前が真っ暗になった。

 

 息ができず、そして屈辱による精神的ダメージ。

 気絶してしまったのは、ある意味幸運だったのかもしれない。

 

 それから屋敷のベッドで目が覚めた俺は、着替えさせられていることに混乱しつつも鏡の前に立つ。泣いたからだろうか、それとも散々遊ばれたからだろうか。ふらふらとよろめいて、しばらくまともに動けなかった。

 

「くそっ、くそっ、くそっ、絶対に殺してやる……」

 

 それでもなお、俺が心を折らずに闘志と反抗心を燃やせていたのは、奴が全く本気を出さずに俺を弄んでいるからだろう。もしくは、俺の意思の力がわりと強いからなのか。

 

 だが、確かにこのとき、俺の心の支柱が一本ポッキリと折れていた。

 大切な家族。仲はいいほうだった。なのに、もう誰も彼もが俺のことを覚えていない。存在すら、なかったことになっている。

 

 その事実こそが、俺をじわじわと蝕んでいった。

 もしかしたら、屋敷の警備が手薄で俺が一時とはいえ逃げ出せたのは、あいつの、神内の罠のうちだったのかもしれない。俺の心を折るための、そんな罠。

 

 ああ、効果覿面だったよちくしょう。

 でも、逆効果でもあった。余計にあの野郎に対する反抗心が燃え上がった。

 

 絶対に強くなって殺す。

 あんな邪神、この世の悪だ。俺が絶対に殺す。

 あんなやつ、殺してもいいだろう。あんな邪神がいなくなれば、きっと平和になる。あんな悪は殺してもいい。それが、正義になるはずだからだ。

 

 そう、あいつが邪神でなくても、あんなヤバいやつを放っておくほうがよくない。これが、俺なりの……正義となるだろう。復讐なんかじゃない。そんなものじゃない。

 

 邪神を殺すのは正義だから。

 

 ギリリと唇を噛んで、真っ黒な想いを募らせる。

 そんな歪んだ復讐心(せいぎ)を忘れないために、俺は奴に反抗し続ける。

 

 救われるわけがないと、心のどこかで諦めながら。

 死んでいく心が、誰かに救われるわけがないと、決めつけて。

 

 だから俺は……余計に――。

 

 ◇

 

 一方その頃。

 学ランを羽織った少女と、令一の弟は道端を歩きながら言い争いをしていた。

 

「ねえちょっと! 凛ちゃん、どうしてあそこで能力使っちゃったのさ!」

「リタの頼みだからな。厳密に言えば、リタを経由したニャルラトホテプからの頼みということになるが」

「どうしておれの〝認識をひっくり返す〟必要があったんだよ! おれだってちゃんと知らないフリぐらいできたよ?」

 

 彼の言葉に、少女がニヒルに笑う。

 

「お前、一瞬でも兄に会えて嬉しさが爆発してただろ。だからだよ、バカ」

「バカって言わないでよ! もう、天邪鬼って反則……!」

「生きたまま人間から天邪鬼になった私を舐めるなよ? ほら、令二行くぞ。リヴァイアサン様がお呼びだ」

 

 少女が目の前にするのは、とある公園の噴水。

 彼女はその場に歩み出ると、懐から取り出した深い青色の鱗を水面に浸す。

 すると、その水面の中に城のようなものが浮かび上がった。

 

「もう、しょうがないなあ。でも兄ちゃんを助けるためには、力をつけないといけないもんね」

「そうだ、だからアヤカシを斬れ。斬って斬って、そしてお前の兄の周りの余計なものは全て排除しろ。そうすればお前の元に、兄は戻ってくる」

「うん、頑張らないとね。兄ちゃんにバレるわけにはいかないし……おれが覚えているのを知られたらいけないんだもんね」

「そうだ。そういうものだからだ」

「そういうもの……」

 

 目を瞑って、少年は頷く。

 

「おれの正義は兄ちゃんだからね。兄ちゃんを助けなきゃ」

「……」

 

 彼女はそんな彼の横顔を複雑そうな表情で見守ると、その手を繋いだ。

 

「さっさと行くぞ。私がおしおきされてしまう」

「わっ、それはダメだダメだよ! 凛ちゃんの初めてはおれがもらうんだから!」

「余計なことを言うんじゃない! この高貴な身を手に入れられると思うなよ、このバカ」

「またバカって言った!」

 

 そうして、騒がしい二人は水の中に沈んでいき……その場には静寂だけが残ったのであった。

 




番外編2 かんらんさんより


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箱庭のチェスゲーム

 パタパタと動き回りながら、毛先だけ濃い赤色をした白髪の少女が店の中……古風なアンティーク店のような「鏡界の萬屋」にて掃除をしていた。

 そんな中、彼女は店の奥へ続く扉を潜り、店主である薔薇色の髪の持ち主を訪ねた。

 

「アルフォード様、消費期限の切れたものはどう処理を……あら、チェスですか? いったいどなたと……」

 

 店主の彼――アルフォード・ドライグ・ゴッホは古そうな揺り椅子に座り、ギッギッと音を立てながら目の前のテーブルを見つめていた。

 その場所にあるのは白と黒の盤面。チェス盤だ。彼のほうは白の陣営。対して黒の陣営には誰も座っておらず、彼が一人だけでチェス盤を見つめているにすぎない。

 

 しかし、白の駒がいくつか黒の陣営には取られてしまっているようで、彼はそれを見て考え事をしているようだった。

 

「思うに、白黒じゃなくて紅白の盤面でもいいと思わない? ルルちゃん」

「はい……? えっと、どうでしょう」

 

 少女。アルビノのグリフォンは首を傾げた。

 

「紅白なら、俺とヴァイスなのになあ」

「対戦相手はヴァイス様なのですか?」

「ううん、違うよ。ま、長期戦だからしかたないよね」

「そ、そうなのですか……?」

 

 困惑しきりのグリフォンは、またもや首を傾げている。

 

「れーいちちゃんがどう動くか楽しみにしておかないとねー。もうほとんど決まったようなものだけれど、(こっち)で取りたいよね。リンもいることだし、大丈夫だとは思うけれど……」

 

 そう言って、アルフォードは一つのポーンの駒を掴み、揺らす。

 それからルルフィードに向かって「捨てるものは一ヶ所にまとめておいてくれたらいいよ。あとでオレが処理するからね」と告げ、盤面をそのままにして持ち上げ、ベッド付近の棚に移動させた。もう動かすつもりはないようだった。

 

 まだまだ盤面が更新されることはない。彼と、誰かさんの勝負は文字通り……数十年、いや数百年単位での長期戦が続いているのである。

 

「ちょっと散歩に行ってくるね」

「は、はい! 行ってらっしゃいませ!」

 

 己を尊敬してやまない少女に、人懐こい笑みで手を振って彼は店を出る。

 それから、己の国を意識した軍服からラフな格好へと一瞬で切り替え、その背中から皮膜を持った薔薇色の翼を顕現させると、すぐ何処かに空を飛んで向かって行ったのだった。

 

 そして彼が辿り着いたのは、その町にしては大きな屋敷。

 その門についたインターフォンを押すと、音声で聴き慣れた声が響いてきた。

 

「はい、どちらさまでしょうか」

「あ、令一ちゃん! オレだよ、アルフォード。こないだ赤竜刀で祟り神を斬ったわけだから、一応オレ自身がお手入れしに来たんだけどー」

「今行きます!」

 

 慌てたようにする彼。令一にアルフォードは「いい子だなー」と言葉を漏らしながら門が開くのを待った。

 アルフォードとしては鏡界の萬屋へ訪れてもらったほうが都合が良かったのだが、わざわざこうして出向いて出張手入れを行おうとしているのは、純粋に神内千夜への嫌がらせである。

 かの邪神はそれでも無理矢理にポジティブに受け取り、喜んだり「わざわざ会いにくるなんて体躯の色と同じ、情熱的だね」なんて言葉を吐いたりしてくるのだが……

 

「あ、なんかムカついてきちゃった」

 

 想像で既にイラッときたアルフォードは笑顔のままではあるが、そのまま乗り込んで神内千夜への嫌がらせを上乗せすることを決定した。

 

「すみません遅くなりました! アルフォードさん、わざわざありがとう! あの、俺なんにももてなしとか用意してなくて……!」

「いいんだよー、オレが突然来ただけだからね! 入っていいかな?」

「どうぞどうぞ! お願いします! 多分リンも喜ぶと思うし」

 

 慌てる令一を制し、アルフォードは促されるままに屋敷へ入る。

 そのまま居間へと通されれば、そこには睨み合うリンと神内千夜の姿があった。

 

「なにしてるのー、オレ」

「きゅうううー」

「えー、喧嘩中? 気持ちは分かるけれど、自重してよね」

 

 つい先程まで喧嘩を売ろうとしていた竜の発言である。

 

「くふふ、敵の本拠地に来るとは貴方もなかなか無用心ですね」

「その敬語気持ち悪いからやめてほしいなー? ねえ、千夜くん」

「貴方のくん付けもなかなか気持ち悪いのでやめていただけますか?」

「は? オレは可愛いでしょ」

「ぶりっ子というやつですか、露骨すぎて反吐が出ますね」

「あのっ」

 

 冷戦状態に入る二柱の神に、令一がパタパタと腕を振りながら慌てて止めに入る。アルフォードが「あ、ごめんね〜」と言いながら令一の元へ向かえば、彼も安心したのか「リンをお願いします」と言って赤竜刀を鞘ごと渡す。

 令一の肩に乗ったリンも、元気に一声鳴いた。その様子を見てアルフォードは頷くと、赤竜刀を検分し始める。

 

「うんうん、ちゃんとお手入れもしてくれてるね。ポンポンするの大変でしょ」

「前はそうだったけど、今は日課でやってるから大丈夫だ」

「そっかそっか、大切にしてくれてありがとね」

 

 それからにっこりと笑い、アルフォードは赤竜刀を水平に持ち、刀身をほんの少しだけ露出させて己の力を込めた。

 分霊である赤竜刀には、本霊である彼の神力をこめるのが一番の手入れとなるのである。もちろん普段令一がしている刀身の物理的手入れも大事だが、赤竜刀を打った本神(ほんにん)に一旦返して、たまに細微な部分の修復をしてもらうのだ。

 

「これでよし」

 

 それから刀身を抜き放って神内千夜へと向けた。

 

「えっ、あのっ」

「おや? 同盟の創設者たる者が意味も理由もなく部外者を排除するのですか?」

「おっと、試し斬りの藁人形かなにかに見えちゃったよ。どうりで用意が良すぎるなと思った」

「私が粗末な人形に見えるとでも?」

「ほら、身長低いし髪も長くて鬱陶しいもんね」

「全て同じ言葉を返して差し上げますよ。貴方の髪も無駄に長くて、身長も低いでしょう?」

 

 バチバチと火花を散らしながら言い争う二人に、令一が再び「はわわ」と慌てながらどうしようかと手を彷徨わせる。

 ……令一は実際にそんな言葉を吐いたわけではないが、そんな慌て方だったのだ。

 

「ダメだ、アルフォードさん! 赤竜刀が汚れる! 手入れしたばっかりなのに!」

「れーいちくん……? そこなの? 私の心配は?」

「それと、神内は俺がぶった斬りたいんだ。お願いだから俺の相手を取らないでほしい!」

「れーいちくん?」

「ちぇー、そっか。それなら仕方ないねぇ」

 

 華麗に無視された神内千夜は「放置プレイ」などと呟きながら悦に浸っている。そんな変態の行動に慣れきっているのか、令一は視界から邪神の姿を外しながら、アルフォードを説得する。

 見事説得されたアルフォードは抜き身の赤竜刀を鞘に納めると、令一に返す。

 それからリンと目を合わせて頷くと、令一に「それじゃあ、オレは帰るね」と言って踵を返した。

 

「あ、もう言っちゃうのか?」

 

 心なしか寂しげな令一に、アルフォードは振り返って微笑みかける。

 

「そいつがいるとオレ、喧嘩しちゃうから……」

「わざわざ喧嘩を売ってきておいてなんですかまったく」

「じゃ、またねー、千夜くん?」

「もう二度と来ないでください」

「俺はまた来てほしい!」

 

 嫌そうな顔をする神内に、爽やかに次を願う令一。

 その姿を見てどちらを優先させるかなんて、アルフォードには一択しかないだろう。ただでさえ、アルフォードは人間が愛しくてたまらないのだ。

 それと、神内千夜への嫌がらせという点もある。

 

「千夜くんも、また遊んでね?」

「もう、ずっと毎日しているでしょう。私ときっちり勝負をつけてからそれを言ってください」

「それもそうだねー」

 

 言ってから手を振る。アルフォードが部屋を後にする際目にしたのは、中途半端なところで手が止められた白黒の盤面であった。

 黒側の駒がいくつか白側に置かれ、白側の駒もいくつか黒側に置かれている。そんな中途半端な盤面。

 

 それを一瞥してアルフォードは微笑む。

 

「まだまだ、遊びは終わらないよ。でも、必ずオレが勝ってみせるんだから。絶対にいつか封印してやるって」

「できるものならやってみればいいんですよ。けれど、理由なんてないでしょう?」

「理由なら作ればいいんだよ。それじゃあね、千夜くん。令一ちゃん」

「え、あ、うん。また……アルフォードさん」

 

 今度こそ手を振って別れる。

 箱庭の全てを盤面にしたチェスゲームは、誰も知らずに水面下で進んでいく。

 

 邪神と竜神の二柱の冷戦を動かし制するのは、きっとただひとつのポーンなのだと……そんな事実は、誰も知らない。

 




今回は兎さんのリクエスト「アルフォード&神内」です!
この二人はお互いに無干渉に見えて、実は水面下で冷戦をしている真っ最中!
そんなお話なのでした!


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牧場のバロメッツ

「え、おかしな羊がいるから牧場に……?」

 

 ある日、アルフォードさんに呼び止められて依頼されたのはとある牧場に行ってほしいというお願いだった。

 

「そうそう、多分バロメッツ辺りが紛れ込んでるんだと思うんだよね。謎の羊の死体とかまさにそうだし。鏡界を繋げた手鏡を貸すから、死体の回収よろしくね。夜に作業をすればいいから、昼間は普通に楽しんじゃっていいからさ!」

「でも、その日は紅子さんに料理を教えようと……」

「一緒に行けばいいんじゃない? ほら、デートデート!」

 

 それはそうだが。

 

「紅子ちゃんって結構動物好きだし、いつもよりずっとほわっとした笑顔が見られると思うよ? それに、動物にペロペロされちゃったりとかして」

「行きます」

 

 欲望に突き動かされた俺は、そうして紅子さんを誘って牧場へ行くこととなったのである。

 

 ◇

 

「おにーさん、さいてー」

「なんで分かったんだよ」

「あ、やっぱりなにか考えていたんだね? 残念、カマかけしただけだよ。自爆おめでとう、お兄さん?」

「んぐっ」

 

 途中で密かな思惑がバレたのはご愛敬か。

 それはそれとして、やってきたのは真昼間の牧場だ。のほほんとした雰囲気で、少し動物臭い。

 

「お兄さん、バロメッツは分かるかな?」

「一応少しは」

「うんうん、言ってみてよ」

 

 たまにある紅子さんとの、この問答。

 これがあるから俺もスマホで調べたりするんだよな。あんまりがっかりさせたくないし。

 

「羊のなる植物……みたいな感じだったよな?」

「そう、羊がそのまま成っているように描かれたりするけれど、実際には大きな実の中に羊が詰まっていて、熟して実が落ちると中身の羊もどろっと出てくるんだよ。肉も血も本物そっくりで、蹄の先まで羊毛でできているから、無駄がないんだ。確か、肉はカニの味がするんだったかな」

「えっ、食べるのか?」

「多分、アルフォードさんが回収するのは、あやかし夜市に卸すためだと思うよ」

 

 思い浮かべるのはあやかし夜市の屋台の数々。

 あそこに並ぶのか……バロメッツの肉や血が。なんか嫌だな。

 

「っと、入り口で立ち往生しているのもなんだし、入ろっか」

 

 そう言って彼女は俺の腕に両手を絡め、体を寄せてくる。わざとなのかそうでないのか、まるで恋人同士のやりとりみたいで、俺は素っ頓狂な声で「紅子さん?」と言うことしかできなかった。

 

「なにかな?」

 

 あ、これわざとだ。

 いつものようにからかいの表情で俺を見上げる彼女に、顔が熱くなってきて咄嗟に目を逸らした。

 

「……俺の理性がためされる」

「ふふ、デートのつもりだったんでしょう? なら、アタシもそのつもりで行こうかなと思ったんだけれど……迷惑かな?」

 

 迷惑なわけないだろ!? むしろありがとうございますとしか言えないのに! 

 いや待て冷静になれ。クールになるんだ。俺はがっついたりしない紳士な男だ。紅子さんを驚かせたい気持ちはあるが、それでドン引きされたら俺は立ち直れない。

 

「迷惑じゃないよ。なら、このまま行くか」

「百面相してて面白いなあ、令一さんは。葛藤が透けて見えるよ」

「うっ、いいから行こう」

 

 聡い紅子さんにはバレバレだろうが表面上平静を保てたのだから問題ない。

 さて、入り口で牧場内の地図を見る。

 

 ポニーに乗ることができるエリアに、牛がいるエリア。それからアルパカがいるエリアや山羊と羊のいるエリア。観光牧場の入り口付近には兎やモルモットなどの小動物と触れ合いできるコーナーが設置されている。

 

「わあ……うさぎ」

 

 小さな声で呟き、視線を持っていかれている紅子さんに気付いて、その視線の先を辿っていく。

 小さな広場には子供や大人が集まり、囲いの中でウサギやモルモット、そしてまさかのニワトリなんかを追いかけまわしたりしている。ああ、子供あるあるだよなあ。

『ふれあい広場』と看板がついているので、あそこで小動物と戯れることができるらしい。

 

「ちょっと寄るか?」

「いいのかな?」

 

 期待したように紅子さんがこちらを上目で見つめてくる。そんな表情をされて断れるわけがないんだよなあ。微笑ましく思いながら、彼女の手を引いた。

 バロメッツとかいうなにかの回収は夜にやる作業だし、昼間は暇だ。思う存分もふればいいと思う。

 手を繋いでそちらに向かい、お金を払って入場する。

 すると俺の手を離してから、そわそわとした紅子さんが中程まで進んでいく。それから近くにいた茶色くて小さな兎に目を奪われていた。

 

「動物、好きなんだなあ」

 

 改めて思いながら俺もそっと近づいていく。

 近場をニワトリを追いかけ回している子供がよぎっていった。兎も逃げた。うーん、子供ってそういうところあるわ。追いかけ回すほうがかえって逃げられるんだがなあ。

 

「おっ」

 

 目の前をぴょんと跳ねる白い兎。

 赤い目をしたスタンダードな白兎だが、非常にくりくりとした目で可愛らしい。しゃがんでそっと抱き上げると若干抵抗されたが、体勢を楽になるようしてやるとそのまま落ち着いた。

 

「いてっ」

 

 ……と、しゃがんだ状態で子供に背中を叩かれた。

 振り返ると正義感を燃やしたような表情の子供がいて、俺の顔を見て若干びびりつつも啖呵を切ってくる。

 

「う、兎はいじめるな!」

「いじめてないぞ?」

 

 面倒な絡まれかたをした。

 それもこれも俺が不良みたいな顔しているからか……。落ち込んだが、紅子さんが茶色い兎を抱えてこちらにやって来るのが見えて、そちらに注目する。

 

「このお兄さんは優しい人だから大丈夫だよ、ほら」

「ぶえっ」

 

 ほら、と言いながら紅子さんが抱えていた兎を俺の顔に乗せた。

 顔面にもふもふが! 顔面にもふもふがー!? 

 

「ふーん、そうなんだ」

「さっき叩いているのを見たよ。誤解だったんだから、ちゃんと謝れるかな?」

「えっと、ごめんなさい」

「んや、大丈夫だよ。俺も勘違いされやすいから」

 

 兎のお腹に埋もれながら謝った子供に返す。

 というかこの兎めちゃくちゃキックしてくるんだけれども! 紅子さん早くこの子離して! 

 

「ほら見て、令一さんみたいな色の兎」

「んぐっ」

 

 嬉しそうにはにかむ彼女に、俺は呆気なく撃沈した。

 茶色い兎だなとは思ってたけれど、まさかそんなことを思っていただなんて……! 

 

「おにーさんが連れてるのは赤いおめめの兎だね? アタシとお揃いかな」

 

 分かりにくいが、確実に紅子さんははしゃいでいる。いつもよりもいくらかテンションが高いし、こんな風に無邪気に言ってくるのはわりと珍しいような気がする。普段なら、俺の反応を楽しむためにからかいの表情をしているからな……今は純粋に思ったことを言っているだけみたいだ。それがより、俺に対しての破壊力に通じているわけだが。

 

 しばらく兎にモルモット、ニワトリと二人して抱き上げたり写真を撮ったりしてからその場を後にする。

 次に件の羊が放牧されているところへ行ってみたが、今のところは変な感じはしない。多分一般の人間が入らない場所でことが起きているんだろう。

 羊と山羊を眺めてから時計の針が上向きになったので、近くの食堂らしき場所に入る。

 

「ジンギスカンが食べられるんだって」

「……目と鼻の先に羊の放牧場があるのにか?」

「まあ、そういうものなんじゃないかな?」

 

 紅子さんは気にしていないみたいだが、さっきまで羊を眺めていたのにこっちですぐに食べることになると思うとなんかこう……複雑な気持ちになる。

 

「焼肉だと臭いがついちゃうかな」

「俺は気にならないけれど、紅子さんはやっぱり気になるか?」

「ううん、アタシも別に……お兄さんが気にならないならそれでいいかな」

「え、でも」

「キミに嫌だと思われたくない。キミが気にしないなら、アタシも問題ない。わざわざ言わせないでほしいかな……」

 

 複雑な乙女心ってやつだった。察しが悪くてごめん。

 以前の紅子さんだったら多分、不機嫌そうに「なんでもない」で済ませていたんだろうけれど、随分と素直に意見してくれるようになったなあ。対等になれるよう、俺がなんでも話すようになったからか、紅子さん自身も胸の内をなるべく話してくれるようになっている。お互いに一歩前進している感じがあっていいな。こういうときにこそ実感する。

 

「なあに、ニヤニヤしてるの」

「紅子さんもデレてくれるようになったなあと」

 

 その一言で彼女が眉をピンと上げる。

 

「以前からずーっと、アタシは素直に過ごしているけれど? そんなにツンケンしてなかったでしょうに」

「なんというか、心の距離感? そういうのが、前は遠かった気がするんだよな。俺をからかうだけからかってくるけれど、別に俺が好きでそういうことしてるわけじゃなかったっていうか」

 

 そこまで言ったところで鼻先に彼女の人差し指が触れる。

 

「……まるで今はアタシがキミのこと好き、みたいな言い方はどうなのかな?」

「えっ、俺、両想いだなあと思ってたんだけれど……そうか、俺が一人で舞い上がってただけか」

「そうは言ってないよ。アタシが言いたいのは、他人の気持ちを勝手に推し量ろうとしないでってこと。別に嫌いだとは言ってない」

「そっか」

 

 前は嫌いだなんだと言われまくっていたから、ちょっと嬉しいな。

 もちろん落ち込んでいたのはフリである。紅子さんも少しは照れてくれるかなと思ってやったわけだが、思っていたよりもツンデレな返答だった。

 

「ほら、早く食べる」

「はいはい」

 

 そうしてジンギスカンを堪能し終える。

 次は……ポニーかな。

 

「紅子さん、あれ体験してみるか?」

「ポニーに乗るやつだよね。ふうん、お兄さんはいいの?」

「俺は……一緒に順番待ちするかな」

「なるほど、キミはアタシが馬の背中で揺られる姿を見たいわけだ」

「そんな俺が下心しかないみたいな……違うよ」

 

 あわよくばとは思っているが、お口をチャックってやつだ。

 俺だって男だ。欲望に忠実であるべきだろう。それを明け透けにするかしないかは別として。

 

「まあいいや、アタシも馬に乗るなんて初めてだし……痛くならないかな」

「引いて歩いてもらうだけみたいだし、大丈夫じゃないか?」

「それもそうだね。お兄さんのほうがその場合は痛そう」

「どこの話をしてるんだよ」

「え、鞍がそこまで大きくないから、お兄さんだと体格的に……あ、そういうこと。おにーさん、さいてー」

 

 途中で話の食い違いに気づいたらしい紅子さんに、完璧なまでに軽蔑の視線を向けられてしまった。

 やってしまった。本当にやってしまった。なんでこういうときに限って下ネタだと勘違いしたんだよ俺。いつもこういうノリでからかってくるからてっきり……いや、言い訳はよそう。

 

「ごめん」

 

 ほんの少し頬が色づいた彼女に、ただただ謝った。

 

「ええと、自転車に乗るみたいに……」

 

 ポニーへの体験乗馬の順番が回ってきて、紅子さんがクリーム色の可愛いポニーに乗ろうとしていた。

 まずは左足を鞍についた(あぶみ)にかける。鎧は自転車で言うペダルの部分のことだ。足で履く部分。

 脚立の上でポニーの背中に近い位置。そこから左足を鎧に引っ掛けて、鞍の前方を持ちながら自転車を跨ぐようにポニーの上へと乗っかる。そうしたら反対側の右足も鎧を引っ掛けて、鞍についた安全ホルダーを掴んでもらい、ゆらゆらとポニーが引かれて歩き出した。

 

「おお、すごいねぇ。ほら見て令一さん、案外揺れるよこれ」

 

 嬉しそうにそう言う彼女は、思わず俺のことを名前で呼ぶほどはじゃいでいるみたいだった。

 

「写真撮ってもいいか?」

「変なことに使わないならいいよ」

「保証する」

「ならよし!」

 

 前方でポニーを引いている人が苦笑いをしていて、いつものノリで喋りすぎたと反省する。そりゃそうだよな。見た目は女子高生と成人男性なわけだし、ちょっとそういう話をするのはどうかと思う。

 ちなみに、紅子さんはスカートだったのでポニーに乗るため、一旦裏でレンタルのズボンを履いてきている。スカートじゃない紅子さんがあまりにも新鮮で、それだけでも写真が何枚も撮れた。

 あとでアルバムでも作ろうかなあ。

 

「それじゃあ次はお兄さんだね」

「ん、じゃあカメラよろしく」

「バッチリ撮っておくよ」

 

 もはや観光がメインになっている気がする。これが終わったら、今夜は仕事があるんだがなあ。

 

「案外揺れるけど、歩いてるだけだとそんなに怖くはないな」

「だよね、意外と安定感あってびっくりしたよ」

 

 むしろ、普通の馬より幾分か小さいポニーに身長の高い俺が乗ってしまって、そこが申し訳ないくらいだった。

 乗るときも、降りるときも慎重にやったが、終始ポニーは大人しいものだった。観光牧場で仕事してるポニーってこんなに大人しいんだな。

 たまにテレビでやってる競馬くらいでしか見たことないから、こんなにも大人しいとは思ってなかった。

 

「あとは、アルパカのところに行って触れ合ったら終わりかな」

「そうだな」

 

 現在時刻は午後16時くらい。

 意外と堪能できたな。紅子さんのはしゃぐ珍しい姿も見られたことだし、今日はいい一日になったな。

 

「んんっ」

「あ、待て待てやめろ!」

「ちょっと、返してくれるかな!?」

 

 紅子さんがいつものベレー帽をアルパカに取られて慌てている。

 しかも周りにいる別のアルパカに長いポニーテールをもっしゃもっしゃと口でいじられていて、端的に言ってピンチだ。

 

「ちょっと、遊びたいのかな? 分かったよ、分かったからやめてってば!」

「紅子さん!」

 

 若干見たいと思っていた光景だが、やはり動物にぺろぺろされてしまう紅子さんを見ると心臓に悪い。そのままぱっくりと食べられてしまいそうで怖いのだ。

 

「ふおっ」

 

 そして俺の脇腹にもアルパカが体当たりしてきてバランスを崩す。

 起き上がろうとしたときに顔を上げれば、俺を覗き込んでくる呑気そうなアルパカの顔、顔、顔、顔。

 

「や、やめろぉ!」

「令一さん!」

 

 やっとベレー帽を取り戻したらしい紅子さんが振り返ると、そこに広がっていた光景は多分俺が大量のアルパカに囲まれているところだった。

 

 ……見かねた飼育員さんに救出されるのはその数分後。全身デロデロになった後だった。他にも子供が複数遊びに来ていて、そちらに飼育員さんはかかりきりで、気づくのが遅れたらしい。

 

 夜になるまでに鏡界移動をして、同盟の施設でシャワーを浴びた。さすがにあのまま仕事するのもどうかと思ったからだ。

 

 そうして夜――。

 

「生々しすぎる」

「うん、まあそうだよねぇ」

 

 深夜の牧場に鏡界移動で侵入し、羊エリアの奥へ奥へ。この時間、家畜は厩舎(きゅうしゃ)に戻って平和なものだ。

 

 そして草原の奥。巨大な蕾のような植物が複数植っているのが確認できた。

 そのうちの一つが花開き、その中から子羊のような頭が出てきて、そのまま蕾から産まれるようにして羊がぼとりと落ちる。

 

 正直なところかなり不気味だ。しかも産まれたて感があって気持ち悪い。

 羊が落ちた蕾の周辺は牧草が根こそぎ食い尽くされていて、植物の茎の届く範囲は全て土が晒されている。

 他の蕾も次々花開いていくが、まだ周辺に牧草が残っているところは羊が落っこちない。

 羊の重みで垂れた茎の許す限り、蕾から上半身を出した羊がもっしゃもっしゃと牧草を食んでいる。

 恐らく食べるものがなくなればこの「バロメッツ」達も中身が抜け落ちるんだろう。

 

 しかもこの落っこちた羊は美味しいらしい。

 

「やるしかないな」

「うん、できれば根っこごと引き抜いて鏡界に移動させたほうがいいよ」

 

 こうなるだろうとここに来る前に用意した、大きなスコップを構える。

 それからは夜通し、二人で植物を掘り返しては鏡界に放り込む作業をしていたのだった。

 

 だけれど、昼間の出来事があったからか、不思議と嫌な仕事ではなかった。

 あとでアルフォードさんに感謝しないとな。

 

 結局、バロメッツを全て鏡界送りにするのに三時間くらいかかったのであった。

 

 

 




本日は名状し難き帽子屋さんのリクエスト。「令一と紅子」のデート回となりました!お楽しみいただけていたら幸いです(*´꒳`*)


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女好きのアーヴァンク

「ねえ、旦那」

 

 長く、癖のある黒髪をポニーテールにした女性が、やたらと艶のある声で俺を呼ぶ。伏せた目に映える長い睫毛。赤い炎のような色のバンダナを頭に巻いた彼女は、快活そうな印象を受ける。

 実際、この人はかなり明るいタイプの人だから間違いではないだろう。

 

 街中で手を繋ぎながらキョロキョロと辺りを見渡す彼女を、道行く人々の8割くらいが振り返って眺める。それほどまでの美人。声も透き通るような色艶のあるもので、仕草は優雅で色っぽい。

 

「どうした?」

「いんや、ちょっとね?」

 

 口調だけが変わった江戸っ子口調であるが、かえってそれがただの美人でないことを表していて、余計に人の注目を集めている。

 

「はっきり言ってくれ」

 

 側から見れば、俺達はきっと恋人同士に見えるのだろう。

 もちろん、隣にいるのは紅子さん……ではない。決して浮気をしているわけでもない。

 

「なんつーか、男二人。虚しくならねぇかい。旦那」

「言わないでくれ」

 

 これはれっきとした仕事である。

 手を繋いだ、女装中の烏楽刹那さんがやけくそになって笑っていた。

 

 ◆

 

 きっかけはある依頼を見たことだった。

 最近、街中で女性のナンパが相次ぎ、掲示板内で複数の男性怪異やらが愚痴っていたことが引き金となり、その依頼が張り出されたらしい。

 それだけならナンパ野郎を注意するだけで終わる依頼になっていたのだが、どうやらこの問題の怪異……恋人のいる女性を特に狙って奪おうとする悪質な輩らしい。

 

 故に、好きな人のいる俺と刹那さんに声がかかったわけだが……。

 

「断固拒否します」

「俺ぁ、自信がないわけじゃねえが、万が一を考えると参加はしたくねぇなあ」

「だよねー」

 

 俺は即答。刹那さんも苦笑いをしつつ、しかし目は一切笑っておらず、話を持ってきたアルフォードさんは困ったような笑顔で息を吐く。

 未だ恋人にはなれていないが、好きな女性を好んで奪おうとする怪異相手に晒そうだなんてとてもとても思えない。

 紅子さんがそんな最低な怪異に心動かされたり、なびくわけがないと信頼してはいるが、それとこれとは別である。そもそも彼女をそういう目で見られること自体が耐えられない。

 

 それは刹那さんも同様だ。

 彼が想いを寄せているのは、その行動から推測するに字乗(あざのり)よもぎさんだろう。大図書館で日々本を読んで過ごしている文車妖妃(ふぐるまようひ)の元に、新聞配達をわざわざ自ら出向いたり、ルルフィードさんのスイーツパーラーでバイトして報酬にお菓子をもらい、彼女に届けたり……そのどの行動をとっても、彼にとって特別であるとしか考えられない行為。

 

 鴉が文の怪異に恋をするなんておかしな話だが、神様と恋する人間もいることだし、そういうこともあるだろう。

 そして、刺激を求める怪異や神様達によって、同盟では案外そういう恋話が持て囃される。野次られると言えば聞こえが悪いが、皆微笑ましく見守りながら応援してくれるもので、気恥ずかしいながらも俺の背を押してくれるものだから憎めない。

 

「うーん、この依頼どうしようかな。結構深刻なんだよねぇ。なんかこの怪異、女の子をナンパするだけならまだいいんだけれど、どうやら寝取るのが大好きみたいで……被害報告が悲惨なんだよ。無理矢理迫って……なんてこともあるようだし、悪質なんだよねぇ」

 

 その話を聞いて、ますます紅子さんを巻き込むわけにはいかないと決意した。

 

「オレみたいに髪が長ければ騙せるかな?」

 

 なんて言いつつ、アルフォードさんが自身の薔薇色の髪たばを手ですくい取り、摘み上げる。

 確かに彼は身長もそれほど高くなく、薔薇色の髪が長く、一見すれば女の子みたいに見えなくもない。声も中性的で、一人称がオレだとしても、初めて会う場合は性別が分からないだろうな。

 

「あーでもだめだなあ。例の被害者、みんな長身の女の子だから。狙っている子の好みはスレンダーで長身な綺麗系の女の子なんだよね。オレじゃあ、女装しても可愛い系にしかならないや」

「アル殿、なぜ女装の方向性に持って行くんで? 確かに女を(おとり)にするのは(はばか)られるが」

 

 万が一を考えなければならないわけで、そうなると女の子を囮にするのはかなりの危険を伴うことになる。

 

「真白ちゃんにも言ってみたけれど、この手の怪異は彼女にトラウマがあるからねえ。破月ちゃんからも怒られちゃったし、真宵ちゃんも周囲を巻き込むくらい怒ってたし、絶対になびかない実績があるあの子には頼めないんだよ」

 

 むしろなぜそこに話を持って行ったのかと。

 そりゃ怒るだろ。破月さんなんて真白さんにデレデレじゃないか。あんだけ溺愛している女性を、それも寝取り目的の怪異の囮に使うとか言われたらブチギレて当たり前だ。呑気に怒られちゃったとか言っているが、絶対にその次元では治らない。

 

「……ねえ、せっちゃん。そういえばキミも髪は長かったね」

 

 ふと、アルフォードさんが刹那さんを上から下まで眺めて笑った。

 神様がなにか企んでいるとき特有の、眩しいくらいの、そして怪しい笑顔だった。

 

「今すぐに髪を切りたくなったんだが、どう思う? 令一の旦那」

「諦めたほうがいいと思う」

「なんで味方してくれねぇんだい!?」

 

 他に飛び火するくらいならこの場で解決するべきだろう。多分。

 あと神様の決定には基本的に逆らいづらい。さっき思いっきり却下してただろうって? それとこれとは別だ。紅子さんは絶対に巻き込みたくないのだから当たり前だ。

 

「こ、声はどうするんで? アル殿、俺ぁ、コロコロとした可愛らしい声なんて出せねぇぜ?」

「七匹の子山羊って童話知ってる?」

「知ってるが……って」

 

 アルフォードさんが取り出したのは小瓶に入った白い粉。そんな物一体どこから……? というか準備が良すぎるのでは……? もしや最初からこのつもりだったとかそんなこと。

 

「狼は母親の山羊になりきるために、小麦粉で足を白くして、チョークで声を高くしたんだよね。この童話、日本でもかなり有名だし、知ってるよね? グリム童話だから、むしろ知らない人のほうが少ないくらい……あとは分かるかな?」

 

 いい笑顔だった。

 怪異やその手の不可思議な現象は有名であればあるほど力を持つ。

 この鏡界においては尚のこと。つまり――。

 

「ちょっと待ってくれアル殿、俺は」

「れーいちちゃん、押さえて」

「えっと、はい」

「旦那、裏切るのかい!?」

 

 ごめん、刹那さん。

 

 ◆

 

 ……ということなのであった。

 

「にしても、視線が鬱陶しいねぇ。女の身ってのは大変だなあ」

「美人なら男女問わず視線を奪われるもんだと思うけど」

 

 実際、女装中の彼は男だと分からないくらいに美しい。

 髪はまとめてポニーテール。炎のようなバンダナをしているのは相変わらずだが、ピアスにネックレス。それにいつもはだけさせて雑に着ている着物ではなく、女物の紅葉のよく似合う落ち着いた着物を着こなしている。薄い胸元は着物であるから中身を入れて(かさ)を増し、一見しては見破れないほどの女装だ。

 

 さすが鴉、着飾るのは案外嫌いではないんだな。確か鴉が色んな鳥の羽根を集めて着飾ろうとする童話もあった気がするし、お洒落して注目されること自体は、別に嫌というわけではないのだろう。

 諦めたのか、なんとなく彼も今の格好で楽しんでいる感じがする。

 

 落ち着いた色の着物を着ている理由は、そのほうが色っぽくて男がそばにいれば、そいつの〝お手つき〟だと見えやすいから、だそうだ。つまり貞淑な妻もしくは恋人に見えるからだとか。

 こんなところをお互いに好きな人に見られたら死にたくなること請け合いである。

 

「旦那、少し足が痛え。そこに座ってるから、甘味のひとつでも買ってきておくんなせえ」

「はいはい、刹那さんはここで待っていてくれ」

 

 その台詞は、目をつけられたときに言うと決められていたものだ。

 俺はそこまで気配に聡くはないため刹那さん頼りだったが、どうやら上手く引っかかってくれたらしい。

 こうして一人で女側が待ち、男側は側を一時離れる。ナンパされるだろうお決まりのパターンで別れ、近くの菓子屋に入る。そして手早く安い菓子を買って外の様子を伺った。

 

 外では、洋装のやたら恰幅のいい男が刹那さんに話しかけるところが垣間見えた。決して見目がいいというわけではないが、一目でブランド物だと分かる品々を身につけ、刹那さんにも高級そうな簪を見せびらかしたり、顔を近づけて明らかに嫌がっている彼に言い寄るのが見て取れる。

 

 やっぱり紅子さんに相談しなくて良かった。

 俺だったら耐えられない。多分刹那さんも同様。耐えられないだろう。

 

 そしてなびかない刹那さんにじれったく思ったのか、男が彼の腕を無理矢理引っ張って行くのが見えた。よろめいている刹那さんはこちらを振り向きながら、不安そうな顔で連れて行かれる。

 案外力が強いのかな? というか、道行く人が誰も注意したり通報しないあたり、治安が悪いのか、それとも術かなにかでそれがごく自然な行為にでも見せているのか……後者であってほしいな。

 

 店を出て後を追う。

 それから彼らが消えて行った路地に入ると……今まさに両手を捻りあげられ、着物を脱がされそうになっている刹那さんが目に入った。涙目である。あれ、彼のことだから非力なフリをしているだけだと思ったのだが、もしかして本当に振り払えないのか? 

 

「旦那ぁ!」

 

 急いで手を(かざ)し、リンを呼び出して赤竜刀を手に飛びかかる。

 すると慌てた例の男は刹那さんを抱きかかえてそのまま俺の攻撃を躱した。

 まさか躱されるとは思っていなかったので、少し驚いた。

 

 場所を移動した恰幅のいい男はその後ろに平たい尻尾のような物が出ており、腕で刹那さんを拘束すると同時にその尻尾で、更に動かないようまとわりついて拘束している。

 刹那さんの焦った表情を見るに、本気で動けないみたいだ。

 

「っち、気づくのが早いな。噂が立ちすぎたか」

「アーヴァンク。やりすぎで同盟から指名手配が出ているぞ。大人しく同盟で教育を受けるか、この場で殺されるか、好きなほうを選べ」

 

 怪物、アーヴァンク。

 アルフォードさんの守護するウェールズ出身の妖精である。

 とある池に住む巨大なビーバーであり、人を水に引き込んで引き裂いて食らったり、怪力を自慢とする水の魔物である。

 そんな伝承と共に語られるのは、アーヴァンクがユニコーンのように美女が好きであり、メスの個体が非常に少ないというものだ。要するに女好きが多い。

 そのうえ、この悪さを働くアーヴァンクは人の恋人を盗るのが好きだという最低最悪な個体である。到底許せるものではない。

 

「やだね。俺は寝取った女が泣き叫びながら快楽に堕ちんのを見るのが好きなんだよ。人間だってそういうの、好きだろう?」

「は?」

 

 よし、殺そう。それが正義だ。

 

「リン」

「きゅうん」

 

 いつにないほどに、赤竜刀から薔薇色の炎が漏れ出でる。

 瞳孔をかっ開いている自覚さえある。こういう最低男は粛清しないと。

 

「ちょ、ちょっと待て。その竜もしかして――」

「問答無用」

「こ、こいつが俺のところにいるんだぞ! 恋人を盾にしてやるぞ! それでもいいってんなら……」

 

 俺の様子にドン引きしているのか、拘束されている刹那さんの表情が引きつった。

 ちなみに、この浄化の炎は俺が斬ると決めた相手にしか効かないはずだ。刹那さんはただ怖いだけで済む。というか、彼が本当に捕まっているとも思えないし。いけるいける。大丈夫だって。

 

 言い聞かせて赤竜刀を構える。

 逃げようとしても袋小路になっているから、逃げるなら俺の横を走り抜ける必要がある。アーヴァンクは慌てたように刹那さんを盾にした。

 

 次の瞬間、ゆらりと煙が揺らめくようにその場の空間が歪む。

 そして俺が赤竜刀を振り抜くとき、その尻尾の中には既に刹那さんはいなかった。代わりにその場に残ったのは炎のようなバンダナ一枚。

 少し離れた位置に現れた刹那さんは、アーヴァンクに向かって刀を振り下ろそうとする俺にウインクをして親指を立てた。

 

 驚いて焦る怪物に、遠慮なく刀を尻尾に突き立てる。

 

「ぎゃっ!」

 

 痛みに悲鳴を上げるそいつには更に追撃として刀を返し、峰の部分で頭を殴った。そして自慢の怪力を発揮することなく呆気なく気絶したアーヴァンクは、その場で男の姿から本性……巨大なビーバーの姿へと変化して倒れた。

 

「刹那さん、どうやってこいつの拘束から抜けたんだ? まるでどっかで見た漫画のぬらりひょんみたいだったぞ」

「なあに、最初から捕まってなんぞいないのさ。ありゃあ、俺の見せた幻術だからな。奴の触覚まで騙すのは結構神経使ったぜ」

 

 そういえば彼は幻術使いだった。

 神中村でも俺への攻撃を逸らしてくれていたりしたな。

 

「すごいな、見た目だけじゃなくて感覚まで騙せるのか?」

「なんかを触っているっていう事実がないと騙しにくいがなあ。だからバンダナを使ったんだ。烏楽は幻術が得意でな、俺は特にその辺が秀でてんのさ。その代わり非力だから、戦闘は無理だが」

 

 戦闘がダメってのは何回か聞いているから知ってたが、幻術でここまでできれば十分だろう。

 

「んじゃ、鏡界にこいつを放り込んで、報告すりゃあ、お仕事終了だな。旦那もごくろーさん」

「刹那さんもお疲れ様。行くか」

「きっちり着物を着てると肩が凝って来るんだよなあ。早く解放されてぇ」

 

 そうして俺達は、アーヴァンクを二人で引きずって鏡界へ移動し、アルフォードさんに無事報告することができたのだった。

 

 しかし後日……。

 

「お兄さん、こないだ随分と綺麗な人と歩いてたって話を聞いたんだけれど、素敵な人でも見つけたのかな?」

「誤解だ!?」

 

 見事にオチがついた。

 お後がよろしいようで……いや、よくねーよ! 

 

 誤解を解くのにも、説明をするのにも時間がかかり、嬉しいことに拗ねる紅子さんを宥めるために一日中買い物デートすることになったのであった。

 結果オーライかもしれない。

 

 ちなみに刹那さんは、女物の着物を所持していることで新聞仲間にたいそうからかわれて、更にその噂が字乗さんのところにまで届いて機嫌を損ねたのだとか。

 

 こうして俺達二人のやったことは見事に知れ渡り、好きな人にも結果的に知られ、なんともいえない結末になった。

 幸いなのは、これをきっかけにして刹那さんと仲良くなれたことぐらいである。




本日のリクエストは、ありしうすさんの「令一&刹那」でした!
いかがでしたでしょうか?
めちゃくちゃ長くなってしまって焦りましたが、書いていて非常に楽しい物でした(*´꒳`*)


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「黒猫と幻夢境と、嫌われ化身」

「なあん」

 

 暗い部屋の一室。

 ゴシックロリータを身に纏った少女の膝の上で猫は大きく口を開けて欠伸をした。

 

「んん……ジェシュ……?」

 

 こっくり、こっくりとベッドに腰掛け、壁を背にした少女……アリシアが眠たげに目を擦る。猫はその様子を尻目に立ち上がると、ぐぐっと体を伸ばす。

 足が痺れたようにアリシアは顔をしかめたが、そのままパタリとベッドに横になり、すうすうと寝息を立て始めた。

 黒猫のジェシュが膝で寝ていたため、身動きが取れなかったのだろう。

 彼、ジェシュはそんな彼女を見て申し訳ないと思う気持ちと共に、一種の嗜虐的な思考が掠めてしまい、その小さな頭を振るった。

 

「ボクは、引きずられない……」

 

 黒くしなやかなその体で飛び上がり、彼はベッドの下へ降りると一直線に窓へと向かった。それからもう一度飛び上がると窓の鍵に手を伸ばし……空を切った。

 

「むう」

 

 もう一度。今度は爪がほんの少しだけ触れた。

 

「むむ」

 

 もう一度。少し動いた。

 

「うー」

 

 もう一度。飛び上がるときに見誤り、せっかく動いた鍵を頭突きで元に戻してしまった。

 

「はあ〜」

 

 人間臭く大きな大きな溜め息を吐くと、彼はその場でサマーソルトをして人間の男に似た姿に変化する。

 派手なチェシャ猫のようなデザインの服装、口元をチェシャ猫のニヤケ笑いを描いたストールで覆い、黄色い瞳は不満げに細められている。

 おまけに長い黒髪を尻尾のように三つ編みにして肩の前に垂らしており、その姿はどことなく胡散臭い邪神に似通っていた。

 

 いや、実際に似ているどころではない。

 彼もまた、あの邪神になったのだから。

 

 血を与えられて、体が作り変えられ、それでもなお全てを嘲笑する邪神の本能に抗い、彼は少女に付き従っている。それは全て、飼い主の姉妹が大切だからこそである。でなければとっくに旅に出ているのだ。

 

 人型になった彼は鍵を開け、窓の外に出てから月を見上げる。

 そこにあるのは夢の世界。人が夢で行き着くことのあるという場所。猫が行き来できるという幻夢境。その名もドリームランド。

 

 彼の目玉と同じ色をした月に向かって腕を伸ばす。

 片方の異形の腕は遠くの月を摘めそうと思えるほど大きいが、決して届くことはない。そんな月。

 けれど猫達は独特な方法で生身のまま、夢の中にだけあると言われている幻夢境へと至ることができる。

 

「行かなくちゃ。確かめないと」

 

 黒猫が呟いた。

 曰く――「ボクはまだ猫なのかな」と。

 

 そして跳躍。

 長い長い、二本に分かれた尻尾で地面を打つようにして、そして両脚に力を込めて黒猫が跳ね躍り、舞い上がる。ぐんぐんと遠くへ。ぐんぐんと近くへ。月に向かって飛び込んだ。

 

 そして……。

 

「ここが、ドリームランド。初めて来たや」

 

 彼が辿り着いたのは、果たしてそこは森の中であった。

 

「あれ、おかしいな。猫なら猫好きの街(ウルタール)に着くと思ってたんだけど」

 

 キョロキョロと辺りを見回し、彼は首を傾げる。

 彼自身は一度も訪れたことのない異世界……ドリームランドではあるが、よく猫集会で話だけは聞いていた。遠い記憶を探り出して彼はなおも不思議そうにしていた。

 

 彼が猫集会に参加していたのも、それは邪神になる前の出来事であり、猫の姿をした邪神となってからは参加をしたことがなかった。故に、彼の情報が古めかしいものである可能性も否定できない。

 

 なにせ、老猫達が話していたドリームランドは、現実世界と時間が同じときもあれば、はるかに時間の流れが早いときもあると言うからだ。

 もしかしたらドリームランドの時間の流れが早くて、なんらかのルールが変更されたのかもしれない。

 呑気にそう結論づけてジェシュは深い森の中を歩き出す。

 

 目指すはウルタールの街。その街では猫が自由気ままに生き、そして「決して猫を殺してはならない」という猫至上主義の街でもあるのだ。

 自分が猫かどうかも、そこに行けば分かるのだろうと漠然と彼は考えていた。

 

 しかし……。

 

 しゃらり、しゃらりと音がして、彼の薄い耳がピクリと動いた。

 そしてジェシュは静かにその場で猫の姿へと変化する。そうしなければならないと、思っていたからである。

 

 絹が擦れるような繊細な音色に、土を踏む湿った音。誰かが向かってくることは、彼の髭にあたる空気の振動で敏感に感じ取っていた。

 

 それは人型。現れたのは、黒の生地に金の刺繍を施したドレスを身に纏う、浅黒い肌の健康的な女性である。露出している部分が多く、普通の人間ならば目のやり場に困るだろう肢体をしかし、ジェシュはただ無感動に眺めていた。

 

 女性の頭に、長い黒髪から覗くように長い猫の耳がひょっこりと顔を出していて、ドレスの下から覗く尻尾はするりとしなやかな動きを見せる。その尻尾の先に金色のリングのようなものが嵌められており、それが三度(みたび)振られると、彼女の周りに三匹の白い猫が現れた。

 

「うちを探していた迷子は、そちか」

「もしかして、バースト様?」

 

 ジェシュが一歩踏み出そうとすると、召喚された三匹の白猫が警戒するように女性の前へと踊り出た。

 

「このかたをどなたと心得る! 貴様如きが近づいてはならん!」

「よいよい。こやつはまだ己のことが分かっていないみたいだからね」

 

 女性が微笑み、そして告げる。

 

「まことに、うちこそが猫を愛し、愛され、救う神。バーストである」

 

 現代ではバステトと呼ばれる猫の女神。

 それがジェシュの目の前にある光景であった。

 

「本当に本当のバースト様」

 

 やはりジェシュが近づこうとすると、数歩下がるように白猫が唸る。

 そして……声を荒げた。

 

「お前はもはや猫でもなんでもない。むしろ我らの天敵ではないか! そのような姿でバースト様のお心を弄ぶなど卑しい奴め!」

「天敵……」

 

 白猫の言葉に、彼は衝撃を受けて言葉を失った。

 猫を愛す女神であるバーストにとって、過去の〝やらかし〟を行ったニャルラトホテプは苦手な対象である。

 そして今回も、ニャルラトホテプの思惑によって一匹の愛しい猫が化身へと作り替えられてしまい、心優しい彼女は非常に心を痛めていたのだ。

 

 白猫は、変化させられてしまった彼を責めた。

 ジェシュの意思で行われたことではなかったというのに。

 

「でもそっか。ボクは、もう猫じゃないんだね」

「猫は愛されるべき生き物。うちは、お前の飼い主が選んだことを否定せんよ。お前は女神バーストの手元からは離れてしまったけれど、それでもお前が飼い猫として一人の人間について行くというのなら、応援をしてあげようと思う」

「バースト様! お戯れをっ」

「うちの勝手さ。いいだろう、別に」

 

 咎める白猫にバーストは優しく諭した。

 

「だから、早くおうちへお帰り?」

「うん、分かった。帰るよ」

 

 そうしてジェシュは背を向ける。

 夢から覚めるときが来たのだ。物理的にも、精神的にも。

 

 女神と優しい決別をした彼は、ドリームランドから見える月に向かって「ぽおん」と跳躍し――表の地上へとすぐに舞い戻った。

 

 さて、疑問も氷解したことだし戻るかと彼が部屋に戻ろうとしたとき、どこからか一羽のカラスがやってきて「カア」と鳴いた。

 

「またそれ?」

「くふふふふ、いいじゃないか。こっちのほうが慣れているだろう? だからわざわざこうして、出向いてやっているのだから」

 

 胡散臭い笑い声を溢してカラス……正確には死んだカラスにとり憑いた邪神ニャルラトホテプに、彼はものすごく嫌そうな顔をしながら溜め息を吐く。夜の間はドリームランドにいたため、結構な時間が経っている。どうやら時間の流れはあちらのほうが早かったようだ。

 

 ひと眠りしようと帰って来た彼は、それ故に迷惑そうな顔で邪神のほうを向く。

 

「ねえ、ボク。しつこい奴は嫌われるって言葉知ってる?」

「知っているよ。くふふふ、私はただたんに、〝私〟が上手くやれているかどうかを見に来てやっているだけだよ?」

 

 嘘をつくな嘘を。

 そんな表情をして、ジェシュは無言で訴える。しかしカラス――神内千夜は素知らぬフリをして話を続けた。

 

「お前はもう猫ではなく、邪神。それがよおく分かっただろう?」

 

 ねっとりとした話し方に、ジェシュはうんざりとして溜め息を吐く。

 これが〝自分〟であると考えても、どうにも落ち着かない。ニャルラトホテプの化身は、アルフォードの分霊などと同じであり、皆等しくニャルラトホテプ自身である。しかし、そこに化身それぞれの〝毛色〟というものも存在していることは確かだ。

 

 彼はニャルラトホテプとなってしまっているため、その記憶を辿ればいくらでも邪神らしくない性格をした化身がいることを知っている。どころか、自身が化身であることに気づかずに生き、そして人と同じように死んでいく者がいることも理解している。

 

 彼はたまたま機会があった。故に邪神であるという自覚を得ただけなのだ。

 

 性格の違いからニャルラトホテプ同士で争い合うこともある。それこそが混沌の名を冠する邪神である。

 

「ボク、お前のことは嫌い。なに先輩面してるの? あっち行ってよ。しっしっ」

「猫を追い払うような動作を、お前がするんだね。くふふふ」

 

 その矛盾に心地良さを感じたのか、神内はカラスの翼を手のように動かして含み笑いをする。

 

「ボクはアリシアのもの。そして、アリシアと一緒にレイシーを愛する猫。たとえ〝ガワ〟だけだとしても、アリシアが望んでいるのなら、ボクは〝それらしくある〟だけだよ。そういうものでしょ? 神って」

「まさしくそうさ。お前はあの子の〝飼い猫であれ〟という願いを叶えているだけに過ぎない。けれど、それは絶対だからね。そういう化身がいてもいい。私の見る視界は多ければ多いほど、良質な物語を観察することができるからね」

 

 全ての化身が体験した出来事は記録として、全ての化身が見ることが可能である。分かりやすく言うならば、同じサイトを共有するユーザーと、そのユーザーの一人が撮った動画をサイトに上げるような関係性だろうか。

 体験した一人はその記録をアーカイブに残し、他の大勢がそれを見ることを可能とする。

 

 神内千夜という邪神はそうして世界を観察し続けているのだ。

 ときに嘲笑い、ときに面白そうだと手を叩きながら。

 

「趣味わる」

「そう思ってもらって結構だよ。お前の物語も中々面白そうだから、あの子に干渉するのは、もうやめておくよ。仮にも〝他の化身〟の獲物だし」

 

 獲物という言葉にジェシュは低く唸ったが、神内は素知らぬ顔で「くふふ」と笑う。それから「では、また縁があったら会おうね」と言って翼を広げた。

 

「もう二度と来ないで」

 

 ジェシュの言葉に返事をすることなく、夜の闇の中黒いカラスが夜空に飛び立つ。そしてぐんぐんと高度を上げ、ついには見えなくなってしまった。

 

 そして残されたジェシュの周りは静かな環境が戻って来たのである。

 虫の鳴き声や空気の流れる音を感じ取りながら、彼は窓を開けてアリシアの部屋へするりと身を滑らせて入る。

 

 それから、ジェシュのために置かれた一枚の濡れタオルの上で、一通り足踏みをして汚れを落とし、アリシアの眠るベッドの上へと「ぴょん」と飛び乗る。

 

「あーあ、布団かけてないと、お腹がごろごろしちゃうよ」

 

 言いながら彼は人型に変化する。

 重みまで変化したせいでベッドが軋み、アリシアの寝顔を真上から覗く形になった彼は優しい表情でその額に軽くキスを落とした。

 

「おやすみ、アリシア」

 

 布団をかけてやりながら彼はアリシアの隣に潜り込み、猫の姿に戻ってそっと目を瞑る。

 

 まだまだ夜は長い。

 愛する飼い主の側で、黒い猫は幸せそうに寝息を立てていた。




本日のリクエストは「匿名希望」さんということになります!
リクエスト内容は「神内・ジェシュ」ですね。会話だけじゃなくてまさかのドリームランドやバステトさんまで出て来てしまって、書いているときは焦りましたがなんとか形になりました(`・ω・´)

明日の更新は「ペティと飼い猫」のお話となります。
さすがにお迎えしてからのお話はまだ書けないので、過去あった二人の日常かな。


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『your presence soothes me』

 ◇

 あなたと一緒なら心が和らぐ

 ◇

 

 

 薄い桃色の花が咲く。白色の花が咲く。

 しかし、青色の花もまばらに混じり、あなたと過ごす世界は桃色の八重咲きの花のように変化に富んでいた。

 

 あなたの色は明るい紫色の花。

 その花に潜む言葉は『人気者』。わたしとは真逆の言葉。

 

 羨ましいとは言わない。

 ただ。

 

your presence(あなたと一緒なら) soothes me(心が和らぐ)

 

 届かない愛の言葉を紡ぐ。

 なあん、と小さく細く、声をあげながら。

 

 ◇

 

 スコットランドの郊外。

 辺境に存在するその場所に、森と山に囲まれた小さな村があった。

 

 少女が産まれたのはそんな村の、一番大きな家である。

 すくすくと自然に囲まれて育った少女は、知的好奇心が特に旺盛だった。

 家にある書物を片っ端から読みあさり、海外の言語で書かれた書物をも謎を解くように読み解き、そうして彼女が興味を持ったのは、やはり自然に囲まれたその環境で実践できることである。

 

 あれはどの種類の草花か。木か。

 読み解けば読み解くほど、彼女の中で名前のなかったものに、名前がついていく。知らないことを知っていく。知識を活かして学んでいく。それらを彼女は楽しんで行っていて、いつのまにかその志は薬師を目指すようになっていた。

 

 薬効のある植物を探して回り、薬の作り方を学び、夢中になる。

 村人達がそんな姿に好感を持っていたのは、彼女が確かな実績を打ち出していたからであった。しかし、とあることがきっかけとしてその関係は崩されていく。

 

Silvey(シルヴィ)?」

「なあーん」

 

 遺伝によって先祖返りのように、ただ一匹だけ銀色の体毛に産まれた猫。

 知識のない人々によって「悪魔」だと断じられた猫を庇い、そして飼い始めたことで少女の行いは薬師のそれから魔女のそれと思われるようになっていった。

 

「ははっ、なんだよ。お前、本当に私のことが好きだよなあ」

「なああん!」

 

 テーブルの上でゴリゴリと植物をすり潰す少女に、猫がその腕の下をするりと抜けて甘えた声を出す。それから少女が笑って手を止めると、猫は立ち上がり、その腕に寄りかかりながら鼻先を少女の鼻先と触れ合わせた。

 

「くすぐったいぞ、Silvey」

「んんんんー」

 

 上機嫌に喉を鳴らしながら、猫は甘える。

 少女は仕方がないとばかりにその小さな銀色の頭に手を差し出すと、コツンと猫のほうからすり寄っていく。

 

「なあう」

「分かった、分かったって。これが終わったら休憩するよ。もう夕方だからな」

 

 朝、お日様が起き出す前に朝露に濡れた植物を探して歩き、そして見つけたら見つけたで、森のそばにある小屋で何時間も続けて薬作りと薬効の研究に精を出す。そんな彼女を休ませようと、猫が訴えていたのだろうと少女は考えた。

 

「……ま、ただ単に遊びたかっただけかもしれないが」

「にゃあ?」

「なんでもないよ。お前のことが好きだってことだ」

「なあーん!」

 

 少女の体をよじ登って猫が肩に移動し、その耳元で声をあげる。

 

「くすぐったいって」

「んるるるる」

「わっ」

 

 ついには耳を甘噛みするようにじゃれつく猫に、少女は慌てたような声を出した。

 

「ほ、ほらSilvey。やめろって……み、耳は、くすぐったすぎるから……ほら、降りて。降りろって」

「んるるるるー」

 

 なおもゴロゴロと音を鳴らす音が、少女の耳元で鳴り続ける。

 キスをするように頬をざらりとした舌で舐められ、彼女は苦く笑った。しかし、困ったようなそのやりとりだが、決して嫌がっているわけではない。

 

「このお猫様はまったくもう、仕方のないやつだなあ」

 

 そんな少女の言葉に、応えるよう猫は「なあーお」と鳴いた。

 とうとう作業を中断して少女は移動する。手早く乾いたパンといくつかの野菜、僅かな肉を挟んで簡単な食事を作ると、バケットにそれを詰め込み、肩に猫を乗せたまま外へと連れ出す。

 

 そうして向かったのは、川のせせらぎが近くに聞こえてくるピクニックには丁度良い場所だ。森の中でもとりわけ日当たりが良く開けたその場所には、彼女が手ずから種を買い付けて、育てているいくつかの草花が風に揺られている。

 花弁が平たく、薄いその植物の名を『ペチュニア』と言う。

 

「私と同じ名前の花だ。どうしてもお前に見せたくてさ」

 

 はじめて猫をここに連れてきたとき、彼女はそんなことを語り聞かせた。

 果たして猫に言葉が通じているかどうかなど彼女には到底計り知れないが、猫がペチュニアの種を植えた場所では粗相をせず、雑草をその小さな口で一生懸命に抜こうとしてひっくり返ったりと、どう考えても彼女が言ったことを理解しているとしか思えない行動をとるなどをしていた。

 

 故に、色とりどりの花が咲くほどまでに成長したペチュニア達を前にして、彼女は腰を下ろして猫に言う。

 

「花にはな、それぞれ特別な意味ってのがあるんだ。花言葉って言うんだが……ペチュニアの場合はこうだ」

 

your presence(あなたと一緒なら) soothes me(心が和らぐ)

 

 そう(そらん)じてみせて、少女は猫にウインクしてみせる。

 得意気なその表情に、猫も嬉しそうに鳴いた。

 

「それから、桃色のやつは『自然な心』に『繁栄を極める』。白は『淡い恋』で、青色が『ためらう気持ち』。濃い紫は『追憶』で、明るい紫は『人気者』だ。桃色で、それも八重咲きなら『変化に富む』なんて言葉もあるぜ」

 

 みんないい言葉だろうと、少女は微笑む。猫も応えるように頬に擦り寄ると、肩から「ぴょん」と降りて、ペチュニアの花畑の中に入っていく。

 少女が言った色のペチュニアが混合されずらりと並び、色とりどりな花畑。その中を、猫は振り向きながら歩いて「にゃあ」と鳴く。

 

「ん? どうしたどうした」

 

 呼ばれているように感じたのか、少女が猫についていく。

 すると、猫は白いペチュニアに鼻先を近づけながらペロリと舐めると、振り返って彼女を見やる。

 

「ははっ、まさか今はそう思ってるとかそういうことか? お前が、私に恋? ふふふふ、面白い話だなあ。お前、メスだろう」

「なあん」

 

 今度は青いペチュニアに鼻を寄せて一声。

 彼女はますます目を丸くして笑った。

 

「私も将来、見合いがあるだろうが……正直大人しく女になるつもりは毛頭ないからな。その点、お前となら嬉しいんだけどなあ」

 

 冗談交じりに言うようにして、少女が笑う。

 猫も首を傾げて、鳴いた。

 

 そんな幸せな一人と一匹の日常は、数年間続いたのである。

 それからやがて少女は魔女と呼ばれるようになり、猫を逃して村人達に殺されてしまう。そのときまで、ゆるやかな彼女達の時間は……思い出の中にあり続けるのだ。

 

 ◇

 

 なあん。

 

 虚空に響くように、声が溶けて消えていく。

 

 あなたはもういない。

 あなたが帰ってくるまで、待つから。

 

 いつまでも、いつまでも待つから。

 だからいつかこの場所へ。

 

 なあん。

 

 銀色の猫は、濃い紫色のペチュニアの花畑で眠る。

『追憶』に身を浸しながら、いつまでも。




今回のリクエストは匿名希望さんの「ペティと飼い猫」でした!
まだ再会してないからね。昔話をするしかないのです……(・ω・`)

明日はいよいよラストでピギョの人からのリクエスト「神内・刹那」のコンビです。めちゃくちゃ期待かけられてるから緊張するぜ!!


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「鴉のひとなき」

 ―― 「なあ── お前はさ、運命の出会いってやつは信じるか?」

 

 高い高い樹木の上、茜色の空を見上げながら男が問いかける。

 二足歩行であるが、その顔は鴉そのものである。

 

 それに対して、枝に座って足をぶらつかせたもう一羽がぼやいた。

 

 ――「運命…… 天命によって定められた人の運。でしょ」

 

 まるで自分には関係ないとばかりの淡々とした言葉に、枝に立っているほうの男……鴉天狗が豪快に笑う。

 

「っふ、おいおい――んな情緒の無い言い方するなよ。俺ぁ、信じてるんだぜ。ほら、運命の出会いってやつをさ! だって素敵だろ? 想像してみろよ。偶然道行く中で……一目で恋に落ちちまうんだ! そんでその子のことがずうっと気になったり、追いかけたりしちまうようになるのさ。相手も答えてくれたらもう最高だよな。ほら、なんかいいと思わねぇか?」

 

 夢を語るように、もう一羽に語りかける男はその顔を覗き込む。

 座っていたほうが、今度は胡座(あぐら)をかいてその膝に肘をつき、頬杖をついた。興味なさげに、いや特に深く考えもせずに「ふぅ〜ん、それは何と言うか大変だな」と口にする。

 そんな反応にも関わらず、男は変わらず楽しそうに話す。

 

「そりゃあ大変だろうよ。でもそんな大変なことを一緒に乗り越えて、最後には両想いになって結ばれれば……これ以上の幸せなんてないだろ?」

 

 想像しているのか、輝く笑顔で言う彼に「やっぱり分かんないよ」ともう一羽が返す。当たり前だった。彼らの一族はひとつ所に留まり、周りからはその集落を霧の中に隠し、ひっそりと暮らしているのだから。

 皆が知り合いであり、皆が家族である。それ以外を決して必要としない種族。

 そんな彼らには理解しえない考えだったのだ。

 

 ――出会いなど、ありえるはずがないのだから。

 

 むしろ夢を語っている鴉天狗のほうが変わり者なのである。

 一族は他の種族を見下し、我らこそが至高であると信じて疑わないのだから。

 

「やれやれ、分かんないって顔だな。まぁいいさ。いずれ分かる。一目でピンと来て、グッとくる感覚がな!」

 

 自分自身も分からない癖に男が笑う。

 その隣で彼に付き合っていた一羽は「それよりも」と茜色の空を指差して言う。

 

「おれは肉が食べたいよ、刹那」

「っは、おいおい! 酷くねぇか? せっかく俺が夢の話をしてるっつーのに! まあいいだろ。お前はお前の道を行けばいいんだ」

 

 変わらず仲良く話す二つの影。

 いつかの記憶。遠く、遠くの記憶の旅。

 

 しかし、刹那は思い出せない。

 隣に座っていた親友の顔を、姿を、声を。

 

 ただただ、夢から覚めるたびにこぼれ落ちていく。

 夢では確かに会話して、そこにいたはずなのに。

 

 ある日突然親友が姿を消し、その存在すら誰からの記憶も消え、なかったことになってしまったあの日から……彼は探し続けている。

 確かに、変わり者の自分と付き合ってくれる親友がいたはずなのだと。

 

 親友がいたからこそ、自分は集落で浮くことなく過ごせていたはずなのだと。

 

 だから探し続ける。

 なにもかもを忘れてしまいながら、確かに存在したはずだと朧げな手がかりを求めて。

 

 そうして、刹那は広い世界に飛び出して同盟に拾われたのだ。

 

 ◇

 

「ははっ、悪ぃなアル殿」

「ううん、いいんだよ。ごめんね、さっぱり情報が掴めなくて」

 

 夕暮れ時。オレンジ色の光が差し込む店の中で、薔薇色の髪の男と黒髪を肩に垂らし、背中から真っ黒な翼を生やした男が話していた。

 眉を寄せて申し訳なさそうにする薔薇色の男……アルフォードに鴉天狗の烏楽(うがく)刹那(せつな)は快活に笑った。

 

「大丈夫だぜ、俺は諦めるつもりなんてねえからな! 必ずあいつを見つけ出す。いつまでかかっても、だぜ」

「うん。オレももう少し探してみるよ。君と同じ、夜空のお月様みたいな黄金色の目をした鴉天狗。そうだ、一応もう一回目を見せてくれる?」

「おう」

 

 アルフォードの言葉に、刹那は両耳についた太陽の形をしたピアスを取り外す。すると、その両目が独特な色みに変化した。

 

 白目の代わりに黒く、瞳孔は縦長で、黒に浮かび上がる黄金の満月のような瞳。キラキラと輝くその瞳はまるで宝石のようで、宝石のタイガーアイよりもなお美しい。この世に二つとないような特徴を持った眼球。宝石がそのまま嵌ったような美しさに、アルフォードは感嘆の息を吐いた。

 

「相変わらず綺麗だねー」

「まあなあ。この金眼は烏楽の特徴なんだ。他の種族にはあり得ない珍しいもんよ! 神様から授かったなんて話も伝わってるくれぇだ。こんだけ特徴が分かりやすけりゃ見つけやすい……と思ってたんだがなあ」

「そうなんだよね……これだけ分かりやすい特徴なら、オレ達のネットワークを使えばすぐだと思ってたんだけれど」

 

 落ち込むアルフォードに、刹那はポンと頭に手を乗せて「気にしねえでくれ」と笑った。そんなことを言いつつも、一番に気にしているのは刹那だ。それを知っているアルフォードは眉を下げる。

 

「もう少し情報網を広げてみるよ。海外のほうにも訊いてみる」

「ああ、頼むぜアル殿。あいつは俺の親友だったんだ。必ず黒髪にこの金色の眼のはずだ……そのはずなんだ」

 

 最後は尻すぼみになりながら刹那が言う。

 そんな彼に、アルフォードは元気を出させるようにと手を叩いて雰囲気を変えると、その場にリボンで包装された箱を用意した。

 

「これ、ケーキだからさ。よもぎちゃんのところにでも行って話して来るといいよ」

「っと、悪ぃな。気ぃ遣わせちまったか」

「いいよいいよ、キミの恋も応援してるよ! すごいよねぇ、アタックの仕方がさ。オレ、あんなに情熱的になれないよ」

「そりゃあな、司書さんに初めて会ったとき、一目でピンと来て、グッと来たんだよ! だからこのヒトしかないってね。ん? この話、アル殿にしたことあったか?」

 

 刹那はその会話に、どこか既視感を覚えたらしく首を傾げる。

 

「いや、初めて聴いたよ? そっかあ、ピンと来て、グッと来るねえ」

「……ああ、そういう感覚だ。一目惚れってやつだな!」

 

 一通り話し終わり、刹那は外していたピアスを両耳に戻し、手を振って別れる。それから、背中の翼を大きく広げて空へと飛び立った。

 

 そして滑空しながら大図書館を目指していると、突然空から一羽のカラスが彼に向かって落ちてくる。

 

「兄弟!? ……じゃ、ねえな。誰だ!」

 

 一瞬驚いて手を差し伸べようとした彼だったが、カラスの纏う気配に驚いて身を引いた。カラスを己の同胞として「兄弟」と呼ぶ彼がそれほどまでの反応をすることはあまりない。

 

 弱ったように落ちてきたカラスは、途中で翼を広げると「おや、残念」と呟いた。

 

「あんた、旦那んとこの神様じゃねえかい。えらい趣味の悪いことしやがるな」

「私はお前に用があったのですよ。ですから、このほうが接触しやすいと思いましてね」

「ここは同盟だぜ。同盟所属の俺に手ぇ出したら、あんたでもすぐにお縄だ。アル殿だってまだ近くにいるんだ。わざわざどうして俺に会いに来やがった」

 

 訝しげにカラスを見る彼に、カラスの姿をした邪神……神内千夜が「くふふ」と笑った。

 

「お前は探している者がいるんだったね? 知っている……と言ったらどうしますか?」

「どうするってなあ……手がかりならなり振り構ってられねえが、手前(てめ)ぇが知ってると言うのも信用ならねぇなあ」

「アルフォードは、知っていてお前に黙っている……と言っても?」

「は? んなわけがねぇだろ。アル殿は俺の恩神だ。手前ぇとアル殿ならあのヒトを信用しているに決まってんだろうが」

「私は嘘は言っていませんよ? アルフォードが知っているのは本当です。その上でお前に黙っていることも。くふふ、なのに健気にも新聞まで作って、同盟に貢献して……お人好しなことですねえ」

 

 嘘だと、刹那は言ってやりたかった。

 しかし彼は言い切れない。言い切れるわけがない。彼が手がかりを得ることができず、そしてアルフォードからの「ダメだった」という報告を何度も聴いているからだ。彼が同盟に拾われてから何年経つだろうか? 同盟では全国各地にネットワークが張られている。その上でただの一つの手がかりも得ることができないなど、本当にあるのだろうか? 

 

 本当に。本当に? 

 

 刹那は己の気持ちに嘘はつけない。

 アルフォードは恩神である。しかし、情報が見つからないままに新聞記者として活動し、同盟に多く貢献していることも事実である。

 新聞記者は「情報を集めるついでに記事にしてみたらどうかな」とアルフォードに提案され、始めたことだった。全国各地を回りながら情報を集めるための、体の良い理由が必要だったからだ。

 

 しかし、それが利用されていないと、なぜ言い切れる? 

 

 僅かな不安で彼の心に影が差し、魔がするりと入り込もうとしてくる。

 押し黙った刹那に、カラスの姿をした神内は嘲笑う。

 

「ほうら、どうせ詳細な報告は受け取っていないのでしょう? 今回も見つからなかった。それだけの報告。そんなもの、誰でも言えますよ。どうしてそんな言葉を信じていたのですか? 私に請えば、教えて差し上げますよ……お前の対となる少年の行く末を」

「俺ぁ……」

 

 迷う素振りを見せる刹那に、神内はなおも愉快気に嘲笑う。

 あと一押し。あともう少し。その背中から翼を奪い、そして崖から突き落としてやろうと言わんばかりの駆け引き。

 

 元からこの手の言論は得意でないのだ。

 神内の巧みな言いくるめに一羽の鴉が絡めとられ、身動きが取れなくなる。

 

「俺ぁ、確かに知りてぇ」

「では」

「でもなあ!」

 

 叫んで、俯いていた刹那が顔を上げた。

 彼が思い浮かべるのは、つい先日の厄介な依頼で友情を深めた友人。令一のことだ。神中村で彼は思った以上の決意を見せた。神内にいつの日か報いてみせようと努力するその姿。

 

 好きな人に対して一途に、誠実に頑張る姿。

 

 ボロボロになってまで彼が紅子を庇う姿。

 

 そして先日の、女好きのアーヴァンクの件で見せた頼もしさ。

 以前、クリスマスでデロデロに酔っ払って紅子に対して見せた弱み。

 

 ときに情けなく、ときに努力して足掻く彼の姿。

 

「でもなあ、俺ぁそんな安っぽい誘いに乗ってやるほど弱くもねぇ! 確かに知りてぇが、そんなの自分で見つけりゃあいいことじゃねぇか! それにな、手前ぇの言葉で、あいつがどっかにいることは分かった。それだけで()っけモンじゃねぇか! ありがとよぉ、情報を晒してくれてよ!」

 

 だからこそ、彼自身も近道は選ばない。

 

「利用されてるってんなら、それでもいい。アル殿が俺の命の恩神って事実は変わりゃしねえからなあ! 利用されてるってんなら、俺も利用してあいつを見つけるってもんよ!」

 

 啖呵を切って、刹那は肩で大きく息をする。

 沈黙した神内にぜえはあと息を吸いながら「ざまあみやがれってんだ」と吐き捨てた。

 

 ――そのとき。

 

「さすが俺の大好きなせっちゃんだよね!」

 

 薔薇色が彼の目の前にやって来た。

 

「ほらほらー、振られちゃったニャル君はさっさと退場願おうか?」

「はあ……」

 

 刹那の前で赤い翼を背にし、得意気に胸を張る男。

 アルフォードの姿に安心した彼はじわりと滲む視界に戸惑い、乱暴に腕で拭う。

 

 それに対し、神内は盛大な溜め息を吐くと興味をなくしたように首を振った。

 

「寒い寒い、寒すぎますよまったく。王道ってやつですか? これだから同盟は嫌いなんです。興醒めしたのでもういいですよまったく。これじゃあ、私が悪者みたいじゃないですか」

「悪者がなに言ってんの?」

 

 そして、カラスの口が大きく開くとその中身を吐き出して落下していく。

 

「あ」

「せっちゃんダメだよ。あの子はもう死んでる。あとで弔ってあげるから、キミは触っちゃだめ。万が一があるんだからね」

「……分かってらぁ」

 

 神内が去り、改めて刹那に向き合ったアルフォードはにっこりと笑った。

 

「ごめんね、オレがはっきり言わないから不安にさせちゃってたんだよね?」

「やっ、そんなこたぁ……」

「いいよ、疑うのも仕方ないから。あんまり推測だけで物を言うのは良くないよねって思って言わなかったんだ」

「それは、どういうことだい?」

「これだけ探しても黄金の目を持つ鴉天狗は見つからない。そもそも、キミがいた集落も幻術が厳重すぎて入れないし、事実上オレが知ってる黄金はキミだけなんだ」

 

 だからね、とアルフォードは続ける。

 

「もしかしたら、キミの探している子もどこかに幻術で隠れているのかもしれないし、どこか別の異空間とか異世界とか、とにかくオレ達がいるこの世界とは別のところにいるのかもしれないと思ってさ。それか、特徴が変化してしまっている……とか。とにかく、今の特徴だと特定できないなにかがあるんだと思う」

 

 彼の言葉に刹那は「そうか」と溜め息を吐くようにして言った。

 彼らが行っていた調査の方法に間違いがないとすれば、そもそも前提条件が間違っている可能性があるのだと、アルフォードは示した。

 

「不安にさせちゃったらいけないなと思ってて、黙ってたんだ。ごめんね」

「いや、俺のためだろ? アル殿は悪くないさ。ちっとでも疑った俺が悪ぃんだ」

「じゃあ、どっちも悪かったってことで。それに……」

 

 アルフォードが翼をはためかせ、刹那の正面に身長差を埋めるようにふわりと移動する。

 

「よくできました。一羽で邪神の誘いを啖呵切って断るなんて、なかなかできないよ。格好良かったよ」

 

 そしてその頭にぽふんと手を乗せる。

 びっくりした刹那は大きく目を見開いて、それから泣きそうに俯いた。

 

「なんでだろうなあ……俺ぁ、確か、あいつの兄貴分だった気がするんだ。なのにこっちではあんたに頼りっぱなしだ」

「甘えていいんだよ、オレのほうが歳上なんだから。キミも大概、気丈に振る舞う癖がついてるよねぇ」

 

 そうしてアルフォードに頭を撫でられた刹那は、恥ずかしそうに肩を竦めた。

 

「たまには、そうさせてもらおうかい」

「うんうん、ぜひそうしてね。オレも頼られると嬉しいから」

「でも、あんたは……アル殿自身はいいのかい?」

「オレ? ……大丈夫、オレも親友はいるからね。オレの場合はそいつに目一杯迷惑かけてやるからいいんだよ!」

「そうかい」

 

 ひとしきり撫でまわされたあと、刹那はアルフォードと並び立ち涙を拭う。

 それから変なところがないか、目元は腫れていないかと確認してから彼に別れを告げた。

 

「わざわざ追いかけて来てくれたんだな。また助けられちまった。アル殿、すまねぇ」

「いいよいいよ。それよりもほら、ケーキは無事だったんだし、早く図書館に行きな」

「ああ、恩にきるぜ」

 

 手を振り、今度こそ別れて図書館へ。

 するりと窓から侵入し、奥で本を読む少女に刹那は歩み寄る。

 

「なんだ、来たと思ったらまた窓からか……ん?」

 

 その名前と同じく、よもぎ色の髪を垂らした少女が刹那に振り返り、首を傾げた。左目は隠れて見えず、右目は知的そうなモノクルに覆われて目が細められている。

 

 その姿を見て、やはり刹那は「ピンと来て、グッと来るのは司書さんだけだなぁ」なんて嬉しそうに言葉を漏らす。

 

「おやおやカラス君、もしかして泣いていたのかい?」

「って、なんで分かるんだい!?」

「……女の勘さ。さ、そこに座りたまえ。たまには話くらい聴いてやらんでもない」

 

 さっと目を逸らした彼女に、刹那は複雑な心待ちになりながらも隣へ座った。

 

「正面に座りたまえ。誰が隣でいいと言った」

「四人がけなんだからいいじゃねぇか。ほら、ケーキ持って来たぜ」

「……まあ、多少は許そう」

 

 彼女の硬い表情が和らぎ、彼の持っているプレゼントボックスに視線が吸い込まれている。存外甘いものが好きなこの文の付喪神に、彼はますます愛しくなって笑う。

 

「ああ、話したいことがたくさんあるんだ。それに、あんたに教えてもらいたいこともな」

 

 一羽の鴉がカアと鳴く。

 彼の恋路もまた、はじめの一歩を踏み出したばかりである。

 




ラストのトリを飾るのは、ピギョの人からのリクエスト!
「神内・刹那」でした!!!それから、せっちゃんの格好いいイラストもご本人からいただきました!ありがとうございます!

次からはまた本編に戻りますよ!
いよいよ犬神編の始まり始まりなのです!


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捨壱の怪【コドクの犬神】
犬神の餌


 ◇

 ――巡り巡って、この場所で。

 ◇

 

 

「箱の中にあったのはなにかしら?」

「これです」

 

 春国さんが取り出したのは、真ん中に大きな瑠璃色の宝石がついた真っ白なつげ櫛だった。

 

「……これは、骨でできた櫛ですわね」

 

 真宵さんの一言に衝撃を受ける。骨? この白い櫛が……? 

 しっかりと加工されていて、真ん中に埋め込まれた宝石がきらりと光っている。一見すると骨でできているだなんて分からないくらいの出来だ。骨ということは、この青宮誘理って子の骨でできているんだろうが……。

 

「あちしをあの子が追ってくるのでしゅ。あの子を騙したお父さまを探しているのでしゅ。だから、あちしを追ってくるのでしゅ。早くあちしをその箱と櫛ごと捨てなくちゃ、手遅れになりましゅ!」

 

 誘理(ゆうり)が言う言葉にその場の全員が黙り込む。

 少なくともこの場所は安全……のはずだ。なんせ神様やお狐の神使がいるんだからな。それに春国さんは浄化専門の術士である。俺や紅子さんはほぼ物理で解決するしかできないが、少し前には祟り神すら葬った実績もある。

 犬神だろうが、術士の人間に操られるあやかしだ。神様である真宵さんさえいればなんとかなるんじゃないだろうか。

 そんな風に他人事ながら思いつつ、話の流れを見守る。

 

「つまり、あなたを目指して犬神が追ってくるんですのね? あなたはもう死んでいるのに」

「そうでしゅ。でも、クロはなにも悪くはありましぇん。あちしを守ってくれようとしていました」

「えっと……どういうことですか。犬神は君のお父様を狙っているんですよね? なのに、なぜ君を」

「……話が見えないかな」

 

 春国さんの疑問も最もだし、俺も紅子さんが呟いた言葉に同意しかない。

 なんだか関係が複雑そうだ。まずはそこから読み解いていかないとダメそうである。

 

 この箱はなんなのか、そしてこの少女が誰なのか。父親とは一体なんなのか、クロというのは多分犬神の名前だろうが……そいつに咬み殺されたはずなのに、この子は庇うような発言をしているし、本気でどういうことなのかが想像つかない。

 

「えっと、えっと、えっと……ごめんなしゃい……上手く説明できましぇん」

 

 眉を下げて誘理は俯いた。

 周りには金銀の狐に春国さん、真宵さん、俺と紅子さんと複数人が取り囲んでいるから、プレッシャーになってしまったのかもしれない。

 頬の両側から伸びる髪の束を両手で掴み、焦ったように目を瞑っている。

 

「ありゃ、怖がらせちゃったかなあ」

「……俺達は下がろうか、あに様」

 

 金輝さんと銀魏さんが部屋の隅に移動し、春国さんは苦笑いをした。

 そんな春国さんの近くに隠れ、誘理は小さくか細い声で「ごめんなしゃい」と繰り返している。

 

「そうね、その子が落ち着くまで、わたくしがある程度の推測をいたしましょうか」

 

 その姿を横目に、真宵さんが扇子を開いて口元を覆う。

 

「そうだ、そういえば真宵さんはあの子のことを〝犬神の餌〟って言ってたよな。それのことか?」

「ええ、その関連ですわ」

 

 視線を送ると「ぴぇっ」と言いながら、ますます誘理は春国さんの後ろに隠れてしまう。いつもの春国さんなら着物だから隠れやすかったろうが、今日はスーツだ。隠れきれず、彼女の体の大部分が盛大にはみ出している。

 

「その子供には〝目印〟がつけられています。その噛み跡がそうですわ」

「あの……首のやつが」

「ええ」

 

 平然と真宵さんは言うが、あの悲惨な噛み跡を直視できるほどの勇気はない。

 本人は傷などないように動いているが、痛々しすぎて正直なところ見ていられないからだ。

 

「その傷痕を縁とし、子供を犬神が追い続ける……そしてその子を所持した者のところへと現れて呪いをもたらすのでしょう」

 

 呪いとはつまり。

 

「この子といると、犬神が現れて襲って来るってことかな」

「ええ、無力な人間ならば、その子供と同じように咬み殺されてしまうでしょうね」

 

 真宵さんの視線が春国さんに向くと、彼は小さく「ひえっ」と声を上げる。

 その後ろで隠れる誘理と似たような反応をしたことで、思わず苦い笑いが漏れた。案外あの二人は気が合うんじゃなかろうか。

 

「あなたならそう簡単にやられはしませんし、なにより狐の兄弟もいます。それに、一時的とはいえ、先程は知っている者以外は探知しづらい鏡界にいたのです。一旦見失っているでしょうし、すぐに犬神が現れるわけではありませんわ。ご安心なさい」

「そ、それでも、あちしといると不幸な目に遭いましゅ……早くあちしなんか捨ててくだしゃい」

「そ、そんなことはできません! 最後までちゃんと責任は持ちますよ。関わっちゃいましたから、そうするのが筋でしょう? ……怖いですけど」

 

 春国さんが叫んだ。最後の一言さえなければ格好良かったんだけどなあ。

 

「令一くん」

「は、はい」

 

 真宵さんから声がかかり、無意識に背筋を正す。

 

「誘理ちゃんは、自分のことを上手く説明できそうもありませんし、手っ取り早くこのつげ櫛に触れて月夜視(つくよみ)してくださいな」

 

 真宵さんから、真っ白な骨でできた櫛を差し出される。

 確かに、俺ならこの櫛に触れて、誘理の過去を見てくることができるだろう。誘理自身、上手く言葉にできないみたいだし、そのほうが早いといえば早い。

 

「誘理ちゃん、君の過去を覗くことになる。それで俺が代わりに説明をできるようにする。それでも、いいか?」

 

 ほとんどやると決めていたことではあったが、本人にも訊くのが筋だろう。

 俺が尋ねると、誘理は涙目でこっくりと頷いた。

 

「分かった、やろう」

 

 誘理の許可も得られたので、真宵さんに向き合う。

 そっと骨でできた櫛に触れる。すると、ぐんっと袖を引かれるような感覚と共に意識が引っ張られていく。

 

 自然と下がる目蓋の裏に映った光景は……。



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蠱毒の犬神

 そこに映ったのは、無だった。

 いや、無ではない。一面の黒。ただ一つの光もない暗闇の中、生物の息遣いだけが存在する。

 

「クロ……」

 

 それはあの子の、誘理(ゆうり)の声だ。

 ほんの小さく口にしたのだろう音も、その場ではいやに響いて聞こえた。

 

 過去視をしている俺だって、この暗闇の中ではなにも見えない。

 誘理のその声でようやく、そこがどこかにある暗い部屋なのだと気がついたくらいなのだ。

 一瞬月夜視(つくよみ)に失敗したのかと思ってだいぶ動き回ってしまい、誘理の声が遠い。どうやら離れてしまったようなので、声と息遣いを頼りにそちらへ寄った。

 

 大分目が慣れて来ると、僅かだが室内を見ることが可能になる。

 誘理は部屋の隅に、壁を背にするようにうずくまり、その前に大きな犬がいることが分かった。その毛並みは暗闇よりもなお暗く、闇に溶けるように艶めく黒色をしている。

 

 誘理を背に庇い伏せてはいるが、その目は燃えるように爛々と輝き、正面を見据えている。垂れた耳もときおり動き、僅かな音すら逃さないようにと最大限警戒している様子なのが見て取れた。

 

 そして、そんな二人に近づく影がひとつ、ふたつと増えて行く。

 暗闇に慣れた目で状況を把握しようと目を凝らせば、それは小さく、蛇やムカデのようなものであることが分かった。

 

「グルル」

 

 低く低く犬が唸り、少女に近づく前にと先手をとって動く。

 鋭い爪でムカデの体を引き裂き、蛇の首元を的確に噛み千切り、体重をかけてカサカサと動く蜘蛛を踏み潰す。

 誘理が怯えたような悲鳴をあがれば、すぐさま壁際まで戻り、彼女を守護するように、長い尾をその体に巻き付かせた。大型犬のその黒い犬は泣く誘理を慰めるように鼻先でほっぺたをつつき、ペロリと舐める。

 

 舌を出したまま首を傾げるその姿と、鬼のような表情で周囲の生き物を殲滅するその姿はまるで別の犬を見ているようだ。

 

「ごめんね、クロ。ごめんね」

「クウン」

 

 室内に犬の声が反響する。

 どこか、犬の声が重なり何重にもなって聞こえるようだ。そんな犬の異変にも気づかず、いや気づいていながらもどうすることもできず誘理は身を竦めて怯えるしかない。

 無数の生き物が閉じ込められた部屋の中、ただただ犬に守られて彼女は生存していた。何時間、何十時間、そして何日と。

 

 やがて……唐突にその時間は終わりを告げた。

 ある日突然、真っ暗闇の部屋に光が差し込んだのである。

 

 光に浮かび上がった部屋の中は、黒に塗りつぶされた赤、赤、紅、緋。

 赤から黒に変わる最中の湿っぽい色に、部屋中に転がる無数の生き物の死体。

 

 光が当たった途端、それらの死体から毒々しい色の真っ黒な煙が上がり、そして黒犬に向かって勢いよく流れ込んだ。

 誘理を庇うようにして凛として立ち、四肢に力を込めて踏ん張っていた犬は苦しげに喘ぎ、その口からぶくぶくと紫色の泡を吐き出しながらその場にどさりと倒れる。

 思わず支えようとした腕は相変わらず虚しくすり抜けて、俺はなにもすることができなかった。

 

「クロ! クロ! しっかりしてください! クロ! 嫌です……ねえ、クロ!」

「誘理」

「お父様、クロが!」

 

 どう考えてもこの事態の元凶はあの父親だ。

 誘理とクロをこの地下室と思われる場所に閉じ込めていたのもあの男の仕業のようなのに、なんで誘理はそんなやつに縋ってしまうのか。

 ……その男に縋ることしか、知らないのか。できないのか。もしくはこんなことをされてもまだ信じていたいのか。

 

 俺にはそのときのあの子の心境は分からない。

 

「誘理、こっちに来なさい」

「でも!」

「それは私がなんとかしておく。早くこっちに来なさい」

「本当に?」

「ああ、本当さ」

 

 絶対について行っちゃだめだ! 

 そんな風に叫んでも、誘理には届かない。

 嫌な予感しかしない。今まで誘理を守って来た犬は倒れて動かないのだ。誘理を守る者は、このときばかりは誰もいない。

 

「わかりました」

 

 俺達が出会った現在とは違い、舌足らずではなくしっかりと受け答えする誘理に嫌な予感が募る。

 

 ――果たしてその予感は、すぐに当たってしまった。

 

「いや! やめて! お父様! お父様! おと……!」

 

 思わず目を逸らす。

 数日間の間、どこかの豪華な部屋に閉じ込められていた誘理は父親がやってくる度に身動きを封じられ、虐待の限りを尽くされた。部屋にはカメラが仕掛けられ、暴力と幼い子への最低な行いの数々に、俺は目を逸らし、耳を塞ぐ。

 

 豪華な服を着せられ、破り捨てられ、痣のない肌は見当たらなく、そしてその真っ白な腹に魔法陣のようななんらかの刺青を麻酔もなく刻まれる。

 

 こんなものを、こんな行いを、たった六歳の幼子が受けたという事実に吐き気がした。

 

 こんなことを、あの子が説明できるわけがない。

 むしろこの頃の記憶を保っているかどうかも怪しい有様だ。

 完全に瞳から光を失くし、父親のいないときは自分から動くこともなく日がな一日茫然としていて、その場にただ人形のように佇むだけ。

 涙の跡が痛々しく、なにもせず佇むか、スイッチが切れたようにただただ眠り続けるだけ。

 

 こんな記憶。

 こんな仕打ち。

 こんな末路。

 

 こんなもの、覚えていないほうがいいのだ。

 あの明るく春国さんと一緒になって泣いたり、関わるなと真剣に言う幼子が、こんな記憶を持っているだなんて……とても信じたくはなかった。

 

 願わくば、あの子がこのことを忘れてしまっていますように。

 目を瞑ってその光景をただ見るしかできない俺には、そう祈ることしかできなかった。

 

 やがてそんな日々が七日ほど経ち、彼女の父親はとんでもないものを持ち出した。ペンチ、だ。

 

「舌を出せ、誘理」

「……はい」

 

 大人しく小さな舌を出す誘理に、そいつはぶつぶつとなんらかの言葉を呟く。

 すると誘理の目が驚きに見開かれた。目がキョロキョロと辺りを見渡し指先を動かそうとしているのだろうが、できずにいる。

 当然、その小さな舌を口の中にしまうこともできなくなった。

 

「これで仕上げだ」

 

 ペンチで小さな舌を挟み、そしてそこからはとてもではないが……俺は見ていられなかった。目を逸らした。耳を塞いだ。さすがにそんな光景を見守っていられるほど、俺は強くはない。

 

 ただひとつ理解したのは、誘理の口調が舌足らずで(つたな)かったのは〝それ〟のせいだということ。文字通りの〝舌足らず〟であったということ。

 

 咄嗟に思い浮かんだのは舌切り雀という言葉。

 

 声を上げることもできず、身動きすら封じられ、その意思を跡形もなく折られ、彼女は倒れた。

 

 そして、そんな彼女をまるで荷物でも抱えるようにして父親が抱えて移動する。

 吐き気を抑え、ガンガンと痛む頭を抑えながら俺も移動する。

 最後まで見届けないといけないからだ。なにが起こったのか、俺が見ておかなければならないからだ。これをあの子に説明させるなんて酷なことは、とてもではないができない。

 

 荒い息遣いを抑え、狂いそうになる己を律し、正気を保つ。

 

 それから、恐らく最後の場面。

 そこはあの地下室だった。

 

「くりょ……」

 

 痛みを無視して目を覚ました誘理が呟く。

 そこには、頭だけを出された状態で地面に埋められるクロと、その目の前に設置されたモニターとスピーカー。

 モニターの中で延々と繰り返されるのは、誘理が虐待される姿と悲鳴、絶叫、助けを呼ぶ声。クロを呼ぶ声の数々。

 

 それを見せつけられながら、黒犬は唸り、もがき、ひゅんひゅんと悲しい声をあげていた。

 美しかった毛並みは土に汚れ、口からぶくぶくと溢れ出る毒々しい泡と煙がその身を穢し、その口から溢れ落ちそうなほどの凶悪な牙でカチカチと音を鳴らしながら口を開閉する。

 

 怒り、憎しみ、恨み、悔しさ、それら全てをないまぜにしたクロの様子に、満足そうに男は笑う。

 殴りかかりそうになって、しかし拳を握って耐える。ここは記憶の中だというのに、俺自身の拳に血が滲んでいた。

 

 唸り、悲しみの声をあげ、そしてかつて気高かった黒犬は、鬼のような顔をした恐ろしい化け物じみた姿に変わりきってしまっていた。

 

 男が懐から出したリモコンで操作すると、モニターとスピーカーから流れていた映像と音声が止まる。

 

 それから、クロはようやくこちらを見た。

 

 憤怒の宿った怨嗟の炎。

 それらが瞳から、そして口から漏れ出て、よりにもよって男ではなく誘理を見た。

 

 それから男は誘理をその場に下ろし、「動くな」と命令する。

 その言葉に硬直したように動けなくなった誘理は、やはり抵抗できずにそこに佇むだけ。魔法か呪いかなんなのか、強制力のある言葉を彼女は破れない。

 

 それから、男がクロの元へ移動する。

 しかしおかしなことに、憎き男が近づいているというのに、クロの視線は誘理に固定されたままで、しかもその瞳は憎しみに染まり切っていた。犬が誘理に向ける瞳は憎いものを見る瞳で、本来、それを彼女が向けられるのは明らかにおかしい。

 

 男が背後に回ると、部屋の奥にあった手斧を持つ。

 そして――犬の首を跳ねる。

 

「グルルルァ!」

 

 解放された犬の首は一直線に誘理の元へ飛んでいき、そして憎しみの篭った鋭い牙で喉元に(あな)穿(うが)つ。

 

 誘理は声をあげられず、クロの名前を呼ぶこととできず、悲鳴もあげられずにそれを受け……そしてその一撃で幼い体は弾き飛ばされ入り口近くの壁に叩きつけられる。

 

 もう二度と、彼女の体が動くことはなかった。

 

「ナゼダ、ナゼ、アノ男ヲ殺シタノニ、俺ハ解放サレナイ! ユーリノトコロヘ行ケナインダ! ナゼ!」

 

 男とも女とも取れる何重にも重なった犬の声に、男は静かにほくそ笑む。

 そしてそっと誘理の亡骸を抱えて地下室を出る。

 

「マダアノ男ハ死ンデイナイノカ? 探サネバ。探シテ殺サネバ。ユーリヲ返セ、返セ、俺ノ大切ナ娘ヲ返セ!」

 

 地下室に残された首だけの怪異は、その目と口から黒紫色の炎を漏らしながら、ただそう叫んでいた。

 

 その言葉で分かったのは、クロは誘理を殺してしまったことに気がついていないということ。そして誘理もまた、クロがなぜ自分を殺したのかが分かっていないだろうこと。

 

 ……父親が、なんらかの方法で誘理を自分の身代わりにしたのだということ。

 

 こうして、俺は理解した。

 

 地下室に閉じ込められた全ての生き物を「クロ」が殺し、同時に目の前に餌をぶら下げられ続けて殺されるという犬神としてのプロセスを踏み。

 

 ――悲しい、蠱毒の犬神が誕生したのだ。



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これからの方針

 そうして目を覚ました俺は、言い方に気をつけつつも皆に説明をしていったのである。

 

「ありがとうございますわ、令一くん。随分と辛いものを見てきたのですね」

 

 優しい瞳でこちらを見る真宵さんに「俺にしかできないことでしたから」と返す。役に立てるなら、俺だってちゃんと役に立ちたいからな。

 

「事情は分かりました。犬神は恐らく、この子のことを術者であると勘違いしたまま彷徨っているのでしょう」

 

 記憶の中の様子を見る限りはその線が一番ありえるな。

 

「そして、この子には(しゅ)が刻まれている可能性がありますわ。けれど、今は霊体ですし、わたくしは呪の専門家ではございません」

 

 申し訳なさそうにそう言う真宵さんに、誘理は「あちしのことはいいでしゅから」と言い出し始める。が、そんな彼女の口を塞ぐように紅子さんが移動して誘理を抱き上げると、思いっきり撫で回して可愛がり始めた。

 

「なにしゅるでしゅか!」

「キミが気にするべきところはそこじゃないってことかな」

 

 俺達も、春国さんも彼女をなんとかしてあげようとしているのだ。なにもせずに捨てろと主張しているのは実質誘理だけである。そんな風に自分自身を卑下したり、自分なんてどうでもいいからと言う彼女の言葉は、俺達は聞くつもりなんて毛頭ない。

 

 勝手に同情して、勝手に助けようとしている。

 春国さんが問答無用の浄化をしないというなら、そうするしかないだろう。

 

「呪を専門とする子がおりますから、わたくしのほうから連絡を取りましょう。あの子は各地を放浪しておりますが、腕は確かですわ。その子の力があれば、犬神からこの子が術者に見える呪を解くことができるでしょう」

 

 呪いの専門家か。確か葛の葉ヒュドラのときにも言及していたよな。

 その人を呼んでくれるっていうのなら、頼もしい限りじゃないか? どんな人なんだろう。真宵さんが呼ぶってことは人間ではないんだろうが、気にはなる。

 

「それから、今後の方針ですわ。今、誘理を犬神に会わせるのは危険です。ですから、しばらくは鏡界の中で彼女には過ごしていただかなければなりません。同盟所属ではありませんから、特例として春国くんを保護者とし、滞在許可を出すことにしますわ」

「ぼ、僕がですか……?」

「連れてきたのはあなただもの。当然、引き受けてくださりますよね?」

「ひっ、はいっ、喜んで……!」

 

 にっこりと笑みを浮かべた真宵さんは、正直なによりも恐ろしかった。笑顔とは本来獲物に向ける表情だなんだと言われるが、今の真宵さんはまさにそれである。春国さんは怯えて泣きそうになりつつも、その場で首振り人形みたいにガクガクと頷いた。この光景を見ているとなんだかかわいそうになってくるんだが……不可抗力であるとはいえ、誘理を連れてきたのは春国さんで間違いないしなあ。

 

「それでは、わたくしは連絡を取って来ますから……移動をしておきましょうか。春国くん、その子は神社には入れませんから、別の場所に囲うこととなります心当たりはあって?」

「と、鳥居を潜らずにということなら……神社のある階段を登った中腹に休憩所があります。そこなら神社の中ではないので、この子も入れるはずです」

「分かりましたわ。それでは、そこへ移動しましょうか」

 

 真宵さんが結論を口にすると、口を挟まずに控えていた金と銀の狐が立ち上がり、その尻尾に狐火を灯して円を描く。それから炎で縁取られた空間がゆらりと揺らめいて、その先にどこぞの山の中の景色が浮かび上がった。

 

「我らは先に行き、生活ができるよう準備をしておく」

「みんなはゆっくり来て大丈夫だからねえ」

 

 そして金輝さんと銀魏さんが鏡界の中に消え、俺達が残された。

 

「すぐに行きますのに、狐はせっかちですわね」

 

 呟いて真宵さんの周りが歪む。空間に蛇の鱗が浮かび上がり、蛇の目玉が瞬膜を開くようにして、その場の空間が裂ける。ギャロギョロとしたその目玉に、春国さんは小さくひっと悲鳴を上げて、頭を抱えた。

 

 怖いのダメだもんなあ、この人。

 

「ほ、本当に本当にあちしとクロを助けてくれるんでしゅか?」

「本当に本当だよ」

「本当に本当に本当でしゅ?」

「本当に本当に本当だよ、話聞いてたでしょう」

「本当に本当に本当に本当でしゅか?」

「本当に本当に本当に本当に助けたいと思っているからねえ」

 

 抱き抱えられたまま、紅子さんとそんなやりとりをしている誘理に微笑ましく思いながら真宵さんに向き直る。

 もう一度鏡界へ戻り、そして一度休憩して呪いの専門家ってやつと連絡が取れるまで待つ。それから誘理に刻まれた呪いを解いてもらって、今度は犬神をどうにか助けるために会議をする……これからの予定はそんなところだろうか。

 

 一歩踏み出す。

 

 子供相手にあやす紅子さんも、誘理を抱いたままこちらへやってくる。

 春国さんも不安そうだが、やると決めたことはちゃんとやるようで、真宵さんから一番遠い位置だが、鏡界へ入るための入り口に向き合う。

 

「それでは、参りましょうか」

 

 俺達が鏡界移動をするために、〝カカメ〟へと入り込む。

 そうして……現実の神社には、静けさだけが残された。



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臆病青年と強か幼女

 蛇の目。真宵さんの言うところの〝カカメ〟を通って参道に降り立つ。

 先頭を真宵さんが。そして次に俺。紅子さんと、彼女に抱き抱えられた誘理。それから最後に……あれ? 

 

「あらあら、困った狐の(せがれ)ですわね」

 

 最後に来るはずの春国さんが、いつまで経ってもこちらに来ない。

 どうしたんだろうと思ってカカメの中に上半身を入れて覗き込む。

 

「びゃっ!?」

 

 肩を震わせてすごい声を出す春国さんがそこにいた。

 

「あの……」

「ご、ごめんなさい……僕ダメなんですって! 怖いじゃないですか! むしろどうしてこんな怖い入り口を通れるんですか? 新人類なんですか? 強心臓なんですか? ふええええ……」

 

 涙目の彼にこちらが困惑する。

 いや、男の「ふええ」はちょっと。

 

 まあ確かにカカメの見た目は怖い。なんせ空間に巨大な蛇の目玉が現れるのだ。空間はひび割れて鱗状になり、その真ん中に目玉がギョロリと出現する。その中に飛び込むなんて普通は怖くて当たり前だろう。しかし、だからといってここまで怖がられても……しかも涙目どころか既にポロポロと涙が決壊し始めている。怖がりにもほどがあるだろう。

 

「あの、大丈夫ですから」

「分かっています! 分かってはいるんです! でも無理なんですよ! 生理的に無理としか言えないんですううう」

 

 

 嫌々と首を振る春国さん。どことなく思い出されるのは、たまにスーパーとかで見かける、母親に「帰るよ」と言われて泣く幼子だ。それでいいのか成人男性。しかも父親は天狐を凌ぐ力を持つ空狐だぞ。いや、血筋で判断するなと言えばそうなんだが、それにしたって臆病すぎる。

 まあ、見た目は蛇の眼球にしか見えない扉だし、通るのに抵抗感があるのは仕方がないことだけれど……もしかして、慣れてる俺達のほうが感覚麻痺しているのかもしれない。

 いや、通るときだって、ちょっと水の膜通ったような感触があるだけで基本見かけ倒しだし……一回やれば慣れると思うんだが。

 

「どうしたのかな?」

「いや、あのさ……春国さんが怖がってここを通りたくないって」

 

 カカメから離れて紅子さんの隣に戻る。

 あの調子じゃあ、こちらに来るまでしばらくかかりそうだぞ。むしろカカメ以外の方法でこちらに来る方がよほど時間がかからないかもしれないくらいだ。

 

「ああー……」

 

 妙に納得した顔で紅子さんが息をつく。

 うん、まあ、そういう反応になるよな。

 

「むむっ、しゃっきの人でしゅね? お姉ちゃん、ちょっと下ろしてくだしゃい」

「え? うん、分かったよ。はい」

 

 誘理の要望に応えて紅子さんが彼女を地面に下ろすと、臆することなく誘理はカカメを潜っていく。

 

「おお、すごいすごい」

 

 幼子の堂々とした通り抜けかたに、紅子さんが頬を緩めて褒める。本当に彼女は自分よりも小さい女の子に甘いなあ。ちょっと羨ましいくらいだ。

 

 誘理がカカメを通り抜けて少しすると、今度は向こう側からこちら側に誘理が通り抜けて来た。

 

 ……しかも、その手を春国さんと繋ぎ合わせて。

 

「ひっ、ひうっ、離さないでくださいねぇ! お願いですから僕を一人にしないでくださいよぉ!」

「だいじょーぶでしゅ。あちしがついてましゅ」

 

 大の大人が幼女に手を引かれて、ドン引くくらいに泣きつつこちらにやってきた。正直ここまで来ると普通に引く。

 猫背になって片手で涙と鼻水でぐっちゃぐちゃにした顔を拭いつつ、もう片手で幼女に手を繋いでもらって仲良く輪を潜る……うん。

 

「……なにをやってるのかな?」

「あちしは強い子でしゅ! ハルのことは守ってやるのでしゅ!」

 

 うわこの幼女メンタルが強い。

 それに比べて春国さんは……まあ、臆病なのは分かっているんだが、ここまで臆病だとちょっと大丈夫なのかなと心配になるのであった。

 

「あああ、待ってくださいユーリ。足ガックガクなんですよ。カカメ通るときドロっとしましたよドロっと! なんで平気なんですか!? 怖気がすごかったんですけれど!」

「予防接種するときのほうがよっぽど怖かったでしゅ。クロもきっと同意見でしゅよ。予防接種で病院に行くときはいつもプルプル震えてお漏らししてましたの」

「比べるものが違いませんか!?」

 

 とんでもないことをバラされるクロの身にもなってやれよ。

 今はもう犬神なんだろ? ってことは、普通に人間と意思疎通できる程度には知能も理性も言語能力もあるわけだ。実際記憶の中で喋ってたし。

 そんな思い出バラされたのを知ったら、俺なら恥ずかしくて穴に埋まりたくなるぞ。

 

「主! なにをしているんだ!」

「あっ、あっ、銀魏ぃ……ひどいんですよこの幼女ぉ……」

「幼子に手を取られて運搬してもらうなど、恥ずかしくはないのか!? すまない、誘理。俺の主があまりにも情けなくて」

「ふふんっ、ぜひもなし!」

「銀魏ぃ!? あああ……みんな僕をいじめるんです……なんでですかぁ……」

 

 それにしてもよく泣くヒトだな。あれで脱水症状になったりしないんだろうか。まあ銀魏さんも大概部下の取る行動ではないが、あれ天然でやってそうなんだよなあ。

 

「ダメだよ春国くん。狐面被って通ってくれば良かっただけなのに、そんなことにも気づかなかったのかい?」

「ダメ押しやめてくださぁい!」

 

 必死の叫び声だった。

 金輝さんは多分わざとである。この兄弟、揃いも揃って上司の息子に対して遠慮がなさすぎるぞ。

 

「ええ、しかし全員が揃ったことですし……小屋へ行きましょう。狐、準備はしたのでしょう?」

「もちろんだよ。春国くん達が暮らせるように整えておいたからね」

「え、僕達……? あの、金輝と銀魏は」

「二人のために春国くんの部屋から一通りの物は運び出して来たし、お布団もちゃんと干してあるものを持ってきたからね」

「あの」

「うむ、あに様のおかげで内装も少しいじってあるのだ。これで主も少しは落ち着くだろう」

「あの……銀魏達は……?」

 

 春国さんのことを華麗に流しながら金銀の狐兄弟がにこやかに話している。

 真宵さんもそれを満足そうに聞いているし、涙目のまま縋るように食い下がる春国さんのことは気にしていない。

 

 ド畜生かよこのヒト達。

 

「僕は御倉(みくら)様のところで神使のお仕事があるし……弟も身を清め続けるためには神社にいないといけないからねぇ」

「のぞみがたたれました」

「あちしがいるでしゅ! 情けないハルのためにあちしがそばにいてあげましゅからね!」

「うう……幼女の優しさが辛いです」

 

 しかしこう見ると、なんだかんだ誘理と春国さんはいいコンビかもしれないと思う。

 

「あ、そうだ。令一君はお泊まりとか興味ないですか?」

「俺も邪神野郎のために色々やらなきゃならないんでごめんなさい」

「そっちの子とか」

「アタシ、幽霊なんだけど」

「そういえばそうでした……びえっ、やっぱり二人きりですか」

 

 とうとう顔を青ざめさせたまま頭を抱えてしまった。

 

「大丈夫だよぉ。たまに様子は見に来るからね」

「金輝……!」

「春国くんが幼気な子にいけないことをしていないかって確認しに」

「金輝ぃぃぃぃ! 僕のことをまるで信用してないじゃないですかぁぁぁぁ!?」

 

 声が大きいなあ、このヒト。

 泣きながら叫ぶ春国さんに、金輝さんはそっと耳を塞いで対応した。こ慣れていらっしゃるぞこの狐。

 

「二人で仲良く宿泊するように。良いか?」

「はーい!」

「うううう、はい……」

 

 元気よく返事をする幼子に、泣きべそをかいたまま弱々しく返事をする青年。地獄かよと思うようなその光景に、俺はなんとも言えない気持ちになるのであった……不憫すぎる。

 

「それでは、わたくしは旧友に連絡を取りますわね」

「あ、はい」

 

 そういえばそんなことを言っていたな。春国さんのあまりの怯えっぷりに忘れていた。むしろそちらが本題のはずなのにな。

 呪いの専門家を呼ぶんだっけ。どんなヒトだろう。

 

「……」

 

 真宵さんがどこか虚空を見ながら、ゆっくりと微笑む。

 その瞬間に、ぞわりと総毛立った。本能的な恐怖。本能的な防衛反応。それらが一気に押し寄せてきて、パッと身を翻して紅子さんのそばに寄る。

 

 なんだ今の……? 

 真宵さんからものすごく恐ろしいものを感じたぞ。いったいなにをやったんだあの神様。連絡を取るだけじゃなかったのか……? 

 

 それから警戒するようにじっと真宵さんを見つめていれば、遠慮がちに紅子さんから腕を押される。

 いつのまにか肩を抱き寄せて守りの態勢に入っていたみたいで、「ごめん!」と言いながら距離を取った。咄嗟のことだったから完全なる無意識だ。それだけに少し恥ずかしい。

 

「夜刀神さん……なにをやったんですか?」

 

 こちらも誘理を腕の中に閉じ込めて、今にも泣きそうな顔をした春国さんが言った。なんだ、ちゃんと守ってやれているんじゃないか。その対応に少しだけ感心した。

 

「あら、ごめんなさい。少し刺激が強かったかしら?」

 

 真宵さんは扇子を広げると、妖しげに微笑みながらそっと口元を隠す。

 

「ちょっと旧友を祟っていたの」

「なんて?」

 

 いい加減ツッコミ疲れてきた。

 しかし、俺はそう言わざるをえなかった。



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呪い手繰るおいぬ様

「ちょっと旧友を祟っていたの」

「なんて?」

 

 いい加減ツッコミ疲れてきた。

 しかし、俺はそう言わざるをえなかった。

 

 ちょっと神経を疑わざるを得ない話なんですが。

 あなた旧友って言ってましたよね? 旧友を祟るっていったいどういうことですか……? 

 

「令一くん……宇宙の真理を垣間見た猫みたいな顔をしていますわよ」

「誰のせいだと!?」

 

 真宵さん達神様の行うことは本当に理解できない。多分説明されても理解できない気がするぞ。

 

「それで、真宵さん。今のはどういうことかな? どうして祟ったり……」

「ええ、別におかしなことではありませんわ。こうするのがあの子を呼ぶのに手っ取り早い……というだけですの」

 

 あの子を呼ぶ……? 祟りで……? 

 真宵さんが言っているのが先程言っていた呪いの専門家とやらのことを指すのは理解できるんだが、その方法に関しては微塵も理解できない。祟ってどう呼び出すというのか。しかも彼女の場合、その本性を見た者に対して「血縁が絶えるまで祟る」という超強力で文字通り蛇のようにしつこい祟りであるはずだ。それをそうポンポンと普通の怪異に対して使用するはずがない。

 呪いの専門家というのはそれだけすごいヒトなのか……? 彼女の祟りを受けても平然とするくらい……? 

 

 疑問だらけだ。

 

「えと……もしかして、ですが……『(あけ)(きみ)』をお呼びになったのですか?」

 

 恐る恐る春国君が質問した。それに対する真宵さんは、ただただ微笑むのみである。その笑顔に春国さんが「ひいっ」と声を上げて、誘理が「うるしゃいでしゅ」と返す。

 

 そんな仲良しな二人な様子にほっこりしかけたとき、真宵さんの瞳が普段よりももっと瞳孔が広がり、蛇の〝それ〟へと変化した。

 そして、さっとその場から一歩後ろに下がる。

 

 次いで、空間が歪むのが見えた。

 先程まで真宵さんがいた場所の頭上がぐにゃりと捻じ曲げられるように空間が揺らぎ、その場に銀色が閃いた。

 

「ガラン」という甲高い音を立ててその場に落ちてきたそれ。

 

「タ、タライ!?」

 

 ギャグかよ。

 

「なにこれ」

 

 困惑した紅子さんの目の前で、空間の割れ目からタライに向かって水が降り注ぐ。いや、タライの中を見る限りほかほかと湯気が立っている。お湯だ。それとわりと良さげな適温の。

 

 ってなんでだよ!? 

 

「ああ、良かった。拒否されたらどうしようかと思いましたわ。このお湯は……神中村で観光していたのかしら」

 

 なにやら訳知り顔でタライの中身を分析する真宵さん。

 

「いやいやいやいや」

 

 わけが分からない。昔ながらのギャグみたいにタライが降ってくるのがなんの合図になっているんだよ。しかもそれ、拒否の合図じゃないのかよ。ぐるぐると考えて俺が現実逃避をしていると、タライの中になみなみとと注がれたお湯が歪む。そう、まるで鏡のように反射して……。

 

「あら、お早い到着ね」

 

 真宵さんが嬉しそうに笑った。

 ピンと張った水面にひとつ、ふたつと波紋が広がる。それから渦を巻くように中心から真っ赤に染まっていく……まるで鮮血のようなその色味に、俺はゾッとしたものを感じて再び紅子さんの肩を抱き寄せた。

 

 本物の血液のように濁り、どろりとした液体が噴き上がる。

 その場にお狐様がいるというのに、一気に場が穢れていくような錯覚さえ覚えるような血みどろの嵐がタライの上で踊り、その水飛沫が(あか)く輝き、物騒さの中にある種の美しさまで見出されるような感覚に陥った。

 

 見惚れる。

 

 朱い雫が蝶へと変化する。

 紅子さんの美しい紅とは違う、血のような朱。

 

 そして次に、朱色(あけいろ)が鈍く光に反射したと思うと、どろりとした漆黒に変化する。

 

 朱から黒へ。

 赤から黒へ。

 

 それはまるで、夕日が夜の闇に覆われていくように。

 それはまるで、こびりついた血が朱から黒へと変わるように。

 

 空気を孕んで朱色の蝶が漆黒の蝶へと変化する。

 はらはらと舞うそれらが円を描き、その中心へと寄り集まっていく。

 

 ――いつのまにか、そこには人影が立っていた。

 

 その胸の中心に漆黒の蝶が集まり、留まる。

 そして溶けるようにその中へと消えていく。

 

 周囲をひらひらと舞う無数の蝶に指を這わせて、その人影がゆっくりと微笑んだ。

 

「ふうむ、呼んだか。藍色の」

 

 人影の外見は酷く女性的であった。その口から漏れ出でる声も鈴を転がしたような美しい女性の声。しかし、その胸板にはなにもなく、替わりに勾玉に似た酷く美しい結晶が収まっている。彼岸花のような模様が刻まれた結晶は妖しく光に輝き、そして同時にひどく禍々しい。

 

 俺はその姿をひと目見た瞬間、寒気に襲われた。

 

 まるで無数の視線を感じるような。

 まるでそこに何人もいるような。

 まるで怨念がいくつも凝り固まって混ざり合って、そこにあるような。

 まるで目の前に地獄の凄惨な光景が広がっているような。

 まるで無数の悲鳴がそこに閉じ込められているかのような。

 

 無意識に体が震えだし、吐き気を覚えた。

 しかし俺が正気をギリギリ保てたのは隣にある存在のおかげである。

 

 紅子さんはその人影を見た瞬間、頭を抱えてその場にうずくまった。

 そして彼女は胸をかき抱き、息苦しさに耐えるように荒い呼吸を繰り返す。

 

 そんな彼女が見ていられなくなって、俺は紅子さんをそっと膝裏と背中を支えながら抱き抱えて、いわゆるお姫様抱っこと呼ばれる方法でその場から離れた。

 

「れーいちさん……ごめん」

「大丈夫だ。大丈夫だからな。紅子さん、俺がいるから」

「……よくも、自信ありげにそんなこと言えるよねぇ」

 

 見れば、春国さんは誘理をその腕の中に閉じ込めて魂を抜かれたように茫然としている。

 狐の兄弟はそんな彼を揺すりながら「目を開けながら気絶しているね」「我が主ながら情けない」なんて会話のやりとりをしている。

 

 控えめに言っても、その人影が現れただけで阿鼻叫喚だった。

 

「……頭が高いぞ小僧ども。()を誰と心得る。不幸を()る呪いがそのもの。呪いの化身。狗楽(くらく)の原初であるぞ。怯え、竦め、そして畏れよ」

 

 圧迫感。

 視線を向けられただけで心臓が押し潰されるような錯覚さえ覚える威圧感。

 それから紅子さんを庇うように、抱き抱えたまま俺は跪く。それから己の体で紅子さんを隠すようにして歯を食いしばった。

 

 なんだこれ。なんなんだこれ。なんなんだ〝これ〟は! 

 

 これではまるで邪神。

 あいつと、神内の本性と初めて会ったときと似た圧迫感。恐怖。絶望感。マイナスの情が心の内を侵食して喰らい尽くされるような錯覚。

 

 こんなものが、〝こんなものがこの世にあっていいはずがない〟とすら考えてしまうほどの存在。まさに呪いそのものと言ってもいいほどの、雰囲気を纏っていた。

 

「朱色の。やめなさい。怯えているでしょう? 特にその子は、あなたの好きな人の子ですわよ」

 

 そんな場の雰囲気に割って入るように、真宵さんが柏手を打つ。

 それだけで冷や汗を流しながら硬直していた体が幾分か楽になるのを感じた。

 

 そ、そうだ……真宵さんの旧友を呼ぶと言って出てきたのがこのヒトということは……真宵さんの旧友が、この呪いそのものみたいなヒトなのか……? 

 

「……」

 

 静かにそのヒトが真宵さんのほうを向く。

 よく見ればそのヒトには白目というものが存在していなかった。黒一色の瞳。その眼下には漆黒しかし存在していなかった。

 

 そんな瞳でジッと真宵さんを見つめ――一触即発かと思ったときだった。

 

「く、くっ、くくくくく……冗談だ。久方ぶりに〝祟りの〟に呼ばれてのう……〝てんしょん〟が上がっていたのだ。どうだ、呪いそのものとは怖かろう?」

 

 ふっと犬歯を覗かせてそのヒトが笑った。

 

「そうやって脅すのをやめなさいな。わたくしまで怖くなってしまいますわ」

「ちっとも思っておらん癖になにを言うか。のう、〝祟りの〟。久方ぶりだ。会いたかったぞ」

「わたくしもそろそろ会いたいと思っていたのよ。あまりにも〝呪い(れんらく)〟が飛んで来ないものだから、忘れてしまったのかと思って心寂しく思っていたところよ。今回、呼び出しに応じてくださらなかったらどうしようと思っていましたわ」

 

 そのヒトは先程の恐ろしげな雰囲気は少しだけ(なり)を潜め、真宵さんと和やかに会話をし始めた。

 ここで、ようやく俺達も肩の力が抜ける。

 

「あの、おにーさん。もう大丈夫だよ」

「あ、そうだよな」

 

 紅子さんを姫抱きの状態から地面に下ろす。

 それから、改めてそのヒトの姿を見た。

 

 そのヒトは地面につきそうなほど長い白髪を、肩の上で彼岸花の飾りで二つに結び背中に垂らしていた。地面に近づけば近づくほど髪は血に染まったような朱色になっており、その先端はまるで牙を剥き出しにした犬のように蠢いている。

 白髪に覆われた額からは二本の(つの)が伸びており、髪から覗く耳も尖っているため、一見してその姿は鬼のようにも見えた。

 

 上半身は着物を着ておらず、背中で繋げているのであろう、着物の袖だけを纏っている。着物は漆黒だが、その袖には明らかに返り血であろう染みがところどころについており、下まで続く着物にも赤い花の柄が入っていた。

 

 首元にはギザギザに周囲を覆うような模様が入っており、正直雰囲気どころか見た目まで禍々しい装いである。

 

「この子は神に愛された犬神」

 

 そんな彼か彼女が分からないヒトの隣に立ち、真宵さんが笑う。

 

「この子は人の為に消費される犬神を哀れに思った、とある神の慈愛を受けた存在ですわ。一定の条件を満たした犬神が辿り着ける頂点。その転生した姿……」

()はその原初。始まりの犬神よ」

「その名称を――狗楽(くらく)

 

 狗楽。

 名を反芻するように心の中で呟く。

 

「名前をつけられることで契約し、術者の呪いを運び……そして呪いで契約を達成した際に契約者の魂をその水晶の核で喰らう。呪いという概念……そのものよ」

 

 ひらひらと舞う漆黒の蝶が。

 狗楽の胸元の水晶に留まった蝶が、その中へと消えていく。

 

 つまり、あの(おびただ)しい量の漆黒の蝶が全て――今まで喰らった人間の魂の数だけ、あるということに。

 

 そこまで気付いてしまって、気分が悪くなった。

 立て続けに衝撃を受けることがあったせいで、もう少しで気が狂いそうになるほどの話。

 

 ああ、確かにこれは〝呪いの専門家〟と言えるんだろう。まさか、呪いそのものに出会(でくわ)すことになるとは。怯えが滲む心の中で呟く。

 

「吾に名をつけるわけにはいかないのでのう。吾のことは〝おいぬ様〟と呼ぶが良いぞ」

 

 ニヤリと、蛇の隣でおいぬ様が妖しげに笑っていた。

 



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朱の君

 改めて……参道の途中にある小屋の中で俺達は蛇神とおいぬ様に対面していた。真宵さんと和やかに会話をするおいぬ様もどこか妙に嬉しそうに、やたらと古風な喋り方で、卓袱台(ちゃぶだい)を挟んだ一歩向こう側でやりとりをしている。

 

「久しぶりねえ。何年ぶりかしら?」

「くく、間違っておるぞ祟りの。桁がひとつかふたつ足りぬわ」

「あら、いいじゃない。若作りって大事でしょう? 女の子だもの」

「そうよなあ。若々しくあるのは良いことぞ。愛しい人に怖がられぬ」

 

 いや、さっき雰囲気だけでその場の全員を発狂させそうになっていましたよね? なんて言葉をギリギリ口に出さずに飲み込み、仲睦まじげな蛇神とおいぬ様を見守る。

 

 先程の恐怖を駆り立てる雰囲気というのだろうか。あれを抑えているのか、今はもうおいぬ様はただただ美しい人にしか見えない。

 相変わらず胸元だけを曝け出しているから目のやり場に困るのだが、声は女性なのに女性らしい胸などかけらもなく、そのギャップに閉口する。

 性別はどちらなのだろうかなんて質問してみたいが、さすがにそんなことを言えるほど怖いもの知らずじゃないし、なによりそんな質問したら紅子さんに軽蔑されかねない。

 

「のう、祟りの。そちの(せがれ)は無事か? 泡を噴いておったようだが」

「その子は殊更に臆病な個体なのですわ。あなたの雰囲気に当てられてしまったのでしょう。神格を持った子ですから、他の者より耐性はあるはずですが……仕方がありませんわ」

「しかし怯えながらも幼子を庇う様は見ていて気持ちが良かったぞ。()も元は母犬。小さきを守る姿はたとえ畜生の倅であっても愛しく思うものだ」

「あらあら、気に入ったの?」

 

 二人は小屋の隅に寝かされた春国さんを見遣る。

 硬直し、誘理(ゆうり)を抱き抱えたまま気絶していた春国さんは金輝さんと銀魏さんの狐兄弟によって介抱されている。金輝さんに膝枕をされながら、銀魏さんが春国さんの顔を扇子で仰ぎ、ゆっくりと腕や足やらをマッサージしている姿がらそこにある。

 

 眉間に皺を寄せながらも懸命に春国さんを介抱する銀魏さんと、口元だけで笑顔だと分かる金輝さん。そして、眠った春国さんの頬をペチペチと叩く誘理。そろそろ目を覚ましても良さそうなものだが、起きてもまたおいぬ様を見て気絶しそうな気もする。

 

 臆病な彼が誘理を庇った事実は、誘理自身にも思うところがあったみたいだな。懐いたようで、先程から春国さんにつきっきりだ。

 

「勿論、そこな人の子も()いぞ。好いた女子(おなご)を身を挺して守ろうとする姿は、いつの時代も尊いものぞ。女子のほうも守られるだけでは終わらんようにしている。くくく、実に健気ではないか」

「あら、分かります? 今鏡界(こっち)でとても人気な二人組ですのよ。恋の物語を眺めるのはいつの時代も最高の娯楽ですもの」

 

 娯楽を言い切られることに若干の抵抗を覚えつつ、真宵さんを見つめる。

 仲良く再会の会話をしているところに悪いが、色々と訊きたいことが多すぎるのだ。

 

「真宵さん、えっと……おいぬ様とはどんな関係なんですか?」

 

 一握りの勇気を使い、会話に花を咲かせる彼女らに割って入る。

 このままではいつまで経っても話が進まないと思ったからだ。

 

朱色(あけいろ)のとは……なんで言ったらいいのかしら?」

「友で良いのだぞ、藍色の」

「そうね、友達ね。わたくしが祟り、そしてこの子が呪い。性質が似ているからか、不思議と仲が良いのですわ。お互いの理解者と言い換えても良いかもしれません」

 

 友達。そんな気はしていた。仲が良すぎるからな。確かに祟りも呪いもマイナスな面であり、人に降りかかる災厄のようなものだが、そのコラボレーションで仲良しだとは。なんというか、言いにくいが怖い組み合わせだな。

 

「アタシからも質問いいかな?」

 

 未だに目が覚めない春国さんを横目に、紅子さんがすっと右手を挙げる。

 

「良い良い。大抵のことは答えてやろうぞ」

 

 尊大に言い放ったおいぬ様に、紅子さんはゆっくりと息を整えてから口を開く。どうやらまだ恐怖が抜けきっていないようで、緊張しているようだった。

 正座した彼女の左手に卓袱台の下で手を重ねると、横目でこちらを見てきた紅子さんは文句もなにひとつ言わず、安堵したようにひとつ瞬きをする。

 

「真宵さんが連絡を取ると言ってキミを祟っていたのはどういうことなのかなって」

 

 普段通り相手を〝キミ〟と呼ぶ紅子さん。

 これ、わりと勇気が必要だったんじゃないか? 相手は先程、彼女を精神的異常にまで追い込みそうになっていたおいぬ様だ。またあの雰囲気を向けられたら……そんな想定をしながら、いつでも紅子さんの盾になれるよう油断なく向かい側の彼女達を見つめる。

 

「あれもれっきとした連絡手段ですわ」

「……祟るのが?」

 

 連絡手段と言い切られてもな。

 

「ええ、わたくしがこの子を祟る。そしてこの子が祟られていることを察知して、わたくしに呪い返しの要領で『イエス』か『ノー』の返事を呪いに乗せて送ってくる。そして、イエスだった場合はタライで水鏡を作って、そこから移動してくる。ね、お手軽でしょう?」

 

 それ、多分あなた達しかできませんよね? 

 色々と突っ込みどころしかないわけだが、本人達がそれでいいならいい……のか? 

 

「タライが降ってくる呪いが『いえす』よな。そして、『のお』の場合は、藍色のが次に脱皮する際に、全く上手くいかなくなる呪いとなっておるのだ」

「やだ、ちょっとそこまで言わなくてもいいじゃない。朱色の、酷いですわ」

 

 脱皮。

 一瞬思考停止していた。

 いやまあ、真宵さんの本性は確かに蛇なんだろうけれど。この美女が脱皮すると思うと、なんだか聞いてはいけないものを聞いたような、背徳的な気分になってくる。そうか、脱皮するのか……真宵さん。

 

「それと大事なお話がひとつ」

 

 顔を朱に染めておいぬ様に抗議していた真宵さんが、ひとつ小さな咳払いをして、さっと居住まいを正した。

 

「この子は『朱色(あけいろ)の君』と呼ばれているのですけれど……わたくしどもにとっても、とても大切な仲間のヒトリなんですの」

 

 春国さんが、気絶する前に言っていたな。朱色の君を呼ぶのかって。

 つまりそれは同盟のほうでも有名だってことだよな。

 

「この子は無性別ですから、彼女や彼なんて言えませんが……呼ぶならやはり『おいぬ様』か『朱色の君』ね。覚えておくといいですわ。だってこの子は……」

 

 真宵さんの視線がおいぬ様に向けられる。

 視線を向けられたおいぬ様は、やはり妖しげにニヤリと笑うと、口を開く。

 

()は藍色のと同じく、この同盟創設者のヒトリだからのう。敬えよ、愛しい人の子らよ」

 

 ひどく尊大に、そして威厳たっぷりに〝呪いそのもの〟はそう言った。

 



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憎しみと愛は紙一重

 ずずずとお茶をすする音が小屋の中に響き渡る。

 沈黙した俺達に対して、呑気に茶をすすっているのはおいぬ様だ。

 

「ふうむ、ぬるい」

 

 しかも文句まで言っている。

 だが俺達は中々沈黙を破れない。俺もそうだし、彼女だって……。

 

 そう、紅子さんだって〝創設者〟のヒトリという言葉に目を白黒させているのだ。なにせ、同盟は人を愛し、人の隣人として生きていく者達の集まりだ。今まで出会ってきた創設者達は、確かに創設者たるゆえんが分かりやすかった。

 アルフォードさんは俺達に対してかなりフレンドリーで、真宵さんは意地悪なこともときにはするが、俺達のことを愛しく思って試練を課している印象を受けた。たとえるならばアルフォードさんが飴で、真宵さんが(むち)の役割をしていたのだとはっきり言える。

 

 しかしこのおいぬ様は〝呪いの化身〟だ。

 それも不当に虐げられ、人間に利用し尽くされてきた犬神が神の慈愛によって転生した姿。犬神の末路のひとつと言うべき存在だと、先程説明を受けたばかりだ。そんなこのヒトが、同盟の創設者のヒトリだということに違和感を覚える。

 

「あの、あなたは……人を恨んではいないんですか?」

 

 だから、いつのまにかそんなことを口走っていた。

 犬神はいわば恨み辛みの塊。呪いの塊。そんなモノが、本来人を恨んでいないわけがないのである。そんな存在が人に寄り添う同盟の理念に、真っ先に賛成したとはとても思えなかったのだ。

 

 迂闊だったと思う。人を恨んでいるかもしれない相手に「恨んでませんか?」なんて質問は、明らかな迂闊さだった。

 しかし、口にしてから後悔したところで、声に出してしまった事実は覆らない。

 

「くく、やはりそう来たか。人の子とその問答をしたのは何度目となるかのう」

「桁が違ってよ?」

「やかましい、変な相槌を打つでない」

「天丼って美味しいわよねぇ」

「言っていることの意味は分かるが、ゆーもあを()に求めるな。藍色のだけでやっておれ」

「つれないわねぇ」

 

 少々威圧気味に言われた言葉は、真宵さんの言葉とその後の会話によって少しだけ緩和された。もしかしたら、真宵さんはおいぬ様が無意識に放っている怖い雰囲気をできうる限り和らげようとしてくれているのかもしれない。

 

「吾にとって、人の子は皆等しく愛しいものぞ。それに、吾ら狗楽(くらく)はニンゲンを恨めぬのよ。かつて受けた苦しみ、恨み辛み、その全てをここに封じられておるからだ」

 

 おいぬ様がトントンと指先でつついたのは、あの胸板に収まった勾玉型の水晶のようなものだ。

 

「そこに……?」

 

 紅子さんがぽつりと呟く。

 彼女も彼女で、人を恨まないよう、殺さないようにと自制心を働かせている。故に、恨み辛みの塊でありながら人を愛するおいぬ様に興味があるのだろう。

 

「これは吾ら狗楽の核となるもの。それ以上でも、以下でもあるまいよ」

 

 微笑むその黒目が恐ろしい。

 直感的に、なにか隠しているのではないかと思った。

 確か、術者の魂を核で喰らうなんて真宵さんがいっていたはずである。今、おいぬ様はそれに触れずに説明したこととなる。

 

「くく、知りたいか? 知りたがりは己を滅ぼすぞ、小僧」

「あ、いえ……」

 

 躊躇ったが、先においぬ様が話し始めてしまった。

 

「吾らは人の子が愛しい。それに間違いはないぞ。吾らにとってニンゲンというものは善人も悪人も等しく愛しく、ひとたび契約を交わせば吾の守護下へと入る。契約者の呪いを遂行し、そしてそやつが天命を迎えた際には等しくその魂を核で喰らう。それこそが吾らの愛」

 

 ひと息入れて、おいぬ様はジッと俺を見つめた。

 

「愛ゆえに吾らは躊躇いもなく、愛ゆえに迷いもなく。一瞬の『楽』と引き換えに永遠の『苦』を与えることこそが吾らの愛の形よ」

 

 ――憎しみと愛は紙一重。

 そんな風に口上を述べるおいぬ様に、やはり冷や汗がたらりと流れた。

 歪んでいる。歪み切っている。そんなものを愛だと言い切れるこの呪いの化身に恐怖を覚えた。

 

「契約の際にはきちんと訊いておるよ。吾の力を借りて呪いをかければ、その術者の最期は吾の餌食となり、輪廻に還ることすらできず永劫に、苦しみながら共にあることとなるぞとな」

 

 (すくい)を与えて代償に苦をも与える。

 それゆえの狗楽(くらく)なのだと理解した。

 

 そして、そうまでして人を呪おうとする存在がいることも、おいぬ様という存在によって確定してしまう。呪いの概念さえなければ、こんなに強大な力を持つ怪異にはなり得ないからだ。何人喰らったのか、何百人喰らったのか。いや、もしくは何千人か。

 

 少なくとも、初めて会ったとき周囲に飛んでいた漆黒の蝶。そしておいぬ様から感じた無数の悲鳴と苦痛は全て、おいぬ様に身を捧げた術者達の末路であることが理解できてしまい、歯を食いしばる。

 それだけ、この世には恨み辛みというものが蔓延している証だった。

 

「くく、恐ろしいか。しかし吾はこうだが、全ての狗楽がそうとは限らぬよ。核が破壊されれば永遠の苦楽からは解放されるからのう。人に情を移しすぎた狗楽が自決することもある」

 

 おいぬ様は袖で口元を隠し、ころころと鈴を転がすような声で笑った。

 

「して、祟りの。吾を呼んだのは此奴らに会わせるためだけではなかろうて」

「ええ、そこの子供の霊について、あなたに訊きたくって呼んだのですわ」

 

 二人の視線が、春国さんの顔にマジックペンで落書きしていた誘理に移る。

 あれって油性では……? 

 

 そして、視線に気がついた誘理はバッと振り返ると「ふんすっ」と鼻息を荒くして、真宵さん達から視線を遮るように春国さんの目の前に立ち塞がった。

 

「ハルはあちしが守ってやるでしゅ!」

 

 まったく話を聞いていなかったのがその台詞だけでよく分かった。

 小さい子だからな……まあ仕方ないといえば仕方ないか。難しい話をしていても普通に聞き流すだろう。

 どうやらおいぬ様に対しては怖い人という認識を持っているらしく、それゆえ春国さんを庇って警戒しているのだろう。

 

 そんな幼子の姿を見て、おいぬ様が一言。

 

「ふむ、(わらわ)よ。なんとも愛い子ではないか。飴玉は好きか?」

「好きでしゅ!」

 

 陥落も早かった。



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誘理

「カラコロ」と音を立てながら、誘理はおいぬ様にもらった飴玉を楽しんでいる。たまに聞こえるガリッという音で飴を噛んでいることも分かるが、その丸い頬っぺたを両手で押さえながらリスのように頬を膨らませ、嬉しそうに飴玉を転がすその姿はただの子供である。

 

「子とはまことに愛いものよ」

 

 その姿をニコニコと見守りながらおいぬ様が言っている。

 

「どれ、少し触れるぞ」

 

 意見を聞くことなく誘理の頭にその手が乗せられ、おいぬ様の黒一色の瞳が細められる。それから沈黙。

 しばらく、暇を持て余したリンと八千が畳の上で転がり回って遊んでいる音だけが鳴り響いていた。ごめんな。

 

「犬神の餌にされているのは間違いないのう。そして、この童を犬神が標的と間違えておるのも、相違ない。誘う(ことわり)の元に生まれた、哀れな幼子よ」

 

 誘うことわり……誘理(ゆうり)、か。

 まさか、それを織り込み済みで名付けられたなんてことはあるはずがない。あるはずかないと思うのに、どうしてだろう。それしか、ありえないんじゃないかと結論付けている自分がいる。

 

 まるで、はじめからこうするために誘理が生まれてきたような……なんて。

 

「犬神の研究は呪術コレクターでしたわね」

「そうだのう。残念ながら、()は契約をせぬ限りニンゲンを呪えぬ。祟りのや赤いのが対処するのなら、一番良いのだが」

「ごめんなさいね、居場所を誤魔化す術を持っているみたいですから、もしかしたら異空間に居を構えている可能性すらあるのですわ。手がかりも……最後には自壊するようになっていて少ないですし」

「良い。祟りのにも居場所が分からんのでは仕方あるまい。だが、これは良い機会ぞ。吾は手を出さんが、犬神が望むのならばそやつが滅びゆくさまを見届けてやることもできる」

 

 二人は、もはや誘理が〝そのために生まれてきた〟ものとして扱っている。

 そんなことって、そんなことってあるのか。そんな風に歯を食いしばった。今ここにいる、あの無邪気な子供が犬神の餌にされるために、残酷に殺されるために生まれてきただなんてこと。

 

「レーイチしゃん!」

「あ……な、なんだ?」

 

 こちらにやって来た赤毛の子供はにっこりと笑ってリンと八千を指差す。

 その後ろには、ひどく優しい表情をした紅子さんがいた。

 

「リンしゃんと遊んでいいでしゅか!」

 

 紅子さんと目を合わせると、静かに頷かれる。

 多分、「遊ぶなら、許可を取ってからかな」なんて誘理に教えてやったんだろう。俺に断る理由はない。

 

「あんまり乱暴にしなければ遊んでも大丈夫だ。な? リン」

「きゅっきゅーい!」

 

 本当にいい子だ。本当に。なんでこんな子が、これほどまでに悲惨な運命に弄ばれなくちゃいけないんだ。ただただリンや八千と遊ぶ姿を見ながら、熱いものが込み上げてくる。おかしいな、俺はこんなに涙脆くはないはずなのに。

 

「ねえ、朱色の」

「ああ、全ては犬神の意思次第よ」

「……そう」

 

 真剣な表情で、しかし主語を欠けさせながら短く会話を続ける二人。

 元は犬神だったらしいし、おいぬ様も犬神と誘理を救うことに関しては賛成しているはずだ。だから、まだ手を出さないんだろう。

 

「あの子についた術については」

「饅頭を所望するぞ、藍色の」

「……はいはい、分かりましたわ」

 

 フリーダムすぎないか? あのおいぬ様。

 片目を瞑って饅頭を出すように言うおいぬ様に、呆れた顔で鏡界を開く真宵さん。ついでにお茶も注ぎ直して二人で茶色い饅頭を目の前にして、今度は雑談を始めた。真剣な会議じゃなかったのか。

 

「饅頭の皮の内側がこし餡か粒餡かなぞ、見ただけでは分かるまいよ。ときに真宵、これは粒餡か?」

「あなたが好きなのは粒餡ですもの。用意したのも粒餡よ」

「それは重畳(ちょうじょう)

 

 お茶をすすりながら饅頭を食べ進める二人。

 こちらではリンや八千と遊ぶ誘理に、それを見守る紅子さん。

 もう紅子さんは保護者の顔だ。本当に子供が好きだよなあ。後輩のアリシアのことも可愛がっているみたいだし。

 

「主ー、そろそろ起きるのだ」

 

 すみっこでは銀魏さんが、ついに春国さんを強制的に揺り起こしはじめた。ぐらぐらと胸ぐらを掴まれながら揺らされ、「ううん」と低い唸り声をあげながら春国さんが目を覚ます。

 

「ッハ! 僕気絶してまし……」

 

 そして、饅頭を食べているおいぬ様と目が合った。

 ひらひらとにこやかに手を振るおいぬ様は明らかに面白がっている。

 そしてその姿を見た春国さんは、静かに起き上がった状態から後ろに向かってすっと倒れていく。安らかな顔だ……じゃなくて。

 

「ってまた気絶!?」

「あーほら、春国。これがないと本当にダメだよねー」

 

 金輝さんが桜の散った狐面を彼に被せる。

 それから、ぼうっとその尻尾に狐火を灯すと彼のお尻に火をつける。うわっ。

 

「うううああああっちゃぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 飛び上がった春国さんはものすごい勢いで悲鳴をあげてその場で暴れ回った。なんというか、ご愁傷様です。

 色々情けなさすぎて、もしかして皆の目には俺のヘタレっぷりもあんな風に映るのだろうかと思わず考えてしまった。それはちょっと嫌だなあ。

 

「うっ、うっ、火をつけるのはひどいですよぉ……」

「起こすのに手っ取り早かったからねえ」

 

 のんびり金色の狐が言う。狐なのに鬼かよ。

 

 とにもかくにも、これでこの場にいる全員が起きて揃ったわけだ。

 真宵さんとおいぬ様のほうでも話し合いという名の雑談は終わったようで、多分方針も決まっただろう。

 これから本格的に誘理と犬神をどうするか、その対策を立ててことにあたるわけだ。それに、誘理の宿っている箱を狙っていた女の子についても考えなければならない。

 

 まだまだやることはいっぱいだ。



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ティンダロスの猟犬という名の怪異

「す、すみません……お騒がせしました」

 

 春国さんはあのあと慌てたように小屋の外へ行き、金輝さん達の尻尾の包囲網の中で着替えてきたらしい。前に会ったときと同じような着物姿になり、狐面を深く被って戻って来た。

 

 そんな彼を見た誘理が興味津々に袖やら裾やらを弄び、キラキラとした笑顔で「あちしもお着物着たいでしゅ!」なんて言い出したのだが、こちらは話し合いが終わってからということになった。幽霊なのに服を変えられるのかという問題は、紅子さんの首の包帯と同様に、同盟の道具を使えば良いという結論になったので問題ない。

 

 卓袱台を囲んで12時の位置に真宵さん、時計回りにおいぬ様、金輝さん、銀魏さん、春国さん、俺、紅子さん、と続いている。誘理は正座した春国さんの膝の上だ。よほど懐いているらしい。

 春国さんが困った顔をしながら白色の狐の尻尾を顕現すると、それに(じゃ)れて遊び始める。春国さんも半分狐、半分精霊の血が混ざっているからか狐の尻尾を持っているようだ。

 

「先に言っておきますが、狗楽については知っていますので、説明を省略してしまって構いません。僕らはあくまで中立ではありますが、同盟とのビジネス的な交友もありますので、創設者についてはある程度知っています」

 

 ああ、そこから説明しなくていいのなら大丈夫だな。

 にしてもビジネスね。果物、特に桃を育てて売っているのだったか。俺も怪我を治す際に随分と世話になったし、同盟に表立って所属しているわけではないが、取り引きは行うビジネスライクな関係というわけだろう。

 これが同盟所属ということになると、野良の怪異なんかから贔屓しているとでも言われるのだろうか。神様の恩恵で育った桃だから売る相手も多少は選別しているだろうが、その辺を公平にしているわけだ。

 だからお金か、それに準じるものを物々交換で取ると。

 

「朱色の。誘理ちゃんを視たところ、どうだったか口に出して教えてちょうだいな」

「良かろう。心して聴けよ、小僧ども」

 

 真宵さんとおいぬ様の視線が交差する。そして頷いたおいぬ様は、春国さんの膝の上に収まった小さな小さな幽霊を見つめて言った。

 

「その童にかけられた(しゅ)の中で、認識をずらす呪はすぐに解くことができよう。今すぐにやってやることもできるぞ。しかしのう、小僧どもは〝それ〟を追いかけてやってくる犬神もどうにかしてやりたいのだろう?」

 

 これには、真っ先に春国さんが頷いた。

 

「ふうむ、ならば今しばらく呪はそのままにしておくべきだろうなあ。その呪を解けば犬神が目的を失い、行方が知れなくなってしまうやもしれんぞ。それならば犬神を誘き寄せ、目の前で解呪(かいじゅ)を行い、そして犬神自身への説明を行うべきだ」

 

 そうか、解呪しちゃうと犬神を救う手立てはなくなっちゃうんだな。

 

「それから、犬神を呪い返しの要領で術者の元へ送り込み、それに着いて行けば良い。祟りのも、赤いのも、黄色いのも、青いのも、白いのも、他の者らは呪術これくたーには煮え湯を飲まされておるからのう」

 

 からからと笑い声をあげておいぬ様は隣の真宵さんを見つめる。

 

「ニンゲン一人にこれほどまでに苦労しておる()らが迂闊なのか、それとも吾らが追ってなお尻尾を出さぬニンゲンがすごいのか……くくく、皮肉ではないか」

 

 どうしてこうも皆さんは真宵さんを煽りたがるのか。

 そしてこんなことを言われつつも、まったく嫌な顔ひとつしない真宵さんに驚いた。言ってきている相手が友達だからだろうか。

 今考えると呪いと祟りって組み合わせは相性抜群な関係性なんだろうが、その字面(じづら)だけ見ると末恐ろしいな。敵じゃなくて本当に良かったと思う。

 

「そ、それと問題は……」

「電車で会った人だよね」

「む、その話は聴いておらんな」

 

 紅子さんの回答においぬ様が首を傾げる。

 そういえば誘理の話だけで、春国さんが彼女と会った経緯は話していなかったな。

 

「えっと、電車でですね……」

 

 春国さんが説明をする。電車での帰り道、変な男に箱を押しつけられたと思ったら、その男が女子高生らしき女の子と、その子が連れたぬいぐるみ。真宵さんや春国さんが言うところの〝ティンダロスの猟犬〟に殺されたという話だ。

 

「猟犬のう……アレは(ことわり)が違うからな、なんとも言えん。しかしアレがニンゲンに下るとは思えんし、真似事か、もどきのようなものか、それとも……ニンゲンの強い思いで形作られた〝ティンダロスの猟犬〟という名の怪異か……だろうな」

 

 一瞬、言っている意味が分からなかった。いや、ちょっと経っても意味が分からないな。どちらにせよそれはティンダロスの猟犬なんじゃないか? 

 

「なるほどねえ、怪異かい。それならあるかもなあ」

 

 金輝さんの納得の言葉にますます意味が分からなくなって、思わず視線が右往左往してしまった。それに気がついたのか、紅子さんが「えっとね」と言葉を選ぶようにして話してくれた。

 

「うーんと、ティンダロスの猟犬って存在が元からいるのと、伝承から人のイメージで形作られて生まれてくるのは違うってことだよね。アタシ達と同じく、オリジナルが存在している中での分身かな。本物が実在しているかは分からないけれど、人の認識で生まれた猟犬はいるかもしれないってことだね。だから、人のイメージ次第で神話に出てくるようなのとはちょっと違ってくるんだよ」

 

 つまりはあれか、ドラマとかだと温泉のやつが有名だが……オリジナルの武将が現代に現れるのと、昨今美少女にばかりされている武将が美少女の姿で現れる……みたいな。うん、我ながらたとえが酷いな。しかし大体そういうことだろう。

 

「その女の子も誘理ちゃんが目的みたいですし、様子見をして誘き寄せる方向で行ってみたほうが良いかもしれませんわね。目的が不明瞭ですもの」

「結論はやっぱり様子見か」

 

 俺が問うと、真宵さんが肯く。

 やっぱり最初の結論と同じ、様子見しかないんだな。

 

「ええ。なるべく目を配れるようにしておきますので、しばらくは春国くんと誘理ちゃんにはここに泊まっていただいて、たまに外に出て犬神の目的地を明確にするといいですわ。殺された人物の情報も洗いたいところですし、そちらの調査をする時間も入り用ですわ。ですが、完全に見失われても困りますから、一日一回鏡界の外に出てお散歩をしてくださいな」

 

 その説明に春国さんが「ううっ」と唸る。

 狐面を被っているので表情は分からないが、明らかに躊躇いの浮かんだ声だった。逆に誘理は、彼の着物で遊びながら一緒にいられることを喜んでいる。

 

「幼いとはいえ、女の子とひとつ屋根の下なんて……なにを言われるか分かったものじゃないですかあ」

 

 ああ、彼が懸念しているのはそれか。

 気持ちは痛いほど分かる。だが、狐兄弟か笑顔でゴーサインを出しているうえ、「なにかあろうものなら主の処分は俺が」なんて銀魏さんは言い始めている。処分て。

 

「なんですかその沈黙は……わ、分かりましたよ……やればいいんですよね、やれば……うう」

「やった! これから一緒でしゅねハル!」

「う、うん……うん……」

 

 誘理の懐きようからして春国さんなら大丈夫だと思うが、彼の心境を思うとどうしても複雑な気持ちになるな。

 

「へへ、もうどうにでもなーれです」

 

 こうして、話し合いは「経過観察」ということで落ち着き、春国さんと誘理の共同生活が始まったのであった。

 もちろん、その日はもう夜遅くになってしまっていて俺と紅子さんも解散することとなる。俺は屋敷に帰らないといけないからな。

 

 しかし、結局は彼らの経過も気になるわけで……こっそりと通ってみよう。紅子さんも誘理のことが心配なようで、「明日も来ようかな」なんて言っていたくらいだ。

 

 結局この「犬神騒動」が終わるまでは彼らに付き合うことになりそうだな。

 

「あー、夕飯どうするか」

 

 現在時刻深夜0時。絶対におしおきされるだろうと分かっているので、帰りの足取りはひどく重たいものだった。



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犬神は天高く吠えゆく

「れーいちくん、最近楽しそうだよねえ」

「はいはい……は?」

 

 あれから数日。春国さんと誘理は着々と親子のように仲良くなっていっているようだ。そんな話を電話で聞いて気になった俺は、紅子さんと待ち合わせをしてあの表の神社に行くことにした……んだが。

 

 ソファに寝転がった神内の口から、そんな言葉が転がり出てきた。

 朝食の支度中だった俺は生返事をしてから、気がついて後ろを振り向く。こんなことを言うこいつは不気味だ。絶対になにか企んでいる……と思うのだが。

 

「ニート生活は楽しい?」

「同盟で働いてるんで」

「お前は私の小間使いなのにー」

「今時兼業もさせてくれない人がいるとしたら、それはとんだ甲斐性なしです」

「……多分それ、私への悪口なんだろうけれど、色んな方向に刺さると思うよ? まったく、童貞だから世間のこともよく知りもしないで言えるんだよ」

「それ童貞関係ないですよね?」

 

 軽口でやりあいながらも朝食を作り、自分の分と分けて神内の分を取り分ける。それからお弁当用のおかずを分けてっと……なんで俺、こんなやつのお弁当作ってるんだろう。虚しくなってくる。

 

「ますます主婦みたいだね」

「うるせえ」

 

 そんなこんなで奴を送り出し、急いで近所の古い神社へと出かける準備をしているのだが……あれ、もしかしてなんか話を誤魔化されたような気がするな。

 一応、警戒はしておこう。あいつが今度のことになにか首を突っ込んで来るかもしれないからな。

 

「行くぞリン」

「きゅいんっ」

 

 そうして、俺は肩にリンを乗せて竹刀袋と鞄を反対側の肩にかける。

 赤竜刀を持っていくのはいつものことだが、念のためにも必要だ。なにかあったらいけないからな。リンをお留守番させるわけにもいかないし。春国さんもいるから大丈夫だろうが、誘理を不幸な目には遭わせられないからな。

 

 気合いを入れよう。今日は様子見しに行くだけだが、念には念を入れてってやつだ。俺が腑抜けていたら、前みたいにバッドエンドに向かうなんてこともありえるのである。だから気合いを入れる。

 

 神中村に引き続き、必ず良い終わりにしてみせるんだ。

 絶対にバッドエンドになんてさせない。

 

 そんな決意を胸に抱いて――駆ける。

 

 ◇

 

「間に合ったかな」

 

 速度を緩め、減速しながら呟いた。

 格好つけてこんなことを言ってみているが、実際にはただ単に神社で待ち合わせをしていただけである。

 

「五分遅い、不合格」

「え、マジか」

「マジだよ、マジ。もう、いつになったらお兄さんは遅れないで目的地に来れるの?」

 

 呆れ顔の紅子さんに愕然としながらも謝り倒す。

 彼女の紅色のマントの中からひょっこりと顔を出す八千に、俺の肩の上からリンが手を挙げて一声鳴いた。こっちも多分挨拶だろう。ぷいっと不機嫌そうに視線を逸らした八千に、リンが慌てて飛び立ちご機嫌取りに行った。

 なんだこれ。俺だけじゃなくてリンまでまさかそんな……? どうなんだこれは。こいつらは喋らないから分からないんだよなあ。リンが俺に言いたいことくらいはなんとなく分かるんだが。

 

「まあいいかな。何度か表にはお使いに行ったり、一緒に買い物をしているみたいだよ。アタシも誘理ちゃんには会いたいし、わりと頻繁に会いに行ってるんだ」

「紅子さんもすっかり誘理ちゃんに懐かれてるよな。面倒見もいいし」

「可愛い可愛い後輩だからね」

 

 幽霊の後輩的な意味でか。

 アリシアのことも彼女は気に入っているし、本当に年下の女の子に弱い気がする。一年くらい前はかなりツンケンしていた紅子さんが、ここまで面倒見の良い子になるとはなあ。子供、好きなのかな……いや、他意はなく。って、俺はなんで言い訳してるんだ。まだまだ妄想の域をでないだろこんなの。告白も、そしてOKももらってないんだから。

 

「子供、好きなのか? 行動が予測しづらいし、そういうのは苦手なんじゃないかと思ってたよ」

「まあ、ね。結構可愛いもんだよ。懐いてくれると嬉しいし、頼りにされるのは悪い気しないよ。それに……」

 

 そっとあちらから手と手を絡めて来る。

 少しだけはにかんで俯く彼女の顔は赤い。期待しちゃうよな、こんな反応されてしまうとさ。まだ我慢、まだ我慢……鋼の精神で我慢だ。

 

 手を繋ぎながら歩みを進めて周囲を見渡す。

 確か現代の玩具を欲しがっている誘理のために、春国さんが一緒に買いに行こうとしているんだったか。その付き添いに俺達も付き合うことになっている。

 誘理は今のところ、腕に同盟印のミサンガを身につけている。それのおかげで幽霊ではあるものの、見えるし聞こえるし触れられる状態になっている。

 だから直接店に行ってお気に入りの玩具を探すことがてんきるんだが、春国さんだけだと色々と問題が発生する可能性がある。主に職質とか。

 

 だからといって大勢で向かって職質されないとは限らないが、二人きりよりは大分マシだろう。そういう意味での付き添いである。

 

「ん、そろそろ来るって」

 

 紅子さんが本殿の方向へ顔を向ける。

 彼らが鏡界を潜り抜けてくる以上、彼女の懐にいる八千が察知して報せてくれるのだ。

 そしてすぐに、本殿の方向が水面に小石を投げたように歪む。波紋はどんどん大きくなり……その場に春国さんと、彼と手を繋いだ誘理が現れた。

 

「すみません、準備に手間取ってしまって」

「あちし、オシャレしゃんにしてもらったんでしゅよ!」

 

 誘理はその赤毛を綺麗に結い上げられて、簡単な着物を着ている。約束を守って着物を着せてあげたらしい。それに髪の結いかたも複雑で手が込んでいることがぱっと見で分かる。

 準備したのはきっと春国さんだろう。誘理にねだられてやったんだろうが……彼も面倒見がいい? まるで本当に親子みたいだ。

 

「すごい! 似合うよ誘理ちゃん」

「念願の着物か。良かったなあ」

「えへへ、ハルのおかげでしゅ」

「素材がいいですから、やりがいがありますよ。誘理は美人さんですから」

「ハルに褒められると照れちゃいましゅ」

 

 ポンと彼女の頭を撫でて春国さんがふんわり笑う。

 微笑ましい光景。俺達も思わず笑顔になるような二人の絆を感じる。やはり、強制的に浄霊してしまうことを選ばなかった春国さんは優しい。

 

 こんな光景がいつまでも続けばいい。

 

 ――そう、思ったときだった。

 

 ヒュルリと風が鳴く。

 そしてその場に犬の遠吠えが響いた。

 

「リン、来い! ……春国さん!」

「分かっていますっ、誘理こっちへ!」

 

 咄嗟の判断でリンを呼び出し、彼らの前に立って手を構える。

 ガギンと鈍い音をたてて、俺が翳した赤竜刀になにかがぶつかった。

 

 それは黒いモヤのようなものだ。

 刀に纏わりつくように黒々としたモヤが現れたのである。

 いや……違う。モヤの中から鋭い牙が覗いていた。黒いモヤに覆われたナニカが赤竜刀に食いついている。

 

「っふ」

「オオオオオオオン!」

 

 モヤの背後から音もなく現れた紅子さんがガラス片を振るうが、モヤは赤竜刀から離れて空中を漂い……神社の参道のど真ん中に降り立つ。

 

 それから黒い煙のようなモヤが大きな大きな犬に似た形を取った。

 

 黒い煙に浸食されたような、そんな不気味な犬の形をしたナニカ。

 爛々と光る真っ赤に染まった瞳と、血に塗れたような赤錆色の牙だけが嫌に強調されるように輝いていた。

 

「オオオオオオオオオオオオン!」

 

 そいつが天高く吠える。まるで歓喜するように。

 

「紅子さん、八千を通じて真宵さんとおいぬ様を呼んでくれ! 俺がどうにかして誘理と春国さんを守る! もちろん、犬神を殺さないようにだ!」

「分かった。少しの間お願いするよ」

 

 ギラギラと憎しみに塗れ、狂気に支配された瞳が向けられている先はただひとつ。誘理のみ。

 

 犬神を助けるという目的がある以上、こいつを赤竜刀で殺してしまうわけにはいかない。さっきみたいに、誘理達を庇いながら受け流し続けて真宵さん達が来るのを待つしかない。そして、犬神の目の前で「誘理が術者に見える呪い」を解呪してもらう必要がある。

 

 辛抱しろよ、俺。踏ん張り所だぞ! 

 

「絶対に失敗したりしないからな」

 

 言い聞かせるように口にする。

 それからゆらゆらと燃え上がる決意を胸に、正眼に赤竜刀を構えた。

 



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時間稼ぎの攻防

「グルルルルルォ!」

 

 何度も何度も、俺を無視して誘理達の方向へ向かおうとする犬神の前に滑り込み、その牙を赤竜刀で受け流しながら妨害する。

 そんなことを繰り返していれば当然犬神も怒るわけで、俺を殺さなければ目的を達成できないとばかりに、今度は俺に向かって猛攻を仕掛けてきた。

 

 ゴポゴポと黒いモヤが沸き立ち、犬神がいるであろう場所からは無限なんじゃないかと思うほどに溢れ出てくる。動きについていけなかったモヤがいくらか風に流されてもなお、その中身は見えない。

 あるいは中身なんてないのかもしれない。犬神らしく爛々と輝く瞳や頭部だけが実体で、体はモヤで構成されているという可能性もある。

 

 犬神は本来土に埋められ、目の前で餌をお預けされ続けた犬が限界を迎えた際に首を()ねられ、そこから生まれる犬の首が本体だからだ。

 

 向かってくる犬神の頭らしき場所に、赤竜刀の峰部分を叩き込む。

「ギャン」という犬の悲鳴のような声と合わせて、春国さんに抱きしめられて庇われる誘理から小さく悲鳴が上がった。

 ごめん。殺さないように手加減しているとはいえ、飼い犬が痛めつけられているのを見るのは辛いよな。なるべく回避と受け流しに徹底しないと……! 

 

「あっぶなっ!」

 

 再び金属音。

 犬神の鋭い牙と赤竜刀とがかち合い、甲高い「ギャリギャリ」という音が鳴る。鍔迫り合いの最中にも黒いモヤが刀を伝ってこちらに来ようとするが、それに関しては赤竜刀から火の粉が散るように発せられる薔薇色の炎によって塞がれている。

 この浄化の炎で防げて消せるということは、あのモヤ自体がなんらかの呪いなのか、もしくは穢れと呼ばれるものなのかもしれない。人外の一部が発する穢れは、触れたり近くにいるだけで悪影響があるものもあるのだ。きっとそういう類に違いない。

 

 ますます赤竜刀とは相性がいいが――。

 

「あと三十秒、お待ちくださいな」

 

 その場に声が響いて、そして春国さん達がいる場所に真宵さんとおいぬ様が降り立つのが横目で見えた。連絡は上手くいったようだ。

 

「っと」

 

 赤竜刀から犬神を振り払い、その場をぐるぐると走り回るそれを目で追いかける。立ち回りに気をつけながら、なるべく俺が盾となるように春国さんや誘理に背を向けて立っているわけだが、これだけのスピードがあると横を抜けられる可能性もある。なんだかスポーツのディフェンスをしている気分だ。

 

「……どんどん早くっ」

 

 犬神にも知性はあるんだろう。俺を撹乱するようにあちこちに走り回り、フェイントまで交えて後ろに抜けようとしてきている。俺を殺して誘理を狙うのが一番手っ取り早いが、このままでは場が膠着して動かないと判断したらしかった。そうだな、俺だって時間を稼ぐためにこうしているんだし。

 

「お兄さん、あと少し!」

 

 ディフェンスに紅子さんが加わり、解呪まであと十秒程。

 

「オオオオオオオオン! ニクイ、ニクイ、ニクイ。ソコヲドケ!」

 

 あと八秒。

 

「そういうわけにもいかないんでね!」

「行かせはしないよ」

 

 あと六秒。

 

 犬神が加速する。そしてその牙に合わせて刀を滑らせようとして……突如、お腹に衝撃を受けてニ、三歩よろめいた。噛みつきと見せかけて、爪の長い後ろ足でのサマーソルトが俺の腹に当たったのだ。

 

「お兄さん!」

 

 あと三秒。

 

 切り裂かれた服や傷口に黒いモヤが纏わりつく。そこからじくじくと痛んで、穢れが侵食していく。

 膝をついて、けれど「紅子さん! そっち!」と彼女にディフェンスしてもらうように声を張り上げた。

 

 あと――。

 

 黒い影が俺達のディフェンスを抜けて春国さん達のところへ突っ込んで行く。

 

「っさ、させませんよ! 絶対に殺させませんからね! 大事な人を誤認識で殺してしまうなんて、そんな悲しいことさせませんから!」

 

 震えて足元が覚束ない春国さんが、誘理の目の前で腕を広げる。

 そして真っ白な狐の尻尾を顕現した状態で大幣(おおぬさ)を構えた。

 

 臆病で、この状況でも怖がっている彼が立ち向かう。

 その背後ではおいぬ様が誘理の頭に手を乗せて解呪している最中。

 

 飛び込んできた犬神を大幣で受け止めた春国さんは、恐怖からかめちゃくちゃに泣きながらその体を押し返す。黒いモヤも彼の白い神気によって押し返されている。

 

 そして。

 

「クロしゃん!」

 

 おいぬ様の元で、解呪されていた誘理が叫んだ。

 その声を聞いて犬神は動きを止める。

 

 あと、0秒。解呪までの時間稼ぎはこれで終わりだ。

 情けない。たったの三十秒も耐えられないとは……しかも油断して反撃を食らって穢れにやられてしまうだなんて、実に情けなさすぎる。

 神中村のときのように、人形の動かす蜘蛛じゃなくて知性も理性もある賢い犬が相手であることをすっかり失念していたようだ。

 

「……ユーリ?」

 

 ぽつりと、声が聞こえる。

 春国さんに今にも飛びかからんとしていた犬神は歩みを止め、呆然としてその背後を見つめていた。そして、体にかかっていた黒いモヤが段々と薄れていき、その黒い体が露わになる。毛足が長く、ウェーブした美しい毛並み。闇をも吸い込むような漆黒の毛皮の中に、赤い宝玉のような瞳が二つ、強調するように輝いている。濁っていたその瞳にはようやく光が戻り、戸惑ったような、しかし喜ぶような声がその場に響いた。

 

「よかった」

「ひとまず安心かな」

「ああ」

 

 思わず安堵のため息が漏れて、紅子さんもその様子を最後まで見守って終わったと判断したんだろう。安心したようにそう言った。

 おいぬ様や真宵さんも二人の様子を優しい目で見守っているし、あの二人が近くにいるから、突然になにかあるということもないはずだ。

 

「そうだ。お兄さん、穢れの治療しないと」

「ごめん、迷惑かけるな」

「いいって。でも、もう油断はしないようにね」

「分かった」

 

 紅子さんの肩を借りて片膝をついた状態から起き上がる。

 爪で裂かれた傷跡は細く、ほんの少しだけだが一向に滲んだ血が止まらない。穢れだと思われる黒いモヤは犬神が正気に戻って薄れているが、それでも俺の腹にある傷口を侵食し続けている。多分これのせいで血が止まらないんだろう。呪われているようなものだからな。

 

 これはおいぬ様に診てもらえばなんとかなるだろうか。

 一度立ち上がってしまえばなんとか自力で動けるようになったので、二人で誘理達の元へ向かう。

 

「クロ! クロしゃん! あちしが分かりましゅか!」

「ユーリ。ユーリ。ヤット、見ツケタ。ユーリ!デモ、ドウシテ?」

 

 片言ながらもしっかりと話すクロに、誘理がその毛皮に埋もれるように抱きついている。よかった。本当によかった。

 犬神は嬉しさ半分、困惑半分といったところだろうか。誘理に会えたことを喜んでいるが、突然目の前からターゲットが消えたものだからびっくりしてるんだろう。その説明も後でしないとな。

 

 で、説明をし終わったら今度はさらにその後が大事なところである。

 

 呪い返しの要領で犬神を送り返し、それを追って術者を叩かなければならない。まさかこんなに早く、そして上手くいくとは思っていなかったが……案外早くに決着がつくかもな。

 

 しかし、どうやら俺のそんな思考はいわゆるフラグになっていたようで……感動の再会が行われているまさにその近く。

 

 ――建物の鋭角から、ぼこりと不気味な青い煙が漏れていた。



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猟犬遣いの少女、襲来

 神社の一角からボゴリと、青黒い煙が吹き上がる。

 その音は「しゅうしゅう」とまるでガスがそこから漏れ出ているように、その存在を主張していた。

 

「誘理、犬神! そこにいてはダメです!」

 

 真っ先に反応したのはやはり、「それ」を一度経験している春国さんだった。

 俺と紅子さんもその煙に反応して駆け出すが、春国さんのほうが早い。

 真宵さんとおいぬ様はそちらに目を向けているが、動かない。神様連中はこういうとき、まるで役に立たない。いや、動いてはくれない。

 なぜなら、神様達は人間の試練は人間自身に解決させようとするからだ。真宵さん曰く、「子供の宿題を大人がやるのはナンセンスですわ」ということである。だから俺も滅多なことでは彼女達を頼らない。

 

 間に合え! 

 

「もういいかーい? もういいかしら? やっとみーつけた!」

 

 芝居がかった女性の声があがる。

 それと同時に、ボコボコとあぶくをあげるように青い煙を放出していた一角から大きなナニカが飛び出してきた。

 

 それは――犬だ。犬の、巨大なぬいぐるみだった。

 

 ゴールデンレトリバーの姿をした、けれど尻尾がサソリのようにしなっており、口から伸びる舌は細く長い。

 全てが曲線で構成されたそのぬいぐるみは普通のゴールデンレトリバーよりもなお大きく、ライオンほどもある。そして、曲線を保つためにか大袈裟なまでにデフォルメされたデザインのぬいぐるみに乗る一人の女性。その腰には太刀サイズの刀剣が固定されていて、彼女は犬神と誘理を見た途端うっとりとするように笑った。

 

 彼女は犬に乗って共に青黒い煙から飛び出してくると、その背中で「制限解除、制限解除よティロちゃん。思う存分暴れてストレス発散しなさい?」と呟いて犬の背中に手を滑らせる。

 

 やがて、背中のファスナーを開けられて空中でぬいぐるみを脱ぎ捨てた「中身」が露わにあり、女性はその背中から前転するように身を躍らせ、鯉口を切る。それから回転して勢いを増すようにして誘理目掛けて太刀を抜き放った。

 

「させません!」

 

 犬神と誘理、そして女性の間に滑り込むようにして春国さんが大幣(おおぬさ)を振りかざし、太刀の重い重い一撃を防いだ。

 その様子にきょとんとした表情になった女性は、鍔迫り合いをしながら彼の姿を上から下まで眺めて口を開く。

 

「あら、あららら? あなたは電車のときにいた人ね。そう、そうなのね、あなたもこいつの運び手だったのね? どうしてこんな場所にあるか分からないけれど、壊すなら今のうちよね!」

 

 壮絶なまでの笑顔。狂気さえ滲んでいるんじゃないかと思うほどの強い視線。そして、冷たく感じるほどに誘理を害そうとする意思。

 肩で揺れる女性のふんわりとしたピンクブロンドの髪がその雰囲気を優しいものに仕上げてはいるが、その実態は恐ろしいほどまでに殺意に溢れている。

 

「アウウウウウウン!」

「オレモ狙イカ!」

 

 真宵さん達が言っていた、確か「ティンダロスの猟犬の分け身」と思わしき存在がクロを襲い、クロも先程俺達を襲ってきたときのように黒いモヤを発生させて突組み合う。文字通りのドッグファイトが神社の片隅で行われ、そして女性と春国さんが対峙する。

 

「紅子さん、犬神のほう頼めるか?」

「瘴気がすごいからお兄さんは行かないほうがいいねぇ。アタシに任せて!」

 

 その回答を聞いて、紅子さんに行ってほしくなくなったが彼女もやる気だ。あちらは任せて俺は春国さんの加勢に向かうことにする。

 

「春国さん、大丈夫ですか!?」

「無理無理無理ですぅぅぅ!」

 

 素直かよ。

 

「なんとも弱虫ねぇ……怖い? 怖いなら引き下がっていてちょうだいな?」

 

 打ち合い、春国さんの大幣が弾かれる。

 当たり前だが彼の大幣は刀でも物理攻撃に使えるものでもない。あれは彼専用の弓なのだから。

 

 浄破理(じょうはり)ノ弓〝科戸(しなと)ノ風〟

 

 

 それこそがあの大幣の名前だ。あれは弓であり、春国さん自身も弓を使っての大規模浄化を主としているために、彼は純粋な物理の戦闘となると上手くいかないはずだ。

 

「俺がやります、春国さんは誘理を」

「すみません、ありがとうございます! 誘理、ほら逃げますよ」

「で、でもクロしゃんが」

「クロなら大丈夫ですから!」

 

 逃げ出す二人を隠すように立ち、女性と向き合う。

 キリッとした薄い紫色の瞳に、肩口でふんわりと広がるピンクブロンドの髪。両前髪の一部だけ枯れ葉のような色の金にグラデーションされていて、耳の後ろでそれぞれ赤い紅葉のような色のリボンで結われた三つ編みが揺れている。

 両側で三つ編みをしてはいるものの、後ろ髪は風で遊ばせられていて、彼女が太刀を大きく振りかぶると一緒にゆらりと揺れていた。

 

「逃がさない、逃がさないわよ。あなた、私の邪魔をするのね。もしかしてあなたも未来を変えたい一人かしら。なら、斬り捨ててもいいわね。ティロちゃんも許してくれるわ」

「未来? 変える? なにを言ってるんだ」

 

 女性が太刀を回し、鞘に納め……それからまた鯉口を切る。

 居合でくるか? そう思って右手を広げて「リン」と呼ぶ。一時的にドラゴンの姿に戻っていたリンがポケットの中から現れて赤竜刀に変化した。その様子を見て少しだけ女性は目を丸くしたが、それも一瞬だけ。

 

 ――次の瞬間、女性が一気に踏み込んできた。

 

「あら、あららら。すごい、すごいわ! 私、結構これでも早いほうなのよ!」

 

 上から振り下ろされる太刀を、俺の手の中にやってきた赤竜刀で受け止め、そのまま力に逆らわず地面に逸らすように刀を真横に下ろす。

 太刀の勢いを殺して地面に流し、石畳を叩いた衝撃で手が痺れたんだろう。女性は眉を顰めるとそのままバックステップ。俺はそのまま返す刀で峰を向けるように下から上へと振り上げるが、紙一重でそれは(かわ)された。

 

 今の攻防で分かったことは一つ。

 この女性は別に刀の取り扱いに長けているわけではないということ。居合の速度は凄かったが、他の動きは一拍思考しているように間が開く。

 俺だって刀の扱いに長けているわけではないが、今まで積んできた経験値というものがある。それを彼女の刀の振り方からはあまり感じられない。

 急拵えで居合だけ形にしてきた……そんな動作だ、多分。思いっきり外れていたら恥ずかしいが、なんとなくそんな気がする。昔の俺があんな感じにぶん回すことを主軸にしていたからだ。

 

「あなたも未来を変えたいんでしょう? 大切な誰かが死ぬ未来を。でもね、そんなのいけない。いけないわ。運命は存在するのよ。人を殺してでも未来を変えるだなんて馬鹿げている」

 

 なにやら彼女は勘違いしているみたいだが、俺は否定せず黙ったまま斬り合いを続ける。彼女が目的を自ら語ってくれるというのなら、そのほうが都合がいいからだ。

 

「犬神がなんでこんな辺境な場所にいるかは分からないけれど……私を誤魔化しながらターゲットに箱を渡す作戦だったんでしょう。未来を変えようとする不届き者は、私が止めるわ。ねえ、ティロちゃん」

 

 視線が動く。

 あちらの女性の太刀と打刀(うちがたな)の赤竜刀で切り結び、離れ、誘理と春国さんに近づけさせないようにしながら立ち回る。

 それから首を巡らせば、離れた場所で噛みつきあいをしながら決闘をする二匹の犬のようなものと、犬神に加勢する紅子さんの姿が見える。

 

 そして……。

 

「よそ見は危険、危険よ!」

「っく、しつこいぞ!」

 

 重い太刀を使っているはずなのに、非常に素早く彼女は攻撃を仕掛けてくる。

 俺を殺そうとしていることは間違い無いだろう。

 

 建物の中に逃げた春国さん達と、その前で結界を張る真宵さん。あの二人はもう大丈夫だろう。しかし問題は犬神のクロだ。クロが死んでしまっては元も子もないのだし、クロも避難してほしいんだが……。

 

「言っておくけど、君はなにか勘違いをしている」

「勘違いなんかじゃないわ。犬神と箱を囲っていたということはそういうことだもの!」

 

 この子については、頭に血が上っているのかどうなのか、今のところ話が通じそうにない。冷静に話し合う場でも設けられれば誤解は解けそうなもんだが、さてどうしよう。

 

 恐らく一度戦闘不能にでもしない限りこのままだろうし、峰うちで気絶させることさえできればなんとかなるだろうか? 

 

 作戦を練りながら攻防を続ける。

 いや、本当にどうしよう……? 



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一刀一扇の連携

 そうやって俺が悩みに悩んでいるときだった。

 背後で「ギャインッ」と連鎖するように鳴き声がして、目の前にいた女性が「ティロちゃん!」と叫んだのである。

 

 気になって振り返ってみれば、そこには衝撃的な光景が広がっていた。

 おいぬ様が犬同士の戦闘に割って入ったようで、二匹共にその白く長い長いツインテールに絡めとられてシメ落とされるところだったのである。

 

「こわっ」

 

 改めておいぬ様が普通でないことが分かってしまった。

 髪が蠢いてその先端は犬の口のようになりぱっくりとその口を広げている。そして長い髪で二匹の胴体をぐるぐる巻きにして、まるで蛇のように締め付け意識を奪ったのだ。巻き添えを食らったクロもである。誘理が見てなくて良かった。

 

 てっきりおいぬ様は真宵さんと同じく手を出さない派だと思っていたから余計に驚いた。犬神と猟犬が相手だからか? 

 

 紅子さんは困惑しながらもこちらに向かってなにかのサインを寄越してきた。指し示す方向は目の前で慌てている女性、そして紅子さん自身と彼女の肩に乗った八千(やち)。なるほど、なんとなくだがやりたいことは分かった。

 

 小さく頷いて女性に向き合う。

 

「ティロちゃん! この、退け。退きなさい!」

 

 なりふり構わず太刀を振るう女性に合わせて、やはり受け流しを選択する。

 俺の横を抜けて犬の元へ向かいたいのだろうが、そうはさせない。受け流し続け、立ち塞がり、ときおり攻撃を加えるようにしておいぬ様達から距離を開けるよう誘導する。

 明らかにイライラし始めた女性は、焦った表情でシメ落とされてぐったりした猟犬をときおり見つめている。

 あともう少し。元から洗練されているわけではなかった刃の動きに雑さが加わり、更に大雑把な攻撃に変化する。そして焦れに焦れた彼女が小さく唇を噛むと、大きく俺から距離を取って刃を下に垂らす。

 

 それから目を瞑り、数秒硬直。

 彼女の持つ刃からゆらりと青黒い煙が吹き上がった。あの猟犬と同様の煙だ。瘴気と呼ばれるそれは触れるだけで皮膚を爛れさせるほどのヤバい代物だが、彼女は不思議と平気そうに太刀を握り直し、目を……開いた。

 

 同時に俺も駆け出し、彼女も一歩踏み込んで刀を振り上げようとして――。

 

「なっ」

 

 振り上げようとした刀剣をその場に静かに現れた紅子さんが、宵護の扇子を持って刃があげられないように防ぎ、女性が動揺の声を漏らす。

 そこへ肉迫した俺は赤竜刀を振りかぶり、恐怖が瞳の中に滲む彼女に向かって思いっきり叩きつける。

 

 ……もちろん、峰うちでだ。

 

 峰うちとはいえ、結構な衝撃を受けただろう女性が体を傾けさせ、その場に崩れ落ちる。紅子さんがそんな彼女を、頭を打ってしまわないようにと受け止めて、顔を覗き込んだ。

 

「うん、気絶しているよ」

「……そうか」

 

 安堵のため息をふうと吐いて、刀を下ろす。

 そういえば、同じ刀剣を持った人間同士で戦闘するなんて初めての経験じゃないか? よくやれたな、俺。もう一度同じことをやれと言われても出来なさそうだ。

 

 それに、紅子さんの意思をちゃんと間違えずに汲み取れていたことが幸いした。彼女はジェスチャーで、「鏡界移動で意表を突くからその隙に攻撃しろ」と言ってきていたのだと思う。結果的に間違っていなかったみたいだから問題なしだ。

 

「お見事でしたわ」

 

 パチパチと拍手しながら真宵さんがこちらに向かって来る。

 

「それにしても、おかしなことを言っていましたわね。未来を変える人間を止めるとかどうとか……ちょっとお話を訊く必要がありますわ」

「ああ、そこら辺は俺も気になっていたところです」

「ふうむ、大儀であったぞ小僧ども。此奴らは()が責を持って拘束しておいてくれようぞ。この娘の話も気になるからなあ、暫くはここにいてやろう」

 

 未来、ねえ。本当にどういうことなんだ。

 

「ティンダロスの猟犬は時間と次元を移動する力がありますわ。そして、彼らの目の前で時間と次元を越えれば目をつけられ、獲物としてしつこく追ってくるんですの。モドキとはいえ、その猟犬を従えているということは……」

 

 真宵さんの言いたいこともなんとなく分かる。分かるがそんなこと本当に可能なんだろうか? それに、そんなこと信じられるわけがない。

 

 しかし今は気絶しているこの女性は、未来を変えることは許されないとか、止めるとか、そんなことを口走っていた。あれがこの女性の幻覚や妄言でもない限りは、つまりそういうことなんだろう。

 

「彼女が戦闘中に言っていた話を聴いた限りだと、犬神……つまりクロのターゲットになるはずだった人を殺させないようにするのが目的なんじゃないかと思うんだよな」

 

 俺の言葉に紅子さんも頷く。

 

「猟犬もクロのことを噛み殺そうとしていたし、クロが殺されることで変わることがあるとするなら……それは犬神が呪殺しようとしていた人が死なないということだからね。その線が濃厚かな」

 

 真宵さんは嬉しそうに微笑んで「察しがよくて素敵ですわ」と言う。

 単純な消去法の推理だが、どうやら彼女のお眼鏡には合ったようだ。

 

「つまりはこうだよな」

 

 先程から明言することを避けていたが、俺はついにそれを口にする。

 

「この子は未来とやらを知っていて、それからズレそうになっていたから防ぎにきた」

 

 ――未来からの時間旅行者である、と。



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冬の日差しは時間と共に短く

 俺達は女性と猟犬を表の神社の中へと運び込む。

 

「お兄さん、大丈夫?」

「あ、ああ、一応。おいぬ様に解呪してもらったし」

 

 犬神から受けた腹の傷は不思議とあまり痛まない。しかし放っておくと呪いと穢れで侵食され、内臓が腐り落ちるとかなんとかやばいことを言われたので解呪してもらった。今は普通の傷跡である。

 

「ええと、確かここに……」

「春国さん?」

「あったあった、あの、これ食べてください。神社で作った桃を加工したものなので、傷の治りも早くなるはずです」

 

 神社の中、俺達一行から離れてどこかに行ったかと思うと、春国さんが桃の入ったゼリーを渡してきた。

 神中村で食べた仙果の加工品だ。確か加工品なら副作用がないんだったっけ……。

 

「ありがとうございます」

 

 ありがたく受け取って、食べることにしよう。

 それから俺達は再び会議する体勢になった。

 

 未だ未来人だと思われる女性は目を覚さないが、猟犬のほうはおいぬ様の髪の中で暴れまわっている。締め付けられてそのたびに勢いを削がれてはいるが、こちらが気絶させた女性を抱えて運んだからか、彼女の元に行こうと必死にもがいているのだ。

 

 不思議なことに、猟犬と女性は特別な絆を結んでいるようだ。ティンダロスの猟犬というものの話を少し調べてみたが、話は通じず絶えず飢えて執念深いとされているようだった。基本的に扱いは、話し合い不可能の怪物として描かれているのだが……それを考えると、この猟犬モドキの行動は不可解だ。

 ティンダロスの猟犬は人間に懐くことはなく、曲線の中に閉じ込めて辛うじて利用するくらいしかできないということだったからだ。

 最初はてっきり目的の一致で協力しているくらいの関係だと思っていたが、この様子だと普通の犬と飼い主のような関係に見える。

 

「グアウ……」

 

 その、目のないつるりとした顔の口から、注射針のような細長い舌を出しておいぬ様に抵抗している……が、何度かシメ落とされているので時間の問題だ。

 俺達が女性を害するとでも思っているんだろうか。

 

 まあ、女性が起きたらあの猟犬をなんとかしてもらうとして……。

 

「おいぬ様、クロは離していいんじゃないですか?」

「おお、そうだったな。ほれ」

「クロしゃん!」

「あ、こら誘理!」

 

 中で待機していた誘理と春国さんがこちらに近寄ってくる。

 そして気絶した女性を心配そうに見つめて、春国さんは「こちらに横にしてあげてください」と座布団を繋げて簡易的な敷布団を作り、誘導した。

 

「気絶してるだけだよ」

「それでも、たんこぶとかできていたら可哀想ですし」

「春国さん、そういえば狐の兄弟はどうしたんです?」

 

 彼は桶に水を溜め、冷水でしぼった手拭いを畳んで女性の額に乗せた。

 それから、(たもと)を紐で縛ってから「失礼します」と言って女性の頭や首の辺りに触れる。

 怪我の箇所を調べている彼に声をかけると、こちらに振り返って困ったように笑った。

 

銀魏(ぎんぎ)達がいると犬神が来ないかと思って、待機してもらっているんです。狐の神使と犬って相性がそれほど良くないんですよ。狐憑きには犬や狼をけしかけるなんていいますし、猟犬は狐を狩るものでしょう?」

 

 彼自身、心なしかクロや猟犬と距離を置いている。誘理とは仲が良いのに、今彼女の側にいけないのはそのせいなのかもしれない。なんせ、彼は空狐と精霊のハーフなのだから。

 狐は犬が狩るもの。その認識で行くと狐がいたほうが犬神をより引き寄せられたんじゃないかと思うんだが……その辺はちょっと違うのかな。さっぱり違いが分からない。

 

「彼女が時間遡行(じかんそこう)をしていたとして……けれどなにがしたいのかは、今は予測することしかできませんわね。彼女が目を覚さないことには……」

 

 真宵さんが視線を向けたときだった、春国さんが看病していた女性が「んん」と声をあげる。

 俺達もそれに反応して視線を向けると、女性がゆっくりと目蓋を開くところだった。

 

「……」

「……あの、具合はいかがですか?」

 

 ぼうっとした様子の女性は、覗き込んで尋ねる春国さんをしばし見つめ、彼も見つめ返して首を傾げる。

 寝起きで意識がはっきりとしないらしく、寝たままその手を額に持っていき手拭いを取ると、それと彼とで視線を行き来させ……最後に周囲に目を向ける。

 

「クウウウウン」

 

 おいぬ様の髪に囚われたままの猟犬が切ない声をあげ、側で警戒するクロと誘理がそちらを向いて抱きしめ合う。それから彼女の視線は俺と紅子さんに移り……。

 

「っは! 敵陣、敵陣ねっいったあああああ!?」

「んんんんん!? どうしてそうなるんですかぁ!」

 

 勢いよく体を起こしたせいで、春国さんと彼女が盛大に頭をぶつけ合うこととなったのである。なにやってるんだ、お約束かよ。

 

「くうっ、ティロちゃんになんて酷いことをするの! 私のことも辱めるつもりだったのかしら!? 酷い、酷いわ。私にはやらなければならないことがあるのに……!」

 

 ぶつけた頭を押さえながら涙目で言う彼女。

 そんな彼女に春国さんは、びっくりしたのか白と桃色の髪の中からひょっこりと狐の耳を出して震えながら「ち、違うんです! 誤解ですよぉ!」と弁明を始める。

 

「なにが違うのかしら! これからそいつをターゲットに送りつけるつもりだったのでしょう!」

「だから違うんですって! 僕はただ、あの電車で居合わせてこの子達の箱を押し付けられただけであって、呪殺関係にはなんら関係ありませんし、この子達だって本意で呪いになっているわけではありません! それとここは僕ら狐が祀る稲荷の神社ですよ! そんなことに加担するなどありえません! ええ、ありえませんとも! あなたに霊力があるなら少しは分かるでしょう! ここの清浄な空気が!」

 

 怒鳴りつける彼女の両手を取って、一気に捲したてるように春国さんが言う。

 今まで見てきた彼の性格は大人しく臆病で控えめ……という印象だったのだが、その説得の言葉の数々はすらすらと彼の口から出てくることとなった。

 その勢いにびっくりしたのだろうか? いや、多分両手を掴んで至近距離で捲し立てたからだろう。女性は真正面から春国さんに迫られるような形になり、思い切り顔を背けた。

 

「ち、近いのよ。分かった、分かったから手を離しなさい!」

「え、あっ、あっ、すみません!」

 

 パッと離れて顔を朱に染める春国さん。未だに動揺しているのか、なかなか狐の耳が治らない。こんなことになる彼は初めて見たが、興奮し、動揺しているのは明らかだ。感情の昂りで耳が出てしまうのかもしれない。

 

「つまり、あなた達は関係ない……?」

「ええ、そうですわ。わたくし、蛇の神様が保証してよ」

「えっ、か、神様!?」

 

 ようやく周囲の状況を冷静に見られるようになったのか、女性は大袈裟に驚いて「でもティロちゃんが」と不満を言葉にする。そういえばまだ拘束していたんだった。

 

朱色(あけいろ)の。もういいわ」

「またなにかをしようものなら、すぐに()が動けることを、ゆめゆめ忘れるでないぞ」

 

 しゅるりと髪が解かれ、猟犬が解放される。

 するとすぐに彼女の元へ向かい、念のためにと回収して側に置いてあった犬のぬいぐるみの中にするりと入っていった。

 そして、そのぬいぐるみを立たせて女性が背中のファスナーを閉める。

 

「あなた達が無関係だというのなら、謝るわ。ごめんなさい。けれど私はそいつらを殺さなければいけないの」

 

 物騒なことを言う彼女に、春国さんがなおも近くで説得の言葉を紡ぐ。

 

「この子達は利用されていただけです。僕らは、この子達を利用した術士のほうを叩こうと思っているんですよ。犬神もこの通り、理性を取り戻しています。術士から解放されればこの子達も人を害すことはなくなるでしょう」

「……一応、話は聞きましょう」

 

 渋々といった様子で女性が呟く。

 

「よかった。僕は宇受迦(うつかの)春国といいます。あなたは?」

 

 春国さんが素直に名乗ると、女性は困惑したように言葉に詰まる。

 しかし、春国さんが穴が開くほど見つめ続けていると、観念したのかため息を吐いて口を開いた。

 

幽家(かくりや)幽家(かくりや)冬日(ふゆひ)よ」

 

 そして続けて俺達全員を見渡して言う。

 

「戦闘中に私が言っていたことでもう察しているでしょうけれど、私、二十二年後の未来から来たんです」

 

 ぬいぐるみの猟犬をゆっくりと撫でながら、女性――冬日さんが苦笑いを溢していた。



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未来に咲くチグリジア

「戦闘中にわたしが言っていたことでもう察しているでしょうけれど、私、二十二年後の未来から来たんです」

 

 幽家(かくりや)冬日(ふゆひ)と名乗ったその女性が言った。

 ピンクブロンドに前髪の一部が犬の垂れ耳のようにグラデーションで金色になっている。今時の女性というこの人、ちょっと押しが強いような気がしたが、先程までとは違い落ち着いた今は冷静に話せるようになっている。

 

 それにしても二十二年後か……意外と近かったな。未来って言うくらいだからもっと先の、それこそ数百年後の未来とかから来た人なのかと思っていた。

 

「キミはどうして犬神達を狙っていたのかな? 春国さんから聞いたよ。電車の中で、誘理を運んでいた人間を殺したって」

「ユーリ……?」

 

 一瞬理解できないように首を傾げた幽家さんは、紅子さんが視線を向けた誘理を見て納得したように頷いた。

 

「あの箱に入っていた子供ね。あれを追いかけて犬神が呪いを運ぶって話だったから、てっきりただの箱だと思っていました。そう、思っていました。間違っていたのね」

 

 箱の状態だと確か中身は誘理の遺骨でできた櫛だったか。それしか知らなかったのなら、まあ誘理のことを知らなくてもおかしくはない。ということは、あくまで目的は犬神だったということで。

 

「犬神による呪殺を防ごうとしたということでしょうか?」

「ええ、ええ、そういうことになります」

 

 隣の春国さんの言葉に幽家さんが頷く。

 彼女を説得した状態からその隣に腰を落ち着けてしまった春国さんは、今更席を動くということもできず彼女を横目で緊張したように見ている。斬り合いにならず、話し合いをちゃんと続けてくれるかどうか心配なのかもしれない。

 

 今の冷静な彼女なら問題ないだろうが、幽家さんのほうもなんだか気まずそうだ。こっちは別の意味で緊張しているように思える。まあ、春国さんも幽家さんも、お互いに美男美女ではある。さっき頭をぶつけたり至近距離で説得したりがあったので、そりゃあ気まずいだろう。

 

「あなたは過去を変えに来たのかしら? それとも……」

「私は……私は、過去改変を防ぎに来たのです」

 

 真宵さんの言葉に彼女が即答する。迷う素振りすら見せず、凛として言い放っていた。

 

「過去改変を防ぐために、時間遡行をしてきたということかしら」

「ええ。私は……」

 

 一拍、彼女は躊躇うように、そして言葉を選ぶように唇を震わせて視線を落とす。

 

「……私が防ぎに来たのは、とある飛行機事故を防いだ未来です。本来飛行機事故で死ぬはずの人が死にませんでした。私は、それを防ぎに来たの」

 

 言葉を濁すようにそう言って、彼女はぽつぽつと話を続ける。

 

「ある人が、飛行機事故を防ぐために過去改変をするための研究を始めました。元々その家系は霊能力に長けていて、そういう人が強く、強く望めば認識が強まり、怪異が生まれやすくなるの。それを利用して、その人は生まれ落ちた〝ティンダロスの猟犬〟を術でぬいぐるみに閉じ込めました」

 

 淡々と事実を語るように、声の色を落として幽家さんは言葉を紡ぐ。事実をただ垂れ流すように、眉を顰めながら。

 ここに神様がいるから嘘をつけないと思ってあるのかもしれない。しかし、過去改変とそれを防ぐための時間遡行なんて、真面目な話だから理解はできるんだが……それにしたって、随分と硬い表情で話をするんだな。

 

「その人は喜びました。これで飛行機事故が起きた原因である、ハイジャック犯を全員殺せばいいと。けれど……けれど、事態はそう上手くは行かなかった」

 

 彼女は正座をした膝の上でぎゅっと拳を握り込む。

 そのとなりに歩み寄った大きなぬいぐるみが、心配そうにして彼女へと寄り添った。

 

「人間には、時間遡行するのにも適正が必要だったの。その人は、自分自身が時間遡行しても五分しかいられないことを知りました。だからその人は、過去の自分に全てを託したのです」

 

 苦しげに語り続ける彼女に、隣に座る春国さんも眉を下げる。

 

「未来の自分に飛行機事故で大切な人が死ぬことを告げられたその人は動き出しました。半信半疑だった実家の術士としてのツテを辿り、とうとう呪殺を専門にする術士に辿り着いたのです」

 

 なるほど、ここまで来ればさすがに分かるぞ。

 その呪殺専門の術士とやらが犬神……クロや誘理の命を弄んだ元凶であり、過去……つまり現在。幽家さんから見た過去を変える手伝いを、呪術コレクターがしている形になるわけだ。

 そして、クロが今回狙うことになっていたターゲットが彼女の言うハイジャック犯とやらで、そいつを呪殺するように依頼した人間が、時間遡行してきた自分自身に過去を変えるよう頼まれた本人である、と。

 

「なかなか複雑だな」

「っふふ、そうかもしれませんね」

 

 苦笑いするように幽家さんが吐息を漏らした。

 事情を全て聞いた。彼女が嘘をついていないのならば、犬神関連をなんとかすれば彼女の目的である「過去改変を防ぐこと」も自然と達成可能だというわけだ。嘘をついているにしても、そうならば真宵さん達から忠告が飛んでくるだろうし、かね本物の証言と取っていいだろうな。

 

 そんな判断をしたときだった。

 

「……あえて、訊きますね」

 

 膝に拳を置いて俯いている彼女に、春国さんが目を向けてその手を握り込む。

 積極的だなあなんて呑気な言葉は出てくることなく、喉の奥に消えていく。

 

「なぜ、あなたが過去改変を防ごうとしているのでしょうか? 冬日さん、あなたはそれをずっと濁して話しています。あなたがその人となんら関わりがないのなら、過去改変を防ごうなどとはきっと思わないでしょう。猟犬を連れているのも、普通の人には無理なことです」

 

 ああ、そういえばそうだった。

 素直に事情を話してくれたから違和感もなかったが、彼女は確かに、どうして自分がそれを防ぎたいのかは語っていない。

 嘘もついていなければ、本当のことも、きっと言っていないのだろう。

 

「きっと僕は……すごく酷な質問をしているんでしょう。でも知りたい。冬日さん、あなたは……なにを抱えているんですか?」

 

 春国さんの垂れ目気味な瞳が真剣に彼女へと向けられる。

 質問自体も「なにを隠しているのか?」ではなく、「なにを抱えているのか?」と似て非なるものだし、春国さんはなんとなくその内容を推測できているのかもしれない。

 

「私は……」

 

 その過去改変をしようとしたのが彼女自身だったとか? 

 あとはどんな理由が挙げられるだろう。

 

「……」

 

 沈黙。

 静かに口を開閉して躊躇う素振りをみせる幽家さんに、春国さんは正面に回ってその膝の上で震える手を包み込んだ。

 

「教えてください」

「……飛行機事故が回避されることによって、それによって、死ぬ未来を防がれたのは私の母です」

 

 観念したように彼女が呟く。

 

「でも、やっぱり過去なんて変えるもんじゃありません。母は、毎日夢の中で、飛行機事故で死ぬのを繰り返しているんです。私にそれが発症することはありませんでしたけれど、けれど、母はそれで狂ってしまいました。発狂してしまって、それを望んだ父でさえ、もう手はつけられません。母の意識を元に戻すことは叶いません。それが本当に幸せだと、思いますか?」

 

 俺が思い出すのはやはり……人のまま死なせてくれと(こいねが)った、青凪さんのことなのだ。彼女も、無理矢理助けたとしたら良くて発狂、悪くて脳死する未来が待っていたらしい。それでも救おうと、あのときの俺は思っていた。迷っていた。

 

 だが、今はとてもそうは思えない。

 

 さとり妖怪の鈴里さんに諭されたときのことも同時に思い出す。

 曰く「死ぬことで救われる人もいる」のだと。生かすことが全てではないのだと。全てが上手く行くものではないのだと。

 

 その「生かされた立場」に立たされているのだろう目の前の女性を見ると、余計にあの教えが正しいものであったことが分かる。そして、俺がどれだけ傲慢だったかも。

 

 俺の予想が正しければ、きっと彼女は……。

 

 だって、彼女はどう見ても十代の女の子ではなく、二十歳かそれ以上くらいに見えるのだから。

 

「母が、飛行機事故で死んだとき……私もそのお腹の中にいたらしいです」

 

 つまり、二十二年後からやってきたという彼女は。

 

「私は、私と母が生きる未来を……私が生まれ落ちた幸せな結果を消しに来たんです」

 

 顔をあげた彼女は泣きそうに顔を歪めながらも、本当に泣くことはない。その代わりに背筋を伸ばし、はっきりとその言葉を口にした彼女は、覚悟をしっかりとその瞳の中に映し出し……そしてなにより、凛としていて非常に美しかった。



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拗れる話し合い

 それは究極の自己否定だった。

 未来、生まれてくる自分自身の存在すら、自分で殺す行為。

 そんなこと、どんなに覚悟があっても普通は成し遂げられない。考えつくことすら、できないだろう。いったいどんなきっかけがあって、そこまでのことをしようと思えるのか。

 

 聴くと彼女自身には死んだときの記憶も何もない健康体である。

 ただ、母のお腹の中で共に飛行機事故で死んだというだけで。彼女自身は母親のように悪夢に蝕まれることもない。

 いくら母が発狂していたからといって、過去にやってきてまで、そうまでして過去改変を防ごうとするものなのか? それが俺には不思議でならなかった。

 

「……そうですか」

 

 納得したように、寂しそうに春国さんが詰めていた息を吐いた。

 それから「期日は、いつですか?」と問う。多分飛行機事故が起こる日のことだろう。

 

「私はこの子と相性が良かったのか……良かったのでしょう、二週間は猶予がありました。今日で一週間目です」

「残り七日……」

 

 春国さんが箱を押し付けられてから数日が経っているわけだし、春国さん達が鏡界にほとんどの時間いたとはいえ、彼女達が箱の場所を特定するのにかかった時間もそれぐらいか。

 

 あと一週間、犬神と誘理を確保しているだけでいい……。

 

「でも、依頼者はともかくとして、呪術師のほうを叩かないと別の手段を使って呪殺されちゃうかもしれないよ」

 

 紅子さんが懸念を口にする。

 そうなんだよな、この子達だけが呪殺の道具にされているわけではないだろう。かなり強い呪いを持つ蠱毒の犬神だから真っ先に使われただけで、呪術コレクターと言われる人がそれ以外に呪殺する手段を持っていないわけがない。

 放っておけば確実に過去は改変されてしまう。それも、俺達の預かり知らぬところでだ。

 

「そうですわね。なら、当初の予定通り呪い返しをして、コレクターに会いにいくほうがいいでしょう。早めに実行したほうが良いでしょうが……どういたしましょうか」

 

 真宵さんが冬日さんを見つめる。

 あなたのお好きなように。そんな風に言っているだろうことが分かる視線だった。真宵さんは彼女の判断に委ねようとしているみたいだな。神様は人の意思に左右される……と言いたいらしい。

 

 強固な覚悟を持っている彼女を尊重しているのだと思う。

 

「できうることなら、できるなら今すぐにでも」

 

 前のめりになってそう言う彼女に、真宵さんが頷きかけたときだった。

 

「待ってください」

 

 横合いから春国さんが異を唱えたのは。

 真剣な表情でじっと幽家冬日さんを見つめる彼は、眉を下げて「一日くらい休んだほうがいいですよ」と言った。

 

「あなた、お話を聞いていたのかしら? 聞いていなかったのかしら? 私は急いでいるんですよ」

「それでも、です。冬日さん、目の下にクマもありますし、もしかしてあまり休んでいないんじゃないでしょうか。万全の状態でないと、上手くいくことも失敗してしまいかねません」

 

 

 正確には、術師の魔の手を全て期日まで防げばいいだけで、殺してしまう必要はない。それは幽家さんに関しては、だ。

 静観しているが、蠱毒の犬神であるクロはその限りではない。彼は誘理のためにも、そして自分自身のためにも術師を殺そうとするはずだ。

 目的は両者でほとんど一致しているが、そのあたり、どうするかはまだ決まっていないのである。

 

「のう、小僧共。お前達にはその小娘とこの幼子の事情が分かっているだろうが、その小娘は幼子の事情なぞ知りもせん。()には、話を急かしすぎに見えるぞ。少しは考えよ」

 

 自由自在に蠢く白髪で誘理を持ち上げながら、口出しをしていなかったおいぬ様がぽつりと言葉を漏らす。

 おいぬ様はきゃっきゃっとはしゃいでいる誘理に、「おお、よしよし」と無理矢理クロを交えて遊んでやっている。誘理達にとっては非常に長く、そして退屈な話になっていたからだろう。暇を持て余した子供をあやす姿に、自然と眉が下がった。

 

「そうでしたね……誘理達のことも考えないといけませんし、目的の人物が一緒なら足並みは揃えたほうがいいです」

 

 春国さんからの視線を受けて、俺も肯く。

 そして、ひとまずは誘理達の事情も知ってもらおうと幽家さんに向かって口を開こうとして――。

 

「いい加減にして、いい加減にしてちょうだい! その子達の事情なんて知ったことではないわ。私が合わせる前提で話を進めるのはやめてちょうだい! それに私は事を成したら消えていく身。クマができていようがなんだろうが関係ないわ! 急ぎだって言っているでしょうに!」

 

 怒鳴る彼女に、誘理が竦み上がって春国さんの元へと「たたた」と走り寄り、その着物の内に入る。困ったようにそのあとを追いかけてきたクロは、唸りながら幽家さんに牙を見せた。

 

 だめだ、拗れている。このままではいけない。

 

「そこな小娘……ちと五月蝿いぞ。呪い返しは()の領分。吾は愛おしい子らにこそ、協力してやらんこともないと言っておるのだ。そう、自暴自棄になっては、お前だけとって食ってしまうぞ?」

 

 ニヤリと笑みを浮かべるおいぬ様に、ひっと幽家さんが声をあげる。

 実際には、おいぬ様は人を害さない……はずだったので単なる脅しかけなんだろうが、かなりの迫力がある。正直本気でパクッと食べられてしまいそうな怪しい笑みだ。

 

 でもああいう脅しかけは何度か見たことがある。

 特に紅子さんとか……。知らなければ心底怖いだろう。おいぬ様は特に白目の部分まで真っ黒だし。見た目だけなら、凶悪な怪異そのものだからな。

 

「クウン」

「ティロ…………自暴自棄、そうね自暴自棄になっているわ。ティロにまで心配されちゃったら、どうしようもないわね」

 

 ぬいぐるみに入っているため表情などは一切分からないが、彼女が連れてきたティンダロスの猟犬も、心なしか心配気な声をあげている。

 本当に伝承とは全く違うんだな。こいつもある意味クロと似た感じなのかもしれない。確かに彼女とティロとの絆はあるようだし、切っても切れない縁のようなものもあるんだろう。まさに犬と飼い主に近い関係だ。

 

 そんな猟犬。ティロにまで心配されてちょっと冷静になったのかもしれない。

 彼女は眉間を指先で揉んで目を瞑った。

 

「……分かった、分かりました。ティロに免じて一応、その子達の事情も聞きましょう。そしてまだお昼にもなっていませんから、今日はゆっくり休むことにします。それで満足ですか?」

「休んでくれたらそれでいいんです。ここの小屋を貸しますから」

 

 まだ少し不満そうだが、さっきまでの怒りっぷりよりはマシだ。

 常に穏やかで臆病な春国さんとは、まるで真逆の印象を受ける幽家冬日さん。

 

 拗れに拗れた話し合いは一旦落ち着き、彼女を休ませるという結論で終わった。



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いたいところ

 銀魏さん達がやってきてお茶やらお昼ご飯やらを用意して帰っていった。

 その間に俺達は幽家(かくりや)冬日さんに誘理達の事情を話し、今度は誘理もちゃんと幽家さんの目的を聞いた。理解できているかどうかは分からないが、真面目に聞いていたので多分大丈夫だろう。

 

 こうしてやりとりをしているうちに正午になった。

 

「そう、そうなの。その子達も被害者なのね」

「ええ、ですからこの子達の目的も果たしてあげたいんです」

 

 話が終わって、正座していた誘理が立ち上がり春国さんの背中に飛びつく。

 彼は少しだけ「わっ」と声をあげたが、もう幽霊の誘理に怯えることはなかった。その代わり、まるで父親みたいな顔をして背後で抱きつく誘理の頭を片手だけで撫でる。

 

 紅子さんは隣で腕を伸ばして体をほぐし、彼らの様子を見てか俺の肩に寄りかかってくる。くつろいでいるようで眉間を指で揉んでから、ぐりぐりと俺に甘えてきているのだ。俺がくつろぎづらくなってしまったが、これはこれで役得なので別にいい。

 

「幼子よ、もっとたくさん食うがよいぞ。()はこれだけで充分よ」

「いいんでしゅか!」

 

 お菓子で釣られた誘理が「ぴょんこぴょんこ」と飛び跳ねながらおいぬ様のほうへと向かう。子供らしい、可愛い仕草だった。

 しかしそんな様子を見て真宵さんが口元を扇子で覆い、言う。

 

「あらあら、朱色(あけいろ)のったら、飴やりおばさんみたいになっていますわよ」

「藍色の、そのはらわた食い破られたいか?」

 

 全く怒っているようには見えない笑みでおいぬ様が言う。マイナスの感情はほぼないんじゃなかったっけ……? いや、もしかして怒っているフリか? 

 そんなおいぬ様に真宵さんはくすくすと笑って対応する。

 

「きゃー、怖〜い。いいじゃない、わたくしどもはこの子にしたらお婆ちゃんですわよ」

「幼子に言われるのなら良いが、お前に言われるのは不本意だ。藍色のも自分が言われるのは避けるというに」

「それとこれとはまた別ですわ」

 

 お、女心って複雑なんだなあ。

 近くから聞こえる不穏な会話に耳を傾けつつ、そんな風に感想を抱く。

 紅子さんはうとうとし始めてしまったので、逆膝枕みたいな状態にまでなった。まさか俺がするほうになるとは……できればしてもらいたかったなあなんて未練を持ちつつ、また幽家さんのほうへ目を向けた。

 

 幽家さんは春国さんと軽い会話をしながら、お菓子で餌付けされている誘理に目を向けている。優しい目だ。

 先程まですごい剣幕で怒鳴っていた人とはとても思えないような目だった。本来の姿はこっちなのかもしれない。

 未来の情報に接触しない程度の雑談をして、二人は仲を深めているようだ。春国さんのほうが積極的に話しかけているので、ちょっと珍しく感じる。春国さんって臆病でうるさいけれど、大人しめで奥手なイメージだったからな。

 

 そんな二人に、両腕一杯にお菓子を持った誘理がとてとてと歩み寄る。

 それから誘理は幽家さんに近づくと、一旦近くにお菓子を置いて、ラムネ菓子をひとつ手に取ると、彼女の膝に手をついてすっと差し出した。

 

「お菓子? 私にくれるのかしら?」

「はいでしゅ!」

 

 にこにこと笑う誘理に、困惑した様子の幽家さん。

 おずおずと彼女からラムネを受け取り、「どうして私に?」と疑問を投げかける。 

 

「どうして、でしゅか?」

 

 質問の意図が分からなかったらしい誘理が尋ね返す。

 

「だって、だって、私あなたのこと、消そうとしていたのよ? それも問答無用で。話だって聞こうとしなかったのに……どうして?」

「……うーん、あちし、難しいことは分かんないんでしゅけど、フユがいたいからでしゅよ」

 

 悩んだ末にそう言った誘理に、幽家さんはますます疑問を深くする。

 

「痛い……? 私はどこも、そうどこも怪我なんてしていないわ」

「んーん、違いましゅ。フユはね、ここが痛いんでしゅ。それにね、フユはきっとここにいたいと思ったんでしゅよ? だって、ハルと楽しそうにお話ししてましゅ」

 

 トントン、と自分の胸を叩いて誘理が言う。心が痛いんじゃないかというその言葉に、幽家さんは眉を下げた。そりゃあ、あんな悲壮な覚悟を待っていたら、痛いだろうな。

 

「そうね、痛いかも。でも、別にこの場所に未練なんてないわよ? 一時的に来ているだけだし、目的を果たしたらすぐ帰るわ」

「違いましゅ。えっと……ここ、こ、この世? いたいんでしゅよね、いたいはずでしゅ。フユだって、死にたくないはずでしゅ。死ぬのは苦しくて、痛くて、嫌なものでしゅ。あちしだって嫌だったもん」

 

 ラムネを受け取ったままフリーズする彼女に、誘理は首を傾げる。

 驚いた。ここまでちゃんと話の趣旨を理解していたんだな。六歳だぞ。普通は生死のことなんてまだ曖昧な頃だが、案外頭がいいのか。それとも自分がそうなってしまったから理解できているのか。

 

「……でもね、誘理。私は生きてちゃいけないのよ。私は死ぬはずだったんだから、今がおかしいの。私は狂ってしまったお母さんのためにも、過去を正しくして、死ななくちゃならないのよ」

「頑固でしゅ。なんで死ななくちゃいけないなんて言うんでしゅか! そんなのあちしは知りましぇんっ! さっきみたいに、わがままに言えばいいだけでしゅ! どうしないとじゃなくて、どうしたいかを言えばいいだけでしゅよ!」

 

 まさか幼子にカウンセリングされるとは思っていなかったんだろう。

 幽家さんは驚いたようにして、持っていたお菓子をポトリと落とした。

 

「そうですね、あなたの意見はちゃんと聞けていませんでした。やらなければならないと、どうしたいかはまた別物ですから」

 

 春国さんまで追い討ちするように言う。

 そんな二人に迫られて彼女は困惑したように身を引く。

 しかし、押し黙る彼女に二人はぐんぐんと迫る。その様子がそっくりで思わず笑ってしまって、キッと幽家さんに睨まれる。ごめんなさい。

 

「……ええ、そうね。ええ、そうだわ。私だって、喜んで死にたいと思っているわけじゃない。当たり前じゃない、どうして私が死ななくちゃいけないのよ。私の出生の秘密を聞いて、思ったわ。私の歩んできた人生って一体なんだったのって……無意味だったのかって……!」

 

 泣きそうになりながら本音を語る彼女に二人は頷き合う。

 ここ数日で随分と似たものだ。春国さんは幽家さんの手を取って、そして誘理は彼女を後ろから抱きしめて囁きかける。

 

「期日までまだなんとか時間はあります。僕も協力しますから、探しましょう。あなたが生きる道を。現在を正し、それでもあなたが消えてしまわない方法を、探しましょうね」

「でしゅ! 休みながら考えればいいんでしゅよ! きっとなんとなる! でしゅ!」

「……ごめんなさい、本当にごめんなさい。迷惑かけて」

 

 しゅんとした彼女の背中はひどく小さく感じる。

 そんな幽家さんをぎゅうぎゅうに抱きしめる。そんな光景を見ながら俺は胸に手を当てた。

 なんだか苦しい。きっと叶わない願いなんだろうなんて予感が心の中に影を落として、現実を突きつけてくるからだ。

 

 でも、あの三人が足掻こうと言うのなら俺も協力したいと思える。

 

「ああああ!? 来ないで! 来ないでくださああああい!」

 

 仲良くしている三人に妬いたのか、クロとティロという二匹の犬がその輪の中に飛び込んでいく。俺も混ぜろとばかりに行われたその行動に、春国さんが幽家さんと誘理の手を取って逃げ出した。

 

「うわあああん! ごめんなさい! まだ君達のことは慣れてないんですううう!」

 

 さっきまでの頼もしさはどこへいったのやら。

 情けなさ全開で走り回る彼に笑う。

 

「ねえ、お兄さん」

「ん?」

「春国さんってさ」

「ああ、そうだな」

 

 紅子さんの言葉に頷いて、再び彼らを眺める。

 春国さんはきっと俺と同じだ。俺も似たような変化をしたから分かる。普段は控えめな彼があれだけ気を許して、そして積極的に話しかけようとしているならばそれは……。

 

 でも、そうだとしたらどれだけ運命ってやつは酷いんだろうな。

 

「春国さん……」

 

 俺達の勘違いならまだいい。

 勘違いならただ悲しいだけで済む。

 

「ねえ、春国さん」

 

 呟いた。

 もし、もし彼が幽家さんのことを想っているならば。そうだとするならば。

 

 ――その恋は、きっと叶うことはないんだと。



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春と冬は対極にして、隣り合わせ

「まとまったな? では、()はしばらくこの町を眺めることにしようぞ。ここにおっても、小娘の身体は休まるまい」

朱色(あけいろ)のはその場にいるだけで緊張させてしまいますものね」

 

 着物の裾を払っておいぬ様は立ち上がり、俺達を眺めて踵を返す。

 あっさりとしたその引き下がりかたに、真宵さんも続くように立つと微笑む。神様達はやつれた様子の幽家(かくりや)さんを気遣ってだろう、方針がまとまった途端その場から去るようにバイバイと手を振った。

 

 おいぬ様はいつの間にかその場からいなくなっていて、真宵さんは鱗でひび割れた空間を目蓋を上げるように開いてその中へ。

 そして最後に真宵さんが振り返る。

 

「大丈夫ですわ。ゆっくりと身体と心を休めなさい。あなたが動かない限り……舞台も動くことはないわ」

 

 その言葉を言い切ると同時に巨大な蛇の目玉が閉じられ、真宵さんの姿が掻き消える。鏡界を通って自分の居場所に戻ったのだろう。

 

 しかし、最後に言っていた言葉が引っかかった。

 俺達は早くしなければタイムアップを迎えてしまうかもしれないと思っていた。けれど、真宵さんはそうは言わなかった。むしろ、幽家さんが動かなければ進展はないと言うような……そんな意味深な言葉。

 

 まるで枠の外側からこちらを覗いているような言葉。

 それで思い出す。彼女もまた、本来は邪神でもあるのだと。

 あいつ……神内千夜と悪友でいられるだけの存在であるのだと。

 

 疑いたくはないが、真宵さんがなにかを知っていながら黙っている可能性はあるのだ。神様というのは理不尽なもので、自分達のやりたいことや見たいものを優先することもある。あえてなにか大事なことを黙っていることもある。そう、俺達に全てを教えてくれるわけでもない。なにかを知っていたとしても。

 

 俺達には一回しかない選択肢を選ばせるというのに。

 神様達は先を見据えて考える余裕がある。

 

 そういうものだと分かってはいるが、ちょっとずるいなって思ってしまう。

 人間には、俺達には常にチャンスは一回きりしかないのにな。

 

「……俺達も退散するか」

「そうだね、アタシもちょっと疲れちゃったかな」

 

 伸びをする彼女を見守りながら笑う。

 俺達がこれ以上いてもお邪魔だろうからな。

 

「あ、えっと……すみません。ありがとうございました」

「いいよ。なにかあったらまた呼んでほしい」

「俺達も協力するからさ。放っておいたら寝覚も悪いし」

「……」

「ええ、よろしくお願いします」

 

 春国さんは快く頷いているものの、俺達の言葉に眉間の皺を寄せる幽家さんもいる。彼女もまだ迷っているんだろう。誘理に膝枕させられ、両脇を犬神と猟犬二匹が固めて困惑しているのもあるが、彼女は慎重だ。そして少々過激でもあるし、感情的になりがちな危うさもある。

 

 もしかしたら、今彼女は疑いの海に沈む自分自身を頑張って納得させようとしている最中なのかもしれなかった。

 

「ひとつ、いいですか?」

「はい、幽家さん」

 

 顔を上げた彼女に応える。

 

「どうして私に関わるのかしら? あなた達に、そうあなた達に得なんてないのに」

 

 そうは言われてもなあ。

 この手の人は「困った人を放っておけない」なんて言っても逆効果になりかねない。紅子さんがまさにそういうタイプの子だし、経験済みだ。

 

「誘理と春国さんのためですよ」

「この子と……その人の? どうして、どうしてかしら」

「えっ、ちょっと下土井さん」

 

 顎に手を当てて疑問を呟く彼女に、それだけだと告げて背を向ける。

 誘理を助けたいと最初に言ったのは春国さんだし、彼女を助けたいと思っているのもまた、春国さんだ。

 

 俺はこの間春国さんに仙果を使って怪我を治してもらったり、神中村の後処理をしてもらったり、してもらったことが結構あるのだ。そのお礼代わりに彼のやりたいことを手伝うと決めたのである。

 

 たとえ叶わない恋かもしれなくても。

 それが叶わないと決めつけるのは俺達ではない。運命でもない。足掻いて、足掻いて、それでも進んだ先に奇跡が待っている可能性だって充分にあるんだ。

 

 結果は、やってみなければ分からないのだから。

 

「ぼ、僕の我儘ですよ。同情が嫌なら、ごめんなさい」

「そうね、嫌」

「あ、はい、そうですよね……あはは」

 

 春国さんは参ってしまった風に乾いた笑いをこぼす。

 まさか恋をしてしまったから救いたくなったなんて、そんなこと口が裂けても言えるわけがないからな。まあ、まだ恋をしているかどうかも、それを彼が自覚しているかどうかも、仮定の話なんだが。

 

「んんっ、ちょっといいですか? 下土井さん」

「お、おう……いいですけど」

 

 なにやら焦った様子の春国さんに腕を掴まれ、連行される。

 あとには呆れた目で俺達を見送る紅子さんと、不思議そうに首を傾げる幽家さん達が残った。

 

 そのまま俺達は廊下に出て、それから外へ。

 小屋といってもそれほど広くはないので、秘密の話をするなら外に出るしかないのだ。

 

「あの、あのですね下土井さん」

「あー、ごめん。なんとなく、幽家さんのこと気にしてるように見えたもので……間違ってたから本当にごめん」

「いえ、構いません。間違ってはいませんからね」

 

 俺の腕をがっしりと掴んだまま、真剣な顔で春国さんが言う。

 ……ということは、予想通りか? 

 

「わ、分かんないんです。僕、この気持ちが本当にそうなのかも……分からないんです。でも、でも下土井さんなら分かりますよね? 赤座さんに恋しているあなたなら、僕がどう見えるのか……分かりますよね?」

 

 かなり必死な様子に、ああそうか人生で……いや、あやかし生? 精霊生? ではじめての恋なのだろうというのが理解できる。だから、その背中を押してみる。

 

「俺にも、紅子さんにも、春国さんがあの子に想いを寄せているように見えましたよ」

「………………そう、ですか」

 

 ひょっこりと彼の頭から狐の耳が飛び出てくる。

 感情の変化でこうなるだろうことは分かっているので、これは多分羞恥心なのか恋を自覚したことによる大きな感情の波に抑えられなくなったのか。どちらかだろう。

 

「一目惚れ……だったのかもしれません。いえ、違いますね。そう、さっき。さっきです。冬日さんが〝死にたくない〟って言ったとき、僕は〝いなくなってほしくない〟って思いました。電車の中での冷たさや、襲撃してきたときの凛々しさが全部、その願いを押し殺して作りあげられていたものだと、そう知って……僕は」

 

 春国さんが目を瞑る。

 

「単純だなって、自分でも思っています。でも、その弱さを隠して、気丈に振る舞って、感情を爆発させて……死にたくないと思いながらも、必死に過去を正そうとするその心に惹かれてしまったんです。きっと、きっと、そう」

 

 そして、力強く。

 

「僕は、冬日さんの必死に頑張る姿が好きになってしまったんでしょう」

 

 最後は自嘲(じちょう)するように。

 

「恋してしまった……僕とは真逆の、彼女に。僕は臆病で、逃げに走っては銀魏達に怒られてなんとか仕事をこなしている情けないやつです。どうして、真逆の彼女に惹かれちゃったんでしょうね」

「真逆だからこそ、じゃないですか? 人って自分に足りないものを求めるものだって聞いたことがあるし。でも、それだけでは多分ないと思いますよ」

 

 俺だって、真逆の考えを持っていた紅子さんに惹かれたんだ。

 でも、そうやって理屈をつけてしまうのはあまり好きじゃない。純粋に好きになったわけじゃないんじゃと思ってしまうから。

 

「でも、僕がこれを告げることは有り得ないでしょうね……覚悟を決めた彼女の、その思考の邪魔になりたくはありませんから」

 

 ふっと息をついて彼は泣きそうになりながら笑う。

 

「……春国さん、叶わないって分かっていて、さっきは慰めたんですか」

「残酷だなんてことは分かっています。今を正せば、過去改編で生まれた彼女が消えてしまうのは必然です。そんなの分かっています。でも、少しくらい奇跡を夢見たっていいじゃないですか。だから、ああ言ったんですよ」

 

 そっか、と俺は空を見上げる。

 無理だ、なんてとても言えやしない。それに、いつも足掻いて足掻いて足掻きまくっている俺がそんなことを言うのは違う。なら、俺が言えるのは。

 

「できる限りの協力はする」

「ええ、お願いします」

 

 頬を滑って落ちてった雫は、地面に吸い込まれて消えていった。



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ツーショット

 春国さんとの会話を終え、彼の想いは知った。

 彼も分かっていて恋をしているわけだし、別れることが分かっているから告白もすることはないだろう。余計なことをして別れが辛くなるよりは……ってことなんだろうな。

 

 俺が言うのもなんだが、恋って難儀なものだなあ。

 

 ……ちょっと離れただけなのに紅子さんに会いたくなってしまった。

 春国さんと一緒に小屋の中に戻る。すると、そこには楽園が広がっていた。

 

「あの、春国さん」

「ええ……なんというか、こう……素敵ですね」

 

 春国さんの視線は一か所に釘付けである。

 

「クウウウン」

「……」

 

 俺達が外に行っていたのはそう長い時間ではない。

 けれど、話し合いの時点で疲れてしまっていた幽家(かくりや)さんにとっては、紅子さんがそばにいたとしてもわりと長い時間に感じていたんだろうな。

 

 端のほうで用意された布団の上で眠ってしまっている。それも、横を向いてその腕の中に大型犬のぬいぐるみ……ティンダロスの猟犬モドキを抱きしめてだ。丸まるように足を折りたたみ、抱きしめたティロの頬に自身の頬を寄せて眠っている。

 ピンクブロンドの髪が布団の上でわずかばかりに広がり、布団のすぐそこに戦闘で使っていた刀が鞘に入れられ、立てかけられている。

 起きてすぐに手に取れる位置にあるあたり、まだ少し警戒しているのかもしれない。

 そんな彼女を後ろから抱きしめるように誘理が張り付いて眠り、誘理を囲むように犬神のクロが布団の上に伏せて眠っている。

 犬、幽家さん、誘理、犬という川の字に一点多い状態だ。

 

 対して紅子さんはその近くで壁を背にしてその様子を眺めて座っていたようだ。多分布団に入った幽家さんとお喋りしていたんだろうけれど、疲労で彼女が途中で寝ちゃったんだろう。紅子さん自身もうつらうつらと船を漕いでいる。その首に八千(やち)が巻きついてだらんと垂れている。八千自身も寝ているらしく、もはやマフラーかストールのような状態だ。

 

「話しかけづらいんだが」

「ですねぇ」

 

 相変わらず春国さんの視線は幽家さんに釘付けだ。

 かく言う俺も、壁に寄りかかってまどろんでいる紅子さんから目が離せない。

 似た者同士かよ。

 

「春国さん」

「下土井さん……いや、令一さん」

「うん」

「スマホ持ってます?」

「もちろんだ」

「あの」

「言いたいことは分かるけど、それって盗撮って言わないか?」

「んぐっ」

 

 言いたいことは分かる。めちゃくちゃ分かる。今すぐに写真を撮りたい。

 なんなら寝始めた紅子さんを写真に撮って待ち受けにしたい……って変態かよ。そもそも無許可撮影はダメだ。

 

「おにーさん……? ふぁ……ん、おかえり」

「べ、紅子さん。えっと、ただいま?」

 

 威力がひどい。

 まどろんだままの眠たそうな表情で、それも小さくあくびをしてからふにゃっと微笑んで「おかえり」って。そんなの反則だろう。俺の紅子さんが可愛いすぎる。

 

「変なこと、考えてるでしょう」

「え、あ、いや、そんなことは」

 

 半目になってこちらを見てくる紅子さんに返事をするも、若干どもってしまったので誤魔化し切れていない。目線を逸らしてしまったので余計にそうだ。うん、まあ、いつものことだよな。

 

「紅子さん、写真撮ってもいいか?」

 

 そして開き直ることにした。

 

「ええ……うーん、どうしようかな」

 

 即答で断られない……? マジか。

 

「ツーショットならやってもいいよ?」

 

 マジですか紅子さんっ! 

 

「は、春国さんっ」

「いいですよ、スマホ貸してください。その代わり僕のことも手伝ってくださいね?」

「当たり前だ!」

 

 春国さんも幽家さんと写真撮りたいんだろう。なんだかんだと理由をつけてツーショットを撮ってもらえば彼自身も満足するだろうし、目の前で紅子さんとこんなことをしているのは同じく恋をしている彼に不公平だからな。

 

「なんか春国さんとは仲良くなれそうな気がする」

「奇遇ですね。仲良くしましょう、令一さん」

 

 ここに色恋関係の友達が誕生した。刹那さんも恋しているらしいし、仲間ができると相談もしやすくていいな。男友達も以前よりグッと増えた。

 神内に殺された皆のことを忘れたわけではないが……同じ立場の青凪さんにずっと引きずるのはやめろって言われてしまっているし、あいつらもそう言いそうな気がするから俺は交友を広く持つことを選ぶことにする。

 

 それとついでに、話の流れで見送ってしまったが今度おいぬ様に会ったときに、俺にかけられた神内の呪いをどうにかできるかどうか訊いておきたい。あの場でなにも言われなかったということはあまり期待できないが、訊いておくにこしたことはないし。

 

「それじゃ、よろしく頼む」

「はい、並んで座ってくださいね」

 

 指示に従って、未だ眠そうな紅子さんの隣に座る。

 

「いきますよー、はい、チーズ」

 

 その言葉と同時に、紅子さんは俺の肩に頭を寄せて小さくピースサインをする。普通にピースしていた俺はそれにびっくりしてしまい、そのあとすぐにシャッターを切る音が響いた。

 

 絶対これ、緊張して顔を赤くする俺の写真が撮れているだろう……。紅子さんの可愛いサプライズに満更でもないので、撮り直しはしないが。

 

「はあー、羨ましいです。僕も写真撮りたいですよぉ……」

「あー、なるほどね。春国さん、やっぱりそうなのかな?」

 

 紅子さんの疑問に俺は頷く。

 彼も恋しているので間違いないぞ。

 

「それじゃあ、先に誘理ちゃんにお願いするといいよ。誘理ちゃんから三人で写真を撮りたいって言ってもらえれば、必ず幽家さんも参加してくれると思う。どうかな?」

「天才ですか!?」

 

 キラキラとした目で天を仰ぐ春国さん。

 確かに、その方法ならば幽家さんも断れないだろう。

 

 フライング気味に喜び勇む彼に、どうかもう少しだけこの時間が続けばいいと願った。



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