憑依に失敗して五河士道が苦労するお話 (弩死老徒)
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0-0

憑依の件メッチャテキトーです。


「突然だがお前は死んだ」

 

「はい?」

 

 

気が付いたら真っ白な空間にいて、其処に佇む長い白髪に長い髭の老人が立っていた。老人は申し訳なさそうな顔で俺に謝ってくる。

 

 

「すまん。ホント―にすまん。ワシの作業ミスでお前を死なせてしまった」

 

「は……?え?何?なんなのこのテンプレ展開?この発言自体もテンプレだけど」

 

 

落ち着いているのかテンパっているのかよくわからない心境になりながら俺は答えた。

確か俺はトラックに轢かれそうになった子供を助けようとして、それで―――――

 

 

「うわ~~死に方もテンプレだったか~~~~ってことはこの後の展開は」

 

「うむ、お前を好きな世界の登場人物へと憑依させてやる」

 

「え?」

 

 

予想していた発言と違っていて俺は面食らった。てっきり転生だと思ったんだが………まあ変わんないか。

 

 

「さあ選ぶがいい。どんな世界の登場に憑依したい?あとオマケで色んな能力を付け加えてやるぞ」

 

「デート・ア・ライブ!!デート・ア・ライブの五河士道に憑依させてくれ!!」

 

 

即断即効で俺は答える。

最近ハマりだして読んでたライトノベル。ヒロインは全員可愛くて全くハズレが無い作品だ。

あの世界で五河士道になれるだけでそんなヒロイン達と………グフフフフフ。

 

 

「お前メッチャキモい顔しとるの…………まあいいわい。それでオマケの能力はどうする?これも好きなだけ決めていいぞ」

 

「好きなだけ?好きなだけいいの?どんな能力でもいいの?」

 

「そう言っておるだろう。さ、速いとこ決めてくれ。ワシを忙しいんだ」

 

「それが死なせちまったヤツの態度かよ。まあいいや、それじゃ―――――――」

 

 

俺は考え付く限りの様々な能力・スキルを言っていった。スッゲー時間が掛かってもしかしたら【めだかボックス】の安心院さんが持ってる以上の数に達したかもしれない。チートって言葉が生ぬるいくらいに。

 

 

「―――――――っとまあこんな感じでイイか。これだけあれば充分だろ」

 

「ワシは忙しいと言うとるのに時間かけ過ぎじゃ!!それじゃ憑依させるぞ、いいな」

 

「おう、頼んだぜ!」

 

 

ああ、まさか二次元の世界に行けるなんて。棚から牡丹餅かこれ。全然違うか。

 

 

「あ」

 

「え?」

 

 

興奮して今か今かと待ち構えていると老人が何か声を出した。

そう、何か不吉な予兆を含んだ声で。

 

 

 

 

ギシィ

 

 

 

 

「ん?」

 

 

一体どうしたのかと老人に尋ねようとした時、何か変な音がした。何かと何かが合わさった摩擦音――――耳障りな、不協和音。

何処からの音だ?耳を澄ませて発信源を特定する。

 

 

 

 

ギシィ―――ギシィ

 

 

 

 

「え?…………え?」

 

 

聞こえてくる場所は――――――――俺の身体だった。

 

 

 

 

ギシィ―――――ギシィギシィ

 

ギシィ

 

疑義疑義っ疑義っ疑義偽っ疑義疑義疑義疑義っぎいぎっぎっ疑義疑義大ぎっぎいぎっぎ一ぎぎぎいぎぎぎっぎいぎぎぎぎぎっぎぎぎぎぎぎっぎいっぎいぎぎぎぎっぎぎいぎぎぎっぎgっぎぎいgっぎっぎいっぎっぎぎっぎぎぎgっぎいぎっぎっぎぎいっぎぎぎぎぎっぎぎぎぎぎいっぎぎぎぎっぎ

 

 

 

 

「ガ――――ッ………ァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアア!!」

 

 

刺される痛み。

 

折られる痛み。

 

切られる痛み。

 

潰される痛み。

 

裂かれる痛み。

 

焼かれる痛み。

 

噛まれる痛み。

 

撃たれる痛み。

 

これらのどれでもあるような痛みのようでいてどれにも当てはまらない痛みが腕に、脚に、目に、耳に、口に、臓腑に、魂に駆け巡っていく。

 

 

「が、ぐぎ、げえあ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――!!」

 

 

訳が解らない。突然襲ってきた未知の痛みに俺はのた打ち回ることしかできなかった。

 

何が起こっている。俺の身体はどうしたってんだ!?

 

説明しやがれジジィと声に出そうとするも余りの痛さに声が出せない。

それでも何とかして声を出そうとして―――――

 

 

「あ、あ、ああああああああああああああああああ……………………――――――――――――――――――あ」

 

 

俺の意識は途絶えた。

 

訳も分からぬまま俺は〝二度目の死〟を迎えてしまった。

 

 

 

× × ×

 

 

 

「ああ~~~~~まあ、ああなるわな。普通の人間があんなに多くの能力を望んでは身体が持つ筈が無い。唯の風船に世界に在る空気総て注ぎ込むようなもんじゃわい」

 

 

老人は気まずそうに言うも反省した素振りは全くない。自分のミスではなく望んだのは彼なのだからその結果が消滅であっても彼の責任で総て収まる。

 

 

「うん、そうだ。ワシの責任じゃない。うん、そうだ。では仕事に戻るとしよう」

 

 

自分に言い聞かせるように呟いて老人は白い空間から退場して、自分の職場の天界へと戻っていった。

 

老人はこの件は憑依失敗として片づけるだけに終わり、仕事に戻った後は綺麗サッパリに忘れてしまった。

 

 

 

 

 

この失敗で五河士道にとんでもない異変が起ったのを知らずに。

 



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1-1

 

 

「……………………………」

 

妙な目覚めの気分で五河士道はベットから体を起こした。

気分が悪いという訳ではない。どちらかと言えば頗る調子が良い。妹にサンバのリズムで顔やら腹やらを踏みつけられた訳でも無し、士道の身体は良好といって問題ない。

 

問題があるとすれば精神の方、たった今見た…………奇妙な夢。

 

「…………何だったんだ、アレ?」

 

今までで見たこともなかった夢に士道は困惑するより他に無かった。

一人の少年が子供を庇いトラックに跳ねられ死亡し、その後、何も無い真っ白な空間に召喚され、あらゆる力を持って〝五河士道〟に憑依する機会を与えられるという夢。

だが、その少年は多くを望みすぎた。重すぎる力の数に彼の魂は耐えきれず、拒絶反応という結末であっけなく二度目の生のチャンスを不意にした。

 

「〝五河士道〟に憑依って、俺のこと………じゃないよな?」

 

憑依先の名前と同姓同名である士道はそう認識すると困惑の感情から疑問と、若干の恐怖を覚えた。

士道は自分以外に同姓同名の〝五河士道〟に会ったことは、少なくとも自分の記憶の上では無い。現実は勿論、フィクションの世界でもだ。

あの少年は二次元の世界に行けるのを楽しみにしていた。それはアニメやゲームに登場するキャラに成りたかったということ。そういったモノに詳しい訳ではないので絶対とは言い切れないが自分と同じキャラクターの名前など聞いたこともない。

 

(今日学校で殿町に聞いてみるか)

 

思い浮かべたのは殿町宏人という比較的そういったモノに詳しいであろう友人だった。話のネタには丁度いいかもしれない。

そして、もう1つの感情――――恐怖。

〝憑依〟というのが具体的にどのようなものなのかしらないが、要するに元々その体に在った人格が後から来た人格に上書きされてしまうということ。つまり前に在った人格が消えて、死ぬということ。

 

「……………………ッ」

 

思わず身震いする。自分が見た夢で同姓同名の憑依先故か、士道はどうもこの夢を他人事のようには思えないでいる。あの少年には悪いが失敗して良かったと不謹慎ながら思ってしまった。

これ以上この事を考えると嫌な気分になりそうになったので士道は別の思考に移行した。

 

「にしても、能力………か」

 

つい言葉にした呟きで、後悔した。嫌な気分になるのを防ぐはずが士道は古傷を抉られた感覚に陥り、別種の嫌な気分になった。

思いだしてしまったのだ。自らの黒歴史を。嘗て士道が作った【腐食した世界に捧ぐエチュード】【オリジナルキャラの設定資料】【奥義・瞬閃轟爆破】を。

ああいった廚二病の類が起こす過ちを経験している士道は他人が罹っているのを見るだけでも恥ずかしくなってしまう。

 

本当に何故………人は過ちを繰り返すのだろう。

 

「でも何か………変なもの、っていうか……」

 

魔力、霊力、気力、彼が言っていった様々な能力。その中には士道の聞き覚えのない能力・スキルが夥しいほど挙げられて言ってたが、その中でも異色を放っていたモノが1つあった。

 

「ええっと、何だったけ……?確か―――」

 

夢であるが故に覚えている事も曖昧で薄れていっている場面が多だあり、思いだすのに苦労する。

夢の記憶に検索を掛け、暫くするとヒットした。

 

 

そう、確か――――――――――――【原作知識】

 

 

 

 

 

 

「ッ!!?」

 

答えに行きついた瞬間、士道は強烈な眩暈に襲われた。

 

「う、あァ」

 

脳が激しく揺れる。目が沸騰し、無理矢理に視界に映る世界を見慣れた自分の部屋から見覚えの無い世界へと連れ去ろうとしていく。

暗転する世界、ノイズ塗れの視界に晒され強烈な酔いが士道を侵していく。

ヤバい、拙い。確信はなく、漠然とした思考しか出来なかった士道だったが、自分が何かとんでもない事を、決して開けてはいけないパンドラの函を開けてしまったのだと理解してしまった。

戻そうにも手遅れだ。士道は既に一方通行のノンストップバスに乗ってしまった。出来ることなど目的地に辿りつくまでこの酔いに耐えるぐらいしかなかった。

 

永遠か、一瞬か、永劫か、刹那か、あらゆる体感時間を経て、漸く士道は目的地へと辿りつく。

 

 

 

 

 

 

『おまえも……か』

『だっておまえも私を殺しに来たんだろう?』

『私が会った人間たちは皆私は死なねばならないと言っていたぞ』

 

 

 

「な……え?」

 

其処に居たのは少女だった。廃墟寸前の街で、巨大なクレーターの中心に立っていて、光のドレスを着た、美しい少女。

 

「何だよコレ………何が起きて?!」

 

いきなりの場面転換に士道は狼狽した。【原作知識】とは何か?と考えただけで世界が変わった。

……いや、違う。変わったのはあくまで〝自分の世界〟であって〝世界そのもの〟ではない。士道は単に流されているスクリーンを眺めているだけに過ぎない。訳が解らないながらも士道は何故かそう確信できた。

まるで、誰かからの知識を借りているみたいな……そんな奇妙な落ち着き方をした士道は改めて少女の姿を見た。

 

闇色の髪をして、物憂げな貌をして、何もかもに疲れてしまった様子の少女。

絶望に染まった、染まっていた彼女。

その顔をみて、この時だけ、これがどういう状況なのかどうでもよくなってしまった。

 

「――――何で」

 

知らずに声が出る。

彼女とは初対面だ。一度でも会ったら記憶に焼鏝を押し付けられ、問答無用に覚えさせられる程の美しさを士道は見たことが無い。

物憂げな貌をしても損なわれない美貌は、しかし士道には全くそうは思わなかった。

 

「何で、そんな顔をしてるんだ」

 

士道の眼には彼女は今にも泣き出しそうな顔にしか見えないし、悲痛の声しか聞こえない。

 

知っている。

 

その顔を。

 

その声を。

 

その絶望を。

 

総てから全否定されるその心情を。

 

「―――――君は」

 

今度は確信で声を出した。

士道は放っておけなかった。夢か現実かもわからない継ぎ接ぎなこの世界でも、会話すら出来ないであろうこの世界でも、絶望に染まっている彼女を放っておけなかった。

 

「君は、誰なんだ?」

 

だから知りたかった。彼女の事を。彼女が何者なのかを。

夢でも何でもいい、とにかく彼女をこのままにしておけない。

……あんな顔をさせてはいけない。

 

『十香』

「え?」

 

そんな想いを込めた士道に、この世界が応えたのか、それとも目の前の彼女自身が応えたのか、会話が出来ない世界で彼女は唇を動かし言った。

よく見ると変化はそれだけではなかった。彼女以外に居なかったこの世界が夕日に照らされた学校の校舎に変わり、より一層彼女を幻想的な輝きを放つ芸術品へと変えていた。

余りの美しさに士道は一瞬言葉と思考を失ってしまって、そんな彼に彼女はもう一度、自分の名前を口にした。

 

『十香。私の名だ。素敵だろう?』

 

そう言った彼女の貌は満足そうにしていて、自慢げに笑顔になりながら告げた。

たったそれだけ。

彼女は、十香は、それだけで笑顔に変わった。

 

「―――――ああ」

 

釣られて士道も微笑み返す。

いい名前だ。その名前がどんな意味を持っているのかは知らない。でもその名前を言っただけで彼女は笑顔になれた。それだけで十分で、それほどの価値があるのだと分かった。

 

 

「―――――ッ!!?」

 

そう思って安心すると、急激な虚脱感が士道の身体を迸り、次いで強烈な吸引力に………さながらブラックホールの様な抗えようのない力がこの世界を吸い込み壊していく。

夕日の色が凝縮され、校舎も凝縮され、十香も凝縮されていく。まるで世界の終りを鑑賞している心地だった。

そう、これはただの記憶。知識でしかないのだ。現実の出来事ではないと半ば確信しながら士道は世界の崩壊へと身を委ねる。

その最中、視線は自然に吸い込まれていった十香へと移っていた。彼女も慌てた様子もなく士道と同様に身を委ね―――――心なしか、士道の事を見ていて、何かを促しているように見えた。

 

「俺はッ」

 

偶然だ。十香には士道が見えていないと分かっている。だからあれは吸い込まれながらも続いている記憶、知識の続きだ。今やろうとしている事に意味はない。

 

「俺は士道――――――五河士道だ!」

 

……意味はないかもしれないけど、彼女には名前を知っておいてもらいたかった。

届かないと分かっていても言わずにはいられない、意固地な思いでそう宣言して、

 

世界は崩壊し、暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「は――――――ッ!?」

 

快復に勤しむ眼球の疼きを感じ、全開に目を見開き辺りを確認する士道。

見慣れた部屋、使い慣れたベット、ついさっきまで自分が居た〝元の世界〟に間違いなかった。

暫しの間、士道は呆然としたままベットの上で座っていた。余りにも現実味のない体験に現実逃避すら出来ずに思考停止するしかなかった。

 

「………十香」

 

否、思考停止は正確ではなかった。

今のは白昼夢だ、自分はまだ寝ぼけていたのだ、自分の頭がイカレてしまったのかも、そんな現実逃避よりも、そんな状況分析よりも……

 

士道は十香という少女を想っていた。

夢幻の住民の可能性と、妄想が生んだ産物かもなどと思考という過程すら無視し、本能で彼女の事を想っていた。

 

もしも、

 

もしも彼女が本当にいるのなら、

 

 

もう一度会いたいなと、ただただ想っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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1-2

 

 

「おにーちゃんが早起きしてるなんて珍しいねー。せっかく私が寝ているおにーちゃんを踏みつけながら起こそーとしたのに~」

「兄への敬意が全く感じられない起こし方だなおい。早起きが三文の徳だって初めて思ったぞ」

 

士道は兄を体操マットか何かと勘違いしているであろう妹、真っ赤な髪をツインテールにして快活と小動物チックな印象を受ける―――――五河琴里と軽口を交わしながらパンを口に運んでいる。

あれから暫くしてこのまま二度寝をする気分でも無かった為、六時前であったにも拘わらずに朝食の準備を速いうちから取り組み、こうして妹と共に朝食を摂っていた。

寝起きの悪い士道としては些か新鮮な気分でいたのだが、そんな士道を起こす担当をしている琴里としては少なからず遺憾があるようだった。

 

(手間が省けたって喜ぶとこじゃないのか………いや、省けたから不満なのか)

 

抜けているというかズレているというか、まあそんなところが可愛いところなんだと納得しながら何時も通りの琴里を見つめた。

 

「でもホント―にどうしたの?おにーちゃんがはやく起きるなんて。いつも『とりあえず後10分寝ていないと妹をくすぐり地獄の刑に処してしまうウィルス』、略してT‐ウィルスに感染してるのに」

「甘いな琴里。何度も何度もT‐ウィルスに感染している俺は既に対T‐ウィルス専用抗体AntiT‐ウィルスが出来あがっている。でもこれは――――――」

『――――今日未明、天宮市近郊の―――――』

「うん?」

 

朝起こされてやらなかった代わりにとちょっとした戯れをしようとした矢先、点けていたテレビからアナウンサーが告げた自分が住んでいる街の名前が出たことで口を噤んだ。しかもかなり近所に近かった。

 

「空間震――――か」

 

ニュースの内容はこの世界で最も被害規模が高いとされる広域震動現象――――空間震だった。

これは文字通りの空間の振動・地震の現象であり、原因、時期といった対抗策に必要な情報がほぼ不明といわれる災厄なのだ。

初めて確認された空間震はおよそ30年前、ユーラシア大陸のど真ん中がまるまる消失し、死者約一億五千万人という未曽有の災害だった。

今では世界で地下シェルター普及率が上昇し、空間震の兆候を観測する手段も手に入れているが、空間震そのものに対する手段は今だに確立されていなかった。精々が被災地に対する再建が迅速に行える程度のモノしかない。人類はまだ、空間震の恐怖から抜け出せずにいるのだ。

 

「なんか、最近空間震多くないか?しかもここ一帯に――――」

 

その恐怖に追い討ちを掛けるようにテレビ画面から映ってくる惨状に、士道は言葉を失った。

 

「んー、そーだねー。ちょっと予定より早いかな……………………ん?」

「―――――――――――――」

「おにーちゃん?どーしたの?」

 

相槌を打ちながら琴里が意味深な言葉をつい言ってしまい、そっと兄の様子を見やると当の士道は驚愕の顔を張りつけてテレビに釘付けになっていた。

おかしな様子の兄に声を掛けるも士道は全く聞いている様子はない。どうもテレビの中の被災地に夢中のようだった。

 

「―――――――――――――」

「おにーちゃん、おにーちゃん。どーしたの、ねえ?」

 

返事をしない士道に訝しげな視線を送る琴里にも全く気付かない。

傍から見れば奇妙な光景だったろう。空間震による被害地の惨状は確かに酷く、言葉を失うのも無理はない。建造物も道路も壊れ果て、瓦礫の山と化しているのは戦争がはじまったと思うほどだ。

だが30年前を皮切りに空間震は度々発生しており、ニュースにもなる。士道の世代ともなればそれはある意味〝あたりまえ〟に起きてしまうものと納得してしまっている。こんな画面の中でしか現状を知らない者が見たって表面上の感情しか出てこない筈だ。

琴里の呼びかけは露知らず、士道はテレビ画面を見つめている。

士道にとってこれは画面上の出来事とは思えなかったのだ。

 

(………これって)

 

映し出されるのはクレータ状に消し去られた地面、街の一角が廃土となった風景。

こんな光景を士道はついさっき見てきた。

そう、彼女……十香の背景を彩っていたあの光景はまさに空間震が起きた後の惨状に似ていた。

 

「おにーちゃん!」

「ごっほぉ?!」

「オランダの画家じゃないよ!何でムシするのー!朝からオカシいよおにーちゃん!私がチュッパチャップスくわえてたのにもスルーしてるしー!」

「おま、ちょっ、ボコボコ叩くな結構痛い。というか飯の前にお菓子食べるなって言ってるだろ」

「何よー!今の今まで気付かなかったクセにー!」

 

思考に入り浸っていた士道を現実に引き戻したのは何時の間にか隣に移動してきた琴里の容赦ないボディーブローだった。その後も人の頭をモグラ叩きみたいにドついてきて中々やめてくれない。如何見ても無視され構ってくれない兄に業を煮やして爆発したのだろう。

 

結局、何とか琴里の機嫌を直そうと、士道は今日の昼食は外食にすることに決めた。大好物の『デラックスキッズプレート』と連呼する琴里を見て現金なヤツだと溜息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 

 

「ぁ~~………」

 

何時もより余裕の時間帯で学校に着いたのに士道は重労働を終えたばかりの疲労感を味わっていた。

もちろん体ではなく精神の方がだ。今日見た夢から始まり、起きた時は摩訶不思議な体験、そして琴里の制裁パンチ。今日が始業式でよかったと切実に感謝するのは初めてだった。

 

廊下に張り出されたクラス表に二年四組に記された自分の名前を見つけクラスへと向かうも、士道の頭の中を埋めるのは新しく編成されるクラスメイトの事でも、一年間お世話になる先生が誰になるかでもなく、未だに割り切ることが出来ない十香についてだった。

 

(夢の方は本当に訳が解らなかったけど、その中で出てきた【原作知識】ってのを思い浮かべた瞬間に眩暈がして、風景が変わってて、十香がいたんだよな……)

 

原作知識というのは要するに物語の中の大筋とか設定のことを指しているのだろう。ならば十香は創作の中の登場人物である可能性が高い。

 

(アレ?夢よりも十香の事が気になるなんて………もしかしなくても頭がどうかしてるのか?)

 

十香が現実の人物でない可能性が高いのにこうも頭の中を占めていくなんて……普通は夢は夢と割り切るだろうに、士道はそうしなかった。

テレビで見た空間震の被災地を見て現実味が増したというのもあるのだろう。でもそれ以前に、不思議現象の時に感じた妙な確信が士道にはあったのだ。

 

十香は居る、と。

 

「―――っと、此処か」

 

目的地に辿りついた士道は危うく通り過ぎようとしたことに苦笑しながら何となしに二年四組の教室に入っていった。

 

「――――――――――――」

 

その瞬間、士道はデジャブを覚えた。

当然と言えば当然だ。この高校、都立来禅高校は都立とは思えない充実した災害用設備が整えられ、地下シェルターまであるが、その他の教室などの設備は特別に変わった物はなく、一年から三年までの教室は総て似たような構造になっているのは不思議ではない。

だから士道が一年の時に世話になった教室と今目の前に広がる教室に対して〝同じだ〟と思うことは可笑しくない。

 

違うのは〝同じだ〟と思っていたのは教室ではないこと。

同じなのはテレビで見た空間震の被災地を見た時の心情。

此処は十香が自身の名を告げた時と同じ場所……

 

「五河士道」

「――――ッ」

 

家に居た時と同様に、外部からの干渉で士道は現実へと戻った。

今度は妹の声ではなく、聞き覚えのない淡々とした抑揚のない声だった。扉に突っ立ていた士道を邪魔に思っている訳ではないが無視できることではないから話しかけたような声音。

後方へと目を向けると少女が直立不動で立っていた。不動なのは身体だけでなく、人形の如く整えられた顔は正しく人形のように一ミリたりとも微動だにしない。そのままじっと立っていれば一分の一スケールの人形でいられると思えるほどにだ。

 

彼女が士道を呼んだようだが、士道には聞き覚えが無い声だったし、彼女の顔も見覚えが無い。

どこかで会ったか?そう思って記憶に検索を掛けると、

 

世界が暗転した。

 

「あ―――――」

 

其処から先は朝に感じたものと同じ。

脳が揺さぶられ、視覚が支配され、世界が変わる。

 

 

 

 

 

『――――――ずっと、ずっと探してきた。

やっと見つけた。殺す。絶対に殺す。

私の五年間は、この瞬間のために―――――』

 

 

 

 

 

 

「あ――――――が」

 

白色で構成された部屋、薬品の匂い、典型的な病室で呪われた声が身体を強張らせる。

呪詛、怨念、怨嗟、憎悪、悲憤、そして絶望。

負の感情が士道に容赦なく向けられ蝕んでいく。久しく忘れていた自身に罹る絶望感が沸き上がってくる。

朝の時と同じだ。コレは知識、士道はまだこの場面に到達していない(・・・・・・・・・・・・・・)しコレは自分に向けられたものじゃない。その筈なのに………

この声はあまりにも真っすぐに言葉を向けてくる。

この声はあまりにも真っすぐに憎しみを向けてくる。

 

そしてそれは直接士道に向けてぶつかってくるも同然になり―――――

 

 

 

士道は意識を手放した。

 

 



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1-3

意識がまどろんでいる。

全身に浮遊感を感じる。

ああ、コレは夢の中なのかと士道は何となく思った。

ノンレム睡眠だとかレム睡眠なんかの類だったっけと適当にあたりをつけながら身を漂わせる。

 

『お………おはよう、ございます。士道さん……っ!』

(え―――――?)

 

そんな中、突然の朝の挨拶をされて士道は目を見張る。

おかしいな、ここは夢の中でイコール現在進行形で眠っているということで〝おはようございます〟というよりは〝おやすみなさい〟の方が合っているような……いや、こうして意識しているのだから起きていると言ってもいいのか。

 

いやいや、そもそも今のは誰の声だ?

たどたどしく、大きいとは言い難い声量だが、一生懸命に挨拶をしていると分かるくらいに心が篭もっていた。

恥ずかしがり屋なのか、それとも人見知りなのか、一体誰なんだろうと目を凝らすと一人の少女が居た。

涼しげなワンピースに目深に被った麦わら帽子。青い髪に僅かに見えるサファイアの瞳。左腕に装着されている眼帯付きのウサギパペット。

妹の琴理と同年代だろうか、少女の見た目は色も雰囲気も正しく正反対なイメージが浮かんできた。

 

見覚えの無い少女………琴里の友達、なのか?

考えられる可能性としてはアリだ――――夢の中でなければだが。

 

『士道さん、士道さん』

(はい――――――?)

 

意味が無いと分かりながらも、少女が何者なのかを尋ねようとした時、もう一方の方向から別の声が聞こえてきた。

気品がある声。高貴と優雅を纏っている口調。

目を向けてみるとそこには別の少女が居た。

漆黒の髪が顔の左半分を覆い隠している妖しい魅力を持った少女だった。服装は自分と同じ来禅高校のブレザー。

 

………こんな子、うちの高校にいたっけ?

居るとしたら間違いなく学園のアイドル扱いされるだけの美貌を持っている子が有名にならない筈が無い。

となれば、転校生か何かだろうか?始業式に転校してくるのは、まあ可笑しくはないか―――――

 

『わたくしは士道さんに会うためにこの学校に来ましたの。ずっと焦がれていましたわ。士道さんのことを考えない日はないくらいに。だから今は、すごく幸せですわ』

『ああ、士道さん。愛しい愛しい士道さん。あなたはこれでも私を救うだなんて、助けるだなんて仰いまして?』

(へ?!)

 

いきなりの告白に面食らう。

俺に会うために転校してきた?

焦がれてきた?

幸せですわ?

愛しい?

救う?

助ける?

あまりの急展開に頭がこんがらがってくる。辛うじて分かるのは間違って酒を飲んでしまったような酩酊感がこの少女から発せられる魅惑と誘惑によるものというだけ。

 

『どうですかしら……?』

(え……な?!―――――な、な、ななななななな…?!)

 

そんな士道を追い打ち、否、オーバーキルヨロシクと言わんばかりに少女の姿が一瞬で変わった。

恥ずかしそうに身をよじり、布面積が御情け程度しかない下着姿で立っていた。

きわどい、きわどすぎる。視線は自然に少女の下着、そして綺麗な白い肌に向けてしまう。唯でさえ頭が混乱しているのにこんなセクシーでエロティックな下着と身体を見せられたら………もう、もう、もう、もう、

 

士道は夢の中で気を失うという矛盾した珍しい体験をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

「グフっ!?」

 

何かとんでもなけど正直ありがたかった衝撃が襲った気がして青い巨星の陸戦用の悲鳴と共に士道は目を覚ました。

最初に目に入ったのはどこか見たことがあった気がする天井。そして――――――

 

「あ………」

 

人形のような少女の覗き込む顔。

 

「起きた?」

「ああ………起きた」

 

ヨロヨロと上半身を起こし、周りを見回す。身長計、体重計、健康に関するニュースや豆知識が貼ってある掲示板、どうやら保健室のようだ。一年生の時に健康診断とかで世話になったところだから覚えがある。

でも保健室のベットで寝るなんてそうそうあるものではなかった。

何でこんなとこで寝てるんだっけ?と疑問に思う。

 

「ええっと、確か……四組の教室に行って、入ろうとして、そんで――――」

「扉の前で倒れた」

「……そうだ、倒れたんだ、俺」

 

状況を整理しようと頭を回転させて段々と鮮明になってくる。

教室を見ていてそこが十香と会った場所と重なって、背後から呼ぶこの少女の声を聞いて気を失ったんだ。

正確にはこの少女の…………呪詛で、だが。

 

「ところで、その、君は…………?」

 

遠慮がちに士道は少女に訪ねる。

あんな負の塊をぶつけられた後のためにギクシャクとした対応になってしまっている。少女を見て倒れてしまって、その後もこの様では失礼にも程があるが〝アレ〟を説明するわけにはいかない…………頭がかわいそうな人だと思われる。

 

「覚えていないの?」

「……………ごめん」

「そう」

 

色んな意味で謝ってくる士道に少女は落胆も不快も感じていないのか、一言だけで済ませてしまった。

感情が読みづらくても彼女の言葉からやはり士道はこの少女と会ったことがあるようだが、今は思いだすことはやめておいた。忌避感もあったが、二度も気絶しては失礼だし迷惑だ。

 

「折紙」

「え?」

「鳶一折紙」

「ああ………俺は五河士道――――ってそっちは知ってるのか、ごめん」

「気にしてない」

 

再度謝る士道にも少女――――折紙は然したる感情を示さず淡々と応えてくる。

この子は本当に呪詛を出した少女と同一人物なのか……?いや、〝アレ〟が何なのか分からない以上同一視するのは蛇足なのかもしれない。

折紙は目の前にいるのだから人となりは本人から判断すればいい。

 

「それで、俺は倒れて保健室に運ばれたんだよな……?誰が運んだんだ?殿町とかか?」

「私が運んだ」

「は?」

「私が運んだ」

「は―――え、鳶一が?」

 

事も無げに告げる折紙に一瞬呆ける士道。嘘をついているようには見えないし必要も感じないが直ぐには信じられなかった。

それもそうだろう。彼女の身体は一切の無駄を排したようなスレンダー体型をしている。とてもじゃないが男子一人を運べる筋力を持っているとは思えなかった。

 

「どうしたの?」

「……その、重くなかったか?男運ぶなんて女子にはキツかっただろ。コツでもあるのか?」

「そうでもない、五八・五キロなら許容範囲」

「そうか……………ん?五八・五キロって?」

「何でもない、気にしないで」

 

告げられた数値―――五八・五キロとはもしかしなくても士道の体重だろう。確か前に測ったときがそうだった気がする。

そんな事が持っただけで分かるものなのかと疑問に思うがこんなにも機械仕掛けな対応をされると妙に納得してしまう。

まさか事前に調べたわけじゃあるまいし。

 

「……まあとにかく、ありがとな鳶一。ここまで運んでくれて助かったよ」

「問題ない。寧ろ得した」

「? 得って――――」

 

一体なんだ ?――――と言おうとした時

 

 

ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ―――――――――――――

 

 

「ッ!」

「な―――」

 

大きく鳴り響く不快なサイレンに身を引き締めさせられる。

 

「これって、空間震警報?」

 

今朝のニュースでやっていた、世界最大の災害である空間震がこの街にやってきたことを知らせる音に、しかし士道は慌ててはいなかった。

此処にあるシェルターの存在に加え、士道自身も鬱陶しくなるくらい学校で避難訓練をさせられていた。慌てる方が馬鹿を見るくらいにだ。

その為極めて落ち着いた反応で士道は保健室からシェルターへの道順を思い出していた。隣に居る折紙もポーカーフェイスを微塵も動揺に揺らがせず、心なしか闘気に満ちた顔をしているように見えた。

 

「歩ける?」

「ああ、大丈夫だ」

 

精神はともかく、体の方は強制的に休まされて動かすのに支障はなさそうだった。

そういえばどれくらい眠っていたのかを聞こうとして折紙に目を向けると彼女は先んじて保健室の扉に手を掛けていた。

 

「急いでシェルターに避難して」

「え、一緒に行かないのか?」

「急用ができた」

 

そう言って折紙はさっさと保健室から出て、地下シェルターへの方向の真逆に向かって―――――――

 

「鳶一ッ!!」

「?」

 

行く直前に士道が呼び止め、停止ボタンを押されたように急制止を掛ける。

 

「あの……」

「シェルターまで送った方がいい?」

「いや、そうじゃなくて………」

 

急いでいる風だったのに律儀に応じてこちらを案じてくれる折紙を見て、やっぱり〝アレ〟は何かの間違いだったのかなと思うと同時、彼女を怖がってしまった自責の念が出てきた。

 

「……その」

「……?」

 

だからこそ、止めるべきだと思った。予感があるのだ。

折紙はシェルターには行かず、とても危険なことをしようとしている。それも今回だけじゃなくて、何度も何度も。何故かそう確信できる。そしてそれは、哀しいことだと思う。

まるで頭に靄がかかったみたいで落ち着かない。彼女をこのままにしたら、その果てにとんでもない事が起る(・・・・・・・・・・)気がしてならない。そう思っているのに、それが何なのかが分からない。

……いや、違う。

分からないじゃなくて分かりたくないのだ(・・・・・・・・・)

夢だろうがなんだろうが、冗談でもその場面を見たくない(・・・・・・・・・・・・・・)と、魂の底でそれを拒否している。

だから言葉が見つからない。どうやって止めればいいかわからない。

 

士道は彼女の事を何も知らないから。

 

「気をつけて、な」

 

結局出たのはそんな気休めの言葉だけだった。

一体何がしたかったんだと自虐に走ってしまいそうな自分を窘め、せめて―――視線だけは真っすぐ向けて折紙の無事を祈った。

 

そんな士道の言葉と様子に折紙は初めてその顔に感情を、驚いた表情を僅かに浮かべた。

やっと人間らしいところが見れた折紙は暫し呆然とし、士道同様に真っすぐに視線を向けてくる。

 

「行ってくる」

 

まるで専業主夫に見送られるやり手のキャリアウーマンみたいだと苦笑しながら士道は先程までの重々しい気持が四散されていくのを感じた。

そして折紙は再び足を起動させ、走り去っていった。

気の所為でなければ、その顔は微笑になっていた気がした。

 

 

 

       ○ ○ ○

 

 

 

「……俺は避難しないとな」

 

折紙を見送って、帰りを待つ訳にもいかないので士道はベットから立ち上がって軽く伸びをする。未だにサイレンは鳴り響いているがそれと同じく廊下では教師たちの避難誘導の声が聞こえてくる。どうも折紙とのやり取りに集中しすぎて気付くのが遅くなってしまったようだ。

比較的大きな声で聞こえてくる「おかしですよぉ!お・か・し!」という間延びした声音を聞くと自然と落ち着いてしまう。これはもしかしなくても生徒に大人気の先生タマちゃんのものだ。

 

「げっ、12時過ぎてる……3時間以上寝てたのか」

 

保健室に備えられている壁時計に眼を向けて、自分が予想以上に寝こけていたのにギョッとした。

考えてみれば慣れない早起きに立て続けに起きた精神的疲労がピークに達していたのかもしれない。まあ、始業式はサボれたしここはラッキーと考えておこう。

 

(ていうか、もしかして鳶一のヤツ、ずっと俺の面倒見てたのか?)

 

見たところ養護教諭は居ないし、休んでいた代わりに士道の傍に居たのかもしれない。

 

(そうか……〝得した〟ってのは始業式サボれた事を言ってたのか)

 

なるほどなと、見た目の割に鳶一って不良なのかなと見当違いな推測に納得してしまった士道。幸か不幸か、ソレを指摘できる人はいなかった。

 

「あっ、そうだ」

 

廊下に出ながら地下シェルターへ続く道のりを歩いていき、そういえば昼に妹の琴里と外食に行く約束をしていたことを思い出してポケットから携帯を取りだし、琴里の携帯の番号をプッシュした。

1回、2回、3回、4回、5回――――――――――

延々とコール音が鳴るが、止まる気配が無い。

 

「……………………………………」

 

嫌な予感が、不安が士道に纏わりつく。避難したかどうかを確かめようとしただけなのに、コール数が長引けば長引くほどに琴里が危険な目にあっているのではと錯覚しそうになる。

根気強くコール音が止むのを待っていたが、どんなに待っても出ない。一旦止めてもう一回掛け直すが―――――出ない。

 

「何か変な事に巻きこまれてんじゃないよな………………そうだ、GPS」

 

努めて冷静になろうとする士道は琴理の携帯がGPS機能に対応していた筈と、コールを切って位置情報を確認する。

 

「な―――――――」

 

目を疑った。携帯に表示されたアイコンは琴理の通っている中学ではなく、約束したファミレスで停止していた。

高校よりも中学の方が早く学校が終わったのか、琴里は既にファミレスに着いていて、今もその場に居座っている。

 

「……いやいやいや、待てまて、落ち着け。あそこの近くにはシェルターが有る筈だし、慌てて避難したもんだから携帯を落としちまったんだ」

 

そうだ。そうに決まってる。

士道は歩きながら推測する。

琴里のことだがらファミレスに居た人たちに駄々をこねて此処で待ってると言い続けるも無理矢理に避難させられてその拍子に携帯を落としてしまったんだ。だから携帯に出る事が出来なかったのだ。

 

「ったく、我が妹ながら人騒がせなヤツだ」

 

悪態を吐きながら士道は歩いていく。

地下シェルターではなく、下駄箱へ。

 

「携帯なんて貴重なモン落としやがって」

 

だからこれは確認だ。

琴里が馬鹿正直に残っていないかどうかを確かめる。唯それだけだ。

それだけ、それだけ確認して、迅速に避難しよう。

上履きから靴へと履き替えて、士道は走っていった。

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

「ハァ、ハァ、ハァ」

 

走って、走って、走りまくる。

息は既に上がっている。筋肉は弛緩していく半面、心臓が過活動を起こして胸に手を当てなくてもドクンドクンと脈を打ち、体を休めろと警告を発している。

出来うる限り士道はソレを無視する。身体には走る為の機能以外は求めず、ひたすらアスファルトを蹴って、腕を大きく振るう。

 

(何やってんだ………俺?)

 

無理矢理動かす身体と違って士道の意識は混乱の一途を辿っていた。

尤もらしい仮説を立てて琴里は避難していると思っているのに、それを確かめるべく空間震警報が鳴り響いている最中を走り回るなんて危機管理能力が崩壊していると言われても文句が言えない。

いや、それはいい。それなら極度の心配性、ただの勘違い馬鹿、シスコン野郎と罵られるだけで済む。

 

でも、そうじゃないのだ。

今、五河士道を動かしているのは琴里の安否確認ではないのだ。

士道を動かしているのは――――――――衝動だった。

士道は琴里が無事だと予感が、確信が持てている。今朝方の夢を見たわけでもなんでもないのに何故そんな風に思うのか分からない。

 

(最低、だな、俺………ッ)

 

琴里を言い訳に使ってしまったことで感じる罪悪感。内心で自分は琴里を馬鹿にしていたのかと自己嫌悪してしまう。

 

(本当に―――――何がしたいんだよ、何処に行きたいんだよ俺はッ)

 

人間は本能に逆らえないとよく言うが、士道にはコレ(・・)が本能のようには思えなかった。

コレ(・・)は本当に、本当に、衝動としか言いようがない。自分じゃない誰か(・・・・・・・・)に無理矢理動かされているとしか言い表しようがなかった。

そう思っていても尚、士道が走っているのは―――――それでもこの行為が、今走り続けている事がとても重要で、とても大切な事だと思い駆られているからだ。

だから走る。反省も考察も後だ。今だけはこの衝動に身を委ねる。士道が改めて力を入れると――――

 

「…ッ!? なんだ?!」

 

誰もいない無人の街路を走っていた士道の前方に巨大な闇色の塊が突風を巻き起こしながら大きさを増していっている。

見たこともない現象に暫し呆然として、次の瞬間、凄まじい爆音と衝撃波が辺りを包んだ。

 

「ぐ―――――アアアアアッ!?」

 

咄嗟に両腕で顔を庇い、足と腰に力を入れて踏ん張り、嵐が過ぎるまで何とか転げ落ちるのを防いだ。

 

「ッ………何なんだ、なんだってん、だ」

 

両腕を外し、目を開けたら、目の前は別世界に変わっていた。

 

瓦礫の山………嘗て街を形作っていたモノがスクラップの山と化していた。

家という家、店という店のガラスはひび割れ、外装も崩れ落ち、隣の建物に傾いているか、真っ二つに折れているかが殆どだった。その影響なのかあっちこっちに粉塵が舞っており、呼吸をするのも躊躇われた。地面も壮絶な地割れがおこっており、その隙間が落とし穴と言ってもいい程に深く掘り下がっている。

数分前まで見慣れた街並みが広がっていたのに、ほんのちょっと目を瞑っただけで廃墟に早変わりしてしまった。

 

そう、テレビで見たあの光景と

彼女を初めて見たあの背景とまるっきり同じに。

 

「あ――――」

 

まさか、まさかと、もしかして、もしかしてと、期待か不安かよく判らない感情が綯い交ぜになって身体を支配されながら、廃墟に漂う幽鬼のように歩き、誘蛾灯に誘われる虫の如くに導かれて―――辿りついた。

 

巨大なクレーター、この惨状を引き起こした爆弾の中心点。

そのさらに中心点に聳える玉座。

その玉座の肘掛に足を掛けて立っている、彼女。

 

「――――、――――――、」

 

なにか言おうと口を動かすも、この胸の内にある想いが上手く表現できずに喘ぐことしかできなかった。

この感情をどう言葉にすればいいのか、士道に今の精神では思い浮かばなかった。

 

「――――と」

 

だからただ一言、唯一思い浮かんだこの名前を言うより他になかった。

 

 

 

「―――――――――――十香」

 

 

 

 



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1-4

鎧の荘厳さとドレスの美麗さを見事に調和させた服装はコスプレなどというチャチなものでは断じてなく、それ単体が神話に出てくる神獣の如き脈動を発している。

そしてそれを操り纏っている彼女は女神………いや女神すら霞む力強さと美しさを十二分に持っていた。

闇色の長い髪は流星で瞳は宝石。顔の造形など言うまでもなく、人智では説明しようがない美しさが士道の先に存在している。

 

夢じゃなかった、幻じゃなかった、白昼夢じゃなかった。

そんな曖昧で不確かな映像越しで見たものより、確かな自分の眼で見た彼女は天と地ほどの違いで士道の意識を、心を奪っていった。

 

本当に、十香は居た。

根拠のない、願望に近かった確信故に彼女と出会えた衝撃と感動を未だに士道は口に出来ず、行動にも移せなかった。

何をすればいいのか分からない、一時の混乱。

一方で、冷静になっていた思考の一部が前面に出て、疑問をせき立てた。

そもそもにして、何で空間震警報が鳴っているのに十香は此処にいるんだ?

しかも爆発の中心点たるクレーターの真ん中にいるなんて―――――――

 

空間震警報が鳴っている最中に起った爆発。

………その結果が街の廃墟化。

十香に気を取られて気付かなかった一連の事態の関連性。

さっきの爆発………アレこそがまさに空間震なのではないか?

そうだとしたらその中心点に居た十香は、なぜ傷どころか汚れすらついていないのだ?

状況を見るに爆発した後に中心点に現れたのではないか?

 

それは、つまり。

 

(十香が空間震の中心点………十香が空間震を引き起こした?)

 

信じられないが、それ以外に説明がつかない。

奇しくも彼女の人間離れした美貌と威圧(オーラ)が説得感を増していた。

でも、それだと益々分からなくなってくる。

十香は、一体――――

 

(お前は、何者なんだ…………十香?)

 

士道の頭が疑問に満ちた時、―――――――朝に感じたものと似たような耳鳴り(・・・)が聞こえてきた。

 

「ぐ――――ッ?!――――――あ」

 

ノイズのようで囁きのような、そんな音が耳をジャックしようとする。

今現在認識している世界が急に静かになり、閉塞感が士道の全身を包む。外の世界の音が聞こえない訳ではないが、それ故に視覚(げんじつ)と聴覚の不協和があった。

 

永いようで短い耳鳴りが終わり、幾つかの周波を纏って鼓膜に響いてくる。

 

 

『あれは精霊。私が倒さなければならないもの』

 

『彼女はこの世界には存在しないモノであり、この世界に現れるだけで本人の意思とは関係なく辺り一帯を吹き飛ばすの。〝空間震〟って呼ばれる現象は彼女みたいな精霊がこの世界に現れるときの余波なのよ』

 

 

ついさっき聞いてきたような声と随分と聞き慣れた…ような声が鼓膜を震わす。

声の主達はほぼ士道の考えを裏付ける説明をしてきた。

朝の時と違い、眩暈じゃなく耳鳴りだった為か、目に映る世界は変わらなかった。

同じだったのは誰かからの知識を借りている感覚と、それを何故か確信してしまっていること。

精霊――――異世界より現れる天災的怪物。世界を殺す災厄。それが十香の正体。

 

(精霊…………十香が?)

 

確信はしても理解が追いつかず、士道は呆然としてしまう。

空間震――――世界最大の災害現象。その正体にして原因が……精霊。

十香の容姿を見れば、なるほど確かにその方が同じ人間と言われるよりも違和感はないだろう。

神とは自然災害が形を変えたものというのは良くある話だ。精霊とて似た扱いがある。

〝美しい〟とは、それだけで畏怖を与える。とりわけ十香は暴力的な美しさ(・・・・・・・)を持っている。それも彼女がこの世界にもたらす影響と比例していると言わんばかりにだ。

 

誰もが彼女を見惚れるだろう。

誰もが彼女を恐れ戦くだろう。

彼女が望むならば世界の総てを在るがままに支配し、思うがままに人々を扇動し、自由気ままに力を振るう暴君となることも可能だろう。陳腐な言い方をすれば、世界征服も夢ではない。

 

なのに…………

 

それだけのモノを持っているのに………………

 

「…………どうして、そんな悲しそうな顔をしているんだ?」

 

朝と同じ呟きを士道は漏らす。

あの時と全く同じだ。十香の顔はひどく物憂げに歪んでいる。それでも失われない美貌は、だからこそ痛ましさが張り付いている。

迷子になった子供みたいに、今にも泣きだしそうになっている。

 

もう何も信じられるものがない顔をしている。

 

「ッ……!」

 

気付けば、士道は十香に向かって走りだした。

 

おかしい。

 

オカシイ。

 

可笑しすぎる。

 

何なんだ俺は。何で俺は根拠も動機も理由も証拠もないのに変わった世界を、見覚えのない少女を、非現実の存在と出来事を認めているんだ?

思いだすのは、あの夢―――――〝五河士道〟に憑依しようとして失敗したアレは、本当は俺の事で〝今の俺〟は〝五河士道〟ではなく、全く別の人格になっているのではないか。

背筋が凍る。自分が……〝五河士道〟か何なのか分からなくなっている。

昨日までの俺と今日の俺が合っているのか(・・・・・・・)自信が無くなっている。

怖かった。恐ろしかった。自分が自分でないだなんて、こんなに気持ち悪い事だなんて知らなかった。

 

―――――でも、でもッ!

 

(十香は、あいつは、今あそこに居る。今、俺の眼に映ってて、あんな顔して、たった独りで、あそこに立ってるッ)

 

それは紛れもない現実。揺るぎない本物。

疑いようがない、疑ってはいけない、目を逸らしてはいけない。

 

(ならこれも後回しだッ、悩むのも考えるのも全部!!五河士道(不確かなもの)よりも、先に十香(確かなもの)を何とかしろッ!!)

 

そう自分に言い聞かせ、迷いを断ち切る。

それでいい。これでいいんだ。鬱々となった顔をした人がいたら問答無用に絡む。それが五河士道(オレ)の筈なんだ。

あんな悲しそうに、寂しそうにしている女の子を放っておいて手前(テメー)の悩みに構ってなんていられない。そんなの男じゃない。

なんともキザったらしいこと考えてる自身に、この時だけはセクシャルビーストの称号を受け入れようと思った(誰かに言われた気がするが誰だったか?)。

 

とにかく、今は十香なのだ。

 

「十香!!」

「………………?」

 

走りながら叫んだ士道に十香は身体と目を向けてきた。こちらに反応し、初めて面と向かって合わせた顔にやはりこれは現実なのだと安心する。

 

「――――――――――――――」

 

士道に気付いた十香はこっちを見てくる―――――だけでなく、玉座の背もたれに生えていた柄みたいなのを握り……幻想が創ったとしか言いようがない剣を引き抜き……

 

士道に向かって振り抜いた。

 

「いぃいぃぃ!?!?」

 

みっともなく悲鳴を上げながら咄嗟に頭を下げて斬撃を避ける。士道と十香の距離は未だに開いている。剣の間合いが届かないくらいにだ。

でも避けなければ痛い(・・)と、危機感が士道を緊急回避させる為に勝手に動き出したのだ。

その直後に幾つもの崩れる音が聞こえてくる…………恐る恐る後ろを見れば、数々の建造物は、あの斬撃によって皆高さを均等に調節させられていた。

 

「あ、アブね―――――」

 

戦々恐々と十香に向き直って、動きを止める。否、止められた。

何時の間にか目と鼻の先にまで近づいてきた十香が手に持った巨大な剣の切っ先を士道の顔面に定められていたのだ。

 

「ちょ……ッ! と、十―――」

「何だおまえは。何者だ?」

「あ」

 

何故攻撃されたのかがわからないまま、如何わしげに鋭く細められた瞳に睨み突かれ、ハッと士道は悟った。

そうだ。士道が十香のことを知っていても十香は士道のことを知らないんだ。

それを初対面の人間に無遠慮に名前を呼ばれれば警戒してくるのは当然だ。

抜かっていた。たけど………剣を使うのはやり過ぎなんじゃないでしょうかとは言いたい。

だがそれより自分が無害であることを証明しなければならない。

改めて士道は十香と向かい合う。

 

「ちょっと待ってくれ、落ち着いてくれ、俺は敵じゃない。怖くない怖くない、俺、君のトモダ―チ――ってうオぉぉォォ?!!!」

 

返答は攻撃だった。

剣による刺突が繰り出されてコンマ単位で首を動かし何とか避けるも、続けざまに袈裟斬り横払いと息つく暇もなく過激なダンスを踊らされた。その度にアスファルトの地面がひび割れ、近くにあった電柱、建物が破壊しつくされていく。既に廃墟と化した街が更に細々に壊されていくさまを士道は見ている余裕すらない。ほんの一秒以下の時間でも気を抜いたら待っているのは〝死〟のみなのだから。

 

「待てッ、待てまてマテっくれ!? ゴメンなさいすいませんふざけ過ぎたすっごい剣呑な空気になってるから少し緩和したほうがいいかなって思ってやっただけで別に馬鹿にしてる訳じゃないしおちょっくてる訳でもないから落ち着いてくださいお願いします!!!」

「………………………………」

 

継ぎ接ぎに繋ぎとめた弁明をこいて漸く十香はピタリと剣を士道の眼前に止めた。

琴里みたくやるのは失敗だった、というかフレンドリーになるのは怪しさ満点だと悟ったのになんであんな対応してしまったのか………多分この胸の内にある高揚と戸惑いが、訳も分からない状況にテンパりを起して支離滅裂な思考経路になったのだ。

 

そう納得したから士道は気付けなかった………自分が人外の速度を放つ攻撃を避け続けられた事実と異常さに。それが十香を余計に警戒させていた事に。

 

「もう一度聞く。お前は何者だ?」

「………俺は五河士道。歳は十六歳。血液型はAO型のRh+。身長は一七〇・〇センチ。体重は五八・五キロ。座高は九〇・二センチ。視力は右〇・六、左〇・八。握力は右四三・五キロ、左四一・二キロ。血圧は―――――待て落ちつくんだ十香そのおおきく振りかぶっている剣を止めるんだそんなことしたら俺の上半身と下半身がサヨナラホームランしちゃうからイヤマジで冗談抜きで死んじゃいますんでお願いします」

 

額にピクピクと青筋を浮かせながら振り子打法をブッぱなそうとしている十香に必死で謝る士道。

冷静になろうとしても直ぐになれるほどに胆力は高くなかったはずだが、懲りずにこんな自己紹介をしているのだからそうでもないかもしれない。

自分でもらしくないと思う。これも〝アレ〟の影響なのかもしれない。

やっぱり士道は………………

 

(……ッ、やめろ、考えるな。俺のことは後回しって言ったろッ)

 

「これが最後だ。答える気が無いなら始末させてもらう。お前は何者だ?――――――お前も私を殺しに来たのか」

「――――――、」

 

聞き慣れない言葉だが、十香の口から聞くソレは今ので二度目だった。あの時に聞いた物騒な言葉だ。

聞く事は億劫で、答えは解りきっていても、それでも聞かずにはいられない。

自身が否定される存在であると分かっていても、それでも誰かに認めてほしい。

剣を向けている相手(士道)も今までと例外なく自分(十香)を殺しにやってきた者と、そうに違いないと負の信用をするしかできない。

でも、もしかしたら、違うんじゃないかと、殺しに来たんじゃないのかもしれないと、なけなしの希望を抱いている…………そんな声。

 

「俺は―――――」

 

だったら、まだ大丈夫だ。コッチの声はまだ届く。だって士道は殺されずにこうして命の猶予を与えられている。

ならその猶予の間になんとかする。

士道が大っ嫌いなあの顔を――――ぶっ壊す。

 

「さっきも言ったけど俺は五河士道。ただの高二の学生だ。ここに来たのは……お前に会うためだ」

「……やはりか、お前も私を――――」

「違うッ!!!」

 

士道の〝会いに来た〟という言葉に的を得たと険しい顔をしながら剣を握り直した十香に対し力一杯否定する。

予想外の返答と声量に十香はビクッと瞠目したが士道は構わず続ける。

 

「いきなりこんなこと言ったって信じられないのは分かってる。馴れ馴れしく話しかけてくるのが気に食わないのも分かってる。俺が怪しさ満点の人間だってのも承知済みだ。

けど、それでも言わせてもらう。俺はお前をからかうつもりはないし、ましてや殺そうなんてミジンコ以下にも思ってない。俺はただお前に会いに、十香と話をするために来たんだ」

「?、??」

「お前が会ってきた人間はお前は死ぬべきだって言ったかもしれない。でも、人間すべてがお前を、十香を否定している訳じゃない。俺がその一人だ。仮にすべての人間が十香を否定したとしても俺は十香を否定しない。だから――――」

「ま、待て、ちょっと待てッ!! 何なのだお前は!?突然出てきて訳の分からんことを抜かして!!大体さっきから言ってる〝トーカ〟とは何―――――――ッ」

 

興奮醒め止まぬ感情をそのまま吐き出す士道に今度は十香が待ったを掛ける。彼女からすれば言葉の善し悪し以前に言葉の暴力に晒されたに等しいのだろう。混乱していると一目でわかるほどうろたえている。

 

だがその顔が急に緊迫したものへと変わる。

――――――2人だけの世界に侵入者達がやってきた。

 

「なんだ………あれ…?」

 

十香が言葉を切って、上空を見上げたのに釣られて士道も視線を投げる。

 

空から人が落ちてきた……いや、降りてきてるのか?

奇妙なアンダ―スーツに機械のパーツを付けている、文字通り人間兵器染みた数人の女がこちらに向かってきている。機械のパーツはロボットアニメなんかでよく見るビームライフルやミサイルポッド、飛行ユニットのようにも見える。

ああ、あれは降りてきてるんじゃなくてちゃんと飛んでるのか。あの人たちはどっかの秘密組織か企業かの特殊部隊なんだろう………なんて暢気に考えてる時ではない。どう見てもまともでも友好的でもない姿だし、何やらミサイルポッドみたいなのを起動させて―――――コッチに向かって撃ちだしはじめてるし。

 

「って、えええぇぇッ?!」

「…………ふん」

 

数十発の軍事兵器を何らの容赦もなく撃ちこまれて狼狽する士道だったが、十香は軽く息を吐き出し、心底馬鹿にした声音で呟く。

うろたえた顔を、再び憂鬱な顔に戻しながら。

 

「―――そんなものは無駄と、何故学習しない」

 

言って十香はミサイルが迫ってきている上空へと慣れた動作で剣を掲げる。

何をする気かは分からない。でも何となくミサイルを無力化する力を行使するつもりでいるのは自明の理。十香は人間を超越している最強者。何気ない一挙一動ですら力を帯びている。

案じる必要などない。十香の言う通り、あんなもの使ったって傷もつかないし、倒すことなど思いあがりも甚だしい。税金の無駄遣いだ。

士道に出来るのは巻き込まれないように十香から離れることくらいだろう。

 

十香がまたあんな顔をしなかったらの話だが。

 

「………そんなこと」

 

出来ない。離れるなんて、出来ない。

このまま十香を放っておいたら、このまま戦わせたら今よりもっとひどい顔になる。

そんな顔にさせたくない。でも何が出来る?何が出来ると言うのだ?この状況で十香のために何が出来る?今にも着弾しそうなミサイルに対して何が出来る?

 

―――――逃げるしかない。

走馬灯に陥っているような時間感覚の矛盾の中、スローモーションになっている世界の中で結論を出す。

士道は人間だ。出来る事は限られている。迫りくるミサイルを迎撃して撃ち落とすなんて出来ない。十香の代わりに戦うことも出来ない。

 

士道に出来るのは精々、十香を連れて此処から(・・・・・・・・・・)逃げることしかできない(・・・・・・・・・・・)

 

「消えろ…………一切合切、消え――――」

「十香、逃げるぞ!」

「ぬおォッ!? な、なにをするッ?!離せ!!!」

 

十香の腕を掴み、此処から逃げるために走った。こちらの手を引き剥がそうと踠いているが力で強引に引っ張っていった(・・・・・・・・・・・・・)

 

「ッ、お前は………一体」

「くそッ!!」

 

驚愕と疑問の呟きが十香から聞こえてきたが既に一〇メートルを切った距離にまで近づいてきたミサイルを前に気にする余裕すらない。

 

万事休す………このままでは当たる。

もっと、もっと。

 

 

――――――――――もっと遠くへ逃げないと(・・・・・・・・・・・)!!!

 

 

そう頭に満ちた時とミサイルが着弾した時は同じだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 

「…………当たった?」

 

呆気なく目標に着弾したミサイルを見て日下部鐐子一尉は拍子抜けというよりかは疑惑に満ちた思いを零した。

彼女自身を含め、周りには数名の人間が同じボディースーツを着込み、同じ機械を装備し、宙を飛んでいる。

 

対精霊部隊(アンチ・スピリット・チーム)。通称AST。

精霊を狩り、捕らえ、殺すために機械の鎧を纏う超人――――魔術師。それが彼女達の所属する部隊であり正体である。

人間では考えつかないほどの戦闘力を有し、人類の中では限りなく精霊に近しい存在ともいえる者たち。それを可能としているのが顕現装置(リアライザ)、ひいては戦術顕現(コンバット・)装置搭載(リアライザ)ユニット―――CRユニットと呼ばれるコンピューター上の演算結果を、物理法則を歪めて現実世界に反映する奇跡とも呼べる技術によるものだ。無論、制限はあるものの想像を現実にするという大変な技術、『魔法』を再現するシステムは破格と言えるだろう。

尤も、コレを人類が手にしたのは30年前の大空災。

日々の歩みと共に顕現装置(リアライザ)も進歩してきているが、それでも空間震、その原因たる精霊には太刀打ちできず、良くて撃退できるのが限界であった。

 

故にAST・日下部鐐子隊長は被害を最小限に抑え、無駄な危険を冒さず、出来うる限り早く精霊を撃退するのを信条としている。隊長の責任、義務として誰よりも精霊の力を理解し、分析し、的確な指示を出す必要がある。

だからこそ腑に落ちなかった。あのAAAランク精霊。識別名<プリンセス>がなぜ牽制程度の攻撃に当たったのがわからなかった。

 

「不気味ね……あの<プリンセス>が何の抵抗もしないなんて。―――総員、気を緩めないで集中しなさい。反応がありしだい攻撃開始よ」

 

『了解』と通信越しに聞こえてくる部下の声を聞きながら鐐子は硝煙が立ち込める眼下を見定めている。

何とも間抜けな話だが、自分達の牽制で放ったつもりのミサイルが当たってしまって<プリンセス>を視認できなくなってしまっているこの状況。

裏をかかれたのか、煙に乗じてこちらを一気に倒す算段なのかはわからないが<プリンセス>がこれで終わりだとは到底思えない。

全隊員が次のアクションに備えて構えるが、未だに反応がない。

 

誰もがおかしいと思いながらも緊張を解かないうちに時間は過ぎていき、徐々に煙が晴れてくる。

まさかとは思うが、本当にあれでやられたのかと鐐子ですら頭によぎったのだが、確認するまでは気を抜いてはいけない。それだけ精霊と言う化物は恐ろしいのだ。

 

 

そして完全に硝煙が晴れる。

そこにあったのは―――――――ミサイルによる破壊痕だけで、他には何も無かった。

 

『<プリンセス>が………いない?』

『これって、消失(ロスト)したってこと?』

「本部!そっちの観測はどうなってるの?」

『――――消失(ロスト)の確認はありません。ですが、其方の中域において<プリンセス>の反応も確認出来ません』

 

部隊を支援する基地本部へ問い掛ける鐐子だったが返答は予想外の斜め上を遥かに通り過ぎていった。

消失(ロスト)とは精霊が隣界と呼ばれる異空間に帰る事を指している。AST隊員が装着している顕現装置(リアライザ)にも当然策敵機能はあるが本部に搭載されている専用の顕現装置(リアライザ)が搭載されている観測機を使った方が確実であり、身を潜めているかどうかを調査するのに適している。

その観測機が消失(ロスト)をしていないといえばそうだし、中域に反応がないということはそういうことだ。

よって………

 

「〝逃げた〟っていうの?…………弱虫<ハ―ミット>ならともかく、あの<プリンセス>が?」

 

信じられないと言った声を漏らす鐐子に他の隊員達も同意した。

今まで敵対した精霊の中でも<プリンセス>は周囲への被害規模はもとよりASTに対する敵対意思が特に顕著に見られる個体で、大怪我を被った隊員も少なくない。

その<プリンセス>が現れるだけ現れて攻撃もしないで逃げていった。しかも今までに見せなかった神速の力を持ってして。

 

(………妙ね、こんな速くに戦線離脱できる能力がありながら今までソレを使わなかったの?)

 

精霊の基礎身体力は軽く人間を超えているが、今見せつけられた速さは尋常じゃない。戦いの最中で使われたらひとたまりもないだろう。

いや、そもそもにして速さによる逃亡なのだろうか?鐐子には本当にその場から消えた(・・・・・・・・)ようにしか思えなかった。だからこそ本部へ消失(ロスト)したかどうかを聞いたのだ。

 

『隊長、私たちはどうすれば……?』

消失(ロスト)が確認出来ない以上安全とは言えないわ。各員天宮市を隈なく捜索して見つけ次第報告。それでも見つからなければ一旦帰投するわよ」

 

やはりあの<プリンセス>がこれで終わりだとは思えない。だが同時に何か戦闘を避けなければならない理由があるのではないかとも思う。あわよくば弱点のようなものが発見できるかもしれない。

思考を切り替え素早く指示を飛ばす鐐子に部下たちが一斉に各方面に向かった。鐐子自身も動き出そうとしたが―――――

 

「………? 折紙?」

「…………………」

 

その中でただ一人動かなかった人物―――――鳶一折紙一曹がクレーターと破壊痕が残った大地を見つめたまま固まっていたのを見て訝しむ。

 

「どうしたの、何か気になることでもあるの?」

「…………何も」

 

そう短く答えると命令通りに折紙も探索へと向かっていった。どこか釈然としないものの今は<プリンセス>だと割り切り、本部にも周辺反応を調べるようにと指示を出した。

 

 

 

 

 

「………………………」

 

<プリンセス>探索へと乗り出した折紙だったが内面では全く別の事を考えていた。

AST全員が放ったミサイル。その対象先に人影が見えた気がしたのだ。

丁度自分たちの視界からは<プリンセス>が陰になってて見えなかったが<プリンセス>が誰かに手を引かれたかのように後退していったように折紙には見えた。

 

しかも辛うじて見えた人影は彼女がついさっきまで一緒にいたあの少年の輪郭と似ていた。

 

「…………五河士道」

 

彼のように見えた、でも彼が此処にいるわけがない。直接見てはいないが彼はシェルターに避難している筈だ。身体に異常はなかったから此処に来られなくもないが来る理由がない。

 

今日の朝、彼が折紙を覚えているのかどうかを聞こうとして、扉の前で茫然と立っていた彼に声を掛けてコッチを見たと思ったらフッと糸が切れたように倒れてしまった時は本当に焦ってしまった。

倒れた音に何事かと騒ぎ、集まり始めた有象無象の人垣を〝喝〟の一声で黙らせ緊急時以外使用禁止の小型デバイス、基礎(ベーシック)顕現装置(リアライザ)にて魔法を使うための領域――――随意領域(テリトリー)を展開して迅速かつ早急に保健室へとお姫様抱っこで運び出した。

一般人が大勢いる中で秘匿事項を破るのは愚行と言うのも生ぬるいが、魔術師の標準装備たるワイヤリングスーツなしでの随意領域(テリトリー)の展開は脳に多大な負担をかけ、下手をすれば廃人か死体に成り果てる可能性すら無視した凶行はもはや言葉にならない。が、一般人が居る前でワイヤリングスーツを装着する事は出来ないと辛うじて冷静な部分はあった。

 

……言い訳を述べれば学校で折紙は〝永久凍土〟 〝マヒャドデス〟といった異名通り、どんな相手でもの冷めた感情表現しかしてこなかった。

そんな折紙が普段のキャラとは想像もしない大きな声で「そこをどいてッ!!!」なんて荒ぶる獣の如く咆哮を浴びて周りの生徒たちは色んな驚愕やらで畏縮やらで、折紙の異常な力と速さには全然気が付いていなかった。

随意領域(テリトリー)に関しても五河士道を心配するあまり、脳への負担が皆無になり、むしろ今まで展開してきた中で一番上手く、質の高い、思い通りの領域が造れたとさえ思っていた。

 

保健室に運んだ後は彼の身体に異常がないかどうかを念入りに、念入りに、ね・ん・い・り・に調べまくった。

仕方がない事だ、何せ幸う―――ではなく不運にも養護教諭が急用で休んでいたのだから代わりに折紙がやるしかなかったのだ 。

身体が汚れていては精神衛生上よろしくないので全身隈なクンカクンカス―ハ―スーハーし。

しっかりと耳を胸に当て心音を測り(正確に聞こえるように士道の制服を脱がして行った)。

熱がないかどうかを全身を抱きしめて測り(正確に感じるために士道のみならず折紙も脱いだ )。

 

そのあと●●●(ピー)●●●(ピー)したり●●●(ピー)●●●(ピー)して●●●(ピー)を動かし●●●(ピー)を確かめて●●●(ピー)●●●(ピー)●●●(ピー)●●●(ピー)として●●●(ピー)●●●(ピー)●●●(ピー)●●●(ピー)を挟み●●●(ピー)●●●(ピー)みたく動かし●●●(ピー)のように●●●(ピー)が出て●●●(ピー)●●●(ピー)●●●(ピー)●●●(ピー)●●●(ピー)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しばらくお待ちください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――と、2,3時間くらい経ち、漸く検査が終わって問題無しと判断した(2人ともちゃんと服は着ていた)。

丁度その時になって二年生担任になった岡峰珠恵教諭が始業式の終りに保健室へと訪れ、恐らくはただの寝不足か何かだろうと伝えるとホッとして顔を綻ばせ、折紙に看病してくれた礼を言ってきた。折紙としてはこっちがお礼を言いたい気分だし、士道が目を覚ますまではここを離れる気が無かったので「いえ」と軽く返して自分が彼を見ているから教室に戻ってかまわないと丁重に、て・い・ちょ・う・に・お引き取り願った。………岡峰教諭は若干涙目になっていた。

 

そこから数分して五河士道は目を覚ました。彼は固い対応をしていて折紙のことを覚えていなかったのは残念に思えたが仕方がないといえば仕方がない。一方的にこちらが覚えているだけなのだから。

……だから空間震が鳴ったとき、折紙がASTとして戦場に向かおうとした時に彼がこちらを心配して声を送ってくれたことは嬉しかった。

まるで専業主夫とキャリアウーマンの新婚みたいで天にも昇る気分とはこの事かと思ったし、今日こそ精霊を倒せる気すらした。

 

ならばこそ気になった。彼のあの表情が、まるで折紙がこれから何処へ行って何をしようとするのかを分かっていたような心配顔が。

そんな風に考えていたからかもしれない、人影が五河士道に見えてしまったのは。彼は折紙が心配で心配でしょうがなかったからシェルターにいなかった折紙を外へと探しに行ったと、そう思いこんでしまっていたのかもしれない。

可能性としては十分に有りえるがやはり違うだろう。そもそも人影が本当にあったかどうかすら定かではないし、今回<プリンセス>が見せた逃げ足の力を個人にだけ使うなら兎も角、一緒に居合わせただけの人物にも一緒に行使したとは考えられない。それだけ<プリンセス>は人間に攻撃的なのだ。

 

仮に居たとして、人影のほうが力を使った………それこそありえない。

精霊の反応は<プリンセス>のみであったし、この天宮市に折紙たち以外の魔術師が居る報告はない。

一番考えられるのが避難に遅れた一般人だろうが―――――やはりありえない。<プリンセス>の心境の変化よりもありえない。

 

 

それは一般人ではないし、魔術師以上に人間かどうかも怪しくなるのだから。

 

 



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1ー5

<プリンセス>の逃亡を確認したのはASTだけではなかった。

 

 

天宮市上空一万五千メートル。地上から見上げるには余りにも視力の限界を超えている位置に存在する空中艦<フラクシナス>のクル―達も消失(ロスト)とは異なる反応消滅、しかも最新鋭艦たる<フラクシナス>の観測をすり抜ける速さで反応が消えたことに驚愕を覚えていた。

流石は精霊、人間の常識を覆す顕現装置(リアライザ)を更に覆してくる。

改めて精霊の力を認識する中、艦橋に入ってくる扉の音がして一人の少女が姿を現した。

 

「状況はどうなってるの?」

 

入るなり尊大に言ってくる赤髪を黒のリボンでツインテールにした少女に周りのクル―たちは何の不満も違和感も懐いていないのか作業を続けており、艦長席付近にいた男が少女に敬礼して迎えながら報告を行う。

 

「はっ。精霊出現後、ASTが攻撃を開始したのですが、間も無く精霊は戦線離脱。その後も行方を眩ませています」

「離脱? 消失(ロスト)じゃなくて?」

「はい」

 

艦長席に少女が座り、男は一連の出来事を簡単に説明する。

その後、少女はクル―に映像を出すよう指示し、現在状況を把握する。大型モニターに映し出されるのはクレーターを中心として破壊しつくされている街並みと、飛び回っているAST隊員だった。惨状と呼べる有様ではあるものの、今までの<プリンセス>とASTの戦闘痕に比べれば最小限の被害で済んだと安堵するレベルである。

 

「ふーん………確かに珍しいわね。精霊の中でも気性が激しいタイプなのに、何もしないで逃げたってわけ」

「そうですね。我々も天宮市内を探索したのですが、反応は無しです」

「もう天宮市を遠く離れたってことね。でもそんな能力が<プリンセス>にあったかしら?アレの〝天使〟は純粋な破壊の力だったと記憶してるんだけど、その時の映像は無いの?」

「申し訳ありません………霊波観測だけに留めていたのでオフぉぉっ!」

 

言い終わる前に少女が男の足を思いっきり踏み潰した。傍から見ても痛そうだったが踏まれた本人は何やら幸せそうに顔を緩めている。

 

「ったく、肝心なところが見れないなんて。まあ、今更ASTとのドンパチ見たって仕方がなかったのも事実ね。そろそろ傍観者から当事者に移るときだわ」

「―――ッ、司令、では」

「そうよ。円卓会議(ラウンズ)からの許可がようやく下りた。いよいよ私たち<ラタトクス>が動き出すのよ」

 

小さな体躯からは似合わぬ威風堂々とした宣告に、男だけでなくクルー全員がいよいよ作戦開始の狼煙が上げられたと、気を引き締めた。

怠けている様子がない部下たちに満足げになりながら司令と呼ばれた少女がふと気になっていたことを思い出した……着信履歴が数回埋まった電話の主のことを。

 

「そういえば、さっき〝秘密兵器〟に連絡いれたんだけど出なかったのよね。神無月、現在位置調べてちょうだい」

「わかりました」

 

男――神無月はクル―達に指示を出して〝秘密兵器〟の居場所を調べだす。

<フラクシナス>に搭載されている最新の顕現装置(リアライザ)を駆使すれば直ぐに見つかる……はずなのだが。

 

神無月は予想外の結果に首を捻った。

 

「ん?」

「なに、どうしたの」

「いえ、それが………………対象の、〝秘密兵器〟の反応が見当たりません」

「……はぁ?」

 

告げられた言葉に少女は〝何言っちゃってるのコイツ?〟と胡乱な目で男を睨んだ。

見下す視線に男はぶるりと震えながら恍惚と表情を浮かべるが、少女が真面目な怒気を放っているのを感じてコホンと咳払いをして報告を続ける。

 

「対象が通学している高校をスキャニングしたのですが、校舎はもちろん、地下シェルターにも反応がありません。少なくとも、来禅高校には居ないということしか………」

「なんですって?」

 

予期せぬ事態に少女の顔が険しくなる。

少女からすればこれは念のための確認だった。これから始まるであろう壮絶な戦争(・・)を前にしてのメンテナンスチェック程度の心持、折り返して連絡するのが遅くなったとはいえ空間震警報中に妙なマネするわけがないと思っていた。

なのに今しがた神無月がほざいたのは戦争をするための兵器がないということであり、戦術兵器にして戦略兵器たる武器が行方不明になっているということ。作戦実行が出来ないということ。

それでも司令と呼ばれるだけあって、極めて冷静になりながら少女は携帯端末を取りだし〝秘密兵器〟へと電話を掛ける。まさかとは思うが緊急を要する状況に巻き込まれているのではと心の奥底が小さくざわめく。さっき電話に出なかった事も相俟ってジワジワと嫌な気分が上昇してくる。

苛立ちとも不安とも言える感情を自覚しながら少女は愚兄(・・)が電話に出るのを待つ。

そして数回コールした後ついにガチャッと電話に応答した音がした後、件の人物の声が聞こえた。

 

『えっと………もしもし』

「もしもし、今――――」

 

何処にいる?と聞こうとして、突如耳の向こう側で轟いてくる怪音によって、一言も交わせずに強制解除させられた。

思わず端末から耳を離してしまい、再び耳を付けるも聞こえてくるのはプー、プー、と通信が切れた虚しい音だけだった。

 

「っ――――神無月、対象の捜索範囲を広げなさいッ!天宮市外全域も含めて!急いでッ!!」

「了解しました!」

 

神無月と他のクル―全員が慌ただしく動きだす。電話越しの轟音は彼らにも聞こえたらしく、尋常ではない、まさかと危惧した緊急事態であることが如実に伝わっていた。

〝秘密兵器〟に何が起こっているのか、何処に居るのか。今日は始業式があるだけでこれといって出掛けるイベントはない。

……昼にレストランで食事を取ろうと約束はしたが、空間震が来るというのに律儀に待つハチ公になってるとも思えない、そこまで馬鹿ではないはず。

居場所も気になるが、それよりも一番気になるのはあの轟音だ。通信でも伝わってきた天の怒りもかくやという〝地響き〟。ただの自然現象で起った音でも、銃や爆弾で起った音とも違う……。

 

強いて言うなら、その両方(・・・・)

 

引き金をひいて自然現象が起った様な――――――そう、かつて

 

「対象の反応がありました!―――――ですが、これは」

「見つかったの? どこ」

 

〝秘密兵器〟発見の報告に余念を捨てて先を促すものの、肝心のクル―は呆然と驚愕の表情で口籠っていた。

 

「ちょっと、見つかったんでしょ。どこにいるの………まさかレストランに居るとか言わないでしょうね」

「い、いえ、そ、その……………」

「?」

 

尚も戸惑いがちに報告を渋るクルーに訝しげになる。

まさか本当にレストランに居たのか。馬鹿なの? 死ぬの?と嘆息しそうになったところで〝秘密兵器〟の居場所を報告した。

 

「対象の反応は―――――――――――――――沖縄県にあります」

「………………………………は?」

「しかも、<プリンセス>の反応も一緒です……」

「…………………………………………………………………………

…………………………………………………………………………

…………………………………………………………………………は?」

 

沈黙が場を支配していく。誰もかれも声を発しない。場に響いているのは顕現装置(リアライザ)の起動音くらいだ。

何を言ってるのかわからなかった。言ってきた内容を受け入れられなかった。

沖縄県という県名は知っている。観光地としても有名だし、修学旅行とかにも定番で、そういえば〝秘密兵器〟の高校も修学旅行先は沖縄だった気がする。

下見に行こうと思っても時期が早すぎるし、その場所が気軽に行ってみようと思っていける場所ではないのも分かってる―――――そんな場所に〝秘密兵器〟が<プリンセス>といる。

 

<フラクシナス>が壊れているとは誰も思っていない。最新鋭艦がそうそう簡単に壊れるとは思っていないし、整備不慮を起こすような人材はいないと自負もしている。

[地下シェルターに避難していなかった〝秘密兵器〟は天宮市を遠く離れて沖縄県に、行方不明になっていた<プリンセス>と一緒に居る]……と出た以上、これは事実だ。〝秘密兵器〟は<プリンセス>と一緒に沖縄県に居る。

 

だが事実でも、訳が分からなかった…………だから<フラクシナス>司令官・五河琴里が悲鳴じみた咆哮を上げるのは当然のことだった。

 

 

「はぁああああぁぁ!?!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

右の掌がざっくりと斬り裂かれている。

一般人が生活する中では不慮の事故でも起きない限り絶対に見ないであろう量の血がボタボタと零れ落ちていく。

不思議と痛みはそれほど感じていない。あんまりにもあり得ないくらいに血が出てるから脳が吃驚して脳内麻薬をふんだんに発しているのかもしれない。

そんな大怪我を負いながらも五河士道の胸中に懐いているモノは怪我を負わせた相手に対する憤りではなく、よく右手が残ってたなといった安心感だった。

 

如何して怪我を負ったのか……ポケットに入れていた携帯端末が着信の振動をしたので出てみたら十香が斬撃を放って手から血が舞ったのだ。携帯は木端微塵になったが耳が無事だったのは不幸中の幸いだった。

十香は士道と距離を取ったまま剣を構えて睨みつけてくる、これ以上妙なマネ(・・・・・・・・)をしたら即刻首を落とすと言わんばかりにだ。

無理もない。こんな見知らぬ土地に(・・・・・・・・・・)連れていかれては(・・・・・・・・)警戒しない方がどうかしている。

 

(何処だよここ………何なんだよ本当に、なにがどうなって…………?)

 

考えるのを放棄したくなる誘惑をグッと堪えて、十香と目を併せたまま周りを把握する。

青い空、白い雲、そして蒼い海、白い砂浜。燦々と輝く太陽はそれら総てを照らしだし、元々の透明感溢れる澄み切った美しさをより一層引き出していた。

何者にも穢されぬこの地の景色は都会では決して再現できない和やかさを士道に与えていた……こんな状況下に陥っても尚だ。

 

此処はどこかの海辺、プライベートビーチというやつだろうか?無限に続く広大な海に白い砂浜が追従していて果てが見えない。他にあるものといえば翠の草木、黒い岩礁程度のもので家も宿もホテルも此処からでは見えない。

いや、問題なのは此処が何処かではなく……何でこんなところに居るのかだ。

士道と十香は天宮市の街中に居た筈なのに、ミサイルに追いかけられて当たったと思ったら目の前に大海原が広がっていたのだ。まさにイリュージョンとしか言いようがなかった。

 

「―――――おい、貴様」

 

睨むばかりだった十香がとうとう重い口を開けた。穴があくどころか呪い殺すかの如く睨みを利かせているが。

 

「一体何をした、ここはどこだ?」

 

その声は芯の通った凛々しい響きであったが、早口で言っているその姿は努めて動揺を隠しているように士道には聞こえた。

……問題の本質はこれだ。どうにも天宮市からこの場所へやってきた原因は士道にあるらしいのだ。

士道としては十香が精霊の力を使って何とかしたものと思っていただけに、内心混乱しまくっている。

ミサイルが迫った時、士道は確かに〝ここから遠くへ離れないと〟と考えていた。だがそれだけである。考えていただけで、具体的な事は何もしていない。

思っただけで遠くへ瞬間移動、テレポートが出来るだなんてご都合主義にも程がある。こんなトンデモ能力に士道は勿論身に覚えは無い。

あるとしたら、やっぱり朝の夢なのだが………朧げでしか覚えてないし、しかも滅茶苦茶な数を言ってたし、もしかしたら本人も何を言ったか忘れてるんじゃないかと思う。

 

(って、そんなこと今は如何でもいいんだよ)

 

そろそろ返答しないと十香の機嫌が更に悪くなってしまう。

自覚も納得もしていないが今は十香のことを優先すると決めたのだ。彼女がやっていないなら、やったのは士道だ。今はそれを受け入れて話を合わせる。そうしなければ先に進むことはできそうにない。

 

「驚かせて悪かった。でも、あのまま何もしなかったらお前はアイツ等と戦ってたろ? 俺はただお前が戦うところなんて見たくなかったからここまで連れて来ただけだ。他意は無い」

 

精一杯の謝意を込めて告げた士道に十香は睨むだけで、まだ士道を測りかねているようだ。

士道には待つことしか許されない。無害であることを証明するには十香の質問に答えるのが今の最善だ。勝手な喋りも今の十香には気に触れるくらい警戒している。

 

「私が戦うところを見たくなかった…………? どういう意味だ」

「そのままの意味だ。お前が戦って、傷を負う姿なんて見たくなかったんだ。本当に、それだけだ」

「あんなもので私に傷を負わせることはできん」

「それでもだッ! それでもお前に戦ってほしくなかったんだ」

 

十香の問いに士道は悲壮感すら漂わせて答える。それは十香にも伝わってきて、だからこそ何で戦わせたくないのか分からないといった顔になっている。

 

「………解せんな。何故そんなことをする? 私が戦ったところでお前には何の関係もないだろうが」

「それは――――」

 

その通りだ。士道と十香は今日〝実際に〟会ったばかりの他人。少なくとも十香にとっては完全な赤の他人であり、自分を殺そうとしてくる人間の同胞だ。

士道の言ってること、やってることは十香を油断させて側面から襲う策謀と取られているのかもしれない、というかそうじゃないかと今疑われているのだろう。天宮市で感情のまま口走ってしまったのも拍車を掛けてしまっているみたいだ。

加えて士道自身も気持ちの整理が出来てなかった。十香のあの顔を見て放っておけなかったから思わず絡んでしまったというならわかる――――かつて士道が味わった絶望を前に見て見ぬ振りができるほど士道は残酷ではないつもりだ。

 

でも、この胸の気持ちはそれだけではないことを士道に訴えている。

同情とも、有難迷惑とも言える士道の絡む癖以外の〝何か〟が十香をこのまましておけないと言っている。

 

 

 

この気持ちは………………そう、〝ムカつき〟だ。

 

 

 

十香の顔を見ていると、放っておけなくなるのとは別に、無性に腹立たしくて(・・・・・・)癇に障って(・・・・・)気に入らなかった(・・・・・・・・)

 

昔の自分を見ているみたいで嫌な気持ちになっているのではない。

 

違うのだ(・・・・)

 

あの顔は違うのだ(・・・・・・・・)

 

 

 

あんな顔は、十香らしくないのだ(・・・・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

『十香。私の名だ。素敵だろう?』

 

 

 

 

 

 

 

 

(そうだよ………俺は、見たじゃないか。十香の、あの顔(・・・)を)

 

朝の夢幻。夕焼けに染まった教室で、十香が自分の名前を告げたあの時に士道は見たのだ。

 

十香の―――――――――笑顔を。

 

心がストンと、ピッタリと嵌まった感覚がした。心が楽になった気がした。

相手の抱えている絶望よりもなんのその。単純で馬鹿らしいけど、物凄く大きな理由を士道は持っていたのだ。

 

「―――笑ってほしい」

「…………………なに?」

「笑ってほしいんだ。俺は、お前に笑ってほしいから戦わせたくなかったんだ」

「……なにを、言って……?」

 

急に黙り込んだと思ったら唐突にそんな事を言われて理解不能と、十香はますます士道のことがわからないといった表情になった。

 

「お前、アイツ等と戦おうとした時どんな顔してたか知ってるか?面倒臭そうにしてて、ウザそうにしてて、その癖すっごく悲しそうな顔してたんだぞ」

 

まるでイジメみたいと、何でこんな事になったのかわからなくて、ただ悲しくて、怒りをぶつけるしかない負のスパイラル現象だったと、士道は熱くなりそうな頭を抑えながらも声を発する。

 

「信じる事が出来なくて、誰にも愛されないと思ってて、何もかもに絶望してるみたいな顔をしてた。放っておけないって思った――――――――でもな」

 

気持ち悪くてたまらない環境で生きなければ成らない、士道が大っ嫌いな顔。

誰であろうと〝そんな顔をさせない〟と士道は強い思いを裡に秘めている。十香の状況を変えるためなら何度でも声を掛ける。何度でも手を差し伸べる。

 

でも―――――

 

「それ以上にッ、俺はお前がそんな顔をしているのが気に食わない!!」

「なっ―――」

「憂鬱? 物憂い? 絶望? 何だよそれ、そんなもん全然ッ!お前にはこれっぽちも似合ってねえよ(・・・・・・・)!!」

 

そう宣言した瞬間――――――士道の脳が乗っ取られた。

頭が揺れる。目が滾る。でも意識は現実にちゃんと保つ。

十香をまっすぐ見ながら、濁流する世界を受容する。無理矢理に変えられる世界を認めながら脳裏に浮かんでくる人物を士道は見定めた。

 

 

 

そこに居たのは、十香だった。

 

 

 

 

『んんんんんんっまあああああああああああい!!!これがデェトかシド―?!』

 

パクパクと夢中になりながら笑顔できなこパンを食べる十香がいた。

 

 

『んっ、ふふ……………そうかシド―、もしかしてこれがデェトだな?』

 

頭を撫でられて気持ちよさそうに笑顔になる十香がいた。

 

 

『ならばいっしょに食べよう!デェトしつくそうではないか!!』

 

自分だけが楽しんでるんじゃないかと不安になって、「楽しいよ」と返事を聞いて、安心して笑顔になる十香がいた。

 

 

『何だそんなことか、だったら今日の私とシド―は立派にデェトだ!―――――イイものだな、デェトは』

 

日が沈んでいく中、今日一日を振り返って「一体デェトとはなんのことだったのだ?」「結局わからなかった」と言った時、男女が出掛けたり遊んだりすることと簡単に説明をしてやり、屈託のない無邪気な笑顔になる十香がいた。

 

どれもこれも覚えが全くない記憶たち。

 

そして、どれもこれも十香が笑っていた記憶たち。

 

記憶の中の十香は見るもの総てが真新しいモノばかりで、悲しみと怒りと絶望しか知らなかった彼女からすれば驚天動地の連続だったのだろう。

すること成すこと総てを全力でおこなって、全力で楽しんで、全力の笑顔を浮かべていた。

 

その顔は本当に綺麗で、太陽すら霞んでしまう程に輝いていて、生きる喜びに満ちていた。

 

「そうだ! お前はそんな顔しちゃダメだ!!お前はもっと笑うべきだ!!お前の笑顔は見た奴を元気にすることが出来るんだ!! それくらいお前の笑った顔はキラキラしてて可愛いんだ!!!」

「かっ、可愛っ?!」

「それを………絶望なんかに邪魔されてたまるかよッ! お前がそんな風になっちまってる原因が誰にも認めてもらえないからって言うなら、俺が認めてやる!!お前を否定してくる奴ら全員の数倍以上に俺がお前のことを肯定してやる!!!」

「なっ―――――な………、な」

「だから――――――だから俺と!!」

 

目を何度もぱちくりさせ、開いた口が塞がらずに喘ぎ声を洩らす十香は顔も真っ赤になっていて熟れたトマトかハバネロと形容してもいいかもしれない。

その事に気付いているのかいないのか士道はさらに勢いづけて言葉を紡ぐ。

 

十香の絶望を振り払うために。

 

十香を笑顔にさせるために。

 

彼女が何度も口にした言葉を。

 

殲滅とは違う、精霊へのもう一つの対処法を。

 

「俺とッ、俺とデートをしてくれ!!」

 

士道は叫んだ。自分が十香を肯定する者としての証を立てるための方法を。

 

精霊に恋をさせる。即ち………デートして、デレさせる!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――しかし。

 

 

 

「――――――――――ぅ」

 

第三者の視点で言えば、今の士道の言動は天宮市で感情任せに言ったことと変わりがない。

幾ら十香が望んでいるであろう言葉を言ったところで初対面の人間をおいそれと信じられるかはかなり怪しい。

 

「―――――――――――うぅ」

 

だが十香は根本が純粋な心の持ち主であり、子供っぽい性格なため、常識や規範といったものに疎く、思考よりも直感を重視し物事を見据え行動するのが多い。

 

「――――――――――うぅう」

 

AST達によって悪意や害意に晒されてきた十香は、それ故に自身へ向ける負の感情に敏感になっている。士道が絶望に対して敏感になっているように。

 

「―――――――――――うぅぅぅぅ」

 

逆に言えばそれは、善意や好意といった正に真逆な感情に対しても十香は直感で感じる性質が備わっているとも言える。

 

「――――――――――うううううううううう」

 

故に、士道が口にした言葉は嘘偽りない、心の底から親身になって自分を想ってくれているのだと十香は何となくながら理解していた。

 

故に、今まで感じたことがなかった相手からの心遣いに………………恥ずかしくなってしまって、どうしたらいいのか混乱してしまうのも無理からぬ事で―――――

 

 

 

 

「うううううううううううううううううううううう」

「……………ん?」

 

どっかで聞いたことのある警報めいた唸りを漏らす十香に士道は漸く熱が冷めて様子がおかしい事に気が付いた。

顔が真っ赤っかになって湯気が立ち上っている。身体が小刻みに震え、心なしか少し光っている。

それらが段々と大きくなっていく……………まるで空間震が起る予兆のように。

 

「うううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」

「え? と、十香? おい、どうし――――」

 

声を掛けるも届いていないのか、十香はますますその震えと光を大きくしていき―――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「ウガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「ウボァァアアアアあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!?!?!?」

 

 

 

 

 

 

爆発させた。

 

天宮市で起った空間震に負けないくらいの爆風と衝撃が十香を中心に巻き起こり、近くに居た士道は容易く風圧に巻き込まれた。

視界が白く染まり、重力が全く感じられず距離感も失ってただ遠くに吹き飛ばされていることぐらいしか分からなくなって…………いつしか本日二度目の気絶を果たしてしまっていた。

 



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1-6

 

 

 

―――――――――――久しぶり

 

 

(…………っ)

 

何処からともなく聞こえてきた声に士道は意識を覚醒させていく。

 

 

―――――――――――やっと、やっと会えたね

 

 

(ぁあ………? なんだ、誰だ?)

 

呆っとした頭の所為か、モザイクがかかったみたいな〝ソレ〟が士道に話しかけてくる。

男か女かもわからない声。でも、どこかで聞いたことがあるような声。

 

 

――――――――――――嬉しいよ。でも、もう少し、もう少し待って

 

 

(? 待つ? 何を待てって?)

 

何なのだろう……この声の主は。士道を案じているような、焦がれているような、そんな感じがする。

「お前は誰だ?」と、問い掛けるも返事をする気配は…………

 

 

―――――――――――――もう絶対に『くっくっくっくっくっくっくっくっくっくっくっくっ……………呵ーーーーー呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ呵ッ!!』

 

(あ?)

 

…………有るっぽい。

突如として、不思議な声から芝居がかった笑い声へとシフトチェンジして耳に響いてくる。

何がそんなにおかしいのか、静なる調べから動なる大笑いへと変化して士道は思いっきり面食らってしまう。

 

『我の名を聞きたいと申すか?人間風情が厚顔な事よ。だがまあ、我が美貌は天上の女神に匹敵する程のもの。我の許しも得ずに無礼を働いてしまうのも無理はない。

よかろう。我は寛大だ。その尊崇をもってして不問とする』

 

なん、だ?…この声の主は?急に声がはっきり聞こえたというか口調が明朗快活になったというか傲慢不遜になったというか……………もしかして、からかわれていたのか?

そもそも声しか聞こえてこないから天上の女神に匹敵する美貌とやらが見えないのだが……

 

『そして聞けぇい!! 我こそは未来視(さきよみ)の魔眼の継承者にして颶風を司りし(シュトゥルム)漆黒の魔槍(ランツェ)の担い手! 幾年月が果てようとも色あせぬ不滅の魂を宿いし颶風の御子!! 

 

刮目せよ!!風を司る我が威光を!!!

 

戦慄せよ!!嵐を巻き起こす我が波動を!!!

 

 

さあ叫ぶがいい!! 我が名はッ―――――!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 

 

「斬月ッ!!!  じゃなくて、ハチマイ!!!でもなくて………………アレ?」

 

ガバッ!と上半身を風神の速さで起こして、ゴンッッッ!!と何かに当たった衝突音(・・・・・・・・・・)と共に起きぬけに意味不明で解釈不能な解号を叫んだ士道は、自分で言っておきながら自分が何を言ってるのかさっぱり分からず、首を傾げる。

何だか重要なイベントに遭遇していた気がするのだが…………なぜだろう、物語とかである重大な秘密が明かされる時に空気を読まないキャラクターが乱入してなあなあに流されてしまう展開になった感じがした。

まあとりあえず、それは思考の片隅にでも置いといて、現状把握を優先して周囲を見回してみる。

自分が寝ていたパイプベットと仕切りの白カーテン。保健室と大差ないが、唯一にして最大の違いは天上の……天井の配管やら配線が剥き出しになっているとこだろう。

血管のように枝分かれしているコレ等は空調制御か何かなのか。

ここは地下室なのかもしれないなと推測していると、ソレ(・・)を見つけた。

 

「うわッ?!」

 

パイプベットの下、冷たい床に仰向けに倒れている女性を見つけて思わず士道は悲鳴を漏らす。グッタリしていて、とてもじゃないが尋常ではなかった。

 

「だっ、大丈夫ですか!? しっかりしてください!?」

「……………………ぅ、ん」

 

一瞬の停止の後、慌ててベットから降り立ち、近寄って声を掛ける。

女性は呻き、というより寝言を謳っているように身をよじる。

……その際に揺れ動いた二つの大きな山につい目が逝ってしまって、ついゴクリと生唾を飲み込んでしまう。

ほんのちょっと、ほんのちょっとだけである。ほんのちょっと動いただけで〝プルンッ〟とたわわな果実が揺れたのだ。

 

「………と、とにかくベットで寝かせないと」

 

凝視してしまった自分を窘め、体を動かす。冷たくて固い床に寝かせっぱなしにしたら身体中の筋肉が凝ってしまう。「失礼します」と断りを入れてから士道は女性の肩と膝に手を回すと、鋭い電流のような痛みが右手に駆け抜けた。

 

「痛ッ――――」

 

ジリジリと尾を引く痛みに何事かと右手を見ると、幾重にも包帯が巻かれていることに今更ながら気付いた。

そういえば、あの時に十香に怪我させられてたなと全く気にせず他人事みたいに思い馳せた。

怪我した時より後の方が痛いなんて可笑しなもんだと思いながら、再度腕に力を入れて一気に持ち上げ、お姫様抱っこで自分が寝ていたパイプベットにそっと降ろした。

思いの他、簡単に持ち上げられたので右手の痛みもそれほど気にはならなかった。

それとも……持ちあげた時と降ろした後の際にも揺れに揺れ動いたけしからん双丘に感心を持って逝かれた所為で女性の身体の重さは無きに等しくなったのか……あと女性その人から香るイイ匂いも要因かもしれない。

こんな間近で自己主張激しい女の象徴を見せつけられ、思春期真盛りの士道が痛みよりも異性に関心が逝くのは無理もない。が、だからといって倒れている女性に対して不純を働くほど欲求不満はないし、下種でもない………………ヘタレでもない。断じて。

降ろした後は毛布を掛けて、女性の顔をまじまじと見やる。

適当に纏められた髪に眼鏡を掛けていても分かるほど分厚い隈が目に引くが、それでも美人と言えるくらいに整った顔立ちをしている20代のお姉さんだ。

目の下の隈、倒れていた現場を看破するに、寝不足で休もうとして此処まで来たが眠気が限界に達してしまって気を失ってしまったのかもしれない。それくらいこの女性の隈は深過ぎる。

 

「どうしたものか」、と士道は考える。

自分に医者の心得はないし、誰かを呼ぼうにも此処が何処かもわからないのに勝手に出歩くのは拙いだろう。迷子になったり、不審者扱いされるのは困る。

それに女性の方は苦しそうな素振りはなく、むしろスヤスヤと安らかに眠っているので起こすのも憚られる。

 

「このまま見守っているのが吉か――――――も」

 

言いながら士道は様子見を選択して近くにあった椅子に座ると、タイミングを見計らったように、寝ていた筈の女性が急に目を見開いた。

サイボーグの起動みたいな………人間味の無い、無理矢理起こされたかのような目覚めに内心恐々となる。もしかしなくともこの女性は不眠症、というやつなのだろうか?

だとすれば早すぎる目覚めだが、気が付いてくれてホッと胸を下ろしたのも事実だった。

 

「目が覚めたんですね。具合はどうですか?」

「…………ん」

 

見た目通りに眠いのか、軽く会釈をするだけでも億劫みたいだった。

ただでさえ眠たげな風貌をしていた女性がまどろみから目を覚ました姿はこの上なく退廃的で、途方もない寂寥感に溢れていて、酷く儚げだった。

見たことがない女の未知の姿に、これが大人の魅力なのかと士道は無意識に思う。魅入られてると自覚しながらも目を離すことが出来ないのが年上の魔性なのかもしれない。

女性は暫し横たわったまま目を動かし、士道を見定めるとヨロヨロと上体を起こし、呆っとした顔を向けてくる

 

「…………君は」

「ええっと、どこか痛むところとかないですか?気分が悪いとか………っていうか大丈夫じゃないですよね、その顔。 まだ寝てた方がいいと思うんですけど……」

「……ん、ああ平気だ。これが私の常時だからね」

「…………〝常時〟って」

 

こんな見ているだけで不健康そうな顔で通常状態だと言っているのか?

ちょっと目を離したらすぐに倒れてしまうんじゃないか?

そんな心配が士道の中に燻るが、女性は心知らずと髪をかき上げて改めて士道を見つめてくる。

 

「……ああ、そうか、目覚めたんだね。……私はここで解析官をやっている村雨令音だ。よろしく頼む」

「あ、五河士道です。はじめ…………まし、て?」

 

女性の、村雨令音の名前を聞いた時、士道は僅かな違和感を感じた。

この名前は、どこかで聞いたことがあるような………そんな気がした。

 

「……? なぜ疑問系なんだい?」

「……………あの、つかぬこと聞きますけど、俺達ってどっかで会ったことありませんか?ここ以外で」

「……いや、初対面だと思うが」

「………………」

 

令音に否定されてもスッキリとしない気持ちは有るもののほんの僅かな違和感だったので受け流すことにした。

 

「そう、ですか………すいません、変な事聞いて」

「……私も聞いていいかな? 確か医務官が席を外していて、代わりに私が君を看護していたはずなんだが………なぜ立ち位置が逆になっているんだ?……どうも記憶が曖昧になっていてね」

「え、そうだったんですか? 俺はてっきり……」

「……てっきり?」

「ええっと、俺が起きた時に――――」

 

士道は自分が目覚めた時には令音は倒れており、ベットに運んだ事と彼女もここに休みに来たものだと思っていた旨を伝える。

令音は「……ふむ」と頷き、顎に手をやり考える人のポーズを取り思案する。

 

「……そうか。寝不足だったのは承知していたが、まさか倒れてしまう程のものだったとはね。……すまない、見苦しいところを見せてしまった。……それから、ありがとう。世話になったよ」

「いえ、そんな……こっちこそありがとうございます。看護してもらって」

 

ただ運んだだけで目上の人に深々とお辞儀をされて、しかも破廉恥な目で令音を見てしまったこともあって、恥かしさで恐縮しきってしまう。

―――――こうして事の発端たる真相は闇の中へと葬られてしまった。その方が士道に取って良いことなのか悪いことなのかは、神のみぞ知る。

 

「それはそうと村雨さん。ここってどこなんですか? 俺は確か……」

「……ああ、私のことは令音でいいよ。……ここは<フラクシナス>の医務室だ。気絶していたので勝手ながら運ばせてもらったんだよ」

「気絶――――」

 

令音に齎された情報に記憶を辿っていく。

そう、士道はあの海辺で精霊の少女・十香と対峙してデートに誘ったのだ。結果は、惨敗。……まあそうだろう。出会って一日でデートに扱き付けられる技量は士道にはない。お互い十分に知り合って語り合いながらやっと成立するであろうイベントなのに、気持ちが逸ったとはいえ無様な有様だと自嘲してしまう。

そんな爆ぜた士道を<ラタトクス>が保有する空中艦<フラクシナス>が転送装置を使って回収したということ―――――…………………?

 

(………<ラタトクス>?………空中艦?………転送装置? なんのことだ?)

 

<ラタトクス>。精霊との対話による平和的解決を目的とした秘密組織。最高幹部連は円卓会議(ラウンズ)と呼ばれ、アスガルド・エレクトロニクスという企業が母体となっている。

空中艦と転送装置は、文字通りのモノと機能のことだろう。

 

「――――――――――」

「………………………?」

 

記憶にない、聞いたことがない単語が自然に浮かび上がって口を閉ざしてしまう。

………何でこんなこと知っているのだ?と。

 

「――――――――――――」

「…………………………ふむ」

 

いや、これもだ(・・・・)

これも例によって【原作知識】による賜物なのだろう。

ここにきて尚、士道は覚えのない知識に翻弄されている。

 

もういい加減、腹を括らなければいけないかもしれない。

あまりにも現実離れした体験をしたのに、そのさらに上を行く現実離れした出来事を認めるのは正直かなり怖い。

認めたら最後。もう二度と〝五河士道〟に戻れなくなってしまうのではと今だって怯えている自分を感じる。

でもだからって、このままで良い筈もない。

怖いから何もしないのでは、結局、怖いままだ。

拒絶したって付いてくるソレを拒絶したって、結局、その場凌ぎだ。

 

だったらいっその事、総てを認めて受け入れるのも一つの手かもしれない。

今この顔で感じている温もりのように。

柔らかくて、滑らかで、優しい、この人肌のように。

気持ち良くて、安らいで、癒される、この抱擁感のように。

艶めかしくて、蕩けそうで、瑞々しい、このおっぱいのように。

ぱふぱふで、ふかふかで、むにゅむにゅな、このおっぱいのように。

……………………………………………………

……………………………………………………

……………………………………………………

……………………………………………………

……………………………………………………おっぱい?

 

「って!!! なにやってんですかああああああああああ??!!!!」

「……ん、何やら深刻そうな顔をしていたからね。抱きしめて安心させようとしたのだが……………こういう甘やかし的なものは嫌いかな?」

「……それは、その……そんなこと、は」

 

苦しいくらい押し付けられた胸の谷間から顔を上げた士道は、心臓は高鳴り、目は泳いでいるも、やっぱり男の子。夢と希望と正義に満ち満ちている立派なものを嫌いとは言えなかった。

 

「……さて、では落ち着いたところでそろそろ行こうか」

「今の俺けっこう落ち着いてない状態だと思うんですけど………どこに行くんですか?」

「……君に紹介したい人のところだ。その人から詳しい話も聞けるだろうからついてきてくれ」

 

令音はベットから立ち上がって部屋の出入り口へと向かう。

それなりにシリアスな覚悟を決めようとしたのに台無しになってしまった。何だか深く考え過ぎて馬鹿を見ていた気分だ。

 

(いや、馬鹿だな、俺)

 

馬鹿だ。大馬鹿だ。もう忘れてしまっていた。何度言えば気が済むんだ。

俺自身のことは十香の後だと言ったじゃないか。

それをするまで、余計な事は考えない。中身の乏しい、学習能力の低い頭に再三に亘って誓い、気持ちを切り替えながら士道も立ちあがって令音の向かった部屋の外へ出ていく。

 

「うわ………すげぇ」

 

廊下は何所までも無機質で機械的な通路だった。

SF映画のワンシーンで使われそうな造りに童心が刺激され少しばかり興奮する。狭い通路を2人で歩くと閉塞感が詰め寄ってくるのも宇宙生活の弊害みたいで雰囲気もある。

その道を先導する令音は士道の危惧を裏切らず、ふらふらと歩いていてかなり危なっかしい。直ぐにでも足をもつれさせて転んでしまいそうで、ソワソワとしながら見守っていると―――案の定、急にふらぁっと身体を崩れさせた。

 

「―――っと」

「……む?」

 

その寸前、警戒していたおかげで後ろから支える形で倒れるのを防ぐことが出来た士道に令音は一瞬何が起きたのか分からない声を漏らした。

 

「……ああ……すまない、助かったよ」

「むら――令音さん、やっぱ休んだ方が良くないですか? 常時だっていても寝不足なのに変わりないんだし……そもそもどれくらい寝てないんですか?」

「……これくらいだったかな?」

 

士道の疑問にピっと三本の指を立てる令音。その数字に何やら驚いてしまう要因が潜んでいる気がして………………敢えて大それた冗談を言ってみようと思った。

 

「30年も寝てないんですか?!…………な~んて言ってみたり」

「……うむ。とは言ってもさっきのを除けば最後に睡眠をとった日が思い出せないから大凡の数字だがね」

「…………アレ?」

「……ああ、そうだ。そろそろ薬の時間だ」

 

淀みなく冗談を肯定した令音に呆然とするしかない士道。軽いジョークのつもりだったのにツッコミが返されずに真面目に答えた相方に冷や汗を垂らす芸人になった気分だ。

そして当人は士道の冗談に何かを思い出して、ゴソゴソと懐から紅白の錠剤の入ったピルケースを取りだし―――全部口へと放り込んだ。

軽く見積もっても100個くらいの薬を躊躇いなく、だ。

 

「っ?! ちょ、ちょっと!?」

「……なんだね?」

「なんだねじゃなくて!? なに一気飲みしてるんですか?!」

「……睡眠導入剤だが?」

「なにを一気飲みしようとしたかを聞いたんじゃないです!! いや待て、睡眠薬そんなに飲んだら死ぬでしょ?!」

「……大丈夫だ。私には効き目が薄いようだからね」

「飲んでる意味無えじゃねぇかっ!!?」

 

常軌を逸した行動に敬語にするのも忘れて突っ込みを入れる士道だが、令音の冷静沈着なスタンスはブレなかった。器が大きいのか……眠いだけか。

睡眠導入剤をあんだけ飲んで大丈夫なのは驚嘆してもいいが、それよりも問題なのがそれでも令音の不眠症を治せないという点だ。三大欲求の1つたる睡眠を促す薬が効かないなんて、一体どんな人体構造をしているんだろうか。持病にしたって凄まじすぎる。

さらに言えばそれが30年も続いているというのだから身体が強いのか弱いのかもう訳がわからくなる。

 

(つーか30年寝てないって……見た目の年齢からして無理が―――――)

 

あるだろうと、誇張のある不眠遍歴にツッコミを抱いた時、士道の頭に既視感めいた直感が疼いた。

30年………この数字はどこかで聞いたことがある気がしたのだ。

どこで聞いたのか………それは誰もが知っているあの空災。

人類史上最悪の災害。死傷者およそ一億五千万人。ユーラシア大陸中央部分がまるまる消失した未曽有の空間震。

 

ユーラシア大空災――――――――それが起こったのは、30年前。

 

「―――――――――――」

「……………………………」

 

何となく見つけてしまった共通点に一体何を見出したのか、士道は疑問に頭を悩ませてしまう。偶然にしては何か腑に落ちない。

 

「―――――――――――」

「……………………………ふむ」

 

何が腑に落ちない?

 

何が気になる?

 

 

……………………………………。

 

 

(…………………………村雨令音)

 

 

村雨、令音

 

 

令音

 

 

 

 

れい

 

 

 

 

 

 

 

ゼロ

 

 

 

 

 

 

 

ぽよん

 

 

……………………………………………………

……………………………………………………

……………………………………………………

……………………………………………………

……………………………………………………ぽよん?

 

 

「って!!! なんでまたやってんですかあああああああああああ?!!」

「……ん、また深刻そうな顔をしていたからね。嫌いではないのだろう?」

「…………ですから、その……」

 

や―らかい豊満な胸に二度も埋められて、体はおろか心も軟化させられ素直にluckyと思ってしまう士道。

悲しいけど、これって男の性なのよね。

 

「………と、いけない。思いの他時間がかかってしまっているな。 急ごう、それなりに長い道のりだからね」

 

士道から身体を離し、またもや危なっかしい足取りで令音は先へと進んでいく。その後ろ姿を見つめながら士道は寂寥感と同時、釈然としない思いに囚われていた。

 

どうしてさっき令音の名前が閃いたのだろうか? 30年と何の関係もなさそうなのに。

分かったことといえば、名前に数字があることくらいだが――――

 

(〝だからなんだよ〟……って話だよな、完全に)

 

自分の名前にも5と4の数字があるから親近感でも沸いたのか………4は無理矢理過ぎるか?

気にはなるものの、ほっといたらまた倒れそうなのでこれも保留ということにして士道は歩きはじめた。

 

 

「……ここだ」

 

それから数分歩いた頃、とうとう通路の突き当たりにある扉へと辿りつく。ここが目的地のようだ。

令音は横に付いている電子パネルを操作して扉を開け放った。

 

「……さ、入りたまえ」

「こりゃあ………また」

 

部屋に入った士道は通路で抱いた衝撃がまだまだ軽いものであったと目を見開いてしまう。

これまたSF映画顔負けの宇宙艦と言える造りで、上段に艦長席、下段にオペレーター席と一目見ただけで上下関係が分かる艦橋になっている。

 

これが、<フラクシナス>。

形式番号ASS-004 全長252m 全幅120mの空中艦。もっとも艦後方に在る小型顕現装置搭載の汎用独立ユニット<世界樹の葉(ユグド・フォリウム)>を足せば全長の数字はもっと上がる。

主要武装は先の<世界樹の葉(ユグド・フォリウム)>を除けば、集束魔力砲<ミストルティン>と精霊霊力砲<グングニル>と男の浪漫と廚二成分たっぷりのラインナップ。

その他には大型の基礎顕現装置(ベーシック・リアライザ)AR-008を10基、それらをコントロールする制御顕現装置(コントロール・リアライザ)を8基搭載しており、艦体の周囲には恒常随意領域(パーマネント・テリトリー)を常に展開している。外部から視認・観測を防ぐ不可視迷彩(インビジブル)と領域に鳥や飛行機などが接触した際に艦を自動で回避する自動回避(アヴォイド)を常時発動しているため、外部から観測されることはほとんどない。

 

……………と、士道は脳内シドペディアに載っていた知識(ページ)を無意識の内に開いてしまい、鎌首をもたげる。

本人には全くその気がないのに勝手に検出される知識を極力無視し、不穏になりそうな気持ちを排出するよう首を横に振った。

 

「…………………ふむ」

「令音さんもうやんなくていいです大丈夫ですから」

「……む、しかし嫌いでは――――」

「こんな人前で好きも嫌いもないですよ!!」

 

二度あることは三度あると、士道の機敏を察知した令音が慈愛の女神の如く両腕を広げ、悩める愛し子を慰めようとするも、率直に断りを入れられほんの僅かに顔をしんみりとさせてしまう。

まさか士道だけでなく令音も抱きしめ行為を心地好く思っていたのかと、よくわからない罪悪感が沸いてくるも他の人がいる前で抱きしめられるなんて自殺モノの羞恥心となるのは目に見えているから仕方がない。

 

「―――うっさいわね。なに司令官の前で売れない芸人のツッコミみたいな声で喚いてんのよ。肝っ玉が小さい奴ほど虚勢を張るのが相場だけどあなたは想像以上に小さいようね士道」

「………は?」

 

否が応でも耳に入る女王然とした声に顔を向けると、爽やかな印象を受けるイケメン男。そして背を向けている艦長席に座っていると思しき〝少女〟から発せられたと気付く。

まだ子供であろう幼い声と反する高圧的で見下した口調は大人に言われるよりも精神的ダメージが大きいかもしれない。それくらいの威圧と重圧が士道に圧し掛かってきた。

否、原因はそれだけではない。発せられた声そのものが士道にとって既知のモノであったこと、そしてそれが普段とはあまりにも掛離れた変貌を遂げていたというのが一番大きな理由だろう。

 

艦長席がクルリと回転し、答え合わせをするかの様にその姿が明らかになっていく。

赤髪のツインテールに黒いリボン。ちっちゃい身体に羽織っている深紅の軍服。口に銜えているチュッパチャップス。

 

「だけど歓迎はしてあげるわ。―――――ようこそ、<ラタトスク>へ」

「琴里………」

 

どこから見ても、それは五河士道の妹・五河琴里であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       ○ ○ ○

 

 

 

 

 

 

「―――――とまあ簡単にまとめると、これが精霊って呼ばれる怪物。こっちがASTっていう陸自の対精霊部隊なんだけど……………ちょっと、聞いてるの士道? 司令官直々の説明を受けてんのにそんなマヌケ面下げてるなんて失礼にも限度ってもんがあるわよ」

「失礼にも限度があるなら暴言にも限度があるだろ。ちゃんと聞いてるから大丈夫だよ」

 

再会の挨拶もそこそこに、こっちの事情も憚らず、正面の大型スクリーンに映されている十香と魔術師(ウィザード)達の戦い(以前に撮ったらしいもの)を指しながらペラペラと詳細を話しだす琴里に士道は辛うじて話について行くことが出来た。といっても予備知識あっての物種であり、何も無ければ頭の中がワニワニパニックになってるところだったが――――

それとは関係無しに琴里の高圧で毒舌な言いように冷静でいられる自分が士道には不思議だった。

琴里は士道を呼び捨てでは呼ばないのに特に不快感はなかった。反抗期とかグレたとか嘆くこともなく素通りさせている。何故だかそれが当然だな(・・・・・・・)と納得もしていた。

 

士道の存外な落ち着き具合を見て、琴里は感心したように肘をついた。

 

「へえ、物覚えの悪いあなたが聞いたところで意味なんて無いと思ってたけど、それじゃあちゃんと聞いてたかテストしましょうか」

「ちょっと待て!! そう思ってんなら何で説明したんだよ!!?」

「取りあえずさっき言った精霊とASTについて説明しなさい。5秒以内よ」

「スル―した上に答えさせる気すらねえ?!」

 

既知の琴里とは違い過ぎる態度と言葉遣いだが目を瞑ればいつも通りのじゃれ合いといえるやり取りに少しだけ安心しながら士道は精霊とASTについて説明をした。……5秒以内ではないが。

精霊。不定期に世界に降臨する正体不明の怪物。現れるだけで本人の意思に関係なく世界に多大な被害を与える空間震の源。

ASTはそんな精霊に対抗するべく結成された魔術師(ウィザード)集団。魔法を再現する顕現装置(リアライザ)の戦闘用たるCR-ユニットを駆使して適切な処置(・・・・・)を施す。

大体こんなもんだろと士道は大雑把に琴里に説明してやった。もっとも、士道にとっては聞いていた内容を覚えたのではなくて知っていたものを改めて復唱した感じであったから余裕をもって話せた。

 

それこそ、琴里の口から出てない単語を言うくらいに。

 

「…………………………」

「……? なんだよ、なんか違ったか?」

「……士道、あなた何で顕現装置(リアライザ)なんて言葉知ってるのよ? しかもCR-ユニットなんて物騒な代物」

「あ」

 

懐疑の視線は琴里だけでなく、令音とイケメン――さらっと紹介された変態(らしい)神無月恭平からも刺さってきた。

口が滑ったと後悔しても後の祭り。そも顕現装置(リアライザ)は一般人には機密事項の事柄なのだから、この艦の一般人代表の士道が知ってるわけがない。

 

重い沈黙が間を繋ぐ。

 

どうする……士道本人も知ってる理由がよく分かってないのに、「夢幻で知ったんだ」と言って納得なんて絶対しない。

するとしてもそれは別の納得。言ってしまったが最後、社会的地位は元より家族的地位すら危ぶまれ、<かわいそうな人>という死すら生ぬるいレッテル(苦痛)が一生背負わされる。

身体が凍える寒さで震えそうになった。 罵倒が飛ぶだけならまだしも白けた目で見られるのは勘弁願いたい。無言の軽蔑は何よりも身を巣食う痛みを齎す。

必死に言い訳を考える士道に、お情けで罪人の弁明を聞き届けようとする閻魔大王の如く鎮座する琴里。兄妹の間柄なのにとても遠い存在に位置する2人。

 

胃が疼く感覚が余計に士道を追い詰めた時、ひとつなぎの希望が届いた。

 

 

 

『あなたは私を見た――――――私のこと以外も、見たこと、聞いたこと、全て忘れた方がいい』

 

 

 

静かな柳の様な声。天国から響きわたる救世の勧告。だがその実、自分の事は誰にも言わないでという警告であるにも拘わらず今の士道にとっては天使が微笑みに等しかった。

それは機械仕掛けの天使だった。スクール水着のような服装にメカメカしい武装を装着している格好。女の子の肢体には似つかわしくない物騒な姿は十香と自分にミサイルをぶち込んだ集団と同じであり、彼女もその人たちと同じ存在であると理解するのに時間は掛からなかった。

 

「とっ、鳶一…! 俺のクラスに鳶一折紙って女の子がいて、その子からちょっとだけ聞いたんだよ」

 

―――――主折紙よ、我が不信心を御許しください。豆腐メンタルの我が弱さを御許しください。貴女を言い訳に使ってしまう罪、いつか必ず償わさせていただきます。

 

「鳶一折紙………確か、若くしてASTの精鋭に選ばれ、その中でもCR-ユニットの扱いが抜きん出て優秀な魔術師(ウィザード)だと聞いています」

「……そんな優秀な魔術師(ウィザード)が何で士道に最高機密を喋ったのよ?」

 

士道の言った名前に心当たりがあったのか、神無月が顎に手を当てて琴里達に補足説明をしたものの、琴里はまだ目を細めたまま士道を追及してきた。

 

「じ、実はさ、俺今日学校で倒れてな。そん時に鳶一が顕現装置(リアライザ)を使って保健室に運んでくれたんだよ。男一人どうやって運んだんだって驚いて訊ねたら色々教えてくれたんだ」

 

望外の告白に琴里は目を見張って尊大な態度を崩しそうになるも、直ぐに憎々しい顔に歪めた。

 

「〝倒れた〟ですって? 何よそれ、初耳なんだけど?」

「そりゃ、今日のことだし。ただの寝不足だったから言うまでもないことだろ。変に心配させるのも悪いしさ」

「………士道にそんな気の回る配慮が有った事にも驚きだけど、すんなり機密を喋るその鳶一折紙って女も大概ね」

「おい」

 

あんまりといえばあんまりな言い方だが、事実でもあるので強く反抗はできなかった。俺ってそんなに気が回らない奴だったのかと内心傷つきながら。

 

「でも、何で士道に喋ったかの理由にはなってないわね。あなた、その鳶一折紙とどういう関係なのよ?」

「どういう…って言われてもな」

 

嘘と真が混じった作り話はなんとか疑われていないようだが、別の問題が発生してしまった。

実際にそんな場面になってはいないが、もしこれが本当の話でも遜色ないと士道は思ってる。

教室前の邂逅と保健室の会話を鑑みるに士道と折紙は以前に会ったことがある感じだった。折紙本人は覚えてなくても無理はないといった様子でいたが、それにしては献身的な態度だった気がするし、どう考えてもそれなりの間柄であったと思うのだが……

 

「悪い、俺にも分からない。あいつは俺のこと知ってるらしいんだけど、俺はよく知らなくて……」

 

どうしたって、心の裡の大半に甦るのは折紙の怨嗟。

彼女の怒りが、悲しみが、憎しみが士道を侵すように燻っている。

折紙とどういう関係なのかは士道自身が聞きたいところだった。

 

「……まあいいわ。それよりも優先させなきゃいけないことがあるしね」

 

士道の表情に何かを察して琴里が話を打ち切った。こういうところは兄妹として変わらぬ息の合いようかもと苦笑してしまう。

 

「おさらいも兼ねてもう一度言うけど、空間震は精霊がこの世界に現れるときの余波。規模はまちまちで小さければ数メートル、大きければ大陸に大穴が開くくらいのものがあるわ」

 

クルーに指示を出して大型スクリーンに空間震後の街の風景を次々と映されて士道は身を竦める。この一日で数回も見た惨状だが到底見慣れることはなかった。

 

琴里はそんな士道を認めながらずっと聞きたかったことを聞くことにした。

 

「空間震が来れば警報が鳴って避難する。それが正しい人間の行動よ。………私の目の前にいる馬鹿を除いてね」

「え」

 

ドスの利いた声に又もや身を竦めてしまう士道をさらに琴里は睨み据える。

 

「士道、あなたなんで外に出たの? なんで<プリンセス>と一緒に沖縄にいたの?」

「…………プリンセス?…………沖縄?」

 

琴里が何を言ってるのか分からず呆然と聞き返してしまう士道。ややあってそれが十香を指していたのと自分達が居た場所であったのだとわかった。

そうか、あの綺麗な海は沖縄の海だったのか……なんて余韻に浸ってる暇は無い。次から次へと押し寄せてくる問題にどう対処するかと、自分のキャパシティを超えていると正直辟易しながらもなんとか誤魔化そうとした。

 

「だってお前、携帯のGPSで位置確認したらファミレスの前で止まってたから……何かあったんじゃないかって思って、それで………」

「GPS?………ああ、そういうこと。不可視迷彩(インビジブル)自動回避(アヴォイド)だけで事足りるって油断しちゃったわね。それで阿呆兄は私がまだファミレス前に居ると思って外に出たと……どれだけ私を馬鹿だと思ってるのかしら?」

「………」

 

肩を竦めて嘆息する琴里は本気で言ってる訳ではないが、言い訳として妹を使ってしまった士道にとっては、先の折紙も含め自分が醜い本性をしていると苦い気持で一杯になった。

 

「…すまん。そんなつもりはなかったんだ。ただ、その、確認をしたかったっていうか…………ごめん、言い訳だ。とにかく軽率だった。―――――ごめん」

「………なに本気(マジ)になって謝ってるのよ、気持ち悪いわねっ」

「気持ち悪いって、俺は真剣に……」

 

頭を下げて詫びを入れる士道に顔が真っ赤になってると自覚してしまってつい罵倒してしまう琴里。彼女にとってはそこまでして心配してくれた兄のことを大馬鹿と同時に憎からず思っていたのでこうも真面目にされたらきまりが悪かった。

 

「ああもう!!調子狂うわねッ。とにかくそれで外に出たところで<プリンセス>と接触して沖縄までランデブーしたってことね。で、士道。どうやって<プリンセス>とそんな状況になったの?」

 

ガ―ッ!っと頭を掻きながら仕切り直しとばかりに尊大さを貼り直す琴里だったが、彼女の視界から見えないクル―達が微笑ましいものを見る生温かな目について指摘してやったほうがいいだろうか。……話が脱線しそうなのでやめておいた方がいいか。

 

「……助けてくれたんだよ。十香と会って、その後すぐにASTってのがやって来て攻撃されたところを、巻き込まれないように」

「十香?それが<プリンセス>の名前なの?」

「…ああ、そうだ」

 

バツが悪そうになる顔が何回も嘘を吐くことでむしろ無表情となってしまうのではと危懼感すら沸いてくる。嘘つきは泥棒の始まりとはまさにコレだと実感する日が来るとは思ってもみなかった………名前は嘘ではないが。

 

「〝助けた〟ねえ………これまでのASTへの攻撃頻度から見て人間に悪感情を持ってると思ったけど、敵対意思を示すヤツ限定なのかしら―――――」

 

一人で推測を述べ立てる琴里が不意に士道の右手を見て動きを止める。

 

「ねえ士道。あなたのその怪我。<プリンセス>――――十香がつけた傷よね? あなた何をして怪我を負ったわけ? 発情して襲いかかったの?」

「するかそんなことッ!? 単に俺のことが信用できるかどうか確かめての威嚇みたいなもんだよ……悪気があってやったわけじゃない」

 

傷を負った時点で威嚇も何も無いが、あの時の十香の心情を考えれば攻撃されても当然だったので怒りはもちろん怖がってもいない。どちらかといえば怖がっていたのは十香の方だった気がする。

 

「その割には大層な大怪我のようじゃない。右手だからよかったけど、もし首だったら間違いなく死んでたわよ。そんな相手の肩を持つの?」

「俺にも原因があったのは事実だし、あいつがこうでもしないと人を信じられなくなったのは周りの所為でもあるだろ」

 

士道の擁護する姿勢に琴里はどこか試しているような口調で続ける。

 

「それってASTのこと? でもそれはおかしなことではないわ。言い方は悪いけどあれは正真正銘怪物よ。対抗手段を行使するのは当たり前。 百歩譲って空間震被害はしょうがないとしても、彼女本人に怪我を負わされたのは士道だけじゃないのよ?」

「………っ」

 

言外に周りだけでなく十香にも責任はあるという琴里に、士道もそれは思っていた。

やられたからやり返すを行っている十香もそれが余計に相手を刺激させることを考えず、我武者羅に抵抗しているだけなのも問題があるといえばある。

でも、それは十香が一人だからだ。誰にも頼ることが出来ない彼女は、不安も不満も吐き出せる人間が、友人がいなかったから暴力でそれを吐き出すしかなかった。

 

たった一人でも、たった一言でも、十香に何かを伝えられれば、彼女は変われるかもしれない。

なら、それに気付いた五河士道がやるしかない。

十香のあの顔が、あの声がちらついてくる。それだけで士道は〝決意〟を持つことができた。

 

「……空間震が危険だっていうのはわかってる。ASTにしたって、そんな危険なのを放置しておけないっていうのも道理だと思う。でもそんなの、短絡すぎる。危ないから殺すなんてガキの発想もいいところだろ」

「それには一理あるけど、士道のそれこそガキの言い分以下の駄々っ子の喚きにすぎないわよ。ユーラシア級の大災害の可能性が存在するのに何もしないなんてあり得ないし、かわいそうだからなんて理由じゃ止められない猛毒であり、核弾頭でもある。 それが精霊なのよ」

「だったら尚更だろッ! 尚更そんな危険なやつ相手に攻撃するなんて、自分から被害を出してくださいって言ってるようなもんじゃねえかッ」

 

琴里の理知的な主張は反論の余地が無い。妹の言う通り、士道の言ってることは感傷の吐露でしかない。たとえ共感者が数十人いたとしても反論するだけで他の対策が打てなければ〝綺麗事〟で一蹴されるのがオチだ。

だがそれでも、否、だからこそ士道は反論する。

五河士道はそうしなければならないし(・・・・・・・・・・・・)そうしなければ始める(・・・・・・・・・・)事が出来ないのだから(・・・・・・・・・・)

 

「それに―――ッ 十香は有毒じゃないし(・・・・・・・)核弾頭でもない(・・・・・・・)。ちゃんと喋って、ちゃんと怒って、ちゃんと笑うことができる、ちゃんとした心がある精霊(・・)なんだよッ」

 

士道がはっきりと、しつこいくらい力強く言うと琴里はやれやれといった感じで息を吐いた。

 

「ちゃんちゃんうるさいわね。随分と熱血主人公してるけど―――――で? ASTのやり方が気に食わない士道は結局精霊をどうしたいっていうの?」

「……話をする。十香が望んで破壊をしてないなら、こっちの呼び掛けにだって応えてくれるかもしれない」

 

啖呵をきった割にはあまりにも甘い考えに琴里が呆れ顔になるのが見えたが、士道もそれは承知済み。それでも十香が殺されるかもしれない方法を認めるわけにはいかない。

二つある方法の内一つしか選べないならもう一方を選択するまでのことだ。

 

「そんでもって、あいつをデートに誘う」

「…………は?」

「あいつに恋をさせて、デレさせる。それが俺に出来る方法だ」

「―――――――――――――」

 

絶句したのは琴里だけでなく、令音と神無月、そして<フラクシナス>クル―全員だった。

士道の言葉は元より、その表情が決してふざけているのではないと一目瞭然な程に真顔で言って退けたからだ。

笑われるか、失笑されるか、この黒い琴理ならそれくらい悠々とやるだろうと身構えるが、思いの外停止状態が続いている。

 

そして暫くして――――――――

 

「ふ―――――――ふふ、ふふふふッ、あはははははははははははははは!!」

 

琴里の弾ける哄笑が<フラクシナス>艦橋に響き渡る。仮にも司令官であろうに、腹を抱えて笑うその姿は年相応ではあっても、とてもトップに立つ人間の態度ではなかった。

 

「ぷ……ッ、くく、最高よ士道。愛は世界を救うって言いたいの?あなたがそこまでの平和馬鹿だったなんて思わなかったわ」

「なんとでも言えよ。俺はもう、やるって決めてんだ」

「……へぇ?」

 

死と隣り合わせの怪物相手に対してなんともバカバカしいやり方と思われても仕方がない。でもそんなバカバカしい方法で十香が笑ってくれるかもしれないのだ。士道にとっては武力を行使するよりもよっぽど現実的な方法だと思ってる。

 

そんな士道を見て、琴里は笑うのをやめ、代わりにニタリと質の違う笑みを浮かべた。

予想以上の言葉を抜かした愚兄を褒めてやると言わんばかりに。

 

「いいわ。―――――そこまで言うなら手伝ってあげる」

「え………?」

「手伝うって言ってるのよ。私たち<ラタトスク>の総力を以って五河士道をサポートするってね」

 

茶目っ気たっぷりにそう言う琴里に士道以外の人間は誰も反論しないし、不満の顔もしていなかった。上官に従うのは当然としても、子供の戯言と切り捨てもしないこの一致団結さが不思議だった。

 

「手伝うって……いいのかよ?俺の手伝いなんかして?」

「士道だから手伝うのよ。そもそも<ラタトクス>は士道の為に作られた組織なんだから」

「…………………」

 

軽く伝えられた衝撃の事実に士道は…………あんまり驚いていなかった。

<ラタトクス>が平和的解決を望むなら、俺は無関係じゃないと無意識に士道は悟っていたのだ。―――――――例のアレで。

 

「なによ、リアクション薄いわね。本格的に決まって今更怖気づいちゃいましたなんて言わないでしょうね?」

「そんなことねえよ……………本当にいいのか?」

「それはこっちのセリフよ士道。対話をすると言っても十香(むこう)が最初からその気になってるなんてほぼゼロ。出会い頭でいきなり攻撃されるかもしれない。そしたら死ぬしかないけど、それでもやるの?」

 

敢えて脅し口調で試している琴里だが、士道には意味がなかった。

だって士道は、もう覚悟しているから(・・・・・・・・)

 

「やるさ。………これは、俺にしかできないことだ」

「―――よろしい。 じゃあ早速明日から訓練に入るわよ」

「……? 訓練?」

 

深く肯定した士道に満面の笑みになった琴里だったが、何の訓練をするのか分からないと顔にありありと張りつけてる士道に嘲る顔へと変わってしまう。

 

「女の子に慣れる為の訓練に決まってるでしょ。年齢=彼女いない歴の士道が精霊どころか人間相手にすら口説けないのは目に見えてるもの」

「おまっ、ンなのここで言うなよ!?」

「事実を言って何が悪いのよ。気付いてないようだけど、そんなのを恥ずかしがってる時点でお話にならないわよ」

「ぬぅ……」

 

もっともな意見にぐう音も出ない。事実士道は十香をデートに誘って既に玉砕しているのだから弁明も文句も言えなかった。

 

「理解したかしら?自分がいかに悲しいまでのチェリーボーイなのかを」

「………具体的に何すんだよ、その訓練ってのは」

「それは――――ふふ、明日のお楽しみってことにしておきなさい」

 

悪戯好きの悪ガキみたいな笑みで不穏な気配を撒き散らす琴里に妙な緊張を感じる。

 

この顔を見てると………

 

無性に、嫌な予感が、

 

 

 

『っぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?』

 

 

『NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!』

 

 

『っいやぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ――――ッ!?』

 

 

『やあめえてええええええええええええええええええええええええ!!!!』

 

 

 

「…………………………………」

「士道?」

 

地獄以上の恐怖が織りなす阿鼻叫喚の図を見た気がした。

あれ、なんでだろう。精霊と対話するよりも訓練をする方が士道には恐ろしく感じた。

 

「ちょっと、どうしたのよ。急に冷汗垂らしまくって?」

「えッ?! いや?! 別に?! なんでもねえよ?! ちょっと右手が痛いなあって思っただけだ!」

 

包帯巻きされてる右手を琴里に見せながら挙動不審になってる士道は明らかになんでもあるといった様子でしかない。

内心実はビビってると思われたくないのもあるが、それ以上にビビってる内容を知られたくなかった。それだけでも………恥ずかしすぎる(・・・・・・・)

 

あああああッ、と悶々と悶えそうになる身体をなんとか鎮める士道だったが――――

 

「そんなに痛いわけ?」

「へ?」

 

琴里の意外な心配に呆気に取られてしまう。てっきり〝嘘つくならもっとましな嘘つけこのウスバカゲロウ〟とでも言われると思ったのだが。

 

「冷汗垂らすくらいに痛いの?」

「あ、………そんなことは……ちょっと大袈裟すぎたな……そこまで痛くはねえよ」

 

尚も真面目に容態を聞いてくる琴里に実際は動かすには支障がない程度だったのでしどろもどろに大丈夫だと答えた。

 

「琴里……?」

 

そんなに痛そうに見えたのかと、狼狽と苦痛は一緒の顔をするのかと暇な考察をする余裕はなく、真剣でありながらどこか焦っている表情をする琴里に声を掛けるも本人は気付かない。

小さな声で「――――命に関わる傷じゃないから?でも―――――」と聞こえるも要領を得なかったので何を言ってるのかさっぱりわからなかった。

 

「………とにかく、詳しい話は後日ってことで。今日は手続きだけ済ませてから帰ってちょうだい。―――――令音」

「……うむ。では、ついてきたまえしんたろう」

「は? いやっ、誰ですかそれ?」

「……む? 忘れてしまったのか。私はここで解析官をしている――――」

「アンタじゃねえよ!! しんたろうって誰ですか?! 俺は士道ですよ!!」

 

後ろで控えていた令音が艦橋の出入り口を指差しながら再び士道を先導するも、一昔前の化石染みた名前で呼ばれて大きく反応する。

本名がしんたろうの人には本当に申し訳ないが、しんたろうは勘弁してほしい。

 

「……ああ、そうだったね、すまないシン」

「直す気ゼロかッ!? 謝る気ゼロかッ!? 令音だけにゼロってかオイ?!」

「……うまいこと言うね。シン」

「全ッッッ然うまくねえよ!? アンタのツボどうなってんだよ!!?」

 

自分で自分のツッコミをうまくないと言うあたり相当キている士道と、華麗にスル―して勝手に歩き出す始末の令音。

……シンの方がしんたろうよりかマシかなと思いながら後ろを振り返るも、琴里は何の反応もしていない。

ここまで咬みあわず空回りしまくるのを毒の駄目出しもしないで考えに没頭している琴里の顔が、士道には気になってしょうがなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 

 

 

翌日。

 

 

 

令音に案内された部屋で何だかよく分からない活字の多い書類を渡されて、事態の詳細の説明とやらを受けさせれて深夜になってからやっと家に帰れた。

書類にはサインをしなければならなかったのだが、ルーペでも使わなければ碌に見えない小さな文字がビッシリと詰った紙にサインするのは、詐欺みたいで凄く怖かった。

 

士道は今、来禅高校への通学路をのろりと歩いて登校している。この辺りは空間震の影響を受けておらず、街並みは綺麗なままだった。

風呂にも入らずベットインした所為で疲労があまり取れていない。風呂に入らないと疲れが取れないのはわかるが、あんな非現実の出来事を風呂に入ったくらいで身体が癒されるかどうかは甚だ疑問だった。

 

「……はあ~」

 

知らず溜息が出る。

身体がだるくて動きたくないのは疲れだけが原因ではない。

今日は放課後になったら物理準備室に来てくれと令音に言われているのでそこで訓練をするのだろう。

 

(嗚呼――――こんなにも絶望して学校へ行くことが未だ嘗てあっただろうか?)

 

学校に行きたくない。

授業が嫌でもないし、いじめられてもいないのに登校拒否になってる自分を情けなく思うも、この程度の恥で済むならばっくれるのも吝かではないが……それをしたら恥を上乗せされそうだしやめといた方が良いだろう。

 

「…………………………はあ~」

 

逃げ場がない。

前門の虎、後門の狼よろしくと、八方塞な自分はまさに処刑台へと一歩、また一歩と歩いて行く哀れな罪人でしかないと認めるしかなかった。

 

(嗚呼――――今も鮮明に映るのは、琴里のワクワクとしたいじめっ子顔)

 

ポエムのように心情を綴るのは、既に士道の心が摩耗しきって壊れているからか。

今の内に自分にやれることをやって迫りくる絶望にどうしたらいいかを見つけ出すためか。

どちらにしても、この動かしている足が士道の意思で止まる事はない。

 

「……………………………………………………はあ~」

「――――――――――――――――――――――い」

 

訓練とはなんだろうか?なにをするのだろうか?

女の子に慣れる訓練。漫画のストーリーネタとして使われそうな響きだが、士道には恐ろしいことが起きる気しかしない。

地獄の拷問か? 色欲の姦計か?

差はそれぞれあれど、士道にはマイナスにしか働かないことは確実だ。

 

(いいや、違う。訓練自体はまだいい。本当の脅威はその訓練に失敗したとき(・・・・・・)なんだ)

 

知らない筈なのに知っているこの状態が、士道を更に恐怖漬にする。

本番で失敗しないために訓練する筈なのに訓練で失敗しても死に等しい辱めを受けるのはどういうことなんだと訴えたい気持ちはある。

ああでも、知ってしまえばそれだけで〝なにが〟士道を追い詰めているのかが分かってしまう。

この〝なにが〟を知るのを全身全霊をもって拒絶していることで、訓練への憂鬱に戻ってしまう。

 

「………………………………………………………………………………はあ~」

「―――――――――――――――――――――いッ」

 

そしてまた溜息が出る。

溜息が出ると幸せが逃げると言われてもやらずにはいられない。

―――――もういいか。逃げられないなら向かうしかない。失敗しなければいいんだとポジティブシンキングしながら別の気になることを考える……………琴里のことだ。

 

(あの時、なに考えてたんだろうアイツ……)

 

士道は家に帰ったのだが琴里はやる事があるとかであのまま<フラクシナス>に残ってしまい、積る話の一つも出来なかった。

琴里の性格がSっ気になってることはなんやかんやと受け入れてしまっているので今は置いておくが、そのSっ気の琴里が最後に見せた思案顔が気になる。

なんて言うか、予定とは違う結果に直面したような、誤算が生じてどうしようと迷っていた顔だった。気が強くなっていたからこそ不穏な空気を余計に感じたのかもしれない。

 

じゃあ、琴里がそうなった理由は? 士道は包帯が巻かれている右手を見やる。

一日くらいなら取り換えなくても大丈夫かなと思ったのでそのままにしているが、傷はまだ根強く残っており、動かすのに問題ないとは言ったもののそれに痛みが伴うのは予想以上に傷が深いと士道に告げていた。

 

(……………………………)

 

なぜか、士道までもが似たような思案顔になった。

傷を負ってることが、傷が治らないことが分からなかった。

 

 

『――――――士道なら一回くらい死んでもすぐニューゲームできるわ』

 

 

どこからともなく琴里の声が士道に届く。どこぞの配管工の如く死んでも大丈夫なら、それが事実なら傷くらいどうってことないはずではないのか?

どういうことだ? なんで治らない? だって士道は、琴里の――――――――

 

「おいッ!!無視をするなッ!!! ええと………イツカシド―ッ!!!」

「うぇっ?!」

 

攻撃ならぬ口撃の音量は無防備な士道に容赦なく浴びせられ、心臓が一気に膨らみ破裂した苦しみを齎した。

その声は昨日聞いたばかりの凛とした声。雑音の飛び交う中でも聞き分けられそうな綺麗な声。

こんな場所では聞こえないはずの声。

後ろから発せられたそれを急いで振り返って確認すると、やっぱり彼女だった。

煌びやかなドレスを優艶に着こなしている、美しい少女。

神像品と見紛うその顔は不機嫌に眉を下げ、若干顔が赤くなっている。

気絶する前と寸紛違わぬ姿で現れた彼女に士道は自分がまた夢を見ているのかと疑うのが先だった。

 

ああ――――――違う、夢なんかじゃない。彼女は本物だ。

まさか、こんなに早く再会できるなんて……忘我の波に攫われ、感無量と士道は彼女の名を呼ぶ。

 

「十…香?」

「……………ようやく気づいたか、ばーか」

 

十香が、そこにいた。

 

 

 



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1-7

そこは暗い無重力しかない所だった。

 

 

人間の住む世界の隣にある(・・・・)空間 <隣界>。

まどろみ以外なにも認識しない場所で〝名もなき精霊〟は理に従い眠っていた。

休もうとは思わない。夢を見ようとは思わない。起きようとは思わない。何もすることがないから眠っている。誰にだってできることをやっているだけだった。

此処に変化が起こるとしたらそれは〝名もなき精霊〟自身ではなく、世界が動いたとき。

承諾も拒否も〝名もなき精霊〟には許されず、強制的に世界へと引っ張られる(・・・・・・)ときが目覚めの時だ。

日々そうやって〝名もなき精霊〟は世界へ降臨する。開ける視界は空が色鮮やかに広がっている一方で、自分を中心として破壊しつくされている大地の残骸が広がっている。

この世界に来る時はいつもこうだったので特に思うところはない。

 

あるとしたら、これが原因で来るであろう空を舞う襲撃者への憂鬱だけだ。

いつもいつも懲りもせずにやってきてメカメカしい霊装を着ている目障りな人間達。

力の差は歴然だというのに学習もしないで同じことを何回も何回もしてくる五月蠅くて鬱陶しい奴ら。

〝名もなき精霊〟にとっては取るに足らない児戯に等しい感覚でそいつ等の相手をしていた。軽く受け、軽く流し、軽く相手をする。戦う程の力も無ければ殺されるだけの脅威もないのだから本気で相手をしようなどとは微塵も思っていなかった。

だから〝名もなき精霊〟の胸の中に抱いていたのは鬱屈で鬱憤とした気持ちが大半を占めていた。

「どうして無駄なことをするのか」「なぜ敵いもしないのに戦うのか」。それらはこの世界に現界する度に次第に大きくなっていき、ある時一つの答えを導き出してしまった。

 

そう、〝答え〟だ。アイツ等は〝名もなき精霊〟に対する世界からの答えなのだと悟ってしまった。

アイツ等は戦いに来ているのではなく、殺しに来ているのだ。

戦うのは手段に過ぎず、殺すのが目的。自分に死を与えるのが、自分を拒絶するのがアイツ等の……世界の答え。

世界(ここ)に呼ばれるのは、ただ殺されるためで、世界(ここ)に連れてこられているのは自分が消えるべき存在だと分からせるためなのだ。

 

理解はした。でも納得はしなかった。

なんでこんな目に合うのか分からぬままに果てなければいけないのかと、世界の答えに悲しみを怒りに変えて否定し返した。

 

……でもそれだけ。〝名もなき精霊〟は否定しているだけで自分の想いを出さなかった。否、出せなかった。

だって、〝名もなき精霊〟は自分のことが分からない。自分自身を肯定し得る要素、生きようという気概、その芯たる思い出が徹底的に―――自分の名前すら知らないほどに無い。

 

それでも〝名もなき精霊〟は抗った。自分が死すべき存在だということを。その為に世界の代弁者たる人間達へと刃を向ける。それで心が磨り減ってると気付かぬままに、今日もこの世界に降り立った。

 

 

 

しかし、今回は少しばかり様が違っていた。

空から遣ってくるはずの襲撃者が地上からやってきたのだ。

たった一人で、何も持たずに。

見た目の姿もメカメカではなく、無防備で何の力も感じない。

自分を襲ってくる奴らに比べてなんと無力な存在かと思った。

なのに、片手間で殺せそうなソイツはその姿に反してこちらの攻撃を全力でないとはいえ何回も避け続けた。しかもそれだけではなく、ソイツは今までの人間たちが使う奇妙な圧力を使いもせず力に物を言わせて強引に〝名もなき精霊〟を引っ張ったり、荒んだ大地から清い砂浜へと瞬く間もなく一瞬で移動せしめたりした。

 

得体が知れない。その一言に尽きた。

見た目からも感覚からも何も感じるものはなかった(・・・・・・・・・・・・)のに、無力で障害にもならないと思っていたのに、蓋を開ければこちらの予想を悉く裏返され、できた事といえば隙を突いて右手に負傷を負わせただけだった。

この人間は今までの奴等とは何かが違うと、恐怖すら感じていたかもしれなかったが……そんな事よりも気になることがあった。

 

 

ソイツは〝名もなき精霊〟を名称で呼び掛けたのだ――――〝トーカ〟と。

 

 

〝名もなき精霊〟は〝トーカ〟という名称に聞き覚えがない。この人間にも見覚えがない。

名前が無いはずの自分をそう呼んで近づいてきて、あたかも知り合いの様な気やすさで話しかけてきたのだ。

不審極まりない。自分を欺いてその隙に攻撃する気だと、何とも浅はかな手だとこき下ろした。油断なく、驕りなく、細心の注意をもってソイツと対峙した……が。

ソイツは戦いにきたのではなく話をしにきたのだと言ってくる。

自分が戦うところを見たくないのだと言ってくる。

自分が笑うところが見たいのだと言ってくる。

疑うのが馬鹿らしくなるくらい懸命にだ。

ソイツは更に言ってくる。「お前を認める」と、「お前を否定してくる奴ら以上に俺がお前を肯定してやる」と、〝名もなき精霊〟が成し遂げたかった反逆をあっさりと受け入れたのだ。

 

頭が如何かしそうだった。

全く意味が分からない。何故初めて会った筈の人間がそんな事を言ってくるのか。

 

……何で自分はそんな人間の言葉に、心満たされる思いで一杯になってるのかが。

 

何も分からない。どうすればいいのか分からない。

頭がグチャグチャで、怒りとも悲しみとも違う思いで力を振るって〝名もなき精霊〟は<臨界>へと逃げ帰った。

だが帰った後も、眠る以外は何もしなかった<臨界>でずっとあの人間のことで心が占領されてしまっていた。

 

罠だと思う気持ちも、嘘だと思う気持ちもある。

でも、いやだからこそ気になった。

あの人間の事が、あの人間が自分に求めた〝デェト〟とは何なのかが。

知らないことが怖くもあって、興味もあって、自分が抱いている感情が何なのかが分からなくて、それでも、とにかく気になったらもう止まらなかった。

 

 

暗い空間に浮いていた〝名もなき精霊〟は初めて自らの意思で覚醒する。

 

あの人間と初めて会った場所にある自身の痕跡を見出し、同じ場所へと降り立つ。

 

あの人間に付いている自身の力の残滓を道標として、歩み進んでいく。

 

気が付いたら勝手に体が動いてしまったとしか言えなかった。あの人間を求めて敵地の世界へと躊躇なく踏み込んでしまった。馬鹿な行為と認めながら、面倒なメカメカ団に会わないようにとだけ願って。

 

そして辿りついた。

何やら沈み込んでいる後ろ姿であったが、間違いなかった。

 

あの人間が、視界の先に居た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

「十香……だよな? おまえ、なんでここに?」

 

本物であると疑ってもいないのに、士道は思わずそんなことを問いかけてしまった。

彼女の姿と住宅街の背景が不釣り合い過ぎて現実味が足りない。それは十香という存在があまりに強すぎて周りのモノ総てが見劣ってしまい、むしろ現実味が無いのはこの世界の方ではないかと錯視したからだった。

 

「ふん、私が何処にいようが私の勝手だ。おまえが知ったことではない」

 

十香は不機嫌そうな顔のまま突き放すような言葉を吐く。

事実その通りなのでそう言われては何にも言い返せない士道に、十香は徐に警戒しながら近づいてきて一定間の距離を保って足を止めた。

 

「だが、今回はお前にも関わりがあるから答えてやる。――――おまえに会いに此処へ来た」

「え……」

 

こんな絶世の美少女たる十香に「おまえに会いにきた」なんて言われれば、男冥利に尽きるとハイテンションになって舞い上がりそうなものだが、生憎と十香の剣呑な空気に当てられている士道には嫌な緊張の度合いの方が断然強い。

なにせ昨日の行動を省みれば自分の気持ちは空回りしまくって十香を爆発させるほどに怒らせたと思っていたため、まさか報復をしに会いに来たのかと立ちすくんでしまう。

そうだとしたらまずい。自分は勿論、こんな街中で十香が力を振るったら他の人達にも被害が及ぶ。空間震警報が鳴っていないのだから避難している者などいやしない。

何とか勘違いというか誤解というか…を解こうと恐る恐る士道は十香へと訊ねようとする。

 

「えっと、だな……」

「イツカシド―」

「は、はい!!」

 

が、その前に十香が被せる様に士道の名前を呼んだ為に口を閉ざしてしまった。

静かすぎる切り出しの声は嵐の前のソレで、上官に身が引き締められる部下のごとく気をつけの姿勢をする。怒っている表情をしているのに怒気はあまり感じられない背反によって緊張が頂点に達し、震えそうな体を抑えながら十香を見つめ返して待つ。

 

「……っ」

「…………?」

 

しかし十香はプイっと目を逸らして顔を下に向けてしまった。

さっきまでの圧迫感はどこへやら、急にしおらしくなって士道は首を傾げてしまう。前髪で表情が隠れてよく見えず、すぅはぁ、と音がしたと思ったら再び士道を睨みつけてきた。

 

「………お前は言ったな、私と話がしたいと」

「あ、ああ」

 

一切の虚言は許さぬと厳の入った声を出す十香に気押されながらもしっかりと士道は頷く。それは間違いなく士道が十香に向けて放った言葉だ。

 

「私に戦ってほしくないとも言ったな」

「ああ」

「私に、わ、……わ、わら、笑ってほしい、だとかも言ったな」

「ああ」

 

最後の方はもぞもぞと口籠ってる所為で聞き取り辛かったが、全部昨日の士道が言った言葉だ。虚言では絶対ない、本心からの気持ちだ。

でもどうしてこんな確認を取っているのだろうか……まさか士道が犯した前科を捲し立てて怒りを奮立たせるつもりなのか。

そこまでの憤怒を自分は十香に与えてしまったのかと愕然しながらも、士道は逆にチャンスだとも思っていた。

十香の気持ちはどうあれ、こうして再会しているのだから話がしたいと言う士道の願いがほぼ叶っているこの状況は、選択肢さえ間違わなければ十香との距離を縮められる絶好の機会であるのだ。

 

ならばやることなど決まっている。

気付かれない程度に小さく深呼吸をし、拳と腰に力をいれて泰然と構える。

訓練をする前にブッツケ本番を迎えてしまったわけだが逃げるなんて選択肢は無いし、選ぶつもりもない。

心を覚悟で固める。心を決意で躍動させる。絶対に勝つと、十香を攻略して無事に帰還できるよう鼓舞を込めて自分の裡で宣戦布告をする。

 

 

さあ、俺達の戦争(デート)を始めよう――――ッ!

 

 

「ふんッ、誰がそんな見え透いた嘘に引っ掛かるか!どうせ私を油断させて後ろから襲うつもりなんだろうがばーかばーか!!」

「ぇぇぇ……」

 

……速くも敗戦の色が濃くなってきた。

腕組みをしながら罵りをぶつけてくる十香の頬は怒りのためか赤く彩っている。

最初からもう終戦間近だったのかと挫けそうになる心に、まだまだここからだと言い聞かせ、ここから巻き返しをすればいいだけだと叱咤激励を施し、前を向いた。

 

「十香、昨日も―――」

「だがまあ、あれだ」

「――言った、けど……?」

 

何とかして十香の気を鎮めようと思考を廻らせるも、勢いのあった声は自動的にクールダウンし、ほんの一寸だけ和らいだ雰囲気を醸し出して続けざまに言ってきた。

 

「おまえの言はあまりに不明瞭で意味が分からん。私と話をしようとしたのはおまえが初めてだが、これから先にもおまえみたいな腹が知れぬ奴が現れぬとも限らない。

だから私はおまえを利用する事にした」

「り……? ……え、なんて?」

「利用だ。おまえみたいな訳のわからない奴が他にも出てきた場合を考慮し、その生態をもっとよく知っておく必要がある。どういった行動、どういった要求をするのかをな。それには如何しても直接本人に関わらなければならないのだ」

「………ええっと」

 

嫌嫌ながらも仕方ないからお前に会ってるんだと十香は言うも、それは自分自身に言い訳をして本心を隠そうとする子供みたいだと士道は思った……俗な言い方をすればツンデレみたいだと。

それが何を意味するのか、何を隠そうとしているのかはわからないが、ポジティブに要約すれば「お前に付き合ってやる」とも聞こえる。

 

つまり―――――

 

「それはつまり、俺と話をしてくれる、っていうか……俺とデートしてくれるってことでいいのか?」

「勘違いするなッ!これはあくまで情報取得という大義名分があってのことでおまえに従ったのではない!絶対におまえのためなんかじゃないんだからな!!」

 

回りくどく了承の意を伝える、まんまツンデレの言い方で顔を真っ赤にさせる十香。

 

その顔を見て、士道は少し安心した。

そこには感情の揺らぎがあったのだ。怒りによる機微であってもそこには心の摩擦がなかった。

確かに十香は生きていた(・・・・・)。絶望の無い、人間と何ら変わらない、一人の女の子だった。

 

「ぬ、貴様なにを笑っている? 言っておくが妙な気を起したらその身を塵とするまでたたっ斬るからな」

「そんな積もりはこれっぽちも無いけど肝に銘じるよ。………ありがとな、十香」

 

脅し文句を軽く流し、微笑を刻んで士道は十香に礼を述べた。

形はどうあれ十香から会いに来てくれたことが嬉しくて、デートに応じてくれたことが嬉しくて頬が緩んでしまったのだが、十香の顔を見てそれが驚きに変わった。

 

「ど、どうしたんだ、十香?そんな顔して?」

「………また〝トーカ〟……か」

「え?」

 

十香は表情(かお)を意気消沈として名前を呟いて、それでいてどこか喜色が含んでるような、何とも名状しがたい、不思議な顔と声を出していた。一体どうしたというのか?

 

「イツカシド―。おまえは――――私のことを〝トーカ〟と呼びたいのか?」

「あっ………いや、その」

 

十香に指摘されて士道は今まで失念していた事柄を自覚した。

馴れ馴れしく名前を呼ぶのは失礼で警戒されるというのに自分は何回も「十香」と無遠慮に言ってきたのだ。十香が怒っていた原因はここにもあるのだろう。どうして自分の名前を知っているのかと気味悪がれているかもしれない。

 

「す、すまん。気安く呼ぶつもりはなかったんだ。ただ、おまえを名前で呼びたいと思って、それでっ」

「……………」

「とにかく、俺はそう呼びたいって思っただけなんだ。…………ダメ、か?」

 

錯乱気味に謝りながら〝十香〟と名前を呼ぶ許可を貰おうとする姿はなんとも滑稽なものだったが、十香は黙って顎に手をやり、何やら考え事をし始めて気にした様子はなかった。

 

「〝トーカ〟……とーか……トーカ……」

 

小さな囁きで自分の名を連呼した十香は腕を組み直して士道に問うた。

 

「イツカシド―。その〝トーカ〟とはどう書くのだ?」

「どう…………って、漢字でってことか?それは―――」

 

右に左にと周りを見渡して道路のアスファルトに書けそうな石ころを探すが、手頃のイイものが見つからなかったので、鞄からノートとシャープペンを取りだして白紙のページに『十香』と書いた。

 

「これで『十香』って読むんだ」

「ほう」

 

頷いて十香は書かれた『十香』という字を近くで見ようと士道の隣にまで近づいてきた。

密着しそうになればなるほどに強く香ってくる好い匂いに酔いしれそうになるも、漢字という文化は精霊には馴染みがないのか、十香は食い入るように字を見続けているだけだった。

どういう字で書くのかと問われて直ぐ漢字のことを思い浮かべたが、ローマ字とかの方がよかったのだろうか不安になったが十香はまだ見つめているだけでこれといった動きが無い。

暫し十香の反応を待っている間、士道は吸い寄せられるようにその横顔を見つめていた。

髪、目、鼻、口と不躾に見入ってしまう。それだけ彼女の全てが美しいというのも確かなのだが、今はそれだけで見ていたわけではなかった。

 

その横顔はさっきの名状しがたい不思議な顔だったのだ。

笑っているようでいてそうではなく。

泣きそうになっていてそういうわけではなく。

それは、強いて言葉にするのなら、失くしてしまった大切な宝物を見つけることができた、そんな顔だった。

純粋な喜び故の無邪気な美しさに士道は目が離せなかった。見入っているのが見惚れているに変わったとき、心臓が耳元に有るじゃないかと思うくらいにその鼓動音が大きく響いてくるのを感じた。

そんなことには気づかず、十香は視線をノートから外し、スタスタ歩き距離を取ってから士道に振り返った。

 

「そうだな。話をするのなら名前は必よ………なんだイツカシド―? そんな間抜け面を下げて」

「っ……! な、なに言ってんだよっ そんな顔してねえよ」

 

つい片腕で口元を隠してしまう士道に、十香は疑いの眼差しを向けて問い詰めた。

 

「いいやしていたぞ。口が半開きで目も半開き、まるで獲物を前に涎を垂らす肉食獣……………はッ?!そうか、貴様私を殺す算段をしていたのだな!?」

「はあぁ?! なんだそれっ!?突拍子すぎるぞ!?」

 

穏やかになりそうだった空気がいきなり反転して危機迫る張り詰めた空気に変わってしまう。

十香は人差し指に光球を作り士道に向けて解き放とうとし、慌てて手を前に出しながら首を勢いよく振って否定するも治まる気配は全く無い。

 

「ならその間抜け面はなんだというのだ?疚しい事が無ければ言ってみろ!」

「とりあえず間抜け面っていうのはやめてくれ!デフォルトみたいでスッゲー傷つくから!! ただおまえの横顔に見惚れちまっただけだよ!」

「み――っ?!」

 

暗に自分の顔を不細工と言われたような悲しさとかまだ十香に信用されていない寂しさやらで自暴自棄に本音を叫んだ士道はその瞬間、一帯の空間が急速に密度を増していくのを感じた。

全身の皮膚という皮膚にズシリと重りを貼り付かされているような重圧は、それでいて身体より心に負荷が罹っている。それは目の前の十香から溢れ出ているモノと眼力を目にする事でさらに精神がすり減っていくと士道は現在進行で体感していた。

 

「貴様は―――貴様はまたそんな事を言って………っ!!」

「ち、違う! いや違わないけど、疚しいとかそんなんじゃなくて、ホント綺麗だなって気持ちしかなかったんだ!」

「~~~~っっっっ!?!?!?!」

 

声も出ない程睨んでくる十香は機嫌が急降下しているようにも見えるのだが、それは決して身の危険を感じる類のものではなく、やり場のない羞恥心に身を悶えさせる乙女そのものであり、既に赤くなっていた顔が更に真っ赤っかに染まって熱中症を起こしてしまうんじゃないか心配するレベルにまでなっていた。

 

そんな見ていてコッチが赤くなってしまいそうな顔が、不意に消えた。

 

「ふ――――イツカ…………イツカシド―」

「え? と、十香……さん?」

 

ゆらり、とゆっくり項垂れ、奈落の底から響くかのような十香の声に士道は敬語になってしまうほどに腰が引いていた。

 

笑っていたのだ。微かに、微かにだが笑っている。……十香が、笑っているのだ。

それは士道が望んでいた事に他ならないが……でも、違う。こんな、こんな恨みを吐きだす薄ら笑いなんて士道は望んでいなかった。

 

「………そうか。そうかそうかそうかイツカシド―。どうやらおまえは余程この私を籠絡したいとみえる。次から次へと甘言を用いて誑かしにきて……そんなに私を利用したいか?」

「ええぇぇっ?!ちょっと待てそれは曲解……とは言い切れないけど、いくらなんでも言い方が悪すぎるぞ!?」

「―――いいだろう。おまえがその気であったとしてもその謀略、敢えて乗ってやる。元よりそのつもりで私は此処に来たのだからな。

そして思い知れ。おまえのソレが私にとっていかに無意味なものであるかをな!」

 

その凛々しい声には、戦いに臨む武士(もののふ)が極限にまで研ぎ澄ました威圧が、殺気が込められていた。

何が十香の殺気(やるき)スイッチを押したのか。 多分、自分の行動すべてだ。

遣る瀬無かった……これがチェリーボーイの限界なのか?

ちゃんと訓練を受けていればこんなことにはならなかったのか?

ヤケになって正直なままに言う選択肢を選んだ士道は、そこいらに居る軽いナンパ師と変わりないのかそれ以下なのかと忸怩たる思いで沈みそうになる。

不幸中の幸いと言っていいのか、十香は力の限り暴れるようなマネはせず、士道とデートをしてくれる宣言も撤回する気配はなかった。

 

その代わり―――十香の全身から発せられているオーラは、とてもじゃないがデート特有のキャハハウフフな甘い領域が挟み込む余地が無かった。

 

「さあ!愚図愚図するなイツカシド―!!私たちのデェトとやらを始めるぞ!!

デェトデェトデェトデェトデェェェェェェェェェトオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!」

「オイいぃぃ?!なんつーデカイ声出してんだ!?それデートじゃなくてカチコミに行く声だろ!?戦う気満々だろ?!―――って、ちょっと待て十香!?何処行く気だおまえ?!イヤその前にその格好なんとかしろ!!?」

 

否、それ以前にデートする空気なんてどこにも存在しなかった。完全に決闘に赴く兵士の熱気であった。

近所迷惑な大声にして喧嘩上等の声質、オマケに目立ちまくる光のドレスを着ながらズンズンと大幅に歩き出す十香は知らない人から見れば、その美しさを以ってしても怪しい人この上ない。朝早いためか、2人以外は誰も見当たらないがそれも時間の問題だ。

初めに何を正して何を注意すればいいのか、ツッコミが追いつかないのを自覚しながら何とか落ち着かせようと声を掛けるも猪突猛進と前へ進む十香は止まりそうもなかった。

 

果たして自分は生きては帰れないのではないかと前言撤回の準備をしてしまう士道であった。

 

特に世間体の死は逃れ得ぬ運命かもしれないと。

 

 

 

そして

 

 

 

「………………………」

 

 

士道の関知せぬところで

 

 

「AST、鳶一折紙一曹。A-0613―――――観測機を1つ回して」

 

 

生命の死が

 

 

「…………………精霊」

 

 

刻一刻と迫って来ていた。

 



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1-8

「ふぅ~……」

 

 <フラクシナス>艦橋、一番偉い者が坐る艦長席にドッカリと腰を下ろした少女・五河琴里は体の中に溜まった疲労を吐き出すように深く息を吐いた。

 一仕事終えた労働者の姿そのままの琴里は、実際にこの艦長席に座るまで仕事をしていた。

 兄である五河士道を精霊対処の実行者とする手続きに色々と障害が有ったのだ。

 

 有志によって結成された組織<ラタトスク>。精霊を保護し、幸福な暮らしを送らせることが結成理由にして最大の目的ではあるのだが、全員が全員その志を同じにしている訳ではない。

 肥大化した組織に有りがちな思想の食い違い―――と言えばまだ聞こえはいいが実際は琴里の作戦を渋っただけなのだ。

 それもしょうがないと言えばしょうがない。琴里の作戦は単純明快で「デートしてデレさせる」という一笑に付されても、というより舐めているとしか言えないふざけた内容なのだから。

 作戦ですらない、一組織としてそんなオママゴトを実行するなど正気の沙汰とは思えないだろう。それが世界を殺す精霊の相手であるなら尚更だ。文句の一つも言いたくなる。

 

 だがそんなオママゴトで平和的解決を成し遂げ得る存在が五河士道だ。

 その特異性は五年も掛けて確認されたことであり、だからこそ<ラタトクス>最高幹部たる円卓会議(ラウンズ)公認のもと、昨日を以ってして作戦を開始したのだ。

 もっとも批判的な輩は単に作戦内容だけでなく、五河琴里という14の小娘の作戦を実行するのが気に食わないのだろう。昨日今日と再三に亘って難を示してきたときは他にやることは無いのかと呆れたものだった。他の立案もせず、いざ実行の段階に移しても喚くのみ。彼らの裡は精々万が一にでも成功したのなら、その精霊を如何に利用しようものかという助平心くらいしかないだろう。

 しかもそれが円卓会議(ラウンズ)の中に居るのだから面倒だった。組織に弊害は付きものだと分かっているが、彼らから実行の許可を取らなければ動くに動けないジレンマは理屈で抑えるのにも限度がある。おかげで作戦許可の同意を一致させるのにかなりの心労を要した。

 

「……お疲れのようだね、琴里」

「ん、令音?」

 

 眠たそうに労わる声に振り返ると、そこには案の定<ラタトクス>解析官・村雨令音が艦長席の後ろに近づいてきていた。琴里はつい令音の方が疲れているだろうと言い返しそうになったがこれが常である彼女に言ったところで詮無き事だと思い止まった。

 

「疲れてはいるけど苛立ってるって方が強いわね。お偉方が小心者ばかりだといざってとき動けないのに、現場の意識もしっかり理解してほしいわ」

「……まあ、良くも悪くも普通で平凡な人達ということではないかね。臆病と言えばそこまでだが、そっちの方がよっぽど人間染みているだろう」

「普通で平凡………ねぇ」

 

 今日に至るまでの働きを共にした友人に、そうやって愚痴の一つも言わないから疲れが溜まるのだと、そのマイペースぶりに苦笑を洩らす琴里は一層物思いにふけていた。

 令音の言葉に何か感じるものが有ったのか、さっきよりも顔が深刻になっている。

 

「……本当に大丈夫かね琴里? 随分と悩んでいるように見えるのだが……何か気になることでも?」

「まあ、ね」

 

 目を伏せながら口に出そうかどうか迷っている琴里に、令音は少し驚いていた。

 いつもの琴里―――というより司令官モードの五河琴里なら、悩み事があったとしてもそうそう打ち明けたりはしない。部下にも友人にも家族にもだ。

 他人を信用していないのではなく、心配させまいとする彼女の優しさと強くあろうとする(・・・・・・・・)彼女の意地の様なものが、素直に感情を吐露するのをしまいとしているのだ。 他人に甘えようとしない、自分の力を発揮しようとする琴里の姿勢は、それ故に少女ながらも責任ある<フラクシナス>の司令官に就任していると言ってもいい。

 そんな琴理が心中を言おうか言うまいかと逡巡しているということは、なにかよっぽど重大で一人では解決できそうもない懸念事項があるのかもしれない。

 

「あのさ令音。聞きたい事が有るんだけど、時間いいかしら?」

「……来禅高校に行くまでの間でよければだが」

 

 今日から令音は士道のサポート及び訓練を施す一環で来禅高校に教員として世話になることになっている。

 何時如何なる時に精霊が現れるかが分からない以上、無駄に時間を使うのだけは極力避け、円滑に訓練を進めるために登校中も士道の口説きスキルを向上させておく措置だった。

 通信機器を使えば遠くにいてもサポートも訓練も出来るのだが、あらゆるアクシデント、不備を考慮すれば本人の近くには一人でも協力者がいた方が都合が付くので琴里が一番に信頼している令音が選ばれたのだ。

 

「そんなに掛からないから大丈夫よ………たぶん」

「……ふむ? ……で、聞きたい事とは、何かね?」

「おに―――うちの阿呆兄についてよ」

「……シンの?」

 

 令音は疑問に思いながら首を傾げる。

 可笑しな話である。長い時間の中で兄妹をやってきた琴里の方が何倍も士道の事を知っているだろうに、昨日会ったばかりの令音に対して聞きたい事が有るというのか?

 実際に令音がわかっているのは彼を胸で抱いたときの愛おしさくらいのものではないか……。

 

「……私に答えられることは限られていると思うのだが?」

「別にそんな気負わなくていいわ。率直な気持ちを聞きたいだけだから」

「……気持ち?」

 

 いまいち琴里の言わんとすることが分からず、令音は更に首を傾げてしまう。

 

 

 

 

「令音――――あなた、士道のこと……どう思ってる?」

 

 

 

 

「……………………」

 

 ―――感じたことのないプレッシャーに、身を竦む。

 厳しい表情で厳かに言う琴里は、まるで娘に言いよる男を戒める頑固親父のように佇んでいた。要領を得ない質問故に自分で意図を汲んで答えなければいけないと、何故だか聞き返すことも出来ぬままに翻弄される令音。

 

 頑固親父のよう?…………いや、違う。

 

 どうやらプレッシャーにやられて思考が鈍っているみたいだ。

 今の琴里は頑固親父ようではなく、頑固親父そのものになっている。 

 その上で「士道のことをどう思ってる?」なんて聞かれれば彼女の言わんとしている事など決まっている。

 

 言うなれば今の状況は付き合っている彼女の父親に自分を紹介されている彼氏。

 結婚を前提にお付き合いをさせていただいている上で避けては通れぬ登竜門。

 

「……ああ、なるほど」

 

 ポンっと右手で開いた左手を叩く納得の動作をした。

 

「……シンを手に入れたければ私の屍を越えていけと……そう言いたいのだね、琴里」

「ごめんなさい。我ながら主語がなさすぎたわ」

 

 にべも無く琴里は得心した爽快感を味わっていた令音をあしらった。

 

「……む、違うのか。では兄を取られたくない妹、みたいな気持ちなのかね?」

「普通に妹よ私は。ボケはいいから真面目に話を聞いてちょうだい」

 

 呆れるのもほどほどに、琴里は咳払いをして本題に入る。彼女の空気(ペース)に嵌まってしまえば足を掬われるのは長い付き合いで把握していたが故の即断だった。

 

「私が聞きたいのは〝此処に来たときの士道〟のことよ」

「……<フラクシナス>に……?」

「ええ。あなたから見て此処に来たときの士道のこと……どう思った?」

 

 神妙な顔をしながらどこか不安げに声を吐き出す琴里を見て、今度こそ令音は真剣になる。

 解析(・・)官たる令音には人並み以上に他人の感情を察する能力に長けている。さっきの頓珍漢な推測とて、琴里の士道に対する想いを知っているからこそのボケなのだ。

 だから琴理がどういうことを聞きたいのか、どういう意見が聞きたいのかが理解できた。

 

「……一般人にしては豪胆すぎる……と、思ったかな」

「……その理由は?」

「……目が覚めた後から精霊に関する説明を受けていた時までのシンは極めて平穏だった。混乱しすぎて現実処理が追い付いていないわけでもなく、ちゃんと話を聞いている様子だった」

 

 精霊という次元違いの生命体と相対し、命が奪われかねない状況に居た割には心的外傷(トラウマ)らしきものも見当たらず、逆に令音の身を心配する余裕すら持っていた。一時は深刻な顔をしていたが、令音が慰めればすぐに治まった。

 艦橋にて話をしているときも、此処が何処で妹が何をしているのかも聞かずに、ただ琴里の言葉に耳を傾けていた。

 

「……動揺もせず、余計な口も挟まず、一度聞いただけで諸々の事情を把握していた。精霊が被っている理不尽さを理解し、信念と言って差し支えないほどの憤りを懐いていた。

……同級生のAST隊員に一部の事情を聞いていたとしても、あの場であそこまでの覚悟を持てるものなのか、疑問ではあったね」

「なるほど……それだけかしら?」

「……いや、まだある。何よりも可笑しいと思った点だ」

「何よりも――――?」

 

 それはなに、と琴里が気になって先を促す。

 

「……シンの発言だ。交際経験の無い男の子が、会ったばかりの女の子を『デートしてデレさせる』……なんて言葉が出てくるだろうか? ……益してや恋をさせるだなんて」

「あぁ~~……やっぱりそう思うわよね。あれには本当に度肝を抜かれたわ」

 

 本人が聞いたら「それが何よりの理由ッ?!」と悲憤を撒き散らしながら嘆いていたかもしれないが、哀しきかな、2人は心底疑問に思っていた。ふざけている訳でも士道を馬鹿にしている訳でもなく(琴里は若干その気があるが)、純然たる不可解が有るのだ。

 

 見た目の容姿で言えば精霊は―――十香は間違いなく傾国の美女である。一目でも見れば男として彼女の気を引こうとありとあらゆる手を尽くそうとするのは無理からぬことではある。特にデートなんて典型であり、最高のシチュエーションの一つだろう。

 しかし一方で彼女の美しすぎる見た目は多くの男を尻込みさせる凄味があり、迂闊に近づこうものなら体が動かなくなってしまう程の〝恐れ〟に支配されてしまう。

高嶺の花どころか宇宙の星を超える圧倒的距離感のある十香をデレさせようと考えるなんて軽薄な男か、色男か、ともかく〝普通〟ではない男なのは確かだ。

 

 五河士道はそのどれにも当て嵌まらない。

 前述の通りチャラくなれるくらいの女付き合いはないし、性格からしてそんな変貌を遂げるなんてない。顔立ちは不細工ではないし、少し化粧を施せば女装が大層似合いそうな中性的な造りをしているが、それを鼻にかけて女にちょっかいを出すことは、やはり性格からしてない。よって当初は士道に精霊との対話、もとい精霊をデレさせるように仕向け、説得する手筈だったのだ……だったのに、予想に反して士道は最初からその気だった。

 

 女っ気が無い、女に対しては初心丸出しになるであろうことが断言できる。

 それだけ五河士道を身近で見てきたからこその疑念が琴里を悩ませていた。

 

「私もスっっっっっっっっっっゴく気になったけど、ラタトクスとしては都合が良いし、やる気になってるところに水を差すのも何だったから挑発程度に抑えたけど――――――やっぱり変よ。士道があんな事言うなんて…………あり得ないわ」

「……それだけ十香に魅せられてしまった、という考えもあるが……」

「無くはないわね。一目惚れが一番可能性高いし」

 

 でも、と……それで十香に進んで関わろうとしていると言われても、内心琴里は納得がいかなかった。士道が十香に関わろうとする動機は彼女に、精霊に絶望の影が見える以外には無いと思っていたからだ。女としての魅力よりも個人の苦悩に目がいく程にお人好しの兄なのだ。

 一目惚れも無いわけではないが、さっき言った通り、士道の場合進むどころかしどろもどろになって後退していく方が余程らしい姿だと思える。誰よりも五河士道のことを知っている、自負以上の感情は持っている琴里としては、士道が初めからあんな事言う訳がないと感情が訴えていた。

 

(不吉の予兆ってヤツかしら? 吹雪でも吹くのか、大嵐が来るのか……)

 

 はたまたユーラシア級の空間震が発生するのか、言い知れぬ漠然とした不安でしかないのに、あながち本当に起こるんじゃないかと危機感が沁みるように広がっていく。

 これだけでも頭を悩ませていると言うのに、傷口に塩を塗るような悩みの種が琴里にはもう二つあった。

 

 その一つが司令官モード―――黒いリボンを付けている琴里への態度だ。

 琴里は公私の切り替えとして白いリボンと黒いリボンとを使い、性格を意図的(・・・)に変えている。その出来栄えは二重人格どころか女の恐ろしき本性もかくやと、我ながら見事な変わりようだと思っていた。白いリボンのお兄ちゃん子な性格しか知らない士道がみたら発狂モノの代物だと、そう思っていた……が。

 

(なんにも変わってなかった……いつも通りの士道(おにーちゃん)だった)

 

 そっと、琴里は髪に括られている黒いリボンに触れる。

 艦橋での初顔合わせこそ信じられないモノを見た顔になっていたが、話をしていくにつれて士道は元通りの調子に戻っていった。

 

 そこは、まだ見過ごせる。

 自分と似た過去の境遇を十香に見て、妹の変化に気を配っていられなかったのかもと思うし、何より性格が変わった程度で兄妹関係が悪化してしまうほど自分達は柔な付き合いをしていない。釈然とはしないが、うろたえずに琴里の変化を受け入れた士道を尊敬してもいいくらいだった。

 

 そして最後の一つが―――

 

「令音。士道の右手なんだけど、怪我の具合はどうなってるの?」

「……む? ……ああ、医務官の話では皮膚の傷が相当深いらしくてね……日常生活の範囲で動かすのは問題ないそうだが、完治しても傷跡は残ってしまうだろうとのことだ」

 

 唐突な話題変換に怪訝そうな声を漏らしながらも令音は士道の右手の状態を報告した。

 

「治す手立てはないの?」

「……治療用顕現領域(リアライザ)を使えば不可能ではないが……検査の結果、シンの右手の傷口には霊力の残滓が溜まっているのが判明してね。それが右手の治療を拒むかのように作用しているらしく、現状では傷を塞ぐのが精一杯のようだ……痕を消すには時間を掛けなければどうしようもないらしい」

「………そう」

 

 精霊に怪我を負わされても、生きているだけで最上の幸運なのだから傷跡が残るくらいは甘んじて受け入れるべきだ。士道が女であったなら傷跡に関して深く悲嘆したかもしれないが、彼は恐らく、 イヤ絶対気にしないのだから妹とはいえ他人がギャーギャー騒ぐのは頂けないだろう―――が、それはあくまで心情の話。琴里が気にしているのは士道が怪我を負ったことその(・・・・・・・・・・)もの(・・)なのだ(・・・)

 

 

 士道は〝とある理由〟によって、どんな大怪我を負ったとしてもその場で〝再生〟することができる特質を持っている。

 

 この利点が五河士道を精霊との交渉役に選ばれた要因の一つでもあり、危険の塊である精霊との命綱の役割も果たしているのだ。でなければ琴里が兄をむざむざ死地へと追い遣ることなどしやしない。

 しかし、実際士道は怪我を負って、傷が治らないどころか傷跡が残ってしまう有様になっている。〝再生〟が発動しない落とし穴として、士道本来の身体でも自力で完治する傷、異常には効果が無いのが分かっており、これに照らし合わせれば右手の傷はどう考えても〝再生〟が発動する条件は整っている筈である。

 

 五年間の検査に不備が無ければ、考えられる原因は傷を負わせた張本人たる十香の持つ〝天使〟の能力だ。というよりそれ以外に考えられない(・・・・・・・・・・・)

 再生、治療といった命を救う力に反する力。即ち、命を殺す(・・)力。

 恐らく毒のような、死そのもののような力が十香の〝天使〟なのだと考えれば右手の怪我にも説明が付く。そして同時にとても厄介だった。

 

(天宮市から沖縄へ瞬間移動できる能力に加えてそんな力………性質に一貫性が感じられないけど、複数の能力を持つのは不思議じゃないし……問題はそこじゃない)

 

 琴里の推測した通りの能力だとしたら正に士道にとっては天敵となってしまうモノだ。

 もちろん戦う訳でもなし、天敵も何も無いのだが、命懸けの行動を取ることには変わりないし、まして士道はまだ交渉術はおろか女の扱いすら慣れていない始末。

 一人目にしてあんな力を持っている精霊を相手取るなんて士道には少々荷が重すぎる案件だ。下手したら本当に死んでしまう可能性が有る。

 

「令音、今日の訓練だけど―――」

『し、司令ッ!』

 

 学校の放課後に行う訓練内容を繰り上げて早急に対処技術を身につけてもらう必要があるだろうと、訓練の一部変更を伝えようとしたが、甲高い艦長席への通信で途切れてしまった。

 自分の部下を身内同然と思っている琴里にとって、顔を合わせていない末端の者であろうと名前も所属も階級も把握しており、通信を入れたのは<フラクシナス>の空間観測員だと声だけで理解した。

 切羽詰まったその声質で緊急事態の出来事が起こったのだと、琴里の脳細胞は高速で司令官としての自覚を取り戻し、威厳ある態度で応答した。

 

「なに、何事?」

『は、はい。数分前に小さな空間の揺らぎを観測して、映像を捕捉してみたのですが―――』

 

 言って、観測員は艦橋に備えられている大型モニタリングに映像を送った。

 

 そこに映っていたのは―――

 

 

 

 

 

『なん、だ……この人間共は……? コイツら全員貴様が集めた尖兵どもか?! おのれェ、謀ったなイツカシド―!! こうなったら【最後の剣(ハルヴァンヘレヴ)】で先制攻撃を……ッ!!』

『やめいィ?! なに物騒なモン出そうとしてるんだおまえは!? 敢えて策略に乗ってやるって言ったくせに沸点低すぎるぞ?! もう少し落ち着いてくれ!!』

『私が落ち着いていないだと?! 私は落ち着いている!! 落ち着いてこの人間達の数を見据え、慎重になって最善の戦術を見極め、冷静に<鏖殺公(サンダルフォン)>を振るおうとしているだけだ! どうだ、的確で無駄のない判断力だろう!!! まいったか!!』

『何にまいればいいんだナニに!? 落ち着きのオの字も慎重のシの字も冷静のレの字も見えなかったわッ?! とにかく待ってくれ、この人たちは俺が集めた人たちじゃないしお前を殺そうとなんて思ってないから―――』

『殺そうとしていない……ならば補獲か!? 一斉に私に飛びかかっていすに座らせ怪しげなコォドを身体中に取り付けて尋問する気なのだな?!』

『違ぁぁぁああああう!!? それどこの機械仕掛けの会社だよ!? お願いだから話をややこしくしないでくれぇぇぇぇぇッ!!』

 

 

 

 

 

「………………………」

「……なまらびっくり」

 

 口をあんぐりと開けたまま、画面に映った人物達のやりとりを見ることしかできない琴里と、なぜか北海道方言で動揺を表している令音。

 

 映しだされたのは天宮市商店街の大通り。そこにできた人垣に戦慄する精霊・十香と必死に彼女を宥めて大声を凝らす五河士道の掛け合いだった。

 十香は精霊最強の盾たる霊装を拵えておらず、その身には士道と同じ来禅高校のブレザーを着用しており、うまいこと普通の人間として群衆に紛れることが……できていない。

 それはそうだ。あんな大声で叫びあっていて周りに気にされないなんてありえない。ある者は奇異の目を向け、ある者は微笑ましい者を見る目を向け、十香の容姿と相俟ってそこいら中から注目を集めてしまっている。

 

「そっくりさん……な訳ないわよね。ちゃんと確認したんでしょ?」

『はい、存在一致率九九・五パーセント。この誤差は霊装の有無に関わる数値と見られますので……間違いなく<プリンセス>かと』

 

 観測員の報告に琴里は眉間を押えてしまう。対策を練ろうとした矢先にコレとは……真剣に眩暈がしてきた。

 

 今の今まで琴里が令音と話せていたように、画面越しに映っている人々が平和に士道と十香に視線を向けているように、<フラクシナス>にも天宮市にも空間震警報は鳴っていない。これが意味するものは精霊には此方に感知されずに現界する〝静粛現界〟によって現れたということを物語っていた。

 

 ―――非常にまずい。

 住民の避難もなにも出来ていない状況で精霊の出現ほど緊急で危険なものもそうそうない。しかも十香は見るからに激昂して〝天使〟を使うとまで宣言している。

 琴里は直ぐさま部下に指示を出すべく艦長席の通信回線を開いた。

 

「<フラクシナス>司令官・五河琴里から各員に通達。現在天宮市商店街にて精霊<プリンセス>が此方の観測機をすり抜けて五河士道と行動を共にしている事が判明したわ。

一般市民が紛れ込んでいる状態での作戦実行は困難と危険を伴うため、作戦コードF-08・オペレーション『天宮の休日』を発令。作業班は至急持ち場について2人を誘導するように。攻略班は艦橋(ブリッチ)へ」

「……やる気かね、琴里」

「当然。あんな無様を晒してて放っとくわけにもいかないし。悪いけど令音も準備してちょうだい」

「……了解した―――ああ、その前に来禅高校に連絡を入れなくては」

 

 緊急事態で士道共々学校に行けなくなった旨を伝えるべく、いそいそと携帯端末を取りだして一旦艦橋から出ていく令音を横目で確認しながら琴里はこれからの戦術と戦略を構築し始める。

 さっきまで兄への疑念が頭の中の大部分を占めていたが、今は十香攻略に全力を尽くすよう意識を切り替える。そうするだけで疑念と共にあった焦燥と不安が、霧が晴れるかのように消え去っていった。

 

 それは琴里の司令官としてのレベルが高いというのではなく、自分自身すら感知していない無意識の内に、女の子を相手に慌てふためいている士道を見て安堵しているが故の落ち着き方だった。

 

 どんなにらしくない言葉を言っても、おにーちゃんはおにーちゃんだったと呆れることができて安心していたのだ。

 

「さあ―――私たちの戦争(デート)を始めましょうか」

 

 口の端を上げて、得意げに宣戦する琴里の姿に悩める姿は微塵も無い。

 自分の知っている士道の〝らしい〟姿を見て調子を取り戻すことができたのだろう。

 

 

 

 

 ……それが良い事なのか悪い事なのか、今はまだわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

「ぬうぅぅぅ~~」

「……はあぁぁぁぁ」

 

自分の身体に余すことなく蓄積させられた疲労を空に居る妹と同じように吐き出し、五河士道はグッタリと首をぶら下げた。疾っくのとうに溜まりきっていた疲労を更に上乗せられたこの倦怠感を何とか解消したいと思っての所作だったがそれも一瞬。後には土砂崩れが落ちてくるかのようにドスンと容赦なく残った疲れを背負わされる。

 

 あれから先行する十香に何とか追いつくことが出来た士道だったが、こんな人気が集まる場所に辿りつかせてしまったのは十香の都合上からも非常に不味かった。おかげで制止と説得にライフポイントはゼロを過ぎてマイナスへと突入したが、そんなのお構いなしに彼女は尚も士道を振り回していた。

 

「おいイツカシド―。此処に集まっている人間共が貴様の尖兵ではないと言うならコイツらは一体何をしに来たというのだ? 私たちを見て爛々と輝かせているあの目は猛禽にしか見えんぞ」

「……そりゃ、あんだけデカイ声で叫んだら爛々になっちまうだろうよ。まるっきり珍獣だし、珍味だし。この人たちは会社の通勤とか学校の通学とか、買い物をしに来たりとか、人それぞれに違う目的があって行動してるんだよ。ここの商店街はただの通り道で、たまたま人が集まってるだけだ」

 

 士道が説明するも、十香は敵地に侵入している兵士さながらに落ち着きが無い。辺りを其処彼処にキョロキョロと見ては険しい表情をしている。

 

「ではこの中には私を殺す目的を持っているヤツがいるかもしれんではないか。メカメカ団が来ないとも限らぬし……やはりここは先手を打って―――」

「だから無いって。それにこんな人ごみの中でそんなことしたら確実にメカ……ASTの連中がやってくる。そんなんじゃデートどころじゃなくなるだろ?」

「むうぅぅ、煩わしい。霊装さえ纏えていたならここまで警戒しないというのに……」

 

 自分の格好を見ながら十香は不満げにブツブツと呟く。

 今の彼女は荘厳なドレスで着飾られたものではなく、極普通のありふれた学生服(ブレザー)を着用した姿でいた。良い意味でも悪い意味でも目立ってしまう光のドレスではデートどころか落ち着いて話も出来ないと、士道が着替えてくれ頼んだのだ。といっても当然ながら十香が着替えの服など持っていないので、精霊の持つ力―――霊力によって元ある霊装を解除し、自分の通う来禅高校の女子ブレザーに拵えてもらった。

 

 その際の構築する元となる設計図は士道が手書きでノートに書いたスケッチによるものだった。丁寧に、繊細に、何より綺麗に十香が制服姿でいるスケッチをした絵は十香だけでなく描いた本人である士道も他人事のように魅入ってしまった。

 美術の成績など可もなく不可もない自分がなぜ画家もかくやと言っていいほどの技巧を持っているのかを、士道は敢えて無視してこの姿になってくれと十香に頼んだのだった。

 

 

「……まぁ、いい。何処から来ようがあんな奴らに殺られる私ではないからな」

 

 無精無精と一応の納得を得た十香は歩調を緩めながら歩いていく。

 話が功を奏したのか幾分もゆっくりとしていて後に続くのが楽になったが、それは士道の歩調に合わせるものではない。

 ヒト一人分が開いただけの、辛うじて一列歩きになっているだけの、連帯感のない纏りだった。

 

 自分達の心の距離を表している……なんて言えば切ない気持になる。

 人間との心の距離を表している……なんて言えば悲しい気持になる。

 

 どっちにしろ、この些細な間隔が十香との隔たりであるのに違いはなかった。

 今までの彼女の生がそうさせていると思うと、やりきれなくなってくる。俺がなんとかしたいと強く願う反面、具体的に何をすればいいのかと悩んでしまう自分がいた。

 

 いや、やるのはデートだというのは決まっているのだ。

 決まっているのだが……決まっていない。

 

(デートって…………なにすりゃいいんだ?)

 

 ここにきて士道は重大な事実を突き付けられた。自分は生まれて此の方、一度もデートをしたことが無いことに。デート自体は知っていても、ぶっつけで実行するだけの知識が全く無いことに。

 年齢=彼女いない歴なのだから当然というか必然の不名誉であるのだが、こうして自覚してみると、かなり惨めな気持ちになってくるが、それ以上に「デートしてくれ」と誘っていながらデートしたことがないなんて、滑稽すぎて泣いてしまいそうになった。

 

「でだ、イツカシド―。ずっと気になっていたのだが〝デェト〟とは何なのだ?」

「え゛ぅ?!」

 

 

 そんな士道の内心を読み取ったかのように疑問をぶつけられて奇声を漏らしてしまった。

 

「……どうしたイツカシド―、どこか苦しいのか?」

「な、なんでもない。ちょっと噎せただけだ…… で、えっと、デートがどうかしたのか?」

「だから〝デェト〟とは一体なんなのだと聞いている。いつ始めるのだ? いい加減待ちくたびれたぞ」

「……は?」

 

 その言動に士道は違和感を感じた。十香が何を言ったのかが分からない……ではなく、十香が何故そんな事を言ったのかが分からないと若干の思考停止に陥ってしまった。

 

「ちょっと待て十香。おまえ、もしかして…………デートの意味知らないのか?」

「仕方なかろう。貴様が変なことを言うから聞きそびれてしまったのだ」

「いや、そうじゃなくて……」

 

 まさか自分以上にデートを知らずに会いに来たとは思わなかった。否、知らないからこそ学ぶ為に会いに来たのだというのを忘れていた。そういえば〝アレ〟を見た時も十香はデートの意味を履き違いまくってたのを士道は思い出した。どうやら勝手に先入観に嵌ったようだった。

 

「ほら、さっさと〝デェト〟とやらが何なのかを教えろイツカシド―」

「……ええっと、だな。デートってのは―――」

 

 デートの意味を教えようとするも口が止まってしまう。まさに今自分が考察中の議題なのだから他の誰かに伝えられるほど情報を整理できていないのだから当然だ。

 

「ぬ? 〝デートってのは〟……なんだ?」

「デ、デートってのは、だな、ってぇーのは……ええ~~っと、あれだよ、あれ……男と女が一緒に遊んだりすることだよ……」

 

 それでもなんとか伝えようと脳をフル回転させ、拙い言葉を紡いでいく。

 結果としてセリフを忘れてしまった三下役者の棒演技をやってる気分になりながら、それでも意地を見せて言いきった……言った手前の責任とも言えるが。

 

 だがしかし、そんな引っ込み思案な態度に十香は納得しがたいと、明らかに不機嫌になったと士道に訴えてくる。

 

「……なんだその腑抜けた言承は? 貴様―――適当に答えるとはいい度胸ではないか」

「て、適当じゃねえよッ! そりゃ、俺もデートしたことないから絶対あってるなんて言えねえけど、噛み砕いて言っちまえばそんなもんだって」

「―――は?」

 

 

 又しても怒らしてしまったと、慌ててフォローを入れているが、十香は氷漬けにされたように士道を見て止まってしまった。

 奇しくもそれはついさっきの士道との立場が逆になった状態だった。士道が何を言ってるのかが分からないのではなく、士道が何故そんな事を言ったのか十香には分からなかったのだ。

 

「まて、イツカシド―。聞き違いか? ……貴様、今デェトするのが初めてだと言ったように聞こえたのだが」

「……ああ、そうだよ。俺デートしたことないんだ」

「――――――――」

 

 絶句、というのがここまで的確な体現はないと、十香は信じられないモノを見るように士道を見詰める。

 

「じゃあなにか、貴様は自分がやったこともない事をしてくれとほざいたのか? あれだけデェトデェトと喧しく連呼していたのに?」

「連呼してたのはお前の方だよな確実に…… まあ、そうなんだけどよ」

 

 二度目の絶句が十香を凝り固め、気まずげに頬を掻くしかない士道。

 そのまま暫しの間が過ぎ、十香が口を開く。

 

「―――イツカシド―」

「お、おう、なんだ?」

 

 神妙な顔と声に緊張を奔らせながら言葉を待っていると―――

 

「ひょっとしておまえは………………バカなのか?」

「バカとは失礼だなオ?!――――い」

 

 まさか直球に罵倒を投げてくるとは思わず、素っ頓狂な裏声を出してしまったが、十香の至極厳然とした冷めた雰囲気に充てられて声が止まってしまった。

 あからさまな怒りではない、怒りを上回る感情が士道を強張らせた。

 

「え、あ、……十香?」

「貴様は自身がよく分かっていない事柄を私に要求しているのだぞ? バカ以外のなんだというのだ。 其処にどれだけの価値があるか不明瞭なのに、何故私をデェトに誘った? 口から出たデマカセか」

「……! そんな、俺は!」

「―――もういい。今日は偵察と観察をしに来たのだ。おまえが嘘を吐こうがどうでもいい…………デェトなど事のついででしかない」

「―――あ」

 

 暗く、吐き捨てるように、どこまでも冷たく突き離された士道は、言の刃で傷つくよりも先に十香の顔を見て胸が苦しくなっていた。

 

 

 気付いたのだ。十香が怒りよりも抱いている感情を。

 

 普段は他人の感情に疎い士道は絶望に対しては頗る敏感に反応する。

 今の十香はそれに近しい顔をしていた。

 絶望の一歩手前の感情。五河士道に対しての失望(・・)の念が見えていたのだ。

 

 

 失望―――それの意味するものは唯一つ。

 

 

 十香は期待していたのではないのか? デートをするのを。自惚れれば、五河士道とデートをすることを。

 この世界に来る際のデメリットを度外視してでもなお、デートするのを楽しみにしていたのではないのか?

 

 なのに士道はデートが何なのか分かっていなかった。なんにも知らないクセにそれが十香のためだと闇雲になってデートをしようとしただけだった。勝手に憐れんで、上から目線で保護者気取りをしていただけだった。

 

 そうじゃないだろ。五河士道がすべきなのはそうじゃない。

 

 彼女はそんなの知ったことじゃない。

 彼女にとっては、初めての人間(ヒト)との触れ合いなのだ。

 

「すまん、十香」

「…………何を謝って―――ッ!」

 

 謝罪と共に士道は動いた。十香との距離を一気に詰めて彼女の左手を自分の右手で掴んだ。

 どうしてこんなことを……気付いたらそうしていた、としか言えなかった。右手を使ったのが良い証拠だ。

 怪我をしている手を使ってしまいそこを起点に流れる痛みが駆け巡っていくが、立ち位置の関係上仕方が無かったし、とにかく一刻も早く十香を捉まえたかったのだ。

 

「な、おいっ、なにをするイツカシド―?!」

 

 手を取られたまま振り払えもしない十香は慌てふためくしかなかった。

 いきなりそうされれば混乱させてしまうのは必至だったが士道は繋いだ手を離したくなかった。

 

 

「すまん、十香」

「だから何を謝っている?! いいからこの手を離せ!」

「俺、おまえをデートに誘うことしか考えてなくて、おまえとデートできればいいってだけ考えてた。なんつーか、その……」

 

 世界の崩壊を防ぐとか、そんな御大層な考えを持ったつもりはないが、気負いすぎていたのはあったかもしれない。

 十香を助ける。

 十香を救う。

 その気持ちに変わりはないし、今も強く思ってる。

 でも、楽しもうという気持ちはなかった。こんな可愛い子とデートしようとしてるのにドキドキもワクワクもしないで救うやら助けるやら考えるなんて御門違いもいいところだ。

 

 ―――デートするなら対等でいよう。

 

「……十香、さっき言ったよな。どれだけの価値があるか不明瞭なのにデートに誘うなんておかしいって」

「〝デェトを知りもせずに〟が抜けているッ! それがなんだ!」

「いや、違う。確かに詳しくは知らないけどさ……ひとつだけ、デートに欠かせない要素があるのは知ってる」

「……?」

 

 断言する口調に荒げていた声が鎮まり静寂が生まれる。

 大したこと言うわけじゃないのにと緊張してしまうのを抑えて士道は口を開く。

 

「〝楽しい〟って気持ちになること。それがデートの必要最低条件だ。俺たち二人で(・・・・・・)、な」

「私たち……ふたり?」

「ああ。デートは一人だけじゃできない。デートは二人いて初めてできる(・・・・・・・・・・)もんだ。二人が一緒になって同じことをやらなくちゃいけない、どんなことにも付き合わなくちゃいけない運命共同体になることなんだ。

 ならさ、一人だけ楽しいだけでもう一人はつまらないじゃ意味ないし、虚しくなるだけだろ? んでさっきの十香の言葉だ。〝どれだけの価値があるか不明瞭なのに〟ってヤツ」

 

 

 俺は何を言ってるんだと、恥ずかしさで身体が爆発しそうになるが自分なりのデートの意味を伝えなければ十香は納得しないだろうと言葉を紡いでいく。

 

「まさにその通りなんだよ。デートってそうなんだと思う。どれだけの価値があるのかは最後までやらなくちゃ不明瞭なんだ。終わりよければ総て良しってわけじゃないぞ? 過程も含めてどれだけ二人の〝想い出〟になれるかで価値が決まるんじゃないかって、俺はそう思ってる」

 

 「だから」―――と、士道はギュッと十香の手を握り締める。そこにある感触で〝二人〟になっていることを確かめる。

 

「十香……改めて、俺とデートしてくれないか? せっかくこの世界に来たんだ。偵察と観察だけじゃ疲れるだろ? どうせなら俺と一緒にこのデートを価値のあるものにしないか?」

 

 言いたい事を言い切り、残るは十香の返事だけとなった。

 

 十香を精霊としてだけじゃない、一人の女の子として接する。

 まずは純粋に十香を楽しませよう。目一杯この状況を楽しもう。

 それこそが彼女のためになる。

 きっと彼女の笑顔に繋がる。

 

「……手を離せ」

 

 沈黙の果て、十香は絞り出す声でそう言った。

 しかしそこに拒絶の色は感じられない。あるのは気遣いと後ろめたさだけだった。

 

「別に貴様の右手でなければいけない理由はないだろう……だから、離せ」

「あ……悪い」

 

 言われたとおりに右手を離し、自由になった十香は士道の左側へと回り込み、そっと左手を握った。

 優しく包み込むその仕草は士道に怪我をさせた手を使わせてしまった負い目があるのか。……もしかしたら「離せ」と叫んだのは士道に気を使ってのことだったのかもしれなかった。

 

「……これで、いいのか?」

「……ああ」

 

 こうして暗黙の了解を示した十香により、人間と精霊の異色のカップルが誕生した。

 どうにもぎこちなくて不器用な男女に見えるが、こそばゆくて初々しい男女のようにも見えて、なんとも甘酸っぱい青春の1ページに加わるであろう絵面だった。

 

「……それで? おまえは何がしたいんだイツカシド―。 結局のところ肝心の中身がなければどうしようもないではないか」

「そうだな、とりあえずはこの街を―――」

 

 この街、天宮市の案内をして十香の興味を引いたものに付き合ってみようと考えた時、グーーウゥゥっと、力が抜けてしまう音がお腹から発せられた。

 

「………………」

「………………」

 

言っておくと士道のお腹ではなく、十香のお腹からだ。

 

「―――の、前に、なにか食べるか。それからこの街を案内するよ」

「……………うむ」

 

 力だけでなく気も抜けてしまう生理現象に緊張が解けていくのを感じながら士道は十香と共に歩きだした。

 同じ歩幅で同じ道を共に行き、漸く彼女とスタート地点に立てたと確かな繋がりを感じながらこの近くにある飲食店を目指していった。

 

 

「それじゃあ、十香―――俺たちのデートを始めよう」

「………………」

 

 士道の宣誓に十香は何も言わない。

 

 ただ静かに、コクリと頷いた。

 

 

 

 



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1-9

 デートは二人で楽しむもの。

 五河士道はそう言った。

 

 

 間違ってはいないだろう。デートとはお互いの関係を深め合う行為だと認識されている。

 一緒に楽しむことは手始めとしては最適だし、浅過ぎず、深過ぎずの均衡で相手のことを知れる機会になれる。それを切っ掛けにまた次のデートへ赴き、数を重ねていければより深い関係にシフトし、最終的には恋愛関係を越えて夫婦関係に進化することだってざらにある。

 

 重要なのはタイミングだ。退く時には退き、攻めるときには攻める。

 その選択肢は感情に任せるものでも流されるものでもなく、自分本位で決めるものでもない。勘違いが多い例として〝据え膳食わぬは男の恥〟というのがあるが、何も生存本能を解き放って我武者羅になるのではない。あくまで女の方からそういうの(・・・・・)を切り出させるなというだけのことだ。自他の間柄を無視して何も考えず、相手を求め関係を深めようとするのは下種の極みなのである。

 

 

 

 

 

 つまり、五河士道は何が言いたいのかというと―――

 

 

 

 

 

「イツカシド―。身体が優れないのはわかるが、黙ったままでいられるのは……なんかこう、変な気分になってくるぞ。なにか私にやれることは、やって欲しいことなどは無いのか?」

「……………………………」

 

 

 

 

 

 

 

 デート初日でラブ……愛のホテルに行くのは大問題だろ絶対、ということである。

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 大問題が起こる前―――

 

 

 士道と十香は近くにあったパン屋で購入したきなこパンを一緒に食しながら商店街を歩いていた。店内で食べても良かったのだが、並べられていた品総てを買い占め、店員と客の視線も買ってしまった都合で持ち帰りに切り替えたほうがいいと判断したのだ。

 十香は豪くきなこパンが気に入ったようで4個も食べている……1つずつではなく4つ同時にを複数回だ。そのため結構な量だったのに今食べてるのでもう最後となっていた。

 あれだけ敵意を巡らせていた周囲の人間たちなど眼中にないと夢中になって頬張っている十香。見た目の雰囲気、年齢を大きく裏切るその様子を見てやっぱりこういう姿が似合っていると士道は嬉しさを覚えていた。

 

「なあ十香、きなこパンうまいか?」

 

 そんなの聞くのは野暮だと思うのに、本当に美味しそうに食べてるもんだからついつい聞いてしまうくらい十香は可愛かった。

 十香はというと食べるのを一旦止めてチラっと士道を見た後、一気にきなこパンを飲み干し、そっぽを向いてむくれた顔をしだす。

 

「ま、まあまあだな。精々人間どもが禁断症状に震えてしまい、きなこを求めて戦が起こる程度の美味さでしかない」

「……おまえを満足させるにはラグナロクが起きる美味さじゃないとダメなのか?」

 

 香ばしいイイ匂いがすると、真っ先にパン屋を指差して店頭に並んでいたきなこパンに目を奪われていながら〝まあまあ〟という評価のワケがない。とはいえ嘘を付いてるわけでもない感想に誤魔化しているのか正直に言っているのかよく分からず脱力気味のツッコミを入れてしまう。

 

「ラグナロク? なんだそれは、美味いのか?」

「や、食いもんじゃねえよ。ラグナロクってのは―――」

 

 それが、なんてことのないそんなことが、とても心地よかった。

 それは平和以外の何物でもなかった。戦場の凄惨も戦塵の息苦しさも無い。あるのは十香と繋いでいる手から伝わる穏やかな温もり。そこから生じる恥ずかしさと誇らしさ、安心と幸せがより一層このデートを形どり、彩っていた。

 こんな時間がいつまでも続けばいいと、ありふれた正への祝福を願ってしまうくらい士道は満たされていた。

 

「そうか、美味しくないのか……む? イツカシド―、あれはなんだ?」

「あれか? あれは―――」

 

 だから……だろうか。

 

 士道は、十香が自分と同じ気持ちを抱いていないことをなんとなく悟っていた。

 

「ふむ、なるほどな。ではあそこにあるのはなんだ?」

「ああ、あれはな―――」

 

 もちろん前に比べれば幾分も角が取れた対応をしてくれている。今も周りの人間を気にもせずに店、屋台、道路、信号機、標識、とにかく目に映っているものに例外なく、あれはなんだこれはなんだどんな物かと質問をぶつけては興味深々と商店街を見回している。

 

 しかし、まだどこか身体がぎこちなかった。

 警戒というほど切羽詰まってもないし、緊張してる様子とも違う。

 気の所為と、そのまま見逃しても問題なさそうな些細なしこり(・・・)が残っている、そんな感じだ。

 

「う~む、人間は随分と不可思議なものを作るんだな」

「……なあ、十香」

「ぬ、なんだ? もしやきなこパンをも超える兵糧が見つかったのか?」

「ハハ。相当気に入ったんだな、きなこパン」

 

 だからソレさえなければ掻くも完璧にデートが出来ると士道は考えてしまう。

 こてんと首を傾げる十香を見てるとやっぱり気の所為なのかなと思いつつも士道は訊ねてみることにした。

 

「十香、その、楽しくないか?」

「? どういう意味だ?」

「なんていうか、ちょっとピリピリしてる感じがしたからさ。何か気になることが有るのか?」

 

 そう言うと十香は少し驚き、どこかきまりが悪そうに俯いてしまう。図星なのかは分からないが、近しいものがあるようだった。

 今までが今までだったから用心するのは仕方がないと思うが、寂しい気持になってしまうのも事実だった。

 

「わり、すぐに人間を信用するのも無理が―――」

 

 「あるよな」と、ちょっとずつでもいいから楽にしてほしいと言いかけたところで、十香がグイッと士道を自分の方へ引っ張った。

 驚いて怯んでしまった士道は、されるがまま十香と身体を密着させられてしまい、顔もおでこもぶつかるくらいに近づけさせられた。

 

「ちょっ?! あの、十香?!」

「イツカシド―……おまえは感じないか?」

「か、感じる?! ななななにが!?」

 

 〝感じる〟とは十香の吐息か、十香全体の感触か、それとも……十香のやわらかそうな唇か。

 やわらかいかどうかは視認情報でしかないがこんなに近づいたのはもう二回目で、そうであろうと確信するほどの瑞々しい艶が少し近づくだけで確かめられる近さで見ているのだ。

 

 このまま事故を装えられる近さで―――

 

「視線を、感じるのだ」

「ッ?! ご、ごめん!そんなつもりで見てたんじゃなくてッ」

「……何処を見て言っている? 私じゃない。後ろだ」

「え、う、後ろ?」

 

 十香の責め苦にどうも早とちりしてしまったようだと誤魔化しを含めて後ろを振り向くと、朝の活気もあって人通りは相変わらず賑わっており、その何割かは士道と十香……取り分け十香に呆然と視線を向けている。

 

「……確かに視線が向いてるけど、あれは十香をどうこうしようなんて考えてるわけじゃないって。 おまえが綺麗だからつい振り向いちまってるだけだぞ」

「―――ッ、貴様また性懲りもなくっ!! ……いや、今はいい。 そいつらじゃない。もっと殺気の篭もっている視線……否、死線が私を突き刺してくるのだ」

「死、…線?」

 

 またもや立て板に水とバカ正直な吐露で怒らせたと冷汗を掻いたが、それよりも気になっている死線とやらに意識を向ける十香を見て、釣られるかたちで死線とやらが気になった。士道は背後を注視するも、依然として変わらぬ朝の風景だけで、それらしき人物は見当たらない。

 

「俺には分からないんだが……いつから感じたんだ? その、死線ってのは?」

「おまえと手を繋いだ辺りからだ。ネチネチと絡み付くように私を見ている。

今もそうだ。時が経てば経つほど私を殺したくて仕方がないと言ってるように感じる」

「……そこまでか?」

 

 あまりに、あまりに穏やかではない物言いに怖気が走る。

 日常の一風景に過ぎないこの光景のどこにそんな異物が紛れ込んでいるのか。間違い探しにもならない水と油が本当に存在するのだろうか。

 疑う気持ちは正直あるが、十香が嘘を言ってるようにも思えない。声に出した為かあからさまに警戒し、さっきよりも数段増して戦意が上がっているのが掌から伝わってくる。

 

 この状況……どうすればいいのかと思考する。しかし士道は焦っていなかった。

 死線を晒しているのは誰か? 多分AST隊員の可能性が高いが、姿が見えないうえ朝というのがあるし、隣にいる士道以外にも大勢の一般人がいるのだから仕掛ける様子はないとみて間違いない。このままデートを続行しても大丈夫だろう。

 あとは十香が気にせずデートに集中できるよう士道がエスコートしなければいけないわけだが、そこは何とか気が紛れる所へ行こうと意気込むが……

 

「―――イツカシド―、あの十字路というところで別れるぞ。おまえは帰るべき場所へ帰るがいい」

「え……」

 

 しかし、十香の口から出たのは終の言葉だった。

 楽観視しすぎてるといえばそうなのだが、まさかその結論に至るとは夢にも思っていなかった

 「どうして……?」と、聞くことも出来ず、ただ呆然としてしまう士道に十香は告げる。

 

「この殺意は尋常なものではない。もう私を殺すこと以外は何も考えていないだろう。そうなったらデートどころではないし、おまえの命が危険だ。

 ……おまえは貴重な情報源だからな、死なせるわけにはいかん」

 

 ちいさな声で顔を赤くしている中に、影で歪んでいる十香の悲しさを見た気がした。

それだけで士道はわかった。

 十香は黙っていたのだ。殺気に気付いていながら気付かぬ振りをしていたのだと。

 あれだけ警戒していたのに何故迎撃しなかったのか? 

 決まっている。デートを邪魔されたくなかったからだ。

 人間への敵意よりも、士道の願いを優先してくれたのだ。

 そして今は士道の命を優先してくれ、胸が熱くなってくるのを感じる。

 士道がそう思っているように、十香もこのまま終わらせたくないと思っていてくれた。それだけでどんなことでも出来そうだと万能感に満たされていく。

 

 彼女の優しさを逃がさないとばかりに強く、そして優しく手を握り直した。

 

「ぬっ、……イツカシド―?」

「知るかよそんなこと」

 

 十香は呆気に取られ、士道本人をしてこんな斬り捨てる声音を発したことはあるのだろうかと驚く。

 

「今は俺と十香のデートタイムだ。そんなもん気にするな」

「何を、言っている。そしたらおまえは……同胞に討たれるかもしれないのだぞ?」

「同胞じゃねえよ。同じ人間ってだけで、誰でもかれでも仲良子よしなわけじゃない……それに、それを言うなら俺の同胞はおまえだ十香」

「は―――?」

 

 望外の言葉に十香は一言だけしか返せなかった。

 止まった表情で出せた疑問は種族間を無視した、士道が同じ人間ではなく異種の精霊の自分を同胞としたことに対するものだ。士道もそれを理解して応えを返す。

 

「おまえは俺とこうしてデートしてくれてる。だったら俺たちは運命共同体だ。

人間とか精霊とか関係ない。一緒にいてくれるなら十香は立派な俺の同胞だ。同胞を置いて家に帰れるわけないだろ」

「イツカ、シド―……」

 

 士道は断固とした態度で自分の意思を貫く。

 少なくとも殺気を送ってる奴なんかよりも仲間意識は高くあるし、なによりも優先しなくてはいけない相手だ。死線などの為に十香とのデートを邪魔されるなんて我慢できなかった。

 

「ありがとう十香。俺の心配してくれたのは嬉しかった。でも、大丈夫だ。このまま無視してデートを楽しもうぜ」

「っ……、おまえの心配なんぞしていない! 私はおまえに死なれると仇敵どもの情報が得られないからそうしただけだ!!」

「それでも、ありがとう」

「~~~~~~~ッ だから違うと言って――――ッ!!」

「うおっ!?」

 

 見透かされているかのような暖かい目線が気に食わないのか、十香は掴みかかる勢いで士道に詰め寄った。急にきたものだから抵抗も出来ずに引っ張られた。

 

 

 ……確認しよう。

 士道と十香の状態は顔がくっつきそうになるくらいに近づいて話をしていた。

 そんな状態で詰め寄ろうとしたらより一層2人が近づいてしまうわけで……

 

 

「 「 あ 」 」

 

 

 声は同時に、身体は同調する。

 元々感じていた十香の感触がより鮮明となって密着する。

 股の間にある太股。胸板に張りついた主張激しい柔らかな双乳。

 額は熱を測るが如く押しつき、鼻も挨拶でもするようにくっつき、目はピントが合わさったように離れられない。

 会って間もない男女の触れ合いとしては刺激が強すぎる愛撫。五感全てが一つの感覚と成り、士道と十香は絡み合う。

 けれども2人の間に羞恥は窺い知れない。混乱が一周して感覚麻痺でも起こり価値観が変動したのか、2人が気になっているのは一つだけ。この異質の状態でむしろ異常となってしまっている部分だった。

 

 合わさっていない部分である……………唇。

 

 しかしその唇もほんの数ミリ、数ミクロといった隙間しかなく、風が吹いただけでくっついてしまいそうだ。触れそうで触れてないこの間隔が興奮を増していき、次第に(ソレ)を味わいたいと考えてしまう。

 

「 「…………………………………………………………」 」

 

 どちらとも動かない。動けない。

 あれ? おかしいな、と士道はボンヤリ思う。自分は疑う余地なく欲情しているのに、距離を詰めようとしない。臆病風に吹かれた感じではないし、残った理性が躊躇に止まっているでもない。

 

 ―――俺が求めているのは、唇ではない。

 

 こうして彼女とは十分過ぎる程一つになっている。のに、足りない(・・・・)と思っているのに気がつく。

 なにか……もっと別なものを、別の十香のなにかを求めている。

 十香は十香でこの体勢をどう思っているのか、動こうとしない。士道同様動けないのだろうか。彼女に限って欲情なんてしてるとは思えない。

 

 離れなければいけなのに、身体は動かない。

 士道は十香、十香は士道しか見えていないからわからないが、周囲にとっては色目に映っていることだろう。見せびらかしていいものではないのに、でも名残惜しいと思ってしまっていて、自然と離れない限りはずっとこのままでいたいと考えてしまったその時、

 

「ぬっ?!」

「ッ…!?」

 

 鋭く、濃密で、暗い視線を感じた。自分達は見られていると、十香だけでなく士道までもが分かるくらいの視線……否、死線が飛んできた。

 深く考えるまでもない。これが十香の言っていた死線だというのは明白であった。

 

「イツカシド―!」

「ああ……っ、俺も感じる……!」

 

 桁違いの殺気を乗せての殺意で漸く死線の存在を認識できた士道は、なるほど確かにこれはデートを中止にしなければと考えてしまうくらいのシロモノだと納得した。

 『殺す』……それを理解させるにはどれだけの殺意を込めればいいのか、この死線の主はどれだけの殺意を溜めていたのか。

 一体何者なんだと疑問を抱いて士道はある思いを懐く。

 

(……この殺気……どこかで……?)

 

 それは懐かしさ。自分は以前、この殺気を知っているという懐旧の念だった。

 しかもそんな昔の話じゃない。当然いい思い出のわけがない。つい最近、質も方向性も違うが、士道はこの殺気とよく似たものに曝された。

 

 確か……そう、昨日のことだと思いだす。

 

 昨日、彼女(・・)と教室で会ったときの殺気だと

 

 

 

 

 

 

 

 

『そうやって……殺したの? 私のお父さんと、お母さんを―――』

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………………………ぇ」

「? イツカシド―……?」

 

 聞こえてきたのは小さくて消え入りそうな声。外からでは悲しみに打ちひしがれる絶望に塗れた泣き声に聞こえる。

 だがその内側には臓腑を捩じらせ燃やし尽くす激しい怒りがある。自分の罪を白日の下に晒させる冷酷非情にして断罪の判決。前同様(・・・)士道に向けられたものではないものの、お前も決して無関係ではないと知らしめる憎しみが零れ落ち、士道を蝕んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

『―――――あなたの手で殺された。あなたは私の目の前で、二人を――――忘れるものか。絶対に、忘れるものか。だから殺す……私が殺す。あなたを――――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――――殺す。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぁ……………――――………ぁ、ぁぁぁぁっ」

「お、おい?! どうしたイツカシド―?! しっかりしろ!?」 

 

 突然と膝を折り、全身を痙攣させ、うわ言を発する士道に十香は大層動転する。声を掛けるも反応している様子もなく、聞こえているのかさえ怪しい。それくらい士道は尋常ではなかった。

 混濁する意識はやがて脳細胞を真っ黒に塗り潰し、気を失うことを士道に告げる。

 ……駄目だ、今は気絶してはいけない。今はデート中なのだ。気絶なんてしたらデートが台無しになってしまう。

 頭で動けと命令しても身体が言うことを聞かない。辛うじてなけなしの意思で意識を保つことが出来ているがそれだけ。このままでは睡魔の濁流に飲み込まれるのは時間の問題だ。

 

「……、――――シド―!! ………、――――シド―!!!」

 

 ああ、でも。

 

 この現実と夢の狭間で聞こえる十香の声。聞き分けが出来ない今の耳には、彼女が自分を「シド―」と呼んでくれたように聞こえる。

 フルネームではない、自分だけの名前を呼んでくれたように聞こえて、ちょっとだけ嬉しかった。聞き分けが出来ないではなく、ソレしか聞こえないよう都合がつけられたのかもしれないけど、浅ましいけど、不謹慎だけど、嬉しかった。

 

「――――――――、……………! ―――――――、――――――!!」

 

 ふと、身体が持ち上がった感覚。

 そう認識しかできない士道は自分がどういう状態になっているのか見当もつかなかったが、著しく下がっている触覚が次第に風を強く感じるようになった。ジェットコースター みたいな、と言えばいいのか、朦朧としている中でもこれだけ強く感じ取ることが出来るなんて余程のスピードの中にいるのだろう。

 

 

 

 ……どれくらいたったか。

 長かったような、短かったような……

 

 

 

 ドゴンッ! と一際大きい、扉を蹴破ったような音(・・・・・・・・・・)が耳に届く。

 何でそんな音がするのか、なにか十香が荒事を起してしまったかと不安になったが士道の身体に伝わるフワフワとしてふかふかとした温い低反発の物体が思考をふやけさせ考える力を無くしていき、この感触を前に荒事は無いと根拠もない安心が浸透していく。

 

「しっかりしろイツカシド―!! もう大丈夫だ。此処は頑丈な城塞で護られた場所だからな。敵もそう簡単には攻め入れられまい。ゆっくりと身体を休めるといいぞ」

 

 ホッと息をした十香が安心しきった顔で綻ぶのを士道は見る。目も耳も随分はっきりと機能しているのは時間経過による緩和もあるが十香が近くに居てくれているのが大きい。

 段々と頭がスッキリして意識が安定する。ふと確認してみれば死線が消えているのに気が付いた。十香の言う通り敵はもう自分達を捉えてはいないのだろう。が、それよりも気になったのが視界に入っているモノだ。

 広く綺麗な天蓋に豪奢な家具たち。テレビの中でしか見た事が無い、どれもこれも金に物を言わせて揃えた一級品の品々であるのがわかる。そして自分が横になっているのが高級ベットであるのはこの柔な感触を味わえば疑いようがない。

 どうにも自分達は色々な意味でドデカい部屋にいるようだが、勝手にお邪魔していい場所なのかと新たな不安の種が芽生える。

 

 そもそも十香は何と言っていた? 聞こえはしたが理解には及ばなかったので記憶の中を反芻する。

 頑丈な城塞……そんな中世ヨーロッパの観光名所みたいな建物が天宮市にあったっけ? と考えてみるも心当たりはない。強いて言えば最新式の避難シェルターぐらいしか思い至らないが、空間震も出ていないのにシェルターに行ける筈もない。というかシェルターは城塞と言えるのだろうか? 確かめようにも視界に映るのは貴族の御屋敷みたいで――?

 

(……ん?)

 

 視界の端に何やらゴシック調に書かれた書体が入ってきたので目を向けると、そこにはまたまた高級感ある紙媒体の建物案内(パンフレット)が置いてあった。枕元に置いてあるのはご丁寧なのかテキト―なのか……とりあえず何が書いてあるのか見てみると

 

 

 

〝夢と希望を『産みだす』城 ドリームランド〟

 

〝身体と心を癒すならココ!! 快適な空間で2人を安らかなる極楽へ誘います!! もちろん、3P・4P以上も全然OK!!〟

 

 

 

「……………………………………」

「おお! 気がついたかイツカシド―。こんなに早く目覚めるとは目覚ましい効能を秘めているな、この城は」

 

 目を見開いて覚醒を果たした士道に満面喜色と十香は胸を撫で下ろした。なんだかダジャレを言ったように聞こえたが意図してやってはないだろうし、今はそんなのどうでもいいものだ。

 

 

 此処は、…………………………………………まさか

 

 

 まさか、

 

 

 まさか、

 

 

 真坂?!

 

 

「む、顔色はまだ良くないな。…………うむ、そうだな。暫くは此処で休息を取るとしよう。身を潜めることにもなるし、一石二鳥というやつだ」

「……………ぃゃ、………ぇぇ………と」

 

 それは、マズイ。そうするわけにはいかない。身体を休める以前の問題だ。

 十香はこの建物がどんなことに使われるか絶対知らない。声を上げて出ていこうと宣言したかったが、真摯に目を向け真面目に言って真剣に士道の身を案じているのに、どうしてそんな事ができようか。

 

「なんだその顔は? 余計な世話を焼くなイツカシド―。もし敵が攻め込んだとしても全部私が相手をする。……追い払う程度で済ませてやるから、がやがや言うのは無しだからな」

 

 言い淀む士道に、かつて彼が言った「戦ってほしくない」という言葉が蘇ったのか、面倒くさそうに言い聞かせながらふんぞり返る十香。

 違う。違わないけど、今は違う、そうじゃないのに、どうしても口が噤んでしまい流れるがままにされてしまう。

 

 此処を抜け出す言い訳も見つからぬまま、結局士道はこのまま十香と2人で居座ることになってしまった。

 

 

 

…………………

 

 

…………

 

 

 

 

 詳しい経緯を聞くも何てことは無かった。

 死線の主を播くのと気を失いかけた士道をなんとかしようと駆け回った十香は大きな城に目を付けて押し入ったとのことだ。見た目の堅牢さもあるし中に誰もいなかった(・・・・・・・・・)のも最適だと判断したのだろう。

 

 この城の経営主はどこか……士道は解った気がした。

 

「それだけではないぞ。身体と心を休めるには此処が良いと書いてあったから邪魔したんだ」

「………そこは重要じゃないから忘れてくれ」

「ぬ、そうなのか? ではサンピィやらヨンピィやらの方が重要なのか? すまんが私には何を指しているのか分からなくてな。意味を教えてくれると―――」

「もっとじゅうようじゃないからわすれてくれきおくからいやたましいからまっしょうしてくれ」

 

 息継ぎ無しの早口なもんだから酸素が尽きて苦しさ満タンになった士道だが、純粋な十香にそんな事を知られるのはまずいし嫌だし仕方なかった。

 

「む……………………」

「………………………」

 

 士道は横になり、十香は座っている。膝を折っていたのを近くにあった椅子を持ってきて坐り直し、見守っていた。それ以外に変化は無く、何も起こっていない。

 

「……イツカシド―。身体が優れないのはわかるが、黙ったままでいられるのは……なんかこう、変な気分になってくるぞ。なにか私にやれることは、やって欲しいことなどは無いのか?」

 

 そして最初に戻る。

 そうは言われても身体がまだ優れないのは事実なので休むことに集中してデートの再開をしたいというか此処から脱出したいのだが、十香の健気な態度を見ていると会話を優先させた方がよさげではあった。

 ……会話だけだ、他に何もしない。

 

「おまえにはサンピィとヨンピィが必要なのではないのか? 私に気を使うな。これもデートだというのなら躊躇はしないぞ」

「ほんとにかんべんしてくださいそれはまったくぜんぜんかんけいないんでこのままでおねがいします」

「……ぬぅ」

 

 ……よさげではなく、しなければヤバいことになりそうだった。いや、この状況は会話すら危ういものになりそうだ。

 ヘタレ化した士道と不貞腐れた顔の十香は正に〝失敗してしまった〟彼氏彼女のようだ。何が、とは言うまい。

 そもそも十香の要望に応える気が有っても人数が足りないのだからどっちにしろ無理な注文なのだ。此処はいま十香と二人きりなんだから。

 

(…………………………ふたり、きり)

 

 しまった、と改めて確認したこの状況に鼓動が輪唱する。言い訳をして落ち着こうとしたら逆に落ち着かなくなってしまった。

 こんな、男と女しか足を踏み入れない性域……聖域にいるのだから当然だが何も知らない十香を連れているなんて騙しているみたいで気が気でなかった

 

「ぬぅ~~~~」

 

 しかも十香は不満でいる。意味合いは違えど士道に何かしないと彼女も落ち着かないのかもしれない。それがますます士道をいたたまれない気持にするのだが。

 

「な、なあ十香。十香も一緒に休もう! はじめて沢山の人たちの中にいて疲れちゃってるだろ? ついでにだと思ってさ」

 

 うまく動かせない身体ではやれることは限定されるんだから十香にも休んでもらうのは悪くないと我ながら良い案だと士道は考えた。本来ならば看病して御粥とか作って貰うのが王道だろうが精霊の十香にそんなスキルがあるとは失礼ながら思えなかったのでこれが妥当だろう。

 

「ッ! やっ、やはり私も休むのか?」

(……やはり?)

 

 上擦った声で驚きを上げる十香になにか彼女を吃驚させたのかが分からずハテナをうがべた士道。そのまま十香の言葉を待つが、悶えているとも、葛藤してるとも見える十香の様子にますますハテナを浮かべてしまう。

 

「休まなくても平気だってんなら別にいいんだけど……」

 

 言うも、一世一代の大博打に挑むが如くの覚悟を決めたようにその凛々しい貌を引き締め直す。

 

「いいだろう。私も休むとしよう」

「? ああ、そう」

 

 なぜにそんなカッコよく言い放ったのか、ともあれこれで万が一にも間違いは起きないだろうと、士道は休憩タイムとして一時の安らぎを迎えようと思ったのだが――――

 

「あ?」

 

 「休憩タイム? 何だそれは美味いのか?」と言っているような十香を幻視しながら士道は安らぎではなく十香を迎え入れさせられた(・・・・・・・・・・・・)

 

「むぅ狭いな。イツカシド―、ジッとしていろ。少し動かすぞ」

「……は?」

 

 十香は横になっている士道をゆっくりと優しく持ち上げ少し横にずらす。

 そして再び士道の隣(・・・・・・)で同じように寝そべった(・・・・・・・・・・・)

 

「…………………………」

「………………………………………watt?」

 

 ちゃう、Whatや。

 ……ちゃう、そんなんどうでもええねん。

 

「十香?! なんで俺の隣に来るんだよ?!」

「ッ――おまえが休めと言ったからだろうが! 自分から言っておいてなんだそれは!?」 

「だからって何でこうする必要がある?!」

ベット(こいつ)は一つしかないではないか! そ、それに〝二人で一緒にやる〟のがデートなのだからこういう風に成れと言ったのだろう?!」 

 

 顔を赤くしながら宣う十香に士道はお互いの認識の食い違いに気がついた。

 十香にとって休憩すらもデートの一つであると解釈していたこと。

 どこか落ち着きが無かったのは士道と一緒に寝なければいけないのだと勘違いをしていたということに。

 

「あああのだな十香っ デートは何でもかんでも一緒にやるもんじゃなくてっ あくまで基本的にってだけでっ」

「なら何故そこまで拒絶するっ!? おまえは……っ! 私とデートがしたいんじゃないのか!?」

「したいよ! 凄くしたいけどさ! ってアレ!? 何か別の意味に聞こえる?!」

 

 こんな場所で「したい」だなんて卑猥以外になにも聞こえない。本格的にマズそうだ。長時間いればいるほど身体も脳もピンク色に染め上げられてしまいそうになる。

 

「十香っ、休むのは後にして話をしよう! そっちのがいい!」

 

 ササッと神速で自分と隣で寝てる十香を起して士道は代案を持ちだした。

 

「……………はなし?」

「そう! 話し! ここなら誰にも邪魔されないでゆっくりしていけるからさ! うんそうしよう! 絶対そうしよう! 心配かけちまって悪りっ。まだ身体はだるいけど、話しをするくらいなら大丈夫だからさ!」

「……そうなのか? いま随分と俊敏で力強い動きをしていたと思ったのだが」

「そ、それは、その……男に生まれてスイマセン」

「?」

 

 何に謝っているのか、自身の疑問に対する応えがよく分かないも十香は追及してこなかった。ありがたいとホッと息をする。

 体勢は変わり、士道と十香はベッドの上で対面して座っている。寝るよりかはマシになった筈なのに妙な気分になってしまうのは男ならしょうがない事なのか、それとも五河士道が畜生なのか、またまた別の理由か、とにかく士道はありったけの理性を総動員して会話に臨もうとした。が、十香の方が先に口を開いた。

 

「……まあ話をするなら丁度いい。私もお前に聞きたい事があったのだ」

 

 半目で小声を発した十香がこれ幸いと意外な乗り気で承諾してきた。

 何を話すのだろうか。世間話なんてできないし、精霊と共有できる話のネタがあるのか士道は考える。

 

「聞きたいこと? なんだそれ?」

「その前にだ。イツカシドー、そもそもお前はなぜ体調が悪くなったのだ? ……やはりあの殺気が原因なのか?」

「……ああ~、そうなんだけど、俺自身の、ちょっと変わった体質の過剰反応みたいなもんでさ」

 

 どう説明すればいいのか士道はわからず、いっそもう全部放り投げて忘れたい衝動に駆られるができなかった。

 アレは……放り投げるにはあまりに重く、忘れるにはあまりに強い絶望の叫びだったからだ。

 なんで彼女があの場に居たのか。なんで彼女の感情がダイレクトに伝わってくるのか。

 そしてなんで彼女の憎しみが伝わってくるのか。聞きたいのは士道の方だった。

 

(鳶一、折紙)

 

 士道は死線の主が誰なのか確信を持っていた。

 昨日会ったクラスメイトの少女。士道が気絶した原因。彼女は士道を知っているが士道は折紙を知らなかった。忘れているだけかもしれないが、思い出すことはなかった……したくなかった。

 知ってしまったら、何が壊れてしまうような、触られたくない腫物に触れられるような……嫌な予感しかしなかったからだ。

 

「イツカシドー?」

「っ……。あ、何でもない。とにかく悪くなったのは俺が弱かったってだけだから気にしないでくれ」

 

 どうしたと心配そうな十香の声で士道は我に帰る。そっちのけて他の女の子の事を考えてしまって失礼だったと反省して意識を立て直した。鳶一折紙についてはまた今度だ。

「……弱い、だと?」

「ん? なんだ?」

「いやいい。……それよりもお前に聞きたいことだがイツカシドー。

 

 ―――お前は私と会ったことがあるのか?」

 

 手短に、だが其処には万感の思いが込められていた。

 士道を見つめるその目にはいかな感情があるのか、それはまだ見出させない。

 

「出会った時からお前は私を十香と呼んだ。でも私はお前に見覚えはない……ないはず、なのに、お前はあたかも私が生まれる前から私を知っていたかのように振舞っていた。わたしを、親しい者を呼ぶように、十香と呼んだ」

 

 その質問に士道はさして驚きも動揺もなかった。初対面から十香を知ってる風に行動していたのだ。いずれ聞かれるとは覚悟していた。逆の立場だったら自分だって聞きたいと思う。

 

「イツカシドー。 お前は私の何を知っている? お前は、一体何者なのだ?」

 

 十香の中では沖縄で叫ばれた士道の言葉が木霊しているのかもしれない。その目は今恐怖と興奮の二つに揺らいでいる。五河士道がどういう存在なのか。信用に値する者なのかと。

 どうしようと士道は逡巡する。

 十香は五河士道が知りたいと言ってくれている。可能ならば彼女の望むままに自分という人間を教えたい。

 教えたいのに、士道は昨日から自分が分からなくなっている。自分が何者なのかという身分証明(アイデンティティ)が曖昧になっている自分では到底十香の疑問に応えられない。

 誤魔化すことはできなくもない。というより士道だって分かっていることがないから誤魔化すまでもない。

  しかし、

 

「……実は、お前に会うのはこの街でが最初じゃないんだ」

「っ……!」

 

 やっぱりそうなのか、と十香が一層耳を傾けてきたのが見えて、少し緊張してきた。

 昨日にかけて士道は嘘をつき過ぎた。元来真面目な性格の彼はこれ以上嘘をつくのに耐えられず、正直に、分かる範囲で喋るという選択を選ぶのは仕方がないといえる。

 

「俺、あの時以前に………………………夢の中でお前に会ったんだ」

 

 仕方がない選択。士道の中ではそうなのだろう。

 

「………………」

「……………………えっと」

 

なら、十香にはどうなのか?

そんなのは言うまでもない。

 

「………………………………もしかしなくても、私はいま馬鹿にされたのか?」

「ほっ、本当なんだ! 本当に夢の中で会って、それでお前のことを知ったんだ!!」

 

 無表情で怒りながら、十香は静かに掌大の光球を士道に向けている。

 士道は正直に話した結果どうなってきたのか、真実を言ったとしてもそれが報われるとは限らないということを理解していなかった。

 

「最初は街の廃墟で会って、そのあと学校の教室に行って、その時お前の名前を教えてもらって、それで夢から起きて、そしたら本当に十香に会って、俺びっくりして、いてもたってもいられなくて、運命感じちゃって、ああもうっ! 俺の言ってることわかるか!?」

「わからんわッ!? なんでお前が怒るんだ?! まるで意味がわからんぞ!?」

 

 溜まりに溜まり混んでいた自分への鬱憤が咳込むように止まらず、要点がまとめられない自分に対する怒りが更に上がり、士道はまともな思考能力が損なわれていた。八つ当たり紛いをする士道にとばっちりを受ける十香にはたまったものではない。

 

「夢で会っただと!? 私は夢の中に行ったことなどないし、第一行けるような場所でもないだろうが!?」

「そ、それは……精霊だから寝ている間にそういうのもできちゃうなんてことはないか?」

 

  怒鳴られ続けある程度の落ち着きを見せる士道だったが、言ってることはまだ頓珍漢であった。

 

「貴様は精霊をなんだと心得ている? 私は寝ている時は寝てるしかないし、精々が起こされるぐらいしかない」

 

 

 

 

 

 

 

「え」

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉に、目が冴えに冴え、士道の頭が鈍い音を立てている。

 

 

 例えようのない不穏な気配を感じ、臓物が絶対零度の温度で冷やされた。

 本人は気づいているのだろうか、その声は強張り震えていた。

 

「起こされるって……なんだよそれ。十香は、誰かと暮らしてるのか?」

「は? 何故私が誰かと暮らしてるなんて話になるのだ?」

「……だって、起こされるって、誰かに起こしてもらってるって意味じゃないのか?」

「そういう意味ではない。私は〝この世界〟に強制的に連れて来られるのだ。個人を指しているのではない」

「〝この世界〟……って?」

「お前たち人間が住んでいるここだ」

 

 ぽんぽんと十香は座っているベッドを叩く。もちろんベッドの事を言ってるのではなく、言葉通りの意味だろう。

 

「私は通常別の空間に身を置いていて休眠状態に入っているのだ。いつもは不定期にここに引っ張られるのだが……まあ今回だけは私の意思でやって来た」

 

 最後に不本意だと言わんばかりに十香はそう付け足した。

 要約するまでもなく十香は無理矢理この世界に来させられると言っているのだ。空間震も起こされているだけと。

 空間震は精霊が姿を現す際の余波。余波のみで人類は命と生活と財産の何もかもを喪われる危険に晒されている。

 さりとて精霊は好きでこの世界を壊しているわけではなく、抗いようのない予定調和という絶対に縛られてしまっているのだ。

 つまりは事故。望まない破壊と望まない被害が起きてしまう悲劇。人間と精霊の徹底したすれ違いだった。

 だが、士道はそんなことは毛ほども考えていなかった。

 十香にその責任を押し付けるのは理不尽なのではないのかとも、今日十香がどうして空間震を起こさずにこの世界に来れたのかとも考えていなかった。

 

 士道は、安堵していた。

 十香が誰かと暮らしているかのような言い回しはただの勘違いだったのだ。邪推だったのだ。

 

 

 ……なんで安心しているのだ?

 

 

 なぜ、何故、言えども答えは士道しか知らない。

 十香が誰かといるのは良い事の筈だ。独りは辛く、寂しい。どんな相手であれ、感情を育むには相方が必要だ。特に赤の他人しかいない十香にとっては。

 なのに士道は安心した。十香が誰とも一緒にいないと聞いて、自分の勘違いと知って安心した。

 

 何故、それは、

 

 十香を取られたと思ったから。

 

「――――――――」

「? イツカシドー?」

 

 十香が遠くに行ってしまったと思った。自分の側に居ないと思った。

 

「おい、どうした? また具合が悪くなったのか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『十香―――十香ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 叫んでいるのは、士道。

 映り込むのは、気を失っている十香と、十香を抱くCR-ユニットを装備した女。

 十香の体はそこら中汚れている。どう見たってそれは、連れ去られている最中だった。

 

 ゾッとする。

 

 怖い。

 

 恐ろしい。

 

 耐えられない。

 

 どうしよもない無力感が士道を臆病者にしていく。

 

「イツカし……きゃっ」

 

 十香が誰かに取られるなんて、認めたくない。受け入れられない。

 

 

 奪われるくらいなら、俺が――――――

 

 

「イツカシド―?! 何をす―――」

「士道だ」

「―――え?」

 

 動かすのが億劫だった身体が嘘のように快復し、士道は十香に覆い被さった。

 悲鳴が耳を擽るのを無視して自分の欲求を押し付ける。

 

「〝五河〟は必要ない。俺たちは他人じゃないんだ。これからは士道って呼んでくれ」

「そ、そうなのか……? では、シド―……じゃない! いきなりなんだ?! なにをするつもりなんだ?!」

 

 暴行を受けているのに律儀に名前を呼んでくれる十香が可愛くて仕方が無いと十香の全身を見てしまう。

 彼女の容姿とスタイルはもう言うまでもない。短い間隔で彼女と触れ合い、彼女を感じる機会に恵まれた士道は今まさに窮地と極致へと誘われた。あとは一歩踏み出すだけで桃源郷と理想郷、新天地への片道切符を手に入れられる。

 

「……十香」

 

 士道の裡で理性がヒビ割れる音が聞こえる。商店街の道端では最後の一線まで留まっていた欲情が牢を壊そうと暴れたくっている。

 

「……………おれ」

「し、シドー?」

 

 倒れた時とは違う様子のおかしさに恐る恐ると士道を見つめる十香はどこまでも純真だ。

 

 それをムチャクチャにしてやりたいと思った。

 

 本能の赴くままに十香を求めたい。雄の総てを掛けて目の前の雌を独占したいと思った。

 

「十香」

「?、?…?」

 

 十香は身を固くして縮こまり、小動物のように小刻みに震えていた。なにが起こるかわからないだろうに抵抗もない。十香はまだこれもデートの一つであるのだと思い込んでいるのか、あるがままに士道を受け入れようとしていた。

 健気で純真なその姿は油に火を注ぎ、士道をひどく狂わせる。胸が高鳴り、血が滾る。止める者はいない。止められても止まれない。

 

「十香」

「ぁ、………ぁ」

 

 初めて目にした怯えの表情。

 霊装を身に纏い、天使を手にした凛々しく気高い雄姿はどこにもない。今の十香は男を知らないか弱き純潔の乙女でしかなかった。自分が彼女をそうしているという優越感と背徳感のせめぎ合いに士道は酔い痴れるしかなかった。

 

「十香」

「……っ~~」

 

 

 何度も何度も十香の名を呼び、士道が十香に近づく。擽ったくて身を捩る十香。

 

 

 

 

 二人の身体は完全に密着し、

 

 

 

 

 そして――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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1-10

 焦燥を押し殺しながら、鳶一折紙は街中を奔り回っていた。

 五河士道と<プリンセス>を見失ってから大分時間が経っている。かれこれ30分以上もだ。

 

 

 

 折紙はいつもの日課(・・・・・・)で士道の生活習慣の把握と安全を確保するために朝早くから彼を傍で見守ろうとしていた。

 それが崩れたのは<プリンセス>が士道に近づき、身の程知らずにも行動を共にしようとしてからであった。初めは驚きと戸惑いが飛来し、次いで怒髪天を突くと、折紙は憎悪と怒りが宿った。ソレに身を任せて飛び出していきたかったが緊急用の小型デバイスのみの装備しかない今では返り討ちにあうと自分に言い聞かせられる程度の冷静さは残っていた。忌々しいが<プリンセス>に士道を害する気配は無い……とは言い切れない。その時は是非もなくこの身を挺して護るだけだ。

 

 それにしても奇妙な光景だと折紙は疑念に駆られる。

 昨日の四月一〇日。来禅高校始業式の放課後に起きた空間震と<プリンセス>の出現。従来通り空間震は前哨戦として、主戦たる精霊との戦闘が開始されるかと思いきや出て来て間もなく<プリンセス>は消失(ロスト)―――正確には逃亡を図った。その後の捜索は天宮市全域に及び、近隣の市街地にも捜査の手は伸びたものの、とうとう見つけることは出来ずなあなあのまま消失(ロスト)したものと扱われたのだ。今までの<プリンセス>とは明らかに異なる行動に戸惑う声も安堵も声も挙がるもそれ以上は詮無いものとASTは真意を探ろうとはしなかった。折紙もそれでいいと思っている。深い意味があるとは思えないし、自分達は精霊を斃すだけでいい。その心を知る必要性など皆無だ。

 しかし今日この時の光景を見ればそうは言っていられなかった。<プリンセス>が人間と接触し、よりにもよって五河士道と行動を共にしているのだ。どうしてこんなことになっているのか、五河士道と共にいる要因に折紙は1つしか心当たりがない。

<プリンセス>が逃亡する直前に見えた人影。あれは本当に見間違いではなく五河士道だったのなら共通点としては弱いが成り立つ得るものではある。どうして士道が空間震警報が鳴っていたにも関わらずシェルターに行かずに外に出たのか……あの右手の怪我はどうしたのか、疑問は絶えないが全部後回しだ。自分は冷静に、殺意は精霊に向け、折紙は士道を見守り、<プリンセス>の監視を開始した。

 彼我の距離は精霊の感知範囲にギリギリ捉えられない位置をキープしている。居場所がばれる位置ではないが会話が聞ける位置でもなく、動向を探るには顔色を見るしかなかった。初めのうちは霊装を解除し来禅高校の制服に偽装した<プリンセス>が不機嫌に商店街を歩いていた。忙しなく周囲を警戒してくるため気付かれないよう細心の注意を払い、様子を見る。何やら声を上げて士道を言い退けているようだが暴れる所作ではない。一方的に我儘を押し付けている感じで、士道もさぞ迷惑千万していることだろうがこの場では都合が良い。士道が<プリンセス>を見限れば、あるいは逆に<プリンセス>が士道が見限れば彼の安全を確保できる好機と<プリンセス>を討ち取る好機が同時にやってくる。アレはいま精霊の絶対防御たる霊装を装備していないのだ。コレはまたとない、千載一遇のチャンス。一挙手一投足見逃さんと神経を尖らせていると、折紙は信じられないものを見た。

 手を握ったのだ。恥ずかしそうに、たどたどしく、握る二人は見えない壁でも造ってるみたいに周りを見ずに、二人だけの世界を作っていた。士道の気まずさも<プリンセス>の不機嫌さもない。二人の間に入り込む余地も無い。あそこには士道と<プリンセス>しか存在しなかった。

 

 ―――殺意を超え、恨みを抑え、苛立ちが募り……嫉妬した。

 

 鳶一折紙は精霊を憎んでいる。

 精霊は敵、斃さなければならないモノ。その人類の総意に加え、折紙は私怨で精霊を駆逐しようとしている。風化することなど許されない(・・・・・)この思いは、折紙の根幹を成していると言っても過言ではない。

 そんな義務感を優に超えて折紙はどうしようもなく嫉妬した。

 

 

 どうしてあんな怪物が彼と手を繋いでいる?

 

 どうしてそんな嬉しそうな顔をする?

 

 

 どうしてあそこにいるのが私じゃない?

 

 

 唇の端に血の一滴が、握り拳の内側には血の雫が滴り落ちる。

 殺意だけであの女を殺せるのならどれだけ素晴らしい事だろうかと思わずにはいられない。

 

 そんな折紙に追い討ちを掛けるように事態は深刻化した。

 

 士道と<プリンセス>が、抱き合っていたのだ。

 正確には少し違うが変わりはしなかった。身体はこれでもかというくらいくっ付きあい、唯一の例外は唇だけだった。

 

 その時の瞬間を折紙はよく覚えていなかった。

 限定的な記憶喪失なのか、自分がどうしたのか、自分が何をしたのかが分からず、折紙はその瞬間意識を手放してしまったのだ。

 

 次に気がついたのは<プリンセス>が士道を抱きかかえて街中を駆け廻ろうとした時だった。士道はグッタリとしていて顔色が優れない。一体どうしたのだと折紙は立場も目的も忘れて駆け寄ったが、<プリンセス>の足の速度が尋常でなく影を追うのが精いっぱいだった。向こうは精霊とはいえ人間一人を抱え、こちらは既に基礎顕現装置(ベーシックリアライザ)を使用しているのに最低限の尾行の距離すら稼げないのに驚きを隠せなかった。まるで士道を抱えてい(・・・・・・・・・・)る事でブーストが掛か(・・・・・・・・・・)っているようにすら感じた(・・・・・・・・・・・・)

 

 

 

 

 そして健闘虚しく、ついに折紙は<プリンセス>に撒かれてしまった。

 あの速さならば隣町はおろかニ、三の県をもまたに駆けていても不思議じゃない。昨日の例が合ったばかりなのだから尚のことだ。

 落ち着け、落ち着けと頭に叩き聞かせても逆効果にしかならなかった。士道の身体の具合がどうなっているのか心配で焦りが積もる。通信機器は電波妨害でもあるのか通信不能に陥りAST本部への連絡もできない。

 何はともあれ報告が来るまでは虱潰しに探すしかないと足を動かしていくと―――

 

「――――ッ!」

 

 今まで走ってきたのはなんだったのか、士道と<プリンセス>がいとも容易く見つかった。建物から出てきた姿を確認して慌てて隠れ、折紙は息を潜めた。

士道はもう自分の足でちゃんと立って歩いている。体調は良好そうだった。

 体調は良好そうなのだが、顔色は…………………

 

「……?」

 

 折紙は訝しげに眼を細める。

 士道の顔色が、よくわからないのだ。

 何だあの顔は? 憔悴していて、失意に塗れ、でもどれどもない。

 表しようのない顔、としか言えなかった。

 否、一つだけ確かなのは微妙に顔が赤らんでいることだけだった。

 ついでに見れば<プリンセス>も似たような顔色となって赤らんでいる。

 

 ――――本当に、なんなのだ? 

 

 折紙が離れていた時間の合間に一体何が起こったのだ?

 答えを求めて折紙は士道と<プリンセス>が居たであろう建物に気付かれないよう近づき確かめる。

 

 そこの看板には、こう書いてあった。

 

 

 

 

〝夢と希望を『産みだす』城 ドリームランド〟

 

〝身体と心を癒すならココ!! 快適な空間で2人を安らかなる極楽へ誘います!! もちろん、3P・4P以上も全然OK!!〟

 

 

 

 

「………………………………」

 

 ぷっつん――――そんな音が頭の中で聞こえた。

 無言で看板に拳を打ち抜いた。

 打って打って打って打って打って打って打って打って打って打って打って打ちまくり、鉄の打楽器を己の拳で奏でながら放ち続ける。顕現装置によって強化された拳には傷の一つもついていないが、たとえ強化されていなくとも折紙は拳を放ち続けただろう……そうでもしなければこの胸の激情を持て余して何をしてしまうか分からない……いや、現在進行でしているか。

 鉄屑と化した看板を横目に荒くなった息を整える。気持ちとは裏腹に脳では冷ややかに事態を把握していた。

 

 

 そうなのか(・・・・・)? 

 

 そういうことなのか(・・・・・・・・・)? 

 

 あんな顔になっていた(・・・・・・・・・・)のはそういうことなのか(・・・・・・・・・・・)

 

 

 <プリンセス>に対する殺意が過剰摂取され、逆に落ち着いていく。

 折紙は先程出て行った仇敵を見据え、殺る気満々と肝を据えた。

 装備など殺意だけで十分、ASTの立場など知ったことではない、コノウラミハラサデオクベキカ。

 

 あの怪物はまだ視認できる場所にいる。後ろ姿は隙だらけだ。今なら殺れる―――!

 

 自分では止められない、折紙が怒りで愚行を犯そうとしたその時、軽快な電子音が耳に入り、一瞬で感情が四散した。

 鳴っていたのはAST隊員に配布されている携帯端末だった。煩わしくも素早く手に取り応答する。

 

『ちょっと折紙っ!! あんたまた無断で顕現装置使ったでしょ!? 観測結果が出るまで待機って言っておいたでしょうが!!』

「緊急を要する事態が発生したため独断で使ったまで。追って連絡する」

『待ちなさい!? やっと繋がったのに何で切ろうとするのよ?!』

 

 耳がキンキンするほど喧しく怒鳴り散らすのは上司である日下部燎子だった。

 こんなになるまで時間を掛けたのは其方なのだからむしら怒鳴り散らしたいのはこっちだ。

 

『まったく、昨日の事といい反省する気ゼロね……まあいいわ、それで例の女の子だけど』

 

 処分は後回しと、燎子は調査結果を報告した。

 

『観測の結果、存在一致率九八・五パーセント。ほぼ……いえ間違いなく精霊でしょうね』

「そう」

 

 折紙は特別なにも思わない。なにせこの目で確かめたのだ。観測機を手配したのは業務上にすぎない。

 

『あんたを疑ってたわけじゃなかったけど、信じられないわね……空間震も起さずに精霊が一般人に紛れこんで此処に来ているなんて』

「戦闘許可は?」

『お偉方がまだ協議中よ。避難も何も無い状況で戦闘なんて出来ないし、下手に刺激して暴れられたりしたらアウトだし、もうしばらくは静観を決め込むでしょうね』

「それでは遅いこれはまたとない千載一遇の好機これを逃したら次はいつ死留められるかわからない即刻勝負を仕掛けるべき」

『ちょ、ちょっとっ、なにをそんなに慌ててるのっ? 落ち着きなさい、緊急用一つで何とかなる訳ないでしょう』

 

 面食らいながら燎子は折紙を窘める。

 普段の淡々とした口調は変わらないのだが、そこには未だ嘗てないほどの熱が込められている。折紙が精霊に対して強い憎悪を抱いているのを知っている燎子だが、それとはまた違うモノが含まれているように感じていた。

 

『とにかく! 出動命令だけは捥ぎ取ったから。折紙、一度本部の方に戻って装備を整えなさい。こっちも<プリンセス>を捕捉できたから作戦を開始するわよ。準備が出来次第一〇一地点で合流。いいわね』

「……………了解」

 

 何を暢気な、そうこう作戦をしてる内にまた逃げられてしまうかもしれないではないか。

 しかし、ここで駄々を兼ねても判断を覆らないだろうと、折紙は尾を引く思いで、血の涙を流す思いで、その場を後にした。

 

 決殺は持ち越しとなり、折紙は冷たくその殺意を研ぎすませる。

 

 次に会った時、全てを終わらせると、そう誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 街の喧騒が随分遠くから聞こえるなと、士道はぼんやり思った。別に天宮市から離れているわけではない。今は再び商店街を歩きだしている。

 自分の耳が遠くなったのか、それも当て嵌まるだろう。あるいは関心が無いのだろう。もしかすると知らず知らずのうちに隣界みたいな別世界に辿りついて彷徨っているのかもしれない。はたまた幽霊にでもなってしまい肉体と霊体との差異が出ているのかと斜め上の可能性も模索しだした。

 喧騒もそうならすれ違う人々についても似たようなものだった。声はおろか顔すら碌に印象に残らない。

 士道の耳には「そういえば駅の南に新しい商店街ができたんですよねぇー」とか「今から行けばなんと商品すべてがタダで提供されるんですよぉー」とか「初デートだったら行くしかないよね!」とか「男ならきちんと女の子を色んな場所にエスコートしなくちゃダメだよね!」とか「……あ、あのぉ~……聞いてますか?」とか「あの! 少しだけっちょっとだけでいいんです! 行ってきてくれませんか?!」とか「お願いします聞いてください」とか「……無視しないでくださいぃぃ」とか、不自然なくらい大きな声で売り込みをする人たちの言葉を完全にシャットアウトしていた。

 

 士道が向ける視線は、関心は一つだけ。

 この左手と繋がっている右手の持主たる十香のみであった。

 

「……………………………」

「……………………………」

 

 ドリームランドを出た後、士道と十香は一言も喋っていない。

 険悪な雰囲気だから、ではない。気まずい空気だから、でもない。

 手を繋いで歩いている。

 それが続いている。

 ずっと、続いている。

 

「……………………………」

 

 士道は十香を見れなかった。

 見る資格がないし、見ることが許されない、そう考えているからだ。

 

 士道は、十香に最低なことをした。

 平手打ちで済まされる話ではない、首を落とされたって足りないだろう。

 年頃の男の子だから、年頃の異性を過剰に意識してしまうのは普通かもしれない。性への興味を持つのだって思春期ならば当然の事。ソレで自分の感情を制御出来ず、煩悩が走ってしまうのは、百歩、千歩、万歩、億歩と譲れば〝仕方がない〟の一言が成り立つ可能性はあるだろう。そうだったら、まだ救いはあったかもしれない。だが、士道はソレが主ではなかった。

 

 最初の一人は十香か(・・・・・・・・・)と、手始めとして(・・・・・・)事に及んだのだ。

 これから出会うであろう少女達の相手の、一番目の相手として。

 打ちひしがれた。

 自分が、こんな下種い思考を有していただなんて、認めたくなかった。何かの間違いだと主張したかった。

 しかし、現実として士道はやってしまった(・・・・・・・)

 十香の感触も、匂いも、味も、声も、その時の顔も、鮮明に思い出すことができる。

 言い訳など、何の意味も持たない。どんな理由があろうともそれは士道の都合。十香には関係が無い。

 十香には報復の権利がある。それこそ感情の赴くままに士道を鏖殺する権利が。

 

 ――――心に負う傷とはそういうものだ。ただ感情が原動力となる。もっとも、それだけでは傷を癒すには足りず、方法が異なっている。その傷を癒すには自分独りではどうにもならない。

 

 癒すには〝なにか〟がいるのだ。物であれ、人であれ。

 そしてそれは、士道では成れない。

 

「……………………………]

 

 でも、この状況。十香は何を思っているのだろうか、士道は不思議でしょうがなかった。

 握っている手と手。

 この手を繋ぎだしたのは十香の方なのだ。

 当然、士道は戸惑った。殴られ、蔑まれ、殺される覚悟はしていたのに、これは予想外がすぎた。

 どうすればいいのかもわからず、士道は歩くしかなかった。それ以外のことをしたら逃げられるんじゃないか、そう思えてならなかった……滑稽だ。あんなことをしでかして、士道は未練がましく十香と一緒にいたいと思っている。

 不安が、大きくなる気配をしだす。緊張も伴い、心臓が鼓動を早めた。顔も俯き気味になる。

 

「……っ!?」

 

 正にそんな時だった。

 十香がぎゅっと手を握り返したのは。暖かくて優しいその手を包んだのは。

 士道は思わず後ずさってしまった。手を繋いでいてそんな事をしたから十香が引っ張られる形で後ずさり、その足を止める。

 

「……ぁ、っ」

「………」

 

 歩みが、止まった。永久に続くと思った歯車が士道によって終わりを迎え、二人は新たに見つめ合う。

 

 十香は、怒っていなかった。冷淡に底冷えする顔もしていない。

 その顔は、士道の考えていたものとは違っていた。

 とても、哀しそうな、慈悲の篭もった目をしていた。士道を気遣い、士道を心配していた。少なくとも士道にはそうにしか見えなかった。

 

「十、香」

 

 もう泣いてしまいそうな顔で、とうとう士道は十香に声を掛けた。

 

「なんで……なんで、怒らないんだ、十香……?」

 

 怒らないんだ? というのは変だ。殺さないんだ? というのが正しいだろう。

 士道は十香がわからなかった。十香に酷いことをしたのに、なんでそんな顔で見つめてくるのか。「妙なことをしたら斬る」と言ったのは十香なのに、どうして……?

 

「おれ、おまえに、あんなことしたのに……なのに、なんで」

「なんで、と言われてもな」

 

 困ったように頬を掻く十香は、アレもデートの一つと思っているのかもしれない。

 あらゆる意味で否定し辛く、一際大きく士道を重くするのは罪悪感だ。何も知らない純粋無垢なこの少女をデートと偽り、騙したも同然のことをしでかし、赴くままに自分の欲望をぶつけたのだ。

 

 あれは、違う。あれはデートなんかじゃ、ない。

 

「シド―」

 

 懺悔を述べる前に、十香が「シド―」と呼ぶ。名前を呼んでくれた喜びはこんなときにも感じてしまって、自分で自分に追い討ちを掛ける。

 

 士道はもう、自分が嫌いになって仕方が無かった。

 

「―――そんな顔、するな」

 

 そんな士道を、十香は小さく叱咤した。

 握っていた手を両手で包み、胸の前に持ってきた。その柔らかさに反応する以上にぬくもりが士道を満たしていく。

 

「と、お……か?」

「なんだか分からんが、そんな顔されると……私も辛いのだ。だから……泣くな」

「ッ……、ま、まだ泣いてねえよ」

 

 変な強がりをしてしまう士道は、あるいはそのぬくもりによってある程度の平静を取り戻したのかもしれない。それでも罪悪感は消えないし、疑問も尽きないが。

 

「だが、なにか恐れているのは確かだろう? 今だってそうだし……さっきは震えていたではないか」

「え……?」

 

 震えていた? ただの獣が獲物を貪り尽くし、欲望の権化に成り下がっていたあの時に、震えていた?

 

「あのとき、おまえは震えていたぞ。寒さに耐えようとしているみたいに、私に縋っていた。あれは……………怖い? いや、あれは………たぶん…………」

 

 十香は考え、やがて声を出す。

 

「……そう、〝寂しい〟……〝寂しい〟だ。〝寂しい〟に近かった。

シド―、おまえは寂しがっていた。なんとなく、そうなのだと分かった」

「さびしい、って……なんだよ、それ」

 

 寂しそうだったから、だから怒らなかったと十香は言っているのか?

 ……いや、違う。少し考えて、十香は本当に怒ってなどいなかったと漸く士道は気付く。でなければ士道は生きてはいないし、十香の隣に立っていない、手も握っていない。

 

「むぅ……私だってよく分からんのだ。とにかく、私が言いたいのはだな……

――――おまえがそんな顔をしているのが気に食わない……それだけだ」

 

 それは、士道が十香に放った言葉だった。

 

 

 

 十香は、強い。その力で襲撃者を返り討ちにした数は知れず、汚れ一つとて付けられたことはない。

 十香の前では凡ゆるものは有象無象。凡ゆるものは凡俗。凡ゆるものは塵芥。そう言わしめる強さを持っている。

 故に十香は弱者を知らなかった。弱いから誰かと寄り添いたいと願う「求め」を知らず、力の弱い者は知っていても、心の弱い者は知らなかった。

 ソレを知ったのはついさっき。士道とドリームランドで触れ合い、繋がったことで流れてきた(・・・・・)、種々雑多の感情。その内の一つだった。

 独りではどうすることもできない脆い存在が見せた深淵に潜む古傷。捨てられたくない(・・・・・・・・)おいていかないで(・・・・・・・・)と泣きじゃくる子供の姿を十香は見た。

 理由も過程もなく、これが五河士道の根源なのだと、本能で悟った。

 コレは辛い気持ちだ。気持ち悪く、気に食わないという気持ち。コレを持ってしまったら同じ傷を持った他人に必ず関わろうとしてしまい、見て見ぬふりができなくなる。

 そんな……自分の傷を抉るようなマネを繰り返すのが五河士道なのだとわかった。

 馬鹿だ。歪だ。自己満足だ。憐れみを振り撒いているだけだ。それら総てが暴走し、耐えきれなくなった結果として、十香を押し倒した。

 この男こそ哀れだと、他の誰かならそう思うだろう。

 

 でも、そこで十香は考える。自分は、どうなのだ、と。士道を愚者と詰るなら、他に何をすればよいのだと。

 自分が傷つかないように、同じ傷を持っている者を、見て見ぬ振りをすることが賢い行動なのか? それが正しいことなのか? 他人の為に何かをすることは、悪いことなのか?

 

 

 

 誰かを傷つけるのが嫌で、自分の力を抑え込む少女を救うために、氷の散弾銃に撃たれながらも手を差し伸べることが、間違っているのか?

 

 

 

 自分の意思で人間を殺し、救いようがないくらい死体の山を積み上げた少女を、それでも救おうとし、償う機会を与えようとするのは、馬鹿なのか?

 

 

 

 両親の仇を討滅せんと襲われ、殺されかけた少女を、襲撃者の正当性を理解しながらも黙って見ることができず、身を挺して護ろうとするのは、歪なのか?

 

 

 

 彼は……五河士道は……士道は……シド―は……他人のために自分を犠牲にしている。シド―はそんなつもりはないのかもしれないが、結果を見ればそういうことだ。

 正しくはないのかもしれないが、やっぱり、間違っているとも思えなかった。

 

 ただ、尊いと思った。

〝見ず知らずの誰かのために―――同じ思いをさせない〟

 十香にはできない、しようとも思わなかったことをやってのけるシド―に、かけがえのないものを見つけた気がした。脆いけど、とても綺麗な輝きを放っている気がしたのだ。

 十香は初めて自身以外の存在価値を知ることができた。こんなヒトと一緒にいるのは、とても素敵なことなのだと思った。

 

 でも、更に十香は考える。

 シド―は……そんなシド―は、誰に救ってもらえばいいのだ?

 誰かを救って、救って、救って、救って、その度に傷つくシド―を、誰が癒してやるのだ?

 何も無ければ、それでいい。問題なく、滞りなく救えれば、それでいい。でも、そんな簡単に事が運べるほど世界は優しくない。

 どうしようもないくらいの絶望に相対して、心が折れてしまうかもしれない。「俺には無理だと」弱音を吐き、挫折してしまうかもしれない。誰ひとりとして傍に味方が存在せず、やめることもできず、独りでなんとかしようとするのかもしれない。

 

 その果てに、シド―の心が………あの輝きが失われてしまうのかもしれない。

 自分では手に入らないモノを無くしてしまうのは惜しく、悲しい。

 そう思うと、苦しくなる。

 そんなのは嫌だと、十香は断言する。

 

「大丈夫だ、シド―」

 

 十香は自分の頭を、士道の胸に預ける。

 士道の心に直接語りかけるように。

 

「私はここにいる」

 

 士道が少女達を救うのなら、士道を救うのは自分でありたいと、救ってやりたいと、十香は思った。

 自分のものではない感情(・・・・・・・・・・・)に振り回される士道を、ソレと元々抱いていた心的外傷(トラウマ)が混じり合って翻弄されてしまった士道を、護ってやりたいと思った。

 その絶望を捨て去るだけの捌け口でもいい――――強いけど、弱いシド―の傍にいてやりたかった。

 

 ()この時だけは(・・・・・・)、そうしたいと思った。

 

「私はおまえの傍にいる。だから、そんな顔をするな」

「…………」

 

 頭を預けてくる十香を、黙ったまま士道は様々な気持ちが駆け巡っていた。

 十香は五河士道を美化しすぎている。俺は、そんな慈悲をかけてもらえる価値なんてない。口だけの達者だ。

 情けない、俺が十香をデレさせて救おうとしているのに、思いっきり立場が逆転してしまった。

 

「いいのか……? おまえの傍にいても、いいのか?」

「うむ」

「あんなこと、したのにか?」

「かまわん」

「でも、そんなんで済むわけ……」

「くどいぞ! いいと言ってるだろうが。そんなに気にするなら今からちゃんとしたデートをするがいい。それすら無碍にする気か? 今日はまだ続いているのだ。それまでデートし尽くすぞ、シド―」

 

 顔を上げて士道を見据える目と、男よりも漢らしく言いきる十香をかっこいいと、思わず見惚れてしまった士道。

 罪悪感が拭えたわけではない。これで何かが許されるとかじゃない。それは消してはいけない、男として責任を負わなければいけない類の物だ。

 

 でも、それよりも優先すべきは十香のこと。彼女の言う通り、自分の言った言葉を、何より彼女の思い遣りを無碍にするのだけは、駄目だろう。

 

「……そういえば、どっかで駅の南に食べ放題の店が並んでるって聞いた気がするな……行ってみるか?」

「なっ、食べ放題?! きなこパンがか!?」

「きなこパン限定じゃないと思うが……どうする?」

「愚問だぞシド―、無論行く!」

「お、おい十香、また勝手にっ、そっちは道が違うぞっ」

 

 気分が頗る上がった十香に、慌てて方向転換を促す。

 何なんだろうか、この気持ちは?

 未だに重い心持ちなのに、軽くなった奇妙な感じ。

 十香が自分を慮ってくれたこと、自分自身が許せずにいること。多くの感情が廻っている。

 それらをひっくるめて、士道は、十香に何ができるのだろうか?

 

「………………………………」

「シド―?」

「いや――――こっちだ十香」

「う、む?」

 

 繋いだ手を一緒に振りながら目的地を目指す。

 

 

 平々凡々の高校生の頭で考えに考えて―――

 

 

 五河士道は、ある決心をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

「……ふむ。漸く作戦の第一段階に突入できた、といったところか」

「そうですね。あのまま微妙な空気でいたらなあなあに終わってしまいそうでしたからね、正直ほっとしています。作業班の存在もまるで見えていなかったようですし……やはり放置プレイはいただけません。うっとおしければ殴って止めなければ!」

「……………………」

 

 Mの性癖を全開に広げる神無月恭平に、何の感情も浮かべずに、ただ眠そうな顔をする村雨令音。

 十香の現界を確認してから今までの始終を遂一カメラで見ていた<フラクシナス>のクル―は、当然、ドリームランドでの出来事も目撃していた。

 体調が急変した士道を休ませる場所として選んだドリームランドは<フラクシナス>が、もっといえば<ラタトスク>が精霊攻略のために用意した建物だ。広告に書いてある通り、そういうこと(・・・・・・)ができるように、中には様々な大人の道具が揃えられ、精霊を満足させ、好感度を上げられるように整えられている。

 整えられているが、それらしいムードに仕立てるだけであり、本来の用途を果たさせようとはしていない。あくまで〝好感度さえ上げればそれでいい〟考えで造られた建物なのだ。まだ学生である士道に強要するのは問題がありまくるし、精霊は十香ひとりではないのだ。これから現れるであろう精霊たちと付き合う破目になったら、五河士道は社会的に死ぬかもしれない。

 そして何より、これには士道の性格が考慮されている。彼ならば大きな過ちは起こさない、というより起こせないだろうと考えて設置された……のだが。

 

「それにしても予想外でしたね。士道くんがあんなにも積極的に十香さんを攻め倒すなんて……確かに彼女は性格こそ純粋無垢な子どものようではありますが、いかんせん余分な脂肪が付き過ぎている。熟れ過ぎた果実に意味は無いでしょうに」

「……とりあえず、十香と農業者の方々に謝った方が良いだろうね」

 

 どうでもいい問答をしながらも、令音は神無月と同じ思いを懐いていた。琴里と話をした後であるから尚更そうであった。

 

「あの~……士道くんは、その、二人は……本当に……………その、」

 

 神無月の感想に、艦橋下段から前髪の長い女―――<藁人形(ネイルノッカー)>の二つ名を体現している容姿をした椎崎雛子(しいざきひなこ)が頬を赤らめながら神無月を含めた全員に疑問を向けてきた。

 

 ……そう。士道が突然豹変し、十香を押し倒した時、テレビの「しばらくおまちください」の放送事故が起こったようなご都合主義がカメラの画面を乱し、ノイズ塗れになってしまったのだ。

 

 煽るにしろ止めるにしろカメラはおろか、通信機器までもが異常をきたして直接的にも間接的にも何も出来ずじまいで、普及した頃には既に士道と十香はドリームランドを出た後だったのでどうなったかは分からずじまいだった。

 

「いやいや、まだ確定したわけではないでしょう。これはヤったと思わせて実は抱き締めたまま何もなかったという肩透かし。ギャルゲーによくあるパターンですよ」

「何を言う! あそこまでいって何も無かったなどありえない。我が縁結びのご加護が告げている――――あれはゴールまでいったと!!」

 

 否と唱えるのは一〇〇人の嫁を持つ男・<次元を超える者(ディメンション・ブレイカ―)中津川宗近(なかつがわむねちか)

 肯を唱えるのは五度のもの結婚を経験した恋愛マスター・<早過ぎた倦怠期(バットマリッジ)川越恭次(かわごえきょうじ)

 形勢は川越が優勢だった。二人の顔を、あのやり取りを聞けば、どうなっていたのかは火を見るより明らかだからだ。とはいえ、見た感じそのままでは理論は成り立たないのも道理。決め手は不足しているので中津川の主張も無きにしも非ずだ。

 

「どちらにせよ、今の二人の雰囲気は悪くない。寧ろ良い。この状態を維持したままいけばデレさせるのも時間の問題。あとはサポートを充実させれば完璧だ」

「しかし、良い雰囲気だからこそサポートは抑えておくべきでは? お互いの意識が相手に集中している以上、他の誰かにしゃしゃり出てこられるのは逆効果で一気に不機嫌になることだって――――」

 

 両方の可能性を入れた上で最大限の支援を主張するのは夜のお店の女たちに絶大な人気を誇る・<社長(シャチョサン)幹本雅臣(みきもとまさおみ)

 それを諫め、触らぬ神に祟りなしと最小限の支援にすべしと反論するのは愛の深さゆえに法律で愛する彼の半径五〇〇メートル以内に近づけなくなった女・<保護観察処分(ディープラヴ)箕輪梢(みのわこずえ)

 二つ名の由来を見れば、この二人自身の経験に裏付けされた提案だと察するに余りあるものがある。士道の女性の接遇の不慣れさを思えば幹本の言うようにサポートを充実させるべきかもしれない。士道と十香の絶妙な空気を思えば箕輪の言うようにサポートは抑えて二人を見守る体勢を敷くべきなのかもしれない。

 

 士道と十香に起こったこと、それを踏まえてどう動くのか、クル―達は話し合い、議論を交わし合うも彼らに決定権は無い。

 誰の意見を採用し、どの提示を打診するか、それらをまとめて新たな作戦を着手するのかを決めるのはこの場においてただ一人。<フラクシナス>司令官・五河琴里をおいて他にはいない。

 琴里はここに至るまで口を開いていなかった。部下達を自由にし、忌憚のない発言を許可しての放任なのか、黙ったままだ。

 

「いかがいたしましょう司令。このまま通常通りの『天宮の休日(F-08)』で行きますか? それとも趣向を変えて私が考案した『女王の調教(EX-444)』を導入して――――――――――」

「……………?」

 

 もはや作戦そっちのけで我が道を往こうとした神無月が急停止した。テンプレの如く忠誠を誓う司令官からのキツイ(ありがたい)折檻を受けたかと思ったが、そんな音も擬音も聞こえなかった。

 令音がどうしたんだと目を向ければ、そこには琴里が居る。艦長席の隣の位置に固定化している神無月を見れば視界の端に琴里が入るのは必然だが、令音は琴里に釘づけになった。

 端の一部であろうとも無視できぬほどに琴里の様子がおかしいとわかったからだ。

 

「……琴里?」

 

 呼びかけるも―――令音は呆然として呟きを洩らしただけで呼びかけたわけではないが―――琴里は反応すらしない。他のクル―達も異変を察知して何事かと視線を向ければ、皆同じような顔となった。

 

 琴里もまた呆然として画面に映る士道と十香を、正確には士道だけを見ていた。

 それは兄が過ちを、十香と情事を起こしてしまったのかと愕然したもの……ではなかった。

 確かに琴里は士道への好感度がMaxで表示されるくらい好いている。<ラタトスク>の一員として、<フラクシナス>の司令官として、精霊を保護するために何てことないように色事を仕掛けているとはいえ、妹としての琴里にしてみればあまりいい気はしないだろう。ましてやまだ少女の年頃なのだから感情が押し殺せなくなるのも無理はない。

 

 だが違う。令音にはわかる。

 琴里は、怯えていた。恐怖に支配されていた。

 画面越しの士道を見て、なにかを思い出したような(・・・・・・・・・・・・)顔で佇む姿は、司令官でもなんでもなく、ただの小さな女の子にしか見えなかった。

 

 

 

 

 

「――――――――――」

 

 令音の言う通りだった。

 今、琴里は怯えている。恐怖している。なにより、思い出していた。

 

(………おにー、……ちゃん)

 

 ああ、思い出した。

 今まで忘れていた。

 物心つく前の事だったからあまり覚えていなかったが、今はっきりと思いだした。

 

 

 あの時の、顔だ。

 

 士道がまだ〝五河〟の苗字になって間もない頃の、あの顔だ。 

 

 絶望に染まって、生ける屍となっていた頃の、あの顔だ

 

 

 

 本当のおかーさんに捨てられた時の、あの顔だ。

 

 

 

 琴里はこの場を抜け出したくて仕方なかった。

 今の立場を投げ捨てて士道の傍に行きたかった。

 それをしなかったのは司令官としての責任感と、少なくとも今の士道は絶望の表情が成りを潜めていたからに過ぎない。でもそれもいつまで続くのか分からない。余計なことをしてまた再発するかもしれない。何もせずとも突発的に発作が起こるかもしれない。

 だから何も言えない。指示を出すなんてもっての外だ。琴里にはもう十香をどうやって攻略するかなど頭に残っていなかった。

 震えそうになる体を抱きしめもせずに、意思だけで抑えつけようとする。部下の手前での意地であったが、此処にいるクルーには全員、琴里の内心をなんとなく察していた。それでも何も言わないのは敬愛する上司の、琴里の矜持を穢さずに尊重しようとしているからだ。

 感情に流されながらも、自分達の司令官であろうとする、小さな少女を。

 

(……おにーちゃんっ―――………ッ!)

 

 どうか、どうか、無事に十香とのデートを終えてと。

 無力な少女のように、自分の所に帰って来てくれと、琴里は祈ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが無情にも散ってしまうのは、もう直ぐそこ……

 

 

 

 

 

 



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1ー11

 

 

「シド―! あのウマそうなのはなんだ?」

「そいつはタコ焼きだよ。中に蛸ってのが入っててな―――」

「それじゃあ、あっちのは?」

「ハンバーガー…………いや、タワーバーガー? ハンバーガータワー? あんなの初めて見たな……」

「ああっ、あっちのもウマそうだ!」

「あっちは寿司だ……けど、あのデカさは通常の3倍か?」

「すごいぞ! みんなウマそうなものばかりだ!!」

「好きなだけ食っちまえよ、どうせ無料(タダ)なんだし」

 

 駅の南へと向かった士道と十香は待ち受けていたかのように(・・・・・・・・・・・・)スタンバイしていた(・・・・・・・・・)人々に案内され、新たな商店街へ足を踏み入れると、そこにはお祭りさながらの店構えにさっきと比べ物にならない数の店と食べ物に出迎えられた。

 圧巻の一言で目を見張るも、見た目以上に香ばしい匂いが胃袋を刺激し、より食欲をそそられた。色取り取りの食べ物が入り混じっているにも拘らず、それぞれの匂いが何処から漂ってくるのか何となく識別できる。思っていたよりも腹が減っているみたいだった。

 士道の記憶ではここいら一帯は住宅街しかなかった筈だが、自分達は〝十万人目のお客様〟として向かい入れられたのだった……そういう設定なのだろう。

 一体<ラタトスク>にはどれくらいの力、もっと言えば資産があるのだろうか? さすがに今日造ったなんて……顕現装置(リアライザ)を使えばどうなのかは分からないが、前もって造らせるにしたって経済力とか影響力とか有り過ぎる。今なら世界の三分の一を牛耳ってるなんて荒唐無稽な話すら信じてしまいそうだ。

 

「うまい! けしからん! これもうまい! けしからん! シド―、おまえも食べてみろ!」

「わかった、わかったから、急かすなって。もうちょっと小さくしないと食えねえし、間をおかないと喉に詰まるし」

「む? 口を開けて放り込むだけではないか。なにを戸惑っている?」

「……そうだな。それだけ聞けばなんも難しくないと思うよ」

 

 右手に縦長すぎるハンバーガーを持っては食べ、左手に横デカすぎる寿司を取っては食べ、口の中に入りそうもない大きさなのに苦も無く平らげる十香。それだけでは止まらず、お好み焼きもラーメンもクレープも種類問わず胃袋に収められていく姿は、眺めているこっちが胸ヤケしそうな食べっぷりである。きなこパンの4つ喰いなんてまだまだ序の口だったのだ。どっちにしろ士道にはマネ不可能で無理な芸当だ。

 

「むぅ、仕方がないなヤツだな。ほらシド―、食べろ」

「……え?」

 

 ズイっと、一隻のタコ焼きの内の一つを爪楊枝に刺し、士道の口に誘おうとしている十香。……紛れもなく「はい、あーん♪」の構図であった。今更何を恥ずかしがってるんだと自分でも思うが、それとこれとは話が別だった。

 

「口をおおきく開けろ。私が食べさせてやる。そこから如何(いか)にして食すのか学ぶがいい」

「ぅ……とっ、十香、それは……」

「案ずるな、最初はちょっと苦しいかもしれんが直き慣れる。さあ、シド―!」

「な、なんでそんな気合入ってんだよ。それに食えないのはソレじゃなくてデカイやつ―――ぉグっ?!」

 

 渋る士道に無理矢理捩じり込ませられるタコ焼き。まずやって来るのは味ではなく、気恥かしさでもなく、火傷になる程の熱さに他ならなかった。右に左に頬袋を膨らませて悶える姿はさぞ面白いに違いない。

 

「あッちゅ!? あふ、ア、っ、あほぅぉお!?」

「耐えろ、耐えるのだシド―。その苦しみの果てに待っているのは極楽浄土の楽園。天の祝福だぞ」

「んぐ……ゴホッ、…………………なあ十香、やっぱ、怒ってるのか?」

「ふふっ、どうだろうな。さっ、お次はこれだシド―」

「ちょ、まだ早ムぃゴッ?!」

 

 タコ焼きを飲み干して間も無く、今度はクレープを押し込められる。熱かったのが冷たいのに変わっても、歯が沁みる痛さに悶える。

意趣返し……とまではいわないが、散々いじくり回された士道に対して、してやったりの雰囲気と心底愉快そうな悪戯心が見え隠れしていた。十香がそれを望むなら是非もなく、否応もなく受け入れるつもりでいる士道だが、彼女の顔を見れば純粋に面白がっているだけなのが丸分かりであった。その所為で本来なら甘ったるいシュチュエーションである「はい、あーん♪」が、ただのじゃれ合いという名の餌付けになってしまっている。

 

「むグッ……た、タンマッ、タンマタンマッ! マジでタンマ十香ッ、息ができねえ!?」

「ぷ、ははは、わはははははっ!」

 

 

 まあ、でも……十香は今、笑っている。

 

 

 自分の見たかった十香の笑顔に、限りなく近くなっているのだから、それでいいかと士道は納得する。

 奇妙なもんだと思う。人間不信の十香とあんなことがあっても、自分達の関係は軋轢が生じるどころか、この上なく良好なものとなっていた。

 

 ―――結果オーライなんてフザけた考えさえ抱いてしまうくらいに。

 

(……それこそフザけんなだよ。ったく……)

 

 さて、お次はどれにしようかと物色する十香を見ながら戒めを口にする士道。現実から逃げようとしているのが、煩悩に委ねて楽になろうとしているのが分かってしまって嫌気がさす。

 さっきの出来事を言っているのではない。無論それもあるが、大部分は自分がこれからやろうとしている事(・・・・・・・・・・・・・)に緊張しているのだ。

 大それた立ち回りはしない。勝手な行動をして琴里に怒られそうな気がしなくもないが、<ラタトスク>の「デートしてデレさせる」の方針に外れている訳ではない。〝ちょっと上〟のことをやろうとしているだけだ。

 問題があるとすれば今後の行動と生活に支障が生じる可能性があること。通常通りなら失敗は攻略失敗であり、十香を救えず、一生絶望に浸る生き方をするかもしれない。成功したならば大団円。十香は安全に、幸せに暮らせていける生活を送れるかもしれない。

 しかし、士道のやろうとしている事は、失敗は同じだが、成功しても危い立場となるものだった。ひょっとすると精霊攻略は十香が最初で最後となる可能性すら考えられる。<ラタトスク>の使命がではなく、士道の心情的にだ。

 尤もそれは「デートしてデレさせる」の方針でもさほど変わらない。次から次へと精霊を攻略していくことは、小さくとも士道に好感を持って貰うことになるのだし、十香から見れば自分よりも他の精霊が大事だから鞍替えしたと捉えられる可能性が大であった。

 

 士道のやろうとしていることが成功したら、その〝可能性「大」〟が〝確実〟となる。

 十香の眼が黒いうちは、勝手なことはできない。十香を説得できるかもわからない。

 もしかしたら十香以外の精霊を見捨て、十香以外の絶望を捨て置くことになるかもしれない。それは間違いなく五河士道のアイデンティティが崩壊することを意味している。

 

 でも、それでも士道は止まるつもりがなかった。

 けじめをつけなければ、自分がもっと駄目になると思うからだ。

 〝後〟の事を考えないのは、愚行かもしれない。

 だからといって〝後〟を考え過ぎて、〝今〟を行き詰ませるのはマヌケだ。

 

「どうしたシド―? なにか食いたいのがあったのか? なら私が食べさせてやるぞ」

 

 無邪気に士道へと振り返る十香。流麗な髪が翻り、広がり、踊る。何気ない仕草でこうも顔の蒸気が溜まってしまうのは凄いを通り越して卑怯に思えてくる。

 

「……十香、ちょっといいか?」

「まかせろ、どんなものでも口に入れてやるぞ! で、どれにするのだ?」

「うん。一旦食い物から離れようか」

 

 宥めながら軽く深呼吸。逸る血気を落ち着かせる。善は急げと覚悟を決める。

 タイミングとしてはあまりに場違いだが「猶予と可能性ばかり口に出す人間は、結局『明日から頑張る』しか言わない」と誰かに言われた言葉を掘り起こす。言えるうちに、十香に会える内にやらなければ何時まで経ってもやれはしない。

 士道が十香の傍に寄る。向き合い、肩に両手を乗せる。

 華奢な肩だ……とても世界を殺す存在とは思えない。

 

「シド―? ……どうしたのだ?」

「十香。いきなりだけど、おまえに言いたいことがある」

 

 言うぞ、言うぞ。合格祈願者みたいに祈り、勇気を振り絞り、奮起させる。緊張を彼方へと追いやる。

 そんな様子を見ていた十香はハテナと、何が起こるんだと頭を悩ませるような顔したあと、ハッとした顔となり、頬を赤くして叫んだ。

 

「し、シド―! 待て、落ち着くのだ! ダメだ、それはダメだシド―!」

「ッ……?!」

 

 バッと跳び退け、自分の身体を抱きしめる十香。

 愕然とする士道。なにがダメなんだ、という疑問は無かった。

 ハッキリとした十香の拒絶は、士道が何を言おうとしていたのかを察したのだとわかるものだったからだ。

 

「………………なんで、だ?」

 

 士道は意気消沈と顔を歪める。が、次の十香の言葉に違和感を覚えて眉をひそめる。

 

「なんで? なんでだと? 幾らなんでもそれはダメだ!こんな―――こんな他の人間たちが居る前で、外で、や、ヤルだなんて……」 

「…………………あ?」

「そ、そもそも何回もヤレるものではないのだ! 暫くの休息は絶対に必要だ。い、いや、休んだからといって、こんなところでヤっていいと言ってるのではなくてだな―――」

「そっちじゃねえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇよぉぉおおおおぉぉぉぉ????!!!!!!!!!! 〝言いたいこと〟っていったろおおおおおおおぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「ぬ、そうなのか?」

 

 喉が痛む叫びは、聞く者の鼓膜を破らんとする爆音波にも例えられるのに、向けられた本人たる十香はきょとんとしてなーんだと安心しきっているだけだった。

 

「そうか。ああ、よかった、ホッとしたぞ。……じゃあシド―、おまえは一体なにを言おうとしたのだ?」

「……ぁあそうだ、それが重要だ」

 

 脱線して、脱力して、よろめいてしまった足にしっかりと根を張り踏締める。気を持ち直し、改めて十香の肩に両手を乗せる。

 

「十香、俺は―――――――ん?」

 

 意を決した士道に、不意に小さく冷たい衝突が鼻先に伝わった。

 何事かと指を添えてみると、そこには丸い水滴がちょこんと漂っていた。

 上を、空を見上げてみると、雲は見境がなくなり灰色の暗雲となって地上に暗い照明を落とす。次第に明かりだけでなく先程の小さな衝突が連続していき、雨となって士道と十香に降り注いでいく。

 

「む……?」

「おいおい、さっきまで晴れてたのに、なんで急に…………?」

 

 まさに〝急〟展開だった。

 今日の天気予報は見ていないが、直にその下にいた士道から見て、天候に異常はなかった。曇りなき空は後に雨になるどころか曇りにすら成りそうもない快晴だったのに、今や激しさを増して強くなってきている。

 こんな劇的な天気の変化を士道は初めて体験した。まるで雨が歩いてやって来た(・・・・・・・・・・)みたいな唐突さだった(・・・・・・・・・・)

 

「ぬぉお?! 空から大量の水が?! メカメカ団の奇襲攻撃か?!」

「奇襲地味すぎるだろ。兎に角走ろう。どっかで雨宿りしないと……」

 

 十香の手を引き、片腕で雨を防ごうと頭に張りつけているが、もう既に服が肌に張り付いた独特の気持ち悪さが纏わりついている。商店街に並ぶ屋台も雨にやられては営業も出来るわけもなく、人々(ラタトスクの人たち)が慌ただしく後片付けをしている。

 

 ……出鼻を挫かれた。

 士道は天気の気まぐれに悪態を突きながら雨を凌げる場所を探す。何処か良い場所がないか、あわよくば雨が止むまで居座れる一石二鳥の場所があればいいなと走っていると、ある一か所に目が止まった。

 

「あれは……」

「む? 士道、あそこに何かあるのか?」

 

 十香が士道の目線の先に気が付いて、指を指しながら訊ねてくる。

他の建物に比べてカラフルな蛍光灯で飾られているその店は、雨の気象により一段と爛々に照らされている。

 天宮大通りにあるゲームセンターだ――――走っている間にいつのまにか普段利用している道に戻っていたようだ。あそこのゲームセンターには何度かクラスメイト、もとい友人の殿町宏人と行ったことがある。

 雨あめ触れふれと謳ったお天道様は、もしかしたらデートを最後までやってからにしろと、こんなところで変なことするなら十香と遊べと警告したのかもしれない。癪だがやる気を削がれてしまったのもあり、あそこでデートを続けようと割り切った。

 

「丁度イイな……十香、あそこで雨宿りついでに時間を潰してこう」

「ぬ、かまわんが……アレは一体なんなのだ……?」

「行ってみりゃ分かるよ」

 

 そそくさと十香を連れ、無駄ではあるがこれ以上雨に濡れないようゲームセンターに退避する。出入口に差しかかり、自動ドアが開いて空気と湿度が調整された生温かさが肌に当る。濡れた服が張り付くのに加わった気持ち悪さが何ともし難いが、乾かすためだと我慢する。

 

「なっ、なんだココは?! 揃いも揃ってメカメカしい物体ばかり……ッ、メカメカ団の秘密基地か!?」

「違うちがう。ゲーセン、ゲームセンターだ。楽しいものでいっぱい遊ぶところだ」

「ゲェセン? 楽しい? ……本当はあの雨を降らした人口降雨装置があって、私たちを此処におびき寄せているのではないか?」

「……なあ十香。なんでゲームセンターは知らないのに人工降雨装置なんて単語は知ってんだよ?」

 

 入口から見えるゲーム筐体に偏った知識を覗かせる十香を見て、精霊はどうやって知識を仕入れているのだろうかとつい考えてしまう士道。そういえば十香の喋り口調も古めかしいというか古風というか、彼女の性格故なのか、少し気になってしまう。

 

 ……まあそれは置いといて。

 

「ここはASTの基地じゃないから、きっと十香も楽しんでもらえると思う……どうかな?」

「む…………シド―は、私と遊びたいのだな?」

「ああ。……十香と一緒に、遊びたい」

「――――うむ、わかった。で、どれで遊ぶのだ? どうやって遊ぶのだ?」

「ん~~そうだな……まずは格ゲー、いや難易度下げて音ゲーの方がいいか、も」

 

 説明する士道を他所にし、初体験のゲームセンターに好奇心が揺れ動いた十香はゲーム筐体をまじまじと見ては別の筐体に視線を移す。そうこうしているうちにゆらゆらと釣られるように中へと入っていった。

 微笑を浮かべながら士道は後を追う。入口に一歩踏み出し、どれで遊ぼうかと考えている

 その途中――――

 

「ん?」

 

 違和感が陰り、関心を引いた。

 何かが引っ掛かって足を止めてしまう。

 通りすがりざまに顔見知りの人だったと気付いて振り向こうとするみたいに、回顧の思いに耽ける。誰か大切な人とすれ違ったのにお互いに気付くことができなかった遣る瀬無い気持が士道を掻き立て、その正体を見つけようと辺りを探す。

 

 

 見つけ出したのは、〝()〟だった。

 澄み渡る青い空、清らかな蒼い海、この間見たばかりの沖縄のそれらに匹敵、もしくは、いや、それ以上の〝()〟があった。この世の総ての〝青〟色と〝蒼〟色がそこに集まっていると言っても過言ではないと断ずるほど綺麗だった。

 

 

 魅入っている士道は、それが〝髪の毛〟であると理解するのに時間が掛かった。

 

 

 信じられない、そう思った。地球という大きな世界の一部を、地上の七割を占め、天を覆っている雄大で強大な存在のソレを、極一部の、小数点を使ってもまだ小さいであろう個人の毛髪が、大自然を上回る色を有しているのだから。

 

 

 人智を超える〝()〟を司っていたのは小さな女の子だった。

 

 

 緑色の外套、大きなウサギの耳が付いたフードを眼深くかぶっており、その貌が拝められない。サイズが少し大きく、袖が余っているちいさな手には人形が、ウサギのパペットが装着されていた。大道芸人、道化師といった第一印象を受ける少女だった。

 歳は妹の琴里と同じくらいだろうか。こんな雨の中、一人で佇む姿は淋しげであるも不思議と様になっている。連れはいないのだと勝手に納得してしまう。

少女も雨宿りをしている……状況から見ればそれがあたりまえの筈なのに、こういうのは失礼だが、士道には少女が雨宿りをしているよりも、雨の中をピョンピョンとウサギのようにハシャいでいる姿のほうが似合っているように思えてならない。少女は雨宿りしているのではないと、これも勝手に納得してしまう。

 では少女は何をしているのか……多分、ゲームセンターに興味があって立ち止っているのだ。というより少女はさっきから店外に設置されているクレーンゲームに釘づけになっていた。筐体の中には愛くるしい動物人形が盛り沢山あり、左手にあるのと同じウサギも入っている。気に入ったものがあるのだろうか、もしかしてお金が無いから眺めているだけなのか。

 

「………………?」

「あ……っと」

 

 少女が、士道の存在を認識した。両者の眼が交差し、ジッと見つめ合う。

露わになる少女の貌。幼く、あどけない端正な美貌は十香に勝るとも劣らない。

 〝()〟い髪、〝()〟い睫毛、そして――――〝()〟い瞳。

 中でも士道が惹きつけられたのがその目であった。瞳孔、前眼房、水晶体が蒼玉(サファイア)で拵えているかのような目。少女の髪を空と海に例えたならば、目は正に地球という星だった。

 命の星・地球。偉大なる母の大らかさに、士道は吸い込まれた(・・・・・・)

 ここは(・・・)、少女の世界(こころ)は、とても居心地が良かった。何も拒まず、何をも受け入れる聖母。

 翼も無いのに自由に空を飛べて、えらも無いのに自由に海を泳いでいける。何をしても許してくれる慈しみ。

 それは少女の世界(こころ)では異物でしかない〝五河士道〟を何時までも居座せてくれるほどで(・・・・・・・・・・・・・・・)――――――――――。

 

「おーい、シド―、なにをしているのだ! ゲェムとやらで遊ぶのだろう! はやく来い!」

「っ……、ああ、わりぃ、ちょっとまっ―――あれ?」

 

 十香からの呼び掛けに応えて一旦目を離し、戻すと、もうそこに少女の姿は無かった。

 離れていった後ろ姿も、走っていった音も無く、日の温かさに溶かされていく氷のように、何も残さず消えてしまった。

 

「どこいったんだ、あの子……―――ッ!」

 

 ホンの一瞬で跡形も残さず消えるだなんて現象……心当たりは一つしかない。

 もしかして、という思考が駆けた時と同じくして、変化は起こった。

 

「雨が、止んだ……?」

 

 BGMとして耳に鳴り響いていた雨音に停止ボタンが押され、雲のカーテンに締められた空が開かれて、日光のスポットライトが地に照らされた。雨が降ってたのが冗談だったような青天の美しさに目が行ってしまう。

 いきなりやって来た雨が、いきなり止む。

 相応しい顛末ではある。始まりと終わりが同じなんてのは有り触れた、よくあること。

 ……そこに理由を求めて、非科学・非論理的であろうと原因を決め付けるのも、よくあること。

 士道の場合、〝()〟い少女が雨女の役目を背負っていて、少女が消えたから呼応して雨も止んだと。そう確信していた(・・・・・・・・)

 

「シド―、どうしたのだ? なにかあったのか?」

 

 いつまで経っても来なかった士道に、十香は傍に寄って来た。そこで雨が止んでいる事に気付き、天を見上げた。

 

「ぬ、空が……」

「晴れたな……」

 

 二人して空を仰ぎ、日の輝きを眺める。

 暗闇の雲を振り払い、蒼穹に広がる空。追随する純白の雲。見慣れているはずの一風景を絶景と感じてしまうのは、雨上がりだけが理由なのだろうか。人間の士道だけでなく、精霊の十香も例外なく心奪われる様は、自分の知っている空は全部紛い物で、今広がっているこの空こそが本物の空だったのだと言わんとするばかりだった。

 

「美しいな。天空を飛び回ることは何度もあるが……何だか損した気分だ、今までちゃんと見ていなかった」

「そいつは違うぞ十香。いつもがこの空になってるわけじゃない。四糸乃が――――」

「…………む?」

 

 十香がピクっと反応し、ツンのある声で呟く。聞き逃せない単語…名詞が耳に届いたから、気になって訊ねようとすると、送り元の士道は途中中断で口を濁し、手を握り拳にしてゴンッと頭を殴った。

 

「ッ、シド―、なにをして――」

「っぅッ……っと、なんでもない。〝変な電波〟受信しちまったみたいだな。忘れてくれ」

「しかし――――」

「いいからいいから、気にすんなって。それよりほら、折角来たんだし寄ってこうぜ、ゲーセン」

 

 ううむ、と小難しい顔をする十香の背を押して士道は入口を通り中へと入っていった。

 

 

 ヨシノ……………………………四糸乃。

 

 聞き覚えは無い。ただ、知っている(・・・・・)名だ。

 

 だが、士道は無視する。意識から引き離す。

 

 何度も何度も何度もなんどもなんどもなんども言い聞かせる。いまは十香との時間なのだと。

 

 そう決めたのだ。

 

 

 決めたのに……

 

 

 

 士道は、後ろを振り返ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 空から慣れしたんだ雨の感触を少女――――精霊・四糸乃は傘もささずにその身を持って受け止め、受け入れていた。

 人間の服と違い、四糸乃の拵えている霊装によって体に粘りつく気持ち悪さなど感じず、雨に濡れれば濡れるほど瑞々しい光沢が零れ出る霊力の輝きと合わさって、超自然のパノラマを映し出している。

 雨の似合う少女、それが四糸乃。もちろん良い意味でだが、四糸乃は特別雨に思い入れがあったりはしない。四糸乃にとって雨とは〝自身〟と同義。あって当たり前、切っても切り離せない、そこに居るものと認識していた。

 とはいえ、それでも思うところはいくつかある。雨が地面に浸透し、ピッチピッチチャップチャップと水たまりと自分の足が反響する音はおもしろくて楽しい。一日中そうして遊んでいることだってある。降り注ぐ雨をシャワーのように気持ちよく感じることだってある。何もせずそのまま上を見上げて浴び続けることもあった。

 そして、何をしてでも感じる〝冷たい〟という感覚。ひんやりしていて気持ちよく、それ故浴び続けることがあるのだが、四糸乃は時々こう思うことがあった――――〝寒い〟と。

 体が震える寒さではない。霊装がある限り、凍えるだなんて現象は起きない。ましてや四糸乃は水を司る精霊なのだからありえない。

 

 なのに、四糸乃は〝寒い〟と感じるのだ。

 身体が寒くないとすれば、寒いのは、心の方。

 それは〝寒い〟ではなく、〝寂しい〟というのではないだろうか。

 

 

 まさか―――! 四糸乃は即座に否定する。

 見た目の可愛らしさの通り、大人しくひかえめな性格の少女は滅多に自己主張をしないが、こればかりは強く否定した。

 なぜなら、四糸乃は独りではないからだ。四糸乃の傍にはいつも唯一無二の、かけがえのない親友が居てくれるのだから。

 

『んん? 随分ご機嫌な様子だねえ、四糸乃』

「……? よしのん?」

 

 四糸乃の親友―――よしのんがひょうきんでお調子者な声で四糸乃に話しかけた。

 しかしどういうことか、四糸乃の近くには誰もいない。人影すら見つからない。……強いて、と言えばいいのか、その声に併せて左手に装着されているウサギのパペットが口を動かしている……。

 怪しい一人言と捉えられるかもしれないが、四糸乃は四糸乃で何の疑問も思たず、よしのんと会話をする。

 

「……どうしたの、急に……?」

『なんていうのかなー、四糸乃からスッゴいハッピーな気持ちが流れてくるんだよねえ。よしのんもビンビンに影響受けちゃってさー。テンションが最高に「ハイ!」ってやつになってるんだよー』

「そ、そうなの……? そんなこと、ないよ……?」

『いやいやいやー、すっとぼけちゃってぇ。わかってる、よしのんにはちゃーんとわかってますよー?』

「……?」

 

 よしのんの勿体ぶった焦らしに苛立ちすら見せない四糸乃は疑問符しか浮ばない。

 

『四糸乃~~。ズバリッ! 君はさっきのおにーさんに一目惚れしちゃったんでしょー?』

「え?!」

 

 目をシロクロさせ、わけがわからずの四糸乃。

 親友はいったい何を言っているのだろか? ご機嫌なのは……肯定も否定もできないが、一目惚れとは……

 

「ひっ、ひ…と? っ、ぉ、ぉ、ぉ…?」

『どーどーどー、落ちついて四糸乃。ひっひっふー、ひっひっふーだよー』

「ひ、……ひっふー、ひっひっふー、ひっひっふー」

『落ちついたかーい、四ー糸乃?』

「ぅ、ぅん。ありがとう、よしのん」

 

 顔を真っ赤にして俯いてしまう四糸乃を宥めるよしのん。煽っておいてこの態度。よしのんは口調を裏切らず、性格もお調子者のようだった。そんなよしのんを怒らず、お礼まで述べる四糸乃はお人好しが過ぎるようだった。

 

「で、でも……一目惚れって、なんのこと、なの……?」

『おやおや、まだトボける気なのかーい? あんなにアツーく見つめ合っちゃってたのにぃ、何のトキメキも無いなんて無いっしょー、そりゃ無いっしょー?』

 

 見つめ、合って……?

 よしのんの言ってることを考えて、あっ…、と漸く四糸乃は合点がいった。

 

「…よ、よしのん……ひょっとして………さっきの人のことを言ってるの…………?」

『ひょっとしなくてもそーだよー。よしのんの仲間たちがいーっぱい居た場所で会ったおにーさん……んーんー、〝運命の人〟だよー!』

「…う、……うん、めい?」

『そう! 運命、種死、デスティニ―だよー。迸るシンパシーはよしのんにも伝わったからねぇ、こぅ、ズギュウウウンってキタのよー。四糸乃も感じたっしょ? ズギュウウウン、って。あっ、それともズキュウウウンって感じ?』

「ぇ、え…と、ずきゅ? ずぎゅ?」

 

 ぐるぐると混乱する四糸乃を他所によしのんは衝動を催す衝撃に高ぶっていた。

 

 幾度も経験した現界によって、今日も四糸乃とよしのんはこの世界へと降り立った。

 幸いにして壊れた街の真ん中でもなく、いつも四糸乃とよしのんをいじめて(ころそうとして)くる人間たちが居なかったからのびのびと、水を得た魚のように雨に打たれながらすいすいと知らない街を歩き、ときに走り、満喫していった。

 その道中、キラキラと煌びやかなネオン(ひかり)で飾られた建物(ゲーセン)が目に止まった。四糸乃とよしのんの見る世界はいつも暗いか薄暗いから、余計に光り輝く物に惹かれるのかもしれない。

 誘惑されるようにその建物に近づく。間違っても入ったりはしない。中には人がいる。ただでさえ人間に苦手意識をもっているのに、恥ずかしがりやで人見知りな四糸乃には入口に近づくのが限界だった。だから四糸乃が入り口に設置されているクレーンゲームに興味を持つのも、筐体に入っているのがよしのんと同じ姿をしたものに夢中になるのも自然の流れだった。外に出ていても聞こえる喧しく騒がしい音は気にならなかった。クマの姿やペンギンの姿、そしてウサギの姿をしたパペットに釘づけになっていた。 

 よしのんも、四糸乃同様に筐体の中の同類を興味深げに見ていた。よしのんには敵わないが、十分に魅力的で可愛い姿をしている。重ねて言う、よしのんには敵わないが!

 自信過剰な思いに満ちていた傍ら、よしのんはチラリと(・・・・)四糸乃を見守りながら思案する。パペットを見る四糸乃が何を考えているのか、よしのんには何とはなしに分かる。自分達は異心同体なのだから(・・・・・・・・・・・・・)

 可愛いと思い、よしのんの影を感じている。無理もない。可愛いのだもの。しつこく言うがよしのんには敵わない!

 そんな時だ。視線を感じたのは。

 四糸乃はまだ筐体の中に夢中だったからよしのんが代わりにその存在を探しだした。

 

 人間の少年だった。

 四糸乃より背は高く、四糸乃と色彩の違う青みがかった髪をしていて、右手に包帯を巻いている。あとは普通……よりかは中性寄りといった印象を受ける男のおにーさんだ。

 おにーさんは食い入るように四糸乃とよしのんを見つめていた。これもよしのんが魅力的過ぎるのがいけないのよねぇと思いながら、よしのんも人間は女ばかり見ていたから男の子は珍しいとついつい見つめてしまう…ことができない。よしのんの視覚は四糸乃の視覚に依存する。おにーさんの姿が見れたのは目の隅に映っているのを見ただけだ。

 

 ちゃんとハッキリと見たい―――よしのんの思いを感じたのか、四糸乃がようやっとおにーさんを感知し、目を向けた……

 

 途端―――奇妙な感覚が2人を襲った。

 奇妙といっても不快感ではない。襲うといっても恐怖はなかった。

 どう言葉にすればいいのか…………入ってきた(・・・・・)、そんな感じだ。

 家の中に友達を招くみたいに歓迎して迎え入れた、そう、それがシックリきた。

 はじめて遊びに来てくれた、はじめての友達。もちろん錯覚で設定だ。でも本当にそんな感覚なのだ。暖かくて、楽しくて、安心できる。

 

 よしのんがこれだけ胸を打たれたのに対し、四糸乃の感情はそれ以上に影響を受けていた。

 

 例えるならば、ずっとここで暮らしていこうと、ずっと一緒にいようと告白したいくらいの衝撃だった。

 

 心の裡からくる気持ちが溢れ、持て余し、彼が目を離した隙に逃げてしまった。

 残ったものは、仄かな微熱と、後悔に名残惜しさ。

 もう少し、もう少しだけ、あのぬくもりに触れていたかったなと、四糸乃は確かに惜しいと思っていた。

 

『よしのん以外に一緒に居たいって思っちゃう。四糸乃(・・・)がだよ?(・・・・)しかも会ったばっかりのおにーさんにそう思ったんだからもう確定っしょ!目が合った時点で逃げなかったのがイイ証拠だよー。四糸乃はおにーさんに一目惚れをした。恋にオチちゃったんだよー』

「そっ……!? そんなんじゃ……ない、よ。その、私は…ただ、あったかい人だな……って思って、あんまり怖くないなって、思って……他の人たちと違うなあって思って……」

『だ・か・らぁ~、それが恋だって言ってるんだよぉ~。もぉ、自覚なしなのがイジらしいってゆぅかー、妬けちゃうなーもぅ!』

 

 左手ウサギパペットが器用に腕を交差させクネクネ体を動かす様は四糸乃の操作技術が優れているからなのか、生きているかのようなだった。

 

「ぁ、ぅ……」

『恥ずかしがることじゃないよ、四糸乃。キミが感じてるソレはきっと〝四糸乃〟にとって大切な気持ちさ。怖がることもない。あるがままに求めちゃえばいいんだよ』

「もとめる、とか……わからないよ。こんなの初めてで………」

『だぁったらー、いますぐ引き返して会いに行けばいいんだよー。もう一度会えば四糸乃にもきっとわかるはずさ。リターンだよリターン~』

「えぇ…!? む、むりだよぉ…」

 

 涙目になりながら消え入りそうなか細い声で四糸乃は拒否する。〝会いに行く〟行為にすら恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだった。

 ぶーぶー、とブーイングを送るよしのんは不満そうでも強制はしなかった。

 なぜだろうか、あの少年とは近いうちにまた会えそうな気がしたのだ。この雨と四糸乃とよしのんのように、一緒であたりまえ(・・・・・・・・)の存在だと信じている。どうも四糸乃だけでなくよしのんもあのおにーさんに入れ込んでるみたいだ。

 

 

 その後、引き返すことはなく、四糸乃は雨降る街を走っていった。足取りは軽快に、羽が生えたみたいに駆けていく。

 

 

 こうして――――決してちいさくない余韻を残し、四糸乃とよしのん、五河士道の刹那の出会いは終わった。

 

 

 後に、3人は思わぬ形で再会する事となる。

 それによってとある精霊とトラブルになるのだが、今はまだ別の話。

 

 

 

 

 



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1-12

 

 

「おお、絶景だな!」

 

 橙色に赤い色が混じった夕日が天宮市を黄昏にしてゆく。単一色となっていくゆるやかさはまどろみを誘いながらも目が冴えるに余りある。

 四月に入って日没が早いのか遅いのか、今におけるまで時計を見ずに過ごした士道には体感時間がよく分からなかった。あっという間に過ぎたと時の流れとの齟齬が発生している。楽しい時間は早く過ぎるこの感覚は何度も経験している。十香と回ったゲームセンターは白熱し、瞬く間に時間を潰していったのだ。

 ゲームを満喫した士道と十香は高台にある見晴らしのいい公園へと赴いていた。

誰もいない静かな空間には二人を邪魔しないように配慮されている。<フラクシナス>の人たちの仕業なのだろう。

 

「綺麗だな。……ああいう空の色も悪くない。心が和むようだ」

「だろ? 此処って結構お気に入りの場所なんだ。暇なときはよく来てさ、夕日を見てる」

「うむ。それぐらいの価値があるな。―――私も気に入ったぞ」

「そっか……よかった」

 

 繋がりあった手を握りしめ、この瞬間(とき)を思い出として刻みつける。

 夕焼けが士道と十香の影を作り、体は空同様橙に染まる。会話は途切れ絶景に身を浸る。

 夕日を見ながらも大半感じるのは十香の気配。この黄昏も、十香を飾る為のオプションパーツでしかない。この絶景の主役の相手役として士道は役不足もいいところだが、それよりも光栄の方が勝っている。このまま一枚の絵になってもいいとさえ思っていた。

 静寂に佇む間に時間の概念はなく、二人は背景と化していたが、そうだと十香は思いだしたように声を出し、時が生まれる。

 

「結局、ゲェムランキングの一位を取ることは出来なったな。むぅ、……〝奴ら〟を蹴落とせずじまいだったか」

「……………」

 

 くやしそうに口を尖らせる十香が言っているのは当然ゲームセンターのことだった。

 中に入って一番にプレイしたゲームは音ゲーだった。パネル型と太鼓型、ギター型とあり、まずは太鼓型でやってみた。くれぐれも、くれぐれも本気で叩くなと、手加減に手加減を重ねて真心を込めろと念を押した為、マシーンを壊す事態は免れた。慎重になっていた十香は案外うまく遊べており、それこそ音ゲー同様テンポよくリズムに乗って上達し、初心者とは思えない点数を叩きだした。ゲーム終了後によくある自分の点数が今までやってきたプレイヤーと比べてどの程度の腕だったのかを示すランキングで三位を取れたのは賞賛に値するものだったろう。士道は手放しで十香を褒め、十香も嬉しそうだった。

 

 ……一位と二位を見るまでは。

 

 十香はたまたま目に付いただけだろう。自分より上の点数を出したのは誰なのかと見たに過ぎない。

 次は違うタイプの音ゲーをプレイした。コツを掴んだのか、楽器が異なるにも拘らず又もや十香は三位を取れた。士道はまた凄いなと褒めるも十香は少し複雑そうだった。明らかに一位を取りたかったと分かる顔だった。自分の点数がランキングに反映させる画面が映って見えた一位と二位の名前は……さっきと同じだった。

 次も違うタイプの音ゲーを選んでプレイして、三位。ランキング表が出て、一位と二位を見てみれば、同じ名前。

 そこからもう一周してやってみても三位より上は取れなかった。

 十香は憤った。ウガ―ッ! と、なんだとコイツら!? と、駄々っ子のように地団駄を踏んだ……罅程度で済んだのは幸いだった。

 

 

 十香の言っている〝奴ら〟とはその一位と二位のことである。

 

 その一位と二位の名前は―――――――KaguyaとYuduru。

 

 

 確認してみたが、他にある音ゲーの画面に映ったランキングにもその名が刻まれていた。

 音ゲーはもういけないと、士道は十香に別のゲームで遊ぼうと格闘、ガンシューティング、レースと沢山遊んでもらったのだが……そのランキング一位二位のどれもがKaguya、Yuduruの独壇場だった。三位にもなれないゲームもあったのだが、二人の名を見るだけで悔しさが出るのだろう、終始顔を顰めていた。

 

 ……ランキングが出るヤツはやめようと、メダルゲームなんかで取れるお菓子を勝ち取ってなんとか機嫌が戻ったが、やっぱり悔しそうだった。

 

 

「気にするなって。初めてやったんだから仕方ないよ。つーか十香、音ゲー凄かったじゃねえか。三位だぞ三位」

「ぬぅぅぅ~~~」

「……じゃあまた今度遊びに行こう。そん時リベンジマッチすりゃいいんだ。な?」

 

 話題を終わらせるように結論づける士道。その顔は苦虫を噛んだように歪んでいる。

雑念を破棄(はき)だすため、頭を小突く。侵入者を撃退する警護官のように道を封鎖する。

 

Kaguya(耶倶矢)に、Yuduru(夕弦)

 

 この名前を見た時、士道の耳にはどこかで聞いた甲高い笑い声と冷静沈着な気だるい声が響いてきた。〝正反対であり、同一人物である二人の声〟が。

 

 これも、これもだ。

 士道は――――彼女たちを知っている。

 彼女たちが何者か、何故あんな場所に居たのか。

 

 彼女たちは勝負していたのだ。どちらが〝シンノヤマイ〟に相応しいかどうかを。ゲームセンターは恰好の決闘場といったところか。

 

 ……逃げずにいても、受け止める度量、器量が無ければ呆気なく崩れる。十香とのデートに集中したいのに、するりと隙間風のように入り込んでくる知識。超能力・未来予知に限りなく近い超越感。大抵誰もが欲しがる力、知りたがる先の情報は、今を生きている士道には重荷でしかなかった。

 

 現に、気を取られていた士道は、「また今度」と聴いた十香の表情がどうなっているのかに気が付ず、脳内情報と現在状況を分離させ、徐に今日の日のことを尋ねた。

 

「十香、今日のデートは……どうだった?」

「………………うむ」

 

 デート。本当にそうであれたのか。

 四月十一日。士道は今日ほど良くも悪くも濃密で色濃い一日はなかっただろうと回想する。……悪い方に傾いていると修正するべきか。

 十香は、殺し合いしかやってこなかった彼女には、今日の日をどう思ったのだろうか。きなこパンを食べたこと、色んな食べ物を食べたこと、ゲームセンターでのこと、そして……ドリームランドでのこと。1つ1つの思い出ではなく、全てを通して、どう思っているのか。今日の日を想い出としてくれるのか。

 やがて十香は口を開く。

 

「きなこパンはうまかった。あの粉を舐めるだけで一日の食事を賄えてしまう」

「……そうか」

 

 ……粉だけで大丈夫ならもっと俺の財布に優しくして欲しかったんだがと、KYは言わない。

 

「タコ焼きもお好み焼きもクレープもうまかった。あれほどまでの物を作れるのは素直に感服した。人間は力が弱いが故に創意工夫に優れていたのだな。私のような精霊には出来んことだ。大抵の環境には対応できたし、食事も必要なかった。この街を歩いただけで人間の生き様と歴史が見て取れるようになった。……人間とは凄い生き物だ」

「そ、そうか………………きなこパンから話大きくなったな……」

 

 感慨深く言う十香を士道は見やる。食欲ぶりを直接見て、財布に大打撃を喰らった身としては彼女が健啖家なのは疑う余地もない。それだけ胸を打たれたのだろう。

 

「ゲェムも楽しかった。こうドカ―ッ! とできて バシュ―ッ! という臨場感がたまらなかった。クセになってしまいそうだ」

「えらくアバウトになったなおい」

「しかしながら、音ゲェ…だったか。あれは若干、スッキリとしなかったな……」

「……そんな気にすんなって、また――――」

「いや、そうではなくてな……タイコやギタァでゲェムをしても……こう、シックリしなかったのだ。負け惜しみかもしれないが、〝これだ!〟と思う楽器(えもの)がなかったのだ」

 

 眉を寄せる十香はウーンと首を捻くるしかなかった。自分自身のことがよく分かってないのだろう。そういうのは……士道には理解できる。だから解決するよう助け舟をだすのに躊躇いはなかった。

 

「音ゲー自体は楽しかったんだよな?」

「うむ。それは間違いないぞ」

「そっか。それじゃもっと単純な、いや……楽器(きかい)を使うのが慣れないのか……あっ、カラオケなんかいいんじゃないか?」

 

 ゲームではないが、楽しむという結果を生むことに変わりはない。点数なんかも出るし似通ってる点もある。

 

「からおけ? 唐揚げの亜種か?」

(ゲーム)より団子(くいもの)か……。カラオケは歌を歌うところで、言っちまえば自分の声を楽器にして使う場所だ」

「な―――っ……自分を、楽器に?! なんだそれは?! 変形するのか!? 改造されるのか?! メカメカか!?」

「……ゴメン、カッコつけた。ええっと、ようするにリズムに合わせて声を出すんだ。楽器(きかい)を使うよりかは簡単だぞ。まあ人によっては楽器の方が良いかもしれないけど、十香は歌の方が上手くやれると思う」

「む……そうか? そう思うのか?」

「ああ。美九の歌とはまた違った魅力で――――」

 

 士道は、助け舟から思慮外の遭難者が引き上げられ茫然自失となる。

〝知っている〟名前を無意識に出した瞬間、笑顔だった顔が引き攣り痙攣する。

 

 何気ない会話にさり気ない話題を繰り広げただけなのに、こうも心揺さぶられる知識が介入してくる―――

 

「? ……シドー?」

 

 不安と苛立ち、恐怖が募りに募って天辺を突破する。

 限界だった。昨日から続く訳の分からないデジャブにストレスが爆発する。

 もう形振り構ってはいられなかった。早急に対処しなければならないと使命感に似た危機感が身体を勝手に動かす。

 

「――――っっっッッ!!!」

「シドー? おい―――」

 

 錯乱するように、否、錯乱した士道は十香の手を離して落下防止用の柵に掴むと勢いよく、思いっきり頭を打ち付けた。

 金属を打ち付ける頭は鈴の音のような高音などではなく重く沈む低音を発する。額は局所内出血でタン瘤が丸まっていくかと思いきや、皮が裂けて流血が起こり、(Fe)と鉄が混ざり合う匂いが鼻に衝いた。

 

「い――痛ぅぅ……ッ!!?」

「シドー?! なにをしているのだ?!!」

 

 戸惑いと驚愕で詰め寄る十香に、士道は手で制して大丈夫だと伝える。

 

「いや、ちょっと、気合を入れ直そうかなって」

「漏れ出ているではないか?! どうしたんだ!? 何があった!?」

 

 ブレザーの袖で血を拭うも流れる生温かさは止まらない。応急処置として士道は右手に撒かれた包帯を解いて代替とすることにした。しゅるしゅると露わになる右手。こちらの傷は塞がってはいたが痕は残っていた。ノの字の傷は肌色ではなく真新しいピンク色に艶が出ている。完治とは言い難い有様だが、雑菌やらは気にせずガーゼを額にくっつけ包帯を捲いていく。独りにやった割にはスムーズに手際よく処置していた。

 

「これでよし…と」

「よくないっ!! まだ血が出ているぞ!?」

「いや、イイ。寧ろ……なんでだろうな、すげえハレバレユカイな気分になってる」

 

 洗濯機で洗われてピカピカに乾いた洗濯物の爽やかさってのはこの感じなんだと士道は思う。

 怒声のまま奇怪極る行動の心意を問いたい十香だったが、士道の清々しいまでのすまし顔に追及が止まってしまう。ただ言ってることの真逆の状態になっていることだけは一目瞭然だ。

 しかし、見た目はそうでも士道の言葉に嘘はなかった。

頭痛を催し、ほっとけない想いにされ、頭を占領する〝ソレ〟は、額を怪我したおかげか、流れる血が頭を熱くしていると同時全身がクーラーで冷えていくような寒気で他の感触を感じさせない。感覚が天邪鬼になり、あべこべとなる触覚は、電波だろうが知識だろうが安定して茫々とさせる(・・・・・・・・・・・)

 挑発を繰り返されイライラムカムカしていた相手にとびっきりのカウンターパンチを喰らわせられて気分が良くならないワケがない。ダウン状態にしてやった快感に身を預けていたかったが、そんな悠長はない。

 理由は言わずもがな、このまま傷の痛みが和らいでしまったら(・・・・・・・・・・・・・・)また原作知識(チャチャ)が士道を邪魔するからだ。

 10カウント以内に立ち上がるであろうアイテが倒れている間に、やれることをやっておく必要がある。

 

 時間は夕刻、デートは終盤。素敵な場所で二人だけ。

 今こそ言うべきだ。自分が正常になる前に(・・・・・・・・・・)

 

 十香に、自分の気持ちを伝えるべきだと覚悟を決めた。

 

 

 

 

 

「十香。突然で悪い。まだ話の途中だったけど………おまえに言いたいことがある」

 

 スッキリとした顔を真剣に。これから言うことを、冗談だと思われないようにするため姿勢も態度も真面目にする。

 雰囲気が一味も二味も違って見え、十香はビクっと縮こまってしまう。

 今度は勘違いはしなかった。これから士道は大切なことを言うのだと、持ち前の直感で感じ取ったのだろう。緊張している様子が伝わった。

 

「ホントいきなりで、唐突すぎて何言うんだって思う。頭がオカしくて、血が流れてる所為で、勢い任せに言ってると思われるかもしれない。

―――――――――それでも、おまえに聞いて欲しい」

 

 夕日を背に立っている士道は物語に出てくる戦士のように勇ましく、十香が息を飲んでしまうくらい堂に入っていた。額に撒いた包帯はハチマキに見え、余計に気合が入っている姿に重なった。

 只ならぬ気迫に、十香は黙って聞き届けることしか許されない。聞く体勢となったのを見て、士道は語りだす。

 

「今日のデート、おまえがどう思ってるのかまだわからない。一緒に楽しまなきゃデートじゃないって俺は言って、十香が楽しんでくれたのか、今も不安になってる。でも俺は、今日のデート………楽しかったって思ってる」

 

 心臓がバクバクドクドクと擬音が胸から飛び出そうだ。必死に押し込め、代りに声を出すように心掛ける。

 貌が真っ赤に成ってるのか蒼白に成ってるのか、緊張か血が原因なのかわからないが、いまはどうでもよかった。

 

「俺ひとりだけかもしれないけど、それでも……俺は楽しかった。

おまえと一緒にいただけできなこパンが3倍はうまくなった。いつも見慣れてる筈のこの天宮市(まち)も、今日初めて来た場所に思えてどきどきした。十香が居てくれただけで、そう思えた。ほかの全部、おまえと見て回ったところ全部が輝いてすら見えた。

ドリームランドのことも、俺の傍にいてくれて、傍にいていいって言ってくれて、嬉しかった。………本当に、救われた気がした。――――でも」

 

 一旦息継ぎをし、呼吸を整いて口を開く。

 

「俺は、それで納得してない。おまえはかまわないって言ったけど、俺はかまう。我儘だってのは承知してる。俺が楽になろうとしてるのも否定できない。でも俺は……十香と対等になりたい」

 

 士道が何を言わんとしているのか、十香はまだわからない。

 口出しはできず、ただ待つことしかできない。

 

「俺がおまえに救われたように、俺もお前を救いたい。俺にとって十香が救いの存在であるように、十香にとっての救いの存在に、俺は成りたい。俺が楽しいと思ったことを、おまえにも楽しいって思って欲しい。これからも、ずっと。俺が十香にとっての特別な存在になるまで…………だからッ!

 

 

 

 

 

おまえが生きている理由を〝五河士道がいるから〟にしてほしいッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………………………ぬ?」

 

 十香は一口疑問を零した。……士道の言ってることが分からなかったからだ。

 顔を見れば明らかに血ではない赤みが彩っている。言いたいことを言ったというのは、その様でわかる。

 わからないのは士道の言葉の意味だ。途中までの長い言葉は、辛うじて分かった。ようするに対等(でぇと)がしたいということだろう。が、最後ら辺の言葉が良く分からなかった。内容が変わっていたような気がするのだが、人の機微を見るのに恵まれなかった十香ではこれが限界だった。

 

「それは………どういう意味だ、シドー?」

 

 聞くことでしか真意を問えない自分の無知が嫌になるが、本当に分からないから聞くしかなかった。

 

「俺に、おまえの人生の責任を負わせてくれって意味だ。俺と一緒に生きて、ずっと一緒にいようって意味だ」

「っ……!?」

 

 噛み砕いた言葉に十香は瞠目する。流石にこれで理解できた。

 ずっと一緒――――――それは、このロマンティックな場で言われたならば……愛の告白になるのは自明の理であった。

 

「十香と一緒に、もっと色んなものを食べたい。十香と一緒に、もっと色んなとこに行きたい。十香と一緒に、もっとデートがしたい。俺は、十香と一緒に生きていたい。

 俺だけじゃなくて、十香にもそう思って欲しい。「おまえが生きている理由を〝五河士道がいるから〟にしてほしい」ってのは、そういう意味だ」

「……それは……シドー……」

「二日しか会ってない奴の言うことじゃないのはわかってる。なんの重みもない軽い言葉に聞こえちまうのは百も承知だ。けどそれでも……それでも俺は十香とそうなりたい。おまえにやっちまったことのけじめを取らせてほしい!」

 

 精一杯の気持ちを吐露しながら、士道は自問自答を繰り出していた。

 五河士道は、本当は十香をどう思っているのか、と。

 償うためにこんな事を言っているのだろうか? そんな色眼鏡のフィルターでしか十香を見れないのだろうか? 対等になりたいと言いながら、ただ楽になりたいだけじゃないか? 

 三つとも否定できない。絞りカスほどのものであろうとも、士道の心にはその思いが居座っていた。

 

 でも、それだけでここまで言い切るほど自分は甲斐性があったかと別口の自問自答が展開していた。

 それだけじゃない……では何なのだ?

 俺はもっと、もっとずっと大きくて重大な気持ちを突き立てているように思えてならない。

 なにが士道を掻き立てるのか、やっぱり原作知識とやらなのか、それの中に在ったのか。

 いつのことなのか……恐らく一番最初の、始まりの日。

 四月十日―――思い出すのは、昨日の朝起きた時のこと。天宮市の中心で、瓦礫に埋もれていた街に君臨した、玉座に立つ彼女。

 今の夕日と同じように染まった来禅高校。2年4組クラスの教室。廃校寸前にまで壊れまくった校舎。その中で会った彼女。

 

 彼女の名を初めて教えてもらったこと。

 

 

 

 

 

『十香。私の名だ。素敵だろう?』

 

 

 

 

 

(……ああ、そうだったんだ)

 

 士道は今更ながら気付いた。

 なんで気付かなかったんだろう。

 

 ――――俺はあの時、十香に一目惚れをしたんだ。

 

 齎された夢の中で、自分自身が抱いた確かな想い。

 独り絶望に沈んだ彼女が、名前を言っただけで笑顔になった希望溢れる姿に、五河士道は惹かれたんだ。絶望しても、あんな笑顔になれる十香を、好きになってしまったんだ。 

一つの答えに辿りついたことに連鎖するように、もう一つの自問の答えも変わってしまった。

 士道は許せなかったのだ。好きだから、ちゃんとした信頼を得られずにいたことが。十香と何の関係も築けぬうちに事に及んでしまったことが、許せなかった。

 だから士道は欲しかった。

 俺だけじゃない、十香にとっても確かな絆が。

 憐れみでも庇護でもない、互いが互いを思い遣る純粋な好意の交友が。

 十香との関係を、十香とちゃんとした絆が欲しかったのだ。

 

「今すぐそうなってくれなんて言わない。くれるとも思わない。人間のこと、世界の情報を集める傍らでいい、五河士道(オレ)のことを知って欲しい! おまえは俺を利用するんだろ? 今日のデートがつまらなかったら、天宮市以外のところでデートしよう! 沖縄だって、外国だって、どこにでも連れていく! おまえが世界を好きになれるように、おまえに世界の事をもっと教えてやる!!」

 

 士道は右手を、敢えて傷を負った右手を十香に向けて差し出した。

 傷など大したことではないと示すため。自分が味方だと主張するため。十香を安心させるため。十香と供にいることを認めてもらうため。

 万感の思いを込めて、士道は右手を十香へと伸ばす。

 

「その後でも構わない、おまえの気持ちを聞かせてほしい。今はただ、少しでも俺を信用してくれるなら、十香。この手を握ってくれ。もう一度、握ってくれるだけでいい……ッ」

 

 静かだが力強くそう締めくくった士道。あとはもう、握るのも払うのも十香次第だ。

 十香は顔をうつむかせたままピタリとも動かない。

 劇的の状況についていけなかったのか。ついていき、呆れ果て言葉も出ないのか。表情が全く見えないせいで判断ができなかった。

 夕日が差し込む公園で、微動だにしない士道、そして十香。今度こそ二人は一枚の絵になってしまったのかと錯視するほど止まっている。再び訪れる時間感覚の矛盾。数分、数十分、数時間のような長くて短い時が流れ……

 

「………………………………………………シドー」

 

 十香が、士道を呼ぶ。

 うつむいたままの顔は段々と上へ上がっていく。

 

「私は―――――」

 

 十香は、答えを出す。

 



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1ー13

 高台の公園から遠く離れた宅地開発中の台地。

 都市部からも離れた建設途中の骨格が疎らに立ててある平面の、一段、二段上の高所から鳶一折紙はうつ伏せに身体を倒し銃を構えていた。スコープを覗き見れば<プリンセス>が無防備な姿を晒している。

 

 言うまでもないだろうが、折紙は今まさに暗殺者となって狙撃する体勢でいるのだ。

 本部にて装備を装着した折紙は日下部鐐子と合流し、別働隊の隊員と連携して<プリンセス>を追跡、監視していた。現在獲物(ターゲット)は高台公園に留まっており、絶好のハンティングが整っている。

 忠実で正確な機械(ロボット)兵士のように静かに好機を待っている姿は先程まで嫉妬に狂っていたとは思えない冷静ぶりだ。

 預けた嫉妬は殺気に変わり、漏れそうなそれを飲み込み、息を殺した。精霊(ターゲット)との距離は約一キロ圏内。いかに精霊とてこの距離から息遣いを聞くことなど不可能であろう。こうしているのは殺気を抑える自制と殺気を削る研磨のため。〝殺〟を謳いながら相手に気取られない為にある種の矛盾した感情を操る〝殺し〟に必要な技術(スキル)だ。

 狙撃となれば折紙の持っている銃は当然それに特化したライフル銃であるが、一キロもの有効射程(精霊を殺せる)範囲をもつライフルは限りがある。そして折紙が構えているのはその限りある特別な銃である。

 

 対精霊ライフル<C C C(クライ・クライ・クライ)>。

 折紙の身長よりも長いことからも、この銃の射程も長いのだと想像はつくが〝対精霊〟が頭に付いていれば突出しているのは射程ではなく威力にあるのは魔術師(ウィザード)専用武器ならではといったところ。

 この名称の由来はその名の通り泣いてしまうことにあるが、泣くというのは〝必ず泣く〟効果があるのではない……〝死ぬ(なく)ほど痛い〟から来ているのだ。

 弾が当たる目標は元より。弾道が悲鳴を上げているような音を出すのは元より。使用者にすら涙する痛みが伴う代物なのだ。具体的に言えば、射撃反動で腕の骨が折れてしまうほどの……。

 随意領域(テリトリー)を展開すれば骨折は免れるが、例えそうでも骨が折れてしまう諸刃の剣(けっかんひん)を進んで使おうなどと誰も思いはしない。現実的に見てもライフルである以上、一定の距離を置かなければ特性を生かせない欠点がある。不定期に現れる精霊相手に態々狙撃ポイントに移動するのも追い込むのも困難であるし、そもそもそうしたとしても斃せるかどうかがデータ上の数値でしかなく、実証されているわけではないのだ。労力に見合っての成果が見込めない頭がオカシイ武器を平常装備に含めるはずもなく、使う機会のない、良い所でこれから造りだされる新装備の試作品といった側面が強い。それが<C C C(クライ・クライ・クライ)>である。

 折紙がコレを使わなかった理由は単に特性を生かせない後者だけであって、骨が折れようが砕けようがどうでもよかった。故に特性を生かせ、霊装を纏ってない精霊を斃せるかもしれないこの状況で<C C C(クライ・クライ・クライ)>を使うのに躊躇いはない。鐐子は渋っていたのだが、随意領域(テリトリー)さえあれば身体に問題は無いので許可するに至ったのだった。

 

「―――――――折紙」

 

 鐐子が耳に手を当てながら言う。二人一組(ツーマンセル)のパートナーは折紙に代わり上層部からの命令を待っていた。

 攻撃か様子見か、目を丸くしていた様子からするとおそらく……

 

「狙撃許可が下りたわ…………正直意外だけど、下りた以上仕事をするわよ。まあ撃つのはあんただけど、いいわね?」

 

 是非も無し――――沈黙で返す。

 確かに意外ではある。鐐子曰く頭ん中が日和ってるお偉方が攻撃許可を出すとは……どこか薄ら寒いものが感じなくもないが、どうでもいい。こんな夜間近になってまで協議を待っていた甲斐があったものだ。折紙には好都合と即切って集中する。

 雨に濡れて湿った土は僅かにぬかるんでいる。靡く風が鬱陶しいが、折紙の意識はスコープの向こうにしかいっていない。憎くても憎くても憎み足りない精霊にしか向いていない。

 

 この時ばかりは五河士道にも意識を割いていなかった。彼の奇行を目撃せず、彼の精霊(プリンセス)に対する想いを耳にする事はなかった。

 

 聞いていたならばやめるか……それはない。

 激劫か動揺かはするだろうが、〝やめる〟はない。

彼女の憎しみは見境が無い(・・・・・)ほどに狂い踊っているから………誰が何と言おうとやめない。たとえ五河士道であろうともだ。

 

 

 折紙は特殊弾頭に功性結界を付与する。

 

 距離―――――――

 

 風向き――――――

 

 風速―――――――

 

 摂氏―――――――

 

 RH―――――――

 

 周辺―――――――

 

 異常無し(オールグリーン)

 

 とうとう来た。

 

 必殺の準備、条件が整った。

 

 この手で精霊を殺せるときが。

 

 感慨もなく、躊躇いもなく―――――鳶一折紙は引き金を引いた。

 

 憎しみに溢れていながら、殺せる段階に入っても、折紙はいつも通りの無味で乏しい貌でいた。

 

 

 

 

 もし………。

 

 もしも、折紙が<プリンセス>の近くに五河士道がいることを強く意識していたならば、その事に、少しでも躊躇を懐いていたならば、あんなこと(・・・・・)にはならなかったかもしれない。

 

 折紙が、精霊への憎しみよりも、五河士道への愛を強く持っていれば、ああは(・・・)ならなかったかもしれない。

 

 だがもう遅い。引き金は引いてしまった。弾は発射された。後戻りはもうできなかった。弾丸は道を指し示すように真っ直ぐと精霊へと突き進んでいく。

 

 

 

 鳶一折紙の運命が、暗く反転した瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 私は――――

 

 私は―――――――――――

 

 私は――――――――――――――――――――――……………………………?

 

 

 

 私は――――――なんだ?

 私は……そのあとの言葉は、なんだ?

 十香は何を言おうとしたんだ? 

 

「……………十香?」

 

 辛抱堪らず士道は訊ねる。

 肯定か、否定か、気になって気になって落ち着かない。

 まさか聞き逃した? ……それはない。十香は何も言っていない。

 迷っているのか? 自分でも急過ぎると思っているのだ。不自然過ぎる流れからの告白。呆れてる、いや怒っているのか? ワケワカメなのか? ありえる。言葉もないと言った感じで。

 

 びくびくと待っていた士道に、十香はまだ何も言わない。

 本格的にヤバくなってきたのか、身震いする士道はそれでも待つ。

 

 そうしていると…………………十香の身体が、よろめいた。

 

「えっ」

 

 なんだ? どうしたんだ……? 

 十香は大きく身体を揺らし、ぐらりと地面に倒れそうになる。

 

「あ……ッ」

 

 士道は駆け寄り、抱き支えた。

 危なかった。あのままだったら顔から落ちてヘタしたら鼻が折れてしまうかもしれない。あるいは自分と同じように頭がカチ割れたかも。

 

「十香? おい、十香……? どうした、大丈夫か?」

 

 名前を呼ぶも、十香は返事をしない。抱き合う体勢だから表情が全く見えない。

 もしかしなくても気分が悪いんだと分かった。だって倒れたんだ。自分の足では立てなくなるくらいの状態異常が起きたのだ。

 立ちくらみの類か、じゃあ公園のベンチで横のなればいいのか、そう考えていて………

 

 士道は十香の胸の辺りが異様に温かい事に気が付いた。

 

 その温かいのは流動しており、下へ下へと下降する。

 士道の身体をなぞり、服が吸水し、しきれず下へ落ちていく。

 

 なんだ、これ? とても、温かい。

 

 温かい。暖か過ぎるくらい温かい。なのに、温かいのに触れているのに、士道は寒くて身震いしてしまう。

 胸だけでなく背中にまわした手にも温かいのが広がっていた。触覚が著しく高い手に触れたことで所載にソレの感覚が分かった。

 

 瑞々しく滑らかであるのに、どこか気持ち悪い感触。

 これには覚えがある。

 つい昨日のこと。十香に右手を攻撃されたときだ。

 

 コレは、なんだっけ? 

 士道は、ナニにさわっている?

 考えてると触覚だけでなく、匂いもしてきた。……鉄臭い匂い。

 これも経験している。ついさっきのこと。額に流れた――――

 

 

 

 

 額に流れた―――――血から匂ったもの。

 

 

 

 

 

 ………………………血?

 

 

 

 

 

「……………ぁ?」

 

 

 十香を支えながら、自分の右手を見る。

 

 

 紅くて、赤くて、朱い。

 琴里の髪の色と同じ……否、妹の髪はこんな黒くない。

 

 クロ、そう、黒だ。

 士道は下を見た。

 よく見ると、あかではない……やっぱり黒だった。

 水たまりのように溜まっていき、足を踏み直しただけでビチャっと音が鳴り、革靴でなければ靴が濡れていたかもしれない。それぐらい大きく深く広く溜まっていた。

 

 士道は、零れる血を見て、血は(紅 朱)よりも黒に近いんだと認識を改めた。

 

 

 

 十香の胸から血を流している事でそうなった。

 

 

 

 十香―――――十香、十香………………?

 

 

「と、ぅ……………か?」

 

 

 

 なんで、十香の体に、穴が空いているんだ?

 

 

 

「ぅ……、ぁ、あ、あ――――」

 

 呂律が回らない。視界が定まらない。

 足に力が入らず、ガクガク震えて膝から地面に着いてしまう。

 

 

なんだ?

             なんだ?

なんだ?

                なんだ?

なんだ?

 

 

 なにがあった? 十香になにがあった?

 

 返事を待っている間になにがあった? 

 

 思い出そうとして、そういえばものすごく大きな(・・・・・・・・)まるで泣いているような音(・・・・・・・・・・・・)が聞こえていたのを思い出した。

 

 あとのことは……………駄目だった。

 

 士道は自分のことで精一杯だった(・・・・・・・・・・・・)

 

 自分の告白に全力を尽くそうと、他の一切を寄せ付けなかったのだ(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 十香が何か言うまでは、余計なことは考えないようにして(・・・・・・・・・・・・・・・)いたのだから(・・・・・・)

 

 「十、香? ―――とうか? …………トウ、カ?」

 

 なにも思い出せず、一巡して同単語しか繰り出せなくなっている士道。

 壊れた機械が動作不良を起こす物真似をするのなら、士道のコレが最適な見本だろう。

 無気力で無感動。何も考えられない(・・・・・・・・)精神異常と、目に光が差さない無機質の体。観客がいたのなら今の士道は紛れもないロボットになっていると絶賛することだ。

 

 

「――――あ、ああぁ」

 

 

 しかし、そんなものは芝居にすぎない。そのときだけの、極短い間での〝なりすまし〟でしかない。

 

 五河士道は、人間なのだ。

 

 

「ぁぁあああああ」

 

 

 殴られれば痛いし、血が流れる。

 斬られれば痛いし、血が流れる

 

 

「あああ、あああああっ」

 

 

 ……………撃たれれば痛いし、血が流れる。

 

 知っているヒトがシねば―――――――――血が流れるみたいに、ココロがイタイ。

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――ッ!?!」

 

 

 痛かったのは十香だろうに、血を流しているのは十香だろうに、士道は身を裂く苦痛に吐き気を催した。

 壊れた機械と見ればあるいは、断続に震える声を出す今の方がよっぽど感があるも、聞く者に悲哀を湧かせる響きは機械では決してありえない感情の荒波があった。

 

 …………自分は悪夢を見ているのか?

 現実逃避とは違う、現在の進行状況の不可解さが士道には理解できなかった。

 

 こんな事態はありえない。

 

 こんなことは起きるわけがない。

 

 一縷の冷静な思考が、こうなるのは士道だった(・・・・・・・・・・・)と慌てふためいている。

 

 通例となった頭痛(ノイズ)が鳴った後に浮かぶ見覚えのない光景。

士道(じぶん)が撃たれ、十香が怒り狂って大剣を振り回している。

ほどなく復活し、<フラクシナス>に回収され、十香を止めるために上空に投げ出される士道。

 危なげながらも十香を抱きしめて宥めることに成功し、最悪の事態は免れ、またデートに連れていくと約束をする。

 

 これにて一件落着。士道と十香は心を通わせ、平和を享受する……はずだった。

 

 ……そんなもの、欠片のカスも残っていない。

 ハッピーエンドが見えもしない。

 

 ここには、無能の騎士(ナイト)がお姫様を護れず、無様で目も当てられない哀れな終幕(デッドエンド)しか演出していなかった。

 

 夢なら、早く醒めてくれと願わずにはいられない。

 夢でも、こんなものは見たくなかった。

 

 

 醒めろ、醒めろ―――――しかし悲しむ暇も無く、無慈悲に事態は進んでいく。

 

 

 

「……っ!?」

 

 混乱する士道は、それでも状況を把握しようと生存本能の如く目と耳を動かして、音が聞こえてきたのを捉えた。

 公園からではない………空からだ。

 顔を向ければ、いつぞやに見た機械の鎧を纏った人間たち。そこかしこから二人組でこっちにやってくる。

 

 ASTだ。

 

 精霊を殺そうとする組織。十香を、殺そうとする魔術師達。

 直後、士道の働かない頭でも、直ぐに理解できた。

 十香がこうなったのはASTがやったからだ。

 

 今も尚、此処へ来るのは、死を確かめるために首でも獲ろうとしているのか。

 

「………くるな」

 

 からだを、くちを、のどをふるわす。

 

「…………………くるな」

 

 威嚇するように。嘆くように。

 

「……………………………来るな」

 

 

 士道は、咆える。

 

 

「くるな………クルナクルな来るな――――来るなアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!????????????!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

 猫に追い詰められた鼠のように、圧倒的弱者の恐怖の雄叫びが木霊する。だが士道(ねずみ)(AST)を噛むことは無く、うじうじと恐怖に怯えていただけ。十香をこんなにした連中が怖ろしいと、誤魔化すように(・・・・・・・)喚いただけだった。

 

 

 

 

 

 

「ッ!?」

 

 変化は瞬く間に起きた。

 士道の叫びに呼応し、本の頁を捲るみたいに容易く、辺りの景色が変わった。

 ASTがいない。柵が無い。ブランコもシーソーも無い。

 開放感ある公園とは正反対の閉鎖された空間に出ていた。

 

「こ、こは……」

 

 見覚えがある。

 窓から刺す夕日が机に椅子、教卓に黒板を茜色に染めている。

 最新鋭のシェルターがある建物とは思えないレトロな風景。

 此処は、学校の教室だ。

 しかも士道の通ってる来禅高校。二年四組のクラスだ。初日で碌に入らず入口で気絶した場所。放課後の時間のためか、他に誰もいなかった。

 この感覚、昨日の沖縄と似たような……違うような。〝思った〟ことで叶った願望機のような現象。

 

 なぜ、ここに? 逃げようと思ったから……? でも。

 なんで、よりによってここに―――

 

 

「―――――――――シ、ドー」

 

「?! 十香!?」

 

 自分を呼ぶ声に、耳を疑った。

 空耳などではない生の囁き。

 あれだけの血を流して、服越しでも体はとても冷たくなっていた。

 胸に穴が空いていたのだ。心臓を壊されて生きていられるわけがない。

 

 もう事切れていたと思っていた十香が、まだ生きていた。

 

 精霊だから? ……わからない、でも、十香が生きていることが、士道の中に希望を芽生え始めた。

 

「十香ッ、十香!? 生きてるのか?! しっかりしろ!? 待ってろ! いま―――――――」

「――――シドー。私の話を、聞いてくれ」

 

 十香の意識を保たせるために話しかけた士道の言葉が止まる。

 胸に穴が空いているとは思えないくらい流暢で穏やかな声だった。撃たれたことなど気にも留めていない。何処か気押されたように息を呑むも、士道は反論する。

 

「こんな時に何言ってんだ?! 後でだ!! 後で聞いてやるからッ、今はおまえの体を―――」

「――――私は、もう持たない」

 

 告げられた宣告に、また士道は止まった。

 逸らしていた現実を、覆したかった運命を、灯った希望を、他ならぬ十香自身によって否定された。

 

「……………………モタナイって……なに、いってんだ十香?」

「――――私自身のことだ。私が一番分かってる。もう長くない。だから、今のうちに、私が生きている内に、言っておきたいから、そのまま聞いてくれ」

「……なに、言ってんだよ」

「――――シドー。私もな、今日のデートは、楽しかったぞ」

「なに言ってんだ」

「――――案ずるな。おまえだけじゃない。私も楽しかった。シドーと一緒に楽しめたんだ。今日の私たちは立派にデートだったぞ」

「なに言ってんだッ!? なに言ってんだよ十香ッ?!」

 

 死に掛けのヒトに耳元で怒鳴り揺さぶる暴挙を、士道は行った。行わずにはいられなかった。

 死にそうになってるのに、十香の言ってることは死ぬ前に言うことじゃない。そもそも喋らせるべきじゃない。

 

 こんな、遺言みたいな言葉……言わせてはいけない。

 

「もういい! もういいからッ!! 後で……ッ、傷が治ったら聞くから………ッ!!」

「――――今日のデートで、私は世界のことを少し学んだ。世界は優しくて、世界は楽しくて、世界は綺麗だ。世界は私を殺そうとしているだけではなかったのだ。何もかも優しさに満ちていた」

「ああそうだよッ!! お前を殺そうとする奴ばっかりじゃないんだ!! 人間も世界も、優しいトコがいっぱいあるんだよ!!! だからもうしゃべ―――」

「――――私が居ないだけで(・・・・・・・・)、人間たちはもっと平和に暮らせているのが、よくわかったのだ」

 

 

 自棄になっていた士道は、数秒間息ができなかった。

 呼吸のやり方を忘れてしまう強烈な忘我に囚われたのだ。

 

 

「…………………………………………………………な、………ぇ、……十香?」

 

 喋らせてはいけないと怒鳴り散らしていた筈の士道が聞き返した。同じ聞き返しでも、密度が違っていた。

 意味不明すら言葉が足りない、心底からの疑問。

 否、士道は、十香の言葉を理解したくなかった(・・・・・・・・・)

 

「――――世界(ここ)に現れるたびに、私はパン屋を壊して、ゲェセンを壊して、ドリィムランドを壊していた。他の建物も、道路も、公園も、世界(ここ)に在る物のなにかを壊していた。人間が生きていくために必要なものを、壊してしまっていた」

 

 士道の脳裏に、壊れた天宮市が翳った。

 夢と現実と、双方共に十香は瓦礫の中心に立っていた。討ち果たした国を値踏みするかのような冷然とした佇まいで。紛れもない、十香が引き起こした惨状として……その場に立っている姿が蘇った。

 

「それはっ、……でも……ッ、壊したくて壊したわけじゃない!! おまえの意思でやったんじゃないだろ!?」

「――――随意不随意かは関係ない。私が壊したのだ(・・・・・・・)。それは変わらない。ASTが私を……世界が私を殺そうとするのは道理だったのだ。正当防衛、というやつだ。………………私がこうなるのは、当然の末路だ」

 

「知らなかった」で許されるのは子どもだけ。空間震の被害にあった人に「知らなかったから許してくれ」で許されるなんて虫が好過ぎる。無知とは、それだけで罪に手を染めてしまう。それを抜きにしたって、生きていく上で邪魔な障害は取り除くのが世の常。出る杭は打たれるのが宿命だ。五河琴里もそう言っていた。

 

 十香は嘘を言っていない。

 十香は今日の出来事(デート)を心の底から楽しんでいた。

 彼女の言う通り、世界の暖かさと優しさを知って、世界を知った。

 ………知って、しまった。

 楽しかったから、優しかったから、暖かかったから、こんな素晴らしいものを、自分の手で壊してしまっていた。

 

 その罪悪感が、十香を追い詰めてしまったのだ。

 

「――――すまない、シドー。私は、おまえと一緒には生きられない。

 

 …………私は―――――――この世界にいない方がいい」

 

 苦笑していた。十香の顔は見えていなくても、重傷とは関係ない弱弱しい声は、そうだと思わせるには十分だった。

 士道は理解(わか)ってしまった。

 十香は、死を受け入れているのだ(・・・・・・・・・・・)

 此処に至るまで、十香は恨み言の一つも言っていない。士道にも、ASTにも、怨嗟の一つもない。

 世界と人間に怒りと絶望を懐いていた十香は、デートによってその偏見を解いたから、異質なのは自分だと認識を持った。士道のセイで、士道が、デートに誘ったから、そうなった。それが現状にして惨状の根幹。

 

 

 ―――――士道のセイで、十香が死のうとしている。

 

 

「………………わかった」

 

 消え入りそうな、耳元でも小さすぎる声で士道は言う。

 

「十香は、俺と一緒にいられない。俺はフラれた。……玉砕だ。それでいい。でもそれだけだ(・・・・・)それだけなんだ(・・・・・・・)ッ!!! だってそうだろッ!? 今日は何も壊してない! 責められるようなことはしてない! 空間震が心配なら<隣界>に帰らなきゃいい話だ! ずっとここにいればいいだけだ! それで問題解決だろッ!? 寝床だって食べ物だってなんとかする! 十香が死ななきゃいけない理由なんてないんだ……ッ!」

「――――そういってくれるのは、きっとシドーだけだぞ? 他の人間は……」

「俺だけじゃねえよッ! 琴里だって令音さんだって神無月さんだって椎崎さんだって中津川さんだって川越さんだって幹本さんだって箕輪さんだって殿町だってタマちゃんだって亜衣麻衣美衣だってッ!! みんなそう言ってくれる! 他の人たちだってそうさ! 生きてみりゃわかる!!」

 

 だって、士道がそうだった。

 昔の自分は、誰にも愛されていないと思っていた。誰からも存在を否定されていたと思っていた。

 そんな中でも出会いがあった。真っ暗な闇の中で、光があったのだ。今の父と母、そして(ことり)が居てくれたのだ。

 士道を救い、士道に生きる意思をくれた人たち。そこから始まり、今もずっと増えている大切な人たち。……十香だって、その一人だ。

 士道がそうであったように、十香にだって同じように増えていくはずなんだ。

 

「おまえはまだ出会ってないだけなんだッ! もっともっと、生きて歩いて話しをすれば絶対見つかる! おまえは生きていられる! 手始めに、学校に行けばいい!」

「――――ガッ、コウ……?」

「俺たちが今いる此処だ! 俺たちくらいの歳の男女が集まって勉強するところだ!」

「――――ココ? ぬ、いつの間に……?」

「大勢の人が集まる場所なんだ! 十香と気の合う友達だって絶対いる! 絶対できる! そいつらといっぱい色んな事をすれば、おまえに生きていてほしいって、一緒にいたいって思ってくれる!!」

「――――そんな場所が……………。そうか、それは…いいな……楽しそうだな、ガッコウは」

「〝楽しそう〟じゃねえッ!! 〝楽しい〟に決まってる!! 誰かと一緒にいれば楽しいんだよ! 俺なんかとでも一緒に、いれ、…いれ……ば………ッ」

 

 紡いだ声に、嗚咽が混じっていく。

 言葉と共に出てくる情景が士道をより苦しめた。

 珍発言で周囲を騒然とさせる十香。冷汗をかき、純粋ゆえに十香を誑かしていると勘違いする面々に人望が下がるばっかりの士道。

 バカバカしく、騒がしい日常。まだまだ起きるトラブルの数々。これから辿る筈だった光景。

 それが、十香から流れる血と共に零れ落ちていく。いつのまにか血だまりは、公園のよりも広くなっていた。

 暖かい未来に包まれている筈の二年四組の教室が、水の中よりも寒く、苦しくなっていた。

 

「――――シドーが言うのなら、本当に楽しいのだろうな。私も行ってみたくなったぞ」

「だったらッ」

「――――でも駄目だ」

 

 拒絶を明確に、十香は言う。

 

「――――私はやっぱり精霊なんだ。仲良くなんてすればASTに敵として処理されるかもしれない。友をそんな目に、シドーを、こんな目に合わせたくない」

「……ッ!?」

 

 そうだ……十香はデートの時既に言っていた。同胞に討たれるかもしれないと。だから帰れと。鳶一折紙の死線を浴びていた時……もしかして、あの時から思っていたのか? こうなるのは仕方がないと? 自分は生きるべきではないと?

 話している間にも、見る見るうちに血は出続けている。

 今尚死にかけているのに、十香が心配しているのは士道のことだけだった。

 

 なんで? どうして? 

 

 十香……どうして――――ッ

 

「どうして……ッ どうしてそんなこと言うんだ!? 俺はっ、俺の所為でっ、十香がこんなになってるのに……っ、なんで?! なんでだ?! なんでだ?! なんでだ?!」

 

 涙はぐちゃぐちゃに、ダムが決壊したように止まらない。

 十香が死にかけているのは、士道が霊装を解いてくれと頼んだから。

 死線を感じた時、こんな街中で撃つわけがないと楽観していたからだ。

 士道が告白に夢中になってこうなった。

 士道がデートに誘ったからこうなった。

 士道のセイだ。

 全部士道のセイだ。

 責めて憎んで呪うのが正当なのに、十香は罵声どころか士道の身を案じている。

 

「なんでだよ……十香……っ。…………なんで十香が、こんな目に合わなくちゃいけないんだ……っ」

 

 無力だった。途轍もない罪悪感が士道に降りかかり、度々蓄積されていった自己嫌悪が―――自己憎悪が満タンに溜まっていた。

 昨日と今日。五河士道のやること成すこと全てが裏目になる事実に、いま自分が何をするべきなのかがわからなかった。

 病院に連れていく? 普通の病院に精霊を治療できるとは思えない。

 <フラクシナス>に連れていく? 現実的だが連絡手段が無い。

 十香の重傷をなんとかしなければいけないのに、なにもできない。なにをするのが正しいのか分からない。

 わからない未来(さき)が怖くて、士道は終わってしまった過去を振り返り、後悔に浸るしかできなかった。

 

 告白なんてしなければよかった。

 霊装を解いてくれなんて言わなければよかった。

 デートになんて誘わなければよかった。

 ……俺が十香と会わなければ、こんな――――ッ

 

「――――巫山戯たこと、考えているな……? シドー」

 

 思考が言い切る前に、力なく垂れ下がっていた十香の手が士道の背中に回り、締めあげるように強く掴む。

 十香が、ようやっと怒りの感情を出した。しかしそれは正すもの。悪さをした子供を導く為の母の手引きだった。

 

「――――私を侮辱するな。世界(ココ)に来たのも、デェトに応じたのも、私の意思だ。こうなるのを覚悟で来たのだ。シドーがどうこうじゃない。なんでも自分の所為にするな」

「…………ちが、……ちがう、違うんだっ! 止められた、おれは止められたんだ! こうなるのを……ッ、止められたんだ! 俺が、余計なことをしなければ………っ おれが居たから……こんなことに……っ」

「――――だから………………いや、………………………………………そうなのか」

 

 苛立ちの否定からなにを思ったのか、十香は沈黙の後肯定へと言い直す。しかしそれは……

 

「――――そうだな。……シドー、おまえのセイだ。おまえの御蔭(セイ)で、私は生きることができて(・・・・・・・・・)死ぬことができるのだ(・・・・・・・・・・)

 

 え…っとシャックリをあげ十香を見るも、動かすわけにもいかず後頭部しか見えない。十香がいま、如何なる顔をしているのか、なにを想っているのか、士道にははかりかねた。

 

 だって、その声は、とても嬉しそうにしていたから……。

 

「――――ずっと戦っていた。剣を振って、振るわれた。砲を撃って、撃たれた。否定して、否定された。怒りでそれだけしかやってこなかった。無味無臭の無意味な行動原理しか私にはなかった。……悲しいな、私はそれすら気付いていなかった。

……それを変えてくれたのは、シドーだ。なにも無い私を、『十香』にしてくれた。私を認めて肯定してくれた。私に〝生きること〟を教えてくれた。私の生を無意味から意味あるものへ変えてくれたのだ」

 

 世界と人間から否定され、孤独であることを義務付けられた。

 壊すことしかできない手。殺意でしか動かない鼓動。がらんどうな心。

 疲れていた。なにもかもが鬱陶しくなって、何も考えていなかったんじゃないか……。一番多く関わっていたASTに対してだって、本当に怒っていたのか如何か怪しいものだ。否定の行為しか見てないから鏡のように否定し返すしかなかったから……孤独になっていたのは必然だったのかもしれない。

 さびしい。とてもさびしい生き物。

 全てを破壊する天使も、全てから身を護る霊装も、何の役にも立たない。

 孤独を払うことも、心を護ることもできない。

〝死なない〟だけ。それだけで、生きているのかどうかも曖昧。それが精霊(わたし)だった。

 

 そんな精霊(わたし)に転機をくれたのが士道だった。

 四月一〇日。

 あの時……士道が必死な顔で「十香」と声をかけ、会いに来てくれた。

 最初は士道を信じなかった。あいつは私を騙そうとしているんだと、自分自身を騙していた。素直になるのが怖くて、脅しや暴力に走ってしまった。長々と言い訳をして、世界(ここ)に来る理由も偽った。

 嗚呼、でも。それが〝生きている〟事なのではないか?

 十香は初めて自分の意思で心と体を動かした。疑って疑って、士道の本質を見極めようとしていた。それは本能ではなく、間違いなく関心による心の働きであった。

 士道が歩み寄ってくれたから感情が蘇った。突っぱねていた自分を根気強く接してくれた。デートをして、ドリームランドで〝五河士道〟に触れ、今日この時、やっと〝生きる〟ことができたんだと思った。……遅すぎる。一体どれだけの月日が掛かったのだろう。

 

 四月一〇日以前の精霊(わたし)は私に非ず。

 四月一〇日をもって精霊(わたし)は『十香』となり、生まれ変わったのだ。

 

 最後に、士道は生きようと言ってくれた。これからも一緒にいようと言ってくれた。

 士道がいてくれるなら、どんなに辛くてもなんとかなると思った。この世界でも生きていけると思った。

 嗚呼、嗚呼、想像しただけでなんて幸せなんだろうか。

 今日起きたことがこれからもずっと起きるなんて、奇跡以外のなにものでもないではないか。

 いや、デートする必要も無い。士道の傍にいられるだけで、十香は幸せになれる。

 皮肉にも、死ぬ間際になって、余計にそう感じていた。

 

 ……でも、やっぱり駄目だった。

 胸からくる痛みと血。これが世界の答えだった。分不相応の望みを得ようとした罰なのだと思った。

 なぜだろう? 十香は潔くそれを受け入れている。士道もそう言ったが自分でもよく分からない。 あれだけ剣を持って抵抗していたのに、今は安らぎすら感じている。

 ……それは多分、もしこれが士道の身に起こると思うと耐えられないからだ。十香の為に悲しんでくれる人を死なせるなんて、あってはならない。十香は自分を許せなくなる。

 十香ひとりだけで死ぬのなら、その方が良い。

 

「――――たった一日だったが、充足していた。夢のような時間だった。シドー。おまえの御蔭で、私はやっと生きられたんだ。戦いながら生き永らえるよりもこの気持ちのままに眠ったほうが何倍も良いのだ。だから、そんなに泣かないでくれ。泣く必要なんてないんだ。私はもう、十分にシドーに救われたのだ。シドーはとっくに、私の救いの存在になってくれていたんだぞ?」

 

 だから胸を張ってくれと、十香は言った。

 士道は何も言えなかった。

 ああ、今の十香は、まさに生きることに絶望した頃の自分で、そこから生きる意欲を取り戻した自分そのものだった。

 二人の違いは、希望を胸に刻み生きるか、死ぬか、その違いだった。

 世界を知り、世界の訴えを聞き入れ、一日だけで十香は人生を全うした老人のように満足気に逝こうとしている。

 

 士道は十香の絶望を知らない。士道も絶望を味わっていても決して同じものではないし、比較の問題でもない。

 十香には十香の〝今迄〟があって、そこから照らし合わせてなにが一番かを決めたのだ。

 士道は間違いなく、十香の絶望を払拭した。

 

「救ってなんて……ない」

 

 しかし、それは十香の尺度。

 士道がそれで満足なわけがなかった。

 

「……俺はッ! 俺はおまえに生きていて欲しいんだ! 世界なんて関係ない! それが邪魔すんだったら俺も一緒に世界と、ASTとだって戦う! だから………だからッ!!」

 

 士道は十香の胸に手を当てる。血を止めるように。穴をふさぐように。

 認めない。認めてなるものか。こんな終わり方は間違ってる。

 夢のような時間だったと十香は言った。大したエスコートもしていない士道との時間をそう言った。だったらこれから先、もっとデートを重ねて、もっと訓練すれば、自分たちはもっと充実した毎日を生きられる。そんなあたりまえ(・・・・・)を十香は享受できるのだ。

 

「治れ! 治れよッ!! 傷を治すくらいできるだろ!? 治れよ! 治ってくれッ!!!!」

 

 神様に訴えかけるように、祈るように手を添える。

 公園から教室に来たのは自分の仕業だ。どういう原理か理解できなくとも願えば叶う安易なものと思った。

 幾度となく乞い続けた。声が擦れ、喉が痛くなり、血反吐すら吐きそうになってもやめることはなかった。もうそれぐらいしかできることがなかった。

 

 だが……何も起こらない。

 

 神は奇跡を聞き入れてくれなかった。手に肌色は無く、赤か黒かの色に変色していた。罰当りな奇跡を願おうとする愚か者を呪う泥のように士道には見えてしまっていた。

 

「治れ! 治れ、治れ!!」

「――――シドー」

「治れ! 治れ……! ……お願いだ……っ 治って……」

「――――シドー、もういい。もういいんだ」

「…ぃ………やだ……っ…いやだ………言ったじゃ、ねえかよ………………〝ここにいる〟って言ったじゃねえか……俺の傍にいてくれるって……言ってくれたじゃねえか……っ、なのに……なんだよこれ……っ!」

 

 いやいやと首を振り、子供のように泣きじゃくる。

 醜い姿だ。十香がいいと言ってるのに生にしがみ付かせようとしている。我儘を断行し、十香を苦しめている。

 このまま眠らせ楽に逝かせるしかやれることがないのに、士道はそれに気付いているのに。

 捨てられなかった。どうしても見逃せなかった。

続く筈だった十香の人生を、十香との日々を、歩み寄る幸せを、こんなところで終わらせたくなかった。

 逃がしたくなくて、強く、ただ強く、より強く抱きしめる力を増やす。

 

「死ぬな、十香……っ。たのむ……っ、十香………死なないでくれ……っ」

「――――……シドー……」

 

 士道の貌は見るに堪えないものだった。目は充血し腫れ簿っている。鼻水も垂れて汚れまくっている。そして何より悲痛だった。

 見えずとも、声を聞くだけで十香は苦しかった。

 士道の声を聞くと、胸から血を流しているよりずっと痛かった。士道が十香のことで苦しんでいるなら、十香も士道のことで苦しんでいだ。

 

 護りたいと思っていた士道の心が、あの輝きが、失ってしまう。他ならぬ自分の手によって。

 

 でも……もうどうしようもない。

 自分が助からないのは〝決定事項〟。だが、それでは士道が助からない。

 〝何とかしたい〟……こんな気持ちだったのか? 士道が自分を助けようとした気持ちは。

 なるほど、十香は同感した。この心境に至ったら、誰だろうと構いたくなるなと微笑する。

 霞んでいく頭で、関係ない冗長の中、何とかならないか考えて……

 

 ひとつだけ、思いついた。

 

「――――シドー。最期に、私の願いを聞いてくれないか?」

 

 〝最期〟と、そう口にした十香は悟りを開いた御釈迦様のように、どこまでも落ち着いていて……死を感じさせない程の優しさに溢れている。

 士道は一際大きく震えるだけで何も応えない。涙を流し嗚咽するしかなかった。

 それでも構わず、十香は続けた。

 

「――――もしこの先、他の精霊たちが現れたら、救ってやってほしいのだ」

「……………ぇ?」

「――――精霊は、他にも多くいるのだろう……? 私と同じような者が、望まぬ戦いに巻き込まれる者が。人を殺さざるをえない者が。……そんなの可哀想だ。この先、そんな精霊が現れたら、救ってやってくれないか?

――――シドーならきっと、戦わずに精霊を平和に暮らせられるようにできる。私は間に合わなかったが、まだ間に合う精霊がいる。……その者たちを救ってやってくれ。私を悲しんでくれるなら、悔んでいるなら、もう二度と同じ過ちを犯すな。今度は、ちゃんと護ってやれ。シドーが納得するまで、とことん救ってやれ」

 

 士道は呆然と聞くしかなかった。

 これが十香の考えだった。

 自分の死を教訓とし、自分以外の精霊を助けるために、未来への礎となる。

 息を呑む士道の当惑が伝わる。彼にとっては残酷な願いであろう。こんなのは呪いに等しい。これから精霊と相対する度に士道は思い出してしまう。護れなかった十香を。救えなかった十香を。こびり付いた血を思い出し、そのたびに悲しみ涙するのだろう。精霊を懺悔と十字架の対象でしか見えなくなるのだろう。

 だが士道は言った。生きていれば出会いがあると。大切にしてくれる人と大切だと思える人に出会えると言った。なら、出会いという名の機会があればきっと何とかなる。心の支えとなるヒトと巡り合える。精霊でも人間でもかまわない。その人に出会えれば士道はきっとその先を乗り越えられる。 その役目が自分でないのが残念だが、士道が幸せでいられるのならそれでよかった。

 

「――――シドー。お願いだ。どうか、たのむ」

「………………………………………」

 

 縋るような懇願に、士道は沈む。耳に入った〝最期〟という単語を拒絶しても離れない。

 

 ……わかってる。わかっているんだ。

 

 十香は死ぬ。了承をすれば、間も無く死ぬ。コレを聞き届けることこそ救い。十香のためにやれることは安心させることしかない。安心を裡に眠りに堕とさせるくらいしか、士道にはできない。

 

 何がいけなかったんだろう……?

 

 今日から始まる筈だった。十香の苦労と受難が、それと同等以上の達成感と幸福の生活が訪れるはずだったのに。

 士道の考える後悔は十香によって否定された。自分のやったことは十香には救いだったと。

 じゃあ、なにがどうなって十香と〝死〟による別れが決定づけられたのか。

 士道の関知しない所による結果。十香の運命か、神の意向か、世界の否定か。そんな不確かなモノでこんな事になったのか。そうなるのを良しとするのか……

 

 なにかある、なにか、あるんじゃないか? 不確かなら、確定はしていないのだから。あるはずだ。方法が、逆転が、十香をなんとかするなにか。

 

 

 なにか、ないのか

 

 

 なにか、

 

 

 なにか、

 

 

 考えて、

 

 

 考えて、

 

 

 なにかないか、考えて、

 

 

 

「………………十香」

 

 彼女の頭と肩をさする。

 彼女を、安心(・・)させるために(・・・・・・)

 

「……まかせろ。精霊はみんな、俺が救う。みんな、人間の敵にならないようにする。普通に、仲良く、学校にも行けるように、する。友達だって、ちゃんと、つくれるように…幸せにする。…だから、大丈夫だ……………」

 

 

 

 安心してくれ(・・・・・・)

 

 

 

「十香の、ぶん、まで…………………っ」

「――――ああ」

 

 考えても……他に、何も無かった。

 ……結局、それしかなかった。

 士道は……諦めるしかなかった。

 無様。無力。無能。なにより、邪悪だった。

 ……それでも

 

「――――ありがとう。シドー」

 

 それでも……十香は感謝していた。

 心底嬉しそうに、微笑んでいると分かった。

 士道に、笑い掛けていた。

 

「――――シドーなら、きっとやれる。きっと、精霊を救える。きっと……きっと」

 

 トン、と十香は顎を士道の肩に乗せた。抱きしめていた腕は解き放たれて、全体重が圧し掛かった。華奢な体の割に、酷く重かった。

 

 息遣いが小さくなった

 肌は氷よりも冷たくなっていった。

 血以外のモノが失っていくのを体感している。

 血以外のモノが遣って来るのを体感している。

 疑問を挟む間もなく確信する。

 失っていくのは生気で、

 遣って来るのは……〝死〟だ。

 

「………、……………………………………………まってくれ、……十香」

 

 荒荒しい震えが士道に沸き起こる。瞳が揺れに揺れる。激情が大火となって胸を灼いていく。

 

「十香。まだ、ないのか? 頼みたいことはないのか? 頼みじゃなくてもいい。聞きたいことでもいいんだ。なにかないか? 十香はさ、まだ天宮市のことしかしらないだろ。日本の有名所とか全然しらないだろ? 富士山とか、金閣寺とか、外国なんてもっとしらないだろ? 自由の女神とか、エッフェル塔とか、まだまだしらないことがあるだろ? 俺もよくしってるわけじゃないけど。十香に教えられることはまだいっぱいあるんだ。デートで行ける場所がたくさんあるんだ」

 

 諦めたと思っていた心が不活発に再起する。十香をこの世に繋ぎとめようとしてしまう。

 途方もない焦りにもがくたびに底なし沼に嵌まっていくようだった。

 十香の身体に巣食おうとしている〝死〟を実感して、士道は〝死〟というものが本当に取り返しのつかない摂理であることを思い知った。

 

「なんでもいいんだ。ホントに、くだらないことでも、なんでも……十香」

 

 繋ごうとするも、刻一刻と〝死〟が遣って来る。十香を連れていこうとする。

 

 何をしても無駄だ。〝死〟は平等。死ぬ時は死ぬしかない。

 

 

 そして、

 

 

「十香……なあ、まだ、もうすこしだけ、すこしでいいんだ……はなしを………………」

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――。

 

 

 

「…………………………十香?」

 

 〝死〟が十香の全てを余すことなく〝死〟に染めていった。

 

「…………、………十香? 十香?」

 

 心音はとっくに心臓(そうち)ごと消失していた。にも拘らず生きていた奇跡は、もう終わっていた。

 

 終わってしまった。

 生まれて初めてのデートが。初めての初恋が。初めての死別が。

 

 士道が到底思い起こせない最悪の形で終幕を下ろした。

 

 

「あ、……ぁあ………まってくれ十香。まて、まって……まってくれ

 

 ………………………まっ………て」

 

 

 

 

 

 

 いかないで

 

 

 

 

 

 

 士道は、弱弱しい声で言う。

 

 

 まるで――――母親においていかれる子供のように、そう言った。

 

 

 そう言って、士道は…………………………………。

 

 …………………………………………………………。

 

 …………………………………………………………。

 

 …………………………………………………………。

 

 …………………………………………………………。

 

 …………………………………………………………。

 

 …………………………………………………………あれ?

 

 

 士道は、不思議に思った。

 

 自分は、悲しんでいる。

 苦しんでいる。

 嘆いている。

 

 なのに、なんで?

 

 

 涙が止まった。消えてしまった。

 

 

 悲しいなら、苦しいなら、嘆いているなら、泣いて涙を流す筈なのに。

 

 どうして止まってしまうのだ?

 

 

 十香は、十香は、いま―――――――

 

 

 納得がいかず、なんとか泣いてみようとするも泣けなかった。

 

 何度もやってみても、士道は泣けなかった。

 

 理由を考えて………あれ? と、また不思議に思った。

 

 思考がうまくできなかった。

 

 思考だけじゃない。なにかが、低下する。抜けていく

 

 全身が、糸が切れたみたいに力が入らない。

 

 血の気が失せていき、表情が無となっていく。

 

 慣れ親しんだ自分の大切なものが消えていく感覚に堕ちていき、

 

 

 士道は、ああ、まただ(・・・)。  と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 銃弾の雨が途切れることなく高台の公園に降り注ぐ。

 雨が再び舞い戻って嵐となったのではない。本当に銃弾が降っているのだ。

 公園の破壊のみならず高台そのものを破壊しかねない局地的気象にして危険極る異常気象は天による災禍ではなく、AST の魔術師(ウィザード)による人為的な天候操作によるものだった。

 銃声だけでもかなりの弾丸が使われているのが分かるのに加え、込められた魔力も一発一発は小さくも撃ち続けたことによって周囲の魔力密度が濃くなっていった。それだけ多量の攻撃を行ったというのに、〝対象〟には何の変化も見られない。

 

 集中砲火を受けているのは黒い球体(・・・・)だった。

 半径10メートル程のドーム状に鎮座しているナニカ(・・・)は上空から見ると……どこから見ても球体というより孔に見える。削岩機を使って孔を開けたようなものではなく、黒の絵の具を使って孔を画いたような、塗り潰したかのような不自然な物体。

 否、物体かどうかも定かではない。なにせ撃っているのに当たっていないのだ(・・・・・・・・・)。銃声が鳴っているのに着弾した音がせず、撃ち落とされてもいないのに消えてしまっているのだ(・・・・・・・・・・・)

 一体自分達はナニに攻撃しているのか。近いもので言えば本当に孔としか言えない。底なしの孔に物を投げ込んでも底に当たった音がしない……そうとしか言えなかった。

 魔術師であるのなら、物体ではないと思った時点で随意領域(テリトリー)を想起するのが普通かもしれないが――――

 

「気味が悪いわね……霊力でも魔力でもない(・・・・・・・・・・)()ですって……?」

 

 鐐子は誰に聞かせるでもなく一人言を呟く。違う、アレは違う。あんな不気味なものは知らない。

 どういう原理で成り立っているのか……自身と本部とでドームを解析(スキャン)してみてもなにもわからなかったのだ。霊力でも魔力でもないのがわかっている……というのが胆であるのだろうが、それで済む問題ではない。随意領域による解析が何の反応も示していない(・・・・・・・・・・・)のだ(・・)。霊力でも魔力でもない。重力でも磁力でも圧力でもない。固体でも液体でも気体でもない。熱が無い。光も、電気も、原子核も無い。現代の科学で成立しているエネルギーが無い。つまりはあそこには何も無い(・・・・・・・・・)という結果に他ならなかった。

 

 あるいはこれは、精霊が死した時に発生する現象なのかと真剣に考えてしまう。

 

 <C C C>の狙撃が<プリンセス>に命中し、その胸に風穴を空けた事実を目にした時、鐐子のみならず他の隊員たち、あの折紙でさえ数秒の間呆けてしまった。いつもあれだけ苦労と辛酸を舐めさせられた精霊を呆気なく致命傷を与えた手応えのなさ(・・・・・・)。今まで何を手間取っていたのかと過去の自分すら馬鹿にしてしまうくらいに上手くいった狙撃にしかし、直ぐさま気を取り直し追撃の為一斉に飛びかかった。あの状態なら絶命していても可笑しくは無いが相手は精霊。どんな奇妙(トリッキー)底力(しかけ)があるかわからない。致命傷は必至にしても<プリンセス>の傍には一般人の少年がいるのだ。彼を保護するためにも迅速に<プリンセス>の死亡を確かめなければならなかった。

 

 なぜか精霊と共にいた人間の少年。何者なのかと鐐子が思えば折紙と同じ高校のクラスメイトらしい。一体どういう関わりを持って少年は<プリンセス>と行動を共にしたのか。偶然出会ったにしてはどこか出来過ぎている巡り合わせを感じていたが、それはこれから保護した後に詳しく聞けばいいと安易になっていた。

 だが、少年は錯乱してしまった。当然だろう、姿形は人間と変わらない生命体が身体に穴を開けて血が飛び散り滴り流れたのだ。規制のないグロテスクシーンは少年を深く傷つけてしまった。大声で悲鳴を上げているのを聞いて任務を優先した申し訳なさを大いに感じながらも謝罪は後に今は自分の役目に取り組んだ。

 変化が起きたのはその時だった。少年の悲鳴で息を吹き返したのか、<プリンセス>の身体から血ではない〝黒いナニカ〟が噴出したのだ。弾け、広がり、固まって、その形は球状になり、現在攻撃しているドームとなって鎮座しているのであった。

 

「―――――総員、撃ち方止め!」

 

 これ以上は時間と弾の無駄遣いと判断し、鐐子は通信回線で攻撃中止を指示するとけたたましく響いた銃声が鳴り止んだが、目に見える過程にあたわぬ結果の無さに辟易となった。

 

「これだけやって何の反応も変化も無し………どうしたものかしら………」

 

 天宮市はASTの根廻しによって空間震警報を鳴らし住民の避難を済ましている。だからこそ遠慮なく雨あられと弾丸を打ち込みまくったのだが効果は無し。魔力攻撃の他にも魔力無しの物理・物量攻撃も仕掛けたが、結果は一緒。

 このままでは埒が明かないが、考えうる限りの攻撃はし尽くした。もう自然消滅を待つしかないと思っていると――――

 

「日下部一尉」

「? 折紙…って、っと!?」

 

 呼び掛けと一緒に放り投げられた2本のアンカーユニットをおっかなびっくりと受け取る。1つはワイヤー。もう1つは光の糸が伸びていた物だった。

 

「私があの中に突入する。5分で戻らなかったそれを引っ張って」

「な―――なに言ってんのよ!? さっきまでの見てたでしょ? あの結界モドキ(・・・)は普通じゃないわ。中に入るなんて危険よ!」

「このまま何もせずにいるのはジリ貧でしかない。もしかしたら<プリンセス>が回復する為の代物か、そうでなくとも時間稼ぎに使われている可能性もある」

 

 あんな不可解なナニカの前でも尤もな意見を吐く折紙はどこまでも冷静に現状を打破しようとしている。

 頼もしく思うべきかもしれないが、やはり危険だ。未踏の大地を踏みしめるには情報(データ)が少なすぎる。唯一わかっている〝消えてしまう〟現象が拍車をかけていた。

 

「だからコレを使う」

 

 折紙は2つのアンカーを示す。

 一方は金属の、もう一方は魔力によって作られた代物だ。

 両極端の性質を用意したのはせめてもの不測に備える保険だった。

 

「〝消えている〟といっても恐らく消滅しているのではない。それならあの黒いのに触れた瞬間に消えるはず。でも、アレに攻撃していったものは中に入って(・・・・・)消えていった」

「……ようするに〝来る者拒まず〟で、アレの中には侵入(はいれ)るって言いたいの? ……でもね、入れたとしても〝去る者追わず〟とは限らないわ。ヘタしたら二度と出れない、いいえ……何が起こるのかわからないのよ(・・・・・・・・・・・・・・)? それに消滅じゃないっていったけど、中に入ったら消える可能性だって……」

「勿論、これは唯の推測でしかない。無事でいられる保証は無い。だから私一人で行く。もし自力で帰れず、通信も出来ないようならコレで回収をお願い」

「あっ―――折紙!」

 

 半ば強引に押し切り、制止の声も無視し、折紙は黒いドームへと先行する。本音では鐐子に言ったことは建前でしかない。折紙には一刻の猶予も許されない、やらねばならないことがある。

 アレは危険。全くもって同意見だ。迂闊に飛び込むなんて馬鹿がやることだし、折紙をしてアレには恐怖を感じている。殺されるだとかそういった断絶とは少し違う。巨大で強大で、圧倒的な存在感を前にするように……そう、あの黒い色に塗り潰される(・・・・・・)脅威にひれ伏しそうになっている。

 

 ――――そんな所に五河士道が取り込まれている……っ

 

 <プリンセス>を九死に追い込んだことにより、憎しみで熱しられた頭が徐徐に冷えていった折紙の中では優先順位が<プリンセス>への止めよりも士道(かれ)の安全に変わっていた。それと同時に折紙を燻っているのは後悔だった。

 恨みを晴らすしか頭になかった折紙は、士道の悲鳴を聞いたことによって自分がどれだけ彼のことを蔑ろにしたか、彼のことを考えていなかったのかを思い知った。

 曲がりなりにも人の形をした化物が目の前で血塗れになったのだ。その心情は推して知るべし。あるいは自分の時(・・・・)よりも(・・・)生々しい〝死〟を目撃してしまい彼の心が病んでしまっている可能性がある………生きていれば、だが。

 

〝自分と同じ思いをさせたくない……自分のような人間は増やさない〟

 折紙が戦う理由(ワケ)の一つ。憎悪の割目に潜んでいる良心が責め立てる。

 折紙は、士道が近くにいたら<プリンセス>に殺されるかもしれないから早く撃たなければならなかった、なんて考えていなかった。ただ恨みと憎しみだけだった。他の誰でもない彼(・・・・・・・・)が居たのに……それしかなかった。矛盾をはらんだ行為に苛まれるも、今やるべきは士道の救助。

 彼になにかあったら、謝るのも癒すのも、全身全霊で献身するつもりだが、死んでしまったら、生きていなければ、意味がない。何もかも終わる。

 

「ああもうっ、―――3分よ! それで戻らなかったら即回収するから!」

 

 いつもの冷静さゆえの反動か、折紙が〝やる〟と決めたらとことんやり、聞く耳持たなくなるのを鐐子は知っている。この隊員屈指のじゃじゃ馬を御しきる人間なんていないだろうと隊長にあるまじき発言を心の中でぼやきながら融通と妥協も必要と、折紙の独断を許す。心配するだけして止められない自分を歯がゆく思いながら……

 

「いいわね、おりが――」

 

 ピシリ―――と、一際大きな亀裂音が鐐子の口を止めた。前進中の折紙も急ブレーキを掛けて動きを止める。

 その音は黒いドームからだった。亀裂は次第に大きなクモの巣のように球体全体に広がっていき、音と振動はまるで雛鳥が孵化するようにも、爆発寸前の風船のようにも見え……

 

「くっ―――!」

 

 咄嗟に顕現装置で防性結界を張った直後、ガラス細工が壊れたような甲高い音が暴風に乗ってAST隊員に届いた。数名がその場に耐えきれず吹っ飛ぶが、残りはどうにか耐えきった。

 突発的台風。ふとそんなことが思い浮かんで、確か世界各地に存在を確認されている精霊・<ベルセルク>がそんな被害を出していると聞いたなと、今はどうでもいい事を考えてしまう。

 

「ホンットに、なんなのよっ!! 全員無事!?」

 

 風が収まっていき、愚痴りながら鐐子が部下の安否を確認する。このタイミングでなぜドームが壊れたのか皆目見当もつかないが、折紙が突入する直前でよかったと安堵する反面、なんだかズッコケさせられたみたいな腹立たしい気分になっている。折紙は折紙で誰よりも接近していたのによく耐えていたが、壊れたドームがどうなったかにしか気になっていないようで、目を配ると二つの人影の、内一つの姿を見て再び飛び出していく姿があった。

 

「折紙!? ―――各班、包囲網を展開して上空待機! まだ予断は許されないわ。本部と連携してどこに逃げても追えるように回線は開いておきなさい!」

 

 隊員に指示を出しながら鐐子は折紙の後を追う。念には念をといっても一人が二人になったところで雀の涙程の戦力差かもしれない。だが……

 

 

 目視した限り、遠目でも<プリンセス>の死亡は明らかだった。

 

 

 生きてたとしても戦える身体とは思えないし、最後っ屁の力があるにしても、それは逃亡に使うしかないだろう。使ったとしてもそう遠くへは行けまい。

 既に地に着いていた折紙の傍に降り立ち、眼前に映る一人の少年と少女を見据えた。

 

 

 

 

 

「五河士道、怪我はない?」

 

 折紙はなるべく優しく語り掛けたつもりだったが、聞く者には冷静な表情と変わらぬ冷たい声音にしか聞こえなかった。台詞からして淡々としすぎているのだから尚更だった。

 

 士道は応えない。

 

 無視しているでも、怪我をしていて応えられないわけでもない。折紙が〝クラスメイトの鳶一折紙〟と気付いているのかは微妙だったが……。

 彼は俯いて前髪が陰となり、貌が見えなかったが、ただ呆然としているのだと思った。

 

「……ごめんなさい。謝って済む問題ではないけれど、あなたを巻き込んでしまった」

 

 言いながら、折紙は士道に近づく。士道は横たわっている<プリンセス>の前で両膝をついている。土下座する寸前のような格好に、なにか違和感を感じる。

 

 士道は、応えない。

 

 とにかく無事であることには安堵したが、彼の格好は酷く悲惨だった。胸の辺りから<プリンセス>の血で汚れて下半身のズボンにまで満遍なく染みついている。両の手も同様に真っ赤になって、まるで彼が殺人を犯したような有様だった。

 

 そうしたのが自分だと思うと罪悪感に胸が苦しくなる。

 言い訳などできない。五河士道をこんなにしてしまったのは鳶一折紙だ。

 彼が罵詈雑言を叩きつけるなら甘んじて受けとめる。彼が何がしかを求めるなら自分の全てを捧げる。その覚悟を持って、折紙は事務的にこれからの処置を伝える。

 

「五河士道。今のあなたには酷なことだけど、私と来てほしい。ソレ(・・)とのこれまでの経緯、ソレ(・・)に関する話を、あなたの知っていること全てを話してもらいたい」

 

 理由がなんであれ五河士道をこのまま家に帰すというのは無理だった。精霊をはじめ自分たち魔術師の姿も見ているのだから、一般人に知られてはいけない機密レベルはとっくに超えていた。折紙個人もどうやって<プリンセス>と知り合ったのか、四月一〇日にいたのはやはり士道だったのかを聞きたかった。

 詳しい話を聞いた後は記憶処理が施されるだろう。専用の顕現装置を使えば害無く安全に精霊に関することを忘れられるはずだ。

 士道にしたことを都合よく忘れさせることにどこか卑怯を感じるが、それも士道の為になると思えば、折紙の矜持など無きに等しい。

 

 士道は、まだ応えない。

 

 了承も拒否もない。それすらできないくらいに心の傷を負わせてしまった……しかし、どちらにしても連れていかなければならないと、折紙は士道を立たせようと近づくと……

 

「なあ、鳶一」

 

 士道が応えた。

 

 沈痛していたと思っていた士道が声を掛けた。びくっと強張らせながら折紙は歩みを止める。

 予想に反しての平静な声。雰囲気も荒波立たぬゆるやかな川の流れに似て伸びやかなものだ。

 

「……五河、士道?」

 

 でも、それは血に濡れた姿で出していい声ではない。〝死〟を目撃して出す雰囲気ではない。

 

 なんだ(・・・)これは?(・・・・)

 

 パニックではない。かといってクールでもない。

 もっと混沌としていて、もっと冷め切っている。

 体も心も近寄り難く、触れ難い。

 

「鳶一はさ、精霊と話したことってあるか?」

「………え?」

「ASTが戦ってきた精霊の中の誰でもいい。話をしたことはあるか? 話なんて上等なものじゃなくても、一言二言でもいい。声を掛けたことはあるか?」

 

 士道の態度に困惑すれば、精霊とASTの単語が出てきたことにも、質問にも困惑してしまう。二人の成り行きを見守っていた鐐子も同様だった。

 〝精霊〟は<プリンセス>本人に聞いたとしても、〝AST〟は精霊から聞いたとは思えない。人間社会に適応していない精霊が、人間に害成す精霊が人間の組織名を知りえる手段がある訳がない……人間を殺す精霊がそんなおぞましい行動をするなんて、あっていい訳がない。ましてや会話などもっての外だ。

 反論をしようとして、しかし口が開けない。

 彼の言葉は質問でありながら語り部でもあったから……

 

「俺はある。話したのは昨日と今日だ。昨日はめちゃくちゃ警戒されてさ、右手にデケー傷跡が残る大怪我しちまった。まあ、そうされちまうことを俺はやっちまって、もう一度会うのは難しいかなって思ってたんだけど、今日は向こうから俺に会いに来てくれたんだ。自分の敵がいる世界に、俺に会うためだけに来てくれたんだ。人間の事、世界の事が知りたいって言って、俺とデートもしてくれたんだ。愛想尽かされかけたけど、最後まで俺と付き合ってくれたんだ」

「……………………」

 

 デートと聞いて身体が僅かに震える折紙に気付かず、士道は<プリンセス>の頭を撫でる。血で汚れた手を使うのに戸惑いながらだが、優しく触れる。

 事切れている者に行うとは思えない、愛おしそうにあやす仕草に折紙は目を離せなかった。

 

「うれしかった。それ以上に、楽しかった。

 色んなモン食いまわったけど、中でもきなこパンが気にいったみたいでさ、子供かってツッコミ入れそうになった。……いや、子供だったんだな……本当になんにも知らなくてさ、いちいち驚いてはしゃいで楽しそうにするんだ。ゲームセンターでもそうだった。音ゲーがうまくて、一位になれなくてムキになってたよ。他のゲームもそうで、でも、お菓子取れるやつやったら機嫌が直っていって、単純っていうか、純粋って言うか…………

今日はそれだけだったけど、食べ歩きとゲーセンだけで楽しかった。……俺は見てるだけでもよかった………一緒にいるだけで、楽しかった………一緒に、居なくても…………思い返すだけでも、たのしくなって、さ」

「…………………………………」

 

 詰り躓く声には感情が無い。教科書を音読しているだけみたいに、壊れたボイスレコーダーで、それでも再生し続ける。そうしなければいけない、それしかできない、といった義務感の動作だった。

 

 士道の声は心に響かない。感情云々ではなく、精霊に対することなら折紙自身が響かせようとしない。

 結論から言ってしまえば―――士道の言葉は、ただ徒に折紙を燃え上げさせる燃料にしかならなかった。

 呪いと怨嗟に満ちた黒い炎が、士道への罪悪感を燃えカスにした。内心の炎が、折紙を五年前(・・・)に逆行した気分にさせる。

 

 好意以上の想いを向けている相手が、生ゴミとなった生命体を気にかけるなんて――――

 

「鳶一。今日俺の行動は全部見てたんだろ? おまえから見てどうだった? 俺と一緒にいた精霊は危険だったか? 誰かを殺すような敵に見えたのか? 居るだけで害悪だったか?

………俺みたいな、最低最悪なクズの傍にいてくれて、最期まで俺なんかの為に気を使ってくれた精霊が、悪い奴なのか?

 ……空間震の原因を殲滅するASTの方針も分かるつもりだ。でも問答無用なのはやり過ぎなんじゃないか? だって、俺は生きてる。世界を殺せるなんて大袈裟なこと(・・・・・・)言うけど、人間一人こうやって生きてるんだぞ? そんな危ないのと今日デートしてたんだ。人間と一緒なんだよ。悪い奴だっていれば、良い奴だって絶対いるんだ。

 ……知らないだけなんだ。精霊も人間も、みんな分からないから、お互いの暮らしも価値観も知らないから戦うんだ。話せば分かりあえる筈なんだ。そうすれば戦う必要なんて――――」

「そんなのはありえない」

 

 質問が独白になっていた士道を、折紙はいつもどおりの冷静さで、憎悪と拒絶とが雑じ合った断固の否定を掲げる。……精霊そのものに向けるような怨念を、折紙は士道に向けてすらいた。

「なにをやっている?」「やめろ」という警告が折紙には聞こえるが、止まらない。彼を傷つけてしまったと後悔していたのに、自分は士道を更に傷つけようとしているのが分かる。

 士道の話を聞いてあるいは、そうまでしてでも聞きたくないという意思表示なのかもしれない。

 そうする理由が折紙にはある……

 

「今日はたまたま(・・・・)何も起こらなかっただけ。明日も何も起こらない保障はどこにもない。

精霊に良い奴がいるとして、言っているのがソレ(・・)の事なら、皆口をそろえて言うに決まっている―――〝おまえなんて大嫌い〟だと」

「……っ、折紙……!」

「貴方は勘違いをしている。精霊は人類の敵。絶対不変の真理。ソレ(・・)が死ぬのは当然の報いに過ぎない」

「やめなさい折紙っ!」

 

 度を超える、否、尚越えようとしている発言に鐐子が折紙の肩を抑えて諫める。

 精霊(プリンセス)人間(しどう)の遣り取りをみていたこともあり、この少年が精霊に好意を抱いていたのは彼の言葉面でも明らかで、察するに余りあった。

 そこに訪れた精霊の死。似たような精霊への認識を持ってるとはいえ、いくら折紙の事情を知っているとはいえ、今の状態の士道に言っていいわけがない。クラスメイトというのなら説得と説明は折紙に任せた方が良いと割り込むのを控えたが、悪手になってしまった。

 

「かん、ちがい?」

 

 相変わらず士道の表情が見えないが、声には初めて感情が揺らいでいて、呆然とした気の沈み具合を窺わせていた。

 

「かんちがいって……なにがかんちがいなんだ? むくいってなにがだ? 

空間震のこと言ってるのか? でもあれは、精霊が望んでやってるわけじゃないんだ。ただ……ただ、事故で、起きちまうもので、どうしようもないことで…」

「その通り。それはどうしようもないこと。貴方がどれだけ精霊を庇ったとしても、空間震はどうしようもできない」

「それは……けど、ソレさえ解決すれば、……空間震は、この世界に現れるときに起きるんだから、ずっと、この世界に留まれば、問題は……」

「空間震を抜きにしても同様。……仮に……万が一……百歩譲って……精霊が人間と暮らせる状況になったとしても、世界を殺す力を持っている危険生物を受け入れる人間なんて存在しない。指先一つで人を殺せる生物と一緒に学校に通うなんて誰も望まない。腕を振るっただけで万物を破壊する生物と一緒に勉学に励むなんて出来っこない。そんな(・・・)恐ろしい(・・・・)存在が隣にいることに(・・・・・・・・・・)人間は耐えられない(・・・・・・・・・)。不安は不信に変わり、やがて争いに変わる」

「……………」

「精霊が生きている限り、人間は常に死に怯え、生にも怯えてしまう。貴方の言い分は、唯の夢物語でしかない。精霊は人間の敵。それだけでしかない」

「…………、そん、な……、そんなこと…ない。……せいれい、は……―――」

 

 評論家の批評より自尊心を潰し、政治家の糾弾よりこころを削る。

 それでいて、折紙の主張はどこまでも正論であった。

 生きていたい。死にたくない。

 当たり前のことであり、仕方がないこと。突き詰めればそれだけだ。

 弱肉強食の残酷な世界。精霊と人間の関係はソレに尽き、何の特別でもない、世の中の世情。人が動物の肉を食べるのと同じ、欠かせない生命維持のための手段なだけ。

 

 間違いなどない。

 間違ってるのは、士道の方だ。罪に問われるのも、討った折紙ではなく、庇う士道の方だ。

 

 でも、間違っていても、士道は止められない。

 

 それでも何とか言い返そうとする。

 

 だって十香に頼まれたのだ。他の精霊を救うと。

 

 それが士道に残された生きる糧。かろうじて一歩手前に踏みとどま(・・・・・・・・・・・・・・・)らせている希望でもあるのだ(・・・・・・・・・・・・・)

 なのに、嶮しく困難が約束されている山あり谷ありの茨の道を前に、歩く前に口で負けているなんて駄目なのだ。

 駄目なのに、士道は何も言えない。

 只でさえ思考が働かないから、頭の中がごちゃごちゃになっている。自分が何を考えてるかよくわかっていないが、答えをまとめようとする。

 

 昨日、琴里が言ったこと。

 今日、十香が言ったこと。

 二人に共通することを、いま折紙も言ってきた。

 精霊(十香)と、精霊を殺す者(折紙)と、精霊を守る者(琴里)の、三者同様の言葉に、士道はまず皮肉を感じた。裏表の行動指針を持つ組織が、言っていることが同じだった。それに対応する方法が異なるだけで、精霊への認識はどっちも共通している。本人も認めている。

 次に悲しみを感じた。どうして、それしか意見が合わないだろうと。それしか見ることができない人間の、生物の本能(恐怖)に憂いていた。

 最後に、なんで似た応酬を3回も繰り返しているんだろうという疑問が士道にうかんだ。

 ……それは、具体的な答えを持っていないからではないか?

 デートしてデレさせても、空間震の解決にはならない。士道が精霊に信用されても、信用しても、他の人間は信用していない。

 これでは空間震を解決しても駄目だ。信頼を得て、この世界に留まるよう頼んで空間震が起きなくてもASTが見過ごさない。折紙はさっきそう言った。

 精霊を真に救うなら、〝精霊の力〟をなんとかしなければならない。 

 ASTに観測されないために霊力を抑えるか、少なくするか、封印するかくらいしなければ、精霊は一生狙われ続けるだろう。

 

 

 抑える……少なく……封印……

 

 ……封印………封印、封印。

 

 

 そうだ……封印だ。

 心の中で、士道にはそれができる力があると確信した。

 封印さえすれば精霊は精霊として観測されない。空間震を起こさず、人間として暮らす事ができる。

 天啓を得た士道は、あとはどうやって折紙を、ASTを説き伏せるかが必要だった。

 <ラタトスク>の存在は隠さなければならないのに、中でも隠さなければいけないのはその封印能力ではないか。それを言わずに折紙に反論するにはどうすればいいのか、十香の頼みを叶えるためにも、こんなところで躓いてなんていられない。士道は全ての精霊を救わなければならない。

 

 過ちは繰り返さない。精霊を、

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………………………

 

 

 

 精霊を、………救…う。

 

 

 

 

 

 ふと、魔が差した。

 〝救う〟という単語に、嘲笑されたような気の滅入り様を感じた。

 たったいま十香を救えなかった士道の思考として至極当然の流れではあるが、そういうのではない。

 救えるかどうかじゃない。士道は精霊を救わなければいけないのだ。

 十香は言ってくれた。きっと精霊を救えると。

 その言葉を、士道は微塵も疑っていない。

 十香が言ってくれた言葉を、疑ってはいけない。

 これからの未来には出会いがあるのだろう。苦しみ、嘆き、絶望する精霊と士道は対峙するのだろう。その子たちを救い、一緒に日常を生きていくのだろう。

 微笑ましく、輝かしい、苦難を乗り超えた先に在る、比べるべくもない素晴らしい人生が待っているのだろう。

 

 

 

 でも、

 

 他の精霊を救ったとしても、

 

 

 十香は、………いない。

 

 

 十香はそこにいない。

 十香は、過去になった。想い出の中にしかいなかった。

 目の前にいるのに、横たわっているのに、目を瞑って、ただ眠っているだけのようなのに、

 

 もう、いないのだ。

 

 十香は、もう目を開かない。

 十香は、もう歩けない。

 十香は、もう話せない。

 十香は、もう笑わない。

 十香は、もう生きていない。

 

 

 

 

 

 十香は、

 

 

 

 

 

 

 死んでしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

「――――――――――――――あ」

 

 

 

 

 

 止まった。

 士道の裡で、何かが止まった。

 意欲と情熱……かもしれない。

 折紙へ反論を、十香の最期の頼みを叶えようとしたのに、それだけが士道を動かしていたのに、止まってしまった。

 

 気付いてしまった。分かってしまった。理解してしまった。

 

 反論したって、頼みを聞いたところで、意味がない。

 

 十香が生きていなければ、無駄なのだ。

 

 好きだったから。二日しか会っていないのに、二日分とは思えないほどの気持ちの入りようがあり、運命の人に出会えた万感があった。

 

 そんな人が、死んでしまった。

 

 自分が(・・・)全否定されているような気がした(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 自分が(・・・)もう誰からも愛されないと思った(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

「いいかげんにしなさい折紙! 今はそんな議論言ってる場合じゃないでしょ!! 

 ……五河士道君。あなたをAST本部に連行させてもらいます。精霊と関わりを持ったあなたをこのままにしておくことはできません。ですが乱暴な真似はしません、どうか―――」

 

 折紙を押し退けて士道を連れていこうとする鐐子の声が、途中で止まった。

 声だけではなかった。

 鐐子の動き……身体が止まっていた。あたかも金縛りにあったかのように、身動き一つとてしていなかった。

 

 突然の制止に、折紙は訝る様子も、声を掛ける様子も見られなかった。

 彼女の関心が士道にだけしか向いてないからではない。

 なぜなら、折紙も同じように止まっていたのだ。人形のような彼女が本当に人形になってしまったかのようだった。

 

 

 止まっているのは二人だけではなかった。

 

 

 上空に待機していたAST隊員も動きが止まっていた。体も、CR-ユニットの動きも止まって空中で静止していた。

 風が吹くのが止まっていた。

 木々が揺られているままに止まっていた。

 雲の流れが止まっていた。

 夕陽が沈むのが止まっていた。

 

 目に見えるものは当然、目の届かぬもの全てが、止まっていた。

 士道にはそう感じた。

 まるで自分の心と連動したように何もかもが止まってみえた。

 熱くもなく寒くもない。物音一つもしない。命の鼓動も感じない。

 世界が死んでしまった感じ。

 コレは士道にしか感じていないのか、そんなのはどうでもよかった。

 

 士道は、十香のことしかみていなかった。

 

 頬を撫でる。死した後、より艶やかな肌の張りは無くなり、人肌の温もりは消え去っている。

 精霊(ひと)の温度ではない冷たさは痛覚を刺激し貫通し、そのまま心臓に突き刺さるようだった。

 でもこんな痛み、十香の無くなった痛み(・・・・・・・)に比べれば、大したことはない。

 

「十香。おれ言ったよな」

 

 その痛みを治したいと、癒したいと叫んだ。

 ……馬鹿だな五河士道。叫ぶだけで治るワケがないだろうに。

 

「すべての人間がおまえを否定しても、俺が肯定するって。否定してくる奴らの数倍以上に、おまえを肯定するって」

 

 動かなくちゃいけない。

 頭で考えても、心で思っても、言葉にしても駄目ならば、体を動かさなければ駄目なのだ。

 士道は右手を開いて閉じて、握力の具合を確かめる。抜けてしまった気力と膂力を取り戻し溜めこもうと拳を造る。

 

「俺は、おまえは死なせない。肯定ってそういうもんだ。おまえ自身が否定したって聞いてやらねえ。

 今日は初デートなんだぞ? 一緒に楽しめてデートになったのに、こんなデッドエンドが罷り通るなんておかしいだろ」

 

 同意を求めるように言うも返事がくるはずも無く、士道は一方的に語る。

 拳を解き、だらりと腕ごと垂らす。

 振り子のようにふらふらと小さく揺れ、瞬間、瞬きより速く、残像が写る軌跡を描きながら、士道は腕を動かし…………

 

「男に二言はないんだ。だから、生きてくれ、十香」

 

 

 言い訳を述べるように、行動を起こした。

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 ――――数分前。

 

 

 

「なにぐずぐずしてるのよッ!! 解析はまだ出来ないのッ!!?」

 

 怒号が艦橋に轟く。むしゃくしゃと騒ぐ振動は艦全域に響き渡り、微細な地震となって<フラクシナス>を(ひず)ませる。五河琴里も細かに振るえて怒りが高まり、貌を(ゆが)ませる。

 大本はモニターに映る黒いドームであっても、切っ掛け程度のものでしかない。

騎馬と主の揺動が、クルー達を忙しなくさせる。

 

「……すまない。現状は〝分からない〟が限界だ。解析はおろか、観測すら出来ないのではどうしようも―――」

「周辺の空間との比較っ 熱源でも電波でもいいから異常を見つけるのよ!! 出力を最大にして周波数と波長を徹底的に調べなさいッ!!」

「司令、落ち着いてください。御気持はわかりますが…」

「うるさいッ!!! 知った風な口聞くんじゃないわよッ!!! アンタもさっさと調べなさいッ!!!」

 

 罵声を散々に飛ばし、錯乱したと見紛うばかりに琴里は平静を失っていた。

 琴里の言った事柄は既に実行済みだった。<フラクシナス>の有している顕現装置(リアライザ)がASTのそれらの性能を上回ってるのに加え、村雨令音解析官と神無月恭平副司令官は優秀で聡明な人材だ。クルー達はただ平々と頷き、司令直々に指示を出さなければ動けない木偶の坊ではない。それは誰よりも五河琴里司令官が理解し信頼している筈なのに、今はどうだ? 闇雲で見当ハズレな指示はしていないも、独り善がりの…独裁に近い言動で部下たちを働かせている。

 しかし理不尽の一歩手前でも、令音と神無月は粛として受けてめている。令音はいつも通りの平静さで、神無月は上司の責苦に悦に浸らず、他のクル―も憤りも白けもせずに琴里の命令に従っている。

 

 <フラクシナス>の、<ラタトスク>の完全敗北であった。

 みなまで言うまでもなく、保護すべき精霊(十香)が討たれた。行動思想と理念に反してしまった。初陣にして完膚なきまでの敗北の黒星を飾ってしまった。

 

 偏に五河琴里のミスだった。

 途中まで茫然自失となっていた琴里であったが、その後は何とか持ち直して傍観を決め込み、士道と十香の成り行きを見守っていた。兄は初めてにしては中々のエスコートをしていたし、十香の感情パラメーターも良好だった。最後のクライマックスでの告白は遣り過ぎであったが、それもこれからのフォロー、アフターケアでどうとでもなる程度(レベル)だった。

 

 士道にミスは無かった。ミスをしたのはやはり琴里であった。

 ASTがあんな強行策に乗り出すとは想定外だった。思いもしなかった。侮っていた。

 <フラクシナス>のレーダーにはちゃんとASTが二人の周囲に潜んでいる事を探知していた。なのに琴里は無視した。当然だ。令音も神無月も異論は無かった。確かに霊装を解いているほどの隙を見逃すASTではないだろうが、表向きは一般人の士道が傍にいて、その他大勢の天宮市市民が変わらぬ平和な日常を過ごしていたのだ。民間人への被害、なにより機密事項に触れるASTの存在そのものが衆目に曝されるかもしれないのに攻撃を仕掛けるわけがないと、勝手に(・・・)思っていた。

 ASTに大掛かりな人事異動でもあったのか、今までのやり方とは思えない過激な行動だった。

 その結果、十香の死亡。そして―――――

 

(おにーちゃん……っ! …………おにーちゃん……っ!)

 

 楽観視による判断ミス。しかし、琴里の頭の中には反省も何も無い。

 兄の悲痛の貌と悲鳴。琴里を埋めているのはそれだけだった。

 

 ――――私が、おにーちゃんをあんな目に合わせた。

 

 ホッと息を付いていた。

 十香と過ごしていくうちに〝ソレ〟は無くなっていった。代わりに何かおかしな挙動を取ったりしたが〝ソレ〟ではなかったから気に止めはしなかった。気になったのは最後の告白だけだ。合って間もない女の子にあんな大胆発言をするなんて……やっぱり一目惚れだったのかと冷汗を掻いて落ち着かなかった。

 そう思った矢先、十香が撃たれた。血が飛び散り、小さな地獄が士道に降りかかった。

 その時の士道は、思い出すのも辛いくらいの〝ソレ〟に……絶望に染まっていた。それも〝あの時〟以上に、染まっていたかもしれない。

 直後、十香から黒いドームが形成され、琴里はどうすることも出来なかった……今も、だ。

 

 苦しい……心臓がじわじわ嬲られているみたいで苦しい。

 士道が戻ってしまっている(・・・・・・・・・)んじゃないかと思うと(・・・・・・・・・・)、どうなるのか自分でも分からない。

 

 正体不明の黒いドームがどんな物かなどどうでもいい。なんでもいい。士道を、兄を、おにーちゃんを一刻も早く救出しなければならないのに―――

 

 まだか、まだか、まだなのかっ――――!?

 恐怖の絶叫と切実な願いが罵倒になって喉を鳴らす。

 部下たちは調査を続けるも一向に報告は上がらない。自慢の艇でも一切判明しない黒いドームの正体。どの企業、どの世界よりも進んだ顕現装置技術を持ってしても分からない事の重大さを認識していなかった琴里だが、その方が良かっただろう。

 

「司令、アレを!」

「――――ッ!?」

 

 余計な詮索に嵌まらず、二人を確認できそうだったからだ。

 黒いドームは独りでに破壊されていった。バラバラの破片となって消える黒いモノの中に見える二つの影。

 これでやっと様子が分かって――――

 

「…………ぁ」

 

 弾け散る破片はやがて消え、中にいた士道と十香が現れた。

 倒れ伏す十香と、両膝をつき茫然としている士道。

 十香は…………駄目だった。目を閉じ、遠目でも見える体に空いた大きな穴。夥しい血の量。もしかしたらなんて希望的観測なんてなかったが、目の中りにするのとしないのでは受ける衝撃は違った。

 

 目の前で目撃なぞすれば、もっと―――――

 

「………ぉ、に……ち、ゃ……ん」

 

 士道は何ともなかった。制服が血で塗れているだけで、怪我らしい怪我は無い。あったとしても判別し辛いが、苦しんでいる様子はなかった。

 

 

 怪我で苦しんでいる様子は、だ。

 

 

「転送ッ!!! 今すぐ士道と十香を<フラクシナス>(ここ)に転送してッ!!」

「え!? し、しかし、近くにはAST隊員が―――」

「いいから早く!! このままじゃおにーちゃんが、おにーちゃんが……ッ!!」

 

 戸惑う声に琴里は罵声ではなく、悲壮極る涙声で指示を出した。黒いリボンを付けているのに、琴里は白いリボンよりも弱く兄を呼ぶ。かつてないほどの動揺を隠すことも出来ずに少女の顔で懇願する。

 モニターに映るのは士道と十香、そしてAST隊員二名。

 内一人の少女は士道に話しかけている。精霊と関わりを持ったとかで駐屯基地にでも連れていこうとしているのか。

 喋るなと、今の士道に話しかけるなと怒鳴り散らしたかったが、声が上手く出せない。

 それより転送だ。琴里は今すぐ士道の傍に駆けよらなければならない。

 

 駄目だ(・・・)

 

 アレは(・・・)駄目だ(・・・)

 

 ASTに<ラタトスク>の存在が知られるだとか後の因縁に繋がるだとか、いまの士道の前では何の意味もない。

 

 今すぐ士道に会わなければならない。

 あの士道を、止めなければいけない。

 

 あの、自殺でもするんじゃないか(・・・・・・・・・・・・)と疑う顔の士道をなんとかしなければいけない―――っ

 

 だが、

 

「え?」

 

 

 士道の前では何の意味もない。

 

 琴里の言い分は正しかった。

 

 

「え? ……え、……え?」

 

 ただし、それは琴里自身も含まれていた。

 琴里がどれだけ士道を心配しようが、何の意味もない。

 琴里が士道に駆け寄り抱きしめて慰めようが、何の意味もない。

 琴里が士道を救おうとしても、何の意味もない。

 

「おにー、………ちゃん?」

 

 モニターに映っていた士道は、

 

もう終わっていた(・・・・・・・・)

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 

「乱暴な真似はしません、どうか――――」

 

 生々しいナマモノを捏ねたかのような水音と、鉱物を破砕した時に発するような暴音が、鐐子の耳に、折紙の耳に届いた。

 臨戦態勢を瞬時に張ったのは二人が魔術師の中でも優秀だからだろう。鼓膜に飛び散ったかと誤認する陰惨の音は、台所からでも工事現場からでもなく、肉と骨に異常を喫した人体から響いた音だと直ぐに理解した。

 問題は誰の人体から鳴ったかだ。 

 折紙ではない。鐐子ではない。

 <プリンセス>が生きていた? ……ない。アレは完全に死んでいる。動けるはずがない。

 では誰が? そう問うたら指をさされて笑われることだろう。

 公園にいるのは4人だけだ。上空にいる隊員は論外。

 小学生でも出来る消去法で、答えは残りの一人になる。

 

 

 

 音は、五河士道の胸によって出たものだった。

 

 心臓を取り出す際に(・・・・・・・・・)出た音だ(・・・・)

 

 

 

 折紙は、鐐子は、声の出ない悲鳴すら上げられなかった。瞠目し、完全な思考停止に……見ている者全員が落ちる。

 

 この光景を現実として見ることが人間に可能なのか。

 少なくとも普通の人間ではない、人を踏み外した世界を知っている者でも無理だった。

 この場にいるAST全隊員、この場を監視している<フラクシナス>全クル―、誰もが何も言うことができなかった。現実として目に映る非現実を見ているだけしかできなかった。

 士道の右手に乗っている心臓。本来あるべき場所に離れているのに、未だに力強い脈動を刻み、持ち主を生かそうとせっせと働いていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 空洞になった胸からは噴射する血。千切った勢い余って十香に罹ってしまい、ニ、三メートルは超えた先の地面をも血で濡らした。

 十香と同じ致命傷を負った士道だが、その顔には激痛への疑問も苦悶もない。なにせ〝自分で〟抉りだして取ったのだから、あるはずがない。

 

 なぜこんなことを、と聞けば士道はこう言うかもしれない。

 

 ――――漫画やアニメだと心臓って蘇生なんかに使われるのが多いんじゃないかな、と。

 

 気が触れた考えだった。

償いの自傷であり、無能の対価を支払う。懺悔としてもどうかしている。十香の死がここまで士道を追い詰めていたという狂いよう。妄想の産物に縋り頼ってしまう士道は、心臓よりも前に心よりも大切なものに穴が空いていたのかもしれない。

 

「………五河、……士道……。なにを、………してるの………」

 

 手に乗せてある士道の心臓が血を撒き散らすのをやっと現実として見た折紙が混乱しながら震える声を漏らす。

 人間が膂力のみで肉を抉り骨を砕き心臓を掴み出すなんて無理だ。魔術師でもないかぎり不可能だ。でも五河士道は魔術師ではない。顕現装置も随意領域も張ってないし魔力だって感じない。状況を見れば士道は膂力のみで心臓を抉ったとしか言えなかった。

 どこにそんな、どこからそんな力を引きだした。貴方は人間なのに、何故そんなことができる……そんな人外の領域に貴方がいる……理解できない。貴方は何者なのだ。五河士道は何者なのだ。折紙は目の前の少年が本当にあの時の少年(・・・・・・)なのかと疑念に渦巻いていたが、士道は応えず、まだ狂気に動いていた。

 

 自分の心臓を、十香の胸に押し込んだのだ。無理矢理詰め込み、単に空いた穴を埋めているだけの、雑すぎる心臓移植を施していた。

 

 もはや理解してはいけない行動に、士道の正気がとっくに消え去ってしまったと悟るには十分で、それで何が変わるというのか、疑問は輝きとなって返された。

 心臓を埋め込まれた十香の胸が燦然と光り輝いたのだ。

眩い光に胸が白く染め上げられ、血みどろな十香を浄化し、生気が清純と潤って身体を清潔にしていく。肌が火照り、赤みを増して活気づく。力がみるみる満ちていくのがみて分かる。

 これは祝福だった。

 新たに生まれ変わる命へ捧げる賛歌。ようこそ常世へと歓迎する天使の階段に照らされるように、昇るためではなく降りるための美しき光が十香を神秘のベールで覆う。

 

 

 かくして、奇跡は十香を動かした。

 

 

「――――――――――ぅ、っが、は……ッ!」

 

 咳きこみ、息を吐き出し、呼吸を整える。光はもう無く……孔も無かった。来禅高校のブレザーも新調したように汚れも無い、どころではない。ブレザーなのに、高校の制服なのに十香の霊装<神威霊装(アドナイ)十番(メレク)>よりも煌めき神々しく見える。身体もよりきめ細かい肌になり、元からの素材が超級だった十香の容姿が、更に天上知らずの美しさとなって―――目を開けた。

 完璧に、完全に、確実に、絶対に、死んでいた十香が、甦った。

 折紙も、鐐子も、言葉が無い。琴里もそうだった。黄泉帰り。どんな人間も夢想する神の奇跡を目の当たりにしたのだ。家族がいて、恋人がいれば、いずれ誰もが望ずにはいられない願いが眼前で起き、それが人間の手によって果たされたのだから。

 それがどれだけの奇跡か、しかし当の本人は熾した奇跡など手段に過ぎなかった。

 士道は、ただ目的を達成した事実に喜んでいた。

 

「――――十香」

「はっ、はっ………………シドー?」

 

 眠りから覚めた十香は若干の息苦しさを感じさせるも確かに生きていた。

 生きているのだ。動いて、士道の声に返事をくれる。夢じゃない、十香は生き返ったのだ。士道は、十香をゆっくりと抱き起こした。

 

「――――どこか、痛いところとかないか? 気持ち悪いとか、ないか?」

「あ、ああ。………大丈夫……いや、……え、……あれ、………私は、………生きているのか……? でも、……なんで?」

 

 ボヤケ気味だった目がくっきり開いて、漸く十香は身に起きた不可思議の事態に混乱した。胸を触って空いていたと思っていた孔が見る影もなく、心なしか体の調子が頗るいい。軽くて暖かくて気持ちいい。特に、無くなった筈の胸――心臓のあたりから溢れる力強い鼓動に、十香は何物にも代えがたい想いを懐いていた。

 

「……シドー、一体なにが……?」

「――――気にすんな十香……助かった。おまえは助かったんだ。それだけなんだ」

 

 辛抱堪らず、士道は十香を抱きしめた。薄汚い自分が抱きしめてしまうのに躊躇を覚えるも、今は―――十香の羞恥の身動ぎも無視して感触を確かめる。

 

「お、おい、し、シドー…っ…?」

「――――生きてくれ………生きてくれ十香。死んだ方が良いなんて、言わないでくれ。おまえの言ったことは、全部俺がなんとかする。直ぐには無理かもしれないけど、その間は、俺が十香を護る。今度こそ絶対に、どんなことからもおまえを護る」

 

 俺を信じてくれと士道は十香と一つになるように抱きしめた後、距離を置いて見つめ合う。

 

「――――先に謝っとく。こんなのどうかしてるんだけど、十香。まず、おまえの霊力を封印する」

「え、…ふ、……ふう、いん?」

「――――ああそうだ。そのままじっとしてくれ」

 

 まだ混乱から立ち直っていない十香の頬に手を添え、位置と角度を調整する。何をするのか分かっていなくとも、ドリームランドと同様の気配を感じてか、顔が熱くなっているのが手から伝わる。

必要な事とはいえ、また十香を蔑ろにしてしまう士道。許してくれだなんて言えない、士道は、二度も取り返しのつかない過ちを犯した。士道はこれから徹頭徹尾、十香に尽す道を進むのだ。さっきのは(・・・・・)その手始め。十香の幸せ。十香の望み。十香の安全を士道は勝ち取らなければならない。

 これはその為の行為。十香が戦わなくて済むように、その源を断つ。霊力を失ったらまたあの悲劇に襲われるとも限らないのに、士道は大丈夫だと信じて疑っていなかった。

 そして、士道は顔を近づける。逃がさないとばかり顔に固定されている手は思いのほか力を入れてしまっていると感じて士道は力を緩める。避けられるかもと不安に駆られるが十香が嫌がるなら仕方がない。別の方法を講じるだけだ。

 

 ―――そんな軽く気の抜けた気持ちだった。

 手の力を緩める、それだけのつもりだった、のに……士道の手は十香から離れて宙ブラリと垂れてしまった。

 

「――――……?」

 

 うん? ……士道は意に反して力を抜き過ぎている自分の手、腕を奇怪に思いながら再度力を入れてみる。

 だが、全くと言っていいほど力が入らない。

 それだけじゃなかった。手や腕だけじゃない、力が抜けるどころじゃない。全身が、意識が、自分の元から離れていく。

 尋常ではない脱力が、十香に近づこうとした士道を地面に縫い合わせた。

 苦痛の声の代わりに出たのは血の津波。溺れると誤認してしまう血の逆流が口の中に収まりきらず、さながらマーライオンのように(みず)を吐いていた。

 

「……シドー? ………………………シドーっ?!」

 

 生き返ったばかりの十香は倒れた士道と血を見るや、やっとソコ(・・)に気付いた。

 絶え間ない混乱における、最大の混乱が士道の胸に集中する。

 

「………その、胸は………………なにをした? 何をしたんだシドーッ!?」

 

 絶句しかける衝撃を抑えつけて十香が驚愕の大声で問い質す。

 しかしそんな大声を上げているのに、士道の耳には些かの音も聞こえていなかった。何もかもが抜け出る離脱感が耳を遠ざけ、士道を眠りへと引き摺り下ろす。強烈で強引な眠気は、学校の授業の居眠りなんかでは満たされない欲求で、二度寝と似た幸福感を百倍掛ければ近づけるかもといった誘惑だ。

 

「シドーッ、シドーっ!!! 駄目だ! 起きろ!? 目を、目を開けてくれッ!!」

 

 この上なく幸せだった。このまま眠りに着けば実に心地良い夢を見られそうだと抗い難い沈没に、十香が必死に待ったと叫ぶ。申し訳ないと思うが、限界だった。

 少しだけ、少しだけでいいから休もうと、士道は自分を甘やかした。

 敵対するASTが周囲にいるのに、無防備にも休もうとする眠気は、つい士道の瞼を閉じさせる。閉じる寸前に見えたのは何故か(・・・)目に涙を溜めている十香と、いまだに呆然としてこっちを見ている鳶一折紙の姿だった。

 折紙が呆然としているのは置いといて、どうして十香が涙に歪んでいるのかが士道にはわからなかった。

 

 

 ………ああ、そうか。デート中に眠るなんて失礼にも程があるからか。

 でも、ごめん十香。本当に眠くてしょうがないんだ。ちょっとだけ寝かせてくれ。

 二日間、色々あり過ぎて疲れたんだと思う。我ながら体力が無いと笑ってしまいそうだ。

 

 これからは色々と鍛えた方が良いだろうな。十香を護るためにも何か始めるか。

 体力付けるなら毎朝ジョギングがいいかもしれない。千里の道も一歩から。地道が一番の近道って言うし。

 琴里に頼んで特訓メニューを組んでもらうか。体力も精神も、デートのやり方も徹底的に鍛えてもらおう。

 そうすれば、今よりマシな自分に生まれ変われるかもしれない。頑張って、頑張って、自分で成長したなって自慢できるくらいに変わっていけたら……。

 

 そしたら……十香、またデートしてくれないか?

 その時は、今日以上に楽しめるようにする。

 フられたんだけどさ、諦めきれないんだ。

 俺、おまえが好きなんだ。一回フられただけじゃ納得できないんだ。割り切れないんだ。

 

 俺を、おまえの生きる理由に……………。

 

 だからまた、俺にチャンスをくれないか?

 世界に見せつけてやろう。人間と精霊でも一緒にいられるって。生きていけるんだって。

 俺と一緒に、ずっと一緒に生きよう。

 誰にも理解されなくても、俺は十香の味方でいる。

 

 だから十香。

 

 ――――………………………とう、か。

 

 

 ―――――――――――――――――――。

 

 

 

 

 

 夕陽がまだ天宮市を照らしている。茜色に混ざっている夥しい血の色は、恐ろしいが故に歪な美しさを高台公園に生みながら、逢魔時によって死後の世界が再現されているかのように静まり返っている。生き物が眠りに着くまでの時間にはまだ早いのに、公園にいる者、公園を見てる者は十香を除き皆が死んでいるかのように何も言わない。

 どうしていいか分からず、なにが起こったのかが分からず、これを混沌(カオス)と言わず何とすればいいかが分からなかった。

 

 自分自身の混沌を正しながら、この場における〝謎〟は、誰もが共通している認識だった。

 一般人と、人間だと思っていた少年が見せた狂気と奇跡。

 彼は何者なのか、彼が何故こんな事ができるのか、強弱はあれど全員が望んでいる〝謎〟への回答は……それが叶わないことにも強弱があれど、全員が認識している。

 この場の混沌における〝真実〟は、倒れ込んだ死体だけしかないのだ。

 

 だがその死体にしてもちゃんと向き合っているのは十香のみだった。

 大勢の人間に看取られながら、悲しみすら碌に向けられず、死んだ本人すら生への足掻きを見せることもなく、

 

 

 

 

 

 その存在を晦ませたまま―――――――――――五河士道は、息絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                  十香リスタート END

 

 



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狂三モーメント

 

 

 

♦ ♦ ♦

 

 

 

 

 

 

子供たちが遊びを終えて「また明日」と別れていき、奥様おば様方が夕飯の買い物をするためスーパーに、商店街に出掛けていく。

 赤の夕日と黒い影が街に遍き、各々の時間割を全うさせようと世に蔓延る。

暗くなる前に帰ろうと、用事を済まさなくてはと時計代わりの街景色を見やるも、大半の人々の意識は目的にしか割かず、焦燥感に駆られて足を速く動かしているのが殆どだった。

 では目的がない者は、この黄昏時を見て何を思うのだろうか。忙しく立ち回る必要のない人間は、この時間帯を彩る光と闇に何を思うのか。反目する前者と後者に、人はどちらにより心を奪われ刻まれるだろうか。寄り添っていくだろうか。

 

 あるいは双方、というのも有るかもしれない。なにも二者択一でなければいけない決まりはない。郷愁のような想いに焦がれる浪漫を感じる夕日。闇を生みだし得も言えぬ不気味さを感じる影。それぞれの良さと悪さにどっちつかずの優柔不断な感想も人によってはあり得るものだ。

 

 

 ――――――彼女は特に、そんな印象を与える身形をしていた。

 

 

 彼女は超高層ビルの屋上に立っていた。

波居る摩天楼の中でも、額面通り群を抜いた高さを誇る高級ビルで一人、所在なげにしていた。親に連れられ社交界に訪れるも上っ面だけの裏が隠されたビジネスの話に退屈して屋上に逃げたような様相で、鬱鬱とした溜息を出した。

 彼女はパーティから抜け出したのか? 格好は正にそういう場でしか着ないような服だった。

 フリルとレース、パニエとヘッドドレスとをあしらうゴシックロリータの服装をしていた。秩序正しく編まれた上質な生地は貴族然とした品格とお譲様然とした可愛さがありながら、肩と胸元は晒され、背中を覗かせる作りは、下手な娼婦よりも淫靡な格好に見える。彩る色は赤と黒――――夕日と影と同じ色であれば、受ける印象、抱く思いも同様で、清濁含める奇奇怪怪な魅力が彼女にはあった。

 そんな秀逸した一品を着こなす彼女自身は、なんとも逸脱した容貌(・・・・・・)をしている。

 誤解を招く言い方だが、これは彼女が不細工という意味ではない。透き通る美白肌は扱いを間違えば瞬間(すぐ)に黒ずんで汚れてしまいそうな儚さで、触れただけで壊れてしまうのではないかと過度な心配をしてしまう。顔の造形も、美に美を重ねた黄金比率の見目麗しさに、男は(うつつ)と魂を抜かれてしまうことだろう。

 

 ……逸脱しているのは、髪型か。

 彼女は長い漆黒の髪を左右不均等にした風変わりな括りをしていた。無造作にまとめ上げたのかと思う髪型は逸脱しているといえば逸脱している……しかし違う。左右不均等な髪型程度で彼女の美しさは変わず損なわれてはいない。これもファッションの一環かと勝手に納得するだろう。

 

 彼女が逸脱しているのは――――左目だ。

 否、〝左目〟と言っていいものなのかどうか余人には解らない。

 

 その左目は時計だった。

 その左目には、時計があった。

 

 カラーコンタクトの一種なのか、凝った商品があるもんだと興味を引かれそうになるが、ただ時計の形をしているわけではなさそうだった。

 

 ……時計の針が動き、ひとりでに回っているのだ。

 ぐるぐるぐるぐる……左目の時計は逆へと回っていく(・・・・・・・・)。確たる意志を持って、反時計回りに回っている。

 

 彼女の左目の時計は、本物である(・・・・・)

 ……これは時間。彼女の命を計る天秤であり、逆回りは即ち〝時間の補充〟に他ならなかった。

 

 日が落ちると共に日差しが角度を変え、彼女を明るく照らし、彼女の影を濃く長くする。陽を背後に控えさせることによって見えなくなる彼女の素顔は、光りが眩しいから見えないのか、闇が深くて何も写さないのか。

 それとも、哀傷に暮れる彼女の俯き加減の表情が、あまりに憐憫すぎて目も当てられないからか。

 

 ―――二度目だが、彼女の左目の時計は見世物ではない本物であり(・・・・・)逆回りは即ち(・・・・・・)時間の補充(・・・・・)に他ならない(・・・・・・)

 

 時間とはなんだろうか?

 過去の歴史と記憶を蓄積するもの。

 現在の営みと財産を浪費するもの。

 未来の夢と希望を樹立させるもの。

 実に様々な意味を持ち、区区たる側面を持つ時間ではあるが、そんな時間でも意味と側面を一纏めにした象徴がある。

 

 それは、圧倒的に絶対(・・・・・・)だということである。

 時間とは、不変であり、不可逆であり、絶えないもの。

 朝に始まり昼が過ぎ夜に終わる。

 子供は時間を重ねる毎に大人へ成長していき、老人へと衰退する。

 人は時間に縛られる運命にあり、それと上手く付き合っていかなければならない。誰も時間の主導権は握れないのだ。

 

 間に合わなかったら置いていかれる。時間は待ってはくれないからだ。

 前もって準備しても先になにが起こるか分からない。時間は追い越せないからだ。

 始めてしまったらもう取り消せない……時間は巻き戻らないからだ。

 

「ああ、ああ―――」

 

 だからこそ、人生に挫折すれば誰もが口にするのだ。ああすればよかった、こうすればよかったと、後悔に塗れながら口にするのだ。

 そして誰もが思うのだ――――時間を自由に操れたらいいのに、と。

 

「これでやっと〝一年分〟でしょうか? これだけの犠牲(・・・・・・・)を何度も払って、これだけの時間しか貯まらないだなんて……本当に燃費の悪い子ですわね」

 

 故に彼女は………時崎狂三は時間を補充する。

 例えそれが、幾人の命を奪うことであろうと。

 例えそれが、永劫叶わぬものであったとしても、狂三は時間を求めるのだ。

 

 アレを(・・・)なかったことにする(・・・・・・・・・)ために、狂三は時間を手に入れようとするのだ。

 

「足りませんわ、足りませんわ。こんなのじゃ、ちっとも足りませんわ。

 ああ、ああ、いつまで続ければいいのでしょう? まるで従僕。まるで輪廻。これだけでは直ぐに〝他の弾〟で使い捨ててしまいますわ」

 

 ―――時崎狂三は精霊である。

 識別名・<ナイトメア>――――〝悪夢〟を冠する仰々しい名を付けられた彼女は、そんなものをおくびにも出さず、独り寂しく落ち込んでいた。一人舞台の上(ビルの屋上)に立ち、悲劇を顕に演じる狂三(名優)はさも悲しそうにしている。

 ……このビルの中に居る人間全てを喰らいながら(・・・・・・)、抑うつと診断されそうな面持ちでいる。

 

 精霊が空間震の発生源なのは世間の常識ではないが、世情と関わっている人間にとっては常識の事象である。被害と規模は精霊の個体によって異なり、昨今の空間震被害でユーラシア級の災禍は起こっていない。三十年を経てシェルター普及率が上がり、顕現装置(リアライザ)という魔法の種類が増えたことで専用の災害復興部隊が編成されていることもそうだが、そこまで巨大な空間震被害を出す精霊がいないのが何よりも大きかった。

 <ナイトメア>と呼ばれている狂三もそうだ。空間震規模は標準程度。小さくもないが大きくもない基準点の領域で、悪夢と呼ばれる程の危険なものではなかった。

 

 狂三の名が<ナイトメア(悪夢)>たる所以……それは、自らの意思で人間を殺しているからだ。

 

 その人数は判明されているだけでも一万人以上。判明されてない者を加えればもっと増えると言われている。

 そして狂三がこの超高層ビルに居る理由。そう、〝時間の補充〟とは、人間から時間という寿命を奪うことを意味しているのだ。

 

 狂三の持つ天使―――<刻々帝(ザフキエル)>。

 有する能力は〝時間〟に関するもの。……圧倒的で絶対な概念操作が可能なのがこの天使の特異性である。

 時を止め、時を速め、時を巻き戻す。そういった考えうるかぎり最強無敵の効果を持つ()が生成可能な<刻々帝(ザフキエル)>は、現存する天使の中でも一味も二味も違う破格の力を持っている。

 ただし、そのハイスペックの力を使うには往々にしてハイリスクを背負うものである。

 <刻々帝(ザフキエル)>の力を使うには使用者本人の時間、即ち時崎狂三の寿命を使わなければいけないのだ。時間を使うには時間が必要。使えば使うほどに寿命を削る羽目になる狂三は、時折こうして外部から寿命を集めるための〝結界〟を張って人間を襲っているのである。精霊とて命ある生物。人間を超える力があろうと死ぬ時は死ぬのだ(・・・・・・・・)

 

 だから今日も狂三は命を喰らった。<刻々帝(ザフキエル)>によって減量した寿命を埋めるために。〝とある弾丸〟を使用可能とするために喰らった。この超高層ビルで立っているのは狂三のみ。残りの人間は物言わぬ屍のように横たわっている。

 しかし悪魔の所業を犯しても、狂三が悲嘆しているのは殺人まがいをした自分に対するものではない。人間に対する哀れの手向けもしていない。

 

 狂三は恋に散る少女のように、純粋に、悲しんでいた。

 

「………<刻々帝(ザフキエル)>」

 

 静かな呼び声に、狂三の影が歪み、湧き出るように固まり、彼女の身長を超える巨大な時計が現れた。

 西洋風のアンティーク時計は、大きさを除いても奇妙な点があった。長針と短針が銃になっている点と、文字盤の『Ⅵ』の数字が白く色を失っている点だが、そうなっているのを知っている狂三は違和感を抱いてはいなかった。

 時の力のシンボルに基づく形をしている<刻々帝(ザフキエル)>に、狂三は身を擦り寄せ身体を預ける。我が子を撫でる母のように優しく手で触れた。

 

「……(とき)(みかど)と書いて<刻々帝(ザフキエル)>………ああ、<刻々帝(ザフキエル)>。あなたはそう呼ぶに相応しい子ですわ。

あなたは光。あなたは希望。あなた無くして、わたくしの見果てぬ夢を叶えることはできませんわ」

 

 ―――なのにあなたは、わたくしのやるべきことを指し示しても、わたくしを導いてはくれないのですね。

 

 そっと目を閉じ、狂三は物思いに耽る。

 時崎狂三には、どうしても叶えたい夢があった。

 叶えるには気が狂うほどの時間が必要で、夢と言うには歪すぎる悲願。それでも諦めきれずに自らの為に人を殺し、殺され続けた(・・・・・・)少女。

 人間は狂三を忌み嫌い、魔女狩りの如く火炙りとするのを躊躇わないだろう。精霊を識る組織の一部からは〝最悪の精霊〟としてこの身を追われている。狂三はそれを五月蠅く思ってはいても、受け入れてもいた。それだけの狼藉をしたという自覚はあるし、そうなるだろうという〝覚悟〟と、そうするだけの〝覚悟〟もしていたからだ。そうでもしなければ、到底辿りつけない夢なのだ。

 

 でも……、狂三の願いは遠すぎた。

 〝覚悟〟が足りても、〝時間〟が絶望的に足りなかった。時間を操るはずの自分が時間に悩まされるなんて、結局狂三も時の囚われ人なのだ。人間と同じく等価交換に則らなければ何もなす事が出来ず、むしろなまじ時を操る力を持っている分、時間にいい様にされている気がしてならなかった。

 皮肉と滑稽がいやが上にも狂三をセンチメンタルな気分に盛り上がらせる。

 進む道には闇ばかり。炎のランプにも満たない脆弱なライターの火では足元も見えず、狂三は思わずたたらを踏んでしまった。

 このビルに居る人間全員を殺してはいない。いかに時間が必要とはいえ人間の大量死を引き起こせば大騒ぎになる……それが分かっていながら、狂三はこんな大企業丸出しの超高層ビルに目を付け人間から時間を奪ってしまった。

 多くの人間が居るという理由だけで、所構わず闇雲に時間を奪うのは浅はかだ。人間に社会という枠組みがある以上、異変があれば直ぐではなくても警察機関が動き出し、ASTの耳にも入ることになる。こんな目立つビルなら、もう入っていても可笑しくない。

 戦闘になっても狂三は負けはしないが、それは目標ではない。相対するのは分身(・・)で十分。余分に使うだけの時間などないのだ。

 焦らずじっくり。それが狂三の専らの方針であったが、狂三は時折自分を抑えきれなくなる時がある。焦がれる思いが狂三を無鉄砲にしてしまい、その頻度は日に日に増えていき、比例して多くの人間を手に掛けてしまっていた。殺すぎりぎり(・・・・)まで止められても、殺さなくても関係なく大事になるのも…時間の問題だった。

 

「〝彼女〟以外にも、わたくしを追う魔術師(ウィザード)が増えるかもしれませんわね……編成された部隊で、わたくしたち(・・・・・・)が一気に殲滅される可能性も出てきましたわね」

 

 自分の短慮に溜息を吐きながら、狂三は閉じていた目を開け、黙って顕現している<刻々帝(ザフキエル)>を見上げる。

 

「……あなたを衆目に曝さなければいけなくなるかもしれませんわ。本意ではありませんが、いずれやってくる宿命が早まっただけのことですし、……頃合い、でしょうね」

 

 上策ではないと分かっていながら、狂三は魔術師との戦いを視野に入れて今後の動きを変更することにした。

 守勢を攻勢に、大胆不敵に〝彼女〟を挑発するように時間を溜めていく……戦う時間を増やすのもあるが、そう指針を変えると誓わなければ心身とのズレがいざという時に力を発揮できなくさせるかもしれない。

 決して自棄になってはいけない。自分が招いた結果として厳粛に受け止め、その時その時の的確な対処をする。そして安全圏からは見えなかった光明を探り出し、目的に一歩でも近づける道を見つけるのだ。

 

「であれば、わたくしは革めて〝覚悟〟を決めましょう。人を殺し、殺される〝覚悟〟を、革めて誓いましょう。

そしてもっともっと増やしましょう。より多くの殺戮を、より多くの搾取を行使致しましょう。

元より邪念の化身たる我が身。後戻りできないのなら進むのみ。闇で先が不明瞭ならば血の通り道を創り上げましょう」

 

 バックステップを踏むように<刻々帝(ザフキエル)>に背を向け、狂三は右手を天高く掲げる。楽団をまとめる指揮者のように、中途半端に放置したこのビルに倒れている全ての人間を皆殺しにするための手段を講じ、組立てる。

 

「さあ、始めましょう。救いようのない惨劇の、その前奏を奏でましょう。

 ……さようなら、可愛い哀れな人間の皆さん。せめて言葉だけでも贈って差し上げますわ。

あなた方の時間は、わたくしのために遣わせて戴きますわ」

 

 ――――彼女は夕陽が擬人化した存在なのかもしれない。

 温かさのない、血の通わぬ哀悼を述べ立てる狂三。なのに、その顔はどこか誇りのような崇高さすら感じてしまう。

 なにが何でもやってやるという強い意志。貴賎なき陽の部分と身震い止まらぬ殺意の影が織りなす景色。格好だけでなく、その精神も狂三は夕陽のような少女だった。

 だが、狂三のこんな姿を見えるのはこの時しかないだろう。

〝覚悟〟を新たに決めた彼女の前に、人は影しか見なくなる。許されざる罪過に誰も陽の光りを見ようとはしない。その輝きの中にある〝意外な優しさ〟を知り得ることはなく、完全な影が狂三自身を覆い尽くす。

 

 間違っていた。どちらがいいとかの話ではなかった。どちらも必要だったのだ。

 光ではないが闇だけでもない相互扶助な精霊、時崎狂三。

 陽を浴びすぎたら人は干乾びる。影に取り囲まれたら人は沈下する。そんな混沌でありながら奇妙な調和を保っていた彼女が陰のみとなる……もったいないと思わないだろうか? 

 人間は変化を恐れる。突然の選択と急激な遷移が心を圧迫する。永久といえるだけの時間だけで、永遠と言えるだけのモノは築けない。そんなのは無理だ。時間は動き、無慈悲に何もかもを過ぎ去る〝過去〟を仕上げるのだ。<刻々帝(ザフキエル)>を持つ狂三でも手を煩わせてしまう曲者に、人間など屈服と妥協で納得するしかない。

 

 太陽が沈むのは止められない。沈むにつれて闇夜を待つしかないように、狂三の凶行も止められない。徐々に陽が無くなるように、狂三の陽も無くなろうとしている。 

 ……それはとある少年(・・・・・)が見れば、自分の大嫌いな顔と感情になろうとしていると言うかもしれない。

 

 あと少し、あと少しで、夜となり、殺人劇が始まる。

 

 人間に、時間は、どうしようもできない。

 

 狂三の動機がわからない以上、説得もままならない。

 

 ああ、ああ、時間がない。時間がない。

 

 もう少し、もう少しだけ、この黄昏色を見ていたい。

 

 夕陽のような狂三を、綺麗で残酷な美しさを持つ狂三を……ずっと見ていたい。

 

 どうにもできないが、実現不可能と知ってるが、それを見ている自分の衝動を声に出したくて、人は言葉を使う。

 

 想いを出さずにはいられないから、人は言うのだ。言葉だけにでも留めておきたくて、言うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

時よ止まれ――――――

                          ――――――おまえは美しい。

 

 

 

                     

 

 

 

 

と。

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………」

 

 右手を上げたままの狂三の姿勢(ポーズ)は、それだけでファッション雑誌の表紙を飾るのに文句なしの演出を醸し、背景(バック)の日の入りと交錯すれば、分野違いであろうと、挿絵でもいいから使いたくなるほどの絢爛に瞬いてしまう

 狂三はそのまま動かずジッとしていた。

なにかをするための準備が長いのか、既に何かが始まっているのか、安定した状態維持を保持(キープ)している。

 ……それにしても、動かない。

 狂三は人を殺すと言っていたのに、武器を持たずに命を奪えるというのか? 長針と短針の銃は唯の飾りなのか? 正確には〝時間〟を戴くとのことだが、何か別の手法あるというのか? 動いたら奪えないなどの制約があるのか? そう事情を汲まなければ解説できないほど、動かない。

 

「…………………? ………っ、………………!? ……………?! ッ……!??」

 

 

 あるいは――――狂三は、普通に動けなくなっているのか。

 

 

(身体が……っ、!? 手が、…足も、っ、 声も、出ない……?!)

 

 動けないようだ。石になったわけでもないのに、動けずにいるみたいだった。狂三は徐徐に額から汗を垂らし、焦りと驚きに揺さぶられていた。

 もう騒ぎが起きて精霊の仕業と看破されたのか…混乱のなかで一番可能性のあるASTの襲撃を狂三は考え浮かぶが、違うと思い直す。

 魔術師が精霊に対抗する唯一の力である随意領域(テリトリー)の感触を、狂三は分身(・・)も合わせて何度も味わっている。無遠慮に体を弄られる咀嚼感は忘れようにも忘れられない。そんな狂三の感覚器官は随意領域による拘束を否定している。自分を止められるほどの領域ならば尚のこと強く感じる筈だ……特に〝彼女〟のは。

 

(<刻々帝(ザフキエル)>っ!! 応えなさい<刻々帝(ザフキエル)>ッ!!? 

そんなっ……何がおきましたの!?)

 

 しかも動けないのは、動かせないのは狂三の<刻々帝(ザフキエル)>もだった。時間を操るどころか霊力も錬れない。

 ありとあらゆる権利を剥奪された奴隷のような気分に、狂三は戦慄を禁じ得なかった。

 彼女にできるのは意識を保ち、汗を流しながら思考を巡らすのみだった。

 

 随意領域の拘束ではない。ましてや精霊による天使の拘束などもっとない。魔術師よりも同族の気配と匂いの方が馴染み深い狂三が接近を見逃すなんて、そんなヘマはしない。遠距離からの発動にしたって今の隙だらけの狂三に手を出さないのはおかしい。

 

 一体何者だ? 

 随意領域でないなら、新型兵器を開発し装備した魔術師―――考えられるのはDEMインダストリー社の人間くらいのものだ。

 

 デウス(D)エクス(E)マキナ(M)

 魔術師の主装である顕現装置(リアライザ)を開発している組織。

 〝機械仕掛けの神〟などと大それた名前を掲げる表向きは知る人ぞ知る大企業。裏では非人道の限りを尽くす…など、今時流行らない、珍しいくらい悪の組織と言って過言ではないイカレた(・・・・)会社。そう簡単に紹介できる悪どい連中ならこんなことができるかもしれない。

 同じ穴のムジナとして、そして自分の悲願を阻んでいる集団として何かと係わっているがDEM社だが、目的がわからない。

 自分を止めているだけで何がしたいのか、狂三は動かせない目に見える視界から情報を得ようとし、今になって気付いた。

 

 遠い地平線。陽の光と雲の流れ。ビルから辛うじて見下ろせる街の人々、車の動きが、写真でも見てるように止まっていたのだ。

 豆粒程度にしか見えない位置でも〝止まっている〟と、狂三には(・・・・)理解できた(・・・・・)

 それだけではない。高所故の肌寒い風が、風切り音と共に制止していた。匂いも無くなり、夕陽から送られた熱も途絶えたが、寒くなってもない。

 

 狂三は直ぐ(・・)に解った(・・・・)………覚えがあった。この現象に。

 それなのに「なにが起きた?」「なんだこれは?」と言ったのは、解らないからではなく、信じられない思いだったからだ。

 狂三は、まさか(・・・)そんな馬鹿な(・・・・・・)、と驚愕したのだ。

 

(…………ありえませんっ、………ありえませんわ?! 止められたのはわたくしじゃないっ………………止められているのは、世界……………止まっているのは、〝時間〟!?)

 

 誰にも分からなくても狂三には解った。時間を操る狂三が持つ体感時間、時間感覚等といった時間の動き、流れ、長さ、向きなどに対する第六感が、今この時、狂三が手を下そうとした瞬間、時間が止まったのだということを直感で理解させた。

 これを認識しているのは、恐らく狂三だけ。人間も動物も魔術師も、精霊も、自分たちに何が起こっているのか分かっていないだろう。狂三が意識を持っているのは時を司る<刻々帝(ザフキエル)>の加護なのか、何にしてもいま狂三には何もできないことに変わりはなかった。〝時間停止〟は狂三でも使用可能の能力であるが、人間一人を止めるのにも其れなりの寿命を使うのに、世界を相手に時間を止めることなど不可能だった。解除する為の〝時間加速〟を使っても、狂三の寿命では自分だけでも動かしきれない。

 

 これはもうDEM社の仕業云々の次元ではなかった。魔術師にこんなことはできない。

 精霊でも説明しようのない〝ナニか〟が世界の時間を止めたのだ。

 

(くっ?! ぁぁ……ッ!?)

 

 その時―――

 顔を動かし表情も作れない狂三が、精神の内側で苦悶した。

 疑問に答えるように響く電波のような(・・・・・・)雑音(・・)が、制止した世界に酷く大きく耳を振るわせる。

 この(・・)時間の止め方(・・・・・・)から(・・)入ってくる(・・・・・)どうしようもない絶望が(・・・・・・・・・・・)、狂三の視界を止まった世界から切り離し、自分が居るビルとは違う景色を映し出した。

 

(……っ!?)

 

 目を引いたのは血だった。

 広がる水溜まりと見紛う血の池は、胸に穴が空いている少女から流れているものだった。

 

(これは………………なん、ですの……? なにが……っ?)

 

 突然の変化、いきなりの場面転換、突拍子もない事態に、身体と天使だけじゃなく心までも動かなくなっていき、狂三はされるがままに鑑賞するしかなかった。

 どこかの公園。血の池があるのは子供が遊び、大人は休むといった日常を贈るための場所。

 血の発生原因は横たわっている少女。闇色の髪をした綺麗な少女………死に顔でもそう言えるほどの美少女だった。

 近くにいるのは魔術師二人だ。白い髪の少女と長身の女。上空にも複数の魔術師―――ASTがいた。

 

 これは、精霊が討たれた場面?

 

 狂三はASTは当然、横たわっている少女が精霊であることを看破していた。精霊の要塞たる霊装が装備されていないのを見るに、油断して人間生活に紛れた精霊の隙をついて殺した、といったところか。

 自分以外に精霊が殺されるなんて珍しい。〝彼女〟クラスの魔術師がこの中に居るのか、討たれた精霊が余程弱い精霊だったからか、

 

 ――――それとも、精霊に寄り添っている人間が災難の原因になったのか?

 

 十六くらいの少年だった。学校のブレザーを着ている極普通の学生……血塗れになっているところ以外はと付くが。

 彼の顔は暗く白い、青褪めた貌みたく(・・・)なっていた。

 

(…………………………)

 

 血の池地獄などに、狂三は吐き気など催さない。現実を認めない甘ちゃんではない。

 ……彼も、同じだった。

 吐き気を催さず、現実を認め、現実が過去となり、どうしようもできないと、絶望に染まっているのだ。

 

(…………………あなた)

 

 唇は動かせないが、狂三は彼に話しかけた。

 聞こえないのは承知済みで、無表情な彼に心の裡でも声を掛けた。

 夢なのかも判らない光景に、なぜだかわからないが狂三はコレが今起きている現実であることに確信を持っていた。

 

 そして、彼が、時間を止めていることも。

 時間を計り続けた時計を止めたのが彼と、持ち前の感覚から、狂三は見ただけで感知した。

 

(あなたが、世界を……時を止めましたの?)

 

 人間が時間を止めた……しかも自分どころか世界を止める程の力が有るなんて、驚愕の他になにを現せばいいのか。

 身体が動かないから頭を動かし、冷静に考える。

 

 本当に、本当に、自分の目を疑わないなら……一陽来復が訪れたのではないか? と、打算が狂三の脳を埋める。

 

 目に映る彼が時を止めたというのなら、<刻々帝(ザフキエル)>を超える時間操作が可能ならば、時崎狂三にとって極上の逸品(ディナー)なのではないか?

 理屈・常識を無視した、新しい恋に出会えた乙女の高揚が、狂三を昂らせる。

 闇夜の道に、唐突に訪れた光。

 心のどこかで諦めていた願いを照らす道標が、叱咤激励として現れた。

 時間を操る自分が時間に止められる屈辱と恥辱は、自分では到底行使できない範囲の〝時間停止〟への興味と、必ず獲とくしてやるという野心に消えていった。

 この人間を探し出し、時の力の真偽を確かめる。時間を集める傍らでも出来るのだから無駄な行為にはならない。

 

 

『十香。おれ言ったよな』

 

 

 …、………でも

 

 

『すべての人間がおまえを否定しても、俺が肯定するって。否定してくる奴らの数倍以上に、おまえを肯定するって』

 

 

 狂三は、…………

 

 

『俺は、おまえは死なせない。肯定ってそういうもんだ。おまえ自身が否定したって聞いてやらねえ。

 今日は初デートなんだぞ? 一緒に楽しめてデートになったのに、こんなデッドエンドが罷り通るなんておかしいだろ』

 

 

 それだけなら、なぜ狂三は………涙を流しているのだろうか?

 

 

 (泣いてる……? わたくしは、………泣いていますの?)

 

 

 自分でも泣いている事に気付いていなかった狂三が疑問を零した。涙は拭き取れず、落ちていく。 そんな、青臭い感情はとっくのとうに捨て去ったはず。自分にならまだしも、他人にかける同情など、家畜にされる哀れな気持ちくらいなのに……狂三は、涙が止まらなかった。

 

 

『男に二言はないんだ。だから、生きてくれ、十香』

 

 

(…………ぁあ…………あぁ……………っ、あなたは………、あなたは………っ)

 

 

 幻惑を見せられていると、見えぬ敵の罠の可能性も棄て切れないというのに、狂三は、動けていたのなら、泣き崩れていたかもしれない。

 

 それぐらいに、非情の狂三が同情してしまくらい、この時の止め方は(・・・・・・・・)悲しみにはち切れそうになる。

 

 止まった時間が、止まった世界が、寂しくて、淋しくて、覚えがあって、力よりも、彼自身が気になってしまった。

 

(なぜ、なぜですの……? なぜ、あなたはそんなお顔をなさるの? あなたは………。

その精霊が死んでしまったから? あなたにとってその方は、大切な人ですの?

時を止めてしまうくらいの人だったんですの?)

 

 見つめることしかできないもどかしさ。

〝手を差し伸べたい〟と、時崎狂三にあるまじき甘っチョロさが徐々に身体を動かしていく。せっかく溜めた時間を削りながらも、狂三は、手を必死に彼へと伸ばした。

届かない。でもこの手を伸ばしたい。

 無駄と知りながら伸ばし、伸ばし、伸ばしたが……

 

「あっ……」

 

 しかし、奮闘虚しく、視界は何時の間にかビルの屋上に戻り、足が縺れそうになり、指し伸ばした手は空を切っただけに終わった。

 

 

 時は、再び動きだしていた。

 

 

 人々は歩き、車は走り、夕陽が照らしながら沈んでいき、風が夜の冷たさに変わっていく。

 何もかもが元通り、というのは可笑しいのだろう。人と世界は時は止まったことに気付いていないのだ。

 どこの誰かが血塗れになろうが、それに絶望しようが関係なく、時は進み、各々の時間を歩んでいく。

 

 ……狂三を除いて。

 

「…………………………」

 

 伸ばした手をそのままにして、狂三は動かないでいた。

 身体も<刻々帝(ザフキエル)>も、もう動く。ビルの中の人間の時間も奪える。

 止まった世界を動こうとした代償として出費外の時間を使ってしまった。奪わなければ本当にただの無駄遣いとなってしまう……のに、

 そんなのはどうでもいいと、狂三は想い…焦がれていた。

 

「…………………夢ではありませんわ…………あれは現実。………………彼は、紛れもなく実在する」

 

 断定の声を吐いて、濡れた涙を拭う。枯れた砂漠に恵みの雨が降った居心地に、狂三は無理に(・・・)喜びに満ち満ちた歪んだ笑みを描く。

 

「なんてことでしょう………。わたくしは、今の荒唐無稽(デタラメ)(えいぞう)を信じて求めている………堕ちるところまで堕ちたと思いきや、わたくしはまだ奈落へと堕ちていくのですね。狂っているのは分かっていましたが……なるほど〝狂う〟というのは、自分ではどうすることもできないもの。〝名は体を表す〟とはよく言ったものですわ」

  

失敗(しく)じって落ち込んで、覚悟して驚いて、同情して涙した。

 全てにおいて狂三(じぶん)らしくない行動と感情に、踊り踊っている。

 夕陽に当たり過ぎたのか、人を狂わすのは月の光と相場は決まっているのに……本当にこれが狂三の本心なのか。

 わからない。

 「ない」と、普段の時崎狂三なら断言するのに、……こんな感情も悪くないと考えていた。

 

 ……ほんとうに、らしくない。

 

「見つけなくては…………………………見つけなくてはいけませんわ。

 わたくしの為に、わたくしの悲願の為に。【一二の弾(ユッド・ベート)】を使う為に。

 彼を頂かなければいけませんわ」

 

 見切りをつけるような言い草だが、狂三の心は決まっていた。

 彼のことが気になって仕方がない。

 力の有無は関係なしに、彼のことを知りたいと……、

 

 狂三は、彼に会ってみたいと、思っていた。

 

「待っていてくださいまし、名も知らぬ御方。いま、会いに行きますわ。

 確かめますわよ。

 あなたが誰なのか、あなたが何者なのか、……あなたが、なぜ泣いていたのか。

 必ず、必ず見つけ出しますわ」

 

 ビルの人間たちをほったらかして、狂三は防柵棒を蹴って空へと身を投げた。摩天楼を飛び交い、迷うことなく方向を定めて進んでいく。

 

 その進行先は東京都南部から神奈川県北部にかけての一帯―――――天宮市へと向かっていた。

 

 

 

 時崎狂三。

 他の精霊とは一線異なる精霊。

 名前通りに狂っている彼女は、狂った現象をあっさり認めて、自分の目的の為に動き出した。

 

 彼女の判断は大いに功を制していた。

 彼女の見た光景は現実として起きたことで、時を止める力を持っているのも人間の少年である。

 彼を喰らうことができれば莫大な霊力を、時間を獲得できる……その通りだ。

 それだけならば(・・・・・・・)実に正しい選択だ。

 

 狂三は気付いていながら、気付いていないフリをしている。

 あの少年をただの餌として見ることができないでいた。彼の絶望(時間)に、感化され過ぎたのだ。

 迷子になった子供の泣き声を聞いて馳せ参じようとする母親のような気持ちとなっているのに、気付いていないフリをしている。

 

 しかし、どっちであろうと彼に会おうとする気持ちは同じ。

 この瞬間から、狂三の運命は定まったのだった。

 

 

 

 自身の目的が大きく狂う……この運命が。

 

 

 



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2ー0

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――オレはイマ、ナニをしてるんだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――………ナニもしてない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――オレに……ナニかできるのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――よくわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――ナニかやりたいことがあったような……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――ナンだったっけ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――思い出せない……ナニも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――大切なコトだった……ような。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――大切……? じゃあナンで思い出せない?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――大切……じゃないから?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――そんなコトは…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――というかココはどこだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――ナニも…………………………………………………ナイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――ナニもナイなら、やりたいこともナイ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――…………そうかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――なら、ナニもしなくていいか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――このまま、ナニもしないでいよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――このまま………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――このま…ま……………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――、のま……ま―――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――…………………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――、て……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――……………………ン?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――おきて……っ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――………ダレの、コエ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おきてっ……おきてよ! ねえ、おきてよ…………っ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――……………呼ばれてる?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんでっ……、なんでこんな……っ、こんなことになったんだ……っ

 

 

 やっとっ、また会えたのに……っ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――泣いてるのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうしてあんなことを……っ? 

 

 ……いや、どうしてあんなことが君にできるんだ? 君は……君に一体何が起こってるんだ…っ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――ナニを、言ってるんだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうして<灼爛殲鬼(カマエル)>の炎が付かないんだ? 

 あんなになって何も起きないなんて、ありえな………いや………あれ、……<灼爛殲鬼(カマエル)>? ………なんで………なんで<灼爛殲鬼(カマエル)>が……出てくるんだ……? 

 

 <灼爛殲鬼(カマエル)>は……――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――……ナニを、言ってるんだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………まさか……………いや、………………でも……………それ以外考えられない…………君は、……まさか……君は……―――――――――――っ!!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――え……おい……………どうした? おい?

 

 

 

 

 

 

 

 

 明確になる思念。鮮明になった自我。

 バラバラに渦巻いていた意識が、不明瞭な〝声〟によって元に戻ってきた。爽快とは言えないが、鉛の様なダルさが少々でも抜けたのはありがたい。

 しかし意識が戻ったのと併せるように〝声〟は聞こえなくなってしまった。

 なにを言っていたのか、もしかして自分のこと(・・・・・・・・・・)を知っていたのか(・・・・・・・・)と期待していたのだが、〝声〟だけでなく気配も消えてしまっていた。

 何者か分からない〝ナニカ〟の御蔭で意識を取り戻したのはいいが、此処が何処なのかの手掛りが居なくなってしまって、途方に暮れるしかなかった。

 

 此処は……暗い所、だ。

 周りが見えない。自分も見えない。誰もいない。無音。

 何も無い。再認識する寂寥感に、如何にかなってしまいそうだった。

 でもこういう感覚は初めてではない気がした。

 ずっと昔に感じたもので………ごく最近感じたような気もする。

 それがなんなのか………まだ居残ってる倦怠感が頭の歯車を鈍らせる。……身体が見えないのに頭が働かないというのは、可笑しいかもしれないが。

 

 ……いけない。

 考えなければまた意識が飛んで自我が消えてしまいそうだ。此処は思考すらも無くしてしまう場所なのだとついさっき味わったばかりではないか。

 

 ……とにかく、考えてみる。

 此処が何処なのかは相変わらず分からないから置いておこう。

 考えるのは、〝何故自分が此処に居るのか〟。

 なにが理由で、どういう経緯で、どんな理由で、此処に居るんだろう。

 ………………………………………………………。

 ………………………………………………………。

 ………………………………………………………。

 ……………………………思い出せない。

 思い出せない、というより、〝思い出したくない〟が正確かもしれない。鍵が掛かったドアが開かないみたいに、なにも出てこないのだ。

 でも、鍵の掛かった……それは、……鍵が掛かったドアというのは、やっぱり……中に入ってはいけない(・・・・・・・・・・)ということなのか?(・・・・・・・・・) 

 中に入ったら、どうなってしまうのか。中に何があるのか……気になる。恐いもの見たさに惹かれるように鍵を開けようとするが、危機感が一時の向見ずな行動を止める。〝開けてはいけない〟と諫めてくる。

 

 仕方が無い。別のことを考えようと切り替える。

 此処が何処なのか分からない。

 何故ここに居るのかも分からない。

 

 じゃあ次は――――どうやって此処から出ようかを考えてみる。

 

 こんな場所は早く脱出したかった。此処は退屈過ぎる。人も居なくて娯楽もない。暇潰しができるようなものが何も無い。

 また自我が消えてしまうんじゃないかという恐怖が忙しなくさせる。

 此処から抜け出そうにも足が無い。手で這いつくばって匍匐前進もできない。 

 ……まずい。打つ手が見当たらない。このままでは本当に、消えてしまいそうだった。

 

 考えなければ、考えなければいけないが、なにを考えればいいのか、それすらも無くなっていっている。

 どうしようと考えていられる今の内しかチャンスはない。でなければ直ぐにでも自分を失う。

 切羽詰まった思考に焦るのを感じる……こんな状態ではいい案など浮かばない。

 

 どうするか……少し、考え方を変えてみようと思った。

 思考するのではなく――――想像をしてみることにした。

 

 此処を出た後のことだったり、此処がどういう処だったら良かったのかを、想像してみた。目標というか願いというか、此処を出るための希望を見出そうとする。

 

 

 そうだな。たとえば、こんな無色な空間じゃなくて、………………………青蒼(あおあお)とした空や海なんか良いなと思う。

 

 

 想像してみて、意識の奥が刺激された。

〝鍵の掛かったドア〟とは別のドアが開かれた感覚だった。

青蒼(あお)い空。青蒼(あお)い海。

 そんな綺麗な光景を、自分は確かに見たことがあった。

 清純で、純粋で、大らかな心をもった地球(ほし)を、自分は行ってみたいと思ったことがあった。心地好いと、いつまでも其処に居たいと思ったことが、確かにあったはずだ。

 寂寥感がもどかしさに成り変わり、むずむずとした疼きに火照ってくる。

 ホンのちょっぴり思い出した記憶。それはこんな殺伐な世界に居たら、恋しくて、恋焦がれすぎて胸が苦しくなってくる。

 

 

 ああ、行きたい。其処へ、あの場所へ行きたい。

 足を動かす想像(イメージ)を。

 手を伸ばす想像(イメージ)を。

 海の底から這い上がっていく想像(イメージ)を。

 空を翼で羽ばたく想像(イメージ)を。

 星に足を着ける想像(イメージ)を。

 何も無いから、想像で補う。

 

 目指す場所が決まった。

 此処から出て、自分は其処へ行くんだ。

 想像だけでも、意識が其処へ行こうとしていく。

 段々虚無感が晴れていき、無から青蒼(あお)へと変わっていく。

 世界が彩る。自分が存在するのが分かる。

 手があり、足がある。身体の感覚が戻っていく。

 自分以外のヒトが居るのを感じる。

 

 ああ、辿りついた。退屈な場所から脱出したのだ。

 

 あとは覚醒するだけ。

 

 戻った身体の触覚から目を開けようと試みる。

 

 目を開ければきっと―――

 

 新しい世界が広がっている筈だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上からシトシトと小さな衝撃が背中を打つ。下から潤った固い感触が添っている。

 

「ぅ………ぅぅ」

 

 寝心地最悪の環境からの目覚めは小さな呻き一つで充分に表れていた。ベットでは決してない冷たさ(・・・)は、一拍の遅れから家ではなく外で、しかも雨の中寝ていたということに吃驚する。

 

「っ?! 冷た……っ―――ん?」

 

 バッと起き上り、膝立ちで両手を着いた状態で目に入ったのは、狭い路地のアスファルト道、外壁と外壁に挟まれた狭さは人の気配を感じない袋小路。

 そして、曇り空から降ってくる……雨。

 こんな場所で寝ていて、大粒の雫が身体を濡らしていたら風を引くどころか変な病気に罹りそうだが―――

 

「………………なんだコレ……? 冷たいけど、寒くない……。それに、服は濡れてない……?」

 

 雨は今も降り続けて世界を濡らしている。でも自分は濡れていない。あの服が身体にこびり付く気持ち悪さを感じていないのだ。

 一体どんな雨合羽(レインコート)を着ているのかと、着ている服すら忘れてしまい自身の身体を見やる。

 

「………………………………………え?」

 

 茫然と声が出たのは予想外の物を着ていたからだった。

 着てるのは雨合羽ではなく外套。鮮やかな緑色をした、右手の袖口の余る少し大きめのコートだ。

 余っているのは右手だけ。左手はその境目が分からなかった。

 なぜなら左手には、先客が居たからだ(・・・・・・・・)

 コミカルな意匠で造られている眼帯付きのウサギのパペットが、左手に装着されている。パクパクと口を動かせる使用になっているのは腹話術をするためなのは明白。あとは腕を動かすくらいのものか。

 雨模様の天気で出掛けるには相応しくない格好……なのに、寒くはなかった。外套は瑞々しく光り、冷たいとは感じるのに、濡れていないのだ。まるで透明な膜に護られているかのように、身体に害となる物を遮断しているような感覚だった。

 

 しかし――――しかしだ。

 

 茫然と声を出したのは、着ている服が予想外なもので、覚えのない(・・・・・)ウサギのパペットを付け、物理的じゃない雨避けが施されている事ではあるのだが―――それは一割程度でしかない。

 

 

 残り九割の茫然とした正体は、

 

 

「………………………………………………え?」

 

 

 自分のものではない、高い声。

 

 

「…………………………………え?」

 

 

 自分のものではない、小さな体。

 

 

 

「………………………………え?」

 

 

 自分のものではない顔を見つけた事によるものだ。

 

 

「……………………………………え?」

 

 

膝が着いた水溜まりの鏡が反射したのは(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、それはそれは可愛らしい少女であった。

 ふわふわとした手入れがいきとどいた青蒼(あお)い髪は見惚れるくらいに綺麗だ。

 優しげな顔立ちと瞳からは少女の穏やかな性格がそのまま前面に出ているように整っている。もしこんな顔で罵りや見下しの言葉を吐かれたら一生立ち直れない自信がある。

 

「…………………………………………………え?」

 

 自分は、この少女に声を掛けるべきだ。

 こんな至近距離で見つめ合って「驚かせてゴメン」と言い、頭を下げるべきだ。

 

 この少女が他人だったらの話だが(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

「え……………え、……え、え………え?」

 

 可笑しい、妙だ。

 水溜まりが反射して映っているのが(・・・・・・・・・・・・・・・・)この愛らしい少女の顔……つまり自分は、この少女と向かい合っているのではない。

 

 自分が右手を挙げれば、少女も右手を挙げる。

 自分が左手のパペットを動かせば、少女も左手のパペットを動かした。

 自分が顔をベタベタと確かめるように触れば、少女も顔をベタベタと確かめるように触わる。

 

 自分の動きに合わせて、少女も身体を動かしてくる。パントマイムも顔負けの完璧な形態模写に拍手を送りたく―――――ならない。

 

 拍手など送ったら、それこそ本物のピエロになるであろう。

 度し難いナルシストか、騙す気ゼロの詐欺師かと笑い者にされるからだ。

 

 

 だってこの少女は、

 

 

 

 

 

 

 この少女は(・・・・・)―――――――オレだったからだ(・・・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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2-1

 

 

 

 今日も今日とて天気はどんより雲の雨模様。

 水溜まりを避け、時に踏んで、四糸乃は歩き走っていく。

 何処へ行くでもなく、再び眠りに着くまで(・・・・・・・・・)四糸乃は友達のよしのんと一緒にこの世界を回っていく。今回、周囲はいつもと違って壊れたり消し飛んだりしてなかったから騒ぎは起きず、魔術師もやってこなかった。

 

『いやー、よかったよかった。今日も何事もなくこっち(・・・)に来れたねぇー。 邪魔者も居ないわけだし、さあ盛り上がっていきましょう! 四糸乃&よしのん御一行ご案なーい。しっかりよしのんについてきてくださいねぇー』

「……ぅん。よ、よろしく、ね。よしのん」

『四ー糸乃ー、もっとテンションアゲてこーよー。せっかく誰にも邪魔されないで静かに過ごせるんだからさぁー。……って、あ! 静かに過ごすんならテンションアゲちゃダメじゃん!? みすていく、よしのん痛恨のみすていく!』

「ふふふ」

 

 親友(よしのん)のおどけぶりに微笑を添える四糸乃。

 全然知らない街並みはときめくものがあり、いじけてしまう恐れもある。

 その理由はやはり人間だ。これは四糸乃の人見知りな性格が起因しているが、一番はASTの存在故だった。容姿年齢も関係なく精霊を排除する魔術師。目覚めと共に殺意を持って襲いかかられればそうもなるが、四糸乃の元々の性分が人間に対する恐怖をより助長させ、より臆病にさせるのが最も大きかった。相手に傷つけられる恐怖と、相手を傷つけてしまう恐怖(・・・・・・・・・・・・)が、四糸乃には恐ろしいのだ。

 本来なら四糸乃に街を、世界を探検するだけの胆力は無い。四糸乃は、弱い自分は、一人では何もできないと思っている。

 

『まーそれはおいといてぇー、今日はどうする四糸乃? このままこの街を歩いていくかーい? それとも自由気ままにどっか遠くの地までよしのんと愛の逃避行をするかぁーい?』

「ふぇ?! あ、愛……?!」

『にゅわっはっはっは、ジョーダンだよー。四糸乃とよしのんの間に愛の逃避行なんて必要ないくらい固く結ばれてるのは周知の事実だからねぇー』

「よ、よしのん……っ」

 

 でも、四糸乃にはよしのんが居る。ずっと傍に居てくれる心の友(・・・)が居るのだ。

 臆病な自分と違って強くて、うじうじしている自分と違ってカッコイイ憧れの存在。

 よしのんと居れば、四糸乃は何も怖くない。どんなに苦しくても辛くても大丈夫になるのだ。

 ……まあ、よしのんのからかいには大丈夫じゃないのは見ての通り……

 

『そ・れ・に~、四糸乃がしたい愛の逃避行の相手はよしのんじゃなくて〝あのおにーさん〟だしねぇー』

「…………っ」

『ふっふっふ、よしのんの目は誤魔化せませんよー? あの時(・・・)から話しかけてもたまーに心ココに在らずで暇さえあればずぅっとキョロキョロしてなにか……誰かを探してるじゃないかぁー。やっぱり気になってるんでしょ? あのおにーさんのこと』

「……………………………うん………そう、だね」

『……およ?』

 

 通り、だが―――、今回四糸乃はよしのんの指摘に恥じらい無く首肯した。

 いつもだったら顔を真っ赤にしてしどろもどろになるのに、四糸乃は気弱ながらもそれを認めたのだった。

 

『おおぉ! やっと自分の気持ちに素直になったんだね四糸乃! よしのん嬉しくてテンションMAX! これで目的は一本道に定まりましたよー、さっそく〝あのおにーさん〟を探しに行こう!』

 

 よしのんは不思議に首を傾げるも、引っ込み思案な親友の成長に喜びながら四糸乃へ催促を掛ける。これを機に積極性を身に付けて貰えればきっと四糸乃の為になる。そう願いを込めていたのだが、四糸乃はなにも言わず、すぅっと空を見上げるだけだった。

 

「……………………………」

『アレ、四糸乃? …………四ー糸乃ー?』

「っ……あっ、ご、ごめんね、よしのん……なに?」

『……どうかしたの、四糸乃? なにかあるなら、よしのんに話して欲しいな。じゃないとよしのんも泣いちゃいそうだよー』

 

 羞恥で無視を決め込み聞こえないフリを、なんて四糸乃は絶対しないが、こうも反応を返さないのはよしのんにとって初めてだった。ついこの間までは、ちょっと茫っとしていただけだったのに。

 

「……………ねえ、よしのん」

 

 敢えて普段通り軽弾みでのたまうよしのんに、いつもとは違い自分の話だけを切り出すのもまた初めてだ。あの時以来(・・・・・)少し四糸乃の様子とか雰囲気が変わったと思ったが、今日を境になにか劇的に変わっているようによしのんは思った。

 四糸乃は顔を真上に向けて雨に濡れるのも構わず見上げている。しっとりた髪とその貌が雨に濡れるのはいつもの儚い柔らかさを持っていたが、どこか違う。

 

「…………世界(ここ)の空って、こんなに暗かったかな……?」

『……? どういう意味だい?』

「ぇぇっと、……ね」

 

 質問の意味と意図が不明瞭で聞き返すよしのんだが、四糸乃もまた言いたいことが何なのか纏められていないらしく、抽象的(あやふや)なことしか返せなかった。

 

「……いつも、世界(ここ)にくると……暗かったのは、そうなんだけど……なにか、ね…………ちがう、気がするの」

『ちがう?』

「…………うん。その、……うまく言えないけど、……、なんだが―――」

 

 

 

 なんだか―――誰かが涙を流して、悲しんでるみたいだと、四糸乃は言った。

 

 

 

 四糸乃とよしのんが世界(ここ)に来る度に空が曇り、空気が冷え、雨が降るのは常しえの摂理である。何処か相違があるようには見えないが、四糸乃はそうではないようだ。

 泣いている……雨を涙と例えるならば、なるほど確かにそうなるだろうが、今更言うことではないし、そんな詩的な比喩表現ではないのは明らかだ。

 ならば(・・・)四糸乃が言う(・・・・・・)泣いている(・・・・・)のは(・・)世界ではない(・・・・・・)

 

「……ごめんね、よしのん。……なにか、…………わたし……へん、なん、だけど……」

『えっ………四糸乃!?』

 

 四糸乃の眼から、雨とは違う水分が零れる。

 臆病でいつも泣き出しそうな顔を、真に涙目になって雫を垂らす。

 四糸乃が泣いている訳がよしのんには分からず、珍しくあたふたとして四糸乃を慰めようとするが、効果は見られない。四糸乃本人もなぜ泣いてしまうのかの疑問に満ちていたからだ。

 この気持ちが何なのか、四糸乃にはわからなかった。

 灰色の空が、いつもより深く曇っていて、降り落ちる雨のシャワーが、いつもより強く冷たく感じて、心の奥底まで暗く鎖されていく。

 語彙の少ない四糸乃にはコレが〝悲しい〟という感情に近いということしか知り得ない。

 見慣れている筈の世界が、酷く虚しく、儚く見えて仕方なかった。

 

「ぅ、ぅぇ、ぇぇぇ…………」

『よ、四糸乃、どうしちゃったの?! ダメだよ、泣かないでっ。ほら、特別によしのんの隠し芸をみせてあげよう! あちこちにある水溜まりを~~~~~。

あ~ら不思議、よしのんがこーんなに増えちゃいました!』

 

 よしのんが腕を右へ左へと動かすと雨の水溜まり達が流麗に隆起し渦を巻き、パキパキと音を鳴らしながらよしのんの氷像が幾つも出来上がった。透き通った透明の氷に刻まれた彫刻は穢れに染まってない正に純粋な美しさがあった。出来上がりのみならずその魔法のような作り方も氷像の幻想的センスを醸し出していた。

 

「………………わぁ」

『どうだい四糸乃、中々の出来栄えじゃないかな? デザイン、デフォルメ、ポージングにも拘ったからねぇー、カッコいいっしょ? めっさカッコいいっしょ? ごっさカッコいいっしょ?』

「うん……カッコいい。……よしのん、すごい」

『ふっふっふ、喜んでもらえてなによりだよー』

 

 まだ涙に濡れた目が赤くなっている四糸乃だが、その顔には感嘆から喜びと変化していた。〝悲しみ〟が消えたわけではないが、この気持ちが僅かでも晴れてきたのは事実で、「明日天気にな~れ」と慈愛をくれた存在が、四糸乃を癒していった。

 

「でもまだまだこれからさ~、よしのんの本領を発揮すればこの街中を芸術の都とすることが可能なのだ! そいじゃーまず……―――」

 

 四糸乃の〝悲しみ〟を拭い去る為に、よしのんは奮闘する。友達の泣き顔なんて見たくない。ゼンブ笑顔に変えてやると頑張るよしのんはまごうこと無き友達の鏡だった。

 とても幸せなことだ。友情で結ばれた四糸乃との絆は固く結ばれ、解かれはしないし、緩みだってしない。どこぞの高校で開催されるかもしれない『仲が良い友達ランキング』を競うなら1位だって楽々でぶっちぎりに取れるだろう。

 

 ……こうやって四糸乃との関係を確かめる度によしのんは思う。

 もし、よしのん(じぶん)が居なくなったら、四糸乃はどうなってしまうのだろうと。

 

 

 ――――どうなるのか(・・・・・・)だって? 

 

 

 ……よしのんは自嘲する。

 親友であるのなら分かっている、そんなことは。都合の悪いことだけ友達が分からないだなんて、〝逃げ〟に奔っている自分が情けなくて泣けてくる。

 

 四糸乃は悲しむ、四糸乃は苦しむ、そしていつか、四糸乃を嫌っている人間に殺される。孤独の裡に、死んでいく。

 四糸乃は逃げはしても抵抗はしない。自分がされて嫌なことは相手にもしない。たとえ相手がそのことを理解していなくても、相手が執拗にやってこようが、絶対に四糸乃は相手を傷つけない。その為に生まれた(・・・・・・・・)よしのんなのだ。それはよしのんが一番良く分かってる。

 分かっているからこそ、どうしようもなかった。

 四糸乃には誰もいない、誰も傍に居てくれない。よしのんしか居ないのだ。それ故によしのんの存在そのものが、四糸乃を独りたらしめていると言ってもいい。よしのんは、四糸乃の自立への足枷となっているのだ。

 

 こんな考えは四糸乃への裏切りだというのは重々承知していた。

 でも事実なのだ。どんなにお互いを想っていても、四糸乃とよしのんは、どうしようもなく〝自分自身〟でもあるのだ。

 くやしかった。よしのんでは四糸乃の寂しさの半分しか埋めてあげられない。別人格でしかないよしのんでは、完全に埋めるのは無理だった。何より四糸乃が満足しているのだ。よしのんだけでお腹一杯だと、これ以上は贅沢なのだと。

 

 嗚呼(ああ)―――――だからよしのんは、望まずにはいられなかった。

 四糸乃がよしのんを望んだように、よしのんは四糸乃の傍に居てくれるヒトを、よしのんと違い、ちゃんと四糸乃を抱きしめて、寄り添ってくれるヒトを。

 

 

 四糸乃が初めて寄り添おうとした、あの……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『………………………………………………』

「……よしのん?」

 

 あれだけ賑やかに、面白おかしく四糸乃を慰めていたよしのんの突然の制止に、四糸乃は疑問符を浮かべて貌を向ける。

 快活に動く左手は鳴りを潜めカクンと糸が切れたみたいに頭が下がって沈黙している。まるで意識を失ってるみたいで(・・・・・・・・・・・)―――呼吸を感じなかった(・・・・・・・・・)

 親友のあるまじき動態の変化に、四糸乃は言い知れぬ不安に駆られた。

 「よしのん」と声を掛けようとするも、喉が動かない、唇が開かない……呼んでも、何も起きないのではないかと怖がっているのだ。

 それでも、よしのんの安否の方が遥かに重要な四糸乃は自身を奮立たせて声を紡ごうとする。自分と同じようになにか言葉にできない感情を持て余しているのかもしれない。なら今度は自分がよしのんを慰めなければと思うと……よしのんの方が先に喋った。

 

『――――と――――あ』

「え?」

 

 極小の、呟きですらないうわ言がよしのんの口から洩れた。

 よしのんのものとは思えない、掠れた声だった。

 

『――――ぉ――――か』

「……な、に……よしのん? どうしたの? きこえないよっ」

 

 耳を寄せて必死で聞き取ろうとする四糸乃。言い知れぬ不安に、底知れぬ恐怖が加わり彼女に飛来する。四糸乃を構成する身体の全部が震えて止まらない。

 

「よし―――うッ、ぅっ?!」

 

 よしのんの声が聞きたくて再び唇を開いたが、声が突っ掛って喉が躓いてしまった。

 

「あぁ…っ、ん、…ぐ、ぅ……はっ、んっぁ、っ!」

 

 頬が上気した赤い貌から出たのは友の名ではなかった。幼い少女が出すものとは思えない、艶のある瑞瑞しいまでの喘ぎ声だった。清楚で温和な少女が、卑猥で背徳的な醜態を晒している。四糸乃にいか程の異変が起こったのか、迸る刺激に耐えきれず、路地に倒れ込む。雨で濡れた固く冷たいアスファルトの地面に面しているにも拘らず、四糸乃の身体は灼熱の如く熱かった。

 思考する余裕が四糸乃にはなかった。交通事故のような突発的不幸にあってしまったように、自分の状況が理解できず、身体が巡りめく衝撃に襲われるしかなかった。しかし、それは苦痛ではなかった。四糸乃の感じているのは、快楽……もっと言えば、快感であった。

 

「う…う゛、ぅう゛ぁあ、んん……んあぁぁ…っ、ひっ、ぅうぅ……、ぁ、あ、やああ、ぁ」

 

 入ってきた。〝ナニカ〟が四糸乃の裡に入ってくる。奥へ奥へと入っていき、四糸乃という存在に被さってくる(・・・・・・)

 全てが未知であった。蓄え、溢れ、噴出していく。千切れるような痛みに何処からか血が流れているんじゃないかと誤認するほどの体の弾けぶり。

 抵抗することなど出来ない。そも苦痛ではなく快感を拒絶するなど生物の本能が許さない。身も心も蕩ける興奮しか受け入れてはくれない。

 強すぎる刺激に、とうとう痙攣までしだす四糸乃。これ以上は耐えられないと、本能で死すら悟るも、それで止まれるものでもなく、自我を保つのも精一杯で、そして―――

 

「う゛うう、うああ、ぁあ゛あ゛ああぁぁぁああああああああああああああああああ――――――――――――――――――ッ!!!」

 

 ここ一番の響き渡る絶頂の絶叫を叫びながら、四糸乃は満身創痍となって気絶した。

 

 

 

 その意識の闇へと堕ちる最中……よしのんの口から覚えのない単語を四糸乃は聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……………とぉ、か』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 深呼吸を一回、二回、三回、四回。目をゴシゴシと擦り、頬っぺたをギュっと抓る……ちゃんと痛かった。

 心を落ち着かせ、目に塵が無いか、これが夢ではないのかを確認。

 

 結果、夢ではないと断定した。

 

「これが……オレ?」

 

 改めて見る自分の顔に、未だそうだと認められずにまじまじ見つめるしかできない。

 可愛い。すっごく可愛い。思わず抱きしめたくなるフランス人形みたいにめちゃめちゃ可愛い。この場合自画自賛となってしまうのだろうが、可愛いものは可愛い。例え自分の顔であろうとも、この顔は、本当に可愛いのだ。

 

「いやいや、いやいやいや。なんだよこれ……………違う、これは……こんなの、俺の顔じゃない」

 

 魔女にドレスアップされたシンデレラのような心境に埋め尽くされるが、パーティに行く予定は無く、〇時に魔法が解けて元の姿に戻れるかもわからない。

 あべこべな状況の中でも分かる確たる本能が、自分の顔がこんなに可愛いわけがないと全否定している。でも現状としてこの可愛い顔は自分になっている。

 

 どういうことか――――五回目の深呼吸をし、自己分析を開始する。

 

 まず、自分は男である。

 自分をオレと呼称しているから特殊な事情がない限り間違いない。顔よりも女であるのに違和感があるのだからそうだろう。女装が趣味、なんてない。おそらく、たぶん。

 強く否定できないが、それでもわかる自分じゃない顔が水の鏡に映っていて、何がどうなっているのが、本格的に混乱しだす。巨大秘密結社の陰謀か、益体のない妄想すらしてしまう。

 

「オレは、男で。名前は、…………………………――――」

 

 

 

 

 

 はたと、記憶内の重大な欠陥に声を洩らす。

 

 

 

 

 

「なまえ……。オレの……。えっと、あれ……いや、え、あれ」

 

 自分の名前が、出ない、浮かばない、わからない。

 称号で呼称たる証明が、見当たらない。

 顔云々どころじゃない。

 俺は、オレがわからない(・・・・・・・・)

 自分が(・・・)無い(・・)

 

「お、れは―――。おれは、―――。なまえは―――。……おれ、は―――」

 

 それに答えられる者も、誰一人いなかった。人通りが少ない路地だから、答えられるだろう人がいないから、答えてくれる人がわからなかったから。

 

「オレは、………………………ダレ?」

 

 小刻みに、震えが大きくなる。

 〝自分が何者なのかわからない〟……それが、恐ろしかった。

 大きな損壊と忘失が押し寄せてくる。

 統合失調症、離人感を越えて、自我崩壊の音が立ち、砕け薄れていく。

 

「――――だれ、か」

 

 錆びれた声が、路地に反響することなく堕ちていく。

 誰を呼ぶことすら念頭せず、手当たり次第で喉を震わせる。

 

「だれか、いないのか? だれか、誰でもいい、だれか、……返事をしてくれっ!」

 

 自己の証明を、他者の存在で確立させようとガムシャラに叫ぶ。

 

 だれか、たすけてと、救いの手を求める。

 

「だれか、だれか、だれかッ!! 

 

   ……た、す……け―――」

 

 

 

 

 

 

 

「―――ぁあ、ぅぁ、あ」

「っ?!」

 

 頭の中で、声が聞こえた。

 耳元で囁かれたのではない。鼓膜からではなく、直接脳に注入されたみたいに声が内側から出て来たのだ。

 それと並行して意識が身体から遠退く。目は変らず視界は良好なのに、手足の感覚が乖離していく。まるで、誰かに自分自身を乗っ取られるような、薄ら寒いブレが来たのだ。

 そして、自分の全てが左手にあ(・・・・・・・・・・)るパペットに乗り移る感覚(・・・・・・・・・・・・)を味わいながら、またもコンクリートのベッドに横たわった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

「――ぅ、ぅうん」

 

 微睡みに彷徨う呻きを洩らしながら四糸乃は目を覚ました。

 

「はぁ……ぅ、ぁ、……はぁ、ぁ」

 

 まだ淫靡な息を吐かせる余韻が残っているのか、口から漏れる熱い吐息が四糸乃を火照らせる。疲労感に億劫な重みが付いてまわるが、固い地面に寝そべるわけにもいかず、四糸乃は何とか身体を起こす。

 

「ぁ、は、ぁ………いま、のは……?」

 

 今も残り続ける異常な体温の高さが、あの天を突き抜けるような激しい刺激が現実であったことを語っている。

 自分に異変(ナニ)が生じたのか、血が滾り、脈動が速く心の臓の伸縮を繰り返し続ける。小刻みに震える体は開放感みたいなものに喜びを覚えているようだった。一瞬より、刹那よりかは長かったのに、喜びの高みはそれらより短い。興奮冷めやらぬ心と体。特に体の方はむず痒く、お腹から下の半身は切なくて、幸せの残留物が溜まっているかのような不思議な気持ちになっている。

 

「よ……しのん、だいじょう、ぶ?」

 

 息も絶え絶えに、親友の無事を確かめようと左手のパペットを見やると、よしのんは未だに俯いたまま何も言わない。

 

「……よし、のん……」

『………………』

 

 もしかすると、よしのんは四糸乃よりも先にあの衝撃を味わっていたのかもしれない。だから喋る事も出来ずにいるのか。

 

『……………………ぅ』

「ッ! よしのんっ」

 

 覚醒の呻きがよしのんから漏れ、目が開いていく感触を味わいながらよかったと安堵の念が四糸乃に広がる。

 一時はどうなってしまうのか、不安で不安でしょうがなかった。

 このままよしのんが居なくなってしまうんじゃないかと、二度と会えないんじゃないかと耐えがたい痛みに傷つけられるんじゃないかと思っていた。でもよしのんはこうして動いて喋っている。ちゃんと生きているのだ。

 

『………ああ、気持ち……わりぃ……なんだ? ……身体が、軽すぎるような……?』

「…………え?」

 

 

 だから聞き違い、空耳だ。

 

 

『ん? ……は? なっ、なんだコレ? ……は、……な、どうなってんだっ?』

 

 よく聞こえなかったし、よく聞こうとしなかったからこんな風に(・・・・・)聞こえてしまったんだ。

 よしのんの声が、全く別人の声(・・・・・・)に聞こえてしまうだなんて―――そんな馬鹿な事を。

 

「よし、のん?」

『へ……? ……えッ!? さっきの、オレっ?! いや、えっ?! ちょっとまて……………、…………オレ……人形になってんのか!?』

 

 勝手に動き(・・・・・)勝手に喋る(・・・・・)よしのんを、空を遠見するしかないように、四糸乃は何も出来なかった。

 左手に異物が混入して違和感が浸食していく。第六感が警告を発信し、その倍以上ある緊張と恐怖に、四糸乃は爆発してしまいそうな心情をさらに膨張させていた。

 

「ァ………ああ、あああ」

『うッ!? つめたっ! なんだっ!?』

 

 時が経つ度に異物が際立ち、認識させられる。

 この左手に居るのは、親友のよしのんなのではなく、誰とも知らないドコカノタニンなのだと。

 

「ぅ、あぁぁああぁぁああ………」

『なっ、痛って、雨が、地面が凍って……っ?』

 

 空気が急速に冷えていき、雨が激しく地面を撃つ。アマゾンよりも強い豪雨はやがて雹と成り、狭い路地ばかりか辺り構わず冷気を発散させ、氷の世界へと造り変える。

 四糸乃の狼狽と一緒に冷たく荒れ狂う天候に危険を感じたよしのん(?)だったが、聞く耳持たずに霊力の波動が次第に冷気のみならず振動を伴うようになり―――空間震へと変わっていった。

 

『オイちょっと!? まて落ち着けっ、どうしたん―――』

「ぁぁぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁああああああ―――――――――っ!!?」

 

 吹き荒れる雨と氷、そして耳障りな高音の警報と空間震を引き起こした四糸乃は意識も理性も吹き飛んでいき、精霊の力を徒に暴走させている。

 

 ―――だがそれは、最後に残っていた自己防衛本能によるものだった。

 何故だか分からないが、何かをしなければ絶望に(まみ)れてしまうと、何かに掴まれてしまう(・・・・・・・・・・)と、せめてもの抵抗をしなければならないと無意識の領域で判断したのだ。

 意識と理性が飛び、そして四糸乃自身も路地を跳んでいった。ウサギのような跳躍で破壊痕が生まれたソレは飛行に等しくなり、二人はいずこか遠くへと行ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                第二部 四糸乃ヒーロー START

 











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2-2

 英国(イギリス)――――ユーラシア大陸に在る四つの国からなる連合王国。

 首都ロンドンにある定番観光スポット大英博物館。世界的ロックバンド〝ビートルズ〟の出身地リヴァプール。サッカー界屈指のビッグクラブ〝マンチェスターユナイデット〟。偉大なる劇作家シェイクスピアの劇場が再現されたグローブ座。挙げればまだまだあるこの国の街並み、其処彼処に紛れる威風と古風、歴史が漂う熟達した国と思わせる。騎士道物語の頂点アーサー王物語。劇場型殺人の元祖ジャック・ザ・リッパー。世界的知名度を誇る有名な伝説と史実を持つ善悪美醜の時が刻まれている国―――英国。

 由緒ある国の一つであることに間違いはないが、なにも古いだけが取り柄ではない。なにせこの国は世界の中心に立っていると言っても過言ではない超最先端技術を持っているからだ。

 その名を顕現装置(リアライザ)。三〇年前に発見された至上にして至高のテクノロジー。現実を演算処理で歪め、物理法則を書き換える魔法の技術装置。一般にこそ普及されてはいないものの、一般ではない人間、ひいてはそういう(・・・・)組織には御用達の逸品の製造を唯一行なうことのできる大企業の本社が英国に存在するのだ。

 

 デウス・エクス・マキナ・インダストリー社。通称DEM社。

 人外の怪物・精霊と戦う武力を製造できる世界屈指の会社(メーカー)

 顕現装置だけでなく、幅広い事業にも手を広げているDEMは、財界は当然、政界にも顔が利くほど多大な影響力を有している。既存の機械文明を容易く破壊する顕現装置が有るか無いか、多いか少ないかは国防に関わり、精霊への対抗手段にも復興にも必須であり、国の死活問題になるからだ。それだけの価値と力を生産し利益としてきたDEMに頭が上がらない人間は内外問わず数多い。

 

「………………」

 

 それはこのジェシカ・ベイリーも例に漏れない。

 彼女は端正なその貌を唇と共に引き締め、赤い髪を靡かせながら毅然とした態度で広々とした本社の廊下を歩き、奥へ見えてきたエレベータに入って最上階を示すボタンを押して上へと昇っていく。

 ジェシカはDEM社に直接所属している魔術師(ウィザード)である。自衛隊のASTのように、会社の都合上(・・・・・・)DEMにも当たり前に魔術師は在籍している。しかしその錬度はそこいらの特殊部隊の魔術師とは比べ物にならない差が開いている。特にジェシカはDEMでも類稀な実力を誇る魔術師だ。

 与えられた栄光のコードサイン・アデプタス3はDEMの中でも上位の実力を持っている事を表すエリートの証。ナンバースリーたる自負、矜持はジェシカを元々の高慢な性格を冗長させる原因に一役買っていたが、そんな他人を見下しがちで自分に絶対の自信を持っている彼女でも、敵わぬ相手がいる。

 

 エレベーターが最上階に着いた到達音が鳴る。直後にドアがスライドし、ジェシカは再び歩いていく。感覚がさっきまでとは別空間と思うのは、他の階と違い廊下が一本道となって進むことしか許されないからと、その先に居る人物がジェシカにとっては篤い忠誠を誓う君主であるからだった。

 その部屋に近づいていく度に身体は嫌でも畏まっていく。緊張もあったが、それ以上に喜びの方が大きい。敬愛なる〝あの御方〟に通信越しではない、直接御会いして声を頂けるのだ……これを歓喜と言わず何と言えばいいのだ。

 やがて道は一つのドアを境に途切れて足を止める。軽く、しかし深く息を吸って吐く。手に汗をかいている事に今更ながら気付いた。

 

「アデプタスナンバー3・ジェシカ・ベイリー、出頭致しました。入室許可を」

 

 ドアに備えられたIPボタンで声帯認証を行ない、施錠が解錠され「失礼します」と足を進めて境界を開けていく。

 広がったのはガラス壁一杯に差しこむ日差し。目を細めて映るのは応接用のテーブルとソファー、横長のデスク。個室にしては大きくスペースを取っているのに家具はそれに見合わぬ少なさだが、飾り気がない故にきちんと整理整頓されていて清潔感溢れる部屋になっていた。

 

 その中に一人、ジェシカが求めてやまない崇拝の対象が、悠然と存在していた。

 

 

「―――やあ、ジェシカ。よく来てくれたね」

 

 

 窓側に設置された執務机にそのまま腰がけていた男がジェシカに振り返る。

 歳は三〇代にさし入ったばかりか……目は鋭い刃物を思わせるほどに細く鋭く、底が見えない深い黒で塗り潰されている。髪はくすんだアッシュブロンド、というには色素が抜け落ち過ぎて病に冒されているかのようだった。肌の色も同様に、白すぎるほどに白い。顔立ちは悪くなく、美形と言って差し支えないのに、それらの要素がこの男をどこか妖しげに見させてしまう。

 だがジェシカはそんな思い露ほども感じない。あるのは拝謁を許された天上の喜びのみ。ジェシカにはこの男がミロのヴィーナスより美しく、阿修羅像よりも荘厳なオーラに包まれているようにしか見えなかった。

 

 ―――アイザック・レイ・ペラム・ウェストコット。

 役職はDEM社業務執行取締役(マネージング・ディレクター)、即ちこの社のトップである。

 その齢にして一企業の、世界を代表する大企業の頂点に伸上れる手腕はいか程のものか、それだけでも一目置かれてしかるべきだが、真に恐ろしくは彼がDEMを〝作り上げた〟というのに他ならない。零から一に、一から徐々に会社を作り上げたのか、それとも全く別の意味なのか(・・・・・・・・・)は定かではないが、DEMの根幹に関わっている事に間違いは無く、尊敬と畏敬を持って接するのが礼儀であるのにも間違いはないが……稀代の革命家と呼ぶにしても、彼の見た目は若すぎる。

 

「急に呼び出したりしてすまなかった。本来ならいつも頑張ってくれている君に、休暇の話を切り出したいところなのだが、どうしても無視しかねる案件があってね」

「いえ! 御気持だけで十分な報奨です。ウェストコット様の(めい)に従うのが私の責務。何なりとお申し付けください」

「そう言ってくれると助かるよ。……ああ(ただ)、様付けなどする必要はない。公共の場でなら兎も角、今は君と私の二人きりだ。楽にしてくれ。遠慮なく私を〝アイク〟と呼んでくれて構わないよ?」

「そ―――ッ!? そんな……恐れ多い……っ」

 

 気さくに、ウェストコットは偉ぶるでも鼻に掛けるでもなくフレンドリーに部下と接するのが常であった。若者特有のギラギラとした眼差しはなく、そこには老獪な達観と余裕のようなものが垣間見え、彼が見た目通りの年齢ではないことを窺わせる。

 楽しげにからかい、うろたえる様を眺める。相手がウェストコットでなければ相応の報復をするものだが、ジェシカは借りてきた猫のように大人しく縮こまるだけであった。

 

「フフ、相変わらずだね君は」

 

 

 ―――相変わらず、得難いほどの、優秀な部下だ。

 

 

 微笑みかける上司に、ジェシカは幼い少女のように照れくさそうに眼を逸らしてしまった。好意も親愛も込められた言葉に、ただただ恐縮するのみ。

 なにか気の利いた返しをしなければいけないのに、こういう時高圧的(エリート)気質は役に立たない。見下す事は得意でも、敬うのは不慣れだから。

 そんなジェシカの考えを見透かしたようなタイミングで、ウェストコットは話を進めた。

 

「さて、来て早々だが本題に入ろう。せめて紅茶でも御馳走したいが、仕事を疎かにしてはいけないからね」

 

 応接用ソファーに移動し腰をかけて、ジェシカにも座るように勧める。

 気を使わせてしまったと、自分の不甲斐無さを憎みながら「失礼します」と断り、ジェシカは腰を下ろした。対面する形となって、ウェストコットは本題に入る。

 

「ジェシカ。君を呼び出したのは他でもない。まあ、大凡予想はついているだろうが、――――精霊に関すことでね」

 

 否定せず、大凡どころかジェシカは確信していたが、口を出さない。

 他会社・他国との会談、契約、取引なんて雑務、態々ジェシカを呼ばなくてもウェストコットなら一人で勝手に(・・・)やってしまうだろうし、何より彼には〝最強〟が常に居る。部下として、秘書として、ボディーガードとして、魔術師として、……パートナーとして、彼女以上の存在はいない。

 そんな〝最強〟がいるにも拘らず、態々ジェシカを呼び出すという事は、叱責か、重大かつ重要な任務かの二つに一つだろう。

 当然ジェシカは叱責されるような愚かなミスなどしない。よって呼び出された理由は後者になり、ウェストコットでも手古摺ってしまうだろう業務など、精霊の殲滅以外に無いからだ。

 

 それに、なにより―――

 

「君も知って……いや、今は〝見てのとおり〟が適当かな。

この場にエレンが居ないのは、その精霊の対処に当たっているからだ」

 

 推測通りだが推理とは言えない。納得ではなく確認でしかない。

 

 エレン。エレン・M(ミラ)・メイザ―ス。

 その名はウェストコット以外の人間でジェシカが敬服している、否、してしまう人物であった。

 

 DEM社第二執行部部長。コードサイン・アデプタス1。そして―――世界最強の魔術師。

 その実力は、精霊をも超えていると断言できる絶対性を持ち、魔術師の中でも異端にして畏怖されるほど。権力の肩書など二の次、エレン・M・メイザ―スとは最強。それが一番であり、最も有名で相応しい代名詞である。

 その称号に嫉妬が無いと言えば嘘になるが、ジェシカをしてエレンに対しては荒波が立たぬように細心の注意を計り接しているのだ。

 たった二つ違いの称号なのに、そこには反目すら抱かせてもらえない隔絶した壁を感じさせられる。それほどの圧倒的強者が、エレンという魔術師なのだ。

 

「メイザース執行部長が本社を留守にしているのは、知っています。他のアデプタスメンバーも率いているというのも。皆その事に疑問を持っていましたから」

「おや、そうなのかい? わざわざ伝える事でもないと黙っていたのだが、要らぬ詮索をさせてしまったか」

 

 やれやれと、なんてことのないようにあっけからんとするウェストコットだが、DEM社内ではそれなりに騒然となっていた。貴重な魔術師(アデプタスメンバー)が少なくない部隊数を編制して出撃させるなんて……ジェシカも含める他のアデプタスメンバーなら兎も角、秘書であり護衛であるエレンを含めているのは異常だった。

 どんな時でもウェストコットの側に仕えているエレンが、共に本社を留守にするのではなくウェストコットの側を留守にしているのはかなり目立つ。それ故に俗な噂も吹けば、これを機にとウェストコットを心地好く思わない取締役達(反ウェストコット派)が陰謀を画策しているらしき動きも見えている。実際それだけの抑止力としてエレンが見られていたのは事実で、性質の悪い(ブラック)冗談(ジョーク)ではすまない可能性が僅かでもあるのだ。そんなのをエレンが承知していないとは到底思えない。

 

「よく執行部長殿が応諾しましたね。―――それだけ切羽詰まった状況ではないと思うのですが」

 

 まだ何も言ってないというのに、事前にどんな指示を出すのか知っていたかのような言葉にウェストコットは「うん?」と不思議そうに首を傾げた。

 だが、ややあって「ああ」と、ジェシカが何のことを言っているのか納得の頷きをした。

 

「もしかしなくても、ジェシカ。

 

君は<ハーミット>の件(・・・・・・・・・)について言及しているのかな?」

 

「……違うのですか? 目下の精霊で一番不可解足りえるのは<ハーミット>ですし、現状の精霊達の様子からすれば、イの一番に対処されるべきは<ハーミット>なのでは……?」

「―――アレに関しては私も君と同じ意見だよ。確かに<ハ―ミット>が巻き(・・・・・・・・・・)起こしている異常現象(・・・・・・・・・・)()無視できないが切羽詰まった状況でもなし、エレンや君を動かすにはまだ軽い」

「…………」

 

 思わず言葉を無くしてしまう。

 あれだけ界隈で騒がれている<ハーミット>の奇行(・・・・・・・・・・)よりも重く、優先すべき有事が、エレン・メイザ―スを動かす程の精霊がはたして現界したのか。

 

「<ハーミット>でないのなら一体どのような精霊なのですか? 執行部長ほどの魔術師が出撃されるとなると、……<ベルセルク>あたりですか?」

 

 自分の記憶する中でも人類に多大な悪影響を齎している精霊の識別名を挙げる。

 <ベルセルク>は世界各地に現れては〝台風の目〟となり周辺一帯を撒き散らす風の精霊だ。

 どういう訳か、この精霊は〝双子〟と言うべき世にも珍しい〝二人で一つの個体〟であり、これまたどういう訳か、この双子は互いが互いを討ち取らんと常に争っているらしき特徴がある異常種であった。

 

 精霊と精霊が闘うというのは、ある意味願ったり叶ったりの状況だ。

 片方が死ねば良し。相討てば尚良し。たとえ両方死なずとも、疲弊した所を狙えば漁夫の利に肖れる。

 だが精霊同士が戦えば唯では済まない―――それは当事者だけでなく戦う場所も世界も、人間も巻き込まれる事が必然で、特に<ベルセルク>のソレは酷過ぎた。

 風のように自由に流れ、奔り、世界を股に掛けながら、人間の眼も、暮らしも厭わず闘っているのだ。<ベルセルク>は他の精霊と違い空中で空間震を起こして現界するのが殆どで空間震警報も作動せず、地上で現界したとしても警報を鳴らした地区をあっという間に駆け抜け、遥か数キロ先の島から島へ、国から国へと散らかしながら(・・・・・・・)一っ飛びしてしまう。

 その所為で避難も何も出来ていない民間人の<ベルセルク>目撃例が世界中に増えていき、機密事項に等しい精霊の中で最も人間の眼に止まっている傍迷惑も甚だしい悩みの種なのであった。

 

「なるほど。優先目標に指定されている<ベルセルク>ならば、エレンが駆り出されても可笑しくない。人工も、自然も、関係なく破壊する大嵐ならば猶更に、確実に息の根を止めたいだろう。

しかし、ハズレだ。アレの脚の速さは如何ともし難いと、本人から御墨付きを貰っているからね。追い駆けっこをするくらいなら他の精霊を相手取った方が効率がいいそうだ」

 

 ―――妙な物言いに、一瞬腑に落ちない気持ちになるもすぐに消えたので気にしない事にした。

 それよりも気になるのはウェストコットの言う精霊の方だ。

 <ベルセルク>でないとするなら、残るは最悪の精霊<ナイトメア>くらいしか思いつかなかったが、アレの対処は〝あの〟憎たらしいアデプタス2が一任している。最強の魔術師が出払うまでもなく処理し続けている(・・・・・・・・)のだから<ベルセルク>より可能性は低いだろう。

 

「……申し訳ありません。私の無能ではどの精霊が該当するのか見当がつきません。

 新たに発見された精霊としか、今は……」

「ああ、ジェシカ。私はまだ何も言ってないのだから解らなくて当然だよ。そんな風に自分を卑下してはいけない。

君はよくやってくれている。ジェシカ・ベイリーが優秀だというのは私が誰よりも理解している。君が無能であるなどと思った事は無いし、誰にも言わせるつもりは無い。例えエレンであってもね」

「………恐縮、です」

 

 身に余る光栄に、恐れが多すぎて今度こそジェシカは言葉を無くしてしまいそうだった。

 かろうじて吐けたのは無愛想な一言のみ。不敬と取られてしまわれかねない雑な返しに嫌になってしまう。もはやどう言うのが正解なのか、社会人としての一般常識が抜け落ちてしまっていた。

 

「それに、新たに発見された精霊という推測は決して間違えではないよ。やはり君は優秀だ」

「…………と、言いますと?」

 

 間違ってない、といっても正解ではないのだろう。

 新たに発見された精霊、とも言えるし、そうではない、とも取れる。

 奇妙な表現にどういう事なのかと思うと、ウェストコットはデスクに備わっていたコンソールを操作して空間ディスプレイを表示し、映像を映しだした。

 

 そこに映っていたのは少女だ。

 子供の、ハイスクールに通う程度の年齢に達している、大人になり掛けの少女。

 きめ細かな肌、潤い満ちた髪、通信機器の間接越しであろうとも溜息をしてしまう人外の美しさが見て取れる。

 世の女性を劣等種と落としかねないその存在をジェシカはよく知っている。語るまでも無く、精霊である。

 

「今回エレンが討伐に向かった精霊は、〝コレ〟だ」

 

 ウェストコットは次々とその精霊の画像を呈示する。

 映っているのは例外なく戦闘場面であるようで、魔術師との攻防が爆炎を伴って激しさを物語っている。

 戦闘記録云々には興味が無かった。エレンが出向く以上、この精霊を討ち取れる魔術師がその場に居ないのは明明白白であり、弱者の群れの負け戦を見たって参考にならない……というかエレンが戦うならばその精霊は〝終り〟だから戦術・戦略を組むなど無駄だ。

 だからジェシカが注視したのは精霊そのもの。身体的特徴から霊装、天使が如何なる形状であるか、それがウェストコットが言った意味を測れると思ったからだ。

 そして、理解した。

 ジェシカの脳内にあった精霊のデータベースから此度の精霊との顔が一致した。既に認知されている個体であり、危険度でいっても<ベルセルク>や<ナイトメア>に勝るとも劣らない。エレンが駆り出されても可笑しくはない精霊だ。

 

 ―――既存の資料と一致しなかったのは霊装と、……〝もう1つ〟。

 

 この精霊の霊装が変形可能な程の多様性があるのかどうか詳しくないが、ここまで様変わりする(・・・・・・・・・・)のは初めて見た。 

 それに加え、霊装よりも解らないのは精霊の手に持っているモノ。

 精霊の武器である天使……とは到底思えない、異様なモノ。

 

「解ってくれたようだね。私が言った意味を」

 

 名状しがたい、と言うのには間違いない。

 自分の記憶違いであるかもと今一度記憶を反芻するが、それよりも観測機のデータを見れば確実―――と考えたところで、そんなのとっくにやってるだろうと無意味な思考を止めた。

 

「驚いているのは私も同じだよ。こんなのを見るのは初めてでね。霊力値も胆を冷やす数値を叩きだしてたよ」

「では、やはりこれはあの……しかしこれは、何なのですか? こんな姿……見た事が……」

「それを調べるためにもエレンに行かせたんだよ。データを取るなら実戦の観測に勝るものはないし、ASTの方々では荷が重すぎるときた。なにより手に持ってる物が物だからね(・・・・・・・・・・・・・)。事を慎重に運びたいのと、今後人類への情勢も考えて<ハーミット>よりも今も現界し続けているコレの方を野放しにするのが危険と判断して日本に行って貰ったんだ」

 

 小さく呟いた後の聞き逃せない単語に、ジェシカは耳を疑った。

 

「……日本? 待ってください、では……執行部長はイギリスに居ないのですか?」

「ああ。日本に居る出向社員からの報告で事が判明してね。私もすぐ行きたかったが、予定していたスケジュールが推してキャンセルする訳にもいかなかったから、やむを得ず先にエレンを行かせたんだよ。まあ、大分渋られたけどね」

 

 どこまでも、軽い調子でとんでもない事を宣う。

 本社を留守にしてるにしてもそれは国内の範疇(すぐ駆け付けられる距離)だと思っていたが、まさか国外に出向いているだなんて―――メイザース執行部長殿は相当頭を痛めたに違いない……心から気苦労を労った。最終的には納得したのだろうが、ウェストコットの傍を遠く離れてでも対処しなければならない程の脅威をこの精霊に見出したのか。

 あるいは、ウェストコットの純粋(・・)()興味でしかないのか。

 どちらにせよ、ジェシカのやる事は定まった。

 

「つまり、私の任務は日本まで護衛としてウェストコット様と御供し、現地に入り次第メイザ―ス執行部長のサポートに回ればいいのですね」

「うむ。まあ日本に行くまでにエレンが事を成している可能性も高いが、念には念をも兼ねて双方二つを十全にこなせる君に声を掛けさせてもらった」

 

 ――――君にしかこなせない役目だ。

 

「やってくれるね? アデプタスナンバー3・ジェシカ・ベイリー」

 

 こんなにも遣る気に充ち溢れる任務を今まで受けてきただろうか。

 短い間でもこの御方(ウェストコット)の側に、こんなにも近くで御仕え出来るなんて、頷く他あろう筈もない。

 どんなことをしてでも御守りする使命を誓う。あらゆる面でサポートを充実させるよう早速準備に取り掛かる必要がある。不安の種は……日本語があまりうまくない点か(曰く、カタコトになっているとか)。だが然したる障害ではないだろう。立ち上がり、見事な敬礼をウェストコットへ送る。

 

「承ります。不肖ながら、このジェシカ・ベイリー、全力で任務にあたらせていただきます」

「よろしく頼むよ」

 

 

 

 

 嘘をついてるわけでもないのに、冗談みたいな口出しで満足気に微笑むウェストコット。

 無邪気な子供ぶった法螺吹き加減に、上司の粋な接触(コミュニケーション)につき合っているジェシカに困惑はあれど疑惑なかった。

 心酔しているから。ウェストコットの言葉は絶対だから。

 〝冗談〟を〝冗談だ〟と言われなければ〝遊び〟だと気付かない。

 遊ばれている事に気付かない。

 ジェシカを使って遊んでいる事に気付かない。

 

 

 

 

 それを見ていた〝オレ〟は、気分が悪くなった。

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 

 

 

 プツンと、停電が起きたように夢が千切れて暗黒に沈殿するが、復旧の目処はすぐについた。

 

『―――っ』

 

 覚醒の兆候が頭に拡散していく。心身の節々に電力が冴え渡り〝停止〟から〝活動〟へとスイッチが切り変わる。

 このまま眠っていたい欲は無かった。目が覚めても温もりが無いから、鬱陶しい眠気も無い。

 開眼を押し止める錘が圧し掛からないのはいいかもしれない。でもそこに生きている気配は感じなかった。

 血が沸き立たず、肉が踊らず、活力が漲らない。機械を機動させたように〝作業開始〟をさせるだけで、何の余韻も無い。

 それは精神的な問題でなく〝この身体〟がそれを許さず感じさせまいとしているのだ。

 

『夢の方がずっと生き活きしてたな……』

 

 気落ちげに喋るのは、喋っている筈(・・・・・・)なのは(・・・)、コミカルな意匠をしたウサギのパペットだ。

 パペットは体操の要領で腕を伸ばしたり背伸びをしたりして今日一日の調子を確かめる。動きは人形の割に滑らかで、しかし人形相応にぎこちない。

 

 こんな動作に何の意味があるのだろうか。

 眠っていたい欲は無い?

 鬱陶しい眠気も無い?

 血が沸き立たず、肉が踊らず、活力が漲らない?

 当たり前だ。オレは、人形(パペット)、なんだから。

 

『でも、オレは……』

 

 〝オレ〟は、自分を人形だとは思えなかった。

 〝オレ〟には自我がある。意思がある。―――名前を思いだせない愁いと嘆きがある。

 

 人形にそんな情緒があるものか。

 人形は決まった動作しか出来ない。意思などある訳もなく、操り手の赴くままに動かされるのが使命なのだ。

 

 ならばオレは……

 オレは、

 オレは、誰なんだろう。

 オレは、何なのだろう。

 人形に在らざる人格を持ち、人間に在らざる身体を持つ俺は、いったい何なんだ。

 どれか一つ(・・・・・)に定まらない彷徨う魂は、今日も自らの存在に疑問を抱き、……考えても解らず見つからず、何度この難題に取り掛かったのかおぼえてもない。

 

『……なあ』

 

 だったら、自分で解けないのなら他人に聞くしかない。

 〝オレ〟みたいな奇天烈な存在を持っている(宿している)人物なら答えてくれる。〝オレ〟の正体を知っている筈だ。

 

『なあ、えっと……キミ……その、起きてるか?』

 

 慎重に声を出して、丁寧に言葉を発す。

 相手は〝オレ〟を左手に装着している女の子。

 蒼い髪をした可憐な、溶けて消えてしまいそうな儚げな少女。

 口と目は閉じたまま。

 反応はない。ピクリとも動かない。

 人形よりも人形なままでいる女の子。

 

「――――」

『……はぁ』

 

 少女に声を掛けたのも何回目になるんだか。

 少女が誰なのかが知りたくて、少女以外に誰もいないから不安で、それ以上に自分たちが居る場所によって時間感覚が乏しくなった為に数える前に気が狂いそうになった。

 

『すごいところではあるんだけどな……』

 

 上を見る。

 右を見る。

 左を見る。

 下を見る。

 

 上下左右綺羅綺羅と輝く星が、幾千にも散らばっている。

 真っ黒な一面の闇に浮かぶ小さな(てん)も、千を超えれば月に、万を超せば太陽にだって迫っている。

 

 宇宙(ソラ)が、あった。

 綺麗と、素直にそう感嘆するものが此処にあった。

 七色に変化する星星は、宝石を贅沢にも砕いて、それでも尚輝きを発揮している力強さと、触れれば溶けて消えてしまいそうな繊細さで。

 非の打ちどころを見つける方が難しいであろう幾重の輝きの真価は、人が価値を鑑定するには荷が重すぎる感動を与えてくる。

 宇宙に未だ進出していない人間は地球(ちじょう)から見上げなければ宇宙が映らない。来たとしても肌で感じる間も無く死に絶える。

 

 少女の(オレ)ように、肌を晒して触れ合いながら眺めるなんてまず出来ない。宇宙の感触なんてどんなものなのかも判るまい。

 かなり貴重。すごく非常識。

 そんな宇宙(ところ)にいるオレ。

 ―――ほんとにそうなのか、わかったもんじゃないが。

 

 蒼い少女の跳躍距離は大気圏を超えた。

 重力の重石を加えて空気の壁を突き進んだ負荷は人形にもその凄まじさを圧し付け、 地上を脱出しても勢いは止まらず、むしろ目に何も写さぬ加速をもってして駆け抜けていった。

 宇宙に居る、それが唯一の情報。そしてそれは主観でしかないすかすかな憶測。

 月も見えない。太陽も。その他惑星も同様だ。太陽系の中なのか、そもそも此処が本当に宇宙なのかも怪しいのだ。〝オレ〟にはただそういう風に感じているだけなのだから。

 宇宙空間は真空状態。空気がない。息ができない。それだけで人は死んでしまうのに、オレは、この少女は、ただ漂い続けている。人形(オレ)は兎も角として、脆く壊れてしまいそうなあどけないこの少女の体になんともないなんて考えられない。返事こそないが彼女は決して死んでない。それだけは確信していた。

 じゃあ此処は何所なんだと振り出しに戻ってしまうが、仮に異世界だとしても驚きはない。此処に来る以前と直後で蒼い少女が人間ではないのは決定的で、人間じゃないなら跳躍で宇宙に行こうが異界に行こうが一応納得はできる。一応、だが。

 だからこそ少女が何者なのかが知りたくて、彼女と話せれば諸々の謎が解けるのではないかと期待して、希望を見出して、オレは彼女に声を捧ぐ。

 

『今日も星が綺麗だな』

「―――」

『星が点いたり消えたり』

「―――」

『流れ星とか流れたらもっと綺麗だろうな……』

「―――」

『ははは…………』

「―――」

『………』

 

 碌に喋れず、終には黙る。これも何度も繰り返している。一人寂しい人形劇をしでかすパペットに、観客(しょうじょ)は白けたままだ。

 

 人形という〝玩具〟。それが今のオレ。

 木を削り取った模型を糸で操ったり、金属で組立てて電池で動かしたりするのと同じ、細かい繊維で編まれた〝オレ〟を手に嵌めて遊ぶ。楽しませて、慰める。

 人形には人が必要で、パペットは手に嵌めて動かすための人形だ。一人ではどうしたって動けない、動いたって意味がない。

 

 一人で勝手に動く人形とは、これいかに。

 疑問が輪廻(ループ)する。オレは何者なのか。少女なら知っているのか。

 何度もやって、それでも駄目で、最後には眠る。

 疲れを癒すのもあるが、もしかしたらオレが眠っている間に少女は目を覚ますのではないか……もしそうなら立場を逆転してみれば、起こす側でなく起きる側になれば何か変わるのではないかという思いがあった。

 

 もしくは、オレが最初のように少女に乗り移れば何か分かるのだろうか。

 オレはこの少女の体で目が覚めて、後から人形に乗り移った。

 その時に思った事は―――これはオレの顔じゃない、オレの姿じゃないという心身の不和。

 しかしそれは人形でいるよりかは遥かに小さい。

 

 それに……それに、なんでだろうか。

 こうして人形になった今、少女の身であった時を冷静に思うと、言いようのない感情になるのは。

 〝少女自身〟ではなく、少女の〝存在そのもの〟に何か懐かしさに似たものを感じるのは、なんなのだろうか。

 

 奥底に沈んだ記憶が刺激されて〝オレ〟を引き摺り込む。義務として、使命としてそれを取り戻さなくてはいけないとしてくる。

 

 そう思っていて、……考えが浮かぶ。

 

 ……オレが見たあの夢には、なにか意味があるのだろうか?

 

 眠ったのは何度もあったが、夢を覚えているのは初めてだった。

 あの夢には特別な意味があって、オレの記憶のヒントが、少女が目覚めるヒントがあるんじゃないだろうか。

 

 ―――――――何もしないよりかマシか。

 

 変化を求めた無聊の意識を動かし集中させる。

 心にメスを入れる感覚で、脳無き頭を開闢させて思い起こす。

 

 呼び出した男と呼び出された女。

 話をするふたり。

 命じて、了承した。

 これだけ。この中で何を探せばいいのか。

 胆なのは話の内容だ。何故呼び出し何故命じたのか。

 穴のある夢を手繰り寄せて、思い出せと念じて埋める。

 

 

 ―――AST―――精霊―――ハ―ミット―――討伐―――

 

 

『うぅ……っ』

 

 頭痛、吐き気、眩暈、いずれも人形に不似合いな生理現象が襲ってきた。

 覚えがあるような、馴染みがあるような。

 知らないのに知っているような、ヘンな感じ。

 この感情は過去の遺物なのか、忘れてしまった自分自身を思い起こさせる鍵であるのか。それともこれは蒼い少女の物なのか。少女を介して見ている記憶か何かなのか。

 

 違う。ズレている。

 オレが向かい合っているのはまだ夢の中。夢の中にまだ思い出せていないものがある。それがオレを責め立てている。

 

 呼び出した―――何のために?

 話をした――――何に対して?

 命じた―――――何を?

 了承した――――何を?

 

 何を? なにを、ナニを、なにを、なに、対して、なんのため、……………。

 

 男は画面を見ていた。女も。

 その中に映る者を。

 

 ……少女だ。

 蒼い少女ではない、オレと同じぐらいの(・・・・・・・・・)女の子。

 

 画面の中の画面は殊更見にくいのに、顔なんて見えないのにやたら鮮明にオレの目に焼き付く。

 水を飲み込むようにその姿が蔓延する……蔓延しすぎて溺れ死そうなくらい、苦しくなった。

 

 ―――もう見たくない。

 

 この苦しみから解放されたくて逃げ出したくなってるのに、目が逸らせない。

 

 忘れてしまえばいいと、楽になりたいオレがいるのに、忘れられるワケがないと殴りつける誰か(オレ)がいて。

 

 辛くて、でもどうしようもなく惹かれてしまって。

 

 思い出したら、痛い目を見る。自分の非力と醜さを直視する羽目になる。

 

 思い出せない。違う、思い出そうとしない(・・・・・・・・・)

 

 怖くって。怖くて怖くて仕方がない〝自分〟がいて。

 

 でも思い出さなければいけないと思う〝知らない自分〟がいて。

 

 誰が好き好んで自身の欠点を見たがるものかと思う〝自分〟がいて。

 

 でも彼女の為にもそうしろと急かす〝知らない自分〟がいて。

 

 

『―――なんで』

 

 

 血を吐くように、問い掛けていた。

 

 

『――――そんな、顔をしてるんだ』

 

 

 忘却の彼方から這い上がる既視感。

 苦しくて、辛くて、気持ち悪くて、泣いてしまいそうで。

 

 

『きみは……っ』

 

 

 呼び声は二人称。それに強烈な違和感と悲壮感が生まれた。

 

 キミ、じゃない。

 

 名前を。

 

 少女の名を。

 

 少女に相応しい名を呼ばなければいけない……のにッ。

 

 

『うぁぁぁ……』

 

 

 ぐるぐるぐるぐる、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。

 

 オレのなにもかもがそう(・・)なっていく。

 バラバラだった己が融け合う。

 心ならず〝オレ〟という自己が樹立していく。〝前〟と〝後〟の〝オレ〟が一致する。

 だがそれは決して記憶喪失の快復ではなく、安定でもなかった。

 苦しみ。ひたすらの苦しみ。

 虚無が故の求める苦しみと、忘却に沈めたい真実の苦しみ。

 板挟みで鬩ぎ合う二つは〝オレ〟を殺そうとするみたいに苦痛しか齎さない。

 

 もう記憶など無くなってしまえと思いそれだけはやめろと怒鳴り散らされてじゃあどうしろと思い出せオモイだせオレはかのじょをしっているでも見えにくいんだ映像が荒いし画面もちいさいしイイワケするなニゲテルダケダかのじょをワスレタママニナンテ出来ないシタクナイでも格好が違うなフンイキもだいぶダカラ人違いヒト違いちがうちがうちがうちがう見間違うものかカノジョだぜったいにかのじょだ名前はナマエ名前なまえなまえはわからないけどでも知ってるんだシッテルハズナンダだってこんなに悲しくて苦しいんだくるしくてくるしくてかのじょをおもうとどうにかなってしまってだから忘れろ全部リセットしてしまえばいいコレにくらべれば記憶喪失なんてヤスイだろ軽いだろナキニヒトシイダロふざけるなフザケンナヨかのじょはどうなるんだ見ただろあの姿をあれをほっとくなんてどうかしてるんじゃないかあんなアンナあんなあんな傷ましい顔してるのにでもおれになにができるかのじょにたいしてなにができる何も知らない何もオボエてない思い出したいのにおもいだしたくないそれに俺はオレが分からないオレは誰だなんで人形になってるオレは人間だニンゲンのおとこだ名前なまえはまた名前だまた名前がわからない知らないことばっかりがあたまにつまって爆発しそうになってそれすらも口実にしてるオレをおもいだしたらかのじょのことも思い出すからしまったままにしているんだオレ自身のつごうのためにオレがこれ以上くるしくならないようにかのじょをぎせいにしてるだからだからおもいださなくちゃいけないんだろでも痛い死にそうだココロが心が死んでしまうこの痛みを皮切りになにものこらなくなるオレにはなにもできないだってああしたのはああしてしまったのはオレがやったからオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれが―――――――

 

 

『オレがっ、――をっ……オレはっ、―――に、……取り返しのつかないことをした……っ』

 

 

 拒否しても、沁み込んでくる想いがある。

 滲みだす痛みが、より強く苦しめる。

 ……いよいよもって限界になる。

 

『ごめん……っ』

 

 氾濫した思考の海は津波となって呑み込まれ、肺に溜まった嫌悪の水に溺れて溺死する。

 もがく気力もなく、心も魂も錆びて腐っていく。

 もうダメだ。もうどうしようもない。

 オレはもうなにもない。

 身体も、記憶も、心も……命も消えていく。その隅っこに潜むきみを見捨ててブザマに死んでいく。

 

『ごめん……―――、ごめん………―――、っ。オレ、おれ……っ』

 

 謝罪に意味はなく、本当に叫びたい言葉(なまえ)を言えなくて……それでも言うしかなくて。

 無念を抱き、後悔に曳かれながら孤独になっていく。

 深海は重く冷たく、極寒地獄に導かれる。

 深く、深く、暗く、暗く。

 

『ゴメ―――っ?!』

 

 〝オレ〟が靄となって人形という入れ物から消えゆこうとした。その時だった。

 

 

 

 

 光が、届いた。

 

 

 

 

『え?』

 

 

 深海にあるはずのない光が、宇宙空間にない暖かさが〝オレ〟を包んでいた。

 

 

 

 ―――――泣かないで

 

 

 

 澄んだ響き。

 声に質量が宿り、触れるだけで安心させられる不思議な音色……。

 

 

 

 ―――泣かないで

 

 

 

 それだけで、もう寒くなかった。身体の強張が和らいで心の枷が解かれていく。

 優しい光から成る、優しい温もり。

 冷たい深海から掬い揚げられて冷えきった体に広がる人の肌、人形に感じる筈のない、あたたかい感触が〝オレ〟に伝わってくる。

 

 

 

 ――もう、泣かないで。あなたはもう泣かないで。

 

 

 

 だれ?

 あなたは、だれ?

 俺なんかを抱きしめてくれるあなたは、だれ?

 

 

 光に慣れない目でなき目を開けて見上げれば、そこにあったのは清らかなウェーブを描く()色だった。

 

 

『……きみは?』

「―――っ、な……泣か、ないでっ……ください」

 

 

 女神の如くだったそれは未成熟な声音に、庇護欲が沸くほどに危いものに変化した。

 目は潤み、いまにも崩壊しそうなほどに揺れている。肩を叩けば、胸を押せばそれだけで死んでしまいそうな脆さなのに―――。

 

 でも、そんな脆弱な少女は、オレを抱きしめる腕を離しはしなかった。

 



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■■■■クライ

 

 

 

 

 

 

≪ウサギは寂しいと死んでしまう≫

 

ストレスが溜まりやすいウサギをきちんと飼育世話しろという一種の隠語のような役割をもっている。無論、他の動物とてそうしなければならないがウサギは取り分け注意しなければいけないほどの小動物だという事であり、ウサギが本当に寂しいから死ぬというのではない。

 

 

≪ウサギは寂しいと死んでしまう≫

 

交際において使われる例えは実に(かんじょう)を如実に表している。

誰もいないのはつまらなくて、他者との競争も共感も心があるが故の至上最高の娯楽で。

一人でも生きていけるとのたまえば、自身の無力さを思い知る。

知性あるもの特有にして独占する〝つながり〟は強さでもあり弱さでもある。特に人間のは膨大で複雑な創りをしている。

 

ウサギと人間でソレは意味合いが違ってくる――――体か心か。大きいか小さいか。強いか弱いか。狩る者か狩られる物か。生物学的に見れば差異などまだある。

 

しかし、これよりもっと単純にしてみるとどうだろう。理由も意味もかなぐり捨てて、細かく分けるのではなく、一本の巨木にしてみればどうなる?

 

≪寂しいと死んでしまう≫

 

これだけだと、これだけならば、違いなど無いんじゃないか。

体の問題も心の問題も、すべてはソレから始まっていく。同じ生物である以上、決してソレから逃れる事は出来ない……特に他人のありがたさ、ぬくもりを知っていては。

 

 

ゆえに、

 

 

四糸乃(ウサギ)は、寂しいと死んでしまう。

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 

 

身を落とす。殻に篭もる。

そんな状態に四糸乃は自らを封印した。

逃げた、といえば逃げたことになる。目を視えなくさせて、耳を聴こえなくさせて、足を歩けなくさせた……〝凍りつかせた〟のだ。

 

認めたくなくて、友達が跡形も無く消えた(・・・・・・・・)事が認められなくて、心を凍りづけにした。時間と空間を無縁のものとし、自らと周りを切り離したのだ。ほっといたら、自分はヒドイことになり、ヒドイことをすると直感でわかっていたのだ。

 

そして、そんな自分をいつも救ってくれるよしのんを待っているのだ。

よしのんが来るのを、自分のヒーローが助けに来るのを待っている。

恐いものから守ってくれて、もう大丈夫と言ってくれるのを待っている。

それが叶わぬ願いであっても四糸乃は待っている。

どんなときでも必ず駆けつけてくるヒーローを信じて待っている。

無理矢理眠りに堕ちて四糸乃は待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………………………………………なんて、弱い。

 

四糸乃は、なんでこんなにも弱いんだろう?

 

よしのん(ヒーロー)に憧れるだけ憧れて何も得ず、憧れるだけで何もしない。

よしのん(ヒーロー)が居なければ何も出来ない。よしのん(ヒーロー)が示した行程しか進まない。よしのん(ヒーロー)が言ったものしか従わない。

 

まるで人形みたい。だから、こんなのに弱いんだ。

でも仕方ない。四糸乃はこうなのだ(・・・・・)。四糸乃はそうなっている(・・・・・・・)のだ。

弱虫で、泣き虫で、ウジウジしてて、うずくまってガクガク振るえてるのがお似合い の、そんな程度の価値しかない。助けられる(・・・・・)しか価値がない(・・・・・・・)臆病者。そうとわかっていて動けない、筋金入りの弱者であるのだ。

 

そうしたままで四糸乃はよしのんを待っている。

待って、待って、待って、待って、待ち続けた。

無駄と知りつつ、無意味と知りつつ、〝信じて待つ〟という逃げ穴に縮こまっていた。

事実の拒絶と、無い物強請りを続ける四糸乃。よしのんがいなければ何者よりも弱くなる、否、よしのんがいても弱いままでいる四糸乃がこの期に及んで考えるのは、やっぱりよしのんの事だ。

 

 

――――よしのんっ…………よしのん……っ。

 

 

涙が出ないのか涸れ果てたのかもわからなかった。

死の感触。自分ではなく最も親しい者を失った〝がらんどう〟は凍りづかせた心身をも砕き、熔かしていく。しかしそれは暖かな炎では決してなく、森羅万象総てを灰にしてしまう無慈悲の劫火であった。

 

この劫火を四糸乃は怖いと思った。恐ろしくてたまらなかった。

いつも四糸乃を襲ってくる人間のひとたちよりも遥かに強烈で濃密な殺気。しかもそれが自分の中から溢れ返っている。

 

燃やせと囁いてくるのだ。

人間を燃やせ。

こんなことになった原因を燃やせ。

よしのんを奪った総てを燃やせ。

 

紛れも無き悪魔の囁きに似た破壊衝動は、それ故の甘美な誘惑があった。

 

 

 

身を委ねれば楽になればそれで終わる。

――――よしのんへの思いが。

こころゆくままに自由になれる。

――――よしのんを犠牲に。

苦しい思い。悲しい思いが忘れられる。

――――よしのんを、忘れる。

 

 

 

よしのんを忘れれば、最初からいなかったことにすれば……………………………………なんて、そんなことできるわけがない。それだけはないと自然に選択肢から除外できた。

 

 

 

―――結局どうしようもなかった。

よしのんは四糸乃の生きる為の支柱。無くなってしまえば崩れ落ちるのみ。

凍りづかせて食い止めようとしても確実に溶けていっている。終末のカウントダウンは刻み初めて止めようがないのだ。

 

 

四糸乃もいずれ、彼女のようになる(・・・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

「………え?」

 

気が付けば、どこかの街に四糸乃はいた。

隣界から現界するのと似たような感覚に引き摺られ降り立ったのは絶叫する人間の波の中。

 

『きゃあああああああああああ!!?』

「ひぅッ!?」

 

知らない人間たちが四糸乃に向かってきてとっさに天使を発動しようとしたが、そのまま素通りしていった。否、通り抜けていた(・・・・・・・)

背が小さくて見えなかったのではなく四糸乃ごと走り去っていった奇怪な光景は、しかし四糸乃以外に目を見開いた者はいない。

現状を冷静に判断できる程の理性(よしのん)を四糸乃は失っている。

人間がいっぱいいて、誰もかれもが悲鳴を挙げていた。それしかわからない。

まるで悪鬼にでも出くわしたみたいな形相で、まるで殺されそうになってる必死さで逃げていた。

 

「……な、に、……なにが……?」

『ま、まてッ!! 待ってくれっ!!!』

「え……?」

 

オロオロと足をふらつかせるしかない四糸乃が聞いたのは人間が通り過ぎた跡に残っていた少女の、声。

おいてきぼりをくらったからの静止なのか、どうにもほっとけずに振り返ってその姿を見た四糸乃は―――言葉を失った。

 

「ヒッィ?!」

 

小さい悲鳴の後、腰を抜かしてへたり込んでしまう。

歯がガチガチ小刻み、足も震えて立つこともままならない。

 

そこにいたのは案の定少女だった。可愛い少女。十人中十人が振り返るくらいの美しい女の子だ。

―――血塗れの死体を持っていなければ、だが。

 

「あっ―――ああぁっぁぁぁぁっ……」

 

少女がその死体を抱いて叫んでいる。常軌を逸した凄惨な刺激は四糸乃には強すぎた。目を逸らすことも許されない衝撃に成す術もない有様だ。

それは恐ろしさ故でもあり―――別の理由があった。

 

少女の抱えている死体。

胸に空いた穴から血を(・・・・・・・・・・)流す少年の死体(・・・・・・・)に、見覚えがあった。

出会いは邂逅だけで会話がなかった。なのに妙に心に残ったその人の貌。

その貌が血の気の失せた、生気のない虚ろな目を彷徨わせている。

知己とは呼べない、すれ違っただけでしかないその人が、生きていないモノになっている。

 

「……ど、っ……どうっ、して」

 

どうして、そんなことに―――絞り出せない声が四糸乃の裡で消えていく。

自分は夢を見ているんだろうか?

よしのんの悲しみが大きすぎてこんな怖い夢を見ているのだろうか?

カッコイイヒーローがいなくなってしまったから、何もかもが死んでいなくなっていくのか、すれ違っただけの人でも死んでしまうのか。

四糸乃は夢の中でさえ生きていけないのか。

 

『まってくれえええェェッ!!!!』

 

―――夢。

 

『私はなにもしないっ! 私は、わたしは■■■を助けたいだけなんだッ!!』

 

―――これは、夢。

 

『たのむっ! 誰か、だれか助けてくれっ!! ■■■を救ってくれッ!!』

 

―――これが……夢?

 

『誰か! ……誰かっ。私はどうなってもいいからっ、■■■を、誰か、■■■をっ』

 

―――夢、……じゃない。

 

『■■■……っ、■■■……っ』

 

―――夢なんかじゃない。

 

『なんで……なぜだ、■■■……っ、なんであんなこと……っ。わたしは、そんなつもりはなかったっ。わたしは死ぬから、もう生きられないからっ、おまえには生きていて欲しくてっ。私みたいな精霊を救ってほしくて……っ』

 

少女は座り込んだ。無力感に打ちひしがれて、絶望に苛まれて、足を止めた、声を止めた。

 

『―――――――――――――――同じ、だったのか……?』

 

変化が起きたのは、その小さなちいさな呟きからだった。

 

『おまえも、こんな気持ちだったのか……? こんなに悲しくて、こんなに苦しくて、こんな……こんな、痛みを、感じていたのか?

わたしが、こんなもの(・・・・・)を、おまえに……あじあわせて? ……じゃあ、……じゃあっ』

 

ギュッと抱きしめたのは、動かない死体。

抱きしめ返すこともない腐っていくだけの肉と骨。

 

『私が、おまえに与えていたのは…………絶望だったのか?』

 

―――そうしたのは誰だ?

―――こんな救いようのない死に様を晒させたのは?

―――彼を追い詰めてしまったのは?

 

『わたしの、……セイ?』

 

黒い影が少女に蔓延っていく。黒い粒子が少女から立ち昇っていく。

心臓が脈打つように(・・・・・・・・・)心臓が脈打つ度に強く(・・・・・・・・・・)大きく少女から溢れ出てくる(・・・・・・・・・・・・・)

 

『わたしが、死んだから……わたしが、あんなこと言ったから……わたしが、おまえを拒んだから……おまえを、追い詰めてしまったのか……?』

 

 

 

『わたしが、おまえを殺したのか……?』

 

 

 

目から頬へ伝わり、雫が落ちたのは死体の瞼。

お姫様の、その涙を浴びてもなにもおきない。

呪い()は成就し、目を覚ますことは永遠に来ない。

 

『あ、――――ああ、……あああ、あああぁぁああああああ』

 

言葉にできない虚ろの嘆きが、死者の呻きのように喉から零れる。

呪いは、お姫様にも伝染していた。否、呪われていたのはお姫様のほう。

世界を殺す災厄。それがお姫様の正体にして本質。

あまりに強大で、あまりに強力で、あまりに凶悪な猛毒に触れて、無事でいられるはずがない。人間なんて、簡単に死んでしまう。

 

わかっていた、そんなのはとっくにわかっていたのに……。

 

―――間違っていたのだ。

―――■■■と関わりを持ったのが。

―――出会うべきではなかったのだ。

―――私と。

―――私と出会ったから■■■は死んだ。

―――私が、

 

 

 

―――わたしが、■■■を、殺したんだ。

 

 

 

『……うぁ』

 

苦しめるように強く。

絞めつけるように強く。

暴れ出すように強く。

責め立てるように強く。

刻み奏でるのは心臓の鼓動。

その振動で千切れたのは理性。崩れ落ちたのは感情。

壊れてしまったのは、少女の、大切な記憶。■■■の思い出。

 

『うあああ』

 

■■という名の、消失であった。

 

 

『うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――――ッ』

 

 

心臓を宿す胸の裡から〝闇〟が、一片の光すら差さない暗い闇が少女にへばり付いていく。

重罪人への拘束、細胞を蝕む病原菌、とにかく少女を責め立てる現象と、そう受け取るには十分な〝輝きの無さ〟を見せつけてくる。

そしてなによりも、少女の顔が、口ほどモノを言っている痛々しい表情(かお)が、光を失っていくのを鮮明に表していた。

 

 

 

……雨が降っている。

 

少女に夢中で気付かなかったが、この街には雨が降っていた。

嵐のような横殴りの雨ではなく、その前の、嵐の前の静けさに似た無感動な雨。

なにもない何時も通りの、何てことのない普通にしか見えない、爆発寸前(・・・・)の雨。

 

この雨を、四糸乃は知っている。よしのんと最後に話していた時、誰かが泣いているみたいな、誰にも気付いてもらえずに我慢して啜り泣いている雨。

今の四糸乃と同じ苦しみを懐いている者が出す嗚咽。

 

合わせ鏡だ。

この少女は四糸乃と同じ傷を持ち、感じている。

大切な人を失って、それを認められなくて、痛いんだ。

少女はとても、痛がっているんだ。

 

その時、四糸乃の体は勝手に動いていた。

 

四糸乃はいつの間にか立ち上がっていた。

脚腰の震えが消えて、立ったという自覚すらないままに駆け寄った。

少女へと、この手を伸ばすために。

 

「…………ぁ」

 

引き込まれるように、もつれそうになる足を動かされても(・・・・・・)止まることはなかった。

 

―――させない。

 

その衝動は胸の裡と頭の中からやって来て、急き立ててくる。

 

―――そんな顔にさせない。

 

強固な鋼を思わせる意志が、四糸乃では想像もつかない強い思いが自ら生み出されていく。

熱くて、大きくて、勇ましくて、優しくて、でもどこか切ない気持ち。

四糸乃が抱いたことのない感情で、四糸乃では抱きようのないはずの感情。

でも、知らない感情ではなかった。コレを四糸乃は物凄く近いところから感じて、常に与えられてきた。

四糸乃の、一番の友だちが持っていた立場。憧れて、自分の理想としてきた存在が施す献身とまごころ。

自分もこうなりたいと確かに焦がれた、望んでいたモノ。

 

動かされていると、誰かに操られていると分かっているのに四糸乃自身が抵抗もなにもしなかったのはそれが理由だろう。多感な子供がヒロイズムに触発されるように、自分にもできるんじゃないかと意気込み体現しようとするように、なりたかったからこその無抵抗だった。

 

だが、四糸乃はわかってなかった。〝憧れ〟とか〝想い〟とか、そんな〝気持ち〟だけで容易く何かを成そうと思い上がるほど、現実は無慈悲に牙を突き立ててくることを。

 

「ぁっ!?」

 

だからこうなるのは決まっていた。

触れる筈だった手のひらは彼女を透り抜け、勢い余って頭から地面に転倒した。――忘れていた。さっきも人が自分の体を透り抜けていったことを。立つこと転ぶことができても人にさわることができないのは何故なのか?

だがそれよりも、彼女がどうなっているのか、一瞬の痛みからの広がる痛みに身を悶えながらも後ろを振り返る。

 

「―――――」

 

喉が引っ掛かった。声が詰った。

そこにいたのは、人と呼ぶにはあまりに不気味な何かだった。

 

人であるのは輪郭だけで、黒い皮膜みたいなものが彼女を覆っている。まるで何かに食べられてしまったかのような、ブラックホールの 〝消失〟が起こっていた。

しかし、なによりも消失していたのは彼女の表情だった。

美しい相貌は白く、双眸は涙を流しながら何も見ることもなく宙を彷徨っていた。

そして手に持っているのは死体。今の彼女はこの上なく不気味で異常な存在であった。

 

恐怖と忌避感を引き起こすだろう彼女の周りには、もう人間はいない。街は既に蛻の殻となり、ただ甲高い警報音が空しく響き渡っている。

 

 

 

―――やがて音は止み、次第に聞こえてきたのは空からくる機械を纏った人間たち。

 

 

 

四糸乃は思わず息を呑む。あまりに見覚えのあるヒトたちだ。

言わずともやって来て、望まずとも戦いを仕掛けてくる怖い人たちが案の定こちらに向かって一斉に攻撃してくる。

 

「ゃ……め、て」

 

いつもの風景といえる、飽きるほど体験した殺意の砲撃。

物理破壊しか齎さない兵器だが、四糸乃にとっては悪意を代弁させる手段としてこの上ない罵詈雑言の精神破壊弾幕である。制止を訴えるのは無理からぬことだった。

ただ違うのは、「やめて」といったのが自分に対するものではないということ。

だって爆風は四糸乃を襲わない。弾丸は四糸乃を傷つけない。相も変わらず身体は素通りを繰り返すだけで何の障害もありはしなかった。

襲われてるのも、傷ついてるのも、彼女だけなのだ。

 

「―――やめ、て、くれ(・・)……」

 

なんとなく、四糸乃は理解していた。

これは過去。

もう過ぎ去ったことで、終わってしまった出来事だと。

だからなにも触れないし、できもしなかった。

彼女が泣いていたのも、嘆いていたのも、絶望したのも、過去の必定でしかなかったのだ。

 

……でも。

 

「やめて―――もうやめてくれッ(・・・・・・・・)!!」

 

四糸乃は駆けだした。彼女へと再び手を伸ばして、我武者羅に突き進んでいく。

こんな行為に意味がないのはわかってる。なにかを成し遂げることもできないのも承知だ。

でもそんな理由で彼女を見殺しにできないと走っていく。

 

攻撃を止めさせるため――――彼女の絶望を祓うために。

 

「この人はっ……ただ、あのひとを助けようとしただけでっ。悪いことなんてっ、してなくてっ。――わた、っ………。――……れ、……は、オレはッ(・・・・)、あいつに生きていて欲しいんだッ!

いったんだ、護るって、信じてくれって、味方でいるって……また、デートするってっ」

 

自分とはかけ離れた言葉使いと行動に気付きもしないで、逃げている自覚すらないであろう彼女を追っていくのは、未だに胸に燻る消えることなき意志がそうさせていたからだろうか? それとも……。

 

「だからもうやめてくれっ! あいつを、もうこれ以上苦しめるなああああッ!!!」

 

――なにも、届くはずがない。

射影機で映されたモノには触れない。流されている映像を編集することは出来ない。

伸ばした手も、声も。自分は〝いないもの〟として扱われる。

どんなに追いかけても届かない手と声が代わりに手繰り寄せたのは〝絶望〟だけ。

彼女を助けることもできない、救うこともできない、手を差し伸べることすらできないのか、声を掛けることすら―――弾劾が四糸乃の中身(・・・・・・)を掻き毟る。

 

「ぁぁぁっ」

 

四糸乃は痛いのが嫌いだ。体がいたくなるのがイヤで、心がいたくなるのはもっとイヤだ。

体がいたいのはいずれ治っていくのに、心はそうじゃない。いまの四糸乃は嫌というほどそれを痛感している。

たとえ自分のではなく他人の痛みであろうとも、許容できる四糸乃ではなかった。

故にこそ、どうすればいいのかわからなかった。

痛みを忌避し、遠ざけてきた四糸乃は誰も傷つけたことがないから……痛みを負ってしまったときにどうすればいいのかがわからない。他者とのふれ合いが致命的に欠損しているのだ。

 

どうすることもできないのに、それでもどうにかしようとして、でもなにもできないもどかしさに四糸乃は―――。

 

「…………………………よし、……のん」

 

唯一のふれ合える友だち、よしのんのことを考えていた。

だがそれは珍しいことに救いを求める言葉ではなく、空想を織り交ぜた思考であった。

 

―――こんなとき、よしのんは…………こんなとき、憧れのヒーローは、理想の自分は、こんな絶望の只中どう行動するんだろう?

 

よしのん。

四糸乃を助けてくれるカッコイイよしのん。

四糸乃を慰めてくれる優しいよしのん。

四糸乃をずっと守ってくれた強いよしのん。

四糸乃が楽しいときも、辛いときも、ずっとそばにいてくれたよしのん。

どれをとっても光り輝く偉容の影に隠れていた四糸乃には、何ひとつとしてよしのんに勝るものなどない。

 

「…………」

 

かっこいいことなんてしたこともなければ優しさを施したこともない。なにかを護ることなんて尚更にない。そばにいることさえ、よしのんに甘えてばかりで、寄りそう勇気がなかった。

 

「………………」

 

四糸乃にあるただひとつのものは、それは―――形ある奇跡だけだ。

 

「……………………<氷結傀儡(ザドキエル)>」

 

か細い呟きの後に出現したのは、地球上に存在するはずもない規格外な大きさを誇るウサギだった。体毛の代わりに金属に似た滑らかな光沢を放つ白い皮膚と、肉を喰い千切らんとする猛禽の如き鋭い牙が、決して捕食されるようなか弱い動物などではないことを窺わせる。

 

氷結傀儡(ザドキエル)――四糸乃が持つ水と氷と雨と雪とを巻き起こすウサギの姿を借りた〝天使〟である。

降臨せし大地には生命の潤いを、咆哮浴びせし敵には大自然の天災を齎す〝天使〟を、なぜ四糸乃は呼び寄せたのか? ……そんなことしたって意味がないのに。

 

 

―――グゥォォオオオオオオオオオオオォォォ

 

 

自らの背後に佇ませていた<氷結傀儡(ザドキエル)>から低い咆哮が上がった。

本来の使い方でなくともその力を発揮させるには十分なはずの咆哮は、この世界には些かの影響もなく、人畜無害の雨が四糸乃に関係もなく落ちているだけに終わっている。

当然の結果、当然の帰結だ。

形をもった奇跡が体現するのは形をもった世界にだけ。形をもたない虚像の映し絵に奇跡を齎すにのは、それこそ本物の奇跡(・・・・・)を起こす以外にできるはずもなかった。

 

「……っ」

 

重さを感じさせない軽やかな動きで四糸乃は<氷結傀儡(ザドキエル)>の背後へ跳びつき、空いていた二つの穴に両手を沈めた。欠けたピースがガッチリ嵌る感触と感覚。天使を使うのはいつ以来だったか、自発的に顕現させたことがはたしてあったのか、四糸乃は思い出すことができなかった。

それだけ自分はよしのんに頼っていて、よしのんに救われていたのだ。

 

「…………………………………………泣か、ないで」

 

そうだ。よしのんはずっと四糸乃にこう言ってくれた。

四糸乃が涙に濡れたとき、涙に溺れそうになったとき、やさしく、そっと寄りそってくれた。

それにホッとした、安心した、ひとりじゃないのが、うれしかった。

あの人に必要なのは、きっとそれなんだと四糸乃は思った。

 

 

―――グゥォォオオオオオオオオオオオォォォォオォォォォォォォォォ

 

 

氷結傀儡(ザドキエル)>の咆哮が主人と呼応して大きく、強くなっていく。

もはや権能を行使する意味がないのは承知済み。この咆哮はただの言伝だ、ただの語りかけだ。

ここではないどこかへ、あの人の元へ届いてくれと祈りを込めて―――あなたはひとりではないと伝える為に、四糸乃(ザドキエル)は叫んだ。

 

どうかこの雨の潤いが、あの人を癒してくれますように。

 

――――泣かないで、あなたはもう、泣かないで。

 

結局自分が何をしているのか、四糸乃はうまく言い表せなかった。結果が出る保証もないのに、こんなことをしているのはなぜなのか。

よしのんだったらきっとこうしただろうというそれだけの動機といえるし、きっとそういうことなんだ(・・・・・・・・・・・・)というオボロゲな得心があったからだ。

無駄にならないからやるんじゃなくて、利を得られるからやるのでもなくて、よしのんはきっと――――

 

『きみ、は?』

「ッ?!」

 

四糸乃の世界が変わったのは寒さに震える声を聞いたからだった。泣き疲れて眠りにおちそうな、寂しい声だった。

暗く黒い墨を固めているかのような空に煌びやかな星。座ってもなく立っている訳でもなく宙に浮いている不確かな状態で四糸乃は漂っている。

 

抱きしめていたのは一人の人形(・・・・・)

馴染み深く、見慣れた、自分の半身、ウサギのパペット、よしのん。

よしのんがこちらを見上げてひとりでに話しかけてくる。知らない仕草と声で動いているのは、やはりよしのんはもういないという事実に他ならず、たまらず四糸乃は泣きそうになる。

 

でも、それはこの人も一緒だった。凍える身体から通る感情は、凍てついた心をそのままに伝わってくる。この人のほうがよっぽど苦しい思いをしていると。

なぜ場面が切り替わったのかなんて疑問は四糸乃にはなかった。

ここにもいたのだ、痛がってる人が、苦しんでる人が、ならやることは決まっていた。

 

「泣か、ないで……ください」

 

誰も助けてくれない状況で誰かを助けようとする四糸乃。

巣立ちの時を控える雛鳥のように、その羽ばたきは未だ小さいものなれど、確かな成長があった。

 

 

 

 



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