楓の木の下でまた貴方に恋をする (かえるくん)
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第一話

 書きたくて書きました。

 ちょっと書き直しました。

 どうぞ。




 ここ一週間くらい、同じ夢を見る。

 

 暗闇の中、膝を抱えて泣いている少年がいて、その少年に私は決まって「なんで泣いてるの?」って問いかける。しかし少年は首を振るばかりで何も答えない。そんな少年を励まそうと毎回いろんな言葉をかけるが、けして少年は顔をあげることはない。しびれを切らした私は少年に手を伸ばす。けれど見えない壁が少年を覆っていて絶対に触れることが出来ない。ただその壁に触れると少年は必ず顔を上げ、そして怯えた目で私を見る。

 

 夢はそこで終わり。その目を見て、動けなくなったところでいつも飛び起きる。止めどなく涙が溢れ出し、枕や寝巻きをぐっしょりと濡らす。何故かはわからない。夢の中の少年を哀れんでなのか、何もできなかった自分が悔しいのか。気が付けば、少年の顔は思い出せない。

 

 でも一つ言えるのは、夢を見はじめてからあるこの胸にぽっかりと穴の空いた感覚が、きっとそこにあったであろう何かが、鍵を握っているのだろうってことだけ。私はまだそれが何なのかわからないでいる。

 

 

   _____________

 

 

 

 今日も最悪な目覚めだ。訳もわからず涙は流れ、胸が痛む。私はベッドの上で涙が止まるのを待ち、止まったのを確認すると終いに一回だけ目元を袖で拭ってベッドを降りる。ハンガーにかかっている制服を手に取り、寝巻きを脱ぎ着替えた。そして姿見の前で装いを整える。

 

「はぁ」

 

 髪をいじっていると無意識にため息が漏れた。原因はわかっている。最近私のもとに舞い込んできた厄介事、生徒会選挙のせいだ。私は生徒会長に立候補している。これが自分で望んだことなら不安になることはあってもため息は漏れることはないだろう。つまるところ、この立候補は私の意思ではない。

 

 私は自分を可愛く魅せ、優位に物事を運ぼうとする人間だ。使えそうな男子には媚を売る。しかし、そのぶん女子からの反感は大きい。極めつけはやはり葉山先輩のことだろう。始まりはなんだったかはもうよく覚えていない。周りが騒いでいたからか、皆が寄って集っていたからか。周りの誘いにのってサッカー部のマネージャーになったが予想以上の激務にほとんどは辞めていった。基本的に外面とは違って真面目な私は簡単に部活をやめることもできず今でも続けている。そういったこともあって私は比較的に他の女子よりも葉山先輩に近いと思われているのだ。私としては全くもって距離が近いとは思っていない。むしろあの人に近い人なんているのだろうか。

 

 斯くしてめでたく女子の不満は募り、生徒会長に無理矢理立候補させられる形でそれは現れた。通常こんなことは起こり得ないのだろうが色々な不運が重なり引き起こってしまった。担任も話を聞いてくれずどうすることもできないのが今の現状である。話を大きくする手もあるが、そうなると私がしてやられて傷付いてる風を演じなくてはいけない。しかしそんなことしたら向こうはつけあがるに決まっている。もっと面倒なことになるかもしれない。そういうわけでなかなか踏み切ることができない。

 

 と、まあこんな中、学校に行く気が乗るはずもなくため息も溢れるのだ。毎晩不思議な夢は見るし、なかなか気が休まるタイミングがない。

 

 ただ夢の方が私の中では大きく、気になって仕方ない。無意識に大切なことだと認識しているのだろうか。学校でもほとんど夢の事を考えてしまっている。

 

「よし」

 

 いつも通りの可愛い私を完成させたあと、鞄をとって部屋を出る。リビングに降りると両親二人とも朝食を取り始めていた。

 

「おはよう」

「おう、おはよう」

「おはよう。やっと起きてきた。さっさと食べちゃいなさい」

「はーい」

 

 既に用意された朝食の前に座り食べ始める。だらだらとしている間に父親は仕事に行き、自分も家をでなくてはいけない時間が近づく。食べ終わったあと、色々済ませて母親に声をかけてから家を出る。

 

 近頃、朝はだいぶ寒くなってきて足が辛い。そのせいで余計憂鬱になりながら高校へと向かう。学校が近づくにつれ同じ制服を着た人が多くなる。つまりそこそこ有名な私は声をかけられることが多い。ほら、さっそく。

 

「いろは、おはよう」

「おはよー」

「ちょっと元気なくない?なんかあった?」

「別になんでもないよー」

「ならいいけど。なんかあったら言えよ」

「うん、ありがとう」

 

 ぱっと張り付けた笑顔で対応し、走り去る男子をその笑顔のまま見送る。相変わらずの職人芸だと思う。ほんと、薄っぺらい。

 

 歩みを進め、学校に着き教室へ入る。決まって挨拶してくる男子達の相手をし、一部の女子の遠巻きな視線を受けながら席に座る。疲れ気味の私の姿を見てちょっとした優越にでも浸っているのだろうか。

 

 普通ならいくらかの不快感を得るのだろうがそれはない。昔はこうではなく、ショックを受けて泣いていたと思う。どうしてこうも平気なのか、いつから強くなったのか、そのきっかけも思い出せない。その事になんだか無性に切なくなる。

 

 

   _____________

 

 

 

 昼休みに一人で弁当をつついているとクラスメイトに肩を叩かれた。

 

「一色さん、生徒会長が…」

 

 そう言ってその子は教室の後方の入り口を見る。それにつられるように視線を向けると先日からお世話になっている城廻会長がいた。こっちを見て手を振っている。

 

「わかった。ありがとう」

 

 クラスメイトに軽く礼を言った後、食べかけの弁当を一旦片付けて会長のもとへと行く。

 

「すいません。お待たせしました」

「こっちこそごめんねー。ちょっと連絡があって」

「いいですよー。それで?」

「今日の放課後なんだけど、一色さんの件を相談に行くから空けといてもらえる?」

「わかりました…。でも今更どこへ相談に?」

「それはね、奉仕部ってところ。文化祭でも助けてもらったんだー」

 

 名前からして怪しいのだが…。しかし今さらどこにも期待はしていない。おそらくどうにもできないと言って匙を投げられるのだろう。

 

 連絡はそれだけらしく、城廻先輩はお昼ご飯邪魔してごめんねと一言残し帰っていった。私は席に戻って昼食の続きをとる。食べ終わり、メールで葉山先輩に用事で部活にいけなくなったことを伝えた。

 

 午後の授業もつつがなく終わり、荷物をまとめて教室を出る。向かう先は部室ではなく生徒会室。目的地に着き扉をノックすると中から声が聞こえたので開ける。そこには城廻先輩と平塚先生がいた。

 

「来たか、一色」

 

 教室に入った私を見て平塚先生が声をかける。それに率直な疑問を私は返す。

 

「どうして平塚先生が?」

「平塚先生は奉仕部の顧問なの」

「そうなんですか」

 

 その疑問に城廻先輩が答えた。顧問がちゃんといるということはそこそこしっかりした部活なのだろうか。

 

 色々と釈然としない私は二人に連れられ、生徒会室を出て特別棟へとやって来た。奥へと進んでいき、人気の無さそうな教室の前で止まる。そして平塚先生は何の躊躇いもなく扉を開け放ち中へと入った。それに城廻先輩が続いたので私も後を追った。

 

 教室内にはいると最初に紅茶のいい香りが私を襲った。紅茶のことは良くは知らないがおそらく本格的なものなのだろう。次に人がいる方に目を向けるとそこには雪ノ下先輩と由比ヶ浜先輩がいた。二人ともこの学校ではかなりの有名人だ。由比ヶ浜先輩は葉山先輩に用事があるときまれに会うので面識はあるが、こんなところで部活をやっていたのは知らなかった。雪ノ下先輩も同様、そんな噂を聞いたことはない。

 

 疑問と驚きで頭がいっぱいになっていく私をおいて平塚先生が口を開く。

 

「ん? 比企谷はいないのか?」

「はい。来ていません」

「そうか、珍しいな。なんか用事か?」

「いえ、特に何も…」

「由比ヶ浜も聞いてないか?」

「わ、私も何も聞いてません…」

「うむ、無断とはどういうつもりなのか…。心当たりもないのか?」

「それは…」

「……何かあったのかね?」

「まあ、それなりに…」

 

 どうやら部員はもう一人いるらしいが訳ありで来ていないらしい。先輩二人の雰囲気を見るになかなかに重そうだ。流石に問題を抱えている人たちに助けは求められない。それを思ってか平塚先生も退くことを選んだようだ。

 

「これは出直した方が良さそうだな」

「いえ、別に今彼がいなくても問題はないでしょう。来たときにまた説明すればいいですし。何か依頼ですか?」

「その前に、比企谷は来るのか?」

「それは…、なんとも言えません」

「つまり君たち二人だけで依頼を受けると言うことか?」

「その解釈でも構いません」

 

 雪ノ下先輩の返答を聞いて平塚先生はしばらく考える。そこまで比企谷という人は必要なのだろうか。数秒後、平塚先生はため息を1つ吐いた。どうするか決めたらしい。

 

「仕方ない。元々案を聞くだけのつもりだったし、君たちの意見だけでも聞いておこう。それでいいか? 一色」

 

 突然の振りに少しだけうろたえるがすぐにいつもの調子で答える。

 

「まあ、意見は多い方がいいですしー、いいんじゃないですか?」

「なら、城廻。説明を頼んでいいか?」

「わかりました」

 

 城廻先輩が先輩二人に説明を始める。由比ヶ浜先輩が私のことを知っていたこともあって紹介はカットされた。城廻先輩に全部任せるのも悪いので、要所要所で自分の事情の説明を挟ませてもらう。だいたいの説明が終わったところで平塚先生が問いかける。

 

「何かいい方法は思いつくかね?」

「取り下げが難しいとなると…。やはり他の誰かを擁立させるしかないかと」

「やはりそうか」

「私達委員会の方でも探してるんだけど見つからないんだよね」

「そうなんですか。あの、先生」

「どうかしたか?」

「少し、時間を頂けないでしょうか。私達も考えてみますので」

「おお、助かる」

「ごめんね。迷惑かけて」

「先輩方、ありがとうございます」

 

 話を終えて教室を先生達に続いて出る。先生は職員室へ行くと言うことで、城廻先輩と二人で生徒会室へ戻る。

 

「本当ごめんね、一色さん。私が本人確認を怠っていなければ…」

「あはは、もういいですって。誰もまさか無理矢理立候補させられてるなんて思いませんから。不慮の事故みたいなものですよ」

「あーあ、最後の仕事で大失敗しちゃった」

「そんなに落ち込まないでください。私は大丈夫ですから」

 

 落ち込む城廻先輩を励ます。ただ、もうそろそろ生徒会長になる覚悟はしておかないといけないかもしれない。そんなことを考えているうちに生徒会室に着き、鞄をとって先に帰らせてもらう。今から部活に顔を出そうかと思ったが流石に気が乗らなかったので止めた。ちゃんと連絡はしているし大丈夫だろう。

 

 

   _____________

 

 

 

 靴を履き替え外に出る。遠巻きに聞こえる部活動生の騒がしい声を背に学校を後にする。

 

 真っ直ぐ家に帰ろうと思いいつもの道に体を向けるが、ふと懐かしい場所が頭をよぎった。昔、嫌なことがあったときによく行っていたところだ。

 

「久しぶりに行ってみようかな」

 

 小さく呟いて目的地を変更する。そこまで遠くないところにある小さめの山だ。昔の記憶を頼りに所々迷いながらも住宅街の中を進む。

 

「あ、そうそう。ここだ。この道に入らないと行けないんだよねー」

 

 家がそこそこ建ち並んだ道を奥まで行くと、結構狭い脇道がある。人が三人並んで歩けるくらいの幅だ。この塀で挟まれた道を通らないといけない場所なのだ。

 

 その道を抜けると山のすぐ手前に出る。太陽はちょうど山を挟んだ反対側にあるので少し肌寒い。そこからは分かれ道はなく、道なりに進んでいくと石階段が見えてくる。そこを上れば目的地だ。

 

 階段のそばまで寄ったところで、ぽつんと停めてある自転車が目に入る。

 

「先客でもいるのかな」

 

 珍しいとは思いつつも、人がいてもおかしくはないので気にせず階段を上ることにした。一段一段進むにつれ、少しだけ記憶が甦る。中学生になってから来たことはなかったから三年以上も前の記憶だ。鮮明ではない記憶の中の風景よりは少しばかり草木が多くなったような気がする。

 

 ただこうやって階段を上る度に胸がざわつく。昔はたくさんここを上っていた。しかし何故こんなところに来ていたのか。そしてどうして来なくなったのか。その疑問は晴れないまま最後の段に足をかける。

 

 階段を上りきると、そこには所々に苔が生え、隙間には少し雑草が伸びた石畳が続いており、階段から数メートル離れたところにそれを跨ぐように古い石で作られた鳥居が鎮座している。その鳥居の向こう、石畳の先に古ぼけた小さめの社が見える。

 

 けれどもそれらを差し置いて目に飛び込んでくるものがあった。

 

 真っ赤に染まった楓だ。

 

 この神社ができた頃、もしかしたらその前からあるのかもしれない。その大きな楓は秋という季節を迎えて紅葉していた。鳥居を抜けた先に砂利が敷き詰められた少し大きめの広間がある。手入れはあまりされていないからきれいではない。その広間の隅にどっしりと根を張っているのだ。

 

「まだちゃんとあった。きれい」

 

 夕日に照らされ、美しさを更に増した壮大な紅に心を打たれ声が漏れる。もっと近くで見るために鳥居をくぐり広間に出た。さきほどよりもはっきりと見える楓にまた心を踊らせる。

 

 しかし私の興味は楓ではなく別のものへと奪われた。楓に目を向けるとその下に膝を抱えた誰かがいたのだ。それを見て動けなくなってしまった。顔も格好もよく見えないが、その姿はあの夢で見た姿そのものだったからだ。

 

 どれくらいそうしていたかわからない。少し強めの風に頬を撫でられ正気に戻る。木の根にいる誰かは相変わらず見つけたときの格好のままそこにいた。私は強い既視感を覚えながら近づく。

 

 そこそこ近くまで来たところで、それは夢の少年ほど幼くない男であることに気づく。よく見ると同じ制服を着ている、総武の学生だ。更に近づいていくと彼は私の歩く砂利の音に気づいたのか、はっと顔をあげ私と目があった。

 

 彼は私を見て驚いた顔をする。頭にはちょこんと特徴的なアホ毛があり、そこそこ整った顔立ちはしているものの私を見つめる腐った目が台無しにしていた。

 

 そしてその濁った目に、悲しそうな、寂しそうな目に、何故か私は懐かしさを覚えていた。

 

 続く静寂の中、優しく吹く風が楓からはらはらと葉を落とし、落ち葉を少しだけ舞い上げる。木々の間から差し込んだ夕日が向かい合う私と彼をそっと包んだ。

 

 私の止まっていた歯車は何かと噛み合い、また回り出す。




 いかがだったでしょうか。今書いているシリーズとは質の違ったものにしたつもりなんですが…、そうでもないかな?

 次回までしばらくお待ち下さい。


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第二話

 夕日が人気のない古ぼけた神社をオレンジ色に染め上げる。聞こえてくるのは木々が風に揺らされ葉を擦り合わせる音たげ。大きな楓からは絶え間なく葉が落ちる。

 

 そんな中、相変わらす私達は口を開くことなくただただお互いを見つめていたのだが、私はそっと彼の真正面まで近づくと彼の頭をゆっくり撫でた。唐突にそうしなくてはならないと思ったのだ。彼は呆気にとられたまま私を見上げていた。そんな彼の口が動く。

 

「なに…して…」

 

 彼の細々とした声で我に返る。気づけば彼の目元からは一筋の涙が溢れていて、それは夕日でオレンジ色に輝いていた。私はそれに見とれそうになるが、彼が泣いていることを理解し慌てて手をどける。

 

「ご、ごめんなさい!つい手が…。泣くほど嫌だったなんて」

 

 私は捲し立てるように謝った。それに彼は少しだけ首を傾ける。

 

「……泣くほど?」

「はい、泣くほどです」

 

 自分の右頬の上の方を指でさして見せると、彼も膝を抱えている手を右手だけほどき頬に手を当てる。その手は彼の顔に走るオレンジのラインを崩してしまう。涙で少しだけ濡れた手をぼんやりと見ながら彼は呟く。

 

「…俺は、泣いているのか」

 

 その声には少しだけ驚きが込められていた。どうやら彼は自分が涙を流していることに気づいていなかったらしい。その理由が理解できない私は先の行為を謝ることしかできなかった。

 

「あの、本当に勝手なことしてごめんなさい」

 

 思いきり頭を下げたあと、少しだけ顔をあげて彼の顔色をうかがう。彼は無表情にぼんやりと私を見つめていた。

 

「……別に嫌じゃなかったぞ」

「へ?」

 

 予想外の返答に変な声が漏れる。そう言う彼の表情は優しかった。呆気にとられる私と、私の目をとらえ続ける彼の間を一枚の楓の葉が通りすぎ彼の膝の上に落ちる。彼は親指と人差し指で葉柄を掴むと、私の前に差し出し葉をゆっくりと回しながら言う。

 

「何故か、すごく懐かしい感じがした…。昔誰かが同じことしてくれた気がするんだ。全然思い出せないけどな…」

 

 彼は楓の葉から私に視線を移し静かに笑った。その瞬間少し強い風が吹き、私は咄嗟に靡く髪を右手で押さえる。その風は彼の手に合った楓の葉を拐っていった。遠ざかっていく葉を二人して目で追うが、それは地に落ちると他の落ち葉と混ざってわからなくなる。

 

 視線を彼に戻すと、彼もちょうど私の方を向き直したところだった。自然と目が合い、なんだか可笑しくなって私は笑ってしまった。彼も私につられて破顔する。

 

「私達、さっきから見つめあってばっかりですね」

「くくっ、ホントだな」

 

 そう言うと彼は縮こまった姿勢を崩して楓の木にもたれ掛かった。その後制服の袖で目元を拭うと再び私を見上げる。

 

「よくこんなところ知ってたな。偶然か?」

「いえ、昔よく来てたんです。今日はふと思い出して久しぶりに……」

 

 私はそう返すと、彼の横に腰を下ろす。私の動作に合わせて足元の落ち葉がカサカサと音をたてた。その位置からは神社の境内をだいたい見渡すことができ、来たときよりも鳥居の影が少しだけ伸びていることに気付く。

 

「そうか。俺もだいぶ昔からここに通っていてな、この時季は楓を見に結構くるんだ」

 

 彼は落ちている葉を一枚つまみ上げると、その葉を見たがら答えた。

 

「それなら一度くらいここで会ったことあったかもしれませんね」

「どうだろうな。普通こんな人気のない所で会ったら覚えているものじゃないか?」

「ふむ、言われてみればそうですね。でも私も昔はたくさん来ていたので全く会わなかったってのは変ですよ」

「確かに、変な話だな」

 

 そう言うと彼は持っていた楓の葉をぽいっと私とは反対側に放ると、私の方に向き直りまじまじと見てくる。

 

「うーん、やっぱ会ったことあるか?なんだか初対面って気がしないんだよ」

「なんですかそれ、ナンパ?」

 

 眉をひそめてそう言うと彼は濁った目を更に濁らせる。

 

「いきなり頭撫でてきて、自分から横に座った奴が言うことかよ」

「それは…、なんか抵抗感が全然なかったんですよねー」

「なのに今はあるのか?」

「全然ないです。さっきのは冗談ですよ」

「えー、俺デリケートだからめっちゃ傷ついたのに…」

「それは、すいませんでした」

 

 足元の落ち葉をいじくりながら彼が言ったので、それを見ているとなんだか申し訳なくなって謝った。すると顔をあげた彼はにひっと笑う。

 

「冗談だ。本当は鋼メンタルだからこれっぽっちもダメージ受けてない」

「……ふん、もう知りません」

 

 私はそっぽを向いて素っ気ない態度をとる。しかし実際は先程の泣いていた彼の儚い表情が頭に浮かんで彼の言うことを信じることができなかった。鋼メンタルの人があんな顔をするとは思えなかったのだ。ただいつも手玉にとる方の私がからかわれたという事実はちょっとだけいただけない。

 

「すまん。悪かったよ」

「まあ、別に怒ってはいませんよ」

 

 私は折り曲げた両足の膝の間に顎を乗せ、ふてくされた風に答える。彼が何か返してくるのを待っていたが黙ったままだ。再び私達の間に沈黙が訪れ、木々の遠巻きなざわめきだけがこの場を支配した。けれどもこの静かな二人だけの空間を私は居心地よく感じていた。その感覚をたまに吹く心地よい優しい風が加速させる。

 

 しばらくその雰囲気に身を委ね和んでいたが、ふと隣の彼について何も知らないこと思い出した。よくよく考えると私は見知らぬ男の隣で無防備にしている。おまけに全然人がいない場所である。通常の私なら絶対に警戒を解かないだろう。しかし、この人は大丈夫だと自信を持っている自分がいるのだ。彼のことを何も知らないはずなのに……。

 

 首を回して彼に目をやるとぼんやりと遠くを眺めていた。頭からひょっこりと出ているアホ毛が風に揺られている。この人も今を心地よいと思ってくれているのだろうか。

 

「あの、あなたも総武の人ですよね」

「ああ、そうだが」

「三年生ですか?」

「いや、二年生だ。どうして三年生?」

「それは、ほら、ずっと私にため口だから確実に年上じゃないってわかる学年かなと」

「本当だ。いつもはこんなことないんだけど…」

 

 彼はそう呟くと首をかしげ眉間にシワを作った。しばらくそうしていたが結局わからなかったのか大きく一つ息を吐いた。

 

「わからん、自然とそうなったとしか言えない。三年生でしたか?」

「いえ、一年生ですよ。あなたの一つ下です」

「そうか、なら問題なかったな」

 

 そう言って笑うとくるっとこちらを向く。

 

「にしてもよく考えたな」

「人の顔色や言動、動作を観察するのは得意ですから」

「へー、いい特技持ってんじゃん」

「そうですか? まあ使い方は誉められませんけどね」

 

 私は肩をすくめながら自虐的に笑う。私の人との付き合い方はいいものではない。でないと無理矢理生徒会長なんかに立候補させられることになんぞならないだろう。

 

「なに、そんな酷いことでもしてんの?」

「寄ってくる男を引っかけて都合よく扱ってます」

「なるほど、あれか。たまにいるやたらと男にちやほやされてる奴」

「むー、なんか言い方は気に入りませんけどその通りですよ。正確に言うとちやほやしてくるからそれに乗っかってる感じです。楽ですし」

「でもそれ女子から目の敵にされやすいんじゃないか?」

「はい、されまくってます」

「そこらへんわかってるのに続けるんだな」

「なんか染み付いちゃっているんですよ。嫌われてもいいって思ってるんですかね。全然平気なんです」

「ふーん、変な奴だな」

「全くです」

 

 面倒事は嫌いだが、嫌われることはなんともないのだ。いつからこう考え出したかは明確ではない。おかしな話である。

 

「まあお前がそれでいいならいいんじゃないか? むしろ何にも捕らわれず自分のありたいようにしているのはすごいと思うがな」

 

 彼は知らないうちに私から視線を外して社の方を向いていた。社の周辺にもたくさんの楓の葉が落ちていて、所々を紅に染めている。ここの社は明るい色があまり使われていないので余計それが際立っている。

 

「慰めですか?」

「別に、ただそう思っただけだ」

 

 なんともなさそうに彼は言う。けれどもそんな彼の態度とは裏腹に私の中には懐かしさを思わせる温もりが生まれていた。

 

「あの、私一色いろはっていいます」

「え?」

 

 私の突然の自己紹介に驚いたのか、彼は社に向けていた顔を私へと戻す。

 

「名前です、名前」

「一色?」

「いろはです」

「いろは、ね。一色いろは…」

 

 そう呟くと彼は口に手を当てて、不思議な顔をする。

 

「どうかしました?」

「いや、変に馴染んでるなと思って」

「知り合いに似た名前でもいるんですか?」

「心当たりはないな」

「んー、まあ一応生徒会長立候補者ですしどっかで聞いたことあるんじゃって、その程度じゃ馴染みはしませんね」

「へ、お前生徒会長なるの?」

 

 彼は私の言葉を聞いて素っ頓狂な声をあげた。そんな彼に私は苦笑いをしながら答える。

 

「あはは、似合いませんよね」

「そんなことはない、見た目に似合わずお前結構真面目そうだしな。ただとんだ大物と話をしてたんだなってビックリしただけだ」

「どうせ私は軽そうな奴ですよー」

「おい、なぜそこだけを受けとるんだ…」

 

 拗ねる私を見て彼は呆れたように言った。私は膝を抱え直して、膝の上で腕を組みその上に顔の側面を乗せてため息を一つ吐く。

 

「まあやりたかったわけではないんですけどね」

「……どういうことだ?」

 

 少しだけ眉をひそめる彼に私は淡々と告げる。

 

「ほら、さっき女子には嫌われるって言ったじゃないですか。その彼女たちに無理矢理されたんです」

「そんなことって可能なのか?」

「現に起きてますからねー。不都合が重なったってのもありますけど」

「なんとかなりそうなのか?」

「…心配してくれてるんですか?」

「え、まあ、人並みには…」

 

 彼は歯切れ悪く答えるが、その目は濁りはしているものの優しかった。私は縮こまった姿勢を伸ばし、楓の木にもたれ、足を投げ出す。

 

「なんともなりませんね。そろそろ生徒会長になる覚悟しなきゃなってところです。今日も現会長と平塚先生に連れられて相談に行ったんですけどねー、手応えはありませんでした」

 

 そう言って彼の方を見ると、先程とは打って変わって複雑な顔をしていた。私の言葉に悪いところがあったのだろうか。不安になった私は思いきって聞いてみることにした。

 

「あの、何か気に障ることでも…」

「ん? あ、いや、お前の相談に行った所って」

「えっと、奉仕部?でしたっけ。雪ノ下先輩と由比ヶ浜先輩がいました」

「やっぱりか」

「やっぱり? 先輩知ってるんですか?」

「まあ、部員だし」

 

 彼の口から衝撃の事実が出る。どうやらこの人があの時話していた比企谷なのかもしれない。

 

「先輩の名前って比企谷ですか?」

「そうだが、なんで?」

「今日そこに行ったときに聞いたので」

「そうか…」

 

 彼はそれだけ言うと黙ってしまう。しかし私はそんな彼の表情を見て踏み込まずにはいられなかった。

 

「何か、あったんですか?」

 

 私は恐る恐る聞いてみる。すると彼はまた遠くを見たまま答える。顔が私とは別の方向を向いているため彼の表情は見えない。

 

「…ただ俺が間違っただけ、なのかな。いつもそうなんだよ。俺が繋がりを求めると、決まって壊れてなくなっちまう。手を伸ばせば霧散する。だから、俺は欲しがるべきじゃないんだろうな…、求めてはだめなんだろう…」

 

 夕日の当たる彼が、その姿が物凄く小さく見えた。今にも折れてしましそうで、風でも吹けば崩れて消えてしまいそうで。

 

「なら、私が傍にいます」

 

 気付けばそう口走っていた。

 

「何言って…」

「だからそんな寂しいこと言わないでください。私がちゃんと傍にいますから」

 

 彼はしばらく呆然としていたが、静かに首を振ると弱々しく笑いながら言った。

 

「それは、無理だ」

 

 オレンジに染まる空を見上げると、彼は続ける。

 

「俺は怖いんだ、失うのが堪らなく怖い。だからもう、手は伸ばせない、信じることができない。でも、ありがとな。嬉しかった」

 

 彼は立ち上がって近くに置いてあった鞄を掴み、鳥居の方へと向かう。私は少しの間動けずに彼の去る後ろ姿を眺めていたが、彼が鳥居をくぐる直前ににその硬直は解ける。彼をここで逃がしてはいけないと強くそう思っていた。

 

 私は楓の木の下から飛び出すと、急いで彼を追う。足を強く踏み込む度に、足元の砂利が大きな音をならす。

 

「わっ」

 

 石畳に差し掛かり少し躓きかけるが、なんとか持ちこたえ走り続ける。硬い靴底と石畳はぶつかって甲高い音をたてる。走る先に、階段を下りようとしている彼の背中が目にはいった。勢いよく鳥居の下を駆け抜け、神社の境内から出る。

 

「待って!」

 

 私は階段の前で急ブレーキをかけると彼に向かって叫ぶ。階段を少し下りたところにいる彼はゆっくり振り返った。私は呼吸を整えるために2回深呼吸して彼に言う。

 

「なら、最後にしましょう」

「…最後?」

「はい、先輩が誰かを信じるのを、私で最後に。諦めるのは、これがダメだった時にして……、最後に、私に賭けてください」

 

 私は階段を下りて彼のいる二段上で止まる。

 

「私は絶対に見限ったり、離れたりしませんから」

 

 彼は私の言葉を聞くとゆっくり問う。

 

「なんで、今日会ったばかりなのにそんなこと言い切れるんだ。どうして初めてのはずなのに、こんなにも懐かしいんだ。お前の声を聞く度、顔を見る度に胸が痛む、この後悔の念はなんなんだ……」

 

 終いに彼は私に背を向けて石段に座り込み、頭を抱える。私は彼の正面に移動して答える。顔の高さは同じくらいになった。

 

「…わかりません。でも、私も同じです。先輩のこと知らないはずなのに、なんだか知っている気がするんです。きっと一緒に、ここに居ればわかるって思いません? あの楓の木とか教えてくれそうじゃないですか」

 

 彼は顔をあげると苦笑いを浮かべる。

 

「なんだそれ…」

「なんとなくですよ。じゃ、約束しましょう」

「え、なんの?」

「私がちゃんと傍にいるって約束です」

 

 私は彼の右手を左手で掴むと、彼の小指に自分の小指を絡ませる。

 

「ほら、ゆびきりです。嘘ついたら、そうですね…」

 

 

 

『じゃ、約束! ゆびきりしよ!』

 

 

 

 突然だった。小学校中学年くらいのまだ幼さの残る女の子が同じくらいの男の子にそう言ってゆびきりをしている映像が、急に頭をよぎった。しかもその場所はさっきまで二人でいた楓の木の下だ。私は不意の出来事にわけがわからなくなる。今のは……、私?

 

「どうかしたか?」

「え、あ、いや、なんか急に身に覚えのない記憶が…」

「なんだ、お前もか」

「へ?お前もって?」

 

 そういう彼に思わずそのまま疑問を返してしまう。

 

「いや、たった今小さい男の子と女の子がゆびきりしてる絵が浮かんでな、顔ははっきりしなかったんだが場所は…」

 

 そして彼は神社を振り向いて言う。

 

「あの楓の木の下だった。案外、お前の言うとおりかもな」

「え?」

 

 彼はまた私の方に向き直り、笑う。

 

「楓の木が教えてくれるかもってやつ。俺もそんな気がしてきた」

「そこは上手いこと言ったつもりだったんですが、私も強ち間違いじゃなかったかもって思います」

 

 私もそう言って笑い返すと、二人の視線は繋がったままの小指に向かう。しばらく見つめた後、同時に目線を上げ目が合う。

 

「で、嘘だったら何してくれるんだ?」

「なんでもしてやろうじゃないですか。嘘じゃないですから」

「言ったな、覚えとけよ」

「もちろんですよ。じゃあ、せーのでいいですか?」

「おう、いいぞ」

「じゃ、いきますよ。せーの」

 

「「ゆびきった」」

 

 私達は小指を離すとしばらく静かに笑いあった。優しい風が夕日に照らされるそんな二人を撫でる。サワサワとなる木々の音の中、遠くから他の木とは違った細かい囁きが聞こえてくる。それはきっとあの楓の木なのだろう。

 

 

 

 

 




 いかがだったでしょうか。結構頑張ったつもりです。おかげで完結していないのに達成感に満ち溢れています。

 分かりにくいと思われるところが多々あるようですがそれはすいません。なるべくなくなるように努力します。

 では、いつになるかわからないですけど次回。


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第三話


 聲の形見てきました。面白かったです。


 指を離した後私達は石段を下りた。太陽はもうほとんど傾いていて、見えはしないがおそらく沈み始める頃だろう。西の空は明るい赤紫色をしており、うっすらと浮かぶ巻雲を同じ色に染め上げている。たまに吹く風は少し寒い。

 

 先輩は石段の傍に停めてある自転車のカゴに鞄を置くと鍵を外し、階段を下りたところで待っていた私のところまで自転車を押して来る。

 

「ほら、鞄カゴいれていいぞ」

「ありがとうございます。気が利きますね」

「別に普通だよ」

 

 カゴがちょうど私の前にきたタイミングで先輩がそういってきたので、お言葉に甘えて鞄をカゴにいれた。

 

 自転車を押して歩く先輩の隣にならんで、来たときの道を逆に進む。暗いせいか、来たときとは逆であるせいか、全く見知らぬ道に見えてしまう。私達は特に口を開くことはせず、私の耳には自転車のチェーンがたてるカチカチという音だけが届く。この無言の時間がなんだか面白くて自然に顔が綻ぶ。

 

 山沿いの道の終わりが来ると、ブロック塀に挟まれた細い道に入る。流石に自転車がある状態で二人ならんでは歩けないので私が前に出た。右側にある塀の家からは料理する音が聞こえてくる。それと同時にいい匂いも漂ってきた。

 

「美味しそうな匂いですね。焼き魚かな」

「たぶん。腹、減ってきたな」

「確かに」

 

 軽く言葉を交わしているうちに、夕食が焼き魚であろう家は通りすぎる。すると次は左側の家から違う匂いがした。

 

「あ、こっちはカレーですね!」

「おい、あんま大きい声出すと周りの家に丸聞こえだぞ」

「はっ」

 

 先輩の注意を聞いてぱっと口を両手で覆う。つい楽しくなって声が大きくなってしまった。そのまま静かに細い道を抜ける。

 

「そういや一色の家はどこだ? もう遅いから近くまで送る」

「そんなに遠くないですよ。あの神社にそこそこ軽く遊びに行けるくらいの距離です」

「そうか。なら家に着くのが極端に遅くなることは無さそうだな」

 

 太陽はもうほとんど沈んでしまったのか辺りはだいぶ暗くなってきた。道の所々にある街灯もぽつぽつとつき始める。私の案内で住宅街を進んでいき、もうすぐ行けば家が見えてくるところまでやって来た。

 

「ここまでで大丈夫ですよ。これ以上は先輩も遅くなりますし」

「俺は自転車だからそんな心配はいらないんだけどな」

 

 私の言葉に先輩は笑いながら答える。近くの街灯が私達二人を照らす。

 

「でもこの辺迷いません?」

「いや、いつも俺が通る道から少しそれたところだから大丈夫だ」

「そうですか。じゃあ、ここで。あ、鞄ありがとうございました」

「おう、気を付けてな」

 

 私は鞄をカゴから取り出し、軽くお辞儀をして家がある方へ歩く。ちょっと行ったところで振り向くとまだ先輩はこっちを見たままだった。ふと聞きたいことを思い出して駆け足で戻る。

 

「先輩!」

「なんだ? 忘れ物か?」

 

 不思議そうな顔を先輩はうかべる。

 

「いえ、先輩はいつもあの神社にいるんですか?」

「いつもって訳じゃないが…。晴れてる日ならだいたい。もう部活にも行かないしな」

 

 それを聞いて私は先輩の服の腕の部分を掴み食いぎみに言う。

 

「なら明日、晴れたら神社に会いに行くので! その…、ちゃんと待っててくださいよ?」

「ああ、約束したしな。ちゃんと待ってるから」

「……ありがとうございます」

「俺も、ありがとな」

 

 私は少し恥ずかしくなって視線を下に落としたまま先輩から手を離す。

 

「じゃ、今度こそ、また」

「おう、またな」

 

 先輩に背を向け歩き出す。先輩もそれと同時に自転車に乗り方向転換した。

 

「明日!」

 

 突然の先輩の声に振り向く。先輩は地面に片足をつけて思いきり上半身を回してこちらを向いていた。しかし街灯の照らす輪からは既に出ていて表情までは確認できない。

 

「明日、晴れるといいな!」

 

 それを聞いて何かが込み上げてくる。先輩も私と同じ気持ちだったのかと思うと嬉しくなった。

 

「はい! 晴れるといいですね!」

 

 私は少しだけ早くなる鼓動を感じながら、そう返した。先輩は軽く手をあげると、正面に向き直りそのまま去っていく。それを見送って私も家への道を急ぐ。気付けば、足音は軽快なリズムを奏でていた。そんな私の頭上で無数の星は光る。

 

 

   _____________

 

 

 

 カーテンが締め切られた部屋に薄く朝日が差し込む。目覚まし時計の秒針が刻む音と少しの布の擦れ合う音しかしないそこへ、扉ごしに油の跳ねる音、ドタドタと誰かの足音、ちょっとした男女の会話の声が入ってくる。ついでに卵の焼ける美味しそうな香りも。

 

 そんな穏やかな空気の中、静かに電子音が鳴り始める。次第に大きくなっていくそれは他の音を次々と塗り潰してしまう。ベッドの上のこんもりとしたピンク色の掛け布団がもぞもぞと動いたかと思うと、ぬっと手が生える。その手はあっちこっちと寄り道をしたあげく、けたたましく鳴り続ける目覚まし時計を上から鷲掴みにした。一瞬の静寂が訪れた後、掻き消されていた音達が息を吹き返し部屋を満たしていく。それを確認したかのようなタイミングで、目覚まし時計を襲った手はのそのそとピンクの塊へと戻った。

 

 すると突然掛け布団は宙に舞い、中から亜麻色のぼさぼさ頭をした少女が現れた。彼女は両手で正面にあった目覚まし時計を両手でひっつかむ。

 

「え? 目覚まし?!」

 

 そして寝起きとは思えない声をあげた。

 

 

   _____________

 

 

 

 目覚ましを止めた私は病み付きになりそうな温もりの中微睡んでいた。自然と二度寝をする流れに乗っていたのだが、ふと違和感を感じる。私は今目覚ましを止めた。つまり、目覚ましに起こされたということだ。それを認識した私は飛び起き、正面にあった目覚まし時計を掴み大声を出してしまった。それは6時5分を指していた。

 

 目覚まし時計で起きるのは普通のことだ。でもそれは普通なら、である。ここ最近私はずっと不思議な夢を見てはうなされ飛び起きていた。それに慣れ始めていたといっても過言ではないだろう。要するに、今日目覚ましで起こされたということは、私はあの夢を昨晩見ていないということだ。

 

 手に持っていた目覚ましをもとの位置に戻す。目元を触ったり、ベッドを確認したりしてみるが泣いた後と見受けられるような痕跡はない。ぺたりとそのまま座り込むとベッドがキシキシと音をたてた。勝手にため息が漏れる。

 

「でも、何か見ていた気がするんだよなー」

 

 後ろに倒れ仰向けになり、天井を眺めながらしばらくぼうっとする。けれども思い出す兆しは一向に見えてこない。こうしていても埒が明かないので学校に行く支度を始めることにした。

 

 ベッドからそっと下り、部屋に1つしかない大きめの窓に近づくとカーテンを開ける。朝の優しい光が部屋にどっと流れ込み、私は急な明るさの変化に眉をひそめる。目が慣れるのを待って窓を開け放ち、頭を外に少しだけ出し空模様をうかがう。

 

「やった。ばっちり晴れてる」

 

 嬉しくなって思わず声が出てしまった。笑みが漏れる私の顔を秋のちょっぴり冷たい朝の空気が包む。昨日のことを思いだし、徐々に熱を帯始める私には心地よい冷たさだった。

 

 

   _____________

 

 

 

 静かな教室に黒板とチョークがぶつかる音が響く。先生が説明する声はどこか遠い。手元、つまり自分の机の上に目を落とせば広げられたノートににょろにょろと細い線が引かれている。消ゴムを筆箱から取り出しそれを消す。シャープペンに持ち変えて黒板の文字を写そうと試みるが視界は次第に狭まり、そして真っ暗になった。手からペンが転がり落ちる。

 

 

 

 

 ざわざわと葉が擦れる音がする。何かが揺れているのがぼやけて見えるが、しだいにピントが合いそれが楓の木であることに気付く。紅の葉がはらはらと次々に地面へと落ちる。

 

「ここは、昨日の神社?」

 

 社があるであろう場所に目を向けると確かにあった。ただ昨日見たものより少しだけ綺麗に見える。鳥居も確認するが明らかに張り付いている苔の量が少ない。

 

 そしてまた、昨日と同様動けなくなる。楓の木の下にいたのだ、膝を抱えた少年が。今回は離れていても少年だとわかった。いつも夢で見ていた少年そのものだったからだ。

 

 私はそっと近づき手を伸ばす。一瞬いつも弾かれるところで手を止めるが何も起きない。再びゆっくりと手を進めていく。そして、触れた。

 

 少年が顔をあげ始める。もうすぐ顔が見える、というところで突然頭に衝撃が訪れる。

 

「へ?!」

「おい、授業中に堂々と寝るとはいい度胸だな」

 

 そこは教室だった。見上げると教科書を持った先生がいる。周りも私に注目する。あれ、夢?

 

「す、すいません」

「気を付けろよ」

「はい」

 

 先生は教卓へと戻っていく。少しだけ教室がざわめいた。先生は静かにと一言だけ注意すると授業を再開する。私はノートの上に転がっているペンを持ちノートをとり始める。しかし書いている内容が頭に入ってこない。

 

 さっきの夢、いつものものとは違った。場所がはっきりしていたこと、少年に触れられたこと、この二つだ。惜しくも彼の顔を見ることができなかったが、昨日の先輩の姿とかぶる。やはりあの少年は先輩なのだろうか。しかし歳があわない、となると昔の先輩?

 

 私は少し強く頭を振る。はっきりしないことが多くてこんがらがっていくのをなんとか止める。今はいくら考えてもダメなのだろう。とはいっても手がかりは夢の中にしかない。自分ではどうすることも出来なさそうだ。そういえば今日見ていた夢もこれだったのだろうか。

 

 私は諦めて板書を写すのに集中する。一通り終わらせるが、面白くない話を聞く気にはならなかった。ここで窓際の席なら外でも眺められるのだろうが、生憎私の席は窓際の列の隣だ。しばらく何かあるか模索するが、結局先生の話に耳を傾けることにした。

 

 

 

 チャイムがなる。やっと終った。こういう時は時間が過ぎるのが遅い。昼休みになったので教室の中がいつもより一層うるさくなる。しかし多くの人が飲み物や昼食を買いに購買や自販機に向かい、その喧騒は少しだけ収まる。私は鞄から弁当を取り出し食べ始める。

 

 ふとやらないといけないことを思いだし携帯を取り出す。葉山先輩に今日の部活を休む連絡をしなくてはならない。どうせ選挙にはでないといけないだろうから理由は選挙の準備でいいだろう。ついでにしばらく行けないということにする。最後に謝罪を軽く一言いれ送信ボタンを押す。

 

 それから少し経って携帯が震えた。葉山先輩から、大丈夫とのこと。これでしばらくはいいだろう。私は弁当の再びつつき始める。

 

 今日は会ったら何を話そうか、選挙の手伝いをしてもらおうか、どんな顔するだろうか、放課後に思いを馳せる。窓の外に目を向けると、青く澄んだ空が見えた。きっと今日の夕日も綺麗だろう。

 





 ではまた次回に。


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第四話

 お待たせしました。書いていたシリーズが終わったのでこっちに集中できます。よろしくです。




 教室に授業終了のチャイムが響く。周囲は本日の授業を全て消化し終えた解放感に包まれる。駄弁り始める者や早速部活に向かう者、放課後の寄り道の相談をしている者とそれぞれがこれから始まる自由な時間に胸を踊らせる。そんな中私はさっさと荷物をまとめて教室を飛び出していた。授業が終わったばかりで人の少ない廊下を少し早歩きで進んでいく。各教室の前を通る度に喧騒が聞こえてくる。下駄箱から自分の靴を取りだし、脱いだスリッパを放り込んだ。靴に足を突っ込み右足の爪先を二回コツコツと地面にぶつけフィット具合を確かめる。そして学校を後にした。

 

 早速家がある方とは違う方向に歩みを進め、住宅街にはいる。帰宅途中の騒がしい小学生達とすれ違う。またしばらくして次は二人並んで歩く男の子と女の子が前からやって来た。年の差はないように見えるのだが様子を見る限り男の子の方が年上のようだ。すれ違い、つい足を止めて振り返る。二人のランドセルを背負った後ろ姿が遠ざかっていくのをただただ眺めた。その二人はすぐそこの角を曲がってすぐに見えなくなってしまったのだが、私は釈然としない気持ちに襲われる。そっと胸に手を当てて頭を捻った。

 

 例の脇道を通り山の下へと出る。少し行くと石段が見えてきた。しかし昨日と同じところに自転車はない。

 

「あれ? 先輩はまだ来てないのか」

 

 携帯を取り出して時間を見てみると、授業が終わってからそこまで時間が経っていなかった。どうやら早く来すぎてしまったようだ。私は石段を一段一段ゆっくりと上がっていく。まだ夕方前なので上には青空が広がっていて、所々に雲が漂っている。周りの木々は風に吹かれてざわめき、足元では影がゆらゆらと揺らめいている。石段を上がりきり苔むした鳥居をくぐると、そこには相変わらずの貫禄で大きな楓の木が佇んでいた。紅の葉を落とし続けているが一向に枝が寂しくなる気配はない。ぐるっと見渡してみるがやはり先輩はまだいなかった。

 

 整っていない砂利を踏みながら古ぼけた社に近づく。近くで見てわかったのだがこの社は確かにだいぶ痛んではいるが小綺麗にしている。長年放置されているようには見えない。誰かが手入れをしているのだろうか。せっかくなので何となく手を合わせて目を閉じる。視覚が制限されたおかげで聴覚が冴え、木々の音に紛れて小さく虫の鳴く音があることがわかる。しばらく耳を傾けていると自然の溢れた音に全身を洗われていく感覚になる。

 

 どれくらいそうしていたか、そこに石の擦れる音が混ざっていることに気付く。はっとして後ろを振り向くと手に鞄とビニール袋を持った先輩がいた。

 

「何してんだ?」

「ここ、すごい落ち着く場所ですよね」

「そうだろう? いつもいる騒がしいところとは切り離されたような場所で…」

「はい…」

 

 心地よい風が二人の間を吹き抜け、先輩の持っているビニールが少しだけ音をたてる。

 

「にしても早かったな。俺自転車なのに」

「あはは、つい学校をすぐに飛び出して来ちゃいました」

 

 私を見て言う先輩に苦笑いしながら答えた。

 

「そうだったのか。すまんな、待たせて」

「いいえ、ここで待つのは苦じゃないですよ」

 

 ここでぼうっとするのは全然嫌じゃない。時間がゆっくり進んでいるような気がするし、知らぬ間に過ぎ去っているような気もする。そういった意味でも外とは切り離されたように感じる。

 

「とりあえず座ろうぜ」

 

 そう言って先輩は社の三段ある木でできた階段を指差し、慣れたふうに腰を掛ける。私は少し躊躇いながらも後に次ぐ。

 

「あの、いいんですか? こんなところに座って」

「ああ、こまめに掃除もしてるし人がくるわけでもないからな」

 

 何でもないように先輩は言う。

 

「そうじゃなくて、これ社ですよ?」

「そういうことか。じいさんがいいって言ってたし問題ないだろ」

「誰ですか? そのじいさんって」

 

 私は先輩を見て率直な疑問を述べる。

 

「一応ここの管理人みたいな人? 週一でこの社を掃除に来る。俺も毎回一緒にやってるんだ」

「どうりで古いわりに綺麗にしてるわけですね」

 

 座っている横の汚れのない板を撫でながら納得する。

 

「その掃除っていつやってるんですか?」

「土曜の昼だ。お前も参加するか?」

「土曜の昼、ですか。今日が11月5日で火曜ですから、…9日ですね」

 

 手帳を取り出して9日の欄を見る。午前に部活と書いてあり、特に試合とかではなさそうだ。

 

「部活終わって急いで来たら間に合いますかね」

「それ終るの結構遅いのか?」

「いえ、正午には終わりますよ」

「なら大丈夫だろ。なんなら金曜に俺の自転車学校に置いといてそれ貸すから」

「んー…、お願いできますかね?」

「了解した」

 

 土曜も会えることが嬉しくてつい顔が緩んでしまう。部活が終わったらさくっと切り上げて急いで来ようと心に決めていると、隣からプルタブを開ける爽快な音が聞こえた。横の先輩を見れば手に黄色の缶を持っている。

 

「それ、マックスコーヒーじゃないですか」

「そうだが、お前も飲む? 一応お前の分もあるけど」

「ありがたく貰いまーす」

「好きなのか?」

「はい、昔は好んでたくさん飲んでましたよ。この年になると流石にカロリー気になって頻繁には飲めませんけど」

「へー、珍しいな。俺が言うのもなんだけど」

 

 先輩から受け取ってプルタブを開けると口に含む。私には心地よい強めの甘さが口に広がる。そして一息つく。変わらず不快な人工音はせず爽やかさだけがそこにはあった。

 

 半分くらい飲んだところで缶を置き、私は鞄を手に取り中を漁る。筆箱と数枚のルーズリーフを取り出して鞄を太ももの上に置き、その上にルーズリーフを広げる。

 

「何してんだ?」

「これですか? 選挙の準備ですよ。公約とか考えないと」

「そういえばそんなこと言ってたな。でも無理矢理なんだろ?」

「はい。でももうやるしかなさそうですし」

 

 私はルーズリーフをシャープペンの先でトントンと叩きながらあれこれ考える。しかしあまり浮かんでこない。第一どういう事を掲げるのだろうか。校則緩和? 学食メニュー追加? 簡単なものしか思い付かない。困っている私を見て先輩は言う。

 

「お前が会長になって大変になったら呼べよ。手伝うから」

「本当ですか?」

「ああ、どうせ暇だしな。それに忙しかったらこうやってる時間もないだろ?」

「確かに、それは嫌ですね。それなら少しやる気も出ます」

 

 私は先輩に笑ってそう返す。再びルーズリーフに目を戻して考えるがやっぱり録な案が出てこない。ペンを置きうなだれ、大きく息を吐く。ぼんやりと少し先の地面を眺めていると砂利に紛れて明らかに石じゃない黒い何かがあるのを見つける。

 

「あれ、なんですかね」

 

 指を指して隣の先輩に聞いてみる。

 

「なにが?」

「あれです」

 

 私は鞄を持って立ち上がり座っていた段の一段上に置くとその何かがあるところに駆け寄る。砂利の中からそれをつまみ上げると、砂で汚れた黒猫のキーホルダーだった。軽く手で拭って砂をとる。つけておくところはちぎれてしまっているが、プラスチック製と思われる黒猫の部分は少々の傷がついているだけだった。心なしか見覚えがある気がするが思い出せない。先輩の隣に戻ってそれを見せる。

 

「猫のキーホルダーでした。なんか見覚えあるきがするんですけど」

「ん? これって」

 

 先輩はキーホルダーをまじまじを見ると眉をひそめる。

 

「先輩のですか?」

「たぶん俺のだったと思う」

「だった?」

「確か、かなり昔、小学生の頃か? 誰かにあげたような…」

 

 こめかみを指で押さえて目を閉じながら先輩は言う。私も一緒になって思い出そうと試みるが全然ダメだった。ふと顔を上げると空は若干オレンジがかっている。

 

「私、なんですかね」

 

 ふと、私はそう呟いていた。

 

「どういうことだ?」

 

 先輩は私を見て聞いてくる。

 

「誰かにあげた気がする先輩と、おそらく見たことがある私、ここにはほとんど先輩しか来てませんし、昔私もよく来てました。なら、もしかしたらそれをもらったのって私なのかなって」

 

 思い付いたことを先輩にそのまま告げる。それを聞いた先輩は少し考えた後口を開く。

 

「ありえない話ではない。昔俺達が出会ったことがあるなら昨日感じていた妙な既視感も説明がつく。でもそうなると、どうして俺もお前もお互いをさっぱり覚えていないんだ?」

「そこなんですよね。どうして何も覚えてないんでしょう」

 

 どんどん謎が深まっていく。そう簡単に二人とも忘れるだろうか。ほとんど忘れても少しは覚えているはずである。私は少し試してみたいことを思い付いたので先輩に頼んでみる。

 

「先輩、私の名前読んでみてください」

「名前か? 一色、これでいいか?」

 

 先輩は私が何がしたいのかさっぱりわからないと言いたげな様子だが頼んだ通りにしてくれた。それに私は追加でもう一度頼む。

 

「んー、じゃあ次は下の方で」

「下? いろは、か? これなんの意味があるんだ?」

 

 まだ訳がわからないという表情を浮かべる先輩に私は真面目に聴く。

 

「私の名前呼んだとき、上と下どっちがしっくり来ました?」

「しっくり?」

 

 そう言って先輩は私の名前をぶつぶつと呟き始める。しばらく繰り返し、私を見て言う。

 

「圧倒的に下だ。いろはってのが馴染んでいるというか、言い慣れている?」

「私もです。先輩には下で呼ばれた方がしっくり来るんです」

「つまり、俺はお前をいろはって呼んでいたことがあるって言いたいのか?」

「何となくですけどね。ただの気のせいって可能性もあります」

 

 先輩はまた首を捻って考え出す。ただそうなると一つ不思議なことがある。私がそれを言おうとしたところで先に先輩に言われてしまった。

 

「でもそうなるとお前の先輩呼びはどうなんだ? ぶっちゃけそれで呼ばれて俺はかなりしっくりきているが、小学生が先輩なんて使うか?」

「そうなんですよ! 私も先輩を先輩って呼ぶのはすごい自然なんです。でも小学生の頃周りの年上をそんな風に呼んでいた覚えはない。普通に名前で呼んでいたと思います」

 

 私はつい先輩の方に身を乗り出して食いぎみに言ってしまう。はっとして元の姿勢に戻り、遠くに目をやる。先輩も同じように正面の空に目を向けた。しばらく二人で遠くを眺める。空は既にすっかりオレンジになっていた。それをバックにする楓の木は来たときとはまた違った美しさを魅せる。

 

「いったい、なんなんだろうな」

 

 先輩は小さくそう呟く。

 

「はっきりさせたいですね」

「ああ、それこそずっとここにいるあいつが全部知ってそうだけどな」

 

 私の言葉に先輩は、はらはらと葉を落とし続ける楓の木を見ながら答えた。少し強い風が吹き、周囲の木々を一斉に揺らす。その中でも一際大きい音でざわめく楓の木は、まるで先輩の言葉に頷いているようだった。

 

 

 

 

 




 ではまた次回。



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第五話


 お待たせしました。どうぞ。


 昨日同様私は学校を急いで出る。しかし生徒会室に寄り会長と話をしていたため昨日よりは時間が圧倒的に遅い。グラウンドの方からは既に部活を始めた生徒達の掛け声、校舎のどこかからは吹奏楽の楽器の音色が聞こえてくる。校門を抜けるとそれは途端に小さくなった。私は神社への道を走る。次第に呼吸が荒くなり心臓は忙しなく全身に血を送り出す。手に持っている鞄が変に揺れて走りにくいので小脇に抱えることにした。ひたすらに走りながら私は先程の生徒会室でのやり取りを思い出す。

 

 

   _____________

 

 

 

 授業が終わり私は生徒会室へとやって来た。選挙に出て会長になったらやるということを伝えるためだ。扉を二回ノックして中からの返事を待つ。すぐに城廻先輩の間延びした声が聞こえたので私は扉を開け、一言いって生徒会室に入る。

 

「失礼します」

「あ、一色さん。こんにちは」

「こんにちは。今日はちょっとお伝えしたいことがあって…」

「うん。じゃあとりあえずここ座って」

 

 城廻先輩は自分のいる席の隣の椅子を引いて私が座るように促す。私はそれに従い一つ頭を下げ腰を掛けた。早速本題を切り出す。

 

「選挙のことなんですけど…」

「ごめんね。あれから一色さんの方は全然進展なくて」

 

 申し訳なさそうな顔をして俯きぎみになり城廻先輩は言う。私はそんな城廻先輩に手を小さく振る。

 

「あ、いえいえ、もう大丈夫ですよ。私選挙に出ることにしました。当選すれば会長もやります」

 

 私の言葉を聞いて城廻先輩ははっと顔を上げる。

 

「本当に?!」

「はい。もう覚悟しなきゃなって」

「うぅ、全然役にたたなくてごめんね。でもそれだと助かる。本当にありがとう」

 

 私の手をがっちりつかんで城廻先輩は言う。そして安堵の息を吐き、付け加える。

 

「奉仕部への依頼は折角頼んだけどキャンセルして、これで選挙は全部なんとかなるかも。他の役員も全部埋まったし」

「問題があったのって会長だけじゃないんですか?」

 

 どうやら私の他にも問題を抱えていたようだ。

 

「今年は全然立候補者がいなくて、会長だけじゃなくて他の役職も空きがあって困ってたの。副会長と会計は早めに埋まってたんだけど、他が全然来なくて。推薦人なしでもいいって募集をかけてたんだ」

「それで来たんですか?」

「昨日書記をやりたいって一年生の子が来て、今日の昼に何か空きが無いかって子も来て庶務を頼んだの」

「なるほど。それで全部埋まったと」

 

 私は軽く頷きながら答える。

 

「そうそう。今年はどの役職もかぶりがないからきっと皆当選すると思う。一色さんも選挙出たらほぼ確実に会長になっちゃうけど…、本当にいいの?」

「はい、もう決めましたしやりますよ。大丈夫です」

 

 特に間を開けることなくそう宣言する。ふと机の上の書類を見るといくつかの名前が並んでいるのに気付く。おそらく候補者の名前だろう。その中に気になる文字を見つけ、私はその紙を手に取る。

 

「これって候補者ですか?」

「うん。この人達が次期生徒会のメンバーになると思う」

「これは…」

 

 庶務の横にある名前を指さして城廻先輩に見せる。先輩は首をかしげ言う。

 

「比企谷君がどうかした? 知ってるの?」

「ですよね、これひきがやって呼びますよね」

「うん」

「二年生の?」

「うん」

「男ですか?」

「うん」

「…アホ毛?」

「そうそう。アホ毛の子」

 

 城廻先輩は私の畳み掛けるような質問に頷き答えてくれた。私は紙に書いてあるその名前を再び凝視する。比企谷八幡、それが先輩の名前らしい。そういえば下の名前はちゃんと聞いていなかった。びっくりしすぎるあまり周りの音が遠くなっていく。

 

 突然の体の揺れて正気に戻る。隣では城廻先輩が私の方を揺すって名前を呼んでいた。

 

「どうかした?」

「いえ! 別に何でもないですよ。今日はありがとうございました。失礼します!」

 

 私は生徒会室を飛び出していた。

 

 生徒会室に残された生徒会長は急速に遠ざかっていく足音を聞きながら首をこてんと傾けるのだった。

 

 

   _____________

 

 

 

 相も変わらず私は走っている。既に脇道は通りすぎ、もうすぐ石段が見えてくる。そこには見覚えのある自転車が停めてあった。一段とばしで石段を駆け上がる。体はすっかり熱くなっていて、木に挟まれた石段の冷たい空気が心地よい。

 

 鳥居を勢いよくくぐって境内に入る。社の昨日と同じ位置に座って本を読んでいる先輩を見つけた。その姿はなかなか様になっていてつい見とれてしまう。先輩は本から顔をあげ私の姿を確認すると右手を挙げた。それを見て私は現実に戻る。すぐさま駆けより先輩の横に鞄を置き、横を向いてここに来る間ずっと気になっていたことを口にする。

 

「先輩、選挙出るんですか!」

 

 先輩はぎょっとした顔すると鞄を漁り始める。

 

「なんでそれを知っているのかは置いといて、とりあえず落ち着け。これでも飲んで」

 

 そう言って取り出したのは天然水いろはす。私はそれをありがたく受け取り、礼を言ってから喉に流し込む。カラカラだった喉はすぐに潤い、荒かった呼吸も落ち着きを取り戻す。その間ずっと優しい風が吹いていた。ここはよく風が吹く。

 

「どうそれ。自販機で目についてつい買ってしまった」

 

 先輩は私の手にあるペットボトルを指さして言う。それを聞いて私は手に力を入れると、ボトルはベキベキと音をたてた。

 

「からかってるんですか?」

「ちょ、冗談? ギャグ? ユーモア?だって」

「全然おもしろくないですよ」

「そうか?」

 

 納得しない先輩に一つ似たような例をあげてみる。

 

「先輩が製鉄所跡地にいても面白くないでしょう?」

「確かに。全然面白くないわ」

「ほら」

「あはは、なれないことはするもんじゃないな」

 

 先輩は何事もなかったかの様にそう言って話を切り上げた。実際は何も飲み物を持っていなかった私にとって都合は良かったのだが…。置いていた鞄を持ち上げて座り、まだ少し熱い体を服をぱたぱたして冷ます。

 

「そういえば選挙ですよ。先輩本当に出るんですか?」

 

 それていた話を元に戻すと、先輩はそうだったと言ってから経緯を話始める。

 

「昨日帰ってから思ったんだよ。生徒会に入ればお前の負担も減らせるし会えるなーって。でも俺全然選挙当選する気がしなくて、選挙出なくてもいい役職ないか聞きに行ったんだ」

 

 先輩は一息置いて続ける。私は先輩の横顔を見ながら聞いていた。

 

「けど流石にそんな都合のいい役職なくてさ、でもまだ庶務が空席で残ってるって言うじゃんか。なら一か八かやって上手く行けばオッケー、ダメでもたまにお前を手伝いに行けばいいかなって俺の中でなった」

 

 そういう先輩は自信がないようだった。

 

「城廻先輩は皆当選するっていってましたけど」

 

 先輩がそんな様子である理由が知りたくて遠回りにそんな聴き方をした。

 

「俺結構悪評があってな。そのせいで上手くいくか怪しいんだ」

「なるほど」

「何か、聞かないのか?」

 

 私のリアクションが予想外だったのか先輩は不思議そうな、しかしどことなく怯えた様子で聞いてきた。

 

「特に聴く必要ないかなって。少しの間ですけど先輩と一緒にいて、楽しいんです。だから私は先輩がどんなことしてても気にしませんし、第一先輩がわけもなく悪いことするなんて思ってませんから。それにそんな顔して自分から悪評があるなんて言う人が、悪い人なんて思えませんよ」

 

 私はそう言って先輩に微笑みかける。そんな私を見て先輩は目を見開いた後、力なく笑った。弱く吹き続ける風が私達の髪を揺らす。木々は小さく囁いた。

 

「それより失敗することは大丈夫なんですか?」

「それは大丈夫だ。恥をかくことや笑われること、嫌われることにおいて俺はスペシャリストだからな。今更そんなの気にしようがない」

 

 先程とは打って変わって自信満々に先輩は言った。そんな先輩の姿が可笑しくてくすくす笑ってしまう。先輩も私につられて笑い出だした。それらは少しずつ加速し、静かな神社は楽しげな二人の笑い声で満たされる。

 

 

   _____________

 

 

 

 二人で選挙で使う原稿を作っているとすっかり日は傾いてしまった。真っ暗になる前に片付けを済ませて境内を出る。振り向いて人のいない神社を見ると少し切なくなった。今日の楽しく心地よい時間はもうすぐ終わりだ。

 

 先輩と並んで石段を下りる。二人の硬質な足音がその場に響いている。先輩は自転車の鍵を外しいつも通り鞄をカゴに入れるよう言ってくる。それに従い、礼を言ってから慣れた手つきで鞄を置いた。もうすぐ団欒が始まるであろう家々のそばを通って別れの地点へと向かう。先輩の通学路と私の通学路がぶつかる交差点がその場所だ。歩道は結構広く、花壇があって季節の花が植えられる。この時季はコスモスが色とりどりの花を咲かせている。

 

 街頭に照らされたそのコスモスが見えてきた。少ない光を浴びる花はどうしても物寂しさが拭えない。

 

「じゃあ、また明日です」

「ああ、明日な」

 

 カゴから自分の鞄を取り、お辞儀して先輩に背を向け歩き出す。後ろからは自転車が走り去る音がした。

 

 家に着き台所で夕飯を作っているお母さんに一声かけて2階の自分の部屋に入る。パチッと電気のスイッチを押すと真っ暗な中から部屋に置いてある物達が姿を現した。鞄を机の横に引っかけカーテンを締める。そして制服のままベッドにダイブし、仰向けに転がった。制服がシワになるので親に見つかったら怒られるのだがついやってしまう。

 

 顔を横にして机の上を向くと、昨日拾った黒い猫のキーホルダーの人形がだらしない姿をしている私を見つめているのが目に入った。

 

「あ、そうだ!」

 

 私は飛び上がり机の引き出しから綺麗なリボンを引っ張り出す。キーホルダーの壊れた部分をなんとか取り外してリボンを通し、しゃがんで横にかけてある鞄につけた。立ち上がり鞄を手に取り少し振り回して落ちないかを確認する。顔の高さまで上げ、ぶら下がっている黒猫と目を合わせ笑みを浮かべた。

 

「いろはー、ご飯できたわよー」

 

 一階から私を呼ぶお母さんの大きな声が聞こえた。鞄を元の位置戻しとりあえず返事をする。

 

「はーい、今行くー」

 

 私はとっとと着替えを済ませて部屋を飛び出し階段を駆け下りた。電気が消されて真っ暗になった部屋に、カーテンの隙間からわずかに外の光が差し込む。その淡い明かりは宙ぶらりんの黒猫を照らしていた。

 





 また次回。



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第六話

 お待たせです。


 真っ暗な中に一人の亜麻色の髪をした女の子がしゃがみこんで背中を震わせている。これは、私?

 

 そう思った途端、その少女を中心に風景が浮かび出す。足元には砂利が敷き詰められた地面が広がり、見慣れた葉を落とす楓の木、古い社、ぼろっちい鳥居が次々と姿を現した。空には綺麗な満月が昇っていて、そのほのかな光が神社とその少女を照らす。木々の揺れる音とすすり泣く声だけが聴覚を支配している。未だにしゃがんだままの少女を遠巻きに見つめていた。足は全く動かない。眺めているうちにそれが今より少し幼い自分であることを確信する。

 

 その私は泣きながら何かを呟いた。するとずっと吹いていた風が止み、音がなくなる。私はその不自然な状況に戸惑い辺りを見回す。もう一人の私も顔をあげた。その瞬間一際強い風が吹きつけ、散らばったたくさんの楓の葉を巻き上げる。目を開けていることが出来なくなりぎゅっと目を閉じて腕で顔を覆った。

 

 目を開けるとそこにはいつも見ている自分の部屋の天井があった。ゆっくりと私は体を起こす。

 

「今のは、なに?」

 

 ついそうこぼしてしまう。身に覚えのない記憶なのか、ただの夢なのか、答えはでない。ただこれでもかというくらい胸が痛む。痛くて痛くて仕方がない。涙がポロポロとあふれでてきた。

 

「いったい何なの…」

 

 薄暗い部屋で私は顔を手で覆い、その意味不明な痛みがひくのを待つことしか出来なかった。

 

 

   _____________

 

 

 

 ゆっくりと意識が覚醒していく。どうやらあのまま寝てしまったようだ。起き上がり顔にかかる乱れた髪を耳に引っかける。そこで外が少しうるさいことに気付いた。私は窓に駆けよって外をみると、しとしとと雨が降っている。すぐ上の屋根から滴る大粒の水滴が目の前を一定のリズムで落ちていく。

 

「雨だ…」

 

 夜中の件に加え雨という状況に気分は落ち込んでしまう。携帯を使って今後の天気を見てみると、どうやら夕方には止むそうだ。しかしそれでもあの神社でいつも通り作業をするのは難しいだろう。手に持っている携帯をベッドの上に放り、それに続いて自分も仰向けに倒れ込む。キシキシとベッドは音をたてた。右腕をおでこの上にのせ、ぼうっと天井を眺める。

 

「なんだかなー」

 

 私は内に溜まっているモヤモヤを全部吐き出す勢いで大きく息を吐いた。

 

 いつも通り準備を済ませちょっと早めに家を出る。雨の日は不便なことが多いのであまり好きではない。傘をさして弱い雨が降る中、学校へと向かう。傘と雨のぶつかる音、車が水に濡れた道路を走る音、雨が降ると音が極端に増える。歩く度足には水が跳ね、背負っている鞄がびしょびしょにならないように注意を払いながら傘の角度をとる。

 

 学校が近づくと地味な色から綺麗な色まで次々と門に吸い込まれていくのが見えた。私もそれに混ざり校門を通り抜け玄関で傘を閉じる。周りに気を付けながら水をふるい落とし、しっかりと巻いて留め具をパチッとしたところで顔を上げた。

 

「あ、先輩…」

 

 傘を閉じてちょうど玄関に入ってきたところであろう先輩がいた。私の声に気付いて先輩は私の方を向く。

 

「…いろはか、学校で会うのは初めてだな」

「言われてみれば…、変な話ですね」

 

 先輩は傘を巻きながら返してきた。私達はそれぞれの傘立てに傘を差し込み靴を履き替える。1年生と2年生では教室の階が違うが使う階段は同じだ。先輩を待って並んで階段を上る。そんな私達を数人の生徒が追い越していった。

 

「今日は雨なので神社、難しいですよね」

「いや、夕方には止むって予報言ってたからいくぞ」

 

 私の言葉に先輩は予想外の返答をしてきた。

 

「え、でも作業できないんじゃ…」

「それはそうだが、もうほとんど終わっているし今日は休みでいいだろ。それより今日は久しぶりにチャンスなんだ」

 

 先輩は楽しげにそう答えた。雨の日に何かいいことでもあるのだろうか。

 

「チャンスって、何のですか?」

「それは…、内緒だ。楽しみにしておけ」

「すごく気になるんですが」

 

 何かは全くわからないがきっと珍しいものなのだろう。おとなしく引き下がって放課後を楽しみにすることにした。先輩は一足先に教室のある階に着いたので、私に軽く声をかけた後廊下を進んでいき見えなくる。私ももう一階分の階段を上って教室へ向かった。今日の学校は雨のせいかいつもよりちょっぴり静かだ。

 

 

   ______________

 

 

 

 やっと今日の授業が終わる。この後のことが気になっていたせいか授業をだいぶ長く感じた。私は荷物をまとめて教室を出る。靴を履き傘をとって外に目をやると佇んでいる先輩が目にはいった。私は急いで近づき声をかける。

 

「先輩、待っててくれたんですか?」

「今日は俺も歩きだしな。たまにはいいだろ」

 

 少しそっけない様子で先輩は答えた。照れているのだろうか、なかなか目を合わせようとしない。

 

「でも明日も…」

「だな。自転車学校に置いておかないといけないから明日も歩きだ」

「じゃあ明日も一緒に行きましょう!待ってるので」

「わかったよ。俺が早くても待ってるから」

 

 私は先輩に思いきりはにかみを向ける。先輩はそんな私のでこを軽く一回弾くと傘をさしてだいぶ弱くなった雨の中に飛び込む。

 

「あたっ、ちょっと、待ってくださいよ!」

 

 私も慌てて後をおった。空はところどころ雲が切れていてその隙間から光が差し込む筋が見える。私達の上にはまだ水が落ち続けているが、きっとすぐに雨は上がり光が射すだろう。

 

 住宅街にはいると歩道はあまり広くないので傘をさした状態では並んで歩けない。なので私は先輩の後ろを歩いている。いつもの脇道に入るとコンクリート塀にはちらほらカタツムリやナメクジが姿を見せていた。脇道を抜け、並んで石段を上る。雨に濡れた石段は少々滑りやすくて足元が不安定だ。気を付けていたが足をちょっとだけ滑らせて姿勢を崩してしまった。そんな私の腕を先輩が咄嗟につかんで立て直してくれる。

 

「あ、ありがとうございます」

「気を付けろよ。落ちたら洒落にならんから」

 

 先輩の手から温かさが服越しに伝わってくる。すぐにその手は離してしまったがしばらくそれは私の腕に残り続けた。

 

 神社は雨に濡れ、いつもより全体的に色が濃くなっている。風も弱く、水も付着しているため楓は葉を落としていない。鳥居にこびりつく苔達は久しぶりの雨に歓喜しているように緑を際立たせていた。歩く度足元の砂利は普段よりもねちっこい音を発する。

 

 先輩は社に近づくといつも座っている少しの階段を上りきり屋根の下にはいる。私も先輩の隣に陣取り傘を横に立て掛けた。傘からは水が垂れ、屋根の陰で濡れていなかった板の床にシミをつけていく。軒先からは水滴が落ち、地面にくぼみを作っている。

 

「雨の日もここはいいところですね」

 

 晴れた日の爽やかな雰囲気とは違い、しっとりとしたいい意味で哀愁漂う、大人な雰囲気だ。

 

「まあな、雪が積もったときもすごいぞ」

「それは見てみたいですね」

「なら、今年は雪が降るといいな」

「はい」

 

 知らないうちに先輩は横で本を開いていた。ここに来たのは雨の日のここを私に見せたかったからだろうか。私も先輩に倣って時間を潰し始める。どれくらいたっただろうか。とうとう雨は止んでしまった。

 

「雨、止んじゃいましたね」

 

 家を出るときは嫌っていた雨も幾分か好きになっていた。そのため止んでしまったことに一抹の寂しさを感じてしまう。私の言葉を聞いて先輩は本から顔を上げる。

 

「やっとやんだか」

 

 そういうと本を鞄の上に置いて軒下を出た。そして空を見上げる先輩に私は聴く。

 

「先輩は雨、好きじゃないんですか?」

「別にそんなんじゃないぞ。もう少し待てばたぶん…」

 

 私の問いかけに先輩は笑って答えた。戻ってきた先輩は再び本を手に取る。私はさっぱり状況を掴めないまま、また時間潰しに興じた。

 

 雨が上がった神社はすっかり静かになり、たまに水が跳ねる音だけが聞こえる。雲もだいぶ流れて隙間からはほんのりと光が漏れていた。そんな中、突然西の方から眩しさを感じる。おそらく夕方の太陽が雲から顔を覗かせたのだろう。

 

 先輩もそれに気付いたようで、小さく声を漏らすと本を鞄に放り込む。そして今度は勢いよく軒下を飛び出した。そのまま境内の真ん中まで走るとこっちを振り返って叫ぶ。

 

「おい!いろは、来てみろ!」

 

 呼ばれて先輩のもとまで駆け寄る。

 

「なんですか?」

 

 先輩は私の肩をつかむとくるっと私を方向転換させる。西日が眩しくてつい目を閉じてしまった。

 

「見てみろ」

 

 耳元で聞こえる先輩の声に従いゆっくりと目を開ける。そして、息を飲んだ。 

 

「き、綺麗……」

 

 雲の間から夕日が雨に濡れた社と楓の木を照らしていた。軒先に溜まる水滴、濡れた瓦、水で光沢を持った葉、今にも溢れ落ちそうな葉の先の水玉、それらすべてが夕日を反射してオレンジ色に輝いている。楓の木は葉の紅色と橙の光彩が混ざり合って全く違う姿を見せる。社もいつもより新しく見える。ぐるっと他も見渡してみても、鳥居も、周りの木々も、あるものすべてが新鮮に見えた。この神社に小さなオレンジの宝石が降り注いだ、そんな光景だった。

 

「うまく、言葉にできないですけど…、こんなの初めて見ました」

「だろう? 雨が降った後、夕日が雲から出てこないと見れないんだ。俺も今までたくさんチャレンジしたが数えるほどしか見れていない。ラッキーだったな」

 

 先輩は景色に見とれ続ける私に微笑みながら言う。私はとうとういてもたってもいられなくなり、境内のあちこちからこの景色を見るために先輩の手を掴んで駆け回る。

 

「おわっ、ちょっ、なんだ?」

「先輩見て見て、ここからもすっごい綺麗…」

「おお、ほんとだな」

 

 子供のようにはしゃぐ私に先輩は付き合ってくれた。境内を一周して最後に楓の木の下へとやって来る。濡れた枝葉の隙間から見える夕日もまた別の顔を持っていた。

 

「おい、あまり楓に近づくのはおすすめしないんだが」

「え? 何でですか?」

 

 私が先輩の方を振り向き首をかしげた瞬間、今までぱったりと止んでいた風が吹いた。すると楓の木から大粒の水滴がバタバタと落ちてくる。木の下に入りきってはいなかったが、先輩と二人で立っていた位置は充分楓が水を飛ばす射程圏内だった。

 

「きゃ!」

「うお、ほら、言わんこっちゃねえ」

 

 私も先輩も頭からたくさんの水滴を被る。制服には水の染み込んだ後の丸いシミが多くできた。先輩に謝ろうと顔を向けるが、互いに見つめ合って固まってしまう。

 

「先輩、輝いてますね…」

「お前もな…」

 

 髪についた水滴が周囲と同じくオレンジを反射していた。私達は静かに笑い合う。その反動で数滴溢れ落ちるが、地面や服にぶつかり姿を消すその瞬間までそれは光るのをやめなかった。

 

 そんな二人は未だ輝く神社に違和感なく溶け込んでいく。どこかで水が一つ、落ちる音がした。




 また次回。


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第七話


 大変お待たせしました。長くないですけど、どうぞ。


 窓の外から小鳥の囀りが聞こえる。目を開ければ部屋はカーテン越しに差し込む朝日で明るくなっていた。

 

「朝、か」

 

 ベッドからそっと降りてカーテンを開ける。部屋の明るさの度合いは一気に増した。姿見の前で自分の顔を確認する。案の定目は少しだけ赤く腫れていた。

 

「これ、どうしようかな」

 

 目元を触りながら呟く。昨日同様あの夢を見たのだ。新しくわかったことはなにもない。腫れは時間が経てばそのうちひくだろうがそれは結構先だろう。学校に着く前にちゃんと治ればいいが…、最悪化粧で隠すことにして制服に着替えてしまう。時間はいつもより早い。

 

 部屋を出て一階のリビングに降りる。お母さんは既に起きていて朝食を作っていた。私が起きてきたことに気付くと少し驚いた顔をする。

 

「あら、今日は早いわね」

「ちょっと目が覚めちゃったから」

「ご飯もうちょっと待ってね」

「うん」

 

 食器棚からコップをとり、作り置きしてあるお茶を注いで乾いた喉を潤す。

 

「あ、そうだ。お母さん今日夜いないから晩御飯は自分でなんとかしてくれる?」

 

 思い出したようにお母さんはそう言った。

 

「なんかあるの?」

 

 滅多に家を空けることがないので理由が気になってしまった。そんな私の疑問にお母さんはサラッと答えてくれる。

 

「ほら、もうすぐ近くで秋祭りがあるじゃない? いろはも昔は結構行ってたからわかるでしょう?」

「そういえばあったね、そんなの」

「お友達に誘われてそこで踊ることになったのよ。で、いつもはお昼に練習があるんだけどもうすぐ本番だから夜にやってみようってことになったの」

 

 楽しそうにお母さんは言った。心なしかフライパンの油が跳ねる音も調子よく聞こえる。

 

「祭りっていつなの?」

「次の日曜よ」

「明後日じゃん」

 

 今日は金曜日なので学校はひとまず終わりだ。明日はお昼から神社の掃除に参加する予定である。日曜は特に何もないので、そうなると先輩と祭り一緒に行けるかな。

 

 ソファーにぼふっと腰を下ろしそのまま横に倒れる。先輩との祭りを想像してつい愉快になってしまう。うつ伏せになって足をバタバタさせ、落ち着きを取り戻そうと試みる。

 

「何してるの」

 

 声のした方をみるとお母さんが朝食をのせた皿をもって奇行にはしる私を怪訝な顔をして立っていた。私は苦笑いだけ浮かべて言う。

 

「あはは、何でもない」

「変なの。まあさっさと食べちゃいなさい」

「はーい」

 

 起き上がって食卓の席につく。香ばしいパンの焼けた匂いと美味しそうなおかずの香りが朝の空腹を刺激する。私はたまらずそれらに手を伸ばした。

 

 

   _____________

 

 

 

 退屈な授業が終わり靴を履き替え、校舎の玄関から少し横に離れたところで先輩を待つ。昨日約束したからだ。私は時間通りに終わった授業の後すぐ教室を出てきたので、まだ来ない先輩は授業が長引いているのか、急遽SHRが入ったか。先程から続々と部活や家へと向かう生徒が出てきているのですぐ出てくるだろう。

 

 ぼうっと校舎から吐き出される生徒たちを眺める。次第にその数は減り途切れ途切れになりだした頃、ようやく待ち望んだアホ毛の男子生徒が現れた。先輩はキョロキョロ周りを見渡し、私の存在に気付くと駆け足でやって来る。

 

「悪い、待たせたな。突然先生に雑用頼まれて…」

「別に大丈夫ですよ」

「そうか。ありがとな」

 

 二人で顔を合わせて微笑み合う。遠くでランニングを始めた部活動生の掛け声が聞こえてきた。先輩は思い出したように鞄を漁りだす。

 

「どうしたんですか?」

「えーっとな、あ、あった。これ」

 

 私の質問を聞きながらも漁り続けていた先輩は何かを見つけると鞄から取り出した。

 

「雑用してて、気がかりでな。交換しとこうぜ」

 

 そう言って手に持っていたのはスマホだ。そういえば連絡先を交換していなかった。今週ずっと会っていたのにこのやり取りをしていなかったなんてつくづく不思議な関係である。

 

「そうですね。これ、私のアドレスです」

 

 自分の携帯の画面に表示して先輩に見せる。つけているストラップが動きの反動で回転しながら揺れた。先輩はぎこちない手つきでスマホの画面を叩き始める。

 

「……へたっぴですね」

「うっせ、慣れてないんだ」

 

 そんな先輩の様子が可笑しくてクスクス笑ってしまう。そうしていると、突然手に持っていた携帯が震えた。

 

「送っといたから。登録してくれ」

「了解でーす」

 

 新着メールの通知を見ると、よろしくという件名で見慣れない英数字が表示されていた。それを押して、名前の欄に先輩とだけ入力して登録する。連絡先一覧に移動して新しくできたばかりの項目にお気に入りをつけた。その一覧に移り、家族の名前の下に先輩とあることを確認して携帯をしまう。少しだけ、携帯が重くなった気がした。

 

「できました。バッチリです」

「おう。なんかあったら…、や、なくても好きに送ってくれていいぞ。俺のこいつは基本仕事しないからな」

 

 先輩は軽くスマホを左右に振ってそう言って笑った。

 

「先輩もしてくれていいですから。それに仕事させてあげてください」

「ああ、慣れんけど頑張ってみるわ」

 

 先輩がしまうのを待って歩き出す。知らないうちに掛け声はなくなり、変わりにバットの金属音が聞こえてくる。校門へ向けて歩く私を先輩が呼び止めた。

 

「いろは、ちょっと待て。今のうちに自転車の場所教えておくから、先に駐輪場行くぞ」

「そうでした。それ聞かなきゃ明日困っちゃいますね」

 

 歩く先輩の後をついていく。しばらくするとまだたくさん自転車が停まっている駐輪場についた。先輩は一つの自転車のサドルに手を置くと、これが俺のだと言い鍵を渡してくれる。私はその鍵をなくさないようにしまい、位置と自転車を記憶する。

 

 二人で駐輪場を後にし、校門を出た。車道側を歩く先輩の顔を横目で見る。その横顔に見とれていると、先輩が急にこちらをくるっと向いた。私はドキッとして顔をすぐさま正面に戻す。

 

「ん、どうかしたか?」

「い、いえ。何でもないですよー」

 

 先輩の言葉にしどろもどろになりながら答えた。車が一台私達の横を通りすぎていく。注意を逸らそうと逆に私が質問した。

 

「先輩も、どうかしました?」

「ああ、ほら、それ。いい感じだなって」

 

 そう言って先輩は鞄を持っている私の手元を指差す。そこに目を落とすと、この前リボンでぶら下げた黒猫がゆらゆらしていた。

 

「ふふん、でしょう? リボンってのがポイントです」

 

 少し持ち上げて先輩に見せつける。先輩は私の鞄に手を伸ばすと、掌にその猫を乗せた。

 

「うん。リボンのおかげか、唯一無二って感じがして、いいな」

 

 そんなやり取りをする二人の足元から伸びる影は、いつもより心なしか近い。また、車が一台通りすぎた。

 

 

   _____________

 

 

 

 先輩と社の階段に並んで座りながら作業をしている。昨日の天気は嘘みたいに今日の空は晴れ渡っていて、綺麗なオレンジ色だ。時偶気持ちのよい風が吹き、鳥の声が聞こえる。

 

「んー、こんなもんでいっかな」

 

 先輩は演説の内容が書かれた原稿用紙を両手で目の前に掲げなからそう呟いた。

 

「私もこれで大丈夫ですかね」

 

 紙の上に転がっている消ゴムのかすを手で払い落とす。目で一通り読み直していると、先輩が見せてみろと言うので持っていた原稿用紙を手渡した。しばらく先輩は紙に目を落とし、顔を上げ私の方を向き言う。

 

「別に問題はないだろう。一応来週の頭、一緒に会長に確認してみるか」

「そうですね。本番は来週の後半ですから時間はまだありますし」

「だな。読む練習は…、もう遅いし今度でいいか」

 

 先輩から原稿用紙を受けとり、ペンケースと一緒に鞄にしまう。先輩も隣で帰り支度を始めた。すると急に鳥の鳴き声が増し、周囲が騒がしくなる。私は周りを囲っている木々を見渡すが小鳥の影が見えるだけだ。

 

「これ、なんですか…」

 

 私のそっとした呟きに先輩は特に驚いた様子も見せずに言う。

 

「結構頻繁にあるんだが、そういえばお前は見たことなかったか」

 

 詳しく聴くために口を開こうとした時、一瞬の静寂が訪れる。私は言葉を飲み込んだ。途端、どばっと小さなたくさんの鳥達が飛び立った。神社の上空で一つの塊になったそれは、ジグザグ進みながら神社を離れていく。

 

「び、びっくりしたー」

「ははっ、まあなかなかの迫力だよな」

「どこへ行くんですかね」

「寝床があるここより大きい近くの森だろう」

 

 集団が飛んでいった方を見ながら二人で言葉を交わす。辺りはすっかり静かになってしまった。

 

「俺達も帰るか」

「はい…」

 

 風に揺られざわめく楓の木を背に、鳥居をくぐり先輩と階段を下りる。少し先をいく先輩の頭のてっぺんが見える。もう少しで下りきるところで声をかけた。

 

「先輩…」

「…なんだ?」

 

 階段を降りきった先輩は体ごと振り返って私の方を向く。まだ一段残っている私と目線がかっちりあった。

 

「日曜の夜、時間ありますか?」

「日曜? 普通に暇だが…。あ、そういや今度の日曜って」

 

 何かに気づいた先輩が答えを言ってしまう前に急いで言葉を吐き出す。

 

「あの、一緒に、祭り行きませんか?」

「いいぞ。俺も久々だが、行くか」

 

 先輩はすんなり了承してくれる。知らないうちに力が入り固くなった体からゆっくりと固さが抜けていく。残っていた一段を降りて先輩と並んで歩き出した。

 

「最後に行ったのはいつだったかなー。昔はよく行ってたと思うんだけど」

 

 先輩は首を捻りながらそんなことをいう。私と先輩の影が目の前に伸びていて、その影も首を傾げた。冷たい風が通りすぎる。

 

「私もです。なんで行かなくなったんでしたっけ」

「さー、でもそんなに昔じゃないような…」

 

 しばらく考えていたようだか先輩は諦めて普通に歩きだした。私も胸のつっかえを無理矢理押し込んでしまう。今は先の楽しみに目を向けていればいいじゃないかと、そう思った。

 

「祭り、楽しみですね」

「そうだな…」

 

 楽しげな二人は夕暮れの街に消えていく。東の空にうっすらと、もうすぐまん丸になりそうな月が顔を出していた。

 





 一週間あいてしまいました。少し忙しいのもありましたが、モチベの低下が理由ですかね。待っていてくださった方すいません、そしてありがとうございます。

 ではまた次回。


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第八話


 あはは、一週間以上あいちゃった。すいません。取り敢えずどうぞ。


「今日はここまでー! しっかり片付けて帰れよー」

 

 顧問の先生の一声に部員が一斉に大きな声で返事をする。部活がようやく終わった。マネージャーの私も後片付けを始め、他のメンバーと協力して迅速に作業をしてしまう。部員達がグランド整備をするなか、私たちは道具の片付けだ。すべてやり終え、急いで着替えて更衣室を飛び出すと駐輪場へと向かう。パッと校舎にくっついている時計を見れば、正午を過ぎて30分が経っていた。

 

「もう始めちゃってるかなー」

 

 教えてもらった位置まで直行し、鞄から昨日預かった小さい鍵を取り出して鍵穴に差し込む。少し捻るとガチャンと音をたて鍵が勢いよく外れた。そっと自転車を屋根の下から出すとサドルに跨がって、思いきりペダルを踏み込み加速させる。頭上には澄んだ青が広がっていてところどころに細切れの雲が漂っていた。

 

 校門を抜け、勢いがついたままぐんぐんと道を進んで行く。頬を撫でる冷たい風が熱を増してきた体には心地よい。ペダルをこぐのをやめるとカラカラとチェーンが慌ただしく音をたてた。前方に見える歩行者用信号が点滅し赤にかわったので、ブレーキに手をかけゆっくりと力をいれていく。小さくブレーキが鳴き、スピードが落ちて信号の前で停止した。左足を地面につけて自転車を支える。

 

 そこでふとあることに気づく。自分が普通にこの自転車に乗れていることだ。普段先輩が使っているこの自転車は先輩に合わせてサドルが調節されているはずだ。しかし今、先輩と身長差がそこそこある私が違和感なく乗れている。つまり、サドルの位置が私にぴったり合わされていることになる。私はいじっていないのできっと先輩だ。昨日場所を教えてくれた時にそのような素振りは見せなかったので、学校に着いたタイミングでしてくれたのだろう。

 

 ちょっとした先輩の気遣いに胸が温かくなる。ついでにぴったり合わせることが出来たことへの若干の驚きを感じていた。信号が変わり青になり、再び立ちこぎでペダルを踏んで加速し神社への道を急ぐ。目にかかった前髪を片手で右に流して、靡く横の髪も耳にかける。

 

 シャーっと爽快な音を出しながら自転車は遠ざかり小さくなって見えなくなった。消えた先にはこじんまりとした山がある。緑の木々にまぎれてちらっと紅が顔を見せた。

 

 

   _____________

 

 

 

 自転車をいつも先輩が停めているところに置き鍵をかけた。荒い息を整えるために深呼吸しながら階段をあがる。植物に囲まれているせいか空気がおいしい。体に溜まった不純物を吐き出すイメージで大きく息を吸い、吐き出した。冬が近いので空気は冷たいが、お昼の高い位置にある太陽の日を浴びる木々は少し賑やかだ。

 

 石段を上がり鳥居をくぐって境内にはいると、いつもの制服ではなく私服の先輩が社の階段に座って本を読んでいた。掃除をするので汚れてもいいようにか、下は黒のジャージにパーカーという結構ラフな格好だ。異様に似合っているのが不思議である。私は部活のジャージを来ているので心配はない。話に聞いていたおじいさんはまだ来ていないようだ。先輩のもとへ近づくと、私に気づいて本から顔を上げる。

 

「よっ、思ったより早かったな」

「どうも。結構急いできたので…」

「それはご苦労さん」

 

 軽く手を上げ挨拶してくる先輩にこちらも手を上げて返す。

 

「まだ例のおじいさんは来てないんですか?」

「ああ、たぶん一時くらいだと思う」

 

 携帯を取り出し確認してみるとまだ15分くらい時間があった。私は先輩の隣に腰かける。すると先輩がこちらを向いて話しかけてきた。

 

「お前部活終わって直で来たんだよな」

「はい。それはもうダッシュで」

「だと昼飯食ってないだろ。持ってるか?」

「あ、持ってないや。すっかり忘れてました」

 

 早く来ることで頭がいっぱいですっぽり抜け落ちていた。ここに来るまでは全く意識していなかったので気にならなかったが、だんだんと空腹の感覚が増していく。朝から部活だったので当たり前だ。そんな私の隣で先輩は鞄をあさりコンビニのビニールを取り出す。

 

「ならこれでも食っておけ」

 

 手渡された袋の中を見るとお茶と惣菜パンが二つ入っていた。

 

「え、いいですよ。申し訳ないですし」

「何言ってんだよ、食わないと倒れるぞ。それにこんなこともあるかなーって思って買ったやつだから貰ってくれ」

「先輩のは?」

「俺は家で食べてきてるから」

 

 私が聞くと先輩はおそらく家がある方角を指しながらいった。

 

「そういうことならいただきます。けどお金は…」

 

 そう言って私は鞄に手を伸ばすが先輩に止められる。

 

「いいって。どうしてもってんならこの後しっかり働いてくれ」

「えー、そんなのじゃ…。あ、なら明日の祭りで何か買うんで一緒に食べましょう!」

「まあ、お前がいいならそれでいいけど」

「じゃ、決まりですね」

 

 先輩に約束をとりつけ、一言いただきますを言ってからパンを食べる。胃にものが入り空腹特有の嫌な感じがなくなっていく。お腹が減っていたせいか普段よりおいしい。すべて平らげてお茶を飲む。先輩はいつのまにか隣で読書を再開していた。

 

 ごみを鞄にしまった後、ぼーっと鳥居の向こうを眺めているとえっちらおっちら石段を上ってくる白髪の老人が見えた。ほうき二本を肩に担いでいて、その先に雑巾のかかったバケツがぶらさがっている。先輩もそれに気づき、持っていた本を鞄にしまいその老人のもとへかけていった。

 

「よう、じいさん。今日もよろしく」

「おー、いつもありがとうな。年寄り一人じゃ最近は辛いから、たすかるのー」

 

 先輩はおじいさんから掃除道具を受けとると、社まで戻ってきてほうきを立てかける。少し遅れておじいさんもやって来た。私は立ち上がって頭を下げる。

 

「こんにちは、今日はご一緒させてもらいます」

 

 顔を上げて目を合わせると、おじいさんは私をじっと見ていた。

 

「んん? 嬢ちゃん、昔よくここに来とったあの嬢ちゃんか? べっぴんさんになったなー」

 

 そんなことを言った。記憶があやふやな私にはなんのことだかさっぱりわからない。昔ここで会ったことがあるのだろうか。隣の先輩を見ても首をかしげわからないと伝えてきた。

 

「じいさん、いろはのこと知ってんのか?」

「知ってるもなにも、お前さん達少し前までよくここで遊んどったろ」

 

 先輩の疑問におじいさんはまたも衝撃の言葉を投下していく。私と先輩はやはりここで会っていたのだろうか。木々のざわめきが大きくなった気がした。

 

「少し前ってどれくらいだ?」

「んー、いつだったかのー。知らないうちに八幡しか見なくなったからな。なんじゃ、お前さん達は覚えておらんのか? あんなに仲良さそうじゃったのに」

 

 私と先輩は顔を見合わせる。先輩も思い当たる節があまりないのか釈然としない顔をしていた。しかしずっとこうしていても埒があかないので、胸にモヤモヤを抱えたまま掃除に取りかかる。

 

 私はほうきで社の周辺と階段の上をはき、先輩は社の裏手で水をくんできて雑巾で汚れを落としていく。おじいさんは見廻って修繕が必要なところがないか確認していた。

 

 大方それが終わると次は楓が落とした葉の片付けだ。あちこちに散らばった葉をかき集めて落ち葉の山を作る。砂利の上の葉を集めるのは少しばかり骨が折れた。先輩と二人でやり終え、大きく息をはく。辺りを見回してみると、知らないうちにおじいさんは姿を消していた。

 

「あれ? おじいさんどこ行っちゃったんですか?」

「さあ。さっき下りてったけどすぐ戻ってくるだろ」

 

 風が吹いて落ち葉の山からパラパラと数枚飛んでいく。それと同時に楓が新しく葉を落とす。落ち葉がたくさん積もるのは問題だが、色の少なくなった境内はちょっと寂しくなった。楓も先輩に出会った時と比べると痩せてしまったように見える。

 

 しばらくそんな感傷に浸っていると何かが入ったビニールをひっさげておじいさんが戻ってきた。揺れるビニールが小さくカサカサとなく。

 

「おー、だいたい集まったみたいじゃな」

 

 おじいさんは私たちの傍にある落ち葉の山を確認するとそう言って笑った。

 

「何持ってきたんだ?」

「これじゃよこれ」

 

 ビニールに手をいれ出てきたおじいさんの手には何かを包んだアルミ箔が握られていた。ピンと来ない私に少し剥いで中身を見せてくれる。アルミ箔の隙間から、赤紫が姿を現した。

 

「わー、お芋じゃないですか! 焼きいもですか?」

「たくさん働いてくれたからの、ご褒美じゃ。結構甘い芋だから旨いぞー」

 

 おじいさんは袋から芋を包んだアルミ箔をすべて出すと落ち葉の山の中へ入れ火をつけた。少しずつ火は燃え移ってゆき、煙がちろちろと空へ向かって上り始める。火が本格的になってくると、落ち葉にまぎれていた枝がパキッと声をあげた。量の増した煙はだいぶ高いところまで達すると姿を消す。

 

 しばらくして火がまだ消えていない中、おじいさんが

火ばさみを突っ込み芋を取り出した。アルミ箔のところどころが焦げて黒くなっている。砂利の上に寝かせられたそれらに私は思わずしゃがんで手を伸ばしてしまうが、もうすぐ触れるという時に急に腕を掴まれ制止させられた。

 

「待て、火傷するからこれ使え」

 

 掴んでいたのは先輩だった。いつの間に持ってきたのか反対の手には軍手とタオルが握られていた。それを私に向かって差し出す。

 

「よく持ってましたね」

「時々掃除に使うからいつも持ってくるんだ」

「なるほど。ありがたく使わせていただきます」

「おう」

 

 私は軍手を手にはめて再びお芋に手を伸ばし、今度はしっかり掴む。軍手越しでも結構熱さが掌に伝わってくる。そっとアルミ箔を剥ごうと試みるが加熱された後だからか、軍手をしてるからか、なかなかむきずらい。私がうんうん唸りながらがんばっていると隣に先輩がしゃがみこんできた。

 

「ったく、そういうのは思いきってやっちゃえばいんだよ。貸してみ」

「むー、どうぞ…」

 

 できなかった悔しさを押さえて軍手をとり先輩に渡す。先輩は受けとるとちゃちゃっと軍手をはめアルミの表面を親指全体を使って大雑把に撫で始めた。するとアルミの端と思われるところが姿を現し、そこから剥ぎ取っていく。アルミを脱いだ芋の上下を掴み親指を二本真ん中に添えて折ると、ふわっと湯気が出ると同時に甘い香りが広がった。お芋はしっかり焼けていて綺麗な黄金色をしている。

 

「お、美味しそうですね」

「そうだな。ほれ」

 

 タオルに包まれた、半分になったお芋を先輩が差し出してくる。私はタオルごとそれを受け取り、近くで火の番をしているおじいさんに一言礼を言う。

 

「お芋、ありがとうございます! いただきます」

「おー、食え食え。熱いから気を付けてな」

「はーい!」

 

 湯気を出し続ける芋に息を吹きかけ冷まそうと頑張るが、そんな私をものともせず芋は湯気を吐き続ける。諦めて皮を指で少しはがし芋をかじった。最初は熱さでよくわからなかったが、はふはふしているうちに次第に平気になる。芋特有のホクホクした感じとしっとさが合わさり心地よい食感を生み出していた。咀嚼する度に口の中にはどんどん甘さが広がり、鼻からは芋の香りが抜ける。

 

「美味しいですね」

「ああ。お前の顔からして相当お気に召したようだな」

「どんな顔してます?」

「ゆるんゆるんだ」

 

 どうやら顔に力が入っていないらしい。しかし人は美味しいものを食べると気が緩むので仕方ない。社の方に戻り味わいながらゆっくり食べていると、焚き火が燃え尽きたのかおじいさんもこちらにやって来て先輩の横でお芋を食べ始める。ほとんど燃えてしまった落ち葉の山からは申し訳程度に煙が立ち上っていた。

 

 ひどく落ち着いた気分になる。視覚には寂れてはいるが雰囲気のある境内と壮大な楓、嗅覚と味覚は芋に支配され、聴覚はそよ風とそれに揺れる木々の音。そして隣には先輩とおじいさんも。とても穏やかだ。精神的凪とでも言えばいいのか。

 

 けれどもそういうものは長くは続かない。私のこの状態も、今おじいさんが口を開いたところから荒れ始めていく。

 

「そういえば、明日は祭りだったのー。お前さん達は行くのか?」

「ああ、いろはと一緒に」

 

 おじいさんの質問に先輩が答える。

 

「お前さん達はあの祭りがなんの祭か知っとるか?」

「なんのって普通の秋祭りじゃないんですか?」

 

 私がというよりも、その祭りに参加する人たちは皆ただの秋祭りだと思っているはずだ。お母さんから自分が生まれる前からやっているという話を聞いたことがあるが何か深い伝統でもあるのだろうか。

 

「実はのー、あの祭りは元々この神社をまつるためのものなんじゃよ」

「え、まじで?」

「まじまじ、おおまじじゃ」

 

 先輩は驚いて聞き返す。私もびっくりしてうまく声がでなかった。ここをまつるための祭りならここに人が集まらないのは何故なのだろうか。もっと言えばここを知っている人の絶対数自体が少なすぎる。毎年ある祭りの中心であるのにこんなに寂れているのは不思議だ。

 

「といってもそんな変なことではないぞ。ここに来るお前さん達は知ってると思うが、ここへ来る道はものすごく分かりにくいじゃろ」

「確かに、普通なら目にも留めませんし、ただの行き止まりかと思っちゃいます」

「ここに来る道はその一本だけじゃ。戦後にこの辺は多くの家が立てられてな、その時に手違いで他の道が全部なくなっちまったのよ。戦時は祭りもやってなかったし、今みたいに大きい祭りじゃなかったからここのこと知らんやつらが多くてもなんら不思議じゃない」

 

 私が生まれるよりもずっと昔のことだ。おじいさんは自分の昔話をするかのようにゆっくりと話続ける。

 

「確か40年くらい前だったか。この辺の若者が集まってな、この時季は何もイベントがなかったもんだから何かしようってなったらしくての。どこからか聞いたのだろうよ、この辺りで昔祭りをやってたことを。そこから始まってどんどん大規模になり、今の秋祭りがあるのじゃ」

「そうだったのか。秋祭りってなんか意味があるもんだとは思っていたけどまさかここだったとはな」

 

 先輩は少し振り向き、社に目をやりながら意外そうに言った。ここは思っていたより深い歴史があったようだ。きっとその時の流れを、楓の木はあそこでずっと見守ってきたのだろう。その証があのぶっとい幹なのだ。楓を見上げていると、おじいさんが思い出したように言う。

 

「そうそう、その昔の祭りでな、ある言い伝えがあるんじゃ。わしがガキの頃は戦時だから祭りやってなくて参加できんかったからお母から聞いた話じゃが。試したことはないがのう」

「試すって、どんな言い伝えなんだ?」

「祭りの夜、満ちた月に照らされし紅のもとで願いし者に幸来たり、だったかの」

「紅ってあれのことですか?」

 

 私はさっきまで見上げていた楓の木を指さす。何かに答えるようそれはざわめいた。

 

「うむ、しかし一人一回こっきりだったはずじゃ」

「つまり祭りの夜に満月だったら、この楓になんか願えば一回だけ叶うと」

「まあそういうことじゃな。当然、無理難題は無理じゃがの」

「でも満月と祭りってそう簡単にかぶらないんじゃないか?」

「昔は祭りの日は日付で決まっとったから珍しいじゃろうが今は日程はばらばらじゃし、最近じゃ十五夜に寄せてるふしもあるからの。現に3、4年前に一度あったぞ。まあ言い伝えが今も有効かどうかは知らんがな」

 

 そう言って最後に豪快に笑った。おじいさんはもう帰るらしく、掃除用具をまとめて肩に担ぐ。私達にまたよろしくと残し、鳥居の向こうへ去っていった。そんなおじいさんを笑って見送りながらも私の内心は荒れていた。

 

 夜、満月、楓の木。この間から見るようになった夢だ。あの夢の中は夜で、空には満月があって、場所はここだった。そして私は何かを呟いていた。もしそれが何かの願いで、そして言い伝えが本当だったならその時に何かが起きたのかもしれない。私が何を願ったのかはわからないが、先輩とのことという可能性もありうる。だとすると私達に記憶がないのは……。

 

「おい、いろは。おーい、どうした? 気分でも悪いか?」

「え、は! べ、別に大丈夫ですよ。ちょっと考え事してて」

 

 私はあわてて先輩に返事をする。そんな私を不審に思ったのが先輩は心配そうに顔を覗きこんでくる。

 

 私の仮説が正しかった場合、どうしたらいいのだろうか。願いは一人一回まで、取り消しなんて効くかもわからない。そんな状況を打開し、忘れてしまったものを取り戻す手段なんて…、第一現象自体が非現実的で信じがたい。そして何より、本当にそうだったならこの状況を招いてしまったのは私なのだ。私が引き起こした張本人。なら、どうにかしないといけないのは私…。

 

「なあ、いろは」

 

 再び深く考え込んでいた私の名を、先輩が静かに呼ぶ。そっと先輩に目を向けると私は見ておらず、鳥居の先を見つめていた。先輩は一息ついて両手を横につく。

 

「少し、俺の話を聞いてくれないか」

 

 相変わらず遠くを眺めながら先輩は言った。その言葉は少し重くて、けれども私の中のすっと入ってくる。私は自然と返事をし、耳を傾けた。

 

「俺が奉仕部にいたのは知ってるだろ。俺は、俺達はあそこに持ち込まれる様々な依頼を受けた。簡単なものから、無理難題までな。そこで俺はたくさん無茶やった。周りの事も考えずに自分だけで、自分だけが泥かぶればなんとかなるって、そう思い込んで馬鹿なことたくさんやった。その結果、多くのものをぐちゃぐちゃにして、傷つけた」

 

 語る先輩の横顔はどこか儚げだ。それでも噛み締めるように言葉を紡いでいく。

 

「俺は繋がりが欲しかったんだ。やっと近くまで来たそれをなくさないように、傷つかないように自分が何とかしようって。でも違ったんだ。俺がやっていたことはただの傲慢で、独りよがりで、誰のことも信じちゃいなかった。誰も見ちゃいなかった」

 

 優しい風が私達の間をすり抜けていく。それが先輩のアホ毛を揺らした。

 

「そう思い知って、もう俺は求める資格なんてないって思った。でもそんなときに、ここでお前と会ったんだ。初めて会ったはずなのにそんな気が全くしない。懐かしさすら感じる。正直意味わかんなかったよ。でもそんなお前が、俺に最後のチャンスをくれた」

 

 ふと先輩が私の方を向く。

 

「昨日待ち合わせ遅れたじゃん? あれ本当は雑用なんかじゃなくてさ、実は奉仕部に行ってたんだ。んで、全部話して思い切り謝って、もう戻らないこと言ってきた。自分でも勝手だと思うけど、正しかったかも全然わからないけど、それでもそこしっかりしなきゃお前とは歩けないと、歩いちゃいけないと思ったから…」

 

 そう言って先輩は顔を綻ばせる。そして私の目をじっと見て続けた。

 

「お前が何を知っていて、何に気づいたかはわからない。でもじいさんの話から俺達が昔会ったことがあるのはほぼ確定だ。もし今、お前が抱えていることが俺達のことならお前が一人でしょいこまないでくれ。それは俺とお前の二人の問題なんだ」

 

 先輩はそこで区切ると真面目な顔になる。私は何を言うことも、何をすることもできずにただただ先輩の瞳に映る自分を見つめていた。

 

「だからさ、俺にも一緒に背負わせてくれよ。俺達の過去のことも、これから先のことも」

 

 風が止む。周囲の音という音がすべて遠くなっていく。私の中で先輩の言葉が反響して色んなものを包み込んでいく。いつのための止まっていた思考がゆっくり動きだし、言葉を噛み砕いて飲み込んだ。そこで私はようやく意味を悟り、それと同時に体が芯から熱くなっていくのを感じる。

 

「え、え! こ、これから先もって…」

 

 先輩の方を食い入るように見ると、急に顔を赤くして膝に埋めてしまった。

 

「あれ、何言っちゃったの俺。やっちゃったよ。こんなつもりじゃなかったのになー。勢い怖いわー」

 

 ぶつぶつ呟く先輩の肩の服を引っ張って私は言葉を絞り出す。

 

「先輩、今の、本当ですか?」

「嘘じゃない。こんな嘘は二度とつかないって決めたからな」

「二度とって、やったことあるんですか…」

「言ったじゃん、たくさんやらかしたって。知りたいか?」

 

 私の呟きに先輩は律儀に答えてくる。話の通りなかなかの事をやって来たみたいだ。

 

「その話は今度でいいですよ。まったく先輩って人は…」

 

 思わずため息をついてしまうが、どこかおかしくて笑ってしまう。私はつい浮わつきそうになる気持ちを落ち着け、先輩に向かって胸にある言葉をそのまま吐き出した。

 

「人に背負わせろって言うんだからちゃんと先輩も私に背負わせてくださいよ。まあ、もし一人でしようとしても私が無理矢理かっさらいにいきますけど…」

 

 最後の方は先輩の方を見れなくて、つい反対に顔を向けてしまった。隣で先輩がばっと顔をあげた。

 

「え、それはつまり…」

 

 ぼそっとそう言う先輩に私は振り向いて、思い切り手をぶんぶん振りながら言う。

 

「は、恥ずかしいから皆まで言わないでくださいよ。それに私達にはその前に片をつけないといけないことがあるじゃないですか」

「そうだな、それまでこの話は置いておくか」

 

 私の言うことに納得したのか先輩は言葉を引っ込め、かわりにそう言った。

 

 私達が一緒に歩き出すのは欠けたピースがすべて埋まってから、ぽっかり空いた穴にかつてあったものを取り戻してからだ。だってそれは、きっと私達にとってかけがえのないもので、なくてはならないものだから…。

 

 大きく楓の木がざわめき、たくさんの葉を宙に投げ捨てる。若干傾き淡いオレンジになった太陽の光が私を照らした。

 

「じゃあ先輩、今度は私の話を聞いてください。私の夢の話を…」

 

 

 





 今回はいつもより長めでしたが、待っていた方はすいません。この話ももう少しでクライマックスを迎えます。最後までよろしくです。

 ではまた次回。


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第九話


 おひさしぶりです。どうぞ。


 木々のざわめく音が変に耳につく。私は未だ整っていない胸の中を、しっかり言葉にできるように並べていた。先輩は話を聞いてくれと言った私の口が開くのをじっと待ってくれている。優しく頬を撫でるように風が吹いた。燃え尽きた焚き火からはもう煙は出ていない。私は靡く横髪をそっと耳にかけるとゆっくり口を開いた。

 

「少し前から夢を見るんです」

 

 私の声だけがその場にはあった。先輩は特に頷くこともなく、ただただ耳を傾ける。

 

「最初は暗闇の中で男の子が膝を抱えて泣いている夢でした。顔も見えない、触れることもできない。目が覚めたら胸が痛み、涙が溢れる。全く身に覚えのない夢。これが先輩に出会う前の話です」

 

 私はその夢を頭に呼び起こしながら言葉を並べていく。やはり今になってもあの少年の顔は思い出すことは出来ない。

 

「ここで先輩に会ったあの日、先輩がその男の子とそっくりな格好であそこに居たのを見つけたときは驚きました。夢を切り取ってそこに置いたかのようなくらいにそのまんま。だから思わず手を伸ばしたんです」

 

 今度はついこの間の出来事が浮かんできた。話したことも、交わした約束も、全部鮮明に思い出せる。あの時私達は初めて出会ったはずなのに、なぜか心の奥底がうずいてしかたなかったことも。

 

「それから一度だけ、少し違う夢を見ました。男の子が出てくるのは一緒なんですが、場所がここだったんです。あの時の先輩と全く同じように。そして、その子に触れることが出来たんです」

 

 少年が顔をあげる前に目が覚めてしまい、顔は見れなかったが今はもう顔がわからなくても確信が持てる。あの少年が誰なのかなんて。

 

「あれはきっと、先輩だったんですね。諦めて、一人塞ぎこんで、寂しさを抱えたひとりぼっちの男の子。不器用で失敗ばかりの男の子です。ちゃんと手を伸ばせて、触れられてよかった」

 

 もう先輩を一人にさせたくない。そう思ったとき、ふとこの前約束したときに頭にちらついた少女と少年の映像が頭をよぎる。たぶん、あれも私と先輩なんだろう。そしてその約束が……。

 

 私は先輩の方に目をやる。目が合うと先輩はへへっと少し照れくさそうに笑った。それにつられて私も声を出さずに静かに微笑む。傾き始めた太陽は色を変え、すべてを己の色へと染めていく。

 

「そして最後の夢は、満月の下ここで私が泣きながら何かを呟く夢です。さっきおじいさんが教えてくれた条件がほとんど揃っています。もしこの夢が本当にあったことなら、私のその一言でこんなことになってしまったのかもしれません」

 

 震えそうになる声を抑えて最後まで言いきる。先輩の顔は見れないのでひたすらに遠くの空を見つめていた。細切れの雲がゆっくりと流れている。ずっと黙っていた先輩が口を開いた。

 

「そういうことだったのか。それで元凶の自分がなんとかしないとって思ったと」

「まあそんなところです」

「でも実際どうだかな」

「どういうことですか?」

 

 先輩が嘲笑うように言った言葉に反射的に聞き返した。その問いに先輩は苦い顔をしながら答える。

 

「お前が意味もなくそんなことするわけがない。たぶんお前を泣かせた、元凶の元凶を作ったのは俺だ」

「どうしてそうだと?」

「実はな、俺も最近お前と同じで夢見るんだ」

 

 先輩の意外な一言に私は驚き小さく声をもらしてしまう。先輩は膝の上で手を広げるとその掌を見つめながらぽつぽつとこぼし始めた。

 

「いつからだったかな、たぶん修学旅行から帰って来た時くらいからか。俺がいろんなもの壊しちまった後。夢の中で俺は何かを大事そうに抱えているんだ。壊れないように、傷つけないように。でも俺は何を思ったのかそれを放してしまう。手から離れ行くそれはどこかへ消えてしまい、残ったのは空っぽの掌だけ」

 

 掌を開いたり握ったりしながら先輩は言う。その声は落ち着いていて今にもかき消えそうで、けれどもどこか重かった。定期的に吹く風が私達を通りすぎていき、その度肌に突き刺すような寒さを残していく。取り囲む木々もそびえ立つ楓もざわめき葉を散らした。

 

「それで最後に、誰かの泣いた横顔がちらつく。何回見ても俺はそれを手放してしまうんだ。あんなに大切に思ってるのに、いつもいつも。俺は全然変わっちゃいないんだ。今も昔も、バカなんだな」

 

 そう言って顔をあげると、むこうの空を眺めながら最後に鼻で笑った。その横顔につい見とれてしまうが、私はすぐに意識を引き戻す。

 

「いいじゃないですか、バカでも。それが先輩なんですから。私は離れてあげませんよ。先輩が手を離したってしがみついてやりますから。後悔してももう遅いです」

「あはは、お前は俺にはもったいないやつだな」

 

 私の方を向いて笑いながら先輩は言った。それに私は間髪いれずに返す。

 

「違いますよ。私だから先輩といれるんです」

 

 その言葉に先輩は一瞬表情を固めるが、少しだけ口の端をあげると再び空へ目をやった。何も言葉は発しなかったがそれでいいのだろう。もう言葉はたくさん交わしたから、今はその横顔だけで充分だ。

 

 私も先輩の横で肩を並べて空を眺める。橙に包まれたこの神社はただ二人だけの空間。いや、二人と一本の世界。木々の小さなざわめきと静寂がその場に交互に訪れる。けれどもそこは不思議と賑やかだった。

 

 

   _____________

 

 

 

 クローゼットを漁り、良さげな服をベットの上に放っていく。既に数着の衣服が並んでおりベッドの上をほとんど隠しってしまっていた。クローゼットから顔を出しベッドの元へと移動し、ひとつひとつ手にとって姿見の前で体に当てていく。十数回それを繰り返し気に入った組み合わせを見つけると、残った服をすべてしまいさっさと着替えてしまう。軽い化粧をし、机の上に用意しておいたバッグの中をチェックして肩にかけた。終いにもう一度姿見の前に立つと、細かいところに目を配る。

 

「よし、こんな感じでいいかな」

 

 ひとつだけ頷くとそのまま部屋を出ようとドアの取っ手に手をかける。

 

「あ、そうだ」

 

 戸を少し開いたところであることを思いつき、机に持っていた鞄をおくと横にかけてある学生鞄を手にとった。持ち手から黒猫をぶら下げているリボンをほどくと、それをバッグの方へ結び直す。

 

「これでよし」

 

 黒猫が見えるよう鏡にバッグを映し出し、指先で小さく黒猫を弾く。揺れ続ける猫を確認し、今度こそ部屋を出てリビングへと降りた。そこでは他所行きの格好をしたお母さんが慌ただしく準備をしている。

 

「あれ、いろはもお祭りいくの?」

「うん。言ってなかったっけ?」

 

私の存在に気づくとお母さんはいったん手を止めた。そういえば話していなかったような気がする。

 

「久しいわね。誰といくのかな?」

 

 少しにやけた顔でお母さんが聞いてくる。子のそういう詮索はやめてほしいが、今からいく場所は同じなので隠しても意味ないだろう。

 

「ちょっと……、先輩と?」

 

 お母さんから目をそらし、人差し指で頬を小さくかきながら答えた。それを聞いたお母さんはちょっと驚いた表情をすると口を開く。

 

「あら、懐かしい名前が出てきた。それって昔言ってたあの先輩君?」

 

 どうやらお母さんの前で先輩と言う言葉を口にしたことがあるらしい。しかし今では何も謎ではない。私と先輩は間違いなく会っているのだから。私はお母さんの方に顔を向けるとニコッと笑う。

 

「うん、きっとその先輩。行ってきます」

 

 お母さんの見送りの声を背に家を出る。昼時だけれど外は寒かった。それでも体の芯は何故か、温かい。

 

 時間は1時。先輩との待ち合わせは1時半。場所はいつもの交差点。私はそこへ向けてゆっくり歩みを進めていた。この時期は5時にはもう真っ暗になってしまうので祭りは4時までだ。午前10時には始まっていて会場は今頃人でごった返しているだろう。祭りはこの街の商店街で行われる。車道を数本通行止めにして露店が並ぶのだ。さらにそのすぐ近くにある大きめの公園には少しの露店とステージが用意され色々な催しが開かれている。お母さんは最後にある町を大勢で練り歩きながら踊るのに参加するらしい。

 

 そしてそこはいつもの神社から少しだけ遠い。祭りが終わってから向かえばすっかり暗くなっているだろう。きっと満月も綺麗に見える。きっと、上手くいくはず。自然と上着のポケットにいれていた手に力が入る。大きく息を吸い吐き出すと、昨日の帰りを思い出していた。

 

 

   _____________

 

 

 

 帰り道、私達は口を開くことなく黙々と歩いていた。神社を出るところから言葉は交わしていない。あれからずっと居心地のいい沈黙に浸り続けている。

 

「なあ」

 

 突然先輩が口を開いた。私は返事をする代わりに顔を先輩に向ける。辺りはだいぶ暗くなっており、もうまもなく暗闇に包まれてしまうだろう。

 

「明日、最後また神社に行こう」

「何かあるんですか?」

「あれから考えたんだが、もしお前の言うことが本当に起こったのなら同じ方法を使うしかないって思ってな」

 

 先輩は私の目を見るとそう言った。つまり願いで消えてしまったのならまた願って取り戻せばいい、ということだろう。

 

「でも一人一回までですよ?」

「大丈夫だ。俺の分がある」

「いいんですか?」

 

 貴重な一回だ。もし他に手があったり、本当は違ったりしたら無駄になる。後に後悔するかもしれない。

 

「いいよ。一生に一度、それで取り戻せるなら充分だ。失敗するかもしれない、意味ないかもしれない。それでも俺は取り戻したい。例えそれがどんなものでも、胸を締め付けても、ちゃんと俺達が持っていないといけないものだからな」

 

 私も同じだ。なくした過去が綺麗でもそうでなくても、大事な先輩との数ページ。それは何にも変えがたい。

 

「そうですね。でもそれがどんなものでも私は先輩の傍を離れませんよ。私が好きになったのは今の先輩なんですから、関係ないです」

 

 にひっと最後に笑みを向ける。先輩はぷいっと首を振って顔をそらしてしまった。

 

「やめろ、恥ずかしぬ」

 

 そんな先輩が面白くて最初は笑っていたが、次第に恥ずかしさが込み上げてきて顔が自然と下を向く。結局そこから別れるまで言葉を交わすことは出来なかった。

 

 

   ______________

 

 

 

 少し余計なところまで思い出してしまい顔が熱くなっていく。心なしか靴と地面がぶつかる音も早まった気がする。気づけばいつの間にか交差点についていて、横の花壇にはコスモスが花を咲かせていた。ここ数日で数は減ったがまだまだこの灰色だらけの交差点を彩っている。

 

「よう」

「ぬぁ!」

 

 急に近くで声がしたのでびっくりして変な声が出てしまう。顔をあげるとそこには私服姿の先輩がいた。ずぼらなイメージの先輩にしては結構しっかりとした服装をしている。

 

「くくっ、なんだよぬぁって。大丈夫か?」

「もう、びっくりさせないでくださいよ」

 

 拗ねたように少し頬を膨らませて先輩を睨む。足元ではコスモスが風に揺られている。

 

「だって来たと思ったら全然俺に気づかないし、おまけにそこの花壇眺めて動かないし……」

「それは、すいません。けどちょっとさっきのは記憶からデリートしてください」

「いや、いろはとの大事な記憶だからしっかり焼き付けとく」

 

 先輩は今にも笑いそうになるのを懸命に堪えて精一杯の真顔でそんなことを言ってきた。折角いいこと言っているのに台無しだ。

 

「へっ、もういいです。さっさと行きましょう」

 

 私は先輩の横を通りすぎて祭りをやっている商店街へ続く道を黙々と進んでいく。先に歩きだした私に追い付こうと先輩が少し駆け足で私の斜め後ろについた。道にはこれから祭りへ向かう人や帰ってきたのであろう人がちらほらと見える。

 

「そろそろ機嫌直してくれよ」

 

 黙ったままの私に先輩が顔を覗き混みながら横に並ぶ。私は相変わらず黙ったまま。

 

「よし、ならなんかひとつ奢るから」

 

 その言葉に私はふっと顔をあげて先輩を見る。

 

「やった、待ってましたその言葉。約束ですよ」

 

 そんな私の顔には拗ねても怒ってもいない、ただちょっと意地悪な笑みがあった。それを見た先輩は顔をひきつらせると苦笑いを浮かべる。

 

「やられた」

 

 そう言って先輩は肩をすくめた。それからは二人肩を並べて歩いていく。

 

 商店街が近づくにつれ人の数が増える。私達と反対側に歩いていく人、つまり祭りの帰りの人たちは子連れの家族が多い。それに対し商店街へと入っていく人には学生が多いようだった。おそらく部活帰りなどであろう。気づけば私達も商店街の入り口の前に辿りついていて、往来が少しばかり激しい中を離ればなれにならないように進んでゆく。入り口から遠ざかるほど露店の密集具合は増していき、人もそれにつられ多くなっていた。

 

「いろいろあるなー。にしてもあと二時間で終わるのに相変わらずの人だ」

「皆ぎりぎりまでいるんじゃないですか? 私たちみたいに。それにそこそこ広いですからね。全部見て廻るってだけでだいぶ時間潰せちゃいますよ」

 

 私達はひとまずいろいろ物色してみることにした。露店の値段はどこも似たようなものだから気にする必要はないが、どうせなら一番美味しそうなところで買いたい。粉ものは特に。ラインナップはほとんど夏祭りと同じだ。違うところと言えば寒いのでかき氷屋がほとんどないのと、焼き芋や温かい汁物を出す屋台が増えているところくらいだ。

 

 しばらく歩いていると立ち並ぶ屋台の中にリンゴあめ屋を見つけた。祭りに来たときくらいしか食べる機会がないそれに他のものと比べ一段と興味をそそられる。ついついぼーっと眺めながら歩いていると先輩が口を開いた。

 

「あれ食いたいの?」

「そうですね、こんな時しかチャンスありませんし」

「そうか…」

 

 そう残すと先輩は屋台へと向かい、ひとつだけリンゴあめを買った。私の元へと戻ってくるとそれを差し出してくる。

 

「ほれ」

「くれるんですか?」

 

 私の質問に先輩は差し出した手をさらに突き出し答える。

 

「奢るって言ったからな」

「ありがとうございます。では、ちょっと待っててください」

 

 先輩からあめを受けとると、私はリンゴあめの屋台がある方とは反対の方へと向かう。ひとつの屋台の前へとやって来ると店番をしているおじちゃんに声をかける。

 

「すいません、これひとつください」

「へい、まいど」

 

 小銭と引き換えに大きめの袋を受けとると、先輩を残してきたところへ戻った。

 

「何買ってきたんだ?」

「これですよ、わたあめです」

 

 半透明の袋には白色のもふっとした物体が詰められている。私はそれを先輩に差し出した。

 

「何、くれんの?」

 

 先輩は意味がわからないと言いたげな顔をしながらそう言った。

 

「はい、奢ってもらうとは言いましたが奢らないとはいってないです。一人だけ食べてるのは寂しいですし、それに一緒にって約束でしたから」

「でも、なんか手間だな」

「手間だからいいんですよ。そっちの方が一緒って感じがして」

 

 私は先輩が出した手の上に袋を置きながら微笑んで答える。先輩はそれを受けとると袋を見つめながら首を捻った。

 

「そうか? ……そうかもな。ありがと」

 

 終いに私の方を向いて不器用に笑いかけてきたので、私もそれに微笑みを返すと再び二人で歩き出す。私はリンゴあめを包んでいるセロハンを外し一口かじる。先輩は袋を閉じているゴムを取り、一掴みの綿を口へ放り込んだ。

 

「甘いな…」

「そうですね…」

 

 周りの喧騒が少しだけ遠くに聞こえる。私達の傍を数人の子供達が駆け抜けた。それに続き、子を連れた親子やジャージ姿の中高生とすれ違う。そして小学生の男の子と女の子とも。

 

「あれは…」

 

 つい声を漏らして振り向いてしまう。そこにはこの前神社へ向かうときに見かけた彼らの仲睦まじい後ろ姿があった。男の子は持っているフライドポテトを女の子の口と自分の口に交互に運んでいる。そんな彼らの姿もすぐに人混みに紛れて見えなくたった。

 

 私は少しだけ開いてしまった先輩との距離を駆け足で0にする。一回手に持っていたリンゴあめに目を落とすと、それを横を歩く先輩の顔の前へと突き出した。

 

「ん、なんだ?」

 

 先輩は突然目の前に現れた赤色の物体を見ると私へ顔を向ける。

 

「一口あげます」

「いいのか?」

「はい」

「なら、ありがたく」

 

 私が頷きながら答えると、先輩は一言礼を言いそれをかじった。先輩の口が離れたのを確認して自分の元へと戻す。きっと今の私の顔はこの少しだけ小さくなったリンゴあめとそっくりな色をしているに違いない。

 

 視界も自分自身も真っ赤になっているところに不意に白が混ざる。柔らかそうで優しい白だ。隣を見ると、先輩がちぎったわたあめを私の目の前に差し出していた。

 

「ほれ、お返し」

「あ、ありがとうございます」

 

 私はそれに口をつける。わたあめはすぐに口の中で姿を消し、かわりに甘さを残していく。しばらくその甘さに浸っていると、私が食べきれなかった分を先輩が自分の口に入れた。私はその手の動きをずっと見ていたので最終的に目は先輩の顔へと向かう。ふと先輩と目が合った。

 

「ん、なに。なんかついてる? というか顔赤いけどどうした」

「どうかしたというか、その、先輩は気にしないのかなーと思って」

「何を気にする……、あ」

 

 どうやら気づいてなかっただけのようだ。その証拠にそっぽを向いた先輩の顔も私と同じで赤みが増していく。

 

「その、悪かったな」

「別に悪くはないですよ、嫌じゃ…なかったし」

 

 二人とも上手く声が出せず、つっかえつっかえ言葉を絞り出していた。それからしばらく二人を沈黙が包み込む。そんな二人の頬はリンゴあめとわたあめを混ぜたような淡い桃色をしていた。

 

 

   _____________

 

 

 

 気づけば時間は4時、祭りの終わりだ。屋台が次々と撤収の準備を始める。人も皆、名残惜しさを残しながら後ろ髪引かれる思いで自分の家へと帰ってゆく。私達もその流れに乗り、来た道を戻っていた。

 

「やっぱ最後の躍りの行列はすごかったな」

「そうですね。実はあの中に私のお母さんいたんですよ。私達には気づいてなかった見たいですけど」

「え、まじか」

 

 横で先輩が驚きの声をあげる。商店街から出たばかりは人が多かった道も、いつもの交差点が近づくにつれ閑散としていく。太陽はずいぶんと傾いていて、空ではまん丸の満月が存在感を強めていた。

 

 交差点につく頃には周りにいた人はすっかりいなくなっており、街頭が薄暗い道を照らしている。肌寒さも少し増した。

 

「よし、行くか」

「はい、行きましょう」

 

 あの日から何度も通った道を進んでいく。目立たないコンクリート塀に挟まれた狭い脇道、小さな山に沿った道、多くの木々に囲まれた石段。一段一段噛み締めるように上る。幾度となくくぐった古ぼけた鳥居をぬけ、月明かりに照らされた境内へと踏み込んだ。社へと続く石畳を無視して砂利の散らばった上を歩く。そして、その先には相も変わらず堂々とたたずむ楓の木。

 

 先輩と私は二人で並んでそれを見上げる。やはりいつ見てもこの楓には心打たれるものがある。

 

「いろは、大丈夫か?」

 

 右隣の先輩が楓を見上げたまま聞いてきた。

 

「はい、大丈夫です。先輩こそ大丈夫ですか?」

 

 私も同じことを聞き返す。

 

「ああ、大丈夫だ。と、言いたいところだが、やっぱ少し怖いかな」

 

 笑いながら先輩はそう言った。ここに来てから初めて先輩の顔を見るが、その横顔は言葉のわりに案外平気そうだ。もしかすると私の方が不安な顔をしているかもしれない。本当はこの先の未知が、道が不安で仕方ない。口ではいくらでも強いことは言えたが、もうそれを誤魔化すことは難しい。震えそうになる体を押さえ込むので必死だ。

 

 一人葛藤していると、突然右手が温かいものに包まれる。手に目を落とすと先輩の左手が私の右手を掴んでいた。

 

「何が大丈夫だ。震えてんじゃねーか」

「そんなの、先輩だって同じでしょう」

 

 私の手を握った先輩のその手も少しだけ震えていた。

 

「違う、これは寒いからだ」

 

 先輩はみえみえの強がりを続ける。そんな先輩を見ているとなんだか笑えてきた。そのせいか強ばっていた体から力がぬけてゆく。

 

「なんですか、それ」

「なんでもねーよ。忘れてくれ」

「忘れませんよ、大事な思い出ですから」

「おいそれ…」

 

 顔を合わせると私達は小さな声で笑い合った。繋がった手を中心に私達を温もりが包み込む。

 

「んじゃ、始めるか」

「そうですね、始めましょうか」

 

 私達の頭上では満月か輝いている。風が止み、木々のざわめく音もなくなり沈黙が訪れた。そこに先輩の声だけが響く。

 

「いろはの願い事を取り消して、俺達の過去を、記憶をもとに戻してください。お願いします」

 

 頭を下げる先輩に続いて私も腰を折る。しばらくそうしていたがどれくらいたっただろう、私達は揃って顔を上げた。

 

「何か、変化はあったか?」

「いえ、特には」

 

 二人で首を捻る。はずれ、だったのだろうか。静まりかえった神社も楓の木もなんの変化もない。私達にも、私達の記憶にも。

 

「違ったのか?」

「また、考え直さないといけな」

 

 そのときだった。強い風が私達に、神社に、楓の木に吹き付ける。あまりの強風に私は言葉を引っ込めざるおえなかった。私達は互いの手をさらに固く握りしめる。吹き続けるその風はどんどん楓の葉を巻き上げ視界を埋め尽くしてしまう。それに耐えきれず私達は目を強く閉じた。

 

 そして、意識は手放される。

 





 まず、遅くなってすいません。待っていてくれた方には申し訳ない。こんなこと前回も言った気がする。

 おそらくこの話も次回で、もしかしたらその次で終わりです。たぶん。

 読んでくださりありがとうございます。また投稿したときは読んでくれると嬉しいです。

 ではまた次回で。


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第十話

 遠くから幼い女の子の泣く声が聞こえる。意識はいまいちはっきりせず視界は薄暗い。ただ向こうにぼやけた小さな光だけが見えた。私は無意識にゆっくりとそれに手を伸ばす。距離感が全くつかめず、どれだけ伸ばせば届くのかは見当もつかない。それでも私の手は勝手にそれを追ってゆく。そして腕が伸びきったところで、その淡い光に触れる。

 

 瞬間、その小さな光は強烈な輝きを放ち私を飲み込んだ。反射でまぶたは固く閉じられ再び暗闇が訪れる。聴覚は未だ少女の泣き声だけが支配していた。しかし次第にそれが大きくなってゆき、他の音も混じり始める。これは、そうだ。近頃ずっと耳にしていた、あの居心地のいい空間にいつもあった音。あの楓の木の声だ。真っ暗だった瞼の裏もいつの間にか白んでいる。私はゆっくりと目を開いた。

 

 そこには赤と緑がおり混ざった何かがゆらゆら揺れているのが見えた。徐々にピントがあい、それが楓の葉であるのとに気づく。そしてその向こうに青空があることにも。

 

 はっとして私は体を起こす。見渡せばそこはいつもの神社。けれども頭上には月ではなく太陽がこれでもかと存在感を放っていた。

 

「ここは…」

 

 そう溢し、知らないうちに聞き慣れてしまった泣き声の源に目を向ける。そこにはランドセルを傍らに置いて膝を抱える少女がいた。私は起き上がってその少女に声をかけようと試みるが、ある程度近づいたところで足が止まる。少女の横に置いてあるそれはやたら見覚えのあるランドセルで、服も、髪留めも、どれも知っていた。そこで泣いていたのは紛れもない、幼い私だった。

 

 

   _____________

 

 

 

 どうやらここは立体映像のようなものらしい。少女に触れようとしてもできないし、それどころか楓の木にも鳥居にも、社にもさわることはできなかった。足元を踏みしめても砂利の擦れる嫌な音はしない。私はどうすることもできずただただ泣き続ける私を見つめていた。

 

 どれくらいたった頃だろう。不意に後方から足音が聞こえた。私がゆっくりと後ろを振り向くと、そこには黒いランドセルをしょった男の子が立っていた。特徴的なアホ毛に腐った目、どう見てもちっちゃい先輩である。私は高ぶるテンションを必死に抑えて、ミニ先輩の周りをぐるぐる周りながら観察する。触れられないのが惜しい。そんな私をそっちのけでちっちゃい先輩は泣いていた私に近づいて声をかけた。

 

「おい、どうした? 迷子か?」

「……え?」

 

 泣きっぱなしだった私は突然の声に顔をあげる。誰もいないはずの場所に突然現れて……、ああ、思い出した。泣き顔を誰にも見られたくなくて、人のいないところをあちこち探したんだっけ。涙堪えて歩き回って、いっぱい歩き回って見つけたのがこの場所だった。それでこの大きな楓の木と出会ったんだ。私はもう我慢の限界で、そのずっしりとした佇まいに身を預けて泣いた。

 

 そして、先輩と出会ったんだ……。

 

「迷子じゃないのか?」

 

 ぼんやりと浮かび上がってきた記憶を呼び起こそうと必死になっていると、不意に幼い先輩の声が耳に入る。私は向かい合う先輩と私から、声がかろうじて聞こえる距離まで離れて二人を見つめ続けた。

 

「……」

 

 声をかけられた私は首を振ることでそれに答える。知らない人に話しかけられ少しだけ戸惑っているようだ。それを見た先輩は一度首をかしげると、背負っていたランドセルを下ろして中を漁り始める。そこから取り出されたのは、マッ缶だった。それを泣き止み始めた私に差し出している。相変わらずな、いや、昔から先輩はこうだったのか、私は思わず吹き出してしまう。幼い私は何も言わずに差し出し続ける先輩を一度見ると首を横に振った。先輩はびっくりした顔をすると言葉をこぼす。

 

「嘘……。マッ缶は千葉の人は皆好きなはずだろ…」

 

 どうやら本当に励ませると思っていたらしい。私は笑うのを一生懸命堪えて二人を見守る。気づけばいつの間にか泣き止んでいた私は先輩のランドセルの一点をひたすら見つめていた。

 

「何、こっちの方がいいのか?」

 

 そう言って先輩はランドセルの側面に手をかける。カチャカチャ何かを弄った後差し出したその手には、あの黒猫のキーホルダーが乗っていた。

 

「……いいの?」

 

 長く泣いたせいかその声は少しかすれている。まだちょっとだけ潤んだ目は先輩の顔と掌を行き来していた。

 

「おう、もともと妹にやるつもりだったけどいらねって言われてな。仕方ないから俺が付けてたんだが、欲しいならやるよ。欲しいやつが持ってた方がこの猫も嬉しいだろ」

 

 そう言って先輩はキーホルダーを幼い私の前にぶら下げる。私はゆっくりとその下に手を広げると、ポトリと金具の擦れる音と共に黒猫は手の上に横たわった。しばらくそれを見つめたあと視線を先輩に移し口を開く。

 

「ありがとう」

 

 そんな私の顔にはいつの間にか笑顔が戻っていた。先輩も笑った私を見て安堵の息を吐き少しだけ微笑む。

 

「にしてもこんなところまで来て一人で泣いてるなんてな…。家帰って母ちゃんにでも慰めてもらえばいいのによ」

 

 先輩は釈然としない調子でそんなことを言った。それに私はちょっとだけ顔をムスっとさせると目を横に流しながら答える。

 

「それは…、なんかやだった。負けたみたいで」

 

 それを聞いた先輩は一瞬目を点にした後、声を殺して笑いだした。私はなんで笑われているのかわからないと言いたげな表情で固まっている。が、なかなか笑うのを止めない先輩に顔をしかめていく。

 

「なんで笑うの…」

「いや、こんなところでめそめそしてるからどんな奴かと思ったけど、思いの他根性あんのかなって。でも泣いてんのにまだ負けてないつもりなのが面白くてな」

 

 私はちょっと恥ずかしくなったのか顔の赤みが増す。それでも言われたい放題で済むのが嫌だったらしく言い訳をこぼす。

 

「泣いたの誰も知らないからまだ負けてないもん」

「俺が知ってんだけど…」

「知らない人はノーカンだからセーフ」

「なんだそれ」

 

 私の苦し紛れの言葉に先輩は苦笑いを浮かべている。自分でもちょっとそれがわかっているせいか、私は先ほどから先輩の顔を見れないでいた。そんな私の隣に先輩は腰かける。

 

「な、なに?」

「何って、俺の特等席に先客がいるから仕方なく…」

「特等席?」

 

 私は横の先輩を見上げて首をかしげる。先輩も私の方を見ると下を指差しながら答えた。

 

「お前が座ってるとこ、いつも俺が座ってんだよ。ここは俺のお気に入りの場所でよく来るんだ。人も滅多に来ないし。いいところだろ、ここ。特にこいつが」

 

 そう言って先輩はもたれ掛かっていた楓の木の幹を叩く。楓の木はまだ本格的に紅葉していないのか、所々に青々した葉を付けている。それでもその佇まいは相変わらずで、そこにあるものをすべて包み込むかのようにずっしりと根をはっていた。

 

「この木の傍にいると落ち着くんだ。どんなに寄りかかっても、不満をぶつけてもびくともしない。やなことあってもこいつだけは、いつも受け止めてくれるんだ」

 

 その言葉に反応するかのように楓の木はざわめく。

 

「お兄さんもここへ泣きに来るの?」

 

 穏やかな表情で言葉をこぼす先輩に私はそう問いかける。先輩は少しだけ口ごもるが、私の方は見ずに遠くを見て答えた。

 

「まあ、たまに」

「へー、ちょっと意外」

「そうか? そういえばなんでお前は泣いてたんだ?」

 

 今度は先輩が尋ねる。空は相変わらず青く、細切れの雲が漂っていた。幼い私は膝を抱えると顔を少し埋めて喋り出す。

 

「最近、女の子が意地悪してくるの。今まで普通だったのに、仲間にいれてくれなかったり、無視したり、今日は嫌なこと言われた。訳わかんなくて、ちょっと怖くて、でも誰も助けてくれないし…」

 

 その声は少しずつ小さく、か細くなった。目にはまた涙が浮かんでいる。そんな私の横で先輩はただじっと沈む私を見つめていたが、一つ息をはくと口を開いた。

 

「お前さ、男の子の友達多いだろ」

「え? まあ、よくしてくれる男の子は多い、かな」

「だからだろ。たぶんみんなお前に嫉妬してんだよ」

「なんでそう言えるの?」

「俺は嫌なことされる歴が長いから。人の悪意は周りよりわかる、と思う。そういうことに関しては俺はお前より詳しい先輩なんだよ」

 

 そう言って先輩は笑った。私はいまいちピンときていないのか眉間に少しシワをつくって首を捻っている。そんな私に先輩はちょっとだけぎこちない励ましの声をかけた。

 

「だから、なんだ。あまり落ち込む必要はないと思うぞ。お前に魅力があるって話だからな」

「……あ、ありがとう」

 

 私は再び膝に顔を埋めて礼を言う。それからしばらく二人は口を閉じたままだった。黙って肩を並べて座る二人は、この神社の空間を介して繋がり始めている。そう、これが私と先輩の一番最初の出会い。あの日、何かに導かれるようにここにやって来た私、きっとこの楓が私達を引き合わせてくれたのだろう。楓の影が数センチ動いた頃私は長めの静寂を破る。

 

「先輩……」

「え、俺のこと?」

「うん。だってさっき先輩って」

「ああ、まあいいけどよ」

 

 私の呼び掛けに先輩は一瞬戸惑いを見せるがすぐに気にしないというふうに返事をする。私はその先輩の顔をうかがうように質問を投げかけた。

 

「明日もここにいる?」

「たぶんな」

「明後日は?」

「おそらく。晴れたらだいたいここに来る」

「そっか。じゃあまた会えるよね」

「そうだな。ここにこれば会えるんじゃないか?」

「そっか」

 

 それを聞くと私は隣に置いていたランドセルを掴み立ち上がる。それを背負うと先輩の方に向き直った。

 

「バイバイ先輩、また晴れた日に」

「じゃあな、また今度」

 

 その言葉に背を向けると私は駆け足で鳥居の方へ向かう。慌ただしい砂利の擦れる音が神社に響き渡り、穏やかに吹く風が数枚のの葉をさらっていった。鳥居のすぐ傍にやって来た私は急に楓の方に振り返る。

 

「先輩! 猫ちゃんありがと!」

 

 その声は少し橙が混ざり始めた神社に轟く。走り去る私を見送っていたのか先輩は私の方を向いていた。私の言葉にヒラヒラと手を振って返事をしたので、小さい私はそれを見届けて神社から去っていった。先輩はしばらく私の走り去っていった方を見つめていたが、すぐに鞄から本を取り出し読書に没頭し始める。

 

 彼らが言葉を交わす度、ピースが一つ一つ埋まっていく。今までさっぱりわからなかったパズルの絵がみるみる浮き出てくる。気づけば周りの風景にノイズが走り場面は切り替わった。いたはずの先輩はいなくなっていた。

 

 

   _____________

 

 

 

 その日は曇天だったらしい。空を少し厚めの灰色が覆っていて今にもぐずり出しそうだ。吹き付ける風は温くて気持ち悪い。そんな濁った神社に先輩がやって来た。体が覚えているのか自然と楓の木の下へ向かい腰を下ろし、そのまま膝を抱えて丸くなる。先輩は終始俯いていた。楓はすっかり紅葉していてあれからそこそこ時間が経っていることが伺える。こんな曇った日でもそれだけは変わらず美しかった。

 

 じっと動かない先輩を遠巻きに眺めていると一人の女の子が沈んだ神社にやって来た。私だ。その足音は周囲の雰囲気とは正反対で軽やかだ。しかしその足はここにいるただ一人の存在に気づくとすっかり勢いを失ってしまう。幼い私は未だ動かぬ先輩にそっと近づくと、しゃがんで先輩と頭を突き合わせる。

 

「先輩、どうしたの?」

 

 その問いかけに先輩は首を振るだけで言葉は発しない。私はどうしていいかわからないのか、しばらく首をかしげていたが不意に手を先輩の頭に伸ばした。その手はそっと頭に触れるとゆっくりと、しかしどこかぎこちなく、それでも優しさを含んで撫で始める。予想外の事に先輩はっと顔を上げ驚きの表情を浮かべるが、それでも私はその手を止めることはなく、先輩も頭上の小さな手を払うことはしなかった。

 

 どれくらいそうしていただろうか。数時間たった気もするし数秒だけのような感覚もする。

 

「もう、大丈夫?」

 

 私は先輩の顔を心配そうに覗き込む。それに先輩は少しだけ微笑んだあと口を開く。

 

「ああ…、ありがとな」

 

 それを聞いて私の手はやっと先輩の頭から離れた。二人の上では楓がはらはらと紅を落としている。小さい私はまだ先輩の正面にしゃがんでじっと顔を見つめていた。

 

「やなことあった?」

「……ああ」

 

 先輩は少しだけ間を空けるが、か細い声で返事をする。風の音しかないそこで二人は言葉を交わし始めた。

 

「今日はいつもと逆だね」

「そうだな」

「私じゃ全然頼りない?」

「そんなことはない」

「ならよかった」

 

 けしてその声は大きくはない。言葉数も少ない。けれどもそれ以上の何かが二人の間を行き来しているような気がした。

 

「いつもは私が励まされてるから」

「そうか?」

「うん。先輩のおかげで頑張れる」

「話聞いてただけだ。そんな大層なものじゃない」

「うん。でも私には大きかった」

「……」

「私にとって、先輩はこの木と一緒だよ」

 

 一瞬口ごもった先輩だったが最後の私の言葉に目を見開く。私は楓を見上げながら続けた。

 

「ここに来たら二本の大きな木があって、私を支えてくれたから頑張れた。…ありがとう」

 

 柔らかい風が二人の間を吹き抜け、ふわっと髪を靡かせる。1枚の紅が二人の交わる視線をさらって地面に落ちた。その葉は再び風に吹かれると二人から離れ去ってしまうが、それをひたすらに幼い少女と弱々しい少年は目で追っていく。葉を見失ってしまう頃に先輩が目線はそのままで口を開いた。

 

「俺は、居てもいいのかな。誰にも望まれていない。クラスの奴らも、先生も、親にだって。そんな俺はいない方がいいんじゃないかって、たまに思う」

 

 そういうとぎゅっと膝を抱えて顔を埋めてしまう。その姿に先程見た頼もしさはどこにもなく、孤独感だけがまとわりついていた。そんな先輩にすかさず正面の私は言葉を発していた。

 

「「いいよ、私が望んでるから」」

 

 その声は二重だった。あの小さな私だけではなく、無意識に遠くで眺めている私の口からもそれは溢れ落ちたのだ。私は驚いて咄嗟に口を手で覆う。そんな私をよそに向こうの私は言葉を連ねた。

 

「私は先輩に会えて、一緒にいれて嬉しいよ。だからそんな寂しいこと言わないで。大丈夫、先輩が私の楓になってくれたみたいに今日から私が先輩の楓になってあげるから。よろけたときも支えてあげる。転んだときも手握ってあげる。落ちたときだって引き上げてみせる。先輩がしてくれたみたいに」

 

 そう言って私はまた先輩の頭を撫でた。優しく優しく、何度も何度も。

 

「俺は、お前を信じてもいいのか?」

 

 顔は伏せたまま消えてしまいそうな声で先輩は言う。

 

「うん」

 

 私は大きく頷きながらそう答えた。

 

「でも俺には、それが難しい」

「うん」

「お前のその優しい言葉も素直に受け取れない」

「うん」

「いつまでも疑ったままかもしれない」

「うん」

「お前を傷つけるだけかもしれない」

「うん」

「それなのに、こんな俺にそう言ってくれるのか」

「うん!」

 

 やっと顔を上げた先輩の目には今にも溢れそうなほど涙が溜まっていた。一生懸命堪えているせいか顔も不自然に歪んでいる。それに対し、私はけして笑顔を崩すことはしなかった。いつまでも微笑んで先輩を見つめ続けた。

 

「…ありがとう」

 

 そう言った先輩の目からはとうとう一滴の涙が流れ出てしまうが、その顔には笑顔が浮かんでいた。

 

「やっと笑ったね」

 

 私は今までにないとびっきりの笑みを先輩へ向ける。そんな二人に一本の光の筋が当たった。上を見ればあの厚かった灰色に亀裂が走っていて、その隙間から数本の光のラインが地上に向かってのびている。そのうちの一本がこの神社を照らしていたのだ。楓は紅をより鮮やかにし、石畳や鳥居についた苔は緑を増す。そこにはもう新しい世界が広がっていた。

 

「じゃ、約束!ゆびきりしよ!」

「え?」

 

 突然小指を突きだした私に先輩はつい戸惑いの言葉を発してしまう。

 

「ずっと私が先輩の楓になるって約束!」

 

 なぜか得意そうに胸を張って言う私に少しだけ先輩は苦笑いを浮かべる。しかし先輩も私にならって小指をたてると、目の前の小さな手の傍へ持っていった。

 

「じゃあ俺も。お前の楓であり続けるって約束」

 

 ゆっくりと近づいた小指同士はしっかり絡まると上下に揺れ始め、二人の指切りの歌が神社に響き渡る。それからしばらく神社から賑やかな声が消えることはなかった。



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第十一話

 長らくお待たせしました。二人の過去についての話なのですがなかなか纏まりませんでした。当初はこんなに複雑じゃなくてもっとサラッと行くつもりだったんですがやっぱりこの話の重要なところでもあるのでちゃんと書くことにしました。

 待っていてくださった方はありがとうございます。それではどうぞ。


 あれからたくさんの記憶を見た。今の性格も、マッ缶が好きになったのも全部、先輩と出会ったからだった。どれも楽しくて温かくて、大切だった。だからきっとこの後の記憶が、酷く苦くて痛いのだろう。こんなにも知るのが怖いのだろう。だけど避けてしまっては私と先輩は進めない。だから今日ここに来た。

 

 私は立ち上がる。目の前にあるこの歪な光に右の手をのばす。あと少し、でも手は思うように進まない。これを知って今まで通り先輩を思えるだろうか、いつものように笑えるだろうか。振りきったはずの思いが込み上げて心を埋め尽くしていく。怖い、怖い、怖い……。

 

 目の前が真っ暗になってしまう直前、ふと左手に懐かしい温もりを感じた。ああ、これは、

 

「居たんですか…、先輩」

 

 目を開けて隣を見ると先輩が立っていて、私の左手は先輩の右手に包まれていた。思わず安堵の滴が溢れる。

 

「まあな、気づけばお前が隣にいて泣きそうだったから。いや、泣いてるか」

「泣いて、ませんよ…」

「また俺はノーカウントか?」

「もちろんです」

 

 二人顔を合わせて笑い合う。一方的に握られていた私の左手は向きを変えるとしっかりと先輩の指と絡まった。

 

「そういう先輩だってほんとは怖かったんでしょ」

「そんなわけあるかよ」

「うそつき。いつもへっちゃらな顔してるくせして誰よりも臆病なんだから」

「……否定できないな」

 

 先輩は苦笑いを浮かべる。気づけば心の暗雲は晴れ、違う何かで満たされていた。これならもう、大丈夫。

 

「じゃあ、行きましょう」

「ああ」

 

 私は右手を、先輩は左手を前方へのばし、やっぱり歪な光を二人の手が包み込む。再び光が私達を飲み込んだ。

 

 

   _____________

 

 

 

 大粒の雨がか細い私の体を打ち付ける。まとわりつく雨が私から急速に体温を奪った。耳にはアスファルトと水滴がぶつかり合う音だけ。けれどもそれらは私にとってどうでもよかった。それよりもずっと胸の痛みが堪えていた。私はどしゃ降りの中をひたすらに足を動かす。

 

 私が何をしたというのだろう。先輩がいったい何をしたというのだろう。私達はただ一緒にいるだけではないか。ただそれだけではないか。

 

 不意に涙が溢れそうになる。いや、もう流れているかもしれない。この頬を伝う滴が雨なのか、涙なのか、そんなことももう私にはわからなかった。

 

 

 

 

 

 私達が出会って数年が経った頃、先輩は中学生になった。先輩が忙しくなって会う機会が減るかと思われたが全然そうでもないらしく、今まで通りあの神社で二人で過ごしていた。

 

 相変わらず私も学校が終わるなり晴れの日は惜しげもなく神社に足を運んだ。宿題も、読書も、絵を描くのも、リコーダーの練習も全部そこで、先輩の隣でやって来た。その日も変わらず神社に向かおうと帰りの会が終わった後ランドセルを背負って足早に教室を出ようとした時だった。

 

「いろはちゃん、いつもそんなに急いでどこに行ってるの?」

 

 急に話しかけられたことについドキッとしてしまう。先輩に出会ったあの日から私への嫌がらせは減りはしたがなくなりはしなかった。今でもクラスには話す友達は多くないし、クラスの中核である女の子グループにはあまりよく思われていない。そうであるのに話しかけてきたのがそのグループのリーダー格の子だったことがより私を驚かせた。

 

「ちょっとね、好きな場所があるんだ」

「ふーん」

 

 当たり障りのない私の返答にその子はどうでもいいように、しかしどこか意味ありげな反応をする。少しだけそれ以上の反応を待ってみるがなにもない。私はいまいち釈然としないまま教室を後にした。

 

 靴箱で上履きを履き替え家とは別の方向へ歩みを進める。今日は何をしようかと色々考えているうちに目的地は近づく。それにともなって先程の不自然が産んだ一抹の不安は塗りつぶされていった。神社に着くと私は楓の木の傍に腰を下ろす。先輩はまだ来ていない。

 

「先輩まだかなー」

 

 空を見上げるといわし雲が漂っていた。よく見ればそれに紛れて二本の飛行機雲がどこまでも交わることなくのびている。楓の木がざわめいた。塗りつぶされたはずの意味不明な不安が徐々に浮き出てくる。私は頭を大きく振った。

 

「大丈夫、気のせいだよ」

 

 つい一人でそう呟いていた。きっといつものように先輩はひょっこり表れて、私の隣でぶっきらぼうに慰めてくれる。私は気を取り直してランドセルから宿題を取り出すと取りかかり始めた。それが終わっても本を読んで待ち続けた。

 

 けれどもその日、日が落ちるまで先輩が神社に来ることはなかった。

 

 

 

 何かが屋根と窓を叩く音で目が覚め、微睡みの中それが雨であることに気付く。いまいち眠気をふりきれていないのと、心地よいブランケットの温もりのせいで体を起こす気にはなれなかった。横たわりながら今日は雨かとなんともなしに思うが不意に昨日の夕方のことを思い出して言いようのない不安に取りつかれる。

 

やっとの思いで体を起こすと枕ものと目覚まし時計のアラームを切る。唯一の大仕事をなしにされたそれはどこか寂しげに見えた。ベッドからおりて窓をに近づきカーテンを開けるが雨のせいかそこまでの光は部屋に入ってこない。ところどころ水に濡れ、向こう側を見にくくなった窓に近づき空の様子を伺う。軒先からポタポタと落ちる滴の先に見える空は酷く灰色に濁っていて、少なくとも今日一日は雨を降らし続けてやるといっているようだ。見ていても面白くないそれに背を向けて部屋を出る。やはり昨日の事が尾を引いているのか体は重い。

 

 

 

 本当に雨は止まなかった。放課後となった今も空は朝と同じ顔色をして雨を降らし続けている。わかっていたとはいえ、頭のどこかでつい止まないかなと願っていたせいか残念な気持ちがこみ上げてくる。どんなに思っても空が私のそれを汲み取ってくれるわけもないので仕方なく帰ることにした。教室も廊下も雨のせいで嫌に湿気っていて気持ち悪い。靴箱までやって来ると朝濡れて未だ乾かない靴を取り出して履き替える。足に不快な感覚がまとわりつくがどうにもできないので我慢する。傘立てから自分の傘を見つけ出し玄関から出たところで不意に肩を叩かれた。

 

 何事かと振り返ってみるとそこには同じクラスの男子がいた。顔立ちは整っていて人気者だが私にとってはただのクラスメイトでしかない彼にぶっきらぼうに何のようだと聞く。ただでさえ沈んでいるところに面倒後とは嫌だなと思いながらもこうして呼び止められたからには無視することもできない。けれども目の前の彼はなかなか口を開かなかった。そんな私達の横をそろそろと人が通っていく。

 

「何にもないの?」

 

 口をつぐんだままの彼に問いかける。視線をあちらこちらに飛ばしていたがやっとそれを私の方に向けると口を開いた。

 

「今日は、その、急いでないんだね」

 

 確かに授業が終わってからしばらく席を離れずに空模様を眺めていたからいつもより教室を出る時間は遅かった。ここまでやって来た足取りもいつもみたく軽いものではない。

 

「雨、降ってるから」

 

 私はぬかるんでいる校庭と多くの波紋を作り続ける澱みを一瞥してから端的に答えた。

 

「そうなんだ。そういえば、あれ、本当なの?」

 

 目の前の彼は私の顔色を伺うように聞いてくる。けれども彼の言うあれ、に全くの心当たりのない私はその問に答えることができない。

 

「あれ?」

 

 少し首を傾げて聞き返す。

 

「中学生の男の人と良く一緒にいるってやつ」

「どうしてそれを?」

 

 私は静かに声を荒げることなく問いを投げつける。しかし表情にも言葉にも出しはしなかったが内心酷く動揺していた。

 

「知らないの? 結構噂になってるけど…」

「なにそれ、知らなかった…」

 

 確かに不思議なことではない。かれこれ先輩と会うようになってから数年は経っているわけで、帰りやたまに出掛けるときに人に見られていても全くおかしくない。ただ私達にとってそれはどうでもいいことで、人になんと思われようと邪推されようとたいした問題ではなかった。ただここに来て、今になってそれがなぜ芽を出したのかが私にはすぐに理解できなかった。これまではなんともなかったのになぜ急に。

 

「その、もう行かない方がいいよ」

 

 突然目の前の彼は考え込む私にそんなことを言ってきた。行かない方がいい、つまり先輩と会うなって言っているのだ。ただの一クラスメイトにすぎない彼になぜそれを言われなくてはいけないのだという軽い苛立ちを感じながらも私はその真意を問いかける。

 

「なんで?」

「なんでって、危ないよ。そいつあんまいい噂ないしなにされるか、それに中学でも評判良くないみたいだし…」

 

 いまいち要領を得ない彼の言葉と、見ず知らずのはずの先輩のことを知っているかのように悪者にする彼に先程とは比べ物にならない怒りが生まれる。

 

「そうなんだ。で、結局何が言いたいの?」

 

 そう聞きながらも本当は彼の言いたいことはだいたい推測できていた。ただこうも意地悪な返しをしてしまうのはきっとこの扱いきれないこの怒気のせいだろう。

 

「だから、まあ、いろはちゃんにはそんなやつよりもっと釣り合いのとれる人が、いる、と思うんだけど……」

「……例えば?」

 

 ひどいとは思っている。別に流してもいいことを無理矢理吐かせようとしているのだから。でも止められなかったのは目の前の彼に今にも平手をかましてやろうとする自分の右手を抑え込むのに必死だっだからに違いない。こんなことをすればこれからどのような仕打ちが自分を待っているかとか、そういうことを考えている余裕もなかった。

 

「え? 例えばって、その、……おれ、とか」

 

 私はその言葉を静かに聞いていた。別に心が揺れるようなことはないし、悪寒が走るようなこともない。ただ、本当に言わせてしまったと少しの罪悪感が芽生え始めていた。

 

「そう、でもごめんね。それには応えられないから、じゃあね」

 

 私は少し早口でそういうと踵を返して外に出た。傘をさして雨を凌ぎながら家へと歩みを進める。その間ずっと自分の大人げなさとやってしまったことを嘆いていた。確かに先輩のことを悪く言われて腹がたったが、その怒りをああいう形でやり返してはいけなかったと今になって本気で反省する。

 

 私は先輩を好いている。これでもかというくらい大好きで、ずっと一緒にいたいなと思っている。その感情を知っている私が、彼の私ほど大きいとは言わずとも抱いている似た気持ちを弄び踏みにじってしまった罪は大きい。その気持ちを笑われる辛さも、潰される苦しさも想像するに難くないのに。そして何より、こんなことをしでかしてしまった自分が先輩へ気持ちを向けることを許されるとは思えなかった。

 

 このままでは先輩に会わせる顔がないと悔やみながら、明日ちゃんと謝ろうと、でもってきちんと嫌だったことを言ってやろうと心に決める。あんなに憎んでいた雨だったが、この時ばかりはついありがたいと思ってしまった。

 

 

 

 次の日も雨だった。早めに学校へと向かった私は例の彼が来るのを自分の席から濁った空を眺めながら待っていた。こういうことは引っ張るほどやりにくくなるものだからどうしても朝のうちに片をつけたかったのだ。思いの外早くやって来た彼をまだ全然人がいない教室から呼び出して全てを話す。どうなるかと思ったが意外にもあっさりと話しは進み、向こうまでもがすまないと謝ってくる始末だった。心の荷を下ろすことが出来た私は軽い足取りで教室に戻る。時間は結構経っていておそらくクラスメイトのほとんどが既に教室に来ているだろう。私は閉じられた教室の扉に手を掛ける。その向こうからは朝からえらい元気だなというレベルの騒がしい声が聞こえてきた。手に力をいれて少し重たい戸をひくとカラカラと音をたててゆっくりと扉は開く。

 

 だがそこに待っていたのは突然の薄気味悪い小さな喧騒と複数の視線だった。

 

 何事だと、まず私の頭を埋め尽くしたことはたったそれだけ。私は首筋がちくちくと痛むのを感じながら自分の席へと座る。一番始めに思いついた可能性は昨日の件。しかし先程話をつけた感じだと彼があれこれ私のことを触れ回ったような感じはしないし、何よりもその本人が今の状況に驚いている様子を見せている時点で検討外れなのだろう。そういえば彼は一応人気者だったなと、昨日のことは関係ないと確定しようとしていたところでふと頭をよぎる。もちろんクラスの女子からも人気があるわけで。ちらっとこの前話しかけられた彼女がいる集団に視線を向けた。案の定いくつかの視線と薄い喧騒の発生源はそこだった。例の彼女にいたってはこんな状況の私を見て口の端を少しあげている。

 

 ここでようやくこの前の不自然なやりとりの意味がわかった。あれは牽制みたいなものだったのか。きっと彼女はどこかで彼が私を好いていることを知って私の様子を伺ったのだろう。普段から颯爽と教室からいなくなり特に男子にも興味を示さない私が彼をなんとも思っていないことはわかっていただろうが一応。しかし昨日の件が災いしてこのような事態になってもおかしくはない。あのやりとりをしていたのは人の行き交う玄関だったのだから他人が知っていてもなんら不自然ではなかった。

 

 ただ、それだけにしては他の視線が多い気がする。他にも要因があるとでもいうのか。そこではたと昨日のことを思い出す。なぜ私は昨日怒ったのか、それは彼が先輩のことを悪く言ったからだ。しかしその前私は何を疑問に思った? そこまで考えて胸に言いようのない焦りが生まれる。

 

 噂だ。彼はそういったのだ。別に今までも軽くあったが気にするべき噂は私たちの事ではない、先輩のことの方だったのだ。これまで何ともなかったのは先輩がただの年上の人だったからではないか? しかし今はどうだ、彼は先輩のことを悪い奴と解釈している。そんな噂が広がっていると言った。私のいる小学校は中学に上がるときに半分に別れる。片方は今先輩がいる中学へ、もう片方はもうひとつのところへ。私は後者で先輩と同じ学校になれないことを嘆いたのは記憶に新しい。まあそれは置いといてこういった先輩の噂がこの学校にたどり着くのは別におかしな話じゃない。寧ろ私と先輩の話が広まっているなら自然とも言える。

 

 それのせいで私達の噂が悪変換されたのならこの視線の数も頷ける。もしかしたら私が気にしていなかっただけで今までもあったのだろうが、今日途端に浮き彫りになったのは昨日の事が引き金になったからか。

 

 火のないところに煙は立たない。と言っても私は別に先輩が何かしでかしたとは思っているわけではない。寧ろ先輩が意味もなく悪事を働くことはないとこの世界で一番胸を張って言えると自負しているほど信じている。そして先輩のことを他の誰よりも……。だからこそ、今私の内側を無数の不安と焦りが侵食しているのだ。

 

 先輩に何かあったのかもしれないと。

 

 昔からあまり恵まれない境遇にいることは知っている。初めて会ったあの日みたいにどこかくたびれた様子でやって来ることがこれまでにも数回あった。しかし今みたいな事態になったのは初めてで、先輩にふりかかった不幸が前例より酷いものである可能性がかなり高い。あの日も、あの場所にこれなくなるくらいの何かがあったのではないか?

 

 そこまで思考が至ったところで涙が溢れそうになる。何故先輩がそんな目に会わなくてはいけないのかと、どうしてあのただ優しいだけのあの人が傷つかなくてはいけないのかと。先輩はどんな仕打ちを受けても相手の前では平気な顔をするかもしれない。消して人の前で泣くこともないのかもしれない。でもそれは先輩が強いからなんかじゃなくて、ひどい痩せ我慢なだけで、本当はずっと心で泣き続けているんだ。なのに先輩は自分のことなんかそっちのけで私に手を差しのべてくれるような人なんだよ。

 

 机の上にのせていた拳に勝手に力が入る。今すぐにでも先輩のところへ飛んでいきたい気持ちに駆られるが今は何もできない。今思えば連絡手段はないし、放課後に確実に会える保証もない。今日も生憎の雨だ。でももしかしたらあの神社にいるかも、という僅かな望みに今はすがることしかできなかった。

 

 

 

 嫌に長い授業の終わりを知らせるチャイムが学校じゅうに響き渡る。私は机に広げられた教科書とノートをさっさと片付けて筆箱に鉛筆をしまい帰りの支度を始めた。朝から私の胸にずっしりとした重石が乗っかっている感覚は相変わらずだ。けれどもあの奇妙な視線は時間がたって興味が薄れたせいか少なくはなった。もしくは触らぬ神に祟りなしといった方がいいか。それでもやはり私の方を見てひそひそしている連中はいる。気にならないと言えば嘘になるがそれよりも先輩への不安が数倍も勝っていた。

 

 こっちこそ触らぬ神に祟りなし、と心の中で一人ごちりながらランドセルを背負って教室の扉へと向かう。絡み付く視線を振り切るように少し急ぎ足で生温い空間から飛び出した。じめじめした廊下を抜けて自分の靴棚から靴を取り出したところで中で何かが転がる違和感を手に感じる。逆さにするとそれはコロンと落ちて地面とぶつかり、チリンと小さな金属音を発して少し先の床で止まった。画鋲、それを認識すると嫌な汗が額に浮かぶ。まさかここまで来ているとは、先輩の心配ばかりしていたが思いの外私の境遇もなかなかに危ういところに至っているらしい。ひとまずこれを放置していると危ないと思って出入り口付近の掲示板に突き刺す。そのまま私は学校を後にした。

 

 怖くない訳ではない。本当は今も恐怖心は増幅している。でも私は折れるわけにはいかない。今にも折れてしまいそうな大切な人がいるから、私が折れたらその人も折れてしまう。だからくじけてはいけない、それだけで私は今立って足を動かしていた。雨はだいぶ弱まってきている。

 

 雨の日も神社はいつもの神聖さ保っていた。すぐそこの水溜まりに一枚、紅の掌が漂っている。しかしそれに目をやることもなく私はこの場所にいる唯一の人の元へ駆けた。

 

「おじいちゃん!」

 

 そこにいたのはここの神社の管理人であるおじいちゃんだった。こんな日にここにいるなんて珍しいなと思いながらも藁にもすがる思いで呼び掛ける。

 

「おう、嬢ちゃんか。久しぶりじゃのう」

「お久しぶりです。あの、先輩来ませんでしたか?」

 

 少し荒れる息を落ち着けて目をみて問う。その様子におじいちゃんも真剣な顔をして逆に質問してきた。

 

「嬢ちゃんは八幡に何があったか知っておるのか?」

 

 私は否定の意を込めてブンブンと首を振った。それをみておじいちゃんは肩を落とすと、そうかいと小さく呟く。

 

「おじいちゃんは何か知ってるの?」

 

 おじいちゃんの不自然な態度にもしやと思い少し食い入るように聞いてしまう。

 

「いや。じゃが昨日ここで奴に会った」

「え?!」

 

 驚いた私は思わず声を張り上げてしまった。昨日は雨だったはず。それなのにここに来ていたと言うのだ。昨日は雨天のうえ色々あって帰ってしまったが、昨日の雨に安堵していた私に憤りを感じる。

 

「社が雨漏りしとらんか確かめに来たら八幡のやつがびしょ濡れであの木の下で縮こまっておった。何事かと思ったのじゃが奴はなにも言わないまま行ってしまってな。もしかしたら今日も来とるかもしれんから見に来てみたんじゃが、外れだったかのう」

 

 先輩のことだ、一人になりたくてここに来たのだろう。雨だから私も来ないと思って。どうやらおじいちゃんはそこそこ長い時間ここにいるようで、昨日先輩に会った時間はとっくに過ぎているようだ。

 

「そうだったんだ。やっぱり何かあったのかな」

「おそらくな。八幡も昔から苦労してるしのう。ただこれまでよりも酷く窶れて見えたもんだから心配じゃな」

 

 おじいちゃんは両眉を下げると力なさげにそう言った。おじいちゃんに知れてしまったので先輩はしばらくここには来ないかもしれない。きっと心配をかけないようにとでも考えているのだろう。

 

「どうしたらいいんだろう……」

 

 どう手をうてばいいのか、この先何が起こるのか、何もわからない。不安だけが募っていく。弱まっていた雨は再び勢いを取り戻し始め、無数の滴を地面に、屋根に、楓の木に打ち付ける。雑音がこの空間すべてを支配していた。

 

 不意に、それに紛れておじいちゃんが私に向かって言葉を落とした。突然で少しの間反応を示すことができなかったが、意味を認識すると急に顔が熱くなる。

 

「ははは、そうかい。八幡はわかりにくい奴じゃ。不器用だし、ひねくれとるし、本心は滅多に言わん。全部自分で背負いこもうとするような奴じゃ。そんな八幡がここ最近はものすごい身軽に見えた。笑っている姿も、ぼーっとしている姿も、わしの手伝いしてくれるときもな」

 

 おじいちゃんは淡々と、けれども何かを懐かしむように口を動かし続ける。

 

「あれはお嬢ちゃんのおかげなんじゃろ? 八幡と出会ってからあんな表情を見たのは初めてじゃ。わしじゃ奴の柵を取り払うことは出来ても、近くで拠り所になってやることはできなんだ。それが出来たのはお嬢ちゃん、お前さんだよ」

 

 そういうとおじいちゃんは優しく笑った。でもその目にはどこか寂しさが滲んでいる。おじいちゃんにとっても先輩は可愛い孫のような存在なのは間違いない。そんな先輩が苦しんでいるのに荷を全部なくしてやれない、支えることができない。そんな無力を感じているのだろうか。

 

 実際はそんなことはない。おじいちゃんは間違いなく先輩にとって気を許せる数少ない人だ。助けられたこともたくさんあるだろう。でも、きっと今、なのだ。今までで一番大変かもしれないときに何もできなかった、先輩に手を伸ばせなかった、伸ばしてもらえなかった。だからきっと……。

 

「いくら距離は離れていてもお前さんの心は八幡の隣にある。だから今、そんなに苦しそうなもどかしい顔をしておるんじゃ。本当は、どうしたらいいかはもうわかっておるのだろう」

 

 そうだ。本当はわかっている。私がどうするべきか、否、私がどうしたいかは。それでも足は地面に張り付いてしまったように動かない。

 

「でも、そのせいてもっと悪い事が起こるかもしれない。もっと先輩が傷を作っちゃうかもしれない。そう思うとどうしても……」

 

 この事態には十割私も絡んでいる。私が火種かもしれない。そうじゃなくても私が出ることで事態を促進させる可能性だってある。そうなれば先輩はもっと傷付く。私にも火の粉が降りかかれば先輩はまた一人でいってしまうかもしれない。それがどうしても恐かった。

 

「……お前さんは本当に八幡が大好きなんじゃな。奴はこんなに思ってもらえて幸せもんじゃ。大丈夫、お嬢ちゃん達ならきっと大丈夫じゃ。わしには何もできないかもしれんが、二人を近くで一番見てきたのはわしじゃ。だからそれだけは自信を持って言える」

 

 おじいちゃんは私の目を見て諭すようにゆっくりと言葉を紡いでいく。それは私の心にじんわりと染み混んで、私の足の硬直をそっと溶かしていった。

 

「お前さん達なら絶対に、何があっても最後はなんとかなる。八幡を頼めるかい?」

 

 その問、願いに私は強く頷きながら一言だけ。

 

「うん、任せて」

「…ありがとう」

 

 今にもかき消えてしまいそうな小さな声でおじいちゃんはそういうと、私の頭を壊れ物を扱うような優しい手つきで撫でた。その手は私が知らない手だった。ごつごつしていて頼りがいがある、けれども少しか細くて弱々しい。私達では思いもつかない苦難を数々乗り越えてきたのであろう、酷く安心感を与えてくれる手だ。

 

 ゆっくりと私の頭から手を離すとおじいちゃんは1つ別れの挨拶を置いて神社を後にする。その背中がいつまでも脳裏に焼き付いていた。

 

 

 

 





 なんか前に後2話で終わるとか言った気がするけど嘘になりました。申し訳ないです。でもってこの話で過去も終わらないしほんとすいません。

 頑張りますのでよろしければ最後までお付き合いください。では、また次回。


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第十二話

 それからしばらくの学校生活は酷いもので、おおっぴらに害を受けることはなかったが陰湿な嫌がらせは毎日続いた。望み薄ではあったが神社に通ってはみるものの先輩と会うこともかなわない。おじいちゃんが力一杯背中を押してくれたが意思は強くなってもきれる手札が全然なかった。いや、一枚だけある。別に難しい事ではないが私にも先輩にもかなりのリスクが伴ってしまうので踏ん切りがつかないでいた。しかしこれ以上くすぶっているわけにもいかないのは確かだ。今日あたり覚悟を決めなくてはいけないかもしれない。

 

 後十数分で本日最後の授業が終わる。これからどうするかを色々考えていると頭がごちゃごちゃしてきたので少しでも軽くするため外に目を向ける。先生の話す声は遠い。雨こそ降りはしていないがここ数日はずっとこの曇天模様だ。そんなすっきりしない空気の中、下級生であろうクラスが体育の授業で校庭に散らばって体を動かしている。奥の方に鎮座している遊具達も不思議と陰鬱に見えた。それをぼやっと眺めているとうっすらと笛の音が聞こえる。それを合図にバラバラだった児童はぱっと1ヶ所に集まった。ふと教室の時計に目を向ければ授業終了5分前。もうそんなに時間が経ったのかと朧気に思いながら机上のノートに目を落とすがそこにはただ罫線が並んでいるだけで文字は1つもない。

 

 教室内に終了のチャイムが鳴り響くと同時に教卓の前に立っていた先生は話を区切ると、広げていた教材を閉じて日直に挨拶をするように促す。皆がそれに従い一斉に挨拶をすれば先生は教室を後にした。さっきまでの授業中の静けさはいったいどこへいってしまったのか、放課後になったここは一気に動物園のように騒がしくなる。その喧騒にもみくちゃにされながら教室を出ようとしたところで不意に呼び止められた。

 

「いろはちゃん」

 

 振り向いてみるとそこには飽きもせず私に嫌がらせを続けている女の子達がいた。私は思わず固まってしまうが向こうは嫌な笑みを浮かべながらそんな私を見つめていた。あーこれは面倒な事が起こりそうだなと内心げんなりするが少しでも相手の不快感を煽らないためにも顔には出さない。

 

「何かようかな?」

 

 不自然にならないように気を付けながら声を絞り出す。上手く出来たのか平然としている私に目の前の女の子は顔に不機嫌を滲ませた。

 

「ちょっと来て」

 

 その声には隠しきれていないイライラが含まれている。少し強がりすぎたかもしれない。実のところ結構に参っているのだがそれでも負けるかと思って耐えてきた。しかしそんな私の様子で彼女たちがはたして満足するだろうか。知らないうちに私は彼女たちを煽ってしまっていたのかもしれない。歩き出す小さな集団の後を私は重い足をひきずってついていく。

 

 

 

 人気のない校舎裏に1つ甲高い破裂音に似た音が鳴り響く。次にお尻に鈍い痛みを感じた。いつのまにか閉じていた目を開けば彼女たちが私を見下ろしている。左頬が酷く熱い。

 

「あんまり調子に乗らないで」

 

 正面の子が右手を反対の手で押さえながらそう吐き捨てると他の子を連れて去っていってしまった。そうか、私は今はたかれたのか。痛い、痛いな。やっとの思いで立ち上がると砂がついたであろうスカートを両手でパンパンと叩く。ふと、熱い頬に違う種の痛みがあることに気づいて手を触れるとピリッと電気が走る。指先をみれば小さい赤が付着していた。私は背負っていたランドセルをおろして中から可愛らしいカットバンを取り出すと勘で頬にはる。

 

 パタパタと、突然二滴の水滴が地面を濡らした。雨でも振りだすのか、踏んだり蹴ったりだなと思いながら頭上を見上げるが視界が霞んでよく見えない。一回瞬きをすると視界は晴れて顔を何かが伝う感触がする。雨は降っていなかった。

 

 右手でそれを拭き取るが次から次へと流れ出す。ダメだ、止まらない。私は諦めてランドセルを背負い直して歩き出す。度々滲む視界のせいで前がよく見えない。それでも私は無心で歩いた。歩いて歩いて、辿り着いたのはいつもの神社ではなく元々行くつもりだった先輩の通う中学校の近くだった。

 

 

 

 いつのまにか乾いた頬を撫でながら校門から少し離れた位置で学校から吐き出される生徒たちを眺める。中学校より小学校の方が早く終わるのでここについた頃は帰宅のピークを迎えていた。といっても出てくる生徒は部活をしていないか、休みである生徒だけなので量はそこまで多くない。これなら先輩を見落とすこともないだろう。

 

 数十分ほどたった頃やっと先輩と思われる生徒が出てきた。多少の距離があり注意していないとわからないので先輩は私のことにはまだ気付いていない。あれからそこそこ経過したため心も少しは楽になったのか、かなり久しぶりの再会に妙にそわそわしてしまう。いつもどういう顔で会っていたか、どう声をかけていたか必死に思い出そうとするがなぜか出来ない。確実に縮まっている距離に焦らされ様々な感情が私の中を暴れ回る。ぱっと先輩の方を見るといつの間にかすぐそこまで来ていた。互いの姿をはっきり認識できるくらいの距離。私の目は先輩の目をとらえ、また先輩の目も私をとらえていた。ただその姿を見たとき先程まで渦巻いていた大量の思いは動きを止め地に落ちる。

 

 先輩は明らかにボロボロだった。制服のあちこちを土で汚し、どこか痛むのか不自然に顔を歪ませている。そして何より目がいつもより数倍も酷い有り様だ。そんな姿に私は声を発することが出来ずにひたすらにそこで立ち尽くしていた。そして先輩も私を見つけて固まっていた。いるはずのない私が、避けていた私が突然現れて一番見せたくなかったであろう姿をさらしてしまっている。

 

 遠くで烏がそんな私を嘲笑うように鳴いた。あんなに支えたいと思っていた存在がいざ折れかけているというのに私は言葉の1つも発せない。傷を癒したいのに体はこれっぽっちも動かない。

 

「どうしてここに……」

 

 先に口を開いたのは先輩だった。その顔を未だいびつに歪ませたまま私を見つめている。私は何か答えようと口を開いて声を出すが、それは言葉とはならずにバラバラに崩れかき消えてしまった。

 

「場所、かえるか」

 

 先輩は後方にちらっと目をやるとそう呟いて歩き出した。先輩の後ろを見ればたった今学校を出てきた生徒がこちらに向かって歩いてきている。まだこちらを気にしている様子ではないが、こんな目立つところでずっとこうしているわけにもいかない。私は先を行く先輩の後ろを少し間をあけてついていく。歩いている間、先輩は一度も後ろを振り向かなかった。

 

 

 

 やって来たのはいつもの神社。楓も社もいつものようにどっしりとした佇まいでそこにある。ただここ最近空はずっと灰色に覆われていたため周囲の緑は心なしか力なく見える。そんな静かな境内をまっすぐ突っ切ると先輩は社の階段に腰を掛けたので私もそれに続く。ざわざわと鳴く木々の声が私の内を荒らした。

 

「悪かったな。しばらくここへ来なくて」

 

 先輩は私を見ることなく先にのびる石畳の一点を眺めながらそう言葉を発した。私はそんな先輩になんとか声を絞り出す。

 

「その怪我は…」

「これはまあ、いつものことだ。いつもよりちと酷いがな」

「……」

 

 先輩は口端を少しあげて笑うとそう答えた。その姿に私は再び言葉を詰まらせてしまう。ちょっとではない。いつもより格段に酷いではないか。

 

「お前がそんなに思い詰めた顔するなよ」

「でも……」

 

 そんな先輩に私は投げ掛ける言葉を見つけられない。すぐ傍の水溜まりに湿った紅の掌が数枚くたっと地面にはりついている。溜まった水は澄んでいて薄く空を映し出していた。どう言えば先輩を楽にしてあげられるのか、どうすれば先輩は強がらなくてよくなるのかわからない。

 

「それよりお前こそその頬どうしたんだ」

 

 考え込む私に不意に先輩が言った。はっとして手で触れると指先に肌とは全く違う感触が訪れる。叩かれたときに爪がひっかかってできた傷だ。

 

「え、えっと、これはちょっと自分で引っ掻いちゃって…」

 

 慌ててぱっと頭に浮かんだ嘘を溢してしまう。渋い顔をして聞いてくる先輩にどうしても本当の事は言えなかった。

 

「……そうか」

 

 少しの間の後、先輩はそう一言だけ反応した。私の返答を聞いても相変わらずすっきりしない顔をして私を見つめている。私は必死に地面に目を向けていた。嘘の代償か、もしくは全てを見透かされる恐怖か、どうしても先輩の目を見ることはできない。

 

「なあ、もう俺達こうやって会うのやめないか」

「え」

 

 不意に先輩がそんなことを言った。その言葉はゆっくりと耳から頭に入り、何度も鈍く繰り返される。そうしてやっとその意味が認識できたとき全ての音が消えた。もう会うのをやめる、離ればなれになる。ぎゅっと胸が何かに締め付けられる。

 

「このままいたら俺達の状況は悪くなるばかりだ」

「でも!」

 

 つい大きな声が出た。けれどもその後の言葉は続かない。それは先輩の言うとおりだからだろう。このまま私達が一緒に居続ければそれを見た周囲の反応が収まることはない。例えなくなったとしてもそれにどれだけの時間を要するのかは検討もつかない。その間に先輩と私が今以上に酷い仕打ちを受けることもあるかもしれない。だからほとぼりが冷めるまでそうすることが一番だというのは、頭のどこかでわかっていた。しかし頭でわかっていても心がどうしてもそれを拒んでいる。理屈ではないからこそ説明ができない。先輩を納得させられない。

 

「俺は!俺は俺のせいでお前が傷を作るのは嫌なんだ。俺がここへ来なければなんとかなるって思っていたけど、そうじゃなかった。お前はこうして傷を作ってる」

 

 先輩は最初こそ声を荒げるがその後は弱々しく静かに、私の頬を片手で優しく包みながらそう言った。少し冷たくなってきた空気に冷やされた私の頬にじんわりと先輩の手の温もりが広がる。それはガチガチに凍える私の心と鈍くなった体をゆっくりと溶かしていった。

 

「なんでそれを…」

 

 ポツリと、そう溢していた。やはり隠せはしなかった。

 

「引っ掻いただけじゃ周りは赤く腫れないだろ」

「でも…、これは先輩のせいじゃないです。私がもっと上手くやれれば」

 

 そっと言う先輩に私は自責の念を吐露する。そうだ、ここまで悪化してしまったのは色々と怠った私のせいだ。この傷は自業自得以外の何物でもない。先輩が自分を責める必要なんてどこにもないのだ。だから、そんな顔をしないで欲しい。

 

「俺の噂、お前のところまで行ってるんだろ? これ以上お前が俺と一緒にいるのはやっぱり危険」

「なんで、どうしてそんなこと言うんですか…」

 

 気づけば少し乱暴に先輩の言葉を打ち切っていた。内で何かがのたうちまわっている。嫌だと、必死に叫んでいる。胸が張り裂けそうなほどに。それに呼応するかのように周りの木々のざわめきも少し増した気がした。

 

「私は、私は確かに傷ついたし、怪我もしました。でも、それでも私は先輩といたいです。周りがなんといったって、どれだけ先輩を悪くいったって私はここでいつもみたいに先輩と笑いたい。私にとって隣に先輩がいないのは、何よりも痛い…」

 

 ついに私の中から留めきれない気持ちが言葉となって外へ吐き出される。眼からも透明な柔らかい結晶となって溢れた。私にとってそれは何よりも大事なもので大切なこと。嬉しいことがあったときはここに来て先輩に会ったらもっと嬉しくなれた。悲しいことがあったときは元気が出せた。あの日、楓の下で先輩と出会ってから私は本当の楽しさを知った。一人でないとこのありがたさを知った。人に救われる喜びも知った。初めて、人を好きになった。だからどうしてもこれだけは失いたくなかった。

 

「……そうか。お前は、そう言ってくれるんだな」

 

 小さく先輩はそう呟いた。その声はすぐに空気に溶け込んでしまうが、しっかりと私の元には届いていた。不意に先輩と目が合う。会えなかった間どんなことがあったのかは具体的にはわからない。聞けることでもないし、先輩のことだから教えてはくれないのだろう。しかし少しだけその目が教えてくれた。ぐらぐらに揺れる瞳がすっと落ち着きを取り戻す。そして先輩は不器用に笑った。

 

「ごめんな、さっきはあんなこと言って。嬉しかった。ありがとう」

 

 先輩の大きくはない手が優しく私の頭を撫でる。しかし私はその手をどこまでも大きく感じていた、私一人を容易く包み込んでしまえるくらい大きく。私はその頭の上にある手を両手でぎゅっと握りしめ、久しぶりに自然と底から微笑んだ。

 

「こちらこそ、ありがとうございます。やっぱりこうしてるのが、一番好きです」

 

 先程まで嫌に耳についた楓の葉の擦れる音が今はこうも心地よい。吹き抜ける柔らかい風が不思議と温かい。時間が止まってしまったかのように私も先輩も動かず口を開かなかった。いっそこのまま止まってしまえばいいのに、ずっとここでこうしていられたらどれ程幸せだろう。そんなことまで頭の片隅で思ってしまった。

 

「あのさ、来週一緒に祭り行こうか。今年はいつもより長く、しばらく一緒にいられなかったぶんまで」

「そっか、もうそんなに近づいてたんですね。今年はもう行けないかと思ってたので嬉しいです」

 

 長い沈黙が先輩の声で破られる。秋祭り、先輩と出会ってからは毎年二人で遊びに行った。一年を通して一番のイベントだ。最近は色々あったせいで全然気づけなかった。ふとそびえ立つ紅に目を向ける。祭りが近いということはもうそろそろこの楓も見納めなのだろう。

 

「じゃ、約束な」

「はい」

 

 そう言って私達は小指を絡め合う。あの約束をしてから何か約束するときはいつもこうして指切りをした。この繋がりが断ち切れないように、何度も何度も結び直すように。

 

 日が少し落ちてきたせいか多少薄暗くなった。今日はもう終わり。でも今度は明日がある。その次も、その次だってまたこうして会えるから、この寂しさも我慢できる。帰り道、別れる道に着くまで私達は笑い合った。久しぶりのこの感じに全力で身を任せた。

 

 急に視界の端が眩しくなって目を細める。西の方角を見ると雲の隙間から夕日の橙が漏れ出ていた。この光を見るのはいつぶりだろう。つい見とれて足が止まってしまった。それにつられて先輩も歩くのをやめ、私の視線の先に目をやる。

 

「きれい、だな」

「そうですね、なんか、温かいです」

「…じゃ、またな」

「はい、またです」

 

 しばらく二人してそれに包まれた後、再び歩みを進める。今度は別々の方向へ。背中に当たる西日が体に染みる。足は軽かった。

 

 

   ____________

 

 

 

 いつもよりちょっとだけおめかしをして家を出る。つい先程まで母親にその事でからかわれていたせいか少しお拗ねモードだ。ランドセルから一時的に移してきた猫ちゃんのキーホルダーが肩から下がっている小さめの鞄に添えられている。なんともなくその猫も不機嫌な顔をしているように見えた。

 

 待ち合わせの場所までたらたらと歩く。早く母親のいじりから逃げたしたかったのでつい家を出るのが予定より早くなってしまった。このまま行っても長く待たないといけなくなるので少しでも時間を潰す。空模様は晴れと曇りの中間くらい。天気予報によれば夕方あたりに少しくずつく可能性があるらしいが、今昼過ぎから四時くらいまで保ってくれればそれでいい。

 

 気づけば待ち合わせ場所に着いていた。ゆっくり歩いていたはずなのだが勝手にペースは早くなっていたようだ。確かにずっと楽しみにしてはいたが少し浮かれすぎかもしれない。でも今日ぐらい久しぶりに許してくれてもいいのではないか。

 

 待ち合わせ場所はいつも先輩とお別れする交差点。信号機くらいしかない味気ない交差点である。もう少し整備が進んでもいいと思うのだが見たところその予定はなさそうだ。こちらに向かってきた車が赤信号で停まる。私の正面にある歩行者用の青信号が点滅して赤に変わり、向こうは黄色になって赤になった。止まっていた車はやっとかというようにぶるんと1つ声をあげるとそのまま走り去っていった。

 

 信号が何回変わっただろうか。変わり続ける赤と青にも見飽きて靴の先でコンクリートの地面を意味もなく突っついてみる。そういえば今何時ごろだろうか。両腕に目をおとしてみても自分の色白の肌があるだけで腕時計はない。どうやら急いでいたせいで忘れてしまったらしい。だいぶ時間がたった気もするし、まだここに来てから数分しか経ってないような感覚もする。はたしてどちらだろうか、とぼやっと考えてみるがどうやら前者だったようだ。それを向こうから私に気づいて駆け足で近づいてくる先輩の姿が教えてくれた。

 

「悪い、待たせたか」

「いえ、私がちょっと早く来ちゃっただけだと思います」

 

 ぽりぽりと頭をかきながら先輩が声をかけてきたので私も返事をする。どれだけ待ったのかわかっていないためはっきりしない返答になってしまった。

 

「じゃ、さっさと行っちゃうか」

「はい!」

 

 私達は二人並んで人でごったがえしてるであろう商店街へと向かう。大好きな二人の時間を噛み締めようと、そんなことを考えた。

 

 

 

 案の定商店街は人で溢れていた。友達同士で遊びに来ている集団から家族連れまで。所狭しと並んでいる屋台がどれも面白そうに見えて仕方がない。一通りぐるっとまわり吟味してから遊ぶことを話し合って決めた。小学生と中学生じゃ持っているお金はたかが知れている。あれこれ考えなしに使ってしまえばすぐに底をついてしまうだろう。最大限に楽しむためにはまず計画をたてなければならない。

 

 やっと半分くらいを回った頃だろうか、ふと視界のすみに見慣れた集団を見つけた。あの女の子達だ。思わず足が止まり、光で満ちていた私の中に小さな黒が芽生える。

 

「どうかしたか?」

 

 不意に黙りこんだ私を不審に思ってか先輩が顔を覗き混んできた。はっとしてかぶりを振り何でもないと伝えるが、先輩は先程まで私が向けていた視線を辿ってしまう。私が何を見ていたかを理解した先輩は一瞬だけ苦い顔をするが言葉は発しないでいてくれた。再び目を向けるとあちらの集団もこちらに気付いてしまったようで、気持ちの悪い目を向けている。そのせいで先輩の理解をより促してしまったのだろう。私達は人混みに紛れるようにして彼女らの世界から消えた。

 

 少し落ち込んでしまった気分を改善するために近くの出店で遊ぶことにした。祭りは眺めるのも楽しいが、実際に体験するのはこの上なく面白い。暫しの間出店を転々とした後、変な勢いがついてしまったせいか、その近くでいくつか甘いものも買った。ほんの少し商店街から離れた場所でそれを二人で堪能する。周りにも私達と同じように休憩している人達がたくさんいた。しばらく中にいたので実感が薄れてしまったが、商店街の方は相変わらずなかなかの混雑具合だ。全てを平らげたところでおもむろに先輩は立ち上がる。

 

「ちょっとごみ捨てて来るついでにトイレいってくるけど、待っててくれるか?」

「いいですけど、私がゴミは捨ててきましょうか?」

「いや、二人で動くとはぐれるかもしれないし別に大丈夫だ。じゃ、ちょっと行ってくるわ」

 

 そう言い残すと先輩は少し遠くの人の渦の中へとのまれていく。突然、ピシリと何処かで音がなった。はっとして目を見開くと先輩の背中がちょうど見えなくなる。ダメだ、行かせてはダメだ。ふとそう思った。駆け出して先輩が消えた人の塊に潜り込む。人の流れに逆らって進んでいるせいで何回も人にぶつかる。もまれてもまれてすっとその流れから吐き出された。辺りを見回りてみるが先輩はいない。知らない人達が私の周りを通りすぎていく。周囲の喧騒がどんどん大きくなる。無数の足音が耳を刺激する。意味のわからない不安がふつふつと沸き上がり私を埋め尽くした。ぴったりとくっついてしまったように足が動かない。

 

 いけない、ついあの場所を離れてしまった。先輩が戻ってきたら心配をかけてしまう。無理矢理に現実的なことを考えて落ち着きを取り戻す。根拠はないのだ、ただの気のせいかもしれない。やっと溶けた足を動かしてさっきの場所に戻ろうとしたときだった。

 

「あれ、いろはちゃんだ」

 

 急に名前を呼ばれ声のした方を振り返る。そこには

先ほど見かけたあの女の子達がいた。

 

「あれ? あの中学生は一緒じゃないんだー」

「捨てられちゃった?」

 

 わざとらしい声色で一人の私に言葉を投げつけてくる。押し殺していた不安が再び蠢きだし、じわじわと広がり始める。そのせいでいつもより心の奥まで刃が侵入してきた。いや、今はこんなことを気にしている場合ではない。早くこの状況から抜け出してしまおうと、突き放すように言う。

 

「ちょっと待ってるように言われただけだから、じゃあね」

 

 背を向けて歩き出す。先程までいた場所に戻ればちゃんとまた会えるだろう。第一そういう約束だったのだ。再び人の流れに入ろうと足をあげる。

 

「へー、でも本当にあの人戻ってくるのかなー」

 

 後数センチで流れに入るというところでピタリと足を止める。そのまま足を元あった場所に戻した。雑踏は遠くなる。

 

「どういうこと?」

 

 絶対に振り向かないと思っていたのにそれを破ってしまう。目の前の少女は異様に意味ありげに、いやらしくいい放った。それは私の意識をすべて持っていくには十分すぎた。これは、何か知っているのか、そう思わずにはいられない。

 

「どういうって、さっきあの人男子の集団にいるの見かけたからもう別れたのかなって思ったのに、今の様子を見ると最初の冗談も案外事実だったりして、なんて思ったの」

 

 相も変わらず気色の悪い笑みを浮かべてたらたらとしゃべってくれる。神経は逆撫でられるばかりだが、きっと嘘ではない。おいしいネタを見つけた顔をしているから間違いないのだろう。

 

「それで先輩はどこに?」

「先輩? ああ、あの人のこと? さあ、知らないわよそんなこと。でもこの商店街の何処かで財布でもやってるんしゃない?」

 

 そう言って少女は声を殺して笑った。

 

「どっちへ向かったかも?」

 

 私は藁にもすがる思いで質問する。このままでは先輩を見つけられない。先輩に何か起こっているのは確かなのだ、あの胸騒ぎはきのせいではなかったのだ。

 

「てか、知ってても教えるわけないでしょ」

 

 少女は嘲笑う。私は焦りに侵食され、足が地面から離れるような感覚に陥る。そして、気づけば少女真ん前へと駆け出していた。

 

「お願い! お願いだから! 何処へ向かったかだけでいいから、教えて」

 

 突然のことに驚いたのか、少女はのけぞって私から咄嗟に距離をとって私を睨み付ける。それでも私は問い詰め続けた。必死で、それ以外考えていられなかった。あまりの私のしつこさに、とうとう少女は投げやりに指を指しながら教えてくれた。ありがとうとその場に残して私は走り出す。去っていく私の背中を、少女達は何の感情もなくただただ見つめていた。

 

 人が多くて上手いように進めないが、そのお陰かかえって周囲を見渡しながら走ることができた。違う、違う、いない、ここじゃないのか、もしかしてさっきのは嘘か、あれも違う。

 

 ざっ、と、不意に周囲のざわめきが遠くなる。気づけば商店街から飛び出していた。まるであちらの世界とは切り離されたみたいに、こっちは嫌に静かだ。よく見渡してみれば細い道路でもともと人通りが多くはないようだ。それでも少なすぎはしないかと、そう思ったところで視界の片隅に行き止まりの看板を見つける。そういうことか、じゃあやはりこっちに向かったというのは嘘だったのか。足から力が抜けて思わずしゃがみこむ。

 

 どうしよう、こんな人の塊から本当に見つけられるのか、不安だ。このまま会えなくなるかもしれない、不安だ。一人でいることが、不安だ。

 

 いつもこんな時は神社に行ったな。そうすれば先輩がひょっこり現れては不器用に慰めてくれた。そうすることで助けられてきた。もしかしたら、もしかしたら今も先輩が突然目の前に現れて、こんなところでどうしたんだって声かけてくれるかも。それでまた祭りをまわる。

 

 足音がした。前から確実に私の方に向かって歩いてくる。そして、私の前で止まった。埋めていた顔をあげて目を開ける。急な明るい世界にピントが合わない。ぼやっと目の前に人の姿が浮き出されていく。

 

「ちょっと君、気分でも悪いのか」

 

 大人の渋い声だった。はっきりした視界に映るのは知らない中年のおじさん。二の腕のところに腕章がついている。ああ、見回りの人か。そうわかった途端、私の馬鹿な夢物語はくだけ散った。そりゃそうだ、そんなにおいしい話があるはずない。ここはドラマでも漫画でもない、現実なのだから。

 

「いえ、ちょっと人とはぐれてしまっただけなので大丈夫です」

 

 心配そうに覗きこんでくるおじさんに、なんでもないと笑って言う。それを聞いてもすっきりしない顔を続けたおじさんだったが、渋々納得して商店街へと戻っていった。いつまでもこうしてられない。そう思って再び立ち上がり人の渦に向かおうとしたときだった。

 

 ガシャンと、後ろの方から物音が聞こえた。少し距離があるせいかそこまで大きくはなかったが、この閑散とした空間にいる私にだけそれは届いた。私は音のした方を振り返る。まっすぐのびる道の先にはコンクリート塀が立ちふさがっていた。いや、よく見ると右にまだ道が続いている。私はゆっくりと歩みを進める。音がしたのはきっとあそこを右に曲がった先。

 

 ある程度近づいたところでうっすらと誰かが話す声が聞こえる。それは曲がり角にたどり着いたところではっきりと聞こえた。

 

「こんなところにお前がいるのは意外だったな」

 

 男の声だ。しかしどことなく声に幼さが残っているので子供だろうか。

 

「別に、俺だって祭りくらい来る」

 

 今度の声は聞きなれた声だった。さっきまでずっと隣から聞こえてきた声。はっとして覗いてみると、三人の背中と壁に背を預けてへたり込んでいる先輩がいた。その横にはゴミ箱が横たわっている。なんだこれは。動転してその状況がすぐには理解できなかった。

 

「一人で?」

「そうだが、何か問題あるか?」

 

 私はその空間に入ることはできずに、ずっと影からやり取りを盗み聞くことしかできない。恐くて、足が動かなかった。

 

「相変わらずきめーな」

「てかあれじゃね、本当は例の女の子と来てんじゃねえの?」

 

 不意に会話に出てきた私の存在にどきりとする。でも何で先輩は私のことを隠したんだ?

 

「お前なんかと一緒にいるとか物好きだよな」

「こいつと遊ぶくらいだったら、俺たちとも遊んでくれるんじゃね?」

「ちょっと探してみる?」

 

 先輩をそっちのけで三人は淡々と話を進めていく。

 

「やめろ」

 

 その一言が三人を沈黙させる。それは私が一度も聞いたことのない鋭い先輩の声で、ついビクッとしてしまった。知らない先輩がそこにいる。

 

「約束忘れたとは言わせないぞ。俺が黙ってお前達のいいなりになるから、あいつには絶対に手出ししない。そういう約束だったろ」

 

 先輩は声を荒げることなく淡々とそう言った。どういうことだそれは。

 

「そうだったな。お前が抵抗しない限りなにもしねーよ。もし歯向かえばその時は」

「わかってる。別に抵抗したりしない」

 

 待て、それでは先輩が私に害を及ぼさないために身を削っているということか。あの日見たボロボロの姿も、今にも折れそうだったという姿も全部私のため、いや、私のせい?

 

 ドカッと鈍い音がした。続いて先輩の小さく呻く声が聞こえた。しかし先輩は言っていた通りなんの抵抗もしない。暴力し返すことも、それを防ぐことさえしない。

 

 ふとこの間の先輩の言葉が甦った。もう会うのをやめる、私達の状況を悪化させないための方法。先輩はこうして私が傷付くのを阻止しようとしていた。しかしあの日私の傷を見てこれだけでは足りないと思ったのだろう。私達が一緒にいる限り、その約束は意味を持ち続ける。なんの拍子に破られるかもしれない危うい約束。一番の目的は、この約束から私を切り離すことだったのではないか?私と先輩が疎遠になることで私に害を与えたところで先輩は痛くない、そうなれば向こうが私に手を出す理由はなくなる。先輩はすべての矛先を自分に向けさせるための提案だったのかもしれない。私に向く槍を少しだけでも減らそうとしていたのかもしれない。

 

 それを私は否定した。一緒にいたいと言う理由で、それだけの我が儘で。先輩が身を犠牲にして私を守っていることも知らずに、苦渋の決断だったろうことも知らずに。私は先輩のことなんて何も知らずに、わかろうともしないでずっと寄りかかっていたのだ。先輩が折れかけたのは私のせいだったのか。

 

 そうだ、私はいつも先輩と一緒にいたいとしか考えていなかった。先輩が傷ついていることも認識してはいても理解はしていなかった。常に中心には私がいた。私が嫌な状況にならないように、寂しくないようにと。そこに先輩はいない。先輩は私を中心に置いてくれていたのに、それでたくさん傷を負ったのに。

 

 真っ暗になった。私は静かにその場から離れる。今から先輩に顔を見せることも、先輩の顔を見ることもできそうになかった。逃げ出してしまいたかった。来た道を無気力に戻る。ずっとごちゃごちゃと考えて商店街を抜けた。

 

 パタパタと空から滴が落ちてきた。それは灰色のアスファルトに小さな染みを作っていく。あっという間にそれは広がって地面を真っ黒にした。周囲の人達が急な雨にあわてふためき私の横を勢いよく駆け抜けていく。そんな中、私は変わらない速度で歩き続けた。髪はあっという間に水を含み、こめかみや前髪から滴が垂れる。着ていた服が体に張り付いて気持ちが悪い。

 

 あれ、どうしてこんなことになったんだっけ。おかしくなったのはいつからだ? 私が先輩の提案を否定した時? おじいちゃんが先輩を見たって聞いたとき? あの男の子が告白紛いなことをしてきたとき? 先輩が神社に来なくなった時?

 

 最初は純粋に楽しかった。あの日、初めて先輩と出会って、励ましてくれたっけ。今度は私が先輩を励まして、大事な約束をした。それから先輩とあの神社で会うようになって、いくつか季節がめぐった。陽光が優しい春も、緑が元気な夏も、楓が美しい秋も、物寂しい冬も、先輩とあの神社で過ごした。しょうもないことで笑いあって、馬鹿馬鹿しいことでちょっと喧嘩して、不器用に仲直りして。私は先輩と一緒にいたかった。きっと先輩もそう思っていてくれていたはず。

 

 でもそれは崩れた。きっかけなんてわからない。でも1つだけ確かなのは、私が先輩をボロボロにしてしまったということだ。大好きだった。大切で、かけがえのない人だった。それを、私は自分の身勝手で傷つけていた。大事な約束を破っていた。

 

 どこで私は間違ってしまったのだろう。ずっと遡ってみてももうよく分からない。

 

 ジャリっと足元で音がした。知らないうちに雨は止んでいて、目の前にはあの大きな楓の木があった。どれくらい時間が経ったのだろう。ほとんど太陽が沈んでしまったのか、薄暗くなっていた。商店街からこの神社まではそこそこ距離がある。歩いていたペースを考慮すると通り雨が過ぎ去るくらいの時間がたっていてもおかしくない。空を見上げると雲の切れ目から真ん丸の月が顔を出していた。今日は満月だったのか。

 

 何かあったときは決まってここへ来た。そのせいで習慣になってしまったようだ。例に漏れず今も無意識のうちにここに来ている。でも今、ここには励ましてくれる先輩はいない。そうされる資格が、私にはない。

 

 頬を涙が伝った。次から次へと止めどなく溢れた。力は抜け、私は座り込む。どうして、どうして、どうして。

 

 そして思い至ってしまった。そこにだけは行き着いてはいけない場所。それだけは考えてはいけないこと。すべての否定、完全な拒絶。嫌なことも大事なことも全部を無に返してしまうから。

 

 私達の間違いは一番最初だったのでは、と。始まった時点で間違いだったのでは、と。先輩が身を削る必要もなく、私が先輩を傷つけることもない。こんなことになりはしない、たった1つの条件。

 

 ダメだ、これ以上思ってはいけない。しかし止めようとしても思考は止まらない。言ってはダメだ。言葉にしてはダメだ。やめて、やめてくれ、やめて――

 

 

 

「私は、先輩と出会ってはいけなかったんだ」

 

 

 

 私の中のすべてが崩れ、壊れて、霧散した。

 

 強い風が吹く。それは散らばっている無数の小さな紅い掌を巻き上げ、私を飲み込んだ。鞄にぶら下がっていた黒猫は風に煽られて暴れている。私は突然の不自然に顔をあげるがうまく目を開けられず、身動きがとれない。パチンと、黒猫を繋ぎ止めていたチェーンがついにちぎれた。

 

 それと共に、私の中から大切な記憶は消え去った。

 





 お待たせしました。待っていてくださった方ありがとうございます。

 たくさん書いていた頃より上手く書けなくなってしまったのですが、完結はさせようと思ってなんとか書きました。

 次が最終話です。まだいつ頃あげられるかわかりませんが、その時はよろしくお願いします。

 ではまた次回に。


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最終話

 虫の鳴く声が聞こえる。左側が温かい。私はゆっくりと、閉じた目を開けた。

 

 夜の神社は酷く静かで落ち着いていた。空に浮かぶ月の光だけがここを照らしている。きっと新月の日は真っ暗なのだろう。背中には楓の木の硬い感触がある。そして左には人の温もり。

 

「先輩…」

「目、覚めたか」

 

 私の言葉に先輩が静かに返す。私達は何でこんなところにいるんだっけ。ああ、そうだ、全部思い出したんだ。全てを、思い出してしまったんだ。

 

「わ、私は…、私は…」

 

 言葉が続かない。何を言えばいい、どうすればいい。無理だ。あんなことがあって、あんなことを思って、私はどう先輩と一緒に笑えばいい。

 

「すまなかったな」

 

 先輩はそう一言だけ呟いた。なぜ? どうして先輩が謝るの? 悪いのは、この私なのに。

 

「楓の木が全部お前のことを教えてくれた。何で記憶がなくなったのかも、お前が何を思ったのかも」

 

 先輩は楓の幹を撫でながらそう言った。それならばどうして先輩は今こうして私の隣にいるのだろう。私は先輩との全てを否定してしまったのに、こんな私の傍に何で居続けているのだろう。

 

「…私は、全部否定しました。先輩と出会ったことも、大事な約束も、かけがえのない時間も全て」

 

 声に力が入らない。音となって外へ出ているのかも定かでない。痛かった。喉も、鼻の奥も、胸も、ありとあらゆるところが痛い。

 

「無理ですよ。私には先輩といる資格はない。いてはいけないんですよ」

 

 声がかすれ、涙が溢れ出す。そう、ダメなのだ。私は取り返しのつかないことをしてしまったのだから。なのに、それなのに。

 

「なのに、どうして先輩が謝るんですか! どうして私に肩なんか貸してたんですか! 意味わかりませんよ」

 

 私は立ち上がって先輩を見下ろしながら叫んだ。わからなかった。どうして今こうして先輩が私の前にいるのかが。私は置いていかれてもおかしくないことをしたのに。

 

「お前の傍に居たいからだ」

 

 先輩も立ち上がり、私の真正面に立ち塞がっていい放つ。なぜ? なぜ今もなおそんなことを先輩は言えるのだ。私の中で意味不明が加速していく。そしてそれは、叫びとなって外へ飛び出した。

 

「……なんで、なんでそんなこと言えるんですか! 見たんでしょう? 知ったんでしょう?! 私の全部を! 私は身勝手に先輩を傷つけて、身勝手に拒否して、身勝手に無に返したんです。それなのに、どうして…」

「お前だけじゃないんだ」

 

 私の咆哮は、その小さな声に突然打ち切られた。頭に響いていた私の叫びはなりを潜め、冷めた静寂が訪れる。風が吹き、楓が鳴く。今度はその声が私の中を埋めてゆく。好きだったその音は、今だけは酷く煩わしい。

 

「お前だけじゃない。俺だって身勝手だよ。お前のことを考えてるつもりでも、お前のことなんて見えちゃいなかった。だから、お前が小さな背中に山のように背負っているのも気づかない。自分を責め続けているのにも気づかない。お前を追い詰めていたのは俺なんだよ。あんなことさせちまったのは、俺のせいなんだよ」

 

 力なくそう言った先輩の目は、ぐらぐらと揺れていた。先輩のせい? 違う、私の過ちは私の弱さが引き起こしたものだ。色んな事から目を背けた。色んな事から逃げだした。最後まで、信じられなかった。その結果があれなんだ。

 

「それでも、否定してしまった私は」

「したさ!」

 

 先輩は初めて、声を荒げた。言葉は全て引っ込んでしまい、体は強ばる。

 

「俺はそれもしたんだよ! したから、あの日、お前にもう会うのもやめようなんて、提案したんだ。何度も思った、何で俺たちがこんな目に遭うんだって。その度に俺達は一緒にいてはダメなんだって思った。思ってしまった。だから、俺はここに来るのを止めたし、お前のことも避けた」

 

 先輩はぐっと自分の下唇の端を噛み締めて言葉を連ねていく。固く握られた拳は血流が悪くなっているのか色が悪い。

 

「でも、それでも消えなかったんだよ。消えちゃくれなかったんだ。許されないと思っても、資格ないって思っても、お前が俺の中からいなくなってはくれなかったんだ。それどころか日に日に大きくなりやがる。その度に俺は自分を責めた。自分を殺したくなるくらい責めた。そんな時にお前が現れたよ。怪我したお前の姿を見て、ああやっぱりダメなんだって思った。俺のせいでお前が傷付くのも、自分を責めるのも、もう耐えられそうになかった。だからもう止めようって言ったんだ」

 

 先輩は右手で頭をかきむしりながら吐き出し続ける。私の知らない先輩が次々に姿を現していた。

 

「でもお前は嫌だって、こんな俺に一緒にいてほしいって言ってくれた。逃げようとした俺の手をお前が掴んでくれた。だから、もう一回やり直そうって思った。俺が許されないことをしたのは間違いない。なら、今度こそ間違わないように、お前を守れるようにって。なのに、また俺は間違えた。独り善がりになってお前を見失っていた。そのせいでお前を追い詰めて、お前に否定させてしまった」

 

 先輩の口の右端から紅が一筋垂れる。周囲が薄暗いせいでそれはやたらと黒く見えた。先輩は少しの間俯くと、急に顔をあげる。

 

「じゃあどうすりゃよかったんだ?! 正解の道なんてあったのか?! 俺は間違えた。お前も間違えたのかもしれない。でもあいつ等だって間違いだろ? お前を傷つけたあのこ等だって間違いだろ? 間違いばかりで正解なんて何処にもない!」

 

 そうだ、私は間違えた。先輩も間違えていた。でもあの少女たちも間違っていたのだ。間違いだらけで、何が正しいのかがわからない。私は答えを出せない。先輩の疑問に答えることができない。

 

「相手を信じることが正解? 愛することが正解? ならなぜ世界はそれを割こうとする?! 俺達があんな目にあわないといけなかった理由は何処にある?! 間違いばかり突きつけるくせして、正解は誰も教えちゃくれない!」

 

 先輩は一息つくと、右手の親指で垂れた血を拭う。

 

「だったら、自分で見つけるしかない。定めるしかない。だから俺は考えた。考えて考えて考えて、自分の中を探しまくった。仮定しては矛盾して否定され、論じてはまた否定した。何度も何度も繰り返していて残ったのは、お前と居続けたいって望みだった」

 

 私を見て先輩は少しだけ首をかしげると、呆れたように笑った。

 

「笑えるだろ? 散々俺には許されないって思っておきながら、世界が許さないって言いながら。何度も違うって定めたのに、それなのにそれは消えずに残りやがる。何度否定したって俺の目の前に現れ続ける。ならもう、それはきっと俺の中の真実なんだよ」

 

 先輩の目から一粒の滴が溢れ落ちる。そうか、先輩は幾度と思考を繰り返して、何度もダメだって思ったんだ。しかしどこを向いても、目を背けようとしても立ち塞がるそれに、屈し、認めるしかなくなったのだ。どうしようもなく自分がそう望んでいることを、自責も後悔も飲み込んで受け入れるしかなかったんだ。だから先輩は私から離れずにいたのか。

 

「私は、それでも、私は自分が先輩に望まれていいとは思えないです」

 

 先輩のその望みを嬉しいと感じる自分がいるのは確かだ。しかしそれを許さない自分がいるのも確かなのだ。そしてそれが全てを叩き潰してしまう。

 

「ダメなんですよ。私だって、私だって先輩と一緒にいたいですよ! こんなに好きで、大好きなのに! 私の中を暴れる罪の意識がそれを打ち砕いてしまう。また壊してしまうかもしれない恐怖がぴったりくっついて離れない。どうしても、私は先輩みたいに思えない」

 

 認められなかった。飲み込めなかった。暴れるそれを押さえ込めなかった。怯えを振り切れなかった。だからもう、逃げ出してしまいたいのだ。震える体が言うことをきかない。奥歯がガチガチと音をたてる。そんな私から目をそらさずに先輩は言葉を連ねた。

 

「もし、このままお前と離れたら俺は、この後悔と自責を引きずって生きていくんだと思う。朝起きても、飯食ってても、寝るときだってそれは俺を縛り続ける。でもきっと、それは時間が経つにつれて薄れていってしまうんだ。いつの間にか普通に生活してるんだ。けど、それは完全には消えてはいないんだ。見えなくなっただけで、心の底にこびりついて俺を締めつけ続けるんだ。そうなったら、もう終わりなんだよ。そうなってしまったら、先には何もないんだよ」

 

 先輩は一歩だけ私に近づいた。足元の砂利が音をたてる。私の足は動かなかった。

 

「だから俺は今ここで、俺の過ちも、罪も、全部背負ってお前と一緒にいることを選ぶんだ。全部引きずってお前の横を歩きたいんだ。これが正解かなんてわからない。でも、俺はそれをお前と確かめたいって思う。もちろん死ぬほど恐い。恐くて恐くて仕方がない。でも、俺とお前が、そうなっちまうのが一番嫌なんだ」

 

 そう言った後、先輩は静かに笑った。そして、立ち尽くす私をそっと抱き締める。私は何の抵抗もなく先輩の胸に吸い込まれた。冷えきった私の体が、先輩の温もりで溶かされていく。先輩の手がそっと、優しく私の頭を撫でた。知っている先輩の手よりも、数倍も大きく感じた。そして、先輩の言葉がゆっくりと、私の中に入ってくる。

 

「だから、お前も負けないでくれ。恐れから、後悔から、逃げないでくれ。きっとこのまま離れてしまうことが、全部を否定することなんだと思う。俺はもう二度と、俺達を否定したくない。お前は、ここでの、これまでの幸せが偽りだったと思うか?」

 

 鎖が、綻ぶ。もし、もう一度、望んでいいというのなら、

 

「私は、こんな今にも押し潰されそうなものを背負って歩けるのでしょうか」

「わからない。でも約束した。お前の背負うもんは俺も一緒に背負う」

 

 もしもう一度、やり直していいというのなら、

 

「私は自分を許せないですよ」

「俺も自分を許さない」

 

 私は、

 

「また間違うかもしれません」

「そうだな。でも、その度にやり直せばいい」

 

 私は、

 

「正解は、見つかるでしょうか」

「それもわからん。けど探さなきゃ見つけられない」

 

 私は、

 

「私は、先輩と一緒にいても、いいんですか?」

「お前が許さなくても、世界が認めなくても、俺がそれを望み続ける」

 

 私は、先輩と一緒に歩きたい。先輩と一緒に生きていきたい。また、あの頃みたいに、この間みたいに、一緒に笑いたい。

 

「なあ、お前は、こんな俺が、お前の傍にいることを、許して、くれるのか?」

 

 その先輩の声は震えていた。先輩は恐いと言っていた。頭がおかしくなるくらい考えて、血反吐を吐きながら己の中で答えを出した。それでも、怯える私のために踏ん張り続けていてくれたんだ。おかげで、今、私はすぐに答えを導ける。鎖は、砕けた。

 

「いて、ほしい。一緒に、いてほしい。先輩の荷も、一緒に背負いたい。私は、それを望みます」

 

 私達は間違った。それはたぶん死ぬまで消えない事実なのだろう。傷つけあったことも、互いを信じられなかったことも、私達を否定してしまったことも、けしてなかったことにはならないんだ。今でもこうすることが正しいかはわからない。恐怖も自責も暴れ続けてる。でもそれから目を背けちゃいけない。それからだけは逃げてはいけないんだ。じゃないと、きっと、本当に大切なものまでなくしてしまうから。これまでの幸せも、不幸も全て嘘にしてしまうから。見つけたいものを、見逃してしまうから。

 

 だから、ここで1つ区切りをつけよう。私達の過ちを、すべて受け入れるために。

 

「先輩、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

「ごめんな、いろは、ごめんな……」

 

 内に溜まっていたものが、すべて涙となって溢れ出す。嗚咽となって吐き出される。静閑な神社に二人の泣く声が響き渡った。そんな私達を、古ぼけた社が、苔むした鳥居が、そびえ立つ楓が、いつもみたいに見つめていた。いつもと変わらない、その顔で。

 

 ふわりと、優しい風が吹いた。楓は、無数の葉を私達の元へ降り注ぐ。満月が静かに照らすなか、私達が泣き止むまでずっと、ずっと。

 

 

 

   ____________

 

 

 

 

 閉じたカーテンの隙間から、淡い朝日がそっと差し込む。私は寝ていた体をベッドから起こすと、そのまま部屋の隅に置いてある姿見の前まで移動する。

 

「やっぱりひかなかった」

 

 鏡には真っ赤に目を腫らした私の顔があった。あれだけ泣いたのだから仕方ないか。なんとかして消そうと試みるが、ちっとも薄くならないそれにとうとう私は諦める。このまま学校行くのはちょっと恥ずかしいけどやむおえまい。

 

 近くに掛けてある制服を手に取ると、そのままなれた手つきで着替えてしまう。2日着てないだけだというのに、不思議と久しぶりな感じかした。私は鞄を手にするとそのまま部屋を後にした。

 

 リビングに降りると、お母さんが慌ただしく支度をしていた。どうやらお父さんは既に仕事へいってしまったらしい。起きてきた私を見つけると、お母さんは1つ苦笑いを浮かべる。

 

「やっぱりひかなかったわね」

「うん、もう諦めた」

 

 それだけ交わすと、それぞれ支度へと戻る。用意された朝食をさっさと平らげると身だしなみを整えて家を出た。

 

 秋もだいぶ深くなり、冬が近づいている。肌に冷たい外気が突き刺さり体を震わせた。私は手のひらを数回擦り付けると、大きく息を吐く。頭上には雲1つない青空が広がっていた。

 

 歩く私の横を何台も車が通りすぎていく。前から走ってくる自転車を避けて、違う制服を着た女子学生とすれ違った。人の話す声など何処からも聞こえずに、いろいろな雑音がそこには満ちていた。いつもの交差点に差し掛かると、私は人の邪魔にならないように端の方に身を潜める。すぐ傍にある花壇には、この前からあるコスモスが相変わらず花を咲かせていた。しかしなんとなくこの間より数が減ったと思う。それがより秋の終わりを匂わせた。

 

 少し経った頃、ぼやっと眺めていた道の向こうから見慣れた自転車に乗った男子生徒が近づいてくる。そして私の横に差し掛かったところで、ブレーキを甲高くならして止まった。

 

「よう、目、酷いな」

「第一声それですか、おはようございます。先輩」

「おう、おはよう」

 

 一瞬ギクリとした顔になった先輩だったが、すぐに笑って挨拶を返す。先輩は跨がっていた自転車から降りると、それを押して歩き出す。私はその横にならんで、二人で変わったばかりの青信号を渡る。

 

「だいたい先輩も人のこと言えませんよ」

「やっぱり? あれこれ試したんだけどなー」

「意外ですね、先輩は早々に諦めるタイプかと思ってました」

「おい、そこまで無頓着じゃねーよ。流石にちょっとは気にするわ。これでも少しは軽くなったんだから」

 

 先輩の自転車がカラカラと音をたてる。道に等間隔に植わっている、そこまで背の高くない木がさわさわ風に靡いた。

 

「あ、お前ちゃんと原稿持ってきた?」

「はい、鞄にいれっぱなしだったので」

 

 そう言って私は手に持っていた鞄を揺らす。そういえばもうすぐだったな。これから準備で少し忙しくなるのだろう。しばらくは、神社にいく時間はないのかな。

 

「今日神社行く?」

 

 まるで私の心を見透かしていたようなタイミングで先輩が聞いてきた。

 

「時間ありますかね?」

「どうだろうな。でも寄り道くらいは出来るんじゃないか? もうすぐ楓も散っちゃうだろうし、しばらくであれも見納めだな」

 

 確かに今年初めて見たときよりもかなり痩せていた。あれを全部落とすのにそう時間はかかるまい。

 

「また、掃除しなきゃですね」

「だな」

 

 少し高くなった太陽が、この街を温めようと日光を注ぎ込む。それから私達は再びもくもくと学校への道を歩き続けた。きっと明日も、この道を先輩と歩く。次の日、その次の日も。雨が降る日も、雪が降る日も、日差しが暑い日も。そして今、私の頬を撫でる心地よいこんな風が吹く日だって。

 

 その風が運んできたのか、ざわっと、遠くで楓の声が聞こえた気がした。私は思わず足を止めて、その方を振りかえる。

 

「どうした?」

 

 そんな私に不思議な顔をして先輩は問いかけた。しかしすぐに、どこか腑に落ちた表情になる。きっと同じ音が聞こえたのだろう。

 

「いえ、なんでも」

 

 私達は歩き続けるのだ。過去も、今も、未来も、全てをこの手に抱えながら、この背中に背負いながら。

 

 あの楓が見守る、この街で。

 

 

    終

 





 これでこの話は終わりです。長い間付き合ってくださりありがとうございました。本当に、ありがとうございました。

 では、またどこかで。


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