コードギアス Encore (騒樫無音)
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1_Encore

「この期に及んで大事に抱え込むものとしては、趣味が悪過ぎる。そんなものを後生大事に抱え込んで、一体何のつもりだ」

 

 カツン、と暗い世界に足音が一つ。

 時間は深夜。

 一度は叡智の光に灼かれ、再建された離宮。その最奥の寝室からさらに隠し階段を降りた地下。

 常設されているはずの警備になど何ら意味はないと言わんばかり、どころか、踏み込んだ女の存在が雄弁に語る。

 

「そんなもの、だなんて……。魔女には、分かりません。たったの一度も献花すらしたことがないくせに……」

 

「意味のない行為だ。私にそんな無駄な時間はない。結局、執着を収めるには10年でも短すぎたか? 情けないよ、義姉として」

 

「そう言うあなたは、随分と耄碌したようです。たった10年前のことも覚えておられないようですね」

 

 暗く、そしてただただ広い空間だった。

 部屋の中央には、床から天井までを繋ぐ巨大なパイプのような、あるいは上下端が裾野のように広がった柱のような、円柱状のモニュメント。

 離宮の主である女は、その円柱にもたれかかるようにして座っている。

 一方の侵入者。こちらの賊もまた女だが、主よりは年若く、尊大な口調にそぐわない少女。

 

「お兄様は生涯未婚でした。あらゆる名前、あらゆる経歴において」

 

「見識が浅いぞ。魔王の伴侶は魔女と相場が決まっているんだ。誰にも私とあいつの関係を否定することなどできんさ」

 

「世迷い言を……」

 

 賊の少女が、照らし出された円柱と主の女に近付いていく。

 主の女にも賊の少女にも、交わした言葉とは対象的な笑みが浮かんだ。

 

「なあ、お前、本当にナナリーか? 純粋で優しく可愛らしかった私の義妹はどこへ行ったんだ?」

 

「ええ、お久しぶりです、C.C.さん。でもね、あなたの言うナナリーなんて、もうあの日より前にいなくなっていたでしょう?」

 

 

 

 Encore

 

 

 

 ナナリー・ヴィ・ブリタニアが病の療養を理由に引退してから4年と4月。

 未だに、世界は概ね平和だ。

 ブリタニアや日本、あるいは他の国々や共同体でも、現在に至るまで大規模な国家間の戦争は起こっていない。かつて戦場を支配したナイトメア・フレームの多くが非殺傷武装に装いを変え、闇に潜み権力に抵抗を続けていたレジスタンス達は次第にその数を減らし、新しい社会へと溶け込んでいった。

 世界が彼にかけ、彼が世界にかけた呪い、あるいは願いは、世界を変えた。誰もが彼を憎み、恨み、その死を望み、そして英雄がそれを叶えた。

 

「ですが、もう時間の問題です。ギアスは、お兄様の願いは」

 

「当たり前だ。長続きするものか。あんなささやかな願いだけで、世界を維持できるものか」

 

 当然ながら、各国の軍がなくなったわけではない。小規模な戦闘行為、散発的なテロリズム、思想的な対立、抱え込んだ憎悪の発露、独立紛争。火種ならば探さずともいくらでもありふれている。

 火を熾したい者たちは大勢いる。対応にいくら腐心しようとも、湯水のごとく沸き立つその火口は尽きることがなかった。

 ブリタニアの代表となった主の女にとって、注力すべき案件がただ一つであったなら、あるいは延命は可能だったのか。反省を伴わない、願望と後悔だけの仮定の話に意味はない。少なくとも、兄はそのような愚か者ではなかった。なればこそ、彼女がその愚行を犯すことを、何より自身が許せなかった。

 

「結局、負けたのは私の身体の方でした。5年と8月。随分と長い間居座ることになってしまいましたが、せめて、治療はまじめに受けるべきだったのでしょうね。おかげで、今ではこの有様です。私一人だけ10年前に逆戻り」

 

「当たり前のことを、何を今更。お前がそんな無茶をしたことを知ってみろ。恥も外聞もないほどに取り乱して、挙句には泣きかねないぞ、あいつなら」

 

 だが、と賊の少女が付け加えた。

 

「無様に権力に縋り付いて後を濁す輩よりは、よほどマシな幕引きだよ。全世界から見舞いの品が舞い込んだそうじゃないか。人が今日の寝床にも困っていたときに、贅沢な話だ」

 

「ふふっ。でも、それももうあと少しで終わりです。わがままを通して、こんなところに引きこもっていられるのもそれが理由ですから。最期だけはどうしてもここで穏やかに、なんて」

 

「馬鹿だよ、お前は。まともな設備もない、看取る者もいない。こんな最期を迎える皇帝があるものか」

 

 違いますよ、と主の女は首を振る。

 現在のブリタニアにおいて、皇帝位はすでに存在しない。第99代皇帝――悪逆皇帝によって、正しくはその次代である第100代皇帝としての短い治世で、主の女は最愛の兄に報いることだと信じて歴史あるブリタニアの君主制は終わった。

 

「つまらない肩書の話をしているんじゃない。そんなところで、あいつに似る必要もないだろうと言っている。その上、棺桶に片足突っ込んだようなワガママ姫が、手元に残ってもいない力を無理やり引っ張りだして、何がしたかったんだ」

 

 そのことですか、と主の女は頷いた。

 まさか自分の見舞いに来てくれたわけではあるまいと思っていたが、存外につまらない問いかけだった。

 

「少しくらいは思い出してくれるかと考えたのです。この平和がどれだけの犠牲の上にできたのか、どれだけの思いを踏み潰して叶ったのか、どれだけ得難いものだったか。あまり、うまくはいきませんでしたが」

 

 悪逆皇帝の生涯、その蛮行。全世界に恐怖をばらまき、不幸と絶望を刻みつけたその悪行と、その死に様。彼の支配から世界を救った英雄の記念式典。

 屈辱と罪悪感を刻み、血反吐を吐く思いで行ってなお、失敗だった。

 形ばかりの参加、関心などあるはずもない賓客たち。表舞台を離れ、影響力をなくしていくばかりの元代表に、各国の反応は冷たい。民衆への一般公開ではそれなりの入場者数だったが、メディアの反応は弱く、世論への影響など望めまい。

 

「ですが、もうよいのです。私の仕事はここまで。後は託します。暗くなっていくだけの私の目には、もうこの世界は映らない。――私にはもう、これだけあれば」

 

 愛おしげに、主の女は円柱を撫でる。彼女が懐から取り出した取り出した仰々しい装置は、いつか天空の要塞で彼女が手にした罪の引き金を模して作らせたものだ。

 素敵な考えでしょう、と主の女は問いかけるでもなく、うっとりと口を開いた。

 

「お兄様さえいればいいのです。もう、私にはお兄様だけ。やっと帰って来られたんです、あの頃に。見てください、ずうっとお兄様はあの日のまま、綺麗なお兄様なんですよ」

 

 カチ、とボタンを押しこめば、円柱の色が褪せていく。黒から灰、白、その色さえ薄れていき、中身を曝け出した。

 学生服に身を包んだ痩身の美しい少年。在りし日の姿をそのままに閉じ込めたそれは氷の檻。

 悪逆皇帝ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。

 その亡骸が、あの日から何らの変化もなく、そこに在った。

 

「綺麗なお顔でしょう? 私を守り、私を育て、私に触れ、私に尽くし、私を愛してくれた、私の大事なお兄様。私にたくさんのものを与えてくださって、私の一番大切なものを奪っていってしまわれた、悪魔のような人。でも、もうずっと、ずっと私と一緒です」

 

 主の女の閉じたままの目からは、いつからか涙が流れていた。円柱を支えにして頼りなげに立ち上がる姿は、賊の少女の目にはあまりにも痛々しく映る。政務に打ち込んでいた数年前と比べてすっかり痩せてしまった手を、透明の円柱の中、少年の顔と同じ高さの辺りに懸命に這わせていく。

 

「原理は私も理解していませんが、特殊な薬剤でできた氷で、内部を満たしているんですよ。本当は直接触れたいのですが、残念ながらそういうわけにもいきませんから、こうしてそのままのお姿でいてくださるだけで我慢しています。お兄様はもうお年をとることも、優しく私を見つめてくださることもありませんが……」

 

 主の女の笑みは、賊の少女をして狂人のそれに思えた。

 彼女とて伊達に長く生きていない。長い長い時間をかけて、世界中を渡った。ブリタニアに関わったこの数十年では、様々な思惑と内面に触れ続けた。

 だから知っている。人は、その心は、強く気高い。

 失った命とすら繋がり合える、誰もが仮面を捨ててありのままでいられる昨日も。

 人々が求め続けた恒久的平和に守られ、約束された今日も。

 幸せを願い続け、その歩みを止めず、良くしていこうとする明日も。

 

「私もいずれここに入ります。そうして、私とお兄さまだけの世界が完成します。このアリエスの離宮が朽ちるその日まで、私たちはお互いの夢を見るんです」

 

「そんなものは人の最期じゃない。分からないのか、ナナリー。お前がやろうとしていることは、ただ尊厳を踏み躙るだけの行為だ。ルルーシュも、何よりお前自身も」

 

 そして、弱く、壊れやすく、道に惑う。

 主の女の心は歪んでいる。

 それは彼女の言うとおりあの日からなのか、あるいは病に侵され、再び闇に蝕まれ始めた頃からなのか。

 

「お兄様の尊厳なんて、どこにあるというのですか? 世界が知っているのは、悪逆皇帝ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア、それだけです。お兄様が何のために戦ってきたかなんて、何を願って死んでいったかなんて、誰も知らないでしょう。口汚く罵られて、唾を吐きかけられて、絵画や写真は踏みつけられて、切り刻まれて、焼かれて、悪そのものの存在として歴史に残り続けるんですよ?」

 

「それがアイツの望みだ。虐殺皇女の名すら霞むほどの、悪意の終着点。ダモクレスというシステムでは取り込みきれない全ての憎しみを引き受けるための、絶対的な悪としての象徴。全てアイツが望んで、そうして自分で背負ったものだ」

 

 あの男の逡巡も、苦悩も、後悔も、あるいは恐怖も。

 共犯者だったから。何とも換えられない、大切な関係だったから。

 彼女は盾だった。彼を守るための存在。彼の騎士とは違う、彼女だけの立ち位置。

 だから知っている。

 

「私たちだけは、アイツのことを知っている。それでいいじゃないか。ナナリー、お前はあのとき見たんだろう? アイツのことを分かってやれたんだろう? ゼロが、ジェレミアが、咲世子が、ロイドが、セシルが、そしてお前と私が、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの真実を知っている。それだけでいいじゃないか」

 

「……勝手です。あんな後出しのズルをして、卑怯なんです、お兄様は。分かったときには全部手遅れなんて、そんな……そんなの……私は何も知らずに、お兄様にひどいことを言ってしまって……。何も分かってなかった……同じことを考えていたはずなのに、何も……」

 

「アイツはいつも強がってばかりだった。特にお前の前ではいつだって。アイツが、お前にすべてを語って聞かせるわけがないだろう? いいか、ナナリー。人の心の中なんて、誰にも分からない。分かっちゃいけないんだよ。そんなものが分かったって、幸せになんかなれないさ。誰が何を考えているか分からないくらいの不自由はあっていいんだ。知らなくていい。それは間違ってなんかいない。ましてや、罪なんかじゃない」

 

 だから、ナナリーがそんなふうに思う必要なんて全く無い。

 相手の心を知ることができて、それで幸せになれるものか。

 兄を止めたかったと思う彼女の気持ちを、賊の少女は痛いほど理解しているつもりだ。

 それでもと願う気持ちと後悔が残ることも、理解している。だが、そんなものを背負ってほしくないと思うのだ。共犯者であったからこそ、彼の決意を、願いを、どうか受け入れて欲しいと願っている。

 なのに。

 

「でも、あなた達は、私の知らないことを知っているじゃないですか……! 同じ時間を過ごして! ずっと見てきたんでしょう、お兄様を! お兄様の喜ぶ顔も、怒った顔も、哀しい顔も、楽しげな顔も、優しい顔も、照れた顔も、呆れた顔も、誇らしげな顔も、笑った顔も、全部全部、見てきたんでしょう!? 私は……、私は何も知らないんですよ……? 私がやっと見ることができたお兄様の顔は、本当のお兄様じゃなかった。それだけしか見てないんです。一方的にひどい言葉で詰って、笑い合うことも、他のどんな表情だって見ることもできずに、お互いの顔を見て、向い合ってきちんとお話することもできずに!」

 

 滂沱のごとく流れる涙を、拭おうともしない。

 気性の荒い女性ではない。他人に感情をそのままぶつけるような性格ではない。

 だから、今の彼女の姿は。

 

「ずるい……ずるい、ずるい、ずるい! C.C.さんはずるいです! スザクさんも! カレンさんも! 生徒会の人たちも! 他の人も、お兄様を悪く言う人達だって皆! 私が一番近くにいたのに! 一番一緒にいた私だけが知らないんです!」

 

 8年ぶりに写った世界は、幼い日に見たそれと同じように色付いていた。

 けれど、そこにはもうどこを探してもいないのだ。

 一番大事な人、一番感じたかった人、一番見たかった人。

 写真や動画の中でどんなに笑っていても、そんなものは固定された過去の情報にすぎないのだ。

 自分を見てくれない。自分を感じてくれない。

 

「教えてください、C.C.さん……。お兄様は、どんな風に笑うんですか? どんな顔で私に話しかけてくれていたんですか。どんな顔で車椅子を押してくれていたんですか。どんな顔で私を撫でてくれていたんですか。どんな顔で私の名前を呼んでくれていたんですか。どんな顔で――どんな顔で――どんな顔で――!!」

 

 2人で向かい合って目を見て話すことができていたら、兄はどんな顔を自分に向けてくれたのだろう。

 あの幸せだった箱庭の時間。学園で起こった他愛もないことを話すときはどんな風に、どんな身振りやどんな仕草で。

 想いのままに大声を吐き出して、荒れた呼吸を整え、答えを求めた問を投げかけた。

 

「――C.C.さん、お兄様は、私を許してくれるでしょうか。笑って、優しく名前を呼んでくれるでしょうか? 恥ずかしいお話なんですが、ずっと昔、優しく叱られたことはあるのですけど、本当に悪いことをして謝ったことなんてなくって」 

 

「ああ……、どうだろうな。あの坊やのことだからな」

 

 賊の少女は、肩をすくめて笑った。

 

「許す、許さないの話にもしてくれないと思うぞ」

 

 

 主の女に付いて、上階、彼女の寝室に上がる。

 弱まっていく視力と脚力に苦労している様子だが、主の女は賊の少女の手を借りようとは決してしなかった。とはいえ、視力が相当弱っているのは事実のようで、何をするにも危なっかしく見えるので後ろを歩く身としては気が気でない。

 賊の少女をベッドに腰掛けさせて、主の女は寝室を出て行った。

 たっぷり十数分後、ティーセットを用意したワゴンと共に主の女が寝室に戻ってくる。

 

「少し、大声を出しすぎました。お茶でもいかがですか。先日、良い茶葉をいただきましたので」

 

「悪いが、紅茶の良し悪しなど私には分からないぞ」

 

「知っていますよ。ピザとコーラばかりでしたものね」

 

 2人並んで、ベッドに腰掛ける。

 主の女1人で使うには大きすぎるサイズだが、賊の少女が知るかぎり、金が余り始めた人間というのは寝具にこだわり始める傾向があるので、多分に漏れずというところだろう。旅の疲れでも残っていれば即座に倒れこんでしまいそうな、いっそ凶器のような柔らかさに腰を沈め、2人はしばらく紅茶を楽しんだ。

 

「今夜は、泊まっていかれますよね? もう遅い時間ですし、泊まれる場所も近くにはありませんから」

 

「ああ、そうしてもらえるとありがたい。こう見えてひどく疲れているんだ」

 

「では、寝る前に汗を流してきたほうがいいですね。バスルームは」

 

「ああ、いいよ。場所なら知っている」

 

 主の女の知らぬところではあるが、賊の少女はかつてのアリエスの離宮に頻繁に出入りしていたことがあった。勝手知ったる他人の家、魔女は絢爛豪華な離宮も我が物顔で闊歩する。

 賊の少女は、空になったカップをソーサーと共にワゴン上に戻し、腰掛けたままの主の女の正面に回り、手を差し伸べた。

 

「あ、タオルと着替えならバスルームに備え付けのものが」

 

「違うよ。そうじゃなくてな」

 

 不思議そうな顔で小首を傾げる主の女。歳不相応な仕草に、賊の少女はかつての日々を思い出しながら告げる。

 そう、これは意趣返し。

 朴念仁な皇帝陛下。契約をきちんと果たさないからこんなことになるのだと、思い知らせてやらねばなるまい。

 

「いつの間にか、身内に甘いところが私にも伝染っていたらしい。確認するぞ、棺桶姫。この世、残りの人生に未練はないか? 人としての執着は?」

 

「もうっ……棺桶姫って何ですか? ふふっ」

 

「いいから。どうなんだ」

 

「ありません。ありませんよ、もう。覚悟を決めて、ここに閉じ籠もっているんですから」

 

 呆れ半分、笑い半分。

 厳粛な空気など欠片もない。だが、これでもいいと、賊の少女は思う。

 死にたがりはもういない。むしろ、殺されては困るのだから。

 

「分かった。なら、私がお前を落ちるところまで落としてやる」

 

「どういうことです?」

 

「これは契約。

 力をあげるかわりに私の願いを一つだけ叶えてもらう」

 

 主の女が息を呑む。この台詞に心当たりがあるはずもなかろうが、察しが良い女だ。

 

「契約すれば、おまえは人の世に生きながら、人とは違う理で生きることになる。

 異なる摂理、異なる時間、異なる命。

 王の力はおまえを――」

 

 賊の少女は言葉を止めた。

 王の力など、もはや宿り得ない。少なくとも目の前の女が手にするとすれば、それは。

 

「――孤独にする。

 その覚悟があるのなら……」

 

 嗚呼、と吐息とも声とも取れぬ音が、主の女から漏れた。

 止まっていたはずの涙がハラハラと流れ落ち、両の手から滑り落ちたカップとソーサーには気がついているのか、いないのか。

 

「C.C.さん……ああ、なんてこと……。こんな、こんなこと……なんて、罪深い……」

 

 賊の少女にも、早鐘のように跳ねる鼓動が聞こえるようだった。

 クラクラと揺れるような視界、千々に咲き乱れる世界。

 

「さあ、選べ、ナナリー。私の手を取らなくても、お前は生きられる。この契約には差し迫った理由も、意味もない。力を否定したお前たちにとっては、ただの堕落だ。だからこそ、お前が……」

 

 女の痩せた手がゆっくりと重ねられ、細腕に似合わないほどの力で握られた。希望に縋り付くようであり、怨讐に身を窶すようでもある。虚ろにドロドロと濁ったような藤色の瞳が、少女を見つめていた。

 

「構いません。結びましょう、その契約」

 

 重ねられた二人の手。

 世界は止まり、黒白に褪せ、極彩色に明滅する。

 

「これは……ふふっ……あははは! ああ、そうか! そうだったよな、マリアンヌ」

 

 そうして、賊の少女はようやく気づく。

 打ち鳴らされた早鐘は錯覚ではなく、共鳴だった。

 千々に乱れた世界が解れ、弾けていく。

 融け合い、繋がり、今までとは少しだけ違う形に作られていく。

 

「ルルーシュだけじゃない。ナナリーも、そうだったな」

 

 藤色の瞳。

 しっかりと強く見つめる双眸、その左。

 兄と同じその瞳に、超常の力が赤く刻まれる。

 

「さあ、始めようか。ナナリー」

 

 二度とこの世界に力を与えるつもりなどなかった。それは嘘ではない。契約外のことではあるが、魔王の願いを叶えてやりたかったからだ。

 しかし、今目の前の一人の女。この女を見捨てることだけは、彼が絶対に許さないとはっきり言える。その溺愛に少しばかりの力添えをしてやっても罰はあたるまい。

 

「はい、C.C.さん」

 

 魔女と契約した魔王の妹。煌々と輝く瞳は世を憂いている。

 彼女は思う。

 この世界には、再演こそがふさわしい。

 

 

 

 




arcadia様から移転し、一部加筆修正して投稿します。
よろしくお願いします。


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2_Recusal

『はじめまして、ですね、ナナリー。僕に一体何の用でしょうか。僕はもう君に興味がないんですが』

 

 

 

 Recusal

 

 

 

「おはよう、ナナリー。よく眠れたか」

 

 差し込む朝日は暖かく、部屋にはコーヒーの香りが漂っていた。

 身体を起こしてみると、薄手の寝衣が汗でじっとりと張り付く不快感が際立つ。顔はべとつくし、頭が重い。

 朧気に映る寝室は昨日までと同じだが、その中に昨日までと違う人影が1つ。

 

「……C.C.さん」

 

「言いたいことは色々とあるだろうが、まずはシャワーを浴びてくるんだな。ひどい顔だ」

 

 ベッドから這うようにして出て、蹌踉めきながらも立ち上がる。

 世界を遠ざけるように弱った視力と不自由な両足には嫌気が差すが、身から出た錆、誰に恨み言を言うこともできない。

 壁を背に優雅にコーヒーを楽しんでいたらしいC.C.は、やはり上は男物のシャツ1枚、下は下着だけの状態だった。

 はしたないから控えて欲しい、きちんとした寝衣の方がリラックスして眠れるはずだとナナリーが再三訴えても無視をして、結局ナナリーが根負けする形で押し通してしまったのだが、案の定、朝起きてすぐに着替えるということはなかったらしい。

 

「では、少し失礼しますが……」

 

「分かっている。早く行って来い。勝手に出て行ったりしないし、聞きたいこともちゃんと教えてやるから」

 

 シャワールームまで重い体を引きずり、汗で透けた寝衣を脱ぎ捨てた。

 勢い良く飛び出したシャワーに身を晒し、あまりの冷たさに心臓が止まるかのような錯覚を覚えながら、寝乱れ髪をかき上げる。どこか熱に浮かされたような感覚で、体がだるい。流れ落ちる水流で全身の汗を洗い落とすうちに不快感はなくなったものの、未だ頭は重く考えもまとまらない。

 

――これが私のギアス。

 

 無意識のうちに押さえていた左目。

 ギアス。

 その力を手にする誰もが幸福を求めて、しかしあまりにも多くの不幸を生み出した人の身には過ぎたる王の力。

 昨日まで光を失っていくだけだった左目には、ジクジクと疼く様な熱と確かな力を感じる。

 今の自分の中にある昨日まではなかった何かと、それを使うことができるという確信がある。

 

「……これでお揃いですね、お兄様。私たちは兄妹揃ってどうしようもない嘘つきで、殺戮者で、人の道を踏み外した外道です」

 

 左目の熱がそのまま溶け出したかのように興奮で震える声で、地下で眠る兄に話しかける。

 昨夜、力を与えられたと同時に発動条件は理解した。C.C.のシャワーが済むのを待つことすら惜しく、速やかに眠りについたのはそのためである。睡眠を鍵とする発動条件は兄のそれと比べれば随分と内向的なものにも思えるが不満はない。仮に兄と同じ力を得ていたとしても、それでは無用の長物となったに違いない。わずか一夜、たった一度の使用をもって、ナナリーは手に入れた力を自分にこそふさわしいものと自負している。

 生者に命じて叶える願いなどあるものか。この嘆きと喪失感を誰が鎮めることができよう。

 

「さあ……やり直しましょう」

 

 なるほどたしかに、この力は異常だ。常識も道理も捻じ曲げて壊してしまう。崩してしまう。

 垂れ落ちる水滴に構わず鏡の前に移り、額を押し付けるように顔を近づけた。

 現実を遠ざけて濁った右目、異なる理に輝く左目、弧を描いて吊り上がった口元。

 思い描いたとおりのおぞましい顔の女が、早く早くと夜を待ち望んで覗き込んでいる。

 

 

 ナナリーにとって、賑やかとは言わないまでも誰かと囲む食卓というのは、随分と懐かしいものに思われた。

 C.C.にはナナリーの服を着させている。少なくとも魔女が身につけていた着古した衣服よりは着心地は良いはずとの気配りから提案したのだが、10年間という月日、美しく華々しく実った元皇女の成長が、胸元の生地の余り具合という形で如実に明らかになっていた。

 無駄に余った脂肪、そのうち垂れるから覚悟しておけ、いらぬところでマリアンヌに似て私は悲しいよなどと口を尖らせる様子は、外見相応に少女らしい。

 まさか永遠の魔女がこんな顔をするなんて。

 思わず口角を上げるナナリーにますますへそを曲げた魔女が勢い良く椅子に腰掛けてそっぽを向いてしまったので、それを宥めること数分。給仕が次々と運び込む料理にはしっかりと目が行くようで、ピザはないのかとの催促が出る頃にはすっかり元通りの魔女だ。

 またのお楽しみにしてくださいと微笑んで、日本式に則って食前に手を合わせ、2人揃っての朝食。

 温かい食事が恋しいとは思わなくなって久しくとも、今日の食卓は暖かい。

 

「太るぞ」

 

「ご心配なく」

 

 病に臥せってからはおよそ考えられなかったほどの空腹感に任せて、料理に手を付けていった。目を丸くする魔女には気付いていたし、給仕の者達もさぞ驚いたことだろう。

 食後、テラスに出て、こちらはナナリーが手ずから用意したお茶をC.C.に振る舞うと、彼女は懐かしげに目を細めた。聞けば、所作がどこか兄に似ているという。単純なもので、たったそれだけのことでも、年に見合わぬほど頬に朱が差す。

 おかわりは、と尋ねても魔女が首を横に振るようになったので、自分の分も空にして、ナナリーは庭に目を向ける。ぼやけた視界に滲むように映る庭園。空と木々の境目を白く細い指でなぞっていく。

 昨夜の夢と同じ庭だった。そっくりそのままとはいかないが、美しい庭園を夢の中に取り込んでいたように思える。

 かつてこの場所で、幼い少女が走り回り、陽光に目を細め、色とりどりに咲き誇る花を愛でた。

 そばにはいつも優しい兄がいて、少女のそれより濃く澄んだ紫色の双眸で、彼女がどこに行こうとも追いかけてくれた。走り回る勢いそのままに飛び込んだ兄の体は、少女より幾分かは大きかったけれど、未だ少年と呼ぶには幼く、華奢で暖かかったことが思い出される。

 懐かしい記憶。愛おしい記憶。

 2人きりの兄妹の記憶。

 

「でも……私が知らないところで、お兄様には弟ができていたのですよね」

 

「ほう。会ったのか、あいつと」

 

 首肯すると、魔女は意外だなと呟いた。ナナリーもまた同じ気持ちだ。

 ロロ・ランペルージを、彼女はまだよく知らない。ナナリー・ランペルージが抜けた空白を埋めた偽りの存在は、ナナリーのためだったはずの何もかもを手に入れて、そのまま返してくれることなく動乱の闇に消えてしまった。

 

「知らなくてもよい方だと……知らないままの方がよい方だと思ってきました」

 

 思って、思い込ませて、考えないようにしてきた。

 ゼロレクイエムの後、エリア11の総督として過ごした間の『ナナリー』が過ごせなかった空白の日々を埋めたいという気持ちは、狂おしいほどに強く胸を焼き、その焦りは喪失感を何倍にも膨らませていた。

 そんな中で招いたミレイやリヴァルが語ってくれたルルーシュとロロの仲の良い兄弟としての姿や、見せてくれた生徒会の日々の活動の写真は、ひどくナナリーを傷つけていた。兄を失ったナナリーに少しでも思い出をくれるために彼らが良かれと思ってそうしてくれていたことは、彼女自身も今となっては理解しているし、感謝もしている。

 しかし、ルルーシュに自分の代わりとなる存在がいたこと、本来一身に受けられるはずだった愛が自分以外の誰かに注がれたことは、弱りきっていたナナリーをさらにひどく打ちのめした。

 

「嫉妬していましたし、恨んでいました。――いいえ、もしかしたらそれ以上に恐れていたのかもしれません。知りたくもなかったというのが本音です」

 

 10年前に見上げた真昼の花火を思い出す。

 それは兄が願った、脆くて鮮やかな日々。きっと誰もが帰りたかったはずの賑やかな日常。揃うべき者たちが何人も欠けたあの花火で満足してはいけないとナナリーは思う。

 届かないかもしれない場所にもう一度手を伸ばそうとしていた兄に代わって、今度こそ取り戻せばいい。それができるだけの力は与えられたのだから、嘆きだけを抱く必要はもうない。

 

「それでも、お兄様が望まれるなら、私が……」

 

 空になったカップをソーサーに戻すことなく手の内で弄びながら、C.C.はカップの底に僅かに残った水滴を追っているようだ。あの兄にしてこの妹ありか、と呟く声が聞こえた気もするがナナリーは無視することにした。朝の陽光を弾いて輝く鮮やかな髪は若草よりも眩しく、この姿を見て誰が彼女を魔女と呼ぶだろうとあらぬことが頭に浮かぶ。

 

「坊やもそうだったな。私が会いに行った頃には、自分ひとりで実験まで重ねていて何とも可愛げがなかった」

 

「お兄様ですから、当然です」

 

「よくできた兄妹で、お似合いだよ、お前らは。さて、聞きたいことがあれば教えてやるとは言ったが、必要はなさそうか?」

 

 愉快そうな魔女に対して、ナナリーは首を横に振る。

 言葉にしながら改めて思考を整理して、ロロに対する感情が言葉にできるほどに落ち着いていることは分かった。未だ燻ったままの思いには、大事の前の小事と蓋をせねばならない。協力を仰げるならば素直に頼るべきだろうと考えて、口を開く。

 

「今夜、もう一度ロロさんと会おうと思います。いいえ、必要なら何度でもそうします。ですが、少し困っていることがあって……」

 

「相談してみろ、優しい優しいこのお義姉様に」

 

「あの方も私のこと嫌いなんです」

 

 今度こそ、魔女が声を上げて笑った。ナナリーにとっては切実かつ危急の真摯な懸念事項だというのに、失礼極まりない。

 冷ややかな視線を物ともせずたっぷりと笑った後、カップをソーサーに戻して立ち上がったC.C.は、軽やかに手すりを乗り越えて庭の芝生に降り立った。くるりくるりと踊るように数歩進んでから振り返り、未だテラスから不満げに見下ろす女に向かって片手で銃を形作る。

 

「お前もロロも必死になりすぎているんだよ。欲しいものは2人で1つ。だからといって、それは奪い合うものか? 私たちが愛する男は不器用だが、その実、強欲な男だ。お前もいい女になりたいなら、男の我儘に目を瞑ってやれ」

 

 夕食までには帰るからピザを用意しておいてくれ、と締まらない捨て台詞を残して、魔女は庭園を横切ってやがて木陰に消えていった。ピザを求めてか、あるいは炭酸飲料の味でも恋しくなったか、街に出ていくつもりなのだろうが、理由はそんなところだろうと当たりをつける。

 ため息を付いて、ナナリーは手元の鈴を鳴らした。すぐに現れた使用人に茶器の片付けを頼み、自らは着替えてから散歩に出る旨を伝える。付き添いには旧知の従者を指名し、部屋で身支度を整えて玄関口に降りた頃にはメイド服の女が丁寧にお辞儀をして待機していた。

 

「おはようございます、ナナリー様」

 

「おはようございます、咲世子さん。よろしくおねがいしますね」

 

 杖を突きながらの歩みは遅いが、柔らかい日差しと冷たい風が心地よい。疲れ果てて夢も見ないほどに熟睡してしまっては元も子もないが、適度な疲労は溜めておきたかった。そして、あくまでこちらはついでだが、やはり朝食を取りすぎたようにも思うので、余計なお肉が付かないようにもしておきたいと思う。魔女が羨む体型も、その維持は楽ではないのだ。

 アリエスの庭園は一息に歩くにはやや広すぎる。途中、休憩を取ることにした四阿で、ナナリーは咲世子にC.C.が出かけたことを話し、咲世子からは、不躾にも夜半に訪れた魔女を招き入れたのは咲世子だったとの事後報告を受けた。

 身体に引きずられて心まで病み始めたとあって、さぞ彼女には心配をかけていたことだろう。他人の心に触れることができるにも関わらず、気を配る余裕はまったくなかった。

 

「咲世子さん、ありがとうございます」

 

 咲世子の手を両手で包み込む。僅かに戸惑った様子だったが、咲世子もまた屈んで目線を合わせ、空いている手を重ね返してくれた。鍛えているはずなのに柔らかさを損なわない手の感触が、10年前と変わらず優しい。

 違うのは、成長したナナリーには咲世子の手を十分に包んであげることができるようになったこと。生真面目な彼女は、ふっと姿を表した気ままな浮浪者を主の許可なく通した罪悪感を感じていたのかもしれないが、いらぬ心配だ。

 

「本日はお身体の調子も良いようです。もう半分、頑張りましょう」

 

 咲世子には、今のナナリーが活力に溢れているように見えるのだろうか。

 瞳の奥で澱むこの凝りがはたしてそんな前向きなものなのかどうか、ナナリーには分からない。左目から広がって全身を高揚させるこの熱も、身体機能に作用してはいないはず。病んだ体は病んだままだ。

 

「咲世子さん、昔、私に折り紙を教えてくださったことがありましたね。願い事が叶うという……ええと」

 

「千羽鶴ですね。ナナリー様はとても丁寧でお上手でしたから、教えがいがありました」

 

 当時、不在がちで帰りが遅くなることも多かったルルーシュに寂しさを感じて、何か2人で時間を共有できるものがないかと咲世子に相談したのだった。たった1枚の紙から様々な形の物が出来上がるというのが、とても不思議で楽しかったことを覚えている。

 試みは大成功で、兄と楽しい時間を過ごすことができた。何でも知っているルルーシュにナナリーが何かを教えてあげるということも新鮮だったし、折り紙を折っている間はずっとそばに居てくれるというのがよかった。

 器用な兄にしては意外にも度々折り方が分からないと言ってナナリーに尋ねてきていたのだが、今になって思えば気を遣い過ぎるくらいの気遣いだったに違いない。無論、当時のナナリーはそんなことには気付きもせずに、嬉々として広いテーブルでルルーシュの隣に陣取って、文字通り兄の手に自分の手を重ねて折り方を指導していた。

 そして、気恥ずかしくも幸せな2人の記憶に、千羽鶴は欠かせない。

 

「そう、千羽鶴です。千羽も折るのは大変なことでしょうけど、私また始めてみたいのです。咲世子さんさえよければ、また教えていただけませんか?」

 

「な、ナナリー様っ!」

 

 両手を包む暖かさにきゅっと力が込められた。見れば、咲世子は感極まったと言わんばかりに涙を浮かべている。驚いて手を引っ込めようとしたナナリーを逃がすまいと、咲世子の手が痛いほどの力で捕まえて離さない。

 

「弱気になってはいけません! ナナリー様のご病気は難しいものではあっても、まだ治らないと決まったわけでは!」

 

「え、え?」

 

「病は気からという言葉がございます。お気をしっかりとお持ちください。ナナリー様がそのようなご様子では、私は陛下に合わせる顔がありません」

 

 そういえば、とはたと思い出す。

 千羽鶴には快気祈願や生きたいという願いを込める風習があるのだった。ナナリーの現状を考えればあながち間違ってはいないのだが勘違いだ。朝の散歩で生きる死ぬの話をするほど間近に感じてはいないし、理由ができた今では引き伸ばす必要すらある。

 

「あの、咲世子さん。私は千羽鶴にお願い事をしたいんです。私の病も今日明日でどうこうというものではありませんし、ね?」

 

「……申し訳ありません。取り乱しました。」

 

 それからしばらくナナリーの新しい願い事の話をして休憩は終わりとし、2人はまたゆっくりとした足取りで棲家へと戻っていく。穏やかな時間は10年前にもあった散歩の時間を思い出させるが、お気に入りだった学園の散歩道はもう少し短かった。

 

「咲世子さん、夕食はピザにしていただけますか? うんと大きいのがいいと思います」

 

「かしこまりました。ですが、今頃街で十分に召し上がっているのでは?」

 

「昼、夜と続いても、文句を言うどころか大喜びしてくださると思います。ああ、それと」

 

 頬を緩ませた咲世子に、折り紙を早速用意してほしいと合わせて頼んでおく。

 在任中に文化等のレベルで日本との積極的な交流が見られたおかげで、今のブリタニアでは折り紙の入手もそれほど難しくない。早ければ今夜からでも取り組めるはずなので、夜の楽しみがまた1つ。

 汗を流しながらも懸命に、そして楽しげに歩くナナリーを、咲世子もまた微笑んで見守っていた。

 

 

「話してやってもよかったと私は思うがな」

 

「もちろん、咲世子さんは最も信頼のおける方の1人です。ですが、私のギアスをどう説明せよと?」

 

 ベッドに飛び込んだC.C.は、夕食でも巨大ピザにありつけたとあって上機嫌だった。そのままゴロゴロと転がって端から端まで行ったり来たりを繰り返しながら、どこから持ってきたのか黄色の巨大なぬいぐるみを抱え込んでいる。

 

「昨日の夜、ロロさんと話しました。今夜も話します。大丈夫、きっと説得しますから――まあ、なんてひどい世迷い言ですこと。いよいよ気が触れたと思われてしまいます。ただでさえ、咲世子さんはナーバスになっている様子なのに」

 

「あれはそんな神経の細い女じゃない。ただの天然だ」

 

 なんでもチーズ君なる名前のキャラクターらしいのだが、ナナリーにはまるで馴染みがない。お前にもやろう、と手のひらサイズの小さな人形を土産に手渡されたが、いまいちナナリーの琴線には触れなかった。

 昼食、夕食とピザに溺れたような身体で、使用人たちが完璧な仕事をして整えたベッドを荒らさないでもらいたいものだが、眉をひそめるに留める。C.C.様のご機嫌取りには陛下もたいそうご苦労されていました、とは咲世子の弁で、ルルーシュを通じて繋がった2人の関係が親しかったことを伺わせたのだが、彼女が柔和な表情で話しながらも、その眉尻を下げていたことをナナリーは見逃していなかった。

 

「昨夜、お義姉様から私もギアスをいただきました。私のギアスは、死んだ人を使って過去を捻じ曲げるギアスです――ほら、簡単じゃないか。小難しく考えるなよ。坊やのように眉間に皺を寄せ続けるつもりか?」

 

「そこまで都合のいいものでもないことはあなたも分かっているでしょう」

 

 ギアスについて、ルルーシュから最低限の知識は与えられているであろう咲世子に話すことに支障はなく、信を置いてもいるが、兄のそれと比べてナナリーのギアスは実証が難しく、些か以上に突飛だった。

 死人を使う。過去を捻じ曲げる。

 荒唐無稽にも程があり、一笑に付されても致し方ないような話に思える。

 

「お前が手に入れた力は、私が知るかぎりでもなかなか特殊だ。そういうところも、マリアンヌ譲りと言えるかもしれないな。とはいえ、お前自身の素養がなければまるで意味をなさないものとして終わるだけだったが」

 

「……お母様の話も、あまり聞きたいものではなくなってしまいましたね。私の知るお母様は優しくてお美しい方でしたし、閃光のマリアンヌの逸話には今でも胸が高鳴りますけれど」

 

 父と母が、存在さえ知らなかった叔父が、そして目の前の魔女が叶えようとし、兄が否定して阻んだその願い。世界が至る新たな姿を理想とする父母らの気持ちを理解できないナナリーではなかった。むしろ、その場に立ち会ったのがルルーシュではなく自分であったなら、受け入れてしまったのではないかとすらナナリーは考えている。

 だからこそ、あまり聞きたくないのだ。自らの容貌が母のそれに次第に近づきつつあることさえ、誇らしくも忌まわしい。

 

「それにしても、『死人を使う』なんて言い回しはやめていただきたいですね。ネクロマンサーじゃないんですから」

 

「似たようなものだと私は思うが。死者を縛り付ける行為に違いはなかろう?」

 

 断じて違う。ナナリーは憤慨した。

 ナナリーには、手に入れたギアスを使って死者を玩弄する意思など欠片もない。双方合意の上でその力を行使すると決意しているし、ナナリー自身も望む結果――この表現が正しいかは別として、過去を得られないようではそもそも意味がない。そのための条件として、当然ながら対象は選別するが、その先は互いに自由意志で交渉するだけだ。

 嫌な笑いを浮かべる魔女にはせめてもの抵抗として抗議の視線を送ったが、通じないのは百も承知。実力行使とばかりに、ベッドの端まで転がってきた彼女をそのまま引きずり落として、代わりに自らがその場所に上がり、柔らかいシーツに身を委ねる。床に落ちた拍子に上がった無様な声で良しとしようと決め、抗議の声を遮るように口を開いた。

 

「どうぞ、C.C.さん、ご退室を。私はもう休みます。時間を有意義に使いたいので」

 

「……ナナリー、覚えておけよ。いつかお前も同じ目に合わせてやろう」

 

「そうですか、結構です。シャワーをきちんと浴びてから休んでくださいね、ニオイ移りが心配ですから」

 

 おやすみなさい、と打ち切ってシーツを頭の上まで引き上げて意思表示をする。ガミガミと抗議の声が一頻り文句を並べ立てた後、足音が部屋の出口の方へ向かい、灯りが落とされたのをナナリーはシーツ越しに透かし見た。

 

「私、がんばりますね。C.C.さん」

 

「……ああ。仲良くしろとは言わんが、少し冷静になって向き合ってみろ。ロロもお前とそれほど変わらない。アイツの事が好きすぎるだけだ。おやすみ、ナナリー」

 

「はい、おやすみなさい」

 

 たしかに、仲良くはできないだろう。

 血の繋がった本物の妹と血の繋がらない偽物の弟。肩書だけなら間違いなく優位のはずの自らの妬心は、しかしあまりにも抑えがたい。自覚があっても如何ともし難いのが愛憎の情であって、自らの内にあるそれに振り回されることを苦痛とは思わない。あまりにも甘美で鮮やかな毒だった。

 

 

 目を開けたとき、そこに天蓋はなかった。

 それどころか、ナナリーは横になってすらいない。赤色の豪奢な衣装を身にまとい、杖を必要とすることもなく、その両足でしっかりと立っている。

 目の前には美しく整えられ、濃淡様々な草木と様々な色合いの花々に彩られた庭園。立っているのは今朝方に休憩場所として利用した四阿であり、眼前に広がる景色は今は僅かともぼやけてはいない。はっきりと細部まで見通すことができる。庭園の末端、遠くにありえないものが見えた。

 アッシュフォード学園と、併設されたクラブハウス。

 それらはブリタニアから遠く日本がエリア11であった頃に存在し、そして数年前に取り壊されたはずの建物だった。かつて過ごした学び舎は遠目でも一目見ただけでそれと分かる。

 熱いため息が漏れた。ここは、思い出深い好きな場所だけを寄せ集めた都合のいい箱庭なのだ。

 

「随分と遅いご到着じゃないですか。人をこんなところに閉じ込めておいて」

 

 振り返らずとも分かる冷たい声だった。

 会話を言葉のキャッチボールと言い表すことがあるが、これではボールですらないとナナリーは思う。

 

――差し詰め、投げナイフといったところでしょうか。

  暗殺者にはふさわしいでしょう。

 

 やはり、この男と同席し、対話までせねばならないというのはあまりに気が重い。

 振り向けば、1人の少年がベンチに腰掛けてカップを片手に紅茶を楽しんでいた。

 薄い茶色のふわふわと柔らかそうな髪の毛は短いが、整った顔立ちや全身の線の細さと相まってどこか少女的な印象さえ与える。

 

「連日、皇女殿下のお目にかかれるとは恐悦至極の次第ですが、やれやれ、望まぬ拝謁に僕はどのように喜びを歌い上げましょうか」

 

「私は、つまらない詰り合いに時間を使うつもりはありませんよ、ロロさん」

 

 茶菓子に伸ばしていた手を止めて少年、ロロがナナリーを視界に入れた。

 冷たく無感情なその視線を受け止めて、ナナリーも睨み返す。10歳も年下の少年を相手に採る対応として適切かどうかは、人目のないこの場においては棚に上げ、再び余分な罵倒が始まる前に口を開いた。

 

「前向きな話をしましょう。私とあなたにしかできないことの話を」

 

「死人を叩き起こして、何の世迷言ですか」

 

 小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、少年が肩をすくめたが無視する。挑発のためだけのポーズに構うつもりは毛頭ない。

 

「私は、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアを取り戻します」

 

「はい?」

 

「ロロさん、あなたにはその手伝いをしてもらいます。拒否は許しません。あなたが本当にお兄様の弟でありたいと願うのなら、私の手を取る以外の道はありません」

 

 困惑した様子のロロに、手を差し伸べる。視線に込められた不信の色合いが一層濃くなった。

 構図は、昨夜のC.C.とナナリーのそれに近い。

 しかし、ナナリーは契約を持ちかけるつもりはない。絶対遵守の力は持たずとも、その身に流れるのは王の血筋。悠然と高らかに下賜するのみである。

 

「ナナリー・ヴィ・ブリタニアが許します。あなたに世界を変える選択を」

 

 

 

 

 

 




メインタイトルに「コードギアス」を追加しました。
タグについては、まだ不慣れなので、適宜修正すると思います。


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3_Another

 目の前に、人が落ちてくる。

 見目麗しい男だ。支えを失って、派手に頭や肩をぶつけて無様に回転しながら倒れ込み、滑り落ちてくる。

 割れるような悲鳴と歓声の中でも衣擦れの音がはっきりと聞こえ、滑落するその姿をはっきりと目に捉えた。その光景は、どこか遠い世界の出来事のようにも思えるほど、時の流れが遅い。

 目を焼くような眩しい豪奢な白の衣装を、胸の中心から溢れ出している赤色の液体がじっくりと侵していく。

 男は、見覚えのある顔をしていた。

 人殺しの顔だった。

 以前見たときにはもっと冷たい印象を受ける表情をしていたはずだが、今目の前に横たわるその顔には、不思議と穏やかな色しかない。

 痛くないのだろうかと、間の抜けたことを思った。そして、美しいとも。

 ぴちゃり、と。

 抜けるような青空の下なのに、頬を打つ雫があった。おや、と目の前の美しい誰かから視線を外して、見上げる。

 仮面だ――黒い仮面の男がいた。

 その右手には鍔が華美に飾り立てられた装飾剣が握られている。その剣で、この人の胸を刺し貫いたのだ。その瞬間も間違いなく見ていたはずなのだが、記憶が曖昧になっているのかもしれない。こんなときに呆けていたのだろうかと、どこか他人事のように呆れながら頬を拭うと、指先が赤く濡れた。

 再び視線を横たわる男に戻す。先程までよりも、胸の赤色は更に大きくなっていた。指先に擦りつけたのと同じ色だ。

 

「お兄様」

 

 騒々しい中でも嫌にはっきりと響いたので、誰の声だ、と思ったが、何の事はない。自分の声だった。

 口をついて出たらしい言葉に首を傾げる。

 すらりと伸びた肢体は投げ出され、黒い髪は乱れている。かろうじて開いているだけの瞼の奥に、濃い紫色が見えた。生気のない顔にはどういうわけか安らかな笑みが浮かんでいる。

 

「お兄様……?」

 

 出来の悪い夢だ。

 この男がなぜここに倒れているのか、まるで理解できない。

 唯一皇帝ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。

 覇王となった彼は、圧倒的な知力と武力で、高みから民を睥睨し支配する存在のはずだ。今は、その権威を示すパレードの真っ最中で、怨嗟の声で喝采を叫ぶ民草に対し、彼は笑んで手を振っていたのに。

 なぜその男が、今目の前で血を流して倒れているのか。

 

「あ……?」

 

 震えている手を目の前に横たわる身体に伸ばす。

 まず、その胸元。手のひらにべっとりと生暖かい液体がまとわりついた。このまま指先に少し力を込めれば、その細い体の奥深くまで沈めてしまえるだろう。吐息と鼓動が耳障りなほどにうるさい。濡れた手で拳を作ると、指の隙間から赤い色が溢れ出して、ぐちゅりと不愉快な生々しい音とともに零れ落ちる。

 次に衣服。溢れて広がり続ける湿り気で、もはや上半身の半分以上がその色を変えていた。この細い体にもこれだけの液体が詰まっているのだと思うと、不思議な気持ちになる。よく見れば、剣の刺突は男の背中まで串刺しにしていた様子で、背中側からも溢れて豪奢な衣装を濡らし、水溜りのように床面を濡らして広がりつつあった。

 そして、力なく垂れ下がった手に目が行く。

 この手だ。この手が、ダモクレスの鍵を奪ったのだ。世界を平和にするため、何もかもを捨てる決心までしていたというのに、全て打ち砕いていった手だ。白く綺麗に見えても、この手はあまりにも多くの人の血に染まった手なのだ。

 躊躇いはあったが、赤く染まった手でその細い手首に触れる。最初はほんの指先だけ。そこに体温を感じた瞬間に、しっかりと手のひらを触れさせた。

 

「……え」

 

 何かが流れ込んでくるとしか表現できない不可思議な感覚だった。

 直後、頭のなかに途切れ途切れの様々な映像が浮かび上がっては消えていく。

 この世のものとは思えない砕かれた場所に、知っている顔が1つと知らない顔が2つ。その全員の声を知っている。

 次に見えたのは、暗く広い玉座の間で向かい合う2人の男。手渡される仮面、忌まわしい力に救いを願いながら、交わされる呪いの約束。

 更に遡り過去へ、過去へ、過去へ。最後に見えたのは、小さく暗い土蔵にあった確かに幸せな世界。

 

「あ、あ――ああぁぁあああああ!!」

 

 誰かが叫んでいた。

 誰もが叫んでいた。

 その中心で、更に1つの叫び声が上がったとしても、それは誰の耳にも届かない。

 だから、叫んだ。

 わずかでもいい。その目が閉ざされてしまう前に、伝えなくては。本当の気持ちを、本当の思いを。

 何もかも遅いことは、どこかで分かっていたように思う。両手でしっかりと掴んだその手には、もう何の力も感じない。それどころか、温もりさえ急速に失われていく。

 

――いやだ。いやだ、いやだいやだいやだ。

  こんなものはおかしい。間違っている。ありえない。あってはいけない。

 

 夢なら覚めてほしい。

 こんなことを誰が望んだ。こんな結末を誰が欲した。

 あなたが叶えるべき願いは、こんな悲劇ではない。

 もっと小さい世界で、もっと温かくて、もっとささやかなものだったはすなのに。

 

 熱が消えていく。

 命が流れ出ていく。

 そうだ。

 こうして、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアは、唯一最愛の彼は――

 

 

 

 Another

 

 

 

「……頭が痛い」

 

 時間停止、絶対遵守――身近であったいずれのギアスにもかかったことはない。前者は使用者に作用しないものであるから、後者はその機会がなかったから。使われたことを覚えていないとは考えない――考える必要がない。だから、この頭痛がギアスの後遺症なのかどうか、判断がつかない。

 めまいに耐えかねて視界を閉ざし、そのまま膝をついてしまった。眉間に指を押し当てて揉んでいるうちに耳鳴りは収まってくる。大きく深呼吸をして、左手の指から順番に動かして感覚を確かめていく。

 

「嚮団の訓練で耐性は付けていたつもりなのに……」

 

 悪いのは、あの性悪の元皇女殿下だ。

 めまいが落ち着いたところで、ゆっくりと立ち上がる。手足に震えはない。目を開ければ、太陽の光に一瞬だけ白く視界を灼かれてから、少しずつ色がついていく。そうして、身を包む服装にも目が行くと、見慣れた黒い制服であることに気がついた。

 あたりを見回して再認識する。

 

「アッシュフォード学園、ね。幻覚か、催眠か……何にせよ、本当にギアスなのか」

 

 手足の感覚ははっきりとしたもので、自由に動かすことができた。全身で陽光を感じ、髪を揺らす風もはっきりと感じられる。

 首筋に鈍痛を感じ、手を当ててみると少し腫れている。痛みの質から考えても、明らかな打撃の痕跡。

 

「覚えがある場面だけど、ということは咲世子は……」

 

 血溜まりを広げるメイドの女。痛々しい切創が切り破られた服から覗いている。

 うめき声が漏れているが、意識はないらしい。頑丈な女だが、肩口から腰まで切り裂かれては命にかかわることは明らかだ。懐から携帯端末を取り出して、直ちに指示を飛ばす。

 

「すぐに医療班を。重傷者1名、肩口から腰にかけて大きな刀傷です。出血がひどいので、急いでください」

 

 通信を切り、空を見上げる。

 抜けるような、あるいは吸い込まれそうな青色。こんなに晴れていたのだったか。絶好のデート日和というやつだろうから、あの女はさぞ楽しい思いをしているに違いない。

 端末を操作し、今度は機情に指示を出してヘリを用意させる。

 例え無駄足であることを知っていたとしても、兄の元に一刻も早く向かわねばならない。ロロがロロ・ランペルージであるために、その選択は絶対だ。

 目前では、駆けつけた医療班が負傷者の対応に当たり始めた。咲世子もまた応急処置を済ませられ、搬送されていくのを見送る。あれほどの重傷から僅か数日で復帰するのだから、東洋の武術もバカにしたものではない。

 

「ロロ様、ヘリの用意を急がせております。こちらへ」

 

「分かりました。対応は僕1人でしますから、戦闘員の同行は不要ですよ」

 

 差し出された拳銃と防弾ベスト、ヘッドセットを受け取り、局員に続いて踵を返す。

 この襲撃では、少ないながらも犠牲者が出た。襲撃者は、実直で忠義に厚い男だが、加減というものを知らない。人資源は丁寧に使ってもらいたいものだった。

 ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアはこの日、駒を手に入れる。そして、1つ日常を失って歯車が狂い、タガが外れていく。

 兄を殺したのはーー最悪のシナリオを選ばせた決定打がナナリーの死だったことは、間違いない。

 しかし、その下地は長い時間をかけてじっくりと形成されてきたのだろう。中でもとある少女の死が、ルルーシュにとって、二度目にして取り返しのつかない喪失となった。

 間違いを犯したとは、ロロは今をもってなお考えていない。

 殺人は日常だ。敵意も悪意も殺意も、そんなものは空気と何も変わらない。常に共にあり寄り添ってきた、何よりも親しんだ隣人だ。

 命令があれば殺す。速やかに殺す。

 だから、ロロを殺しかねなかったのは、むしろ学園の方だった。殺人ではない、監視役という中途半端な任務で飛び出した日向の世界は、日陰者には劇薬でしかない。

 緩みきった空気に肌がひりついた。

 賑やかな笑い声で脳が揺られた。

 同年代らしい彼らが戯れる姿に目が焼かれた。

 日々の授業や、放課後の生徒会活動は、体に染み付いた技術を抑え付けた。

 

『――ロロ?』

 

 そして、この男が、ロロを後戻りできないほどに壊してしまった。

 

『どうした、何があった? おい、ロロ』

 

「……兄さん、気をつけて。咲世子がやられた。狙いは兄さんだ。僕もすぐ向かうけど、なんとか時間を稼いで」

 

『咲世子が……? どういうことだ、説明しろ』

 

 愛おしいと思う。

 この電話の先にいる兄が自分を愛していないのだとしても、この気持は変わらない。

 言葉を選びながら事情を説明していたつもりが、伝えられたのは初めてのときと変わらない内容だった。用をなさないとは分かっている警告を発して、通話は終了する。

 

「――大丈夫、安心して。何度だって、兄さんは、僕が守るよ」

 

 思いが本当に届いたのが自らの最期だけだったことは、分かっている。そして、それでかまわないと思っていた。ルルーシュに思いが届くことは既にそうして証明されているのだから。

 

 

 ロロ・ランペルージは絶句した。

 停止したエスカレーターを駆け下り、煙幕が残って視界が不明瞭なフロアに辿り着くまでは経験済み。

 相対するは、似合わない拳銃を震える手に携えた一人の女。華やかな美しさはないが、年相応の純粋な可愛らしさを備えた生徒会のメンバー。先日のとあるイベントで、晴れて兄の恋人ーー無論、ロロは認めないーーと相成った純真の少女。

 ーーの、はずだった。

 

「私ね、やっぱりルルが好き」

 

 シャーリー・フェネットは、確かにそこにいた。

 手足には細かい擦り傷や切り傷が目立ち、衣服は埃や土で汚れている。頭髪は乱れ、興奮して上気した頬を汗が伝い、メイクも崩れかけているが、視線はロロを捉えて離さない。

 

「今の私の気持ちはそれで、全部なんだ。私はルルが好き。私は、ルルを、あ、あ、愛してる……!」

 

「……。そうですか。僕も兄さんが好きです、たった1人の兄弟ですから」

 

 本来ならば、この場で、ロロは彼女の言葉など無視してギアスを使う。シャーリー自身が持ち込んだ拳銃で、腹を撃ち抜いて殺してしまうだけだった。その後は、ジェレミアを配下に取り込んだルルーシュと合流する。

 ルルーシュが嚮団を壊滅させるとの方針を語ったときには面食らったが、急な方針の変更の原因はシャーリー・フェネットの死にあったのだろう。

 

「ロロは、ルルと一緒になって何をしてるの? 何を、どうしたいの?」

 

 考える時間は、いくらでもあった。

 ロロにとって、変わらないはずのものを変えた存在が、ルルーシュだった。初めてできた「家族」の絆が、今なおロロを虜にさせている。

 ルルーシュにとって、シャーリー・フェネットは特別な存在だったのだろう。

 彼女から向けられる恋慕の情に対して、ルルーシュがどう向き合っていたか、ロロは知らない。

 しかし、知らなくても、考えることはできた。知らなかった感情を、今ならロロは理解している。

 

「なぜ、僕があなたにそんなことを話さなければならないんです」

 

「必要なことだから。ちゃんと、間違えないようにしたいから」

 

 ロロの一挙手一投足も見逃すまいと、シャーリーは一瞬たりとも目を離してくれない。

 無論、ロロのギアスを前にすれば、そんなものはささやかな抵抗ですらない。体感時間が止まってしまえば、見るも動くもなく、無力に停止するだけだ。動かない案山子を相手に撃ち損じる距離ではない。

 

「私はね、ルルに幸せになってほしい。だから、一緒にいたい。たくさんの大事なもので、ルルを幸せにして、守ってあげたい。だから、ナナちゃんも一緒に――」

 

 頭に血が上っていることを、ロロは自覚していた。それでいて、しかし止まることはなかった。

 ギアスを発動させた。一瞬の出来事だ。身に余る決意を滔々と語ってくれた、幸せで可哀想な普通の女には、知覚すらできなかったことだろう。

 これでは、まさしく二の舞いだ。何も変わっていない。後は拳銃を奪い取って、きちんと臓器を破壊するように腹部を撃って、もう一度彼女に握らせるだけ。そっくりそのままの再現。どうせ、そうなるだろうと思っていたのだ。

 

「――きっと一緒にいなくちゃいけないの!」

 

 体感時間停止のギアスは使った。だから、彼女の時は止まらなければいけない。捻じ曲げたとはいえ、それが道理。後は、始末をつけるだけのはずだった。

 

「僕は、兄さんの傍にいたい……。なのに、あなたは僕の邪魔をしようとしている。だから、仕方ないんですよ」

 

「違う! 違うよ、ロロ。私は、ロロにも……!」

 

 しかし、できなかった。

 『どうせ、そうなるだろう』と、ロロは思っていた。きっと、シャーリー・フェネットを殺すことになると。

 違う道を通れば、姿を見せなければ、別の言葉を交わせば、無視すれば、殺さない選択肢を選び得ても、きっとそうする。彼女を殺す。それで良しとしていた。

 

「だったら、何なの、それは――その手は……!」

 

 だが、こう考えることはできなかっただろうか。

 『どうせそうなるだろう』と考える人間が、もう1人いると。シャーリー・フェネットは、今日この場でロロ・ランペルージに殺されると、そう考える人間はまだ他にもいるのではと。

 

「え、あっ。いや、こ、これはねっ……」

 

 無理だ。

 だってそんなものはいないはずだった。人生に二度目はないはずだ。やり直しは効かないはずだ。

 あの性悪皇女は、こんなことは一言も言っていなかった。

 

「――なぜ、兄さんがここにいるんだ!」

 

 真っ赤になった顔であたふたするシャーリー・フェネットの隣で、彼女の手を取り、厳しい視線をこちらに送る男。

 愛しい兄、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが、今もう一度ロロの目の前に立っている。

 

 

 泣いている。

 人目も気にせず、目の前の女は泣いていた。過ぎ去った出来事を嘆き悲しんで。好いた男を思って。

 初めて見る、しかし、知った顔の女であった。

 派手な容姿ではないが、水泳で健康的に引き締まった身体、すらりと伸びた長い手足に白のドレスがよく似合っている。生徒会長の発案で度々行われた催しでも様々な衣装を着こなしていたようだが、なるほど、競泳水着以外のコスチュームを着せてみたくなる気持ちも分かろうというものだった。

 

「自殺です」

 

 暗転して中身を失った額縁が溶けるように消えたのと同時に、女はその場に崩れ落ちた。視線は額縁のあった虚空に固定されたまま、意味をなさないか細い声が半開きの口から漏れている。

 ナナリーは、ベンチに腰掛けたまま彼女ーーシャーリー・フェネットを見ていた。

 懐かしき生徒会の写真に収められたのと変わらない容姿は、彼女が既に時を止めた者であることを示している。妹のように可愛がってくれたシャーリーの年齢を、ナナリーはもう追い抜いてしまったのだ。

 ナナリーは、シャーリーを好ましく思っていた。

 明朗で、誰にでも平等に接する彼女は、足が不自由な盲目の少女にもとても親切にしてくれ、名誉ブリタニア人の学園編入の折には、学園に馴染むきっかけにもなってくれた。

 同時に彼女に対しては、もどかしいという思いが同居していたようにも思う。

 親しい友人で、彼女がルルーシュに向ける好意に気付かない者などいなかっただろう。当の本人でさえ、おそらくは。

 当時のナナリーにも、生活の多くを自分のために捧げるルルーシュに人並みの青春時代を送ってほしいという思いがいくらかはあった。しかし当然ながら、有象無象を兄のパートナーと認めるわけにはいかない。お相手候補の多くが妹とメイドによる厳格な審査で振るい落とされた中、数少ない有力候補だったシャーリーは、しかし乙女に過ぎた。

 端的に言って、奥手過ぎた。

 年頃の少女だ。ナナリーにもその気持ちが分からないわけではなかったのだが、シャーリーにはとりわけ夢見る少女のような面があった。アプローチが足りなかった上に、いつからか始まった『他人ごっこ』のせいでーーごっこなどという生易しい事態でなかったことをナナリーは後に知ったのだがーーついぞ彼女の恋心は成就することがなかったとナナリーは記憶している。

 

「うそ……。スザクくんが、ゼロで……ゼロが、ルルを……」

 

「だから、自殺なのです」

 

 劇場型犯罪という言葉が頭に浮かんだ。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの末路は、劇場型殺人であり自殺だったといえる。

 まさしく、あのパレードは最高の舞台だった。

 主役は救世の英雄ゼロと、悪逆の覇王ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。

 長い時間をかけて準備された演目だった。演者は、居並ぶ群衆や詰めかけたマスメディアを入念に、そして大いに煽り、興奮させ、楽しませた。たった1人の死が世界を一変させる瞬間を、誰もが目撃していたのだ。彼ら彼女らさえ、脇役として演目に取り込まれ、脚本家のしたためた物語の中で踊っていたのかもしれない。

 

「ゼロ……ゼロが……」

 

「手伝ってください、シャーリーさん。私たちで、お兄様を守るのです」

 

 そんな中でも、僅かばかり何名かはその影で舞台を降ろされてしまった。

 降りてしまった。

 空前絶後の大舞台に立ち、台詞を謳い上げた、最後の最後。ほんの数秒、穏やかな表情で微笑んだ悪役を見てしまい、気付いてしまった数人は哀れにも劇場から弾き出されたのだ。優しい幕引き、希望が残る演目を見届けること叶わなかった無粋な彼ら。

 ナナリーはそのうちの1人だった。

 

「ナナちゃん……」

 

 止まらない涙をそのままにこちらを向いた表情と言葉に、近寄ろうとしていたナナリーの足が止まる。

 彼女にとって、自分がまだ「ナナちゃん」であること。

 悲壮な涙の、なんて美しいこと。

 何よりも、ギアスに翻弄され、その生命まで奪われてなお、シャーリーの瞳は純粋な光に満ちていた。その命を奪った力を再び彼女に使おうとしているナナリーを、じっと見ている。

 辛かったはずだ。苦しかったはずだ。痛かったはずだ。怖かったはずだ。悔しかったはずだ。

 そんな何もかもを微塵も感じさせない。

 そこにあるのは、ただ愛した男の末路に捧げる悲しみだけ。

 

「……お兄様を、守りたいんです。自殺なんて許さない。生きていてほしいんです」

 

 そんな風に、ナナリーは綺麗ではいられなかった。必死に生きてきた10年間を、汚れたとは思わない。兄がいない世界で足掻いた時間を、積み上げた成果を誇れる。

 

「私一人ではできません。ロロさんだけにも任せておけません」

 

 それでも、清水を湛えた泉と、泥濘に澱んだ沼だ。

 きっと混じり合うことはないだろう。ナナリーが彼女を応援できたのは、もう10年も前の話だ。

 

「でも、もうルルは……私だって……」

 

「そのために、私がいるのです。私のギアスが、あなたと私をもう一度繋いでくれた。私たちをもう一度、あの頃と繋いでくれる」

 

「……っ」

 

 女はゆっくりと、しかし力強く立ち上がった。乱暴に目元を拭い、自らナナリーに歩み寄ってくる。

 向かい合って立つと、互いの視線は同じくらいの高さになっていた。髪を撫でようとするシャーリーの手をナナリーは受け入れる。時を止めた冷たさではない。今そこにある温かさに触れた。

 

「おっきくなったね、ナナちゃん」

 

「もう25になりました。シャーリーさんのように、スタイルも良くなりましたよ」

 

「うーん……。だめだよ、ちょっと痩せすぎ」

 

 目を閉じても、照れて笑う彼女の声を耳が覚えていた。

 

「よくがんばったね、ナナちゃん」

 

「……はい」

 

 温かい。

 本気で兄を任せてもいいかもしれないと思った女性。

 

「お願い。私も、仲間に入れて」

 

――ああ、やっぱり。

  この人なら。

 

 髪を撫でる手に、ナナリーも手を重ねた。

 兄と同じギアスでなくてよかった。

 

「私もルルを守りたい。ルルの幸せを取り戻してあげたい。だから、自殺なんか絶対許さない。私とナナちゃんで、縛り付けてでもルルを繋ぎ止めよう?」

 

 写真の中で笑っている彼女の顔を何度も見た。

 でも、今目の前にいる彼女の笑顔は、そのどれよりも魅力的で、綺麗だ。

 

「だってね、これは、運命だもん。ちょっとズルしちゃったのかもしれないけど、やっぱり私はルルのことが好きだから。これからもきっと、もっともっと好きになるから。絶対、運命なんだよ」

 

 曰く、恋はパワー。

 どうかそれが、彼に届くものでありますように。

 

 

 




間が空きすぎました。
すみませんでした。
読んでいただけたなら、幸いです。


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4_Promise

 歪な視界で、自分がどこにいるのかを認識した。

 寝具の中で冷えた身体。

 実は死んでいるのではないか、なんて冗談にもならない馬鹿げた考えはベッドの中に残して、目覚めていない身体を奮い起こし、上半身だけで伸びをする。

 なんとも幸いで、不便なものだ。

 人は、簡単には死ねない。

 強くそう望み、行動しない限りは。

 

「――お兄様」

 

 行動したあなたは、ここにはいない。

 

 

 

Promise

 

 

 

 応接テーブルを挟んで向かい合い、シャーリーが勢い込んで話し始めたのは30分前のことで、ルルーシュから補足的な質問を受けながら語り終えたのが、たった今のことである。

 思案顔で腕を組むルルーシュを前に、シャーリーは目頭が熱くなるのを感じた。実のところ、話している最中も涙ぐんでいたのだが、ルルーシュからも今日ばかりは指摘がなかっただけである。

 

「――これで、私の話はおしまい。伝えたいことは、まだたくさんあるけどね」

 

 シャーリーは、ルルーシュの選択が愚かだとは考えていない。

 ナナリーに見せてもらった場景は辛く、哀しいものだったが、ルルーシュが出したその答えを糾弾するつもりはない。正しかったとは思わないし、納得もしていないが、批難はしないと決めた上で、シャーリーはナナリーが見せてくれたそのままを語って聞かせた。

 

「ルルはさ、どう思った……?」

 

「……シャーリーが嘘をついているとは、考えてはいない。ロロの話とも、食い違う点はない」

 

 問いかけの趣旨とはずれていたが、ひとまず「頭でも打ったんじゃないのか」と思われなかったことに安堵する。

 ありのまま話したのは、誠意とは違うのだろうが、そもそも「私は死んで、未来から来ました!」などという自分でも理解できていない突飛な事態を、脚色までして説明する自信はなかったからだ。

 

「確認しておくが、君は、俺がギアスを使ったことを覚えているんだな?」

 

「そうだよ。でも、それは今の話とは別に、今日のデートの前にはもう思い出してたことだよ」

 

 恋人が深く溜息をつく様を見ると、心が痛む。

 今日一日、上の空で様子がおかしかったシャーリーに、彼が気付かないはずはない。それを問いたださないのは気遣いのつもりだったのだろう。記憶を取り戻して恐慌状態だったとまでは、推察できなかっただろうが。

 記憶の復元とは、「ルルーシュのことを忘れる」という命令からの解放だ。

 ルルーシュのギアスーー絶対遵守の命令権。

 

「返しておく」

 

 ルルーシュが拳銃を懐から取り出して、テーブルの上を滑らせて寄越した。シャーリーから取り上げたものだ。シャーリーの手元まで滑り、銃口がルルーシュを向いて止まった。

 恋人の顔はもう俯いてはいない。深い紫の双眸には、シャーリーの知らない光が満ちていて、取れと告げている。

 

「いらない。私のものじゃない。……許すって、言ったよ」

 

「別に、使わなくてもいい」

 

 目が熱くなった。恋人の末路が、今も瞼の裏に張り付いて離れない。

 それを今度はシャーリーの手で招けとでも言うのか。 

 

「君にかけたギアスは消えた。……もう一度、忘れさせることもできる」

 

「っ……! そんなことしたら、本当に許さないからっ!」

 

 そんな言葉には何の意味もないと、身をもって分かっている。この男に言い聞かせるには、強引な手しかないのかもしれない。

 机を強く叩いて、手元の銃をつかみ取り、勢いよく立ち上がった。不意を突かれて動きが遅れたルルーシュが立ち上がるより先に、シャーリーは銃口を自らのこめかみに当て、目の前のわからず屋には体を張って主張した

 

「ルルを忘れるなんて、もう絶対いや。私は、そんなことのために帰ってきたんじゃない」

 

「馬鹿な真似はよせ!」

 

「それなら約束して。ちゃんと生きるって。死んだりしないって、約束、しなさい!」

 

 約束にも意味はない。ルルーシュは不誠実ではないが、必要と感じれば反故にする人間だ。

 しかし、聞こえのいい理由付けも、押し付けがましい思いやりも、シャーリーの求めるものではない。一過性の感情論でしかないかもしれないが、もう一度を願って、仮にもそれが叶ってしまった今、悔いの残る選択肢は選ばないし、選べない。

 後悔はした。もうたくさんだ。

 後はない、今がそうなのだから。引き下がる場所なんてどこにもない。

 

「なんで迷うの? なんで、こんなことも約束できないの?」

 

「守れないかもしれない約束を、軽々しくするものか。これは誠意だ」

 

 ルルーシュがすり足でテーブルを回り込んで少しずつ近づこうとしている。片手をそろりそろりと伸ばして、銃を奪い取るつもりなのだろうが、そうはいかない。

 テーブルを思い切り蹴り飛ばしてやると、ルルーシュは向こう脛を打ち付け、痛みにうめきながら尻餅をついた。

 

「ナナちゃんとはしたくせに……」

 

「なっ……なにを」

 

「ずっと一緒とか、嘘はつかないとか! 指切り、っていうの? それまでして約束したって聞、き、ま、し、た!」

 

「……はぁ!?」

 

 脛の痛みとは別に赤面する目の前の恋人と、恥ずかしがりながらも嬉しそうに話していた綺麗な女性――ナナリーが重なるのは、やはり2人が兄妹だからだろう。少しだけ羨ましく思うのも、いつもどおりのことなのだ。

 たまらなくなって、右手の拳銃を放り出し、ルルーシュの両肩を掴んで押し倒す。派手な衣装で大きく見せていても、実際には女のシャーリーと比べてもほとんど変わらないほど線の細い身体は、思いの外あっさり床に落着した。勢いそのまま、ぶつかるように接近させた顔同士、口付けは荒々しいというよりも乱雑で稚拙すぎて、歯がぶつかってしまうほどだった。

 

「っ……ナナちゃんとの約束も、私との約束も守る! それで、ちゃんとした皇帝陛下になる! 決まりね! はい、決定!」

 

「勢いだけで決めるな! 俺はっ……ん、んっ!?」

 

 また、歯がぶつかった。こんなことなら、初めてのほうが余程マシだった。最低な気分だったが、もっとうまくできていたのに。

 

「お願い、生きて。ルルーシュに、死んでほしくない。一緒に生きよう。やり直そうよ」

 

 三度目にして、漸く。

 そっと肩を押されて身を起こし、互いに床に座り込んで向かい合ってから、気恥ずかしさが乙女を襲った。顔を覆っても足りないような顔面の発熱に耐えかねて、視線が彼の顔とあらぬ方向を行ったり来たりと飛び回って定まらない。

 その間に、ルルーシュの表情は優しげなものから再び真剣なそれに転じていた。目元にやっていた左手が除けられた瞬間、その瞳に映った鳥の印章が目についたが、すぐに瞼で覆われてしまう。

 

「シャーリーも約束してほしい。絶対に死なないと……どこを見ているんだ、ちゃんとこっちを見ろ」

 

「……あの、うん、分かった。分かったんだけど、ごめん。今、ちょっと顔見れない……かも……」

 

 駄目だ、と耳元で囁くのはあまりにも卑怯だ。少女漫画が鍛えた乙女の感性に容赦なく直球で突き刺さる上、顎まで持ち上げられてしまえばもう敵わない。視線が絡み合うと、先程とは違う理由で目が潤む。完全に攻守が逆転してしまった。

 吸い込まれそうな深い紫色に頭がくらくらする。ただし、片方だけだ。左目はきっちりと瞼に隠されている。

 

「目を見ていろ。いいな、シャーリー。一方的な約束は、対等じゃないだろう?」

 

「や、あの、ルル……心の、準備とか、えっと、されるのは、違うっていうか、え、待って」

 

「シャーリー、思いは受け取った。だから、キミは……」

 

 今日のことのような、昨日のことような、もっと前のことのような、時系列だけは複雑な記憶の中で、その言葉を聞いた。嘆きにしか聞こえないその命令を何度も聞いた。

 何も言えなかった。返せる言葉がなかった。数分と待たない結末が分かっていたから。

 けれど、今なら。

 

「死ぬな、シャーリー」

 

「ひゃい……っ」

 

 鳥が羽撃いた。今度こそ、行く先を見据えて。

 

 

「おはよう、ナナリー。良い目覚めかな」

 

「おはようございます。早いのですね、今日も」

 

 望んでも死ねない女が、今日も一番最初に挨拶を交わす相手になった。

 その手の中にはやはりコーヒーカップ。芳しい香り。

 細い身体を包むのは、いつも通り、上半身はボタンも留めないワイシャツ、下半身には下着のみで、異性がその肢体を見れば、きっともっと違う感情が湧き上がるのだろうが、ナナリーにとってはだらしないの一言である。

 

「シャワーを浴びてきます。朝食はいつもの時間に」

 

 半裸を惜しげもなく晒す魔女の横をすり抜けて、バスルームに向かう。シャワーで身を清め、身だしなみを整えながら、今後、あるいは変わるはずの過去のこと が思考を占める。

 ロロは特別製だ。好ましくはないが、ルルーシュへの好意と忠誠に嘘はない。彼を守るためなら、もう一度と言わず何度でも、文字通り必死の働きを見せてくれ るだろう。

 ギアスを惜しげもなく使い、命を費やしてくれるだろう。

 ナナリーが期待するのは、そういうものだ。献身を期待している。自身にではない、愛しい兄への献身。

 

「嗚呼、お兄様……今夜が待ち遠しい……」

 

 触れることは、今は叶わない。

 話すことも叶わない。

 この不満はきっと遠くない未来に満たされるのだろうが、今はただ切なく心を疼かせるだけだ。

 肌のケアを済ませ、バスルームを出る。寝て起きただけなのに空腹を感じるとは、何とも平和な身体になったものだ。

 しかし、異変は直後だった。

 

「あら……?」

 

 突然全身の力が抜けた。手から滑り落ちた杖が足元に転がるのが早かったか、倒れ込むのが早かったか。受け身も取れずにうつ伏せに倒れて、額をいささか強めにぶつけてしまった。

 体調がいいと思っていた矢先の事態でも、ナナリーは動揺しなかった。咲世子に病状を伝えているとおり、今日明日でなにかが変わるほど臥せってはいない身体だ。脱力発作の症状は初めてだったので少しだけ驚いたが、打ち付けた各部が痛むだけで、また身体は動くように戻っている。

 頼りなく震える左手で絨毯を押して身体を半回転させ、仰向けになる。大きく深呼吸をして、呼吸を整えていく。声を上げれば咲世子や使用人たちが慌ただしく駆けつけるだろうが、気が進まない。心配をかけるなどとは思わないが、つまらないプライドと意地の問題だ。

 

「二度寝ならベッド。でなければ朝食だ。しゃんとしろ、ナナリー」

 

「……これはまた、嫌な相手に」

 

 視界の端からぬっと顔を覗き込ませた女が、小憎たらしく笑っている。頬を小突く指が煩わしい。

 

「ふむ。ただの体調不良か?」

 

「そのようです。朝食は少しだけ待ってください」

 

 頬をなで始めた手を払いのけると、C.C.はしゃがみこんでいた姿勢から、そのままナナリーの頭の直ぐ傍に腰を下ろした。

 

「無茶をしているな。2人目か。ルルーシュを盗られても知らないぞ?」

 

「なぜ知ってるんです」

 

「私はC.C.だからな」

 

 答えになっていない。全身の空気が抜けてしまうのではないかというような深い溜め息を大げさに吐き出してみても、魔女は悪びれる素振りもなかった。

 ナナリーは、ギアスを使うために、発動条件と効果をつかむことが最低限の条件と考えている。それらを満たし、現に行使できたことは、異常ではあったが、重要ではない。問題は、それ以外が未だにはっきりと分からないことなのだ。

 

「過去を捻じ曲げて、未来を歪ませる――そうでしたね」

 

「随分と棘がある物言いだな。お前が望んだとおりだろう?」

 

「どうやって、ですか?」

 

 なんて素晴らしい。

 すべての悲劇をやり直し、兄との幸福を紡ぎ出す。そこには失くしたものが居並び、今在るものもきっとより良い形で揃うだろう。

 

「今の、この世界はどうなるんでしょう」

 

 そうして出来上がる理想郷は、一体どこに存在するのか。

 過去が変わり、未来が変わるなら、必然として現にある「今」はどこにもなくなるのではないか。

 

「そのとき、私はお兄様の隣りにいるのですか?」

 

 結果さえ残れば、過程は問わない。

 ナナリーとルルーシュが再び一緒に入られる世界さえ手に入れば十分だ。ナナリーの世界は、それだけで完結できる。10年前は、そんな簡単で当たり前のことを忘れていた。

 しかし、だからこそ、新たな世界、あるべき世界にいるナナリーとは、いったい誰なのだ。

 

「バカで、愚かな、ナナリー・ヴィ・ブリタニア。お兄様が生きていることが、どんなに幸せなことなのか。当たり前すぎて、向き合えていなかったんですから。――私は、もう間違えない」

 

「……、さて、な……。だが、少なくとも、ギアスはお前の望みが形になったもの。お前が、お前の願いのために必要とする力だよ」

 

 ナナリーは、ゆっくりと身体を起こした。

 気怠い感じは残るが、動くだけなら支障はないと判断して、杖を支えに頼りない足を震えさせながら立ち上がる。一歩踏み出してふらついたところを、C.C.に手を取られ、抱きつくような格好になりながら寄り掛かってしまった。

 

「C.C.さん。お兄様の隣にいるのは、私です。今の、この私です。他は、どうでもいいんです」

 

「ああ、分かったよ、ナナリー。伴侶に向かってとんでもない言い草だがな」

 

「認めていませんと、何度も言っているでしょう。しつこい人ですね」

 

 それはお互い様だ、と笑って、C.C.がナナリーの肩を支えながら、2人でゆっくりと歩き始めた。

 ナナリーにとっては、本当にどうでもいいことなのだ。ルルーシュを捨てた他人のことなど知ったことではなく、彼を思うほんの僅かな人たちにだけはそれぞれの幸福があってもいいと思うだけ。

 世界を変えるのが、今いない者であるというのは素晴らしいとナナリーは思う。

 ナナリーを含む生者達がこの世界を選んでしまった。兄を捨て、踏み躙り、残してくれたものすら駄目にしてしまうような世界で生きている。

 

――どうでもいい。

  どうでもいいけれど、どうせなら、こんな世界ごと消えてしまえばいいのに。

 

 

 この数日、シャーリー・フェネットが登校していない。理由は明らかにされていない。

 品行方正とは言わないが、真面目で明るく友人も多いスポーツ少女の不登校は、所属クラスに留まらず、アッシュフォード学園高等部内で取り沙汰されることになった。

 ゼロの再来以降、治安への不安が高まっている中で、エリア11からブリタニア本国への帰還者が数を増やし始めていたところ、ついに生徒の中から行方不明者が出たと噂まで立ち、怯えと心配の声は生徒、保護者問わず大きくなり、火消しに回る教職員の手はとても足りない。

 その他流れた噂は様々ながら、そのうち数例は以下の通り。

 

「テロに巻き込まれたんだって」

「この前のショッピングモールの? 軍が動いてたとか」

「大怪我して入院中らしいよ」

「撃たれたとか?」

「……死んだって聞いたけど」

「他にも来てない男子いるんだって」

「ルルーシュくん!? ヤバい、私が倒れそう……」

「2人でショッピングモールにいたらしいね。副会長は大丈夫なの?」

「駆け落ちしたんでしょ、知ってる。2人で本国に帰ったんだ」

「愛の逃避行」

「本国に帰ったんだ。学園が隠してるだけ」

「今更そんなの隠す意味ないでしょ。隠すってことはやっぱり……」

「マジで亡くなったの?」

「うそでしょ……やだよ、ほんとに……」

「いや、2人で駆け落ち……」

 

「ない! 心配してくれるのはいいけど、駆け落ちは、ないでしょ! 頭おかしいんじゃないの、みんな?」

 

 叫んだ。

 渦中の人、シャーリー・フェネットが抗議の声を上げたのは、噂が広まってからさらに1週間後のことであった。当然ながら、手遅れだった。

 生徒会室に集まった面々の前で、ショッピングモールの事故の折にけがをして入院し、携帯電話が壊れてしまって連絡もできていなかったことを謝り、漸く復帰の挨拶を終えた後、巷間で囁やかれた憶測の数々に対して、シャーリーは顔を赤くしながら叫んだのである。

 全員が揃うまで挨拶を待っている間も、散々喚き散らす騒音被害を引き受けていたリヴァルが、呆れ顔で肩をすくめた。

 

「いや、まあさあ、ある程度は仕方ないんじゃないの? 黒の騎士団のせいで、身近なところで犠牲者がー、なんて考えたくないじゃん。多少は茶化したくもなるって。まあ、駆け落ちはないけど。俺もそこまでは言ってない」

 

「リヴァルまで! 何言いふらしたの!?」

 

「まあまあ。許してやれよ、シャーリー。みんな、本気で心配していたのは本当さ。もちろん、私やアーニャも、スザクだって」

 

 快活に笑うジノを盾にして、そうだそうだとリヴァルが頷いている。ムッとしながらも振り上げた拳を下ろして、シャーリーは席に座った。リヴァルに当たってどうなるものでもないのはその通りだし、ロロが真面目に説明してくれるはずもない。きちんと正確な情報を公表しなかった学園側が不誠実だったのがそもそもの原因とも言える。

 

「ごめん、シャーリー。あの後、キミがそんな怪我をしていたなんて。保護だけ頼んで安心していた僕の責任だ。本当に、ごめん」

 

 斜向いに座っていたスザクが立ち上がり、机に頭をぶつけそうなほど深々と頭を下げた。

 シャーリーの所在不明は、スザクにとっても心穏やかではいられない関心事だった。ナイトオブラウンズとして現場指揮を執っておきながら、すぐ傍にいた友人1人を満足に保護することもできなかったという自責の念は両肩に重くのしかかった。

 その実態は、シャーリー自ら望んで再びビルに飛び込んだことであり、シャーリーには彼を責めるつもりは毛頭なかったのだが、スザクの認識では、やはりそれは現場指揮官だった自身の責任であるらしい。

 

「あ、頭上げてよ、スザクくん。私は別に……」

 

「いや、僕の責任だ。迂闊だった。一歩間違えば、もっと大きな怪我で取り返しのつかないことに……!」

 

「好きにさせてやれ、シャーリー。そういうやつだ」

 

「……キミもだ、ルルーシュ。よく無事で……よかった」

 

 生徒会メンバー。

 退学してしまったニーナや卒業したミレイを除けば、全員が揃い、それぞれの席についている。会長席は空座のまま、副会長席にルルーシュ・ランペルージは腰掛けていた。

 アッシュフォード学園に、ルルーシュはいる。

 

「お前が謝ることじゃないだろ? それよりも、この数日で山積した書類の申開きでもしてもらおうか」

 

 トントン、と指で突くルルーシュの手元にはおよそ数センチの書類の山。電子決済はまだまだ進んでいない実情は当然ながら、紙の現物が存在すると事務量は実に明らかだった。

 ばつが悪そうに頭を抱えて呻き、額に手を当てながら大仰に点を振り仰ぐリヴァルの後ろを駆け抜けて、ジノが動く。怠慢な部下を詰る上司さながらの副会長の後ろに回り込み、その両肩をガッチリと力強く掴んで揉み解した。

 

「それは私たちじゃあなく、リヴァルに言ってもらいたいな、ルルーシュ先輩。彼の指導能力の欠如に、問題がある! 優秀な現場指揮官に、陣頭指揮を委ねたいなあ、私としては!」

 

「俺のせいにするのはなしだろー!? ただでさえ人手不足だったっていうのに!」

 

「期限が近いものから分担しよう。今日は残業だな」

 

 その後、作業は暗くなっても続き、ルルーシュが最後の書類を「決済済み」と絵文字で飾られた付箋が貼り付けられた箱に放り込んで、終りを迎えた。それぞれ中座しながら飲料やファストフードを買いに出て夕食代わりとしたので――ジノは特に喜んだ、普段からもっと良いものを食べているだろうに――いたので、気づけば卓上には空の袋や箱がいくつか転がっている。途中、アーニャは例のごとく「記録」と称してメンバーの写真を撮って回り、どうやってやってきたのか、アーサーまで乱入したことで、殊更に賑やかしさを増した時間だった。

 現場指揮官を務める身としては労働管理に頭を悩ませるところではあったが、給金が発生しない学生の活動だ、目を瞑ることにして、ルルーシュも柔らかい椅子に背中を預けた。機能性にこだわりつつも、学生が使用する備品の常識の範囲内でミレイが選んだ品だけあって、長時間の仕様にも耐える座り心地だ。無論、それはその分働けという暗黙の命令でもあったのだろうが。

 

「みんな、お疲れさまー! 飲み物買ってくるから、屋上で休憩して帰ろうよ! スザクくんたちもちょっとだけ、時間あるかな?」

 

 シャーリーが財布片手に立ち上がり、帰り支度を始めていたラウンズの3名に問いかけた。スザクが困り顔で応じる。

 

「いや、悪いんだけど僕達はそろそろ帰らないと……」

 

「いいじゃないか、スザク! ここにいる限り、俺達は学生だ。花の学生生活! アフタースクール、部活の後の語らい、それでこそ庶民の学生生活ってやつだろ?」

 

「ジノ、そうは言っても、政庁に誰一人待機していないというのは……」

 

「平気平気。あちらにはギルフォード卿がいるし、何かあったらここからでもすぐ対応できるようにしているじゃないか」

 

 満面の笑みで帰り支度を放り出したジノが、その長身から来る長い手足を広げて、スザクの眼前に立ちふさがった。呆れて視線を向けた先のアーニャもアーニャで、すすっと移動してルルーシュの後ろに控えて、しっかりと椅子の背を握りしめている。無言の視線と合わせて、動かないぞと主張しているらしい。

 趨勢は決したな、とルルーシュが笑って口を開く。

 

「付き合えよ、スザク。シャーリーの快気祝いなんだ。それとも、ゼロが今日いきなり政庁を占拠するとでも思ってるのか?」

 

「……いや。まさか。悪い冗談だ」

 

「そう、悪い冗談だよ。ならいいだろう? さあ、先に行っていてくれないか。俺はシャーリーと飲み物を買っていくから」

 

 言うが早いか、財布を持ったルルーシュは、シャーリーを引き連れてさっさと生徒会室を出ていってしまった。帰ったら許さないぞ、との捨て台詞のおまけ付きだ。その上、待っててね、と手を振っていったシャーリーの追撃。ロロは去っていくルルーシュの背を視線だけで追うばかり。最後の1人、リヴァルはウィンクまでして、親指で屋上を指し示した。

 どうやら負けは最初から決まっていたらしい。

 5人と1匹で連れ立って屋上に上がって10分ほど経った頃、ルルーシュとシャーリーが両手に缶飲料を携えて上がってきた。手渡す飲料はそれぞれの好みぴったりのものが選ばれているあたり、そつがない。

 

「はーい、これ、全部ルルのおごり! みんな、お礼言ってあげてね!」

 

「労をねぎらうのも管理職の勤めだろ。対価にしては随分安いがな」

 

「はい! そして、さらに今日は特別ゲストが来てくれてます! どうぞー!」

 

 妙にテンションが高くなっているシャーリーの声に合わせて、屋上の扉が勢い良く開けられ、何者かが飛び出してきた。

 ビシっと決めたタイトスカートのスーツ姿にピンヒール。だというのに、無闇に大仰なふりを振って、ビニール袋を持ったその手で星空を指差し、人影は名乗りを上げた。都合よく月の光がスポットライトのように降り注いで整った美貌を照らし出すあたり、天性の強運らしきものさえ感じさせる。

 

「ミレイ・アッシュフォード! カム、バーーーーーッック!!」

 

「会長ーーーーーっ!!」

 

「はろはろーん! みんな、おっつかれー! あ、リヴァル、お触りは禁止。シャーリーはこっちおいでー」

 

 憧れの先輩登場の感激に目と声を潤ませて飛びついたリヴァルを、すげなくデコピン1発でいなし、シャーリーに向かって、指先を丸めてネコの手のようクイクイッと手招きする。呼ばれるまま近付いたシャーリーを力いっぱい抱きしめて、ダンスでも踊るようにくるくると回り出した。

 まさしく自由奔放、引っ掻き回すだけ引っ掻き回すのに、思いやりもリーダーシップもあるものだから、とにかく好かれる人気者体質。新人お天気キャスター兼、デビュー早々タレント枠にまで食い込もうとしている、季節外れの卒業生こと、ミレイ・アッシュフォードが仕事終わりに駆けつけていた。

 

「まあ卒業したばっかりだし、カムバックはちょーっと早いかなとは思ったんだけど、シャーリーのリクエストを受けちゃった以上はねえ? ちゃーんと、ご所望の品も用意してまいりました。特大のやつもね」

 

「何の話だ? シャーリー。会長を呼び出したのは知っていたが、一体何を……」

 

「んん! ルルはいいから、みんなと向こう行ってて」

 

 背中を押されて他のメンバーの方に追いやられ、首を傾げて待つこと数分。

 2人がしゃがみこんでコソコソと何かしていたと思った次の瞬間、甲高い音が尾を引いて夜空に登った。炸裂音、そして。

 

「……っ」

 

「……花火」

 

 見上げていたアーニャが、ルルーシュの隣で、綺麗と小さくつぶやいた。

 続けてもう1つ、2つと夜空に花が咲く。記録、と囁くような声があって、短く電子音が鳴った。

 後方では、懐かしい祭りの文化でも思い出したのか、スザクから掛け声が起こり、ジノがそれに続いている。

 

「『みんな』は揃ってないけど、今日はこれで我慢してね」

 

「シャーリー。これは……」

 

「ルルにとってはあんまり時間経ってないかもしれないけど……って、私もそうか。その辺りはなんかよく分かんないけどさ、とにかく、前に言ったじゃない? みんなでまた花火を見ようって」

 

 いつの間にかルルーシュの隣に立っていたシャーリーがそっと囁いた。視線は次々上がる花火を見上げたまま、大胆にも乙女から手を取って、お互いの温もりが伝わる。

 

「会長にはね、無理言ってきてもらった。こないだしたばっかりじゃない、って言われちゃったけど、仕事の後にわざわざ付き合ってくれるんだから、本当に面倒見いいよね」

 

 ルルーシュが目を向けると、夜空の花の下、シャーリーを送り出してひとまず打ち上げ役を引き受けてくれたらしいミレイがひらひらと手を振った。冷やかすような笑顔をしている。

 他のメンバーには聞こえないよう、さらに身を寄せてーー舌打ちが聞こえたーー内緒話は続く。

 

「これも約束だよ。新しいのだけじゃなくて、全部守っていくの。2人の約束も、みんなの約束も」

 

 約束をした。

 また『みんな』で花火をしよう。

 ルルーシュがその言葉に込めた意味を、そのときは誰一人知る由もなかった。実のところ、今のシャーリーにとっても、その言葉は言葉通りの意味でしかない。ルルーシュが歩んできた道を、そこから溢れた溜息のような約束の意味を、誰が理解できるだろう。

 ルルーシュとともに歩み、理解し、必要とし、必要とされ、寄り添いながら、近付きすぎない誰か。

 それは、シャーリーの理想像ではなく、現実の姿でもない。きっと、その椅子は別の誰かのために設えられたものだろう。彼女が腰掛けるべきは、別の椅子だ。

 

 シャーリー・フェネットのあり得なかったはずの未来が、ルルーシュの未来にどれだけ関わるのか、それはまだ分からない。

 ナナリーは未来のことを教えてはくれなかった。ルルーシュ亡き後、世界がどう変わっていったのかを、シャーリーは知らない。

 知らなくてもいいと思う。

 だって、そんな未来はウソなのだから。

 

 

 




コードギアス 反逆のルルーシュⅠ 興道
公開おめでとうございます。
まだ見れていませんが、楽しみです。


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