彗星の如く駆け抜ける (明けの空)
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星の墜落

 その日、中津国の最西端にある里、マホロバの里はとても穏やかないつもと変わりない日常の始まりだった。まだ薄明るい頃、山の端から曙光が差す前の事である。紅月は日課の訓練を終え、本部に顔を出す。朝一番でまだ人が居なさそうだが、既に人が来ていた。初老に差し掛かった男性の背を見つけると彼女は声をかける。

 

 「おはようございます主計。毎日お疲れ様です」

 「あぁ、紅月くん。おはよう。今日も早いね君は」

 

 柔和な顔をした如何にも温厚で優しそうな男性は、メガネの位置を指で戻すと窓から見える空を見た。

 

 「まだ日が昇って無い頃から来るのは君くらいだよ」

 「主計も同じです。掃除、手伝いますよ」

 「はっはっは、毎日済まないね」

 

 と主計が済まなそうに頭を掻く。その顔はまるで悪戯が見つかった子供そのものであった。

 紅月は、どうして主計が毎日掃除をこっそりとしているかを思い出すとそんな顔をしても仕方ないか、と微笑むのだった。

 主計曰く、霊山から帰って来た娘が家の汚い惨状を見て叱ったらしい。かなりこっぴどく叱られたので流石の主計も掃除くらいは出来る様にならないとな、と決意してこうして特訓を始めたのだそうだ。なぜ家でやらないかと言うと主計が散らかってきたかな?と思う前に娘の椿がさっさと片づけていて掃除する場所が無いらしい。

 この話を聞いたとき、紅月は面食らってしまった物だ。

 一見主計という人間は温厚で仕事も出来てさりげない気遣い心優しさを持ち合わせた完璧な人だと思っていたのだがどうやらそれは主計という人間の一面にしかすぎなかった。実際は家事が大の苦手で片付けたと思ったら逆に散らかしていた、という程である。

 そんな話を聞かされて人間誰しもいい所と悪い所はあるモノだと実感させられたのだ。

 

 「掃除訓練の初日は、逆に散らかってて泥棒が荒らしたのではないかと凄い騒ぎになりましたね」

 「あぁ、あの時は本当に申し訳なかった。あんなことになるだなんて思ってもいなかったからね。次の日には紅月くんに見つかるしでどうなってしまうのかと思った」

 「ひとこと言って下されば私も手伝ったのですよ?」

 「いやぁ、……まさかあそこまで自分が酷いとは思わなくてね」

 

 主計は「ははは……」と乾いた笑いを零しつつも高い所の掃除を進めていく。その手際は本当に良くなったものだと紅月も感心した。たゆまぬ努力が出来る彼だからこそ今日までめげずにやって来れたのだろう。

 最初の頃に至っては散らかしていく主計の後を紅月が片づけるという形だった。それから紅月が掃除の手本を見せつつ教えつつを繰り返し、普通に掃除が出来るようになったのだ。だがしかし、物事万時そう上手く行かないのが世の中の常である。

 彼が会得したのは「掃除のやり方」であって、そもそもの「部屋を散らかさない方法」に至ってはさっぱりなのであった。なので椿がしばらく家を空けた後、帰れば家は散らかっているのである。これでは進歩しているのかしていないのか非常に判断に困るのだが、娘曰く父が掃除できるようになって散らかった後の掃除の負担が減ったそうだ。そう思えば、たぶん、おそらく、きっと進歩しているのだろう。そう思う事にしよう。

 

 二人が掃除を始めて時間が経った頃、太陽が空にやや顔を出し始めた。

 紅月は東の空に見える太陽に目を細める。一日の始まりを感じさせるその柔らかな光は窓の硝子を通り抜け室内を照らした。さて、太陽が顔を出すと里の人たちが起き始める。掃除の特訓もここまでだ。

 

 「では今日はここまでですね。それではまた後で」

 「本当に毎日手伝ってくれてありがとう。助かってるよ」

 「もう私がお手伝いするほどではないと思います。もしかしたら普通の人より掃除が上手くなってますよ」

 「そうかい? そう言って貰えると嬉しいね」

 

 主計はまんざらでもない様に微笑むが、ちょっとだけまだ自信の無さそうのな顔をする。

 

 「でも実はまだ娘には散らかしてると怒られるんだよ」

 「家族で会話が弾んでいると考えればいいと思いますよ」

 

 道具を片付け紅月は一度家に戻るために本部から出る。真っ直ぐ続く広い通りの奥には巨大な鳥居と続く長い石階段が見えた。まるで里を見守るかのように丘の上に建てられた神垣の巫女が住まう社、岩屋戸。それは朝日に照らされ荘厳な光景だった。澄んだ空気の中に聳え立つ社は朱塗りの柱が印象的で白壁は朝日を滑らかに反射し僅かに社全体が淡く輝き蛍火の様な光を纏っていた。

 ほぅ、……とため息が出る光景に足を止める。何事も考えずその神秘的で美しい光景に目を奪われた。

 止めていた思考を再び動かしたのは、岩屋戸の上から落ちて来た不思議な光だった。

 

 「……あれは?」

 

 翡翠色の光は箒星のように尾を引きながら一直線に―――――――岩屋戸に激突した。

 一瞬何が起こったのか唖然としたが、事態の重要性を理解すると紅月は稲妻のごとき速さで駆ける。土煙を上げる岩屋戸の屋根が悲鳴を上げる様にがらりと崩れ落ちるのと紅月が岩屋戸に入るのは同時だった。

 

 「誰かいますか!」

 

 墜落したのは岩屋戸の中の謁見の間だったらしい。広いこの部屋の中央部分が大きく抉れている。まだ土煙が薄っすら漂い、紅月は声を張って誰かいないか探すと奥から動く気配を感じる。

 

 「ぅ……ごほッ! その声は紅月か」

 

 青年の声に紅月もほっとした。

 

 「八雲、無事なのですか? かぐや様は?」

 「わ、私は大丈夫だ。咄嗟に八雲が守ってくれたから……。だが八雲、腕が」

 「この程度どうということは」

 

 普段かぐやが座っている奥の一段床が高くなっている場所には腕を押える紅月と同じ年頃の青年と白髪の少女がいた。青年、八雲は脂汗の滲む額を拭うよりも左腕を押えていた。その様子に白髪の少女かぐやも狼狽えて八雲の周りをぐるぐる歩き回っている。

 

 「八雲、私はどうすればいい? どうしたらその傷を治せるのだ?」

 「ま、先ずは落ち着いてくださいかぐや様……。命には別条はありませんから」

 

 まだまだ幼い少女は目じりに涙を溜めそれでも心配だと訴えて来る。

 紅月は八雲の左腕を取る。その様子に紅月も眉根を寄せた。

 

 「八雲……しばらくは安静ですね」

 

 真っ赤に腫れあがった彼の手首を見れば、骨折はしなかったものの大丈夫とは全く言えないのが分かる。見ているだけで痛々しいにも程がある。心配させまいとやせ我慢をする彼に呆れつつも男らしさに感心し紅月は手早く応急処置をする。出来るだけ真っ直ぐな柱の破片を拾ってきて腕に添えてたすき掛けの帯を外すと、手首が不用意に動かない様に巻く。余った所は帯を切り離しそのまま方結びにして輪を作ると八雲の首にかけ帯の輪に八雲の左腕を通す。手際の良さにかぐやは目を輝かせ、八雲は少し力を抜いた。

 

 「これで少しは楽になるでしょう。あとで博士の所に行ってしっかり見てきてもらってください」

 「処置の礼は言わせてもらう。だがなぜあんな魔女の所に」

 

 思いっきり嫌そうな顔をする八雲に紅月は、ため息をつく。

 

 「薬を飲むのを嫌がる子供みたいなことを言わないでください情けない」

 「馬鹿にするなッ! 薬くらい飲めるぞ!!」

 「なら博士の所にも行けますね?」

 「無論だ! そもそも誰も行かぬとは言っておらんだろうッ!」

 

 威勢を張る元気があれば大丈夫か、と判断した紅月は立ち上がる。その時、滑り落ちて来た袖を見て八雲が申し訳なさそうに口を開く。

 

 「後で同じものを渡す。それでいいか?」

 「はい、それで構いませんよ。さて、……何が起きているのですか?」

 「分からん。だが、サムライの刀也が今調べている」

 

 謁見の間の中央に大きく穿たれた穴を八雲は顎で指す。

 紅月はかぐやに八雲の事を頼むと穴を覗き込んだ。土煙も随分と治まり穴の中の様子が分かる。見れば背の高い男が一人、穴の一番深い所で腕を組んで足元を見ていた。彼の視線を追うとそこに誰かが倒れていることが分かる。

 まさか犠牲者か。そう思うと居てもたっても居られず紅月は斜面を滑って背の高い男、刀也の隣に立つ。

 

 「その人は?」

 「……恐らくだが、これが降って来たモノだ」

 

 低い声で彼はそう言った。にわかに信じがたい事実である。人が空から降ってくるというのはどうにも現実味に掛ける。それに自分が見たのは翡翠の光がこの岩屋戸に落ちた光景だった。決して飛翔する鬼が落としたという事でもない。

 思考を深めようとして倒れている人物の血の気の失せた肌と酷い怪我を見て紅月は、はっと我に返る。

 

 「それより助けなければ」

 

 紅月は倒れている人物の脈を確認する。指先を押し返す等間隔の脈に安堵しながら、刀也に向き直る。

 

 「手を貸してください。直ぐに医者に見せなければ」

 「分かった。その様子ではどちらにしろ詳しい話は後だな」

 

 彼も頷くと、降って来た人物を二人で抱える。

 こうして穏やかだった日が慌ただしい日々に変わっていくことなど、だれも予測していなかった。

 

 

 

 

 ◇◆

 

 

 

 

 最初に見たのは木目の綺麗な天井だった。

 耳に聞こえるのは小鳥たちの鳴き声が麗らかな朝を告げていた。ぼぅっとした意識の中でもそれだけは分かった。しばらくその音だけを聞いていると、不意に床を歩いて来る音が聞こえた。軽い足取りでありながら木の軋む音が一定であることに脳裏で背筋を真っすぐ伸ばし中心線にぶれのない歩き方であることが想像できた。つまりこの足音の主はかなりの実力者で鍛えていることが伺える。

 なぜ自分はそんな事が分かるのか。何かを思い出そうする前に襖が開かれる。

 そちらを首を動かしてみればふわふわと波打った栗色の髪を持ち、美しく透き通った紅玉の瞳を持った言葉を忘れてしまう程の美女が居た。

 惚けてしまっていると彼女がほっとした顔で微笑む。それだけで「あぁ、綺麗だ」と思ってしまった。

 

 「……綺麗だ……」

 

 口にも出してしまった。

 覆水盆に返らず。呟いた言葉は確実に目の前の女性に届いたらしい。僅かにたじろぐも直ぐに優し気な表情に戻し、部屋に入ると寝ていた俺の傍に正座で座る。

 

 「具合の方は如何ですか? やはりまだ傷は痛みますか?」

 

 そう問われて、何のことだと聞くよりも早く疼くような痛みに襲われ顔を顰める。

 

 「い、ってぇ……。なんだ、なんでこんな怪我を?」

 「まだ痛むのですね。安静にして下さい。私の名前は紅月(べにづき)と申します。アナタの名は?」

 「俺? 俺は……」

 

 名を思い出そうと記憶を手繰り寄せる。

 その時、見えたのは光の速さで移り変わる光景。分厚い雲を引き裂いて現れた巨大な龍、四本角の剛腕を持った巨躯の鬼、厳めしい顔と雰囲気でありながらどこか心が安らぐ初老の男の顔、燃え上がる戦艦に、そして沢山の仲間たちの顔だった。黒衣に漆黒の仮面を身に纏い戦場をあの安らぐ相手、そう九葉(くよう)と苛烈にして熾烈な戦場を駆け抜け、巨大な龍に弾き飛ばされ――――

 

 「横浜はッ!? あそこはどうなったんだ! 俺はどれくらい寝てたんだ。早く戻らないと戦線が!」

 「落ち着いてください。まずは落ち着いて。事情を話して頂かなければ私も分かりません」

 「だが横浜に鬼が押し寄せて、このままじゃここだって!」

 

 飛び起きた俺の方を掴み紅月はゆっくり座らせる。

 

 「…………驚かせるようなことを申しますが、気をしっかり保ってください。横浜は、十年前のオオマガドキにより異界に没しました」

 「だから助けに! ……じゅ、十年前?」

 「十年前です。アナタの言う横浜にオオマガドキが起こったのは、十年も前の話なのです」

 

 ぽっかりと心に穴が開いた気分だった。自分の駆け抜けた戦場は十年も前の話だが自分が体験したのはまだ一月も経ってない筈である。では自分はこの十年一体何をしていたのか。何が起きたのか。全く理解できない。

 脳が真っ白に塗りつぶされていく中、動かなくなった俺を置いて紅月が部屋の隅にあった風呂敷を持ってくる。

 

 「噂に聞いたことがあります。時に置き去りにされ数十年の時間を飛び越してしまう現象があると。その現象に会った者を総じて『彷徨者』と呼びます」

 「…………彷徨者?」

 「浦島太郎の物語を知っていますか? 自分にとってみればたった数時間が現実では途方もない時間が過ぎている、という事です。私も信じがたい事でしたが、これで納得が行きました」

 

 そう言って紅月が風呂敷を広げ中にあった物を取り出す。

 そこにあったのは漆黒の鴉を模した翼に藍の衣を金糸で縁取り、赤い紐を使った留め具の防具。俺が九葉の部隊に所属していた時に使っていたものだ。だが修復不可能なくらい破損していた。

 

 「これは、そこらの物より遥かに強い奴なんだぞ……。なぜこれがこうも」

 「十年前の横浜で壊滅した部隊が身に着けていた防具だと記憶しております。モノノフ影装ですね」

 

 その時、紅月が紡いだ言葉の意味を、俺は理解できなかった。

 壊滅?滅びた?誰が、何が、どれが?

 だが布に水が染み込んでいくように理解が体から意識まで伝わった瞬間、体が震え始めた。

 

 「あ、アイツら死んだのか、生きてる奴はいないのか!!?」

 「あの戦で戦ったもので生き残ったのは数少ない。特に横浜防衛戦で生き残った者は私も聞いたことは御座いませんが、その戦線を指揮していた軍師・九葉は今でも存命です」

 「生きてる、のか。あの人がまだ……」

 

 その事実に体中の力が抜け、布団の上にぐったりと座り込んだ。

 何もかも失ったかと思った。仲間も居場所も、信頼した上司も。だがたった一つだけ残っててくれた物に深く感謝すると同時に失ったものの多さに、ついに瞳から熱いものが零れた。

 涙だ、と分かった瞬間それは後から後から止めどなく、ぼろぼろとぽろぽろと膝の上に落ちていく。胸を掻きむしりたくなる怒りに、理不尽な事態に対する嘆き、なによりも自分のふがいなさが腹立たしかった。なぜ自分は守るべき時に守れなかったのか。なぜ自分は戦うべき時に戦えなかったのか。

 

 そして何よりも

 

 なぜ自分は、あの戦火を共に駆けた戦友たちの顔が思い出せないのか。

 だが部隊の壊滅を聞いて胸を焦がすような悔しさと言葉が詰まる感情が裏付ける。きっと亡くした人たちは自分にとって掛け替えのない人たちだったのだと。だからこそ、涙が止まってくれなくて嗚咽が零れる。

 

 「くそッ! くそッ! なんで、俺は、俺は守れなかったんだ……!!」

 「今だけは泣いてください。それが手向けです」

 

 顔を覆って泣く俺を紅月は優しく撫でてくれた。

 散々泣いて、悲しみがやっとひと段落して目が真っ赤になるまで彼女は傍に居続けてくれた。それが何よりも救いだった。



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