死灰再燃・火は復た熾る (メンシス学徒)
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死灰再燃・火は復た熾る

お久しぶり、もしくは初めまして。
DLCを待ちつつ、リハビリがてらに書き上げました。
よろしければ少々お付き合い下さいませ。




 万難を排して突き進んだ旅路の果て。その終局にて待ち受けていた最後にして最大の試練とは、こともあろうに「自分」であった。

 

 別に諧謔やよく分からない哲学的言い回しを用いたわけではない。ただ、ありのままに目の前の現実を説明したまでである。

 普通ならば何が起きているのか理解出来ず、破綻しそうになる精神を必死の思いで抑え込み、兎にも角にも殺意を露わに駈けてくる「自分」の姿に対処すべく構えをとるのがやっとだろう。

 が、当の彼女の行動は、そんな常識とは一ミリたりとて符合しないものだった。

 あろうことかこの女は、盾も刀も投げ出して、灰塗れの地面を転げ廻り、腹を抱えて大爆笑したのである。

 

 ―――狂ったか。

 

 この光景を目にしたならば、百人が百人、そう考えるに違いない。しかし、誓って言おう。彼女は正気であった。

 精神は均衡を保っており、頭脳ときたら灰の墓所で目覚めてこっち、かつてないほど冴えている。

 それはそうだろう。棺から這い出して以来、胸の裡にずっと挟まり続けていた鉛の如きある疑問が、ここに来てついに氷解したのだから。喉に刺さった小骨が抜ける、あの一瞬の爽快感を兆倍にも強めたようなこの快楽(けらく)。我慢しろという方が無茶であった。

 ばたばたと灰神楽を上げながら、なおも哄笑を放って憚らない彼女を、王たちの化身は容赦なく刺し殺した。

 火継ぎの大剣―――散々見慣れたあの螺旋剣が彼女の腹をぶち抜いて、深々と地面に縫い止める。

 蟲の標本に似ていた。

 内側から焼かれる感覚というのは、何度味わっても堪らない。

 冷たい谷の踊り子にも散々味わわされた苦痛であるが、今回のこれはその痛みを、比べるのもおこがましいほど凌駕していた。

 魂さえも蒸発させかねない、絶望的な熱量を受けて。―――それでも彼女は、最後まで笑い続けていた。

 王たちの化身はそんな彼女を、どこかしら呆れを含んだ眼差しで見つめているようだった。

 

 

 

 そもそも、此度の巡礼はその始まりからしておかしかったのである。

 最初の火の炉にて薪の王グウィンを討ち、火を継いで新たな薪の王と化した自分が何故(なにゆえ)あのような、てんで見覚えのない棺の中から火のない灰として起き上がったのか。

 場所も場所だが、最大の疑問は自分がこうして疑問を抱けていることだった。

 この躰にはものを考える頭がある。特に意識しなくとも、我が意を五体の隅々まで伝わらせ、自在に動かすことが可能である。そうだ、この躰には己を己足らしめる最重要要素たる魂が、確かに宿っているのである。

 有り得ないことだった。

 彼女のソウルは確かにあの時、ひとかけらの例外もなく悉皆薪としてくべられた筈である。そうでなければ火継ぎの(わざ)など、到底成功しなかったろう。

 にも関わらず、この現実はどういうことか。この身に宿るソウルは、一体何処からやって来たのか。ソウルの業の深淵には、このような破綻すらも内包する、人智を絶した啓蒙的真実が潜んでいるのか。………

 何も分からぬまま、それでも彼女は進むことを選択した。

 考えてみれば、我と我が身に起きた事態を掴めぬままに行動するのは今に始まったことではない。遠い過去、人間による最初の火継ぎという大偉業を成し遂げたときもそうだった。

 あの不死院で哀れに満ちた亡者どもの叫喚を聴きながら腐ってゆくのに耐えられず、藁にも縋るような思いで解呪の(すべ)を探し求め、ロードランをうろつく内にいつの間にやら話がどんどん大きくなった。

 後世では彼女が端から火継ぎという目的を胸に抱き、そこから逆算して諸々の行為を辿って行ったかのように記す文書も存在するが、真っ赤な嘘もいいところである。

 持たざるものとして生を受け、世界から何も与えられず、奪い取ることでなんとか露命を繋ぎ止めてきた彼女という人間が、最初から世界の為などと―――そんな高尚な大義を備えているわけがないではないか。

 むしろ、怨みこそあった。

 自分に呪いばかり押し付けるこの世界を呪い返し、全人類が自分と同じ、この奈落の底に堕ち果てて、絶望の味を堪能すればいい、させてやりたいとさえ願っていた。

 そんな性根の彼女である。世界蛇の一匹、闇撫でのカアスによって齎された「真実」に湧き立つものがなかったと言えば嘘になろう。

 

  かつて人の始まり、貴公ら人の先祖は古い王たちの後に、四つ目のソウルを見出した。

  闇のソウルだ。

  貴公ら人の先祖は、闇のソウルを得て、火の後を待った。

  やがて火は消え、闇ばかりが残る。

  さすれば、貴公ら人、闇の時代だ。

  …だが。

  王グウィンは、闇を恐れた。

  火の終わりを恐れ、闇の者たる人を恐れ、

  人の間から生まれるであろう、闇の王を恐れ、世界の理を恐れた。

  だから奴は、火を継ぎ、自らの息子たちに、人を率い、縛らせた。

  貴公ら人が、すべて忘れ、呆け、闇の王が生まれぬように。

 

  よいか、不死の勇者よ。

 

  理に反して火を継ぎ、今や消えかけの王グウィンを殺し、そして四人目の王となり、

  闇の時代をもたらすのだ。―――……

 

 正直に告白しよう。

 湧き立つどころのさわぎではない。この「真実」に、彼女はまったく随喜した。

 敗北に次ぐ敗北、苦難に次ぐ苦難。路地裏の闇溜まりで襤褸切れのみを身に纏い、虱に喰われ、ゴミを漁って汚水を啜り、その中に浮かぶボウフラと自分との間に、果たしてどれほどの違いがあるのか半ば本気で疑問に思ってしまうような、壮絶な青春を経験してきた彼女である。

 そんな彼女にとって、人の頂点―――「闇の王」という称号は、あまりに甘美に過ぎた。

 にも関わらず、カアスの言葉に是とも否とも返答せず、黙って踵を返したのはいったいどういうわけなのだろう。

 察するに、彼女はあまりに負け過ぎたのだ。

 美味い話には裏がある、人の善意はまず疑ってかかれ。

 騙され、裏切られ、背後から刺され続けてきた無数の過去が、目も眩むような蛇の提案に、なにかきな臭いのではないかと無言の警鐘を鳴らしたのである。

 その予感が正しかったと確信したのは、暫く後。深淵の主を掘り返し、人間性の暴走を招き、正に滅び行かんとする過去のウーラシールを目の当たりにした瞬間だった。

 

(それ見たことか、案の定だ)

 

 なるほど確かに、闇のソウルは人たる者に生来備えつけられた力であり、人の本質は闇なのだろう。

 だが、その覚醒に、いったいどれほどの人間が耐えられる?

 

(千か、百か、いやいや十にも満たないということもあり得るのではなかろうか)

 

 妄想ではないだろう。

 彼女をしてそう危惧せずにはいられぬほどに、ウーラシールの惨状は凄まじすぎた。

 

(私が火を消し、闇のソウルを掣肘するすべてを取っ払ってしまえば、これが全世界規模で展開される)

 

 或いは、これ以上の惨劇が、である。

 カアス曰く、「すべて忘れ、呆け」た人間の増殖は、当然時代が下るに従って深刻さを増したことだろう。アルトリウスやキアランといった神話の英雄達が跋扈した彼の時代でさえ、あの様である。況やこの時代をや、というものであろう。とても期待が持てなかった。

 

 それでも、かつての彼女ならば。

 ロードランに初めて足を踏み入れた、あの瞬間の彼女であったならば、迷わず闇の王としての道を邁進していたことだろう。

 全人類が闇に堕ち、頭部を肥大させ盲目的にソウルを求める怪物と化すならそれも結構。むしろせいせいする、いい気味ではないかと笑い、喜んで世界を堕としたに相違ない。

 だが、良くも悪くも、環境は人を変えるものである。

 皮肉なことに、地獄が地上に顕現したかのようなこのロードランの地に来てはじめて、彼女は他者との繋がりを実感させられていた。

 ありがとうと、なんの裏もありはしない感謝の言葉を、初めてその身に浴びたのだ。

 その瞬間、胸奥に生じた感覚を、彼女は生涯忘れない。

 白刃を突き立てられるより痛く、しかしながら冷たさはなく、むしろじんわりと暖かいもの。「痛み」ながらも、決して手放したくないもの。

 

(傷の舐め合いと、嘲笑(わら)いたければ嘲笑(わら)うがよい)

 

 そうであっても構わなかった。

 少なくとも此処に来るまで、誰も彼女の傷を舐めてくれなどしなかったのだから。

 

(どうしよう)

 

 最初の死者を、四人の公王を、鱗のない白竜を、混沌の苗床を。

 王のソウルの持ち主をことごとく殺し、最初の火の炉への扉を開く直前になって、彼女は漸く世界の行く末について真面目に考えるだけの殊勝さを獲得していた。

 とはいえ、世界への怨嗟が消えたわけではない。

 弱者が淘汰されるというのならそれも結構ではないか。自然の理に(のっと)った結果だと、尤もらしい大義名分を隠れ蓑にたっぷり鬱憤晴らしをしてくれようぞ。

 ……そう囁く声も、確かにある。その一方で、

 

(それは師に―――あの人の言葉に背く道ではなかろうか)

 

 とも思うのである。

 遥か地の底、病み村にて邂逅した女性の影が脳裏をかすめる。優しさゆえの厳しさを纏った彼女は言った。

 

 ―――炎を畏れろ。その畏れを忘れた者は、炎に飲まれ、すべてを失う。

 

 この言葉は炎に限らず、この世に存在するあらゆる「力」に応用可能な戒めではなかろうか。

 そうやって考えてみるに、今の自分はどうであろう。

 心に躊躇いを自覚しつつも意固地になって闇の時代を切り拓かんと突っ走るのは、果たして賢明な道と呼べるのだろうか。

 闇への畏れを欠いてはいないか。闇のソウルを、ただ自分の暗い情念を発散するのに都合がいい、便利な道具程度にしか思っていなのではあるまいか。

 

(それでは、まずい。いずれ闇に飲み込まれる)

 

 彼女が目指すのは、あくまでも「闇の王」。闇のソウルを屈服させて君臨する永遠の覇者であって、闇に溺れ、飲まれて心を失う愚者では断じてない。

 たとえどれほどの時が流れ、天地を砕くほどの力を得ようとも。

 

 ―――ありがとう。お前に会えて、本当によかったよ。

 

 あの一言を忘れてしまっては意味がない。そんな自分になるのは御免であった。

 

(そうだな。そろそろ、この怨念とも決別すべき頃合か)

 

 と頭では理解して、しかしそれからが大変だった。

 

 ―――待て待て、落ち着け。もう一度よく考えろ。思い出しても見るがいい、お前を見下し、石と嘲笑を投げつけて、人間としての尊厳をずたずたに切り刻んだあの連中の面貌を。

 ―――あんなことをされておいて、それでもお前は赦すのか? そんな聖人の如き深情けをかけてやる必要が、一体全体何処にある?

 

 論理を武器に理性で以って感情を屈服させるのは至難を極める。暴れ牛を素手で鎮圧するに似る。

 相克による煩悶に身を焼かれ、長く苦しむはめになった。

 祭祀場に座り込み、ゆらゆらと揺れる篝火を凝然と見詰め、気が鬱してくると下に居るアナスタシア相手に愚痴りに行く。

 最初の内こそ相槌を打ち、大人しく聞き役に徹してくれた火防女であったが、十回、二十回と数が重なるにつれ段々彼女の毒が感染(うつ)ったらしく、私だってと不幸自慢や不幸合戦を交わす仲になっていった。

 無性に躰を動かしたくなり、思い出したかのように怪物狩りに出掛けることもままあった。

 主に巨人墓場の水場で、無限に湧き出る赤子の骨を砕いていた。で、得た人間性を混沌の娘に捧げるのである。

 推測が正しければ、この蜘蛛姫は師匠の血縁者である可能性が極めて高い。

 

(おそらく、妹であろう。情の深さがよく似ている)

 

 粗略に扱えるわけがなかった。

 北の不死院にて、叩き込まれた独房の片隅に転がっていた老魔女の指輪。なんの通力も示さないがらくたを、しかし棄てずにおいてよかったと、自らの幸運に心の底から感謝したものである。正に運命からの贈り物であった。

 

 

 ……そうやって日々を送る内に、自然と彼女の視界は晴れていった。

 傷の舐め合いとて無駄ではない。上手く使えば、猫や犬がそうするように傷を塞いで再起を齎す癒しとなる。

 

(やはり、時期尚早に過ぎるか)

 

 その結果、辿り着いた答えである。

 闇の時代は訪れる。それ自体は不可避であり、彼女にとっても厭はない。

 

(が、今ではない)

 

 火の時代を終焉させ、その死骸より芽吹く新世界。それは当然、犠牲にした旧世界を凌ぐ素晴らしきモノでなくてはならない。そうでなければ割に合わない。

 が、今の人類種にそれを望むのは酷であった。

 ここで火を消し、闇のソウルを解き放ったところで、後に残るのはなんであろう。何処までも続く荒涼たる曠野と、知性の欠片も無く、おぞましき蠕動を繰り返す奇っ怪な異形ばかりではないか。

 

(冗談ではない。―――情けない進化は、人の堕落だ)

 

 時間が必要であった。

 人間が自らの根底に潜む闇のソウルに負けぬよう、存在としての密度を練り上げるだけの時間が。

 その猶予を稼ぎ出す為に、今、最初の火に消えてもらっては困るのである。

 

 ―――火は消える。いつか必ず、消え果てる。闇の時代がやって来る。ゆめ、その備えを怠るなかれ。

 

 このような内容の警句を、彼女は考え付くあらゆる方法で遺した。

 そうしてついに、闇の王たる栄誉を諦め、後進にその道を譲るべく、自分は薪となりて我が身を火にくべたのだ。

 再び勢いを取り戻した最初の火の輝きと共に、この意志が地平の果てのその先にまで拡散することを願ったのである。

 

 

 しかし。

 

 

 しかし、である。

 遥かな時を隔てて火の無い灰として再臨を果たした彼女が目の当たりにした現実は、そんな祈りを木っ端微塵に打ち砕くものに他ならなかった。

 

(なんだ、これは)

 

 ロスリックを彷徨う内に、自然と集まってきた世界の足跡。そのあまりの無惨さに、彼女はほとんど絶句した。

 

(……継ぎ火など、所詮は対症療法に過ぎまいに)

 

 その対症療法にばかり腐心し、馬鹿の一つ覚えのごとく火継ぎの儀式の再現に躍起になるとは、これはどうしたことだろう。

 

(誤解されている)

 

 そうとしか思えなかった。

 自分の遺した言葉が、である。確かに彼女は備えを怠るなと警告したが、それは闇の時代の到来を防ぐべく、新たな薪を準備しておけという意味では決してない。

 そうではなく、人界を蝕むこの呪いを。……ダークリングが齎すあの絶望を、根本から克服して欲しかったのだ。

 ところが、誰も自分のその意図を汲んでくれていなかったと理解したとき。彼女の心に猛然と噴き上がってくるものがあった。

 人々と、何より見通しの甘過ぎた自分に対する激怒である。

 自分の意志が伝わることを願っていた?

 

(馬鹿か)

 

 何だそれは、何なのだ? そのお花畑丸出しな考えは。

 我が事ながら反吐が出る。祈りなんぞに何の効果もないことは、散々舐めさせられた苦汁の味からとうに学んでいたろうに。

 この世界には変革が必要だ。だが、社会的動物としての人間は、急激な変化を望まない。

 寄らば大樹の陰、長いものにはひたすら巻かれ、ただただ日々の安寧なるを希う。他人の不幸には目を背け、いやいっそ対岸の火事よと笑いながら見物し、愉悦のタネにすらしてみせる。

 世に横溢する「一般人」とやらの実態は、まず大方、このようなものだ。

 闇のソウルを支配するための、生物進化の道とは即ち途方もなき苦難の道。都合の悪い真実から目を背けず、醜悪な己の正体と向き合い、万難を排して突き進む試練の連続に他ならない。

 そんな苦行を、「一般人」どもが敢えて積むわけがないではないか。それに例え火が陰り、呪いが世を覆おうとも、黙っていればいずれお人好しが現れて、勝手に闇を祓ってくれるのである。

 これでは奮起の仕様がない。その「お人好し」どもの第一号に自分がなってしまった事実も、余計に彼女を苛んだ。いっそ消滅してしまいたくなるほどの恥辱であった。

 

 彼女の激怒が頂点に達したのは、ロスリック王家の「血の営み」とやらの輪郭を、朧気ながらも掴んだ瞬間である。

 

(……薪の王たる資格者を求め、調整された血脈?)

 

 なんだそれは。

 怒りも度を越すと、逆に血の気が引くらしい。指先がすーっと冷たくなる不快感をどうしようもなかった。

 

(私が願ったのは人類という種全体の底上げであって、一握りの血族に途方もない因業を背負わせる道では断じてない)

 

 ああ、それでは、それではまるで生贄ではないか。

 王族とは名ばかりの、飼われ、囲われ、管理されては間引かれる牧畜どもと何が異なる。

 民草の安寧とやらは、それほどまでに尊重されねばならぬのか。

 過酷な真実から目を背け、怠惰に甘んじ研鑽を忘れ、何事もない穏やかな日々がずっと続いて行きますようにと祈っていれば高尚か。

 

(―――否)

 

 それこそ神々が人に科した枷である、と彼女は今こそ頓悟した。

 同時に、自力で外せないのなら無理矢理にでも壊してやろうと決意した。

 その意味するところは明瞭だ。はじまりの火を消すのである。

 太古、グウィンを打ち倒したあのときに、時期尚早であると選べなかった選択肢。

 それを今度こそ実行してやる。与えた猶予を活かせなかったというのなら、それは貴様ら自身の責任だ。せいぜい覚悟するがいい、と彼女は猛然と歩み始めた。

 

 

 その過程で、かつて師と仰いだ女性(ひと)との再会も果たした。

 但し、相手はとうに亡骸で、ほとんど化石と化している有り様だったが。

 

(……つくづく、長生きなどするものではないな。況してや復活ともなれば猶更だ。碌でもないものばかり見せられる)

 

 内臓が尻穴からごっそり流れ落ちてしまった気分である。震える手で兜を外し、どっかと地面に座り込んだ。首を、へし折られたかのごとく垂れる有り様は、いつぞやの心折れた騎士を彷彿させずにはいられまい。

 衝撃、などという生易しい次元のものではない。

 計り知れないほどの恩がある。

 己を()にしてくれた人物の頬に、そっと手で触れてみた。

 

(この唇が、私を馬鹿弟子と呼んでくれる日は、もう二度と来ないのだ)

 

 当然といえば当然な事実を今更ながら発見し、彼女は瞳孔の開ききった顔をした。

 決壊寸前にまで追い込まれた精神で、辛うじて願えたことは、ただひとつ。

 

(今は、ただ、せめて)

 

 たったひとり残された妹と、寄り添いながら迎えたらしきその最期が。

 苦しみと悔恨に満ちたものでなかったと。心安らかに逝けたのだと、自分の存在がその一助になれたのだと信じる以外にないだろう。

 火の無い灰でも涙を流すことは可能らしい。しかも、存外、熱かった。

 

 

 

 そうして、彼女は再び此処に立つ。

 如何に外観が様変わりしようと見紛うはずもない。魂に刻まれた記憶が告げるのだ。灰の大地に無数の武具が突き刺さり、天さえも呼吸を忘れて固唾を飲んでいるかのような緊迫感に満たされたこの場所こそが、最初の火の炉。遥か古の時代より、あまねく不死者が目指した終着点に他ならない。

 

(……前回、待ち受けていたのはグウィンだった)

 

 では、今回は?

 不安とも期待ともつかぬ名状し難き感情が渦巻くのを感じつつ、一線を踏み越えた彼女は、とうとうそれ(・・)と相対した。

 

(―――)

 

 一目見て、分かった。あれは私だ、私だろう。

 王たちの化身。はじまりの火を継いだ神の如く偉大な王たちのソウルがいつしか産んだ、火を守る化身そのもの。

 背丈も体格も、彼女とはなにもかも違う。が、それでも分かるのだ。

 絶望的なまでの神威を湛えたあの存在の、底の底。彼の者を成す根幹たるその部分に、確かに彼女のソウルが組み込まれている。遥かな時を隔てた今でも力強く燃え盛り、ともすれば反発し合い、対消滅を起こしかねない癖の強過ぎる王どものソウルを熔け合わせ、一個の存在として無理なく成立せしめる大役を果たしている。

 

(ああ、そうか)

 

 その熱量を目の当たりにして、彼女はすべてを理解した。

 肉体がこれ以上燃えようもないほど燃え尽きて、真っ白な灰と化し、形を失い無辺の荒土に散ろうとも、魂は不滅。

 この地に留まり、やがて訪れる新たな薪の王どもからその後の世界の転変を読み取り、やはり激怒したに違いなかった。

 奇しくもその激情の炎こそ、王たちの化身を成立せしめる元種となり。

 一方で、ロスリックの双王子が火継ぎを拒否したことにより、流れ着いた王たちの故郷に混じって再結集した彼女の灰に再び熱を与える根源ともなった。

 そうした背景を余す所なく読み取って、彼女は腹の底からこみ上げてくる笑いの衝動がもはや抑え難いことを知る。

 

(滑稽だ)

 

 これが喜劇でなくてなんであろう。

 灰の審判者、呪腹の大樹、結晶の古老、深みの教主。

 深淵の監視者、覇王ウォルニール、デーモンの老王、法王サリヴァ―ン。

 冷たい谷の踊り子に、同じく冷たい谷のボルド。アノール・ロンドに巣食った神喰らいのエルドリッチ。 

 罪の都の孤独な王―――巨人のヨーム。

 竜狩りの鎧、妖王オスロエス、火継ぎを拒否したロスリックの双王子。

 古の飛竜に、そして―――そして、太陽の長子でありながら古竜と結び、一切の記録からその名を削られた愚か者、無名の王。

 正真正銘の神話生物すら含まれる、これらすべてを殺し尽くして辿り着いた終局が、よりにもよって自分自身との喰らい合いとは。

 

(共食いもいいところではないか)

 

 見方によってはグロテスクとも神聖とも映るこの窮極を、しかし彼女はただひたすらに馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばす。

 

(始めたのが私なら、終わらせるのもまた私。かと思いきや、そうはさせじと立ち塞がるのも私とは。―――)

 

 私、私、私、私―――何もかもが自分(わたし)ばかりで、多面鏡の迷宮にでも迷い込んだ気分になる。

 その眺めの奇っ怪さをひたすら嗤い、一度殺され、篝火の前に戻されてやっと鎮静するという有り様だった。

 

 

 すぐさま最初の火の炉に取って返した彼女の顔は、既に別人。

 いや、これこそ狂態の醒めた彼女本来の姿なのだろう。不敵に口の端を吊り上げて、迫る王たちの化身に一歩も退かず、真っ向勝負を挑んでいった。

 

 死闘は、いつ果てるともなく続いた。

 

 鋼が、炎が、雷が。両者の間であらゆるものが交換される。剣戟の音色は一合ごとに圧を増し、戦場となった最初の火の炉を砕かんばかりに鳴動させた。

 王たちの化身は個にあって個にあらざる一種の群体。表出させる王のソウルの色合いを調整することによって、武器も戦法もがらりと変わる。

 優れた戦士ほど敵の動きの底を流れる音律(リズム)を読み取り、それに合わせて攻めを組み立ててゆくものである。が、この王たちの化身に限っては、それがたちどころに地獄へ直行する落とし穴と化す。

 外貌は同じなまま、別人になるといっていい。おまけにいずれも人の頂点を極めた実力者揃いときている。一瞬でも面食らい、新たな音律への対応が遅れれば、その隙を絶対に見逃さず、容赦なく衝き致命打を叩き込んでくる。たまったものではないだろう。

 が、向かい合う彼女とて、常軌を遥か彼方に置き捨てた華々しき逸脱者。

 

(時間だけはあったからなぁ、私はよう―――!)

 

 強くなることにどこまでも貪欲な彼女は、いつしか立ち塞がる神霊妖魔をただ打倒するのでなく、すべて奪って搾りかすにしてから殺す道を見出した。

 すなわち、その相手が最も得意とする武器と戦形。己が躰でそれを味わい、観察しては解析し、改良を加えつつ我が動きとして取り込み、ついにはそれのみを以って元の所有者を戮殺してしまうのである。

 冷たい谷のボルドは戦棍で以って頭蓋を砕き。

 双剣を振るって法王サリヴァーンを膾に刻み。

 お株を奪うような回転切りで深淵の監視者を両断し、無名の王を突き殺した。

 数千回を越える死の果てに、彼女は強敵達が持つあらゆる技術を骨髄にまで染み込ませ、返礼とばかりに最も屈辱的な死を与えた。

 不死―――無限の時間という呪いをアドバンテージとして活かしきった結果である。

 今や彼女に使いこなせぬ武器は無し。剣、槍、槌、弓―――どれをとっても古代神話の英雄達の再現以上をこなしてみせる。

 これもまた、個にして群を体現した究極形と言っていい。気の遠くなるような時間をかけて積み上げた異形の業は、確かに彼女を王たちの化身と渡り合えるだけの位階に押し上げてくれていた。

 

 嵐が吹き荒れ、月光が舞い、炎がすべてを舐め尽くす。

 闘争は天井知らずに激しさを増し、遍く条理を踏み越えて、誰も見たことのない領域へと突入して行くのだった。

 

 

 

 万象は必ず滅する。

 世界を切り分けた最初の火とていつかは消える。絢爛たる火の時代も終わりを告げる。

 そうした無常そのままに、最初の火の炉は再び静寂に満ちていた。

 残った影は、ひとつきり。あれほど耳を聾していた剣戟の音も今や遠く、彼女の躰に辛うじて残滓を残すのみである。

 

「………」

 

 勝ち鬨はない。

 上げれば、その途端に全身が崩壊しかねなかった。

 ぎりぎりの勝利だったのだ。

 

(さすが。……)

 

 褒め称えているのは己か、それとも斬り斃した敵なのか。どちらにせよ「自分」であるのに変わりはない。

 倒錯した自画自賛に浸りつつ、そっと大地に刻まれたサインに手をかざす。

 現れたのは、彼女の共犯者たる火防女であった。

 

「………」

 

 会話はない。

 互いに為すべきことは分かっている。さく、さくと軽快な音を立ててはじまりの火に近付く女の後姿を、彼女は静かに見送った。

 

(ロンドールのユリア、と言ったか。あいつは、火を簒奪せよと勧めてきたが)

 

 ふと、夜の闇が凝縮して形になったかのような女のことを思い出す。

 目覚めて以来失望続きであった彼女にとって、火継ぎを冒涜し、闇のソウルの研究を進めるという彼の勢力の存在は、これはと愁眉を開かせるものだった。

 あまりの嬉しさに、ついつい彼らの言葉に乗せられた時期もある。が、その背後にて策動するいきものの口臭を嗅ぎ取るにつれ、膨れた心は風船よりも急速にしぼんでゆく運びとなった。

 

(間違いない、蛇だ)

 

 それだけでもう、彼女は嫌気が差してくるのである。

 カアスにしろフラムトにしろ、連中はとにかく碌な事をしない。真実を教えようとのたまっておきながら、いざ口を開かせてみれば出てくるのは自分にとって都合よくぼかされ、省かれ、歪曲された「真実」である。本人は道を諭す賢者を気取っているのかもしれないが、畢竟詐欺師がせいぜいだろう。

 

(乗ってたまるか、あんな連中の甘言に)

 

 それどころか、もし再び見える機会があるのなら、あの素っ首を叩き落としてやりたいと狙っていた。毒しか垂れ流さない大口に竜狩りの剣槍を叩き込み、ありったけの雷を流し込んでやれたならどれほどすっきりするだろう。……

 想像するだに愉快であったが、ついにその機会には恵まれなかった。

 

(運のいいやつめ。……大体、かつては火を消せと勧めておきながら、今になって簒奪せよと訂正するとはいったいどういう料簡だ)

 

 神ならぬ、人が薪となって火を継ぎ続けたことにより、最初の火に何らかの異変が起きたのだろうか。

 

(まあ、よい)

 

 いずれにせよ、火は消える。

 もう間も無くであった。掬い上げられた火防女の掌中で、どんどん痩せ細って行くのが分かる。

 それに従い、世界そのものもまた、黒白(あやめ)もつかぬ暗黒の中に沈んでいった。

 

「はじまりの火が、消えていきます」

 

 こんな時でも火防女の声は変わらない。優しく、鼓膜を直接くすぐられるような心地よさがあった。

 

「すぐに暗闇が訪れるでしょう」

 

 螺旋剣の刀身に燈った赤味も消える。完全な(にび)色と化したそれは、ただの金属の死骸という以外のどんな印象をも与えなかった。

 

「…そして、いつかきっと暗闇に、小さな火たちが現れます」

 

 ややあって、再び火防女が口を開く。

 それは無縁墓地の先、時を隔てたあの祭祀場にて見つけ出した瞳を与えて以来、たびたび語るようになったことだった。

 

「王たちの継いだ残り火が」

 

 ああ、と彼女は溜息を漏らす。

 それは、そう、それこそは。かつて自分が火を継いだ際には、ついぞ見出せなかった輝きだ。

 もはや残像すらも消え去った、この冷たい闇の果てにもいつかは火が熾るなら。

 この時代―――かつての自分が闇の王としての道を歩まなかったことで紡がれた、残り火の時代とでも呼ぶべきこの時代にも、確かな意味があったのだろう。

 無意味な延命などではない。

 無駄な犠牲などと言わせるものか。

 流れた血にも、木霊した叫喚にも一つ残らず意義があった。

 私の選択は間違ってなどいなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 

「灰の方、まだ私の声が、聞こえていらっしゃいますか?」

 

 呼びかけに、彼女は応えずそっと近寄る。やがて火防女の正面に回りこむと、腰を下ろし、目線を同じ高度に合わせ、その両手に自らの掌を添えてやった。

 

「あ、……」

 

 無骨な手甲は外してある。直接感じる火防女の肌は柔らかく、皮下で脈打つ血汐の音さえ聞こえてきそうなものだった。

 

「あたたかい……」

 

 言ったのは、どちらの口であったろう。

 互いの体温を共有しつつ、彼女達は今訪れたばかりの闇の時代の、更にその先の時代の姿をもう見通しているようだった。

 

 

 

 



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輪の都・前編



精々祈ってるぜ。あんたに暗黒の魂あれ




 

 

 

 その瞬間に理解した。ああ、自分にはもう何も無い。

 果たすべき使命も。

 守るべき眠りも。

 最後に残った約束さえも踏み躙られて、木っ端も残さず砕かれた。

 わかるのだ。己をこの、闇の谷の底へと叩き落とした小癪な人間風情がそれをした。礼拝所の隠し部屋から降りて来た不死者の女、その両手にべったり張り付く、懐かしき友の血潮が色鮮やかに幻視(みえ)るのだ。

 

   …私は、お前たちを

       決して許さない…

 

 公爵の娘の最後の呪声が、女の体に穿たれた、暗い穴から木霊している。

 ああ、そうだ、そうとも、そうだとも。

 こんなものを許せるものか。こんな末路を、こんな冒涜を、こんな恥知らずな裏切りを。

 思い知らせてやるべきだろう、痛感させる必要がある。蛆の湧いた脳味噌では理解できないとほざくのならば、直接その肉体に刻むまで。死なぬというなら好都合、何億回でもこの(あぎと)で挽き潰し、ばらばらにして輪の都じゅうに撒いてやる。それでも償いきれないほどに、貴様の罪は重いのだ。

 

「■■■■■■■■■――ッ!」

 

 竜の咆哮が世界を揺らす。

 闇喰らいのミディールは綻びきった大翼を、しかしかつてないほど力強く広げてみせた。

 具象化した絶望そのものといっていい。生半可な英雄では、この光景を見ただけで絶望し、心を折られ、立ち向かう気力すら失って涙ながらに許しを請うことだろう。

 

「ふむ」

 

 しかし、現にこうしてその前面に立たされた、当の「彼女」ときたらどうであろうか。

 

「友、友か。てっきり眉唾だと思っていたのだがな、見誤ったのは私の方か。よかったじゃないかフィリアノールの女騎士、私に吐いたあの台詞、君の独りよがりではなかったと、此処にこうして証明されたぞ」

 

 竜の激怒を前にして、しげしげと観察に耽る余裕さえある。

 人間など、本来ならばその鼻息にさえ耐え切れず、みじめに吹き散らされる微小な存在に過ぎないにも拘らず、だ。この落ち着きは、明らかに常軌を逸していた。

 ともすれば、あの黒竜よりもこのちっぽけな女にこそ、得体の知れぬ暗い恐怖を感じるほどに。

 この存在は、どこか、なにかが致命的にズレていた。

 

「それにしても、都市の下の地底湖に、四つの翼の竜とはな。どうしても灰の湖と、あの古竜とを思い出す。みたところ面立ちが似ているようだし、君ひょっとして、アレの親戚か何かかね? だとしたら伝えてくれまいか、先日はどうも、尻尾を切り落としたりして悪かった、と」

 

 さもありなん。戯れるような語りかけが示すそのままに、彼女はかつて、在りし日のロードランを歩いているのだ。

 そう、この女こそ大王グウィンの後継そのもの。燃え殻の彼を完全に消し去り、最初の火に我が身をくべた(・・・)、人類最初の薪の王に他ならない。

 ヘルカイト、貪食、シース、カラミット。火の無い灰としてロスリックに立って以来も、膿んだ飛竜に古の飛竜、果ては無名の王の朋友たる嵐の古竜さえその手にかけた、正真正銘、前古未曾有の怪物である。

 竜狩りの経験ならば、それこそ売るほどに持っていた。

 油断はしないが、過度の緊張ともまた無縁。どちらもここぞという場面でこそ効いてくる、世にもいやらしい遅効毒だと命を対価に学んでいる。こういう場合は諧謔の一つや二つでも飛ばしてやれば、知らず筋繊維に侵入していた強張りも春の淡雪のごとく自然に溶けて、常の通りに動けるものだ。彼女は、彼女の主たれる。

 一方で、理性を吹き飛ばされたのがミディールである。いやまあ、人間性の闇を喰らい続けた今の彼にはそんなもの、元々無かったに等しいが、そんな相手さえ挑発可能なあたり、彼女はつくづくどうかしている。

 彼女の余裕も、にやついた口元も、その声も、何もかもが許せない。黙れとばかりに火焔を滾らせ、地下空間が崩壊しかねないほどの勢いで、闇喰らいは友の仇へと突撃した。

 

「ははははははははは――!」

 

 煎餅みたく真っ平らに踏み潰されるのを、間一髪で横っ跳びに回避して。

 そこから先は、劫初神話の再現である。

 最初の火により世界に差異が生まれて暫く、王のソウルを見出したある偉大なる者たちが、その力を以って旧支配者たる古竜に挑んだ創世記。それに勝るとも劣らぬ激闘が、誰も居らず、また価値ある何物も残ってない、輪の都の屍骸の底で繰り広げられていたのである。

 見ようによっては、これほど罪な、勿体ないこともない。

 人と、竜。本来ならば絶対に埋めようのない両種族間の力の差異を、しかし(・・・)彼女は(・・・)埋めてみせ(・・・・・)、対等以上の闘いぶりを披露した。

 吟遊詩人が見たならば、自分はこれを(うた)にして、永劫語り継がせるべくこの世に生を受けたのだと、使命を見出した喜びにあらゆる体液を垂れ流しながら旋律を書き綴ったことだろう。

 心折れた戦士であろうと、もしこの場に居合わせたなら、人が人のまま至れる極致を目の当たりにして再び背骨の奥から熱が拡がり、おれもいつかはと投げ出した剣を拾い上げたに違いない。

 それほどのものが、しかし現実には誰に知られることもなく、こんな場所で進行している。なんという無意味さであったろう。

 が、振り返ってみるならば、彼女の今回の旅、輪の都の探求からしてそもそもが、何の理由(わけ)も見出せない、傍目からは極めて不可解なものであったといえるのだ。

 

 

 

 いったい、なんで彼女は輪の都などを求めたのか。

 既に王達の薪は揃っている。資格は与えられ、最初の火の炉へ道は通じ、あとは無心に登るのみ。

 で、あるにも拘らず。

 何をどうとち狂ったか、彼女はそこで身を翻し、なんと吹き溜まりを逆に下りはじめたからたまらない。

 端的に、意味がわからなかった。事情を知る者ならば、百人が百人、口を揃えて言うだろう。あなたはいったい、何を考えて何をしている? 確かに奇行の多い人だと知ってはいたが、いくらなんでも今度ばかりはやりすぎだろう?

 目の前に、火の炉があるのだ。長きに渡った使命の終わり、あらゆる不死者が夢寐にも焦がれた終極の場所はすぐそこに。――最初の火が、目と鼻の先で待っているのだ。その門を潜る以上に大事なことなど、有り得るはずもないだろう――。

 その指摘は、正しい。第一、はじまりの火を今度こそ消し、世界に闇の時代を齎すことこそ、火防女と共に画策した彼女の真の目的だったはずではないか。

 であるが以上、下手にまごつき時間をかけて、この地に第二、第三の火のない灰の侵入を許してしまえば目も当てられないことになる。彼らは正しき(・・・)使命を遂行し、見事己を薪とするに違いない。そうなってしまえば後の祭りだ、道は再び鎖されて、彼女はひとり、いつかまた火が翳るまでの膨大な時間を彷徨わされるはめになる。もっとも、火のない灰が差異の明確化された――生と死の境界線がぴんと引き直された世界にて、尚も存在し続けることが可能なら、の話であるが。

 王たちを玉座に連れ戻した、所謂「王狩り」の功績が彼女一人に帰する以上、そんなことは起こり得ない?

 いやいや、何事にも裏口、抜け穴の類はつきものだ。野放図に楽観すべきではないだろう。現にロードランに於いては、ソラールのサインがあったではないか。王のソウルを捧げて開いた重い岩扉の向こう側に、曰く「光り輝く特別製」を発見した際には心底たまげたものである。

 要するに、トドメと同じことなのだ。ぐだぐだ抜かさず、さっさと決めろ。でなくば思わぬ横槍を入れられて、足下からひっくり返されぬとも限らない――。

 その程度の道理は、人間世界の最底辺から生えた身だ、むろん彼女とて弁えている。

 

(そうなったら、まあ、仕方ない。馬鹿で間抜けな私を肴に一杯やるさ)

 

 弁えてなお、このような腹積もりで敢えてこの愚行に打って出た。

 

(最初の火を消す。闇の時代を訪れさせると一口に言ったはいいものの、ではその時代とは具体的に如何なるものかと問われれば、答えに詰まるのが正直なところだ)

 

 そうなのである。

 あの火防女は果てに舞う仄かな火の粉を教えてくれたが、彼女自身は何事をも見ていない。

 そも、薪として燃え尽きたはずの己が何故こうして此処に居るのかさえ未だわかっていないのだ。足下すらはっきり見通せていないのに、未来を詳らかに語るなどあまりに滑稽過ぎるだろう。

 何が起こるかさっぱりわからん。詰まるところ、彼女の本音はこれに尽きた。

 

(で、あるが以上、為し得る限りのすべてをやる。どんな不測の事態に見舞われようとも、せめて立ち向かえるように、精一杯の備えを施しておくべきである)

 

 そのために、闇の時代を到来させる決意を固めると同じくして、彼女は火の時代を圧搾機(・・・)にぶち込むことをも決意した。

 締め木を廻し、きりきりと締め上げ、旧世界が培ったあらゆる果実、その内側に溜まった蜜を搾り出し、一滴余さず飲み干さんと欲したのである。

 幸い、ロスリックというこの場所は、それをするのに最適だった。

 なにせ、場所も時間も超越して、薪の王達の故郷が流れ着いている。これらを隈なく探索し、成れの果てを片っ端から殺して廻れば、十分に満足のゆく成果が得られるだろう。

 現に、得られた。

 期待外れに終わっても、最低限、ソウルだけは毟り取れる。雀の涙ほどであったとしても、千滴、万滴と集めれば立派に力として昇華は可能だ。徒労ということには、まずならない。

 やり甲斐のある作業であった。

 

(結局のところ、私もエルドリッチと変わらんな)

 

 ふと、そんな考えが脳裏にきざしたこともある。

 人喰いによって薪の王たる資格を得、しかしたどり着いた玉座に絶望したあの聖職者は、そこで「深海の時代」なるものを見出し、やがて来る世界と定義するや、これに備えるべく更におぞましい神喰らいという苦行に励み始めた。

 際物揃いな薪の王たちの間でも飛び抜けて異様な経歴で、だからこそあの深みの聖者とは、少し話をしてみたいと興味を募らせていたのだが……出会い頭に攻撃されてはどうにもならない。

 未練がましい真似はせず、全速力で薪にした。

 

(火の時代に生まれ落ちた素晴らしきもの。絢爛たるその残滓を必死になって掻き集め、啜っているという点に於いて私も奴と大差ない。死体漁りに墓荒らしもなんのその、ああ、まったく、腐肉に集る蛆のような醜さだ)

 

 ついに自分は、火に向かう蛾ですらなくなってしまったらしい――。

 が、そう自嘲して中止するほど生温い性根はしていない。だからなんだという反撥さえ湧いてくる。もとより私は、そんな上等な人間でもないだろう。幼年期、腹に何を詰めていたか思い出せ。……

 

(最初に戻った。それだけか)

 

 彼女は何食わぬ顔で、その歩みを再開した。

 燻りの湖を訪れて、師の遺骸に涙したあと、痩せさらばえた老王から最後の余熱まで奪い取り。

 あたまのいかれた妖王を邪魔だとばかりに払いのけ、古竜の頂を脚底に踏み、禁忌の鐘を鳴らして無名の王を突き殺し。

 修道女に諌止されても何処吹く風と聞き流し、アリアンデル絵画世界を暴き立て、騎士も教父も黒い炎も、全員纏めて屠り去っては焼き払い。

 どれもこれも、火継ぎの使命の本筋から大きく外れた、寄り道だ。が、彼女はこれらの道程を、断固たる決意と目的意識の下に征ったのである。ただふらふらと流された結果、いつの間にかそうなっていたのでは誓ってない。

 彼女ほど「巻き込まれる」ということを嫌う輩も他にあるまい。おそらくは持たざる者と、何もない低能力者と、生まれるべきではなかったとまで揶揄された、言語比喩を絶して悲惨なその生い立ちゆえだろう。常に理不尽の中核に立ち、万象を巻き込む(・・・・)側に在りたいと望み続けた。

 妄執と言ってしまって構わない。彼女の心は病んでいる。が、まさに滅び行かんとするこの世界にあって、正気のまま何を為せるというのだろうか。狂気に身を浸して、初めて何か、価値あるものを得られるのではなかろうか。

 その回答が此処にある。いまや彼女の力の総量は、グウィンの燃え殻を打ち斃したあのときを、完全に凌駕した域に達した。太陽の光の王、即ち全盛のグウィンに「武力ばかりは見劣りしなかった」と謳われし無名の王を、たった一人で、真正面から討ち滅ぼした事実が何よりの証左となるだろう。

 

(だが、まだだ)

 

 まだ足りないぞ。

 こんなものでは満たされぬ。

 底のない、暗い穴は餓えている。もっと、もっとと貪欲に、ここにない、まだ見ぬ何かを求めているのだ。

 輪の都こそ、その総決算。最果てにあるというこの古い人の流刑地は、どんなリスクを払ってでもかぶりつくべき、垂涎の馳走の山としてぎらつく瞳に映っていた。

 

(むろん、危険は大きい。――ともすれば、これまでに踏んだどの土地よりも)

 

 思い返してもみるがいい、連中――神々が小ロンドに何をしたか。たかだか四人の公王ごときを封じるために、進んだ文化も、住民も、全部纏めて水底に沈めたではないか。

 正気の沙汰とも思えぬこの蛮行は、しかし相手が深淵の場合に限ってのみ完全に正当化されてしまう。神々が如何に闇に対して神経過敏な性質(たち)であり、その防衛に躍起であったかこの一事からでも十二分に察せよう。

 

(そんな連中が、だ)

 

 と、思うのである。

 そんな連中が、よりにもよって最初に闇のソウルを見出した小人たちの流刑地に、何のからくりも仕込まないなどとどうして信じることが出来ようか。

 必ずあるに決まっているのだ。何か、不死人を嵌め込み逃さないための陥穽が。

 

(が、しかし、だからこそ――)

 

 真に価値あるなにがしかが、未だ持ち去られることもなく、ひっそりと眠り続けている可能性が極めて高い。外部との交渉を断ち切られるとはそういうことだ。最高の場合、時の流れから切り離されて、神代が真空保存されているという展望も、あながち空想ではないだろう。

 これほどまでに薫香放つ輪の都を、どうして求めずにいられるか。あらゆるリスクを踏まえてなお、飛び込まなければ嘘である。

 彼女は吹き溜まりを下降した。

 やがて勅使の小環旗を手に入れて、迎えに吊るされ、輪の都を上空から一望した瞬間に、

 

(やったり!)

 

 吹き付ける風圧も忘れ、彼女は喝采を上げかけた。

 空洞を抱え膨れたハーラルドの戦士たちの相手を次から次にさせられて、毒沼に膝まで沈み込み、頭上からは天使の光撃が雨霰と降ってきて、ほうほうの態でどうにか大樹のうろ(・・)に身を滑り込ませたと思いきや、待ち構えていたのは殺る気満々なデーモン二体。

 ひょっとすると、老王を殺した張本人と見抜かれでもしたのだろうか? まんざら有り得ぬ話でもない、ひとつの混沌から生じた彼らは多くのものを共有するのだ。きっと老王の無念、最期に散った憎しみの火の粉、それさえも。

 でなくばああまで凄まじい、方向性の確たる呪いをこちらに向けてくるわけがない。

 アレらは確実に、人間全般ではなく彼女一人を憎悪していた。

 最後の一体が、王子の誇り、その消えかけた炎を再び灯したのも、きっとそういうわけなのだ。

 倶に天を戴かず――父の仇を生かしたまま放置するなど、王子以前に男として最大の恥辱。墓穴から這い出してでも、怨みは報じなければならない。そも、デーモンの老王に、殺されるべきどんな謂れがあったのか。

 

 ――父が何をしたというのだ!

 

 爆焔と共に覚醒し、命を千切って叩きつけるかの如き、後戻りを放棄した超火力による死に物狂いの奮闘ぶりは圧巻としか言いようがなく、辛うじて勝利は収めたものの、彼女をしてほとんど人間の姿を保てぬまでに消耗せしめた。

 が、そうした疲弊の数々も、この光景を目の当たりにすれば瞬時に吹き飛ぶ。

 

(素晴らしい――まさかここまで、在りし日のカタチを留めているとは!)

 

 彼女はまったく狂喜した。

 そしてすぐに矢の雨の歓迎を浴びせられ、全身ハリネズミのようになって篝火に強制送還させられた。

 

 

 

 とはいえ、彼女の興奮はそう長く持続しなかったと言わねばならない。

 

(なるほど、これは確かに糞溜めだ)

 

 輪の内壁、騎士たちを祀る塔の中。そこに据えつけられた像を見て、彼女は衝動的につばでも吐きかけてやりたくなった。

 がりがりに痩せて骨格の浮き出た全裸の人に、法衣を纏った神々の王が、うやうやしく冠を授けている絵図である。

 

(なんとまあ、胸糞の悪くなる。……)

 

 いや、別に大王グウィンは構わないのだ。

 ロンドールを筆頭に、ある種の人間勢力からは蛇蝎の如く忌み嫌われている彼であるが、その討伐者たる彼女自身に彼に対する悪感情はあまりない。

 

(あんたはあんたで、自分の一族を衰亡と破滅の運命から守りたかっただけだろう?)

 

 殺し合った者同士、いっそ肩でも組んで語りかけてやりたいような気安ささえある。

 時代が移り変わるとき、旧秩序の支配者はそりゃもう酷い目に遭わされる。そうと相場が決まっている。グウィン自身、古竜に対して実際にやった経験がある以上、そのあたりの事情は皮膚感覚で理解していたに違いない。

 

 ――漫然と流れに身を任せれば、今度は我らがああなる(・・・・)番だ。

 

 放置は不可能、救わなければならないだろう。何を犠牲にしてでも、誰を欺こうともだ。

 詰まるところは自家保全、社会性を有するいきものならば当然の欲求といっていい。

 

(腹の中身は私と同じだ。真に貴しと信じ掲げる目的があり、それを絶対に諦めない。どこまでだって非道になるし、必要ならばどんな手段にでも訴える、漆黒の意志が蠢いている。――ああ、あんたが薪になれるわけだよ)

 

 ただ、それを人間のためだの何だのと、さも高尚といわんばかりの名目で包んでいるのが少々鼻につくだけで。

 力を一族に分け与え、自らは何の力も宿していない冠衣装と、ただ大剣一本のみを携えて火の炉に向かい、遥かなる時の果て、燃え殻となっても闘い続けたあの強さには、一抹の尊敬を禁じ得なかった。

 もっとも、だからこそ敬意を込めて徹底的にすり潰し、大王が守らんとしたすべてを台無しにするのが彼女という人間なのだが。流石、闇のソウルに見初められただけはある。

 

 とまれかくまれ、大王グウィンに文句はない。

 彼女が腹の底から苦々しいものを味わわされた淵源は、むしろ人の祖、冠を授かる小人たちの王にこそある。

 折角闇のソウルを見出しておきながら、綺麗な冠と立派な都、それに美しい女神を下賜されただけで、たかだか(・・・・)それっぽっち(・・・・・・)の御褒美で(・・・・・)、あの小人はもう有頂天にでも昇ったような心地になって、自分から神の枷にせっせとかかりにいったのだろうか。その正視に堪えない作業の間、自分が何故これほどの栄誉にあずかれるのか、ほんの一瞬でも疑問に思わなかったのか。太陽の光の王が、その輝きの裏に隠した、紛れもない恐怖の念を、本当に見抜けなかったのか。

 然り、思わなかったし見抜けもしなかったのである。

 此処までの徘徊で見つけ出した数々の品が、その事実を証明していた。

 

(ひょっとして、原罪と云うのはこのことか?)

 

 こんなものを祖に持つからこそ、いつまで経っても神の思惑から脱け出せず、安寧に飼い慣らされて惚けきった人間ばかりが増えるのか。だとすれば、なるほど確かにこれは罪と呼ぶに相応しい。

 

(ならば。――いいだろう、この私が超えてやる)

 

 自発的な脱却など期待できない。例えようもなく優しく、甘やかな偽りの生がこの期に及んでまだ棄てきれないと抜かすなら、無理矢理にでも叩き壊して、泣き叫ぶ人類を真実の寒空に残らず放り出してやる――そんな荒療治が必要なのだと。

 自分が消えている間に世界が辿った目を覆わんばかりの態様を知ってからこっち、ずっと腹の底を煮立たせている、その激情。

 玉座に着いてみせたところで、傅く者が誰もいなくばそれは滑稽なだけである。――斯く理解して、ロードランではついに放棄した選択肢。今度こそ、と己の底から拾い上げたそれに懸ける熱情は、輪の都でますます烈しさを増したらしい。

 

(なればこそ、もっと力を。得られる限りを求めておくのは、決して間違いではないよな、うん)

 

 ここまで偉そうにぶち上げておきながら、いざ実行に移したら自分が真っ先に負けて潰れて消えましたでは笑い話にもなりはしない。道化以外のなにものでもなく、そんな役割は御免であった。

 

(だが、事を起こす以上、その恐れは必ずついて廻るのだ)

 

 破滅か、栄光か。すべてを賭けているのは彼女も同じで、それを忘れたことはない。

 勇ましさの反対側で、即座にこういう臆病心が芽生えるのは、そうした事情に依るだろう。このあたり、彼女の精神は本当に高いバランス感覚を持っていた。

 

 

 だからこそ、この怪物はいつだって極点にまでたどり着く。

 

 

 暴かれた輪の都の真実は、虚無そのものの荒野であった。

 色褪せた黄昏の中、何もかもが渇き、朽ち、灰色の砂に還ってゆく。

 その稜線の向こう側、半分も残っていない小人たちの玉座の奥で。……覆い被さり、剣を突き立て、彼らの暗い魂をむさぼる奴隷騎士ゲールを発見(みつ)けた時には、正直、胴が慄えたものだ。

 

(ああ、私がいる)

 

 歯の間から、呻きが漏れた。

 彼女が火の時代に対してやっていることを可視化するまで煎じ詰めれば、つまりはああなるに違いない。自分といい、ゲールといい、そしてエルドリッチといい、どうして諦めを知らぬ不死人は似たような行為に走るのか。

 

(だが、彼らは堕ち、私は残った)

 

 ――その境界線は何処にある?

 ――彼らと私の、いったい何が違うのだ?

 

 興味深い命題だったが、のんびり思索に耽っている暇はない。

 最後に見た姿より、一回りどころか三回りも四回りも(おお)きくなった奴隷騎士が、処刑用の断頭剣を振りかぶり、芋のように串刺されていた小人の王を思い切り投げ付けてきたからである。

 いつか、どこかで味わったような宣戦布告。そうして火蓋を切られた戦いは、しかしかつて例のない、未知の奇妙な感覚を伴い進行するものだった。

 不思議なほど、噛み合う(・・・・)のである。

 ゲールの剣は歪の極みだ。天才的な光芒など一片たりとて存在しない、さりとて力任せの獣の暴威からも程遠い、非常に高度で理解不能な術理によって貫かれた異形の戦技。

 それはきっと、奴隷騎士ゆえの産物だ。皮膚が焼け爛れ、正気を失い、直立するだけで関節という関節に何万本もの冷たい針を刺されるような痛みが走る、破綻寸前の肉体を前提として、さて身の丈以上の大剣を手に戦い続けるにはどうするか。

 常人ならば挑むどころか想定さえもする気にならない――普通、そんな姿になったなら、向かうべきは戦場ではなく療養所だろう。次点でたぶん墓穴がくる――命題に、しかしこの男は向き合わざるを得なかったのだろう。奴隷騎士とはそういうものだ。あらゆる凄惨な戦いを強いられるとは、しかし強大な敵と戦わされることのみを意味しない。

 ――老いさらばえ、肉塊と大差ない有り様に成り果ててなお、戦いから解放されない意を含む。

 人間世界の悲惨の極みといっていい。

 しかし、そんな煉獄の底にて鍛冶したればこその今がある。

 

(……ああ、そうか)

 

 苦痛と狂気と絶望と、そして何より悠久に等しい時間を捧げることで、やっと成り立つ異端の剣舞。

 それはかつて、亡者が滅多矢鱈に振り回す折れた直剣にすら後れを取った――あの時の、亡者の呆然とした表情は忘れ難い。正気などとうに焼き尽くされて久しいはずなのに、自分の勝利が信じられぬと顔じゅうで物語っていた――救い難い拙劣さから出発し、しかし無限に等しい折り返しを経たことにより、ついには戦神すらも貫き通す密度を獲得するに至った彼女の刃とどこか気脈を通ずるもので。

 

(つくづく我らは鏡像だなあ、ええ、ゲールよう――!)

 

 爆発する歓喜の奔流。解放を求めて闘争本能が絶叫している。自分の影と殴り合っているかのような、奇妙な一体感を伴うこの激突が愉快で愉快でたまらない。

 この戦場に誇りはなかった。あるのはもっと生々しい、血泥のこびりついた吐き気を催す意地だけで、その醜悪さが未来も使命もないただ一匹の狂獣に彼女を回帰させてゆく。

 きっと、それは当然の帰結。共食いという行為が導く不可避の業。

 奴隷騎士ゲールが暗い魂に蝕まれ、その化身に堕ちたが如く、彼女もまた裡に秘めたる人間性を意気揚々と暴走させた。

 

 

 



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輪の都・後編



ソウルを求めよ!




 

 

 

 奴隷騎士と火の無い灰。小人たちの流刑地は、この二人によって徹底的に陵辱されたといっていい。

 とうに残骸のようだった輪の都を残骸にしつくした人間たちは、その終極にてついに互いを壊し始めた。

 

 ――なんと、ひどい有り様か。

 

 この場所をこしらえた神々が見れば、さぞや嘆いたことだろう。

 あらゆる生命の息吹が途絶えたこんな最果ての只中で、栄枯盛衰、諸行無常の寂寥感に浸るでもなく、ひたすら肉の削り合いに腐心する。何も学んではいない。この種族が世界の終わるその瞬間まで殺し合うのをやめられないのは本当だろう。証明が成されてしまったのだ。動作の端々にまで、その説得力が満ちている。

 

 ヒトの愚かさが凝り固まったような二人であった。

 

 血と闇に染まりきった大剣が、うなりを上げて掠めるたびに深刻な命の危機を感じる。

 こんなものが直撃すればどうなるか、想像するだに恐ろしい。鎧の有無など関係なしに、当たった部位が弾け飛ぶのではあるまいか。

 足場の悪さも問題だった。さらさらと流れる砂は一向踏ん張りが利いてくれず、おまけにゲールの斬撃が、いちいち砂煙を巻き上げるからたまらない。視覚のみに頼って戦っていたならば、とっくに赤黒い染みにでも加工され、束の間大地を潤していた。

 地の利は明らかに相手側に味方していて、膂力に於いても劣る彼女は必然、苦戦を強いられる。

 

(だが、負けん。負けてたまるかみくびるな――)

 

 内臓を搾り出すかのような呻吟と共に繰り出された五連撃。最初の一つを盾で受け、続く二の太刀、三の太刀を転げ回ってどうにか避ける。四の太刀で、捕まった。あの巨体から、信じられないほど素早い踏み込み。間合いが殺され過ぎている。回避はもう間に合わない。どうにか彼我の間に盾を挟みはしたものの、がぁんと大きく弾かれた。

 体が開く。

 ゲールが跳ね飛ぶ。

 垂直に構えられた断頭剣。頭の天辺から肛門まで一直線に開きにされる未来が視える。

 筋組織に無茶をいい、崩れた姿勢のまま強引に、絶死の空間から逃れ出んと足掻いてみせる。落下してくる奴隷騎士の股下を、辛うじてすり抜けるような形になった。

 ずきりと、腰椎のあたりがにわかに痛む。無理を利かせた代償だろう、知ったことかと打ち捨てた。

 渾身の一撃を空ぶったツケは大きい。あの断頭剣が、ほとんど柄まで砂の中に没しているのだ。首だけになってでも喰らいつくべき隙だった。

 躊躇せず、背中に鋼を打ち込んだ。

 何億回と繰り返したであろうその動作。しかし刃先から伝わってくる手応えが明らかに違う。肉を裂いている感触ではなかった。かといって、石造りのゴーレムや竜のウロコともまるで似ない。

 どろりと生あたたかく、纏わりつくような手触りは――ああ、そうだ。心地のいいこの優しみは、ウーラシールの穴の底で味わった――

 

「――おおおおおおおおォォッ!」

 

 獅子吼と共に振り抜いた。

 飛び散る血液を目端で追って、ああ、やはりと納得する。

 

(だいぶ、濾しあがりつつあるじゃあないか)

 

 たった一太刀を浴びせるために、何度死線をくぐったのか。

 勝負を決着させるためには、あと何度同じ作業を繰り返さなければならないのか。此方は一撃貰っただけで、もう致命傷になりかねないというのに。

 暴風雨の中、千仭の谷に渡された蜘蛛の糸を行くに等しい大苦行。困難どころの騒ぎではない代物に、しかし彼女は迷わず挑む。

 

 

 どれほどの時が経ったのか。

 

 

 引き延ばされた一秒間の連続に身を置く彼女にはわからない。が、なにやら潮目が変化したのは感じていた。

 天が暗い。

 うねっている。

 時折走る稲光の凄まじさときたらどうであろう。

 

(こいつが、呼び寄せやがったか)

 

 制御を放り投げられて、大廻旋する彼女の中の人間性にあたかも共鳴するかの如く。ゲールに巣食った暗い魂の脈動が、高まり続けて止まらない。

 とめどなく噴出する赤黒い蒸気は、ああ、あれは、質量を獲得するまで濃度を増した呪詛なのか。いまや彼の動作すべてに付随して、単にマントを翻すだけでも城壁を砕きかねない威力が宿る。況や、剣戟に於いてをや、だ。

 

(しかし、当たりさえしなければ)

 

 どうということはないであろう。幸いここまでの攻防で、ゲールの動き――その底に流れる音律は大方見切った。

 薙ぎ。

 返し。

 突き。

 左が空いた、二度斬りつける。

 されどゲールは怯まない。打ち下ろしから、宙で体を寝かせての、全体重をかけた回転切りへと移行する。

 騎士アルトリウス、深淵の監視者――類似の技の使い手に心当たりはあるものの、この男ほど甚だしく空中で斜傾することはなかったはずだ。ましてやその最中にクロスボウを乱射してくるなどと、前代未聞の沙汰である。

 

(惑わされるな)

 

 落ち着いて対処すればいい。これが一撃で終わらないことは知っている。奇襲効果は失われているのだ、今更動揺するものか。飽きもせず、同じ技を繰り返す愚を教えてやれ。

 ひとつ。

 ふたつ。

 よし、絶好の位置を確保した。その命脈、今度こそ叩き切ってやる。

 意気込み新たに繰り出した、全力の一撃は、しかし。

 

「――――ッ!?」

 

 着弾の瞬間に、彼女の視界を白熱させる報いを与えた。

 何が起きたか、生煮えの脳細胞で把握する。

 

(信じられん――こいつ、自分に雷落としやがった!)

 

 それも彼女の斬撃と、タイミングが合致するよう見計らった上で、である。思惑はまんまと功を奏し、蒼く光る雷電は得物を通じて彼女の肉体にも侵入すると、深々とその爪痕を残していった。

 それが意味する事実は一つ。ゲールは自分の呼吸が読まれたことを理解していた。

 その上で、なおも諦めず。彼女が掴んだ有利をいっそのこと逆用し、どうにか虚を衝いてやれまいかと思案して、気違い沙汰に打って出るしか道はないと判断したのだ。

 痛みなくして勝利なし。そのことを、骨髄に沁みるまで奴隷騎士は知っていた。

 

(執念で上を行かれたか。自爆特攻とはやってくれる)

 

 実に不死人らしい戦い方だと――待ておいやめろ、なんでもう動き出してるこっちのからだはまだ麻痺して、大気を裂いて迫り来る鉄の塊が避けろ馬鹿。

 ああ、ちくしょう。肩が削がれた腕が落ちるぞくそったれ、急いで肉を補わなければ、満足に盾も扱えない。エストを()る必要がある。だがこの陰険爺ィが、そんなことを許してくれるか?

 そらみたことか、案の定だ。ここぞとばかりに一気呵成に攻め立てて――きさま、ふざけるなよこのやろう! その光輪、五つも同時に飛ばせるのなら、どうしてあの黒い炎の修道女を仕留めるときにそうしなかった! ええい、肝心要で役に立たない老いぼれがぁ!

 物事の順序を無視しきった理不尽この上ない憤激からなる一閃は、しかしだからこそ予想外の反応であり、ゲールの胴をしたたかに打つ。

 

「ごっ――」

 

 鬼相を呈して叩き込んだ逆撃は、暗い魂で溢れかえった老爺をしてさえ数秒、よろめかせるに足るもので。

 その隙に、彼女はしっかりエストの補給を済ませていた。

 仄かに見えた決着は、再び彼方へ遠ざかる。戦況は完全に泥沼化していた。互いに腰までどっぷり沈み、それでも這い上がろうとはさらさら思わず、相手の頭をつかまえて、より深みへと突っ込むことしか考えていない。

 窒息するのが相手より一秒でも遅ければ、自分の勝ちだと言わんばかりに。

 おぞましく、胸がむかつき、不格好できたならしい、病み犬の縄張り争いにも劣る、最低最悪の闘争は、しかしあまりに人間的でありすぎた。

 これこそ人の精髄、その極み。一筋縄では片付けられない、綺麗ごとでは済まされない、どうにもならない汚穢を抱えて、なまなましい、その悪臭を胸に吸い込みむせかえり、それでもと傲慢に足掻きのたうつからこそ彼らの闇はたまらぬ芳醇さを醸すのだ。

 だから、最後に軍配が上がるのは。

 より強く、より厚顔に、自身の(すべて)を肯定した方だろう。

 

 

 

 

 狐狸に化かされ、鼻でも抓まれたようなむず痒さを感じていた。

 

(はて、これはなにやら、うまいこと……)

 

 アリアンデル絵画世界の「お嬢様」に待望の顔料を届けて、思う。自分は便利使いに処されたのではあるまいか?

 

(処刑器具と、配達人。ついでに燃料も兼ねていたのか? ――顔に似合わず、存外、したたかじゃあないか、あの爺ぃ。この私をまんまと利用してのけるとは)

 

 むろん、奴隷騎士ゲールのことである。

 もし、小人の王たちの性根がもう幾許か座っていて、まだ水気を残していたならどうしたのだろう。適当な奴を雑巾みたく絞り上げ、それで顔料――暗い魂の血を手に入れようとでも画策していたのだろうか?

 しかし案に相違して、彼らは干物以上に干物であった。

 何処を突いても血など一滴たりとてこぼれない。ならばとばかりに彼は生還を放り投げ、自分を一個の器と扱い、暗い魂を投入し、求める顔料を練り上げようと試みた。

 

(小人の王たち。王、たち(・・)か)

 

 複数形。――彼らはどのようにして暗い魂を得たのだろうか?

 始まりは誰も知らぬ小人だった、それは間違いない。グウィンよろしく、その彼が、選出した幾名かの同胞に力を分けでもしたのだろうか? それとも各々が自力で見出し、列席の名誉を獲得したのか。そこまではちょっとわからない。

 

(だが、いずれにせよ、彼らは暗い魂を錆びつかせた)

 

 どうせ滅びるなら滅びるで、もっと華やかに燃え尽きればよかったものを。

 我と我が身が干乾びてゆくのを自覚しながら、しかし何の手立ても講じずに、ただ自然の成り行きに任せるような、そんな怠惰と諦観が、すべてを蝕む暗黒にさえ饐えた臭いを放たせたのだ。

 神々にとっては、最高に都合のいい展開だったに違いない。聖職者が垂れる説教とは、畢竟人の志を縮小させる服従の道理だ。それを忠実に履行して、ついに何もしない(・・・・・)という究極の美徳に到達した彼らを、手を打って褒め称えたことだろう。いい子だねえ、正に賢者だ上出来だとも、そのまま穏やかに壊死したまえよ。……

 皮肉にも、それはエルフリーデが選んだアリアンデルの甘い腐れにも酷似していて。

 ゆえに、解決策も簡単に導き出せるだろう。炎――圧倒的な熱量による融解だ。

 一旦融かし、不純物を取り除き、膿を雪いで純度を高め濾しあげて。それでこそ同じ轍を踏むことのない、新たなる絵画世界を描く顔料として相応しいモノが出来上がる。

 どこか金属の精錬を思わせるその作業は、しかし現実に於いては闘争という手段でのみ成就された。

 彼女を相手取っての、あの大激突がそれである。品質向上(・・・・)のため、正気であろうがなかろうが、奴隷騎士は火の無い灰と殺し合わねばならなかったに違いない。

 

(そう考えると、むしろ自我崩壊は好都合か)

 

 あらゆる箍が吹き飛んで、本当に力の限り最期まで闘うことが可能となる。こいつを斃してしまったら、顔料を取り出すことも、「お嬢様」に届けることも不可能になる、第一アリアンデルを焼いてくれた恩人に向けて、こんな振る舞いに及んでいいのか――などと、そんな小賢しい思慮をちらとでも念頭に残していては駄目なのだ。暗い魂は応えない。

 ただひとえに「お嬢様」のため。――何もかもがわからなくなり、視界(すべて)が闇に閉ざされようと、そのことだけは忘れなかった。

 ただ一念のみを残してあらゆる要素が蒸発したとき、暗い魂の血を練り上げる、完全なる器が生まれたのだろう。

 闘いが苛烈になればなるほど、暗い魂は純化され、往年の勢威を取り戻していった。

 それこそが、ゲールの見せた異常なまでの出力上昇のからくりなのだ。

 彼女はさしずめ燃料であり、また攪拌棒の役でもあった。

 闇のソウルの真髄に最も迫った、いわば同族(・・)たる彼女の人間性にも引っ張られ、ゲールと暗い魂の同調は進み、やがて化身を通り越し、ついにそのもの(・・・・)となりはてたとき、彼の虚ろに顔料として使うに足る、濃厚な血が生じていた。

 

(で、終わってみれば、私も貴様も十全に目的を達していた、と。こんな決着があるとはなあ)

 

 血は、どうせ持っていても有効活用出来ないものだ。火を見た少女が暗い魂の色彩で描く世界とやらにも興味がある。「お嬢様」に進呈して悔いはない。

 

(だが、このソウルまでは渡さんぞ)

 

 血と同時に手に入れた、奴隷騎士ゲールのソウル。

 人間性のカタチに異形化が進行した力あるソウルとの邂逅は、これで実に二度目となる。

 やはりこれも、「一度目」と――深淵の主のそれと同じく、誰かを想う粘液質な生あたたかさに満ちていた。

 

(期待以上だ、なんと莫大な力を宿していることか)

 

 錬成炉にぶちこめば、さだめし有用な何かが誕生するに違いない。

 鬼であろう。血も涙もない、合理一点張りの思考であった。

 とまれかくまれ、彼女が輪の都を訪れた目的は、これによって完全に達成されたといっていい。むしろ釣りが出るほどだ。その釣りのぶんの労働が、こうしてアリアンデルへと脚を運び、「お嬢様」に顔料を渡す配達作業と考えるなら――なるほど、これは帳尻が合っている。

 

(……しかし、ああ、なんだろうな。整合性が取れすぎているというのも、これはこれで)

 

 捻れに捻れ、曲がりきった彼女の精神性からしてみれば、どうにも薄気味悪く感ぜられるものらしい。

 彼女は憮然顔で、篝火の前に腰を下ろした。

 あの老人の押し殺した笑い声が、何処からか聞こえて来るような気がした。

 

 

 

 

 

「探しましたよ、闇深き人」

 

 

 

 

 

 その後、どういうわけかこの女はもう一度、何もなくなったはずの輪の都を訪れている。

 理由は、よくわからない。

 

 ――そういえば、あの小人は。

 ――輪の都を糞溜めと呼んだ、崖下のあの小人は、まだ生き残っているのだろうか。

 ――もしかすると、真実の輪の都に投げ出されているのかも……。

 

 そんなことを言っていたらしいが、果たして本気であったか、どうか。

 アリアンデルの「お嬢様」に絵を描き上げる時間を与えるべく、適当な理由をでっち上げたのだろうと、彼女に好意的な人々――深淵の忌み子、カルラが筆頭――は洞察する。

 最初の火の消滅が絵画世界にどう影響するかわからぬ以上、もし最悪の方向に転がって、奴隷騎士の献身が無に帰すような……そんなちゃぶ台返しめいた結末へと至るのは、流石に忍びなかったのだろう、と。

 

「暗い魂の血で描かれた世界なら、闇の時代でもきっと――そう希望(のぞ)んだのではないだろうか」

 

 だから最初の火の炉を訪れるのを、ぎりぎりまで引き延ばした。

 しかし、あの冷血が、そんなことを?

 

「存外、夢見がちな女なのさ」

 

 でなくば、世界を変えようなどと、そもそも思い立ちはしないだろう? と。

 長きに渡る牢暮らしで、もはや動くことも叶わぬ女は誇るようにそう言った。

 

 さて、当の彼女である。

 

(……んん?)

 

 フィリアノールの寝所から一歩出て、途端に感じた。

 体毛が逆立っている。

 空気が帯電しているかのようなこの感覚は、今更取り間違えるはずもない。

 

(殺気か。誰かが私を殺そうとしている)

 

 べつに珍しい話ではないだろう、心当たりがありすぎた。

 そしてそのすべてに対し、絶対に頭は下げないと決めている。警戒しながら、気配の強まる方へと歩いた。

 地形に挟まれ、袋小路になっている廃墟へ脚を踏み入れたとき――前述の台詞が聞こえてきたのだ。

 

「私も神の末、公爵の娘、シラ。そして、ミディールの友人です」

(あっ)

 

 そこで漸く、彼女はこの娘の存在を思い出した。にわかには信じ難いほど馬鹿げていて、当人を虚仮にしきった話だが、こうして姿を見せるまで、彼女はシラと、シラにまつわる一切を完全に忘却していたのである。

 

「神の誇り、火の矜持、闇への恐れ、すべて私の中にあります」

(そうか、こんな顔をしていたか)

 

 扉越しの会話のみで印象が薄かったというのもあるし、何より奴隷騎士ゲールの衝撃が強すぎた。

 もはや「輪の都」という単語から真っ先に連想されるイメージが、擦り切れたあの赤頭巾という域である。つい、他が霞んでしまった。ないがしろにした。

 

「だからこそ、私は許しません」

「……!」

 

 そう言って、シラが構えた武器を見て――彼女は血相を一変させた。

 

(なんだ、あれは)

 

 十字槍に異形の死体が蔓の如く絡み付いている。

 一瞬、悪趣味な前衛芸術の類かとも思ったが……明らかに違う。死体と見たのは間違いだった。風化し、肉が剥がれ、骨ばかりとなり、槍の穂先が上顎から頭蓋を貫いているにも拘らず、それは確かに生きている(・・・・・)のだ。

 

(不死人か!)

 

 輪の都を訪れる前、不安と共に、密かに立てたあの予測。

 

 ――必ずあるに決まっているのだ。

 ――何か、不死人を嵌め込み逃さないための陥穽が。

 

 それは正に、目の前に。ここでもし、シラに遅れを取りでもすれば、篝火に戻されるだけでは済まないだろう。十中八九、彼女も磔に処されるとみて構うまい。怨念に燃えるシラの顔を見てみれば、むしろしないほうがおかしいというものである。どう見ても、鬼女そのものなのだ。

 

「寄るな」

 

 恐れるように一歩後ずさる彼女を見て、シラの心に弾みがついた。袋小路に追い詰められた憎い相手が、あからさまにうろたえているのである。名誉と礼節を重んずる騎士として、自己を厳しく教育してきたシラでさえ、この構図には嗜虐心を刺激されずにはいられない。

 

(何を、この期に及んで、虫のいい)

 

 そういう正義(・・)の憤りもある。シラは、躊躇わず踏み込んだ。

 

「いいえ、今更すべてが遅い。許さないと言いました。――お前たちの裏切り、冒涜、そして卑しい渇望を!」

「私に寄るなと――」

 

 だが、それが逆に彼女の逆鱗に触れた。

 

「――そう言った!」

 

 あらゆる痛苦を経験した。

 刺され、殴られ、潰され、焼かれ。凍死、毒死、轢死、水死と、経験せざる死に方のほうがむしろ少ない。強酸の体液をぶっかけられたり、頭に卵を孕まされたことさえあったのだ。

 

(が、しかし、その総てを合わせても)

 

 北の不死院で味わった、あの不毛で無為な無限の時間には及ぶまい、というのが彼女の確信するところであった。

 とにかく、「何も起きない」というのがいけない。

 水も食事も配られず、身を横たえる寝台すらも存在しない、暗く湿気った牢屋の中で正気を保てる者などいない。崩壊する時間感覚、徐々に閉じてゆく自我。連れて来られた時はまだ真っ当だった不死人が、日に日に返事も緩慢になり、亡者になりゆくその過程。自分の名前さえ思い出せなくなればもう駄目だ、すぐに此処が何処なのか、何故こんな場所に閉じ込められているのかと、忘却は怒涛の如く連鎖する。

 困惑し、幼児退行を惹き起こし、皮膚がふやけるほどに泣き濡れて、やがて意味のない呻きしか発しなくなる一連の流れを、頼みもしないのに何度も何度も見せつけられた。

 

 ――あんな風になってたまるか。

 

 正気を保つべく、彼女は憎しみを縁とした。

 自分を捕え、ここにぶち込んだ連中を怨み、ダークリングの顕れざる「健常者」の群れを憎悪して、碌でもない運命ばかり押し付ける世界そのものを激しく呪詛した。この世の終わりに恋焦がれ、その衝撃が波及して牢の壁を崩すのを夢にまで描いたものである。

 が、それでも意識に忍び寄る靄は阻みきれない。

 何もせず、ただぼんやりと曖昧に、壁を見つめているだけで一日が終わったのを自覚した際には、なんたることかと慄えたものだ。

 

 立ち向かえる幸福。運命を自らの手で切り開ける、少なくともそれに挑戦(・・)出来る境遇が、如何に恵まれたものであることか。彼女ほどよく知る者は、そういない。

 だが現在、その権利が脅かされている。

 目の前の女騎士が奪おうとしているのはそういうものだ。あの槍の穂先に縫い止められたが最後、彼女はあらゆる力を奪われて、不死院に逆戻りも同然の境遇へ堕とされる。

 

(冗談ではない)

 

 道徳家は自業自得と突き放すに違いないが、彼女はあくまで抵抗する。そう、力の総てを振り絞り、文字通り必死(・・)になって抗ったのだ。

 それがどれほど戦慄すべき沙汰なのか、不幸にしてシラはとんと無知だった。

 碌に相手を知らぬまま戦いに赴くということは、時としてとんでもない惨禍を招く。

 公爵の娘、神の末。フィリアノールの騎士だのと――ああ、それがいったい何だと言うのか。繰り言になるが、シラが対峙している相手は()どころか神そのもの(・・・・)を抹殺した大不敬者。悪名高き「王狩り」ではないか。

 数千回に及ぶ死を経験しておきながら、亡者に堕ちる兆候さえ窺えないという時点で尋常ではない。只人にはその百分の一さえ耐え切れるかどうか怪しいのだ。常軌を逸し、逸しきり、ついには大気圏を突破して宇宙に飛び出したかのような感さえあった。

 人類史上最多記録であるのは間違いなく、もしこれに追随出来る者がいるとすれば、それはきっと、あの探求者ただひとり。ドラングレイグの地を訪れ、闇の落とし子たちと奇妙な運命の交錯を演じつつ、古き王たちの力を束ね、呪いを超える真の王冠を手にしながら、しかし渇望の玉座に背を向けて、誰も知らぬ何処かへと立ち去った――絶望を焚べる者を措いて他になかろう。

 むろん、シラは絶望を焚べる者ではない。

 であるが以上、彼女相手に対抗可能な道理こそなく。

 ただでさえ出鱈目な怪物が、追い詰められた必死さゆえに、制御された(・・・・・)行動爆発(・・・・)などという輪をかけてふざけたものを発動すればどうなるか。もはや闘いと呼べるものではなかった。無惨そのものといっていい、虐殺だけが展開された。

 

「アァッ…」

 

 先の啖呵から断末魔まで、一分とかかっていない。

 雷の矢はその悉くが虚しく宙を駆けるばかりで、盾に触れることさえ許されなかった。

 手段を選ばず、ずっと封じ込んできたはずの狂王の遺骸を地に叩きつけ、一時覚醒させることまでしたのに、終わってみればすべて無為。結局、薄皮一枚剥ぎ取ることさえ叶わぬままに、シラは無念の涙を呑んだ。

 

   …私は、お前たちを

       決して許さない…

 

 呪いを残したくもなるだろう。完敗の見本のような始末であった。

 

 

 

 もしミディールが(シラ)の死に様、その背景の隅々までを知ったなら、ただでさえこれ以上ないほど怒り狂っている彼である。限度を超えて、眼から火を噴いただろう。

 こうなることが予見出来なかったわけでなく、彼女はこの黒竜との対決を、避けることとて可能であった。

 

(だが、避けてどうなる)

 

 放置したところで、ミディールが勝手に消滅してくれる保証はないのだ。下手をするとより凶悪な存在と化して、闇の谷を這い上がり、幻影の輪の都から飛び出して来ぬとも限らない。

 

(見過ごすには、あまりに巨大過ぎる禍根だ。断てる内に断っておくのが上策よ)

 

 幸い、彼の居場所は略奪したシラのソウルから読み取って把握している。

 いや、誤解しないで欲しいのだが、別段妙な術を施したわけではないのである。よほど強烈に想い続けていたのだろう、ソウルを受け入れた瞬間、それは勝手に脳内に流れ込んだのだ。文字通り、魂の奥底まで焼き付いていたに違いない。

 となれば、後は簡単である。前述の通り、何事にも裏口、抜け穴の類はつきものだ。フィリアノールの眠りが破壊されたことにより、崩壊した偽りの輪の都。もはや何処にも存在しないはずのその場所に、しかし一刻後にはもう、彼女はしっかり立っていた。

 

 

 ここで漸く、物語は冒頭へと巻き戻る。

 

 

 傍から見れば、それは実力の伯仲した、あたかも手に汗握る鍔迫り合いの如きものとして印象されたことだろう。戦いは熾烈を極めており、どちらに勝利の天秤が傾いても不思議ではない。均衡が崩れるその一瞬を、今か今かと固唾を呑んで待っているのだ。

 が、当人達の心境はまるで異なる。

 

 ――何故だ。

 

 ミディールは混乱の極みにあった。

 それも無理からぬことである。彼にとっては、「互角の戦い」なるもの自体、これが初めて。神に育てられた古竜の末、先祖(・・)の特徴を色濃く残す、その風采は伊達ではないのだ。威に見合うだけの力を内包している。

 彼に伍する力量など同族か、若しくは最上位の神々に漸く期待し得るもので、後者は彼の保護者であり、前者は粗方狩り尽くされてしまっていた。成長し、使命を与えられた時にはもう、この地上に「敵」と呼ぶに足る相手など、殆ど残っていなかったのである。

 

 ――なんなのだ、こいつは。

 

 人間など、竜から見れば塵芥。そもそも前提からして違うのだ。圧倒的な質量差が横たわっている。現に見よ、ミディールが数歩歩いただけで、彼女はもうあんな後方に引き離されているではないか。

 小さな脚を前後させて、必死に追い縋ろうとしているが、まったく無意味極まりない。低く、地を這い、薙ぎ払うように炎を吐いて――だから、何故貴様は生きている!? 燃え尽きるのが道理であろうが、何故なにごともなかったように、変わらず此方へ走っているのだ!?

 

 ――おかしい。こんな人間がいるはずがない。こんなものが人間であるわけがない。

 

 上体を起こし、再び咆哮。もはや意にした気ぶりも見せない彼女めがけて、体ごと倒れ込んで行く。

 重力の助勢も加わって、彼我の距離はあっと言う間に埋められた。轟音と共に顎が閉じられ――しかし何の手応えもない。当然あるべき血の味が、一向舌から伝わらないのだ。

 

 ――まただ! また、避けられた! 煙にでもなれるのか、こいつは!

 

 そう思うより早く、頭部に鋭い痛みが走る。喰らい続けた闇により、内側から蝕まれる慣れ親しんだそれではない、もっと熱く、烈しい痛み。水面を黒く濁らせたのは、彼女ではなくミディール自身の血であった。

 

 ――どうなっている!

 

 ミディールは、もっとよく考えるべきであったろう。

 彼が塵芥と認識していた人間ども。しかし、朽ちぬ古竜の鱗を継いだ彼さえ侵し、正気を失わしめた()なるものを糾してみれば、その根源は他でもない――人間にこそあるではないか。

 兎角、この種族は油断ならない。個々は貧弱だろうとも、一ツ意識の下統制された集団を作れば思わぬ強さを発揮する。かと思いきや、その集団さえも踏み台にして想像を絶した跳躍を成す例外(・・)出現(あらわ)れ、或いは押し上げられて到り(・・)もするのだ。

 そのあたりの認識を、闇喰らいは怠った。

 ミディールが大事にしたのは与えられた使命のみで、その内容に思いを馳せることをしなかった。

 

 ――憐れなことだ。神の枷とは、古竜の末さえ囚えるか。

 

 ロンドールのユリアあたりに言わせてみれば、さしずめこんなところであろう。

 むろん、ミディールが知る由もないことである。彼には何もわからない。理解不能な相手に、わけもわからぬまま次々傷を負わされてゆく。消化不能な現実は苛立ちを募らせ、瞬時に爆発して憤怒の炎を燃え上がらせる。高まり続ける激情に、破壊力は天井知らずの上昇を見せるが……引き換えに、動き自体はどんどん粗雑に、そして単調になっていった。

 

(確かに、強い。強いことは強いが――)

 

 しかしこれでは、駄々を捏ねる子供も同然であろう。狂乱する竜の姿は、それ故に意図が丸出しで、「読み」に長けた彼女の眼からは別段意図せずとも次の動作が見えるのである。

 

(ただ、規模が数万倍に膨れ上がって、超高温・超高密度の熱線を吐けるようになっただけである。対処は、容易い)

 

 苦戦はしよう。いくら動きが透けて見えても、身の置きどころを一歩間違えただけで影も残さず消滅するのだ、命の危険は重々承知。

 だが、それでも。

 この闘いは彼女にとって、どこまでも「退治」に過ぎなかった。

 

「――奴隷騎士には及ばんなあ!」

 

 はっきりと、口に出して宣言した。

 同時につる(・・)を放れてひょうと射られたミルウッドの大矢が、吸い込まれるようにミディールの眉間に命中し、その巨体を震撼させた。

 

 

 

 開幕こそ互角に見えた闘いは、いつしか一方的な様相を呈していった。

 ミディールは、逃げるべきであったろう。この地下空間なる環境自体が、彼にとっては甚だ不利で、彼女ばかりを利するものであることは明らかである。竜は、大空を舞ってこそ竜なのだ。ここで退くのは恥ではない。武略の一環といっていい。

 が、頭に血が上りきっている今の彼に、そんな柔軟な発想は不可能だった。

 憎しみは、間違いなく極めて効率のいい燃料である。しかし同時に、使用者を盲目にする危険性をも孕んでいるのだ。

 

 ――そうか、見えたぞ貴様の正体。

 

 にも拘らず、たった一点に於いてのみ、ミディールの見立ては完璧だった。

 奇跡としか言い様がない。まさに正鵠を射ていたのである。

 

 ――そうだ、貴様がそうなのだ。それ以外に考えられない。

 ――我が養親、光輝あふるる偉大な方が、その到来を何より恐れた破滅そのもの。先駆け(・・・)にして(・・・)執行者(・・・)

 ――暗い魂の王!

 

 殺さなければ、とかつてないほど強く思う。

 しかし決意とは裏腹に、彼が現実にやったことは首を滅茶苦茶に振り動かして熱線により周囲一帯を薙ぎ払うという、極めて稚拙なものだった。

 敢えて衝動に身を委ね尽くすことにより、看破不可能な軌道を描いたつもりだろう。

 が、彼女は既に、ミディール自身知り及ばない、無意識の底を流れる根源的音律を掴んでいる。

 その双眸を通して見ればこの程度、泣きじゃくっていやいやをする子供と何ら変わるものではない。適当にいなし、力の大放出によりへたり込んだミディールを、容赦なく切り刻みにかかった。

 いったい何が悪かったのだろう。闇喰らいのミディールがこの女を滅ぼす見込みは、端から完全皆無だったのか。

 ――否。断言しよう、道はあった。

 それも別段、奇を衒ったものではない。先駆者だって既にいる。無名の王と嵐の古竜に倣い、彼もまた、朋友たるフィリアノールの女騎士をその背に乗せて挑むだけでよかったのである。

 そんなことは不可能だ、と人は言おう。

 汚染され、正気を失くしたミディールの前に立ったなら、誰であろうと攻撃される。意思疎通など不可能で、それはシラであろうと例外ではない、と。

 堂々たる正論である。

 だが、不可能と言うならば、シラが単騎で彼女に挑み、これを討ち果たすことも、また不可能に属することだ。

 不可能事を可能にしたいと欲するならば、奇跡の二つや三つ程度、起こさなければ話にならない。前提として必要であり、シラにとっては遠き日の友情に賭けた方が、まだ成算は高かった。

 

 つまり、要約すればこういうことだ。

 あの公爵の娘が友を措いて独り彼女を追った時点で、両者の命運は尽きたのである。

 

 となれば、後は態々、細かく語るまでもない。当然の帰結が待っていた。

 何ら意表をつく展開は起こらず、一貫して淡々とした、まさしく狩人の手並みで以って、彼女はミディールを終わらせた。

 綻びてなお荘厳さを失わなかった黒竜は、天を仰ぎ、その結末を拒否するように大きく身をよじったものの、やがてふっと力が抜けて、横倒しに崩れ落ちた。

 片翼が沈んだ時にはもう、何もわからなくなっていたに違いない。

 

 

 

 以上を以って、輪の都を巡る物語には完全に終止符が打たれたのである。

 彼女は、本筋(・・)へと回帰した。すなわち最初の火の炉をとうとう訪れ、王たちの化身と対面し、すべてを悟り、死闘の果てに火継ぎの終わりを成就したというわけだ。

 闇の時代の到来である。

 今や、彼女は名実共に闇の王。遥かな過去に一度放棄したその称号は、廻り廻って結局のところ、この女に冠せられるべく宿命づけられていたらしい。

 だが、この幕開けは、簒奪者をこそ望んだロンドールの意向を大きく裏切るものに他ならず。

 亡者の国が彼女を戴くことは、もはやあるまい。

 

 ――王たちに玉座なし。

 

 予言が示すそのままに、新たなる王、闇の王たる彼女にも、玉座が与えられることはなかったのである。

 

 ……だが、心せよロンドール。

 今はよい。隣に寄り添う者により、暗い穴は癒えている。

 しかし決して、永遠ではないだろう。いつかまた、この怪物は餓えはじめ、ここにない何かを求めて動き出す日がやってくる。

 そうでなくとも、もとより暴には暴を以ってしか酬いる術を知らぬ女だ。裏切り者を誅すのだ、と粗忽者が一人でも先走ろうものならば、たちどころに牙を剥き出し蹂躙を開始するだろう。待っていたぞと、或いは歓呼の声を上げながら。

 そうなった場合、ロンドールが第二の輪の都になったとしても、何ら不思議ではないのである。

 

 

 

 



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