Twitter短編:弓剣の食卓 (冬霞@ハーメルン)
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白身肴のフリット
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「―――これは‥‥魚、ですか?」
「イギリスは島国だ、魚など珍しくなかろう?」
「‥‥ログレスは内陸部でしたから、海にはあまり。それに魚は保存が効きませんので」
「成る程。干物の技術は発展していなかったのか」
陽はとうに沈み、闇の静寂が辺りを包む衛宮邸。珍しく静かな食卓に、二人だけがいた。
常ならば騒がしい食卓も、今日は静謐で寂しさすら覚えるくらいだった。
家主である衛宮士郎、その師匠たる遠坂凛、後輩の間桐桜、サーヴァントのライダー、居候のバゼットなどなど、皆揃って新都へ外食に行ってしまっている。
二人だけが残った衛宮邸は実に広く、些細な物音も大きく響いた。
セイバーとしては主不在の屋敷を守るのが自分の仕事と心得ていたが、やはり美味しいものを食べ損ねた、仲間外れにされたという気持ちは些か以上にある。
それをしっかり納得してみせるだけの大人ではあるが、それよりも食事の心配がなくなり、同じく留守番を買って出てくれた弓兵には感謝していた。
「白身魚ですね。タラ、ですか?」
「うむ、ご名答と言ったところか。タラのムニエル、というものだ」
皿には季節の山菜‥‥主に茸が敷き詰められ、そのにズッキーニやオニオンも混ざっている。どん、と鎮座まします白身魚は表面にパン粉を塗してあるようで、実に豪快かつ見目も良かった。
「遠慮は要らない、さぁ召し上がるといい」
「しかしアーチャー、貴方は」
「勘違いするなセイバー。少し追加の用意をするだけだ、気にすることはない、私も相伴させて頂くさ。君が気兼ねしてしまうようでは、シェフとして申し訳が立たないだろう?」
「‥‥そういうことでしたら。では、遠慮無くお先に失礼します」
一方的に給仕をさせるのは心苦しい、との主張にも皮肉げな笑みで返す。ならば、さぁ味わうとしよう。
いただきます、と英国人らしからぬ仕草で手を合わせ、器用な箸使いで上品に鱈を一口だけ摘み取る。
フワリ、と千切れた白身はフカフカで、まだしっかり湯気を立てている。
口に入れれば、舌を刺激するザラザラしたパン粉の感触。そして噛めば汁気も十分な魚の旨味が溢れてくる。
「これは‥‥!」
仄かな塩胡椒、そしてコンソメとアルコールの匂いがする。油はオリーブを使ったものか、芳醇な大地の薫りが鼻に燻る。
コンソメは間違いなく手作りだろう。肉や野菜をふんだんに使い、長い時間をかけて煮込んで出汁を取らなければいけないこのスープは恐ろしく手間が掛るが、士郎が作っていたこともあった。
鱈自体には殆ど味付けがされていない。おそらく要はパン粉。だからこそ、素材の良さが引き立つ。
「美味しい‥‥!」
豪勢にも縦に何等分かしたおおぶりのエリンギは、ぷりぷりとして実にジューシィだった。まるごとそのまま火を通した椎茸の松笠も、纏めて頬張ったシメジも、素晴らしい塩梅に仕上がっている。
これはまさに山と海との最高のコラボレーションである。まるで真逆の場所から採れた幸が、素晴らしい調和を以て舌を悦ばせる。思わず箸も進むというものだ。
「お気に召したようだな」
夢中になってしまう一歩手前で現れる、首が痛くなるぐらいの紅い長身。してやったり、という笑みには反感を覚えるはずなのに、不思議とそんな気がしない。むしろ、満足だった。
黒いシャツに黒いスラックス。そこに真っ赤なエプロンを着け、手にはボウルと、瓶にグラス。
「アーチャー、それは?」
「サラダとワインだ。先日コペンハーゲンのマスターから頂いてな。小僧共にやるには勿体無い、ここで呑んでしまおうと思ったまでだ」
無造作にボウルに盛られていたのは、オーソドックスなシーザーサラダだった。先日拵えたサンドイッチの余りで作ったクルトン、ハムとレタス。自家製の美しい白が目に映える。
そして器用に指の間で挟みこんでいた二つのグラスに注がれる、白く透き通る魅惑の液体。
王として過ごしていた頃は、どちらかといえば雑で素朴な酒が多かった。一方、これは現代まで培われた技術の粋を尽くして絞りあげられた、洗練された一滴だ。
昔では望むべくもない美しさ。この身は少女のまま成長を止めているとはいえ、酒類への造詣は程々にある。娯楽の少なかったあの時代、好物と言ってもいい。おお、と思わず声が漏れる。
「さて、では‥‥」
グラスを掲げた弓兵が、暫し口を閉じる。開いたはいいが締め方が分からない、そんなばつの悪そうな感じだった。
「乾杯、と言いたいところだったのだが、何に乾杯すれば良かったのだろうな」
「呆れましたね、自信満々にしておいて。そんなことはグラスを持つ前に考えておくべきでしょう」
「その通りなのだが」
むぅ、と普段の飄々と皮肉ぶった態度も放り投げ、考え込む英雄。何故か外見より遥かに年下に見える仕草に、思わず笑いが零れる。
「なにかね、馬鹿にしているのか?」
「いえ、決してそんなつもりは」
いつもは嘘か真か分からぬ冗談で他人を煙に巻く漢が、生真面目に悩んでいる姿は滑稽なものだ。彼にはそれが分かっていないのだろう。基本的に、気配りが利くわりには自分というものが与える影響を主において考えない悪癖が彼にはあった。
「何も深く考えることはありません。節目でも何でもない酒宴ではないですか。考えすぎる時間が勿体無い」
「君が言うならば、食物を蔑ろにしているわけでもないのだろうな。では只、乾杯とだけ唱えれば良いのかね?」
「それでは味気なさ過ぎる。如何せん大人が酒を酌み交わす機会は多くない。気の利いた言葉は思い浮かびませんか」
「そうだな、生前の友人に言わせれば、私にはその手のユーモアが欠けているらしい。君はどうかね?」
「むぅ‥‥」
ふむ、と思案する。大仰な名目は頂けない。冗談に徹するのも風情がない。こう見えても己は王として詩歌も嗜んだ身である。何とか妙(たえ)な句節が浮かばぬものか。
「ふむ」
あぁ、そうか、たいしたことはない。偶然にも浮世に迷い出た我ら、ならば唱える言葉は決まっている。
「―――この奇妙なるも貴い出会いに、では如何ですか?」
にやりと彼のように笑って見せて口にした言葉。しかし、それを迎えたのは予想とは随分違う、いや、真逆の反応だった。
「‥‥アーチャー?」
真ん丸に見開いた目、半開きの口は、先程よりも幼く彼を見せる。衝撃を食らったかのように。
「‥‥あぁ、そうだな。実に奇妙で、貴くて、何にも替え難い素晴らしい出会いだ」
ふっと浮かぶ、万感の想いを込めた微笑。喜び、哀しみ、寂しさ、悔しさ、色んな感情の入り混じった笑顔に、思わず目を見開き、胸に衝撃が走る。
今までの浅い付き合いからは想像もつかなかった、深い表情だった。
「君との出会いに」
「―――あ、貴方との出会いに」
最初に口を開いたのは自分だったはずなのに、いつの間にかリードされて、セイバーはグラスを静かに打ち鳴らした。
一瞬ながらも、とても長い接触のような気がした。事実、二つのグラスが鳴らす清澄で高い音は長く長く鳴り響いていた。
或いはそれはグラス同士の振動が合わさった結果ではなく、その持ち主の意思が示す長さだったのだろうか。
この飛沫の夢のような時間を少しでも長く長く引き伸ばしたいと、そう、切に願ったがための響きだったのだろうか。良い夢ならば、ただ長く続くことを願うはずだ。夢はいずれ、覚めるものなのだから。
くい、と含み、喉を通っていく澄みきった酒の感触が、ひどく哀しかった。音はどれだけ響いても、酒は虚しく過ぎ去って行く。
何故だろう、美味しいはずなのに旨がいっぱいだった。そしてそれが、決して嫌ではなかった。
―――帰ってきた主人たちが見たのは、すっかり酔っ払って行儀よく静かに眠る騎士王と、髪をかき乱して何処か楽しそうに後片付けをする弓兵の姿だった。
無論、何があったかは分からない。しかし何かはあったはずだ。
問い詰めることも適わず思案を巡らせる、部外者たちの悩みは暫く続いたという。
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海鮮ちらし
虫の声が響き渡る庭を眺めて、彼女は微かに聞こえるぐらい小さな吐息を零した。
満足げであり、幸せそうであり‥‥少し寂しげでもあった。
眺める視線の先で無邪気に花火を翳して遊ぶ家族の如何にも楽しげな様に、混ざるでもなくひとりでぽつり。
しかし決して、不満ではなかった。
たまにはこうして、少しだけ離れた場所で寂寥を味わうのも悪くはなかった。
或いは現世に生きる者ではない己の在り方を見つめ直すのに、必要な時間かもしれないとすら思っていた。
ある意味では陳腐なヒロイスティックな行為も、彼女の中では大事なものだ。
それは強いられたものでは決してなかった。
「‥‥混ざらんのかね?」
「‥‥」
背後から足音もなく忍び寄って来た、無粋な声。
む、と少しばかり眉を潜めるも、あぁ、まぁそういう男であったと苦笑も漏れる。
基本的にこの友人は、無粋であり空気が読めず、それでいて皮肉屋を気取りながら真に誠実で無骨な漢であった。
「いや、すまない。愚問だったか」
「なにがですか」
理解はしているつもりでも、したり顔で笑われては流石に気に障る。
何よりせっかく直ぐにでも離れられる心地の良い孤独に半身を浸していた意味がない。情緒を削がれる。
少しばかり剣呑な声と共に振り返れば、やはりニヤけた彼の顔である。
「君の気持ちは分かるが、やはり見てはおれんよ。浸るのなら、周りにだれもいない時にしたまえ。実に見苦しい」
「なにを、侮辱する気ですかアーチャー」
「怒るということは図星か。被虐の悦楽は甘美なものだが、周りに害があるなら配慮するのが大人というものだぞセイバー。そう寂しい顔をするな」
確かに彼の言うことには一理あった。
孤独を味わうという嗜好は被虐的なものだ。つまるところ、その出汁に他人を使うのは失礼極まる。そう言いたいのだろう。
「‥‥申し訳ない。私としたことが、浅慮でしたか」
「いやなに、謝ってもらうようなことではないさ」
一瞬だけ、優しげな声が聞こえた。
「つまりなんだ、退廃的な寂寥を愉しむならば、良いものがあるぞセイバー。周りからは楽しげに見えて、自らはムードというものが味わえる。最善の手段がな」
「ほぅ、貴方からそのようなことを聞くとは思いませんでしたね。どうぞ、そのアイデアとやらを拝領しましょうか」
いつもの笑みに、こちらも同じような笑みを以て対する。
親密かと問われれば否。敵かと問われても否。互いに互いをためすような、誘うような、頼むような、そんな微妙な距離感が心地よかった。
十まで気を赦すことはないが、互いに五は共有する。
不思議な、歪んだ、捻れた関係なのかもしれなかった。
「そら」
トン、と微かな音と共に縁側に置かれたのは、見目鮮やかなちらし寿司であった。
平たい皿に、一面に盛り付けられている。
具は紅色が鮮やかな鮭や、深い赤が目に映える鮪。細かく刻んだイカに、存在感を示す海老。その他諸々、とにかく豪華の一言に尽きる。
「言葉もなく、空気に埋没するには良い肴に良い酒と決まっているだろうさ」
「アーチャー、このような良いものを我々だけで頂くのは‥‥」
「気にすることはない。殆ど端切れのようなものさ。連中も目の前の遊びに夢中で、こちらには気づくまいよ。
それとも気を使って、分けてしまうかね?」
「むぅ‥‥! いえ、せっかくですから悪くならないうちに頂いてしまいましょう。えぇ、おれがいい。それがいいに決まっています」
意地悪な質問にぐぅの根も出ず、私はひったくるようにして箸を掴んだ。
成る程、確かに。色とりどりに鮮やかながらも、具の量はといえば大したことはない。
酒の肴ならば、然り、米に塗したように細かな具材があるのはありがたいことだった。
背から勿体つけて取り出された酒も、あぁ、申し分ない。
「おぉ‥‥!」
先ずは一口、アーチャーが盃に酒を注ぐ間に寿司を味わう。
悔しくも申し分のない味だった。魚には脂かよくのっており、絶妙に調整された寿司酢がその脂と調和している。
魚の脂と飯の酢が、どちらが強いということもなく、舌の上で混ざり合って高め合う。一切の喧嘩をしない配合だ。
「―――!」
悔しくなって無言で酒を注げば、これは堪らない。
口の中に海そのものが広がったかのような、芳醇な香り。鼻の奥、脳髄まで突き抜ける幸福感に、思わず吐息が零れる。
舌で踊る重厚な刺身から、味を損なわぬままに香りが抜け出る。何という至福の味か、ただ箸が止まらぬばかりであった。
「見事‥‥!」
彼の性格を鑑みるに、決して高いものではなかろう。それでいながら、これほどの満足感。
己が安くなったわけではあるまい。やはり此の弓兵、失うは惜しき者であると、騎士王は独りごちた。
無論その独白はしっかりと隣の戦友に、悟られてはいたのであるが。
「確かに君の云わんとするとも分かるがな。要は寂寥か、或いは満足か。どちらを主にするかで見目も変わろうよ」
七輪で炙った、河豚の干物。おそらくは北の方の名産であろう其れを齧りながら、季節にそぐわぬ黒装束の好敵手は一人零した。
「寂しさの中に楽しさがあるか、楽しさの中に寂しさがあるか。私はどちらにしても、その瞬間を楽しんでいるということに、違いはないはずだと思うわけだ」
「‥‥」
段々と赤みを帯びて来た横顔は、少し幼い面影を落とす。何処かで見たことがあるような、よく知っているような、純粋な表情だった。
「ならばせめて、精一杯楽しみたまえ。無理に孤独を背負う必要はあるまい。君には仲間が、いるのだから」
私が仲間だ、とは言わなかった。
ああ、だからこそ彼なのだな、とセイバーも思った。
互いに遠回しで、実に回りくどい。
だからこそ良いと、二人ともが思っていたに違いない。
―――その後は一切の言葉を交わさず、ひたすらに酒を酌み交わし続けた二人が歴史に名高い英霊が、翌朝二日酔いに悩まされることになったのは‥‥?
或いは格好つけ過ぎる二人への何者かからの罰であったのか。
とにもかくにも仲良く倒れる騎士たちが生暖かい目で見られることは、確定された未来であった‥‥。
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プングリッシュ・ブレックファスト
‥‥ただ最近ちょっと、帰宅してないので手作りの料理と縁がない。
記憶を探るのは難しいですね。
涼やかな風が吹き込む道場の朝は、彼女の特等席だった。
私室に荷物らしい荷物を(いくばくかのぬいぐるみを除き)置かない彼女にとって、むしろ私室よりも寛げる空間と言ってもいい。
本来ならば戦場での心構えさえ説くべき場所で落ち着けるのは、花が光を求めるように当たり前のことなのだろう。
当然その手にあるべき稽古道具、竹刀は道場の隅にまとめて収められている。彼女は稽古のために来ているわけではないのだから当然だ。
金砂のような美しい髪と透き通った湖の底のような瞳は到底日本人ではあり得ないというのに、真っ直ぐに伸びた背筋と緊張なく畳まれた足は侍にも似ている。
「―――相変わらず早いのだな、セイバー」
「‥‥貴方でしたか、アーチャー」
「ふっ、気づかれてしまっていたか。いや、私もまだ未熟だな」
ミシリ、と僅かに廊下の床が軋み、振り返った。身の丈は二メートルにも達するかというすらりとした巨躯。浅黒い肌にくすんだ白髪の同居人だ。
新聞でも読んでいたか、縁のない老眼鏡が若い癖にやたら似合う。しかし赤いエプロンとモフモフの スリッパが精悍な印象を妙な方向に崩していた。
この男、こういった“外した”ファッションがべらぼうに様になるのだ。普段ならば彼の主や賑やかな他の住人達が許さないのだが‥‥今日は誰もいない。
「凛達から連絡は入りましたか?」
「いや、まだだ。なかなか忙しいようだな。そも、こんな時間に電話などかけてこないだろうよ。デリカシーのない小僧なら別かもしれんが」
「時差がありますから、その点は心配ないでしょう。余計に気を回すに違いない」
「ふん、だといいがな」
主の話は誇らしげに、あるいは父のように。しかし主の恋人である少年の話題には、一徹して冷たい。突き放すならともかく、わざわざ背後に回って全力で突き飛ばす辺りは、むしろ不器用な親切なのかもしれないとセイバーは少し笑った。
その微笑みが憎たらしい小僧に向けられたものかと、一段と皺が深くなる。
「‥‥まぁいい。朝食の支度が完了した。まだ此処にいるかね?」
「喜んで向かいましょう。貴方の作る朝食は久しい」
「む。まぁ、二人しかいないからな。無駄に凝ったものは作っていない。期待に答えられんかもしれんが」
「過ぎた謙遜はよしなさい、アーチャー。楽しみにしていますとも」
二人連れたって廊下を歩く。四月も半ばを過ぎたというのに、やたらと涼しい朝だった。
差し込む陽の光は暖かだが風が寒い。馴染みの弓兵も流石に今日は長袖だ。
そういえば、この同居人は中々露出の差が激しいと、歩きながらどうでもいいことを考えた。
「夏は変態チックですからね」
「何か?」
「いえ、なんでも」
程なく食堂へたどりつく。既に用意されていた朝食が食卓に並んでいた。
家主が厨房に立つ時にはやたらめったら多い料理の皿が、今日は若干ながら少なめだった。
なるほど、質実剛健で差をつけたか。この男、中々子供っぽく負けず嫌いである。
「さて、まだ出していないものがあるな。スープを持ってこよう。先に食べているといい」
「私とて待つことは知っていますが」
「そういう意味ではない。冷めては美味しくないだろう。すぐに戻る」
「‥‥まったく、強情ですね。では、お言葉に甘えるとしましょうか」
今日はどうやら洋食。イングリッシュブレックファーストか。
凝り性だからか、トースターラックまで据えてある。わざわざ買うまでもなく、おそらく投影物だろう。山ほどのトーストが入れてあった。
皿にはシンプルな、レタスとスライスオニオン、それからトマト。サラダというよりは生野菜の盛り合わせか。ドレッシングではなく、オイルで食べるのか。
「少し酸っぱい。レモンですね。これは爽やかだ」
薄切りのハムを丸めてフォークに刺し、野菜と一緒に頬張った。ハム独特の匂いがサラダで和らぎ、肉の歯ごたえの中に混ざった爽やかな匂いが実に良い。
半分ほど飲み込んで、残りをおかずにトーストを口へと運ぶ。先ずは何もつけずに。ふむ、彼の作るものに外れがあるわけもないが、やはり悪くない。
バターもジャムもつけないトーストは、少し焦げた匂いとパリッとした触感がお気に入りだ。オイルとごくごく僅かな肉汁と混ざって、いくらでも食べてしまいそうになる。
「ちょうどいい焼き具合です。チーズとバターも無しに食べられます。これはおかずが捗りますね」
しかし他のものにも目移りしてしまう。我慢していたわけではないが、そろそろ調味料にも手を付けよう。
バターやマーガリンは当たり前だが、薄切りのチーズはこだわりだ。
最初から薄切りの市販品ではなく、どっしりと重い塊からナイフで切り分ける。勿論マーガリンはすでにトーストに塗っておくのだ。
焼きたてのトーストにマーガリンはよく染み込む。匂いが既に美味しい。テーズは流石に溶けはしないが、先程みたいにサラダとハムと合わせて食べれば幸せになれる。
「満足してくれているようだ。手抜きで悪いな、セイバー」
「手間をかければいいというものでもないでしょう。‥…それは?」
「ほうれん草のスープだな。ベーコンとハムで肉の種類が少し被ってしまったか‥…まぁいい。熱いから気をつけて飲むといい」
形だけは対面を保つためか、皮肉な笑みを浮かべて出されたのは、ドロドロの緑色のスープ。かなり濃く見える。食べたことがないスープだ。これは面白い。
ドロリと抵抗の強いスープを、スプーンで掬って丁寧に口へ運ぶ。意外にも思ったよりも薄味。舌を刺激する濃い味ではない。塩とコショウでささやかに味付けされている。舌で味わい、鼻へと空気を抜けさせると優しい緑の香りがした。
「ミキサーの音がしていましたが、成る程。これはいいものですね」
「食欲をそそらんかと思ったが杞憂だったようだな」
「この程度で私は臆しはしません。……タコは別ですが」
「ク、そうだったな。安心したまえ。偏食を克服するというなら手伝いもするが、相手が嫌うものは出さん」
ふむ、ふむと頷きながら食べ進める。スープなのに食べ応えがある。向かいに座って自分も食べ始めるアーチャーの真似をして、トーストを千切って浸してみると、スープをすくうことが出来た。これも美味しい。トーストが進む。
いつの間にか淹れられていた熱い紅茶は、遥か先の時代に流通するようになったものだというのに不思議と舌と喉に合った。遺伝子レベルでイギリス人に合う飲み物なのだろうか。遥か古代の人間である自分も、イギリス人なら紅茶であると思わず主張してしまいそうになる。
次に手を伸ばしたのは甘味。黄色い熊のキャラクターをあしらった黄色いツボには衛宮家では珍しい、自家製のマーマレード。
市販のものに比べると甘みは控えめだが、しっかりとオレンジの形が残っている。これもまたトーストにたっぷり乗せて頬張った。
酸味と甘みを堪能し、熱い紅茶を一口。思わず満足げな溜息が零れるのをどうにも止められなかった。
「ふむ。その調子だと、食後の紅茶は要らんかね?」
「何を言うのですかアーチャー。食後にも飲むのです。紅茶の文化はブリテンが誇るべきものだ」
「産地はインドだかな」
「広めたのは我が祖国だ」
「やれやれ、イギリス人は自尊心が強い。もう食べないなら、すまないが食器を下げてくれたまえ」
洗い物も含めて台所は弓兵の戦場だ。限られた者しか共闘は許されない。
せめて食器を下げ、食卓を拭き、紅茶を注いでまた一口。洗い物の水音を背中で聞きながら、テレビの電源をつけた。
ロンドンは今頃何時だろうか。あの二人なら身の危険とは無縁だろうが、余計な騒動は量産しそうである。
「チョコレートがあるのだが、食後にどうかね?」
「頂きます。それとアーチャー、二人の帰国は」
「予定では明日だ。駅までは迎えに行くとしようか」
ふむ、とチョコレートを齧りながら考える。となると、あと丸一日は自分の好きなものを弓兵にねだれるわけである。
こんなチャンスはそうそうないことだ。
趣味が料理、というプロ顔負けの家庭料理人が飽和しているこの屋敷だが、それぞれ好みが違うために献立の決定については議論が紛糾する。好きなものを最高の料理人に頼めるチャンスは得難い。これは逃さず、好機を満喫するべきだろう。
「アーチャー、午後の買い物には私も行きましょう」
「君が?‥‥あぁ、成る程。しかし買い食いは控えたまえよ?」
「荷物持ちに行くと言っているのです!貴方は私を何だと思っているのですか!」
「食欲魔人‥…とはとてもとても、そんな失礼なことは考えておらんよ」
「‥‥いいでしょう、ならば先ずは道場だ。貴方の私に対する認識を改める必要があるようですね」
ぴしり、と空気が凍りつく。
これは自分が悪いわけではない。明らかに向こうから喧嘩を売ってきたのだと理論武装を重ねた。
うん、問題ない。これは説教の一種であって折檻ではない。
「先に三本とった者が江戸前屋の大判焼きを奢る。それで構いませんね?」
「私とて負けるつもりは毛頭ない。大丈夫かね、既に勝ったつもりでいるが。足元を掬われても知らんぞ?」
「無論。奢り云々よりも、貴方をギャフンと言わせたいものですね」
「‥‥よかろう。ならば加減は無用だセイバー」
「こちらこそ全力で来なさい」
うららかな初春の空気の中、仲良く言い争う二人。
結局この時に約束した稽古に白熱するあまり疲労困憊。
ありあわせながらも工夫を凝らした料理にセイバーは満足することになる。
またセイバーが初めて包丁を握ると言った小さな事件もあったのだが。
それらはまた、後日にて。
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