あるいは語られたかもしれない、彼と彼女の青春ラブコメ。 (きよきば)
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こうして彼と彼女の出会いは、1年早く訪れる。

ものすごく緊張しております。

どうかお手柔らかに…


昼ごろだろうか。俺こと比企谷八幡は、チャイムの音で目を覚ました。

リビングのソファーでぼーっとしているといつの間にか寝ていたらしい。小町がいない所を見るとまだ寝てるかどこかに出かけたのだろう。共働きの両親は当然留守で、俺が応対するしかない。こんな時間に来るということはアマゾンで注文したマッ缶が届いたのだろうか。

軽くバシャバシャと顔を洗って玄関へ向かう。

足はもうかなり良くなってようやく高校に行くことができる。入学ぼっちが確定はしたがあの浮かれた気分で行くよりはダメージは少ないだろう。

 

そのへんにあったサンダルに足を通して、荷物を受け取るべくドアを開けた。

 

「はーい……え?」

 

きっと、アマゾンの箱を抱えて宅配の人が立っていると思って開けたドアの先には営業スマイルを貼り付けたお兄さんはいなかった。

代わりに、小さな箱を抱えた女の子が立っていた。

歳は俺と同じくらいだろうか、黒髪にお団子、童顔で身長は俺より低いが、大きな胸をお持ちである。不安げな表情を浮かべてこちらを伺っている。その子は一般的に見てかなりの美少女で、思わず見惚れてしまったのは男だから仕方ない。

とは言え、俺は美少女の宅配など頼んでいないし、そういう系の店の人が来る家を間違えたという訳でもなさそうだ。

 

「えっと…ど、どちら様でしょうか?」

 

親や小町の知り合いなら後で来てたと言えばいいし来る家を間違えたなら教えなければならない。だからとりあえず誰なのかを聞いたのだが、この美少女は声をかけられるなりびくっと怯えるような反応を見せてあうあう言いながら顔を赤くして縮こまってしまった。

 

「………」

 

「………」

 

え、なに?なんなのこの時間。自慢じゃないが俺にはコミュニケーション能力というものがほぼない。初対面の美少女に優しく対応してあげるなんてことは到底不可能である。本当に自慢できないな。

しかしこのままだと近所から不審な目で見られかねない。せめて用事があるのが比企谷家の誰かなのかくらいは聞いておかなければならないだろう。

 

「あの、うちの誰かのお知り合いか何かですかね…?」

 

なけなしのコミュ力を全て動員して話しかけるとまたこの美少女はびくっとして上目遣いで俺を見ながらぼそぼそと喋り始めた。

やめなさいそれ目のやり場に困っちゃうから。

ほら、その、なに。可愛いし。

 

「あぅ…えっと…えっと…ひ、比企谷…はたっ…はち、まんくんに用事があって…」

 

「………え……」

 

「あぅぅ……」

 

どうもこの美少女は俺に用事があるらしい。ハニートラップを一瞬疑ったが俺を罠に嵌めるメリットがない以上それはないだろう。高校にはまだ行ってないからイジメられる原因もないし。…まだ。

顔を真っ赤に染めたこの子はそのまま倒れそうなくらいに胸に抱いた箱をぎゅっと握っている。

 

しかし、まあ。この子が誰なのか俺は知らないが向こうは知っているらしいし、話を聞く必要が出てきた。とりあえず不審がられたくはないので中に入ってもらうか。

 

「比企谷八幡は俺です、けど。とりあえず入ってもらえますか?」

 

3度、びくっとした美少女はこくっと頷いて顔を上げた。

ドアを閉めてリビングに案内して、コーヒーを準備していると、美少女はきょろきょろと落ち着かない様子で部屋中を眺めていた。

 

「あ、そのソファーに座っていただいて…」

 

ソファーを促すと、4度、びくっとして頷いた。え、俺そんなに怖いかなぁ…ちょっとショックだなぁ…ああ、目か。そりゃあ仕方ない。

 

コーヒーをカップに入れながらちらりとソファーを見やると、名前も知らない美少女はなぜかソファーの上にちょこんと正座していた。

いや、なんでだよ。緊張してるのん?それとも日本の文化を間違って理解した外国人なのん?

 

…なんかこっちの緊張感がなくなってきた。

まあ、まずは要件を聞かないとな。

コーヒーをテーブルに置き、反対側に座った。

 

「…あの、ソファなんで正座しなくても」

 

「…ふえぇっ!?あ、そ、そっか…」

 

その慌てようにこみあげる笑いをごまかすためにコーヒーをひと口啜り、本題に入ることにした。

 

「それで、俺に用事っていうのは…あと、お名前は…?」

 

それなりに丁寧な言葉を選んで喋る。見た感じ同い年くらいには見えるけれど。

 

「あ、そ、そうだ…あたし、総武高1年の由比ヶ浜結衣、っていいましゅ…」

 

いや、言いましゅって。クラス変わって初日の自己紹介の時の俺かよ。

 

「はぁ、比企谷八幡です…」

 

とりあえず自己紹介を返すとまたしても無言。この子どんだけ緊張してんの。ほら、お兄さん怖くないよ?

 

「えっと…あの…ごめんなさい!」

 

「…はい?」

 

怖くないからっていきなりフられるのは嫌だなぁ…せめて告白してからフってほしいなぁ…どっちみち振られちゃうのかよ。

自己紹介のついでに俺を振った由比ヶ浜さん、だったか。は俺が何かに気づくのを期待するような眼差しを送ってきた。ごめんなさい、わからないです。

 

「えっと…なんで俺いま振られたんすかね…ラブレター出した覚えはないんですけど…」

 

「わっひゃぁぁ!?ち、違うよ!?そーいう意味のごめんなさいじゃなくて…!」

 

なるほど、振られた訳ではないらしい。

つまりまだチャンスがあるってことだな。違うか、違うね。

 

とにかくこのままだと話が全く進まない。もはや俺のコミュ力はヒットポイントが尽きているが、それでもなんとか言葉を捻り出す。

 

「前にどっかで会いましたか?」

 

5度、びくっとして…というパターンかと思ったが、由比ヶ浜さんはキリッとした顔をして頭が膝に着くんじゃないかってくらい頭を下げた。

 

「にゅっ…入学式の日にサブレ、あ、えと…!い、犬を助けてくれてありがとうございました!あたっ…あたしのせいで怪我させちゃってごめんなさい!」

 

噛みながらもひと息で言い切った由比ヶ浜さんはふーっ、ふーっと呼吸を荒くした。

 

ああー…あの犬の飼い主がこの由比ヶ浜さんと。あの時は犬しか見えてなくて飼い主まで気が回らなかったが、そうか。

 

「ああ、あの犬の…」

 

「はい…あの、本当にごめんなさいっ!」

 

もう一度、頭を下げながら由比ヶ浜さんは持ってきた箱を差し出してきた。緊張のあまり強く抱きすぎて角の方とか凹んでしまっている。

ああ、総武の1年って言ったっけ。同級生か。そりゃあ余計に気にするわな。友達とか作るのに最初の3週間まるまる休ませるようなことしたらそりゃ気にするなってのが無理な話だろう。

だからここは素直に謝罪を受け取るのがベスト。尾を引かないようにこの場で事故の全てを終わらせておいた方が良いだろう。

 

「…あの犬は、元気?…ですか?」

 

「あ、うん…えと。タメ口で、いいよ?」

 

「…わかった。なら、良い。こうして家まで来て謝罪もしてもらったわけだし、これで終わりってことで」

 

「え、でも……」

 

ごめんなさいで済んだら警察はいらねえんだよ!みたいな罵倒を覚悟していたのか、あっさり終わったことに由比ヶ浜さんは驚きを隠せないらしい。

いや、そんな罵倒とかしても何も変わらないもんなぁ…ごめんなさいで済むし。ほら、俺犬とか猫とか超好きだし。ギャーギャー騒いで人を傷つける趣味もないし。

 

「いや、本当にいいんだよ。たぶん事故がなくても俺ぼっちだし。勉強もまだついていけるレベルだし」

 

「でも……」

 

「気にするなってのも難しいかもしれんが、本当に大丈夫だから」

 

まあ、時間が経てば忘れてくれるだろう。こんだけ可愛いんだから友達もたくさんいるだろうし、イケメンを捕まえることもできる。俺みたいな底辺とは本来交わらないタイプだ。元々接点のないものが何かの間違いでちょっとだけ交わって。それがまた元に戻るだけだ。

 

「…わかった」

 

納得はしてないようだが、由比ヶ浜さんは頷いた。それでいい。

要件は済んだし、後は送って行こうかな、などと思っていると、由比ヶ浜さんはゴソゴソとバッグの中を漁って携帯を取り出した。

その携帯を俺に見せながら、謝る時以上に赤い顔をしながらぽしょりと呟く。

 

「じゃ、じゃあさ…事故のこととか関係ナシで、と、友達になろ?」

 

そのひと言はまったく予想外で、面食らった俺は思わず固まってしまった。

 

「あれ?ひ、比企谷くん?お、おーい?」

 

しばらく停止していると由比ヶ浜さんが目の前で手を振っていた。

 

「あ、ああ悪い。で、なに?」

 

「えと、と、友達になろ?」

 

「え、いや…なんで?」

 

「な、なんで?えっと…あたしも高校に友達とかあんまいないし…事故とか抜きにして仲良くできたら、って思ったんだけど…」

 

これは俺の予想だが。

由比ヶ浜さんはその可愛いさが良い方に向かわなかったタイプなのではなかろうか。

こんだけ可愛いし、まあ、なに。これだけ立派な胸をお持ちだと中学生くらいの男子ならそこばっか見るだろうし女子だって嫉妬したりなんだりで友達になれなかったりするだろうし。

それでも嫌われまいとした結果、さっきまでのような、相手を伺うような振る舞いが身についたのかもしれない。

なるほど、友達が少ない原因もいろいろだなぁ…

あとあれだろうな。女子カーストのトップに君臨する女王様タイプのやつって自分の言いたいこと言って人の言うこと聞かないから、こういう子に対して強気に出て、ものを言わせない癖にそういうハッキリしない態度がどうとか言っちゃう。おお怖い。

 

まあ、なんにせよ。せっかく友達になろうなんて言ってくれた人に対して拒絶するようなことはしない。過去の俺がまた騙されるんじゃないかと警告しているが、この由比ヶ浜さんの表情が、振る舞いが演技なのだとしたら、そりゃもう参ったと言うしかない。

そもそも俺が1時間も早く家を出たのは新しい環境に期待したからだったはずだ。その結果がこれなら、一度だけ、手を伸ばしてみてもいいんじゃないだろうか。

これでダメなら仕方ない、ぼっちの世界のエリートとして自分を磨いていくほかない。

だから、一度だけ。こんな腐った目をした俺なんかに友達になろうなんて言ってくれたこの子にだけ。踏み込んでみようと、そう思った。

 

だから、俺も携帯を取り出して、もごもごと喋った。

 

「わかった。まあ、せっかくだしな」

 

「あっ…うん!せっかくだから!」

 

心底嬉しそうな顔をして俺の携帯に番号をうちこんでいく。打つの早えなぁ…

 

「できたっ!じゃあえっと…よ、よろしくお願いします…」

 

「…こ、こちらこそ…」

 

戸惑いながら、互いに踏み出した一歩目はどこかこそばゆくて、照れくさくて。

それでも。

俺は久しぶりに、自然な顔で笑えているような気がした。

 

 

「なあ、由比ヶ浜さん」

 

「なに?…うーん、由比ヶ浜さんって何か他人ぽくてやだなぁ…」

 

「いや、他人ぽいもなにも他人なんだけど…」

 

「そうじゃなくてこう…もうちょっとふらんきー?なのがいいかなって」

 

「…ああ。フランクな」

 

もうちょっとフランキーになるとん〜〜〜〜…スーパーー!とか言っちゃうから。

 

「ふえっ!?し、知ってるもん…」

 

拗ねたように頬を膨らませる由比ヶ浜さん。

なんだろう、文字にするとあざといことこの上ないしぐさだが、その顔には作ってる感がない。天然だ。

 

「で、フランクな呼び方って何かあんの?」

 

「うーん…名前で呼ぶ、とか」

 

「ごめんなさい無理です」

 

「早いよ!」

 

 

それから、アホな駆け引きの末になんとか由比ヶ浜と呼ぶことで落ち着いた。

そして話題は俺をどう呼ぶのか、ということに移った。

 

「比企谷って珍しいもんね。うーん…はちくん、八幡くん…ハッチー…」

 

比企谷って珍しいもんねとか言っといてあだ名全部八幡からきてるんだけど。あとそのあだ名の羅列やめろ。嬉し恥ずかしいから。

 

「比企谷、ひきがや…えっと…そだ、ヒッキー!ヒッキーってどう!?」

 

良いこと思いついた!が顔に出すぎだろ。

世間的にヒッキーってたぶん悪口だぞ。

 

でも、まあなんだ。せっかくつけてくれたし?ほら、柏崎さんだって肉なんて呼ばれてたのに喜んでたし?由比ヶ浜にヒッキーと呼ばれるのは別に嫌じゃないというか。

…うん、柏崎さん、気持ちわかる。初めてつけられたあだ名って嬉しいよな。

 

「じゃあ、ヒッキーで」

 

「うんっ!ヒッキーかぁ…えへへ…」

 

 

お互いをどう呼ぶのかが決まったところで、由比ヶ浜は帰らないといけない時間になったらしい。

来た時と全然違う顔で帰り支度をしながら、由比ヶ浜はそうだ、と話しかけてきた。

 

「学校でなんかわかんないこととかあったらいつでも聞いて?クラス違うけど遊びに行くし!」

 

「わかった」

 

でも遊びには来ない方がいいと思います。

下衆の勘繰りタイムが始まっちゃうから。

 

送っていくと言ったが近くまで親が車で迎えにきているということで玄関前で別れる。

ドアに手をかけ、ガチャっと開いたところで、由比ヶ浜は振り向いた。

 

「じゃ、じゃあヒッキー。また学校で、ね?」

 

「…ああ、また学校でな」

 

胸の前で小さく手を振って由比ヶ浜は出て行った。

あれ?そもそも由比ヶ浜何しに来たんだったか…まあいいか。

 

既に閉じたドアを見つめながら、3週間遅れて始まる高校生活に、俺は少しだけ期待を膨らませた。

 

 

 

由比ヶ浜が帰った後、俺はリビングのソファに座り読書をしていた。小町のニヤニヤ顔にうんざりしながら。

 

「ねえお兄ちゃん、さっきの超可愛いひと誰?」

 

「さっきも言っただろ。犬の飼い主だ」

 

「なーんで謝りに来た人がお兄ちゃんのことヒッキーなんて呼んでるの?」

 

「そりゃお前、と、友達にだな…」

 

人に言うのは恥ずかしいものである。

「ああ、こいつ?ダチだから」みたいな軽いノリで紹介できるやつってなかなかのメンタルの持ち主だな。

 

「これはお兄ちゃんのお嫁さん候補筆頭…タイミングよく小町が寝てるなんてこれは…運命?」

 

「おい、聞こえてるぞ」

 

今日初めて話した人になんてこと言うんだバカ妹め。

 

「お兄ちゃん、逃しちゃダメだよ?」

 

「だからそーいうんじゃないっての…」

 

この妹大丈夫かしら…担任の先生が女だったら先生までお嫁さん候補にしちゃいそうでお兄ちゃん心配。…大丈夫だよね?

 

 

 

そんな、友達ができた日の夜。

明日からの登校ということで、たいへんな緊張と少しの期待を胸に抱きながら準備をしていると、携帯が震えてメールを受信したことを知らせた。

画面を見ると☆★ゆい★☆の表示である。…スパムメールにしか見えないけど変えたら怒りそうなんだよなぁ…

 

 

From ☆★ゆい★☆ 21:45

 

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おつかれ〜( ´ ▽ ` )ノ

明日から学校だね!休み時間とかに話せたら嬉しいデス☆

これからよろしくね!^ ^

 

 

まあ、なんというか。女の子のメールってこんなものなのかしらん。今までの女子は俺が送ったメールを本文そのままに数秒で送り返すというスタイルを採用している人がほとんどだったからよくわからない。

まあ、返しておこう。

 

 

From 八幡 21:50

 

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おう、よろしくな

 

 

 

 

ちょっと考えてから送ったメッセージは一文。パーフェクト。これこそ《ブブっ…》

早い、ガハマさん返信早い!

 

From ☆★ゆい★☆ 21:51

 

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なんかヒッキー、怒ってる?!?(・_・;?

 

 

 

え、なんで?

何がいけなかったのかよくわからないが怒ってることは否定しておく。

 

 

 

From 八幡 21:54

 

title nontitle

 

いや、別に怒ってねえよ

 

 

いったい全体どこを見て怒ってると判断したのか、後で小町に聞いて《ブブっ…》

だから早い!ガハマさんてば返信超早い!

 

 

From ☆★ゆい★☆ 21:55

 

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絵文字とか顔文字使わないと怒ってるみたいに見えるよ( *`ω´)

 

 

 

顔文字使っても怒ってるように見えるんだけど…

まあいい。絵文字か顔文字を使えばいいわけだ。

 

 

 

From 八幡 21:57

 

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(( _ _ ))..zzzZZ

 

 

 

 

From ☆★ゆい★☆ 21:58

 

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寝るなっ!(*`へ´*)

 

おやすみ、ヒッキー(-_-)zzz

 

 

 

 

 

どっちだよ。寝ていいの?ダメなの?永遠の眠りにつけってことなの?

だめだ、わからん。

けどまあ、なに。メールが来るっていいものです。

 

 

 

「なあ、小町」

 

「なに?」

 

「このメール、どこか間違ってたか?」

 

「んー?……なに、これ」

 

「え、なにって…なに?」

 

「こんの…バカ、ボケナス、八幡!何なのさ、このメール!」

 

「八幡は悪口じゃねえだろ…いや、だからなにって…なに?」

 

「この八幡め…そこに正座!」

 

「おい、だから八幡は悪口じゃ『せ、い、ざ!』……はい…」

 

 

 

また由比ヶ浜とメールする機会があれば、小町のいう通りにちゃんと文章で返そうと思いました。まる。

 

 

 

 

という夜を過ごして、いよいよ登校初日を迎える。遅れてやってくるヒーローのごとく輝く…つもりはないのだが…まあ、なるようにしかなるまい。

小町の説経中ずっと正座してたせいで痺れた足をさすりながら、コーヒーをひと口啜った。

 




ということで、こんな出会い、可能性としてはあったのではないでしょうか?
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!


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不器用ながらも、彼らはがんばっている。

2話になります。

見落としている誤字脱字がけっこうあるようです。申し訳ありません。
自分でもチェックはしておりますがもし見つかったら報告よろしくお願いします。


From ☆★ゆい★☆ 9:47

 

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ヒッキー、今日から登校じゃなかったっけ?まだ来てないみたいだけど(・・?)

 

来る時、車気をつけてね?

ほんとに気をつけてね?>_<

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

From 八幡 10:16

 

title nontitle

 

悪い、寝てた。

車に気をつけてゆっくりゆっくり行くわ

 

 

 

 

国語教師の平塚静は、腕を組んで俺を睨みつけた。その威圧感と言うと金剛力士像を軽く上回るレベル。運慶快慶もここまでのものは作れないだろう。

蛇に睨まれた蛙のごとく萎縮した俺は反論を用意することすらできない。だいたい寝坊しといて反論も何もあったもんじゃない。

 

「比企谷。何か言うことは?」

 

「……おはようございます」

 

「比企谷。今は何時だ?」

 

「…12時5分です」

 

「何か言うことは?」

 

「…こ、こんにちは?」

 

「誰があいさつのやり直しをしろと言った。登校初日から午前中の授業を全てサボるとはいい度胸だ比企谷」

 

「いや、違うんですよ。予定より睡眠が長引いただけで…」

 

「ふっ!」

 

「ぐえっ……」

 

腹にとんでもないパンチをくらって俺は倒れた。ちくしょうこの馬鹿力女教師め…なに生徒殴ってスッキリした表情してんだよ。体罰とか最近うるさいって知らねえのかよ。

 

「午後からはきちんと受けたまえ」

 

それだけ言うと平塚先生は教室から出て行った。いきなり入ってきて殴られたあいつ誰?みたいな視線も気になったため立ち上がり自分の席に…俺自分の席知らねえよ。どこだよ俺の席。

仕方ない。ロッカーに全部突っ込んで5限ギリギリに誰も座ってない席に着くしかないだろう。

となるとどこかで時間をつぶさないといけないわけだが。

 

「ッキー、ヒッキー!」

 

タイミングのいいことに、由比ヶ浜が教室の外から手招きをしていた。

教室にくるまでに既に制服を着崩した女子もチラホラ見たが、由比ヶ浜は比較的きちんと着ているようだ。別に着崩すのが悪いとは言わないが、黒髪童顔の由比ヶ浜の場合はこっちの方がいいと俺は思う。どうでもいいな。

 

「ヒッキー、初日から寝坊?」

 

「ああ、夜更かししすぎてな」

 

だからってみぞおちに拳を入れられるとは思っていなかったが。あの先生絶対ちっさい頃男子と喧嘩しまくって勝ちまくってたタイプだ。

まあ、夜更かしっていうか寝られなかっただけなんだけどな。

 

「あ、もしかしてさ、楽しみで寝られなかったとか?」

 

由比ヶ浜はからかうように笑った。

だが残念だな、そっちじゃない。

 

「…逆だ。なにあいつ、死ねば?みたいな歓迎を受けたらどうしようかと考えてた」

 

「なんで初日から!?ていうか嫌われてるの前提!?ひ、ヒッキーもうちょっと高校生活に希望持とうよ…」

 

「いや、希望とかねえだろ。世の中希望だけじゃ出来てないんだから」

 

「うーん、なんかよくわかんないけど、ご飯食べよ?」

 

「…お前本当にわかってないだろ」

 

間違いなくわかってない。ほら、なんかハミングとかしながら歩き出しちゃってるし。だいたいどこに歩いてんだよ。

 

「おい、どこ行くんだよ」

 

「え?あ、そっか。購買の近くにいいとこあるから、そこ!」

 

とだけ言うと由比ヶ浜はさっさと歩き出してしまった。まあ、いいけど。

俺はコンビニの袋をバッグから出して後を追った。

ていうか、由比ヶ浜。お前クラスの女子と食えよ。

 

 

 

 

由比ヶ浜に連れられてきた場所は確かにいい場所だった。近くに人はおらず、がらんとしたテニスコートにもやはり人はいない。今後昼飯はここで食うことにするか。

 

「お前、いつもここで食ってんの?」

 

「いやー、普段は同じクラスの子とだけど、ここで食べてみたいなって思ってたからさ」

 

由比ヶ浜は弁当を広げ美味そうに食べ始めた。

俺もそれにならいパンを口に運ぶ。

ある程度食べた頃、由比ヶ浜が口を開いた。

 

「あ、そだ。ヒッキー?」

 

「なんだ?」

 

「授業のノートとか困るでしょ?あたしの貸したげよっか?」

 

そういえばまるまる3週間ぶんノートないんだったな。もちろん見せてもらえるのは助かる。クラスに知り合いなどいないし。ただ気になるのは、

 

「お前、ちゃんとノート取ってんの?」

 

そこが1番の問題だ。パラパラ漫画とか書いてありそうだし。

 

「失礼だな!?ちゃんととってるから!」

 

「いや、パラパラ漫画とか書いてたり耳に残った単語だけテキトーに並べてありそうなんだけど」

 

「パラパラ漫画とか…数学のノートにしかないもん…」

 

やっぱあるんじゃねえか。

数学ならいいけど。だって関係ないし。

 

「ま、ありがたく借りるわ」

 

「えっ…いいの?」

 

「え、ダメなの?」

 

何その掌返し。やられる方不憫すぎるだろ。

 

「あ、いや全然だいじょぶだよ?じゃあ放課後持ってくね!」

 

「あ、おう…」

 

嬉しそうに笑う由比ヶ浜にそれ以上何も言えず、とりあえず頷いておいた。

こいつのノート、大丈夫かなぁ…

 

 

授業に関してはぼちぼちといったところだろうか。国語なんかは途中からだとわかりにくいから由比ヶ浜のノートが頼りなんだが、心配だ。

ていうか俺あいつのことほとんど何も知らないんだよな…部活とか、趣味とか。

まあ、まだ知り合って2日だというのにそう焦る必要も無いだろう。ノート借りたら今日のところはさっさと帰ろう。

 

ホームルームが終わり、部活に行く者や友達との会話に精を出す者、それぞれがそれぞれに慌ただしく動き始め、教室が騒がしくなった。

このまま教室にいるとどうなるか。

 

由比ヶ浜到着→教室、騒がしい→でかい声で「ヒッキー!」→注目の的に→由比ヶ浜、下衆の勘繰りタイム

こんなところだろうか。よし、外で待っていよう。

俺は教室を出てすぐの壁にもたれてポケットに手を突っ込んだ。

自意識過剰なのかもしれない。由比ヶ浜が来たとしても注目されるのは由比ヶ浜であって俺ではない。だいたい友達と会うのになんで隠れる必要があるんだよ。我ながら卑屈だ。

自らの卑屈さに呆れていると、横から軽くぽすんと肩を叩かれた。

 

「なんで待っててくれないし…」

 

「いや、ちゃんと待ってるだろ…」

 

あとその語尾のしってなんだよ。女子言葉なのん?おそらくは周りが使うから流れで使ってるんだろうけど。

 

「むぅ…あ、そうだ、ノートノート…」

 

天然で頬を膨らませながら由比ヶ浜はバッグから次々とノートを出し始めた。

見た感じ全教科のノートがあるが、いったいこいつは明日どうするつもりなんだろう。

 

「お前、明日の教科のは」

 

「へ?…あ、そうじゃん!」

 

俺は確信した。こいつアホだ。

成績の良い悪い以前のところでアホだ。将来詐欺とかにあいそうで八幡超心配。

由比ヶ浜は明日のぶんであろうノートを抜くと残りを俺に差し出した。

 

「はい、ヒッキー」

 

「おお、ありがとな」

 

大量のノートを受け取り、カバンにしまう。超重い。もうさっさと帰ろう…

 

「じゃ、俺帰るわ」

 

「あ、あたしも帰る!」

 

俺が歩き始めると、由比ヶ浜はさも当然のようについてきた。

なんというか、ノートのことといいこういう流れといい、いかにも友達っぽい感じで、どう反応していいのかまるでわからない。

 

「どしたのヒッキー?帰ろ?」

 

気づかないうちに足が止まっていたらしい。

由比ヶ浜は不思議そうに俺を見ている。

まあ、手を伸ばしてみるって決めたし。教室では避けたが一緒に帰ってみるか。幸い同じ中学の人間はいないからまだ登校初日の俺と一緒に帰ってるところを見られたからってまだあいつ誰?くらいで済むだろう。

だからこれは、踏み出す二歩目。誰が見てるかわかんねえぞ、と言おうとした口を閉じて、由比ヶ浜の隣に立つ。

 

「…帰るか」

 

「うん、帰ろうっ!」

 

 

 

 

 

帰宅して、自室。

俺は由比ヶ浜から借りたノートを開き、休んでる間の内容を確認していた。

由比ヶ浜のノートは板書を写しただけという予想通りのものだった。あと出された問題の回答が半分くらいまちがってる。そして理系科目には睡眠の痕跡が見られた。ついでにパラパラ漫画上手い。

 

「…間違い多すぎだろ…」

 

ひとりごちて、まちがっている場所を訂正しつつ写していく。

丸っこい字は由比ヶ浜の顔のイメージそのまま。決して綺麗にまとめられているわけではない。お世辞にも、勉強ができるやつのノートとは言い難い。

それでも、必死にノートをとる由比ヶ浜の姿を思うと軽く頬が緩んだ。パラパラ漫画でも書いて返してやろうかしらん。

 

 

 

 

翌日の放課後、数冊のノートを抱えた俺は教室を出て、由比ヶ浜のクラスへと歩いていた。

当然、借りたノートを返すためである。

俺から行くことになった理由は昨晩の小町との会話にある。

 

 

 

 

それは夜遅い時間のことである。

 

ノートを写し終えた俺が風呂に入り、リビングへと戻ると小町がソファでダラダラしていた。

俺が風呂に入っている間に俺の部屋に入ったのだろう。机に広げてあるノートのことを訪ねてきた。

 

「ねえお兄ちゃん。あのノートってこの前の人のやつ?」

 

「ん?ああ、由比ヶ浜から借りたやつだ」

 

「へー」

 

どうも小町は由比ヶ浜関係の話題をしたいらしいが、特に質問も思いつかないまま見切り発車をしてしまったらしい。ぶつぶつと小さな声で呟いているが俺には聞こえない。むしろ面倒くさそうだから聞きたくない。

 

「でもお兄ちゃん、良かったじゃん。骨折したおかげで由比ヶ浜さん?みたいな可愛い人と知り合えて。下の名前なんていうの?」

 

「まあ、由比ヶ浜にとってどうかはわからんけどな。あと名前は由比ヶ浜結衣だ」

 

わざわざフルネームで言ったことに特に意味はない。

ほんとだよ?名前だけ言うのが恥ずかしかったとか、そんなんじゃないよ?

 

「ん?どゆこと?」

 

何気なく話した前半部分が小町としては気になったようである。

ああ、これは言わない方が良かったかもしれない。俺の中でもまだせめぎあっているのだ。

由比ヶ浜に対しては友達として踏み込むと決めた、あの時の気持ちと、俺と一緒にいるせいで由比ヶ浜に何か不利益をもたらしてしまうんじゃないかとビビっている気持ちが。

おそらくは高い確率で不利益はもたらされる。俺が何か言われる分には構わない。けれど由比ヶ浜自身への悪口が始まったり、根も葉もない噂が、例えば俺なんぞと付き合っているなどという噂が流れてしまうことだって考えられる。

俺にとってそれは避けたい事態ではあるのだが、そのための手段としては俺が由比ヶ浜と一切関わらない、というものしかない。

しかしそれをすることは俺自身も、何より踏み込んできた由比ヶ浜を裏切ることになる。

それは知らない誰かが由比ヶ浜へ悪意を向けること以上に俺にとって避けたいことだ。

我ながら面倒な思考回路を持っていると思う。考えすぎなのかもしれない。だいたい知り合って3日程度の関係でしかないというのに。

 

けれど、まあ。

たった3日の付き合いしかない由比ヶ浜を裏切りたくない、傷つけたくないと思えるくらいには、俺はたぶん嬉しかったのだと思う。

携帯を遠慮がちに差し出しながら友達になろうと言った由比ヶ浜の姿は、鮮明に焼きついている。それは嫌そうな顔で仕方なくアドレスを交換した中学の時の女子とか、ヒキガエルだのと言っては嘲笑した男子とか、そんなものとは全然違う姿で。

きっと、俺はそれがどうしようもなく嬉しかったのだ。

だから俺は今日、教室で待たなかったくせに一緒には帰るという訳のわからない行動を取ったのだろう。本当に何してんだ俺。

 

もしも。もしも、高校に入って丸1年ぼっちだったら由比ヶ浜と言えど警戒して、すぐに手を伸ばそうとは思えなかったかもしれない。もっと時間がかかったかもしれない。

しかし、幸いなことに由比ヶ浜はまだ俺が高校生活に期待を持っているタイミングで家まで来てくれた。

そして、友達になろうと言ってくれた。

 

ならば。できることなら、応えたい。

拒否することだって出来た。けれど俺は頷いたのだ。だから、応えたい。

 

 

 

 

そんなことをぽつぽつと小町に話した。

別に追求されたわけではないのだが、聞かれてもないことまで言っちゃうあたり、妹に心を開きすぎである。超恥ずかしい。

小町はというと話し始めると止まらなくなってしまった俺に困りつつも最後までふむふむと聞いていた。中2にしては見上げた集中力だ。

 

「そっか…まあ、お兄ちゃんの中学での悲惨ぶりは小町も知ってるけど…」

 

返す言葉もない。悲惨だったからなぁ…

 

「要は、お兄ちゃんがそのー…結衣さんと一緒にいても誰も何も言わないくらい自然になればいいじゃん」

 

「…は?」

 

「何その池の鯉が餌もらう時みたいな顔。あげないよ?」

 

「いらんわ…」

 

冗談かと思えば真面目に言っていたらしい。

ごめんなさい、お兄ちゃんも真面目に考えます。

 

俺と由比ヶ浜が一緒にいても誰も何も言わないくらい自然になればいい……うん、わからん。

だって俺だよ?ブサイクじゃないどころか目以外は割と整ってる顔なのにヒキガエルとか、最終的にカエルとか言われちゃってたよ?泣きてえ…

 

「いい、お兄ちゃん。お兄ちゃんは目以外はそこそこなんだからその目をなんとかするの」

 

「え、これなんとかなんの?」

 

「知らないよ小町の目腐ってないもん」

 

知らないのかよ。ちょっと期待しただろ。返して!俺の淡い期待を返して!

 

「あとお兄ちゃんからも結衣さんに会いに行くこと!」

 

「…は?」

 

「は?じゃないよこのゴミぃちゃん。およm…友達が友達に会いに行くなんて普通だし結衣さんがお兄ちゃんのとこ来るだけなんておかしいでしょうに」

 

ちょっと待ちなさい小町ちゃん。いま何言いかけたの。お兄ちゃんそういう冗談は嫌いよ?

 

「だからお兄ちゃんからも結衣さんとこ行くの。わかった?」

 

こいつなんもわかってねえ!これだから童貞は…みたいな呆れ顔の小町が念をおしてくる。

 

「…わかったよ」

 

まあよく考えれば小町の言う通りだ。毎度毎度由比ヶ浜が俺のクラスまで来るなんておかしいしその方が不審だし。

さしあたっては明日、借りたノートを返すのくらいは俺から行ってみることにするか。

 

 

 

 

 

ということがあって、俺は今由比ヶ浜のクラスへ向かっている。

しばらく感じていなかった胸が締めつけられるような緊張が俺を襲い、呼吸が浅くなる。ノート返す程度でこれって俺今後の人生大丈夫かしら…

クラスが10個もある総武と言えど、教室の位置が極端に離れているわけではない。すぐに着いてしまう。

ホームルームは既に終わったようで、教室の中には20人弱しか生徒は残っていない。由比ヶ浜は自分の席でなにやら携帯をいじっていた。

俺は開きっぱなしのドアから教室に入る。今のところ誰も俺の存在には気づいていないようである。俺はこの存在感の無さをステルスヒッキーと名づけた。発動はオート。あら便利。

 

「由比ヶ浜」

 

「わわっ!……あれ、ヒッキー?」

 

「ああ、ノート返そうと思ってな」

 

「え、早くない?」

 

「そっちの授業もあるだろうし早めの方がいいだろ。ほれ」

 

由比ヶ浜のノートを机の上に置いていく。どうしても周りが気になってしまうのは仕方ない。俺と由比ヶ浜が一緒にいた所でいちいち噂されないようにしたいがそんな方法は思いついてないし。

 

ところで、用事が済めば後は何したらいいのかしらん?さっさと帰ったほうがいいの?

由比ヶ浜はというと「こんだけ一晩でやったんだ…」とか言いながらパラパラとページをめくっている。今1人にしないでどうしていいかわかんないから。

 

「…あれ?あたしこんなの書いたっけ?」

 

どうやら俺が訂正した箇所に気づいたらしい。それよりも解答が間違ってることを気にした方がいいと思います。

 

「…間違ってたから訂正しといた」

 

「へ?…あ、そ、そっか……あれ?ここも…こっちも?…あれ?」

 

「お前、半分くらい間違ってたぞ」

 

「うう…」

 

そんなに間違ってたかなあ…と呟きながらパラパラとノートを眺めていた由比ヶ浜ははっ、と顔を上げた。

 

「ね、ねえヒッキー」

 

「あ?」

 

「べ、勉強教えてくれない?」

 

由比ヶ浜は座ったままノートをきゅっと握り上目遣いで俺を見た。

うわー…なに今の。並の男子なら今の一撃で好きになってるレベル。自分の可愛さを自覚してやってる女子は怖いが本当に怖いのは無自覚な女子である。数多の男子を死地に送り込むのは圧倒的にこちらが多い。

俺?大丈夫だ、既に経験済みだから2度同じミスはしない。

それはさておき、勉強ねえ…勉強って1人でやるもんじゃないの?とは思う。

ただ、昨日あんな事を思っての今日だからなんとなく断りにくいというかなんというか。要するに勉強会ってやつ?ちょっとそれは経験値がゼロなのでどうしたものか全くわからん。

 

「え、いや…」

 

「ほ、ほらこう…友達になった記念?てことで、どう、かな…」

 

だから上目遣いやめなさいって。

俺だからいいけどそのままじゃお前女子に超嫌われるタイプになるぞ。男子からも女子からももれなく嫌われた俺が言うんだから間違いない。

まあ、なんだ。断る理由が特に無いし、せっかくだし。

 

「じゃあ、行くか」

 

「うんっ!行こうっ!」

 

 

腐った目で見つめるには眩しすぎるほどの笑顔を見せる由比ヶ浜の隣を自転車を押して歩く。

 

どうして俺なんかとそこまで仲良くしようとするのかはわからない。

わからないが、由比ヶ浜が俺に対して近づこうとしてくれているというのが事実だ。それなら俺も有言実行するべきだ。これでダメならもう仕方ない。だから由比ヶ浜に対しては俺からも近づこう。亀のように遅いペースかもしれない。人間のくせにずいぶんと小さな1歩しか刻めないかもしれないけれど。

踏み込んだ先に俺が求めた眩しい何かがきっとあるはずだと、そう思うから。

 

 

 

千葉の聖地、サイゼリヤ。

ここに誰かと来たのは何ヶ月ぶり、いや何年ぶりだろう。記憶がないということは初めてかもしれん。店員に人数を聞かれた時反射的に1人です、と言いそうになったことを考えれば、俺もぼっちとしてのレベルが高くなったものだ。

いつも通りミラドリとドリンクバーを注文し、由比ヶ浜が注文するのを待つ。こんな時間も初めてだったりする。悲しくなってきたなぁ…

しばらくして店員が消えたところでバッグから教科書とノート、そしてイヤホンを取り出した。

 

「すとーーっぷ!なんでイヤホン出してんの!?」

 

「え、勉強するんだけど…」

 

「一緒にする気ゼロじゃん!それにいきなり勉強とか味気ないし…」

 

「いや、勉強に味気とかいらんでしょ…」

 

だいたい勉強しに来たはずだったんだけど。

…わかったよミラドリ食うまではしないからそんな顔すんな。

 

「わかったよ…食ったら勉強するぞ」

 

「うん!」

 

ああ、しそうにないなぁ…

小町と同じタイプだよこの子…

 

 

 

 

案の定である。

イヤホンは諦めて勉強しつつ由比ヶ浜の様子を見れば、早々に集中力を失ってしまい、ぼけーっとしている。数学の授業の時の俺みたいになってる。だからわかる。勉強しようとはしてみたもののわからなくて飽きちゃったパターン。

 

「おい、由比ヶ浜。勉強しろ」

 

「…わかんないもん」

 

「開き直って堂々とサボんな。何がわからないんだよ」

 

「えっと、問題解けないし何からやったらいいかもわかんない…」

 

ああ、勉強できないやつの典型だ…お兄ちゃん疲れてきたよ…

本当に小町に勉強教えてる時と同じ気分だよ…

 

「まあ、そのへんもそのうちな」

 

「…うん、お願い」

 

勉強しないと後々大変なことは一応わかっているらしく、由比ヶ浜は軽く頭を下げた。

 

「今日はもういいか」

 

「うん、終わり!なに話そっか!?」

 

前言を撤回する。

全然わかってねえ。まあ今日のところはそれでいいや…

 

「…お前、部活は?」

 

「してないよ?」

 

「そうか」

 

「うん…」

 

「……」

 

「……」

 

やべえつい癖で終わらせてしまった。超気まずい。由比ヶ浜もうまく話題が出ないようであっちこっちと視線を流して困ったような顔をしている。

 

「なんか、すまん。話題がなくてな」

 

「あ、いや全然!無理しなくていいよ!」

 

そうは言うものの気まずいだろう。

よし、落ち着け俺。会話の始まりは質問からというパターンが多いはず。ならば俺が疑問に思っていることを聞いてみるのがいい、はず。たぶん。

 

「なあ、由比ヶ浜。お前、なんで俺なんかと友達になろうと思ったんだ?」

 

「え……」

 

質問間違えたああ!!気まずい!気まずいよおおお!

 

「あ、いや別に深い意味はねえよ。なんとなく聞いてみただけだ」

 

意味はないとわかりながらも、一応取り繕っておく。

気まずさのあまり由比ヶ浜から視線を外してしまったが、由比ヶ浜が喋り始めたことで戻さざるを得なくなった。

 

「えっと…なんかね、あたしもよくわかんないんだけど、なんか、こう…ごめん、やっぱわかんないや」

 

「すまん。無かったことにしてくれ。質問変えるから」

 

由比ヶ浜はたはは…と困り顔をしながら笑った。まあ、今のは俺が悪いな。質問が突然すぎる上に重い。超重い。あと気まずい。

いかんいかん、もっとカジュアルな質問をしなければ。

 

「……俺のこの目、どう思う?」

 

しまったああああ!重い!重いよおおお!どのへんがカジュアルなんだよおお!だいたいカジュアルな質問ってなんだよおおお!

…泣きたい…

 

「ど、どうって…ヒッキー、どうかした?」

 

さっきから俺が妙な質問を連発したせいで本気で心配された。こんな俺でごめんなさい。

 

「いや、悪い。何か話題をって思ったんだがうまくいってないだけだ」

 

「ほ、ほんとに無理しなくていいよ?」

 

「…すまん」

 

結論。慣れないことはするべきじゃない。

穴があったら入りたいとはこのことだ。むしろ俺が先頭に立って積極的に穴を掘るまである。

 

「目…ヒッキー、目のことで何かあった?」

 

まあそう来るよなぁ…

どこから話したらいいんだろうなぁ…

 

「いや、俺の目腐ってるだろ。今のところ引かなかったのは由比ヶ浜だけだしな」

 

嘘はつかず、けれど全ては話さず。

何も目が腐った自慢を聞かせる必要もなかろう。

 

「……ほんとに、それだけ?」

 

「……」

 

そう思ったのに、由比ヶ浜は納得しなかった。

少なくとも今までの短い時間では見たことのない目つきで俺を見ている。優しいだけじゃない、鋭い目つきで。

 

「ヒッキーが良かったら、聞かせてくれない、かな…教室とかで会う時ヒッキーがすっごく周り気にしてたの、気になってたし…」

 

そんなところまで気づかれていたら、もう逃げ場はない。

由比ヶ浜は聞きたいと言う。

 

「…話せば長いぞ」

 

「…いいよ。聞きたい。言いたくないことは言わなくていいからさ、聞かせて?」

 

ファミレスにいるというのに他の誰かの話し声も聞こえず、俺と由比ヶ浜しかいないような錯覚にとらわれる。

自分の感情を素直に吐露することは怖い。だから人は躊躇する。告白をする時など最たるものだ。そしてそれがトラウマになればその恐怖はさらに増す。また言いふらされたら、それをネタに笑われたら。乗り越えたつもりになって、傷ついていないふりをして、ポーカーフェイスを気取ってみても怖いものは怖い。

怖いけれど、聞いて欲しいと思った。目の前の、初めて顔を合わせて3日しか経ってない女の子に、聞いて欲しいと思った。

また同じ思いをするのかもしれないという恐怖はある。

けれど、引き攣った俺の顔を見て大丈夫だよ、と笑った由比ヶ浜を見ると、決壊したダムのごとく言葉が溢れ出した。

 

 

 

 

……………

 

…………

 

………

 

……

 

 

「そっか、それであたしが困るかもしんないから周り、気にしてたんだ」

 

結局、全てを話した。小さい頃のことから、昨日の小町との会話まで。勉強の時はあんなにあっさり集中力を手放して由比ヶ浜は最後まで真剣な顔で俺の話を聞いていた。

 

「たぶんさ、あたしが気にしないって言ってもヒッキーは気にするんだよね。あたしだってどんだけヒッキーが事故のこともう終わりって言ってもずっと気にしてるし…」

 

「…そうだな」

 

ああなるほど、そりゃあ無理だ。

人が1度抱いた感情はそうそう変わるものじゃない。特に罪悪感はそう簡単に消えることはなく、結果として上手くいっても心に残り続けるのだ。

 

「でも、だからってあたしと一切関わらないとかは嫌だよ…」

 

「そりゃ俺もそんなことはしたくねえよ。けど、誰かが由比ヶ浜にあいつと付き合ってんの?とか聞いてくるのは時間の問題だろ」

 

「そうかもしんないけど…」

 

あの質問のたちの悪いところは、否定すればするほど「みんな」が盛り上がっていくことにある。そうなれば一緒にいようがいまいがネタにされるだけだ。そうしてさんざん面白がって、飽きれば話題にしなくなるだけ。

 

 

やはり目の話をしたのはミスだった。

俺は気まずいし由比ヶ浜は俯いてうーうー言ってるし。

今日はもう帰った方がいい。そう提案しようとすると、むん、と気合を入れた由比ヶ浜が顔を上げた。

 

「ヒッキーはキモくない!」

 

「……は?」

 

予想だにしなかった言葉に、間抜けな音が口の端から漏れるが、由比ヶ浜は気にしている様子もない。

 

「ヒッキーはキモくなんてない!だからカッコよくなろう!」

 

「待て待て、接続詞の前後の内容がつながってねえぞ」

 

「あたしはそう思ってないけど、ヒッキーは自分がキモいから一緒にいたらあたしにふ、ふりえき?があるって思ったんでしょ?だったらカッコよくなればいいよ!」

 

すげえ、言ってることが全然わかんねえ。

後で小町に通訳してもらおう。

 

「ほらヒッキー、行くよ!」

 

「おい待て、それがなんの解決に…待て引っ張るな、だいたいどこ行くんだよ?」

 

由比ヶ浜は善は急げとばかりにリュックを背負い、伝票を手に立ち上がった。

手を掴まれ、引っ張られるように立ち上がってしまった俺はあとに続かざるをえない。

 

「へっ?わ、わかんないけど行くったら行くの!」

 

 

聞かん坊かお前は。行き先くらい決めてからにしなさい。

 

 

 

…と、反抗はしたものの。

由比ヶ浜に引っ張られるまま、支払いを済ませてサイゼを出るとそのまま駅へと向かった。

 

男と女だ。力比べをしたら俺が勝つに決まってる。手を振りほどいて帰ることだってできる。

けれどされるがままになっているということはつまりそういうことなのだ。

 

俺は、嬉しいのだ。

 

初めて、自分の過去を、俺自身でも半ば諦めていた目のことを、否定せずに一緒に考えてくれたことが。

出した結論はだったらカッコよくなろうなんてめちゃくちゃなものだけど。

めちゃくちゃだってことに気づきもしないで、「とりあえずららぽ行こうっ!」なんて大真面目に言っちゃってるけど。

また1歩、前に進めた気がした。

 

 

「…ありがとな」

 

その声は聞こえたのだろうか。俺の手を握り、暴走列車のような勢いで駅のホームへと走る由比ヶ浜は全く周りが見えていないように見える。

だから、いったん落ち着けという意味も込めて。

何よりも、この温かな感情を少しでも伝えたくて。

握られていただけの右手で、由比ヶ浜の手を握り返した。

 

 

 

 

ー由比ヶ浜結衣ー

 

なんで、友達になろうって思ったのか。

そんなのわかんない。でも、近くにいたいって思ったから。

 

サブレを助けてくれたからとかじゃない。

3週間も入院して、友達いないからでもない。

 

まだヒッキーの好きなものとか、ふだん何してるのかとか、知らないことばっかりで、でも知りたいって思ったから。

 

他の男子とヒッキーって何か違うんだ。初めてちゃんと会ったとき、顔を見た瞬間から、何か違った。

話をしてみたらやっぱり違くて。

男子と、初めて仲良くなりたいって、思った。

 

やっぱりまとまんない。

だから、なんで、って聞かれても困る。

 

 

なんでかはわかんないけど、ヒッキーが考えた方法があたしと一切関わらないっていうのしかなかったのが悔しかったし、悲しかった。

ただ仲良くしたい、知りたいってだけなのになんで、って。

 

小町ちゃんの言うことを信じるなら、ヒッキーがカッコよくなっちゃえばいい。

あたしはそのままでもカッコいいと思うけど…

と、とにかく目だっけ?

目…眼鏡とかかなぁ…

 

そう思ったら、座ってなんかられなくて、手を引っ張ってサイゼを出てた。

あたしは他の誰かじゃなくてヒッキーと一緒にいたいんだ。

2人とも自然に話せるようになったら、もっと仲良くなれるようにがんばろう。

 

気合いを入れながら階段を上がってたら、後ろから声が聞こえた。「ありがとな」って。

すっごく小さい声だったけどちゃんと届いて。

そのあとヒッキーが手、握り返してくれて。

ちょっと前に進めたかなって嬉しくて、あったかい気持ちになりながら、ちょうど来てた電車に2人で乗った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




というわけでここまでです。

原作開始時点のヒッキーより1年前のヒッキーなので、原作ほどニヒルのニヒルさは出していません。
え、別にニヒルじゃない?いえそんな。

今回もここまで読んで頂き、ありがとうございました!


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それでも、比企谷八幡はぶれることなく卑屈である。

こんにちは、きよきばです。
書くこともないので、どうぞ。


まだ、俺が自ら他人とコミュニケーションを取ろうとしていた頃。たとえその挙動や仕草、発言がキモいと言われるものであろうとそれでも努力をしていた頃。あとに残ったものは黒歴史だったが、そこにあった頑張りを俺は否定しない。むしろ褒めてやりたい。

俺はただ側にいてくれる、そんな存在に純粋に憧れていたのだろうと思う。

しょうもない話でも聞いてくれる、困ってたら見返りも求めないで助ける、助けてくれる。ぐずぐずしてたら背中を押してくれて、辛いことがあれば手を握ってくれる、そんな存在に。けれど現実は優しい女子に勘違いしたり、友達だと俺は思っていても相手はそうじゃなかったり。俺がどんなにもがこうが、なけなしの勇気をふるって声をかけてみようが、俺が差し出した手を握ってくれる人なんていなかった。いやもちろん自業自得な部分はある。けれど、目が腐るまでの仕打ちを受けなければならないほどの悪行はしていない。

あの頃は、誰でもいい、手を握ってほしくて。でもそんな人はいなかったから手は宙ぶらりんなまま、握った手には何の感触もなくて。

だから環境さえ違えばと総武を受けた。だから浮かれて朝早くに家を出た。

しかし現実は事故に遭って入院。その間に冷静に考えればあのままではやはり中学時代の二の舞になっていただろうことがわかってしまった。

宙ぶらりんなままだった手は、入院している間に少しずつ下げられていって。

やがて完全に下ろそうと、諦めようとした時、俺のものじゃない小さな手が弱々しく俺の手を握った。その手は徐々に握る力を強めていき、やがて俺を引っ張り始めた。

驚いた。

困惑した。

でも、嬉しかった。

だから、俺もその手を握った。

その小さな手の持ち主は、心底嬉しそうに笑った。そしてやはり俺を引っ張ったまま、早足で歩いていく。お団子がひょこひょこと揺れ、まだ履き慣れていないローファーは歩きづらそうで、いつ躓いてもおかしくない。

どう解決するのかまだ何も案が出ていないのに。

どこの店に行くかなんて話も一切していないのに。

 

それでも、由比ヶ浜結衣は足を止めない。

 

ならば、比企谷八幡が足を止める理由はない。

 

 

 

 

手を繋いだまま、4駅。

さすがに恥ずかしくなってきた。いや、ほら、アツイいねえ!的な視線が。

だったら振りほどけばいいのだが、ちょっとそれは八幡的にポイント低いというか。というか別に嫌じゃないですね、ええ。

10分ほど電車に揺られて駅から歩くこと数分。複合型商業施設ららぽーとに到着した。

 

「で、どうすんの?」

 

「うーん…目、なら眼鏡とかかなって思うんだけど…」

 

眼鏡は確かに人の印象を変える。しかしそれは普通の人間の話であって俺にはあてはまらないだろう。ミュータントが眼鏡をかけたところで所詮ミュータントだ。

そんなことを由比ヶ浜でもわかるように伝えたところ、頬を膨らませて怒り始めた。

 

「ヒッキーはみゅう…たんと?なんかじゃないもん…」

 

ミュータントがどんなものかわからないもののとりあえず違うらしい。元々目が腐ってたわけじゃないからあながち間違いでもない気がするが。

 

「…まあ、由比ヶ浜に任せる」

 

「へ?…あ、う、うん!任せてっ!」

 

頼られたことが嬉しいのか、緩みっぱなしの顔で由比ヶ浜は雑貨売り場へと早足で歩きはじめた。うん、それはいいんだけど、そろそろ手は離してもいいと思うんです。

 

しっかり手を繋いで売り場に到着。

眼鏡を選ぶ段階でようやく由比ヶ浜は手を離した。べつにちょっと寂しいとか思ってない。

由比ヶ浜はというと、離してようやくずっと手を握っていたことを認識したのか、

 

「……あ、…えへへ…」

 

緩んだ顔をして……見なかったことにした。

 

眼鏡売り場で買うと高いし雑貨屋とか服屋で買おうという由比ヶ浜の提案で来てみたが、なるほどお手頃価格である。

しばらく眼鏡を物色していると、赤縁眼鏡をかけた由比ヶ浜がポーズを決めながら話しかけてきた。

 

「ヒッキー、どう?なんか頭良さそうじゃない?」

 

「その発想がもう頭悪そうだ」

 

「うえっ!?…もう、すぐそーいうこと言う…」

 

またしても頬を膨らませながら由比ヶ浜は眼鏡を元の場所に置いた。

しかしさっき由比ヶ浜に言ったように眼鏡かけたくらいで変わるものなのだろうか。

 

「はい、ヒッキー!かけてみて!」

 

差し出された眼鏡をつける。鏡を見れば目がどうとか以前に似合ってなかった。

自分でも選ぶものの、センスの欠片もない俺が選んだものではモノボケみたいになってしまう。

 

「どれがいっかなぁ…」

 

由比ヶ浜は割と真面目に俺に似合う眼鏡を探している。そのくらい頑張って勉強しなさいよう!もう!

と、母ちゃんのように脳内で説教していると、どう形容していいかわからないが落ち着いたデザインの眼鏡を選んだ由比ヶ浜が振り向いた。

 

「これっ!絶対これっ!」

 

「お、おう…」

 

由比ヶ浜はものすごい圧をかけつつ俺に眼鏡を手渡す。その圧に圧倒されながら受け取り、眼鏡をかけた。

 

「これでいいのか?」

 

鏡を振り返るのが面倒で目の前の由比ヶ浜に感想を求めたが、由比ヶ浜は口をポカンと開けて固まり、やがて顔を赤くし始めた。大丈夫かしら、この子…

 

「………あ、う、うん……似合ってる……」

 

「そ、そうか…」

 

ちょっと、さっきまでのハイテンションどこ行ったの。急にそんなしおらしくされちゃうとどうしていいかわからなくなるんだけど。

まあ、せっかくだし由比ヶ浜が似合うと言うのなら買おう。

 

「じゃ、これ買ってくるわ」

 

フリーズした由比ヶ浜に届いているかはわからないが一応声をかけてレジへと歩き始めた。

が、数歩歩いたところで呼び止められる。

 

「あ、待ってヒッキー!」

 

「え?」

 

少しだけ空いた距離をあっさりと詰め、眼鏡を指差しながら小声で呟いた。

 

「それ、あたしがヒッキーにプレゼントしたいかな、とか…」

 

「いや、それは悪いだろ。記念日とかそういうわけでもないし」

 

「と、友達になった記念!ってことで、どう、かな…」

 

由比ヶ浜がなぜそこまでプレゼントしたがるのかはよくわからないが、本人がそうしたいと言うなら、まあ。男としてどうかとは思うけど。

ただ、貰いっぱなしだと悪いし。

 

「わかった。なら俺からも何かさせてくれ」

 

「へ?…え、でも…」

 

「…友達になった記念なんだろ?」

 

「…そっか、えへへ…うんっ!プレゼント交換しようっ!」

 

「…おう。何がいい?」

 

「うーん…ちょっと考える。それよりさ、早く眼鏡買おう?」

 

とりあえず由比ヶ浜へのプレゼントは後にして、会計を済ませる。店の外で待っていると、袋を手にご機嫌な様子で出てきた。

 

「はい、ヒッキー」

 

そして由比ヶ浜はそのまま袋を差し出す。受け取った袋は既に中身を知っているというのにやたらと俺の心を躍らせた。

そりゃ無理もない。誕生日ですら現金しか受け取ることはないしそれ以外でプレゼントなんて貰ったことがない。ましてや他人、いや友達からなんて論外。そりゃ嬉しくもなる。

眼鏡程度で何かが劇的に変わるとは思えない。けれど友達に、由比ヶ浜に貰ったものだ。大切に使わせてもらおう。

 

「…ありがとな」

 

だから、今度は面と向かって礼を伝えた。

由比ヶ浜は照れくさそうに頷くと俺の横に立つ。この空間に会話は無いが、気まずさもまた無かった。

体感的には2、3分ほどそのままだっただろうか、横から俺の全身を眺めた由比ヶ浜が首を傾げ始めた。

 

「なんだよ」

 

「ヒッキー、猫背だよね?」

 

「ああ」

 

由比ヶ浜の言う通り、俺は猫背だ。猫背でポケットに手を入れて歩くスタイルが染みついている。猫と同じように気ままで、気づいたらいなかったりする。つまり俺は4割がた猫。誰か養ってくれ。

 

「もっとこう…ドーンとしたらいいんじゃないの?」

 

ドーンとするってなんだよ。知らないの?猫背の染みついた人が無理やり背筋伸ばして胸張って歩こうとしたら人類の進化の過程みたいになるよ?甘いもの大好きなあの名探偵のラストシーンみたいになるよ?

とは言えないので試しに背筋を伸ばしてみる。由比ヶ浜は「もっと!ほら、ぴーん、って!」とか言いながら背中をばんばん叩いている。もう少し加減してください。あと恥ずかしいのでやめてください。

 

「そう!それで胸張って!」

 

お手本を見せるように由比ヶ浜自らも背筋を伸ばして胸を張りながら注文をつけてくる。おいやめろ、お前は胸はるな。目のやり場に困るだろ。

とりあえず由比ヶ浜の言う通りの姿勢をとると、正しい姿勢のはずなのに長年の猫背のせいで逆に違和感を感じた。

由比ヶ浜はというと袋をゴソゴソと開いて眼鏡を取り出し、俺に手渡した。

間違っても落としたりしないよう注意しながら受け取り、かけて、由比ヶ浜と向かい合う。

 

「こんな感じか」

 

「………」

 

無視は辛いなぁ…もう猫背どころか丸くなってとじこもりたい。いっそ貝になりたい。貝になってそのまま引きこもりたい。やっぱり俺ってヒッキーなんだなぁ…

 

「…やっぱりだ!かっこいいよヒッキー!」

 

ヒッキーのヒッキーによるヒッキーのためのヒッキー宣言をしようとしていると由比ヶ浜の大きな声がそれを遮った。さて今何回ヒッキーと言っただろう?

やめよう、ゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。

 

「え、なにそんなに違うの…」

 

「うん!あ、あたしは別に眼鏡とか関係ないけどさ、ほら、えとー…3割増しだよ!」

 

「ちょっと待て、3割増しのミュータントってキモすぎだろ」

 

「だからヒッキーはに、にゅーたんとなんかじゃないってば!」

 

そりゃ俺は軽自動車じゃあない。燃費悪いし。あとさすがに人の形はとどめている。…とどめてるよね?誰かそうだと言って!

 

「最初は慣れないかもしんないけど絶対そうしてた方がいいよ!」

 

うんうんと頷きながら由比ヶ浜は満足そうな顔をした。本当にこんなんで大丈夫なのかしら…

とはいえ、俺1人ではどうせどうにもならないのだから、由比ヶ浜を信じよう。

もしも本当にこれだけで何かが変わるのならそれでいいしそうじゃなくてもやっぱりなで済む。なんてローリスクハイリターン。

まあ、そんなことよりも。

俺なんぞと買い物をして疲れただろうに、由比ヶ浜が楽しそうにしてるし。

それだけでも、今日ここに来た意味はあったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

立ちっぱなしで少し疲れた俺達はカフェで休憩することにした。言われた通りに眼鏡をかけ背筋を伸ばす。こうした方が身長が高く見えるという話は聞いたことがあるが、そもそも身長以前の問題だろうと無視してきたのがたたって意識してないと体が猫背になろうとしてしまう。

まあ、それはいずれ慣れるだろう。

砂糖をたっぷり入れたコーヒーをひと口啜り、ふうと息を吐く。由比ヶ浜もカフェオレを飲むと一息ついてこちらを見た。

 

「今からどうする?時間遅くなってきたけど」

 

「だね。でもさ、なんか夜ってテンション上がらない?」

 

ええ…何その夜遊び好きみたいな口ぶり。お父さんそんな子に育てた覚えはありませんよ?

 

「お前もう少し夜の危険性理解しろよ…」

 

「わ、わかってるってば!……ヒッキーがいっしょだからこんな時間までいるんじゃん…」

 

「………」

 

ぽしょりと紡がれた言葉は店内の賑やかさの中でもはっきりと俺の耳に届いた。

失言だったと思う。でも俺も男なんだからもう少し警戒した方がいいと思うなぁ…

既に時刻は8時を回っている。あまり遅くなると由比ヶ浜の両親が心配するだろうし、今からまた電車に乗って帰ることを考えればそろそろ出た方がいいだろう。

ただまあ、やり残したことはあるのだけれど。

 

「で、欲しいもの決まったか?」

 

「え?あ、いやそれはまだ、というかなんというか…」

 

プレゼントされた眼鏡の礼をまだしていない。

お手頃な価格とはいえ、自分がつけるわけでもない眼鏡を買うなんてのは無駄な出費もいいところだろう。貰いっぱなしなのも嫌だし。

由比ヶ浜は何かあったかなぁとぶつぶつ呟きながらカフェオレの氷をストローでつんつんといじっている。どうでもいいけど俺今いくらもってたかしら…どうでもよくねえよ死活問題だよ。

 

「ね、ヒッキー」

 

「なんだ?」

 

何か思いついたのか、由比ヶ浜が俺を呼ぶ。お財布の中が気になるがいったんそのことは置いておこう。うん、困った時は後回し。

 

「やっぱすぐには思いつかないからさ、えっと、でも意外とすぐ見つかるかもー、みたいな感じだからさ」

 

「…?おう」

 

うまく言葉が出てこずしっちゃかめっちゃかになっているが、とりあえず最後まで聞こう。

由比ヶ浜はもじもじと指をこねると俺と目を合わせた。

 

「だからさ、また…いっしょに遊ぼ?」

 

それは友達同士なら別に改めてすることなどないであろう会話。

「また遊ぼうね」なんて、同じ学校で頻繁に顔を合わせる者同士なら確認するまでもなくまた遊ぶのだろう。

けれど、俺達はまだそんな段階にいないから。距離感がわからないし、お互い相手のことなんて知らないことの方が多い。

それは今日ここまで俺の手を引っ張ってきた由比ヶ浜が立ち止まった瞬間で。

由比ヶ浜結衣が足を止めるのなら、比企谷八幡も足を止める。けれど、そこに留まりはしない。

まあ、プレゼントまだしてないし。今日の放課後は楽しかったし。

 

「…まあ、暇な時なら、いつでも」

 

「ヒッキー、いつも暇じゃん」

 

仰る通りで。

 

 

 

 

翌日、顔を洗って眼鏡をかけた俺を見て小町が固まった。そんなに意外か眼鏡。

とっくに道交法で禁止されてる2人乗りで小町を中学まで送ると、小町の友達だろうか、3人ほどの女子が俺を見ると小町の元へ走り、何やら騒いでいた。帰ったら文句言われそうだなぁ…ゴミぃちゃん呼ばわりくらいで済めばいいなぁ…

 

平塚先生による鉄拳制裁を避けるべく遅刻しないように学校に到着した。あんなのくらったら朝飯とか全部出てきちゃう。

おっと、背筋は伸ばして胸は張る、と。ポケットに手を入れるのは諦めるか。

靴を履き替えて教室へ歩く。朝から元気なリア充による騒音被害の中を進んで…いるのだが、今日は何かがおかしい。具体的に言うと、ステルスヒッキーが発動していない。気のせいで片付けるのには無理があるくらいに視線を感じる。なに?さっそくイジメのターゲット見つけちゃったの?怖いからやめてほしい。平塚先生と災害とトマトと数学くらいしか怖いもののないくらい怖いもの知らずの俺でも皆でネタにされるのは怖いから。

特にそこの、名前も知らない女子。顔真っ赤にして手をぶんぶんしてんじゃねえよ。タコ殴りにするなら脳内でのみにしてくれ。

 

教室に入るとやはりステルスヒッキーが発動しない。居づらいことこの上ない。登校初日ですら全く反応しなかったのになんで急に注目してくんの?時間差攻撃なの?連携とれすぎてて怖えよ。あと怖い。

かと言って俺が何か行動を起こすべきじゃない。「見せもんじゃねえぞ!」なんて暴れだしたら平塚先生来ちゃうし。なんなのあれ言っちゃうヤンキーって。結果的に見せもんになってることに気づいてないの?バカなの?

まあどうせ良い意味での注目ではないだろうし、本でも読んで比企谷八幡ですが、何か?みたいな態度をとるのが一番だろう。

…ふえぇ…視線が痛いよぉ…嫌だなぁ…帰りたいなぁ…

 

 

 

 

授業は滞りなく消化される。

由比ヶ浜にノートを借りたことが幸いして文系科目については問題なくついていけそうである。数学?知らない名前だな。

昼休み前最後の授業も残り10分ほどになり、健全な男子高校生らしく空腹に苦しみながら来る昼休みのパンとマッ缶の共演を楽しみにしていると、ふと由比ヶ浜はどうするのだろうかと気になった。たしかふだんは同じクラスの女子と食べているって話だったはずだ。だったら無理して俺に合わせる必要もない。

とりあえず例の場所に行くことだけを決めて残り時間をぼんやりと過ごしていると、バッグから小さくブブっと音がした。

別に今チェックする必要はないのだが、なんとなく開いてみた。

 

 

From ☆★ゆい★☆ 11:57

 

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ヒッキー、昼休みおべんと一緒に食べよう!

 

 

 

 

顔文字とかがないところを見ると授業中ということでこっそり手早く打ったのだろう。

いや、それよりお前クラスの女子とやらはいいのかよ。

とりあえず返事をして、見つかる前に携帯を隠そう。

 

 

 

 

授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室全体が騒がしくなる。弁当を広げるもの、購買に行くもの、それぞれの昼休みが始まった。

さて、俺も行くか。

パンの入った袋を取り出し、席を立った。歩き始めて教室を出る寸前にえらく綺麗なソプラノボイスで「ひっ、ひきがやくん…」と呼ばれたような気がするが、蚊の鳴くような声だったせいで確証がないのと由比ヶ浜以外に俺にコンタクトを取ろうとする人間がいるわけがないという確信を持った俺は気にせずに教室を出た。

 

購買の斜め後ろ。ベストプレイスと名づけたそこへ向かう俺は少しだけ早足になっていた。マッ缶を入手してからになったため少し遅くなったためだ。騒がしい購買を抜けてベストプレイスに着くと由比ヶ浜は既に来ていた。

 

「遅い!罰金!」

 

お前はどこの団長だ。毎回毎回支払いをするキョン君の身にもなりなさい。

 

「悪かったよ。ほれ」

 

自分のマッ缶と袋をそのへんに置き、急いで買ったせいで隣のお茶と間違えた男のカフェオレを由比ヶ浜に手渡した。

まあ、あれだよ。俺だけ何か飲んでるのもおかしいだろ。誰に言い訳してんだ俺。

 

「へ?え、いや冗談、なんだけど…」

 

さっきの顔見たらわかるわ。言ってみたかっただけだろ。そんなに気が利かないように見えますかね、俺…

 

「いや、ついでだから。マッ缶あるのにカフェオレなんか飲んだら糖尿病まっしぐらだろ」

 

「でも……うん、飲む。ありがと」

 

「おう」

 

俺が飲まない以上捨てるか飲むかしかないと気づいた由比ヶ浜は諦めた様子で俺の隣に座った。え、近くない?もうちょっと離れてなかったっけ?

 

「ヒッキー、やっぱ眼鏡似合うね」

 

小ぶりな弁当をもごもごと食べながら由比ヶ浜は眼鏡を指差した。

 

「そうか?なんか今日じろじろ見られてはくすくす笑われてる気がするんだけど」

 

「…どんな中学時代過ごしたらこうなるのかなぁ……」

 

呆れ顔で呟いた声は全く聞こえなかった。はっきり喋れはっきり。

由比ヶ浜はこれ以上この会話をする気はないらしく、自分の弁当に集中し始めた。頬が膨れてるのは食べ物の詰めすぎかなにかだろう。

俺も自分の飯を片付けていく。特筆すべきような味も特徴もないパン。そしてコーヒー入りの練乳、マックスコーヒー。この染み渡る甘さ、最高。千葉愛してる。

 

「あ、そだ。ヒッキー、放課後ひま?」

 

弁当を片付けた由比ヶ浜はカフェオレを手に尋ねてきた。

ええ…言ったのが由比ヶ浜じゃなかったら俺の友達のいなさを抉る悪口なんじゃないかと深読みしてうっかり死にたくなるところだった。

 

「まあ、特に予定はないけど」

 

「じゃあさ、今度こそ勉強教えてくれない、かな?」

 

昨日堂々とサボった前科があるのを気にしてか遠慮がちにお願いする由比ヶ浜。いや、俺そんなに厳しい人間に見えますかね…

まあ、どうせ暇だしいいけど。

 

「別にいいぞ」

 

「ほんと!?」

 

「うぉっ…え、なに。いや、いいけど…」

 

え、なになんなのこの食いつき。

俺ってそんなに人のお願いに対して厳しい人間だと思われてんの?

 

「いやー、昨日あたし全然勉強してなかったから、断られるかと思っててさ」

 

「言っとくが今日はちゃんとやるぞ」

 

「うん、やる!」

 

「…そうか」

 

放課後の予定が決まったところで、風向きが変わった。

海へと帰っていくように吹く風が心地良い。

由比ヶ浜は髪を抑えながら遠くを見つめている。その横顔はどこか自虐的に微笑んでいて、思わず目が離せなくなる。とはいえずっと見てると気づかれるし気持ち悪いだろう。由比ヶ浜にならって遠くを見た。

その横顔を見て思うところがなかったわけじゃない。けれど、まだ俺にはそこまで踏み込むことは憚られた。由比ヶ浜がしてくれたように踏み込むことはまだできそうにない。もし俺がそこに踏み込むのが正解だと言うのなら申し訳ないと言うほかない。人に言いたくない部分だと言うのならこのままでいいのかもしれないが、そこの線引きは由比ヶ浜のさじ加減であって俺の管轄じゃない。

だから俺にとって人間関係は難しい。

 

「放課後、どこで待ち合わせる?」

 

けれど、いつか。

 

「んー…先にホームルーム終わった方が迎えに行けばよくない?」

 

由比ヶ浜が俺にしてくれたように今度は、俺が。

 

「適当すぎんだろ…まあ、いいけど」

 

多少強引にでも手を引っ張ってやれればと思う。

 

「えへへ…よろしくね、ヒッキー」

 

 

なんの見返りも求めずにそんなことができる存在が欲しくて、俺は総武に来たのだから。

昼休みはもう終わる。満腹から来る眠気に耐えながらの授業の時間がやってくる。

俺と由比ヶ浜は立ち上がり、各々の教室へ向かった。

 

 

 

 

午後の授業は寝て過ごした。何故なら眠かったから。あと理系科目だから。

人は糖質をとると眠くなると言う。

俺の昼飯はパンが3つとマックスコーヒー。つまり糖質を3つと超糖質。そりゃ眠くもなる。

つまり俺は悪くない。糖質が悪い。ついでに面白くない授業をする教師が悪い。

授業が終われば掃除とホームルームを行う。

そのどちらでも終始あいつ誰?みたいな視線を感じつつ過ごした。超やりにくい。

 

 

ホームルームが終われば、昼休みの再現のごとく教室が騒がしくなる。授業という退屈さから解放され、部活前の僅かな時間を楽しむもの、帰宅部万歳でグループを作ってトークに興ずるもの。それぞれの放課後が始まった。微妙に内容が違うだけでほとんど昼休みの再放送みたいなもんだ。これが彼らの青春なのだろう。

 

ワイワイと盛り上がるクラスメイト達を背に教室のドアへと向かう途中、えらく綺麗なソプラノボイスで「ひっ、ひきがやくん…」と呼ばれた気がしたが、蚊の鳴くような声だったからたぶん気のせいだろう。なんだよ、ちょっと期待しちゃっただろ。もし本当に用があるなら聞こえるような声量でお願いします。つぶやくのはツイッターだけで間に合ってる。フォロワーゼロだからいっさい使ってないけど。

教室を出るとうちのクラス以外はどこもホームルームが終わっていないことに気づいた。どんだけ雑なホームルームだよ。

全クラスの先陣を切ってホームルームを終えてしまったため、約束通り由比ヶ浜のクラスへ向かうことにする。

壁にもたれて待機すること2、3分、教室内が騒がしくなりはじめた。

数人の生徒が教室を出て行くのを待ってから教室に入る。と、途端に主に女子の視線が突き刺さる。しまった、ステルスヒッキーが不調なの忘れてた。仕事しろよ。俺はする気ないけど。

今さらUターンもできないため、由比ヶ浜の元へ向かうしかない。由比ヶ浜が何故かドヤ顔でこっち見てるし。

 

「ふっふーん、どう!?ヒッキー!」

 

「何のドヤ顔だよそれは」

 

本当になんのドヤ顔だよ。なんかうまいこと思いついたのん?

 

「え、あれ…?ヒッキー、気づいてないの?」

 

「え、なにが…ああ、この何こいつ?死ねば?みたいな視線か」

 

「これそういうんじゃないからね!?」

 

え、違うんだ…あ、あの女子今朝俺をタコ殴りにする妄想で顔真っ赤にしてたやつだ。

今日2回目のタコ殴りしてらっしゃる。病院送りは間違いない。俺が。俺かよ。

 

「じゃあなんだよ…正直不愉快なんだけど…」

 

「え、じゃああたしは?」

 

「は?由比ヶ浜はそりゃ、別だろ…」

 

「ぅ…そ、そっか…えへへぇ…」

 

そりゃそもそもの関係性の違う由比ヶ浜は別だろう。やめなさいその顔。嬉しくなっちゃうだろ。

 

「はぁ…行くぞ、由比ヶ浜」

 

「え、ヒッキー本当に気づいてないの!?なんでそんな後ろ向きに前向きなの!?」

 

何それ超後ろ向き。堂々とコース逆走してるようなもんじゃねえか。せめて前に走れよ。

 

「いいだろもうなんでも。行くぞ」

 

「あ、待って待ってヒッキー!すぐ準備するから!」

 

 

由比ヶ浜の準備ができるのを待ってから教室を出る。出てすぐのあたりで女子の声で「だれ!?あのイケメン!」などという下手クソにもほどがあるお世辞が聞こえてきた。びっくりするくらい下手で本当にびっくりしちゃう。

 

 

そんなお世辞、あるいは高度な皮肉かもしれないがそんなものは心の底からどうでもいい。

最優先事項はこの隣にいるちょっと勉強が残念な子に勉強を教えることだ。

すんげえ大変そうだし。

 

「じゃあ行くか」

 

「うん、行こうっ!」

 

 

 



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当然、天使と部長もまた1年早く彼の元へ現れる。

春の陽気をまだまだ残しつつ、気温も上がり始める5月。

2回目の勉強会以降、放課後になれば由比ヶ浜に勉強を教えるのが習慣化していた。

サイゼだったり図書館だったり。日によっては途中からただの雑談だったりするのだが、まあそれはそれでいいだろう。

幸いまだ高校生活の序盤も序盤。焦る必要もない。

気づけば由比ヶ浜といる時間がどんどん長くなってきて、それが嫌かと言えば決してそんなことはない。ステルスヒッキーは相変わらず不調だが、今のところ由比ヶ浜にキモい男に付きまとわれてるとか、あの2人付き合ってるらしいなどといった噂が立つこともなく、関係は順調といえば順調だ。

そして、今日の放課後も勉強会をすることになっている。ここのところ平日はほとんど毎日こんな感じだ。

疑問がないわけじゃない。むしろ超ある。女子高生ってのは女子同士で買い物に行ったり長話したりといった放課後を過ごすものだと思っていたのだが、少なくとも平日に由比ヶ浜が誰かと出かける予定があるなんてことを1度も言っていない。昼休みもベストプレイスに毎日当然のようにやってくる。俺が入院している間一緒に食べてたクラスメイトとやらはどうしたんだよ。

気にはなるものの、やはり俺はまだそこに踏み込んでいいのか決めかねている。

別に今の関係に不満があるわけじゃない。ただ、もう一度だけと決めた決意が、由比ヶ浜の俺に対する接し方が、俺の頭に訴えているのだ。もう一歩、先に進みたいと。

けれど、どこまでもヘタレな俺は、まだその一歩を踏み出せずにいた。

 

 

 

 

そんな、悶々とした気持ちを抱えたまま授業を消化し、放課後を迎える。

ホームルームが終わると途端に騒がしくなるこの光景にもいいかげん慣れた。入学してひと月も経てば自分のことで精一杯だった彼らも徐々に回りに目を向けはじめる。男子同士、女子同士のグループを作れば次は誰が可愛いカッコいいなんて話題が飛び交い始めるのだ。ボリューム調整に失敗した男子グループの会話からちょくちょく由比ヶ浜の名前と胸がどうのという頭の悪そうなワードが聞こえてくる。時と場所は弁えるべきじゃないですかねえ…知り合いの名前とか出るとちょっと反応しちゃってうっかり筆箱から出そうとしたハサミがすっとんで誰かの頭に突き刺さっちゃうかもしれませんねぇ、うふふふ。

投げ込む先を確認してロックオンしようとしていると、視界の端にこちらをじっと見つめるジャージ姿の美少女を捉えた。ふむ、俺も視野が広がってきたか。つまり俺もまあまあ青春できてるってことだな。違うか、違うな。

名前も知らない美少女と目が合う。小柄なそいつは初めて会った日の由比ヶ浜のようにびくっとしたものの、何故か目を離さない。おいやめろよ俺に気があるのかと思っちゃうだろ。

距離にして5メートルほど。声を出せば届く距離なのだが、互いに無言の見つめ合いが続く。

俺は見つめ合うと素直にお喋りできないためものすごく困る。

…まあ、由比ヶ浜との約束もあるし、あの美少女は人間観察の趣味でもあるのだろう。あれは観察というより監視にも見えるけど。

納得した俺が教科書をバッグに詰め込み、立ち上がって教室を出ようとすると、後ろからえらく綺麗なソプラノボイスが聞こえた。

 

「ひ、ひきがやくん!」

 

声の発信源は推定5メートル後方。たまに聞こえていた声はどうやら気のせいではなかったらしい。小さな声ではあったが距離が近いぶんなんとか聞こえた。

さすがに気のせいでは済まないし、比企谷くんはこの学校に俺1人のはず。浮びかけた黒歴史を心の奥底に沈めて振り返った。

 

「……?」

 

「………」

 

いや、無言て。

その佇まいはあの日の由比ヶ浜と良く似ている。声をかけたもののどうしていいのかわからないのだろう。何か用事あるならそれ言ってくれればいいんだけど。

 

「何か用事か?」

 

「あ、うん、えっと、比企谷くん、だよね?」

 

「ああ」

 

いや、違ったらどうするつもりだったんだよ。あと上目遣いやめろ上目遣いを。

 

「ぼくのこと、知ってる?」

 

知らない。

とは言えない。さすがにそんなストレートに言ったら傷つくだろう。ここは仕方ない事情があることを匂わせつつ引き出すしかない。というかボクっ娘なんて今どきいるんだな。

 

「ああ、悪い。俺休んでたし女子と関わりないから知らないんだ」

 

「あの、ぼく、男なんだけどな…」

 

「………は?」

 

まさかのカウンターに俺は間抜けな声を返すことしかできない。

あれか、バカの秀吉的なタイプか。それとも友達が少ない幸村的なタイプか。それは女じゃねえか。

 

「しょ、証拠…見る?」

 

おいやめろジャージに手をかけるな。捕まるだろ、俺が。俺かよ。公然わいせつより強制わいせつが適用されるのかよ。

 

「いや、いい。ところで、何か用か?」

 

「あ、名前言ってなかったね。戸塚彩加です」

 

「はあ、比企谷八幡です…」

 

名乗られたので反射的に名乗り返すと、戸塚はくすりと笑って数歩距離を詰めてきた。おいおい、これが男かよ…

 

「比企谷くん、平塚先生に聞いたんだけど入学式の日に犬を助けて事故に遭ったんだよね?」

 

「え?…ああ、一応」

 

ちょっと?平塚先生なに人の過去を勝手に話してんの?どんな状況になれば「比企谷はなぁ…」って話をするようになるの?

 

「それでいつも1人でいたから気になって見てたんだけど…あ、ヘンな意味じゃなくてだよ?」

 

戸塚はわたわたと慌てながら纏まらないままに喋る。

その様子を見るとなんとなくわかる。戸塚は俺とも由比ヶ浜とも違う理由で友達が少ない。原因まではわからないがこの喋り慣れていない感じはぼっちによくある症状のひとつだ。

だから対処法はわかる。ちゃんと聞いてやるのが一番だ。相槌以外に下手に口を挟むとぼっちは萎縮して喋れなくなる。ソースは俺。

 

「…そうか」

 

「うん…ぼくも友達とか少ないんだけど比企谷くん、そういうの気にしてない感じがするっていうか…」

 

別に気にしていない訳じゃない。単純に興味がないのだ。

などと語ったところで話の腰を折るだけだからやめておこう。

 

「だから、すー…ふう…比企谷くん!」

 

「え、お、おう…」

 

突然、戸塚は深呼吸をするとジャージの裾を握って俺の顔を見た。

驚いた。声の大きさ以上にその可愛さに。

 

「ぼくと友達になってください!」

 

「……え?」

 

驚いた。言われた言葉以上にその可愛さに。

いやダメだろ。ちゃんと話聞けよ。

 

「ダメ…かな…」

 

困る、というのが正直な感想だ。いや当然嬉しさはあるのだが、突然過ぎて理解が追いついていない。

まあ、友達になろうと言われて嫌ですなんて返すのは変だし、そもそも嫌じゃないし。

友達になろうといって友達になったものの仲良くはならないというパターンがほとんどの世界だし、ここは頷いておけば万事解決。

 

「いや、ダメじゃない。驚いただけだ。まあ、よ、よろしく…」

 

「ほんと?嬉しいな…」

 

と、思ったのだが、よく考えれば戸塚も友達が少ないと言っていた。

あとこの超嬉しそうな顔見てるとさっきの思考に対する罪悪感がすごい。

まあ、あれだ。由比ヶ浜の時と同じ。この仕草が、反応が演技で、俺をからかっているのだとしたら参ったと言うほかない。

それなりに人の悪意を見てきた俺は多少はそれを察することができると自負しているのだが、由比ヶ浜といい戸塚といいそんなものが全く感じられない。

せっかく差し出された手だ。喜んで掴もう。当然、中学時代の俺が警戒を促すものの、だからといって拒絶していては総武に来た意味がない。

 

 

 

しばらく、嬉しそうに笑う戸塚を見て頬を緩めていると開いていた教室のドアから由比ヶ浜が入ってきた。

 

「ヒッキー、珍しく遅いね」

 

「ああ悪い。ちょっとな」

 

ふーん、と言いながら隣に立った由比ヶ浜は戸塚に気づくと目をぱちぱちとすると驚いた様子で戸塚を指差した。

 

「ど、どうしたのヒッキー、こんな可愛い子…」

 

まあ、気持ちはわかる。可愛い。あと指差すのやめなさい。

あとそこの男子グループ、由比ヶ浜の登場にニヤニヤするんじゃねえ。部活行け部活。1年のくせにダラダラしてんじゃねえよ。

 

「とりあえず、戸塚は男だぞ」

 

「………マジ?」

 

「マジだ」

 

気持ちはわかるぞ由比ヶ浜。ちょっとした仕草とか完全に女子だからなぁ…

あとそこの男子グループ、なんでお前らが驚いてんだよ。知ってなきゃおかしいだろ。

 

「あ、比企谷くんの友達、かな?戸塚彩加です」

 

「あ、由比ヶ浜結衣、です…」

 

この頭につく「あ、」って何なんだろうな。俺もよく使ってしまうけど。

 

「あ、」について考えていると、由比ヶ浜と戸塚は比企谷くんの友達なら、ヒッキーの友達ならということで仲良くする流れになったらしい。人をコミュニケーションの媒介にしないでください。

ともあれ、2人目の友達誕生である。それはいいのだが、この2人と歩いてたら俺美少女2人を侍らせてるようにしか見えないんじゃないかしら…

 

「えっと、じゃあ…さいちゃん、でいいかな?」

 

「うん。じゃあぼくは由比ヶ浜さんで」

 

ぼけっとしているうちにお互いの呼び方が決まったらしい。俺にもそんな感じの普通のあだ名つけてほしかったなぁ…ヒッキーだもんなぁ…俺とか対人に関してはマジヒッキーだからべつにいいけど。

 

「ヒッキー、外で待ってるね!」

 

由比ヶ浜は俺の返事を待たずにぱたぱたと教室を出て行った。

ジャージを着ていることから戸塚も何かしら部活をしているのだろう。1年だし早く行かないといけないかもしれない。俺も由比ヶ浜を待たせているし、そろそろ解散だろう。

 

「じゃあ、俺も行くから」

 

「あ、ねえ比企谷くん!」

 

「なんだ?」

 

バッグを持って歩こうとしたところで戸塚に呼び止められた。

とりあえずそのジャージの裾を握るのやめてくれないかなぁ…

 

「ぼくもヒッキーって呼んでいい?」

 

「いや、それは嫌だ」

 

即答だった。

いやべつに戸塚がどうこうではなく、ヒッキー呼びは1人でいいというか。

戸塚はそっか、と頷くと数秒考えた後に上目遣いで微笑んだ。

 

「じゃあ…八幡?」

 

何それ超いいじゃんそれにしようぜ!

あと3回くらい呼んでほしいけど時間ないし我慢しよう。

 

「…まあ、それで」

 

「うん!じゃあ僕、部活行くから、またね、八幡!」

 

「お、おう、またな」

 

軽く手を振って戸塚は走って教室を出て行った。

由比ヶ浜と戸塚の居なくなった教室からは男子がゾロゾロと出て行く。正直ですね君たち。

突然の出来事に俺の理解はまだ若干の遅れを見せている。

けど、まあ。友達が出来たし、めでたしめでたしということで。

 

 

とはいかない。めでたしめでたしで読者は本を閉じることができても、登場人物の話はその後も続くのだ。

というか俺の高校生活始まったばかりだし。むしろ俺達の青春はこれからだ!みたいな感じだし。やっぱり本は閉じられちゃうじゃねえか。

 

まあいいか。とりあえず勉強会に行こう。

こぼれ出た笑みを咳払いでごまかして、俺は由比ヶ浜の待つ廊下へ向かった。

 

 

 

 

とある日の昼休み。

俺達3人はベストプレイスにて昼食をとり、のんびりと座って風を感じていた。

メンバーを紹介しよう。

 

・目の腐ったヒッキー

・美少女1、ガハマさん(胸が大きい)

・美少女2、戸塚(ただし男)

 

共通点は友達が少ないこと。

なんだこれ。

俺だけ悪口じゃねえか。自分で紹介してんのに悪口ってどういうことだよ。

 

戸塚と友達になって3日ほど経つ。テニス部に所属する戸塚は放課後の勉強会には参加していないが、昼休みはこうしてベストプレイスに集まるようになった。

特に会話もなく、ぼんやりと過ごすこんな時間を戸塚は割と気に入ってくれたらしい。

もっとも、俺も由比ヶ浜も話題を提供するのが下手だからこうなっているだけなのだけど。

 

戸塚はテニスコートを眺めて物憂げな顔をし、由比ヶ浜はどこか遠くに目をやってはふうとため息をついている。

そこには風以外の音があまりない。昼休みを楽しむ生徒の声や走り回る足音が小さく聞こえるだけ。

そして俺はというとマッ缶を眺めながらどうすればこの味が家で作れるかしらとしょうもないことを全力で考えていた。やっぱり練乳が重要だな。なんたってコーヒーよりも練乳と砂糖の方が多く入ってるし。割合的には7:2:1で練乳が7だろうか。何それ超甘そう。

 

まだまだ昼休みは長い。黄金比率について考えよう。

そう思って思考を再開しようとすると、背後からコツコツと歩く音が聞こえてきた。昼休みにここに来るような人間が俺達以外にいたのは見たことがない。どんなぼっちかしらん。あるいは先生だろうか。

と、興味本位で振り向くと、同じく足音に気づいていたらしく戸塚と由比ヶ浜も同じように振り向いた。

そこにいたのは、平塚先生。と、由比ヶ浜や戸塚に負けず劣らずの容姿の生徒が1人だった。

 

……いや、誰?

両隣の2人を見てみたが2人とも知らないらしく、首を横に振った。

先生、3人とも知らない人を連れてこないでください。僕たちこう見えてコミュニケーション能力に難があるんで。俺は見た目通りだな。

平塚先生に連れられてきたらしい女子生徒は口を真一文字に結んで姿勢を正している。その所作自体はパーフェクトウーマンのそれなのだが、あいにくここには理由は違えど友達の少ない者が、言ってしまえばぼっちが3人。俺は当然のこと、戸塚も由比ヶ浜もなんとなく察したらしい。

この人、同じタイプだよ…

程度の差はあるだろうが、おそらく由比ヶ浜と同じような理由のぼっちだと思う。美少女、美少年は同性からの妬み嫉みが激しいからなぁ…

いやいや、決めつけはよくない。まずは話を聞こう。

 

「なんか用すか」

 

「なに、君と由比ヶ浜に客人を連れてきただけだ」

 

「いや、知らない人連れてこられても…」

 

「うわ、キレー…」

 

聞いたところでさっぱりわからなかった。由比ヶ浜に至っては女子生徒に見惚れてしまっているし。やめてあげなさい、直立不動でカチカチなところを見るとあの人けっこう緊張してるから。

 

「ほら、雪ノ下。せっかく会うと決めたんだ。固まっていたら意味がないだろう」

 

平塚先生は女子生徒を促すものの、当の本人は俺達を見るだけで動こうとしない。

どうして俺の周りには初対面の時喋れない人しかいないのだろう。俺も人のことは言えないけど。

 

「比企谷、あとは任せる」

 

「え、いやちょっ…」

 

しっかり青春したまえ、と言い残して平塚先生はさっさと来た道を戻っていってしまった。

いやこの状況で放置されましても…

 

「えっと…す、座ったら?」

 

「えっ…ええ…」

 

気を利かせた由比ヶ浜の言葉に従い、俺と戸塚の向かいに由比ヶ浜と女子生徒が座るかたちになる。

 

「…………」

 

「…………」

 

無言である。この場にいる誰もがこういう時の対処法を知らないらしい。俺は当然、戸塚も由比ヶ浜も。由比ヶ浜なら知ってそうだと思ったんだが。

ええ…俺から喋るしかないのん?ヒットポイントゴリゴリ削られちゃうんだけど。

 

「その、比企谷八幡です…」

 

とりあえず自己紹介。オーケー、超クール。

要件を聞き出すことが先決だが、焦るな。

 

「ゆ、由比ヶ浜結衣です…」

 

「戸塚彩加です…」

 

「あ、私は雪ノ下、雪乃、です…」

 

出た、「あ、」。やっぱり出ちゃうよね!うん、仕方ないよね!

とりあえずこの女子生徒は雪ノ下と言うらしい。

 

「それで、雪ノ下?さん?は何の用で…」

 

相変わらず緊張気味の雪ノ下さんとやらはこれまた見覚えのあるびくっとするリアクションを見せた。それもう3回目だよ…

あと、何故か隣で戸塚が息を呑んでいた。君は緊張しなくていいよ?大丈夫、俺が守るから!

 

「あの、その……ごめんなさい」

 

「………なあ、由比ヶ浜。なんで俺は告白してもいない女子にフラれるなんて経験を2回もしなくちゃいけないんだ?」

 

もう嫌だ…せめて告白してからフってくれよ…やっぱりフラれちゃうのかよ…

 

「あれは忘れてったら!ほ、ほら、雪ノ下さんも落ち着こう?なんかあったんだよね?」

 

慌てる由比ヶ浜がガチガチの雪ノ下さんになんとか落ち着いてもらおうと頑張っている。

というか、このパターンだともしかするよなぁ…

俺が誰かに謝られるとしたらアレしかない。だから予想はつく。

 

「もしかして事故の関係か何か?」

 

図星らしい。雪ノ下さんは引きつった顔でこくりと頷いた。

由比ヶ浜は驚いた様子で「え?…え?」と完全に処理落ちし、戸塚は何故かぷるぷる震えながら手をきゅっと握っていた。大丈夫、お前は俺が守るから。

しかし由比ヶ浜といい雪ノ下さんといいわざわざ俺のところまで来て謝罪するとは随分とアフターサービスのしっかりしていることだ。

あの事故に関していえば、誰も悪くなどないのだ。注意していてもリードを離してしまうことだってある。いきなり犬を追いかけて出てきた俺を轢くな、なんて無理な話だ。犬に車に気をつけろなんて言っても仕方ないし。

つまり、誰もが被害者なのだ。被害者が被害者に謝罪なんてする必要はない。

というのはあくまで俺の意見だから2人がどう思うかは知らないが。

 

「そ、そうなの?」

 

「……ええ。比企谷くんを轢いた車に乗っていて…」

 

「…そうか。まあ、もうなんともないし、あの事故があったからこうして友達もできた。謝罪も受け取ったしこの話はもういいだろ」

 

「けれど…」

 

雪ノ下さんはまだ何か言いたげな顔をしている。

まあ、こういうのは言いたいことを言わせるのがいいだろう。途中で遮って強制終了するよりは吐き出した方がいい。

 

「お見舞いにも行かず、退院してからも学校に来てからもずっと何もしないなんて失礼千万だわ。本当に、ごめんなさい」

 

ああ、謝罪が遅れたのを気にしていたのか。

何度も言うが謝罪など必要ない。

…一瞬だけ、自己満足の謝罪だろなどというまさに失礼千万な考えが浮かんだが、逆の立場になってみろ。謝るだろ?謝るな。超謝るね。

だから受け取る。

 

「…わかった。受け取る。だからもう事故のことは解決な。雪ノ下さんが運転してて俺を狙ったとかなら別だけどそうじゃないし」

 

「…比企谷くんがそう思うなら、しつこく謝られた方が迷惑かもしれないわね」

 

わかってるじゃないですか。もう受け取ったんだからこれ以上上乗せされたら重みで潰れちゃう。

由比ヶ浜もそれでいいか、と聞こうとすると、「お見舞いにも行かず…うぅ…」と1人で落ちこんでいた。

 

「おい、由比ヶ浜」

 

「うぅ…ご、ごめんね?ヒッキー、お見舞いも行かないで…」

 

「わざわざ家まで来たんだから気にすんな。さっき雪ノ下さんが言った通りだ」

 

「そ、そっか…」

 

とりあえず、事故のことはこれですべて解決したと言っていい。これ以上関係者が増えることもないだろうし。

そして、用事が済むとどうなるか。

超気まずい空気が場を支配する。話題提供のできない3人と初対面が1人。…どうしろと?

 

「……八幡…」

 

「……ヒッキー」

 

おいやめろ、俺に丸投げするんじゃねえ。むしろ女子同士なんだから由比ヶ浜か戸塚が適任だろうが。

 

「では、私は…」

 

気まずさに耐えきれなくなったのか、雪ノ下さんが立ち上がろうとする。

まあ、目的は果たしたんだからそれはいいのだが。

 

「まあまあ、せっかくだしちょっと話そうよ!」

 

由比ヶ浜が良しとしなかった。肩をぐいっと抑えられ、「ひゃうっ!?」と驚きながら雪ノ下さんが座り直す。強制的に。

 

「いや、話そうったってお前…」

 

「あ、いやあたしも話題はないけど!」

 

いやだからそれが被害者の会みたいな空気を生むんじゃないですか…

戸塚なんてどうしていいかわからなくてオロオロしちゃってるじゃねえか。可愛いからしばらくこのままにしておこう。

ええ…やっぱり俺から喋るしかないのん…?

 

「なあ、雪ノ下さん」

 

「何かしら。あと、同い年なのだから雪ノ下で構わないわ」

 

緊張が多少ほぐれたのか普通に喋れるようになっている。なるほど、こっちが本来の喋り方か。

 

「そうか。じゃあ雪ノ下。失礼なこと聞くけど、…友達、いんの?」

 

「本当に失礼ね…そうね、まずはどこからが友達なのか、定義してもらってもいいかしら」

 

「オーケー、よーくわかった」

 

やっぱりぼっちだった。

どうすんだよこれ、ぼっちが4人になっただけじゃねえか。どんなコミュニティだ。

俺が困っていると次に口を開いたのは由比ヶ浜だった。

 

「じゃ、じゃあさ、雪ノ下さん、友達になろ?」

 

「…はい?」

 

「あ、いいねそれ!せっかく会ったんだし…ね、八幡!」

 

「え、お、おう…そうなの?」

 

戸惑う俺と雪ノ下と対照的に由比ヶ浜と戸塚は嬉しそうだ。雪ノ下の何かが2人の琴線にふれたらしい。

まあ、気持ちはわかる。雪ノ下もこの2人同様に、裏表がないというか、計算されたものがないというか。俺の人生においては今まで出会ったことのない人種だ。

この短期間で3人もこういうタイプに出会うというのは信じがたいことではあるのだが。

 

「ゆきのん!ゆきのんとかどう!?」

 

いつの間にか雪ノ下のニックネームまで決まっていた。相変わらずセンスに若干難がある。

本人はおろおろするばかり。悪いがさすがに助けられない。

おろおろしてはいるが、その表情はさっきより明るいし、あとお前の友達だし。

でもゆきのんはどうかと思うなぁ…

 

「ゆきのん…可愛いね、それ!」

 

だよね!可愛いよね!俺が言ったら怒られそうだけどね!

 

なんというか、由比ヶ浜と戸塚は俺の知り合い→友達になろう!みたいな謎の流れを持っている。本当にどうしてなのかわからん。

 

「まあ、雪ノ下。せっかくだし」

 

「…そうね。その、…よろしく」

 

 

昼休みのベストプレイス。

友達が1人増えた。

でもこれ以上はいい。この流れを繰り返すのは疲れる。

 

こうして、俺の人生でも間違いなくトップ3に入る純粋な眼を持つ3人と、目の腐った男1人という奇妙なグループが完成した。男女比は1:3。

あれ、戸塚がふくれっ面でこっちを見てる気がするな。可愛いからしばらくこのままにしておこう。

 

 

 

 

 

 

また、とある日の昼休み。

俺達4人はベストプレイスにて昼食をとり、のんびりと座って風を感じていた。

メンバーを紹介しよう。

 

・目の腐ったヒッキー

・美少女1、ガハマさん(胸が大きい)

・美少女2、戸塚(ただし男)

・美少女3、雪ノ下(←NEW!)

 

共通点は友達が少ないこと。

なんだこれ。俺だけ悪口じゃねえか。

そんな昼下がり。どんな昼下がりだよ。

コミュニケーション能力に問題のある4人が集まったところで会話が活発になるわけがなく、それぞれがぼんやりと時間を潰していた。

こうして過ごす時間が俺は嫌いじゃない。予鈴がなるまでの間、ここに座っているだけの、この穏やかな時間が。

右に戸塚、左に由比ヶ浜、そのまた左に雪ノ下。

…これ、いよいよ美少女侍らせてるやつにしか見えないんじゃないかしら…

 

…俺が考えても無駄か。

幸いなことに、いやありがたいことに今は3人とも穏やかな顔をしている。

戸塚と目が合えば頷いてくれ、雪ノ下と目が合えば薄く微笑んでくれる。由比ヶ浜と目が合えば、「どうしたの?ヒッキー」と言ってくれる。

ああ、心地良い。このままでいればきっと楽しい。

けれど、俺の本心は。

一歩先へ進みたいと、ずっと訴えている。

この心地良さに埋没するのではなく、もっと先へ進みたいと、そう訴えている。

 

 

踏み出す一歩が相手にとって嬉しいものだとは限らない。人は誰しも自分だけのスペースがあって、そこに許可なく踏み込まれることを嫌う。そこに踏み込むと最悪人間関係をこじらせてしまうかもしれない。

俺なりに、踏み出してはきた。石橋を叩きに叩いてそっと渡ってきた。

けれど、いつも肝心なところで引っ張ってくれる手に甘えて。時折曇った表情を見せることに気づいているのに何もしないで。

そんな状態で享受する心地良さに、なんの意味があるのだろう。

 

「……ヒッキー?」

 

そっと気遣うような声になんでもないと首を横に振った。

膝を抱えるように座り直したため表情はこちらから窺うことはできない。

もしまたあの曇った表情をしているのなら。俺はどうすればいいのだろう。何ができるだろう。

 

 

 

 

手を握ってくれた日を思い出す。

もしも同じように手を握って、引っ張ったとして、その時彼女はどんな顔をするのだろう。

拒絶されたくない。彼女にだけは、拒絶されたくない。けれど先へ進みたい。

子供のワガママのような考えが、浮かんでは消え、また浮かぶ。

仮に、一歩先へ進めたとして、そこにどんな俺達がいるのだろう。その時にならないとわからないけれど。

進んだ先に何があるのか、そこで俺はどうしたいのか、何が欲しいのか。

 

纏まらないこの感情の正体を、俺はまだ知らずにいる。

 

 

 



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戸塚彩加は、いつだって比企谷八幡の味方である。

私の過去を暴いてでもですか。

そのセリフの書いてある行に目を留めた。

 

それは、グループの結成からしばらく経ったとある週末。たまには知的に明治大正あたりの日本文学でも嗜もうかしらなどと思い立った日の午後だった。

引っ張り出した本を開き、まだ序盤。

そして、俺はこの本の結末を知っている。

だから、この行から先を読む気が失せていた。

 

こころ。

まえ読んだのはいつだったか、おおかた人の心を知ろうなどと哲学的な命題がカッコよさげだからとか、そんな理由で読んだのだろう。

友情、愛情、嫉妬、そして罪悪感。

人の心には実に多くの感情が混在していて、1人の人間の中に矛盾した2つの感情があることは別に珍しいことではない。

その中で苦しむのは先生だけでなく、誰もが同じように苦しみ、悩みもがくのだ。

 

こころ。

人の心などわからない。自分の心すらわかっていないのだから。

けど、わかりたいと言う自分がいる。手を伸ばしたい、応えたいとそう思った自分がいる。

 

 

私の過去を暴いてでもですか。

尋ねた学生はただ純粋に尊敬できる人のことを知りたかっただけなのだろう。

しかしそれは引き金にはならなくても過去の傷にせっせと塩を塗り込むような行為だったのかもしれない。

純粋な気持ちが、素朴な疑問が人を傷つけることだってある。

だから、「こころ」などわからない。

今の俺は「私」であり、「先生」であり、「K」であるかのような、そんな気がした。

ただの小説。立場も状況も、現状の俺とは全く違う。

しかし、その葛藤に共感した。矛盾の狭間での行動に、共感できてしまったから。

何の因果も共通点も無いと分かっていながらも、その先は読まずに、本を閉じた。

 

 

 

 

 

知的な休日の過ごした方をしようとしたのが間違いだった。これからは大人しくラノベでも読もう…

今日はもうなんとなく読書の気分ではなくなり、ラーメンでも食べに行くことにした。

ヒッキーというあだ名のせいで勘違いされそうだが、俺は休日になると家から出ないタイプではない。1人で本屋に行ったりラーメンを食べに行ったりする。

しかし俺にとって大打撃なのはなりたけのラーメンを食べるためには津田沼まで行かなければならないことだろうか。千葉になりたけが無いのがどのくらい痛いかというと繋ぎの4番として名を残した彼がマリーンズを去るくらいの喪失感。やだ、寂しい。

まあ、無いものはない。他のラーメン屋に行くことにして、俺は家を出た。

 

自転車を走らせること十数分。スピードを落とし、どこに行こうかと魅力的な看板を探していると結構遠くまで来ていた。

そろそろ何かないかとぐるりと見渡すと、少し離れたところにいかにも頑固オヤジがぶすっとした顔でやってそうなラーメン屋を見つけた。なんて偏見だ。

とりあえず今日はあそこにしよう。そう決めて自転車の向きを変えると、信号がちょうど点滅しはじめたところだった。

1分1秒を争う勢いで駆け込むつもりはないので大人しく止まり、足を下ろす。やがて、信号の色は変わり、車が走り始める。

 

 

信号、変わらない。……車の時間、長くない?

ずいぶん車優先で長めの赤信号に平等とはなんたるかを脳内で説教してやろうかと論理を組み立てていると、駅から出てきたのだろうか、高校生の集団がぞろぞろと歩いてきた。総武の制服やジャージを着ている者が多いが、どうやら1つのグループではないらしい。

横断歩道の向こう側に彼らは固まり、俺と同じように信号が変わるのを待っている。

なんとなくその集団を見ていると、その端っこの方にジャージ姿の戸塚を見つけた。

通り様に声をかけたほうがいいのかと考えていると、戸塚も俺に気づいたらしく、にっこりと笑いながら手を振った。

 

ようやく信号が青に変わった。

歩行者が一斉に信号を渡るなか、戸塚は立ち止まったまま俺を待っている。やだ可愛い。

ペダルに足をかけ、戸塚の所まで行った。

 

「よう」

 

「うん、よっ」

 

自転車を止め、声をかけると戸塚は軽く手を挙げてはにかんだ。

 

「部活の帰りか?」

 

「うん。ちょうど終わったとこ」

 

手にしたラケットを見せ、戸塚は笑う。

テニス部は午前中に練習をするらしい。

 

「八幡はどうしたの?」

 

戸塚はラケットを持ち直すと身体を前に倒し、俺の顔を覗き込んできた。なんて女子力…!

 

「ちょっとラーメンでも食べに行こうかと思ってな」

 

「へえ、どこに行くの?」

 

「あそこに見えるやつだ」

 

俺がラーメン屋の看板を指差すと、戸塚はへえ、と言いながら振り向いた。

 

「八幡はよくラーメンとか食べに行くの?」

 

「ん?まあな」

 

俺の言葉を受けて、戸塚は少し考え込むような仕草を見せ、その後何か言いたそうに俺の顔を見始めた。

男だと知らない人が見たら惚れてしまうんじゃないかというくらいにその様は艶かしい。ていうか本当に男?

 

「は、八幡?」

 

「なんだ?」

 

「八幡が迷惑じゃなかったらなんだけど、ぼくも一緒に行っていい…?」

 

やだ、なにこれ可愛い。

仮にどうしても1人で行きたくてもOKしちゃうしむしろこっちからお願いしたいまである。

 

「ああ、じゃあ…行くか?」

 

「……うん!」

 

ほっとしたように笑う戸塚に癒されながら、俺は自転車を降りた。

 

ジャージ姿の戸塚と2人、ラーメン屋までの500メートルもない道を歩き、食券を買うタイプの店に入ったことがないのかオロオロしながら「は、八幡?ぼく、どうしたらいい?」と不安げに見上げる戸塚に頬を緩め、座ったこともないテーブル席に座った。

荷物を置き、水を飲んでひと息つくと、戸塚は店内をきょろきょろと見渡しはじめた。

 

「こういうとこ、あんま来ないのか?」

 

「そうだね。家族とごはん行くときはファミレスとかだし、1人だとちょっと怖くて」

 

戸塚の家族とかどうなってんだろうなぁ…

たぶん全員何かしら普通の人間とは違うんだろうなぁ…

まあ1人だと入りにくいというのはわかる。ラーメン屋のイメージって「へいらっしゃい!」みたいな感じだろうし、だいたいそのイメージで合ってるし。

やがて、注文したラーメンが目の前に置かれる。戸塚は丁寧に手を合わせるとちゅるちゅると麺を吸うように口へ運んだ。戸塚が食うとスイーツにしか見えない。

 

「おいしいね、八幡!」

 

「そうか、そりゃ良かった」

 

連れてきといてマズいもの食わせたら凄く申し訳ない気持ちになるところだったが、戸塚の舌には合っていたらしい。安心して、俺も自分のラーメンにとりかかった。

 

 

「ふぅ、ごちそうさまでした」

 

戸塚は終始美味そうに食べ、スープまで飲み干した。やっぱりそれスイーツなんじゃねえの?俺と同じものには見えないんだけど。

 

「意外と食べるんだな」

 

「うーん…練習した後だからかな。美味しかったよ八幡!」

 

「そうだな、うまかった」

 

うまいラーメンを食べた幸福と満腹感から背もたれに体重をかけた。

 

「八幡?」

 

「ん?」

 

戸塚は水を少しだけ口に含んで飲み込み、コップの縁を人差し指でなぞりながら俺の顔を覗き込んだ。

 

「またラーメン食べに行ける、かな?」

 

その容姿と仕草にラーメンというのは似合っているか似合っていないかで言えば間違いなく似合っていないのだが、本人が食べたいと言うなら、また次の機会もあるだろう。というかあると八幡的に超ポイント高い。

 

「なら、またどっか行くか?」

 

「うん!楽しみにしてるね!」

 

 

 

ラーメン屋を後にして、自転車を押して歩く。

戸塚はよほどラーメンが気に入ったようで、俺が知っているラーメン屋について興奮ぎみに質問を繰り出していた。部活帰りにラーメン、そんないかにも友達っぽいものに俺も戸塚も憧れている節があり、また近いうちに出かけることになるだろう。

しばらく歩くと、話題は学校生活のことになる。授業のことや部活のこと、まさか俺がこんな会話をするようになるとはなぁ…テニス部にも誘われたが、どうなるかだいたい予想がつくのでやめておいた。

高校生同士で学校の話をすれば、やがてやってくるのは色恋の話。

 

「八幡は好きな人とかいる?」

 

「……どうだろうな、そういうのとは無縁だったし、何とも言えん」

 

断じて嘘はついていない。失恋経験が豊富なだけで、男女交際とは無縁だ。

 

「…そっか」

 

もの言いたげな顔をしたが何も言わないでいてくれるのはありがたい。

 

「戸塚はどうなんだ?」

 

「ぼく?うーん…ぼくってほら、男らしくないからそういうのあんまり、かな」

 

男らしくないから、の部分を少し寂しげな顔で話す戸塚を見ていると、悪いがその部分は確かに否定できないと思った。女子からは可愛いとか言われるだろうし男子からしたら女子にしか見えないわけで、そりゃあ色恋どころか友達もなかなかできないわけだ。

 

「…そうか」

 

「うん。八幡みたいに男らしくなりたいんだけど…」

 

「俺は別に男らしくなんかねえよ。ただの男だ。それに、無理して変わる必要もないと思うぞ。…本当に、変わりたいなら、その…応援するけど」

 

「…、ありがとう。八幡のそういうところ、ぼくは好きだよ」

 

「…え…」

 

「あ、ヘンな意味じゃなくてだよ!かっこいいな、って思う」

 

びっくりした、心臓止まっちゃうかと思った。もう!驚かせんなよう!別に残念がってなんかないよう!

 

「…そうか」

 

「うん!…ねえ、八幡?」

 

「なんだ?」

 

戸塚は少し躊躇うような表情を見せた後、言いにくそうな様子で口を開いた。

 

「………」

 

しかしパクパクと動かす口からは何の音も出てこない。どう言えばいいかわからないといった感じだ。

 

「どうした?」

 

言いにくいことでもあるのだろうか、察してやりたいが俺にはできそうもない。

やがて、戸塚は軽く首をかしげながら、俺の反応を伺いつつ声を出した。

 

「気になる人、ならいるのかなって」

 

「気になる人?」

 

「うん、好きとかじゃなくても気になるな、って人」

 

いま1番気になるのは戸塚の態度なんだがそれは置いて、気になる人か。好きと違って定義ができない曖昧なもので、好きな人がいるのかという質問以上に答えにくい。気になる、が単に恋愛対象としてなのか、違う何かなのかすら曖昧だ。

 

……ヒッキー!

 

ごめんなさいいます。どうしていいかわからなくていろんな意味でものすごく気になります、はい。

 

「まあ…」

 

「そっか。もしぼくに何か出来ることがあったら、いつでも言ってね!…頼りないかもしれないけど」

 

「そんなことねえよ。まあ…たぶん、頼る。…頼っても、いいか?」

 

「うん、任せて!じゃあ、約束」

 

どんと胸を叩いて戸塚は小指を立てた。

男らしさが出てくるのは当分先になるだろう。その仕草がいちいち可愛いらしくて、控えめな女の子と言われたら納得してしまうレベル。

でも、俺には誰よりも頼もしく見えて、自分の小指を戸塚の細い指に絡めた。

 

「おう、男同士の約束だ」

 

「うん、男同士の約束!」

 

 

 

 

 

戸塚と別れて自転車を漕ぎ、家に1番近いコンビニに入った。マッ缶を買うためだ。

レジは少しだけ混んでいて、俺の順番が来るのは少し後になるだろう。こういうときは脳内会議をするに限る。議題は男同士の約束について。

交わした男同士の約束はきっと果たされることになる。しかしそれは俺が本当に困ってしまった時だ。まずは先延ばしにしてきたことにいいかげん真剣に向かい合わなければならない。

 

過去を暴いてでも知りたいか?ー知りたい。

それで相手が傷ついても?ーその時は真剣に謝るしかない。

知って、比企谷八幡に何ができる?ー知らねえよ、まだ知らないんだから。

今のままでも楽しいだろう?ーああ、俺はな。でも俺だけだ。

 

 

レジ袋を受け取り、コンビニを出る。

ここまでノンストップで自転車を走らせたせいで軽く汗をかいている。

身体と、頭を1度冷やすためにも夕涼みがてら歩いて帰ろう。

 

袋を籠に入れて家までの短い距離をのんびりと歩く道中、ふと今は何をしているのだろうかと、お団子頭の女の子のことを考えた。

 

願うものが何なのか、その輪郭さえぼやけていて見えはしない。ならば、近づいてよく見るしかない。

出会った日の俺の決意。

臆病な心との矛盾で立ち止まってしまっているけれど。

未だ、この感情の正体は知らないけれど。

それでも俺は、足を進める。

 

 

 

 

 

と、かっこいい感じで決意したものの。

冷静になるとどうしていいのかやっぱりわからないことに気づいた。あ、あれー?おかしいな…なんか歩いてるときは何でもござれみたいな気分だったんだけど…

考えてみれば、対人関係において俺がいくら案を捻り出したところで無意味だ。

例えば、由比ヶ浜自身の評価を下げないために思いついたのは俺と関わらないなんてものしかなかった。

かと言ってノープランで行動しても良い結果にはなるまい。

ということは。

つまり。

 

 

 

 

 

「…助けてくれ戸塚」

 

「思ったより早かったね…」

 

男同士の約束が履行された。

いやほら、本当はやるだけやった!でももう無理なんだ!助けてくれ!みたいな感じでいきたかったんだけどね?

じゃあどのくらい粘ればそれが許されるかって言うと特に決まりなどない。ならば早いに越したことはない。てことにしておこう。

 

「すまん」

 

「謝らなくていいよ。ちょっとびっくりしただけだから。それで、どうしたの?」

 

「…明日の部活の後とか、時間あるか?」

 

「うん、大丈夫だよ。…うん、じゃあ待ってるね」

 

 

 

 

明けて、日曜日。

お昼過ぎには練習が終わるらしく、昼食を一緒に食べた後話をしようということになった。

昼が近くなり、リビングにいた小町に昼はいらないことを伝え、靴を履いて家を出た。

ペダルを漕ぐ足は普段より少し早めになり、自分が無駄に焦っていることに気づく。

落ち着け、まだ何もしてない。けど、これからも何もしないのはだめだ。

 

どこに食べに行くのかを決めていなかったため、校門のあたりで戸塚を待つ。私服で高校の前にいると目立つのか、出て行く生徒の大半がジロジロと俺を見る。本当に最近ステルスヒッキーが発動しない。これだけ視線を浴びるのはぼっちの身には堪える。ストレスヒッキー状態だ。

ちょっと上手いこと言ってやったと満足していると、ジャージ姿の集団が目の前を通過していった。どうでもいいけど普通高校生って部活の後でも制服で帰るんじゃないの?

その集団の最後尾に小柄で色白、可憐でいてどこか儚さの感じられる美少年がいた。

回りくどい表現をしたが戸塚である。俺に気づくと昨日と同じように軽く手を振って集団を抜けた。

 

「ごめん、待った、かな?」

 

ジャージ姿で軽く汗をぬぐい、テニスバッグを背負っている。うん、やっぱりジャージで下校してもいいんじゃないかな!

 

「いや、そうでもないぞ。とりあえず、行くか?」

 

「あ、そうだね。どこ行こっか?」

 

ラーメンは昨日食ったしまたの機会にということにし、移動を繰り返すのは面倒だからということでサイゼに直行することにした。これで次回ラーメンの約束をしつつサイゼという寸法よ。天才か俺は。

 

駅近くのサイゼは、日曜の割に空いていた。椅子を引いて座ると戸塚は反対側に座る。

俺はまだ昼を食べてないし、戸塚は練習後だ。先に空腹を満たした方がいいだろう。

 

「先に何か食うか」

 

「そうだね。お腹すいたし」

 

戸塚の言葉を受け、俺は注文ボタンを押した。

 

 

 

小一時間ほど食事に当て、お互い空腹を満たしたところで本題に入ることにした。俺は口元を拭いて戸塚に話しかける。

 

「それで、相談なんだが…」

 

「うん、どうしたの?」

 

俺は途中でつっかえながら、慎重に言葉を選んで話した。初めて会った日に感じたことや眼鏡を買いに行った日のこと、最近感じていることなどなど。戸塚は疲れた身体に満腹感で眠たいだろうに、真剣な表情で俺の話を時に頷きながら、時に質問を挟みながら聞いてくれた。

そして全てを話し終えた。口の中が乾燥しきっている。俺はコーヒーをひと口呷り、息を吐いた。

 

「そっか、その眼鏡、由比ヶ浜さんからのプレゼントなんだ」

 

「…ああ」

 

「それで、八幡はどうしたい?」

 

当然、その質問が来ることは予想していた。しかしその問いに対する答えを俺は持っていない。ある意味そこが1番の問題と言える。

俺の話を簡潔にまとめてしまえば、踏み込むと決めたのにそれで嫌われるのが怖い、というだけのことだ。本来相談すべきは怖いけどこうしたい、という部分であって俺はその段階にすらいないのだ。

 

「…わからん」

 

「……八幡、由比ヶ浜さんはそのくらいで八幡のことを嫌いになったりしないよ。…って言っても、意味ないよね」

 

その通りだ。

何言ってんだアホ、もっとまとめてから相談しろと怒られても仕方ない。

戸塚には申し訳ないが、仮にそんなことを言われても良かった良かったと言って帰ることはできない。

首を縦にふると戸塚はだよね、と頷くと、少し考えてから口を開いた。

 

「こう言うのは卑怯かもしれないけど、八幡、怖いけど踏み出すしかないんじゃないかな。知りたい、って」

 

たぶん、ここで何時間話しても同じ結論が出ただろう。解決方法はそれ以外に存在し得ないのだから。

前進するにはこれしかない、けれど前進するとは限らない。

ただし、それ以外の方法では何も変わらない。それどころか、ゆっくり時間をかけて壊れるだけ。

これはそんなお話。本人もそれを自覚していて、それなのに怖いからと言って人を巻き込んでややこしくした、それだけの話。

そんな事実を、戸塚は言いにくそうな顔をしながらも突きつけた。

 

「ぼくは由比ヶ浜さんじゃないから大丈夫だよって言えないけど…八幡ががんばるしかない、と思う…」

 

「…だよな」

 

戸塚は正しい。

適当に慰めて、誤魔化して有耶無耶にして。俺はそんな言葉をかけて欲しいわけじゃない。

だから、戸塚は正しい。

 

「もし、八幡が由比ヶ浜さんを悲しませたり、怒らせたりしちゃったらぼくも一緒に謝るよ。それで、一緒に考える。だから、八幡?」

 

あるいは、ただ聞いて欲しかったのかもしれない。叱って欲しかったのかもしれない。

なんて恥ずかしい。

 

「…ん、そうだな。その時は何が悪かったのかしっかり説教してくれ」

 

「うん!」

 

戸塚は頷くとジュースを飲み干して帰り支度を始めた。

え、なにまさか今すぐなの?

 

「じゃあ八幡、がんばってね」

 

「え、今から?」

 

「え、違うの?」

 

口をポカンと開けて見つめ合うこと数秒。

先に機能を回復したのは戸塚だった。

 

「八幡、さっそくお説教しなきゃいけないのかな?」

 

戸塚の説教とやらに興味はあるのだが、できれば今日はご遠慮願いたい。

 

「いや、なに。冗談だ。今日は大丈夫だ」

 

「うん、じゃあ…」

 

「おう、またな」

 

簡単に別れの挨拶をすると戸塚は帰って行った。飯食うのにかかった時間と本題にかかった時間がほぼ同じだったとかどんだけしょうもないこと相談したんだよ。せめて何かしてから相談しろよ。

と、自らに突っ込みを入れながら、俺は携帯を取り出し、電話をしようとしたところでふと気づいた。

戸塚、伝票持ってったな。2人分の。

…何だよあいつ超男らしいじゃねえか。

 

 

 

 

1人でサイゼにいることなど俺にとっては珍しくもなんともない。

由比ヶ浜と2人でいることも最近は特に珍しくない。

しかし今日はなんとなく、どこか違う場所であるかのように感じた。

できれば何か予定が入っていて欲しいなどとヘタレ全開で電話したところ暇だったらしく、すぐに行くと言って通話が終了した。

舌が乾いているのがわかり、コーヒーを2杯飲み干したころ、ドアが開いて見慣れたお団子頭が入ってきた。

 

「お待たせ、ヒッキー」

 

「おう、急に悪いな」

 

「ううん、全然!ヒッキーから誘ってくれるの初めてだし!」

 

由比ヶ浜はぱたぱたと駆けてくると、俺の向かい、さっきまで戸塚が座っていた場所に座った。

やべえどうしたらいいのか全然わかんねえ。……八幡、頑張ってね!(CV.戸塚彩加)。よし、頑張ろう。

 

「とりあえず、何か頼むか?」

 

「んー、今はいいよ」

 

できれば何か頼んでほしかったです、はい。

今になってなおヘタレ万歳の、どうも俺です。

 

「そうか」

 

「うん。それで、どうかしたの?ヒッキー」

 

当然ではあるが、由比ヶ浜はいきなり本題に入った。そりゃそうだ、俺が呼んだんだから。

いやあ、参ったなぁ…言葉が出てこないなぁ…

逡巡する俺をしばらくわけがわからないといった顔で見ていた由比ヶ浜は、やがてメニューを開いて顔を半分隠しながら優しい声音で語りかけた。

 

「やっぱり何か食べるよ。ヒッキーも何か頼む?」

 

「…いや、俺はいい」

 

「そっか」

 

その気遣いは、心配りは実に由比ヶ浜らしい。

いったいいつまで彼女に甘えるつもりなんだと、いい加減自分が嫌になった。

 

 

由比ヶ浜がティラミスをつついている間、言うべき言葉を組み立てる。が、組み立てたそばからガラガラと崩れ落ちてしまいまったくまとまらない。俺大丈夫かしら…

 

できるだけゆっくり食べていたようだが、ティラミスを食べるのにそう時間はかからない。

最後のひと口を飲み込むのを待ち、コーヒーを呷ってようやく俺は前を向いた。

 

「由比ヶ浜。この眼鏡買った日のこと、覚えてるか?」

 

「え?あ、うん、覚えてるよ?」

 

「…嬉しかった。俺なんかのために本気で怒って、考えてくれて。あと、聞きたい、って言ってくれて」

 

「…うん」

 

「けど、俺は由比ヶ浜に引っ張ってもらってばっかで、何もしてないだろ」

 

「そんなこと…」

 

あと、ひと言だけ。そのひと言を言えばいいものをこの口は動こうとしない。くだらないことはペラペラ喋れる癖に肝心な時に役に立たない。

でも、それじゃあダメなのだ。俺が今までに踏み出してきた距離はあまりにも短い。

嫌な思いをさせたくはない。けれど、由比ヶ浜は聞きたいと言ってくれた。だったら、俺は。

 

「………俺は、知りたい。由比ヶ浜のことをもっと聞いて、知って、それで…」

 

視線は由比ヶ浜から外さない。

声はだんだん小さくなっていって最後まで言いきることなく出なくなった。

今は、悪いがこれが俺の精一杯だ。きちんと喋ろうにも頭も口も全く回らない。

由比ヶ浜は驚きを顔いっぱいで表現するとくすぐったそうに小さく笑った。

 

「そっか…そんなふうに思ってくれてたんだ…」

 

「…ウザく、ないか?嫌だと思うなら突き離してくれた方がいい」

 

卑怯だと思う。

こんな言い方しかできない自分にほとほと呆れてしまう。

 

「ううん、あたしは嬉しいよ?ヒッキーがそういうこと言ったの初めてだもん。…聞いて、くれる?」

 

「…ああ、聞きたい」

 

しかし由比ヶ浜は嘘もごまかしもない笑みを浮かべて俺の目を見た。

 

「ちょっと長いよ?あたしヒッキーみたいにうまく話せないし」

 

「…いい。聞きたい。言いたくないことは言わなくていい」

 

それはまるでいつかのあの時の焼き増し。

ただ、聞いたところで俺に何ができるのかはわからない。

しかし踏み出すことに怯えて壊れるのを待つだけの時間はこれで終わりだ。

ようやく、由比ヶ浜の隣に立つことができるような気がした。

 

 

 

由比ヶ浜は、男子に人気がある。

顔は可愛いし、スタイルもいい。

基本的に人当たりが良く、優しい。

本来なら男女問わず人気が出てもいいくらいだ。

けれど、女子の世界ってのは複雑らしい。

中学時代、ある女子が好きだった男子が由比ヶ浜に告白して振られたらしい。

それがきっかけで女子からはハブられるようになったそうだ。俺からすれば全く意味がわからないがそりゃ俺だから仕方ない。

男子は胸を見てニヤニヤするし女子は敵、という状況で過ごすには、空気を読んで合わせるように振る舞うほかない。

そんな自分を変えるべく総武を受け、入学したものの初日にあの事故。

クラスでもなんとなく合わせているうちに気づけば相模とかいう女子のグループにいたそうだが、合わせていれば自分の意見がどうだと言われ、合わせなければやはり文句を言われる。なんだその息苦しい空間は。

さらにその相模とやらのグループは人の悪口で繋がるタイプだったらしい。やだ、そんな空間酸素がいくらあっても足りない。

そしてそれ以外のクラスメイトともそこそこに上手くやれても仲良くなるというのは難しかったらしい。男子は言うまでもなく。

そこに現れたのが戸塚と雪ノ下というわけだ。

あの2人が何か違うというのは由比ヶ浜も感じたのだろう。

だから、昼休みは毎日ベストプレイスに来るし放課後遊びに行くこともなく、土日も犬の散歩くらいでしか出かけないらしい。

つまり今は相模のグループからフェードアウトしている真っ最中ということになる。

 

「…そうか」

 

「…うん」

 

俺に何かができるという状況ではなさそうだ。由比ヶ浜自身は何の非もない、一方的な被害者であり、運が悪かったとも言える。

俺にできることなどほぼない。むしろ首を突っ込めば事態の悪化を招く。

 

「俺ができることは悪いが無い。そのままなんとなくフェードアウトするしかない。けどいつか相模達の悪口の矛先が由比ヶ浜になる可能性はある」

 

「そう、だね…」

 

というか、ほぼ確実にいずれやってくるだろう。その番がやってこないのはイケメンリア充くらいのもので、それ以外は必ずどこかで悪口が言われているものだと思っていい。

ちなみに、その番が由比ヶ浜に来たとして、俺ができることはやはりあまりない。

 

「まあ、なんだ。その時は逆に俺が手ぇ引っ張って逃げてやる」

 

「逃げるんだ!?まさかの展開だ!?」

 

え、あれ急に場の空気がコメディになったんだけど。あれー?俺わりと本気で言ったんだけど……

 

「なに、立ち向かって叩き潰すつもりなの?」

 

「そうじゃないけど!なんかかっこいい感じのやつ期待するじゃん!」

 

「ばっかお前、逃げるが勝ちって言うだろ。つまり逃走が完了すれば完全勝利だろ」

 

マジで賞金もらっていいレベル。

悪口に正論をふりかざしたところで、返ってくるのは大きくふたつ。

1つ、意味不明なんですけど?

2つ、ていうか誰あんた?

結論。逃げるが勝ち。

 

「それに口喧嘩するなら雪ノ下の方が強いだろ。たぶん、わりと」

 

「…なんかそういうの、ヒッキーっぽい」

 

卑屈だと言いたいんですかねぇ…

思わぬ方向に話が進んで俺もついていけてないが、由比ヶ浜が楽しそうに笑い始めたので良しとしよう。

 

「…まあ、最悪本気出すよ。俺が本気出せば平塚先生くらいなら呼べる」

 

「本気の出し方おかしいってば!うぅ…お前は俺が守るとか、そういうの来るかと思った…」

 

えぇ…それはちょっと注文が厳しすぎやしませんかねぇ…

そんなちらちらとこっちを見られましても…

 

「まあ、なに。そのうちな」

 

「…うん、そのうち」

 

そんな機会、来ない方がいいんだけどな。

 

「よし、ヒッキー甘いもの食べよう!」

 

唐突に話を切り上げた由比ヶ浜は、テーブルをばんと叩いて笑顔を見せた。

切り替え早すぎやしませんかねぇ…

 

「さっきティラミス食ってただろ…」

 

「じゃ、じゃあ歌!歌ってハニトー食べよう!」

 

「食ったら一緒だろ…」

 

「いいじゃん、行こうよー!」

 

こうなった時の由比ヶ浜には基本的に勝てない。そういう普通のスタンスでいたら普通に友達とか彼氏とか……まあいい。無理に変わることもないな。

 

「わかったよ…」

 

 

 

諦めて席を立つ。

あれだけ踏み出すのを怖がってた癖に、何故か喜劇をしてしまった。どんな週末だよ。

ともあれ、拍子抜けするくらいに話は進み、由比ヶ浜はもはやパセラのことしか考えていない。

なんだ、やればできるじゃねえの、俺。

由比ヶ浜の人間関係の問題に介入することはあまり好ましくない。

だからできることといえば、こうしてパセラに付き合ったり話を聞くくらいのことだ。

ふと、外を見るとまだまだ陽は高く、夕暮れまでは当分かかりそうだ。

 

人の心などわからない。

矛盾に矛盾を重ねる人の心は全くもって非合理的で、だから行動の結果に後悔がついてまわる。

俺が抱く非合理的な感情。

その正体はやはり見えず、願うものの輪郭もまたまだぼやけたままだ。

それでも俺は歩を進める。進まないと何も知ることができないから。

まあ、さしあたっては、パセラへ。

 

高めの気温のせいか、頬を朱に染めた由比ヶ浜の隣へ、俺は自転車を走らせた。

 

 



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少しずつ、彼らの距離は縮まりつつある。

気温が上がり、夏の入り口。

蒸し暑さの増す教室ではいよいよ学校に慣れきった同級生達が今日も今日とて騒がしい。

そんな教室にて、俺もまたいつも通りに席につき、ぼんやりと授業が始まるまでの時間を過ごしていた。

 

あれから、俺と由比ヶ浜の距離は多少、少なくとも最初の頃よりは確実に縮まった。

具体的に言えば土、日にも誘われるようになった。毎週というわけではないが、その頻度は高い。戸塚や雪ノ下と4人の時もあれば2人の時もある。ちなみに、俺と戸塚、由比ヶ浜と雪ノ下という2人組で出かけることもまあまああったりする。俺達はラーメンを食べに、あいつらは…まあ買い物でもしてるんだろう。

とにかくそんな変化があった。そしてその変化を悪くないと思っている俺がいる。

せっかくできた関係だ。楽しんでおくのがいい。

 

そして今日も、滞りなく授業が進む。

授業を受け、ベストプレイスで飯を食い、また授業を受け、ホームルームで解散。

まさにいつも通り。さて、今日は由比ヶ浜と雪ノ下と3人で勉強会をした後戸塚も合流する予定だ。今日の復習くらいは済ませておくか。

そんなことを考えながら教科書をバッグに詰めていると、目の前に1人の男子生徒が立った。

見覚えはある。たしか由比ヶ浜がこの教室に来た時ニヤニヤしていた男子グループの1人だ。

そいつは一見人の良さそうな笑みを浮かべて俺の前に立っている。悪いが俺はそういうのには騙されん。仕事を押しつけられるような気がしてならない。

 

「あのさ、ヒキタニくん」

 

誰だよヒキタニくん。

人に用事があるなら名前くらいちゃんと呼びません?いや、たぶんもう関わらないから訂正もしないけど。

 

「…あ?」

 

この手のタイプは下手に出るとつけあがる。ここはめんどくさそうに対応することでお前の話を聞く気はないアピールをしておく。

 

「ちょっと頼みがあるんだけど」

 

ダメかー…俺急いでるんだけどなぁ…

掃除やっといてかノートよこせかちょっとツラ貸せかどれかしら…

痛いのは嫌だなぁ…

返事をするのも面倒なので首の動きで続きを促した。めんどくさそうにどころか面倒だって言っちゃったよ。あらやだこの子策士!

 

「ヒキタニくんってさ、由比ヶ浜さんと仲良いじゃん?」

 

…ああ、なるほど、そっちか。断る。

どうりで俺なんぞに話しかけてくるわけだ。

おおかた由比ヶ浜に相手にされなかったのだろう。だってお前その気持ち悪い営業スマイルじゃ裏のある人間だってすぐわかるし。

もはや返事をする気も失せた。いや、違うね、最初からなかったね!

 

「だからさ、紹介してくんね?」

 

俺からの返事が無いことに何の違和感もないのかよ。ぼっち相手なら要求が通って当然だとでも思ってるのん?なんておめでたい発想だ。

だがここで逆撫でをしてしまうと話がややこしくなる。無難に切り抜けていくか。

 

「俺が勝手に何かするわけにはいかねえよ。すまん」

 

後ろのほうでお仲間が聞き耳を立てているのがわかる。つまり最悪大人数で圧をかけようって魂胆か。そのくらいしてやれよーから始まり、そうだそうだで繋ぐ交渉術と見た。

案の定、数人の男子生徒が白々しく「おい、どうした?」なんて言いながら俺を囲んだ。

 

「ヒキタニくん、メールアドレスくらい教えてやれよ、な?」

 

「こいつマジだからさ、俺からも頼むよヒキタニくん!」

 

いや、だから誰だよヒキタニくん。

あと何がどうマジなんだかさっぱりわからん。マジなら本人に直接聞けよ。教えてくれないなら諦めろ。

 

「いや、俺が勝手に個人情報ばら撒くわけにはいかないし」

 

知らず、低い声が出てしまうができるだけ普通の口調を心がける。喧嘩にでもなってしまえば勝ち目はない。

 

「メールアドレスくらいで個人情報とか大げさだって!な?」

 

営業スマイル野郎はヒクついている鼻を誤魔化しつつ食いさがる。その言い方だとメールアドレス程度の個人情報も教えてもらえないってことだろうが。完全に脈なしだ、諦めろ。

さすがの俺もこのしつこさにはうんざりしてきた。教室を見渡したところで助けが来ることはない。戸塚は心配そうに見ているがどうしていいかわからない様子だしそれ以外は知らん。だが長引くと由比ヶ浜が来てしまう。今の状況でそれはよろしくない。

ここはとにかくこの場を抜けるしかない。

 

「…まあ、聞いとく」

 

こう言えば俺を止めることはできないだろう。乱暴にバッグを引っ掴み教室を出る。背後から「頼むぞヒキタニくーん!」なんて声が聞こえてきた。だから誰なんだよヒキタニくん。

教室を出て周囲を見渡すと、幸い由比ヶ浜のクラスのホームルームが長引いているのか廊下に由比ヶ浜の姿はなかった。

 

 

 

由比ヶ浜、そして雪ノ下と合流してサイゼへ向かう。女子2人は楽しげに会話をしており、俺はその後ろを少し距離を開けて歩いていた。

時折見える由比ヶ浜の横顔は楽しそうで、邪魔をしてしまうのは気がひける。後で聞くことにしよう。

しばらくそのまま歩いていると、不意に由比ヶ浜がこちらを振り返った。

 

「あ、ねえ、ヒッキー……ヒッキー?」

 

「…なんだ?」

 

何か話題を振ろうとしたようだが、俺の顔を見るなり訝しむような表情になった。

 

「ヒッキー、なんか怒ってる?」

 

「いや別に。全然全く」

 

全く怒ってなどいない。そんな理由もない。

ただ、こう…端的に言うと、あれだ。

 

ーおもしろくない。

 

 

 

 

 

「………」

 

「………」

 

「………」

 

「………」《ムスッ……》

 

今日の勉強会は静かだ。戸塚が合流してからも特に会話はない。

あ、シャーペンの芯が折れた。

カリカリと問題を解いていく。だがいつもよりペースが遅い。…あ、また芯が折れた。新しいのを入れとくか。

新しい芯を筆箱から取り出そうと顔を上げる。すると、俺以外の3人がじっと俺を見ていた。

 

「…どうした?」

 

「わわっ!なんでもない、なんでもないから!そ、そだヒッキー、ここ教えて!」

 

不自然なくらいの慌てようを見せ、ごまかすように教科書を手に由比ヶ浜は距離を詰めた。

 

「…戸塚くん。私たちは2人のぶんも飲み物を取ってきましょう」

 

「あ、そうだね。2人とも何がいい?」

 

「コーヒーで」

 

「えと、ヒッキーと同じの…ありがと」

 

雪ノ下と戸塚が俺たちのコップを持ってドリンクバーのコーナーに向かったのを見て、俺は由比ヶ浜に向き直った。

 

「で、どこだ?」

 

「あ、あれ?いつも通りだ…」

 

「いや、何がだよ。答えが間違ってるのはたしかにいつも通りだけど」

 

「失礼だなっ!?えっと、ここなんだけど…」

 

「おし、これか。これは…」

 

 

 

 

ドリンクバーにて。

 

「それで、比企谷くんは何をカリカリしているのかしら?」

 

「今日の放課後にクラスの子が八幡の所に行って由比ヶ浜さんを紹介してくれって言ってて、八幡は勝手にそんなことできないって言ったんだけど…」

 

「はぁ…それで?」

 

「何回もしつこく言ってて、その後からずっとあんな感じなんだ」

 

「そう…そういうことなら比企谷くんは責められないわね」

 

「それに八幡、自覚ないし…今日もだけど、たぶんずっと」

 

「……はぁ…とりあえず戻りましょうか」

 

「そうだね」

 

 

 

由比ヶ浜の質問に答え終わったころ、戸塚と雪ノ下が帰ってきた。

 

「はい、コーヒー」

 

「ありがとな」

 

 

 

 

勉強会が終わり、由比ヶ浜を家まで送る。こんなことももはや当然になった。

それにしても、今日はどうも眉間に皺が寄る。

特に会話が弾むこともなく、公園の近くまで来た。由比ヶ浜の家はここからそう遠くない。

 

「…ね、ヒッキー」

 

「なんだ?」

 

「なんか、あった?」

 

由比ヶ浜は妙なところで鋭い。

何も無かったと言えば嘘になるわけだが、どうしたものだろうな。

別に握りつぶしてもいいのだが、そうするとおそらく由比ヶ浜の方にあいつらが行くだろう。俺にしたように徒党を組んで。それは避けたい。

仕方ない、今日のところは帰ってから考えるか。

 

「…いや、大丈夫だ。何もない」

 

「……そっか」

 

 

 

 

建物の中に入っていく由比ヶ浜の姿が見えなくなるのを確認して自転車に跨る。

夜でも気温の高い季節ではあるが、自転車を走らせて感じる風が多少頭を冷やしてくれた。

まだ聞いてないでごまかせるのはおそらく長くても2、3日だろう。

…というか、なんで俺は由比ヶ浜のアドレスを教えずに終わらせる方向で考えてるんだ?あいつが良いと言えば教えて終わりなのに。

無意識に、頭がその理由を弾き出そうとするのを無理やり抑えこむ。きっとそうしていないと何かが決定的にズレてしまう。俺達の関係がズレて、最悪崩れてしまう。

得体の知れない感情から目を背けるように、俺は思考を手放し、ただ自転車をこぐことに集中した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日のヒッキーは不機嫌だった。力入れすぎて何回もシャーペンの芯折ってたし、ずっとムスッとしてた。あたしが何か怒らせるようなことしちゃったのかなって思ったけど質問したらいつものヒッキーだったし一緒に帰る時だっていつもと変わんないし、いつも通り見えなくなるまで見送ってくれた。

あたしやさいちゃんやゆきのんのせいで怒ってたわけじゃないみたいだけど、何かあったのかな。困ったら頼ってくれたら嬉しいんだけど…

 

今日ヒッキーに会ったら聞いてみようかな、って思いながら教室に入ると、あたしの席の近くにさがみんがいた。最近あんまり話してなかったけど何か用なのかな。

こんなこと言いたくないけどあたしはさがみんがそんなに好きじゃない。

だけどあんまり避けるのもヘンだから普通に席についたら、すぐにさがみんが話しかけてきた。

 

「ねえ、結衣ちゃん」

 

「な、なに?」

 

「結衣ちゃんってさ、ヒキタニと仲良いんでしょ?」

 

ヒキタニ…?ヒッキーのこと?ヒキタニじゃなくて比企谷なんだけど…

 

「仲良しって言うかなんというか…」

 

あたしの返事を聞いてさがみんは机を指でとんとん叩き始めた。イライラしてる時の仕草だ。

 

「仲良いの?悪いの?」

 

「それは…友達、だけど…」

 

自然と声がちいさくなる。なんでヒッキーといる時みたいに普通にできないんだろ…

 

「そ。じゃあ紹介してよ」

 

「……え?」

 

一瞬何を言われたのかわかんなかった。

紹介って…紹介、だよね?これが比企谷くんです、っていうのじゃなくて、友人の紹介で知り合った2人がー、みたいなあの紹介だよね?

…そっか、ヒッキー猫背直して眼鏡かけてるから、見た目もイケてるもんね。

 

「え、じゃなくて紹介。アドレスとか知ってるんでしょ?」

 

「知ってるけど…ヒッキーに聞いてみないと…」

 

「じゃあ聞いといて。明日また聞くから」

 

言うだけ言ってさがみんは自分の席に帰っていった。あ、あたしもう完全にグループ抜けてるんだ。…ってそうじゃなくて。

ヒッキーを紹介して、かぁ…

眼鏡があってもなくてもヒッキーはかっこいいし、何より優しい。不器用だけど。

みんながヒッキーの優しい部分知ったらモテモテになるのかな。

たぶん、ヒッキーのことが気になってる人は他にもいると思う。この前トイレで女の子のグループが葉山君とヒキタニ君どっちがいいかなんて話してたし。

ヒッキーの良いところをみんなが知ってくれるのは嬉しい。

嬉しい、けど…

 

ーなんか、やだ。

 

 

 

 

「……」

 

「……」

 

「……」《ムスッ……》

 

「……」《ムスッ……》

 

今日も勉強会。

が、何故か由比ヶ浜の機嫌がすこぶる悪い。おかしい、俺何かしたかしら…

そしてこれまた何故か雪ノ下と戸塚が頭を抱えている。疲れているのだろうか。今日は俺が飲み物取ってきてやるか。

 

「飲み物取ってくる」

 

「あ、あたしもいく…」

 

「戸塚と雪ノ下、何がいい?」

 

「…紅茶をお願い」

 

「じゃあぼくはコーラでいいかな?」

 

「はいよ。紅茶とコーラな」

 

由比ヶ浜と2人、ドリンクバーのコーナーへ向かう。紅茶のマシンに2、3人ほど並んでおり、少し時間がかかりそうだ。

 

 

 

 

 

 

その頃、テーブルにて。

 

「…何故由比ヶ浜さんまで…」

 

「うーん…クラスが違うとわからないね…」

 

「多少無理やりにでも言わせたほうが良いかしら」

 

「どうかな、うーん…」

 

「…私は由比ヶ浜さんと話すわ。戸塚くんは比企谷くんを頼めるかしら」

 

「わかったよ」

 

 

 

「ほれ、コーラ」

 

「ありがとう、八幡」

 

飲み物を置き、さっきまでと同じ場所に座り直した。

相変わらず由比ヶ浜は頬を膨らませており、ジトッとした目で俺を見ている。

 

「…なんだよ」

 

「…なんでもないよ」

 

なんでもないならそんな顔しねえだろ。あ、芯が折れた。

その後なんとも言えない空気のまま、勉強会は終了した。

 

 

 

 

 

その日、由比ヶ浜は雪ノ下が1人暮らしをしているマンションに招かれ、2人で歩いて行った。

そう遠くないとのことだから大丈夫だろう。

残された俺と戸塚は男2人、のんびりと歩いていた。

戸塚との距離もずいぶん近くなり、最近は戸塚から「このラーメン屋どうかなっ」と言ってくることもある。

まあ、なんだ。初めての男友達だと言っていい。

 

「八幡、この前の…」

 

そんな戸塚がおずおずと尋ねてきたのは由比ヶ浜を紹介しろと言われた時のことだった。

 

「…ああ」

 

「どうするの?」

 

「由比ヶ浜が決めることだからな、明日聞く」

 

そうなのだ。本来なら俺は全く関係無いのだ。あいつと由比ヶ浜2人の問題であって、俺がどうこうすることではない。

けれど、いやそれ故だろうか。この不愉快さは何なのだろう。

 

「…ねえ、八幡」

 

伏し目がちに問う戸塚の表情は俺からは見えない。

ただ、口には出さずとも、それでいいの?と言われているような気がした。

 

「なんだ?」

 

「ぼくはいつでも八幡の味方だし、応援してるからね」

 

「…ああ」

 

具体的なことは何1つ口にしてはいない。

ただ自分は味方だと、そう言っただけ。

それだけだが、少し身体が軽くなったように感じた。

 

「戸塚。由比ヶ浜も答えにくいかもしれないから悪いんだが明日の昼は2人にしてくれるか」

 

「うん!雪ノ下さんにはぼくから言っとくよ」

 

「すまん。代わりに今度なりたけに連れてくわ」

 

「そこ、美味しいの?」

 

「ああ。なんたって脂が…」

 

短いやり取りの末、時間を得た。由比ヶ浜が怒ってた理由も聞きたいしな。

その後は戸塚と別れるまでなりたけについて語り、家路についた。

 

 

その夜は寝つきが悪かった。

もう何度も自分に言い聞かせた。本来出番のない舞台なのだからと。これはあの男と由比ヶ浜の青春劇であって俺のそれではない。俺などあいつが勝手に持ってきた小道具に過ぎない。

けれどおもしろくないものはおもしろくない。

由比ヶ浜が男子に人気なことくらい知っている。ガードが固いことも知っている。

そして俺は醜いことに由比ヶ浜が嫌だ、と言ってくれることを期待している。

俺の決めることじゃない。関係ない。それなのにこんな願望を抱いている自分が気持ち悪い。

はっきり言ってしまえば、俺が伸ばして、掴もうとした手を横から掻っ攫われるのが気に入らないというアホな我儘だ。

それがわかっていてなお気持ちが変わらないのだから本当に気持ち悪い。

期待しているのだ。由比ヶ浜に話をしたらたまに見せる露骨に嫌そうな顔で教えないで、と言われることを。

人との関わりの少ない人生だったせいか、心臓を絞めるようなこの感情の名前を俺は知らない。

携帯を取ろうとした手を止める。誰かに何かを話しても同じことだ。もう寝た方がいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆきのんの家は高校生の1人暮らしには大きすぎなくらいのマンションだった。

すごい。ぶるじょわ?ってやつだ。

 

「とりあえずそこに座っていてくれるかしら。紅茶を淹れてくるから」

 

「て、手伝うよ!」

 

「1人で十分よ。座ってちょうだい」

 

何か手伝いたかったけどゆきのんに言われた通りにソファに座った。わっ、フカフカだ。

そういえばヒッキーとさいちゃんはどうしてるんだろ。ラーメンの話してるのかな。

あたしもヒッキーとラーメン食べに行ってみたいな…太っちゃうかもだけど。

 

ゆきのんが2人ぶんの紅茶を持ってきてくれた。超美味しい。なんかこう…上品っていうか、超紅茶!みたいな。

ヒッキーにこれ言ったらまたからかわれそう。「超紅茶ってなんだよ…」とか言って。

 

「紅茶1杯で何故そこまで笑顔になれるのかしら…」

 

「うえっ!?あ、いやなんでもないよ!?そそそれで、どうかしたの?ゆきのん」

 

あたしそんなに笑ってたかなぁ。

てか絶対ヒッキーならちょっと呆れた顔でボソっとツッコんでくれると思う。うん。

 

「どうかしているのはあなたの方よ。今日の様子はまるで昨日の比企谷くんのようだったわ」

 

「え、あたしヒッキーみたいになってた?えへ、えへへ…」

 

「褒めているわけではないのだけれど…」

 

へ?あ、そっか。ヒッキームスッとしてたもんね。ちょっと可愛かったけど。

 

「それで、何をあんなに怒っていたのか、聞かせてくれるかしら」

 

怒ってたっていうかさ…

でもこれ言ったらゆきのんに嫌な子だって思われちゃわないかな…

 

「ええっと…怒ってたっていうわけじゃないんだけど…」

 

「けど?」

 

「ゆきのん、ちょっと嫌な話するかもだけどあたしのこと嫌いになったりしない?」

 

「そう簡単にはならないわ。…なったら追い出すけれど」

 

「怖いよ!えっとね…」

 

 

 

ゆきのんに全部話した。さがみんに言われたこととか、あたしが思ったこととか。

頷きながら聞いてくれたゆきのんはあたしが話し終えると紅茶を飲んでこめかみのあたりを押さえた。

 

「……」《比企谷くんと同じじゃない…》

 

「ゆきのん?」

 

どうしよ、嫌いになっちゃったかも。

ゆきのん陰口とか嫌いそうだし…

 

「少しだけ考えてもいいかしら」

 

「あ、うん!大丈夫だよ?」

 

 

《つまり2人とも互いを人に紹介しろと言われてそれが気に入らなかったというわけね。…もう答えは出ていると思うのだけれど…戸塚くんから明日の昼休みに2人にしようと連絡が来たし、比企谷くんの方は心配無いと思っていいのかしら?》

 

 

「由比ヶ浜さん?」

 

「なに?」

 

「明日の昼休みは比企谷くんと2人にするからきちんと話しなさい。何も言わないと何も変わらないわ」

 

「…そう、だね…うん、聞くよ」

 

やっぱり聞くしかないよね。

ヒッキーが喜んで教えたりしたらなんか、やだな。

断ってほしいって、教えないでほしいって思っちゃう自分もやだ。ヒッキーが周りを気にしないでいいようにがんばったのに。成果も出たのに。

なんでこんなにモヤモヤするんだろう。

ヒッキーが他の女の子とどんどん仲良くなって、付き合うようになったら。

そう思ったらすごく胸が苦しい。あたし、ズルい子だ。イヤな子だ。

でもさ…ズルくてもイヤなやつでも、嫌なんだ。めんどくさそうな顔をしながらやだよ、って言ってほしいんだ。

ヒドいこと言ってると思う。

もしさがみんが本気でヒッキーが好きだったらあたしが思ってることは本当の本当に最低だ。でも。

でもさ…

頭の中がごちゃごちゃしててもう何が何だかわかんない。

ねえ、ヒッキー。ヒッキーならこんな時どうする?

ヒッキーと話したい。

だから携帯を持って電話帳を開いてヒッキーの電話番号に指を当てようとした。

けどかけられなかった。

 

「…由比ヶ浜さん」

 

「……うん」

 

ゆきのんの綺麗な声が聞こえる。今まで聞いたことないくらい優しい声。お姉ちゃんがいたらこんな感じなのかな、って思った。

 

「正直な気持ちを包み隠さずに話しなさい」

 

「…うん、ありがと」

 

 

 

 

 

 

久しぶりに2人の昼休み。

良く晴れたせいで少々日差しがきついが、幸いそこそこ風が吹いていることもあり暑さはさほど感じない。

由比ヶ浜の隣に座ってパンを口に運ぶ。何の味もしない。

由比ヶ浜は小ぶりな弁当箱をつついている。箸が進んでいない。

やがて、どちらからともなく途中で昼飯を片づけて顔を合わせた。

 

『あの…』

 

「な、なんだ?」

 

「あ、あたしは後でいいよ。ヒッキーからで」

 

どうぞどうぞ、というジェスチャーを受けて、まずは俺の用件から済ませることにする。

 

「そ、そうか。じゃあ……実は同じクラスの男子に由比ヶ浜を紹介しろって言われてるんだが「やだ」…………え?」

 

「メールアドレスとか「やだ」OKわかった」

 

即答どころか言い切ってすらいないのにNGが出た。

ぶんぶんと首を振りながらの拒絶に俺はあっさりと撤退を決めた。元々粘るつもりもなかったが。

 

 

 

物陰にて。

 

「わあ、八幡嬉しそう…!」

 

「由比ヶ浜さんのこととなると本当にわかりやすいわね…」

 

 

 

「俺の用件は以上だ。由比ヶ浜は?」

 

「あ、えと。ほら、前言ったさがみん…相模って子がさ、ヒッキー紹介してくれって「いい。いらん。やめろ」………へ?」

 

「えと…あ、アドレスとか「断る」うん、わかった」《パァァァ…!》

 

由比ヶ浜はともかく俺を紹介しろなんてよほど趣味が悪いか罠かのどちらかだ。どちらにせよノー。否定の三段活用だ。

 

 

 

やはり物陰にて。

 

「わっ、由比ヶ浜さんも嬉しそう!」

 

「ここまでとは思っていなかったわね…」

 

「ぼくたちはもう教室に戻ろうか?」

 

「ええ、戻りましょう」

 

 

 

 

「お互い用件は終わりか?」

 

「そだね。えへへぇ…」

 

これでいいのかはわからない。

ただ、本当に良い人で絶対に会った方がいいと思うなら俺はもう少し粘るし、由比ヶ浜もあんなにあっさり引き下がらないだろう。相模とやらの話は前に聞いたしな。

不思議と、昨夜の絞めつけられるような感覚はない。あとは教えないで欲しいらしいと伝えれば終わりだ。それはそれで難題ではあるのだが。

とりあえず、さっき残したパンを頬張る。しっかりクリームの甘さがした。

 

 

 

 

ホームルームの後、全く気は進まなかったが男子生徒の所に行きNGだった旨を伝えた。

 

「いやヒキタニくん、そりゃねえよ!いいじゃんアドレスくらい!」

 

「いや、本人が嫌だって言ってるし…」

 

だからいい加減気づけ、アドレス教えてくれない時点でアウトだろう。

あと誰だよヒキタニくん。

 

「チッ、いいよなあヒキタニくんはアドレス教えてもらえて」

 

それを俺に言ってどうなると言うのだ。

あと素が出てきてるぞ、ボロが出る前に逃げるか最後まで良い人っぽい演技貫くかしろ。

あと誰だよヒキタニくん。

 

「じゃあ」

 

「待てって。本当は聞いてねえんだろ?」

 

ここまで執念深いとストーカーとかになりそうで怖い。

あともう完全に素だろお前。

困っていると男子生徒の取り巻きが現れた。ああもうすごく面倒だ。

 

「なあ、ヒキタニくん。もう一回だけ聞いてみてくんね?」

 

もう一回聞いたとして結果が変わるとは思えないんですがそれは…

 

「いや、由比ヶ浜に悪いし」

 

「いーや、その顔は聞いてないな!頼むよヒキタニくん!」

 

聞いてないのはお前だ。人の話をまるで聞いてない。

あと誰だよヒキタニくん。

尚も食らいつく男子生徒をどうしたものかと思案していると、後ろの方でガラっと椅子を引く音がし、小さな足音が近づいてきた。

 

「あの…八幡はちゃんと由比ヶ浜さんに確認してたよ?ぼくが証人だよ」

 

突然の戸塚の登場に男子グループは固まり、モゴモゴと文句を言い始めたがさっきまでの勢いは無い。

え、戸塚にかかると君たちチョロすぎません?それはそれで俺にダメージ入るよ?

 

 

 

 

 

教室を離れると戸塚は旨に手を当てて深呼吸をした。

 

「怖いね、ああいうの…」

 

「無理しなくて良かったんだぞ」

 

緊張のあまり呼吸すら忘れていたらしい。

そして俺も忘れていたが戸塚聞いてたのかよ…

 

「ううん、無理だってするよ。ぼくは八幡の味方だもん」

 

「…そうか」

 

「うん!」

 

戸塚、かっけえなぁ…

あ、後はあいつか。

 

 

 

 

 

 

 

 

さがみんにヒッキーがアドレス教えたくないって言ってることを伝えたら、やっぱりというかなんというか、怒り始めた。

 

「ちょっと、結衣ちゃんほんとに聞いた?」

 

「きっ、聞いたよ!ちゃんと聞いて、それで…」

 

「アドレスも教えないとかおかしいじゃん!ウチの悪口とか言ったんじゃないの?」

 

「そんなこと…」

 

途中からさがみんの友達も入ってきて3人でいっぺんに喋ってくるからどうしていいかわかんなくて、怖くて、謝ることしかできなくて。

でも謝ったら謝るくらいならちゃんと紹介してよとか言われて。黙ったらシカト?とか腕組みながら言われるしでほんとにどうしようもなくなって。

…助けて…

助けて、ヒッキー…

 

「ちょっと結衣ちゃん、聞いてんの?」

 

「ぁ…う……」

 

次瞬きしたら涙が溢れちゃうんじゃないかなってくらい、視界が滲んでたらガラっ!て音がして教室のドアが開いた。

 

 

 

 

 

由比ヶ浜のクラスの教室は珍しくドアが閉まっていた。にも関わらず女子のものと思われる声が聞こえてくる。2、3人で由比ヶ浜を責めていると考えるのが妥当だろう。

反論する声が聞こえてこない。

いくら本当のことを言っても、頭に血が上っている人間には通用しない。

というか原因俺だし。

あと、まあ、なに。約束、あるし。

さっきの教室でのやり取りでヒットポイントは風前の灯火だが、最後の力を振り絞ってドアを開け、由比ヶ浜の席へと向かう。

案の定由比ヶ浜は女子3人を前に涙目になっていた。

というか来たはいいけど俺喧嘩してもたぶん勝てねえよなぁ…よし、逃げよう。

 

「由比ヶ浜、行くぞ」

 

「ふぇっ…?ひっきぃ?」

 

いまいち状況が飲み込めていない由比ヶ浜はいったん置いておき、女子3人に向き合う。

…どれが相模だよ。そういえば知らねえよ。

まあいいか、逃げよう。

 

「あー…由比ヶ浜呼んでこいって言われてるから、悪い」

 

とりあえずこの場を切り抜けられればいい。

俺は左手に由比ヶ浜のリュックを持ち、右手で由比ヶ浜の左手を掴んで小走りで教室を出た。

何故ってまあ、俺が手引っ張って逃げるって約束だし。

教室を抜け、廊下を進み、階段を降りてそのまま下駄箱へ。

靴を履き替えて外に出たところで俺は由比ヶ浜に話しかけた。

 

「俺自転車とってくるから」

 

「……」《ぎゅううう…!》

 

由比ヶ浜は俯いたまま握る手に力を込めた。

よほど3人に追い詰められたのが怖かったのだろうか、その手は震えており、少しの間とはいえ放置していくのは憚られた。

仕方ない、公共の交通機関で帰ろう。

 

「…帰るか」

 

頷いた由比ヶ浜の手を握ったまま学校を出る。

いつも送る道を歩いていると由比ヶ浜は少しずつ落ち着きを取り戻し、表情も明るくなってきた。

 

「大丈夫か?」

 

「うん。ありがと、ヒッキー…約束、守ってくれて」

 

赤くなった目と頬で、由比ヶ浜は笑った。

心底ほっとしたような、嬉しそうなその顔から数秒目が離せなくなる。

なんとか目を逸らし、頬をかいて短い返事を返す。

 

「…おう」

 

 

 

こうして由比ヶ浜紹介騒動は幕を閉じた。

今後あの男子生徒が由比ヶ浜にしつこく付き纏う可能性はあるが、その時は…平塚先生にでも丸投げしよう。

そして、俺はどこか安心していた。

同時に、今までなかったくらいに心臓が高鳴っていることも自覚していた。

それは、由比ヶ浜といると出てくる症状。こうして手を繋いでいる今も、倒れそうなくらいに心臓が過剰に反応している。

きっともう長くない。抑え込んだ感情を抑えきれなくなる時が来てしまう。

その時俺は、どうなっているのだろう。

 

まあ、それはその時の俺に任せるしかないか。

とりあえず今は由比ヶ浜が落ち着くまで待ってから家まで送ろう。

 

「ヒッキー、もうちょっとこうしてて、いい?」

 

「…ああ」

 

 

歩くペースはいつもよりずいぶん遅い。

しかしなんとなく、今日はこのくらいのペースでいいと思った。

まだ夕方というには早く、空も明るい。

隣を歩く由比ヶ浜が手をもぞもぞしている。ああ、引っ張って逃げたときのままだから少し歩きにくいもんな。

1度、軽く手をほどき。

由比ヶ浜と顔を合わせた後。

繋ぐ手は、互いの指を絡めた。

 

 

 



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踏み出す一歩は小さく、されど大きい。

ソファにずしりと深く沈み込み、点いていないテレビをしばらく見つめていた。

別に念力を使って電源を入れようとか、電波ジャックをしてやろうとか、そんな大それたことは考えちゃいない。そういうのはもう卒業したのだ。

ただ、本当にすることがないのだ。金曜日の夜、勉強も食事も風呂も済ませてしまえば俺にはもうやることがない。読書をしてもいいのだが、本を取りに行く過程が面倒だ。かといって座って扇風機に向かって「あ〜〜」とか言うのも面倒くさい。

ということで俺は何をするでもなくただ座っていた。

俺のしょうもない話を聞いてくれる小町は部屋に篭っており、それはつまりカマクラもここにはいないことを意味している。

家にいてもぼっちな俺はすることもなく貴重な10代の時間をただただ浪費していた。……いやまあ、学校ではぼっちじゃなくなっているんだけど。

そんなわけで冒頭の通り点いていないテレビを眺めている。どんなわけなんだろう。

眠くないから寝ることもできないし何かするのは面倒くさいしどうしたものかと思っていると、テーブルに置いてあった携帯が震えた。着信アリだ。ホラーではない。

が、むしろ俺の人生着信ナシが日常的だったせいで人からの着信があると身構えてしまう。ところで着信ナシどころかこっちからの着信繋がらなかったのは電波か何かのトラブル?5回かけたら4回は繋がらなかった記憶があるんだけど。残りの1回は留守番電話だった。

ソファから少し身体を起こし発信主を確認すると由比ヶ浜だった。

母親だったら無視して寝たフリを決め込んでいたところだが違ったので携帯を手に取る。着信に応じ、耳に当てると聞き慣れた明るい声が耳に届く。

 

「あ、ヒッキー?いま暇だよね?」

 

「なんで暇なこと前提なんだよ。いや暇だけど」

 

「だってヒッキーだし」

 

え、なになんなのこの説得力。全く説明になってないのに納得しちゃったじゃねえか。

 

「わざわざ電話してまで俺をディスるな。なんか用か?」

 

何かあっただろうかと考えながら返事を待っていると、妙な間があった。すー、ふーと音が聞こえたということは深呼吸でもしているのだろう。

 

「えっと、その…さ。あ、明日どっか行かない?」

 

躊躇いがちに発された言葉に、心臓がとくりと音を立てたのがわかる。

いや待て落ち着け。どっか行くというのは勉強会の話かもしれない。

 

「…ああ、勉強会か?」

 

「やー、普通に遊びに行きたいかな、みたいな…」

 

ああ、そういえばその約束もあった。だったら特に断る理由もない。約束無くても断る理由無いけど。

 

「わかった、大丈夫だ。……他は?」

 

口をついて出た言葉に、人はそう簡単に変わらないということを実感する。女の子と2人きり、なんてワクワクしながら行ったら違うなんて恥ずかしい事態を無意識のうちに想定していたらしい。

 

「えっと…2人でじゃだめ、かな…」

 

しかし、由比ヶ浜はそんな俺の思考パターンを知ってか知らずか、逃げ場の無い言葉を返した。

…しっかりしろ比企谷八幡。今までに積み重ねたトラウマも黒歴史も由比ヶ浜には何の関係もない。出会った日の決意を忘れるんじゃない。

 

「…場所と時間、どうする?」

 

「あ…えへへ…12時くらいに駅でいい?」

 

「了解。駅な」

 

ちょっと前まで俺を呼び出す時にこんな探るような話し方はしていなかったはずなのだが、その違和感を突き詰めたらおそらくロクでもないことになる。今日のところはさっさと寝てしまおう。

 

 

 

 

起きてから、ゆっくりと出かける準備をしていた。

窓を見やると、生憎の雨が地面を叩いているのがわかる。昨日まで晴れていたのが嘘だったかのような振り方だ。

スマホには着信もメールもなく、とりあえず待ち合わせ場所に行くことにした。

スマホを机に置き、ひと息つこうかと思っていると、姿見に映る自分の姿が目に入った。

どこかおかしなところはないだろうか。小町に頼むと追求がうるさいため自分で選んだのだが、ファッションなどというものに疎い俺のセンスなどまるであてにならない。

少し不安になり、クローゼットを開けて近くにあったものから合わせてみる。なるほど、わからん。

そんなことを繰り返しているうちに、そろそろ家を出る時間が近づいていた。

 

「…何やってんだろうな」

 

結局自分なりに組み合わせた格好で玄関に向かう。途中小町がニヤニヤしながら俺を見ていたことは忘却の彼方に追いやり、傘を持って家を出た。

 

 

幸いなことに、雨は強いが風はそこまで吹いていなかった。既に風に弱いイメージを払拭しつつある京葉線ならどこに行っても大丈夫だろう。

稲毛海岸に到着した俺は雨をしのげる場所に立ち、ぼんやりと雨雲を見上げた。

普段の俺なら行列に並ぼうがぽっかりと時間が出来ようが脳内での暇つぶしに困ることはないのだが、どうも今日は頭が冴えていない。何も思いつかないまま、そのまま立ち尽くしていた。

 

休日ではあるが、天気も良くないこともあって人通りはそう多くない。その中を早歩きでこちらに向かってくるお団子頭を見つけるのは簡単だった。

 

「ヒッキー!」

 

おそらく急いで来たのだろう。うっすらと汗をかきながらスピードを落とした由比ヶ浜は俺を呼び、手にしていたビニール傘をゆっくりと振る。

俺はそれに軽く手を挙げて応え、由比ヶ浜が傘をたたむのを待った。

 

「ごめん、遅れた?」

 

「いや、まだ5分前だ」

 

ほっとしたように由比ヶ浜が笑う。つられて頬が緩みかけるのを顔に力を入れて耐え、なんとか普通の表情を保つ。

ふと見れば由比ヶ浜が不思議そうな顔で俺を見ている。ごめんなさい普通の表情を保てませんでした。

とりあえずいつまでも駅にいても仕方ない。しかしどう切り出していいかわからず数秒迷った末に、俺はいつも通りの切り口から入ることにした。

 

「じゃ、帰るか」

 

「帰るんだ!?雨の中せっかく来たのに!?」

 

由比ヶ浜は心の底から驚いたような表情を見せる。まさかそのままの意味でとっちゃったのかしらん?

 

「冗談だ。で、どうする?雨だけど」

 

「ええっと…ららぽは前行ったし…パルコ、とか?」

 

由比ヶ浜のチョイスはまさに千葉の高校生のそれだった。さすがわかっている。千葉パルコはその役割を終え、閉店が決まっているためもうすぐお別れになってしまう。喜んでいるのは津田沼パルコ派くらいのもので、たいがいの千葉民は心の中で泣いている(俺調べ)。

 

「じゃ、行くか」

 

「うん!」

 

短い言葉と元気な返事で、どしゃ降りの土曜日は幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

モノレールに乗り、千葉駅で降りるとパルコ直行のバスが出る。

週末だというのに俺と由比ヶ浜しか乗っていないあたり、パルコが閉店してしまうのも頷ける。

俺がパルコとの別れを惜しんでいるのとは対照的に、隣に座る由比ヶ浜は元気だった。

 

「ヒッキー、もっとテンション上げていこうよ!」

 

「いや、まだ着いてねえだろ…」

 

ちなみに本来の意味でのテンションなら上がりに上がっている。手汗とかかいてるし。正直そろそろいっぱいいっぱいです。

俺が緊張していようがしていなかろうがバスはあっさりとパルコの目の前に停車してしまう。

先にとんとんと弾むように降りた由比ヶ浜が俺を手招きしている。

 

「ほら、ヒッキーはやく!」

 

「パルコは逃げねえからそんな焦るな。死ぬぞ」

 

「なんでっ!?」

 

適当ぶっこきながらバスを降り、由比ヶ浜に続いて自動ドアを通過する。

 

「何か見たいものでもあるのか?」

 

「え?んー、…見ながら考える」

 

だろうとは思っていたので適当に頷きを返してエスカレーターに乗る。

パルコなど何度も来ているだろうに、由比ヶ浜は初めて来た場所であるかのように楽しそうにしており、時折見せる柔らかな微笑みを浮かべた横顔に思わず目を逸らしてしまう。ごめんなさい本当にいっぱいいっぱいです。

レディースファッションのエリアに着くと、由比ヶ浜は俺を引っ張って迷わずそのへんの店内に突撃し、あれやこれやと物色し始めた。

ところで眼鏡外した途端に店員さんが不審者発見みたいな顔したんだけどあれなに?ものすごく居づらいんだけど。

 

「ヒッキーヒッキー、これどう?」

 

「ああ、いいんじゃねえの」

 

「ヒッキー、これは?」

 

「いいと思うぞ」

 

「…これは?」

 

「…いいと思うぞ」

 

「同じことしか言ってないじゃん!」

 

冗談半分とはいえ、3回目にして返す言葉のバリエーションが尽きてしまい、由比ヶ浜はぷんすかと怒りながら俺の肩を叩いた。

 

「待て、冗談だ。次はちゃんとするから落ち着け」

 

じゃあ、と由比ヶ浜は近くにあったものを掴んで俺の前に持ってきた。待て、今絶対見てなかっただろ。

 

「…これは?」

 

「あー…そうだな…」

 

由比ヶ浜はじいっと俺を見つめており、視線を逸らすことすらできない。

俺にプレッシャーをかけるとは…

だめだ頭で考えるとふざける方向に行ってしまう。

とりあえず何か、と考えていると小町の買い物に付き合う時の決まり文句が浮かんだ。

 

「世界一可愛いよ」

 

って違う。これアカんやつや…「うわー、適当だなー」くらいのが返ってくるつもりで言ってしまったがこれ絶対アカんやつや…

ゆっくりと由比ヶ浜の様子を伺うと、手に持ったシャツをきゅっと握り俯いていた。

本気で怒らせたかなぁ…謝って済むレベルだったらいいなぁ…

と。割と本気で反省していたのだが。

 

「………ありがと」

 

俯いたまま、由比ヶ浜はぽしょりと呟くようにひと言だけ喋るとまたシャツをきゅっと握った。

…なんだかなぁ…余計に申し訳なくなるよなぁ…

状況を打開する策を冴えない頭で必死に模索する。

何かあるはずだ。きっと過去に何かヒントがある。記憶を辿りつつ、俺は眼鏡をくいと上げた。

……眼鏡?

ああ、あの時の約束、もう1つあったな。

俺は由比ヶ浜の持つシャツに手を伸ばした。

 

「…由比ヶ浜、それ貸してくれ」

 

ようやく顔を上げた由比ヶ浜の顔はほんのりどころかがっつり朱に染まっている。原因が俺なだけに何も言えない。

 

「え、でもヒッキーが着るにはちっちゃいよ?」

 

「俺が着るわけねえだろ。…買ってやるから、貸せ」

 

「え、でも…」

 

「この眼鏡買った時の約束だろ」

 

とんとんと眼鏡を指しながら答えると、由比ヶ浜は数秒困ったように考えながら頷いた。

 

「…試着、してもいい?」

 

「…ああ」

 

さっきまでの元気はどこに行ったのか知らないが、由比ヶ浜は俯いたままゆっくりと試着室に入っていった。

1人残された俺だがここはレディースの店である以上きょろきょろしていると通報されかねない。なのでカーテンの閉められた試着室の方を向いた。

 

「お客様」

 

背後から声をかけられて振り向くと、店員らしい女性がニコニコしながら俺を見ていた。え、なになんなの。俺何もしてないよ?

 

「はい?」

 

「お連れの方は彼女さんですか?」

 

なんて下世話な店員だよ。最近のアパレル店員はそんなサービスも提供してるの?何それ超いらねえ。

 

「いや、違いますけど…」

 

「ええっ!?」

 

「うおっ…」

 

あまりに店員が大きな声を出したせいで俺の方がびっくりした。だからなんなんだよこのサービス。いらねえよ。

 

「えっと、あのー…が、頑張ってください?」

 

なんで疑問形なんだよ。結局何のサービスだったんだよ、いらねえよ。

 

店員が離れていったのを確認して、スマホをぽちぽち触りつつ待っていると、試着室のカーテンがゆっくりと開いた。

 

「ヒッキー、ど、どう?」

 

スマホから顔を上げ、少し離れた位置にいる由比ヶ浜を確認する。

…ええまあ何といいますか、似合っているか似合っていないかで言えば間違いなく似合ってるな、うん。前言を撤回する必要は無いんじゃないかなと思いますね、ええ。

そのまま言うわけにはいかないので、適当な言葉をボキャブラリーの中から見繕う。

 

「ああ、その、なに。……よく似合ってる」

 

「そ、そっか…じゃあこれにする…」

 

由比ヶ浜は再び試着室のカーテンを閉め、着替えを始めた。さっきは全く聞こえなかったのに、布の擦れる小さな音が耳に届き、意味はないとわかりながらも試着室から身体ごと視線を逸らした。

 

着替えを終えて元の格好に戻った由比ヶ浜からシャツを預かりレジに向かう。

さっきの店員がニヤニヤしながら袋に入れているのが気になるがどうせパルコは閉店してしまうので気にしない事にした。

ようやく眼鏡のお返しを手にした俺はお釣りを受けとってショップを後にした。疲れたよぉ…レディースのショップはHPの消費が激しいよぉ…

 

 

 

その後メンズのショップにも回ったものの特に何も買わないまま、歩き疲れた俺達はパルコを出てすぐのサイゼに入った。

どうでもいいけど女の子と2人で出かけてサイゼってどうなんだろう…向かいにカフェとかあったけど女子ってああいう洒落た店の方が好きなんじゃないのかしら…

 

「どしたの?ヒッキー」

 

気づかないうちに視線が外に向いていたらしく、由比ヶ浜が同じように外を見ながら怪訝そうな顔をした。

 

「いや、ああいう店の方が良かったかと思ってな」

 

言って、前に向き直ると由比ヶ浜は目をぱちくりとして驚いた顔をしていた。

 

「ヒッキー、そんなこと考えられるんだ…」

 

「ちょっと?バカにしすぎじゃない?」

 

とは言え普段からサイゼとラーメン屋以外の店に行かないせいで知識のない俺が悪いので反論もしづらいところである。

 

「まあまあ、せっかくだしお昼食べようよ!」

 

うまいこと誤魔化されたような気もするが、3時も近くなり腹も減っていた俺は了承して由比ヶ浜がメニューを決めるのを待った。

 

 

安定のミラドリとドリンクバーを注文して、数分ほどたわいもない会話を続ける。

由比ヶ浜はようやく元気さを取り戻し、笑顔も見られるようになってきた。

やがて注文したものが届くとしばらくを食事に充て、お互いが食べ終わるとひと段落ついた。

 

「これからどうしよっか?」

 

「特に買うものはねえな」

 

気づけば帰るには早く遠出をするには遅い時間になっていた。べつにすることがないのなら帰ってもいいのだが、それはほら、なに。せっかくだし。

 

「…悪い、トイレ行ってくる」

 

「あ、うん」

 

ついでにドリンクも注いでこようと2人ぶんのカップを持って立ち上がり、カップを適当な空いているスペースに置いてからトイレに向かう。

用を足してドリンクバーのコーナーに戻り、コーヒーがちょぼちょぼとカップに注がれるのを眺める。普通はこういう時って男が何かしらの提案をするものじゃないのかしら…いや普通なんてものを俺は知らんけど。

2つめのカップを置き、コーヒーが注がれるのを待っていると、隣のジュースのゾーンでコップにジュースを注いでいる中学生くらいの女子と目が合った。亜麻色の髪をしたゆるふわ系のそいつは俺と目が合うなりおそらく数多の男子を死地に追い込んできたであろう笑みを浮かべた。うわー、あざといなぁ…見た目だけ見れば普通に美少女なんだがあれはもう可愛いを通り越して怖い。中学時代に出会わなかったのが幸いだ。

…いや、あの時はあの時で黒い歴史作ってたけどね?

 

ようやくコーヒーの注がれたカップを2つ手に持ち、席に戻る。

割と時間がかかったが由比ヶ浜はどうしているだろうか、などと考えながら、少し離れた場所からその様子を伺った。

 

「えへへ……」

 

由比ヶ浜はさっきの店の袋を大事そうに胸に抱き、俯いて頬を緩めていた。

ただの袋はまるで数億の宝石でも入っているかのように、両手で大事そうに抱えられている。

 

 

…そういやガムシロップ取ってくるの忘れてたな。スティックシュガーもついでに取ってくるか。

 

 

 

 

 

 

由比ヶ浜の提案でサイゼを出た俺達は駅に戻り、京成線のホームに立っていた。

より正確に言えば突如パセラに行くことを閃いた由比ヶ浜に引っ張られるまま歩いてきた。

もっとも、拒否したところで俺に何か提案できるわけではないからどのみち結果は変わらなかったのだろう。

10分ほど電車に揺られ、降りて少し歩けばすぐにパセラに着く。

朝よりは弱くはなったが雨はまだ降り続いており、しばらく止む気配はない。

 

「ヒッキー、ハニトー食べよう!」

 

「さっき飯食っただろ…」

 

「ほら、スイーツはべ、べ…べるばら?」

 

「別腹な。ベルばらはどう考えても世代が違うだろ」

 

「ふぇ!?…し、知ってるし…」

 

というか言う前におかしいことに気づけよ。やだ、八幡なんかもうめっちゃ心配!

スムーズに受付を済ませた由比ヶ浜に続いて部屋に入る。

やはり2人だと部屋はずいぶん広く感じる。何より、パルコやサイゼと違って他に誰もいない空間に2人きりだという事実が俺にいらぬ緊張感を与えていた。

それは由比ヶ浜も同様なのだろう。俺の向かいに座って両手をぐっと握って太ももの上に置き、落ち着かない様子できょろきょろとあちこちに視線を飛ばしている。

 

「と、とりあえず歌おっか?」

 

「お、おう……ほれ、マイク」

 

マイクを受け取ると由比ヶ浜はデンモクを操作して立ち上がった。

すぐにイントロが流れ始める。ファッションだけでなく流行りの曲にも疎い俺にはわからない曲だ。

由比ヶ浜は照れくさそうにしながら身体でリズムをとり、やがて歌い始めた。

やはり聞いたことのない歌だ。しかし部屋中に響く由比ヶ浜の歌声のせいか、いい曲だと感じた。

もっとも、歌詞はほとんど頭には入ってきていないけれど。

 

「ふぅー、緊張した…」

 

歌い終わりマイクを置いた由比ヶ浜は疲れたように息を吐いて座った。

俺は背もたれに体重をかけつつぱちぱちと短い拍手をする。歌の内容が入ってきていないとはさすがに言えないし。

 

「はい、つぎヒッキーの番」

 

「いや、俺は流行りの曲とか知らないし」

 

来るとは思っていたが由比ヶ浜が差し出したデンモクにノーを告げる。

いやほんとに知らないんだ…

 

「知ってるやつでいいから!ヒッキーだってさっきの曲知らなかったでしょ?」

 

ほう、由比ヶ浜にしてはよく考えた方だ。確かにその流れでいくと俺が由比ヶ浜の知らない曲を歌うことに問題はない。

いや問題ないじゃねえよ。アニソンとか歌うと中学の時の黒歴史が甦ってきちゃうだろ。

どうにかして歌わない方向で済ませたいが……由比ヶ浜の期待に満ちた視線のプレッシャーに負けた俺は諦めてできるだけメジャーなアニソンを入れた。

立つのはさすがに恥ずかしい。座ったまま、イントロを聞きつつマイクのスイッチを入れた。

 

 

 

歌い終わるとなかなかの量の手汗と強烈な疲労感が俺を襲った。

おっかしいなぁ…カラオケって人の魂を削るような場所じゃないはずなんだけど…

 

「ヒッキー以外とうまいじゃん」

 

「そりゃそうだ。なんたって俺は風呂場でよく練習しては小町に怒られてるからな」

 

「怒られてるんだ…」

 

ええ、それも結構マジなトーンで。

ともかく1曲ずつ歌ったところでいきなり休憩タイムに入った。

人の前で歌うというのは想像以上に体力を消耗する。

由比ヶ浜も同じらしく、お団子をくしくしといじりながら座ったままで、曲を入れる様子はない。

 

「は、ハニトーまだかな?」

 

「お、おう…そうだな…」

 

密室に2人という状況は慣れるどころか更に緊張感を増していた。

それだけでなく今日も、以前も色々と気まずくなりかねないことに思い当たりが…ありすぎてどれが原因かわからない。

 

ハニトーが来たのはそれから数分経ってからだった。

甘いもの好きな俺とてパセラに1人で来ることはなく、見るのは初めてなのだが、これは甘党の心をくすぐる。

由比ヶ浜も目を輝かせて今にもかぶりつきそうな様子だ。餌を前に待てをされている犬に近い。

 

「由比ヶ浜、先に食っていいぞ」

 

あまりにも嬉しそうだったので先に取らせてやろうと声をかけると、由比ヶ浜はちょっと待ってと言いながらバッグをゴソゴソ漁り、携帯を取り出した。

 

「ヒッキー!写真!撮る!」

 

「お、おう…なんか片言になってない?」

 

オレ、オマエ、クウみたいになってたぞ今…

ともかく写真を撮るらしいので俺は立ち上がって少し距離をとった。

 

「何してんのヒッキー、こっちこっち」

 

「は?いや写真撮るんだろ?」

 

「2人で撮るの!」

 

「いやなんで、おい、ちょっ…」

 

由比ヶ浜は俺を引っ張って座らせると、自分もその隣に座った。

そして携帯を構えるとポーズを作り、シャッター音がする。

 

「ヒッキー顔引き攣りすぎだから…」

 

「いやほら、急だったしね?」

 

「も、もういっかい!」

 

これ、由比ヶ浜が満足するまで終わらないんじゃないの?

それ多分今日中には終わらないよ?

再度、シャッター音がする。

 

「もー、なんでちょっと距離とるの!」

 

「いや、あれだ。……」

 

「言い訳思いついてないじゃん!うー…もうこれで終わりでいいから、もっかい!」

 

そう言うと、由比ヶ浜は俺を自分の方へ引っ張り、自らも俺の方へと距離を詰めた。

当然2人の距離は一気に詰まり、やがてゼロになる。

俺の肩のあたりで満面の笑みを浮かべる由比ヶ浜は、ほんのすこしだけ頭を俺に預けると、シャッターを押した。

 

「うん、いい写真!ほら!」

 

言いながら差し出された携帯には笑顔の由比ヶ浜と、まあまあ笑顔の俺が写っていた。

いや、まあ確かに悪い写真ではないけど八幡的にけっこう恥ずかしいといいますか何といいますか。

 

「つーか、ハニトー写ってないけどいいのか?」

 

「えっ?…あ…きょ、今日はいいよ!うん、今日は、いい…」

 

「…そうか」

 

まあ、ハニトーが写ってないと困るわけでもないし、今日はもういいだろう。

切り分けたハニトーのアイスクリームの部分をすくって口に運ぶ。

…ちょっと溶けてんじゃねえか。

けれど、アイスクリームの冷たさは火照った顔を冷ますのに丁度いい。

俺は黙ったまま、自分の分のハニトーを口へと運んだ。

 

 

 

 

 

 

その後少しだけ歌って、夕方になったところでパセラを出た。

まだ少しだけ雨は降っているが傘があれば問題ないだろう。

俺は傘立てから自分の傘を抜き、由比ヶ浜を待つ。

しかしその由比ヶ浜が傘立てをじっくり見たまま動かない。

 

「おい、どうかしたか?」

 

「うーん…傘、盗まれたみたい」

 

そのパターンか。傘と自転車はしょっちゅう盗まれるからなぁ…俺もよく盗まれた。教科書とか上履きとか。

傘くらいならコンビニに行けばあるが、以外とビニール傘は高い。

…まあ、濡れるもんな。

 

「…入るか」

 

自分の傘を軽く上げて情けないほど小さい声で呟くと、由比ヶ浜は驚いた顔を見せる。幸い、そこに嫌悪とか憎悪の色は無かった。憎悪なんてあったら超怖いんだけど。

 

「…うん、ありがと」

 

遠慮がちに俺の傘に入った由比ヶ浜と駅までの短い距離を歩き、電車に乗り、やがて昼に待ち合わせた場所まで戻ってきた。

その間俺は特に何も喋らず、由比ヶ浜もレジ袋を大事そうに抱いたまま何も喋らなかった。

夕方という短い時間は、不思議な寂寥感を覚える。

今日が割と賑やかだっただけにそれはいつもより少し強い。

そんな時間がしばらく続き、また傘に2人で入って歩き始めて数分。先に口を開いたのは由比ヶ浜だった。

 

「ね、ヒッキー」

 

「なんだ?」

 

同じ傘に入っているせいで2人の距離は近く、肩と肩が何度もぶつかる。

そんな状況で背の低い由比ヶ浜が俺の顔を見上げればいわゆる上目遣いになるわけで、俺は視線を前に向け直した。

 

「前のあれ、ありがと」

 

どん時のどれだよ。

というのは冗談で、おそらく相模とその取り巻きに何やら言われていた時のことだろう。

 

「ああ、まあ…気にすんな。別にお前だと知っ……」

 

無造作に返事をしかけて途中で口を閉じた。

ああ違う。俺は由比ヶ浜だと知らずにああしたわけじゃない。

追い詰められているのが由比ヶ浜だと知っていて、由比ヶ浜だからこその行動だったはずだ。

ならば、これは返事として間違っているだろう。

だから、きちんと言うべきことを言わなければならない。

 

「…ヒッキー?」

 

突然黙った俺を不思議に思ったのだろう。

由比ヶ浜が俺を見上げた。

 

「いや、大丈夫だ。元気そうだし、安心した」

 

絞り出した言葉はやはり情けないほど小さい声しか出なかった。

けれど、近すぎるくらいの距離が幸いして、由比ヶ浜の耳には届いたらしい。

 

「う、うん……もう平気、だよ?」

 

「…そうか」

 

「…うん」

 

それきり、言葉が交わされることはなく、由比ヶ浜の住むマンションが近づいてきた。

知らず、足取りが遅くなっていく自分に気づく。

隣を歩く由比ヶ浜もまた、俯いてゆっくりと歩き、足元に落ちていた石ころをこつんと蹴った。

しかしマンションまではそう遠くない。すぐに入り口付近まで着き、由比ヶ浜は傘を出て、俺と向き合った。

 

「ヒッキー、今日はありがと」

 

「…おう」

 

由比ヶ浜は手を後ろで組んでもの言いたげな表情をする。

俺が視線でその先を促すと、どこかぎこちない口調で、小さな声で呟いた。

 

「……また、誘っても、いい…?」

 

ぎこちないけれど、声は小さいけれど、その顔に迷いはなく、ただ俺をまっすぐに見ている。

…ほんと、呆れてしまう。

由比ヶ浜にでなく、俺に。

手を伸ばすなんて決意をしておいてこの体たらくだ。結局いつも由比ヶ浜に引っ張ってもらってばかりで。それが心地良くて、つい甘えてしまう。

いつか、そのうちなんて先延ばしにしていたら俺はたぶんいつまで経ってもこのままだ。

 

「…ああ。どうせ暇だし、なんだ。……たぶん、俺から連絡する可能性も微粒子レベルで存在するっつーか…」

 

…ほんと、呆れてしまう。

この口はこんな言い方しかできないのかと。

俺自身がこんなに呆れてしまっているのだ、由比ヶ浜はきっとドン引きだろう。

 

 

「…うん!約束ね!」

 

それなのに、由比ヶ浜は今日1番の笑顔を浮かべると、俺に背を向けてマンションの中へと歩いていく。

そして、自動ドアの前で振り返ると、胸の前で小さく手を振った。

 

「ばいばい、ヒッキー」

 

それだけ言うとぱたぱたと早足で歩き始め、すぐに由比ヶ浜の姿は見えなくなる。

俺も帰ろうかと来た道を振り返った。

ふと、空を見上げると既に雨が止んでいることに気づく。俺は傘をたたみ、くるくると回しながら空をぐるりと見回す。

朝方の雨が嘘のように、雲の切れ間からは夕日が差し込んでおり、来た道を無駄に幻想的に照らしている。

今日はずいぶんと妙な汗をかいた気がする。

夕涼みがてらある程度の距離を歩いて帰ろう。

 

俺はマンションを背に、ゆっくりと足を前に進めた。

 

 

 



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そして、由比ヶ浜結衣は。

全ての問題の答えを写し終えて、問題集を閉じる。

夏休み。総武は進学校ではあるが、夏期講習を受けるものへの配慮なのか、課題はそう多くない。小学生と違ってほっといても勉強する奴はするからわざわざたっぷり課題を出す必要が無いのだろう。

俺も進学校の一員という自覚を持ち、たった今数学の課題を全問正解で終了させたところだ。中間試験9点はダテじゃない。

とにもかくにも、夏休みである。

1学期はおそらく俺の人生で最も充実した時間だったと言えるだろう。

あれから、戸塚の誕生日を祝い、由比ヶ浜の誕生日を祝い、それなりの成績を残し(文系科目限定で)、夏休みを向かえ、課題に手をつけ2日で終わらせた。

そして残りの期間の全ては徹底的に堕落しようというわけである。

大人になればこんなまとまった休みなどない。

俺の両親を見ればわかる。盆と正月が一緒に来たところでどっちも仕事だから何も嬉しくない。むしろ同時に来ると仕事量が倍になってよけい忙しくなるだけだ。やっぱ社会ってクソだわ。

そんなわけで、俺は朝からリビングのソファにてゴロゴロダラダラしている。

小町の飯を食い、ダラダラして小町の飯を食い、ゴロゴロして小町の飯を食う。ありがとう夏休み。愛してる。

ところで、現在、比企谷家にはカマクラ以外にも動物がいる。

それはさっきから俺に服従の姿勢を見せている犬っころ、サブレである。

というのも、由比ヶ浜家が家族で旅行に行くということらしいのだが、さすがにサブレは連れて行けず、やたら懐いている俺に白羽の矢が立ったというわけだ。

カマクラと喧嘩しはしないかと思っていたが特に問題なく過ごしており、今日あと数時間もすれば由比ヶ浜が来る予定になっている。

あと数時間、サブレと遊んでやるか。何故か超俺に懐いてるし。本当になんでなんだろう。

 

「サブレ」

 

ひと声呼べばバッ、と立ち上がり俺を見上げるサブレ。餌が貰えるか遊んで貰えるか楽しみにしているような顔に見える。尻尾とか超振ってるし。

ふと、俺を見上げ期待するようなその顔が、飼い主である由比ヶ浜の顔と重なる。

…まぁ、犬は飼い主に似るっていうしな。サブレが由比ヶ浜に懐いているのかは別にして多少の影響は受けているのだろう。

 

「……お手」

 

右手をサブレの顔の前に持っていくと、ぽんと前足が置かれる。こいつ俺に懐き過ぎだろ。事故以来会ってなかったはずなんだけど。

よくできました的な意味を込めて空いている方の手で優しく頭を撫でてやる。

サブレは片目を閉じて尻尾を激しく振り、撫でられるままになっていた。

その様が、照れ笑いをする由比ヶ浜の姿に重なり……俺何言ってるんだろう。これは病気かな?病気だな。

サブレから手を離し、ソファに座り直す。

しばらくのんびりと俺から離れる様子を見せないサブレを眺めていると携帯が震えた。メールが来たらしい。

開いてみればAmazonからだったため読まずに消去し、ホーム画面に戻る。

俺は高校に入るまでは携帯は暇つぶし機能付き目覚まし時計として扱っていた。その名残でけっこうな数のアプリがインストールされているのだが、今日はふと写真が保存されているアプリに目を留めた。

アプリを開けば、40枚ほどの画像が表示される。内訳としては由比ヶ浜と、戸塚、それぞれの誕生日に由比ヶ浜が撮った写真が合計30ちょっと。7つは戸塚とラーメンを食った時のものである。

そして、残りのうちの1枚。

土砂降りの土曜日にパセラで撮った、由比ヶ浜と2人の写真。

距離はゼロ、驚く俺と笑顔の由比ヶ浜が写っている。

よく考えなくても女子とのツーショットなど今まで一度もなかった。クラスで撮る写真で女子と隣になれば間に1人入れるんじゃねえのってくらい距離を開けられ、フォークダンスでは手を握ることを拒否られ、文化祭の作業の写真を撮るときには同じ写真に映ることも拒否られた。泣きたい。

しかしこの写真の由比ヶ浜は俺の肩に軽く頭を傾けて、眩しいほどの笑顔を見せている。

それが、たまらなく嬉しい。

俺といてここまで笑顔になってくれる人など居なかったから。からかって大爆笑する奴はいたけど。

 

とくり、と心臓の音が頭に響く。

もう何度も考えようとしては無理やり押さえつけてきた思考。

人は、何にでも名前をつけたがる。

それは心に対しても適用され、愛だ、恋だ、好きだ嫌いだとラベリングしたがる。

けれど、一度名前をつけてしまえばもう元には戻れない。確定したものの名前は消えない。例え上書きしても、痕跡が完全に消えることはない。

だからこそ、俺は。

 

 

「およ、ツーショット?結衣さん可愛いなぁ…ね、お兄ちゃん!」

 

「うぉい!?」

 

思考は突然の小町によって停止した。

俺との見た目の唯一の共通点であるアホ毛をぷらぷらさせながらソファを飛び越えた小町は俺の隣に座り、開きっぱなしにしていた携帯の写真をまじまじと見つめている。

恥ずかしいので閉じようとするものの小町の両手がそれを許さない。なんで女子っていらんところで馬鹿力発揮するのん?もっとピンチの時にとっとけばいいんじゃないの?

 

「いやー、1人でファッションショーしてたお兄ちゃんを見た時は小町育て方間違えたかと思ったもんだよ…」

 

「お前に育てられた覚えはない。つーか見てたのかよ…」

 

ええ…超恥ずかしいじゃん…

というかやめて!見てたとしても言わないで!

 

「ドア全開だったのに気づかないお兄ちゃんが悪いんだよ。それで?」

 

「あ?」

 

小町は珍しく、本当に珍しく真面目な様子だ。

だいたい小町がこんな顔をするのは怒る時と相場が決まっているのだが、今日は怒られるようなことはしていないはずだ。

ならば、考えられるのはふざけて誤魔化すのは禁止、といったところだろうか。

 

「結衣さんのこと、どう思ってるの?」

 

「直球だな…」

 

直球すぎて受け止めるのに少々苦労したものの、さっきまでの俺を見られた時点でその手の質問が来ることはわかっていたのでなんとか平静を装う。

返答に困り、適当な言葉で応戦しようとしたが、小町は俺の妹だ。ヘタな誤魔化しも、嘘もすぐにバレる。

つまりここは正直に答えない限り終わらない。

 

「…まぁ、よくわからんっていうのが正直なところだな」

 

「そっか…ならしょうがないね」

 

何がしょうがないのかはよくわからないが、嘘はついていないことがわかったらしく小町は俺の顔を見るのをやめた。

そして携帯を俺に返すと、こてんと俺の右肩にもたれかかった。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

 

「…なんだ?」

 

「小町はお兄ちゃんに幸せになってほしいと思ってるよ?」

 

「…そりゃありがとよ」

 

言うまでもなく、俺も小町には幸せになってほしいと思っている。いや、シスコン的な考えはないよ?

 

「だからお兄ちゃんが困ってたら話は聞いたげる。お兄ちゃんじゃどうせどうにもならないし?」

 

「否定できねぇ…」

 

「ま、最悪どうしてもダメだったら小町が面倒見てあげるよ。あ、今の小町的にポイント高い!」

 

「そのひと言が無けりゃなぁ…」

 

千葉の兄妹は今日も仲が良い。

直接的な言葉にしなくとも、なんだか分かり合えているような気がする。

まぁ、分かり合えているようでそうじゃなかったりもするのだが、その時はその時ということで。

 

会話を終え、お昼作るねーと言いながら小町はキッチンへ向かった。

リビングに残された俺は、小町の言葉を思い出しながら、どんなに撫でてもくすぐったそうにしながらも抵抗しないサブレを撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

玄関のチャイムが来客を告げる。

俺は一度サブレを床におろし、玄関に向かいドアを開けた。

すると、ドアが完全に開く前に、目の前にものすごい勢いで箱が突き出された。

 

「こ、これっ!お、お土産っ!」

 

「いや待て早い、早いから」

 

危なく目をやられるところだったがなんとかかわしてその箱を受け取る。

改めて視線を前にやるとそこには見覚えのある服を着た由比ヶ浜が立っていた。

 

「えっと…ひ、久しぶりだね、ヒッキー」

 

「お、おう……その服、着てくれてんだな」

 

それは以前出かけた時に眼鏡の礼としてプレゼントしたものだ。

別に俺が選んだわけではないし、なんなら適当にとったものだから由比ヶ浜も選んでいないのだが、私服として、しかも旅行に行くのに着てくれたというのは八幡的にポイント高い。

というか適当に選んだくせにやたら似合っているから目のやりどころに困る。

 

「う、うん…せっかくだし」

 

「…そうか」

 

どうもうまく会話することが出来ず、それきり無言になってしまう。そう言えば何しに来たんだったか。

…ああそうだ、サブレだ。

 

「サブレ、連れてくるわ。暑いだろうし中入っててくれ」

 

初対面の日以来の比企谷家というせいなのか緊張ぎみの由比ヶ浜を残し俺はリビングに戻り、すぐさま駆けてきたサブレを抱えて玄関に向かう。

 

「わ、サブレ超ヒッキーに懐いてる…」

 

「え、こいついつもこんな感じじゃねえの?」

 

「あたしがそんなふうに抱っこしても暴れるよ?」

 

いやそれお前あんまり懐かれてないしむしろ舐められてるんじゃないですかねぇ…

とはいえ俺もカマクラには舐められてるので人のことは言えない。

サブレを由比ヶ浜に渡そうとすると大人しかったサブレはバタバタと抵抗した。

 

「うぅ…ヒッキーに抱っこされるときはあんなに大人しいのに…」

 

由比ヶ浜は割と本気でショックを受けていた。

フォローしてやろうかと思ったがサブレの様子を見るに不可能なので無理矢理話題を変える。

 

「まぁ、餌もしっかり食ってたし散歩もしたし大丈夫だと思うぞ」

 

「みたいだね、ありがと」

 

「……」

 

「……」

 

…どうにも、明らかに何かしらの用事とか、しなければいけない話がある時は普通に話せるのだが、それが終わってしまうと何も話せない。

無理もない、元々ぼっちの俺と、ぼっちとまでは言わないにしても周りに合わせていた由比ヶ浜だ。この沈黙は必然と言える。

先にその沈黙を破ったのは由比ヶ浜だった。

 

「あ、あのさヒッキー」

 

「どうした?」

 

「えっとー…また、勉強会しない?ゆきのんとさいちゃんにもお土産、買ってきたし」

 

「俺は大丈夫だけど、あいつらの予定聞いてるのか?」

 

「んー…後で聞いとくよ」

 

「そうか。まぁ、また適当に連絡くれ」

 

「うん!」

 

 

車で親が待っているという由比ヶ浜はそろそろかえるらしい。

俺はサブレをケージに入れて由比ヶ浜に渡し、玄関先まで見送る。

 

「じゃあヒッキー、またね!」

 

「おお」

 

名残惜しそうに鳴きながら俺を見るサブレと、楽しそうに笑う由比ヶ浜が見えなくなってから、俺は家の中に入った。

外まで行こうとしたものの、男の友達がいるとパパがめんどいという理由で中途半端な見送りになった。まぁいいんだけど。

俺にやたら懐いていたせいか、サブレがいなくなった家は妙に広い。ひゃんひゃん鳴く声も聞こえなければリビングに入るなり俺に駆け寄る姿もない。カマクラが面倒くさそうにちらっと見るだけだ。

仕方ない、ちょっと散歩にでも行くか。サブレもういないけど。

そういえば猫は散歩とかしないよな、などと思いながらカマクラを見ると、舐めきった顔で面倒くさそうに鳴くだけだった。

 

 

 

 

適当に連絡くれと言ってから24時間も経っていない、翌日の昼過ぎ。

俺はサイゼの前にいた。

部活帰りの戸塚と体力の無いせいなのかサイゼに来る段階で暑さにやられたのか疲労困憊の雪ノ下も既に来ているらしい。

まさか翌日とはなぁ…圧倒的なスピードだなぁ…

とはいえ別に嫌なわけではないので階段を上がり、サイゼのドアを開けた。

すぐに奥の方に3人の姿を見つけ、空いていた戸塚の横に座る。

 

「八幡、久しぶりだね!」

 

「おう」

 

「こんにちは、比企谷くん」

 

「よう」

 

「ヒッキー昨日ぶり!」

 

「おう」

 

3人合計で6文字という省エネな返事をしてバッグをおろす。

勉強会とはいうものの誰もノートを広げている様子はない。授業のない夏休みだから無理もないが。

俺の到着を待ってからの注文にしたらしく、全員が注文をし、小一時間ほど食事をしたり由比ヶ浜がお土産を渡したりといった時間を過ごした。

いつもなら、この後すぐに勉強が始まるのだが、今日は長期休み中で緩んでいるためか雪ノ下でさえ勉強を始める様子はない。

かくいう俺もコーヒーを呷るだけであまり勉強をする気にはなっていなかった。

 

「旅行かぁ、いいなぁ…八幡と雪ノ下さんは夏休みどうしてるの?」

 

「ダラダラしてるな」

 

「読書をしていることが多いかしら」

 

そう言うと雪ノ下は勝ち誇ったような顔を見せた。

いやいや、本を読んでるか読んでないかの違いであってカテゴリで言えば君も引きこもりだからね?

 

高校生の夏休みは存外暇だ。

学生の本分は勉強だなどと言っても、高校1年の夏から毎日毎日勉強漬けなんていう現代の二宮金次郎はそういないだろう。

そして俺達4人は極端に交友関係が狭い。

引きこもりになるのも仕方ないのだ。

そんな益体のないことをどのくらい話した頃だろうか、由比ヶ浜が新たな話題を提供した。

 

「皆は残りの夏休み予定ある?」

 

当然無い。隣、そして前を見ると全員が首を横に振った。なんて残念な集まりだ。

とは思わない。

家にいてクーラーをつけていれば熱中症の心配は無いし、クラゲの被害も関係無い。渋滞のニュース見て「大変ねぇ」とか言ってればいいのだ。

 

「じゃ、じゃあさ…」

 

遠慮がちに由比ヶ浜が話を続ける。

ちらちらと俺を伺っているのが気になるが、安心しろ、ちゃんと聞いてる。

 

「花火大会、行かない?」

 

花火大会。小学生の頃家族で行ったきりのイベントだ。日本の夏の風物詩であり、一般的なリア充が毎年楽しみにしている。

由比ヶ浜はそれに行こうと言う。

祭りや花火と聞いて血が騒ぐのは日本人の、男の本能だろうか。まぁ、どうせ予定のない俺は特に断る理由もないだろう。

 

「まぁ、俺は大丈夫だ」

 

「う、うん!行こうっ!」

 

由比ヶ浜はほっと息を吐き、安心したように笑った。

戸塚と雪ノ下はどうなのだろうかと2人の様子を見るとどちらも問題はないらしい。

雪ノ下はしばらく考えるような仕草を見せたのち、「空けておくわ」と呟いた。

アイコンタクトで頷き合っていたのが気にはなるのだが、以外とこの2人は仲が良いんだろうな。見た目はどっちも美少女だし。

こうして、俺は人生で初めて、家族以外の人間と花火大会に行くことが決まった。

 

 

 

 

結局、勉強はしなかった。

サイゼを出て、今日は男同士、女同士のペアで解散する。雪ノ下の家に由比ヶ浜が泊まる時はだいたいこのパターンになる。

 

「じゃ、またな」

 

「ええ、また」

 

「また連絡するね!」

 

「じゃあね、2人とも」

 

別れの挨拶を交わし、戸塚と2人歩く。

こうして歩くのは久しぶりだ。しかし戸塚はテニスやってるとは思えないほどの肌の白さだ。

…そういえばいつからだろうか、戸塚を普通に男として見るようになったのは。

 

「八幡、どうかした?」

 

「いや、なんでもない」

 

まだまだ空は明るく、しばらく陽が落ちる気配はない。

ゆっくり歩いていると、戸塚がにっこりと笑いながら口を開く。

 

「八幡、花火大会楽しみだね!ぼく、友達と言ったことないから…」

 

「そうだな。俺も初めてだ」

 

「…ねえ、八幡?」

 

戸塚はラケットを握る手に力を入れて俺の顔を見る。

驚いて思わず顔を逸らしてしまったが、どうにか言葉を絞り出した。

 

「…なんだ?」

 

「もっと、かっこよくなってみない?」

 

「……は?」

 

 

 

 

 

2日後。俺は小町と共に駅前にいた。

おそらくもうすぐ戸塚がやってくるだろう。

戸塚の言ったもっとかっこよくなろうというのはつまり服を買いに行こうということらしい。

そして前日の夜、小町がお兄ちゃんと友達になろうなんて珍しい人と会ってみたいと言うので戸塚に聞いてみるとぼくも会ってみたいということで2人で集合場所に来ている。

 

「お兄ちゃん、戸塚さんってどんな人?」

 

「あー、そうだな…とりあえず男だ」

 

先に言ったところで初見だと信じてもらえないかもしれないが、戸塚は男だ。いや、別にちょっと残念がってなんかないよ?

小町と2人ぼんやりと立っていると待ち合わせの時間の2分前になった。

そろそろかと思っていると、案の定私服姿の戸塚がこちらに走ってくるのが見えた。

 

「はちまーん!」

 

戸塚は俺に気づくと大きく手を振りながら走ってきた。

俺は片手を上げて応えると小町に呟く。

 

「あれが戸塚だ」

 

「いやいや、あれは女の子でしょ…」

 

それが男なんだよなぁ…女だったら俺もあんなに普通に接していない。

俺達に合流した戸塚は呼吸を整えると軽く微笑んだ。

 

「どうも、妹の小町です!兄がお世話になってます!」

 

「あ、君が小町ちゃん?ぼく、戸塚彩加。よろしくね」

 

戸塚と小町がひと通りの挨拶を済ませると、3人で電車に乗る。

どこに行くかは任せてあるから知らないが、上りに乗ったということはららぽだろうか。

今日は天気も良く、車内は多少混雑している。

座ることを諦めて反対側のドアの前に立つことにして、戸塚と小町の一見ガールズトークにしか見えない会話を眺めることにした。

 

南船橋で電車を降りた。

ということはららぽで間違いないだろう。

軽い足取りで俺の前を歩く戸塚と小町はどうやら意気投合したらしく、仲良さげだ。

時折「あとは八幡が…」とか、「ほんとあの兄は…」とか聞こえてくるが、そこだけ聞こえても何もわからない。ていうか小町ちゃん?何お兄ちゃんの目の前で人にお兄ちゃんの悪口言っちゃってんの?さすがに傷つくよ?

歩くこと数分、久しぶりのららぽーとに到着した。

 

「行こっか、八幡」

 

「ああ」

 

3人でやってきたのは、とあるメンズのショップだった。

俺は自分の服を自分で選ぶという習慣が無いためよくわからないのだが、どうやら普通の男子なら知ってて当然な店らしい。

いいじゃない普通じゃなくたって。英語で言ったらスペシャルだろ?なんか特別な存在みたいだろ。

 

店に入るなり、戸塚と小町はあれやこれやと持ってきては俺を鏡の前に立たせ、合わせては盛り上がっていた。君たち人の服買うのによくそこまで盛り上がれるね、凄いです。

本人の俺は適当にハンガーを取ってはまた元の場所に戻すという、服を選ぶふりに興じていた。

 

「戸塚さーん、これとかどうですか?」

 

「あ、それかっこいいね!はちまーん!」

 

「…はいよ」

 

まぁ、2人が楽しそうだから別にいいんだけど。

俺はしばらくの間、着せかせ人形の気持ちをなんとなく理解しながら、両隣から次々と出てくる服を合わせる時間を過ごした。

 

 

ようやく決まったらしい服を持たされ、半ば連行されるように試着室に放り込まれた俺は着替えを済ませ、眼鏡をかけて、カーテンを開く前に鏡を見た。

そこに立つのはいつもの俺だ。特別かっこいいとは思えない。

というか、何故いきなりかっこよくなろうなんて展開になったんだろう。

まあいい。とりあえず外から急かす声がするしカーテンを開けよう。

 

「おお、お兄ちゃんいいじゃん!」

 

「うん、似合ってるよ八幡!」

 

鏡で見る自分と他人が見る自分は違うと言う。

ならばたぶんここでは戸塚と小町が正しいのだろう。

 

「…そうか」

 

「あ、お兄ちゃんお金なら心配いらないよ?」

 

「え?お兄ちゃんさすがに妹に出してもらうつもりはないんだけど…」

 

「小町だってお兄ちゃんの服なんか買いたくないよ。お母さんに言って貰ってるだけ」

 

まさかのスポンサー母親…どんな言い方したら上から下までコーディネートできる額の金が貰えるんだよ。貰えるもんなら貰っとくけど。

 

結局全額母親の提供で服を買い、軽く飯を食ってその日は解散になった。

何故か別れ際に戸塚が「八幡、頑張ってね!」と言っていたが、一体何を頑張れと…

ともあれ、それから後には何の予定も入ることなく、夏休みは順調に消化されていった。

 

 

 

 

 

 

千葉市民花火大会は、数年前にその会場をポートタワーから幕張海浜公園に移し、名前も幕張ビーチ花火フェスタというファッショナブルなものに改められた。

したがって、今まで千葉みなとに向かっていたところを海浜幕張に行くことになる。

毎年8月の第一土曜日は千葉における三大リア充の祭典の1つと決まっており、中学以降俺とは縁がなかったのだが、赤信号、皆で渡れば怖くない的な流れで今年は4人で行くことになっている。ちなみに残りの2つはポートタワーのクリスマスイルミネーションと、ディスティニーのクリスマスイルミネーションだ。イルミネーションばっかりじゃねえか。

赤信号を皆で渡ると事故って死者が増えるだけだと思うんだけどなぁ…

 

そして今日がその当日。小町がカレンダーにマーキングをしていたその日がやってきた。

待ち合わせは稲毛海岸に5時。今はまだ昼の1時だからずいぶん時間がある。

俺は寝間着のまま、ダラダラと朽ち果てていた。

中途半端に時間が空くと妙にそわそわしてしまって落ち着かない。3時間ちょっとあればラノベの1冊くらいは読めるのだろうが、あいにく今はまだ読んでない本がない。

外は雲ひとつない晴れ。絶好の花火日和と言えるだろう。

俺は昼寝をして時間を潰すことにした。

 

 

次に時計を見たのは4時前だった。

そろそろ準備をするかと顔を洗って部屋に戻り、この前買った服に袖を通す。

小町は友達と行くのだろう、浴衣の着付けをしてもらうから先に出るというメールが来ていた。

ゆっくりと準備を終えて、家を出る。

駅までの道のりを歩いていると、浴衣を着た女性やそんな女性を見つめるモテない男子が大勢目に入った。ああそれそれ、そういうところがモテない原因なんじゃねえの?俺もモテないからよくわかる。

電車の中にも家族連れ、カップル、友達同士の集まりの集団が大勢いて、花火大会に行く予定もないただ乗ってるだけの大学生が気の毒でならない。

まともに身動きもとれない電車に乗ったまま、数分。数駅過ぎて電車は目的の駅に停車する。

すでに海浜幕張は過ぎており、比較的のんびりと降りることができたのだが、今からまたあれに乗るのか…乗車率120パーセントくらいなんじゃねえの、あれ?

おっかねぇおっかねぇと思いながら電車に背を向け、改札まで歩いて行った。

待ち合わせ時間までは10分ほどある。

周囲を見渡してみるがまだ誰も来ていない。

俺は浴衣や甚平を着た男女の間をすり抜けるようにコンコースの柱に寄りかかった。

この日を待ちわびたとばかりに浮かれた様子で改札を抜けていく人たちを眺めていると、こちらに歩いてくる戸塚を見つけた。

甚平などは着ておらず、人の間をするすると通って俺の前までやってきた。

 

「八幡、早いね」

 

「まぁ、俺の家ちょっと遠いからな」

 

早く来た答えにはなっていないのだが、まあいいだろう。後は女子2人を待つだけだ。

戸塚は俺の横に立ち、俺同様に改札を抜ける人々を眺めている。

蘇我に行きたいのに流されて上り方面に連れて行かれるおっさんが目に入るが、おもしろいので放っておくことした。

そんなことをしていると待ち合わせの時間を1分ほどオーバーしていた。

花火そのものは7時半からだし少々の遅刻は気にならない。俺もよく学校を1時間単位で遅刻してるし。

部活が終わってから出かけたのだろう、見覚えのある顔がいくつか俺と戸塚の前を通っていく。

 

「あっ、来たよ!」

 

少し離れた場所を指さす戸塚につられて前を見ると、浴衣姿の雪ノ下と由比ヶ浜が歩いてきていた。

雪ノ下は慣れた様子だが、由比ヶ浜は慣れない下駄のせいか足元がおぼつかない。今日はアップにした髪が不安定に揺れている。

 

「ごめんなさい、少し着付けに手間取ってしまって」

 

「1分ちょいくらい気にすんな。じゃ、行くか」

 

「ええ」

 

無事に集合し、エスカレーターに乗ってホームへ上がる。その途中、戸塚が俺の袖をくいっと引っ張った。

振り向くと、自分の服を指差した後、由比ヶ浜を指差した。

…ああ、なるほど。さすが戸塚は細かいところに気が回る。というか女心がわかってらっしゃる。

ホームに着くと、比較的人の少ない場所を選び、並んだ。隣に由比ヶ浜、後ろに戸塚と雪ノ下が並んでいる。なぜ2人とも俺をじっと見てるんだろう。

ともかく、改めて由比ヶ浜の着ている浴衣を見る。

雪ノ下が選んだのだろうか、薄桃色の浴衣はところどころに小さく花が咲いている。

普段と違う髪型、そして浴衣を着た由比ヶ浜は、いくらか大人びて見えた。

 

「由比ヶ浜」

 

「ん、なに?」

 

「あー、その…」

 

頬をかきながら言うべき言葉を探すものの何も出てこない。

落ち着け俺。こういう時は見たままの感想を言えばいいだけだ。

 

「その浴衣、…似合ってる、と思う…」

 

「あ、ああありがと」

 

お互い視線を泳がせつつの会話は端から見ればずいぶん滑稽だっただろう。

訪れた沈黙に困っていると、幸いなことにすぐに電車がやってきた。

 

当然、車内は混雑していた。

たった2駅、5、6分程度のはずだがずいぶん長く感じる。

さらに、ただでさえ人でごった返しているのに次の駅でさらに乗車率は上がった。

後ろからの人波に押されるように、戸塚と雪ノ下がこちらに距離を詰め、バランスを崩した由比ヶ浜がよろけた。下駄ということもあり踏ん張りがきかなかったのだろう。転倒しかけた由比ヶ浜を両手で支えた。

 

「ありがと、ヒッキ…うわっ!」

 

支えたまでは良かったのだが、何も掴まないまま発車したため、由比ヶ浜は支えている俺の胸のあたりに思いっきり飛びこんでしまった。

体勢を立て直そうにも混みすぎていて動けそうにない。海浜幕張までの3分はこのままになりそうだ。

 

「ご、ごめんヒッキー…」

 

「まぁ、混んでるしな…」

 

思わぬ事態に動揺を隠しきれない。

由比ヶ浜が俺に抱きつくような形になっているせいで体の密着度が…って近い近い。いいから、顔上げなくていいから。

俺が並の男子だったら何これ運命?とか言ってるところだが、これはそんなものじゃない。

より正確に言えば、そうでも言ってないと勘違いしそうでいっぱいいっぱいです。

ようやく駅に着き、ある程度人がはけるのを待ってから外に出た。

まだ会場に着いてもいないのだが、既に俺のライフはゼロに近い。

先に歩き始めていた戸塚と雪ノ下を追うように俺と由比ヶ浜は改札へ向かった。

 

花火が始まるのは19時半。俺達が会場に着いたのは6時前だった。

こうなるとしばらくはすることがなく、当然視線は屋台へと向かう。

広場を見やれば多くの店が軒を連ね、定番の焼きそばやかき氷の店などは特に大盛況だった。

何もこんなところで買わなくても食べられるし、特別美味しいというわけでもないのにこの盛況ぶり、まだまだ日本人は日本人の心を忘れていないと言える。

由比ヶ浜も目を輝かせて俺の袖をくいくいと引く。

 

「ヒッキー、何から食べる?りんご飴?りんご飴かな?」

 

「あー…買いに行くか?」

 

「うん!ヒッキーにも半分あげる!」

 

「いらんわ…」

 

飴の半分こってなんだよ。聞いたことねえよ。

やるならせめて半分にしてから食ってくれ。

一方、戸塚と雪ノ下もこの独特の雰囲気を楽しんでいた。

 

「わぁ、久しぶりだなぁ…」

 

「人混みはあまり好きではないけれど、たまにはこういうのもいいわね」

 

ここにいる全員が祭りや花火大会などと縁のない人生を送ってきたこともあり、俺を除く全員がいつもよりテンションが高めになっていた。

そして楽しげに広場を見つめる2人が俺に視線を向ける。

その目が言っている。こっちはいいから由比ヶ浜を見てろ、と。

その由比ヶ浜はりんご飴をご機嫌な様子で舐めており、放っておくとはぐれて迷子になりかねない。小学生じゃないんだから…

 

「おい由比ヶ浜。りんご飴もいいけどちゃんと前見ろ」

 

「へ?あ、うん。ヒッキーも食べる?」

 

「だからいらんっつーの。お前俺が舐めたりんご飴食えるのかよ…」

 

俺の言葉に由比ヶ浜はりんご飴をじっと見て、その後俺を見ると顔を真っ赤にして慌て始めた。

 

「や、やー、だよね!りんご飴半分ことかありえない、よね…」

 

「言いながら照れるなら最初から言うな…」

 

ところどころ事故はありながらも、時間は過ぎていった。

こういう場所に来ると特に何もしなくても時間が経つのは早く感じるものだ。

陽はもうすぐ沈む。周囲では場所取りをしてビールを飲むおっちゃんの笑い声が、仲良く騒ぐ中高生の声が響いている。

ああ、楽しいなぁと口の中で呟いた。

隣を綿あめを頬張りながらからんころんと歩く由比ヶ浜が、反対側には買ったばかりの焼きそばの香りを楽しむ戸塚と少々歩き疲れながらも楽しんでいる様子の雪ノ下が、それぞれに笑顔を浮かべている。

こんな時間は永遠には続かないのだろう。それぞれにそれぞれの人生があって、いつまでもこうして一緒にいることは出来ない。いつかは別々の道を歩み、だんだんと顔を合わせることもなくなっていくのだろう。

けれど、今日見たこの景色を俺は忘れない。

いつか、久しぶりに会った時にきっと話題に上がるだろうこの景色を、俺は忘れない。

だからずっと、俺達の時間は終わらない。

 

 

 

 

 

 

日は完全に落ち、夜空が辺りを覆った。雲ひとつない空には月が昇り、それに合わせるように人々はそれぞれ取った場所に向かっていく。

既に屋台の周辺も広場も人でごった返しており、とても4人が座れそうなスペースはない。

俺1人なら適当に座るし、なんなら帰っちゃったりもするのだが今日は事情が違う。立ちっぱなしで見るのも疲れるだろう。

俺達は座る場所を探すことにした。

しかし人が多すぎる。4人だとまっすぐ前に進むのも一苦労だ。

 

「混んでるねぇ」

 

きょろきょろと座れる場所を探しながら由比ヶ浜が言う。本当に混んでいる。

近くのベンチは既に埋まり、少し離れないと難しそうだ。

 

「比企谷くん」

 

いよいよ困っていると、雪ノ下が思い出したように言う。

 

「なんだ?」

 

「確認はしてみないといけないけれど、座れる場所があるかもしれないわ」

 

「マジ?この状況で?」

 

聞けば、雪ノ下の実家はこういう自治体系のイベントは強いらしく、今日は名代として雪ノ下の姉が来ているらしい。

繋がりにくく、何度か電話をかけ直した後、姉とやらと通話しているのだろう、苦々しい顔をした後、雪ノ下は通話を終了して顔を上げた。

 

「大丈夫だそうよ。行きましょう」

 

おお、と雪ノ下を除く3人で感嘆の声をあげて歩き始める。

名代が入るような場所だ。わかりやすく言えば貴賓席。そんなところにこんな目の腐った高校生が入ってもいいのだろうか…

 

雪ノ下に促されやってきたのはロープで囲われたスペースだった。

有料エリアなのだろう。バイトと思しき男が見回っており、俺1人だったら捕まって警察に引き渡されていたところだ。

雪ノ下は少し離れた場所に座っていた女性のところへ歩き、二言三言会話を交わすとその人を連れて戻ってきた。

 

「これが姉よ」

 

「どうもー、雪乃ちゃんの姉の陽乃でーす!よろしくね!」

 

それは雪ノ下の姉というだけあってたいそうな美人だった。挨拶からも分かるように人当たりも良く、恐らく誰もが憧れるような、クラスの中心的人物だっただろうことがわかる。

女子からも男子からも憧れの対象として見られるタイプだろう。まさに理想的な容姿、そして接し方だ。

だが理想は理想だ。現実じゃない。だからどこか嘘くさい。

俺は無意識のうちに警戒レベルを数段上げていた。

とは言え、招待してもらった身で無礼をする訳にはいかない。それは雪ノ下にも悪いしだいたいこの人は俺に何もしてないし。

 

「…比企谷八幡です」

 

俺が名乗り返すと、我に返ったように戸塚と由比ヶ浜が自己紹介をする。

雪ノ下さんは俺達3人をじっくりと吟味するように見ると、しばらく考えてから口を開いた。

 

「それで、どの子が比企谷くんの彼女?」

 

前言を撤回する。この人俺に何かする気満々だ。警戒レベルを最高度まで上げることにしよう。

 

「姉さん、やめて」

 

「ありゃ、いいの?雪乃ちゃん。こーんなイケメンが近くにいるのに」

 

「彼は私の友達よ。あまり困らせないで」

 

ほう、お世辞も言えるのか、雪ノ下の姉は。

ますます恐ろしい。

この人といると寿命が縮みそうだ。

 

「ふーん?…ま、いいや。このエリアは好きに出たり入ったりしていいから」

 

俺をいじるのに飽きたのか、ひらひらと手を振りながら雪ノ下さんは元いた場所に戻っていった。

 

「…姉がごめんなさい」

 

「いや、別に。しかしあの外面はすげえな…」

 

「だねー…なんか仮面あるっていうか…」

 

「うん…」

 

「それをひと目で見抜くあなた達もどうかと思うのだけれど…」

 

まったくだ。俺もどうかと思う。

人の裏を読む癖がついているからわかってしまうのだ。それは過剰に周囲を伺いながら生きてきた戸塚や由比ヶ浜も同じなのだろう。

まあそれはいい。せっかく花火大会に来たのに人の仮面など気にしても仕方あるまい。

 

「とりあえずどうする?花火始まるまでちょっと時間あるけど」

 

「あ、かき氷食べたい!」

 

「食ってばっかだなお前…」

 

しかし戸塚も食べたいとのことなので1度有料エリアを出て屋台に向かう。

まだまだ人は多いが、幸いエリアを出て少し歩いたところにかき氷の屋台を見つけた。

その近くにある行列はトイレのものだ。いや、屋台開く場所考えた方がいいだろ。

ちょうど行きたくなってきたからいいけど。

 

「由比ヶ浜、ちょっとトイレ行ってくるから悪いけど俺の分も買ってきてくれるか?」

 

「あ、うん、わかった」

 

「悪い、割り込むのもアレだしこの辺にいるわ」

 

断りを入れて俺は3人から離れトイレの列に並んだ。

 

 

男のトイレはそう時間はかからない。

手を洗い元の場所に戻るが、屋台に並んだ由比ヶ浜達の姿は見えない。

となるとここで待っていた方がいいだろう。俺は腕を組んで人混みを眺めることにした。

 

「あれ、比企谷?」

 

聞き覚えのある声が耳に届いたのはその直後だった。

右側から聞こえた声の主を見ると、そこには女子が2人立っていた。

そのうちの1人を俺は知っている。

折本かおり。中学時代に俺が作った黒歴史のうちの1つに関わっている。

まぁ、勘違いした俺は気持ち悪かっただろうし、別に自分が被害者だなどとは考えていない。

しかし、確実に心の温度が下がっていくのを俺は感じていた。

できればそれ以上近づいてほしくない。

しかしそんな俺の事情など知らない折本はどんどんと俺との距離を詰めてきた。

何故かはわからないが、俺は眼鏡を外して数歩後ずさった。

 

「比企谷超久しぶりじゃん。元気?」

 

「あ、ああ、まあ」

 

口が上手く回らない。

これはどう考えても昔好きだった子に再開したからとかそういう類の緊張ではない。

冷静になれば中学を卒業して半年も経っていないのだ、当然だろう。

首筋を汗がつたう。出来れば早く終わらせて欲しいのだが、そうはいかないらしい。

 

「今日誰と来てんの?彼女?」

 

「…いや、友達」

 

「だよね、比企谷に彼女とかできてたら超ウケるし」

 

ああウケるな。ウケるから早くどこかへ行って貰えませんかねぇ…

俺が返答に困っていると、後ろから由比ヶ浜の声がした。

 

「ヒッキー?」

 

声のした方を向くと、両手にかき氷を持った由比ヶ浜がきょとんとした顔で俺を見ていた。

隣には同じくかき氷を持つ戸塚と雪ノ下の姿もある。

 

「あ、ああ…悪いな」

 

「どうかした?すっごい汗かいてるけど…あれ、その人は?」

 

当然、俺のすぐ近くにいる折本も由比ヶ浜の目にとまる。

俺は何も起こりませんようにと祈ることしか出来ない。

 

「あ、比企谷の中学の同級生で折本かおりです。こっちは友達の千佳」

 

「ゆ、由比ヶ浜結衣です…」

 

中学の同級生と聞いて由比ヶ浜の、そして戸塚と雪ノ下の顔がぴくりと動いた。

 

「え、超可愛いじゃん比企谷!彼女じゃないの?」

 

「…違う」

 

「…ヒッキー?」

 

最低限の言葉しか発しない俺を由比ヶ浜が不安そうに見つめている。

ポーカーフェイスでいられたら良いのだが、俺はそこまで精神的に成長していない。

嫌な汗は次々と首から背中へ流れていった。

 

「ヒッキーって…ぷふっ…」

 

ヒッキーというあだ名がおかしかったらしい。折本とその連れは吹き出した。

途端に、気持ちの悪い何かが腹のあたりを蠢いた。

俺はいくら笑われてもいい。けれど、俺のせいで由比ヶ浜が笑われるのは、はっきり言って不愉快だ。

基本的に言い返すことはしない俺だが、さすがに何か言ってやろうと口を開きかけたその時、

 

「それで、貴方達は比企谷くんに何か用?」

 

雪ノ下がぴしゃりと放った一言が場の全員を黙らせた。

雪ノ下は顔は静かだが、瞳には確かな怒りを滲ませている。それだけ由比ヶ浜と仲良くなったということなのだろう。

折本は1度固まった後、何が起きているのかわからないといった調子で口を開いた。

 

「用っていうか、同級生いたら気になるじゃん?しかも1回告られた相手だし」

 

今度は俺達4人が固まる番だった。

3人ははっ、と息をのみ、由比ヶ浜は俺の首筋をつたう大量の汗と、俺自身が気づかないうちに握りしめていた手を交互に見ると、俺の袖をぐいっと引っ張り折本と距離をとらせた。

 

「は、八幡…」

 

「…大丈夫だ、ちょっと暑さにやられただけだ」

 

相変わらず、折本は訳がわからないという表情で突然目の前に立った由比ヶ浜を見ている。

 

「え、ちょ、なに?」

 

「なんで…なんでそんなことができるの…?」

 

「そんなことって、え、なに?」

 

俺自身も訳がわからない。

わかるのは、由比ヶ浜の声が涙声になりつつあることだけだ。

止めた方がいい、そう判断した俺は由比ヶ浜に声をかけようとしたが、雪ノ下がそれを遮った。

 

「今だってそうだよ!告白された、なんて簡単に言いふらして!」

 

「いや、私だってあんなに広まるとは思ってなかったし…」

 

「だからって、好きって言ってくれたヒッキーにあんまりだよ…言いふらされて馬鹿にされたヒッキーの気持ち、考えたことあるの?」

 

「……」

 

由比ヶ浜の声は完全に涙声になっていた。

俺は、こんな人間を知らない。

俺のために怒ってくれるような人を。

俺なんぞの気持ちを考えろなんて言う人を。

腹のあたりを蠢いていた何かは霧散し、温かい何かだけが残った。

だから、もう充分だ。

今日は祭りだ、こんな所で口論して気分を台無しにするべきじゃない。

それに、せっかく浴衣を着ていつもと違う化粧もしているのだ。せっかくの化粧が落ちてしまうだろう。

 

「…由比ヶ浜、やめろ」

 

「……でも…」

 

「いいから。近しい人が…由比ヶ浜がわかってくれてたら、それでいい」

 

俺の言葉を受けても由比ヶ浜は納得のいかない様子だったが、諦めて頷いた。

もうじき花火も打ち上がる。さっきの場所に戻ろう。

 

「じゃあな」

 

一応折本にひと声かけて後ろを向く。

歩き始めようとしたところで、消え入るような声が聞こえた。

 

「比企谷…」

 

その声からはどうしていいのか全くわからないという戸惑いの色が感じられた。

俺も同じく戸惑っているのだが、これ以上ここにいても話すことはない。

 

「…別に俺は自分が被害者だとは思ってねえよ。実際キモかっただろうし。…すまん」

 

俺が何に謝ったのかはよくわからない。

キモくてごめんなさいといったところだろうか。卑屈だ。

全く予期せぬ形ではあったが、折本の件は終了した。

折本からしたら祭りの気分を害されていい迷惑かもしれない。それはすまんと言うほかない。

まぁ、俺の黒歴史と等価ってことにしておいてほしい。

せめてこれから誰かに告白された時、言いふらしたりしないで欲しいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

気を取り直して座ってかき氷を食べ始めたころ、花火が夜空に打ち上げられた。

あちこちから歓声と拍手が巻き起こる。

溶けかけの氷をすくって口に運びながら次々と広がる花火を見上げる。

しかし、意識は隣に座る由比ヶ浜に向いていた。

由比ヶ浜はかき氷を食べる手を止めて花火に見入っている。

その横顔が花火の光によって照らされる。

可愛らしく、そしてどこか儚い。

俺は、手にしていたかき氷を足元に置いた。

 

「…ありがとな」

 

「……うん」

 

花火の音にかき消されそうなほどにか細い俺の声に小さく頷いた由比ヶ浜は、俺と同じようにかき氷を足元に置き、俺と目を合わせた。

その表情は真剣で優しい。

依然、上空には花火が打ち上げられ、その度にお互いの赤い顔が照らされる。

照れくさくなり、花火を見るふりをして視線を逸らした。

 

 

花火が打ち上げられ、散っていく。

その度に視界の端の由比ヶ浜の横顔が照らされる。

その繰り返し。

それを、俺は飽きることなくじっと見つめていた。

ずっと抑えてきた思考は止まることなく。

一緒にいたい、と思った。

一緒にいると楽しいからとか、気が楽だからとか、そういうものじゃない。

ただ、隣にいたい。

理由など突き詰めずに、また明日も。

由比ヶ浜の隣にいたい。

明言を避けてきた俺の思考回路はついに逃げ場を失い、1つの結論にたどり着いた。

そこに、もう1人の冷静な俺が警鐘を鳴らす。

そう思っているのはお前だけだ、と。

その結論を由比ヶ浜にぶつけた時、全てが壊れてしまう、と。

きっと雪ノ下ならそれで壊れるのならその程度のものだ、と言えるのだろう。

でも、今の俺にはそれができない。

壊したくない、失くしたくない。

だったら今のままをずっと続けていくのが正解なのかと自問するのなら、答えは否だ。そこにいるのは偽りの俺だ。

しかしすぐにでも伝えることが正解かと問えばそれもまた否。

花火を見上げながら、何度も自問を繰り返した。

 

 

 

 

全ての花火が打ち上げられると、終了、そして退場を促すアナウンスが行われる。

ぞろぞろと人の波が動き出すなか、俺はその場に固まったまま動けずにいた。

周囲の人が去ってゆくのをなんとなく感じながらも、根を張ったようにその場に留まる。

しかし、いつまでもここにいたら警備員に無理やり追い出されるのは時間の問題だろう。

ようやく重い腰を上げると由比ヶ浜も同じように立ち上がった。

 

「そろそろ帰ろっか」

 

「…ああ」

 

どのくらいの間ぼうっとしていたのかは定かではないが、駅へと続く道には多少人が少なくなっていた。

ということは今まさに海浜幕張周辺は激混みだろう。

 

「ゆきのんとさいちゃん、ヒッキーがぼーっとしてる間に陽乃さんの車で帰っちゃったよ?」

 

言われて気づけば2人がいない。

悪いことしたな、後で謝っておこう。

 

「なんで由比ヶ浜も乗らなかったんだ?」

 

「え、い、いやー、ヒッキー1人になっちゃうし、一緒に帰ろうと思ったんだけど…」

 

「…そうか、じゃあ帰るか」

 

「うん」

 

花火が終わってかなり時間が経ったような気がする。下手したら高校生は補導されかねない時間だ。

せめて人混みに紛れて補導は避けた方がいいだろう。

俺と由比ヶ浜は駅へと続く道を歩き始めた。

 

 

俺のせいで会場を出るのが遅れたため、駅の混雑ぶりは予想以上だった。

やや遅れ気味にホームに入ってきた電車には1度に乗車できるかわからないほどの人数がどっと押し寄せる。当然座ることもできず、俺と由比ヶ浜はドアの前に立つことになった。

由比ヶ浜の家の最寄駅まではたったの2駅だ。5分とかからない。

ドアが開くと、その目の前にいた俺達は後から降りる人のことを考えれば降りるしかない。

元々そのつもりだったこともあり、俺は素直に電車を降りて歩き始めた。

 

「ヒッキー、ここだっけ?」

 

「いや。…もう遅いし、近くまで送る」

 

「…ありがと」

 

ぽしょりと礼を言われたが、そもそもここまで遅くなったのは俺のせいなので反応に困る。

改札を抜けると、レストランやホテルの灯が周囲を明るく照らし、祭りの余韻そのままに大学生くらいのグループが大声で騒いでいる。

万が一にも絡まれると面倒なので道の端を通り、ようやく人気の少ない場所に出た。

同じ電車に乗っていた乗客達だろう。同じ方向に歩いてきていた人々に抜かされながら、のんびりと由比ヶ浜家へと歩く。

履き慣れていない下駄だとスピードが落ちるのか、由比ヶ浜の歩くペースはいつもよりいくらか遅い。

お互い無言のまま、歩き慣れた道へと入っていく。

 

「ヒッキー、さっきはごめん…」

 

唐突に、由比ヶ浜が謝罪を繰り出した。

俺としては謝られる謂れが無いため戸惑いを隠せない。

 

「何がだ?」

 

「勝手に怒っちゃったりして…」

 

後から冷静になれば「あの時なんであんなことしちまったんだろう…」となることは多々ある。そういったパターンのものだろう。

あの由比ヶ浜の行動が正しいかそうでないかはともかく、俺は嬉しかったのだから謝る必要はない。

 

「別に謝らなくていいだろ。……嬉しかった、しな」

 

「でもっ…」

 

何か言い返そうとして由比ヶ浜は俯いた。

それにあの時、おそらくあの場で誰よりも冷静だった雪ノ下も由比ヶ浜を止めなかったし、必要なことだと判断したのだろう。

 

「…今日は4人で行って良かった」

 

これまた唐突な俺の言葉に、今度は由比ヶ浜が反応に困ったような顔をする。

まぁ、これは偽らざる俺の本音だから言葉通りの意味に受け取ってくれて構わない。

 

「そう、だね…あの時ヒッキーに会いに行って、ほんとに良かった」

 

それは、全ての始まりの日だった。

もし、あの時家に誰も居なかったら。。

もし、由比ヶ浜に応対したのが小町だったら。

もし、友達になろうなんて言わなかったら。

もしもに意味はない。今ここにある現実が全てだ。そこに「もしも」が介入する余地はない。

けれど、俺達に起こった何かがズレていれば、俺達の関係性は全く違うものになっていたはずだ。

 

「だな。俺と由比ヶ浜が関わることもなかっただろ」

 

言いながら、それはどんな未来だったのだろうと考える。

たぶん、休み時間になれば本を読んだり寝たふりをしたりといったぼっちの道へ進んでいただろう。そんな俺と、由比ヶ浜が、あるいは戸塚や雪ノ下が友達になってくれるのだろうか。

仮に、あの事故が無かったとすれば、俺達の間には接点などありはしないのだから。

 

「あの日に会えなくてもあたしはヒッキーと出会ってたよ。初めて見た時からなんか違うなって思ってたから」

 

由比ヶ浜の瞳は潤んでおり、街灯の明かりでその表情ははっきりと見てとれた。

具体的なことは口にしないまでも、なんか違う、の意味はなんとなく理解することができた。

それはたぶん、俺も由比ヶ浜に抱いた感情だったからだ。

俺が中学までに出会ってきた誰とも違う表情と態度、そして何よりまっすぐに俺へと踏み込んできたのは由比ヶ浜が初めてだった。

そんな由比ヶ浜に、きっと俺は。

 

「あたしこんなだからうまく人と話せないし、だけどヒッキーはなんか違うから、平塚先生とか頼ってさ。で、ヒッキーに会うの」

 

もしかしたらあったのかもしれないその未来は想像に難くなかった。実際雪ノ下とはそうやって出会ったわけだし。

考えている間にも由比ヶ浜の言葉は続く。いつの間にか、歩く足は動きを止めていた。

 

「それで、勉強とか教えてもらって、ヒッキーの黒歴史聞いて、眼鏡買いに行ってさ。それでいっぱい遊ぶんだ、きっと。それでさ…」

 

起こる出来事は今とあまり変わらない、そんな夢物語は、妙に現実味を帯びている。

そして、そうであったらいいと考えている自分にも気づく。

 

ひと息ぶんの空白。

由比ヶ浜の持つ巾着からブブっと音がしているが、由比ヶ浜は気にも留めない。

俺もまた、その言葉の先を遮ることはせずに、ただ待つ。

ぬるい風が頬をなでる。その風が止んだのと同時、由比ヶ浜がきっとした顔を見せた。

 

「それで、きっとあたしは…」

 

その顔はすぐに戸惑い、迷い、怖れ、様々な感情の混じった表情に変わる。しかし、視線だけは俺を捉えて離さないままだった。

 

「……ヒッキーのこと、好きになるの」

 

 

交わした視線は依然ぶつかったまま。

確かにこの耳に届いたその言葉の意味を頭が理解するまでに、大した時間はかからなかった。

俺は口をぽかんと開けたまま、言葉を発することも、身動きをとることもできなくなった。

 




ここまでお読みいただきありがとうございます。
pixivにようやく追いつきました。

結衣が好き!という方に少しでも喜んでいただけると幸いです。


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では、比企谷八幡は。

祭りの余韻がまだ残る駅周辺。

騒ぐ男女のグループの声が少し遠くから聞こえている。

花火はとっくに燃え尽き、夜が千葉の空を支配していた。

とはいえ街灯や家の灯りでそこまで暗さは感じない。

だから俺を見る由比ヶ浜の顔ははっきりと見えた。

誰よりもまっすぐな、嘘をつくのが下手なその顔は真剣そのもので、いつもの笑顔とのギャップも相まって思わず見惚れてしまう。

こんな顔もするんだな、などと場違いな感想を抱きつつも、由比ヶ浜が放った決定的なひと言が頭を離れない。

 

「…由比ヶ……」

 

何か喋らなければと口を開いたものの、中途半端な言葉はいらないとでも言いたげな視線に名前すら言うことが出来ない。

そんな俺を見て由比ヶ浜がもう一度口を開いた。

 

「あたしね」

 

照れ屋のくせに、顔を赤く染めているくせに、それでも由比ヶ浜は手を後ろに組むとやはり俺と視線を合わせた。

まっすぐに、俺だけを。

 

「…あたし、ヒッキーのこと、好きなの」

 

その短い言葉は、どんな理屈よりも俺の頭に響く。

 

「…好き、なの」

 

繰り返されたその言葉とそれを発した表情には偽りの色などなく、それを見ると俺の心臓はとんでもないほど早鐘をうつ。

言葉が出てこない。

事実だけを述べれば、俺は今由比ヶ浜に告白された。

言葉を返さなければ、由比ヶ浜は明るくごまかして帰ってしまうかもしれない。

そうなれば曖昧な関係のまま、俺は元来た道を引き返すだけだ。

自分の気持ちなどとうに気づいている。考えないように、気づかないようにしてきた自分の感情に。

可愛いくて、優しくて、少々頭が悪いけれどまっすぐな。

そして気がつけば俺の隣にいた。

そんな由比ヶ浜を、俺は好きになっていたのだ。

 

カラ、と下駄が地面をこする音がする。

ハッとして前を見れば、言いたいことを言いきった由比ヶ浜が耳まで赤くして後ずさったところだった。

ダメだ、時間がない。俺がどんな黒歴史を抱えていようと目が腐っていようとそんなものは由比ヶ浜の気持ちとは関係が無い。

正直な気持ちには、正直な気持ちを。

そう思うのに、いつまでたっても俺の口は開かない。

そんな俺の目の前に由比ヶ浜が立った。

胸に手を当て、深呼吸をすると三度、俺を見上げる。

 

「へ、返事はその…しな…くても…」

 

いつものように明るく話して帰ろうとしたのだろう。しかし途中でつっかえた由比ヶ浜の声は途切れ途切れになり、やがて口を噤んだ。

此の期に及んで俺の口は回らず、ぱくぱくと動くだけだ。

 

「あ、あたし帰るね…」

 

視線を落とした由比ヶ浜はくるりと後ろを向こうとする。

その時になってようやく固まっていた俺の口が、体が動いた。

後ろを向こうとした由比ヶ浜の腕を掴む。

 

「ふえっ!?」

 

「ああ、わ、悪い」

 

「う、うん…」

 

急に腕を掴まれ、由比ヶ浜は驚き、少しよろめいた。

反対の腕を使って支えた後、なんとか言葉を絞り出す。

 

「…ちゃんと言う、から。今、ちゃんと言う」

 

「…うん」

 

由比ヶ浜は頷くともう一度俺に向き直った。

もうこれ以上先延ばしにすることはできない。

今ばかりは誰も俺の手を引っ張ってはくれない。

由比ヶ浜は今までになく大きな一歩を俺に向けて踏み出した。ならば応えなければならない。

 

「俺は…」

 

口の中は乾燥しきって、喉はカラカラに渇いている。ごくりと唾を飲み込んでみても特に効果はなく、深呼吸をしようとしてもふしゅーと空気漏れのような音が漏れ出るだけだ。

 

「俺は…」

 

由比ヶ浜は不安そうに俺を見上げている。

巾着を握る両手には力が入っていて、それを見た俺の手にもぐっと力が入る。

久しぶりに口にする言葉だ。けれど、勘違いして、人を好きになった自分が好きだった時とは緊張感が違う。

たとえ相手が俺のことを好きだと言ってくれていても、自分の本物の気持ちを口にするのは怖いのだ。

でも怖いから、で逃げて目を背けるのは間違っていると、そう思った俺は、由比ヶ浜の目を見据えて、渇ききった口を開いた。

 

 

 

 

「………由比ヶ浜が、好きだ」

 

俺の放った決定的なひと言を受け、由比ヶ浜が笑い、目を潤ませるのを、やはり俺は呆然と見ているほかなかった。

 

 

 

 

 

由比ヶ浜の小さな嗚咽と、俺の吐く息の音だけが聞こえる。

論理も因果もない、ただのシンプルな言葉。

好きだ、なんて今までどれだけの人が抱いて、発したことだろう。使い古され、飽和状態になっていることだろう。

けれど、その言葉は輝きを失ってはいない。

そして、それは俺と由比ヶ浜が共有することのできた感情なのだ。

 

「ヒッキー…」

 

涙を目の端に浮かべたまま、由比ヶ浜がそっと手を伸ばす。俺たちの距離はさほど離れておらず、触れられるほどに近い。俺は、伸ばされた手を反射的に掴んでいた。

手が届いた。言葉だってきちんと届いた。

そして、お互いの気持ちも届いたのだ。

 

「…俺で、いいのか」

 

しょうもない言葉が口をついて出てくる。

好きだと言ってくれた相手に言っていいような言葉ではなかったと、言ってしまってから思う。

由比ヶ浜は、そんな俺を見てたはっと笑った。

 

「ヒッキーがいいの。ううん、ヒッキーじゃなきゃやだ」

 

こういう時だけ恥ずかしがりもせずに話すの、ずるいと思います。

まぁ、いつもの由比ヶ浜の笑顔が見れてようやく俺も調子が戻ってきたような気もするからいいんだけど。

 

「じゃあ、えっと……」

 

「……おう」

 

そうだ、まだ言っていないことがある。

さすがにいいかげん俺から言わなければならないだろう。

友達になる時も好きだと言う時も先に伝えたのは由比ヶ浜だ。

ずっと由比ヶ浜だけに頑張らせた。でもこの先もそのままだと由比ヶ浜が疲れてしまう。

 

「…由比ヶ浜」

 

「…うん」

 

もう由比ヶ浜の目に涙は無い。

俺を見上げ、にっこりと笑っている。

眼鏡越しに由比ヶ浜と目を合わせ、少しだけ距離を詰めた。

 

「由比ヶ浜が好きだ」

 

「うん、あたしも」

 

少しだけ間が空く。一歩先へ進みたいと願ったことを思い出しつつ、俺はすう、と息を吸った。

 

「…俺と付き合ってください」

 

「…うんっ!」

 

俺の言葉を最後まで聞き、理解した由比ヶ浜は明るい笑顔を浮かべて頷いた。

ほんのひと言、短い言葉を言うだけなのに情けないほどに声は震えていたが、それでも由比ヶ浜には届いた。

 

ふと、手を握ったままだったことに気づく。

握られた手を見て、互いの顔を見ると小さく笑った。

 

「…帰ろっか」

 

「ああ」

 

自分の脚でちゃんと歩くことはできる。俺たちは不安だから、1人では歩けないから手を取ったわけじゃない。

きっと手をつないでいるのは、理屈抜きで、隣にいたい、いてほしいからだ。

ゆっくりと歩きながらもう一度、顔を見合わせて笑った。

 

マンション前で由比ヶ浜の手を離した。

名残惜しそうな顔をされたせいで何故か罪悪感があったが、さすがに俺も帰らないと補導されてしまう。

 

「じゃあ、またな」

 

「うん、今日はありがと」

 

時間が遅いことは由比ヶ浜もわかっているのだろう。おとなしくマンションへと入っていく。

やがてドアの前で立ち止まると、こちらを振り向いて小さく手を振った。

俺はそれに片手を挙げて応え、見えなくなっていく由比ヶ浜を見送ると、駅へと歩き始めた。

歩き慣れた道なのに、どこかいつもと違って見えるのは祭りの余韻のせいだろうか。

ああ、戸塚と雪ノ下にちゃんと礼を言って謝らないとな。

小町にはなんて言えばいいだろうか。

ぼんやり考えながら歩き、ふと少し前まで花火が彩っていた夜空を見上げた。

そこには花火と交替したように、星が瞬いていた。

 

 

 

 

 

 

家に着くと、リビングのソファに沈み込んだ。

自分の身に起きた冷静になると嘘だったんじゃないかと思えるほどの出来事に転げ回るためだ。

彼女できたよおおお!信じられねえよおおおお!うおおおおおん!

のたうち回っているとソファから落下してしまい、背中を強打した。

痛みもプラスされ、さらにのたうち回っているとガチャリとドアが開き、風呂上がりらしい小町と目が合った。明らかにゴミを見る目をしてらっしゃる。

 

「どしたの、お兄ちゃん」

 

あまり関わりたくないけど見ちゃったもんなー…みたいな顔で俺を見下ろす小町はドアを閉め、ソファに腰かけた。

 

「別に」

 

「またまたー、…はーん?お兄ちゃん彼女できたね?」

 

「……」

 

「…え、まじ?」

 

「……マジ」

 

小町的に冗談だったらしいが、八幡的にマジなので頷くと本気で驚かれた。

 

「だれ!?結衣さん?それとも結衣さん?まさかの戸塚さん?」

 

「おい最後、最後」

 

由比ヶ浜一択じゃねえか。いや、合ってるんだけど。戸塚?可愛いけど男だからね?そこんとこ小町ちゃんわかってる?

 

「まぁ結衣さんなら納得だなー、ていうか今さらだし」

 

「…あっそ」

 

あまりいじらないでください恥ずかしくて死んでしまいます。

小町は両手を顎に添え、さっきよりいくらか穏やかな顔で床に寝たままの俺を見下ろした。

 

「お兄ちゃん、良かったじゃん」

 

「…ああ」

 

さっきまでは本当に蜃気楼か幻だったんじゃないかと本気で考えてしまうくらいには取り乱していたのだが、小町の顔と、手に残る由比ヶ浜の手の感触がその可能性を否定した。

たぶん、この日のことは忘れない。忘れられない。

あと何日かはまたのたうち回るのだろう。

その度に由比ヶ浜のことを思い出して、今日のことを思い出して、1人でニヤけるのだと思う。それはちょっとキモいか。

ともかく、どこか浮ついた気持ちになりながら由比ヶ浜と付き合うという現実に納得した俺は、風呂に入るべく立ち上がった。

 

 

 

 

そんなことがあった翌日のことだ。

俺は夏休みらしく昼前に起きて顔を洗った。

一応日曜日なのだが、当然のように両親はいない。あの人たちはいったいいつ休むんだろう。

リビングに小町の姿は無い。カーテンも閉まっている。つまり、兄妹仲良く昼まで寝たということなのだろう。やっぱ千葉の兄妹は通じ合ってるな。違うか、違うな。

カーテンを開け、コーヒーを準備する。飯のことは小町が起きてから考えることにして、インスタントコーヒーの入ったカップを手に俺はソファに座った。

ひと口コーヒーを啜ると、猫舌の俺にはなかなかきつい熱さだった。

しばらく冷ますことにしてテーブルにコーヒーを置く。

両肘を太ももに置いて前かがみに座ると、少しずつ目が覚めてきた。

目が覚めれば昨日のことに意識が飛ぶ。これしばらく続きそうだなぁ…

自分に少々呆れつつカップに手を伸ばすと、リビングに寝ぼけ眼の小町が入ってきた。

 

「お兄ちゃん、携帯鳴ってた」

 

そう言うと小町は俺のスマホを投げてよこした。

俺はなんとかキャッチしたものの、代わりに掴みかけていたカップが倒れてテーブルの上にコーヒーをぶちまけてしまった。

 

「ありゃ、どんまいお兄ちゃん」

 

「お前は少しは気にしろ…」

 

急いでこぼしたコーヒーを拭き取り、コーヒーを淹れ直そうとキッチンに向かい、準備をしているとことんとカップがひとつ追加された。

見上げれば小町がてへっ、と八重歯を見せていた。

くそっ、ずるいなこの妹…

何がずるいって可愛いんだよ!お兄ちゃんすぐ許しちゃう!

 

妹をあっさり許した寛大なお兄ちゃんたる俺は2人分のコーヒーを注ぎ、ソファに座った。

小町は俺の隣に座り、はふはふ言いながらコーヒーを飲んでいる。

俺は熱々は飲めないので一度置き、スマホを開いた。

見てみると着信履歴が2件。どちらも由比ヶ浜からだった。

 

「かければ?」

 

「ああ」

 

俺は画面をタップして由比ヶ浜に電話をかける。数回コールした後、通話が開始された。

 

「あ、ヒッキー?」

 

「ああ。悪いな、さっきは気づかなかった」

 

「ううん、全然!」

 

「それで、どうかしたか?」

 

いや、まぁ別にどうもしなくても電話とか来ると八幡すごく喜んじゃうんだけど。

俺浮かれてんなぁ…

 

「えっと、ヒッキー明日予定ある?」

 

「いや、ない」

 

考えるより前に返事をしてしまい、慌てて考えたがやっぱり予定などなかった。

ちなみに明日は8月8日である。

まぁ、言わんとしていることはだいたいわかる。

 

「じゃあさ、皆で一緒にカラオケ行かない?」

 

特に予定もない以上、断る理由がない。皆で、ということは戸塚や雪ノ下は既に誘ってあるのだろう。隣の小町を見るとにひっ、と笑って肘で俺の肩をつついてきた。やめろ、どうせ顔が緩んでるんだろ。

 

「ああ。小町も連れてっていいか?」

 

「あ、うん!小町ちゃんと話したことあんまりないし!」

 

それ理由と返事が繋がってないような気がするんだけど…

小町と由比ヶ浜は何度か顔を合わせてはいるが、別段親しいわけではない。雪ノ下に至っては初対面になる。コミュ力に若干の不安はあるものの、小町だし大丈夫だろう。やだ、お兄ちゃんてば妹に甘すぎ!

 

「わかった。じゃ、明日な」

 

「うん!後でまた電話するね!」

 

通話を終えスマホを置くと、隣の小町がさっき以上ににひひと笑いつつ俺の顔を覗きこんだ。

 

「いやぁ、いいタイミングで彼女さんができたねぇ、お兄ちゃん!」

 

「祝ってるんだかイジってるんだかわからん言い方はやめろ。お兄ちゃん今あんまり冷静じゃないんだから」

 

「うわぁ、頭の中が結衣さん一色だなぁ、気持ち悪いなぁ…ま、しょーがないとは思うけどね」

 

ちょっと?ひと言余計なのが入ってなかった?

…いや、気持ち悪いね、うん。俺だし。なんて説得力だ。泣きたい。

その後小町が昼食の用意を始めるまでの間は由比ヶ浜との事をさんざんイジられて過ごした。

 

 

 

 

その日の夜。俺は自分の部屋で読んでもいない本をめくりながらスマホを耳に当てていた。

 

「はいよ、2時な」

 

「うん!」

 

通話の相手は由比ヶ浜だ。明日の集合場所と時間を確認し、本来ならここで電話を切るところだが、昨日付き合いはじめたばかりということもあり、いやむしろそれが主な理由なのだが、お互いに電話をやめるという選択肢が存在していなかった。

やっぱり表情の見えない電話というコミュニケーションは苦手だ。声色でしか相手の表情を推測できない。ということは顔文字を使う由比ヶ浜のメールは直接の会話を除けば最強のコミュニケーションツールということになる。嘘をついてもバレないしな。

俺の場合はどんな文面を送ろうが返事が返ってこない、もしくは原文そのまま突き返しがデフォルトだったから意味ないけど。

時計を見ればもう間も無く日付が変わるところだった。由比ヶ浜から電話がかかってきたのが10分ほど前。別に気づかなくてもいいのにその意図がなんとなくわかってしまい、さらに通話を終了させる気が失せる。

 

「まぁ、なんだ。…よろしく頼む」

 

「う、うん…こちらこそ…」

 

何の脈絡もない言葉に突っ込む余裕もないようで、互いの吐息だけが聞こえる。

時計を見ればあと30秒ほどで日付が変わるころだった。20秒、10秒とその瞬間が近づくにつれ、スマホから聞こえる由比ヶ浜の息づかいが荒くなるのがわかる。

5分ほどにも感じた30秒が終われば、時計は0時を指し、日付が8月8日へ変わる。

 

「ヒッキー、お誕生日おめでとー!」

 

「…さんきゅ」

 

明るい声音の後に、ハッピーバースデーの歌を鼻唄で歌いながらとんとんと歩く音が聞こえた。わざわざ立ったまま時計の前で待機していたらしい。

はっぴばーすでー、でぃあヒッキー♪と、何故かそこだけ普通に歌った由比ヶ浜は電話越しにもわかるいつもの照れ笑いをした。

 

「えへへ…こんなことしたの初めてかも」

 

「俺は家族以外に祝われたのが初めてだな」

 

なんなら家族にすらここ数年はあまり祝われてないまである。毎年小町が12時過ぎにメールを送ってくるくらいだ。

一応親父から現金は貰っているが、あれって祝われてるうちに入るのかしら…

ついでに家族以外に祝われたことはないが呪われたことはある。その呪いにかかるとバリヤの効かない比企谷菌に感染するんだとか。おかげで俺は超強力な比企谷菌をこの身に宿すことになった。小町は感染していないから、比企谷という名字が原因ではないのだろう。

 

「だいじょぶ、今年からはあたしもゆきのんもさいちゃんも祝うから!」

 

自信満々に言いきる由比ヶ浜の言葉を聞いて、通話状態のままメールボックスを開くと、未読メール3通が12時ちょうどに来ていた。

示し合わせたかのように戸塚と雪ノ下と小町の3人からだった。

ありがてぇありがてぇ…とモテない男子がバレンタインに全員に配られるチョコを受け取った時並の感動を覚えた。

 

「…そうか」

 

「うん、そう」

 

再び無言。

しかしこの無言はなんとなく嫌ではなかった。

電話の向こうの由比ヶ浜の様子を想像するとふっと顔の力が抜ける。

 

「なあ、由比ヶ浜」

 

「なに?」

 

「今度、浦安で花火大会あるんだが、行かないか?」

 

自分でも驚くほどにその言葉は自然に口をついて出た。

スマホからは由比ヶ浜の驚いている様子がなんとなく伝わってくる。

 

「えと、えっと…それって…」

 

「…まあ、なに。世間一般で言うデート、みたいなやつ?」

 

今までもそれらしきことは何度かあったが、俺からこうして誘うのは初めてかもしれない。

さすがにいつまでたっても由比ヶ浜に任せきりなのも問題だろう。俺は専業主夫に憧れこそ抱いているがいわゆるダメンズになるつもりは無い。

 

「…うん、行こっか」

 

「…おう」

 

リア充恋愛マスター(笑)からしたら幼稚なことこの上ないであろう会話だが、とりあえず俺にしては上出来なんじゃないだろうか。

ふええ…引かれなくて良かったと本気でホッとしたよぉ……

 

「じゃあ、そろそろ寝るわ」

 

「あ、そだね。じゃあ…」

 

「おお」

 

「おやすみ、ヒッキー。お誕生日おめでとう!」

 

温かな声の後には無機質な音。

少々名残惜しくはあったが、通話が繋がることすら無かった中学の頃と比べたら大違いだ。

変わる自分に戸惑い、頭をガシガシとかきむしる。

こうして俺は16歳になり、そしてやがて大人になっていくのだろう。

これから先何度彼女が俺の誕生日を祝ってくれるのだろう。

携帯を置き、ベッドに横になった俺はそんなことを考えながらやがて睡眠へと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

暑さに目を覚まされたのは9時過ぎ。

リビングに降りると小町は既に起きて朝食の準備をしていた。

同じ日に早く起きるとは、やっぱり千葉の兄妹には何か通じ合うものがあるのかもしれない。

俺に気づいた小町はテーブルを顎でさし、見てみると毎年おなじみの封筒が置いてあった。

中身は当然のごとくお金。

まぁ、普段そんなに会話も無いのにこんな時だけ俺の欲しいものをよこせなんて無茶ぶりをするつもりはない。親が覚えているだけ良いだろう。良くはないな。全国のお父さんお母さん、真似はしないでね!

 

「ほいお兄ちゃん、誕生日おめでと」

 

「ありがとよ」

 

小町と向かい合って座り、トーストを口に運ぶ。

いつもより1枚多いのは小町的な誕生日祝いか宿題を手伝えというメッセージかどちらかだろう。

 

「お兄ちゃん、何時ごろ出るの?」

 

「ん?適当に」

 

感違いしてもらっては困るが、この適当とは間違いなく遅刻はしないという適当であって後で考えるとかのテキトーではない。誰に言い訳してるんだろう。

 

 

 

 

待ち合わせに遅れないよう、少し早めに家を出た。

特に用事が無ければ絶対に家から出たくないレベルの暑さの中、待ち合わせ場所の駅へ向かう。

花火大会の時はあれほど混んでいた電車は夏休みではあるが座れる程度には空いており、小町と並んで座る。

 

「えっと、結衣さんと戸塚さんとー…誰だっけ?」

 

「雪ノ下だ」

 

「あー、もう名前からして美人だ…お兄ちゃんいつの間に美女に囲まれるようなリア王になったのかなー…」

 

リア充の極みと言いたいのだろうが、俺がリア王だとすると登場人物だいたい死んじゃうから充実する間もない。

小町がシェイクスピアなど読むはずもないので俺は訂正することを諦め、聞き流した。

 

 

珍しく俺が合流したのは1番最後だった。

俺を見つけると戸塚と由比ヶ浜は大きく手を振り、雪ノ下は軽く頷く。

俺は小町を連れて早足で3人と合流する。

 

「悪い、遅れたか?」

 

「全然!お誕生日おめでとうっ!」

 

なんでもないとばかりに笑みを浮かべた由比ヶ浜に倣い、戸塚と雪ノ下もおめでとう、と言った。

この場に今日が誕生日なのは間違いなく俺だけなので実は違う人間の誕生日祝いだった、などというパターンは無い。

つまり疑いようもなくその言葉は俺に送られているのだが、当然のように祝われたらそれはそれで反応に困る。

 

「まぁ…ありがとな」

 

モゴモゴと礼を言う俺を見て小町は呆れた顔をしたが、3人の方には通じたらしい。

頷きを交わして目的のカラオケボックスへと歩き始めた。

 

 

 

少しだけ離れた場所を小町を真ん中に戸塚と雪ノ下が並んで歩いている。

今になって思う。もしかしてバレてたんじゃなかろうかと。

というかそうでなければわざわざ花火大会の帰りに俺と由比ヶ浜を2人にはしないだろう。急に恥ずかしくなってきた。

隣では由比ヶ浜がご機嫌な様子で当然のように俺と触れるか触れないかくらいの距離で歩いている。

あのですね、それは嬉しいんですが男女交際どころか人との交際がまともに出来てなかった八幡くんにはちょっと近いというか、いっぱいいっぱいというか。

 

「ね、ヒッキー」

 

「…なんだ?」

 

俺の言葉に由比ヶ浜からの返事はなかった。

どうかしたのだろうかと視線を向けてみると、モジモジと体をくねらせて俺を遠慮がちに見ていた。

 

「由比ヶ浜?」

 

「えっと…その、手…」

 

俺の顔と右手を交互に見ながらぽしょりと呟かれれば、さすがにどうしたいのかくらいはわかる。

というかあれだけストレートに告白した人と同一人物だとは思えないのだが、可愛いので気にしないことにする。

俺は無駄に大きな咳払いを何度かした後、由比ヶ浜の左の手の甲を包むように右手を出した。

 

「…あんまりゆっくり歩くと遅れるぞ」

 

「……うん、ありがと」

 

 

 

 

数分歩き、カラオケボックスに到着した。

受付を済ませ、部屋に入ると薄暗い空間にソファ、テーブルが置かれていた。

示し合わせたように3人がけのソファに戸塚と雪ノ下と小町が、反対側に俺と由比ヶ浜が並ぶかたちに座った。

してやったりとばかりに俺を見て笑う小町には後で文句を言うとして、それぞれにジュースの注がれたグラスを持った俺たちは小町の音頭で乾杯をし、ぱらぱらと拍手をした。

 

 

世間的に誕生日といえばケーキだ。

そして今日、珍しく俺は世間の誕生日のしきたりに従って雪ノ下の焼いたケーキにさされたロウソクの火を吹き消した。

 

「…」

 

そして訪れる無言。

俺は誕生日に主役になったことなどないし、俺以外も誕生日パーティーなどという経験は2回しか無い。つまり何をしていいのかわからない。

 

「…どうする、帰る?」

 

「なんでっ!?」

 

気まずさのあまり提案した帰宅も却下され、俺は曖昧な笑みを浮かべることしかできない。

 

「う、歌いましょう結衣さん!」

 

「あ、うん!」

 

全員の顔を見て全員が使えないと判断したのか、小町が素早く曲を入れてマイクを由比ヶ浜に手渡した。

いったいどこで知ったのかは知らないが、せーの、で始まる恋愛的なサーキュレーションを由比ヶ浜が歌い始めた。

 

 

 

 

 

その後、ようやく動きだしたパーティはカラオケ大会へと変貌を遂げた。

由比ヶ浜と小町はまず戸塚を巻き込み、次いで体力の無さを盾に渋っていた雪ノ下にマイクを握らせ、戸塚は俺にマイクを手渡し、男2人のデュエットが始まった。

もはや誕生日がどうとかでなく普通にカラオケに遊びに来たみたいになっている。

だが俺はこの空間が嫌いじゃない。誰もが笑って、歌って、拍手を送るこの騒がしい空間が、俺は好きだ。

 

などと感傷に浸っていると、俺の向かいに座る小町からマイクが回ってくる。

 

「次、比企谷兄妹デュエットー!」

 

「よし、お兄ちゃんに任せろ小町」

 

「やる気まんまんだ!?」

 

今日くらいは少々騒いでもいいだろう。

友達に、妹に、由比ヶ浜に囲まれて今日くらいは。

せめてあと数時間、この部屋の中で。

 

 

 

 

 

「いやー、歌ったね!」

 

「喉痛え…」

 

時間ギリギリまで歌った俺たちはカラオケを出て帰り道を歩いていた。

戸塚と小町は満足そうに頷き、雪ノ下は体力を使い果たして何も喋らない。お前それ生きていけんのかよ。

空は少しずつ夕焼けに色を染め、昼に比べ多少は涼しくなっている。

昼に集合した場所まではそう遠くない。数分歩いてやがて解散となる。

 

「じゃあまたね!八幡、お誕生日おめでとう!」

 

「おお、ありがとな。雪ノ下、家まで歩けるか?」

 

戸塚を見送り、振り返ると雪ノ下がフルマラソン走った後の選手のような顔をしていた。

おかしいなぁ、高校生くらいの頃って体力のピークのはずなんだけどなぁ…年取ってから大丈夫かなぁ…

 

「じゃ、小町は雪乃さんを無事に送り届けてから帰るであります!」

 

「送り届けてってお前…」

 

びしっと敬礼した小町は俺の反論など聞きもせず雪ノ下と2人歩きだしてしまった。

ひと言も発しない雪ノ下が心配だがいったいいつそんなに疲れるほど体力使ったんだろう。

いつの間にか名前で呼んでるし。

そして、もう今更驚かないがまたしても俺と由比ヶ浜は2人残された。

 

「…行くか」

 

「…うん」

 

由比ヶ浜を送っていくことにして歩き始める。2人並ぶと、さっきまでの騒がしさが嘘のように、静かな時間が流れ始めた。

会話もなくゆっくり歩いていると、俺の右手の小指と薬指を力無く握る感覚がする。

隣を歩く由比ヶ浜がどんな顔をしているかはだいたい想像がつく。俺は1度手を離してその手を握り返した。

 

「………」

 

見覚えのあるどころか2日前に来たばかりの公園の横を通り抜ければ、由比ヶ浜の住むマンションはすぐそこだ。

 

「けっこう遅くなったけど大丈夫か?」

 

「うん、あたしは全然だいじょぶ。いつも送ってくれてありがと」

 

穏やかに笑う由比ヶ浜と目が合い、恥ずかしくなった俺は頭を掻こうとしたが、右手が繋がったままなのでうまくいかず、余計に恥ずかしくなった。

 

「ね、ヒッキー」

 

由比ヶ浜が俺を呼びつつ顔を覗き込む。

やってることは実に可愛らしいのだが、俺の精神の安定上あまりよろしくない。

 

「カラオケもさ、また行こうね」

 

「…そうだな」

 

約束はまたひとつ増えた。

というか由比ヶ浜の恋愛サーキ……あれは正直グッときましたね、ええ。

 

 

 

マンションに到着し、俺の役目はここで終わりだ。

手を離し、挨拶を交わす。

 

「じゃあ、またな」

 

「うん!花火大会も楽しみにしてるね!」

 

最後に弾けるような笑顔を見せた由比ヶ浜はゆっくりとマンションに入っていく。

その後ろ姿を見て、ふとまだ言っていなかったことがあるのに気づいた。

 

「由比ヶ浜」

 

慌てて呼び止めると由比ヶ浜はこちらを振り向き、首をかしげる。

俺は2、3歩ほど距離を詰め、目を合わせた。

 

「今日はありがとな」

 

「…うん、どういたしまして」

 

 

短い会話を交わし、今度こそ由比ヶ浜の姿は見えなくなった。

全ては終わり、後は家に帰るだけ。

帰るまでが遠足だと言うし、気をつけて家まで帰ろう。

賑やかな空間はあの部屋で完結した。

けれど、賑やかな日々はまだ始まったばかりだ。

夏休みはまだ3週間近く残っているし、高校生活は2年以上残っている。

どう過ごすのか、ゆっくり考えよう。

由比ヶ浜と、2人で。



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彼ら彼女らのこれからを、誰も知らない。

夏の終わり、そして秋にかけては不思議な寂寥感が脳内を駈けぬける。

16回目の夏はもうすぐ終わり、2学期が始まるのだが、今日は夏休み最後の予定が入っており、俺は海沿いを走る電車に揺られていた。

さすがに休み中のためか車内は混雑していた。

 

夢の国の入り口を通り過ぎてひと駅進んだところで電車を降りる。改札を抜け、切符売り場の近くの壁に背中を預けると、約束の相手を待つことにした。

近くに知った顔はない。おそらく2、3本後の電車だろう。

ところで、あの花火大会から3週間ほどが経ったが、未だに俺は変わった関係を意識すると心拍数が上がるという有様で情緒が中学生並みであることを露呈していた。良い子のみんなはちゃんとそのあたりも成長しようね!すごく恥ずかしいから!

 

情けなさにため息をついた後、時間を確認しようとポケットのスマホに手を伸ばした瞬間、視界が暗転した。真横から伸ばされているらしい手が俺の視界を塞いでいるらしい。

 

「……おい、由比ヶ浜」

 

「わわわっ!まだだーれだ?って言ってないよ!?」

 

そういう問題じゃないんだよなぁ…

由比ヶ浜は一歩後ずさると自分の両手と俺の顔を見比べて怪訝そうな顔をする。

 

「うーん…なんでばれちゃったんだろ…」

 

「ばれるばれない以前にお前以外に誰がいるんだよ。…それに、由比ヶ浜の手くらいすぐ…」

 

「……へ?」

 

あれれー?おっかしいぞー?はちまんくんは何を口走ろうとしたのかなー?

…うん、脳内で冗談言っても意味ないな。知ってる。

 

「……じゃ、帰るか」

 

「ごまかした!盛大にごまかした!」

 

「ほう、盛大なんて言葉を知ってるのか。成長したな、由比ヶ浜」

 

「失礼だな!?さっきの続き聞かせてよ!」

 

「帰るか」

 

「そっちじゃないってば!」

 

いやあ、今日は暑いなぁ…夏は実はまだまだ終わらないんじゃないかなぁ…

かかなくてもいい汗をかいてしまった。

手の甲で軽く額を拭い、俺は由比ヶ浜に向き直る。

 

「…行くぞ」

 

「むぅ……うん」

 

頬を不満げに膨らませたままではあったが由比ヶ浜は頷いて俺の隣に立った。

 

「じゃあ、行こっか?」

 

「ああ、行くか」

 

駅前の広場には家族連れやカップルがおり、その向こうには大観覧車がゆっくりと動いていた。

大観覧車を横目に、由比ヶ浜と並んでメインストリートを進む。

もう夏は終わるがまだまだ気温が高いせいか、ソフトクリームやドリンクの販売スペースには行列が出来ていた。由比ヶ浜が目を輝かせているが、まあうん、後でね?

しばらく歩くと水族園のエントランスホールが見えてくる。

多少混雑はしているものの、入場に時間はかからなそうだ。

 

「暑いねー…」

 

「そうだな」

 

ぱたぱたと服の中に空気を送りこむ由比ヶ浜から思わず目を逸らし、俺は入場料を払った。

要は、この夏最後のイベントはデートである。

花火大会、誕生日、また花火大会とこの夏は出かけることが多かった。まぁそれぞれのことについて今はあえて言うまい。

2学期になる前にということで今日選ばれたのが水族園だった。涼しいし俺としても反対意見はなく今日を迎えたわけだ。

 

ドームの中へ入ると水族園へと続く長いエスカレーターがある。

先に乗った由比ヶ浜は後に続いた俺を振り返り、楽しそうに笑った。

俺も小さく笑みを返し、やがてエスカレーターを降りる。

そこには薄暗い空間にいくつもの水槽が並んでいた。

 

「おおー、魚だ!」

 

「ざっくりしてんな…」

 

うん、まあ確かに魚なんだけど。もっとサメとかなんとかあるじゃない?

よく見ると水槽の目の前は大人達が空気を読んで子供に場所を譲っている。

俺達もそれに倣い少し離れた場所から眺めることにした。

遠目だとわかりにくいが、数種類の魚が水槽の中を泳いでいる。

男の子としてはハンマーヘッドシャークのフォルムをじっくりと見たいところだが、サメは特に子供達に人気のようだ。またにしよう。

 

「次、行くか」

 

「うん!」

 

施設名がそのまま駅名になるほどにこの水族園は大きい。ちなみに橋を渡れば名前がほとんど同じ海浜公園なるものがあるのだが、そちらは俺は行ったことがない。

全部巡るのには時間はかかるだろうが、まぁのんびりでいいだろう。

人混みの間をはぐれないようにしながら、俺と由比ヶ浜は次のフロアへ向かった。

 

 

水族園の中は俺達と同じく夏休み最後の思い出作りだろうか、家族連れが多く混んでいた。

すぐ隣にディスティニーリゾートがあるのだが、臨海公園もなかなかの客の入りだろう。

薄暗い空間に照らされる水槽はどれも人だかりができており、基本的に客が大人しいことを除けば特売日のスーパー並みに前に出るのは難しそうだ。

したがって俺と由比ヶ浜は少し離れた場所から見るしかない。

しかし小さな魚以外は割と普通に見えるので特に不満はなく、俺達は十分に楽しんでいた。

 

「ナーサリーフィッシュ?」

 

「…ん?」

 

唯一人の少ない水槽の前で由比ヶ浜が足を止めた。

暗くて地味な水槽の中でマイペースにふらふらするそいつは確かに子供が喜びそうな顔や動きはしていない。すぐに飽きて次へ行くか素通りするかどちらかなのだろう。

顔がなかなか気持ち悪いので仕方ないといえば仕方ない。

お前は悪くない、精一杯生きてるんだもんな。こんなとこに配置した飼育員が悪い。

この混雑の中圧倒的に不人気なナーサリーフィッシュだが当の本人が呑気に浮遊しているようだし、そっとしといてやろう。

 

その後通った水槽はだいたいどれも人だかりが出来ていた。もう少しナーサリーフィッシュ見てやれよ…

薄暗い空間を通り抜けると、魚に触れることができるコーナーに着いた。

さっきまでと違い行列が出来ている。魚の世界のカーストもなかなか残酷だ。

 

「ヒッキー、エイだよ、エイ!」

 

「お、おう…エイそんな好きなの?」

 

いやまぁ、エイをピンポイントで嫌いになりはしないけど。エイとカレイの違いがわからないくらいには好きと言ってもいいけど。あれ?ヒラメってどんなフォルムだったかしら?

 

「ほらヒッキーも触ってみて!超ヌルってするから!」

 

「ええ…それ聞いて触りたくないんだけど…」

 

「いいからいいから!えいっ!」

 

由比ヶ浜は渋る俺の手首を掴むとそのまま水槽に突っ込んだ。水の冷たさとエイのヌルヌルとした手触りが指に伝わる。

えいじゃねえよ。…エイだけにですかね。ウフフフフ。あれ、面白くなかったかな、うん。

 

しばらくエイの手触りを楽しんだ後、手を洗っているときゅーと鳴き声が聞こえた。

 

「ペンギンだっ!ヒッキー、行こっ!」

 

言うやいなや由比ヶ浜は俺の手をとって鳴き声のした方へ歩き始めた。

揺れるお団子が、弾けるような笑顔が窺える横顔が、言葉にせずとも由比ヶ浜の感情を俺に伝えてくれている。

俺はふと笑みをこぼして、夏の暑さも忘れてずんずん進む由比ヶ浜に続いた。

 

岩山ではペンギン達がプールに飛び込んだりすいすい泳いだりしていた。

数十分に一回ほど飼育員の解説付きでのイベントがあるようだがエイと触れ合っているうちに終わったらしく、今は特に何もない。

とはいえペンギンは人気が高く、多くの客が「可愛いー!」と見つめている。

実際ペンギンはただ歩いているだけで可愛いので俺も何枚かスマホで写真を撮ることにした。

ペンギンゾーンには半地下へと続く階段があり、そちらに解説のボードもあるらしい。

下からは泳ぐペンギンを見つめる客達の声が聞こえており、写真撮影もそこそこに俺達も下りてみることにした。

 

「わぁ、可愛いー!」

 

「…おお、超可愛い…」

 

さすがは水族園のスターである。超可愛い。

人間が泳いでも可愛くもなんともないもんなぁ…

当然ここでも俺は携帯のカメラを起動した。

横からのペンギンを堪能して半地下から上がる階段を進む。

そこにはペンギンが岩山に集まっており、気だるそうにも見える表情を浮かべている。

そちらも可愛いのだが、由比ヶ浜は少し離れた場所の寄り添うように立つ二羽のペンギンをじっと見つめていた。

解説ボードによると二羽で寄り添っているペンギンは夫婦で、どちらかが死んでしまわない限り、同じパートナーと連れ添い続けるのだという。

それを読むと、俺も二羽のペンギンから目が離せなくなる。

 

「………」

 

「………」

 

隣を見ると、由比ヶ浜はまだペンギンをじっと見つめていた。優しい眼差しに微笑を湛えている。

俺はもう一度ペンギンに視線を向け、由比ヶ浜との距離を少しだけ詰めた。

由比ヶ浜は何も言わないまま、同じように少しだけ俺に寄る。互いの肩が触れ、混雑の中でも呼吸の音が聞こえた。

おそらく今、安易な言葉に意味はない。互いが詰めた距離、それがお互いの感情を代弁しているような、そんな気がした。

 

「……行こっか」

 

「…ああ」

 

詰めた距離はそのままに、俺達はペンギンゾーンを後にした。当然そんな距離感で歩けば互いの手がぶつかる。

建物に入るまでの数秒、お互いの手を探るように動かした後、俺の左手は由比ヶ浜の右手をしっかりと掴んだ。

背後からは二羽のペンギンの鳴き声が少し楽しげに聞こえていた。

 

最大の目玉であるペンギンゾーンを抜けると、さっきまでと違い明るいゾーンに海藻の水槽が見える。

大きなケルプにイソギンチャクなども見えるが、こちらは見物客はまばらだった。

まぁペンギンの後だから地味に見えるのも仕方あるまい。水槽の中では無数の魚の群れや派手な赤い魚が泳いでいるが、子供の興味はひかないらしい。

けれど今は人が少ない空間が有り難かった。

繋がれた手は離される気配も、そのつもりもなく、しばらくはこのままでいたかった。

先に見えるクラゲのゾーンからは多くの声が聞こえており、混雑が予想される。

ケルプを見ているのか、魚を見ているのか自分でもわからない。ただ由比ヶ浜と手を繋いでしばらくその場に立ち尽くしていた。

 

 

 

再び混んでいるフロアでは円柱形の水槽が並んでいる。

クラゲがふわふわと浮かんでいるようだが、水槽の前にはさほど人はいない。

このゾーンを抜ければレストランやショップがあり、ここが混んでいるのはそのせいだろう。

俺達はとりあえずクラゲを見ることにして、ライトアップされた水槽を覗き込んだ。

 

「ヒッキー、あれとかなんか花火みたいだね…」

 

少し離れた場所を指差しながら由比ヶ浜が俺を振り向く。

言われてみると花火に見えないこともないそのクラゲは、身体を畳んでは広げ、また畳んでは広げた。

花火、か。

たった3週間前の出来事だ、忘れるはずもない。

花火に照らされる由比ヶ浜の顔も、その帰り道も、鮮明に覚えている。

知らず、握る手に力が入った。

由比ヶ浜は一瞬驚いたような顔を見せたが、くすりと笑うと自らも握る手に力を入れる。

 

「えへへ…」

 

「……」

 

飛び交う子供の大声も、職員のアナウンスもどこか遠くから聞こえるように感じる。

依然として身体を畳んでは広げるだけのクラゲの水槽の前で、握る手の感触だけが俺の身体に確かに残った。

 

 

順路に沿って進むとレストランとショップのあるフロアに出る。どちらもたいへんな混みようで、この中に入っていくのは気が引けた。

左手に折れると自動ドアが見える。どうやらここで終わりらしい。

 

「ゴール!」

 

由比ヶ浜が元気いっぱいに両手をあげる。やめて?手繋がってるから俺の手も上がっちゃうから。すごく恥ずかしいから。

 

「どうする?もう一周しちゃおっか!」

 

「してもいいけどちょっと休もうぜ…」

 

とは言うものの、辺りを見ても休めるような場所は無い。

レストランもベンチも埋まっており、とても座って休憩できるような状況ではなかった。

 

「うーん…どっかないかな…」

 

言いながら由比ヶ浜はくるりと周囲を見渡す。俺も案内ボードに目をやるが、あいにく付近に休憩スペースなどはなさそうだ。

困っていると、由比ヶ浜が俺の袖をくいくいと引っ張った。

 

「ヒッキー、あれあれ!」

 

由比ヶ浜が指差した先には、大観覧車がゆっくりと回っていた。

 

 

 

ここの観覧車には小さい頃乗ったくらいで、高さがどのくらいかなどは覚えていなかった。

チケットを見ると直径111m、全高117mとある。それがどのくらいの高さなのかはわからないが、とりあえず高い、そして怖い。

全高いくらなんて言われても高層ビル何階の高さなんて言われてもまるでわからないが、いざ真下に立つとその大きさに驚かされる。

べ、別にビビってなんかないんだからねっ!

数分並んだ後に観覧車に乗り込む。

そして怖くなる。

小さい頃の記憶など当てにならないもので、こんな頼りない設計だったかしらとキョロキョロ室内を見渡してしまう。

少しずつ、ゆっくりと高度を上げていくというのは真綿で首を絞められるような気分だ。

 

「怖ぇ…」

 

小声の呟きが漏れてしまう。

聞かれていなければラッキーだと思っていたが残念ながら由比ヶ浜には聞こえてしまったようで、ガチで心配する表情をされてしまった。

ふえぇ…恥ずかしいよぉ…呟くならTwitterで呟けばよかったよぉ…

 

「ひ、ヒッキーだいじょぶ?」

 

「あ、ああ大丈夫だ。久しぶりだからちょっとアレなだけだ」

 

「うーん……こ、こうしたら平気、かな…」

 

顔を赤くした由比ヶ浜は立ち上がると俺の隣に座り、手を繋いだ。

いや、あの、なに?それは違う意味で平気じゃないです。

 

「まぁ、その、なんだ。平気だ」

 

「…そっか」

 

高度に慣れてくると、景色の楽しむ余裕が出てくる。

今日は天気が良いこともあり、レインボーブリッジやスカイツリーといった名所がよく見えた。

そして少し離れたところにディスティニーランド。昼間でも十分に絶景と言えるが、夜景もまた綺麗なのだろう。

 

「ディスティニーランド…」

 

ぽつりと由比ヶ浜が呟く。思わず漏れたであろうその声にはどこか期待の色が感じられた。

 

「…まぁ、この時期は暑いからアレだが」

 

「…へ?」

 

「……冬、行くか」

 

「……うんっ!行く!」

 

すぐ近くにある由比ヶ浜の顔がぱあっと明るくなる。俺としても悪い気はしなく、俺の肩にそのまま頭を預ける由比ヶ浜を黙って受け入れた。

足下は不安でぐらぐらと揺れている。けれど、手はしっかりと繋がれていた。

徐々に、観覧車は高度を下げていく。

同じところをぐるぐると回るこの場所に来ることはいつでもできる。

俺は、俺達は前に進まなければならない。

だから、やがて。

 

「…降りよっか」

 

「そうだな。…また来るか」

 

「うん!」

 

多少の寂しさはあったが、俺達は観覧車を後にした。

 

 

 

 

観覧車を降り、公園内を進む。

相変わらず混んでいる公園内では家族連れもカップルもそれぞれの時間を過ごしていた。

しばらく進むと大きな通りに出る。左手には駅が、右手には海辺と、ガラス張りの建物が見える。

時間にはまだ余裕があり、右に曲がった俺達はそのまま進みテラスになっている部分に出た。

東京湾を眺めることができる場所だが、暑いせいかここはさほど人がいない。カップルが数組いる程度だ。

 

雲ひとつない青空に、海が静かに揺れていた。

太陽はまだまだ高く、日差しが若干きついが、なかなか良い景色だ。

 

「あのー、すいません」

 

しばらく目の前の景色を楽しんでいると、1組のカップルが携帯を片手に声をかけてきた。

おそらく写真撮影だろう。

 

「…はい?」

 

「写真、撮ってもらっていいですか?」

 

「あ、はい」

 

返事をして携帯を受け取るとカップルから距離を取る。

逆光に気をつけながら、幸せそうな顔を浮かべる2人を画面に収めた。

 

「ありがとうございます!」

 

「いえ…じゃ」

 

「あ、そうだ!」

 

携帯を返し、由比ヶ浜の所に戻ろうとした俺を女性の方が呼び止めた。

 

「良かったら写真撮りましょうか?」

 

言いながら片手を前に出した。携帯を渡したら撮ってくれると言うのだろう。

確認をしようと後ろを振り向くとそこに由比ヶ浜の姿は無く、再度振り向くと既に携帯を渡し終えた後だった。やだ早い、ガハマさんてば超早い!

 

「…おい」

 

「ま、まあまあ!せっかくだし撮ろうよ!」

 

「いや、撮るのはいいんだけど…」

 

うん、まぁいいか…

とりあえずさっきカップルが立っていた場所に由比ヶ浜と並ぶ。

 

「もっと寄ってー!」

 

携帯を構えた女性が片手で主に俺に対して寄れのジェスチャーを送る。

ええ…結構寄ってるんだけど…

しかしジェスチャーが止まらないところを見ると寄るまで終わりそうにない。俺は半歩ほど由比ヶ浜に寄った。

 

「まだ寄ってー!」

 

まだ寄ってーじゃありません。もう肩とか普通に当たってるじゃないですか。八幡くんは割といっぱいいっぱいです。

 

「ヒッキー、もっとこっち」

 

「いや、十分寄ってるだろ…」

 

「手繋ぐのは出来たじゃん!」

 

「ばっかお前、カメラ構えた人の前でやるのはまた別の問題でだな…」

 

ごねる俺に由比ヶ浜はふくれっつらを一瞬見せた。

次の瞬間、右に立つ俺の左腕に両手で抱きつき、頭を俺の胸あたりに置く。

 

「オッケー!はい、チーズ!」

 

「いやオッケーって…」

 

驚く俺をよそにシャッターは切られ、俺以外の3人は大成功とばかりに笑顔を浮かべた。

あ、彼氏の人いたんだ…

 

「はい、携帯」

 

「ありがとうございまーす!」

 

携帯を受け取り、写真を確認した由比ヶ浜は満足げな顔をした。

 

「ほらヒッキー、いい写真だよ!」

 

どれどれと確認してみると、驚く俺と幸せそうな笑顔の由比ヶ浜が写っている。

…まぁ、由比ヶ浜がこんな顔をしてるなら俺があれこれ言うこともないか。

ごく普通の男女の写真がそこにはあり、ごく普通であることが俺を安堵させた。

 

ひとつ息を吐いてテラスの柵に手を置く。

妙に疲れた気もするがまぁいいだろう。

 

「とりあえず動くか、ここ暑いし」

 

「ん、そだね。涼しいとこ行こっか」

 

振り返ると駅が見える。下に下りれば海辺に行けるのだが、暑いしできれば行きたくない。

小腹も空いてきたところで俺達は駅の方へと歩くことにした。

 

 

駅前の噴水広場まで歩き、ミスト状の水を軽く浴びる。

多少体を冷やしてから辺りを見てみたものの、実は葛西臨海公園の周りにはレストランなどはあまりない。水族園内のレストランやショップ、駅近くの蕎麦屋、後はハンバーガーショップ程度しかなく、そのどれもが今は混雑していた。

 

「うーん、どうしよっか?まだ時間あるし…」

 

腕時計を見ながら由比ヶ浜が呟く。

実際帰るにはまだ早い時間だった。

 

「まぁ昼は適当に買って済ますか」

 

「そだね。じゃあ戻ろっか」

 

俺達はまた来た道を戻り、遠くにクリスタルビューの見える大通りを進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

時は過ぎ、少しずつ日が傾き始めていた。

場所によっては閉館する場所もあり、客足は昼間に比べてまばらになっている。

すぐ隣の駅近くがディスティニーということもあり、アフター5はそちらに行く客も多いのだろう。

俺と由比ヶ浜は腹を満たした後、ショップを見て回った後水族園の中をもう一周した。

サメやペンギンを散々愛でた後出てくるとちょうど空の色が変わり始めたころだったというわけだ。

多少気温が下がっていることもあり、さっきまでのような暑さは感じない。

臨海公園と海浜公園を結ぶ橋は既に閉門し、クリスタルビューも閉館されている。

そのためか、テラスには誰もおらず、さっきまでの賑わいとうってかわってどこか寂しげに見えた。

 

「あー楽しかった!」

 

「そうだな」

 

由比ヶ浜はぐっと背伸びをするとベンチに腰掛けた。

俺もまたひと息吐くと由比ヶ浜の隣に座る。

東京湾は陽の光が反射して色を変えており、それは夏の終わりを告げているようでもあった。

太陽が沈んで行く様子を見ることなど普段しないせいか、俺も由比ヶ浜もその光景から目を離さない。

既に周囲に人の影はなく。

かといって言葉を交わすわけでもない。

しばらく、ベンチに腰掛けてぼんやりと海を眺めた。

 

「…夏休み、終わっちゃうね」

 

どのくらい経った頃だろうか、由比ヶ浜が小さな声を出した。

 

「ああ。まぁ、学校同じなんだからそこまで寂しがることもないだろ」

 

「そうだけど…今年の夏はいろんなことがあったからさ…」

 

おそらく同じ日のことを思い出しているのだろう。

間違いなく人生を大きく変えた日。

夏の終わりに訪れる寂寥感をさらに大きくする要因として十分過ぎるくらいだ。

何か言おうと口を開いたが、適切な言葉がわからずにすぐに閉じる。

代わりに、ベンチに置かれていた由比ヶ浜の手の甲に、そっと左手を重ねた。

これから訪れる秋も、それから先の季節も一緒にいられるようにと祈りながら。

 

「ヒッキー…」

 

「由比ヶ浜。俺は……お前が好きだ」

 

考えるよりも先に、口が動いていた。

その言葉に、音に偽りは何1つ無く、まぎれもない俺の本物の気持ち。

 

「…うん、あたしもヒッキーが好き」

 

まっすぐに俺を見つめる由比ヶ浜の視線もまた同様だった。

照れくさくて視線を逸らしたくなるが、それは違うとなんとか踏みとどまる。

 

「う…そ、そうか…」

 

「うん、そうだ」

 

にこっと笑う由比ヶ浜。

重ねた手が向きを変え、互いの指が絡まる。

 

「…ゆ、結衣」

 

「…は、はち…八幡」

 

つっかえながらも互いの名を呼ぶ。

由比ヶ浜が俺に少し近寄り、そっと瞳を閉じた。

長い睫毛が、赤い頬が、小ぶりな唇が、目の前にある。

俺は短い呼吸で必死に自分を落ち着かせ、由比ヶ浜の唇にそっと唇を重ねた。

 

「………」

 

「………」

 

おそらく、時間にしてほんの数秒。10秒にも満たないだろう。

そのほんの数秒は、俺の心にたしかな温もりを残した。

唇を離すと、由比ヶ浜は優しく俺を抱きしめる。

男とは違う、柔らかな女の子の、由比ヶ浜の温もりが身体全体に広がった。

俺はおっかなびっくりという調子ではあるがなんとか腕を由比ヶ浜の背中に回す。

力が強すぎても弱すぎてもいけないような、ともすれば壊れてしまいそうなほどに小さなその身体が、どうしようもなく愛おしい。

 

「えへへ…ヒッキー…」

 

耳のすぐ横から由比ヶ浜の声が聞こえる。

彼女だけの呼び方で俺を呼ぶその声は優しくて、照れくさくて、けれどずっとこうしていたいと俺に思わせる不思議な響きだった。

何か言わなければと思うが、こんな時のセリフなど知らない。知っていたとしても適当な言葉を言うのは憚られる。

だから、伸ばした腕に少しだけ、ほんの少しだけ力を加えた。

 

いつまでもこうしているわけにはいかない。そんなことは百も承知だ。

夏休みは終わるしこれから先受験のことも考えなければならない。というか普通に家に帰らなければならない。

けれど、今だけ。せめて、今日のあともう少しの間だけはこの温かさに包まれていたいと、そう思った。

 

太陽は間も無く沈む。目を開ければ辺りは暗くなっていて、観覧車には灯りが点いていた。

あと少し経ったらまた駅へと歩こう。

 

 

 

夏の終わりには不思議な寂寥感がある。

気温が下がること、夏にはイベントが多いこと、家族で出かける機会が多いこと、理由は様々だろう。

そしてきっと思い出が多いほど、心に残れば残るほどそれは強くなるのだと思う。

そういう意味では、確かに俺もなんとも言えない寂しさを感じる。

この夏はもう帰ってはこない。

けれど、秋が来て冬が来て、春を迎えて。

その時隣に由比ヶ浜がいてくれれば、また新しい思い出が出来ていくだろう。

しかしこの夏が色褪せることは無い。あの日の帰り道も、今日も。

だから大丈夫だと、自分に言い聞かせつつ。

 

「…そろそろ行くか」

 

「…うん」

 

海へと沈む夕陽に代わりイルミネーションが夜空に映える。

俺達は互いの身体から腕を離し、手を繋ぎ直して振り返った。

遠くに駅の灯りが見え、そちらに続く大通りをぼんやりと照らす。

左手にはライトアップされた観覧車が俺達を見下ろしている。

俺は由比ヶ浜と一度視線を交わした後、ゆっくりと駅へと歩きはじめた。

一瞬由比ヶ浜の横顔を見て、軽く天を仰ぐ。

歩を進める2人の背中を優しく押すかのように、どこか遠くからきゅー、と幸せそうな鳴き声が聞こえた気がした。



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ちゃっかり由比ヶ浜結衣は画策している。

皆さまお久しぶりです。
一年近く空いてもう忘れたよ!って方がほとんどだと思いますが、暇つぶし程度にどうぞ。


カレンダーがひとつ次のページへ移る10分ほど前のこと。

人は過ぎ去った過去を美化し、これから先の未来へ思いを馳せつつも名残惜しく感じてしまう生き物だ。

大きなもので言えば卒業。小さなところで言えば長期休暇の終わり。

それなりの時間をかけたものが本人の意思など関係なく終わりを迎えるというのは、やはり切ないものなのだろう。

何が言いたいかというと。

夏休みが終わってしまうのである。

少し早いがリビングのカレンダーをめくっておこうかと思いたったまでは良かったのだが、なんとなく1日から順に目を追っていくと柄にもなく感傷的になり、楽しかったなぁとか恥ずかしかったなぁとか、学校行くの面倒くさいなぁとか、そんな感情が湧いてきた。

とはいえ、ページをめくらないと9月の予定も書き込めないし終わらない夏休みを延々と繰り返すエンドレスエイトに突入したくはないので、諦めてため息をつきつつ9月のページを開き、俺はソファに体を投げだした。

 

 

 

 

 

8月31日が終わり、9月1日の朝。

たった1日で急に秋が来るわけもなく、夏休み気分が抜けるわけもなく、汗を拭いながら俺は自転車を漕いでいた。

見上げた空は雲ひとつない快晴で、まだまだ気温を下げる気はないらしい。

どうにも空模様ほど晴れやかな気分にはなれないまま、自転車を駐輪場へ走らせた。

 

 

 

下駄箱へ靴を入れていると、肩を軽く叩かれた。

振り向いてみるとそこにはおなじみの黒髪お団子が満面の笑みを浮かべている。

 

「やっほーヒッキー!」

 

「なんだよやっほーって…」

 

朝から元気ですね、君…。少し分けてほしい。いや、やっぱりいい…やっほーとか言いたくない。

 

「いやー、学校来るの久しぶりだしテンション上がらない?」

 

「上がらない」

 

「即答だ!?」

 

俺の返しに由比ヶ浜は不満そうに頬を膨らませる。ついでにむー…とか唸ってる。

それだけなら良かったのだが、明らかに何か思いついた顔を浮かべた。やめて!何か恥ずかしいことさせられる気がして仕方ないから!

 

「ほら、ヒッキーも元気に何か言ってみたらいいよ!こう…ハロー!とか!」

 

だからやめて!そんないい笑顔で無茶振りしないで!

 

「いや、やっほーとかハローとか朝っぱらから叫ぶのはアレがアレだから…」

 

どうにか拒否してちらと由比ヶ浜の顔を窺う。

しかし、由比ヶ浜はまるで俺の返答など聞いておらず、うんうん唸りながら何やらひとりごちていた。えぇ…やっほーとか言ってたら超恥ずかしいことになってたじゃん…

 

「うーん…やっほー…ハロー…やっほー…」

 

もはや会話にもなっていない。言葉のキャッチボールどころかジャグリングみたいになっている。せめてこっちに投げてくれませんかねぇ…

 

「そうだ、やっはろー!やっはろーとか良くない!?」

 

「いや、何がだよ…」

 

突然生み出された斬新な挨拶の意味は当然、一体その言葉の何がそんなに由比ヶ浜を魅了したのかもさっぱりわからない。

ちょっと可愛いけど。

 

「やっほーもハローも言えてお得、みたいな?」

 

「いや、どっちもそんな使わないだろ…まぁ由比ヶ浜が勝手に言うのはいいけど…」

 

先手は打ったものの、十中八九この子は俺にも言わせるだろう。目が爛々と輝いていて断りにくいのがタチが悪い。

ちょっと可愛いけど。

まあまあ、と俺の意見を全く意に介さず由比ヶ浜は案の定な提案をしてきた。

 

「ヒッキーも言ってみたら?」

 

「断る」

 

「だからなんで即答!?」

 

いや、どう考えても無理でしょ…由比ヶ浜みたいに容姿に恵まれた女子が言えばまだ可愛げがあるが、俺だよ?……俺だよ?

 

「むー……じゃ、じゃあ、やっはろーって言うか名前で呼ぶかどっちかって言ったら?」

 

この子ちょっとズルくないですかね…

大体あなただってヒッキーって言ってるじゃない…

 

「ほ、ほらどっちかでいいから!ヒッ……八幡」

 

「…お前それは卑怯だろ」

 

「わかってるけど…」

 

言い出しっぺが両方やってしまえば俺も片方くらいはやらないと…あれ?まさか計画通り?

仕方ない、どちらかは諦めよう…そしてさっさと教室に行こう…

というかガハマさん、明らかに後者を期待して視線を送るのやめなさい。

朝から何してんだろうというため息を全力で吐ききり、俺は死地へ足を踏み入れた。

 

「ゆ…ゆ………あー…その……や、やっはろー…」

 

「そっちなんだ!?あたしが言うのも変だけどそっちなんだ!?」

 

ヘタレですいません。

 

「うー……ま、いっか。やっはろー!」

 

諦めたのか切り替えたのか、由比ヶ浜は元気にやっはろーを返してきた。

いやほら、名前はもう少し別の機会でというか、それなりの場所でというか、前は状況が特殊だったせいもあったわけで…

 

「そろそろ教室行こっか?」

 

「…ああ」

 

どうせクラスが違うのだからものの数十秒の道のりだ。けれど、登校中よりは多少気分も晴れやかな気がする。

窓からさす太陽までも俺に隣の子の名前を呼べと圧力をかけているかのようにじりじりと照り、単に暑いからというだけでない別の汗をかいた。

うん、まあ…とりあえず放課後くらいまで待ってもらってもいいかしら…

 

「じゃあヒッキー、また後でね!」

 

さすがに別れ際にはやっはろーは言わないらしい。

小さく手を振って由比ヶ浜は自分の教室へ歩いていく。が、途中でくるりとこちらを振り向いた。

 

「あ、そだ。さいちゃんにも言ってみたら?」

 

「言わねえよ…」

 

くすくすと悪戯っぽく笑うと由比ヶ浜はそのまま教室へ入っていった。

俺が戸塚にやっはろーなどと言うことは無いだろうが恐らく由比ヶ浜は雪ノ下に言うだろう。

雪ノ下のきょとんとした顔と由比ヶ浜の嬉しそうな顔が浮かび、まあいいか…とも思ったが雪ノ下によるしつけ(勉強)が激化して飛び火しそうだ。早く何とかしないと…

 

自分の教室に入ると、俺を見つけた戸塚がこちらへ歩いてきた。

やっはろーと言ってみようかなどと考え、すぐにやめた。何かアホっぽいし。

……ちょっと可愛いけど。




もう本当に誰も覚えていないかと思いますが…
12巻も出るので何か書きたいなと思い書いてみました。
特にここに書くこともないのでドロンさせていただきますが、またお会いする機会があることを祈っております。


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