「ゆ、幽霊……?」
春が戸惑うように問うと、あやめは「そう、幽霊」としっかりした声で答えた。先程の単語が春の聞き間違いでないことが分かったのと同時に、その目つきと口振りから彼女がふざけているのではないことも分かった。
「えっと……、今まで見たことはないから、よく分かんない、かな……?」
春が返したのはそんなあやふやな答えだったが、あやめはそれに対して特に反応を見せず、ただ無表情に「そうですか」と呟くだけだった。
「安倍さんは、幽霊はいると思うの?」
「います」
即答だった。迷いなど、まるで無かった。
戸惑う春に追い打ちを掛けるように、あやめはさらに話を続ける。
「私の家は代々、この世に未練を残したまま成仏できないでいる幽霊を除霊する“除霊師”を生業にしてきました。当然私も、小さい頃から除霊に関する様々な術を学んできました。この街に来たのも、一人前の除霊師になるための修行の一環なんです」
「そ、そうなんだ……」
「大丈夫ですか? 別にここで終わりにしても構わないのですけど」
「だ、大丈夫だよ! 安倍さんのこと、もっと知りたいもん! 続けて!」
胸の前で握り拳を作って力強く答える春に、あやめは「分かりました」と言って再び話し始める。その口元には、よく見なければ気づかないほどに、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
「まぁ、そんな理由でこの学校に転入してきた訳ですが、朝の自己紹介のときに、ふとこの建物から幽霊の気配を感じたんです」
「そ、そっか。それであのとき、自己紹介の途中なのに止まっちゃったんだ……」
「はい。ある程度近づかなければ部屋も特定できないほどに微弱なものですが、それでも放っておく訳にはいかないので、昼休みを利用してここまで探しに来たということです」
「そう、なんだ……」
未だ戸惑いの色は消えないものの、春は納得したように頷いた。納得するしかなかった。幽霊については未だに信じられないが、あやめが冗談でこんな嘘を言うような人物とは思えないし、何よりこれを逃すと彼女と二度と話せなくなる気がしたからである。
と、そこまで考えを巡らせたところで、彼女はハッと顔を上げた。
もし、あやめの言うことが本当だとするのならば、
「ねぇ、安倍さん……。それじゃあ、その幽霊ってまさか……」
「はい、ここにいますよ」
がたたっ!
その瞬間、春は椅子を蹴飛ばして立ち上がり、びたん! と壁にタックルする勢いで後ずさりをした。部屋が急に暑くなったわけでもないのに、むしろ寒気すら覚えるというのに、体中から汗が噴き出してくる。
あやめはそれを見て、笑いを堪えるように体を震わせ、口元を手で隠した。
「大丈夫ですよ、春さん。その子は“呪縛霊”ですから、春さんに危害は加えませんよ」
「ほ、本当……?」
それを聞いて安心したのか、それでもやはり恐怖心は消えないのか、春は自分の座っていた場所へ恐る恐る戻ると、天井の辺りを注意深く見遣りながら、椅子を戻してゆっくりとそこに座った。
クスクスと笑いながらそれを見ていたあやめが、小さな子供に言い聞かせるような声色で話す。
「呪縛霊というのは、特に強い未練を残して死んでいった人がなりやすいんです。場所に強い想いがあったら“地縛霊”、人に強い想いがあったら“背後霊”になります。まぁ、本当はもっと複雑な条件があるんですけどね」
「へ、へぇ……」
「その場所や人に縛られてるわけですから、行動は極端に制限されます。ですから普段はとても大人しくて、その霊の感情を刺激するようなことが起こるか、私達除霊師が無理矢理引きずり出すかしない限り、その霊が暴れ出すことはありません。その分、こちらが見つけるのに苦労するのですけどね」
「そうなんだ……。それなら、少しは安心かな……?」
春はそう言うと「ははは」と弱々しい笑みを浮かべた。
――まぁ、普段は大人しい分、暴れると厄介なんですけど……。
あやめは秘かにそんなことを頭に思い浮かべたが、それを口に出すのは止めた。
「ねぇ、安倍さん」
「何ですか?」
「その幽霊がこの部屋に未練を残してるってことは、ひょっとしてその幽霊って、この学校に関係ある人ってこと?」
春の疑問に、あやめは「そうですねぇ……」と呟いて、
「これは清音さんから聞いた話ですけど、5年ほど前に、この学校で自殺した女子生徒がいるみたいですよ」
「じ、自殺?」
「詳しいことは調べてみないと分かりませんけど、仮にこの幽霊がその子だとしたら、多分その子は――」
「君達、こんなところで何してるんだ?」
あやめの言葉を遮るように、あやめと春に呼び掛ける男の声が聞こえた。それに反応した2人が、声のした方――つまり入口へと顔を向ける。
そこには、短い黒髪に黒縁眼鏡を掛けた30歳前後の男が、呆れたような表情でドアに寄り掛かっていた。
「あ、小林先生」
春が小さく声をあげる横で、あやめが春に誰なのか尋ねた。
「数学の小林先生だよ。みんなからは“コバセン”って呼ばれてる」
春があやめに耳打ちしている間に、小林はつかつかと2人の元へ近づいてくる。
「君達、何してたんだ?」
「えっと……、お昼を食べよっかな、て思って……」
春がたどたどしくそう答えると、小林は小さく溜息を吐いて、
「こんなところで食べる奴があるか。ほら、さっさと戻るんだ」
「ですが先生、お昼を食べる場所に特に制限は無いと聞きましたけど」
あやめのその言葉に、小林は呆れた表情を彼女へと向けた。
「いくら自由だからといって、それはあくまで常識の範囲内での話だ。ここには危険な薬品とかもあるし、万が一事故が起こったら大変なんだからな。――まったく、わざわざ鍵まで開けて入ってくるなんて……」
「えっと、小林先生……。私達が鍵を開けたんじゃなくて、元々開いてるみたいでしたよ……」
遠慮がちにそう言った春に、小林は一瞬だけ動きを止めて僅かに目を見開いた。
しかしすぐさま彼女の肩を掴んで無理矢理立たせると、「さぁ帰った帰った」と入口へと押しやろうとする。
「わ、分かりましたから、離してください」
春が慌てたように、小林の手を振り払って彼から離れた。彼女のその言葉に小林は満足したように数度小さく頷き、そして今度はあやめの方を向いた。
それに促される形で、あやめは腰を上げた。
――かたっ。
「ん?」
小さな音、そして何かの気配を感じ取ったあやめは、中途半端に腰を上げた状態で動きを止め、注意深く辺りを見渡した。
――かたっ、かたっ。
ふと彼女の目に止まったのは、この部屋を出ようと入口へと歩く、春と小林の後ろ姿だった。2人が音に気づいている様子は無い。
――かたかたかた。
次にあやめの目に止まったのは、2人の向かう入口の傍に置いてあるガラス戸の棚だった。その中には、ビーカーや三角フラスコや試験管など、ガラスでできた実験器具が所狭しと並べられている。
――ぴしっ。
そしてその直後、そのガラス戸に大きなヒビが入った。
「2人共、走って!」
「へっ?」
「な、何だ?」
あやめの突然の大声に、小林と春が戸惑いの声をあげ、足を止めようとする。
「いいから走って!」
「は、はいっ!」
2度目の大声に、春は反射的に廊下へと走り出した。彼女の傍にいた小林は、「おい、ちょっと!」と彼女の後を追うように走り出した。
その瞬間、
――ばばばばばばばばばばばばばばばばりいいぃぃん!
「――――!」
「――――!」
棚のガラス戸、さらにはその中に入っているガラス製の実験器具が全て割れ、鋭い切っ先をもつガラスの破片が、まるで爆発でも起きたかのような勢いで周囲に撒き散らされた。破片の幾つかは、床や壁やテーブルに深々と突き刺さっている。
そこはちょうど、小林と春が足を止めようとしていた場所だった。
「な……、どうなってんだ、これは!」
「小林先生、早く逃げましょ!」
呆然とそれを見つめていた小林を、春が叫びながら無理矢理引っ張っていった。
2人が部屋から離れていくのを確認したあやめは、天井へと視線を向けて忌々しげに眉を潜めた。
「今除霊するのは、さすがに危険ですね……」
そう呟いて、春達が出ていったのとは別のドアへと走っていく。
そのとき、床に散らばっていたガラスの破片が、フワフワと独りでに浮き上がった。そして空中で回転して切っ先をあやめへと向けると、猛スピードで彼女へとまっすぐ突っ込んでいった。それはさながら、ピストルから飛び出した弾丸のようだ。
あやめはそれを視線だけ動かして確認すると、それに向かってスッと手をかざし、
「――『界』」
突然、あやめとガラスの破片との間に、蒼く光る透明な壁が現れた。ガラスの破片の進路はその壁に阻まれ、かかかかか、と深く突き刺さってそのまま動かなくなった。
その隙にあやめはドアを通り抜け、部屋から姿を消していた。
誰もいなくなった部屋で、光の壁が音も無く消えていった。空中に取り残されたガラスの破片は、重力に従ってジャラララと床に落ちていった。
そして、理科実験室に再び静寂が戻った。
* * *
「な、何なんだ、今のは!」
「えっと、何か、安倍さんが言うには、あそこには女の子の霊がいるらしくて、多分今のもその子がやったんじゃないかなって……」
「ゆ、幽霊だと……? そ、そんなの、実在するわけないじゃないか!」
「でも、それじゃさっきのあれは、どう説明するんですか!」
2階と3階を繋ぐ階段の踊り場で、春と小林が何やら言い争っていた。先程の出来事のせいか、2人共声も体もブルブルと震えている。
「そ、そんなの、マ、マジックか何かに決まってるだろ……。その安倍って子が、私達を驚かせようとしたに決まってる……」
小林はズレた眼鏡を直して、大きく深呼吸をしながらそう言った。
「何のためにそんなことをする必要が――あ、来ました」
突然話を切り上げて階段を昇っていく春に釣られて小林がそちらに視線を遣ると、何事も無かったように平然とした表情のあやめが、こちらを見ながら階段を下りている最中だった。
そんな彼女に駆け寄ってきた春が、縋るように彼女の手を握りしめた。
「安倍さん! 大丈夫だった?」
「はい。元々地縛霊ですからね、あの部屋を出てしまえば心配ありませんよ」
「そう、なら良かった。でもそれだと、まだ除霊はやってないんだよね?」
「本当は今すぐにでもやってしまいたいんですけど、他の人達に危険が及ぶかもしれないので、迂闊に手が出せないんです」
「そうなんだ……。なら――」
「そ、そこの君!」
絞り出すように出された大声に、二人の会話が遮られた。
その声の主である小林は、あやめを指差すと、
「さ、さっきのは君がやったんだろ! しかも話によれば、幽霊だなんだと飯田くんを誑かしているそうじゃないか! て、転入初日でこんな問題を起こすなんて、き、君はいったい何を考えているんだ!」
顔を紅くして必死な形相で捲し立てる小林とは対照的に、
「小林先生、質問があります」
あやめはその涼しい顔を一切崩さず、たった一言だけそう言った。まっすぐ伸びていた小林の人差し指が、彼の戸惑いを表すようにふにゃりと曲がった。
「な、何だ?」
「ここの先生方は、いつも何時頃にお帰りになりますか?」
「え、えっと……、時間は日によってまちまちだけど、昨日は大体9時頃には全員帰っていたと思うが……」
「そう言えるということは、小林先生は最後まで残っていたんですか?」
「あ、あぁ……。テストを作っていたから、12時過ぎまでは残っていたが……」
「成程。――それでは小林先生、お願いがあります。今日も学校に残ってくださいませんか? できれば、十時過ぎくらいまで」
「……は?」
あやめの“お願い”に、小林は口をぽかんと開けた。
横で聞いていた春が、あやめに尋ねる。
「安倍さん、夜にあの幽霊を除霊するの?」
「そうです。他の人達を巻き込まないためには、全員が帰った後に除霊をするしかありません。しかし学校のセキュリティを考えると、忍び込むなんて真似はできません。なので小林先生が学校に残って、私を入れてくれるのが一番良い方法だと思うのですが」
「し、しかし――」
小林が何か言おうとするが、あやめが「小林先生」と呼び掛けたためにそれは遮られた。
「それまでの間、あの部屋は立入禁止にしてください。そうですね、『突然ガラスが割れた原因が分かるまで、安全のために立入禁止にする』とでも言えば大丈夫でしょう」
「……な、なんで私が……」
「先程の出来事を目の当たりにした小林先生なら、事の重大さがお分かりになると思ったので」
「……そ、そもそも幽霊なんて存在しないんだ。そんなテキトーなことを言って責任を逃れようなんて――」
「まぁ、小林先生が幽霊を信じていようといまいと、私には関係ないので別に構わないんですけど。――でも、宜しいんですか? このまま放っておいて、他の生徒が怪我をするようなことになっても」
「…………」
あやめはその顔をピクリとも動かさず、小林の目をじっと見つめている。小林の掛けている眼鏡のレンズに、無表情なあやめの顔が映り込んでいる。
半ば睨みつけるようにあやめを見つめていた小林は、やがて、
「……本当に、何とかできるんだな?」
観念したように目を逸らすと、ぽつりとそう呟いた。
「それにしても、意外だったなぁ」
小林と別れたあやめと春は、2階の渡り廊下を並んで歩いていた。あやめの右手で巾着袋がかたかたと揺れる中、ふと春がぽつりとそう呟いた。
「何がですか?」
「小林先生が安倍さんの願いを聞き入れてくれたことだよ。小林先生って凄く真面目だから、普段から冗談とか全然通じないんだよ。だから幽霊なんて言われても、絶対に信じないと思ってたけど……」
「私は冗談のつもりで言ったのではありませんよ。それに小林先生の場合、信じないというよりは、信じたくないという印象を感じましたけど」
「うーん、そんなもんかな……。――あぁ、それにしても、何か凄く疲れた……」
そう言って項垂れる春の横で、あやめも心無しか力の抜けた表情で、
「そういえば、結局お昼を食べられませんでしたね。私もお腹が空いて仕方ないですよ」
「あぁ、そういえばそうだね……。まったく清音ったら、自分から弁当を取りに行ったくせに何分掛かっているん――」
そこまで言いかけて、突然春は「あっ!」と大声をあげた。その目は限界まで見開かれ、額には汗が滲んでいる。
「春さん、どうしたんですか?」
「どうしよう! 清音は幽霊のこと知らないから、今頃あの部屋に戻ってるよ! もし清音が幽霊に襲われたら……!」
あたふたと慌てた様子で、春は来た道を走り出そうとした。
しかし、あやめは至って冷静に、
「大丈夫ですよ」
たった一言だけそう答え、教室へと戻る足を止めることはなかった。
「え、でも安倍さん、さっき『他の生徒が怪我でもしたら――』って言ってたよね? そしたら、清音が危ないんじゃ……」
「はい、言いました。でも、清音さんは大丈夫ですよ」
自信たっぷりにそう言うあやめに、
「そ、そう……」
春はそれ以上何も言えなかった。
「……何があったの?」
入口近くの棚のガラス戸や実験器具が割れ、しかしその破片は棚とは遠く離れた別の入口近くに散らばっている理科実験室。
ぽつりと呟いた清音の言葉は、部屋の中を虚しく漂って消えていった。