夜もとっくに更け、時刻は午後10時を過ぎた頃。
昨日と同じく、外は遠くで吠える犬の声が聞こえるほどに静かだった。仄かな月の光が優しく街を照らし、人工的な街灯の光が強く街を照らしている。そしてどちらの光も届かない場所は、全てを呑み込むほどに深い闇に覆われている。
そしてそんな夜道を、昼間と同じ制服姿のあやめが歩いていた。この格好の方がやりやすいからなのか、それとも単に着替えるのが面倒だったからなのか、まさかそれ以外に服が無いのか、それは本人にしか分からなかった。
それにしても、中学生が1人で夜道を歩くなんて光景を誰かに見られでもしたら、良識のある大人なら絶対に怒ってくるだろうし、
ふとあやめは足を止めると、星が輝く空を見上げた。そのまま大きく両腕を上げて背筋を伸ばし、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出した。
「うん、良い天気ですね」
あやめは満足げに呟き、再び前を向いて歩き始めた。
両脇に校舎が堂々と鎮座し、1階部分が昇降口になっている渡り廊下がその間を繋ぐ私立北戸中学校。
校舎の後ろに浮かぶ月のおかげで視界は良好だが、その分濃くなった校舎の影が地面を呑み込みながら、あやめに向かってまっすぐ伸びている。まるで彼女をも呑み込もうとしているようなその雰囲気は、昼間に来た所と同じ場所とは思えないほどに不気味なオーラが漂っている。
あやめは校門のゲージに手を添えて、そんな校舎をじっと眺めていた。その表情には一切の感情が無く、彼女が何を考えているのかそこから読み取ることはできない。
しばらくそうしていた彼女だったが、やがて大きく溜息を吐くと、
「……まったく、2人共、何を考えているんですか?」
独り言を呟くのとは明らかに違う、誰かに呼び掛けるような声をあげた。その視線は校舎ではなく、校門脇に植えられた1本の樹に向けられている。
すると、
「いやぁ、やっぱりバレちゃったか。こっそり後をついていこうとしたんだけどなぁ」
その樹の陰から、2人の少女が姿を現した。1人は呑気にヘラヘラと笑いながら、もう1人は申し訳なさそうに眉を寄せながら。
その2人とは、清音と春だった。
「まさか、ずっとそこで待っていたんですか? 随分と物好きですね」
あやめが呆れを隠そうともせずにそう言うと、
「ずるいよ、あやめと春だけ幽霊見ちゃってさ! しかも私がまだ見てないのに、その幽霊をお祓いしようとしてるんでしょ! 私だって幽霊見たいんだからね!」
清音は笑顔から一転、プリプリと怒ったように頬を膨らませて声を張り上げた。近所迷惑などお構いなしである。
「…………」
あやめは清音に何も言い返さず、というより言い返す気にもなれず、彼女の後ろに隠れるように体を小さくする春へと視線を向けた。その瞬間、ビクンッ! と肩を震わせた春は、怖々とした様子であやめへと向き直ると、
「えっと……、安倍さん、ごめんなさい。放課後に清音に詰め寄られて……、それで、今夜除霊することを言っちゃったの……」
本当にごめんなさい、と春は深々と頭を下げた。すると当の本人である清音もさすがに悪いと思ったのか、バツの悪そうに頭を掻いて頭を下げた。
しばらくの間、2人を睨みつけていたあやめだったが、
「……中では、私の言うことを聞いてくださいね」
大きな溜息と共にそう言い残して、さっさと敷地内に入っていった。
清音と春はお互いに顔を見合わせた。清音はニカッとどこか意地の悪い笑みを浮かべてあやめの後を追い掛けていき、春は深い溜息をついて清音の後を追い掛けていった。月明かりに照らされた昇降口前の広場を、本体よりも何倍もの背丈を誇る影が3体、並んでヒョコヒョコと揺れている。
その影が校舎から伸びる影に呑み込まれていったちょうどそのとき、昇降口のドアがガラガラと音をたてて開かれた。
そして姿を現したのは、表情に若干の疲れを滲ませている小林だった。帰り支度を済ませているのか、既に小脇には鞄を抱えている。
あやめはそんな小林に一礼して、
「小林先生、こんな時間まで残ってくださって、本当にありがとうございます」
「まったく、今回は特別に許可してあげたんだ。次は無いからな」
小林はそう言うと、中に入っていく3人と入れ替わるようにして外へと出た。
「あれ、小林先生もご一緒にどうですか? 幽霊が見られますよ?」
「そうだよ、コバセン! こんなチャンス滅多に来るもんじゃないよ! 今見ておかないと、絶対後悔するから!」
「……いや、私はいい。少し疲れた」
「……そうですか。分かりました」
あやめは頷くと、小林が開けたそのドアをガラガラと閉めた。そしてあやめはそのドアに手をかざし、優しく撫でるような手振りをした。隣で清音と春が、そして外から小林が、彼女のその行動を何の気も無しに眺めている。
すると、フッ、とほんの一瞬だけあやめの手が青白く光った。
そして、次の瞬間、
「――『界』」
ぴしゃああああああぁぁぁん!
「ひっ!」
「な、何っ!」
何かを引き裂くような甲高い音と共に、その光が生き物のようにドアへと乗り移り、次の瞬間には昇降口全体を覆い尽くしていた。清音と春に見えたのはそこまでだが、外にいる小林には、その光が校舎の壁を舐めるように広がっていき、3秒と掛からずにに校舎全体を青白く染め上げていくのが分かった。
一目見て閉じ込められたと分かるその光景に、清音と春はただただ唖然としていた。光の向こう側では小林が何やら騒いでいる様子だったが、その声はこちら側にはまったく届いていなかった。目と鼻の先にいるにも拘わらず。
「幽霊が逃げ出すと困りますからね、出口を塞がせてもらいました」
あやめは振り返りながら、平然とした表情でそう言い放った。しかし2人共、目の前の非現実的な光景への対応で頭がいっぱいになっているらしく、彼女の言葉に返事をする余裕は無かった。
あやめは小さく溜息をつくと、「清音さん、春さん」と若干苛立ちの籠もった声で2人に呼び掛けた。そこで初めて2人の体がぴくりと動き、2人の視線が彼女へと向けられる。
「私は一旦除霊の作業を始めますと、どうしてもそちらに気を取られてしまいます。そうなると当然『界』は解けなくなり、仮にお2人に何かあったとしても、お2人はこの空間から出ることはできなくなります。今ならまだ間に合いますが、どうしますか?」
その言葉に、清音と春は少しの間考えた。
少しだけだった。
「行くよ。ここまで来たら」
「私も」
2人の力強い返事を聞き、
「分かりました」
あやめは頷いて、薄暗い廊下を歩いていった。
清音と春も、それに続く。
* * *
校舎の中は、外にも増して暗かった。
窓からは先程あやめが出した青白い光の壁も見えているが、それが照らすのはせいぜい窓の周辺だけだった。その壁を貫いて差し込む月明かりも廊下を照らすには大して役に立たず、廊下は自分の足元すらよく見えないほどに暗かった。その闇は奥へ行くほどに濃くなっていき、三人の向かう先はもはや洞穴のように真っ暗で何も見えない。
それに加えて、1歩1歩足を踏み出すごとに音があちこちで反響しているため、清音と春はまるで自分達が何者かに囲まれているような錯覚を起こしていた。普段なら単なる気のせいだと切り捨てられたそれも、“あやめと共に幽霊に会いに行く”という現在の状況と相まって、やたら強烈な印象として2人の脳に刻み込まれていく。
「ねぇ、あやめ……。廊下の電気を点けてから進まない? 何かあったら危ないでしょ?」
「いえ、このまま進みます。電気の明かりで幽霊の姿が塗り潰されることもあるので」
「そ、それじゃ、せめて懐中電灯くらいは持たない? 私達の分はあるから……。安倍さんだって、足元が暗いと怖いでしょ?」
春はそう言って自分の持っている懐中電灯をあやめに手渡そうとするが、彼女は首を横に振ってそれを拒否した。
「お気持ちだけ頂きます。暗い場所は慣れてますし、片手が塞がるのは不便なので」
「そ、そうなんだ……。さすが安倍さんだね」
春はその言葉を聞いて、あやめが小さい頃から幽霊と関わっていることを思い出した。こういう場所にも行き慣れているんだろうな、という春の想像通り、あやめはほとんど先の見えない暗闇の中を、懐中電灯などの明かりに頼ることなくずんずん進んでいく。
一方清音と春の2人は、互いに手を繋ぎながら、足元と視線の先を懐中電灯で何度も照らしながら進んでいた。当然その足取りは遅く、先を行くあやめとの距離はどんどん離されていく。
やがて廊下の端にある階段に差し掛かったのか、あやめが突然進む方向を変えて姿を消してしまった。
「――ま、待って!」
頼みの綱である彼女の姿が見えなくなり、途端に不安になった清音と春が、互いの手をしっかりと握りしめたまま、まるで二人三脚のように息の合った動きで廊下をどたどたと駆けていった。そのせいで廊下中に彼女達の足音が反響し、それがさらに彼女達の恐怖心を煽っていく。
そしてやっとの想いで階段へと辿り着いた2人は、暴れ狂う心臓を手で押さえつけながら、懐中電灯の明かりをそちらへと向けた。
暗闇に、あやめの顔が突如浮かび上がった。
「ひぃっ――!」
2人は引きつった顔で悲鳴をあげると、互いの手をしっかり握りしめたまま、まるで二人三脚のように息の合った動きで後ずさり、そのまま背中から壁に激突した。
「――――!」
2人して言葉にならない呻き声をあげて蹲るのを、あやめは完全に呆れた様子で眺めていた。
「2人共、怖がる気持ちも分からなくはないですけど、なるべく私の傍を離れない方が良いですよ。もしものことがあったときに、咄嗟に対処ができなくなるので」
「……う、うん、分かった」
あやめの言葉に2人は頷くと、清音は彼女の右腕に、春は彼女の左腕にそれぞれガッシリとしがみついた。それはまるで木の幹にしがみつくコアラのようであり、ちょっとやそっとでは離れそうにないほどに力強かった。
「……まぁ、別に良いですけど」
両腕に鈍い痛みを感じながら、あやめは溜息混じりに小さく呟いた。
そして先程の清音と春よりも遅い足取りで、3人は暗い階段を昇っていった。
3階まで昇りきったところで清音はあやめの腕を離すと、柱の陰まで駆け寄って、顔だけ出してそこから廊下を覗き込んだ。懐中電灯を使って陰になっている場所まで隈無く目を凝らすが、人の姿はどこにも見当たらない。
「……清音さん、さっさと進みたいんですけど」
「駄目だよ、あやめ! そういう油断が命取りなんだから!」
「清音さんよりも私の方が、こういうことには慣れてるんですけどね……」
「もしものことがあったとき、危ないのは私達の方なんだから!」
清音の言葉にあやめは溜息をつくと、未だに左腕にしがみついている春へと視線を向けた。しかし彼女は怖々と視線をこちらに向けるだけで、清音を止めようとはしなかった。彼女も彼女で、今の状況を不安に思っているのだろう。
だったら最初からついてくるな、とあやめは思ったが、口には出さなかった。
「よし、誰もいないね! 先に進もう!」
言っていることはとても勇ましいが、大急ぎであやめに駆け寄ってガッシリと右腕にしがみつきながら言うのでは、せっかくの台詞も台無しである。
「…………」
何とも言い難い表情を浮かべながら、あやめは2人を引き連れて廊下を進んでいく。亀よりも遅い歩みの中、両脇の2人は懐中電灯をあちこちに向けて周囲を見張っていた。
と、そのとき、
「――――!」
春がとある場所を懐中電灯で照らした途端、ビクンッ! と肩を震わせてそのまま静止してしまった。
何事だと思ってあやめと清音が明かりの先を目で追うと、そこには“理科実験室”と書かれたプレートがあった。そこから少し視線を下ろすと、古ぼけた扉がまるで来る者を拒むように固く閉ざされている。
「ここが、幽霊のいる部屋だね……」
清音がぽつりと呟き、春がごくりと唾を呑み込んだ。全身が強張り、その手にも自然と力が籠もる。
「……せめて私の腕を離してから、力を入れてくれませんか?」
「え? ――ああ、ごめんごめん!」
2人が慌ててあやめの腕を離すと、彼女は痛みを解すように両腕をブラブラと振った。
「さてと……、このドアの先に幽霊がいるんだよね?」
「安倍さんの話だと、その幽霊って地縛霊なんだよね?」
「はい、そうです。おそらくその霊は、この実験室の外には出られませんし、力を行使することもできません」
「逆に言えば、私達が1歩でも部屋の中に入ったら、その瞬間に襲ってくることも有り得るってことか……」
「ちょ、ちょっと清音、怖いこと言わないでよ……」
「…………」
清音と春が部屋のドアを眺めながらふるふると体を震わせる中、あやめは2人に気づかれないようにスッと数歩後ずさり、2人の背中に向けて両手を伸ばした。
すると、フッ、とほんの一瞬だけあやめの手が青白く光った。
ぴしゃああああああああああああぁぁぁん!
「――――!」
「――――!」
先程学校に入るときにも聞いた甲高い音に、清音と春が揃って振り返る。
2人とあやめとの間を、青白い光の壁が阻んでいた。その壁は2人の周りをぐるりと取り囲み、さらに上から蓋をするように覆い被さっていた。2人が座れるほどの空間が、光の壁によって切り離されている。
「――――! ――――!」
「――――!」
2人が壁をベタベタ触っても、終いにはドンドンと叩いても、壁はびくともしなかった。2人はあやめに向かって叫ぶように大きく口を開けていたが、残念ながらあやめには壁を叩く音も2人の声もまったく届いていない。
「申し訳ありません。素人の方にその辺をうろつかれるのは危険ですので、閉じ込めさせてもらいました。でもまぁ、私の言うことを聞く約束でしたので、別に構いませんよね?」
「――――!」
「――――!」
「……あぁ、今お2人には、私の声は届かないんでしたね」
あやめは口元に手を遣ってクスクスと微笑むと、人差し指を立てて地面に向けた。『大人しくここで待っていろ』という意味を込めているが、2人にそれが伝わったかどうかは定かでない。とはいえ、どうせ伝わらなくともその空間からは出られないので、彼女にとってはどちらでも良かった。
あやめはそんな2人に背中を向けて実験室のドアを開けると、すぐさま中に足を踏み入れてドアを閉めた。
昼間と変わらぬ景色が、ガラス戸にぽっかりと穴の空いた棚も含めてそのまま残っていた。腰くらいの高さのテーブルが並んでいるせいか、窓からの月明かりがテーブルに阻まれて床まで届かず、部屋の足元が極端に暗くなっている。そのせいで床はほとんど見えないが、おそらく昼間に床に散らばったガラスの破片もそのまま残っているに違いない。
そんな実験室だが、そこにはあやめ以外の人の姿は見えなかった。
しかし彼女は部屋をぐるりと見渡すと、
「大丈夫ですよ。出てきてください」
誰もいないその空間に向けて、優しく話し掛けた。
「私はあなたの敵ではありません。あなたの力になりたいんです。私はあなたの姿を見ることができますし、あなたの声を聞くこともできます。あなたの溜まりに溜まった想いを、私に話してくれませんか?」
そう話す彼女の声は、自らの子供に語り掛ける母親のようにとても穏やかで、暖かなものだった。
しかしそんな彼女の言葉に対して、返事は一切無かった。それでもあやめはその優しい笑みを崩すことなく、誰の姿も見えない部屋の隅へと視線を向けた。
そして、ゆっくりと言い聞かせるように、こう語り掛けた。
「お名前を、聞かせていただけますか?」