第三部へと続くルートはこちらの本編ルートであり、IFルートは本編を読んでいることを前提としていますので、まずはこちらを読んでいただくことを推奨します。
約束の日、大洗はあいにくの曇り模様だった。
エリカにはその空を目にすることはできなかったが、美帆が愚痴っていたためにあまりいい天気ではないのは分かった。
だが、そんなことは関係なかった。せっかく美帆と楽しみにしてきた陸の上だ。精一杯楽しもうと、心に決めていた。
エリカは美帆に手を引かれて大洗の街中を歩いた。大洗の土地は殆ど初めてのようなものなので、目が見える美帆の先導がどうしても必要だった。
「さ、こっちですよ」
自信満々にエリカの手を引く美帆の手が、なんだかとても頼もしく思えてきた。また、一回りは上なのに、少々情けないとも思っていた。
美帆はまず、エリカを神社へと連れて行った。エリカと一緒に参拝したかったのだと言う。エリカはあまり神頼みというのはしないタイプであったが、神社にまで来て何もしないというのもおかしいため、美帆に連れられそのまま参拝した。
パンパンと、二人で一緒に柏手を打ち願い事をする。エリカは、とりあえず家内安全を願っておいた。特に願うことが思いつかなかったというのが主な理由である。その後、エリカは美帆に何を願ったのか聞いてみた。しかし美帆は「秘密です」と何処か楽しげにしながら、願い事を言わなかった。まぁこういうものは言ったら効力が無くなるものかもしれないと思い、特に気にすることもなかった。
その後は、二人は温泉に寄った。露天風呂もある、大洗でも有数の日帰り温泉だ。
温泉によってさっそく温泉に入ろうと美帆が言ったので、エリカは連れられるままに温泉へと向かった。そして、いいと言っているのに、美帆はエリカの脱衣を手伝うと言ってきた。
「大丈夫よ、服を脱ぐぐらい一人で出来るわ」
「いえ、せっかくですから手伝わせて下さい。これからお互い裸を見せ合うんですから」
「見せ合うと言っても、私には見えないんだけどね」
「あ、すいません……。だ、だったら触ってみますか!? 私、結構スタイルには自身あるんですよ!?」
「いや、遠慮しておくわよ……」
そんなやりとりをしながら、結局押し切られ、しかたなく美帆の手を借りて服を脱いでいると、途中たまに美帆の手が止まったり「ほぁ……」と妙に艶かしい溜息が聞こえてきたりしてきた。何かと思い美帆に聞くと、美帆は慌ててエリカの服を脱がす作業に戻ったので、結局なんだったのか分からずじまいだった。
そうしてエリカは美帆の手を借りながら温泉へと入った。美帆はエリカが滑って転ばないようにと、細かく目を光らせていた。そのおかげか、外を歩いているときよりも随分とゆっくり歩くことになった。
もちろん、湯船に浸かる前にちゃんと体を洗う。さすがのエリカも、ここでは美帆の手を借りなければいけなかった。そうでなければ、まずどれがボディーソープで、どれがシャンプーかさえ分からないのだから。
「頭と体、どっちから先に洗います?」
「そうねぇ……それじゃあ、頭からお願いできるかしら」
「はい、分かりました」
すると美帆はシャンプーを手に取り、エリカの頭をワシャワシャと洗い始めた。エリカの頭がどんどん泡だっていく。他人の手で頭を洗われるというのは、これまた久しぶりだなと思った。恐らく、みほと一緒に生活していた頃にまで遡るだろう。
ざぱぁっとエリカの頭にシャワーがかけられる。エリカは泡が頭の上から流れていくのを感じた。そして、ある程度シャワーと共に美帆がエリカの頭を洗うと、今度は体へとその手が伸びた。
ぬめっとした感覚がエリカの体を襲う。エリカは思わず笑い出したくなる感覚を我慢し、美帆の手のままにした。ぬるぬる、ぬるぬると、美帆の手がエリカの全身をまさぐる。
その手は何度も同じところを触ったりしたが、エリカは他人の体の洗い方というものをよく知らなかったので、美帆の洗い方はそういうものなのだろうと特に突っ込まないことにした。
そして、美帆の手がエリカの胸元にさしかかったときだった。美帆は、エリカの胸をわしわしと揉み始めたのだ。
「ちょ、ちょっと!?」
「うわぁエリカさん、おっきぃ……」
「あっ、んっ……こっ、こらっ……!」
ねちっこくエリカの豊かに実った胸を揉みしだく美帆。エリカはその手つきに、思わず声が出てしまう。色のついた声色が響く。幸い、エリカ達の周りには人はいなかったが、エリカはそれでも顔がみるみる赤くなっていくのが分かった。
「もうっ、やめなさいっ……!」
エリカはなんとかその一言を振り絞った。すると、胸を揉む手がぴたりと止まって、美帆は慌てて手を引っ込めた。
「す、すいません! その、あまりに大きな胸でしたから、その……!」
美帆はとても申し訳無さそうにエリカに謝った。そして、エリカの背後でもじもじしながら言葉に詰まっているようだった。
エリカはそんな美帆の様子を感じ取り、優しく頭を撫でた。
「エリカさん……?」
「もう、次からは気をつけなさいよ。さあ、泡を流して頂戴。早く温泉に入りましょう」
揉まれたときは驚いたが、中学生ともなると、体の発育が気になる年頃なのだろう。そんな彼女の前に大人の体が出てきたのだ。気になって触ってみるのも、仕方のないことなのだろう。
そう考えると、エリカにとっては先ほどの行為もなんだか可愛らしく思えてきたのだ。
美帆はそんなエリカの優しさが嬉しかったのか、明るい声で「……はい! エリカさん!」と言って、エリカの体の泡をシャワーで流した。
そして、二人でゆっくりと温泉に浸かる。エリカは「あぁー……」と少々年寄り臭い声を出しながら浸かっていった。その隣に、美帆も座り込む。温かいお湯に包み込まれて、エリカは確かに幸せを感じていた。温泉というのも、なかなかいいかもしれない。
「いい湯ねぇ」
「そうですねぇ……」
エリカも美帆も、温泉の気持ちよさにすっかりとろけきっていた。エリカにとっては、もう十二年以上前に入ったきりだから、新鮮味もあった。
そうしてどれだけ浸かっていただろうか。エリカはそろそろいいかなと思って、湯船から体を出した。
「あ、もう上がりますか?」
そのエリカの姿を見た美帆が声をかけてくる。
「そうね、そろそろ上がりましょう。それとも、まだ入っていたい?」
「いえ、エリカさんが上がりたいなら、上がりましょう。……本当は、もうちょっとエリカさんの綺麗な体を見ていたかったんですが」
「ん? 何ですって?」
「い、いえ! 何でもありません! さ、私の手に掴まって下さい!」
エリカは美帆が最後にとても小さな声で何かを呟いたので気になったが、美帆が何でもないというので、ならばそれほどのことでもないのだろうと、すぐさま忘れ去った。
そのままエリカは美帆の手を掴み、温泉から上がる。そして、美帆に体を拭いてもらい、ドライヤーまでかけてもらった。まるで子供のようだと、エリカは内心苦笑した。しかし、エリカの面倒を見る美帆が楽しそうだから、あえてそのことは口にしないでおいた。
そして二人は温泉から出ると、昼食を取りに行った。美帆が一緒に食べたがっていたあんこう鍋はあいにく終了していたため食べられなかったが、他のあんこう料理は食べられたので、それを食することにした。
美帆にどこに何があるかを教えてもらいながらだったが、美味しく食事を取ることができた。
そして食事を終えた二人は今、大洗の街中を歩いている。美帆はエリカの手を握りながら、次の予定を考えていた。
「さて、次はどこへ行きましょうか。ショッピングでもしましょうか、学園艦では買えないものも陸には沢山ありますし。それとも公園にでもいってのんびりしますか。今日は、天気は悪いですが気温的には心地いいですし……」
「そうね……」
エリカも一緒に思案する。美帆は、目の見えないエリカでも楽しめるように、色々考えてくれた。その気持ちが、エリカには嬉しかった。
他人とここまで楽しい時間を過ごすのは、考えてみればみほがいなくなってしまう前まで遡らなければいかないかもしれない。大切な人と、過ごす時間……。それは何よりもかけがえのないものだった。当時の私には、そんな自覚はなかったのだけれど。
と、そこでエリカはふと思った。
美帆はこの春休みの間ずっと私と過ごしてきたが、彼女には私生活で、誰か大事に思っている人はいないのだろうか? もしかしたら、私に関わることで彼女の時間を奪ってはいないのだろうか? 美帆はとても優しい子だから、今日の事だって私を気遣ってのことだってあるかもしれない。それではいけない。
なので、エリカは美帆に聞いてみることにした。
「ねぇ美帆」
「はい。なんでしょうか?」
美帆は考え事を止め、笑顔でエリカの方に顔を向けた。そんな美帆の所作も知らずに、エリカは言葉を続ける。
「あなた、大切な人っている? 心から一緒にいたい、そんな人が」
その言葉に、美帆は「えっ!?」とわりと大きな声を漏らし、その場に立ち尽くしてしまった。美帆に連れられていたエリカも一緒に足を止める。場所は、ちょうど交通量の多い交差点付近だった。
「大切な人、ですか。それは、その……」
美帆はエリカに見られるわけでもないのに、真っ赤になっている顔を隠すように両手で覆い隠す。そしてしばらく躊躇った後、
「……えっと、いますよ」
消え入りそうな声で、そう言った。
エリカはその答えを聞くと、「そう……」と呟き返し、美帆が手にしている自分の手にさらにもう片方の手を添え、両手で美帆の手を握った。
「あなたにもいるのね、大切な人が。だったら、その人を大事にしてあげなさい。大切だと思っている人との時間は、思いがけないことで終わってしまうかもしれないから」
エリカは諭すような口調で、美帆に言う。しかし美帆は、そのエリカの話よりも気なることがあった。
「あなた“も”って……エリカさんにもいるんですか? その、一緒にいたい、大切な人が」
「……ええ」
その瞬間、美帆の顔から表情が失われ、顔が蒼白となった。だが、エリカにはその様子を見て取れぬために、そのまま美帆を気にすること無く話を続ける。
「……実はね、私が学園艦にずっと残っているのは、その人を待っているからなの。その人はね、私を絶望の淵から救ってくれた。目の見えない私に光を与えてくれた。だから、ずっと一緒にいたい、そう思ったの。でも、その人はずっと前にいなくなってしまった……。だから待ってるの、私は。いつかその人が帰ってくる、その日を。だから美帆、あなたも……美帆?」
そこで、エリカは美帆の異変に気づいた。美帆の手が、ブルブルと震えているのだ。しかも、何やら呼吸も荒い。盲目のエリカにもすぐに、美帆が良くない状態になっているのが分かった。
「そっか……エリカさんには、そんな人がいたんですね。それも知らず、私ったら……馬鹿みたい」
その声は、今にも泣き出しそうな声だった。美帆は、そっとエリカの両手から自分の手を引き抜く。そこでエリカにもやっと、美帆が自分に向けている感情が、ただの親切心だけではないことが分かった。
「美帆、あなた……」
「本当に馬鹿みたいですよね。ははは、私ったら、一人で盛り上がっちゃって、でも、そんなの全然意味なくって……でも、私は……私はっ……!」
美帆は、突如エリカに背を向け駆け出した。エリカは「待って!」と呼びかけつつ、美帆の足音を頼りに美帆を追いかけようとした。
だが、そこで、エリカはとあることに気がついてしまった。ここは交差点で、すぐ目の前には信号機があった。そして、その信号機は青信号のときにはエリカのような視覚障害者にも分かりやすいように、音がなるはずだった。だが、今その音がなっていない。そしてさらに、ゴゴゴゴ……という低い音がエリカの耳に響いてきた。その音は、エリカにも聞き覚えのある音だった。重い鉄の固まりが力強い動力部によってその巨体を擦れ合わせながら動く音――トラックが、こちらに向かっている音だった。そしてそのタイミングで、美帆は道路に飛び出そうとしている。
「美帆っ!!」
エリカは美帆に大声で呼びかける。しかし、遅かった。美帆は道路に飛び出しており、トラックの大きなクラクションが鳴り響く。
「っ!!!」
美帆も初めてそのとき現状を把握したが、トラックはすぐさま彼女の目の前まで迫っていた。美帆は、突然の驚きと恐怖で、足が止まってしまう。
「くっ!!!!」
その刹那、エリカは考えるよりも先に体が動いていた。足音を頼りに、美帆の位置を割り出し、その方向に向けてとにかく走る。周囲の時間は不思議とゆっくりと流れていた。一歩一歩、全力で踏み抜いて美帆の元へと向かう。トラックよりも早く、彼女の元へと辿り着くために、駆ける。目が見えないためイマイチ美帆との距離を測ることは出来ない。だが、それでも、彼女を助けたいその一心で、足を動かす。必死に腕を伸ばす。
トン、と、伸ばした手の先に柔らかい手触りがした。紛れも無い、美帆の体だ。エリカはそのまま足と手にありったけの力を込め、美帆を突き飛ばした。
美帆の体は大きく吹き飛ばされた。そのことを、エリカは感触で知ることが出来た。
よかった。
エリカは、安心でほっと、笑みが零れた。
次の瞬間、エリカの体に計り知れない衝撃が加わり、高く空へと舞った。
時間も止まりそうな静寂の中、不思議な浮遊感を味わいながらエリカは考える。
何故、私はここまでして彼女を助けたかったのだろう? まだ会って一ヶ月ほどしか経っていない、彼女のことを。エリカの頭の中で、一瞬にして今までの出来事が流れてくる。熱心に戦車道のことを聞いてくる美帆、献身的にエリカの世話をしてくれる美帆、エリカに笑い声を聞かせてくれる美帆……。そこで、エリカは気がついた。
ああ、私にとって美帆はもう、大切な人の一人になっていたんだ。みほと同じくらいに、かけがえのない存在に……。
「……カさん。エリカさん!」
エリカの耳に、ぼんやりとした声が響く。エリカは見えない目を、ゆっくりと開いた。だんだんと声が鮮明に聞こえてくる。どうやら、美帆がエリカを呼び続けているようだった。
「……美帆?」
「っ! エリカさん!」
美帆の痛ましい声を、エリカははっきりと聞き取った。どうやら自分は、美帆に抱きかかえられているらしい。
そして、意識が確かになると共に、体中に激痛が走る。腕も足も、今まで味わったことのない痛みが襲ってくる。そして、額からはドロっとした生暖かい液体が流れ出していることも分かった。恐らく、血だろうと、エリカは何故か他人ごとのように思った。
「エリカさん! 今救急車を呼びましたからね!? すぐに来るはずです! だから、それまでどうかしっかりして下さい!」
美帆がエリカを激励するが、エリカにはそれが無駄なことに思えた。救急車を呼んでももう遅い。そんな確信がエリカの中にあった。
エリカは悟っていた。自分がもう、長くはないと。
「美帆……」
「エリカさん! 無理しないでください! もう少しの辛抱です!」
「ねぇ美帆、聞いて……たぶん、私もう、駄目だと思う……」
エリカが掠れた声で美帆に言う。すると美帆は、エリカを抱く手の腕の力を、よりいっそう強めた。
「何言ってるんですかエリカさん……? そんなこと、あるわけないじゃないですか……?」
「ううん、分かるの。自分のことは、自分が一番……ゲホッゲホッ!」
エリカは急に咳き込む。そのとき、一緒にエリカは口から自分の体に血を吐き散らしたのだが、その光景を目に出来たのは、美帆だけだった。
「エ、エリカさんっ!」
「だからね……私、あなたに伝えたいことがあるの……私、あなたに会えて、よかった」
エリカは美帆に向かって、今自分に出来るとびきりの笑顔を見せた。それが、エリカにできる精一杯への美帆への感謝の印だった。
ぽつり、ぽつりと、エリカの肌に冷たい感覚がした。それは、ざあっという音と共にしだいに数を増していく。どうやら、雨が降り始めたようだった。
そして、雨粒と共に、頬に温かいしずくが落ちるのをエリカは感じた。
「うっ……うっ……!」
美帆の嗚咽が聞こえてくる。どうやら、雨と共に、美帆の涙が流れてきているようだった。
エリカは痛む左腕をなんとか動かして、手探りで美帆の頬に触れる。そして、そっと美帆の涙を拭った。
「もう、泣かないの……あなたは、笑い声が素敵な子なんだから……」
「エリカさんっ……無理です、無理ですよ……そんなの……」
美帆はエリカに言われても、涙を流すことを止めなかった。止めることができなかった。美帆は泣きながら、エリカの手をそっと握る。
そんな美帆の声が、だんだんと遠のいていく。エリカは、自分の意識が再び闇に沈もうとしているのが分かった。きっと、もう二度と帰ってこれないだろう、闇の中に。
ああ、私はこのまま死ぬんだな。
そんなぼんやりとした自覚が、エリカの胸中に訪れる。
そのときだった。エリカは、不思議な体験をした。
見えないはずの視界が、一面光に包まれたのだ。何事かと思い、すっかり視ることをしなくなったはずの目を凝らして見ると、その光の中に一つの人影を見た。
その人影は、だんだんとエリカの方へと近づいてくる。
誰だろう……? なんだか、とても懐かしくて、とても温かい、そんな印象を受ける。
そして、人影がその姿がはっきりと見えるほどまでに近づいたとき、エリカは驚愕した。そこにいたのは、なんと――
「みほ……?」
そう、エリカが十二年間待ち続けていた、想い人。西住みほが、そこにいた。
「っ!? なんですか、エリカさん!?」
『エリカさん』
みほが、エリカに笑いかけてくる。エリカが久しく目にすることができなかった、優しい笑みを。
「みほ……そこにいるのね? みほ?」
「はい! エリカさん! 私はここにいます! 私は、ここに!」
ああ、なんだ、そうか。そういうことか。
「みほ……あなた、ずっと私と一緒にいてくれたのね……? ずっと、ずっと……」
「私はここにいますよエリカさん! これまでも、これからも一緒です! エリカさん!」
みほを待ち続けている必要なんてなかったんだ。なぜなら、みほは、最初から私といてくれたから。そうか、そうだったんだ……。
『エリカさん、よく、頑張ったね。本当によく、頑張ったんだね』
光の中のみほが、そっとエリカに手を伸ばす。エリカもまた、それに応えるように、左手を天へと伸ばす。
「エリカさん……!?」
そしてエリカは、その差し伸べられたみほの手を、強く、強く、握りしめた。
「……エリカさん? ねぇ、エリカさん? ……いや、いやあああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!」
◇◆◇◆◇
エリカの葬式は彼女の実家のある熊本で、しめやかに執り行われた。エリカの実家はそこそこ裕福であるらしく、なかなかに豪華な葬式の様相を呈していた。どうやら葬式にも見栄を張りたいという、逸見の家の思惑が見て取れた。
しかし、その掛けられたであろうお金に対し、参列者の数は少ないものだった。殆どが逸見のごく近い親類であり、友人などの関係者は殆ど来ていなかった。それが、エリカの生前の交流の少なさを物語っていたようだった。
沙織は、その数少ない参列者として、沙織は五十鈴華や冷泉麻子、秋山優花里といった友人達と一緒にエリカの葬式に来ていた。
エリカが死んだと聞かされたとき、沙織はまず信じることができなかった。あの学園艦に残ることに拘っていたエリカが、陸の上で車に轢かれて死んだと言うのだから。しかし、いざこうして葬式に参列し、その死体を目にすると、急に現実感が沸き、涙が溢れてきた。隣に座っていた華が慰めてくれなかったら、きっと大声で泣き腫らしていただろう。
参列者の中には、中学校の制服を着た美帆の姿もあった。ずっと俯いており、その顔を確認することはできなかった。
そして、参列者の中で一番目立っていたのが、みほの姉であり現在は世界的な戦車乗りとして名を馳せている西住まほだった。まさかまほがエリカの葬儀に来るとは誰も思っていなかったらしく、戦車道について知識のある人物は彼女の姿を見た瞬間こぞってひそひそとその名を呼んだ。
だが、沙織は久々に見たまほの姿を見て驚いた。髪はボサボサでところどころ白髪が混じっており、目元には皺が目立っていた。さらに戦車乗りとは思えない覇気の無さが、昔のまほとのギャップを感じさせた。ご焼香に立つまほの姿は、なんとも頼りのない姿だった。
葬儀は何の問題もなく進行し、静かに終わった。エリカの遺骸はあっけないと言いたくなるほどにすみやかに火葬された。火葬場から立つ煙を、沙織は生涯忘れることはできないだろう。そして式場に戻り、精進落としへと移ると、沙織は友人達に少し一人になりたいと言って、屋外へと出て行った。
外はさすが熊本と言いたくなるぐらいに、太陽が燦々と照りつけていた。手で顔を覆いながら、階段に腰掛けると、「はぁー……」と大きく息を吐いた。心身共に、どっと疲れが襲ってきた。
まさか、こんなにも早く友人の葬式に再び参列することになるとは思わなかった。しかも、あんなにつらい思いをしてきたエリカがこんなに簡単に逝ってしまうだなんて、人生とは本当に理不尽なものだなと、沙織は思った。
「武部さん……?」
そんなことを考えていると、沙織は背後から声をかけられた。そこにいたのは、まほだった。
「……まほさん」
「……お久しぶり。ここ、座っても?」
「……どうぞ」
沙織が許可すると、まほはゆっくりと沙織の隣に座り込んだ。その動きにも、どこか元気なさげだった。
「みほの葬式以来かな? こうして武部さんと会うのは」
「そうですね……」
「……まさか、エリカがこんなにも早くいなくなってしまうだなんてな。現実というのは非情だよ。だけど、みほのときと違って遺体はしっかりとあったから、ちゃんとともらってやることが出来ただけ、マシなのかな」
まほはまっすぐ正面を見ながら、沙織に話し掛ける。その顔は、やはり疲れが濃く出ていた。
「……それにしても、ちょっと意外です。まほさんが、エリカの葬儀に出るなんて」
沙織がそう言うと、まほは少しだけ間を置いてから「……そうだな」と口にした。そしてそのまま、沙織に話し始める。
「私は、エリカと最後に会ったときに、酷いことをしてしまったんだよ。エリカのことを何も考えること無く、自分が勝手に抱いていた彼女像を押し付けてしまってね。……エリカとはそれっきり、この十二年間顔を合わすことがなかった。みほが死んだときも、エリカは葬儀にこなかったしね」
「……エリカはみほが死んだって、認めていませんでしたから」
「そうだったね。……思えば、エリカは、私よりずっとみほのことを想っていたんだろうな。私はすぐに諦めてしまったのに、彼女は想い続けいたんだから。……私はね、武部さん。エリカが失明して、そしてみほがいなくなってしまってから、ずっと自分を騙して生きてきたんだ。戦車道を続けることによって、傷つけてしまった大切な後輩と、死んでしまった最愛の妹と、繋がっていられるって信じてね。……でも、そんなことはなかった。私はただ、逃げ場が欲しかっただけだった。辛い現実から目を逸らすための何かが欲しかった。それが、西住流で、戦車道だった。でも、そんな考えで戦車に乗り続けていくうちに、私はいつの間にか、戦車そのものが、だんだんと嫌いになっていった。自分が操っている戦車が、自分の大切なものをすべて奪い去った、そんな気さえしてきた。それでも私は戦い続けた。人として大切なものを失ってでも、西住の女として」
そこまで話すと、まほは力を必死に振り絞るようにその場から立ち上がって、空を見上げた。
「でも、それも今日でおしまいだ。……今日、エリカの遺体を見て教えてもらったよ。私の現実というやつを。私が、すっかり戦車道へというものへのあらゆる熱意も尊敬も情熱も希望も失っているということがね。だからね、武部さん、私は――」
まほは、座り込む沙織の顔を見下ろした。とても疲れた、だが、どこか清々しさを感じる、そんな笑顔で。
「戦車道を、止めるよ」
「……まほさん……」
「そう決めたら、なんだか今まで感じていた重苦しさが、一気に解消された気がするんだ。西住流なんてもう知ったことか。あんな流派、私の代で絶えてしまえばいいんだ」
まほの笑顔は、それが心からの発言であることを容易に沙織に伝えた。沙織は、まほになんて言えばいいかしばらく考えたあと、なんとか重い口を開いた。
「……それで、本当にいいんですね?」
「ああ、もう決めたことだ」
やはりまほの言葉には迷いがなかった。こうなった以上、沙織もこれ以上口出しすることができないだろうということが、よく分かった。だから、自分にできることは、せめて彼女の今後の人生を応援することぐらいだった。
「……そうですか、ぜひ頑張ってください。でも、これからどうするんです? 戦車道をやめてからの人生設計とか、あるんですか?」
「そうだなぁ……まあお金のことは心配ない。今まで散々稼いだから一生分ぐらいはあるはずだ。そのお金で……そうだなぁ、せっかくだ。カレースナックでも開いてみようかな。私の人生、戦車以外はすっからかんだから、残ってるものなんて好きな食べ物ぐらいしかないしな」
まほはそこで大きく背伸びをすると、ゆっくりと踵を返し沙織に背を向けた。
「それじゃあ武部さん。私は会場に戻るとするよ。こういう新しい門出をした日には、飲むに限るしな。愚痴に付き合ってくれてありがとう」
「はい」
そしてまほは、玄関から会場へと戻っていった。そのまほの後ろ姿は、どこか哀愁漂うものだった。
そして、そのまほと入れ違いに、新たな人影が現れた。美帆だった。沙織はその姿を確認すると、素早く立ち上がった。
美帆は一見すると、今までと変わりないように見えたが、その顔つきだけは以前とはまるで別人だった。あの太陽のように眩しかった笑顔は今では視る影もなく、冷たい無表情で、目の下にたっぷりと隈を蓄えていた。瞳も、かつての輝きが失われ仄暗い暗闇が垣間見える。
「沙織さん……今の人、西住まほさんですか?」
「う、うん……」
美帆の声は重たく暗い。沙織が知っている美帆と本当に同一人物かと疑いたくなった。
「へぇ……沙織さん、やっぱ交友の幅広いんですね。ま、どうでもいいことですけど」
「…………」
「……沙織さん、私、決めましたよ」
「……決めたって、何を?」
沙織は聞くのを一瞬躊躇ったが、なんとか勇気を出して聞いた。
なぜだか、聞くことを随分と恐ろしくさせる、そんな迫力が、美帆にはあった。
「私……高校は、黒森峰に行きます」
「えっ……?」
その告白は、沙織にとって驚くべきものだった。確かに、中学から高校になって、別の学園艦に移るのはおかしなことではなかった。だが、いまや戦車道強豪校となった大洗を蹴って、黒森峰に行く理由がイマイチ掴めなかった。さらに、美帆のその言葉には、何か並々ならぬ決意を沙織は感じ取ったのだ。
「どうして……?」
「以前、エリカさんが言っていたんです。黒森峰を優勝させることができなかったことが心残りだ、って。だから、私が黒森峰を立て直すんです。エリカさんの戦車道によって、かつてエリカさんを捨てた黒森峰を」
沙織にとって、それは初耳だった。エリカがそんなに黒森峰に未練を持っているようには、この十二年間一度も感じさせなかった。せいぜい、少し過去を懐かしむ、そんな程度だったはずだ。
「えりりんが、そんなことを……? でも、どうして美帆ちゃんがそこまでして……」
「……エリカさんは、私が殺したようなものですから」
「そんな、あれは不幸な事故で――」
「違うんですよっ!!!」
美帆が突然大声を出したものだから、沙織は驚きビクリと肩を震わせた。美帆は、顔中に皺を作るほどに顔を歪め、歯を今にも割れんばかりに噛み締めている。
「私が、私が道路に飛び出さなければエリカさんは死ぬことはなかった! 私が、私がエリカさんを殺したんだっ! 私が、私さえいなければ、エリカさんは死ぬことはなかった……」
その剣幕は、とても声をかけられるようなものではなかった。しかし、美帆は途端に無表情になったかと思うと、カパッと目を大きく見開いて、ぽつりと呟くように語り始めた。
「……でも、エリカさんは最後に、私の名前を呼んでくれた。私の手を握り返してくれた。私のことを、私のことを一緒にいたいと言ってくれた。だから私はエリカさんのもの。私の人生は、エリカさんのためにある。私が証明しないと。エリカさんの戦車道を、エリカさんの人生を。私の人生を使って、エリカさんがこの世に生きた証を打ち立てないと」
その様子は、控えめに言って狂気だった。エリカが本当に彼女の名を呼んだのかは分からない。しかし、美帆は少なくともそう思い込み、人生のすべてをエリカのために捧げようとしている。その姿が、沙織にはとても恐ろしく見えた。
「……み、美帆ちゃん……」
「私はエリカさんを愛しています。だから私は、エリカさんのためにすべてを捧げるんです。そうすれば、きっといつか、エリカさんは私を愛してくれる。私の愛が、いつかあの人に届く。そんな気がするんです。そのためなら、私はなんだってします。どんな外道と言われようと、どんな非道と言われようと、戦車道で勝利をもぎ取ります。黒森峰を、かつての栄光の座に引き戻してみせます。それが、私にできる、愛の形ですから」
沙織にはもうそれ以上耐えられなかった。沙織は、その場から逃げ出すように走りだした。美帆の様子が恐ろしいというのもあったが、それ以上に、悲しかったのだ。叶わない恋心を抱えて狂っていく姿が、まるで、かつてのエリカを見ているようで。
生命は繋がっている。
過去にエリカがそんなことを言っていたと沙織は記憶している。だが、こんなつながり方、あんまりじゃないか……!
沙織は泣いた。泣くことしかできなかった。泣きながら会場に入ってきた沙織を誰もが見たが、気にすることはなかった。
そんな沙織の様子を見かねてか、華が静かに近づいてきた。
「沙織さん……どうかなさいましたか?」
「……ううん、なんでもない、なんでもないの……」
沙織は先ほどのことを話そうとは思わなかった。話してどうなることでもないし、それに、このことは自分の胸に秘めておくだけでいい。こんな気持ちになるのは、自分だけで十分だと、そう思ったから。
「……そうですか」
華はそんな沙織の様子を見て、すべてを察したかのように、その柔らかな胸で沙織の頭を包み込んだ。
「……でも、今は好きなだけ泣いていいんですよ、沙織さん」
「うん……うん……!」
沙織は、微笑んですべてを受け止めてくれる華の胸の中、ただ、さめざめと泣き続けた。
◇◆◇◆◇
「ん……」
エリカは暖かい風に吹かれながら、ゆっくりと瞳を開いた。
ぼやける視界には、誰かの頭らしきものが朧げに映っている。
「おはよう、エリカさん」
だんだんと視界がはっきりしていった。そこにいたのは、みほだった。
「……おはよう、みほ」
と、そこで、エリカは自分の頭が柔らかい感触の上に置かれているのに気がつく。どうやら、みほに膝枕をしてもらっているらしかった。
「私、どれくらい寝てたの?」
「別に、そんな長い時間じゃないよ」
「そう……」
みほの頭の上には、緑色の葉っぱが広がっており、そこから木漏れ日が差し込んでいた。エリカは自分たちが今、一本の木の下にいることを知った。
小鳥たちの歌声が聞こえ、風は相変わらず優しくエリカを撫でる。とても気持ちのいい環境のせいか、エリカに再び眠気が襲ってきた。
「ふわぁ……」
「エリカさん、また眠たいの?」
「ええ、さっき起きたばっかりなのに、変ね……」
「いいよ。またゆっくりと眠っても。ここでは、何をやってもいいんだから……」
みほのその言葉を聞くと、さらにエリカを襲う眠気は強くなる。
エリカはお言葉に甘えて、再び眠りにつくことにした。
「……みほ」
薄れゆく意識の中、エリカはふとこれだけは伝えなくてはと思って、口を開いた。
「……何、エリカさん」
「……愛してるわ」
「……うん、私もだよ。エリカさん」
そうしてエリカは、ゆっくりと、再び静かに眠りについた。