【完結】光ささぬ暗闇の底で   作:御船アイ

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第13話

 一週間後、とうとう黒森峰とサンダースとの試合が始まった。サンダースは予想した通り、軽戦車と中戦車を中心とした、数と機動力を活かした部隊編成だった。試合前の下馬評においては、黒森峰の不利、去年の試合の再現などと囁かれていた。しかし、美帆はその周囲の予想を見事に裏切った。美帆は、サンダースの戦車の動きを完全に予測し、相手の戦車と自軍の戦車をそれぞれ一対一、または多対一の状況へと誘いこみ、着実に一両ずつ撃破していった。そして、相手が数での優位を保てなくなり陣形が崩れたところをついて、一斉に攻撃。敵フラッグ車を的確に射抜いた。

 結果、全国大会準決勝において、黒森峰はサンダースに勝利し、去年の雪辱を果たした。

 試合終了後の挨拶のあと、演習場の中戦勝ムードに浮かれる他の隊員たちを尻目に、梨華子に後を任せ、美帆はその場から離れていった。

 美帆にとっては、去年のリベンジができたとは言え、それは当然の勝利だった。なぜなら、目標は最初から優勝であるからだ。それゆえ、例え昨年負けた相手に打ち勝ったとしても、それは通過点でしかなかった。

 確かに、まったく嬉しくないと言えば嘘にはなる。だが、それよりも美帆は次の試合を見据えていた。美帆は素早く撤収し、次の相手がどこの学校になるかを見定め、勝利への方程式を練らなければいけない。そのためには、一足でも早く帰らなければ。

 

「ヘイ! そこのお嬢さん!」

 

 そのときだった。美帆は突如横から声をかけられた。とても明るい声だった。

 美帆が声をした方向を向くと、そこにはブロンドの髪を靡かせた快活そうな女性が立っていた。顔立ちは整っており、体型もグラマラスと言う言葉が合う女性だった。

 美帆は、その女性に見覚えがあった。

 

「あなたは……」

「どうも、私はケイ! よろしくね!」

 

 そう、確かケイと言った。月間戦車道で何度か顔を見たことがある。プロリーグで活躍中の、とてもフェアプレー精神に溢れた選手だとか。

 ケイは美帆に向かってビシッと手を伸ばしてきた。どうやら握手を求めているらしい。美帆は手を出さないのも失礼かなと思い、渋々ながらもケイの手を握った。すると、ケイは腕がちぎれんばかりの勢いで、ぶんぶんと握手した手を上下に動かした。

 

「どうも! サンキューね!」

 

 ケイが勢いにまかせて手を放すものだから、美帆はつい転びそうになってしまうも、なんとか堪えその場に踏みとどまった。

 

「……っ」

「いやーお嬢さん! さっきの試合見事だったわね! 久々に母校の試合を観に来たら、まさかあんな試合が見れるなんて思わなかったわ!」

「……そうですか」

 

 プロ選手に褒めてもらえるということは光栄なことではある。だが、美帆はそれよりも、目の前の女性の太陽のような明るさが、逆に美帆にとっては眩しすぎて直視することができなかった。

 

「……私は、自分にできる最善を尽くしただけですから」

「それでもよ! よくあそこまで動きを予測できたわね! あそこまで相手のことを研究しつくせる事なんて、プロでもそうそう見ないわよ!」

 

 何なんだろうこの人は。どうして私のことをここまで褒めてくれるのだろうか。仮にも自分の母校を打ち負かした相手だというのに。

 美帆はケイの事が不思議でならなかった。ケイとしては、それは純粋な感嘆と善意から来ているのだが、美帆がそのことに気づけるわけもなかった。

 

「……それはそうと、あなたは大丈夫?」

「……はい?」

 

 突然の発言に、美帆は思わず失礼な声を上げてしまった。

 一体、何が大丈夫だと言うのだろうか?

 

「試合中キューポラから頭を出すあなたを見ていたけど、とてもつまらなさそうな顔をしていたわ。戦車道ちゃんと楽しめてる? 駄目よ、ちゃんと心から戦車道を楽しまないと。戦車道は戦争じゃないんだから! ザッツ戦車道!」

 

 その言葉に、美帆は胸の内になんだかムカムカとしたものがこみ上げてくるのを感じた。

 何を言っているんだこの人は。人がどんな気持ちで戦車道に向き合っているのかも知らず、よくいけしゃあしゃあとそんなことが言えたものだ。

 美帆は今にも表にあふれ出てしまいそうな自分の中のマグマをなんとか抑えこむと、ケイに背を向けて歩き出した。そして、ケイの顔を見ずに言った。

 

「ご教授ありがとうございます。大変参考になりましたよ。でも、一つだけ異論があります」

「異論?」

「ええ。私にとって……戦車道は、戦争なんですよ」

 

 そう、これは戦争だ。エリカさんの生の証を立てるための、決して負けることのできない戦争なのだ。

 美帆はケイに一切振り返らず、その場を去っていった。ケイの視線が自分の背中を見続けているのを感じながら。

 次の対戦相手が大洗に決まったのを知ったのは、そのすぐ後のことだった。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 黒森峰の学園艦は、戦車道全国大会の決勝戦を前にして、地元である熊本に寄港していた。点検や資材搬入などを兼ねた、三日に渡る滞在だ。

 美帆は熊本に寄った初日の訓練は休みにしていた。隊員達にも地元での休息が必要であると判断したことと、それになにより、美帆には熊本に寄りたい場所があったからだ。

 そこは、どこにでもあるような墓地だった。

 

「…………」

 

 美帆は黒森峰の制服姿で、とある墓前を前にしゃがんで手を合わせ、線香に火をつけていた。その墓には、こう刻まれていた。『逸見家之墓』と。

 そう、美帆は今、エリカの墓参りに来ているのであった。

 美帆は学園艦が熊本に寄港すると、必ずこうして墓参りに来ていた。だから、美帆は墓参りに来ている回数で言うなら、遺族よりも多く訪れている自覚があった。

 そのため、エリカの墓は他の墓と比べても綺麗に磨かれていた。もちろん、掃除をしているのは美帆だ。

 美帆はしばらくの間手を合わせていたが、やがて目を開き、両手を膝においてゆっくりと立ち上がった。

 

「……いよいよ、いよいよですよ。エリカさん。いよいよあなたの戦車道を、全国にしらしめるときが来ました。去年は失敗してしまいましたが、今年こそは、必ずや黒森峰を優勝させてみせます」

 

 美帆は握りこぶしを作りながら墓に向かって呟く。周囲の人影はまばらで、誰も美帆を気に留めようとしない。

 美帆の手が小さく震える。それは美帆がエリカの墓の前に立つと、毎回起こることだった。エリカの墓の前では、美帆はエリカと過ごした日々と共に、思い出したくもない嫌な記憶を夢で見る以上に思い出すからである。

 雨の中、大切な人が、頭を真っ赤に染めながら横たわっている姿――。

 

「――ふぅ……」

 

 美帆はなんとか呼吸を整える。とても嫌な感じが心の中で泥のように残っていたが、美帆はなんとかそれを見ないふりでいようとした。

 こんな思いをしながらも毎回エリカの墓参りに来るのは、美帆の中で罪悪感が未だ重くのしかかっているせいであるかもしれない。それとも、未だに捨てきれないエリカへの未練か。どちらにせよ、美帆にとっては気持ちのいいものではない。

 美帆は時間をかけて完全に呼吸を元に戻すと、墓のすぐ側においてあった柄杓を入れた桶を手に取り学園艦へと帰ろうとした。

 と、そのときであった。

 

「あ、君は……」

 

 美帆の背後から、美帆を呼び止めるかのような声がしたのだ。美帆は何かと思い振り返ると、そこには、美帆も驚くべき人物がいた。

 そこにいたのは、かつての戦車道界隈においてもトップクラスの腕前を持ち、名門一族の生まれでありながら、突如界隈から姿を消した人物が――西住まほが、美帆と同じく、柄杓の入った桶を持って、そこにいたからだ。

 

 

 どういうなりゆきか、美帆は今まほが経営しているというカレースナック『ゴン』へと訪れていた。まほにあったのは驚くべきことだったが、美帆は特に話すこともないため、そのまま帰るつもりだったのだが、いつの間にかまほに連れられ、カレースナック『ゴン』へと来る流れになってしまったのだ。

 

「いやあまさかこんなところで君に会えるなんて思っても見なかったよ。確か、一度エリカの葬儀のときに会っていたよな? そのときに顔は覚えていたんだが、話せずじまいで気になっていたんだ」

 

 まほは嬉しそうな様子で話しながら、厨房のほうでせわしなく動いていた。そして、大きな鍋におたまを入れてかき混ぜると、そこからおたまでカレーを取り出し、それを予め用意してあったご飯の上にかけていた。

 そして、そのまままほはそのカレーライスを美帆が座っているカウンターへと置く。

 

「はい、どうぞ。当店自慢のカレーライスだ」

「は、はぁ……」

「ん? どうした? カレーは嫌いだったか?」

「い、いえ。そんなことは……」

 

 どちらかと言えば、美帆もカレーは好物だった。だが、突然連れて来られてカレーをお出しされて困惑するなという方が無理であろう。

 だが、一度出された料理を食べないわけにもいかない。美帆は、スプーンを手に取り「……いただきます」と一言口にして、カレーを口に運んだ。

 

「どうだ、おいしいか?」

「……ええ、まあ」

 

 確かに不味くはない。だが、平均的なカレーと言った感じで、とりわけ美味しいというわけでもない。正直、よくこれで店を構えられたものだと思った。もちろん、そんなことは間違っても口にはしないが。

 

「そうか、よかった。それにしてもその制服、黒森峰のじゃないか。確か私の記憶が正しければ、エリカの葬式のときは大洗の制服だったはずだが?」

「……中学まではそうでした。でも、高校からは黒森峰に移ったんです」

「……そうか、まぁ、人には色々事情があるものだろうしな」

 

 まほは、美帆の転校について詳しく問いただしてはこなかった。正直、美帆にとってそのことは有りがたかった。あまりそこら辺の事情を根掘り葉掘り聞かれるのは、好きではないからだ。

 

「高校では、どの学科に? 黒森峰にはいろいろあっただろう」

「……機甲科です」

「機甲科!? ということは、戦車道を履修しているということになるのか!?」

「え、ええ……」

 

 まほの驚いた様子に若干引きながらも、美帆は相槌を打った。すると、まほは「そうか……」と、急に落ち着いた様子になった。なんだか躁鬱の激しい人だな、と美帆は思った。

 

「実は私も戦車道をやっていてな」

 

 知っています。というかあなたほど有名な選手他にいません。

 美帆は心の中で突っ込んだ。

 だが美帆は話の腰を折らないように、あえてそれを口にはしなかった。

 

「長いこと戦車道一筋で生きてきたんだが……まぁ色々あってな、戦車道をやっていることが辛くなってしまった。そして、エリカの葬式に参列したときに、戦車道から足を洗うことを決意したんだ……。もう、随分と戦車道には関わってないなぁ。今の界隈がどうなっているか、さっぱりだ」

 

 まほは自嘲気味に笑った。

 過去を語るまほの目は、どこか遠い目をしていた。そのことが、目の前の人物が計り知れない苦労をしてきたことをよく表していた。この人は、どこか自分と似通っているのかもしれない。そんな気さえした。

 と、そこで美帆は思い出した。確か、まほはエリカの恩人にあたる人間であったことを。美帆はそのとを思い出して、何となしに、エリカの過去を知りたくなってしまった。

 だから美帆は、失礼になるのを承知で、まほに質問することにした。

 

「あの……まほさんは、エリカさんと親しい仲だったんですよね?」

「ん? そうだな……少なくとも、私はそう思っていた。だが、今思うとただの勘違いだったのかもしれないな。私は、あいつのことを何も考えてやれなかったんだから……」

 

 まほが伏し目がちになる。やはり、エリカの話題はまほにとっても辛い過去になっているようだった。しかし、美帆の好奇心はもう止まらなかった。

 

「もしよかったら、エリカさんのことを詳しく聞かせてもらえませんか? 私、知りたいんです。私と出会う前のエリカさんのことを」

 

 美帆は真剣な眼差しでまほを見つめる。その意志がまほにも伝わったのか、まほは美帆の目をまっすぐに見返し、柔和な笑みを浮かべた。

 

「そうだな……どうやら君はエリカと親しかったようだし、話してもいいだろう。――エリカはな、黒森峰で副隊長として、私の右腕を努めてくれたんだ。口が悪い部分はあったが、根は真面目で、とても努力家だった。だからこそ、私はエリカに黒森峰の隊長を任せたんだ。だが、それが原因でまさかあんなことが起こるなんてな……」

 

 あんなこととは、恐らくエリカが失明した事件のことであろう。そのことは、美帆もエリカから教えられていたため知っていた。

 まほは苦虫を噛み潰したような顔になりながらも、更に話を続ける。

 

「それで、その後お見舞いに言ったんだが……そのとき、私はあいつにひどいことをしてしまってな。随分とあいつを傷つけてしまったよ。今でも後悔している。もっと、あいつのことを考えて接するべきだったとね。その後、みほが救ってくれなかったらどうなっていたことか――」

 

 みほ?

 美帆はその一言に引っかかった。

 なぜ突然自分の名前が? いや、それは自分の名前ではないはずだ。話の脈絡的にも自分が出てくることはおかしいし、そもそもまほは自分の名前を知らないはずだ。その証拠に、まほはこの店に呼び出してから、一度も美帆の名前を呼んでいない。

 あまりに不思議なその出来事に、美帆は聞かずにはいられなかった。

 

「あの、みほって……」

「ん? ああ、すまない。みほというのは、私の妹でな。私と違って大洗で学校生活を送っていたんだが、エリカが失明したときに一緒に同居しようと持ちかけて、そのままエリカはみほと一緒に大洗に行ったんだ。話によると、大分エリカはみほに救われたらしい」

 

 美帆は思い出す。エリカには、自分ではない、大切な人がいたことを。もしそれが、みほという少女のことだったら? 自分と同じ名をもつ少女が、エリカにとっての大切な人だったとしたら? 美帆の中に、嫌な予感がどんどんと大きくなっていった。もしそうだとしたならば、エリカにとっての大切な人と同じ名を持つ自分のことをどう思っていたかが、一気に変わってくることになる。

 もしそうだとしたら、美帆は今まで大きな勘違いをして生きていたことになる。そう、最後に名前を呼ばれたのが、『自分ではない』かもしれないのだ。

 そうだ、そのみほという人はどうなったんだ? エリカは言った。大切な人はいなくなってしまった、だからその人のことをずっと待っていると。

 ならば、その人は今どこにいる? エリカがそれほど恋焦がれていたほどの相手が、エリカを捨てて、一体どこに?

 知りたい。いや、知らなければならない。そんな義務感にも似た関心が、美帆の心に沸いて溢れ出てきた。

 

「あの……そのみほって人は、今どこで何をやっているんですか? エリカさんを置いて、一体どこに……?」

 

 そのことを聞いた瞬間、厳しい表情だったまほの顔が、さらに厳しく、暗くなった。そしてまほはしばらく躊躇った後、重い口をゆっくりと開いた。

 

「……死んだよ。十五年前にな。川で溺れた子供を助けようとして、そのまま流されてしまったんだ。遺体は、今でも見つかっていない」

 

 

 ……え?

 

 思いがけない答えに、美帆は凍りついた。

 死んでしまった。そこまではいい。でも、『十五年前』に、『川で溺れた子供』を助けて?

 まさか、いや、そんな馬鹿な。ありえない。だが、もしかしたら――

 

「あの、それって十五年前の、いつ頃の話なんですか……?」

「そうだな……だいたい、夏頃だったはずだが……」

 

 ああ、そうだ。私が溺れたというのも、ちょうど、十五年前の、夏だ。

 じゃあ、エリカさんの大切な人の命を奪ったのって――

 

「……ありがとうございます。ごちそうさまでした」

 

 美帆は力なく立ち上がると、財布の中から一万円札を取り出し、それをカウンターに叩きつけて、ふらふらと幽鬼のように店から出ていった。

 

「あ、ちょっと! ……突然どうしたんだ? それにしても、お代なんて、いらないのに」

 

 

 美帆の頭の中で、先程まほが話したことがぐるぐると回っていた。

 エリカの想い人の名前は、自分と同じ発音をする“みほ”だった。

 そしてその“みほ”は、川で溺れた子供を助けていなくなってしまった。

 たったそれだけの事実。だが、あまりにも戦慄すべき真実。

 いや、まだだ。まだ本当と決まったわけではない。

 美帆は、必死にまほから聞いた話を頭の中で否定した。そうだ、まほの話が本当の事を語っていたとは限らないじゃないか。だってまほは、エリカが退院してからのことを伝聞でしか知らないんだから。もし、他に当時のことに詳しい人間がいて、その人間も同じことを語れば、それを信じざるをえないが、他にそんな人物なんて――

 

「……いた」

 

 美帆の頭の中に、一人の人物が頭に浮かんだ。当時のエリカのことを、恐らくまほ以上に詳しく知っている人物が。

 そして、その人物は恐らく今の美帆でも少し距離はあるがおそらく簡単に会うことができる。

 ……どうする?

 ちょうど学園艦は三日間ほど停泊しているから、時間に関しては問題ないだろう。相手方の都合さえ会えば、簡単に事の真相を聞き出すことができるはずだ。

 だが本当にそれでいいのか?

 美帆の脳内にこれ以上踏み込んではいけないという警鐘が鳴り響いていた。だがそれ以上に、真実という禁断の果実の誘惑が、目の前で強烈に美帆を惹きつけていた。例えそれが開けてはいけないパンドラの箱でも、美帆は手を伸ばすことを堪えることができなかった。

 美帆は携帯を手に取ると、電話帳から一人の名前を探した。それは梨華子だった。梨華子の名を見つけると、美帆はそのまま梨華子に電話をかける。すると、梨華子は二コールもしないうちに電話に出た。

 

「もしもし、梨華子ですか? 私です」

『はい隊長、何か御用ですか?』

「ええ、明日の訓練なのですが……私は少々込み入った事情が出来、参加することができなくなりました。なので、明日の訓練を任せていいですか?」

『はい問題ありませんが……珍しいですね、隊長が訓練に出られないなんて』

 

 電話越しからも梨華子が不可解な面持ちでいることが分かった。

 美帆はできるだけいつもどおりに受け答えをする。

 

「ええ、私も歯がゆく思っています。ですが、どうしても外せない事情でして……本当に申し訳ありません」

『えっ!? いや、気にすることないですよ! そうですよね、隊長だって人間なんですから、そんな日もありますよね。分かりました、それでは明日の訓練、任せて下さい』

「ええ、お願いします。それでは」

 

 そこで美帆は電話を切った。そして、その後すぐに電話帳で別の名前を探しだすと、今度はその名前の主に電話をかけた。

 

「もしもし、お久しぶりです。東美帆です――」

 

 

 

 翌日、美帆は大洗へと足を運んでいた。目的の人物がいるのが、大洗だったからだ。

 しかし、まさか大会の前に大洗に足を運ぶことになるとは思ってもみなかった。ここに帰るときは、大会で優勝し、エリカの名を全国に轟かせてからだと考えていたから。

 美帆は炎天下の中、伝えられた住所へと向かっていった。大洗は彼女にとって地元であるが、学園艦生活が長かったのもあって、たどり着くのに少々時間を要した。だが、約束の時間にはたっぷりと余裕を持たせてはいたため、さほど問題はなかった。

 指定された場所へと辿り着く。そこは、そこそこ裕福な家庭が家を構える住宅街で、目的の場所もその中にある一軒家の一つだった。偶然なことに、そこは美帆の家からそれなりに近い場所であった。とは言え、初めてくる場所であり、昔自宅から小学校に通ったルートからは外れていたために、あまり地理には詳しくなかったのだが。

 美帆は玄関の横に取り付けられたインターホンを押し、自分の名前を告げる。するとしばらくして、目の前の扉がガチャリと開いた。

 

「……こんにちは、美帆ちゃん。久しぶりね」

「はい、お久しぶりです。――沙織さん」

 

 その家の主は武部沙織、かつてのエリカの友人の一人であり、美帆がエリカと一緒に仲良くしていた大人だった。

 

「ささ、早く中に入って。今日は暑いから、あんまり外にいると熱中症になっちゃうよ?」

 

 沙織は笑顔で美帆を迎える。美帆もそれに甘え、早々と沙織の家に上がった。家の中はクーラーがよく効いており、快適な温度だった。

 美帆は沙織に案内されて、リビングへと連れて来られた。広々としたリビングには大きなテレビや高級そうなソファーが置いてあり、家庭の裕福さを表していた。

 

「あ、ちょっと待っててね」

 

 沙織はそう言って少しの間リビングから姿を消したかと思うと、何事もなかったかのようにリビングに戻ってきた。

 

「ごめんなさい、ちょっと子供がちゃんと寝てるか確認したくて」

「お子さん、いるんですね」

「うん、今年で三歳になるんだ。かわいいんだよー!」

 

 満面の笑みで語る沙織に、美帆も思わず和やかな気持ちになりかける。だが、そこでここにきた理由を思い出し、気を引き締めな直した。

 

「それで沙織さん。今日訪ねてきたわけですが――」

「うん、わかってるよ。……みほのこと、でしょ。……まあ、座りなよ」

 

 真面目な顔をした沙織に促され、美帆は近くのソファーに腰掛ける。そして沙織は、ちょうどその正面にくるように置かれているシングルソファーに座った。

 

「電話で聞いたときは驚いたよ。まさか美帆ちゃんからみほの名前が飛び出してくるなんて。……でも、おかしくはないことなんだよね。エリカの事を調べようと思ったら、いつかは行き当たることだろうから……エリカとずっと一緒にいた美帆ちゃんには、聞く権利があると思う。それで、何を知りたいの?」

 

 いたって真剣な口調で美帆に話しかける沙織。その視線を向ける沙織の顔つきを、美帆は今まで見たことがなかった。ただ底抜けに明るい人だと思っていたが、こういう真面目なところもちゃんとあるのだなと、失礼ながらに思った。

 

「はい……みほさんとエリカさんの関係、そして、みほさんがその……いなくなったときの事を」

 

 美帆はなるべく死んだという言葉を使いたくなかった。それを認めてしまったら、まほの話を本当に認めることになってしまいそうで、嫌だったから。

 これから事の真相を聞くというのに、おかしなことであると、美帆は内心自分を蔑んだ。

 

「そうだよね、やっぱりそこが気になるよね……。そうだね、みほとエリカは……とっても深い絆で結ばれていたと思う。私達よりもずっと前から友達で、戦車道のことでぶつかったりもしたことがあったけど、それでも、エリカを助けるみほと、みほに助けられるエリカ、その二人の間には、私達が入っていけないような深いところで繋がってた、そう思ったよ。それに……多分、エリカはみほのこと、好きだったんじゃないかって思うの。もちろん、恋愛的な意味でね。そうでなきゃ、十二年間もみほのこと待ち続けるなんて、できないから……。エリカにとっては、みほがいなくなったことがとてもショックだったんだ。多分、私達よりも何倍も。でも、待ち続けた。みほが帰ってくるって信じて……。

 ええと、それでね、そのみほがいなくなった日のことだけど……その日、実は私も一緒にいたんだ。みほはちょうど私達とこの大洗で遊んだ帰りに、川で溺れた子供を見つけたの。はじめにその声を聞いたのは私だった。とても小さな声だったけど、助けて、助けてって声が聞こえてきて。そしてその声の方を見たら小さな子供が川で溺れちゃってたんだ。私、それを見たらパニックになっちゃって。でもみほの行動は早かった。すぐさま川に飛び込んで、その子を抱えると、川岸で見ていた私のところまで運んできた。そして、みほが私にその子供を手渡してきたから、私はなんとかその子供を掴んで助けだしたの。そして、次はみほの番ってなったときに、みほが足をつって、そのまま、川に流されちゃったんだ……今でも覚えているよ、みほが汚れた水の中にどんどんと沈んでいく姿を……。そしてそれっきり、みほは、いなくなっちゃった……」

 

 沙織はそこで口をつぐんだ。その目には、今にも溢れ出しそうな涙が溜まっていた。

 そして美帆は、そこまで聞いて確信した。

 これでもう疑いようがない。すべて、真実だったんだ。エリカの想い人はみほという人で、その人は私のせいで死んでしまっていたということが。

 美帆は、ゆらりとその場から立ち上がった。その体には力がまったく入っておらず、目はどこを見ているか分からないほどにぼんやりとしている。

 その様子に、沙織は不審に思い、恐る恐る声をかけることにした。

 

「み、美帆ちゃん……?」

「……ねぇ沙織さん。その助かった子供、どうなったと思います?」

「え?」

 

 沙織は質問の意味が分からず、動揺する。

 それ以上に、美帆の雰囲気が先程までとは打って変わって、何かとても恐ろしいことになっている、そんな気がした。

 

「……その子はね、ずっと助けてもらったことに感謝しながら、自分も誰かのためになりたいと必死に生きてきたんですよ。でもね、誰かのためになるどころか、その子が初めて恋した人の命を奪っていたとしたら……どうします?」

 

 そこまで聞いて、沙織はハッとした。

 

 まさか、そんなことが。

 

 沙織もまた、言葉にしがたい混乱に襲われた。そんな偶然が、本当にあるだなんて。

 その信じがたい運命の悪戯が、今こうして目の前に現れていることにただただ絶句するしかなかった。

 そして、自分がとんでもない過失を犯してしまったことに気がついた。

 

「……本当に、滑稽ですよね。私の人生って、何もかもが、本当に、滑稽……」

 

 美帆はそこまで言うと、その場から凄い早さで駆け出していた。沙織は一瞬反応が遅れるも、美帆の背中を追いかける。

 

「まって、美帆ちゃん!」

 

 そのときだった。子供を寝かしつけている寝室から「うわああああん!」という泣き声が聞こえてきたのだ。

 沙織はその泣き声に気を取られ一瞬後ろを向く。そして、次に沙織が振り返ったときには、美帆はもう影も形もなくなっていた。

 

 

 美帆は自分がどうやって自分の部屋に戻ったのか分からなかった。気がついたら、大洗から自分の部屋にいたのだ。外は完全に夜の帳が下りており、部屋の中も真っ暗だった。

 美帆は電気も付けずにその場に立ち尽くすと、片手で自分の顔を覆うように抱える。

 

「あ、ああ……私、私、なんてことを……」

 

 私がエリカさんの想い人の命を奪った。エリカさんは当然そのことを知っていたはずだ。それなのに、エリカさんは私に優しく接してくれた。

 本当に? 本当に、優しかった?

 実は心の底では、私を憎んでいたのではないか? 私と一緒に生活することで、復讐の機会を伺っていたのではないか? そうだ、そう考えるのが自然だ。

 それに、エリカさんが最後に呼んだ名前。それは、“美帆”ではなく“みほ”だったのではないか? そうだ、最後に手を掴んだのも、私の手を掴んだのではなく、その人の手を掴むつもりで、手を握ったのではないか。

 ああ、そうだ。思い出した。エリカさんは最期のときにこう言ったんだ。『みほ……あなた、ずっと私と一緒にいてくれたのね……?』と。ずっと一緒にいたのは私じゃない。“みほ”さんだったんだ。

 じゃあ、私がこれまで心の支えにしてきた、私の行動原理のすべてだった、あのときの想いは、願いは、一体何だったというんだ……?

 人を助けたいという気持ちは、エリカさんの生きた証を打ち立てたいという気持ちは、一体……?

 

「あ、ああ……」

 

 人の命を二度も奪っておいて、私に生きている価値はあるのか? 愛する人から愛する人を奪い、さらに自分の愛する人まで殺めて。そんな私に生きる価値が存在するというのか? いや、そんなものはない。

 そうだ、私に生きている価値なんてないんだ。私が生きているなんて、なんておこがましいのだろうか。死のう、死んでしまおう、今すぐに!

 美帆は台所に向かって包丁を取り出す。そして、それを自分の喉元に当てた。あとひと押しすれば、喉を突き破り大量の出血と共に彼岸へと渡れるだろう。しかし――

 

「……やだ。いやだ……死にたくない。死にたくないぃ!!」

 

 美帆の手はブルブルと大きく震えだし、ガシャンと包丁を地面へと落した。

 嫌だ、死ぬのは嫌だ。怖い、死ぬのは怖い。

 それに、私が死んだら、みほさんとエリカさんの死はどうなる? まったくの無意味と化してしまうではないか。それだけは、駄目だ。二人が命を投げ捨ててくれて私を救ってくれたのに、私まで死んでしまうなんて。

 しかし、なぜエリカさんは私を助けてくれたのだ? エリカさんにとって私は憎い相手だったはず。それなのになぜ? もしかして、みほさんが助けた命だから? 自分の恋する相手が救った命だから、嫌でも救わなくてはいけなかった? ああ、そうだとすると、やはりエリカさんの死は私が原因だ。私がエリカさんを殺したんだ。なぜそんな私が、のうのうと生きているんだろう。やはり死ぬしか、でも死ぬのはいけないことで――

 

「あ、あああああ、あっ、あっ、あっ、あああ……」

 

 美帆は自分の頭を両手で万力で押しつぶすかのように手で挟み込み、力を入れる。はちきれんばかりに見開いた目からは、だらだらと涙が溢れだしていた。

 

 死なないと。でも死んじゃいけない。でも死なないと。でも死んじゃいけない。死なないと。でも死んじゃいけない。でも、でも――

 

「うあああああ、あっあっあっ、あああ、あああっ、あああああっああああああああっあ、あっああっああああっああああ……」

 

 

 死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。

 

 

「う……あ、うわあああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!」

 

 その慟哭が、彼女の最後の叫びだった。

 次の瞬間、美帆はまるで糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。


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