【完結】光ささぬ暗闇の底で   作:御船アイ

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第14話

 梨華子は不安げな表情で、他の隊員達と共に整列していた。なぜそのような表情を浮かべているのかと言うと、理由は簡単で、未だに隊長である美帆が演習場にやってこないのだ。

 時間的余裕はまだある。しかし、美帆は誰に言われるまでもなく、いの一番に演習場に来ているのが常だった。それまで美帆よりも早く来たものがいないために、実は演習場に住んでいるのでは? とまで囁かれたほどだ。

 そんな美帆が、今までの黒森峰での戦車道において初めて、他人よりも遅れているのだ。何かあったのではと、不安になるなと言うほうが無理だった。

 どうやら不安がっているのは梨華子だけではなく、他の隊員達も同じだった。何かあったのでは? もしかしたら世界の終わりかもしれない。そんな話し声が聞こえてくる。

 いい加減、隊員達の不安もピークに達していた。

 そのときだった。

 カツカツと、軍靴の音を響かせながら歩いてくる人影が見えた。他の誰でもない、美帆だった。全員が、ひとまず美帆の無事に安堵する。

 だが、梨華子は違った。梨華子は、クリップボード片手に歩いてくる美帆の姿は一見いつもと変わらないが、どこか違和感があった。

 その違和感が何なのかと言われると答えられないが、とにかく、いつもの美帆とは違うことが分かった。

 梨華子が違和感を抱えたまま、美帆が整列する隊員達の前に立つ。美帆は隊員達を一瞥し、口を開いた。

 

「皆さん揃っていますね。それでは、少し早いですが訓練を始めましょう。その前に、皆さんに言っておかなければいけないことがあります」

 

 言っておかなければならないこと? 一体なんだろう。事前には何も連絡されてはいないが。梨華子は心の中で疑問符を浮かべた。

 

「次の大洗戦ですが、使用する車両を大幅に変更しようと思います。今までは重戦車中心の編成でしたが、次の大洗戦では重戦車の数を半分に減らし、その分軽戦車と中戦車を導入します」

 

 その発表に、隊員達はどよめきに包まれた。美帆の戦車隊の編成は、それまでは古典的な戦法を元にした重戦車中心の編成であった。そして美帆は、これまでどんな状況になろうとその編成を崩そうとはしなかった。もちろん次の大洗戦もそうだろうと全員考えていた。それが、まさかここにきてその編成を変更するとは、誰が予想していたであろうか。

 

「大幅な変更に伴い、皆さんのうち多くの方々に搭乗する戦車を変更してもらいます。申し訳ないとは思いますが、これまでも他の戦車を動かす訓練は積んできているはずですから、大丈夫ですね? それでは実際の車両の変更と、それに搭乗する隊員についてですが――」

 

 美帆が冷然と新しい編成について説明する。その結果、多くの隊員が今乗っている戦車から降り、新しい戦車に乗ることになった。そのこと自体に不満を言う隊員はいなかった。現在乗っている戦車に愛着を持っているのは確かだが、勝利のためなら仕方がない。黒森峰の隊員はそういう割り切りのできる隊員達だった。

 だが、梨華子は内心不満を持っていた。なぜ副隊長の自分に何の相談もせずにそんな重要なことを決めたのか。梨華子は今すぐにでもそのことを美帆に抗議したかったが、他の隊員達がいる前でそんなことを言うのは隊全体の士気に関わるため自重しておいた。

 そうして梨華子が胸中に不満を抱えながらもその日の訓練が始まった。最初は慣れない編成での作戦行動に苦労している姿が見て取れたが、すぐに順応していったあたりに隊全体の練度の高さが伺えた。

 そうしていくうちに訓練を終え、他の隊員達が帰っていった後、美帆と梨華子はいつものように小さな作戦会議室に篭っていた。

 梨華子は、そこで美帆に今日のことを問いただすつもりでいた。なぜ突然編成を変えたのか、なぜそのことを自分に相談してくれなかったのか、そもそもなぜ今日遅れたのか。

 聞きたいことは山ほどあった。もしかしたら美帆が休みを取ったあの日に、何かがあったのかもしれない。梨華子はそう睨んでいた。だがまずは、いつも通りに美帆にコーヒーを出すことにした。なるべく穏やかに話をしたかったからだ。

 梨華子はコーヒーメーカーで熱々のコーヒーを入れる。少し冷まさないと飲めないほどの熱さだ。

 

「はい隊長、コーヒーです」

「ええ、ありがとうございます」

「あ、熱いので少し冷ましてから――」

 

 梨華子が忠告しようとしたその瞬間、美帆はコーヒーをそのまま口に入れてしまった。そして美帆は、ぐびぐびとコーヒーを飲んでいく。

 梨華子は驚きを隠せなかった。もしかしてそれほど熱くないのでは? と思い、自分が持っているコーヒーを口にしてみたが、熱くてすぐさま舌を引っ込めてしまった。下手したら火傷しかねない。

 だと言うのに、美帆は気にせずコーヒーを飲んでいる。美帆は熱いのが平気なのだろうか? さらにそれに加えて、梨華子には気になることがあった。

 

「あの……隊長、砂糖とミルクは入れないんですか?」

 

 そう、美帆はいつもコーヒーがコーヒーと言えないほどに甘くなるぐらいに砂糖とミルクを入れてコーヒーを飲むのがいつものことだった。それは、梨華子が知っている美帆の数少ない癖のようなものだった。

 梨華子が聞くと、美帆はコーヒーを口から離し、マグカップをまじまじと見つめる。そして、

 

「ああ……そういえばそうでしたね。私は、コーヒーには砂糖とミルクを入れるのでした」

 

 と、残り少ないコーヒーに大量の角砂糖とミルクを入れた。多すぎてコーヒーに溶けきっていないぐらいだ。だが美帆はまったく気にせずにそれを啜った。

 梨華子はそんな美帆を見て、なんだか得体の知れない恐怖を感じ始めていた。目の前にいるのは、本当に美帆なのだろうか? いつの間にか、知らない人間と入れ替わってしまったのではないか? それだけではない。梨華子はその恐怖に加え、なぜだか美帆から生理的な嫌悪感を覚えていた。一体なぜなのかは分からない。だが、梨華子にとってそれは、よく知った嫌悪感であり、今日感じた違和感と繋がっている気がした。

 正直、この状況で今回の編成替えのことについて聞くのは躊躇われる。だが、知らなければ前に進めないとも思い、思い切って聞くことにした。

 

「あの、隊長……」

「なんですか? 梨華子」

「その……なぜ、今日急に編成を変えられたのですか? しかも、副隊長の私に黙って。そんな大事なことなら、一言ぐらい私に相談してくれてもいいじゃないですか。それに、なぜ今日遅れられたのでしょうか。何かあったのでは?」

 

 梨華子が質問すると、美帆は座りながらくるっと梨華子の方へと向き直った。梨華子を見つめてくるその目に、梨華子は恐怖を感じた。なので、梨華子はそっと目を逸らした。

 

「なぜ……ですか。特に大した理由ではありませんよ。大洗は軽、中戦車を中心に奇策によって勝利を勝ち取る学校です。その相手に、重戦車中心の編成では勝てないと踏んだまでです。勝つために編成を変えるのは当然でしょう? 何故伝えなかったのか、ですが、それを思いついたのが直前のことゆえ、伝えるタイミングがなかなかなかったためです。それに関しては謝罪します。今日遅れた理由ですが……恥ずかしい話、私は訓練直前までなぜだか倒れていましてね……過労かもしれません。それで遅れてしまったんですよ。隊長として不甲斐ないばかりです」

 

 淡々と事情を話す美帆に、やはり梨華子はおかしいと思った。美帆はそう簡単に自分の信念を曲げない人物のはずだ。美帆の中には確かな哲学があって、自分の戦車道を貫いてきた。だからこそ、去年敗退したサンダース相手にも同じ編成で挑んだのだ。

 それなのに、今の美帆は良く言えば柔軟に、悪く言えばなんの信念もなく勝利のために編成を変えた。隊長としては間違ってはいない判断ではあるが、美帆という人物を知っているとそれは間違った判断のように思えてくる。そこには、なんの感情も感じられなかった。そう、まるで機械のような――

 

「あっ……」

 

 そこで梨華子は気づいた。今まで美帆に感じていた違和感、恐怖、嫌悪感の正体を。

 美帆は、今日一日、まったく表情が変化していないのだ。存在していないとも言っていい。

 確かにいつもの美帆も、常に厳しい表情を浮かべ決して笑みを見せない人物だった。だが、表情がないというわけではなく、そこには微かだが、ちゃんと人間らしい感情の機微が見て取れた。

 それが今はどうだ。まるで人形のように、まったく顔を動かさないではないか。

 梨華子は昔から人形が嫌いだった。無機質なその顔が、怖くて気持ち悪くてたまらなかった。デパートの洋服売り場も、マネキンが苦手であまり近寄らないほどだ。

 今の美帆は、梨華子が嫌悪するその人形そのものだった。

 

「…………っ」

 

 梨華子は思わず後ずさる。すると、美帆は急にその場から立ち上がった。梨華子は怯え小さく「ひっ」という声を上げて肩を震わせる。だが美帆はそんな梨華子に目もくれず、自分の鞄を持ち机に広がっていた筆記用具をしまい始めた。

 

「今日は一足早く帰らせて頂きます。一人でゆっくりと大洗戦について考えたいので。もし具体的な作戦の草案がまとまったら、今度はちゃんと連絡しますので。それでは」

 

 そう言って美帆は帰っていった。一人取り残された梨華子は、へなへなと壁に背にもたれてその場に座り込んだ。

 美帆が休んだ日に何があったのかは、結局聞けずじまいだった。

 

 

 その日以降、梨華子は美帆とあまり話すことはなくなった。梨華子が、一方的に美帆を避けていたのだ。それでも、日々の訓練は何一つ不自由なく進んでいった。むしろ、以前よりも効率よく進められているようにすら思える。美帆は戦車道においては、以前以上の指揮能力を発揮していると言わざるをえなかった。それが逆に、梨華子の恐怖を煽った。まるで、戦車道のためだけの機械のように見えたからだ。

 機械と言えば、訓練中にとある出来事があった。その日、いつも通りに訓練を終えて、美帆が戦車から降車してきた。そのとき、同じ戦車に乗っていた搭乗員の一人が異変に気付いた。美帆の腕から、たらぁっと血が垂れているのだ。どうやら、戦車の中で怪我をしてしまったらしい。しかし美帆は、そのことをその隊員に指摘されるまで、なんと気がついていなかったのだ。怪我をしていると言われて初めて、怪我に気がついたのだ。まさにロボットのようで、梨華子は不気味がった。

 そうして梨華子が美帆に恐れを抱きつつも時間は流れていって、とうとう大洗との決勝戦の日がやってきた。

 大洗との決勝は苛烈を極めた。あの手この手の奇策を用いてくる大洗に、序盤黒森峰は苦戦を強いられた。血気盛んな隊員が敵の挑発に乗り、次々に撃破されていった。しかし、中盤からは美帆の指揮のもと、着実に大洗の戦車を軽戦車、中戦車の機動力を活かしながら各個撃破していき、その連携を崩していった。そして終盤には、黒森峰お得意の重戦車による装甲と火力差の暴力によって、敵のフラッグ車を討ち取った。もちろん、その状況に持ち込んだのは軽戦車および中戦車の活躍あってのものだった。そうこうして、黒森峰は全国大会において、悲願であった十七年ぶりの優勝を果たすことが出来た。

 隊員達は歓喜に震えた。各々が各々の健闘を讃え合い、あまりの嬉しさに涙を流すものが続出した。梨華子も、喜びを隠すことができず、同じ乗組員とお互い抱きしめあって余転んだほどだった。

 だが、一番その勝利を望んでいたはずの美帆だけは、いつもと変わらない無表情さで、一人その光景を見ているだけだった。

 祝賀会でも、美帆は変わらなかった。お祭りのような雰囲気の中、一人だけ沈黙しているのは異様としか言えなかった。その頃には誰もが美帆の異変に気づいていたが、皆言葉にできない恐ろしさを感じているのか、誰も美帆に近づこうとはしなかった。

 そんな中、慌てた様子の教師が、美帆のもとに駆け込んできた。そして、なにやら美帆に耳打ちをした。美帆は「わかりました」と一言言うと、すたすたと梨華子のところに歩いてきた。

 

「副隊長、すみませんがこの場を離れなくてはならなくなりました。後をよろしくお願いできますか?」

「はい。それはかまいませんが……何かありましたか?」

 

 その質問に、美帆はまるで人事のように、こう言った。

 

「妹がね、死んだんですよ」

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 沙織は傘を片手に住居近くの街中を歩いていた。夕食の買い物をするためである。

 空は曇り模様で、いつ降りだしてもおかしくないと天気予報で言っていた。そのため、念のために傘を持って外出したのである。

 

「やだもーやな天気! はやく買い物済ませて帰ろう」

 

 沙織は歩調を早め素早く目的地のスーパーへと行こうとする。そして、その道の途中にある公園の近くを横切ったときだった。

 ふと公園に目をやると、公園のブランコに見知った人影が見えたのだ。

 

「……美帆ちゃん? 美帆ちゃん!?」

 

 そこにいたのはなんと、美帆だった。美帆は公園のブランコを漕ぐわけでもなく、ぼおっとしながら座っている。

 沙織は驚愕しながらも美帆の元へと駆け寄った。すると、美帆も気付いたのか視線を沙織に向け、ガシャリとブランコの鎖を響かせながら立ち上がった。

 

「沙織さん……」

「美帆ちゃん! 美帆ちゃんなんだね! 会いたかったよー!」

 

 沙織は美帆を勢いよく抱きしめる。美帆は、それに対しなんの反応も示さず、ただ抱かれるままだった。

 沙織は美帆を離すと、嬉しそうでありながらもどこかつらそうな顔をして美帆を見つめた。

 

「よかった……私、うかつなこと言っちゃったってずっと心配してて……。もしかしたら、し、死んじゃうかもって心配してて……でもよかったぁ。美帆ちゃんが無事で」

「私が、死ぬ? なんでまた」

「……そうだもんね、美帆ちゃんはいい子だもんね。そう簡単に命を粗末にしたりしないもんね。そういえば、どうして大洗に?」

 

 その問いに、美帆は平坦な声調で応えた。

 

「ああ、妹の葬式があったので、それに出席するためにここに」

「え……?」

 

 沙織は、その発言に言葉を失った。

 妹が、死んだ? 美帆の妹が?

 突然打ち明けられたその出来事に、沙織は混乱してしまう。そして、まるで世間話をするかのように、身内の死を平然と離す美帆に、違和感を覚えた。

 

「妹さんが死んじゃったって……なに、それ」

「ええ、昔から体の弱い子でしたが、どうやら私が実家に帰っていない間に質の悪い病気にかかっていたようで。私を心配させまいと黙っていたらしいですが、とうとう限界が来てしまったようです」

 

 その話し方は、やはり家族が死んだばかりの人間のものとは思えなかった。そこで初めて沙織は、美帆が尋常ではない状態になっていることに気がついた。

 

「ねぇ……美帆ちゃん。一体、どうしちゃったの?」

「どうしたというと?」

「だって、おかしいよ! 家族が死んだって言うのに……そんな冷静でいられるなんて!」

 

 沙織が叫ぶと、美帆は少しの間考えた後「ああ」と声を漏らし、自らの両手に視線を移しながら話し始めた。

 

「それがね、おかしいんですよ。私、妹の美魚は心の底から大事に思っていたはずなのに、なぜだか悲しくないんですよ。葬式でも、両親は涙を流していたというのに私は泣けなくて。両親は『強い子ね』と言ってくれましたが、そんなんじゃないんです。ただ、わからないんですよ。悲しいという感情が」

「そんな……」

 

 美帆の告白に、言葉を失う沙織。

 美帆は、そんな沙織をまったく気にすること無く、自身についての告白を続ける。

 

「それにね、それだけじゃないんですよ。先日、念願だったはずの戦車道の全国大会で優勝したんですが、そのときもまったくもって喜びが湧いてこなかったんです。頭の中ではずっと、戦車道で勝利しなければならない、なんてことをずっと思っていたのに。絶対に勝たないといけない、それだけは分かっていたはずなのに、それを果たした後に何の感情も去来しなかったんです。いや、そもそもなぜ私は戦車道で勝たなきゃいけないと思っていたのか、それすら分からないんですが……。日々生きていても、喜びも怒りも哀しみも楽しさも何も、感じないんです。それに、それにですよ。さらには私、どうも感覚っていうものもなくしちゃったみたいで、痛みとか熱さとか冷たさとか、そういったものも一切分からなくなったんです。だから、日常生活を送るのがちょっと不便で……。ねぇ沙織さん。どうしてだと思います? 不思議なんですよ。不快とかじゃなくて、ただただ、不思議なんです。どうして今まで持っていたはずのものが無くなったんでしょうか?」

 

 一切表情を変えずに、そのことを語る美帆に、沙織はとても心苦しい気持ちになった。

 美帆の状態は、はっきり言って異常だ。感情も感覚も無くすだなんて、普通の人間では起こりえないことだった。

 どうしてそんなことになった? それを考えていくうちに、沙織は一つの要因が思い浮かんだ。考えたくない、一つの要因が。

 

「もしかして、私のせい……? 私が、エリカとみほの事について、話したから……?」

 

 沙織は美帆のことを改めて視界に移す。まだ二十歳にもなっていない少女。その少女に重荷を背負わせたのは紛れもない、自分だ。

 だが美帆はその沙織の一言に、美帆はゆっくりと首を傾げた。

 そして、美帆はまたしても、信じがたい一言を放った。

 

「エリカ……? みほ……? 誰です? それ」

「え……?」

 

 沙織は凍りついた。

 初めは何かの冗談だと思った。しかし、本当に不思議そうにしている美帆を見て、そんなことはないとすぐに分かった。

 

「みほは……私のことではないですよね、話の流れ的に。それにエリカ……初めて聞く名前です。誰なんですか?」

 

 美帆は沙織の目を見て聞いてくる。その目は、空っぽだった。何も映しだしてはいない、伽藍堂の瞳だった。

 

「あ、あああ……」

 

 沙織は想像以上に壊れてしまっていた美帆を前に、思わず後ずさりをして、そのまま尻もちをついてしまった。

 まさか、まさかここまでとは思わなかった。ここまで美帆がおかしくなってしまっていただなんて、想像もしていなかった。あれほどに想っていたエリカのことを忘れてしまうほどだなんて、そんな、そんな。

 

「大丈夫ですか沙織さん?」

 

 美帆は転んだ沙織に手を差し伸ばしてくる。だか沙織は、後悔と哀れみと恐怖がないまぜになった感情の渦に囚われており、その手に気づくことができない。

 そのとき、ぽつりと沙織の顔に水滴が落ちてきた。どうやら、雨が降り始めたらしい。雨は一瞬のうちに勢いを増していく。

 美帆は、天を仰いで雨粒を体中で受けた。

 

「おや、どうやら雨が降ってきたようですね……それでは、もっと激しくならないうちに私は帰ろうと思います。沙織さん、また会いましょうね」

 

 美帆は、沙織を一瞥すると、腰が抜けた沙織を尻目に、ゆっくりと歩いて公園から出て行った。

 沙織は雨の中、泥だらけになりながらも立ち上がることができなかった。そして、雨にまぎれて、静かにその瞳から涙を流した。


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