【完結】光ささぬ暗闇の底で   作:御船アイ

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第3話

 ヘリの重々しい扉が開かれる。ローターの回転によって巻き起こる突風に煽られながらも、エリカはみほと共に硬い地面に足をついた。

 場所は大洗女子学園艦ヘリポート。エリカは無事退院し、みほとの約束通り大洗へと訪れていた。

 

「エリカさん大丈夫? これから電車に乗るからまたしばらくかかると思うけど」

「ええ、問題ないわ。病院にしばらくいたとはいえ、そうそう体力は落ちてないわよ」

 

 エリカは白杖を片手に、もう片方の手をみほに引かれながら歩き始めた。

 エリカにとって大洗は知らない土地であるため、みほのこういったリードはありがたかった。

 みほに連れられ電車へと乗る。電車の不安定な足場の中歩いていると、エリカは他の乗客たちが自分を好奇の目で見ていることを肌で感じた。

 もう包帯はしていないとは言え、まぶたを閉じ、白杖片手に別の人間に手を引かれ歩いているのである。病院の中とは違い、健常者の多い外の世界でおいてこういった視線に晒されることは、エリカも覚悟していた。しかし、実際に晒されてみると、なかなかに不愉快なものである。エリカはこうした環境にもはやく慣れねば、と内心ごちる。

 

「エリカさん……その、ごめんね?」

 

 そんなエリカの心中を察したのか、みほが申し訳無さそうに謝ってきた。

 

「別にあんたが気にすることはないでしょう。こういうものよ、世の中ってのは」

「……でも」

「でもも何も無いわよ。さぁ、とっとと座りましょう」

「うん……」

 

 みほは気丈に振る舞うエリカにそれ以上踏み込むまいとし、エリカと共に優先座席へと腰を掛ける。

 

「そういえばエリカさん」

「ん? 何?」

「その……今さら聞くことじゃないかもしれないんだけど、ご家族のほうはいいの? 黒森峰から大洗に来るって、結構おおごとだと思うんだけど」

「ああ、いいのよ別に。私、もともと家族と折り合い悪いし」

「そ、そうなんだ……」

「……さっきも言ったけど、あんたが気にすることじゃないわ。それに、私としては、こうして手を引いてくれてるだけでも十分なの。だから、この話はこれでおしまい。いいわね?」

「う、うん。わかった」

 

 それ以降、二人は特に会話をすることもなく電車に揺られ、数駅ほど通過したところで降車、そのまま徒歩で進み、日が沈む頃になって、みほの住む学生寮へと着いた。

 

「はい、エリカさん。ここが私の家です。どうぞ」

 

 みほは嬉しそうに言いながら、エリカの手を引いて部屋へと引き入れた。そしてそのままエリカを自分のベッドのところまで導く。

 

「エリカさんはここで座って待っててね。今、晩御飯を作るから」

「ええ」

 

 そう言ってみほはエリカを置いて台所へと歩いて行った。

 エリカは何をするまでもなく、ただ静かにみほの料理が出来上がるのを待っていた。本当はみほの部屋のモノの配置を覚えておきたかったが、みほが料理をしている間に勝手に部屋を探るというのも申し訳ないため、止めておいた。

 包丁を扱う音や、香ばしい食材の匂いが漂ってくる。みほが料理している光景をエリカは見たことがなかったが、音や匂いでその光景を頭の中でぼんやりとだが想像した。

 それからしばらくして、みほは出来上がった料理を持ってエリカの元へと戻ってくる。

 

「さあできたよ! さっそく食べさせてあげるね!」

「大丈夫よ別に。どこになにが置いてあるかさえ分かれば、あとは自分で食べられるように訓練してきたし」

「えぇー……」

 

 露骨に不満そうにするみほの声を聞いて、エリカは「はぁ……」と一つため息をついた。

 どうやらみほは自分に食事を食べさせたかったらしい。そんなみほの気持ちが、嫌でも伝わってきた。

 

「しょうがないわね……じゃあ、今日だけよ」

「本当!? わぁい!」

 

 みほの明るい声が飛んでくる。

 ここでみほの好意を無下にすることもできたのだが、まだ初日だということと、これからお世話になるうえであまり冷たい態度を取るのもどうかと思ったので、みほの気持ちを尊重することにしたのだ。

 

「はい、エリカさん。あーん」

「あ、あーん……」

 

 エリカは恥ずかしげに口を開けながら、みほによって差し出された食事を口にする。

 

「あれ? これって……」

「うん、エリカさんの好きなハンバーグだよ! これから一緒に暮らし始めるんだから、最初はエリカさんの好きなモノを食べさせてあげたいなって!」

「……あなた、よく私の好きなモノなんか覚えていたわね」

「え、えへへへ……」

「いや、別に褒めたわけじゃないから」

 

 照れながら笑うみほにエリカはそういうと、再び食事を続けた。みほは主食、主菜、副菜をバランスよくエリカの口に運んだ。エリカは、細やかな気遣いもできるのね、と内心感心しながらも、そのことを口にすることはなかった。だが、みほの気持ちを嬉しく思っているのは確かだった。

 

 

 それから十日間ほどの間、エリカはみほの部屋と近所周辺の地理を覚えることに励んだ。

 みほがいるときはみほと一緒に屋外に出て、どこに何があるのかをみほに教えてもらいながら少しずつ行動範囲を広げていき、またみほが学校でいないときは、みほに許可をとって、部屋の中のどこに何があるかを白杖で確かめながら覚えていった。そうした努力が実り、僅かながらの範囲であるが、エリカはある程度自由に行動することができるようになった。

 みほはエリカの世話を甲斐甲斐しく焼いた。エリカ一人でできることが増えてきたとはいえ、まだまだおぼつかないことも多いため、何かとエリカのことを気にかけ、サポートしてくれた。着替えや食事、入浴、などにおいて、みほはできるだけエリカを手助けした。エリカはみほに助けられているという惨めさを完全に拭い去ることはできなかったが、みほの助けにはできるだけ感謝の意を示すようにしていた。

 そうやってエリカがみほとの共同生活に慣れ始めた頃、エリカはみほからある提案を受けた。

 

「ねぇエリカさん。お願いがあるんだけど……明日、私の友達に会ってくれないかな」

「あんたの? どうして?」

「えっとね、エリカさんと一緒に暮らしてるって話をしたら、エリカさんに会って話をしてみたいって人たちがいてね。私と同じ戦車に乗ってる人たちなんだけど……」

 

 エリカは思案する。

 

 みほと同じ戦車に乗っていたとうことは、あの日、自分を失明させたことに対してなんらかの責任を感じているのかもしれない。もし謝られでもしたら、また惨めさに襲われてしまうだろう。正直それは嫌だ。だが、このままその友人たちに重荷を背負わせたままというのも後味が悪いものがある。ならば、どちらがマシと言われれば、他人に自分のことでうだうだ悩まれるよりも、自分が不快な気持ちになったほうが幾分かマシだ。

 

「だめ……かな?」

 

 みほの不安そうな声が聞こえてくる。その言葉に対し、エリカは、

 

「いえ、いいわよ。明日、会ってあげる」

 

 とまるで気にしてないかのように答えた。

 

「本当!? よかったぁ!」

 

 みほの嬉しそうな声に、エリカは明日どのような感情を抱いても、それは自分の胸に仕舞っておこうと心に決めるのであった。

 

 

 翌日の午後、部屋でエリカとみほが今か今かと来客を待っていると、ピンポーンとインターホンが鳴り響いた。

 

「はーい、今出まーす!」

 

 みほが足早に玄関に迎えにいく。エリカは部屋の奥で座ってみほが友人達を連れてくるのを待っていた。

 

「やっほーみぽりん!」

「おじゃまするであります!」

「……失礼する」

「失礼します」

 

 みほが扉を開けたかと思うと、四人ほどの声が聞こえてきた。どうやらその四人が今回エリカに会いたいとやってきた友人達らしい。

 とすとすと大勢の足音がエリカの方へと向かってくる。エリカはこれから一斉に謝られるのではと思い、少し身構えた。

 

「えーと、あなたが逸見さん?」

 

 声の一つがエリカに話しかけてきた。

 

「……ええ、そうだけど」

「あたし、武部沙織っていいます! よろしく!」

「五十鈴華です。よろしくお願いします」

「秋山優花里と申します!よろしくお願いするであります!」

「……冷泉麻子だ」

 

 それぞれの声に聞き覚えがないわけではなかった。確か戦車喫茶でみほと一緒にいた子達の声だ。しかし、どの声が誰だったかまでは、エリカは覚えていなかった。

 

「……えっと、それで一体私に何の用があって?」

「それはね……実は、逸見さんと、友達になりたくてきました!」

「……はい?」

 

 無愛想に聞いた質問に、飛び抜け明るい声でそう返されたエリカは、思わず間抜けな声を上げてしまった。

 

 友達? 私と? 一体どういうこと?

 

「ちょっと、それってどういう……」

「逸見さんはみぽりんの友達なんでしょ? だったら、あたし達の友達と言っても過言じゃないかなーって思ってね! それで会いに来たってわけ!」

「もちろん逸見さんがよろしければ、ということなのですが……」

 

 エリカはただ唖然とするしかなかった。そんなエリカを見てか、優花里が不安そうな声で訪ねてくる。

 

「あのー、やはり迷惑だったでしょうか……」

「え? あっ、いえ別にそういうじゃないの。ちょっと驚いただけで……正直、予想外だったから」

「……予想外?」

 

 今度は麻子が訪ねてくる。エリカはこれは言っていいものかと思いながらも、口を開く。

 

「……その、実はあまり気乗りしてなかったのよ。また、謝られるんじゃないかと思って」

「……そのことなんですけど」

 

 次にしゃべり始めたのは華だった。華の口調はどこか重々しい。

 

「……本当は、直前まで謝ろうと思っていたんです。逸見さんがこうなってしまったのも、やはりわたくし達――というより、砲手であるわたくしに責任がありますから。一時期は戦車道も辞めようかと考えていました。でも、みほさんに止められたんです。逸見さんはそんなの望んでいないって。それで、どうにか逸見さんの力になりたいと考えて、皆で話し合いました。それで決めたんです。逸見さんが少しでも早く大洗に慣れてくれるよう、わたくし達にできることをしようと。そのためには、逸見さんとお友達になることが必要だと思ったんです」

 

 エリカは再び驚いた。みほが、そしてみほの友人達がここまで自分のことを考えてくれていることに。

 

「あなたたち……」

「逸見さんが嫌っていうなら、私達ももう関わらないよ。でもね、やっぱりあたしとしては、みぽりんと一緒に逸見さんと友達になれたら、嬉しいなーって思うの。だって、友達は多い方が楽しいでしょ?」

 

 目の見えないエリカにも、沙織が笑顔でそう言っていることがわかった。

 この気持ちに答えてあげたい、いや、答えなければならない。

 そんな感情が、エリカの中で沸き上がってきた。そうしなければ、自分はもっと惨めなことになってしまうだろう、そんな恐怖もあってではあるが。

 

「分かったわ……でも、まずは知り合いから! それでいい?」

「ほんと!? うんうん! いい! それでいいよ!」

 

 とてもはしゃいだ沙織の声が聞こえる。それに続いて、他の面子からも喜びや安堵の声が聞こえてきた。

 

「それじゃあ今後ともよろしくね! 逸見さん!」

「よろしくお願いいたします、逸見さん」

「よろしくお願いするであります!」

「……よろしく」

「……ふふっ、ありがとう、エリカさん」

 

 それぞれの嬉しそうな声と、みほの安心したような声が聞こえてくる。エリカは、なんだかとても気恥ずかしい気分になって、顔を真赤にしながら俯いた。

 それから一日中、エリカは五人と様々な会話をした。特にエリカに対する質問の数は多く、どんな男性がタイプ? といった女子らしい質問もあればどんな戦車が好み? という戦車道の選手らしい質問など、とにかくエリカは質問の嵐に襲われた。それは黒森峰にいた頃には味わったことのない感覚だった。だが、嫌なモノではなかった。

 いつの間にか日は落ち、あたり一帯が暗くなってきた。(と言っても、そのことはエリカには分からないのだが)。

 

「あ、もうこんな時間! そろそろ帰らなくちゃ! それじゃあね! みぽりん! 逸見さん!」

「大変長らく失礼しました」

「西住殿! 逸見殿! それではまた!」

「……じゃあな」

 

 四人はそれぞれそう言うとみほの部屋を後にした。そして部屋は再びエリカとみほの二人きりになる。

 

「……なんというか、凄い子達ね。あんたの友達って」

「えへへ、そうかな」

 

 みほが楽しそうに応える。エリカはそんなみほの頭を、わしゃわしゃと撫でた。

 

「え!? ちょっとエリカさん!?」

「……あんがと」

 

 エリカはみほの心遣いに対する感謝の意と、またしても自分のことしか考えていなかった自分自身のやましさを隠すために、しばらくの間みほの頭を撫で続けた。

 

 

 それ以来、エリカはみほとだけでなく、みほの友人達とも付き合うようになった。みほが学校から帰ってくると時たま誰かが一緒についてくることがあり、そのときは一緒にみほの部屋で話をしたり、外出してエリカの出来る範疇で遊んだりした。

 また、エリカの行動範囲が広がると、エリカ自ら大洗女子学園に行って戦車道の訓練をしているみほ達に会いに行くことをするようになった。初めの頃はかなり驚かれたが、繰り返していくうちに他の戦車道履修者達からも歓迎されるようになり、さすがに戦車に乗ることはできなかったが、作戦などについて口出しできるほどになった。

 

 そんなある日のことである。

 その日、エリカはいつものように大洗の戦車道の訓練に顔を出し、学校からみほと一緒に下校しているところだった。

 

「今日もお疲れ様」

「エリカさんこそ。エリカさんが来てから、なんだか皆の技術も上がったような気がするよ!」

「目の見えない私ができることなんて微々たることよ。もし練度が上がったのなら、それはあんた達の努力の結果でしょうよ」

「そんなこと……あ! ちょっと待って! ……そうだ、こっちこっち!」

 

 みほは突然話を中断したかと思うと、エリカの手を引っ張ったまま脇道に逸れていった。

 

「ちょ、ちょっとあんた? どうしたの?」

 

 みほはエリカを連れてあまり舗装されていない道を通る。繁茂する雑草が、エリカの足を撫でた。

 

「えっともう少しで……あ、ついたついた!」

 

 そう言ってみほがエリカの手を離したかと思うと、エリカの鼻にぶわっと甘い香りが押し寄せてきた。

 

「この匂いって……」

「うん、花の匂いだよ。ここには、いろんな花が咲くんだぁ。ちょうど咲き頃だって思い出して、目の見えないエリカさんでも花の匂いなら楽しめるかなって思って、連れてきたの」

 

 エリカはみほに手渡された花の香りを嗅ぐ。とても安らぐ匂いがエリカの鼻孔をついた。目が見えていた頃のエリカには花を愛でる趣味はなかったが、そんなエリカにも、匂いだけで今この手に持っている花が美しい花であることが分かった。

 そのとき、一陣の風がぶわっとエリカ目掛けて吹き込んできた。その風と共に、美しい花々の香りと、散ってゆく花びらの感触をエリカは感じた。

 美しい。

 

 エリカはそのとき、そう思った。

 実際に花々を目にしたわけではない。しかし、鼻を通して体を駆け巡る花々の香りと、風に揺られてかすかにハーモニーを奏でる花々と、体を撫でる花びらの儚さと、そしてなにより、目の見えないエリカにも花々の素晴らしさを伝えようとするみほの優しさが、エリカに美しい花畑の情景を『視』させた。それは、目が見えていた頃には決して感じたことのない感受だった。

 

「……いい香りね」

「でしょう? 私、ときどきここにこっそり一人で来るんだ。ここに来ると、とても穏やかな気持ちになれるから……。ここに誰かを連れてきたのは、エリカさんが初めてなんだよ」

「私が?」

「うん。今までは私一人だけの場所だったけど、これからは二人の場所だね」

 

 その言葉に、エリカの心臓が早鐘を打ちはじめた。見えないはずのみほの笑顔が、見えた気がしたから。

 

「……ありがとう」

 

 みるみる顔が赤くなっていくのを感じながら、エリカはやっとその一言を捻り出した。

 

 その日から、エリカのみほに対する意識は一変した。

 みほと一緒にいるととても心安らぐと同時に、胸の奥から得も言われぬときめきのような感情が溢れ出てきた。みほに手を引っ張ってもらえるときには、触れた手と手の感触が、とても暖かく、気持ちいいもののように感じられた。入浴や着替えのときにはかつては何も感じていなかったはずが、今となっては裸が見られるのがとても恥ずかしい気持ちになった。

 そんな悶々とした生活を送っていると、かつてエリカをあれほど悩ませていた自己嫌悪は、大分薄れていった。

 

 

 そして、エリカがみほと一緒に暮らし始めて二ヶ月が経った。

 その日の夜は、とても激しい雨が降り注いでいた。

 

「今日はとても天気が悪いわね……雨音がとてもうるさいわ」

「そうだね……あーあ、せっかく明日は久々に陸に上がるのになぁ」

「確か、みんなと一緒に大洗本土で遊ぶ約束をしてたはずよね?」

「うん……そうだ、明日もし晴れたらエリカさんも一緒に来ない!」

 

 みほは座っているエリカの太ももに両手を置きながら言う。しかしエリカは、

 

「いいえ、今回は遠慮しておくわ」

 

 と、みほの誘いを断った。

 エリカにとってみほと一緒に遊びに行くのはとても魅力的な提案だったが、久々にチーム全員揃って遊びに行く機会を、その土地を知らない自分のお守りで無駄にさせたくなかった。それに、みほが他の友人達と仲良くしている姿を想像すると、つい嫉妬してしまいいらぬ発言や態度を取ってしまいそうであるというのもあった。

 

「そっか、残念だなぁ……」

 

 みほの残念そうな声が聞こえてきた。エリカは、そんなみほの頭を優しく撫でる。

 

「そんなしょげないの。いつも私と一緒にいるんだから、たまには羽根を伸ばして遊んできなさい」

「そんな、エリカさんがまるで重荷みたいなこと……」

「あら、違ったの?」

「エリカさん!!」

「ふふっ、冗談よ、冗談。……本当は、少し前まではそう思っていたんだけれど」

 

 エリカは、みほに向かって柔和な笑顔を向ける。

 

「でも、最近はあんたと一緒にいられることが嬉しくて、そう思わなくなったのよね」

「う、嬉しいって、そんな……」

「ねぇ、私、今とてもあんたに感謝してるの。あんたがいなければ、私は今この世にいなかったかもしれない。でもあんたがいたお陰で、私は今色んなものが『視』えるようになった。目が見える頃よりも、ずっと色んなモノをね……その点では、目が見えなくなったことも、案外悪いことじゃなかったわね。……ありがとう、みほ」

「っ! 今、みほって……!」

「ん?」

 

 みほの声が途端に上ずったと思うと、みほはエリカに勢い良く抱きついた。

 その勢いのまま、二人は床に倒れる。

 

「ちょ……!?」

「今みほって! みほって呼んでくれた! 嬉しい! 初めて名前呼んでくれたね! エリカさん!」

「あ、あーその……別にたまたまよ! たまたま!」

「うん、それでもいいの! えへへ……!」

 

 みほはエリカに抱きつきながらエリカの顔に頬擦りをする。エリカは、血液が沸騰してしまいそうになるのを必死に堪えることしかできなかった。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 翌日、昨日までの豪雨が嘘のように、大洗は快晴に恵まれた。

 エリカは、その日の朝、大洗本土に向けて出発しようとするみほを玄関で見送っていた。

 

「それじゃあエリカさん、行ってくるね! お土産楽しみにしててね」

「はいはい、気をつけて行きなさいよ。晴れたとはいえ、まだ地面とかぐしゃぐしゃでしょうから」

「うんうん、大丈夫だって! それじゃ!」

 

 底抜けに明るい声で言うと、みほは友人達の元へと駆けていった。そして、みほの足音が聞こえなくなると、エリカはゆっくりと部屋に戻る。

 

「さて……」

 

 するとエリカは、部屋の一角からとあるものを取り出した。

 毛糸と編み針、そして作りかけの不細工なマフラーだった。

 

「あともうちょっと……ってところかしら」

 

 手で作りかけのマフラーを触れながら進捗を確かめる。

 エリカは入院中に、目が見えなくともできる趣味として編み物を習っていたことがあった。

 その経験を活かし、今こうして編み物でマフラーを作っていたのであった。

 

「みほが帰ってくるまでに完成するといいんだけど……」

 

 そう、エリカがマフラーを編んでいるのはみほのためであった。

 マフラーはプレゼントとしては時期はずれなものだが、もうそろそろ戦車道大会が近く、もしプラウダと当たったときには極寒の土地で戦うことになるだろうから、そのときに使ってもらえるかもしれない、それにもしかしたら、冬場にも使用してくれるかもしれない、と考えていた。それ以上に、他に今の自分に用意できるものがこれぐらいしかないという現実的な問題があったのだが。

「しかし、目が見えないとちゃんと出来てるか不安ね……こういうとき盲目は不便かしら」

 そんな愚痴をこぼしながらも、エリカはマフラーを編んでいく。

 表、裏、表、裏。

 交互に糸を編んでいく。

 チマチマとした作業で昔のエリカなら絶対に苛ついて放棄していただろう。しかし今のエリカにとっては、そんな作業も楽しくて仕方がなかった。

 

「こんなことが楽しく感じられるなんて……生きるってことも、案外面白いものかもしれないわね」

 

 ふっと笑みを零しながら言うエリカ。今の彼女には、かつて死のうと思ったときに感じた惨めさは、微塵も残っていなかった。

 

「みほ、喜んでくれるかしら……」

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 みほは大洗本土にて、同じあんこうチームの面子と談笑しながら歩いていた。

 

「美味しかったねあそこのスイーツ! あんな穴場があったなんて知らなかったよ!」

「ふふん、あたしのリサーチ力をなめちゃいけないよみぽりん! いつどんな彼氏と一緒に来ても大丈夫なようにいつだってシミュレーションは欠かさないんだから!」

「……男相手にそのシミュレーションとやらが発揮されることはないだろうがな」

「ちょっと麻子ぉ!?」

「ふふふ、でも確かにあそこのスイーツは美味しかったですね。サントノーレ? と言うんでしたっけ。でも強いていうならば、もうちょっと量が欲しかったところです」

「五十鈴殿は十個ほど食べていたと思いますが、あれでも足りなかったというのですか……」

「みぽりんはお土産として買ったんだよね? やっぱ逸見さんに?」

 

 沙織がみほの手元を見ながら言う。

 

「うん、エリカさん喜んでくれるかなぁ?」

「みぽりんからのお土産だもん、喜んでくれるに決まってるじゃない! あー、でも逸見さんもくれば良かったのになぁ」

「逸見殿としては私達に気を使ってのことでしょうが、私達はそんなこと気にしないというのに」

「……それが逸見さんのいいところでもあるな」

「友達思いの逸見さんと一緒にいられて、みほさんは幸せですね」

「いやぁー、まぁ……」

 

 照れながら頭をかくみほ。みほはこの友人達のひとときが、もっと続けばいいのにと思った。

 

 その時だった。

 

「……けて……」

「ん? 何か聞こえない?」

 

 沙織が何かを聞きつけた。

 

「確かに……川の方からですね」

 

 華がそれに続いて近くを流れていた川を指さす。川は昨夜の雨によって増水し、勢いの激しい濁流が流れていた。

 

「あ、あれを見てください!!」

 

 優花里が慌てながら指差す。そこには、

 

「助けてぇ! 助けてぇ!」

 

 小さな子供が今にも溺れそうになりながら流されていたのだ。

 

「っ!!」

 

 その瞬間、みほは手に持っていたお菓子を捨て、川に向かって駆け出していた。そのまま勢い良く濁流に飛び込む。

 

「西住さん!?」

 

 みほは激しい川の流れに流されそうになりつつも、なんとか子供の元へと泳ぎ、その体を抱える。

 

「もう大丈夫だよ! 頑張って!」

 

 みほはそのまま川岸まで子供を抱えながら泳いでいくと、川岸でうろたえていた沙織達に子供を突き出した。

 

「お願い!」

「う、うん!」

 

 沙織は戸惑いながらも子供を抱え上げる。

 

「さ、はやくみぽりんも!」

「うん! ……あっ!?」

 

 みほが沙織の手を掴もうとした瞬間であった。

 

「あ、足が……!」

 

 みほは足をつり、沙織の手を掴む前に川に流されてしまう。

 

「みぽりんっ!」

「みほさん!」

「西住殿!」

「西住さんっ!」

 

 苛烈な濁流は収まることを知らず、みほを飲み込んでいく。

 

「あばっ……あばっ!」

 

 必死に腕をばたつかせるが、体はどんどんと沈んでいった。胸元からだんだんと沈み、頭だけが水上に見えるようになり、やがては頭も水の中へと沈んでいく。そしてまもなく、みほの体は川の中へと沈んでいった。

 

 ……エリカ、さん……。

 

 仄暗い水の底で、みほの脳裏に最後に浮かんだのは、家で待っているエリカの笑顔だった。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

「……やった! できた! ……のかしら?」

 

 エリカは破顔しながらも疑問符を浮かべてマフラーを高々と上げた。

 マフラーはところどころいびつな形をとっているが、その結果は目の見えないエリカにはよく分からなかった。

 

「あとは、みほが帰ってくるのを待つだけね」

 

 エリカは完成したマフラーをぎゅっと抱きしめた。

 エリカはマフラーを渡すときに、あることをみほに伝えようと心に決めていた。

 それは、エリカが今彼女に抱いている一つの気持ち。

 エリカがみほと暮らすなかで芽生えた、かけがえのない、暖かな気持ち。

 

 みほのことを、愛している。みほのことが、好き。

 

 そんな、今まで抱いたことのない、女性としての気持ちを。

 もしかしたら拒絶されるかもしれない。もしかしたら、今の関係が壊れてしまうかもしれない。でも、それでも、エリカはその気持ちをみほに伝えたかった。たとえ、どんな結果になったとしても。

 

「……あら」

 

 ぽつぽつという音が聞こえてきたと思い窓の方に顔を向ける。どうやら、再び雨が降り始めたらしい。

 

「大丈夫かしら、みほ達」

 

 エリカは外出しいてるみほ達を心配する。雨に濡れていないだろうか。もし濡れていたら、暖かく介抱しなければ。

 エリカはそんなことを考えながら、みほの帰りを今か今かと待ちわびていた。

 時刻は、そろそろ夕方になろうとしていた。

 

「みほ、早く帰ってこないかしら……」

 

 

 

 


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