それから一週間近く経った。その間も、美帆は毎日のようにエリカの部屋を訪れ、エリカの面倒を見、また戦車道について教導された。時折沙織もやってきて、三人で楽しい時間を過ごした。沙織もエリカと一緒に美帆に戦車道を教えることもあり、美帆はどんどんとその教えを吸収していった。
そして、春休みにも終わりが見えてきたある日のことだった。
「あの……エリカさん?」
勉強を終え、二人きりでまったりとした時間を過ごしていると、美帆が遠慮がちな感じでエリカの名前を呼んできた。エリカはこういうときの美帆は、何か言いたいことを躊躇っているということを、ここ最近の付き合いですっかり理解していた。
「ん? どうしたの美帆?」
だからこそエリカも、美帆がそれを言い出すのを待つ。
無理に聞き出すことはせず、あくまで彼女が自分の意志で口にするのを待つのだ。
「えっとですね……その、もうすぐ春休みも終わりじゃないですか」
「そうね」
「それでですね、もうすぐ新入生を迎え入れるのも兼ねて、学園艦が大洗に寄港するじゃないですか。で、その……もしよかったらなんですが、そのとき……」
「そのとき?」
美帆はその先を何故か言い淀んでいるようだった。美帆がこういったことになるのは珍しくないが、今日は特に言いづらそうにしているなと思った。
そして少しの間を置いて、美帆が口を開いた。
「そのとき……よかったら、一緒に陸の上に行きませんかっ!!」
美帆があまりにも大音量で言うものだから、ついエリカは耳を塞ぎたくなった。
だがそれ以上に、その提案はエリカにとって思いがけないものだった。
「陸に……?」
「はい、私、その、春休みが終わると三年生に上がって、そうするとエリカさんとこうして一緒にいられる時間がなくなっちゃうじゃないですか。その前に、思い出の一つでも欲しいと思いまして……」
エリカはこの学園艦にもう十二年間居続けている。それは、彼女の最愛の人、みほを待ち続けているからだ。だから、エリカはいままで学園艦を降りる気はなかった。
だが、美帆に今こうして頼まれたとき、すぐさまそれを否定しようという気持ちにはならなかった。
何故だろう? 今まではあれほどこの学園艦にいることにこだわっていたのに……。
「……駄目、ですかね。やっぱり。そうですよね、突然こんなこと言われても、困りますよね」
美帆の明らかに落ち込んだような声が聞こえてくる。その声は、今にも泣き出しそうにすら聞こえてきた。
その声を聞いていると、大きな罪悪感に苛まれる。まるで、自分が彼女を虐めている、そんな気分になる。
もちろんエリカにはそんなつもりはない。だが、美帆を満足させるには、彼女の提案に乗るということだ。今までずっとこだわり続けてきたことを、そのために止めるのには勇気が必要だった。
いつか帰ってくるかもしれないみほのことを思い続けて十二年。いっこうに彼女は帰ってこない。本当に彼女は帰ってくるのだろうか? ただ、辛い思いをするだけじゃないのか? そう思ったこともあったが、自分は決して諦めてはいけない。そんな気がしていた。
だけど……だけど、たった一日なら? たった一日なら、学園艦を離れていても問題ないのではないか? そう、たまにぶらっと図書館を訪れるように、陸の上に行っても、問題はないのではないか? 生活の場を陸の上に移すのではない。ただ、遊びに行く。それなら、彼女も許してくれるのではないか……?
「……いいわよ」
いつの間にか、エリカの口からそんな言葉が零れていた。そう、エリカは決意したのだ。学園艦から降り、地上に立つことを。
「……! 本当、ですか……? 本当に、いいんですか!?」
「ええ、いいわよ。明日、一緒に陸に行きましょう」
「う……うれしいです。嬉しいです、エリカさんっ!!」
美帆はそのエリカの一言で、喜びと驚きに満ちた声を上げた。
エリカにとっても、それは驚くべきことだった。まさか、ここまで簡単に陸に行くことを決意する自分がいるとは、少し前までは想像もできなかったからだ。
これが果たして自分にとって吉となるか凶となるか、それはまだ、エリカには分からなかった。
だが、嬉しそうにしている美帆の声を聞くと、たまにはいいかもしれない、そんな気に不思議となるのであった。
◇◆◇◆◇
一目惚れだった。
初めて出会っとき、その美しさに目を奪われた。
スラっとした長身、豊満なバストとくびれたウェスト、美しいヒップの織り成す女性らしいプロポーション、歌劇団の男役のように整った端正な顔立ち、そして、太陽の光を何倍にも輝かせるような、美しい銀髪。
その姿を見た瞬間、心臓が鷲掴みにされるような、そんな気分になった。だが、その人には普通ではないところがあった。どうやら、目が見えないようだったのだ。
そのことを知ったとき、どうしてでもこの人を助けなければいかないと思った。
それは普段から抱いている誰かを助けたいという気持ちと、初めて抱いた恋慕の感情が混ざり合った結果だった。
だが結局、その日は名前も知ることも出来ず帰ることになった。悔しかった。何も出来ず、何も知ることもできなかった自分が。
そして共に嬉しかった。人生において初めて、恋という感情を胸に抱いたのだから。
「私って、同性愛者だったんですね……」
その夜、ベッドの上で一人、自分の性的指向を確認した。
そして翌日、天は彼女を見捨ててはいなかったことが分かった。意中のあの人が、学校に、自分の夢である戦車道の特別講師として現れたからだ。まさに運命的な衝撃だった。授業が終わった後、彼女はすぐさま意中の君の元へと駆け寄った。そして、どうか自分の先生になって欲しいと頼み込んだ。そのとき語った戦車道を学びたいという気持ちは半分本当で半分嘘だった。恋する人と一緒にいたいという気持ちを、隠していたのだから。そしてその提案は受け入れられた。そのことは、天にも昇る心地に彼女を誘った。
それが、東美帆と、逸見エリカが、互いに名前を知り合った初めての日の出来事だった。
美帆は必死にエリカへとアプローチを掛けた。エリカと毎回一緒に帰る約束を取り付け、そして、彼女の部屋へと通えるようにも頼み込んだ。そのために、あまり他人には話してこなかった自分の過去もあっさりと打ち明けた。
その熱意が伝わったのか、エリカに承諾されて、彼女の部屋へ行けるとなると、そのことで頭がいっぱいになった。大好きな人の部屋はどうなっているのだろう。どんな香りなのだろう。はたしてちゃんとお世話を出来るのだろうか。そんなことを考えていたら、寝ることもできずに一夜を過ごしてしまった。
いざエリカの部屋に入る段階になると、とても緊張し、インターホンを押すのに三十分はかかった。
エリカの部屋で彼女の世話をするのはとても楽しかった。彼女の生活に直に触れるということが、とても嬉しかった。洗濯物を洗うときにエリカの下着に触れ興奮したことは、隠すのに苦労した。
エリカに失明した原因についての過去を教えてもらったときは、今までの人生で体験したことのないほどの怒りが沸いた。自分の大切な人に酷いことをするなんて許しがたい事だと思った。だが、エリカになだめられると、途端に冷静に戻ることができた。それほどに、エリカの声は美帆の心に響くものだった。そして同時に、彼女の戦車道を受け継いでいきたい、そう思うようになった。
それから毎日のようにエリカのもとに通った。そこで、エリカの友人である人とも出会った。その人、武部沙織はとてもいい人だった。さすがエリカの友人だと思った。そして、その人からエリカのことを任せると言われたときは、心の底から嬉しかった。十二年もエリカと付き合っている人からそんなことを任されるなんて、恋する身としては、とても喜ばしく、名誉なことだと思った。
そのことを胸にエリカと一緒に生活をしていくと、美帆は何か大きくこの恋心を進展させたいと思った。何かないかと考えていると、そこで美帆は気がついた。そういえば、デートというものをしたことがなかった、と。
自分とエリカとは恋人同士ではない。でも、どうにかデートはしたい。そんな気持ちが湧き出てきた。
そのために今日、美帆はエリカに清水の舞台から飛び降りる気持ちで、デートを申し込んだ。正直、断られると思っていた。だが、意外にもエリカは美帆の頼みを受け入れてくれた。
美帆は喜びを隠すことで精一杯だった。本当はその場で小躍りしたいぐらいだった。
だから美帆は、家に帰った途端、手足をバタバタとさせて体全体で喜びを表現した。
「やったー! やったー! デート、エリカさんとデートです! やったー!」
そのままドタバタとしながら、ベッドの上に体をダイブさせる。ボフッとした柔らかい感触が、美帆の体を包んだ。
「~~~~~~~っ! 良かった、本当に良かったぁ……!」
美帆はにへらとだらしない笑みを浮かべながら、ベッドの上にあったクッションを抱きしめた。
まさか本当にデートできるなんて思っても見なかった。どうしよう、一体何を着て行こう? エリカさんは目が見えないけど、でもそれでも精一杯のおしゃれをしておきたい。だって、エリカさんには恥をかかせられないから。明日は何をしよう。目が見えないエリカさんでも楽しめるようなプランを考えないと。まずあんこう鍋は食べにいこう。大洗と言ったらあんこう鍋を食べなければ。あっ、でもあんこう鍋って確か冬限定だった気がする。今でもやってるかなぁ。まぁ食事のことは後で考えるとして、それから、どうしよう? 二人っきりになれる場所とかがあったらいいな。もしかしたらいい雰囲気になって、キスとかしちゃったりしたり……。
「きゃーーーー!」
美帆は急に恥ずかしくなって、ベッドの上でゴロゴロと転がった。だが勢いが良すぎ、ゴツン! と壁に頭をぶつけてしまう。
「お、おおおお……」
ゆっくりと頭を抱える美帆。ヒリヒリと傷んだが、どうやらたんこぶにはなっていないらしい。そのことで、なんとか美帆は冷静さを取り戻した。
「ふぅ……ああ、それにしても、楽しみです。明日」
美帆は時計に目をやる。時計は、午後九時を指し示していた。約束の時間まで、まだ十二時間以上もある。
美帆はこんなにも時間がゆっくり進んでいると思ったのは、初めてだった。
「あーあ、早く明日になりませんかねぇ……」