「…………」
逸見エリカは一人、電灯の灯らない暗い部屋の中、白く輝く画面を淀みきった視線で眺めていた。
エリカは数日間、部屋から一歩も外へと出ていなかった。
原因は第六十二回全国高校戦車道大会にあった。エリカは、黒森峰十連覇のかかったその試合において、自身の乗っている戦車を水没させ、さらにフラッグ車に乗っていた副隊長である西住みほの手によって救出された代わりにその隙を突かれフラッグ車を撃破されてしまった。
そして、みほはその責任を取り黒森峰から出て行った。
エリカは、その責任を感じ、自己嫌悪に襲われ一人塞ぎこんでいたのだ。
エリカの乗っていた戦車が水没したのは紛れも無く事故だった。しかし、車長だったエリカはそうは思わなかった。
「……クソッ」
エリカは苦悶する。戦車の水没も、みほが黒森峰から出て行ったことも、すべて責任は自分にあるのではないのかと。
「私が、私があのとき道の状況をしっかりと把握していれば……」
同じ言葉を何度呟いただろう。
エリカは常に自分を攻め続ける。
もしあのときの車長が自分でなければ、結果は違っていたのだろうか。もし自分がみほのことを気にかけてやれば、彼女は出て行かなかっただろうか。
「……今さら考えても遅いわよね。ほんと、未練がましい」
エリカは吐き捨てるように言う。エリカは、自分自身がとことん嫌いになっていた。
ああ、できることならば自分自身を消し去りたい。今の逸見エリカではなく、まったく別の人間として生まれ変わりたい。そうすれば、きっと楽になれるのに。
エリカはそんな夢想をしながら、今日も現実から逃れるために、目の前の機械を操作しネットの海に潜る。
エリカの趣味であったネットサーフィンは、ここ数日引きこもってからというもの、たがが外れていた。
以前は興味のある話題をニュースサイトなどで斜め読みする程度だったものが、今では四六時中どこかのSNSや匿名掲示板とにらめっこしていた。
溢れんばかりの情報をただただ読み続ける。普段は興味のない話題でも、ただ誰かが話しているのを眺めているだけで楽しかった。
「さて、今日はどんな話を……あら?」
エリカの目に、とある匿名掲示板における一件のスレッドが止まる。
「またアニメの話題? 好きねぇ……」
そのスレッドはどうやら好きなアニメの話をする場であるらしい。
「随分と楽しそうに話してるわね……」
エリカはアニメというものを見たことがなかった。正確には幼少期に幼児向けアニメなら見たことはあるも、その記憶は殆どなく、記憶がはっきりしてくるようになってからは戦車道に打ち込みそれ以外のことにはあまり興味を持つことがなかったのだ。
「……ちょっと、興味湧くじゃないの」
それはふと沸いた出来心だった。いつものエリカなら、アニメなど下らないと吐き捨てただろう。だが、心が弱りきり、自分の信じていた戦車道にブレが生じている今、エリカにとってアニメという未知のコンテンツは興味の対象なりえたのだ。
「ちょっとだけ、ちょっとだけよ……」
そう言いながらエリカは海外の動画サイトに投稿されたアニメをまとめているサイトを検索し、そこからスレッドで上がっていたタイトルのアニメを探す。
「えーと、これね」
目当てのタイトルを見つけると、ヘッドホンを掛け、そのままエリカは気になったアニメの視聴を始めた。
◇◆◇◆◇
黒森峰学生寮の廊下を、黒森峰女学園戦車隊隊長、西住まほは凛とした表情で歩いていた。
まほは寮のとある一室――エリカの部屋を目指していた。
エリカはここ十日間、学校に顔を出していなかった。まほはその理由が痛いほど理解しているつもりだった。黒森峰の敗退、みほの転校、それはまほにとっても大きな衝撃だった。
だからこそ、責任を感じているエリカをしばらく一人にしてやろうと今までまほはエリカが閉じこもっていたのを静観してきた。
しかし、閉じこもってからもう十日間である。このままでは戦車道どころか学校生活にまで支障をきたしてしまう。
まほはそう思い立ち、エリカの部屋を尋ねることを心に決めた。
廊下にはまばらに生徒がいたが、エリカの部屋に近づくにつれ少なくなっていき、ついにエリカの部屋の前まで来たときには誰もいなくなってしまう。
別に珍しいことではないのだが、今日はなんだか少し寒々しい雰囲気をまほは感じた。
まほはエリカの部屋の扉をコンコンとノックし、
「エリカ、今大丈夫か?」
と声を掛けた。
「…………」
しかし、反応は返ってこない。
まほは今度は少し強めに扉を叩き、もう一度呼びかける。
「エリカ! エリカ! いないのかエリカ!」
するとしばらくして、扉がギギギと音を立てながら開かれた。
そこから顔を見せたエリカは、十日前に見たときよりもひどい有様だった。
髪はボサボサに崩れ、淀んだ目の下には大きなクマを作っている。
肌も荒れに荒れており、ツヤやハリといった言葉からは縁遠い見た目になっていた。
服装は寝間着が大分着崩されており、下着がかいま見えている。
また、何日も風呂に入っていないのか、少し臭気がしてくる。
「エリカ……大丈夫か?」
「……隊長? どうして……」
「どうして、じゃない。もう十日間も学校に来ていないらしいじゃないか。気持ちは分かるが、いい加減登校するだけでもしたらどうだ」
「はい……それは分かっているんですが……」
俯きながら言うエリカに、まほは内心溜息を付く。
「……何なら、戦車道の授業にはしばらくでなくてもいい。私が学校側と掛け合おう」
「……本当、ですか?」
エリカは顔をあげて、まほの顔を見た。その姿に好感触を得たまほは、エリカに笑みを向ける。
「ああ、本当だ」
「だったら……その、学校、出てもいいですよ……」
エリカは聞き取るのがやっとなほど小さな声だったが、確かにそう言った。その言葉に、まほはホッと胸をなで下ろす。
「そうか、良かった。少しずつでいいんだ、少しずつ、自分の気持ちと向き合っていけばいい。そして、もし戻りたくなったらいつでも戻ってこい、待ってるぞ」
まほはエリカの肩に手を置き、トントンと軽く叩いてやる。そしてそのままエリカに背を向け、自分の部屋へと戻っていった。
そう、これでいい。エリカが学校生活の中で少しずつ自分を取り戻していければ、それに越したことはない。
今のエリカはエリカらしくない。いつものエリカは気丈で、細かいところに気が利き、胸の内に強い意志を秘めた女だ。
今の黒森峰では、最も信頼できる部下の一人だと言っていい。
まほは、そんなエリカが早く立ち直り、再び自分と一緒に戦車道に励んでくれると、期待していた。
みほを失ってしまった今、エリカまで失ってしまいたくはない。
そんな気持ちを、胸に抱きながら。
◇◆◇◆◇
エリカは外に出ることを躊躇する自分の心をなんとか焚き付け、十日ぶりに学校に登校した。
たった十日間登校していなかっただけなのに、エリカにとって学校の雰囲気は様変わりしているように思えた。
周りを歩く他の生徒たちが、何処か恐ろしかった。何の変哲もない日常生活を送っているだけなのに、今のエリカにとってそれは異なった世界の住人のように思えた。
何気ない会話が、変哲もない笑い声が、エリカの神経を過敏に刺激した。
私は一体どうしたというのだろう? 引きこもっている間に、随分と情けない人間になってしまったではないか。
それはエリカが教室に入っても変わらなかった。エリカが教室に入った瞬間、騒がしかった教室の空気が一瞬固まり、再び元の喧騒へと戻っていく。
エリカはその意味を、とてつもない痛みと共に理解した。
ああ、今私は、この教室で浮いた存在になってしまったのだと。
元々エリカは友人が多いほうではなかった。しかし、現在の空気は友人の有無に関わらず、腫れ物に触るまいとした空気である。
エリカはおずおずと自分の席に座り、鞄の中から携帯音楽プレーヤーを取り出す。その音楽プレーヤーにカナル式のイヤホンを接続し、机に突っ伏しながら曲を聞き始める。
これで、少なくともホームルームが始まるまではエリカ一人の時間だ。そう思い安心していると、エリカはつい音楽プレーヤーを地面に落としてしまう。
「……っと」
拾い上げるためにゆっくりと音楽プレーヤーに手を伸ばすと、同じくその音楽プレーヤーに手を伸ばしてくる別の手とぶつかった。
「ん……?」
エリカは思わず手を引っ込める。そしてぶつかった手の先に目を向けると、そこにはクラスの中でもとりわけ目立たない、メガネの少女が立っていた。
「あっ、そ、その、すいませぬ! 私としたことがその……!」
「いや、拾ってくれようとしたんでしょ? 別に謝ることじゃ……」
と、そこでエリカは気づいた。メガネの少女がエリカの音楽プレーヤーをじっと見つめていることに。
「あの……私のプレーヤーが何か?」
「えっ!? あ、あの、そ、その……!」
エリカの問いかけに対し、メガネの少女は動転する。だが、しばらくすると覚悟を決めたのか、手のひらをギュッと握りしめ、顔を真っ赤にしながら口を開いた。
「あっ、あの! その聞いている曲なんですけど! もしかしてそのオープニングが流れてるアニメ、見たことあるんでしょうか!?」
そう、エリカが聞いていたのは閉じこもっていた間に視聴したアニメのオープニングソングだったのだ。エリカはそのアニメのオープニングソングが気に入り、音楽プレーヤーに入れて聞いていたのだ。
「え? ええ、まぁ……」
「だ、だったら、是非ともそのアニメについてお話しませぬか!? そ、それがし! そのアニメ大好きでございまして!」
「そ、そうなの……。ま、まぁせっかくだしいいわよ。私も話し相手がいたらいいなって思っていたし……」
エリカはメガネの少女の興奮気味な様子としゃべり方に気圧されながらも、メガネの少女の提案に乗った。
エリカとしても、ネットの評判は見たものの、まだ他人と感想を分かち合うとまでは行っていなかったため、いい機会でもあった。
「本当でございますか!? それではさっそく……と、そろそろホームルームが始まる時間ですな。もしよろしければ、お昼休みに一緒についてきて下され! 共に語らいましょうぞ! それでは!」
そう言ってメガネの少女は手を振りながら自分の席へと戻っていった。エリカは面くらいながらも、ホームルームに備え音楽プレーヤーを鞄にしまい込み、再び一人の世界へと戻っていった。
昼休み、エリカは約束通り、メガネの少女に連れられ学校の部室棟を歩いていた。部室棟はさすがに昼休みだけあって多くの生徒が騒がしくしている。
「ねぇ、どこに行くの?」
「いやー教室では話しづらいといいますかその……ええと……あ、ここですぞ!」
メガネの少女がとある部屋の前で立ち止まる。その扉の側に掲げられたボロボロのプレートには、『漫画研究会』と書かれていた。
「漫研? うちの学校にもあったのね」
「ええ! さ、どうぞどうぞ!」
メガネの少女は戸を開き、エリカを促す。
エリカは促されるままに部屋に入ると、そこには先客がいた。慎重の低い、小太りの少女であった。
「おや、そちらの方は……」
小太りの少女がエリカを見て不思議そうに聞く。当然だろう。突然知らない生徒が入ってきたのだから。
するとメガネの少女が、
「ああ、この人は逸見エリカ殿ですぞ。実は、好きなアニメで意気投合しまして。それで一緒に語らい合おうとここにつれてきた所存ですぞ」
意気投合したわけではないのだが。と、エリカが言う前に、メガネの少女はエリカの背を押し強引に部室の奥へと押し込んでいった。
「ほうほう、それで逸見殿が好きなアニメとは?」
「ふふ、それはですな。逸見殿、見せてやってくださいませ」
「え? ええ……」
エリカは言われるがまま、音楽プレーヤーの画面を小太りな少女に見せる。すると、
「おおおおおおおおおおお! 逸見殿! これはとてもいい趣味をしておりますなぁ!」
と、小太りの少女が突如大声を出してエリカの手を握ってきた。
「そ、そうかしら……?」
「もちろんですとも! このアニメは天才幾原邦彦の代表作であり、今を駆ける多くの監督や脚本家が関わった名作ですぞ! 独特の世界観と映像表現は今の時代でも見劣りしませぬなー。もちろん初心者には伝わりづらい部分も多々ありますが、それ以上に伝わってくるテーマ性は偉大であって――」
「へ、へぇ……」
エリカは急に早口でまくし立てる小太りの少女相手に、ただ頷くことしか出来なかった。ネット上での批評は知っていても、実際にこうして話してみると、生の感想というのは、なかなかに圧倒されるものがあった。
「まぁまぁ、逸見殿が困っておりますぞ。ところで逸見殿は、他にもアニメを見るので?」
「ま、まあ一応」
と言っても、ここ十日間で見たものゆえ数は知れているのだが。しかし、そんなことも知らずに、メガネの少女と小太りの少女は期待に目を膨らませてエリカを見る。
「おお! 他にはいったい何が好きなのですかな!?」
「え、えーと、例えば……」
エリカは引きこもっていた間に見たアニメのタイトルを幾つか上げる。すると、二人はよりいっそう目を輝かせた。
「おお! そのアニメを好きとはやはり逸見殿は通ですなー! あのアニメは渡辺監督の打ち立てたSFアニメの金字塔と言っても過言ではないですからなー。いやぁやはり宇宙はいいものです。まぁそれがしとしては、渡辺監督のアニメは最近やった奴の方が好きだったりしますがな」
「逸見殿は本当にセンスがいい。カトリック系女学院の閉鎖的な空間で育まれる少女たちの友情を描いたあのアニメ、名作ですなぁ。ああ、原作小説もここにあるのでよかったら――」
エリカはその日、二人の話をただ聞いていることしか出来ずに昼休みを終えた。エリカには二人に追いつくほどの知識量がなかったからだ。
しかし、その熱意にエリカは心動かされた。
引きこもっていた間に見ていたアニメは、エリカにとって新たな趣味と言えるものになっていた。その新しい趣味において、これほど熱く語れる人間がいるということに、エリカはある種の感動を覚えていたのだ。
そしてエリカは、その日からさらにアニメ漬けの生活を送ることになった。戦車道の授業は受けず、学校が終わるとまっすぐ部屋に帰り、海外サイトでアニメを視聴する。監督や脚本家の名前も必死に覚えた。
そしていくうちに、エリカはいつの間にか二人の会話についていけるようになった。
そうなると、二人は嬉しそうな顔をエリカに見せ、さらにエリカに様々なことを教えてくれた。アニメだけではなく、オススメのゲームや特撮などについてだ。
エリカは教えてもらった作品を時間の許す限り見て、遊んだ。それどころか、授業中にもこっそり隠れ見るほどになった。
エリカが触れていった作品そのどれもが、エリカのやさぐれていた心の隙間に収まっていった。
なんて面白いものを私は見逃していたのだろうか。
エリカは、どんどんとサブカルチャーの世界へとのめり込んでいった。そうして、少しずつ今までの自分から新しい自分へと中身を書き換えていく。
そして、いつの間にか一ヶ月のときが過ぎていった。
◇◆◇◆◇
黒山の人だかりが一年の教室前にできていた。その人だかりの中心には、すらりと立つ颯然とした姿があった。まほである。
まほはもう一ヶ月顔を見せていないエリカの様子を見に、一年の教室に来ていた。だが、ただでさえ上級生が下級生の階に来ているというだけでなく、まほは黒森峰女学園の華戦車道の隊長である。下級生達の耳目を集まるのも無理はなかった。
「すまない、ちょっと通してくれ」
まほは人混みを掻き分け、エリカの教室を覗く。しかし、一通り見回してみてもエリカの姿は見当たらない。
「ふむ、いないのか……仕方ない」
エリカがいないのではここにいても意味がない。
まほは仕方なく自分の教室に戻ろうとすると、
「隊長……?」
聞き慣れた声が聞こえ、まほは声の方向へと向き直った。
「エリカ……?」
そこには確かにエリカがいた。しかし、まほはその姿に違和感を覚えた。
まず、一番に目を惹いたのはエリカがメガネをしていたことだった。この一ヶ月の間に急激に視力を落とすようなことがあったのだろうか。
耳からはイヤホンがだらしなく垂れており、どことなく不真面目そうな印象を与える。
また、雰囲気も以前とはどことなく変わっていた。以前のエリカは凛々しいという表現が似合う風体だったが、今のエリカにはかつての凛々しさがまったく感じられない。それどころか、どこかなよなよした感じを受ける。
「えーと、その……一体なぜこんなところに?」
エリカはまほに視線を合わさず、キョロキョロとしながら聞いてきた。
その姿に、まほはなんだかイラつきを感じてしまう。
「いや、お前がどうしているか気になってな……その様子だと、あまりよさそうには見えないが」
まほは胸の内から湧いてくるイラつきをなんとか隠しながら言う。
「い、いえ! そんなことはありません! 自分はすこぶる健康ですよ!」
「そうか、それならいいんだが……そういえばそのメガネ、いったいどうした?」
「え? これでありますか? これはその……最近急に目が悪くなりまして……」
どうにも歯切れが悪い。さらに、まるでどこか無理をして喋っているかのようにしどろもどろだ。
まほの中で、違和感が積もっていく。
「……まあいい。それで、どうだ? 戦車道の授業には出られそうか?」
「戦車道、ですか……。は、はい。一応、心の整理はつけたつもりですが……」
「ほう? ならば、来週からにでも授業に復帰できるよう――」
「あ! 私としましては、明日からでも構いません!」
突然大声を出したエリカに、まほは面食らってしまう。その様子にエリカも気がついたのか、エリカはまほにむかって大仰に頭を下げる。
「こ、これは申し訳ありません……!」
「いや、いいんだ。……しかし、そうか。ならば、明日から復帰ということで、いいんだな?」
「は、はい!」
エリカは強張りながら敬礼して答えた。その敬礼する姿も、かつては様になっていたはずなのに、今ではなんだか不釣り合いに見えてしまう。
「わかった。それでは明日、頼むぞ」
まほはそれだけ言うと、エリカに背を向け足早に自分の教室へと帰っていった。
一刻も早くこの場から立ち去って、胸の内から湧き上がってくる説明しがたい感情から逃れるために。
翌日から、エリカは戦車道の授業へと復帰した。
もちろん、エリカは昨日と変わらずどこか怪しげだ。他の戦車道履修者達も、その姿に違和感を持っているようだった。
戦車を指揮する車長としての働きは、以前とさほど変わらないものだった。だが、エリカの部下達からは、エリカの指揮からは前のような覇気が感じられないという報告があった。
また、大会より前は、練習後も率先して居残っていたことの多かったエリカが、復帰後は訓練が終了すると同時に帰るようになった。その姿はまるで、戦車に対する情熱を失ってしまったかのようだと囁かれた。
誰もがエリカの様子を訝しんでいた。だが、誰も追求することができずにいた。
そうして皆が胸にもやもやしたものを抱えながら、また一ヶ月の時が流れた頃だった。
事件は、その日起こった。
その日もいつものように訓練を終え、各々が格納庫にて後片付けをしているところだった。エリカもまた、自身の乗っていた戦車の点検をしていた。
そんなエリカのすぐ近くで、エリカと同じ戦車に乗っていた赤星小梅が、他の生徒達と話していた。
「ねぇねぇ赤星さん、そういえばアレ見た?」
「ん? アレって言うと?」
「ほらアレだよアレ。この前話に上がってたイケメン俳優が出てたっていう特撮」
“特撮”という単語が出た瞬間、エリカの手がピクリと止まった。
「あーあれですね、はい見ました見ました。出てる人たち、みんな若かったですねぇ」
「そーそー、それで案外面白かったよねー。お子様向けの番組かと思ったら、なんだか案外話が難しくてさー」
「――そうなんですよ!」
エリカは突然赤星達の話に割って入ってきた。突然の出来事に赤星達は言葉を失うが、エリカはそんなことに気づいていないらしく、さらに興奮気味に話を続ける。
「子供向け番組の枠を破った高クオリティな作劇を作り上げたのは前作の方なんですが、あの作品はそれを更に固めその後のシリーズの基盤を作った作品ですぞ! 海外ドラマを意識した多くの謎を一年間追い続けていく作りは、日本のドラマ界隈に大きな衝撃を与えたと言っても過言ではなく、まさしく大人の視聴にも耐えうる特撮なんですなぁ! まあ確かにどんな年代にも楽しめさらに綿密に作り上げられセンセーショナルな衝撃を与えた前作と、ヒーロー同士が自分の願望のためにバトルロイヤルを繰り広げるというショッキングな内容の後作と比べると、地味と言われてしまうことはありますが――」
と、そこでエリカは格納庫全体が凍りついていることに気がついた。
赤星やまほを含めた、誰もが唖然としながら、エリカを見つめている。まるでエリカ以外時間が止まってしまったかのようだった。
周りからの刺すような視線に、エリカやっとそこで自分が何をしでかした事の大きさを知った。
「あー、その、えーと……あはははは……」
サブカルチャーに対する異常な知識。
独特なしゃべり方。
周りからすれば一歩引いてしまうような興奮度合い。
紛れも無くその瞬間、エリカが“オタク”という生き物になってしまったことを、戦車道履修者の間に一気に知られてしまったのであった。
◇◆◇◆◇
それからというもの、エリカは自分がオタクとなってしまったということを隠さなくなった。
教室でも戦車道でも、それまでどこか挙動不審だったのが嘘のように明るくなった。
メガネにイヤホンをしている姿は彼女のトレードマークと化した。
暇があればエリカはイヤホンで耳を塞ぎ、音楽を聞いているかアニメや特撮を視聴するようになった。
その姿を見て、以前のエリカを知る人々は口を揃えて言う。まるで別の人格に乗っ取られたようだと。
そして、誰もエリカに近づかなくなった。元々エリカと親しくしていた人間は殆どいなかったのだが、エリカがオタク化してしまって以降、輪をかけていなくなった。
例外としては、漫画研究会に所属するメガネの少女や小太りの少女ぐらいか。
エリカは学校の中でも、とりわけ異端の存在と化していた。そんな彼女を、学校という閉鎖空間に閉じ込められた少女たちが見逃すわけがなかった。
「スーパーウルトラハイパーミラクルロマンチーック♪」
エリカはニコニコ笑いながらアニメソングを口ずさみながら登校していた。周りに彼女に近づくものは誰もない。エリカの独壇場である。
エリカはご機嫌なまま、教室に入っていった。すると、教室中から妙な視線が向けられていることに気がつく。普段の彼女を忌避する視線とはまた違ったものである。
「……?」
エリカは不思議に思いながら自分の席へと向かう。そして自分の机を目にしたところで、周囲の視線の意味が分かった。
「……ああ、なるほど」
エリカは困ったようにポリポリと頬を掻く。
机には、マジックで『死ねオタク』『ウザい』『キモイ』『ゴミクズ』などと言った、罵詈雑言が机を真っ黒に染め上げるほどに書かれていたのだ。
エリカはしばらく困ったように机を見つめていたが、ふと掃除用具が入れてあるロッカーへと向かい雑巾を取り出すと、それをトイレで濡らしてきて、強く机を拭き始めた。
しかしマジックは思った以上に強く書きなぐられており、なかなか落書きは落ちない。
クスクス、とどこから笑い声が聞こえてきた。言うまでもなく、エリカを嘲笑する声だったが、エリカはそれを無視しただひたすらに机を磨き続けた。
やっと机から落書きを消し去ったころには、もうホームルームが始まろうとした時間帯だった。
さらに嫌がらせはそれだけでは終わらなかった。
授業中、エリカの後方からシャープペンシルの芯が飛ばされてきた。最初は気にも留めていなかったが、連続で続けられるとさすがに集中力に支障が出た。
また、授業の合間にトイレのためにクラスを出て帰ってくると、授業道具一式がゴミ箱に捨てられていた。それを拾い上げるエリカを見て、またクスクスと笑い声が聞こえてくる。
これではおちおち外にも出られない。そう思ったエリカは、教室から外に出るときは鞄も一緒に持って出ることにした。
また、嫌がらせは教室だけにとどまらなかった。
戦車道の練習中のことである。
「それでは、右八十度転回。そのまま二〇〇メートル先まで前進を――」
「…………」
「ちょっと、聞こえていますか? 右八十度――」
「…………」
戦車道においても、エリカを排斥しようという行為は行われた。
同じ戦車に乗る部下たちが、露骨にエリカの命令を無視し始めたのである。いくらエリカが命令しても、まったく聞き入れようとしない。結果、エリカの乗る戦車は目立って不出来な有り様を見せることとなった。
さすがにそれは、まほに咎められたよってその日だけで済んだ。
だが、他の嫌がらせは毎日のように行われた。毎日机は汚され、隙を見てはモノを投げつけられ、どこを歩いてもヒソヒソクスクスと陰口ばかり。廊下を歩けば無理やりぶつかられ、戦車道では片付けを一人に押し付けられる始末。
初めの頃は気にも留めていなかったエリカだったが、さすがに連日繰り返されると精神的に何も問題がないというわけにはいかなかった。
そんな中、エリカはまほからとある提案をされた。
「エリカ、副隊長にならないか?」
「副隊長、ですか?」
二年生に進級する直前のことだった。みほがいなくなってからは、空席だった副隊長の座は一時的に三年生が務めていた。
「そうだ。隊内の実力を鑑みて、お前がもっとも適任だと判断した」
「しかし、今の……私には……」
「確かに今のお前が色々と問題を抱えているのは把握している。しかし、それと部隊への指揮能力については別だ。私はお前の能力を買っている。頼んだぞ」
「は……はい!」
まほはエリカの肩を叩く。そのまほの行為に、エリカはぎこちない敬礼で返した。その姿に、まほはその姿に含みのある表情を浮かべたが、エリカがそれに気づくことはなかった。
「だが、副隊長をやるからには練習後も出来る限り残るように。表向き強制ではないが、副隊長が練習に残らないのはいささか問題があるからな」
「は、はい……」
まほのその言葉に、エリカは明らかに落胆したように応えた。
翌日から、エリカを副隊長に据えた黒森峰の新体制が動き出した。エリカを副隊長にしたことに不満を持つ生徒は数多かったが、他ならぬまほの決断ゆえ、異論をおおっぴらに唱えるものはいなかった。
また、規律を重んじる黒森峰の校風から、エリカが副隊長になったことによってエリカに対する隊内における露骨な嫌がらせはなくなった。もちろん、人の口に戸は立てられないため、陰口が止むことはなかったが。
また、エリカの日常における嫌がらせは、より悪化することとなった。
エリカが副隊長に就任したことに対する不満を、戦車道以外の場で晴らそうとする一部の生徒たちが熱を煽った結果だった。
結果、エリカは一層集団の中から浮いた存在となっていった。
「それじゃあ逸見さん、後はよろしくねー?」
その日もまた、エリカはクラスの中で孤立していた。放課後、掃除当番であるはずの他の生徒が、エリカにすべてを押し付け帰ろうとしているのである。
「で、でも……今日の当番はあなたたちじゃ……」
エリカはおどおどしながら言う。かつてのエリカとはまるで正反対なその姿に、以前からエリカを気に食わなかった生徒達はさらに増長していく。
「はぁ? 聞こえないなぁ? 私達、これから大切な用があるんだよねぇ。どうせ逸見さん今日練習無くて暇でしょう? だったらやっといてよ、それぐらいしか取り柄がないんだしさぁ」
「そうそう、オタクは黙って命令聞いてりゃいいんだよ。底辺が調子乗るなっての」
生徒達は半ば乱暴にエリカに掃除用具を押し付けると、さっさと教室から出て行ってしまった。
仕方なくエリカは、一人で掃除を始める。
「はぁ……」
なぜ自分がこんな目に合わなくてはならないのか。私は私の新しい趣味に目覚めてそれを楽しんでいるだけだというのに。いや、確かに分からないでもない。アニメやゲームなんてものは、一般的には蔑まれるべき低俗な趣味だということも。それを隠さずおおっぴらに趣味として公表している自分は、間違いなく排除したくなる存在なのだろう。
そこまで分かっていてもエリカは、自分の新たな趣味を止めるつもりはなかった。むしろ、他人に蔑まれれば蔑まれるほど、エリカは止めてやるものかと決意を新たにした。エリカが元来持つ負けず嫌いなきらいが、エリカにさらに火をつけたのだ。
「……ふぅ、こんなものですか」
エリカは一通り掃除を終えると、手早く掃除用具を片付け、クラスから出て行く。そしてエリカは足早に部室棟へと向かった。
久々に好きなことを語らうことができる。そう考えるだけで、エリカは先ほどまでの鬱屈した気持ちが嘘のように晴れていくのを感じた。
と、そこでエリカはその場に似つかわしくない意外な影を見かける。
「隊長……?」
「ん? エリカじゃないか、どうしたこんなところで」
そこにいたのはまほだった。手には大量のプリントが抱えられている。
「隊長こそ、どうしてこんなところに?」
「ああ、先生に頼まれて、プリントを運んでいるところだったんだ。エリカも部室棟に何か用か?」
「ええ、まぁ……」
まほに部室棟にどんな用があるかは言い出せなかった。一種の後ろめたさを感じてのことだった。
「そうか。まあ時間も時間だ。お互い、あまり長居をしないようにな」
「……はい。それでは」
エリカは俯きながらまほの横を通り抜けようとする。すると、
「なぁ、エリカ」
と、唐突に声が掛けられた。
「……なんでしょう?」
「その……大丈夫か、なんだか顔色が悪いぞ?」
どうやらまほはエリカのことを気にかけてくれるようだった。その気持ちは嬉しかったが、今のエリカに素直にそのことを感謝することはできなかった。
「……いえ、大丈夫です」
「ならいいんだが。……お前の周りについて、あまりいい噂を聞かないものでな。ああいい、忘れてくれ。それでは」
まほはそのままスタスタとエリカとは反対側へと歩いて行った。
どうやらエリカの現状は、上の学年であるまほにも伝わっているらしい。そんなことでまほに心配をかけていることを申し訳なく思いつつも、エリカは部室棟の奥にある寂れた一角、漫画研究会へと向かった。
漫画研究会の前には相変わらず人がいない。賑やかな部室棟の中でも、ぽつんと別世界にあるかのようだった。
エリカはごく自然に漫画研究会の戸を開く。
「おおっ、逸見殿ではありませんか!」
「これはこれはお久しぶりですな!」
メガネの少女と小太りの少女が仰々しくエリカを迎え入れる。エリカは先ほどまでとは打って変わって、二人に満面の笑みを向けた。
「こちらこそお久しぶりですなお二方共! さあ、久方ぶりに語り合いましょうぞ!」
エリカもまた、二人に合わせ独特な口調で話しかけた。そういった口調で話すことがもはや、エリカにとって自然なこととなっていた。
世間からは迫害されていても、その小さなコミュニティこそが自分の今の居場所であると、エリカは痛切に感じていた。
戦車乗りとしての逸見エリカ、オタクとしての逸見エリカ。
エリカが二つの自分を持ち二重生活を送り始めてから時間はどんどんと流れていく。
進級してもエリカの扱いは変わらず、孤独なるものだった。戦車道においては副隊長という座だけで、気の許せる友人はできなかったし、新しいクラスでもあいも変わらず嫌がらせの対象だった。
だがエリカはそんなことは気にはしていなかった。嫌がらせが不快であることは間違いなかったが、今の彼女には逃避先があった。画面の向こうの世界は、いつでも彼女の心を救ってくれた。
そして、それについてお互いの気持ちを開くことのできる新たな友がいる。その存在が、エリカを未だ外の世界へと留めおく理由となっていた。
そうして季節はいつのまにか、第六十三回全国高校戦車道大会の時期へと移り変わっていた。
◇◆◇◆◇
「副隊長……?」
それは、まほと訪れた戦車喫茶でのことだった。
エリカは、訪れていた客の中に見知った姿を見つけた。
「おお! 副隊長! 副隊長ではございませぬか!!」
それは、かつて黒森峰を去ったまほの妹、西住みほだった。
「エ、エリカさん……なの?」
「いやぁまだ戦車道をやっておられたとは、感動の極みでございます! おおこれは失敬、元、副隊長でしたな。今は大洗の隊長なのですから」
興奮してみほに近寄ってきたエリカにみほと、その友人達は困惑してしまう。まほは一人そんなエリカを、溜息混じりに見ていた。
「えっと、みほさん。こちらの方は……?」
みほの友人の一人である五十鈴華がおそるおそる聞く。
「んーとね……黒森峰で一緒に戦車道やってた逸見エリカさん、だと思う……」
「だと思う、って言うと?」
今度は同じく友人の一人である武部沙織が聞いてきた。
「いやその、私の知ってるエリカさんとはあまりに別人すぎて……」
「おっとどうやら驚かせてしまったようですな。実は元副隊長が転校した後に新たな趣味に目覚めまして。いやそれがとあるきっかけで見ることになったアニメなんですが、これがまたとても素晴らしく! 世の中にはこんな面白いものがあったのかと驚いたものですなぁ。画面の向こうの世界は実に素晴らしい! とてもエンターテイメントに溢れ、また美しい! 私の心は一掴みにされてしまったわけですよ。そこからさらに同好の士から様々なものを教えてもらい、アニメだけではなくゲームや特撮といった世界にも食指を伸ばしていきましてはい。結果いつの間にか影響されてこんな感じになってしまったんですよぉ」
笑顔でペラペラと語るエリカに対し、みほは引きつった表情を浮かべた。
それもそのはずである。現在の状況に除々に慣れていった黒森峰の生徒ですら驚いているエリカの人格の変わり様に、久々に対面したみほが耐えられるわけもなかった。
「へ、へぇ……」
「ああ、そういえば見ましたよボコ。以前はよく分からないと言ってしまいましたが改めて見るといいものですなぁ。何度でも立ち上がるボコの姿が感動的で……。あ、あと回によって監督の個性が出るのも特徴的ですな。とりわけ有名なのは二十八話の――」
「やめて下さい……」
「え? 何か言いましたか元副隊長?」
「やめて下さいって、言ったんです」
みほは落ち着いた、しかしどこか冷たい口調で言った。
「に、西住殿……?」
みほの向かいに座っていた秋山優花里が恐る恐るみほの態度が気になり口にするも、みほには聞こえていないようだった。
「エリカさんの気持ち悪い趣味と、ボコを一緒にしないでください」
「き、気持ち悪い……」
“気持ち悪い”、その一言でエリカは石のように硬直した。
「ボコはそういうのとは違うんです。アニメとかゲームとか、そういう気持ち悪い趣味と一緒にしないでください」
「し、しかし、その……」
「そもそもなんですかその口調は? 以前はそんなんじゃなかったですよね? 昔はもっと大人っぽくて、格好良くて……それなのに、今は……今は……」
そこまで言うと、みほの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
その姿に、その場にいた全員が動揺する。
「ちょ、みほ!?」
「……私のせいなんですか? 私が黒森峰から転校しちゃったから、エリカさん、こんなオタクなんかになっちゃったんですか……? 私の、私のせいで……」
「あっ、あの……」
とうとう本格的に泣き始めたみほに対し、エリカは慌てるだけで何も言葉をかけることができなかった。大洗の友人達は必死でみほを慰めているが、エリカにはそれをすることもできない。
そんなエリカを前に、先程まで眠たげにしたいたみほの友人の一人、冷泉麻子が言った。
「逸見さんと言ったか……すまんが今日はもう帰ってくれないか。じゃないと、西住さんがいつまでたっても泣き止まない」
さらに、背後からまほがエリカの肩をぽんと叩く。
「いこう、エリカ」
「は、はい……」
エリカは言われた通り、ただ黙ってその場を去ることしかできなかった。
「大丈夫だよみほ、さ、ケーキ食べよ」
「エリカさん……ごめんなさい、エリカさん……」
「せっかくだからもうひとつ頼みましょうか、ね?」
「あ、あのぅ、私が声を掛けても大丈夫なんでしょうか……?」
「大丈夫だ、秋山さんの場合は戦車だからセーフだ」
「は、はぁ……」
みほの友人たちが心からみほを慰める声を、背後にしながら。
その日の夕方、黒森峰女学園の作戦会議室に使われている教室で、エリカとまほは対峙していた。二人共神妙な面持ちで相手を見ている。
昼の戦車喫茶での一件について少し話そうとまほが提案したのだった。
「……すいませんでした隊長、私が興奮したばっかりに……」
先に口を開いたのはエリカだった。その口調は、いつものようにふざけた独特さはない。
「……ああ、そうだな」
まほは否定せずにエリカの言葉に頷いた。
「きっとみほは、お前のことを好いていたんだろう。だからこそ、変わり果ててしまったお前の姿に耐えられなかったんだな。オタク趣味なんぞにうつつを抜かしている、お前の姿に……」
「はい……」
「そしてその気持ちは、私も同じだ」
そこで普段は平坦なはずのまほの声色に、初めて色がついた。
まほは急にエリカの両肩を強く握りしめた。
「た、隊長……?」
「なあエリカ、私は気がついたんだ。私は、お前のことが好きだ。いや、好きだった。昔のお前のことが、あの凛として、厳かに戦車のことだけを見つめていた、お前のことが」
まほはエリカの上半身を机の上に押し付け、覆いかぶさる。
その顔は、いつの間にか涙でぐちゃぐちゃに歪んでいた。
「なぁエリカ。今からでも遅くない。昔のお前に戻ってくれ……。アニメだのゲームだの、いつからお前はそんな軟弱なものに惑わされてしまったんだ。そんなものは底辺の趣味だ。いますぐ目を覚ますんだ、エリカ!」
エリカは唖然とし、ただまほを見つけることしかできなかった。
しかし、まほの涙がエリカの頬に落ちたとき、やっとエリカは口を動かすことができた。
「……なんなんですか、なんなんですか! みんな、揃いも揃って!」
「エリカ……?」
突如激昂するエリカに、今度はまほが言葉を失った。
エリカは高ぶる感情のままに喚き始める。
「前の私、前の私って、そんなに前の私がいいんですか!? 戦車を水没させ、副隊長を転校に追いやった私が! 高圧的で、他人に嫌味を言うことしかできなかった私が!? 私はそんな私から変わりたかった! そんなときアニメに出会った! 画面の向こうの世界はキラキラしてて、私が今まで持っていなかったものがそこにはあった! そして私は決めたんです! 嫌な女の私から、正反対の一人の無害なオタクの女に変わろうって! 例え底辺の存在だって、以前の私と正反対な存在ならなんでもよかったから……!」
エリカもまたまほと同じく、泣きじゃくりながら内心を晒しだす。その口調だけは、完全に以前のエリカに戻っていた。まほはその姿に、なんとか気を取り直してエリカに語りかける。
「そんなことはないエリカ! 前のお前を好いてる私がいるんだ! そんな世界なんかにハマらなくたっていいじゃないか……!」
「いいえ嘘です! 昔の私なんて、人に好かれる要素なんてあるわけないんです! それに結局隊長は、今の私なんか見ていないじゃないですか! 自分に都合のいい、逸見エリカが欲しいんでしょ!?」
「そ、そんなことは……」
まほは動揺したのかエリカを抑えつけている腕の拘束が緩む。エリカはさらにまくしたてた。
「ほら、言い返せないじゃないですか! 今の私はもうオタクとしての逸見エリカなんです! だって好きになってしまったんですから! アニメも! ゲームも! 漫画も! ラノベも! 特撮も! せっかく好きになったものを、捨てられるわけないじゃないですかぁ!!」
そこまで言うと、エリカはまほの拘束を振りほどき、教室から駆け出していった。
「エリカっ!!!」
背後からまほの制止する声が聞こえてくるがお構いなしだった。エリカはただひたすらに校内を走った。
嫌だ嫌だ嫌だ。これだから現実は嫌なんだ。現実は私を否定しかしない。今の私を見て欲しいのに、誰も見てくれない。いや、見てくれる人達はいる。そうだ、漫研の彼女達だ。彼女達は私を否定しない。彼女達なら、今の私だって受け入れてくれる……!
エリカはその足でそのまま部室棟へと向かい漫研の前で止まった。遅くなってしまったが、まだいるはずだ。
そう思い、戸を開けようとしたときだった。戸の奥から、メガネの少女と小太りの少女の二人の話し声が聞こえてきた。
「いやぁ、それにしても、逸見殿が仲間に加わってからというもの、快適に過ごせるようになりましたなぁ」
「そうですなぁ。なんせ、学校中のヘイトを逸見殿一人で稼いでくれるんですから、こんなに楽なことはないですぞ」
え……? どういうこと……?
エリカの戸にかかった手はそこで完全に凍りつく。
エリカが混乱している間にも、戸の向こうからの話し声は聞こえてくる。
「以前は私がいじめられていたものですが、逸見殿がいじめられるようになってからはこちらも楽でいい」
「まったくですぞ。正直逸見殿とは趣味や気が合わないなぁと感じることが多々ありますが、こういう恩恵がある以上はお友達でいてあげるのもいいですなぁ、ハッハッハ!」
そこまで聞いて、エリカは気持ちがだんだんと先ほどとは違う高ぶり方をしていくのを感じ、戸を開いた。
「っ!? い、逸見殿!? い、いつからそこに……?」
エリカの姿を見た二人はあからさまに動揺していた。しかしエリカは、ただただ昏い目で二人を眺めやるだけだった。
「……そういう、ことだったんですか。最初から、私とはそういうつもりで……」
「い、いや!? 今の話はですな!? 別にそんなことは……」
「もう、いい。もう、いいんです……全部、分かりましたから」
エリカはそれだけ言うと、とぼとぼとその場を後にした。
もう、現実なんて何も信じられない。
そんな泥沼のような感情を、胸の内でうねらせながら。
◇◆◇◆◇
あれからいったいどれだけの時間が立っただろう?
数日? 数週間? 数ヶ月? 数年?
そんな時間の流れなど、今のエリカにとっては関係のないものだった。なぜなら、エリカは今、実家に帰り部屋に引きこもった生活を送っているのだから。
エリカはあれ以来、外界に強い恐怖と不信感を抱くようになった。
外の世界は怖い。人間と触れ合うなんて出来ない。誰も信じられない。人の視線が自分を笑っているような気がする。世間が、世界が自分を拒絶し、嘲り笑っている。
そんな強迫観念に、エリカは襲われていた。
そしてエリカは、本格的にオタク趣味だけにすべてを費やすことを決めた。今までためた貯金や親からの金は、すべて自分の趣味に費やした。
今のエリカが唯一外出する理由も、オタクイベントがあるかどうかということだった。
あれほど打ち込んだ戦車道も、もはやエリカにとっては忘却の彼方だった。
今日もエリカは薄暗い部屋の中ただひたすらにパソコンに向き合う。
その格好はバンダナにメガネ、赤いチェックのシャツに青いジーンズと、古臭いオタクファッションで固められていた。
「…………」
カチッ、カチッ。
今エリカは、青年向けのアダルトゲームをプレイしていた。ネット上でカルトな人気のあるゲームだ。今のエリカは、そのゲームに執心していた。
「…………」
カチッ、カチッ。
今の私はなんて惨めなんだろう。
そんな考えがふとエリカの頭をよぎる。
前の私も最低だったが、今の私も最低だ。部屋に引きこもり、こうしてゲームやアニメに触れることしか楽しみがない。いや、そのために生きていると言っても過言ではない。以前も今もこうして駄目だということは、もともと逸見エリカという人間は社会のゴミになることが運命付けられていたに違いない。なぜ私は今こうして生きている? 何のために生まれてきた? 私の人生は、なんて無駄なものだったんだろうか。私を産んだ親は、なんと苦しい思いをしているのだろうか。もし叶うことなら今すぐにでも死んでしまいたい。でも今の私には死ぬ勇気もない。恥ずかしい。生きることも死ぬこともできない、今の私という存在が恥ずかしい。私は、この世に存在しているなによりも醜く汚らわしい存在と成り果ててしまった。どうして、どうして私は――。
『そのヒクツさはぁ、すでに傲慢ですよぉ』
画面の向こうからの声に、エリカは鬱屈した思考を止めビクリとした。
まるで、今の自分の考えを見抜かれているようだったから。
しかし、そんなことはないと、エリカは再び物語を読み進め始める。
カチッ、カチッ。
こうしてエリカは今日もまた、もがき苦しみながら生き続けるのだ。
世界の、底辺で。