ある日のことだった。
ソレはなんの予兆もなく姿を現した。
致死率百パーセントの殺人ウィルス。
中東の国家、イスラエルで初めて発見されたソレは、あらゆる自然環境に適応し、恐るべき速度で世界に蔓延していった。
それには一切のワクチン、抗ウィルス剤も生み出すことができず、人類はただただ病に対して無力であった。
人々はウィルスから逃げるように移動を始めた。しかし、無事な土地は数少なく、またその人数を養っていけるほどの食料もない。
結果、人類は殺人ウィルスの脅威に脅かされながらもお互いに血を流し合うことになった。
戦火はより大きな戦火を呼び、限られた人類をさらに減少させていく。
そうしている間にも殺人ウィルスはその勢力圏を伸ばしていき、人類を確実に減らしていった。
そしてやっと人々が争いを止めた頃には、残された人類は全盛期と比べ僅か一割ほどになってしまっていた……。
◇◆◇◆◇
「ミカー! はやくはやくー!」
アキは黒くくすんだ灰色の港の奥で、港に接岸しているオレンジ色のゴムボートの上に座っているミカに元気よく手を振りながら言った。背中には大きなリュックサックが背負われている。
「ああアキ、少し待ってはくれまいか」
ミカはゴムボートの上からゆっくりと港に降りる。背中にはアキと同じく大きなリュックサックが背負われており、またそれとは別にフィンランドの民族楽器であるカンテレが収納されたバッグを肩からかけている。
ミカは港に完全に足をつけると、少し駆け足でアキの元へと駆け寄った。
「まったく、ずいぶんとアキは元気だね」
「そりゃあそうだよ! だって久々の陸の上なんだよ!」
「そうだね……もうずっと、学園艦の上にいたからね、私達は」
ミカは久々の地上の感覚を確かめるように、コンコンとつま先で地面を蹴る。
その様子が普段ひょうひょうとしているミカらしくない少女らしい仕草で、アキはなんだか笑いがこみ上げてきた。
「ん? どうしたんだい? そんな顔をして」
「いや、なんでもないよ。それより、さっ行こ! 久々の地上、楽しもうよ!」
そう言うとアキはミカの手を引き、弾む足取りで港から街の中へと入っていった。
「うわー、随分と凄いことになっているねぇ」
街には当然人影一つ見当たらなかった。それどころか、完全に崩壊している。
ビルの窓は全て割れ、車は何十台も乗り捨てられたままボロボロに朽ちたものが放置してある。
アスファルトはいくつもひび割れそこからたくましい雑草が生い茂っていて、もはやアスファルトの灰色よりも雑草の緑や枯れ草の肌色のほうがずっと多いほどである。
「ふむ、見事に自然に還っているね。やはり自然の命の力は素晴らしい。人がウィルス一つにその生存を脅かされようと、草木にとっては関係ない。人もこうあれたらいいのだけれどね、アキ」
「うーん……でもそれができないから、人間なんじゃない?」
アキのその言葉に、ミカははっとした顔になった。しかし、すぐさま普段の不敵な笑顔に戻る。
「フフッ、アキに気付かされるとはね」
「えっ、私なんか言った? そんな凄いこと言ったつもりはないんだけど……」
アキが動揺している中で、ミカは一人納得したようにカンテレを取り出し爪弾く。
ポロロン、という音色が誰もいない街の中に響いた。
「もー一人で納得しないでよ! それより先に行ってみよ! ほらミカ早く!」
アキはぎゅうぎゅうに道路に詰まっている車の上に乗って進み始めた。ミカはフッと笑いカンテレをしまうと、その後に付いていく。
そして二人で様々な場所を渡り歩いた。
物の無くなったショッピングモール。
無人の地下鉄。
小さな川ができている坂。
まるで観光をするように、アキとミカは滅びた街を練り歩いた。
そうしているうちに太陽はあっという間に沈んでいき、いつの間にか空は茜色に染まっていた。
二人は町外れの、より荒れた地区へと訪れていた。そこには普通の車だけでなく、ボロボロになった武器なども散乱していて、さらには明らかに人の手によって出来た大きな穴がいくつも開いており戦いの形跡が見て取れた。
「うーんそろそろ暗くなってきたねぇ」
「そうだね」
「どこかいい場所は……あっ!」
アキが目を凝らして周りを見ていると、とあるモノを見つけて飛び上がった。
「ミカ! あれ見てあれ!」
アキは興奮しながら指を差す。ミカがなんだとその指差す方向を見ると、思わず「ほぉ」と声を上げた。
「これはこれは……」
「ねっ! 凄いよね! ね!」
ミカも珍しく興奮した様子を隠すことなく、同じく興奮して走りだしたアキに付いていった。
二人が見つけたのは、二人にとってとても馴染み深いものだった。
「まさかこれがこんなところにあるなんて……」
「まあおかしなことではないよ。戦争をやっていた末期には、こうして競技用として使われていた古い兵器すら駆り出されたという話だからね。でもまさか本当にそうで、しかもこれに出会うことになるとは……やあ、こんなところで一人寂しかったろうね。BT―42」
ミカはそのボロボロの戦車に触りながら言った。
BT―42。
かつてアキ達が戦車を使った競技、戦車道において使用していた戦車である。
ミカの言った通り、戦争時代に泥沼を極めた時期においては、こうして競技用に用いられていた古い戦車や戦闘機ですら兵器として使用されたのだ。
BT―42はすっかり朽ち果てていた。
装甲は真っ黒に煤け、履帯は外れだらしなく地面に垂れている。おそらく乗員が乗り捨ててそのままだったのだろう。
アキとミカは懐かしそうにその戦車を見て、触れる。そして、しばらくそうした後に、アキがこう言った。
「ねぇミカ、ここがいいんじゃない?」
「……そうだね、私もそう思っていた」
そう言うと、アキとミカは背負っていた荷物を地面に降ろし、BT―42にもたれ掛かるように腰掛けた。
「最後にここを見つけられて……私達ってもしかしてついてるのかな?」
「そうだね。身を天に任せるのは好きじゃないが、今回ばかりは天上の存在について考察したくなるね。いや、そもそも今回のウィルスの発現からして、天上の存在を疑うべきなのかな?」
「ふふっ、そうだね。あんな病気、神様か悪魔の仕業だとでも思わないとやってられないよね」
アキは空を見上げながら言った。
赤く染まった空に、か細い雲がいくつも走っていた。
「そうだね。それに、最初にウィルスが見つかったのはイスラエル、しかも噂によるとエルサレムらしい。かの聖地から滅びが始まったと言うなら、これは神の怒りなのかもしれない。まあ、そんな神様だったら、私は信仰なんてごめんだがね」
「もー自分から神様がどうとか言っておいてミカはすぐそういうこと言うー。……でもまあ、その気持ちには同意するかなぁ」
「おや、私に同意してくれるなんて珍しいね」
「私だってそういうときぐらいあるよ」
アキとミカはそう言いながらお互いに笑い合う。静かな戦場跡に、二人の笑い声が満ちていく。
「……でも、人間はそれでも最後まで人間らしく生きたと思うのさ。私は」
「と、言うと?」
「いいかいアキ。人間はウィルスに脅かされる状況ですら最後の最後までお互いに傷つけ合ったんだ。しかも、それは形を変えて今でも残っている。最後の方舟、学園艦における搭乗規制。洋上において比較的安全とみなされた学園を目指して人々は再び争っている。でもそれが人間らしいと、私は思うのさ。だってそうだろう? 人は自然にされるがままでなく、自らの意志で滅びを選んでいるんだ。これは、草木には選べない道さ」
「もーまたそういう皮肉を言う」
アキが呆れたように言う。だが、ミカは静かに首を振った。
「いいや、これは皮肉なんかじゃないよ。人間が確かに最後まで自分の意志というもので戦って生きている。これは素晴らしいことなんだ。さっきも言ったように、他の生物にはできないことだからね。まあ、このことに気付いたのはさっきのアキの言葉のおかげなんだけどね」
「私の?」
「ああ、アキが言っただろう? 『それができないから、人間なんじゃない?』ってね。まさしくその通りなのさ。人間は考える葦だ。どんなに愚かだろうと、考えて行動して、考えて朽ちるからこそ人間なのさ」
その言葉を飲み込むように、アキは静かになりミカを見つめる。そして、ゆっくりとその口を開いた。
「……じゃあ」
「ん?」
「じゃあ、ミッコもそうだったのかな?」
「…………」
ミッコの名前が出た瞬間、ミカはそれまでの余裕ある表情が消え、口を閉じた。そしてカンテレを取り出し、ポロロン、と爪弾くと重い口を動かす。
「……ああ、ミッコは最後まで、人間らしく生きたと思うよ」
再びミカはカンテレを弾く。
それはミカの心の声を代弁しているように切ない音色だった。
「……まさか、学園艦の上でウィルスにかかるとは思わなかったな。しかも、学園艦側はそれを必死になかったことにしようとして、さ」
「……仕方ないさ。もはや学園艦は信仰対象さ。それこそ人の心の生むものだ。誰だって新たな神は否定されたくないものだよ。ま、継続の学園艦はもう終わりだろうけどね。……きっと次はできるだけ多くの難民を助けているサンダースあたりがダメになるだろう」
ミカはずっとカンテレを弾きながら喋っていた。そうしなければ、まるで喋っていられないように。
「……ミカはさ、ミッコのこと、好きだったんだよね」
その言葉に、ミカのカンテレの音色が一瞬消えかかった。
「でもミッコは、そんなミカの気持ちに最後まで気付かなかった。だってミッコは、私のことが好きだったんだもん」
「…………」
「そして私は、ミカのことが好き。変な関係だよね。三人それぞれが輪っかみたいになってるんだもん。でも私達はそれでやっていた。それでよかった。よかったんだよね……」
アキはそっとミカの肩に頭を寄せる。ミカはただ黙ってカンテレを弾いてそれを受け止めた。
「でも、ミッコがいなくなってそれが崩れた。ミカはもう壊れる寸前みたいになっちゃって、私もそんなミカを見てるだけしかできなくなった。……だから、私はミカをこうして連れだした。せめて最後に、自由な風に戻って欲しかったから」
「……アキ」
「……だって、もうミカは……」
アキが言葉を紡ごうとした瞬間、ミカのカンテレの音色が乱れた。
「ガハッ!」
そして、ミカが大きく咳き込み、カンテレを赤く染める。
「ミカ!」
「……どうやら、もう時間らしいね」
ミカは血に濡れながらも、カンテレを弾き続ける。それが、ミカの命そのものであるように。
「……ミカ、ミカ……!」
アキは泣きながらミカに寄り添う。
ミカは、もはや自分の命の灯火が消えかかっているというのに、いつものようにひょうひょうとした笑みを浮かべていた。
「……泣かないでくれ、アキ」
「でも……!」
「これで私も、やっとミッコのところにいけるんだ。そして近くには、この戦車がある。こんなに嬉しいことはないさ……。ああ、美しいね、黄昏とは、こんなにも美しいものだったのか……」
ミカは霞む瞳で沈みかける太陽を見て言った。
そして、ついにミカのカンテレの音色が、止まった。
「……ミカ? ミカ!」
ミカは何も答えない。もう何も答えられない。それは、アキにもよく分かっていることだった。
「……大丈夫だよ。ミカ、ミッコ。私もすぐ、そっちに行くから」
アキはもう音色を奏でないミカを抱きしめながら言った。
太陽は、ビルで複雑な形になった地平線にゆっくりと沈んでいく。
黄昏が終わり、夜が来ようとしていた。
滅びた少女と戦車は、ずっとそこにい続けるだろう。ずっと、ずっと。