文化祭。
それはどこの学校でも行われる秋の恒例行事である。
小学校、中学校、高校と形は違えど行われるそれは、大学でも当然のように行われる。
大学の文化祭というのは学生の自由な時間が大きいのもあるため、とても大規模になるものが多い。
そして、それは主にそれぞれのサークル、部活が独自の色を出す場でもあり、学生達はそれぞれ青春の一ページを盛り上げようと普段の勉学以上に努力する。それはアンチョビこと安斎千代美が所属する文学サークルでもそうだった。
「おーい安斎ー、例の本どうしたー?」
「あっ、はい。今持ってきます!」
千代美は先輩に言われ、大量の文庫本を抱え歩き始めた。
「おっ……」
文庫本と言っても量があれば相当の重さになる。
戦車道を嗜んでいるとはいえ一人の女性であるアンチョビは、山のように文庫本を抱えたせいで、フラフラとした動きで前に進んでいた。
本の塊を持って歩く千代美はその文庫本によって上手く足元が見えていない。そのため、おぼつかない足取りになっていたせいだった。
千代美はうっかりと足をもつれさせ、転びそうになる。
「あっ……!」
「おっと!」
と、そこで千代美を支える手が伸びてきた。その手のおかげで、千代美は転ぶことも、文庫本を地面に散らばらせることもなかった。
「大丈夫か、安斎?」
「ああ、ありがとう西住」
千代美を支えたのは、西住まほだった。千代美と同い年であり、同じ戦車道履修生であり、そして、千代美の彼女だ。
千代美とまほは中学時代からの付き合いだった。中学時代に互いにライバルとして戦い合っていた二人は、いつの間にか互いに惹かれ合い、同じ大学に入ったのを契機に付き合い始めた。
隠しているというわけではないがそのことを知っているのは、数少ない人間であるが、知っている人間からすれば仲のいいカップルであった。
「もう少し分けて本を運んだらどうだ、安斎。一気に運ぶからそんなことになるんだぞ」
「ああそうだな。少し横着しようとしすぎたよ。それにしてもどうしたんだ西住? どこのサークルにも入っていないお前が、わざわざこの文芸サークルのブースまで来るなんて」
そう言うと、まほは少し恥ずかしそうに頬を掻きながら言った。
「いや……お前の顔が見たくなって、なんてな」
「に、西住……」
お互いに顔を赤くする。
千代美とまほは、未だに初々しいという関係性のままだった。まだあまりキスもしていない。そのため、こうしたちょっとしたことですぐ恥ずかしくなってしまうのだった。
「じゃ、じゃあ私は準備があるから!」
「あ、ああそうだな。終わるまで待ってるよ、安斎」
二人は照れを隠すようにそそくさと動き始めた。
千代美は、待ってくれなくてもいいのに……、と思っていたが、まほの気持ちが嬉しく、それを口にすることなく作業に戻った。
「それで、今日はどこで食べる?」
「そうだな。パスタ食べようパスタ」
千代美は作業を終え、まほと一緒に夜の町を歩いていた。町は日が沈んでからが本番と言うように、多くの人でごった返している。
「パスタって、この前も食べたじゃないか。お前は本当にイタリアンが好きなんだな」
「ふっ、元アンツィオ生を舐めてもらっては困るな」
「そうは言ってもなぁ……あ、ちょっと待ってくれ」
二人が夕食の相談をしていると、まほの携帯に突然電話がかかってきた。まほはその画面に表示されている名前を見ると、少し苦々しい表情をしながら電話を取った。
「……はい、私です」
千代美はまほの電話が終わるのを待った。
まほは先程までの柔和な表情とは打って変わって「はい……ですが……いえ……はい……」と堅苦しい表情で事務的な反応をしていた。
そして、一分ほど会話をしたかと思うと、「それでは」とまほがいい携帯を切った。
「……どこからだったんだ?」
千代美が聞く。するとまほは、
「……実家からだ」
と、苦々しい顔をしたままで応えた。
千代美はまほが実家と最近上手くいっていないことを知っていた。
それは主に高校時代にまほが所属していた高校である黒森峰を一回しか優勝させられなかったこと、しかもまほが隊長で在籍していた頃には優勝を経験したことがないことが深く関わっていると、千代美は前にまほから聞いたことがあった。
それを聞いてから、千代美はまほの実家のことにはあまり触れないようにしていたため、相手を聞いてしまったことは失敗だったと思った。
「……その、すまない」
「なぜお前が謝る。私が実家と仲が悪いのは仕方のないことだ」
「でも……」
「でも、じゃない。ちょっと面倒な連絡が来ただけだ。安斎は気にしないで今日の夕食のための店を探してくれればいい」
「……わかった」
まほがそう言うため、千代美はもうこれ以上気にしないことにした。
これ以上気にしてしまえば、まほに悪いと思ったからだ。
そのため、千代美はこれからの夕食を食べるための店探しに没頭することにした。
「そうだな、パスタを食べることは決定事項としていつもの店だと芸がないからな! うん、えっとここら辺に良さげな店はと……」
千代美は携帯を取り出しアプリで店を探す。さっきまでのことはなかったかのように振る舞った。それがまほのためになると、そう思ったから。
そんな千代美の気遣いとは裏腹に、その日一日まほの表情は硬いままだった。
◇◆◇◆◇
「A中隊! 動きが遅い! C中隊は前に出過ぎた!」
その翌日の戦車道の訓練において、まほの激が飛ぶ。
まほは入学したばかりの一年生だと言うのに、隊の指揮を任されていた。それもそのはずで、まほは国際強化選手であるため、他の学生と比べると大きな差があるからだ。
千代美もまほの指揮下にいた。
だが、その日千代美は違和感を覚えていた。
「……おかしい」
「ん? どうしたんですか車長?」
千代美の呟きに同じ戦車に乗る搭乗員が聞く。
「ああいやなんでもない。気にしないでくれ」
千代美はその場は取り繕ったが、本当は口にして言いたかった。
“西住の様子がおかしい”と。
千代美は思っていた。今日のまほの指揮は苛烈すぎる、と。まほは普段は冷静沈着に、鋭い刃のような指揮を飛ばす人間だった。だがこの日は、とにかく指揮が荒々しかった。まほらしくない、鈍い鈍器のような指揮だった。
その日は、一日中まほの指揮は荒々しかった。
千代美は訓練が終わると、一人でいるまほに話しかけた。
「なあ西住……」
「……なんだ」
応えるまほの声は冷たかった。訓練中の熱のある荒々しさとはある意味正反対の冷たさだった。
千代美はそんなまほに一瞬息を呑む。だが、怯んでばかりはいられないと、勇気を出して口を開いた。
「おい西住、今日の指揮はどうしたんだ。お前らしくないぞ」
「……私らしくない?」
「そうだ。普段ならもっと落ち着いて指揮をするだろう。それが今日はどうだ。お前らしくないスパルタな指揮ばっかりだ。何かあったのか?」
「……別に」
そう言ってまほは千代美から去っていこうとする。
千代美は慌ててそんなまほの腕を掴んだ。
「ま、待てよ西住!」
「…………」
「なあどうしたんだ西住、何かあったなら話してくれ。私達の仲だろう? な?」
「…………」
それでもまほは応えない。千代美はまほに話し続けることにした。
「……もしかして、昨日の電話のことか?」
「……っ」
そこで、ようやくまほの体がピクリと動いた。
千代美としてはまほの実家のことにはなるべく触れないようにしてきたが、今回ばかりはそうもいかないと思った。
「……なあ西住、お前が話したくない気持ちは分かる。でも、たまには私に相談してみないか? 溜め込むばかりだと良くないぞ? なあ、西住……」
「……に」
「え?」
「お前に、何が分かると言うんだっ!」
まほは千代美の腕を激しく振り払った。その勢いで、千代美は地面に尻もちをついてしまう。
「うわっ!」
「あっ……」
千代美を見下ろすまほの口から、やってしまったと言わんがばかりの言葉が漏れる。表情も、普段あまり感情を表に出さないまほにしては、かなり大きな動揺が見られた。
「……っ!」
そして、まほは千代美を置いていったままその場から去ってしまう。
「お、おい! 西住!」
千代美は地面に座り込んだまま、まほの名前を呼ぶも、まほは振り返ることなくその場を去っていった。
それからと言うもの、千代美とまほの関係はギクシャクとし始めた。
まほは以前のように千代美のサークル活動に顔を出さなくなり、その結果二人で一緒に帰るということもなくなった。さらに、戦車道の最中も必要最低限なことだけを話すだけで、それ以上の話をしなくなってしまった。
同じ学科にいるため、顔を合わせる機会は多い。だが、
「……あっ」
「…………」
顔を合わせても挨拶もせずそのまま去ってしまうということが多くなった。
千代美はできるだけまほと話そうとした。
「おい、西住っ!」
「…………」
しかしまほは、申し訳なさそうに千代美を見るだけで、千代美と話そうとはしなかった。
二人の関係が上手くいっていないことは、すぐさま周囲にも知れ渡った。千代美とまほが付き合っていることを知っている者は、心配して「大丈夫?」と声をかけてきてくれたが、千代美はそれに「ああ、大丈夫だ」と応えることしかできなかった。
まほは以前にもまして険しい顔をするようになった。
大学に入ってからは友人も多かったはずのまほは、今では一人で過ごすばかりだった。
誰もがまほに何かあったのではと心配し始めた。
千代美ももちろん心配しており、そのことを同じく戦車道を履修している同じ学科のミカに相談して見ることにした。
「なあミカ、私はどうすればいいんだ? 西住が苦しんでいるようなのに、何もしてやることができない。これでは、恋人失格だな……」
するとミカはこう言った。
「……そんなことはないんじゃないかな。私は君を、とても羨ましく思っているよ、安斎さん」
「私を、か?」
「ああ。西住さんと曲がりなりにも恋人という関係でいるんだ。それが羨ましくなくてなんだと言うんだい。彼女は理想的な女性だ。誰もが憧れる女性だ。そんな彼女を、君は独り占めにしているんだよ」
「……しかし、今の私には……」
「何、いつかは時間が解決してくれるさ。いずれ西住さんが話すとしたら、それはきっと君にだろうからね。君は余裕を持って、待っていればいいさ」
千代美は、ミカがミカなりに自分を励ましてくれているのだと思った。そして、その気持に応えねばと、まほを待ってみることにしようと考えた。
「……ありがとう。私、もう少しだけ待ってみることにするよ」
「うん、それがいい。頑張り給えよ、恋する乙女」
ミカは、手にもっていたカンテレをポロロンと引いて、千代美に応えた。
それからの千代美は、文化祭の作業に専念することに決めた。
やはりまほのことは気になる。だがしかし、ミカに言われた通り今はまほのほうから話してくれることを待つことにした。
戦車道のときも、できるだけまほの神経を逆立てないようにする。まほが普段とは違うような指揮をしていても、それをあくまで戦車道に技術の面に関してだけ意見し、まほ自体の気持ちについては触れないようにする。
授業で会うことが合っても、挨拶だけで済ませる。
まほは依然硬い表情のままだったが、千代美はそんなまほに触れることなく生活した。
そのことはなかなかに大変であったが、千代美は努力した。今はただ、まほに落ち着ける時間を与えるべきだと、そう思っていた。
そうしていくうちに、どんどんと時間は流れていく。一週間、二週間、三週間と、矢のように日々は過ぎていく。
そして、あっという間に文化祭当日となった。
文化祭の日、千代美は一人で学内を回った。
本当はまほと一緒に回る予定だったはずなのに、と思いつつもそれぞれのサークル、部活の出店を見ていった。
もちろん、自分のサークルの展示のシフトにも入った。文芸サークルは、それぞれが選んだ推薦する本の紹介と、自作の小説の展示だった。
展示はそこそこ盛況であり、千代美はまほがいないことを除けばそこそこ満足のいく文化祭を過ごすことができた。
そしてあっという間に文化祭の初日が終わる。文化祭は全三日の予定であり、その初日を千代美は一人で過ごしたのだ。
「はぁ……」
帰り道、千代美は一人ため息をついた。
「西住と一緒に過ごしたかったな……」
楽しく文化祭を過ごしたと千代美は思う。だがそれ以上に、恋人と一緒の時間を過ごしたかったというのが大きかった。
「ま、くよくよしても仕方がない! 帰ろう! 今日は」
しかし、今は待つと決めた以上、千代美は無理にまほを誘うことはしたくなかった。
そのため、自分を納得させ千代美は一人帰路についていた。
その途中だった。
「うん……?」
何気なく見た校内の人気の少ない場所に、珍しく人影があるのを見かけた。
それだけなら千代美は気にせず帰ったのだが、その後ろ姿には見覚えがあった。
「西住……?」
そう、それはどうもまほのようだった。しかもまほ一人ではない。他の誰かと一緒にいるようだった。
「…………」
千代美は気になり、その後をつけることにした。
普段ならまほが誰かと一緒にいても気にすることはない。だが、喧嘩をしている最中だったのと、なんとなく嫌な予感がしたからついていくことにしたのだ。
まほともう一人は、人気の少ない場所からより人通りのない場所へと歩いていく。千代美は気づかれないように細心の注意を払いながら尾行していった。
そして二人は大学の講義棟の使われていない講義室へと入っていった。千代美は締まりかける扉に静かに足を挟み、中を伺う。
暗くてよく見えなかったが、二人の距離は非常に近かった。
千代美はなんだか胸騒ぎがした。これ以上見ていると、見たくもないものを見てしまうかもしれない。そんな胸騒ぎを。
「……駄目だよ西住さん。そんな……」
「いいじゃないか、どうせ誰も見ていない……」
そんな二人の話し声が聞こえてくる。その片方の声に、千代美は聞き覚えがあった。
ふと、講義室の窓から、雲間から指してきた月明かりが入り込む。
そして、その光で露わになったその姿は――
「……!?」
まほと、ミカが口づけをしている姿だった。
しかもただの口づけではない。舌と舌を絡み合わせた、濃厚なディープキスだった。
そのまままほはミカを講義室の机の上に押し倒し、服を脱がせ始めた。
「――っ!!」
耐えられなかった。
千代美は、扉をバンっ! と勢い良く開け、中に入った。
「なっ!?」
「あ、安斎さん……!?」
千代美は早足で二人に近寄ると、二人の間に両手で割って入って、二人を引き剥がした。
「何を……何をやっているんだ……!」
千代美は珍しく怒りを露わにしていた。だが、それも仕方のないことだった。
こんな光景を見せられては、怒るなというほうが無理な話だった。
「あ、安斎。これは……その……」
「どういうことかと聞いているんだ! 西住!」
「……見ていただろう。私と西住さんは、逢引していたのさ」
脱がされた服を着ながら、ミカが言った。
そのことにまほは慌てた表情を浮かべる。
「なっ、ミカっ!?」
「ミカ……どういうことなんだ。私達を応援してくれていたんじゃないのか!?」
声を荒立てて言う千代美に、ミカはゆっくりと頷いた。
「ああ、そうだよ」
「ならなぜこんなことを――」
「それはね、まほさんのほうから私を誘ってきたからだよ」
「え……?」
千代美は言葉を失った。千代美はきっと、ミカのほうからまほを誘ったのだと、そう思っていたところがあった。だが、ミカはそうではないと言う。
「私もね、西住さんのことが好きだったんだよ。でも、西住さんが安斎さんを選んだと言うのなら、私はそれを心から応援するつもりだった。安斎さんから相談を受けたときも、そのつもりで応えた。でもね、この前まほさんは言ったんだ。『安斎とは終わった。ミカ、お前が好きなんだ』ってね。……どうやら、嘘だったようだけどね」
「…………」
まほはミカの言葉を肯定するように黙っていた。
千代美も、口をぽかんと開けたまま聞いていることしかできなかった。
――西住が、そんなことを? 嘘だ、嘘に決まってる、そんなこと、嘘に!
「……嘘だって言いたいような顔だね。でもね、本当のことなんだ。私は嬉しかったんだよ。まほさんに告白されて。これから安斎さんの代わりにまほさんのことを受け止めようと思った。でも、それは結局無駄なことだったようだ。……西住さん」
ミカがまほの名を呼ぶ。
「……なんだ」
それまでうつむいていたまほが、ミカのほうを向く。
すると、その瞬間ミカの右手がまほの頬をはたいた。
「……最低だよ、西住さん。そんな人だとは、思わなかったな」
そのミカの声は、震えていた。瞳は潤んでおり、表情にはいつものひょうひょうとした余裕が消えていた。
そのままミカは走って講義室から出ていった。講義室には、千代美とまほの二人が残された。
「……どういうことだ、西住」
今度は千代美がまほに聞いた。
まほは、はたかれ赤くなっている頬をさすっていた。
「どういうことかと聞いている、西住!」
「……母が、言ったんだ」
すると、まほがぽつりと零すように口を開き始めた。
「……私の見合い相手を用意するから、はやく籍に入れと。西住の家を継ぐ準備をしろ、と」
「え……」
まほの突然の告白に、千代美は困惑した。まほはそんな千代美を気にすることなく話し続ける。
「それを聞いた瞬間、私は頭が真っ白になった。もうお前といられなくなる、そう思った。悩んで悩み続けた。そして……すべてが、どうでもよくなってしまった」
「どうでも、よくなったって……」
「言葉通りさ。もう何もかもがどうでもよくなったんだ。表向きはなんとか整えたが、もう心のなかはぐちゃぐちゃさ。お前との時間が無駄になるなら、もう好きなように遊んでやろうと思った。それで、ミカに……ミカに、告白したんだ」
そう言って、まほは自嘲気味に笑った。そのまほの顔は、差し込む月明かりのせいもあって、とても影のあるものに見えた。
だが、だが千代美は、それを聞いてなおのこと怒りが湧き上がってきた。
「……ざけるなよ。ふざけるなよ! 西住!」
「安斎……」
「ふざけるなと言っているんだ! ならなぜ私に相談しなかった!? 無駄だと思ったか!? 私はそんなに信頼がなかったか!? 本当に手はなかったのか!? 本当にちゃんと考えたのか!? 考えてないだろう! 目の前のことに絶望して、自暴自棄な自分に酔っているだけだろう! それで……それで、私を裏切って、ミカまで傷つけて、そして……!」
千代美は次の言葉が継げなかった。
その前に、嗚咽が彼女の口からこぼれた。千代美は泣いていた。泣きながら、怒っていた。
「ふざけるなよ……!」
「あ、その、すまな……」
「触るなっ!」
千代美は肩に触れようとしてくるまほの手を振り払った。パシィ! と、痛々しい音がした。
見ると、振り払った千代美の手と、振り払われたまほの手が赤くなっていた。
だが、千代美はそんなことを気にすることはなかった。
「お前は結局、自分がかわいいだけなんだ! 私に飽きただけなんだ! その口実を、親の見合い話を使って正当化しただけなんだ! そうだろう!?」
「ち、違う……!」
「何が違うんだ!」
「私はそんなつもりじゃ……!」
「嘘だっ!!!!」
千代美の声が、講義室に響き渡った。まほはその迫力に圧倒され、言葉を失う。
「もういい! もういい……! 結局、私のことは遊びだった、そういうわけなんだな……!」
そのまま千代美は、講義室にまほを置いて出ていった。
その後、家に帰るまで千代美の記憶は怒りに包まれなくなっていた。
翌朝、千代美は文化祭のサークルのシフトをこなすために学校を訪れた。
表面上は冷静でいる千代美だったが、腹の中は怒りと悲しみでいっぱいだった。
千代美は昨夜のことを少しだけ反省していた。
言い過ぎたと思っていた。感情に任せ、考えずに言葉を口にしてしまったと思った。理屈ではそう思っていた。だが、それ以上にまほを許せない気持ちが勝っていた。
その結果、ぐつぐつとした怒りと、どろどろとした嫉妬と、でろでろとした悲しみが混ざり合い、千代美の内情は言葉にできないものとなっていた。
少なくとも、今とてもまほに会う気持ちにはなれない。そう考えていた。
そんなときだった。
「あっ、姐さん!」
千代美のことを、懐かしい名で呼ぶ声があった。千代美がその方向を見ると、そこにいたのはアンツィオの後輩、ペパロニだった。
「ペ、ペパロニ……!?」
「久しぶりっす姐さん! 元気っすか?」
「あ、ああ……お前は元気そうだな、ペパロニ。でもちょっと静かにしろ、ここは本を読む場所だからな」
千代美がそう言うと、ペパロニは「すいませんっ……!」と少しだけボリュームを落とした声で頭を下げた。それでも十分大きな声だったのだが。
「あっ、姐さん、このあと暇な時間ありますか?」
「ん? ああ、シフトがもうそろそろ終わったらその後なら暇だが……」
「だったら、一緒に文化祭回りませんか? ドゥーチェに会いに来たんで、一人だと寂しいんすよー」
あっけらかんと笑うペパロニに、千代美は笑う。
――まったく、こいつは昔から変わってないな。
「わかった。いいだろう。なら、少し待っててくれるか?」
「はい!」
その声がまたも大きかったので、千代美は「しーっ!」と人差し指を口元にたて注意した。ペパロニは項垂れて謝った。
その後、シフトを終えた千代美はペパロニと一緒に文化祭を満喫した後、夜の町を歩いていた。
町にこうして二人で出かけるのは、千代美にとっては久しぶりのことだった。まほと疎遠になって以降、千代美は殆ど町には出ていなかったのだ。
「いやー楽しかったっすねぇ文化祭」
「……そうだな」
ペパロニの言葉に千代美は頷く。千代美は正直、まだまほのことを引きずっており、心から文化祭を楽しむことはできなかったのだが、それでもペパロニと一緒の時間は楽しかった。
「姐さんと久々にこうして二人っきりになれて、私、とても嬉しくて……」
「……そうだな」
先程と同じ返事を返す千代美。やはりその言葉に嘘はない。だが、どうしても生返事気味になってしまっていた。
「……あの、姐さん」
「ん? なんだ」
すると、ペパロニが声調を変え、千代美に話しかけていた。心にかかえているものがあるとはいえ、千代美もそのペパロニの雰囲気の変化に反応する。
そして足を止めペパロニのほうを向くと、ペパロニは真剣な表情で言った。
「好きです」
「……は?」
「姐さんのことが、好きです」
周囲の雑踏が、聞こえなくなった気がした。
「私、ずっと姐さんのことが好きだったんす。でも高校のときにはそれを言う勇気がなくて、そのまま姐さんは大学に行っちゃって……でも、決めました。私、姐さんと同じ大学に進学します。そして、一緒になりましょう。私、心から姐さんのことを愛してるんす」
それは冗談の類ではないことは、ペパロニの目を見れば分かった。ペパロニは、本気で千代美に愛の告白をしているのだ。
それに対し、千代美は――
「……ああ、私もお前のことが好きだぞ、ペパロニ」
ペパロニの告白を、受け入れた。
――先に私のことを裏切ったのは西住だ。なら、私が西住のことを裏切ったって、何の問題もないじゃないか。
それは、まほに対するちょっとした反撃だった。自分の気持ちを弄ばれたことに対する意趣返しだった。
そのつもりで、千代美はペパロニの告白を受けたのだ。
「本当っすか!? 姐さん……!」
ペパロニは涙を流しながら喜ぶ。
千代美はペパロニの告白を受けた理由からその評定に心を痛めながらも、ペパロニの手を引いた。
「さあ、そういうことなら二人で一緒の時間を早速過ごそうじゃないか」
「……はい!」
こうして、千代美とペパロニは夜の町へ消えていった。慌ただしい雑踏と激しい光は、二人をあっという間に溶かしていった。
◇◆◇◆◇
「…………」
「…………」
ある夜、まほは千代美を自分の部屋へと呼び出していた。二人は机を挟み、椅子に座って向かい合っている。その表情は、どちらも重たいものだった。
「……で、なんだ西住」
「……あっ、その……」
まほは普段の毅然とした態度が嘘のように、小動物のように縮こまっていた。一方の千代美は、腕を組みまほの言葉を待っている。そこには明確な差があった。
「……私も暇じゃないんだ。何もないようだったら帰らせてもらっても――」
「ま、待ってくれ安斎!」
椅子から立ち上がろうとする千代美をまほは必死に止める。そのことにより、千代美は帰ることをやめた。
「……その、安斎に話したいことがあって」
「なんだ」
「……私、西住を捨てる」
まほの口からその言葉が出た瞬間、千代美はぽかんとした表情を浮かべた。
「……は?」
「あのあと、真剣に考え直したんだ。そして、決めた。お前と一緒にいるために、私は西住を捨てようと。そう決めたんだ。みほに負担をかけてしまうかもしれない。でも私はお前と一緒に――」
「待て待て待て!」
俯きながら話しているまほを千代美が止める。千代美はまさしく驚愕といったような顔になっていた。
「とすると、何か!? 私のために、何もかもを捨てる覚悟を決めた、と……?」
「……ああ」
まほがコクリを頭を振ると、千代美は「はぁー……」と大きくため息をついて、頭を片手で抱えた。
そして、言った。
「……正直、嬉しいよ、西住」
「っ!? 本当か!?」
「でもな! でももう……手遅れ、なんだよ」
「えっ……」
一瞬喜びの色を見せたまほが、今度は困惑の色に染まる。そのまほに、千代美は携帯を取り出したかと思うとその携帯にとある画像を写し出して、まほに見せた。
「え……こ、これは……」
「この前、ペパロニと……行ったときに撮った写真だ。その……ラブホテルで」
そこには、裸の千代美とペパロニがベッドの上で携帯に向かって笑顔を向けながら寝そべっている姿が写っていた。
明らかに、情事の後だった。
「あ……あ……」
「私はな西住。もうお前に冷めたんだよ。お前以外のパートナーを見つけたんだよ。だから……無理だ」
「ああ……うあぁ……」
まほが声にならない声を上げていた。千代美はそんなまほから目を反らし、ゆっくりとその場から立ち上がった。
「……じゃあ、そういうことだから」
そう言って千代美はまほの前から去っていこうとする。
まほは慌てて椅子から立ち上がり、転びながら千代美の足にしがみついた。
「待って! 待って!」
「……離してくれ」
「ごめんなさい! 私が悪かったから! お願い! 私を捨てないで!」
泣きながら懇願するその口調は普段のまほのものとは違う、女の子らしい口調になっていた。それが、まほの地だった。誰にも見せたことのない地を、今まほは千代美に見せていた。だが千代美は、そんなまほを冷めた目で見ていた。
「……離せ」
「私なんでもするから! お願いします! 今までのことすべて償うから! だから私を一人にしないで!」
「……先に私を捨てたのは、そっちだろうがっ!!!!」
そう言って、千代美はまほを蹴り飛ばした。
「きゃっ!」
「自分の都合のいいことばかり言って! 結局お前は一人が嫌なだけなんじゃないか! 西住という家にいる自分から逃げたいだけなんじゃないか! 誰かに受け止めてもらって、現実を見たくないだけなんじゃないか! 私が好きになったお前は、そんなやつじゃなかった……! そんな、やつじゃ……!」
千代美もまたいつの間にか泣いていた。まほとは違い、静かに涙を流していた。
「……さよならだ、西住」
「待って、待ってぇ!」
まほがいくら止めても、千代美は一度も振り返ることなく、まほの家から出ていった。その場には、一人泣くまほだけが取り残された。
千代美は外に出た後、その場に崩れ落ちた。
「……うう、ごめん西住。ごめんペパロニ。もう私は、誰かを愛する勇気がないんだ……!」
そう言って、千代美は涙を流した。
こうして、二人の関係は終焉を迎えた。
◇◆◇◆◇
――五年後。
「ああ、お姉様……」
一人の少女が、戦車道に使われる格納庫の裏で髪の長い女性に抱かれていた。その女性は、そっとその少女の唇にキスをした。
「ふふふ、可愛い子……」
長いキスを終えると、その少女はその場から慌てるように去っていった。髪の長い女性は、その後ろ姿を笑って見送っている。
「西住さん」
その髪の長い女性を、西住と呼ぶ女性の姿があった。ミカだった。
そしてミカに呼ばれた髪の長い女性――まほは、笑ってミカのほうに振り返った。
「あらミカじゃないの。どうしたのかしら?」
「どうした、じゃないよ。また隊の女の子に手を出しているね。もうやめろと言ったはずだけど」
そのミカの言葉に、まほはフフッと妖艶に笑う。
「私が誰と恋仲になろうと、あなたには関係ないじゃないの」
「関係あるよ。あなたのせいで隊の風紀はめちゃくちゃだ。あなたの寂しさを埋めるために隊をぐちゃぐちゃにするのはいい加減にしてほしいね」
ミカは笑みを浮かべているが、その言葉には軽蔑の色が出ていた。
それにも関わらず、まほは不敵に笑っている。
「私は悪くないわ。私に引き寄せられるかわいい子猫達がいけないのよ」
「……本当に変わったね、西住さんは」
「あら、そうかしら」
「ああ、最低の人間になった」
そう言って、ミカは格納庫の壁に背中を預ける。
「これ以上隊の規律を乱すようなら、私もそろそろ我慢の限界になってくるよ。それは覚えておいてくれないかな」
「ええ、一応覚えておくわ」
「……はぁ。まったく、そんなに人肌寂しいなら、安斎さんと元鞘に収まったらどうだい。彼女、確かペパロニと言ったかな? 本名は覚えていないけど、その子と分かれてもう何年か経つんだろう」
「らしいわね」
まほはまったく気に留めていないかのように言う。
「なんだっけ、結局安斎さんが愛しきれなかったとかなんとか……悲しい話だとは思ったよ。また聞きだけどね。今なら、二人でお似合いなんじゃないかな?」
「冗談言わないで」
まほは笑顔を崩さず、しかしぴしゃりと言った。
「私と彼女が再び結ばれることはないわ。決してね」
「言い切ったね」
「ええ、だって彼女も私も、もう誰も愛することができないんですもの。彼女がペパロニの別れたときに会って話して、そのことがよく分かったわ。そんな二人が、結ばれることがあると思って?」
当然のことを言うように言うまほ。ミカは、大きくため息をついた。
「まったく、ある意味お似合いだと思うけどね……」
そう言って、ミカはその場から去っていった。
残ったまほは一人笑っていた。
「ふふふ……さて、次はどの子を頂こうかしら」
美しき蝶は華を求める。それが破滅の華と知っていても。それが、孤独な蝶の宿命なのだ。
蝶は、今日も揺蕩う。