ガールズ&パンツァーダークサイド短編集   作:御船アイ

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エリカが新興宗教にハマるお話です。


絶対信仰黙示録

 島田瑛里香。

 それが彼女の名だ。彼女は、戦車道流派島田流の人間として生まれた。だが、その生まれは少々特殊だった。

 まず、瑛里香よりもかなり先に姉の千代が生まれた。そして千代は、島田流の跡取りとなった。千代は戦車道の才能に優れ、後継者として遺憾のない実力を見せた。千代は両親に、そして島田家において大きな実力を持っている老人達からも祝福されながら島田家家元の座を継いだ。そして千代はやがて見合いにて後の伴侶と出会い、結ばれた。

 そんなときだった、瑛里香が生まれたのは。瑛里香は千代とはかなり年の離れた妹として生まれた。その年の差は、母と娘ほどに別れていた。実際、千代はこのときすでに第一子である風美香を出産しており、千代の娘のほうが瑛里香よりも数ヶ月ではあるが年上という状態だったのだ。

 その異様な年の差から、誰もが瑛里香を母の不貞の子だと噂した。実際のところは誰にも分からなかったが、使用人や親戚、そして老人達は皆疑った。

 千代の両親はもちろん否定した。瑛里香は自分達の子であると主張した。そして、千代もまた大きな声で瑛里香を庇った。この子は私の妹である。それに間違いはないと、千代は言った。

 千代には絶対的な自信があった。確証的な証拠があったわけではない。しかし、直感で瑛里香は自分の妹だと分かったと、千代は言う。

 とにかく、瑛里香はそうした特異な出自ではあったのだが、両親や家元としての力を持つ千代の後ろ盾によって、幼少期はそれなりに悠々自適な生活を送ることができた。

 欲しいものは常識的な範疇で買ってもらえたし、食べるものにも不自由はしなかった。着るものもそれなりに綺麗なものを与えられ、本家で家族と一緒に生活することも許されていた。風美香とはまるで姉妹のように育てられた。瑛里香は風美香のことを名前で呼び、風美香は瑛里香のことをからかいも含めておばさんと呼んだ。

 両親と千代は愛情を持って瑛里香に接した。エリカはその愛を受けて、すくすくと成長していった。

 一見何も問題のないように見える円満な家族生活だった。だが、少し瑛里香が両親や千代の元から離れれば、瑛里香はすぐさま大人の害意に晒された。

 それは瑛里香が四歳の頃であった。その頃、千代も両親も風美香も、生まれたばかりの千代の第二子、愛里寿につきっきりであまり瑛里香の面倒を見てやれない時期であった。

 一人外に遊びに行った瑛里香が、不思議な顔をして帰ってきた。

 そして瑛里香は、珍しく使用人に任せることなく自ら夕飯の準備をしている千代にこう言った。

 

「お姉様! 私、燕の子なんだって! おばちゃん達が言ってた!」

 

 千代はそれを聞いた瞬間、手に握っていた包丁をまな板の上に落とした。

 燕の子。それは女性が愛人と作った子という意味であり、誰かが意味が分からない瑛里香にそれを吹き込んだことになる。

 瑛里香はそれを言った人物を「おばちゃん」と呼んだ。つまり、親類の誰かが瑛里香に自分からそう名乗るように仕向けさせようとしたのだ。

 なんと汚いやり口なのかと、千代は激怒した。そして、怒りのあまり千代はそのことを親族の集まった場で問いただした。

 

「誰かが、瑛里香に誤った言葉を教えたようですが、今後そのようなことはやめていただきたい」

「…………」

 

 誰も千代に言葉を返さなかった。それどころか、誰もが千代に対し反抗的な目つきを向けていた。

 千代達が押さえつけていた反意は、徐々に大きくなっていたのだ。千代達の見えないところで、ゆっくりと根を張り、着実に成長していたのだ。

 そして、その意思はそれまで静観を続けていた老人達についに到達してしまった。

 島田流の老人達。それは、実質家元以上に強大な実権を持つ、真の権力者達である。普段は家元である千代にすべてを任せてはいるも、重要な決断は老人達に意見を仰がなければならなかった。

 その老人達が、ついに瑛里香のことで口を挟んできた。

 老人達の意見を伝達する伝令役の人間は千代に一言こう言った。

『瑛里香の戦車道の才覚を確かめよ』

 と。

 千代は老人達の言いたいことをすぐさま理解した。

 それは「瑛里香が島田家にとって厄介な存在である。それでも家に残したいと言うのならば、島田流に相応しい実力を見せよ。それがなければ切り捨てる」という通告であると。

 たった一言の通告に、それだけの意味が込められていることを、千代は経験から知っていた。

 千代は苦悩した。

 確かに島田の家に生まれた以上、瑛里香にも戦車道を嗜ませるつもりであった。だが、ここまで切羽詰った事態になるとは思ってもいなかった。

 瑛里香には自由に戦車道をやって欲しかった。それが千代の気持ちだった。だが、島田家の老人達はそれを許さない。

 しかたなく千代は、瑛里香の戦車道の教育をすることにした。

 本来家元と継ぐ風美香の指導と、育児があるためにつきっきりというわけには行かなかったが、千代は出来得る限り瑛里香の戦車道の面倒を見た。

 そして肝心の瑛里香の戦車道の実力だが、可もなく不可もなくといったような、無難なものであった。

 凡人と言うには技量は優れていたが、天才と言うには才能が足りていなかった。

 だが幸運にも、風美香と比べるとそこまで実力の差はなかったため――とは言っても、風美香は一応天才の部類に入っていたのだが――老人達からはお咎めは受けなかった。

 千代は安心した。これで、瑛里香はなんとか島田家に残ることができると。瑛里香自身も戦車道を楽しんでいるようで、これから先は心配することは何もないと思った。

 だが、千代は忘れていた。あまりにも小さな存在すぎて、見落としていた。二番目の娘、愛里寿の存在を。

 瑛里香を戦車に乗せてからわずか数年後、それは起こった。愛里寿が四歳になったとき、島田家の老人達の命令で千代は愛里寿を戦車に乗せた。するとなんということだろうか、愛里寿は、若干四歳ながら並の門下生達を遥かに上回る指揮を見せたのだ。

 このことは島田家を震撼させた。愛里寿は百年に一度の天才であることは間違いないからだ。

 島田家から見ればそれは幸福な出来事だった。だが、千代と瑛里香にとっては、それは予期せぬ不幸な出来事でもあった。何故なら、愛里寿の才能の発露によって、瑛里香は島田家にとって不要であるという声が一気に高まったのだから。

 問題は、愛里寿が瑛里香に懐いているというところにあった。島田家の老人達は瑛里香が愛里寿に悪い影響を与えるのではと懸念した。才能に圧倒的な格差があるというだけなら、まだ良かったかもしれない。だが、懐いているとなればその可能性はかなり高まると考えたのだ。

 千代はもちろん強く抗議した。瑛里香が愛里寿に悪影響を与える心配はないと。二人はただの、仲睦まじい叔母と姪の間柄に過ぎないと。

 だが、一度生まれた風潮を覆すことはできず、じわじわと千代は追い詰められていき、そしてついにその日はやってきた。

 

 

「ねぇお姉様、今日はどこに連れて行ってくれるの?」

 

 瑛里香は車の窓から外を見つめながら、横に座る千代に聞いた。

 

「…………」

 

 千代は暗い面持ちでただ黙るのみ。その千代の様子に、純真な瑛里香はただ頭をかしげるのみだった。

 二人を乗せた黒塗りの車は、細い林道を通っていく。その風景に、瑛里香は見覚えがあった。

 

「あ、この道憶えているわ! 逸見のおじさまとおばさまのところね!」

 

 瑛里香は顔を明るくして言う。

 逸見の家は、それまで何回か瑛里香も訪れている島田の遠い親戚だった。島田とのつながりは浅く、親族会議にも呼ばれないことが殆どだった。

 

「楽しみだわぁ、久々におじさまとおばさまに会えるんですもの!」

 

 その瑛里香の無邪気な言葉を聞くたびに、千代は瞳から熱いものが零れ落ちそうになった。

 だが、ここで零れ落としてしまえば悟られてしまう。そのため、千代は必死に我慢した。

 そして黒塗りの車は、とある田舎町にある小さな屋敷へとたどり着いた。

 その玄関の前で、二人の初老の夫婦が待っていた。

 

「おじさま! おばさま!」

 

 瑛里香は車を降りると笑顔で二人の元に駆け寄っていく。

 初老の夫婦は、そんな瑛里香を笑顔で――幼い瑛里香にはわからない、複雑な感情を秘めた笑顔で――迎え入れた。

 そんな瑛里香の後ろ姿を見ながら、千代は、一つ呼吸を置き、そして、まるで氷のように冷たい表情で瑛里香に言った。

 

「瑛里香、これからその方々があなたの新しいお父様とお母様になるのよ」

「……え?」

 

 瑛里香は突然のその言葉に、何を言われたのかすぐには分からなかった。だが、千代の今まで見たことのない冷たい表情から、千代が冗談の類を言っているのではないと悟った。

 

「……お姉様、今、なんて?」

 

 だが瑛里香は聞き返した。聞き返すしかできなかった。今すぐにでも、さっきの言葉は嘘だと言って欲しかった。

 

「瑛里香、あなたは島田家から離縁されることとなりました。これからは、逸見として生きていきなさい」

 

 だが、千代は瑛里香を見下ろしながら、はっきりとその言葉を告げた。

 

「嘘よ……ねぇ、嘘よねお姉様……ねぇ、お姉様ったら……」

「…………」

 

 困惑する瑛里香を尻目に、瑛里香に背を向け、車のほうへと戻っていった。

 

「お姉様……待ってよ! お姉様ぁ!」

 

 瑛里香は制止する老夫婦の手を振りほどいて、千代のほうへと駆けていく。そして、車に乗ろうとする千代のスカートをぎゅっと握りしめた。

 

「お姉様! 私何か悪いことをしてしまったの!? なら謝るわ! だから、捨てないで! お父様、お母様にまた会わせて!」

「…………さい」

「もう勝手におやつを食べたりしません! 風美香ちゃんのイタズラもちゃんと注意します! 愛里寿も必要以上に甘やかしたりしません! だから、だから……捨てないで、お姉様!」

「……だまりなさいっ!」

 

 千代は、必死にしがみつき懇願する瑛里香を、振り払うように殴り飛ばした。その眉間には、大きく皺が寄っていた。

 

「きゃっ!?」

 

 瑛里香は大きく吹き飛ぶ。

 そして、地面に砂埃を上げながらずささっ……と倒れ込んだ。

 瑛里香のその姿を見た瞬間、千代は一瞬ハっとした表情を浮かべたが、すぐに先程までの氷のような表情に戻り、瑛里香を見下した。

 

「瑛里香、あなたはもう島田家にとっていらない子なの。だから、あなたは捨てられるの。分かったわね」

「そ……んな……」

 

 千代の冷淡な言葉が、瑛里香を切り刻む。

 愕然とする瑛里香。そんな姿を見て、千代はわずかに唇を噛みながらも、表情は眉間に多少の皺を寄せるのみで殆ど表情を変えず、車に乗った。

 そして、千代の乗った車はあっという間にその場から去っていった。

 

「いや……捨てないで……捨てないでよ……お姉様……お姉様ぁ! 私を捨てないでお姉様ぁ! お姉様ぁぁぁぁ! うわああああああああああん!」

 

 瑛里香は泣いた。大声で泣いた。泣きながら車を走って追いかけた。

 だが、車に追いつけるわけもなく、瑛里香はどんどんと小さくなり、最後には見えなくなった車の通った道を走り続けるだけだった。

 一方の千代も、泣いていた。車の後部座席で、声を殺しながら涙を流していた。だが、一度も後ろは振り返らなかった。振り返ったら、ここまで作り上げてきた決意と態度が崩れ落ちてしまうだろうから。

 千代の耳には、聞こえていないはずの瑛里香の泣き声が、延々と木霊していた。

 

 こうして、瑛里香は島田家から捨てられた。

 そして、その日から島田瑛里香は逸見エリカとなった。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

 

「……カ。エリカ!」

「ん……」

 

 エリカは体を揺さぶられる感触と、自身の名を呼ぶ声によりまどろみの中からゆっくりと瞳を開ける。

 ぼやけた視界がはっきりしてくると、エリカの目の前には茶色い短髪の凛々しい女性、黒森峰女学園三年、西住まほが立っているのが分かった。

 

「……隊長」

「もう着いたぞ、エリカ」

「ん……」

 

 エリカはゆっくりともたれかかっていた窓際の壁から体を離す。そして、窓から外を眺めると、そこにはひらけた港が広がっていた。

 

「私、寝ちゃってたんですね……」

「ああ。ぐっすりとな」

 

 まほは微笑みながらエリカに返す。

 

「すみません、昨日はあまり眠れなかったもので……」

「そうなのか。今日の試合の作戦についてでも考えていたのか?」

「……まあ、そんなところです」

 

 エリカは固まった体をほぐすかのように体を伸ばしながら立ち上がると、それと同時に周囲を見回す。

 周りには、黒森峰女学園の制服を着た生徒達が皆船から降りようと準備をしているところであった。さらに、半分以上の生徒が制服を脱ぎ始めている。

 この日は、戦車道の全国大会の試合の日だった。

 

「…………」

 

 エリカは今度自分の体を見下ろす。来ているのは、周囲と同じく黒森峰の制服。そして、先程までエリカが座っていた場所の近くには、戦車道を履修している生徒が着るパンツァージャケットが折りたたまれていた。その脇には出発時に学校から貰ったプリント――『他校との交流マナーについて』『カルト教団に注意!』といった内容のもの――などが置かれている。

 

「どうした?」

「いえ……自分が黒森峰の生徒であることを、今一度噛み締めていただけです」

「そうか」

 

 まほはそっけなく言う。

 エリカが黒森峰女学園の機甲科高等部に進学してから二年が経った。

 島田家に捨てられた後、逸見の家で育てられたエリカは、戦車道の名門、黒森峰女学園にて戦車道を採る道を選んだ。

 最初、エリカがその選択をしたとき逸見の夫婦は反対した。エリカを我が子のように育てた逸見の夫婦は、エリカが戦車道を再び始めることに、不安を覚えずにはいられなかったからだ。

 だがエリカは戦車道を選んだ。そこには、純粋に戦車道が好きという気持ちもあったが、それ以上に、島田流への反発から傾倒した西住流への心酔があった。

 

「隊長、私、本当に感謝しているんです。こうして隊長の元で、黒森峰の一員として、西住流の人間として戦えることに。あの日、隊長と家元……しほさんは、私のことを受けいれてくれた。そのことが、とても嬉しかったんです。そして、今では副隊長まで任命してくれて……」

「……そうか」

 

 島田流と西住流の間には大きな溝がある。どちらも戦車道の流派としての勢力を争い続けてきた間柄であり、門下生達は水と油であることが多かった。当主同士――千代と西住しほの関係はそうでもなかったのだが、とにかく、戦車道界隈では相容れぬ流派として見られていることが多かった。

 そんな西住流に、エリカは惹かれた。自分を捨てた島田家に強く絶望していたエリカにとって、西住流は己の中に湧いた憎悪の感情を癒やすのに最適な場所だった。

 西住はエリカを暖かく迎え入れてくれた。西住の古株達はエリカの出自を知るやいなや反対したが、当主であるしほは「西住の門戸を叩くものに、貴賤などない」と言いエリカを受け入れた。

 エリカは、それがとても嬉しかった。

 以来、エリカは西住のために尽力しようと心に決めたのだ。

 

「お前の気持ちは嬉しいよ、エリカ。だが、どうして今その話を?」

 

 まほはエリカの事情をよく知らない。だが、エリカが何かを抱えていることは分かっていた。

 ゆえに、エリカに深く立ち入ろうとはしなかった。だが、突然の告白だったために、まほはついエリカに聞いてしまう。

 

「どうしてでしょうね……寝ている間に、昔のことを思い出したのかもしれません」

 

 エリカはそう言いながら、再び窓の外を見る。今度は港ではなく、隣接する学園艦を見た。その学園艦の上には、校章のついた旗が風にゆられなびいていた。その校章には、大きく『継』の文字が記されていた。

 その高校の名は継続高校。

 これから試合を行う高校であり、相手の隊長の名はミカと言う。

 エリカはその人物をよく知っていた。だからこそ、眠りの中で昔のことを思い出した。ミカとは愛称であり、本名ではないとエリカは知っていた。ミカの本当の名は、島田風美香。かつてエリカと共に島田家で暮らした、あの風美香なのだ。

 

「……元気にしてるかしら」

 

 エリカはかつての姪のことに思いを馳せ、そう呟いた。

 

 

 それからすぐ、エリカ達は学園艦から戦車と一緒に降り、試合の行われる演習場へと降り立った。

 演習場にはすでに継続高校の面々が待っており、黒森峰が到着することにより両者居並ぶことになった。

 お互い集まったことにより、整列し挨拶をする。その際、エリカとミカの間で会話は無かった。会話する暇がなかった。だが、ミカがエリカに対し微かに笑いかけてきたのを、エリカはしっかりと見た。

 試合は激戦だった。が、最後は地形と保有戦車、そして自力の差で、黒森峰が勝利した。

 そして試合後、エリカが副隊長として部下に撤収の指示を出しているときだった。

 

「叔母さん」

 

 それは、とても懐かしい呼び名だった。エリカは思わず振り返る。そして――

 

「……誰が叔母さんよ。そんな年じゃないわよ」

 

 と、笑顔でそこに立っているミカに、嫌味たっぷりに、しかし笑って言った。

 

「昔もそんなことを言っていたね叔母さん。でもやっぱり、叔母さんは叔母さんだよ」

「はぁ……そういうところは、昔から変わってないのね」

 

 エリカはやれやれと肩をすくめる。

 その仕草に、ミカはふふっと笑った。

 

「そうかな。叔母さんは変わったね」

 

 そして、エリカに対しそんなことを言う。

 

「あら、どこが変わったっていうの?」

「すっかり素直じゃなくなった」

「……そう」

 

 エリカは不思議な気持ちだった。ミカとこうして話すことのできる今の状況が、不思議でたまらなかった。

 

「それにしても不思議よね。こうしてあなたと普通に話せるだなんて」

 

 エリカはその気持を素直に言葉にした。

 ミカもそれに頷く。

 

「そうだね。去年の試合で会わなければ、こんなこともなかったろうに」

「ええ、去年あなたが継続にいるあなたを見かけたときは驚いたわ。最初はよく似た別人かと思ったけど、いきなりさっきみたいに『叔母さん』って話しかけてくるんだもの」

 

 エリカとミカの最初の再会。それは黒森峰と継続の試合のときだった。互いに音信不通となっていたため、その衝撃は大きかった。

 

「私も驚いたよ。まさか黒森峰で戦車道をやってるだなんてね。てっきり、戦車道はやめたのかと思ってたよ」

「悪かったわね、やめてなくて。というか、私のほうが驚いたわよ。あなたが家を出て一人で生活してるとか、想像できるわけないじゃない」

 

 それを最初に聞いたとき、エリカは言葉が出なかった。ミカが言うには、ミカは自分で島田の家を出たのだという。エリカを追い出した島田の家が嫌になったのだそうだ。

 

「あなたの自由さはよく知ってるつもりだったけど、まさか家を出るほどだなんて……」

「風は誰も留めておくことができないのさ。叔母さんを追い出すような場所なんか、特にね」

「はぁ……ま、いいけど。今の私には関係のない話だし」

「今の叔母さんのそういうところ、好きだよ」

 

 そう言ってミカが笑う。

 つられてエリカも一緒に笑った。

 二人は再会したときに沢山のことを話した。そして、今では昔とは少し違う形にはなったが、概ね元のように仲睦まじい関係に戻っていた。

 

「そういえば、大洗女子学園。二回戦も勝ったそうじゃないか。次の相手はプラウダだそうだね」

「……どうせ負けるわよ。プラウダに」

「おや、叔母さん的には自分の手で叩き潰したいと思ってたけど?」

「……それとこれとは別よ」

 

 エリカは途端に不機嫌になる。大洗女子学園の話題は、あまりエリカにとって面白い話題ではなかった。

 それは、今大洗女子学園に在籍する一人の生徒が関わっていた。

 

「……西住みほさん。やっぱり許せないかい?」

 

 西住みほ。西住まほの妹であり、かつての黒森峰の副隊長である。みほは去年の大会で、フラッグ車を捨て川に落ちたエリカの戦車を助けに行ったことにより、各所から糾弾され黒森峰から出ていった。

 そのことが、エリカには許せなかった。

 

「……そりゃね。あの子は、自分で持ってたものを自分から捨てたのよ。私なんかのために。そんなの、私からしたら気持ちのいいものじゃないに決まってるじゃない」

「……ま、叔母さんからしたらそうだろうね。まあ、私はいつでも叔母さんの味方さ。叔母さんがどんな道を選ぼうとね」

「どういう意味よ」

「さあ、どういう意味だろうね」

 

 今度はミカが肩をすくめる。エリカはそれに対し、不機嫌そうにため息を吐くことしかできなかった。

 

「エリカ、もうそろそろ撤収するぞ。……と、継続の隊長じゃないか。何を話していたんだ」

 

 と、そこでまほが二人の元へとやって来る。

 エリカの出自について何も知らないまほであるため、当然ミカとの関係も知らなかった。

 

「隊長! いえ、その、ただの世間話です!」

「ふふっ、やあ西住さん。女の子同士の密談に踏み入るなんて、野暮だと思わないかい?」

 

 エリカが慌てたように、そしてミカが妖しげに言う様子を見て、まほはそれ以上踏み込まないことにした。二人の間が何か特別な関係なのは分かっているが、自分が立ち入ることではないと判断したのだ。

 

「そうか、分かった。だがそろそろうちの副隊長を返してもらいたい。そうしなければ、帰れないからな」

「わかったよ。それじゃあね“エリカ”さん。いつか一緒に戦おうね」

「そうね、“継続の隊長”さん。いつかそんな日が来るといいわね」

 

 そう言って二人は別れた。

 このときエリカはまだ、その日が案外早く来るとは想像もしていなかった。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

 

「まさか、こんなに早くこうして叔母さんと肩を並べることができるなんてね」

「それはこっちの台詞よ」

 

 エリカとミカは、一緒に歩きながらそんな会話を交わした。

 二人は今、大洗女子学園の制服を着ている。なぜかと言うと、大洗女子学園のために戦いにきているからである。

 大洗女子学園対大学選抜。大洗の廃校をかけたその戦いにおいて、かつて大洗と戦った数多くの学校が大洗に力を貸そうと集まった。継続と黒森峰も、そのうちの一つである。

 

「でも、正直驚いたよ。叔母さんは来ないと思ってたから」

「副隊長である私が隊長と一緒に行かないわけにはいかないでしょ。まあ、ちょっとした心境の変化もあったし」

 

 エリカはミカから視線を逸しながら言う。エリカはかつてみほを許せなかった。だが、大洗と戦った全国大会の決勝戦の後、エリカはみほといくばくかの言葉を交わした。試合後に交わしたその言葉は、エリカにとって思った以上に大きな影響を与えた。

 

「なんていうか……試合後にあの子と話してすっきりしたって言うか……あの子はあの子で頑張っていたっていうか……ああもういいでしょ別に!」

 

 エリカは頭をわしゃわしゃと掻きながらミカに怒鳴りつけるように言う。そんなエリカを見て、ミカは笑みをこぼした。

 

「ふふっ、まあでも、それにしても、ね」

「ねってなによ」

「今回の相手もあるじゃないか」

「それは……あなたもじゃない」

「…………」

「…………」

 

 二人は口を閉じる。

 今回の相手。

 それは、大学選抜の隊長を意味していた。大学選抜の隊長は、二人にとって因縁深い相手だった。

 

「……あっ」

「ん? おや」

 

 二人はとある人影を見つける。それは、みほだった。

 その人影を見た瞬間、いつの間にかエリカは駆け出していた。

 

「みほっ!」

「……うん? あっ、エリカさん!」

 

 エリカに名前を呼ばれたみほは、嬉しそうな笑顔を見せる。みほに話しかけるエリカも、どことなく機嫌が良さそうにミカには見えた。

 

「ありがとうエリカさん。今日は来てくれて」

「そんなことはいいのよ。それより、今日の相手はあの島田愛里寿よ。気をつけなさい」

 

 そう、大学選抜の隊長は若干十四歳にして飛び級で大学に入学し、大学の戦車道を総括するまでになった、島田愛里寿なのだ。

 かつてエリカが可愛がっていた、愛里寿なのだ。

 

「あのって、その……エリカさんは、愛里寿ちゃんのこと知ってるの?」

「え!? え、ええまあ。有名でしょ?」

 

 エリカは取り繕うように言う。自分と愛里寿の関係性について知られたくなかったからだ。

 

「そうなんだ……私、全然知らなくて……忠告ありがとう、エリカさん」

「……いえ、いいのよ別に」

 

 みほはエリカの言葉を信じたようで、笑顔でエリカに返す。騙しているようで、エリカの心がチクリと傷んだ。

 

「ま、まあ頑張りましょう。あっ、ほらっ、お友達が待ってるわよ」

「あっ、うん。それじゃあまた! エリカさん!」

 

 みほは先に待っていた自分のチームの仲間達を見つけると、小走りでそこへと向かっていった。

 その後姿を見るエリカの横に、スッとミカが現れる。

 

「……優しいね、叔母さんは。そういうところは、変わってないんだね」

「……うるさいわね」

 

 エリカが顔を赤くしながらそっぽを向く。ミカはそんなエリカのよこで、まるでそこに楽器があるかのような手つきを見せた。

 

「それにしても、私と叔母さんを見たときの愛里寿は驚いていたね。表情には殆ど出ていなかったけど、それとなく分かったよ」

「ええ、そうね。まあでもそうでしょう。だってずっと昔にいなくなった叔母と、突然家出した姉がいればそうもなるでしょうね」

「ああ、まったくだ。でも、それでも私達は来た。きっと、あの人がいるというのも分かりながら」

「…………」

 

 あの人。それはもちろん千代のことである。二人が千代に抱く感情は、非常に複雑なものであった。特に、エリカからすれば自分を捨てた張本人である。正直言って、顔など見たくもないというのがエリカの本音だった。

 

「……知ったことではないわ。私はみほを助ける。そして、愛里寿に勝つ。それだけよ」

 

 しかし、エリカはそんな気持ちを抑え、試合のことだけを考えることにした。

 そのほうが単純でいいと、エリカは思った。

 

「やれやれ、今の叔母さんは本当に面倒だね」

「悪かったわね、面倒で」

「いや、今のそんな叔母さんが、私は好きだよ。前にも言ったね」

 

 ミカはクスクスと笑いながらエリカの横から前に歩き出していく。それにエリカもついていく。

 そして二人は自校のパンツァージャケットに――ミカに関してはジャージに――に着替え、作戦会議に出た。

 それからはあっという間だった。みほを始めとした各隊長が作戦を立案し、会議を進め、試合に望んだ。

 試合は一進一退の攻防を見せた。その中で、ミカもエリカも多大な貢献を見せた。そして、その貢献あって、大洗は大学選抜に勝利することができた。

 そして、その試合後――

 

「……叔母さんっ!」

 

 誰もいない場所で、こっそりと、しかしはっきりとした声で、愛里寿がエリカのことをそう呼んだ。

 それに対し、エリカは――

 

「……誰が叔母さんよ。そんな年じゃないわよ」

 

 と、ミカに対しての反応とまったく同じ反応を、愛里寿に返した。

 

「……えっと、その……」

 

 だが、愛里寿にはそのエリカの含んだ意図がうまく伝わらなかったらしく、愛里寿は困惑するのみだった。

 そんな愛里寿を見てエリカは「はぁ……」と軽くため息をつきながら、愛里寿に近づき、そっと愛里寿の頭を撫でて言った。

 

「……久しぶりね、愛里寿」

「……やっぱり、叔母さんだっ!」

 

 愛里寿はその言葉でエリカがエリカであることを確信し、エリカに抱きついた。

 

「ちょ、いきなりねぇ」

「叔母さん……会いたかったよ、叔母さん……!」

「……甘えん坊なのは変わってないのね、あなたは」

 

 エリカは愛里寿の頭をそっと撫でる。愛里寿の瞳からは、一筋の涙が零れていた。

 それからしばらくの間、愛里寿はエリカのことをずっと抱きしめていた。

 エリカはそれを、ただ受け止めるだけだった。そして、ようやく愛里寿が離れたかと思うと、愛里寿は目元を赤くしながらもしっかりとした声でエリカに質問してきた。

 

「ねぇ叔母さん、どうして急にいなくなったりしたの? 私、とっても寂しかったんだよ? それに、逸見って……」

「あー、それはね……」

 

 エリカはどうしたものか悩んだ。愛里寿が事情を知らないのは無理もない。千代が自分の行いを物心ついたばかりの愛娘に話すとは思えなかったし、ミカのように自力で気づくこともなかっただろうことは想像するに難くなかった。

 

「……まあ、いろいろあるのよ。島田の家の事情というのはね」

 

 そのため、エリカはあえてはぐらかすことにした。本当のことを言えば、愛里寿はきっと傷つく。そんな愛里寿を、エリカは見たくなかった。

 

「……むぅ。分かった。叔母さんがそう言うなら、今は問い詰めない。でも、いつかは話してね?」

 

 愛里寿はイマイチ納得のいっていないような表情をし、渋々といった様子で承諾した。

 

「うむ、分かればよろしい」

 

 そんな愛里寿の気持ちを察しながらも、エリカは笑ってそう言った。今はそうするしかないと、エリカは思った。

 

「おや、二人共随分と仲良さそうにしているじゃないか」

 

 と、そこに二人を茶化すように現れたのはミカだった。

 ミカを見た瞬間、愛里寿はぱぁっと再び明るい顔になる。

 

「お姉ちゃん!」

「お姉ちゃん? さあ知らないね、私はミカ。ただのミカさ。ただの、流れ行く風さ」

「その変な言い回し、やっぱりお姉ちゃんだ!」

 

 愛里寿は今度ミカに向かって駆けていきミカに抱きつく。

 ミカは少し困ったように笑い、エリカはそれを見てクスクスと笑った。

 そうして揃った島田出身の三人の娘達は、失ったときを取り戻すかのように語らい合った。

 殆どを愛里寿が話しているのをエリカとミカが聞いているだけだったが、それでも十分幸せな空間だった。

 ただ愛里寿が時折千代のことに触れると、エリカとミカは口数が減ったため、愛里寿は自然とそれがタブーな話題なのだと察し、千代のことを口にすることはなくなっていった。

 そうして三人で話していてどれほどの時間が経っただろうか。

 三人の時間は唐突に終わりを迎えた。

 

「愛里寿ちゃん? こっちにいるの?」

 

 三人の元に現れたのはみほだった。みほは三人が一緒にいる姿を見て、目を丸くした。

 

「えっ? ミカさんに、エリカさん? どうして愛里寿ちゃんと一緒に?」

「あっ……みほさん。えっとこれは――」

 

 愛里寿はエリカとミカのほうを見る。すると二人は無言で首を振った。

 

「えっと……そう! おね……ミカさんとおば……エリカさんはちょっとした知り合いで、それで久々に会って話が弾んじゃって……」

 

 苦しい言い訳だとエリカは思った。果たしてこれでみほを騙せるのかと心配した。

 その言い訳に対し、みほはというと――

 

「そうなんだ! だからエリカさん愛里寿ちゃんのこと知ってたんだね! なるほどー!」

 

 と、愛里寿の言葉を完全に信じた。

 エリカとミカはホッとすると共に、簡単に信じてしまうみほを心配もした。

 

「……ま、そういうことよ」

「……そういうことだね」

 

 エリカとミカは、同時に頷いた。こうして、みほを加えての四人での語らいが始まった。

 この語らいは、大学選抜の選手も含めた祝勝会にみほ達が呼ばれるまでのわずかな時間であったが続いた。

 エリカは思った。ミカとも、みほとも、愛里寿とも親しい間柄を取り戻すことができた。それはとても幸せなことだと。自分の人生は捨てられこそしたし、そのことは決して忘れることはできない過去だが、現在はこうしてそこそこ楽しくやれている。これから大変なことも沢山あるだろうが、それを乗り越え、自分の道を進んでいけたらいいと。

 そのためには、とにかく今の幸福な時間を噛み締めよう。エリカはそんなことを考え、みほ達とともに祝勝会へと向かった。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

「……では、彼女を破門にしろと言うのですか」

 

 西住しほは、暗い大広間の奥で座していた。

 その両側には、ずらりと暗闇で顔の見えない者達が座っている。

 顔の見えない者達は言う。

 

 ――そうだ。誰かが責任を取らねばならない。ゆえに、彼女に責任を取らせ破門すべきだ。

 

「なぜ……なぜ、彼女なのですか。彼女は責任を取らせるほどの門下生ではないでしょう」

 

 ――かつて我々は西住みほに責任を取らせた。だが彼女は大洗でその実力を見せた。そして今回の大学選抜戦でもだ。その結果から、彼女を西住流の人間として評価せざるをえない。また、西住まほも次期家元として処断するわけにはいかない。さすれば、次に責任のある彼女に背負わせるのは当然のことであろう。

 

「……そう言って、実際は島田の人間である彼女が目障りなだけなのでしょう。あなた達は」

 

 ――それは否定しない。本来西住に島田の血が混ざるなど言語道断ではある。だが、今まで大目に見てきた。だが、それも今回までだ。

 

「……家元は私です。その権利は私にあるはずです」

 

 ――それにも限度がある。あまりにも周囲の声を無視すれば、貴方のその立場すら危うくすると知れ。

 

「……っ! 私の立場など……」

 

 ――勘違いするな。貴方一人の問題ではない。貴方の立場が揺らげば、多くの人間が路頭に迷う。そこまでして一人の人間を守る覚悟が、貴方にあるか。

 

「……卑怯な……」

 

 ――なんとでも言うがよい。これが流派というものだ。それが分からない貴方ではあるまい。

 

「……はい」

 

 しほは項垂れながら呟くように言った。

 そこで、話は終わった。薄暗闇から人々が消えていく。そして、一人残ったしほは、力いっぱい握った拳で畳を殴りつけた。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

 

 その日、エリカはまほに連れられ、西住の実家がある熊本に来ていた。まほと一緒に、西住の家の女中が運転する車に乗っている。

 

「熊本にはよく寄港しますが、ここまで降りてくるのは久々ですね。一体どうしたんですか、隊長?」

 

 エリカからすれば、事情も知らずに連れられた熊本である。何があるのか興味が尽きなかった。

 

「…………」

 

 しかしまほは何も話さない。その表情は硬めだ。

 

「……それにしても天気悪いですね。今にも雨が降りそうです」

「…………」

「……んん」

 

 無言に困ったエリカは、仕方なく窓の外を見やる。

 車はちょうど止まったところで、エリカは外の風景の『あやしい宗教の勧誘に注意!』という掲示板の張り紙をなんとなく読んだ。

 すぐに車は発進し、その張り紙もすぐ見えなくなる。

 エリカは流れ行く景色を眺めた。景色は灰色の風景からどんどん緑色の風景へと変わっていく。

 そしてその緑の中をしばらく走った車は、その広大な敷地の真ん中に建てられた大きな屋敷へと止まった。

 

「ここは……西住屋敷?」

 

 そこは通称西住屋敷と呼ばれる、西住家の本家だった。

 屋敷として巨大なだけでなく、庭には戦車を置く格納庫があり、戦車道の大家としての雰囲気を堂々と放っていた。

 

「なぜここに……」

「……家元が、この先で待っている」

 

 熊本に降りてからまほが初めて口を聞いた。その表情はやはり堅苦しい。

 

「家元……しほさんが? 一体、どうして?」

「……会えば分かる」

 

 そう言い、まほは先導するように屋敷の中に入っていった。エリカもその後に続き屋敷に入る。

 屋敷の中は静かだった。また、外の暗さにも関わらず明かりがついておらず、薄暗い。

 まほは廊下をある程度歩くと、一つの部屋の引き戸を開けた。

 そこは大きな広間で、その中心にしほが正座して待っていた。近くには下男が控えている。

 

「家元……?」

「ここに座りなさい、逸見エリカ」

 

 エリカはそのしほの声色から、すぐにただごとではない話であると悟った。

 その雰囲気に飲まれながらも、エリカは無言でしほの前に正座する。

 そして、しばらくの間を置いてから、しほは言った。

 

「……逸見エリカ、あなたを西住流から破門します」

「……え?」

 

 それを聞いた瞬間、エリカの頭は真っ白になった。

 

「あなたには昨年および今年の大会の敗北の責任を取ってもらいます。西住流に、敗北主義者はいりません。今度、西住の名を名乗ることは許しません」

「ちょ……ちょっと待って下さい!?」

 

 エリカは立ち上がってしほを問い詰めようとする。だが、そんなエリカを下男が取り押さえた。

 

「ちょ……!?」

「話は以上です。もう二度と、西住の敷居を跨ぐことのないように」

 

 そう言い放って、しほはエリカに背中を見せた。

 

「まって下さい! 家元! 家元! ……しほさぁん!」

 

 エリカは必死に叫び、抵抗した。しかし、男の力に押さえつけられた彼女に為す術はなく、そのまま屋敷の外へと放り出された。

 

「きゃっ!」

 

 地面に仰向けに叩きつけられるエリカ。

 その後ろで、木製の大きな門が音を立てて閉まった。そしてエリカの目の前には、黒塗りの車がアイドリングをしながら待っていた。

 エリカは立ち上がると、その門にすがりつき、ドンドンと門を叩く。

 

「しほさん! 開けて下さい! お願いです! 隊長! 誰でもいいから開けて下さい!」

 

 何度も門を叩くエリカ。だが、一向に返事は帰ってこない。やがて、曇天はより悪化し、雨が降り始めてきた。

 

「開けて下さい! お願いです! 私を……私を捨てないで下さいっ!」

 

 エリカは雨の中泣いた。泣きながらも、門を叩いた。門を叩く手はいつの間にか皮が破れ真っ赤になっていたが、垂れ落ちる血は雨が地に流していた。

 雨はついに豪雨となる。豪雨の中で、エリカの声はかき消された。

 だが、心と体の痛みは決して消えない。

 

「捨てないで……私を……捨てないで……」

 

 エリカの脳裏に蘇るのは、幼き日のあの出来事。

 千代の自分を振り払う手と、冷たい視線。

 

「う……うわあああああああああああああああああああっ!」

 

 エリカはとうとう門を叩くことを諦め、門にすがり落ちながら号泣した。

 今のエリカには、泣くことしかできなかった。

 

 

 結局諦めたエリカは車に乗り、街まで送ってもらった。だが、街の半ばでエリカは運転手に断りを入れ下ろしてもらった。

 運転手は船まで送ると言ったが、エリカは断った。

 自分を捨てた西住の人間に、そこまでしてもらいたくなかったという、エリカのわずかに残ったプライドだった。本当は最初から徒歩で帰りたかったほどだったが、さすがに徒歩では無茶な距離だったので妥協したに過ぎなかった。

 エリカは一人傘もささずに雨の降る街の中を歩いていた。そんなエリカに誰も目もくれようとしない。誰もがエリカを避けていた。

 今のエリカは、まるで幽鬼のようであった。

 ――私は、世界からも見捨てられたのね……。

 エリカがそう思った、そのときだった。

 

「あの……大丈夫ですか?」

 

 エリカの背後から、突如優しい声がかけられた。

 ゆっくりと振り返ると、そこには、純白の装束を纏った女性がいた。暗い景色の中でありながら長い金髪をきらめかせ、衣服と同じ真っ白な傘をエリカに差し出してきた。

 

「……天使?」

 

 ポツリとエリカはそうこぼした。

 普段なら余計なお世話と言い放つところだったエリカだが、このときは、目の前の女性がそう思えたのだ。

 

「ここでは体が冷えてしまいます。この近くに私達の集会場がありますから、ぜひそちらへ……」

 

『家』ではなく『集会場』というのが引っかかったが、エリカはその人物の言葉通りついていくことにした。

 その集会場は本当に近くにあり、白塗りの小さな建物だった。

 中に入ると、その女性と同じ純白の装束を着た人物が何人かいた。

 

「教祖様!」

「おかえりなさい、教祖様!」

 

 純白の女性がエリカと共に広間に入ると、高々とそういう声が飛んできた。

 

「教祖様……?」

「……ええまあ、その通りなんです」

 

 純白の女性は申し訳なさそうに笑う。

 エリカはその教祖と呼ばれた女性に連れられ、集会場の真ん中に座る。そして、タオルを持ってきた他の純白の衣装の人間からタオルを受け取り、エリカの体を丹念に拭いた。

 その手つきはとても優しく、エリカは子供の頃両親にそういえばこうしてもらったことがあったなという記憶が蘇ってきた。

 

「……ありがとうございます」

 

 エリカは体を拭いてもらい終わると、小さな声でそうお礼を言った。

 

「いいえ、いいのです。困っているときはお互い様です」

 

 教祖は柔和な笑みを見せて言う。その言葉、物腰がとても穏やかな印象をエリカは受けた。

 エリカは外をふと見る。雨は以前強く降り続けていた。

 

「あの……雨はまだ止まないようですし、少しお話しませんか? 雨の間だけでいいですから。お時間は取らせません」

 

 教祖はエリカに伺うように聞いた。

 普段なら断っているところだったが、今のエリカは、誰かに話を聞いてもらいたい気分だった。

 

「……いいですよ、別に」

「よかった」

 

 教祖はエリカに笑いかける。周りの人間も、側に座りエリカの言葉だけに耳を傾けてくれた。

 そうしてエリカは、ごく自然に自分の身にあったことを話し始めた。

 エリカがこうして他人に自分の身の上を話すのは初めてだった。それは、教祖がとても話しやすい空気を作ってくれたのと、エリカの心が弱っていたのが大きかった。

 教祖達はとても真剣にエリカの話を聞いてくれた。エリカの一言一言に、心から耳を傾けてくれているようにエリカには思えた。

 そして、エリカがすべてを語り終えた後に、教祖はこう言った。

 

「……お疲れ様でした。……本当に、お辛かったでしょうね」

 

 教祖の親身になったその言葉と態度で、エリカの涙腺は決壊した。

 

「はい……はい……!」

 

 エリカはさめざめと泣いた。そのエリカの手を、教祖は優しく握った。その手は、とても暖かかった。

 周囲の人々も、うんうんと頷きエリカに同調してくれた。

 しかし、次の瞬間、教祖は次のようなことをエリカに言った。

 

「……残念なことに、あなたの不幸はこれで終わりというわけではないでしょう」

「……えっ!?」

 

 エリカは驚いた。先程まで親身になってくれた相手が、突然そのようなことを言い出したのだから。だが、今のエリカはそう言われるとエリカはなんだか途端に不安になってきた。

 

「何よそれ……まだ私は落ちていくって言うの……?」

「不幸とは連鎖して起こるものです。一度引き起こされた不幸は、さらなる不幸を呼び込むのです。思い当たりはありませんか? 今回の出来事の前に、何か不幸なことはありませんでしたか?」

「そんなこと……」

 

 ない、とエリカは言いたかった。自分は幸せだと言いたかった。だが、言い切れなかった。よくよく考えれば、黒森峰の二年連続の敗北が、今回のことと繋がっている不幸なのではと思うようになってきた。

 

「そんな……こと……」

「思い当たることがあるのですね」

「……はい」

 

 エリカはゆっくりと頷く。すると、教祖はさらにエリカに言葉を浴びせかけてきた。

 

「個人の不幸の連鎖というのは、一人の力ではどうしようもありません」

「そんな……」

「それだけでなく、周囲の人間も巻き込んでしまうでしょう。その結果、あなたの側からはどんどんと人が離れていくことになるでしょう」

「う……」

 

 エリカはどんどんと不安の中に落ちていく。

 自分の不幸がとどまらないだけでなく、周囲の人間を巻き込んで自分を孤立させる。

 今のエリカには、想像もしたくないことだった。

 

「嫌ぁ……」

 

 エリカは弱々しく頭を抱える。今のエリカは、もうすべてが恐ろしくなってしまっていた。

 すると、教祖は今度優しくぽんとエリカの肩に手を置いた。

 

「……ですが、安心して下さい。私は、いえ、私達は、そうした不幸を乗り越えるために力を合わせている集団なんです」

「え……」

 

 エリカは頭を上げる。そこには、まるで――まさしく、エリカが最初に抱いた印象のように――天使のような笑みを浮かべた教祖の顔があった。

 

「世界にはあなたのように理不尽な不幸に悩まされている方々が沢山いらっしゃいます。私達は、そうした人を一人でも多く救いたいと活動をしています。そして、あなたが救われるべき存在なのです……」

「私が……」

「ここにいる人達は、あなたと似たような経験をした人が沢山います。ですが、私達の活動を手伝うことで、救われたのです。あなたは素敵な人です。あなたのような方が苦しむなど、あってはならないのです。そうだ! 私達の活動をまとめた映像を見てみませんか? 私達の活動の一端と世の中で苦しんでいる人達の多さが、きっと分かると思います」

「…………」

 

 エリカは圧倒されながらも、教祖の言葉をゆっくりと噛み締めていた。そして、エリカはその誘いにゆっくりと頷いた。

 

「よかった! ではこちらへどうぞ!」

 

 エリカは集会所の奥へと連れて行かれ座らされる。そして、大きなスクリーンが吊るされている部屋に案内されると、プロジェクターから映像が映し出された。

 その映像は、いかに世界の人々が不幸で苦しんでいるか、そしてそれを救うにはどうすればいいのかという内容だった。その映像を、エリカはとても真剣に鑑賞した。

 そして、映像を見終えた後、教祖は聞いた。

 

「今の映像を見て、どう思いましたか?」

 

 エリカは答える。

 

「ええ……世の中はあんなに、不幸で満ちていたんですね……」

 

 エリカがそう言うと、教祖は座っているエリカに合わせるように中腰になり、エリカの手を包み込むように触れ、エリカと目線を合わせた。

 

「エリカさん。私達の出会いは奇跡です。あなたは私達と共に歩むことで、きっと幸せになり、そして世界の人を幸せにすることができるでしょう。さあ、幸福への道はあなたのすぐそこにあります……」

 

 教祖は立ち上がり、エリカに手を差し伸べた。

 エリカはその手をマジマジと見る。そして――

 

「……はい……」

 

 ゆっくりと、教祖の手を取った。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

 

 一ヶ月後。

 

「愛里寿の様子がおかしい?」

 

 季節は秋休み。多くの学生が僅かな休みを満喫するなか、ミカは突如訪問してきたみほにそんな相談を受けた。

 

「うん……あれからたまに一緒に遊ぶようになったんだけど、なんていうか最近変なアクセサリーを買い込むようになってて、それを私にも買うように勧めてきたりして……他にも、なんだかとにかく変なの」

「ふむ……」

 

 ミカは考え込むように顎に手を置く。

 確かに、聡明な愛里寿からすれば考えづらい行動だ。それに、みほがおかしいと言うなら本当におかしいのだろうと、ミカは思った。

 

「わかった。一回実際に会ってみよう。多分、アポを取ればすぐに会えるはずだ」

「うん」

 

 そうしてミカは愛里寿に連絡を取った。連絡を受けた愛里寿は、喜んで自分から向かうと言った。そして、半日もしない間に、愛里寿はみほとミカの元にやってきた。

 

「みほさん! おね……ミカさん!」

「やあ愛里寿」

「こ、こんにちは……」

 

 普段通りのミカに、少しおどおどとしたみほ。

 最初の愛里寿の印象は、普段と変わらないものだった。

 とりあえず三人は、話しやすい喫茶店へと移動する。

 

「今日はどうしたの? 急に呼び出したりして」

「ああ……実はみほさんから、君の様子がおかしいという話を聞いてね」

「ちょ、ミカさん!」

 

 ミカはいきなり愛里寿に質問した。そのあまりの直球ぶりに、みほは困惑する。一方の愛里寿は、頭に疑問符を浮かべていた。

 

「ん? 別にいつも通りだと思うけど……あ、それよりも!」

 

 愛里寿は何かを思いついたかのように、鞄から何かを取り出し机の上に広げる。それは、純白の貴金属だった。

 

「ミカさん! そしてみほさん! これ買わない!? これを買ったら、幸せになれるんだって!」

「……愛里寿ちゃん」

「ふむ、なるほどね……」

 

 みほが心配そうな目で、そしてミカが何か納得したような様子で見る。愛里寿はなおも笑顔で話を続ける。

 

「この世の中には幸せになりたくても幸せになれない人がいっぱいいるんだって! そういう人達も、こういうのを買えば幸せになれるって! みほさん達も協力してくれないかな!」

 

 愛里寿の言葉に動揺するみほに、「ふむ……」と何かを考え込むミカ。そして、少し間を置いて、ミカは言った。

 

「愛里寿。それは一体誰に買わされて、誰に言わされているんだい?」

「えっ……」

 

 愛里寿は虚を突かれたらしく、それまでの饒舌さが嘘のように固まる。

 ミカは愛里寿に考える隙を与えないと言わんがばかりに、さらに質問する。

 

「賢い君がこんなマルチめいた商売に簡単に加担するとは思えない。これは、随分と信頼を置いた人間から頼まれた。そうじゃないかい?」

「それは……」

「……そうなの? 愛里寿ちゃん」

 

 僅かな間、三人の間を沈黙が支配する。そして、愛里寿がぽつりとその沈黙を破るようにこぼした。

 

「……うん。おば……エリカさんから……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、みほは驚き、ミカは分かっていたかのようにコクリと頷いた。

 そして、三人はエリカの元を訪れることを決めた。

 

 

 三人の居場所から黒森峰の学園艦は、ある程度距離が離れており、移動に時間がかかった。

 みほ達がエリカのところにたどり着いたのは、翌日のこととなった。

 

「…………」

 

 みほ、ミカ、愛里寿はエリカの部屋の前で立ち止まる。みほにとっては古巣の黒森峰である。だが、その情緒を楽しんでいる余裕はなかった。

 三人を代表してみほが大きく深呼吸をし、トントンと、エリカの部屋の戸を叩いた。

 

「はい」

 

 扉の向こうからエリカの声が聞こえ、戸が開かれる。

 戸を開けると以前と変わらぬ銀髪を靡かせたエリカの頭が出てきた。ただ違うのは、私服がみほが知っている以前のエリカらしくない、真っ白なものになっていることだった。

 

「あら、みほにミカに愛里寿! どうしたの、突然」

 

 エリカはぱぁっと明るい笑顔を見せる。その笑顔に、みほはどうにも違和感を覚えた。

 

「あ、あの! ちょっとお話があるの! 中に入ってもいい?」

「ええ構わないわ。三人なら大歓迎よ」

 

 エリカは笑顔のまま戸を大きく開け、三人を部屋の中へと迎え入れる。

 そして、部屋の中を見たとき、みほ達は言葉を失った。

 部屋はみほが知っているエリカの部屋とはまったく別の部屋のように様変わりしていた。部屋の壁には白い布が張り巡らされ、その布には見たこともない印が刻まれていた。

 机の上には愛里寿がみほ達に見せた貴金属がいくつも並んでいる。そして部屋の各所には歪な形をした造形物が置かれていた。

 

「さあ、少し狭いけど座って座って! 何か飲みたい飲み物はあるかしら? とりあえずお茶とオレンジジュースとコーヒーが用意できるけど……」

「ううん、いいよ逸見さん。それよりも、愛里寿にあの貴金属の類を売らせたのは、あなただね?」

 

 ミカが単刀直入にエリカに言う。

 すると、エリカは一瞬驚くも、すぐに笑顔に戻り、

 

「ええ、そうよ」

 

 と一言答えた。

 

「どうして……」

 

 今度はみほが問いかける。すると、エリカはこう答えた。

 

「私は、みんなに幸せになって欲しいのよ」

「幸せに……?」

「ええ。私の話、聞いてくれる?」

 

 みほ達はコクリと頷く。

 そして、エリカは語りだす。

 

「いい? この世には不幸が溢れているの。それは、個人の力ではどうにもならない理不尽な力。世界が平和にならないのもそのせいよ。実際、私も大きな不幸に襲われた……。でも、今は幸せなの! それは、偉大なる現人神たる教祖様の導きに出会えたから! そして、私は幸福者よ。こんなに若くして教祖様の導きに出会えたのだから……。この幸福を、少しでも多くの人に分けてあげたい。少しでも多くの人を救済したい。だからこそ、私は愛里寿にその手伝いをしてもらったの」

 

 恍惚とした表情で語るエリカに、みほは言葉を失った。

 みほから見て、エリカの言っていることは明らかに常軌を逸していた。

 ミカは沈痛な面持ちでそれを聞き、愛里寿は困ったようにキョロキョロと三人を見比べている。

 エリカはなおも続ける。

 

「現し世はなんと悲しい世界なのかしら……何億という人々が、避けようのない悲しみに襲われて……人類は皆、教祖様の救済を受けるべきなのよ……そのためにできる私の力は微力だけど、出来うる限り尽力していくつもりだわ。ああ……教祖様、あなたのお導きに感謝します……」

 

 エリカは両手を組んで祈り始める。完全に自分の世界に入っているようだった。

 みほはエリカになんと言葉をかけていいか悩んでいた。みほにとって気まずい沈黙が支配する。そんなときだった。

 

「……ふむ。なるほどね」

 

 沈黙を破ったのは、ミカだった。

 

「逸見さんの言い分はよく分かったよ。でも、愛里寿を巻き込むのはやめて欲しいな。彼女はまだ幼い」

「あら、幼いからこそ救済が必要なのでしょう? なるべく早く教祖様の救済を受け取るべきよ」

 

 ミカの言葉にエリカが反論する。ミカは、その言葉にも不敵に笑みを浮かべるのみだった。

 

「なるほどね、でも、やはり経済力というものがある。いくら彼女が島田の跡取りとはいえ、十四歳の少女の経済力は推して図るべきだ。思想はともかく、お金を払わせるには彼女はまだ早い。だからこうしよう。愛里寿の変わりに、私が逸見さんの商売を……いや、『布教』を手伝う。それで今回は手打ちにしてくれないかい?」

 

 みほは驚いた。エリカの怪しい活動を止めるどころか、自分から手伝うと言ったミカに。

 エリカはミカの言葉でしばらく考え込む。そして、唐突に笑顔を見せ、コクリと頷いた。

 

「ええ、それでいいわ。ならこれからよろしくね、ミカ」

「ああ、よろしく頼むよ、逸見さん」

 

 そうして三人はエリカの部屋を出た。そして、部屋を出てすぐ、みほはミカを問い詰めた。

 

「ちょっとミカさん!? どういうつもり!? エリカさんを止めるんじゃなかったの!?」

「おや、そんなことは一言も言ったつもりはなかったんだがね」

 

 ミカはとぼけたように言う。

 そのミカの様子に、みほはさらに感情を揺さぶられる。

 

「ミカさんっ……!」

「まあ落ち着いてくれみほさん。はっきり言って、今の逸見さんを元に戻すというのは、私達には無理なことだよ」

「そんなこと……」

「じゃあ君は何か思いついたのかい? 逸見さんを宗旨変えさせる方法がさ」

「それは……」

 

 みほは言葉に詰まる。確かに、エリカの前では何も言えなかったのは事実だった。

 

「それに、私は思うんだ。今の逸見さんはとても幸せそうだなって、ね」

「幸せ……? あの状況が……?」

「うん……それは私も思った……」

 

 ミカの言葉に唖然とするみほに、愛里寿も言う。二人とも、何かみほには分からない何かで通じ合っているようであった。

 

「逸見さんはね……とてもつらい過去を送ってきたんだ。その事実は、消えることはない。その影は、どこまでも逸見さんについて回るはずだった。でも、今の逸見さんはまるでそんなことを感じさせないほどに幸福そうだ。私は、そんな逸見さんが見れるだけで満足なのさ。私は逸見さんの味方だからね」

「でも……でも……」

 

 納得のいかないみほ。そのみほを差し置いて、ミカは続ける。

 

「いいかい。私は信仰の自由はあるべきだと思うんだ。それがどんな信仰対象でもね。なんでもいい。神様じゃなくたって、自分の好きなものでもいい。信者と蔑まれてもいい。すがれるものがあるのは、それはとても幸せなことだと思うんだ。人は、何もなしに立っていることは難しいからね。逸見さんは、それを見つけたんだ。それがカルト信仰という形でもね」

「うう……うう……」

 

 みほは反論したかった。だが、できなかった。いい反論が思いつかなかった。

 そんなみほを見て、ミカは悪戯な笑みを見せる。

 

「それにほら、このアクセサリー結構洒落ていると思わないかい? 普通に売ったら、それなりに売れそうじゃないか」

 

 ミカの言葉に、みほはただ苦い顔をすることしかできなかった。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

 

 それからさらに数ヶ月が経った。

 みほはすっかりエリカとは疎遠になってしまった。戦車道の試合にも顔を見せない――噂によると、機甲科から普通科に移ったらしい――ため、接点がなくなっていた。

 ミカや愛里寿とは以前と変わらず付き合い続けた。

 愛里寿はなおもエリカの思想の影響を多少受けてはいたが健全に生活を送れているようだった。

 ミカも、エリカから定期的に物品を買ってはいたようだが、それを他人には無理やり売ろうとはしていないようだった。ただミカの負担ばかり増えていく状況にみほは大丈夫かと訪ねた。

 するとミカはこう答えた。

「大丈夫さ。私の財布はすっかり寂しくなってしまったけど、それでも逸見さんが笑顔なんだ。私にはそれで十分さ」

 なぜミカがエリカに対しそこまで献身的なのかみほには分からなかった。

 実際、ミカの献身は島田の出自に絡んでのことなので、他人にはまったく理解されないことだった。

 それでも、数ヶ月の間は平和に時が流れた。

 しかし、その均衡はあっさりと破られる。それは、十二月、全国の学生にとっての長期休暇、冬休みの時期だった。

 

 

「……ミカさん」

「やあみほさん。みほさんも愛里寿に呼ばれたのかい」

 

 その日、みほとミカは愛里寿に呼び出され陸の上に来ていた。二人共、何故呼び出されたか分かっていない。とにかく緊急の要件だと、愛里寿は言ったのだ。

 

「愛里寿ちゃんのあんな慌てた声、初めて聞いた……」

「そうだね、きっと重大な案件に違いない」

 

 二人がそうして話していると、遠くから愛里寿が走ってくるのが見えた。

 

「あっ、愛里寿ちゃん!」

「みほさんっ! お姉ちゃんっ!」

 

 愛里寿は二人のもとに駆け寄る。そして、二人の側に近づくと、ぜいぜいと荒い息を立て膝に手を置いた。

 

「えっ、愛里寿ちゃん、今お姉ちゃんて――」

「今はそんなことどうでもいいの! それより聞いて! エリカさんを……叔母さんを、止めて! あの人は……学園艦を沈めようとしているっ!」

 

 

 みほ達三人は今、黒森峰学園艦へと向かう船に乗っていた。

 愛里寿の説明はこうだった。

 エリカの思考はかなりエスカレートし、学園艦にいる人間を『救済』するためには学園艦を沈めその命を奪うことが必要だと主張し始めた。エリカはそのために綿密な計画を立て、ついに学園艦の動力部の場所を突き止め、そこに機甲科から盗み出した爆薬を使って動力部を壊そうとしているのだと。そのことを、愛里寿はエリカが高らかに演説するのを聞いたのだと言う。

 愛里寿は悩んだ。エリカの思想に多少なりとも影響されていた愛里寿は、たしかに人々には『救済』が必要なのではと考える部分があった。だが、エリカの行動は行き過ぎとも思った。そして考え抜いた結果、みほとミカに助けを求めたのだ。

 みほとミカは愛里寿の話を聞き、急いで黒森峰学園艦に向かうことを決めた。

 その道中で、みほはエリカと愛里寿、ミカが親類であることを教えてもらった。

 

「エリカさんとミカさん達がそんな関係だったなんて……」

「ごめんね、あまり知られたくなかった事実だったものだから」

「ううん、いいんです。誰にでも触れられたくないことってありますから。……でも、エリカさんがそこまで追い詰められていたなんて……」

「そうだね……私も正直驚いたよ。叔母さんは私が思っていた以上に苦しんでいたようだ」

「うん……」

 

 三人の間に重苦しい空気が漂う。

 

「あの」

 

 その中で、みほが口を開いた。

 

「ミカさん……今でも、思いますか? こんなことになっても、誰にでも信仰の自由はあるって。信じるものがあるだけ、幸せだと」

「…………」

「……私は、ちょっと違うと思います。確かに、誰が何を好きになってどうしようと勝手だと思います。でも、それで多くの人が苦しむことになるのは、どちらにしても不幸なことだと思うんです。性格や嗜好の問題じゃなく、明らかに他者に対して攻撃性をもった行為を行うというのは、やっぱり……」

「……そうだね」

 

 ミカはわずかに頷く。

 

「でも」

 

 しかし、今度は首を横に振った。

 

「やっぱり、人には信じる自由、何かにすがる自由はあってもいいと思う。もしそれが誰かに刃を振るおうとしたら、誰かが――今の私達のように、止める必要があるが、それでもやはり私は……人の心は救いようのないものだと、そう思うんだ」

「ミカさん……」

「お姉ちゃん……」

 

 そこには、深い絶望が垣間見えた。ミカがどうしてそのような結論に至ったかは、みほと愛里寿には推し量れなかった。だが、ミカはミカで、とても辛い思いをしてきたことは、伝わってきた。

 そこで三人の会話は止まった。

 そして、無言のまま船は黒森峰にたどり着く。

 船が学園艦に橋を渡すや否や、三人は急いで船を降りると、エリカの部屋へと急いだ。しかし、部屋はもぬけの殻だった。

 

「遅かったか……!」

「まだ遠くへは行っていないはず! 探そう!」

 

 三人は元黒森峰生であるみほの案内を頼りに、学園艦を探し回った。

 エリカは動力部に行こうとしているが、みほ達にその動力部の場所は分からない。だが、船の中にあるのは確かであるため、その中に入る道は限られている。その入口をしらみ潰しに探すことにした。

 三人は一緒に行動した。バラバラに探すことも考えたが、エリカを見つけたときに一人では取り押さえられないと考えたのだ。

 そうして三人は急いで船内へと続く入り口付近を探していく。

 そして、四つほど入り口を探し回ったときだった。

 

「あっ、いたっ!」

 

 愛里寿が大きく声を上げ、指を指した。

 その向こうには、銀髪をなびかせる、白装束の姿があった。間違いなく、エリカだった。

 エリカは大きなバッグを背負っている。恐らく、そこに爆薬が入っていることは確かだった。

 

「っ!」

 

 その姿を見た瞬間、みほが真っ先に駆けた。その後に愛里寿とミカが続く。

 そして、みほは道路を人混みに紛れながら歩くエリカに近づくと、刹那、勢い良く地面に叩きつけた。

 

「きゃっ!?」

「エリカさんっ! 駄目っ!」

「み、みほ!?」

 

 エリカはみほの拘束から脱出しようと暴れる。それは物凄い力で、みほ一人では抑えきれそうになかった。

 

「ミカさんっ! 愛里寿ちゃんっ!」

「ああっ!」

「うんっ!」

 

 二人は呼びかけに応じてエリカを取り押さえる。そして、そのままみほがバッグの中身を見る。そこにはやはり、大量の爆薬が入っていた。

 

「エリカさん、これ……!」

「みほ、愛里寿、ミカ、これは一体……愛里寿、もしかしてあなた、喋ったわね!?」

 

 そのことに気づいた瞬間、エリカの顔は困惑から怒りに変わった。

 

「信じていたのに! 信じていたのに! 私はあなたのことを同志だと思って信じていたのに! それなのに! それなのに!」

「叔母さん……ごめんなさい」

 

 愛里寿はエリカを取り押さえながらも、ゆっくりと視線をずらした。

 

「救済が必要なの! この世界の人間には! 教祖様は言っていたわ! もはや現し世では人間の不幸を救済することはできないと! だから、私が教祖様の代行者として救済するの! この世界の不幸なる子羊達を! それが、幸福を享受できた者の宿命なのよっ!」

 

 エリカの言っていることはあまりにも異常だった。

 そのことが悲しくて、みほは静かに瞳から雫をこぼす。

 

「うっ……エリカ、さん……」

「離しなさいっ! 離せぇっ……!」

 

 エリカはなおも暴れる。三人の力でも押さえつけるのがやっとなその尋常ではない力は、明らかに何か違法な薬物か何かを摂取している証拠だった。

 三人が必死にエリカを拘束していると、やがて騒ぎを聞きつけた警察がやってきた。そして、みほは警察に事情を話し、エリカを引き渡した。

 

「やめなさいっ! 私を離しなさい! この異端者共めっぇ!」

 

 錯乱するエリカの表情は鬼気迫るものがあった。

 みほはついに見ていられずに、視線を逸した。

 

「ミカっ!」

 

 そこで、エリカ突如ミカの名を呼んだ。

 

「この嘘つきっ! 私の味方だって言った癖にっ! 結局あなたも、私のことを捨てるのねっ!? これだから嫌なのよ人間というのはっ! みんな……みんな私を捨てるんだ……っ!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ミカがかつてないほどに取り乱した表情を見せた。

 

「違う……違うんだ叔母さん……私は、そんなつもりじゃ……」

 

 目は見開き、冷や汗を流すミカ。

 そんなミカを、エリカは憎悪の視線でもって見つめながらも、パトカーに押し込められ、連行された。

 こうして、エリカのテロは未遂と終わった。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

 

 エリカが逮捕されてから約一週間が経った。エリカの事件は、日本中に大きな波紋を広げた。エリカのテロ未遂により、日本にそのような企てをするカルト教団が潜んでいることが分かり、人々は恐怖に怯えた。エリカに対し厳しい事情聴取が行われたが、エリカはまったく具体的なことを話さず、調査は難航していた。そうした世間の情勢の中、みほと愛里寿はその日、継続の学園艦を訪れていた。

 理由は、ミカを尋ねるためである。

 

「……失礼します」

 

 みほはコンコンと叩いても反応のないミカの部屋の戸をゆっくりと開いた。鍵はかかっていなかった。

 部屋は酷い荒れ様だった。そこら中にものが散乱しており、足の踏み場がなかった。

 暗い部屋の隅に、ミカはいた。ミカは、ベッドの奥で毛布を被り、膝を抱えて座っていた。その足元には、エリカから買ったと思われる貴金属が散らばっていた。

 

「ミカさん……」

「お姉ちゃん……」

「……やあ、君達か……」

 

 ミカは力なく笑って二人に応えた。

 

「どうしたんだい、こんなところに……」

「どうしたって……ミカさんのことが心配で……」

「……私のことなんて、放っておいてくれてよかったのに……」

 

 ミカは投げやりに言う。その姿は、とても以前のミカのようには見えなかった。

 

「どうしたの、お姉ちゃん……! こんなの、お姉ちゃんらしくないよ……!」

「……叔母さんの話、聞いたかい?」

 

 ミカ唐突に言う。みほと愛里寿は困惑し顔を合わせることしかできなかった。

 

「叔母さん、西住流からも捨てられてたんだってね……つまり、あのときの叔母さんはすがるものが宗教しかなかったんだ。でも私は、そんな叔母さんの気持ちを分かったふりをして、何も分かってなかった……そのせいで私は、大好きな叔母さんを捨ててしまったんだ……私は、最低だ……母さんと、嫌な老人達と、何も変わらない……」

「で、でも、お母様は後悔してる……そのせいか、最近はずっと部屋に引きこもって出てこないし……」

「愛里寿ちゃんのところも……うちも、そう……お母さん、すっかり元気がなくなって……」

「そんなの関係ないね。母さんが叔母さんを捨てたのは事実じゃないか」

「…………」

 

 愛里寿の擁護をミカはバッサリと切り捨てる。

 そしてミカはそう言いながら、散らばっている貴金属を拾い、目の前に掲げる。

 

「ああ……どうせなら私も叔母さんと一緒に入信すればよかったんだよ……そうすれば、叔母さんとすべてを共にすることができたのに……私の大好きな叔母さんと、一緒に……でも、今ではそれも叶わぬ願いだ……叔母さんはまた捨てられた……今度は、世の中そのものから……」

「ミカさん……」

 

 みほは何か声を掛けようとするも、うまく言葉が出てこなかった。

 それどころか、貴金属を弄びながら、涙を流すミカに、近寄ることもできなかった。

 一方、愛里寿はというと、彼女もまた、床にうずくまり始めた。

 

「愛里寿ちゃん……?」

「……私、何も知らなかった。お母様達がしてきたこと、何も。それなのに、叔母さんとは平気で付き合って笑って……叔母さんはどんなに辛かったんだろう。……私も、同罪だよ……」

 

 愛里寿はそう言って、うずくまったまま動かなくなった。

 そんな中で、みほもまた、どんどんと暗い面持ちになっていく。

 そして、ぽつりと呟き始めた。

 

「……私が、あのときフラッグ車を捨ててエリカさんの戦車を助けに行ったりしなければ、今頃エリカさんはまだ黒森峰にいられたのかな……私の選択、間違っていたのかな……」

 みほは今、初めて自分の行いを後悔していた。

 

 三人はそれぞれ、言葉を失った。それだけでなく、後悔の渦に取り込まれ、その場から動けなくなった。

 みほの、ミカの、愛里寿の後悔は決して止むことはない。この後悔は、永遠に三人につきまとうのだ。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

 

 独房のなかで、エリカは祈っていた。

 窓から差し込む微かな光に向かって。

 その姿は、さながら高潔な殉教者のようだった。

 

「教祖様……どうか、この世を黙示録の炎で包み、人類を救済して下さい……」

 

 エリカは幸せだった。彼女の信ずる教祖は――神は決してエリカを捨てたりはしないと確信することができたからだ。

 エリカが信奉し続ける限り、神はエリカを見捨てない。

 かつてそう言葉をかけてもらっていた。

 その言葉を、エリカは依代に生きていた。だから、エリカは祈り続ける。自分を救済してくれた、歪な神を。

 エリカは祈り続けるだろう。いつか訪れるとされている、黙示録のその日まで。

 

「教祖様……」

 


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