ガールズ&パンツァーダークサイド短編集   作:御船アイ

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お姉ちゃんがVRにドハマリするお話です。


仮想幸福世界

「総員、傾注!」

 

 黒森峰女学園戦車道演習場に、凛とした声が響く。

 黒森峰女学園戦車隊隊長、西住まほの声である。その声に、まほの目の前に整列していた機甲科戦車道履修生達は居ずまいを正しまほの方へと視線を集中させた。

 

「本日の訓練ご苦労だった。さて、明日は久々の休日だ。皆、ゆっくりと羽を伸ばすといい。だが、戦車道を嗜む黒森峰の淑女として恥ずかしくない行動を心がけるように。分かったか」

「「はい!」」

 

 まほの前に並ぶ生徒達が一斉に答える。その一糸乱れぬ姿は、さすが高校戦車道において王者と言われる黒森峰であった。

 

「それでは、本日の訓練を終了とする。総員、解散!」

「ありがとうございました!」

「「ありがとうございました!」」

 

 整列する生徒達の最前列中心に立っていた副隊長、逸見エリカが代表して頭を下げると、それに追随し他の生徒達も頭を下げる。

 そしてまほがその場から離れると、さきほどまで緊張していた空気が一気に緩み、黒森峰の生徒達はどっと途端に歳相応の少女達へと戻っていった。

 

「いやー今日の訓練も疲れたねー。明日どうする?」

「そうだねー、久々に何か甘いものでも食べに行こっか」

「あ、いいねーそれ。じゃあどこ行く?」

 

 そんな楽しげな会話が後方から聞こえてきたまほは、ふっと笑顔を浮かべながら一人校舎へと戻っていく。

 

「隊長!」

 

 と、そこで、エリカが手にタオルを持って話しかけてきた。

 

「エリカか。どうした?」

「いえ、その、今日はいつもより暑かったですし、お疲れでしょうからタオルでもどうかと」

「そうか、ありがとう」

 

 まほはエリカからタオルを受け取り顔の汗を拭う。それを見るエリカは、どこか嬉しそうだった。

 

「そういえばエリカ」

 

 まほは顔を拭きながらエリカに声を掛ける。

 

「はい、なんでしょうか隊長」

「お前は休日の予定はあったりするのか?」

「え!? よ、予定ですか……」

 

 その質問に、エリカはなぜか顔を赤くしながら答えにくそうに指と指を突き合わせる。

 まほはその姿を見て、頭に疑問符を浮かべた。

 

「うん? どうした?」

「い、いえその……特にやることもないため、一人でネットサーフィンでもしようかなと……」

「ああ、そういえば以前趣味がネットサーフィンと言っていたな」

 

 あくまで涼しい顔をしながら言うまほに対し、エリカは恥ずかしげに俯いている。

 何か恥ずかしいようなことがあったのだろうか? とまほは首をかしげる。

 

「わ、私の事は置いておいて! 隊長は、休日はどう過ごされるんですか?」

 

 エリカは顔を真っ赤にしながら、話題を変えるように聞いてくる。

 まほはその質問に、少しの間思議した。

 

「……ふむ」

「あー、えっと、もしかして聞いてはいけないことを聞いてしまったのでしょうか……」

 

 心配そうにまほの顔を覗きこむエリカ。

 その様子に、まほは急いで手を振って取り繕った。

 

「ん? ああいやそうことじゃないんだ。まぁその、いろいろだ」

「いろいろ、ですか?」

「そう、いろいろだ」

 

 そう言ってまほはふっと笑うと、すたすたと歩いて行く。

 

「あっ、待ってください隊長!」

 

 後からエリカも慌てて付いてきた。

 まほの後ろからは、だんだん小さくなっていく黒森峰女子の姦しい話し声が響いていた。

 

「ねえ、そういえばVRって知ってる?」

「ぶいあーる? なにそれ?」

「ヴァーチャル・リアリティの略だよ。なんでもまるで現実で起こってるようなことを仮想的に体感することができるんだって! それが今なんと、黒森峰にさあ――」

 

 

「……ふぅ」

 

 まほは一人、寮の自室でくつろいでいた。

 風呂からはすでに上がり、パジャマ姿である。

 まほは普段の精悍な雰囲気からは考えられないほどに力を抜き、床にペタリと座り込んでいる。

 

「休日の過ごし方、ねぇ……」

 

 しゃべり方も訓練中の堅苦しいものではなく、女の子らしいしゃべり方になっている。

 これが本当のまほのしゃべり方であり、彼女がそういう喋り方をするという事、それを知るものは少ない。

 

「休日と言っても、何をどうして過ごせばいいのやら……」

 

 まほは西住流宗家の娘として、幼い頃から母西住しほから英才教育を受けてきた。

 寝ても起きても戦車のことだけを叩きこまれ、戦車道のために生きてきた。

 そのため、年頃の少女が持つような趣味らしい趣味を殆ど持っていなかった。

 数少ない趣味は、一人ではできないチェスと、日課のジョギング、あとは好物のカレーライスを食べることぐらいか。

 そのため、まほは休日を与えられても逆にどう利用していいものか悩んでしまうのだ。

 

「本当に私の人生って、戦車まみれよねぇ……」

 

 まほは自嘲気味に笑う。

 決してそのことを後悔したことはない。戦車道は好きだし、今の自分の生活には満足している。

 ただ、戦車以外の事となると何をすれば困ってしまうのだけは、どうにかしたいことであった。

 そんなまほにとっては、エリカのネットサーフィンも十分魅力的な趣味に思えてくる。

 

「……パソコン、買ってみようかしら」

 

 まほはぼそっと呟きながら、まほは就寝する準備を進める。

 パソコンを買うと言っても、どんなふうに使えばいいか全くわからない。もし買ったらエリカにでも使い方を教えてもらおう。まぁ、そもそもまずどれぐらいの値段がするものか分からないのだが。

 まぁ、明日のことは明日考えよう。

 まほはそんなことを考えながら、静かにベッドの中に入り、瞳を閉じた。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

「はぁ……」

 

 まほは溜息を付きながら、一人黒森峰の学園艦の上にある商店街を歩いていた。

 

「まさか、パソコンがあんなに高いモノだったなんて……」

 

 まほは財布を開いて中に入ったお札を数えながら言った。まほは昨夜考えていたパソコンを購入するという考えを実行するために、街の家電量販店へと足を伸ばしたのだ。

 しかし、そこで陳列されているパソコンの値段が、自身の予算と合わずおずおずと帰路についているというわけだ。

 いくら西住流の娘であり、黒森峰の隊長であるとはいえ、財布事情は他の女学生と何ら変わらない。

 

「こうなったら貯金を崩して、いやでもこんなことのために貯金を崩すのも……」

 

 と、あれこれ悩んでいると、ふとまほの目にとある建物が目に映った。

 その建物は他の建物と比べ小さく、みすぼらしい建物で、まったく周囲の景観に溶け込んでいない。まるで突然そこに湧いて現れたかのようだった。

 

「ここにこんな建物あったかしら……?」

 

 不思議がってその建物に近づくと、入り口近くに金メッキのプレートで『Virtual reality体験所』と書かれていた。

 

「ヴァーチャル・リアリティ……?」

 

 まほのあたまにぽっと昨日の女生徒達の会話が思い浮かぶ。確か、まるで現実かのような体験ができるとのことだったが……。

 まほは何かに引き寄せられるかのように、その建物の中に入っていた。建物の中は外観とは打って変わって、まるで近未来の世界に来たように洗練されていた。

 壁も床も光り輝く陶器のような白色一色で、流線型のラインが美しいテーブルや椅子が置かれている。

 

「いらっしゃいませ」

 

 まほが物珍しくあたりを見ていると、突然横から声がかけられた。するとそこには、先程まで誰もいなかったはずのカウンターらしき場所に一人の人間が立っていた。

 その人間は全身黒ずくめで、フードを深く被っており表情は見えず、性別も男か女か分からない。

 その姿は、白の世界と言ってもいいその場において、非常に浮いていた。まるで商店街の中にぽつんと立つその建物自身のように。

 

「えっと、あの……」

「初めてのお方ですね? こちらへどうぞ」

 

 黒ずくめの人物はまほを建物の奥へと誘ってくる。まほは、何がなんだか分からないままだったが、その後姿に続いていくことにした。

 コツコツと黒ずくめの人物に続いて細い廊下を歩いて行く。

 ついていくうちに、こじんまりした建物の外見からは想像もつかない広さを歩いているような気持ちにまほはなった。

 まほは不安になり、目の前の人物に話し掛ける。

 

「あの、ヴァーチャル・リアリティとは一体……」

「ヴァーチャル・リアリティ、VRとはコンピュータなどによって作られた仮想の世界を、現実であるかのように体験することです。当店では、その仮想現実の世界をお客様に提供することを目的としております」

「な、なるほど……しかし、まってください。今の私にはそれほど持ち合わせは……」

 

 まほは先程の家電量販店でのパソコン類の金額の高さを思い浮かべて言った。

 しかし黒ずくめの人物はわずかに顕になっている口元からチラリと笑みを見せる。

 

「ご安心下さい。当店では良心的な値段でお客様にVRの世界を体感していただいてもらっています。また、お客様のように初めての方は無料とさせていただいています」

「そ、そうですか……」

 

 まほはそれ以上質問をすることを止め、黒ずくめの人物の後についていく。そしてある程度歩くと、とある個室の前に連れて来られた。

 

「さあこちらです、どうぞ」

 

 黒ずくめの人物が扉を開けると、そこには部屋の中心に置かれた曲線が特徴的な楕円形の椅子と、側のテーブルに置かれている大きな弁当箱のようなものが着いたゴーグルのようなもの――VRデバイスが置かれていた。

 

「では、こちらにお座りになって下さい」

 

 まほは促されるまま椅子に座る。そして、黒ずくめの人物はまほの視界を覆うようにゆっくりとVRデバイスを装着させた。

 まほの視界が暗闇で覆われる。まほは、先ほどから抱いていた不安感が急に強くなるのを感じた。

「すみませんが……そもそも私はこれからどんな仮想世界を視るか聞かされていないのですが……」

 そう言うと、再び黒ずくめの人物は笑った。まほには見えなかったが、確かにまほからは笑った気がした。

 

「大丈夫ですよ。これからお客様が視るのは、お客様が“望んだ”世界ですから……」

「私が、望んだ? それって一体――」

 

 それを確かめる前に、視界が急激に変化した。

 

「っ!!?」

 

 暗闇だった視界は、途端に色づき、様々な色が飛び交ったかと思うと、一瞬にしてまほは知らない土地へと“飛ばされた”。

 

「これは……」

 

 まほは辺りを見回す。どうやらどこかの街中らしかったが、あいにくまほには見覚えのない場所だった。次にまほは自分の体を見る。服装はよく知る黒森峰の制服ではなく、何故か大洗女子学園の制服だった。

 

「なぜ、大洗の制服を……?」

「まーぽりんっ!」

 

 その疑問に答えるかのように、まほの背後から突然彼女に掴みかかってくるものがいた。

 

「うおっ!?」

「ごめんねーまぽりん遅れてぇ」

 

 まほは抱きついてきた人物を見やる。その人物は、明るい茶髪の、ウェーブのかかったゆるやかな髪型で、朗らかな顔つきをしている少女だった。

 まほはその少女に見覚えがあった。その少女は、まほの妹の西住みほ、その友人の一人であった。

 

「沙織さん、まほさんが驚いていますよ」

「ははは、武部殿は相変わらずですなぁ!」

「……眠い」

 

 武部沙織と呼ばれた少女に続いて、おっとりとした雰囲気を持つ長い黒髪の少女と、もじゃもじゃとくせ毛の強い頭をした少女、そして眠たげな顔をした利発そうな少女がやってきた。

 

「えっと、君たちは……?」

「あはは、ごめんごめん! さ、まぽりん行こっか! 今日は一日中遊び倒す予定だもんね!」

「ええと、まずはどこへ行くのでしたっけ?」

「はい! 最初はゲームセンターへ行って遊んだあと、近場のカフェテリアで昼食、さらにその後は映画館に行く予定ですな!」

「……眠い」

「そうだったね! さあ行こ!」

 

 まほは半ば無理やり腕を沙織に掴まれ、引っ張られていく。その中で、まほはなんとか思案する。どうやら自分は今、みほの友人達と、みほの代わりに遊びに来た状況らしい。そしてその状況から考えるに、どうやらここは大洗なのだろう。

 しかし、なぜ自分がみほの立場で彼女達と遊びに? これが、あの人物の言っていた自分の望んでいたものなのか?

 まほは渦巻く疑問に惑わされつつも、なんとか現状を飲み込み、少なくとも彼女達の前では普通でいようと決めた。

 VRなのだからどう振る舞っても構わないはずではあるのだが、あまりの現実感に、みほの友人達を無下に扱うということができなかったのだ。

 

「さあ着いたよまぽりん! どれにする? どれで遊ぶ!?」

 

 ゲームセンターの前に着くと、沙織が嬉しそうにまほに話し掛ける。しかしまほはゲームセンターなど今まで一度も来たことがなかったため、その問いに答えることが出来なかった。

 

「ああ、えっと……それでは、武部さんの好きな奴で」

「もう武部さんだなんて他人行儀で呼ばないで! 沙織って呼んで?」

「あ、ああ……さ、沙織、さん」

 

 まほはぎこちなくながらも沙織を名前で呼ぶ。すると、沙織は嬉しそうに破顔し、殊更深くまほに抱きついた。

 

「そうそう、それそれ!」

「あっ、ずるいですよ沙織さん! まほさん、わたくしのことも華、でお願いします」

「あっ、じゃあ私のことも優花里とお呼びください!」

「……私のことも麻子でいいぞ」

 

 そう少女達に詰め寄られ、まほはたじたじになりながらも、

 

「わ、分かった……。華、さん……。優花里、さん……。麻子、さん……」

 

 と、それぞれを名前で呼んだ。すると、四人の少女は――眠たげな一人を覗いて――キャッキャと嬉しそうな黄色い声を上げた。

 まほは、慣れない空気にポリポリと頬を掻くことしかできなかった。

 その後、まほ達はゲームセンターのゲームを遊びつくした。

 音楽に合わせて太鼓を叩くリズムゲーム、画面に向かって銃を撃つガンシューティングゲーム、実際の車を模して作られた運転席に座り運転するレーシングゲーム、様々な景品を掴んで取るUFOキャッチャーなど、である。

 それはどこのゲームセンターにもあるありふれたものであったが、そのどれもが、まほにとって新鮮な印象を与えた。無理もない。まほは今までゲームセンターで遊んだことがなかったからだ。

 それに、友人と一緒に遊ぶというのも初体験だった。今までまほが一緒に遊んだことがあるのは、幼少の頃にみほと一緒に遊んだくらいだった。それ以外では、戦車道でしか関わったことがなかった。

 だから、対等な友人関係というもの自体が、まほにとってセンセーショナルなものであった。

 

「いやー楽しかったね! さ、まぽりん! 次はお昼食べに行こっか!」

 

 沙織がニコニコと笑いながらまほに話しかけてくる。その沙織の笑顔に、まほは今までしたことのないような笑顔を浮かべて、

 

「……うん!」

 

 と、年頃の少女らしく返事をした。

 その後の昼食も、まほにとっては衝撃的なものだった。まほは今まで、あまり他人と食事をとったことがなかった。エリカとは何回か食事をしたことがあるが、そのときはあまり会話というものはなかった。

 しかし沙織達との食事はどうか。食事とはただの口実で、いろいろなことを喋り合うのが本当の目的のようだった。

 それに、その会話に中身らしい中身もない。ただ、楽しく話せればいいというものだった。

 まほはそんな会話はあまりしたことがないため、彼女達の会話をただ聞いていることしかできなかったが、それでも不思議な一体感を味わうことができた。

 食事の後は、五人で映画館に行った。正直な話、まほはどんな映画をみたか覚えていなかったが、それでも他人と一緒に映画を見たという事がとてもかけがえのないものに思えた。

 映画館から出ると、空は朱く染まっていた。どうやら、もう日没らしい。

 

「あーあ、もう一日が終わっちゃった。残念」

「ええ本当に。ですが、楽しい一日でしたね」

 

 沙織と華が名残惜しいように言う。まほもそのことについては同意見だった。

 

「それでは、私達はこれで! さらばですぞ! 西住殿!」

「……じゃあな」

「じゃあねー」

「それでは」

 

 優花里を皮切りに、次々と沙織達は帰っていく。まほはその後ろ姿を、ただ見つめることしかできなかった。

 

 と、そこで視界が急に暗闇に包まれる。

 かと思うと、今度は目も眩むようなまばゆい光がまほの視界を覆った。

 

「うっ……!」

「お疲れ様です」

 

 だんだんと目が慣れてくる。すると、目の前にはVRデバイスを持った黒ずくめの人物が立っていた。

 そこでまほは、今まで自分はVRの世界にいたことを思い出す。

 

「そうか、私は……」

「どうでしょうか。ご満足いただけたでしょうか?」

 

 黒ずくめの人物はまほをゆっくりと椅子から起こしながら聞く。まほは依然夢見心地な気分の中にいたが、なんとか声を振り絞って、

 

「……ああ」

 

 とだけ答えた。

 

「残念ながら無料体験ではこれまでになります。次回からは時間に応じた料金プランでVRを体験することができます」

 

 事務的に黒ずくめの人物が伝えてくる。まほはそれに答えることもできずに、ただ不思議な喪失感と共に黒ずくめの人物に案内されて建物の外に連れて歩かれることしかできなかった。

 

「それでは、次回のご来店をお待ちしております。西住まほさん」

 

 黒ずくめの人物が玄関でまほに対し深々とお辞儀をする。外はVRの中で体験したように、日が落ち朱く空が染まっていた。

 まほはふらふらとした足付きで寮へと戻っていく。

 文字通り、白昼夢を見た気分だった。今まで自分が体験したことのなかったことを一気に浴びせかけられた。あれは、一体何だったのだろうか。VRというものは、あそこまで現実感のあるものなのか。

 

「……だけど、楽しかった」

 

 まほは誰にも聞こえないような声で呟く。

 そう、楽しかったのだ。

 今までの、いや、これからの人生では絶対に体験することのない『友人との時間』を味わうことが出来た。それは、とてつもなく鮮烈で、かつ幸福に満ちた時間帯だった。

 今まで趣味も友人もなかった、戦車漬けの人生。それとはまた別の人生を提示されたような気がしたのだ。

 

「……また、行ってみようかしら」

 

 それは、まほに再びVRを体験してみようと思わせるのに、十分な動機となり得た。

 いままでは持っていなかった、新しい趣味。それを見つけられた気がしたから。

 まほは経験したことのない幸福感に満ち溢れながら、寮の自室の扉に手を掛けた。

 と、まほはふとそこで気がついた。

 

「あれ、そういえば……私、あの店の人に自分の名前、名乗ったかしら?」

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 

「それでは、本日の訓練を終了する! 総員、解散!」

「ありがとうございました!」

「「ありがとうございました!」」

 まほはいつものように戦車道の訓練を終える号令をかけていた。

 あれから数日、まほは普段と何一つ変わらない生活を送っていた。いつものように朝早く起き、いつものように日課のジョギングをこなし、いつものように学校に登校し、いつものように戦車道で指揮を取る。

 一見何も変化がない生活を送るまほ。だが、その心中は大きく変わっていた。

 まほはこれまでの人生で初めて、次の休日というものが楽しみになっていた。

 今まで休日にすることと言えば、本と睨み合ってのチェスか、戦車道に関する事ぐらいで、特に不満はないが刺激もない過ごし方をしていた。

 そこに突然現れたVRという過ごし方は、まほに休日というものの認識を改めさせるほどのものだった。

 ああ、早く次の休日にならないだろうか。

 今まで抱いたことのない気持ちが、まほの胸に広がっていく。

 これが普通の女学生の気持ちという奴か。

 そんなことを考えていると、自然と顔が綻んでくる。

「なんだか楽しそうですね、隊長」

 そんなまほを見て、エリカが話しかけてきた。その顔は、わずかだが驚いたような表情を浮かべている。

「そう見えるか?」

「ええ、まあ。隊長のそのような楽しそうな顔、あまり見ませんから」

 エリカのその言葉に、まほはちょっとばかりイタズラ心が沸いた。

 なので、エリカを少しからかってみることにする。

「なんだ、まるで私が常に鉄仮面を被っている女のようだと言いたげだな」

「えっ!? いや別にそんなことは……!」

 オロオロと慌てるエリカに、まほは笑いを堪える。

 普段は居丈高な部分もあるエリカだが、たまにこうしてからかってやると可愛い部分も見せて面白いと、まほは常々思っていた。

「ふふ、冗談だよ。あまり気にするな」

「は、はい……」

 エリカは落ち着いたようにほっと息を吐く。

 やはりエリカは面白い。だが、それ以上に副官として頼りになると、まほはエリカを信頼していた。戦車を指揮する腕もあり、次代を任せられる人間であると、考えていた。

 さらに意外と物知りであり、ときたままほの知らないことを補完してくれる気の利いた部分もあった。

 と、そこでまほは、そんなエリカに、話題を転換するのもかねてちょっとした質問をしてみようと思った。

「そういえばエリカ」

「は、なんでしょうか」

「VR、というものを知っているか?」

「VR、というと、ヴァーチャル・リアリティのことですか?」

 スラリとその言葉が出てくるエリカに、まほは内心感心した。

 さらにこの先、エリカがより詳しく解説してくれることを、まほは望んでいた。

「ああ、そうだ」

「ええと、名前と仮想現実を体感できるものだということは知っていますが、そこまで詳しくは……」

 しかし、エリカの回答はまほの望むものではなかった。もしエリカがVRのことを詳しく知っていたならば、あの店で一緒にVR体験を共有しようとまほは考えていた。

 だが、そうでないのならばまだ一人で経験を積み、普段の恩返しを兼ねて先達として教える立場としてVRのことを教えたい、とも考えていた。

「そうか、ならばいい」

「あの、一体どうしてVRのことを……?」

 エリカが不思議そうな顔をして聞く。それもそのはずである。まほが突然戦車道とは関係のない、しかも普段の彼女からは結びつかないワードを口にしてきたのだから。

「ああいや別に意味などないさ。最近どうやら隊員達の間で話題になっているらしくて、少し気になってな」

「ああ、なるほど。確かにそういう話をしているのを私も耳にしたことがあります。……今度、また勉強しておきます」

「いや、そこまでしなくて大丈夫だ」

 かしこまって返答するエリカに、まほは苦笑いを浮かべながら――と言っても当人がそのつもりなのであって、他人が見ても殆ど判別はつかないものだが――手を振った。

 そこでまほは話題を一旦打ち切り、再び次の休日に思いを馳せた。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 数週間後、まほにとって待ちに待った休日が訪れた。

 黒森峰の機甲科の生徒にとって、週末も訓練があるため、本当に何もない休日というのは月に一、二度程度しかない。そのため、まほにはそれまでの期間がこれまで感じたことのないほどに長く感じられた。

 まほはいつもより心なしか軽い足取りで、VRが体験できるあの建物を目指す。

 その建物は、以前まほが訪れたときのまま、周りの風景とは隔絶されたような、異彩を放っていた。

 だが、前を通る人々は何故か誰もそれを気に留めようとはしない。

 その建物に一人向かっていくまほは、まるで群れから一匹迷い出た子羊のようだ。

 建物の中では、例の黒ずくめの人物が白い内装の店内と相反しながら立っていた。まほはその姿に不思議と威圧感を感じざるをえなかった。

 

「いらっしゃいませ、西住まほさん」

「……ええ」

 

 一言挨拶をすると、黒ずくめの人物は文字が細かく書き込まれたプレートを寄越した。そこには、VRを体験する時間と料金が書かれていた。

 

「本日はどのプランにいたしますか?」

「ええと……では、このプランで」

 

 まほが指し示したのは、料金も時間もちょうど中間のあたりのプランだった。

 以前より長く楽しみたいという気持ちと、二回目であるのにいきなり長時間のプランを頼むことへの少しばかりの恐怖心から来た折衷案であった。

 

「わかりました。それではこちらへ」

 

 以前と同じく、まほは黒ずくめの人物に連れられ建物の奥へと入っていった。

 相変わらず、建物の中ではまほの距離感が狂ってしまう。

 今自分がどれだけ歩いたのか、どれだけの長さの通路だったのか、そんなことがまるでぐちゃぐちゃのスパゲッティのように絡み合ってしまい分からなくなっていく。

 

「こちらです」

 

 そして、またもどれだけ歩いたか分からないうちに、一つの部屋の前に案内される。

 扉が開かれると、そこは椅子とVRデバイスが置いてあるだけの、以前まほが使った部屋とまったく同じ作りだった。

 

「さあ、どうぞ」

 

 まほは促されるままに椅子に座り、VRデバイスを装着する。

 そしてまほの視界は黒に塗りつぶされたかとおもうと、すぐさま前回と同じく様々な色が飛び交って再び別の場所へと飛ばされた。

 

 

 まほは周囲を見回す。そこには見覚えのない風景が広がっており、どうやら前回の大洗とは別の場所へと飛ばされたらしいことをまほは把握した。また、服装も黒森峰の制服であった。

 

「ふむ」

 

 大洗でないとしたら、今回の場所はいったいどこなのだろうか。

 まほはてっきり今回も大洗でみほの友人達と一緒に時間を過ごすものだと思っていたため、少々落胆しているのは事実だった。

 それとも、また別の自分の“願望”が現れた形なのか……。

 

「おーい西住ー!」

 

 まほが思案に耽っていると、突如背後からまほを呼ぶ声がした。

 振り返ると、そこには、大きなドリルツインテールを黒のリボンで結び、イタリアの軍服に身を包んだ少女が走ってくるのが見えた。

 まほはその少女に見覚えがあった。

 安斎千代美。通称アンチョビ。

 アンツィオ高校の隊長で、以前の大学選抜戦でも共に戦ったことのある少女だった。

 しかし、まほ自身とは個人的な交流はなく、気軽に呼び合うような間柄ではなかったはずである。

 しかし安斎はそんなことはお構いなしといったように話しかけてくる。

 

「こんなところにいたのか西住、探したぞ。ほら、今日は私が学園艦を案内する約束だったからな。さあいくぞ」

 

 安斎はまほの手を掴み、半ば強引にまほを連れて歩いた。

 そこでまほは気づく。今回はこういう“設定”なのだと。

 そう、前回のときはまほが大洗の生徒でみほの友人達と友達という設定であった。

 そして今回は、まほはアンツィオの安斎千代美と個人的な友人であるという設定であるのだ。

 それを理解すると、まほは今まで考えこんできたのが何だったのかというほどに、急に気が楽になった。そうと分かれば、自分は安斎の友人として振る舞うだけだ。

 

「まあそう急ぐな安斎、自分で歩ける」

「ん? そうか。それはそうと、安斎と呼ぶな! アンチョビと呼べ!」

「ああわかったよ、安斎」

「だーかーらー!」

 

 まほは確信する。安斎千代美は、エリカと同じくからかいがいのある少女だ。

 まほはそう思いながらクスクスとこみ上げる笑いを堪えて安斎について行った。

 安斎に連れられてきたのは、様々な出店が並ぶ広場のような場所だった。出店ではアンツィオの生徒達が思い思いに料理を作っており、とても賑やかだ。

 

「あっ! ドゥーチェだ!」

「「ドゥーチェ! ドゥーチェ! ドゥーチェ! ドゥーチェ!」」

 

 安斎が発見されるや否や、広場にいた生徒たちは一斉に沸き立ち安斎をたたえ始めた。

 まほはその様子に面食らったが、安斎の隊長としての人望の厚さをうかがい知ることができ、なんだか心が温まるような気持ちになった。

 黒森峰ではまず見ることのできない光景だろう。

 

「おうお前たち! 今日は私の友人の西住を連れてきたぞ! 精一杯歓迎してやれー!」

「「おおっー!!!」」

 

 するとまほは安斎と共にアンツィオの生徒たちに広場の中心にある丸テーブルの前の椅子に腰掛けさせられる。そしてテーブルの上に次々とイタリア料理が置かれていった。

 スパゲッティにペンネにマカロニ、ナポリピッツァにリゾット……。

 

「こ、これはなかなか……」

 

 あまりの物量にまほは気圧されてしまう。この量、はたして食べきれるのだろうか……。

 

「さあ、どんどん食べてくれ!」

 

 両手を広げて笑顔で勧めてくる安斎に、まほはたじたじとなりながらも、目の前のナポリピッツァを手に取り、口につける。

 すると、口の中に一気に芳醇な味わいが広がる。トマトの酸味とチーズのとろみが緩やかに溶け合い、まろやかな口溶けを演出する。

 まほが今まで食べたピザのどれよりも、はるかに美味であった。

 

「美味しい……」

 

 まほは思わずそうこぼす。すると、目の前の安斎はもともと浮かべていた笑みをさらに大きな笑顔に変えた。

 

「そうだろそうだろ! なんせアンツィオの料理は世界一だからな! ほらこれもどうだ! ペパロニが作った料理は最高だぞ!」

 

 まほは勧められていくものを次々と食べていく。そのどれもが、今までの黒森峰の質素な料理とは比べ物にならないほど、舌鼓を打つものだった。

 しかも、そのどれもがするりとお腹に入っていく。

 まほは食の悦びというものを、生まれて初めて味わっていた。

 

「いい食いっぷりだな西住! さすが、黒森峰の隊長は違うな!」

「いいやそんなことはない。むしろ、これほどのものをすぐさま用意できる人望を持つアンツィオの隊長のほうが、むしろ隊長として優れているのかもな」

 

 それは、まほの心からの感想だった。

 まほは黒森峰の隊長として、確固たる自信を持っている。伝統ある黒森峰を率いる身として、自分は何一つ恥じるべきところはないと。

 しかし、人望という点においては、今ひとつ他の学校の隊長に劣るのではないかという懸念もあった。自分は厳しい規律のみで、部下を統率しているのではないかと。

 実際、全国大会において大洗との決勝では、多くのものがまほの命令を無視し大洗の挑発に乗ってしまった。そこに、隊長として足りないところがあったのではないかとも考えたことがあった。

 

「ほう? 黒森峰の隊長ともあろうものが随分と弱気だな? ふふ、そうだな。せっかくだし互いの戦術眼がどれほどのものか競い合うのもいいかもしれないな」

 

 安斎がそう言うと、山のように積まれていた料理が別のテーブルへとどけられ、その代わりにテーブルの中央に大きな地図と駒が置かれた。

 

「これは……」

 

 まほは驚いた。まさか、ここにきて戦車道の話をすることになるとは思っていなかったからだ。

 安斎の顔を見ると、先ほどまでの笑顔とはまた違った、不敵な笑みを浮かべている。

 

「さあ、最初は山頂に陣した敵にどう対処するかだ」

 

 そうして安斎とまほとのそれぞれの軍略の腕を競い合う討論が始まった。

 最初はまほは乗り気ではなかった。なぜせっかくの休日にまで戦車道のことを考えなくてはならないのか、と。だが、そんな考えはすぐさま消え去ることとなった。

 安斎の発想が実に柔軟かつ合理的で、西住流に漬かったまほからは出てこないような様々な発想が語られたからだ。

 そのことに、まほの戦車乗りとしての魂に火がついた。まほは応戦するように様々な戦術を語る。

 それに安斎がまた別の切り口で返す。

 二人は端に置かれた食事を口にしながら軍略についてあれやこれやと語り合った。

 そうしていくうちに、あっという間に時間は流れていき、日はどっぷりと沈んでいった。

 

 

「お疲れ様です」

 

 まほの目からVRデバイスが外される。

 そこでまほは、今まで自分の見ていたものがVR空間の仮想現実であることを思い出した。

 そして、VRゆえにいくら食べてもお腹が埋まることはないと、今更ながら気がついた。

 

「あ、ああ……」

 

 まほは椅子からゆっくりと体を起こす。前回よりも長時間座っていたためか、体の節々が少し痛む。

 まほは体の痛みを感じながらも、再び黒ずくめの人物に連れられて店の外へと出た。

 

「お疲れ様でした。またのご来店をお待ちしております」

 

 黒ずくめの人物は恭しく頭を下げる。

 まほはその姿を一瞥すると、すたすたと自分の寮への帰路を辿っていった。

 今日も満足のいく体験をすることができた。

 食の悦びと、満足のいく友人との語らい。

 また新たな友人関係というものを体験することができたと、まほはしみじみと思った。

 空には朧げに輝く月が輝いていた。しかし、不思議と空腹にはならなかった。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

「はぁ……」

 

 まほは黒森峰女学園演習場にある休憩室で、一人ペットボトル片手に水分補給をしながら溜息を吐いていた。

 VRから帰ってからというもの、まほはイマイチ生活に張り合いというものを感じられなかった。

 それほどに、VRで体験した安斎との語らいが大きな影響を与えていた。

 あの論戦に比べれば、黒森峰での平坦とした指揮には色がなかった。誰もまほに対し意見しようとしない。せめて一人ぐらいは口答えをしてくれるものがいればいいのだが。まぁ、伝統と格式と規律を重んじる黒森峰でそれが起きるはずがないのは重々承知なのだが。

 ……いっそ、現実の安斎と会ってみるというのも手か。しかし、現実の安斎と私はなんの接点もない。どうしたものか……。

 まほはそんなことを考えながら悶々としていた。

 二回目のVR体験から、まだ一週間も経っていなかった。

 

「おや、隊長じゃないですか?」

 

 扉のほうから声がしたかと思いまほがみやると、そこにいたのは水筒を片手に持ったエリカだった。

 

「珍しいですね、隊長が休憩室を使うなんて」

「私だって休憩したいときぐらいあるさ」

 

 まほはあえて不機嫌そうに言う。そう言うともちろんエリカが狼狽すると分かってだ。

 

「えっ!? いや、別にそういう意味では……!」

 

 ほら、やっぱり。

 まほは今すぐ笑いたくなる衝動を抑えながら、エリカに手のひらをひらひらと振る。

 

「いや、気にするな。冗談だ」

「は、はぁ……」

 

 困ったように眉を八の字にするエリカを見ながら、まほはペットボトルの水を一口飲む。

 エリカは少しの間動揺していたが、まほが特別怒っていないとわかると、怖ず怖ずとだがまほの隣に腰掛けた。

 

「…………」

「…………」

 

 二人共何も会話をせずにただただ自分の持ってきた飲み物を口にする。

 まほとしては何か話したいところだが、特に話すこともなく無言でいた。

 一方のエリカは、何か話題はないかと必死に考えているようだった。

 

「……あ、そういえば隊長!」

 

 水筒のコップ片手に、エリカが閃いたといった表情でまほに話しかけてきた。

 

「ん? どうした?」

「私、体験してきましたよ! VR!」

 

 その言葉に、水を飲むまほの手つきが止まった。

 

「ほう?」

「今まで体験したことがなかったんですが、あれは凄いですね。視界を占領するだけであそこまで臨場感があるだなんて」

「うむ」

 

 楽しそうに語るエリカに、まほは心中の興奮を隠しながら頷く。

 エリカが共通の趣味を持ってくれるならば、以前考えたように、一緒にVRを体験しに行くことができるかもしれない。

 

「エリカはいつ体験したんだ?」

「ええと、二日前ですかね」

 

 まほは驚く。二日前は、普通に学校も訓練もある平日だからだ。

 

「放課後に体験したのか? 結構な時間じゃなかったか?」

「ええまあ。でもほんの僅かな時間だけでしたから」

 

 なるほど。短い時間のプランなら放課後でも十分体験できるのか。ならば、わざわざ休日を待つ必要もないではないか。

 まほはこれは朗報だと心躍らせた。無論、隊長としての威厳を保つため、それを悟られないように表情は無表情のままに努めている。

 だが、浮かれた気持ちを抑えられるほどまほは器用でもなかった。

 

「そうか。よし、エリカ、今日一緒にあの店に――」

「――ただ、私は普通の画面で十分かなぁとも思いましたけどね」

 

 しかし、エリカのその言葉でまほの興奮は一気に冷めることとなる。

 

「そ、そうか?」

「ええ。なんだかんだでVRであることを活かせるモノが出ることはもう少し時間が立たないと出ないでしょうし……現状だと、しばらく様子見ですかねぇ」

「…………」

 

 エリカを一緒に連れて行こうとしたまほだったが、エリカの否定的な態度にその考えを改めさせられることとなった。

 エリカの見解を否定するつもりはない。ただ、エリカが現状乗り気ではないのならば、無理をしてエリカと一緒に連れて行くのは良くないと判断したのだ。

 ただ、一緒に趣味を共有することができなかっただけ。

 そうして自らを納得させようとするまほだったが、落胆は隠しきれなかった。

 

「……ふう」

 

 まほは一つ息を吐くと、すくっとその場から立ち上がった。

 

「あれ、隊長。もう上がるんですか?」

「ああ、すまない。先に上がるよ」

 

 まほは落ち込んだ気持ちを悟られないように、素早く休憩室から出て行った。

 放課後、一人でVRを体験しにいくことを考えながら。

 

「……隊長、どうしたのかしら。やたらVRに食いついていたけど。確か二日前のゲーム企業のVR展示会にはいなかったわよね……?」

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 まほはその日の放課後、考えていた通りに例の建物へと向かった。

 日は大きく傾いており、もうすぐ夕方という時間帯だった。それゆえ、街に行き交う人影も、主に下校中の生徒達だらけであった。

 そのためか、制服で出歩くまほの姿は目立たなかかった。

 

「いらっしゃいませ、西住まほさん」

 

 三回目でも未だに違和感のある黒ずくめの人物に挨拶されながら、まほは建物の中に入る。そして、前回同様渡されたプレートで、もっとも時間の短いプランを選んで部屋へと案内してもらった。

 相変わらずすべてが前回と何一つ変わらない部屋で、椅子に座り込み、VRデバイスを装着する。

 そして三度目のVR体験が、まほに訪れた。三度目ともなると突如に違う空間へと飛ばされる体験ももう慣れたものである。

 

 

 今回まほが飛ばされたのは、草木の多い草原のような場所だった。服装もいつもの黒森峰の制服である。

 さて、今回は一体……と、周囲を見回していると、急にポロロン、と、何か楽器を弾くような音が聞こえてきた。

 音が聞こえた方に向かうと、そこにはチューリップハットを被った、水色の制服を来た少女が見慣れない楽器を弾いている姿があった。

 まほはもちろんその姿に見覚えがあった。継続高校の隊長、ミカである。

 継続高校には黒森峰も数多く痛い目を合わされてきたため、その印象は強かった。しかし、隊長であるミカ自体については、まほは何も知らなかった。

 ミカはまほに気づいているのかいないのか、静かにポロロン、と楽器――カンテレを弾いている。

 まほはどうしたらいいものかと声をかけあぐねていると、ふとミカのカンテレを弾く手が止まった。そして、

 

「やあ、西住さん」

 

 と、透き通った声で話しかけてきた。

 

「や、やあ」

 

 まほは多少困惑しながらもミカに返す。するとミカは、再びカンテレをポロロン、と弾き始めた。

 

「……えっと」

「座りなよ、西住さん」

「あ、ああ」

 

 ミカに言われるがままに、まほはミカの隣に座る。ミカは相変わらずカンテレを弾いているままだ。

 

「…………」

「…………」

 

 カンテレの音色だけが流れる無言の時間が続く。まほは何か話題がないかと必死に頭を巡らせる。しかし、ほぼ初対面と変わらないミカ相手に何を切り出せばいいのか分からずにいた。

 まるで、昼のときのエリカのようだと、こっそりと自虐する。

 

「……カンテレの音色にはね」

 

 と、そこでミカのほうから口を開いた。それはまほに話し掛けるというよりも、ひとりごとを呟くようであった。

 

「生命が宿っているんだ。こうして爪弾いてあげることで、それぞれが震え、その音色を鳴らすさまは、まさに人生における人のあり方のようだとは思えないかい? まぁ、カンテレと違って、心を震わせて、他人と音色を奏でることのできない人間も、中にはいるけどね」

「…………」

 

 他人と音色を奏でることこそが人の生。そうならば、私自身の人生はどうだろうか。私の人生は、戦車道というものの上に成り立っている。そこにおいて、他人との繋がりを、家族との繋がりを保ってきた。しかし、その生に他人との音色を奏でたことはあっただろうか? 一度でも、心と心で繋がったことはあっただろうか? それはきっと、はるか昔、幼少の頃まで遡らないといけないだろう。今の自分には、心を鳴らすことはできない。

 

「それでも」

 

 ミカはそこで一旦、カンテレを弾く指を止めた。

 

「それでも、こうして私のカンテレの音に耳を傾けてくれる西住さんは、きっといい音を唱ってくれるんだろうね」

 

 そしてまた、カンテレを弾き始める。

 まほは、ミカの言った通りに、瞳を閉じて、その音色に身を任せた。

 不思議な音色だった。

 聞いているだけで、先ほどまで暗鬱だった心が安らいでくる。この音にずっと浸っていたい。そう思わせるほどに。

 もはや二人の間に言葉は不要だった。あるのは、ただただ響くカンテレの音色のみ。だが、それだけでよかった。

 どれだけの時間をそうして過ごしただろう。急にミカのカンテレの音が聞こえなくなった。不思議に思い瞳を開けるを、一向に暗闇のままだった。

 そこでまほは気がついた。VRの体験時間が過ぎたのだと。

 

 

 まほが建物から出たときには、すっかり夜の帳が下りていた。

 暗い空には星々が輝き、月は怪しく輝いている。

 そんな夜空を見つめるまほの心には、ぽっかりと穴が開いたような気持ちになっていた。

 僅かな時間だったが、まほにとってミカとの交流は、とても大きなモノを残した。

 だがまほには、それを具体的に言葉にすることができなかった。

 まほの隣で静かに、しかし確かに響き渡るように奏でられていたあのカンテレの音が延々とまほの心を爪弾いていた。

 ただひとつ分かることは、まほがより一層他人との繋がりに飢えるようになったということである。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 それからというもの、まほは毎日のようにVRを体験しにいった。

 ある日は聖グロリアーナ女学院の隊長ダージリンと格言を残した偉人たちについて語り合った。

 ある日はサンダース大学付属高校の隊長ケイと共にバーベキューに興じた。

 ある日はプラウダ高校の隊長カチューシャを肩車した。

 そしてまたある日は、かつて訪れた学校へと再び訪れ、以前と同じような過ごし方を繰り返した。

 VRに嵌っていく日々。そのうちに、まほの日常にはもはやVRは欠かせないものと化していた。

 そんな日々が一ヶ月ほど続いたある日だった。

 その日は、久々に黒森峰は他校との練習試合を組んでいた。相手は大洗女子学園。前回の大会の雪辱を果たすチャンスだった。

 演習場にそれぞれの隊員が整列する。そこにはもちろん、まほがVRの中で戯れたみほの友人達もいた。

 

「お姉ちゃん、今日はよろしくね」

 

 大洗を代表して、みほが笑顔でまほに握手を求めに来る。

 

「…………」

 

 しかしまほは、握手に応じようとしない。いや、応じようとしないのではなく、そのみほの存在に気づいていないのだ。まほの視線の先には、整列するみほの友人達の姿が写っていたのだから。

 

「……お姉ちゃん?」

「ん? ああ、すまない。今日はよろしく」

 

 まほはやっとみほの存在に気がつくと、慌ててみほが差し出した手を握った。

 やっと握手が交わされたことにより、まほ、みほ両隊長が列へと戻っていき、そしてそのまま各員戦車に搭乗していく。そのとき、エリカがみほに向かって「今日こそは負けないわよ!」と啖呵を切り、みほがそれに「うん、楽しみにしてるよエリカさん!」と返していたが、さほどまほは気にすることはなかった。

 そうした状況の中、試合は開始される。

 結果だけで言えば、勝利したのは黒森峰のほうだった。大洗の奇策を読んだまほの堅実な作戦運びの結果だった。だが、その内容において、まほは普段はいくつかしないミスを犯していた。

 指揮伝達のミス、状況把握の遅れなど、普段のまほらしくない失敗を重ねていた。もしまほが事前に立てていた作戦が完璧なものでなければ、負けていたのは黒森峰の方だったろう。

 試合が終わり再び整列する隊員たち。そこで、まほは見た。

 

「ごめんなさい、負けちゃった……」

「なーに気にすることはないってみぽりん! 次頑張ろ! 次!」

「そうですよみほさん。これは練習試合なんですから、もっと気楽でいいと思いますよ」

「はい! それにあそこまで善戦したのです! 十分でしょう!」

「……ま、今回は運が悪かったな」

 

 みほと仲良さそうにする、みほの友人達の姿を。

 ああ、なんと羨ましいのだろう。あの位置に、確かに私はいたはずなのに。いや、いたと私が思っていただけだ。そう、分かっていた。私が見ていたのは、所詮幻影にしか過ぎない。本当に大切なものを持っているのは私じゃない、みほの方だって。それなのに私は私自身を騙して、バカみたいじゃないか。それでも、それでも私は――。

 まほは、いつの間にかみほに近づいていた。そして、振り返ってまほを見たみほに対し、こう聞いた。

 

「みほ、友達との生活は楽しいか?」

「え? ……うん、とっても!」

 

 その笑顔は、とても眩しく、心からのものだった。

 まほはそれを見ると、フッと笑い、みほの頭をくしゃくしゃと撫でた。

 

「ちょ、お姉ちゃん!?」

「大切にしろよ。それは、私にはないものだ」

 

 そう言って、まほはみほ達から離れていった。そして、整列している隊員達からも離れていく。

 

「隊長?」

 

 エリカが不思議がってまほに尋ねる。

 まほは顔を見せないまま、

 

「すまない。どうやら大分体調が悪いようだ。悪いが、一足早く学園艦に戻らせてもらう」

 

 そうしてまほは、ふらふらとした足取りで、頭を抱えながらも一人学園艦に戻っていった。

 そしてまほは一直線に自室に戻ると、乱暴に財布を取り出し、そのままとある場所へと向かっていった。

 むかう場所は、あの建物。素敵な幻想を見せてくれる、あの場所へ。

 例え幻想だっていいじゃないか。私だって、向こうの世界に入れば友人がいる。そう、あの輝かしい幸福に満ちた仮想現実は、いつでも私を待っているんだ……!!

 まほは希望に胸をはちきれんがばかりにして、例の建物がある道の曲がり角を曲がった。

 だが、そこでまほは一気に絶望に落とされる。

 

「……なんで?」

 

 建物が、なくなっていた。閉店になったわけでも、取り壊されたわけでもない。建物が、綺麗さっぱり、消滅していたのだ。まるで、はじめからそこには何もなかったかのように。

 

「嘘よ……嘘……」

 

 まほは、その場にガクリと両膝を着いた。

 西住まほにとっての天国は、黒森峰上から姿を消した。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 目の前の現実を受け入れられないまほは、まるで亡霊であるかのように学園艦中を歩きまわった後、日が昇ってから寮へと戻ってきた。

 そして、その日からまほの日常から色が失われた。

 外から見れば、VRを手にする前の生活に戻っただけ。

 かつてのように学校で勉強をし、戦車道の訓練で指揮をとり、寮に戻って寝るだけの生活。

 だが、一度仮想現実における自分では手にすることの出来ない幸福を味わったまほにとって、その『以前のような生活』は、ただただ苦痛でしかなかった。

 もう一度VR世界で、友人達と一緒の時間を過ごしたい。

 今のように無味乾燥な生活ではなく、他人と心を響かせ合う生活を送りたい。

 まほの人生の中で、ここまで他人のぬくもりを求めたのは初めてだった。

 今までは他人のぬくもりなど不要だった。自らが貫く戦車道さえあればよかった。

 しかし、今ではその戦車道でさえ、まほにとっては不確かなものとなっていた。

 まほの指揮は前回の大洗との練習試合以上に、ミスが目立つようになっていた。

 指揮はあやふやで、部隊の統制はとれず、作戦は要領を得ない。

 そのまほの不調ぶりに、隊員の誰もが気づいていた。

 誰もがまほの体を心配した。あの西住まほに一体何があったというのか。きっと重い病気にかかっているに違いない。そうでなければ、西住流の跡取りとなる彼女が、ここまでの無様を晒すわけがない。

 誰もがそう信じて疑わなかった。

 だが、事実はまほの心の中を蝕むある種俗欲に満ちた感情だった。

 

「誰でもいい……お願い……私に、私を慰めて……」

 

 まほは、それを誰にも悟られること無く、鬱々とした日々を過ごすこととなった。

 

 

 そうしてある程度の日数が経った頃、黒森峰の学園艦が熊本に寄港する日がやってきた。

 まほのもとに、陸にあがり、西住家の実家に寄るようにとの通達が届いていた。

 まほとしてもそれに逆らう気はない。ただ、どんな話をされるかは想像が付いているし、それについて何か自分の意見があるというわけでもなかった。

 そういうわけで、まほは今学園艦から熊本の大地へと歩を進めているところだった。

 

「あの、隊長……本当に大丈夫ですか?」

 

 隣から声を掛けてきたのは、一緒に下船したエリカだった。

 エリカは心配そうにまほの顔を覗きこんでいる。

 

「……大丈夫だ、お前が心配することなんてない」

 

 まほは無表情で、抑揚のない声でそう返した。

 

「そうですか……ですが、やはり私も外で待たせてもらおうと思います。さすがに一緒に家元のもとへと向かうことは出来ませんが、家の外で待つくらいなら私にもできますから」

 

 エリカは強く輝く瞳でまほを見ていた。

 そこから嫌でも感じる確固たる意志を、さすがのまほも無下にはできなかった。

 

「そうか……まあ、勝手にしろ」

「っ!! はい!!」

 

 エリカはとても嬉しそうに応えた。

 だが今のまほには、そんなエリカに応える気力を持ち合わせていなかった。

 二人は陸に降り立つと、そのまままほの実家へと向かっていった。

 

 

 まほは実家の広間にて、一人正座し家元である母親が訪れるのを待っていた。

 広間にはまほしかおらず、広い空間のなかポツンと正座するまほの姿は、非常に寂しいものがあった。

 

「…………」

 

 まほはただ黙って瞳を閉じ、座り続けている。今の自分がいかに不甲斐ないかを理解しているつもりのまほの心は、ただ冷静だった。

 スッと襖が開かれる。そこには、黒い長髪をなびかせている、まほの母親、西住しほの姿があった。

 しほはまほの前で正座すると、その鋭い視線をまほに向ける。まほは、ゆっくりと瞳を開け自分の母親の姿を目視した。

 

「今日呼び出された理由は分かっていますね、まほ」

「……はい」

 

 しほの冷たい声に、まほは小さな声で応えた。

 

「ならば話は早いです。まほ、一体最近のあなたはどうしてしまったというのですか」

 

 声に混ざる怒りと失望の色。

 しほからは明らかにまほを叱責しようという態度がうかがい知れた。

 

「……申し訳ありません」

「申し訳ない、で済む話ではありません。あなたはこの西住流を継ぐ定めにある者。それなのに、最近のあなたの学校での生活を聞くとなんですか。学業の成績は日に日に下がり続けているというではありませんか。それに、なによりも戦車道において西住流に相応しくない姿を晒していると聞きます。西住流としては、そのような恥を見過ごすわけにはいきません」

 

 西住流。西住流。

 何度その言葉を聞いただろうか。本来は重みのあるはずのその名が、今のまほにとってはただの空虚なお題目にしか見えない。

 

「伝統ある黒森峰の隊長として、そしてなにより西住流の跡取りとして、あなたは今最も犯してはならないことをしているというのが分かっているのですか? 一体、あなたに何があったというのです? かつてはあれほど勤勉だったというのに、何があなたをそこまで堕落させたのですか?」

 

 現状を堕落、と言い切ってしまうのは容易い。だが、まほにとってそれは堕落とはまた違った意味を含んでいるのを、しほは気づいていない。

 

「理由があるのなら言ってみなさい。一体、あなたの身に何が起こったというのです? ……もしかして、何かやましいことでも隠しているのではありませんか? 特に、交友関係などにおいて」

 

 交友関係。

 その言葉が、今までただ話を聞いているだけだったまほの琴線に、ぴくりと触れるものがあった。

 それをしほは感じ取ったのか、主に交友関係ということについて説教を始める。

 

「……はあ。あれほど友人は選びなさいと教えたはずでしょう。西住流の娘たるもの、付き合う人間を見分ける目を持ちなさいと言い聞かせたはずです。特に、下賎な人間とは付き合わないようにと」

 

 なぜお母様に私の交友関係のことまで口出しされねばならない?

 そこまで西住流とは立派なものなのか?

 その西住流が、私に、一体何をくれた?

 西住流が私にもたらしたものなんて、この胸を通り抜ける寂しさだけじゃないか。

 そもそも私は何故戦車に乗っている? 西住の娘として、義務として? いつから私は、戦車を西住まほとして乗らなくなった?

 

「人間にはその人間にふさわしい人付き合いというものがあります。撃てば必中、守りは固く、進む姿は乱れ無し、鉄の掟、鋼の心。この教訓を掲げる西住流の宗家の人間となれば、人の上に立つものとしての交流をしなければなりません」

 

 何が鉄の掟だ。

 何が鋼の心だ。

 そんなもの、私に何一つくれなかったじゃないか。西住流の人間である前に、一人の少女である私に、何一つ。

 あの仮想世界と違って、現実の私は何一つ、手にしていないじゃないか。

 心の繋がりのない流派にいったい何の価値がある? だからこそ、みほも出て行ったんじゃないのか?

 

「そもそもあなたは――」

「……母様に」

「……今、何か言いましたか? 言いたいことがあるなら、はっきりいいなさい」

 

 あくまで威圧的な態度でまほに接するしほだったが、それがまほの感情に火を付けた。

 

「お母様に、何が分かると言うのですかっ!!!」

 

 まほは急に立ち上がり、驚く様子のしほを見下ろした。

 その顔は、涙でぐちゃぐちゃに歪んでいた。

 

「お母様に……! 私を、西住の人間としてしか私を育ててこなかったお母様に、一体私の何がわかると言うのですかっ!!???」

 

 そのまままほはしほに背を向け、その場から走り去っていった。

 

「なっ!? こらっ! 待ちなさい! まほ! まほっ!!」

 

 しほの混乱した声が背後から聞こえてくるが、まほは構うものかと、屋敷を駆け抜け、そのまま玄関から飛び出していった。

 

「ん? た、隊長!?」

 

 外で待機していたエリカの驚きに満ちた声が聞こえてくる。だがまほはそれすらも無視し、がむしゃらに走った。前も見ず、ただ感情の赴くままに走った。

 こんなに感情を爆発させたことは、まほは今までの人生で一度もなかった。それほどにまほの心は、かつてのまほの心とかけ離れてしまっていた。

 今のまほの心は西住流によって鍛えられた鉄の心ではない。

 ただの西住まほという、一人の少女のものに成り下がっていた。

 

 

 どれほど走っただろうか。まほは疲れ果て、膝に手を着いて荒々しく呼吸を整えていた。

 地元とはいえ、前も見ずに夢中で走ってきたせいか、まほはどこだか分からない雑多なビル街へと迷いこんでいた。

 

「ここは、一体……」

 

 まほはあたりをキョロキョロと見回す。そして、とにかくここを出ようと、歩を勧めたときだった。

 

「あ……?」

 

 まほの目に、とあるものが映り込んだ。

 それは、まほが待望してやまなかった、あるものだった。

 

「あ……あはは、あはははははははははは……!」

 

 まほは今までの人生で崩したことがないほどに顔を崩して笑った。

 そこにそれがあるのが、おかしくてたまらなかったのだ。なぜこんなところに。なぜ私の目の前に。

 そう、そこにあるのは、あの建物だった。まほを天上の世界へと誘う、あの建物。

 周囲から異彩を放ちそこにまるで招かれざる客のように居座る、あの建物。

 

 『Virtual reality体験所』が、そこにはあった。

 

「あった……! こんなところにあったんだ……! 私の探し求めていた場所が、私の本当の居場所が……!」

 

 まほは笑みを浮かべながら、その建物へと入っていった。

 その建物の中はまほが知っての通り、陶磁器のような白一色の世界だった。そして、その世界からまるで排除されるが如く際立っている、あの黒ずくめの人物もそこに立っていた。

 

「いらっしゃいませ、西住まほさん」

 

 黒ずくめの人物は、なんら変わりなくまほに頭を下げた。

 まほは黒ずくめの人物が頭を上げる前に、その肩に掴み掛かると、激しく揺さぶり始めた。

 

「ねぇ、早く私にあの体験をさせてよ。私をこの世界から連れて行って? できるだけ長く、長く長く長く! お金は後でいくらでも払うから、お願い。ねえ、私とあなたの仲でしょう?」

 

 それは激しく揺さぶるという乱暴な手段が使われていながらも、とても哀れに見える懇願だった。

 まほが黒ずくめの人物を見る目は、常軌を逸していた。

 黒ずくめの人物は、自分の肩を掴むまほの手を優しく掴むと、そっとその手を下し、両手でまほの手を握った。

 

「はい、それでは、最上級のプランをご用意させていただきますね。お代のことは、気にすることはありません。これは、まほさんへの私からの最大限の気持ちですから」

 

 そうして、まほはそのまま手を引かれ店の奥へと誘われていった。

 そしてどれほどの距離を歩いたかわからないほど連れ回された後、まほはとある一室へと案内される。

 その部屋は、例によって今までまほが使用した部屋と何一つ変わらない。

 椅子も、テーブルも、VRデバイスも。

 まほはまるで歩くのを覚えたばかりの子供のように黒ずくめの人物に手をひかれ、椅子に座らされる。

 

「さあ、それでは」

 

 そして、ゆっくりとVRデバイスがまほの目に掛けられた。

 ああ、これでようやく、あの素敵な世界へ行ける。現実がなんだ。真実がなんだ。現し世がいったい私に何をくれたというのか。私の理想郷はかの世界の果てにあるのだ。いざ、幸福に満ちた仮想現実の世界へ!

 まほの胸に興奮とときめきが襲いかかる。

 そして、その気持ちが冷めぬ間に、まほはまた仮想現実へと飛ばされた。

 

 

 まほが気づくと、そこはどうやら川岸のようだった。太陽は沈みかけ、空は真っ赤に染まった逢魔が時だ。足元には細かい石が足元に無数に転がっている。

 と、そうして地面に意識を向けたとき、まほは自分の体の異変に気がついた。

 視線がいやに低いのだ。そして、自分の体も妙に小さい。体にはぷにぷにと無駄な贅肉が付いている。

 まほはぺたぺたと自分の顔を触った。そしてそこで気づく。まほは、自分が幼少期の頃の姿でいることを。

 そう、それは、まだまほが幼く、西住のしがらみとは関係無かった頃。純粋に、楽しみで戦車というものに乗っていた頃。

 そんな懐かしい時代の姿に、まほはなっていた。

 なぜ、この姿なのだろう? これが、私の望んだものなのだろうか?

 

「おねえちゃーん!」

 

 混乱しているまほに向こう岸からまほを呼ぶ声が聞こえた。

 声の主を確かめると、そこにいたのは、まほと同じく、幼少期のみほだった。

 

「みほ……」

「おねえちゃーん! はやくこっちにおいでよー!」

 

 みほが元気いっぱいに手招きをしてまほを誘う。しかしその間には川が流れている。その川を渡るのは、この小さい体では辛そうだった。

 それに、この川を超えたら取り返しのつかないことになる気がする。そんな得体のしれない恐怖感が襲ってきていた。

 

「でも……」

「大丈夫だよー! この川、意外と浅いからー!」

 

 そう言われると、先程まで自分とみほを隔絶させていた川が、急に底浅く見えてきた。

 まるで、わたって下さいと言わんがばかりに。

 

「ほらほらおねえちゃーん! はやくー!」

「……よし」

 

 急かすみほの声に、まほは意を決した。頭の中で打ち鳴らされる警鐘をまほは無視し、川へと足をつける。

 川の水は温く、風邪を引く心配はなさそうだった。

 ゆっくりと、ゆっくりとまほは川を渡っていく。此岸から彼岸へと、歩を進めていく。

 進めていくうちに、川の半分まで来て、まほは理解していった。

 この川を超えたら、きっと私は二度と戻れないと。

 でも、それでもよかった。

 現実には嫌なことしか無い。西住流も、友人を一切作れない自分も、もう何もかもが嫌になっていた。

 ならば、この川を渡りきって、その先にある向こうの世界へと行ってみるのもいいかもしれないと思った。

 無邪気だった子供の頃に戻って、あの楽しかった戦車道を、愛しい愛しい妹のみほを、優しかった両親を、取り戻すんだと。

 そう思うと、キラキラと輝く川を割いて歩く自分の歩みも、どんどんと早くなっている気がした。

 もうみほは目の前だ。あと少しで、みほに手が届く。私が失ったものが、手を伸ばして待っている。

 あと少し。あと、もうちょっと――。

 そうして、まほの手が、みほの手を掴もうとした、その瞬間。

 

「隊長ぉおおおおおおおお!!!!」

 

 天を破り、自分を呼ぶ声が聞こえてきた。

 

 

 まほは強制的にVRデバイスを外され、視界に一気に光が満ちる。眩しくて目を覆っていると、そんなまほに抱きついていくる姿があった。

 まほはぼやける視界のピントを必死に合わせて、それが誰かを確認する。

 そこにいたのは、なんとエリカだった。

 

「エリカ……? どうして……?」

「隊長、よかった。よかった……!」

 

 エリカは泣きながら顔をまほの顔にこすり付けている。まほはそこでやっと、自分のVR体験が邪魔されたことを知った。

 

「……なんで、なんで邪魔したの」

「……隊長?」

 

 エリカはまほから離れ、不思議そうな顔を浮かべる。一方のまほは、感情がどんどんと昂っていった。

 

「なんで邪魔したの! 私はこれから、現実なんかに見切りをつけて理想の世界へと旅立つところだったのに! それなのになんで! なんで!」

 

 子供のように泣きじゃくり、言葉使いを取り繕うことも忘れてエリカに当たり散らす。しかし、エリカは涙を拭き、冷静な表情をまほに向けた。

 

「それじゃ、駄目なんです隊長。どんなに辛くても、現実で戦っていかないと、駄目なんですよ、隊長」

「そんなの綺麗事じゃない! エリカには分からないのよ! この世界に何も持っていない、誰とも心を通わせられない寂しい人間の気持ちなんて――」

「私がいるじゃないですか!!」

「……え?」

 

 エリカのその一言に、まほは虚を突かれたようにおとなしくなった。

 

「私が、いるじゃないですか……」

 

 そしてエリカは、再びまほを深く抱きしめた。そのぬくもりは、今まで繋いだVRのどの手よりも、暖かかった。

 

「あ……」

「私じゃ、あなたの大切な人にはなれませんか? あなたと一緒に歩むことは出来ませんか……?」

 

 そこでまほは気がついた。自分の隣にはいつもエリカがいてくれたことを。

 エリカは、いつも自分のことを思ってくれていたことを。

 そして、そんなエリカは、まほにとって、かけがえのない存在たり得たということを。

 

「……いいの? 私、本当に、あなたのことを、信じていいの?」

「はい……! はい……!」

 

 エリカがまほを抱きしめる力をより強くする。それに応えるように、まほもまた、エリカの体に手を回した。

 

「いいのね? 私、あなたのことを、大切な人と思って、いいのね……?」

「はい……!」

 

 それを確認したそのとき、まほの目から自然に涙がこぼれてきた。

 今まで流した悲しみの涙ではない。嬉しさからくる涙だった。

 

「ううう、うわああああああああああああああん!」

 

 そうしてまほは、子供のように泣いた。大粒の涙を流しながら、声が枯れるまでずっと。

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 とあるカフェテラス。

 そこで、明るい陽日の下で、二人の少女がコーヒーを片手に談笑を楽しんでいた。

 一人は、穏やかな笑みを浮かべる少女、西住まほ。そしてもう一人は、それを優しい目つきで眺める、逸見エリカだった。

 

「今日はいい日ね……」

「はい、そうですね」

 

 何気ない会話でも、まほは幸せを感じていた。まほにとって、初めて友人と呼べる相手ができ、その相手とこうしてお茶を楽しんでいる。

 それだけで、まほの胸は幸せで満ちていた。

 

「あなたとこうなってから、いったいどれくらいになるかしら」

「さあ、もう随分と一緒にいるような気がしますし、まだまだ全然時間が経っていないようにも思えます」

 

 まほはそこで手に持っていたコーヒーを啜る。砂糖もミルクも入れていない苦さが口の中に広がった。

 だが、それもまた二人の間に流れる甘い時間と比べれば、霞んでしまうだろう。

 

「ねえエリカ」

「はい、なんですか隊長」

「もう、隊長はやめてって言ってるでしょ?」

「はは、つい癖で……」

 

 エリカが申し訳なさそうに頭を掻く。まほはエリカのそんなところも愛おしかった。

 

「……私、あなたには本当に感謝しているの。あなたが救ってくれなかったら、今の私はいなかったと思う」

「……こちらこそ、あなたと一緒にいられて幸せですよ」

「……ふふっ、ねぇエリカ」

 

 まほはエリカに笑いかけた。エリカに対し、告白にも似た、大切な問いをするために。

 

「はい、なんでしょう」

 

 エリカはいつものように返す。その爽やかさがまた、まほにとっては眩しかった。

 

「……これからも、ずっと一緒にいてくれる?」

 

 その質問に対し、エリカは――。

 

「はい――」

 

 笑顔で――。

 

 

 

 

 

 

 

「も――ちろろろ――でです――よ、た――いちょちょちょちょちょちょ――ううううう」

 

 

 笑顔で、世界と一緒に、『ブレ』た。

 

「え……?」

 

 まほはその光景に言葉を失う。一瞬自分の目がおかしくなったのかと思ったが、そうではない。確かに目の前で、世界が、エリカが、『ブレ』たのだ。

 

「おや、どうしたんですか? 隊長?」

 

 エリカは以前笑みを崩さぬまま聞いてくる。まるで、貼り付けたかのような笑顔を。

 そこでまほは初めて、おかしいということに気がついた。

 そもそも、ここはどこだ? いったいどこで、いつから私は、こうしてエリカと一緒にいる? 思いだせ、確かエリカに助けだされてから、それから……それから?

 

「…………」

 

 まほは途端に青ざめ、その席から立ち上がって後ずさる。

 すると、エリカも一緒に立ち上がった。

 否、エリカだけではない。周りに座っていた他の客達が、一斉に立ち上がって、まほの方を見たのだ。

 その客姿に、まほは見覚えがあった。

 あれは、沙織だ。

 あれは、安斎だ。

 あれは、ミカだ。

 あれは、ダージリンだ。

 あれは、ケイだ。

 あれは、カチューシャだ。

 あれは、あれは、あれは――!

 

「ひっ……!」

 

 まほは名状しがたい恐怖に襲われ、尻もちを付く。

 エリカ達は、そんなまほを笑顔で取り囲み始めた。やがて、彼女達はまほを笑顔の仮面でまほを見下ろす。

 

「隊長」

「まぽりん」

「西住」

「西住さん」

「まほさん」

「ヘイ、まほ」

「マホーシャ」

 

 皆が皆、まほに笑顔を向ける、そして、その中でエリカが一言、こう言った。

 

「私達、友達ですよね?」

「友、だち……友達……トモダチ……アハハ、アハハハ……」

 

 まほは笑っていた。

 泣きながら、今まで浮かべたことのない狂った笑みを浮かべていた。

 

 ああ。わたしには、こんなにもたくさんのおともだちがいるんだ。うれしいなぁ。シアワセだなぁ。

 

「ハハッ! ハハハハハッ! ハハハハハハハハ!」

 

 まほは望んでいた世界を手に入れた。まほはこれから、この幸福な世界の中で過ごすだろう、永遠に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ご利用、ありがとうございました」

 

 

 

 

 

 

 


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