逸見エリカは誰からも愛されずに育った。
彼女は、彼女の母が誰とも知らぬ男と作った子供だった。
エリカの誕生を期にエリカの両親は離婚し、そしてエリカの本当の父親も姿をくらませたため、エリカの母の元にはエリカだけが残った。
そして、エリカの母は自分が不幸になった原因をエリカに押し付け、エリカを憎んだ。
とはいえエリカを捨てることもせず、ただ愛することなしにエリカを育てた。
だから、エリカは母の愛というものを知らずに育った。
エリカの周囲もエリカを愛さなかった。出自が出自であるゆえに、エリカの周りの大人達はエリカを遠ざけ、子供達にエリカと関わってはいけないと彼女と関係を持つのを禁じた。
そのせいで、エリカは寂しい幼少期を過ごした。
そんなエリカにも熱中できるものはあった。戦車道だ。彼女の地元で戦車道を教えていた流派は西住流の分家であり、実力こそが絶対であったため、エリカの出自にもあまり干渉してくることはなかった。
だから、エリカは戦車道が好きだった。とはいえ、分家と言えど西住流はかなり大きな流派であり、様々な人間が出入りする場所である。
そのため、エリカは常に様々な人間から誹謗中傷を浴びせかけられていたし、共に戦車に乗る仲間達からも一歩距離を置かれていたのだが。
エリカは小学校を卒業すると西住本家が大きな影響力を及ぼしている黒森峰に入学した。
黒森峰ではエリカの過去を知るものはおらず、また詮索してくるものもいなかったため、ここでようやくエリカは普通の女子学生と同じ扱いになることになる。
だが、エリカはそれまでの冷酷な扱いのせいですっかり他者に対して不信感を抱くようになっており、そのせいで友達というものを作ることができなかった。
そして、エリカもそれでいいと思った。自分には戦車道があればいい。ただ、そう思っていた。
一応、戦車道の上で尊敬する人物として本家の長女である西住まほが、共に競い合うライバルとして西住みほがいたが、そこまで深い関係にはならなかった。
そうやって他人と一定の距離を置きつつ高校に上がったエリカは、やがてひとつの思いを抱くことになる。
愛とはなんだろう。好きとはなんだろう、と。
エリカが高校まで過ごしていく過程で、エリカは多くの同級生達が愛や恋を語らう場面に遭遇してきた。
それは、エリカの尊敬するまほやライバルであるみほもだった。
その感情が、エリカには分からなかった。
誰からも愛されず、誰も愛さず育ってきたエリカにとって、それはとても謎めいた感情だった。
まほが母から受けた愛と抱く愛を語るたび、みほが気になる男子や恋そのものについて語るたびに、エリカは疑問を持っていた。
だが、その疑問は埋まることなく、彼女はどこか空虚な人生を過ごしていくことになる。
みほが全国大会で優勝よりも仲間を優先し川に飛び込んだときもその感情を理解することができなかったし、まほがみほに対しての思いを吐露したときも、エリカにはよくそれを理解することができなかった。
だがしかし、みほが大会を契機に転校した学校、大洗女子学園が危機に陥ったとき、聖グロリアーナ女学院のダージリンを筆頭に大洗のみほを助けに行った大学選抜戦の後に行われた打ち上げの際だった。
エリカは、始めて恋を、愛を知った。
◇◆◇◆◇
「えーとここらへんだったはずだけど……」
私、西住みほは今日、とある約束のために学園艦を降り、陸の上の大洗にやってきていた。
それは、前々から約束していたことであり、今ではすっかり恒例になっていた約束だ。
「あっ、いたいた! おーい! 愛里寿ちゃーん!」
私は彼女を見つけ、大きくその名前を叫ぶ。
島田愛里寿ちゃん。私の戦車道仲間であり、ライバルである、天才少女だ。
「あっ、みほさん!」
愛里寿ちゃんが笑顔で私に手を振る。
私も手を振り、愛里寿ちゃんの元へ駆ける。
「おはよう愛里寿ちゃん!」
「おはようみほさん!」
私は愛里寿ちゃんの元へと辿り着くと、愛里寿ちゃんと両手を合わせきゃっきゃと飛び跳ねる。
約束とは愛里寿ちゃんと一緒に大洗にあるとある施設を訪れることなのだ。
その施設の名は、ボコミュージアム。
私と愛里寿ちゃんが大好きなアニメのキャラクター、ボコのミュージアムだ。
愛里寿ちゃんと私が出会った場所でもあるそこは、私達が一緒に遊ぶときのお馴染みの場所になっていた。
「久しぶりだね愛里寿ちゃん、最近はなかなかお互い休みが取れてなかったから、こうして一緒に遊ぶのも久しぶりだね」
「そうだね。あっ、そういえばあの人は一緒じゃないの?」
「あの人? ああ――」
愛里寿ちゃんが訪ねてきたので、私は彼女の名前を言おうとする。
そう、今日ボコミュージアムに一緒に行くのは私達二人だけではないのだ。
実はもう一人、一緒にボコミュージアムに行く人がいる。その子の名は――
「ちょっと! そこの二人ー!」
「あっ、噂をすれば」
そこに、ちょうど凛とした声が耳に入ってきたので、その方向を向く。そこには、銀髪に鋭い碧眼をした美少女――逸見エリカさんが歩いてきていた。
「おはよう、エリカさん」
「おはようみほ。そして――」
エリカさんは私に軽い挨拶をすると、今度は愛里寿ちゃんの方を向く。すると――
「おはようっ! 愛里寿っ!」
エリカさんは、いきなり愛里寿ちゃんの頭に抱きついた。
「うわっ!? お、おはようエリカさん……!」
愛里寿ちゃんは急に抱きしめられわたわたとしながらも、しっかりとエリカさんに返事をした。
一方のエリカさんは、とてもにんまりとした笑顔で愛里寿ちゃんの頭に自分の頭をこすりつけている。
「うーん今日も可愛いわねー愛里寿は! いつまでもこうしていたいわー!」
「ちょ、エリカさん……! 苦しい……!」
「あっ、ごめんなさい愛里寿」
愛里寿ちゃんの言葉に、エリカさんはぱっと愛里寿ちゃんを離した。
「つい久しぶりに愛里寿に会えたことが嬉しくて……許して頂戴愛里寿」
「う、うん……許すよエリカさん……」
「本当!? 愛里寿大好き!」
エリカさんは満面の笑みで愛里寿ちゃんに言った。
私と愛里寿ちゃん、そしてエリカさんがこうして一緒に遊びに行く仲になったのはごく最近だった。
契機で言えば、ずっと前の大学選抜戦のときまで遡る。そこで私とエリカさんは愛里寿ちゃんと敵対し戦ったのだが、その試合後すぐに打ち解けた。
特に、エリカさんはその試合後愛里寿ちゃんのことをなぜだか大層気に入って、今のように愛里寿ちゃんの前では今まで私には見せたことのないような態度を取るようになっていた。
そんなエリカさんだったが、私と愛里寿ちゃんがプライベートで一緒に遊んでいることを知ったのがつい最近で、そのことを知ったエリカさんは私に電話でこう言った。
『お願いみほ! なんでもするからあなた達の集まりに私も加えて!』
そのときのエリカさんの声の必死な様子と言ったら凄いものだった。
もしかしたら、黒森峰にいたときに川に飛び込んだときに怒られたとき以上だったかも。
とにかく、そのエリカさんの剣幕に押され愛里寿ちゃんと合わせると、エリカさんは先程見せたような心からの喜びを私達に見せた。それを見たとき、私達はとても困惑してしまったほどだ。
そしてそれ以降、私達は三人で一緒に遊ぶようになった。
そのたびに、エリカさんは愛里寿ちゃんにとても大きな愛情を傾けていた。
「本当にエリカさんは愛里寿ちゃんのこと好きだねぇ」
「ええ好きよ。大好き。愛里寿は私にとっての天使よ」
「うう……恥ずかしいよエリカさん……」
愛里寿ちゃんが顔を赤らめて言う。
どうしてエリカさんが愛里寿ちゃんにここまで好意を見せるのか正直私には分からなかった。
でも、愛里寿ちゃんと話しているときのエリカさんは黒森峰にいたときには見せなかったとても幸せそうな顔をしているので、別にいいかなと私は思っている。
誰だって、幸せなのはいいことだと思う。
「それじゃあ三人揃ったことだし行こうか。ボコミュージアム」
「ええそうね。と言っても、私には未だにあのボコの良さが分からないんだけど……」
「エリカさんもったいない。今日こそは私がみっちりボコの良さ教えてあげる」
私達はそんなやり取りをしながら、三人でボコミュージアムへと向かったのだった。
「うーん今日もたくさん楽しんだー!」
「お疲れー。愛里寿とみほの知識量は本当に凄いわね。圧倒されちゃう」
そして夕方、私達はボコミュージアムを出て近くのカフェで感想を言い合っていた。
私と愛里寿ちゃんは存分に楽しんでおり、エリカさんは相変わらずよく分からなかったようだけど、愛里寿ちゃんの喜ぶ顔を見て楽しんでいたようだった。
「そうでもないよ。エリカさんもボコの知識が増えてきた。ちゃんと勉強している証」
愛里寿ちゃんがエリカさんに言う。すると、エリカさんは満面の笑みを見せた。
「本当!? 愛里寿に褒められるなんて嬉しいわー。ふふふ」
「そうだね。最初はエリカさん、私と愛里寿ちゃんの話に全然着いてこれなかったもんね。でも今は普通について来れるし、凄い進歩だと思うよ」
「そんなんでもないわよ。ついていくのがやっとの状態。あなた達に比べたらまだまだよ」
エリカさんは謙遜するように言う。
そうでもないと思うんだけどなぁ。
エリカさんは十分頑張っていると思う。それもきっと、愛里寿ちゃんが好きっていう感情があるからだろう。
好きな愛里寿ちゃんのために頑張れる。そんなエリカさんの姿が、私にはどこか羨ましかった。
それからも私達はたくさんお話をして、帰るギリギリの時間まで話に花を咲かせた。
日も落ちた頃に私達は話を切り上げ、それぞれ分かれていった。
それが私達の日常だった。
お互いの都合のいい日に会って、たくさん遊ぶ。それは黒森峰にいた頃では考えられなかった。
特に、あのエリカさんが一緒というのが驚きだ。だって、黒森峰時代のエリカさんはとても怖い人で、いつも鋭い視線を私に向けていた気がするから。
今のように愛里寿ちゃんに見せる柔和な笑みのイメージなんてなかった。
それだけ、愛里寿ちゃんがエリカさんを変えたということだ。……なんだか、愛里寿ちゃんに少し嫉妬してしまうかも。
まあそんなことを思いつつ、私達はそんな日々を繰り返した。そうして日常では遊び、戦車道ではお互いライバルとして戦っていると、あっという間に時間が過ぎていく。
この楽しい時間は、延々に続くものと思えた。
だが、そんな楽しい日々は唐突に終わった。
それは、無限軌道杯が終わり、私達高校二年生が三年生に上がった頃だった。
愛里寿ちゃんが、突如姿を消した。
◇◆◇◆◇
最初は待ち合わせに来ないな程度だった。
私とエリカさんはそれを不思議がって、まあ連絡が来ないのはおかしいけど何か都合の悪いことでもあったのだろうとその日解散した。
だが、二日経っても、三日経っても、一週間経っても、連絡がつかずこれはおかしいと思い始めてきた。
そう思っていた頃に、愛里寿ちゃんのお母さんの島田千代さんから連絡があった。
『うちの愛里寿を知りませんか』と。
そこでようやく、愛里寿ちゃんが失踪したことが明るみになった。
愛里寿ちゃんの失踪が大々的なニュースになった。『戦車道の天才少女、突然の失踪』と。
私は必死に愛里寿ちゃんの捜索に手を貸した。
警察の人も必死で探したが、一向に愛里寿ちゃんは見つからなかった。
そうして愛里寿ちゃんが失踪してからあっという間に一ヶ月が経ってしまった。
世の中では生存を絶望視する声も大きくなり、テレビでの報道もほとんどなくなってしまった。
それでも警察の皆さんは必死に愛里寿ちゃんを探していてくれていたのだが、まったく掴めない手がかりに捜査は手詰まり状態になっているようだった。
私も愛里寿ちゃんが心配で仕方なく、戦車道にも打ち込めないでいた。
……いや、戦車道に打ち込めない理由は他にもある。あるのだ。
私はこの一ヶ月ずっと目を背けてきた。
だってありえないことだと、そんなことあるはずないと思っていたからだ。
でも私はこの一ヶ月聞いた噂から、どんどんと疑惑が固まっていくのを感じた。
私が抱いている疑惑。
それは、エリカさんが愛里寿ちゃんをさらったのではないかという疑惑だ。
最初はそんなことあるはずないと考えもしなかった。
だがおかしいのだ。あの愛里寿ちゃん大好きという感情を表に出してはばからなかったエリカさんが、あまり愛里寿ちゃんの失踪を悲しんでいない様子なのだ。
一応、周囲や警察には心配をしていると言っていた。だが、お姉ちゃんに次いでエリカさんとおそらく一番付き合いの長い私には分かる。
エリカさんは、嘘をついている、と。エリカさんの態度は、とても嘘らしく見えたのだ。
それは、私の考え過ぎだとずっと考えてきた。だって、エリカさんがそんなことするはずないって、する理由がないって思っていたから。
でも、私ですらご飯が喉を通らないような状態なのに、エリカさんが平然といられるはずがないのだ。
でも、現実は違った。エリカさんは普通に学校に出て、普通に勉強をし、普通に戦車道に打ち込んでいると、黒森峰時代の友達から教えてもらった。
そう、エリカさんはあまりにいつも通り過ぎるのだ。
私の中でどんどんとエリカさんを怪しむ心と、友達を疑うのは良くないという気持ちがせめぎ合う。
その私の中の争いは日々大きくなり、耐えられなくなっていく。
そして、私はある日決意した。
エリカさんの家を訪ねてみよう、と。
そのために私は、黒森峰学園艦に向かった。
黒森峰学園艦は私が去ったときと何も変わっていなかった。そこにちょっとした寂しさを感じるが、今は感傷に浸っている場合ではないと思った。
黒森峰について最初に私がしたのは、エリカさんのことについて聞いて回ることだった。
旧友に会って、私はエリカさんのことについて聞いた。
そうして帰ってくる返答はどれも同じだった。
『いつも通り』
そのいつも通りという返答が一番おかしいと、私は思った。
だって、ずっと考えているように、あんなに愛里寿ちゃんを愛していたエリカさんがいつも通りでいられるはずがないから。
なので、次はいよいよエリカさんの家を訪ねた。
エリカさんの家は、私が転校する前と変わらず、たくさんある学生マンションのうちの一つにあった。
エリカさんの家の前に行って、インターホンを鳴らす。エリカさんはこの時間部屋にいるはずだ。
そうすると、しばらくしてからガチャリと鍵が開けられる音がして、チェーンがかかったままではあるが扉が開かれた。
「はい? ……ああみほじゃないの? どうしたの?」
「いや、どうしたってほどでもないけど……その、家に上がっていいかな。いきなりだけど」
「…………」
エリカさんは急な私のお願いにしばらく黙った。なぜそこで沈黙するのエリカさん。昔はすぐに家に入れてくれたじゃない。お願い、中にいれて。そして私の考え過ぎだったって、友達を疑った私が悪いって証明して。
「……ごめんなさい。今は上げられないわ」
しかし、私の期待とは裏腹に、エリカさんの返答は拒絶だった。
「……どうして」
「どうしてって……今、うち凄い汚いのよ。ちょっといろいろあってね。だから上げられないの。恥ずかしくて」
「汚れているなら掃除手伝うよ。私だって家汚くしちゃうことたまにあるし……恥ずかしいことじゃないよ」
「私は恥ずかしいのよ。だから帰って。お願い」
そう言ってエリカさんは扉を締めた。
これ以上話をする気はないという意思表示に、それはとれた。
やはり怪しい。
私の中で疑惑が更に大きくなる。駄目だ。ありえるはずがない。きっと本当に部屋が汚れているのを恥ずかしがっているだけ。そうに違いない。
でも、でももし……。
私はもう私の中にある感情を抑えることができなくなっていた。
なので私は、最終手段に出ることにした。
私はエリカさんの部屋の近くでずっとエリカさんの部屋を見張った。エリカさんが出てくるのを、できる限り見張り続けた。
そして、エリカさんが部屋から出てきた。どうやら買い物に出るらしかった。
私はそのエリカさんの背後にこっそり回ると、そこから思いっきりエリカさんが頭を地面にぶつけるようにぶつかった。
「きゃあっ!?」
エリカさんは声を上げて倒れる。そこでエリカさんは軽い脳震盪を起こしたようだった。
その隙に、私はエリカさんの落としたバッグを探る。
すると、そこには複数の鍵が繋がれた鍵束があった。
私はそれを手にすると、すぐさまエリカさんの部屋へと向かう。
そして、鍵の中からエリカさんの部屋の鍵を探して、エリカさんの部屋の扉を開けた。
エリカさんの部屋はカーテンを締め切っているせいで暗く、なんだか異様な雰囲気だった。
そして部屋に上がって私の目に飛び込んできたのは、その扉だった。その扉は、外からいくつもの鍵がつけてあり、何かを封じ込めているかのようだった。
私はゴクリと唾を飲む。
まさか、まさかまさかまさか――
嫌な予感がする。もし考えていることが合っていれば、いやそんなはずは――
私はそんな私の中の恐怖と戦いながら、その鍵を一つ一つ探して開けていった。
そうして開いた扉の中には――
「愛里寿ちゃん!?」
全裸で壁に首輪で繋がれた、愛里寿ちゃんの姿があった。
「あ……みほ……さん……」
愛里寿ちゃんはうつろな視線で私を見る。私は急いで駆け寄ると、愛里寿ちゃんの首輪を外そうと鍵を探す。
「愛里寿ちゃん、どうしてこんなことに……!?」
「エリカさんが……エリカさんが急に私をさらって……」
ああ、やはり。
私の悪い予想は的中してしまった。
こんなことが、こんなことがあるだなんて。
私はその事実に怯えながらも震える手で愛里寿ちゃんの首輪に合う鍵を探し、なんとか鍵を開ける。
愛里寿ちゃんの体は目立った外傷はないが、精神的に非常に疲弊しているのが分かった。それだけで、とても辛い。
「さあ、とにかくここを――」
拘束を解いたその瞬間、私の頭に鈍い痛みが走り、私の視界は一瞬の閃光と共に闇に落ちた――
「……うう」
そして、私は目を覚ます。
私が目を覚ましたときに最初に認識したのは、鼻歌だった。
それは聞いたことのある曲だ。クリスマスとかによく歌われる聖歌『ジョイ・トゥ・ザ・ワールド』
この世に溢れる喜びを歌う歌だ。
だんだん視界がはっきりしてくる。その鼻歌を歌っていたのは、エリカさんだった。暗い室内で台所の電気だけ付け、台所に向かっている。
近くに、裸の愛里寿ちゃんもいる。
「愛里寿ちゃん!」
私は動こうとする。しかし、動けない。どうやら腕を柱に縛り付けられているようだった。
「あら、おはようみほ」
すると、エリカさんが笑顔で私を見た。手には大きな包丁が握られており、手元は血まみれだ。どうも魚の血抜きをしていたようだった。
「エリカさん! これは一体どういう……!」
「どうって、分かるでしょ? 愛里寿と一緒に暮らしているのよ、私は」
まるで当然のことを語るかのように言うエリカさん。その表情に、私は背筋が凍る思いをした。
「一緒に、暮らしてるって……」
誘拐したでも、監禁してるでもなく、暮らしている。
その表現が、私を震えさせた。
「愛里寿はね、私に愛をくれたの」
エリカさんが突如語り始める。
その表情は、笑顔だった。笑顔で、語り始めた。
「私ね、愛って何なのか知らなかったの。ずっと愛されてこなかったから。親にも周りにも、誰も私を愛することはなかった。だから、私は愛という感情が分からなかった。ずっと、その感情を知りたいと思っていた。でも、私は空虚なまま。そのまま人生を終えるものだと思っていた」
私は突然始まったエリカの独白の意味がよく分からなかった。
だが、血に手と服を染めながら言うエリカさんは、とてもおぞましい姿に見えた。
「でも、違った。あの大学選抜戦の後、愛里寿は座っている私に近づいて言ってくれた。『あなた、なかなかいい動きをしていた。凄いね』って。そう言って、笑いかけてくれた。初めてだった。誰かにそうやって褒めてもらえたのは。西住流は私を褒めてくれることなんてなかった。隊長ですらも。あなたですらも。でも、愛里寿は違った。愛里寿は私に笑いかけて、そして更に『なんだか……ボコみたいでかわいい』って言って私を撫でてくれた。その瞬間、私は直感を抱いたの。ああ、この感情が愛なんだなって」
そのエリカさんの顔は恍惚としていた。近くにいる愛里寿ちゃんは、裸でぷるぷると震えている。
「だから、私は愛里寿を愛した。初めて愛をくれた愛里寿に、私の考えうる限りの愛をぶつけた。でも、いくらぶつけても私の愛は収まらない。どんどんと肥大化する愛を止められない。愛里寿からもっと愛が欲しいという感情を抑えられない、って。だから、私は愛里寿と愛し合う生活をしようと思った。でも愛里寿は一緒に生活しようと言っても拒んだ。ああ、きっと照れているんだなと私は思った。だから、私は愛里寿が『正直に』なるまで愛里寿と過ごそうと思った。だから、今こうして一緒にいるの」
狂っている。
私は人生で初めて人に対してそういう感情を抱いた。
血で濡れた手で頬を触り、頬を血で濡らすエリカさん。それは魚の血のはずなのに、なぜだか人の血にすら思えてくる。
「ねぇみほ。どうか分かってくれないかしら……私と愛里寿の生活を、邪魔しないでもらえるかしら。あなたが黙ってくれると言うのなら、あなたをこのまま返してもいいけど」
エリカさんが私に近づき、顔を寄せながら言う。
私はそのエリカさんに、ガタガタと顎を震わせた。
そして、必死でうなずく。
それは嘘だった。ここを出たなら、私はすぐ警察に連絡するつもりだった。もし今のエリカさんが信じて私を開放してくれれば、チャンスはある。そう思ったからだ。
しかし――
「……嘘ね。あなたの目、嘘をついている目だわ」
エリカさんは途端に無表情になり、そう言った。
そ、そんな……嘘だなんて……」
「いいえ、嘘よ。あなたの目は、黒森峰を去ったときと似ている。あのとき、私達を仲間だと言ったときの目と同じ。嘘をついている目よ」
ああ、そういえばそんなことがあった。でもあのとき言ったのは嘘じゃない。本当に仲間だと思っていた。でもあのときの私には黒森峰を去るのが最善に思えて、だから――
「あなたをここから出すわけにはいかないわね……さあ、愛里寿」
すると、エリカさんはまた笑顔に戻り、今度はその血に濡れた包丁を愛里寿ちゃんの手に持たせた。
「え……」
「みほを始末するのよ。私達の愛のために。あなたの愛を、私に見せてほしいの。私を足ているって証明してみせて。お願い、愛里寿。……でないと私、あなたにまた『愛』を教えないといけないわ……」
そう言われた愛里寿ちゃんは、ぷるぷると震えながら、包丁を持って私に近づいてくる。
その目は、瞳孔が開きとても正常ではなかった。
「あ、愛里寿ちゃん……? ねぇ、嘘だよね……?」
愛里寿ちゃんはどんどんと包丁をこちらに向けながら近づいてくる。
一歩一歩、笑顔のエリカさんを背にしながら、こちらに。
「愛里寿ちゃん……愛里寿ちゃん……!?」
「……ごめんなさい」
それが、愛里寿ちゃんの言葉だった。
ああ、刺される……。
そう思った。だから私は、せめて目をぎゅっと瞑り、痛みに備えた。
だが――
「……がっ!?」
痛みは襲ってこない。私が恐る恐る目を開けると、そこには、腹部に包丁の刺さったエリカさんと、手を血で汚した愛里寿ちゃんの姿があった。
「愛里寿……どうして……私を愛してくれていたんじゃなかったの……?」
「……ごめんなさいエリカさん、ごめんなさい、ごめんなさい……」
愛里寿ちゃんもエリカさんも泣いている。
だが、その涙の理由はそれぞれ違うように思えた。
エリカさんは、愛を失ったから。
愛里寿ちゃんは、エリカさんを傷つけてしまったから。
そんな風に、私には思えた。
愛里寿ちゃんが包丁を抜く。そうすると、エリカさんのお腹から血がどばっと出てくる。
「あ……ああ……」
エリカさんは本当に今まで見せたことのないような、悲しい表情をして、その場に倒れた。
「……みほさん……!」
そうして愛里寿ちゃんが近寄ってきて、私の手を縛っていたもの――結束バンド――を包丁で切った。
そして私は開放されると、愛里寿ちゃんを抱いた。
「愛里寿ちゃん……ありがとう……! ……そして、よく頑張ったね……!」
「……みほ、さん……」
愛里寿ちゃんはうっすらと涙を流していた。そうして、この事件は終わった。
◇◆◇◆◇
あの後、私はすぐさま警察と救急をエリカさんの家に呼んだ。
愛里寿ちゃんはすぐに保護され、親の元へと帰った。
エリカさんはなんとか一命を取り留め、その後警察病院へと収監された。
傷は治っても、心に受けた傷が大きかったらしい。しばらくは警察の精神病院で病状を見るという。裁判も行われ、特殊な精神状態からかなり刑は軽くなるらしい。
だが、エリカさんの心が元に戻るかどうかは、分からないという。それほど、辛かったのだ。自分を愛していると思った愛里寿ちゃんに、裏切られたことが。
その気持ちは、私もなんとなく分かった。
私も、お母さんに大会のとき詰め寄られたとき辛かったから。
きっとエリカさんの痛みは、その何千倍もするだろうけど。
一方愛里寿ちゃんはすぐさま元気になって社会に復帰していった。少しリハビリの時間は必要だったが、すぐさま戦車道にも復帰し、事件などなかったかのように振る舞っていた。
その愛里寿ちゃんの姿に、私も元気付けられた。
正直、私もかなり精神的に参っていたのだが、愛里寿ちゃんが頑張っているのに自分だけ落ち込んでいられないと、私も前を向いて歩こうと決めた。
そうしているうちに私もだんだんと今まで通りの生活が送れるようになった頃だった。
愛里寿ちゃんの家に呼ばれたのは。
「どうしたの愛里寿ちゃん? 話って?」
そこは愛里寿ちゃんが一人暮らししている部屋だった。大学に飛び級して入った愛里寿ちゃんは私よりも幼いのに既に一人暮らしを始めていた。
「うん。エリカさんのことなんだけど」
愛里寿ちゃんが両腕を後ろに組みながら立って私に言う。その名前に、私は体をこわばらせた。
「エリカさんの……?」
「うん。私考えたんだ」
「考えた?」
「うん」
愛里寿ちゃんがゆっくりと私に近づいてくる。
「あのとき私がエリカさんを刺したのは、本当に正しかったのかなって……」
「え?」
「エリカさんは愛が分からなかっただけなんだよ。だから、私の愛し方もちょっと間違えちゃっただけ。なのに私は、ただ怯えるだけでエリカさんの気持ちに向き合おうとしなかった。いや、本当は分かってたんだ。エリカさんが、どんな形であれ私を愛してくれていたって」
「あ、愛里寿ちゃん……?」
愛里寿ちゃんはどんどん私に近づいてくる。
私の足は動かない。
「でも私は、みほさんを見て、一瞬外に戻りたいって気が迷っちゃって、エリカさんを刺しちゃった……でもその後のエリカさんの話を聞いて、間違いだって気づいたの」
「ま、間違いだなんて、そんな……」
「ううん、間違いだった。だって今、私、とってもエリカさんを『愛』しているんだもの。それは、みほさんも同じ。だから……」
いつしか愛里寿ちゃんは、私に肉薄していた。
そしてその瞬間、バチィ! という音と共に、私の体に衝撃が走った。
「あっ……!?」
私はその場に崩れ落ちる。そして、最後にその言葉を、愛里寿ちゃんの歪んだ笑みから発せられるその言葉を、聞いた。
「だから、もしエリカさんが出てきたら、今度は三人一緒仲良く愛し合って過ごそうね、みほさん」