「はぁ……はぁ……」
五十鈴華は今、空腹の極地にいた。
もう、一週間も何も食べてはいない。体に力が入らず、動くことすらままならない。
彼女の周りにあるのは、か細くも硬質な木々と、真っ黒な泥、細かな石ころばかり。
とても、彼女の飢えを満たせるものはない。
空は暗い雲に覆われ、光は殆ど届かない。
地面に伏せる彼女の体は、あちこちが傷だらけ泥だらけで、まとっている白いワンピースも今では茶色い布切れでしかなかった。
「はぁ……はぁ……」
息も絶え絶えで、視界も覚束ない。
華は今、まさしく死の淵に立たされていた。
◇◆◇◆◇
一週間前。
華は、小学校の夏休みの自由研究として、少し離れた山に野花の観察に来ていた。
それは自由研究であると同時に、華道の家元の娘として、自然に咲く花々を見てその生命の力強さ、美しさを学ぶという目的もあった。
華は朝一で山に出かけると、山を高く登った場所にある開けた場所に咲く花々を見つけ、それをスケッチした。
まだ小学生ゆえ絵は拙いものだったが、生命ある花を表現しようという気持ちはとてもよく伝わってくる絵だった。
華が絵を描くことに没頭していると、いつの間にか太陽が真上に登っていた。華の絵はすでに完成しており、自由研究を終えた華は家に帰るために山道を下った。
草木が生い茂る山道を十分ほど歩いていると、華の目の前にとあるものが横切った。
「あ! うさぎさん!」
それは真っ白なうさぎだった。木々の間からの木漏れ日をその純白の体が反射し、暗い山の中でのコントラストを強調している。
うさぎは華に見つかると、すぐさま山道から外れた茂みの中へと入っていった。
「あ! 待ってくださいうさぎさん!」
華はそのうさぎを一心不乱に追いかけた。小さな華にとっては邪魔な背の高い雑草や低木をかき分け、その白い体を追っていった。
そして、太陽の眩い光が突如華の目に入ってきた。開けた場所に出たのだ。すると、うさぎは急に方向転換し、さっきまで走っていた方向とは真横の方向へと駆けていった。
「あっ!」
華はうさぎに追いつこうと精一杯走っていたため、急には止まれない。
そして次の瞬間、華の足元が、途端に崩れた。
「えっ……?」
華の体が宙へと放り出される。視界には遥か下方に広がる森が映る。
そこは、人が殆ど足を踏み入れることのない、山の奥にある切り立った崖だった。
◇◆◇◆◇
幸い、華の体は木々の枝や葉がクッションとなり、大きな骨折などすることはなかった。しかし、高いところから地面に落ちたことによる痛みと苦しみは、小学生の華にはあまりにも大きすぎた。
華は地面に叩きつけられたその日、あまりの激痛に一日動くことができなかった。
そしてやっと痛みが引いたかと思うと、今度は自分がまったく知らない場所に落ちてしまったことに気がついた。
華は恐怖と寂しさから、泣きながら森を歩きまわった。必死に母親や父親、奉公人の信三郎の名前を腹の底から叫びながら、とにかく森の中を歩いた。
だが、いくら歩いてもいくら歩いても、目の前に広がるのは木か岩ばかり。やがてどんどんと精神が疲弊していき、いつの間にか自分が落ちた場所に戻ってきてしまったのを知ったとき、華は崩れ落ち、その場から動けなくなってしまった。
「お腹……すいた……」
そして、そこでようやく、華は自分の空腹を自覚した。
昨日の昼から何も食べていないのだ。当然である。異常な状況に投げ込まれ混乱によって忘れていたが、心が疲れ絶望を目前としたときに、初めてそれが顕在化したのだ。
華はお腹を抱えながら周りを見る。だが当然、食べられるようなものなどありはしない。
「うっ……うううわあああん……!」
華は再び大粒の涙を流した。寂しさ、苦しさ、痛さ、そしてひもじさ、それらから来る大粒の涙だった。
結局華はその日一日、涙を流して終わった。
翌日、華はなんとか元気を振り絞り、森の中に食べられるものがないか探した。
だが、小学生の華にとって何が食べられるかという知識もなく、そもそも大人からしても食べられるようなものはその森にはなかった。
また、空腹だけでなく、喉の渇きも深刻であったため、共に水源も探した。だが当然のごとく、川どころか水たまりひとつ見つけることはできなかった。
華はできるだけ探しまわったが、小学生の足でいける範囲など限られており、結局前日に泣いて回った範囲程度しか探し回れず、その日は寝てごまかすしかなかった。
次の日、華はあまりの空腹と乾きで、立ち上がるのもやっとと言った様子であった。寝ている間に夢で、自宅でごちそうを食べる夢などを見てしまったがために、それはより一層襲ってきた。
だがいくら願っても食べ物が目の前に現れるはずもなく、華は自分の体を引きずりつつも前日と同じように食料と水を探した。
だが、結局その日も見つからずに終わった。
華が遭難してから五日が経った。とうとう、華はその場から動けなくなってしまった。
体に力が入らず、立ち上がることすらままならない。飢えと乾きから、迫り来る死という絶望が華の首に鎌を掛けてくる。その恐怖で今すぐにでも泣きたかったが、生憎今の華には泣く水すらもったいなかった。
だが、天の気まぐれか、その日の昼頃。突如小雨が降り始めた。華は必死で体を仰向けにして大きく口を開け、その雨水を必死に飲み込んだ。
貴重な水分で体が潤う。そのおかげで、華は僅かだが命を永らえさせることができた。
そして、その力で必死に這い回ってそこら辺に生えている雑草をちぎり口にした。最初は嘔吐したが、必死に腹に入れた。そうしなければ、死んでしまう気がしたから。
六日目。空は曇っているが一行に雨は降る気配はない。前日に雑草をありったけ腹に入れたものの、所詮それはごまかしに過ぎない。結局、体を動かせるほどの体力は回復せず、華は近くに生えている雑草に手を伸ばすことしかできなかった。
だが、小学生の腕に届く範疇などほんの僅かな距離であり、彼女の周りから雑草は消え失せた。
そして、七日目。真っ暗な空の下、華は動けず、その場にただ死体のように倒れていた。もはや、死の恐怖すら湧いてこない。おそらく死ぬだろう。もはやそんな実感だけが華のあたまを支配した。
ポツリ、と華の顔に水滴が落ちてきた。一昨日と同じく、再び雨が降ってきたのだ。華は無意識に体を仰向けにし、その水を口にする。死を受け入れつつはあるも、水を求める本能は体を突き動かした。
――これが、私の最後に口にするものになるのでしょうか。
華が雨水を飲みながらそう思ったときだった。
華の視界に、とあるものがよぎった。
それは、雨空の下にはに使わない、白いシェルエットだった。
「うさぎさん……」
それは、華が最初の日に見たうさぎだった。否、同じ個体かどうかの確証はない。だが、なぜだか華にはそれが同じうさぎだと分かった。
ああ、このうさぎを追ってこなければこんなことにはならなかったのに。
ふとそんなことを思った華だったが、そのとき、不思議なことが起きた。
華の体に急に力が満ちてきたのだ。
それだけではない。あまりに飢えすぎもはや感覚が麻痺し始めていた腹が、急にくぅと音を鳴らしたのだ。
そして、口からは貴重な水がよだれとなって流れ出てきた。
――私は、どうしてしまったのでしょう?
華の頭は疑問に包まれた。しかし、そんな華の頭とは別に、体は今までが嘘だったかのように立ち上がり、静かにうさぎに寄っていった。静かに、しかし確実に。うさぎに気配を気取られないように慎重に。
――ああ、もしかして、私は……。駄目です! そんな! こんな、こんなかわいいうさぎさんを!
華は自分が何をしようとしているのかを、理解した。華はそれを必死に頭で拒否しようとする。だって、それは人間として、一人の女の子として、踏み越えてはいけない一線だと思っていたから。
だが体は止まってはくれない。むしろ、近づいていくほどに、華の頭はひとつの言葉で埋め尽くされていった。
……ああ、美味しそうだなぁ……。
そして華は、瞬く暇もないほどの素早い動きでそのうさぎを捕まえると、大きく口を開き、そして――
◇◆◇◆◇
「……な。華!」
「は、はい!」
華は自分を呼びかける声でそれまで顔を埋めていた机から頭を起こした。どうやら、友人の武部沙織が彼女を起こしたらしい。
「ぐっすりだったね華。でももうお昼だよ?」
「あらそうですか? 私としたことが……」
「華さんが居眠りだなんて珍しいね」
もう一人の友人、西住みほが華に言う。
「そうですね、実は昨日は夜遅くまで砲撃についての本を読んでいまして……」
「さすが華さん! 勉強家だね! でもほどほどにしないと駄目だよ?」
「はいわかっています。それでは食堂に行きましょうか。やはりお腹が減ってしまいますね、この時間は」
そうして華は友人達と一緒に食堂に行き、他の二人とは比べ物にならないほどの量の食事をトレーに載せた。
あの日、直後にやってきた救助隊に助けだされて以来、華は食事に困ったことがない。
毎日三食しっかり食べるし、小腹が空いたらいつだって間食することができる。
だが、華はあれ以来、常に満たされない思いで生きてきたのだ。
いくら食べようと、いつ口にしようと、どうしても満たされない飢えが。どうしても満たされない乾きが、彼女にはつきまとっているのだ。
だからこそ、華は食べる。一度に限界が来るまで食べ続ける。飢えを、乾きを、そしてあの焦がれるほどの想いを抱き続けながら、食べるのだ。
そう、華は飢え以外にも忘れられない感情をずっと抱いていた。それはおそらく叶わないだろう想い。だが、もしかしたら叶うかもしれない想い。
それは、何かを口にするたびに、彼女の頭で反響し続けるのだ。
ああ、うさぎ、また食べたいなぁ。