私が自分の事よりも、家元の娘としての使命を優先するようになったのは、いつ頃からだっただろうか。
少なくとも、小学校に入ったばかりの頃は、妹のみほと一緒に楽しく戦車に乗っていたと思う。
実家のそばにある草原を小さな戦車で駆け抜け、二人で一緒に泥だらけになって遊ぶ。そんな、少し他とは違うけど楽しい幼少期を送っていたように思う。
だが、みほが小学校に入ったぐらいの頃から、私は既に次期家元としての教育をされ始めた。
家元の娘として、西住の娘として、らしくあれ。
撃てば必中、守りは固く、進む姿は乱れ無し、鉄の掟、鋼の心。
それこそが西住流であり、私の進むべき道とずっと言われてきた。
最初は私も嫌だった。ただ楽しく戦車に乗っていたかった。だが、周りはそれを許してはくれなかった。
母やその周りの大人達は私を厳しく教育し、やがて私もそれに従うしかないと諦めた。
大人の言うことは絶対だし、それに、私が拒めば妹のみほが辛い思いをする。そう思ったからだ。
だから私は、自分の事よりも家のことを重視して生きるようになった。
私がそうあれば、お母様達は喜ぶし、みほも自由に戦車道をやれる。そう思ったから。
しかし、私がどうであれみほもまた西住流からは逃れられなかった。快活だったみほの性格は西住流の教育によりどんどんと大人しくなっていった。それは、見ていて辛いものがあった。
だから私は、みほにこれ以上の負担はかけまいとより努力をするようにした。
たまに唐突に襲ってくる、すべてを捨てて逃げ出したい、自由に遊びたい、という気持ちを必死に抑え込んで、私はこれが私の道なのだと信じて次期家元の役割をこなした。
私が中学に上がる頃にはそれはすでに普通のこととなっており、私自身もその生き方に疑念を抱かなくなっていた。
……いや、疑念を見てみぬ振りをしていたというのが正しいのかもしれない。
私が必死に油と鉄の臭いのする戦車の指揮を取っている一方で、普通科の生徒が楽しくおしゃべりをしながら帰る姿を見て、心が疼かなかったわけではないからだ。
でも私はそれでも必死に頑張った。こうすれば母が喜ぶから。父が喜ぶから。部下が喜ぶから。妹が喜ぶから。
そう思って私はとにかく次期家元として恥ずかしくない振る舞いを心がけてきた。
高校になってくるとそれはもう慣れたものになっており、私はすっかり違和感なく次期家元としての立場を受け入れていた。
次期家元も悪くはない。普通の女子高生とはかけ離れているが、これはこれで面白いとも思っていたし、妹のみほが私のことを支えてくれると思うと、頑張ろうという気にもなれた。
だが、それは突如訪れた。
高校に入って二回目の全国大会。そこで、妹のみほが水没した戦車を助けに行ったせいで、全国大会に敗北し、優勝を逃したのだ。
みほは数多くの人間から糾弾された。それは、お母様ですら、いや、お母様が一番みほを責めた。
みほにとってそれは辛いことだったのは間違いない。こういうときにこそ、私は姉として妹に寄り添ってやるべきだと思っていた。
だが、私の取った行動は違った。次期家元として、口をつぐみ、無言ながらにみほを責めたのだ。
それは愛してやまない妹への裏切り行為に他ならなかった。
普通の姉ならまず取るべきではない行動だ。だが、私は姉である前に次期家元なのだと、周囲の無言の圧力が、そして、私がそうして歩んできた人生が私に訴えかけてきたのだ。
だから私は、妹を冷たく突き放した。その結果、みほは学校を転校することになった。
みほが転校した夜、私は一人部屋で泣いた。
大切な妹を追いやって何が姉だ、と自分を責めた。
ひとしきり自分を責めた後で、私はこう自分に言い聞かせることにした。
私の行動は次期家元として間違っていない。私の道は、間違っていない、と。
それは、私に今の道を歩んでいくという覚悟を決めさせることになった。
私はもう迷わない。いくら自分の中に普通の女の子としての生活への憧れがあったとしても、それは一切切り捨てる、次期家元として正しい選択、最善の道を辿っていくのだ、と。
そうして、私は決意したはずだった。
だが、すぐさま私の決意は揺らぐことになる。
妹のみほが、無名の高校で戦車道を始め、私の前に敵として立ちはだかってきたのだ。
それに、私は大きく動揺した。私はどうすればいい? みほを倒すのか? この手で?
相手は妹なのに、そうなのに。
私は悩んだ。悩んで、そして判断を下した。西住の娘として、妹を討つ、と。
あまりに非情な判断だと、もう一人の私が訴えかける。だが、私はそれをあえて聞こえぬふりをした。そして、みほと全力でぶつかった。当然、西住流として妹のみほを倒すために。
だが、結果は私の敗北だった。私は負けたのだ。西住の娘でありながら、西住を離れた妹に。そのとき、私の感情はぐちゃぐちゃになっていた。
私の道は間違っていたのか? 私の人生をかけた選択は、こうもあっさりと覆されてしまうのか? と。
いいや、と私は首を振った。今回はみほが戦車乗りとして一枚上手だった。それだけのこと。
私の道は決して揺らがない。そう、そのはず。私はそう自分に言い聞かせ、みほと話し、彼女をねぎらった。ぐちゃぐちゃになっている心の内を隠しながら。
そして、その心は今でも整理がついていない。私の道は正しいはずだ。人生を犠牲にして歩んできた道は、なんら間違っていないはずだ。
そう思っているのに、そうじゃない、お前の道は間違っていたという声が聞こえてくる。
私はその声に耳を塞いだ。
うるさい! うるさい! うるさい! 私は正しい! 正しいんだ!
そうじゃなきゃ……そうじゃなきゃ……!
正直、私の心は既に危うい状態だったのかもしれない。
だから、訪れたのだ。
あの日が。
◇◆◇◆◇
その日私西住みほは、お姉ちゃんである西住まほが倒れたという知らせを受け、お姉ちゃんのいる黒森峰女学園にやってきて、走っていた。
それは突然の知らせだった。お姉ちゃんが戦車道の練習中に倒れたと言うのだ。
さらにしばらくの間意識不明になっているらしい。それを聞いた瞬間、私はいてもたってもいられず、黒森峰に向けてヘリを飛ばしてもらった。
そして、黒森峰についた私はお姉ちゃんのいる病院へと向かっているわけだ。
私は駆け足で病院に入り、看護師さんに注意されながらも、お姉ちゃんの病室を聞き、その病室へと向かう。
病室に入ると、そこにいた人物に私は少し驚いた。
「お母さん……」
「みほ……」
そこにいたのは、私達のお母さんである西住しほだった。
そして、お母さんのすぐ側のベッドには、上体を起こした状態にある、お姉ちゃんの姿があった。
「お姉ちゃん!」
「み、みほ……?」
お姉ちゃんはとても疲れた声で私の名前を呼んだ。それだけで私は泣きそうな気持ちになり、お姉ちゃんに駆け寄ってお姉ちゃんを抱きしめた。
「お姉ちゃん! 良かった……!」
「あ、ああ……」
お姉ちゃんは少し動揺しているようだった。そうだよね、突然抱きつかれたら誰だって動揺するよね。
「あ、ごめん……」
私はお姉ちゃんから体を離す。
「いや、いいんだ。ありがとうみほ」
「ううん……それより、お姉ちゃんどうしたの!? 急に倒れたって!?」
「みほ、そのことなんだけど……」
そこで、お母さんがとても申し訳なさそうな顔で言ってきた。お母さんのこんな顔は初めて見る。それだけで、何か事態が重いのではないかと、私を不安にさせる。
そして、お母さんはゆっくりと言った。
「まほが倒れた理由、お医者さんが言うには、過度の過労と精神的疲労が原因だろうって……」
「……過労と、精神的疲労?」
私は驚いた。だって、お姉ちゃんはそんな言葉とは無縁だと思っていたから。
お姉ちゃんはいつも完璧で、確固たる意思を持った、私の憧れだったから。
「ええ、まほが目覚めたとき、私はまだ病院についていなかったのだけど、その直後の診察でそういう結論が出たそうよ……なのよねまほ」
「え? ああ、はい……でも大げさですよね、少しクラっときただけで過労と精神的疲労だなんて……」
「少しって……練習中に戦車の上から落ちたんでしょ!? 少しどころじゃないよ!」
私はお姉ちゃんに向かって怒った。すると、お姉ちゃんは弱々しくもビクリと体を震わせ、「す、すまない……」とか細い声で言ってきた。
そんな弱った様子は、まるでお姉ちゃんじゃないみたいだ。
「それで、医者の先生と話したのだけれど、その過労と疲労の原因は、その……」
お母さんが少し言いよどむ。しかし、少しの間だけを持たせて、言った。
「私の……西住の家元としての立場の重圧が原因じゃないか、って……」
「西住の、重圧……?」
「そ、そんなことないですお母様……! 私は重圧なんて、そんなこと……!」
「まほ、あなたは少し黙っていなさい」
お母さんに言われて、お姉ちゃんは口を閉じた。なんだろう、そのお姉ちゃんの様子はなんだか、やっぱりいつものお姉ちゃんじゃないみたいだ。
「それを言われて、私はやっと気が付きました。娘に、過度の重荷を背負わせていたことを。もっとゆっくりとまほの成長に合わせて教育していくべきだったのです。それを、幼い頃より厳しくしすぎた結果、このようなことに……!」
お母さんは手を膝の上でぷるぷると震わせていた。それは、自分のしたことが大きな罪であるかのような、そんなことを言いたげな姿だった。
「だ、だから大丈夫ですよお母様……私、ただちょっと疲れていただけですから……」
お姉ちゃんがお母さんに言う。その姿を見て、私は心揺さぶられた。
確かに私もたまに思っていた。お母さんの方針は厳しくて私には合わないなって。でもそれは私だけで、お姉ちゃんは平気なものだと思っていた。でもそうではなかったのだ。お姉ちゃんも辛かったのだ。
それなのにお姉ちゃんはこんな状況になってもお母さんをかばおうとしている。それは少し異常に見えた。お姉ちゃんは、西住に取り憑かれているのだ。
「何がちょっとですか! 下手したら命に関わっていたのかもしれないのですよ!? そう思うと、私は……!」
「ですから、もうこんなことは二度と無いようにと心がけますから、どうか気をお鎮めになって……」
お姉ちゃんはこんなになった今でもその重荷を背負おうとしている。
それは、とても見ていられないほどに異常な光景に私の目には映った。
なんとかしなければいけない。
私はそう思った。
そして私は考える。今のお姉ちゃんを救う方法を。どうすればお姉ちゃんが次期家元という苦しみから逃れることができるかを。
そして、私は一つの結論に至った。
「……お母さん、お姉ちゃん。私、決めたよ」
「え?」
「ど、どうしたんだみほ……?」
私の言葉に、二人はきょとんとする。そんな空気の中、私は言った。
「今日から私がお姉ちゃんの代わりに次期家元を継ぐ。お姉ちゃんには、普通の生活を送ってもらう。そのためなら私は、黒森峰に戻っていい」
「っ!?」
「みほっ!?」
二人ともとても驚いた顔を見せた。
でも、私の決意は揺らがなかった。お姉ちゃんが今まで背負っていた重荷を今度は私が背負う。それが私の考えたことだった。
「みほ、何を言っているんだ。お前がそんなことをする必要はないんだ。次の家元は私が継ぐ。それでいいんだ。だから――」
「……みほ。本当にいいのですね」
「お母様っ!?」
お母さんが真剣な顔で私に言う。お姉ちゃんはとても動揺していた。私はコクリと頷く。
「うん、お母さん。私、やるよ。これ以上、お姉ちゃんを壊すことなんて、私は許さないから」
「私を、壊すって、一体何を……いいかみほ、そんなことはないんだ。私は平気だ。だから――」
「お姉ちゃん! お姉ちゃんはもっと自分の身を案じてよ! 私、お姉ちゃんに壊れてほしくないの! 死んでほしくないの! それはきっと、お母さんも同じ……。だから、お姉ちゃん。もう、休んでもいいんだよ……」
「えっ……あっ……あああ……ああああ……」
私がそう言うと、お姉ちゃんは目を見開きながら、静かに涙を流した。
お姉ちゃんのすすり泣く声が、静かな病室にこだました。
そうして私は、その日から次期家元となった。
◇◆◇◆◇
「全車砲撃止め!」
通学路の直ぐ側にある演習場。
私は標的に向かって砲撃していたドイツ戦車に号令をする。
何台もあるドイツ戦車は、私の言葉を無線越しに聞くと、砲撃を止めキューポラから中にいた乗員が頭を出した。
その乗員達は皆、黒いタンクジャケットに身を包んでいる。
そう、ここは黒森峰。私は、姉の後を継ぎ大洗から転校して黒森峰の隊長となったのだ。
「それでは二十分休憩とします! 各員、休息を取ってください!」
私はそう号令をかけると、私が乗っていたティーガーⅡから降りて「ふぅ……」と軽く息を吐いた。
「お疲れ様です、隊長」
そんな私に後ろから声がかけられる。
振り向くと、そこにいたのは副隊長を務めてもらっている逸見エリカさんが、そこにいた。
エリカさんの手には清涼飲料水の入ったペットボトルが握られており、それを私に向けて差し出してくれている。
「エリカさん、ありがとう」
私はエリカさんにお礼を言ってそれを受け取る。
「……いいえ、これも職務ですから」
エリカさんは真面目な顔をして答える。
そんなエリカさんに、私は苦笑いする。
「……そうだよね、仕事だもんね」
「ええ、仕事です。隊長は、前隊長の代わりにこの黒森峰にやって来ました。正直、隊長に前隊長のように潰れられては困りますから」
エリカさんはあくまで事務的にそう答える。
その言葉に、私は少しさみしい気持ちを抱きながらも頷いた。
「……うん、そうだよね。上に立つ人間は、しっかりしてないと駄目だよね」
「まったくです」
「ありがとうエリカさん。エリカさんも休憩してきなよ。私は一人で大丈夫だからさ」
「わかりました。お言葉に甘えさせてもらいます」
エリカさんは私の言葉を聞くと私に背を向けて去っていった。
「…………」
その後姿を、私は目で追う。正直、私はもっとエリカさんと仲良くなりたいと思っている。だが、エリカさんがこれ以上私が踏み込んでくるのを拒んでいるように思えてならなかった。
エリカさんはお姉ちゃんを本当に尊敬していたから、そのお姉ちゃんが潰れちゃったことがショックだったんだと思う。そして、私がお姉ちゃんの後を継いで黒森峰に戻ってきたことが不満なんだとも思う。
だからエリカさんは、私と最低限の距離しか近づかず、職務以外では関わらないようにしているんだろう。
それは、私が黒森峰に戻ってからプライベートで一言もエリカさんと話せていないことからも伺える。
「はははっ! それでさぁー!」
突然楽しげな話し声が聞こえてくる。それはこの演習場と金網フェンス一枚で区切られている、黒森峰生の使う通学路からだった。
「あ……」
その方向を見て、私は思わず声を上げる。
そこには、派手な格好をした普通科の生徒達が歩いていたのだが、その中に、お姉ちゃんの姿があったのだ。
「へぇーマジで? なにそれウケるー」
お姉ちゃんは以前までは使わなかったような軽々しい言葉を口にしていた。
それだけではない。お姉ちゃんは、スカートの丈は短く、ブレザーの袖を腰に巻いて垂らしており、耳にはピアスをして化粧をしていた。
お姉ちゃんがするとは思えない派手な格好だ。だがそれでもその集団の中では地味めな方ではあった。
「…………」
お姉ちゃんが一瞬こっちを見る。
私とお姉ちゃんの目と目が合う。しかしお姉ちゃんはすぐさま私から目を反らし、派手めな格好をした友人達とのおしゃべりに戻っていく。
「お姉ちゃん……」
普通科に転科してからのお姉ちゃんは、以前とは別人のような生活を送るようになっていた。
すべて聞いた話だが、お姉ちゃんは最初は一人で過ごしていたけれども、いつしか普通科の中でも不良グループと付き合うようになり、どんどんと生活が派手になっていったらしい。
それは、先程の見た目を見れば分かってくるし、言葉遣いもすっかり変わってしまった。
確かに、以前のお姉ちゃんは高校生にしては堅苦しい言葉遣いだったとは思う。
でも今のお姉ちゃんは、とても軽薄な言葉遣いになってしまっているように思えた。
それが、私にはなんだかあてつけに思えて仕方がなかった。
本当はお姉ちゃんが普通の女子高生らしい生活を送れるようになったことを祝うべきだ。
だが、私の心はそう理屈通りにはなってくれない。私の心は、今のお姉ちゃんを否定したい気持ちがどこかにあった。
でも、それは否定してはいけないことだ。だって、お姉ちゃんがああなってしまったのは私のせいだから。私が今までずっとお姉ちゃんに重荷を背負わせて、それを見て見ぬ振りをしてきたから。
だから私は頑張らないといけない。西住の娘として、立派な家元となるために、西住流を継ぐために努力しなければいけないのだ。
「はぁ……」
私は再びため息をつくと、手に持っていたペットボトルの蓋を開け、それを口にした。
甘い味が口の中に広がる。なんだかその味が、少し不快に感じた。
それからずっと、私は黒森峰で隊長として頑張ろうと努力した。
朝は日が昇ると共に起きて、戦車道の勉強をする。学校に行って授業を真面目に聞き、戦車道の授業においても全力で当たる。学校が終わった後でも最後まで学校に残り、戦車道の訓練をする。学校から帰るとすぐさま学校の勉強の復習と、それが終わったらその日の訓練のおさらいをする。
それを夜中まで行い、次の日に支障が出ないように早めに寝る。
もちろん、遊んでる暇などない。友人と話すような時間もない。そもそも黒森峰に友人はいないし、大洗の頃の友人から頻繁にメールやSNSで連絡は来ていたがそれらもすべて返答はしなかった。
私にそんな時間はないし、甘えは許されないからだ。
大洗の頃の友人と話せば、きっと昔に戻りたくなる。そうしたら、お姉ちゃんのように頑張れなくなる。
それだけは避けたかった。
これにさらに、次期家元としての重圧がのしかかって来る。それは、とても重く苦しいものだった。
そんな生活を、私はずっと続けた。何日も何十日も、続けた。
そうして来てやっと分かってきた。お姉ちゃんがどれだけ辛い生活を送ってきたのかが。
お姉ちゃんが普通の女子高生とはかけ離れた生活をしてきたのかが。
こんな辛い生活を、私はお姉ちゃんにさせていたのだ。お姉ちゃんにこんな重荷を背負わせいたのだ。
それを理解すればするほど、私は以前までの自分が憎くなってくる。
だが同時に、あの頃に戻りたいという気持ちも強く襲ってくる。そんな気持ち抱いたら駄目なのに。私は次期家元なのに。普通の生活なんか望んでは駄目なのに。
そんな二律背反的な感情が私の中に渦巻いて、戦って、私の心を苛んでいく。
辛い。苦しい。嫌だ。助けて。
そんなことばかり考えて、最近はあまり眠れなくなってきた。
そんな今の私が戦車道を楽しむことなんでできるはずもなく、戦車道はすっかり私にとって背負うべき重荷になっていた。
そんなときだった。お母さんが、たまには家に帰ってきなさいと連絡してきたのは。
◇◆◇◆◇
「みほ」
私は今、お母さんと向かい合って座っている。広い和室で、お互い正座だ。
「……足を崩してもいいのよ」
お母さんが言う。しかし私は首を振った。
「いいえ、次期家元として現家元であるお母さんの前で姿勢を崩すわけにはいきませんから」
「……そう」
お母さんは少し辛そうな顔をしてうつむく。そして、少し間を置いてから言った。
「ねぇみほ……無理しなくていいのよ」
「え?」
お母さんはとても辛そうな声で言ってきた。無理? 無理って何を……。
「もう、無理をして次期家元になろうなんてしなくていいの。あなたは大洗に戻って、あなたの好きなように生活していいのよ」
「……えっ……?」
お母さんは何を言っているの? あの厳しかったお母さんだよね? 眼の前にいるのは。それが、一体どうしてしまったというの?
「最近のあなたの動向を、門下生を伝って聞きました。あなた、随分辛そうにしているらしいわね。私はまほが倒れたときから思っていたの。大切な娘を壊してまで守らなければならない伝統なんて、いらないんじゃないかって。……この前はまほが壊れて、今度はあなたが壊れようとしている。私には、娘二人が壊れてしまうだなんて我慢できないの。だからみほ。もう、止めていいのよ……」
お母さんが言っていることは人として正しいのだろう。母として正しいのだろう。伝統のために人を壊すなんて間違っている。
でも、でも――
「ありがたい言葉ですが、それは謹んで辞退させていただきます」
「みほ!? どうして!?」
「なぜなら、私はお姉ちゃんの後を継ぐと決めたからです。お姉ちゃんが今まで頑張ってきたのに、それを見て見ぬ振りをしてきたのは私達です。押し付けたのは、私達です。だから今度は、私が苦しまなければいけないんです」
「そんな……」
「それに、お母さんだって分かっているでしょう? 西住流は、そんな簡単に潰えさせてはならない流派だと言うのが」
「そ、それは……で、でも! 私はあなた達娘が心配で……!」
「だったらそれをどうしてお姉ちゃんに言ってあげなかったの!?」
私は激昂した。突如怒った私に、お母さんは言葉を失ったようだった。
「私達に西住であれと小さい頃から押し付けてきたのはお母さんだよ!? それを何!? お姉ちゃんが駄目になっちゃって急に良心の呵責が襲ってきたの!? ずるいよそんなの! おためごかしだよ! そんなの……そんなの……!」
私の体はぷるぷると震えていた。気づけば、私は涙を流していたようだった。
「み、みほ……違うの……私は……」
「何も違わないよ! お母さんは結局、逃げたいだけ! 私は逃げない! 逃げないで、西住を継ぐ! お姉ちゃんの道を、今度は私が歩む! 今度は私が犠牲にならなきゃいけないの!」
そう言い放って、私は居間から出た。後ろからお母さんが呼び止め、そしてすすり泣く声が聞こえてきたが、構わず私は去っていった。
そして私は台所まで行き、コップを取って水を汲んでそれを一気に飲んだ。
「ぷはぁ……!」
私はコップを机の上に叩きつける。
……うん、少し頭は冷えた。
「お母さんの……馬鹿……」
「馬鹿はどっちもじゃない」
突如私の耳に軽い声が聞こえてくる。
その声は、お姉ちゃんだった。お姉ちゃんもお母さんに言われて帰省していたのだ。
お姉ちゃんの格好はとても派手だった。
胸だけ隠れへそが見えた黒いチューブトップと、ギリギリショーツが見えない程度の短いスカート。さらにへその近くにはタトゥーがしてある。
耳にはいくつものピアスが付けられていて、髪は派手な金色に染まっている。
「お姉ちゃん……」
「そこまで聞こえてたわよ。あなたの啖呵。私の代わりに犠牲になるねぇ。随分と言うじゃない。ま、勝手にすれば。私にはもう関係ない事だし」
お姉ちゃんは半笑いで言うと、冷蔵庫から炭酸ジュースを取り出し、それをゴクリと飲み干した。
「ぷはーっ! あー美味し! 隊長やってた頃は体格も気にしてたからこういうの気軽に飲めなかったのよねー。今のあなたもそんな感じでしょ? 大変ねー次期家元様は」
「そう……良かったね……」
私は俯きながら言う。ああ、お姉ちゃんは今幸せなんだ。それは祝わなければいけないことなのに。お姉ちゃんが普通の女子高生になれたのを喜ばないといけないのに。なのにどうして。どうしてこんな気持ちに――
「……何暗い顔してるのよ。もっと笑いなさいよ。私の道を否定して、奪った癖に」
「……え?」
私は顔を上げてお姉ちゃんを見た。そのお姉ちゃんの表情から伝わってきた感情は、嫌悪だった。
「う、奪った……? 否定した……? 私、そんなつもりは全然……」
「奪ったのよ、否定したのよ。あなた達は。私は確かに辛かった。確かに苦しかった。確かに逃げたかった。でもね、それでも私はあなたが自由に生きられるなら、お母様が喜んでくれるならとあのときの道を自分の道だと思って進んできた。その努力を、その成果をすべてなかったことにしたのよ? あなた達は。私を次期家元という立場から追いやることによって、ね」
「お、追いやるだなんて!? 私はお姉ちゃんの事を思って……!」
「それが偽善だと言っているのよ! まるで昔の私を見てるみたいでイライラするわ。自分の犠牲にすればすべてすむと思ってる、そんな感じ。私達姉妹だからそういうところは似るのかしらね」
お姉ちゃんは吐き捨てるように笑って言った。
「違うの……違うの、お姉ちゃん……」
「違わなくないわ。あなたがした事はこう言ったのと同じなのよ。『お前の人生に価値などなかった。お前の十八年は無駄だった』ってね。その絶望があなたに分かる? 人生のすべてを、これから行くはずだった道のすべてを否定された気持ちが。……ま、もうどうでもいいことだけどね。私はもう決めたもの。何も背負わず、この家の金を食いつぶして生きていこうって。いっぱいあなた達に迷惑をかけてあげる。いっぱいあなた達に背負わせてあげる。だって、私にはもう何も残ってないんだから」
お姉ちゃんは笑っていた。歪に顔を歪ませ笑っていた。
ああ……ああ……! 今理解した。
私がしたことは、結局はただの自己満足だったんだ。お姉ちゃんの人生を残酷にもすべて否定してしまったんだ。その結果、お姉ちゃんは本当に壊れてしまったんだ。
お姉ちゃんにとどめを刺したのは、私、なんだ。
「あ……ああ……」
私は顔を手で覆いながらも、指の間から目を出し、床に涙をこぼれ落とさせた。
ごめんなさい、お姉ちゃん。ごめんなさい……。
「お姉ちゃん、ごめん。ごめんなさい……」
「別に謝ることじゃないわ。ま、せいぜい苦しんでその道を歩んでね。頼んだわよ、次期家元の西住みほさん」
そう言ってお姉ちゃんは去っていった。
台所には、一人膝を崩し泣く私だけが残った。
もう、私に戻ることはできない。
私はこのすべての重荷を背負い、私自身が否定したはずの道を歩むしかないのだ。
「うああああ……あああああ……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
一人、孤独に。