エリカの居場所についてのお話。
「……ですか、大丈夫ですかー?」
「……ううん」
逸見エリカは、心配するような声と体を揺さぶられる感覚を味わいながら目を覚ました。
覚醒したエリカの視界に映ったのは、青い空と、自分を見下ろす赤星小梅の姿だった。
「んん……」
エリカはゆっくりと起き上がる。そして、辺りを見回す。
どうやらそこは黒森峰学園艦の上にある歩道のようだった。
直ぐ側を通る道路に、立ち並ぶ家々。そして、エリカを怪訝な顔で見る通行人達。
それは見慣れた、黒森峰への通学路だった。
「よかったー起きてくれて。こんなところで倒れていて心配したんですよ」
「……ありがとう小梅。それにしても、私一体……」
エリカは小梅の名を呼びながら彼女の顔を見る。
だが、そのとき小梅の表情はエリカの思ってもみない表情をしていた。なぜだか、とても不思議そうな顔をしていたのだ。
そして、小梅は言った。
「えっと……私、あなたに名前名乗りましたっけ?」
「……は?」
エリカは思わず声を出してしまった。
小梅とは高校でずっと一緒に戦ってきた仲だ。その小梅が、突然自分を知らないような素振りを見せてきたのだ。それも当然だった。
「えっと……冗談、よね?」
エリカはいぶかしげな表情をしながら尋ねる。
だが、小梅は困惑するばかりだし、エリカも小梅がそんな冗談を言うような性格でないことは分かっていた。
だからこそ、小梅の態度と言動が理解不能だった。
「その……私とあなたは初対面のはずですけど……」
「……何言ってるの? 私よ? 逸見エリカよ? 黒森峰で一緒に戦車道をやってる」
「あの、すいません。もしかして一緒のチームでしたか? 一応黒森峰の同じ仲間は把握してると思ったんですが、やっぱり数が多いから抜けがあるのかも……」
小梅は本当に分からないといった様子で言った。
それがエリカを更に困惑させる。エリカは小梅の態度に怒っていいいのか、さらに疑問を投げかけるべきか分からなかった。
「あっ、それじゃあそろそろ私いかないと! その……一度病院に行ったほうがいいかもしれませんよ? こんなところで倒れてたなんて、きっと何かあると思いますから」
「あっ、ちょっ……」
小梅はそこで話を切り上げ、その場から逃げ出すように去っていった。
その小梅の後ろ姿を、エリカは見ていることしかできなかった。
エリカは周囲を確認する。周りは、エリカを怪訝な様子で見ながらも通り過ぎていくか、まったく無視して去っていく通行人ばかりだった。
「どうなってるの……」
エリカは立ち上がって言う。
そして、一度記憶を整理するためにこれまでのことを思い出す。
自分の名前は逸見エリカ。黒森峰女学園機甲科二年生。戦車隊隊長。
自分の素性は難なく思い出せた。どうやら記憶喪失の類ではないらしい。
次に、どうして自分がここに倒れていたかを思い出すことにした。
エリカは昨日あったことを思い出す。
昨日もエリカは、いつものように黒森峰で戦車隊に指揮を取り、いつものように家に帰り、いつものようにベッドで眠りについた……はずだ。
少なくとも、エリカの記憶ではそうだった。
ではなぜこんな場所に倒れていたのか? そして、なぜ小梅がエリカの事を知らないような態度を取ったのか?
それは謎のままであった。
「……どういうことなの……」
思い出してみてもただ混乱が深まるばかりだった。
「……もしかしたら、小梅が記憶喪失になったのかもしれないわね。学校に行って確かめてみましょう」
エリカが今出せる一番論理的な結論がそれだった。
小梅が突然記憶喪失になった。そうとしか考えられなかったのだ。
それを確認するために、エリカは学校に向かうことにした。
通学路はちょうど登校の時間であるため、沢山の学生が歩いており、みなまっすぐに学校に向かって歩いている。
一人で歩くもの、友達と一緒に歩くものなど様々だ。
その中で、エリカは足早に歩いていた。早く小梅の事を確かめたい。そう思っていたため、自然と歩む足が早まっていたのだ。
そうして、エリカは学校にたどり着いた。学校の校門には通学路以上に沢山の学生が集まっている。
その集団を通り過ぎ、エリカは玄関にたどり着いた。だが、そこで新たな問題が発生した。
「……嘘、どうなってるの?」
玄関にある下駄箱に、エリカの上履きがなかったのである。
いや、正確には上履き自体はあった。
だが、それはエリカの上履きではなかった。
黒森峰女学園の靴箱には、それぞれクラスと出席番号、そして生徒の名前が記されている。
だが、本来エリカの名前と出席番号が記されている靴箱に、エリカの名前はなかった。
代わりに、エリカの出席番号の位置に別の生徒の名前が書かれていた。
エリカは最初場所を間違えただけだと思い、何度も確認した。だが、どの靴箱にもエリカの名前は存在しなかった。
「どういうことなの……?」
「ん? 君、どうしたの?」
と、玄関で困っているエリカの元に、一人の大人がやってきた。学校の教師だ。
エリカはこれ幸いと思い、教師に助けてもらおうとした。
「あのすいません、靴箱に私の名前がないんですが……」
「名前がない? 転校生かい? しかし、最近転校生が来たなんて話は聞いていないが……」
「い、いえ。転校生じゃなく、中等部からずっといます。二年の逸見エリカです」
「逸見……そんな生徒いたかなぁ」
教師の反応に、エリカは再び驚いた。
学園艦にいる生徒数は非常に多い。そのため、教師が全生徒を把握していないのも無理はない話である。
しかし、目の前にいる教師は、エリカも何度も授業で話したことのある教師だったのだ。
当然、エリカのことを覚えているはずであった。だが、目の前の教師もまた、エリカのことを知らないような反応をする。
それが、エリカには怖くてたまらなかった。
「うーんちょっとついてきなさい。今、職員室で学生データベースで調べて見るから」
「は、はい……」
エリカはその教師の言葉に従い、スリッパを履いて学校に上がると職員室にまでついていった。
そして、その教師がパソコンのデータベースに検索をかける。
すると、出てきたのは驚愕すべき結果だった。
「うーん、検索結果ゼロ……逸見なんて生徒、うちの学園艦にはいないなぁ。君、本当にうちの生徒?」
「そ、そんな……本当です! 私は中学校の頃から黒森峰にいて……!」
エリカは必死に訴える。
だが、目の前の教師は怪訝な表情をしていた。
「と言っても、こうやって結果が出ているし……うーん」
教師は腕を組んで悩むような素振りを見せた。一方でエリカは、なんとか平静を保とうとするも動揺が隠しきれないでいた。
「そうだ。親御さんに連絡してみてもらっていいかな? 親御さんと連絡が付けば、何か分かるかもしれない」
「あっ、はい!」
エリカはそう言われ、携帯電話を取り出す。そして、長らく連絡を取っていなかった自分の両親へと電話をかけた。
しかし――
『この電話番号は、現在使われておりません』
「……え?」
エリカは絶句した。家の電話番号が、使われていないと機械音で伝えられたのだ。
もしかして間違いかと思い再度電話をかけてみるも、結果は同じ。
エリカは、何かとんでもない自体になっているのではと、思い始めてきた。
「どうしたんだい?」
「えっ、あっ、あのっ、どうも今は繋がらないらしくて……」
エリカは教師に聞かれ咄嗟に嘘をついた。
電話が通じないということに関しては本当であるが、電話番号自体がないということを言うわけにはいかなかった。
「そうか……」
「……あの、私また後で出直します。今回は迷惑おかけしました」
エリカは教師にそう告げると、その場を逃げるようにして去っていった。
「あっ、君!」
教師の声が後ろから聞こえてきたが、エリカはあえて無視した。
そして、学校を出ると今度は役所へと向かった。
今、エリカはとある想像をしていた。荒唐無稽な想像だが、現在の状況を鑑みればもしかすれば――
エリカはそう考え、役所に向かった。
そして、役所の窓口でエリカは言った。
「あの、すいません! 戸籍を確認したいんですけど!」
そうしてしばらくして、帰ってきた結果に、エリカは絶望した。
とぼとぼと役所から出てくるエリカ。
彼女は、肩を落としながら、絶望した表情で言った。
「ない……私の戸籍……」
そう、役所で確認しても、エリカの戸籍自体が存在していなかったのだ。
そして、エリカは一つの結論に至った。
「ここは、私の世界じゃない……私の存在が、まるまると消失している……!」
それが、エリカのたどり着いた結論。
そして、答え。
そう、エリカはエリカの存在しない世界に迷い込んでしまったのだ。
◇◆◇◆◇
雨が降る。
ざんざん降りの、激しい雨が。
その中で、エリカはとぼとぼと歩いていた。
もうどれほど街をさまよっただろうか。
エリカは一人、自分の存在しない世界を歩いていた。
役所を出た後、エリカは念のために携帯電話に登録してある連絡先に片っ端に連絡してみた。
しかし、帰ってくるのは詐欺かいたずら電話扱いか、そもそも連絡先が存在していないかのどちらかだった。
少なくとも、エリカが確認できる範疇でエリカは世界から存在が消えていることを、彼女は確認した。
それは、計り知れない絶望感だった。
どうして自分がこんな目にあっているのか、その理由は分からない。だが現状として、エリカは今存在しないはずの人間としている。それは確かだった。
その絶望の中、街を歩いているうちに、街に雨が降り始め、エリカは体を雨に濡らしているというわけだった。
「どうして……どうして……」
エリカは同じ言葉を何度も呟く。文字通り世界から消えてしまった自分の存在が、不思議であり、そして辛くて仕方がなかった。
それでも雨は容赦なく降り続ける。彼女の体を濡らし、体温を下げていく。
どうしればいいのか。
エリカの頭の中ではそんな言葉ばかりが浮かび、そして消えていった。
「私は、どうすれば……」
「あの……」
そのときだった。
エリカは突然後ろから声をかけられた。振り向くと、そこにいたのは驚くべき人物だった。
「大丈夫ですか? この雨の中、傘もささないで……」
「……みほ!?」
そこにいたのは、西住みほ。かつての黒森峰の副隊長であり、エリカが存在した世界では、大洗という場所に転校して、黒森峰から優勝旗を奪った少女である。
その彼女が、今エリカの目の前で、傘をさしながら、黒森峰の制服を身にまとって立っていた。
「みほっ!? どうしてここに!?」
エリカは思わず声を荒げる。
そのエリカの剣幕に、みほは一瞬気圧された。
「あっ、あの……私達、どこかで会いましたっけ……?」
その言葉で、エリカは自分のことをみほが知らない事実を思い出す。
「あっ……そうよね……あなたは、私のこと知らないのよね……」
そこで再びエリカを絶望が襲う。その絶望感の中、エリカはみほに背を向け去ろうとした。
「あのっ! 大丈夫ですか!?」
しかし、そんなエリカをみほは気にかける。
「……何よ。見ず知らずの私のことなんて、どうでもいいでしょ」
「そ、そんなことないです!」
邪険に扱おうとするエリカだったが、みほは食い下がる。
「こんな雨の中、一人で傘もささないでいるのは、その、大変だろうなって……」
「……そうね、大変ね。でもあなたに何の関係が? 今出会ったばかりの、あなたに」
エリカはトゲのある言い方で言った。
本当はそんなことを言うつもりはなかった。だが今のエリカのささくれた心では、ついそんな言葉が出てしまうのであった。
「その……」
みほは若干言い淀む。その様子に、エリカは苛ついた。
「何よ。言いたいことがあるならハッキリしなさいよ」
「う……はい……その! もしよかったら!」
そして、みほはエリカに言った。
「うちが近くにあるんです! もしよかったら、雨宿りしていきませんか?」
「雨宿り……?」
エリカは驚いた。この世界では見ず知らずの他人である自分を、みほは家に上げようと言うのだ。
普通に考えればおかしすぎるだろう。
だが、普通じゃない事を言ったり、行動したりするのが西住みほという少女だということも、エリカは知っていた。
エリカがいない世界でも、みほはみほのようだった。
「ふふふ……あははははは!」
エリカはそのことがなんだかおかしくて、つい笑ってしまった。
突然笑いだしたエリカに、みほは困惑しているようだった。
「……いいわ、お願いしようかしら。雨宿り」
そして、エリカはみほの好意に甘えることにした。
「はい、タオルです」
みほの家に上がり、シャワーを借りたエリカは、みほからタオルを渡された。
「ありがと」
エリカはぶっきらぼうにそれを受け取り、自分の濡れた体を拭く。
「あとこれを」
そして、更にみほから別のものを渡される。それは、替えの服だった。
「サイズが合うかどうかはわかりませんけど、あいにくこれしかないので……」
「あら、いいのかしら? って、代わりの服がないんですものね。仕方ないわ。ありがたく着させてもらうわ」
そう言って、エリカはみほの私服を借りて、それを着た。
そっけないYシャツとデニムのパンツだ。あまり個性がないものをみほは選んだらしい。
そしてみほの服を着ると、エリカは部屋の奥に案内される。
――変わらない。
エリカはそう思った。
かつて、みほが黒森峰にいた頃、エリカは何度か彼女の部屋を訪れたことがあった。
その頃と、みほの部屋はほとんど変わっていなかった。
「……変わらないのね」
「え?」
「いいえ、何でもないわ」
思わず声に出ていたエリカだったが、それをごまかし用意された座椅子に座る。
そして、みほはベッドの上に座った。
「…………」
「…………」
それから、しばらくして二人の間を沈黙が支配した。
みほは何かを聞きたそうにもじもじととしていたが、エリカはあえてそれを無視した。
というか、エリカにそれに対応する余裕はなかった。
エリカはみほの部屋に案内されたとはいえ、自分が存在しない世界に迷い込んだのに変わりないのだ。
そのことを考えるだけで、エリカは絶望で胸が苦しくなった。
「……あの!」
と、そこでやっとみほが口を開いた。
エリカは気だるそうにみほのほうに向き直る。
「……何」
「その、こんなこと聞くの失礼かもしれないんですけど、どうしてあんなところで傘もささずに一人でいたんですか? 他の生徒はみんな帰ってた時間ですよね?」
「……それを話して、私に何か得があるのかしら?」
エリカは思わず冷たい口調で返した。
そこには、どうせ何もできない癖に、という冷めた感情があった。
「その、何か得になるかは分かりませんが、力になれたらなって……」
「あなたは今日あったばかりの私の力になろうとするの?」
「おかしい、ですよね……。でも、どうしても気になっちゃって……」
みほは少ししゅんとしながらも言った。
そのみほの様子を見ながら、エリカは思った。
――本当に、この子は変わらないのね。
と。
別の世界だとしても、みほはみほのままだった。気が弱くて、でもどうしようもなくおせっかいで。
そんなエリカの中にあるみほの姿と、寸分違わずいた。
みほのその姿を見て、エリカはふといたずら心のようなものが湧いてきた。
「いいわよ……話してあげる」
「えっ、本当!?」
みほが嬉しそうに反応する。
そしてエリカは話した。自分が別の世界からやってきたということを。
エリカがその事を話したのは、どうせ信じてもらえないだろうと思ってのことだった。
こうやって話せば、みほも自分を頭のおかしい人間だと思って追い出すだろう、と。
それは、エリカが精神的に疲れていたからでもあるし、まったく変わらないみほをからかってやろうという気持ちもあったからだった。
「……とまあ、こんなところかしら」
エリカは話し終えると、僅かに自嘲的な笑みを浮かべてみほを見る。
みほは目を白黒させてエリカを見ていた。
きっと、信じていない。頭のおかしい人間と思われるだろう。
エリカはそう思い、みほの言葉を待った。
そして、みほはとても真面目な顔で言った。
「そうなんだ……それは、大変でしたね」
「はぁ!?」
みほの反応に、エリカは思わず大声を上げた。
「大変だったねって、あなた、私の言うこと信じるの!?」
「え? 信じますよ。だって、確かに荒唐無稽だったけど、なんだか嘘をついているようには思えなかったから。それとも、嘘だったんですか?」
「いえ、嘘じゃないけど……普通信じてくれないわよ、こんな話」
「そう、ですよね。でもやっぱり、あなたは信じられるって思ったんです、私」
そう言ってみほははにかんだ。
その表情を見て、エリカはなんだか胸の奥を揺さぶられるような気持ちになった。
これが、これが西住みほか。
エリカはそう思った。これこそがみほという人間である。天然の人たらしのような才能がある、彼女の才能の一つである。
エリカは、それを痛感した。
「……そう。信じてくれるのね、ありがとう、みほ」
「あ、はい! こちらこそ、本当のことを話してくれてありがとうございます! ええと……」
「エリカ、よ。逸見エリカ。そういえば名乗ってなかったわね。エリカでいいわ。あと、敬語じゃなくてタメ口でいいわよ。私とあなたは、別に敬語で話すようなまどろっこしい仲じゃなかったんだから」
「あ、はい! ……じゃなくて、うん! エリカさん!」
みほはそう言って笑った。
エリカもまた、そんなみほの笑顔を見て、自然と顔がほころんだ。
「ところでエリカさん。この後、どこか行く宛はあるの?」
お互いに笑いあった後、みほがそう訪ねた。
「ないわよそんなの。まあ、とりあえずどっかで野宿でもしようとか考えてたけど、こう雨が降られるとそれも難しいわね……」
「だったら、うちに住みなよエリカさん。元のエリカさんの居場所に帰れるまで、私が面倒見てあげる」
「……いいの? 私としては助かるけど、あなたに負担がかからない?」
「それぐらい大丈夫だよ。気にしないで。こんな状態のエリカさん、放っておけないよ。大丈夫、私に任せて」
そう言って、みほは片腕で力こぶを作る動作をして見せた。
正直こぶはできていなかったが、それでもエリカにとってみほは頼もしく見えた。
「そう……それじゃあ、お言葉に甘えようかしら」
「うん! よろしくね! エリカさん!」
みほは笑ってエリカに手を差し伸べる。
その手を、エリカは掴んだ。
そのとき、エリカの表情はだいぶ柔らかいものになっていた事に、彼女自身は気づいていなかった。
それから、エリカとみほの共同生活が始まった。
みほは普段通りの生活をし、エリカは一人みほの部屋に残り家事を担当した。
最初はみほが自分でやるからいいと言ったが、エリカはそれを断った。せっかく住まわせてもらっているのに何もしないのは自分で自分が許せない、とエリカはみほに説明した。
そして、この世界のことについていろいろなことをエリカはみほから教えてもらった。
ほとんどはエリカのいた世界と変わらない世界だった。
だが、少しだけ違う点もあった。
「一年生の大会のときに事故? なかったよ? 黒森峰が十連覇して、それでみんなで祝ったんだ。お姉ちゃん顔には出してなかったけど嬉しそうだったなぁ。私も嬉しかったもん。お姉ちゃんは今ドイツにいるけど、たまにパソコンで通話するんだ。お姉ちゃん、とっても充実してるって。でも、たまには会いたいなぁ。お正月まで我慢かな」
どうやらみほの姉の西住まほが留学した事は一緒だが、過去のみほが転校するきっかけになった大会での事故はなかったようだし、それになによりみほが家族との関係も良好で、戦車道を楽しんでいるようにエリカには見えた。
少なくとも、エリカのいた世界ではみほは黒森峰で戦車道をあまり楽しめていなかったように思えた。
それが、大洗という土地で自分の戦車道を見つけ、急激に頭角を現した、というのがエリカの見解だった。
だが、どうやらこの世界ではみほは最初からのびのびと戦車道をやっているらしかった。
「そういえば最近新しい学校が戦車道に参入してきてね。大洗女子学園って言うんだけど。戦車はあんまりいい戦車はなかったしそんな強くはなかったけど、みんなとっても楽しそうに戦車道やってたなぁって印象だったよ。え? 学園艦の統廃合? うーんそんな話は聞いたことないなぁ。少なくとも大洗のみんなはそんなことに関係なく戦車道始めたと思うけど」
そして、みほが転校した大洗もまた、廃艦の憂き目にあうことはなかったらしい。
どうやらこの世界では、学園艦の統廃合自体がないらしかった。
エリカは思った。
この世界でみんなはなんの苦難もなく、幸せに暮らしているのだな、と。
自分がいないだけで、この世界は幸福なのだな、と。
それはきっといいことなのだろう。
この世界では最初からみんなが楽しく戦車道をやっているのだろう。
それは、何も悪いことではない。
そう思うのに、エリカはなんだか胸の奥がチクリとするような気がした。
そうしてみほからいろいろ話を聞きながらも、エリカは元の世界に帰る方法を探した。
図書館やインターネットでいろいろ調べ物をしてみたし、昔自分が関わっていた人で、自分を覚えている人がいないか探してもみた。
だが、結果はどれも良くなかった。いくら探しても帰る方法は見つからず、エリカも半ば諦め始めていた。
それに、みほと一緒に生活できるのも悪くはない。そう思っていた。
そうして生活していくうちに、あっという間に一ヶ月が経った。
季節は冬。
その年は、それまで休止されていた、無限軌道杯が復活し、黒森峰ももちろんそれに参加していた。
エリカはそういえば自分のいた世界ではすでに無限軌道杯が行われていたなと思った。
彼女は気づいていなかった。歯車が徐々に狂い始めていることに。
それに気づいたのは、黒森峰が無限軌道杯で勝ち進み、決勝を間近にしたときだった。
「……みほ、どうしたの?」
「……え?」
ある日、みほが暗い顔で学校から帰ってきた。
最近、時折表情に陰りが見えることがあったが、エリカはそれは疲れているのだろうと思ってあえて触れずにいた。
だが、その日は特にみほの表情が暗かったため、エリカは思わず聞いたのだ。
「……べ、別に。何とも……」
「何ともないわけないでしょう。そんな顔して。そういえば最近も元気がなかったわね。一体どうしたの?」
「…………」
「……私に話せないのなら、無理に話さなくていいわ。でも、これだけは覚えておいて。私はあなたに感謝している。とてもとても、ね。だから私はあなたの力になれるならなりたいの」
「エリカさん……」
エリカの言葉に、みほは少し俯いていた顔を上げた。
そして、意を決したようにぎゅっと胸の前で手を握ると、みほはポツリと言った。
「エリカさん……私、戦車道、やめたい……」
「えっ!?」
エリカは思わず声を上げた。
あのみほから、この世界のみほからそんな弱音が出てくるとは思っていなかったのだ。
「……何があったの?」
エリカはみほを部屋の奥に連れて行きながら聞く。
そして、みほをベッドに座らせ、言葉を待った。
すると、みほはゆっくりと言った。
「最近、みんなの様子がおかしいの……昔はみんなで楽しく戦車道をやっていたのに、最近はなんだか堅苦しくなっちゃったっていうか、勝ちに異様にこだわるようになったっていうか……それはみんなだけじゃなくて、うちも……お母さんも、すっごく厳しくなってきて、やれ西住の娘だのなんだのを、繰り返し言うようになって……」
「そんな……」
この世界は、そういうしがらみに囚われていない世界ではなかったのか。みほが楽しく戦車道をやれる世界ではなかったのか。
エリカはその周囲の変化に、大きな不安を抱いた。
「それだけじゃなくて、お姉ちゃんも最近疲れているみたい。なんだか、ドイツで当たりが強くなったって言ってた。あと、これは聞いた話なんだけど、今度無限軌道杯の決勝で当たる大洗、なんだか廃校がかかっているらしくて……それが、すごく罪悪感だなって。突然だよね。今までそんな素振りはなかったのに、急に学園艦の統廃合の話が出てきたらしくて。それで、大洗は戦車道で強いことを証明しないといけないんだって。でも、うちも全国大会と合わせて十二連覇がかかってるから、負けるわけにもいかないし……」
連覇の重荷を背負い、さらに相手の学校の未来をも潰してしまうかもしれない苦しみを味わうみほ。
その表情を、エリカは知っているような気がした。
いや、知っていた。
そのみほの表情は、かつて、エリカの世界で、黒森峰を去る直前に見せていた、みほの表情そっくりだった。
「そういえばね」
さらにみほは言った。
「今度の決勝の会場、どうやら一年生のときの全国大会のときと会場が一緒なんだって。それで、当日は凄い雨が降るって……。なんだか、似てる気がするんだ。エリカさんから聞いた、エリカさんの世界での出来事のあった日と」
「……え!?」
エリカはそれを聞いて驚いた。
確かに戦車道を行う会場は限られている。だがしかし、だからといって状況ができすぎている、そう思った。
これは、もしかして――
「……ねぇ、みほ。一応聞くけど、もし大会のときに誰か仲間が危機に陥ったら、あなたは……」
「助けるよ」
みほは迷いなく言った。
そのときだけ、みほの目にはしっかりとした信念が感じられるように思えた。
だが、その目はすぐさま陰った。
「……でも、きっとお母さんは許してくれないと思う。少なくとも、今のお母さんは。それに、お姉ちゃんも……二人共、最近なんだか別人みたいだから……」
そして、それ以上みほは話さなかった。
ただ、不安げに熊の人形を抱きしめるだけだった。
エリカは考える。
どうして、どうしてこうなった。
なぜみほが不幸な目に合わなければいけない。なぜ大洗が今更廃艦にならなければいけない。
何か原因があるはずだと、エリカは思った。
そして考え抜いた。この世界とエリカのいた世界、異なっている点と同じ点を。
なぜエリカのいた世界と同じになろうとしているのかを。
それを必死に考えた。
そして――
「……あ」
エリカは、一つの答えにたどり着いた。
「私がいるからだ……」
「え?」
エリカの呟きを、みほが聞き直す。
それを無視するようにエリカは立ち上がり、玄関へと向かっていった。
「エ、エリカさん?」
「……ごめんなさいみほ。少し夜風に当たってくるわ」
そう言って、エリカは部屋から出ていった。
そうして一人エリカは夜の街を歩き始める。そして、人気のない場所で、エリカは立ち止まると、側にあった電柱に拳の横を叩きつけた。
「くそっ……!」
そしてエリカは悪態をついた。
「私の、私のせいじゃないか……! 私がこの世界に来たから……!」
それが、エリカの出した答えだった。
本来この世界に存在しなかった異分子である自分が来たから、世界が悪い方向に修正されている。
エリカはそう考えたのだ。
そして、それは逆説的にこうも語っているように思えた。
『お前がいたから、元の世界でも悪い事が起こっていたのだ』
と。
「そんなこと、そんなこと……!」
エリカは必死に頭を振って否定しようとする。
だが、どうしてもその考えが頭から離れなかった。自分の存在が、みんなを不幸にしていると。
「どうして、どうして……!」
エリカは電柱を殴り続ける。手の横が擦りむけるまで、ずっと。
と、そのときだった。
「エリカさん……?」
「っ!? ……みほ」
エリカが後ろを向くと、そこにいたのはみほだった。みほが、心配そうな顔で、エリカを見ていた。
「どうしたの? エリカさん……なんだか凄い顔で外に出ていったから、心配で来ちゃったけど……」
「……私のせなのよ」
「え?」
「私のせいなのよっ!」
エリカは我慢できずに感情をみほに爆発させた。
「私のせいなのよ! 私がこの世界に来たから、この世界の歯車が狂ってみんな不幸になり始めたのよ! 私さえ、私さえいなければこんなことにはっ……!」
「そ、そんな……エリカさんのせいじゃ……」
「じゃあ他に理由があるって言うの!? みんながおかしくなり始めた、みんなが不幸になり始めた、その理由が!」
「そ、それは……」
みほは答えに窮しているようだった。それは、他の可能性よりもその可能性が高いことをみほが認めている証左であるように、エリカには思えた。
「やっぱり! あなたもそう思っているんじゃない!」
「ち、違うよエリカさん! 私は……」
「もうやめて! 私に関わると、みんな不幸になるのよ! だから放っておいて!」
そこまで言うと、エリカはその場から走り始めた。宛はない。ただ、その場から逃げ出したかっただけだった。
「あっ、待って! エリカさん!」
その後をみほが追いかける。
「ついてこないで!」
エリカはそれを必死に振り払おうとする。
二人は夜の街をしばらく駆けた。
そして、いつしか二人は街の大通りに出た。大通りには、車が何台も往来していた。
「っ……!」
エリカは無我夢中で走る。そして、その足は大通りを堂々と横切った。
歩道橋の信号が点滅しているのも確認せずに。
「エリカさんっ!」
その後をみほが追う。だが、信号が赤になり、みほは通っていく車に遮られた。
「エリカさん! エリカさん!」
みほは叫ぶ。だが、そこにエリカの姿はもう見えなかった。
「…………」
エリカは今、学園艦の縁に来ていた。足元には海が広がっている。
夜の海は荒々しく、落ちればまず命はないのが分かる。
「……私……どうすれば……」
海を眺めながらエリカは呟く。
だが、答えは既に決まっていた。
「私が……この世界からいなくなれば、みんな幸せになれるのよね……」
それが、エリカの出した結論だった。自分がいなくなれば、みんな幸せになれる。
だから、この世界から消えていなくなる。
エリカは、それが正しいことなのだと、思っていた。
「……ごめんなさい、みほ」
そのためエリカは、ゆっくりと体を前に投げ出し――
「さよなら」
その身を、海へと放り投げた。
「エリカさんっ! 駄目ーっ!」
後ろからみほの声が聞こえた。
落ち行く最中、みほが泣きながら手を伸ばして走ってくる姿が見えた。
その姿が一瞬、小梅と重なった。その瞬間、エリカは思い出した。
エリカの世界での、自分自身の最期を。
「あ……そうか、私……前の世界でもこうやって……」
エリカは想起する。
それは、後悔の記憶。
黒森峰の隊長にまほの代わりになるも、隊を引っ張って行けず、黒森峰に勝利をもたらすことができず、心を病み、ついには自らの命を断ったときの記憶。そして、それをみほやまほと比べるとその次に一番一緒にいた、小梅が止めようとしてくれていたことを。
そのときに、後悔を抱いたことを。
そして今、エリカは同じ後悔を抱いている。
こんな馬鹿な真似をするんじゃなかった、そんな後悔に。
――ああ、これはきっと罰なんだ。勝手に命を粗末にした私への、世界からの罰なんだ。自分が苦しむんじゃなくて、周りが不幸になるのをまざまざと見せつけれるっていう、意地の悪い罰なんだ。
それが、エリカが死に際に抱いた感想だった。そのことに気づいた次の瞬間、エリカの体は巨大な学園艦の縁から海面へと叩きつけられた。
◇◆◇◆◇
「……ですか、大丈夫ですかー?」
「……ううん」
エリカは声に呼ばれゆっくりと目を覚ます。開いた瞳に映ったのは、みほだった。
みほは心配そうな顔でエリカを見ていた。
「み、みほっ!?」
エリカは驚いて急に頭を上げる。
その頭が、みほの頭とゴチンとぶつかった。
「痛っ!?」
「つっぅ……!?」
二人は頭を抱える。やがて痛みも引いてきたため、エリカとみほはゆっくりとお互いを見る。
「エリカさん、大丈夫? この海岸で倒れているのを見たときは、びっくりしたけど……」
「みほ……? わ、私一体どうなって……私、学園艦から落ちたはずじゃ……」
「がくえんかん? 何言ってるの?」
「え?」
疑問に疑問で返すエリカ。
そのエリカを、みほは怪訝な表情で見ていた。
「がくえんかんって……船か何かの名前? 言葉の響き的に学校の船だけど、私達の学校に船なんかなかったはずだし……」
「み、みほ。何を言って……」
エリカは言葉を震わせる。そして、もしやと思いつつも、自分の置かれた状況を理解し始めた。
「ねぇみほ。戦車道って……分かる?」
「え? だから何それ? センシャドー? うーん、分からないなぁ。私達がやってるのは弓道だし……」
「あ、あああ……」
そこでエリカは理解した。
自分はまた別の世界へと飛ばされたのだと。そして、この世界でも誰かを不幸にする星の下に、自分はいるのだと。
それを知ったとき、エリカは深い恐怖と絶望に襲われた。
それがあまりに大きすぎたため、エリカはその場から動けなくなった。
「ああ、ああああああああああ……!」
「ちょっとエリカさん!? どうしたの!? エリカさん!?」
逸見エリカという幻の見る悪夢は、まだ終わらない。