三階建ての古いコンクリート建築に、今日も幼女ーーアンリは寝泊まりしていた。
中はひどい有様だ。
壁の塗装は剥がれているし、木張りの床は半分腐っている。
何かが入ったビニール袋やら、空いた酒瓶がそこら中に転がり足の踏み場もない。
そんな中で、アンリは自分の寝床である毛布一枚に包まって座禅していた。
あれから5日が経った。
まったく酷いもので、最初はまったくやり方が掴めなかったくらいだ。
色々とやり方を変えたり、座り方を工夫したりしてようやくそれらしい形になった。
それからすぐだ。
微かなモヤを感じる。
身体を纏っている、立ち上る何か。
これがきっと、オーラだろう。
瞼を開いてみる。
けど、身体を見ても何も見えなかった。
だが、確かに何かがある感覚がある。
これが、『念』
「…ははっ」
息を吐き出す。
興奮しちゃダメ。
きっと邪魔になるから。
そう思いながら静かに、静かに心を鎮める。
収まったのを見計らって、少し安堵の息を吐いた。
瞼を閉じる。
息を吐き、吸う。
背筋を伸ばし、芯を意識しながら吸い、吐く。
体中の筋肉をほぐして、念にだけ集中できるようにする。
全身のモヤも、もっと広げていく。
色々な場所に、少しでも早く念を使えるように。
…動くことには、動く。
でも、動きは鈍かった。
モヤはぜんっぜん思うように動かない。
少し苛立つ。
でも、それも危ない。
小まめに息を吐きながら、鈍重な動きしかしないオーラを必死に動かしていく。
どれくらい経っただろう。
何度も何度も試して、やっと少しずつ言うことを聞いてくれるようになった。
きっとあと少し。
緊張する。
その瞬間が近づいているのがわかる。
「ふーっ」
めいっぱい息を吐き出す。
集中だ。
肌を撫でるモヤ。
心地よい温かさがある。
埋没していた意識がふわっと戻ってくる。
先ほどより、ずっと力強く感じる。
試してみると、モヤも随分動きやすくなっている。
それが嬉しい。
感じながらしばらく維持していると、じわり、じわりと漏れていく感覚があった。
これは、オーラが増えているのだろうか。
漏れている部分を開ければいいのだろうか。
少し考えて、やってみることにした。
集中する。
肌の上にある湯気を、立ち上っている個所に集めて戻して、こじ開ける感覚。
…ゆるっゆるだった。
毛穴みたいに、閉じたり開いたりを繰り返しているのがわかる。
ゆるいってなんかイヤだけど、しょうがない。
深く息を吸った。
これを、こじ開ける!
唐突に世界が変わった。
力を入れすぎて、どこかに飛んで行ってしまった。
そう思ってしまうくらいに、世界は変わった。
気付いた時にはもう瞼を開いていた。
見えるのは眩いばかりのモヤモヤ。
どんどん立ち上って、離れたところで消えていく。
これがオーラ。
思わず立ち上がる。
体中から噴火する感覚で、どんどんエネルギーが消費されてる。
まったく止まる気配がない。
『纏』を知らなければ、やばいかも。
一つ息を吐き、瞼を閉じる。
体中の力を抜いてオーラにだけ集中する。
目を閉じればよくわかる。
オーラがどこに向かって、どういう出方をしているのか。
それを意図的に変える。
少し流れを整えるだけでいい。
オーラといってもアンリ自身だ。
少し整えるくらいなら簡単なはずだ。
集中する。
少しでよかった。
その少しを整えるだけで、オーラの向きが劇的に変わった。
今まで外に向かっていたエネルギーが身体を纏うように流れ始める。
一度流れれば、後は意のままだ。
面白半分で逆回転にもしてみた。
これも簡単だ。
乗り方を忘れない自転車のようなもので、操り方のコツさえつかめばいつでもどこでもどんな時でもできる。
念もそういうものらしい。
瞼を開いて、両手を広げる。
オーラだ。
本当に見える。そして動かせる。
オーラを拳に集めてみる。
ゆっくり、ゆっくりとした動き。
全部ではないけど、ほとんどのオーラが両手に集まった。
殴ればどうなるのだろうか。
試してみたいけど、今は真夜中。外は危険だ。
前世と違い、この世界は治安があまり良くない。
4歳児なんて簡単に殺されてしまう世界なのだ。
気を緩めればオーラは勝手に元に場所に戻っていく。
まるでスライムのようで、少しおかしい。
『纏』と『念』を覚えられた。
つまり、ここはハンターハンターの世界だ。
漫画の世界。
けど、アンリにその実感はあまりなかった。
念を覚えたのも、死なないためだ。
だって、どう考えてもここは現実で、漫画の中じゃないのだ。
少し視線を巡らせ、一つのドアに目がとまる。
あの部屋には両親が居る。
だが、両親と言う実感はほとんどない。
父親は朝は働き、帰ってからは酒ばかり飲んで、アンリのことは無関心。
掛けられた言葉は何だったか。もう覚えてすらいない。
母親は売春で生計を立てている。
だから、アンリのことも産むだけ産んで、それだけだ。
死なない程度の世話しかしてもらえなかった。
たぶん、アンリが前世を覚えていなければ死んでいただろう。
この歳でアンリは既に自分で食べ物を得ている。
大半は盗みで、後の少しは貰いものだ。
盗みに嫌悪感はなかった。
きっと、前世でも行っていたのだろう。
だから、アンリにとってこの世界は厳しいものだ。
庇護者はいない。
自分を守れるのは自分だけ。
甘い妄想に逃げられる余裕はなかった。
「私が、私だと思えることだけをする」
アンリは善人にはなれない。
その生き方は決定的に何かが違うからだ。
アンリは悪人にはなれない。
前世と同じ過ちは犯したくないからだ。
だから、アンリはこう考える。
全ては気のままに。
善意、悪意、それが自分の物ならどちらでも受け入れる。
「私が、私であるなら、私らしく生きる。ただそれだけ」
それだけの力はある。
いや、これから得る。
『念』があれば自分らしく生きることが出来る。
だから鍛える。
誰にも負けないように。
もう、二度と誰かに殺されないために。
ふと、月明かりを見上げた。
きれいな満月だった。
仄かな月明かりが差し込む古いアパートの一室。
癖毛の茶髪を揺らしながら、その奥で光る青い瞳は静かに月を見つめていた。