頷き、老婆を見送ってから、アンリは居間を横切って椅子に腰かける。
キィと椅子が軽い音を立てた。
アンリの背丈ではテーブルには届かないが、この椅子はクッションが敷いてあってちょうどいい高さになっている。
夫婦がアンリのために用意してくれた椅子だ。
以前、テーブルから顔を覗かせていたアンリにクッションを敷いてくれてから、ずっと同じクッションが置いてある。
老夫婦の優しさだった。
老婆から受け取った杖をテーブルに立て掛けて、アンリはほっと一息を吐いた。
ようやく少し恩返しが出来た。
1年ほど前に助けてもらってから、何のお礼も出来ていなかった。
それが少し解消できて、アンリはほっとする。
僅かに軽くなった心持で、ぐるりと居間を見渡す。
アンティーク調の古い振り子時計は相変わらず音を立てながら秒針を動かしている。
お婆さんの、そのまたお婆さんの時代から使っている時計だそうで、随分な年代物だと聞いた。
私の倍お婆ちゃんよ。と老婆が笑いながら教えてくれた。
他にも、木造りの食器棚や、二人で囲んでちょうどいい大きさの、アンリがいま手を置いているテーブル。
3つしかない似た作りの椅子。
意匠の入ったふかふかの絨毯など、とても温かな家具たちがそこにいる。
しばらく部屋を眺めていると、気配を感じて、ドアが開いた。
そこには居間の雰囲気そっくりの、温和な笑みを浮かべたお爺さんがいた。
「いらっしゃい、アンリ。待たせたかな?」
「爺さん、久しぶり。まだそんなに待ってないよ」
お店の袋を持って現れた、元気なお爺さんの姿を見てアンリは笑う。
いつも笑っている陽気なお爺さんだ。
お婆さんよりも足腰は強いようで、しっかりした足取りでアンリの正面の椅子に腰かけた。
嬉しそうに目を細めると、ぽんぽんとアンリの頭を撫でる。
「よく来たね。婆さんも喜んでたよ、アンリが杖をくれたってわしに自慢しとった」
お爺さんは快活に笑った。
この人はいつも明るい人だ。
アンリが初めて会った時も、何の気負いもなくカラカラと機嫌良く笑って店で焼いたパンの自慢話を延々とアンリに聞かせていた。
やれ、生地のコネ方に工夫が、やれ焼き時間に工夫が、やれ素材を厳選して。
そんな話をパンの種類分聞かされたアンリは困った顔で怪我が治るまでの間、お爺さんの話に相槌を打ち続けたものだった。
特に、アンリが好きになったチョココロネに関しては熱弁が止まらず、直々に目の前で生地を作ろうか、と言い始めた時には慌ててお婆さんが止めていた。
「こないだはわしにも麺棒をくれたし、ほんとに良い子だ。そうそう、あれからパン作りするたびにアンリのことを思い出してね、来るのをいまかいまかと待ってたんだ。今日もチョココロネがあるから、良かったら食べて行きなさい」
テーブルの上に置いてあったお皿に、お爺さんがお店の袋からチョココロネを1つ取りだしてアンリに差しだした。
黄金色の生地に、中にはたっぷりとチョコレートクリームが入っている。
ツイスト状に捻られた生地は綺麗に螺旋を描いて中からクリームを覗かせていた。
アンリはニッと笑う。
「うん、ありがと。食べていくよ」
「それがいい。帰りにも持たせてあげよう」
カラカラと笑いながらテーブルにチョココロネの入った袋を乗せた。
5つは入っているだろう膨らみ方をしている。
相変わらず、採算は度外視しているらしい。
ありがたいが、なんとも言えないくすぐったさに苦笑いしてしまう。
「そんなにいっぱい大丈夫なのか?爺さん、いつもお金受け取らないじゃん」
「ははは、子どもが気にすることじゃないよ。わしが好きでやっとるんだ、受け取っとくれ」
ずい、とアンリに寄せられたチョココロネ入りの袋。
嬉しいような困ったような。
そんな不思議な笑みを浮かべながら、アンリはコクリと首を縦に振った。
お爺さんもアンリを見て頷く。
示し合わせたように一緒に笑った。
それを合図に他愛のない話が始まり、時間は少しずつ過ぎて行った。
「ところでなんだけど、婆さん大丈夫?」
そうアンリが切り出したところで、お爺さんの表情が少し変わった。
あまり良くない表情だった。
目元に少し皺が寄って、あれほど快活と回っていた口数がピタリと止まった。
やはり良くないらしい。
お婆さんの様子は見ていたが、立ちあがるだけで態勢を崩すなんて足腰が弱っている証拠だ。
言葉を選ぶようにしばらく黙りこみ、ようやく視線を上げたお爺さんはアンリを見ながら頷く。
どこか覚悟を決めたような瞳だった。
「そうだね、アンリには隠せないか。ビックリしないで聞いてほしい。…お医者様に見せたんだが、原因不明の衰弱と診断されたよ」
「…衰弱?病気じゃないの?」
「どうかな、病名がわからないだけかもしれないが、先生はお手上げとおっしゃっていたよ」
そう言って、お爺さんは悲しそうに首を振る。
おじいさんの顔を見たらわかる。
本当に手の打ちようがないのだ。
あればアンリにも言わずに治しているだろう。
「…そっか」
「前まであんなに元気だったのになあ」
思い出すように宙を見つめて、お爺さんは微笑む。
「歳は取りたくないもんだ」
お爺さんは立ち上がる。
「さぁ、湿っぽい話は終わりにしよう。少しの間なら大丈夫だから、婆さんと話してやっておくれ」
「いいのか?」
「なーに、婆さんもアンリと話せば元気になるさ。ゆっくりしといで」
カラカラと笑い、お爺さんがお店に戻っていく。
その後姿には、どことなく疲れの色が映っている気がした。
一人になって、アンリは婆さんがいつも座っている椅子を見つめる。
作りはお爺さんと変わらないが、敷いてあるクッションが色違いで、花の刺繍がしてある。
知り合いの裁縫士に刺繍してもらったと、以前嬉しげに話していた。
出会って1年と少し。
短いようで長かったが、良い人たちだった。
爺さんはああいっていたが、これ以上関われば身体に毒だろう。
汚い身なりで近づいて病気が悪化したら元も子もない。
きっとそうだ。
きっと。
今日は、帰ろうか。
「お礼もできたしな…、これ以上はやめとくか」
そんなことを言って、アンリは自分に驚く。
気遣いや遠慮なんて言葉が自分にあるとは思わなかった。
盗みや犯罪になんの良心の呵責も感じない自分が、あの老夫婦には少し感じている。
ただ、危ないかもしれない。というだけなのに。
そう考えると少しおかしかった。
今まで平気で盗みをしてきた自分がそんなことを考える。
そんなものはまさしく偽善だ。
とっくに手遅れだ。
アンリの両手は薄汚れている。
例え人を殺しても何の痛痒すら感じないであろうほど心も汚れている。
なのに。彼女らはそんなアンリに良くしてくれた。
本当に、子供のように扱ってくれた。
話を聞き、食事をし、他愛ない話で笑いあう。
自分なんかには勿体無いほど良い人たちだった。
そこで、アンリははっと気がついた。
居心地のいい雰囲気。
優しい祖父母に囲まれて暮らす生活。
そんな幻想を見ることができる場所がここだったのだ。
唯一安心できる、素に帰れる場所。
だから、これは夢なのだ。
そう。夢のような、現実。
気がついて。
アンリは笑った。
見るものが驚くような、優しくて、楽しくて仕方がないような笑顔だった。
いい時間だった。
本当に夢のような、奇跡のような時間。
優しさを始めて知った気がする。
大切な、大切な思い出。
だから、今日だけは。
―――わがままを言わせて。
「アンリ、お待たせ」
「お婆ちゃん!ぜんっぜん待ってないよ」
偽善でも構わない。
まやかしの様な一時だけの感情でも構わない。
だって、生まれたこの感情に偽りはないから。
今日だけは殉じよう。この優しさという気持ちに全てを委ねよう。
後悔が残らないように。
明日から醒める夢のために。
「いっぱい、お話しようね」
優しい、満面の笑みを浮かべて、アンリは老婆の手を優しく引いた。
だから、これは最後のお礼。
もらった優しさを出来るだけこの人に見せること。返すこと。
それがアンリの出来る、精一杯の誠意だ。
それがアンリにとって、今できる唯一のことだった。
驚いた顔の老婆は、それでも何も聞かず、ただただ、優しく微笑んだ。
「ええ、いっぱいお話しましょうね」
・・・胸が痛い。