それは赤い紅葉が美しい季節が終わりかけ、もう冬の痛い寒さを感じる11月の日だった。
提督である俺はいつもの海域巡回に 時雨が巡洋艦、駆逐艦を含む艦隊と出撃させた。俺も艦娘たちも慣れた警備行動だった。
俺の担当する海域は平和だから、3日に1度の巡回はすぐ終わる任務だった。
でも時雨だけが帰って来なかった。
一緒に出撃した子たちが言うには、海中から現れた敵深海棲艦から軍の輸送船団を助けるために時雨が敵に突っ込んで激しい戦闘が始まった艦娘たちは報告してくれた。戦闘が終わった時には時雨の姿が見えなかったとも。
そのことを聞いた瞬間、俺の世界から音が消えて何も考えることができなかった。
1時間ほどの時間がたってから心が戻ってきた俺は海にいって時雨を待った。でも一緒に出撃した艦娘の報告から4日。いまだに時雨は帰ってこない。
それでも俺は大事な艦娘である時雨を待つために待ち続けている。
23歳で提督になってうまくいかず、1年経って出会った時から7年間ずっと一緒だった。周りの艦娘たちからは"夫婦みたいだね"と言われるほどに。そう言われるたびに俺と時雨は頬が赤くなり、お互いにはにかんでいた。
大事な女の子だった。はじめて愛した子だった。
だから俺は時雨のことをあきらめきれるはずがないのも当然だ。
―――5日経っても落ち着くことはできなかった。
早朝に起きた俺は帽子を浅くかぶって軍服の上にコートを着込む。
そうして日が昇る前から港にきては堤防の先にある灯台に背中を預けて座り、水平線の彼方へ目を向けている。
昨日までは執務室での仕事を終わらせてからはできうる限り港にきては、こうやって海を眺めていた。
今日からは朝食を食べる短い時間まで待つことにした
それほどまでに時雨が帰ってくるのを望んでいる。……来ると信じたい。
報告では『時雨は戦闘中に行方不明』と言われ、生存は絶望的だと。
でも俺は諦めきれない。俺にとって時雨は部下であるまえに大切な女の子だ。
時雨と会うまでは俺は艦娘たちとうまく会話できず女性の存在自体が苦手となった。仕事にも私生活にも支障ができ、仕事以外は家に引きこもる日がかなり増えた。辞表を出し、普通の軍人に戻ろうかとも考えた。
そんなことをして苦しい生活を送ってきた時期のことだ。時雨が俺のところへ着任してから状況は変わった。
当時の秘書でさえ、俺を放っておいたというのに時雨は毎朝しっかりと俺を起こしに家までやってきた。休日の日もだ。その行動は迷惑極まりなかったが責任感と仕事意識が強い彼女の行動に押され、他の艦娘と会話したりすることが増えた。
時雨がいなかったら今頃はきっと提督をやめていただろう。
きちんと仕事を始めてからも時雨はなにかと俺に構ってきて、構うのが面倒だと思っていたが次第に彼女の笑顔や仕草、おもいやりに心惹かれていった。
懐かしい日々だった。でも懐かしかったとそれだけに俺はしたくない。
体が冷えるなかずっと海を見ていると、太陽が昇ってくる。空に雲が多いなか、雲のあいだから見えてくるまぶしい光は何か良いことがありそうだと思えてくる。
不思議と今日こそ時雨が帰ってくるという予感がした。
暗い海にだんだんと明るい光が差し込み、黒一色の海が深い青色になっていく。
太陽がのぼるにつれ、雲のあいだから差し込む光の位置や強さが変わる。そんな幻想的で美しい光景を見ても、止まってしまった心は動かない。目で見れても心は何も感じない。
鎮守府のほうから艦娘たちの騒がしい声が聞こえ始め、今日も一日がはじまっていく。
ずっとここにいて時雨を待っていたいが、提督という職業を放り投げるわけにはいかず、他の艦娘たちを放っては置けない。けれど、なかなか行動に移せないまま時間が過ぎていき、瞬間的に空が暗くなって雨がぱらぱらと降り始めた。
ぽとぽとと雨が帽子とコートにあたってかすかな振動と音をたててくる。
さっきまで聞こえていた艦娘たちの声はなくなり、波と雨音だけが聞こえる。
だんだんと雨で体が冷えてきて、いったん執務室に戻ろうかと悩んでいたら体にあたっていた雨の振動がなくなる。雨にあたる音はあらたに増え、海や地面に当たるのとは違う音が聞こえる。
雨が降っているはずの空を見上げると、そこは丸い青の色がある。
それは傘だ。いつのまにか俺は傘の内側へと入っていた。
持っているのは誰かと傘から視線を動かす。
気配もなく横にいたのは行方不明だった時雨だった。
そう、俺が強く待ち望んでいた時雨が!
時雨は艤装を外した、黒のセーラー服姿で傘を持って立っていた。髪は出撃前に俺が束ねた三つ編みはいまだ直してなく、不格好なままになっている。
嬉しさと驚きで見上げると、俺を見下ろす時雨の表情は優しく慈愛に満ちていた。
時雨へと声を出そうとするも驚きのあまりに声がでず、無駄に口が開くだけになっている。
「提督、いい雨だね。でも、傘もささずに雨にあたるのは風邪を引いてしまうよ」
「……時雨か?」
「時雨じゃなかったら、僕はいったい何という名前になるんだろうね」
意識を集中し、やっとのことで声をだすといたずらっぽい言葉を返してきた。
そのからかいの声を聞きながら立ち上がると傘から出てしまい、体が雨に当たる。
時雨が俺を見上げ、俺が濡れないように腕いっぱいに伸ばして傘を差してくれる。けれど20㎝もの身長差があるため、傘の中に時雨はうまく入れず雨で体の半分が濡れていく。
また時雨に会えたという喜びと驚きがあって俺の頭はうまく働いてくれない。呆然と時雨の顔を眺め続けていると、彼女は可愛らしく首を傾げて待っていてくれる。
なにか言わないと。生存が絶望視されていたのに帰ってきてくれたんだから。喜びや苦労をねぎらうことを考えないと。
時雨の顔を見ながら素晴らしいことを言おうと考えていると、突然にひどい頭痛を感じ、頭を手で押さえてしまう。
「提督?」
「寝不足かな。頭痛がしただけだ」
不安げで心配そうな時雨に対して心配させまいと笑顔で答える。時雨は正直に言ってくれない俺に不満があるようなため息をつくと、俺の周囲をぐるりと見回してから言う。
「それだけならいいけれど。……提督はここで僕の帰りを待っていてくれてたんだ? さすが僕の提督だね」
時雨の安心する声を聞いているというのに、その言葉になにかの違和感を感じる。
違和感?
なにに対してだ。時雨はここにいるし、別段変なことを言っているわけじゃない。でも目の前にいる時雨が時雨ではないと思うのはなんだ。いや、きっと時雨に対して強い罪悪感を持っているからだな。俺の艦隊指揮が悪くてひどい目にあわせてしまって。
「すまなかったな」
「うん?」
「俺と出会ったばかりに辛い目にあわせてしまって」
「何を変なことを言っているのさ」
とても不満そうな時雨は俺に傘を押し付けるように手渡してくると、一歩二歩と離れてから両手をバッと空へと向けて大きく広げた。
雨に打たれる時雨の姿はどことなく寂しさと苦しさ、そして雨に濡れて髪や服が肌に張り付くことに美しさを感じてしまう。
傘へ入るようにと声をかけようとしたが、俺を見るまっすぐな時雨の目を見て言うのをやめた。
時雨は俺に向けてうなずいてから海を見て静かに喋りはじめる。
「……あなたは本当に私の半身です。あなたが一番たしかに私の信を握り、あなたこそ肉身の痛烈を奥底からわかつのです。私にはあなたがある」
この言葉は知っている。時雨に読んでほしいと言われた、高村光太郎の『智恵子抄』からの詩。今言った意味は、俺が言った言葉に対する返事なのだろう。
そして、それに対する返事は決まっている。幸いにも気に入っていた言葉だったから覚えている。
それを記憶の底から引っ張り出し、一字一句間違えないように思い出す
「あなたによって私の命は複雑になり、豊富になります。そして孤独を知りつつ、孤独を感じないのです」
同じ詩から引用した、時雨に感謝しているという意味を俺は伝える。時雨があってこその俺なのだから。
俺にとって時雨は親よりも大切な存在になっている。友情とか愛とかそんなのを超えた何かだ。
「さすが提督だね」
「そりゃ、お前が好きなのは俺も興味を持つからね」
お互い向き合ってにんまりと微笑む。
時雨に近づき、渡された傘を渡すと時雨は手を伸ばして受け取ろうとしたが、寸前に伸ばした手を引っ込めて寂しげな顔になる。
「あー、デートしたかったなぁ。提督も僕も、お互い仕事しかやってなかったし」
「俺が要領悪いからな。でも今では余裕持って仕事できるようになったぞ」
「うん、それはいいことだね」
俺に背を向け、時雨はゆっくりと歩きだす。ちょっと歩いてすぐ振り向いてくれると思ったが歩みは止まらず、どんどんと離れて行く。
「時雨」
離れていく時雨に走って近づくと、俺は時雨に傘を出して雨が当たらないようにする。
せっかくまた会えたというのに風邪を引かれては会えなくなってしまうから。
だというのに時雨は振り向いてはくれない。
「時雨?」
声をかけても返事はなく、また歩き始めていく。傘の下から出た時雨は体にあたる雨をまったく気にしていない。その姿を見て急に不安が押し寄せる。せっかく会えたというのに、すぐに離れるなんて。今、別れてしまうともう会えないという妙な予感がする。
「デート! デートをしよう! 俺も時雨もお互いに好きだからデートぐらいして当然だろう!?」
悲しみ叫び声に時雨は足を止め、振り返ってくれる。
困った笑みを浮かべながら時雨は、顔のあたりまで手を持ってきては人差し指を空へと向ける。
向けられた先は雨を降らしている雲があった。
「提督は知っているかな。この季節に降る通り雨のことを『時雨』と言うんだ」
俺の言葉に返事をせず、雨のことを教えてくる。その次は空に向けた指を海へと向けた。
時雨の指の先にある海を見ると降っていた雨がやんで雲が晴れてゆく。だんだんと晴れていく雲のあいだから光が差し込んで、海の上に淡い虹ができた。
「虹の足に僕はいるよ。そこは提督がいないことをのぞけば、幸せにいれる場所なんだ。だから、提督は自分を責めないで僕との楽しい思い出だけを持っていてよ」
時雨の寂しげな言葉をしっかりと記憶し、それを何度も頭のなかで再生する。そうしたら言葉に変なところがあった。それはまるで自分がもういないかのような―――。
慌てて振り返ったがそこには誰もいない。ついさっきまで時雨がいたはずなのに。
時雨と再会してからの全部が夢だったというのだろうか。時雨が来たのも会話したのも全部?
雨がやみ、晴れた空。呆然として海を見ていると、早朝訓練のためか鎮守府からは艦娘たちの黄色い声が響てくる。
さっきの会話が現実ではなかったことに落ち込み、力なく頭を下げる。
頭を下げた視界には影がうつる。その影は傘の影。
俺が時雨愛用の傘を持っていることに気付く。港に来たときには持ってこなかった傘。それもこれは時雨の部屋に置いてあるものだ。いったいどうしていつのまにか持っていたんだろうか。
その疑問について考えようとするが頭を振ってそれを止める。
時雨の物がここにある。
どういった理由かはわからない。でも、それでいい。
時雨がいなくても、いつでもそばに時雨がいてくれるという気がするから。
開いた傘を閉じて俺は執務室へ戻るために歩き出す。
何歩か歩いたあと、海へ振り向く。
海にあった虹はだんだんと薄くなって消えていくのが見える。
時雨と会ったのは夢とか妄想かもしれない。それでも会うことができたのは俺にとって嬉しいことだ。
そう、雨はいつかやむもの。
落ち込むような雨が降っていても傘をさせばいい。雨がやんだあとは空を見るといい。水に濡れたものが反射でキラキラと光るのは綺麗だし、もしかしたら虹が見れるかもしれない。
どんなことにも希望はある。
最後に時雨が教えてくれた気がする。
雨が降るたびに時雨を思い出すだろう。
雨がやむたびに時雨との楽しいことを思い出すだろう。心の雨も、空の雨も。