高みを行く者【IS】   作:グリンチ

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後はエピローグで一期終了。
人は心を許している相手に抱きつかれると無条件で安息の様のものを覚えるらしいです。
神経生理学としてある程度確立された考え方のようで、人間のストレスを軽減するらしとも。


1-7 思い出の地にて

駅のすぐ近くにある自然公園から、蝉が暑さを掻き立てる様に鳴いている。

空気に夏の緑の匂いを感じながら、IS学園の敷地とは無関係な道を適当に歩いていた。

コンビニで買ったワンコインで買えるハンバーガーを齧って水を飲む。

右手に巻きつく腕時計以外に、あらゆる重荷がない事実ははたして何年振りだろうか、そう考えればこの美味しくないパンでも食が進む。

魂のちょっとした応用で、潤は現在ティアの姿を模している。

店員は滅多に見ない外国人女性に驚きはしたものの、普通に処理を進めてくれた。

魂魄の能力者かつ性的なパスが存在しなければ出来ない癖に、魔法使い相手なら一瞬で変装と分かる欠陥能力だが、この世界の一般人を騙すのにはこれ以上のものはない。

変装の前後を監視カメラに記録される訳にはいかないので、カメラと人目が無い隙を利用して男女共用の障碍者用トイレに入って変装、みっちり二時間後になるまで待機して外に出た。

そのせいで昼もとうに過ぎた時間になったが、時間に追われている訳でもないので特に問題ない。

駅から出て、警官から職務質問をされたが、瞳を合わせて催眠状態に移行させて帰らせた。

今度は暗示をかけて目の前の現実からちょっと目を離させただけである。

普段なら、色々な情勢問題然り、監視の目然りで、極力目立つことを避けていたので使って無かったが、今は全く問題でない。

今や潤はただ一人の、この世界の人からすれば普通の女性でしかない。

監視用の黒服もいない、ISはステルスモードに切り替えている、隣を歩く人はいない。

有体にいえば潤は、――IS学園から脱走してココに居る。

 

「盗んだバイクで走り出す、か。 少しは自由になれる気がするじゃない、重畳、重畳」

 

ティアの甲高い声が自分の口から出る事に、凄い違和感がある。

この年、潤の身に色々な事が起こった。

元々色々な不幸な出来事に見舞われる体質だったが、それが極まったと言っていいかもしれない。

もしも、こうなる前に、自分から誰かに助けを求められたらこうならなかったのだろうか。

いや、ちょっと誰かに自分の身を委ねるだけで、ほんの少しでも気持ちを誰かにぶつける余裕があったのなら、あれ程酷い結末を迎える事は無かったと思う。

そんな簡単な事に気付かず、他人に諭されるまでどうにもならなかった。

 

「簪の事が言えないな。 我ながら情けない」

 

切欠は本音。

半開きの眠り眼で、何故こうも観察眼が良いのか。

この駅前の遊歩道を歩いている原因は、更識家で夕飯をご馳走になった夜まで遡る。

 

 

 

----

 

 

 

泊まっていけばいいという会長の言葉を断固拒否して寮に帰る、その時になって本音が一緒に帰ると言いだした。

本音は潤の監視も兼ねているので筋は通っている。

その目は何かを語りかけているかのようだったが、今の潤には分からない事だった。

そして夜――

 

「おぐりん、また隣で寝て良い?」

「はあ?」

 

これから寝ようと言う時になって、電気を消す直前に本音がそうのたまった。

既に三回やらかしているので今さらだが、何を言っているのかこの女の子は。

 

「却下だ」

「あるぇ~、もう三回もしてる事じゃん。 おぐりん、ケチだぞ~」

 

過去三回。

鈴がIS学園に近寄ってきてそれに触発されて一回目、本音が風邪を引いて歩くのも辛くなった時に二回目、ホラー特集を見た夜に一人で寝るのが怖いと言って三回目。

確かに既にした事なので此処に至ってどうのこうのと言わないが、本当に本音は『わ~い、お兄ちゃんみたいのが出来たぁー』としか思っていないのだろうか。

 

「一回ヤッたら何度ヤっても一緒だってとかいうナンパ男じゃあるまいし、女の子なんだからもう少し恥じらいをだな……何をしている」

 

反論を聞く前に、見かけ的には胎児のように丸まって寝ようとする潤の隣に枕を置いていた。

そのまま枕をポンポンと叩くと、寝転がって気持ちよさそうに伸びをする。

飄々と自然体のまま、ただしたいようにやっているとしか思えない。

キツネよりはネコの方がお似合いかもしれない。 パジャマ的な意味で。

 

「……午前中にホラーものでも見たのか」

「違うよ。 でも、こうした方がいいと思って」

「はいはい、もういいよ。 おやすみ」

「おやすみ」

 

そのまま電気を消してから数時間、潤は未だに起きていた。

本音に背を向けて、寝た時と同じく胎児のように丸まったまま、日付は変わってもずっとそうしていた。

しかし、さりとてただベッドの上でじっとしている訳にもいかない。

暗い場所でじっとしていると、その暗闇から、血まみれのリリムがこちらを睨んでいる幻覚を見る。

あの日から、消えてくれない。

勿論寝られればいいのだが、寝るともっと酷くなる。

あの日の、あの夢を、何度も見せられるのは、それほど辛い。

 

「……酒の力で寝られると思ったんだがな」

 

気絶するまで精神が全力で睡眠を拒絶するで、ずっと何かをしているしかない。

仕方がない、そう判断して、簪から頼まれている打鉄弐式の開発を進めようと起き上がった時、誰かに首根っこを掴まれ、後ろから抱きとめられた。

誰か、と言っても深夜の寮には潤と本音以外には誰もいない。

疑う余地もなく、感じる体温は本音の物で、まるで潤が何処かに行ってしまうのを必死に繋ぎ止めるかの様だった。

 

「起きていたのか? ちょっと放して――」

「逃げちゃ駄目」

「何を言って……、えぇい、お前は何がしたいんだ」

「おぐりんのしたい事」

「なら、今すぐ離して、隣のベッドに戻って朝までぐっすり寝ているんだ。 俺もそうする」

「嘘つき、寝られないくせに」

「――……、何時から気付いていたんだ?」

「夏休みの最初のほうかな」

「そうか……、すまないな、丸一月も、邪魔だったろう」

「謝っちゃ駄目、自分が悪いと思っちゃ駄目。 我慢しないで」

 

まず肩の力を抜いてリラックスして、という本音に従って体から力を抜いていく。

何故こんなに素直に言う事に従えるのかと疑問に思うものの、なぜか腕を振りほどく気になれず、徐々にどうでも良くなっていった。

簪に話した通り、最近夢見が極端に悪い。

これが良くない信号である事は知っている。

悪夢とは実は健全な精神活動の一つであり、強いストレスを受けた人間は、悪夢を見る事でストレスを発散しているのである。

ということは、悪夢が原因で寝られなくなった時、それは本当に危険な状態であるといえる。

強いストレスを発散することが出来ず、内側に貯まっていく一方になるのだから。

 

「私ね、昔からかんちゃんと一緒にいたから知ってる。 おぐりん、今、昔のかんちゃんと同じ顔してる」

「昔の、簪……?」

「おじょーさまと比較され続けて心が鬱屈して、だけど、能動的な行動は甘えだからって決めつけて、泣き言も言えずに心を閉ざしていた頃」

「――そう、かな。 いや、きっと、そうなんだろうな」

 

簪との関係は、思った以上に歪んでいたらしい。

気付いた時には改造手術を受け、意識が戻った時には大人になっていた。

泣き言を言う事は出来ず、次から次へと舞い込んでくる任務に心は鬱屈し、頼れる相手がおらず、一人で居たいと現実から目をそらし、徐々に心を閉ざしていった。

同じ形に歪んでいるのだろうか、いや歪んでいたから、こうまで親しくなったのかもしれない。

 

「それで、どうしてほしい?」

「いや――大丈夫だよ、本音。 俺は、大丈夫、一人で、何とかする」

「嘘つき。 帰る直前、かんちゃんに何を言おうとしたのか、言える?」

「――あれは、その……」

「逃げないで」

「助けて欲しいことが……」

「もう一声」

「……いや、本当にこれを言おうと――、俺は、一人前の……」

「嘘つき」

 

難しい顔で長く考え込んだ後に、絞り出すように口を開いた潤だったが、本音には本心でないと一刀両断される。

苦いものを吐きだす様な、重い口調で次の言葉を言うのには、数分の時間を要した。

 

「……誰かに、傍に居て欲しかった。 ……甘えていたかった」

 

震える声で何とか、全てを吐き出したが、代わりに体が震えてきた。

前の世界を含めれば、溜まりに溜まったストレスは最早呪いに近い。

長期にわたって放置され、回復することなく隠されてきたこの呪いは、元を辿れば脳を取り出したあの原風景にまで遡る。

誰かに助けて欲しい。

この状況から救って欲しい。

しかし、ある種成熟しているとも言っていい潤が、心から甘えられる相手なんぞ見つかることは無く、欲求を叶えるのは不可能な状態だった。

 

「やっと、素直になってくれたね。 なんでこんな捻くれた成長したのかなぁ?」

「俺は、一人前なんだ。 甘えたいなんて、助けて欲しいなんて、素直にいえないよ」

「ぜんぜん駄目駄目じゃん」

「……昔、これが出来たら一人前、って言われた事を、――俺は出来るようになった。 だけど、無理だったよ。 成長なんてしてないよ。 俺は、気付いたら大人になってた。 あいつの言葉に乗って、一人前の仮面をかぶった、子供だよ」

「どういう意味?」

「本音、お前は、自分の――いや、これは――」

「駄目、話す。 話さないと、何も変わらない。 だから、話すの。 いい?」

 

煮え切らず、現実から逃げ出そうとするようにもがく潤を見て、本音が先を急かす。

たぶん、この言葉の先が、アンバランスな成長の仕方をした元凶かもしれないと思って。

 

「――お前は……自分の脳みそを見たことがあるか?」

 

そして、実に巨大な爆弾を口から発した。

頭が処理しきれないが、隠していたことを一旦口にしたのが潤滑油となったのか溜めた物を吐き出すかの様に一気にまくしたてた。

 

「あいつら、笑ってた。 人を玩具みたいに、バラバラでグチャグチャで、俺を笑って『凄いだろ、これでも生きてるんだぜ?』って、ガラス越しに愛おしそうに微笑むんだ。 他の実験体の連中も一緒さ。 僅かに動くカエルの様な頭と、不自然な位置にある眼球が俺に、お前も俺たちの仲間だって、弄繰り回されて死ぬんだって言うんだ。 俺の脳みそを保管していたあの水が怖い、あいつらの笑顔が怖い。 水が怖い、笑顔が怖い。 誰かの笑顔を見ると 目を背けたくなる。 だけど、誰かに縋りたくなる。 だけど、誰かに優しくされると思い出す、あの時の、笑顔を、孤独を、恐怖を、辛くてたまらない。 今でも、怖いから一人でいる。 誰かに、助けて欲しかった。 こんな、バカらしい地獄から」

 

自分の胸元で泣きながら叫ぶ潤を見て絶句する本音。

本音はどこまで本当の話か疑っていたが、今の状態を見るに限り創作の類には見えない。

理解しようがない、おぞましい内容が頭の中に入ってくる。

血の色に塗りつぶされたガラスの外、死と静寂の世界、見せられ続ける自分の身体、骨、神経 内臓、脳。

凍てついて動かない永遠を思わせる孤独な時間、人生の一瞬の狭間に誰にも見られたくない世界があった。

 

「……でも、それが、なんで助けて、って言えない理由になるの?」

「……、ふふふ、あはは、『初恋の女の子に助けて欲しかった』、か。 自分の根本的願望なのに、なんで思い出すだけで笑えるんだろうな」

「えーと? それがどうなって……」

「そいつが俺を研究所に押し込んだんだ。 言えるわけ無いじゃないか。 だけど、初恋ってのは面倒でな。 夢も憧れも簡単に消えてくれなかった。 更に組み立てられて意識が戻った頃には大人になってたし、益々言える機会なんて無くなっていったよ。 俺が散々世話になった男も、早く大人に、一人前になれって言ってたしな」

 

泣き言を言えなかった原因は、潤が大人たらんとする心だった。

麻痺した心、作られた身体、崩壊寸前の上に成り立った精神は、重度の精神障害となって常に潤を縛り付けてきた。

何時か、何時かきっと報われる日が来る。

そう僅かな望みを胸に宿して生きてきたが、その日は来ることなく心は鬱屈し、そこで誰かに傍にいて甘えさせてほしいといった願いが生まれた。

その甘えたい相手は、異世界に最初に来たときに助けてもらった、貴族の女の子だった。

あの日のように、吹雪の中に放り出され、死を覚悟し、助けられたあの時のように。

それも、彼女が潤を研究所に押し込んだ遠因であり、更には敵国の貴族とあっては出来るはずもない。

そこまで喋ってようやく落ち着いた潤は、深呼吸を三度繰り返し、普段通りの佇まいに戻った。

 

「悪かったな。 ちょっと、女々しいかもしれないけど、話したら楽になった」

「人の好意が怖い、か。 でも、かんちゃんがあまりに純粋に好きって表現してくるから、つい甘えてみたくなったんだよね?」

「たぶん……、いや、きっとそうなんだろうな。 あー、それと……」

「誰にも言わないよ」

「そうか」

 

元の佇まいに戻ったと言っても、その表情は幾分穏やかなものになっている。

 

「そっか、それでかぁ。 おぐりんって優しくすようとすると逃げていくよね。 普通の人とは逆。 辛い方、辛い方へ逃げていく。 気付いてる? 最初に会った頃からずっとそうだったよ」

「敵って裏切っても意表を付いても敵じゃないか、味方は、優しさは、裏切ると変わるけど、敵意は敵意のままだから……」

「でも、それは間違いだよ。 優しく接してくれる人から逃げて、辛く当たる人の傍に近寄ったら、必ず酷い目にしか合わない。 早く大人に、一人前になれって言った人がどれだけ大事な人か知らないけど、そんな事までして、大人になる必要なんてないよ。

 すがってしまいたいのに、傷つくのが怖いから人を遠ざけようとする。 一人で殻に閉じこもってないで、誰かの手を取らないと」

「わかってる、分かってるけど……」

「受け入れなきゃ。 普通の人とは逆だけど、優しい世界を受けれないと、何時までもボロボロのままだよ?」

「言うだけなら簡単なんだけどな」

 

愛想笑いをする潤に、本音はどうでもいい世間話を暫くの間続けた。

病院で簪が気絶した時に真っ赤になって逃げだしたことを克明に話している最中、潤が船を漕ぎはじめたのを知り、自分も眠る体勢に入った。

今日ぐらいは、二人ともいい夢が見られればいいなと思いながら。

 

 

 

そのまま潤は眠り続けた。

夏休みに入ってから碌に寝ていなかったのもある。

しかし、長時間睡眠の要因は、あの手術以降において心の底から休める時間が無かった事かもしれない。

昼間になった後にトイレに行くために起きる事があったものの、部屋に帰った後には再び睡眠状態に入った。

簪と会長は別宅で寝起きしたらしく、生徒会からの連絡は特になし。

そして潤が目を覚ましたのは、就寝から丸々一日近くも経過した翌日朝六時だった。

ISを照らす朝日に導かれるように歩いて自問する。

 

自分は何がしたいのか。

本音に全てをぶちまけて何がしたかったのか。

何が出来るのか。

 

ぐるぐる頭の中で疑問が浮かんでは消えていくが、何一つまともな結論に至らない。

為したいことを為し、すべき事をすればいい、知り合いの受け売りだが、何を為したいのか分からないのではどうしようもない。

そうこうしていると、IS学園から出るモノレール駅の前まで辿り着いてしまった。

まるで自分にIS学園という土地から離れて考えてみろ、そう言われたように思えて、まるで誰かに背を押されたかのようにモノレールに乗ってIS学園を後にし――。

 

駅を乗り継いだ結果、自分が生まれ育った地にやって来てしまった。

 

 

 

----

 

 

 

「う~ん、微々たる差しかないせいで、逆に違和感が凄い」

 

駅から自宅までの道のりを、なんとか思い出そうとする。

自宅より先に、ラグビーの練習試合が行われた場所を思い出してしまったあたり、中学校時代の自分がどれだけ部活動にのめり込んでいたのか笑ってしまった。

仕方がないので、方角的に自宅がある場所に向けて適当に足を運んだ。

通っていた元母校、現在は名前が変わっており、また外見も記憶の奥底に眠るものとは結構違うように感じる。

そんな中学校の敷地周辺を一周し、夏休み中に練習に励む少年たちをしり目に堂々と校舎の中に侵入した。

勿論受付の事務員に対して暗示を掛ける事も忘れない。

設定としては夏休み明けにAETとして来ることとなっており、その下見としてやって来たという事にした。

校庭が見える場所まで来ると、ラグビー部の面々が土塗れになって練習をしていた。

それを見て、随分呆気なく涙の防波堤が崩れてしまった。

何もなければ自分もあの中に入れたのに、茹るような暑さに負けず、必死に練習をしている、あの中に。

だけど、潤の頭に僅かに残った面々、彼らと一緒になってラグビーをすることは二度とない、それが無性に辛くて、悲しい

居ても立っても居られずに、自分に対して強烈な『意識外しの呪い』を掛けると、我慢できずに静かに涙を流した。

その後、何処をどうやって過ごしたのかは分からない。

何時の間にか変装も解けていた。

もし見ている人がいたならば、一瞬で女性が男性に変わったことでパニックになったことだろう。

そして、気付いたら、自宅に帰る道を歩んでいた。

夕日に彩られた嘗ての通学路は、何もない普通の中学生だったあの頃を思い出させてくれる。

 

「宛もなく、ただただ彷徨い歩いた末にたどり着いたのが、元学校と元自宅とは――。 結局、俺は帰りたかっただけか、あの頃に」

 

自分が何で、胎児の様に丸まって寝ようとしていたのか、何故誰かに助けて欲しかったのか、甘えていたかったのかようやく分かった。

そして、なんで自分がこうも涙もろくなっているのかも。

大切な物を汚されて、自分で傷物にしてしまったからではない。

もしそうならば、鈴とは決して会わなかっただろう。

ナギと一緒の帰り道で、ティアとリリムと一緒に過ごしている中に、良い思い出も沢山あったなんて思わなかっただろう。

自分が泣きそうなのは、それらを失ったことに対して。

何時の間にか失って、失った事すら知らずに過ぎ去ってしまった、あの頃を。

そして、今――今度は無意識的にも意識的にも、『自らの意志で直視すべきだ』と思っている。

だから、中学校と自宅に足を運んだのだ。

 

――おかえりなさい

「ただい――……」

 

幻聴が、確かに耳朶を叩いた。

放置されて荒れ果てた畑――だけど、そこには潤の家があった。

家に帰ると夕食の匂いがして、庭で犬の散歩から帰ってきた祖母が出迎えてくれるのだ。

ふらふらと草を掻き分けながら畑に侵入していく。

ここに玄関があって、こっちは台所、祖母の部屋がここで、二階に上がれば俺の部屋がここら辺に――、口の中で家の間取を呟く。

二度とあの頃の自分に帰れない。

本当だったら玄関があった場所から見える景色を見て、自分の家だけが無いことに愕然とする。

 

「うぅ……ちくしょう、なんでこんなにっ……」

 

跪いて夕日を拝むように顔だけ上げた。

今度は仰向けになってオレンジと黒のグラデーションとなっていた空を見上げる。

幻覚だと知っているのに、手を伸ばせば両親の背に手が届きそうだった。

自分は伝える事が出来なかった。

何も言う事が出来ずに、ただただ普通の家庭の普通の息子として両親の手を煩わせながら、終ぞ何一つ言う事なく消えてしまった。

今日のご飯は何にしようかしらとか、今度の夏休みには一緒に旅行にでも連れてってやるかとか、潤は部活で怪我とかしてないだろうなとか、そんな何気ない事を考えながら過ごしていたはずなのに。

親として、普遍的に息子に与えていた愛情を、一方的に裏切ってしまった。

それなのに、自分はそれに縋ってここに来ている。

 

――変わらなければならない。

 

完全に沈み、今度は満天の星が支配する中で、潤はそう思った。

なにを、どうやれば、再び疑問が顔をのぞかせるも、答えは無いようで既に出ていた。

今の自分は強化手術の後に、自分の記憶をダウンロードで補強した結果根付いたものでしかない。

怖いから目を背けて作り直し、辛い事があれば継ぎ接ぎの上から蓋を乗せて隠していった。

なら、その蓋の下、作り治された物に隠された、弱い心は――?

魂魄で支配された全ての完全開放、人間が行う決意とは全く違う、いうならば仮面を脱ぎ去る行為に等しい。

言うは易く行うは難し、怪我で病院した時も、自分に向けられた魂への介入は行っていた。

何年もつけていたギプスを取り外す、もしくは生まれて初めて補助輪を取り外す行為、それが怖くないわけがない。

それでも、身体を治すためギプスは取るものだし、補助輪を外すのは当然の行いに違いない。

 

「さっさとやっちまえよ、潤。 また狂ったっていいだろ、本望なはずだ、ここで死ぬのなら」

 

自分に言い聞かせ、――瞬間、潤の身体を根本から包んでいた何かが消えた。

 

「……ぁ、ぁぁああアアあアァあァァっ」

 

その効果が、どれほど潤を苛んだかは分からない。

何とか感情の激流をせき止めようと、喰いしばった歯からは血が滴りだす。

どうしようもなく瞳が震え、涙が後から後から溢れだす。

 

――こんなに

 

自分が傷ついて、憤るだけしか出来なくなって、それが運命だと知った時もこれ程悲しくなかった。

記憶にある一つ一つの別れが絶え間なく虚無感を伝えてくる。

そして悲しみの数だけ絶望があって、それを覆して余りある悲しみだけが身体を貫いていく。

 

――なんで、なんでこんなに、悲しいんだろう……

 

 

 

 

 

頬に何かが当たって目が覚めた。

目を開ければ違和感、今まで胸に抱えていた物が無くなった感触。

 

「……」

 

手で頬についた何かを払うと、朝露に濡れた木の葉が手にくっついた。

泣きつかれて寝てしまったらしい。

身体に異常は感じられない。

感情が無い状態からダウンロードしてつなぎ合わせた作り物の魂、それを取り払ったのに自分は狂わずに済んだ。

とりあえず、そこに安心する。

意識外しもしていないのに、誰にも気付かれることなく四時頃まで寝続けられるとは、相変わらず悪運だけは強い。

夜の淀んだ空気を騒がしながら吹く風に、青葉を濡らした朝露が地に落ちる。

 

人間は、不完全で不器用だ。

ちょっと強くなっても、時間が経てば簡単に別の弱さと儚さが露呈する。

だから、強くなろうとする。

虚勢を張って強いつもりだった自分は、その裏側には弱いままの自分がいた。

 

夜も朝も関係なく、ともすれば夢や幻の続きではないかと思える時間が過ぎていく。

暫くすると、空の彼方を朝日が照らし始め、荒れた畑に群生する草を照らし付け、露に反射してキラキラ輝く。

何か救われたものを感じ、そのまま朝日が顔を出すのを待つことにした。

時が止まってしまったかのように静かな空間で、ただ深々と塗り替えられていく世界。

 

立ち上がろう。

今までとは違う、新しい今日が来ると信じて。

立ち上がった自分の目に映るのは、限りなく広がる世界。

 

 

 

「父さん、母さん、いってきます」

――いってらっしゃい

 

 

 

今度は確かに聞こえた。




結局潤が立ち直った要因は、居ない家族、幕間1-1で言われた仮面云々、それと本音。
これで本音がヒロインじゃないという不思議。


追記
1/10 18:00に次話投稿します。

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