刀風見聞録   作:kai、心機一転。
<< 前の話 次の話 >>

5 / 6
一斬之宴之一

Ladies and gentlemen(御足労願えた者達よ)

 

 人間の健康に害を及ぼす紅い霧が幻想郷を覆うという一大事件は、博麗の巫女が首謀者であった幼き吸血鬼を撃破したことにより見事解決と相成った。

 

 勿論あれだけ大規模な異変に見舞われたのだから、短期間で綺麗さっぱり元通りとはいかない。しかし人間の里には少しずつであるが活気が戻りつつあり、店を構える人間の中には既に営業を再開するという決断に踏み切った者もいる。また、霧に含まれていた魔力の影響で体調を崩していた者も、霧が晴れるのを追うように不調が体より抜け出していき、今では例外なく全員が日常生活を全く不自由なく送れるまでに快復している。

 

 そして、人間の里以外の地においても異変解決の一報が届いたために警戒態勢は解かれた。幻想郷は、異変解決より数日を経てようやく日常の大部分を取り戻したと言えるだろう。

 

 だけど、それは幻想郷という狭くも広い世界の全体を概観した時に出てくる感想だ。焦点を絞り個々人の単位で詳らかに見ていけば、今回の騒動で手痛いダメージを負った人妖は幾らかいた。

 

 例えば、紅霧異変の首謀者であるレミリア・スカーレットは、既に完治しているとはいえ博麗 霊夢と差し合った弾幕ごっこにおいて決して軽くない霊気障害や火傷を負っている。他にも紅魔館に仕える妖精メイド達の多くがうっかり鬼人(みこ)の前に姿を見せてしまったばかりにほぼ漏れなく予定外のお休みを頂戴し、門番を務める紅 美鈴は久方ぶりに出会った強敵との一戦の機会を逃したことが原因で若干の不機嫌が暫く継続した。

 

「美しい月が何物にも遮られぬ今宵、この紅魔館にて素晴らしい宴の時を過ごしてほしい。私が全幅の信頼を寄せるメイド長、十六夜 咲夜によって調達された最高級の山海の品々は彼女の手によって姿形を変えられた。まさに別次元、最早芸術品と称するに値する食事のそれぞれを、是非とも心ゆくまで堪能してもらえればと思うよ」

 

 それでは、此度の異変の最中で最も大きな怪我を負ったのは、一体誰であったのだろうか。

 

「珠玉の皿々をこちらに見ながら長たらしい挨拶を望むという酔狂な者は少ないだろう。故に場の皆には、ここで赤ワインの用意されているグラスをお持ち願おう。銘柄はscarlett、味については私が保証する。…それでは以後の音頭は、悔しいことに我々を打ち倒した張本人である霊夢に任せるとしよう」

 

「ん。…それじゃ、今回このちび吸血娘がやらかしてくれた傍迷惑な異変の解決を祝してー」

 

「おい待て」

 

「乾杯」

 

 かんぱーい、という幾十重奏のハーモニーが紅魔館に特設された宴会会場に満たされる。その中にはくすくすと、霊夢の乾杯音頭の一部を面白可笑しいと言うかのように笑う声もあり、羞恥やら怒りやらで頬を赤く染めたレミリアが霊夢に文字通り牙を剥いて食ってかかるが当の本人は何処吹く風といった様子である。

 

 霊夢はそのままご立腹のレミリアを放置して、舞台を降り一直線にある妖怪の元へと歩いていく。背中にぎゃいぎゃいと罵倒の言葉を浴びせられながらも動じず、道中で他称スキマ妖怪にいつもより数段早足であることを指摘されながらもあーはいはいとそっぽを向いて聞き流す。ちょっかいをかけられるのは割といつものことだから、今更それは本当かと動じることもない。そっぽを向いたのは動じた証拠なのではないかと考えるのは、諸々の事情より推奨されないことである。

 

「あら。そんなに急いで戻ってこなくても、暫くはここでじっとしてるつもりだったのに」

 

 霊夢がつかつかと近づいてきたのを横目に認め、その妖怪は手に持ったワイングラスを置いて彼女の方へと視線を投げた。茶髪をツインテールに結い、何処となく眠たいようにも見えるとろんとした目は警戒心というものを感じさせない。宴会の序盤も序盤だというのにそんなに眠たげで、この後大丈夫なのかと霊夢は呆れ半分に思った。

 

 ツインテール少女は、とある理由より今回の宴会に参加した人妖の中で大きく浮いてしまっている。尤も、本人は周囲の一部が自分に向けてきている奇異の視線に対して完全に無関心であるが。

 

「それにしても、良い音頭だったと思うわよ。霊夢」

 

「そう」

 

「おいおい、はたてに褒められたからって照れてんなよなー霊夢。しかも隠したつもりかも知れんがバレバレなんだよ、だってお前が照れ隠しする時は決まって近くにある飲み物を目ぇ閉じながらぎゅっ」

 

「余計なことをぺらぺらと言い続ける口には、しっかりと蓋をしとかないと。雑言はお酒を不味くしちゃうもの」

 

 姫海棠 はたては、車輪を付けるなどの幾らかの改良を加えられた金属製の椅子に腰掛けている。それは製作者である動かない大図書館によって可動式椅子と命名されているが、はたてが皆と同じように革の椅子に座ることなくこの物々しい椅子に座っているのには、それなりの理由がある。

 

「ぅ、うー!うーっ!!」

 

「あら、可哀想な魔理沙」

 

「針飛ばさなかっただけ有り難く思って欲しいわ」

 

 彼女は現在、数日前に負った身体的な重傷が原因で血液の量が不足しており、少しの距離を立って歩くことにすら億劫さを感じているのだ。加えて明らかでなかった意識が戻ってからのはたては、一日の殆どを充てがわれた部屋のベッドの上で過ごしており、足の筋力の著しい低下は予想に難くない。そんな彼女が宴会に参加して色々な所へ移動できるようにと、不動図書館の善意で作成されたのが可動式椅子である。ちなみに作成者は豊富な知識を有する賢明な魔法使いであるが、別段魔法的な処置が施されたりということはない。言うなればそれは、動かせる金属椅子だ。

 

 はたての乗る可動式椅子には押し手が付けられており、誰かの手によって押されたり引かれたりすることで椅子を動かし彼女を望む場所へと移動させることができるようになっている。魔理沙がはたての部屋から宴会会場までの動かし役を務めていたが、先程の失言により発言の自由を制限されてしまい、役目は速やかに霊夢へと引き継がれることとなった。

 

「むー、うー!むぅー!!」

 

「そんなむきになんなくても、簡単に剥がせるわよそれ。私が込めた霊力をそれより強い力で上書きしてやれば一発よ。それか二週間くらいほっとけば自然に剥がれるかしらね」

 

「……!?」

 

 魔理沙、絶句。爪楊枝を叩きつけて西瓜を割れと言われているにも等しい絶望感が、彼女を現在進行形で襲っている。簡単って、何だっけ。難しいの上位存在だったっけ。これはまずいことになったと、魔理沙が辺りを見渡して助けを求められそうな友人を探すが、そもそも最も頼れる親友が貼り付けてきた札である。大妖怪の力を借りれば何とかなる可能性は高いが、こんな格好で助けを求めに行ってもくすくす笑われるか冷笑されるかの二択だろう。尊厳的な問題で、大妖怪への助力要請は選択肢から外れてくる。

 

 事ここに至っては自力でどうにかする他にないが、彼我の霊力の差はあまりにも膨大だ。霊夢にとっては軽く力を込めただけの札なのかも知れないが、魔理沙からすれば堪ったものではない。全力で解呪に当たってようやく取り外せる目処が立つかどうかというくらいの難題なんぞ、解決した頃には宴会が終わって皆帰ってしまっているに違いない。嘘だろう、喋れないことはおろかこんな美味しそうなあれやこれやを一口も食べられず、美味そうにぱくぱく食べる親友や知り合いを黙って見ていることしかできないのか。唐突に目の前を遮った頑丈過ぎる壁の前に、魔理沙は膝を屈しようとしていた。嗚呼、せめて湯気と黒胡椒でモノクロに彩られたあの分厚い肉を一枚だけでもどうか。

 

「こら、霊夢。あんまり苛めてあげないの」

 

 だけど、どうやらまだ魔理沙は絶品料理に見放されていなかったようだ。全く、と苦笑しながらはたてが魔理沙の口元へと右手を伸ばす。そのまま博麗謹製のお札に躊躇うことなく触れ、数秒静止。それから端の方をつまんでぺりぺりと剥がしてやる。

 

「ぷぁっ。助かったぜはたて、割り合い真面目にな」

 

「魔理沙も、あんまり霊夢を茶化さないのよ。こいつの照れ隠しが苛烈なのはあんたも知ってるでしょう」

 

「善処するよ」

 

 しねぇな。この瞬間、はたてと霊夢の思考はあたかも瞬間的に最高の綿密さで同期を行ったかのように完全に一致した。整合率は九割九分の域を超え、十割となるに至った。同一世界に全く同じものが複数個存在するはずがないという自明の理(アプリオリ)が見事に忘れ去られた大変貴重な瞬間である。

 

「ったく、この調子乗りはいつまでたっても懲りやしない。ま、今は良いか。食べ始めましょ、料理が冷めちゃうわ」

 

 言いながら霊夢は舞台の方へと歩いていき、数枚の肉と焼き魚一匹、そして豆腐を主役とした味噌汁を用意していく。テーブル上に予め用意されていた料理達を、これまた予め置かれていたお皿だのお椀だのに入れて完成である。

 

「肉以外は朝ご飯じゃねーか。今は夜だ、どうせ食材も金もレミリア持ちなんだし弾けちまおうぜ」

 

「初めっから飛ばしてたら胃がもたないでしょ。最初の方は軽めにしておくのがより沢山の料理を食べるコツよ……聞いちゃいないわね」

 

 この宴会における食事形式は、ご自由にお取り下さいである。英名にすればバイキングとなるだろう。参加者は舞台のほぼ真下辺りに隣接されたテーブルに用意されている和洋中様々の料理や飲み物を食べたい分だけ皿などに取り、そして自分の席に戻って食べるのだ。ちなみに久しぶりの宴会ということで弾けていく心積もりの魔理沙は、各テーブルより見境をなくしたかのように料理を掻っ攫っていった。周りにいた妖怪達を勢いだけでドン引かせるその姿はまさに暴君、暴食の罪を背負った人間の所業であった。

 

「はぁ。魔理沙の食欲は一体何処からやってくるのよ」

 

「あんたも大概」

 

「はたての作るご飯は私好みの味だから、ついついお箸が止まらなくて食べ過ぎちゃうのよ。…っと、それよりあんたもワイン傾けてばっかじゃお腹が物寂しいでしょ。連れてってあげるから、好きなの選びなさいよ」

 

 盆持ちは魔理沙にでもさせれば良いわ。事もなげに彼女を雑用係に任命する霊夢に、はたても本日二度目の苦笑い顔である。はて、自分はいつ魔理沙を専属の給仕か何かとして雇ったっけか。…だが、持ってくれるというのであれば、その実それははたてにとってかなり有り難いこととなる。

 

 はたての負った重傷。それは、左腕の大部分の焼失である。

 

「助かるわ。うーん、私も一先ず和食が食べたいわね。その魚とか、美味しそう」

 

 霊夢が吸血鬼の根城である紅魔館へと攻め込み、見事レミリア率いる人妖を撃破して異変を解決した。ここまでは多くの里の人々や妖怪が知るところであり、事実それは間違っていない。…だが、異変終了より数日を経た今で尚、ごく少数の者だけが何とか解決されて大団円かと思われた後に起こったことについて知っている。衝撃的な瞬間を目撃した、或いはしてしまった者の頭数に至っては、二桁にも達しない程だ。

 

 何にせよ、片腕で幾つかの料理を乗せた盆を床と平行に保つのは難しいことだ。高確率で手を滑らせるかして、咲夜が丹精込めて作った料理をみすみす無駄にしてしまうことだろう。そんな勿体ないお化けが現出するようなことをしてしまえば、彼女に申し訳が立たなくなってしまう。だから、盆を持ってくれる人が付いてくれるならはたてとしては嬉しいし有り難い。

 

「あんた白身魚は好きだったわね。…魔理沙、とっととこっち来てはたての料理を持つの手伝いなさい。お手伝いさんの本領発揮よ」

 

「誰がお手伝いさんか。料理置いたらそっち行くから、ちょっと待っててくれ」

 

 こちらはトレーを色とりどりの料理で彩った魔理沙、すたすたと足早に席まで戻りトレーを置きに行く。彼女が手助けにやってくるまでの間、はたては取りたいご飯をある程度見繕うことにした。胡麻のドレッシングが傍らに備えられているレタス主体のサラダは間違いなく頂くとして、あとは何を食べようか。魚、サラダと来れば次に候補に挙がってくるのは主食であるが。

 

 数秒だけ考えて、単純に白米をよそうことにした。傷の一つも付くことなく黒光りする釜の中を見てみれば、米粒各々が自己主張激しく聳え立っている。さぞかし食べ応えと甘味をふんだんに有しているのだろう。

 

「大体取るものは決まったのかしら」

 

「えぇ。霊夢の食べてた魚とあそこのサラダ、それで白いご飯にしようかなって」

 

「……くっ」

 

「何でちょっと悔しそうなのよ」

 

 おのれ女意識の塊が、と忌々しげな視線を向ける霊夢に、はたても若干呆れ顔だ。そういうあんただって肉に魚にお味噌汁と、大体健康志向な献立じゃあないの。そう言ってやれば、目に宿る恨めしげな光がさらに強くなる。

 

「あんたは自らに体重制限でも課してるのかしら。お肉食べなさい、お肉」

 

 まだ本調子を取り戻していない烏天狗にボリューミーな肉を食べさせようとするとは、この巫女中々に手厳しい真似をする。はたてだって一枚くらいあの発色鮮やかな肉を味わいたい気持ちは持っているのだが、念のためを考慮すると取り箸も伸びないというものである。一口齧ってやっぱり食べられませんと箸を置くのは、料理担当の彼女に失礼だから。

 

「肉は血を、そして活力を作ってくれるぞ。貧血気味の天狗にゃお勧めの一品だ。さぁ食え、皿には私が入れといてやろう」

 

「お腹周りが気にならない女は女に非ずよ。あんたも女なら潔く私達と同じ悩みを持ちなさい」

 

 参った、どうにも妙な乙女回路が二人の中で作動してしまったらしい。確かにお腹周りの余計な肉は素早い動きを妨げるものであるので、できれば付けたくないのも事実ではあるのだが、別段そういう理由で肉を選ばなかったわけではない。

 繰り返すが、今現在のはたての体調はお世辞にも万全と言えるものではない。諸悪の根源は大別して二つ、即ち重篤な怪我による多量の出血と腕の喪失による平衡感覚の消失である。療養のためじっとベッドで寝ていても、まるでベッドが傾き自分を滑り落とそうとしているかのような感覚に襲われることがあるのだ。ぐらぐら揺れる視界のせいで嘔吐いたことだって、一度や二度では済まない。

 

 ……肉、食べたくても食べられやしない。そんなはたての内心など知らず、何かに取り憑かれたかのように一枚、二枚と分厚い肉を皿へ盛り付けていく魔理沙。動きたくても今の彼女は自力での移動が困難な身、はてさてどうしたものかと思い始めた丁度その時、救済措置は音もなく魔理沙の後ろに立った。

 

「へへ、肉が一枚二枚三枚……」

 

「こら」

 

「い゛っ!?」

 

 ごぃん、という鈍音が聞こえたような気がした。いや、確かにその音は鳴らされたのだろう。魔理沙の頭を楽器として、そして。

 

「皿は貰うぞ。…さて、霊夢。こっそり逃げようと言ったってそうは私が卸さないよ」

 

 勢い良く伸びた尻尾が、くるりと霊夢を絡め取った。一瞬の早業に、おぉっと事の成り行きを見守っていた観衆から歓声が上がる。

 

「きゃっ!し、尻尾を使うのは卑怯よ」

 

 何かと便利そうねぇとはたてが羨ましがる一方で、腕から足までしっかりと捕縛された張本人は身を揺すり何とかもふもふの戒めから逃れようとする。

 

「立派な私の体の一部さ、誰が文句をつけられようか」

 

 だがしかし、哀れ豊かな毛並みが霊夢から離れることはない。尻尾の持ち主はそのまま霊夢の元へと歩み寄っていく。これは不味いとばかりに抵抗を強めるも、微塵も拘束が緩む気配は無い。

 

「…主張の諸々もあるだろうが、一先ずお前にもお仕置きだ」

 

「ちょっと待ちなさい。あんた、良いの?」

 

「と言うと」

 

「はたてのふっくらした姿、見てみたいでしょう」

 

「それはあいつの体調がもっと安定してから、だっ」

 

「だぁっ!?」

 

 ごぉん、という音もまた一人の少女の頭部を楽器として奏でられた音色なのだろう。というか今、遠回しに見てみたいことを否定はしなかったような。

 一足遅く尻尾の縄から解放され、魔理沙と共にあああぁぁと頭を抑えて蹲る霊夢を他所に、その少女は伸ばした尻尾を元の鞘に収めてから一仕事終えた風に一言呟いた。

 

「全く、怪我人に大食を強請るものじゃあない」

 

 皿の肉は、二人で分けさせよう。そんな残酷な決定を下して、少女は踵を返してはたての前に立つ。

 少女としては、かなり長身な部類に入るだろう。加えて重厚な尻尾が沢山連ねられており、それが益々彼女の存在感を大きなものにしている。体のラインを覆い隠すゆったりとした中華風の道士服に身を包み、それでもなお胸部を押し上げる母性の象徴は異性のみならず同性をも虜にするだけの官能的な魅力に満ち溢れているに違いない。

 

「あら、久しぶりねお狐様。貴女も来ていたの」

 

「久しいなはたて。なに、紫様の周辺のお世話だよ。しかし今はお暇を頂いた身だ、少し話でもしようじゃないか」

 

 普段は袖の内で手を組みスキマ妖怪の後ろに控える九尾の狐 ーー 八雲 藍は、皿を片手に十年来の友人に向けて微笑んだのであった。

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「紫様より事の一部は聞いたぞ。随分と大立ち回りを演じたんだとか」

 

「何でいなかったはずのあいつが知ってるのよ」

 

「さぁな。見ていたのか、はたまた当事者達から聞き出したのか。そこまでは仰らなかったから、何とも言えん」

 

 はたては藍に椅子を押してもらい、席まで戻ってきていた。今は、二人してワイングラスを片手にお喋りの真っ只中である。なお、ご乱心を起こした二人は未だ頭部を襲う激しい痛みに苛まれている。面白いものを見たと言わんばかりのレミリアの忍び笑いにも、反応を返せていない。

 

 当の本狐は、それを気にすることはない。グラスを傾け、ちらと視線をはたての左腕があった場所へと向ける。そこは今や、短い袖がひらりと揺れるだけだ。

 

()()、どれくらいかかるんだ」

 

「痛いのはご勘弁だし、ゆっくり治すつもりよ。そうね、半年から十月程を目処にしようかしら」

 

「良い判断だろう」

 

 だけど、腕の欠損は妖怪にとっては取り返しのつかない最悪の事態でない。時間こそ必要となってくるが、完治が可能なのである。だからこそ藍は友人の痛々しい姿を見てもさして動揺しなかったのである。

 

「うん。物々しい椅子に乗っているものだからどうなのかと思ったが、元気そうで何よりだよ」

 

「そりゃどうも」

 

「そんなはたてに、もう少しだけ元気が出るであろう耳寄りな情報をくれてやる」

 

 耳を傾けてくれ。きょろきょろと安全を確認するように周囲を見渡してからそう言う藍に従い、はたてはどうぞと耳を貸す。何だろう、里で甘味が値引きでもされているのか。

 

「紫様のことなんだがな」

 

「あいつがどうしたのよ」

 

「今でこそ悠々と杯を傾けておられるが、お前が大怪我を負ってから暫くは柄にもなく意気消沈されておられてな。無論、お前を案じてのことだ」

 

 ほほぅ。それはまた、面白そうな。

 

「詳しく聞きましょう」

 

「そう来なくてはな。…それでだ、家では二言目には彼女大丈夫かしら、無事なのかしらと思案顔で呟くんだ。生きているとのことですと報告したら、今度は体調を案じ始める始末さ」

 

「あの紫が?」

 

「あの紫様が、だ」

 

 こそこそと、幻想郷屈指の大妖怪達が噂話に精を出す。面白いと直感で悟ったら掘り下げたくなる、だって好奇心旺盛だもの。況してやそれが神出鬼没の賢者の思わぬ一面であれば、もう止まらない。

 

「はたてには悪いが、正直に言って笑いを堪えるのに苦労したよ。お前の容態が安定してからも話すことの半分以上がはたては云々でな、全く初恋を覚えた乙女かと」

 

「ぷっ。ちょっとやめてよ、全ての青き春に全力を尽くす少女に対する冒涜よ、その台詞」

 

「だってなぁ。色恋沙汰に現を抜かすなどという御歳ではないだろう。外見こそ若々しくていらっしゃるにせよ」

 

「良いじゃない。幻想郷は全てを受け入れるんでしょ?それはそれは、残酷なことだってあいつ本人も言ってたじゃないの」

 

「…『積んできた年季が違いますわ』」

 

 はたて、哄笑。声の高さから特有の胸焼けを起こしそうなくらい甘ったるい語尾まで、限りなく本物に近い再現率だったのだ。これを笑わずして何を笑えというのか。

 

「ひー、ひー……。ちょ、あんた滅茶苦茶似てたわよ今の。そんな特技があったなんて聞いてないわ、不覚にも笑っちゃったじゃない」

 

「長年傍にお仕えしてきたんだ。声の一つや二つ、真似もできるようになるさ」

 

「もうそんなに時が過ぎたのねぇ。光陰矢の如し、ですわ」

 

「だからそれは破壊力高過ぎるからやめてってば。もう、笑いの余りワインも落ち着いて飲めないわよ」

 

 くっくっ、とお腹の痛くなる笑い方をするはたて。どうやら藍の知られざる十八番(ボケ)がよっぽどお気に召したらしい。友達同士で喋っていれば何を話しても面白いとは、こういうことなのだろうか。

 

 一頻り気の済むまで笑って、それからちらりと藍の顔を見る……が、様子がおかしい。先程まで悪戯めいた笑みを浮かべていたのが、何故か頬を引き攣らせ顔を強ばらせている。

 

「藍?どうしたの……

 

 かたかたと手に持つグラスを小刻みに震わせる藍の後ろに、現時点で最も見えたくない妖怪が見えてしまった。

 何処にでもいて、それでいて何処にもいない境界の大妖怪。目撃情報は極めて稀なもので、力の底もろくに判明してやいない。趣味、特技ともに不明であるが大抵の事は単独でやってのける。外見は十代の少女であるが、その実御歳云千歳のお婆

 

「と・こ・ろ・で。仲の良いお友達同士、どんな話をシテタノカシラ?」

 

「き、聞くのは野暮というものでしょう」

 

「あらぁ。私についての話が、野暮扱いなんて。酷いこと言うわぁ」

 

「…ハハハ……」

 

 筒抜けかい。もう何と言うか、気が遠くなりそうだった。一体どうやって会話の内容を知るに至ったのだろう。もし純粋な聴力で聞き取ったというのなら、地獄耳どころの話ではないのだが。

 

「うふふ、おイタをするお口にはお仕置きが必要ねぇ」

 

己の欲せざるところ人に施す勿れ(どうかお許しを)

 

義を見てせざるは勇無きなり(許すことを許さないわぁ)

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 結局、怪我人ということが考慮されたのか、デコピン一発で許しを頂くことができた。かこぉんと鹿威しのような小気味良い快音こそ響いたものの、これだけで済まされたと思えば大変な僥倖である。

 

「もぅっ、年齢を笑われれば誰だって傷つきますわ。八雲 紫も心まで無敵ではありませんのよ?」

 

「…ごめんなさい」

 

 但し、新たな怪我人が登場してしまったが。はて、ぷりぷり怒る紫の後ろで横たわっているあの狐は生きているのだろうか。時折びくんびくんと痙攣してはいるが、起き上がる気配は微塵も感じられない。嗚呼友よ、まさかお前をこのような形で無くすなんて思わなかった。

 紫がその細くしなやかな腕を藍の首にかけたところまでは、見えた。何をするのかと見ていたら、突然藍が白目を剥いてひっくり返ったのだからびっくり仰天である。しかもご丁寧に落ちかけたワインを直前で救出し、一滴も零さないという一芸のおまけ付きだ。

 

「女の子を笑った罪は重いわよ。腕が治ったら、またこき使ってやるんだから」

 

「たすけてれいむ」

 

 訂正、お仕置きは後に回されただけであった。嫌だ、紫に使われるのだけは嫌だ。

 プライド云々は、別段気にしない。妖怪としてどちらが上かと言われれば、議論の余地なく紫なのだから。水は方円の器に従うのが世の定理であり、器を超えて暴れ回る水はじゅわっと蒸発させられるものだ。…本当に危ないところにあっさりと送り込まれるから、断固拒否したいというわけである。

 

「何よぉ、こき使うって言っても死地に叩き込むような真似はしないわよ」

 

「十年前にしたじゃない」

 

 まだ十にもならぬ幼子を、花の大妖怪や後戸の秘神と一括りにして敵陣に赴かせたじゃあないか。決定的な前科持ちだ、信用ならない。

 

「あれは特例ですわ。何せ幻想郷の危機でしたもの」

 

「私の命の危機でもあったけどね」

 

「文句言わない。人的補償と称して紅魔館のメイドにするわよ」

 

 やりかねない。こいつがやると言ったなら、それは起こり得るのだ。涙を飲んで、はたては反抗を止めた。流石に紅魔館への配属は、何らかの要因で死ぬ予感しかしないので御免である。

 

「それにしても、寝入りの深い狐ねぇ」

 

「きっと自力では起きられないのよ」

 

「だらしないわぁ。八雲の式として、過眠は許しませんわよ」

 

 すっと跪き、顔を藍の耳元に近づける。

 

「ぎゃおー。たーべちゃうわよぉ」

 

「ひぃっ!?」

 

 うわ、きっつ。浮かび上がったその思考を、脊髄反射で封じ込める。バレれば、今度はもう少し容赦のない罰が襲い来るだろう。結界を安定させるための礎になりなさいと通達される可能性すら、否定しきれない。

 

「こーら。床で寝ないの、はしたない」

 

「……申し訳ございません」

 

「分かれば良いのよぉ。それじゃあ、私は向こうに戻るわね。どうぞ引き続き、お楽しみなさいな」

 

 ふりふりと手を振りながら、紫は元の席へと戻っていった。行ってらっしゃいませ、と彼女を見送った藍は、人混みの中に姿が隠れたことを確認。

 

「はたて」

 

「何かしら」

 

「私の首は、付いているか?」

 

「私には付いているように見えるわよ。少し傾いているようだけど」

 

 良かった。藍は心底安堵したように呟いた。まぁ、確かにあれは首が捥げたと錯覚しても仕方がない。はたての目にすら留まらない早業で何をしたのかは分からないが、はっきりと聞こえたばぎんという破砕音が藍の受けたダメージを物語っているだろう。

 

「痛たた…。情け容赦の無いお方だ、全く無慈悲な」

 

「さっきの今で、勇気あるわ。聞かれたら、またやられるわよ」

 

「この距離でどうやって聞こえるんだ。きっとさっきのも、何かの偶然が折り重なった結果だったんだよ」

 

「はぁい」

 

「あっ……」

 

 もひとつ、べぎん。








※この小説はログインせずに感想を書き込むことが可能です。ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に
感想を投稿する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。