かぶきものについては私の考えです
慶次はここに来るまでの経緯を述懐した。
「なるほど。それでここにいるわけか」
「あぁ。まさか路銀が切れるなんて思いもしなかったからな。借りを返すってわけでここに居させてもらったわけだ」
何が可笑しいのか慶次は大きな目を細め、豪快に笑っていた。
つい先日のことだったらしい。宿に泊まっていたのだが食べ歩きをしているうちに銭袋が空になってしまい、代金を払うことのできない慶次は女将に、宿を追い出されてしまい、身一つの状態になってしまった。そして路頭に迷いつつあった彼に救いの手を差し伸べたのが一葉だった。
「……ならば余のところに来ぬか?」
粗方、慶次の話を聞き、久遠は頷いた。改めて腕を組み直すと慶次を見る。
彼の傍らには満面の笑みを浮かべる一葉がいた。
「おい。なぜ隣に一葉がいる。それに近いぞ。は・な・れ・ろ!」
久遠は一葉を引き離そうとした。
「な、なにをする久遠!」
「うるさい!慶次は我が先に……」
(先にっ! ……!!?)
心の中で続こうとした言葉に思わず言葉が詰まった。
「先に? なんじゃ?」
悪戯っ子のような笑みを浮かべる一葉。この状況を楽しんでいるらしく、ますます慶次にくっついた。
「ううぅ……さ、先にぃ‥‥‥」
言葉を途切らせながら、恨みがましい目を向けて、同時に目尻に光る涙が溜まっていった。
ついに見ていられなくなった慶次は助け舟を出す。
「おいおい、いじめないでくれさ。俺の主なんだ」
それから半刻が経ち、一葉たちは来客のために退出することになる。それに伴いお側衆の幽もついていく。
「久遠。これからよろしく頼む」
去り際に、一葉は久遠に向かって、言葉をかけ、久遠は了承するように頷いた。
「うむ。こちらこそ」
続き、一葉は慶次に視線を向けると微笑んだ。
「ではな慶次」
一言告げ、部屋を出ていった。
「色男殿は大変ですなぁ」
幽は含みのある笑顔を見せながら、呟いた───ぴかーん。慶次の悪癖が発動してしまう。
「嬉しいねぇ。アンタみたいな美女に言われるとは今日はついてる」
一瞬、驚愕の表情を浮かべるがたちまちに消えた。
「……おやおや。そのように取られてしまいましたか」
腹に一物でも抱えてそうな言葉を残し、一葉たちを追うように、この場を去った。
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京での情報収集と謁見を無事に終えることができた彼らは美濃への帰路についていた。
「はぁ~堺といい、京といい色んなことがあったなぁ」
馬に揺られながら青い空を見上げる剣丞はそんなことを口にした。
「そうですねぇ~。まさか生きているうちに公方さまのご尊顔を拝めるとは思っても見ませんでした」
元々野武士の棟梁だった転子からすれば身分一葉に会えたことが驚くべきことであり誇れることでもあった───らしい。
「それに妹君にも会うなんて考えなかったよねー」
「ですが幕府と繋がりを持った以上、織田の動きも変わってきます。気を引き締めなければなりませんね」
「そうだな‥‥‥それより剣丞」
「んー?」
間延びした声で返事をする。
「確か浅井のところに寄りたいという話だったが、いかにする?」
「そうだなあ……」
剣丞は暫く腕を組みながら熟慮していると、唐突に口を開く。
「……一度は挨拶しておこうかな。偽物とはいえ夫なんだし」
「ならば少し寄り道をするか」
「ではここより北上し、小谷を目指しましょう」
剣丞の提案により織田のもう一つの同盟相手、浅井の居城である小谷城に向かうことになった。
「ふわぁ~あ。浅井に行くのか。何日くらい滞在するんだ?」
大きなあくびと共に今まで話さなかった慶次が入ってくる。
「うむ。五日ほどを予定しているが……何かあるのか?」
「特にはない。まぁ、久し振りにあいつらと会えるからな」
「なるほど。市と眞琴は慶次のことがお気に入りだったからか」
「そういうことだ。しっかし土産でも買ってこれば良かったな……」
ため息と共に知っていたらなぁと慶次は思った。いや原作として知ってはいたのだが、連日の出会いにより、すっかり頭から抜け落ちていた。
「実はですね……慶次さま」
ひよが待ってましたとばかりに自分の麻袋をごそごそといじるとある物を取り出した。
「じゃーん!お土産買ってきましたー!!」
ひよが取り出した物は金属製の手袋のようなもの。所謂格闘具である。
「ははーん。やるじゃねぇかひよ」
感嘆の声を上げてひよの買ったお土産をまじまじと見つめる。
「市が好きそうな形だ。これは喜ぶな」
「ですよね!ですよね!いつも使っているものの最新版を買ってきたんですよ!」
二人が市の土産で盛り上がっている中、剣丞は問うた。
「久遠。あれってさ手にはめるやつだよね?お市ちゃんってどんな子なんだよ?」
「市は活発な娘でな。子供の頃はよく壬月や慶次を相手にして暴れ回っておった子だ」
「ええ!?壬月さん相手に?ってそうか子供の頃だもんな二人とも手加減してるよな。驚かさないでくれよぉ久遠」
ハハハと茶化すつもりで笑い飛ばした。
「いやガチだぞ」
「……へ?」
至って真剣な表情で言われ、素っ頓狂な声が出る。
「二人ともいつもの数倍は真剣になっていたな」
だんだんと顔が青ざめていきついにはボソボソと「漢女な姉ちゃん」、「ぶるぁぁぁぁ!」などと呟き始めた。
「け、剣丞さま!?」
「ひよー!剣丞さまが!?」
詩乃と転子が剣丞を介抱しながらも道中を楽しみながら一行は小谷への歩みを進める。
しばらくの間馬に揺られていると小谷城が見えてきた。
「あぁ……美しい。山々を覆う鮮やかな緑の中慎ましげに姿を見せる城館はまるで海に浮かぶ小舟のような──」
「山の斜面をうまく使い、曲輪同士の連携も取りやすくなっている……無骨ながらもどこか匂い立つ美しさ。まさに戦乱の申し子と言っても過言ではありませんね」
エーリカと詩乃が小谷城の姿に感嘆の声を上げる。
「城が見えたな……ひよ、ころ。小谷への先触れに向かえ。我らはゆるゆると馬を打たせてゆく」
「わかりました!」
「いこっか。ひよ」
二人は馬を走らせ小谷へと向かった。
「小谷に到着すんのは夕暮れ時か」
久し振りに彼女たちに会えると思うと柄にもなく心がざわめいてくる。我ながらかなり彼女たちに染まっているようだ。とは言え、男女の気持ちではない。親戚に会うかのような感覚だ。
(何年振りだろうな。二、三年は会ってないはずだが……)
そんなことを思い出しつつ、馬を打たせ、小谷へと歩を進めた。
辺りが薄暗くなり月が空に昇っている頃だった。
水田の奥の畦道、そのまた奥に一瞬だが赤く光る何かを慶次は捉えた。
(鬼か……)
慶次はちらりと久遠を横目に写す。いつもと変わらない表情だ。だがこころなしか口元が弛んでいる気がする。
(ま、久方ぶりに家族に会えんだ。当たり前か)
なら自分一人で鬼を討伐しに行ったほうがいいだろう。せっかくの邂逅にわざわざ水を入れることもない。
(黙っておくか……)
そう決意するや慶次は久遠を呼ぶ。
「……久遠嬢。少し用を足してくる。先に行っててくれ」
「うむ。わかった。なるべく早く戻るのだぞ」
久遠たちの姿が薄れてゆくのを目認し、件の場所へと向かった。
月明かりで照らされる森の中にはやはり、鬼がいた。数は多く見積もって五十と少しと言ったところだ。
目は爛々と怪しく光り、口から絶えまなく唾液が垂れ続け明確な殺意が伝わって来た。
ニィと薄い笑みを浮かべた慶次はポキポキと指を鳴らす。
「久々だなあ……」
呟きとともに背負っている槍を手に取る。
思い切り地を蹴って、突撃した。
鬼対慶次。奴との戦闘は───いや戦闘とも言えない蹂躙は呆気なく終わりを迎えた。
辺りには血と共に無惨な鬼の亡骸が転がる。
鬼と言えど、ここまで弱かったのだろうか。ふと、疑問に思った。
なんせ鬼は人よりも遥か凌駕する肉体能力を持っている。槍を一凪、二凪するだけでこうもたやすく地に倒れるわけではない。それこそ、一般兵三人で漸く対処出来る。
そこまでの思考に至り、ようやくとある答えが導き出せた。
(……もしかしておれってかなり強い?)
そう。強いのかもしれない。桐琴とも渡り合える武を慶次は持っていると自負出来る。仕合いではおそらくは手加減をしていたであろう桐琴だ。だがそれはこちらとて同じだ。
(と、なると、かなりの展望が見えてきたぞ……!)
桐琴を救うことが出来る───やっとだ。やっと救えるかもしれない。
有頂天になった慶次は思わず笑いをこぼしそうになった。
(って。いまそんなことよりも小谷にいかねえと……!)
時間はそこまで経ってないがやはり、遅れると言うのは悪いものだ。そして何よりも恥ずかしい。
謂わば授業中に一人の生徒が教室に入ってくるようなものである。勿論、生徒は自分。クラスメイトから受ける視線はこの上なく居たたまれないものだろう。
そんなことを思い出しながら、慶次はいつもよりも軽い足取りで、駆け出そうとした。
そのとき、自分の状態に気付き、立ち止まる。袴についた返り血が慶次の身体に気持ちの悪い感触を与えている。
「きもちわるっ!」
思わず口に出てしまった。
『一刻も早く流したい!』と慶次はたちまちに考え、足早にその場を後にした。
ほどなくして、小谷城の全貌が見えてくる。
篝火や松明が掛かっている城門前には人影が見える。長い後ろ髪を一つに纏めたボブカットの少女、浅井長政こと眞琴だった。
浅井眞琴長政───彼女は『江北の小覇王』と謳われる浅井亮政の孫であり浅井家三代目当主である。
二代目当主であり母である久政の当主の座を強引に継いだ彼女は類い稀な才能の如何なく発揮。
近江を見事六角氏から奪取した。
その後、六角氏はお家騒動もあり停戦という形で和睦を申し込まれ、戦闘行為は以後起こってはいない。
(眞琴か?いやぁ成長したなぁ)
身体付きといい、雰囲気といい、様々な部分が成長したように思える思える。何より纏う雰囲気が一段と変化していた。
「おう!眞琴。久し振りだな!」
片手を軽く上げ挨拶を送る。
眞琴は薄暗くても分かるほどに顔を輝かせると慶次の元に走り込んで来た。
「慶次さんっ!」
すぐ目の前に眞琴が見えたとき、両うでを思い切り広げ、慶次に向かってダイブしようとした。
「おおっと。待て待て」
「そ、そんな。ど、どうして? 慶次さん……」
ガックリと肩を落とし、構ってもらえない子犬のような表情を浮かべた。
だがきちんとフォローをする。
「そんな顔すんなって。後で好きなほどやらせてやるから」
「ほ、本当ですか!? 約束ですよ!………慶次さんっ……!? ど、どこか怪我を!?」
慶次が返り血で染まっていることにようやく気付き、声を上ずらせた。
「これは返り血だ。実はな……鬼が出たんだ」
「っ!そんな……まだ小谷には……いや考えても仕方がない。慶次さん、鬼が出た場所を教えてください。兵を向かわせます」
さきほどとはうって変わり、浅井家当主として表情だろうか、凛々しく勇ましい顔に変わる。
「ここから少し行った所に畦道があるだろう?その奥の森だ。と言っても鬼は全部殺したから大丈夫なはずだがな」
「うわぁ! 流石慶次さんです! ありがとうございます。浅井家当主として礼を言わせていただきます」
ペコリと綺麗なお辞儀をした。慶次が見た過去の眞琴とは大違いな彼女の姿に、今までの努力が垣間見えた。彼女の過去を知っている分、なぜか慶次は誇らしく思えていた。
(頑張ったんだな。眞琴)
「つきましては何か褒美をと思うのですが」
「褒美か‥‥‥ならその褒美に風呂に入れさせてくれ。あー勿論無理にとはいわんが」
途端に眞琴は顔を染め上げた。
「お、おおおお風呂ですか……わ、分かりました。此方へどうぞ」
真っ赤になった眞琴に疑問を抱きつつ、先導されるがままに風呂場へと案内される。
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エーリカside
”前田慶次”
最初にその言葉を聞いたとき言葉が出なかった。
今までの外史の中でその名前は聞いたことがなかったからだ。
(おかしい。あのような人はいなかったはず)
正史では何度もその名前を聞いた。
いくさ人、かぶきもの、彼を形容する言葉はたくさんあったからだ。
(もしかしたら……)
私の役目が終わるかもしれない────永遠と続くこの呪縛から解き放たれることができるかもしれない。
ほんの僅かだが希望が生まれた。だがそれでも今までの経験を思いもしなかった出すとそんな考えは甘いと言わざるを得なかった。
(‥‥‥一人増えたからと言って私が消えることには………)
そう考えると希望を心の底に押し込め意識を切り替えた。
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双葉side
今日も私は自室で書物も読み漁る。
しかし珍しいことに書物の内容は頭には入って来ない。
理由は簡単。別のものが頭の中を支配していたから。
(どうしたら私もお役に立てるのでしょうか)
ぺらぺらと頁をめくり内容が進みつれ考えも深くなっていく。
(何かできることは……)
幕府の財政事情は厳しい。
だから侍女も少なく小姓や幽に負担を掛け続けてばかりだった。
(お姉さまは何もしてはいらっしゃらないけれど将軍という地位が。それに比べ私は……)
将軍の妹、意味のない肩書きがありただそこにいるだけの存在。
だから何かお役に立ちたいら少しでも負担を減らしたいと常日頃思っていた。
(!お料理のお手伝いがあったはず)
思い立ったら吉日ということで早速お台所に向かう。
「あの私に何か手伝えることはございませんか?」
一瞬ハトが豆鉄砲を食らったような表情を見せる侍女。
「ふ、双葉さま。いけません。ここは私たち下々の者に任せてくれれば良いのです」
「で、ですが」
「そのお気持ちだけで私は報われますから」
最後まで紡ごうとした言葉は彼女に遮られる。
だがどうしてだろうか。にっこりと微笑むその顔は満ち足りたように写った。
次に向かった場所はお洗濯所。
(ここでなら大丈夫、ですよね)
「あの、何か手伝えることはございませんか?」
「ふ、双葉さま!?」
先程の侍女と似た顔模様を浮かべていたがたちまち、いつもの表情に戻る。
「しょ、将軍さまの妹君で在らせる方にそのようなことをする必要はございません。ここは私たちにお任せを!しっかりと努力させていただきます!」
「ですが……!」
「そのお気持ちだけで十分です。私たちのような者に気を掛けて頂けるなど他の家では到底ありませんから」
「そう、ですか……」
その後、空が夕暮れで赤く染まるまで何ヵ所か行ってはみたものの全てが失敗に終わった。
夕暮れの太陽が双葉を照らす中、独り縁側に腰掛け虚空を見つめる。
(私にはもう何も……)
残っているものはないのかもしれない。ただ存在するだけで意味のないもの。
「………グスッ」
自分がひどく惨めに思え自然と目尻に涙が溜まっていく。
しかしそんな時に出会った。
優しさで包んでくれる殿方に。初めて心を乱された殿方に。
「おいおい、どうした嬢ちゃん。何泣いてんだ?」
後ろから声をかけられすぐに涙を服袖で拭う。
「泣いては、泣いてはいません」
知らない人に涙を見られることが恥ずかしくつい見栄を張ってしまう。
「ハハハッ!そっかあ。まぁそういうことにしとく。それでなんか悩み事でもあんのかい? 話してみな。楽になるぜ?」
私のすぐ傍に腰を下ろし語り掛けるように問うてくる。
涼しげな切れ長の目が私を写した。
引き込まれそうな黒い瞳はとても美しく心の臓がどきっと激しく音をたてた。
「……っ!」
「怪しいやつじゃねぇさ。俺は一葉の知り合いでな。今日は遊びに来たんだ。ほら話してみなよ」
「……」
彼の優しさに甘え今日のことを話してしまった。
たったいま出会ったばかりなのにどこか親近感を覚える殿方に全てを。
「なるほどねぇ」
「私は少しでも侍女たちのお役に立ちたかったのですが……」
全てが失敗に終わってしまった。
「お前はすごいやつだな」
「え……」
「普通のやつはそんな事をしねぇさ。だがお前はそれをした、ちゃんと彼女たちを人として扱ってる証拠だ」
「‥‥‥」
「それに役になら立っているぜ? 彼女たちからすれば自分の主の妹君から声を掛けられたんだ。自分の仕事に責任をもってより一層励むだろうな」
私は役に立っていたのだろうか。彼の言葉通りなら侍女たちの言葉は感謝を表していたのだろう。
そう理解した刹那、なんとも言えないむず痒い感覚が襲ってきた。
「何か困ったことがあったら遠慮なく俺に言いなよ」
頭に軽く触れると優しく撫でてきた。今まで味わったことのない未知の感覚。
しかし嫌なものではなく寧ろもっと感じたいと思えた。
自然と頬が弛む。
「……」
「良い顔だ。一葉、出来た良い妹じゃねぇか」
彼がそう呟く一人の女性が柱の陰から姿を現した。
「余、自慢の妹だからな。当然じゃ」
「お姉さま!」
お姉さまはこちらに歩み寄り、同じように頭を撫でてくれる。
しかし彼の時のような感覚は生まれなかった。
「双葉。この男は前田慶次。余の恩人じゃ」
「恩人って。大袈裟すぎるっての。‥‥‥俺は前田慶次。慶次って気軽に呼んでくれよ」
「前田、慶次……さま」
噛みしめるように呟いた。
同時にまたも心の臓が飛び跳ねるように脈動する。
「わ、私の名前は足利義秋。通称は双葉と申しますっ!」
「双葉か。わかった。それよりも『さま』付けはやめねぇか?」
「いえ。お姉さまの恩人であり私の恩人である方を呼び捨てにするなど到底できるものではありませんから」
「そ、そうか。なら仕方ねぇな」
困惑した表情を見せ、大きな手を差し出して来る。
「なら、改めてよろしくな」
しっかりと私の手を彼は握る。何倍もの大きさの手はゴツゴツとしていて今まで触れたこともない殿方のもの。
ドキドキと脈動を繰り返す心の臓を必死に隠すために笑顔を作った。
「はい! こちらこそ!」
この時の笑顔は作り物とはいえ最大級のものであったに違いないと思う。
これが慶次さまとの初めての出会いだった。
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「ろ、路銀がない……だとっ!?」
借りている宿の一室で、慶次は大きな銭袋を覗きこみながら、驚愕の声を上げた。
もしかしたら少しでも入っているかもと、慶次は銭袋を逆さにしたが、塵一つ落ちて来なかった。
「うっわぁ。やっちまったか、これは」
思わず頭を抱えた。
今日だ。今日が宿代金の支払う日だ。ここにお邪魔してから、数日。適当な理由を付けて、宿代を先延ばしにさせてもらっていた。
本当にくだらない適当な理由で先延ばしにさせてもらっていたのである。
自分も男だ。欲ある。そしてそれは定期的に発散しなければいけなかった。
つい先日だった。己の欲を鎮めるために町に繰り出した慶次はその何かを探し求めた。
何とはすなわち───女性であった。
そして数刻かかり、やっとのことで町外れに水商売の女性らしき人物を見つけたのである。
だがその女性は様子が可笑しかった。
もとより、戦国時代というのは貧乏生活が庶民の一般だ。痩せこけた人はいつでも目に入っていたし、着込む服などはボロい麻服がほとんどだった。
しかしその女性は服は破れかかったものを着込み、色々な部分が見えそうなほどのぼろぼろな装いをしていたのである。
加えて子供を二人も抱えていた。子供たちの服装は大丈夫ではあるが幼さが目立つ顔には元気がなく、萎れていた。
彼女の傍を通りかかったとき、微かな声が耳に入った。
「……ぉ」
「ん?」
「お、お侍さま」
女性は、母親であろう彼女はそう、慶次のことを呼び止めた。
「あ、あの。少しでいいんです! お恵みをくださいませんか。子供たちだけにでも……」
女性は助けを求めるかのような瞳で、慶次を見る。
「はーん。なるほど……」
ざっと女性を眺める。
顔色が少し優れておらず、口唇の色合が若干悪い。そして茶色く、土で汚れたであろう、ぼろぼろの服装だ。
慶次の舐め廻すような視線に気付いたのか女性は一瞬、若干顔をしかめ、慶次から視線を外す。
女性は覚悟したかのようにもう一度慶次に視線を戻した。そして腰を屈めて、膝や手を地につけ、最後に頭を下げた。
「その………私の身体はどう扱っていただいても構いません。ですが、ですが子供たちだけでも……!」
「……!」
彼女の姿に、慶次の心は打たれた。自己犠牲にしてでも子供を優先する───尊い母親の思いを慶次はそのとき垣間見た気がした。
「……わかった……だが身体はいら……!?」
そのときだった。突然、慶次は背中に物凄い衝撃を受けた。 前につんのめるがどうにか踏みとどまる。慶次は『何が起きた!?』と身を翻した途端。
「おっかぁにっ! 手を出すなぁ!!!」
一目見た限り、十五、六と思わしき少年が腹部に蹴りを入れてきた。咄嗟のことに反応出来ずに慶次は思わず膝をつく。
その瞬間から殴る、蹴るの嵐がやってきた。何十にもお見舞いされる連撃に慶次は地面に身を倒す。だがどうにも痛みは感じない。
(───どうしてこんなことなってんかなぁ……)
少年にひたすら蹴られながら慶次は思案した。
「おっかぁ! 逃げてっ! こいつは俺が……!」
「違うのよ! やめなさいっ!! 」
「なんでっ! こいつはおっかあのことをっ!!……!」
(あー。そういうことか)
合点がいった。
さきほど女性がした行為を自分が強制させていると、偶然にも少年の目には写ったようだ。
「早くやめなさいっ! その方が死んで……!」
「いいんだ! こんなやつ!」
それから小半刻の間、慶次は殴られ、蹴られ続けていた。
途中、女性が止めに入ろうとするが少年はやめようとはしなかった。
「はぁ……はぁ」
少年の行為が終わりを迎えるころ、大きく肩で息をしながら最後にありったけの力を込めたのか、思い切り足を後ろに引きながら、慶次を蹴ろうとした。
「……気はすんだか?」
「っ!!……なんで」
「なんでって。死んだとでも思ったのかい」
「こ、このっ!」
少年はまたもや殴りかかってきた。
慶次は突きだされた拳を難なく受け止めると女性に目をやった。
「おいアンタ、ちょっと説明してくんねぇか。このままじゃあ埒が明かねぇ」
女性は慶次の言葉を聞いていないのか呆然としたままだったが、たちまちに返事を返した。
「……は、はい」
女性はさきほどのことを少年に述懐する。どうやら慶次の予想通り、勘違いだったようだ。
少年は顔色をとてつもなく青くしながら慶次に謝罪を繰り返した。
「すいませんでした! 俺のはやとちりで……」
「いいさ」
「し、しかし……」
少年は慶次へと視線を向けながら、着流しへと視線を移した。慶次の着流しは裾や襟首が土で汚れていた。だが元々は派手な着流しであるために、そこまで汚れは目立たない。加えて慶次としても気になる汚れではなかった。
「……さぞご高名のお方と存じます。その、俺の命でよければ……」
「だめよ! ! お侍さま、全て責は母である私にございます。ですから命を取るのであれば私目のを……」
『何卒……ご容赦を』と女性はさきほどのように地に頭をつけた。
「おねがいしましゅ。お侍さま」
「かかとにいちゃをゆるしてくだはい」
二人の幼い子供たちも母を真似た。
慶次は腰を屈めた。
「おいおいおい。俺は頭を下げてほしいわけじゃねえ」
「で、では俺はどうしたら……」
頭を上げた少年は視線を泳がせた。
「おまえの母は凄い女だ」
「へ……」
唐突な慶次の言葉に少年は呆気のない声を出した。
「自分のことでなくお前ら子供たちを優先してんだ。それに、そのやぶれかけた服もだ。おそらくは自分で破って売ってたりしてたんだろうな」
どうやら少年は知らなかったようであり、驚きに満ちた目を女性に向けていた。
「おっかぁ……」
「……」
彼女は沈痛な面持ちで黙している。その表情が慶次の言葉を肯定していた。
「そしてお前自身もだ」
「い、いえ。俺なんか……」
「ただ、母を守りたかった。その怒りだろうな。そう言うの俺、好きだぜ」
「え、ええと。ありがとうございます……?」
「そしてちびっこ共もだな。ちびからしたら大人ってのは身内や知り合いでもない限り恐怖の対象だ。それをものともせずに堂々してた所を見ると肝がすわっているよ」
『頑張ったな』と慶次は幼子たちの頭に撫でた。『まあ兎も角だ』と慶次は彼等を立ち上がらせた。
「ま、今日はお前らに免じて色々な経緯は水に流す。そして───」
おもむろに着流しを脱ぐと丁寧に土を払い始めた。
おおまかな汚れが払えたところで慶次は女性の後方に回り、そっと羽織らせる。
「お、お侍さま。こ、これは 」
女性が驚愕の声を上げた。
「アンタは良い母親だ」
「……こんな高価なもの、いただけません」
慶次は彼女の耳元でそっと囁いた。
「勘違いすんな。そこらに売ってる安物だ」
慶次はそう言うと、次いで少年と子供たちの元へ向かう。
「お前ら、麻袋か、なんかあるかい」
「は、はい。一応は……」
少年がちいさめの麻袋を取り出した。慶次はそれを受けとると代わりに、己の麻袋を差し出す。
「!! お、お侍さま! これは」
慶次の差し出した麻袋はぎっしりと小銭が詰まっている。かなりの重みがあるようで少年は両手でお椀を作るように受けとる。
「やるよ」
「そんな! 受け取れません!!」
少年は突き返してくるが、慶次は知らんぷりをした。ひゅーひゅーと口笛を鳴らしそっぽを向く。
「あーなにもきこえんなー。受け取ってくれるまではーきこえんなー」
少しの間、少年は俊巡していたが、ようやく受け取る気になったのか、大事そうに抱え、懐へとしまった。
「お侍さまはどうして俺たちにこのようなお恵みを……」
「おじしゃんはへんなひと?」
二人の幼子のうちの一人が舌足らずの口調です問うた。そんな子供を女性が叱りつけようとするが、慶次が制した。
「いい。……おう。俺は変な奴だ。派手なことが好きだし、変なことも好きな男だ」
「じゃあー"かぶきもの"だねー」
「……かぶきもの?」
「うん! とっても優しくてね、変なひとだから」
"かぶきもの"それは派手なものを好み、他人とは異なる行動をするものをさす。そしてなにより、人情を重んじる傾向があるものたちのことだ。
確かに慶次自身、派手好きであり、常識とは異なる行動をすることが多い。
例えば派手な衣服然り、さきほどの着流しや銭袋の件然り。言われて見るともしかしたら──と慶次は思った。
しかし子供の考えでは"かぶきもの"というのはかなり違ったイメージになるようだ。正に、正義のヒーローと言ったところだろうか。
だが───。
(かぶきものか。いいねぇ)
慶次は気に入っていた。
そしてこの後、慶次は彼等と別れる。
後に路銀がないと騒ぐのだが慶次自身、後悔はしていなかった。
「お姉ちゃん。今のみた?」
「……コクコク」
「格好良かったね!」
「……コクコク」
彼女たちとの出会いは───近い。