戦国恋姫~偽・前田慶次~   作:ちょろいん

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確認のため桐琴討ち死にシーン見たらまた泣きました。



二十八話

side 慶次

 

 松平勢を襲撃していた鬼の勢いが急激に息を潜めた。黒い波のように押し寄せていたすでに鬼は数えるくらいしか見当たらない。

 しかしその鬼も森衆に尽く狩られていった。

「葵たちも後退したしな。森衆、撤退だ」

 

 慶次たちは撤退を始める。

 道中、振り返るも追って来るような気配はなかった。長い獣道が続き月明りが薄く照らしている。かろうじて道奥まで見え、蠢く影がちらほらと存在していた。

 

 薄暗い森を歩き、開けた場所に出ると剣丞隊の旗や松平、足利の旗が翻っていた。その周辺では足軽たちは強張った顔つきで周囲の警戒にあたっている。 

 松平の家紋が描かれた陣幕の中からぞろぞろと詩乃や一葉たち将が足早に出ていく。

 最後の一人であろう者が陣幕を後にしたことを確認した松平の足軽たちは早急に陣幕をたたんでいた。

 

「はぁーーーーー!?」

 小夜叉の叫び声に似た不承の声が響く。

 立てられた篝火の前で小夜叉が今にも噛みつきそうな勢いで桐琴に詰め寄っていた。

 

「おまえはウチの連中連れて頭についてやれや」

「なんでだよ!オレだって殿に‥‥‥っ」

 急激に二人の間の空気が冷たくなる。

「グダグダ抜かすな。やれ」

 桐琴は底冷えするような声音で小夜叉を睨みつける。

 小夜叉はたじろぐがなおも噛みつく。

「で、でも!母は殿で鬼どもぶっ殺すんだろ?だったらオレだって鬼どもをぶっ殺してーよぉ」

「ワシら大人は先のことまで考えねばならん。‥‥‥つべこべ言わずに言うことを聞けや」

 いつもながらの尊大な態度で小夜叉を見据えていた。

「意味わかんねーよ! 慶次だって‥‥‥っ!」

 

「うっせぇ!!! やれっつってんだ!!!」

 落雷のような桐琴の怒号が落ちた。冷たい空気と相まって凄味を利かせている。

 小夜叉は呼吸が止まったように息を呑む。桐琴を見つめる小夜叉は不承不承と言った様相で口を開いた。

「‥‥‥分かったよ。やれば良いんだろ、やれば!」

 吐き捨てるように言葉を紡ぐと小夜叉は足早に駆けていった。無我夢中だったのか、近くにいた慶次にすら目もくれない。

 一人佇む桐琴はその顔に陰を落とす。目を伏せたその姿は涙を零すまいと我慢をしているように慶次の目に映る。

「‥‥‥いいのかい?」

「っ‥‥‥構わん」

「そ‥‥‥」

 哀愁漂う桐琴に掛ける言葉が見つからなかった。

 

 

 

 

 

 撤退戦のために細い獣道の作られた簡易な陣。行く手を阻むように馬防柵‥‥‥よりはかなり小さい柵が獣道の至る所に造られていた。

 すでに将兵の一部は撤退を始めている。被害の激しい松平勢に加えて足利将軍である。

 現在の兵力はおおよそ二百五十。撤退を始めた将兵を合わせても三百弱だった。

 

 迫り来る鬼を雫が策を練りだし迎撃している。少しでも鬼との距離を稼ぐため、攻撃しては後退を繰り返していた。

「鉄砲隊のみなさん!お願いします!」

「はーい!撃っちゃってー!」

「………」

 烏が身の丈以上の火縄銃を構えて引き金を引く。

放たれた銃弾は鬼の身体に留まることを知らず、一体、二体と貫通した。

 烏の後ろでは三段に構えた八咫烏隊の少女たちが追い撃ちをかけるが如く散弾のようにばら撒いた。

 

「流石烏さんたちですわね。撃ち掛けなさい!」

 梅率いる剣丞隊の鉄砲衆は八咫烏隊の後方に布陣している。後退を始めた八咫烏隊に代わり鬼へと銃弾を撃ち込んだ。

 耳を裂くような音と共に鬼は倒れる。

だがその屍を踏み越えて新しい鬼が続々と現れた。

「鉄砲隊は下がり、長柄隊と交代してください!長柄隊は距離を取りながら後退を!玉籠めが終わり次第彼らと入れ替えます!」

 

 

>>>

 

 

「雫さまから連絡でございます!」

 至る所に傷を作った満身創痍の足軽が片膝をつく。

「玉薬が切れたとのご連絡です!鬼の攻勢激しく退くとのこと!」

「分かった」 

 剣丞が頷くことを確認した足軽は駆けて行った。

「‥‥‥幽。足利衆と一緒に先行して林の中に兵を伏せてくれ。俺が囮になって真っ直ぐ後ろに逃げるから。その隙を‥‥‥」

 

「まぁ待てよ。……剣丞」

 慶次は朗らかに笑っていた。こんな状況など歯牙にもかけないように。

「今の状況を考えな。ただでさえ兵が少ねぇ状況なんだ。お前を守るための兵を確保しないとならねぇ‥‥‥」

「? 何を言っているんだ?」

「つまりはな孺子。殿はワシらが引き受けると言うことだ」

 桐琴がフッと笑うと愛用の十文字槍を手に取る。

 

「ま、そう言うことだ。だが桐琴‥‥‥」

 桐琴に向き直ると彼女の紅い瞳を見つめた。

「お前は行け」

 

「‥‥‥なんだと」

 怒りを孕んだ雰囲気で慶次を睨む。

「おまえにはガキがいんだろ。蘭に、坊に、力。それに小夜叉。奴らの面倒くらい最後まで見ないとな」

 それが母親の務めだろうと言い放つ。桐琴は表情は変えないものの、ぎりりと歯ぎしりするように唇を固く結ぶ。

「剣丞みてぇなやつにはお前のような奴が必要なんだ」

 優し気な瞳で桐琴を見つめると頬をそっと撫でる。それになと続けると桐琴を抱き寄せた。

「‥‥‥」

 耳元でそっと囁いた。

「‥‥‥好いた女には生きていて欲しいんだ。大方お前は死ぬつもりだったんだろうが俺はそんなことはさせねぇ。これは俺の‥‥‥漢の覚悟だ。分かってくれ」

 数秒、桐琴は思案するように目を閉じた。

「‥‥…チッ」

 大きく聞こえるように舌打ちをすると、どんっと慶次を突き放す。

「‥‥‥孺子。行くぞ」

 不機嫌さを押し殺した低い声で剣丞に歩み寄る。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!俺は慶次を見捨てることなんてしないからな!みんなで協力すれば大丈夫だから……」

 剣丞は同意を求めるように詩乃に、鞠に、幽に視線をやる。

 だがぎゅっと我慢するように目を閉じている者もいれば憂いを帯びた顔を見せ、言葉を続けようとはしなかった。

「剣丞……分かってくれ」

「なんでっ! 一人でなんて許すわけないだろっ!」 

「許すとかそんな問題じゃねぇんだ」

「けどっ!‥‥‥」

 剣丞は言い淀み、顔を下にした。

 

「ここで誰かが残らなきゃあ……俺たちは死ぬ」

 ふぅとため息をつきながら慶次は夜空を仰ぎ見る。星々が見えない雲がかかった夜空だった。

「現実を見ろ、剣丞。お前と会った時に俺は言ったはずだぜ?目的ってのは自ずと見えてくるってな。俺の目的はお前らを守ることなんだ。ここに(この世界)来てから俺はそう決めていた。悲劇は避ける……俺がここに残ることこそが‥‥‥前田慶次の目的が達成されるんだ。だからここは……俺に任せな」

 慶次は和やかな微笑を浮かべた。

 

 グガアアアアアアアアアアッ!!!!

 

 鬼の雄叫びがすぐそこまで迫っていた。

 

 慶次は強張った顔で槍の柄をを固く握り締め、剣丞に背を向ける。

「時間がねぇんだ。俺一人と何百の人間。考えるまでもねぇだろう」

「‥‥‥分かってる。分かってるんだっ‥‥でもっ」

 両の目尻に涙を溜めて剣丞は咽ぶ。零れる涙を服の袖で拭っている。

「詩乃、鞠。剣丞を頼むぜ?」

「‥‥‥」

 相変わらず両目は髪で隠れて見えないが確かにこくりと頷く。

 

「……慶次。死んじゃうの?」 

 不安げな瞳で慶次を見つめていた。

「……あぁ。だが俺のことはいいさ。お前は剣丞が堕ちねぇよう引っ張り続けてやってくれや」

 なっ?と優しい声音で鞠の頭に手を置いた。

 

「……分かったの。鞠、ちゃんと剣丞引っ張るの」

 悲痛な顔を浮かべる鞠は両目に零れ落ちそうなほど涙を溜めていた。

「……だから……心配しなくていいよ?」

 涙を流さないように懸命に空を見上げ、気丈に振舞い笑顔を見せてくれる。

 

 その鞠の笑顔に慶次は安堵した。この子なら詩乃たちと共に剣丞を常に引っ張り続けてくれると。

「心強い……」

 

「慶次どの。恨みますぞ。公方さまはどうするおつもりですか」

「……すまねぇ」

「全く責任感のない殿方でいらっしゃりますなぁ。某に掛けて頂いた言葉。……忘れはしませんぞ」

 やれやれといつものような飄々とした面持ちの幽。和やかにはにかみ、目尻に溜めていた涙を一筋流す。

 

「‥‥‥いい女だな。幽は」

「っ!……あなたと言うお方は」

 半開きの瞳で非難するような視線を送る。だがそれも一瞬にして消え去ると涙を湛えながら微笑んだ。

「一葉によろしくな」

「……お任せを。ですから慶次どのは」

 慶次は頷いた。

「……あぁ。気兼ねなく逝けるってもんだ」 

 

「慶次……」

 背を向けたままの一言だった。桐琴の背には哀愁が漂っていた。

「桐琴。俺の覚悟を汲み取ってくれてありがとな」

 慶次からは桐琴の顔は見えない。

 だが彼の言葉を聞いた途端に身体が震える。月光に反射する何かが桐琴の瞳から零れ、頬に伝わった。

 

「剣丞」

 背中を震わせる剣丞は顔を俯かせていた。

「お前は強い。精神的にも肉体的にもな。その強さ……いや優しさを失わねぇ限り仲間は着いてくる。後はそうだな。詩乃たちと仲良くやれよ。…………またな」

 ニヒルな笑みを浮かべると踵を返した。

 

「っ!! ダメだっ! 慶次ぃッ!!」

 涙交じりの声で叫ぶ。

「やっぱり一緒に行こう! 協力すればどうにかなるはずだ!」

 慶次は立ち止まると振り返る。

「剣丞……」

 心の中で剣丞に謝罪しながら歩み寄る。

「け、慶次。よしっ!みん……ッ!?」

 剣丞が明るい顔を見せたのも束の間、慶次は剣丞の腹部に重い一撃を与えた。

 がくんと膝から崩れ落ちる剣丞を抱きとめた。

「な……んで」

 閉じそうな目を必死にこじ開けて細々とした声を出した。

「……またな。俺の友よ」

 慶次が呟くと剣丞は目を閉じた。

 

「桐琴。剣丞を任せる」

 肩に抱いた剣丞を桐琴に受け渡す。

 

「任されよう……ガキに言伝てはあるか?」

「そうだな……ありがとうと頼む」

 慶次は小夜叉との記憶を思い出すようにして目を閉じる。

 口は悪いが根が素直で元気いっぱいの女の子。桐琴譲りの武と美しさ持った女の子。そして慶次の事が大好きな女の子だった。

 

(思い出すだけでもキリがねぇや)

 苦笑を漏らした慶次が目を開けると桐琴と視線が交錯する。

 

 ふっと笑みを浮かべた二人。

 

「……さらばだ。前田慶次」

 

「あぁ……達者でな。森三左衛門桐琴」

 

 剣丞を肩に抱いた桐琴が駆け出したことを皮切りに残る詩乃たちも駆け出した。

 

 

 

 

side 慶次(一人称)

 

 

 あぁ。行ったか。

 徐々に聞こえなくなる彼らの足音に耳を澄ましていた。

 

 此処まで来るのにどれくらいかかったのだろうか。

 桐琴に出会って久遠嬢に会って結菜に出会って……それから……。稲葉山城の攻略に、堺への出奔。足利や浅井、松平との出会い。そしてつい最近では桐琴との情事も。

 とても充実した日々だった。間近で見る彼女たちは俺が霞むほどに輝いていたから。

「ははは」

 今までのことを思い出し苦笑をした。

 

「満ち足りた気持ちのまま死ぬのも悪くはねぇな………だが」

 この感情を抱いたまま死ぬことが不安だった。あれほどにまで彼女たちの心を乱したのだ。俺が死んだりすればどうなるかわかったもんじゃない。

「……ったくなぁ。これじゃあ死にきれねぇか。あんなこと言った手前恥ずかしいが………」

 

グガァァァァァァァ!!

 

 雄叫びと共に醜悪な様相をした鬼どもが暗闇の奥から蜘蛛のように這い出て来た。妖しく光る双眸が目の前に広がる森を埋め尽くしていた。

 

「覚悟しな、鬼ども」

 こんな状況だと言うのに不思議と恐怖はない。自然と口角が上がり微笑を浮かべた。

 

「てめぇらの前にいんのは森一家が一のかぶきもの前田慶次よ!」

 声を大にして叫べば身体を包むのは激しい高揚感だった。まさに血沸き肉躍るとはこのことだろう。

 

「又の名を織田の鬼ってんだ! 本物の鬼を!俺が見せてやらぁ!!!」

 槍の切っ先を鬼に向けると俺は鬼に死兵と化して突撃した。 

 槍を振るう。その度に耳にしたくない鬼の悲鳴が上がる。

 

 槍の切っ先を鬼の首筋に当てると力任せに肩を押し出した。やはり鬼とはいえ生きとしいけるものの弱点は首だった。

 弾力のある黒い皮膚は皺を作っていたが力を籠めれば容易に喉元へと刃が侵入した。鬼の肉を裂く槍が重い。

 鬼は掠れた叫びで必死に槍を退かそうともがく。その度に喉元にはどす黒い血が泡を吹いていた。

 刃を押し進めると硬い物ににあたる。俺は力任せに押し込んだ。手に持つ槍には重さがなくなり急激に軽くなった。 

 ぼとんっと重量感の感じる音が響いた。頭を失った鬼の身体は血を吹き出すと後ろへと倒れた。

 

 鬼にも恐怖があるのだろうか。一部始終、いやすべてを見ていたであろう鬼どもが一瞬だけたじろいだ。

 

 その隙を逃さずにとにかく槍を突き出した。

 槍の長さを生かし、急所である胸元、心臓を狙う。ぐさりと刺さる槍の切っ先。抉るようにして槍を回転させて引き抜いた。ぽっかりと空いた胸の穴から血を流し、力ない声を出しながら鬼は倒れた。

 これらの鬼はすべて足軽だ。

 

 甲冑を着込んでいる鬼のすべてが体躯の大きい者ばかりだった。つまりは武将クラスだろう。

 だが体躯に耐えきれず全く持って鎧で身体を隠しきれてはいなかった。かろうじて兜は収まりきってはいたが胴はこじんまりとし腹部しか守られていない。籠手、脛当などは肥大化した体躯について行けず伸びきっていた。

 

 そして体躯の大きさも相まってか動きが鈍い。俺は胸元を狙い槍を突き刺した。ぐさりと入るが鬼は苦しむ素振りすら見せない。さらに力を籠めて重たくなる槍を押し込めば途端に槍を引き抜こうともがき始める。

 おそらくその体躯の大きさで急所までの肉質が厚かったのだろう。

 力を籠めて引き抜く。血が噴水のようにして吹き出した。

 

 それから俺はとにかく槍で切断、突き刺した。

 

 流麗な型とか隙を見せないようにとかそんなものではない。

 

 俺の中の野生を暴力というものをさらけだすように守りを捨てた。

 

「はっ! 数が多いだけの畜生どもがっ!」

 ぺっと唾を吐き出すように奴らを貶した。

 

 それを理解しているのか雄叫びを上げた鬼は誘われるように俺を囲む。

 刺さる鬼の視線。

 剥き出しの牙から滴る唾液が地面を濡らす。吐き出される吐息が強烈な臭いを放っていた。

 

 コロス。

 

 クウ。

 

 四方から襲い来る鬼の攻撃を躱して、鬼の頸を刎ねた。

 

 躱しては頸を刎ねる

 

 躱しては心臓を突き殺す。

 

 無駄な体力を使わないために俺は無我夢中で鬼どもの急所を狙った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれくらいの時間そうしていたのだろうか。

 

 

 

 

 迫りくる鬼を本能で斬り捨てて……そこからは記憶がなかった。

 

 

 

 俺が気付いたときには周囲に鬼はいなかった。

 

 昨夜のことなどなかったかのように森の中には暖かい日差しが降り注いでいた。時折聞こえる鳥のさえずりが妙に大きく聞こえていた。

 

 槍は半ばから折れ、杖にするよう体重を乗せる。すでに息は絶え絶えで足を一歩動かす度に身体中至る所が悲鳴を上げていた。

 

「……ったくこれで……終わりか。ははは」

 乾いた笑いを残すと俺は背中から倒れた。

 

 俺の目に映る青々とした空を最後に意識が途切れた。

 

 

 

 

 

side 剣丞

 

 

「……ぅう……ん」

 剣丞は薄く目を明けると飛び込んで来たのは激しく揺れる景色だった。

 担がれているせいか腹部に当たる肩の骨が痛みを作り出していた。

「お、俺は……」

 

「……気がついたか」

 ひたすらに前を向いて走る桐琴が視線をくれずに口を開いた。

「……慶次は?」

 震える声で剣丞は尋ねる。

 嫌な予感が剣丞の胸を突き、冷や汗が流れた。

「奴は殿だ」

 桐琴が抑揚のない声で淡々と言った。

「っ! 殿……」

 慶次が一人殿で戦っている。その事実が胸を締め上げひどく感傷的になって泣き出しそうになった。

 後悔が胸中に滲み出て剣丞は目を伏せたが嗚咽が漏れ出す。

「……ううぅ……」

「孺子。今はただこの場を切り抜けることが先決だ」

 桐琴に慈母のような優しい声音を掛けられる剣丞。

 

 小さく頷くと剣丞は駆けてきた道程の奥を眺める。

 薄暗くぼんやりと木々の形状や形の悪い獣道が見えた。この後ろで一人、鬼と斬り結んでいるのだ。

「……ありがとう。慶次」

 ぼそりと涙交じりの声で剣丞は呟いた。

 

 

 目の前に広がるのは九頭竜川。いつぞやの雨のせいか渡河をする足軽たちの腰まで茶色く濁った水が迫っていた。

「あ!母ぁ!慶次知らねぇか?」

 元気良く駆け寄って来た小夜叉は遅れて来た剣丞たちに視線を張り巡らした。

「どこにも見当たらねぇんだ」

 

 剣丞は悲愴な面持ちで目を伏せる。

 意気消沈したような静かな声で切り出した。

「……桐琴さん。ありがとう。降ろしてくれ」

「孺子……」

 桐琴の紅い瞳が剣丞に向けられた。

「俺が言う」

 

「んだよ、剣丞。母におぶってもらって来たのかぁ。貧弱だなー」

 

「……小夜叉」

 剣丞は小夜叉に目線を合わせるように腰を屈ませた。

「慶次は……慶次はね‥‥…」

 殿を勤めている。

 たった一言だけの言葉を紡ぐことが出来なかった。糸で縫い付けられたように口元の自由が利かず胸が針で刺されているように痛んだ。

 

「剣丞?なんで泣いてんだぁ?」

 小夜叉の蒼い瞳が剣丞を覗き込んだ。

 

「えっ。俺、泣いて」

 剣丞は自分の手を目尻に当てると手は確かに濡れている。それが自分の物だと理解した途端に嗚咽がこみ上げてきた。

「ごめん、小夜叉……うぅっ……ごめん……ぅっ」

「な、なんだよ剣丞。そんなに怖かったのか?」

「ガキ」

「あんだよ」

 尊大な態度を取る桐琴はため息をつく。そして重々しく口を開いた。

「奴は……殿を勤めている」

 

 

「えっ‥‥‥」

 小夜叉はきょとんとした顔を浮かべた。

 

 

「ワシらを逃がすために一人戦っている」

「‥‥‥驚かせんなよ母ぁ。慶次なら大丈夫だろ?」

 

「……」

 桐琴は悔しさを耐え忍ぶように唇を噛み締めていた。

「は、ははは。じょ、冗談キツイぜー。なぁ詩乃?慶次なら鬼どもに負けるわけねぇよな」

 力ない顔で小夜叉は笑った。

 

「……」

「な、なんで黙ってるんだよ。何とか言えよー!」

 詩乃に詰め寄ると乱暴に胸ぐらを掴んだ。

 

「……」

 詩乃は為されるがままに暴力的に揺さぶられるが口を真一文字に結び耐え忍んでいた。

 

「おい! き、聞いてんのかよっ!」

 小夜叉は声を震わせていた。双眸に光る大粒の涙が今にも零れ落ちそうだった。

 

 そのとき。

 

「ほ、報告致します!」

 焦る様子の足軽が片膝を突いた。

 

「こ、後方に鬼が出現致しました!迎撃の用意を!」

 その報告がこの場にいた剣丞たちの呼吸を止めた。

 

「……‥‥‥逝ったか」

 深い哀愁を漂わせながら桐琴は夜空を見上げた。

「……どう言うことだよ。逝ったってのは……」

 

「言葉通りだ」

 桐琴は淡々と言った。

「‥‥‥」

 小夜叉の顔から一瞬にして生気が消える。俯いた小夜叉は槍を強く握り締めた。みしみしと槍が軋む。

 

 唐突に顔を上げた小夜叉は双眸に溜めた大粒の涙を頬に流しながら駆け出した。

 

 だが小夜叉が駆け出す寸前、桐琴が槍で制した。

「止めんなよっ!」

 

「いいや。止める。ここでお前が行けば奴の覚悟が無駄になるからな」

 

「なんだよ覚悟って‥‥‥母は悲しくねぇのかよっ!!!」

 鋭い眼光で小夜叉は桐琴を睨みつけると溜め込んでいた感情を爆発させた。

 

「悲しいに決まってるだろうがっ!!!!」

 感化されたように桐琴は激しい怒声を浴びせた。

 

「っ!!!」

 

「‥‥‥だがな。行けば奴の死は無駄になる。一人残った意味がなくなるだろうがよ。‥‥‥ここは抑えろ、ガキ」

 水を浴びた火のように勢いが鳴りを潜め、桐琴が悲し気な口調で言葉を投げ掛けた。

 

「‥‥‥ううっ‥…ひっく‥‥‥うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!‥…」

 膝から崩れ落ちた小夜叉は空に向かって慟哭した。

 小夜叉の双眸から流れる大粒の涙と共にしとしと雨が降り始めた。

 

 

 

 


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