「どうしてそんなことしたのっ? 怒んないから正直にいってごらんっ!」
「……怒ってるじゃん」
私の怒鳴り声に、青は叱られた子犬のように瞳を潤ませた。可愛い……いやいやっ、違う違うっ! この可愛らしい顔に騙されちゃダメよっ! 私は頭を振ると、厳しい眼差しをもう一度彼に向けた。アラサー女のヒステリー。ことの発端は今日の正午にさかのぼる。
「作田君、河合君が書類を忘れたらしい。悪いけど花菱物産までこれを届けてくれ」
課長は胃薬を飲みながら、私に書類を手渡してきた。花菱物産? 冗談じゃない。どうして元カレの会社に、私が行かなきゃなんないのっ? 偶然に顔を合せたでもしたら、どうすんのよっ! しかもよりにもよって、あの出来の悪い河合のガキのために……絶対に嫌っ!
「課長……私、ちょっと体調が――」
「じゃあ、よろしく頼むよ」
取りつく島も与えず、課長は私を見据えてきた。分厚い眼鏡の奥の瞳と、頭頂部がきらりと光っている。こ、このハゲ……今度のお茶出しのときは覚えてなさいよ。私は心の中で毒づくと、ハゲから書類を受け取り、むくれ顔のまま花菱物産へと向かった。
花菱物産に到着すると、社の前では河合が慌て顔を浮かべていた。そして私の存在に気付くと、ダッシュで駆け寄ってきた。
「遅いですよ、作田さん」
河合はげんなりした顔でいうと、奪い取るように私から書類をひったくってゆく。こ、このガキ……殺すぞ。
「そんじゃ、僕はこれから打ち合わせがあるんで、お疲れっした」
もしもいまここに拳銃があったら、私は間違いなく野郎の眉間に銃弾を放っていたことだろう。そそくさと花菱物産の中へと消えてゆく河合の背中を見つめながら、私はきつく奥歯を噛みしめた。
それにしても……イライラしたら途端にお腹がすいた。そういえば、この辺りにオムライスの有名な店があったなあ。でもこんな近場の店でご飯を食べてて、篤志とバッタリなんてことになったら……しょうがない、残念だけどやっぱりべつの店にしよう。
「お待たせいたしました。ふわとろ・デミグラオムライスになります」
や、やってもうた。心とは裏腹に体が勝手に……どうやら私は食べ物の誘惑には勝てないらしい。作田奈々・28歳。相変わらずの俗物にして、食い意地のはった飯食いである。
でもせっかく危険を冒してまでこの店に訪れたんだし、ここは一つ嫌なことは忘れて、この絶品のオムライスを思う存分堪能しよう。というわけで――。
「いただきまーすっ!」
はいっ、激うまっ! 一体どうやったら、こんなに卵がふわっふわになるわけ? それにこのデミソース……超おいしいうえにお肉がてんこもり。いやーん、口の中でとろけるー。
私が至福の表情を浮かべオムライスを堪能してると、隣の席に新たな客が腰を下ろしてきた。花菱物産のOL……最悪だ。でもあいつじゃないんだし、まあいいか。
花菱OLたちはメニューに目を向けることなく、早々に注文を決めた。どうやら彼女たちはかなりの常連客のようだ。そして黙々と食事をする私をよそに、楽しげに会話を始めた。だけどそれは私にとっては、ちっとも楽しいものではなかった。
「私、昨日すっごいもん見ちゃった」
「えっ、なになに?」
「昨日、彼氏と青山のカフェでお茶してたのね。そしたら事業企画課の飯塚さんっているじゃない? あの人も女連れでそのカフェにいたのよ」
篤志とお見合い相手か……このOLさんも昨日あの場所にいたんだ。
「仕事もできるし顔もいいんだから、飯塚さんが女の一人や二人連れていても、べつに不思議なことじゃないじゃん」
「それだけじゃないのっ! なんとその飯塚さんがね、若い男の子にコップの水をぶっかけられちゃったのよ」
うん? 若い男の子?
「うそっ! マジでっ?」
「うん、ドラマみたいだったもん。そしてその男の子っていうのがね、またビックリするくらいの美少年なのよ」
美少年……決定。野郎に水をぶっかけたのは、間違いなく青だ。なにが ”ちょっと用事を思い出した” よっ! あのガキ、勝手なことを……そのあと私は憤慨しつつも、絶品オムライスをペロッとたいらげた。
だけど青にたいする怒りは、時間が経つごとに増してゆく。帰ったらビシッとお説教だっ! とまあ、以上が私のイラつきの原因である。
「私がそんなことをして喜ぶとでも思ったの?」
「ううん、思わない」
「じゃあ、どうして水なんてかけたのよっ!」
「だってあの日いってたじゃん……水くらいぶっかけとけばよかったって」
酔っぱらってて全く記憶にない。だけどなんとなく、そんなふうなことをいったような気もしないでもない……いや、間違いなくいったなあ。
「だからって……」
「奈々の気持ちも考えずに、勝手なことをしたのは謝るけど……でも僕は悪いことをしたとは思ってないよ」
青は唇を尖らせながら小声で呟いた。このガキ……なんであんたが不貞腐れてるのよ。私は髪の毛をかき上げながら、大げさに溜め息を漏らした。
「分った、もういいっ!」
「許してくれないの?」
「当たり前でしょっ!」
ビシッと一喝。ここで甘やかすわけにはいかない。すると青はなにを思ったのか、キスをせがむように唇をつきだしてきた。
「……ちょ、ちょっと、なんのつもりよ」
「プリーズ、チュウ」
「……あのさあ、いまのやり取りのあとでどうしてそんな行動に出れるわけ?」
「チュウはすべての罪を洗い流す、ニーチェもそういってるよ」
「ニーチェがチュウって……どう考えてもそれ嘘でしょ?」
「バレた?」
「そりゃ、バレるでしょ」
冷めた返しにもめげることなく、青は依然としてキスをせがみ続けている。このガキはほんと厄介だ……とはいうものの、こんな美少年にキスをねだられたのは初めてだ。っていうか、自慢じゃないがキスのおねだりなんて一度もされたことがない。
いい機会だからちょっとだけ……いやいや、ダメダメ。一体なにを考えてんのよ、私はっ! 取りあえずこの誘惑は危険だ。早く止めさせなきゃ。
「青、いますぐにそのチュウのおねだりを止めなさい」
「じゃあ、許してくれる?」
我が家の性奴隷は相変わらず瞼を閉じながら、小首を傾げてみせた。こ、こいつ……なんて卑劣な手をつかうのよ。でも癪だけどこのおねだり攻撃を回避するには、許すしか選択肢はないようだ。
「分ったわよ。許してあげるから、早く目をあけなさい」
青は途端にパッと顔を輝かせると、天使のような微笑みを浮かべながら私に抱きついてきた。
「ちょ、ちょっとっ――」
「ああ、奈々の匂いめっちゃ落ち着く……」
私はあんたの母ちゃんか? それにしても、ほんと顔に似合わず強引なんだから……恐らくいまの私の顔は、お猿さんのお尻のようになっていることだろう。年下の自称性奴隷に抱きつかれながら、私は静かに溜め息を漏らした。