β Ewigkeit:Fragments   作:影次

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あまり話が進んでない、悲しい。
でもここで一つ挟まないと流石に急ピッチすぎるというか。
今回は閑話的な感じでダラダラご覧ください。
次からサクサク話を進めたいなあ。


Fragments:黎明After

 唐突だけど言わせてもらおう。

 ヴァルター・フリードリヒ・シェレンベルクは怪物だ。

 彼は人間ではない、それ以外の何かだ。

 そして、僕の相棒であり、親友であり、魂の片割れと表現できる、愛すべき隣人だ。

 別段、出会いが劇的だったわけじゃない。

 僕とヴァルターとアイヒマンくんはゲシュタポにおいては所謂同期、と言える間柄だ。

 それも、あの先輩たる黄金の野獣閣下から直々に引き抜かれたという特別な縁で集った。

 その時顔合わせをして、よろしくねって感じで。

 僕らのうち誰かしらが無能であればこの縁も自然消滅したんだろうけど、そんなことはなく、僕らは閣下から与えられた十三号室を寄り所に度々集まることとなった。

 尉官になって、佐官になって、それからもそうさ。

 野暮ったい異名なんかつけられたり、将官達のご機嫌取りに伺うようになったり、遂には戦争の引き金とか引いちゃったり、まあそれなりに働いたさ。

 自分で言うのも何だが、僕はいい直感を持ってるつもりだ。

 世界の表も、裏も、はたまた闇の中にある底知れない何かさえ、僕はそれを知らぬまでも感じ取り、世の中を上手く渡り歩いてきた。

 アーネンエルベの人食い女さんともビジネスライクにやってきたし、図ることさえ烏滸がましい何かを抱えている黄金の野獣先輩閣下の部下であることも、まあそういうこともあるでしょうって感じで、心の中の冷や汗と悲鳴はおくびにも出さずに生きてきた。

 

 その上で、やはり言わせてもらおう。

 ヴァルターも、それと同質の怪物だ。

 極めて強固で堅牢な精神の怪物であり、闇の怪物だ。

 果たしてその本質を見た人間が何人いるか。

 ラインハルト・ハイドリヒはそれを無意識に見抜いた上で自分と重ねているのだろう。

 あの金髪の少女は、ほんの微かな違和感を危機感として捉えている。

 それは何れも正解であり、しかし理解には到底及ばない。

 そして理解した所でどうにかなるようなものでもない。

 彼はあらゆる仮面を被り、あらゆる人格を演じる才能を持っていた。

 天性の演技力、と人は呼んだか、その才能について本人は不快そうな顔をするが。

 そう、そこだ。

 僕には分かる、それこそが本質であり、偽りであると。

 演技力?

 才能?

 天性?

 ああ、そうなんだろうよ、本当にその通りだ。

 何せ、生ける時間すべてを偽装しているような男なのだから。

 

 ヴァルターに人間性は存在しない。

 ヴァルターに感情は存在しない。

 ヴァルターの一挙一動は作りものであり、人間に混じったおかしな人形だ。

 閣下に対する不満も、少女に対する微かな安らぎも、僕に対する友情も、すべて。

 すべて、そう、すべて。

 あらゆるものは意味を持たず、ただかくあれかしと演じている欺瞞に過ぎない。

 それが彼の本質であり、諸君が抱いた堅実でシビアで、でも少しだけ優しい、そんな人物像はすべてすべて間違いだ、何もないのさ、真実ね。

 そんな恐るべき人形が、何故こうして人として振る舞えているのか。

 それは簡単な話。

 彼が生まれ落ちたその時から、貴方は人間だ、とその背を懐き続ける人がいたから。

 ヴァルター・フリードリヒ・シェレンベルクは、彼女の望むように、正しい人であるべきと、そう演じることを第一に生きている。

 感情無き身であるはずの彼が、まず最初にこの人だけは、この人の願いだけは受け入れようと、生じ得ない筈の心のような何かを抱いた対象であり、彼の原風景。

 

 つまるところ、あれだ。

 母の愛、ってやつだよ。

 彼がその病理を打ち砕くようなことがあるのだとしたら、それ以外に、ありはしないのさ。

 

 

 アルフレート・ヘルムート・ナウヨックスの独白、或いは闇の中の誰かへの

 

 

 

 

「いーつーまーでー、私達は此処に拘束されてないといけないのよう!」

 耐えかねたアンナが足をばたつかせ叫び出す。

 この部屋に現在いるのはアンナと、ヴァレリアンと、リザと、もう一人。

 扉を封鎖し鼠一匹通さないという頑なな姿勢を取っているアドルフ・アイヒマンのみだ。

「閣下は諸君らをここに留めておけと命じた。閣下の沙汰がない限り、ゲシュタポの門は開くことはない」

「この石頭! アルちゃんくらいの柔軟性を見せなさいよ!」

「ナウヨックス少佐の態度をこのゲシュタポにおける軍人の平均と捉えるな、不名誉な」

 いくらドタバタと騒ぎ立てようと、番兵はピクリともしない。

 脅しも威圧もなんのその、まるで壁そのものと言った態度だ。

「仕方のないことでしょう、首が落ちていないだけ有り難いというものです」

 ヴァレリアンがアンナを諌める。

 それは打算抜きにしてもそうしていただろうが、事実ヴァレリアンの特殊な知覚が、この男はたとえ死に瀕しても態度を変えることはない、と察しているからだ。

 それは恐るべき鋼鉄の忠誠であり、砕こうが溶かそうが鉄以外になれぬ男の心だった。

「ナウヨックス少佐によると遅くとも明日には、ということですし、もう暫くの辛抱ですよ」

「その暫くが長いのよー、こんな所にいるとお肌と髪が荒れちゃうわ。というかそうよ、アルちゃんよ! 私の事ほったらかして何してるのよあのチビっ子!」

「医務室で寝ているんでしょう、無理を言うものじゃないわ」

 次にそれを諌めるのはリザだった。

「彼、酷い有様だったじゃない。全身ズタズタの包帯まみれで、歩けたり笑ったりできてるほうが不思議な事よ。エレオノーレも腕の骨が折れちゃってるけど、彼のほうがよっぽど酷いわ」

「ですねえ。見ている方がハラハラしますよ。おとなしく療養していてくださるなら、こちらの心にも優しいというものです」

 あの争乱が終わり。

 あろうことかラインハルトはズタボロのアルフレートを蹴り起こした。

 エレオノーレとベアトリスとともに拘束に参加し自らの足でゲシュタポに帰還しろと。

 何の冗談かと、その場にいた全員が思ったものだ。

 しかし、彼は錆びついたブリキのように立ち上がり、血を流しながらその命を守った。

 その有り様に、あの凶獣達とは別の意味での怖気を感じたものだ。

 不可解な存在だ、とヴァレリアンは思う。

 あの恐ろしき凶獣も、計り知れない黄金とその影もそうだが。

 そう、まるで何重にも意識を別の色で塗りつぶしたかのような。

 まるで前衛芸術のような不可解さを、ヴァレリアンは彼に感じていた。

 同じく、倒れ伏しその後の行方が知れぬもう一人にも。

「…………」

 その分、この空間はまだましというものだ。

 一人程定期的に人間を食い物にしているらしいおぞましい魔女こそいるものの、逆に言うとそれだけで。

 平時なら一刻もはやく離れたいと思っていたろうに、ヴァレリアンの感覚はそれ以上のなにかを見てしまった故にすっかり麻痺していた。

 彼のみではない、きっとあの黄金の輝きを目にしてしまった誰もが、その価値観という目に見えないものを破壊されてしまったのだろう。

 それこそが地獄への道行きの始まりの一歩だということを、この時点では誰もが自覚しようもないことだった。

 

 

 ゲシュタポ庁舎、十三号室にて 番兵と拘束中の民間人の会話

 

 

 

 

「ぬあああああああああん暇なんだもおおおおおおん! ごろごろごろごろごろごろおぐっ!? あ、ヤバ傷がちょっと開いた」

「何やってるんですか……」

「…………」

 本来怪我人が療養すべき清潔な部屋にて、迷惑千万極まりない喚き声が響いている。

 全身包帯まみれのミイラ男状態のアルフレートにベアトリスは呆れ、エレオノーレも無言で不快気な目線を寄越している。

「あのですね、ここには腕が折れちゃってるヴィッテンブルグ中尉もいらっしゃるので、静かにしていただけると……えーと、少佐」

「アルフレートが呼びづらいなら、ヘルムートでも、ナウヨックスでもいいよー。後僕はそんな上下関係とか気にしないから。気に入らないやつには階級をひけらかすけど」

「……じゃあナウヨックス少佐で」

 幼馴染みと同じ名前であるこの上官は、その気質はまるで真逆。

 騎士に凝り固まったようなカッチコッチの男と違い、どこまでも道化じみている。

 ベアトリスもエレオノーレもこの少年のような上官に対する態度を掴みかねていたが、一日この部屋で相対していてなんとなくスタンスが固まりかけてきていた。

 そう、アルフレートは他人から見て蔑ろに扱ってもいいかなーと思わせてしまう男なのだ、それが天然なのか意図的なのかはさておき。

 共闘を行いその実力を認めたエレオノーレさえも、やはりこの男に敬意といったものは不要かもしれぬと既に思い始めてしまっているくらいだった。

「とにかく、安静にしていないと治るものも治らないでしょう。ここは静かに……」

「え? へーきへーき、僕ってなんでか知らないけど傷の治りが早いし。このくらいの負傷なら、まあ一週間あれば復帰できるかな、多分」

「ええ……? そんな馬鹿な……」

「だからこうして持て余した熱情を動きとして反映することにも何の問題は……」

 踊るアルフレートは柱に激突し包帯の下から血が吹き出した。

「ぎゃあああああああああ! 痛い痛い痛い!」

「本当に何やってんのあんたは!」

「まーたお前か! アルフレート・ナウヨックス少佐! いい加減にしろ!」

 怒り顔の医務官が包帯を持ってかけつけアルフレートをベットに再度投げ込む。

 それは非常に慣れた手つきであった、いつものことであるかのような。

「やめろぉやめろぉ! ベッドの脚に手錠で僕を繋ぐのだけはやめるんだ! 分かった、僕が悪かった! 医務室の主は歴戦の将官さえ拳の一撃で意識を沈めるゴリラだって噂は取り下げておくから、ごはぁ!?」

 どごん。

 そんな言い方が適切な音が鳴り響き、ベッドが静かになった。

 やりきって虚無顔の医務官が去った後、そこには片足をベットの足にて上で繋がれて気絶しているアルフレートの姿があった。

「……こわっ。逆らわないようにしよう」

「ふむ、あの医務官、中々できるな」

 ベアトリスはゲシュタポって怖いところばかりだなあという感想を、エレオノーレは成程医務官も歴戦の経験をもつ実力主義の職場だなという正反対の感想を抱いた。

「まあ、閉じ込められて退屈っていうのは分からないでもないですけどねー。中尉はどうです、腕を治すまでの間、何かお見舞いに欲しいものとかあります?」

「体がなまる、折れた腕を使わなくてもいい鍛錬器具が欲しいな」

「あー……ですよねー了解(ヤヴォール)

「何だ、何か言いたいなら言ってみろ」

「いえ、こういう時くらい読書とかどうでしょうと思っただけで」

「本くらい読むぞ」

「戦術論とかはナシで」

「ではなんだというのだ」

「そりゃあまあ、ラブストーリーとか? 部下の身としてはそういう趣味の一つでも持っていてくれたほうが安心できるというか」

「ブレンナーのような女の屑が囃し立てるようなものを誰が読むか」

「いやいやそれは偏見ですって。そうだ、この際だから私のをちょくちょく持ってきますね! 他にやることもない今だからこそ是非呼んでもらいましょう!」

「おい……私は鍛錬」

「リハビリ? 鍛錬? ダーメダメダメ許しませーん! 残 念 で し た !」

「貴様キルヒアイゼン、私の片腕と両足は健在だということを忘れてはいまいな……?」

「無理したら治るの遅くなりますよ? 然るべき休息も軍務のうちって、いたたたたたた頭を鷲掴みにしないでいたたたたたた分かりましたやめますよう!」

「分かればいい」

 今回も中尉の乙女心を引き出す作戦は失敗かー。

 ベアトリスは残念がりつつ頭を擦る。

 まあ、諦めるつもりはないのだが。

 この人は初心すぎるというか、度を超えて振り切ってしまった乙女というか、なんというか、先輩とは別の意味で見ていられないのだ。

 その気高きあり方が憧れだからこそ。

 自分はなにかと誰かを支えたい補佐役気質なのかなあ、とベアトリスは思った。

 そうだ、先輩といえば。

「ヴァルターさん、どうなったんだろう」

 あの日、不気味な影の如き男に背中から声をかけられ、ヴァルターはその意識を失った。

 そしてあの凶賊達と同じようにあの場に置き去りになったのだ。

 ラインハルト・ハイドリヒは、というよりあの影の男は、ヴァルターを背負い連れて行くことを許さなかった。

 いまゲシュタポにいる自分たちが曲りなりとも許されたのなら、あの場に残されたヴァルターは、よもや許されなかったということでは。

 そんな不安がベアトリスを襲う。

「シェレンベルク少佐、か。件の知り合いの上官とやらが、そこまでの男だったとはな。キルヒアイゼン、貴様を見くびっていたようだ」

「先輩のこと、ご存知で?」

「噂程度だ。ハイドリヒ中将閣下の懐剣の一振りであるとか、地方の二等兵から恐るべき速度で成り上がり、今や中将の側で将官の方々の覚えも高い第二の獣であるとか。そんなところか」

「ええ、はい。噂はだいたいそんな感じですね」

「その人格はともかく、やはり中将閣下の手にはそれほどの人材が揃っているということだ」

 その人格はともかく、のところでベッドに沈んでいるアルフレートをちらりと見る。

 エレオノーレにとっては現状、あのやかましい上官に親友だの相棒だの言われていた男、という印象があるからか。

「いやいやヴァルターさんは真面目な人ですよ。自分のやることに一途で、折れない人です。中尉もお話すればきっと気に入りますって」

「どうだかな」

 またきっと会えますよね、と不安を紛らわしていると、扉の開く音が聞こえる。

「失礼、ナウヨックス少佐の療養場所はこちらですかな?」

 背の高い男だった。

 痩せこけた体躯と顔は骸骨のようにも見える、異様なまでに手足の長い男だ。

 昆虫じみている、とでも言おうか。

 その形容方法なら、そう、蜘蛛のような男、と表現するのが適切か。

 その男は医務官の指示す先にあるアルフレートのベッドへと紙袋を抱え移動する。

「あー、少佐。ナウヨックス少佐、起きてください」

「……ん、んー? 何かゴリラに殴られた夢を見たような……」

「意識をしっかりしてください、毎度毎度寝ぼけられても困るのですが」

「ああ、はいはい、えーと。なんだベッポくんか。何の用?」

「貴方が書き置きを残したのでしょう! 療養中暇を潰せるものを調達してこいと!」

「そういえばそんなことをしたような気もする。うむ、ご苦労。さすがはゲシュタポが誇るお茶汲みベッポくんだ、ありがてえー」

「そろそろ本業に戻りたいのですが……ああ、それと。『本題』の方も確認してきましたよ」

「ホンダイ? なんだっけ」

「暇だからって話を引き伸ばすのはやめてください。シェレンベルク少佐の行方ですよ」

「ヴァルターさんの!?」

 その話に、ベアトリスが食いついた。

 アルフレートと、ベッポくんと呼ばれた男が振り返る。

「ヴァルターさん、無事なんですか!?」

「おや、このお嬢さんは……?」

「色々あってね。まあヴァルターのガールフレンドとでも思っておけばいいと思うよ」

「ほう……かの将軍(ヘル・ゲネラール)殿も中々やりますねえ」

「ガールフレンド……てへへ……ってそうでなくて! 先輩の行方!」

「どうどう落ち着きなさってお馬さん」

「誰がお馬さんですか!」

「行方って言っても、別にそんな大したことじゃないんだよ。だって僕はベッポくんに、ちょっとヴァルターの家を確認してきてって頼んだだけだもん」

 初歩の初歩の初歩でしょ、とアルフレートは言う。

「ええ、はい。ナウヨックス少佐の名代としてシェレンベルク少佐の住まいを確認してきました所。未だ意識を失っているものの、確かに自宅に戻っておられました。外傷や疾患の心配もなく、後は目覚めるのを待つだけと」

「自宅……そっか……よかった……」

 ひとまず、無事であったことに安堵の息を吐く。

 処断されていないのなら、復帰もするということだろう。

 最悪の可能性が潰えたことは素直に喜ばしい。

「母君が献身的にお世話をしてらっしゃったので、近いうちに目が覚めるでしょうね」

「あ、やっぱり来てた? カマかけたけど、正解だったねえ」

「ええ、驚きました。美しい方でしたねえ」

 そう、お世話をする人もいるなら尚万全。

 と、ベアトリスはその時非常に気になる単語を聞いた。

「え、と。母君っていうのは?」

「そりゃあ勿論ヴァルターの母君さ。僕は去年のクリスマスに会ってね。ベルリンで仕事する息子を健気に心配して様子を見に来るいいお母さんだったよ」

「なにそれ。すっごい気になる!」

「おいキルヒアイゼン。他所の家の事情に姦しく聞く耳を立てるな、下品だぞ」

「でも気になるものは気になるんですもん!」

 

 

 ゲシュタポ併設医務室にて 怪我人達の会話

 

 

 

 

「……う」

 カーテンの開いた窓から差し込む光に瞼が焼かれる、いつもの一日のような起床だった。

 意識が覚醒し、直前の記憶が鮮明に蘇る。

 凶賊、共闘、ラインハルト、影の男、そしてこの身に抱いた――

「…………!!!」

 思考が戻ると同時に跳ね起きようとして。

 肩に触れている小さな手を認識し、その勢いを止める。

「ヴァルター? ヴァルター? ああ、よかった。目が覚めたのね、でも一旦落ち着いて」

 懐かしい、森のせせらぎ。

 鈴の鳴るような美しい声に、ヴァルターは自身の現状を自覚する。

 ここは自身の自宅であり、そしてこの人は。

 そうだ、クリスマスだから、また元気な姿を見に来ますと手紙に書いていた。

 もうお節介かな、でもこれが私の生き甲斐で、楽しみだから許してね、と毎年のように彼女は言い、自分もそれを決して拒むことはない。

 日差しとは別の、暖かな。

「……母さん」

「ええ、はい。去年ぶりですね、ヴァルター。時間に帰ってこなかった時は心配したけれど、無事でよかったわ。痛みはない? 目眩はないですか?」

「……ない、大丈夫」

「そう、なら安心。あなたは正直な子だから、あなたがそういうのならきっと心配ないのね。けれど、一先ず着替えて朝食にしましょう? 色々と話すのも、それからでも遅くはないわ」

「仕事は、どうなって」

「真面目なのはいいことだけれど、ええ、でもそうね、これは先に言っておくわ。あなたが目を覚ましてから一日迄、お休みしていいって、貴方の上官さんが仰っていたから。だから、心配しないでいいの」

 念押しするように額を指で押される。

 それから、とてとてと小さな足音をたて、彼女は部屋を後にする。

 いつもの白いブラウスに、黒のコルセットスカート、頭の後ろ、リボンで束ねたポニーテールがゆらゆらと揺れて。

 何年経とうとも忘れない、その後姿。

 そう、何年経とうとも変わらない(・・・・・)、小さな母。

 シェレンベルクの森で、血の繋がらない兄弟たちと過ごしていたあの頃から。

 美しく、気丈で、ぼくのようなばけものを決して見捨てなかった母の姿。

 何時だって変わらず、自分を慈しんでいる。

 カテリナ・リディア・シェレンベルクという女性の姿だった。

「…………」

 少しばかり、目を閉じて。

 それから、着替えて階段を降りた。

 テーブルには燃費の良い自分に誂えたパンと紅茶が用意されていて、母は用意された席の対面に、自分の分に手を付けず待っていた。

「わざわざ待たなくても」

「一緒に食べたい、はもう駄目?」

「いや……駄目じゃない」

「ありがとう」

 そうして、静かに食べ始める。

 森にいた頃は毎日、ベルリンに来てからは年に一度の。

 自分がパンを食べ、母は嬉しそうにそれを見て、自分も食べ始める。

 皿の中が空になるまで、そのまま。

 そんな静かな食卓が、ヴァルターにとっての原風景だった。

 最後のひとかけらを紅茶で流し込み、皿の中が空になる。

 それを見届けて、カテリナが口を開いた。

「クリスマスの夜から、丸一日。あなたは眠っていたの」

「……一日」

「あの夜。あなたの上官さん、ハイドリヒ中将が気を失ったあなたを背負って家を訪ねてきたわ。凶賊の制圧で気を失ったって、目に見える外傷はないから自宅まで送り届けたって」

 ハイドリヒ中将が、というところでヴァルターは訝しむ。

 あの夜、そう、あの夜だ。

 あの男の中身が変生した、と感じた。

 あってはならぬ、許してはならぬ、そんな思いに支配された。

 そう、支配されたのだ。

 ありえないことだ、何故なら自分は――

「……無理に聞くつもりはないわ。けれど、何があったのか、話してみませんか」

 それが、何か意味の分からないものであったとしても。

 ヴァルターは自然と、あの時感じたなにかを、とりとめもなく口にする。

「ラインハルト・ハイドリヒは。俺にとって、まるで歪な鏡のような存在だった。違いなんて、隠しているかいないか、飢えているかそうでないかくらいのものだと思う。この世界に何も感じない、感じようがない。その差はきっと……いや、それはともかく。俺はあいつに共感を抱いていたし、あいつもそうだったと思う。けれど」

 その瞬間というものは、いつまでも脳裏に焼き付いている。

 きっと、これから何年経とうとも。

 これはそういうものだという確信があった。

「鏡が、割れたんだ。あの瞬間、決定的に違えた。そう、あの男。そうだ、あいつだ」

 あの影の男。

 地の底から、空の果てから嘲笑う水銀の蛇が。

「かつてクリスチャン・ローゼンクロイツと名乗ったあの男が。ハイドリヒの側にいた」

 その一言をはいて、ヴァルターは母を見る。

 一瞬だけその目を見開き、視線を落とす母がいた。

 ああ、やはりそうなのか。

 『終わりを感じている』自分は、間違いではないのか。

「……これが、何を意味するのか。今の俺には分からない。これから何があるのかも。この身のうちにある衝動も、母さん、あなたが二十年を経て尚変わらずにいることも、あの影の男もそれと同じ存在であろうことも。けれど」

 分からなくても、分かることは、ある。

 だから、もしそうなのだとしたら。

「母さん、ぼくは、あなたが望むのなら、この命を――」

「ヴァルター!」

 カテリナの悲鳴のような呼び声が、その先を言葉にすることを止めた。

 母はその身を震わせ、悲しみの目でヴァルターを見やる。

「ごめんなさい、まだ、私からは言えない。でも、それでも。その先は、言わないで」

「……分かった」

 どうすればいいのだろう。

 自分の言動が母を悲しませることなど分かっていた。

 けれど、それでも、出来損ないのこの身は、それくらいしか。

 例え神なるものが己の宿命を定めていたのだとしても。

 ヴァルターにとって、カテリナこそが自分の命だから。

 何か、もともと存在しないなにかが急速に失われていくような感覚を、ヴァルターは自覚することなく部屋へと戻った。

 

 

 ベルリンの一軒家にて 母と子の会話

 

 

 

 

「……やはり、間違いないのですね。聖槍が起動した」

 無言でそれを見送ったカテリナは、祈るように手を組み、目を瞑る。

 思い出す、思い出してしまう。

 二十年前、水銀の蛇が訪れ、それを知ってしまった時。

「私では、もう駄目なの? メルクリウスの言う通り、あの子が対の柱に立つしかないの?」

 否、知っていたのだ、知っていて、手元に置いたのだ。

 ただ、直視したくなかっただけだ。

 愛すべき子が、時代の犠牲となることを知りながら、目を逸らしてきた。

 なにが母だ、なにが、なにが。

「でないとあの子は、これから急速に自己を失っていく。使徒として、その胸に聖痕を穿つべく、機構として完成していく。そうなったら、もう。あの子は、ヴァルターは人として戻ってこない」

 それでもと自分に言い聞かせ、時の流れるままにその成長を見守ってきた。

 もう小さな幼子ではない、大きくなって、友人に恵まれ、人生を歩んでいけると言うのに。

「私は……私は、あの子を、本当の息子だと。決して、心無き歯車にはさせたくない」

 だから、もう手遅れだとしても、祈らずにはいられないのだ。

 あの子の、母として。

「人間なのよ、ヴァルター。心なき身でも、偽りでも。あなたが望み、あなたが為すすべてが。あなたという人間なの」

 

 




所々のフレーズに見覚えがある気がする人、それは間違いじゃないです。
人間なのよギュスターヴとかまるっきりイメージしてたからね。


超絶ネタバレ
カテリナ・リディア・シェレンベルク=ヴァルターの聖遺物
お茶汲みベッポくん=ナウヨックスに拉致られ仮兵長の身分を与えられてしまったシュピーネさん


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