踏み入った先、そこは確かに部屋だった。
薄暗いけど、魔法の光が灯っている。杖先の灯りを消して、また歩き出した。
左右に蛇が絡み合う細工が施された柱が立ち、見えない暗闇の天井に溶けて続いている。
柱の間を、ゆっくりと進んでいく。
部屋の奥には、サラザール・スリザリンの巨大な石像が重々しく立っていた。
ここがこの部屋の終点のようだ。
髭を蓄えた厳つい顔から、その足元に目を移して、見つけた。
「っ、ドラコ!」
思わず駆け出していた。
ホワイトブロンドの髪に、尖った顎。スリザリン像を見上げている。
ドラコだ、間違いない。立っている……立っている!
生きていたんだ。ああ、良かった!
駆け寄る私にドラコはゆっくりと顔を向けた。
その表情は――
「!!」
反射的に杖腕を跳ね上げた。
「プロテゴっ!」
ギリギリで間に合った盾の呪文が、
「くうっ……!」
強い……! 間に合わせで作った盾では抑えきれない。
バチン! と盾ごと私の身体は弾き飛ばされて、尻餅をついた。呪文は私をギリギリ掠めて、背後に逸れて行った。
恐ろしく強い呪文の威力、しかも無言呪文だった。
どこで習得したのとか、いつの間にとか、疑問に思うことはいくらでもあったけど――私の頭は、どうして、という言葉で埋め尽くされていた。
呆然とドラコを見る。ドラコも私を見て、口を開いた。
「よく防いだな……ポッター」
どきん、と心臓が鳴った。
吐き捨てるような呼び方。
何の感情も浮かんでいないような顔。
「さすが学年一の天才だ」
友達を不意打ちで撃って、それが当然と言わんばかりの表情。……友達って私が言ってるだけなんだけど、それでも、休みの間に、少しは通じ合えたと思っていた。
何より違うのはその視線。あんなに冷たい彼の目を、私はきっと見たことない。
「ほ、本当に、ドラコ?」
馬鹿馬鹿しい問いが口から零れてしまった。
震える声を、ドラコは鼻で笑い飛ばした。
「正真正銘、僕はドラコ・マルフォイだよ。お前の知る通り……とは、少し違うか」
「違う?」
「そうだな、例えば――」
ドラコが、私に呪いを撃ったということ。
気持ちでは認めたくなかったけど、頭の冷静な部分で理解していたみたいだ。
だから、ドラコが再び杖を振り上げたとき、私の身体は意識せずとも杖を握り、立ち上がった。
精神の動揺は魔法の精度を下げる。混乱とか、痛みとかは胸の奥に押し込まれて、魔法を使うためだけに頭が加速する。
無言呪文の盾で受ける。解析――失神呪文。……威力はやはり強い。少なくとも、ロックハートの比じゃない。
「無言呪文か……」
冷静に対処した私をドラコは面白くなさそうに見ていた。
「ふん、まあ今のでお前もわかっただろう。僕は力を得たんだ。お前や、あのグレンジャーにだって負けないほどの力を!」
激情に駆られたように叫んだその眼には、炎がちらちらと蛇の舌のように映りこんでいるように見えた。
警戒は解かずに、浅く呼吸を繰り返して、頭を整理する。
ドラコが私に向ける目は、感情は、正直に言ってきつい。歯を食いしばって堪えていなければ、目が潤んできそうだ。
でも、思うままにわめいたり闘ったりしても、きっとどうにもならない。
考えて、落ち着いて、静かにドラコに語り掛けた。
「……ドラコ、帰ろう? みんな心配してる。ここバジリスク来るらしいし」
「はっ、バジリスクなど恐れるに足らない。それにそもそも――」
ドラコは上機嫌に、私に杖を向けたまま歌う様に言った。
「あいつは呼ぶまでは来ない」
「……どうしてわかるの?」
「どうしてかって? それは、この僕が、スリザリンの継承者だからさ」
誇らしげに、宣言が、部屋に響いた。
ドラコは笑って私を見ていた。
「僕こそが、この秘密の部屋を開いたんだ」
「………」
「ハロウィンの日、壁に脅迫の文字を書いたのも僕だ」
「………」
「バジリスクを四人の『穢れた血』やフィルチの飼い猫にけしかけたのも――僕だ」
「なるほど。で、どうしてそんなことを?」
「………は?」
私の至って普通の質問に、ドラコは一瞬ぽかん、と口を開けた。
「言い方が悪かったかな? わかりやすく言えば、僕が生徒を」
「聞き方が悪かったかな」
私は言葉を遮る。
「言い直すね。
私の言葉にドラコは目を見開き、すぐに憎々しげに細めた。
そして私を睨んだままゆっくりと、ローブのポケットに手を入れ、一冊の本のようなものを取り出した。
「察しが良すぎるのも嫌われるぞ、ポッター」
そう吐き捨てるドラコに、私は答えることができなかった。
さっきから、ドラコのものではない禍々しい魔力を感じていた。注意深く辿れば、ドラコのポケットから発せられている。
しかし取り出された本は、予想よりも遥かに邪悪な気配を放っていた。
まるで私の言葉に反応するかのように、その気配を濃くしていた。もう隠す必要はないとばかりに。
「確かに、始まりはこの本だった」
本から目が離せない私を余所に、ドラコは説明を始めてくれた。
ボロボロの黒い表紙の本を片手に掲げる。
「父上から渡されたものでね……秘密の部屋を開く道具と聞かされていた。でも、それだけではないことに僕は早々に気づいたよ。ある意味、お前のお陰かもな、ポッター」
「私の?」
「ああ」
ドラコは杖を振って羽ペンを出現させると、開いた本にさっと線を引いた。それがじわりと滲んだように見えた、と次の瞬間には、線は本に吸われるように消えていった。
「見ての通りさ。ホグワーツ特急に乗るとき、なぜか通れなかっただろう。あのときトランクの中がインク塗れになったが、これだけは綺麗なままだった」
確かに、あのときインクが零れたとぼやいていた。
「秘密の部屋を開くための道具がただインクを吸うだけとは思えない。僕はこれを研究して……そして知ったんだ。この日記の本当の意味を」
ドラコはくっくと笑って本をパタリと閉じた。
「この本は言わば……指南書だ。秘密の部屋を開く『スリザリンの継承者』に相応しい力を与えてくれるのさ」
「指南書……?」
「そう! 魔法について書き込めばなんでも答えが浮き上がるのさ。初歩の妖精の呪文から、学校では決して習わないはずの闇の魔術まで……そして、その知識と、力を、瞬く間に手に入れられるんだ――」
囁くようにドラコが言って、目にも留まらない速さで杖を複雑に振った。
部屋の中に赤と黒が入り混じった炎が立ち上り、あまりの熱量に私は腕で顔を覆った。
「ははは……はははははっ!」
轟々と鳴る炎の向こうで、ドラコが嗤う声が聞こえた。
「これが、これが僕の力だ! お前も、グレンジャーももう遥かに突き放した! いや、もうこの学校で僕に勝てる者なんていないかもな!」
その言葉は炎越しにも私の耳にしっかりと届いた。
冷静であろう、冷静であろうと言い聞かせていた私の努力を水泡に帰した。
わかりやすく言うなら、わかりやすく怒ったのだ、私は。
「そんなことのために……!」
砕けろとばかりに杖を握りしめる。
渦巻く炎に杖を向けた。
「パーティス・テンポラス!!(道を開けよ)」
見えない巨大な手が火を分かち、道を開く。
正面に驚いた顔をしたドラコがいた。残り火を踏みつけながらずんずんと歩み寄る。
「そんなことのためにっ!」
「っ! ああ、そうだよ! そのために生徒たちを、グレンジャーを!」
「違う!」
爪先がくっつくほどに近づいて喚きたてた。
「っどう考えても呪いの品でしょこんなの! なんでこんなものに手出したのバカ!!」
「は?」
純血の生まれなのに、生まれてからずっと魔法界にいるはずなのに、なんでこんなことに気づかないかな!?
「操られてるよ! 今年一年! 間違いなく!」
「は、何を馬鹿な……操られてなどいない」
「いいや操られてる! いつものドラコならこんなことしないもん!」
「僕はスリザリン生だぞ? スリザリンの継承者である行動を取るのに何の不思議がある」
呆れたように首を振るドラコ。
「いや、スリザリン生だからとか関係ないし! ドラコだからだよ!」
「そこまでに――」
「だってドラコ優しいじゃん」
「……は?」
ぴたりと動きが止まった。
「勉強教えてくれたし、なんだかんだ言いながら宿題手伝ってくれたし、魔法の練習も付き合ってくれたし、人参食べてくれたし」
「いやまてまてまて……」
後退して額を押さえるドラコにまたずんと近づく。
「ね?」
「い、今それは関係ないだろ!」
「あるよ! 優しいし面倒見が良いし、あなたは人を想う心を持ってるんだから。意味もなくこんなことするはずない」
「い、意味ならある! グレンジャーはマグル生まれのくせに、僕よりも成績が良かった、だから――」
「だから襲ったって? まさか」
休み中も、学校が始まってからも、ドラコは努力を続けていた。自分の力で勝ってやるんだと、授業のときも張り合ってきたと言っていた。
彷徨っている片手を私の両手で捕まえて、しっかり目を見て話す。ドラコは合わせようとはしてくれないけど、私は見ている。
「ドラコだって、ハーマイオニーの実力は認めてたんでしょ? 自分でそれを認めていなかっただけで」
「……うるさい! さっきからわかったようなことばかり!」
張り詰めた糸が切れたように怒鳴ったドラコに、乱暴に手を振り払われた。
たたらを踏んで後ずさった私に、杖先が向いていた。
「僕の気持ちも知らないで! 穢れた血や半純血のお前に負けて、父上の失望に僕がどれだけ悩んだか!」
「その言葉は使わないで!」
「うるさいうるさいうるさい!」
ドラコは片手で頭を掻きむしって叫んでいた。
碌に狙いも定められずに、ドラコの杖から呪文が乱れ飛ぶ。こんな軽い呪文には当たるもんか。全て逸らして防ぐ。
「全て僕の意志だ!」
「嘘だ!」
「嘘じゃない! 全員殺してやるつもりだった! 穢れた血なんて――」
「嘘だよ!! 私は信じてる!!!」
喉が裂けそうなほどに叫んだ言葉に、ドラコの呪文が止まった。
お互いに肩で息をしながら、お互いを見ていた。ドラコの瞳も、私を捉えていた。
「ドラコ、今年の初めに私に何をしてくれたか忘れたの?」
「………」
「私は覚えてる。助けてくれたんだよ。あの牢獄みたいな家から、連れ出してくれた……あのとき、どれだけ私が嬉しかったか、ドラコこそわかってない……!」
家に来たのは偶然かもしれない。でも私の現状を知って、怒ってくれて、あそこから出してくれたのは、他の何でもなく、ドラコの優しさだった。
ローブの袖でぐいっと目じりを拭ってもう一度しっかりと、彼の顔を見た。
酷い顔だった。多分、私以上に。
「私は信じてる。他のグリフィンドール生がどれだけ悪く言おうと、私の知るあなたは意外と世話焼きで、説明好きで、何だかんだ面倒見が良くて、優しくて……そして誇り高い魔法使い、ドラコ・マルフォイだってこと。そんなあなたが、自分の意志でこんな事件を起こしたなんて、私は! 絶対に! 信じない!」
叫び声が高い天井に響いた。
ドラコは俯いていた。
表情は見えなかった。
長く、沈黙が続いたような気がした。
静寂を破ったのは、
ドラコが左手にずっと持っていた『本』が、その手から滑り落ちた。
「ドラコ……!」
「……うるさいぞ、ポッター」
上げた顔には、さっきまでの狂気的な笑みではなく、変わらない仏頂面があった。
「僕も……」
口ごもり、視線をあちらこちらにやり、瞑目して、また開き、話し続けた。
「僕も、お前を信じてみることにした。やってしまったことは変わらないが、こんなところまで来た……来て、くれたお前を、信じてみようと思う」
段々声が小さくなっていったけど、ここには静寂しかない。最後まではっきりと聞こえた。
私も小さく応えた。
「うん。ありがとう、ドラコ」
「でも、お前やグレンジャーに負けて悩んでいたのは、僕の本心だ。これだけは、きっと、本当のことだ。単に父上の期待に応えられないせいじゃない。負けて悔しかったんだ、僕は」
泣きそうに歪んだ顔で、ドラコは言った。
「僕は、お前よりも上に行きたいんだ……お前がどこまで上に居るのかわからない。わからないけど、お前の居るところまで、登って行きたい……!」
「……うん」
「頼む、決闘を受けてくれ。今言うべきことじゃないのはわかってる。でも、お前がどこにいるか知りたい。僕だけの力で、お前と闘いたいんだ」
その眼を見て、言葉を返すことはできなかった。
数歩、離れた。
お互い向き合い、身体の前に杖を構え、お辞儀をする。
ぴたりと剣のように杖を向け合った。
心音が重なる。
ひとつ、ふたつ――
――みっつ。
「エクスペリアームズ!!!」
「―――っ!」
決着は一瞬だった。
ドラコが呪文を唱える間に、私は無言で盾の呪文と失神呪文を放っていた。
ドラコが自分だけの力で放った武装解除。技術的には多分、さっきまでの方が上だろう。
でもその力は、重さは、その比じゃない。矢のように飛んだ赤い閃光は、私の盾と拮抗し――砕いて消えた。
砕ける音と共にそれを確認したであろうドラコも、次の瞬間には失神呪文が胸に当たり、糸が切れたように崩れ落ちた。
その顔は、思っていたよりも安らかだったと思う。