イギリスの西。北海の中央にある魔法使いの刑務所、アズカバン。
絶海に囲まれ、マグルからは見つからないよう呪文がかけられている。
イギリス魔法界で罪を犯した者は概ねここに収監される。
ギルデロイ・ロックハートが、魔法の不適正使用の罪に問われアズカバンに入獄したのは、ほんの半年ほど前のことだ。しかし、彼の精神はお世辞にも、ディメンターに抵抗できるほど強靭ではなかった。
気力を失い、惰性で少ない食事を摂り、眠る。
かつてチャーミング・ロックハートと呼ばれた微笑みはそこには無く、疲れ切った男がそこにはいた。
看守も、囚人たちも、あるいは彼自身でさえも、想像しえなかった。
この男が、魔法界で初めて、アズカバンを脱獄した男になろうとは……。
物語の導入としてはこんな感じか。
と、ギルデロイ・ロックハートは考えた。
暗い灰色の石の壁と鉄格子。
魔法界唯一の監獄にしては特別な設備はない。
だがここにはディメンターがいる。脱獄をしようという気力さえも奪われるここで、まともな思考能力を持っていられる者は少ない。
基本妄想に籠ることでそれを成しているのは彼くらいだろうが。
周囲は呻き声や悲鳴、嘆きや怨嗟で満ちている。泣き声のバリエーションも豊富だ。
正気でいてもいいことがない。ロックハートはもう一度、自分の英雄譚に逃げ込もうと意識をぼやかしたとき。
「なあ、起きているんだろう?」
壁越しに男の声が聞こえた。
顔が見えるわけでもない。だがロックハートは、それが自分に呼び掛けられたものだとわかった。
ここ最近、うんざりするほど何度も聞こえた声だったからだ。
「……またかね。もう話せることは話したよ」
「いいやまだだ。まだ彼女の私生活については聞いてない」
「なぜ知っていると思った?」
「なんだ、知らんのか」
「知らん」
隣の囚人が言う「彼女」とは、ハリエット・ポッターのことだ。
ロックハートが監獄にぶち込まれる原因を作った少女である。
そのことは話していないが、世間話でホグワーツに居たことを話した途端、男は目の色を変えたようにハリエットのことを根掘り葉掘り聞いてきたのだ。
さてはロリコンか。
「なら友達の話でもいいぞ! あの子がどんな子と付き合っているか知りたい!」
「13歳は犯罪なので、よしておいた方がいいと思いますよ」
「違うと言ってるだろう! 急によそよそしくなるんじゃあない! 私は純粋に彼女をだな――」
さて、またこの話は長くなるぞと、ロックハートが聞き流す態勢に入ろうとしたときだった。
「KY391番! 面会希望者が来ている。出ろ!」
「また面会か! お前多すぎないか!」
「なぜ君が怒るんだ……」
理不尽に怒りだす隣人に呆れながら、開かれた鉄格子を潜って独房の外に出た。狐の
「いいか、帰ってきたらまた話をするぞ! 語り切れてないことも聞いてないことも山のようにあるはずだ!」
「静かにしろ!」
バーン、と威嚇の呪文を看守が放ち、ようやく男は静かになった。
「さあ、歩け」
促されるままに歩く。
守護霊の近くにいることで、久しぶりに一息つくことができた。
両親や二人の姉が頻繁に面会にやってくるのも、ディメンターの影響から束の間でも逃れられるようにらしい。ありがたいと思う反面、こんな自分に構ってほしくないという葛藤もあった。
それにしても……隣の囚人はなんなのだろう、と考えた。ロリコンなどと言ったが、ロックハートも本心ではそうは思っていない。
どちらかと言えば、娘を心配しているような感じを受けていた。
しかし、彼女の両親が例のあの人に殺されたというのは子供でも知っていることだ。
ただの異常者か、それとも……
考えた所で頭を振って思考を追い出した。
なぜあの少女のことで頭を悩ませなければならない。まだ出所後に出版する予定の本の内容を考えていた方が何倍もましだ。
いつの間にか面会室についていた。
看守が扉を開き、中へと促す。
さて、今日は姉か母か。予想しながら入ったロックハートを――
「お久しぶりです。ロックハート先生」
予想外の人物が迎えた。
ハリエット・ポッターその人だった。
肘掛け椅子に小さな身体がちょこんと収まっている。
その背後、部屋の隅に、アルバス・ダンブルドアがゆったりと座り、ブルーの瞳でロックハートを見ていた。
「……もう先生ではないはずだがね。君のお陰で」
「あれは自業自得って言うんですよ」
平然と毒を吐く姿に少し驚く。学校で過ごしていたときは、そんな印象はなかった。
「先生はお疲れみたいですね」
「ここに居れば誰だってそうなる――世間話をしに来たわけじゃないだろう?」
ロックハートとしては、彼女と話をしていたい理由はない。
用意されている椅子に座ろうともせず、話を急かした。
「わざわざ校長に頼んでまで、何をしに来たんだ?」
ハリエットも長話をする気はなかったようで、頷き、すぐさま用件を言った。
元々予期せぬ訪問、しかしそれはロックハートにとって、さらに予想外のものだった。
「記憶を返してください」
「――なんだって?」
「あなたが忘却術で消した私の記憶を返してください、と言いました」
眉を顰めた。錯乱している様子はない。ちらりとダンブルドアの方を見ても、何も言う気も無いようだった。
意味が分からない。
「何を言っているんだ? 記憶は消えてない。だからこそ私はここに居るのでは?」
もしや当てつけか? とあり得ない想像まで浮かぶ。
ハリエットは横に首を振った。
「いいえ、消えてます。それはあなたが一番よくわかっているでしょう?」
「……」
身を乗り出しはっきりと断言する姿にロックハートは押し黙った。
確かに、あのときの
「
「……嫌だと言ったら?」
「無理やりにでも」
即答だった。
強い目をしている。本気であることは一瞬で伝わってきた。だが――
「君はそれでいいのか?」
「……どういう意味ですか」
「君が一番わかっているだろう? 今の君は、昔の君より自由に生きている」
これでも人を見る目はあるのさ、と嘯く。
半分カマかけだが、実際に以前の彼女と違うのはわかっていた。自らそれを捨てようとしていることも。
だからこれは、ちょっとした意趣返し。嫌がらせだった。
「のびのびとした今の自分を捨てて、元の自分に戻ってもいいのかい? ハリエット」
「構いません」
またしても、即答だった。
「私にはその記憶が必要ですから」
「……そうか」
ならば何も言うことはない。
「私の杖は用意してくれているのかな?」
「ここじゃ」
いつの間にかダンブルドアが近くに立っていた。
手にはビロードの上に置かれた懐かしのマイ杖がある。
「これはどうも」
手に取った。懐かしい手触り。
ロックハートはしばらくその感触を楽しんでから、少女に杖を向けた。
隣からの圧力が高まるのを感じた。下手な動きをすれば、目にもとまらぬ速さで呪いが飛んでくるだろう。
小さな顔と肩をこわばらせて、少女はロックハートを見ていた。
まあ、呪いをかけるつもりもない。
「フィニート・インカンターテム」
呪文がハリエットの頭に吸い込まれ、彼女は反射的に目を閉じた。
そのまま、30秒ほどもだろうか。眠ってしまったかのように動かなかった。
「……ああ」
やがて、ふっと脱力し、ため息ともつかぬ声を漏らした。
「うん、ありがとう。ロックハート先生」
「もう先生ではないよ」
「そうだった。ごめんなさい――おっと」
ハリエットは薄く笑って立ち上がり、よろめいて校長に支えられた。
「ハリー?」
「ありがとうございます、ダンブルドア先生。眩暈がしただけで………帰って記憶を整理したいです。連れてきていただいて、ありがとうございました」
そう言って、ハリエット・ポッターはふらふらと面会室を出ていった。
「大丈夫なのか」
「あの子は強い子じゃ」
思わず零した言葉に、ダンブルドアが素っ気なく答えた。
杖を回収して、校長も早々に帰って行った。
看守に連れられ来た道を戻りながら、来た時と同じようにハリエットのことを考えた。
ほんの少しだけ、憐れみを感じていた。
隣人の露骨なハリエット上げはうんざりしたが、ただそのおかげと言うべきか、そのせいと言うべきか、ひとつ、自分が間違ったことに気づいた。
彼女は望んでいなかった。
名声も、特異性も……両親の死も。
自分とは違う。運命に巻き込まれるように有名になってしまった、闇の帝王の犠牲者。
謝れば良かっただろうか、とちらり思ったが、すぐに打ち消した。
自分も彼女のお陰でこんなところにいるのだからお相子である。
もちろん心の底では、彼女の言う通り自業自得であったことは理解している。しかし気持ちはそう簡単には割り切れないものだ。
自分の独房にたどり着く。
「帰って来たか! さあ――」
「静かにしろ!」
懲りない隣の男が犬のように吠え、またしても威嚇の呪文が放たれていた。
今の面会は忘れてしまおうと思ったが、隣の男がいる限りそれも無理かもしれない。
そうでなくとも、少女のあの目はしばらく忘れられそうにない。
数日後、その男が魔法界で初めてアズカバンを脱獄した男になろうとは、ロックハートには想像しえなかった。
以上、第二部完!
長かった……物理的に中弛みさせてしまいすみませんでした。
今後は章完結までは途切れないよう頑張ります。
とはいえアズカバンはまだほぼ何も無いので、何か思いつけば続きを書きたいと思います。
ひとまず区切りです。たくさんの感想、評価、誤字報告感謝です。大変励みになりました。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。