聖杯を手に入れる。それが一族の、玲瓏館家の悲願だと、幼い頃からお父さまに聞かされていた。
正直に言えば、私は聖杯に興味なんて微塵もなかった。
願いとは、人に頼るべくものでなく。ましてや万能の願望器なんてものに縋って叶えるものでもない。
それが、奇跡でしかなしえないものでもない限り、人は自分自身の裁量で願うべきだ。
高校を卒業した私は、全世界の魔術師を束ねる魔術協会の総本山、『時計塔』へ入学して自らの魔術師としての力を磨いた。いずれ、お父様のような極東随一の魔術師になる為に。
優秀な素質が自分に備わっている事は理解もしていたし、私は超一流だと自負している。けれど、その能力に磨きを掛けることを忘れた事はないし、幼少の時分から研鑽を怠った事もない。魔術師とは、無力な一般の民を庇護するものだと考えて生きてきたために親しい友人こそいれど、本当の意味での友達はいない。…ただ一人だけ、親友と呼べそう奴はいた。結局、喧嘩別れのような形で離れてしまったけれど。いや、違うわ。
あいつは親友ではない。ただの幼馴染に過ぎない。今では生きているのかさえ知らないけれど。
そいつは、馬鹿だった。救いようのない愚かさ。
それこそ聖杯に縋れば簡単に叶えてくれるだろう願いを、血を吐き続け、誰に助けを求めるでなく、私達学生にとってもう二度と戻らない青春を、人の一度限りの人生を捨てた。捨てることができた。
誰がそうしろと言ったわけではなく、呪いをかけられたわけでもない。
ただ、そうしなければならないと自分に呪いをかけたのだ。
いまだかつて、こんな滑稽な魔術師がいただろうか。あぁ、思い出すだけでも腹立たしい。忌々しい。
そう、本来聖杯を求めるべきはアイツのような間違った人間だ。私のような優秀で、才に溢れ、資産を持て余す恵まれた人間が挑むものじゃない。
「だと言うのに…どうして私なのかしらね。」
忌々しげに、玲瓏館美沙夜は自身のうなじに現れた翼のような赤い、紋様を鏡越しに睨みつけた。
美沙夜は、たまたま時計塔のあるイギリスから地元である英聖市へと里帰りをしていた。その里帰り初日の深夜、丑三つ時にこの紋様はうなじに痛みともに現れた。
もしかすると、何日も前から薄く浮き上がっていたのかもしれない。けれど、うなじなんて毎日自分で確認するわけもないし、そもそもどうしてうなじなのか。
大概の『令呪』は右手に現れると聞いていたのに。これじゃ確認しづらいったらありゃしない。
令呪が現れたということは、自分は聖杯戦争の参加権を得たというわけだ。
けど、ここ英聖市には争うべき聖杯が存在しない。アレは冬木市にしか顕現し得ないものの筈だ。勝ち取るべきものがないというのに何を目指して争えというのか。
「それに、あの“声”は?」
美沙夜は令呪が付与された夜に不可思議な声を聞いた。
思い出すのもおぞましい声。例えるなら、ゴボゴボと口から嘔吐物を撒き散らしながら話しているような聞くに堪えない醜悪な声だった。仮に絶対音感を持つものが聞いたなら、発狂しかねない不快音。流石の美沙夜といえど、それには青ざめた。
「 “全ての人類に呪いを…。”」
確かに、そう言っていた。呪い? 今回のイレギュラーな聖杯戦争となにか関連があるのだろうか。
時計塔でお世話になっており、自身も聖杯戦争を経験しているエルメロイⅡ世に相談してみたが、これといった回答は得られなかった。むしろ、美沙夜のような優秀な魔術師がこんなイレギュラーな聖杯戦争に願いもなく挑むことを反対された。
令呪を譲渡すれば、聖杯戦争からは開放される。
けれど、美沙夜は自身に宿った令呪に不気味なものを感じ取っていた。
それは魔術師としての能力で感じ取ったものでなく、第六感で感じたものだ。
この令呪を他人に渡せば、取り返しのつかない事になる気がする。
「まあ、挑んでみるのも面白いかもね。」
通常の聖杯戦争とは違う明らかな異変。これを解決すれば、自分の魔術師としての箔もあがるというものだ。
美沙夜は丁重に鍵つきのケースに保存された小瓶を手に取った。ガラス製の小瓶の中身は透かしてみると染みがみえた。ここに何かが入っていたのは間違いない。
英霊の座から英霊を召還するために必要な縁、それが聖遺物。本来ならマスターに近い性質を持つ英霊を聖杯が選ぶのだが、この聖遺物があれば狙った英霊を呼び出すことができる。
美沙夜はその小瓶を握り、ほくそえんだ。その笑みは優雅でいて、淫ら。
彼女が選んだ英霊は決して優秀なサーヴァントではない。だが、それこそが彼女の狙いだった。
「決行は今夜、楽しみだわ…」
自らの類まれな才能を測る戦いが、今夜始まる。
その家は、由緒正しき血を受け継ぐ家系だった。
およそ四○○年前に天下分け目の戦いと呼ばれる関が原の戦いを制し、日の本を平定。年数にして二六五年もの統治を継続させた三英傑が一人、徳川家康。
そんな日本で知らぬものはいない戦国大名の血筋は現代まで続いていた。しかして、一時代を築きあげた英雄の一族は今やそのかつての威光に縋るしかなかった。
中には成功し、名を上げた親族もいた。が、いまだ政権を握るにはいたらず。かといって日本中が彼らを敬愛し、ひれ伏す事もない。
家康の血を受け継ぐ正当後継者にして現状の末代である徳川家霊は、幼い頃から口うるさく、あるいはすっぱく父上から言われ続けてきた。
『我々徳川家は、再び天下を取らねばならん。でなければ、ご先祖の家康様に顔向けできようか。』
代を重ねるごとに薄れていく威光を父上は良しとしなかった。
故に、家霊に魔術を学ばせた。
妻に魔術師として優秀ながらも跡継ぎも居らず、目ぼしい相手もいない女性を金を積んで娶り、父は家霊を産ませた。更に、魔術師にとって歴史と共に受け継いできた最大の家宝である一子相伝の魔術刻印を家霊に幼い頃に移植させた。
全ては聖杯戦争に参加し、聖杯を勝ち取る為に。家霊が無理でもその子に、その子が無理ならさらにその子に。一族の復興のために。
そして、徳川家にとって予期せぬタイミングで聖杯戦争は開始された。まだ家霊が十四歳になったばかりの幼さで。
その夜、家霊は聞いた。思い出すのも恐ろしき声を。まるで溺れながら話しているかのような不気味な声を。
『全てを、呪え。』
右手を襲った痛みと共に、その声は頭に響いた。
気がついたとき、右手に紋様が浮かび上がっていた。
父はそれを手放しで喜び、母は悲しげに家霊を抱きしめた。ただ家霊だけは冷静に違和感を分析していた。ここは、冬木市でも英聖市でもない。なのになぜ自分に令呪が宿ったのか。
「それに…あの声は一体何だったのでしょう。」
大仰な屋敷の一角に与えられた自分の畳張りの部屋で座禅を組み、精神を統一させていた家霊は一人呟いた。その眼前には、幼少の頃から肌身離さず、寝食を共にしてきた脇差が置かれている。この小刀こそ、父が家霊が生まれる前に拵えた徳川家にふさわしき英傑との縁。聖遺物である。
今から今回の聖杯戦争の舞台であると魔術協会から知らされた西にある英聖市へと赴き、サーヴァントを降霊する。
その英霊と共に家霊は聖杯戦争に挑むことになる。
マスター同士が聖杯を求めて行う殺し合いに。若干十四歳の家霊が。
父が用意したサーヴァントはこれ以上ないくらいに卓越した英霊なのは間違いない。だが、自分で果たして勝ち抜けるだろうか。相手は魔術師と呼ばれる異能を操る者達。自分にも、母から教わった魔術の教養はあれどもいざというとき頼りになるのは剣術くらいだ。
けれど、やらなければならない。
父が聖杯を望み、母が自分を案じてくれているのだから。
自分が失敗すれば、母は父に責め立てられるだろう。家から追い出されるかもしれない。
それだけは、嫌だ。
「家霊、時間だ。」
父が自分の名を呼ぶ。
「畏まりました、父上。すぐに参ります。」
家霊は小刀を布で包み、自らの愛刀を手にして立ち上がる。
向かう先は、英聖市。果し合いの場だ。