・うはぐむ……呆然とする、呆気にとられる
「……では、時間も近いですし今日はこのあたりにしておきましょうか」
「あ、本当ですね。ありがとうございました、先生」
幸とハロハピの激動の二週間からしばらく。それ以前と比べて、現在の彼の生活はまったくと言っていいほど違ったものになっていた。
美咲と幸が互いに思いを打ち明けたあの日。彼の父親は約束に則り、自ら変化を求めた幸に対して真摯に向き合って、その意志を尊重した。
家督を継ぐための稽古は変わらずあるが、これまでのように生活の中に他の要素を許さぬような多忙さはない。ハロハピの練習やライブにだって――事前の申告や予定の調整が必要ではあるが――顔を出すことができているし、休日にはなんと、遊びにいくことだってあった。
彼の境遇を争点にたびたび言い合いをしていた優と父親の仲も、そこに対立を感じるようなものではなくなった。もっとも、気持ちよく良好であると言うにはまだ隔たりがあるかもしれないが、ともかく、そういった点も含めて、彼を取り巻く環境はことごとくが好転しているよう見えた。
稽古をつけてくれていた先生に深く一礼をして部屋に戻った幸は、机に置いていた携帯の画面が光を放っていることに気が付いた。
『今って大丈夫?』
手に取って見てみれば、そんな内容のメッセージが画面の中央に表示されている。詳しく確認するに、その送り主は美咲で、送信されてきたのはほんの五分ほど前のことであるらしかった。
稽古の予定が重なり彼は参加することができなかったが、今日ハロハピは『CiRCLE』でバンド練習をしていた。近々あたらしい曲を作るって話もあがってたしそのあたりのことかな、と心当たりを洗いながら幸は、今しがた稽古が終わったという旨のメッセージを返す。するとものの数秒で、彼の携帯が着信に震えた。
『もしもし?』
「はい、もしもし。こんばんは、美咲さん」
『さっきまでお稽古だったんだって? お疲れ様』
「ありがとうございます。それでその、どうしたんですか? 今日の練習で何かありました?」
『んー、いや、練習中にってわけではないんだけど、実はさ――』
そう前置いて、美咲は本題について話し始めた。
「……花火大会、ですか?」
『うん、そうなんだよね。今日の練習の後、宿題の話からその場のノリで決まっちゃって』
彼女の話をまとめれば、まず、美咲たちの学年では夏休みの宿題の一つとして俳句を作ってくることが課せられていたらしい。その作成がうまくいっていないことを聞いた花音が、俳句をつくる一助として花火大会に行くことを提案したのだと。
『日付は来週の日曜なんだけど……どうかな、予定空いてない?』
「ちょっと確認してみますね。……えっと、午前はお稽古が入ってるので厳しいですが、お昼以降でしたら大丈夫そうです」
『ほんと? あくまで目的は夜の花火だし、屋台とかまわるにしてもそんなに早くは集まらないだろうから、いけそうだね――っと、ごめん。夜ご飯できたみたいだから行ってくる』
幸の参加が決まった途端に、ちょうどよいタイミングで美咲がそう切り出した。直前、彼の耳は電話の向こう側に聞きなれない声をとらえており、きっと妹か弟でもが彼女を呼びに来たのだろう。
『――あ、そうそう』
そうして電話は切られようとしたのだが、どうやら何か伝え忘れたことでもあったらしい。美咲が再び口を開いた。
『当日、浴衣だからね。よろしく』
「……へ?」
『それじゃ、今度こそ行ってくるね。ばいばい』
「み、美咲さん!? 浴衣ってそん――あ、切れてる……」
最後の最後で見舞われた特大の置き土産に、幸は咄嗟に声を上げようとしたが、きっと彼女には届いていなかったに違いない。
――――――――
祖師谷幸は祖師谷優の皮をかぶり、祖師谷コウと成る。
字面はまったく複雑怪奇なものであるが、それが彼のことを端的に言い表す一文であることも確かであった。
「うん、これでバッチシって感じ!」
「ほんと? 変なところとかない?」
「変なもんですか! めっちゃくちゃかわいいわよ!」
「……それ、あんまり嬉しくないんだけど」
「えー、でも本当にかわいいわよ! 香澄とかが見たら秒で抱き着くレベルね!」
あっという間にやってきた、花火大会の当日。
午前中の稽古を、若干ソワソワとした心持ちでこなした幸は今まさに、花火大会へ赴くための身支度をしているところだった。とはいっても、女性用浴衣の着方などを彼が知っているはずもなく、こうして本来の持ち主である優に着付けを手伝ってもらっている。
帯から、髪飾り、足袋まで。姉の手によって完璧に仕上げられた己の姿を鏡越しに確かめて、幸は嘆息をする。甚だ遺憾ながら、先の『嬉しくない評価』は自分の口でも否定ができそうになかった。
「そろそろ時間ね。ほら、いってらっしゃい」
「わっ、わわっ……ちょっと」
「楽しんでくるのよー!」
ぐいぐいと強く背中を押されて、幸は半ばつんのめるような勢いで玄関を飛び出る。そして、姉のその強引さに呆れつつ、すぐそこに立っていた人物へ声をかけた。
「お待たせしました」
「ううん、ちょうど今来たところだよ……なんて」
定番、などと一般に言われるやりとりを交わし、奥沢美咲はにへらと笑う。
幸が休日に遊びに出かけるようになったのはほんの最近のことであるが、そういった時に彼女がこうして家まで迎えに来ることは、もはや常となりつつあった。
「……にしても
「そ、そうですか?」
「うん、すっごいかわいいよ」
「……もう! それはこっちの台詞ですっ!」
「あはは、冗談――ではないんだけど、そう怒んないでよ。それとまぁ……ありがと?」
からかうような表情で、しかし、嘘偽りのない言葉を口にする美咲。そんな彼女もまた、落ち着いた藍色の生地にところどころ花柄のあしらわれた浴衣に身を包んでおり、幸の口からこぼれた本音は、意図せず反撃の一手となった。
なんとなくお互いの顔が見れなくなり、微妙な空気が流れること数秒。なにをやっているんだと、どちらからともなく笑いがあふれ、二人は笑顔のまま花火大会へと歩き出した。
電車で数駅、徒歩で数分。それだけの道のりを経て二人は、花火大会の会場に到着した。
「わぁ、すごい活気ですね!」
「うん、これは……ちょっと予想以上かも」
目玉である打ち上げ花火まではまだ時間があるというのに、屋台の並ぶ通りは数えきれないほどの人がごったがえしており、二人は圧倒されてしまっていた。
花火が近づいてさらに人ごみの増すことがあれば、身体の小さな幸などはすぐに逸れてしまいそうだ、と美咲は思った。
「にしても、ちょっと早く着いちゃったなぁ」
携帯で時間を確認して、美咲は小さくつぶやく。
事前の話し合いで、花火の前に屋台を楽しむために少し早く集合しようと決めていたのだが、二人はそれよりも早く会場についてしまった。他のメンバーがやってくるまでにはもう少し時間がかかりそうだった。
「そういえば、花音さんは大丈夫でしょうか? ここに来るまで結構距離がありましたけど……」
「あー、花音さんならはぐみが迎えに行ってくれてるよ。だから大丈夫じゃないかな」
「そうなんですね。ふふ、それならよかったです」
時間をつぶすため、そんな他愛のない話を二人はしていたのだが、その途中で美咲はふと、幸の視線がある方向をしきりに気にしている様子であることに気が付いた。
「……気になる?」
「へっ!? な、何のことでしょう!?」
「いや、さっきからチラチラあっちの方みてるじゃん? なんか気になる屋台でもあったのかなーって思って」
「……なにぶん、こういったお祭りに来るのは初めてなので、色々と気になってしまって……すいません」
美咲としては単純に疑問を投げただけのつもりだったのだが、対して幸は、何故だか申し訳なさげに顔を伏せ、謝罪の言葉を口にした。
その意味がわからず彼女が事情を聴けば、曰く、他のメンバーが到着していないというのに早く屋台を楽しみたいと思ってしまったことを申し訳なく思った、のだと。
(……あほかな?)
きっとそれは、彼の清らかで尊い、そんな精神の顕れであって。とても素晴らしいことではあるのだろうが、美咲の心に浮かんだのは、そんな感想だった。
この場にいないメンバーの誰もが、そんなことは気にするはずがなく、むしろ幸が自分の気持ちを押さえつけることこそを許さないだろうことを、美咲は知っているから。
「よし。じゃ、行ってみよっか」
「えっ? そ、そんな、ダメですよ! 他の皆さんに悪いです!」
そしてそれは、彼女も同じ。生まれて初めてやってきたという大きなお祭り。幸にはめいっぱい楽しんでほしいと、美咲は心の底から思っていた。
「まぁまぁ、考えてもみなって。こころたちと合流した後はさ、きっと楽しいんだろうけど、絶対どんちゃん騒ぎになっておちおち屋台もまわれないよ」
「…………」
「こんなに落ち着いてられるのはたぶん今だけだし、少しくらい自分に正直になっても、みんな気にしないよ」
「……そう、でしょうか?」
「もちろん。なんなら、そっちの方が喜ぶかもしれないくらい。だからさ、みんなが来るまでのちょっとの間だけ、一緒に……ね?」
そう言って美咲が手を差し出すと、彼はしばらく葛藤をしている様子であったが、やがておずおずと手を伸ばして、そしてキュッと握るのだった。
改行具合、どのように感じましたか?
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地の文間もっと開けた方がいい
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セリフ間もっと開けた方が
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上記二つとも
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特に問題ない