――――三ヶ月前。
千年の妄執を描くステンドグラスの下で、少女はアインツベルンの当主に謁見していた。
アハトの通り名で知られる老人。アインツベルンの現当主、ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンは延命と延齢を繰り返し、既に二百年の歳月を生きている。すべては聖杯を手に入れ、第三魔法『天の杯』へ至るため。
「――――人間が視覚を通して認識している世界など、所詮は表層に過ぎぬ。それよりも高位の次元には、森羅万象を定義する世界が広がっている。ある者はアカシックレコードと呼び、ある者はアストラル界と呼び、そして、ある者は『根源』と呼ぶ世界。そこは全ての始まりにして、すべての終わりであり、そこには全てが存在する」
アハト翁が語るのは、アインツベルンの始まり。
「遠い昔のことだ。一人の賢者がその世界に足を踏み入れた。そして、彼はその世界に渦巻く無形にして不滅のエネルギー体に形を与える術を手に入れた」
「……それが、第三魔法」
イリヤスフィールの言葉を「その通りだ」と肯定し、彼は話を続ける。
「魂の物質化などと呼ばれている。それは、先見の明を持つ者達に希望を与えた」
「希望ですか……?」
「然様。ある男が導き出した解答だ。この人類世界は、そう遠くない未来に破滅を迎える。その未来を受け入れられない者達が賢者の下を訪れた。だが、賢者の知恵は彼らの手に余るものだった。如何に師を真似ても、彼らは賢者の奇跡を再現することが出来なかったのだ。そして、行き詰った彼らは一つの考えに行き着く。それは、《奇跡の体現者である師と同一の存在を作り上げ、その者に奇跡を再現させる》というものだ」
それが、アインツベルンのホムンクルス鋳造の歴史の始まりだった。
「九百年の歳月の末、彼らは遂に師と同等か、それ以上の性能を持つホムンクルスの鋳造に成功する。それが貴様の祖であるユスティーツァだ」
アハト翁はステンドグラスを見上げる。そこに描かれた美しい女性の肖像こそ、ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルン。創造主達が死に絶えた後も彼らの理想と目的を叶える為に進み続け、その果てに彼女は己の肉体を基盤とした大聖杯の鋳造と聖杯降臨の儀式を発案した。
「イリヤスフィールよ。我らの悲願の為、必ずや勝利するのだ。よいな?」
「……心得ております、お祖父様」
第二十話『運命の分岐点』
――――お前の父親は裏切り者だ。
瞼を閉じる度に聞こえてくる母親の声。
――――わたしは、おまえは、あの男に捨てられた。
いつか迎えに来てくれると信じていた。だけど、いつの間にか諦めていた。
寂しくて、凍えそうで、泣きたくなる気持ちも忘れてしまった。
――――あの男が死んだそうよ。わたし達を迎えに来ることもなく、身勝手に死んだそうよ。
母親の声が囁きかけてくる。
だけど、どうでもいい。あの男のことなんて、もうわたしには関係がない。だって、一人で生きていくと決めたもの。
――――子供がいるそうよ。
子供……。
――――あの男は家族を持ったのよ。わたし達を捨てた男が。
キリツグの……、子供。
「……わたしのおとうと」
瞼を開くと、外はまだ暗かった。そっと、窓辺に歩いて行く。
かつて感じた温もりは雪原の下に隠れてしまい、色鮮やかに彩られていた筈の世界は白で満たされていく。そして、母の声が白を見るに耐えない色へ穢していく。
「おとうと……。キリツグのムスコ。わたしの……」
顔も知らない。名前も知らない。どんな性格なのかも、なにも知らない。
だけど、ココロの中の一番大切な場所に居座っている。
「……おとうと。わたしのおとうと。どんな子なんだろう……」
会ってみたい。話してみたい。名前を知りたい。顔を知りたい。声を知りたい。わたしのものにしたい。殺したい。愛したい。愛されたい。奪いたい。奪われたい。
「会いたいよ……。わたしの……、おとうとに」
もうすぐ、聖杯戦争がはじまる。その時になれば、イヤでも会うことになる。
だけど、待ちきれない。会いたくて、会いたくて、想いに押し潰されてしまいそう。
「会いたい……」
それは祈りの言葉。心からの渇望。堰き止めきれなくなった思いの奔流に、彼女は呑まれた。そして、その言葉が、すべての運命を変えた。
小聖杯として完成したイリヤスフィールの魔術回路は、彼女の願望を成就させる為に起動する。その身に宿りし真紅の刻印を活性化させ、陣も詠唱も省略して、彼女の望みを呼び寄せる。
彼女の前に降り立ったのは、真紅の外套を纏う青年だった。
「サーヴァント・アーチャー。召喚に応じて参上した」
「……あなたが、わたしのおとうとなの?」
イリヤスフィールの言葉にアーチャーは目を見開き、そして、言った。
「そうだよ、イリヤ。まさか、君に喚ばれるとは思わなかったよ」
彼はわたしに微笑みかけてくれた。優しい声で、優しい口調で、親しげにわたしをイリヤと呼んだ。
「……わたしのおとうと。あなたの名前を知りたいの」
「衛宮士郎。それがわたしの名前だ」
「エミヤシロ?」
「違うよ。衛宮士郎。エ・ミ・ヤ、シ・ロ・ウ」
「エミヤ・シロウ。シロウね。あなたは、シロウなのね」
「そうだよ、姉さん」
涙が溢れ出した。とっくの昔に枯れ果てたはずの泉から湧き上がる水が汚れた雪原を洗い流していく。
「シロウ……。シロウの声をきかせて」
「ああ、いくらでも」
「……わたし、あなたを殺したい」
「君が望むなら」
「でも、殺したくないの」
蘇った世界の色はあまりにも鮮やかで、わたしはわたしが分からなくなった。
「あなたが欲しいの」
「わたしは君のサーヴァントだ」
「ずっと一緒にいてほしいの」
「君が望む限り、いつまでも」
わたしは彼の手に触れた。あたたかくて、おおきい。
「髪の毛……、わたしと一緒だね」
「……そうだな。お揃いだ」
「シロウ……。わたしの、おとうと。わたしの、シロウ」
抱きつくと、抱き締めてくれた。
これは夢かもしれない。だけど、それでもかまわない。この温もりを今だけでも……。