――――数日前。
「……こんにちは」
インターホンの音が鳴り、扉を開いた先には女の子が立っていた。雪のように白い髪と、血のように紅い瞳が印象的な少女だ。
「シロウ」
親しげに俺の名を呼び、腰に抱きついてきた。咄嗟のことに動転してしまい、慌てて引き離そうとしたら、彼女はひどく哀しそうな表情を浮かべた。
「君はいったい……」
「イリヤスフィールよ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。あなたの義父であるエミヤキリツグの娘」
「切嗣の……、娘?」
脳裏に義父の顔が過る。娘がいるなんて話は一度も聞いていない。だけど、彼女が嘘を吐いているようにも見えない。
「いいのよ、シロウ。あなたがわたしを知らないことを、わたしは知っているもの。だから、これからわたしのことを知ってちょうだい」
「それはどういう……」
「シロウ」
彼女と視線が交差した途端、目眩を感じた。
「わたしは知っているの。今のあなたにはわたしの暗示をはねのける力がないことも」
「あん……、じ」
意識を保っていられたのはそこまでだった。
次に気がついた時、俺は椅子に縛り付けられていた。手足は椅子に鉄枷で固定されている。
「シロウ」
子供とは思えない色香を放ちながら、イリヤスフィールと名乗った少女が俺の足の上に跨ってくる。
「わたしがあなたの運命を変えてあげる」
「運命……?」
「そうよ。あのオトコの理想なんて、もう追いかけなくていいの」
「……それは、切嗣のことを言っているのか?」
「そうよ。アレは悪魔よ。無垢で優しいあなたを地獄へ引きずり込む悪魔なの」
「お前は切嗣の娘なんだろ!? なんで、そんなことを……」
「娘だからよ」
ゾッとした。彼女の瞳には濃密な殺意と憎悪が渦巻いていた。
なにがあれば、こんなに幼い少女がそれほどの感情を抱けるのか想像もつかない。
「イリヤスフィール……」
「イリヤと呼んで、シロウ。あなたには、そう呼んでほしいの」
そう言って、イリヤは俺の唇に自分の唇を押し当てた。
頭の中が真っ白になる。人生ではじめてのキスだった。
「お、おまっ、お前! な、な、なにすんだよ!」
「イヤだった?」
頭の中を埋め尽くすロリコンとか、性犯罪者という単語が、彼女の哀しそうな瞳に押し流されていく。
「イヤとかじゃなくて、その、俺が君みたいな子供とその……、そういうことをするのは非常にまずいというか……」
「年齢のことなら問題ないわ。わたしの方があなたよりも年上だもの」
「え?」
イリヤは楽しそうにクスクスと笑った。その笑顔があまりにも愛らしくて、思わず見惚れてしまった。
これはまずい。非常にまずい。藤ねえに殺されてしまう。桜に軽蔑されてしまう。慎二や一成から何を言われるかわかったもんじゃない。
「シロウ。あなたはわたしのものよ。その目はわたしだけを見ていればいいの。その耳はわたしの言葉だけを拾えばいいの。その肌は……、わたしにだけ触れていればいいの」
そう言って、彼女は服を脱ぎ始めた。
「待ってくれ! それは非常にまずい!」
「……ゴホン!」
気まずそうな咳払いが室内に響いた。まさか、他にも人がいるとは思わなかった。
脳裏に手錠をかけられて連行されていく自分の姿が浮かぶ。正義の味方どころか、性犯罪者として監獄に入れられることになるなんて、切嗣が知ったらどう思うか……。
「なによ、シロウ」
「……いや、君こそ何をしているんだ?」
「見ての通りよ。シロウをわたしのものにするの。正義なんて、シロウには必要ない。あのオトコの遺した呪いもいらない。わたしに溺れていれば、それでいいのよ。あなたの望みもそれで叶うはず。違うかしら?」
「いや、その……、そういう方向にいかれるのもちょっと……」
「……わがままね」
頭の中で爺さんに言い訳をしていると、急に足が軽くなった。イリヤが離れたようだ。
ホッとしたような、残念なような……、いやいや! 煩悩退散! 悪魔よ、去れ!
「シロウ。あなたはわたしのものよ。誰にもあげない。他の女にも、切嗣にも、世界にも……、誰にも」
そう言って、彼女は部屋を出て行った。
「……この拘束、解いていってくれよ」
身動きの取れないまま、時間だけが過ぎていく。意識を緩めると、イリヤのにおいと感触を思い出してしまい、煩悩を振り払う為に一成から習った念仏を熱唱する羽目になった。ありがとう、一成。
第二十三話『究極の聖戦』
身じろぎさえ出来ない状態だと、時間の流れがやたらと長く感じられる。
学校に行く前に拉致されて、窓から見える太陽はまだ高い。いつまで、この状態が続くのか、考えるのも憂鬱だ。
「……せめて、手足くらいは」
「それは出来ん」
「は?」
いきなり、目の前に紅い男が現れた。イリヤが出て行った扉を見るが、開け閉めされた様子はない。
「間の抜けた顔をするな」
「なんだよ、お前は」
男の顔を見ると、妙に苛ついた気分にさせられた。
「これから、貴様にやってもらう仕事がある」
「仕事……?」
「そうだ。これはイリヤのために必要なことだ」
「イリヤのためって……、何をさせる気だ?」
つい、先程の光景が浮かび、慌てて頭を振りかぶると、男は心底軽蔑した表情を浮かべた。
「貴様……、まさかとは思うがイリヤに劣情をもよおしたのではあるまいな?」
「そ、そんなわけがあるか!」
声が上擦ってしまった。男は汚物を見るような目を向けてくる。腹が立つが、否定する言葉が出てこない。
「……イリヤはな、このままでは長く生きられんのだ」
「は?」
言われた言葉の意味がすぐに飲み込めなかった。
「そういう風に生まれた。いや……、生まれさせられたんだ。今のままでは、一年後を迎えることも出来ない」
「生まれさせられたって、どういう……」
「彼女には、生まれる前から役割を与えられていた。とある魔術儀式の生贄となることだ」
「生贄って……、あの子が?」
俺のことをシロウと呼び、抱きついてきた女の子。足に感じた重みは、見た目よりも遥かに軽いものだった。その彼女が生贄にされる。
「なんなんだよ、その儀式って!」
「聖杯戦争。聖杯という、万能の願望器を求める魔術師同士の殺し合いだ」
「なっ!?」
殺し合い。あまりにも物騒な内容に言葉を失った。
「参加する魔術師は七人。彼らはそれぞれサーヴァントと呼ばれる使い魔を召喚して使役し、最後の一人になるまで殺し合う。その勝者が手にする聖杯こそ、イリヤなんだ」
「なんだよ……、それ。そんなこと、本当に……」
「事実だ、衛宮士郎。そして、戦場となる舞台は貴様の住んでいる冬木の街だ。当然、街も平穏のままというわけにはいかない。一般市民の中からも犠牲者が出るだろう」
冬木市で魔術師同士の殺し合いが行われる。無関係の人々にも被害が出る。
そんなこと、させるわけにはいかない。
「そんなこと、させられるわけないだろ! 無関係の人まで巻き込むなんて、なにを考えてるんだ!」
「貴様が一人で吠えたところで何も変わりはしない。参加する魔術師達は己の願望の為に他者の死を容認した外道ばかりだ。口で何を言おうと止まりはしない」
「そんな……、でも!」
「それでも止めたければ、戦うしかない」
「戦うって、どうすれば……」
「サーヴァントを召喚しろ。あとはわたしがすべての片をつける」
男は拳を固く握りしめながら言った。
「イリヤを死なせるわけにはいかんのだ。あの子は、幸せにならねばならない」
「……おまえ」
男は言った。
「衛宮士郎。サーヴァントを召喚しろ。貴様には資格があり、条件はわたしが整える。イリヤを救うために……」
不思議だった。いきなり拉致されて、手足を拘束されて、こんな突拍子もない話を語られて、普通なら信じない。信じられるわけがない。
それなのに、俺には男の言葉が真実だと思えた。いけ好かない男なのに、生まれてこの方感じたこともない程に嫌悪感を抱いているのに、どうしてだろう。疑うことが出来ない。
「召喚すれば……、あの子を救えるのか?」
「救うんだ。なんとしても、あの子を」
「……わかった。どうすればいい?」
「わたしに続けて呪文を唱えろ」
男は足元のカーペットを捲り上げた。そこには巨大な魔法陣が刻まれていて、その陣を見た途端に左手の甲が痛みを発した。視線を向けると、赤いミミズ腫れのようなものが浮かんでいた。
「はじめるぞ」
男が呪文を唱える。その言葉をなぞっていくと、体内の神経が裏返った。いつも命がけで作り上げている魔術回路が瞬時に生成され、魔力が体内を勢い良く循環し始める。
室内にはエーテルが嵐のように吹き荒れ始め、最後の一節を唱えきった瞬間に体内からごっそりと魔力が抜けていった。
「……よくやった。これで貴様は用済みだ」
その言葉と共に意識が途絶えた。
◆
召喚された直後、セイバーのサーヴァントの前には別のサーヴァントが立っていた。その横には椅子に拘束された少年がいる。ラインを通じて、彼こそが己のマスターなのだと認識した瞬間、彼女は猛烈な殺意を紅い外套のサーヴァントに向けた。
「やめておけ、セイバー。貴様が動くより先に小僧の首が飛ぶぞ」
「貴様……」
召喚されたばかりで言葉の一つすら交わしていない状態にあっても、セイバーの思考に主を裏切るという選択肢はなかった。如何に敵の隙をついてマスターを救出するか、それだけを考え、意識を集中させる。
「無駄だ」
セイバーが踏み込み、一気呵成に不可視の剣を振り下ろすが、敵はまるで見えない筈の剣が見えているかのように受け止めてみせた。そして、彼女の腹部に一振りの剣が突き刺さった。
傷は深くない。けれど、その傷以上のダメージをセイバーは受けた。
「これ、は……」
「魔剣・
「貴様……」
「少し眠っておけ、騎士王」
動けないセイバーの体に別の剣が突き刺さる。その途端、セイバーは耐え難い眠気に襲われた。それでも意識を保とうともがくセイバーに、再び別の剣が突き刺さる。五本目が突き刺さった時点で彼女は意識を手放した。
「……二度は通じぬ手だが、上手くいったな」
アーチャーのサーヴァントは意識を失った主従をそれぞれ拘束していく。
そして、主の方を担ぐと、城の地下へ降りていった。そこには、一人の男が繋がれている。
「アトラム・ガリアスタ。君のお仲間だぞ」
その男は聖杯戦争の参加者となるべく冬木に滞在していた魔術師だ。その手の甲には令呪が宿っていたが、すでに剥奪されている。彼の参加資格はアハト翁が用意したホムンクルスに移され、第四次聖杯戦争に参加していたケイネス・エルメロイ・アーチボルトという男が考案した技法で、今は魔力の供給源として使われている。
「ではな、衛宮士郎」
地下牢の扉が閉ざされる。中からは決して開くことの出来ない奈落の底。階段を上がった先には門番のごとく佇むバーサーカーの姿があった。理性なき筈の瞳がアーチャーを睨みつける。
「……好きなだけ睨むがいい。嫌われるのには慣れている」
目を覚ましたセイバーには森の内側へ入ることを禁じた。そして、使いであるホムンクルスを介して斥候を命じた。わたしが城にいて、彼女の主の命を握る限り、彼女が裏切ることはない。そういう性格だと、わたしは知っていた。
イリヤを救う。その誓いの為にあらゆる策略を巡らせた。切り札を揃え、敵の情報を蓄えた。そして、現在――――。
「そこまでだ!」
「■■■■■■■■■■■■ッ!!!」
見事なまでに因果応報だった。思わぬところから現れたイリヤを救う手段を前に、それを破壊せんとする戦神と魔神が現れた。
「……おい、ドナルド」
「なに?」
「おまえなら、イリヤを救えるんだな?」
「うん」
「なら、救ってくれ。彼らのことはわたしが引き受ける」
身から出た錆だ。彼らはこの機に乗じてわたしを始末するつもりだろう。ここからでは、わたしがセイバーのマスターである衛宮士郎を殺す事は出来ず、セイバーにとっては千載一遇の好機であり、アハト翁にしても敵と共に不安要素を排除する好機と見るはずだ。
「……アーチャー。貴様の首、ここで貰い受ける」
「やれやれ、嫌われたものだ」
やはりと言うべきか、セイバーの殺意は一直線にわたしへ向いていた。
「大丈夫だよ、もう一人の僕」
彼らを固有結界に閉じ込める為、呪文を詠唱しようとした瞬間、背中の方から声がした。
「ドナルド。貴様の出る幕では……」
振り返った先には、知らない男が立っていた。
「オッス! オラ悟空!」
「……え?」
わたしは知っていた。その男が如何なる存在か……。
「嘘だろ?」
思わず呟いた言葉。それに対して、慎二がわたしの肩を叩いて言う。
「残念だけど、マジだぜ。あれ、孫悟空だ」
その言葉を裏付けるように、孫悟空は超サイヤ人へ変化した。遠坂達が遠い目をしている。
「これが“
「おう、任せとけ! こいつら、かなりつえーな! おらわくわくしてきたぞ!」
「なんだ、貴様は!?」
「■■■■■■■■■■■■ッ!!!」
そして、天を裂き地を割る大激突の火蓋が切って落とされた。わたしは完全に蚊帳の外に置かれ、慎二達と一緒に彼らの激闘を見物することになった。
「なんでさ……」