忘れてるだろうと出していくスタイルズクラッシュ。
「台詞」
(ヒカルの内心の台詞)
《あかりの内心の台詞》
『佐為の台詞』
【虎次郎の台詞】
「桑原のじーちゃん、いる?」
「ちょっとヒカル! 相手は目上の方」
「いえいえ、気にせんで下され。小さい子は元気が一番です。それが礼儀知らずでも、後々に良くなれば」
日本棋院内にある棋譜を保管するための資料室。かつてのヒカルが自分の城になる程までに入り浸り、多くの仲間と検討し過ごしたお気に入りの場所。
棋院自体には桑原が話を通していてくれていたらしく、すんなりと入れた。(一方的な)知り合いにも顔を合わせなかったので、ことさら嬉しい気持ちで一杯になっている。
「今日はお話を聞いていただきありがとうございます。桑原さん」
「何もそんなかしこまらんで下さい。ヒカルくんの進路は、囲碁界の未来にも関わっていますから、遅かれ早かれ、親御さんとは話したかった。こちらこそ、今日はありがとうございます」
真面目な対応をしている桑原にとても背中がむずむずと痒くなってしまう。
ただ、これから始まるのは進路相談。他の誰でもない『進藤ヒカル』が棋士になるための、囲碁界最強の男とする三者面談。
(まさか、面談になるなんてな? それも桑原のじーちゃんと)
【これも仕方ないことです。それに、囲碁に関して彼以上に頼れる人がいないのですから、使える手は全部使う。当然のことですよ】
三日前に桑原のじーちゃんから貰った電話の後、俺は母さん。そして、たまたまリビングにいた父の二人に、将来設計のことを伝えた。確りと、『囲碁打ちになりたい』と目を見てそう言いきった。
「この子はなんでも興味を持つんですけど飽き癖があって、私も知らない内に囲碁を始めるし、また何時やめるか……」
「母さん! 俺が碁をやめるわけ無いよ!!」
「今は静かにしていなさい。話してるでしょ」
いつもみたいに怒鳴りつけてこない。静かに怒られた。でも、不安があるのか、声が震えている。
「想像するに、突然ヒカルくんがプロ棋士になりたいとそう伝えたのでしょう? そして、囲碁界のことを知らないからこそ、親として、確りとした場所に就職して欲しいと思ってる」
「そうなんです。でも、この子が初めて芯を持ってやりたいことを言ってくれたんです。だから、応援してあげたい気持ちもある」
親心は複雑ですなぁ。と、クツクツ笑っている桑原のじーちゃんは、手元に置いていた湯飲みを手に取り、少しだけ口に含んだ。
「ワシも、子や孫が碁打ちになりたいと申し出れば、頑なに反対していたでしょう。囲碁なんてものは生もの水もの足が速い。自分の頭を雑巾のように絞りに絞って一勝して、雀の涙程度の対局料を集める」
勝ち星という
対局料で金を稼げるのはタイトル予選やタイトル戦で勝てるようにならなければ無理だから。
「自分で言うのも恥ずかしいもんですが、ワシはこの囲碁界で一番強い。こんなジジィじゃが」
「ええ、昨日ヒカルから聞きました」
桑原のじーちゃんが言いたいことは単純だ。年寄りとして、若い子を育てたい。未来を背負って立つ超新星を。
「ワシとしては、出来ることなら彼を今すぐにでも棋院に所属させて、ワシの門下で更に技術を磨かせてあげたい。老い先の短いワシの、我が儘のようなもんでな?」
「そ、それでも」
「ね、母さん? 桑原のじーちゃんもこう言ってるんだからさ?」
「ヒカルよ、一流になりたければ、思いを伝えるだけじゃ足りんぞ?」
早く棋士になりたいと気持ちがはやっていたヒカルが、え? と桑原の方へと顔を向ける。
「一流は常に実績を残す。それはつまり、手前に降り注がれる期待を身に受け、その重みを理解し、重圧をはねのけるという三つの行程を終えてこそ」
口先だけじゃ何も叶わん。何も手に入らん。
そう言った桑原のじーちゃんは、少しばかり寂しそうな顔をしていた。
「ヒカルくんと幾つか対局してみて、この子は神に愛された子だと感じた。囲碁を愛し、囲碁に愛されとると感じる程にです」
でも、そんなのって……。そう呟くように母は頭を抱える。頭の中に浮かんでいるのは、早すぎるという言葉。
「ヒカルが笑顔になっているのを知っているんです。幼馴染みや義父と囲碁をしているとき、とてもイキイキしていることを知っているんです」
桑原のじーちゃんから電話を受けたとき、ヒカルは母に、そして父に碁打ちになると伝えた。そして、どういうプランで碁の道に入るのかも教えた。
8月にある外来試験、9月にある合同試験、10月にある本試験を受け、中学一年生の時点でプロになる。そのまま職を手にするため、高校にも通う気は無いと。
「親としては、もっと色々と経験して欲しいでしょう。高校にも入り友と遊び多くのことを吸収する。その時間を囲碁に使わせていいのか。そういった考えを誰も間違っとるとは言えん。そもそも、親心に正解なんぞあってたまるか。というもんです」
現に、院生の親であってもそう言う親は多い。囲碁という得体の知れない世界に対して、応援はしても進んで勧める親はそういない。
「普通に高校に行って、普通に大学を出て、普通に就職する。それがこの子には合わないんでしょうか……」
「お母さん。合う合わないは親が決めるものじゃありませんよ。子ども自ら、ヒカル君自身が決めるものです。親が出来るのは、納得するまでその道を進めと背中を押し、そして疲れたときに縋れるよう笑顔で後ろにいること。ただそれだけです」
それは、師匠としても変わらない。どんな関係性でも、親と子に似た関係を持てば、次代に繋がるものは全て宝物に見えてくる。だからこそ、木々が生い茂った次に枯れ葉が落ちるように、親は立ち上がれと根を伸ばしてあげなければならない。
「母さん」
俺の声に反応した母は、酷く辛そうな顔をしていた。それもまた仕方ないと思っている自分がいる。
不出来な息子だと思う。中学に上がる時期にいきなり囲碁を打つようになり、中学の途中から相談も何もせずいきなりプロになって。終いには一度囲碁から離れた。
「今までの俺とは全然似つかないと思う。今頃になって宿題はやるようになったし、授業中に悪ふざけもしなくなった。サッカーなんかより、囲碁の方が楽しく見えて、それしか考えてない」
中学生の間だけで良いから、プロの世界に居させて欲しい。
重苦しく静かな空間に風穴を開けるには十分すぎる一手だと思う。
「中学に上がればプロになる。それで一年。目の前のじじいの目の前に座る場所を奪う準備を整える。二年で結果を揃える。中三の高校入試までに本因坊のタイトルを取れなかったら、問答無用でやめるよ」
それが俺の覚悟。これが俺に打てる最高の一手。
進藤ヒカルとして、本因坊光秀としての意志。
「私にはよく分からないけど、とても難しいことなんじゃないの?」
「ファッファッファッ。儂は今が最盛期じゃぞ? その儂から本因坊を取る? 出来るもんならやってみぃクソ餓鬼」
「やるよ。俺は神の一手を見つけ出す。そして遠い過去と未来を繋げる。二人居る囲碁の神様に代わって」
【まったく……。君という人は】
なにが愉快なのか分からないが、とても嬉しそうに笑いながら茶を啜る桑原は俺の頭を撫でる。
「ヒカル。少し席を外してくれるか? すこし、お母さんと話してみたい。それに、子どもが居ると話せんこともある」
ここから先は桑原のじーちゃんのターンになる。言外にそう言われ、共犯者がニヤリと笑う。俺は大人しく頷くと、背を向けて部屋から出た。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(ここからはしんどくなるな)
【まあ、本人を目の前にして啖呵を切ったんだからそうなるでしょう】
俺が前を過ごしたときによく居た場所。水槽に入れられた熱帯魚? を見つめている虎次郎と共に二人の話し合いが終わるのを待っていた。
【3年間で本因坊の名を手に入れる。出来るのですか?】
(さっきも言ったけど、出来る出来ないじゃないよ虎次郎。やるんだ。俺は)
虎次郎とは違い、見慣れていないはずの見慣れた水槽から視線を移し、目に入れるのは物販ブースの扇子たち。
(あの舞扇子、こんな時からあったんだ……)
【舞扇子? ですか?】
(あの手前にある紐が付いた舞扇子)
【同じものを持っていたのですか?】
触って良いかどうかだけ店員に聞いてから許可を取り、懐かしい相棒に手を添える。店員は、プロ棋士に憧れた子どもだと勘違いして微笑んでいるが違う。
(流石相棒。やっぱりしっくり来る)
【ほう……。言うだけのことはありますね】
両手で持ってから扇子を広げる。右手は要に、左手は親骨に添えて。
先ずは中骨を三つ分奥へと広げ、次に残りを手前に引く。佐為が無意識ながらよくやっていた動きをそのまま真似てみる。
「ははっ」
懐かしい絵にも付い笑いがこみ上げてくる。
違うはずなのに同じ。同じはずなのに違う。こんな時期に俺は棋院にいなかった。桑原のじーちゃんと会っていなかった。母さんに棋士になりたいことを相談しなかった。この扇子を持っていなかった。何より、虎次郎と一緒に居なかった。
「お扇子を持つのが上手ね。何かしてるの?」
「えっ? あ、知り合いがよく持っててそれの真似してただけ」
不意にかけられた声にも驚きながら俺は佐為のことを思い出す。託されたんだ。佐為の囲碁を、思いを、過去を。扇子という形に乗せて。
「ありがとうおねーさん」
そういえば、佐為のヤツたまに扇子持って踊ってたな……。とかつての面影を思い出し、何も持っていない右手を回してみる。
【どうしました?】
(いや、日本舞踊って分かる?)
【残念ながら】
そりゃそうだ。と再び水槽の方へと足を向かわせる。ちょろっと日舞の動画でも見るか。なんて頭の中で考えた俺は、また背中を壁に預けた。