神の一手を極める者   作:義藤菊輝@惰眠を貪るの回?

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第三局

 床の上に倒れそうになった寸前の所であかりを抱きしめることが出来た俺は、「記憶の中だと、俺が倒れて病院に運ばれたんだよなぁ」なんて考えていた。緊急時に考えることではないが、この状況から考えるに、俺には本因坊秀策、あかりには藤原佐為が蔵の中にあったこの碁盤を介して宿った。そう考えるのが自然だろう。

 

 なぜ佐為が自分に宿らなかったのか、なぜ佐為の姿を見ることが、声を聞くことが出来なくなったのか分からないが事実は変わらない。現に、俺には碁盤の向こう側で優しく微笑んでいる本因坊秀策こと虎次郎の姿しか視界に捉えられない。佐為とまた一緒に碁を打つことが出来ないのはショックだが、それよりも今重要なことは、倒れたままのあかりのことだ。

 

 俺とあかりは今小学校6年生。いくら大人に比べて小さく、さらに女の子といえども、子どもは男児よりも女児の方が先に成長していく。ゆえにあかりの体は俺のそれよりも少しばかりか大きい。何が言いたいのかというと単純なことで、俺一人だけの力だけじゃあ、あかりをこの蔵の中から外に出してあげれないと言うこと。

 

 今頃、自分の部屋の中で詰め碁の本を開き、碁盤に向かってウーンウーンと唸りながら答えを考えているであろうじーちゃんを呼んできて、あかりを運んで貰っても良いのではあるが、俺の場合であれば進藤家の問題として済むものの、藤崎家にまで跨がる大きな問題になってしまう。世間体なんてモノは気にしないが、あかりが倒れてしまった原因が佐為にあるのだとしたら、俺の経験から考えると病院など時間の無駄だ。意味も無く病院に行ってもお金の無駄になるだけ。

 

 それなら、このままあかりを抱きしめたまま、ゆっくりと寝かせておく方が良いし、本当に佐為があかりに宿ったのなら、それを確認した方がこれからのことに関係していく。頭の中にある未来の自分のことから考えても、俺には囲碁を打つことしか能力が無いわけだし、そこでしか自分を表現するモノはない。棋士になるには〝佐為〟と言う存在はかなり大きく関わる。なにしろ、俺の頭にある囲碁の基礎は、佐為が築いてくれた物だから。

 

(あ、えっと……俺の名前は進藤ヒカル。それで、どう呼べば良い? お前のこと)

 

【そうですね、僕のことでしたらお好きなようにお呼び下さい。本因坊秀策でも、虎次郎でも。君は僕のことを知っているのでしょう?】

 

(知ってるよ。確かにしっかりと知ってる。なんでかは後々ちゃんと説明するけど、お前は俺にとって意義ある存在だよ……)

 

 ただ、それより、

 

 ――この場所に佐為は、藤原佐為は居るのか?

 

 もし、この場に佐為が居るのならば、声を聞かれたくない。自分があの優しい声を聞くことができないのに、佐為だけが聞けるだなんて嫌だ。そんなあやふやな気持ちが表れているのか、虎次郎に尋ねた声は、佐為に話しかけていたように心の中で、さらに不安を孕んだ弱々しいそれは、口に出されていたら、きっと空気に溶けてすぐに消えていただろう。そして、それに虎次郎は首を傾げる。

 

【なに呆けたことを言ってるのですか? 佐為でしたら、いま貴方の前に居るではありませんか。貴方の腕で眠る女子の向こう側に、きちんと居るではありませんか】

 

 なに可笑しなことを言って。と笑う虎次郎とは違い、俺の気持ちは底なし沼にゆっくりと飲み込まれていくかのように沈んでいく。この中で、佐為の姿を見ることができないのは――おそらく――俺だけ。あかりには、あの烏帽子や黒い長髪。白い狩衣すの佐為が見えるだろう。

 

「どうしようも無いか……」

 

 すべてはあかりが目覚めてから。そう結論づけた俺は、暗い気持ちを全て押し込めるように、あかりの体をきつく抱きしめた。

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 果てしなく続く階段を、1段ずつただひたすら上っているような感覚があった。この先に一体なにがあるかは皆目見当も付かないが、どんなところであれただ一人で進んできたが、それが悪いこととは露ほども思っていなかった。

 

 平安の世で打った一打一局。江戸の世で打った一打一局。その全てで私は、自分の碁に必要なもの身につけてきた。たとえそれが私よりも棋力の低い者からのものであっても。アゲハマによる不正から来た動揺が原因で負けたあの一局の悔しさ。涙で濡らした碁盤に、死霊として取り憑き、平安の時から時代を超えた江戸でも、私という存在はただ一つ。ただ一つの心のみで存在した。もっと碁を打ち、強くなりたいと。虎次郎の短い人生を奪い、己を神の一手だなんてあるか分からないものを探して、一人ぼっちで。

 

 違った。

 

 彼の眼前から消えるとき、当たり前のことに気がついた。

 碁は一人だけで打つことなどできない。あの二人のように、互いのことを意識して競い合い、高め合うことが可能な存在がいなければならないことに、ともに知識を共有し、笑い合える仲間がいる。私にとってのそれが。

 

これから私はどうなっていくのだろう。小さな暗闇の中。目を閉じれば、決して短くない三年間の思い出が次々に溢れ出てくる。拙い手つきで石を持ち始めた彼。負けて悔しがる彼。勝って喜ぶ彼。何気ない日常の会話や、その日あった対局の会話。その全てが楽しく輝く宝物。だから、

 

「神よ。欲深くも愚かなこの私を、再び、どうか再びヒカルの元へ。私は、彼と共に碁を打ちたい」

 

 思えば、私が初めてあの者と打った日に、彼の才能の片鱗が見えていた。あの一手は決して好手なんて呼べるものではなかった。どちらかというと悪手と言って良い。直感で感じられる未来を打つ手は、あの日、本気で戦ったあの一局で開花した。彼が言っていたが、正にその通り。

 

 縦と横に19の線が引かれた世界の中、煌めく9つの星を中心にして、自分と相手で多くの星々を生み出し、新たな宇宙を創造する。

 

 私は彼と、

 

「進藤ヒカルと2人で、盤上に壮大な宇宙を創りたい」

 

 神の一手。それがどのようなものなど全く解らないが、2人でその一手を求めたい。

 

「あまねく神よ。どうか私に今一度、今一度機会を……」

 

 声がした気がした。それも聞き覚えのある2つの声。かわいらしい男の子と、女の子の声。それを認識した途端、私の体が引っ張られ、汚れた沼のような闇から脱け出していく。

 

「血痕ではなく、涙のシミが見えるのですか?」

 

「えっ? 誰かいるの?」

 

「私の、私の声が聞こえるのですね」

 

「なに!? お、お化け?」

 

 眼下に見える懐かしい木の床。それとあの碁盤。その近くにいた、前髪の色だけが薄い男の子と、かわいらしいお下げの女の子。

 

『ヒカル!! あかりちゃん!!』

 

 なぜか怯えきっているあかりちゃんの表情に違和感を感じるが、あの2人が目の前に居る。

 

 ――ああ、あまねく神よ感謝します。

 

 ――私は再び、囲碁を打てる。

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 あれ? なんだっけ……。あ、そうだそうだ、ヒカルのお祖父ちゃんのお家に行って、それで古い碁盤に涙のシミがあって、でもヒカルは血の痕って……。

 

「――っ!?」

 

 ギューッと締めつけられる痛みを感じて目を覚ました私の視界に、他の何よりもヒカルが暗い表情をしているのが入ってきた。よっぽどなにかあったのか、ゆっくりと頭が垂れていき、顔に影がかかってくるのに比例して、腕の力が強くなっているのが、段々とではあるが痛みが増していくことからわかる。

 

『あかりちゃん!? 急に倒れたから心配したんですよ。ヒカルもずっとあかりちゃんのこと抱きしめて動かないし……』

 

「あなた、誰?」

 

 首から上を動かして、ヒカルの反対側、右側の方を見ると、よくテレビとかに出て来るお貴族様みたいな服を着ている、真っ白な男の人が、慌てた様子で私のことを覗き込んでる。心配してくれているのは嬉しいが、先ほどまで影も形もなかった人の登場と、好きなヒカルが自分を抱きしめていることに、開いた口が塞がらない。

 

 ボソリと呟いた私の声を聞いたからか、私が起きたことに気が付いたヒカルが顔を上げ、心配そうな声で、「大丈夫か?」と尋ねてきたので、とりあえず一回頷くと、明るく気遣ったのか、どこかに悲しそうな感情を押し込めて、とってつけたような薄っぺらな笑顔で取り繕っているようにしか見えない。けど、それよりも気になる。

 

「ねぇ、ひ、ヒカル?」

 

「どうしたあかり。気持ちが悪いのか? それとも、吐きそうか?」

 

「あ、いやそうじゃなくて……。そこの白い人って、誰か分かる?」

 

「は? 白い人なんてどこにもいないだろ。そこの白い布が人に見えただけだろう?」

 

 寝惚けてるな。なんて愉快そうに笑うヒカルに、頬を膨らませながら、彼の反対側に指を指して、黒いキレイな長髪の背の高い男がいると説明しても、ヒカルは蔵の中をキョロキョロと見るだけ。

 

『ヒカルは、私のことが見えてないのですね』

 

 そんなヒカルのことを見て悲しそうな顔をする男。その顔が、ついさっきのヒカルの笑顔と重なって見えたことに、私は驚いてしまった。

 

「まあ、その白い人がどうこうとかは分かんねぇけどさ、今がどうなってるかはわかるか?」

 

「え? あ、うん。とりあえず、ヒカルが実は囲碁の勉強をしていて、それで、ヒカルのお祖父ちゃんの家の蔵に良い碁盤があったと思うから、それを貰おうって思ったら、ちゃんと碁盤があった」

 

「そうそう。それであってる。じゃあそこからは?」

 

「大丈夫。ヒカルには血のシミが見えてたけど私には見えなくて、変わり? に、私には濡れた跡が見えてたんだよね?」

 

「正解。その通り。そしたら急にあかりが倒れたって訳。理解できた?」

 

 理解したという意思表示のために、うん。と一回頷くと、ヒカルは私の身体に回していた腕を解き、私に立つよう促した。おいしょっ。という声と共に立ち上がった彼は更に身体を伸ばすと、空気が悪いと言って蔵から出ようと足を動かし始めた。

 

「ほら、また倒れたら困るからな。手ぇ貸せよ。ゆっくり降りろ」

 

 普段なら、私の事なんて全く気にせず先々行くヒカルが、私に手を差し伸べたことが恥ずかしくなり、顔が赤くなる中、その手を取って階段を降り外へと出て行く。

 

〝いつもと違う〟

 

 そんな彼にドキドキすると同時に、モヤモヤと少し不安な感情が生まれていた。


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