郡楓は兄である   作:どっかの神父

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ああああああああくぁあああああああああもう嫌だああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ(発狂)(三日坊主オタク)(文才ゼロ人)

なんか無駄にクソ長いし読みづらいですが、本編です。


Icon.

窓から吹き込む風が微かに潮の香りを運んでくる。

 私は顔を上げて椅子に背中を預けると、深く深呼吸をした。少し働き過ぎたかもしれない。目の奥がじんわりと痛み、肩もやや凝っている。デスクの上に並べられた数枚の書類は、”彼”の前回の戦闘データやシステムへの適合率、その後の健康状態を纏めたものだった。と言っても、あくまで簡単な報告書程度の内容だが。詳しいデータはまた別にある。

 西暦二〇一八年。一〇月。彼ら”勇者”の初陣から約一週間と少し。彼らは交代制で休暇を与えられ、彼も今頃は実家へ帰省していることだろう。

 私はそんなことを考えながらデスクの小脇に置いた一冊の新聞紙を手に取った。あれから大社は”勇者”の存在をマスメディアを通じて大々的に報じた。人類を守護する勇者の存在をアピールすることで、四国の人々の不安を緩和させる方針を採ったのだ。

 故にこうして勇者の二文字と共に、その一人である乃木若葉の姿が新聞の見出しに大きく載っているのは、至極当然のことと言えよう。

 彼女は勇者のリーダーとして特にマスコミや世間の注目を集めていた。その他の勇者たちについても話題が上ることもあるが、彼女のそれに比べれば随分穏やかなものだった。勿論、彼の話題も。

 写真に写る乃木若葉の瞳はカメラではない何処かへ向けられている。それはひたすらに真っ直ぐで非常に強い意志を感じさせたが、同時に若者特有の向こう見ずな何かもこの時の私は感じていた。

 私は他愛なく記事を捲っていく。世界が滅び、得られる情報が圧倒的に限られるこの世の中において明るい話題はいくらあっても足りない。いつ去るともわからないバーテックスの脅威。”天恐”患者の受け入れ施設や医師の不足。本州から命からがら逃れてきた国内避難民たちのその後。暗い話題は上げればキリがない。

 そんな情勢だからこそ、大社は人々を光へ導く象徴が欲しかったのだろう。

 ”人類の希望”。

 ”国家の秘密兵器”。

 ”最後にして最強の楯”。

 そんな言葉たちが記事には躍り出ている。まるで人を超越した何かのような扱いだが、大社的にはこれで正しい。

 英雄や救世主。そういった存在であることを、大社はあの子供たちに望んだのだ。何かが決定的に間違っている気もするが、こうするより他に道がないのもまた事実。所詮は一技術者でしかない私はただそれを受け入れるしかない。”彼”なら何と言うのだろうか。

 ”彼”。己の身の丈程もある大剣を振るう黒き勇者。私は彼の使う勇者システムのシステム調整官だった。彼の武器装備の使用を提案、そして実際に開発を主導したのも私だ。当然だが、一人で全てをこなしたわけではない。私は何人かの優秀な部下を率いていた。勇者システム調整班はシステムの適合者、つまりは勇者の人数分存在しており、私はそれに属する者の一人というわけだ。

 少し肌寒さを感じ、私は部屋の窓を閉める。その時瀬戸内海の向こう、水平線を隠すようにしてそびえる壁が見えた。次の襲撃は一体いつ来るのだろうか。巫女の神託はいつも曖昧で具体性に欠ける。それが巫女の不出来さ故でないことは十分に理解しているつもりだが、それでも少なからず苛立ちを覚えている自分はいる。

 

「博士。少しお時間をよろしいでしょうか」

 

 部屋のドアをノックする音と共に、若い男の声が私の耳に届く。助手だ。

 

「ああ大丈夫だ。今行こう」

 

 私は椅子から立ち上がり、背もたれにかけていた背広に手を通してドアへと向かおうとし、机の隅に置いていた写真へと目をやった。

 にこやかに笑う家族の姿。

 

(いや、もう過ぎ去ってしまったことだ……)

 

 私の今の役目は次の襲撃に備えて少しでも彼が戦いやすいようにシステムを最高の状態にしておくこと。体調を崩さぬ為にも少しの休息は要るが、感傷に耽け込む必要はない。

 私は写真立てをそっと伏せると、今度こそドアへと向かった。

 

 

 

 三年ぶりの我が家への帰省。それは普通の家庭で育った者にとってすれば、きっと素晴らしい響きに聞こえたはずだ。だからなのか、大社の人間たちはこぞってそれを推奨し、出来ることなら自分たちも、とどこか遠くに住む家族へ思いを巡らせる者もいた。

 だが、それはあくまで普通の家で、普通に親の愛情を受けて育ち、普通に親を慕ってきた者たちの話。ことこの兄妹にとって、我が家への帰省というものがどんな意味を指すのか。幸運なのかそうでないのか、それを考えてくれる人間は大社にはいなかった。

 楓は「他人が好き勝手言うのはいつものことだ」とあくまで気にしていない素振りだったが、その実、苦々しい気持ちでいたであろうことは、千景にも十分理解できた。兄はあまり自分の前で暗い気持ちを見せないようにしているが、千景だって伊達に何年も楓の妹をやっているわけではない。兄の気持ちの変化を捉えることは、簡単とは言わないができないものでもなかった。

 万が一のバーテックス襲撃に備えてとのことで、それぞれ専用武器を収めた布袋を背負って丸亀を発つ。晴天の空に聳える天守閣は眩しく、まさに最後の砦と言っても過言ではない雰囲気がある。

 どうして自分たちはこんな場所にいるのだろう。今更自分たちの存在が場違いなものに思えてきて、楓は自嘲気味に小さく笑った。

 電車を乗り継ぎ、県境を越えバスに乗り換える。舗装された道路はどんどん細くなり、やがて人工物も少なくなっていく。気付けば周囲の景色は紅葉しかけの山々や、稲穂の黄金色に輝く田園に囲まれた、見知った景色になっていた。

 千景は携帯ゲームで遊びながら、目的地に到着するまでの暇を潰していた。兄との他愛ない会話も楽しかったが、その兄は日頃の訓練の疲れが溜まっていたのか、今はすやすやと寝息を立てている。眉間に皺を寄せて目を瞑るその顔は、まるで何か大きな悩みを抱えた人のようで、変に千景の心をざわつかせる。

 

「あっ」

 

 兄に気を取られ過ぎていた。一瞬だけ集中力の緩んだ隙に、敵の攻撃を喰らってしまう。満タンだった緑色の体力バーは、ただの一撃で端まで追いやられる。画面が赤く光り、おどろおどろしい字体で「ゲームオーバー」と表示される。これで全ておじゃんだ。

 

(やっちゃったわね……またやり直そう……)

 

 残念そうにため息を吐きながら、コンテニューを選ばず最初からを選択する。今までやっていたのは、いわゆる縛りプレーというやつだった。最高難易度、初期装備オンリー、回復アイテム不使用、セーブ及びスリープ禁止。このゲームをプレイするにあたって最低限必要なものだけを残してのプレイ。それでも千景は再び、まるで作業のようにステージを路覇し始める。

 ゲームは千景にとって唯一と言って良い趣味だった。画面に熱中している間は余計なものを見ずに済むし、イヤホンで耳を塞げば嫌なものも聞こえてこない。だからゲームは好きだった。

 ちなみに今遊んでいるのはよくあるゾンビもののFPSで、これは兄とスコアを競い合っているものでもある。と言っても、近頃の兄は訓練ばかりで、あまり付き合ってはくれないのだが。

 どうしようもなく不満というわけではないものの、それでも敢えて言うなら、一緒に遊ぶ機会がめっきり減ってしまったのは千景としては寂しかった。だが勇者として本格的な臨戦態勢に入り、これまで以上に戦いというものを意識しなければならない今の状況を鑑みれば、それも仕方のないことなのかもしれない。

 そのことが余計に、自分や兄の置かれた”勇者”という立場への不満を募らせる。

 

(どうして私たちなの……)

 

 なぜ自分たちなのか。自分よりも強い人や、恵まれた家庭で育った人は大勢いるだろうに。なぜ自分たちが見ず知らずの誰かの為に命を懸けなければならないのか。

 答えは出ない。

 神樹様に選ばれたから、と大社の神官は言っていたが、そんなあやふやな理由で「はいそうですか」と納得できるはずもない。取り分け兄の勇者としての適性は最低レベルで、一度変身するのにさえ身体にそれなりの負担を強いる。あの初陣の後も、兄は精密検査と療養の為、精霊を使った友奈と同じく一時入院する必要があった。今日外出出来ているのも安静にしていることを条件に特別に許可されただけに過ぎない。友奈に至っては、一日病室から出ることさえ許されていない。

 どれくらいの時間が経っただろうか。バスは停車し、ブザーが鳴って降車口の扉が開く。バスの電光掲示板は目的地の地名を表示している。千景はゲーム画面に目を落とすが、スコアはあと一歩というところで自己ベストを更新できそうなところだった。肩を落としてゲーム機の電源を切り、耳からイヤホンを外してもろともカバンにしまう。隣で相変わらず寝息を立てる兄の身体を、努めて優しく揺すり、目を覚ませる。

 

「着いたわ」

「……ん」

 

 自分も兄も近くに置いていた専用武器をしまった布袋を背負い、立ち上がってバスから降りる。

 秋の入り始め。肌寒い枯れた故郷の空気が千景たちを包んだ。

 

 

 

 

 

 バス停から数分も歩いていくと、やがて小さな貸家が見えてくる。数年ぶりに目にする実家は、随分小さく写った。

 楓が玄関扉を開けて中に入ると、まず悪臭が感じられた。廊下の端には埃が溜まり、空き缶や空き瓶が転がっている。玄関の隅にはゴミ袋が置かれているが、これももう何週間と捨てられずに放置されているに違いない。ただいま、と二人で帰省したことを告げるが、声は無人の廊下に空しく消える。仕方がないのでそのまま廊下に上がって居間に向かった。奥に進む度に、楓は自分の肺に、何か重苦しいものがのしかかってくるのを感じた。

 居間に続く戸を開け、中に入る。居間はカーテンが閉じられていて薄暗かった。そしてここでも隅や端の方に、いくつものゴミ袋が雑に放置されている。

 しかし、楓も千景も今は気にならなかった。二人の目は、居間の真ん中で独り布団に伏せる母へと向けられている。

 薬で眠っているのか、近くまで寄っても母に起きる様子はない。

 楓は母の枕もとに置かれた小さな盆を見る。水の少し入ったコップと薬袋が乗っていた。

 それを見た千景が言う。

 

「とうとうこんな段階まで症状が進行したのね……」

 

 母の髪には白髪が混じり、目は落ち窪んで、肌は痩せてカサついている。二人の記憶が間違っていなければまだ三〇代のはずだが、とてもそうは見えないほど年老いていて見える。楓はそこで初めて、自分が母のことを何を知らないことに気が付いた。どこで産まれたのか。どこで育ち、どこで父と出会い、そして自分たちを産んだのか。何も知らなかった。今まで少しも疑問に思ったことはなかったし、知ろうともしなかった。物心ついたときにはもう、楓にとって父も母も信頼できる大人ではなくなっていたから。

 と、居間の出入口とは反対側の戸が開いて、父が居間に入ってくる。その顔には重い疲労の色が見て取れる。父が言う。

 

「二人とも帰ってきてたのか。久しぶりだな」

「先に帰ってこいって連絡したのはそっちだろ」

 

 呆れたように楓が返す。

 

「まあそれはそうだが……母さんが入院する前に、と思ってな」

「何を今更……」

 

 今度は千景が小声で言った。父には聞こえなかったようで、反応はない。千景は俯いたままだったが、ふと視界に入った居間のゴミに気付き、そのまま台所の方に振り向いて、ゴミ袋の積み重ねられた光景に微妙な表情を作る。

 

「お父さん、掃除くらいちゃんして。ゴミがこんなに溜まってるし、臭いも酷いよ」

「あ、あぁ……けどなあ……母さんの世話が忙しくてな……」

「でも、せめてゴミ捨てくらい……今はお母さんもいるんだし……」

「仕事もあるんだ……纏まった時間が作れないんだよ……」

 

 尤もらしいことを。楓は呆れ果てた。

 父は昔から家事など一度もやったことがないし、やろうとしたこともない。自分のことばかり優先して他はなんでも投げ出す人だ。自分の時間を、他の誰かの為に使うということができない。

 何も変わっていない。父の態度にそれを察し、千景は落胆に俯いてしまう。

 父はそんな千景を気遣うこともなく目を反らしたまま、足元で眠る母を目をやり、ため息を吐く。

 

「すまんな二人とも。母さんがこんなことになって」

「別に。丁度休暇だったからな」

 

 楓と千景が今日帰省したのは、母の病状が悪化したためだった。

 天空恐怖症候群。バーテックスへの恐怖心により発症する精神病。症状の重さによって四つの段階に分けられるこの病は、最も症状の軽いステージ1では空に恐怖し見れなくなるといった程度のものだが、ステージ2に進むとバーテックス襲撃時のトラウマのフラッシュバックと幻覚が見えて精神不安定となり、日常生活に支障が出る。

 母はこれまでこのステージ2だったが、つい先日、その先のステージ3への進行が確認されたそうだ。ステージ3ではステージ2の症状がより酷くなり、フラッシュバックと幻覚が頻繁に起こる。常に薬が手放せなくなり、当然、外出は勿論のこと働くなどもっての外だ。日がな一日を家の中で過ごすことになる。発作的に起こる症状に怯え、それを薬で無理やり押さえつけながら。

 更に症状が進めば、後は末期のステージ4──自我の崩壊、記憶の混濁、発狂へと至る。

 楓が杏から聞いた話によると、このあまりに酷い症状に街では「バーテックスからは人の脳に作用する毒か電波が発せられている」などという噂が流れているらしい。

 そしてステージ3の患者がステージ4へと進むまで、それほど時間は要らないと言われていた。

 

「でも良かったよ。ようやく母さんの入院が決まってさ」

 

 そう言う父の顔はほっとしているようだった。症状の進行に伴い、母はまもなく専門の病院へ移ることが決まった。

 だがそうなってしまえば、母とはもう会える機会は無くなってしまうだろうし、そうでなくても、母は直に楓や千景のことはおろか、自分のことさえ分からなくなってしまう。だからそうなる前に、せめて兄妹で顔を見せて、少しでも一緒にいて上げて欲しい。

 そんなことを父は電話越しに楓に伝えてきた。

 母が治る可能性など微塵も信じていないその態度に楓は受話器を叩きつけそうになったが、病院や大社からの強い勧めもあり、断るに断れなくなった楓と千景は、結局帰省することを決めたのだった。

 

「そうだ。お前たち、お昼ご飯はもう食べてきたのか? 丸亀からは遠いし、お腹が空いているだろう……今から出前でも──」

「いいよ……食べたくない」

 

 父の言葉を遮り、背を向ける千景。疑問に思った父が尋ねる。

 

「どこへ行くんだ?」

「せっかく帰って来たんだから……友達に会ってくる……」

 

 そして千景はそのまま居間を出ていった。後には楓と父が残る。

 

「……楓はどうする。ご飯にするか?」

「いや、俺は千景と行くよ。一人じゃ危ないし。飯はいらないよ」

「そうか……」

 

 楓もまた父と母に背を向け廊下へ向かう。背中に父の何か言いたげな気配を感じるが、無視して進んでいく。

 今更話したいことなど何もなかった。少しは何か変わっているのではないかと薄い期待のようなものも抱いてはいたが、やはり抱くだけ無駄だったようだ。父は何も変わっていなかったし、その逆に母は見違えるほど変わり果てている。郡家の家も外から見た時は昔通りの姿だったが、中身はこの有様だ。昔よりも酷くなっているようにすら思える。

 かつてあったはず家族の繋がり。その残骸は無惨に散らばり、変わらず腐臭を放っていた。

 

(……ここが、本当は俺たちがいるべき場所なのか……)

 

 もしもバーテックスが襲ってこなかったら──。

 きっと、自分と千景は今もこの家で、腐り続けていたのだろう。

 

 

 

 

 やはり帰ってくるのではなかった。

 人気のない小道を、千景は重い足取りでゆく。友達に会ってくるというのはただの言い訳だった。本当はただ、郡家の淀んだ空気に耐えられなくて、逃げ出したかっただけ。兄は自分の後を追ってきて、心配そうに一言「大丈夫か」と聞いてくれたが、千景はただ黙っていることしかできなかった。

 

(どうしてこんなことになったのかしらね……)

 

 両親はかつて恋愛結婚だったという。どこかで出会い、互いに愛を囁き合って、互いに望んで一緒になった仲だ。親族からは猛反対されていたようで、安い貸家を借りて二人で暮らし始めた。

 間もなくして兄が産まれ、そのすぐ後に千景も産まれた。父も母も、二人の誕生を心から祝福した。

 これが幸せなのだと。これが愛なのだと。家計はお世辞にも裕福とは言えなかったが、それでもここにはかけがえのない幸福があるのだ。

 たった二人だけの小さな家庭。それはいつしか三人、四人と増え、そしてこれからもささやかな幸福の日々は続いていく。郡家の誰もがそれを疑わなかった。

 そう。始まりは確かに幸福だった。千景は今よりもずっと小さい頃、仲睦まじげに写る両親の写真や、そこに赤ん坊の自分たちが加わった写真をアルバムで見たことがあった。そこには憎しみなんて欠片もなく、二人はただ幸せそうで、純粋な愛があるように思えた。幼い千景はその姿に多少なりとも憧れていたし、自分もいつかこんな風になるのだろうかと、子供らしく無邪気に将来像を描いていた。

 しかし、結局それはただの幻想に過ぎなかった。

 父は無邪気な子供がそのまま大人になったような性格で、一人の夫や父親としては問題のある人物だった。自分の自由ばかりを優先し、家族への思いやりに欠けていた。母が高熱に倒れた時も、彼は一切心配する素振りもせず電話越しにただ「薬を飲ませて寝かせていろ」と言うだけで切ってしまい、それ以降電話に出ることもなかった。

 

「どうしようにいさん……」

「母さんのとこに、もどろう……」

 

 しかし、今まで見たこともない苦しみ方をする母を前に、当時の楓と千景は幼過ぎた。病院に電話しようにも番号は分からず、母もとても口を聞ける状態ではなく、薬を飲ませようにも、どれを飲ませたら良いかわからない。出来ることと言えば、ただ母の額のタオルを交換し続けることくらい。それだって一度交換してしまえばしばらくはやる必要は無いので、後はただ、父の一刻でも早い帰りを待ちつつ、母の快復を祈るだけ。

 寂しかった。怖かった。母が死ぬかもしれない。父とは違って自分たちのことを見てくれる母がいなくなるかもしれない。それが溜まらなく怖かった。

 どれだけ待てども父は帰らず、涙は枯れては流れ、流れては枯れるを繰り返す。何度楓と身を寄せ合ったか分からない。兄の身体も震えていた。兄も自分と同じなのだと、痛いほど理解できた。

 この瞬間、二人に差などなかった。

 結局、父が酒に酔って帰って来たのは夜中の二時を過ぎた辺り。千景は泣き疲れ、楓は憤慨した。千景は楓が声を荒げるところを、初めて目にした。

 父と母の間に入った小さな亀裂。それはやがてどうしようもないほど深く、寒々しい谷となって郡家全体へと広がっていく。そして母もまた、自分が夫にぞんざいに扱われていると知って、それでも自分の母親としての責務を果たすことを選べるほど、母という人間は大人ではなかった。

 故に、そんな母が今の不幸な生活に見切りをつけて、どこかで出会った新しい男と新しい関係を始めようとするのは、至極当然のことだった。

 話題性に欠ける田舎では、そんな母の不倫の醜聞は瞬く間に広まってしまう。父も母も村での立場は著しく悪くなり、母はほどなくして逃げるように村から去っていった。それでも両親が離婚しなかったのは、どちらが自分たち兄妹を引き取るか話が付かなかったからだ。

 自分さえいなければ。自分たちさえいなければ。父と母は前を向いて、新しい、第二の人生を始められる。

 自由を阻む足枷。

 汚らわしい人生の過ち。

 かつては望まれてこの世に産まれてきたはずなのに、千景も楓も、そうして存在を呪われた。

 

 ──私たちは、無価値で、要らない子なんだ……──。

 

 それからはどん底の生活だ。人口の少なく、物も充実していない村という環境だからこそ、そこに生きる人々は寄り集まって結束する。しかし郡家の人間は村の恥としてその集団から切り離され、完全に孤立した。

 それが一体何を意味するのか、楓と千景は身を持って知ることになる。外を歩けば冷ややかな視線を向けられ、学校では虐げられる毎日。暴言を投げかけられたり、物を取られたりすると兄が庇ってくれたが、それで飽き足らなくなった利口な同級生たちは、やがて兄のいない場所で千景を虐め始めた。

 

「泣いてんじゃえねえよ。いつも兄貴の陰に隠れやがって」

「いいよねお兄ちゃんがいると楽でさ。うちのお兄ちゃんもあれくらい優しかったらいいのになあー」

 

 授業と授業の間の休み時間。この時間は”彼女たち”にとって絶好の機会だった。鬱陶しい楓を彼のクラスの仲間が抑えてる間に千景を虐めぬく。

 どれだけ短い時間で千景を苦しませられるか。それが一つの娯楽になっていた。

 

「う……ひぐっ……おぇッ……」

「うわっ! きったねえこいつ吐きやがった。あーあ、びしゃびしゃじゃん」

「そりゃ吐くでしょ。トイレの水だし」

「おい。兄貴にチクったらただじゃおかねえからなアバズレ。ほら泣き止めよ。バレたら大変だろが」

「うう……う……はい……ご、ごめんなさ……いっ……!?」

「あっ、ごめん。間違って手踏んじゃった! アハハ!」

「ちょっと痕つけないでよ。バレたら面倒って言ったのアンタでしょ」

「やられても親父に言えばいいんだよ」

 

 授業の呼び鈴が鳴れば解放される。早くこの時間が過ぎることを祈り続けるのが普通になっていた。

 兄に相談すれば、兄はきっと自分を庇うだろう。だけどそうなれば、兄は自分よりもっと酷い目に合うかもしれない。

 助けて欲しい。

 助けないで欲しい。

 自分自身の感情のせめぎ合いの中に、千景は閉じ込められた。

 何を言われても我慢する。何をされてもただ耐える。兄が来れば。自分には兄さえ居てくれれば。

 

(兄さん……)

 

 心を閉ざす。電子の世界に閉じこもる。嫌な現実から自分を切り離す。

 

(兄さん……)

 

 痛み。悲しみ。苦しみ。

 何も感じない。何も聞こえない。

 

(兄さんっ……!)

 

「兄さん……たすけて……」

「千景っ!!」

 

 誰からも疎まれ、どこにも居場所を失くし、しかしそれ故に二人は互いに寄り添い結束した。

 たった二人だけの小さな共同体。

 このどこまでも冷酷で慈悲のない世界で、たった一人、自分の価値を認め、愛し、守ってくれる。そんな兄を千景は心から愛した。

 

「ここは……」

「……学校か」

 

 気付くと千景たちはかつて通っていた学校の前まで来ていた。特に行きたいとおもっていたわけではないのに来てしまったのは、きっとただの癖だろう。この場所には良い思い出などない。ここは千景にとって自分が最底辺の存在なのだと自覚させられる場所でしかない。

 昔、いじめでつけられた耳の古傷がじくりと痛んだ。思い出したのだ。

 

(なんでなのよ……)

 

 すっかり忘れたと思っていた。もう思い出すことはないと思っていた。丸亀での生活は楽しいものではなかったが、それでも辛すぎるものでもなかった。自分に暴力を振るう存在もおらず、大人たちも先生や訓練官を除いて最低限の接触しかしてこない。だけど兄とはいつも通りにいられて、そのうえ高嶋友奈という初めてかもしれない仲の良い知人もできた。

 

「千景……」

「兄さん……」

 

 千景は兄の胸元に顔をうずめた。泣きそうになるのをこらえようとするが、結局次から次へと感情が溢れてしまってだめだった。

 千景は言った。

 

「兄さん……もう、丸亀に帰ろう……もうここにいたくない……」

「そうだな……ここにいたって辛いだけだ。父さんには俺から言っとくよ。帰ろう……きっとそれが良い……」

 

 ぎゅっと抱きしめられる。こうされるのは久しぶりな気がした。最後に抱きしめてもらったのは、小学生の時だった気がする。温かい。こうしていると辛いことも悲しいことも薄らいでゆく。結局、自分は兄がいないとダメなのだ。そんな弱い自分に嫌気が指す。

 

「あなたたち……楓君……と千景さんよね?」

「あなたは……」

「ほら、私よ楓君。隣のクラスの担任だった──」

「先生……」

「千景さん覚えててくれたのね、嬉しいわ。それより二人ともどうしてここにいるの? もうみんなあなた達の家にいるわよ」

「……は? 俺達の家……?」

 

 千景の担任だったというその女性の言葉が理解できず、兄は間抜けな声を出す。千景もよくわからなかった。とりあえずみっともない姿を見せ続けるわけにもいかないので、兄から離れる。「さぁ、行きましょう」と一方的に話を打ち切ると、そのまま女性は近寄ってくる。

 

「……どういう意味だ」

「兄さん、どうする?」

「……まあ、取り敢えず付いていくだけ行ってみるよ、一応な。千景はどうする。先にバス停行っててもいいぞ」

「ううん。兄さんが行くなら、私も」

「そうか……わかった」

 

 事情もわからないまま女性についていく。実家の近くまでくると、大勢の人だかりが家の玄関の前にできているのが遠めでもわかった。「なんだ……?」と小声で兄が言い、そして自然と千景の前を歩きだす。もっと近くまで来ると、千景たちに気付いたらしく、人々がざわつき始める。そして二人はすぐに人々に囲われ、逃げ場を失くす。人々の目線はいつもの侮蔑ではなく、興奮の尊敬の色を持っている。千景はわけがわからなかった。

 兄は努めてやんわりと言った。

 

「あの、なんですか? 話なら俺が聞きますよ」

「お帰り二人とも!」

「え、あの、はい?」

「本当に帰ってきてたんだな! 元気そうじゃないか!」

「いや、まあそうですけど……それで何──」

(どういうことなの……?)

 

 兄の言葉も聞かずに矢継ぎ早に労いの言葉や称賛の言葉を告げる村人たち。彼らは全員が全員、今まで兄や自分を見下し、冷遇してきた人たちだった。

 

「ねぇ、郡さん。私たち友達だよね? 恨んでないよね?」

 

 千景にやけに気さくに話しかけてくる少女達。彼女らはかつて千景の陰口を叩き、消えない傷を残した者たちの仲間だ。

 

「腹が減ってたらうちの店に来いよ! 席ならいつでも開けといてやるからよ!」

 

 そう言って爽快に笑った男は、かつて夜中に腹を空かせた千景と兄を店から追い出した食堂の店主だった。

 

「貴女は村の誇りよ。素晴らしいわ」

 

 そう言って千景を称え、誇らしげに語る年配の女性は、かつて千景を薄気味悪いと言って近づきさえしなかった近所の老夫婦の片割れだ。

 

 ──かつて自分たちを虐げていた全ての人たちが、自分たちを称え、羨み、敬っている──。

 

(ああ……そうか……)

 

 千景は理解した。

 千景は未だ状況が飲み込めず村人の対応に困り顔を浮かべている兄を見る。それを助ける意味でも、大鎌を入れた布袋、その尻を地面に打ち付けた。

 甲高い金属の音が響き渡る。村人は一斉に話すのをやめ、音の主に注目する。兄は余計に困惑した様子でこちらに振り向く。

 千景は言う。

 

「皆さん……私は……私たちは──────価値のある存在ですか?」

 

 一瞬の静寂。

 村人の誰かが、言った。

 

「ええ、そうよ。だってあなたたちは”勇者”なのだから」

 

 それを皮切りにして、他の村人たちからもそうだと声が上がり始める。大勢の人間から与えられる称賛の嵐の中で兄もようやく事を理解し──────

 

 

 

 

 

 ─────千景は笑っていた。




 今回は象徴の話です。文才が欲しいな、できたらいいな。
 博士はオリキャラです。男の人です。

 一応なんでこんなに遅れたのかって言い訳させていただくと、それは唐突な自信喪失ですね。
 文章力、欲しいな!(誤字・脱字あったら報告お願いします)

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