見慣れた天井に、部屋の中を漂う消毒用アルコールの匂い。そこは、レイドリベンジャーズ専用病棟の一室。
「目は覚めた?」
「……
瞼を開けて、体を起こし、その手のひらを静かに見つめる。
あの時、
しかし、あの咄嗟の機転。何よりその機転を可能にするだけの運動能力に、希繋は自らを疑うようにその手のひらを握り、拳に変える。
「逢依、俺を回収したのは誰だ?」
「
「……あちゃー……」
小転。フルネームで桐梨小転。その名が示す通り、桐梨希繋の実の姉だ。
彼女の名前を挙げて、気分が明るくなる者は少ない。なぜなら彼女の異名は『天衣無縫の亡霊』――どこの誰にも止めることのできない無気力な奔放。
そんな小転が唯一、自らを縛り繋ぐことを良しとしている人物こそ、彼女の弟――桐梨希繋なのだ。
「一応、私と悠生の方からできる限りの説明はしておいたわ。けれど、小転は元々あなたのことになると感情的になりやすい傾向がある。ここでどうにかしておかないと、あなたと優芽の戦いに支障が出るわよ」
「ありがとう、逢依。悠生にも後で礼を言っておかなきゃな。姉さんには……うん、まぁなんとか言ってみるよ」
ベッドから降りてお気に入りのスニーカーを履くと、希繋は何かに気付く。――無い。
腰のチェーンの先に、あの真っ赤なクリスタルが……相棒が、エクレールがいない。
「エクレールはッ!? あいつは……まさかッ!?」
「落ち着きなさい。大丈夫、エクレールなら小転が預かってくれているわ。……返す気があるかどうかは、怪しいけれどね」
小転にとって、希繋はたった一人の弟だ。
そんな希繋が、今回の事件で危険な目に遭っていると知って、そしてその原因がエクレールだと知って、それを彼に渡すというのは、正直なところ非常に考えにくい。
「姉さんはそんなひどいことしないよ。大丈夫、きっと返してくれるさ」
「けれど、あの小転よ……?」
「だって、あの姉さんだぜ?」
二人の間にある小転の印象は真逆を描いていて、会話の意図が交わることはない。
だから、希繋は逢依の手を引いて病室を出た。話すよりも実際に見た方が早いと言うように、自宅へと歩を進めていった。
◆
「姉さん、ただいま」
「ふー、ふー。……あちゃっ、あ……おかえり、希繋……」
希繋が家に帰ると、ダイニングにて悠生に淹れさせたのだろう紅茶を啜って舌を火傷する白髪の少女がいた。
この白髪の少女こそ、希繋の姉――桐梨小転。実の姉弟にも関わらず髪の色が異なるのは、彼女の持つユナイトギア『ハート』の影響だ。
ハートは小転の意思に関係なく常に起動しており、希繋の『眼』がエクレール起動と同時に赤く染まるように、ハートは『透明』の感情エネルギー膜で小転を覆っており、彼女は後天性色素欠乏症になっているのだ。
「姉さん」
「希繋、まずはそこに座って。逢依ちゃんも」
小転に言われる通りに、希繋と逢依は彼女の正面に並んで座ると、小転が紅茶を飲み終わるのを待った。
「……希繋。ひとまずの状況は、逢依ちゃんと
「まぁね。けど、今回の事件はどう考えても俺が中心だ。無茶しないわけにはいかないだろ」
小転の責めるような物言いに、希繋はなんでもないことのように言葉を返す。この掛け合いは最初から想定していたかのように、準備されていた言葉を口から吐き出す。
しかし、小転も希繋の姉として、彼の言い分は想定していた。だからこそ、続く言葉に詰まることはない。
「希繋は、エクレールを守るために戦っているんだよね。だったら、エクレールは希繋が持っていない方がいい。わたしや悠生くんに預けて、希繋の仲間たちに任せた方が、合理的だと思うな」
「もちろんその方が合理的さ。けど、理想的じゃない。姉さんや悠生に任せたりしたら、優芽の安全が保証できない。その点、俺なら100パーセント安全だ。なぜなら俺は――」
――世界最弱のユナイトギア装着者だから。
希繋が優芽との真っ向勝負に応じ続ける最大の理由が、これだ。強すぎるユナイトギア装着者は、時としてユナイトギア悪用犯罪者を死傷させてしまうことがある。
無論、ユナイトギアの悪用は重罪だ。この世界を防衛できる最大にして唯一の戦力を犯罪に使う以上、事件解決にあたり殺傷を行ったところで、レイドリベンジャーズ側が罪に問われることはない。
「俺は世界中の誰よりも弱い。それはつまり、誰も殺せないってことだ。そんな俺が誰かを救えるなら、かなり理想的だろ?」
「理想的だけど、現実的じゃ……」
「姉さん。理想論に現実性を持ち込むなんてナンセンスだぜ。理想論はどこまでも理想的じゃないとな」
不敵に笑う希繋に、小転だけでなく逢依までもが溜息を洩らす。こうなった彼はもう梃子でも動きはしない。いや、それどころか状況はさらに悪化する。
もしもここで小転が意地になってエクレールを渡さなかった場合、彼は折衷案として「エクレールは小転に預ける」と言うだろう。だが、続く言葉は最悪に次ぐ最悪。
エクレールを小転に預けたまま――「生身で優芽との戦いに応じる」と、そう言うに違いないのだ。
「別に、力ずくで止めてもいいぜ、姉さん。その代わり、そうした場合、俺は間違いなく死ぬぞ」
「……手加減する術くらいはあるつもりだよ?」
「自慢じゃないが、俺はスピード以外ならそこいらの中学生にすら勝てる気はしないぜ。もちろん手加減された上での耐久力もな」
「ホントに自慢にならないわね」
しかし事実である。希繋にとって、メインウェポンとなるのは大きく分けて三つ存在する。
まず単純なスピード。電気化した状態での光速機動はもちろんのこと、素の身体能力だけでも亜音速レベルの機動力を出し切れるのは、世界中でも彼を含めて数人しか存在しない。
次にその豊富で柔軟な発想力。つまりは口先での対話。今こうして小転を説き伏せていることや、優芽との勝負でも主に彼女を追い込んだのはその冷静な洞察力を全力で活かせる口先の巧さだった。
そして最後のひとつこそ、その脆弱な肉体。相手がユナイトギア装着者ならば、一撃まともにもらえば高確率でノックダウンさせられてしまうだろう彼の脆弱さは、「甘い」相手には非常に強い盾となる。
「姉さんは俺に甘い。それをわかった上でこんなことを言うのは卑怯なことだってわかってる。でも……俺だって優芽を救いたいと本気で思ってるんだ。なりふり構ってなんかいられないよ」
「……わかった。そこまで言うのなら、希繋が思うように、好きにするといいよ……。エクレールもちゃんと返す。元より、口喧嘩で希繋に勝てるなんて思ってなかったからね……」
「口喧嘩なんて言い方が悪いな。これは『話し合い』だよ。喧嘩なんかしてないじゃないか。俺は姉さんが大好きなままだし、姉さんだってそうだろ?」
小転からエクレールを受け取ると、希繋はテーブルを回り込んで小転の傍に寄り、そして彼女を抱きしめた。
優しい姉に甘えるように、優しい姉を慰めるように、彼はその弱い弱い力の精一杯を籠めて、小転を抱きしめ続けた。
◆
「ううっ……あああああああッ! いや……いやあああああッ!! 誰か、助けてっ……誰か……誰かぁっ!」
「大丈夫……! 優芽、大丈夫ですから……! あなたには、わたくしたちがついていますから……!」
同刻。目を覚ますと同時に不安衝動に駆られる優芽に対して、
そもそも
それが何を意味するかといえば、彼女は「本来のままでもユナイトギアを纏えるはずにもかかわらず、
「やはり、もう優芽に戦わせるのはやめないか。このままでは、そいつの心が壊れるぞ」
「そうしたいのは、わたくしも同じです……。ですが、無理に引き留めて、
そしてその矛盾を解決するのも、
正の感情とは、単純な「喜び」「楽しさ」だけを意味するものではなく、強い「決意」や「諦めない心」なども、それらに適合する。優芽の場合、最も強い感情は――、
「「憧れ」か……。優芽がユナイトギア装着者になれたのは、あの桐梨希繋に対する人一倍強い「憧れ」の感情からだった……。だが……」
「未来で起きてしまった忌まわしい「あの事件」のせいで、優芽の「憧れ」は「失望」に変わった……。もしも
ELBシステムは装着者が「正の感情」で運用することで、はじめて「ユナイトギア」としての名前に意味を持つ。
もしも「負の感情」でELBシステムを運用すれば、それはもはや「ユナイトギア」に非ず。レイダーと同じ根源を持つ感情兵装――「レイダーギア」と成り果てるだろう。
「優芽をレイダーギアにさせるわけにはいきません。しかし、
「何もできないのか、俺たちは……」
覚悟と
優芽の願いを知ればこそ、二人には何もできない。ただ、大切な仲間のために、できる限りの全力を尽くすことしか、できないのだ……。
「ああ、あ……ぅ……っ!」
「第一次不安衝動が治まってきたか……。だが、まだあと数日は続くだろうな……」
「ええ……。それまでは、私たちがこの子を守らなければ……」
覚悟と総交は互いに視線を交わすと、静かに頷いた。
大切な仲間を守るため、大切な仲間の願いを叶えるために、二人は彼女の手を優しく握り続けた。
「希繋……お兄さん……」