THE DARKSIDE ERIO ~リリカルなのはVS夜都賀波岐・外伝~   作:天狗道の射干

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【悲報】生きてた
【悲報】死んでた

ベェェェェェェェェェェェェェェェェェェイッッ!!


第十二話 慈愛の華 月村すずか

1.

 あの日、あの時、あの瞬間に、少女は初めて理解したのだろう。飛び散る鮮血。失われる温もりに、漸くそれを知ったのだ。

 

 其れは痛み。胸が張り裂けそうな程に、心が切り刻まれるかの様に、無数の感情が嵐と成って駆け抜ける。其れが齎したのは、痛みであった。

 共に過ごした友らに起きた惨劇に、大切な誰かが失われると言う悲劇を前に、少女は漸くに理解した。痛みと呼ぶしかない激情を、その時まで理解する事すら出来ていなかったと言う事を。

 

 そうとも、分かっていた気になっていた。己の身に起きた過去。今も見続けている赤い夢。そうした悲劇を乗り越えて、ゆっくりとした速さでも、確かに進めていたのだと。

 しかし違ったのだ。それらは既に過ぎ去った時に過ぎなくて、誰かに聞いた悲劇であって、記憶の断片にしか過ぎなくて――あの瞬間に見せ付けられた惨劇とは、何もかもが違っていたのだ。

 

 

(……エリオ君)

 

 

 エリオ・モンディアルと言う少年は、少女にとっては優しく儚い人だった。共に過ごした日常で、彼を確かに知っていると。そう思い込んでいた。

 エリオ・モンディアルと言う少年は、誰かにとっては悍ましい悪魔であった。息をするより容易く命を奪って、それを無価値と蔑み踏み躙る。そうすることを当然と、必要ならば容易く出来る。そういう面を持っていた。

 

 一面だけが全てじゃないと、分かっていた心算だった。そんな顔があるのだとしても、全て受け止められると思っていた。けれど実際にはそんなこと、出来る筈がなかったのだ。

 そうとも、あの日、あの時、あの瞬間までは、少女はまるで理解してはいなかった。不器用に微笑みながら、儚い物を壊さない様にと触れてくる。あの優しい少年が背負っていた、業の昏さと罪の深さを。

 

 

(……エリオ君)

 

 

 友が死んで、友が狂って、友が変わった。そんな惨劇の中で己は唯、怯えて震える事しか出来てはいなかった。その業と罪に飲まれていた。

 唯々理解が追い付かなくて、けれどそれではいけないと追い詰められる様に追い掛けた。何も心が定まらぬまま逃げる様に駆け出して、その先で追い付いてしまった。

 

 何がしたかったのだろうか。その程度、考えて動いておくべきだった。そうすれば、何かが変わっていたのかも知れないから。

 何が出来たのであろうか。その程度は、答えを出しておくべきだったのだ。そうすれば、何かが変わっていたのかも知れなかったのだから。

 

 けれど何も定まらぬままに追い付いて、彼と目を合わせてしまった。その瞬間に喉は悲鳴を上げて、身体は震えて膝を屈した。

 抱いた恐怖を乗り越える程の覚悟が其処にはなかったから、何も出来ずに震える事しか叶わなかった。そんな愚かな行動が、彼を更に追い詰めた。

 

 今もこの目に焼き付いている。昏い業と深い罪。それを抱える彼の姿に恐怖を覚えて、そんな少女の姿に泣きそうになったその瞳を。

 ああ、そうだ。恐ろしいだけが彼ではないと知っていたのに、一面だけしか見れなくなった。優しい面しか見ていなかった少女はその時、恐ろしい面しか見れていなかった。

 

 その目を見て、そう理解した。本当に、何も分かってはいなかったのだと。けれど震えるだけしか出来なくて、彼はもう去ってしまった。あの一瞬は、もう戻らない。

 

 

「後悔、しているんだね」

 

 

 仄かに甘い匂いが香る病室の中、女が優しく声を掛ける。白衣の女性の言葉に対し、キャロには肯定しか返せない。

 後悔している。ああ、そうだとも後悔している。あの時に何が出来たのか、何をしたかったのか。定まらぬのなら、動くべきではなかったと。

 

 そうとも、この胸に走る痛みの内には無数の悔いが蠢いている。不思議と安らげる香りの中でも、この痛みは薄れない。

 それ程に大切だったと、そう胸を張る事が出来たのならば良かったのだ。けれどそんな強がり程度も言えなくて、少女は今も震えている。

 

 抱き締めた白き翼の竜が、顔を見上げて小さく鳴いた。何かを伝えようと翼で腕を叩いているが、そんな必死ささえも今のキャロには伝わらない。

 優しく見下ろす紫髪の女医。無意識に起こすあらゆる所作が、異性を誘う淫靡な華にも見紛う色気を纏う。そんな美女が浮かべている表情にすら、今のキャロは気付けない。

 

 何処か胡乱な瞳で思い浮かべる。此処に抱えたのは後悔だ。もっと何かが出来た筈だと、もっと何かをするべきだったと、或いは何もするべきじゃなかったと。

 それだけで胸が一杯で、口から発する言葉は支離滅裂と筋道すらも立っていない。それでも嫌な顔一つせず、美女は相槌を共に声を聞く。それは美女が己の行為に、矜持を持つが故なのか。

 

 

「それとも、怒っているのかな?」

 

 

 少女の漏らした言葉から、思案を重ねて問い掛ける。その姿は正しく魔性。夜の一族と言う血に生まれて、血染の花を取り込み目覚めた美貌は美し過ぎる。

 甘い匂いも伴って、まるで桃源の夢を見ているかのよう。本人にその気がなくとも、彼女は容易く人を狂わせてしまうのだろう。そんな妖艶さを、女は逆に利用する。

 

 そうした趣味がない同性さえも腑抜けとしてしまえる程、魅力的な光と音と香りと熱。人の五感に訴えかける言葉使いと仕草を以って、向き合う者の心をゆっくりと解き解す。

 だから、であろうか。少年を拒絶してしまってから一夜が明けて、丸一晩眠れなかったこの少女。寝不足のキャロは彼女のカウンセリングを受けながら、気付けば何もかもを吐露していたのだ。

 

 

「後悔しているとすれば、一体何に対してだろう? 止められなかったこと? 抱き締められなかったこと? それとも、出逢わなければ良かったこと?」

 

 

 問われて思う。一体何に、己は後悔しているか。彼を止められなかったこと。泣いている様に見えたのに、抱き締めて上げられなかったこと。その二つは、きっとそう。

 キャロはそれを後悔していて、だから最後の一つには首を振る。起きた悲劇を嘆いていても、出逢わなければ良かったとは思わない。出逢えなければ、得られなかった日々があるから。

 

 

「怒っているとするならば、それは一体何に対してだろうね。壊した彼に? 止められなかった自分に? それとも、最悪と言える運命に対してかな?」

 

 

 問われて思う。一体何に、己は怒りを抱いているか。壊した彼。それを止められなかった自分。そうなってしまったこの運命。ああ、そうだろう。その全てに腹が立つ。

 キャロは全てに対して怒っていて、だからこれで終わるだなんて納得出来ない。したくない。結論はきっと其処にあるのだろうと、美女は幼子を言葉で導く。淡く淫靡な微笑を浮かべて。

 

 

「答えはどうあれ、貴女は強く執着しているんだよ。だから、ずっとずっとその事を、今も考え続けているんだね」

 

 

 窓から差し込む日差しの中で、カウンセリングは続いていく。女は少女が抱く想いの輪郭を少しずつ掴んで、それを一つの方向へと。

 少女自身が自覚出来ていない感情を、魔性の美女は導いていく。それが必要だと思うから、寝不足な彼女の頭を撫でて、暴れる白き飛竜を落ち着かせ、彼女は微笑み語るのだ。

 

 

「まだ大切だって、きっとそれはその証拠。キャロちゃんにとってその日々は、きっと何に変える事も出来ない宝石だったと言えるんだよ」

 

 

 微睡む瞳で見上げた少女に、美女は優しく微笑み聞かせる。貴女は今も少年を、彼と過ごした日々を大切だと思っているのだと。

 それはきっと事実であろう。誰にだって否定できない程に明白で、だからこそキャロの心にすんなりと入り込んだ。彼女の心に、明確な形を与えていた。

 

 ああ、そうだとも、大切だ。そうでなければどうして、あの時拒絶してしまったことを今も後悔しているのか。

 ああ、そうだとも、大切だ。そうでなければどうして、容易く人を壊してしまう彼の所業に、それを止められない自分に、こうも怒りを抱くのか。

 

 

「なら話は簡単。次に機会があったのなら、それを伝えてあげれば良い」

 

 

 微笑む女性は容易く語るが、そんな簡単に行くだろうかと疑問を思う。もう遅いのではないかと、そんな風に思ってしまう。

 だって、自分は拒絶してしまった。恐怖から受け止めることが出来ずに、震えていることしか出来なかった。次があったとしても、動ける保証なんてない。

 

 悩みは尽きない。己の抱いた想いに気付いたからこそ、少女の抱いた悩み事は膨れ上がる。戸惑うキャロにくすりと笑って、美女は優しく抱き締めた。

 

 

「大丈夫。遅くはないわ。寝て起きてからでも、きっとね。先ずはその時の為に、ちゃんと休んで元気になっておきましょう」

 

 

 思い詰めた状態では、良い案なんて浮かばない。先ずは身を休めねば、いざという時に動けない。美女の語りはつくづく尤も、道理に適ったことである。

 だからキャロは頷いた。何故か己の衣服に噛み付き続けるフリードを抱えて、少女は女の言葉を受け入れる。答えが出せたお陰であろうか、何時しかとても眠たくなっていた。

 

 

「ふふっ、眠そうだね。無理もない、のかな。……奥のベッドなら空いてるから、良ければ使っていく?」

 

「……お言葉に、甘え――」

 

 

 言葉は、最後まで続かなかった。ゆっくりと意識は暗転して、少女は眠りの中へと落ちる。抗おうとは、思えなかった。

 そんな少女を支える女の身体。頬に当たった双丘から、強く感じる甘い匂い。それに違和を感じながらも、キャロとフリードは意識を失った。

 

 すうすうと寝息を立て始めた少女と飛竜を腕に抱えて、紫髪の美女は笑う。眠る子らをベッドに横たえ、白い薄手の布団を掛けて、桃色の髪を撫でながら深い笑みを浮かべていた。

 

 

「ふふっ、良く効いてる。ちゃんと眠るんだよ、キャロちゃん。――――大丈夫。起きたらきっと、貴女の全てが、変わっているわ」

 

 

 それは己の血を嫌って、人を狂わせる魔性を可能な限り抑え続けていた女の笑みとはまるで質が違っている。

 最早、真逆だ。誰よりも己を認める自愛の笑みで、己の魔性に狂う人を蔑む嗜虐の色で、その色香を解き放つ。

 

 そんな女の姿はまるで――――雨に濡れた紫陽花の、葉の裏側を連想させるかの如く。何処か淫靡で、醜悪だった。

 

 

 

 

 

2.

 中天に浮かぶ陽光が差し込む室内に、響き渡るは金属音と咀嚼音。作法の一つも成っていない食事の音が目立つ程には、異なる音が存在しない。

 ストローに息を吹き込んで、グラスの中で泡と変える。時に意味もないそんな行為に対面に座す少女は眉を顰めるが、ルーテシアに言わせれば不作法なのはお互い様だ。文句を言いたそうにする前に、真横の要介助者を如何にかするべき話であろう。

 

 

「はい。出来たよ」

 

 

 そんな事を考えていると何時の間にか結構な時間が経っていたのか、追加で注文していた品物を持って食堂の主がやってくる。

 

 金髪の若い男性は微笑みを絶やさず、片手で器用に料理を並べていく。その量は四人掛けのテーブル席が埋まる程で、見ているだけでも食欲が失せていく。

 ボリュームの少ないサンドイッチを頼んでおいて良かったと内心で己の判断を称賛しながら、ルーテシアは軽い謝意が籠ったお辞儀で礼を示す事にした。

 

 

「ありがとうございます」

 

「…………」

 

 

 同じくお辞儀をしてから、ルーテシアと違って感謝の言葉を返すのは半透明な姿となったティアナ・L・ハラオウン。足は付いているが、気配すらも薄いその姿はまるで亡霊の様でもある。

 対して茶髪の少年は、礼は愚か反応すらも示さない。無視している、と見えなくもないが実態は違う。ティアナから説明を受けて、実際に試してみて、嫌と言う程に彼らは理解してしまった。

 

 表情に苦みを滲ませるユーノの姿も、向き合って座っているルーテシアの不作法も、湯気を立てて並ぶ料理の山も、路傍に転がる小さな石も、今の彼には全てが同じ物にしか見えない。それを正しく、認識する事が出来ないのだ。

 白い包帯に覆われた顔に、残った唯一つの瞳。白き双蛇が浮かぶ左の瞳に映るのは、今ではたった二人だけ。それ以外に色はなく、全ては唯の背景画。聞こえて来る音すらも、雑踏が奏でる遠い雑音でしかない。

 

 そんな己に、違和感すらも覚えられない。それがおかしいと思うことすら出来はしない。一体どんな気持ちなのだろうかと、考えても答えは出ないのだろう。共感などは出来ぬから、人はそれを狂人と呼ぶのだ。

 

 

「ほら、トーマ。新しい料理来たわよ」

 

「ん? あ、ありがとう。ティア」

 

「礼を言うなら、ユーノさんに言いなさいよ」

 

「ゆうのさん? 何それ? ティアは偶に、変なこと言うよね」

 

 

 擦り抜けてしまいそうな程に儚い手で、ティアナが料理の盛られた皿を取る。そうして声を掛けながら、意識を向けさせる事で彼は漸くに認識する。

 愛しい少女に変じた右目が映した世界には、まだ色が僅かに残っている。ティアナが食べ物だと告げたのなら、トーマはそれを食事であると解釈出来た。

 

 それでも、人名や固有名詞はやはり理解していない。作った人の名前は勿論、目の前にある食べ物の呼び名すらも分かっていない。ティアナが食べろと言ったから、彼は食べている。唯それだけでしかない。

 少し寂しそうに立ち去るユーノに、ティアナは頭を下げてからトーマの世話を焼く。ボロボロと零す彼の口元を布で拭って、仕方がないと優しく微笑みながらに甲斐甲斐しく。そんな変わった友らを見詰めたまま、ルーテシアは思う。

 

 変わってしまった。僅か一晩で、変わってしまったのは彼らだけじゃない。己の周りや、最愛の妹の心すら、あの夜は大きく塗り替え過ぎ去った。

 友の死を間近で見た。友の変貌を間近で見た。妹が恋い慕っていた気に食わない少年が、それでも妹の味方であってくれると信じた彼が、何もかもを壊し尽くした。

 

 

(エリオ・モンディアル)

 

 

 罪悪の王が為した所業に、思う所は当然ある。今も心に燻る熱は、怒りや憎悪と呼ぶのが相応しい感情だろう。

 よくもあの子を裏切った。よくもあの子を傷付けた。よくもよくもよくもよくも、アレは最早己にとって許すまじ大敵だ。

 

 思い浮かべるだけで頭が怒りの色に染まる程、恨み辛みは際限なく溢れ出してくる。

 思い浮かべる度に身体が震える。その惨劇に、恐怖や怯えを感じぬ程にルーテシアは外れていない。

 

 けれどその二色だけにはならない。怒りでも、恐怖でもない。他にも渦巻く色があるのは、何より大切なあの娘の想いがまだあるから。

 

 

(キャロは、まだアンタのことを)

 

 

 同じ時を過ごした姉妹である。態々口に出して語らずとも、抱えている悩みの類を察する事なら当然出来る。その程度の絆はきっとあると信じている。

 だからこそ、ルーテシアは気付いていた。己の妹が何に後悔し、どんな想いを抱えているのか。そうと気付いていたからこそ、心を満たす色は単純な物になってくれない。

 

 あの子を泣かせたなと怒りを叫んで、殴り飛ばして解決出来たらそれで良かった。けれど今もキャロが胸に想いを抱えるなら、自分が前に出るのは筋違いな話になるのだろう。そんな風にも思うのだ。

 

 

(でも、やっぱり許せない。キャロを泣かせたことも、トーマを壊したことも、ティアナを死なせたことも、決して許して良い訳がない)

 

 

 だが、人は感情で動いてしまう生き物だ。理屈で無粋と分かっていても、この苛立ちや怒りと言った感情は抑えられる物ではない。

 余りにも、エリオ・モンディアルはやり過ぎた。奪われたのだ。親しい者らが。傷付けられたのだ。大切な人々が。それをどうして、許すことが出来ようか。

 

 

(それにアンタが居なければ、あの人達だって、きっと生きてた筈なのよ)

 

 

 そう思ってしまうのを、弱さと責められる者など居ない。そしてそう思ってしまった事は、きっと一面では真実だろう。

 多くの者を亡くした。多くのモノが奪われた。許さぬ認めぬと否定して、拳を振るうは道理であろう。そうなると分かっていて、彼は奪った筈だろう。

 

 そんなことばかり考えてしまう。大切な妹も悩み苦しんでいると言うのに、それが分かっていて顧みる余裕がない程にルーテシア・グランガイツも悩んでいる。

 己はあの少年を許せない。今も誰かを苦しめ傷付ける罪悪の王に、妹を任せるなんて出来ない。けれどキャロにまだ想いがあると言うなら、それを阻むのは正しいのか。そうも悩んでしまうのだ。

 

 懊悩に答えは出ない。単純に出してはいけないことだ。無駄な行為であるのだとしても、無価値で非効率な事だとしても、きっと悩み続けた日々には意味がある。

 簡単に出せてしまえる答えは軽い。其処に籠った想いがどうあれ、悩む必要がないと言う事はそういうこと。比較した何かを、心の何処かで軽んじている。軽く思えぬからこそ、少女は迷いの中に居た。

 

 

「ところで、キャロは何処行ったのよ?」

 

「あの子なら、カウンセリングを受けに医務室へ行ってるけど。それがどうかしたの?」

 

「別に、何時もセットなのに珍しいと思っただけよ」

 

 

 そんな苛立ちを発散するかの様に、ぶくぶくとグラスの中身を泡立て続けるルーテシア。彼女の行為が八つ当たりに過ぎないと察せる程度には賢しく、だが不快には思ってしまう程度には狭量なティアナは問う。

 何時も一緒に居る姉妹は何処へ行ったのかと、そんな問い掛けに少女は直ぐに答えを返した。己以上に悩んでいた妹に、カウンセリングを進めたのはルーテシアなりの思い遣り。今の自分には余裕がないと自覚していればこそ、彼女は素直に大人を頼る事にしたのだ。

 

 故にこの場に、キャロ・グランガイツの姿はない。彼女だけでなく、フリードや古代遺産管理局の局員達の姿もなかった。

 閑古鳥が鳴く食堂内に、ルーテシア達を除けば居るのは食堂の主とその一家だけ。厨房で作業しているユーノ・スクライアと、彼を手伝う高町なのは。そして二人に付いて回る、見覚えがない小さな少女。

 

 それだけしか居ない理由を、彼女達は既に知っている。この基地に所属する全ての者らに、その連絡は行き届いていた。

 

 

「それにしても、このタイミングでね。隊員全員の一斉健康診断だとかで、すずかさんも忙しいんじゃなかったかしら」

 

「百鬼空亡の影響が残ってないかの確認の為に、って奴でしょ。そっちはあくまで確認と予防がメインだから、目に見えて体調が悪い人は優先してくれるって話よ」

 

 

 クラナガンを襲った堕龍の存在。神格域の怪物との戦闘で起きた悪影響を確認する為、と言う名目で今朝方に健康診断の布告があったのだ。

 一部の者らを除いて、全隊員に行われる一斉検査。今回は簡単な採血検査で済ませるから、本日中に一度は医務室に寄る様にと。誰もがその言に違和を感じない。

 

 例外とされているのは、トーマとなのはにアリサの三人。最前線で激闘を繰り広げた彼らには、しっかりとした検査がしたいと。だが今は機材が足りない為、後日に回すとされている。

 ユーノとヴィヴィオはなのはと日程を同じくすると、そしてティアナはトーマと離れられない。この場で本日中に検査を受ける予定なのは、少し感情を整理してからにしたいと考えているルーテシアだけだ。

 

 だが故に、と言うべきだろう。五人以外の全員を一日で診ると言うのだから、採血検査だけでも仕事の量は余りに膨大だ。

 昨夜は避難民の対処に当たっていたのであろうに、その直後に検診と言う大仕事。それをしながら妹のカウンセリングもして貰っているのだから、ルーテシアは頭が下がる思いであった。

 

 

「ありがたい話よ。正直、自分の事だけでも一杯一杯だったもの」

 

「……まぁ、そうよね。色々、ほんっと色々とあったわね」

 

 

 足を向けては寝れないなと言いながら、僅かな弱音を零すルーテシア。そんな彼女に、ティアナは素直に共感する。

 本当に色々なことが起きた。僅か一晩での出来事と思えぬ程に、全てが変わってしまっている。部屋の明かりに手をかざして、透き通った色に想う。今も帰って来ていない、まだ兄とも呼べていない人を想った。

 

 

「ティア。さっきから、何で独り言を言ってるの?」

 

「……一人じゃないわよ。馬鹿トーマ」

 

「一人じゃない? 変なティアだね。何もないのにさ」

 

 

 その傷口は、今も塞がることはない。血を流し続けていて、何時かは膿んで腐るのだろう。そう成る姿が、余りに明確に見えている。

 仕方がない。そう言いたくはないが、そう言うしかない状況。何度説明したとして、トーマは理解を示してくれない。理解出来たとしても、秒で忘れてしまうから。

 

 

「ま、いっか。ティアが変なのは何時もの事だし。あれ、何時もって何だっけ? ……ま、いっか」

 

「言いたいことは色々あるけど、まぁ追々ね。取り敢えず今は、生きている事に感謝だけしておくわ」

 

「今のティアナが言うと何か妙にシュールに聞えるけど、其処だけは異論ないわよ。ほんとにね」

 

 

 傷付いた心を癒す術はなく、彼らは緩やかに腐っていく。それでも今は、それで良いと結論付けた。

 この今に、偽りであれ平穏は続いているから。何かを変えようと、何時かは思う。けどそれは今じゃない。今は少し、疲れてしまった。

 

 もう一度駆け出す為に、少し休もう。何時か腐り果てるとしても、それは今直ぐにと言う訳じゃない。だから一度休んで、また走り出すとしよう。

 機動六課の幼い者達は、そうして安寧の中に居る。それが虚構と分かっていても、今はこの中に居る。何時かまた立ち上がる為、今は己に向き合っていた。

 

 

 

 

 

3.

 女は一人歩いている。進み続ける事に躊躇いはあるか、そう問われれば返す答えは決まっている。進み続ける事に否はない。不器用だから、疲れ果てたとしても、前に行くしか知らないのだ。

 執務官の証が刻まれた制服は、彼女の覚悟の表れだ。そうとも、この先に迷いなどはない。戸惑いなどは一つもない。恐れている筈がない。どんな事実が待っていたとしても、必ず向き合い踏破する。

 

 時刻は日没。此処まで時間が掛かってしまったのは、気付くのに遅れてしまったから。裏を取る為、無事を確かめる為、時間が掛かってしまったから。

 戸惑いが故ではない。恐れが故ではない。これから為す行いに、怯えている訳ではないのだ。そう己に言い聞かせる様に、弱さを一つ一つと燃やして進む。故に、彼女は揺るがない。

 

 炎の様に苛烈で、だが氷の様に冷たい瞳。こんな想いを常に抱いていたから、彼女は鉄面皮であったのだろうか。

 他愛もない事を考えながら、下らない事だと切って捨て、アリサ・バニングスは手を伸ばす。ノックもせずに、その扉を開いた。

 

 

「あれ? どうかしたの、アリサちゃん。そんなに怖い顔をして」

 

「ちょっとね。聞きたいことがあったのよ」

 

 

 扉の先は、白い無菌室の様な医務室。椅子に腰掛け、採った血液を見比べながら、作業をしていた白衣の女は振り返って目を丸くした。

 一体どうして、彼女が此処に来たのだろうか。不思議そうな表情は演技に見えない程に自然で、だから心が僅かに揺れる。気のせいではなかったのかと、そんな甘い弱さを思う。

 

 それを燃やして、強い瞳で睨み付ける。目の前の女の全てを暴こうと、そんな意志を感じたすずかは手にした採血管を机に置いて向き直った。

 

 

「私に? 変なアリサちゃん。一体何を聞きたいのかな?」

 

 

 そして、何時もの様に微笑む。妖艶な笑みと共に、甘い香りがふわりと舞う。香水だろうか、何もかもを酔わせるその芳香。一瞬意識が途切れそうになるこの感覚を、アリサは何処かで知っている。

 異なる事を考えてしまうのは、己の弱さが故にであろう。そう胸中で断じて、匂いを思考から切り離す。そして赤く燃える瞳で美しい女を睨んで、アリサ・バニングスは問い掛けた。

 

 

「先ず最初に、昨夜は何処に居たのかしら?」

 

「昨夜って、あの襲撃の時のこと? 怪我した人も少なくなかったからね、後方で治療に専念してたよ」

 

 

 百鬼空亡が襲って来た時、月村すずかは戦場に居なかった。それが先ず一つ目の違和感。だから、アリサは彼女に疑念を抱いた。

 故に何処に居たのかと、問うた言葉に返って来たのはそんな物。前線に出ないのは彼女らしくはないが、戦闘より治療を優先するのは彼女らしいか。結果は灰色。答えはまだ出せていない。

 

 

「まさか、アリサちゃん。戦士は戦場に出ないと駄目だーって、怒りに来たとかじゃないよね。医療の現場が戦場じゃない、とか言ったら幾らアリサちゃんでも怒るよ」

 

「……そうね。確かにそうよ。敵を切り捨てる戦場も、誰かを救う戦場も、其処に貴賤なんてない」

 

 

 語る言葉は何処までも、月村すずからしいもの。なのにどうして、こんなにも空々しいと感じるのか。冷たい瞳で、彼女は睨む。

 どうして疑うのかと困惑して、仕方がないなと苦笑して、向き合っている紫髪の美女。彼女の言葉にこんなにも、違和を感じるのは何故なのか。

 

 

「次の質問よ。何で急に、全隊員の一斉検診なんて始めたのかしら?」

 

「それこそ、皆に伝えたでしょ? 昨夜の事件が理由だよ。百鬼空亡なんて怪物が出て来た訳だし、何が起きてても不思議じゃなかったもの」

 

「そうね。けどなら何で、私やなのは、それにトーマ達が後回しなのかしら? 一番前で戦っていた、私達こそ調べるべきじゃないの?」

 

「アリサちゃん達は強いからだよ。あの堕神の影響は、より弱い人程強く受けてただろうからね。危なそうだったのは、キャロちゃんとルーちゃんくらいかな? 二人とも先に診ようかって言ったんだけど、ルーちゃんには振られちゃった。私よりも先に妹をって、その優しい姉妹愛に涙が出そうだったよ」

 

 

 嗚呼、そうか。アリサ・バニングスは理解する。何となく、空々しいと感じていた理由が分かった。

 その女は隠さない。疑われていると分かっていて、それを如何にか説得しようと。それは演技でしかない。

 

 だって、彼女は嗤っていた。その口元が緩やかな孤を描いていて、それは微笑と語れぬ程には、無数の悪意に満ちていた。

 

 

「……そのキャロは、一体何処に居るのかしら?」

 

「あれ? アリサちゃん。まだ逢ってないんだ? ちゃんと帰る様に言ったんだけどなぁ。何処かで道草でもしてるのかもね」

 

「…………」

 

 

 嘘だ。最後の言葉に確信を得る。先までの発言は演技であっても、嘘ではないから灰色だった。

 だが、この発言だけは間違いなく虚言である。今も見付からないキャロ・グランガイツの行方を、白衣の女は知っている。

 

 故に中途半端な灰色は、一瞬で日の光も届かぬ漆黒へと。どす黒い悪意が其処に、確かにあった。

 

 

「話はそれだけ? なら、休ませてくれるかな。朝から沢山の人を診て、ちょっと疲れてるんだ」

 

「……これが最後よ。答えなさい」

 

 

 確信を得たアリサは意識を切り替えながら、最後とばかりに問い掛ける。それは問いと言う形を成してはいるが、真実知りたい訳ではない。

 既に分かっている。それは一面にしか過ぎない情報だが、それだけで十分だと。故にそれは誰何でなくて、故にそれは宣戦布告の一言だった。

 

 

「アンタ、誰よ?」

 

「――さぁ、私は誰でしょう?」

 

 

 宣戦布告に返るは悪意。最初から隠す気などなく、唯遊んでいただけの化け物は、その真意を此処に示した。

 

 

「質問に質問で返すなッッ!!」

 

「アハ、アハハ、アハハハハハハッ! 本当に気になるのよ、貴女が当てられるかどうか! 選んでみなさい、選択肢を与えてあげるわ!」

 

 

 爆発する様に、火球が飛ぶ。親友と同じ姿をした敵の存在に、彼女は一切手を緩ませない。友がどうなったのか、不安はあるが今はそれより成すべきことがある。

 一体何時から、入れ替わっていたのか分からない。それでも敵は機動六課の中枢に、既に入り込んでいたのだ。早急に排除しなければ、何があるかも分からない。故に、惑っている暇などないのだ。

 

 

「問いは100択。さあいくわよ。私は悪魔(デヴィル)。私は天使(エンジェル)。私はバアル。私はゼブル。私はハデス。私はメフィスト。ハールート。マールート。ミキストリ。ルビカンテ。アエーシャマ。反キリスト。偽キリスト。メシア。バルザイ。バルザック。オートス。オルクス。アマイモン。ベルフェゴールという名もあったしダイロクテンとも云われていた。他にもまだまだ、腐るほど。ストリガ。バロール。ロキ。スルト。ガルム。カルマ。ヴェルニアス。ハスター。ツァトゥグァ。クァチル・ウタウス。ハプン。アラディ。ヴィイ。クルセド。サビナ。サルカニ。ダボグ。セト。アポピス。オシリス。セベク。ソカリス。ティアマト。バズズ。モト。アーリマン。シヴァ。ブリトラ。カリテイモ。イングマ。エルゲ。カルン。クルス。マール。ヘロス。ギルティネ。ククト。マッハ。モリガン。インジッヒ。エキドナ。エリニュス。リラ。バビロン。ディス。ディーテ。チリアット。スカルミリオーネ。バルバリシア。リビコッコ。マラコーダ。ビレト。ムルムル。モラクス。マルバス。パイモン。バエル。ハゲンティ。ゼーレ。セパル。ハルパス。ブエル。シャクス。ザレオス。バルバドス。オズ。オリアス。グラキヤ・ラボラス。カスピエル。アガレス。アビゴル。アロケン。イペス。アンドラス。アンラ・マンユ。そして月村すずかにクアットロとベルゼバブ。さあ、私達はいったい誰でしょう?」

 

 

 飛来する無数の火球を、迎撃するのは無数の悪意だ。虚空に門が開いて、無数の蟲が飛翔する。形を成した悪性情報が、燃え盛る炎を迎撃する。

 唯それだけで、その正体は既に割れた。この力を使う者を、アリサは確かに知っている。既に死んだと思っていたが、生きていた。唯それだけの話だろうと、怒りと共にその名を呼んだ。

 

 

「アンタみたいな屑の小物が、私の友達を勝手に名乗んなッッ! クアットロ=ベルゼバブッッ!!」

 

「そう! そう! そう! そう! 貴女は私をそう呼ぶのね! 私にそう在って欲しいんだね! ならそう在ってあげるわぁ、アァァリィサちゃぁぁぁんっっ!!」

 

 

 這う蟲の王。反天使が一つ。魔群クアットロ=ベルゼバブ。それこそが、月村すずかの顔で身内の振りをしていた敵。

 友と同じ音で語る。その一言一句の全てが、アリサの神経を逆撫でする物。その声と顔で喋るなと、業火は勢いを増していく。

 

 

「違うわ。私はそう在って欲しい訳じゃない。百通りだなんて大層な名前、アンタには相応しくなんてないってだけの話よ! アンタは私の友達の顔と名前を勝手に騙った、唯の屑で十分だ!!」

 

「アハハハハッ! ひっどいわねぇ、きっついのねぇ。けど誤解してるよ、アリサちゃぁん」

 

 

 発動する魔法に非殺傷は設定せず、リミッターも昨夜からずっと解除したまま。間違いなくこれは、アリサ・バニングスの全力である。

 疾風怒濤さえも霞む業火の津波を前にして、クアットロは悪意の笑みを崩さない。何処からともなく湧き出し続ける無数の蟲が、炎の津波を軽々防いだ。

 

 

「勝手に名乗っている、と言うのは間違いだ。だって、私は月村すずかだ。月村すずかとは私だ。他にその名を名乗れる者など居ないのだから、ならば私がすずかでしょう!?」

 

「――っ! 一体、どういう意味だッッ!!」

 

 

 嗤う。嗤う。嗤う。嗤う。蟲は悪意を以って嗤い続けて、アリサは思わず反応を見せてしまう。

 戦場で友の無事を案じてしまう。そんな自分を無様と罵りながら、それでもその弱さだけは燃やし尽くせない。そんなアリサを嗤って見下し、クアットロは泥の様な悪意を投げた。

 

 

「あら、聞いちゃうの? それ聞いちゃう? 答えるとでも、思ってたりする? バッカみたい。痴愚じゃないの。戦場でペラペラ敵に手の内語るなんて、一体どんな無能の愚図よ。そんな相手の愚鈍さに期待しちゃうだなんてぇ、アリサちゃんってば馬・鹿・な・子」

 

「ちっ! 一々言う事がウザったいのよ、アンタはッッ!!」

 

 

 すずかの顔と声と仕草で煽るクアットロに、元々気が長い性質ではないアリサは業火を更にと燃やす。

 医務室の壁が溶け出す程の高熱の中、平然としている魔群は後方へと大きく飛び退く。その背には蠢く黒き鋼の翼が、堕天の使いは羽搏いた。

 

 何時しか右手は巨大な銃口に変わっていて、下卑た笑みと共に魔群は破壊の牙を放つ。それはアリサの展開した炎を易々と貫いて、彼女を大地に叩き堕とした。

 

 

(だが、正論だ。ザミエルなら、此処でそんな風に言うんでしょうよ)

 

 

 落下した女はそれで、立ち止まる程に弱くはない。悪性情報と言う呪詛に侵されながら、受け身を取って即座に立ち上がる。

 焼かれた衣服を破り捨て、赤いバリアジャケットを展開する。注ぎ込まれた熱病と言う毒素は体内を渦巻いているが、その程度で膝は付かない。歯を噛み締めて、空を見上げた。

 

 

(なら考えろ、アリサ・バニングス。知り得た知識と、視界に映る景色を当て嵌め、その真実を掴み取れ――)

 

「――その位出来ずして、紅蓮の後継が名乗れるものかッッ!!」

 

 

 燃え盛る隊舎の中で、叫ぶ女を見下ろし見下す。そんな魔群の悪意を前にして、全て暴いてみせるとアリサは大地を蹴った。

 足の裏で炎の魔法を爆発させる。幼い頃から使い慣れた高速の移動法。炎の剣をその手に掴んで、敵を切り裂かんと振り下ろす。

 

 

「バーニングスラッシュッッ!!」

 

「枯れ堕ちろ――凶殺血染花!」

 

 

 迫る炎の剣を掴んで、魔群はその火を吸い取り枯らす。それは紛れもなく、月村すずかが受け継いだ筈の異能。

 顔と声を模倣していただけではなかったのかと、心が僅かに動揺する。それでも直ぐに意識を切り替え、新たな炎をその手に燃やした。

 

 

(これは、すずかの。なら本当に、コイツはすずか本人だと。いいや、今重要なのはそうじゃない!)

 

「バーニングッ! パンチッッ!!」

 

 

 剣の間合いから、片手を掴まれ零距離に。ならば拳の間合いだと、もう片方の手に炎を纏わせ殴り掛かる。

 だが、やはり凶殺の呪詛を纏った拳に吸われて消え去る。あらゆる全てを簒奪する力を前にして、この程度では全てが足りない。

 

 それでも、やはりおかしい。アリサとすずかの実力は伯仲していた。アリサの方が少し勝っていた程度であった。

 故にすずかの力を奪ったにしては、相手の出力が大き過ぎる。思考を進める為の牽制に過ぎなくとも、全く通らないのはおかしいのだ。

 

 

「考え事、してる暇あるぅ? そ~んな隙だらけだとぉ、食べちゃうぞ!」

 

「んなっ!? ――っっっ!!」

 

 

 右の手首と、左の拳。両の腕を掴まれた状態で、受けたのは予想外の一撃。その瑞々しい唇が吸い付く様に、アリサの唇と重なっていた。

 柔らかな感触が齎す混乱から戻る前に、感じたのは鋭い痛み。噛み付かれたと、そう理解した瞬間にアリサは己の魔力を爆発させた。

 

 全身に痛みを感じながら、唇から流れ落ちる血を指で拭き取る。そんなアリサをクスクス嗤って見下しながら、魔群は口内で奪い取った血を混ぜる。

 月村すずかと言う器の舌を噛み切って、奪った血と混ぜ合わせながらに口から吹き出す。込められた魔力は女を殺し尽くすには十分な程、その悪意は雨と成って降り注いだ。

 

 

「死に濡れろ――暴食の雨(グローインベル)!」

 

「がっっっ! くぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」

 

 

 降り注ぐ酸の雨はバリアジャケットすらも貫いて、女の肌を溶かしていく。皮膚の下に肉が見える程に、周囲を異臭が満たしていく。

 だから、アリサは己を焼いた。全身に炎を纏って、頭から被った酸を蒸発させる。出来るか否かではない。やらなければ死ぬ、それだけだ。

 

 

(血の雨。血の怪異。血によって歪んだ、不死身の軍勢。……ああ、そう。そういうこと)

 

 

 溶かされる痛みに耐えて、身を焼く炎に耐えて、敵を見上げ続けるアリサは漸くに理解する。

 魔群の真実。その力と彼女の本質。そして、月村すずかと言う友達の身に何が起きたのかと言う事実を。

 

 

(魔群は血に宿る。その血を飲んだ者は、奴に乗っ取られて奴と成る。結局、それが真実)

 

 

 そうとも、知っていた筈だった。ベルゼバブと言う被害者達を、イクスヴェリアと言う仮の器を、グラトニーと言う薬物と、スカリエッティが残した資料の一部を。

 答えに至るピースはあった。ならば必要なのは切っ掛けだけで、この血の雨は連想させるに十二分。そうと想定してしまえば、もうそれ以外に答えはない。アリサはその残酷な真実に辿り着いていた。

 

 クアットロに明確な実体はない。彼女の本体は夢界にあり、彼女の残骸が残した血を媒介に現世で活動する器を作り出せる。

 エリキシルの被害者達はそんなクアットロの器であって、彼らは己の体内に流れる血に操られていた。ならばそう。そんな彼らを救う為、吸血と言う治療を行っていた月村すずか。彼女程に魔群の毒を浴びた者は、他には誰も居ないのだ。

 

 

(月村すずかはもう居ない。この世の何処にも、死後の世界にすら残っていない。……何で、こんな屑に負けてんのよ。馬鹿すずか)

 

 

 詰まりは吸い過ぎた。他の被害者達と同じく、体内に取り込んだ血に操られてしまっている。いいや、彼女の言が真実ならば完全に飲み込まれている。

 取り込まれ、飲み干され、溶かされた後なのだ。既に月村すずかは死んでいて、彼女の死体を魔群が操っている。そう仮定するのが、一番真実に近い形であろうか。

 

 

「力を振るうと言うのは愉しいわねぇ。新しい力を得た時は特に、そうは思わないかしら? アリサちゃん」

 

「そうは思わないわよ。私は」

 

 

 アリサが辿り着いたその解答は限りなく真実に近く、だが僅かにズレていた。それは魔群と言う存在が、消滅を逃れていたのだろうと言うその過程。

 いいや違うのだ。クアットロは既に死んでいた。彼女に腐炎から逃れる術はなく、イクスヴェリアを捨てても尚足りていない。ゆっくりと腐り堕ちて、クアットロは既に滅びている。

 

 ならば、彼女は誰だ。アリサ・バニングスは勘違いしている。乗っ取られたのではない。作り変えられたのだ。だからこそ、この女ではまだ届かない。

 傷付いても立ち上がり、痛みの中でも先に進み、炎の剣と共に空を駆ける金髪の女。彼女の燃え盛る剣はしかし、嘲笑を浮かべた女に届いてはくれないのだ。

 

 

「返して貰うわ。クアットロ。その身体は、私の友達だ」

 

「無理よ。貴女じゃ不可能。届きはしないわ、アリサちゃん」

 

 

 その推測は限りなく真実に近い。確かにクアットロは滅びる直前に、仕込んでいた毒によって月村すずかを手中に収めた。だがしかし、其処で乗っ取れば諸共に消えるだけだった。

 故に彼女は策を弄する。月村すずかを作り変える事にした。彼女の記憶を書き換えて、彼女の思考を塗り替えて、彼女の趣味を染め上げて、そうして第二のクアットロとして歪めたのだ。

 

 そしてその後、前のクアットロが完全に消滅するのを見届けてから、新たにクアットロ=ベルゼバブと言う悪魔を作り上げた。

 父が己を生み出した方法は覚えていたから、同じ事を繰り返せば良い。育成に割く時間はないからプロジェクトFの記憶複写を利用して、もう一人の自分を生み出し殺してこう成った。

 

 故に彼女は、月村すずかではない。だが、クアットロ=ベルゼバブでもないのだ。そうとも、彼女が先に語った様に、魔群は誰でもないのである。

 そして、アリサの誤算はそれだけではない。彼女が届かない理由はそんな小さな事だけではない。時間を与え過ぎたが故に、単純に出力が違っていた。

 

 

「だってもう、格が違うもの」

 

「――っ!? ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっっ!!」

 

 

 全力で炎の剣を振るう。そんなアリサを片腕で、鼻歌混じりに迎撃する。巨大な砲門と化した右手から放たれた光が、剣を貫き女の身体を射抜いていた。

 拮抗には程遠い。抵抗すら出来やしない。それ程の差が、此処にはあった。火力だけなら六課でも最上級のアリサの力が、まるで相手になっていない。

 

 

「不思議? 不思議? ねぇ分かんない? どうしてこんなに私が強いのか、分かんなくて怖いでしょ? 教えてあげようかぁ? 土下座して足でも舐めたら、考えてあげないこともないわよぉ」

 

「んな、こと。問うまでも、ないわよ」

 

 

 無数の蟲がドームの様に、周囲を覆い尽くしていく。余計な邪魔を入れさせない為、故にこの今に救援なんて望めない。

 傷付いて、落とされて、熱病は今も身体を燻る。それでも膝を折る事なく、アリサは前に進む。不器用だから、進み続ける事しか出来ない。そんな彼女でも、魔群の絡繰りには気付いていた。

 

 

「すずかを吸収して、中に居たカズィクル・ベイから全てを強奪した。それでも、其処までには至らない。なら理由は、其処にある。――隊員全員の一斉健康診断。それが、アンタの強さの絡繰りだ!」

 

「ええ、それも一つよ。それだけじゃないけど、正解ってことにしてあげる。そんな訳で正解者には、ゴグマゴグをプレゼントぉぉぉ!!」

 

 

 偽神の牙に吹き飛ばされて、血に塗れながらも立ち上がる。骨が折れたか、内臓が潰れたか、止めどなく零れる血を吐き出しながらに思考を続ける。

 この女の強さ。この魔群が此処まで強く成った理由。それの一つは紛れもなく、今日に行われた一斉検診。採血の際に、己の血を混ぜたのだろう。そうして、この基地の全てを取り込んだのだ。

 

 

(今のコイツは、機動六課の隊員と、避難した人々全員を己の夢界に取り込んでいる。それだけじゃなくて恐らくは、次元世界中に血をばら撒いている。だからこその神格域。流出の位階にまで、この女は確実に至っている!)

 

 

 時間経過で増え続け、その力を増していく暴食の悪魔。魔群に一体どれ程の時間を与えてしまったのか、考えたくもない程に悪手を打ち続けてしまった。

 間違いなく今の魔群は、求道神の域に居る。最強の大天魔や両面悪鬼には届かずとも、それ以外の天魔ならば全て倒せる。それ程の怪物に成り果てていた。

 

 そして僅かな身内を残して、古代遺産管理局はもう全滅している。検診に呼ばれなかった五人だけが、恐らく生き残っている者達だろう。

 逆境にも限度があろう。どうしようもないにも程がある。味方はほぼ全滅で、救援は皆無。敵は己よりも圧倒的に強いのに、己は既に疲労困憊。絶望的過ぎて、笑えて来る様な状況だ。

 

 

「それでぇ、分かったからと言ってぇ、何が出来るのかしらねぇ?」

 

「決まってるわ。形成(イェツラー)――極大火砲(デア・フライシュッツェ)狩猟の魔王(・ザミエル)!!」

 

 

 だけど、諦めない。そして、前に突き進む。それだけがアリサ・バニングスに出来るたった一つの事だから、彼女は力を振り絞って形成する。

 その砲門を向ける先には、友達の顔をした魔群と言う求道神――ではない。その恐るべき魔王の魔弾が狙いを付けた標的は、己達を取り囲む魔群のドームの向こう側。

 

 

「ちょっ!? 正気なの!? アリサちゃん!?」

 

「お前が、その呼び名で呼ぶな!!」

 

 

 アリサの意図を読み取って、魔群はあり得ないと余裕を崩す。女の正気を疑う程に、それは信じられない解答だった。

 

 

「敵に捕えられ、人々に仇なす怪異の糧と成って生き続ける。そんな生き恥を晒す位なら、死を選ぶ。それが戦士だと、私はそう信じている。だから――ッッ!」

 

 

 己よりも強い魔群は倒せない。真っ向から撃っても届かない。ならば、その魔群を強くしている源を立つ。

 全てを殺し尽くす爆心地が飛び去る先は、罠に掛かって夢界の一部と化した同胞達が眠る六課の隊舎。この女は己の手で、仲間を殺し尽くそうとしているのだ。

 

 

「さらば、我が炎にて滅び去るが良いッ! 想い同じくする同胞よ!!」

 

「――ッ!? 恋人よ、枯れ落ちろ! 死骸を晒せ!!」

 

 

 在り得ないと言う驚愕で、対応は一手遅れた。それでも、それだけはさせる訳にはいかない。此処で彼ら局員達に、死なれて困るのはクアットロである。

 歪み者の力は大きい。ゼスト・グランガイツを始めとする、多くを手中に収めたのだ。彼らを処理されてしまえば、力の一割程度は削られる。己よりも強大な者がまだ他に居る状況で、弱体化すると言う危険は侵せない。

 

 僅か出足が遅れたクアットロは、故に全力で砲撃の相殺に動く。蟲のドームを盾にして少しでも着弾を遅らせ、駆け付けて薔薇の力で吸い尽くす。一手遅れても、そんな対処が行えるだけの差があった。

 

 

「あっぶな。まさかノータイムで味方殺しに走るとか、マジ信じられ――」

 

「隙だらけだァァァァァァァァァァッッ!!」

 

 

 だが、その程度の差でしかない。一手遅れて対処が出来ても、その直後に生まれる隙は潰せない。故に、アリサの一撃に反応出来ない。

 この瞬間こそ、唯一にして最大の好機。唯この今に全力を、出せる全てをぶつけてみせる。己の限界すら乗り越える意志で、アリサは大きく吠えた。

 

 

――やれ、小娘。これが私に出来る、最期の助力だ。

 

 

 声が聞こえた訳ではない。聞こえる道理などはない。アリサと彼女の相性は悪く、極みに至ったとしても分かり合える筈がない。

 それでも、何となく感じていた。これが最期と消え行く女が、それでも笑っていた気がした。あの外道に一矢を報いよと、唯の妄想に過ぎないとしても言われた気がしたのだ。

 

 だから、今ならば出来る筈だ。限界を超えたその先で、神々ですらも焼き尽くす紅蓮の炎を。

 

 

焦熱世界(Muspellzheimr)激痛の剣(Lævateinn)ッッ!!」

 

「嘘、嘘、嘘!? 来るなぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 

 一つの世界を開ける程に、まだ女は届いていない。それでも世界を滅ぼす力は、その断片を此処に示した。

 振るわれたのは炎の剣。剣の形へ圧縮された、焦熱世界の超火力。太陽すらも燃やし尽くす程の炎は確かに、友の全てを光に変えた。

 

 燃え上がる炎は花弁の様に、儚く散って消えて行く。後には骸さえも残らず、去った友へと涙を零す。この程度の弱さはきっと、許してくれると思うから。

 

 

「終わった。……さよなら、すずか。私の、友達」

 

 

 がくりと膝から力が抜けて、アリサの身体が大地に倒れる。燃え盛る炎に包まれながら、女はその手に掛けた友を想う。

 他に手段は無かったと、そんなのは言い訳にしかならないだろう。他に手段を探すべきだったと、終わった今だからそう思う。けれど幾ら探そうとも、きっと見つからなかった筈だ。

 

 もし都合の良い救いがあったのなら、月村すずかがこう成っていた筈がなかった。魔群の毒を浴びた者への治療法が他にないから、すずかは魔群に成ってしまったのだ。

 だから、これは正しいこと。友の死体をこれ以上利用させない為に、きっと必要だったこと。そうは思えど、涙が止めどなく溢れてくる。今更に嘆いているのは、全てが終わってしまったから。

 

 情けない弱さだ。見るに堪えない惰弱さだ。悲劇に酔っているのだろうと、罵倒されれば言い返せない。自分で為した行いに、後悔なんて許されない。

 けれどこの今だけは、もう少しだけ泣いていたい。この涙が齎す痛みの重さが、大切だった証だと思うから。こんな弱さに、今は浸っていたいと思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれ程にそうしていたか。涙を振り払って、空を見上げる。アリサ・バニングスに弱さは似合わない。だから、これで嘆くのはお終いだ。

 涙を誰にも見せない様に、一人で流して立ち上がる。己の心に整理を付けて、強がりながらに進んで行く。そんな女は、何時もの様な瞳の強さを取り戻して――

 

 

「えぇ、そうね。さようなら、アリサちゃん」

 

「――ッ!?」

 

 

 殺した筈の、友達の声を耳にした。

 

 

(青、空……?)

 

「In principio creavit Deus caelum et terram」

 

 

 あの子が絶対にしなかった、男に甘えるような素振りで声は語る。口に紡ぐは彼女が取り込んだ一つの願い。

 貴方の太陽に成りたいと、そう願った天使も既に喰われている。故にこそ頭上に広がった光景は、何処までも澄んだ蒼穹だ。

 

 

「Briah――Date et dabitur vobis」

 

「がッ!? あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!?」

 

 

 アリサの身体が、降り注ぐ光に焼かれる。全てを浄化する輝きを前にして、魔力を使い果たした今の彼女は抵抗すらも出来ずに沈む。

 大地に膝を屈して、痛みから逃れる為に蹲る。そんな無様を晒すアリサの下へと、舞い降りたのは月村すずかの顔を奪い取った誰か。天使の羽を背に纏い、淫靡な笑みで女は告げた。

 

 

「これってさぁ、私も痛いから嫌いなのよねぇ。自傷の趣味は、正直理解できないわ」

 

「く、ぁ……」

 

「けど残念だったね、アリサちゃん。貴女が戦ってたのは唯の影。死ぬかもしれない戦いなんて、私がする訳ないでしょう?」

 

 

 感じる圧は、先よりも遥かに上の物。そうとも、大天魔をも超えたというのはこういう事だ。己の影一つだけでも、世界を滅ぼせる存在へと至ると言う事。

 これまで、アリサが戦っていたのは魔群の影に過ぎなかった。弱体化した分身。それを相手に善戦していただけなのだと、気付いてしまえば実に単純な真実だ。

 

 

「そう。影。唯の影に負ける程、唯の影に勝てない程、今の私達には差が出来ている。悲しいねぇ、可哀想ねぇ、滑稽だねぇぇぇ、アァァリィサちゃぁぁぁん!」

 

「ぉ、ま、え――っ」

 

「うふふ。ゾクゾクする。良いわ、本当に良いわ。今も諦めていないその目も、痛みを我慢しようとしている苦悶の表情も、全てがそそる。月村すずかに成った影響かしらねぇ、貴女のこと、ドクターの次くらいには愛しているのよ」

 

 

 蹲る女の背を踏んで、その傷口を爪先で抉り痛みを与える。叫ぶものかと苦悶に耐えるその表情に、魔群は情欲を感じて頬を上気させた。

 そうとも、今のクアットロは執着している。こうして危険を晒してまで、アリサ・バニングスと言う人物と遊んだのはその感情が故にであろう。

 

 世界で一番愛しているのは父である。だが世界で二番目に、愛しいと想うのはこの鋼鉄の処女と成っていたのだ。

 

 

「その目を情欲に染め上げて、私だけを求める雌犬にしてしまう。そんな調教、想像するだけでイッちゃいそう。だけど今日は、ここらでお開きとしましょうか」

 

 

 嬲り、甚振り、痛め付ける。傷付けながらに夢想するのは、快楽を覚えさせて盛る犬へと変えた姿だ。

 それはとても魅力的なのだと、だから今直ぐにでもそうしてあげたい。だけどそう出来ない理由もあった。

 

 

「私は強く成った。ヴィルヘルムを喰らい、ヘルガを溶かし、クラウディアを取り込んで――今の私に勝てそうなのは、両翼とエリオ君くらいなもんでしょうねぇ」

 

 

 それは己よりも強い者がまだ居るから。神の領域に至ったからこそ理解出来る。今の魔群に勝てるのは、夜都賀波岐の両翼と最強の悪魔だけであると。

 天魔・宿儺は既に倒れたが、まだ二人も残っている。真面にやり合っても勝機はあるだろうが、死ぬかもしれない戦いなんて真っ平御免だ。故にこそ、策を弄する必要性がまだ残っている。

 

 

「まだ怖いのよ。まだ足りないの。私は臆病な三下で、負けるかもしれない戦いはしない主義なの。だから準備が整うまで、明けない夜はお預けよ。素敵な舞台を整えて、しっかり膜を破ってあげるから。待っててね、アリサちゃん」

 

 

 この女は三下だ。その性根は小物である。其処に間違いなどはなく、だが今の魔群は紛れもなく神格域の力を手にしている。歴代の覇道神すらも、やり方次第では倒せる域に達しているのだ。

 そんな女が策を弄して、果てには碌でもない結末しか待ってはいない事だろう。嗤いながら魔群は消えて行く。後に残されたのは、全ての力を出し切って、それでも友の死骸を愚弄する怪物を打倒せなかった敗北者のみ。

 

 

「っ、ぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!」

 

 

 怒りを叫ぶ。憎悪を吠えた。それしか出来ぬ我が身に心の炎を強く燃やして、骨が砕ける程に歯噛みした。

 血が滲む程に拳を握り締め、八つ当たりをするかの様に大地を叩く。空を見上げた瞳に血涙を滲ませて、アリサ・バニングスは心に決めた。

 

 魔群(アレ)は必ず、己が葬る。そうしなければならない敵なのだと、彼女は己自身に誓う。果たせないと言う理屈は知らない。果たさなければ、ならないのだ。

 

 

 

 

 

 そして、そんな女の悲痛な誓いを何処か遠くで感じながら、去り行く魔群は笑みを深める。

 

 

「かつて何処かで、そしてこれほど幸福だったことがあるだろうか」

 

 

 嗚呼、本当に素晴らしい。これ程に幸福だった日々が、果たして他にあったであろうか。

 何処か朧げに残っている、帰るべき白き家。それはきっとクアットロにとっての幸福であって、すずかにとってのそれではない。だからこの今こそが、魔群にとって最高の幸せに他ならない。

 

 

「あなたは素晴らしい。掛け値なしに素晴らしい。しかしそれは誰も知らず、また誰も気付かない」

 

 

 優しく撫でる。その下腹部には、新たな命の熱がある。それはクアットロがずっと望み続けた、愛する人を生み出そうと言う行為。

 月村すずかは僅かに嫌悪しているが、やはり幸福感の方が大きいのだろう。至高の頭脳が血族の肉体を持って生まれると、その結果への興味もあった。

 

 

「幼い私はまだあなたを知らなかった。いったい私は誰なのだろう。いったいどうして、私はあなたの許に来たのだろう」

 

 

 子宮を腹の上から撫でて、空を見上げてふと思う。少しお腹が空いたなと、だから彼女は此処に決めた。

 

 

「もし私が騎士にあるまじき者ならば、このまま死んでしまいたい。何よりも幸福なこの瞬間――私は死しても 決して忘れはしないだろうから」

 

 

 これより身を隠して暗躍を始める。その前に少しだけ、ほんの少しの摘まみ喰いをしていこう。大丈夫、きっとバレはしないから。

 

 

「ゆえに恋人よ、枯れ落ちろ。死骸を晒せ」

 

 

 クスリと妖艶に嗤って、そして惨劇の夜は幕を開ける。堕龍が過ぎ去ったクラナガンの空に浮かんだのは、血が滴る様な紅い月。

 

 

創造(Briah)――死森の(Der Rosenkavalier)薔薇騎士( Schwarzwald)

 

 

 そして、多くの命が枯れ堕ちた。誰も彼もが吸血鬼の腹に飲まれて、彼女は歓喜の情に酔う。抑えようとは思うけど、どうしようもなく耐えられない。それ程に、人の命は美味だった。

 

 

「嗚呼、美味しい。これが命を食べると言う感覚。思わず、夢中になってしまいそう」

 

 

 妄想する。想像する。有象無象でこれ程に美味ならば、愛しい女を喰らった時にはどれ程の快楽を得られるだろうかと。

 そうしてふと思い出す。そう言えば、久方振りの食事であると。暴食の罪を抱いた程に、彼女は飢え続けていたのだから――ほんの僅かで、満足できる筈がなかった。

 

 これ以上、仕込みを壊さぬ為にミッドチルダから転移する。食欲に満たされた自我の中に残った理性で、選べたのはその程度。故に、惨劇の夜は幕を開く。

 

 

「私は今、生きている。故に、故にだ! 我が舌で、我が掌で、踊り狂って悶えて死ね! 遍く全ての演者らよ!!」

 

 

 狂った様に嗤い続けて、暴食を続ける真なる魔群。彼の怪物が理性を取り戻すまでに、二十の世界が無人と変わるのだった。

 

 

 

 

 

 

 




すずかちゃんベース+クアットロ=すずかットロ。
クアットロベース+すずかちゃん=クずか様

Ifルートに登場したクずか様の実力は、屑兄さん以上で宿儺以下。
中堅陣でも穢土で戦って負ける可能性があるくらいには強いです。

人格は所詮、神の力とすずかちゃんの美貌を持ったシュピーネさんですが。


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