路地裏のアイゼンティア   作:宇宮 祐樹

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『逃亡の果てに』

 

「ぁ…………、ぃ、ゃ……っ」

 

 とさり、と。

 人が座り込むとは思えない、とても軽い音が聞こえてきた。

 

「ジーナ」

「……ぃ、や……あいつ、わたし…………! あ、ぁ、っ…………」

 

 俺の声も届いていないようで、座り込みながら、彼女は手に持った白い布を深く頭にかぶせていた。そうすることでしか、彼女は彼女でいられないような気がした。

 そうして歯を食いしばりながら振り向くと、彼はにっこりとした笑みを浮かべながら、口を開く。

 

「かわいそうに、反逆罪だ」

「……それがどうした」

 

 握ったナイフへ力を込める。

 

「見せしめとして、この街で一番大きな広場で死刑にしよう」

「そうか」

「何もできずに死んでいく無様な姿を、多くの民に見て貰うといい。そうすれば悪事を働こうとする者も少なくなる」

「……本当にそうなるのなら、それでもいいのだろうな」

 

 俺一人の犠牲で、多くの人が光をみることが出来るのなら、俺のように道を踏み外さなくなるのなら、それでもいいのかもしれない。それだけの人が本当に救われるのなら、この身を捧げるのも厭わない。

 けれど。

 

「それじゃあ、ジーナが救われない」

「……この期に及んで、まだ彼女を救おうとしているのか?」

「ああ」

 

 それで彼女が救われないのなら――俺は、その全てを捨てるのだろう。

 

「今のこの状況じゃ、僕を殺さなければ君達は助からない」

「そうみたいだな」

「君に殺すことができるのかい? 人を殺したことのない君が、僕を殺せるのか」

「……そのために、いま俺はここにいる」

 

 手が震える。足がふらつく。

 けれどその目だけは、しっかりと彼のことを捉えていた。

 

「いいのか? 僕を殺してしまえば、君はもう以前の君ではいられなくなる」

「そう、だな……今のこの俺は、死んでしまうのかもしれない?」

「怖いのなら逃げてもいいんだ。そうすれば、君は生き残ることができる」

 

 かつ、かつ、と。

 ゆっくりと歩みを進めながら、ルーヴェルトは俺の眼を覗き込んだ。

 

「殺すことが怖いから逃げてきた。変わることが怖いから、逃げてきた。それなのに……今のこの時だけは、逃げないのか?」

 

 立ち向かう事が、怖かったのかもしれない。

 逃げていると言われれば、そうなのだろう。殺す事から逃げてきて、変わる事から逃げてきて、そして今も彼女を連れて逃げている。

 それしか、知らなかった。俺のような人間が何かに立ち向かうことが、誠実に正面から向き合うことが、酷く無意味な事に思えてきた。

 だから、逃げてきた。必死に、ただ愚直に逃げることだけを選んできた。

 ――けれど。

 

「逃げるのにも……もう疲れた」

 

 そうやって立ち向かう事で、彼女を救う道が拓けるのなら。

 今の俺がどこかへ消えるのも、目の前の誰かがどこかへ消えていくのも、全てが受け入れられた。

 

「……愚かだ。それこそ、君は救いようがない」

「それでもいい。彼女が救われるのなら」

 

 どれだけ俺が傷つこうとも、どれだけ俺と言う存在が崩れてゆこうとも。

 彼女が救われるのなら、それでもいいと、そう思えた。

 

「では――望みのとおり」

 

 すらり、と銀色の光が、視界へ映る。

 

「殺してしまおう」

 

 そう呟く彼は、頬を吊り上げながら笑っていた。

 振り上げられた剣をナイフで受け止めて、こちらへと伸ばされる刃をぎりぎりと伝う。鉄と鉄が擦れあう音が耳元から聞こえてきて、引こうとされていたあちらの左足を、強く出した右足で踏み抜いた。

 けれど踏み込みは薄くて、足を潰すまでには至らない。そのまま体を押し付けようとしたときに、身体を強く揺さぶられる衝撃が走って来て、それが右足で蹴られたのに気が付いたのは、下げた頭のすぐ上を刃が通り過ぎる時だった。

 石の壁をがりがりと、銀の剣が撫でる。

 

「クソっ」

 

 冷たい路地裏では、こちらの得物が上だった。

 勢いの落ちた彼の腕へと手をかけながら、そこへ強く自分の体重をかけていく。がくん、とした衝撃と共に彼の身体が崩れて雪、掴んだ腕を軸にして地面へ足を吐けると、そのまま反対の壁へと思い切り体を投げた。

 ばたん、と肉と石が打ちつけられる。彼の手から離れた剣と、彼自身が落ちてくるのは同時だった。

 

「躊躇いが……なくなった、か。本気で殺そうとしてる、ね」

「知るか」

 

 口の端から血を流す彼へと、ナイフを逆手握り直して答える。

 右の肘を勢いよくまげて、一歩ずつ強く踏みながら刃を握った手を伸ばす。左胸を目がけて向かっていく俺の腕は、けれど彼の左腕と重なるようにして阻まれて、そのナイフが彼の体へ届く事はなかった。

 そのまま体をひねりながら、ナイフを握った手へ左の手を重ねる。地面を強く踏み込みながら体重をかけるけれど、次に感じたのは鈍い痛みで、一瞬だけ暗くなった視界に、彼が反対の拳をもう一度振り上げているのが見えた。

 

「この、ッ!」

 

 降ろされた手をすぐに離した左腕で受け止めると、静寂が流れ始める。

 

「……どうして、彼女を選んだ?」

 

 交錯する瞳の奥には、何かを強く求める、けれどどこか縋るような、そんな歪な意志が映っていた。

 

「なら……どうして、君なんだ?」

「何、を」

「僕じゃ駄目だったのか……? なんで、君のような人間が、彼女を救うことが出来る? どうして、僕じゃないんだ? 力も、金も、権力も、全部持ってる僕じゃない……どうして……どうしてなんだよっ! なあ!」

 

 吐き出される言葉が俺には理解できなくて、けれどルーヴェルトはまるで駄々をこねる赤子のように、どこかの奥底から叫んでいた。

 突然の行動に少しだけ力が抜けて、腹に強い衝撃が走る。背中に走るのは壁へ叩きつけられた衝撃で、立ち上がろうとした瞬間に、顔面を強く蹴りはらわれた。

 見上げる彼の姿は、ゆらゆらとおぼろげに揺れ動いていて。

 

「救おうと思ったんだ。彼女を……僕の、民を」

「……は?」

 

 意味が分からなかった。

 ――その言葉を、理解したくもなかった。

 

「お前は、何を……」

「はじめは穏便に済ませようと思ったんだ。こういう仕事をしてみないか、って。そうすれば君も仕事が得られるし、金も稼ぐことが出来る、って」

「それで、本当に納得すると思ってるのか……?」

「ああ、勿論。そうしないと彼女を救う事が出来なかった。あのままの彼女を、放っておくことが出来なかったんだ。施そうと、思ったんだよ」

 

 縋るように、言葉は紡がれて。

 

「持つ者は、持たざる者へ分け与える。在るべきものは、在るべき処へ。そうしてみんなが仲良く……幸せを分かち合う。それが、正しいことじゃないのか?」

 

 その呟きは、まるで自分を無理やり納得させるような、ふわふわとした掴みどころのないものだった。

 

「僕は……僕は、ただ助けたかったんだ。けれど彼女はそれを拒んだ。それだから……僕は、ああすることしか、できなかった」

「それは――」

「狂ってるのか!? 誰かを助けようとする僕を、君は……貴様はッ! くるってると、そう言うのか!?」

 

 胸倉が掴まれて、限界まで見開かれた紅が視界を埋め尽くす。その奥に灯っている色は、俺の見たことも無い、決して理解できないものに思えた。

 

「なら、いまの彼女が幸せに見えるのか!?」

「君のせいだ! 君が救い出さなければ……彼女は全て手に入れられてたんだ!」

「…………なんだと?」

 

 冷たい、暗い部屋の中で、ただ一人。

 縋るように白い布を握ったまま、ぼろぎぬのように倒れている彼女を――

 

「あ、あぁぁああああぁあっ!!」

 

 喉が全て裏返るように絶叫して、気が付けば拳に痛みが走っていた。

 しかしそれもすぐに何処かへ消えて行って、倒れ込むルーベルトの上へと勢いよく伸し掛かる。そうして彼の服を引いて顔を上げさせると、そこへ振り上げた拳を、思いのままに叩きつけた。

 

「違うだろッ! てめェッ!」

「どこだ?! 僕のどこが間違いだって言うんだ!?」

「全部だろうが! なにが、何がジーナを救うだッ!? アレでお前は彼女を救ったって言うのか?! 誇りも、尊厳も、腕も、目も、ぜんぶ奪ったくせに、まだお前はそんな事を言うつもりか!?」

 

 泥と血が混ざり合っていた。お互いの顔を濡らす液体がどちらのものかもわからなくて、ただ俺は目の前の男を殴る事を止めなかった。拳が半分潰れかけていても、爪がぼろぼろに割れていたとしても、それを止めることはできなかった。

 

「アレだけ必死に生きてきて、夢を追っていた人間を突き落として、まだそんな事を言ってるのか!?」

「突き落とした!? 違う! 僕は彼女を助けようとしたんだ!」

「ふざけるな! それが違うって言ってんだろ! やっぱりお前、狂ってんだよ! 人間じゃねえ! お前は、おかしいくらいに狂って――」

 

 固い衝撃を覚えて、視界が壁に叩きつけられた。

 きんきんと金属音に似た音が耳の奥で響いていて、ゆっくりと立ち上がる彼は、泥まみれの手のひらに、ちのついた煉瓦の欠片を握っていた。

 感覚の消えた腕を地面につけようとするけれど、それはまた、鈍い音と共に遮られる。

 

「じゃあ、ああする以外に何ができた!? 貴様みたいな何もない人間が、どうやって彼女を救おうとした!?」

「夢を追えるようにした! 彼女の望みが叶うように、全て尽くした!」

「全て尽くしただと!? じゃあ今の彼女は何なんだ! 貴様には何もない! けれど僕には全てがある! だから彼女を救えたんだ! それなのに……それなのに貴様は、僕から彼女を奪い、過酷な道を歩ませたんだ! それが貴様の言う救いなのか!?」

 

 言葉と共に、何度も紅い煉瓦が打ちつけられる。意識はだんだんと遠くなって、頭の中を彼の泣き叫ぶ声だけが埋め尽くす。

 けれど、それでも、彼の事を受け入れることだけはできなかった。

 

「僕だ……僕の民を救えるのは、僕だけなんだ! 君のような何もない、無為な人間に救えるはずが無い!」

 

 からん、と指の先に、固い感触を覚える。

 

「それでも、僕は狂ってるか!? 彼女を救うために、君は僕を――」

 

 幽かに動く腕でそれを引き寄せると、強く握り締めた刃を、振り下ろしてくる彼の左腕へとあてがった。

 肉を裂く音と、胸の上に熱い何かが落ちてくる。

 

「あ、ああぁぁああああ!?」

 

 視界を一面の紅が覆い、それと同時に崩れ落ちるような悲鳴が聞こえてくる。顔を覆う鮮血を手の甲で拭うと、口の中に吐き気をもよおすような、とても濃い鉄の匂いが広がった。

 胸の上に転がる彼の手を側へと投げ捨てて、そのまま跨ったままの彼を蹴り落とす。ぬるぬるとした地面へと手をつけながらすぐに立ち上がて、彼の方へとナイフを向けた。

 

 

「……殺すのか」

 

 ――殺せるのか。

 

「そうしなければ、彼女が救えないから」

「君の救いは、人を殺す先にあるのか?」

「ああ」

「君が君でいられなくなるぞ」

「それで、彼女が救われるのなら」

 

 俺は、俺でなくてもいい。

 少なくとも、目の前の暗闇から逃れられるのなら、このいまの俺がどこかに行ってしまっても、それでもいいと思えた。

 

「それなら……僕は、君を殺そう」

 

 ゆらり、と片腕の無い影が動く。

 向かってくるその身体へナイフを伸ばそうとしたけれど、その腕に力を込めることが出来なくて。級に視界が赤と黒に染まり、彼が地面を蹴り上げたことに気が付いたのは、右の頬に強い衝撃が走ってからだった。

 ごり、と鈍い音が聞こえる。口の中に、何かの破片が転がった。

 

「どうした!? ほら、殺してみろ!」

「が、ッ」

「殺せ! 僕を殺して否定してみろよ! なあッ!」

 

 横たわる体に蹴りが入れられて、ごろごろと地面を転がっていく。血と泥の景色が広がる視界は既に閉じかけていて、意識も何処かへと飛んでゆきそうだった。

 

「彼女を救いたいんじゃなかったのか!? それともまた逃げるのか!?」

 

 ナイフを握る手にも、もう力は入らない。ぼんやりとした思考に、また彼の声が響いてくる。傷だらけの体は、もう動こうとはしなかった。

 変われない。変わろうとしない。変われる、はずもない。

 やはり俺では、彼女を救う事すらも出来なかったのだろうか。そうしてまた、彼女と共に、二度と光の当たらない暗闇へと堕ちていくのだろうか。

 最後まで信じた。それでも、届かなかった。何もない俺のままでは、彼女を救う事ができなかった。

 

 溶けるような思考と、霞んでいく視界が全てを埋め尽くしていく。

 そうしてそのの先に、ふと――白い蕾が、見えた。 

 

「…………そう、だ」

 

 揺れるその白い花は、まるで暗闇の中の光のように思えて。

 

「変われる、んだ……俺でも、まだ……!」

 

 ゆっくりと、その蕾が――開いていくのが、見えた。

 

「……目つきが、変わったな」

 

 綺麗だった。たった一輪で咲いた純白の華は、路地裏に差し込んだ光のようにも思えた。それは決して穢してはいけない神秘すらも感じて、その前で俺はただひとり、目の前に立つ男を覗いていた。

 左の胸の刺繍だけだ視界に映る。それ以外には、何も見えなかった。

 

「――――ぁ」

 

 声はもう、出なかった。ただ地面をける感覚と、握りしめた短刀の感覚だけが、その最後の俺を構成している全てだった。

 ただ、彼を殺そうとしていた。殺して、殺して、殺そうと、そう思っていた。殺すこと以外に、意味を感じられなかった。

 伸ばされた刃は吸い込まれるようにして左の胸へと伸びてゆき―― 

 

「あさ、いッ!」

 

 肉を突き刺した感覚と共に、腹のうちに強い衝撃を感じた。

 脳が強く揺さぶられて、身体も暴れるようにして後方へと飛んでゆく。打ちつけられた路地裏の突き当りで、ずるずると背中を擦りながら倒れ込むと、だらんと垂れた指の先に、白い花が咲いているのが見えた。

 

「届かなかった、な…………カイン……!」

 

 胸に突き刺さったナイフへと手を添えながら、ルーヴェルトは頬を吊り上げていた。ずるずると足を引きずって血だまりの中を歩き、そうして彼は倒れ込む俺の事を、ただじっと見下ろしていた。

 あと一つ。懐の中に、手を伸ばす

 

「ま、だ……」

「ああ、まだだ。まだ貴様を殺してない」

「まだ、お前を殺してない……!」

 

 取り出したナイフを両手で握りしめて、立ち竦む彼へとそれを向ける。朦朧とした意識の中で、ただ彼を殺したかった。違う。殺したかった。そうだ、殺したかった。今の俺には、殺す事しかできないから、殺した。殺そうとしたから、俺は殺して――

 脳が、もう考えることを止めていた。そのまま、崩れていくようだった。

 

「ころ、す……お前を、殺して……殺して、やる……! 殺してから、また、殺して……! 殺さないと、殺せないから……」

「……君のほうが、狂ってしまったのか」

「お前を、殺して……ころ、して……? 殺してから……ころ、す……!」

そうしないと……そう、しないと!」

「もう、いい。君も救おう。僕の民だ。僕のこの手で、君を苦しみから救い出して――」

 

 とす、と。

 彼の向こうから、微かな音が、聞こえてきた。

 

「な…………、? なん、で……!」

 

 突き出された剣は、俺の額の前でぴたりと止まっていた。そうしてずるずると剣が抜かれていくと同時に、彼の体は崩れるようにして倒れ込む。

 

「なん、で……なんで、僕じゃ駄目なんだ……! どう、して……君は……………………! 君は、っ!」

 

 限界まで見開いた眼を、ルーヴェルトがゆっくりと後ろへ向ける。

 果たして、その先に立っていたのは――涙を流すジーナだった。

 

「ああぁあああああぁっ!!」

 

 絹が裂けるような絶叫と共に、諸手に握った剣が振り下ろされる。何度も何度も肉を裂くそれは、次第に水音を立て始めて、やがて微かに動いていた指さえも切り落としていた。

 まるで獣が食い荒らしたような死体をゆっくりと踏みつけながら、ジーナが俺の方へと歩いてくる。放られた剣がからん、と音を立てて、彼女の翡翠の瞳が、俺の眼の前へと広がっていた。

 

「いや、だ……」

 

 ぽつり、と。

 

「殺しちゃ、やだ…………カイン、行っちゃ、やだ……!」

 

 糸が切れた人形のように、ジーナが俺の胸へと倒れ込む。露わになった膝が血で濡れるのも構わずに、ただ彼女は俺のことを抱きしめながら、泣き続けていた。

 

「……ジーナ」

「やだ、っ……行かないでよ、っ……! カインが、今のカインがいなくなっちゃったら、私、もう、っ…………!」

「……ああ。大丈夫だ。どこにも行かないから」

 

 小さな背中をぽんぽんと叩くと、彼女は頬に血の痕を残したまま、笑顔を見せてくれた。そのことがこれ以上にないくらいに嬉しくて、彼女をまた抱きしめられることが、俺の心の全てを満たしていた。

 その細い体の鼓動も、吐息も、全てを感じられていて。

 

「おいッ! いたぞ!」

「早く捕らえろ! ルーヴェルト様に差し出すんだ!」

 

 聞こえてくる声に、彼女はふらり、と立ち上がって。

 

「カイン、すぐに逃げてね。いつまで持つか分かんないし」

「……待て。ジーナ、何するつもりだ?」

「決まってるじゃない。私が時間を稼ぐから、あんたはちゃんと逃げなさいよ?」

「何を…………いや、何を言ってるんだ? そんなこと――」

「いいのよ、もう」

 

 くすり、と零しながら、彼女は俺に振り返って。

 

「もう、私はあなたに救われたから」

 

 微笑んだその先には、冷たい路地裏だけが広がっていた。

 

「こんな私を、信じてくれた……助けようと、してくれた。それだけで私は、もう……いっぱいだよ。初めてだったの、ここまで私を信じてくれた人なんて」

「いや、違う……それは…………駄目、だ……」

「だから、ごめんね。私も悲しいし、怖いけど……カインが死ななくていいなら、それでもいいかな、って。そう思えたからさ」

 

 嫌、だ。

 まだ……まだ何も、変わってない、のに。

 

 

「ありがとね、カイン――――大好きだった」

 

 

 必死に伸ばした血まみれの手は、過ぎ去ろうとしていく彼女の手を――

 

「ジーナっ!」

 

 もう、決して離さなかった。

 

「カイン、あんた何で――」

「まだだ! まだ何も終わってないだろ! 夢も、何も叶えてないんだろ!? それなのにここで終わっていいはずが無いだろ! なあ!」

 

 気がつけば両方の肩を掴んで、俺は彼女へ叫んでいた。あったのは、微かな怒りと、必死に彼女を救おうとする意志だけだった。

 これでいいはずがない。これで、彼女が救われたはずがない。まだ、まだ彼女は光を見ることが出来るのだから。

 

「逃げるぞ」

「逃げる、って……もう、どこにも……」

「どこでもいい。とにかく、ここから離れて――」

 

「なー」

 

 言葉を遮るように、そんな間の抜けた声が、二人の間に響く。

 降ろした視線の先に居たのは、開いたアイゼンティアの花を前足で弄っている小さな猫だった。するとそれは俺達にどうしてか気が付いたのか、その細い瞳をこちらへと向けたかと思うと、急に明後日の方を向きながら、とっとっ、と地面を駆けて行った。

 黒い影が向かった先は、此処よりも薄暗い、けれどどこからか幽かな光が差し込んでいるところで。

 

「行くぞ」

「……うん」

 

 掴んだ右手を、決して離さないように。

 広がる暗闇の中を走り続けて、そして――

 

 

 光が、見えた。

 

 


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