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▽ 青空のアイゼンティア
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――――花の、香りだった。
「起きた?」
がんがんと響く鈍い痛みの隙間に、そんな声が聞こえてくる。どうしてか体は横たわっているらしく、けれど寝ている頭の後ろには、何か柔らかい感触を覚えていた。
瞼を動かそうとすると、ぱりぱりと小さく肌を引かれる感覚が走り、剥がれ落ちた何かが頬を転がっていくのが分かる。そうして開かれた景色に映るのは、透き通るような日差しと、こちらを覗く白濁と翡翠の瞳だった。
「ジー、ナ?」
「…………そうよ。あんたを起こすやつなんて、私以外にいると思う?」
「そう、だな……そうだったよ」
おぼろげな視界の中で、彼女の笑顔だけがくっきりと見えた。
「ここは……?」
「覚えてないの? 私たち、こいつのおかげで街から出られたのよ」
すぐにジーナの顔が視界から消えたかと思うと、急にごわごわとした毛並みが俺の顔へかぶせられる。いきなりの感触に少しだけ声を上げて、眼の上に載せられたそれを両手でつかむと、それは少しの間抜けた鳴き声を上げながら、細い瞳で俺の事をみつめていた。
「なー」
「……そう、だったのか」
「驚きよね。人間ってその気になれば、一晩で山を越せちゃうもの」
その呟きに、猫を腹の上へ落ち着かせながら、また彼女のことを見上げる。
「山……?」
「そうよ。私たち、ずーっと走って逃げてここで力尽きた、ってわけ。まさかあんた、ぜんぶ覚えてないの?」
「……うっすらと、しか」
「そっか」
答えると、ジーナは少しだけ寂し気な笑みを見せながら、俺の頬をゆっくり撫でていた。どうしてか彼女の顔には少しの陰が差しているような気がして、けれどそれを追い求めることはできなかった。
というよりも、今のこの状況は。
「ジーナ」
「何よ」
「その…………重くないのか」
「……ふふ、なにそれ。まさかあんた、誰かにこうしてもらうの初めてなの?」
少なくとも、こうした景色を見るのは初めてだった。
くすりと面白そうに噴き出した彼女は、けれど今のこの状況を止めることはなくて、何かを宥めるようにして俺の頬へと指を馳せたまま。
「どう? 居心地、いい?」
「……それは、その…………」
「なによあんた、女の子の膝に寝かせて貰ってるくせに、感想の一つも言わないわけ?」
「ああもう、分かった。分かったよ」
込み上げてくる羞恥心にそう返すと、彼女はちょっとだけ悪戯めいた笑みを浮かべて、けれどすぐにじっ、と俺の瞳を覗き込む。
「……もう少し、このままで」
「うん」
流れていく時間は、とても長く感じられた。
吹き上げる風は金の髪を揺らし、さらさらとした葉と葉の擦れる音が、遠くから聞こえてくる。背中に感じるのは草花の柔らかさで、指の先で土を擦ると、暖かな太陽の感触が伝わってきた。
「これから、さ。どうしよっか」
「……そうだな」
俺はその答えを持ち合わせていないし、これからもそれは見つからないのだろう。そうやって自らを動かさずに生きてきて、それしか知らない人間だから。
けれど、彼女と共に居られるのなら――彼女がそばに居てくれるのなら、俺は何処までも行くことが出来ると、そう思った。
「……とにかく、動かないことには始まらないだろうな」
「体、もう大丈夫そう?」
「ああ……なん、とか」
小さな手で背中をさせられて、子猫を手に抱いたままゆっくりと上体を起こす。途端にぐらりと視界がゆらついて、意識がおぼろげになったけれど、それもすぐに収まった。
今まで寝ていたからよく分からなかったけれど、そこは小高い丘にかこまれた小さな草原であった。回りを見渡すとジーナの後ろには小さな森の入口が見えていて、おそらくそこから俺達は出てきたのだろう。
吹き抜ける風が、とても優しかった。
「ここは……どこだろう」
「ずーっと西に走ってきたわよ。だからここは、あの街からちょっと行った山の、もっと向こう側ね」
「詳しいな」
「子供のころに居たから。んで、またもう少し先に行くと、私の故郷」
ひょい、と示された指先は、けれどすぐに消えてしまう。
「でもあんなところに行く気はないわ。何の為に抜け出してきたかわかんなくなるし」
「なら……そうだな。もっと北に行こう。そこにいい国がある」
「なによ、ずいぶん自信あるじゃない」
「ああ。なにしろ、あそこは――」
そう言葉を続けようとした瞬間に、手のひらに軽い衝撃を覚える。
突然のことに呆然としていると、俺の手から飛び出した子猫は、一目散に草原を駆け抜けていった。
「あっ、ちょっと」
ぴょんぴよんと走っていく小さな黒い影に、ジーナがふらふらと片手だけで立ち上がろうとして、そして崩した体へと手を伸ばす。
「……お前こそ、大丈夫なのか」
「もう慣れたわよ。それより、ほら。早く追わないと」
恩人なんだから、と呟くジーナの体を支えながら、小さな姿を一歩一歩追いかける。緩やかな傾斜は吹く風に波立っていて、ぽつぽつと咲いている花々が、緑に彩りを与えてくれた。
燦々と照らす太陽の下、立った二人で足並みをそろえて。
そうして辿り着いた丘の上、その先に見えたのは――
「…………ぁ、」
――彼方までに広がる、アイゼンティアの花畑だった。
「き、れい……」
「ああ」
「…………綺麗だよ、カイン! ほら、ほらっ!」
ぐい、と身体を引っ張られて、視界が一面の純白に染まってゆく。
「ジーナ?」
「あはは、あはははっ! ほら、カイン! もっと、もっと!」
「ちょ、ちょっと待っ……」
「こんなにいっぱいの花、初めてみたの! これ全部アイゼンティアよ!? すごい、すごいよ! こんな景色、めったに――――ぁ」
ぽす、と。
白い花びらがひらひらと舞って、その先に蒼色の空が浮かぶ。
並びながら倒れ込んだその先には、空と白の景色が広がっていた。
「……ふふっ」
「…………は、は」
気が付けば、彼女と一緒に笑っていた。笑うのがいつぶりなのかも、それすらも忘れるくらいに、声を上げながら笑っていた。
嬉しかったのだろう。楽しくもあった。長らく忘れていて、今の俺には既によく理解できない感情だったのだろう。どうして今の俺が笑っているのか、その時には訳も分からなかった。
けれど確かに言えるのは、その時に俺が、心から笑っているということだった。
「……結局さ、あんたは変わらなかったよね」
ぽつりと、笑いつかれた息と息の間に、そんな呟きが聞こえてくる。
「……そうだな。変われなかった」
「ううん、違うよ。変わらないでいてくれた。私がどっかに行っちゃっても、どれだけ失っても、変わらずにあなたは私を見つけてくれた。ずっと、待っててくれたじゃない」
そうすることが、俺の全てだったから。そうすることでしか、俺は彼女を信じられなかったから。
「あなたが居てくれたから、私はこうしてここまで来れた。あなたが信じてくれたから、私は変わることができた」
ああ、そうか。
俺は――
「そのままの、あなたで」
紡がれる言葉が、風に揺れる。
「……ありがとう、カイン」
白い花に包まれて、彼女は幸せそうに、笑ってくれた。
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