まほチョビ(甘口)   作:紅福

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(10/12)朧車の轍

【ミカ】

 

 嗚呼、ぐらり絶景。

 危ない危ない、ちょっと眠ってた。碌でもない夢を見ていたらしい。せっかく凍死せずに済んだのに、今度は溺死するところだったよ。

 いやあ、それにしても湯舟って本当に気持ちが良いなあ。寝ちゃうのも無理は無いよね。

 目が覚めて程なくして、どたどたという跫(あしおと)が聞こえた。その跫は真っ直ぐこちらに向かって来て、やがてお風呂の扉が乱暴に開け放たれた。

 

「わあ、えっち」

「やかましい。ミカ、何故お前があの本を持っている」

「お風呂のあとじゃ駄目かな」

 

 まあ、今ここで話しても良いんだけどさ。

 何故だか余裕を無くしているまほが可愛くて仕方なくなっちゃって、わざと焦らすようなことを言ってしまった。

 すると驚いたことにまほは舌打ちをして、早くしろと吐き捨てるように言って扉を閉めた。

 ああ、でもこれだけは言わなくちゃ。

 

「まほー」

「何だ」

「サンドイッチ、食べちゃってごめんね」

 

 んん、とまほは返事とも相槌ともつかない声を出した。

 立ち去るまほと入れ替わるようにして、今度は千代美がやって来た。

 まほよりは落ち着いているのか、こちらは扉越しに会話をする。

 

「ミカ、あの、本、ありがとう」

 

 声が震えている。

 

「千代美、もしかして泣いているのかい」

「うん、本が戻って来たのが、嬉しくて」

 

 そんなに大切な物だったのか。ああ、まほも取り乱す訳だ。それならまあ、こちらも凍え甲斐があったというものだね。

 事情はお風呂から上がったら説明するよと返した。

 それと、もうひとつ。

 

「サンドイッチ、ご馳走さま。あまり美味しくなかったよ」

「えへへ、やっぱり」

 

 気恥ずかしそうに笑って、千代美も立ち去った。

 全く、入れ替わり立ち替わり、忙しいことだ。お陰で二度寝せずに済んだけどさ。

 さて、体も十分暖まったし、そろそろ上がろうか。二人のことも待たせちゃってるし。

 うーん、どこから話そうかなあ。

 

――――――――――

 

【千代美】

 

 そっか。あまり美味しくなかった、か。

 参ったなあ、ミカにはバレちゃったみたいだ。まあ、仕方ない。いずれバレるものだったんだと思うことにする。

 それより本が戻って来て、本当に良かった。まほが買ってくれたカバーも、赤ちゃんがコーヒーショップで付けた折り目もある。間違いなく私の本だ。

 さっき、ダージリンがこれを持って来たのを見て、目を疑った。なんでここにあるんだよ、って。

 その事情は、ミカがこれから話してくれるらしい。

 そんな訳で私達は、ダージリンの家のリビングでミカがお風呂から上がるのを待ちながら、彼女の茶飲み話を上の空で聞いている。

 

「聞いて頂戴。カチューシャったら酷いのよ」

 

 今日のダージリンはカチューシャとどこかで食事をしていたらしい。

 昼間っからお酒を飲んだカチューシャを車で送ろうとしたら、乗りたくないと言ってわざわざノンナを呼び出して帰ったとかなんとか。まあ、確かに酷いけど、ダージリンの運転も負けないくらい酷いからなあ。酔っ払ってる時に乗りたいかって言われると、うーん。

 正直、話を聞く限り可哀想なのはダージリンよりノンナじゃないかと思う。

 

「お待たせしたね」

 

 髪を拭きながら、ほかほかのミカがやってきた。

 ミカは、わざわざ苛立ちを隠さない様子のまほの隣を選んで腰を降ろし、早速話し始めた。

 

「私にその本を預けたのは、あの人なんだ。えーっと、名前は忘れたけど」

 

 何て言ったっけ、あの、カチューシャのせいでよく走り回ってる人、とミカは記憶と格闘している。

 あれ、それってもしかして。

 

「ノンナか」

「そう、ノンナさんだ。彼女が先にそこで待ってたんだよ」

 

 そう言ってミカは玄関の方を指す。

 ノンナが来てたんだ。

 彼女が先にそこで待っていた。

 普通の文庫本ならドアのポストにでも突っ込むことが出来たんだろうけど、この本に限っては無理だから私達の帰りを待つしか無かった。

 

「でね、彼女はカチューシャの呼び出しでこの場を離れざるを得なくなった」

 

 そこに弁当箱を持った私が来合わせたのさ、とミカは淡々と説明した。そしてノンナから本を預かったミカは、ダージリンが帰ってくるまでそこに居たって訳か。

 まあ、ノンナはカチューシャの送迎でここにもよく来るから、その隣の私達の家を知ってるのは別に不思議な事じゃない。ただ、ノンナが本を持っていたのは、一体。

 

「ああ、何故だか子連れの女性が一緒だったよ。マルヤマさんと言ったかな」

 

 あっ、その人は。

 

「繋がったか」

 

 私達を追い掛けたマルヤマさんをノンナが車に乗せてここまで来た。

 そして本はミカの手に渡った、か。

 

「ノンナが我々に気付いていたということは、彼女は店に居たのか」

「あっ、そう言えばそうか」

 

 ノンナはマルヤマさんが追い掛けたのが私達であることに気付いてたからここまで来れた。って事は店に居たんだ。

 なんだよ、気付いてたなら話し掛けてくれりゃ良かったのに。

 

「どうせまたイチャイチャしてて話し掛けづらいオーラでも放ってたんじゃないの、貴女達」

 

 うっ。

 

「それは」

「ぐうの音も出ません」

 

 心当たりがありすぎる。

 ダージリンは仕方ないわねといった風に大きなため息をついた。

 ともあれ、ちゃんとお礼しないとなあ。ノンナは元より、出来ればマルヤマさんにも。

 

「不思議なこともあるものだな」

 

 本を撫でながら言うまほ。ごめんな、心配掛けて。

 さて、それじゃ夕飯作るか。

 

「ミカも良かったら食べてってくれよ。またサンドイッチだけど」

「そりゃ有り難いけど、いいのかい」

 

 心配しなくていいよ、ちゃんと美味しく作るから。


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