【千代美】
「鉄鼠と言うならマウスよりも」
そこまで言って私は口を噤んだ。自分の軽口を反省する。
危ない危ない、言っちゃったらどうなってたことか。
鉄鼠の絵に対するまほの解釈は大体正解だ。
あれは、鉄鼠がネズミを引き連れて巻物を食い荒らしている絵。
それ自体は間違いない。
ただ、そのシーンに至るまでの物語があるんだ。
『頼豪の霊鼠と化と、世に知る所也』
この短文が示す通り、『頼豪の霊』が鼠と化すまでの物語。
ざっくり言えば
『人のために行動した頼豪という僧が』
『理不尽な仕打ちを受け』
『寺を追われ』
『鼠と化し』
『寺の経典を食い荒らす』
というお話。
鉄鼠の絵は、そのラストの部分を描いたもの。
ネズミ達が食い荒らしている巻物は、寺の経典だ。
だから鉄鼠を何かに喩えるのなら、マウスよりも、お前の妹の方がぴったりなんだよ。人のために行動し、その結果として黒森峰を追われ、後にその黒森峰のマウスを食った、お前の妹が。
なんてさ、言えないよな。
反省が段々と自己嫌悪に変わる。ほんと、どうかしてるよ。まほと話してると、不思議と口が軽くなる。
普段言わないような事をぽろっと言っちゃいそうになるんだ。
浮かれてるのかも知れない。口数は相変わらず多くないものの、以前のような寡黙さは無くなったまほ。そんな彼女と毎日話せる事が嬉しくて仕方ない。彼女が本の話に付き合ってくれた時なんかもう、それだけで頬が緩む。
まあ、それにしたって言って良いことと悪いことってものがある。いい加減、慣れても良さそうなもんだ。
「何を言おうとしたんだ」
まほが訝しげに私の脇腹をつついてきた。こういう悪戯っぽさが彼女に芽生えた事が、そしてそれを私に向けてくれる事は、堪らなく嬉しい。
でも言えないってば、流石にさ。
「忘れてくれ」
そう言うしか無かった。
少しの間だけ、気まずい沈黙が流れる。その時間を反省と自己嫌悪に充て、心の中で謝った。
まほと、みほに。
「明日は本屋に行けるだろうか」
気を遣ってか、まほが話題を変えてくれた。
少し驚いた。本を買う必要が無くなったのに、まほはまだ本屋に行こうとしている。
だけど、蓋を開けてみれば何の事はない。行こうとしたのに雪で行けなかったのが癪だったというのが理由。本屋に行きたいという訳ではないらしい。全く、不器用な奴。
まあでも、当初の予定通り私に何か買ってくれる気でいるらしい。それは嬉しいんだけど、どうしようか。今読んでる本は、読み終えるまで暫く掛かりそうだしなあ。
とはいえ、まほが残念そうにしているので何も頼まないっていうのも可哀想だ。
そんな事を少し考えて、ピコンと思い付いた。
「じゃあさ、ブックカバー、買ってくれよ」
そうねだると、まほの表情がぱっと明るくなった。
ブックカバーなら、ずっと使える。本を読み終えたら次の本に。それを読み終えたら、また次の本。いつでも一緒だ。まほに買って貰ったブックカバーで本が読めたら、どんなに素敵だろう。
内心うきうきしつつ、平静を装った。
装えてたかは、分かんないけど。
「コーヒーおかわり」
「はいはい」
粉とお湯だけなのに、何故かまほはコーヒーを淹れるのが下手だ。こうしようと決めたわけでもないのに、いつの間にかコーヒーを淹れるのは私の仕事になっていた。
砂糖は無し、ミルクは多め。それがまほの好み。二人だけの常識がこうやって、少しずつ増えていく。コーヒーを淹れるだけなのに顔がにやける。
だけど時間的に、ぼちぼち夕飯の支度もしないといけないな。時計を見ると十八時を少し回ったところ。支度を始めるには遅いくらいだ。
まあ、ご飯はタイマーのお陰で炊けてるので、簡単なおかずを作るだけでいい。さーて、何にしようかな。
「何か食べたい物あるか」
「んん、魚」
「おっけー」
こういう時、まほは絶対に『何でもいい』とは言わない。例え何でもよくても、とりあえず明確に答えを出してくれるので助かる。
んー、魚か。
エプロンを着けながら考えていると、インターホンが鳴った。ああそっか、そう言えば今日の十八時だったな。
急いで玄関を開けると、思った通り。見知った男の人が立っていた。
流石、時間に正確だ。
「こんばんは、小包の再配達に伺いました」
伝票に、エプロンに突っ込んでおいた『西住』の判子を捺して荷物を受け取る。配達屋さんの去り際、これまたエプロンに突っ込んでおいた栄養ドリンクを手渡して、いつもご苦労様ですと声を掛けた。
日中、私達は大抵留守にしているから、荷物は再配達してもらう場合がほとんどだ。配達屋さんにとっては二度手間なのが申し訳ないと常々思っている。
だからと言うかなんと言うか、配達屋さんにはこういうささやかな差し入れをするのが習慣になっている。
栄養ドリンクを受け取った配達屋さんは、済みませんいつもご馳走様ですと何度も頭を下げて、次の配達先へと向かった。
頑張れよー。
「荷物か」
「うん、ペパロニからだ。丁度いいや、今夜はこれにしよっか」
鮭。
ペパロニは食材探しで北海道に行っているらしく、丸ごと一匹を送って寄越した。ありがたい。
しっかし、とりあえず今夜食べるとしても二人で消費するのは大変な量だ。
「ダージリンにでもお裾分けするか」
「んん、連絡しよう」
言うが早いか、まほはスマホを取り出して荷物と格闘している私の代わりにダージリンへの連絡を済ませてくれた。
ふと、鮭が入っていた箱に貼られた伝票が目に留まった。よく見たら宛名が『アン斎千代美様』になっている。ペパロニが伝票に何て書こうとしたのか容易に想像できて吹き出してしまった。あいつにとって私はいつまでも『アンチョビ姉さん』なんだなあ。
この伝票、取っておこう。なんか勿体無くて捨てられないんだよな、こういうの。
私が笑ったのを見て、まほが何事かと覗き込んできたので伝票を見せてやる。それでまた、二人で笑った。配達屋さんにとっちゃ、ここはややこしい家だろうな。判子は『西住』だし、受け取るのは安斎だし、宛名はこんなだし。
「配達屋なあ」
「ほんと、ご苦労さんだよな。雪も降ってるのにさ」
「千代美は、ああいうのが好みなのか」
ん。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。まほも自身の口を手で覆って、しまったという顔をしている。
え、何、もしかして焼きもちですか。あららら、私が配達屋さんに優しくしただけで、焼きもちですか、へえ~、西住まほさん。
「へえ~、焼きもち~」
「うるさい」
背けたまほの顔が、かあっと耳まで赤くなった。
あーーー、可愛いっ。
堪らなくなって、顔を背けたままのまほに思いっきり抱き付いた。
「や、やめろ千代美っ、うわ魚臭い」
「魚食べたいって言ってただろー」
「そっ、そういう意味じゃなくて、うわっ」
抱き付いてよろけた弾みで、二人揃ってソファに倒れ込んだ。咄嗟にまほが下になってくれたのが分かって、愛しさが込み上げる。
まほの大きな胸に顔を埋め、はあっと息を吐いた。
「ふふ」
「何だ」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。嬉しい。
「どこにも行かないから安心しろよ」
「分かってる」
「本当かなあ」
まほは軽口を叩いた私の頭を掴み、ぎゅうっと胸に押し付けた。んん、さすがに苦しい。
もがいていると、まほが一言。
「どこにもやらん」
その言葉を聞いて、ぞくぞくとしたものが背中を走り抜けた。今、私は、まほに閉じ込められている。
ああ、これは檻だ。すごくすごく、幸せな檻だ。
どこにも行くもんか。
「しかし千代美、冗談じゃなく魚臭いぞ」
全く、雰囲気も何もあったもんじゃない。でも確かに、鮭いじってる途中だったもんな。言わせて貰うなら、まほも十分魚臭い。
「誰かさんのせいでな」
「ふふふ、ごめんなあ」
それじゃ、先にお風呂にしよっか。
「あの」
声。まほのものでも、私のものでもない声がした。あっ、やばっ。
ハッとなり振り返ると、にやけ顔のダージリンが立っていた。
「こ、こんばんは」
「今晩は」
勝手知ったる何とやら。いつの間にか自分でお茶まで淹れて啜っている。
「いつからそこに」
「『ああいうのが好みなのか』辺りから。もしかしてと思って見守っていたけれど、とても良いものを見せて頂いたわ」
お隣って便利よねと、わざとらしく付け足した。連絡を貰ってすぐ来た、って事か。連絡をした当のまほは、完全に固まってしまっている。
ダージリンは更に、『良いものを見せて頂いたあとで恐縮なのだけれど』と仰々しい前置きをして、にやけ顔のまま言った。
「続きはその鮭を切り分けてからにして頂けるかしら」
あ、うん、はい、そうします。